和歌山市加太に属する友ヶ島は、紀淡海峡に浮かぶ無人島群で、地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の総称。
瀬戸内海国立公園の一部となっている同島(沖ノ島/虎島)には、明治22年から外国船の大阪湾侵入に備え、砲台の建
設が開始され、最大28㎝砲台が設置された。明治37年~38年の日露戦争で、日本は辛くも勝利したので、ロシアな
どの外国艦隊が湾内に侵入して来る事は無く、その後太平洋戦争でもほとんど使われる事無く日本は敗戦を迎えた。
友ヶ島第一砲台:27cmカノン砲(4門)
友ヶ島第二砲台:27cmカノン砲(4門)
友ヶ島第三砲台:28cm榴弾砲(8門)
友ヶ島第四砲台:28cm榴弾砲(6門)
友ヶ島第五砲台:12cmカノン砲(6門)
虎島保塁:9cmカノン砲(4門)
友ヶ島の砲台施設は「由良要塞」の一角。淡路島の由良地区(現 洲本市由良)を中心に要塞司令部が置かれ、友ヶ島、
加太・深山地区の3地区で構成されていた。
由良要塞は終戦時には第2総軍第15方面軍直轄部隊で運営されており、敗戦まで要塞施設として一般人の立ち入りは
一切禁止され、当時の地図や地形図には掲載されていなかった。
第2次世界大戦は既に航空機が主力になった為、大砲の使用はほとんど無く、終戦と同時に米軍により砲施設は撤去
されたが、弾薬庫などの遺構が多く残り、現在は瀬戸内海国立公園に属しているものの、近代遺跡(廃墟)として写真
家やコスプレイヤーなどに「ラピュタっぽい!」と、人気の島となっている。
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和歌山市の加太港から友ヶ島汽船で友ヶ島に向かうのだが、船乗り場駐車場までは少し狭い道のり。
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▼対向車が来ない様に祈りながら進んで行く。此処を右折すれば駐車場だ。
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▼駐車場管理のおばちゃんに700円を支払い車を駐車する。いい天気だ~。
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▼▲船は停泊している様だが、この日は風がキツく09:00の便は欠航、10:00の便となった。
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▼この建物の隅にトイレがあるので用を足しておく。
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▼さぁ出発だ。往復2000円だが、このサイト(HIS)でクーポンをGETすると10%割引が受けられる。
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10:00の便は満席。次の船を駐車場で待つ人も多く見られた。
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▼加太港を出港する。友ヶ島まで20分程の船旅だ。
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▼釣り船だろうか、乗員が手を振ってくれている。
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▼虎島が左手に見えると友ヶ島港はもう直ぐそこだ。
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▼友ヶ島に到着、上陸を開始する。凄い人だ。若い女性の2~3人組が多いのには驚いた。
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友ヶ島港と言っても桟橋があるだけだ。この桟橋も当時の日本軍が作った物だ。
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セオリー通り、第2砲台跡から順に見学していく事にした。
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案内板の画面で言うと右方向(灯台方面)だ。
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▼乗って来た船が加太港に帰って行く。
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▼友ヶ島唯一の宿「海の家」が見えてきた。
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島では軽トラを何台か見たが、全てナンバープレートはついていなかった。流石無人島!
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▼▲早速廃墟が見えた。赤煉瓦の建物はおそらく当時の軍施設だろう。
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右手には海が綺麗だ。
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タンカー?LPガス?船もゆっくり走っている。海の向こうに見えるのは淡路島だ。
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先の方角をみると・・・?
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!出た、第2砲台跡!
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第2砲台跡が見えて思わず足取りが早くなってしまうが、途中にも旅館の廃墟が・・・。
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富士屋別館・・・、かつては此処で営業していたのだろう・・・。
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現在、友ヶ島の宿は1件のみ。「海の家」が夏季のみ営業しているそうだ。
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なので、夏季以外は、基本無人島というわけだ。「軽食」と書いてあっても食事が出来る所は無い。
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第2砲台に着いた。
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なかなか大きな砲台施設跡だ。此処は敗戦後、進駐軍が爆破処分しようとした砲台らしい。
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柵がしてあり、基本中には入れないが、自己責任で。
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中は見学する人は少ないとみているのか、弾薬庫などはゴミ箱と化していた・・・。
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何とかならんのかね、このゴミ。自己責任見学だとしても綺麗に保存して欲しいものだ・・・見学する気になれない。
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気を取り直して裏手にまわってみる。
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ダイナマイトを仕掛けて爆破したのだろうか・・・盛大に割れている。
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▲自己責任で・・・。
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27cmカノン砲の設置跡だ。
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▲紀淡海峡を望む。この先の淡路島(由良砲台)と挟み撃ちの位置関係だ。
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この先何十年とかけて腐食して無くなっていくのだろう・・・。
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次に向かうのは第1砲台跡と友ヶ島灯台。
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▲柵がしてあり中に入れない・・・順路は右手の階段を登って行く。
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▲左手の棲息掩蔽部に後付けされたと思われる謎の煙突。戦後何かに転用されて使用していたのか?
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▲先程の柵が向こうに見える、誰かがこちらを見ている。「入っていいの?」という小声が結構聞こえた(笑)
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▲弾薬庫はコンクリートブロックで完全に蓋がされている・・・ここまでしなくてもいいのに・・・。
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▲2つ目の弾薬庫もしっかり蓋がされている・・・。
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▲砲座跡
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▲監視所か兵舎が建っていたのだろう・・・門柱と外壁だけが残っていた。
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▲海側の景色は淡路島。こうやって見ると淡路島は大きい。
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友ヶ島灯台も見学、明治3年5月英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンにより着工されたAランクの保存灯台。
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明治23年8月由良要塞第1砲台建設の為、東に25m移設されている。
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▲▼友ヶ島灯台から少し奥に行くと観測所跡。
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若い女性達は観測所の上に乗って必死に景色を撮影している。当然、観測所には興味は無いのだろう・・・。
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鉄扉がちゃんと残っている。
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中の状態も良い、綺麗に作ってあるな~素晴らしい。
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鉄扉に付いている小窓にはガラスが入っていたのだろうか・・・まさかね。
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▼天井部分はコンクリートが剥がれ落ちて鉄がむき出しになっているが、逆にリベットが見えて構造が解りやすい。
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当然、当時カムフラージュの為に盛ってあったであろう土は無くなっている。画像の2人は「こんな薄い鉄板丸出しで
敵に攻撃されたら一発で終わりやで!」と、訳の解らない会話をしていた・・・無知は怖い。
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順路を進んでいくと、丁度、富士屋別館の反対側に出た、兵舎か何かの遺構が残っている。
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▲キャンプ場を抜けて太平洋側に出ると素晴らしい景色が広がっていた。
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▲次は海軍聴音所跡に向かう。
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▲木陰の涼しい山道を少々登っていくと・・・。
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▲▼あった、海軍聴音所跡だ。周辺には当時の遺構と思われるコンクリートの基礎が沢山残っていた。
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▼早速中に入って見る。
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戦後、盛り土等や、付近の木々に隠れ、この施設が発見されたのが遅かった為、比較的良好な状態だったそうだ。
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それでも、発見されてからも何の手入れもされていないので荒れ放題だが・・・これはこれで味があって良い。
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▼再び外にまわって見学する。すると・・・ん?二階建てか!?
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知ってしまった以上、2階に行きたい!
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▲写真で見ると、何てこと無い高さだが、これが絶妙に高い・・・。
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ズボンが少し裂けたが何とか登る事が出来た。
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2階部分は一部屋の様だ。
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▼次に第3砲台跡に向かう途中、トイレがあった。
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経年劣化を考えると当時の建物とは考えにくいが、直ぐ近くに近代的なトイレが設置してあったのでこれは当時物か?
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▲▼当時の物を補修して使用していた時期がある様だ。明治時代の物だとしたら木材が綺麗過ぎる。
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それでも、外観を含め、当時の姿を偲ぶ事が出来るトイレの建物は初めて見た。
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「ラピュタっぽい!」と、人気の友ヶ島のメイン見学地、第3砲台跡は、懐中電灯があれば誰でも迷路の様な砲座施設
を思う存分楽しむ事が出来きる。若い女性グループもスマホの懐中電灯片手に肝試ししている人も沢山居た。
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トンネルを抜けると砲座跡、地下に入れば弾薬庫跡。と、カマドウマさえ気にしなければ楽しい空間が沢山!
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他の要塞も行っているが、これだけの地下トンネルが構築されている要塞は友ヶ島が最大ではなかろうか・・・。
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明治・大正時代に建設された要塞は、何処も似た様な造りだが、友ヶ島は島全部が要塞で規模が大きい。
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ふんだんに使われた赤煉瓦のアーチが素晴らしい形を作っている。
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棲息掩蔽部は全て一本の通路で繋がっている。
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見学者が多いので、人を入れず写真に収めるタイミングが大変。
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▼逆から来たが、本来は此処から第3砲台に入るのだろう、立派で美しい入口だ。
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続く➡執筆中


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 2018_03_28


宿泊先のホテルカレッタ(龍郷町)から古仁屋港までは車で約1時間半。朝早かったので道が空いていた。
レンタカーを船に載せると結構高いので、天気の心配はあったがスクーター(125CC)をレンタル予約しておいた。
加計呂麻島へは奄美大島(古仁屋)から船で25分程だ。朝08:10の船で加計呂麻島(生間)に向かう。

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125CCクラススクーターと人を合わせて1510円(往復運賃)だ。人690円/スクーター820円(往復)の内訳。
帰りに古仁屋でガソリンを入れて満タン返ししたが、古仁屋港のガソリンスタンドでは1ℓ=〇円の表示も無く、原付バ
イクで加計呂麻島を走ったと言えど、半分位しか残量計が減ってなかったのに400円程かかった・・・。
領収証にも1ℓ=〇円の詳細は無く、ガソリン400円と内税8.0%30円と記載されているだけ・・・。
計算してみるとレギュラーガソリン1ℓ=150円近く払わされた事になる。名瀬ではそんな事は無く1ℓ=139円で明細も
本州と変わらない領収書だった(出光石油和光SS)。筆者は電動バイクの販売を本業としているので、スクーターにガソ
リンを久しく(5~6年)入れていない。レンタルバイクがEVだったら余計な事を考えなくても済んだのに・・・。と思
わずにはいられなかった。
「使った後は自宅で充電、短距離移動は電動バイクで。」をコンセプトに電動バイクを専門とする、小さなバイクショ
ップ「EV奈良」経営しております。
日本一の電動原付スクーターをご検討の方は是非、弊社HPを覗いて見て下さい➡http://www.evnara.jp

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08:10定刻通り出航。古仁屋港を後にする。
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※仮に今回借りたレンタカー「デミオ」(普通車)をそのまま船に載せる場合、往復で9000円近くの費用がかかる。
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あっという間に生間港に到着、しかし心配していた雨がとうとう降り出した・・・。
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港には船の時間に合わせてバスが待機している。ハイエースなどの小型バスが主流の様だ。
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▼▲この船は恐らく次は瀬相に向かうのかな・・・?加計呂麻島には「生間」と「瀬相」の2つの港がある。
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行きに「生間」を選んだのは、1番目の目的地である安脚場戦跡公園に近かったからだ。
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▲雨の中をスクーターを走らせ安脚場戦跡公園に向かう。すると兵舎跡が現れた、砲台跡は近い!と思ったが・・・。
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▲ガーン・・・昨年8月の台風5号の影響で土砂崩れが発生し、行けないとの事・・・。残念
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▲▼行けないものは仕方無いので、兵舎見学のみとする。門柱から外壁まで綺麗に残っている。
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▼立派な兵舎だ。中から人の声が聞こえると思って中を覗き込むと、ラジオが鳴っていた。防犯の為か?
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此処の正式名称は「生間施設部隊指揮官宿舎跡」で、指揮官クラスの軍人が寝泊まりしていた様だ。
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敷地は結構広い。入口は開く様だったが、倉庫状態となっており、個別に建物に侵入する事はしなかった。
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敷地内には井戸も確認出来た。
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▼烹炊所跡。かなりの数の兵隊さんが此処で寝泊まりしていたのであろう・・・。
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次はまた生間方面に戻る事になるが、途中、渡連(どれん)地区に待網崎高角砲台跡が公園となっている様だ。入口には
立ち寄ったのだが、草が生い茂り、とてもスクーターでも徒歩でも入っていけそうにもないので今回はスルーした。

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途中、何本もの立派なガジュマロの木が見られる。因みに「日本一のガジュマル」は(奄美諸島)沖永良部島にある。
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閑散期という事もあるが、人が居ない・・・ピース・又吉の母の故郷である加計呂麻島は人口約1300人足らず。
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▲バナナを栽培しているご家庭もある!南国だね~。聞けば自分達や島の中での需要分だけ栽培しているとの事。
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▲▼スリ浜にも立ち寄ってみた。
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▲天気が悪かった為、空の色が最悪だが、透き通る様な海の綺麗なビーチだ。
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道はこんな感じ。今回はスクーターの為、極力海沿いを走った。2車線の立派な道も別で通っている。
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コンビニは無く、飛び入りで食事出来る所も無いに等しい。公衆トイレは完備!?使わせて頂いた。
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▲2008年4月開通の立派な呑之浦トンネルを抜けて、次に訪れた場所は呑之浦旧海軍第18震洋隊格納壕跡。
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▲震洋艇秘匿壕の手前には島尾敏雄文学碑記念公園入口がある。
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「島尾敏雄」は第18震洋特攻隊長として終戦。戦後は有名な小説家になった人で、昭和30~50年まで名瀬に住んだ。
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    ▲島尾敏雄海軍少尉(昭和19年夏頃)終戦時28歳。       ▲大平ミホ 終戦時26歳。
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妻である大平(旧姓)ミホも作家。島尾少尉とミホは加計呂麻島で出会う。
ミホは加計呂麻島で生まれ育ち、東京の女学校を出て島に帰って押角小学校の先生をしていた。
島尾少尉は横浜生まれ、九州帝国大学を繰り上げ卒業、昭和19年第18震洋隊隊長として加計呂麻島に赴任してきた。
東洋史を勉強した島尾少尉はミホの父の所蔵する中国関係の書物に興味をもち、ミホの家に出入りする様になり、2人
は恋に落ちる。その後昭和21年結婚し、長男伸三/長女マヤの2人の子供に恵まれる。島尾元少尉は昭和61年死去。

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▲呑之浦の入江を左に見ながら海岸線を歩いて行く。
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▲▼復元された「震洋」が収まる秘匿壕が迎えてくれる。
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この展示方法は非常に説得力があり、そして当時のままの現場にあるという事に意味がある。
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海軍でよくある入口付近のみコンクリート造り、奥は素掘りだ。欲を言えば発進レール(丸太)も復元して欲しかった。
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秘匿壕入口は正に震洋サイズギリギリに構築されているが、素掘り空間は割と余裕がある。
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▲奥行きはおよそ25m位。全長約5mの震洋が5隻収納出来る奥行きのはずだ。
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右手に秘匿壕が連なって口を開けている、当時は舗装道路道は無かったはず。丸太かレールで出撃態勢だろう。
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▲▼この秘匿壕は崩落するのは時間の問題だろう・・・。
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▼この秘匿壕は完全に崩落。
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▼この秘匿壕はかろうじて崩落をまぬがれているが・・・。
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▼ここも崩落は時間の問題だろう・・・素掘り壕はいつかは崩落する運命だ。
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ここも崩落か・・・。
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壕は5基確認出来た。第18震洋隊は52隻配備されていた。秘匿壕5基(25隻分)を見学した事になる。
加計呂麻島には、ここ呑之浦の第18震洋隊の他、三浦に姉妹隊の第17震洋隊が配備されていた。
大島海峡対岸の奄美大島本島の久慈湾には第44震洋隊があり、喜界島にも2個隊があった。
呑之浦では小舟による入江の他部落の交通を禁止し、入り江を封鎖した。
住民は浜沿いの道を通れずに山道を歩くことになっていたという。適当な場所に小さな番小屋が建ち、番兵が24時間
体制で住民から震洋隊を秘匿するのに海軍は神経を使っていた。奇襲攻撃(特攻)をする為の部隊だったからである。

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▲今は静かで美しい呑之浦の入り江。昭和62年、島尾敏雄著の「震洋発進」が出版された。その本には実際に出撃した
 震洋隊3隊の内の1つ、第22震洋隊の事が書かれているというので是非読んでみたいと思っている。
出撃した震洋隊は昭和20年2月15・16日フィリピン・コレヒドールに配備された第12震洋隊松枝義久隊長以下50隻。
昭和20年3月26日沖縄戦で運天港海軍基地より出撃した第42震洋隊、4月4日に出撃した第22震洋隊が中城湾や金武
湾沖に突入していった。

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▲ベニア板の船体にトヨタエンジン、船首に250㌔爆弾を積んで敵艦船に突入する海軍特攻艇「震洋」
[ 奄美諸島大島防備隊 ]※戦死はほとんどが空襲と戦争マラリア
(奄美大島久慈)第44震洋隊55隻S20.01.25配備 三木少尉以下178名(内13名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]三浦)第17震洋隊53隻S19.10.15配備 林大尉以下185名(内4名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]呑ノ浦)第18震洋隊52隻S19.10.15配備 島尾中尉以下186名
(喜界島早町)第40震洋隊55隻S20.01.25配備 安藤中尉以下192名(内3名戦死)
(喜界島小野津港)第111震洋隊26隻S20.02.25配備 後藤少尉以下190名(内5名戦死)
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▲▼次に向かったのは三浦にある艦船用給水ダム。瀬相の戦闘指揮所跡にも行きたかったが場所が解らなかった。
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▼案内標識に沿って舗装道路から反れると、この様な道になる。途中からは徒歩で行く事になる。
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少し歩いて小高い場所に行くと・・・再び案内板が。「あとちょっとでダムですよ」って何かホッとする。
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▼出た!ホントにダムだ・・・凄い。
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今でも満々と水が溜まっている。現役のダムの様だ・・・軍はダムまで造ってしまうとは恐れ入った。
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今でも使えるじゃないか?と錯覚してしまう程頑丈な造りで残っている。
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昭和初期から終戦まで、途方もない国防費が費やされていたであろう事が容易に想像出来る。
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雨が降ってなければもう少しダム下側を見学したかったが、草木に覆われている事もあり来た道を戻る事にした。
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▼▲戻る際に脇をよく見ると、ダムから繋がっている排水路が確認出来た。
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石垣が築かれ、しっかりとした造りだ。
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▲放水の際は此処を水が大量に流れて瀬相まで供給されるシステムだったのだろう。
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▲大島輸送隊 隊員勇士。大島輸送隊は民間の徴用船では無く、全てが海軍艦艇で編成されていた。
昭和20年3月27日、第17号1等輸送艦/第145号2等輸送艦/第146号2等輸送艦/第186号海防艦/第17号駆潜艇/第
49号駆潜艇の計6隻で編成された海上輸送部隊(大島輸送隊)が、3月31日18:00(加計呂麻島)瀬相に向けて佐世保を
出港した。
既に米軍は前日の26日沖縄の慶良間諸島への上陸作戦を開始しており、船団が沖縄本島へ辿り着くのは不可能だった。
そこで沖縄の手前の奄美大島・加計呂間島の大島防備隊に特殊潜航艇、弾薬、地雷、糧食などを一旦揚陸し、機会を見
て沖縄にピストン輸送しようと考えたのである。
しかし集まった6隻は全くの寄せ集めで、編隊航行すら出来ず信号も手旗信号以外は未熟だったのに加え、艦に乗るの
が初めての経験の浅い体力のない第2補充兵だった。
旗艦の第17号1等輸送艦は2月8日に竣工したばかりで、3月10日の沖縄輸送作戦が始めての作戦行動だった。
第186号海防艦も2月15日に竣工したばかりで、今回が初の作戦行動であった。

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▲(参考画像)第146号海軍二等輸送艦(戦車揚陸艦)
それでも何とか準備を整えた輸送隊は3月31日18:00に佐世保を出港、米軍機の攻撃を受けながらも4月2日午前1時
には無事、瀬相に入港して積荷の揚陸を開始した。
第17号1等輸送艦は特攻基地関係物資200トン、大島防備隊関係弾薬物資400トンを。2隻の2等輸送艦はそれぞれ乗
用車1台と120トンの物資を積んでいた。揚陸作業には防備隊や大島蛟龍隊の関係者、更に地元瀬相集落の住民がリレ
ー方式で揚陸作業を行った。軍民総出進軍ラッパを吹いての作業で4月2日06:30までに9割の分散揚陸を完了させた。
他に第17号1等輸送艦の後部には沖縄に進出する中平善司中尉の率いる甲標的2隻が積まれ、基地員・整備員約30名も
一緒に進出していた。

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▲(参考画像)第5号海軍一等輸送艦。昭和19年8月17日情島沖 甲標的発進実験時。後部に甲標的を搭載している。
甲標的は沖縄本島北部の運天港に基地があったが、一先ず奄美に進出して島伝いに沖縄を目指す計画であった。
入港前の空襲で中平艇は米軍機の銃弾を受けた。応急修理の後2日の空襲中は潜行していたが、修理途中の溶接不十分
な箇所から海水が浸入した為やむなく浮上している。
4月3日米軍機が大挙来襲、午前中の第1波~第3波の攻撃目標は瀬相沖の大島輸送隊の艦船だった。
各艦は地上からの対空砲火と合わせ米軍機を迎撃したが第186号海防艦が艦橋後部に直撃弾を受け大火災を起し轟沈。
この空襲で輸送隊は102名が戦死(海防艦53名、輸送艦49名)、負傷者80名をだした。

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▲(参考画像)海軍海防艦。領土近海で沿岸警備・船団護衛・対潜哨戒などを主要な任務とする目的で建造された艦。
 装甲が厚く航続距離・最高速は犠牲にされている。なので、鈍足の輸送船の護衛に適していたとも言える。

