沖縄戦

Category: 沖縄  

日本敗戦後の昭和20年4月1日から昭和47年5月15日までの27年間、アメリカの施政権下だった沖縄県。
hondofuki.jpg
本土復帰からまだ44年程しか経っていない。単純に右側通行から左側通行へ、など普通の暮らしが変わった(戻った?)
沖縄県民は大変だったであろう・・・。敗戦当時は車などほとんど走っていなかっただろうから、アメリカ統治時代に
道路などが近代化された沖縄県で普通の暮らしをしてきた人はとまどったであろう。
実際に左側通行になったのは昭和53年7月30日からだそうで、標識や信号機などの付け替えの下準備は事前から行って
おき、左側通行への移行作業は7月29日の夜から緊急車両以外の全ての車両の通行を禁止し、一晩で行われたそうだ。
okinawa22_convert_20160823170409.jpg
▲アメリカ統治時代の沖縄県、当然だが右側通行。(胡屋十字路付近とある)
「沖縄」は日本だが、本当の日本になるまでの道のりは暗く長いものだったに違いない。今回少しでも「沖縄」を勉強
する為に沖縄戦を知る戦跡ツアーに参加した。沖縄県は25年前に一度訪れた事があるはずだが全く記憶に無い。
ビーチで泳いだ程度の完全観光旅行だったのでさほど印象に残っていないのかもしれない。
戦史に興味を持ってから、いつか沖縄戦をちゃんと知ろうと思っていた。「日本は水に流す文化」とはいえ、琉球時代
の歴史、第2国民時代の差別問題、沖縄戦、アメリカ統治から本土復帰、教科書問題、基地問題などで沖縄県が話題に
ならない日は無い。TVでは見るけど「何で?」と沖縄県の怒りが理解不能な日本人も多いと思う。
私もその一人だった。だからこそちゃんと学ぶ必要がある。偏った見方では無く、事実として。
そんな思いで今回は、みっちり丸2日間、ガイド付で沖縄戦跡を見学した。

▼現在はウミカジテラスで有名な瀬長島を見ながら那覇国際空港に着陸する。
DSCN3941_convert_20160819132624.jpg
▼那覇国際空港は旧日本海軍小禄(おろく)飛行場だった、米軍の沖縄本島上陸が差し迫った昭和20年3月24日、25日
神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」が小祿基地から艦上爆撃機「彗星」で出撃している。(沖縄周辺米機動部隊に特攻攻撃)
DSCN5089_convert_20160819133322.jpg
那覇国際空港からはゆいレールというモノレールが那覇市内を走っており、2019年春には首里まで繋がるとの事。
▼ゆいレール赤嶺駅
DSCN3976_convert_20160819140030.jpg
赤嶺駅から徒歩5分、航空自衛隊那覇基地がある。一帯は小禄海軍基地だったとの事。戦後米軍基地が拡張整備され、
返還後は航空自衛隊がそのまま使用している。
▼航空自衛隊那覇基地
DSCN3973_convert_20160819140943.jpg
▼ゆいレール車窓から航空自衛隊那覇基地を見下ろす事が出来る。
DSCN3968_convert_20160819142158.jpg

DSCN3970_convert_20160819142334.jpg
▼航空自衛隊那覇基地内に旧日本海軍の砲台が1基現存している(沖縄戦では米巡洋艦を1隻撃破したと言う)
nahakiti_convert_20160819141315.jpg
沖縄戦当時、大田実中将率いる小禄地区旧海軍部隊は、昭和20年5月中旬「勝田大隊」「丸山大隊」「山口大隊」迫撃
砲隊などが陸軍部隊指揮下に入り、総計2500名、軽兵器の約3分の1、迫撃砲の大部分が海軍小禄地区から抽出され、
兵員は約8300名となっていた。小禄海軍部隊は米軍上陸時に小禄半島で奮戦。
陸軍第32軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日頃に初めて知らさ
れたとされる。沖縄戦の時期になっても日本陸軍と日本海軍の歯車はかみ合わないままだった・・・。
いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」
との命令を勘違いしたことが解り、5月28日には再び小禄海軍司令部壕へ引き返した。
6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田実中将は従わなかった。
大田実中将以下海軍将兵は小禄飛行場を南東から見下ろす小禄司令部壕付近に孤立する状況となった。
6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。
大田司令官は6日夕刻「辞世の句」と共に訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電
報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中、司令部壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵に
よる突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
11日午前7時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として、海軍根拠地隊が玉砕
したとの電報が発せられている。
昭和20年6月13日午前1時、大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。
昭和28年3月太平洋戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まって
いる有様であった。壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された。
昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立された。
昭和45年3月1日壕内の内の長さ300mの区域が復元され、旧海軍司令部壕として一般に公開された。
昭和47年には周辺の6.5haが海軍壕公園として整備されている。

▼現在はリゾート地になりつつある瀬長島のウミカジテラス。ここは戦時中は砲台がいくつも設置され、一般人は立ち
 入る事は出来なかった島だ。沖縄戦で跡形も無く撃破され、現在は沖縄戦の遺構は全く無かった。
DSCN4001_convert_20160819141937.jpg
▼瀬長島高台にある琉球温泉瀬長島ホテルから那覇国際空港と航空自衛隊那覇基地を望む。
 那覇国際空港の滑走路は軍民共同使用されている様で、自衛隊機が何度も離陸、着陸していた。
DSCN4034_convert_20160819143804.jpg
▼瀬長島からは那覇国際空港に着陸する飛行機がほぼ5分おきに間近に見る事が出来る。
DSCN4021_convert_20160819143428.jpg

昭和19年3月沖縄に航空作戦遂行の拠点を確保する為、日本陸軍第32軍が新設された。
この頃は、要塞部隊や飛行場設営部隊などの工兵隊が主力だった様だ。

昭和19年7月サイパン島が陥落すると、長勇参謀長の要望により大本営は精鋭とされる第9師団(武部隊13800名)
を沖縄に派遣。第32軍戦闘序列に編入され、精鋭師団として防衛の中核を期待されていた。
第32軍は八原博通大佐(高級参謀)立案の元、第9師団を中心に沖縄防衛計画を固め、日本本土へ進軍する米軍を
水際で撃滅する「決戦軍」と位置付け米軍撃滅の自信を深めていた。

昭和19年7月19日サイパンの次は沖縄だ。と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供
・女性を島外へ疎開させる指示を出し、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令、学校単位で疎開事務を進める。

昭和19年8月19日609船団の「対馬丸」が第62師団本郷義夫中将以下2409名や馬匹40頭を搭載し、那覇港に到着。
同船団の陸軍輸送船和浦丸/暁空丸 なども8/19那覇港に到着、第62師団「石部隊」8315名他が直ちに中城湾(東)と
北谷海岸(西)を結ぶラインの南側の防衛線等の陣地構築を開始する。

昭和19年8月21日陸軍部隊と入れ替わりで「対馬丸」で疎開する子供達は「ヤマト(本土)へ行けば汽車にも乗れる、
雪も桜も見る事ができる」と修学旅行気分ではしゃいでいたと言う。
8/21夕方、「対馬丸」は疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じ様に疎開者を乗せ
た和浦丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指して出航した。

昭和19年8月22日夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を
受け「対馬丸」は沈没。犠牲者数1,476名を出した。「対馬丸記念館」沖縄県那覇市若狭1-25-37
tushimamaru_20160823093614.jpg
▲学童疎開船に使用された「対馬丸」(日本郵船株式会社)
昭和19年10月10日那覇を中心に沖縄全土の主要施設を米軍機約1300機が空爆(十十空襲)那覇の街は壊滅。
nahakusyu.jpg
▲空襲を受け炎上する那覇市
okinawaNaha2.jpg
▼▲壊滅した那覇市街地
okinawaNaha1.jpg

1010kusyu1_convert_20160819151813.jpg
▲壊滅した那覇市街地(画像上部が那覇港)
1010okinawa_convert_20160819154806.gif
▲焦土と化した那覇市街上空を飛行する米軍OY-1観測連絡機(昭和20年5月撮影)

昭和19年11月大本営は、連合国軍が沖縄では無く台湾へ上陸する可能性が高いと判断。
11月4日第32軍の一兵団をフィリピンへ転用の為、第10方面軍第32軍が台北で会議を開いたが、台北会議は要領の
得ないまま散会となった。しかし11月17日第9師団に台湾へ転出命令が下され、12月末に台湾に移動させてしまう。
連合国軍は台湾を通り越して直接沖縄本島に上陸した為、第9師団は戦うことなく台湾で終戦を迎えた。後に大本営
作戦課長であった服部卓四郎元大佐が第9師団抽出を「魔がさしたとしか思えない。一世一代の不覚であった。」と、
述懐している。この為第32軍の戦力は落ち、アメリカ軍と正面から戦う事を諦め、本土決戦までの時間稼ぎを前提と
した持久戦に徹する事になる。

昭和20年3月23日沖縄本島は、延べ360機の米艦載機により繰り返し激しい空襲を受ける。本格的な米軍沖縄侵攻の
始まりである。24日米艦隊が沖縄本島南東部沖合に姿を現し、島尻南部に700発を超える艦砲射撃を加え、720機の
米軍機が空爆を開始した。日本軍守備隊は本島南の港川方面の上陸戦に備えた。
昭和20年3月24日神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」が06:00海軍小祿(おろく)基地より「彗星」で出撃。
[操縦]前橋典美2飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]米森義治上飛曹(鹿児島県出身) 
昭和20年3月25日神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」が05:00海軍小祿(おろく)基地より「彗星」で出撃。
[操縦]石渕利也少尉(三重県出身)/[偵察]石川貫二中尉(長崎県出身)
昭和20年3月25日アメリカ軍が島尻南東部と慶良間諸島を砲撃。那覇~糸満の海域の制海権を奪取。
昭和20年3月26日アメリカ軍が慶良間諸島(座間味島、阿嘉島、慶留間島)に上陸を開始。
keramajyouriku.jpg
昭和19年9月海の特攻隊「陸軍海上挺進戦隊」が座間味島、阿嘉島、慶留間島、渡嘉敷島に配備された。
「マルレ」と呼ばれるベニヤの特攻艇に爆雷を積み、沖縄本島に上陸する米軍を背後から奇襲するという作戦だ。
特攻艇の秘匿壕を掘る作業には住民も駆り出された。「軍事機密」を共有する状況になった住民達を、日本軍は厳しく
監視。「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の論理を住民にも強いて「捕虜になったら男性は八つ裂きにさ
れ、女性は強姦される」などと鬼畜米英の恐怖を植え付けた。
結果、慶良間諸島では約600人の住民が「集団自決」し、非業の最期を遂げた。
keramajiketsu_convert_20160824114317.jpg
▲3/26米軍が上陸を開始した慶良間列島において集団自決した住民。
昭和20年3月26日結局、米軍は沖縄本島に先駆けて慶良間諸島を攻略。翌27日には渡嘉敷島に上陸した。
一方の日本軍は、ほとんどのマルレ特攻艇を自ら破壊、陸上戦に転じていった。
keramajyumin_convert_20160822103845.jpg
▲昭和20年3月27日避難先から部落に戻り保護された(慶良間諸島)座間味島の住民。
昭和20年3月27日陸軍特別攻撃隊(誠第32飛行隊)「武剋隊」が陸軍中飛行場より99式襲撃機で出撃。
昭和20年3月29日陸軍特別攻撃隊(誠第41飛行隊)が陸軍中飛行場より97式戦闘機で出撃。
(離陸時、米艦隊艦砲射撃と空襲を受け5機が離陸不能となり、辛うじて4機が離陸に成功、目の前の米艦隊に突入)
昭和20年3月31日夜、米艦隊は島尻東部沖合に終結、沖縄本島上陸の準備に入る。ところが・・・。
昭和20年4月1日4:00史上最大級1300隻もの米大艦隊が一斉に北谷・嘉手納・読谷海岸に殺到。
昭和20年4月1日神風特別攻撃隊「第1大義隊」が石垣島基地より零戦で出撃(宮古島南方機動部隊攻撃)
昭和20年4月1日5:30米艦隊の容赦無い10万発にも及ぶ艦砲射撃が始まった・・・。
hontokanpousyageki_convert_20160819160314.jpg
沿岸部の構造物を全て吹き飛ばした後、8:00~9:00頃までに16000名、夕刻までに60000名の米軍上陸部隊が北谷
から読谷にかけて上陸。南方諸島で日本軍と戦ってきた海兵隊員は恐怖で誰もが神経質になっていたと言う。
Okinawashores.jpg
▲上陸用舟艇で沖縄本島を目指す米海兵隊。
しかし日本軍守備隊からの砲撃らしい砲撃は無く、上陸作戦は演習さながらの平穏な上陸ぶりであった様だ。
その頃、日本軍守備隊は首里司令部を防衛する為の各防衛線の陣地豪に潜み、米軍を迎え撃つ態勢を整えていた。
DSCN4089_convert_20160819180049.jpg
▲米軍が上陸した読谷村渡具知ビーチ(泊城公園内)
okinawasakusen_convert_20160822142256.jpg

beigunjyourikuhi_convert_20160819180910.jpg
▼▲泊城公園の小高い場所に米軍上陸の碑がある。
DSCN4096_convert_20160819182208.jpg

okinawahontojyouriku_convert_20160819190749.jpg

DSCN4095_convert_20160819182500.jpg

DSCN4093_convert_20160819180521.jpg

USMCokinawa.jpg

DSCN4097_convert_20160819181702.jpg

DSCN4098_convert_20160819181722.jpg
▲米軍上陸の碑から比謝川河口を見下ろす。
yomitanjyouriku.jpg
▲読谷村渡具知、比謝河口付近で資材を揚陸する米軍(1945年4月撮影)
DSCN4121_convert_20160820170308.jpg
▲上記古写真とほぼ同じ位置を撮影。
DSCN4103_convert_20160820165931.jpg
▼泊城公園直ぐ(位置的には「米軍上陸の碑」の下)比謝河口付近にマルレ(陸軍特攻ボート)の格納豪が残されている。
DSCN4119_convert_20160820170539.jpg
この場所は私有地なので所有者に許可を得て見学させて頂く必要がある。
DSCN4116_convert_20160820170738.jpg
地元住民も切削作業に従事し、いよいよ米軍が迫ってくると、特攻基地を知る住民は一ヶ所に集められ、軍秘密保持の
為に自決を強要されたケースも多かったと言う。
DSCN4111_convert_20160820171104.jpg
「特攻艇秘匿壕跡」はここ以外にも複数遺されているとの事。陸軍特攻艇(四式肉薄攻撃艇/通称マルレ)は装甲のない
ベニヤ製の船体にトラック用のエンジンを搭載したモーターボートで、250kg爆雷を搭載していた。
夜間に数十隻で体当たり攻撃を行う戦術。正式な戦果は確認されていないが、ガイドさんの話では米軍輸送艇を1隻撃
破したとの話が残っているそうだ。
DSCN4110_convert_20160820171201.jpg
飛行場が特攻機の基地となった様に海岸は特攻艇の基地となった。マルレは長さ5.6m、重さ1トン。マルレ海上特攻艇
は沖縄の各地に配備され、読谷、北谷は第29戦隊が山本大尉を長として置かれた。
昭和19年末から陸軍特攻隊海上艇進隊がやってきたが、輸送船団は途中の海上で空襲を受け、現地に到着したのは
第1中隊の特攻艇わずか20隻にすぎなかった。
DSCN4114_convert_20160820171302.jpg
昭和20年3月29日特攻艇17隻が慶良間に集結した米艦隊めざして出撃したが、米軍側記録で戦果は確認されていない
昭和20年4月4日米軍上陸用舟艇LCI(G)-82を撃沈/LSM-12を沖縄沖で撃沈。
米軍LSM-12は戦車 3~5台あるいは水陸両用上陸用舟艇 LVT 6台又は水陸両用トラック DUKW9台を搭載した輸送艇
であった。ガイドさんがおっしゃっていたのはこの事かもしれない。
marurerikuguntokkotei.jpg
▲陸軍四式肉薄攻撃艇(通称マルレ) ※海軍は「震洋」で船先端に爆弾を積み、陸軍マルレとは設計が異なる。

昭和20年4月1日米軍は上陸したその日にチビチリガマの洞窟を発見、投降を呼びかけた。
昭和20年4月2日鬼畜米英と教えられた住民は、アメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れ、「民間人は殺さない」という米兵
の言葉を信じられない男女3人の住民が、壕の中から竹槍持って出て行き、米軍に反撃。米軍は応戦、銃撃で男2名が死
亡。これを見た避難民は動揺し、波平地区の指導者の「自決せよ」の言葉に、鎌や包丁、看護婦が持っていた毒薬など
で、家族が殺し合うという惨劇が繰り広げられた。住民避難者約140人中、83人が非業の最期を遂げた。
DSCN4134_convert_20160821183736.jpg
▲県道6号線から少し入った場所にチビチリガマへの入口階段が設置されている(読谷村波平1136-2)
DSCN4130_convert_20160821183758.jpg
▲階段を下り終えると大きなチビチリガマの入口と慰霊碑がある。
DSCN4123_convert_20160821183841.jpg
▲ガマの中は亡くなった方の墓として、これ以上の立ち入りは現在禁止されている。
DSCN4125_convert_20160821183901.jpg
▲亡くなった方のお名前が記された石碑。亡くなった方の6割が18歳以下の子供。中には4ヶ月の赤ん坊もいた。

▼チビチリガマから1㌔も離れていない場所にシムクガマの洞窟がある。サトウキビ畑から入って行く。
DSCN4155_convert_20160821192203.jpg
▼細い1本道を森の中へ入って行くと、放置され、野生化したサトウキビが左右に迫る。
DSCN4148_convert_20160821192405.jpg
収穫されたサトウキビは国が買い上げるシステムらしいが、重労働の為、若い人は敬遠し、こうやってサトウキビ畑が
野生化していく場所も多いと言う。
DSCN4146_convert_20160821192933.jpg
▲サトウキビ畑を抜けると、いよいよ山道に入ってくる。
DSCN4143_convert_20160821192950.jpg

DSCN4142_convert_20160821193006.jpg
▼波平又川原(マタガーバル)のシムクガマが見えた、大きい。
DSCN4139_convert_20160821193244.jpg
このガマには住民約1000人が避難した。住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人も居
たと言う。まさに運命の分かれ道。昭和20年4月1日シムクガマでもチビチリガマ同様、米軍が投降を呼びかけた。
壕の中はパニックになったが、避難していた住民の中に、ハワイで出稼ぎ経験のある2人の老人、比嘉平治氏(72歳)と
比嘉平三氏(63歳)が「アメリカ人は民間人を殺すはずが無い、米軍は国際法に従って行動しているから大丈夫助かる」
と訴え人々を説き伏せる事に成功。そして英語も話せた2人が米兵と会話し、1人の犠牲者も無く全員が保護された。
チビチリガマとシムクガマの対照的な結末は、外国を知らない無知さと、当時の日本の教育とが複雑に混じり合って起
きた結末だった。現在の日本でも十分考えられる事だ、「外国から日本を見る」という事の重要性を思い知らされた。
しかし、米軍に保護された住民が収容所や米軍の占領地域で暴行や強盗行為が無かった訳では無い。
沖縄戦の最中、戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったと言う。
中には夫の目の前で犯された女性もいたともいわれている。米軍兵士により強姦された女性数は推定10000人・・・。
現在も続く沖縄県民に対する沖縄駐留米兵が起こす様々な事件は、沖縄戦からずっと続いている・・・。
DSCN4141_convert_20160821195257.jpg
▼昭和20年4月1日読谷村の海岸に上陸する米軍。
 米軍の猛攻撃で護岸は破壊され、日本軍は丘陵地帯へ逃げ、米軍は大した被害も死傷者も出さずに浜に上陸した。
yomitakinbu.jpg

okinawajyouriku.jpg

OkinawaAp45_convert_20160822145531.jpg

Okinawa1945_convert_20160823095144.jpg
日本側の死者・行方不明者188136人(沖縄県外出身の正規兵65908人)沖縄出身者122228人(内94,000人が民間人)。
アメリカ軍側の死者・行方不明者14006人、イギリス軍の死者82人を出した壮絶な沖縄地上戦が始まった・・・。
yontankitanaka.jpg
▲米軍進行図(赤印は陸軍北飛行場/青印は陸軍中飛行場)
DSCN4160_convert_20160823211547.jpg
▲▼陸軍北飛行場滑走路跡(米軍に占領され、読谷補助飛行場となり舗装がやり直されているが当時と同じ位置だ)
DSCN4181_convert_20160823194456.jpg
▲平成18年12月全面返還され、今後の読谷村の活用が期待されている北飛行場(読谷補助飛行場)跡。
約660人の住民の土地を軍が接収、昭和18年から始まった建設工事には住民も動員し完成。1500m級の滑走路を3本
備え、県内最大の飛行場だった日本陸軍の北飛行場跡だ。
昭和19年秋から運用が始まったが、昭和20年4月1日の米軍本島上陸で真っ先に占領されてしまう・・・。
rikugunkitahikoujyo_convert_20160823200839.jpg
▲昭和20年1月3日に米軍に撮影された北飛行場。
昭和20年4月1日米軍約6万人が上陸、即日進撃し、10キロ先の北飛行場と中飛行場を占拠。 日本軍は沖縄守備兵力
10万人では太刀打ち出来ないと判断。沖縄島内で持久戦に持ち込もうと残存機を爆破処分、飛行場を放棄した。
yomitankita98hoti.jpg
▲北飛行場に放棄された陸軍98式直協偵察機。
DSCN4162_convert_20160823210640.jpg
▲自ら爆破処分した日本軍機(北飛行場)
kadena.jpg
▲陸軍北飛行場
yomitan7_convert_20160824142143.jpg
▲米軍に占領された陸軍北飛行場
NAKAHIKOJYO_convert_20160823232842.gif
▲陸軍中飛行場(現 米軍嘉手納飛行場)
4/13日本軍機の偵察結果で、奪われた北・中飛行場に既に150機の米軍機が配備されているのが確認された。
この間、陸・海軍共に多くの艦船攻撃機や特攻機を出撃させたが、特攻機の命中率は極めて低かった。
これは敵レーダーに捕捉され、北・中飛行場に配備された米軍機に邀撃されているのが原因と推察された。
そこで台頭したのが両飛行場制圧の為に陸軍「義烈空挺隊」の投入であった。
[義烈空挺隊]とは沖縄戦期間中の昭和20年5月24日北・中飛行場の強行着陸と破壊を目標とした[義号作戦]に用いら
空挺部隊である。昭和19年サイパン陥落後、米軍はサイパンにB29の基地を設けて東京を空襲した。
この米軍基地に対し、強行着陸して飛行機を破壊し、搭乗員等を殺傷する目的で昭和19年12月上旬第1挺進団(パラシ
ュート部隊)第4中隊の選抜要員+陸軍中野学校諜報要員+第3独立飛行隊から編成された部隊の名称である。
[陸軍特別攻撃隊参照]
しかしサイパン突入作戦は中止、次いで硫黄島作戦も中止となった。そして5/24沖縄攻撃作戦(義号作戦)において、
大本営が作戦に消極的な中、北(読谷)飛行場・中(嘉手納)飛行場への強行着陸(特攻)に投入された。
DSCN4175_convert_20160823220719.jpg
▲陸軍北飛行場跡(読谷補助飛行場跡)には掩体豪が残され、義烈空挺隊玉砕の碑が立てられている。
yomitangiretsu546_convert_20160824130004.jpg
▲昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」を乗せた陸軍97式重爆撃機12機が熊本県健軍飛行場から出撃。
 エンジントラブルや航路ミスで4機が帰還。8機が沖縄に向かうも7機は米軍の対空砲火で撃墜されてしまう。
 たった1機が北飛行場滑走路を北東から南西に滑走して胴体着陸に成功。少なくとも8名の隊員が飛び出した。
yomitangiretsu6_convert_20160824132151.jpg
▲▼飛び出した義烈空挺隊員に爆破された米軍輸送機や戦闘機。
yomitan24MayOkinawa_convert_20160824132600.jpg

Giretsuokinawa_convert_20160824112016.jpg
▲▼強行着陸に成功した唯一の1機(546)から飛び出した義烈空挺隊員は決死で米軍機を次々に爆破し、散華。
(6546)9番機搭乗員 [第3小隊長]渡部大尉/[操縦担当]久野中尉、荒谷少尉/[航法,通信担当]酒井少尉、簑島曹長
[第3小隊第1分隊長]山城准尉/池島曹長/井上曹長/山本曹長/佐藤軍曹/岡本伍長/加藤伍長/田中伍長/村瀬伍長
USAOkinawayomitan.jpg
▲北飛行場に無残な姿で散らばる義烈空挺隊員を眺める米兵達。
陸軍沖縄第32軍[高級参謀]八原博通大佐が、北飛行場に突入した「義烈空挺隊」に関して以下の話を残している。
[ 沖縄第32軍八原高級参謀の記録より ]
特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍の
戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ。五月二十四日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、
軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は(北・中)両飛行場ではなく、
小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遙か北、中飛行場の方向にあたって、火の手の揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して感動を久しくした。
連夜に亘る特攻隊の突入、「ドロドロ」の轟音、そして空挺隊の降下は軍司令部将兵はもちろん正面二十キロの戦夜で
死闘中の兵士一人一人に、戦うのは我々のみではないとの感懐を深く心に抱かしめたのである」 と・・・。

ここで、沖縄を守備した陸軍第32軍の司令官、主な参謀を紹介する。
沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は116400人で陸軍が84600人海軍が10000人弱の他、「防衛隊」
と俗称される現地編成の補助兵力20000人強である。現地入営したばかりの初年兵や防衛召集された兵が35000人を
占め、当時の第32軍の評価で真の陸戦兵力といえるのは約4万人に過ぎなかった。
旧制中学校の生徒から成る「鉄血勤皇隊」、女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊なども組織された
この日本側のトップ3が、[第32軍司令官]牛島満中将/[参謀長]長 勇中将/[高級参謀]八原博通大佐 である。
牛島満中将は優しい性格だった様で、作戦等はほとんど長 勇中将と八原博通大佐が立案、牛島中将は「2人がよく考え
た上での作戦だろう」と、黙って判を押して決済していたと言う。
牛島中将は、住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、沖縄着任後直ぐ島田叡県知事と協議している。
当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。
牛島中将は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたと言う。
また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。
牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体の「玉砕」を防ごうとしたが、「やんばる」と呼ばれる山岳地
帯に食糧の備蓄は無く、「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死、そしてマラリアであった。
八原博通大佐も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島中将の北部疎開計画を支持していた。
牛島中将自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島中将は暇がある度に作業現場を視察し、中学生や
住民にまじって壕掘りの手伝いをした。
県民の献身に感動した牛島中将は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示したと言う。
usijimasireikan_convert_20160824170122.jpgyaharataisa_convert_20160824170407.jpgtyouisamu_convert_20160824171415.jpg
▲牛島満中将(鹿児島県出身)享年57歳  ▲八原博通大佐(鳥取県出身)享年78歳  ▲長 勇中将(福岡県出身)享年50歳


続く
にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
スポンサーサイト
 2016_08_15


ずっと行きたかった場所、愛媛県西条市にある楢本神社。
DSCN3869_convert_20160813163657.jpg

DSCN3849_convert_20160813165736.jpg
ここには神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長 関行男大尉の墓碑があります。
DSCN3866_convert_20160813163857.jpg
「敷島隊」が突入した当時の新聞は朝刊1面で「身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じた。
関大尉は命令を受けた際「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したとされるが、 報道班員だった小野田政特
派員は、出撃を控えた関大尉とのやり取りを回想録「神風特攻隊出撃の日」の中でこう記す。
関は腹立たしげにこういった。『日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』
『ぼくは最愛のKAのために行くんだ。 命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。
最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!』と。
関大尉は戦時中当時(昭和19年)新婚5カ月。KAは海軍用語で妻を指しその言葉からは苦渋に満ちた決断が伝わる。
特攻隊員が愛する者を守り、国の行く末を案じる気持ちが行動の芯であったのはまぎれもない事実だが、
美辞麗句で片付ける前に、生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。
ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、遺族を取り巻く環境も一変した。

関大尉の母サカエさんも敗戦後「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。
関大尉の奥様は再婚。母サカエさんの関家は訪れる人もなく、日々の生活にも事欠く様になり、衣類を闇米に代え、
草餅を作って売り歩いた。晩年は西条市の小学校に住み込みで働き、昭和28年11月還暦を前に亡くなり関家は断絶。
意識が混濁する床で、「行男の墓を建ててください」 とつぶやいて息を引きとったという。
昭和56年、ようやく神風特攻隊「敷島隊」関行男大尉(死後中佐)の慰霊碑を建立。
DSCN3863_convert_20160813165149.jpg
戦後日本の世相は、国の為に散華した軍神に対して冷たいもので、永らく墓すら作らせなかったのである。
昭和54年「大東亜戦争・特攻記念館」が出来、しばらくは開館していた様だが、今回の訪問時、近くに住む友人に、
何とか見学出来ないものか?と頼み、管轄の市役所に問い合わせてもらったが、返答は「訪れる人が無く、長らく閉館
しているので、開けるのは難しい」との事で見学する事は叶わなかった。
DSCN3853_convert_20160813165332.jpg
何と冷たい国だろう・・・楢本神社の宮司さんのご尊父は、かつて海軍兵学校で教官をされていたとの事で、五軍神の
遺品の収集や、慰霊祭で海上自衛隊の協賛をなさっているそうだ。折角に遅ればせながらも墓碑と特攻記念館が出来た
のに訪れる人がいないから閉館とは・・・・。国の為に命を捧げた英霊に感謝する気持ちを日本人は忘れてしまったの
だろうか・・・。日本は必ず良い方向にはいかない。そして日本人はいつまでたっても外圧が無ければ何も変わらない。
左翼も右翼も無い。最前線で戦ってくれた英霊は只々日本の為に戦ってくれた、悪い事など何もしていない。
日本の為に戦ってくれた英霊に対して感謝する気持ちは絶対忘れてはいけない。
DSCN3851_convert_20160813165853.jpg
▼関大尉の墓碑を囲う様に置かれた250㌔爆弾型の石碑には「敷島隊」隊員の名が記されている。
DSCN3855_convert_20160813170545.jpg


にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_08_12


明治時代、対露戦国土防衛として。そして舞鶴軍港を守る沿岸砲台として建設された舞鶴要塞の一角、
金岬砲台跡/槙山砲台跡に行ってきました。

「槙山砲台」着工1898年(明治31年11月)→竣工1901年(明治33年10月)昭和20年終戦まで稼働。
道の駅 舞鶴港とれとれセンターの交差点を北へ。舞鶴湾沿いに車で約20分。槙山公園の看板を目印に山側へ細い
道を登って行くと槙山砲台跡にたどり着きます。車で行ける比較的楽な場所ですが、道が細い為、対向車に注意が必
要です。(今回1台だけ対向車に出会いました)
DSCN3664_convert_20160722225008.jpg
▼道中はこの様な時代を感じる小橋がいくつもあります。砲台建設当時に整備された軍道と思われます
DSCN3665_convert_20160722225031.jpg
どのくらい登ったでしょうか、距離はあまり無い様に思いますが道が細いと遠く感じますが無事頂上付近に
到着すると、NHK中継アンテナと槙山砲台跡が見えます。駐車スペースがあるのでここに駐車しました。
DSCN3683_convert_20160722235340.jpg
この砲台は28センチ榴弾砲が6門、15センチ臼砲が4門設置されていたそうだ。砲座跡は草木が多く、侵入しても良い
写真が撮れそうにもなかったので近づかず、掩蔽部を見学してまわりました。
DSCN3669_convert_20160722231307.jpg
▲▼1つ目の掩蔽部右手階段を上って奥に行くと舞鶴湾入口の素晴らしい景色が広がります。
DSCN3675_convert_20160722231531.jpg
▲パラグライダー滑空地点より撮影、パラグライダーは経験あるのでここでも飛んでみたい!
不謹慎にも「桜花」発射レールを思い出していました。ここが太平洋側だったら間違いなく設置されていたでしょう。
当日は曇っていましたので良い絵になりませんでしたが、雨の予報を覆しての曇りだったので感謝です。
DSCN3674_convert_20160722232405.jpg
▼明治時代に築かれた掩蔽部は何処も同じ様な作りですが、その場所によって地形に合わせた建設で感動します
DSCN3682_convert_20160722233234.jpg

DSCN3697_convert_20160722233722.jpg

DSCN3694_convert_20160722233030.jpg

DSCN3690_convert_20160722234025.jpg

DSCN3691_convert_20160722234142.jpg

DSCN3689_convert_20160722234328.jpg
▼▲3連掩蔽部はいいですね~。
DSCN3687_convert_20160722234646.jpg
▼3連掩蔽部が見学最終場所で、その脇道から奥へ少し行けます。ここも景色が良いです。
DSCN3684_convert_20160722234759.jpg

「槙山砲台跡」見学後、次は「金岬砲台跡」に向かいます。
▼元来た道を下っていくと、キツいヘアピンカーブがあります。ここで車を止めて歩きます。
カーブミラーが設置されていて駐車スペースがあるのはここだけなので解り易いと思います。
DSCN3703_convert_20160723205835.jpgDSCN3706_convert_20160723205908.jpg
▼大き目の木が倒れている場所から入って行きます。
DSCN3705_convert_20160723210217.jpg
途中極端に狭くなっている場所や、倒木を乗り越えたりして少々厳しい行軍ではありますがなんとかなります。
DSCN3709_convert_20160723210606.jpg
▲以前にトレッキングに来られた方がご親切にロープを設置してくれてます、有り難いです。
DSCN3710_convert_20160723210855.jpg
▲20分程歩いたでしょうか、当時の営門が姿をあらわします、暑さで疲れましたが感激です。
DSCN3715_convert_20160723211208.jpg
▲井戸か?兵舎の基礎か?色々遺構を見た先には掩蔽部が出迎えてくれます。
DSCN3717_convert_20160723211514.jpg
▲金岬砲台の砲座跡は比較的見易いです。落書きなども無く非常に状態は良い100年以上前の遺構!
DSCN3722_convert_20160723211757.jpg
▲ここは5連掩蔽部があった・・・。素晴らしい!中は全て繋がってます(当然空っぽですが)
DSCN3725_convert_20160723212251.jpg
▲5連掩蔽部の前には何やら建物跡の遺構。
DSCN3726_convert_20160723212449.jpg
▲更に登っていくと・・・、またあった!2連掩蔽部
DSCN3728_convert_20160723212737.jpg
ここまで資材を運んでくるのは軍道が整備されていたとはいえ大変だっただろう・・・。
DSCN3730_convert_20160723213022.jpg
▲▼2連掩蔽部の上には見張り場所?
DSCN3733_convert_20160723213224.jpg
▲本当に綺麗に作られている。100年以上前の遺構とは思えない程
DSCN3736_convert_20160723215851.jpg
▲枯れ葉で埋もれかけの砲座跡。「槙山砲台」と同じく着工1898年(明治31年)→竣工1901年(明治33年)
 舞鶴要塞の中でここ、金岬砲台のみが昭和9年に廃止された様です。
DSCN3741_convert_20160723221953.jpg
舞鶴湾入口の防衛として21センチ砲4門、15センチ砲4門が設置された金岬砲台。短い期間と言っても、明治33年~
昭和9年・・・1901年~1934年の33年間、明治/大正/昭和と、激動の日本史を見てきた砲台なんですね。
金岬砲台廃止2年後に日中戦争が始まり太平洋(大東亜戦争)へ・・・、航空機の時代になっていったという事ですね。
DSCN3738_convert_20160723223412.jpg
▲砲座はしっかり4門残っていました。砲が無い以外は全て当時の面影を残しています。
DSCN6243.jpg
▲画像は(芸予要塞)愛媛県今治の市小島で撮影した物。「坂の上の雲」のロケで使用されたレプリカ。
 芸予要塞は24センチ砲で、舞鶴要塞より強力ですが、似た様な砲が設置されていたのでしょう。
DSCN3748_convert_20160723224555.jpg
▲砲座跡の下にはしっかり掩蔽部
DSCN3749_convert_20160723224804.jpg
半地下にレイアウトされた掩蔽部は何処の要塞跡を見てもいいですね~。
DSCN3744_convert_20160723225246.jpg
▼オタマジャクシが沢山泳いでました。
DSCN3753_convert_20160723225913.jpg

DSCN3742_convert_20160723225433.jpg
もっともっと時が経てば自然に埋もれてしまうだろう・・・。年に1度ぐらいは大掃除してあげたいと思う遺構でした。

今回舞鶴訪問は前日7/16入で舞鶴地方隊サマーフェスタ2016も見学しました。その時の画像も少し紹介して終りです
DSCN3477_convert_20160723231032.jpg

DSCN3490_convert_20160723231213.jpg

DSCN3541_convert_20160723231344.jpg

DSCN3586_convert_20160723231525.jpg
▼海上自衛隊 第23航空隊
DSCN3601_convert_20160723231956.jpg

DSCN3608_convert_20160723232113.jpg

DSCN3606_convert_20160723232458.jpg
▼海上自衛隊舞鶴地方隊に現存する「大講堂」昭和8年10月完成(現在は海軍記念館として見学可能)
DSCN3640_convert_20160723232244.jpg
軍が国民を威圧し、支配するのはいけませんが、敗戦国と言えど国防は必要(常識)でしょ!?
JAPAN 1945-1990(1)YouTube JAPAN 1945-1990(2)YouTube
JAPAN 1945-1990(3)YouTube JAPAN 1945-1990(4)YouTube


にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_07_17


昭和20年2月19日~3月26日に日米が激突した「硫黄島の戦い」は、映画「硫黄島からの手紙」等で有名だ。
iwo_jima_invasion_convert_20160823102418.jpg

Iwo-Jima-ariel-Feb45_convert_20160823121535.jpg

LandingCraftSuribachi_convert_20160823104350.jpg
▲昭和20年2月19日硫黄島に上陸作戦を開始する米軍。
Shers-Iwo-Jima_convert_20160823121747.jpg
小笠原方面陸海軍最高指揮官「栗林忠道陸軍中将」率いる日本軍の奮闘は周知の通り。
昭和20年2月19日米海兵隊第1波が硫黄島に上陸を開始した。この時、栗林陸軍中将の命令を無視し、応戦砲撃を
行った日本海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し、全滅した。日本海軍の指揮官は「市丸利之助海軍少将」
戦いの最後に市丸利之助少将が残した「ルーズベルトニ与フル書」も忘れてはいけない。
Rinosukeichmaru.jpg
▲市丸利之助海軍少将(いちまるりのすけ満53歳没)

『ルーズベルトニ与フル書』(現代語訳)
日本海軍市丸海軍少将が 「フランクリン ・ルーズベルト」 君に書を宛てる。
私は今、我が戦いを終えるに当たり一言貴方に告げることがある。

日本国が 「ペルリー(ペリー)」提督の下田入港を機とし、広く世界と国交を結ぶようになった時より約百年の間、
国の歩みは困難を極め、自ら欲しないにも関わらず日清戦争、日露戦争、第一次欧州大戦(第一次世界大戦)、満州事
変、支那事変を経て、不幸にも貴国と交戦することになった。
そして貴方は我々を、あるいは好戦的国民であるとし、あるいは黄禍論を用い貶め、あるいは軍閥の独断専行である
とする。

思いよらぬもの甚だしいと言わざるを得ない。貴方は真珠湾攻撃の不意打ちを理由に対日戦争(大東亜戦争) 唯一の
宣伝資料とするが、そもそもにおいて日本国が自滅を免れるためこの行動に出る他ないという程の窮地にまで追い詰
めたような諸種の情勢というのは、貴方の最も熟知するものであると思う。

畏れ多くも日本天皇は皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、養成(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三鋼(
秩序)とする八紘一宇(天下を一つの屋根の下に)の文字によって表される皇謨に基づき、地球上のあらゆる人間は
その分に従い、その郷土においてその生を生まれながらに持たせ、それによって恒久的平和の確立を唯一の念願にな
さったのに他ならない。

これは 「 四方の海皆はらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ 」 (意訳:人は皆家族であるのに、なにゆえ
争わねばならないのか) という明治天皇の御製(天皇の詩)は貴方の叔父セオドア・ルーズベルト閣下が感嘆したも
のであるが故に、貴方もよく熟知しているのは事実であろう。

私たち日本人はそれぞれ階級を持ち、また各種の職業に従事するけれども、結局はその職を通じ皇謨、つまりは天業
(天皇の事業)を翼賛(補佐)しようとするのに他ならない。

我ら軍人は交戦を以て天業を広めることを承るに他ならない。

我らは今、物量に頼った貴方の空軍の爆撃、艦隊の射撃の下、外形的に後ろへ退くもやむなきに至っているが、精神
的にはついに豊かになり、心地ますます明朗になり、歓喜を抑えることができなくもある。

この天業翼賛の信念が燃えるのは日本国民共通の心理であるが、貴方やチャーチル君は理解に苦しむところであろう。

今、ここに貴方達の精神的貧弱さを憐れみ、以下の一言を以て少しでも悔いることがあれば良いと思う。

貴方達のなすことを見れば、白人、とくにアングロサクソン(アメリカとイギリスの主な民族)が世界の利益を独占
しようとして、有色人種をその野望実現のための奴隷として扱おうということに他ならない。

この為に邪な政策をとり有色人種を欺き、所謂悪意の善政を行うことで彼らを喪心無力化しようとしている。

近世に至り日本国が貴方達の野望に抗し有色人種、特に東洋民族を貴方達の束縛より解放しようと試みたところ、貴
方達は少しも日本の真意を理解しようと努めることなく、ただ貴方達に有害な存在となし、かつて友邦とみなしてい
たにも関わらず仇敵野蛮人であるとし、公然として日本人種の絶滅を叫ぶに至った。これは決して神意にかなうもの
ではないだろう。

大東亜戦争によって所謂(いわゆる)大東亜共栄圏が成立し、所在する各民族はわれらの善政を謳歌しているから、
貴方達がこれを破壊することが無ければ、全世界にわたる恒久的平和の招来は決して遠くは無いだろう。
貴方達はすでに成した。十分な繁栄にも満足することはなく数百年来にわたるあなた方の搾取から免れようとするこ
れらの憐れむべき人類の希望の芽をどうして若葉のうちに摘み取ろうとするのか。

ただ東洋のものを東洋に返すに過ぎないではないか。

あなた方はどうしてこのように貪欲で狭量なのか。

大東亜共栄圏の存在は少しも貴方達の存在を脅威するものではない。 むしろ世界平和の一翼として世界人類の安寧
幸福を保障するものであって、日本天皇の真意はまったくこれに他ならない。
このことを理解する雅量(器)があることを希望してやまないものである。

翻って欧州の事情を観察すると、また相互無理解に基づく人類闘争がいかに悲惨であるかを痛感し嘆かざるをえない
今ヒトラー総統の行動の是非を云々するのは慎むが、彼の第二次世界大戦開戦の原因が第一次世界大戦の終結の際、
その開戦責任の一切を敗戦国ドイツに押し付け、その正当な存在を極度に圧迫しようとした貴方達の処置に対する反
発に他ならないということは看過できない。

貴方達の善戦によって力を尽くしてヒトラー総統を倒すことができたとして、どうやってスターリン率いるソヴィエ
ト(※共産主義:著者注)と協調するのか。世界を強者が独専しようとすれば永久に闘争を繰り返し、ついに世界人
類に安寧幸福の日はないだろう。

あなた方は今世界制覇の野望が一応、まさに実現しようとしている。あなた方は得意げに思っているに違いない。
しかし貴方達の先輩ウィルソン大統領はその得意の絶頂において失脚した。

願わくば私の言外の意を汲んでその轍を踏まないで欲しい。

市丸海軍少将 
(『米国大統領への手紙』 平川祐弘 新潮社より引用 )

昭和20年3月26日未明、日本軍硫黄島守備隊は最後の組織的反攻を行い、栗林陸軍中将、市丸海軍少将以下数百名の
残存部隊がアメリカ軍陣地へ総攻撃をかけた。
市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、
これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、日本語/英語各一通を作りアメリカ軍が将校の遺体を検査す
ることを見越してこれを村上治重大尉に渡した。村上大尉は最後の突撃の際にこれを懐中に抱いて出撃し、戦死。
『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。
それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くもので
あった。(ルーズベルトは4月12日に死去した為『ルーズベルトニ与フル書』は本人は目にしていないとみられる)
公式な戦死日は訣別の電報が打電された3月17日とされている。市丸の最期を確認した者はおらず、遺体も発見されて
いない。市丸が所有していた刀を米兵が拾い、ニュージャージー州の骨董店に並べられていたが、市丸の遺品であるこ
とが判明しNHKのテレビ番組を通じ遺族の元へ戻っている。
太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、この手紙をアナポリスの海軍兵学校に提出させ、そこに納めさせた
現在もこの書は、アメリカ海軍兵学校内アナポリス博物館に今でも大切に保管されている。
『ルーズベルトニ与フル書』これを読むといつも考えさせられる・・・。硫黄島「戦場の郵便配達」YouTube

kuribayashi.jpgTakeichi_Nishi_convert_20160603111226.jpg
 ▲栗林忠道陸軍中将(満53歳没)      ▲西竹一陸軍中佐(満42歳没)

[ 西竹一陸軍中佐 ]
硫黄島守備隊として戦車第26連隊の指揮をとった。硫黄島での戦闘で西は戦場に遺棄されたアメリカ軍の兵器を積極的
に鹵獲し、整備・修理した後それらを使用して勇戦したと伝えられている。
戦闘末期の撤退戦の中でもはぐれた兵士を洞窟内に入れることを拒絶する他指揮官が多かった中、西は「一緒に戦おう」
と受け入れたという。
「硫黄島からの手紙」でも描かれた、負傷したアメリカ兵を尋問の後、乏しい医薬品で出来るだけの手当てをした事、
母親からの手紙がその米兵のポケットにあった・・・といったエピソードも証言として大野芳、城山三郎、R.F.ニューカム
などの著作でも触れられている。
昭和20年3月17日に音信を絶ち、3月21日払暁、兵団司令部への移動の為、敵中突破中に掃射を受けその場で戦死した
か、もしくはその後に銀明水及び双子岩付近にて副官と共に拳銃自決したとも、あるいは3月22日火炎放射器で片目を
やられながらも、数人の部下らと共に最期の突撃を行い戦死したともいわれている。
また他の説に、硫黄島戦末期に日本軍に鹵獲され使用されたM4中戦車の話がある。
接近してくる戦車に挨拶した米海兵隊員がいきなり銃撃を受けたり、戦場で合流した戦車から至近距離で砲撃を受け、
戦車が複数台撃破されたりした。後にこのM4中戦車は撃破され、中から日本兵の死体が発見されたが、その中の1人が
西ではないかとも言われている。しかし、西の最期の詳細は不明である。
昭和7年ロサンゼルスオリンピックでは、西はウラヌスを駆って馬術大障害飛越競技にて優勝金メダリストとなる。
これは2015年(平成27年)現在においても日本がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録である。
B24s-over-IwoJima_convert_20160823102730.jpg
▲▼硫黄島上陸作戦前、日本兵が「定期便」と呼んだ空襲が何度も繰り返された。
B24-IwoJima_convert_20160823103034.jpg
しかし、日本兵の命がけとも言える過酷な地下豪構築作業により作られた地下陣地のお陰で被害は最小限だった。
JapaneseIwo-Jima_convert_20160823111316.jpg
▲戦い終結後、投降する日本兵の写真(ご苦労様でした・・としか言いようが無い)
iowjimabeigun_convert_20160707204430.jpg
▲「硫黄島の戦い」が終結し、アメリカ軍に占領された硫黄島に米軍機が並ぶ。奥には摺鉢山が見える。

