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徳之島

Category: 徳之島  

最初で最後という10連休となったGWを利用し、平成と令和をまたいでの奄美諸島巡りに出かけた。
バニラエアを利用して奄美大島へ。Peachとバニラエアが統合され、現状【Peachはバニラエアの路線網を段階的に
引き継ぐ】となっているが、奄美大島への直行便は【ウィンターダイヤ期間にPeachとして就航予定】となっており、
正式発表はまだされていない。Peachにはバニラエアの奄美路線は是非引き継いで頂きたいものだ。

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▼乗り継ぎ時間はスムーズでは無いが、奄美大島(奄美空港)でそのままJACに乗り換えて徳之島に向かう。
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▼眼下に加計呂麻島を見ながら徳之島へ向かう。
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▼奄美大島を離陸してから約30分、徳之島が見えた。
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▼徳之島空港に着陸態勢。青い屋根が沢山見えている建物が今回宿泊した『サンセットリゾート徳之島』
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▼徳之島空港に降り立つ。戦時中の日本軍浅間陸軍飛行場では無く、海側に移動させた埋め立て地の飛行場。
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徳之島子宝空港。この名は文字通り出世率2.81(伊仙町)という、少子化の日本(本州)にとって見習うべき数字と、子供
達に対する思い入れが深い島民は、「授かり物である子供は全ての人にとっての宝」という思いが自然に根付いており、
子供が生まれたら、血縁関係は気にせず、集落のみんなで育てるという意識が一般的な素晴らしい島だ。
逆にお年寄りへの配慮意識も高く、『長寿の島』と呼ばれるのも当然だと、行ってみれば良く解る。

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▼奄美大島以南の地図。亀徳(かめとく)/平土野(へとの)と書いてある島が徳之島。
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▼小さい空港だが、お土産屋さんは徳之島に特化した商品が多く、見どころ満載だし、レストランもレトロで安い!
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実は乗り継ぎ時間を潰す為、奄美空港で食事をしたが、価格は高く内容は??だったので、非常に後悔した。
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▼徳之島子宝空港から車で10分とかからない場所に、「幻の基地」陸軍浅間飛行場跡と慰霊碑がある。
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▼その場所は現在、一本道の道路(平和通り)となっており、左右にはサトウキビ畑が広がっている。
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▼▲昭和20年頃の浅間陸軍飛行場(米軍撮影) 赤矢印の部分が現在の平和通り撮影地点となる。
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▲案内板の④が撮影位置。
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▲一本道の道路(平和通り)突き当りに慰霊碑がある。
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▼戦時中の陸軍浅間飛行場(米軍撮影)。黄色の線で示した部分が現在の徳之島子宝空港である。
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「幻の基地」陸軍浅間飛行場の記録。
陸軍浅間飛行場は昭和19年3月竣工。陸海軍の特攻機が不時着、再出撃した飛行場である。
沖縄上陸を狙う米軍艦載機の空襲が日増しに激しさを増してくる中、攻撃の前線基地を陸軍万世飛行場(鹿児島)から
浅間陸軍飛行場に移す事になる。

昭和19年10月10日 (沖縄島を中心とした十十空襲)。午前/午後の2回襲来した米軍機の攻撃で28機が撃破される。
昭和20年1月22日 南西諸島に約900機の米軍機が襲来。民家など70棟が炎上。
昭和20年3月1日 3度目の空襲。朝~夕方5時まで続いた。(模擬飛行場を作って攻撃させた)
昭和20年3月21日 海軍鹿屋基地を出撃した第721海軍航空隊の桜花隊直掩の零戦1機が空戦後に徳之島に不時着。
昭和20年3月23日 米機動部隊の艦載機による空襲が始まり、7月まで連日の様に続く。
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▲米軍の空襲をうける浅間陸軍飛行場(米軍撮影)
昭和20年3月24日
13:30 沖縄(那覇)海軍小禄基地から飛び立った偵察機(海軍「彗星」1機)が浅間飛行場に不時着。
米機動部隊の発見を報告。徳之島の陸軍独立混成第64旅団は沖縄近海の敵を徳之島から攻撃する事を決定。
昭和20年3月28日
第6飛行団長(第3攻撃集団長)今津大佐直卒で万世飛行場から進出した陸軍飛行第66戦隊第1中隊(戦隊長 藤井権吉少
佐/中隊長 山崎武雄大尉)の99式襲撃機11機と、護衛の飛行第103戦隊(戦隊長 東条道明少佐)の4式戦闘機「疾風」
8機が浅間飛行場に到着した。兵士も住民も飛行機に駆け寄って機体に触れ「日の丸」を撫でたと言う…
3/23以来、見るのは米軍機ばかり。日本機を間近に見るのは久しぶりであった為だ。

昭和20年3月29日
04:30 飛行66戦隊の99式襲撃機11機、護衛の疾風8機が、沖縄に浅間飛行場からの初出撃。
だが慣れない飛行場の為か離陸時に疾風1機が飛行場外で爆破炎上、66戦隊も4機が後続機のプロペラに尾部をかじら
れ、66戦隊の出撃は7機に留まった。▼陸軍99式襲撃機(Ki51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機)
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66戦隊第1中隊長 山崎武雄大尉は(篠原新吉中尉/坪井宗一軍曹)(今田義基少尉/長沢一郎伍長)(島崎昭二軍曹/播磨
勝三郎伍長)ら3機(99式襲撃機は2名乗)を率いて沖縄に向かい、米艦隊発見。
激しい対空砲火で山崎機は被弾、徳之島に帰還。篠原中尉機は沖縄本島西方面の米艦隊を爆撃し、徳之島に帰還した。
この攻撃で今田中尉機と島崎軍曹機が未帰還。今田中尉機は敵艦に突入、撃沈させたとされる。
[ 今田義基少尉(広島県出身)慶良間列島米艦隊に突入、戦死。享年23歳 ]

昭和20年3月29日 知覧から出撃し、沖縄攻撃を終えた65戦隊(隼15機)が徳之島に不時着する。
誠第39飛行隊(笹川 勉大尉以下「隼」8機)3/28新田原基地→奄美大島上空の天候悪化の為3/28喜界島基地着陸。
→3/29徳之島(浅間飛行場)に進出。

昭和20年3月30日
第20振武隊(隊長 長谷川実大尉)の隼4機が午後5時過ぎに知覧から徳之島に進出。途中2機が脱落し瀧村少尉と吉田
少尉の2機が奄美上空に到達。
(吉田市少尉機が遭難、殉職。瀧村少尉は奄美大島の海岸に不時着時、機体損傷。4月2日に知覧に戻る)
飛行可能な66戦隊の99式襲撃機5機に3名ずつが乗って万世に戻ったが、途中で米機の攻撃を受け1機墜落(3名戦死)。
65戦隊第1中隊の隼4機(中隊長 中神春雄大尉)が徳之島に進出。(九州から重爆3機で250㎏爆弾8個が空輸される)
この日の時点で浅間基地の戦力は、一般機12機・特攻機16機という記録が残っている。

昭和20年3月31日
誠第39飛行隊の4機が出撃。(笹川 勉大尉/高橋晋二中尉/瓜田忠治少尉の3名が特攻戦死)
3機が突入し1機は徳之島に戻ったところをグラマンに撃墜された。この出撃を103戦隊の疾風(機数不明)が直援。
※誠第39飛行隊の隼6機6名が昭和20年4月1日に新田原基地から沖縄へ出撃し、全員戦死している。

昭和20年4月1日05:00 第20振武隊の5機が103戦隊(指揮官 小川倶治郎大尉)の護衛を受けて出撃。
4機は引き返し、山本秋彦中尉の1機が突入。夕方、66戦隊の山崎武雄大尉率いる99式襲撃機4機が万世から進出。
更に2日にかけて66戦隊の99式襲撃機15機が万世から進出。

昭和20年4月2日
陸軍飛行第66戦隊の99式襲撃機7機が、第20振武隊(長谷川實少尉/山本英四少尉)2機と、飛行第103戦隊久保元治
郎少尉/矢作一郎少尉/蘇鉄也少尉の「疾風」3機と共に出撃。蘇鉄也少尉の「疾風」は離陸時の事故で殉職。
(第20振武隊は4機が準備されたが離陸時の事故で2機のみ出撃、突入)
飛行第66戦隊 (高山昇中尉(崔貞根)朝鮮出身/飯沼良一軍曹)/(路川存損軍曹/石原一夫兵長)/(勝本多資軍曹/山崎
殖林兵長)らの3機が未帰還。未帰還となった高山昇中尉機は任務は被弾しながら巡洋艦に突入したと伝えられている。
※高山中尉(崔貞根)は朝鮮出身、沖縄戦で戦死した11名の朝鮮人特攻戦死者の1人である。
 飛行66戦隊には昭和43年11月に赴任。翌年7月戦隊と共にフィリピンに進出しレイテ作戦にも参加。
 そして沖縄戦では第3中隊の先任将校として、戦隊の中核パイロットの立場にあった。66戦隊の任務は通常攻撃で、
 特攻任務では無かったが、公式には特攻戦死になっていない他の隊員も、66戦隊では平素の言動を理由として「体
 当リ攻撃ニヨリ自爆戦死ト認定」としている。▼飛行第66戦隊(第1中隊)の陸軍99式襲撃機
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夕刻、第1攻撃集団(隊長 河原大佐)の隼18機と第21振武隊(隊長 水川禎輔中尉)の隼6機、第44振武隊(隊長 甲斐
玉樹少尉)の隼5機、飛行第59戦隊の飛燕7機)が徳之島への進出を図った。
103戦隊長東条道明少佐の回想によると、東条少佐は疾風4機を率いてこれに同行した。他に整備員を乗せた99式襲撃
機5機、97式戦闘機と直協偵察機の特攻機20機が同行したと言う。
しかし、第1攻撃集団は途中で2機が引き返し、2機が行方不明となり、14機が徳之島上空に到達した。
ところが飛行場は爆撃直後だった為、着陸時に7機が大破した。着陸時の事故で栗田三郎少尉(第44振武隊)が戦死。
東條少佐も着陸時に飛行機を壊してしまった。

昭和20年4月3日
午後3時10分~午後4時10分、第22振武隊(隊長 藤山二典中尉)の隼7機、第30部類部隊(隊長 大櫃繁夫中尉)の99式
襲撃機5機、第46振武隊(隊長 丹羽信博少尉)の99式襲撃機9機を59戦隊の飛燕5機が掩護し、徳之島と喜界島に向かう
第46振武隊は屋久島付近で米戦闘機の迎撃を受けて引き返し、第30振武隊は喜界島に進出した。
第22振武隊は藤山隊長率いる4機が沖縄に向けて午後3時に知覧を出撃、もう3機は午後4時に知覧を出撃した。
先行した藤山隊長は着陸時にグラマンの銃撃を受けて戦死、第22振武隊の1機と59戦隊の直掩2機も同じく撃墜された。
航続の第22振武隊3機は無事に徳之島に進出した。

昭和20年4月4日
66戦隊の99式襲撃機4機が徳之島を出撃し、午前5時15分沖縄の米艦隊を攻撃した。1機(2名)未帰還。
※昭和20年4月1日午前2時半頃、鹿屋を出撃した「桜花」を積んだ第721海軍航空隊の一式陸攻1機は(台湾)新竹基地
に着陸していた。同機は3日に同基地を発進したが徳之島沖に不時着水し、全員が救助された。

昭和20年4月5日
知覧から出撃した第22振武隊(前田光彦少尉/西長武志少尉)2機が敵機と遭遇。1機(前田少尉)が徳之島に不時着。

昭和20年4月6日
徳之島には特攻機18機、襲撃機10機、戦闘機6機がいたが、この日は空襲で出撃できず。
第43振武隊の隼6機が知覧から出撃。1機(隊長 今井光少尉)が午後、徳之島に不時着。
第203海軍航空隊の制空隊の零戦1機が、空戦後の午後4時5分に徳之島に不時着。
第210海軍航空隊の制空隊の零戦1機(直居欽也中尉)は徳之島上空で空戦後、被弾し徳之島付近海中に不時着。
漂流12時間の末、犬田布岬に泳ぎ着いて住民に救助される。
神園望大尉は沖縄周辺偵察のため偵察機「彩雲」で鹿屋基地を発進したが、米戦闘機の銃撃を受け被弾しながらも徳之
島の畑に不時着した。
挺身飛行第2戦隊の輸送機4機が午後5時に福岡県板付飛行場を飛び立ち、午後7時に着陸(徳之島へ通信機空輸の為)

昭和20年4月7日
第44振武隊の隼2機が出撃(隊長 甲斐玉樹少尉/清水定伍長)が払暁、沖縄周辺米艦船に突入。
喜界島から第30振武隊の5機が徳之島へ前進してくる。この日は空襲が激しく第20振武隊の2機が地上で破壊された。

昭和20年4月8日 挺身飛行第2戦隊の輸送機3機が徳之島に60キロ爆弾を落下傘で空輸投下。
昭和20年4月9日
第22振武隊は残る6機で沖縄攻撃を計画するが、空襲で1機を残して全て破壊される。
第42振武隊(隊長 猫橋芳賀朗少尉。機種は97式戦闘機)の中野友次郎少尉は、午後4時30分僚機と共に「喜界島」か
ら97式戦闘機で出撃するも、途中グラマンと交戦被弾し徳之島に不時着。

昭和20年4月10日
第30振武隊の2機に出撃命令が出るが、整備員の不手際で1機(横尾賢治伍長)のみ午前5時35分に出撃、 突入。
66戦隊の99式襲撃機1機が喜界島に連絡に行った帰りに、徳之島着陸時に米軍機に撃墜される。

昭和20年4月11日
第22振武隊の残る1機「柴田秋蔵少尉」が単機で沖縄へ出撃、突入散華。

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▲4/11早朝5時35分「柴田秋蔵少尉」は藤山隊長の遺骨と共に「隼」に搭乗「隊長と共に征くが世話になった。
 後日靖国で会おう。」の言葉を残し、徳之島浅間陸軍飛行場より単機出撃。慶良間列島南方の敵艦隊に突入戦死。

同時に出撃しようとした第43振武隊長の今井光少尉は地上滑走中に弾痕に脚を落として出撃中止。
午後0時35分鹿児島県国分基地を発進した第601海軍航空隊戦闘308飛行隊の桂正中尉(零戦特攻第3御盾601部隊)は、
米機動部隊攻撃に向かう途中喜界島南方でグラマンと交戦し被弾、徳之島基地着陸の際に機体が転覆し重傷を負った。

昭和20年4月12日菊水2号作戦発動
浅間飛行場は空襲の為使えず。鴨池から出撃した海軍制空隊1機が名護(沖縄)上空で被弾、徳之島に不時着。
※鴨池は鹿児島県鹿児島市郡元町の鴨池海岸にあった鹿児島市営水陸両用飛行場(鹿児島海軍航空隊)

昭和20年4月13日
早朝、喜界島から陸軍第六航空軍高級参謀の井戸田勇大佐を乗せた軍偵が進出。
(徳之島、喜界島両基地が引き続き中継基地として使用可能かどうかの視察の為)
前日に喜界島を視察して徳之島に飛来した。この日の夜に井戸田勇大佐は九州に帰還。
進出時に軍偵は空襲で破壊されたので、第30振武隊の横田正顕少尉の機を取り上げて帰還した。
65戦隊の隼1機が12日夜に知覧を出撃して沖縄攻撃後、帰途喜界島に着陸。この日の朝、徳之島に飛来。
陸軍第六航空軍高級参謀井戸田勇大佐の判断で、徳之島の積極的使用を放棄。搭乗員70名と整備兵15名が喜界島の
海軍基地に移動。以後、浅間飛行場は中継基地としての役割を終え、不時着飛行場として位置づけられた。

昭和20年4月14日 66戦隊の99式襲撃機1機が井戸田勇大佐を迎えに飛来(行き違いになった)
昭和20年4月15日04:00第43振武隊長の今井光少尉は沖縄に出撃しようとするが離陸に失敗。
(これで徳之島の飛べる機体はゼロになった)
午後5時50分、第1国分基地を出撃した第601海軍航空隊(戦闘第310飛行隊)神風特別攻撃隊「第3御楯隊」の零戦2機
が沖縄上空で米軍と空戦後、徳之島に不時着破損。
第203海軍航空隊沖縄飛行場夜間銃撃隊の零戦1機が、攻撃後の午後8時15分に徳之島に不時着。
着陸時に爆弾孔に脚を突っ込み、機体は転覆大破。

昭和20年4月16日菊水3号作戦発動
飛行機を失った在徳之島の陸軍搭乗員の半数が船で奄美大島古仁屋に向かった(17日午前6時に無事到着)
その後喜界島から飛行機で九州に帰還する事となる。

昭和20年4月17日在徳之島の陸軍搭乗員の残る37名が徳之島(山港)を出発▼赤矢印が山港。黒矢印は平土野港
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昭和20年4月18日04:50今津大佐は修理した飛行機で知覧に帰還。103戦隊の東条戦隊長も同じく帰還した模様。
昭和20年4月22日
14:40知覧を出撃した第105振武隊6機の内2機が夕刻、徳之島トンバラ上空で敵機と空戦。
1機が撃墜されて海へ墜落。もう1機(日下弘實伍長)は別れ惜しそうに浅間飛行場に向かった。
墜落戦死したのは藤野道人軍曹の97式戦闘機で、手足を自らの操縦桿に縛り付けてあったと伝えられている。
藤野軍曹が墜落した母間には「黒潮の塔」という慰霊碑が建立され、藤野軍曹が満洲の公主嶺で詠んだ辞世の句が、
同期の第11期少飛会によって翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
『火急を知りて 馳せ参じ 我は征くなり 弥生の空に 特攻出撃を前に』

昭和20年4月23日
前日、徳之島に不時着した第105振武隊の日下弘實伍長は単機(97式戦闘機)沖縄へ出撃、突入戦死。
独立混成第64旅団の高級部員中溝猛中佐は、徳之島(山港)で海軍25ミリ高射機関銃隊(財田隊)を出迎える。

昭和20年4月28日第77振武隊の97式戦闘機1機(金子誓伍長)が徳之島に不時着。
(大津少年飛行隊出身で高田少将の教え子でもあった)

昭和20年4月29日昨日不時着した第77振武隊金子誓伍長が97式戦闘機で単機沖縄へ出撃、突入戦死。
昭和20年4月30日65戦隊の隼5機が沖縄周辺艦船攻撃、帰途に徳之島を中継して知覧に帰還。
昭和20年5月4日菊水5号作戦発動(この日、沖縄の第32軍は総攻撃を実施)
103戦隊第百飛行団の「疾風」数機は徳之島に着陸して損害を出した。

昭和20年5月9日(在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦)
財田隊(財田海軍高射機関銃隊)がグラマン1機を撃墜し、以後は奮戦を続けた。
米軍機撃墜を見た将兵や住民は、まだ他の機がいるにもかかわらず、洞窟から飛び出してきて万歳を叫んだ。
また戦闘終了後、財田隊の洞窟には軍民から何本もの祝い酒が届いたという。いかにこれまで浅間飛行場が米軍機の
跳梁に任せていたか、またそのことを軍民共に悔しく思っていたかがよく分かる逸話だ。
財田隊は翌日も、その翌日も米軍機を撃墜した。被害に驚いた米軍は低空飛行をしなくなった。
そこで高田少将は滑走路に偽装した破損機を囮として置き、米軍機がそれを攻撃するようにしむけた。
財田隊はその米軍機を迎撃してまた戦果を上げている。その後も財田隊は奮戦を続け、敗戦後の8/25高田少将からそ
の活躍を表彰された。同隊の犠牲者は移動時の艦上で戦死2名、徳之島陸上戦で病死3名であった。

