4月30日(日曜)、6年振りの開催となった米空軍基地主催のフェス【Okuma Beach Fest 2023】に行ってきた。

会場は沖縄本島北部の国頭村奥間にある、米空軍が管理する米軍保養施設奥間レスト・センター

天気予報は雨。前日から降っていた雨は止んでいるものの、空には厚い雲が・・・祈る様な気持ちで会場に向かう。


▲▼奥間交差点にあるファミリーマートは、沖縄本島最北端のファミマ。



12時ゲートOPENだが、早めに入れてくれた。

▲毎度の身分証明を提示して米軍保養施設奥間レスト・センター内へ入る。


駐車場に車を停めて、持ち物検査&金属探知検査場へ向かう。



会場までは無料送迎バスが行き来している。

米軍保養施設といっても、赤丸岬の全体を占有して作られた広い場所。

▲何故かトラックの荷台に乗って移動する参加者も・・・保養施設内はアメリカなので日本の道路交通法は関係ない。

会場に到着。






▲北部幹線道路沿いの路面店か、北部のフェスでしか見る事の出来ない本部町の【アイスクリン】

▼出店ゾーンを抜けるとメインイベント会場。赤丸岬が見える。

▼沖縄戦中の赤丸岬の入り江(昭和20年5月6日米軍撮影)この辺りは大きな戦闘が無かったのでまだ民家が見える。

▼ほぼ同じアングル


▲海なので当然だが、このビーチはオクマプライベートビーチ&リゾートに続いている。
施設手前にある「オクマプライベートビーチ&リゾート」は、昭和52年に、米軍保養施設の一部が返還された場所だ。


日本円で支払いは出来るが、おつりは$になるのでカード払いが無難。

ここで買えるピザは外では買えないので人気。日本人はお持ち帰りする人が多い。



Festまで時間があるので、保養施設内を見学して回る事にした。



米軍占有ビーチだからいつでも混雑などしないだろう。。。贅沢な場所だ




広々としたバーベキュースペースも確保されている。

自衛隊の方々用の、こんな保養施設が一体日本にいくつあるのか・・・。

※米軍保養施設奥間レスト・センターは、地元(北部?)の住民は身分証提示でいつでも入れると聞いた。


▲宿泊用のロッジまで揃っている。当然維持管理しているのは日本政府(日本人)。複雑な気持ちになった。
























そろそろフェスが始まるので戻ることに。



この日は、沖縄県を中心に活動しているラテンバンド、ディアマンテス(DIAMANTES)のライブがあった。


夜になって人混みが酷くなってきた。夕方から来られる方が多いようだ。




帰宅渋滞を避ける為、ディアマンテスのライブ後に退散。

画像の左右に写るのが、米軍保養施設奥間レスト・センター施設手前にある「オクマプライベートビーチ&リゾート」
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。
拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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会場は沖縄本島北部の国頭村奥間にある、米空軍が管理する米軍保養施設奥間レスト・センター

天気予報は雨。前日から降っていた雨は止んでいるものの、空には厚い雲が・・・祈る様な気持ちで会場に向かう。


▲▼奥間交差点にあるファミリーマートは、沖縄本島最北端のファミマ。



12時ゲートOPENだが、早めに入れてくれた。

▲毎度の身分証明を提示して米軍保養施設奥間レスト・センター内へ入る。


駐車場に車を停めて、持ち物検査&金属探知検査場へ向かう。



会場までは無料送迎バスが行き来している。

米軍保養施設といっても、赤丸岬の全体を占有して作られた広い場所。

▲何故かトラックの荷台に乗って移動する参加者も・・・保養施設内はアメリカなので日本の道路交通法は関係ない。

会場に到着。






▲北部幹線道路沿いの路面店か、北部のフェスでしか見る事の出来ない本部町の【アイスクリン】

▼出店ゾーンを抜けるとメインイベント会場。赤丸岬が見える。

▼沖縄戦中の赤丸岬の入り江(昭和20年5月6日米軍撮影)この辺りは大きな戦闘が無かったのでまだ民家が見える。

▼ほぼ同じアングル


▲海なので当然だが、このビーチはオクマプライベートビーチ&リゾートに続いている。
施設手前にある「オクマプライベートビーチ&リゾート」は、昭和52年に、米軍保養施設の一部が返還された場所だ。


日本円で支払いは出来るが、おつりは$になるのでカード払いが無難。

ここで買えるピザは外では買えないので人気。日本人はお持ち帰りする人が多い。



Festまで時間があるので、保養施設内を見学して回る事にした。



米軍占有ビーチだからいつでも混雑などしないだろう。。。贅沢な場所だ




広々としたバーベキュースペースも確保されている。

自衛隊の方々用の、こんな保養施設が一体日本にいくつあるのか・・・。

※米軍保養施設奥間レスト・センターは、地元(北部?)の住民は身分証提示でいつでも入れると聞いた。


▲宿泊用のロッジまで揃っている。当然維持管理しているのは日本政府(日本人)。複雑な気持ちになった。
























そろそろフェスが始まるので戻ることに。



この日は、沖縄県を中心に活動しているラテンバンド、ディアマンテス(DIAMANTES)のライブがあった。


夜になって人混みが酷くなってきた。夕方から来られる方が多いようだ。




帰宅渋滞を避ける為、ディアマンテスのライブ後に退散。

画像の左右に写るのが、米軍保養施設奥間レスト・センター施設手前にある「オクマプライベートビーチ&リゾート」
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4月22日(土曜日)嘉手納基地アメリカフェスト2023に行ってきた。

12時ゲートオープン。58号線沿いの嘉手納基地第4ゲート付近は大渋滞。

▲島の北から来た私。

▲島の南から来た友人もこの渋滞。


まだ昨日の雨が少し残る正午。いよいよ嘉手納基地第4ゲートから入場。免許証等の身分証明を提示。

原則米国人と日本人のみ入場可能。

元、日本陸軍中飛行場だった場所にやっと来れた・・・。

車を駐車した時に気が付いたが、前を走る箱バンは元同僚(沖縄県出身者)だった(笑)。


県外の人も、県内の人も、楽しみにしている人が多い米軍基地フェス。




滑走路に入って行く。

免許証等の身分証明を再提示。




▲滑走路の臨時駐車スペース?に車を置いて会場まで歩く。

着陸時のタイヤ痕が凄い・・・。

▲何度か訪れた事のある【道の駅嘉手納】が遠くに見える。やっと金網の中に入れた!

手荷物検査をしてもらって会場へ。

会場入りする頃にはすっかり雨もやみ、青空が出て最高のフェス日和になっていた。






会場の全体図を確認したらまずは腹ごしらえ。丁度お昼時だ。






アメリカンな移動販売車がいっぱい

















普天間基地フェスもそうだったが、空軍フェスは基地内の施設で買い物や食事などはさせていないようだ。

これは米軍にかかわらず、自衛隊フェスでも同様。那覇基地も、格納庫以外の施設は入れなかった。










▲機内を見学出来る機もあるが、がこの行列・・・諦めた(笑)





米兵は気軽に写真撮影にも応じてくれる。







次は格納庫の中を見学。

















▼▲航空自衛隊の方達も来ていた。
































▲定番の迫力野外ライブは大盛り上がり。


▲▼暗くなり始めた時、ここが駐機場だという事をあらためて実感。


最後の花火を見ず、渋滞を避けて早めに帰ろうと駐車場に戻ろうとしたら、既にこの渋滞・・・。

出口は、入口とは違う第3ゲート側に設けられた出口1箇所なのでこの渋滞。

▼この日、嘉手納基地の近く【東南植物楽園】から友人が撮影した、フェスの花火。

※おまけ。

道の駅かでな


屋上の展望台から米軍嘉手納基地を見る事が出来る。



▼今回フェスが行われた会場は赤➡の場所だ。

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▲島の北から来た私。

▲島の南から来た友人もこの渋滞。


まだ昨日の雨が少し残る正午。いよいよ嘉手納基地第4ゲートから入場。免許証等の身分証明を提示。

原則米国人と日本人のみ入場可能。

元、日本陸軍中飛行場だった場所にやっと来れた・・・。

車を駐車した時に気が付いたが、前を走る箱バンは元同僚(沖縄県出身者)だった(笑)。


県外の人も、県内の人も、楽しみにしている人が多い米軍基地フェス。




滑走路に入って行く。

免許証等の身分証明を再提示。




▲滑走路の臨時駐車スペース?に車を置いて会場まで歩く。

着陸時のタイヤ痕が凄い・・・。

▲何度か訪れた事のある【道の駅嘉手納】が遠くに見える。やっと金網の中に入れた!

手荷物検査をしてもらって会場へ。

会場入りする頃にはすっかり雨もやみ、青空が出て最高のフェス日和になっていた。






会場の全体図を確認したらまずは腹ごしらえ。丁度お昼時だ。






アメリカンな移動販売車がいっぱい

















普天間基地フェスもそうだったが、空軍フェスは基地内の施設で買い物や食事などはさせていないようだ。

これは米軍にかかわらず、自衛隊フェスでも同様。那覇基地も、格納庫以外の施設は入れなかった。










▲機内を見学出来る機もあるが、がこの行列・・・諦めた(笑)





米兵は気軽に写真撮影にも応じてくれる。







次は格納庫の中を見学。

















▼▲航空自衛隊の方達も来ていた。
































▲定番の迫力野外ライブは大盛り上がり。


▲▼暗くなり始めた時、ここが駐機場だという事をあらためて実感。


最後の花火を見ず、渋滞を避けて早めに帰ろうと駐車場に戻ろうとしたら、既にこの渋滞・・・。

出口は、入口とは違う第3ゲート側に設けられた出口1箇所なのでこの渋滞。

▼この日、嘉手納基地の近く【東南植物楽園】から友人が撮影した、フェスの花火。

※おまけ。

道の駅かでな


屋上の展望台から米軍嘉手納基地を見る事が出来る。



▼今回フェスが行われた会場は赤➡の場所だ。

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2023年3月25(土曜)26(日曜)辺野古米海兵隊基地キャンプ・シュワブフェスティバルに行ってきた。
この日は26(日曜)日、連日天気が良くない沖縄本島だったが、朝から雨模様・・・12時開門13時開始だ。
※フェス参加注意事項は以下の通り。
・セキュリティーチェックがるので。身分証(免許証等)を必ず携帯すること。
・原則日本人と米国人のみ入場可能。
・200mmを超える望遠レンズ付のカメラは持ち込めない。お祭りとはいえ軍事基地内なので当然。
・トランクが満載のレンタカーはチェックが厳しくなる場合がある。
・基地内の芝生は、出来るだけ踏まない事。(基地内で働く日本人達が丁寧に手入れされてます)
・この日を楽しみにしている沖縄県民が沢山いる為、毎年渋滞するので、スケジュールには余裕をもって。

キャンプ・シュワブメインゲートでは無く、第5ゲートから身分証明書を提示し、基地内の仮駐車場へ向かう。


いくつかのゲートを通って仮駐車場へ。

第5ゲートから基地内のけっこうな距離を走る。

普段は国道329号線から、反対派の違法闘争小屋やメインゲート付近しか見えない。

送迎シャトルバス乗り場が見えてきた。

と思いきや、米兵の乗るカートの誘導で更に基地の奥地へ。

途中から1台づつの移動となった。

駐車場に到着。12時ゲートオープンに行ったのだが、もう既に沢山の見学者の車が駐車していた。

歩いて送迎シャトルバス乗り場まで戻る。

基地内はホントに広い。


フルスモークとUSナンバーのせいか、普通のいすゞ製のバスがカッコよく見える。

送迎シャトルバス乗り場で、持ち物検査、再度身分証明書の提示を終えて、いざ会場に出発。

送迎シャトルバスでメインゲート側の会場へ。

因みにメインゲート側へは、全て基地内(国道329号線の下)を通って5分程で到着。

雨は小降りになってきていた。


会場は目の前だ。

右ハンドルの国内仕様、普通のプリウスがカッコよく見えてしまう・・・アメリカの雰囲気満々。

まぁ基地内はアメリカなのだが。。。

会場入り口付近ではちょっとしたカーショーも。

ハイラックスかっこいい

先ずは米軍基地の定番EXCHANGEへ。フェスの時にしか入れないEXCHANGEの中には、フードコート、お土産屋、
散髪屋からスーパーまで。販売している商品がほぼ米国製なので、まるで海外旅行をしているかの様な気分になれる。

支払いは円でも可能だが、$かカード払いがスムーズな感じ。


沢山の日本人で大盛況。

働いていらっしゃる方達は全て日本人なので、日本語で大丈夫だ💛

日本でおなじみでないアメリカ企業が多数





ゲームコーナーには日本で見慣れたゲーム機が。。。




▲一番混んでいたのが散髪屋さん。沢山の米兵が待っていた。

アメリカ人向けのお土産屋さん。







店内で買い物はしていないが、米軍関係者のみ購入可能の商品も多かった。


雨も止んだので、会場を見学してまわった。


定番のオスプレーなどの展示があって・・・。





軍用重機などの展示もある。





▲子供達の遊具もある。





友人お勧めのブルドッグバーガーを食べに施設内へ。



日本円でも支払いは出来るが、おつりが$にあると言われる事もあるのでカード払いがお勧め。

ドリンクはアメリカ定番の飲み放題。


アメリカの衛星放送を見ながらブルドッグバーガーを美味しくいただきました。




そろそろ帰る事にした。


来るときに乗った送迎バスで駐車場まで戻る。

まだまだ続々と来場者を乗せて来ていた。






帰る時には駐車場から溢れる程いっぱいになっていた。

レンタカーはほぼ見なかった。皆、楽しみにしてらした地元の方達でしょう。一体誰が反対してるんでしょう?(笑)
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「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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慶良間諸島の島々の一つ、渡嘉敷島に行くことが出来た。

渡嘉敷島は、那覇市西方約18マイルの洋上に浮かぶ慶良間諸島の主島

▲渡嘉敷島へは、那覇市の泊港(とまりん)から船が出ている。

▼【フェリーとかしき】で、いざ渡嘉敷島(周囲25㎞)へ出発。

▼フェリーとかしきから那覇市泊高橋付近を眺める。いい天気に恵まれた。

▼船内は綺麗で広い。渡嘉敷島まで約70分の船旅だ。

沖縄の格言で「慶良間みーしが、どぅ~のたにはみーらん」「きらまーみーゆしが、まちげーみーらん」がある。

簡単に言うと、遠くにある慶良間諸島は見えても、自分の足元にはなかなか気づかない。遠くの慶良間諸島が見えても、
自分のまつげor〇ん〇んは見えない。 遠くばかり見ていると、身近なことを見逃してしまう。と言う意味のことわざ。

慶良間諸島の島々は、沖縄本島からもはっきり見えるが、奥武島、瀬底島、屋我地島、古宇利島、浜比嘉島、伊計島な
ど、数々の離島が橋で繋がっている事で、車で行く事に慣れてしまうと、船でのその距離(約32㎞)は近いようで遠い。
しかし、高速船マリンライナーとかしきなら、35分で到着する慶良間列島最大の島(離島)だ。

▲沖縄本島が遠ざかる。

▲しばらくすると、今は無人島になってしまった前島が見える。

▲1960(昭和35年)の前島。田畑が見え、まだ島民が居る事が分かる。
※前島は昭和47年の沖縄返還まで、米軍基地(前島訓練場)として使用されていた。

▲渡嘉敷港が見えてきた。

沖縄戦中、渡嘉敷島には海上挺進第3戦隊(陸軍特攻艇マルレ)100隻が配備されていた。
海軍の特攻艇「震洋」は艇首のハッチ内部に爆弾を搭載するのに対して、陸軍特攻艇「マルレ」は、艇尾に爆雷を2個
搭載する。したがって、海軍「震洋」は完全に自爆体当たり特攻艇であるが、陸軍「マルレ」は敵艦数十メートル以内
に接近して爆雷を投下後、反転退避する事が可能で、元陸軍幹部の間では特攻兵器では無い。と言う意見も未だある。
しかし、敵艦に接近している以上、敵制海権からべニアボートで味方基地への帰還は困難である。
特攻作戦に関しては、航空特攻にしろ海上特攻にしろ、元々陸軍は消極的だったというが、「斬り込み」や無補給の作
戦で陸上兵士を何十万人も死なせている陸軍が、「マルレは特攻兵器では無い」と言っても何の説得力も無い。
「震洋」は必死の兵器、「マルレ」は決死の兵器と言う人がいるが、私に言わせればどちらも同じ特攻兵器である。
※当初は、マルレも「震洋」と同じく搭乗員もろとも「休当り」することになっていたが、むざむざ搭乗員を殺すべき
ではないと、必死➡決死に改められたのは、一説には、演習風景を撮った映画を天皇陛下がご覧になり「若い者を殺す
な」と言われて、改められたものだという。
陸軍海上挺身戦隊略史
昭和18年9月29日 船舶部隊の拡大に伴い、船舶へ異種を創設
昭和18年11月 船舶特別幹部候補生(特幹)制度を創設
昭和19年4月 香川県豊浜町にて船舶幹部候補生教育を開始
昭和19年4月 軽量攻撃艇の試作を野戦船舶本廠に、戦法を船舶練習部に担当
昭和19年5月 第十技術研究所にて軽量攻撃艇の設計を開始
昭和19年7月11日 千葉県岩井にて海軍マルヨン艇(震洋)と、陸軍試作艇との比較試験実施
昭和19年7月16日 船舶司令部にて海上特攻研究班を編成
昭和19年8月9日 広島県宇品で、陸軍海上挺身戦隊第1~第10戦隊を編成を開始
昭和19年8月上旬 香川県の小豆島にあった船舶特別幹部候補生(特幹)隊を宇品の根拠地に移動
昭和19年8月28日 広島県宇品でマルレの実爆実験実施
昭和19年10月 広島県の江田島・幸の浦に船舶練習部第10教育隊を開設。
昭和19年10月上旬 広島県の江田島・幸の浦にて、陸軍海上挺身戦隊第11~第53戦隊を編成
▼陸軍海上挺進戦隊「マルレ」暁部隊(本部は広島県宇品。隊員達は香川県・小豆島/江田島・幸の浦で訓練を受けた)