空襲終了後、第17号1等輸送艦の乗組員は応急修理に努めたが浸水が激しく、沈没は時間の問題だった。
そこで艦搭載の弾薬・食糧の他、船倉内の未揚陸の物資、更に25ミリ機銃も取り外して揚陸する事とし、乗組員と防
備隊の兵士達は、艦内の火災の熱で蒸風呂のような船倉内から、全身汗だくとなって物資を運び出した。
21:00総員退去が発令され、乗組員は大発で退艦した。上等主計兵曹の加藤重信さんは、陸上から沖合いでメラメラ
と燃える艦を見つめていた。真夜中頃に船倉に残っていた地雷の誘爆で大きな火柱と共に沈没したと語っている。
アメリカ軍の空襲と、座礁事故により輸送艦2隻と海防艦1隻を失った大島輸送隊の残存艦は、昭和20年4月4日午前に
瀬相を出港して佐世保を目指した。

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▲(参考画像)海軍駆潜艇。主に潜水艦の駆逐を主任務とし、局地での警備、艦船の護衛に当たる小型の軍艦艇だ。
4月7日佐世保を目指す大島輸送隊は、4月6日15:00山口県の徳山湾から出撃し、沖縄突入を目指す戦艦「大和」以下
8隻の海上特攻隊とすれ違った。11:00頃すれ違った両艦隊は互いの武運を祈る信号を送りあった。
その後12:30頃、大島輸送隊から6万メートル以上離れた南方に黒い爆煙が認められた。海上特攻隊の駆逐艦「朝霜」
か「浜風」の最期ではないかと言われている。他「雪風」「冬月」「矢矧」「磯風」「霞」が「大和」を護衛している。
実は佐世保を目指す大島輸送隊の残存艦は、08:30には海上特攻隊捜索に飛び立ったグラマンに発見されていた。
大島輸送隊が攻撃を受けなかったのは、米艦隊が大和撃沈に目標を絞っていたからである。

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▲昭和20年4月7日戦闘中の「大和」と「矢矧」
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▲必死の回避行動をとる「大和」。しかし戦闘機の護衛の無い船団は米軍機の恰好の攻撃目標にすぎなかった。
もし海上特攻隊が出撃していなかったら、大島輸送隊は空襲を受けて全滅していた可能性が高いだろう。
戦艦「大和」攻撃に向かった米艦載機は奄美諸島上空を通過している。奄美大島曽津高崎の海軍レーダーは4月7日早朝
200キロ以上の距離に大編隊を探知している。この編隊は帰途は島の上空を通りその数は約120機を数えたという。
喜界島では10:50頃、上空を艦上機150機が北西進するのが目撃され、その旨の電文が打たれ11:30頃にも大編隊
250機が北上中との電文が打たれたが、沖縄へ特攻出撃の「大和」の運命は変わらなかっただろう。

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▲敗戦後、残った二等輸送艦は復員船としても使用された、沢山の帰還兵が乗っている。
三浦には艦船ダムの他、「佐世保海軍施設部隊鎮魂碑」があるという事だったが、場所は簡単には解らなかった。
昭和20年6月20日米軍の空襲の際、防空壕に避難していた佐世保海軍施設部隊(防空壕等の掘削任務に従事)に爆弾が
落ち、全員が防空壕で生き埋めになり死亡したとの事。この時たまたま内地から来島していた隊員の家族も爆弾の直撃
を受け亡くなられたそうで、これらの方々の霊を鎮めるため鎮魂碑が佐世保海軍施設部隊名で建立されている。
現在でも、毎年6月20日には生き残った方やその家族の方達により慰霊祭が執り行われている。

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▲薩川まで来た。薩川集落は現在、35世帯59人との事。案内板で辿ったルートを復習してみる。
生間(港)➡渡連(砲台跡行かず)➡安脚場(兵舎見学)➡スリ浜➡呑之浦(第18震洋壕)➡三浦(艦船ダム)➡薩川だ。

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▲薩川小学校に「奉安殿」が残っていると書いてあるので行ってみた。
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▲カジュマロの木にくくりつけられた案内標識、子供達の手書きだろうか、手作り感が何とも言えずいいですね~。
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▲薩川小学校正門。この学校はNHK土曜ドラマ「島の先生」のロケ地だ。教師役は仲間由紀恵だった。
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▲▼素晴らしい自然に囲まれたレトロな小学校!全校生徒は7名(1年1名/2年1名/3年1名/4年1名/5年2名/6年1名)
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▼正門からは海!天気悪いけど・・・。
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▼そして正門の直ぐ横に・・・あった!昭和10年建立の奉安殿。
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敗戦前まで全国各地の学校にあった奉安殿。此処の奉安殿は小さいけど立派だな・・・。
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沖縄で見た奉安殿とは形が違うので、色々な形があった事を知った。薩川小学校の奉安殿は国の登録有形文化財。
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▼因みにこれは沖縄本島(沖縄市知花)「美さと児童園」裏庭に残る旧美里尋常高等小学校の奉安殿。市指定文化財。
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瀬戸内町(奄美本島含む)には6つの奉安殿が解体を免れ、倉庫などとして使われてきた。そして平成18年8月3日、国
の「登録有形文化財」となった。薩川小学校の他、古仁屋小学校・須子茂小学校・池地小中学校・節子小中学校・木慈
小学校(廃校)に奉安殿が現存しているとの事。
▼創立80周年を記念してつくられた「亡師亡友の碑」。薩川小学校は明治40年4月開校の歴史ある学校だ。

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▼次は実久(さくね)に向かうのだが、ちょっと芝方面から「夕日の丘」に寄り道。天気悪い・・・。
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▼眼下に実久ビーチと江仁屋離島が見える。江仁屋離島は海軍砲台が建設されていた島だ。
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▲天気が悪く最悪な画像になったが、晴れていれば素晴らしい景色だろう。黒矢印がビーチ。海の色が全然違う!
こんな素晴らしい絶景スポット「夕日の丘」だが、アクセスは素晴らしい道が通っているのに、通行量が無いに等しく、
落ち葉や、小さながけ崩れによる泥・砂利が散乱している区間が長く続き、スリップには注意したいところだ。
そして次は、加計呂麻島最西端にある実久(さくね)へ向かう。

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▲実久に着いた。案内板に書いてある江仁屋離島は、先程「夕日の丘」から見えた海軍砲台跡がある島の事だ。
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▲▼実久のビーチ。「夕日の丘」から見えた海の色が全然違う部分だ・・・雨なのに綺麗!
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この綺麗さは写真ではなかなか伝わらないだろう・・・今まで見たビーチで1番綺麗かもしれない・・・。
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▼慰霊碑があった・・・。
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実久の戦没者慰霊碑だ・・・まだ新しい綺麗なお花が供えてある、未来永劫大事にしていかないといけない。
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奄美大島に来てから、忠魂碑や慰霊塔、慰霊碑が非常に大切にされている事に感動していた。此処も例外無く綺麗。
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▲昭和50年6月吉日 郷土出身者建立とサイドに書いてある。戦後30年経ってからか・・・昭和28年返還だからね。
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▲当然の事ながら、一礼して黙祷をさせて頂きました。
お名前の苗字が漢字一文字の方が目立つ。これは薩摩藩政時代、鹿児島を含めた内地の人が、見下げた見識で奄美の人
と、直ぐ解る様に改名させられた歴史のなごりだと地元の方から聞いた。もちろん、証拠があっての話では無いそうだ
が、奄美の当時の文献が全て薩摩藩によって処分され、悲しんだ奄美の人は、全てを唄に込めたと言われている。
現在でも加計呂麻には多くのシマ唄が唄い継がれ、歌詞を読み解くと薩摩藩政時代の改名も唄われているという。

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▲加計呂麻島には大正10年に安脚場砲台、実久砲台、江仁屋離島砲台が建設された。
 その後海軍によって須子茂モン崎砲台と待網崎高角砲台、震洋秘匿壕が構築された様だ。
 江仁屋離島へは特別に区長の許可をもらい、加えて船をチャーターしないと行けないので今回は無理だ。
 しかし、実久砲台があったという事は、この辺りに兵舎があってもおかしくないと、辺りを散策。
 すると、やはりあった!ほぼ完全な状態で残っていた。

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▲▼安脚場で見た兵舎と、入口の感じも含めてほぼ同じ形だ。此処は「監守衛舎」跡。
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「見学はご自由にどうぞ」って感じで開放されているので、まずは外観を見て回る。
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▲大正時代はまだ材料を豊富に注ぎ込めたのだろう・・・強固なコンクリートの壁で兵舎を囲っている。
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▲これは何だろう・・・国旗(軍旗?)掲揚台か?
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▲掲揚台に登って撮影。
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▼雨なのに窓?扉?は全て開放されているので中は外から撮影。
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此処でも指揮官クラスの軍人が生活していたのであろう。
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今の公民館ぐらいの広さはある。
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▼あ!トイレがある・・・。
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▲▼奄美大島本島の西古見で見た兵舎と同じだ!
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▲ぐるっと一周して見学し、兵舎を後にした。兵舎から山手に向かって道があり、砲台跡に行けそうだったが、草木が
 生い茂り、当時の軍道のままで舗装道路でも無い為、雨でぬかるんでいた事もあり、今回は見学を断念した。
 帰りは瀬相から船に乗って、奄美本島に戻る事にしていたので、瀬相港まで戻った。
 瀬相のフェリー待合所で2枚のポスター?が目に入った。
▼俵中学校(ひょうちゅうがっこう)の最後の卒業生との事だ。現在無期限休校との事・・・。

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「奄美大島」で先に紹介した自衛官募集のポスター
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瀬相には海軍の戦闘指揮所跡が残っているそうだが、今回は雨という事もあり次回にする事とした。
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▼▲瀬相港を後にする。
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▲徳洲会加計呂麻診療所が見える、此処で対応出来ない救急搬送はドクターヘリが本島から来るそうだ。
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本島まで毎日フェリーで通勤している人も多いらしい。スーパーも無く不便な島という感が無いと言ったら嘘になる。
しかし、静かで超綺麗な海と自然だらけの加計呂麻島の島民達は、島のリゾートホテル建設も拒否したという。
奄美大島には22万トン級クルーズ船の寄港地建設計画が持ち上がったそうだが断念したと聞いた。
心の中で安心した感があった・・・島の経済状況や加計呂麻島の人口減少など、将来の不安と常に隣り合わせの離島。
短期間の旅行では見えない事の方が多いだろう、しかし将来の不安は離島に限った事では無く、本州に住む者でも同じ
だ。人気の沖縄(那覇)は何度も訪れているが、大阪と変わらない人混みと忙しさで、心底リラックス出来る島の様な気
がしなかった。奄美は心底リラックス出来る場所が無数にある。このまま静かに奄美の歴史が続いて欲しいと思った。

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▲奄美大島に戻ってから「てっちゃん」龍郷店で夕食を済ませ、ホテルに戻った。此処は美味しかった~。
※奄美の外食店では鶏飯(けいはん)というメニューが至る所で出されているが、特筆する程の料理では無かった。


これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】 泉水隆一監督作品YouTube

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 2018_02_01

奄美大島

Category: 奄美大島  

鹿児島県に属する奄美大島は、佐渡島・沖縄本島などに次ぎ面積5位の島だ。
奄美大島・加計呂麻島には戦時中、奄美大島と加計呂麻島に挟まれた大島海峡防備の為、海軍の奄美大島要塞が建設さ
れ、奄美大島の名瀬・古仁屋・久慈は軍港として使用された。
加計呂麻島には海軍の砲台や艦船給水施設やダムが建設され、特に薩川湾は水深が深い天然の良港で、戦時中は軍港と
して連合艦隊の錨地として大和や武蔵を含め多くの艦艇が錨を休めた港として有名で瀬相港に海軍司令部が置かれた。
(渡連)待網崎には高角砲台が設置され、大戦末期には呑之浦に第17・18震洋隊を配備。その遺構は現在も残っている。
大戦末期、奄美諸島には奄美大島・加計呂麻島に3隊、喜界島に2隊の合計5隊の海軍震洋隊(特攻艇)が配備された。
陸軍の海上挺身戦隊は、奄美大島(阿鉄集落)に海上挺進第29戦隊が配備されていた様だ。
奄美大島(久慈湾)に第44震洋隊を配備。古仁屋基地から第801海軍航空隊偵察第302飛行隊・第634海軍航空隊偵察
第301飛行隊の「瑞雲隊」(水上偵察機)が沖縄攻撃に出撃している。
奄美群島の主な島の中に、喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島がある。太平洋戦争(大東亜戦争)中、本土上陸を目指
す米軍の侵攻に備え、喜界島・徳之島には日本軍の飛行場が建設された。
知覧・万世や鹿屋から出撃した特攻機が、機体トラブルや交戦被弾で不時着した飛行場として良く耳にする島だ。
喜界島の海軍飛行場(不時着場)には、昭和18年7月10日南西諸島航空隊が開隊(本部は沖縄本島の小禄航空基地)。
南西諸島の陸上航空基地が管理下に置かれ、同隊の喜界島派遣隊が常駐していた。現在も喜界空港の位置は同じ。
徳之島には昭和18年、陸軍特攻隊(知覧/万世)の中継基地として陸軍飛行場(浅間飛行場)が建設され、昭和19年6月
から運用を開始している。沖永良部島には独混21連隊第3大隊が配備され、大隊は越山を中心に陣地を構築した。
特攻部隊の基地がある各島は激しい空襲を受けた。米軍は昭和20年5月喜界島に上陸部隊を送り込む作戦計画があった
が、実施されずに終戦を迎えている。
戦後、北緯30度以南のトカラ列島・奄美群島や沖縄・小笠原諸島は日本から分離され、サンフランシスコ講和条約発効
後も米軍の施政下に置かれた。東京や関西在住の奄美出身者らが始めた祖国復帰運動は奄美にも波及。
島民による署名活動や総決起集会、密航による東京での陳情活動などを経て、昭和28年12月25日本土復帰を果たした。
その後、小笠原諸島は昭和43年・沖縄は昭和47年に本土復帰している。
3連休中に奄美群島全てを見学するのは不可能なので、今回は2017年3月26日に再就航したバニラ・エア大阪/関西空
港線を利用して奄美大島・加計呂麻島の戦跡を駆け足で巡ってきた。

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▲関西国際空港から僅か1時間45分程で奄美空港に到着。
旧奄美空港は昭和39年開設で、昭和63年から現在の埋め立て地による新空港の運用を開始している。
よって奄美空港の旧軍との関係は無いものと思われる。旧奄美空港は現在、奄美パークとなっている。

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▲1月は晴れた日が珍しいという話の通り、小雨が舞うあいにくの天気だったが、気温は18度で十分南国だ。
1998年日本エアシステムが運航休止。2001年エアーニッポンが運航から撤退。2010年にスカイマークが運航休止な
ど、沖縄に比べて極端にアクセスが悪かった奄美大島だが、世界自然遺産登録を見据えてか去年3月バニラ・エアが再
就航。直通便が運航されて行き易くなった。飛行機の乗り継ぎは面倒だからね・・・。

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▲▼けっして大きな空港では無いが、綺麗に整備されていて気持ちいい。
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世界遺産登録成るといいな~でないと、また直行便が運航撤退とか言い出すと行きにくくなってしまうからね・・・。
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▼空港でレンタカーを借りて島を周る。「奄美」ナンバーを初めて見た。
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聞けば2~3年前までは、普通に「鹿児島」ナンバーだった様だ。まだ島では鹿児島ナンバーの方が多い。
「奄美」の方が島らしくていいね!原付スクーターのご当地ナンバーもお洒落!

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▼奄美大島の中核都市というと名瀬だが、2006年いくつかの村と町が合併し、現在は奄美市となっている。
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▼昭和20年4月 米軍の空襲により焼け野原となった名瀬(奄美市の中心部)
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▼現在の名瀬(奄美市) 赤矢印の場所は名瀬末広町のAiAiひろば。湾は埋め立てられて狭くなっている様に見える
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▲AiAiひろば(赤矢印の場所)で「紬コーディネート・コンテスト」が開催されると聞いていたので行って見た。
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▼AiAiひろばを目指して街の中心とも言える商店街を通る。すると商店街入口に大きな看板が・・・。
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南西諸島の離島防衛強化を目的に、鹿児島県奄美大島に配備される陸上自衛隊部隊は約550人規模。
地元の奄美市長・瀬戸内町長も受け入れを表明し、奄美大島の駐屯地整備は2015年から既に着工している。
奄美空港から名瀬へ来る途中、58号線を走りながら、兵舎建設現場も見えた。
離島有事に対応する「中距離地対空誘導弾部隊」や大規模災害時に初動対応を担う「警備部隊」などが主な隊で、皆、
日本の領土を守る為に島に勤務する隊員ばかりだ。有事の際、隣国の大国に数では到底勝ち目は無い事も理解出来るが
奄美大島一の繁華街で、プロ左翼のこの様な看板を目にする事で自衛隊員の士気が下がらない事を祈る。

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▲正月シーズンという事もあるが、この様に「日の丸」を掲げているお宅も沢山見た事もお伝えしておく。
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      ▲これは後にご紹介する加計呂麻島で見た募集広告。当然奄美の若者も勤務するはずだ。

▼気を取り直してAiAiひろばで開催された「紬コーディネート・コンテスト」を見学する。
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有名な大島紬(つむぎ)は奄美大島の基幹産業で(と言っても年々需要は減るばかりだが)紬製造約1300年の歴史は古い。
一反(12m50cm)が織り上がるまで、半年から1年を要する着物愛好家なら誰もが憧れる日本を代表する絹織物だ。

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▲2018年紬美人がステージに登場。一番左の方はイギリス人。オックスフォード大学の学生さんで泥染めや藍染めを
 勉強しに来ているそうだ。流石紬美人に選ばれた方達なので皆、美しい方ばかりだ・・・。

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▲駐車場に戻る途中、懐かしい61クレスタを発見!塩害の多い島ではかなり程度が良い車に見えた。
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▲宿泊は龍郷町のホテルカレッタ。屋外プールも備えた綺麗なホテルだった。
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▲▼翌日、マングローブ原生林や綺麗な海を見ながら一路「西古見観測所跡公園」を目指す。
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天気予報を覆しての晴れ間。いつも戦跡巡りでは天気予報を見事に裏切って晴れてくれる。本当に感謝だ・・・。
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▲大島海峡を左に素晴らしい景色だった。
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▲奄美市から島を南下し、西古見集落を目指してひたすら島を西へ進んで休憩。加計呂麻島と江仁屋離島が見える。
 大島海峡の入口にあたるこの海域は軍事的に重要視され、海の向こう(加計呂麻島の隣)右手の江仁屋離島には海軍の
 砲台が設置されていた。現在は無人島で、軍事遺構はかなり残っているが、水上タクシー等をチャーターしなければ
 個人的にはなかなか行く事は出来ない。

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▲西古見集落を抜ける時に通った古い橋、気になって車を止めて見学。この辺りから道が狭くなっている。
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▲昭和13年に作られた西古見橋が今でも現役だ!
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▲西古見ナハンマ公園。トイレも完備された綺麗なビーチだった。
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▲更に進んで行くと、人気の無い廃墟が現れた!どうやら当時の「奄美大島要塞」地区に入った様だ。
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事前情報が少なく、此処も知らなかったが兵舎の様だ・・・早々に車を止めて見学体制に入る!!
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当時の海軍兵舎跡だろう・・・大正10年9月に西古見第1砲台・西古見第2砲台着工の時に建設されたと思われる。
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現在は地元の方が物置きとして利用しているのだろう。70年以上経っているがまだまだしっかり残っている。
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▲▼頑丈なコンクリートの壁で仕切られた敷地内は恐らく高官の兵舎だったのだろう・・・中を覗いてみる。
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屋根は朽ち果てて落ちている様だが遺構は残っていそうだ。
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▼▲壁や基礎はしっかり残っていた。奄美大島の重砲兵第6連隊長 末松五郎大佐が居たのだろうか・・・。
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▼トイレが残っている!
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小便器も当時の物か!?
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ここに駐屯していた海軍部隊は奄美大島要塞重砲兵連隊とある。昭和19年5月3日をもって重砲兵第6連隊に改称。
陸軍独立混成第64旅団に編合され、主力は引き続き奄美大島要塞の防備にあたる一方、1個中隊を徳之島陸軍飛行場へ。
1個小隊を喜界島海軍飛行場の防衛のために派遣したとある。兵舎があるという事は砲台は近いはず!
舗装された道とは別に、舗装されていない当時の軍道が更に奥へと進んでいるのでその方向へ進んでみる。

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▲▼あった。砲台跡と弾薬庫が!大正時代に建設された物だが赤煉瓦では無い。砲台跡は大島海峡を向いている。
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砲台跡と弾薬庫は2基確認出来た。明治時代は石積みや赤煉瓦造りが主流だが、大正時代はコンクリートか。
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▲砲台完成当時はこの様な曲射砲が設置されていたのであろう(参考画像は28糎榴弾砲)
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弾薬庫内部の保存状態は良好。
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兵舎も弾薬庫も、何の案内板も無くひっそりと当時を伝えている・・・。
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現在は誰の所有物なのだろう・・・強固な極上物件だ(笑)
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▼弾薬庫の壁に刻まれた謎の数字・・・何の意味だろうか・・・?全く理解不能だ。
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どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教授下さい。
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▼弾薬庫から更に奥地へ進んで行く。
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すると、水源にしていたと思われる川を発見!
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僅かではあるが遺構が残っていた・・・沈殿池跡との事(ビグロ様有難うございました)
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飲めそうなぐらい綺麗な水だ・・・。
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沈殿池跡を後にする。(沈殿池とは、水を清澄化する役目を果す池である)
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▼時間も押していたので元来た道を戻り、最初の目的地である「西古見観測所跡公園」に向かう。
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▼やっと「西古見観測所跡公園」に到着。
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誰も居ない・・・。
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▼▲車を駐車スペースに停めて早速見学。階段を登って進むと・・・おぉ~!これか。
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しっかりとしたコンクリート造りの観測所だ。
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当時はほぼ土と樹木に覆われてカムフラージュされていたであろう。
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▼▲大島海峡の入口がしっかり見渡せる絶好の場所だ。
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▼観測所は中に入る事が出来る。
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早速中へ入って見る。当時ついていたであろう鉄扉は無い。
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中は綺麗に清掃され、保存状態の良さが引き立つ。
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この丸い台座の上に観測望遠鏡が置かれていたのだ。大正当時は輸入品だろうか。大きかったと思う・・・。
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KANSOKU.jpgこんな感じの物だったのかな?
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▼▲この空間から砲身の様な大きな双眼鏡で大島海峡に侵入する敵を監視していたんだろう・・・。
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ここで得た情報を、さっき見学した砲台に伝える仕組みになっていた。
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▲▼2階部分もある。当時は梯子があったと思うが、現在はちょっと見学は難しい・・・。
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▼中から入口を見る。
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最後に雄大な海と大島海峡を眺める。
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この先もずっとこの遺構は大島海峡を見守っている事だろう・・・振り返って観測所を見て次へ移動する事にした。
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▼観測所跡から更に進んで行くと、奄美大島の西の端。曽津高崎(そつこうざき)灯台がある。
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曽津高崎灯台の案内標識がある場所からは、舗装されていない荒れた道が続くのでパンク等に注意が必要。
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▼矢印の所が曽津高崎灯台。展望所からは、曽津高崎灯台まで連なる岬と東シナ海の水平線が見える。
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この先も、舗装道路では無く、石がゴロゴロするかなり荒れた道路なので、スピードは控えめに。
この付近では野生のヤギの群が見れるそうだが出くわさなかった(増えすぎた野ヤギは排除に手を焼いているらしい)
しかし、灯台近くまで行ったものの、地元の方がいらっしゃって、「この先灯台へは行けない」と告げられた。
聞くと、去年の台風で道が崩落しているとの事。しかし、旧軍施設が残っているからと、案内してくれた!