対空射撃を担当したのは、飛行場中隊の他、独立混成第64旅団の独立混成第21連隊(連隊長 井上二一大佐)石原中
隊の重機関銃隊、同じく独立混成第22連隊(連隊長 鬼塚義惇大佐)の永田中隊の重機関銃隊であった。
石原中隊の重機関銃隊は湾屋川中流で4機撃墜。永田隊は真瀬名川南岸の洞窟陣地から1機を撃墜。
この日、敵機が海に不時着し、米軍飛行艇がパイロットを救出して飛び去るのを住民が見て悔しがった。
※財田隊とは、海軍25ミリ高射機関銃隊(隊長 財田三男中尉-海軍第3期兵科予備学生16名)。
武器は25ミリ高射機銃12門で、元々宮古島に派遣される予定だったが、情勢の悪化で行く先が奄美大島に急遽変更
され、4/2大島輸送隊の輸送艦に乗船して奄美に到着した。財田隊は航海中も空襲に備えて、いつでも戦える様、輸
送艦に機銃をボルト締めしていた。
財田隊が突然徳之島に派遣されたのは、連日の空襲による飛行場の被害に悩む64旅団が、対空火器の豊富な大島防備
隊に部隊の派遣を依頼したためである。中溝中佐自ら迎えに出たことからも64旅団の財田隊にかける期待の大きさを
伺う事ことが出来る。4/24中溝中佐は馬鞍岳で財田中尉同席のもと祝杯を挙げ、4/25には主計将校と軍医も集まっ
て財田隊支援の方法が話し合われ、陸軍挙げての支援態勢が組まれた。
だが、財田隊はそれどころではなかった。隊員はここ1ケ月の疲労に加えて、慣れぬ高温多湿の洞窟生活と玄米食、雨
季で道路が泥濘と化している中での機銃や弾薬の移動で疲弊しきっていた。それは「いっそ死んだ方がまし」との想い
を起こさせるものだったという。財田隊の隊員過半数が明治生まれで、平均年齢は37歳という老兵小隊だった。

昭和20年5月11日菊水6号作戦発動
※鹿島海軍航空隊で編成され、指宿から出撃した神風特別攻撃隊「第2魁隊」94式水偵1機は、徳之島陸軍部隊上空で
飛行靴に、「吾 魁隊坂本少尉機、単機突入す」旨の紙片を入れて投下した。(無線機を積んでいなかった為)
知覧に帰還していた103戦隊の宮本林泰中尉が、疾風14機で沖縄飛行場爆撃の帰途に徳之島に不時着。
6月に帰還するまで徳之島に滞在する。

昭和20年5月17日
66戦隊の99式襲撃機2機が沖縄攻撃の帰途に徳之島に不時着して1機は知覧に帰還。
その1時間後に同戦隊のもう1機が不時着、米艦の対空砲火で偵察員は機上戦死、操縦者も負傷していた。

[昭和20年5月25日
万世を出撃した第432振武隊(12機)の内、1機(中島寛伍長)の2式高等練習機がエンジン故障で徳之島不時着。

昭和20年5月27日
65戦隊隼2機が沖縄周辺艦船攻撃、帰途に徳之島を中継して知覧に帰還。
65戦隊/66戦隊の99式襲撃機2機が沖縄周辺艦船攻撃後、伊仙村と飛行場西海岸付近に不時着、搭乗員戦死。

昭和20年5月28日菊水8号作戦発動
第433振武隊(隊長 小西吉彦少尉)の2式高等練習機7機は万世を出撃後、徳之島に着陸。
この日のうちに再度沖縄に出撃。
第213振武隊(隊長 小林信和少尉)の板津忠正伍長は午前5時31分97式戦闘機で知覧を出撃、エンジン故障の為、
徳之島の海岸に不時着(板津忠正伍長は後に知覧特攻平和会館初代館長)
鹿児島県串良基地から出撃した徳島海軍航空隊第3次白菊特別攻撃隊15機のうち1機が徳之島に不時着。

昭和20年6月1日
第433振武隊 篠崎孝則少尉は沖縄に出撃。途中エンジン不調で海上に不時着、沖縄県伊平屋島に泳ぎ着いた。

昭和20年6月3日
午前11時、鹿児島県第二国分基地を発進した名古屋海軍航空隊編成の第四草薙隊の99式艦爆3機が不時着。
着陸時に1機が使用不能に。翌日2機に分乗して基地に帰還する途中、悪天候のため1機が行方不明に。
5月25日に不時着した第432振武隊の中島寛伍長は、戦隊の将校の操縦する飛行機に同乗して九州に帰還。
第111振武隊の島田昌往伍長は97式戦闘機で知覧を出撃、エンジン故障の為徳之島面縄集落に不時着。

昭和20年6月8日
古仁屋(奄美大島)を出撃した第634海軍航空隊の水上爆撃機「瑞雲」1機が沖縄攻撃の帰途に徳之島に不時着。
機体は転覆破損した。

昭和20年6月11日
沖縄から脱出した第32軍航空参謀神直道中佐と誠第41飛行隊長寺山欽造大尉、第32軍航空班の藤田忠雄曹長が
99式襲撃機に乗って九州に帰還。神直道中佐は大本営に航空機による総攻撃を要請するも聞き入れられず・・・。

昭和20年6月21日
鹿屋基地を出撃した徳島空の第4次白菊隊8機の内1機が燃料欠乏のため徳之島に不時着した。
機体は大破したが搭乗員は無事だった。

昭和20年6月23日 亀津で不時着したと思われる3名の特攻隊員が民家で世話になる。
昭和20年7月4日戦訓伝達で沖縄を脱出した森脇大尉が徳之島に辿り着き、古仁屋経由で帰還した。
昭和20年7月9日米軍によるこれまでで一番大規模な空爆が徳之島を襲った。
昭和20年8月15日終戦(敗戦)

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▲浅間陸軍飛行場建設工事の関係者(球7165部隊)全員揃っての記念写真(昭和19年9月撮影)
飛行場建設は昭和18年に畑や宅地買収を終え、同年12月には町村に人夫の徴用命令が出た。作業用具は各自持参であ
ったが、ツルハシにモッコと人力が中心で、軍には作業効率を高める機械や機材はほとんど無く、中古トラック5台と
30台のトロッコ、そして100台余りのリヤカーがあるだけだった。奄美大島からも650名の応援部隊が徴用されて作
業にあたった。明けて昭和19年1月、日増しに悪化する戦局に備えて飛行場建設を急ぐ為、沖永良部島・与論島からも
応援部隊として350人が徴用され、昼夜問わずの突貫工事で6月に完成した。

上記「幻の基地」陸軍浅間飛行場の記録。の中でご紹介した「在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦」だが、徳之島には浅
間飛行場を本部とする第75飛行場中隊(中隊長 山縣克己大尉)と、奄美大島守備隊、独立混成64旅団(球7165部隊)が
島を守備していた。
奄美大島守備隊(1個連隊)は、浅間飛行場完成と同時に古仁屋(奄美大島)に設置されていた奄美要塞司令部を昭和19年
6月に廃止。時の要塞司令官 井上二一陸軍大佐は、奄美大島守備隊長として昭和19年6月22日平土野港に上陸。
本部を天城村立青年学校に置いた。
同月末頃にはサイパン陥落が現実化し、更なる南西諸島防衛強化の為、昭和19年7月14日奄美大島守備隊として独立混
成64旅団を徳之島に配置する事となり、旅団長には東京陸軍飛行兵学校長だった高田利貞陸軍少将が8月15日に着任。
旅団司令部を大和城山に置いた。▼大和城山を見る。

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▲この日は天気が悪く曇り空だったが、赤矢印の頂上(248m)に戦闘指令所が残っているという事で登ってみた
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上名道森林公園として第1登山道と第2登山道に分かれて登山口があるが、戦闘指令所へは第1登山道からが最短だ。
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現在は戦前の遺構「大和城(ヤマトグスク)」として紹介されているが、戦闘指令所の場所には「トーチカ」とある。
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▲早速登山開始。
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▲昨年の台風被害か。大木が倒れたままの箇所も多い。地元の人でも滅多に行く人はいないらしい・・・。
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▲とは言え、きちんと階段が作られ、一度整備されている場所なので、当時の兵隊さんの苦労の比で無い。
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▲大木にへばりついているナメクジの大きさも半端ない(笑)
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▲因みに第2展望所にも行ってみたが、何も無いし、展望といっても草木が生い茂って何も見えない。
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▲第1展望所まで辿り着いた。戦闘指令所跡の場所だ。道が左右二手に分かれている。
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▲とりあえず左に行ってみる。右側に僅かに残る石垣は大和城時代の遺構か・・・?
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▲すると、あった。戦闘指令所のトーチカだ。
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四つの展望孔とあるが、目視で見学出来る部分は一つしか確認出来なかった。
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▼トーチカ上部にあがってきた。
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▼上部に入口がある様だが、階段なども無くとても入れる様な状態では無い。
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▼上部入口の底をUPで撮影。地下2階構造になっているのが解る。
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▼トーチカ上部からの眺め。東シナ海、平土野港、徳之島空港などが一望出来る。
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▼先程の「道が左右二手に分かれている」ところまで戻って、次は右に行ってみる。
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▼すると、入口があった!
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▼当然入壕する。
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どんな機材が設置されていたのだろうか。2階と1階の床部分は米軍が破壊したか、崩落している。
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当然1階か2階に発電機は置かれていただろう。米軍が処分を命じたか・・・。
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▼2階構造になっていたのが良く解る。右下は恐らく外に続いている。その上はトーチカ上部から見えた部分だ。
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他も出入口があったはず。昭和28年の本土復帰まで米軍占領下だったので、米軍が調査/鹵獲しているはずだ。
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▲戦時中の大和城山一帯。独立混成64旅団/奄美大島守備隊が一帯に陣を引いていた事が良く解る。
赤線は見学した戦闘指令所。緑線は浅間飛行場。青線は平土野港。黄線は「在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦」の中で
ご紹介した海軍25ミリ高射機関銃隊(財田隊)

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▲終戦後、米軍が調査で大和城山に入った時に撮影された、大和城山東側に設置されていた無線小屋。
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▲内部の地上用無線電話機2B型(受信機のみ)
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▲大和城山の指令本部と各部隊の駐屯地連絡の為、電信柱で電話網が張り巡らされていた。
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▲伝書鳩小屋。軍は伝言用に伝書鳩を飼育していたが、実際に利用する機会は無かったという。
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▲米軍の上陸に備え、あらゆる毒ガスから100%保護出来ると言われた毒ガス防護用ケーフを着用した日本兵。
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▲終戦後、武装解除の為、平土野港に上陸する米軍LST。度重なる空襲で焼け野原となっている事が解る
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▲押収され、一か所にまとめられた日本軍の弾薬集積場。
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▲電線などの通信機材の集積場。
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▲米軍の指示に従い、平土野港沖に海中投棄する為に、武器・弾薬・機材を米軍LSTに積み込む日本兵達。
扱いに苦労する重砲類の砲身などはガスで焼き切って分解投棄した。米軍の命令で作業する日本兵の心境を想うと、悔
しさと安堵感で複雑な気持ちだっただろうと思う・・・ご苦労様でした。

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▲昭和20年頃に撮影された三京の民家と住民達。
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▲昭和30年頃の徳之島の民家。米軍基地の無かった奄美諸島ではアメリカ政府は投資はせず、貧困状態が続いた。
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▲終戦から2年後の昭和22年に撮影された天城村天城中学校。昭和30年の上記写真と変わらぬ風景だ。
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▲天城村岡前小学校(昭和28年撮影)この年、奄美群島(奄美大島/喜界島/徳之島/沖永良部島/与論島)が本土復帰。
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▲徳之島からも多くの若者が戦ってくれた。出征前の兵士との別れを惜しみ、家族揃っての記念写真。

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▼▲犬田布岬には「戦艦大和の慰霊碑」がある。
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▼毎年慰霊祭が行われ、遺族や多くの方々が祈りを捧げる場所。
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長い間、戦艦大和は徳之島の犬田布沖で沈没したと考えられ、昭和43年に慰霊塔が建てられたが、昭和55年の海底調
査で鹿児島県枕崎市沖の沈没場所が特定された。

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慰霊塔には戦死された英霊の方々のお名前が刻まれたプレートが張り付けられている。
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慰霊塔は手を合わせた合掌がモチーフとなっていて、実際の大和の司令塔と同じ高さで建てられている。
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当然此処でも慰霊させて頂いた。一部で此処が心霊スポットと騒がれているらしいが、そんな事は全く無い。
絶景を見る前に、日本の為に戦ってくれた英霊に対し、敬意と感謝の念を持って慰霊碑の前で手を合わせて頂きたい。


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▼▲なごみの岬公園に「富山丸慰霊碑」があるとの事で行ってみた。
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▲2004年6月29日 内閣総理大臣 小泉純一郎 書 と書いてある・・・。何故小泉元総理??
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▼沖縄県糸満市摩文仁の「平和の礎」の様な立派な慰霊碑だ・・・。
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▲約3700人の軍関係者や民間人を乗せ鹿児島から沖縄へ向け航行中であった徴用船「富山丸」。
昭和19年6月27日「富山丸」を含めた12隻の船舶は「カタ412船団」を構成し、鹿児島湾を出港。
翌28日貨客船「履門丸」と「開城丸」は名瀬港に寄港し、「富山丸」を含めた他の船舶は17時に古仁屋に入港した。
翌朝29日、船団は奄美大島の名瀬と古仁屋から、それぞれ出港して那覇に向かう。
その頃、米軍の潜水艦スタージョン(USS Sturgeon, SS-187) が徳之島の東で浮上哨戒を行っており、04:33に
潜航哨戒を開始、05:29カタ412船団は針路220度で航行中と判断され、スタージョンは「富山丸」に照準を定める。
7時25分、スタージョンは艦首発射管から「富山丸」に向けて魚雷を4本発射、4本の内3本が「富山丸」の左舷船首と
二番船倉及び四番船倉と機関室の中間部に命中。
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▲アメリカ海軍潜水艦スタージョン (USS Sturgeon, SS-187)
「富山丸」の左舷船首と二番船倉に命中した魚雷の衝撃で、ガソリンが船内及び海上で発火して炎上する。
止めを刺したのは四番船倉と機関室の中間部に命中した魚雷で、「富山丸」は船体を二つに折って北緯27度43分東経
129度06分の徳之島南東12キロの地点で轟沈した。
轟沈と海上に流出して引火したガソリンの為、将兵4600名が脱出する余裕はほとんどなかった。
独混第44旅団をはじめとして、沖縄の現地部隊を統括する第32軍は大本営より飛行場の急速造成を指令されていたが、
本船の沈没によって旅団の生き残りは約700名その内活動出来る者約500名となり、トラック等も失われ、沖縄第32
軍が担当した飛行場建設(陸軍北飛行場と中飛行場)遅延原因の一つとなっている。
この沈没で、旅団将兵や船員、船砲隊員の合わせて約3700名が戦死。一隻の船による死亡者数としてはタイタニック
号や、翌年の戦艦「大和」の沈没よりも多く、当時としては第一級の惨事であったが、多くの船舶の沈没の実態と同様、
大本営により秘匿された。
情報を聞きつけ、奄美大島の古仁屋からも漁船などで徳之島沖まで救助に向かい、当時古仁屋に陸軍病院があった事も
あり、多くの火傷を負った傷者が運び込まれた。古仁屋で亡くなられた方も大勢いたという。
昭和39年6月29日に慰霊塔が建立され、毎年遺族等による供養祭が開催されている。
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立派な慰霊塔だ・・・真新しい花が供えられ、綺麗に管理されている・・・。
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当然此処でも慰霊させて頂いた。
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▼慰霊塔の奥は海が見える場所になっている。
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▼此処が「なごみの岬」。この岬の向こうの海で富山丸が轟沈した。
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▼静かに見える海も、戦時中はどれだけの軍民を飲み込んできたのだろう・・・合掌。
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▼丁度、亀徳港に船が入港するところだった。徳之島の次は船で沖永良部島に向かう予定だ。
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▼▲3打鳴らさせて頂いたが、一打一打想いを込めて鳴らした。
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▼周辺には慰霊碑や碑文が並んでいる。見過ごす所だったが、牛島中将の書があったので足を止めた。
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▼昭和19年9月10日とある。球第1616部隊長時代の牛島中将の直筆だ。慰霊祭はちゃんとやってたんだ・・・。
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▼隣には、入口の、内閣総理大臣 小泉純一郎 書 の揮毫に通じる事が・・・。
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小泉純一郎元首相のご親族の、小泉正一郎海軍一等飛行兵曹が陸軍浅間飛行場から沖縄へ出撃した記録が残っており、
一泊した徳之島の宿、「多賀屋」の宿帳に宿泊記録と最後の「書き置き」が残っているという。
この碑を読むと、検閲を免れた特攻兵304名の「書き置き」が伊仙町歴史民俗資料館に保管されている。とある。
早速、伊仙町歴史民俗資料館に向かった。
と、その前に、富山丸慰霊塔の直ぐ脇に、疎開船「武州丸」遭難者の碑があるので寄ってから。

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▲なごみの岬公園入口付近の画像。青矢印は富山丸慰霊塔へ。そして黄矢印の所が武州丸慰霊碑だ。
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▲少し階段を登る事になるが、此処にも是非立ち寄って手を合わせて頂きたい。
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慰霊碑の周辺は直ぐ近い所に民家があるので、静かにそっと手を合わせ、素早く立ち去る事を心がけて欲しい。
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昭和19年9月25日徳之島から九州への疎開者を乗せた「武州丸」(日之出汽船1222t)が、諏訪瀬島北端北西13キロ
付近で、米潜水艦「バーベル」(先に宮古丸と八木丸を沈めた潜水艦)の雷撃を受けて沈没した。
この時武州丸には徳之島からの疎開者154名(亀徳99人、井之川27人、山25人、尾母3人)が乗船していた。
年齢別では15歳未満の幼児学童が79人、16歳から59歳までの婦女が39人と、乗客の9割が学童と婦女だった。
これより前、サイパン島の陥落を受けた7月7日の緊急閣議で政府は、米軍の侵攻が予想される、南西諸島の奄美大島・
徳之島・沖縄本島・宮古島・石垣島の五島から老幼婦女子を本土及び台湾へ疎開させることを決定した。
これを受けて鹿児島県知事は7月15日に奄美諸島の住民に対して本土への疎開を命じた。
具体的には奄美諸島から3万人の疎開を予定し、この内24000人を無縁故疎開者(疎開先に親類縁者等がいない疎開者)
と見込み、疎開先は全員鹿児島県内を予定していた。
これを受けて徳之島では島全体で6200人を疎開させる事になった。疎開できる者は満60歳以上の高齢者、一般婦女子、
国民学校児童、その他の病身者とされた。「勧奨」の結果、徳之島では2300人が疎開する事になり、第1回目は8/18
午後、「天運丸」(200t機帆船)で徳之島、沖永良部島、与論島の希望者を乗せて奄美大島の古仁屋に運んだ。
徳之島などの島には九州へ行く船が寄港することはあまりない為、住民は船の寄港する古仁屋に集まり、港近くの集会
所や国民学校の教室、旅館などで船を待った。時には1週間から10日位待つこともあったという。
古仁屋からの疎開船第1陣がいつ出発したかは不明であるが、8/24物資を運んできた海軍の潜水母艦「長鯨」に瀬相で
引揚者30名を乗せて8/26に鹿児島に向かっている。後も「長鯨」は9/7、9/19と瀬相に寄港している。
人数は不明だが疎開する住民を度々乗せた様だ。露天甲板に帆布を展張し、合わせて800人以上の疎開者を乗せた。
武州丸が第何陣目かは不明。武州丸は疎開の為だけに寄港したわけではない。同船は9/8に7隻の僚船と5隻の護衛艦と
共に基隆(台湾)を出港した。ところが途中で米潜水艦の攻撃を受けて4隻が沈没、武州丸は命からがら古仁屋にたどり着
いたというのが実情であった。疎開者を乗せるのはあくまで、九州に帰るついでの仕事だった。
(沖縄で撃沈された対馬丸も同様であった。)武州丸は9/24[ 08:50頃 ]古仁屋を出港。壕などの陣地構築に必要な
坑木約500本を名瀬(奄美大島)で積んだ「相州丸」とナカ502船団を組み、護衛には第89号駆潜特務艇と、第200号特
設駆潜艇の2隻がついた。船団速力は7.5ノットで、同行する「相州丸」と共に26日には鹿児島港に到着する予定だった。
武州丸には疎開者約150人が乗船し、沖縄に行く途中に輸送船が沈没した為に鹿児島に引き返す兵士約15名も乗船して
いた。そして運命の9/25[ 09:00頃 ]米潜水艦バーベルの放った1発目の魚雷が命中。
船が沈没しかかった時、2発目の魚雷が命中、武州丸は2つに折れて沈没。魚雷命中から沈没まで5~10分程であった。
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▲アメリカ海軍潜水艦バーベル (USS Barbel, SS-316)
武州丸の沈没に僚船の相州丸は気付いていた。姿は見えなかったが、キャーという叫び声とボイラーが爆発し蒸気が吹く
音を見張り員が聞いていた。相州丸は全速力でひたすら逃げた。ただ生存者を傷つけないように遠く離れるまで爆雷は使
用しなかったという。武州丸の生存者は10名足らず。疎開者148名と乗組員11名が死亡する大惨事となった。
武州丸沈没の事実は例によって厳重に秘匿された。生存者が上陸した鹿児島港では憲兵が待ち構え、トラックで移された
県立病院にも憲兵がおり、武州丸沈没のことは口外しないようにと口止めされたという。
対馬丸(沖縄)と武州丸は共に政府の命令に基づく疎開船だが、その犠牲者に対する政府の対応は対照的である。
対馬丸の疎開学童には1人当たり2万円の見舞金と遺族支出金が支給され、勲八等瑞宝章が授与され靖国神社に合祀され、
対馬丸に乗船していた一般の疎開者に対しても1人当たり3万円の見舞金が支給されている。
それに対して「武州丸」の遭難者には何の補償もされていない。これはかなり不公平だろう・・・。
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▲疎開船「武州丸」遭難者の碑から富山丸慰霊塔、そして海を望む。

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伊仙町歴史民俗資料館に行く途中、思わず車を止めて撮影。懐かしいボンネットトラックだ!!
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最近出来た「奄美」ナンバーも付いているし、現役でまだまだサトウキビ運搬に使われている!!カッコイイ!!
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▲まさか戦時中の軍用車両ダッジトラックをリメイクした車両??ワイパーが逆だ・・・。いや、日産か・・・?