硫黄島の現在は日本に返還されたものの、一般人は「遺骨収集」以外では立ち入る事が出来ない島だ。
旧日本海軍は硫黄島に、千鳥、元山、北と3つの飛行場を建設した。
「硫黄島の戦い」終結後、米軍が拡張整備した旧元山飛行場は、日本兵の遺体が多数残っているであろう洞窟陣地坑道
のある元山飛行場と、その東側エリアの上にコンクリートを流し拡張整備し、日本本土爆撃の基地として使用した。
現在は自衛隊に引き継がれてそのまま使用されている・・・。
2万を超える日本軍戦死者の内、現在も約12000柱の遺骨が見つかっておらず、その多くは現在の硫黄島飛行場下の坑
道内にあると見られており、防衛省の調査では滑走路下の約1800カ所で遺骨が埋まっている可能性があるとしている。
一日も早く英霊を助け出してあげて、日本人であれば誰でも慰霊に訪れる事が出来る様になって欲しいと強く望む。


にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_06_03

ロタ島

Category: ロタ島  

ロタ島は1521年マゼランの一行より発見され、スペイン統治領土とされた。マリアナ郡島(マリアナ諸島)という呼び
名はスペインの女王マリ・アンにちなむもの。米西戦争で敗れたスペインはグアム島を米国に譲渡。1899年ロタ島、
テニアン島を含む北マリアナ諸島の支配権を450万ドルでドイツに売却した。
その後第1次世界大戦でドイツが敗れ、宣戦していた日本は、ドイツ領南洋諸島全体を占領。
大正3年(1914)北マリアナ諸島をその支配下においた。
大正9年(1920)に国際連盟委任統治領として正式な日本領土となり、敗戦までの約40年間日本が統治した島である。
昭和10年(1935)南洋興発製糖工場が完成したが、生産効率がままならず工場は3年余りで操業停止に追い込まれた。
グアム島北方40kmに位置するロタ島は、昭和19年初頭までは何の軍事施設も無く、サイパンから海軍の見張員6名
が派遣されていただけであった。昭和19年3月マリアナ諸島防備強化の為、陸海軍部隊が進出。
数度に渡る配備変更の後、独立混成第10連隊歩兵第1大隊(大隊長 徳永明大尉)を主力とする陸軍約1031名を教育総
監部派遣教官から今川茂雄少佐が守備隊長として指揮し、海軍第56警備隊派遣隊・341空・265空派遣隊・設営隊等
2005名を、昭和19年6月19日マリアナ沖海戦に参加し、米軍F6F戦闘機に追跡され、ロタ島に不時着した艦上爆撃機
「彗星」の搭乗員 阿部善次大尉が海軍部隊の指揮官となり 同年10月海軍少佐に昇進。在ロタ島海軍部隊指揮官として
ロタ島の守備に就いた。
米軍はサイパン島攻略後、ロタ島を飛び越えてテニアン島・グアム島に上陸した為、ロタ島に米軍が上陸したのは日本
が無条件降伏してからであった。なので、米軍が上陸したマリアナ郡島激戦地の様な地上戦は無かったとはいえ、空爆
や艦砲射撃は熾烈だったと言う。激しい空爆や艦砲射撃の中で陸海軍合わせて236名の日本兵が戦死している。
▼ロタ島空襲を終え、帰還する米戦闘機(奥にロタ島が写っている)
WildcatRotaIslandMarianas24Jun1944_convert_20160516132434.jpg
敵中に孤立したロタ島守備隊は、連日の様に米軍の空襲を受けながらも、自給自足を続けながら必死に日本本土空襲に
向かうB-29爆撃機の機数・方位を無線で日本本土(東京)に警告する役目を担った。
昭和20年(1945)9月2日米軍の駆逐艦が投錨。午前11時ロタ島で現地部隊の降伏調印式と武装解除が行われた。
9月4日海軍将兵1853名/陸軍将兵947名が武装解除の上、ロタ島を離れグアム島米国海兵隊捕虜収容所に軟禁された
後(指揮官や幹部のみか、全員かどうかは不明)昭和21年(1946)11月帰国した。
戦後ロタ島はアメリカの信託統治領を経て、1978年以降アメリカの自治領となり現在に至っている。
地上戦が無かった為、島ごと丸焼けにならなかった事もあり、原生林や自然が多く残り、マリアナ諸島で唯一、飲用に
適した「湧き水」の豊富(石灰粉が少々キツイ)なマリアナ諸島最後の楽園「ロタ島」に行ってきた。

※海軍部隊の指揮官としてロタ島を守備した阿部善次大尉(山口県出身)は帰国後、航空自衛隊1佐として英語教育隊の
 隊長を勤める。戦後ハワイを訪れ、生き残りの米国元軍人らと友好を深めた。
 日本側の宣戦布告が遅れた事を知ったのは戦後数年が経ってからだった様で 「何故最後通告が遅れたのかを第三国
 を通じてでも謝らなかったのかというのが非常に悔しい。軍人として対等に戦いたかった、準備も出来なかった米軍
 兵士は悔しかったに違いない。」と言う言葉を残している。2007年4月6日死去 享年90歳
 戦後「勝ち抜くための条件・艦爆隊長の戦訓新装版」という本も出版されている。是非読んでみたいと思う。
 abeyosirotaii.jpg
※阿部善次大尉か阿部善郎大尉かお名前がどちらなのかご存知の方は御一報下さい(海兵名簿は善次となっております)
 
グアム→サイパン→ロタ島の順でロタ国際空港に到着した。グアム→サイパン55分 サイパン→ロタ島30分
今回の旅はロタ島がメインだった事もあり、まずはロタのホテルにチェックインし、次の日、ローカル便でロタ➡サイ
パン➡テニアンに向かった。スターマリアナズエアーのサイパン➡テニアン便セスナが2011年11月墜落事故を起こし
て以降、サイパン➡ロタ便の日帰りツアーは現在催行されていない。
DSCN3306_convert_20160511233652.jpg
▼現在の空港は日本軍が建設途中だったものを米軍が拡張整備したものだと聞いた。
 戦時中は第341海軍航空隊[紫電]/第263海軍航空隊[ゼロ戦]/第521海軍航空隊[銀河]の配備予定があった
 又は配備されていた?様で基地地上員も含め総員2005名の海軍部隊が駐屯していたと言う(内152名戦死)
DSCN3307_convert_20160511233617.jpg

DSCN3276_convert_20160511234244.jpg

DSCN2214_convert_20160513195051.jpg
▼入国を済ませロタ国際空港を出るといきなり目に飛び込んできたのは日本海軍の兵器と航空機のエンジンだった。
 空港駐車場脇にアツタ二一型エンジン1機がプロペラが付いた状態で、天山の火星二五型1機、零戦の栄二一型3機が
 展示(放置?)されている。以前は零戦の機体部分の残骸も置かれていたと聞いていたが現在は無かった。
 戦後ロタ島を訪れた阿部善朗氏の証言によると、マリアナ沖海戦時の1944年6月19日空母「隼鷹」を発進した艦上
 爆撃機「彗星」(阿部善次大尉/中島米吉少尉)が1時間近くF6Fに追跡され、かろうじてロタ島に不時着した機体の物
 であると言う。(プロペラ付アツタ二一型エンジンの事)
DSCN3242_convert_20160512002224.jpg
ロタリゾートホテル入り口から空港に向かって車で少し走った右手ジャングルにゼロ戦が放置されていると聞いた。
当時海軍が建設していたとされる飛行場(現ロタ国際空港)がどの程度完成していて、飛行場周辺がどの様になっていた
かなど、詳細が全く解らないとの事で、そのゼロ戦が被弾して不時着した物なのか配備されていて空爆にあい使い物に
ならなくなったのか等、詳細は解らない。再訪して是非そのゼロ戦を見たいと考えている。プロペラが無かったと聞い
たので、画像の空港に展示されているどれかかもしれない・・・。どなたか案内して頂ける方、ご一報下さい。
DSCN3263_convert_20160512002259.jpg
昭和19年6月15日ヤップ島を出撃した「第二次機動部隊索敵攻撃隊」261空の銀河10機、ゼロ戦4機の内、ゼロ戦3機
がロタ島に不時着・大破の記録が残っている。(航空戦史 雑想ノート【海軍編】参照)
昭和19年6月17日夕刻テニアン島を出撃した「テニアン沖艦船攻撃隊」ゼロ戦12機の内、2機がロタ島に不時着。
搭乗員は終戦まで残留との記録が残っている。(航空戦史 雑想ノート【海軍編】参照)
DSCN3256_convert_20160512185508.jpg
▲日本軍13mm連装機銃座
DSCN3244_convert_20160512185540.jpg
▲▼海軍艦上爆撃機「彗星」のエンジン(アツタ二一型)阿部善次大尉/中島米吉少尉 搭乗機
DSCN3252_convert_20160512191000.jpg

DSCN3254_convert_20160512190932.jpg
▼海軍艦上攻撃機「天山」のエンジン(火星二五型)
DSCN3245_convert_20160512185620.jpg

DSCN3258_convert_20160512191740.jpg
▼残りは海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のエンジン(栄二一型)
DSCN3250_convert_20160512190717.jpg

DSCN3246_convert_20160512185717.jpg

DSCN3261_convert_20160512191116.jpg

DSCN3247_convert_20160512185742.jpg
▼小さな空港だが、スコップ1つの人力で建設作業をしたという戦時中の日本海軍ロタ飛行場がどんな感じだったのか
 想像もつかない・・・資料も全く無く調べようが無い・・・。展示されているエンジンも説明書看板等は全く無い
DSCN2196_convert_20160512193524.jpg
▼人口3000人程度の小さな島といえどレンタカー無しにはまわれない。
DSCN2774_convert_20160512194404.jpg

DSCN2777_convert_20160512194504.jpg
▼日本統治時代のロタ島(昭和19年6月11日大規模な米軍の空襲により消失)
Rota_Island_in_the_Japanese_Period.jpg
日本統治時代のロタ島はサイパン島、テニアン島に比べ島の開拓が遅れ、昭和9年(1934)当時でも在住する日本人は
わずか1000人余りであった。それでも昭和10年(1935)12月南洋興発株式会社製糖工場が完成。
▼ロタ島南洋興発製糖工場
rotakoujyo.jpg
サトウキビ栽培・砂糖の生産が開始された。サトウキビ栽培は経験のあった沖縄や奄美の方が中心だったが、サイパ
ン島に進出した別の会社が多数倒産し、帰国も出来ずに困って居た人々を南洋興発が救ってロタ島で採用した。
現地(ロタ島)で雇われた日本人の方々は東北方面の方が多かったと言う。しかし砂糖の生産はうまくいかず、製糖工場
は3年余りで操業停止してしまう。ロタ島の土が肥料分を含まない痩せた土だったという事と、病気(ココナッツの木
に湧く害虫?)を起こしてうまく育たなかった様だ。
(サイパン島・テニアン島でも当初はサトウキビの害虫被害が多く、島のココナッツの木を全て伐採したと聞いた)
加えて肥料を調達する為に本土へ行った者が、仕入れ資金と共に行方不明となり、結果サトウキビ栽培を諦め、サイパ
ン島・テニアン島で出る砂糖きびの搾りかすを発酵させて酒を造った。
出来た酒は南米などで言う“ラム酒”だが、それを水で薄めて“南洋誉”と言う名で国内販売をした様だ。
DSCN2094_convert_20160512203204.jpg
▲▼ロタ島南部の西港付近に今も残る南洋興発株式会社製糖工場(南洋誉工場)跡
DSCN2102_convert_20160512203607.jpg

DSCN2104_convert_20160512204701.jpg

DSCN2116_convert_20160513201829.jpg
▲当時の古写真と照らし合わせて見学するも損傷が激しく、原型が想像つかなかった。
DSCN2107_convert_20160512204739.jpg
▲米軍による艦砲射撃による穴が生々しい。
DSCN2108_convert_20160512204818.jpg

DSCN2118_convert_20160513203207.jpg

DSCN2109_convert_20160512204844.jpg

DSCN2119_convert_20160513202515.jpg

DSCN2113_convert_20160512204910.jpg

DSCN2120_convert_20160512220106.jpg

DSCN2112_convert_20160512204951.jpg
▲▼日本統治時代、サトウキビを運んだ汽車が現存している(ドイツ製と聞いた)
DSCN2096_convert_20160512205721.jpg

DSCN2098_convert_20160512205622.jpg
▼南洋興発事務所跡
DSCN2124_convert_20160512214311.jpg

DSCN2125_convert_20160512214347.jpg
▼ロタリゾート&カントリークラブ近くにもう1両シュガートレインが現存している。
DSCN2672_convert_20160512211653.jpg
子供の頃に行った遊園地にはこの様な形の汽車のレプリカが園周を走っていた様な気がする。
DSCN2677_convert_20160512211605.jpg
この汽車が活躍していた頃のロタ島にタイムスリップしてみたい衝動に駆られた
DSCN2674_convert_20160512212147.jpg
サイパン島・テニアン島・ロタ島共に日本統治時代は線路が引かれ、秋の収穫期にはこの汽車に何両もの貨車が連結
され、収穫したサトウキビを製糖工場まで運んでいた。余地がある時には運賃1円で乗客も乗せたと聞いたが、1円は
当時、労働者の1日分に相当する金額であったと言う。
DSCN2683_convert_20160512212109.jpg

DSCN2681_convert_20160512212208.jpg
▼ロタリゾート&カントリークラブ(左側はゴルフ場と海、右側は宿泊施設、真っ直ぐ走ると右側に汽車がある
DSCN2786_convert_20160512214745.jpg
▼ロタココナッツビレッジに、当時ロタ島に住んでいた沖縄出身者達が記憶を頼りに完成させた日本統治時代の
 ロタ島地図が展示されている。現在は営業していない為、今回M氏による特別なはからいで見学させて頂いた。
DSCN2695_convert_20160512230450.jpg

DSCN2694_convert_20160512230252.jpg
▼現在は営業していないロタココナッツビレッジ
DSCN2701_convert_20160512230928.jpg
▲▼かつて日本人が経営していた。M氏は「誰か引き継いでくれる人がいれば嬉しい事だが、もう無理だろう」と。
DSCN2699_convert_20160512231053.jpg
▲▼バブル期は日本人観光客が沢山宿泊していただろう。しかし観光客が減った今ぐらいが丁度良いとM氏は語った。
DSCN2690_convert_20160512231017.jpg
▼南洋興発製糖工場跡から徒歩2分、西港がある。敗戦後日本軍守備隊がロタ島を離れた場所かもしれない。
 (10月頃は25cm~30cmのアジが入れ喰い状態だと聞いた。ロタ島で食べた刺身は最高に美味しかった)
DSCN2131_convert_20160512233907.jpg
▼昭和20年(1945)9月2日武装解除し、米軍の舟艇に乗せられロタ島を離れる日本軍守備隊(米軍撮影)
6RotaSept1945.jpg
▼ソンソン村近くの東港(上記の古写真は東港かもしれない)
DSCN2982_convert_20160512235056.jpg
ロタ島の港は水深が浅く大型船が入港出来ない。沖に停泊し、小型船で往復して物資等を陸揚げするのだと聞いた。
米軍の小型艇に乗せられた武装解除した日本軍ロタ島守備隊の画像でも同じ様に、沖合いに停泊している船に移送
されている様子が伺える。
ShounMaru1944_convert_20160516133209.jpg
▼▲ロタ島東港停泊中米軍に撃沈された松運丸(現在有名な沈船ダイビングスポットとなっている)戦死者は0との事
ShounMaru19442_convert_20160516133232.jpg

▼ソンソン村東港から海沿いに車で15分、海軍砲台跡が2基残っている、1基目は砲座・砲身は残されていない。
 当時から設置されなかったのか、戦後取り去られたのかは不明。
DSCN2613_convert_20160513191246.jpg
▼1基目から歩いても3分程の並びに2基目がある。観光ガイド等に掲載されている有名な日本海軍砲台
DSCN2937_convert_20160513191959.jpg

DSCN2625_convert_20160513192325.jpg

DSCN2616_convert_20160513192531.jpg
▼▲メンテナンスされており、少々力は要るが左右に動く。この様な状態の日本軍砲台を初めて見た。
DSCN2627_convert_20160513192741.jpg
▼砲台内から東港を望む。試し撃ちの1発のみ発射されたと聞いた。ロタ島に限らず、設置された砲台の多くは海軍の
 旧式の軍艦から外され転用された物がほとんどだった。砲身寿命は200発程度だと言う。
DSCN2949_convert_20160513193303.jpg
▼角度を変えるとロタ島の最南端にあるウエディングケーキマウンテンが見える
DSCN2961_convert_20160513193806.jpg
▼この場所からのウエディングケーキマウンテン(立入禁止区域)が一番綺麗だと言う。
 ※ウエディングケーキマウンテンには砲台跡がいくつか残っていると、許可を得て行った事のあるM氏から聞いた。
DSCN2612_convert_20160513194153.jpg
▼日本海軍砲台跡から更に走ると「斉藤隊戦死者の墓」がある。
DSCN2638_convert_20160513210844.jpg

DSCN2637_convert_20160513205101.jpg

DSCN2636_convert_20160513205632.jpg

DSCN2640_convert_20160513205703.jpg
▲一礼して感謝を伝えた。案内して頂いたM氏はロタ島を訪れると必ずお参りし、タバコを供えると言っていた。
 素晴らしい方だと思った。ロタ島を訪れた際はバカンスの前に立ち寄ってお参りしてあげて欲しい。
DSCN2646_convert_20160513211510.jpg
▲▼さらに10分程走って左側「日本軍人軍属」の墓がある。(空襲で亡くなった民間人も埋葬されていると聞いた)
DSCN2647_convert_20160513211810.jpg
ここでも一礼して感謝を伝えた。
DSCN2648_convert_20160513211910.jpg
ロタ島もか・・・と思った。同じ日本人の墓がバラバラにある。旧日本軍人と旧日本軍属の違いを知る若い世代がど
れ程居ようか。せめて同じ敷地内に立てる事は出来ないだろうか。ロタ島にも日本政府が建てた慰霊碑は無い。
御遺族の方や有志の方がそれぞれの想いで立てられた物に何も言う立場にないが、海外の戦地で戦いに倒れた先人へ
感謝の慰霊が日本人観光客に定着しないのはこれも原因の1つにあると思う。
DSCN2649_convert_20160513232352.jpg
▲▼3つ目の日本陸軍砲台(ここは高射砲)はロタ島の丁度中心辺りの丘にあった。
DSCN2666_convert_20160513235152.jpg

DSCN2664_convert_20160513235417.jpg

DSCN2658_convert_20160513235922.jpg
▼砲台の脇には退避壕があった。
DSCN2657_convert_20160514000233.jpg

DSCN2656_convert_20160514000258.jpg
中に入ってみておそらく人口的に掘られた壕だと感じた。
DSCN2653_convert_20160514000348.jpg
▼日本陸軍司令部跡。
DSCN3101_convert_20160514003827.jpg
▼▲機銃掃射の跡が生々しい、空襲の激しさを物語っていた。
DSCN3104_convert_20160514003919.jpg
空襲が激しくなるとソンソン村にあったロタ神社(トンガ洞窟野戦病院)に司令部を移動した。
DSCN3105_convert_20160514004817.jpg

▼昭和20年(1945)9月2日武装解除に応じるロタ島日本軍守備隊(米軍撮影)
1RotaSept1945-_convert_20160514124337.jpg

rotabusoukaijyo.jpg

4RotaSept1945_convert_20160514124602.jpg
▲激しい空爆を逃れて島を転々としていたのであろう、設営された臨時テントが見える。
DSCN3111_convert_20160514123933.jpg
▲場所を見つけようと陸軍司令部跡から更にダート道を走って探しに行ったが、よく似た風景は沢山ある為、場所
 の特定は諦めた。
3RotaSept1945_convert_20160514125053.jpg
▲▼現地人(チャモロ人)を守りつつも、バラック作りの小屋で自給自足の生活をし、終戦まで頑張ったロタ島守備隊。
2RotaSept1945_convert_20160514125112.jpg
戦死者も多く出ているが、半数以上の日本兵が無事日本に帰還された事を非常に嬉しく思う。

DSCN2877_convert_20160514130242.jpg
▲ソンソン村に残るロタ神社跡。階段しか残っていないが、階段を登るとその更に上にはトンガ洞窟がある。
DSCN2878_convert_20160514130615.jpg
▼ここが戦時中、野戦病院(神威洞)として使われ、空襲が激しくなった後には司令部として使われた洞窟だ。
DSCN2879_convert_20160514130844.jpg
▼中に入ると、入り口の狭さからは想像できない広い空間があった。その昔はトンガ人が住んでいたと聞いた。
DSCN2880_convert_20160514131426.jpg

DSCN2882_convert_20160514131501.jpg
▼入って右手にはコンクリートで固められた平らなスペースが広がる。恐らく負傷兵を寝かせていた場所であろう
DSCN2884_convert_20160514131758.jpg

DSCN2892_convert_20160514131822.jpg

DSCN2890_convert_20160514131943.jpg

DSCN2896_convert_20160514132029.jpg
▲▼中はかなり広い。各所に人工的に平らにされた場所があり、ここが最終の司令部だった事が伺える。
DSCN2898_convert_20160514132420.jpg

DSCN2902_convert_20160514132508.jpg
▼見学を終えて入り口に向かう。
DSCN2908_convert_20160514132705.jpg
▼トンガ洞窟のほぼ真上に位置するソンソン展望台はロタ島で1番有名な観光スポットだ。
DSCN3136_convert_20160514134223.jpg
▼ロタ島ソンソン村と最南端の景色が一望出来る。
DSCN3137_convert_20160514134827.jpg
▼この場所からの夕日は最高だった、日の入り時間は夕方6時。絶景が見れた。
IMG_2026_convert_20160514181054.jpg
現在は観光名所のソンソン展望台も、戦時中は日本軍の見張台だった様だ。夕日を拝む為に時間潰しをしていた時、
たまたま沖縄から来られた御家族に出会った。おじい様と娘様、そのお子様お2人だった。
聞けばおじい様はロタ島で生まれ、10歳までロタ島で育ったそうだ。ソンソン展望台には機銃が設置され、日本兵が
上空を監視していたと言う。初めて知った。「野戦病院跡を見に行く」と言って御家族は去っていった。
なるほど、ここは最後の司令部壕の真上だ。私が息を切らして登ってきた道は先人が作ってくれた道だった。
御家族が去ってから展望台の周囲を再確認した。するとおじい様が言った通り、機銃座が設置されていたであろう岩
組と鋼鉄の残骸が確認出来た。
DSCN3151_convert_20160514184520.jpg

DSCN3152_convert_20160514184746.jpg

DSCN3155_convert_20160514184918.jpg
沖縄から来られた御家族に出会わなければ見落としていたであろう。この場を借りてお礼を申し上げます。
展望台からの景色を眺めながら、娘様がおじい様に「どう?思い出した?」と優しく声をかけていたのが印象的だった。
DSCN3135_convert_20160514203136.jpg
▲ソンソン展望台に登る道中に洞窟がある、ロタ島でもリン鉱石を採掘していたと聞いていた。
DSCN3133_convert_20160514204223.jpg

DSCN3126_convert_20160514211015.jpg

DSCN3127_convert_20160514211134.jpg
▲入ってみるといくつも坑道があり、リン鉱石を採掘した様な跡があった。
DSCN3018_convert_20160514190130.jpg
▲ソンソン村には東京苑という居酒屋風レストランがある。北海道出身の日本人が経営していると聞いた。
 食事は非常に美味しく、日本にいるのかと思う程だった。特に刺身料理、魚を使ったチャモロ料理は絶品だった。
 日本語が出来る優しいフィリピン人男性1人、女性2人で店をきりもりしていた。もちろん美味しいロタ水は無料だ。
 看板娘のエミリーさん、ウェイターのモンさんに親切にして頂いた。いいお店だったので滞在中は毎晩通った。
 ロタの東京苑はサイパン?テニアン?(どちらか忘れた)の2号店だったが今はロタ店だけだと聞いた。エミリーさん
 はサイパン?テニアン?に居たがオーナーに頼まれ、フィリピンに戻らずロタ店に来たという。ロタリゾートで働く
 ご主人と2人でロタ島で暮らしている。「フィリピンは人が多くて疲れるからロタに永住するかも?」と語った。

DSCN2780_convert_20160514191722.jpg
地元の人はわさびとキッコーマン醤油が大好き。わさびを強烈につけて刺身を食べているのが印象的だった。
DSCN2781_convert_20160514191756.jpg
▲▼ロタ島のスーパーで撮影。バックで駐車するのは私だけだった・・・。日本人観光客だと直ぐわかってしまうか?
DSCN2779_convert_20160514192229.jpg
▼ソンソン村から車で5分、ロタ洞窟博物館がある。ほとんど開館していないとの事だったが案の定閉館していた。
DSCN3043_convert_20160514220735.jpg
▼少し覗いてみたが、旧日本軍の物が少し展示してあった。
階段を上って最初に目に飛び込んできたのは日本軍?アメリカ軍?の重機関銃だった。米軍が上陸後置いていった物か?
DSCN3071_convert_20160514222154.jpg
▼日本海軍九六式25ミリ機銃(艦載用対空機銃の代表的な機関砲)
DSCN3044_convert_20160514221535.jpg
▲▼「ひょっとしてこの機銃座がソンソン展望台に設置されていた物かもしれない」と思いながら見学した。
DSCN3047_convert_20160514222400.jpg

DSCN3049_convert_20160514222548.jpg

DSCN3050_convert_20160514222654.jpg

DSCN3079_convert_20160514222833.jpg

DSCN3052_convert_20160514223012.jpg
ロタ島にはドイツ統治時代にハンティング目的で持ち込まれた鹿が繁殖し、野生の鹿が沢山いると聞いた。
DSCN3053_convert_20160514223218.jpg

DSCN3045_convert_20160514223408.jpg
▼閉館していたが隙間からカメラを入れて撮影。
DSCN3063_convert_20160514223542.jpg
▼ロタ洞窟博物館からソンソン村方面を望む。
DSCN3057_convert_20160514224106.jpg
▼ロタ空港から車で10分。ラッテストーン石切り場がある。
DSCN2722_convert_20160515093844.jpg
約3500年前、マリアナ諸島の原住民は東南アジアから到達した。
彼等はチャモロと呼ばれる独自の民族となり、独自の文化を育て、原始的な生活していた。
今から約490年前にスペインが統治するまでマリアナ諸島は紀元前、タガ王朝時代としてチャモロ民族が暮らしていた
タガ王朝時代の首都はテニアン島。テニアン島にはタガ遺跡が残されている。この石切り場で切り出された先材は、テ
ニアン島に運ばれる為の物だったのではないか?とも言われている。スペイン統治時代にはチャモロ人を虐殺・制圧し
チャモロ伝統文化を壊してチャモロ人をグアム島に移した。ロタ島の原住民(チャモロ)は激しく抵抗。
山間部に身を隠し生きのびた原住民が現在のロタ島チャモロ人の祖先とされ、彼等こそが真のチャモロ人だと聞いた。
スペインが植民地にする為の調査で、テニアン島上陸の際に使用した小舟に積んで有った物が全部盗まれて小競り合
いに発展したと言う話を聞いた。比較的治安の良いロタ島ですが、やはりコソ泥は居るらしく、スペイン統治時代には
「ドロボウ諸島」と呼ばれていたそうだ。
DSCN2719_convert_20160515094350.jpg

DSCN2710_convert_20160515114816.jpg
▼切り出された巨大な石は住居の土台として使用されていたとの事。住居部分は釘を使わない建築だったそうだ。
tagaoutyo1.jpg
グアム島・サイパン島・テニアン島で現存している建った状態(当然ラッテストーンのみ)を見る事が出来る。
ロタ島でも現存するらしいが場所が解らなかった為、見学していない。

DSCN2729_convert_20160515121448.jpg
▲ラッテストーン石切り場跡から東へ10分程、M氏お勧めの場所「バードサンクチュアリ」がある。
DSCN2743_convert_20160515121829.jpg
マリアナ諸島で一番多くのレッドフーテドブービーを見る事が出来るとされ、沢山の種類の鳥を見学出来る場所だ。
DSCN2758_convert_20160515122659.jpg
暑さと時間が経つのを忘れてしまうぐらいの素晴らしい場所だった。
DSCN2744_convert_20160515122501.jpg
▼日本統治時代、ロタ松島と呼ばれた場所は「ピナタンパーク」というプールを備えたちょとした観光スポットになっ
 ていた様だが、現在は営業しておらず、廃墟になっていた。
DSCN2875_convert_20160515131614.jpg

DSCN2868_convert_20160515133231.jpg
ウォータースライダーなどが廃墟となり放置されていたが、ロタ島の魅力はテーマパーク・レジャー施設などでは無い。
テーマパーク・レジャー施設へ行きたければわざわざグアムで乗り継ぎしてロタ島に来なくともグアム島で満喫出来る。
ロタ島の魅力はロタブルーの海、地上戦が無かったお陰で残った原生林と手付かずの大自然。そして日本統治時代を懐
かしくも快く思っていてくれている親日のチャモロ民族の人達だ。わずか3000人程度の静かな島にテーマパークは必
要無いとあらためて思った。静かなビーチと真っ青な海、美味しい天然水と治安の良さ。現地チャモロ人と出稼ぎに来
ている真面目なフィリピン人達の親切さ。新鮮な魚料理で食べ物も美味しい。南の島でこれ以上の贅沢は無いと思った。
DSCN2874_convert_20160515133416.jpg
▼ソンソン村から南へ徒歩20分、ロタ島居住区最南端に公営住宅が建ち並ぶ地域がある。
 東日本大震災の後、北マリアナ連邦ロタ島では、公営住宅の空き家をリニューアルし、日本の被災者に提供を決定。
DSCN2137_convert_20160515135457.jpg
約30棟程在る公営住宅をリニューアルし、日本人被災者に住んで貰うんだと、ロタ市長を始め、幹部が日本を訪問。
福島県まで出向き「被災者の受け入れ準備が整っています」と表明してくれたという。
震災後に被災者の為の住宅を用意して受け入れを表明したのは、ロタと台湾だけだと言う。
DSCN2139_convert_20160515141824.jpg
しかし、日本政府からは公式な発表も無ければ、報道も無かった。私も何も知らなかった、初めて聞いた。
DSCN2149_convert_20160515142003.jpg

DSCN2141_convert_20160515142139.jpg
▼結果、日本人(被災者)は誰も行かなかったという事だが、初めてのロタ島訪問時に、その事実を「知っている」と
 「知らない」とではロタ島に対する見方はかなり違ってくるものとなり、島で出会うと当たり前の挨拶をしてくれ
 る島民、車ですれ違う度に手を上げて挨拶してくれる島民に対して、自然と感謝の気持ちで接する事が出来、とて
 も気持ちが和むロタ島の旅だった。
DSCN2142_convert_20160515142205.jpg
▼公営住宅の突き当たりはウエディングケーキマウンテン(立入禁止区域)と思ったが、廃墟のパウパウホテルがあった
DSCN2153_convert_20160515164739.jpg

▼アスマンモス・クリフ(釣りの名所らしく年1回釣り大会が行われると聞いた)
DSCN2791_convert_20160515145927.jpg
戦時中、ロタ島では日米の地上戦が無かった為、サイパンやテニアンの様な悲劇が無くて本当に良かった・・・。
DSCN2794_convert_20160515150307.jpg

ロタ島で有名な観光スポットである「スイミングホール」「テテトビーチ」を見学してロタ島をあとにした。
DSCN3021_convert_20160515125033.jpg
▲スイミングホール
DSCN3038_convert_20160515125659.jpg
▲テテトビーチ
DSCN3232_convert_20160515125827.jpg
ロタ島訪問前、かつてロタ島で居住経験を持つI氏にロタ島出国時にしか見れない「絵」の話を聞いていた。
最後にロタ国際空港出国待合室でしか見る事の出来ない「絵」で学ぶロタ島の歴史を紹介して終わりにしたいと思う。
※「絵」に対する説明文は全て、飾ってある「絵」の横に説明書として添えてある文章である。
DSCN3286_convert_20160515170440.jpg
▲チャモロ時代(1500B.C-1521A.D)
紀元前1500年頃、チャモロ人は勇敢にもマリアナ諸島までカヌーで航海して来たと言われています。
男性は、特徴ある円柱形のラッテ・ストーン(絵の中央をご覧下さい)を基礎に家を建て、女性は布製品、レッド・スリ
ップ・マリアナスの模様に入った陶器、絨毯、亀の甲羅の装身具等を作り、腕利きの漁師達は大きなカジキマグロを捕
獲する技術を開発し、農民達は土地を耕し、段々畑を作り、巧みにたくさんの作物を作りました。
結果的にチューク、ヤップ、カロラインスを含めた諸島間で貿易が始まりました。当時、高価なコヤスガイや亀の甲羅
が貨幣として流通していました。
部族間の抗争も頻繁に起こり、味方が敵に傷を負わされたり、殺されたりすれば、直ちに戦争という状態でした。
「投石」「やり」が主な武器だったそうです。
ヨーロッパ人が初めてミクロネシアを訪れたのは、マゼランがそれら諸島を発見した時であり、それは世界一周の航海
の中で、初めて探検家達が経験した未知との遭遇でした。
DSCN3289_convert_20160515175248.jpg
▲スペイン統治時代(1521-1898)
1565年、スペイン人ミゲル・ロペス・レスガスピィがグアムに上陸し、マリアナ諸島の所有権を主張しました。
まもなくスペインの帆船がメキシコとフィリピンの間を行き交うようになり、途中、食糧や水の補給の為、ロタ、グア
ムに立ち寄りました。その為、ロタは世界で初めて太洋を横断する交易路の中継地点となりました。
1668年、スペイン人はカソリック教徒の指導者ルイス・デ・サンビトーレスの下、マリアナ諸島に定住する事を宣言
し、また1682年ロタに教会を建てました。スペイン人は、チャモロ人にスペイン人社会の価値観や特色を受け入れさ
せるため、「征服」政策を持ち込みました。宗教上の改宗やチャモロ文化の排除は、やがて戦争へと発展しました。
1668年には60000人居たチャモロ人は、スペイン人との戦いや、水泡性疾患、インフルエンザが原因で1710年には、
3539人まで減少していました。右手上部のコーナーをご覧下さい。悲痛な表情の人物、倒れているラッテ・ストーン
これらは多くの古代文化が失われてしまったことを物語っています。
DSCN3293_convert_20160515203311.jpg
▲ドイツ統治時代(1899-1914)
米西戦争の敗北により、宗主国であるスペインはその領土であったマリアナ諸島をドイツに売却しました。
白い征服を見につけた、有能なドイツ人官吏ジョージ・フリッツはコプラ(ヤシ油の原料)生産による経済自立を目指し
ました。また、その当時ロタでは米、コーヒー、砂糖、柑橘類が生産されていました。
教会では、僧侶がスペイン人からドイツ人にバトンタッチされ、社会面では、道路、水道、また、西港を建設するため
暗礁となっていた水路等の社会基礎整備が行われました。ドイツ人については、時間に厳しいこと、そして初めて船外
機を紹介したと言われています。
DSCN3282_convert_20160515182711.jpg
▲日本統治時代(1914-1945)
第一次世界大戦のさなか、ドイツが太平洋より撤退した後、日本人は直ちに北マリアナ諸島を接収しました。
やがて1920年、国際連盟(国連の前進)は、ミクロネシアにおける日本の統治権を承認しました。
日本人は政府の貸付金や補助金を使って、事業を奨励し、島の経済に「独立採算制」を導入しました。
「サトウキビ」、列車、燐鉱業等がそれです。また、港の改修、軌間の狭い鉄道の敷設を行い、製糖業を発展させまし
た。1935年までは、ロタには8000人の日本人、800人のチャモロ人が住んでいました。また、多くの朝鮮人と沖縄の
人達も定住し、ロタの経済発展に貢献していました。交通機関では、日本郵船が日本・ロタ間の定期航路を開設し、人
々の異動や荷物の輸送に貢献していました。ロタの西港には石造りの埠頭があり、東港は人々の乗降船用に使用されて
いました。第二次世界大戦中、連合軍はロタを迂回して行ったため、食糧や医薬品が不足し、人々は困窮した生活を送
らざるを得ない状態でした。
DSCN3285_convert_20160515213709.jpg
▲米国統治時代(1945-現在)
終戦後、国連は太平洋諸島の信託統治行政官に米国を指名しました。
アメリカ大陸と同じぐらい広大なこの領域は、ロタ島を含むミクロネシアWP取り囲んでいます。
やがて、ミクロネシア・ロタ・サイパン・テニアン諸島は米国の信託領ではなく、一つの連邦共和国として、認めるよ
う主張しました。1976年、米国との間で、北マリアナ連邦制定に関する条約が成立。1977年新憲法発布。
米国の統治下にもかかわらず、条約上北マリアナは民主的、且つ独自の政府を持ち、政治・経済をコントロールするユ
ニークな立場にあります。伝統的な農業を維持しながら、一方では観光業、そして中国、フィリピン、バングラディッ
シュ等の人々が雇用されている労働集約型産業が発展し、国の経済、人々の生活を支えるに至っています。
USA

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_05_03


日本統治時代があった島、テニアン島。約3500年前、マリアナ諸島の原住民は東南アジアから到達した。
彼等はチャモロと呼ばれる独自の民族となり、独自の文化を育て、原始的な生活していた。
スペイン統治時代にはテニアン島を制圧したスペイン政府に反抗したチャモロ人を虐殺・制圧し、チャモロ人
をグアム島に移した為、17世紀以降約200年間は無人島だった。
明治32年(1899)マリアナ諸島をドイツがスペインから買い取り、第1次世界大戦後に敗北したドイツから日本
の委任統治領となった後は、内南洋の委任統治施政官庁として大正11年(1922)に「南洋庁」が開設され、テ
ニアン島にはサイパン支庁・テニアン出張所が設けられた。
サイパン島では後に「シュガー・キング」として知られる松江春次が大正10年に南洋興発株式会社(NKK)を設
立。日本統治時代のサイパン島/テニアン島/ロタ島における製糖産業の開発で1番知られている。
 syugaking.jpg
 ▲南洋の島に理想郷の実現を夢見た会津人、松江春次(福島県出身)
 サイパン島での製糖工場が軌道にのると松江春次は、すぐさまテニアン島の開拓に着手。昭和5年テニアン
 製糖工場が完成し、南洋興発の製糖業はさらなる飛躍を遂げていく。開拓者、実業家、技術者としての3者
 を兼備えた松江春次は時間を見つけては農場や工場の視察に出かけたと言う。
 製糖会社としてスタートした南洋興発はロタ島やパラオなどの南洋群島、更にニューギニアやインドシナ等
 の外領地に事業を展開。内容は水産、繊維、貿易、交通運輸、土木など広範囲に及び、当時満州で隆盛を誇
 った南満州鉄道と並び “北の満鉄、南の南興”と呼ばれるようになる。
 しかし昭和15年65歳の松江春次は突然、脳溢血に倒れ、これを理由に社長を辞任、一線を退く。
 更に南洋開拓にかけた松江春次の夢が、打ち砕かれる時が近づいていた。
 留学の際に強大なアメリカの国力を肌で感じた松江は「日本が戦争に勝つことは不可能!平和的な解決の道
 を探るべきだ」それが松江春次の持論だった。
 昭和14年8月松江春次は、もとより親交のあった連合艦隊司令長官、山本五十六を東京駅で見送っている。
 松江は非開戦派だった山本に頭を下げこう告げた「米英との戦争回避に向けてこの上ないご尽力を願いたい」
 しかし、2年後の昭和16年ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争勃発。
 宣戦布告が遅れたいきさつを聞いた松江は『駐米大使は切腹ものだ』と激怒した。
 更に松江は、サイパン島/テニアン島が激戦の場になることを想定していた。 
 当時、会長として経営の一線を退いていた松江だったが、南洋群島にいる社員、農業従事者らの安全を最優
 先に考え、本土への引き上げを主張、役員会は紛糾した。
 昭和19年海軍司令部は南洋興発に軍への全面協力を命じる。製糖工場は全て操業を中止。成人男子、日本人
 児童や公学校に通うチャモロ・カナカ人の生徒までもが飛行場の建設に駆り出された。
 昭和19年6月11日アメリカ軍によるサイパン攻撃が始まり、およそ6万発の砲弾が打ち込まれたサイパン島。
 数日間に及ぶ戦闘機による空襲と戦艦からの艦砲射撃に続いて海兵隊が上陸、松江の理想郷が地獄と化した。
 戦後、南洋興発は軍との協力関係を理由にGHQから閉鎖命令を受け松江春次は公職追放令の指定を受ける。
 こうして南洋興発株式会社(NKK)は消滅した。
 戦後、松江は再起をかけフィリピンを拠点とする南洋漁業の事業計画を進めた。
 しかしアメリカのビキニ環礁水爆実験の為断念。
 戊辰戦争で辛酸を舐めた会津藩士の子に生まれた松江の人生には暗い戦争の影が付きまとっていた。
 松江春次を支え続けた妻・「ふみ」は戦争中に病死、長男・一郎は出兵した南方ニューギニアで戦死した。
 昭和29年11月29日脳溢血により死去、享年78歳 命日は奇しくも33年前の南洋興発創立と同じ日だった。
 床の間に飾られた掛け軸には「人間生来無一物」“人間は裸で生まれ、裸で死んでいく“と書かれていた。

植民地行政政府(南洋庁、所在地はパラオ諸島コロール)からの実質的支援そして東洋拓殖株式会社からは資金
提供を受け砂糖キビ畑/製糖工場を運営し、沖縄出身者(移住者の60%)や朝鮮人の移住を援助し、成功した。
南洋興発株式会社(NKK)は「海の満鉄」とも言われ、国家的使命を持った会社だった。
テニアン島には南洋興発株式会社(NKK)の2つの製糖工場(東洋第2の規模)や、酒精工場、農園などがあり、
島内は見渡す限りのサトウキビ畑になっていた。南洋興発株式会社(NKK)が巨大化すると共に、社員や小作人
作業員も数を増し、南洋興発株式会社(NKK)関係者を相手にする商店・料亭・遊廓なども集まり、テニアン島
は活況を呈した。米軍上陸時、同島には朝鮮人2700人、日本人13500人、チャモロ人26人が暮らしていた。
(戦争が激化し、テニアン島の戦いの前に日本人2000名程は疎開船に乗り、日本本土に避難していた)
▼日本時代、活気を呈していた頃のテニアン市街
tinianjapanese.jpg
▼日本時代のテニアン町スズラン通り
TINIANSUZURAN_convert_20160508195958.jpg

KIMG0196_convert_20160505151612.jpg
▲▼テニアン島サン・ホセ市街(旧テニアン町)に今も残る南洋興発株式会社(NKK)工事事務所跡
KIMG0213_convert_20160505151857.jpg
昭和5年(1930)この場所一帯に1日1200tの生産能力を持つ「南洋興発テニアン精糖工場」が建設された。この周辺
には関連の施設・設備や、工場従業員の社宅が整備された。工事事務所付近には「糖度分析所」があった。
KIMG0220_convert_20160505152137.jpg
▼開戦前のテニアン島南洋興発株式会社(NKK)製糖工場
tinianNKK.jpg
▼テニアン島・サンハロム湾直ぐ、テニアン町にあった南洋興発株式会社(NKK)製糖工場
marianamap004_convert_20160510101651.jpg
▼日の出神社跡
DSCN2444_convert_20160507130624.jpg
▼入り口の鳥居には「昭和十六年一月十日」とはっきり読み取れる
DSCN2439_convert_20160507131035.jpg

DSCN2419_convert_20160507130912.jpg
▼激戦後の日の出神社
tinian30_convert_20160509112952.jpg
▼2つ目の鳥居は戦いの激しさを物語っていた・・・。
DSCN2428_convert_20160507131559.jpg

DSCN2422_convert_20160507131804.jpg
▼日の出神社から徒歩3分、沖縄から移住してきた方が暮らしていた南洋興発社員寮跡があった。
DSCN2432_convert_20160507130024.jpg

DSCN2430_convert_20160507130343.jpg
▼テニアン尋常小学校跡
KIMG0281_convert_20160507213418.jpg

KIMG0272_convert_20160507213745.jpg

KIMG0263_convert_20160507213908.jpg
▼住吉神社跡。状態は良く、かつてサトウキビの豊作を祈って通ったであろう日本人・朝鮮人の事を想った。
DSCN2378_convert_20160508114906.jpg

DSCN2372_convert_20160508115420.jpg

DSCN2374_convert_20160508115456.jpg
激しい戦いの果てにも、鳥居がしっかり残っておりその姿に驚かされる。この辺りの広場に負傷した兵士や最後の突撃
に行く兵士達が集められた。しかしその場所がアメリカ軍に知られ、多くの兵士が爆撃で死亡したと言われている。
DSCN2375_convert_20160508115519.jpg
▼お参りして元来た道を戻る、南国の島の日陰は涼しくて気持ちが良い。
DSCN2376_convert_20160508115552.jpg

太平洋戦争時、テニアン島の戦略的価値を見出した日本海軍は1939年から12000の囚人を使って飛行場を建設。
当時南洋最大と言われたハゴイ飛行場が完成する。
▼空襲前のテニアン島北部ハゴイ飛行場(牛飛行場)
HAGOIHIKOUJYO_convert_20160505180213.jpg
▼日本軍通信局跡
DSCN2414_convert_20160507124822.jpg

DSCN2399_convert_20160507125114.jpg
▼日本軍通信所跡は中に入る事が出来る。戦い後は日本兵捕虜収容所として30名程が収容された。
 戦後は牛の屠殺場・冷凍庫として使用されていたとの事。
DSCN2411_convert_20160507125329.jpg