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▲どうやら、この崖の下に旧軍施設が残っているとの事。足を滑らせると海へ転げ落ちる可能性もある・・・!
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▲因みに通行禁止となっている場所からの絶景。かなり高い位置だ。
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▲黒矢印は歩いて来た方向。赤矢印は遺構が残る斜面の方向。慎重に斜面を下りると・・・。
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▲あった!斜面のほんの少しの平地に建設されている!監視所跡だろうか・・・?
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海の方向に窓が無いので、ただの倉庫かもしれない・・・台風対策で海の方向に窓が無いのか?
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結局灯台を見学する事は出来なかったが、案内してくれた地元の方によると、現在の灯台は戦後作り直された灯台だそ
うで、現在の灯台建設の際、海からコンクリートなどの資材を運搬したとの事!
此処に灯台が建設されたのは日清戦争後の明治28年12月6日で、翌年の11月8日竣工されたとの事。建設は陸軍省で、
奄美大島で最初の灯台だったという。戦時中は陸海軍の砲台や弾薬庫、防備衛所、監視所が建設されたそうだ。
戦後は海上保安部が管理し、灯台職員が住み、子供達は歩いて西古見小学校に通っていたという。
奄美方言があまり無い方だったので、お話を更にお聞きすると、その地元の方は出稼ぎで尼崎の川崎重工に10年以上勤
めていたそうだ。どうりで少し関西混じりの話方だと思った~!そういえば兵庫県尼崎杭瀬(くいせ)地区は奄美・鹿児
島出身者が多い街で「リトル奄美」と呼ばれているのを思い出した。
 その方からは米軍統治下の沖縄・奄美群島とで使用されていたアメリカ軍の軍票「B円」のお話も伺った。
奄美群島本土復帰後、本土で日本円に換金してもらった時、2倍程度だった事をよく覚えているとも語っておられた。
敗戦直後本土地域でも、占領軍によってB円も日本円と同じく正式な通貨とされ支払が開始されたが、日本政府が占領
経費を日本円で支弁する事を交換条件として軍票支払の停止を要請し、占領軍に承認された為、出回った量は極少だ。
昭和23年7月15日をもって、本土ではB円は廃止されたが、ほとんど流通していなかった為混乱はなかった。
本土で回収されたB円紙幣は沖縄で使用された様だ。
地元の方にお礼を言ってその場を後にした。
▼今回見学した遺構は白矢印の所。他にも未開の旧軍施設の遺構が沢山残っていそうだ・・・見てみたい!

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次に、久慈湾近くに残る、海軍艦船補給基地(給水施設)と第44震洋隊秘匿壕に行く予定だったが行けずじまい。
久慈湾が軍港だった戦時中は、軍艦や輸送船に給水する施設が建設され、大戦末期には第44震洋隊が配備された。

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▲▼米空母ハンコック(CV-19)から出撃した米軍航空機によって撮影された久慈湾の日本軍艦船への爆撃の様子。
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▼▲米軍の空爆を受ける久慈湾に停泊している日本軍艦船(昭和20年3月1日米軍機より撮影)
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▲上記の3枚写真がそのものかどうかは不明だが、恐らく「大信丸」ではないかと思う。
「大信丸」は明治37年起工の大阪商船の貨物船で、大戦末期には当然軍に徴用されていた。
直前の航海としては昭和20年2月27日(カタ604船団)鹿児島港を出港、3月1日久慈湾に入港している。
沈没日時は昭和20年3月1日08:39奄美大島久慈湾内で米第58機動部隊艦載機による空爆を受け、右舷後部に直撃弾
2発を受けて沈没、と記録されている。
この時「大信丸」の所属はカタ604船団。大信丸には、海上挺身第30戦隊の特攻隊員達が乗船しており、宮古島へ向か
う途中であったが、沈没により16名の戦死者を出している。(海上挺身戦隊は陸軍の特攻ボート「マルレ」の部隊)
この沈没で積み荷であった海上挺身第30戦隊のマルレは全て喪失。生き残った隊員は広島県安芸郡江田島町の「幸の浦
基地」に戻る事となり、後に8月6日の原爆を経験、戦隊長 富田大尉の命令を受け、彼等は素晴らしい救援活動を行う。
広島の壊滅を知った第30戦隊長の富田稔大尉は、広島市民救援の為、偵察任務の「第一次救援隊」を編成。
これは第30戦隊の隊員10名と軍医で構成、大発で幸の浦から陸軍船舶司令部のある宇品に向かわせている。
隊員の多くは10代後半の少年兵で、危険を顧みず広島市内で勇敢に懸命に救助活動を行っている。
8月15日玉音放送を聞いた後、江田島(幸の浦)の海岸で、積み上げた自分達の特攻艇「マルレ」を焼き払い、少年兵の
戦争は終わった筈だった。が・・・原爆症が少年兵達を襲った。
原爆投下当日に広島市内に居た被爆者には「被爆手帳」が交付されたが、救援隊の少年兵の様に後日市内に入って被爆
した者への救済処置が戦後長らく無く、高額な治療費を全額自弁するほかは無かった。
「被爆者」へのいわれなき差別は、これこそ当日被爆者の方達と差別無く受けたという。当時の被爆に対する無知で、
本来称賛されるべき兵士達を「ピカの病人」と差別した同胞が多かったのも事実である。

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奄美大島は1周460㌔もある大きな島。一言で観光と言っても、各所~各所を車で巡るには相当な時間がかかる。
鉄道は通って無く、高速道路も無い。時間も押していたのもあるが、国道沿いを、ただ通過しただけでは簡単に見つけ
る事は出来なかったが、「カンツメの碑」だけ立ち寄った。

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先の大戦とは関係が無いが、宇検村名柄と瀬戸内町久慈を舞台とした悲しい伝説がある。
薩摩藩政下時代、名柄に裕福な豪農の家があった。そこには使用人(ヤンチュ)➡[ 借金返済の代わりに身売りした人 ]
と呼ばれる人々がおり、その中に「カンツメ」と言う名の従順で美しい娘がいた。
歳は19~20の頃。カンツメは、ヤンチュ仲間からはもちろん、屋敷の主人からも想いを寄せられていた。
 ある日、隣村の久慈の役所で筆子役として働いていた岩加郎という青年が、名柄の豪農であるその家を訪れた。
屋敷の主人は岩加郎をもてなす為にカンツメに引き合わせた。夜も更けるにつれ2人の呼吸は冴えるばかりで、カンツ
メは身分も忘れて一夜を過ごした。その後2人は愛し合うようになり、両村の間の山で人目を忍び密会を繰り返すが、
ほどなくして、2人の仲はカンツメの主人にばれてしまう。
かねてからカンツメに想いをかけ、その度に拒まれ続けていた主人は激怒し、ある晩夜露に濡れて帰ってきたカンツメ
をその場に引き倒し、焼火箸で彼女を折檻した。
見るも無惨な姿になってしまったカンツメは、その日も山での重労働に追われ、仕事が終わると仲間と別れ、1人で岩
加郎と忍び会った場所に走った。何も知らない岩加郎は、沈んだ表情のカンツメを迎え、いつものように楽しい一夜を
過ごした。やがて山鳥が朝を告げようとする頃、カンツメは「あかす夜は暮れて、わきゃ夜は明ける 果報節のあらば
また見逢いそ(冥界の夜は暮れて貴方の夜は明けます。よい時節が来ればまた会いましょう)」と歌って姿を消した。
我に返った岩太郎が目にしたのは、カンツメの変わり果てた姿であった。カンツメの霊は、その後多くの祟りを主家に
もたらし、名柄の豪農の家は衰え消え去った。厳しい労働に加えて、主人の嫉妬と暴力。
ささやかな恋の想いをとげられぬヤンチュの立場。恨みをのんで死を選ぶしかなかったカンツメの悲しい物語である。

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碑文は以下の様に書かれている。
奄美は民謡の宝庫と言われ、先人から幾千首の民謡が唄い継がれ情緒豊かな旋律は、島の津々浦々に今なお聞く事が出
来ます。その数多い唄の中で、かんつめ節ほど島人に愛唄されているものはない。
この唄はその昔、この地方に主家で生涯を奴隷同様に働くヤンチュという制度があり、名柄集落のある農家で、ヤンチ
ュ娘(使用人)として仕える年の頃19~20歳、容姿端麗で気立ての優しいカンツメと、久慈集落の役所に勤める、歌と
三味線の巧みな青年岩加郎とはかない恋物語をうたった唄で、美貎で制度の中の弱き者がゆえに、周囲から妬みしいた
げられ一人寂しく散った乙女心をしのび、いつしか誰とはなしに人々にうたいい継がれてきた唄です。
島唄は奄美の自然を歴史に密着し、民族文化の基盤として島人の生活と共に生き続けてきたのです。
この様な祖先の貴産を風化させることなく未来に伝えていく事は大事な事であります。
ここに有志の方々の心暖まる援助をいただき「かんつめ節」の碑を建立するにあたり、かんつめの魂に永遠の冥福を祈
り、ふくつの名作を記念するものであります。  昭和59年3月20日建立

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▲先を急ぎ、宇検村に入る。
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▲次に立ち寄ったのが厳島神社。え?厳島神社って広島(宮島)の・・・?と思ったが平家は源氏に滅ぼされて・・・。
ここで明治・大正・昭和からもっと昔(得意分野では無いが)の時代を少し勉強する事になった。
奄美大島は元は琉球王国の一部だった。なので文化や方言なども沖縄の色が濃かった様だ。しかし壇ノ浦の戦いで源氏
に敗れ、落ち延びてきた平家の落人(おちゅうど)らによって、日本本土の文化が伝えられ、島には幾つかの城砦が築か
れたと言う。喜界島には追って来る源氏を警戒する為の城跡となる平家森も残っていると言う。そして平資盛、平有盛、
平行盛の三将平家が約50日間掛けて、奄美を平定したと伝えられている。
平有盛の家臣は龍郷町今井崎に、見張り用の砦を築き、源氏が来襲するのを警戒したと伝えられている。
(龍郷町は西郷隆盛が幕末に奄美大島で生活した際に、建てた新居がある場所)
平行盛は奄美の人々に農業(稲作)を教えたり、漁法や学問を教えたと伝わる。龍郷付近には「平家漁法」と伝わる遺構
が、海に残っているとの事だ。奄美大島は琉球文化と平安文化(大和文化)が融合した島という事だ。
なので、厳島神社が奄美大島にあっても不思議では無いという事が解った。勉強になりました(感謝)
因みに奄美大島には此処も含めて20ヵ所程の厳島神社(分社)があるとの事。確かに車から神社は沢山見た様に思う。

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▲黒兎のイラストが可愛い看板。
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▲右手がサクラツツジ。花の色が桜色であることからサクラツツジと呼ばれるそうだ。綺麗な花を咲かせる事だろう。
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▲かなり古そうな寄進塔がある。これが村指定文化財か・・・1702年!300年前の物だ・・・。
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▼移動中、牧場をみかけた。
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奄美の肥育素牛(そぎゅう)としての能力は、非常に高いレベルで安定しているとの事。
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奄美群島は鹿児島県内有数の子牛生産地帯としての地位を確立している。
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▼大島群宇検村を抜けて一気に島を北上、今里漁港「立神」と東シナ海が見えた。海の向こうは中国(杭州)辺りかな?
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▼宇検村の綺麗なビーチ。透き通る様な綺麗な海は絶景だった。
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▼大島郡大和村戸円を通過。
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▼戸円海岸は奄美有数のサーフィンスポットだ。
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▼大島郡大和村大金久嶺山の「嶺山公園」を通過、予定には無かったが何か少し気になったので寄ってみた。
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奄美大島の高台は全て綺麗に整備され、ほとんどがトイレ完備で非常に安心感が高い。
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階段を登っていくと東シナ海の絶景が・・・。
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展望台の直ぐ横に石碑があった。「祈 平和」・・・この場所は何か歴史・戦史に関係がありそうだ。
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石碑の裏を見ると、成程平家の落人らが監視していた場所なんだ・・・。
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明治時代から島の人は本土に出稼ぎに行き、残った家族は此処で無事を祈願したんだ・・・。
戦時中は出征将兵達の武運長久を祈願したとある・・・聖地なんだな・・・。来て良かった。

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▲この東シナ海のはるか向こうの中国大陸へ出兵した奄美出身の兵士も沢山居ただろうな・・・。
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▲▼展望台には立派な銅製の地図が置かれていた。☆(赤)印が現在地だ。
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▼展望台から島側を眺める、南国の山が連なっている。
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▼別の場所にあった案内板。石碑と同じ様な事が書かれているが「大東亜戦争」と書かれている事が意味深い。
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▼大和村国直への移動の途中、忠魂碑が見えたので立ち寄った。
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石碑の裏には大東亜戦争で戦死された大和村大金久(オオカネク)出身者のお名前が刻まれていた。
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大東亜戦争大金久出身者戦没者として14名のお階級・名前・戦死年月日・戦没地が刻まれている。
一番上の方は陸軍上等兵で昭和13年10月に中支(中国)で戦死したとあり、南太平洋、ブーゲンビル島、五島列島、ビ
ルマ、硫黄島、比島(フィリピン)そして最後から2番目の方は、昭和20年8月満州とある。陸軍と書いてあるから関東
軍だったのだろう・・・そして最後の方は、海軍兵長で昭和27年5月朝鮮と書いてある。
昭和20年に敗戦で何故?しかも朝鮮で・・・シベリア抑留から帰還途中に力尽きたという事か?無念だったであろう。
翌年の昭和28年12月25日が奄美群島本土復帰だった・・・さぞかし故郷に帰りたかったであろう、悲しい歴史だ。

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大島群大和村国直に到着。この先は奄美市だ。
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▼古仁屋には海軍基地があった。その遺構と思われる建物が加計呂麻島行きのフェリー乗り場近くに残っている。
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▼古仁屋港周辺(昭和20年3月27日米軍撮影)
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古仁屋港は海軍の対潜哨戒用・船団護衛及び索敵を行うた為の水上機基地で、米軍が沖縄本島に上陸を開始した昭和20
年4月1日以降、古仁屋基地を中継基地として合計75機(内「瑞雲」62機)が沖縄爆撃に出撃している。
沖縄戦に参加した「瑞雲隊」は2隊である。
1つは「第634海軍航空隊」偵察第301飛行隊(台湾の淡水から飛来し、古仁屋で補給を受け、沖縄戦に参加)
もう1つは「第801海軍航空隊」偵察第302飛行隊(福岡県の玄海や博多、鹿児島県指宿から飛来し沖縄戦に参加)
「瑞雲」は航続距離が燃料満載時でも520カイリにすぎない為、九州~沖縄間、台湾~沖縄間の約350カイリの往復は
不可能であった。その為、両隊とも奄美大島の古仁屋を中継基地として使用する事となったのである。
偵察第301飛行隊の場合は(台湾)淡水基地から発進、沖縄周辺の米艦隊を攻撃して古仁屋に着水、補給後再び攻撃に向
かい淡水に帰投するというものであった。
一方の偵察第302飛行隊は九州の博多や指宿を出撃して古仁屋で燃弾補給し、敵輸送船・上陸用舟艇・艦艇・航空母艦
を攻撃するものであった。古仁屋に常駐していた隊も居たという。詳しくは「水上機神風特別攻撃隊」参照。
古仁屋の海軍基地には、九州から特攻出撃し、機体トラブルや空戦で傷を負い、徳之島や喜界島に不時着した陸海軍の
特攻隊員が数多く古仁屋から九州へ海軍の水偵に乗って帰還している。

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▲▼古仁屋(こにや)港に残る旧海軍施設と思われる遺構。案内板などは全く無いので詳しい事は解らない・・・。
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海軍の燃料貯蔵庫か弾薬庫か、指揮所か・・・それとも大正12年竣工の大島要塞司令部関連の建物跡か?
瀬戸内町須手に地下壕などが残っていると聞いたが場所も解らず、今回は見学出来なかった・・・。

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▲少し埋まっている様にも見える・・・古仁屋も米軍の激しい空襲を受けている。夜間空襲も激しく連日連夜に及んだ。
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   ▼米軍の空襲を受け炎上する古仁屋港周辺(昭和20年3月26日米軍撮影)
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▼海軍水上偵察機 「瑞雲」(福岡県の玄海基地で撮影)
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▼2017年6月『艦隊これくしょん』と富士急ハイランドのコラボイベント「瑞雲祭り」で展示された瑞雲1/1模型
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古仁屋は軍と深い関わりのある瀬戸内町らしく、立派な慰霊塔や慰霊碑が綺麗に管理されている事でも有名だ。
今回は行けなかったが「富山丸慰霊塔」には行きたかった。充実した戦跡関連の案内パンフレットがあれば・・・。

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▲約3700人の軍関係者や民間人を乗せ鹿児島から沖縄へ向け航行中であった徴用船「富山丸」。
昭和19年6月27日「富山丸」を含めた12隻の船舶は「カタ412船団」を構成し、鹿児島湾を出港。
翌28日貨客船「履門丸」と「開城丸」は名瀬港に寄港し、「富山丸」を含めた他の船舶は17時に古仁屋に入港した。
翌朝、船団は名瀬と古仁屋からそれぞれ出港して那覇に向かう。
その頃、米軍の潜水艦スタージョン(USS Sturgeon, SS-187) が徳之島の東で浮上哨戒を行っており、04:33に
潜航哨戒を開始、05:29カタ412船団は針路220度で航行中と判断され、スタージョンは「富山丸」に照準を定める。
7時25分、スタージョンは艦首発射管から「富山丸」に向けて魚雷を4本発射、4本の内3本が「富山丸」の左舷船首と
二番船倉及び四番船倉と機関室の中間部に命中。
左舷船首と二番船倉に命中した魚雷の衝撃でガソリンが船内及び海上で発火して炎上する。
止めを刺したのは四番船倉と機関室の中間部に命中した魚雷で、「富山丸」は船体を二つに折って北緯27度43分東経
129度06分の徳之島南東12キロの地点で轟沈した。
轟沈と海上に流出して引火したガソリンの為、将兵4600名が脱出する余裕はほとんどなかった。
独混第44旅団をはじめとして、沖縄の現地部隊を統括する第32軍は大本営より飛行場の急速造成を指令されていたが、
本船の沈没によって旅団の生き残りは約700名その内活動出来る者約500名となり、トラック等も失われ、沖縄第32
軍が担当した飛行場建設(陸軍北飛行場と中飛行場)遅延原因の一つとなっている。
この沈没で、旅団将兵や船員、船砲隊員の合わせて約3700名が戦死。一隻の船による死亡者数としてはタイタニック
号や、翌年の戦艦「大和」の沈没よりも多く、当時としては第一級の惨事であったが、多くの船舶の沈没の実態と同様、
大本営により秘匿された。
情報を聞きつけ、ここ古仁屋からも漁船等で徳之島沖まで救助に向かい、当時古仁屋に陸軍病院があった事もあり、多
くの火傷を負った傷者が運び込まれた。古仁屋で亡くなられた方も大勢いたという。
昭和39年6月29日には徳之島亀徳に慰霊塔が建立され、昭和60年6月30日には古仁屋に供養塔が建立され、毎年遺族
等による供養祭が開催されている。

奄美大島の北部方面には有名はビーチが集中している。その中で土盛海岸に立ち寄った。

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▼天気が悪かったのでさえない空の色だが、土盛海岸は綺麗なビーチだった。
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▼冬季なので当然泳いでいる人はいないが、この注意看板は必ず確認してビーチに行った方が良いだろう。
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▼奄美大島で多くの海岸を見たが、ほとんどのビーチにこの様な警告看板がある。
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▼▲必ずルールを守って海を楽しみたい。大人がルールを守らないと子供達も守らなくなってしまうからね!
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「るりかけす運動」って初めて聞いたな~。
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▲あやまる岬にも寄ってみた。
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▼展望台からは太平洋が一望出来た。眼下に見える公園は「あやまる岬観光公園」だ。
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▼「あやまる岬観光公園」に下りてみた。赤矢印の所が、先程見下ろしていた展望台だ。
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▼海水プールもある様だ。
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▼海水プール。海水浴シーズンはいいだろうな。
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▼因みにこの地図は龍郷町までの奄美大島北部だけの地図。現在地は赤☆の場所。黒☆は奄美空港。
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▼「あやまるソテツジャングル」ジャングルの中に見学コースがあって「あやまる岬観光公園」は楽しめる場所が多い。
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敗戦後、米軍米軍施政下に置かれた奄美群島では深刻な食糧難が発生。ソテツの身からでんぷんを取ったナリガユ(ソ
テツ粥)はどんなにお金を持っている人であっても、当時食べた事が無い人はいなかったという。