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▲▼伊仙町歴史民俗資料館は旧農業高校の校舎がそのまま利用されている。
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少し前までは無料だったらしいが、最近入館料を徴収しているとの事。入館料は200円程度だったと思う。
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歴史に興味の無い方にはちょっと退屈な展示方法だが、徳之島の風土・文化を知る事は大変勉強になる。
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▲昭和11~15年の尋常小学校の教科書だ!本物だ!!昭和16年以降、国民学校に名を変えたと思う。
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▲▼砂糖車(サタグンマ)。大河ドラマ「せこどん」でも出ていたが、本物を見る事は珍しい。
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▼脱穀機。文明式旭光号!
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文明農機株式会社は今も社名を変えて続いているのだろうか?この当時から続いている会社は意外と多い。
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▼▲農耕用の扇風機。文明式と書かれているが、なんと手動式だ。
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風土・文化の展示物の見学もそこそこに、此処に来た本来の目的「多賀屋の宿帳」に残された、攻撃隊員、特攻隊員
の「書き置き」を見せて頂く事に。因みに、隊員が宿泊した宿「多賀屋」は今はもう現存していない。

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▲▼もちろん原本では無く、コピーだが、貴重な「書き置き」を見せて頂いたので、全てでは無いが一部ご紹介する。
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遺書では無いので、皆さん名前と一言程度だが、闘志というか勇ましく勇敢な青年達だったという事が良く解る。
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▲「愛機もろとも体当たり」と書かれている。特攻か・・・艦爆隊と書かれているが、部隊が解らなかった。
海軍であれば本来の中継基地は喜界島だが、「沖縄戦」が始まった大戦末期は、浅間飛行場(陸軍)も喜界島基地(海軍)
も、陸海軍で共用していたので、沖縄に出撃した攻撃隊/特攻隊/直援隊が各中継基地に不時着し、再度出撃する事は珍
しい事では無かった事から、鹿屋基地や国分基地、串良基地などの海軍飛行場。知覧基地や万世基地、新田原基地など
の陸軍飛行場からの出撃記録だけでは解らない事が沢山あるだろう。この多賀屋の「書き置き」は、「出撃後に消息を
絶った」など、不明の隊員の手掛かりになる様な事が詰まった最後の「書き置き」である事は間違い無い。
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▼これだ。小泉正一郎海軍一等飛行兵曹の書き置き。故海軍少尉??
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小泉正一郎海軍一等飛行兵曹に関しては情報が無く、よく解らない。しかし、神風特別攻撃隊では無い事は確かだ。
「攻専第三?隊」とはの様な隊だったのか・・・ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授下さい。
「なごみの岬」の石碑にはこう書かれている。
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もうすぐ死ぬけど「忘れないでね」と書き、自らを「故」と書き添えた。
「たったひと晩でしたが、忘れられない多賀屋になりました。」「最後の夜は確かに【徳之島】でした。」
「死んではじめて、命が生かされる」と書いたけれど・・・本当にそうだろうかと思っている。そこには一人ひとりの
人生が綴られている。昭和20年6月
と石碑には書かれていた。
これを読むと、小泉正一郎海軍一等飛行兵曹(一飛曹)だけが悲壮的な文章を書いている様にも見える。
自らを「故海軍少尉」と書いたというが、仮に特攻戦死とすれば2階級特進で一飛曹から少尉という事はありえる。
はたして小泉正一郎海軍一等飛行兵曹が所属していた「攻専第三?隊」とはどの様な部隊だったのだろうか・・・。
出撃日時もハッキリしない。昭和20年6月とだけ書かれているが、牛島中将の自決が6/23なので沖縄戦はほぼ終結し
ていた時期だ。沖縄戦終結後も、終戦まで日本軍各航空隊の沖縄攻撃が続いていたのは事実だが、何かしっくりこない
小泉正一郎海軍一等飛行兵曹の「書き置き」だった・・・。
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▲藤田 春男中尉(石川県出身)
平成7年6月24日、毎日新聞に「見る写真・読む写真」というタイトルで、″特攻の島″消せない記憶と題して「特攻隊
員が遺した絶筆の宿帳」の写真が掲載され、その宿帳を見ながら、当時を語る神田スミ子さんの記事が掲載された。
その開いた宿帳には「海軍中尉藤田春男」とあり、その記事を見た藤田貞子さん(藤田中尉の妹さん)は瞬間胸がドキド
キし、世の中には、同性同名も沢山あるだろうが、「海軍中尉」である事と、その筆跡には見覚えもあり、兄に間違い
ないと確信したという。
藤田中尉は、鹿児島県国分基地から昭和20年3月19日神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」の偵察員として操縦の飯塚英一
上飛曹(静岡県出身)と出撃。九州南東海面に於いて戦死した。
出撃地が「徳之島」とは聞いてなかった藤田貞子さんは、当時の分隊長だった本江 博さんに電話をかけたが「藤田が
徳之島に行った記憶はない」との返事であったが、当時国分基地で藤田中尉の戦友だった久原 滋様から目黒の防衛庁
防衛研究所を紹介され、早速出向いて事務官に会い、兄藤田中尉が所属していた彗星部隊攻撃103飛行隊の戦時日誌を
調べてもらったという。その日誌には「特攻機でペアの飯塚英一上飛曹と索敵哨戒に出撃した。」昭和20年1月28日付
の記録だけで、徳之島飛行の事実は見つからなかった。
 新聞には、徳之島の浅間飛行場は「陸軍の飛行場」とあり、藤田貞子さんは不安な気持になったが、どうしても、手
がかりが欲しいので、国分基地の当時の戦友、福岡県の久原 滋様(予科練出身)広島県の木松葉治様(予科練出身)
に新開記事を送り、戦時中の事を思い出して貰った。
すると、木舩さんからのお便りで『昭和19年10月から20年1月にかけて、内地、台湾、比島(フィリピン)間を、彗星
部隊や諸隊が前線進出ならびに移動の途中で、エンジン不調により徳之島飛行場に不時着したのだと思います。
故障機の修理部品や整備員を保有していた一番近い部隊は国分基地であったので、要務飛行で徳之島へ行かれたか、あ
るいは藤田中尉も国分から索敵の為に沖縄海域を飛行していて何かの事故で徳之島に着陸された可能性も考えられます。
木舟さんも徳之島に派遣されたことがあるそうです。』と書いてあったという。
 その後藤田貞子さんは平成8年4月22日国分基地の慰霊祭に参列した後、徳之島へ行かれた。
徳之島空港からタクシーに乗り「天城の多賀屋さん」と云うと、すぐに運転手はお解りになったという。空港から20分
程の場所だったという。おかみさんに会い、新聞で拝見した神田スミ子さんとすぐにわかり、来意を告げると部屋に通
され、別室から保存袋に入れられた当時の、宿帳を出して下さったという。
保存袋は近年町役場から支給されたとの事で、宿帳の表紙は白板白紙で「芳名録、昭和十九年以降、神田」と記してあ
った。古ぼけた宿帳を一頁ずつ開いていくうちに、そしてあまり上手とは言えない筆の字で「海軍中尉藤田春男」と書
いてあるのを見つけ、壊しい、兄の遺墨に万感の思いで合掌した。
藤田貞子さんは「やっぱり兄さんは徳之島に、昭和19年12月23日に宿泊していたのだ」と心の中で叫ばれた。
取材に来た毎日の記者に、神田スミ子さんが宿帳を開いて見せた頁が、全くの偶然で、藤田貞子さんの兄だった。
この事を伺い、52年間もしまわれていた宿帳が開かれ、そこに兄の筆跡があったというのですから、本当に奇跡としか
言いようがない。宿帳には、陸軍少将をはじめ、福岡県の知事、陸海軍の方、多勢記帳され、また国分基地の飛行長海
軍少佐江問 保様(海兵六十三期)や、藤田貞子さんにお便りを送って下さった木舩さんも書いてあるのを発見し、写
真を撮らせて頂いたという。
 神田スミ子さんは、多賀屋の二代目、現在70才(平成8年時点)で、スミ子さんのお話では、出撃する特攻隊員の方達
と、夜は皆で歌を歌ったりしたそうだ。戦意に満ち満ちた方達が、翌日は宿の上を低く飛んで、ハンカチを振りながら
出撃していったとの事。 本当に貴重なお話だ。
 現在(平成8年時点)は旅館よりも、ダイバーリゾートとしての神田マリンの方が有名で、スミ子さんは、息子さん、
お孫さん達とやっておられ、当時の宿は昭和20年4月の空襲で焼失したが、幸い「宿帳」は難を逃れたとの事。戦後、
徳之島は、アメリカの軍政府下におかれ、昭和28年12月25日、日本復帰した。その時に、戦前の場所から海岸の方に
建て替えられたので、藤田少尉の宿泊した宿の姿は全く残っていない。
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当時の若者は本当に素晴らしい字を書く。感心するばかりだ・・・。
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▼台19023部隊とは、恐らく牛島中将率いる第32軍指揮下の近藤卓二中佐率いる整備隊(航空修理廠)の事で、本来は
 湾19023部隊だろう。
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第32軍の位置づけは台湾軍に属していたので、台と書かれていると推測され、これらの書き置きの隊員は、第5野戦
航空修理廠第1支廠の兵士達である可能性が高い。
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整備隊(航空修理廠)は、徳之島に第1独立整備隊。宮古島に第2独立整備隊。沖縄本島に第3独立整備隊があった。
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▲八紘第6隊と書かれている。八紘第6隊とは、「陸軍特別攻撃隊」で紹介している「石腸隊」の事だ。
隊員は18名、昭和19年12月5日~昭和20年1月8日にフィリピンの陸軍基地から99式襲撃機で特攻出撃した部隊だ。
この書き置きを書いた鈴木敏治少尉、上野哲彌少尉(彌は弥の旧字)は昭和20年1月8日に出撃。特攻戦死している。
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▲陸軍特別攻撃隊・八紘第6隊「石腸隊」隊員の写真。一番左に写っている方が上野哲彌少尉だ。
フィリピン戦線における陸軍の特攻隊は全て日本(内地)で編成された。石腸隊は千葉県にあった下志津陸軍飛行学校
(下志津教導飛行師団)で編成されているので、下志津基地を離陸した隊員は、各地を経由した後、徳之島を経由して
フィリピン(パコロド基地)に向かった可能性もある。多賀屋の書き置きがそれを証明している。
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▲花蓮港飛行隊と書かれている。恐らく陸軍第8飛行師団(誠)指揮下の飛行隊で、昭和19年6月から台北に進駐し、
台湾軍司令官(後、第10方面軍司令官)の隷下となった。7月、作戦に関して連合艦隊司令長官の指揮下に入る事とさ
れ、宜蘭・屏東・花蓮港を根拠飛行場とし、台湾近海を通過する輸送船団の掩護と、フィリピン島に転進する航空部隊
の整備、その他の援助に任じた。昭和20年3月米軍が沖縄に来襲し、天号航空作戦に参加。
第9飛行団を台湾宜蘭及び宮古島以西の南西諸島、第22飛行団を台湾南東部に展開。第6航空軍や連合艦隊と協同し、
のべ293機の特攻機を米機動艦隊に向け出撃させている。
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▲八紘第11隊「皇魂隊」桑原金彦少尉の書き置き。三浦隊とは「皇魂隊」隊長・三浦恭一中尉の事だ。
隊員9名 昭和19年12月25日~昭和20年1月10日二式複座戦闘機「屠龍」でルソン島北部・ラオアグ・リンガエ
ン湾に突入した陸軍特別攻撃隊だ。
▼出撃前の寄せ書きの右端に桑原金彦少尉の書が残っている。桑原金彦少尉は昭和20年1月8日特攻戦死
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▼二式複座戦闘機「屠龍」と特攻隊員(「皇魂隊」かどうかは不明)
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▼同じく八紘第11隊「皇魂隊」の倉知政勝曹長の書き置き。桑原金彦少尉と同じ昭和20年1月8日特攻戦死。
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▼鉾田陸軍飛行隊と書いてある。鉾田(ほこた)陸軍飛行学校出身者だ。
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鉾田陸軍飛行学校は、主として軽爆撃機/襲撃機による攻撃に関する教育と研究等を行った。昭和15年12月静岡県の
浜陸軍飛行学校内に開設され、昭和16年1月茨城県鹿島郡(鉾田市)に移転。6月鉾田教導飛行師団となり、更に7月教
導飛行師団 第3教導飛行隊と第26飛行団司令部に分離改編された。
この書き置きを書かれた方の中に、川島孝中尉とある。
川島孝中尉は日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊(特攻隊)「万朶隊(ばんだたい)」の一員で、昭和19年11月5日、陸軍初
の特攻隊出撃という事で、時の司令官 富永恭次司令官が、「万朶隊」の悠長に華麗な出陣式をする為、最前線に居た
特攻隊員を、わざわざ富永恭次司令官の居所「ルソン島」に呼び集めるという非常識な命令を出した。
万朶隊の隊員5名が出陣式でマニラに向かう途中、ニコラス上空でマニラに空襲に来ていたグラマンF6F2機に遭遇。
襲撃されて被弾。そのまま胴体着陸したが炎上し、搭乗員全員が戦死するという事件が、万朶隊特攻出撃前に起きた。
戦死した岩本隊長以下、下記5名の中に川島孝中尉(も含まれていた。
岩本益臣大尉(福岡県出身)「万朶隊」隊長(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年28歳)
園田芳巳中尉(佐賀県出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年23歳)
安藤浩中尉(京都府出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年22歳)
川島孝中尉(神奈川県出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年22歳)
中川勝巳少尉(和歌山県出身)[通信](出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年30歳)
5人全員が非業の死を遂、出撃前に無念の戦死。
生き残った万朶隊は昭和20年11月12日、海軍の神風特攻隊に遅れること3週間後、4機の99式双発軽爆撃機がルソ
ン島カローカン基地より出撃。以後12月までレイテ湾へと出撃を繰り返した。
隊員の大部分は戦死したが、佐々木友次伍長は機体故障での途中帰投や通常爆撃による攻撃などを9回以上行い続ける
も、かろうじて唯一生還した話は有名だ。11/12の出撃で戦死扱いされながらも、佐々木伍長はその後のミンドロ島
方面への出撃でも生還をし、ルソン島で生きて終戦を迎え、1946年に日本に帰国を果たしている。
以下は陸軍初の特別攻撃隊「万朶隊」が出撃した後の大本営発表。佐々木伍長は戦死扱いになっている。
大本営発表(昭和十九年十一月十三日午後二時)
一、我が特別攻撃隊万朶隊は、戦闘機隊掩護のもとに、十一月十二日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し、必死必殺の体当り
をもって、戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈せり。本攻撃に参加せる万朶飛行隊員次の如し。
陸軍曹長 田中 逸夫/同 生田 留夫/陸軍軍曹 久保 昌昭/陸軍伍長 佐々木友次
詳しくは「陸軍特別攻撃隊」の記事参照。
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▲▼誠第19107部隊と書いてある。独立飛行第46中隊/対潜哨戒隊の事で、九八式直接協同偵察機を使用した。
東部軍直協飛行隊を改編。書き置きの佐藤勇男大尉が隊長。
昭和19年10月20日台湾に展開、第八飛行師団長の隷下に入り、沖縄作戦を準備。沖縄第32軍の中飛行場(沖縄本島)
で急遽編成された陸軍特別攻撃隊「赤心隊」は独立飛行第46中隊の隊員から選ばれている。
昭和20年3月27日と28日に陸軍中飛行場(沖縄本島)より7名が99式直接協同偵察機で特攻出撃している。
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    ▲鶴見国志郎少尉は台湾出身。
陸軍特別攻撃隊「赤心隊」として昭和20年3月28日陸軍中飛行場(沖縄本島)より99式直接協同偵察機で出撃。
沖縄本島に上陸作戦を開始し始めた目の前の米艦隊に突入、散華。
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   ▲第一〇二二海軍航空隊とは、台湾方面で任務にあたった輸送機部隊だ。
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陸海軍のさまざまな部隊の兵士の書き置きがあった。航空兵、整備兵、船舶工兵、輸送部隊から特攻隊まで・・・。
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これだけ多くのさまざま部隊の書き置きが残る宿は他に無いかもしれない。
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特攻隊だけでは無く、皆が一丸となって戦っていた戦争である事が良く解る。
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 ▲まだまだ沢山の書き置きがあったが、最後に奄美大島守備隊(独立混成64旅団)旅団長の高田利貞陸軍少将

ひとつ心残りがある。徳之島にあるという「黒潮の塔」の場所がどうしても解らなかった。
時間的な事もあり、とことん聞いて探した訳では無いので、もっと時間をかけてヒアリングしながら探せば見つかった
かもしれない・・・。結局行けなかったが、此処で紹介しておく。
昭和20年4月22日14:40陸軍特別攻撃隊 第105振武隊の藤野道人軍曹(福岡県出身/享年21歳)は、97式戦闘機で
知覧から特攻出撃。沖縄に向けて出撃途中に敵戦と交戦になり、徳之島トンバラ岩の海中に没した。
戦後30年が経った昭和50年10月藤野軍曹の遺族が徳之島の母間を訪ね、住民の話をまとめたレポートを残している。
昭和20年4月22日夕刻、母間から約15㎞沖のトンバラ岩上空で激しい空中戦が行われた。
4/22も米軍機の空襲は激しく、「朝より夕方まで飛行場爆撃、夜間も時々爆音が聞こえた」という。
住民は岩陰や草むらに身を潜め、息をこらして見守っていた。黒い機影がいくつも海に散り、その内2機が沖に爆弾を
落として島に向かって来る。1機はふらふらと海に落ち、残る1機はその場を数回旋回し、翼を左右に振りながら別れ
にくそうにして浅間飛行場に飛んでいった。1週間後、2人の潜水夫が海に潜って墜落した97式戦闘機の中で搭乗員の
遺体を発見した。
遺体は、体当たり時に機体から体が飛び出さない為の配慮か、手足が操縦桿と踏み棒に縛り付けられていたという。
軍医の検死の後、高田少将が遺体の胸ポケットの軍隊手帳を確認し、搭乗員が藤野道人軍曹であることが判明した。
藤野軍曹は地元住民に丁重に葬られた。
4/22知覧から僚機6機が出撃したが、藤野機と一緒だったのは日下弘美伍長だった。日下伍長は浅間飛行場に着陸す
ると直ぐ、藤野機の収容を依頼し、翌日、仲間の後を追って浅間飛行場から単機出撃。沖縄の海で散華した。
藤野軍曹は、このようにして上官に戦死が確認された為、特攻戦死ではなく通常の「戦死」として扱われている。
同様の状況で戦死した特攻隊員は多数いるにもかかわらず、たまたま状況が明らかになったが為にである。
あまりにも機械的・事務的な対応だ。後に家族へ届いた死亡告知書(戦死公報)に記されていたのは「戦闘死」。
特攻隊員の恩典である2階級特進は認められず、一般戦死扱いの1階級昇進だった。
藤野軍曹の妹さんの藤野幸子さん(享年80歳)は、戦後兄の名誉を認めて欲しいと、援護局に乗り込んで行って訴えた。
それでも結局は特攻戦死者として認められる事はなかったという。あまりにも冷徹な日本国の判断である・・・。
昭和54年、現地に黒潮の塔という慰霊碑が建立され、藤野軍曹が満洲の公主嶺で詠んだ辞世の句が同期の第11期少飛
会によって翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
『火急を知りて 馳せ参じ 我は征くなり 弥生の空に 特攻出撃を前に』