DSCN2408_convert_20160507125740.jpg
▼戦い終決直後の日本軍通信局
TUSINJYO_convert_20160510154035.jpg
▼テニアン島北部に残る角田覚治中将指揮下第1航空艦隊司令部跡(現在進入禁止)
DSCN2515_convert_20160505152942.jpg
 昭和19年(1944)2月、角田覚治中将はテニアン島へ着任し第1航空艦隊司令長官に就任。マリアナ沖海戦(あ号作戦)
 を支援する事になる。テニアン島に着任した角田覚治中将は島の防御施設の貧弱さに激怒したと言う。
 「いったい大本営はこの1年間何をしてきたんだ!」と。
 この頃、クエゼリン、ルオット島(マーシャル諸島)日本軍守備隊は玉砕。トラック島が奇襲攻撃を受けていた。
 昭和19年(1944)6月11日~13日マリアナ諸島に米海軍機動部隊が来襲、第1航空艦隊とハゴイ飛行場(牛飛行場)は激
 しい空襲を受けた。続く19日~20日第一航空艦隊の残存航空機は「マリアナ沖海戦」に呼応して出撃するも、殆ど戦
 果を挙げられないままに壊滅した。角田覚治中将を部下はこう語っている。
 「長官は一口で言えば上杉謙信の様な人だ。黙っているが、いざとなると大将自ら単騎敵の本陣に斬り込む猛将だよ」
 見敵必戦、索敵機が3群に分かれる敵機動部隊を捉え、参謀たちが航空機温存を唱える中125機全機を発進させ、2群
 の敵を攻撃するも、敵1群がテニアン島を攻撃。日本軍攻撃隊は大損害を受け、島の施設は破壊された。
 この後、連合艦隊からの要請によりパラオ支援で航空機の損失を負い、南方へ航空隊を送り込みながらもグアム島や
 テニアン島は米軍の攻撃を受ける。6/15米軍はサイパン島へ上陸。テニアンからサイパンは目と鼻の先であり米艦隊
 を見ながら見敵必戦の角田覚治中将は独断で全航空機の発進を命じる。しかし、グラマンの大編隊とVT信管などの
 新兵器によりことごとく撃墜され、テニアンの航空戦力は灰燼に帰してしまった。
 1機の航空戦力もなくなってしまった総軍8500名は敵の上陸に備え防御作りに追われた。日本人民間人は13500人程
 おり、ほとんどは南洋興発の社員だった。民間人は昼夜を問わず野戦陣地の構築に協力した。
 角田覚治中将は「ありがとう。皆さんは民間人ですから、軍人の様に玉砕しなくともいいのですよ」と笑顔で最後の
 挨拶をして回ったと言う。
 昭和19年7月24日、圧倒的大戦力で米軍がテニアン島に上陸。その兵力は海兵隊2個師団54000人。
 対する日本軍は緒方敬志大佐の第29師団第50連隊と第43師団第135連隊第1大隊と海軍部隊約8111人。
 [陸軍4001名]
 松本歩兵第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐以下2824名) 
 歩兵第135連隊第1大隊(和泉文三大尉以下950名)/第18連隊戦車隊8両(鹿村一男中尉以下64名)
 第31軍築城班(比留間正司大尉以下60名)/独立自動車第264中隊第3小隊63名
 第29師団野戦病院(稲田壽郎軍医中佐以下40名)
 [海軍4110名]
 第56警備隊(大家吾一大佐以下950名)/第82防空隊(田中吉太郎中尉以下200名)
 第83防空隊(田中明喜中尉以下250名)/第233設営隊(林邦夫 技少佐以下600名)
 第1航空艦隊司令部(角田覚治中将以下200名)/航空隊640名零式輸送機36機、航空機561機
 以下昭和19年(1944)6月初旬時点の海軍航空隊内訳
 第121航空隊「雉部隊」岩男正次中佐以下 彩雲艦上偵察機36機 艦爆2機
 第261航空隊「虎部隊」零戦54機/第263航空隊「豹部隊」零戦64機
 第321航空隊「鵄部隊」久保徳太郎中佐以下 夜間戦闘機月光54機/第341航空隊「鵬部隊」銀河54機
 第343航空隊「隼部隊」竹中正雄中佐以下 零戦54機/第521航空隊「獅子部隊」紫電54機
 第523航空隊「鷹部隊」和田鉄二郎中佐以下 彗星72機/第761航空隊「龍部隊」松本真実中佐以下一式陸攻72機
 第1021航空隊「鳩部隊」一式陸攻2機 ダグラス輸送機6機/第19魚雷調整班/航空部隊通過者200名
 第23航空戦隊関係450名/設営隊800名

 陸海軍合計8111名
DSCN9987_convert_20160507214407.jpg
▼激戦後の日本軍ハゴイ飛行場(牛飛行場)格納庫(米軍の飛行場拡張工事に伴い取り壊され現存しない)[米軍撮影]
JapaneseplaneTinian_convert_20160506095530.jpg

TINIANJapaneseplane99KANBAKU.jpg
▼激戦後の日本軍ハゴイ飛行場(牛飛行場)格納庫付近。奥に司令部らしき建物が写っている(米軍撮影)
Tinian17_convert_20160506105953.jpg

USMarinesBattleofTinian_convert_20160510163606.jpg
▼日本軍海軍発電所跡
DSCN2506_convert_20160508184345.jpg
▼昭和19年6月11月~13日の米海軍機による空襲と艦砲射撃を受けた大穴が開いている。
DSCN2511_convert_20160508190653.jpg

DSCN2512_convert_20160508190745.jpg
▼激戦後当時の日本軍海軍発電所(米軍撮影)
TINIANHATUDENSYO_convert_20160508193151.jpg
▼ディーゼル燃料タンク室跡(中には小型重油タンクが2基あり、まだ油臭い匂いが充満していた)
DSCN2508_convert_20160508184423.jpg
▼日本軍海軍燃料庫跡の看板が見えたら右へ進む。左は弾薬庫跡があるが不発弾が多い為進入禁止。
DSCN2477_convert_20160508190240.jpg
▼ジャングルに還りかけている道(元々谷だった天然の地形)を進む。
DSCN2478_convert_20160508190329.jpg
▼日本軍海軍燃料庫跡が見えてきた、天然の地形を利用して建設されている
DSCN2479_convert_20160508190404.jpg
▼戦いの中で火災が発生し、三日三晩燃え続けたと言う。
DSCN2491_convert_20160508190444.jpg

DSCN2487_convert_20160508190524.jpg

DSCN2485_convert_20160508190839.jpg

DSCN2486_convert_20160508190912.jpg
▼駐機場跡に残る日本軍海軍防空壕跡
DSCN2526_convert_20160505153546.jpg
Tinian Island WWII YouTube
DSCN2519_convert_20160505153720.jpg
▼激戦当時の日本海軍防空壕。現在は2基現存しているが、4基~5基あった様だ。
TINIANTAIHIGO_convert_20160505221119.jpg
▼激戦当時の駐機場付近。現存する2基の日本海軍防空壕が写っている。[米軍撮影]
Tinian27.jpg
▼日本海軍飛行場指揮所跡
DSCN2534_convert_20160505154030.jpg
▼テニアン島の戦い終結後米軍はそのまま活用した。
TINIANSIKISYO_convert_20160505221142.jpg

NorthFieldTinianMarianaIslands1945_convert_20160516122912.jpg

officetinian.jpg

DSCN2541_convert_20160505154129.jpg
▼指揮所跡より駐機場、防空壕跡を望む
DSCN2543_convert_20160505154315.jpg
そして戦争が勃発し、ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻略した米軍は日本本土爆撃、及び内南洋における日本軍の
海上、航空兵站線を攻撃する基地を確保すべく、昭和19年(1944)6月マリアナ諸島攻略計画を発動させた。
一方、日本軍は同島のハゴイ飛行場を航空基地として使用していたが、陸上兵力が少なかった為、満州「遼陽」から陸
軍松本歩兵第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐/[第1大隊]松田和夫大尉/[第2大隊]神山新七大尉
[第3大隊]山本好江大尉/[山砲大隊]甲斐克己少佐)を移駐させた。
他、工兵中隊(325連隊第2中隊) 矢野忠一中尉/[補給中隊]野崎健司中尉などがテニアン島の守備に就いた。
articleTINIAN_convert_20160511111700.jpg
▲▼昭和19年7月ハゴイ飛行場を空爆する米軍機
tinian31_convert_20160506091701.jpg

Tinian22.jpg
6月19日、20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊を撃退した米軍は7月8日、サイパン島の攻略を完了、そ
れに続いてグアム島、テニアン島の攻略を開始した。昭和19年(1944)7月24日早朝、米軍は第2海兵師団
の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部、テニアン港前方に一斉に前進させた。しかし、米軍上陸部隊が海
岸から200m程に接近した瞬間、一斉に日本軍重砲が攻撃を開始。米軍を撃退した。
砲台長(小川和吉海軍大尉)以下70人の将兵がテニアン島に押し寄せる米艦艇を迎え撃った。
DSCN2355_convert_20160505180725.jpg
▲現在も残る「小川砲台」に着いた。「テニアンビーチ」の丘、写真中央のこんもりした丘の中腹に砲台はあった。
 当時も草木で偽装され、上空や海上からは容易に発見できなかった言う。(ペペノゴル砲台跡)
DSCN2347_convert_20160505181006.jpg
▲テニアン島の戦跡には説明書のプレートがあるが、鉄・銅高騰の際に所々プレートが盗まれたらしく、ここは
 台座だけだった・・・。中国人による落書き、いたずらも多く、テニアン市長は、歴史のある観光ポイントは
 出来るだけ綺麗に整備しておきたいと綺麗にされているのに非常に残念である。
DSCN2344_convert_20160505181509.jpg
▲テニアン攻防戦の際、この砲台(安式40口径6インチ砲(15.2センチ)は必死に抵抗、米艦を大破させたと言う。
 昭和19年(1944)3月テニアン島に海軍第56警備隊が上陸し、直ちに沿岸砲台構築が開始された。
 テニアン港を望むテニアンビーチの丘には小川和吉海軍大尉の指揮する小川砲台(ペペノゴル砲台)が構築
 された。「小川砲台」には「安式四十口径六吋砲」3門が配備され、小川砲台長以下70名が配置についた。
 「安式四十口径六吋砲」は旧式の艦載砲であったが陸上の沿岸砲として転用されていた。
 昭和19年(1944)3月「安式四十口径六吋砲」6門が「テニアン港」に揚陸され、砲台まで輸送が開始された。
 約7tの砲身重量は海軍第56警備隊のトラックには重すぎた為、輸送はコロを用いて人力によって行われた。
 移動には数日間を要したと言う。
DSCN2333_convert_20160505181906.jpg
▲当時3門の砲を据えたペペノゴル小川砲台上の山中に戦闘指揮所があり、コンクリートに覆われた指揮所の中では
 小川隊長と先任伍長の中村春一上曹が常にいた。この指揮所より来る小川隊長の命令を、各砲台員全員が米艦を目
 の前にして今か今かと待っていた。何日も何日も火を使わず、食器の音も出さない様にして、生米をかじり乾パン
 を食べ、少しの水だけで我慢強く待った。昭和19年7月24日サイパンよりテニアン港正面に向かって静かに前進を
 始めた米駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)がテニアン港の正面を向き様子を伺う。
 米駆逐艦を目の前にして小川隊長の伝声管と地上電話の声は「まだ待て、もう少し待て」と伝えていた。

 ▼小川砲台小3門の内の1門当時の写真(米軍撮影)現存する小川砲台も艦砲射撃を受ける前はこうなっていた
USMC-M-Tinian.jpg 
 
DSCN2352_convert_20160505191322.jpg
 ▲小川砲台から見えるテニアン港、今は非常に綺麗で静かなこの場所に米艦が来たのであろうと想いをはせた。
  (中央右に見えるのはテニアン島の南西約9㌔に位置するアギガン島「山羊島」)
 ▼アギガン島「山羊島」(移動中の機内から撮影)
DSCN2054_convert_20160508002002.jpg
※アギガン島「山羊島」も日本統治時代はサトウキビ栽培をしていた。その時放された山羊が自然繁殖し、山羊の島
 と呼ばれ、戦後から現在まで無人島となり、野生の山羊が沢山いるとの事。戦争中は、昭和19年4月21日歩兵第50
 連隊隊第2中隊の山田少尉の指揮する約40名が派遣されていた。艦砲射撃によって若干の死傷者をだしたが、主と
 して夜間耕作によって芋を栽培、これを主食にして終戦に至った。終戦時兵力は隊長以下61名、テニアン本島から
 の脱出者、補給要員等で20名増加していた。昭和21年2月11日投降勧告に応じた。

 ノーマン・スコットがテニアン港正面を向いた時、隊長より大声で「全砲発射用意。撃て!」との命令だ出された。
 ペペノゴル小川砲台の3門と2本ヤシ柴田砲台の3門が一斉に火を吹き、雷鳴のような砲声が轟く。最初の1発づつが
 ノーマン・スコットの機関部と艦橋部に命中。暫くして「米駆逐艦ノーマン、轟沈」と砲台の奥にいる兵隊にも伝
 わり歓声が上がる。「バンザーイ!バンザーイ」挟み撃ちされたノーマン・スコットは大破しサイパンに後退。
USSNormanScott_convert_20160505184308.jpg
 ▲米駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)オーエンス艦長以下22名戦死、67名負傷
usscleveland-tinian.jpg
 ▲帰還した米軍兵士が戦後画いた当時の様子。
 次に米巡洋艦コロラド(USS Colorado)がテニアン港正面を向く。米艦に砲台の位置を知られてからの小川砲台は、
 柴田砲台と呼応し、連続発射し合計22発を命中させた。巡洋艦「コロラド」は火災を起こし、相当数の死者と重傷
 者を出し、後退した。しかし、歓びも束の間、次に何が起こるかは砲台員全員が知っていた。米軍の報復は激烈な
 ものであったと言う。サイパンより3隻の戦艦と巡洋艦、駆逐艦が急行し、テニアンの砲台を砲撃した。
 小川砲台2番砲の銃眼より米艦の砲弾が飛び込み、砲台内で火薬に引火。大火災が起こり、火柱が渦を巻いて火薬が
 飛び散り、戦死者多数を出した。夕刻頃、砲長の杉本兵曹は戦死者の中より起きあがり、両眼が見えない様だったが
 私の声が分かるらしく手探りで近づいてきた。体に付着した火薬を取り除き、手当を始めると「手がもげているぞ」
 との声によく見直すと、杉本兵曹の右の手首より先がないではないか。出血もなく、時計だけが動いていた。
 杉本兵曹は自分の事より、「大丈夫か」としっかりとした声で聞く。何と気丈な砲長かと感嘆させられた。
 側にいた神山兵曹に連絡し、野戦病院に運ぶ手配をして他の戦死者、荒井文衛門兵曹他の方々を砲台の南側に埋葬し
 夜に入ると陸戦隊の準備をして小川隊長の後に続いたと言う。
 「ああ、死の島テニアン」より
KIMG0319_convert_20160505190843.jpg
▲ペペノゴル小川砲台3門中1門はテニアン空港に展示されている(小川砲台と同型安式40口径6インチ砲)

日本軍の海岸砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)も
命中弾を浴び、艦長以下多数が死傷した。しかしこれは米軍の陽動作戦であった。
昭和19年(1944)7月24日07:00頃、米軍第4海兵師団はLCVP(ヒギンズ・ボート)LVT(水陸両用装軌車)か
らなる上陸用舟艇約150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に第4海兵師団と第2海兵師団
の一部が上陸した。
▼当時のチュルビーチ(CHULU BEACH)[チューロ海岸]
HEITE2_convert_20160510103934.jpg
「テニアン港」周辺での陽動作戦によって手薄になったチューロ海岸には、第29師団第50連隊第3中隊と
海軍第56警備隊が配備されていたが、米軍の砲爆撃と水際戦闘で全滅した。
BattleofTinian_convert_20160511111338.jpg

TINIAN19_convert_20160506150954.jpg

battletinian_convert_20160516125638.jpg
▲▼昭和19年(1944)7月24日チューロ海岸に上陸する米軍
tinian3_convert_20160506101002.jpg

Tinian11.jpg

TINIAN15_convert_20160506115301.jpg

Tinian8.jpg

TINIAN_convert_20160506160435.jpg

tinian24.jpg

tinian2_convert_20160506104815.jpg

Tinian9.jpg
(25日には第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した)
DSCN2560_convert_20160505192908.jpg
▲チューロ海岸に今も残るLVTの残骸。
水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘の為ほとんど全滅し、米軍は日没
までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊54000人を上陸させた。
この上陸での、米軍死傷者は240名(うち戦死15名)であった。

▼米軍に破壊された日本軍陸軍トーチカ、当時の写真(麻生隊トーチカかもしれない・・・)
tinian39_convert_20160506155849.jpg
▼ビーチには上記写真とよく似た長方形のコンクリート製の遺構が残っていた。
DSCN2365_convert_20160507152251.jpg

DSCN2370_convert_20160507152838.jpg

DSCN2364_convert_20160507152810.jpg

DSCN2552_convert_20160505193221.jpg
▲▼チューロ海岸に今も残る日本陸軍麻生隊トーチカ
DSCN2554_convert_20160505194216.jpg
▼陸軍 麻生隊トーチカ内部 激しい艦砲射撃を受け陸軍50連隊の主力だった麻生隊は壊滅し、全員戦死。
DSCN2551_convert_20160505194704.jpg
▼内部の銃眼部分には「昭和十九年五月 麻生隊」と、まだはっきり読み取れる
DSCN2545_convert_20160505195244.jpg

DSCN2544_convert_20160514210625.jpg

▼チューロ海岸近くに今も残る米軍LVT(水陸両用装軌車)
DSCN2568_convert_20160505233018.jpg
▼テニアン島に上陸した米軍LVT(水陸両用装軌車)
tinian4.jpg
▼LVT(水陸両用装軌車) 画像はパラオ諸島ペリリュー島に上陸するLVT
peleleyLVT_convert_20160505234753.jpg
▼現場のチェルビーチに立つとかつての日米激戦地である事を忘れてしまう程綺麗な海に見惚れてしまう。
DSCN2366_convert_20160507153702.jpg
そして24日の深夜に日本軍による反撃が開始されたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により、
日本軍の進撃が遅れた。それにより、調整の取れない攻撃を行い、約2,500名にも及ぶ損害を受けて反撃は
失敗に終わった。この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長が戦死、戦車は4両
を残すだけとなった。
▼24日深夜の反撃で撃退された日本軍兵士の遺体。
Tinian966.jpg

tinian5.jpg

Tinian1.jpg

TINIAN26_convert_20160506155011.jpg
▼破壊された鹿村一男中尉率いる第18連隊戦車隊独立戦車第2中隊の戦車
Tinian167.jpg

JapaneseTankTinianIsland1944_convert_20160510163240.jpg

JapanesetankTinian.jpg
▼▲日本軍を撃退し南下する米軍。▲道端に破壊された日本軍戦車が写っている。
Tinian13_convert_20160506114119.jpg

battletiniansanhose_convert_20160516123921.jpg
日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は25日、第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した。
tinian35_convert_20160506152521.jpg

Tinian21.jpg
▲破壊されたテニアン市街地(現サン・ホセ市街)
日本軍は新防衛線を構築すると共に、民間人の中から16歳から45歳までの男子約3500名を集め、民間義勇隊6個中隊
を編制。戦闘に協力させた。7月28日陸軍 緒方守備隊長は陸海軍大臣宛の電報を発した。
「在テニアン邦人1万5千名中、16より45才のもの3500名義勇隊を編成し軍に配属、奮戦敢闘しつつありて、皇国人と
しての伝統を遺憾なく発揮しあり。老人婦女子は集合の上、爆薬により処刑す」と。
28日海軍 角田中将も「老人婦女子を爆薬にて処決せん」とする電文を海軍軍令部に送っている。
しかし7月30日までにアメリカ軍は防衛線を突破、テニアン市街を占領した。
7月31日、カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始、マルポ水源地、テニアン町南側付近 第3飛
行場南側で戦闘を行った。戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、島南端のカロリナス高地へ撤退した。
この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸は米軍が占領し、日本軍は長期の抵抗を行う事が困難となった。
夜半、緒方連隊長はグアム島第31軍司令官小畑英良中将に対し、最後の報告を打電する。
翌8月1日も日本軍は前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃を行ったが、失敗。海軍の栗野原大佐、設営隊長林技術
少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。
8月2日緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と斬りこみ隊を組織した民間義勇隊等約1000名が、アメリカ軍に対し夜間
突撃を敢行したが多勢に無勢。アメリカ軍は機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえた為、日本軍に死傷者が続出。
緒方連隊長は後退中に戦死。27日には司令部を放棄し、南部のカロリナス洞窟に後退する。
▼南部のカロリナス付近まで迫ってきた米軍。
battletiniankuriff_convert_20160516123433.jpg

battlemarianastinian.jpg
角田中将は31日最後の電報を打った。「今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム」
この時、大本営から電報が入る。
清水中佐「長官、大本営からテニアンを脱出せよとの電報が届いています」
カロリナス沖に迎えの潜水艦を用意すると言う。この頃、優秀な人材が皆戦死し、軍部では非常に困っていた様だ。
大本営はグアムやテニアンに居たパイロットや技術を持った工兵をなんとか脱出させようとしていた。
角田中将「もう間に合わんよ」
8月2日朝、角田中将は最後の突撃命令を出した。飛行士の横森直行少尉が出発しようとすると、司令部に呼ばれた。
この時、角田中将は階級章をつけていなかったと言う。死地に赴く幹部の姿だった。
横森少尉「お先に出発します」 角田中将「横森、ご苦労だった」そして角田中将は2つに割った「オニギリ」の1つ
を差し出した。最後の別れは酒でもない、水でもない「オニギリ」だった。
その後、角田覚治中将は手榴弾2つを持ち、「じゃあな」と笑顔を残して洞窟から姿を消したと戦史は伝えている。
Kakujikakuta_convert_20160506141708.jpg
▲角田覚治 海軍中将 享年53歳
角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令
の大家大佐も戦死し、結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は8月3日夜明けに終結した。
その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、テニアン島は隆起珊瑚礁からな
る平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。日本軍戦死者約8100名、生存者 313名。
アメリカ軍戦死者389名、戦傷者 1816名を出しテニアンの戦いは終わった。
TINIAN99.jpg

TINIANJAPANHOU.jpg
▲カロリナス大地で掃討作戦を行う米軍兵士
tinian23_convert_20160506144107.jpg
▲戦いが集結し、戦利品の日の丸の寄せ書きを持っての米軍記念撮影。
Tinian10.jpg
▲テニアン島の戦いで負傷した米兵を運ぶ米軍兵士達。
saipanminkanjin_convert_20160329104617.jpg
▲海兵隊巡察隊員が、丘の中腹の洞窟に隠れていた日本人家族を発見。激しい戦闘から身を隠していた母親と4人の
 子供と犬であった。
tinianTOUKOU.jpg

Tinian25_convert_20160506153509.jpg
▲戦い終結後に日本人民間人に尋問をする米軍兵士。
tinianjimotomin_convert_20160506153812.jpg
▲生き残った民間人は終戦までテニアン島の捕虜収容施設で暮らした。終戦後、日本に引き揚げた人員は約2300名。
 米軍来攻時には16200名(内朝鮮人2700名)の邦人が在島していた。軍に協力して玉砕した者、スーサイドクリフ
 から身を投げた者も含め、13000人以上の民間人が戦いの犠牲となった事も忘れてはいけない。
▼テニアン島スーサイドクリフ(サイパン同様SUICIDE CLIFF→「自殺の崖」)である。[カロリナス大地]
 岩肌には無数の洞窟が遠くからも見える。周囲はうっそうとした密林で、現在も簡単には近づくことは出来ない。
DSCN2608_convert_20160507215905.jpg
昭和19年7月31日~8月1日にかけて激しい攻防戦が続き日本軍は島南端のカロリナス台地に追い詰められていく。
カロリナス大地のジャングルの中の洞窟にいた民間人でダイナマイトや青酸カリを持っている人は自決していった。
首をつろうとした民間人に『民間人には罪はないのだから止めなさい』と言った日本兵もいたと言う。 
テニアン島には川は無く、飲まず食わずで、1週間程。自分のおしっこを、子供に飲ませる人もいたそうだが子供が嫌が
って飲まず、泣きやまないので『子供を殺せ』と言った日本兵もいたと言う。
自分の手で子供を海に放りこんだり自分の手で子供を殺した人もいた。のこぎりで子供の首を切ってしまった人もいた。
DSCN2607_convert_20160507215509.jpg
テニアン島の面積はサイパン島の半分程、地形は平坦で農地や飛行場には適しているが、立てこもるには向いていない。
「水もお菓子もあげるから、出てきなさい」というアメリカ軍の投降を呼びかける放送も始まったが最後まで投降しな
かった人々もいた。断崖のあちこちには天然の洞窟があり、ここにも多くの日本人が潜んだ。
目に映る断崖の無数の穴は、米軍の海からの艦砲射撃の跡でもある。1000名の兵士と民間人がこのあたりに潜み、捨て
身の突撃を待っていたと言う。その多くは、アメリカの掃討作戦と飢餓に倒れた。
DSCN2600_convert_20160507220150.jpg
サイパン島「バンザイクリフ」同様、絶望した日本人が身を躍らせた海岸である。多くの慰霊碑が立っているが犠牲者
の正確な数は分かっていない・・・。近年の遺骨収集でこの海岸で多数のご遺骨が出たと聞いた。
tinian93.jpg
▲平成元年(1989)に撮影された同じ場所。案内看板に日本語が併記されている事に注目。現在は日本語併記は無い。
 いかに最近日本人が訪れていないかを物語っている。観光に来ても慰霊には来ないのであろう・・・。
DSCN2601_convert_20160507220302.jpg
同じ日本人の銃弾に倒れた人々もいる「降伏を許さない軍隊」から逃れ、アメリカ軍のもとに行くことは極めて危険
であった。同じ日本人にスパイ呼ばわりされ、命を失う事にも繋がったと言う。
DSCN2609_convert_20160507220624.jpg
▲日本海軍第56警備隊の慰霊碑
KIMG0119_convert_20160508122627.jpg
サイパン同様、いくつも慰霊碑があるが日本政府が建てた慰霊碑は無いらしい・・・。どこもバラバラである。
海外の戦跡・戦地の慰霊で、日本人は永遠に一つになれることは無いのだろうか・・・、悲しくなる。
KIMG0193_convert_20160508152317.jpg
▲サンホセ市街にある韓国人(朝鮮人)慰霊碑。この一帯は日本統治時代は火葬場だったそうで、朽ち果てたレンガ
 作りの火葬場が残っていた。KIMG0175_convert_20160508153503.jpg
▲▼「無縁塔」もあり裏には「昭和十五年七月・・・・テニアン町役場」と読める。
KIMG0174_convert_20160508153715.jpg
▼この付近には戦時中に使用された洞窟がいくつもあり、3つは入る事が可能だった。
1つ目は現在「マリア像」が置かれている広い洞窟で、日本軍野戦病院として使用されたとの事。
(陸軍第29師団所属第一野戦病院・稲田壽郎軍医中佐/小野直樹軍医大尉以下40名)
KIMG0151_convert_20160508154919.jpg
▼2つ目は火炎放射器で焼かれた跡が生々しい洞窟だった。洞窟入り口付近に十字架がある。
KIMG0189_convert_20160508154651.jpg
▼3つ目は見つけにくい場所だが日本海軍第56警備隊本部跡の洞窟がある。入り口に到達するまで少し
 木々が多いので行き難い場所だが一番軍事壕らしい内部でコンクリートで固めてある強固な作りだった
KIMG0153_convert_20160508161705.jpg
▲入り口は狭く、石垣が組まれ外から見えにくくなっている(撮影もしにくい・・・。)
KIMG0156_convert_20160508155031.jpg
▲中に入ると床はコンクリート、サイドもコンクリートでしっかり固められており通り抜けると2つ目の入り口に
 繋がり、Uの字になっていた。中は真っ暗で入り口付近に放置されていた「DAINIPPON BREWERY」と書かれ
 た当時のビール瓶が転がっていたので端に立てておいた。戦地の日本軍司令部等でよく見られるビールだ。


日本海軍のハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)
が建設され、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。
▼完成当時の米軍ウエストフィールド飛行場。
tinianNorthField.jpg
▼米軍占領後のテニアン島。南側(下)に4本の滑走路が確認出来る。右奥はアギガン島「山羊島」
※ブログ上記でアギガン島「山羊島」の山羊が自然繁殖した事を紹介したと思う。戦後アメリカ軍は荒廃したサトウキ
 ビ畑跡にタンガンタンガンの木の種を空中散布した為、 テニアン島は高さ3m程のタンガンタンガンの木に覆われて、
 島の植物体系が変わってしまった。将来の基地使用に備え、住民にこの密林を取り払って耕作するなど出来ない、と
 諦めさせるのが米軍の狙いだったが、山羊はタンガンタンガンの葉が好物だったので自然繁殖した経緯がある。
tinianairview_convert_20160509111014.jpg
昭和19年(1944)11月以降、連日の様に日本に向かうB-29 がこの島を離陸していった。
▼テニアン島ノース・フィールド飛行場から出撃するB-29。
B-29Tinian_convert_20160509110856.jpg
▼日本海軍ハゴイ飛行場を拡張整備して作られたテニアン島ノース・フィールド飛行場
tinian33_convert_20160509112304.jpg

Airfieldstinian_convert_20160524135208.jpg

tinian36.jpg
昭和20年(1945)8月6日広島、8月9日長崎への原爆投下作戦のB-29は、テニアン島ノース・フィールド飛
行場から発進した。1度自分の目で見たかった、そんな日本にとって深い繋がりのあるテニアン島を訪れた。
▼画像はエーブル滑走路。2600mの滑走路が4本あるが、ここは1番北側の物。この滑走路こそ広島/長崎に飛び立
 った「エノラゲイ」と「ボックスカー」の使用したものである。
DSCN2475_convert_20160509182452.jpg
昭和20年(1945)8月5日夕刻B-29に積まれた原爆は日付が6日に変わった真夜中2:45この滑走路を飛び立った。
そして昭和20年(1945)8月6日8:15広島であの惨劇が起こった。
ENORAGEI_convert_20160510162230.jpg
▲原爆搭載準備に入るB-29「エノラゲイ」
GENBAKUbomb_convert_20160510160306.jpg
▲▼原爆ピットに納まる広島型原爆(リトルボーイ)
hirosimagata_convert_20160509120110.jpg

littleboypic_convert_20160510161649.jpg

EnolaGaytinianpit.jpg

battlehiroshima_convert_20160516131935.jpg

GENBAKUENRAGEI_convert_20160510160609.jpg

battlehiroshima1_convert_20160516132024.jpg
▲原爆ピットから油圧ジャッキで持ち上げられ、B-29エノラゲイに搭載される広島型原爆(リトルボーイ)
ENORAGEYKURU_convert_20160510162803.jpg
▲「エノラゲイ」搭乗員
enolaSYUTUGEKI.jpg
▲昭和20年(1945)8月6日真夜中02:45出撃前笑顔で手を振る「エノラゲイ」搭乗員
DSCN2499_convert_20160509212734.jpg
▲NO.1原爆ピット。広島型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)/長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)を搭載
NHK戦跡と証言「原爆ピット」テニアン島
DSCN2504_convert_20160509213551.jpg
▲NO.2原爆ピット。長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)が収められたが、油圧ジャッキの故障で搭載時は
 NO.1原爆ピットが使用されたと聞いた。
genbakupit_convert_20160510100200.jpg
▲当時の原爆ピットNO.2
FATMAN_convert_20160509215741.jpg
▲長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
battlenagasaki_convert_20160516130055.jpg

battlenagasaki1_convert_20160516130349.jpg

battlenagasaki2_convert_20160516130755.jpg

battlenagasaki3_convert_20160516131040.jpg

fatmanbig_convert_20160512171110.jpg

battlenagasaki5_convert_20160516131557.jpg

FATMAN1_convert_20160510155717.jpg
▲NO.2原爆ピットに収まる長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
nagasaki.jpg

NAGASAKIGENBAKU_convert_20160511114615.jpg
▲廃墟となった長崎
KUMITATEPULANT_convert_20160509223750.jpg
▲原爆組み立て工場。
TinianLittleBoy.jpg
▲戦後取り壊される前の原爆組み立て工場。
人類史上初めて実践で使用された核兵器は、マンハッタン計画に基づき米国国内で製造された。
昭和20年(1945)7月26日テニアン港に原子爆弾の部品と核燃料を積載した米海軍重巡洋艦インディアナポリスが入港。
荷揚げされた部品と核燃料は米軍テニアン占領後に原爆を運ぶ為に整備された道路「ブロードウェイ」を通り、原爆ピ
ット北の「原爆組立工場」に運び込まれた。
原子爆弾の部品と核燃料がテニアン島に届けられた4日後の昭和20年(1945)7月30日日本海軍潜水艦「伊-五八」によ
って米海軍重巡洋艦インディアナポリスは撃沈された。部品と核燃料がテニアン島に届けられる前に撃沈されていれば、
歴史は違ったものになっていたかもしれない・・・。原爆投下計画が日本側に知られたと感じた米軍は広島原爆投下を
急いだと言う。しかしインディアナポリスの撃沈は偶然であった。
5日後の7月31日広島型ウラニウム原子爆弾「リトル・ボーイ」の組立てが完了した。
GENBAKUKUMITATE_convert_20160509224442.jpg
▲当時「原爆組立工場」には空調が完備され、温度差によって原子爆弾の部品同士が合わなくなるのを防止していた。
※原爆組立工場は戦後解体され、現在はコンクリートの土台がわずかに残るだけとの事で見学していない。
原爆ピットは戦後埋め戻されプルメリアとココナッツの木が植えられていた。2004年6月15日サイパン侵攻を記念し
て第2次世界大戦60周年記念式典が挙行されるのに合せ、埋め戻されていた2基の原爆搭載ピットを掘り返して公開さ
れた経緯がある。「パールハーバー(真珠湾攻撃)がなければ、広島・長崎も無かった」というのが米国の立場だが、
「ABCD包囲網がなければ、パールハーバー(真珠湾攻撃)も無かった」というのが日本の本音だと思う・・・。
▼戦後埋め戻された時のNO.1原爆ピット
GENBAKUPITMAE_convert_20160510154927.jpg
▼平成元年(1989)に撮影されたNO.1原爆ピット(まだ埋め戻された状態で案内看板に日本語も併記されている)
tinian100.jpg
▼平成元年(1989)に撮影されたNO.2原爆ピット(まだ埋め戻された状態で案内看板に日本語も併記されている)
tinian77.jpg
広島/長崎に続いて3個目の原爆用プルトニウム核と起爆装置をテニアンに輸送する為B-29を米本土に待機させていた
マンハッタン計画の長グローヴス将軍は「これ以上原爆の使用は望まない」とのトルーマン大統領の意向を受けてこの
計画を中止した経緯もある。エノラゲイのパイロット、ティベッツ氏が「原爆を投下したが為に、日本本土上陸作戦を
行わずして日本を降伏させる事が出来た。広島/長崎の市民が 多数犠牲になったとしても、上陸作戦で失われたであろ
う、数十万人の米軍兵士の命に代え難い」と言った様に、原爆が無ければ「本土決戦」が行われていたであろう。
そして日本という国は消滅していただろう。米軍だけでは無く、日本軍民も広島/長崎以上の死者が出ていただろう。
喧嘩両成敗という言葉があるが、国と国との戦争の後には勝戦国と敗戦国しか無く、負けると解っていた日本は「対話」
の努力を続けるべきだったであろう。しかし、戦って学んだ事が日米に必ずあるはずだ。そうでなければ先の大戦で亡
くなった全ての人に対して堂々と慰霊が出来ない。
▼アメリカ軍戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式
MIZURIKOUFUKU_convert_20160511120025.jpg
原爆は核分裂によって生ずるエネルギーを利用する点において、化学反応による通常兵器と根本的に異なる。
人体に与える深刻な影響は通常兵器の比べものにならない。化学兵器の使用は人類にとって恐怖以外に言葉が見つから
ない。原爆を使用したアメリカに対して、日本では批判的な意見も多くある。しかしプルトニウムの原料不足で開発を
断念したものの、日本も原爆開発を進めていた事実がある事を忘れてはいけない。
国力が逆であったならば、日本も同じ事をしていたかもしれない。
hiroshima1.jpg

HIROSHIMAHAIKYO_convert_20160511114121.jpg
▼広島に原爆を投下し、テニアン島ノース・フィールド飛行場に帰還するエノラゲイ。
B-29EnolaGay+landing+after+the+atomic+bombing+mission+on+Hiroshima_convert_20160509135028.jpg
▼戦後70年以上が経っても世界では「戦争」というものは続いている、日米共に多くの人が亡くなって日本の平和は
 続いている。それが「当たり前」と思っている日本人の多さに危機感を感じるのは私だけだろうか・・・。
hiroshima2.jpg

▼ダイナシティーホテル社宅裏に、リトルボーイとファット・マンの実物大模型が展示?放置?されている。
KIMG03421_convert_20160509214928.jpg
誰が何の為に製作したかは不明との事。案内板の文字は英語と中国語のみであった。
KIMG0138_convert_20160509221912.jpg
ノース・フィールド原爆ピットの中に展示する案も出た様だが、色が違うとの事でアメリカ軍から却下されたそうだ。
テニアン市では市長が変わる度に前市長が行った事が全て無になる事が多い様で、この模型が出来た時の市長が作らせ
た物かもしれない。との事だ。いずれにせよ詳しい経緯は何も解らないとの事だった。
KIMG0142_convert_20160509222229.jpg
▲▼広島型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)
KIMG0139_convert_20160509222159.jpg

KIMG0146_convert_20160509222258.jpg
▲▼長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
KIMG0147_convert_20160509222329.jpg
※ファット・マンの実物大模型は大津市歴史博物館でも見る事が出来る。本土空襲の中で米軍はファット・マンと同型
爆弾(原爆では無いパンプキン爆弾と呼ばれる物)を投下し、本番の原爆投下の練習をしていた。
別名「模擬爆弾」と呼ばれたパンプキン爆弾は、爆撃機B-29に搭載し、昭和20年7月20日~8月14日までの間に日本
全国30都市に49発が落とされ、原爆の投下訓練を行った。機体が原爆の爆風に巻き込まれないよう、投下後、速やか
に上空を離れるための操縦訓練などが目的だったが、模擬原爆によっても日本全国で計約400人が犠牲になった。
(※大阪では7月26日09:26、1発の模擬原爆が東住吉区田辺の元料亭付近に落下。7人が死亡、73人が負傷した。)
その内1ヶ所が滋賀県大津市内だった。場所は当時、魚雷を製造していた東洋レーヨン石山工場(現東レ滋賀事業場)で、
日時は7月24日07:47。16名の方が亡くなられたと記録されている。その事実を語り継ぐ為に展示されている。
小生も2015年に見学に行った。画像はその時撮影したものだ。
▼大津市歴史博物館(滋賀県)に展示されているパンプキン爆弾実物大模型
DSCN9654_convert_20160510184023.jpg
(ファット・マンと同型全長3.2m球体部直径1.5m重量約4.5t)
DSCN9656_convert_20160510182630.jpg


▼テニアン島の戦いで撮影された有名な写真。
 (孤児となった収容所の子供にキャンディーを与えるフェデリーコ・クラベーリャ1等海兵)
TINIAN14_convert_20160509140731.jpg
[テニアン日本人学校]
アメリカ軍に投降し、保護された日本の民間人は、カーヒー地区に建設されたキャンプに収容された。
掘っ立て小屋の様な所で、むしろを敷いただけのものだったと言う。仕事(米軍のお手伝い)に行けば、チョコレートや
ガムが貰えたと言う。アメリカ軍は戦時中にもかかわらず、昭和19年戦いで荒れ放題になったテニアン島に日本人の
子供達の為に学校を作った。生徒数は2074名である。
「私も、学校で英語を習ったんですよ。そしてここで星恵美子さんとも、一緒になったんですよ。戦後日本に戻った後
も、ここで覚えた英語が役に立って、山形の米軍図書館で働いたんです」
と、当時14歳、生まれて半年でテニアン島に渡り、生還された井上茂さんは語っておられる。
この学校の創設に尽力したのは当時26歳のムック海軍中尉である。敵国の為にと周囲の反対を押し切って学校を作った。

▼圧倒的兵力とはいえ日本軍の猛攻で389名の米兵が戦死した(当時米軍戦死者を埋葬したウエストフィールド墓地)
tinian6.jpg
▼テニアン島を南北に貫く「ブロードウェイ」の北に[アメリカ記念碑」があり、戦没した米兵の慰霊碑として戦後アメ
リカ政府によって建てられた。戦後米軍戦死者の遺骨はアメリカ本土に還り、アメリカンメモリアルだけとなっている
DSCN2445_convert_20160509190151.jpg


現在、沖縄に滞在する在日米軍の一部がテニアン北部に移転する事が決まっており、テニアン島北部にある
ノース・フィールド飛行跡や原爆ピット、日本海軍ハゴイ飛行場関連施設跡は見学が出来なくなるかもしれ
ない為、今回予定を早めてテニアン島を訪れた。カジノも現在建設中で、米軍が駐屯すればテニアン島の活
気が戻る事が期待されている。
DSCN2268_convert_20160505212322.jpg
▲▼テニアン島へはサイパン島からスターマリアナスエアを使い約10分程、チェロキー機の乗り味は最高だ。
DSCN2267_convert_20160505212708.jpg
▼サイパン国際空港を離陸する。
DSCN2293_convert_20160508114047.jpg
▼テニアン国際空港を機内より撮影。かつては日本軍カヒット飛行場だった、テニアン島の戦い後、米軍によって拡張
 され、昭和20年(1945)3月ウエスト・フィールド飛行場と命名される。戦後テニアン国際空港となった。
DSCN2012_convert_20160508113334.jpg
▼サイパン島を離陸して約10分、テニアン国際空港に着陸態勢。
DSCN2309_convert_20160726223725.jpg
▼テニアン国際空港に到着。
KIMG0331_convert_20160505213212.jpg
▼テニアン空港はローカルな雰囲気漂う小さな空港。
KIMG0330_convert_20160505213138.jpg

DSCN2321_convert_20160505213437.jpg

KIMG0324_convert_20160505213612.jpg

KIMG0322_convert_20160505213634.jpg

DSCN2324_convert_20160508111615.jpg
▲テニアン島民の75%が失業状態と言うが、新し目の車はチョクチョク見かける。
KIMG0316_convert_20160505215317.jpg
▼テニアン島北東部の海岸「潮吹き海岸」という観光スポットに行って見た。
DSCN2463_convert_20160508110045.jpg
▼潮吹きポイントの直ぐ南側は立ち入り禁止区域となっている。潮吹きポイントよりこちら側が気になった。
DSCN2450_convert_20160508110553.jpg
▼潮吹きポイントからサイパン島が綺麗に見える、近い。サイパン島の戦いを見ていたテニアン島守備隊は覚悟を
 決めていたであろう・・・。
DSCN2449_convert_20160508110939.jpg
▼(テニアン島→サイパン島→グアム島)サイパン島離陸後機内より撮影。
 左がテニアン島北部(原爆投下作戦のB-29が出撃したノース・フィールド飛行場が見える)
 右はサイパン島南部(最短距離の航路は、海流がぶつかるポイントで波が荒く戦艦でも無理らしい)
DSCN2037_convert_20160508232013.jpg
▼グアムに戻る機内から原爆投下作戦のB-29が出撃したノース・フィールド飛行場が綺麗に見えた。
DSCN3336_convert_20160510185313.jpg

HIROSHIMAGENBAKU_convert_20160511120813.jpg
▲歴史と未来を深く考える事が出来、勉強になったテニアン島の旅だった。
1280px-HiroshimaCenotaph_2008_01_convert_20160510223100.jpg
G7広島外相会合で、ジョン・ケリー米国務長官はアメリカ現役閣僚として初の原爆死没者慰霊碑訪問となり献花した。
オバマ大統領の広島訪問が実現するかもしれない。小生はとても嬉しい。
慰霊碑の石碑前面「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文は原爆投下の悲劇に対して、あえて米国
への名指しの非難をせず、人類全体の悲劇として追悼しているものと思う。
もしも名指しで米国を非難していたら、そんなところに、米国大統領は絶対に立ち寄らない。
先日のG7外相会合「広島宣言」採択は原爆投下の悲劇を、あえて人類全体の悲劇として、特定国への非難を避けてき
たからこそ実現したと強く思う。非難と追悼は別物だ、そうしないと世界は憎しみと復讐だらけになってしまう。
原爆による非戦闘員の無差別殺戮は、人類史に残すべき大虐殺である事は間違いない。
しかし特定国への非難は犠牲者追悼の場とは別の場所でやれば良いと思う。
「平和」と「自由」は非難からは生まれない。それを戦ってくれた全ての英霊が命をかけて教えてくれた。
死んだ人は戻ってこない。共に追悼し、過ちを繰り返さないと誓う。それこそが犠牲者への最大の供養になると思う。

※5/10追記
オバマ米大統領は5月10日、5月27主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)出席の為に訪日する際、広島を
訪問する方針を決めた(日米両国政府発表)
ローズ大統領副補佐官は10日朝、オバマ氏の広島訪問の意義について「大統領は広島で『核なき世界』の理念のもと
で平和と安全を追求するという米国の考え方を再確認する」とウェブ上のブログで明らかにした。原爆投下の決断につ
いて再評価はしないとしつつ「大統領の(広島)訪問は戦時中に亡くなったすべての無実の人々に敬意を表する機会と
なる」とも述べた。
素晴らしい、平成28年(2016)5月27日は日本にとっては歴史的に重要な日になると思っている。

※5/27追記オバマ大統領広島訪問首都官邸facebook オバマ大統領広島訪問 岩国基地演説YouTube
オバマ大統領 広島声明ノーカット1YouTube オバマ大統領 広島声明ノーカット2YouTube
安倍総理大臣 広島声明YouTube

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_05_01


800px-RyoichiSasakawa_face.jpg
笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)
日本の政治運動家、社会奉仕活動家。国粋大衆党総裁、衆議院議員、全日本カレー工業協同組合特別顧問
財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、福岡工業大学理事長、勲一等旭日大綬章受章者

大阪府三島郡豊川村(現:箕面市)に造り酒屋の長男として生まれる。笹川家は代々庄屋を務めた旧家で苗字帯刀を許
されており、父・鶴吉は笹川家10代目当主。笹川家の菩提寺は1579年(天正7年)に笹川市兵衞が創建したと伝えられ
る浄土宗理照寺。1914年(大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)高等科卒業。
作家の川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。
飛行機乗りを志し陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊。

戦後、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、マスメディアからは「右翼のドン」と呼ばれた。
1974年(昭和49年)アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えて
いる。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な
意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評
価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。
経歴としては、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈
放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから、有罪認定
はされていないが、A級戦犯容疑指定を受けたことが、その後左翼的な報道機関により意図的に報じられる事が多かっ
たこともあり誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことを「A級戦犯で極東国際軍事裁判において有罪となった」
と信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。
巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の
没後に公表された。なお、第二次世界大戦前の笹川は自分を「大衆右翼」と位置づけベニート・ムッソリーニを崇拝、
大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。強硬外交を主張しつつ、日本社会へのファシズムの浸透に
注力した。巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会
(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興を進め、更に福祉方面の公共事業を助成する財団
法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)を創設した。CIAエージェントであったとも報じられている。
株式取引に長け、姪婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して事態を乗り切
ることに成功している。
[政治活動]
1925年(大正14年)、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補し、当選して政治活動を始める。芸能事務所経営
を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。  
[川島芳子]
その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し
総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいた事もある。イタリアの指導者であるベニート・ムッソリーニの崇拝者であり、
ムッソリーニ率いるファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。
なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子と交際があったと噂されている。
本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。後に、多田駿の指示があ
ってか、暗殺の危険を感じた川島が里見甫などに相談した結果、笹川の元に身を寄せたこともあり、一方で党総裁の笹
川もそんな川島の国民的知名度や人気にあやかろうとしていたともされている。
1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。
大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後1939年(昭和14年)には飛行機で
単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の山本五十六の後援があった。
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の
姿勢の為、非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも
親交があったとされる。
A級戦犯容疑と「巣鴨日記」(巣鴨プリズン)
1945年(昭和20年)には、日本を占領下に置いた連合国指令によりA級戦犯容疑者として12/1に逮捕命令が出て12/11
巣鴨プリズンに入獄した。が、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった。
戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後、連合国の主要国であるアメリカの方針が
180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共の為に生かして利用する方針変換となった為(いわゆる逆コース)1948
年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党
を更に全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。
上記の様に、笹川は戦争中に戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁く
事は不当であり、アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。
また、「アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に
日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。
ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は、
「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS民間諜報局作成のファイルによる)としてであった
事を知る。笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズン
ンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念「日本が親米反共の道を選ぶべき事」
「日本同胞を餓死から救わねばならぬ事」「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、東條英機に対して「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛の為のものであったと
いう日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」と説いている。
また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。
一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合う。このことが日本のエスタブ
リッシュメント人脈との交流に繋がった。笹川は、巣鴨プリズンのことを「人生最高の大学」と評して、「ここは娑婆の
20倍、30倍勉強になる」と語った。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA
級戦犯達を励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大
な人望があったという。
後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採
用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波
書店も筆者を漏らさなかった為、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。
加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面識があった)。
[戦犯者救済活動]
笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求
めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、酒も煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者
の慰霊に奔走した。海外で収監されていた戦犯者や「三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊の
為に設立された宗教法人白蓮社、および家族会である白菊遺族会にも物心両面の協力を続けたとされる。
戦犯者とその家族を支援することは、当時としては連合国軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する
人間はほとんどいなかった。笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一
切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は伊藤隆編集の元に『戦犯者を救え 笹川良一と東京裁判2』 として
刊行された。
[反共産主義の活動](蒋介石と妻の宋美齢)
笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていたが、終戦直前に参戦し日本人捕虜をシベリア
に連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。
1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、現在のアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組
織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を中華民国総統の蒋介石らと共に設立した。
統一教会とはある時期まで協力関係にあり1963年(昭和38年)には統一教会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6/4
の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一教会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、
結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪化した為か、
1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。
笹川は反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り「政界の黒幕」として影響力を及ぼしたと見られているが、
戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とする事は無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達で
きた事に加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた。
[中国との関係]
中国国民党の蒋介石と世界反共連盟を設立するなど反共の立場を取ったにも関わらず、1972年(昭和47年)9月の日中
国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国国民党と対立する中国共産党が支配する中華人民共和国への支援に
回すなどしている。1987年(昭和62年)から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェ
クトで来日した中華人民共和国の医学生は延べ2000人を超える。同時に中国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した。
[タブーと親交]
1960年代から1990年代の各週刊誌などで批判的言説を受けていたにもかかわらず、笹川に批判的な左翼マスコミからは
生前「新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表する事は、
ある種のタブーとなっていた。と言われてきた。しかし、笹川は有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、
との例えどおり、実力の上において、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモ
チの方が強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのある事だった。
戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、
マイナス・イメージを持っていた為、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。
なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代になっている。また、
山口組三代目・田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。ロッキード事件が騒がれるとロ
ッキード副社長と会った事実などが明らかになるが、笹川は「会ったことがあるが疑惑はない」と反論し、実際にそれ以
上の追及はされていない。国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。
世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはアメリカの元大統領ジミー・カーター、
実業家ジョン・ロックフェラー等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』「解説」に詳しい。