慶良間諸島に配備された陸軍海上挺進戦隊「マルレ」
【 海上挺進第3戦隊 】渡嘉敷島 【 海上挺進第1戦隊 】座間味島 【 海上挺進第2戦隊 】阿嘉島・慶留間島
渡嘉敷島の海上挺進第3戦隊は、戦隊長/赤松嘉次大尉 副官/知念朝睦少尉(第3戦隊で唯一の沖縄県出身の将校)
第1中隊/第2中隊/第3中隊(中隊長・皆本義博中尉)
1個戦隊は100隻(104名)※マルレは1人乗りだが、戦隊長艇と中隊長艇は指揮の関係で2人乗りだった。

▲赤松嘉次大尉(故人)享年?歳 ※以下は生き残られた皆本義博中尉の手記より抜粋、海上挺進第3戦隊の様相
昭和19年9月3日広島宇品の船舶指令部で海上挺進第3戦隊動員完了後、宝来丸(マライ丸)+2隻の輸送船で沖縄へ。
※宝来丸(マライ丸)には約60名の朝鮮人女性が乗っており、一部那覇で下船した後、21名は慶良間諸島に向かった。
宇品港➡門司港➡長崎の西を廻って熊本(天草湾)➡鹿児島湾➡那覇港➡渡嘉敷島
海上挺進第3戦隊104名、海上挺進基地大隊900名、朝鮮人女性7名は渡嘉敷島へ向かう。
昭和19年9月9日海上挺進基地大隊(鈴木常良少佐他900名)が停泊中の輸送船から渡嘉志久に上陸。民家に分泊
昭和19年9月10日基地大隊と、16歳~60歳までの住民も動員し、特攻艇秘匿壕掘りが始まる。
昭和19年9月26日海上挺進第3戦隊、マルレ100隻配備完了。旭沢に本部を置き、攻撃演習が始まる。
昭和19年10月10日十十空襲で沖縄本島壊滅。渡嘉敷島も空襲を受け、連絡船・漁船・村船のほとんどが壊滅。
※「マルレ」は秘匿壕に格納していた為、全艇無傷であった。秘匿壕掘りは基地隊だけでは無く、特攻隊員も掘った。
昭和19年10月下旬防衛隊79名が招集、兵舎に国民学校が充てられ、壕掘り作業に従事。
昭和19年11月17日沖縄第32軍の長勇参謀長の要望で沖縄島に派遣された精鋭師団、第9師団(武部隊13800名)に台
湾への転出命令が下され、12月末に台湾に移動してしまう・・その影響は慶良間諸島の海上挺進戦隊にも及び、海上
挺進基地大隊は、一部を残して沖縄本島に転用せよとの命令が下された。海上挺進基地大隊は名称を独立歩兵大隊に改
編し、独立混成旅団の隷下に入る事となり、島を去っていくのであった。結果、渡嘉敷島は戦隊長/赤松嘉次大尉以下、
戦隊3中隊104名、基地大隊(勤務隊)西村市五郎大尉以下161名、(整備中隊)木村中尉以下55名、防衛隊(軍に臨時召
集された島民17歳~45歳未満の青壮年)79名になり、入れ替わりで本島から来た特設水上勤務隊104中隊(斎田重雄少
尉以下13名、当初から島に居た朝鮮人軍夫210名が赤松隊に配属、特設水上勤務隊とした。
昭和20年3月20日秘匿壕、出撃準備等海上作戦準備を完了する。
昭和20年3月22日陣地構築、特攻訓練が開始される。
昭和20年3月23日正午過ぎから米艦載機の銃爆撃を受け、日没までに3集落はほぼ全滅。全島各所に山火事を生じた。
11名が戦死、16名負傷。
昭和20年3月24日早朝から米艦載機が来襲。赤松戦隊長は軍司令部と連絡し「戦備を整えること、米機動部隊が沖縄本
島の南東50マイルにある」ことを知る。

昭和20年3月25日未明、慶良間海峡に、潜水艦を伴う米軍の艦隊15~16隻が侵入。
昭和20年3月25日早朝、空襲と共に慶良間海峡に侵入した米艦艇は、慶良間列島全域に猛烈な艦砲射撃を開始した。

▲慶良間諸島を砲撃する米軍

昭和20年3月25日23時、ついに赤松戦隊長は、隊員に"出撃準備"の命令を発した。
夜空に敵艦砲の落下もものかはと、防衛隊(軍に臨時召集された島民)79余名(男女青年団員49名、壮年団員30名)と
婦人会40名が軍に協力。マルレ100隻は秘匿壕より引き出され、26日午前4時、渡嘉志久、阿波連の海辺に勇姿を揃
えた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は、勇躍乗船し、エンジンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせ、出撃の命令を今か
今かと待っていた。しかし隊長の出撃命令は無かった。赤松戦隊長は、隊員を待避壕に入れ、損害軽減に努めると共に、
要点に配兵して警戒を厳にした。赤松戦隊長は、沖縄本島の第32軍司令部に渡嘉敷島の状況を報告すると共に、今後
の処置について問い合わせたところ、25日夜、軍司令部から「敵情判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は、本島糸満
付近に転進せよ。転進の場合は糸満沖に電灯を円く振れ」との指示電報を受けた。

100隻のマルレは、出撃の勇姿を揃えたまま夜明けとなり、敵グラマン機の偵察に会った。
午後8時赤松戦隊長は沖縄本島転進を考慮し、特攻艇(マルレ)の1/3の泛水(爆雷を装備して浮かべるのみ)を命じた。
午後9時半第32軍司令部より、那覇への転進命令受領。その後全舟艇の泛水を命令じた。午後10時に第11船舶団長/
大町大佐一行が戦隊本部に到着(慶良間巡視で阿嘉島から到着)。大町大佐一行は転進命令を知らず、泛水中止を命令
し、一行の那覇護送を戦隊本部に要求した。赤松戦隊長は部隊の一部だけでの還送は困難とし、戦隊の第3中隊全力で
の還送を命じたが、第3中隊長が自隊のみが沖縄島に転進する事を渋ったため、赤松戦隊長は大町大佐に、戦隊全体で
の沖縄本島への転進を意見具申、大町大佐も了承した。しかし、泛水作業の着手に遅れるなどして、泛水が完了する頃
には明るくなっていた。このため赤松戦隊長は沖縄島への転進は不可能と判断し、目の前の米艦艇に向かって全特攻艇
で突入すべきと意見具申したが、大町大佐は、沖縄島に米軍主力が上陸する前に特攻艇を使用することは、沖縄本島に
居る海上挺進戦隊、4個戦隊の作戦企図秘匿上適当ではないとして、泛水した特攻艇の自沈を命じた。
※この時、命令違反覚悟でマルレ2隻を秘匿壕に揚陸を命じた第3中隊長・皆本義博中尉の判断が、その後大町大佐に感
謝される事となる。※自沈命令は阿波連の第1中隊には伝わらず、泛水を完了していた。
昭和20年3月26日赤松戦隊長は、渡嘉志久海岸地区にあった戦隊本部を東側山地の旭澤に転移させ、多数の非戦闘員
を含む諸部隊を複郭陣地と予定した留利加波東方高地に移動させた。天明と共に米軍の砲爆撃は激烈となり、艦載機は
常時20~30機が在空していて身動きがとれなくなっていた。
26日夜、渡嘉志久の第2中隊/第3中隊の一部を警戒部隊として残置し、残余を複郭陣地に集結すべきことを命じた。
第1中隊には残存舟艇による出撃を命じたが、第1中隊は米艦艇の砲撃を受け出撃不可能であった。
日付が27日へと変わる頃、大町大佐一行は引き上げた特攻艇2隻【1番艇(大町大佐/中村一郎少尉)2番艇(幕僚達)】
で渡嘉敷島を出発し沖縄島を目指した。しかし、1隻はすぐに沈没、乗組員は渡嘉敷島に泳いで戻る事になり、大町大
佐と中村一郎少尉が乗った1番艇は消息不明となり、戦死と判断された。
大町大佐一行の動向と、それに関連する作戦指導を見ると、あくまで特攻艇作戦は軍船舶隊長の命令により戦隊長が実
行するという指導関係がわかると共に、特攻艇の秘匿は非常に強く意識されていた。沖縄戦全体を通し、こうした作戦
の指揮系統と秘匿性の絡み合いで、特攻艇作戦は結局ほとんど戦果をあげられず終わっていくことになる。

※29日、米哨戒艇ストレートジィが沖縄の沖合に浮かんでいる遺体を発見している。遺体の持ち物には高級将校が携帯
するような記録類があり、米上層部が確認したところ、遺体についていた徽章が陸軍大佐の徽章であり、そこには大町
と記されていた他、他の荷物には「大町茂」と記されていたそうだ。
26日夜から27日未明に渡嘉敷島を出発し、消息不明となった大町茂大佐の遺体と考えて間違いないだろう。

▲▼渡嘉志久ビーチで爆破処分され、放棄された陸軍海上挺進第3戦隊の「マルレ」

慶良間列島の座間味/阿嘉/渡嘉敷の陸軍海上挺進戦隊を指揮する立場にあったのが第11船舶団長の大町茂大佐だった。

▲今回訪れた同じ場所(渡嘉志久ビーチ)

和20年3月27日朝9時。日本軍戦隊と渡嘉敷島民約1400人が最も恐れていた米軍の上陸が開始された。


▲3/27渡嘉敷島に上陸した米陸軍第77師団


▲▼渡嘉志久ビーチに上陸した米陸軍第77師団306連隊第1大隊。

▼阿波連海岸に上陸する米陸軍第77師団306連隊第2大隊。

▼今回訪れた同じ場所(阿波連ビーチ)

▼阿波連ビーチに上陸した米陸軍第77師団306連隊第2大隊

▼今回訪れた同じ場所(阿波連ビーチ)

▼赤でマーキングした辺りに特攻艇秘匿壕が掘られていた。それらしい雰囲気はあったが今は現存しない。

▼この鳥居【威部の前】の近所に、秘匿壕があったであろうと思われるそれらしい雰囲気の場所はあったが現存しない。

猛烈な砲爆撃の支援下に、渡嘉志久海岸及び阿波連海岸に米軍が上陸を開始。第3中隊長の皆本少尉は渡嘉志久東側高
地から渡嘉志久海岸に上陸した米軍を攻撃して前進を阻止したが、反撃を受け戦死者を生じた。
皆本少尉以下特攻隊員の装備は、拳銃(弾6発)/手榴弾/軍刀であった・・・。
第3中隊は10時頃から撤退を開始、翌日10時頃に戦隊本部に到着した。阿波連方面の第1中隊はマルレがほとんど破
壊された為、阿波連北東高地に陣地を構えた。
27日朝、複郭陣地に到着した戦隊主力は、234.2高地(現在の国立沖縄青少年交流の家)を中心とする配備を採り、陣
地構築に着手した。複郭陣地と言っても名ばかりで、陣地はおろか各隊は事前の偵察さえもしていなかったが、大急ぎ
でタコツボ陣地を構築した。そもそもが特攻部隊。特攻隊員も地上戦を展開するとは想定外だっただろう・・・。座間
味島の梅澤隊長が、座間味島着任早々、「我々は戦隊であり、島を守る守備隊ではない」と島の責任者に伝えた事から
も分かる通り、海上挺進戦隊が、島や住民を守る為に配備された部隊では無い事は最初から明白だった。

戦後、生き残った赤松戦隊長は、この234.2高地で起こった渡嘉敷住民の集団自決や、使者を処刑した事に関して追及
を受ける事になる・・・。

▲水色でマーキングした部分は渡嘉敷港

▲渡嘉敷港に入港する。水色の矢印の山が234.2高地。現在慶良間諸島の中で1番高い【赤間山】。

▲▼渡嘉敷港


下船して渡嘉敷島巡りを始める。

船が着く時間は、路線バスもいるし、各民宿やダイビングショップ等のお迎えの車で港は賑やかだ。


▲送迎車とは別に、トラックの荷台にスーツケースのみを積んで運ぶ宿もあった。


▲渡嘉敷小中学校

▲渡嘉敷神社

▲現在の渡嘉敷港(昭和47年5月15日開港)はかなり埋め立て部分が多い。

▲1961(昭和36年)7月撮影の渡嘉敷港

▲渡嘉敷村役場

▲1970(昭和45年)撮影の渡嘉敷村役場


▼上記地図の青点(第2監視哨の左横)の場所には、新しくできた津波避難所(港が見える展望台)がある。

津波避難所(港が見える展望台)から渡嘉敷港と渡嘉敷集落を見る

▲写真中央の山が234.2高地(赤間山複郭陣地)

▲赤い矢印の山がA高地だ。

▲昭和20年4月に、米軍がA高地側から撮影した渡嘉敷集落

▲▼第2監視哨(アラン展望台)からの眺め。▲234.2高地(赤間山複郭陣地)も見える


▲那覇警察署渡嘉敷駐在所。

▲渡嘉敷港にほど近い、渡嘉敷駐在所近くから国立沖縄青少年交流の家(234.2高地)に向かう。

▲中腹で車を停めて、渡嘉敷港を見下ろす。

▲昭和45年(1970)10月に撮影された渡嘉敷港。

▲現在の写真と照らし合わせると、埋め立て部分が良く解る。

▲人口約700人の島に見合わない立派な道路は、国立沖縄青少年交流の家に向かうためだけと言っても過言では無い。
沖縄返還後、国の沖縄振興交付金の活用で、渡嘉敷港や234.2高地(複郭陣地)は、かなり整備されたというが本当だ。

中腹にある白玉之塔。大東亜戦争で亡くなられた渡嘉敷島出身者の住民・軍人・軍属の方々594名をまつっている。
現在、この場所では、集団自決が行われた3月28日に、渡嘉敷村が主催する慰霊祭が執り行われている。

元々白玉之塔は、集団自決が行われた場所(国立沖縄青少年交流の家敷地内【集団自決跡地】)に、昭和26年3月28日
に建立されたが、米軍ホークミサイル基地建設に伴い、昭和37年4月19日に現在の場所へ移設さた。

白玉之塔の名前の由来は、建立に当たり名称を公募し、中井盛才氏の「白玉之塔の詩」から名前を採用したそうだ。
※白玉之塔の詩「忘れじと 思う心は白玉の 塔に託して 永久に伝えん」から

▲1970(昭和45年)10月に撮影された白玉之塔

▲1967(昭和42年)7月に撮影された渡嘉敷島(国立沖縄青少年交流の家)のホークミサイル。
私の知っている限り、沖縄に米軍が建設したホークミサイル基地跡は、 多野岳ホーク基地跡、渡嘉敷島、そして恩納村
に4カ所の核ミサイル基地跡があり、全てのミサイルは西(東シナ海)に向いていた。沖縄返還に伴い、核を撤去して日本
と同じ法律を適用する「核抜き本土並み」という日本側の方針を受け、70年までに上記のミサイル基地は撤去された。
因みに恩納村の核ミサイル基地基地は開放され、今は創価学会沖縄研修道場になっている。

▲白玉之塔から渡嘉敷港を見下ろす。

▲▼慶良間ツツジ(慶良間躑躅)と呼ばれるツツジが綺麗に咲いていた。


登り切って国立沖縄青少年交流の家(234.2高地複郭陣地)に到着。

▲管理研修棟は米軍基地時代の物をそのまま使用しているようだ。

▲▼昭和39年(1964)に撮影された234.2高地。まだ米軍ホークミサイル基地があり、管理研修棟も写っている。

▼先ずは集団自決の跡地へ慰霊に向かう。

▼しっかり門で閉ざされ、自由にはいれるが、入ったら扉を閉める決まりになっている。

▼直ぐ横には、米軍ホークミサイル基地時代の建物が放棄されたままになっている。




碑文
この台地後方の谷間は去る大戦において住民が集団自決をした場所である。
米軍の上陸により追いつめられた住民は、友軍を頼ってこの地に集結したが、敵の砲爆は熾烈を極め、遂に包囲され行
く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民として
の本分である」として、昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。
兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで、親戚縁故が車座になり、1個の手榴弾に2~30名が
集まった瞬間、不気味な炸裂音は谷間にこだまし、清流の流れは寸時にして血の流れと化し、老若男女315名の尊い命
が失われ、悲惨な死を遂げた。 昭和26年3月この大戦で犠牲になった方々の慰霊のため、この地に白玉の塔を建立した
が 米軍基地となった為に移設を余儀なくされた。時移り世変わってここに沖縄の祖国復帰20年の節目を迎えるに当り、
過去を省み戦争の悲惨を永く後世に伝え恒久平和の誓いを新たにするため、ここを聖地として整備し、碑を建立した
平成5年3月28日 渡嘉敷村

慰霊碑奥の集団自決跡地に向かう。

島民(非戦闘員)が避難していたという窪地に向かって、鬱蒼とした森を少し下っていく。

撤退命令を受けた島民達は、3月28日午前、日本軍陣地北方のこの盆地に結集した。

そして、写真の谷川の清水が血の流れと化す問題の【集団自決】がはじまるのである・・・。
その頃米軍は、A高地に陣地を構え、完全に包囲体型を整え、迫撃砲をもって234.2高地複郭陣地陣地に迫り、遂に住
民の待避する窪地(恩納川上流付近)にも砲撃を受けるに至り、危機は刻々に迫っていた。