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▲伊仙町歴史民俗資料館を後にして車を走らせていると、ふと目に入った爆弾??
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▲地域美化・環境保全活動表彰と書いてある。平成24年とはまだ最近の事だ。
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まだまだ空襲当時の不発弾が出てくる事があるというから、恐らく此処で出た米軍の不発弾だろう。
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▼徳之島を訪れた時は丁度海開きだった。
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▼美しい与名間ビーチが広がる。
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▼与名間ビーチ上空を徳之島空港に着陸態勢のJACが飛ぶ。昔は陸海軍の航空機が飛んでいた事でしょう。
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宿泊させて頂いた『サンセットリゾート徳之島』はとても良かった。食事も美味しい、大浴場施設もある。加えてオー
ナーの宮田さん一家の温かい歓迎が嬉しい。与名間ビーチが目の前で、夕日スポットを見ながらの食事は最高だ。
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▼サンセットリゾート徳之島にほど近い場所には西郷公園がある。
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▼岡前曖役所跡。曖(あつかい)とは薩摩藩の行政用語。薩摩藩の支配下にあった明治5年までここには噯役場(あつ
かいやくじょう)と呼ばれる行政機関があった。
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▼岡前にある西郷隆盛謫居(たっきょ)跡。ここの松田勝伝方に69日間滞在した。西郷36歳の時だ。
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▼「西郷南洲先生謫居之跡」の碑。
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折角西郷さんゆかりの地を訪れたので、徳之島にある西郷ゆかりの地に向かった。
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▲井之川湊展望所
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▲徳之島空港の南にある湾屋港。此処に「西郷南洲翁上陸記念碑」がある。
西郷隆盛が、奄美大島と沖永良部島に2回流された事はよく知られているが、沖永良部島に流される途中、此処に上陸し
徳之島で2ヵ月半(69日間)滞在した。
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徳之島は闘牛が有名。丁度闘牛が開催されるとの事で、せっかくなので初闘牛観戦。
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▼闘牛場の臨時テントでチケットを購入。2500円
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次々とトラックに自慢の牛を載せた闘牛オーナーが会場入り。ほとんどのオーナーが趣味で牛を飼っている。
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▼会場に入ると観戦エリアはかなり広い。
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▼試合が始まる頃には超満員!
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初めて見学したが、牛の角や頭がぶつかる音、牛の闘志、相撲の様な競技で、好きになる気持ちが良く解った。
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一試合はおよそ5~10分程度。相手にビビッて直ぐ逃げる牛の場合は何秒かで終わってしまう試合もある。
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▲今回の大会(ろばた焼き 帆船花20周年記念感謝祭)の優勝牛は「幸龍皇」おめでとうございます!強かった。
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徳之島は大きな山が多い。一度も海の底になった事が無いのでハブも生息している。
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美しいビーチもあれば、断崖絶壁の場所もあり、さまざまな風景が楽しめる飽きない島だった。そして戦跡も多い。
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一周70㎞程の小さな島だが、良い意味でプライドが高く、そして愛国心強い島民ばかりで非常に気持ち良い島だった。
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▲徳之島最終日、「沖永良部島」へ行く為、亀徳新港に向かう。亀徳本港と新港があるが、本港は旧港の事。
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▲▼亀徳新港。亀徳本港の方にはホームセンター「ニシムタ」があるので、直ぐ解る。
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沖永良部島までのフェリー代は1780円(2等)。事前にネットで予約しておくとスムーズ。割と満席になる事が多い。
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▲船が入港してきた。奄美大島(名瀬)から来たのだろう。予約は1ヵ月前から。予約無ではチケット獲得は難しい。
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大きな船だ。富山丸もこの位の大きさだったのだろうか・・・旅行者も多いが、地元の学生(クラブ活動?)が大半。
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▲乗船して亀徳本港方面を見る。赤矢印の部分が本港。ニシムタが見える。船では荷物の積み込みが行われている。
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▲さぁ、沖永良部島に向けて出港だ。
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▲さようなら徳之島。有難う徳之島。また来ます!!

次回、沖永良部島に続きます。

拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2019_05_07


2019年のお正月。人口5000人弱の小さい島「与論島」で年始を過ごした。
行きは鹿児島空港経由で与論島へ。帰りは那覇空港経由で本州へと戻る空路だった。
与論島は鹿児島県に属する。鹿児島県最南端の小さな島で、沖縄本島までの距離はたった22㎞。九州の鹿児島県まで
は約590kmもあるのだ。与論島が鹿児島県に属する理由は、「関ヶ原の戦い」で敗戦した島津氏が南島征伐に転換し
た為である。当時、琉球王朝は大陸の宋と交易していた為、手前の与論まで薩摩藩に組み入れ、沖縄本島以南は、貿易
の利権を得る目的で琉球王家を残したからである。

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▲▼鹿児島空港から約40分、鹿児島空港を拠点とするJAC(仏製ATR)で小さな与論空港に到着。
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今まで行ったロタ島テニアン島トラック諸島の様な可愛い空港だ。
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与論島へのかつての足は船で、鹿児島から与論までは約20時間の航程だ。島で急病人が出たときには、沖縄の米軍ヘリ
コプターに来援を要請し、与論小学校の校庭を空港代わりに急患を運んでいたと聞いた。
昭和46年から空港建設地などの調査が開始され、適地候補が挙げられ、狭い島内にあって比較的広くて平らである現在
でも有名観光スポットの百合ケ浜近辺は当初、有力候補となった。
しかし、島の宝であり、大事な観光資源でもある百合ケ浜は風向きも悪いこともあり断念。
現在の立長地区に絞られたが、島民の先祖が残してくれた土地への思い入れは強く、多くの地権者が反対。
島内は反対派と推進派に分かれ、衝突が繰り返された。測量に入るときには、反対派が筵旗(むしろばた)を掲げて取
り囲み、反対の気炎を上げた。そのため鹿児島県警の機動隊が来島し、測量を見守るという緊迫した事態に陥った。
沖縄島の米軍基地問題とは本質的に違うが、何処も空港建設となると必ず意見が二分される事態になるのだと思った。
なんとか最後は話し合いで解決に至り、強制収用という最悪の事態は回避され、昭和51年5月に開港した。

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▼周辺道路のすぐ脇から滑走路が見える。
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▲私が見た限りでは管制塔は無かった。聞けば1時間おきに空港では気象観測を行い、風速が毎時15m以上になると
運航が中止されるという。という事は与論空港に乗り入れるパイロットは有視界飛行に頼っているという事だ。凄い!
現在の滑走路の長さは1200m。旧日本海軍のゼロ戦が離陸するには十分だが、小型ジェット旅客機のボーイング737
でさえ離陸するには長さが足りない。なので物資などの輸送や輸送人員も限られてくる。大型旅客機で沢山の観光客を
呼び込もうとした場合、石垣島の様に別途空港を建設するか、現在の滑走路を延長する必要があるだろうが、与論島に
行って、現地の方達とふれ合い、なにより島を巡っていく中で、その様な大きな空港が必要かどうかは帰る時には答え
は出る。島民でも無いのに無責任な事は言えないが、今の与論島で十分訪れる人に懐かしさや感動を与えてくれる。
現在、滑走路延長の声を受け、用地買収は続けられているが、島民の土地への思い入れを無視するわけにはいかず、地
権者との話し合いは平行線をたどっているとの事。4日間与論島に滞在させて頂いての感想は、個人的にはこのままで
も良いのではないか・・・と思った。因みに第二次世界大戦中に旧日本軍は少人数駐屯していたが飛行場は無かった。

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▲宿泊先は空港の隣にあるプリシアリゾートヨロン。美しいプライベートビーチの真上を着陸態勢のATRが通過する。
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▲▼シーサイドウエディング(愛の塔)で結婚式を挙げるカップルも多いとの事。
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プリシアリゾートヨロンの敷地は広く、食事も美味しい。そしてプライベートビーチでの絶景は素晴らしかった。
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与論島滞在中、冬季にもかかわらず、1日だけ快晴の日があった。年末から数えて久しぶりの快晴日との事だ。
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▼南を向けば沖縄本島、南西を向けば伊平屋島。北を向けば沖永良部島がはっきり見える。
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▼PRICIAのマリーナ(遊泳禁止)。
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鹿児島県の隣島の沖永良部島より沖縄島の方が近い。昭和47年5月の沖縄返還前は日本最南端の島だった。
与論の歴史は古く、口伝では3000年前に人が移り住み、記録では推古天皇の頃には大和(日本)に帰属していた。
そう、沖縄県の人が本州に住む人に良く言う「大和の人」の、「大和」は本州又は本土の事だ。
大和に帰属するまでのは牧歌的な小さな共同体の世界でその時代を「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶ。その後大和の支配
から外れ、「按司世(あじゆ)」と呼ばれる時代、按司という支配者の治める世が続く。
島の高台には城(ぐすく)が築かれ、その周りに村落が形成され、1つの小さな王国があった。
しかし、時おり琉球王が攻めてくる。与論に残る多くの民話にはこの琉球との戦いの光景も記されている。
しかし13世紀(1201年~1300年)古琉球(グスク時代/按司時代)に与論人は琉球王に朝貢し、支配下に入る。
これを「那覇世(なはゆ)」と呼ぶ。
14世紀~16世紀頃(1301年~1600年頃)琉球國(三山王国)時代には、与論城が築城されかけたが、当時与論島を支
配していた北山王国が当時3つの王家があった沖縄島での戦いで滅亡。与論城は未完成に終わった。
14世紀の沖縄島は北山王国(ほくざん)中山王国(ちゅうざん)南山王国(なんざん)の3つの国に分かれていた。
15世紀に入った1429年に南山を征服し、中山王国が始めて沖縄の島を統一し、尚氏王統を築いた。
そして15世紀の終わりまでに、琉球王国は琉球列島の最南端まで支配し、1571年までに北は九州の近くの奄美大島ま
でも琉球王国に組み込まれた。奄美大島では琉球王国の政治体制が採用され、首里の権威が認められていたが、琉球王
国が廃止されるまで南方の先島諸島(宮古列島/八重山列島/尖閣諸島)は何世紀もの間、進貢国(宗主国)の関係のままで
あった。

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▲琉球(北山王国時代)の15世紀(1401年~1500年)に築城された与論城跡(今帰仁城をモデルにしている様に見える)
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奄美群島南部と沖縄本島北部を支配下にしていた北山王国帕尼芝(はねじ)王の三男王舅(おーしゃん)。
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王舅が与論城を築く(築城期間は1405年~1416年)最中、1416年中山王国の尚巴志王によって北山王国が滅亡。
その為、城は未完成のまま築城中止になった。

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沖縄島は北山王国(今帰仁村を中心として主に現代の沖縄県国頭郡に存在していた王国)と、中山王国(現在の那覇市、
浦添市を中心に主に沖縄県中頭郡に存在していた王国)と、南山王国(現在の糸満市を中心に沖縄県島尻郡南部に存在し
た王国)の3つに分かれた三山時代があった。沖縄島北部(北山王国)は与論島の歴史や言葉に深い関係を持っている。

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17世紀、与論島は島津の薩摩藩の支配下となる。これによって与論は琉球と分断され、奄美の島々は過酷な薩摩の搾取
の元に苦しめられたという。サトウキビの年貢による搾取。この思い出が那覇世を平和な時代と思わせたかもしれない
とも言われている。この時代を再び「大和世(やまとゆ)」と呼ぶ。

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薩摩の役人をもてなす為に生まれた伝統「与論献奉」は今も残る。きつい地酒を飲ませて酔わせてしまう。
私の様にお酒に弱い人間にとっては恐ろしいもてなしだ。宴会があるとどこでも「献奉」で、地酒の黒糖焼酎で酔っぱ
らった島民はサトウキビ畑で寝てしまう事もあるそうだ。(与論島にはハブが居ないので安心して寝れる)

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▲▼与論城内に建つ琴平神社は文政7(1824)年創建。(昭和20年米軍による爆撃により一度焼失している。)
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太平洋戦争(大東亜戦争)後の昭和30年に琴平神社の境内社として登記。与論島初代島主「花城真三郎」が琉球舞踊と
大和踊りを融合させ、島中安穏・五穀豊穣・無病息災の祈願と島民との親交を図って創始した。

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▲与論城内にある慰霊碑。
昭和18年(1943年)8月4日、満洲与論開拓団が満洲錦洲省盤山県(現在の中華人民共和国遼寧省盤錦市)に入植。
昭和20年(1945年)8月の敗戦後にその多くが犠牲となった。
と書いてある・・・これは正直驚いた。私の祖父と祖母が満州に住んでいた事もあり、満州移民の事は結構知っていた。
しかし、沖縄地方やその他の南国の多くの方達は、当時の委任統治領だったサイパン島テニアン島そしてパラオなど
の南方に行った人が多いと勝手に思っていた。南国から北の極寒の地、満州での生活は大変だったであろう・・・。

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▲古くは西南戦争、日清戦争、日露戦争を含め、戦死者の慰霊碑である忠魂碑。明治43年(1910年)建設。
後に第33代内閣総理大臣となる当時の陸軍大臣 林銑十郎の書。
明治10年西南戦争で2名、明治27年日清戦争で7名、明治37年日露戦争で23名、第一次世界大戦で10名の方達が戦死
されている。合掌

太平洋戦争(大東亜戦争)中、目と鼻の先にある沖縄島は沖縄戦でご存知の通り最大の激戦地。
与論島は空襲をうけ、茶花など市街地の370世帯が焼けたものの、地上戦は無く、被害は最小限で抑えられた。
しかし昭和19年10月10日(通称十十空襲と言われる沖縄島を中心とした南西諸島への米軍による空襲と爆撃)を始めに
して、与論も空襲、艦砲射撃を受けており、また島からは日本機の墜落や戦艦の撃沈も目撃されている。昭和20年3月
末以降は、毎日の様に焼夷弾が降り、一般島民4名が犠牲となっている。
米軍が沖縄に上陸すると沖縄からは砲声の轟が絶えず、与論からは燃え上がる沖縄島が見えたという。これは1609年
5月6日(慶長14年4月3日)島津の琉球出兵で薩摩藩軍が首里城を陥し、琉球国王尚寧を捕らえた戦い以来2度目の経験
だった。
当時、与論島に駐屯していた日本軍守備隊 小野少尉(隊長)/山 市郎軍曹(防衛隊長)らが、沖縄島周辺の海と空を埋め尽
くす米軍の圧倒的な軍事力を目の当たりにし「一発なりとも撃ってはならぬ!一発でも撃てばこの島はたちどころに無
くなってしまう」と命令を下したそうだ。昭和20年3月下旬頃、米軍機の空襲が激しくなると、駐屯部隊は97高地(ピ
ヤーヌパンタ)の避難壕に入り、一発も撃たずに耐えた。
しかし、敵がいよいよ上陸という時には、島中央にある叶集落のハジピキパンタ西側に集結し、与論島民は全員玉砕す
るよう指示が出されたが、山 市郎軍曹が反発し異議を唱えた。小野隊長からは明確な答えは無く、結果、島人が敗戦を
知ったのは18月18日だったが約7000人の島民は命を落とさずに無事終戦を迎えたという。
抗命罪とされてもおかしくない状況で、勇気ある反論をした山 市郎軍曹(防衛隊長)に敬意を表したいと思う。

そして、付け加えておきたいのは昭和18年、戦局の悪化に伴い、南西諸島防備の為、陸軍は徳之島、沖縄島、宮古島、
石垣島の飛行場建設を急ぎ、人夫出動命令が出される。その際、奄美大島、沖永良部島や与論島から人夫、青年学校の
生徒など4280名が作業員として徴用された。飛行場は完成したが、与論島に帰る人達34人を乗せた開門丸(輸送船20
トン)が米潜水艦に撃沈され、帰らぬ人となっている事も忘れてはならない。

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▲そして一番右には上野應介翁頌徳碑がある。
19世紀(1801年~1900年)末、天然痘・台風・火災の被害により大規模な飢饉が発生。
私財を投じて長崎県口之津への移住を推進した当時の戸長上野應介氏の功績を後世に伝える碑文。
明治31年にやって来た台風によって与論は飢饉に襲われる。南方の島には多くのソテツが自生しているが、この蘇鉄
の実を粉にしてなんとか餓えをしのいだという。蘇鉄には毒が含まれており、よく水に晒さないと中毒になるという。
食べるものもなく、蘇鉄の毒で死ぬ人まで現れる。これらの苦難を切り抜ける為に、小作農民達は島外で働く事を決意
多くの与論島民が三井の炭鉱へ移住する。この慰霊碑に書かれている長崎にも池島炭鉱があった。
厳しい差別と重労働と貧困の生活だったという。
与論の言葉は日本の言葉とまったく違う。その為、なかなか大和の人とうまく話せない。言葉でも苦労し、厳しい差別
と過酷な条件下で低賃金重労働に必死に耐え・・・。
しかし、与論の人は飢餓から脱出してきたという現実、そして働ける事に感謝し、こらえて真面目によく働いたという。
しばらく与論の人は帰れぬ故郷を想い、三線を引き唄う事で慰めを見いだしていた。
与論の人々はやがて三井三池炭鉱に移される。ここでも苦労を重ね、やがて彼らの子供達が「三井三池争議」によって
勝利を勝ち取るまで、彼らは黙々と働き続けた。

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▲プリシアリゾートヨロンに立ち並ぶ宿泊部屋。50棟程あっただろうか。昨年9月29日の台風24号で被害を受けた。
実際、沖縄、奄美群島を含め、与論島は毎年の様に台風に襲われる。実は今回の宿泊先は最初からプリシアリゾートヨ
ロンでは無かった。与論島ビレッジに宿泊予定だったが、台風24号で屋根が飛び、営業再開の目途が立たないとの連絡
があり、急遽被害が少なかった?プリシアリゾートヨロンに変更したのだ。

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▲▼台風24号で宿泊部屋の棟が丸ごと吹っ飛んだプリシアリゾートヨロンの宿泊部屋跡。
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▼島の宝である「百合ケ浜」。
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大金久海岸から約2㎞にわたって白い砂浜が続く与論島最大の砂浜がある観光スポットで、百合ケ浜クルーズを体験す
ると、ウミガメを見れたり、沖合い約1.5kmにぽっかり浮かぶ百合ヶ浜を見る事が出来る。

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▲大金久海岸
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▲百合ケ浜クルーズ(Tome Cruise)百合ケ浜渡し¥3000[TEL]090-2967-0722 優しい方なので是非!
春から夏にかけて中潮から大潮の干潮時だけに姿を現す真っ白な砂浜だが、昨年9月の台風24号の影響で砂浜の形状が
変わっているという。