A_Japanese_Tragedy_1946_film_(12)_wmplayer_2013-04-09_19-27-49-090_R.jpg
児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日は、日本の右翼運動家。
CIAエージェントであったという。暴力団・錦政会顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した。
三男はTBSサービス社長の児玉守弘 戦後の日本・欧州の視点 No.3-1 児玉機関と笹川良一YouTube
戦後の日本・欧州の視点 No.3-2 児玉機関と笹川良一YouTube
最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏と津久井龍雄ら
高畠素之門下によって創設された急進的な右翼団体「建国会」(会長は上杉慎吉、顧問に頭山)に加わった。
すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。
その後、建国会を脱退した津久井の急進愛国党を経て1931年に津久井と狩野敏が作った全日本愛国者共同闘争協議会
に参加。そこで国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし投獄された。
1932年に釈放され、満州に渡り、大川周明門下の笠木良明ら率いる大雄峯会に参加。同年、帰国すると「独立青年社」
を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を
破壊して停電を起こすことで皇道派のクーデターを誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。
発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党に参加。
1937年外務省情報部長河相達夫の知遇を得て中国各地を視察。1938年海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関
を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。
60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の1人
であった。1961年この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。
60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。
1967年7月笹川良一の肝煎りで、「第1回アジア反共連盟」結成準備会」が開催された。
この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
1969年青思研より独立した右翼団体日本青年社が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。
[児玉機関]
1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川の紹介で採用され海軍航空本部の嘱託となった。
ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した。
1941年真珠湾攻撃直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将
(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。この縁で上海に児玉機関と呼ばれる店を出した。
これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約を
もらっていた。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言
われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、
秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた。
児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されると
いう結果となった。この間1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京
5区から立候補をして8位落選をしている。
[逆コース](戦犯として収容時のマグショット)
終戦後、講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となって
いた。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍によ
り右翼をパージするSCAPの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」
を走る様になった。1948年12月24日に釈放されるが、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている。
確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていた事と、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国
内鉱山を明らかにしている事、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析している事である。
「フィクサー」へ(児玉邸にて政治家たちと密談1953年)
児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた。
児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を鳩山ブランド
の日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。
1950年北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を
築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次
が大きな役割を果たすことになる。
[岸信介]
1954年には、河野一郎を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党に
なった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。
岸信介が首相になる際にもその力を行使した。岸首相の第1次FX問題問題をめぐる汚職を社会党の今澄勇が追及していた
時は、等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし今澄が聞き入れない為、身上調書
を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。
児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。
それらに書き立てられることは脅威となった。
[ドワイト・D・アイゼンハワー]
日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡
す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。
改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸信介首相は自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉は
その世話役も務めた。
1962年(昭和37年)夏頃から「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の
防波堤となる強固な組織を作る」という構想の元、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局結成されなかった。
しかし、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付けていた。
昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃」
を実現させた。
[フィクサー]
児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると
韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企
業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、後に韓国大統領となる朴正煕とは満州
人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って韓国
利権に走った。日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。
1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンライ
ンの土屋研一は児玉に事件の解決を依頼した。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。
そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。
児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石
油の子会社だった日本精蝋を1974年夏に買収した。
児玉が圧力をかけるときは今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに博報堂がある。
その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、
その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、靡かないメディアには広告依頼を回さない。
このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和の商号を、1975年博
報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、
この元親会社に業務を請け負わせた。役員は広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を
連ねた。広田は、福井純一(博報堂社長)の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークし
ていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉
側近の第一人者であった。
[ロッキード事件]
児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”
戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった
1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。
児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。
韓国に対する影響力の大きさが窺える。
しかしこの頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった。
そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、
ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、既に日本航空はマクドネル・ダグラス社製DC-10
型機の購入を決定していた事もあり、その矛先を全日空に向けた。
この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、全日空は既に
決定していたマクドネル・ダグラスDC-10の購入計画を、後に贈賄で逮捕される元運輸次官の若狭得治社長の指示で破棄
し、ロッキード社のL-1011トライスターの購入を決定。その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の
日本での売上は拡大した。更に全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚
への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及される事となった。
[ロッキード裁判]
しかし1976年(昭和51年)アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人とし
て雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後三木武夫首相によってこの事
件の捜査が開始され、既にこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」
を起こし、床についた。しかし間もなく児玉は脱税と外為法違反で起訴され、裁判に臨む事になった。1977年(昭和52年)
6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れなかった。
元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。
児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。
72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没した。


Sejimaryuzo01.jpg
瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問など多くの要職
に就任し、政治経済界に大きな影響力を持ち、「昭和の参謀」と呼ばれた。号は「立峰」。
義父は岡田政権で内閣総理大臣筆頭秘書官を務めた松尾伝蔵(陸軍大佐)である。

1911年12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家で村長の瀬島龍太郎の三男として生まれた。
旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年に陸軍士官学校(第44期)を次席(首席は原四郎)で卒業、昭和天
皇から恩賜の銀時計を受けた。その後、富山歩兵第35連隊附の歩兵将校として従軍。その後は師団長の推薦により陸軍大
学校(第51期)に入学、1938年12月8日に首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を受けた。
御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。
その後、1939年1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二
陸軍中将)参謀となり、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚附関東軍参謀本部部員となる。
翌1940年には、大本営陸軍部作戦課に配属される。なお、この関東軍参謀時代に瀬島は対ソ示威演習である関東軍特種演
習(関特演)の作戦担当として作戦立案にあたった。
[太平洋戦争時]
1941年7月に大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐となる。同年12月8日の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦以降、陸軍
の主要な軍事作戦を作戦参謀として指導した。主任として担当した物を含めて、主な物は南方作戦におけるマレー作戦(E
作戦)・フィリピン作戦(M作戦)、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作
戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦等であった。瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、第6航空軍の作戦参謀として南九州
の陸軍基地で勤務した。1944年12月、単独でモスクワに2週間出張した。
1945年1月島村矩康陸軍大佐/連合艦隊常勤参謀が戦死、その後任に瀬島が選ばれた。2/25海軍の連合艦隊参謀兼務とな
り、最終階級は陸軍中佐となった。6月末まで同僚の千早正隆海軍参謀と共に本土決戦準備の為日本各地を調査している。
特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。
瀬島は迫水久常(鈴木貫太郎内閣内閣書記官長)と親戚であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦
局の実情を訴えたという。
※1945年7月1日関東軍作戦参謀に任命され満州へ赴任。同年8/15日本の降伏後の8/19ジャリコーウォでソ連軍と停戦交
渉を行う。日本側の参加者は、関東軍参謀長秦彦三郎、瀬島作戦主任(中佐)、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の
参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第1極東方面軍司令官キリル・メレツコフ
元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。この時、瀬島は軍使として同地を訪れた為、内地に帰還する事
は可能であったが、同年9/5関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。
この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している。
[シベリア抑留]
その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留される事となる。この時、本来捕虜としての労働の義務のない将校であるに
もかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。後にこの時のことを諧謔として「佐官が左官になった」
と述懐している。
[東京裁判証人として一時出廷]
この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳・松村知勝と
共にウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極
東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められるが断固拒否する。
更にソ連側は瀬島らに自分らの主張に沿った証言をさせようと家族との面会の話を持ち出したが瀬島はこれも断ったがソ
連は家族の所在を突き止め強制的に面会を強要した。
なお出廷に当たって瀬島は草場辰巳陸軍中将(関東軍鉄道司令官)、松村知勝陸軍少将(総参謀副長)と供述内容につい
て事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画
に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異
なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている。
裁判後シベリアに戻され昭和30年代に入るまで抑留生活を余儀なくされた。抑留中ソ連側の日本人捕虜に対する不当な扱
いに対しては身を挺して抗議をしたため自身も危険な立場に立たされる事もあった。1947年末から1950年4月までの間
どこの収容所にいたかを語っておらずモンゴルのウランバートルにあった。第7006俘虜収容所に、朝枝繁春、種村佐孝、
志位正二らとともに収容されていたと見られている。
[伊藤忠商事時代]
1956年、シベリア抑留から帰還した。アメリカは日本の警察などに依嘱して、舞鶴港で1週間にわたり拘禁尋問した。
設立直後の自衛隊に入るよう原四郎から再三の誘いを受けたが、瀬島の長女が反対したため断念した。
瀬島はシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、1958年に伊藤忠商事に入社する。1960年、伊藤忠商事航空機部長。
入社3年目の1961年には業務本部長に抜擢され、翌1962年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、同社
がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会
長に就任した。1981年相談役、1987年に特別顧問に就く。
この間、防衛庁防衛研究所の戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆協力、1972年11月にはハーバード
大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「1930年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の
回顧」という講演を行った。田中角栄とは田中が1971年第3次佐藤栄作内閣時代の通産大臣だった時知り合ったとされる。
児玉誉士夫は源田実に紹介され知り合ったと言われる。
実権のない伊藤忠会長だった1978年、永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所
副会頭に抜擢される。瀬島はそれまで財界活動はしていなかったが、以後、財界活動を活発に行う様になり、永野の参謀
として太平洋経済協力委員会やASEANの民間経済会議などに出席した。1981年永野や鈴木善幸首相、宮澤喜一、福田赳夫
田中角栄らの推薦、或いは永野と中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第2次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就く
土光敏夫会長のもとで参謀役として働き「臨調の官房長官」と称され、中曽根政権(1982年〜1987年)のブレーンとして、
政財界に影響力を持つようになった。また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉
(クォン・イクヒョン권익현)を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪
化していた1980年代初頭の時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相の訪韓実現や全斗煥大統領の来日や昭和天皇と
の会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。
ソウル五輪開催の際にも影響力を行使し、当時有力視されていた名古屋市の招致に本腰を入れないよう要請していたとする
説が複数の書籍で唱えられている。
1984年に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争
戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年に伊藤忠商事特別顧問を退任。
2007年(平成19年)春、入院中の瀬島は同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱は
とても良いことだと思っている。しかし具体的な政策を出さないと国民がついて行けない。ここで同台としての最後の御奉
公として、骨太な柱となる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識と経験を集結して、国民に判り易く、そして国際的
にも日本の姿勢がアピール出来るようなテーマを考えてみたらどうか」と言った。
こうして平成19年5月30日、同台経済懇話会会長として瀬島龍三は安倍首相に提出した提案書のなかで美しい国づくりの大
テーマとして近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。
クリーンエネルギー提案書では、10年間で風力と太陽光で電力の30%を達成するために、風力とソーラーの統合発電機構
を作り、関係産業各社と電力会社の協力を推進する事、太陽光ケーブルの大々的利用(重層利用、地下発電も可能となる)
ソーラー関係機器商品の開発奨励などを提案、森と水資源に関する提案書では、特に定年を迎えた元気なシルバー世代への
啓発事業、保水と空気清浄の源となる里山の増加育成、湖沼・ダム・湾などの新しい装置・技術を活用した浄水事業を、
山本卓眞(富士通名誉会長)、山口信夫(旭化成会長)、下山敏郎(オリンパス最高顧問)、小長啓一(前アラビア石油会長)、
中條高徳(アサヒビール特別顧問)、野地二見(元産経新聞取締役)、秋山智英(元林野庁長官)、
鈴木正次(元日本弁理士協会会長)、南崎邦夫(石川島播磨重工副社長)、小野寺俊一(元港湾協会会長)、
小野重典(フジタ最高顧問)、植之原道行(元NEC副社長)、岸国平(農業研究センター所長)らと連名で提出した。
6月21日妻の清子が老衰で90歳にて死去。3ヶ月足らず後の9/4妻を追う様に老衰の為、東京都調布市の私邸において95歳
にて死去。死後、従三位が贈られた。同年10月17日築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執
り行われた。

※上記全てウイキペディアより

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_04_23


ニイハウ島事件は、昭和16年(1941)12月7日日本海軍による真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属のゼロ戦が、ハ
ワイ諸島のニイハウ島に不時着して起きた一連の出来事である。
1864年以来、ハワイ諸島の中で最も西にあるニイハウ島はロビンソン家が私的に所有している。島民のほとんどはハ
ワイ先住民で、彼らの第一言語は、他の島の住民のような英語やハワイ・クレオール英語ではなく、ハワイ語だった。
現在もニイハウ島は観光などでは訪れる事が出来ない島である。(アメリカ軍関係者と先住民のみが行き来している)
許可なしには上陸出来ず、カウアイ島からヘリコプターや船のチャーターで行くことが許されている。
niihau.jpg
当時、日本海軍 軍令部情報では、ニイハウ島は牛の放牧場で管理人は日本人3名、土人労務者約20名がいるが白人は1
人も居住していないと記されていた為、ハワイ真珠湾攻撃に際し、ニイハウ島を真珠湾攻撃時に損傷を受けた航空機の
緊急着陸地として、更にパイロットを潜水艦によって救出するための集合地点として指定されていた。
これは西側の海岸が平坦な地形で滑走路として使い易く、また水深が深い為に潜水艦をギリギリまで寄せることが可能
だった事が挙げられる。
昭和16年12月7日、日本海軍の空母「飛龍」に所属する西開地重徳(にしかいち・しげのり)1飛曹は、真珠湾攻撃の第2
波攻撃に参加した後、搭乗したゼロ戦に銃撃を受け自爆認定された。
しかし実際には、西開地1飛曹は命令通りハワイ・ニイハウ島の野原に不時着していた。
西開地1飛曹は3日間救出を待つも日本海軍の潜水艦は現れず、日本では交戦後「自決」とされているが、日本の情報不
足で、ニイハウ島は日系人ばかりと搭乗員に教え、帰還不能の時は「ニイハウ島にて潜水艦を待て」との命令だったが、
ニイハウ島の住人は250名、内日系人は3名しかおらず、その原田義男夫妻に匿われたが、カナカ族の民兵(島の先住民
ベニ・カナヘレ)に喉をナイフで切り裂かれ、撲殺されたとされる。(ベニ・カナヘレは叙勲されている)
当時ニイハウ島に不時着した西開地1飛曹は軽症で、島民たちが手厚く看護したという。
ところが、ニイハウ島住民の1人が西開地1飛曹が不時着させたゼロ戦の機内から地図と拳銃を盗み出した。
帝国海軍の軍人にとっては機密書類と拳銃。当然、住民との間に緊張感が漂った。
間に入ったのが、カウアイ島から農場管理人として働きに来ていた日系2世の原田義雄さん(当時39歳)と妻の梅乃さん夫
妻だった。西開地一飛曹は住民との抗争によって撲殺又は自決したが、その際、原田夫婦も、御主人は自害(米国人であ
りながら、両親の国で敵国だった日本軍に加担したジレンマからだったと言われている)又は死亡。
奥様の梅乃さんは抗争で片手を失い、国家反逆罪で逮捕され、犯罪者として収監。
2年9か月の収容所生活後釈放されたが、世間の目は冷たかった。
大変苦しい生活をされたが3人の子供の為に自殺を我慢されたと言う。
亡くなった原田義雄さんの弟は、兄の汚名を晴らすかのように米軍日系2世部隊に志願した。
(戦後、原田夫婦に対しては日本政府は何もしていない)
西開地1飛曹をかくまった日系2世「原田義雄さん」享年39歳
NishikaichiZero_convert_20160404222634.jpg
▲ニイハウ島に不時着し、色々な事が重なり焼却された西海地重徳一飛曹搭乗機のゼロ戦
西海地重徳一飛曹の遺骨は、勇敢な兵士として、米軍はニイハウ島(後にマウイ島の陸軍基地)に安置保管していたが、
戦後、現地日系人の奥様達が「あの兵隊は若かったので、日本のお母さんの所に帰してほしい」と再三にわたり請願。
長い間無視されたが、昭和29年アメリカ政府が根負けし、遺骨の経緯を含めて全て明らかにした上で「母親の所に帰し
て」とし、日本の厚生省に返還したが、厚生省は、西海地重徳一飛曹の遺骨を、横浜の復員課の無縁仏の棚に10年以上
放置。ハワイからの再三問い合わせがあり、母親の元に渡されたのは戦死後20年以上経過していた。
2544d7.jpg
▲西開地重徳1飛曹(愛媛県出身) 享年21歳
西海地一飛曹の母は戦時中は「軍神の母」と祭り上げられ、敗戦後は「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。
西海地重徳一飛曹の母親は小学校の代用教員(実質は用務員)で、生活に困窮し、57歳で勤務中に心筋梗塞で死亡した
と記録されている。
西海地重徳一飛曹の遺骨に関する日本政府の扱いにハワイの日系人は激怒し、この顛末を日本で「ニイハウ島の零戦」
という本にし、ハワイで英語に翻訳。州の全小学校の図書館に置き「日本という国は、祖国の為に戦った兵士にこの様
な扱いをする国」として、悪い事の見本としている。(この本は日本では絶版・入手困難)
西海地重徳一飛曹が不時着させ、焼却したゼロ戦は真珠湾内フォード島航空博物館にて、ニイハウ島の現場を再現した
ジオラマ展示されている。(焼却したゼロ戦をそのまま展示)その横にはゼロ戦21型が(機番「BⅡ-120」Bは第二航空
戦隊、Ⅱは二番艦「飛龍」、1は戦闘機を表す。(2は艦爆3は艦攻)20は先任順)展示されている。
b11120.png
▲パプアニューギニア・二ューブリテン島 ガスマタに放置された台南航空隊所属機をオーストラリア軍が捕獲した物
※ガスマタ(Gasmata)はパプアニューギニア ニューブリテン島 西ニューブリテン州南岸にある村。
 太平洋戦争中の昭和17年(1942)2月、日本軍は村を占領した。 ラバウルから東ニューギニアへの前進中継基地とし
 て、村の西にあるスルミ半島に飛行場が建設された。が昭和19年(1944)3月28日ガスマタはオーストラリア陸軍部
 隊によって再占領された。日本軍が建設したスルミ半島の飛行場はガスマタ空港として戦後も運用されており、村の
 中心部は空港の周辺に移っている。

[ニイハウ島事件]史実に関して英語では「The Niihau Incident」(Allan Beekman著、出版社Heritage Pr of Pacific)
niuhaui.jpg
日本語では「真珠湾の不時着機 二人だけの戦争」(河出文庫、牛島秀彦著)に詳しく記されている。

ハワイは未だ訪れた事は無い、いつか行きたいと思っている。しかしハワイ在住経験のある知り合いは、ハワイの戦跡
は軍の敷地内にある事が多いので、一般人は立ち入れない場所が多く、博物館以外はたいして戦跡も無いと言う。

これまで戦跡ガイド付で訪れた、グアム島、サイパン島、トラック諸島、テニアン島の戦跡ガイドは酷いものだった。
グアム島に関しては旅行ツアーでの自由行動の1日を使って現地で戦跡ツアーをお願いしたので予想通りであったが、
サイパン島では中国人女性ガイドであった。これもグアム滞在中に現地で日帰りツアーをお願いしたので無理があった
と後悔している部分もあるが、そもそも日米激戦地の戦跡ツアーが中国人とは、サイパン到着時から困惑した。
案の定大した説明も無く、ただ車で連れて行ってくれるタクシードライバーの様なもので、サイパン戦もあまり知らな
い様であったし、何より、早く仕事を終わらせたいのか、まだまだ帰りの飛行機まで時間があるにもかかわらず、ほん
の数箇所の戦跡しか周ってくれなかった。そんな物と言えばそんなものだが、戦跡オンリーのガイドをお願いしたのに
もかかわらず、ビーチに連れて行かれたりして無駄な時間を費やした。コースが決まっているのか地図無しでも走れそ
うな道で行ける簡単な場所だけだった様に思う。支払う費用に対する仕事をしている様には到底思えなかった。
トラック諸島、テニアン島も同様で「ただ案内人が日本人だったので、言葉が通じる分気が楽。」というだけで、戦史
に詳しい訳でも無く、地図を配って説明するわけでも無く、自分が楽に行ける場所に淡々と案内している様にしか見え
なかった。ガイド時間も現地人に合わせているのか、まだ日が明るいうちにさっさと切り上げてしまう始末。
まだまだ周れるのに。と思っていた。料金は日本と変わらない感覚で請求しているにもかかわらず日本人の様な仕事は
全く出来ていない。長年現地に住んでいるとこうなってしまうのか・・・。と、働かない現地人の楽な部分だけ真似す
る変な日本人になってしまっていると感じた。滅多に来ない日本人観光客からどうにかしてお金を使わそうとする意図
が見え見えで、見たい場所をリクエストすると、ジャングルで危ないだの時間が無いだの追加料金が発生するだの、断
る言い訳だけはすらすら説明する。義務を果たさず権利だけ主張する最悪のタイプの様に思えた。
「日本人観光客が減り、慰霊に訪れる慰霊団も高齢になり先が見えない」と愚痴を言っていたが、私はそうなって当た
り前だと思った。何の為に日本で観光するよりも高いガイド料払って海外の地まで来ているのか全く理解出来なくなる
様な素人ガイドだ。これでは再訪する気にはならないだろう。トラック諸島は無理だが、見知らぬ土地で少々疲れる事
もあるが、レンタカーで個人的に周った方が金額的にも気分的にも断然良いだろう。
トラック諸島に関しては、ツアー料金以外に、戦跡全てが島民住居内もしくは島民が地主で、戦跡場所に行く度にその
都度地主に見学料金を払わなければならない。2$~5$程度だが、何ヵ所も払っているうちに馬鹿らしくなってくる。
ツアー申込時に事前に知らされていなかったのでいい気分はしなかった。
私の経験ではサイパン・テニアン・トラック諸島でのガイド付戦跡巡りは費用を払った分だけの満足感は無いと思う。
そもそも戦跡巡りや慰霊を希望する人がほとんどいないのだから仕方無い部分もあるが。


にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_04_04


鹿屋航空基地は現在でも自衛隊が当時の滑走路や建物を使用している部分があり、その場所
に行くと不思議な気持ちになります。史料館は無料で2階が陸軍特別攻撃隊(知覧・万世)以外の
九州基地より出撃された海軍特攻隊「神風特別攻撃隊」(桜花隊含む)に関する史料や遺書等の
展示場所になっています。海軍が始めた特攻作戦はその後陸軍にも波及していく事になります。
昭和20年3月21日は第1回神雷桜花特別攻撃隊が鹿屋より出撃し、全滅した日でもあります。
(桜花15機、一式陸攻18機、戦闘機35機)戦死160名(桜花15名、陸攻135名、戦闘機10名)
▼南九州の陸海軍航空基地
kyusyu.jpg
海上自衛隊鹿屋航空基地史料館 (唯一現存の二式大艇はここで見学出来ます)
DSCN4805.jpg
平成15年まで船の科学館(東京都)にあった二式大艇がここに移されています
2954-1_convert_20140526220942.jpg
[二式大型飛行艇12型H8K2]はとにかく大きい事が上下の写真でも解ります。
c0222511_20265190_convert_20150522130238.jpg
▲唯一の現存機は香川県詫間町幸田にあった詫間海軍航空隊に残されていた残存機の1機(詫間31号機)である。
hondo-hamaku02_convert_20140526224110.jpgKawanishi_H8K_Flying_Boat_Emily_h8k-1_convert_20140526223700.jpgo0600033212470887476_convert_20140526224155.jpgT2hikoutei_convert_20140526223844.jpg
※二式大型飛行艇の初実戦は「K作戦」 K作戦とは、太平洋戦争中の海軍の作戦の1つで、二式大艇によるハワイ真珠
 湾攻撃を企図・実行したもので、第1次計画/第2次計画があったが、結果第1次計画のみ実行された。
 日本海軍は真珠湾攻撃後の1941年12月17日/1942年1月5日に伊潜水艦から発進させた偵察機でハワイ偵察を行い、
 アメリカ軍が灯火管制もせずに急ピッチで日本海軍最初の真珠湾攻撃による損害の復旧をしていることを知った。
 これを妨害する為に1942年3月4日二式大艇2機で奇襲攻撃後2回目となる真珠湾攻撃を実行したが、上空の視界の
 悪さや急遽の灯火管制の為もあり、4発の250キロ爆弾は目標を外れて周辺の道路などに落下し、アメリカ側の被害
 は軽微であった。攻撃に参加した二式大艇2機は1942年2月12日に横須賀を出発14日にマーシャル諸島ヤルート島
 に到着。3月2日マーシャル諸島ウオッゼ島に移動、3月4日ウオッゼ島を出発、途中フレンチフリゲート環礁で潜水
 艦から燃料補給を受け、ハワイ真珠湾攻撃に出撃するという長旅であった。

Kanoya1.jpg
▲戦時中の海軍鹿屋航空基地空撮(米軍撮影)
Kanoya.jpg
▲当時の航空隊本部(現在も現存しています)
最も多くの海軍特攻機が出撃した鹿屋飛行場、今も海上自衛隊鹿屋航空基地として現役です。2階にはゼロ戦の実機が
展示してあり、鹿屋飛行場から出撃された多くの特攻隊員の遺影と遺書が展示してあります。零戦(ゼロ戦)主任設計
者の堀越二郎さんは近年の映画「風立ちぬ」でも有名ですが、零戦は開発要求が厳しく、とても苦しんでようやく完成
させた戦闘機だった様で、試験飛行では操縦士が2人死亡。先の大戦では特攻も含め、多くの方々が戦死しておられま
すので、主任設計者堀越二郎さんは、零戦は好きだとストレートには言えなかった事を語っておられます。42歳で敗戦
を迎え、アメリカから航空機開発を禁止された堀越二郎さんの無念と、戦争に突入していく日本に疑問を持っていた方
だった。 という事も忘れてはいけません。  神風特攻隊、その時YouTube
▼2階に復元展示している零戦(ゼロ戦)52型
DSCN4842.jpg
▲この零戦は平成4年、錦江湾と吹上浜から引き揚げられた零戦の残骸を元に、三菱重工業名古屋航空宇宙システム製
作所の協力で、鹿屋基地所属隊員達が復元した機体。

 昭和19年8月30日「大本営海軍部特殊班(暗号解読担当)」から、敵の総合通信状況判断が打電され、敵機動部隊
 の攻撃が近いとの判断が伝えられ、昭和19年9月9・10日ダバオで空襲を受けた後「ダバオ誤報事件」が起こる。
 見張所から「敵水陸両用戦車に百隻陸岸に向かう」という報告に根拠地隊司令部が「ダバオに敵上陸」と報じ一
 航艦司令部は混乱し、玉砕戦に備えて設備を破壊し重要書類を焼却したが誤報であった。
 その中で基地航空隊はセブ島に部隊を集中させるというミスを犯し、敵航空隊に奇襲された「セブ事件」で9/1
 時点で250機あった零戦が9/12の「セブ空襲」後には99機まで減少し迎撃能力を失う。
 この責を問われた寺岡謹平中将は更迭され、昭和19年10月20日 大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に親
 補され、航空戦力の無い中、昭和19年10月20日初の神風特別攻撃隊を編成。「特攻作戦」に突き進んでいく。
 ▼第一航空艦隊幹部(写真1列目中央が大西瀧治郎中将)
oonisi_convert_20160323192616.jpg
[ 神風特別攻撃隊 ](しんぷうとくべつこうげきたい)
「敷島隊」出撃前の様子です。実際の映像は有名ですが絵を見たのは初めてでした。
(本来写っているはずの「敷島隊」の前に初特攻出撃した「大和隊」宮川正一飛曹が省かれている)
左から関行男大尉(愛媛県出身)/中野磐雄1飛曹(福島県出身)/永峰肇飛長(宮崎県出身)/谷暢夫1飛曹(京都府出身)
大黒繁男上飛(愛媛県出身)の5名の方です。
神風特別攻撃隊 記録映像① 記録映像② 記録映像③
(記録映像②参照4:07辺り)
DSCN4829.jpg
後姿の上官は玉井中佐、大西中将。 (左から4番目の方が、舞鶴市明教寺がご実家の谷暢夫1飛曹です)
谷暢夫1飛曹の故郷は京府舞鶴市にある明教寺(小生もお参りに行きました)
DSCN3662_convert_20160718223053.jpg
▲「明教寺」 京都府舞鶴市字余部上315 [ TEL ] 0773-62-4890
谷暢夫1飛曹の母、一枝さんは谷暢夫1飛曹が南方戦線に進出する前、四国の松山基地を3回訪ねている。
最初訪ねた時は面会謝絶だった。途方にくれていた一枝さんに衛兵が声を掛け、何とかすると言って谷1飛曹を
短時間母に会わせた。谷1飛曹は持ってきたトランクを母に渡し、もうすぐ外出日だから旅館で待つ様に言った。
母はトランクを開けて、大金の入った預金通帳を見た。それで息子の戦地への出立が近いことを悟った。
外出日に合わせて舞鶴から父親も呼び寄せて昼間だけの短い時間、親子3人で会った。
翌日、夫婦で隊への御礼に出向くと、1人の青年大尉が自分の事の様に喜んで「遠い所をよく訪ねて下さいました。
本人もどれだけ励みになるか知りません」と深々と頭を下げた。飛行隊長の重松康弘大尉である。
もの静かで貴公子然としたスマートな士官だった。25歳で真珠湾攻撃の分隊長、ミッドウェー海戦では空母「飛龍」
に在り、小林道雄大尉による空母「ヨークタウン」への壮烈な艦爆隊突入の直掩を務めた。
「飛龍」沈没退艦時には山口多聞司令官に乞われて、自らの拳銃を自決用に差し出した経歴を持つ。
この大尉は決して自分の武勇譚を語ることはなかった。
母の一枝さんは「誠実な、温情味溢れた言葉だった」と言い、この28歳の青年士官は忘れ難い存在となった。
谷1飛曹は出撃が間近になった時、一晩だけ舞鶴の自宅に帰った。「近く内地を出発することになりました」と両親に
挨拶した。間もなく、松山の衛門前で知り合った別の隊員の母親から「豹部隊が征途に着く」という緊急の連絡が入る。
一枝さんは息子に頼まれていた「豹戦 谷暢夫」と書き入れた白羽二重のマフラー・他を持って松山基地に駆けつけた。
衛門前で「昨日、大編隊が飛び立って征った」と衛兵に告げられ、間に合わなかったと落胆したが、谷と森本が衛門に
駆けつけてきた。「残っている搭乗員も僅かだから、自分達も間もなく出発になるだろう」と言った。
持参のマフラーを渡すと、谷1飛曹は嬉しそうに受け取り、何を思ったのか、一枝と森本の母を飛行場に連れて行った。
そして、3機編隊で離陸して自分達の華麗な特殊飛行を母親達に披露した。
母の一枝は、目前で繰り広げる息子の高等飛行に驚き、僅か2年足らずでこれだけの技術を得る為にどれだけの苦労が
あったのかに想いを馳せ、涙を止めどなく流した。
taninonpu.jpg
▲谷暢夫1飛曹の母、一枝さん
着陸して機から降りた息子の腕にすがりつき「死ぬ事だけがご奉公じゃないのよ ! ね、ノンちゃん。生き抜いて、生き抜
いて戦うこともご奉公なんだからね」と必死に訴えた。
谷1飛曹はうなずき、母親をあやすように笑って見せた。これが最後の別れとなった。
母と面会した3日後の2月29日、谷はグアム島に向けて松山基地を飛び立った。その前日、次の句を残した。 
「子を思う 御国の母は有難し 千里万里もわれを訪ねつ」
この言葉通り、昭和50年10月25日、「敷島隊」が散華した31年後、一枝さんは生き残りの隊員とご遺族などと共に慰霊巡
拝でマバラカット及びタクロバンを訪ねられた。ご高齢の為、家族の反対を押し切っての慰霊行だった。
当時74歳の老いた母は、覚束ない足取りでタクロバンの海に向かって駆けて行かれ、腕に抱えた花束を海辺に投げた。
その時、大きな波が押し寄せて、老いた母の膝のあたりに波のしぶきがかかった。
 「ああ、暢夫が来た ! 」とその老いた母は思わず叫んだという。
『「お母さん、来てよかったな」と息子が出迎えてくれたと思い、言うにいわれん気持ちで胸一杯で御座いました。そして
花束が波に乗って寄せては返し、だんだん遠ざかって消えていくのをじっと眺めておりました・・・』と母は語った。
白い波ですら、死んだ息子の霊魂と信じる母の姿がそこにあった。何十年経とうとも、母の心の中で暢夫は生き続けていた。
tani.jpg
▲谷暢夫1飛曹 昭和19年10月25日神風特別攻撃隊「敷島隊」3番機として出撃、突入戦死。享年20歳
谷暢夫1飛曹の家郷へ最後の書簡と遺書
「親を惟ひ 国を憂ふる心あらば 身を桜花となりて 散りゆかん」
はじめありて 終りあるもの 鮮し
永らくのご厚思を謝す。何一ツ親孝行らしきことなき小生も、最初の最後の親孝行を致します。
忠孝一致、とは古人、実によく云ったものと感心します。ご両親の長命を切に祈ります。
日の本の空征くものの心なれ 散るを惜しまぬ桜花こそ

鹿屋航空基地史料館は敷島隊の前に特攻出撃されて未帰還となった、久納好孚中尉(ゼロ号の男)の事、終戦直後に
「彗星」で特攻出撃した「宇垣特攻」も知る事が出来、知覧特攻平和会館(陸軍特別攻撃隊)や万世特攻平和祈念館
(陸軍特別攻撃隊)とは違う歴史の事実を知る事が出来ます。特攻隊員の気持ちは出撃した本人しか解りません。
現代に生きる我々は今、想像で当時の状況を心で理解するしかないと思います。
戦死された特攻隊員に感謝する気持ちと「特攻を賛美する」とは全然違う事です。

▼[敷島隊]5人の特攻隊員、皆さん20歳前後の優秀な若者ばかりです。
31310_convert_20151204161815.jpg
※大黒繁男上飛は10/25出撃(5回目)の際に横山大尉(生還)の指名で急遽「敷島隊」に加わった。
▼大西中将と敷島・大和隊員との訣別の水盃。左から関、中野磐雄、永峰肇、谷暢夫、大黒繁男、宮川正(大和隊)
 後姿は左が玉井中佐、中央が大西中将。(日映・稲垣浩邦カメラマンが10月20日に撮影)
19441025_pilots_of_japanese_201_naval_air_corps_farewell_convert_20151204130350.jpg
▼フィリピンマニラ郊外のマバラカット海軍航空基地より特攻出撃する敷島隊「関行男大尉機」
 02-888の機番は使い古しの練習用機だったとの事です。
Zersen_Yamazaki_Kamikaze_convert_20160106223628.jpg
関行男大尉が率いる敷島隊 (爆装零戦5機) は、昭和19年10月25日に米軍護衛空母に突入したこ
とが『米軍』と『直掩零戦の指揮官である西沢広義飛行兵曹長』の双方により確認されています。

第1神風特別攻撃隊「敷島隊」昭和19年10月25日 マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(タクロバン沖機動部隊攻撃)
関 行男大尉(愛媛県出身 享年23歳)/中野 磐雄1飛曹(福島県出身 享年20歳)/谷 暢夫1飛曹(京都府出身 享年19歳)
永峰 肇飛長(宮崎県出身 享年19歳)/大黒 繁男飛長(愛媛県出身 享年19歳)
他、爆装1機エンジン不調でレガスピー不時着不時着(直接攻撃不参加5/26「葉桜隊」に編入)
※10/25「敷島隊」の編成は、爆装ゼロ戦6機と直掩4機の合計10機であった。
直掩1機(管川 操飛長)が上記5名とは別に特攻死扱いとなっている。

 以下米軍の戦闘記録より(タクロバン85度35浬)
 護衛空母キトカン・ベイは5機の特攻機の編隊を発見した。
 特攻機は、護衛空母の周囲の輪形陣を突破した辺りで急上昇し、二つのグループに分かれた。
 「零戦の指揮官機 (リーディング・ゼロ)」は、護衛空母カリニン・ベイに錐もみ状態となりながら60度の角度で
 右舷艦首上空から突入し、飛行甲板前部に体当たりした。この飛行機の爆弾は甲板を滑って海に転落したが、零戦
 の突入により飛行甲板に大穴が開き、流出した燃料により火災が発生した。( 敷島隊1機目、関大尉機と思われる)

 二番機は同じくカリニン・ベイに急降下を開始したが、既に対空砲火により火を噴いていた。
 辛うじて左舷舷側に体当たりしたが、爆弾は水中で爆発した。(敷島隊2機目)

 カリニン・ベイには3機目の飛行機がゆるい角度で突入したが、対空砲火により海中に墜落した。
 爆弾は炸裂しなかった。(直掩隊零戦4機のうち1機が未帰還となったが、この飛行機と思われる)
 ※(直掩隊)西澤廣義飛曹長/本多慎吾上飛曹/管川操飛長(福岡県出身)/馬場良治飛長の4名4機

 1機の特攻機は、護衛空母セント・ローに着艦するかのように突っ込んで来て、左舷後方の飛行甲板に
 突入した。爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫内で炸裂し、格納庫内で出撃準備中だった飛行機・爆弾・
 魚雷などに次々に引火、セント・ローは約30分間で8回の誘爆を起こして沈没した。(敷島隊3機目)
25c284c9.jpg
▲特攻機突入により大爆発する米護衛空母セント・ロー
StLo.jpg
▲炎上する米護衛空母セント・ロー (USS St. Lo)

 1機の特攻機は、護衛空母ホワイト・プレーンズに突入したが、左舷艦尾から数フィートの所で海面に
 突入した。爆弾は海面で炸裂し、至近弾として損傷を与えた。(敷島隊4機目)
USS.jpg
▲護衛空母ホワイト・プレーンズに突入寸前の特攻機

 1機の特攻機は、護衛空母キトカン・ベイの艦橋を目指して突入したが、狙いが外れて舷側に衝突した。
 その際に爆弾は炸裂して被害を与えたが、飛行機は25ヤードほど外側の海面に落下した。(敷島隊5機目)

 直掩隊西沢飛行兵曹長は、敷島隊が全機突入したのを見届けた後に無事に戦場を離脱し、日本海軍飛行隊
 のセブ基地に着陸。同基地指揮官の中島正少佐に直接報告しています。
 [報告内容]
 敷島隊は指揮官機の合図で全機突撃し、指揮官機は敵空母に命中。この命中で炎々と火を発し、転蛇
 して逃げ回る空母に列機がさらに命中し、その黒煙は、1,000メートルも吹き上がったかと思われた。
 また他の1機は別の空母に命中して大火災・さらに1機は軽巡洋艦に命中して瞬時にこれを沈没させた
 (中島正 手記=『二〇一空戦記』)

 西沢飛行兵曹長他の3機の零戦はいずれもセブ基地に着陸し、上記のように戦果を詳細に報告したが、
 翌日10月26日に[零式輸送機]でクラーク飛行場に引き返す途中で米軍戦闘機に撃墜されて全員戦死。
 ※「敷島隊」の直掩隊指揮官の西沢飛行兵曹長はラバウルで海軍の撃墜王と勇名を馳せたパイロット。
Showa_L2D_convert_20151204112412.jpg
▲日本海軍 [零式輸送機]
▼台南空、251空などで活躍した海軍屈指のエースパイロット西沢広義飛曹長。
nisizawa_convert_20160323142409.jpg
関大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊を直掩し戦果を報告したが、搭乗していた零戦を特攻用として接収される。
やむなく輸送機に便乗して移動中、敵戦闘機に撃墜され無念の戦死。戦死後、全軍布告二階級特進海軍中尉。
写真は「ピンさん」の愛称で親しまれた吉田一報道班員がラバウルで撮影したもの。

▼マバラカットやクラーク基地、セブ基地などの地名はフィリピンの地図でご確認下さい。
31304.jpg
31307.jpg
 関大尉率いる敷島隊は、10月25日の突入成功までに4回特攻出撃し、目標を発見できずに帰還しています。
 後の他の特攻隊でも「飛行機の故障により、基地に引き返す/最寄の基地に不時着」は珍しいことではなく、
 第2次大戦当時の飛行機が頻繁にエンジントラブルなどの不具合を起こすことは「常識」であり、戦況の悪化
 と共に飛行機の品質が劣化し、消耗した飛行機が前線で使い続けられ、交換パーツが不足することで、不具
 合の頻度は上がっていた。「出撃後に機体にトラブルが生じた場合はその場で自爆せよ、帰還は許さない」
 などと言った命令は特攻作戦が始まった当初はありませんでした。
 特攻機に装備した爆弾は海に投下することができました
 「出撃したら、決して生還できない特攻」は、日本海軍では練習機特攻・桜花特攻、回天特攻などがあります。
 (震洋特攻ボートも・・)練習機を使用しての無謀な作戦では120機以上が沖縄目指して特攻したそうです。
 日本陸軍の特攻作戦でも「出撃したら、決して生還できない特攻」は航空機特攻・ボート特攻があった。

 敷島隊が特攻した当時の新聞は朝刊1面で「身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じた。
 関大尉は命令を受けた際「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したとされるが、 報道班員だった小野田政特
 派員は、出撃を控えた関大尉とのやり取りを回想録「神風特攻隊出撃の日」の中でこう記す。
 関は腹立たしげにこういった。『日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』
 『ぼくは最愛のKAのために行くんだ。 命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。
 最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!』と。
 sekiyuiotaii.jpg
 ▲関行男大尉
 関大尉は当時、新婚5カ月。KAは海軍用語で妻を指し、その言葉からは苦渋に満ちた決断が伝わる。
 特攻隊員が愛する者を守り、国の行く末を案じる気持ちが行動の芯であったのはまぎれもない事実だが、
 美辞麗句で片付ける前に、生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。
 ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、遺族を取り巻く環境も一変した。

 関大尉の母サカエさんも敗戦後「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。
 関大尉の奥様は再婚され、訪れる人もなく、衣類を闇米に代え、草餅を作って売り歩いた。晩年は西条市の小学
 校に住み込みで働き、昭和28年11月還暦を前に亡くなる。
 意識が混濁する床で、「行男の墓を建ててください」 とつぶやいて息を引きとったという。
 sekitaihaha.jpg
 ▲関行男大尉の母サカエさん
 サカエさんが亡くなった際、戦時中「軍神の母」につきまとっていた新聞記者が、「そんなもの記事になります
 か、軍神がなんですか。!」と吐き捨てるように言ったという。
 戦後ガラっと変わってしまった日本。負けたのだからある意味仕方無い部分はある。
 しかし国の為に戦った人、国の為に命を落とした人を粗末に扱って繁栄するはずが絶対無い。
 自国の歴史を深く理解せず、愛国心の無い民族はいずれ滅びると思う。

 ※サカエさんの没後、伊予三島市(現・四国中央市)の村松大師に関の墓が建立され、1975年には関の慰霊と
 平和祈願のため、関親子を昔からよく知る西条市楢本神社神主石川梅蔵の発願により、元海軍大佐で国会議員だ
 った源田実の協力も得て、楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立された。
 毎年10月25日には、関が敵空母に突入した午前10時に海上自衛隊徳島航空基地か、小松島航空基地の航空機5
 機編隊が、慰霊のための編隊飛行を楢本神社上空で行っている。靖国神社には関大尉の遺影が祀られている。
 (戦後生きて国会議員にまでなった源田実に関しては色々言いたい事もあるがここでは書かない事にしておく)

 海軍の特攻作戦の最初の目的は日本海軍の「栗田艦隊」レイテ湾突入を成功させる事だった。その為に敵空母の
 甲板を一週間位使用不能にするという時限的、緊急的な処置だった。しかし、驚くことに肝心な「栗田艦隊」は、
 特攻の嵐が一段落した時、「レイテ突入を止め、敵機動部隊を求め決戦」と打電し、既に存在しない敵機動部隊
 を求めて反転し、北上を開始して事実上逃げたのである!
 この時点で、命を引き替えにした「神風特攻」の体当たり攻撃は一瞬にして水泡に帰した。
 本来ならこの日の特攻々撃をもって「統率の外道」である特攻を止めるべきだったと思う。

 macru-zuberutonimittu.jpg
 ▲昭和19年7月米重巡洋艦ボルチモア(USS Baltimore)艦上で笑顔で語らうダグラス・マッカーサー(Douglas
  MacArthur)陸軍元帥(左)と、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)第32代大統領。
 そしてチェスター・ウィリアム・ニミッツ(Chester William Nimitz)海軍元帥。
 余裕すら見えるアメリカ軍に対し、後が無い日本軍は捨て身の特攻作戦へ突き進んでいく・・・。
 アメリカの様に日本のトップ(大元帥 昭和天皇・陸軍参謀総長 杉山元元帥・海軍軍令部総長 永野修身元帥)
 が太平洋で作戦を練ったり現場の声に耳を傾けたり、悲惨な日本軍の実情を感じようとはしなかった。

 「敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜花」
 神風特別攻撃隊の大和隊・敷島隊・朝日隊・山桜隊と隊名に付けられた歌です。
 実は関行男中佐率いる「敷島隊」が最初の神風特別攻撃隊の戦死者ではなかった。
 以下10/25「敷島隊」が戦果を上げるまでの記録です。
10/20大西瀧治郎中将が第一航空艦隊司令長官に親補され神風特別攻撃隊編成を決定。
昭和19年10月20日 セブ基地よりゼロ戦5機で出撃(スルアン島東方機動部隊攻撃)
 06:00浜田 農少尉以下ゼロ戦5機セブ基地を出撃。(浜田少尉機脚故障の為、他1機と引返す)
 08:00引返した浜田少尉機以下2機が修理を終え再出撃。スルアン島東方の特空母群を攻撃
 ※浜田 農少尉は米艦隊の対空砲火により被墜。捕虜となり戦後生還している。