▼渡嘉敷島において「集団自決した住民」とされる写真

※この写真は沖縄県平和祈念資料館で「米軍の艦砲射撃で亡くなった住民」と説明書されている。実際、この窪地にも
容赦なく砲撃を浴びせた米軍の攻撃の中、この方達が、砲撃で亡くなったのか自決なのかは今となっては分からない。
慰霊碑の横に解説板があったが、それは~1945年4月2日ロサンゼルスタイムス朝刊から~という内容だった事。
海上挺身第3戦隊副官の証言【私が見た自決者の遺体は6、7体でした。記録に残る329体というのは、見てもいないし
知りません。329体なら、それは恩納川上流に累積していなければならないはずですが、そんなのは知りません。赤松
隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました】にもある
ように、碑文にある犠牲者315名が、全て自決でない事は火を見るよりも明らかだろう。

▲国立沖縄青少年交流の家(234.2高地複郭陣地)西展望台(看板は北山となっている)



▲国立沖縄青少年交流の家(234.2高地複郭陣地)東展望台。正面に前島、奥は沖縄本島。

▼▲ヒータティアー(航海を見守る古の狼煙台跡)からの眺め

※国立沖縄青少年交流の家の敷地に隣接して「赤松隊本部壕」が現存しているが、今回は行けなかった。

▲▼【北山の陣地壕】と呼ばれる人口壕は22個現存しており、陸軍では珍しく、強固に構築されていた事が伺える。

赤松隊長以下戦隊生き残りの方達はこの陣地で終戦まで粘り、投降したのは、昭和20年8月22日のことであった。

※島民の生き残りの方達は、昭和20年8月15日古波蔵惟好村長と相談し、先に米軍へ集団投降している。

▼▲ヒータティアーから管理研修棟、体育館、宿泊棟、野球場を見下ろす。全体が見渡せるいい場所だ。

▼倉庫に利用しているのか・・・。随所に米軍ホークミサイル基地時代の遺構が放置されている。

▼国立沖縄青少年交流の家を後にし、かつて海上挺進第3戦隊の本部が置かれた旭沢(渡嘉志久集落)に向かう。

渡嘉敷島の集落は3つ。渡嘉敷/渡嘉志久/阿波連だ。山が多いこの島を、険しい山道を通って各集落へと向かう。

▼▲先ずは慶良間海峡展望所から渡嘉志久集落を見下ろす。

素晴らしい眺めと景色だった。


目が覚めるような美しさの渡嘉志久海岸(ビーチ)

▼ビーチ左側の山裾に第2中隊の秘匿壕があったとされるが現存しているかどうかは未確認。

▼ビーチ右側の山裾に第3中隊の秘匿壕があったとされるが現存しているかどうかは未確認。


▼ビーチ裏側の山肌に秘匿壕が残され、見学出来る様に公開されている。

この辺りは戦隊本部が置かれていた地域だ。


恐らく前部は滑落して壕自体は短くなっていると思う。

設計企画では奥行きはおよそ25m位。全長約5mのマルレが5隻収納出来る奥行きのはずだ。

単純に1個戦隊100隻なので、3中隊各33隻とすると、各中隊につき6~7秘匿壕が掘られたと推測出来る。

▼渡嘉敷島で観光客がよく行く場所は阿波連集落だ。


▼阿波連小学校

▼阿波連神社





1日3本程度だが、路線バスも走っている。


キリンビールpresents【ケラマ諸島ビーチクリーン】前夜祭が行われていた。


ここで提供されていた渡嘉敷マグロそばが最高だった。


とても綺麗で静かな阿波連集落を後にして渡嘉敷港に戻る。







とまりん到着

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渡嘉敷島は、那覇市西方約18マイルの洋上に浮かぶ慶良間諸島の主島

▲渡嘉敷島へは、那覇市の泊港(とまりん)から船が出ている。

▼【フェリーとかしき】で、いざ渡嘉敷島(周囲25㎞)へ出発。

▼フェリーとかしきから那覇市泊高橋付近を眺める。いい天気に恵まれた。

▼船内は綺麗で広い。渡嘉敷島まで約70分の船旅だ。

沖縄の格言で「慶良間みーしが、どぅ~のたにはみーらん」「きらまーみーゆしが、まちげーみーらん」がある。

簡単に言うと、遠くにある慶良間諸島は見えても、自分の足元にはなかなか気づかない。遠くの慶良間諸島が見えても、
自分のまつげor〇ん〇んは見えない。 遠くばかり見ていると、身近なことを見逃してしまう。と言う意味のことわざ。

慶良間諸島の島々は、沖縄本島からもはっきり見えるが、奥武島、瀬底島、屋我地島、古宇利島、浜比嘉島、伊計島な
ど、数々の離島が橋で繋がっている事で、車で行く事に慣れてしまうと、船でのその距離(約32㎞)は近いようで遠い。
しかし、高速船マリンライナーとかしきなら、35分で到着する慶良間列島最大の島(離島)だ。

▲沖縄本島が遠ざかる。

▲しばらくすると、今は無人島になってしまった前島が見える。

▲1960(昭和35年)の前島。田畑が見え、まだ島民が居る事が分かる。
※前島は昭和47年の沖縄返還まで、米軍基地(前島訓練場)として使用されていた。

▲渡嘉敷港が見えてきた。

沖縄戦中、渡嘉敷島には海上挺進第3戦隊(陸軍特攻艇マルレ)100隻が配備されていた。
海軍の特攻艇「震洋」は艇首のハッチ内部に爆弾を搭載するのに対して、陸軍特攻艇「マルレ」は、艇尾に爆雷を2個
搭載する。したがって、海軍「震洋」は完全に自爆体当たり特攻艇であるが、陸軍「マルレ」は敵艦数十メートル以内
に接近して爆雷を投下後、反転退避する事が可能で、元陸軍幹部の間では特攻兵器では無い。と言う意見も未だある。
しかし、敵艦に接近している以上、敵制海権からべニアボートで味方基地への帰還は困難である。
特攻作戦に関しては、航空特攻にしろ海上特攻にしろ、元々陸軍は消極的だったというが、「斬り込み」や無補給の作
戦で陸上兵士を何十万人も死なせている陸軍が、「マルレは特攻兵器では無い」と言っても何の説得力も無い。
「震洋」は必死の兵器、「マルレ」は決死の兵器と言う人がいるが、私に言わせればどちらも同じ特攻兵器である。
※当初は、マルレも「震洋」と同じく搭乗員もろとも「休当り」することになっていたが、むざむざ搭乗員を殺すべき
ではないと、必死➡決死に改められたのは、一説には、演習風景を撮った映画を天皇陛下がご覧になり「若い者を殺す
な」と言われて、改められたものだという。
陸軍海上挺身戦隊略史
昭和18年9月29日 船舶部隊の拡大に伴い、船舶へ異種を創設
昭和18年11月 船舶特別幹部候補生(特幹)制度を創設
昭和19年4月 香川県豊浜町にて船舶幹部候補生教育を開始
昭和19年4月 軽量攻撃艇の試作を野戦船舶本廠に、戦法を船舶練習部に担当
昭和19年5月 第十技術研究所にて軽量攻撃艇の設計を開始
昭和19年7月11日 千葉県岩井にて海軍マルヨン艇(震洋)と、陸軍試作艇との比較試験実施
昭和19年7月16日 船舶司令部にて海上特攻研究班を編成
昭和19年8月9日 広島県宇品で、陸軍海上挺身戦隊第1~第10戦隊を編成を開始
昭和19年8月上旬 香川県の小豆島にあった船舶特別幹部候補生(特幹)隊を宇品の根拠地に移動
昭和19年8月28日 広島県宇品でマルレの実爆実験実施
昭和19年10月 広島県の江田島・幸の浦に船舶練習部第10教育隊を開設。
昭和19年10月上旬 広島県の江田島・幸の浦にて、陸軍海上挺身戦隊第11~第53戦隊を編成
▼陸軍海上挺進戦隊「マルレ」暁部隊(本部は広島県宇品。隊員達は香川県・小豆島/江田島・幸の浦で訓練を受けた)

慶良間諸島に配備された陸軍海上挺進戦隊「マルレ」
【 海上挺進第3戦隊 】渡嘉敷島 【 海上挺進第1戦隊 】座間味島 【 海上挺進第2戦隊 】阿嘉島・慶留間島
渡嘉敷島の海上挺進第3戦隊は、戦隊長/赤松嘉次大尉 副官/知念朝睦少尉(第3戦隊で唯一の沖縄県出身の将校)
第1中隊/第2中隊/第3中隊(中隊長・皆本義博中尉)
1個戦隊は100隻(104名)※マルレは1人乗りだが、戦隊長艇と中隊長艇は指揮の関係で2人乗りだった。

▲赤松嘉次大尉(故人)享年?歳 ※以下は生き残られた皆本義博中尉の手記より抜粋、海上挺進第3戦隊の様相
昭和19年9月3日広島宇品の船舶指令部で海上挺進第3戦隊動員完了後、宝来丸(マライ丸)+2隻の輸送船で沖縄へ。
※宝来丸(マライ丸)には約60名の朝鮮人女性が乗っており、一部那覇で下船した後、21名は慶良間諸島に向かった。
宇品港➡門司港➡長崎の西を廻って熊本(天草湾)➡鹿児島湾➡那覇港➡渡嘉敷島
海上挺進第3戦隊104名、海上挺進基地大隊900名、朝鮮人女性7名は渡嘉敷島へ向かう。
昭和19年9月9日海上挺進基地大隊(鈴木常良少佐他900名)が停泊中の輸送船から渡嘉志久に上陸。民家に分泊
昭和19年9月10日基地大隊と、16歳~60歳までの住民も動員し、特攻艇秘匿壕掘りが始まる。
昭和19年9月26日海上挺進第3戦隊、マルレ100隻配備完了。旭沢に本部を置き、攻撃演習が始まる。
昭和19年10月10日十十空襲で沖縄本島壊滅。渡嘉敷島も空襲を受け、連絡船・漁船・村船のほとんどが壊滅。
※「マルレ」は秘匿壕に格納していた為、全艇無傷であった。秘匿壕掘りは基地隊だけでは無く、特攻隊員も掘った。
昭和19年10月下旬防衛隊79名が招集、兵舎に国民学校が充てられ、壕掘り作業に従事。
昭和19年11月17日沖縄第32軍の長勇参謀長の要望で沖縄島に派遣された精鋭師団、第9師団(武部隊13800名)に台
湾への転出命令が下され、12月末に台湾に移動してしまう・・その影響は慶良間諸島の海上挺進戦隊にも及び、海上
挺進基地大隊は、一部を残して沖縄本島に転用せよとの命令が下された。海上挺進基地大隊は名称を独立歩兵大隊に改
編し、独立混成旅団の隷下に入る事となり、島を去っていくのであった。結果、渡嘉敷島は戦隊長/赤松嘉次大尉以下、
戦隊3中隊104名、基地大隊(勤務隊)西村市五郎大尉以下161名、(整備中隊)木村中尉以下55名、防衛隊(軍に臨時召
集された島民17歳~45歳未満の青壮年)79名になり、入れ替わりで本島から来た特設水上勤務隊104中隊(斎田重雄少
尉以下13名、当初から島に居た朝鮮人軍夫210名が赤松隊に配属、特設水上勤務隊とした。
昭和20年3月20日秘匿壕、出撃準備等海上作戦準備を完了する。
昭和20年3月22日陣地構築、特攻訓練が開始される。
昭和20年3月23日正午過ぎから米艦載機の銃爆撃を受け、日没までに3集落はほぼ全滅。全島各所に山火事を生じた。
11名が戦死、16名負傷。
昭和20年3月24日早朝から米艦載機が来襲。赤松戦隊長は軍司令部と連絡し「戦備を整えること、米機動部隊が沖縄本
島の南東50マイルにある」ことを知る。

昭和20年3月25日未明、慶良間海峡に、潜水艦を伴う米軍の艦隊15~16隻が侵入。
昭和20年3月25日早朝、空襲と共に慶良間海峡に侵入した米艦艇は、慶良間列島全域に猛烈な艦砲射撃を開始した。

▲慶良間諸島を砲撃する米軍

昭和20年3月25日23時、ついに赤松戦隊長は、隊員に"出撃準備"の命令を発した。
夜空に敵艦砲の落下もものかはと、防衛隊(軍に臨時召集された島民)79余名(男女青年団員49名、壮年団員30名)と
婦人会40名が軍に協力。マルレ100隻は秘匿壕より引き出され、26日午前4時、渡嘉志久、阿波連の海辺に勇姿を揃
えた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は、勇躍乗船し、エンジンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせ、出撃の命令を今か
今かと待っていた。しかし隊長の出撃命令は無かった。赤松戦隊長は、隊員を待避壕に入れ、損害軽減に努めると共に、
要点に配兵して警戒を厳にした。赤松戦隊長は、沖縄本島の第32軍司令部に渡嘉敷島の状況を報告すると共に、今後
の処置について問い合わせたところ、25日夜、軍司令部から「敵情判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は、本島糸満
付近に転進せよ。転進の場合は糸満沖に電灯を円く振れ」との指示電報を受けた。

100隻のマルレは、出撃の勇姿を揃えたまま夜明けとなり、敵グラマン機の偵察に会った。
午後8時赤松戦隊長は沖縄本島転進を考慮し、特攻艇(マルレ)の1/3の泛水(爆雷を装備して浮かべるのみ)を命じた。
午後9時半第32軍司令部より、那覇への転進命令受領。その後全舟艇の泛水を命令じた。午後10時に第11船舶団長/
大町大佐一行が戦隊本部に到着(慶良間巡視で阿嘉島から到着)。大町大佐一行は転進命令を知らず、泛水中止を命令
し、一行の那覇護送を戦隊本部に要求した。赤松戦隊長は部隊の一部だけでの還送は困難とし、戦隊の第3中隊全力で
の還送を命じたが、第3中隊長が自隊のみが沖縄島に転進する事を渋ったため、赤松戦隊長は大町大佐に、戦隊全体で
の沖縄本島への転進を意見具申、大町大佐も了承した。しかし、泛水作業の着手に遅れるなどして、泛水が完了する頃
には明るくなっていた。このため赤松戦隊長は沖縄島への転進は不可能と判断し、目の前の米艦艇に向かって全特攻艇
で突入すべきと意見具申したが、大町大佐は、沖縄島に米軍主力が上陸する前に特攻艇を使用することは、沖縄本島に
居る海上挺進戦隊、4個戦隊の作戦企図秘匿上適当ではないとして、泛水した特攻艇の自沈を命じた。
※この時、命令違反覚悟でマルレ2隻を秘匿壕に揚陸を命じた第3中隊長・皆本義博中尉の判断が、その後大町大佐に感
謝される事となる。※自沈命令は阿波連の第1中隊には伝わらず、泛水を完了していた。
昭和20年3月26日赤松戦隊長は、渡嘉志久海岸地区にあった戦隊本部を東側山地の旭澤に転移させ、多数の非戦闘員
を含む諸部隊を複郭陣地と予定した留利加波東方高地に移動させた。天明と共に米軍の砲爆撃は激烈となり、艦載機は
常時20~30機が在空していて身動きがとれなくなっていた。
26日夜、渡嘉志久の第2中隊/第3中隊の一部を警戒部隊として残置し、残余を複郭陣地に集結すべきことを命じた。
第1中隊には残存舟艇による出撃を命じたが、第1中隊は米艦艇の砲撃を受け出撃不可能であった。
日付が27日へと変わる頃、大町大佐一行は引き上げた特攻艇2隻【1番艇(大町大佐/中村一郎少尉)2番艇(幕僚達)】
で渡嘉敷島を出発し沖縄島を目指した。しかし、1隻はすぐに沈没、乗組員は渡嘉敷島に泳いで戻る事になり、大町大
佐と中村一郎少尉が乗った1番艇は消息不明となり、戦死と判断された。
大町大佐一行の動向と、それに関連する作戦指導を見ると、あくまで特攻艇作戦は軍船舶隊長の命令により戦隊長が実
行するという指導関係がわかると共に、特攻艇の秘匿は非常に強く意識されていた。沖縄戦全体を通し、こうした作戦
の指揮系統と秘匿性の絡み合いで、特攻艇作戦は結局ほとんど戦果をあげられず終わっていくことになる。

※29日、米哨戒艇ストレートジィが沖縄の沖合に浮かんでいる遺体を発見している。遺体の持ち物には高級将校が携帯
するような記録類があり、米上層部が確認したところ、遺体についていた徽章が陸軍大佐の徽章であり、そこには大町
と記されていた他、他の荷物には「大町茂」と記されていたそうだ。
26日夜から27日未明に渡嘉敷島を出発し、消息不明となった大町茂大佐の遺体と考えて間違いないだろう。

▲▼渡嘉志久ビーチで爆破処分され、放棄された陸軍海上挺進第3戦隊の「マルレ」

慶良間列島の座間味/阿嘉/渡嘉敷の陸軍海上挺進戦隊を指揮する立場にあったのが第11船舶団長の大町茂大佐だった。

▲今回訪れた同じ場所(渡嘉志久ビーチ)