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今回は冬場の為、干潮時でも水深が70㎝以上あるので上陸する事は出来なかったが、ウミガメを見る事が出来た。
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非常に透明度の高い海。ウミガメが見える。夏にまた来たいと思う。(トメクルーズさん、また宜しくお願いします!)
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沖縄戦の最中、特攻機にとって、与論島を過ぎれば目の前は沖縄本島。米艦隊が遊弋する嘉手納沖までは数分で着く距
離となる。特攻隊員にとって生か死の選択の浜であったことから「大金久海岸」や「百合ケ浜」には、たまに特攻機が
不時着し、特攻隊員が与論島の山林に終戦後まで潜んでいたという話もある。事実なら生き延びた特攻隊員の方には、
「お疲れ様でした」と言ってあげたい。
昭和20年8月15日敗戦。9月7日沖縄本島(嘉手納基地)にて行われた琉球列島の降伏調印式で日本軍の各司令官が降伏
文書にサインする。9月21日米第10軍カンドン大佐が奄美守備隊の武装解除の為に命令文書を携え徳之島に来島した。
命令書には 「北部琉球の兵器を渡せ」と書いてあったが、奄美群島日本陸軍司令官の高田利貞少将は「ここは奄美群島
であって、北部琉球ではない」として「北部琉球」を「奄美群島」と書き換えさせたという。
昭和21年1月29日米軍(アメリカ合衆国)は沖縄周辺の支配権を確立する為、北緯30度(トカラ列島)以南を日本から分
離、米軍統治下に置くと鹿児島県大島支庁に通告した。
通告が与論島を含む奄美群島の島民約20万人にラジオで伝えられたのは2月2日。
既に米軍に占領されていた沖縄と違い、後に「2・2宣言」と言われたこの通告は寝耳に水だった。
それは日本復帰まで7年10ヵ月に及ぶ与論島の苦難の時代「アメリカ世(ゆ)」の始まりでもあった。
アメリカの認識では「琉球は日本人に虐げられた少数民族」であり、最終的には一つの国家として独立させるつもりも
あったという。琉球の島々を4つにわけ「奄美」「沖縄」「宮古」「八重山」にそれぞれ自治政府を置いたのであった。
しかし島の人々は日本に帰ることを希望していた。独立など夢見ていなかった。共産党のみ独立を掲げて地下組織を作
り運動していたが、自治政府の知事選挙で、琉球の島々の民は日本返還を約束する党へと票を投じた。
アメリカはこの結果を受け、結局群島政府を廃止し、琉球臨時政府を作る。
この政策によって奄美は苦しむことになる。アメリカ統治下、奄美は本土と切り離され、のちに緩和されてからも渡航
許可はまず沖縄本島まで行かねばならなかった。アメリカは沖縄本島に作る基地の為に、沖縄本島の復興には力を注い
だが、奄美をはじめとする離島の復興は熱心ではなかった。
小学校での教育もままならない状態で、教師達が密航して教科書を本土から手に入れたりという有り様であった。
仕事のない島民は沖縄に移住した。ここでも沖縄と奄美の日本に対する温度差が生じはじめる。
復興運動が特に盛んだったのは奄美であった。何度もハンガーストライキをして復帰運動をしていた。
奄美群島の99.8パーセントが本土復帰を願っていた。
昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発。アメリカにとって沖縄は軍事基地としての価値が高まった。しかしすでに独立
の事などは念頭にも無く、奄美などの離島は荷物になると判断したアメリカは、奄美群島の返還を決断する。
その時、沖永良部島と与論島を変換するつもりがなかったが、この2つの島民は「返還されないなら奄美に移住する」
と決議する。そして小中学生が返還嘆願の血判書を送るなど、返還による分離反対の運動が盛んになった為、についに
アメリカはこの2島も含めた返還を決定する。昭和28年12月25日クリスマスの本土復帰であった。

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▲与論城跡の隣にあるサザンクロスセンター。「ここに来れば与論がわかる」という事なので行ってみた
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▼▲私は知らなかったのだが、2007年公開の映画「めがね」のロケ地としても与論島は有名との事。
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▼2017年11月17日天皇皇后両陛下が与論島を初めて訪問された事が大きく紹介されていた。
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沖縄が復帰するまで、与論は最南端の島であった。沖縄返還前には「与論ブーム」が起き、多くの若い人々や左翼運動
家、色々な宗教団体が与論島にやって来たという。
沖縄が本土復帰し、与論島の「日本の最南端」の立場はなくなった。かつての観光賑わいも無くなり、観光客も年々減
っている。しかし、島民の年配の方達とお話しすると、「今の方が良い」という方が多かった。
鹿児島空港から飛行機で1時間40分もかかる。沖縄の那覇空港からは約30分だ。
2017年3月から関空➡奄美大島の直行便がバニラエアから再就航したものの、奄美大島➡与論島は約1万円で約45分。
船だと約5000円だが8時間もかかる。
大阪や東京から安い便がいくらでもある沖縄(那覇)。那覇➡与論島は約9000円で約30分。船は約3000円で5時間だ。
島民のほとんどが観光や買い物(普段の食料品等では無く、お楽しみ買い物)は、船で本部や那覇に行くと聞いた。
しかし沖縄県ではない為に様々な特典からも除外されている。島民の離島割引は鹿児島に向いているからだ。
しかし、割引されても遠くて運賃の高い鹿児島に用はない。観光も沖縄の島々の方が楽しいだろう。
本音を言うなら与論島は沖縄県に入りたいという人もいるだろう。そうすれば沖縄の観光版図として助成金も降りるだ
ろうと考える事はごく普通の考えだ。
しかし、実際に与論島を訪れて見て、触れて、ここが沖縄県で無くて良かった・・・と思う自分が居た。
外国人観光客でごったがえす沖縄本島、那覇周辺の大渋滞、小さな島に約140万人が暮らし、福岡、大阪、名古屋とた
いして変わらない都会風景。与論島がそうなって欲しく無いと思うのは私だけではないはずだ。

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▲与論の方言は日本語とは全く違うと言っていい程違う・・・やんばる(沖縄島北部)の方言に似ているそうだ。
※やんばる➡「山原」を、やんばる と読む。沖縄島北部地域一帯を指す俗称。

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▲▼与論島には「与論民俗村」という施設がある。
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村長の菊 秀史さんが与論の歴史や生活、そして「与論の言葉」を深く研究されている事を色々話をして頂いた。
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与論の言葉又は方言は、ユンヌフトゥバというそうだ。
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与論生まれの菊さんは2001年から与論の言葉継承活動を始め、「与論の言葉で話そう」全4巻を自力で完成させた。
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菊 秀史さんのお母様、千代さんは「与論方言辞典」を完成させている。与論島を訪れた際は是非立ち寄って欲しい。
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与論島の中心地(繁華街)は役場もある茶花だ。住所は鹿児島県大島郡与論町茶花
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▲お洒落な広報車があったがお正月という事もあり駐車場スペースに駐車されたままで島を走っている姿は見なかった。
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役場から内陸側にコンビニ、商店、飲食店街が続いている。
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中心地のメイン通りはなんと「銀座通り」と名付けられている。
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小さな島ではあるが、買い物に不便は無い。ACOOPやTOPというスーパーも島に2店舗ある。
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台風の時期になると、どうしても船便に頼る物資が届かず、食品棚が空っぽになる事もあるそうだ。
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▲行きたかったが時間が合わず行けなかった和風居酒屋TAKIYAさん。写真で解る様に「日の丸」が掲げられている。
この様に与論島の多くの店舗、住宅で「日の丸」が掲げられている光景を、このお正月は気持ちよく見る事が出来た。

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▲▼TOP茶花店を過ぎると銀座通りは一応終わりとなる。そこには島で唯一の信号がある(他は点滅信号)
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▼▲この交差点にあるホームセンターに立ち寄ってみた。
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流石に本州各県にあるホームセンターの様に品揃えが豊富なわけでは無いが、それでも十分な品揃えだった。
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▲陳列棚で見つけた「国旗セット」!!。本州の各ホームセンターの何店舗にこのライナップがあるだろう?
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素晴らしい!思わず買いそうになったが(1480円だったと思う)、本州に戻ってから調査がてら見てみる事にした。
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ホームセンターは大小合わせて3件確認出来たので十分だろうと思う。
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▼一番大きいと思ったのは与論空港の隣にあるニシムタ。
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▼ニシムタから与論空港を望む。
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▼喫煙者の私が、以外だったというか、驚いたのは西日本限定販売のHEETSがニシムタで買えた事だ!
松代大本営跡
▲兵庫や大阪、京都、奈良、もっと言えば東海、関東ではまだ売ってない物が与論島で買えた!
HEETSは現在、地域限定発売。対象地域は以下の通り。
北海道、岡山県、広島県、山口県、鳥取県、島根県、愛媛県、香川県、高知県、徳島県、福岡県、長崎県、大分県、
佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島県。
良く考えれば買えて当然だ。与論島は鹿児島県。22㎞先の沖縄県では売ってないのだ。

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与論島の人口5264人(2018年11月末現在)に対し、肉用牛の飼養頭数は5336頭で、島民より牛が多い畜産の島だ。
高校までしか無い与論島で学んだ学生達は島を離れ、沖縄や九州、本州、北海道の大学に進学する学生も多い。
そして農業大学や畜産大学で学び、島に戻って家業を継ぐ若者も、少しづつではあるが増えてきていると聞いた。
「与論牛」と聞いても聞いた事が無い人が多い。与論島は屠畜場が無いので、子牛を県外の名だたる地域に販売する。
ドナドナされた子牛達は、九州/本州などで有名な〇○牛として販売される。鹿○島牛とか神○牛とかになるそうだ。
因みに、史実として日本での肉用牛として歴史が最も長い牛は、滋賀県の「近江牛」である。

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▼島の南側(与論城の裏手)には「金の牛」がある。
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「お腹をさわると良い事がある」といわれているそうだ。(海の向こうに見える島は沖縄島)
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▼「金の牛」の山側には、与論島の沖縄本島北部(国頭村)と深い関係を象徴する「ヤンバルクイナの石像」がある。
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▼地元では「何でも願いが叶う」というパワースポットになっている按司根津栄神社(アジニッチェー)
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琉球統治以前に与論島を治めた按司根津栄を祀った神社(アジニッチェー神社)
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按司根津栄は幼児の頃から武術に長けていた為琉球王に惚れ込まれ、与論島を治める按司(アジ)の位を与えられた。
根津栄(ニッチェー)という場所で生まれたことから、按司根津栄と名を授けられ、琉球王の側で仕えていた。
しかし、与論島に帰ることを願い出ると琉球王と対立し、命を落としたと言い伝えられている。

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今も境内には頭蓋や遺品が奉納されている。与論島観光の際は先ず立ち寄ってご挨拶をして頂きたい。
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武術の神様、海の神様(インジュルキ)、農業の神様(キャーラドゥキ)、按司根津栄(アジニッチェー)島の守り神
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与論島には綺麗なビーチが沢山ある。ほぼ全て巡った中でいくつかご紹介しておく。
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▲寺崎海岸
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▲▼赤崎海岸
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▲▼赤崎海岸と赤崎灯台。
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▼赤崎灯台下にポッカリ空いた壕口。どう見ても人工的に掘られている。旧日本軍の遺構か?
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わりと大きな壕で、当時の陸軍の小さな木造上陸用舟艇ぐらいだったら入りそうなサイズだった。
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▼▲中に入ってみると、3mくらい奥で左に折れているがほぼ埋まっていた。
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戦時下の与論島の守備は奄美守備隊が担当し、昭和19年6月27日与論の守備隊として小野少尉(山口県出身)以下44名
の守備隊が配属され、駐屯部隊の本部は青年学校校舎(現中学校)に置かれた。
小野隊長を直属の上官とする与論在郷軍人一個中隊は、中隊長(山 市郎)、第一小隊長(宮崎 清菊)、第二小隊長(町 茂)
第三小隊長(山下 勇夫)、第四小隊長(白尾 義之助)が配され、同年7月15日より小野小隊長の指揮の元、島民総動員で
退避壕構築を開始した。昭和20年2月には、与論の在郷軍人が召集され、山 市郎軍曹を中隊長とする防衛隊を編成し、
島の海岸警備及び治安維持の任に付かせていた。この壕はそれらの史実に関連するかどうかは解らない。島民総動員で
掘ったと言われる退避壕が島の真ん中より南にあるピャーヌパンタ(パンタとは、与論の方言で丘と言う意味)の中腹の
松林に跡が残っているというので、次回見学したいと思う。


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▲ビーチに話を戻すと、赤崎海岸入口付近に「なつこばぁちゃんの店」という小さなアクセサリー屋さんがある。
(尋ねた次の日に、少し北側に移動するとの事で、写真の場所はサトウキビ畑に戻るという事だった。)
百合ケ浜の入口付近にもテントを張ってアクセサリーを販売されている島の優しいおばぁちゃん達がいらっしゃる。
貝殻や赤サンゴ、サメの歯などを加工して作ったネックレスやピアスなどが並ぶ。女性には嬉しくも楽しいお店だ。
冷たいお茶を出してくれたり、島のお話をしてくれたり・・・話をするだけでも心が和む。是非立ち寄って欲しい。

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▲「なつこばぁちゃんの店」のしめ縄。日の丸とヨロンの「与」が交わった可愛いしめ縄。
本州であまり見かけなくなった車のフロントグリルに付けるしめ縄、玄関の国旗掲揚、忘れかけている事を色々思い返
させてくれる与論島の風景と人達。「金金」とガッツかず、商売っ気が無くとも、店主の優しさに触れ、自然に心から
購入しよう、この島で何か買わせて頂こうと思わせてくれるお土産屋さんの数々。本当に素晴らしい島だと思った。

Yoron [ Island Japan in 8K HDR 与論島 ]
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▲▼少し無理やり感があるヨロン駅
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▼しかし、ちゃんと説明文を読むと、何故此処にこの様な観光スポットを作ったのかが解る。
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与論島に国道はありませんが、鹿児島から沖縄まで国道58号線が海上を通っています。この海上の国道58号線を海上
鉄道と考え、1979年にヨロン駅を建設しました。
レールの一部と車輪は、当時の鹿児島鉄道管理局から頂いたものです。
当時は有村運送店にJR九州の代理店契約をしてもらい、記念切符の販売をして頂いておりました。
その記念切符は実際鹿児島駅で使用する事が出来ました。現在ではその記念切符は販売しておりませんが、近い将来、
夢の鉄道が開通した時には、是非ご購入をお願い致します。
それまでは、天の川銀河鉄道本線ヨロン駅から流星号に乗車して、満天の星空の旅をお楽しみにください。
と書いてある。夜に来れば良かった~・・・笑

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▲▼ヨロン駅から「びどう遊歩道」が与論港まで続いている(画像は与論港からヨロン駅に引き返して来た時に撮影)
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▼正面に沖縄本島が見える。
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▼▲与論港からは丁度船が沖縄に向けて出港するところだった。
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「びどう遊歩道」で与論港から歩いて来た方と出会った。聞けば、今出た船で徳之島(亀徳港)から沖永良部島(和泊港)
を経由し、約4時間かけて与論島に来たという。時間がたっぷり取れれば船の旅もいいもんだ。今度経験してみたい。

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沖縄島に向け船が出港していく。目的地は本部港経由で那覇港だろう。本部港まで約2.5時間。那覇港までは約2時間。
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▲帰路は那覇経由で本州に戻った。那覇行きには多くの島民が乗っており、見送りに来られた島民の数も多い。
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さらば与論島・・・有難う!必ずまた戻ってきます!!
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▼那覇空港で乗り継ぎの時間を潰して本州に飛んだ。
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ありがとうばあちゃん与論島の“洗骨儀礼”洗い清めた骨は守り神 YouTube
2010年6月25日放送 NHK九州沖縄スペシャル「与論島の洗骨」



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2019_01_10


オーストラリア戦争記念館(Part4)からの続き。
最終章は「 AIR CRAFT HALL 」

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一番見たかった展示ブースだ。
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▼初っ端からゼロ戦だ!(しかし、見学する人は僅か・・・日本人の私だけが一生懸命写真を撮っていた)
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エア-パーク/航空自衛隊浜松広報館と同じ飛行状態での展示だ。
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此の零戦21型はパプアニューギニア・二ューブリテン島 ガスマタに放置された台南航空隊所属機をオーストラリア軍
が捕獲した物※ガスマタ(Gasmata)はパプアニューギニア ニューブリテン島 西ニューブリテン州南岸にある村。

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同じ場所で鹵獲されたもう1機の台南航空隊所属機がハワイの太平洋航空博物館パールハーバーに展示されている。
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太平洋航空博物館パールハーバーの零戦はエンジンが換装されてカウリングが大きくなっているが、此処に展示されて
いる零戦はオリジナルの様に見えた。

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このオーストラリアでレストアされたゼロ戦(A6M2)は坂井三郎 海軍中尉機(ラバウル時代V-173)だったそうだ。
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※当時日本海軍のゼロ戦を含めた航空機には、特定の人物の「専用機」は無かったので、「坂井中尉も乗った事のある
 機体」という言い方が正しいだろう。

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坂井三郎中尉は日本海軍航空隊で活躍した名パイロットで第二次世界大戦を戦い抜き、生きて敗戦を迎えている。
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▼薄暗い館内と強烈なスポット照明で、写真が撮りにくかった・・・。
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▼小さな一式陸上攻撃機が吊るしてあった。
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▲▼日章旗と共に山本五十六が紹介されている・・・。
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▼一式陸上攻撃機の無線機だそうだ。他、山本長官機の部品が数点展示されていた。
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▼米軍陸上戦闘機P-40(キティフォーク)
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この機体はアメリカで製造された後、オーストラリアに輸送され、オーストラリア国内で組み立てられて北オーストラ
リアの防衛に使われた機体。

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大半の見学者がゼロ戦を素通りして、此の戦闘機を見学していた。
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▼此の戦闘機も何だったか忘れた・・・。
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▲▼入口に飛び出している爆撃機と、その後ろ側。
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▼この爆撃機も何だか解らなかったが、日本軍艦船に爆弾を命中させた事を示す旭日旗が描かれていた・・・。
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展示場所が狭い空間で全体写真を撮る事が出来ず・・・。
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▼同ブースの片隅に、日本軍の高射砲(八八式七糎半野戦高射砲)が展示してあった。
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この砲は1973年(昭和48年)にニューギニア島のブナに放置されていたものを回収したとの事。最近の回収か・・・。
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        ▼▲片隅に日本陸軍一式戦闘機「隼」の残骸が・・・。
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▲1944年5月、ホーランジアに遺棄された一式戦「隼」二型(キ43-II)
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残骸とは言え、本物の「隼」を見たのは初めてだった。
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▼最後のブースはかなり広めの展示スペースに色々な兵器が飾ってある。1番目立つ所に特殊潜航艇が・・・。
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シドニー湾攻撃に出撃し、自爆した2隻の日本海軍特殊潜航艇のパーツで1隻にした物だ・・・。
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自爆した際のダメージだろうか・・・腹下部分はポッカリ穴が開いて上部にも貫通している。
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艦首部分はイ22号搭載艇(松尾大尉/都竹2等兵曹)の特殊潜航艇で、艦橋と艦尾部分はイ27号搭載艇(中馬大尉/大森1
等兵曹)の特殊潜航艇である。

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▼間違い無く後で書かれた「前」だと思うが、何の為??
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シドニー港攻撃にはイ24号搭載艇も参加した後行方不明となっていたが、シドニー湾外で撃沈されていたのが2006年
に地元ダイバーによって発見されている。

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▲先端部に直径45cm、炸薬量は350kgの「97式酸素魚雷」2本を装備。大型艦も一撃で大破させる威力があった。
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▼艇内に備え付けられていた時計など、艇内から発見された道具類だろう・・・。
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戦死した2隻の搭乗員4名、中馬兼四大尉/大森猛1等兵曹/松尾敬宇大尉/都竹正雄2等兵曹を忘れてはならない。
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▼▲隣にはイギリス・アブロ社の四発爆撃機「ランカスター」。この博物館で最も大きい飛行機である。
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▲▼周囲には大きなスクリーンがあり、「ランカスター」の夜間爆撃のシーンが流されている。
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▼ドイツ軍の高射砲「FLAK 36」
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▲口径88mm。高速で動く目標に追随出来る様に設計され、対空用だけでなく徹甲弾を装填して対戦車用としても使わ
れた。この砲は昭和17年(1942)に北アフリカでオーストラリア軍によって鹵獲された物。

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▼▲何気にドイツ空軍のメッサーシュミットBf109が・・・!!一度見てみたかった戦闘機だったので感激!!
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▼飛行状態での展示固定方法が凄い。非常に小さな印象を受けた。ゼロ戦よりも小さい?
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▼そして大きな爆撃機の展示スペースの片隅にメッサーシュミットMe262(Messerschmitt Me262)が・・・!
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世界初の実戦配備および実戦を行ったドイツ空軍のジェット機。初めて見た・・・感激!
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此のMe262は「世界で唯一残存する爆撃機型」かつ「世界で唯一残存する戦時中のオリジナル塗装のままの機体」
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見学スペースが極端に狭く、前からしか写真が撮れない・・・どうにかして横から撮影しようと試みたが、柵から体を
乗り出して撮影しようとすると、直ぐに警告ブザーが盛大に鳴った・・・。

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▼メッサーシュミットMe163「コメート」(Messerschmitt Me 163 "Komet")
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▲ドイツ空軍が開発した航空機史上唯一の実用ロケット推進戦闘機。日本軍の秋水が参考にしたモデルだ。
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▲▼まだまだあった!日本軍関係の展示。
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旭日旗はいつ見ても美しい。
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何処かの国が自衛艦旗「旭日旗」の掲揚自粛を求める通知を出したとか・・・馬鹿か!?と言いたい。
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▲▼程度の良さそうな95式軽戦車だ・・・何処で鹵獲したのだろうか・・・。
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▼此れはイギリス軍の戦車かな・・・?
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▼内部が見える様にカットされている。
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▲▼何処の軍の物か良く解らないサーチライトや迫撃砲が展示してあって・・・。
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▼残りは更に古い時代の複葉機が沢山展示してあったので最後に紹介して終わりたいと思う。
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▲終戦直後、北ボルネオ(サンダカン)でオーストラリア軍に鹵獲された本物の日本海軍特攻艇「震洋」
長らくオーストラリア軍が保管していたが、オーストラリア戦争記念館(倉庫)に移されて今も保管されている。
今回、オーストラリア戦争記念館内で日本海軍の特攻艇「震洋」の本物を見つける事は出来なかった・・・。
駆け足で見学してまわったので見落としたか・・・それとも常時展示物では無いものなのか・・・それは解らないが、
日本にはレプリカしか無いので本物を見たいと思っていただけに残念だった。