昭和19年10月21日 マバラカット東基地よりゼロ戦4機、直掩ゼロ戦4機で出撃(第1神風特別攻撃隊・敷島隊)
 09:00マバラカット東基地を出撃、フィリピン東方海上に向かうが、悪天候の為米機動部隊を発見出来ず。
     爆装隊4機、直掩隊2機はレガスピー基地に不時着、直掩隊2機はマバラカット東基地に帰還。
 [爆装隊] 関 行男大尉/中野磐雄1飛曹/谷 暢夫1飛曹/山下憲行1飛曹
 [直掩隊] 谷口正夫飛曹長以下3機

昭和19年10月21日 マバラカット西基地よりゼロ戦3機で出撃(第1神風特別攻撃隊・朝日隊)  
 09:00マバラカット東基地を出撃、フィリピン東方海上に向かうが、悪天候の為米機動部隊を発見出来ず。
     上野敬一1飛曹はレガスピー基地に不時着、他はマバラカット西基地に帰還。
 [爆装隊] 上野敬一1飛曹/崎田 清1飛曹/磯川質男1飛曹

昭和19年10月21日 マバラカット西基地よりゼロ戦3機で出撃(第1神風特別攻撃隊・山桜隊) 
 09:00マバラカット西基地を出撃、フィリピン東方海上に向かうが、悪天候の為米機動部隊を発見出来ず。
 [爆装隊] 宮原田賢1飛曹/滝沢光男1飛曹/藤本 寿1飛曹 全機マバラカット西基地に帰還。

昭和19年10月21日 セブ基地よりゼロ戦2機、直掩ゼロ戦1機で出撃(第1神風特別攻撃隊・大和隊) 
 10/20神風特別攻撃隊「敷島隊」が初出撃するも敵艦を発見出来ず帰還する。
 「敷島隊」の出撃を見送る久納中尉は「なんで俺を最初に出してくれないんだ!」と不平を言っていたと言う。
 10/21神風特別攻撃隊「大和隊」隊長・久納中尉以下隊員3名と直掩隊員2名がセブ基地で出撃待機に入っていた。
 敵情が入らないまま、出撃待機が永く続いた。徹夜で特攻機の整備に当たっていた中村少尉は午前中に指揮所を
 を訪ね、特攻の死を目前にして普段と変わりがなかった久納中尉を目撃し「胸を打たれた」という。
 午後3時になって漸く「スルワン島東方洋上に敵機動部隊発見」の知らせが入った。
 直ちに木の下に隠されていた零戦5機が引き出され、ガソリン補給と爆装の準備に入った。
 中島中佐は「搭乗員整列」の号令を掛け、簡単な水杯を交わし攻撃の打ち合わせに入った。
 発進準備は15分で完了し、整備員達は爆装機の傍で今や遅しと搭乗員達を待っていた。搭乗員整列の直前、
 久納中尉が自分の飛行帽を脱ぎ「もし届けられたらこれを家族の者に」と従兵の波田野二整曹に渡した。
 10分以上経過しても搭乗員達が来ない。「ノンビリしているな、こんな時に奇襲を喰らえば9/12のセブ基地大
 空襲の二の舞を踏む。燃料を満載して爆弾を抱いた戦闘機はひとたまりもない。「早く発進しないと危ない」
 と中村少尉は苛立っていた。その苛立ちは指揮所前にいた波田野義高二整曹も同じだった。
 水杯の後、中島飛行長は延々と搭乗員に精神訓話を垂れていた。既に死を覚悟している隊員に、今更口先だけの
 訓話に何の意味があったのだろうか?中島中佐の単なる顕示欲と自己陶酔に過ぎなかった。
 精神訓話は更に続いていた。その時、「敵らしき爆音が聞こえる」と見張員が絶叫した。直ちに搭乗員達は整列
 を解き、列機まで走ったが、既にグラマン戦闘機群は基地上空に侵入して機銃掃射を始めた。
 列線に行儀よく並んだ零戦5機は極めて都合が良い標的だった。零戦のガソリンが火を噴き爆弾が誘爆して一瞬
 にして貴重な零戦5機が破壊された。徹夜をして完璧に整備した機体である。
 中島中佐は9月12日のセブ空襲に続き二回目の過ちを犯した。
 波田野二整曹は「中島飛行長は敵のスパイか ! 」と同僚の整備兵が吐き捨てるように言った言葉を耳にした。
 いたずらに訓示を長引かせた中島飛行長に対するやり場のない整備員の憤りだった。
 整備長の桶泉大尉が「予備機を出せ」と叫んだ。昨夕マバラカットから進出してきた8機の内の残り3機である。
 ヤシやマンゴーの木の下から3機が引き出され、直ぐに発進準備が整った。
 神風特別攻撃隊の初出撃「大和隊」爆戦隊 久納好孚中尉/中瀬清久一飛曹(直掩隊 大坪一男一飛曹)の3機だ。
 指揮所から走り出した久納中尉は「(エンジンを)回せ ! 回せ ! 」と叫んで列機の先頭に飛び乗った。
 敵の戦闘機を追って行けば必ず敵の空母に辿り着ける。一刻を争っていた。残りの2機もバラバラに発進した。
 報道員もいない、帽ふれの儀式もない実に呆気ない慌ただしい出撃だった。
 これが久納好孚中尉の最後の姿だった。途中エンジン不調と悪天候に阻まれて、中瀬機と大坪機は久納中尉機を
 見失ったまま基地に引き返した。戦果の確認は出来なかった。久納中尉機は言葉通りに還ってこなかった。
 戦果が確認されなかった為、敷島隊の様に大々的に新聞等にも掲載されなかった様だが、敷島隊特攻出撃の前に
 既に「大和隊」隊長 久納好孚中尉が戦死されていたのである。
 同盟通信の報道班員・小野田政によれば、201空司令・玉井浅一中佐から久納が新聞に書かれない事が可愛そう
 だから書いてくれと頼まれたという。玉井浅一中佐は人情家で、戦果がはっきりしないからという理由で久納中
 尉が報道されない事を気にしていたと言う。
 kunotyuui.jpg
 ▲ 久納好孚中尉(愛知県出身)昭和19年10月21日セブ90度185浬(推定)突入戦死。
 15:10爆装隊4機、直掩隊2機でセブ基地にて出撃準備中、F6F戦闘機の攻撃を受け全機炎上。
 16:25準備した予備機(爆装ゼロ戦2機、直掩ゼロ戦1機)でセブ基地を出撃。
 [爆装隊] 久納好孚中尉(特攻戦死1号)/中瀬清久1飛曹 [直掩隊] 大坪一男1飛曹
 セブ90度185浬付近へ向かう。悪天候であったが久納中尉機は列機と分離し、単機レイテ湾に向い未帰還。
 他2機はレイテ湾付近を索敵するが、上空F6F10数機を認めたが、敵艦隊を見ず攻撃を断念、セブ基地に帰還。

昭和19年10月22日 マバラカット西基地よりゼロ戦2機、直掩ゼロ戦2機で出撃(第1神風特別攻撃隊・第2次山桜隊)
 [爆装隊] 宮原田賢1飛曹/滝沢光雄1飛曹 [直掩隊] 柴田正司飛曹長/原田一夫2飛曹
 タクロバン東方海上の米機動部隊攻撃に向かうが、天候不良で発見出来ず、マバラカット西基地に全機帰還。
※同日「敷島隊」ゼロ戦4機、直掩隊ゼロ戦2機「朝日隊」ゼロ戦1機がレガスピー基地よりマバラカット西基地に帰還

昭和19年10月23日 セブ基地よりゼロ戦2機で出撃(第1神風特別攻撃隊・第2次大和隊)
 [爆装隊] 佐藤 馨上飛曹(特攻戦死2号)/石岡義人1飛曹
 05:00爆装隊2機セブ基地を出撃、スルアン沖へ向かうが、石岡一飛曹機が発動機不調の為引き返す。
 佐藤上飛曹が未帰還。
※同日「朝日隊」はダバオ第2基地、「山桜隊」はダバオ第1基地へ進出。
 
昭和19年10月23日 マバラカット西基地よりゼロ戦2機で出撃(第1神風特別攻撃隊・第2次敷島隊)
 [爆装隊] 関 行男大尉/中野磐雄1飛曹/谷 暢夫1飛曹/山下憲行1飛曹 敵を見ず全機マバラカット西基地に帰還
 [戦爆隊] 高崎文雄1飛曹(特攻戦死3号) [直掩隊] 吉岡 康1飛曹 マバラカット基地よりゼロ戦2機で出撃
 高崎文雄1飛曹が未帰還。
10/23は、「敷島隊」5機がマバラカット西基地より。「大和隊」2機と直掩隊4機はセブ基地から出撃したが、
フィリピン東岸に進むと雨雲に覆われて視界は10キロになった。その為、二航艦攻撃隊の総指揮官・江間少佐は索敵
攻撃は不可能と判断し、全機反転して引き返した。「敷島隊」も同様に反転帰投したが[戦爆隊]高崎文雄1飛曹が未帰
還、共に出撃していた「大和隊」佐藤馨上飛曹(高知県出身)が未帰還となり、久納中尉に続くまたも戦果確認出来ない
2人目と3人目の特攻戦死者が出た。
 
※同日戦闘第311飛行隊長横山岳夫大尉直率で「朝日隊」はダバオ第2基地、「山桜隊」はダバオ第1基地へ進出。
※同日「敷島隊」に永峰肇飛長、大黒繁男上飛が追加編入された。

昭和19年10月24日 セブ基地よりゼロ戦2機で出撃(第1神風特別攻撃隊・第3次大和隊)
 [爆装隊] 塩田 寛1飛曹 敵を見ずセブ基地に帰還した。

昭和19年10月24日 マバラカット東/マルコット基地より彗星で出撃(第1、2次機動部隊索敵攻撃)
(第1次)続木幸四郎1飛曹/久道常助1飛曹 (第2次)黒部信行1飛曹/尾形好之1飛曹/山下洸勇1飛曹/
Princeton_convert_20160408103703.jpg
▲第1、2次機動部隊索敵に向かった彗星1機が米空母プリンストンを発見し250キロ爆弾を投下。同機は爆弾投下直後
 に撃墜されたものの、爆弾は船体中央に命中し飛行甲板と格納庫を貫通し後部エンジンルームの上の乗員区画で爆発。
 爆弾そのものによる船体の損傷は軽微であったが、格納庫には魚雷を装備し燃料を満載した6機の雷撃機が待機中で
 あり、それらが次々と誘爆し飛行甲板と前後のエレベーターを吹き飛ばした。艦橋から船尾に向かって火炎と黒煙が
 吹き抜け、救援艦艇が乗員の救助と消火作業及び更なる攻撃を防ぐ為の対空支援を行った。
 火災は消えつつあったが、後部にある魚雷調整室の魚雷が誘爆した物と思われる大きな爆発が起きた。
 プリンストンに併走して消火作業を行っていた軽巡洋艦バーミングハム (USS Birmingham,) も爆発に巻き込まれ大
 きな損害を受け、多くの死傷者が発生した。プリンストンの船尾は爆発で切断された。
 プリンストンを救援する努力は継続されたが、プリンストンが発する火災が夜間攻撃の目標となることを懸念したミ
 ッチャー中将の進言により16:04に艦の放棄が決定された。残った乗員がボートで救援されると17:06駆逐艦アー
 ウィン(USS Irwin)による雷撃と軽巡洋艦リノ(USS Reno)の2本の魚雷で17:50沈没。10名の士官と98名の兵員が
 攻撃及びその後の消火活動で死亡した。
 ussprinceton2.jpg

uss-reno-princeton-740x610_convert_20160427104834.jpg
 ▲懸命の消火作業も甲斐無く沈没処理された。
 USSPrinceton.jpg
 ▲米航空母艦プリンストン(USS Princetonの最期(1944,10/24)

昭和19年10月25日 ダバオ第2基地よりゼロ戦3機、直掩隊ゼロ戦1機で出撃(第1神風特別攻撃隊・菊水隊)
 [爆装隊] 加藤豊文1飛曹(徳島県出身)戦死/宮川 正1飛曹(高知県出身)戦死/高橋保男1飛曹
 [直掩隊] 塩森 実上飛曹
 06:30爆装隊4機、直掩隊1機ダバオ第2基地を出撃。レイテ東方の米機動部隊攻撃に向かう。
 高橋一飛曹機は、脚故障の為に引返し、「山桜隊」と再出撃。
 07:40爆装隊2機が「朝日隊」と護衛空母4/駆逐艦8に突入。直掩機は突入を確認後、レガスピー基地に帰投。

昭和19年10月25日 ダバオ第2基地よりゼロ戦2機、直掩隊ゼロ戦1機で出撃(第1神風特別攻撃隊・朝日隊)
 06:30爆装隊2機、直掩隊1機ダバオ第2基地を出撃。レイテ東方の米機動部隊攻撃に向かう。
 磯川一飛曹機と箕浦飛長機は、途中悪天候の為に僚機を見失い、それぞれ単機となり帰投。
 雲中より奇襲を受けた磯川一飛曹機は、爆弾を投棄し空戦を行った為、場所不明の飛行場に燃料不足で不時着、
 その際、滑走路の爆撃穴の為、脚を折り負傷、1ヶ月を要し徒歩で生還、箕浦飛長も不時着の後、生還した。
 07:40爆装隊上野一飛曹機は、28度263浬のレイテ沖の敵艦に突入。
 [爆装隊] 上野敬一1飛曹(山口県出身)戦死/磯川質男1飛曹(空戦後、燃料不足で不時着)
 [直掩隊] 箕浦信光飛長(不時着)
 
昭和19年10月25日 ダバオ第1基地よりゼロ戦2機、直掩隊ゼロ戦3機で出撃(第1神風特別攻撃隊・山桜隊)
 06:30爆装隊2機、直掩隊3機ダバオ第1基地を出撃。ミンダナオ島東方の米機動部隊攻撃に向かう。
 途中、直掩隊3機は爆装隊2機を見失う。爆装隊2機は敵艦に突入?
 10:20直掩隊3機はレガスピー基地に帰投。
 [爆装隊] 宮原田賢1飛曹(広島県出身)未帰還・行方不明/滝沢光雄1飛曹(長野県出身)未帰還・行方不明
        miyatahara.jpg           takizawa.jpg
 [直掩隊] 柴田正司飛曹長/原田一夫2飛曹/高橋保男1飛曹
USSSantee1.jpg
▲10/25「菊水隊」「朝日隊」「山桜隊」「大和隊」の内1機が米護衛空母サンティー(USS Santee)に突入、小破させた

昭和19年10月25日 マバラカット西基地よりゼロ戦5機、直掩隊ゼロ戦4機で出撃(第1神風特別攻撃隊・第3次敷島隊)
 07:25爆装隊5機、直掩隊4機が、マバラカット西基地を出撃。
 10:45タクロバン東85度30浬に空母4隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻の敵機動部隊を発見。
 10:49爆装隊5機は、低空で接近しつつ輪型陣を突破し、急上昇し高度2500メートルより突入。
 10:52関大尉機は、対空砲火により被弾し、煙りを吐きつつ護衛空母カリニン・ベイの飛行甲板前部に命中。
 谷一飛曹機は、同艦左舷に命中。続いて1機が、護衛空母セント・ローの飛行甲板に命中、大火災を起こす。
 また別の1機が護衛空母ホワイト・プレーンズ左舷の至近海面に突入。
 [直掩隊]管川飛長は対空砲火により被撃墜。この間、直掩隊はF6Fと交戦、2機を撃墜。直掩隊3機セブ基地に帰還。
[爆装隊] 関 行男大尉(戦死)/中野磐雄1飛曹(戦死)/谷 暢夫1飛曹(戦死)/永峰 肇飛長(戦死)/大黒繁男上飛兵(戦死)
[直掩隊]西沢広義飛曹長/本田慎吾上飛曹/馬場良治飛長/管川 操飛長(戦死)

昭和19年10月25日 セブ基地よりゼロ戦2機、直掩隊彗星1機で出撃(第1神風特別攻撃隊・第4次大和隊)
 09:00爆装隊2機、直掩隊1機がセブ基地を出撃。バタブ130度70浬付近の海域に突入。
 [爆装隊] 大坪一男1飛曹(香川県出身)未帰還・行方不明/荒木外義飛長(富山県出身)未帰還・行方不明
 [直掩隊(戦果確認)] 彗星1機
 [操縦]国原千里少尉(山口県出身)未帰還・行方不明/[偵察]大西春雄飛曹長(香川県出身)未帰還・行方不明

昭和19年10月25日 マバラカット基地より彗星1機が出撃(レイテ沖機動部隊索敵攻撃)
 10:30彗星艦爆1機が、マバラカット基地を出撃、ルソン島東沿岸、及びレイテ湾方面の索敵攻撃を実施。
 彗星[操縦]須内則男2飛曹(高知県出身)未帰還・行方不明[偵察]浅尾 弘上飛曹(広島県出身)未帰還・行方不明
        sunai.jpg             asao.jpg

昭和19年10月25日 マバラカット基地よりゼロ戦4機、直掩隊ゼロ戦2機で出撃(第1神風特別攻撃隊・若桜隊)
 11:40爆装隊4機、直掩隊2機がマバラカット基地を出撃。バタブ東方90浬機動部隊に向かうが敵を見ず、セブ基地帰投
 [爆装隊]中瀬清久1飛曹(宮城県出身)未帰還・行方不明/木村繁1飛曹/勝又富作1飛曹/崎田清1飛曹
 [直掩隊]新井耕平上飛曹/日村助一2飛曹

その後のフィリピンの各航空基地からは神風特別攻撃隊が続々と編成され、フィリピンの海に向かって出撃していった。
(フィリピン特攻での神風特別攻撃隊の出撃機数は424機)

神風特別攻撃隊「大和隊」昭和19年(1944)10月26日(フィリピン)セブ基地より出撃、スリガオ海峡東方80浬突入戦死。
(スリガオ沖機動部隊攻撃)
植村眞久少尉(東京都出身)/勝又富作1飛曹(静岡県出身) /塩田 寛1飛曹(栃木県出身)/五十嵐春雄2飛曹(北海道出身)
勝浦茂夫飛長(香川県出身)
(直掩隊)移川晋一1飛曹(宮城県出身)/日村助一2飛曹(広島県出身)
松村 茂1飛曹(熊本県出身)10/27スリガオ87度20浬突入戦死。
uemura.jpg
▲植村眞久少尉(東京都出身 享年25歳)
植村少尉は、立教大学在学中、サッカー部の主将だった。昭和18年学徒出陣で、9月に大学を繰上げ卒業。
海軍に入隊、第13期飛行予備学生となり卒業、三重航空隊に所属。翌年高雄航空隊(練習教程)を経て、大村航
空隊、5/31海軍少尉任官、練習航空隊特修科学生となり、7/25佐世保航空隊に配属。
8/1フィリピンセブ基地へ進出。9月に休暇を許され、帰郷し生後3ヶ月の1人娘「素子」さんと面会、手紙を残し
戦場に戻った。
『愛児への便り』
素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。
素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。
私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。
素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が
考へたのです。 私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが
若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。
お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ、 必ずお父様のお顔がお
前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思びます。 生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々
も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。
またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、 御自分の
全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。
優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。
お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讃んで貰びなさい。
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ
追伸、
素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。

※植村少尉の1人娘「素子」さんは、父の母校である立教大学を昭和42年に卒業され、同年4/12父の手紙にあった
 「お前が大きくなって、父に会いたいときは九段にいらっしゃい」という約束を果たす為、そして靖国神社で鎮ま
 る父の御霊に自分の成長を報告する為に、母親や家族、友人、父の戦友達が見守る中、文金高島田に振袖姿で6歳
 の頃から習った日本舞踊で「桜変奏曲」を舞い、奉納された。
 motoko.jpeg
 素子さんはこの時「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語られたと言う。

植村隊はレイテ島東方で60機の米軍戦闘隊と遭遇し、激闘となる。植村少尉は撃墜されたと見られているが、その空
戦の隙に後続隊の3機が、米護衛空母ペトロフ・ベイ突入に成功。ペトロフ・ベイは小破した。突入した3機の内の1
機は塩田 寛1飛曹。塩田 寛1飛曹は米護衛空母ペトロフ・ベイ (USS Petrof Bay)の艦橋至近へ突入散華。享年18歳
USSPetrofBay_convert_20160405122950.jpg
▲護衛空母ペトロフ・ベイ (USS Petrof Bay)

神風特別攻撃隊「大和隊」昭和19年(1944)10月27日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(スリガオ沖機動部隊攻撃) 松村 茂1飛曹(熊本県出身)

神風特別攻撃隊「第2忠勇隊」昭和19年(1944)10月27日(フィリピン)ニコルス第1基地より「彗星」で出撃
[操縦]茂木利夫飛曹長(群馬県出身)/[偵察]山田恭司大尉(神奈川県出身)
[操縦]玉森武次2飛曹(福井県出身)/[偵察]竹尾 要1飛曹(大分県出身)
[操縦]岩下栄太郎2飛曹(北海道出身)/[偵察]山野 登1飛曹(石川県出身)

神風特別攻撃隊「第2義烈隊」昭和19年(1944)10月27日(フィリピン)ニコルス第1基地より「彗星」で出撃
[操縦]近藤寿男中尉(京都府出身)/[偵察]作田一実上飛曹(和歌山県出身)
[操縦]松尾 勲1飛曹(長崎県出身)/[偵察]戸村三郎1飛曹(千葉県出身)

神風特別攻撃隊「第2純忠隊」昭和19年(1944)10月27日(フィリピン)ニコルス第1基地より99式艦上爆撃機で出撃
[操縦]横田政幸飛長(高知県出身)/[偵察]上妻英樹上飛曹(福岡県出身)
[操縦]松本 賢飛曹長/[偵察]深堀直治大尉(セブ基地不時着)10/29(再出撃)
[操縦]宮本 孝1飛曹/[偵察]米森義治上飛曹(レイテ湾不時着水)

神風特別攻撃隊「誠忠隊」昭和19年(1944)10月27日(フィリピン)ニコルス第1基地より99式艦上爆撃機で出撃
[操縦]五島智勇喜中尉(熊本県出身)/[偵察]浦田末次郎1飛曹(岩手県出身)
[操縦]辻 幸三飛長(北海道出身)/[偵察]佐藤早生1飛曹(熊本県出身)
[操縦]三上良作飛長(青森県出身)/[偵察]安永晃三2飛曹(愛知県出身)

神風特別攻撃隊「第2純忠隊」昭和19年(1944)10月28日(フィリピン)セブ基地より99式艦上爆撃機で再出撃
[操縦]松本 賢飛曹長(長崎県出身)/[偵察]深堀直治大尉(長崎県出身)
USSDenver_convert_20160408114302.jpg
▲米軽巡洋艦デンバー(USS Denver)は10/28「第2純忠隊」99式艦爆の爆弾が至近距離で爆発、小破した。

神風特別攻撃隊「初桜隊」昭和19年(1944)10月29日(フィリピン)ニコルス第1基地よりゼロ戦で出撃
(機動部隊索敵攻撃)
野並 哲1飛曹(高知県出身)/藤本寿1飛曹(東京都出身)/吉盛政利飛長(宮崎県出身)マニラ74度180浬突入戦死。
hatuzakuratai.png
▲10/27「初桜隊」命名式、左から野並 哲1飛曹、藤本寿1飛曹

神風特別攻撃隊「第2至誠隊」昭和19年(1944)10月29日(フィリピン)ニコルス第1基地より99式艦上爆撃機で出撃
[操縦]前田文夫飛長(熊本県出身)/[偵察]松本 巌上飛曹(愛知県出身)
[操縦]佐々安則飛長(熊本県出身)/[偵察]團野功雄中尉(神奈川県出身)
(直掩隊ゼロ戦)鈴木正一上飛曹(東京都出身)(653空)/大田吉五郎飛長(岩手県出身)(653空)

神風特別攻撃隊「第2神武隊」昭和19年(1944)10月29日(フィリピン)ニコルス海岸より99式艦上爆撃機で出撃
[操縦]吉元武盛1飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]坂田 馨飛曹長(北海道出身)
(直掩隊ゼロ戦)板倉正一1飛曹(大分県出身)神武隊直掩(221空)

神風特別攻撃隊「第2神兵隊」昭和19年(1944)10月29日(フィリピン)ニコルス海岸より99式艦上爆撃機で出撃
[操縦]伊藤立政上飛曹(熊本県出身)/[偵察]藤本 勇中尉(兵庫県出身)

神風特別攻撃隊「第2義烈隊」昭和19年(1944)10月30日(フィリピン)ニコルス第1基地より「彗星」で出撃
[操縦]大塚克巳上飛曹(長崎県出身)/[偵察]山崎幸栄1飛曹(新潟県出身)
suisei33.jpg
▲海軍艦上爆撃機「彗星」
▼10/30「第2忠勇隊」「第2義烈隊」の特攻々攻撃を受け特攻機が銃座に突入、12名死亡6名が負傷したが、乗員による
 熟練したダメージコントロールでまもなく発艦作業を再開した米空母イントレピッド(USS Intrepid)
USSIntrepid_convert_20160408120142.jpg
神風特別攻撃隊「第2忠勇隊」昭和19年(1944)10月30日(フィリピン)ニコルス第1基地より「彗星」で出撃
[操縦]野々山尚1飛曹(長野県出身)/[偵察]小林勇吉1飛曹(栃木県出身)

神風特別攻撃隊「葉桜隊」昭和19年(1944)10月30日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(機動部隊索敵攻撃)スルアン島150度40浬突入戦死。
崎田清1飛曹(熊本県出身)/広田幸宣1飛曹(新潟県出身)/山下憲行1飛曹(福岡県出身)
山沢貞勝1飛曹(山口県出身)/鈴木鐘1飛長(岐阜県出身)/桜森文雄飛長(宮崎県出身) 6名
USSFranklin.jpg
▲「葉桜隊」の2機が米空母フランクリン(USS Franklin)に突入、炎上する空母フランクリン。
furankurinbeihei_convert_20160408155615.jpg
▲負傷したフランクリン乗組員を気づかう。特攻機の突入を許した空母乗組員の死傷者の数は甚大であった。
Belleau.jpg
▲「葉桜隊」の1機が米空母ベロー・ウッド(USS Belleau)に突入、乗組員92名死亡・行方不明となったが、決死の消火
活動と爆発物投棄を行った結果、最悪の状態から脱する事が出来た。ベロー・ウッドの艦載機12機焼失、14機が使い物
にならなくなった。ベロー・ウッドはフランクリンと共にウルシー環礁に後退、応急修理を受けその後戦線に復帰した。
USSFranklinandUSSBelleau.jpg
▲黒煙を上げるベロー・ウッド(左)とフランクリン(右)
(直掩隊) 畑井輝久中尉/角田和男少尉/新井康平上飛曹(石川県出身)/大川善雄1飛曹(東京都出身)/藤岡三千彦飛長
※直掩任務の角田和男少尉は終戦まで生き残り、(台湾)台中で終戦を迎えた。平成25年(2013)2月14日死去。
 (フィリピン)ニコルス基地で神風特攻隊に編入され、角田少尉(201空)の特攻配置は終戦まで続いたが、熟練搭乗員だ
 った角田少尉は爆装(特攻仕様)する事はなく、直援任務であった。
 KazuoTsunoda_convert_20160325102046.jpg
 ▲角田和男少尉(終戦直後台湾(台中)で撮影された写真)
 多くの神風特攻隊を直掩した角田少尉は特攻隊員の最後を見届けた。
 NHK証言記録など多数の番組で当時の事を語っておられます。[証言記録 兵士たちの戦争]

神風特別攻撃隊「梅花隊」昭和19年(1944)11月1日(フィリピン)ニコルス第1基地よりゼロ戦で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃) 大下春男飛長(広島県出身)

神風特別攻撃隊「桜花隊」昭和19年(1944)11月1日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃) 黒谷康夫飛長(香川県出身)

神風特別攻撃隊「第2至誠隊」昭和19年(1944)11月1日(フィリピン)ニコルス第1基地より99式艦上爆撃機で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃)
[操縦]中島 直上飛曹(熊本県出身/[偵察]津久井武男上飛曹(栃木県出身)

神風特別攻撃隊「第2神兵隊」昭和19年(1944)11月1日(フィリピン)ニコルス第1基地より99式艦上爆撃機で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃)
[操縦]塚本貞雄飛長(茨城県出身)/[偵察]加藤 壮一1飛曹(岐阜県出身)
USSAndersonDD411.jpg
▲11/1米駆逐艦アンダーソン(USS Anderson)に「神兵隊」と見られる特攻機が命中。乗組員14名死亡、負傷者22名。
 負傷者の内2人は後に死亡した、沈没はまぬがれたが11/3レイテ湾を離れ、修理の為サンフランシスコに後退した。

神風特別攻撃隊「第2天兵隊」昭和19年(1944)11月1日(フィリピン)ニコルス第1基地より99式艦上爆撃機で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃)
[操縦]江口源七上飛曹(長崎県出身)/[偵察]土屋和夫中尉(静岡県出身)
[操縦]児玉雄光上飛曹(熊本県出身)/[偵察]遠藤博文上飛曹(神奈川県出身)
[操縦]有馬 敬2飛曹(福岡県出身)/[偵察]伊達喬上飛曹(兵庫県出身)
tenpeitai.jpg
▲天兵隊の出撃前、土屋和夫中尉他隊員の打ち合わせ。3機共レイテ湾の米艦へ突入した。
(直掩隊ゼロ戦) 小林 浩1飛曹(静岡県出身221空)
USSAbner.jpg
▲米駆逐艦アブナー・リード(USS Abner Read)は11/1、13:41神風特攻「天兵隊」「至誠隊」「神兵隊」いずれかに属
 する2機の99式艦上爆撃機が雲中から躍り出て、うち1機がアブナー・リードめがけて突入してきた。被弾しながらも、
 その99式艦爆は突入直前に爆弾を投下し、機体は後部煙突横の40ミリ機関砲基台に命中。
 爆弾は後部煙突を突き破りボイラー室で爆発。機体に起因する火災が中央部を中心に発生し、艦の前後を行き来する事は
 不可能となった。やがて水圧が下がって消防活動も出来なくなり、13:52にいたっては艦全体が震えるほどの大爆発が
 右舷側で発生し、艦尾を沈めて10度傾斜した。魚雷発射管に搭載済みの魚雷も火災により加熱で発射管が誤作動を起こ
 して自然に飛び出し、内4本は戦艦に向かっていった為、「目標」の戦艦は大慌てで回避運動を行う羽目となった。
 乗組員は最後まで消火に務めたが、度重なる爆発についに耐え兼ねて14:05分に総員退艦が令せられ、アブナー・リード
 は10分後の14:15分に右に転覆したのち艦尾から沈没していった。アブナー・リードの沈没位置は、北緯10度47分
 東経125度22分と記録されている。乗組員23名が死亡。23名の中には、自らの救命胴衣を負傷した水兵に与えて溺死し
 た者や、負傷しながらも対空砲火を撃ち続け、乗組員の救助にあたったのち忽然と姿を消した者もいた。救助されたアブ
 ナー・リードのパーディ艦長は神風攻撃が効果的であることを認めた上で、十分離れた距離で神風を撃破しうる兵器の開
 発をするべきだと報告した。

神風特別攻撃隊「第2桜花隊」昭和19年(1944)11月2日(フィリピン)アンヘレス基地よりゼロ戦で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃)
一戸忠郎上飛曹(青森県出身)/西牟礼晃上飛曹(鹿児島県出身)/松岡良典上飛曹(熊本県出身)
福田武雄1飛曹(北海道出身)

神風特別攻撃隊「左近隊」昭和19年(1944)11月5日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(エンカント沖機動部隊攻撃)
大谷寅雄上飛曹(島根県出身)/三浦清三九2飛曹(宮城県出身)

神風特別攻撃隊「白虎隊」昭和19年(1944)11月5日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(エンカント沖機動部隊攻撃)
道坂 孝男2飛曹(福井県出身)/住本種一郎2飛曹(兵庫県出身)

神風特別攻撃隊「第4鹿島隊」昭和19年(1944)11月6日(フィリピン)マバラカット基地より99式艦上爆撃機で出撃
[操縦]蒲谷良平上飛曹(神奈川県出身)/[偵察]告田正毅飛曹長(香川県出身)
[操縦]下平鶴三2飛曹(広島県出身)/[偵察]石橋光上飛曹(福岡県出身)
(零戦)志賀敏美2飛曹(福島県出身)鹿島隊直掩(653空)

神風特別攻撃隊「第4鹿島隊」昭和19年(1944)11月11日(フィリピン)マバラカット基地より99式艦上爆撃機で出撃
[操縦] (生還)/[偵察]肝付 良志上飛曹(石川県出身) 

神風特別攻撃隊「第4神崎隊」昭和19年(1944)11月11日(フィリピン)マバラカット基地より99式艦上爆撃機で出撃
[操縦]栗山 登2飛曹(大分県出身)/[偵察]和久田道雄上飛曹(熊本県出身)

神風特別攻撃隊「第2白虎隊」昭和19年(1944)11月12日(フィリピン)レガスピー基地よりゼロ戦で出撃
(レイテ湾艦船攻撃)
鬼頭清一郎中尉(神奈川県出身)/木村忠雄1飛曹(新潟県出身)/中田久義1飛曹(石川県出身)
鯉沼網夫1飛曹(茨城県出身)/木内正光1飛曹(山梨県出身)/杉田久治2飛曹(茨城県出身)/朝倉秋雄2飛曹(新潟県出身) 

神風特別攻撃隊「梅花隊」昭和19年(1944)11月12日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(タクロバン付近艦船攻撃)
尾辻是清中尉(鹿児島県出身)/和田八男三上飛曹(栃木県出身)/石本奥2飛長(福井県出身)
(直掩隊)岡村恒三郎1飛曹(群馬県出身)

神風特別攻撃隊「時宗隊」昭和19年(1944)11月12日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃)
安田 昇少尉(広島県出身)/船岡睦雄2飛曹(広島県出身)/原武貞己飛長(福岡県出身)
(直掩隊)達川猪和夫中尉(愛媛県出身)

神風特別攻撃隊「第5聖武隊」昭和19年(1944)11月12日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃)
馬場俊夫上飛曹(埼玉県出身)/石岡義人上飛曹(広島県出身)/関根利三郎2飛曹(茨城県出身)
seibutai.jpg
▲セブ基地より出撃していく「聖武隊」

神風特別攻撃隊「正行隊」昭和19年(1944)11月13日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(マニラ沖機動部隊攻撃)
牧 太郎中尉(愛知県出身)/竹山茂太郎1飛曹(東京都出身)/安斎文治1飛曹(新潟県出身)/早田 勝2飛曹(北海道出身)

神風特別攻撃隊「山本隊」昭和19年(1944)11月14日(フィリピン)アンヘレン基地よりゼロ戦で出撃
(ラモン湾沖機動部隊攻撃)
神森義文1飛曹(三重県出身)/(直掩)中島浩三中尉(佐賀県出身)

神風特別攻撃隊「第8聖武隊」昭和19年(1944)11月18日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(タクロバン沖艦船攻撃)
二木 弘上飛曹(茨城県出身)/小原俊弘上飛曹(鹿児島県出身)/吉原久太郎2飛曹(広島県出身)

神風特別攻撃隊「第9聖武隊」昭和19年(1944)11月19日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(タクロバン沖艦船攻撃)
原 正彦上飛曹(長野県出身)/磯野清夫上飛曹(茨城県出身)/高橋許人2飛曹(広島県出身) 

神風特別攻撃隊「第2朱雀隊」昭和19年(1944)11月19日(フィリピン)ニコルス基地よりゼロ戦で出撃
(ラモン湾沖機動部隊攻撃) 伊藤忠夫2飛曹(兵庫県出身)/(直掩)多田圭太中尉(東京都出身)

神風特別攻撃隊「高徳隊」昭和19年(1944)11月19日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(マニラ沖索敵攻撃) 永田 碩上飛曹(岐阜県出身)

神風特別攻撃隊「第5疾風隊」昭和19年(1944)11月25日(フィリピン)クラーク基地より銀河で出撃
[操縦]川田茂久上飛曹(埼玉県出身)/[偵察]竹崎正意上飛曹(熊本県出身)/[電信]前田操上飛曹(千葉県出身)
[操縦]生駒重光上飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]中野龍朗上飛曹(長崎県出身)/[電信]鈴木光雄上飛曹(静岡県出身)
(直掩隊)北野行雄上飛曹(滋賀県出身)/出羽福三飛長(静岡県出身)
gingatokko11.jpg
▲海軍双発爆撃機「銀河」

第5神風特別攻撃隊 昭和19年(1944)11月25日(フィリピン)クラーク基地より銀河で出撃
[操縦]赤坂正夫1飛曹(福井県出身)/[偵察]加藤貞義少尉(福岡県出身)/[電信]前畑 勇飛長(熊本県出身)

第5神風特別攻撃隊「強風隊」昭和19年(1944)11月25日(フィリピン)クラーク基地より銀河で出撃
[操縦]栗原 淳上飛曹(東京都出身/[偵察]山口晴雄上飛曹(福岡県出身)/[電信]上市三郎上飛曹(富山県出身)
[操縦]増田和夫上飛曹(千葉県出身)/[偵察]古川光男2飛曹(新潟県出身)/[電信]服部秀男1飛曹(愛知県出身)
ginga12.jpg
▲海軍双発爆撃機「銀河」

神風特別攻撃隊「第3高徳隊」昭和19年(1944)11月25日(フィリピン)ニコルス基地よりゼロ戦で出撃
植竹功上飛曹(千葉県出身)/斎藤良知上飛曹(東京都出身)
(直掩隊)小串明夫上飛曹(神奈川県出身)/加藤鼎上飛曹(岩手県出身)/高月秀次郎上飛曹(大分県出身)

神風特別攻撃隊「笠置隊」昭和19年(1944)11月25日(フィリピン)エチアゲ基地よりゼロ戦で出撃
(比島東方機動部隊攻撃)
高井威衛上飛曹(広島県出身)/藤本英敏2飛曹(長崎県出身)
(直掩隊)鮎川幸男中尉(鹿児島県出身)/南 義美少尉(香川県出身)
▼11/25神風特別攻撃隊2機が米空母イントレピッド(USS Intrepid)に突入、69名死亡。
intreoid2.jpg

intorepid3.jpg

intorepid4.jpg

intrepid1.jpg
▼艦の推進力には影響が及ばず、2時間以内に消火作業を完了した。
USSIntrepid1125_convert_20160408130825.jpg
神風特別攻撃隊「吉野隊」昭和19年(1944)11月25日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(比島東方機動部隊攻撃)
高武公美中尉(福岡県出身)/池田末広上飛曹(鹿児島県出身)/布田孝一上飛曹(宮城県出身)
河内山精治上飛曹(山口県出身)/長谷川達上飛曹(茨城県出身)/永原茂木飛長(長野県出身)
(直掩隊)村松文雄上飛曹(静岡県出身)/西尾芳朗2飛曹(岐阜県出身)
▼11/25神風特別攻撃隊2機が米空母イントレピッド(USS Intrepid)に突入、69名死亡。
KamikizeUSSIntrepid.jpg
▼特攻機突入の瞬間
KamikizeUSSIntrepid1_convert_20160408213804.jpg

神風特別攻撃隊「第3香取隊」昭和19年11月25日(フィリピン)マバラカット東飛行場より艦上爆撃機「彗星」で出撃
[操縦]田邊正中尉(茨城県出身)/[偵察]工藤太郎少尉(岩手県出身)
[操縦]山口善則1飛曹(佐賀県出身)/[偵察]酒樹 正1飛曹(樺太出身)※(尾翼№701-17号)
kamikazesuisei_convert_20160325153407.jpg
▲▼対空砲火を受け白煙を出しながら米空母エセックスに突入寸前の神風特別攻撃隊「香取隊」彗星(尾翼№701-17号)
kamikazeessex_convert_20160325153425.jpg
▼突入。
kamikazeUSSEssex1_convert_20160326190733.jpg

kamikazeUSSEssex2_convert_20160326190635.jpg

kamikazeUSSEssex4_convert_20160326195400.jpg

kamikazeUSSEssex3_convert_20160326190756.jpg

神風特別攻撃隊「第10聖武隊」昭和19年(1944)11月26日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(タクロバン沖艦船攻撃)
矢野健一上飛曹(愛媛県出身)/渡邊久夫2飛曹(宮城県出身)
(直掩隊)長門 達中尉(石川県出身)/塩盛 實上飛曹(鹿児島県出身)

神風特別攻撃隊「右近隊」昭和19年(1944)11月26日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(タクロバン沖艦船攻撃)
久村俊治上飛曹(愛知県出身)/井上数雄2飛曹(宮城県出身)
(直掩隊)渡部一郎中尉(鳥取県出身)/安元巌雄2飛曹(福岡県出身)

神風特別攻撃隊「春日隊」昭和19年(1944)11月27日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃) 富田勝夫2飛曹(神奈川県出身)
(直掩隊)犬塚教市飛曹長(新潟県出身)/川崎一美上飛曹(茨城県出身)/黒木親夫2飛曹(鹿児島県出身)

神風特別攻撃隊「第3春日隊」昭和19年11月27日(フィリピン)マバラカット東飛行場より艦上爆撃機「彗星」で出撃
[操縦]池口 勇1飛曹(福岡県出身)/[偵察]室町正義上飛曹(愛知県出身)
[操縦]岩城 稔飛長(愛媛県出身)/[偵察]高橋 仁一1飛曹(新潟県出身)

※神風特別攻撃隊「第1御盾隊」昭和19年11月27日硫黄島基地よりゼロ戦で出撃
 (米軍に占領されたサイパン島アスリート飛行場攻撃)
大村謙治中尉(静岡県出身)/小野康徳飛曹長(香川県出身)/北川磯高上飛曹(福井県出身)/住田廣行1飛曹(大阪府出身)
東  進1飛曹(滋賀県出身)/加藤正人1飛曹(山形県出身)/司城三成2飛曹(大分県出身)/新堀清次飛長(東京都出身)
上田祐次飛長(神奈川県出身)/高橋輝美飛長(香川県出身)/明城 哲飛長(福井県出身)
USS_St__Louis_hit_by_kamikaze.jpg
▲米防護巡洋艦セントルイス(USS St. Louis)に「第1御盾隊」特攻機が命中、中破させた。

第5神風特別攻撃隊「怒涛隊」昭和19年(1944)12月4日(フィリピン)デゴス基地より銀河で出撃
[操縦]野々上侃2飛曹(岡山県出身)/[偵察]佐藤貞廣上飛曹(樺太出身)/[電信]松井素美1飛曹(福岡県出身)
tokkoginga.jpg
▲海軍双発爆撃機「銀河」

神風特別攻撃隊「第11聖武隊」昭和19年(1944)12月5日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(レイテ湾内艦船攻撃)
永島真上飛曹(福岡県出身)/宮田実飛長(大阪府出身)

sebukitikamikaze_convert_20160810112953.jpg
▲(フィリピン)セブ基地より出撃していく神風特別攻撃隊。

神風特別攻撃隊「第1桜井隊」昭和19年(1944)12月6日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(オルモック湾内艦船攻撃)
柿原正行上飛曹(佐賀県出身)/鹿野正信2飛曹(大阪府出身)

第5神風特別攻撃隊「颶風隊」昭和19年(1944)12月7日(フィリピン)クラーク基地より銀河で出撃
[操縦]吉川計治2飛曹(静岡県出身)/[偵察]田中高正中尉(岡山県出身)/[電信]高橋志郎上飛曹(岩手県出身)
[操縦]安田一人2飛曹(山口県出身)/[偵察]石井欣也少尉(東京都出身)/[電信]山本重幸2飛曹(島根県出身)
[操縦]佐藤周三上飛曹(福島県出身)/[偵察]島田 明少尉(茨城県出身)/[電信]土井勇一1飛曹(神奈川県出身)
[操縦]瀧澤幸一郎2飛曹(滋賀県出身)/[偵察]大木 篤少尉(福岡県出身)/[電信]森本元秋1飛曹(福島県出身)
[操縦]堀   久飛長(新潟県出身)/[偵察]関  秋夫1飛曹(茨城県出身)/[電信]小崎政明1飛曹(愛知県出身)

神風特別攻撃隊「第5桜井隊」昭和19年(1944)12月7日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(オルモック湾内艦船攻撃)
尾谷保上飛曹(富山県出身/本田今朝美1飛曹(宮城県出身)/脇坂寅夫飛長(滋賀県出身)/廣瀬 静飛長(新潟県出身)
(直掩隊)矢野徹郎中尉(愛知県出身)

神風特別攻撃隊「第7桜井隊」昭和19年(1944)12月7日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(カモテス海方面艦船攻撃)
河波啓造2飛曹(福岡県出身)/福田憲海2飛曹(鹿児島県出身)/中村正利飛長(熊本県出身)
(直掩隊)村上卓上飛曹(宮城県出身)/高井利次上飛曹(大阪府出身)/辻谷敏男上飛曹(奈良県出身) 

神風特別攻撃隊「千早隊」昭和19年(1944)12月7日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦と彗星で出撃
(カモテス海方面艦船攻撃)
横林高文上飛曹(岡山県出身)/池渕慎上飛曹(鳥取県出身)/佐藤繁雄1飛曹(山形県出身)/金高菊雄1飛曹(千葉県出身)
[操縦]稲垣 茂2飛曹(兵庫県出身)/[偵察]篠崎福四郎上飛曹(茨城県出身)

神風特別攻撃隊「第1金剛隊」昭和19年(1944)12月11日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(スリガオ水道方面艦船攻撃)
龍野彦次郎中尉(福岡県出身)/朝倉正一中尉(石川県出身)/鈴木 清中尉(三重県出身)/松尾 忠中尉(北海道出身)
(直掩隊)松葉三美上飛曹(宮崎県出身)/澳 博2飛曹(広島県出身)

神風特別攻撃隊「第2金剛隊」昭和19年(1944)12月13日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(ムルシェラゴス湾艦船攻撃)
小松 弘中尉(栃木県出身)/上原 登上飛曹(北海道出身/藤野康治1飛曹(京都府出身)/池田三義飛長(栃木県出身)
(直掩隊)松澤 諭1飛曹(山形県出身)

神風特別攻撃隊「第3金剛隊」昭和19年(1944)12月14日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(バゴドロ沖艦船攻撃)
鈴木孝一中尉(岐阜県出身)/長谷川拓男中尉(佐賀県出身)/大川 渡2飛曹(三重県出身)
(直掩隊)野末甲子上飛曹(静岡県出身)/飯田義隆上飛曹(茨城県出身)

神風特別攻撃隊「第5金剛隊」昭和19年(1944)12月14日(フィリピン)よりシライ基地よりゼロ戦で出撃
(ネグロス島周辺艦船攻撃)
中村 修中尉(奈良県出身)/枦木初男2飛曹(鹿児島県出身)
(直掩隊隊)片岡啓造中尉(富山県出身)
※シライ基地はネグロス島陸軍飛行場

神風特別攻撃隊「第6金剛隊」昭和19年(1944)12月14日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦と彗星で出撃
(ズマグテ南方艦船攻撃)
神山 敬中尉(千葉県出身)/上原和則中尉(岡山県出身)/石田完三中尉(兵庫県出身)/青山義男中尉(岐阜県出身)
萱野留雄中尉(三重県出身)/門山孝中尉(大阪府出身)
[操縦]武部 武治2飛曹(千葉県出身)/[偵察]井口 要之助少尉(鳥取県出身)  
[操縦]松尾 保上飛曹(佐賀県出身)/[偵察]関 迪雄上飛曹(東京都出身)  
[操縦]中村 勇2飛曹(山口県出身)/[偵察]山本平造上飛曹(千葉県出身) 