和20年3月27日朝9時。日本軍戦隊と渡嘉敷島民約1400人が最も恐れていた米軍の上陸が開始された。


▲3/27渡嘉敷島に上陸した米陸軍第77師団


▲▼渡嘉志久ビーチに上陸した米陸軍第77師団306連隊第1大隊。

▼阿波連海岸に上陸する米陸軍第77師団306連隊第2大隊。

▼今回訪れた同じ場所(阿波連ビーチ)

▼阿波連ビーチに上陸した米陸軍第77師団306連隊第2大隊

▼今回訪れた同じ場所(阿波連ビーチ)

▼赤でマーキングした辺りに特攻艇秘匿壕が掘られていた。それらしい雰囲気はあったが今は現存しない。

▼この鳥居【威部の前】の近所に、秘匿壕があったであろうと思われるそれらしい雰囲気の場所はあったが現存しない。

猛烈な砲爆撃の支援下に、渡嘉志久海岸及び阿波連海岸に米軍が上陸を開始。第3中隊長の皆本少尉は渡嘉志久東側高
地から渡嘉志久海岸に上陸した米軍を攻撃して前進を阻止したが、反撃を受け戦死者を生じた。
皆本少尉以下特攻隊員の装備は、拳銃(弾6発)/手榴弾/軍刀であった・・・。
第3中隊は10時頃から撤退を開始、翌日10時頃に戦隊本部に到着した。阿波連方面の第1中隊はマルレがほとんど破
壊された為、阿波連北東高地に陣地を構えた。
27日朝、複郭陣地に到着した戦隊主力は、234.2高地(現在の国立沖縄青少年交流の家)を中心とする配備を採り、陣
地構築に着手した。複郭陣地と言っても名ばかりで、陣地はおろか各隊は事前の偵察さえもしていなかったが、大急ぎ
でタコツボ陣地を構築した。そもそもが特攻部隊。特攻隊員も地上戦を展開するとは想定外だっただろう・・・。座間
味島の梅澤隊長が、座間味島着任早々、「我々は戦隊であり、島を守る守備隊ではない」と島の責任者に伝えた事から
も分かる通り、海上挺進戦隊が、島や住民を守る為に配備された部隊では無い事は最初から明白だった。

戦後、生き残った赤松戦隊長は、この234.2高地で起こった渡嘉敷住民の集団自決や、使者を処刑した事に関して追及
を受ける事になる・・・。

▲水色でマーキングした部分は渡嘉敷港

▲渡嘉敷港に入港する。水色の矢印の山が234.2高地。現在慶良間諸島の中で1番高い【赤間山】。

▲▼渡嘉敷港


下船して渡嘉敷島巡りを始める。

船が着く時間は、路線バスもいるし、各民宿やダイビングショップ等のお迎えの車で港は賑やかだ。


▲送迎車とは別に、トラックの荷台にスーツケースのみを積んで運ぶ宿もあった。


▲渡嘉敷小中学校

▲渡嘉敷神社

▲現在の渡嘉敷港(昭和47年5月15日開港)はかなり埋め立て部分が多い。

▲1961(昭和36年)7月撮影の渡嘉敷港

▲渡嘉敷村役場

▲1970(昭和45年)撮影の渡嘉敷村役場


▼上記地図の青点(第2監視哨の左横)の場所には、新しくできた津波避難所(港が見える展望台)がある。

津波避難所(港が見える展望台)から渡嘉敷港と渡嘉敷集落を見る

▲写真中央の山が234.2高地(赤間山複郭陣地)

▲赤い矢印の山がA高地だ。

▲昭和20年4月に、米軍がA高地側から撮影した渡嘉敷集落

▲▼第2監視哨(アラン展望台)からの眺め。▲234.2高地(赤間山複郭陣地)も見える


▲那覇警察署渡嘉敷駐在所。

▲渡嘉敷港にほど近い、渡嘉敷駐在所近くから国立沖縄青少年交流の家(234.2高地)に向かう。

▲中腹で車を停めて、渡嘉敷港を見下ろす。

▲昭和45年(1970)10月に撮影された渡嘉敷港。

▲現在の写真と照らし合わせると、埋め立て部分が良く解る。

▲人口約700人の島に見合わない立派な道路は、国立沖縄青少年交流の家に向かうためだけと言っても過言では無い。
沖縄返還後、国の沖縄振興交付金の活用で、渡嘉敷港や234.2高地(複郭陣地)は、かなり整備されたというが本当だ。

中腹にある白玉之塔。大東亜戦争で亡くなられた渡嘉敷島出身者の住民・軍人・軍属の方々594名をまつっている。
現在、この場所では、集団自決が行われた3月28日に、渡嘉敷村が主催する慰霊祭が執り行われている。

元々白玉之塔は、集団自決が行われた場所(国立沖縄青少年交流の家敷地内【集団自決跡地】)に、昭和26年3月28日
に建立されたが、米軍ホークミサイル基地建設に伴い、昭和37年4月19日に現在の場所へ移設さた。

白玉之塔の名前の由来は、建立に当たり名称を公募し、中井盛才氏の「白玉之塔の詩」から名前を採用したそうだ。
※白玉之塔の詩「忘れじと 思う心は白玉の 塔に託して 永久に伝えん」から

▲1970(昭和45年)10月に撮影された白玉之塔

▲1967(昭和42年)7月に撮影された渡嘉敷島(国立沖縄青少年交流の家)のホークミサイル。
私の知っている限り、沖縄に米軍が建設したホークミサイル基地跡は、 多野岳ホーク基地跡、渡嘉敷島、そして恩納村
に4カ所の核ミサイル基地跡があり、全てのミサイルは西(東シナ海)に向いていた。沖縄返還に伴い、核を撤去して日本
と同じ法律を適用する「核抜き本土並み」という日本側の方針を受け、70年までに上記のミサイル基地は撤去された。
因みに恩納村の核ミサイル基地基地は開放され、今は創価学会沖縄研修道場になっている。

▲白玉之塔から渡嘉敷港を見下ろす。

▲▼慶良間ツツジ(慶良間躑躅)と呼ばれるツツジが綺麗に咲いていた。


登り切って国立沖縄青少年交流の家(234.2高地複郭陣地)に到着。

▲管理研修棟は米軍基地時代の物をそのまま使用しているようだ。

▲▼昭和39年(1964)に撮影された234.2高地。まだ米軍ホークミサイル基地があり、管理研修棟も写っている。

▼先ずは集団自決の跡地へ慰霊に向かう。

▼しっかり門で閉ざされ、自由にはいれるが、入ったら扉を閉める決まりになっている。

▼直ぐ横には、米軍ホークミサイル基地時代の建物が放棄されたままになっている。




碑文
この台地後方の谷間は去る大戦において住民が集団自決をした場所である。
米軍の上陸により追いつめられた住民は、友軍を頼ってこの地に集結したが、敵の砲爆は熾烈を極め、遂に包囲され行
く場を失い、刻々と迫る危機を感じた住民は「生きて捕虜となり辱めを受けるより死して国に殉ずることが国民として
の本分である」として、昭和20年3月28日祖国の勝利を念じ笑って死のうと悲壮な決意をした。
兼ねてから防衛隊員が所持していた手榴弾2個づつが唯一の頼りで、親戚縁故が車座になり、1個の手榴弾に2~30名が
集まった瞬間、不気味な炸裂音は谷間にこだまし、清流の流れは寸時にして血の流れと化し、老若男女315名の尊い命
が失われ、悲惨な死を遂げた。 昭和26年3月この大戦で犠牲になった方々の慰霊のため、この地に白玉の塔を建立した
が 米軍基地となった為に移設を余儀なくされた。時移り世変わってここに沖縄の祖国復帰20年の節目を迎えるに当り、
過去を省み戦争の悲惨を永く後世に伝え恒久平和の誓いを新たにするため、ここを聖地として整備し、碑を建立した
平成5年3月28日 渡嘉敷村

慰霊碑奥の集団自決跡地に向かう。

島民(非戦闘員)が避難していたという窪地に向かって、鬱蒼とした森を少し下っていく。

撤退命令を受けた島民達は、3月28日午前、日本軍陣地北方のこの盆地に結集した。

そして、写真の谷川の清水が血の流れと化す問題の【集団自決】がはじまるのである・・・。
その頃米軍は、A高地に陣地を構え、完全に包囲体型を整え、迫撃砲をもって234.2高地複郭陣地陣地に迫り、遂に住
民の待避する窪地(恩納川上流付近)にも砲撃を受けるに至り、危機は刻々に迫っていた。

▼渡嘉敷島において「集団自決した住民」とされる写真

※この写真は沖縄県平和祈念資料館で「米軍の艦砲射撃で亡くなった住民」と説明書されている。実際、この窪地にも
容赦なく砲撃を浴びせた米軍の攻撃の中、この方達が、砲撃で亡くなったのか自決なのかは今となっては分からない。
慰霊碑の横に解説板があったが、それは~1945年4月2日ロサンゼルスタイムス朝刊から~という内容だった事。
海上挺身第3戦隊副官の証言【私が見た自決者の遺体は6、7体でした。記録に残る329体というのは、見てもいないし
知りません。329体なら、それは恩納川上流に累積していなければならないはずですが、そんなのは知りません。赤松
隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました】にもある
ように、碑文にある犠牲者315名が、全て自決でない事は火を見るよりも明らかだろう。

▲国立沖縄青少年交流の家(234.2高地複郭陣地)西展望台(看板は北山となっている)



▲国立沖縄青少年交流の家(234.2高地複郭陣地)東展望台。正面に前島、奥は沖縄本島。

▼▲ヒータティアー(航海を見守る古の狼煙台跡)からの眺め

※国立沖縄青少年交流の家の敷地に隣接して「赤松隊本部壕」が現存しているが、今回は行けなかった。

▲▼【北山の陣地壕】と呼ばれる人口壕は22個現存しており、陸軍では珍しく、強固に構築されていた事が伺える。

赤松隊長以下戦隊生き残りの方達はこの陣地で終戦まで粘り、投降したのは、昭和20年8月22日のことであった。

※島民の生き残りの方達は、昭和20年8月15日古波蔵惟好村長と相談し、先に米軍へ集団投降している。

▼▲ヒータティアーから管理研修棟、体育館、宿泊棟、野球場を見下ろす。全体が見渡せるいい場所だ。

▼倉庫に利用しているのか・・・。随所に米軍ホークミサイル基地時代の遺構が放置されている。

▼国立沖縄青少年交流の家を後にし、かつて海上挺進第3戦隊の本部が置かれた旭沢(渡嘉志久集落)に向かう。

渡嘉敷島の集落は3つ。渡嘉敷/渡嘉志久/阿波連だ。山が多いこの島を、険しい山道を通って各集落へと向かう。

▼▲先ずは慶良間海峡展望所から渡嘉志久集落を見下ろす。

素晴らしい眺めと景色だった。


目が覚めるような美しさの渡嘉志久海岸(ビーチ)

▼ビーチ左側の山裾に第2中隊の秘匿壕があったとされるが現存しているかどうかは未確認。

▼ビーチ右側の山裾に第3中隊の秘匿壕があったとされるが現存しているかどうかは未確認。


▼ビーチ裏側の山肌に秘匿壕が残され、見学出来る様に公開されている。

この辺りは戦隊本部が置かれていた地域だ。


恐らく前部は滑落して壕自体は短くなっていると思う。

設計企画では奥行きはおよそ25m位。全長約5mのマルレが5隻収納出来る奥行きのはずだ。

単純に1個戦隊100隻なので、3中隊各33隻とすると、各中隊につき6~7秘匿壕が掘られたと推測出来る。

▼渡嘉敷島で観光客がよく行く場所は阿波連集落だ。


▼阿波連小学校

▼阿波連神社





1日3本程度だが、路線バスも走っている。


キリンビールpresents【ケラマ諸島ビーチクリーン】前夜祭が行われていた。


ここで提供されていた渡嘉敷マグロそばが最高だった。


とても綺麗で静かな阿波連集落を後にして渡嘉敷港に戻る。







とまりん到着

この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。
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「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
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航空自衛隊那覇基地【美ら島エアーフェスタ2022】
Category: 沖縄本島
Tags: 美ら島エアーフェスタ2022

【那覇基地開庁50周年記念】ということで、美ら島エアーフェスタ2022in航空自衛隊那覇基地に初めて行ってきた。

陸自祭の時と同じく、てだこ浦西駅からゆいレールに乗って那覇(赤嶺駅)に向かう。

那覇軍港と美らSUNビーチから無料シャトルバスが出ているとの事だった。

空自那覇基地は、赤嶺駅から徒歩5分程度なので歩く事にしていたが、信号の先には既に長蛇の列が・・・。

長蛇の列で、信号を渡って右の筈が、左へ曲がって列の最後尾に行くことに・・・。

ゆっくり進んではいるので、長時間列が止まりはしなかったが、5分の距離が15分程度かかった。

混むのは仕方ない。興味持っている日本人が多い事はいい事だ。しかもいい天気で最高だ。

検温、手荷物検査をしてもらっていよいよ基地内へ。

ここは元々大田実中将率いる小禄海軍部隊が駐屯し、戦後米軍基地となり、現在は返還されて航空自衛隊那覇基地だ。



▲この先に沖縄戦当時、旧日本海軍が設置した砲台が1基現存していて、見たかったのだが・・・立ち入り禁止(涙)

※この砲台は昭和18年6月~10月、帝国海軍小禄飛行場が対潜水艦用基地として整備拡大されるに伴い、海軍の軍艦
から取り外し、小禄飛行場那覇基地に施工整備された15センチ水上砲台6基のうちの1基。
▼米兵と一緒に写る沖縄戦当時の写真(昭和20年6月撮影)

▼丘の上で軽機関銃を発射する米兵士。後方のコンクリート建造物が現存する日本海軍の砲台(6/6撮影)

大田実中将率いる小禄海軍部隊は、米軍上陸時は小禄半島、本部半島で奮戦する。
米軍沖縄侵攻が迫ってくる中で、大田実中将が沖縄への突然の海軍部隊司令官任命には訳があった。
前任の司令官は航海出身で陸上の事がさっぱり分からず、状況が段々切迫して来る中で戦備が進まない。そこで白羽の
矢が立ったのが、海軍で陸戦の第一人者と言われた大田中将だった。
大田中将は上海事変の際、陸戦隊長として勇戦し、全滅の危機に瀕していた在留邦人を救出した勇将として知られてい
た。昭和20年1月20日大田中将は水上機で司令部に着任。3月末の米軍侵攻開始の約2ヶ月前の沖縄着任だった。
着任草々大田中将は島内各地の陣地を車で視察して回った。視察で車の運転を務めた堀川徳栄1等機関兵曹(沖縄県出身
で、後に沖縄トヨペット社長)は、大田中将が車中で参謀方と作戦会議をしていたと語っている。
沖縄戦当時、大田実中将率いる小禄地区旧海軍部隊は、昭和20年5月中旬「勝田大隊」「丸山大隊」「山口大隊」迫撃
砲隊などが陸軍部隊指揮下に入り、総計2500名、軽兵器の約3分の1、迫撃砲の大部分が海軍小禄地区から抽出され、
兵員は約8300名となっていた。
陸軍第32軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日頃に初めて知らさ
れたとされる。沖縄戦の時期になっても日本陸軍と日本海軍の歯車はかみ合わないままだった・・・。
いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」
との命令を勘違いしたことが解り、5月28日には再び小禄海軍司令部壕へ引き返した。
6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田実中将は従わなかった。
大田実中将以下海軍将兵は小禄飛行場を南東から見下ろす小禄海軍司令部壕付近に孤立する状況となった。
6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し、司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。
大田司令官は6日夕刻「辞世の句」と共に訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電
報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中、司令部壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵に
よる突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
11日午前7時、小禄司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として、海軍根拠
地隊が玉砕したとの電報が発せられている。
昭和20年6月13日午前1時、大田実司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。


▲▼凛々しい航空自衛隊員と警備犬

▼正門から真っすぐ歩い来て、もう少しで那覇空港の滑走路だ。



▼自衛隊グッズ販売のテントがいくつか出ていた。


陸自祭の時は入れる施設が多かったが、空時祭は格納庫以外はほぼ入れない。ファミマもテント販売していた。


▼▲正門通りを抜けるとそこはもう滑走路。

▼いきなりの展示物がスーパーカー?(隊員のお子さん達のためかな?もう車世代ではないだろうけど・・・)

小生、機名などが詳しくない為、ここからは展示物を順次画像で紹介していきます。





ここがかつての帝国海軍小禄飛行場那覇基地で、格納庫にはゼロ戦や96式陸上攻撃機、天山や彗星、銀河が並んでいた
と思うとグッとくるものがある・・・昭和20年3月25日神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」の出撃が最後だった。

勿論現在の格納庫は当時物では無いが、格納庫の全景は、戦時中と大差無いはずだ。










PM12:30頃に、ブルーインパルスの1番機が、宮古島から帰還するとの話を、隊員の方から聞いていた・・・。

残念ながら今回、那覇基地でのブルーインパルスの飛行は無かった。しかし、宮古空港使用に難癖をつけた沖縄県知事
もスルー出来たようで、宮古島上空で見事な飛行を披露したとの吉報を聞いて、本当に良かったと思った。