▼この日1月8日は成人の日。「笠利町民族博物館」が無料との事で立ち寄った。
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それほど大きくない展示室が2つ。ギッシリ奄美の歴史が展示されていた。
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その中で気になった展示物をいくつかご紹介する。
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▲左側の展示ケースの中は、戦時中の軍服??と、ゼロ戦のプロペラ?の残骸だ。
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▲説明文によると「昭和19年頃、あやまる岬近海にて空中戦で戦った帝国海軍ゼロ戦の残骸。今でも残骸が水深20m
 の所で眠っている。」とある。昭和19年には既に奄美大島上空でも激しい空中戦があったんだ・・・。

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▲米軍の100ポンド普通爆弾。説明文では「第二次世界大戦で米軍はこの種の爆弾を奄美各地に投下した。その数は
 あまりにも多く、現在開発工事中に不発弾がこの様に発見されるケースは多い。」とある。

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▲千人針だ・・・ベースは大きな腹まきだろうか・・・。
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▲昭和28年12月25日の産業経済新聞。奄美群島本土復帰の新聞記事だ!
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▲どういう経緯でお亡くなりになったのかは解らないが、生涯を終えるには若い・・・若すぎる・・・合掌。
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▲▼最後は奄美大島の最北端、笠利崎灯台。晴れていれば太平洋の向こうに喜界島が見えたのだが・・・。
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この地方で昔から伝わる竜宮伝説のモニュメント「夢をかなえるかめさん」を見て奄美大島巡りを終えた。
事前情報も少なく、全て見学出来た訳では無い。皆津崎第1/第2砲台も行けなかったし、久慈の海軍艦船補給基地(給
水施設)と第44震洋隊秘匿壕も行けなかった。観光案内にも記載されておらず、奄美大島の戦跡は意外と知られていな
いのが現状の様だ。しがし大島海峡沿岸は日露戦争直後から、国土防衛の要として重要視され、早くから軍事施設が次
々と建設された。以下は奄美大島・加計呂麻島の主な軍事施設構築の記録と奄美群島/日本国の主な出来事である。
(※印は内戦・大戦名)
15世紀頃 琉球王国に相次いで支配される。
1185年平安時代末期(寿永4年)※壇ノ浦の戦い
1609年江戸時代初期(慶長14年)薩摩藩が奄美群島・琉球に侵攻
1614年(慶長19年)※大阪冬の陣
1615年(元和元年)※大阪夏の陣
1637年(寛永14年)※島原の乱
1702年(元禄15年)赤穂浪士討ち入り
1707年(宝永4年)富士山噴火
1803年(享和3年)江戸開府200年
1853年(嘉永6年)黒船来航
1860年(万延元年)桜田門外の変
1863年(文久3年)※薩英戦争
1867年(慶応3年)大政奉還
1868年(明治元年)※鳥羽・伏見の戦い
1873年(明治6年)徴兵制布告
1877年(明治10年)※西南戦争
1879年(明治12年)奄美が鹿児島県大島郡となる。
1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布
1894年(明治27年)※日清戦争
1904年(明治37年)※日露戦争
1908年(明治41年) 大島海峡で海軍が大演習を実施
1910年(明治43年)韓国併合
1920年(大正9年) 陸軍築城部支部が古仁屋に開設し要塞の構築を開始
1921年(大正10年) 加計呂麻島➡安脚場砲台、実久砲台、江仁屋離島砲台
奄美大島➡皆津崎第1砲台、皆津崎第2砲台、西古見第1砲台、西古見第2砲台、手安の弾薬庫造成工事(昭和2年完成)
1923年(大正12年) 奄美大島➡古仁屋に大島要塞司令部構築(現・鹿児島県立古仁屋高等学校)
同年(※関東大震災)
大まかに奄美大島(本島)は陸軍、加計呂麻島は海軍であった。
1931年(昭和6年)※満州事変
1937年(昭和12年)※日中戦争
1940年(昭和15年) 加計呂麻島➡安脚場に海軍防備衛所を追加構築
1941年(昭和16年)※大東亜戦争[ 太平洋戦争 ]
1941年(昭和16年) 加計呂麻島➡瀬相に海軍大島防備隊3000~3600名を配備。
1941年(昭和16年) 加計呂麻島➡瀬相に海軍病院・艦船給水ダム・高角砲台・防備衛所・兵舎など構築。
1942年(昭和17年)?月 加計呂麻島➡江仁屋離島に高角砲台・高射砲陣地増築。
1944年(昭和19年)5月 徳之島/喜界島の飛行場防衛の為、古仁屋の大島要塞司令部が閉庁
1944年(昭和19年)6月 徳之島南東12キロの地点で「富山丸」が米潜水艦の魚雷攻撃で轟沈。
1944年(昭和19年)8月 加計呂麻島➡(渡連)海軍待網崎高角砲台着工
1944年(昭和19年)10月 南西諸島に初空襲 那覇を壊滅させた10・10空襲は奄美群島にも及んだ。
1944年(昭和19年)?月 加計呂麻島➡(須子茂)海軍モン崎平射砲台・探照灯台・迎撃陣地構築。
1944年(昭和19年)11月 加計呂麻島➡(呑之浦・三浦)海軍第17/18震洋艇特攻基地着工。
1945年(昭和20年)3月 空襲により古仁屋の街がほぼ焼失
1945年(昭和20年)4月 空襲により名瀬(奄美市の中心部)の街がほぼ焼失。
奄美群島で終戦までに空襲で亡くなった人(461名)負傷者(299名)
1945年(昭和20年)8月15日 敗戦
1945年(昭和20年)9月 武装解除

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▲昭和20年9月7日沖縄本島(嘉手納基地)にて行われた琉球列島の降伏調印式で第2調印者として降伏文書にサインする
 奄美群島守備隊司令官 高田利貞 陸軍少将。米軍側は第10軍司令官スティルウェル大将。
(沖縄市森根地区にあたるこの場所には現在、記念碑が建てられているが、米軍嘉手納基地内で立ち入る事は出来ない)

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第10軍司令部 1945年9月7日
降 伏
下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、
ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。

北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より
北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より
北緯30度東経131度30分より頭書の地点

納見敏郎中将
先島群島日本軍司令官

高田利貞少将
奄美群島日本陸軍司令官

加藤唯雄海軍少将
奄美群島日本海軍司令官

J.W.スティルウェル 米国陸軍大将

宮古島からは第28師団長の納見敏郎中将、奄美大島から高田利貞陸軍少将、加藤唯男海軍少将らが降伏調印式に召還さ
れ、「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」を申し入れ、6通の降伏文書に署名して正式に降伏した。
9月21日アメリカ第10軍カンドン大佐が奄美守備隊の武装解除の為に命令文書を携え徳之島に来島した。
命令書には 「北部琉球の兵器を渡せ」と書いてあったが、高田少将は「ここは奄美群島であって、北部琉球ではない」
として「北部琉球」を「奄美群島」と書き換えさせたという。
昭和20年12月加計呂麻島の(瀬相)海軍防備隊司令部で行われた復員完了の証明書も「北部琉球」となっていた証明書
を「奄美群島」と改めさせている。
高田少将は終戦直後の9月3日、沖縄のアメリカ第10軍司令官ジョセフW・スチルウェル大将宛に手紙を書いている。
手紙には 「希わくは奄美群島を第2のアルサス・ローレンたらしむる、ねが勿れ」と書かれていた。
「行政権を奪い、占領状態を長く続け、民心を失うようなことをしてはいけない」という忠告の内容だった。
高田利貞少将は奄美群島本土復帰後の昭和31年に『運命の島々・奄美と沖縄』という著書を出版している。
高田利貞少将の忠告も空しく、敗戦後奄美群島の人達は苦難の道を歩む事になる。
昭和21年1月29日米軍(アメリカ合衆国)は沖縄周辺の支配権を確立する為、北緯30度(トカラ列島)以南を日本から分
離、米軍統治下に置くと鹿児島県大島支庁に通告した。
通告が奄美群島の島民約20万人にラジオで伝えられたのは2月2日。
既に米軍に占領されていた沖縄と違い、後に「2・2宣言」と言われたこの通告は寝耳に水だった。
日本復帰まで7年10ヵ月に及ぶ苦難の時代「アメリカ世(ゆ)」の始まりでもあった。

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▲昭和25年11月米軍施政下による奄美群島政府発足(奄美大島で撮影)
米など食料の大部分を本土に頼っていた奄美群島の人達は、米軍が海上を封鎖して本土との往来を禁止した事でたちま
ち困窮し、米軍から見て軍事的価値が無い事から、物資や資金が沖縄に集中し、奄美群島は取り残された状態になった
疎開先から引き揚げによる人口増加も加わり、奄美群島の人々は食糧不足で飢餓の寸前にまで追い込まれ、米軍に拿捕
される危険を冒して黒砂糖と食糧などを交換する「密航」(鹿児島県下の離島へ4日かけて行く)でなんとか生き抜いた。
奄美大島の密航出発地点は名瀬港に程近い「水浜」であった。
ここから闇夜に紛れて目指すのは、当時国境の島となる約200キロ離れた鹿児島県の口之島(くちのしま)。

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▲実際、口之島にたどり着くまでに250隻以上の「密航船」が米軍に拿捕されている。
一方で、新たな文化に触れさせたのも米軍政の一側面だった。軍政府が奨励したボクシングに熱中し「奄美バンタム級
チャンピオン」にもなった島民も居たほどだ。
米軍政府に楯突(たてつ)く者には厳しい態度だが「スポーツや文化の面ではフェアに評価する」と島民は感じていた。
しかし、食べるもの着るものにも困り、島民の我慢は限界に達していた。
昭和26年には日本復帰運動が本格化し、8月に始まった「復帰を願う断食」には多くの島民が参加した。
この時集まった「日本復帰の署名」は約14万人。当時、14歳以上の住民の99.8%が署名したと言われている。
復帰を果たした昭和28年12月25日奄美の全ての人がちょうちん行列や万歳で祝った。
実際訪れて車で走ると良く解るが、道路整備など、本当に各所綺麗に整備されている。
次に紹介する加計呂麻島は、現在人口減少が激しく、今は1300人程度だ。しかし道路はきちんと整備され、2008年
4月に完成したまだ新しい立派なトンネルがあった(ほとんど車は行き交わない)
奄美群島には2013年度までの60年間に2兆3000億円の国費が投入され、社会資本は格段に整備された。
いわゆるよく聞く「沖縄振興予算」と言われる国費は、鹿児島県にも投入されていて、鹿児島県の離島である奄美群島
他のインフ整備?に使われている。(他に島を活性化させるお金の使い道は無いのだろうか・・・)

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▲おおまかに今回巡った奄美大島の戦跡や展望台は地図の赤印の部分。まだまだほんの一部。奄美大島は大きい!


次回「加計呂麻島」へ続きます。


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 2018_01_10


終戦(敗戦)直後から昭和21,2年辺りまでの写真はモノクロ写真が多い。暗い戦争のイメージは、モノクロ写真が更に
暗さを倍増させる。「青空など無かったのではないか?」と錯覚してしまう程だ。ここに紹介する進駐軍が撮影した
写真は全てカラー写真。カラー写真は全てGHQ職員だったロバート・V・モージャー氏が、昭和21年~22年にかけて
撮影した写真だ。終戦直後の東京・名古屋・大阪・広島の風景が良く解る。
個別に全ての場所が特定出来れば、是非、現在の同じ場所に行ってみたいものだ。
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東京大空襲後の現在の墨田区両国付近、右手の川は隅田川。モノクロだとやはり限界がある。
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▲▼ここからはカラー写真。敗戦直後進駐軍管理下の日本をまずは皇居の桜田巽櫓から。
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▲皇居外苑坂下門付近の警備兵(イギリス連邦軍インド兵)終戦直後はインドはまだイギリスの植民地だった。
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▲▼北桔梗門前蛤濠の警備兵(米軍第1騎兵師団とイギリス連邦軍インド兵)
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▲ロバート・V・モージャー氏(Robert V. Mosier)
GHQの文民スタッフ(civilian secretarial staff)として昭和21年4月~翌年1月に日本に滞在した際、東京、名古屋、
大阪、広島等の全国各地で撮影したカラー写真を、2008年米国在住のモージャー氏の親族からカラースライド(304枚)
が寄贈された物。
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▼国会議事堂が見え、夏空が広がっている。
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▼国会議事堂前の道に駐車する多くのバス・・・進駐軍の車両だろうか・・・。
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▼皇居周辺の写真。この辺りは東京に住んでいなくてもだいたい何処だか解る。
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▼昭和13年竣工の第一生命ビル(戦時中は東部軍管区司令部)を接収。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)となる
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▲この車はなんていう車だろう・・・スチュードベーカー・コマンダーかな?
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▲皇居外苑の楠木正成像。今もあるのかな?
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▼▲アメリカ極東空軍司令部として接収された明治生命館
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▲東京銀行集会所。大連で同じ様な建物を見た事がある・・・。
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▼岸本ビル/内外ビル/日本郵船ビル/東京海上ビル。石炭暖房器具を使っているのだろう、煙突から黒煙が出ている。
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▼「日比谷帝國生命館」と書いてある。
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▼これは帝国ホテルかな。愛知県のテーマパーク「明治村」で見た事がある。
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▼これは空襲で被害を受けた修復中の東京駅だろう。
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▼空襲で焼けた建物。これは大本営陸軍部か!?
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▼東京宝塚劇場。ERNIE PYLEって書いてある。「沖縄戦」の伊江島で戦死した米軍従軍記者の事か?
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▼松屋銀座前。当時はPX(進駐軍の売店)として接収されていたそうだ。
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▼CITY HALLと書かれた建物は元何だったんだろう・・・東京都庁舎かな?
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▼▲これらは何処の何なのかは解らない・・・。
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▼横浜駅
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▼これは横浜港だろう。
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▼鎌倉の大仏かと思ったら、愛知県東海市の聚楽園大仏だという事だ。
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▼聚楽園弘法大師像と米軍軍人
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▼いつの時代も富士山は美しい・・・。
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▼山中湖かな?昭和の日本だ・・・何か美しい。
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▼▲山中湖周辺で進駐軍が接収したホテルだろうか・・・今も残っているのかな?
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テニスコートが写っている。何処だろう・・・。
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▲ 愛知県名古屋市中区の路面電車が走る大津通。
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▲遠望に名古屋日本徴兵館を望む。愛知県名古屋市
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▲愛知県名古屋市中区の松重閘門(まつしげこうもん)
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▲名古屋駅が見える。
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▲遠望に名古屋日本徴兵館を望む。
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▲▼一応余所行きの着物だろうけど、何か着物姿の普通の日本女性っていいな~って思えてくる写真。
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▼▲名古屋城だ。東南隅櫓(辰巳櫓)と思われる。
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▼名古屋城表二之門
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▼昭和20年5月14日未明の名古屋大空襲で全焼した天守閣は石垣だけが残っている・・・。
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▼奇跡的に残った西南隅櫓(未申櫓)
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▼焼失前の名古屋城
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名古屋は工業都市で、三菱重工業名古屋発動機、同名古屋航空機、愛知航空機、愛知時計電機、陸軍造兵廠、住友
金属工業、大同製鋼、神戸製鋼、日本車輌製造、名古屋造船、岡本工業、大隈鉄工等、多くの工場が立地していた為、
米軍の日本本土空襲の第一目標だった。名古屋は航空機産業のメッカであり、とりわけ航空機生産の最大拠点である
三菱重工業名古屋発動機は、東京の中島飛行機武蔵野工場と共に、米軍の日本本土初空襲初空襲(ドゥリットル空襲)
の最初の目標でもあった。
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▲陸海軍の飛行場跡か・・・凄い数の航空機の残骸・・・。
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▲▼綺麗な残骸だ・・・一式陸攻か?・・・塗装前に日の丸は入ってるんだ・・・。
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▼東海銀行の看板が見えるので、この写真も愛知県だろう。餓死者が沢山出た戦後において、写っている人はまだ裕
 福な人達だろう。笑顔も見える。
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進駐軍のカメラマンに写真を撮られるのに抵抗感は無い様だ。
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▼空襲で焼けた壁が痛々しい名古屋市中区の松坂屋。
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▼愛知県名古屋市の丸栄名古屋公証人合同役場五金。
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▼ミッキーマウスが描かれた愛知県内の飲食店。占領された・・・負けた・・・って思っただろうな・・・。
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▼名古屋市中区の松坂屋前の路上。
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▼愛知県庁と名古屋市役所。素晴らしい。旧満州国の「新京」みたいだ。今も現役で使われている。
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▼現在の愛知県庁と名古屋市役所。両方共に国の重要文化財だ。
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▲戦時中は当時の写真の様に、空襲を避ける為、黒に塗られていたが、当然現在は全て剥がされている。
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▼▲愛知県庁名古屋市役所遠景。
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▼・・・。
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▼愛知県名古屋市の中部配電付近。
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▲愛知県名古屋市中区
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▲名古屋観光ホテル
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▲名古屋市の護国神社鳥居
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▲愛知県名古屋市中区広小路東新町交差点の陸田ビル
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▲愛知県名古屋市中区の中村百貨店
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▲▼愛知県名古屋市の露店と映画演劇の広告看板
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▲▼愛知県名古屋市中区の名古屋日本徴兵館。
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▲愛知県名古屋市中区で建設中の丸栄百貨店。
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映画『明日への遺言』では、若者を愛した人「青年将軍」の通称で部下に親しまれた岡田資 陸軍中将が、第13方面軍司
令官兼東海軍管区司令官を務めていた昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭
乗員27名を自らの命令(旧陸軍内での法的根拠は与えられており、私的制裁の類ではない)で処刑した事に対する終戦後
の軍事裁判(横浜法廷)を再現している。(この映画の中で「石垣島事件」も文言として紹介されている)
戦犯裁判で、岡田中将は米軍による空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」「搭乗員
はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張し(岡田自身は、これを『法戦』と呼んだ)、検察や
米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。
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▲岡田資 陸軍中将 昭和24年9月17日戦争犯罪人【B級】(捕虜虐待罪)として法務死。享年59歳
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▲場所不詳
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▲岐阜県各務原市の「城山荘」昭和40年頃まで営業していたそうだが、現在は廃業して跡形も無い。
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▲製作中の和傘
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▲▼場所不詳
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▼心斎橋の「そうごう大阪店」(接収され、進駐軍の売店=PXとなっていた)
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▼原爆が落とされた広島・・・。
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▼原爆ドームと墓石とは何とも不気味な組み合わせだ・・・。
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広島は写真がカラーとなっても、尚も暗く感じるのは私だけだろうか・・・。
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▼オーストラリア軍兵士。これを見ると、豪州とも戦っていた事を再確認させられる。
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▲▼中に居た人達は一瞬にして吹き飛んでお亡くなりになったんだろう・・・原爆は恐ろしい・・・。
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▲京都の知恩院山門。
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▲東本願寺御影堂門
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▼▲これは間違いなく平安神宮だろう。平安神宮応天門
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京都に現存する寺院や神社は、今も昔も変わらない風景を残している事が良く解る。
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▲平安神宮拝殿
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▲平安神宮外拝殿
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現在は黒煙をあげている風景は京都には見られないが、当時はこんな感じだったんだ・・・。
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▼ここからの画像は、場所が何処か解らない
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▲▼今ではもう見られなくなった牛を引いての田起こしの風景。
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生き残った日本人は皆、必死に戦後の日本を復興させたんだな・・・と、つくづく思う。
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▼何処だろうな・・・奥に綺麗な雪山が見える。
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▼木造の物資運搬船だ。
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▼終戦直後から商売をしている人達は凄いバイタリティーだ。
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▼昭和の看板はカラフルで味があっていい!
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▼日本海軍に徴用されていた病院船「氷川丸」の貴重なカラー写真だ。今も重要文化財として残っている。
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▲焼け跡にバラック建てて商売スタート。ホント終戦直後の日本人は凄い・・・奇跡の復興と言われるのもよく解る。
自然災害でもないので何の保証も無く、全て「命さえがあれば」の精神で、国に文句も言わず頑張った日本人は偉い。
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▲▼映画館で娯楽を楽しんでいる人も大勢いる・・・ゼロからのスタートでは無い人も少なからず居たんだね・・・。
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▲元気そうな子供達だが、昭和22年以降の食糧飢饉で餓死者が大勢出ている・・・この子達は生き延びただろうか。
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▲▼飲食店が立ち並ぶバラック・・・裸電球も写っている。メニューに刺身が確認出来る・・・何の魚だろう・・・。
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▲愛知県名古屋市の様子だが「新興日本の春を楽しく迎ませう」と書いてある。終戦1年でこうも変われるものだ。
よく戦争映画やドラマで、戦後の極端な世の中の変わり様を驚くシーンがあるが、全く本当だった様だ。
▼戦時中クリスマスはあったのだろうか・・・少なくとも太平洋戦争末期はクリスマスを祝う余裕も無かっただろう。
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敗戦間際に戦死していった特攻隊員や自決した兵士の事を想うと、何とも複雑な気持ちになる・・・。
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▲何処だろう・・・富士山が見える。
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▲露店
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▲▼何処だろうか・・・。
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▲恐らくロバート・V・モージャー氏と同行していたGHQ職員。
戦後間もない日本のカラー写真 1949年~1950年YouTube
大日本帝国海軍の終焉YouTube