第5神風特別攻撃隊「第1草薙隊」昭和19年(1944)12月15日(フィリピン)デゴス基地より銀河で出撃
[操縦]清水左分郎1飛曹(兵庫県出身)/[偵察]西村克巳少尉(京都府出身)/[電信]平田康則1飛曹(広島県出身)
[操縦]岩崎次雄2飛曹(宮崎県出身)/[偵察]宮田勇人2飛曹(茨城県出身)/[電信]星野 勝2飛曹(福島県出身)
1gingatokko.jpg
▲米護衛空母オマニー・ベイ(USS Ommaney Bay)へ突入する「第1草薙隊」の銀河

神風特別攻撃隊「第7金剛隊」昭和19年(1944)12月15日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(ミンドロ島周辺艦船攻撃)
澤本裕嗣中尉(石川県出身)/織田真伉中尉(香川県出身)/神島利則中尉(石川県出身)/青山義男中尉(岐阜県出身)
(直掩隊)若林良茂上飛曹(群馬県出身)/佐藤國一上飛曹(奈良県出身)
731pxkamikaze738andussmoale693.jpg
▲ミンドロ島上陸を阻止すべく「第7金剛隊」のゼロ戦が突入、炎上する米戦車揚陸船736号(LST-736) 

神風特別攻撃隊「第8金剛隊」昭和19年(1944)12月15日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦と彗星で出撃
敵を発見出来ず帰投したものと推定される。

神風特別攻撃隊「第9金剛隊」昭和19年(1944)12月15日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦と彗星で出撃
(ミンドロ島周辺艦船攻撃)
青木 進大尉(埼玉県出身)/松岡英雄中尉(広島県出身)/荒木輝夫中尉(新潟県出身)/生島治人中尉(大分県出身)
出井政義中尉(山口県出身)/山本俊夫2飛曹(富山県出身)/太田雄三中尉(神奈川県出身)/梶原一郎中尉(兵庫県出身)
石塚 茂上飛曹(北海道出身)/大桑健見2飛曹(三重県出身)/鈴木 稔中尉(岩手県出身)/宇野 勇上飛曹(岡山県出身)
[操縦]松本岩視2飛曹(香川県出身)/[偵察]恒岡喜代則1飛曹(三重県出身)
(直掩隊)12機[ 紫電 ]

神風特別攻撃隊「第10金剛隊」昭和19年(1944)12月15日(フィリピン)第1ダバオ基地よりゼロ戦で出撃
小野光重中尉(東京都出身)/山岡哲生上飛曹(山口県出身)
(直掩隊)零戦1機/紫電2機

神風特別攻撃隊「第11金剛隊」昭和19年(1944)12月16日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦と彗星で出撃
(ミンドロ島沖艦船攻撃)
辻 誠夫大尉(滋賀県出身)/江橋厚二郎中尉(東京都出身)/瀬口政孝中尉(熊本県出身)/渕上善吾上飛曹(福岡県出身)  
竹内 彪1飛曹(京都府出身)/我喜屋元次郎2飛曹(沖縄県出身)/宮崎博甲飛長(群馬県出身)/久保 米三飛長(京都府出身)  
高橋成吾飛長(広島県出身)/伊東静昭穂飛長(長野県出身)/半田昭穂飛長
[操縦]田中 勇飛長(山口県出身)/[偵察]江幸 信1飛曹(石川県出身)
(直掩隊)6機[ 紫電/零戦 ]

神風特別攻撃隊「第12金剛隊」昭和19年(1944)12月16日(フィリピン)ダバオ基地よりゼロ戦で出撃
矢田義治上飛曹(機体トラブルでマラハンに不時着)/田中 巌2飛曹(機体トラブルで引き返す)
※矢田義治上飛曹は台湾に後退後、昭和20年4月2日「第4大義隊」として石垣基地より出撃、突入戦死。

神風特別攻撃隊「第13金剛隊」昭和19年(1944)12月24日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
青野 豊大尉/伊藤勝美上飛曹以下6機、直掩隊8機で出撃するも敵を発見出来ず引き返す。

神風特別攻撃隊「月光隊」昭和19年(1944)12月28日(フィリピン)マバラカット基地より夜間戦闘機「月光」で出撃
[操縦]高橋安吉1飛曹(新潟県出身)/[偵察]大友祿郎1飛曹(山形県出身)
gekko1.jpg
▲海軍夜間戦闘機「月光」

神風特別攻撃隊「第14金剛隊」昭和19年(1944)12月28日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(シキホール島東方艦船攻撃) 
星野政巳中尉(長野県出身)/大塚 明上飛曹(茨城県出身)/川渕静夫1飛曹(広島県出身) 

神風特別攻撃隊「第15金剛隊」昭和19年(1944)12月29日(フィリピン)バダンガス基地よりゼロ戦で出撃
(ミンドロ島南方艦船攻撃)
増田 脩中尉(愛知県出身)/小野田敏明1飛曹(静岡県出身)/伊藤 弘2飛曹(兵庫県出身)/山脇 林2飛曹(高知県出身)
(直掩隊)荒井敏雄上飛曹(千葉県出身)/谷内善之2飛曹(富山県出身)/児島 茂2飛曹(群馬県出身)
▼清水 武中尉(山口県出身205海軍航空隊)
simizutyui.jpg
この日は指揮官として直掩隊を務めたが、昭和20年(1945)4月1日「第1大義隊」隊長として石垣島基地より出撃。
宮古島南方で散華している。(石垣島派遣隊は特攻隊「大義隊」を編成、第1第2第5大義隊が石垣島基地より出撃)

神風特別攻撃隊「第16金剛隊」昭和19年(1944)12月31日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦と彗星で出撃
青野 豊大尉/伊藤勝美上飛曹以下6機、直掩隊3機、誘導「彗星」1機で出撃

神風特別攻撃隊「第17金剛隊」昭和19年(1944)12月31日(フィリピン)ニコルス基地よりゼロ戦と彗星で出撃
綿引芳男中尉以下ゼロ戦3機、直掩隊3機、誘導「彗星」1機で出撃するも敵艦隊を発見出来ず帰還。

神風特別攻撃隊「第30金剛隊」昭和20年(1945)1月3日(フィリピン)セブ基地よりゼロ戦で出撃
(ミンダナオ海艦船攻撃) 高島 清中尉(広島県出身)/井野精蔵中尉(愛知県出身)

神風特別攻撃隊「月光隊」昭和20年(1945)1月3日(フィリピン)マバラカット基地より「月光」で出撃
[操縦]梶原 昇(広島県出身)/[偵察]田中竹雄(山形県出身)
gekkousumisonian_convert_20160401112456.jpg
▲アメリカ合衆国「スミソニアン博物館」に展示・胴体保存されている「月光」

神風特別攻撃隊「旭日隊」昭和20年(1945)1月4日(フィリピン)ラサン基地より彗星で出撃
[操縦]長谷川弘房1飛曹(富山県出身)/[偵察]風間萬年中尉(福島県出身)
神風特別攻撃隊「旭日隊」昭和20年(1944)1月4日(フィリピン)マバラカット基地より彗星で出撃
[操縦]幡野孝司1飛曹(静岡県出身)/[偵察]井上茂夫1飛曹(神奈川県出身)
スールー海を航行していた米護衛空母オマニー・ベイは「旭日隊」彗星2機/陸軍「一誠隊」隼2機(都留洋中尉・石川誠
司少尉)/陸軍「進襲隊」99式襲撃機1機(小林直行軍曹)の特攻々撃を受ける。
その内「旭日隊」彗星1機が、オマニー・ベイの見張りに発見される事も、レーダーに探知される事も上空哨戒機にも、
そして周囲の艦船に気づかれる事も無く、沈みゆく夕日をバックにオマニー・ベイに接近、艦橋に突入右舷を破壊した。
2発の爆弾が投下され、1発目が飛行甲板の内部で爆発。前部第3格納庫に収容されていた燃料を満載した艦載機に誘
爆した。2発目は格納庫を通り抜け、第2甲板上の消火用水管を破壊し右舷で爆発。直ちに戦闘配置が令されたが、わず
かに手遅れだった。艦前部の水圧がたちまち失われ、動力と艦橋との通信も途絶えた。格納庫での猛烈な火災に対処し
ていた兵員は、炎上する艦載機からの激しい黒煙及び12.7mm機銃弾の爆発で退避しなければならなくなった。
艦は弾薬の爆発と火災による高熱で戦闘を行う状況にはなくなった。17:50までに甲板上全面が維持不能となり、搭載
していた魚雷が爆発する恐れが出てきた。オマニー・ベイを支援するために接近した駆逐艦は、火災による熱気で消火
作業も負傷者の移送も満足に行う事ができず、早急にオマニー・ベイから離れざるを得なかった。
やがて、艦長と砲術長から別々に、艦を放棄する命令が下され18:16には、搭載していた魚雷に引火して爆発。
破片は周囲の艦に降り注いだ。19:45オマニー・ベイは別の日本軍特攻機の攻撃を呼び込む目印になる事を防ぐ為、駆
逐艦バーンズ (USS Burns) の魚雷により沈められたが駆逐艦乗員を含む合計95名の米水兵が戦死した。
USSOmmaneyBay_convert_20160401115849.jpg
▲米護衛空母オマニー・ベイ(USS Ommaney Bay)

神風特別攻撃隊「第18金剛隊」昭和20年(1945)1月5日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(ルバング島西方艦船攻撃)
金谷真一大尉(東京都出身)/丸山 隆(石川県出身)/長井正二郎(東京都出身)/井上 啓(鹿児島県出身)/桜井幹男(三重)
船津安男中尉(群馬県出身)/市川 猛中尉(愛知県出身)/江口 博上飛曹(佐賀県出身/)福崎貞二上飛曹(北海道出身)
杉田肇上飛曹(鹿児島県出身)/中川一男上飛曹(福岡県出身)/梶原喬由上飛曹(山梨県出身)/篠山 高1飛曹(岡山県出身)
藤山義彦1飛曹(山口県出身)/谷 晴源2飛曹(徳島県出身)
(直掩隊)北川直隆中尉(東京都出身)/出津正平1飛曹(茨城県出身)
▼昭和20年1月5日(ルソン島の戦い)重巡洋艦ルイビルに「第18金剛隊」か陸軍「進襲隊」の特攻機が突入の瞬間。
USSkamikaze_convert_20160205100729.jpg
▼昭和20年1月5日重巡洋艦オーストラリア(HMAS Australia)に「第18金剛隊」爆装ゼロ戦が突入、1番煙突が倒壊した。
HMASAustralia_convert_20160407142621.jpg
▼豪重巡洋艦オーストラリア(HMAS Australia)特攻々撃により、オーストラリア軍 戦死25名、負傷30名の被害を出した
HMASAustralia1_convert_20160407142813.jpg

神風特別攻撃隊「旭日隊」昭和20年(1945)1月6日(フィリピン)マバラカット基地より彗星で出撃
[操縦]吹野 匡中尉(鳥取県出身)/[偵察]三宅精策少尉(香川県出身)
[操縦]花下道好1飛曹(兵庫県出身)/[偵察]向吉健三1飛曹(鹿児島県出身)

神風特別攻撃隊「第19金剛隊」昭和20年(1945)1月6日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾内艦船攻撃)
青野 豊大尉(愛媛県出身)/福山正通中尉(奈良県出身)/富澤幸光中尉(北海道出身)/永富雅夫中尉(大分県出身)
山下省治中尉(福岡県出身)/磯部 豊中尉(愛知県出身)/伊藤勝美上飛曹(島根県出身)/真崎義男上飛曹(佐賀県出身)
串原麟八上飛曹(長野県出身)/山田正文上飛曹(山梨県出身)/黒木典次2飛曹(鹿児島県出身)/青野國輝2飛曹(愛媛県出身)
和田可臣飛長(秋田県出身)/浜砂良一1飛曹(トラブルで引き返す)
(直掩隊)真鍋秀信上飛曹/高橋良生上飛曹

神風特別攻撃隊「第20金剛隊」昭和20年1月6日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾内艦船攻撃)  
中尾邦為中尉(富山県出身)/中野勇三少尉(新潟県出身)/後藤喜一上飛曹(群馬県出身)/千原昌彦上飛曹(和歌山県出身)
谷内善之上飛曹(富山県出身)
USSLong.jpg
▲昭和20年(1945)1月6日神風特別攻撃隊の命中により沈没した米駆逐艦ロング(USS Long)戦死1名、負傷35名
神風特別攻撃隊「第22金剛隊」昭和20年1月6日(フィリピン)アンヘルス基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾内艦船攻撃)
三宅輝彦中尉(岡山県出身)/廣田豊吉中尉(和歌山県出身)/吉原 晋中尉(神奈川県出身)/黒澤 厚2飛曹(埼玉県出身) 
USSBrooks.jpg
▲米駆逐艦ブルックス(USS Brooks)1/6 特攻機の突入で補助蒸気ラインが切断され火災が発生、乗組員3名死亡11名負傷
神風特別攻撃隊「第23金剛隊」昭和20年1月6日(フィリピン)ニコルス基地よりゼロ戦で出撃
(イバ沖艦船攻撃)
園田 勇中尉(兵庫県出身)/綿引芳男中尉(茨城県出身)/加藤米男中尉(東京都出身)/南里昭敏上飛曹(福岡県出身)
小池富士夫1飛曹(東京都出身)/佐々木輝雄1飛曹(愛知県出身)/倉松房太2飛曹(福島県出身)/井上義輝2飛曹(福岡県出身)
(直掩隊)大森茂中尉(宮城県出身)/平島 仁中尉(千葉県出身)/小玉酉治上飛曹(秋田県出身)/玉腰俊光1飛曹(愛知県出身)
(誘導)「彗星」 [操縦]石井隆上飛曹(兵庫県出身)/[偵察]奥居 一郎上飛曹(滋賀県出身)
USSNewMexico_convert_20160407150929.jpg
▲1/6リンガエン湾上陸前の艦砲射撃中、特攻機が戦艦ニューメキシコ(USS New Mexico)艦橋に突入。
艦長R・W・フレミング大佐を含む29名死亡、87名が負傷した。損傷したが砲撃は継続され、地上部隊が上陸するまで
同海域での活動を続けた。真珠湾での修理後にニューメキシコは沖縄進攻の準備のためウルシー泊地へ到着した。
3/21火力支援グループと共に出航、3/26には沖縄で砲撃を開始した。5/11に8艘の特攻艇(震洋?)を破壊するが、5/12
2機の特攻機の攻撃を受ける。1機を撃墜するがもう1機は爆弾と共に突入し爆発、54名が死亡119名が負傷した。

神風特別攻撃隊「第30金剛隊」昭和20年(1945)1月6日(フィリピン)マバラカット基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾艦船攻撃)
小林 武雄中尉(千葉県出身)/阪本哲朗中尉(熊本県出身)/小林秀雄中尉(東京都出身)

神風特別攻撃隊「八幡隊」昭和20年(1945)1月6日(フィリピン)クラーク基地より艦上攻撃機「天山」で出撃
[操縦]藤田紀久雄2飛曹(福岡県出身)/[偵察]磯野博之少尉(千葉県出身)/[電信]繁縄精一飛長(兵庫県出身)
TENZAN_convert_20160330103802.jpg
▲海軍艦上攻撃機「天山」

神風特別攻撃隊「旭日隊」昭和20年(1945)1月7日(フィリピン)マバラカット基地より彗星で出撃
[操縦]池島厚吉少尉(山口県出身)/[偵察]斎藤喜一少尉(埼玉県出身)

神風特別攻撃隊「第28金剛隊」昭和20年(1945)1月7日(フィリピン)チリアゲ基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾内艦船攻撃)
熊倉三夫中尉(栃木県出身)/高杉英彦中尉(広島県出身)/勝原道春1飛曹(山口県出身)
(直掩隊)遠藤晴次中尉(広島県出身)/平野光夫(愛知県出身)

神風特別攻撃隊「第29金剛隊」昭和20年(1945)1月7日(フィリピン)チリアゲ基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾内艦船攻撃)
佐藤栄夫上飛曹(宮城県出身)/諸戸清司2飛曹(三重県出身)
(直掩隊)真鍋重信上飛曹(愛媛県出身)

神風特別攻撃隊「八幡隊」昭和20年(1945)1月8日(フィリピン)クラーク基地より艦上攻撃機「天山」で出撃
[操縦]北村新一少尉(和歌山県出身)/[偵察]垣内次郎上飛曹(和歌山県出身)/[電信]山口歳朗上飛曹(京都府出身)
kamikazeorig_convert_20160411144634.jpg
▲米航空母艦ヨークタウンから5インチ砲を浴び被弾し、墜落していく艦上攻撃機「天山」(1944年10月25日)

神風特別攻撃隊「第24金剛隊」昭和20年(1945)1月9日(フィリピン)ツゲガラオ基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾艦船攻撃) 児島 茂2飛曹(群馬県出身)

神風特別攻撃隊「第25金剛隊」昭和20年(1945)1月9日(フィリピン)ニコルス基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾艦船攻撃) 村上 惇中尉(東京都出身)/鈴木眞造2飛曹(愛知県出身)

神風特別攻撃隊「第26金剛隊」昭和20年(1945)1月9日(フィリピン)ツゲガラオ基地よりゼロ戦で出撃
(リンガエン湾艦船攻撃) 土屋 浩中尉(岡山県出身)/内海 崇1飛曹(愛知県出身)
(直掩隊)尾坂一男上飛曹(大分県出身)

神風特別攻撃隊「第3新高隊」昭和20年(1945)1月21日(フィリピン)ツゲガラオ基地よりゼロ戦6機で出撃
川添 実大尉

神風特別攻撃隊「第27金剛隊」昭和20年(1945)1月25日(フィリピン)ツゲガラオ基地よりゼロ戦2機で出撃
(※在フィリピン海軍航空部隊最後の特攻出撃)
住野英信中尉/
フィリピン特攻作戦:海軍突入機202機(搭乗員256人)、未帰還機131機

※神風特別攻撃隊「第2御盾隊」昭和20年(1945)2月21日八丈島基地発基地より彗星/天山/ゼロ戦で出撃
(硫黄島周辺艦船攻撃)
dai2mitatetaiin.jpg
▲第2御楯隊隊員勇士
▼出撃直前の「第2御盾隊」
mitatetai.jpg
彗星
[操縦]村川 弘大尉(新潟県出身)/[偵察]原田嘉太男飛曹長(鳥取県出身)
[操縦]田中武夫1飛曹(滋賀県出身)/[偵察]幸松政則上飛曹(大分県出身)
[操縦]青木孝充上飛曹(千葉県出身)/[偵察]木下 茂少尉(大阪府出身)
[操縦]小石政雄上飛曹(神奈川県出身)/[偵察]戸倉勝二上飛曹(三重県出身)
[操縦]大久保勲1飛曹(茨城県出身)/[偵察]飯島 晃中尉(長野県出身)
[操縦]水畑辰雄2飛曹(兵庫県出身)/[偵察]下村千代吉上飛曹(熊本県出身)
[操縦]小松武上飛曹(高知県出身)/[偵察]石塚元彦上飛曹(山形県出身)
[操縦]三宅重男1飛曹(岡山県出身)/[偵察]伊藤正一1飛曹(宮崎県出身)
[操縦]池田芳一1飛曹(和歌山県出身)/[偵察]小山照夫上飛曹(香川県出身)
[操縦]北爪圓三2飛曹(群馬県出身)/[偵察]牧 光廣上飛曹(鹿児島県出身)
天山
[操縦]原口章雄1飛曹(熊本県出身)/[偵察]清水邦夫1飛曹(長野県出身)/[電信]川原 茂2飛曹(東京都出身)
[操縦]中村吉太郎少尉(東京都出身)/[偵察]小島三良上飛曹(東京都出身)/[電信]叶 之人2飛曹(北海道出身)
[操縦]和田時次2飛曹(群馬県出身)/[偵察]信太廣蔵2飛曹(秋田県出身)/[電信]鈴木辰蔵1飛曹(東京都出身)
[操縦]村井明夫上飛曹(大分県出身)/[偵察]桜庭正雄中尉(広島県出身)/[電信]窪田高一上飛曹(山梨県出身)
[操縦]稗田一幸1飛曹(福岡県出身)/[偵察]中村伊十郎上飛曹(千葉県出身)/[電信]竹中友男2飛曹(兵庫県出身)
[操縦]佐川保男少尉(香川県出身)/[偵察]岩田俊雄上飛曹(福井県出身)/[電信]小山良知2飛曹(長野県出身)
ゼロ戦
茨木 速中尉(高知県出身)/志村雄作上飛曹(山梨県出身)/森川 博1飛曹(京都府出身)
長 與走2飛曹(福岡県出身)/岡田金三2飛曹 (広島県出身)
USS-Saratoga_convert_20160823112525.jpg
▲米空母サラトガ(USS Saratoga)は2/21硫黄島の夜間防空と父島への夜間攻撃のため、駆逐艦3隻を伴って機動部隊
 を離れた際、「第2御盾隊」による特攻を衝突4機と爆弾2発に受けて大破したが、エニウェトクを経由してブレマート
 ンに到着し、修理を行った。5/22修理完了し、ピュージェット・サウンド工廠を発って6/3真珠湾へ戻り、再び航空隊
 の訓練に従事した。日本が降伏した為、9/6に訓練を中止して、アメリカ本土に戻る復員兵の輸送を行った。
USSSaratoga(CV-3)USSEnterprise(CV-6)1942_convert_20160421104331.jpg
▲2/21米空母サラトガに突入する「第2御盾隊」の特攻機。
usssaratoga_convert_20160421104840.jpg
▲大きく損傷した空母サラトガの飛行甲板
saratogakulu_convert_20160421105042.jpg
▲空母サラトガ乗組員、死者・行方不明者合わせて123人、負傷者192人に達した。
 戦後サラトガは、1946年に行われたビキニ環礁での核実験(クロスロード作戦)の標的艦に使用された。
Atombombentest_Crossroads-Baker_convert_20160421114215.jpg
▲1946年7月25日の「BAKER実験」において発生した核爆弾の水中炸裂の写真(中央の艦がサラトガ)
 7/1の「ABLE」実験では軽度の損傷で済んだものの、続く7/25「BAKER」実験で艦体に致命的な損傷を負い、サラ
 トガは7時間後に沈没した。全体としては原形を充分に留めていた為、引き揚げて核爆発による損害を詳しく研究す
 る計画が立てられたが、放射線障害の危険性によってサルベージは中止され、1946年8月15日正式に除籍された。
 以後、サラトガはビキニ環礁の海底にあり、現在では放射線障害の危険性も低下したため民間人でもダイビングに
 よってその姿を眺める事が出来る。浅海におけるスキューバダイビングで容易に到達できる航空母艦として、サラト
 ガはダイビングスポットとして人気を集めている。民間人が通常のダイビングで到達できる沈船航空母艦は、現在の
 所サラトガとフロリダ沖メキシコ湾内のオリスカニーの2隻のみとなっている。

ussbisumaruku_convert_20160421141233.jpg
▲米護衛空母ビスマーク・シー(USS Bismarck Sea)は2月16日ビスマーク・シー以下第52任務部隊(ウィリアム・H
・P・ブランディ少将)の護衛空母群は硫黄島沖に到着し、硫黄島の戦いの支援を開始し、90機の艦載機が硫黄島攻撃
を行った。2/17・18にも出撃を行い、2/19上陸作戦に向けての露払いを行った。2/21の日没は18:25と記録された。
その直後、ビスマーク・シーの見張りは水平線上に接近してくる3つの目標を発見。ビスマーク・シーはルンガ・ポイン
ト(USS Lunga Point, CVE-94) に向かっていた3つの目標に対して対空砲火を撃ち、1機を撃墜した。一時はサラトガ
の航空機とも思われた残る2機の特攻機がビスマーク・シーに急速に接近してきたが、一部の機関砲および機銃は射程
内にルンガ・ポイントが入ってきたため撃てなかった。やがて、その特攻機は右舷後部の40ミリ機関砲座の下に突入、
ハンガーデッキと弾薬庫を破壊。格納してあった航空魚雷4本を叩き落して爆発を起こさせた。その火災は押さえる事
ができたものの、間もなく別の特攻機、あるいは通常の攻撃機から投下された爆弾が後部エレベーターシャフトに命中
して海水消火システムを破壊。また、ガソリンを抜き終わっていない航空機の中で爆発した為、格納庫内の航空機、燃
料、弾薬に次々と引火して火山の様となった。ビスマーク・シーは消火隊が焼死した他、後部にいた乗員が爆発で海に
放り出され、ビスマーク・シーは、もはやそれ以上のダメージ・コントロールが不能となった。
最初の特攻機が命中してからわずか15分後、艦の放棄が命じられた。総員退艦の命令は口伝で行われた。
ビスマーク・シーは爆発を繰り返して右舷側に倒れ、20:08犠牲者318名と共に艦尾から沈没していった。
護衛駆逐艦エドモンズ (USS Edmonds, DE-406) が救助作業を行い、夜間の荒海の中プラット艦長を含む378名を救出。
生存者は攻撃輸送艦ディッケンズ (USS Dickens, APA-161) と、ハイランズ (USS Highlands, APA-119) に移送され、
エドモンズの乗組員30名が傷つき疲れ果てた救助者達に同行した。
bisumaruckkamikaze_convert_20160421141359.jpg
▲2/21「第2御楯」の特攻隊機の命中により大爆発を起こし、沈没した米護衛空母ビスマーク・シー

※神風特別攻撃隊「第2御盾隊」昭和20年(1945)3月1日八丈島基地発基地より彗星で出撃
 (硫黄島周辺艦船攻撃)
[操縦]川崎 直飛長(宮崎県出身)/[偵察]小林善男上飛曹(山形県出身)
kyusyumap.jpeg
▲戦時中の九州 陸海軍航空基地(◆が海軍 ◇は陸軍)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月11日築城基地より海軍陸上爆撃機「銀河」で出撃
[操縦]松永輝郎大尉(山口県出身)/[偵察]喜多山 哲少尉(福山県出身)/[電信]西山典郎2飛曹 (熊本県出身)
[操縦]渡部春雄1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]大林仲治上飛曹(愛知県出身)/[電信]柳川末一2飛曹(静岡県出身)
[操縦]小川 登少尉(東京都出身)/[偵察]林田克巳上飛曹(奈良県出身)/[電信]大日向忠直2飛曹(福岡県出身)
[操縦]相川 豊1飛曹(千葉県出身)/[偵察]米満輝繁上飛曹(鹿児島県出身)/[電信]醍醐一利2飛曹(神奈川県出身)
[操縦]坂口 明中尉(兵庫県出身)/[偵察]本仮屋孝夫1飛曹(鹿児島県出身)/[電信]寺門敏行飛長(茨城県出身)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月11日鹿屋基地より海軍陸上爆撃機「銀河」で出撃
[操縦]上杉丈助飛曹長(福島県出身)/[偵察]宇野 篤大尉(東京都出身)/[電信]岡田春人2飛曹(東京都出身)
[操縦]米本米吉上飛曹(神奈川県出身)/[偵察]村川勝夫上飛曹(新潟県出身)/[電信]檜山芳香上飛曹(神奈川県出身)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月11日大分基地より海軍陸上爆撃機「銀河」で出撃
[操縦]村上益雄上飛曹(静岡県出身)/[偵察]西村敬之助上飛曹(石川県出身)/[電信]西谷増吉上飛曹(岐阜県出身)

※神風特別攻撃隊「梓(あずさ)特別攻撃隊」昭和20年3月11日 「銀河」24機 鹿屋より出撃(「銀河」は3人乗)
[操縦]早坂裕次上飛曹(宮城県出身)/[偵察]宮澤宏男中尉(愛知県出身)/[電信]西川茂勝2飛曹(樺太出身)
[操縦]馬場一雄2飛曹(大阪府出身)/[偵察]吉岡 實(埼玉県出身)/[電信]新井喜一2飛曹(埼玉県出身)
[操縦]河村秀之2飛曹(山口県出身)/[偵察] 清水徳一1飛曹(大分県出身)/[電信] 林  榮一2飛曹(愛知県出身)
[操縦]三輪秀夫飛長(大阪府出身)/[偵察]西田信義1飛曹(山口県出身)/[電信]横山侃昭2飛曹(福島県出身)
[操縦]福田幸悦大尉(北海道出身)/[偵察]井貝武志上飛曹(広島県出身)/[電信]太田健司上飛曹(愛知県出身)
[操縦]山本國男1飛曹(和歌山県出身)/[偵察]田山亥志雄上飛曹(熊本県出身)/[電信]三ヶ田 清馬1飛曹(大分県出身)
[操縦]桑村担上飛曹(愛媛県出身)/[偵察]根尾久男中尉(和歌山県出身)/[電信]桐畑人明1飛曹(滋賀県出身)
[操縦]山本博泰上飛曹(愛知県出身)/[偵察]大岡高志大尉(東京都出身)/[電信]高橋政市上飛曹(北海道出身)
[操縦]松木義友1飛曹(香川県出身)/[偵察]原田幸男上飛曹(岡山県出身)/[電信]斎藤善實1飛曹(宮城県出身)
[操縦]磯部定男2飛曹(千葉県出身)/[偵察]福島元康少尉(東京都出身)/[電信]中野至康飛長(東京都出身)
[操縦]原田照和2飛曹(佐賀県出身)/[偵察]松井光明飛長(静岡県出身)/[電信]葛佐直夫2飛曹(徳島県出身)
[操縦]大久保次郎上飛曹(北海道出身)/[偵察]高久健一少尉(秋田県出身)/[電信]下楠園 緑上飛曹(鹿児島県出身)
[操縦]玉井良登1飛曹(福岡県出身)/[偵察]阿南正範1飛曹(宮崎県出身)/[電信]岩崎幸三1飛曹(三重県出身)
[操縦]藤川益男飛長(山口県出身)/[偵察] /[電信]幡   勇2飛曹(茨城県出身)
[ 二式飛行艇 ]誘導機
杉田正治中尉(大阪府出身)/高橋 正少尉(熊本県出身)/関 文武上飛曹(長野県出身)/堀越武雄上飛曹(茨城県出身)
新谷睦志(鹿児島県出身)/古茂田蓮三上飛曹(愛媛県出身)/牧田 裕1飛曹(鳥取県出身)/小山彌五郎1飛曹(長野県出身)
須賀正久2飛曹(樺太出身)/栗原 続2整曹(埼玉県出身)/加藤幸次飛長(島根県出身)/久川孝夫飛長(新潟県出身)
gingaurusi_convert_20160328161806.jpg
▲「梓特別攻撃隊」勇士達
ulusiginga_convert_20160715141645.jpg
▲3/11朝、米第58任務部隊の泊地・ウルシー環礁を目標に鹿屋基地より出撃する「梓特別攻撃隊」の銀河11型。
手前の機からこちらを向くペアは、右から[偵察員]黒丸大尉(隊長)/[操縦員]藤井上飛曹/[電信員]富永飛曹長。
機種下面と胴側から出たアンテナは、広く用いられたH-6の物で、日本で唯一の有効な機載用レーダーだった。
黒丸直人大尉以下72名で編成された「梓特別攻撃隊」は800キロ爆弾を積んだ762空陸上爆撃機「銀河」の部隊。
「第2次丹作戦」と呼ばれるこの特攻作戦は、はるか3000㌔を飛び、西カロリン諸島ウルシー環礁に停泊する米艦隊に
薄暮体当たり攻撃を仕掛けるという無謀な作戦だった・・・。当初10日に予定されていたこの作戦は、索敵情報が錯綜
していた為、既に出撃していた「梓特別攻撃隊」の銀河は呼び戻されて1日延期された。
11日3機の801空二式飛行艇と佐多岬上空で合流、二式大型飛行艇5機に誘導されてウルシー環礁を目指した。
1gingaazusa.jpg
▲3/11、8:30頃、鹿屋基地で続々列線を離れ、滑走路へ向かう「梓特攻隊」の銀河
 ※翼下に見える巨大な円筒は長距離飛行の為の落下式増槽(いわゆる燃料増量タンク)
nisikidaiteiazusa.jpg
▲昭和20年2月24日香川県の詫間航空隊総員に見送られ、発進基地の鹿児島県鴨池へ出発する梓特別攻撃隊
 (誘導)二式大艇の搭乗員達。彼等は天候不順や作戦延期等により再整備のため詫間へ戻ってくることとなるが、
 3月8日再出撃する。※中央の背の高い人物は二式大艇操縦員・長峰五郎 飛行兵曹長
ginga9.jpg
▲鹿屋基地を出撃する海軍陸上爆撃機「銀河」
しかし、鈍足の二式飛行艇との随行は「銀河」のもつ能力を大幅に削ぎ、予定時刻が大幅に遅れた。
16機の「銀河」がウルシー環礁に到着したのは夕闇だった。空襲を察知した米軍は灯火を一斉に消した。
目標を確認できない「銀河」攻撃隊は燃料を使い果たし、次々と海面に突入していった。
鹿屋通信室、誘導の「二式大艇」搭乗員。そしてトラック島から戦果確認に向かった「彩雲」搭乗員は、攻撃隊突入時
の通信を受信している。そしてウルシー泊地の米空母の数に変化が無かった事から、作戦失敗との報告をしてる。
「・・―・・ ・・―・・ ・・―・・」(全軍突撃セヨ)
「クラシクラシ」(暗し・暗し)
「ワレ・・・・・ニ突入セントス」
「クライクライデ・・・・」
「クライミエナイ・・・・」
最後の通信を残し若い隊員達は暗闇の中で散っていった。
gingaazusa10.jpg

gingatokko4.jpg
▲空母ランドルフに突入したとされる隊員3名の写真、左から[偵察]井貝武志上飛曹 (広島県出身)
 [操縦]福田幸悦大尉(北海道出身)/[電信]太田健司上飛曹(愛知県出身)
現地時間20:01と20:04福田機は無線でこれから突入する事を打電。ランドルフの行動調書によると福田機の「銀河」
は20:07に突入したと記されている。梓特別攻隊で他に突入を打電した機は無かった。
戦果が確認されているのは米空母ランドルフの飛行甲板後部に激突し火災を発生させ27名を戦死させた記録だけである。
Randolph_convert_20160408142853.jpg
▲ウルシー環礁で「梓特別攻隊」の特攻々撃によりダメージを受けた甲板後部を工作艦に修繕を受ける空母ランドルフ。
攻撃を受けた米海軍は、ランドルフへ体当たりした「銀河」搭乗員と、目標を誤りソーレン島へ突入した「銀河」搭乗
員の遺体を収容し、丁重に栄誉礼をもって埋葬したと言う。
黒丸隊長機を含む4機が体当たりを断念してヤップ島へ向かう。ヤップ島ルールの飛行場にいた海軍航空隊の1人が上空
で旋回する飛行機の音を聞きわけ「銀河だ、味方だ!」と叫んだので、総員でガソリン松明を手に滑走路に走って誘導
したが、1機は着陸に失敗して大破(乗員は無事)もう1機は無事着陸、そして更に1機は飛行場から遠く離れたルムングの
浅瀬に不時着となった。この乗員3名も無事だったが、機内から日の丸を持って脱出した所を、味方とは知らない陸軍守
備隊によって銃撃され、3人とも死亡した。撃った方としては悔いても悔い切れない同士討ちだった。無傷の1機に生き
残った搭乗員全員を乗せ後日鹿屋へ帰還している。そして数名が別作戦で再度出撃し、敵艦へ突入し命を落とした。
ginga11kaibozu_convert_20160715152126.jpg
▲銀河11型解剖図 前[偵察員]中[操縦員]後[電信員] 狭い機内で長距離飛行は大変だったであろう・・・。
「銀河」を誘導していた3機の二式大艇には帰還が命じられていたが、1機は不明となり、もう1機は不調だったエンジ
ンが爆発、失速寸前のスピードを必死に維持しウォレアイ環礁メレヨン島へ不時着水し、機体は水没。
搭乗員は潜水艦で救出されるまでの数ヶ月を飢餓の島で過ごした。無事日本に帰還したのは1機だけだった。
gingatokko3.jpg
▲左から[操縦]原田照和2飛曹(佐賀県出身)[偵察]松井光明飛長(静岡県出身)[電信]葛佐直夫2飛曹(徳島県出身)23号機
※8機がエンジントラブルの為、途中で引き返している。
※「第1次丹作戦」は昭和19年(1944)11月、ゼロ戦隊でサイパンにB-29を目標とする昼間奇襲攻撃を行った。

※昭和20年3月10日B-29 130機東京大空襲、23万戸消失/死傷者12万人。
※昭和20年3月12日B-29名古屋大空襲。
※昭和20年3月14日B-29大阪大空襲
※昭和20年3月17日B-29神戸大空襲。
※昭和20年3月17日硫黄島守備隊殆ど全滅。
IOUJIMA_convert_20160511131551.jpg
▲陥落した硫黄島と米大艦隊 硫黄島の戦い 前編YouTube 硫黄島の戦い 後編YouTube 硫黄島 玉砕戦YouTube

※神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」 昭和20年3月18日第1国分基地より「彗星」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]小網十九雄飛長(大阪府出身)/[偵察]中川茂男飛長(広島県出身)
[操縦]葛和善治少尉(奈良県出身)/[偵察]石井隆上飛曹(福岡県出身)
[操縦]金山一雄2飛曹(島根県出身)/[偵察]小山康衛少尉(新潟県出身)
[操縦]岡本壽夫飛長(和歌山県出身)/[偵察]古長正好飛長(大分県出身)
[操縦]猿渡 弘上飛曹(熊本県出身)/[偵察]西島忠治上飛曹(山口県出身)
[操縦]野間 茂中尉(奈良県出身)/[偵察] 
[操縦]木村 潔少尉(東京都出身)/[偵察]松原 清上飛曹(兵庫県出身)
[操縦]勝俣市太郎2飛曹(神奈川県出身)/[偵察]久保田英生少尉(福岡県出身)
[操縦]小野庄治飛長(広島県出身)/[偵察]市川末人1飛曹 (福岡県出身)
[操縦]益岡政一2飛曹(熊本県出身)/[偵察]岩上一郎中尉(栃木県出身)
[操縦]市毛喜代夫2飛曹(茨城県出身)/[偵察]田中精之助少尉(新潟県出身)
[操縦]湯浅正三上飛曹(京都府出身)/[偵察]田島一男少尉(福岡県出身)
[操縦]山下利之2飛曹(岡山県出身)/[偵察]瀧 理吉上飛曹(石川県出身)
[操縦]平田博一中尉(香川県出身)/[偵察]野宮仁平少尉(青森県出身)
[操縦]三鬼照一飛長(三重県出身)/[偵察]小野塚一江2飛曹(福島県出身)
[操縦]畠中良成少尉(鹿児島県出身)/[偵察]植村 平1飛曹(千葉県出身)
[操縦]藤園 勝飛長(大分県出身)/[偵察]助田義一2飛曹(三重県出身)
(直掩隊)零戦
堀井正四少尉(新潟県出身)/江崎志満夫1飛曹(熊本県出身)/白川一男飛長(鹿児島県出身)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」 昭和20年3月18日築城基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]松永輝郎大尉(山口県出身)/[偵察]喜多山哲少尉(福山県出身)/[電信]西山典郎2飛曹(熊本県出身)
[操縦]渡部春雄2飛曹(愛媛県出身)/[偵察]大林仲治上飛曹(愛知県出身)/[電信]柳川末一2飛曹(静岡県出身)
[操縦]小川登少尉(東京都出身)/[偵察]林田克巳上飛曹(奈良県出身)/[電信]大日向忠直2飛曹(福岡県出身)
[操縦]相川 豊1飛曹(千葉県出身)/[偵察]米満輝繁上飛曹(鹿児島県出身)/[電信]醍醐一利2飛曹(神奈川県出身)
[操縦]坂口 明中尉(兵庫県出身)/[偵察]本仮屋孝夫1飛曹(鹿児島県出身)/[電信]寺門敏行飛長(茨城県出身)
[操縦]上杉丈助飛曹長(福島県出身)/[偵察]宇野篤大尉(東京都出身)/[電信]岡田春人2飛曹(東京都出身)
[操縦]米本米吉上飛曹(神奈川県出身)/[偵察]村川勝夫上飛曹(新潟県出身)/[電信]檜山芳香上飛曹(神奈川県出身)
[操縦]村上益雄上飛曹(静岡県出身)/[偵察]西村敬之助上飛曹(石川県出身)/[電信]西谷増吉上飛曹(岐阜県出身)
指揮官松永輝郎大尉機の電信員に選ばれた、西山典郎二飛曹は08:07「全軍突撃セヨ」との電報を発信して以後消息
を断った。 17歳の誕生日を迎えることもできず、短い人生に終止符をうった。 この特攻攻撃で米空母エンタープライズ
とヨークタウンに損傷を与えた事が記録に残されている。
エンタープライズはその後も幾度となく特攻機の突入を受けるがウルシーに引き返し修理され、終戦まで生き残った。
「不死身のエンタープライズ」の別名を持ち、アメリカ海軍のダメージコントロールの高さには恐れ入る。
昭和20年3月から特攻に使用された「銀河」は合計156機が出撃した。
海軍陸上爆撃機「銀河」は3人乗りである、陸軍で特攻に使用された99式双発軽爆撃機や二式複座戦闘機「屠龍」では、
よほどの理由が無い限り、特攻は操縦員のみで出撃していった。しかし海軍では定員をキッチリ乗せて出撃させた。
敵艦船に突入するのに何故操縦員以外の隊員を乗せなければならなかったのか理解に苦しむところだ。
せめて2名に抑えて出撃する事は海軍は考えなかったのか?戦死者を少しでも少なくする努力をしたのか?日本軍は
▼海軍陸上爆撃機「銀河」
ginga.jpg

※神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」 昭和20年3月19日第1国分基地より「彗星」で出撃
(九州南東方機動部隊攻撃)
[操縦]川端弘保少尉(香川県出身)/[偵察]柏井 宏大尉(島根県出身) 
[操縦]川口富司大尉(東京都出身)/[偵察]山下敏平飛曹長(静岡県出身)
[操縦]宮下萬次郎上飛曹(長野県出身)/[偵察]坂田明治中尉(兵庫県出身)
[操縦]飯塚英一上飛曹(静岡県出身)/[偵察]藤田春男中尉(石川県出身)
[操縦]天野一史中尉(奈良県出身)/[偵察]千野五郎上飛曹(東京都出身)
[操縦]福西一隆少尉(三重県出身)/[偵察]出島廣良少尉 (和歌山県出身)
[操縦]北村良二上飛曹(山形県出身)/[偵察]西口速雄飛曹長(三重県出身)
[操縦]上田元太郎飛長(静岡県出身)/[偵察]長谷川次郎1飛曹(岐阜県出身)
[操縦]関矢忠雄上飛曹(京都府出身)/[偵察]中村恒夫大尉(茨城県出身)
[操縦]山口春一1飛曹(愛知県出身)/[偵察]木村福松1飛曹(神奈川県出身)
[操縦]山路 博中尉(大分県出身)/[偵察]高梨総理少尉(新潟県出身)
[操縦]石黒喜八飛長(愛知県出身)/[偵察]竹川福一1飛曹(茨城県出身)
[操縦]夏目 康少尉(静岡県出身)/[偵察]斎藤幸雄少尉(山口県出身)
[操縦]山元當四郎飛長(鹿児島県出身)/[偵察]大矢武2飛曹 (北海道出身)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」 昭和20年3月19日出水基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]金指 勲大尉(静岡県出身)/[偵察]河野 通上飛曹(宮崎県出身)/[電信]馬渕哲男上飛曹(京都府出身)
[操縦]泉 常良飛長(大阪府出身)/[偵察]川口 實上飛曹(長崎県出身)/[電信]廣澤文夫2飛曹(長野県出身)
[操縦]宮本三龍2飛曹(福岡県出身)/[偵察]鎌倉基茂少尉(高知県出身)/[電信]高橋 要飛長(大分県出身)  
[操縦]平田 寛飛長(福岡県出身)/[偵察]緒方春雄1飛曹(熊本県出身)/[電信]柏崎次男2飛曹(青森県出身)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月19日鹿屋基地より「銀河」で出撃
[操縦]井上善弘飛曹長(兵庫県出身)/[偵察]土田 登2飛曹(高知県出身)/[電信]大元良雄上飛曹(広島県出身)
ussfranklin.png
▲3/19 07:08銀河か彗星1機が雲を抜け低空で接近、緩降下爆撃で2発の徹甲爆弾を投下した。この日本海軍機は、
 爆弾を投下した直後にフランクリンの対空砲火(または、上空哨戒のF6Fヘルキャット戦闘機)によって撃墜され、空
 中で爆発・四散して破片をフランクリンの甲板上に撒き散らしたが、命中した2発の爆弾のうち、1発は飛行甲板中央
 部を貫通し格納庫で炸裂、二層及び三層で火災を引き起こし、戦闘司令所及び飛行司令所にダメージを与えた。
 もう1発は飛行甲板後部を貫通し格納庫で炸裂。第二層を突き破り、弾薬・火薬の引火を誘発した。
 また、飛行甲板上には爆弾やロケット弾、機銃弾や燃料を満載した多数の艦上機が並んで出撃待機していた為、次々
 と誘爆を引き起こし、フランクリンは浸水、右舷に13度傾斜した。また消火活動の放水により艦尾が沈下した。
 無線通信が不能となり、火災によって高熱が発生し、艦首を除く上部構造物は全損に近い損害を受けた。
 乗組員の多くが攻撃及びその後の火災で死傷したが、数百名の士官と兵員は艦を救おうと必死の作業を行った。
 724名死亡、265名負傷した。その後、重巡洋艦ピッツバーグに牽引され、修理の為ウルシー泊地に後退した。
AttackonUSSFranklin_convert_20160413170916.jpg
▲特攻機の攻撃の被害で右舷に傾く米空母フランクリン(USS Franklin)

※神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」 昭和20年3月20日第1国分基地より「彗星」で出撃
(九州南東方機動部隊攻撃)
[操縦]原田 幸飛長(山口県出身)/[偵察]中島茂夫飛長(佐賀県出身) 
[操縦]寺道好美飛長(山口県出身)/[偵察]根上義茂飛長(山梨県出身) 
[操縦]佐藤甲上飛曹(福島県出身)/[偵察]森下亮一郎上飛曹(和歌山県出身)
[操縦]福下良和1飛曹(兵庫県出身)/[偵察]谷本七郎1飛曹(福井県出身)
[操縦]熊澤 孝飛曹長(神奈川県出身)/[偵察]大谷吉雄上飛曹(島根県出身)
[操縦]稲生康夫飛長(千葉県出身)/[偵察]栗澤栄吉1飛曹(秋田県出身)
[操縦]宮本才次郎飛長(山口県出身)/[偵察]槇田利夫1飛曹(神奈川県出身)  
(直掩隊)ゼロ戦
寛応 隆中尉(静岡県出身)/佐藤 清1飛曹(神奈川県出身)

神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」5機昭和20年3月20日鹿屋基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]坂口昌三大尉(長野県出身)/[偵察]大川軍平飛曹長(三重県出身)/[電信]清水松四郎上飛曹(新潟県出身)

神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月20日大分基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]柳本拓郎飛曹長(静岡県出身)/[偵察]竹園良光飛曹長(千葉県出身)/[電信]梅本留治飛長(北海道出身)

※神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」5機昭和20年3月20日第1、第2国分基地より「彗星」で出撃
[操縦]熊沢 孝飛曹長/[偵察]