那覇基地でのブルーインパルスの飛行は無いが、展示はあるので、皆帰還を待ちわびている。

ブルーインパルスの予備機?1機が、寂しそうに仲間の帰還を待ちながら展示されている。


▲旅客機が離着陸していく中、ブルーインパルスの精鋭機が1機、また1機と、まだ新しい第二滑走路に帰還してきた。

▲昭和20年6月大破した零戦と米兵。遠近感は違うが上記写真とだいたい同じ感じ。奥に瀬長島が写る。



























自衛隊の皆様、いつもご苦労様です。


▲▼那覇空港を離陸していく旅客機を常に眺めながらの空自祭。日本全国見渡しても那覇基地だけだろう。

▼基地太鼓部の演奏は最高だった。

南西航空音楽隊演奏会が、何故か中止になったのは残念だったが、楽しい空自祭だった。

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開戦の詔書【現代語版】
Category: ハワイ
開戦の詔書には、我が国が何とかして戦争を回避しようと外交的努力を重ねた事や、本来戦争などしたくはないという
昭和天皇の思いがハッキリ記されておりますが、終戦の詔書では「責任は私にある」と述べられている。
国の中心に座している御方が、己よりも国民を優先する我が国は、他に二つと無い素晴らしい国、日本。
学校でも教わらず、報道されることも無い昭和天皇の『開戦の詔書』。今一度読み返して欲しい。

開戦の詔書【現代語版】
『開戦の詔書』(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)
天の助けにより、万世一系の大日本帝国天皇は、忠誠で勇武なる国民に示します。

私はここに、米国及び英国に対して戦争を布告します。陸海軍の将兵は全力を奮って交戦に従事し、官僚は職務を全う
し、国民もそれぞれの本分をつくして心を一つにし、国家の総力を挙げて戦いの目的を達成するよう望みます。

そもそも東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大正天皇へと受け継がれてきた将来へ
の配慮であり、私もそれを常に心に留めてきたことであります。そして、各国との友好を大切にし、全ての国が共に栄
える喜びを共有することもまた、日本が常に外交の重要な意義としてきたことであります。今、不幸にして米英両国と
戦いを始めるのが避けられなくなっていますが、これは私の意志であろうはずがありません。
中華民国政府は、我が国の真意を理解せず、無用に事を荒立てて東アジアの平和を掻き乱し、ついに我が国と戦争を始
めてから既に4年が経過しました。幸いなことに国民政府は新たに生まれ変わり、我が国はこれ(汪兆銘政府)と国交
を結び、互いに提携するようになりましたが、重慶に残存する政権(蒋介石政府)は米英の庇護に期待して仲間内の争
いを止めようとしません。

米英両国は残存政権を支援し、東アジアの騒乱を助長し、平和の美名の下に東洋を制覇しようという誤った望みを強く
しています。そればかりか、同盟国に働きかけて我が国の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、更には我が国の平和的
な通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交まで行い、我が国の生存に重大な脅威を与えています。

私は政府に、事態を平和に解決させようとし長く耐えてきましたが、彼らは少しも譲り合う気持ちもなく、無用に時局
の解決を引き延ばそうとして、その間さらに経済面や軍事面での脅威を一段と増大し我が国を屈服させようとしていま
す。このようにして事態がこのまま推移すると、東アジアの安定についての我が国の長年の努力はことごとく水泡に帰
し、我が国の存続そのものが非常に危険な状態に瀕しています。このような事態になり、我が国は自らの存立と自衛の
ためにやむなく立ち上がり、一切の障害を打ち破るほかないのです。

皇室の祖先や歴代天皇が見護って下さっています。私は国民の忠誠さや勇武さを信頼し、歴代天皇の遺業を成し遂げ、
速やかに災いを除き去り、東アジアの永遠の平和を確立し、これによって我が国の栄光を護ることを期そうとするので
あります。
御名御璽 昭和16年12月8日


1944Photo八幡大菩薩








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国の中心に座している御方が、己よりも国民を優先する我が国は、他に二つと無い素晴らしい国、日本。
学校でも教わらず、報道されることも無い昭和天皇の『開戦の詔書』。今一度読み返して欲しい。

開戦の詔書【現代語版】
『開戦の詔書』(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)
天の助けにより、万世一系の大日本帝国天皇は、忠誠で勇武なる国民に示します。

私はここに、米国及び英国に対して戦争を布告します。陸海軍の将兵は全力を奮って交戦に従事し、官僚は職務を全う
し、国民もそれぞれの本分をつくして心を一つにし、国家の総力を挙げて戦いの目的を達成するよう望みます。

そもそも東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大正天皇へと受け継がれてきた将来へ
の配慮であり、私もそれを常に心に留めてきたことであります。そして、各国との友好を大切にし、全ての国が共に栄
える喜びを共有することもまた、日本が常に外交の重要な意義としてきたことであります。今、不幸にして米英両国と
戦いを始めるのが避けられなくなっていますが、これは私の意志であろうはずがありません。
中華民国政府は、我が国の真意を理解せず、無用に事を荒立てて東アジアの平和を掻き乱し、ついに我が国と戦争を始
めてから既に4年が経過しました。幸いなことに国民政府は新たに生まれ変わり、我が国はこれ(汪兆銘政府)と国交
を結び、互いに提携するようになりましたが、重慶に残存する政権(蒋介石政府)は米英の庇護に期待して仲間内の争
いを止めようとしません。

米英両国は残存政権を支援し、東アジアの騒乱を助長し、平和の美名の下に東洋を制覇しようという誤った望みを強く
しています。そればかりか、同盟国に働きかけて我が国の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、更には我が国の平和的
な通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交まで行い、我が国の生存に重大な脅威を与えています。

私は政府に、事態を平和に解決させようとし長く耐えてきましたが、彼らは少しも譲り合う気持ちもなく、無用に時局
の解決を引き延ばそうとして、その間さらに経済面や軍事面での脅威を一段と増大し我が国を屈服させようとしていま
す。このようにして事態がこのまま推移すると、東アジアの安定についての我が国の長年の努力はことごとく水泡に帰
し、我が国の存続そのものが非常に危険な状態に瀕しています。このような事態になり、我が国は自らの存立と自衛の
ためにやむなく立ち上がり、一切の障害を打ち破るほかないのです。

皇室の祖先や歴代天皇が見護って下さっています。私は国民の忠誠さや勇武さを信頼し、歴代天皇の遺業を成し遂げ、
速やかに災いを除き去り、東アジアの永遠の平和を確立し、これによって我が国の栄光を護ることを期そうとするので
あります。
御名御璽 昭和16年12月8日


1944Photo八幡大菩薩








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沖縄県で初めての陸自祭!コロナで3年無かったとの事で、とても楽しみにしていた。

【第15旅団創隊12周年、那覇駐屯地創立50周年記念】ということで、陸上自衛隊那覇駐屯地に初めて行ってきた。

てだこ浦西駅からゆいレールに乗って那覇に向かう。

▲奥武山公園、小禄、赤嶺からシャトルバスが出ているとので、小禄まで乗る事にした。

てだこ浦西駅は、ゆいレールの終点だ。(小禄、赤嶺、那覇空港まで370円)

▲▼早速来たので乗り込む。


▲▼一番後ろの席だったので景色はこんな感じ。


小禄駅に到着。


無料シャトルバスを待つ行列が出来ていた・・・TVや沖縄2紙で取り上げられなくとも、ネット社会だから問題なし❤

奥武山公園から来ているので、既に席は少ない。満席になると順次発車していく。2台目のバスでようやく乗れた。

15分ほどで陸上自衛隊那覇駐屯地に到着

銃を持った入り口の衛門歩哨(上番警衛隊)の前を通リ、持ち物検査場へ。

ここは最前線の沖縄諸島・・・ご苦労様です!


持ち物検査が終われば自由見学だ。初めて来たのでワクワクする。

戦後米軍基地だったものを自衛隊が引き継ぎ、そのまま使用している施設だそうだ。




▲▼和製ハマーと言われるトヨタ・メガクルーザーが並ぶ姿は圧巻!




戦時中は日本海軍小禄基地の一角として、陸海軍部隊が小禄飛行場(現・那覇空港)や那覇港を管理、警備していた。
陸上自衛隊那覇駐屯地の敷地内には、小禄海軍司令部壕の完成前まで使われていた壕が、多数現存しているという。
那覇飛行場は昭和11年に軍民共用の飛行場となり、昭和18年、海軍に所管が変更され、沖縄戦終了まで名称も小禄航
空基地だった。南西諸島方面航空隊本部として、小禄飛行場には第25航空戦隊の偵察第3飛行隊小禄派遣隊が常駐して
いた。敗戦後、那覇空港がある小禄半島は、そのほぼ全域が米空軍基地として長らく接収されていた。 那覇海軍航空施
設 (滑走路・ミサイル基地含む) 那覇サイト。那覇港湾施設 (那覇軍港) 那覇サービスセンター (現・奥武山公園内武道
館など) 那覇空軍・海軍補助施設 (現・航空自衛隊那覇基地と住宅地) 那覇ホイール地区 (現・陸上自衛隊那覇駐屯地)
の施設である。昭和47年の沖縄返還により第二種空港になったものの、依然、管理権は米軍にあり、昭和57年ようや
く管理権が全面的に航空自衛隊に移管された。現在までに順次滑走路、施設の近代化拡張が行われ、航空法に定める国
管理空港として、民間航空及び陸・海・空自衛隊、県警、海上保安庁の航空部隊が共存しており、南西諸島における基
幹的国際空港となっている。

▲▼正面駐屯地グランドの一番奥に見えるのが那覇空港。そして、写真右端のこんもりとした丘(森)が、小禄海軍司令
部壕完成前まで使用した司令部壕があった場所。見学は出来ないが、今も壕が残っていると自衛隊員の方から聞いた。

▼駐屯地グランドでは式典が行われていた。

エイサーと音楽演奏も良かった。

予想以上の見学者の多さに驚いた。隊員のご家族も多いが、若い方や女性が多かったので何だか安心した・・・。

米海兵隊が混じっての訓練展示は迫力があった。米兵はほぼ何もしてなかったけどね。

(自分の国は自分で守る気概を常に持ってないとね)










▼駐屯地内にあるコンビニはローソンだった。

▼私の一番の目的はこれ。第15音楽隊と米海兵隊音楽隊の演奏だ。最高に良かった!



沖縄戦で「鉄の暴風」と呼ばれた激しい艦砲射撃で使われた砲弾約20万トン中、5%が不発弾だったとされる。
回収された分や、海などに落ちた永久不明弾を除く約1950トンが未発見とされる沖縄本島。陸上自衛隊第101不発弾
処理隊23名(隊長 佐藤 景一2等陸佐)は、「いつかゼロになる日まで」と誓い、日々24時間態勢で任務に取り組んで
おられる。近年も年約700件、計20トン前後の不発弾が処理され続け、過去約2万回の出動で事故は1件もない。








▲女性隊員も数多く見うけられた。ご苦労様です!


▲電報・電話受付って・・・まだ使う事があるのかな??

▲帰りは、駐屯地内までシャトルバスが入って来てくれていたので、衛門まで歩かなくて済んだ。
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。
拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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【第15旅団創隊12周年、那覇駐屯地創立50周年記念】ということで、陸上自衛隊那覇駐屯地に初めて行ってきた。

てだこ浦西駅からゆいレールに乗って那覇に向かう。

▲奥武山公園、小禄、赤嶺からシャトルバスが出ているとので、小禄まで乗る事にした。

てだこ浦西駅は、ゆいレールの終点だ。(小禄、赤嶺、那覇空港まで370円)

▲▼早速来たので乗り込む。


▲▼一番後ろの席だったので景色はこんな感じ。


小禄駅に到着。


無料シャトルバスを待つ行列が出来ていた・・・TVや沖縄2紙で取り上げられなくとも、ネット社会だから問題なし❤

奥武山公園から来ているので、既に席は少ない。満席になると順次発車していく。2台目のバスでようやく乗れた。

15分ほどで陸上自衛隊那覇駐屯地に到着

銃を持った入り口の衛門歩哨(上番警衛隊)の前を通リ、持ち物検査場へ。

ここは最前線の沖縄諸島・・・ご苦労様です!


持ち物検査が終われば自由見学だ。初めて来たのでワクワクする。

戦後米軍基地だったものを自衛隊が引き継ぎ、そのまま使用している施設だそうだ。




▲▼和製ハマーと言われるトヨタ・メガクルーザーが並ぶ姿は圧巻!




戦時中は日本海軍小禄基地の一角として、陸海軍部隊が小禄飛行場(現・那覇空港)や那覇港を管理、警備していた。
陸上自衛隊那覇駐屯地の敷地内には、小禄海軍司令部壕の完成前まで使われていた壕が、多数現存しているという。
那覇飛行場は昭和11年に軍民共用の飛行場となり、昭和18年、海軍に所管が変更され、沖縄戦終了まで名称も小禄航
空基地だった。南西諸島方面航空隊本部として、小禄飛行場には第25航空戦隊の偵察第3飛行隊小禄派遣隊が常駐して
いた。敗戦後、那覇空港がある小禄半島は、そのほぼ全域が米空軍基地として長らく接収されていた。 那覇海軍航空施
設 (滑走路・ミサイル基地含む) 那覇サイト。那覇港湾施設 (那覇軍港) 那覇サービスセンター (現・奥武山公園内武道
館など) 那覇空軍・海軍補助施設 (現・航空自衛隊那覇基地と住宅地) 那覇ホイール地区 (現・陸上自衛隊那覇駐屯地)
の施設である。昭和47年の沖縄返還により第二種空港になったものの、依然、管理権は米軍にあり、昭和57年ようや
く管理権が全面的に航空自衛隊に移管された。現在までに順次滑走路、施設の近代化拡張が行われ、航空法に定める国
管理空港として、民間航空及び陸・海・空自衛隊、県警、海上保安庁の航空部隊が共存しており、南西諸島における基
幹的国際空港となっている。

▲▼正面駐屯地グランドの一番奥に見えるのが那覇空港。そして、写真右端のこんもりとした丘(森)が、小禄海軍司令
部壕完成前まで使用した司令部壕があった場所。見学は出来ないが、今も壕が残っていると自衛隊員の方から聞いた。

▼駐屯地グランドでは式典が行われていた。

エイサーと音楽演奏も良かった。

予想以上の見学者の多さに驚いた。隊員のご家族も多いが、若い方や女性が多かったので何だか安心した・・・。

米海兵隊が混じっての訓練展示は迫力があった。米兵はほぼ何もしてなかったけどね。

(自分の国は自分で守る気概を常に持ってないとね)










▼駐屯地内にあるコンビニはローソンだった。

▼私の一番の目的はこれ。第15音楽隊と米海兵隊音楽隊の演奏だ。最高に良かった!



沖縄戦で「鉄の暴風」と呼ばれた激しい艦砲射撃で使われた砲弾約20万トン中、5%が不発弾だったとされる。
回収された分や、海などに落ちた永久不明弾を除く約1950トンが未発見とされる沖縄本島。陸上自衛隊第101不発弾
処理隊23名(隊長 佐藤 景一2等陸佐)は、「いつかゼロになる日まで」と誓い、日々24時間態勢で任務に取り組んで
おられる。近年も年約700件、計20トン前後の不発弾が処理され続け、過去約2万回の出動で事故は1件もない。








▲女性隊員も数多く見うけられた。ご苦労様です!


▲電報・電話受付って・・・まだ使う事があるのかな??

▲帰りは、駐屯地内までシャトルバスが入って来てくれていたので、衛門まで歩かなくて済んだ。
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。
拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
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令和4年度「第57回琉球王朝祭り首里」は、新型コロナ第7波により、実施する事業と中止する事業を選別されての開
催になったが、初めて行ってきた。この祭りは昭和35年に「教育、文化の発祥の地として、青少年の向上心の高揚と、
健全育成、併せて城下町首里の活性化を図ること」を目的に始まり、那覇市の三大祭り(「那覇大綱引き」「那覇ハー
リー」と並ぶ)の一つとなっているそうだ。

首里城祭は正殿完成まで「首里城復興祭」と改称したそうだ。琉球王朝祭り首里と併催って事かな?よく分からん。


屋外だというのにマスク着用の方が大半・・・、日本人は真面目だ。

週間天気予報では雨50%だったが、そこは南国、しっかり裏切って晴れてくれた。

▲首里杜館芝生広場では、首里城復興祈念ステージが行われていた。







▼2019年12月に撮影した同じ場所。

※令和元年(2019年10月31日午前2時半頃)首里城正殿など主要6棟が全焼した火災の原因は特定出来ず…。

▲広福門をくぐると下之御庭に出る。


見学者は中高年が圧倒的に多い印象・・・。


▲県民割とか有料とかあったので、何かと思えば「首里城復興特別見学ツアー」と題して、写真の倉庫(首里城正殿復元
に向けて整備した木材倉庫)・原寸場の中を見れる有料(400円)の特別見学ツアーなんだと・・・無論申し込んでない。