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 2017_11_19


今回は九州出張を利用して、以前行けなった鹿児島県鹿屋市の笠之原町・串良町の戦跡を巡ってきた。
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▲雨の予報を覆しての曇り空。桜島を見ながら鹿児島市内➡鹿屋へフェリーで向かう。
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▲あっという間に鹿屋市に着き、鹿屋市側より桜島を見ながら笠之原飛行場跡へ向かう。
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▲笠之原飛行場の歴史は古く、大正11年8月から敗戦までの24年間に渡って旧陸海軍の飛行場として使用されてた。
海軍が航空基地として使用を始めたのは太平洋戦争末期の昭和19年1月15日。
昭和20年1月には第203航空隊のゼロ戦72機が配備され、神風特別攻撃隊の直掩隊(零戦)が出撃していった。
昭和20年3月18日アメリカ軍による空襲で、格納庫を始めとする基地施設は消滅した。
敗戦後、民有地を買収して作られた飛行場跡は、地元地区民に農地として無償で払い下げられた。
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▲▼現在ただ1つのみ残る笠之原飛行場の掩体壕。(川東掩体壕)
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終戦後30基以上残っていた海軍式掩体壕も、現在はこの1基のみが現存するだけである。
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▼前部が崩れて喪失しているが、かなり粗い作りだった事が確認出来る。
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▼天井部分のアップ。鉄筋は入っていない様だ・・・。
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▼爆撃で出来たであろう穴も確認出来る。
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▼「セメント共販・・・」って書いてある・・・袋ごと固めてしまった様だ・・・。
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▼鹿屋航空基地に現存していた掩体壕が、今年に入って取り壊した際の破片が飾ってあった・・・。
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▼▲こんな物を展示する価値はあるのだろうか・・・状態が良かった掩体壕だったのに・・・。
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取り壊さず何とか保存出来なかったのだろうか・・・鹿屋は特攻隊が数多く出撃した現役の自衛隊基地なのに・・・。
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▲▼山口県の岩国基地に残る掩体壕とレプリカのゼロ戦21型
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映画「零戦燃ゆ」の撮影用に製作された機体で、7000万掛かったレプリカだという事だ。
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日本国内の岩国米軍基地内で、この様な演出で見学出来るにもかかわらず、何故鹿屋航空基地でこの様に、解りやすく
保存・修復する事が出来ないのか・・・。どんな事情があるにせよ、取り壊しは全くもって理解不能である。
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▲経年劣化も補修され、掩体壕も綺麗に保存されている。
※画像は-廃墟日常記録帳-様から提供して頂いた。有難うございました!
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▼ここから1本の滑走路が伸び、特攻機の直掩隊が出撃して行った・・・。
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▼現在は、畑の中に当時滑走路だったという事を物語るコンクリートが僅かに残るだけである。
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▼▲当時を物語るもう1つの遺構。コンクリート製の「地下通路電信司令室に通じていた」とされる入口が残る。
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▲何のくぼみだろう・・・銃眼ではなさそうだ。
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東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道の入口とされるが、地下道はまだ確認されていない。
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▲此処が入口かどうかは定かでないので、今後の調査が期待される。何とか掘り起して頂きたいものである。
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▲一見普通の民家に見えるが、実は笠之原飛行場時代初期に建てられた弾薬庫だそうだ。
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▲▼機銃掃射や爆撃の破片を受けた傷が無数に残る外壁も残っている。
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無償で払い下げられた際に民家として再生したのであろう。お住まいの方がいらっしゃるので見学する事は出来ない。
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▲しかし強度抜群の家だろうな・・・白く塗られているが、元々赤煉瓦造りである事が見て確認出来る。
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▲次は海軍串良航空基地跡に向かった。
現在は平和公園となっている一帯は、旧海軍教育航空隊があった場所だ。
昭和18年4月1日串良航空隊開隊・練習航空隊に指定され、整備教育を担当
昭和20年3月1日第22連合航空隊に編入、神風特別攻撃隊(艦爆隊)の基地となり、予科練教育を担当
昭和20年7月10日串良航空隊解隊、昭和20年8月15日敗戦。
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  ▲昭和23年に米軍が空撮した串良基地。赤い星印が現在の平和公園だ。滑走路は現在道路となっている。
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▲一帯が「平和公園」となったのは昭和44年10月1日からだそうだ。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、教育航空隊として開隊され、約5000人の飛行予科練習生が航空機の整備・搭乗・通信
などの猛訓練を受けた。昭和19年4月実戦部隊に編入、更に昭和20年3月1日より神風特別攻撃隊の基地となり、終戦
までの半年間に、神風特攻隊の精鋭363名、攻撃隊202名の合計565名の最後の地となったところである。
串良基地は沖縄作戦の際に、艦上攻撃機の出撃基地として使用され、特攻出撃や夜間雷撃に数多くの艦上攻撃機が出撃
し、沖縄周辺の敵艦船攻撃に向かったのである。ドラマ「永遠の0」のロケがこの平和公園でも行われた。
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▲訪れた時は丁度10月15日だった・・・偶然であった。追悼式が10/15だとは全く知らなかったのである。
※来毎年10月15日には、全国各地から御遺族や生存者が集まり、町民と共に追悼式が行われているとの事であった。
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▲当然の事ながら、私も慰霊させて頂いた。
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▼▲公園内には多くの慰霊碑がある。
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個別に慰霊する事はしなかったが、これだけ多くの慰霊碑がある公園も珍しい。
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▲これは間違いなく神風特別攻撃隊だろう・・・。
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▲▼東西1300m南北1200mの滑走路跡の両脇には、桜が植えられ、本土の桜前線はここから始まるとの事だ。
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▼次は串良基地の第1電信室に向かった。ドラマ「永遠の0」のロケにも使われた壕だ。
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此処は特攻機の最後の無線を傍受していた電信室だったという事だ。
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▲▼壕の入口を守る、分厚いコンクリートの爆風除け。
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半端ない分厚さだ・・・。
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▲▼入口を分厚い爆風除けが守る様に設置されているのが良く解る。
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▼では、早速中へ入ってみる。
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ドラマ「永遠の0」第3回のロケで使われた。『永遠の0』第3夜16:34辺りから平和公園・通信壕が映像に出てくる。
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当時も入口付近や階段には明かりが設置されていただろう。
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地下に吸い込まれそうな長い階段だ・・・。
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階段を下りると二手に分かれる。
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まずは左側。
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▲細長い廊下と通気口の様な役割だろう・・・出口の登り階段に続いていた。
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▲そして、メインの電信室だった部屋に入る。
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▼▲思ったより広くなかった。しかし、此処で特攻機の最後の個別識別単独符号を傍受していたんだ・・・黙祷。
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特攻機は突入時、電鍵を押しっぱなしにして送信し、その信号が途切れた時、「突入」として時刻等が記録された。
それはパイロットが戦死した瞬間でもあった。此処串良基地からは97式艦上攻撃機、艦上攻撃機「天山」など、2名か
3名で出撃した機が多く、操縦/偵察/電信のフル定員3名で出撃した特攻機が多かった。
なので、ゼロ戦などの単座戦闘機では、パイロット(特攻隊員)は操縦や航路、電信、銃撃などを全て1人でこなし、最
後の無電は電信キーを右肘で押し付けて送信し続けたが、複座式攻撃機では電信員が別に居る為、本来、識別信号の連
送だけで良いのだが、故国に向けて最後の電文(モールス信号)メッセージを発した特攻機もあった。
その内容のほとんどが『お母さーん!』であった。まれに『海軍のバカヤロー!』というメッセージもあったという。
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▼▲特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵(撮影場所不詳/昭和20年4月~5月頃撮影)
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抜けている隊もあるかもしれないが、海軍串良航空基地から出撃した神風特別攻撃隊は以下の通り。
詳しくは 「鹿屋航空基地史料館」 参照。
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第1護皇白鷺隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第1八幡護皇隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第3御楯隊」天山隊 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「第2八幡護皇隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2護皇白鷺隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「常磐忠華隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2七生隊」 昭和20年4月12日 串良基地より零戦で出撃
神風特別攻撃隊「第3護皇白鷺隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「八幡護皇隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月16日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「天桜隊」 昭和20年4月16日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「皇花隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「白鷺 赤忠隊」 昭和20年4月28日 串良基地97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「八幡神忠隊」 昭和20年4月28日 串良基地97艦上攻撃機で出撃 
神風特別攻撃隊「第1正気隊」 昭和20年4月28日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2正気隊」 昭和20年5月4日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「白鷺 揚武隊」 昭和20年5月4日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「菊水雷桜隊」 昭和20年5月11日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「第3正気隊」 昭和20年5月11日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「徳島第1白菊隊」 昭和20年5月24日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第2白菊隊」 昭和20年5月27日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第3白菊隊」 昭和20年5月29日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第4白菊隊」 昭和20年6月21日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「徳島第5白菊隊」 昭和20年6月25日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
第931海軍航空隊「雷風雷撃隊」 昭和20年7月22日 串良基地より艦上攻撃機「天山」で出撃(夜間雷撃)
第931海軍航空隊「攻撃第251飛行隊」 昭和20年8月12日 串良基地より艦上攻撃機「天山」で出撃(夜間雷撃)
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▲海軍97式艦上攻撃機(B5M1)
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▲海軍が79式艦上攻撃機の後継機として 開発・実戦配備した艦上攻撃機「天山」(B6N)
当時「ガソリンの1滴は血の1滴に匹敵する」と、燃料使用は厳しく監督されていた。特攻隊が片道燃料で・・・とい
う話はよく聞く。 しかし、その厳しい中で串良基地の燃料担当掌整備長は「搭乗員には決して燃料の心配はさせるな!
必要とあらば惜しみなく使用せよ」と、部下の整備兵に 申し渡していたという。
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▲案内板は、最後の無電を再現した音声が流れる仕組みになっていた。
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壁には、串良基地から出撃風景の写真がいく枚か飾られていた。
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「真珠湾攻撃」で活躍した97式艦上攻撃機ももはや老兵だった。戦争末期においてもかなりの数が残っていたという
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部屋らしい部屋は此処1室だけなので、黙祷して壕を出た。
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▲出口に通じる階段を登り終え、振り返って撮影(入口と出口は別階段)
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▲▼入口と同じ形の出口。出口側には爆風除けは無かったが、うっすら当時の土塁が残っていた。
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▼単純な作りの壕だったが、特攻機の最後の無電を傍受していた場所という事が意味深い。
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▼第1電信室と全く同じ構造の壕がもう1箇所残されているというので、次の遺構を見学しに行く。
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それは畑の端の方にポツンと残っていた・・・。
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▲▼さっきと同じ爆風除けと、こんもりした入口が見える。私有地の畑の中なのでこれ以上近寄る事が出来ない。
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▼出口も畑の真ん中に取り残される様に残っていた・・・。
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▼入れない様にブロックで蓋がされている。恐らく同じ構造だと感じた。
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次は串良基地に電力を供給していた発電室跡に向かう。
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此処は案内版などは一切無い・・・。
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ただのコンクリートの箱の様な構造だ。ディーゼル発電機を設置していただけの建物だからこれでいいのだろう。
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中に入る。思った通りただの箱だ・・・この狭さだと発電機は2基程度か・・・。
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発電機の台座すらも残っていない・・・どこかに重油を保管いていたタンクもあるはずだが・・・。
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▲奥には小さな小部屋があった。
しかし、近々この遺構は取り壊される事が既に決まっているらしい・・・なので、見納めだった。
次に、近くの大塚山公園には海軍が構築した高射砲陣地跡が残っているというので行ってみたが・・・。
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▲特にコレと言った遺構は残っておらず、大塚山公園の山頂付近から志布志湾を眺めてその場を後にした。
▼次に、鹿屋基地近くに第5航空艦隊司令部壕が残っているというので行ってみた。
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草木が生い茂る民家の裏山にひっそりと残っているらしい・・・。
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昭和20年3月、米軍の空襲が激しくなった鹿屋航空基地は、司令部ごと近くの山の壕に移転。
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▲右手に壕口が見えた。昭和20年1月頃から約200人の工員が3交代制/24時間体制の突貫工事だったという。
鹿児島県本土の52%、宮崎県の16%の面積を占めるシラス台地は、火山噴出物からなる台地で崩れやすく、掘るのは
難しいと言われていた。総勢約600名の工員の大半は朝鮮半島出身者で、壕造り・採石・採砂・滑走路補修の3中隊に
分かれ、外出・外泊原則禁止の中、必死に作業に従事していた。
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この付近には三角兵舎が建てられ、出撃を待つ特攻隊員や学徒通信隊の女学生が共同生活をしていたという。
学徒通信隊員は壕が完成してまもなく、軍が借り上げた大きな民家に寝泊まりし、こちらも3交代制/24時間勤務で任務
にあったっていたという。
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今回、入壕はかなわなかったが、鹿屋市が調査した際の動画がYouTubeにUPされたのを見た事がある。
(YouTubeをご紹介しようと思ったが、現在は削除されている様で探しも見つからなかった。見つけた方教えて下さい)
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▲入口からカメラをねじ込んで撮影。かなりの規模の大きな壕が延びているそうだ。見学出来る様になるのを願う。
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▲玉音放送翌日に部下と共に沖縄の海に消えた「宇垣特攻」で有名な宇垣纏 海軍中将。
敗色濃厚の昭和20年。海軍が、残存戦力を総結集して第5航空艦隊を編成したのは昭和20年2月10日。
宇垣纏中将が司令長官に任命され、鹿児島・鹿屋基地に赴任した。
海軍省から第5航空艦隊に与えられた任務は、練習機を含む約2000機の航空兵力で全機特別攻撃を展開する事だった。
もはや熟練搭乗員や保有機数が少なく補給もままならない第5航空艦隊としては、危急存亡の状況下で特攻作戦に変わ
る方策が無く、宇垣中将は、この第5航空艦隊司令部壕から特攻命令を出し続けた。
それまで特攻は現地部隊で自発的意思に基づいて編成されてきたものが、軍令部・連合艦隊の指示意向という形で、特
攻作戦が「沖縄戦」以降、主攻撃とされていく事になる。
山本五十六司令長官亡き後、日本海軍の相次ぐ敗報に次第に戦意を喪いつつある海軍中枢にあって、徹底抗戦を主張し
たのが宇垣纏と、第1航空艦隊司令長官だった特攻の生みの親、敗戦後割腹自決でこの世を去った大西瀧治郎であった。

その後、志布志湾防衛の為に陸海軍が構築した「本土決戦陣地壕」を駆け足で数ヵ所を見学する。
▼「陸軍内之浦臨時要塞」跡。(有明要塞跡)を見学。
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「本土決戦」で最後まで戦い抜く覚悟の日本に対して、連合国軍は日本本土上陸作戦を計画していた。
この作戦は「ダウンフォール作戦」と呼ばれ、「オリンピック作戦」「コロネット作戦」に分かれていた。
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▲コンクリートの砲台が海岸に向かって開いている。有明地区隊/重砲兵第15連隊[ 連隊長 ]石黒豊治大佐
独立歩兵第664大隊/独立歩兵第666大隊/鹿児島地区第16特設警備隊の1小隊
重砲兵第15連隊[ 第1大隊・第2大隊・独立野砲兵中隊・独立十加小隊・独立速加小隊欠 ]1221名が陣地守備を担当。
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▲重砲陣地は南九州への米軍上陸予想地域として有力視された志布志湾(大隅半島と都井岬に挟まれた幅15km、奥行
15kmの太平洋に面した湾)に向けて構築された。
奥には10kmもの砂浜が広がってる為、米軍の大部隊の揚陸が可能と考えられた。
また内陸部には串良飛行場などが点在していた為、それらを占領する事を目標に上陸が予想されていた。
なので、その志布志湾南端の内之浦町海蔵に重砲陣地が構築されたのであった。
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オリンピック作戦とは、九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦である「コロネット作戦」の為の飛行場確
保であった。作戦予定日はXデーと呼称され昭和20年(1945)11月1日に上陸作戦が予定されていた。
(この日程は日本軍に完全に読まれていた事が戦後明らかとなり、後に機密漏えいを疑う騒動となった)
海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。
陸上部隊は14個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。なお、これを支援
する為の兵力誘導用欺瞞作戦としては「パステル作戦」が計画されていた。
「パステル作戦」は、連合国軍の作戦目標が昭和20年(1945)10月に日本が占領下に置いていた中華民国上海周辺に上
陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させるものであった。
また、直前の陽動作戦として10月23日~30日にアメリカ軍第9軍団(8万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行
う事や、イギリス空軍のアブロ・ランカスターが連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として
沖縄から出撃する予定であった。事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により種子島、屋久島、甑列島などの島嶼
を、本土上陸5日前に占領する事も検討された。
※空軍では無差別爆撃を続ければ昭和20年10月1日に戦争を終わらせる事が出来ると、カーチス・ルメイ将軍は考えて
 いたという。東京・名古屋・大阪・神戸と都市を焼き尽くし、鹿児島などの地方都市にまで爆撃の範囲を広げていた。
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▲砲塔は無く、今は水没が酷いので中に入る事は出来ない。しかし内部はしっかりとしたコンクリート造りだ。
砲台形式は穹窖砲台で、砲台には15糎加農砲。他に7門が構築されたという(計画は8門、砲不足により7門となる)
内訳は「96式15糎加農砲 2門」「45式15糎加農砲 1門」「7年式15糎加農砲 4門」であったが、この程度の守備では
到底連合軍の上陸は阻止出来るはずも無く、「沖縄戦」の二の舞を演じる事になったであろう。
他の施設として観測所3ヶ所、150糎探照灯1基であった。観測所は現存するが、今回は時間が無く、次回とした。
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ルーズベルト大統領の死去に伴い、跡を継いだトルーマン大統領はポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、
ソ連の日本参戦を阻止する為、そして日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させる事が可能になった事から広島・
長崎へ原爆投下。結果「ダウンフォール作戦」発動前に日本が降伏した為この計画は中止された。
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▼鹿屋市浜田町にある浜田砲台(坂元砲台)跡には弾薬庫だったという遺構が現存していた。
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大戦末期、浜田海岸に上陸する敵を迎え撃つ為、海軍が設置した砲台だそうだ。
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▼弾薬庫側から砲台が設置されていたという藪を見る。その向こうは浜田海岸だ。
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▼少し中に入って見る。砲員退避所も兼ねていたと思われる遺構は間口は広くとられていた。
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入口付近はコンクリート製だが、奥は素掘りのまま。崩落が激しいので入壕は断念した。
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▼最後は高須海岸に構築されたトーチカ陣地。
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高須海水浴場脇にひっそりと銃眼付のトーチカが残っているという。
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海岸線に沿って歩いていくと・・・。
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あった!銃眼だ・・・。
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自然の岩をくり貫いたのか加工したのか、コンクリート製の銃眼がビーチを狙っていた。
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裏側からどうにかは入れないものかと尋ねたが、現在は塞がってしまって無理な様だ・・・残念。
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石垣が追加で構築されているので水際交戦に備えてのトーチカだろう・・・。
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▲よじ登って銃眼内部を撮影。上手く写らなかった・・・。
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海岸線を先へ進むと、明らかに人工的に岩場が切り取られている部分がある。
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詳細不明との事だが、此処にレールを敷いて、特攻ボートの震洋かマルレを出撃させるつもりだったのではなかろうか
トーチカの直ぐ近くという事を考えると、船で構築機材や材料を運んでくる為に接岸場所を構築しただけかもしれない。
敗戦後の昭和20年9月4日進駐軍アメリカ海兵隊2500人が高須の金浜海岸に上陸した。
当時、鹿屋の多くの人々が進駐軍を恐れ、山間部に逃れたと言われている。
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▲敗戦後の昭和20年9月4日高須の金浜海岸に進駐軍のアメリカ海兵隊2500人が上陸した。
9月3日進駐軍先遣隊が先ず鹿屋航空基地に降り立ち、シリン大佐は「カミカゼ・ボーイはどこにいるのか?」と、最初
に質問したと言われている。
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▲▼フェリーの時間が迫ってきていたので急いで垂水港を目指す。桜島を見ながら鹿屋市を後にした。
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▼今まで鹿児島市内は、通過しただけで真面目に見学した事が無かった。
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折角なので少しだけ市内を見学してから帰路に就く事とした。鹿児島市公会堂からスタートする。
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▼▲辺りを見回すと、西郷さんは当然として、明治・大正・昭和初期頃に建てられた建物が目に付く。
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規模は小さいが、日本統治時代が色濃く残る「大連」を思い出していた。
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▲この建物もどう見ても古い。最近まで鹿児島県立博物館として活用されていた様だ。
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▲鹿児島大空襲の時、多くの人が避難・集まった照国神社が正面に見える。
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▲薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(しまずなりあきら)を祀る照国神社。
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▲西郷を逸材と見抜き、海外の文化や技術を積極的に取り入れ、薩摩藩の枠を超え幕府に日本全体の改革を求めた明君
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▼▲明治16年建築の元県立興業館。現在は活用されていない様だ。
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▼山形屋デパートは大正6年の建築物。
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路面電車も走っている。広島も原爆が無ければこの様な風景が少しは残ったんだろうな・・・。
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▲▼南日本銀行か・・・この建物も明らかに古い!
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昭和20年3月~8月にかけて8回の空襲を受けた鹿児島県。よく耐えて残ってくれた・・・。
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▼鹿児島市役所は昭和12年完成。昭和20年6月17日の空襲で半壊したが修理されて今でも現役だ。
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鹿児島県は本土最南端に位置するのに加え、知覧/万世/鹿屋/串良などの特攻基地が設けられていた為、地方都市の中
でも鹿児島県は特に空襲が激しかった。
昭和20年6月17日120機のB-29がマリアナ諸島から発進し、午後11時、鹿児島市上空に飛来。
6月17日の鹿児島大空襲で、死者は2316人、負傷者3500人、市街地の44.1%が損壊された。
昭和20年3月~8月にかけての8回の空襲で、最終的な死者は3329人負傷者4633人市街地の93%が焼失している。
▼最後に桜島が見える絶景ポイントと、西南戦争で西郷隆盛最後の地を見学しに城山に向かった。
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▲島津の居城だった鹿児島城(鶴丸城)跡付近から城山に登っていく。
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▼此処が「西郷隆盛最後の地」城山薩摩軍陣地だ。
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此処も1度来てみたかった。
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この壕は無料で入る事が出来る。
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早速入壕する
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入って直ぐ左側に小さな小部屋がある。そこには小さな西郷さんが居た。
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壕はコの字型に掘られた単純な壕だが、中には西南戦争を伝える絵が展示されている。
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西郷隆盛最後の時も描かれていた。私利私欲を嫌ったこの人が生きていれば歴史は変わっていたであろうか・・・。
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どうだろう・・・日清・日露・日中・日米の戦争に日本は向かったであろうか。そんな事を想いながら壕を後にした。
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▼壕から少し下がった場所にも壕口が2つ口を開けている。此処は薩摩軍の司令部壕跡だ。
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本来は此処から見学を開始すべきだと思うが、駐車場の位置関係で上から下ってきてしまった。
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日本国内最後の内戦と言われる西南戦争の戦跡だ。
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柵がしてあり、観光客も多いので、流石に入壕する事は出来なかった。
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しかし、「司令部壕」と言われている壕だが、そんなに深い壕ではなさそうだ。
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▼当時の城山薩摩軍陣地
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▼どこまでが本当かは解らないが、城山に立てこもった薩摩軍が、最後は官軍に完全に包囲されていた事が解る。
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明治10年9月24日西郷隆盛自決。とされている・・・ロシアに脱出したとか・・・西南戦争も詳しく勉強せねば・・・
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▼最後は桜島が見える絶景ポイントに向かった。此処は明治23年 鹿児島市に最初に出来た公園だ。
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▼展望台からは桜島が綺麗に見えた。
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▼鹿児島大空襲後の鹿児島市。恐らく昭和20年頃に城山から撮影されたものだ。山形屋も写っている。
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Kagoshima, Japan after American aerial bombing, 1945
鹿児島県は、私の中で「THE戦跡」と呼んでもおかしくないくらい、戦跡が多く残る県。という印象だった。
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▲観光地をフォローする為にご紹介しておくと、鹿児島市の商業施設・ドルフィンポートにも少しだけ立ち寄った。
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▼晴れていればこんなに綺麗な桜島をまじかに見る事が出来るスポットだ。
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周辺には北海道「小樽」の様な石造りの古い倉庫群も残る。
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次は丸1日かけて鹿児島市を観光してみたいと思いながら鹿児島市を後にした。