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▼▲全て見学し終えて外に出ると薄暗くなってきていた。
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▼受付でタクシーを呼んでもらってバスステーションまで戻り、再びバスでシドニーへ戻った。
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▼シドニーに到着したのは夜遅く。ホテルに戻って食事を済ませ、明日の帰国準備にとりかかる。
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▼次の日、日本へ帰る為、シドニー国際空港。
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特に大きな空港という印象は無かったが、日本と同じく綺麗。
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車が展示してあったりするところは海外だな~と感じる。私は日本の空港ではセントレア以外で見た事が無い。
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▼ロータスが展示してあったけど、これって新しいのかな??ちょっと前のエリーゼに見えた。
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▼▲そして、また長旅になる日本へと帰った。喫煙者の私にはオーストラリアは遠い・・・。
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※オーストラリアにはアイコスは売っていないので、紙タバコ(1箱25本入25$=2000円位)を買うしか無い。なので、
日本から持って行ったアイコスが切れた後は紙タバコを買って吸ってみたが、まずかったのでほとんど吸っていない。
そして何より、タバコを吸える場所がほとんど無かった・・・。
因みに、オーストラリア戦争記念館のHPは➡オーストラリア戦争記念館

これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2018_10_29


オーストラリア戦争記念館(Part3)からの続き。
このあたりの展示はさほど興味も無い為、サラッと通っただけの様なものなので、今回の記事はほぼ写真のみで。

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▲ビックリしたが人形だった・・・。
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ここも見学者はほとんど居ない・・・。
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▼イギリスの植民地時代の絵かな?
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ま、今もイギリスの植民地みたいなもんだけどね。オーストラリアの女王は今もエリザベス女王だし・・・。
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今でもエリザベス女王に批判的な事を少しでも言うと、オーストラリア首相は直ぐクビになるもんね・・・。
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日本は植民地になった事は無いけど事実上のアメリカ統治の様な現在の日本に似てるな・・・と思った。
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此のあたりの展示物はよく解らないのでスルー・・・。
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▼ここからの展示物は最近?の物だ・・・。
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▲国連軍の車両も・・・。
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        ▼何処かの司令部壕の再現。
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               次回最終章、オーストラリア戦争記念館(Part5)へ続きます。

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 2018_10_26


オーストラリア戦争記念館(Part2)からの続き。
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▼▲此の展示場の中は「ニューギニアの戦い」のブナやゴナ、そしてココダの戦場を再現している。
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中は薄暗かったので、まともな写真が撮れなかった・・・。
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連合軍と日本陸軍が戦った「ニューギニアの戦い」をどれだけの日本人が知っているのだろうか・・・。
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▼これもよく見る写真。(写真は「処刑時にヤスノ・チカオが部下に写真を撮らせた」と書いてある)
(写真は1944年4月ホーランディアで戦死した日本陸軍少佐が持っていたものを米軍が見つけたと書いてある。

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1943年(昭和18年)10月24日、日本海軍基地があった(ニューギニア)アイタぺのビーチで行われた捕虜処刑。
捕虜はオーストラリア軍M特殊部隊のレナード・シファート軍曹、刀を振りかぶるのは日本海軍のヤスノ・チカオ。
この処刑はインドネシア第22特別根拠地隊司令官の鎌田 道章海軍中将(愛媛県出身)の命令で行われた。
ヤスノ・チカオは「終戦前に戦死」と、生き延びてBC級戦犯裁判で絞首刑の宣告を受けたが結局懲役10年に減刑され
たという説がある。
戦後、鎌田 道章海軍中将はBC級戦犯に指名され、シファート軍曹以外の捕虜2人・原住民に対する残虐行為の罪も含
めオランダ軍軍事裁判で有罪となり、1947年(昭和22年)10月インドネシアのポンティアナックで絞首刑となった。
(ボルネオの戦いで鎌田中将は、陸軍部隊を含む在バリクパパンの日本軍部隊の指揮を執り、防戦に努めるも敗戦)

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シファート軍曹はオランダ軍の2人の兵士と日本軍の後方を偵察していた時、現地人に襲われ、捕まって日本軍に引き
渡された。尋問、拷問の末、3人とも斬首された。と書いてある。

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この写真は広く報道され、日本人は慈悲を与えず、まったく受け入れられない野蛮人であるという認識が強まった。
ヤスノ・チカオは戦後に服役を命じられたが、その後懲役10年の懲役刑が科された。と書いてある。

※「ボルネオの戦い」は、昭和20年5月~7月下旬までの連合軍と日本軍の戦闘。
連合軍は上陸したタラカン島/ブルネイ湾及びラブアン島/ボルネオ島(バリクパパン)を占領したが、まもなく終戦を
迎えた為、戦略的には大きな影響はなかった。日本軍は4700人以上が戦死又は戦病死した。
連合軍はオーストラリア兵569人が戦死、約1400人が負傷した。

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▼オーストラリア戦争記念館の展示物の中で「絵」はかなり多い。
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▼小さいブースだが[ THE HOLOCAUST ]の展示があった・・・。
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▼そろそろ第二次世界大戦も終盤に入ってきた。
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        ▼オーストラリア海軍の紹介だ。
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▼▲日本軍の特攻機を迎撃した事を紹介している。
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▲▼ん??何だ此れは・・・日本海軍から押収した物か・・・?
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▲日本海軍の物である事は間違いないが、最後まで何なのか良く解らなかった・・・知っている方、ご教授下さい
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▲▼桜花か!?思ったが、ドイツ軍のV1ロケットミサイルだった!
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当時ドイツの占領下だったフランスに配備されたV1飛行爆弾。連合軍の爆撃で発射基地が徹底的に破壊された
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もう少し早く実戦配備されていたらイギリスは壊滅していたであろう。ほとんど戦果を挙げらずに終わった。
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▲桜花の様な有人V1ロケットミサイルも開発されたが、ヒトラーは特攻有人V1ロケットミサイルは採用しなかった。
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▲▼線路の上を走れる様に改造してあるアメリカ軍のジープ。
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       ▲▼これは何だろう・・・中国語?中華系の人が多いシンガポールの当時物か・・・。
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▼今度は何やら石碑が展示してある。
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       ▼聖旨顕現(せいしけんげん?) 陸軍中将 山脇正隆 謹書 と書いてある。
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       ▲間違いなく日本語で掘られている。山脇中将はボルネオ守備軍司令官だ。
※山脇正隆陸軍中将(高知県出身)昭和16年陸軍大学校校長、参謀本部付、同年12月予備役。
昭和17年9月臨時召集によりボルネオ守備軍司令官。昭和18年9月陸軍大将に昇進。第37軍司令官、参謀本部付。
昭和20年5月召集解除。戦犯容疑で軍事裁判を受けるも数日で無罪になった。昭和49年4月21日に死去(享年88歳)
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       裏は 昭和17年8月15日開設記念建之 ボルネオ俘虜収容所長 管 辰次と書いてある。
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※菅 辰次中佐(広島出身)少佐の時に予備役となりアメリカに滞在。2度目の召集でボルネオの俘虜収容所長となる。
捕虜の中に『風下の国』の著者アグネス・キース女史とその夫、子供がいた。
ボルネオ赴任前にこの本を熟読していた菅は驚き、女史に紙と鉛筆を与え、収容所の出来事や感想を書いてくれる様
に頼んだ。喜んだ女史は、提出用の他に、収容所の日本人に対する赤裸々な感想を綴った自分用の手記も密かに書き
溜めた。しかし、その中でも菅中佐だけは、典型的な日本武士道にかなった人物として描かれていた。
戦局の悪化に伴い、俘虜の処遇についてもいろいろな討議がなされた。
軍司令部は「収容所にも重機の一挺ぐらい必要だろう」と言ってきたが、菅は受け取りを拒否した。
東京に於ける収容所長会議でも「如何なる場合があるとも、俘虜を敵手に委してはならぬ」という当局に対し、菅は
「私は、俘虜を殺す相談にきたのではない」と冷然として言い放ったという。
敗戦と同時に菅は戦犯としてラブアン島に護送された。連合軍の計らいで、台湾人の当番兵が付き添っていた。
※ラブアン島はマレーシア連邦直轄領の島で、日本軍占領時は、ボルネオ守備軍司令官だった陸軍中将前田利為にち
なんで、島名を「前田島」と改称していた(前田中将は旧加賀藩主前田本家第16代当主・享年57歳)
ラブアン島に着いた菅中佐を、原住民の石礫が襲った。携行したトランクで防いだが防ぎきれず、血達磨となった。
この惨めな仕打ちを受けて菅は、自決を決意した。
しかし身に寸鉄も帯びておらず、辛うじて食事用の丸いナイフがあるのみであった。
彼はこのナイフを頚動脈につきたて何とかこれを切ろうとしたが果たさなかった。
そこで水筒に砂を詰め、当番兵を呼んで、これで自分を殴るように命じた。菅の人柄を愛し付いて来ていた当番兵は、
ためらってなかなか撃てない。菅はこれを大喝して励まし、彼の心中を察した当番兵も意を決して、菅の後頭部に一
撃を加えた。しかし菅は一時的に昏倒しただけで、死に切れなかった。
息を吹き返した菅は、もう一度ナイフを首に当て、これを水筒で撃つように言った。
当番兵がナイフの柄頭を強く水筒で撃つと、ナイフは深く突き刺さり、ようやく致命傷となった。享年59歳。
解放されたキース女史は、この収容所での体験を元に、『三人は帰った』という本を書いた。
THREE CAME HOME
この物語は1942年から北ボルネオの母子捕虜収容所で3年半の年月を生き抜いた著者アグネス・キースの体験談。
収容所生活の記録の克明さで有名だ。天候、衣食住、人間関係などが詳細に綴られている。
著者アグネス・キースは、ボルネオの生活を描いた「風下の国」の著書があり、新聞記者の経歴も持つ著者のジャー
ナリスト魂で、収容所内で長男のぬいぐるみの中にまで隠した膨大なメモ類をまとめた本だ。
戦争が長引くに連れ、過酷さを増す収容所での暮らし、食べられるものすべてを口に入れ、密輸、盗みあらゆる事を
して子供と生き延びる。収容所生活に耐えていく唯一の道は泣かないで笑うこと、と自分に言い聞かす彼女の快活さ
と勇気が際立っている。
そして、著者は、愛国心や日本軍への憎しみによってではなく、「戦争こそが罪」という視点で本を書いている。
「戦争それ自身が人道に対する罪」であると。
1950年「THREE CAME HOME」と題して映画化され、菅中佐は早川雪洲が演じたが日本では公開されていない。
「THREE CAME HOME」 YouTube

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▲タラカン島(現インドネシア)の戦いは、オーストラリア軍主導のボルネオ奪還作戦の最初の攻撃であった。
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昭和20年5月1日未明、オーストラリア軍、アメリカ軍、オランダ軍はタラカン島に船で到着し上陸作戦開始。
AM8:00頃、陸海空軍と協調して上陸。犠牲者も比較的少なく、同島沿岸部における日本軍の防衛力を一掃した。

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上陸拠点を確保した後、第26師団は日本軍飛行場滑走路のある島北部と、タラカンタウンのある島の東部へ進んだ。
日本軍の激しい抵抗に打ち勝った後、滑走路は5月5日に占領、そして町も主に5月6日までに確保。
島を確保し、占領した滑走路を日本軍の攻撃から守る為に、第26師団は大量の樹木で覆われた丘から日本軍の部隊を
一掃する事を命じられた。この必然ながらも、引き換えに代償の高くつく歩兵連隊の攻撃の間、オーストラリア軍は大
砲による砲撃と上空からの援護を強力に行った。日本軍の守備隊は徐々に破壊を受け6月14日、この日の攻撃で生き残
った日本兵は島の北方へ撤退し、あるいはボルネオ島本土へ退却しようともした。
日本軍の組織的な最後の反撃は6月19日だったが、その後終戦を迎えるまで残存兵の掃討作戦が続けられた。

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連合軍は上陸したタラカン島/ブルネイ湾及びラブアン島/ボルネオ島(バリクパパン)を占領したが、まもなく終戦を迎
えた為、戦略的には大きな影響はなかった。第26師団は大部分が終戦後の昭和20年10月に解散されたが、その一部は
12月27日まで駐留部隊としてタラカン島に残った。同師団の本部は同年前半にはオーストラリアへ帰還し、昭和21年
1月にブリズベンで正式に解散した。
ボルネオ奪還作戦と同様、タラカン島でのオーストラリア軍の戦闘については今日も論争が続いている。
論争とは、この戦闘が無意味な「つけたし」に過ぎなかったのかどうか、東インド諸島をオランダや日本の占領から独
立解放させる為の正当な戦争行為だったのかどうか、終戦直後の1946年(昭和21年)から議論が続けられている。
日本軍は4700人以上が戦死又は戦病死。連合軍はオーストラリア兵569人が戦死、約1400人が負傷した。

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▼▲敗戦後インドネシアで捕虜となった日本兵達だ・・・ご苦労様でした。
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▼昭和20年9月13日、終戦の詔勅に基き、ニューギニアの第18軍はオーストラリア陸軍第6師団に降伏した。
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この時、ニューギニア方面の第18軍司令官は安達二十三中将(石川県出身)。
安達中将は麾下の将兵に対し、「軍は大命に基き豪州第六師団に降伏せんとす」と命令した。

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▼ウォム岬での降伏調印式にてホレス・ロバートソン少将に降伏の証として軍刀を手渡す安達中将
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▼左が安達中将、真中が軍属・通訳の岩間和男氏、(右)サインする豪第6師団長のロ-バトソン少将。
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この後の昭和21年1月11日、安達中将はオーストラリア(豪)軍により将官4人を含む140名がラバウルの軍事裁判所に
連行され、裁判を受けた。安達中将は東部ニュ-ギニア戦で生起した全ての罪を負われ、その刑は終身刑だった。
安達中将の上官である今村均大将は自ら禁固10年の刑を受けマヌス島に服役した。
安達中将は、大部分の将兵が日本に復員した昭和21年1月以降もムシュ島(ニューギニア)で服役を続けた。
終身刑を宣告されながら部下の判決が全て下るのを待ち、拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると、弁護団に礼を述べ
た後、自決した。昭和22年9月10日の事であった。享年57歳
ラバウルの第8方面軍司令官 今村均大将と戦犯収容所にて同室であった。(「評価の高い将官」参照)
ムシュ島捕虜収容所でのオーストラリア(豪)軍からの食糧受領は、兵隊1人当たり、1週間分として、コンビーフの小缶
1個、オートミルの六百瓦位の包1個、携行パン1袋位のものだった。毎日、日本兵隊達はトカゲを捕ったり、野菜(サ
ユリ)を採ったり、椰子リンゴを探したりして、喰う事許りに専念していたという。
日本軍の捕虜に対する扱いがどうのこうのと言われるが、何処の国でも敵国捕虜の扱いはこんなものである。

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▼退役軍人を紹介するコーナー
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誇らしげな勲章が目立つ。日本にこの様な記念館が出来るのはいつの事だろうか・・・。
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▼第二次世界大戦後もアフガン侵攻やイラクに軍隊を派遣しているオーストラリア軍。
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現在進行形で兵士の戦死者は増え続けている。
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▼次は、オーストラリア軍の特殊部隊と書いてある。
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このブースにはほとんど見学者が居ない・・・。
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私もそうだが、オーストラリア人も近代戦争には興味が無いらしい・・・見学者が全くと言っていいほど居ない。
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▼木造船の様だが、展示物が年代別になっていないようなので何なのか解りずらい・・・。
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▲あ!寄せ書き日の丸が・・・何で此処に展示??
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戦利品として持ち帰られた日章旗を返還してくれる元兵士も沢山いるのだから何枚もあるなら返還して欲しい・・・。
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「1945年マレー半島(マレーシア)でキャプテンのジョン・モリソンが持ち帰った幸運の日の丸。
これらの旗は伝統的に日本の兵士に与えられ、幸運と勝利の願いが刻まれ、友人、家族、仕事仲間が署名した。
ジョン・モリソンはオーストラリアZ特別部隊に派遣され、1944年8月コロンボ(現スリランカ)に行き、そこで英国
特殊部隊のフォース136に加わり、マレーシア語を学んだ後、マレーシアの抗日ゲリラ勢力の訓練に携わった。
彼はその後表彰されている。」簡単に訳すとこう説明書きに書いておる。

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▲何故此処に「寄せ書き日の丸」が展示してあるのかが解った・・・特殊部隊が持ち帰った物だからだ。
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▼日本で正規販売されていなかった「安さ」と「軽さ」が売りのホンダ CG125 だ!流石ホンダ!何処でも見るね!
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▲▼オーストラリア軍の特殊部隊が使ったんだ・・・嬉しいやら悲しいやら複雑な気持ち・・・。
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▲2018年現在も進化を続け、ブラジル・中国・ナイジェリア・イランなどのホンダ海外現地法人が製造を続けている。
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▲9・11はまだ記憶に新しい・・・。


次回、オーストラリア戦争記念館(Part4)へ続きます。

これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2018_10_10


オーストラリア戦争記念館(Part1)からの続き。1939年(昭和14年)まで進み、やっと日本が展示に出だした。
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戦争が宣言されたと書いてある。第二次世界大戦の始まりだ。
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昭和14年は既に満州国が建国されていて、加えて日中戦争も続いていた頃だがナチスドイツの展示が多い。
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いきなり軽戦車の展示から始まった。戦車はイタリア軍??説明を見たが忘れた・・・
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軽四位の大きさでかなり小さ目だった。
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フェラーリを作っている国だけど兵器は大した事無いな・・・イタリアの工業製品ってあまり印象無いからね・・・。
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▲▼このBMW激シブ・・・ナチス時代の物とは言え、現在でもドイツ製品は世界中で高級品扱いだ。
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なんとも素晴らしい芸術品だ・・・。
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コレ欲しい!!
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当時エチオピアも含め、ムッソリーニ率いるイタリアの支配下にあったリビアの事だ・・・。
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1940年9月イタリア軍はエジプトのシディバラーニに侵攻。占拠する。しかしイギリス軍の反撃で一瞬でイタリア軍
は降伏・・・捕虜となったイタリア兵は約4万人とも言われる・・・その後ドイツ軍のイタリア支援攻撃でイギリスを
中心とする連合国軍は劣勢に立たされ、オーストラリア軍はリビアのトブルクに取り残されてしまう・・・数ヵ月の激
戦の後、撤退したのはドイツ軍だった。チャーチル首相はエジプトの前線に赴いて兵士達を激励している。

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自国が侵略された訳でもないのにオーストラリア軍はけっこう遠くまで戦争しに行ってるね・・・。
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ま、オーストラリア軍やらニュージーランド軍って言っても当時はイギリス軍の様なもんだけど・・・。
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ナチスドイツも、イギリスやオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカと戦って大変だっただろう・・・。
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リビアやエジプトにイタリア軍の支援に行かなければドイツ軍はどうなっていただろうか?結果は同じか・・・。
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▲▼2㎝FLAK38 ANTI-AIRCRAFTGUNというドイツ軍の兵器だ。流石ドイツ軍、造りが細かく丁寧だ。
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▲▼日米開戦まで日本軍も輸入していたシボレーの軍用トラックだ!カッコいい!!!
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Turning Pointと書いてあり、日本軍の南方進出の事が書いてある・・・。
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ここからは日本軍の事だな・・・全体的にはとにかく『日独伊の敗戦国が悪い』と言う事を言いたいコーナーだ。
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▲大柿部隊(近衛歩兵第5連隊第2大隊)の物
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マレーシア占領の事だ・・・この辺りに旭日旗の踏み絵があった様に聞いていたが、今は無かったので安心した。
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         日本陸軍の軍服だ。「1941年タイと中国で・・・」と書いてある。
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▲▼これはオーストラリア軍の兵器。
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        ▼出た!欧米人らしい表現の日本軍イラストだ!
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        ▲Australia under threat /オーストラリアは恐怖に晒された。と書いてある
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▲▼ガスマスクや日本軍爆撃機の模型。『日本軍のオーストラリア空襲に備え、女性達が消火訓練』といった話だ。
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オーストラリアでは「日本が攻めて来るぞ~!」って大騒ぎだったのであろう。
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「ラビの戦い」(Battle of Milne Bay)は、太平洋戦争中の1942年8月下旬~9月初旬に渡り、東部ニューギニア
のミルン湾ラビにおいて、日本軍とオーストラリア・アメリカ連合軍との間で行われた戦闘である。
連合軍が建設した飛行場に対し、日本軍が海軍陸戦隊を上陸させて占領を試みたが敗退した戦いの事だ。
豪軍を過小評価した日本軍は海軍陸戦隊のみで飛行場を占領しようとしたが、失敗して撤退に追い込まれた。