古式行列に参加する方達が準備し始めた。


古式行列は守礼門付近で見学する事にした。

しかし見学者は中高年が多い印象・・・。

古式行列が来た。

ゆっくり歩いている。

お隣で見学していた老夫婦が「あちゃ、もう終わりね・・・毎年短くなってるさぁ~・・・って言ってた。

古式行列は結構あっけなく終わった・・・。他の人にも聞いたが、行列は年々短くなっているらしい。

城内を少し見学してから帰ろうと歩いていると・・・。

▲第32軍司令部壕の保存・公開を求める会❓だいたい戦跡を残そうとする人達は左向きの団体が多いが・・・。

▲案内人の方が、「是非お話を聞いて帰って下さい、牛島中将のお孫さんがお話されています。」と、熱心に言って頂
いたので、聞いてみる事にした・・・。


▲熱心に語られているのが牛島満中将の孫(牛島貞満さん)らしい。

2022年9月にもこの司令部壕の模型を使って浦添市の仲西小学校6年生対象に、戦争について語る授業を行ったとの事。
いったい何を訴えていたかと思えば、要は「日本軍の方針は、沖縄を守る為の戦争じゃなくて、沖縄戦は、本土を守る
為の戦争、本土で戦争の準備をするための時間かせぎだった。軍は民を守らない。戦争を起こさないために何ができる
のか考えてほしい」と言っている。そして、ミサイル配備や基地構築が「戦争を起こそうとしている」という考え方。
何もせずただ占領されて奴隷でいいという事か?それとも基地がある県だけが犠牲になって、基地の無い県は戦争に巻
き込まれないとでも??死ぬより奴隷の方がマシという考え方は、敵(相手)次第。先の大戦は結果、相手がアメリカだ
ったから今、マシな奴隷国家、日本がある。戦勝国を主張する国では、ロシア(ソ連)・中国(中華民国)も入っていた。
占領された相手がロシア、中国だったとしたら日本はどうなっていただろうか・・・恐ろしくて考えたくもない。
「戦争を起こさないために何ができるのか考えてほしい」それはそうだろう。世界中の先進国が考えるべきだ。
日本だけでなく、大国アメリカ・イギリス・ロシア・中国も。そして今、日本をとりまく世界情勢がどのような状況で
あるかも子供達にちゃんと伝えているのだろうか??
「軍は民を守らない」と言うが、極限の劣勢になった時に人は自分以外を守る余裕などあるものか。
今の自衛隊でも同じだ。25万人の隊員でどうやって日本国全て(民も含め)を守れると言うのか。
逆の立場で考えれば容易に分かる事ではないか。軍は神様か?軍は不死身のモビルスーツの様なガンダムの世界の妄想
でも描いて話しているのだろうか・・・沖縄を守る為?奄美を守る為?九州を守る為?本州を守る為?四国を守る為?
サイパン陥落から、そもそも負け戦をしている最中、パラオ、フィリピン、硫黄島・・・場所なんてどうでもいいでは
ないのか?全ての土地での戦いは、「日本国」を守る為でしかないはずだ。本土決戦の時間稼ぎ?沖縄諸島だけが??
戦争全体を見ずに、沖縄県民に自虐史観や日本国に対する憎悪を植え付けるだけの全く無駄な話だった。
戦前、確かに軍や政治家に、許しがたい売国奴はいた。自分の保身だけの為に兵を無駄死にさせた軍幹部も沢山いた。
しかし、牛島中将がそんな幹部だったとは思えない。そうやって日本軍全体をディスる事や、外国(仮想敵国)が喜ぶ事
をするのが、戦争を起こさない為にやるべき事なんだと、元小学校教諭は熱弁している(呆)
牛島中将が約9万4000人(推計)もの沖縄島の一般住民を殺したと言わんばかりの講演・・・天国で牛島中将もさぞ悲
しまれている事だろう・・・自分の祖父をディスるような孫にはなりたくないと思いを新たに、ご先祖様、牛島中将以
下将兵(英霊)に感謝した。

▲▼司令部壕の保存や、公開する事には大賛成だ。

首里城公園の地下には今も約1000mの巨大な人口壕が眠っている。牛島中将他約1000人の軍人軍属達が南部撤退まで
の2ヶ月間居た戦闘指令所である。当初は安里(那覇市内中心部)にあったが、10/10空襲後の昭和20年1月に、首里城
の地下司令部壕に移動した。壕掘り作業は軍の設営部隊や沖縄師範男子学徒があてがわれた。軍民が力を合わせて掘ら
れた地下要塞、当時の方達のご苦労や、中で戦死していった将兵を弔う意味ならば、司令部壕の保存や、公開する事に
は大賛成だ。

しかし、第32軍も含め、旧日本軍をディスるようなネタにする利用(公開)なのであれば、このままでいいと思う。

昭和20年5月30日~31日首里城は米軍艦砲射撃などで無残に破壊される。首里攻防戦線を制圧した陸上の米軍兵士は、
用心深く首里城内に入ったという。日本軍は首里に残された残存兵力で夜間斬り込みを敢行、玉砕していった。

▲首里城内にて、ことごとく戦死した日本兵を眺める米兵達。米軍は司令部壕内に侵入していった。
しかし、そこに主要装備は無く、散乱する日本兵の腐敗した死臭が充満していた。司令部壕内に牛島中将/長中将/
八原大佐の姿は無く、自力で南部へ撤退出来なかった負傷兵で、自決した日本兵約5000人の死体があるだけだった。

南部撤退まで、首里司令部壕内には将兵の他、指揮官や参謀の世話係の女性達も雑居していたという。

首里司令部壕撤退を決める直前、大本営へ沖縄作戦戦況報告の為に、5/10(19:00頃)司令部豪から本土へ脱出した
第32軍航空参謀神直道少佐が、首里司令部壕内の女性達について、以下の事を戦後に証言している。
「司令部壕内に20人~30人の「辻遊郭」の女性達が炊事要員として軍に仕していた」事。
「良家の子女10人余が牛島・長などの将校の身の回りの世話をしていた」事。
「女子師範学校学徒も何人か居た」事「司令部内に慰安所は無かった」事「朝鮮人女性や本土の芸者はいなかった」事。
「飯炊き要員として駆りだされていた辻遊郭の女性は遊郭の女性だという事で兵隊の中にその様な行為に及ぶ者があり、
壕内の風紀が乱れそうになったから壕内から出てもらった」事、などである。

沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い(戦闘)は以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
津堅島⇒津堅島
現在の日本国で、反撃の可否を判断する権限は防衛省には無い。あくまで抑止力として南西諸島の守りを強化している
に過ぎない。核爆弾数個持てば済む話を、牛島貞満さんの様な左翼思想の団体が煩いから、チマチマ駐屯地を増やして
いるだけ・・・。やられたとしても、反撃命令を出せる気概を持った首相など日本の政治家にいるのだろうか・・・。
有事に際し、国民を避難させるのは行政の仕事。沖縄県の行政トップにそんな大役が出来る人材がいる(選ばれる)とは、
今の段階では到底思えない・・・。
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。
拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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催になったが、初めて行ってきた。この祭りは昭和35年に「教育、文化の発祥の地として、青少年の向上心の高揚と、
健全育成、併せて城下町首里の活性化を図ること」を目的に始まり、那覇市の三大祭り(「那覇大綱引き」「那覇ハー
リー」と並ぶ)の一つとなっているそうだ。

首里城祭は正殿完成まで「首里城復興祭」と改称したそうだ。琉球王朝祭り首里と併催って事かな?よく分からん。


屋外だというのにマスク着用の方が大半・・・、日本人は真面目だ。

週間天気予報では雨50%だったが、そこは南国、しっかり裏切って晴れてくれた。

▲首里杜館芝生広場では、首里城復興祈念ステージが行われていた。







▼2019年12月に撮影した同じ場所。

※令和元年(2019年10月31日午前2時半頃)首里城正殿など主要6棟が全焼した火災の原因は特定出来ず…。

▲広福門をくぐると下之御庭に出る。


見学者は中高年が圧倒的に多い印象・・・。


▲県民割とか有料とかあったので、何かと思えば「首里城復興特別見学ツアー」と題して、写真の倉庫(首里城正殿復元
に向けて整備した木材倉庫)・原寸場の中を見れる有料(400円)の特別見学ツアーなんだと・・・無論申し込んでない。

古式行列に参加する方達が準備し始めた。


古式行列は守礼門付近で見学する事にした。

しかし見学者は中高年が多い印象・・・。

古式行列が来た。

ゆっくり歩いている。

お隣で見学していた老夫婦が「あちゃ、もう終わりね・・・毎年短くなってるさぁ~・・・って言ってた。

古式行列は結構あっけなく終わった・・・。他の人にも聞いたが、行列は年々短くなっているらしい。

城内を少し見学してから帰ろうと歩いていると・・・。

▲第32軍司令部壕の保存・公開を求める会❓だいたい戦跡を残そうとする人達は左向きの団体が多いが・・・。

▲案内人の方が、「是非お話を聞いて帰って下さい、牛島中将のお孫さんがお話されています。」と、熱心に言って頂
いたので、聞いてみる事にした・・・。


▲熱心に語られているのが牛島満中将の孫(牛島貞満さん)らしい。

2022年9月にもこの司令部壕の模型を使って浦添市の仲西小学校6年生対象に、戦争について語る授業を行ったとの事。
いったい何を訴えていたかと思えば、要は「日本軍の方針は、沖縄を守る為の戦争じゃなくて、沖縄戦は、本土を守る
為の戦争、本土で戦争の準備をするための時間かせぎだった。軍は民を守らない。戦争を起こさないために何ができる
のか考えてほしい」と言っている。そして、ミサイル配備や基地構築が「戦争を起こそうとしている」という考え方。
何もせずただ占領されて奴隷でいいという事か?それとも基地がある県だけが犠牲になって、基地の無い県は戦争に巻
き込まれないとでも??死ぬより奴隷の方がマシという考え方は、敵(相手)次第。先の大戦は結果、相手がアメリカだ
ったから今、マシな奴隷国家、日本がある。戦勝国を主張する国では、ロシア(ソ連)・中国(中華民国)も入っていた。
占領された相手がロシア、中国だったとしたら日本はどうなっていただろうか・・・恐ろしくて考えたくもない。
「戦争を起こさないために何ができるのか考えてほしい」それはそうだろう。世界中の先進国が考えるべきだ。
日本だけでなく、大国アメリカ・イギリス・ロシア・中国も。そして今、日本をとりまく世界情勢がどのような状況で
あるかも子供達にちゃんと伝えているのだろうか??
「軍は民を守らない」と言うが、極限の劣勢になった時に人は自分以外を守る余裕などあるものか。
今の自衛隊でも同じだ。25万人の隊員でどうやって日本国全て(民も含め)を守れると言うのか。
逆の立場で考えれば容易に分かる事ではないか。軍は神様か?軍は不死身のモビルスーツの様なガンダムの世界の妄想
でも描いて話しているのだろうか・・・沖縄を守る為?奄美を守る為?九州を守る為?本州を守る為?四国を守る為?
サイパン陥落から、そもそも負け戦をしている最中、パラオ、フィリピン、硫黄島・・・場所なんてどうでもいいでは
ないのか?全ての土地での戦いは、「日本国」を守る為でしかないはずだ。本土決戦の時間稼ぎ?沖縄諸島だけが??
戦争全体を見ずに、沖縄県民に自虐史観や日本国に対する憎悪を植え付けるだけの全く無駄な話だった。
戦前、確かに軍や政治家に、許しがたい売国奴はいた。自分の保身だけの為に兵を無駄死にさせた軍幹部も沢山いた。
しかし、牛島中将がそんな幹部だったとは思えない。そうやって日本軍全体をディスる事や、外国(仮想敵国)が喜ぶ事
をするのが、戦争を起こさない為にやるべき事なんだと、元小学校教諭は熱弁している(呆)
牛島中将が約9万4000人(推計)もの沖縄島の一般住民を殺したと言わんばかりの講演・・・天国で牛島中将もさぞ悲
しまれている事だろう・・・自分の祖父をディスるような孫にはなりたくないと思いを新たに、ご先祖様、牛島中将以
下将兵(英霊)に感謝した。

▲▼司令部壕の保存や、公開する事には大賛成だ。

首里城公園の地下には今も約1000mの巨大な人口壕が眠っている。牛島中将他約1000人の軍人軍属達が南部撤退まで
の2ヶ月間居た戦闘指令所である。当初は安里(那覇市内中心部)にあったが、10/10空襲後の昭和20年1月に、首里城
の地下司令部壕に移動した。壕掘り作業は軍の設営部隊や沖縄師範男子学徒があてがわれた。軍民が力を合わせて掘ら
れた地下要塞、当時の方達のご苦労や、中で戦死していった将兵を弔う意味ならば、司令部壕の保存や、公開する事に
は大賛成だ。

しかし、第32軍も含め、旧日本軍をディスるようなネタにする利用(公開)なのであれば、このままでいいと思う。

昭和20年5月30日~31日首里城は米軍艦砲射撃などで無残に破壊される。首里攻防戦線を制圧した陸上の米軍兵士は、
用心深く首里城内に入ったという。日本軍は首里に残された残存兵力で夜間斬り込みを敢行、玉砕していった。

▲首里城内にて、ことごとく戦死した日本兵を眺める米兵達。米軍は司令部壕内に侵入していった。
しかし、そこに主要装備は無く、散乱する日本兵の腐敗した死臭が充満していた。司令部壕内に牛島中将/長中将/
八原大佐の姿は無く、自力で南部へ撤退出来なかった負傷兵で、自決した日本兵約5000人の死体があるだけだった。

南部撤退まで、首里司令部壕内には将兵の他、指揮官や参謀の世話係の女性達も雑居していたという。

首里司令部壕撤退を決める直前、大本営へ沖縄作戦戦況報告の為に、5/10(19:00頃)司令部豪から本土へ脱出した
第32軍航空参謀神直道少佐が、首里司令部壕内の女性達について、以下の事を戦後に証言している。
「司令部壕内に20人~30人の「辻遊郭」の女性達が炊事要員として軍に仕していた」事。
「良家の子女10人余が牛島・長などの将校の身の回りの世話をしていた」事。
「女子師範学校学徒も何人か居た」事「司令部内に慰安所は無かった」事「朝鮮人女性や本土の芸者はいなかった」事。
「飯炊き要員として駆りだされていた辻遊郭の女性は遊郭の女性だという事で兵隊の中にその様な行為に及ぶ者があり、
壕内の風紀が乱れそうになったから壕内から出てもらった」事、などである。

沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い(戦闘)は以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
津堅島⇒津堅島
現在の日本国で、反撃の可否を判断する権限は防衛省には無い。あくまで抑止力として南西諸島の守りを強化している
に過ぎない。核爆弾数個持てば済む話を、牛島貞満さんの様な左翼思想の団体が煩いから、チマチマ駐屯地を増やして
いるだけ・・・。やられたとしても、反撃命令を出せる気概を持った首相など日本の政治家にいるのだろうか・・・。
有事に際し、国民を避難させるのは行政の仕事。沖縄県の行政トップにそんな大役が出来る人材がいる(選ばれる)とは、
今の段階では到底思えない・・・。
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。
拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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普天間フライトライン・フェア
Category: 沖縄本島

2022/10/1 普天間フライトライン・フェアに行ってきた

米軍普天間飛行場第3ゲート(宜野湾市野嵩、野嵩第3ゲート)から基地内に入った。

フライトライン・フェア基地入場ゲートは、今回入場した野嵩第3ゲートと大山第1ゲートの2つだ。

沖縄県で初めての米軍基地入場だ。

広い敷地に格納庫等の軍事施設が見える。ここは元々日本軍の基地では無かった場所で、日本軍は現在の嘉手納基地に、
陸軍中飛行場、米軍読谷補助飛行場(現在は返還された)に陸軍北飛行場を置いていた。

右折れして、会場となっている滑走路に向かう。

滑走路に設置された仮駐車場に車を停めて、普天間フライトライン・フェア一日の始まりだ。
米軍普天間飛行場は沖縄戦中、住民達を収容所に閉じ込めている間に、米軍が集落も、田畑も、全てを潰して造られた
基地・・・なので、未だに「強奪基地」と呼ばれる大きな要因となり「基地負担軽減の為の代替え基地(辺野古移設)」
に反対する人達の的となっている。米軍普天間飛行場の周りに住宅街や学校などが沢山ある事も要因だが・・・。
※辺野古には戦後からキャンプ・シュワブがあり、既にある基地を海側に増設している工事で、新基地建設では無い。

早めに着いたので入場はスムーズだった。身分証明書提示と持ち物検査、金属探知検査を済ませて会場入り。

野郎3人での普天間フライトライン・フェア(私以外は沖縄県出身者)


我ら日本軍(自衛隊)車両や航空機も多数展示していたのが嬉しかった。











▲▼沖縄本島の国道、県道でよく見かける米軍用車両だ。






▲▼沖縄戦で初投入された米軍155㎜榴弾砲の古写真を思い出していた・・・今はかなりコンパクトになったものだ。



機内を見学出来る機体もある。












オスプレイも機内を見学出来る。























▲ビールはコップ一杯900円と割高・・・。

▲ピザは1枚2100円(大きくて美味しい)、コーラ等の缶ジュースは1本200円で、昨今の物価高の水準。


▲▼小さい子供達も遊べる施設も仮設なのに本格的






この野外ライブは凄く楽しい。ザ・アメリカって感じ。

日が暮れたら人が多くなってきた。

この日は、最後に花火大会があるので大勢の人が夜(夕方)から入場してきたようだ。

マスクしているのは日本人だけ(笑)。しかし、ゴミの分別含め、日本人の衛生管理意識の高さは世界一だと思う。

▼野外ライブの方も、Fifth Harmony、最後のAlly Brookeで最高潮に。


▲フィナーレの花火は素晴らしいものだった。

花火が終わると同時に、皆一斉に帰るので、基地ゲートを出るまでの多少の渋滞は仕方ない・・・。

▼ゲートの路面に注目。逆から侵入すると、タイヤがパンクするような仕掛けになっている。

▼10月1日は天一の日。って事で、ラーメン一杯無料アプリを頂ける天下一品(北谷店)でラーメンを食って帰った。

この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。
拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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豊見城村は那覇の南に隣接する。豊見城城は600年以上前の「琉球戦国時代」に攻め滅ぼされた南山王系列[見城按司]
の城であった。現在は琉球当時の遺構はほとんど無く、石垣の一部や古井戸などが残るだけで、世界遺産に指定された
琉球グスク群からは外されている。豊見城村は現在県豊見城市。漫湖を見下ろす琉球石灰岩の丘陵地に豊見城城はあっ
た。14世紀末~15世紀初頭、沖縄が三山時代(北山/中山/南山)であった頃、南山王の従弟である汪応祖が、漫湖沿岸
の見晴らしの良い高台に城を築いたと伝わる。「三山統一の戦い」で中山王の尚巴志によって襲撃されて1429年落城。
1719年尚敬王の冊封副使として来沖し、ここを訪れた徐葆光が漢詩を詠んだ。1853年に来航したペリー艦隊一行が
描いた挿絵も残されている。城は三重の郭に、5つの城門を構えていたと言われている。
沖縄戦当時、現在の豊見城城跡公園には旧陸軍第24師団第2野戦病院壕があった。