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 2017_11_05


「 紫電改保存館」館長の取り計らいで、今回愛南町の戦跡を巡る機会を頂いた。
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▼▲まずはご挨拶がてら紫電改保存館へ。
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館長のブログ「 紫電改を伝えたい!あいなんからの祈り」
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▲此処は再訪となる。休日の中、飛行服で出迎えて頂いた館長と楽しい会話の時間を過ごしながら、紫電改を見学。
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▲翌日から愛南町の戦跡巡りに出発。
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▲▼まずは特殊潜航艇「蛟龍」(こうりゅう)が配備されていたという深浦基地跡を見学。
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この鳥居をくぐれば深浦湾に出る事が出来る。
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現在は静かな漁港だが・・・右手に壕の入口が見える。第10特攻戦隊第102突撃隊「第53蛟龍隊」の秘匿壕だ。
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入口は戦後ブロックで蓋をされた形になっているが、見学用?の小さな入口から入れる。
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中はしっかりとした海軍式のコンクリート巻き。此処に「蛟龍」が配備されていたという14番壕だ。
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▲昭和20年に5人乗り「甲標的」として開発された「蛟龍」(こうりゅう)。呉の海軍工廠や長崎造船所で大量産された。
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▲日本敗戦後、呉の海軍工廠のドックに111隻の「蛟龍」を集めて視察する米軍の調査チーム。
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▲壕内部から入口を撮影。ハワイ真珠湾攻撃で採用された「甲標的」の進化型と言われる「蛟龍」は「人間魚雷回天」
「海龍」そして「蛟龍」と、特攻兵器にその姿を変えていった。
単独での攻撃では、魚雷2射線に過ぎないので命中率は低く、攻撃目標に肉薄しての攻撃となる。
しかし、運動性能も通信能力も貧弱であると共に、魚雷発射後に艇が水面上に飛び出してしまうという欠点があった。
船首の魚雷が無くなって重量が軽くなり、魚雷発射後は船体前半が浮上してしまい、敵艦から発見されてしまう。
米軍艦艇は単独ではなく、編隊を組んで航行しているので攻撃目標以外の艦艇や上空哨戒機から発見され、攻撃され
てしまうリスクはかなり高かった。元隊員の証言で、基地整備兵に「もし運良く帰還して整備に戻ってきても、もう積
む魚雷は残っていませんよ」と言われ、出撃後は2発の魚雷を発射した後は3発目として自爆するしか無かったと語って
おられる。▼画像のレールは戦時中の物では無いという事だ。
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「蛟龍」は「水中特攻部隊」として大戦末期、正式な出撃記録は確認出来ていないが「沖縄戦」で運天港から実戦出撃
した記録が残っている。深浦基地にも多くの若い特攻隊員が配置され、本土決戦に備えて4隻が出撃準備を整えていた。
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旧海軍の根拠地柏崎湾。綺麗な海沿いの道を次の見学地、回天が配備されていたという麦ヶ浦基地跡へ向かう。
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▼▲麦ヶ浦に到着。早速回天が配備されていたという麦ヶ浦基地跡に残る回天秘匿壕へ向かう。
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昭和20年8月3日大分県「大神基地」から第21号一等輸送艦に搭載された8基の回天が麦ヶ浦基地へ向かう。
昭和20年8月4日麦ヶ浦基地に第11回天隊が配置され、8基の回天が配備された。
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因みに麦ケ浦基地に回天8基を運んだ第21号一等輸送艦は、呉海軍工廠で建造された最後の海軍艦艇。
昭和20年8月9日和歌山県の由良白崎基地(第16回天隊)へ回天4基を輸送する為、広島県の呉を出港したが、愛媛県の
松山沖において、九州・四国方面を攻撃していた伊江島所属米第318戦闘航空群/第19戦闘機中隊のP-47に捕捉され、
攻撃を受けて損傷、和歌山へ向かうのを断念し、呉へ引き返した。
しかし機銃掃射を受け続け死傷者続出、艦がもたないとの判断で愛媛県にある津和地島に座礁させた。
戦死者60数名・重軽傷者約100名、甲板配置の乗員は殆どが戦死してしまったという。
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陸地に目をやると、2基の秘匿壕がかろうじて残っていた。
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▲▼まだ状態がましな方の1基目
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震洋艇の秘匿壕ではこの様な素掘りの秘匿壕を数多く見てきたが、回天の格納壕としてはかなりお粗末な秘匿壕だ。
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▲▼2基目は草木やゴミに覆われて入壕に苦労した。
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どちらも壕の前部は崩落しており、かなり奥行きの浅い壕になっているが、当時は回天が収納されていたのだろう。
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▲宿毛湾には終戦後、麦ヶ浦基地配備の回天8基が、米軍の命令で投棄され、今も海中に沈んでいる。
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戦跡では無いが外泊という場所にある「石垣の家・文化の里」という場所に案内して頂いた。
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かなり高い位置までの見事な石垣で囲われた外泊集落は愛南の観光スポットだそうだ。
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▼外泊港からは遊覧船も出航している。
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▼次の目的地である宿毛湾に行く為に高知県入り。宿毛リゾート「椰子の湯」で昼食をいただく。
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建物が何となく戦艦か潜水艦の艦橋に見えるのは私だけだろうか・・・。
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宿毛リゾート 椰子の湯(高知県)からは、宿毛湾が一望できる絶景ポイントがある。
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目の前に広がるのは宿毛湾。かつて連合艦隊の大小艦艇が訓練・停泊・公試を行っていた泊地だ。
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沖の島⇔鵜来島(うぐるしま)を戦艦大和が公試運転した有名な湾だ。
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▲公試運転中の戦艦大和
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▲沖の島が見えた。
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宿毛湾の旧海軍基地が宿毛市宇須々木(うすすき)地区に残っているので昼食後に向かう。すると偶然だった・・・
海上自衛隊のあすか型試験艦(ASE"ASUKA"Class)が、すくも84マリンターミナルに停泊していた!
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強烈な敗戦イメージが植え付けれた我々世代は、軍隊という名の付く物にアレルギーを発症する輩も多いが、国防は
現在進行形。アメリカ軍に守られて(ある意味支配されて)多少国防を疎かに考えても生きて来られたが、これからは
そうはいかない。アメリカ軍だって自国優先。しかし、先の大戦で日米双方共、先人達が武人として誇りをかけて戦
った過去を無駄にする事無く、自衛隊にはアメリカ軍と協力してこの国を守って欲しい。
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▲若い自衛隊員を見ると、先の大戦で散って行かれた多くの日本兵を思い浮かべてしまい、思わずグッときてしまう。
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気を取り直して宇須々木の宿毛海軍基地跡に向かう。
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当時、軍の機密保持が厳しかった為、資料はほとんど無いが、連合艦隊が頻繁に宿毛湾に投碇し始めたのは、昭和8年
頃からと言われている。
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▲戦時中に撮影された宇須々木の海軍基地。昭和11年完成の兵舎2棟確認出来る。
宿毛湾は大型艦艇が入港できる広さや水深があり、当時は鉄道が開通しておらず、良い意味で不便な場所であり、機
密保持出来る事から、艦艇の性能試験を行う海上公試や演習中の艦艇の休息場所として戦時中まで利用されていた。
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▲現在の風景。兵舎の跡には宇須々木公民館が建てられている。
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▲まずは旧海軍基地に残る二座/三座水上偵察機及び二式水上戦闘機が使用したスロープを見学する。
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▲▼と、その前に、当時の境界壁だったという、今は廃家になっている敷地のブロック塀を見ると・・・。
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何と菊花紋章が!!!欲しい・・・。末永く保存される事を願う。取り壊しの際はご一報下さい、引き取ります。
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名残惜しいが時間も押し迫っていたので、その場を離れて飛行艇揚陸スロープ跡を見学しに行く。
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宿毛海軍航空隊(昭和19年に453空と改称)は二座水上偵察機(9機)/三座水上偵察機(9機)/二式水上戦闘機(9機)が配備
され、隊員は250名だった。隊長の野口克巳氏(岡出身)によれば、宇須々木は波の関係で水上機の練習にあまり適して
いなかったので、鹿児島県指宿海軍航空隊配属となり、移動したとの事である。
※指宿海軍航空隊は「水上機神風特別攻撃隊」が出撃している基地だ。此処に居た隊員も出撃した可能性は高い。
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▲▼これらの石組みも全て当時の物だという。
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80年以上前の物だがよくここまで残っているものだ。
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▼戦時中の宿毛湾。海軍の艦船が沢山写っている。
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▼車を駐車していた場所はかつての水上機係留場だ。
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▼水上機係留場から宇須々木公民館を見る。当時は兵舎が見えていたことだろう。
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宇須々木の基地使用は昭和8年頃からで、兵舎2棟の完成は昭和11年。司令は海軍大佐が来ており、兵員約200名。
主に艦載機の寄港基地として利用され、陸揚げ・給油・整備をしていた。
昭和13年頃より艦隊の入港も少なくなり、入港しても小艦艇が主であった。訓練は定期的でなく、又訓練日程も知ら
されず、実戦が主になった模様である。
昭和20年終戦前には海軍陸戦隊用として、3個大隊10日分の食糧を非常用として楠山及び篠山に分散貯蔵していた。
昭和15年日本軍が仏印へ進駐した際、旗艦足柄・巡洋艦4隻を中心とする第7戦隊が宇須々木に集結して出撃した。
※仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、第2次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍
 の進駐の事。昭和15年の北部仏印進駐と、昭和16年の南部仏印進駐に分けられる。
 南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能点であると評されている。
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▼▲次は弾薬庫跡に向かう。弾薬庫外側の外壁が今も残る。
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中に入る事が出来た。
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▼外壁を内側から見る。
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▼弾薬庫の扉は当時のまま。
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弾薬庫の赤煉瓦外壁はかろうじて残っているが屋根は抜け、当然ながら中は何も無い。
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▼次は貯油庫に向かう。
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少し小高い丘に立派なコンクリート巻きの壕が築かれている。
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▼細い石段を登っていく。
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壕の中には入る事が出来ない。
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しかし、短い距離で壕は貫通しており、当時トンネル内ではクレーンで水雷艇を釣り上げて収納し、給油や整備をして
いたとの事。トンネルの構造になっているのは、防空壕の役目も兼ね備えているからだという。
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貯油庫として航空機のガソリンや、艦艇用の重油を保存していたガスタンクが設置されていた施設だったったという。
1階が油槽庫で、2階がトンネルのような構造で、ガソリンはそれぞれドラム缶に入っていたと考えられるので、大量の
ドラム缶は、トンネル式の壕の下にあたる1階に貯蔵していたものと思われる。1階部分は見る事が出来なかった。
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このトンネルを抜けた先にも手掘りの壕があるとの事だったが、トンネルに入る事が出来ないので行けなかった。
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▲貯油庫の横には魚雷艇庫跡ある。此処は大戦末期には特攻兵器「震洋」の格納壕として震洋が配備されたそうだ。
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▲旧日本海軍乙型魚雷艇。
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内部は分岐が2つあり、左右の壕に繋がっていた構造になっている。
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中に入れなかったが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には此処に震洋が入っていたのだろうか・・・。
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▲ベニア板製の1人乗りの海軍特攻ボート「震洋」。因みに陸軍は「マルレ」と呼ばれ、少し構造が異なっていた。
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▲現在は地元の方が倉庫として利用しているが、コンクリートの厚みから見ても当時何らかの海軍施設だった様だ。
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▲何か所か入口が塞がれた壕口がある。中で全て繋がっていたと思われる。
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▲最後は単独壕である魚雷艇庫跡。此処も大戦末期は第21突撃隊「震洋隊」の格納壕となった。
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▲▼恵比須神社と書かれた鳥居の横に壕口がある。
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此処も震洋を格納していたのだろうか・・・。
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ここは入壕出来そうだ。
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早速入壕。現在は漁港なので魚介類を入れる発泡スチロールの入れ物置きになっている。
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入口から数メートルはしっかりとしたコンクリート巻きだ。
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途中からは素掘り。かなり奥行きはある。
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この奥行きなら震洋艇であれば5隻は入っていただろう。
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▼奥から入口を見る。秘匿壕なので分岐は無く、直線的に掘られた単純な壕だった。
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さぁ戻ろう。
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こうして宿毛湾の旧海軍基地跡巡りは終わった。
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海軍連合艦隊の泊地・宿毛基地(宿毛水上機基地)というより、やはり大戦末期の本土決戦用特攻基地のイメージが強く
残った宿毛旧海軍基地跡。あまり知られていない戦跡という事だが、本土決戦が決行されなくて本当に良かった・・・。


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 2017_10_29


エア-パーク/航空自衛隊浜松広報館に行ってきた。此処に展示されている零戦を見学したかったからだ。
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駐車場(無料)に車を止めて、まずは屋外展示を見学。
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▼▲これは鳥取県の航空自衛隊美保基地でも見た事がある。輸送機かな?美保基地のは尾翼番号が91-1139だった。
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屋外見学もほどほどに早速館内を見学する。
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思ったより広く、展示物も充実している。
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平和学習も大事だけど、現在進行形で続く国防も同時に勉強しなければ意味は無い。
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しかし、敗戦前までの旧日本軍の様な教育が自衛隊の中で続いていない事を祈る。
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▼こんな沢山基地があるだ~。と驚くが、ほとんどは旧日本陸海軍の基地をそのまま使っている場所だろう。
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▼今訪れている航空自衛隊浜松基地も、元は旧陸軍の飛行場だった場所だ。今も滑走路はそのまま残っている。
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▼赤丸が現在居るエア-パークだ。
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兵器に関しては詳しく無いが、敗戦後、当然軍事産業はGHQが徹底的に解体したので、どこまでが日本製か解らない
が、展示されている兵器はアメリカ軍の兵器がほとんどだろう。
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現在でもパイロットは頭の良い人が多いんだろうな・・・。
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戦時中、特攻隊で多くの優秀な若者が散っていた過去を二度と繰り返さない事を祈った。
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渡り廊下を渡って、格納庫の形をした別館に行く。
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渡り廊下から見た中庭の展示戦闘機。何だろう?
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格納庫には沢山の航空機が展示されている。
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▲一番目立つ所にあった!国内では唯一の飛行姿勢で展示のゼロ戦が。
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機体は昭和19年6月19日グアム島アガナのジャングルに被弾不時着した第343海軍航空隊「尾崎伸弥大尉」の乗機。
尾崎大尉は昭和19年海軍第343航空隊飛行隊長で、同年3月27日香取基地より硫黄島経由、テニアン島へ進出。
同年6月6日アイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)へ移動してパラオ諸島全体の防空任務にあたる。
同年6月17日零戦隊12機を率いてヤップへ移動。6月19日グアム島上空において尾崎大尉と他1機が哨戒中、敵機2機
と交戦となり、1機を撃墜。残る1機に追尾された尾崎大尉機は海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させた
が、自らも被弾し、不時着させたが病院に向かう途中で息を引き取った。
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昭和38年3月グアム島アガナ市外で発見され、米空軍とグアム政庁に日本への返還を要請。
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昭和39年(1964)1/17米空軍C-130A輸送機でグアム島から岐阜基地へ空輸、返還。
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昭和39年(1964)2/11零戦設計者の堀越二郎氏が対面、自衛隊第二補給処整備部が復元修復作業開始。
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外修は生まれ故郷である三菱重工 大江工場の協力を得て戦後最初に復元された零戦。
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▲昭和38年(1963)3月グアム島アガナ市外で発見され、トレーラーで移動させられる零戦52型「43-188」号機。
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▲日本へ帰るのを待つ零戦52型「43-188」号機。
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▲昭和39年(1964)1/17グアム島から岐阜基地に還ってきた零戦52型「43-188」号機。
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▼零戦設計者の「堀越二郎氏」が還ってきた零戦52型「43-188」号機と対面
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▼昭和39年(1964)10/19零戦52型「43-188」号機復元修復完了。
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▼復元完成式にて
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(上空にゴミの様な物が写っているが、先の大戦で亡くなられた多くの英霊に対する慰霊の為に放たれた鳩)
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▼完成式には堀越二郎氏も訪れた。画像(右)の少年は誰か解らないが「戦争を知らない子供」である事は間違いない。
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▼ゼロ戦の腹を撮影出来る機会はそうそう無いので、下から撮影しまくる。
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いつまでも眺めていたいゼロ戦だが、他を見学しに行く。
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▼格納庫外では陸上自衛隊の車両達が展示されていた。
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災害派遣などでやっと国民の認知度と好感度が上がってきた様に思える現代の日本軍(自衛隊)。
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命を捨てて日本を守ろうとした先人達の意志を受け継いで、日米双方共、武人として誇りをかけて戦った過去を無駄に
する事無く、アメリカ軍と協力してこの国を守って欲しい。



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 2017_10_20


ハワイオアフ島・パールハーバー。日米開戦の舞台となったハワイ・フォード島、真珠湾攻撃・・・。
真珠湾は現在も米軍基地が置かれているが、そこには第二次世界大戦に関する博物館などがある。
本来、最初に訪問すべき場所ではあるが、その遠さと費用で今まで足踏みしていたが、やっと行く事ができた。