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▼▲ニューギニア島東端ミルン湾で行われた「ラビの戦い」で戦死した日本海軍陸戦隊将校の制服と千人針だ。
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名札からは「三小(隊)二分隊 中路利行」と読み取れる。肩から腕にかけて血痕が生々しく残っている・・・。
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以下は、あまり知られていない「ラビの戦い」での日本軍と連合軍の詳細である。
【日本軍地上部隊➡戦闘員約1600名、後方要員約360名】
呉第5特別陸戦隊(呉5特)主力 - 司令:林鉦次郎中佐、兵力612名と95式軽戦車2両
※連合軍側には戦車は無く、95式軽戦車2両は大きな脅威となった。
呉第3特別陸戦隊主力-司令:矢野実中佐、兵力576名
佐世保第5特別陸戦隊の一部 - 兵力228名(本隊353名は別に舟艇機動の予定も到達できず。)
横須賀第5特別陸戦隊主力 - 司令:安田義達大佐、兵力約200名
第10設営隊の一部 - 軍属362名
航空部隊 - 零戦約20機、99艦爆約10機がブナに展開。
※安田義達大佐は「ブナでの戦闘」で米国公刊戦史に世界第一の猛闘と記述されている日本軍人である。

【連合軍「ミルン・フォース」 - 司令官:シリル・クローズ豪陸軍少将 、総兵力約9000名
オーストラリア軍 - 戦闘員約6500名(内、歩兵約4500名)、後方要員約1000名
第7旅団 - 歩兵3個大隊
第18旅団 - 歩兵3個大隊
その他 - 民兵2個大隊、野砲1個中隊、高射1個中隊など
アメリカ軍 - 第709高射中隊および第43工兵連隊F中隊など(合計約1400名)
航空部隊 - 3個飛行中隊(P-40戦闘機約40機、ハドソン爆撃機若干)のほかポートモレスビーより支援。


▼シンガポール攻略戦におけるジョホール水道渡河作戦の参加部隊一覧を記した札。
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※鯉兵団とは日本陸軍第五師団の愛称。シンガポール攻略戦ではオーストラリア兵約15000名が捕虜となった。
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▲有名な「Yes No会談」 イギリス軍降伏の会談。日本軍側は山下奉文将軍、イギリス軍側はパーシバル中将だ。
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イギリス領マレーのクアラルンプールとシンガポール陥落か・・・最初は日本軍部隊も威勢が良かった。
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▼イギリス・スーパーマリン社の「スピットファイアMark ⅡA」
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エジプトのTel el Eisaと書いてある。イギリスの支配下だった当時のエジプトの事だ・・・。
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この標識は、El Alameinの北東にあるTel el Eisa(Jesus of Hillの為のアラビア語)の周りでの激しい戦いに従事
する軍隊の有名なランドマークと書いてある。Tel el Eisaは小さな駅の名前の様だ。

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▼スピットファイアはイギリス軍だけでなくオーストラリア軍にも供与され、ダーウィン防空や南太平洋で運用された。
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此のあたりの展示はドイツ軍との戦いが主だ。リビアやエジプト侵攻の立役者は、後にヒトラーに自決させられる事に
なるドイツ軍の英雄エルヴィン・ロンメル陸軍元帥だろう・・・北アフリカ戦線のドイツの英雄だ。

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当時のイギリスの首相チャーチルはエルヴィン・ロンメルを「賛辞に値する人物だ」と言っている。
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エルヴィン・ロンメル陸軍元帥の自殺の翌年、ドイツは降伏する事となる。
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当時のエジプト人は、ドイツ軍を解放者ととらえる者も多く、イギリス支配に不満を持つ植民地の人達は多かった。
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次回、オーストラリア戦争記念館(Part3)へ続きます。

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 2018_08_31


オーストラリア(シドニー)旅行最終日の自由行動日、ガイドさんや同ツアーの参加者から「ホントに行くの!?」
と、言われながら「オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)」へ行ってきた。
オーストラリア戦争記念館はシドニーからはかなり離れたオーストラリアの首都「キャンベラ」にある。
朝早く起きてシドニーのホテルを出発。歩いてシドニー・セントラル駅(Sydney Central Station)に向かう。

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朝の時間帯で人が少ない駅までの道のりを、観光で見れなかった通りなどを徒歩でゆっくり見学しながら歩いた。
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▼▲ん!?「見ざる聞かざる言わざる」か!日光東照宮の三猿を真似ている!オーストラリア銀行の建物だ。
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▼少し小さめのチャイナタウン入口。
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チャイナタウン以外でも街中には中国人経営の店も目立つ。中国企業の進出は凄い・・・。
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日本人もそうだが、フィリピン人・中国人・韓国人は何処にでも居るといった印象だ。
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▼クイーン・ビクトリア・ビルディング
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オーストラリアが英国の植民地だった1898年、当時の英国国王ビクトリア女王の即位50年を記念して建てられた。
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▼▲路面電車が走っている。
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思わずカメラごしに目で追ってしまった・・・日本の路面電車と違って結構速いのだ。
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▼そうこうしている間にシドニー・セントラル駅(Sydney Central Station)に到着。
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▼▲駅の入口は、先程見た路面電車の駅もかねていた!
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早速駅構内へ。
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キャンベラに向け、列車の旅でさぁ出発!では無く、実は前々日に急遽高速バスに変更したので駅は見学のみ。
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色々調べて頂くと、価格は少し高くなるが、高速バスの方が列車よりも到着時間が1時間以上も早かったからだ。
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▲シドニー・セントラル駅にMURRAYS高速バスのチケットを買う事務所もバス乗り場もある。
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AM 8:00出発。キャンベラへの到着時間はAM 11:30の予定だ。
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オーストラリアの首都「キャンベラ」に向けて出発。
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途中、シドニー国際空港(キングスフォード・スミス)で客をひろう。
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来た時に迎えの観光バスに乗った場所だった。
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此処でほぼ満席状態となって一路キャンベラを目指す。
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シドニー市内は渋滞が酷い。
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高速道路に入って一路南にひた走る。
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トンネルを抜けると空いてきた!やっと大陸らしい景色が見れる
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▲広大な牧場がひろがり大陸らしい景色だ。
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▲此処は高速道路だよな?自転車が走ってる!
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高速道路を下り、一般道を走る。
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ここが首都?と思う様な田舎のはるか向こうに都会らしき建物群がまだらに見えてきた。
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オーストラリアの首都と言っても、シドニーとメルボルンが候補地として上がる中、両都市が譲らなかった為、両都市
のメンツを壊さない様にとシドニーとメルボルンの中間地点の此処キャンベラが首都として選ばれたとの事。

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なのでキャンベラはまだまだ発展途上の都市なのだ。建設途中の建物が多く、当然シドニーの様なイギリス植民地時代
の古い建造物は見当たらない。

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▲▼そうこう言っているうちにキャンベラバスステーションに到着。
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受付で聞くと、オーストラリア戦争記念館までは徒歩で40分位との事。時間がもったいないのでタクシーで行く事に。
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▲トヨタカムリのタクシーでオーストラリア戦争記念館までGO!
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▲▼オーストラリア戦争記念館に到着。
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▼送ってくれたタクシーがUターンして帰っていく。後ろには我々の直ぐ後に見学者を乗せて到着したタクシー。
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簡単な持ち物チェックとリストバンドを巻いてもらって早速中へ入る。入場は無料だ。
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想像していたより多くの見学者で賑わっている。そして若い世代が多い!!
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展示は1916年(大正5年)から始まっている。正直オーストラリアの歴史はド素人で全然知らない・・・。
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加えて、当然ながら説明文は全て英語で、読み取るのに時間がかかるのでほとんど読んでいない・・・。
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日本で言うと大正5年の事だから西部戦線 (第一次世界大戦)の事かな?
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博物館の中は凄く綺麗で見やすい。
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これは広いぞ!帰りのバスの時間まで約4時間しか無い。まだ1916年だし・・・
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第二次世界大戦(太平洋戦争)時代の展示ブースまではまだまだ有る!昼食抜きで見学し続ける事にした。
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▲日本軍でも同じ様な大砲を何度も見た事があるな・・・英国製だからほぼ同じかもしれない。
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兵士を運んだ馬車だ。
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▲オーストラリアとニュージーランドの国旗がまぎらわしい・・・星の数と大きさ、位置が違うんだけどね。
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1918年の展示が多い。多分、第一次世界大戦の西部戦線だと思う・・・。
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次回、オーストラリア戦争記念館(Part2)へ続きます。

これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2018_08_07


オーストラリア(シドニー)は観光の街。戦跡とはほぼ縁の無い大陸だが、太平洋戦争(大東亜戦争)時にはオーストラリ
アも連合軍として参戦していた為、日本軍はダーウィン周辺の北部都市への空爆や、特殊潜航艇でシドニー港を攻撃し
ている。そしてニューギニア(1975年ニューギニア信託統治地域がパプアニューギニアとして独立)や、ボルネオ、沖縄
戦等の広範囲で連合国として日本軍と戦い、ノルマンディー上陸作戦以降はヨーロッパ西部の地上戦にも参加。
日本降伏後の日本占領にもイギリス連邦占領軍の一員として多数の部隊を派遣したり、極東軍事裁判の裁判長ウィリアム
・ウェブを出すなどして参加、同裁判では天皇の訴追を要求している。
戦争/戦跡と聞いてオーストラリアを思い浮かべる事はあまり無いと思うが、朝鮮戦争やベトナム戦争にも積極的に参加
し、アメリカと共に戦い、後にベトナム難民を数多く受け入れ、世界中から移民を受け入れた「多文化主義」の国(豪州)
は英米と協同歩調を取った2003年のイラク戦争にも参加している。

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▲日本から10時間以上かけて到着したシドニー国際空港から、そのまま観光バスでの弾丸シドニー見学だ。
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▲まずはミセス・マッコーリーズ・ポイントへ。
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シドニー湾はオーストラリア海軍の停泊地でもある。丁度オーストラリア海軍の軍艦が何処かから帰還した所だった。
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▲オペラハウスそっちのけで、こんな所まで日本海軍は来たんだな・・・と思いながらシドニー湾を眺めていた。
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昭和17年6月4日、5日シドニー湾で引き上げられる日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」(2隻が引き上げられた)
昭和17年4月27日伊21・伊29、同年5月18日朝、伊22・伊24・伊27が甲標的を搭載してトラック諸島を出撃した。
出港当日夕刻、伊24搭載艇が爆発事故を起こし「甲標的」乗員の松本静1等兵曹が吹き飛ばされて行方不明となる。
甲標的は損傷しており、「甲標的」乗員の八巻悌次中尉も負傷していたことから、同艦はトラック諸島に引き返し、乗
員を伴中尉らと交替させ、伊28に搭載するはずだった甲標的に乗せ換えて再度出港した。
昭和17年5月30日伊22、伊24、伊27の3隻がシドニー沖に到着。
昭和17年5月31日搭載艇「甲標的」が次々に発進。
17:21伊22搭載艇「甲標的」松尾敬宇大尉と都竹正雄2等兵曹が発進。

17:28伊27搭載艇「甲標的」中馬兼四大尉と大森猛1等兵曹が発進したが・・・。
シドニー港入り口で防潜網に絡まり、21時30分頃自爆。

17:40伊24搭載艇「甲標的」伴勝久中尉、芦辺守1等兵曹が発進。
港内侵入に成功。深夜00:29、港内に在泊していた連合国の1国である米重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射した。
魚雷は2本共外れ、内1本は岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブル(HMAS Kuttabul)の
艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死。その隣で係留されていた蘭潜K IX(K IX)
も撃破された。米重巡シカゴ(USS Chicago, CA-29)が「甲標的」を発見、対空砲の砲撃を行い、艇に損傷を与えた。
その後「甲標的」は湾外に脱出することに成功したが、シカゴの砲撃を受けたことによる損傷がもとで沈没し、母艦伊24に
帰り着くことはなかった

そして、最後に松尾大尉艇が港内に侵入したが、この時には警戒が厳しくなっていた。松尾大尉艇はオーストラリア海
軍艦艇からの爆雷攻撃を受けて損傷。艇前方を岸壁にぶつけた事で、魚雷発射管が故障した為攻撃出来ず、艇を米重巡
シカゴへ体当たりさせる事で魚雷を爆発させようと図ったが、小接触におわり叶わなかった。
その後、松尾大尉は部下の都竹正雄2等兵曹と共に拳銃で自決した。
特殊潜航艇を発進させた日本軍潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4・5
日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド
海軍少将は、2隻の「甲標的」乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹)の海軍葬を行った。
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▲松尾 敬宇大尉(熊本県出身/享年24歳)
戦時中に敵国である日本の軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の
薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降する事無しに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、
グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、豪州国民に以下の言葉で訴えた。
「私は敵国軍人を、海軍葬の礼をもって弔うことに反対する諸君に聞きたい。 勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつく
す事がなぜいけないのか?勇気は一民族の私有物でもなければ伝統でもない。
これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべきものである。
このような鋼鉄の棺桶に乗って死地に赴くのには、最高度相の勇気が必要であるに違いない。
これらの勇士達は最高の愛国者であった。
これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか?
我々のうちの幾人が、これらの人達が払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか?戦死した
日本軍勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中している事は承知している。
けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼等の様に勇敢な死を遂げた場合、彼らにも
また、同様の名誉ある処遇を受けさせたい為である…」と。
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▲ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将(Rear Admiral Gerard Muirhead-Gould)
ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将に感謝すると共に、彼等の考え方を見習いうべきところは沢山ある。
※戦死した松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹の遺骨は中立国であるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マル
 ケスで、シドニーに拘留中の日本公使河相達夫に引き渡され、第1次日英交換船の鎌倉丸の乗船した河相公使によっ
 て、S17/10/9遺族らが待ち受ける横浜港に到着した。
 S17/12/8山本五十六連合艦隊司令長官はディエゴ・スアレス攻撃部隊とあわせて感状を与えたと言う。

引き上げられた特殊潜航艇は、戦時オーストラリア国民の危機意識を高め、戦時募金を募る目的で、オーストラリア国
内4000キロを巡回展示された後、1943年4月28日キャンベラ(オーストラリアの首都)にあるオーストラリア戦争記
念館に展示された。(ツアー自由行動の日を使い、実際に行って見て来たので後にご紹介する)
海上自衛隊の練習艦隊がシドニー港に寄港する際には隊員が慰霊を行うのが通例で、75周年に当たる2017年5月31日
には、日豪両国による両軍戦没兵士の追悼式典が開かれた。


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▲ツアーなので、決められたコースをバスで連れって行ってくれる。
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▲次はセントメアリー大聖堂へ向かう。
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▲各観光地での滞在時間はおよそ20分~40分。当然、決められた時間にはバスに戻らなくてはならない。
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▲2005年10月18日にオープンしたシドニータワーが見える。
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▲経緯は良く解らないが、古い大砲が飾られている。
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▲お!オーストラリア軍だ。写真を撮っていると、陽気にピースサインをしてくれた。この雰囲気は非常に良い。
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▲▼セントメアリー大聖堂の内部は撮影禁止だが、誰でも自由に見学出来る。立派な教会だった。
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▲この時期オーストラリアの季節は冬。スケートを楽しむ人達が居た。気温は14度程度で日本で言えば秋くらい。
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▲セントメアリー大聖堂入口からスケートリンクとその先の風景。どう見ても冬空には見えない。
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▲実際、街を歩く人達の中にはTシャツ短パンの人も居れば、コートを着ている人も居る。
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これで真冬だと言うのだから羨ましい。シドニーは過ごし易い土地なんだろう。
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▲次はフィッシュマーケットに向かった。
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市場式のフードコートの様な感じだ。5月に行った唐戸市場に似ている
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「カキ」が名物との事で、ガイドさんや同ツアー参加者の皆様にも勧められたが、昔社員旅行での旅先で大当たりして
から「カキ」は一切食べられない。食べたいとも思わないが・・・しかしオーストラリア(シドニー)の物価は高い。

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1AUD(オーストラリアA$)=約83円
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▼一通り見学してフィッシュマーケットを後にする。此処でやっと喫煙出来たのが幸いだった。
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▼アンザックブリッジ(Anzac Bridge)が見える。
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次はサーキュラー・キーという埠頭に向かった。
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古い西洋建築物と高層ビルとの組み合わせ。空襲や震災が無ければ東京もこんな感じになっていたであろうか。
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▼埠頭が見えてきた。
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サーキュラー・キーに着いた。
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横浜みなとみらいの様な場所かな?シドニー湾に初めてヨーロッパ人が着いたのは、1788年1月26日との事。
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▼シドニー市街観光用の2階建てバス。その後、夜にこのバスに乗る事になる。
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▼オーストラリアに自動車会社と言えば「ホールデン」。2017年10月工場閉鎖に伴い操業を終了している。
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スポーツカータイプのピックアップトラックが有名だが、いすゞ自動車とも提携してたんですね~知らなかった。
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▲エンブレムはホールデンだが、もう日本では見かけなくなった、いすゞのピックアップトラック「ファスター」だ。
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▲▼テスラ(電気自動車)も走っていれば、日本ではまず見る事の無いヒュンダイの営業車バンも沢山走っている。
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▼これはFORDのピックアップトラック。アメ車も沢山走ってる!
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▼しかしオーストラリアで一番人気は「トヨタ」!嬉しいね~。
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▼このHILUX VIGOは日本にもアメリカにも無い7代目。