▲▼ここに配属され、従軍した軍医や積徳高等女学校学徒看護隊の生存者により昭和57年8月、合祀碑が建立された。


隊長の小池勇助軍医少佐の部下として行動を共にされた島尾二中尉。第24師団第二野戦病院の南部移動の際、小池軍
医少佐は、自力で動けない重症兵の「始末」を命じられる。元学徒隊員の真喜志善子さんの手記によると、小池軍医少
佐から命令を受けた島尾二軍医中尉は、青酸カリを置く代わりに水、乾パン、手榴弾を枕元に置き、「敵が来たら潔く
戦え」と、励ましてその場を去ったそうだ。生き残った島尾二中尉は戦後復員。後に医局へと戻られた島尾軍医は呼吸
器科医として勤務しつつも、戦時中の第二野戦病院の出来事が常に頭から離れなかったと語られ、ふじ学徒生存者の方
々と共に、豊見城城跡公園にある旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑の建立に尽力されたが、この慰霊碑を見る
ことなく亡くなられている。

▼島尾二軍医中尉

▼積徳高等女学校の生徒25名で編成された「ふじ学徒隊」は4年生56人が合宿看護訓練を受けた。

積徳高等女学校は、仏教系の私立学校で、旧那覇市の真ん中にあった。戦時色が強まる中の昭和20年3月13日、4年生
56人に対し、軍の命令で合宿看護訓練が行われた。しかし、戦況の進展で訓練は10日間で中断、15日那覇市識名のシ
ッポージヌガマに行政機能が移る。17日にアメリカ軍が硫黄島を占領。この戦いを指揮した栗林中将の電文が紹介され
沖縄本島米軍上陸の1週間前の昭和20年3月23日、豊見城城址にあった陸軍第24師団第2野戦病院壕に配属される。
24日から艦砲射撃が始まり、26日には慶良間諸島にアメリカ軍上陸。27日首里高等女学校の卒業式が行われたが、積
徳高等女学校では行われなかった。

隊長は小池勇助軍医少佐(長野県出身)。小池軍医少佐は学徒看護隊56人に従軍か除隊かの調書を取る。
結果31名が除隊。25名が従軍看護婦「ふじ学徒隊」として勤務する事となる。

▲小池勇助軍医少佐(長野県出身)昭和20年6月27日「糸洲の壕」にて自決。

▲昭和20年6月に米軍が撮影した第2野戦病院壕口。弾薬箱や日本兵の死体が複数写っている。
南部撤退の昭和20年5月26日まで使用された第2野戦病院壕は、最後まで勝利を信じて戦い傷つき倒れた多くの英霊を
供養し永遠の平和を祈念する為、昭和57年8月に慰霊碑が建ち、昭和58年7月陸軍野戦病院壕が復元保存された・・。
常時は閉鎖されている豊見城市の旧豊見城城祉公園。那覇市を一望する高台で、非公式で沖縄慰霊の日(6月23日)に
慰霊祭が行われる。

▲▼合祀碑近くの高台から那覇市を一望出来る。

ふじ学徒隊の慰霊碑は学び舎があった付近(那覇市松山)大典寺境内にある。隊長の小池勇助軍医少佐の墓は地元長野県
(野沢)の本覚寺に建立されており、回忌法要には積徳高等女学校のふじ学徒隊メンバーが訪れ、命の恩人との繋がりを
今なお続けておられるとの事だ。

▲合祀碑から直ぐの場所に右折れに入れる場所がある。

▲復元されてから10年以上放置され続け、荒れ果てた階段を下りていくと、いくつかの壕口がある。

復元時に設置された鉄骨の崩落止めも錆びて朽ち果てている。

野戦病院壕はアメリカ軍の上陸直前、昭和20年に建設された。建設には住民も動員され、総延長はおよそ300メートル
に及び、通称「山部隊」と言われる第24師団の軍医や衛生兵など200人の部隊が配属された。アメリカ軍上陸後は、激
戦地の首里、浦添、西原、那覇一帯から負傷兵が次々と運び込まれ、収容能力を超える600名余りの負傷兵を抱える事
になった。そのため、負傷兵には医薬品や食事も十分に与えることが出来ず、薄暗い壕の中で衰弱して亡くなる兵士も
多かったと言う。

多くの負傷者の傷にはほとんど蛆虫がついており、中には包帯の上からも蛆虫がチラチラと頭を覗かせていた・・・。
つまんで捨てる・・・その兵隊の傷をあけると、深い傷口には無数の蛆虫が蜂の子の様にびっしりで、消毒液を落とす
と、素早く内に引っ込む蛆虫、はいだしてポロポロこぼれる蛆虫・・いちいちピンセットでつまみ出すには間にあわず
ガーゼでこすぎ落とす・・しかし、次の包帯交換にも同様に頭を並べていっぱい詰まっている。のくり返しであった。

▲▼全長の1/3が復元されたそうだが、崩落が激しかったのだろう・・・見学出来なくなってから放置状態である

しかし、その傷口は蛆虫が膿血を吸うために綺麗で、傷をもつ者は「痛い」と訴え、また私たちは肝を冷やしながら治
療に当たっていると、平林軍医は、慰めとも励ましともつかない「蛆治療もあるのだよ」と言われた。
また、負傷兵は、泥をかぶった砲弾破片創(射創)が大部分で、全員に破傷風の予防注射をした。ところが発病した者に
多量の血清を使用するには足りなくて、胸を痛めながら死を待つのであった。ガス壊疽(エソ)患者も同様で、痛みと
臭気をともなって、身体の一部がみるみるうちにドス黒く腐敗していき、死をみつめて時を待つ姿もあった。
と、積徳高等女子学校学徒看護隊の上原 利子(旧姓・志伊良)さんは語っておられる。

▼積徳高等女子学校学徒看護隊の証言が書かれた物。

▼そう遠くない将来、消滅してしまうだろう・・・。


昭和58年(1983)に鉄骨補強されてから39年・・・。昭和20年(1945)に構築されてからは77年・・・


▲この先は元々崩落していた坑道なのだろう。鉄筋柱で補強されていた形跡は無い。

▲かつては壕口に掲げられていた看板も今は壕内にひっそりと置かれている・・・。

▲豊見城城、城門の脇に立つ第22海兵連隊司令官ロバーツ大佐と第22海兵連隊第3大隊司令官シスラー中佐。
城壁やアーチ門等のグスク遺構は戦後の開発で壊されたが、漫湖側に城壁の一部と思われる石積みが確認されている。

▲昭和10年代に撮影された豊同じ場所。城主は南山王の汪応祖 (おうおうそ)。中山の首里城に対抗していた王だ。
戦後、豊見城城址公園は県の管理物では無く豊見城村の管理であったが、昭和38年に岩崎産業(本社鹿児島県)が購入。
城址公園閉園後はそのまま放置される事になるが、公園内には高圧線の鉄塔が何本か走り、沖縄電力から収入がある。
日本復帰40周年事業として、当時の仲井真弘多元沖縄県知事が「空手道会館(仮称)」の建設地を豊見城城址公園跡地
とする案を決定(空手道会館の候補地には豊見城市のほか那覇市、浦添市、沖縄市、糸満市が挙がっていた)。
城址公園を運営していた岩崎産業も土地の譲渡に基本的に同意し、県は一括交付金で土地を購入。2017年に開館した。

▲▼現在の豊見城城址公園一帯には「沖縄空手会館」や「おきなわ工芸の杜」が建ち、再開発?が進んでいる。

▼▲県営沖縄空手会館

▼空手そば

▼2022年4月1日に0PENした立派な施設、「おきなわ工芸の杜」

コンセプトは「沖縄県の工芸産業を担う人材支援、工芸品の情報発信、工芸品の作り手と使い手の交流促進などにより、
工芸産業の振興に資する。工芸産業の担い手となる人材の育成、製品開発の支援、技術の高度化及び交流等の拠点とな
る施設を提供することで、技術の継承及び産業の振興を図り、持って地域経済の発展に寄与する」との事。

起業を目指す方が入居する貸し工房や、工芸品を製作するために利用する共同工房。来館者が製作体験することが出来
る体験工房や多目的室、展示室など・・・いつまでも続く箱物行政の象徴か?


▲昭和20年6月に撮影された海軍司令部壕のある小禄半島東部豊見城地域の高地。

▲現在(令和4年)のほぼ同じ場所をおきなわ工芸の杜より撮影。(高地の頂上付近に今も海軍司令部壕が残る)

▲▼かつては植物園としても知られた豊見城城趾公園。2003年に閉園した城趾公園には線路がひっそりと残っている。
当時城址を買った岩崎産業が城趾公園建設中、ゴルフ場や線路を敷くために城門や石垣を撤去した。今なら城址跡を残
したままリゾート開発出来たであろうから悔やまれる。しかし、岩崎産業(国内企業)だったから、土地がまた日本人(
沖縄県)の自由に再考出来た。昨今の外資系企業の土地爆買いの様に、当時の売却先が岩崎産業では無く外国企業だった
らと考えると・・・特に中〇/韓〇系企業が土地を買っていたら野戦病院壕は消滅していただろう・・・ゾッとする。

御嶽やお墓は壊さないのは日本人の素晴らしいところ。24師団第2野戦病院壕も英霊のお墓なので保存して頂きたい。


昭和20年5月27日、豊見城野第2戦病院壕から糸満市の糸洲の壕へ撤退して来た「ふじ学徒隊」。

糸洲の壕(ウッカーガマ)と呼ばれるこの自然壕は、水が豊富に湧き出ていた場所だったため、炊事などには困らなかっ
たものの壕内は常に湿っており、学徒隊の足袋は乾くことがなかったという証言が多い。しかし敗戦が決定的となった
6月17日、米軍の馬乗り攻撃を受け、学徒をはじめとする人々は壕の奥へと移動した。しかし戦況は既にどうしようも
ないところまで来ており、行動を共にしてきた衛生兵も斬り込み隊に任命され、夜襲をかけた者は戻ってくることはな
かった。衛生兵が減った分の仕事は学徒隊に回ってきていた。そして遂に、摩文仁の第32軍司令部より他の学徒隊同様
「解散命令」が出された。砲弾が飛び交う戦地での解散命令は「死」を意味した。
他の学徒隊の戦死者のほとんどがこの解散命令発令後に出ている。解散命令が出された日は6月17~19日と記録される
ものが多い中、小池勇助軍医少佐がふじ学徒隊に解散命令を出したのは6月26日。約1週間の解散命令のずれが結果的
に学徒隊の犠牲者を最小限に食い止めた小池隊長の英断だった事は言うまでもない。
第24師団第二野戦病院院長小池勇助軍医少佐は長野県佐久市出身で、地元中込駅前で眼科の開業医だった。
3回目の招集で沖縄に来た小池隊長は、他の部隊とほぼ時期を同じくして受け取った解散命令を、この状況で出すこと
は危険極まりないとの判断で軍命を握り潰し、壕内に残る選択肢を取った。
そして6月26日第32軍の牛島司令官と長参謀長の自決の報を受け取り、日本軍の組織的抵抗の終焉を知った上で解散
命令を出したのだ。学徒隊の前で最後の訓示をした小池隊長は、「長い間軍に協力してくれてご苦労だった、日本は負
けました。もし負け戦になると解っていれば、あなた達を預かりませんでした。親御さん達に本当に申し訳ない」と深
々と頭を下げられたそうだ。捕虜になるくらいならば自決を選ぶ!と、最後まで隊長をはじめとする野戦病院と行動を
共にしたいと食い下がる学徒隊に対して、小池隊長は「捕虜になるのは恥ではありません。本当の恥は死ぬ事です。な
ので、決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰り、この凄惨な戦争の最後を後世の国民に伝えて下さい」と。
小池隊長は泣きじゃくる学徒達と、一人一人握手をし、数人のグループで行動して逃げるように指示して壕から送り出
したという。そして看護隊全員が壕を出たのを確認した後、小池隊長は青酸カリで自決した。
6月27日ふじ学徒隊は2~3名ずつ組を作って壕を脱出し、ほとんどが米軍の捕虜となった。最初に脱出した学徒3人の
内1人が日本軍と米軍の交戦に巻き込まれ戦死。他、米軍のキャンプに紛れ込んでしまった1人が米軍の銃撃を受けて戦
死している。そして戦後、戦争の心の傷から、自ら死を選んだ学徒を含めた3人が犠牲となった。しかし、他の学徒隊で
は半数以上の死者が出ているのに対して、この看護隊生存率の高さは小池勇助軍医少佐の素晴らしい功績だと言える。
「ふじ学徒隊」証言記録仲里ハルさんYouTube①「ふじ学徒隊」証言記録仲里ハルさんYouTube②

▲現在も残る糸洲の壕(2017年2月16日訪問)
入口が2つある大きな壕で、米軍のガス弾攻撃・馬乗り攻撃を何度も受け、壕内では約100人が戦死した。看護隊員は
小池隊長の指示で水に濡らしたタオルで顔を覆い、ガス弾攻撃に必死に耐え、壕内では学徒25名全員が生き残った。

糸洲の壕は、先の「二本松の壕」、「轟の壕」と地下で繋がる巨大な自然洞窟である。

▲辺りが工事中だった為、入壕は叶わなかったが、壕の部分は手を付けられていないので残ると思う。
小池隊長は、看護隊員たちを、我が娘のように可愛がり、父母から大切な娘さんを預かったのだから、絶対に死なせて
はならないと考えていたという。
1番に壕を出たのは、上記YouTubeで紹介した、宮古島出身の仲里ハルさんと八重山、久米島の友人3人だった。
隊長に言われた通り北を目指し、昼はサトウキビ畑に隠れ、夜に移動したという。数日後、米軍のキャンプに紛れ込ん
でしまい、銃撃を受け3人が倒れ込み、血まみれの友人が『ハルちゃん助けて!ハルちゃん置いてかないで!』と。
気がつくと、ハルさんは銃弾を受けてなく、左の三つ編みが吹き飛ばされていた。友人1人が死亡。1人は重傷だった。
他に1人壕を出て逃避中に亡くなり、2人の犠牲者がでた。最後に壕を出たのは、皆川晴子さんの3人グループだった。
途中、米軍がまいたタバコを拾って隊長のもとへ届けに戻ってみると小池隊長は自決していたという。
小池勇助隊長は、長野県(現在の佐久市)出身、地元の旧制野沢中学(現長野県立野沢北高校)を卒業し、金沢医専(現金
沢大学医学部)を卒業。軍医経験の後、地元の中込駅前で眼科を開業していたが、再び軍医として応招され沖縄へ。
小池隊長のお墓は、地元野沢の本覚寺という寺にあり、法要が営まれ「ふじ学徒隊」12名が参列し、命の恩人の墓前に
手を合わせられたという。積徳高等女学校の沖縄戦を記録したドキュメンタリー映画
昭和20年7月2日米軍は沖縄本島の掃討作戦終了を宣言する。
昭和20年9月7日嘉手納基地内での降伏文章への調印によって沖縄戦が正式に終了する。

▼▲ふじ学徒隊の慰霊碑は学び舎があった付近(那覇市松山)大典寺境内にある。


▲戦前の本願寺派大典寺



※ふじ学徒隊以外の沖縄戦に従事した女子学徒隊
「沖縄陸軍病院」(南風原黄金森)
沖縄師範学校女子部 (ひめゆり学徒隊157名)昭和20年3月23日~戦死81名
県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊 65名)昭和20年3月23日~戦死42名
「陸軍24師団山第1野戦病院」(八重瀬岳、新城[アラグスク]分院ヌヌマチガマ・カラビガマ)
糸満市真栄里【白梅之塔】(下の壕/上の壕) 八重瀬町富盛【手術場壕】
県立第二高等女学校 (白梅学徒隊 56名)昭和20年3月24日~戦死22名
「沖縄陸軍病院八重岳分院」(沖縄陸軍病院名護分院)
県立第三高等女学校 (名護蘭[なごらん]学徒隊 10名)昭和20年3月24日~戦死1名
※本部半島では南部の様なガマはほとんど無く、「八重岳陸軍野戦病院」は人の手で作石垣を作り、小屋を建ててい
たと、なごらん学徒隊生存者の方が証言している。小屋は5、6棟あった様で内1つはオペ室、残りは病棟との事。
学徒隊員として従軍した沖縄県立第三中学校と沖縄県立第三高等女学校、三中生は防衛隊員・鉄血勤皇隊員及び通信
隊員として従軍。真部山・八重岳・名護岳・多野岳等で奮戦。これらの方達の慰霊碑が名護高校内にある「南燈慰霊
之塔」。慰霊祭は名護高校があとを次いで、現在でも行われている。
「陸軍62師団野戦病院」(南風原町ナゲーラ豪/識名壕)
県立首里高等女学校 (瑞泉[ずいせん]学徒隊 61名)昭和20年3月25日~戦死33名
私立沖縄昭和女学校 (悌梧[ていご]学徒隊 17名)昭和20年3月23日~戦死9名
沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い等は、以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
屋我地島⇒屋我地島
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
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た。14世紀末~15世紀初頭、沖縄が三山時代(北山/中山/南山)であった頃、南山王の従弟である汪応祖が、漫湖沿岸
の見晴らしの良い高台に城を築いたと伝わる。「三山統一の戦い」で中山王の尚巴志によって襲撃されて1429年落城。
1719年尚敬王の冊封副使として来沖し、ここを訪れた徐葆光が漢詩を詠んだ。1853年に来航したペリー艦隊一行が
描いた挿絵も残されている。城は三重の郭に、5つの城門を構えていたと言われている。
沖縄戦当時、現在の豊見城城跡公園には旧陸軍第24師団第2野戦病院壕があった。