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▲日本から約8時間。オアフ島のダニエル・K・イノウエ国際空港(旧ホノルル国際空港)に到着。
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▲空港内にはダニエル・K・イノウエを紹介する場が設けられている(2017年4月27日より名称変更)
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▲ダニエル・K・イノウエ氏
ダニエル・K・イノウエは、ハワイ州出身の日系アメリカ人で、ハワイ大学在学中の1941年12月日本軍による真珠湾
攻撃が行われ、アメリカが第2次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願。その後アメリカ人としての
忠誠心を示す為にアメリカ軍に志願。アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、手榴弾の炸裂で
右腕を失うも、ヨーロッパ前線で勇敢に戦い、数多くの栄誉を受けた人でもある。
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▲ダニエル・K・イノウエ国際空港は、米空軍のヒッカム空軍基地に隣接しており、滑走路を軍民で共有している。
日本で言うと那覇空港の様な使い方だが、大きな違いはダニエル・K・イノウエ国際空港は24時間空港だという事だ。
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▲これは第100歩兵大隊を紹介する展示。
日系二世を中心に編成された部隊で、第2次大戦中ヨーロッパ戦線に投入され、イタリア戦線・フランス戦線でドイツ
軍を相手に戦闘を行った。死傷率は314%(のべ死傷者数9486人)だった。
アメリカ本土からの志願兵を加えて編成された第442連隊戦闘団がイタリア戦線に到着し、第442連隊戦闘団の第1大
隊となったが、それまでの功績から第100歩兵大隊の名称はそのまま継続した。
当初は「ジャップ」と呼ばれ、上級指揮官から「必要ない」と言われた日系部隊だったが、戦闘を重ねた後は各方面の
指揮官から日系二世部隊を増援で欲しいと言われる程の活躍だったという。
終戦後第100歩兵大隊は大統領部隊感状を始めとする多くの表彰を受け、現代に至るもアメリカ陸軍ベストユニットの
1つとされ、大隊の大部分の兵士が負傷し、パープル・ハート 章を受章した事からパープル・ハート大隊とも呼ばれた。
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▲他にも、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団したウォーリー・ヨナミネ氏も紹介さ
れていた。私は野球は詳しくないので、恥ずかしながら存じ上げませんでした・・・。
多くの日本人観光客がディスプレイを素通りして行くが、日系一世~現在は四世・五世と、脈々と続く日系人の活躍と、
一世・二世の想像を絶するご苦労を、日本人はもっと知り、学ぶところは学ぶべきだと強く思った。
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▲空港内には、中国庭園・日本庭園・ハワイ庭園があり、空港でありながら緑の中で時間を過ごす事が出来る。
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▲▼チャイニーズガーデン(中国庭園と言っても現在の中国では無く、中華民国の意味合いだ)
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▼チャイニーズガーデンには「中国革命の父」で初代中華民国臨時大総統の孫 文の石像がある。
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▼ジャングルを思わせる様なハワイアン庭園
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▼最後はお待ちかねの日本庭園。と言いたいところだが・・・。
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日本庭園独特の白砂か!?と思ったらコンクリート敷だった・・・メンテが大変だからね・・・仕方ないのか。
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ハワイアン庭園と言われてもうなずいてしまう様な日本庭園・・・。
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しかし、此処ハワイの玄関口に「日本庭園」と題されたスペースがある事に意味がある。と考える事にした。
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▼入国審査を終えて空港を後にする。
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観光客は日本人女性が特に多いと感じた。
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▼まずは宿泊先のホテルに向かう。やっぱり南国はいいね~!
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▼迎えの車に乗り込む。
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▼ハイウェイを走って宿泊先に向かう。送迎車もバスも長~い!
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▼ワイキキ周辺に到着。これも長~い、アメリカに来たって感じ。
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▼宿泊したホテルはアストン・ワイキキ・ビーチ・ホテル
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▼宿泊部屋(17階)から下を見る。プールは宿泊客であれば自由に使う事が出来る。
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▼宿泊部屋のベランダからの眺めは綺麗だった。部屋も綺麗だったが、トイレのウォシュレットは無かった・・・。
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▼ホテル前の道を挟んだ向かいはワイキキビーチだ。
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ここは人口ビーチで、砂はアメリカ本土からだけでは足らず、遠く北海道からも砂が運ばれたそうだ。
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▲▼ワイキキ周辺は高級ホテルが立ち並び、買い物をするにも何でも揃う大都会だ。
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芸能界を引退した島田紳助さんもワイキキの高級マンションに住んでいると聞いた。
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▼中国製のエンジンスクーターを結構見かけた・・・。
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▼▲何処の国でも居るんだね~。ストリートパフォーマー「シルバーマン」
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▼現在もフォード島は真珠湾に浮かぶ現役の米軍基地。そこに行く為にはフォードアイランド・ブリッジを渡る。
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▲この交差点の向こうはフォードアイランド・ブリッジ。橋に入ると検問所がある。ここから先は撮影禁止区域だ。
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▲真珠湾内に浮かぶフォード島(Ford Island)矢印(白)がフォードアイランド・ブリッジの入口。矢印(赤)はこれから
見学する真珠湾攻撃当時ままの格納庫を利用した、太平洋航空博物館パールハーバーだ。
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▲フォード島に上陸。一般見学者がここに来るにはツアーに申し込む以外に方法は無い。
鞄などの手荷物品は一切持ち込む事は許されず、車両は許可車両しかフォードアイランド・ブリッジを渡る事は許され
ていない。フォード島に入る前にはセキュリティー担当者が車内を点検しに来る。
我々の車両は日本人ばかりだったので、本当に簡単な見回り?程度で点検が終わった。
「日本人は信用出来るから見なくても大丈夫と思われている」というガイドさんの話が嬉しかった。
日米双方共 武人としての誇りをかけて戦ってくれた兵士達のお陰で、今の日米信頼関係があると私は思っている。
持ち込みが許可されているは、携帯電話・カメラ・財布といったポケットに入る程度の私物だけである。
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▲太平洋航空博物館パールハーバー以外は現役で訓練等に使用されている所も多く、うろちょろ撮影は許されない。
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▲▼真珠湾攻撃当時のまま残されている格納庫37号棟・79号棟の2棟が「太平洋航空博物館パールハーバー」だ。
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▼管制塔も当時のままだそうだ。
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▼早速37号棟から見学を開始する。
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▲▼真珠湾の拡大写真が床に貼られた小さなロビーで館内の説明・日本語訳発信機などを受け取る。
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とにかく時間が無い。与えられた時間は1時間程度。
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日本語訳発信機を使って展示物の説明を聞いていると、写真撮影の時間が取れなくなってしまう程の短時間だ。
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▼吊るされてる航空機の模型の中に、日本軍機もあるが、かなり上にあるので写りにくい。
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真珠湾攻撃の際、地上から見えた大きさで再現されているという。
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▼最初はどでかい真珠湾攻撃のパネル!
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▲中島B5N 九七式艦上攻撃機だろうか・・・。襲い掛かる日本軍機が描かれている。
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▲▼次は真珠湾攻撃仕様の零戦21型だ。エンジン・プロペラ・カウリング以外は本物だ・・・素晴らしい!
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機番「BⅡ-120」は「 ニイハウ島事件」の西開地重徳1飛曹の機番が書かれている。
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ゼロ戦が空母「飛龍」の飛行甲板上で搭乗員や整備兵の人形がリアルに配置されている・・・。
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機番「BⅡ-120」のBは第二航空戦隊、Ⅱは二番艦「飛龍」、1は戦闘機を表す(2は艦爆3は艦攻)20は先任順。
日の丸後ろの2本の帯は二番艦を表す。海軍は搭乗機は決まっておらず、早い者順に零戦に搭乗していたという。
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此の零戦21型はパプアニューギニア・二ューブリテン島 ガスマタに放置された台南航空隊所属機をオーストラリア軍
が捕獲した物※ガスマタ(Gasmata)はパプアニューギニア ニューブリテン島 西ニューブリテン州南岸にある村。
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此の零戦は1942年製、現状のエンジンとカウルはアメリカ製で現在も飛行可能だという
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▲ハワイの小学生だろうか・・・先生かガイドの人が零戦の前で子供達に日米開戦に関するフェアな説明している。
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ガイドの方が「日本人は此処で立ち止まって時間を使い過ぎてしまい、他を見学されずに帰ってしまう人が多い」
と言っていたが、当たり前だ・・・いつまでも眺めていたい!!しかし、もう二度と来る事は無いと思うので先を急ぐ。
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▲▼真珠湾攻撃で日本海軍が使用した框板と安定器の付いた魚雷は、水深12mの真珠湾泊地の攻撃を可能にした。
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真珠湾攻撃以前から改良が続けられた結果、真珠湾攻撃の時には世界一深度が安定した航空魚雷になっていた。
それに加え、戦艦の分厚い防御甲鈑をブチ抜く為の800㌔特殊鉄鋼爆弾も水平爆撃で使用された。
真珠湾攻撃に参加した日本海軍空母群は「赤城」「加賀」「蒼竜」「飛竜」「瑞鶴」「翔鶴」そして航空機約350機だ
った。各空母の艦載機を水平爆撃機隊、雷撃機隊、急降下爆撃機隊及び戦闘機隊の四群に集約、各隊ごとに指揮官をお
き、その上に全体を統括する総指揮官をおく編成で、飛行隊長として旗艦「赤城」に赴任した淵田少佐が指揮をとった。
錦江湾(鹿児島県)で5ヵ月間の猛烈な訓練を重ねた日本海軍パイロットは当時世界一の技量を持った搭乗員達だった。
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▲真珠湾攻撃前日に撮影された空母「瑞鶴」戦闘機隊搭乗員の集合写真。2列目右端は撃墜王の岩本徹三1飛曹
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▲真珠湾攻撃前に小雨が降る空母「加賀」の飛行甲板で撮影された雷撃隊員達。
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▲昭和16年12月6日北嶋一良中尉を中心に空母「加賀」でミーティングを行う雷撃隊員達。
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▲真珠灣攻撃当実の日本海軍機から撮影されたフォード島周辺。島の右側にバトルシップロール(戦艦列)に1つの大きな
水しぶきが写っている。97式艦上攻撃が投下した魚雷が米戦艦ウェストバージニアに命中した瞬間である。
その隣に写る黒い点の物体は飛行中のゼロ戦だ。
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▲ハワイ真珠湾で水平爆撃を終え、ヒッカム飛行場上空を飛行する空母「瑞鶴」所属の97式艦上攻撃機
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▼▲米軍の対空射撃で被弾、撃墜された空母「赤城」第1次攻撃隊 第2制空隊第1小隊2番機・平野崟1飛曹(戦死)
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▼▲カメハメハ大通りの直上をかすめながら、カメハメハ要塞の兵器庫に突入したと言う。平野崟(たかし)1飛曹は第1
次攻撃に参加した空母「赤城」零戦隊唯一の未帰還機。制空隊総指揮官の板谷茂少佐の2番機だった。
米軍対空砲火で被弾した平野崟(たかし)一飛曹はヤシの木に突っ込んだ後、カメハメハ要塞兵器庫の入り口にいた砲兵
のグループに衝突したと言う。その結果、米軍砲兵4人と平野1飛曹が戦死した。
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▲ハワイの地で米軍に埋葬される平野崟(たかし)1飛曹。
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▲現在もハワイの地で永遠の眠りについている。
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▲日本軍の奇襲攻撃でパニックになったオアフ島で撮影された有名な写真。「日本軍は民間人も殺した」など、色々な
プロパガンダに使用された様だが、当時ハワイの人口の約40%が日本人。車の中で亡くなられている方も日系人との話
もある。いずれにせよ「やった・やられた」の次元で話をしていても何の解決にもならない事は、日本人とアメリカ人
は、世界中のどの国の人より良く理解している。犠牲者に報いる為には日米信頼関係を決して壊してはならないと思う。
「 ニイハウ島事件」の零戦だ・・・。
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真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属の零戦。パイロットは西開地重徳1飛曹(愛媛県出身) 享年21歳
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▼ニイハウ島に不時着して1週間後の西開地1飛曹の零戦。
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▼ニイハウ島に不時着➡西開地1飛曹と原田が零戦の無線を使おうと試みたが失敗し焼却された後の写真。
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空母「飛龍」戦闘機隊所属だった機番[ BII-120 ]昭和16年12月17日米国陸軍派遣隊撮影。
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▼このトラクターも「ニイハウ島事件」に関係あるから此処へ持ってきたのだろう・・・。
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西開地1飛曹をかくまった日系2世「原田義雄さん」享年39歳も紹介されている。
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▼▲エアロンカ 65TCモデル。当時アメリカで飛んでいた一般の飛行機という事だ。
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アメリカ軍機はあまり詳しくないので写真のみでスルーする。
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▼▲これはP40かな?
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▲▼爆撃機の展示は場所とるね~日本本土を最初に空襲したB-25中型爆撃機。
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「ドゥーリトル空襲」昭和17年4月18日アメリカ軍が空母エンタープライズ、ホーネットの2隻に搭載した陸軍B-25
中型爆撃機で、日本本土に初めて行ったの空襲の事。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドゥーリトル中佐に由来。
本来、陸上から発進させる陸軍B-25(16機)を空母から飛ばし、日本本土爆撃後は中国大陸などに不時着させる無謀な
作戦だった。目標は東京の兵器工場だったが、目標は外れ一般市民50人が亡くなった。
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▲日米開戦前に日本が授与した勲章を、ホーネット艦上で爆弾に取り付けるジミー・ドーリットル中佐。
ドーリットル中佐自身は、被弾した場合は搭乗員を脱出させた後、目標に特攻する決意だったという。
実際、日本陸軍戦闘機「飛燕」がテスト飛行中に遭遇。攻撃を仕掛けている。
出撃したB-25爆撃機16機は中国大陸や海上に不時着し、日本軍の捕虜になったり、戦死する者も出た。日米開戦まで
空軍に力を入れていなかった米軍は、ルーズベルト大統領が空軍に対してそれまでの100倍の予算を与え、「一刻も早
く日本本土を爆撃せよ」と命じる。「ドゥーリトル空襲」は空軍戦力が整わない中で、賭けに打って出た作戦だった。
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▲空母ホーネットに詰め込まれたB-25
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▲▼ミッドウェー海戦で活躍したダグラスSBD-3ドーントレス。
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▼▲グラマンF4Fワイルドキャットだ・・・。ガタルカナル・ヘンダーソン基地のジオラマになっている。
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▼退役軍人の方だろうか。ゴルフカートの様な物で79号棟に連れて行ってくれた。
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▼79号棟を見学する。
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見た感じ、日本軍機は無さそうだが・・・。
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▼中華民国軍(米義勇軍)のP40-Bトマホーク(Tomahawk)フライングタイガース。
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▲▼そういえば日中戦争でアメリカは当時の中華民国を支援していたんだよね・・・。
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▼パイロット達のサインだろう・・・水平尾翼にマジックで沢山書かれている。フライングタイガース社員に偽装した
 アメリカ軍パイロットが日米開戦前から戦闘行動に従事していたからね・・・。
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▲中国軍に偽装した爆撃機で日本本土空襲も計画されていた。
昭和16年7月23日当時のルーズベルト大統領は対日攻撃計画書[ JB355 ]にサインしている。
これは昭和16年10月までに350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機を中国に供与して、中国の基地から神戸・京都・
大阪・横浜・東京の産業地帯を爆撃する計画の事だ。表向きは中国空軍の行動としてやらせる計画だったが、中核にい
たフライングタイガースが、実働部隊として行動する事が決定しており、アメリカ軍の増強要員が中国軍(蒋介石)に送
られていた。この計画は欧州戦線が急迫した為実行される事は無かったが、遠かれ遅かれアメリカとの衝突は避けられ
なかった。事実上は戦争状態に突入していた日米だが、日本人の真面目過ぎる国民性が、宣戦布告無き奇襲攻撃という
汚名をきせられれる真珠湾攻撃となってしまった・・・。
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▲▼F-4 Phantomかな。
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▼▲旧日本軍も買っていたC-47ダクラス輸送機かな?
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▲▼ミッドウェー海戦(Battle of Midway)の模型だ。
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▼もう日本軍機は無いのかと諦めていたその時、あった!97式艦上攻撃機の残骸・・・。
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アメリカ軍での愛称「Kate」で紹介されている。
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日本海軍 中島 B5N2 九七式三号艦上攻撃機を The Most Dangerous Plane = 最も危険な飛行機 と紹介している。
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▼(参考画像)九七式艦上攻撃機
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日本軍機があったので良かった・・・そしてここでタイムアップ。お土産屋も見たいので集合場所に戻る。
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▲37号棟と79号棟の間には数機の飛行機が展示されていたが、時間も無く、日本軍機は無いだろうとスルー。
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フォード島の大部分は今でも滑走路だ。
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次は「戦艦ミズーリ記念館」に向かう。
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その前に、真珠湾攻撃で撃沈された戦艦オクラハマ(USS Oklahoma, BB-37)乗組員の慰霊碑で黙祷を捧げる。
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▼戦艦オクラハマ(USS Oklahoma, BB-37)
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▼いよいよ戦艦ミズーリ記念館に入る。
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チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア元帥の銅像の横にある3つのパネル。
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降伏文書調印式でのニミッツ元帥
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東郷 平八郎元帥も紹介されている。
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まずはアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官、チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア元帥の銅像
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       東郷 平八郎元帥海軍大将の崇敬者だったニミッツ元帥はアメリカ軍のヒーローだ。
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       ▲アメリカ軍の人もこぞって銅像の前で記念撮影している。勝戦国だね・・Nice couple!
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星条旗に覆われた小さな橋を渡ると戦艦ミズーリ記念館だ。
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▼ゴミ箱も戦艦ミズーリ仕様。こういうところがカッコいい!
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「戦艦大和」と数メートルしか違わないというミズーリはとてつもない大きさだ。日本ではこの様な戦艦は見れない。
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アメリカって感じだね~当たり前だが敗戦国日本の重苦しい平和祈念館とは全く雰囲気が違う・・・。
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アメリカも朝鮮戦争やベトナム戦争では一応負けてるんだけどね・・・。
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▼まずは外観の全体像を・・・艦橋部分がレストア中なのが残念だったが、デカい!
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日本も大和か伊400を引きあげて呉かどこかに展示しないと・・・説得力が全然違う。模型は所詮模型・・・。
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▼▲昭和20年9月2日東京湾上の戦艦ミズーリ。
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▲奥には「USSアリゾナ記念館」が見える。
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いよいよ戦艦ミズーリへ乗る。
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▲救命ボートだろうか。
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なんというデカさだ・・・「大和」や「武蔵」も実物大でこうやって見てみたい・・・。
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見学者はかなりの数だ・・・当然アメリカ人が多い。
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とりあえず艦首へ向かう。
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しばらくガイドさんの説明が続く。
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MARK7 50口径40.6cm砲。大きな主砲だ・・・しかし「大和」は九四式45口径46cm砲だったんだな・・・。
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「砲撃は正面向いて撃つ事はありません。何故なら爆風と炎で乗組員に死の危険性があるからです」と説明してくれた
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▲▼20mm単装機銃の対空機関銃。
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▼ガイドさんの案内で順路を進む。
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▼振り返って艦首方向を撮影。
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砲塔の横で説明を聞く。
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砲塔に書かれた数字は湾岸戦争で撃った弾の数だという・・・各砲塔には記録数字と場所が書かれている。
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▼次にその反対側に向かう。
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そこは東京湾内で日本の「降伏文書の調印式」が行われた場所だった・・・。
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サレンダー・デッキ(Surrender deck)と呼ばれるこの場所で、第2次世界大戦終結の降伏文書調印式が行われた。
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調印式はわずか23分だっという。
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▼机が置かれていた場所には記念の言葉が刻まれている。
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▼隣を見ると古いペリー来航時の星条旗や、降伏文書のレプリカ展示、そして小部屋の入口がある。
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▼当時マッカーサーが署名している写真にも、古いペリー来航時の星条旗が写っている。まさしくこの場所だ。
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降伏文書のレプリカが展示されている・・・なかなか離れようとしないこの子は日本人。何を想うのか・・・。
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此処はダン” ダニエル・ジャドソン・キャラハン(Daniel Judson Callaghan)艦長室の入口。
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降伏文書調印式が行われたこのデッキは艦長専用のプラーベートデッキだったそうだ。
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艦長室と応接室を窓越しに見る事が出来る。
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艦長室入口横に展示されているカラー写真。
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▼アメリカの勝利の象徴だね・・・戦艦ミズーリは。説明するまでも無い有名な写真が3枚・・・。
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「生きて虜囚の辱を受けず」と戦陣訓で徹底的に教育した張本人らが、「生きて国を虜囚」にした瞬間だった・・・。
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▼次へ順路を進む。
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▼すっと此処へ行きたかった・・・[ Kamikaze Attack Site ]
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▼次に見学する[ Kamikaze Attack Site ]の説明を受ける。
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昭和20年4月11日14:43九州(鹿児島県)の海軍鹿屋航空基地から出撃した神風特別攻撃隊の神雷部隊「第5建武隊」
の爆装零戦が低空飛行で戦艦ミズーリの右舷甲板に体当たりを敢行。
特攻機の右翼がミズーリの第3副砲塔上部に当たり、燃料に引火し炎上。しかし搭載爆弾は不発・・・ミズーリは表面
に損傷を受けた程度で速やかに消火作業が行われ、鎮火している。
その後、日本海軍特攻隊員である零戦搭乗員の遺体(ほぼ上半身のみ)が40mm機銃座から回収された。
ミズーリ艦長ウイリアム・キャラハン海軍大佐は、多くの乗組員の不満の声があがる中、「この日本のパイロットは我
々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても今は違う。激しい対空砲火を掻い潜ってここまで接近してきたパイ
ロットの勇気と技量は、同じ武人として称賛に値する。よってこのパイロットに敬意を表し、水葬に付したい」とし、
翌朝9時、艦上にて米海軍のしきたりに則り、海に葬ると艦内放送で全乗組員に命令を下した。
星条旗に包まれた遺体は木製の担架に乗せられ、5発礼砲と共に海に葬られたという。
(ガイドさんの話では3名のミズーリ乗組員が徹夜で「日の丸」を作って遺体を包んだという事だ)
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▲昭和20年4月11日14:43戦艦ミズーリに突入寸前の神風特別攻撃隊第5建武隊の特攻機(零戦52型)
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▲▼突入後に撮影された零戦の残骸。突き刺さった零戦の機関銃で52型である事が判明した。
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▼40mm機銃座から回収された特攻隊員の遺体。上半身しか無い。詳しくは「鹿屋航空基地史料館」 参照。
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▼▲まさにこの場所で特攻隊員の水葬が行われた。
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太平洋戦争当時は画像に写るバスケットゴールは無かったという事だ。
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▼▲甲板上には特攻隊員を水葬した際にミズーリ乗組員が整列した場所が足型で示されている。
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特攻隊員水葬が行われた4/12の午後、「ミズーリ」は再び特攻機による猛攻を受けた。
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▲特攻機が突入した跡の凹。航行に支障がない部分は修理されずにそのまま残された。
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特攻隊員水葬の様子と、特攻を敢行したと思われる石野節男2飛曹。そして水葬を決断したキャラハン艦長を紹介。
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簡単に翻訳すると「海の埋葬」1945年4月12日、沖縄北東部の海域で行われた第2次世界大戦の最後の大戦闘が海上
及び陸上で激しく戦闘を繰り広げた。戦艦USSミズーリを攻撃した日本人パイロットの体は海上埋葬された。とある。
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※ミズーリに突入した特攻隊員は石井兼吉2飛曹か石野節男2飛曹のどちらかと見られている。
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こみ上げる涙を必死にこらえながら[ Kamikaze Attack Site ]を後にした。
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YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 1/4」 
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 2/4」
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 3/4」
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 4/4」