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▼ハイエースのエンブレムシールもTOYOTAが入っていてちょっと違う。
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▼都心にも道沿いにバイクやスクーター置き場がちゃんと整備されている。素晴らしい。
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車も好きだがスクーターはもっと好き。何を隠そう筆者は、「使った後は自宅で充電、短距離移動は電動バイクで。」
をコンセプトに電動バイクを専門とする、小さなバイクショップ「EV奈良」経営しております。
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▼ダーリングハーバー(Darling Harbour)に入った。
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う~ん、綺麗で近代的だけど、横浜みなとみらいにしか見えない・・・。
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全然違うところは、観覧車の回転速度が異様に速い。
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▲リクエストすれば3周~5周乗らせてくれるそうだが乗っていない。
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もう高層ビルやショッピングーモールは見飽きたかな・・・大して感動しないがシドニーはバブルだ・・・。
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▼▲何処からでもシドニータワーが見えている。
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▼ワイルドライフ・シドニー動物園(Wild Life Sydney Zoo)に立ち寄る。
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▼小さな動物園だがチケットは42.00A$ 約3500円!高い。
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▲受付でコアラと一緒に写真を撮るオプションを勧めてくれたがThank you, but no thank you.
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▼此処でやっと日本語説明を見る事が出来た。街中では日本語表記はほぼ見かけないし、当然通じない。
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▼定番のコアラが居て・・・
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▼カンガルー仲間だけどカンガルーじゃないワラビーが居て・・・
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▼カンガルーが居る
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カンガルーは触りたい放題。夕食でカンガルーの肉を食べたが本場オーストラリアビーフより柔らかくで美味しい。
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「野生のカンガルー探し」にも行ったが、流石に野生は触れなかったので此処で十分だったのではないか・・・(笑)
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ダーリングハーバーには豪華客船やクルーザーが沢山停泊している。
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▼F1のモーターホームの様な船だ・・・。
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▼ん!?軍艦か!これは対岸にまわって確認したい!
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▼ピルモント橋(Pyrmont Bridge)を渡って確認しに行く。橋の上から見える。
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▼これだ!
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▼ピルモント橋を渡り切った。
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▼橋を渡り切ると「オーストラリア国立海洋博物館」 (Australian National Maritime Museum)が・・・。
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今回、「オーストラリア戦争記念館」以外、何も下調べをしていなかったので全く知らなかった。
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オペラハウスぐらいしか知らなかったし、シドニーの観光スポットにあまり興味が無かったからだ。
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▲例の軍艦の近くまで来た。残り時間も少なかったのでオーストラリア国立海洋博物館に入っていない。
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▲対岸からは確認出来なかったが、隣には潜水艦が!どうやらこの2隻は退役して展示しているそうだ。
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広場では何やら学生達の演奏が始まるところだった、聴いてから戻る事にした。
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▲日本人でも無いし中国・韓国・フィリピン人でもない。香港人?何処の国の学生だろうか・・・マレーシアかな?
結局解らなかった。しかしアジア系のである事は間違いない。因みに演奏曲は「となりのトトロ」日本アニメは凄い!
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ピルモント橋を渡り戻る途中、丁度ピルモント橋が真ん中で回転して船を通すところだった。
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数分待ったであろうか。橋が元に戻り、対岸へ戻る。
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▼対岸に戻ると小さな遊覧船でオペラハウスへ向かう。
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▼出航。
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▼海から見たワイルドライフ・シドニー動物園
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▼海から見たオーストラリア国立海洋博物館。行きたかった・・・。
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▼すれ違う船の客は皆手を振ってくれる。
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▼1ヵ所だけ途中停泊してお客さんが1人乗ってきた。
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▼再び出航。まだまだ建設ラッシュの様だ。
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▼スピードが上がっていく。
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▼有名なシドニー・ハーバーブリッジが見えてきた。
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▼振り返って撮影。
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▼シドニー・ハーバーブリッジをくぐるとオペラハウスが見えた。
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▼シドニー・ハーバーブリッジ
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▼世界遺産に登録されているオペラハウス。世界遺産とは知らなかった・・・そんな古いの??
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▼追いかける様に後から続々と遊覧船が来る。この海域は船の渋滞が起こるそうだ。
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▲▼今度は船でサーキュラー・キーに到着。何度も同じ場所へ連れて行かれる事の多いツアーだった・・・。
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▼オペラハウスに向かう途中、文化財に指定されているという旧税関の建物を見学する。
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▼オペラハウスが見えた。
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▼これか・・・。
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▼振り返って撮影。日差しが戻って来た。
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オーストラリア滞在中は雨は無く、ずっと良い天気に恵まれた。いつも英霊のお陰だと思っている。
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▼シドニー・ハーバーブリッジを見ると、誰かが橋の上に立っている!
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▼シドニー・ハーバーブリッジを歩いて登る体験型名物アトラクション「ブリッジ・クライム」だ。
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▼オペラハウスの中も見学した。
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オペラハウス建設秘話は色々ガイドの方が説明してくれたが、あまり興味が無かったので覚えていない。
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とにかく世界で最も建造年代が新しい世界遺産だという事だ。
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▲シドニー港に突き出した岬であるベネロング・ポイントを、斜めに設置されたガラス越しに見る。
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ベネロング・ポイントはオーストラリアの先住民族「アボリジニ」の人達の聖地だった場所との事。
建設当初は先住民達の反対も多少あった様だが、1959年に着工➡竣工は1973年だった。
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▲▼夜の2階建てオープントップバスツアーでもオペラハウスに立ち寄った・・・もう何回もいいのに・・・。
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▼夜のシドニー・ハーバーブリッジ(いつも夜景は上手く撮れない・・・)
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▲▼この様な感じで市内を案内してくれる。
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シドニー・ハーバーブリッジを通る。
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走行中のバスから夜景を撮影するのは猶更難しい・・・無理。
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シドニーは夜景を重視している様で、ビル内の企業が終業していても、ある程度の時間は電気を点けたままにしておく
決まりがあるそうだ・・・無駄なエネルギーを少しでも節約する日本人との感覚の違いが凄い。国力の余裕を感じる。
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▼日も暮れてきたので宿泊先のホテルへと向かう。
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古い建物と現代の高層ビルが混ざっているが、古い建物を尊重しているので景観に違和感は無い。
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▼シドニーのパトカー。赤でカッコいい!警察車両でTOYOTAを採用してくれているのは嬉しいねー!
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▼日本人が路上商売で頑張っていた!
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どんどん日が暮れてきたが、夜7時半をまわっても全然明るい。これでも真冬だ。
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       ▼宿泊先のホテル。中国かと思った(笑)
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       ▼シドニーの朝は結構早くから車の通る音が響く。マフラーを交換したうるさい車が多い
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▲ホールデンのスポーツトラック。
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朝から2台の車に別れて観光に向かう。
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私は上記写真のコースターだったが、ハイエースに割り当てられたお客は狭くて辛かったそうだ・・・。
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▼高速道路を西へ西へとひた走る。
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▼そして、Lincoln's Rock(リンカーン ロック)ブルーマウンテンズ国立公園を見学して、
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▼Echo Point(エコーポイント展望台)へ行って、
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細い峠道を延々走ると・・・。
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▼▲大きな岩の中を走る自然のトンネルが出てきた。
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そのちょっと大きな洞窟の中を散策すると・・・ん?何か居る!
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▼野生のワラビーだ!飾り物のぬいぐるみかと思ったが本物だった!
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冬だから暖かいスポットライトに近づいて温めてたんですね。ついでに自分をライトアップして(笑)可愛い!
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▼そこを抜けると、
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▼120年以上続くゲストハウス「ケーブ・ハウス」に到着。国の文化財に指定されている。
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▼防空壕の様な人口の入口から入壕し、
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世界最古というJenolan Caves(ジェノラン鍾乳洞)を見学した。
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かなり長い洞窟見学を終えて外へ。停めてあったバイクを撮影。何処のバイクだろう?
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▼次はブルーマウンテンズ地区にある可愛い街Leura「ルーラ」に立ち寄る。緑豊かな山間の小さな街だ。
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▲当日、日本と中国の国旗がはためいていた。ガイドさんに何故?と聞いてもよく解らないとの事・・・。
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60〜70年代の雰囲気たっぷりのお店が並ぶ。
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▲▼女性に大人気のルーラ・ビンテージ(Leura Vintage)
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▲女性用だけでなく男性用も含め50〜60年代位のイメージのドレスやスーツ、帽子やカバンなどが所狭しと並ぶ。
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▲ルーラ・ビンテージが入っているストランド・アーケード(Strand Arcade)
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▼路上でバイオリンを弾く少女が居て、バイオリンケースにコインを入れてしばし聞き入っていた。
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短い滞在時間でシドニーに戻った。

次回「オーストラリア戦争記念館(Part1)」に続きます。

これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2018_07_08


普段は通り過ぎる事の多い、大阪(難波)で寄り道して、難波グランド花月に寄ってみた。
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千日前通りを抜けて「難波グランド花月」を目指す。
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大阪は美味いものが多くて目移りしてしまう。
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どこも美味しそうなお店ばかりだ。
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▲▼ホントに安い!帰りに寄って帰ろうと思っていたのに忘れてた・・・。
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▲▼あっという間に難波グランド花月に到着。一度来た事があるが、リニューアルされてからは初めてだ。
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特にファンという訳では無いが、2階フロアに新設された「吉本歴史ストーリー」を見学したかったのだ。
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小さな陳列スペースに、過去の歴史が解る写真が展示されている。
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吉本興行の歴史は古く、明治45年創業(写真は大正6年大阪北新地「北陽花月亭」)創業者の吉本泰三が写っている
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▲昭和8年に派遣された「慰問団」の写真。大阪駅で撮影と書いてある。
慰問団と見送りに駆け付けた大勢の関係者が一緒に写った写真。中央に吉本 せいと、林 正之助、直ぐ後ろには横山
エンタツ、花菱アチャコの顔も見える。
最初の「わらわし隊」が結成されたのは昭和6年。満州事変の時に結成され、中国戦線を慰問。
日中戦争が泥沼化していった昭和13年1月以降も、吉本興行は慰問団を中国大陸の最前線に派遣している。

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▲左から林 正之助、ミスワカナ、花菱アチャコ、柳家 三亀松、横山エンタツ
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▲戦史古写真ではあまり見る事の無い日本兵のリラックスしたお顔を見る事が出来る。場所は中国だろう。
昭和16年7月22日わらわし隊に初めての死者が出てしまう。済源の陸軍歩兵221連隊を慰問後、更に西の歩兵220連
隊を慰問する為にトラック4台で向かう途中、昼間、峠道にさしかった所で中国人民軍の待ち伏せ攻撃に遭う・・・。
先頭車が被弾、後続車に乗っていた護衛の日本軍兵士約40人が応戦するも、敵は約200人。
敵兵の機銃掃射で日本兵13人が戦死、この戦闘は4時間近くも繰り広げられ、芸人達も手榴弾を使って必死に応戦する
も、先頭車に乗っていた花園愛子(享年36歳)が戦死。その日に限って先頭車の助手席に座っていた彼女は、負傷した運
転手を抱えて下車しようとした際に右大腿に2発の銃弾を受け、夫の金吾が駆けつけたが出血多量で亡くなってしまう。
夫の桂 金吾と花園愛子は東京吉本に所属しており、歌と三味線を使った夫婦漫才コンビとして、浅草花月の人気コンビ
だった。金吾はその後約1ヵ月程わらわし隊での活動に参加しているが、帰国後、ショックの為か芸人を引退している。
8月、わらわし隊慰問団一行の帰国を、東京駅で軍関係者や警察、駅長、吉本興行幹部らが出迎えた。
そして8月に行われた花園愛子の告別式には当時の首相、東条英機の妻が参列している。
花園愛子には勲八等が送られ、靖国神社に合祀されている。
漫才師で靖国神社に合祀されているのは花園愛子のみとの事だ。
他にもわらわし隊の犠牲者はいらっしゃる。
台湾沖で、わらわし隊一行の乗った船が中国軍の魚雷で撃沈され、「トランプ・カルタ」のコンビ、玉子 家辰次、ミス
ワカメ(ミスワカナの弟子)が死亡している。兵士以外にも慰問団の戦死者がいる事を決して忘れてはならない。

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▲吉本興行の創業者「吉本せい」は通天閣を買ったんだ・・・軍需資材になっていたとは知らなかった・・・。
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▲創業者自ら「慰問袋」を作ってたんですね・・・正に日本全体が隅々まで戦争の時代・・・。
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▲戦時中の漫才台本
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難波グランド花月を後にし、昔から気になっていた「レジャーシティ味園ビル」へ向かう。
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▲「レジャーシティ味園」に到着。昭和31年建築の割と古いレジャービルだ。
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▲かつてはキャバレー「ユニバース」もあったが、2011年3月15日に営業を終了し、貸ホールになっている。
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▲1階は宴会なども出来る大きなレストランだ。
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▲見たかったのは2階。左手のスロープを登ると2階に行ける。
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壁に貼られたポスターからしてなんだかディープなゾーンに入ってきた。
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2004年に運営会社の方針でテナント料を大幅に下げ、若いオーナーが中心のバーや飲食店を誘致。
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東京新宿ゴールデン街と並んで日本のサブカルチャー、アンダーグラウンド文化の発信地としても注目されている。
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どれもこれも聞いた事が無いものばかりで。。。自分の無知さと世間の広さを実感していた・・・。
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しかし夜に来る勇気はまだない・・・。
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ぼったぐりバーの様な店は無いと思うが1人では流石に入りずらい。昼間見学程度で精一杯・・・。
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▼近くには昔何度か訪れた事のあるお店がまだ健在だった。
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ザ・昭和って感じの看板が並ぶ。
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▼次に、今は外国人観光客だらけと聞いている黒門市場へ向かう。
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凄い人だ。外国人だらけ!
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▼▲美味しいに決まってるいちご大福屋さん
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まるで正月の様なにぎわいだ。
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中国語や英語、韓国語が並ぶ。もはや日本人客は相手にしていない様な感じだ・・・。
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大阪らしい激安を期待したが、流石に観光客ターゲットなので価格は安くは無い。
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▲やはり行くなら「ビフテキの末廣軒」だろう!日章旗に吸い込まれそうになった(笑)
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▲▼次はとりあえず法善寺横丁にお参り。
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▼かすうどんは食べた事が無いな・・・。
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▼▲大正12年竣工の大阪松竹座。当日は関西ジャニーズJrのイベントで女性達が長蛇の列を作っていた。
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▼▲戎橋(ひっかけ橋)は外国人観光客の撮影スッポットになっている。凄い人だ・・・。
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暗くなってくると難波の街は、より一層面白そうになってくるが、夜の世界はリッチな時に再訪する事とした。
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 2018_06_02

下関と門司

Category: 門司港  

出張で山口県を訪れたので帰りに時間を作り、「出川哲郎の充電させてもらえませんか?」を見て、以前から行きたか
った下関の唐戸市場と、「海賊と呼ばれた男」を見てから是非とも行って見たかった門司へ行ってきた。

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▲まずは午前中に行くのがBESTの唐戸市場へGO!(昼から行っても店がほとんど閉まっている)
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▲下関らしく巨大なフグがお出迎え。
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▲土曜日だった事もあり、かなり賑わっていた。
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▲▼食べたい物ばかりで、ついつい取り過ぎると結構なお支払いになる・・・大トロは500円の店や400円の店も。
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▼やはり揚げ物は美味しい!クジラの竜田揚げは最高だった。
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▼此処のマグロは美味しかった。
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▼市場で買った物を、関門海峡を見ながらいただく。最高のロケーションだ。
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▼目の前は九州。行く予定の門司港が見える。
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▼次はカモンワークへ向かう。
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カモンワークは食事が出来るお店や、お土産物屋が沢山入った小さな複合施設の様な感じだった。
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この周辺にも門司と同じく、明治・大正・昭和初期の建物が数多く残っているのでサクッと見学する。
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▲▼まずは明治39年完成の旧下関英国領事館から見て行こう。
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▼領事室
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▼エリザベス女王か・・・たいして興味無いけどEU離脱で、グローバリズムにNOを突き付けたイギリス。
日本も見習うべきところはある。残念ながら日本はいつもイギリスの後追いをしなければ間違った方法に行ってしまう。

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サラっと見学(無料)して次に向かう。
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▼次は大正4年完成の旧秋田商会ビル
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▼旧秋田商会ビルの隣は現存最古の現役郵便局舎、今も下関南部町郵便局として現役の旧赤間関郵便電信局
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▼明治33年完成の煉瓦造の明治建築物は、隣の大正建築物の「旧秋田商会」とよい対照を見せている。
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▼下関の原付ご当地プレートは可愛いフグ
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▼次に訪れたのは映画の撮影でも使用される事のある旧山口銀行本店
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大正9年に三井銀行下関支店として、建築設計家長野宇平治の設計監督により建築され、昭和8年山口銀行の前身である
百十銀行(明治11年に第百十国立銀行として創設、同31年に株式会社百十銀行として改組)の本店となり、昭和19年に
は県下の6つの本店銀行(百十銀行、華浦(かほ)銀行、船城(せんじょう)銀行、大島銀行、宇部銀行、長周銀行)を統
合して山口銀行が創立され、本店となる。昭和40年新本店が新築されて移転した後は観音崎支店となり、同44年観音
崎支店が入江支店として移転した後は山口銀行別館として行内の会議や集会に使われていた。

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昭和48年~50年は日本銀行下関支店として使用された後、建物の内・外部を山口銀行創立当時の姿に戻す復原工事と、
建物の耐震補強工事が平成16年4月~平成17年3月にかけて行われ平成17年10月に棟札と共に山口県指定有形文化財
となり一般公開されている。

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文句なしにカッコいい建物だ。素晴らしい!!
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中を見学(無料)すると・・・おぉ!!素晴らしい!!
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2階建てに見える外観だが、中身はほぼ吹き抜け!これは当時西洋の銀行をそのまま真似て建てられた為、2階部分の隅
に、ぐるり1周走っている廊下は、下を監視する警備員が銃を持って見張りをする為のスペースだったそうだ。
日本ではその様なスペースは必要無かったそうだが、そのまま真似た為、この様な造りになっているという。
因みに耐震強度はほぼ考えられていないそうだ。山口県は地震が少ない為、倒壊せずそのまま残っているそうだ。
昭和20年6月29日AM1:10頃B-29大編隊が壇之浦上空に現れ、壇之浦から赤間町までの間に焼夷弾を投下、市内東部
地区は焼け野原となった際も山口銀行本店は石造りの為、焼失せず残った。周りの木造建築は全焼だったとの事だ。

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       ▲建物左端に設置された階段は現在使用禁止、当時のカーペットを劣化させない為だとの事。
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▲建物の右端にある階段を使って2階へ向かう。
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▲▼2階部分から入口付近全体を撮影。
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見学していると、スタッフの方がガイドをしてくれると言って頂いた。ここからはガイドの方と共に見学させて頂いた
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▲当時の金庫。金庫の中には桐の入れ物。分厚い扉の中身は砂で、中のお金が燃えにくくしているとの事。
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▲こちらの金庫室は扉が2つ。上の扉は非常用との事。
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▲この扉は地下金庫室への階段の入口。中を案内してくれるという。
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▲早速地下へ続く階段を下りて行く。戦時中は従業員の防空壕代わりにもなっていたという。
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地下金庫室&倉庫のスペースはかなり広い。
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県指定有形文化財に指定され、建物基礎に追加された耐震強度を増す為の補強材の隙間から赤煉瓦が見えた。
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扉はかなり分厚い。軍事施設の様だ。
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何重にも設けられた扉。
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8畳程のスペースの部屋が3~4部屋あった。
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銀行の地下金庫室など入った事が無かったので良い経験になった。
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▲▼トイレの間取りや扉なども当時のまま、タイルも当時のままだと言う。
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▼隣接している史料館にはメジャーになる前に山口銀行のイメージガールに起用された夏目雅子が居た。
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▼史料館から旧山口銀行本店の屋上を見る。建築当時は銀行前の道の向こうは海だったそうだ。
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次は門司へ向かう為、カモンワークまで戻って船乗り場へ。
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対岸の北九州市門司港までは高速船で10分かからない距離だ。
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▼宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の戦い」で有名な巌流島へ向かう人も結構居た。
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▼門司に向けて出港!
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▼関門海峡が綺麗に見える。
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あっという間に門司港が近づいてくる。
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▼門司港に到着。船の操縦士や乗組員は皆女性だった!このところの女性の職場進出は凄い(中国はもっと凄いが)
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▼門司に着いて真っ先に向かったのは門司駅だったが・・・。
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ん?あの有名なレトロな重要文化財「門司港駅」が見当たらない・・・。
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絶賛補修工事中だった・・・まだ何年か先までレストア作業は続くとの事。折角門司まで来たのに・・・残念。
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▲作業足場に覆われ、見事に何も見えなかった・・・。
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▲▼大正3年完成の現在も残る門司港駅。補修完成後を楽しみにしておこう。
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▼門司港駅の隣にもちょっと古そうな建物が・・・昭和初期頃の建物か?
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▼門司港駅の目の前には旧門司三井倶楽部がある。
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此処は1階部分のみ無料で見学出来た。
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次に向かう途中で撮影。隣にも古そうな建物があった。
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▼▲港側に出て旧門司三井倶楽部を撮影
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▼お隣は旧大阪商船三井船舶株式会社門司支店。
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立派な建物だ・・・西洋の真似事とはいえ良く出来てる。
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旧満州国の大連の様だ。
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中は自由に入れる。お土産物屋や喫茶店が入って活用されていた。

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商船三井は現在でも日本郵船・川崎汽船と並び日本で指折りの船会社だ。
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門司港は小さいながらも見所満載。
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▲▼ロバート秋山の父が経営する海賊船「ファンキータイガーカリビアン」があったりする。
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▼港の向こうに「旧門司税関」が見える
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▼船が通ると2つに割れる橋を通って旧税関側へ渡る。
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▼▲旧門司税関。現在はエントランスホール、休憩室、喫茶店などに利用されている。
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▼▲北九州市立国際友好記念図書館
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大連にあった明治35年建築の東清鉄道汽船会社の事務所を複製建築した物らしい。古くから門司港は大連市と深い関
係にあった様だ。元々大連は日清戦争後に日本が譲り受け、三国干渉によりロシア領土となり、日露戦争後に日本が統
治していた複雑な場所だからね・・・。北九州市と大連市、友好都市締結150周年を記念して建てられたらしい。

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▲▼恐らく古くから敷かれていたであろう単線の線路にはレトロチックなディーゼル機関車が走る。
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▼線路沿いには「出光創業史料室」
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▼古くから残る倉庫の壁だけが残る。敷地内は駐車場に転用されている。
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近くの駐車場内にはレトロな電車があった。
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▼少し離れた場所には門司電気通信レトロ館
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▲大正13年逓信省門司郵便局電話課庁舎として建築された、門司における最初の鉄筋コンクリート建造物。
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かなり歩いて少々疲れたのでそろそろ下関に戻る事にした。
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門司港を後にする。
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下関と門司を同時に楽しめた1日だった。

これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2018_05_03




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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