▲▼ここに配属され、従軍した軍医や積徳高等女学校学徒看護隊の生存者により昭和57年8月、合祀碑が建立された。


隊長の小池勇助軍医少佐の部下として行動を共にされた島尾二中尉。第24師団第二野戦病院の南部移動の際、小池軍
医少佐は、自力で動けない重症兵の「始末」を命じられる。元学徒隊員の真喜志善子さんの手記によると、小池軍医少
佐から命令を受けた島尾二軍医中尉は、青酸カリを置く代わりに水、乾パン、手榴弾を枕元に置き、「敵が来たら潔く
戦え」と、励ましてその場を去ったそうだ。生き残った島尾二中尉は戦後復員。後に医局へと戻られた島尾軍医は呼吸
器科医として勤務しつつも、戦時中の第二野戦病院の出来事が常に頭から離れなかったと語られ、ふじ学徒生存者の方
々と共に、豊見城城跡公園にある旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑の建立に尽力されたが、この慰霊碑を見る
ことなく亡くなられている。

▼島尾二軍医中尉

▼積徳高等女学校の生徒25名で編成された「ふじ学徒隊」は4年生56人が合宿看護訓練を受けた。

積徳高等女学校は、仏教系の私立学校で、旧那覇市の真ん中にあった。戦時色が強まる中の昭和20年3月13日、4年生
56人に対し、軍の命令で合宿看護訓練が行われた。しかし、戦況の進展で訓練は10日間で中断、15日那覇市識名のシ
ッポージヌガマに行政機能が移る。17日にアメリカ軍が硫黄島を占領。この戦いを指揮した栗林中将の電文が紹介され
沖縄本島米軍上陸の1週間前の昭和20年3月23日、豊見城城址にあった陸軍第24師団第2野戦病院壕に配属される。
24日から艦砲射撃が始まり、26日には慶良間諸島にアメリカ軍上陸。27日首里高等女学校の卒業式が行われたが、積
徳高等女学校では行われなかった。

隊長は小池勇助軍医少佐(長野県出身)。小池軍医少佐は学徒看護隊56人に従軍か除隊かの調書を取る。
結果31名が除隊。25名が従軍看護婦「ふじ学徒隊」として勤務する事となる。

▲小池勇助軍医少佐(長野県出身)昭和20年6月27日「糸洲の壕」にて自決。

▲昭和20年6月に米軍が撮影した第2野戦病院壕口。弾薬箱や日本兵の死体が複数写っている。
南部撤退の昭和20年5月26日まで使用された第2野戦病院壕は、最後まで勝利を信じて戦い傷つき倒れた多くの英霊を
供養し永遠の平和を祈念する為、昭和57年8月に慰霊碑が建ち、昭和58年7月陸軍野戦病院壕が復元保存された・・。
常時は閉鎖されている豊見城市の旧豊見城城祉公園。那覇市を一望する高台で、非公式で沖縄慰霊の日(6月23日)に
慰霊祭が行われる。

▲▼合祀碑近くの高台から那覇市を一望出来る。

ふじ学徒隊の慰霊碑は学び舎があった付近(那覇市松山)大典寺境内にある。隊長の小池勇助軍医少佐の墓は地元長野県
(野沢)の本覚寺に建立されており、回忌法要には積徳高等女学校のふじ学徒隊メンバーが訪れ、命の恩人との繋がりを
今なお続けておられるとの事だ。

▲合祀碑から直ぐの場所に右折れに入れる場所がある。

▲復元されてから10年以上放置され続け、荒れ果てた階段を下りていくと、いくつかの壕口がある。

復元時に設置された鉄骨の崩落止めも錆びて朽ち果てている。

野戦病院壕はアメリカ軍の上陸直前、昭和20年に建設された。建設には住民も動員され、総延長はおよそ300メートル
に及び、通称「山部隊」と言われる第24師団の軍医や衛生兵など200人の部隊が配属された。アメリカ軍上陸後は、激
戦地の首里、浦添、西原、那覇一帯から負傷兵が次々と運び込まれ、収容能力を超える600名余りの負傷兵を抱える事
になった。そのため、負傷兵には医薬品や食事も十分に与えることが出来ず、薄暗い壕の中で衰弱して亡くなる兵士も
多かったと言う。

多くの負傷者の傷にはほとんど蛆虫がついており、中には包帯の上からも蛆虫がチラチラと頭を覗かせていた・・・。
つまんで捨てる・・・その兵隊の傷をあけると、深い傷口には無数の蛆虫が蜂の子の様にびっしりで、消毒液を落とす
と、素早く内に引っ込む蛆虫、はいだしてポロポロこぼれる蛆虫・・いちいちピンセットでつまみ出すには間にあわず
ガーゼでこすぎ落とす・・しかし、次の包帯交換にも同様に頭を並べていっぱい詰まっている。のくり返しであった。

▲▼全長の1/3が復元されたそうだが、崩落が激しかったのだろう・・・見学出来なくなってから放置状態である

しかし、その傷口は蛆虫が膿血を吸うために綺麗で、傷をもつ者は「痛い」と訴え、また私たちは肝を冷やしながら治
療に当たっていると、平林軍医は、慰めとも励ましともつかない「蛆治療もあるのだよ」と言われた。
また、負傷兵は、泥をかぶった砲弾破片創(射創)が大部分で、全員に破傷風の予防注射をした。ところが発病した者に
多量の血清を使用するには足りなくて、胸を痛めながら死を待つのであった。ガス壊疽(エソ)患者も同様で、痛みと
臭気をともなって、身体の一部がみるみるうちにドス黒く腐敗していき、死をみつめて時を待つ姿もあった。
と、積徳高等女子学校学徒看護隊の上原 利子(旧姓・志伊良)さんは語っておられる。

▼積徳高等女子学校学徒看護隊の証言が書かれた物。

▼そう遠くない将来、消滅してしまうだろう・・・。


昭和58年(1983)に鉄骨補強されてから39年・・・。昭和20年(1945)に構築されてからは77年・・・


▲この先は元々崩落していた坑道なのだろう。鉄筋柱で補強されていた形跡は無い。

▲かつては壕口に掲げられていた看板も今は壕内にひっそりと置かれている・・・。

▲豊見城城、城門の脇に立つ第22海兵連隊司令官ロバーツ大佐と第22海兵連隊第3大隊司令官シスラー中佐。
城壁やアーチ門等のグスク遺構は戦後の開発で壊されたが、漫湖側に城壁の一部と思われる石積みが確認されている。

▲昭和10年代に撮影された豊同じ場所。城主は南山王の汪応祖 (おうおうそ)。中山の首里城に対抗していた王だ。
戦後、豊見城城址公園は県の管理物では無く豊見城村の管理であったが、昭和38年に岩崎産業(本社鹿児島県)が購入。
城址公園閉園後はそのまま放置される事になるが、公園内には高圧線の鉄塔が何本か走り、沖縄電力から収入がある。
日本復帰40周年事業として、当時の仲井真弘多元沖縄県知事が「空手道会館(仮称)」の建設地を豊見城城址公園跡地
とする案を決定(空手道会館の候補地には豊見城市のほか那覇市、浦添市、沖縄市、糸満市が挙がっていた)。
城址公園を運営していた岩崎産業も土地の譲渡に基本的に同意し、県は一括交付金で土地を購入。2017年に開館した。

▲▼現在の豊見城城址公園一帯には「沖縄空手会館」や「おきなわ工芸の杜」が建ち、再開発?が進んでいる。

▼▲県営沖縄空手会館

▼空手そば

▼2022年4月1日に0PENした立派な施設、「おきなわ工芸の杜」

コンセプトは「沖縄県の工芸産業を担う人材支援、工芸品の情報発信、工芸品の作り手と使い手の交流促進などにより、
工芸産業の振興に資する。工芸産業の担い手となる人材の育成、製品開発の支援、技術の高度化及び交流等の拠点とな
る施設を提供することで、技術の継承及び産業の振興を図り、持って地域経済の発展に寄与する」との事。

起業を目指す方が入居する貸し工房や、工芸品を製作するために利用する共同工房。来館者が製作体験することが出来
る体験工房や多目的室、展示室など・・・いつまでも続く箱物行政の象徴か?


▲昭和20年6月に撮影された海軍司令部壕のある小禄半島東部豊見城地域の高地。

▲現在(令和4年)のほぼ同じ場所をおきなわ工芸の杜より撮影。(高地の頂上付近に今も海軍司令部壕が残る)

▲▼かつては植物園としても知られた豊見城城趾公園。2003年に閉園した城趾公園には線路がひっそりと残っている。
当時城址を買った岩崎産業が城趾公園建設中、ゴルフ場や線路を敷くために城門や石垣を撤去した。今なら城址跡を残
したままリゾート開発出来たであろうから悔やまれる。しかし、岩崎産業(国内企業)だったから、土地がまた日本人(
沖縄県)の自由に再考出来た。昨今の外資系企業の土地爆買いの様に、当時の売却先が岩崎産業では無く外国企業だった
らと考えると・・・特に中〇/韓〇系企業が土地を買っていたら野戦病院壕は消滅していただろう・・・ゾッとする。

御嶽やお墓は壊さないのは日本人の素晴らしいところ。24師団第2野戦病院壕も英霊のお墓なので保存して頂きたい。


昭和20年5月27日、豊見城野第2戦病院壕から糸満市の糸洲の壕へ撤退して来た「ふじ学徒隊」。

糸洲の壕(ウッカーガマ)と呼ばれるこの自然壕は、水が豊富に湧き出ていた場所だったため、炊事などには困らなかっ
たものの壕内は常に湿っており、学徒隊の足袋は乾くことがなかったという証言が多い。しかし敗戦が決定的となった
6月17日、米軍の馬乗り攻撃を受け、学徒をはじめとする人々は壕の奥へと移動した。しかし戦況は既にどうしようも
ないところまで来ており、行動を共にしてきた衛生兵も斬り込み隊に任命され、夜襲をかけた者は戻ってくることはな
かった。衛生兵が減った分の仕事は学徒隊に回ってきていた。そして遂に、摩文仁の第32軍司令部より他の学徒隊同様
「解散命令」が出された。砲弾が飛び交う戦地での解散命令は「死」を意味した。
他の学徒隊の戦死者のほとんどがこの解散命令発令後に出ている。解散命令が出された日は6月17~19日と記録される
ものが多い中、小池勇助軍医少佐がふじ学徒隊に解散命令を出したのは6月26日。約1週間の解散命令のずれが結果的
に学徒隊の犠牲者を最小限に食い止めた小池隊長の英断だった事は言うまでもない。
第24師団第二野戦病院院長小池勇助軍医少佐は長野県佐久市出身で、地元中込駅前で眼科の開業医だった。
3回目の招集で沖縄に来た小池隊長は、他の部隊とほぼ時期を同じくして受け取った解散命令を、この状況で出すこと
は危険極まりないとの判断で軍命を握り潰し、壕内に残る選択肢を取った。
そして6月26日第32軍の牛島司令官と長参謀長の自決の報を受け取り、日本軍の組織的抵抗の終焉を知った上で解散
命令を出したのだ。学徒隊の前で最後の訓示をした小池隊長は、「長い間軍に協力してくれてご苦労だった、日本は負
けました。もし負け戦になると解っていれば、あなた達を預かりませんでした。親御さん達に本当に申し訳ない」と深
々と頭を下げられたそうだ。捕虜になるくらいならば自決を選ぶ!と、最後まで隊長をはじめとする野戦病院と行動を
共にしたいと食い下がる学徒隊に対して、小池隊長は「捕虜になるのは恥ではありません。本当の恥は死ぬ事です。な
ので、決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰り、この凄惨な戦争の最後を後世の国民に伝えて下さい」と。
小池隊長は泣きじゃくる学徒達と、一人一人握手をし、数人のグループで行動して逃げるように指示して壕から送り出
したという。そして看護隊全員が壕を出たのを確認した後、小池隊長は青酸カリで自決した。
6月27日ふじ学徒隊は2~3名ずつ組を作って壕を脱出し、ほとんどが米軍の捕虜となった。最初に脱出した学徒3人の
内1人が日本軍と米軍の交戦に巻き込まれ戦死。他、米軍のキャンプに紛れ込んでしまった1人が米軍の銃撃を受けて戦
死している。そして戦後、戦争の心の傷から、自ら死を選んだ学徒を含めた3人が犠牲となった。しかし、他の学徒隊で
は半数以上の死者が出ているのに対して、この看護隊生存率の高さは小池勇助軍医少佐の素晴らしい功績だと言える。
「ふじ学徒隊」証言記録仲里ハルさんYouTube①「ふじ学徒隊」証言記録仲里ハルさんYouTube②

▲現在も残る糸洲の壕(2017年2月16日訪問)
入口が2つある大きな壕で、米軍のガス弾攻撃・馬乗り攻撃を何度も受け、壕内では約100人が戦死した。看護隊員は
小池隊長の指示で水に濡らしたタオルで顔を覆い、ガス弾攻撃に必死に耐え、壕内では学徒25名全員が生き残った。

糸洲の壕は、先の「二本松の壕」、「轟の壕」と地下で繋がる巨大な自然洞窟である。

▲辺りが工事中だった為、入壕は叶わなかったが、壕の部分は手を付けられていないので残ると思う。
小池隊長は、看護隊員たちを、我が娘のように可愛がり、父母から大切な娘さんを預かったのだから、絶対に死なせて
はならないと考えていたという。
1番に壕を出たのは、上記YouTubeで紹介した、宮古島出身の仲里ハルさんと八重山、久米島の友人3人だった。
隊長に言われた通り北を目指し、昼はサトウキビ畑に隠れ、夜に移動したという。数日後、米軍のキャンプに紛れ込ん
でしまい、銃撃を受け3人が倒れ込み、血まみれの友人が『ハルちゃん助けて!ハルちゃん置いてかないで!』と。
気がつくと、ハルさんは銃弾を受けてなく、左の三つ編みが吹き飛ばされていた。友人1人が死亡。1人は重傷だった。
他に1人壕を出て逃避中に亡くなり、2人の犠牲者がでた。最後に壕を出たのは、皆川晴子さんの3人グループだった。
途中、米軍がまいたタバコを拾って隊長のもとへ届けに戻ってみると小池隊長は自決していたという。
小池勇助隊長は、長野県(現在の佐久市)出身、地元の旧制野沢中学(現長野県立野沢北高校)を卒業し、金沢医専(現金
沢大学医学部)を卒業。軍医経験の後、地元の中込駅前で眼科を開業していたが、再び軍医として応招され沖縄へ。
小池隊長のお墓は、地元野沢の本覚寺という寺にあり、法要が営まれ「ふじ学徒隊」12名が参列し、命の恩人の墓前に
手を合わせられたという。積徳高等女学校の沖縄戦を記録したドキュメンタリー映画
昭和20年7月2日米軍は沖縄本島の掃討作戦終了を宣言する。
昭和20年9月7日嘉手納基地内での降伏文章への調印によって沖縄戦が正式に終了する。

▼▲ふじ学徒隊の慰霊碑は学び舎があった付近(那覇市松山)大典寺境内にある。


▲戦前の本願寺派大典寺



※ふじ学徒隊以外の沖縄戦に従事した女子学徒隊
「沖縄陸軍病院」(南風原黄金森)
沖縄師範学校女子部 (ひめゆり学徒隊157名)昭和20年3月23日~戦死81名
県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊 65名)昭和20年3月23日~戦死42名
「陸軍24師団山第1野戦病院」(八重瀬岳、新城[アラグスク]分院ヌヌマチガマ・カラビガマ)
糸満市真栄里【白梅之塔】(下の壕/上の壕) 八重瀬町富盛【手術場壕】
県立第二高等女学校 (白梅学徒隊 56名)昭和20年3月24日~戦死22名
「沖縄陸軍病院八重岳分院」(沖縄陸軍病院名護分院)
県立第三高等女学校 (名護蘭[なごらん]学徒隊 10名)昭和20年3月24日~戦死1名
※本部半島では南部の様なガマはほとんど無く、「八重岳陸軍野戦病院」は人の手で作石垣を作り、小屋を建ててい
たと、なごらん学徒隊生存者の方が証言している。小屋は5、6棟あった様で内1つはオペ室、残りは病棟との事。
学徒隊員として従軍した沖縄県立第三中学校と沖縄県立第三高等女学校、三中生は防衛隊員・鉄血勤皇隊員及び通信
隊員として従軍。真部山・八重岳・名護岳・多野岳等で奮戦。これらの方達の慰霊碑が名護高校内にある「南燈慰霊
之塔」。慰霊祭は名護高校があとを次いで、現在でも行われている。
「陸軍62師団野戦病院」(南風原町ナゲーラ豪/識名壕)
県立首里高等女学校 (瑞泉[ずいせん]学徒隊 61名)昭和20年3月25日~戦死33名
私立沖縄昭和女学校 (悌梧[ていご]学徒隊 17名)昭和20年3月23日~戦死9名
沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い等は、以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
屋我地島⇒屋我地島
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。
拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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