▼艦尾側の主砲も大きい。
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今度は艦の反対側を通って入口方向に戻っていく。
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艦橋を見たかったな~。
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振り返って艦尾方向を撮影。
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渡って来た星条旗に囲まれた小さな橋をミズーリから見る。
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▼艦内への入口を発見。
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ちょっとお邪魔して撮影。
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しかしツアーの人達は誰も入って来ない・・・[RESTRICTED AREA]➡「立ち入り禁止区域」を後で気づいた・・・。
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ゴメンナサイ・・・。
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このツアーは「パールハーバー&戦艦ミズーリ(軍艦カレー付き!)」15790円で申し込みしたオプショナルツアーだ。
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誰も入って来ないので、心配になって艦から出ると皆集合して艦を出ようとしている所だった・・・!
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急いでミズーリを退艦、合流して昼食会場へと向かう。
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東郷 平八郎元帥とニミッツ元帥の関係や「戦艦三笠」の話を聞きながら軍艦カレーを頂いた。
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世界三大記念艦「三笠」へはまだ行った事が無いので、今度時間を作って行こうと思う。
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▲ミズーリ記念館を離れ、次は「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」に向かう。
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此処はフォード島を離れ、オアフ島側にある。日本語に訳すと「第二次世界大戦武勲記念史跡」だ。
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なので戦争博物館と呼ばれるものでは無い。当然此処も手荷物は制限されている範囲の物のみだ。
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早速入館する。此処は無料との事で、ツアーガイドのガイドは許されておらず、ガイド無での見学だ。
ガイドによる偏った知識では無く、「自分の目で見て感じ、自分で考えろ」というのがアメリカ側の意図らしい。
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▼先に行った「太平洋航空博物館パールハーバー」の事だ。
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まずは「USSアリゾナ記念館」に行く為のチケットを貰い、見学者全員が視聴を義務付けられている映画を見る事に。
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▼「USSアリゾナ記念館」行きの船は写真奥の右手奥から出航する。
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▲▼この建物の中で映画を見るのだ。建物内での撮影は禁止だ。
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20分程の白黒映画は当時の映像を組み合わせた第二次世界大戦の大きな流れ・結果を伝える内容だった。
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船でアリゾナ記念館に向かう。操縦しているのは現役のアメリカ軍兵士の様だった。行きは男性、帰りは女性だった。
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▲▼先程見学した戦艦ミズーリが見える。
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▲見学し終えた組の、帰りの便とすれ違う。
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▲▼5分程乗っただろうか・・・あっという間に「USSアリゾナ記念館」に到着。
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ここは真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナが沈んでいる場所だ・・・約1000名の兵士と共に。
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アメリカ政府は戦艦アリゾナの残骸を国定慰霊碑にする事を決定し、1962年5月30日正式に指定された。
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燃料満タンで撃沈されたアリゾナの燃料庫からは、毎日数リットルの重油が漏れ出し、アリゾナの涙と言われる。
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        現在も収集されず「水葬」として約1000名の遺骨が海底の艦内で眠っているとの事だ。
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これだけ浅い所なので引き揚げて遺骨収集を・・・と思うのは日本人だけで、国によって色々考え方がある様だ。
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陸上での戦死者の遺体(遺骨)は徹底的に収集するアメリカ軍だが、海では違う様だ。
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記念館の奥には、大理石の壁に戦死した乗組員全員の名前が刻まれている。
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安倍首相と昭恵夫人が慰霊に訪れた場所だ。
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▲▼USS Arizona, BB-39
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▼日本軍が投下した爆弾が命中し、弾薬庫が爆発。炎上して艦の前方が大破した。
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戦艦アリゾナは、そこで戦死した人々にとっての神聖な墓地としてある物なので、ご冥福を祈りながら見学した。
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だんだん人が多くなってきたのでそろそろ戻る事にする。
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帰りの船を待つ列が出来始めた。そろそろ船が来るのであろう。
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帰りの船に乗り込む。
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日本人にとっては少し重い場所だが、日米双方の犠牲者があって今の日米信頼関係がある。慰霊出来て良かった。
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船がアリゾナ記念館を離れる。
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そう何度も来れる場所では無いので、もう1度目を閉じて戦死者の冥福を祈った。
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▼オアフ島の「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」に戻って来た。
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▼海岸線の公園内を少し散策する。
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▲ミズーリとアリゾナ記念館が見える場所に案内板がある。
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▲▼真珠湾攻撃の説明版がいくつもある。ま、戦争はお互い理由があって始まった事だからね・・・。
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▼「ボーフィン・サブマリンミュージアム&パーク」でどうしても見ておきたかった物がこの奥にあった・・・。
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▲それはボーフィン・サブマリンミュージアム&パークのこの建物(レストラン)の奥にひっそりと展示されていた。
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見たかった物。それは日本で見る事の出来ない人間魚雷「回天」の本物(完備品)だ・・・。
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初めて本物を見学する。
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「大津島」へ行って以来、ずっと本物をこの目で見たいと思っていた。
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何か所か切り抜かれ、内部が見える様になっている。
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▲本物が見れて感激したが、欲を言えば日本で完備品の本物を見たいものである。
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▲▼他を見て回る。
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▼▲第2次世界大戦時アメリカ潜水艦の象徴の1隻として保存されている「ボーフィン」USS Bowfin,SS/AGSS-287
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日本人としては「沖縄戦」の直前、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」を撃沈した潜水艦としてのイメージが強い・・・
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▲別料金を支払えば内部を見学出来るとの事だったが、見学する気にはとてもなれなかった・・・。
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集合時間も迫っていたが、展示館が少しあるので見学する事にした。
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2つある展示館の1つ目に入る。
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▼4000万以上かかった「赤城」の精密な模型
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▲2つ目の展示室に入る。
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▼▲真珠湾攻撃で戦死・負傷した米兵の写真だろうか。日本人が見学するには少々辛い写真の展示が続く・・・。
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▼これは日系人部隊の紹介かな・・・。
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▼先程訪れたアリゾナ記念館の模型。
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▼最後にガイドさんのお勧めの、真珠湾攻撃当時の映像が20分程上映。
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YouTubeなどで何度も見ているが、此処で上映されている当時の映像は見た事の無いシーンが多かった・・・。
左から、中国語・英語・日本語と字幕付きなのでアナウンスは英語だが、とてもよく解った。
映像を見終えて「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」を後にした。
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▼▲時間があったので夜にテスラのショールームに寄ってみた。
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とても買える金額では無いので見るだけ・・・モデルSの赤。カッコいい・・・!
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東京や京都のショールームでも見た事があるが、やっぱり製造国で見るのは同じ車でも何故か見方が違う。
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ハイブリッド車は日本車に勝ち目がない欧米各社はいよいよ日本車イジメとしてEVに完全シフトを言い始めているが。
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日本メーカーであれば直ぐに作れるだろう・・・しかし問題はインフラが整わなければ乗らないという国民性だ。
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ベンチャー企業に投資するアメリカ。「まずは走らそう」の中国。安心・安全を何処までも追及して動かない日本。
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オアフ島の様な離島でも電気自動車は結構見かけた・・・。
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個人的にはガソリン車には飽きているので、電池性能がもっと上がれば電気自動車は欲しいのだが・・・。
何を隠そう、筆者は電動バイクの販売を本業としているので、EV推進派でもあります。
「使った後は自宅で充電、短距離移動は電動バイクで。」をコンセプトに「EV奈良」という電動バイクを専門とする、
小さなバイクショップを経営しております。
日本一の電動スクーターをご検討されている方は是非、弊社HPを覗いて見て下さい➡http://www.evnara.jp

「パールハーバー最期の証人 Part 1」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 2」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 3」YouTube
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「パールハーバー最期の証人 Part 5」YouTube
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 2017_09_20

石見銀山

Category: 石見銀山  

(角島からの続き)
日本海側を海沿いに走り、最後の目的地「石見銀山跡」に向かう。
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▲石見銀山世界遺産センターに到着。この建物内の展示室は有料だった。
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▲▼此処に車を駐車してバスで石見銀山跡向かう。
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ここからは徒歩かレンタル自転車での散策となるが、貧乏旅なので当然徒歩を選ぶ。
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まずは五百羅漢(ごひゃくらかん)羅漢寺(らかんじ)から見学。早速有料だ・・・。
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車で来ているのにバス代を取られ、羅漢寺・石見銀山跡と何度もお金を徴収しようとする世界遺産に少々がっかり。
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当然外から眺めた程度で中は見学していない。たいして興味が無いからだ。
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見学もほどほどに石見銀山跡に向かう。
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▲此処で簡単な地図を頂いて、林道を歩き、石見銀山を目指す。
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静かな林道を歩いて行く。
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途中、小さなお寺がいくつもある。
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▼この長い階段は登っていない。
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▼▲銀脈の発見に観音のお告げがあったという清水寺。
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途中、林道から自転車が走る舗装道路に合流する。
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▲福神山間歩とは、福神山(ふくじんやま)の間歩(まぶ)=坑道で、山師と呼ばれた個人が経営した「自分山」だという。
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あちらこちらに坑口がある。
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戦跡ばかり見てきた私には日本軍の陣地壕にしか見えない・・・。
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しかし、ここは戦跡では無い。「銀」を採掘していた場所だ。
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何か建物が見える。どうやら目的地到着の様だ。
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公開されている龍源寺間歩(龍源寺坑道)に入る為には入場料を支払う。
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龍源寺間歩(坑道)入口。外は汗が噴き出る程の暑さだが、入口付近は冷たい空気が漂っていた。天然冷房は最高!
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しかし、どう見ても旧日本軍の陣地壕に見えてしまうのは私だけだろうか・・・。
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「沖縄戦」で米軍が撮影した日本軍陣地壕。
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外は暑いので早く中へ入る事にする。
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「龍源寺間歩」とは、江戸時代に造られた全長約600mの坑道跡。
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そのうち273mが公開され、坑道内の壁面に残るノミの跡など、往時の手彫り作業の痕跡が見学出来る。
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坑道内は12~13度で非常に快適だ。
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江戸時代の鉱夫達は鉱脈を求めて坑道を掘り進めた。
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▼出口へ向かって最後の登り坑道。
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▼出口近くの最後は、江戸時代の石見銀山絵巻二巻に描かれた当時の採掘作業の様子を映した電照板だ。
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これを見て感激し、真剣に見入ってしまった・・・江戸時代の話だ・・・昔の日本人は凄かった・・・。
▼「四つ留之図」
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坑道に入口は四つ留めと呼ばれ、石見銀山では縦1.8m横幅1.5mの間歩入口に直径90㎝程の栗の丸太で4本柱を組
んで四つ留とした。
▼「四つ留役所之図」
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江戸時代中期、間歩(坑道)入口の左右には、四つ留役所が置かれ、山方掛の役人3人・同心1人・山附などの役人が詰
めて、坑内監督や見張りや、銀鉱石の計量を行っていた。
▼「御代官様銀山御見廻之図」
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御用見廻りは、年に数回銀山附役人4~5人と共廻りの御仲間2~3人を連れて馬で巡見を行い、鉱山の採れ高の状況
や、坑内の様子などを四つ留役所の役人から事情説明を受ける習わしであった。
▼「四つ留役所前柄山捨場」
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山言葉で捨石の事を「柄山」と呼ばれた。良質の鉱石が混じっている事があることから、山内の女や子供、非番の人夫
達が鉱石拾いをする様になった。
▼「鋪内之図」
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坑内の図で、右側から捨て石を背負って歩く人夫。鉱石の運搬や坑内の支木の替え木を持ち運んでいる図である。
▼A➡押木留之図 B➡掘子共鎖堀図 C➡水鋪水取之図
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押木留之図➡天井の土砂を留める為に木材で被う図。
掘子共鎖堀図➡掘子人夫達が鉱石をミノで掘っている図。
水鋪水取之図➡坑内の溜り水を水箱に段々と竹ポンプで吸い上げる作業の図。
▼A➡「石留之図」
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石を掘り抜いてトンネル状の坑道を設えるところと、水引き上げるの図。
▼「大水鋪角樋二而水引揚ル図」(おおみずしきかくにひつきみずひきあげるのず)
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坑内の湧水を木製のポンプを使って段々上に引き揚げて、疎水抗へ流し出している作業図。
▼「唐箕風箱之図」
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江戸時代中頃から唐箕を改良して坑外の風を抗内に昼夜送る作業を行った。
▼「留木拵之図」(とめぎしつらえのず)
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抗口前の広場では坑内の支柱を拵(こし)らえる仕事を行った。
▼「鉱石を運ぶ」
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掘子(ほりこ)が鉱石をかますに入れて背負い運ぶ。狭い坑道の中をさざえの殻のランプの明かりだけがたよりだった。
▼「鉱石を掘る」
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掘子は鑚(たがね)を鋏(はさみ)で固定し、鎚(つち)でたたき鉱石を掘る。暗闇・油煙・石塵の中で大変な労力であった。
▼「坑木を組む」
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落盤防止の為に坑木を組むのが留山師の仕事。坑道内が崩れるのを防ぐ重要な仕事であった。
▼「水をくむ」
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深く掘れば水が湧く。坑内の排水作業は鉱石を掘る事以上に大変な仕事であった。竹や角樋のポンプ・桶を使用した。
※これらの作業は、戦時中に各地で数多く掘られた旧日本軍の陣地壕や病院壕も同じ様に坑木が組まれていたので、
壕を掘る手作業も含めて江戸時代から続いている方法なんだと改めて感心していた・・・。
同時に戦時中に多くの壕を掘った日本軍設営隊や動員された人達の大変なご苦労を感じていた。
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▲▼最後の電照板の見学を終えて外に出て出口を撮影。
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周辺にいくつか坑口が開いていた。
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さぁ帰ろう。
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出口にもトイレ休憩する小屋があり、丁度ボランティアガイドの方がいらっしゃったので少し話を聞いた。
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鉱石を見せて頂いた。
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銀が入っているのがお解りだろうか、大きな石の塊でたったこれだけの銀があるだけだ・・・。
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▼世界遺産の意義「平和と人権尊重」
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▲帰りは行きとは違う道で戻る。
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▲小学生のお土産?石を売っている。小学生へだったらもっと安くしないと・・・どうも理解出来なかった。
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▲歴史ある神社のようだ・・・。
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▼少々キツい階段だが、国指定史跡であれば見てみたい。登ってみる事にした。
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▲登り終えた。文政時代に建てられた本殿だ・・・。
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中に入ってみた。
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しかし・・・隙間だらけでいまにも崩壊しそうだ・・・。
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この襖・・・。これが国指定史跡・・・?
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もう、お賽銭だけで維持していくのは無理なのかもしれない・・・。
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さぁ戻ろう。
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▼行きしなに通た林道が見えた。ほぼ並走している。
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▼かわいいお店なんかもあっていい感じの帰り道。
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▼毛利氏が石見銀山を支配した16世紀後半には、ここで採れた銀は温泉津沖泊港まで運ばれ、そこで銀の積み出しと、
 石見銀山への物資補給が行われたという。
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▼どのお店もいい感じ。
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▼かなり古そうな建物を見つけた。
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▼▲昭和初期頃の建物だろうか・・・かなりいい感じ。
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戦時中の兵舎の様な建物だ・・・。
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大森小学校として現役の建物だった!凄い。
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またしばらく歩く。
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▼無料休憩所があった。
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「渡辺家住宅」と書いてある。
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昔からずっと残ってるんだ・・・凄い。
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少し中を見学した。
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素晴らしいけど、現代人には住みにくいだろうな・・・。無駄に部屋が多過ぎるのでメンテが大変だ・・・。
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昔の人はそんなに物が多かったのか・・・?広い敷地に無駄無く建つ建物に蔵。身の周りはシンプルが1番と思う。
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古民家を再利用した喫茶店やお食事処が多い。
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江戸時代から続くメインストリーム「中国自然歩道」はまだまだ続く。
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観光客は意外に多い。
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▲景観を損なわない様に自動販売機も工夫されている。これは素晴らしい。
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どんどん進んでいるが、来る時に降りたバス停はとっくに過ぎている・・・。
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江戸時代を思わせる景観とお土産屋さんに惹かれてメインストリームをどんどん歩く。
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西洋かぶれの明治・大正時代の街並みより、もう一昔前のこっちの街並みの方が落ち着くかも・・・。
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▼榮泉寺竜宮門
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永遠に続くかの様ないい感じの街並み。
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やっぱ低い建物の方が落ち着くね。
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▲▼映画「アイ・ラヴ・ピース」のロケ地。この映画は知らない・・・。
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▲▼裁判所
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▲岩山上に建てられた観世音寺。此処から「大森の町なみ」を一望出来るそうだが、歩き疲れていたので遠慮した。
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▼▲理容館アラタ
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この辺りで大森の町なみは終了となる。
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▲大森代官所跡にある大森銀山資料館。長屋門は1815年に建造されたものだ。
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▲江戸時代にカメラは無かっただろうから、恐らく明治時代に撮影された大森代官所。
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▲代官所跡に建つ「西南之役戦死者記念碑」



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 2017_09_13


山口県の離島、角島。本土と角島を結ぶ角島大橋はトヨタのCMなどで使用された橋で、1度見てみたかった。
今回は、前から行ってみたかった俵山温泉で前泊し、角島元乃隅稲成神社石見銀山に向かう計画を立てた。
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俵山温泉街の入口。車はこの辺りの旅館共同駐車場に駐車する。
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歩いてブラブラ見学する。
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猿まんじゅうが有名な様だが、何やら怪しい置物も販売している。麻羅観音(まらかんのん)だ。
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▲ここからが旅館街の入口の様だ。
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▲温泉マップを見るとそれなりに大きな温泉街の様だが、実際に歩いて見てまわると、廃業した建屋も結構あった。
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▲▼「昭和」が残る旅館街をゆっくり歩く。
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▼今回宿泊でお世話になった「保養旅館・京屋」
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▼この宿の前で、「俵山温泉会議 スペシャル」故やしきたかじんと安倍総理大臣が立ち話していた場所だ。
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俵山温泉は外湯の文化。どの旅館にも内湯は無く、「町の湯」か「白猿の湯」を利用する事になる。
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▼白猿山薬師寺
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俵山温泉を発見したと伝えられる白猿に化けた薬師如来が祀られている。
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白猿山薬師寺は少し小高い場所にあったので、階段を下りてメインストリームに戻る
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▼右手奥には「白猿の湯」が見えて来た。
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▼▲俵山温泉「白猿の湯」。ここに来たかった理由は、故やしきたかじんと安倍総理大臣が温泉につかりながら政治談
義を繰り広げた場所だからだ。FC2動画「俵山温泉会議 スペシャル」関東では放送されていませんね。
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階段を登って早速「白猿の湯」へ。白猿山薬師寺も見える。
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「白猿の湯」の中にある、日仏レストラン「涼風亭」で遅めの昼食。涼風荘は岸元総理がこよなく愛した邸宅宿。
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「涼風亭」で食事をすると割引き券が貰え、温泉が通常700円➡500円で入浴する事が出来る。
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▲ロケで使用された露天風呂にゆっくり浸かって「白猿の湯」を後にした。温めでいいお湯だった。
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湯冷ましにもう少しブラブラしてみる
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▼温泉街の終わりに近い郵便局がある辺りを更に奥へ。このあたりは廃業物件が多い様だ・・・。
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▼明治32年の町の湯 明治・大正時代の建物そのままで営業していれば現在もっと注目されていたであろう・・・。
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▼大正14年の町の湯
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▼明治36年の川の湯
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▼大正9年の川の湯
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▼現在の川の湯(画像右手の緑の屋根)残念ながら廃業したそうだ。
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短い滞在だったが、レトロな雰囲気たっぷりの歴史ある静かな温泉街だった。明朝、一路角島大橋を目指した。
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▲▼角島大橋に着いた。
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沖縄にでも来た様な素晴らしい景色だ・・・。
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早速角島大橋を渡って、角島に向かう。
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▼あっという間に渡り終えて角島側より角島大橋を見る。
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角島は基本的には海水浴場がメインで、観光名所と呼ばれる場所は少ない。
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しかし、観光バスも入ってきており、お盆も重なって凄い人出だった
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まずは駐車場に車を停め、明治9年に建てられた角島灯台を見学する。
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灯台周辺は下関市立角島灯台公園。
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▲海側を歩くと日本海が広がる。遠く反対側は朝鮮半島だ。韓国語の入ったゴミが流れついていた。
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角島灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台で、日本の灯台50選にも選ばれている。
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▼参観灯台として常時内部が一般公開(有料)されているが、外から眺めるだけにした。
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▼土産物を販売している建屋の屋上に行き、景色を眺める。
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▼▲土産物を販売している建屋の屋上に行き、景色を眺める。
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灯台よりは低いが十分綺麗だった。
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▼海岸を歩くと美しいビーチが広がる。(撮影場所は遊泳禁止区域)
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奥に見えるのは本土。更に右奥は九州だ。南洋諸島の様な景色に感激していた。
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▼角島中学校は、明治・大正風のいい感じの建物だ。
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▼島に来て初めて、この島にも日本陸軍が砲台を建設していた事を知った。これは再訪しなければならない・・・。
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時間も無く、弾薬庫らしき遺構だけ見学し角島を後にした。他にも残っている遺構はありそうだ。再訪して確認したい。
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▲昭和14年7月1日起工、昭和15年9月26日竣功で、ラ式15cmカノン砲4門を備えた砲台陣地であったという。
軍事施設が造られた島内の北西側は要塞化され、日本陸軍が駐留していた。砲台他、弾薬庫・探照灯・部隊宿舎・資材
倉庫・油庫・監視所が建設され、なんとコンクリート製のトーチカの様な立派な監視所が民家に転用されているとの事。
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帰りの道は酷い渋滞・・・角島大橋しか本土へ渡る手段が無いので、1度島に入ると必ずこの道しか戻れない・・・。
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渋滞のお陰でゆっくり景色を見ながらドライブ出来るメリット?もあった。
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▼次に訪れたのは「元乃隅稲成神社」だったが・・・狭い山道に永遠と続く車の列・・・。
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少しは待ってみたが、一向に動く気配が無いので、残りどの位で着くか解らぬまま徒歩に変更。
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標識を確認出来る場所まで辿り着くと、どうやら狭い駐車場への入口はT字路になっており、反対側からも続々と車が。
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永遠と続く駐車場待ち渋滞を横目に、ひたすら歩いて元乃隅稲成神社を目指した。(徒歩に変更して正解)
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やっと鳥居が見えた!
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本来は海側から鳥居をくぐり抜けて登るコースの様だが、人も多いので上から下ってみた。
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▼眼下には123本の連続鳥居が見えた。よく観光案内の写真で見た光景だ。
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▼おみくじを引いて運勢を見てから早速進んでいく。
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京都・伏見稲荷大社の千本鳥居ほどでは無いが、それでも十分素晴らしい光景だ。
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伏見稲荷大社には無い、先が「海」というシチュエーションがかなり大きなアドバンテージとなっている。
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鳥居を抜けるとこの絶景。これは山に建てられた伏見稲荷大社では見る事が出来ない風景だ。
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先は日本海だ・・・。
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しばし日本海の絶景を眺める。
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振り返ると、かなり下って来た事がわかる。
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帰りは本来のコースである海側から登る。時間もおしていたので足早に登って帰った。
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この後日本海側を走り、「石見銀山」を目指した。


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 2017_09_03




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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