神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月21日鹿屋基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]池永 弘飛曹長(山口県出身)/[偵察]小林 光飛曹長(新潟県出身)/[電信]岡本嘉治上飛曹(兵庫県出身)
[操縦]蔵本閑男上飛曹(岡山県出身)/[偵察]新井 章1飛曹(茨城県出身)/[電信]小澤清上飛曹(神奈川県出身)
[操縦]佐藤勇上飛曹(宮崎県出身)/[偵察]久保田吉朗飛曹長(樺太出身)/[電信]山口昭二2飛曹(熊本県出身)
[操縦]寺田勇上飛曹(東京都出身)/[偵察]氏家弘上飛曹(香川県出身)/[電信]加藤一市1飛曹 (北海道出身)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月21日出水基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]河野清二中尉(石川県出身)/[偵察]山崎祐則1飛曹(高知県出身)/[電信]中尾勝太郎1飛曹(東京都出身)
[操縦]有村正視1飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]吉岡 勝少尉(熊本県出身)/[電信]岩崎 聡2飛曹(埼玉県出身)
[操縦]石田武雄飛長(栃木県出身)/[偵察]中原末美1飛曹(長崎県出身)[電信]岡本行雄飛長(三重県出身)
[操縦]木原武雄飛長(福岡県出身)/[偵察]朝日奈登1飛曹(愛知県出身)[電信]角田利男1飛曹(福島県出身)
[操縦]大野三郎1飛曹(栃木県出身)/[偵察]神田為雄1飛曹(富山県出身)/[電信]横井 伸1飛曹(樺太出身)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月21日宮崎基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]中川 勇上飛曹(栃木県出身)/[偵察]馬場繁郎中尉(富山県出身)/[電信]山下義春上飛曹(石川県出身)
[操縦]後藤紀雄少尉(愛知県出身)/[偵察]鍛冶谷清一1飛曹(福岡県出身)/[電信]村田 豊1飛曹(石川県出身)
[操縦]飯竹甲子郎上飛曹(茨城県出身)/[偵察]福田喜好上飛曹(和歌山県出身)/[電信]菊池孝行上飛曹(愛媛県出身)

※神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月21日出水基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]河野清二中尉(石川県出身)/[偵察]山崎祐則1飛曹(高知県出身)/[電信]中尾勝太郎1飛曹(東京都出身)
[操縦]有村正視1飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]吉岡 勝少尉(熊本県出身)/[電信]岩崎 聡2飛曹(埼玉県出身)
[操縦]石田武雄飛長(栃木県出身)/[偵察]中原末美1飛曹(長崎県出身)/[電信]岡本行雄飛長(三重県出身)
[操縦]木原武雄飛長(福岡県出身)/[偵察]朝日奈登1飛曹(愛知県出身)[電信]角田利男2飛曹(福島県出身)
[操縦]大野三郎1飛曹(栃木県出身)/[偵察]神田為雄1飛曹(富山県出身)[電信]横井 伸1飛曹(樺太出身)

神風特別攻撃隊「菊水銀河隊」昭和20年3月21日鹿屋基地より「銀河」で出撃
(九州東方機動部隊攻撃)
[操縦]池永 弘飛曹長(山口県出身)/[偵察]小林光飛曹長(新潟県出身)/[電信]岡本嘉治上飛曹(兵庫県出身)
[操縦]蔵本閑男上飛曹(岡山県出身)/[偵察]新井 章1飛曹(茨城県出身/[電信]小澤 清上飛曹(神奈川県)
[操縦]佐藤 勇上飛曹(宮崎県出身)/[偵察]久保田吉朗飛曹長(樺太出身)/[電信]山口昭二2飛曹(熊本県出身)
[操縦]寺田勇上飛曹(東京都出身)/[偵察]氏家 弘上飛曹(香川県出身)/[電信]加藤一市1飛曹(北海道出身)

▼人間爆弾「桜花」はアニメ[ザ・コクピット音速雷撃隊]でも有名です。館内は神雷部隊の資料も充実しています。
DSCN4824.jpg
「桜花」の初出撃は昭和20年3月21日第1回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花15機、一式陸攻18機、戦闘機35機)
第5航空艦隊司令長官 宇垣纏中将は、「この槍(桜花)使い難し」と承知しながらも、「坐して消耗するのを待つより」
として、721航空隊司令岡村大佐の「護衛が少なく作戦中止」との進言を退け、出撃を命令。
隊長野中五郎少佐は「これは湊川だよ(湊川の戦いのようなものだよ)」との言葉を残し出撃したと言う。
護衛機は計画70機、離陸58機、内エンジン不調で23機が引き返し35機の護衛のみであった
一式陸上攻撃機18機に桜花15機を搭載して出撃するも、アメリカ軍のレーダーで即座に探知され、米迎撃戦闘機に
攻撃され、わずか10分で全滅した。(護衛機10機も未帰還) 鹿屋基地出撃後わずか20分で150名以上が戦死。
 宇垣纏中将は作戦検証会議を召集、原因は、「一式陸攻が遅い」 「武装が貧弱」 「護衛が少なく練度が低い」
この作戦は無理と報告されながらも、その後も作戦継続、解隊までに829名の戦死者を出す無謀な作戦を継続した。
▼海軍鹿屋航空基地より出撃前の「桜花11型」を抱いた一式陸上攻撃機
98a92ca58a39ca2732162a6f3f15b81e_convert_20150516192250.jpg
▼神雷部隊員が出撃前に打ち合わせをしている。
Okacrew_convert_20160311155517.jpg
▼海軍一式陸上攻撃機からの桜花11型落下テストの画像
ouka11test.jpg
▼3/21「桜花」を抱き海軍鹿屋航空基地より出撃する一式陸上攻撃機
321kanoya.jpg
「神雷部隊」は第721海軍航空隊の別称。
特攻兵器「桜花」を主戦兵器として新編成された、最初の航空特攻専門部隊。
「桜花」パイロット桜花隊、「桜花」を運搬する陸攻隊、掩護の戦闘機隊で編成。

第1回神雷桜花特別攻撃隊昭和20年3月21日鹿屋より出撃(桜花15機、一式陸攻18機、戦闘機35機)
[桜花]
三橋謙太郎大尉(千葉県出身)/久保明中尉(石川県出身)/緒方襄中尉(熊本県出身)
村井彦四郎中尉(石川県出身)/山崎重二上飛曹(福井県出身)/杉本仁兵上飛曹(三重県出身)
服部吉春1飛曹(静岡県出身)/野口喜良1飛曹(茨城県出身)/島村中1飛曹(広島県出身)
重松義市1飛曹(佐賀県出身)/江上元治1飛曹(福岡県出)/清水昇2飛曹(新潟県出身)
矢萩達雄2飛曹(茨城県出身)/豊田義輝2飛曹(福岡県出身)/軽石正治2飛曹(岩手県出身)
ookamituhasitaii.jpg
▲出撃前の三橋謙太郎大尉 3/21桜花隊は三橋謙太郎大尉他15名戦死。
桜花隊第一陣は桜花を抱いた一式陸上攻撃機「野中隊」が進撃中に敵艦隊にレーダーに捕捉され、正規空母ホーネット
と軽空母ベローウッドの迎撃戦闘機が野中隊を邀撃した。野中少佐が作戦中止を命じたのか、陸攻は編隊を組んだまま
急降下しつつ180°旋回し全速力で逃げたが、ベレンド小隊とホーネット隊VBF17は次々と一式陸攻を撃墜。
空戦の結果「野中隊」は18機全機撃墜され全滅。全機撃墜されるのにかかった時間はわずか20分程度であった。
護衛の零戦隊は30機中10機が未帰還という結果に終わった。
[陸攻]
野中五郎少佐(岡山県出身)/甲斐弘之大尉(宮崎県出身)/西原雅四郎大尉(愛媛県出身)
佐久間洋幸大尉(福島県出身)/糀澤義雄中尉(群馬県出身)/小関健治中尉(福島県出身)
小原正義中尉(鹿児島県出身)/新井等中尉(長野県出身)/柳正徳中尉(東京都出身)
成尾新五少尉(千葉県出身)/粕谷義蔵少尉(長野県出身)/内田正次郎少尉(三重県出身)
関野善太郎少尉(富山県出身)/松井清少尉(兵庫県出身)/上田四郎少尉(奈良県出身)
角 勉少尉(北海道出身)/佐村義男少尉(山口県出身)/土倉勉少尉(岡山県出身)
村松司飛曹長(福島県出身)/沼野利朗飛曹長(静岡県出身)/植村正次郎飛曹長(秋田県出身)
吉永正夫飛曹長(高知県出身)/駒 敏次飛曹長(京都府出身)/深澤 功飛曹長(静岡県出身)
高木信夫飛曹長(福島県出身)/長谷川俊夫飛曹長(新潟県出身)/瀬尾括三飛曹長(広島県出身)
木村信一飛曹長(秋田県出身)/木下忠雄上整曹(熊本県出身)/山川軍治上整曹(長崎県出身)
山本精上整曹(愛媛県出身)/河村勝喜上整曹(高知県出身)/宮田信吉上整曹(埼玉県出身)
梶内芳唯上整曹(岡山県出身)/常岡祥夫上整曹(福岡県出身)/石橋三郎上整曹(千葉県出身)
木原忠造上整曹(群馬県出身)/橋口敏男上整曹(鹿児島県出身)/大瀧五郎上整曹(山形県出身)
田北武文上整曹(大分県出身)/柳原武雄上整曹(長崎県出身)/阿部寅一上整曹(愛媛県出身)
仁平 守上整曹(茨城県出身)/谷 清郷上整曹(東京都出身)/作元政明上整曹(宮崎県出身)
落合正二上整曹(広島県出身)/内垣清上整曹(愛知県出身)/松岡源八上整曹(群馬県出身)
田中晃上整曹(福井県出身)/舛井清上整曹(山口県出身)/有働熊雄上整曹(熊本県出身)
山下功上整曹(佐賀県出身)/渋谷八郎上整曹(東京都出身)/黒木高三上整曹(宮崎県出身)
前山明利上整曹(広島県出身)/中村福住上整曹(香川県出身)/美並義治上整曹(奈良県出身)
竹谷駒吉上整曹(青森県出身)/座間幸之助上整曹(千葉県出身)/原 益男上整曹(長野県出身)
三上清上整曹(青森県出身)/三谷清上整曹(北海道出身)/石倉傳四郎上整曹(三重県出身)
川端清上整曹(北海道出身)/徳田 勇1飛曹(鹿児島県出身)/皆川嘉助1飛曹(埼玉県出身)
伊藤俊夫1飛曹(北海道出身)/後藤志郎1飛曹(秋田県出身)/渡邊 徹1飛曹(東京都出身)
小栗正夫1飛曹(岐阜県出身)/寺岡 昇1飛曹(愛媛県出身)/守田賀重1飛曹(徳島県出身)
吉田義男1飛曹(静岡県出身)/河井近士1飛曹(山口県出身)/竹内 靖1飛曹(高知県出身)
青木安夫1飛曹(大阪府出身)/芳木幸義1飛曹(兵庫県出身)/大日向三郎1飛曹(秋田県出身)
古賀 学1飛曹(熊本県出身)/福田安夫1整曹(埼玉県出身)/松尾登美雄2飛曹(長崎県出身)
石垣當晃2飛曹(東京都出身)/湯澤康男2飛曹(栃木県出身)/高橋幸太郎2飛曹(長崎県出身)
田中一貴2飛曹(福岡県出身)/会澤平四郎2飛曹(茨城県出身)/本間富久司2飛曹(神奈川県出身)
横田正英2飛曹(高知県出身)/山村 繁2飛曹(熊本県出身)/亀田尚吉2飛曹(栃木県出身)
有末辰三2飛曹(兵庫県出身)/島雄順次郎2飛曹(鳥取県出身)/穂積鉄一2飛曹(愛知県出身)
町田光正2飛曹(東京都出身)/谷塚梅三2飛曹(埼玉県出身)/橋本幸男2飛曹(三重県出身)
棚橋芳雄2飛曹(三重県出身)/胡桃経雄2飛曹(長野県出身)/跡邊武二郎2飛曹(宮城県出身)
鈴木 實2飛曹(東京都出身)/鈴木光雄2飛曹(静岡県出身)/元親 傳2飛曹(愛媛県出身)
鶴丸乕吉2飛曹(鹿児島県出身)/松島武雄2飛曹(静岡県出身)/会澤寿造2飛曹(茨城県出身)
八島養七2整曹(宮城県出身)/富山 勇2整曹(栃木県出身)/江部英夫2整曹(新潟県出身)
藤井 勇2整曹(香川県出身)/吉羽浦治郎2整曹(千葉県出身)/岩本 徹2整曹(宮崎県出身)
山内厚重2整曹(愛媛県出身)/山田一雄2整曹(静岡県出身)/小田重男2整曹(石川県出身)
幸西 博2整曹(愛知県出身)/茂木 晃飛長(千葉県出身)/江波戸輝行飛長(千葉県出身)
植木繁男飛長(東京都出身)/岡安 弘飛長(千葉県出身)/野澤金三飛長(新潟県出身)
高橋利三郎飛長(山形県出身)/加藤乕雄飛長(京都府出身)/早川忠雄飛長(長野県出身)
田房 力飛長(愛媛県出身)/塩田利雄飛長(香川県出身)/手塚晴好飛長(東京都出身)
坂本新一飛長(東京都出身)/内田 寛飛長(愛媛県出身)/松原保飛長(愛媛県出身)
塩崎竹千代飛長(和歌山県出身)/新美昭二飛長(愛知県出身)/藤岡和夫飛長(兵庫県出身)
田口末吉飛長(秋田県出身)/遠藤欽一飛長(東京都出身)
戦死160名(桜花15名、陸攻135名、戦闘機10名)戦果無し

※神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」昭和20年3月24日沖縄県小祿(おろく)基地より「彗星」で出撃
(沖縄周辺機動部隊攻撃)
[操縦]前橋典美2飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]米森義治上飛曹(鹿児島県出身) 

※神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」昭和20年3月25日沖縄県小祿(おろく)基地より「彗星」で出撃
(沖縄周辺機動部隊攻撃)
[操縦]石渕利也少尉(三重県出身)/[偵察]石川貫二中尉(長崎県出身)

※神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」 昭和20年3月27日喜界島基地より「彗星」で出撃
(沖縄本島周辺機動部隊攻撃)
[操縦]田中 巽2飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]佐藤一義少尉(徳島県出身) 
[操縦]細江志郎2飛曹(岐阜県出身)/[偵察]高橋紫壽雄上飛曹 (愛媛県出身)
[操縦]内田 続2飛曹(熊本県出身)/[偵察]武士精三1飛曹(茨城県出身)
[操縦]正木 廣2飛曹(千葉県出身)/[偵察]船橋良三1飛曹(愛知県出身)
[操縦]横山作二2飛曹(広島県出身)/[偵察]藤丸 哲上飛曹(大分県出身)
[操縦]谷 節夫少尉(和歌山県出身)/[偵察]椿  昇1飛曹(茨城県出身)
[操縦]菱沼  一飛長(埼玉県出身)/[偵察]廣田繁次郎1飛曹(広島県出身)
[操縦]木場 愛2飛曹(三重県出身)/[偵察]青木 清1飛曹(山口県出身)
USSDorsey_convert_20160422111840.jpg
▲米駆逐艦ドーシー(USS Dorsey)
3/27特攻機の突入を受け乗組員3名死亡、2人が負傷した
※神風特別攻撃隊「第1銀河隊」昭和20年3月27日宮崎基地より「銀河」5機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]太田 博中尉(静岡県出身)/[偵察]田中三人1飛曹(石川県出身)/[電信]井上誠次郎1飛曹(愛知県出身)
[操縦]赤沼今朝幸上飛曹(長野県出身)/[偵察]山瀧信一1飛曹(長崎県出身)/[電信]谷野良秋1飛曹(石川県出身)
[操縦]杉浦忠三上飛曹(富山県出身)/[偵察]高橋惣吾中尉(福島県出身)/[電信]南里正利1飛曹(佐賀県出身)
[操縦]大井良美少尉(長崎県出身)/[偵察]福島照夫上飛曹(東京都出身)/[電信]工藤八郎1飛曹(大分県出身)
[操縦]松田 榮1飛曹(福岡県出身)/[偵察]峯政幸夫上飛曹(岡山県出身)/[電信]筒井武彦2飛曹(福岡県出身)

※神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」 昭和20年3月29日第1国分基地より「彗星」で出撃
(種子島南方機動部隊攻撃)
[操縦]伴  隆1飛曹(愛知県出身)/[偵察]菊池 久中尉(岩手県出身)
[操縦]山本 治少尉(京都府出身)/[偵察]川野 巌少尉(福岡県出身)

※神風特別攻撃隊「第1大義隊」昭和20年4月1日 石垣島基地より零戦で出撃
(宮古島南方機動部隊攻撃)
清水 武中尉(山口県出身)/酒井 正俊中尉(岐阜県出身)
松岡 清治2飛曹(埼玉県出身)/大田 静輝2飛曹(広島県出身)

第2回神雷桜花特別攻撃隊 昭和20年4月1日 鹿屋より出撃(桜花3機、一式陸攻3機)
[桜花]
麓岩男1飛曹(広島県出身)/山内義夫1飛曹(岐阜県出身)/峰苫五雄2飛曹(鹿児島県出身)
[陸攻]
宮原正少尉(熊本県出身)/後藤文衛上飛曹(愛媛県出身)/小松勉上飛曹(広島県出身)/松井昇上飛曹(北海道出身)
谷口三男1飛曹(宮崎県出身)/辻忠弘1飛曹(香川県出身)/松本勉1飛曹(佐賀県出身)/田川喜八郎2飛曹(福岡県出身)
高瀬正司2飛曹(大分県出身)/村岡正2飛曹(山口県出身)/實松春吉2飛曹(佐賀県出身)/村橋伴睦2飛曹(岐阜県出身)
高橋利三郎飛長(東京都出身)/宮川千代蔵飛長(香川県出身)/中川正範(鹿4)721空
usswestvirginaokinawaapril11945_convert_20160423172703.jpg
▲4/1米戦艦ウェスト・バージニア(USS West Virginia)に特攻機が命中

※神風特別攻撃隊「第2銀河隊」昭和20年4月2日 宮崎基地より「銀河」1機で出撃
[操縦]木村義雄中尉(新潟県出身)/[偵察]中島襄一上飛曹(群馬県出身)/[電信]森 正勝上飛曹(島根県出身)

神風特別攻撃隊「神雷部隊第1建武隊」昭和20年4月2日 鹿屋より出撃(零戦4機)
矢野欣之中尉(京都府出身)/米田豊中尉(熊本県出身)/岡本耕安1飛曹(三重県出身)/佐々木忠夫2飛曹(広島県出身)

※神風特別攻撃隊「第2大義隊」昭和20年4月2日 石垣島基地より零戦で出撃
(沖縄方面機動部隊攻撃)
伊藤 喜代治中尉(東京都出身)

※神風特別攻撃隊「第2大義隊」昭和20年4月3日
(台湾)新竹基地より神風特別攻撃隊「忠誠隊」の直掩隊として零戦で出撃
山崎州雄中尉(鹿児島県出身)/深澤敏夫2飛曹(秋田県出身)/北浦義夫2飛曹(香川県出身)

※神風特別攻撃隊「第3銀河隊」昭和20年4月3日 宮崎基地より「銀河」3機で出撃
[操縦]氏本成文飛曹(愛媛県出身)/[偵察]河合達視少尉(宮城県出身)/[電信]町田六郎2飛曹(大阪府出身)
[操縦]中本志計雄飛長(兵庫県出身)/[偵察]切建兼雄2飛曹(熊本県出身)/[電信]野口一正2飛曹(福岡県出身)
[操縦]田中四郎吉飛長(山口県出身)/[偵察]宮谷和男1飛曹(大阪府出身)/[電信]讃井 榮2飛曹(福岡県出身)
ginga11.jpg
▲海軍双発爆撃機「銀河」

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」601部隊昭和20年4月3日 第1国分基地より「彗星」で出撃
(沖縄北部機動部隊攻撃)
[操縦]川部 裕少尉(東京都出身)/[偵察]今村信人上飛曹(三重県出身)
[操縦]安部茂夫中尉(広島県出身)/[偵察]古橋達夫少尉(東京都出身)
[操縦]米谷克窮少尉(北海道出身)/[偵察]小田憲二2飛曹(山口県出身)
[操縦]寺岡達二大尉(広島県出身)/[偵察]五井武男上飛曹(神奈川県出身)
dai3mitatetai601_convert_20160616130238.jpg
▲神風特別攻撃隊「第3御楯隊」601部隊勇士

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」252部隊 昭和20年4月3日第1国分基地よりゼロ戦と「彗星」で出撃
(奄美大島南方機動部隊攻撃)
彗星 
[操縦]大塚一俊中尉(大分県出身)/[偵察]桑原清作郎上飛曹(山口県出身)
[操縦]島内省太上飛曹(佐賀県出身)/[偵察]目黒成雄2飛曹(新潟県出身)
ゼロ戦 
本田武夫中尉(宮城県出身)/本城 猛上飛曹(鳥取県出身)

神風特別攻撃隊「神雷部隊第2建武隊」昭和20年4月3日 鹿屋より出撃(零戦6機)
西伊和男中尉(三重県出身)/篠崎實1飛曹(東京都出身)/木村元一1飛曹(愛知県出身)/杉本徳義1飛曹(宮崎県出身)
井口出2飛曹(福岡県出身)/村田玉男2飛曹(京都府出身)

※神風特別攻撃隊「第4大義隊」昭和20年4月4日 石垣島基地より零戦で出撃
(沖縄方面機動部隊攻撃)
矢田 義治上飛曹(愛知県出身)

※神風特別攻撃隊「第5大義隊」昭和20年4月5日 石垣島基地より零戦で出撃
(石垣島南方機動部隊攻撃)
小林 友一上飛曹(山梨県出身)/辻村 健一郎1飛曹(山口県出身)


昭和20年4月6日、以下の鹿屋基地や他海軍基地から出撃した特攻隊や陸軍特別攻撃隊「振武隊」、陸海軍の各台湾
航空基地から出撃した特攻機は合計355機。これほどの大規模な特攻作戦が行われるのは初めての事であった。
昭和20年4月6日神雷部隊「第3建武隊」 鹿屋より出撃(零戦18機)
森忠司中尉(佐賀県出身)/藤坂昇中尉(大阪府出身)/造酒康義上飛曹(香川県出身)/山田見日1飛曹(愛知県出身)
海野晃1飛曹(静岡県出身)/磯貝圭助1飛曹(愛知県出身)/蛭田八郎1飛曹(福島県出身)/宮川成人1飛曹(岩手県出身)
指田良男1飛曹(東京都出身)/唐澤高雄1飛曹(長野県出身)/甲斐孝喜1飛曹(宮崎県出身)
梅壽秀行2飛曹(徳島県出身)/桃谷正好2飛曹(広島県出身)/福岡彪治2飛曹(愛知県出身)
櫻井光治2飛曹(東京都出身)/伊藤庄春2飛曹(山形県出身)/斎藤清勝2飛曹(東京都出身)
船越治2飛曹(徳島県出身)

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」 昭和20年4月6日第1国分基地より「彗星」で出撃
(沖縄北部機動部隊攻撃)
[操縦]杉本孝雄1飛曹(富山県出身)/[偵察]百瀬甚吾中尉(長野県出身)
[操縦]川合 仁少尉(北海道出身)/[偵察]
 
※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」252部隊 昭和20年4月6日第1国分基地よりゼロ戦と「彗星」で出撃
(奄美大島南方機動部隊攻撃)
彗星 
[操縦]内田佳親上飛曹(福岡県出身)/[偵察]村井末吉少尉(徳島県出身)
[操縦]荒木 孝中尉(兵庫県出身)/[偵察]石坂和郎少尉(兵庫県出身)
[操縦]中島熊彦1飛曹(佐賀県出身)/[偵察]江田 泰1飛曹(千葉県出身)
[操縦]菅野健蔵1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]藤井 彰2飛曹(大阪府出身)
ゼロ戦 
宮本十三中尉(岡山県出身)/巻山不折2飛曹(新潟県出身)/山口一夫2飛曹(広島県出身)
山本富仁男2飛曹(愛媛県出身)

※神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
(沖縄周辺機動部隊攻撃)
[操縦]山村英三郎少尉(大阪府出身)/[偵察]植島幸次郎少尉(東京都出身)/[電信]飛田與四郎2飛曹(茨城県出身)
[操縦]田中和夫2飛曹(石川県出身)/[偵察]大倉由人2飛曹(長野県出身)/[電信]河瀬 厚2飛曹(熊本県出身)
[操縦]熊澤庸夫少尉(東京都出身)/[偵察]荻原 武1飛曹(東京都出身)/[電信]川添多喜男2飛曹(岐阜県出身)
[操縦]野口吉正1飛曹(高知県出身)/[偵察]舛見 良雄少尉(福岡県出身)/[電信]望月九州男2飛曹(大分県出身)

※神風特別攻撃隊「第1草薙隊」 昭和20年4月6日 第2国分基地より99式艦上爆撃機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]高橋 義郎中尉(宮城県出身)/[偵察]時任 正明少尉(鹿児島県出身)
[操縦]中村 盛雄少尉(岩手県出身)/[偵察]桜井 利喜一2飛曹(山形県出身)
[操縦]阿部 英治少尉(東京都出身)/[偵察]長谷川 喜市2飛曹(群馬県出身)
[操縦]網田 浩之2飛曹(熊本県出身)/[偵察]船生 敏郎1飛曹(栃木県出身)
[操縦]大田 鎮雄2飛曹(熊本県出身)/[偵察]小田 好郎2飛曹(佐賀県出身)
[操縦]作田 幹雄中尉(大阪府出身)/[偵察]松本 厚少尉(京都府出身)
[操縦]太田 潔1飛曹(福岡県出身)/[偵察]佐山 一2飛曹(愛媛県出身)
[操縦]三井 位2飛曹(長野県出身)/[偵察]水品 清1飛曹(静岡県出身)
[操縦]吉岡 隆成2飛曹(広島県出身)/[偵察]斎藤 義正2飛曹(千葉県出身)
[操縦]中西 三津夫1飛曹(滋賀県出身)/[偵察]今井 敏夫2飛曹(宮城県出身)
[操縦]鈴木 幸一2飛曹(東京都出身)/[偵察]五十川 武夫2飛曹(愛知県出身)
[操縦]小鷹時雄上飛曹(山梨県出身)/[偵察]阪本 充少尉(熊本県出身)
[操縦]後藤友春1飛曹(宮城県出身)/[偵察]柏村成太郎2飛曹(茨城県出身)
KAMIKAZETAIINN.jpg
▲出陣式後、テーブルを囲んで訣別の宴に集う「第1草薙隊」隊員。

※神風特別攻撃隊「第1八幡護皇隊」 昭和20年4月6日 第2国分基地より99式艦上爆撃機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]円並地 正壮中尉(広島県出身)/[偵察]酒井 勗少尉(富山県出身)
[操縦]杉本 貢少尉(広島県出身)/[偵察] 
[操縦]北川 義助1飛曹(高知県出身)/[偵察] 
[操縦]瀬川 長造2飛曹(青森県出身)/[偵察]
[操縦]糀本 武次郎少尉(熊本県出身)/[偵察]堀川 功2飛曹(東京都出身)
[操縦]上野 晶惟少尉(鹿児島県出身)/[偵察] 
[操縦] 鈴木 芳蔵1飛曹(千葉県出身)/[偵察]
[操縦]土屋 大作中尉(千葉県出身)/[偵察]寺内 博中尉(栃木県出身)
[操縦]幾島 達雄少尉(福岡県出身)/[偵察] 
[操縦]生井 長三郎1飛曹(栃木県出身)/[偵察]
[操縦]椋木 慶2飛曹(島根県出身)/[偵察]
[操縦]古市 敏雄少尉(香川県出身)/[偵察] 
[操縦]末藤 肇少尉(福岡県出身)/[偵察]冨坂弥右衛門少尉(大阪府出身)
[操縦]白崎 雅亮少尉(兵庫県出身)/[偵察] 
[操縦]大沢 政勝2飛曹(新潟県出身)/[偵察] 

※神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地基地より97式艦上攻撃機で出撃
田中 和夫(石川/17歳)/望月九州男(大分/17歳)

※神風特別攻撃隊「第1八幡護皇隊」 昭和20年4月6日 串良基地基地より97式艦上攻撃機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]米山茂樹飛曹長(茨城県出身)/[偵察]山下 博大尉(島根県出身)/[電信]渡辺信行上飛曹(大分県出身)
[操縦]高橋恒夫中尉(東京都出身)/[偵察]山下克義中尉(福岡県出身)/[電信]松尾正義2飛曹(福岡県出身)
[操縦]金子 孝1飛曹(長崎県出身)/[偵察]国広哲司2飛曹(兵庫県出身)/[電信] 
[操縦]野中繁男中尉(愛知県出身)/[偵察]大藪 晃中尉(愛知県出身)/[電信]小西和夫2飛曹(東京都出身)
[操縦]片桐 實2飛曹(長野県出身)/[偵察] 大西久雄2飛曹(岐阜県出身)/[電信] 
[操縦]若麻績 隆少尉(長野県出身)/[偵察]長澤善亮少尉(福岡県出身)/[電信]帆北主水2飛曹(東京都出身)
[操縦]地主善一1飛曹(三重県出身)/[偵察]渡辺吉徳2飛曹(福岡県出身)/[電信]松木昭義2飛曹(愛媛県出身)
[操縦]貴島正明中尉(東京都出身)/[偵察]成田金彦大尉(青森県出身)/[電信]富田常雄2飛曹(埼玉県出身)
[操縦]水野郁男2飛曹(岐阜県出身)/[偵察]田中 斌少尉(山口県出身)/[電信]東山 稔2飛曹(香川県出身)
[操縦]高橋光淳少尉(兵庫県出身)/[偵察]根岸敬次少尉(東京都出身)/[電信]皆川二三夫1飛曹(福島県出身)
[操縦]寺田泰夫少尉(石川県出身)/[偵察]松村嘉吉1飛曹(鹿児島県出身)/[電信]大和 久睦夫2飛曹(千葉県出身)
[操縦]福田東作中尉(東京都出身)/[偵察]藤井真治大尉(宮崎県出身)/[電信]大野憲一1飛曹(熊本県出身)
[操縦]尾川義雄上飛曹(山口県出身)/[偵察]伊藤濱吉2飛曹(三重県出身)/[電信]
[操縦]黒木七郎少尉(宮崎県出身)/[偵察]浅田正春少尉(大阪府出身)/[電信]鈴木米雄2飛曹(静岡県出身)
97kankou_convert_20160708203550.jpg
▲百里原基地から串良基地へ向け発進直前の「正気隊」の海軍97式艦上攻撃機

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」天山隊 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
(沖縄周辺機動部隊攻撃)
[操縦]吉田信太郎少尉(滋賀県出身)/[偵察]澤 泰三2飛曹 (神奈川県出身)/[電信]皆川 淳2飛曹(茨城県出身)

※神風特別攻撃隊「第1正統隊」昭和20年4月6日 第2国分基地より99式艦上爆撃機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]桑原 知大尉(広島県出身)/[偵察]千葉正史飛曹長(岩手県出身)
[操縦]和田喜一郎中尉(富山県出身)/[偵察]柳江秀男少尉(岐阜県出身)
[操縦]石川宗夫上飛曹(茨城県出身)/[偵察] 利根川吉郎2飛曹(埼玉県出身)
[操縦]牛尾久二中尉(山口県出身)/[偵察]本田實蘊少尉(熊本県出身)
[操縦]駒井重雄上飛曹(京都府出身)/[偵察]武田武雄2飛曹(長野県出身)
[操縦]横山忠重大尉(神奈川県出身)/[偵察]森山唯雄飛曹長(大分県出身)
[操縦]加藤三郎少尉(岐阜県出身)/[偵察]山内文夫2飛曹(静岡県出身)
[操縦]沓名達夫飛曹長(愛知県出身)/[偵察]中本昭二2飛曹(山口県出身)
[操縦]前橋誠一中尉(鹿児島県出身)/[偵察]高橋元一少尉(千葉県出身)
[操縦]加藤啓一上飛曹(福島県出身)/[偵察]岩松利光2飛曹(茨城県出身)
[操縦]浜園重義※生還者(戦後、映画『ホタル』のモデルとなった)/[偵察]中島一雄※生還者
※生還者の浜園重義さん、中島一雄さんは日系アメリカ人「リサ・モリモト」監督作品TOKKO 特攻 で当時を語っ
ておられます
99kanbaku_convert_20160407170133.jpg
▲海軍99式艦上爆撃機
※沓名達夫飛曹長(愛知県出身享年23歳)は出陣式の際、宇垣纏中将に「私は敵艦に爆弾を命中させる自信があります、
 その時は帰ってきても宜しいですか」と訪ねた、それに対し宇垣纏中将は「まかりならん!」と一蹴したと言う。
 その時の様子を生還者の浜園重義さんが語っておられます。「特攻」YouTube
seitotai.jpg
▲神風特別攻撃隊「正統隊」勇士

USSNewcom.jpg
▲米駆逐艦ニューコム(USS Newcomb)昭和20年4月6日午後、日本軍は菊水一号作戦を発動して神風特攻隊を大量投入。
 空は少なくとも40機はいるであろう神風特攻隊と、対空砲火からの黒煙で埋め尽くされていた。
 ニューコムは高速で回避運動を行い16:25と17:00には特攻機を撃墜。いったん特攻機の飛来が止まったので、ニュ
 ーコムはモートン・デヨ少将の火力支援部隊に合同するため25ノットの速度で航海を開始した。
 しかし中休みは間もなく終わり、対空砲火から逃れていた特攻機が突入してきた。
 ニューコムは対空砲火を撃ちあげたものの、1機がニューコムの2番煙突に突入。間を置かず2機目がニューコムの砲塔に
 3機目が船体中央部にそれぞれ命中してニューコムの船体中央は火を噴く廃墟と化した。
 USSNewcomb1945.jpg
 難破船荒らしに襲われたかのように・・・。不随となったニューコムに対して4機目の神風が船体中央部に突入。
 火勢を強める役割を果たした。僚艦ロイツェ(USS Leutze, DD-481)が消火のためニューコムに横付けしたが、
 この時、新たな特攻機がニューコムに突入しようとしていた。ニューコムは辛うじて一番砲塔が人力での操作が
 可能であり、偶然5機目の特攻機がいた方角を向いていたためそのまま発砲。
 しかし、5機目もニューコムの中央部に命中し、弾みでロイツェの艦尾にも命中して損害を与えた。
 完全に動力を失ったニューコムは戦死18名、行方不明25名、負傷64名を出し、ビール(USS Beale, DD-471)
 の護衛と艦隊曳船テケスタ(USS Tekesta, ATF-93)の曳航により慶良間諸島の泊地に向かった。
USSLeutze.jpg
▲米駆逐艦ロイツェ (USS Leutze)4/6この時、特攻機1機命中。1名戦死、30名負傷。

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」252部隊昭和20年4月6日 第1国分基地より「彗星」2機で出撃
[操縦]杉本孝雄1飛曹(富山県出身/[偵察]百瀬甚吾中尉(長野県出身)
[操縦]川合 仁少尉(北海道出身)/[偵察]
 
※昭和20年4月6日神風特別攻撃隊「第3御楯隊」601部隊 第1、第2国分基地より「彗星」で出撃
杉本孝雄1飛曹/百瀬甚吾中/川合 仁少尉

USSMorris_convert_20160426121558.jpg
▲4/6米駆逐艦モリス(USS Morris)に神風特攻機が突入、爆発によって大火災が発生、大破した。

昭和20年4月6日神風特別攻撃隊として鹿屋より出撃(零戦45機 第1神剣隊/第1七生隊/第1筑波隊)
sinkentai.jpg
▲神風特別攻撃隊「第1神剣隊」別れの杯 遠藤益司少尉他
神風特別攻撃隊「第1神剣隊」16機
松林平吉中尉中尉(山口県出身)/大森晴二少尉(東京都出身)/遠藤益司少尉(福島県出身)
岩崎慧少尉(和歌山県出身)/加藤安男候補生(長野県出身)/西田博治候補生(北海道出身)
種村名候補生(山形県出身)/武井信夫候補生(山梨県出身)/田端真二上飛曹(神奈川県出身)
谷尾計雄上飛曹(愛媛県出身)/鈴木克実2飛曹(愛知県出身)/花水昭二郎2飛曹(長野県出身)
平出幸治2飛曹(栃木県出身)/平田善次郎2飛曹(大分県出身)/吉竹辰夫2飛曹(福岡県出身)
河村俊光2飛曹(佐賀県出身)
▼神風特別攻撃隊「神剣隊」出陣記念として撮影されたもの
sinkentai_convert_20160323190732.jpg
▼「七生隊」原隊である朝鮮「元山航空隊」の別れの宴。(現在の北朝鮮「元山飛行場」にて)
hitiseitai_convert_20160323163249.jpeg
※昭和20年8月11日元山(朝鮮)青木泰二郎司令(左中央)は、敗戦確実と知るや元山海軍基地から家族ぐるみで日本に逃亡。
 青木泰二郎海軍大佐は昭和17年(1942)4月25日に空母「赤城」艦長に就任。しかし就任2ヶ月に満たない同年6月5日
 ミッドウェー海戦において「赤城」は被弾・炎上。青木は沈没まで指揮をとり、乗組員の退艦を図った。
 帰国後7月14日付けで予備役に編入されたが、召集を受け海南警備府附となる。その後は海口海軍航空隊、佐世保海軍
 航空隊、元山海軍航空隊の各司令を勤めた。元山空で終戦を迎える直前、青木は内地に飛行機で戻り、残された隊員達
 はソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された。このことから青木の行動を「敵前逃亡」と非難する元部下も多くいる。
 昭和37年(1962)死去。
 山本五十六の映画等でミッドウェー海戦は必ずと言って良い程出てくる。その登場人物ではミッドウェー海戦敗退の責
 任を背負って空母「飛龍」と運命を共にした山口多聞司令官やサイパン島で自決した南雲忠一長官が有名だが、ミッド
 ウェー海戦で沈没した空母「赤城」艦長の話はあまり聞かない・・・。
 空母「加賀」艦長岡田次作大佐は艦と共に戦死、空母「蒼龍」艦長柳本柳作大佐も艦と共に戦死。
Genzan_Zero.jpg
※元山飛行場とは現在の北朝鮮にあった日本海軍の航空基地
genzanzero_convert_20160323200533.jpg
▲▼元山飛行場から鹿屋に向け出発する直前の「七生隊」零式練戦5機、ゼロ戦21型 2機。
genzanzero_convert_20160323164008.jpeg
神風特別攻撃隊「第1七生隊」12機
宮武信夫大尉/橋本哲一郎少尉/松藤大治少尉/河野正男少尉/田中久士少尉/吉村信夫少尉
山田興治少尉/鷲見敏郎少尉/小林哲夫少尉/植木平七郎少尉/本庄巌少尉/久保田博少尉
hitiseitai_convert_20160418163436.jpg
▲昭和20年4月5日(朝鮮)青木泰二郎元山空司令に敬礼し、出発の報告をする「七生隊」隊員。
神風特別攻撃隊「第1筑波隊」16機
福寺薫中尉(岡山県出身)/石田寛中尉(岡山県出身)/末吉實中尉(広島県出身)/金子保中尉(福島県出身)
石橋申雄中尉(佐賀県出身)/伊達實少尉(岡山県出身)/福島正次少尉(東京都出身)/大田博英少尉(鳥取県出身)
斎藤勇少尉(北海道出身)/金井正夫少尉(群馬県出身)/椎木鐡幸少尉(岡山県出身)/山口人久少尉(三重県出身)
松本知恵三1飛曹(広島県出身)/村山周三2飛曹(長野県出身)/安田善二2飛曹(宮崎県出身)/河村祐夫2飛曹(山口県出身)

※昭和20年4月7日14時23分、北緯30度22分東経128度4分 戦艦大和沈没 その時歴史は動いた 戦艦大和の沈没YouTube
yamato_hit_by_bomb.jpg

Yamato_explosion.jpg

※神風特別攻撃隊「第4銀河隊」昭和20年4月7日 宮崎基地より「銀河」4機で出撃
[操縦]松浪武正上飛曹(大分県出身)/[偵察]岡林春實上飛曹(高知県出身)/[電信]
[操縦]横畑一吉飛長(広島県出身)/[偵察]保刈良男1飛曹(新潟県出身)/[電信]片村利男上飛曹(福岡県出身)
[操縦]三木 光少尉(香川県出身)/[偵察]遠藤良一上飛曹(大阪府出身)/[電信]岡崎宇市2飛曹(岐阜県出身)
[操縦]波田敏之2飛曹(三重県出身)/[偵察]成瀬光吉2飛曹(愛知県出身)/[電信]大塚忠保2飛曹(徳島県出身)

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」昭和20年4月7日 第1国分基地より「彗星」で出撃
[操縦]中川紀雄飛曹長(広島県出身)/[偵察]國安 登大尉(東京都出身)
[操縦]倉智宣明上飛曹(福岡県出身)/[偵察]村瀬良吉2飛曹(福岡県出身)
[操縦]松倉弘文少尉(富山県出身)/[偵察]大島 勇2飛曹(静岡県出身)
[操縦]清水雅春2飛曹(長野県出身)/[偵察]池田榮吉1飛曹(新潟県出身)
[操縦]庄屋次郎少尉(石川県出身)/[偵察]富樫惣吉上飛曹(秋田県出身)
[操縦]上田博重1飛曹(愛知県出身)/[偵察]上川安則2飛曹(香川県出身)
[操縦]谷川隆夫少尉(島根県出身)/[偵察]佐久間 務少尉(群馬県出身)
[操縦]工藤双二少尉(山形県出身)/[偵察] 
[操縦]安藤 勝1飛曹(福岡県出身)/[偵察]小林久光2飛曹(茨城県出身)
[操縦]山内末廣上飛曹(熊本県出身)/[偵察]
[操縦]星川清久1飛曹(山形県出身)/[偵察]
USS Maryland
▲4/7夜、米戦艦メリーランド(USS Maryland)へ「第3御楯隊」か252部隊が突入の瞬間。

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」252部隊 昭和20年4月7日第1国分基地よりゼロ戦で出撃
(奄美大島南方機動部隊攻撃) 
富岡崇吉中尉(茨城県出身)/志田登志雄少尉(東京都出身)/山中 彩少尉(長崎県出身)
小田正太2飛曹(岡山県出身)/西尾 實2飛曹(千葉県出身)

神風特別攻撃隊「神雷部隊第4建武隊」昭和20年4月7日 鹿屋より出撃(零戦9機)
(喜界島南方機動部隊攻撃)
日吉恒夫中尉(静岡県出身)/西尾光夫中尉(東京都出身)/木口久1飛曹(兵庫県出身)
浅田晃一1飛曹(愛知県出身)/林清1飛曹(茨城県出身)/大森省三2飛曹(愛媛県出身)
長谷川久榮2飛曹(山形県出身)/井辰勉2飛曹(大阪府出身)/山田恵太郎1飛曹(東京都出身)
USSHancockkamikaze_convert_20160520104607.jpg
▲4/7米空母ハンコック(USS Hancock)に「第4建武隊」と見られる零戦が突入、中破させた。
 乗組員62名死亡71名が負傷し、空母ハンコックは、修理の為、真珠湾へ後退した。

昭和20年4月11日神雷部隊第5建武隊鹿屋より出撃(零戦13機)
4/11 14:43鹿屋基地を出撃した神風特別攻撃隊第五建武隊の爆装零戦が低空飛行により米戦艦ミズーリの右舷甲板
に体当たりを敢行した。▼がまさにその瞬間を撮らえた写真である。
USSMissouriKamikaze_convert_20160318113915.jpg
特攻機の右翼がミズーリの第3副砲塔上部に当たり、燃料に引火し炎上。しかし搭載爆弾は不発・・・。ミズーリは表面
に損傷を受けた程度で速やかに消火作業が行われ鎮火している。その後、搭乗員の遺体(ほぼ上半身のみ)が40mm機銃
座から回収された。
kenbutaimizuri.jpg
ミズーリ艦長ウイリアム・キャラハン海軍大佐は、多くの乗組員の不満の声があがるなか、「この日本のパイロットは我
々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても今は違う。激しい対空砲火を掻い潜ってここまで接近してきたパイロ
ットの勇気と技量は、同じ武人として称賛に値する。よってこのパイロットに敬意を表し、水葬に付したい」とし、翌朝
9時艦上にて米海軍のしきたりに則り、星条旗に包まれた遺体は木製の担架に乗せられ、5発礼砲と共に海に葬られた。
(日本海軍特攻隊員水葬が行われた4/12の午後、「ミズーリ」は再び特攻機による猛攻を受けた)
MissouriKamikaze.jpg
カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて)1
5kenbutaimizuri.jpg
カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて)2
mizurisuiso.jpg
カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて)3
mizuri2.jpg
カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて)4

ミズーリに突入した隊員は石井兼吉2飛曹か石野節男2飛曹のどちらかと見られている。
ishii.jpgishino.jpg
     石井兼吉2飛曹            石野節男2飛曹
yaguti.jpgitige.jpgnisimoto.jpgkubota.jpgyokoo.jpg
  矢口重寿中尉 /  市毛夫司1飛曹 /  西本政弘1飛曹 / 久保田久2飛曹 /  横尾佐資郎中尉
saito.jpgmiyazaki1.jpgsogabe.jpg
 斎藤義男2飛曹 /  宮崎久男1飛曹 / 曽我部隆2飛曹 / 嶋立毅中尉/竹野弁治1飛曹/八幡高明上飛曹

Callaghan.jpg
▲戦艦「ミズーリ」艦長ウィリアム・キャラハンは1897年8月8日サンフランシスコ生まれ。7歳年上の兄の後を追って、
1915年アナポリス(海軍兵学校)に入校、1944年1月に就役した戦艦「ミズーリ」初代艦長に任命された。
朝鮮戦争では、太平洋艦隊司令長官となり、1957年に海軍中将で退役するまで、極東地域最高司令官を務めた。
沖縄戦の3年前、巡洋艦「サンフランシスコ」艦長であった実兄ダニエル・キャラハン少将を第三次ソロモン海戦で失う
にもかかわらずキャラハン艦長の私情を越えた信条、人間の大きさに感服してしまう。
1991年7月8日93歳でその生涯を閉じた。
misuri.jpg
▲戦艦「ミズーリ」 後にこの船の甲板上で日本の降伏文書調印式が行われた。

YAGUTISYOUI.jpg
▲出撃直前に撮影された矢口重寿中尉
4/11出撃の隊員の中に矢口重寿中尉がいる、矢口重寿中尉の爆装零戦は12:15鹿屋を出撃。
喜界島南方の米機動部隊に向かい、米空母フランクリンを護衛していた米駆逐艦キッドに突入したとされている。
キッドに何機の特攻機が突入したかは不明だが、16:10爆装零戦が左舷に命中。死者38名、負傷者50名以上を出し、
損傷したキッドはウルシー泊地に撤退した。しかし1機の爆装零戦は駆逐艦キッドの対空砲火で撃墜され、パイロット
は落下傘で機内から脱出したが、キッドの乗組員が、そのパイロットを捕虜にしようと引き揚げた時には既に死亡して
いた。血気にはやる数人のキッド乗組員達は日本人パイロットの遺体をナイフできりつけ、耳を殺ぎ落としたり、首を
はねたりなど、非道な行為にはしった。中には、下顎を頭蓋骨からはずし、それで装飾品を作った者もいた。
キッドの乗組員ビル・バーンハウスは艦長と共この非道な行為を止めさせた。
後日、このパイロット(矢口重寿中尉)の遺体は艦長の指揮のもと、アメリカ海軍の伝統にのっとり水葬にふされた。
しかし非道な行為を受けた矢口重寿中尉であろう遺体の頭部がキッドの艦内に残っていた様だ・・・。
USSKidd.jpg
▲駆逐艦キッド(USS Kidd)
(以下 駆逐艦キッドの戦友会から以下引用)
「あのパイロットのことは、私が一番よく知っているよ」 「どういう意味ですか?」
「私の名前を出さないのなら話してあげてもいいのだが・・・」私は約束した。 この老人は私の顔を見ながら言った。
「パイロットの頭から頭蓋骨を取り出したのは私です」一瞬耳を疑った。
この男は、当時駆逐艦キッドの機械工のチーフであり、第一エンジンルームの責任下士官であった。
彼が、パイロットの頭部を発見したのは、キッドがサンフランシスコ近くのハンターズポイント海軍修理工場に帰港し
た1ヶ月後だった。特攻攻撃を受けてから2ヶ月以上後の事であった。頭部はかなり腐乱していたが、アルコールで洗い
落とし、頭蓋骨だけ取り出し、船のマストに飾ったと言う。 戦争が終わり、彼はこの頭蓋骨をペンシルバニアの実家に
持ち帰った。 しかし、良心に苛まれて、当時ある大学に通っていた友人にその頭蓋骨を渡し、大学に寄付してくれる様
に依頼したそうである。 その後、その頭蓋骨がどうなったかは、彼は知らないと言う。この噂は以前からあった。
しかし、その当事者が名乗りでてくるとは正直思ってもいなかった。
略)日本兵の頭から頭蓋骨を取り出して故郷の恋人に土産として送った海兵隊隊員もいたぐらいである。
キッドでこの様なことが起きても不思議ではなかった。 実際、キッドが特攻攻撃を受けた以前に、ある時死亡した日本
兵を海から引き上げた事があった。ある米水兵がその日本パイロットの頭蓋骨から、下顎を取り出して飾りを作ったと
いう話があった。この話は、戦友会で数人に確認がとれている。この件についてキッド博物館に尋ねたら、以前その大
学に実際に問い合わせた事があると言う。大学側は否定も肯定もしなかった。単に記録がないと答えたそうである。
私は大学の名前を教えてくれるよう頼んだ。 しかし博物館はそれを拒んだ。この一件はまだ未解決であり、将来的に答
えが出るかどうかも解っていない。後に、駆逐艦キッドへ体当たりした矢口重寿中尉の追悼式をキッド戦友会の催しの
一部として出来ないかという話が、アメリカ人弁護士から持ち上がった時に、キッド戦友会だけでなく、キッド博物館
理事会 からも拒絶された事について、著者は私見ではあるが、アメリカ人は普通自分たちが完全勝利した相手には寛大
である。 しかしキッドへの体当たり攻撃に関して言えば、最終的には戦争に勝利したが、この戦闘には負けたのである
だからいつまでも恨みを持ち続けるのではないだろうか。 私の30年以上のアメリカでの生活で得た印象では、アメリカ
人は勝てばGracious Winner(偉大な勝者)にはなれるが、負けた場合はSore Loser(不快な敗者)になりがちである。
今回もその例のひとつではないだろうか。 としている・・・。
(1964年6月19日駆逐艦キッドは退役しルイジアナ州バトンルージュにおいて博物館として保存されている)
[ 参考文献 ] 平義克己『我敵艦ニ突入ス 駆逐艦キッドとある特攻、57年目の真実』扶桑社、2002

※神風特別攻撃隊「第5銀河隊」昭和20年4月11日 宮崎基地より「銀河」で出撃
(喜界島南方機動部隊攻撃)
[操縦]山本裕之大尉(福岡県出身)/[偵察]小薬 武飛曹長(栃木県出身)/[電信]佐藤武司(岐阜県出身)
[操縦]酒井啓雄1飛曹(神奈川県出身)/[偵察]佐野國雄1飛曹(静岡県出身)/[電信]坂田 伸1飛曹(宮崎県出身)
[操縦]永井茂1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]工藤丑雄1飛曹(秋田県出身)/[電信]長岡友正上飛曹(北海道出身)
[操縦]上野善治少尉(栃木県出身)/[偵察]神尾穣上飛曹(福井県出身)/[電信]加茂敏雄1飛曹(茨城県出身)

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」252部隊 昭和20年4月11日第1国分基地よりゼロ戦と「彗星」で出撃
(奄美大島南東機動部隊攻撃)
彗星 
[操縦]本田 實大尉(神奈川県出身)/[偵察]塩見季彦少尉(大阪府出身)
[操縦]黒谷 昇2飛曹(大阪府出身)/[偵察]
[操縦]平野正志2飛曹(群馬県出身)/[偵察]
ゼロ戦 
竹下 博上飛曹(広島県出身)/宮川 嵒2飛曹(大分県出身)

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」601部隊昭和20年4月11日 第1国分基地よりゼロ戦で出撃
竹下 博上飛曹/宮川 嵒2飛曹/木村 浩1飛曹(喜界島不時着)/桂 正中尉(徳之島陸軍飛行場不時着時転覆大破)
※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」昭和20年4月11日 第1国分基地よりゼロ戦で出撃
安田卓郎2飛曹(広島県出身)/平賀左門2飛曹(三重県出身)

第3回神雷桜花特別攻撃隊昭和20年4月12日 午前4時30分鹿屋より出撃(桜花8機、一式陸攻8機)
Ohka-16G4M_convert_20140525211615.jpg
▲4/12第3回神雷桜花特別攻撃隊出撃前の(攻撃708飛行隊)桜花を抱いた一式陸上攻撃機。「721-K05」
[桜花]
今井遉三中尉(新潟県出身享年24歳)/岩下英三中尉(群馬県出身)/土肥三郎中尉(兵庫県出身享年22歳)
山田力也1飛曹(香川県出身)/鈴木武司1飛曹(広島県出身)/光斎政太郎2飛曹(大阪府出身)
飯塚正巳2飛曹(群馬県出身)/朝霧二郎2飛曹(岡山県出身)
[陸攻]
野上祝男中尉(茨城県出身)/佐藤正人少尉(東京都出身)/森島偀一郎少尉(静岡県出身)
菊池辰男飛曹長(福島県出身)/真鍋 義孝上飛曹(愛媛県出身)/古賀三郎上飛曹(福岡県出身)
新井國夫上飛曹(広島県出身)/熊倉稠上飛曹(新潟県出身)/今崎利彦1飛曹(大阪府出身)
竹中武春1飛曹(兵庫県出身)/北島数巳1飛曹(佐賀県出身)/小島典吾1飛曹(福岡県出身)
平野利秋1飛曹(愛知県出身)/北村数巳1飛曹(熊本県出身)/中村英雄1飛曹(長崎県出身)
内海清1飛曹(香川県出身)/田中道徳1飛曹(鹿児島出身)/中重正2飛曹(三重県出身)/鬼木俊勝2飛曹(福岡県出身)
住吉敬二2飛曹(東京都出身)/岸田幸夫2飛曹(徳島県出身)/武田竹司2飛曹(長野県出身)/稲垣只次2飛曹(愛知県出身)
竹中三男2飛曹(岐阜県出身)/惣谷喜一2飛曹(北海道出身)/木下善一郎2飛曹(長野県出身)
※菅野善次郎2飛曹(当時18歳)土肥三郎中尉の桜花と母機を切り離す「投下索」を引き終戦まで生き抜いて戦後、
 当時の様子を証言されてます。[証言記録 兵士たちの戦争]
古竹丈夫2整曹(佐賀県出身)/中込七百太郎2整曹(山梨県出身)/岡島正平2整曹(石川県出身)/重村平治2整曹(長崎県出身)
仲野 源太郎飛長(埼玉県出身)/室橋源一飛長(新潟県出身)/橋井昭一飛長(鳥取県出身)/吉田勇助飛長(茨城県出身)
水野宏飛長(愛知県出身)/
この日、一式陸上攻撃機+桜花の護衛任務だった元ゼロ戦搭乗員「野口 剛」さんYouTubu最後のインタビュー3
土肥中尉の 操縦する桜花は、三浦少尉が操縦する母機・一式陸上攻撃機(一式陸攻)から切り離され、火薬ロケットを
噴進、敵迎撃戦闘機がどうすることもできない速度と なって滑空し、14:46米駆逐艦マナート・L・エベールに突入。
マナート・L・エベールは命中刹那に艦隊中央部が粉々に消し飛んで真っ二つに折れ、3分で沈没、79名戦死した。
土肥三郎中尉が桜花で体当たりする数分前、マナート・L・エベールには3機の特攻機(零戦)が体当たりを敢行、2機が
撃墜されるも、1機が体当たりに成功。その約1分後、航行不能となった所に桜花がとどめを刺した形になった。
マナート・L・エベールは沖縄戦において桜花によって撃沈された唯一の艦である。KAMIKAZE 桜花
USSMannertLAbele_convert_20160327193905.jpg
▲駆逐艦マナート・L・エベール(USS Mannert L. Abele)
USSStanly_convert_20160715112808.jpg
▲駆逐艦駆逐艦スタンリー(USS Stanly)
桜花1機が艦首部分に命中したが、弾頭が船体を貫通し不発、負傷者3名で済んだが船体の損傷が大きく、沖縄で応急
修理の後、アメリカ本土に回航、1946年に除籍。

※神風特別攻撃隊「第2草薙隊」 昭和20年4月12日 第2国基地より99式艦上攻撃機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]高橋 渡少尉(東京都出身)/[偵察]田村諌雄2飛曹(福岡県出身)
[操縦]高瀬義則2飛曹(福岡県出身)/[偵察]宮崎光夫2飛曹(山口県出身)

※神風特別攻撃隊「八幡護皇隊」 昭和20年4月12日串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
堤 昭(福岡県出身/18歳)

※神風特別攻撃隊「常磐忠華隊」 昭和20年4月12日串良基地より97式艦上攻撃機6機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]西森秀夫大尉(福井県出身)/[偵察]田辺武雄飛曹長(鹿児島県出身)/[電信]春原宗治上飛曹(長野県出身)
[操縦]右高武男中尉(愛知県出身)/[偵察]滝本義正少尉(山口県出身)/[電信]石原 勝上飛曹(北海道出身)
[操縦]高尾重夫上飛曹(山口県出身)/[偵察]酒巻一夫少尉(埼玉県出身)/[電信]須藤岸雄2飛曹(埼玉県出身)
[操縦]中西達二中尉(山口県出身)/[偵察]田沢義治少尉(東京都出身)/[電信]阿部 正2飛曹(東京都出身)
[操縦]横山安詔上飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]横山 保少尉(宮城県出身)/[電信]田中宏平2飛曹(東京都出身)
[操縦]増子定正上飛曹(福島県出身)/[偵察]川野博章少尉(兵庫県出身)/[電信]奈良 営太郎2飛曹(秋田県出身)
jyoubantyukatai.jpg
▲「常磐忠華隊」勇士
97sikikankou_convert_20160419145957.jpg
▲97式艦上攻撃機 (写真は、真珠湾攻撃を終え帰還する97式艦上攻撃機をハワイ米軍が撮影)
Okinawa_convert_20160423165406.jpg
▲米戦艦アイダホ(USS Idaho)[写真は、4/1沖縄に向け艦砲射撃中の戦艦アイダホ]
沖縄本島への上陸は4月1日に始まり、日本軍は特攻による絶望的な反撃を試みた。アイダホは多数の敵機を撃墜した。
4/12集中的な特攻々撃が行われ、アイダホは5機の特攻機を撃墜したものの、自ら損傷を被った。応急修理の後4/20
に戦場を離れ5日後にグアムに到着した。
USSTennessee(BB43)_convert_20160423205238.jpg
▲昭和20年4月12日米戦艦テネシー(USS Tennessee, BB-43)に特攻機1機命中、大破させた。
神風特別攻撃隊として昭和20年4月12日 出撃(零戦17機 第2七生隊)
神風特別攻撃隊「第2七生隊」19機出撃2機帰還
田中中尉/成田和孝中尉/原田愛文少尉 /千原達郎少尉/久保忠弘少尉/林市造少尉/肥後朝太郎少尉
野村克己少尉/岡部平一少尉/鈴木弘少尉/宮崎信夫少尉/田中公三少尉/木村司郎少尉/竹口正少尉
手塚和夫少尉/吉尾啓少尉/工藤紀正少尉

※神風特別攻撃隊「第9大義隊」 昭和20年4月13日石垣島基地より零戦で出撃
(与那国島南方機動部隊攻撃)
満田  茂中尉(兵庫県出身)/山崎  隆2飛曹(京都府出身)

※神風特別攻撃隊「第10大義隊」 昭和20年4月14日石垣島基地より零戦で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
粕谷 仁司中尉(兵庫県出身)/三浦 義信2飛曹(北海道出身)
※爆装零戦隊第一小隊長のK中尉が飛行途中で逃げた記述有り。

昭和20年4月14日第4回神雷桜花特別攻撃隊出撃(桜花7機、一式陸攻7機)戦果無し
[桜花]
真柄嘉一上飛曹(福島県出身)/田村萬策上飛曹(愛知県出身)/川上菊臣上飛曹(大阪府出身)
富内敬二1飛曹(長野県出身)/町田満穂1飛曹(高知県出身)/山崎敏郎2飛曹(高知県出身)/佐藤忠2飛曹(新潟県出身)
[陸攻]
澤柳彦士大尉(長野県出身)/斎藤三郎中尉(福島県出身)/梶原勝之少尉(福島県出身)/竹内秀雄少尉(長野県出身)
岩崎良春少尉(大阪府出身)/日比野但上飛曹(岐阜県出身)/難波博通上飛曹(兵庫県出身)/平川勇上飛曹(長崎県出身)
新澤秀春上飛曹(新潟県出身)/細越哲夫上飛曹(岩手県出身)/安間淳介上飛曹(静岡県出身)/古谷誠一上飛曹(愛媛県出身)
田中館利夫上飛曹(岩手県出身)/金子秀一上飛曹(大阪府出身)/西光上飛曹(福岡県出身)/高橋貞浪上整曹(長野県出身)
重枝卓爾上整曹(山口県出身)/塚本巌1飛曹(愛知県出身)/辻栄二1飛曹(長崎県出身)/石井隆次1飛曹(栃木県出身)
管道一1飛曹(愛媛県出身)/栗岡嗣2飛曹(高知県出身)/月尾清一2飛曹(熊本県出身)/高山邦治2飛曹(栃木県出身)
小黒壽夫2飛曹(東京都出身)/林芳市2飛曹(長野県出身)/片岡貞夫2飛曹(長崎県出身)/山本政一2飛曹(石川県出身)
大坪春義2飛曹(福岡県出身)/石本義春2飛曹(兵庫県出身)/川瀬一男2飛曹(愛知県出身)/松下秋雄2飛曹(鹿児島県出身)
田中音一2飛曹(山口県出身)/長谷川 正夫2飛曹(新潟県出身)/北本正信2飛曹(和歌山県出身)/菊地公雄2整曹(宮崎県出身)
君島勝三2整曹(栃木県出身)/加藤豊彦2整曹(東京都出身)/坂井一雪2整曹(熊本県出身)/佐々木 清飛長(宮城県出身)
高橋 實男飛長(広島県出身)/松浦弘飛長(静岡県出身)/酒井利男飛長(長野県出身)/里田義則飛長(熊本県出身)
佐藤保勝飛長(福島県出身)/三和茂飛長(青森県出身)/福田秀夫飛長(長崎県出身)/大小田道次整長(鹿児島県出身)

神雷部隊「第6建武隊」昭和20年4月14日 鹿屋より出撃(零戦6機)戦果無し
中根久喜中尉(東京都出身)/鈴木才司上飛曹(静岡県)/前田善光上飛曹(佐賀県出身)
布施政治1飛曹(東京都出身)/蓼川茂1飛曹(愛媛県)/竹下弘2飛曹(東京都出身)

神風特別攻撃隊として昭和20年4月14日 鹿屋より出撃(零戦22機 第2神剣隊/第2筑波隊/第1昭和隊)
神風特別攻撃隊「第2神剣隊」
合原直中尉(広島県出身)/津田徳哉少尉(鹿児島県出身)/赤司明三郎少尉(佐賀県出身)
西本松一郎少尉(愛媛県出身)/植村光男候補生(神奈川県出身)/山本城候補生(大阪府出身)
高橋正一候補生(新潟県出身)/佐々木栄吉候補生(岩手県出身)/中林三郎2飛曹(埼玉県出身)
神風特別攻撃隊「第2筑波隊」
熊倉高敬中尉(栃木県出身)/一ノ関貞雄少尉(青森県出身)/新井利夫2飛曹(兵庫県出身)
神風特別攻撃隊「第1昭和隊」
鈴木典信中尉/大本 正中尉 /中村晴雄少尉/清水則定少尉/佐々木八郎少尉/小野寺朝男少尉
松村米藏少尉/平林勇作少尉/柏倉繁次郎少尉/炭廣秀夫2飛曹
syouwataigoudo_convert_20160324144148.jpg
▲谷田部航空隊における神風特別攻撃隊「昭和隊」第14期予備学生、乙飛第18期予科練習生卒業記念写真。
syouwatai1_convert_20160324143253.jpg
▲鹿屋基地近くの野里小学校校庭で、第10航空艦隊司令長官前田稔中将臨席の元で行われた神風特別攻撃隊
 「第1昭和隊」命名式。
onodera.jpg
▲谷田部基地で昭和隊編成後、鹿屋に向けて出発する小野寺朝男少尉、4/14徳之島東方の敵機動部隊に突入戦死。

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」601部隊 昭和20年4月15日 第1国分基地よりゼロ戦で出撃
岸  忍中尉(群馬県出身)/田中克次郎飛長(東京都出身)/梅林義輝上飛曹(徳之島陸軍飛行場不時着大破)
浪松政吾飛長(徳之島陸軍飛行場不時着大破)

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」601部隊 昭和20年4月16日 第1国分基地よりゼロ戦で出撃
青木牧夫中尉(高知県出身)/中村日出男2飛曹(福岡県出身)/唐渡賀雄2飛曹/木内美秀2飛曹

※神風特別攻撃隊「菊水第2彗星隊」 昭和20年4月16日 第1国分基地より「彗星」で出撃
(喜界島南東機動部隊攻撃)
[操縦]石川定男上飛曹(山口県出身)/[偵察]外山正司中尉(鳥取県出身)
[操縦]棚田茂見飛長(長野県出身)/[偵察]
[操縦]大田榮次郎少尉 (東京都出身)/[偵察]岩見 健少尉(福岡県出身)

※神風特別攻撃隊「八幡護皇隊」 昭和20年4月16日串良基地より97艦上攻撃機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
小河 義光(福岡県出身/17歳)
※神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月16日串良基地より「天山」で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]福山龍治上飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]小林啓吉少尉 (山梨県出身)/[電信]只野岩太郎上飛曹(香川県出身)

※神風特別攻撃隊「天桜隊」 昭和20年4月16日串良基地より「天山」で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)    
[操縦]村岡茂樹中尉(京都府出身)/[偵察]村上哲男2飛曹(愛媛県出身)/[電信]小室一二2飛曹(石川県出身)
[操縦]正木美男1飛曹(東京都出身)/[偵察]藤井英司飛長(京都府出身)/[電信]川口成治飛長(三重県出身)
[操縦]田熊克省少尉(山口県出身)/[偵察]屋敷源美1飛曹(大分県出身)/[電信]田村鐵也飛長(千葉県出身)
[操縦]佐伯昌夫飛長(愛知県出身)/[偵察]山崎憲進2飛曹(富山県出身)/[電信]安井正二2飛曹(兵庫県出身)
[操縦]           /[偵察]日下部文雄2飛曹(新潟県出身)/[電信]服部壽宗2飛曹(三重県出身)
[操縦]小山耕三少尉(京都府出身)/[偵察]田上利康2飛曹(福岡県出身)/[電信]福永 薫2飛曹(高知県出身)

※神風特別攻撃隊「皇花隊」昭和20年4月16日 串良基地より97艦上攻撃機攻4機で出撃
[操縦]清水 清上飛曹(広島県出身)/[偵察]畑  岩治中尉(東京都出身)/[電信]高橋賢光2飛曹(神奈川県出身)
[操縦]成谷広一上飛曹(東京都出身)/[偵察]藤田州司少尉(愛媛県出身)/[電信]戸倉 勝2飛曹(香川県出身)
[操縦]足立芳郎少尉(東京都出身)/[偵察]吉田種三中尉(青森県出身)/[電信] 片谷有造2飛曹(東京都出身)
[操縦]吉池邦夫上飛曹(東京都出身)/[偵察]三好重成少尉(愛媛県出身)/[電信]遠藤徳敏2飛曹(山形県出身)
kounoutai.jpg
▲神風特別攻撃隊「皇花隊」勇士

※神風特別攻撃隊「第6銀河隊」昭和20年4月16日 宮崎基地より「銀河」で出撃
(この出撃をもって「銀河」精鋭部隊・攻撃262飛行隊は全滅)
(喜界島南方機動部隊攻撃)
[操縦]本城勝志2飛曹(岩手県出身)/[偵察]橋本誠也中尉(徳島県出身)/[電信]佐井川正之2飛曹(福岡県出身)
[操縦]鈴木憲司2飛曹(神奈川県出身)/[偵察]井山秀樹上飛曹(東京都出身)/[電信]高橋 豊2飛曹(島根県出身)
[操縦]北島治郎飛長(徳島県出身)/[偵察]薬眞寺靖少尉(愛媛県出身)/[電信]中村行男2飛曹(茨城県出身)
[操縦]西兼登二飛長(山口県出身)/[偵察]斎藤三藤1飛曹(群馬県出身)/[電信]中西克巳1飛曹(和歌山県出身)
[操縦]金内光郎2飛曹(山形県出身)/[偵察]大河原誠少尉(岩手県出身)/[電信]光石昭通2飛曹(兵庫県出身)
[操縦]大西月正飛長(北海道出身)/[偵察]波多野進1飛曹(新潟県出身)/[電信]頼元健次郎2飛曹(大阪府出身)
[操縦]富士田富士弥飛長(大阪府出身)/[偵察]植垣義友上飛曹(鳥取県出身)/[電信]藤谷成美2飛曹(愛知県出身)
[操縦]本山幸一郎1飛曹(高知県出身)/[偵察]道又重雄上飛曹(岩手県出身)/[電信]久野朝雄2飛曹(長崎県出身)

神風特別攻撃隊「第7銀河隊」昭和20年4月16日 出水基地発より「銀河」で出撃
(喜界島南方機動部隊攻撃)
[操縦]中村廣光2飛曹(愛知県出身)/[偵察]延澤慶太郎少尉(滋賀県出身)/[電信]岩田 渉1飛曹(兵庫県出身)
[操縦]江藤賢助2飛曹(福岡県出身)/[偵察]榎田重秋2飛曹(宮崎県出身)/[電信]岡田武教2飛曹(大分県出身)
[操縦]中居秀雄上飛曹(三重県出身)/[偵察]小林茂雄中尉(神奈川県出身)/[電信]臼井甲作上飛曹(北海道出身)
[操縦]山田正雄飛長(兵庫県出身)/[偵察]宮前俊三1飛曹(山口県出身)/[電信]田中仙太郎飛長(福井県出身)

USSPringle_convert_20160426114031.jpg
▲米戦艦プリングル(USS Pringle)4/16、2機の特攻機を砲撃で破壊したが、3機目が艦橋に突入、上部構造物を破壊し
 1番煙突後方に食い込んだ。1,000ポンド爆弾1発もしくは500ポンド爆弾2発が上甲板構造物に入り込み大爆発した。
 竜骨が破壊され、船体は弾薬庫前方で2つに裂けた。6分後、258名の生存者はプリングルの沈没を目撃した。

第5回神雷桜花特別攻撃隊昭和20年4月16日 鹿屋より出撃(桜花5機、一式陸攻5機)戦果無し
[桜花]
宮下良平中尉(長野県出身)/折出政次1飛曹(広島県出身)/城森美成1飛曹(鹿児島県出身)
江原次郎2飛曹(東京都出身)/高田虎男2飛曹(鹿児島県出身)
[陸攻]
佐藤純上飛曹(栃木県出身)/大場昭雄上飛曹(宮城県)/管隆上飛曹(大分県出身)/於方熊雄上飛曹(佐賀県出身)
峯山光雄上飛曹(栃木県出身)/村田昇(熊本県出身)/中島賢次郎(長崎県出身)/稲垣敏弘1飛曹(和歌山県出身)
糸賀房夫1飛曹(茨城県出身)/大和弘一1飛曹(静岡県出身)/川崎俊雄1飛曹(高知県出身)/磨田瀧治1飛曹(東京都出身)
猪瀬甫1飛曹(茨城県出身)/柴田悦生2飛曹(福岡県出身)/宇津木勝次2飛曹(千葉県出身)/小池孝吉2飛曹(山形県出身)
大澤龍二郎2飛曹(佐賀県出身)/松本正夫2整曹(徳島県出身)/藤吉英章2整曹(岐阜県出身)永澤諭飛長(岩手県出身)
渥美治夫飛長(三重県出身)/梓直三飛長(埼玉県出身)/三村稲男飛長(茨城県出身)/堀川天地飛長(長崎県出身)
今野米作飛長(青森県出身)/寺田秀雄飛長(京都府出身)/中野堅之助飛長(秋田県出身)
USSHarding_convert_20160425125026.jpg
▲昭和20年4月16日米駆逐艦ハ​​ーディング(USS Harding)に特攻機が命中、14名死亡、8名行方不明。
神雷部隊「第7建武隊」昭和20年4月16日 鹿屋より出撃(零戦9機)
森茂士上飛曹(大分県出身)/大谷正行1飛曹(兵庫県出身)/本間由照1飛曹(新潟県出身)
中原正義1飛曹(佐賀県出身)/尾中健喜2飛曹(福岡県出身)/中別府重信2飛曹(宮崎県出身)
中尾正海2飛曹(徳島県出身)/新井春男2飛曹(長野県出身)/白井貞吉2飛曹(千葉県出身)

神雷部隊「第8建武隊」昭和20年4月16日 鹿屋より出撃(零戦5機)
8kenbutai.jpg
▲桜の枝を持ち桜花に乗る第八建武隊上田兵二1飛曹4/16鹿屋より零戦で出撃。喜界島南東50浬機動部隊に突入戦死。
石田三郎1飛曹(大阪府出身)/上田兵二1飛曹(兵庫県出身)/佐藤善之助2飛曹(静岡県出身)
岩本五郎2飛曹(静岡県出身)/栗山虎男2飛曹(岩手県出身)

神風特別攻撃隊として昭和20年4月16日 鹿屋より出撃(零戦32機 第3神剣隊/第3筑波隊/第3・4七生隊)
※神風特別攻撃隊「第3御盾隊」601部隊 靑木牧夫中尉/中村日出夫2飛曹
神風特別攻撃隊「第3七生隊」
町田俊三少尉/奥田良雄少尉/山田 章少尉
神風特別攻撃隊「第4七生隊」
石橋石雄少尉/山岡正瑞少尉/西川要三少尉/名古屋徹蔵少尉/江口昌男少尉
樫本弘明少尉/根岸達郎少尉/山本雅省少尉/大石 太少尉
神風特別攻撃隊「第3神剣隊」
林田貞一郎飛曹長(熊本県出身)/工藤嘉吉2飛曹(北海道出身)/小金井菊次郎2飛曹(埼玉県出身)
神風特別攻撃隊「第3筑波隊」
中村英正中尉(福島県出身)/由井勲少尉(長野県出身)/栗井俊夫少尉(大阪府出身)/岡本真二少尉(神奈川県出身)
山縣康治少尉(福岡県出身)/兼森武文少尉(山口県出身)/石井敏晴少尉(静岡県出身)
ussintrepidapr161945.jpg
▲米空母イントレピッド(USS Intrepid)は幾度となく特攻機の突入を受けるがその度に修理され、昭和20年(1945)
 3月18日、4月16日にも特攻機の突入を受けたが沈む事無く終戦を迎えている。命を捨てて特攻機を命中させても
 「轟沈」は難しかった様だ。イントレピッドは計5回特攻攻撃を受けている。

※神風特別攻撃隊「第12大義隊」昭和20年4月17日 石垣島基地より零戦で出撃
(台湾東方機動部隊攻撃)
斎藤 信雄飛曹長(茨城県出身)/文谷 良明1飛曹(大阪府出身)

※神風特別攻撃隊「第8銀河隊」昭和20年4月17日 出水基地より「銀河」で出撃
(喜界島南方機動部隊攻撃)
[操縦]吉川 功2飛曹(宮崎県出身)/[偵察]鈴木勘次2飛曹(兵庫県出身)/[電信]田中茂幸2飛曹(鹿児島県出身)

※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」601部隊 昭和20年4月17日 第1国分基地よりゼロ戦と彗星で出撃
(喜界島沖機動部隊攻撃)
ゼロ戦
唐渡賀雄2飛曹(香川県出身)/木内美秀2飛曹(徳島県出身)/佐藤一志2飛曹(宮城県出身)/加藤正美上飛曹
木村 浩1飛曹(エンジン故障引返す)/西岡 孝2飛曹(エンジン故障引返す)
彗星
[操縦]天谷英郎中尉(福井県出身)/[偵察]右田 勇2飛曹(大分県出身)
[操縦]飯村清一飛長(京都府出身)/[偵察]
[操縦]岡田敏男中尉(東京都出身)/[偵察]和田守圭秀中尉(島根県出身)
[操縦]真島 豊飛長(佐賀県出身)/[偵察]


※神風特別攻撃隊「第3御楯隊」252部隊昭和20年4月17日第1国分基地よりゼロ戦と「彗星」で出撃
(奄美大島南東機動部隊攻撃)
彗星 
[操縦]金縄熊義上飛曹(福岡県出身)/[偵察]福元 猛寛少尉(東京都出身)
[操縦]福本晴雄2飛曹(岡山県出身)/[偵察]
[操縦]岩崎豊秀2飛曹(高知県出身)/[偵察]
[操縦]溜 一二三1飛曹(広島県出身)/[偵察]
[操縦]金山英敏上飛曹(香川県出身)/[偵察]
[操縦]坂野行彦2飛曹(愛知県出身)/[偵察] 
ゼロ戦 
堀  賢治2飛曹(福岡県出身)/猪山昌彦2飛曹(群馬県出身)

※神風特別攻撃隊「第15大義隊」 昭和20年4月28日石垣島基地よりゼロ戦で出撃
(石垣島南方機動部隊攻撃)
和田 文蔵二飛曹(長崎県出身)

※神風特別攻撃隊「第16大義隊」 昭和20年4月28日 (台湾)宜蘭基地よりゼロ戦で出撃
(宮古島南方機動部隊攻撃)
今野 惣助中尉(宮城県出身)

第6回神雷桜花特別攻撃隊昭和20年4月28日 鹿屋より出撃(桜花1機、一式陸攻1機)戦果無し
[桜花]山際直彦1飛曹(愛知県出身)
[陸攻]

※神風特別攻撃隊「第3草薙隊」昭和20年4月28日 第2国分基地より99艦上爆撃機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]渡辺 浄中尉(広島県出身)/[偵察]厚地 兼之輔少尉(福岡県出身)
[操縦]吉武 淑郎少尉(大分県出身)/[偵察]萩田 祥敬候補生(徳島県出身)
[操縦]上村 須佐夫1飛曹(福岡県出身)/[偵察]竹村 久志2飛曹(北海道出身)
[操縦]菊地 利夫少尉(宮城県出身)/[偵察]鹿野  茂候補生(茨城県出身)
[操縦]久保 登美夫少尉(北海道出身)/[偵察]犬飼 成二2飛曹(愛知県出身)
[操縦]笠原 越朗少尉(岡山県出身)/[偵察]近藤 徳武候補生(宮城県出身)
[操縦]遠藤  清少尉(岐阜県出身)/[偵察]吉田 武夫候補生(愛知県出身)
[操縦]吉田 弘資候補生(岡山県出身)/[偵察]井上 信高2飛曹(大阪府出身)
[操縦]永尾  博中尉(佐賀県出身)/[偵察]江沢 敏夫少尉(神奈川県出身)
[操縦]奥村 周一少尉(愛知県出身)/[偵察]大塚 晟夫候補生(東京都出身)
[操縦]正木  蕃少尉(愛媛県出身)/[偵察]下地 恵尚候補生(沖縄県出身)
[操縦]村田 定雄少尉(東京都出身)/[偵察]梅澤 一二三2飛曹(東京都出身)
[操縦]宮内 榮候補生(茨城県出身)/[偵察]寺戸 宏和2飛曹(山口県出身)
miyautisyoui.jpg
▲宮内 榮候補生(学徒出陣 中央大学出身 享年23歳)
miyautiki99kanbaku.jpg
▲出撃直前の宮内 榮候補生と寺戸 宏和2飛曹の乗る海軍99艦上爆撃機
kubosyoui.jpg
▲久保 登美夫少尉(北海道小樽市出身 享年23歳)
北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合選手で、神風特別攻撃隊隊員として戦死した悲劇の
ジャンプ選手として有名である。久保少尉はスキー強豪校の旧制小樽中(現小樽潮陵高)で、1940年2月札幌
でアジアでは初めてとなる冬季オリンピックの開催が決まっていた。当時、小樽出身のジャンプ選手が注目され
ていた。久保登喜夫選手だ。1939年の日本選手権少年組を制し、札幌冬季札幌五輪の候補選手に選ばれた。
同年には東京での夏のオリンピック大会も決まっていて、日本は華々しいオリンピック・イヤーに沸くはずだった。
しかし、日中戦争の悪化で開催権を返上。札幌五輪は「幻の大会」に終わる。
久保少尉は4/28特攻隊として沖縄方面に出撃、23歳で戦死した。特攻出撃直前、以下の遺書を残している。
四月二十八日
先日名古屋の戦友に送られ張切って飛んできました.愈愈本日沖縄に飛んで敵艦船に体当たりします。
今日いろいろ作戦打ち合わせも終わり、B29の爆撃の音を聞きながら最後のこの便りをかいています。
スキーの大会でジャンプ台に向かうときとは又違った緊張振りです。
母上様をはじめ皆様の分まで御奉公出来る喜びに胸は躍ります。
思えば随分と御心配ばかり掛けました。父上が亡くなってから母上と二人で寂しい毎日を過ごしましたね。
それに私がスキーで家にいなかったので、母上はどんなに寂しかったかと思います。
母上より先に父上に会います。中学三年の秋でしたから積もる話も沢山あるでしょう。
今戦友もいろいろと準備したり遺書を書いていますが、本当にこれが最後です。
これが特攻隊員かと思われるくらい皆張切っています。
木村先輩、田中先輩、中川、澤本、星野、浅木、川崎[7]、玉沢、清水、脇本、小田…。数々の思い出が溢れてきます。
どうぞ皆様に呉呉もよろしくお伝え下さい。
 “散る桜残る桜も散る桜”
何か書けそうで何も書けません。兎に角立派に散る覚悟です。呉呉れも御身大切になさいますよう祈ります。
姉上様にもよろしくお伝えください。
登喜夫  母上様

※神風特別攻撃隊「第2正統隊」昭和20年4月28日 第2国分基地より99艦上爆撃機6機で出撃(戦果無し)
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]後藤 俊夫中尉(鹿児島県出身)/[偵察]山下 久夫少尉(兵庫県出身)
[操縦]阿部 一之1飛曹(島根県出身)/[偵察]漆谷 康夫2飛曹(福岡県出身)
[操縦]緒方 忠幸上飛曹 (福岡県出身)/[偵察]久保 強郎少尉(福岡県出身)
[操縦]小野 喜市少尉(東京都出身)/[偵察]伊東 宣夫2飛曹(大分県出身)
[操縦]熊井 常郎少尉(群馬県出身)/[偵察]福田 周幸2飛曹(福岡県出身)
[操縦]片寄 従道1飛曹(福島県出身)/[偵察]小野 義明2飛曹(福岡県出身)
2seitotai99kanbaku.jpg
▲▼茨城県百里原基地を九州に向け発進する「第2正統隊」の99艦爆。
seitotai99kanbaku_convert_20160616125440.jpg

kumaisyoui.jpg
▲熊井常郎少尉4/28沖縄本島周辺の敵艦船に突入、戦死。

※神風特別攻撃隊「八幡神忠隊」昭和20年4月28日 串良基地97艦上攻撃機で出撃 
犬童憲太郎2飛曹(鹿児島県出身/18歳)

※神風特別攻撃隊「第1正気隊」昭和20年4月28日 串良基地より97艦上攻撃機2機で出撃(戦果無し)
(那覇沖艦船攻撃)
[操縦]須賀芳宗少尉(東京都出身)/[偵察]岩崎久豊少尉(山口県出身)/[電信]弥永光男2飛曹(福岡県出身)
[操縦]桐畑小太郎上飛曹(大分県出身)/[偵察]安達卓也少尉(兵庫県出身)/[電信]菅沢健2飛曹(千葉県出身)
iwasakisyoui_convert_20160616124250.jpg
▲岩崎久豊少尉4/28那覇沖の敵艦船群に突入、戦死。
sugasyoui.jpg
▲須賀芳宗少尉4/28那覇沖の敵艦船群に突入、戦死。

神雷部隊第9建武隊昭和20年4月29日 鹿屋より出撃(零戦10機)戦果無し
多木稔中尉(石川県出身)/西口徳次中尉(大阪府出身)/中西斎季中尉(和歌山出身)
高橋経夫1飛曹(北海道出身)/藤本正一1飛曹(福岡県出身)/山本英司2飛曹(秋田県出身)
高橋丁2飛曹(北海道出身)/餅田信夫2飛曹(静岡県出身)/曽根信2飛曹(岐阜県出身)/北澤昇2飛曹(長野県出身)

神風特別攻撃隊「第5昭和隊」昭和20年4月29日 鹿屋より零戦で出撃
安田弘道少尉/外山雄三少尉/小泉宏三少尉/木部崎登少尉/市島保男少尉
薮田 博2飛曹/川端三千夫2飛曹/吉永光雄2飛曹
yosinagakurono_convert_20160616115949.jpg
▲「昭和隊」隊員。左より吉永光雄2飛曹、川端三千秋2飛曹、黒野義一2飛曹、藪田博2飛曹。
藪田、川端、吉永2飛曹は4/29「第5昭和隊」から。黒野2飛曹は5/11「第7昭和隊」として特攻出撃している。
koizumisyoui_convert_20160616114443.jpg
▲小泉宏三少尉4/29沖縄北端120度60浬敵艦船群に突入、戦死。
ichijimasyoui_convert_20160616113116.jpg
▲市島保男少尉4/29沖縄北方の敵艦船群に突入、戦死。
dai5syouwataisotoyama.jpg
▲外山雄二少尉4/29沖縄北方の敵艦船群に突入、戦死。        

神風特別攻撃隊として昭和20年4月29日 鹿屋より出撃(零戦17機 第4神剣隊/第4筑波隊/第5七生隊)戦果無し
神風特別攻撃隊「第5七生隊」
晦日進少尉/土井定義少尉/北村徳太郎少尉/森丘哲四郎少尉
神風特別攻撃隊「第4神剣隊」 長谷部寅祐2飛曹(埼玉県出身)
神風特別攻撃隊「第4筑波隊」
米加田節雄中尉(福島県出身)/大塚章少尉(東京都出身)/片山秀男少尉(滋賀県出身)
山崎幸雄少尉(東京都出身)/麻生摂郎少尉(福岡県出身)
ohtukasyoui_convert_20160616113554.jpg
▲「第4筑波隊」大塚章少尉4/29爆装零戦で沖縄北方の敵艦船群に突入、戦死。

※神風特別攻撃隊「第2正気隊」昭和20年5月4日05:00串良基地より97式艦上攻撃機に800キロ爆弾を搭載して出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]有地慶信上飛曹(東京都出身)/[偵察]五十嵐正栄中尉(新潟県出身)/[電信]根岸幸一2飛曹(埼玉県出身)
[操縦]上田隆保候補生(福岡県出身)/[偵察]星野省平1飛曹(新潟県出身)/[電信]山田新八郎2飛曹(岐阜県出身)
[操縦]桑原敬一(岩手県出身)/※出撃するもエンジン不調で種子島に不時着し生還。
桑原氏は戦後『語られざる特攻基地・串良―生還した「特攻」隊員の告白』という本を約30年かけ58歳で手記を自費出版
した。「本当は死にたくなかった」自分の心に正直に向き合った末の記述に、予科練の先輩から「お前は軍人になるべきで
はなかった」と批判された。一方で「おれも同じ気持ちだった」と言う同期もたくさんいた。
syoukitai.jpg
▲第1・第2・第3「正気隊」勇士
(後列) 山田2飛曹・前田2飛曹・桐畑上飛曹・星野2飛曹・弥永2飛曹・上田候補生・岩崎少尉・※江名少尉(生還)
(中列) 有池上飛曹・根岸2飛曹・正久上飛曹・加藤2飛曹・須田少尉・小田切少尉・須賀少尉・菅沢2飛曹
(前列) 分隊長 ・ 飛行隊長 ・ 副 長 ・ 司 令  ・  飛行長 ・ 五十嵐中尉 ・ 安達少尉

第7回神雷桜花特別攻撃隊昭和20年5月4日 鹿屋より出撃(桜花6機、一式陸攻6機)
[桜花]
大橋 進中尉(山口県出身)/上田英二上飛曹(福島県出身)/渡正義上飛曹(千葉県出身)
内藤卯吉上飛曹(長野県出身)/永田吉春1飛曹(熊本県出身)/中川利春1飛曹(福井県出身)
[陸攻]
菊地 弘少尉(宮城県出身)/寶満克夫少尉(鹿児島県出身)/吉田満照上飛曹(福岡県出身)
今野源四郎上飛曹(宮城県出身)/小幡和人1飛曹(宮城県出身)/佐伯輝三1飛曹(広島県出身)
浅見寅男1飛曹(静岡県出身)/柳 義信1飛曹(長崎県出身)/石井 力2飛曹(福岡県出身)
富岡三郎2飛曹(神奈川県出身)/佐藤俊夫2飛曹(秋田県出身)/川村合佐飛長(宮城県出身)
渋谷實飛長(新潟県出身)/平井精雄飛長(宮城県出身)
勝又武彦少尉(静岡県出身)/足立保行少尉(北海道出身)/池田芳長上飛曹(石川県出身)
原田實上飛曹(山口県出身)/星見秀一上飛曹(三重県出身)/廣瀬三郎上飛曹(三重県出身)
鴨原武夫上飛曹(山形県出身)/池永健治上飛曹(山口県出身)/石本久夫1飛曹(島根県出身)
藤村正一1飛曹(三重県出身)/中川明1飛曹(徳島県出身)/遅澤芳郎1飛曹(栃木県出身)
野崎敞1飛曹(大分県出身)/石井豊司1整曹(北海道出身)/三輪英昭2飛曹(宮崎県出身)
加藤吉郎2飛曹(千葉県出身)/金原義五郎2飛曹(栃木県出身)/木村只弘2飛曹(福岡県出身)
渋谷昌信2飛曹(大分県出身)/石川嘉輝飛長(香川県出身)/高島昭2飛長(青森県出身)
※米掃海駆逐艦シェイに桜花が1機命中するも不発。しかし機体が艦の中隔を激しく破壊し大破。
 戦死27名負傷91名掃海駆逐艦シェイは沈まなかったが、修理困難でそのまま廃艦。

神風特別攻撃隊「第5神剣隊」昭和20年5月4日 鹿屋より出撃(零戦15機)
磯貝巌中尉(愛知県出身)/鈴木欽司少尉(埼玉県出身)/小堀秀雄少尉(群馬県出身)
加藤年彦少尉(愛知県出身)/足利益功少尉(宮崎県出身)/藤井實候補生(山口県出身)
林王俊候補生(佐賀県出身)/三明正郎候補生(宮城県出身)/大田満上飛曹(大分県出身)
高藤昭一1飛曹(愛知県出身)/保科三郎1飛曹(長野県出身)/茂木三郎1飛曹(福島県出身)
宮崎勝1飛曹(三重県出身)/高浪虎八1飛曹(鹿児島県出身)/武二夫1飛曹(鹿児島県出身)
HMSFormidable3.jpg
▲英空母フォーミダブル (HMS Formidable)
HMS Formidable on May 4
▲5/4神風特別攻撃隊爆装ゼロ戦が英空母フォーミダブル (HMS Formidable)に突入する寸前。
USS+Intrepid_convert_20160326215914.jpg

fomidaburu_convert_20160413115459.jpg
▲▼5/4 11:30特攻機が英空母フォーミダブル突入、対空砲で至近距離で撃墜したものの、飛行甲板に突っ込み長さ
 3m、幅60cmのくぼみが生じた。艦載機庫で火災が生じ8名が死亡、47名が負傷した。
fomyudaburu.jpg
※神風特別攻撃隊「第17大義隊」昭和20年5月4日 宮古基地基地よりゼロ2機で出撃(敵艦船発見出来ず)
田中 勇上飛曹(山口県出身)/
(直掩零戦)2機

※神風特別攻撃隊「第17大義隊」昭和20年5月4日 石垣地基地よりゼロ3機で出撃
細川 孜中尉(長野県出身)/橋爪和美2飛曹/佐野一斉2飛曹(山梨県出身)
(直掩零戦)大石芳男飛曹長(静岡県出身)
HMSIndomitable.jpg
▲英空母インドミタブル(HMS Indomitable)5/4特攻機の突入を受ける。
hmsindomitable1_convert_20160421161619.jpg
▲英空母インドミタブルに突入寸前の特攻機。
hmsindomitable2_convert_20160421161903.jpg
▲突入

※神風特別攻撃隊「第17大義隊」昭和20年5月4日 (台湾)宜蘭基地よりゼロ戦で出撃
(宮古島南方機動部隊攻撃)
谷本 逸司中尉(広島県出身)/常井 忠温上飛曹(茨城県出身)
鉢村 敏英1飛曹(栃木県出身)/近藤 親登2飛曹(長野県出身)


※神風特別攻撃隊「第18大義隊」昭和20年5月9日 (台湾)宜蘭基地よりゼロ戦で出撃(2機トラブルで引き返す)
(宮古島南方機動部隊攻撃)
黒瀬順斎中尉(富山県出身)/中島信次郎上飛曹(京都府出身)/河合芳彦上飛曹/宮川孝義1飛曹(大阪府出身)
(直掩隊)前田秀秋上飛曹(青森県出身)
[ 連合軍記録 ]英空母「ビクトリアス」2機命中/英空母「フォーミダブル」1機命中
特攻隊攻撃で父を失った英国人YouTube 1 特攻隊攻撃で父を失った英国人YouTube 2
HMSVICTORIOUS.jpg
▲特攻機が命中し黒煙をあげる英空母ヴィクトリアス(HMS Victorious)
HMSVICTORIOUS10.jpg
▲英空母ヴィクトリアス(HMS Victorious)
Kamikazehms.jpg
▲5/9英空母ヴィクトリアス(HMS Victorious)に突入寸前の「第18大義隊」とみられるゼロ戦
Formidable_convert_20160407134251.jpg
▲5/9再び黒瀬順斎中尉(享年22歳)とみられる特攻機が命中し黒煙をあげる英空母フォーミダブル。
戦艦のそれに匹敵する76ミリ厚の装甲が功を奏し14名が戦死したものの沈没は逃れ、損害のレベルは4日の攻撃よりは
軽微であった。

※神風特別攻撃隊「菊水雷桜隊」昭和20年5月11日 串良基地より「天山」で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]梅谷三郎中尉(東京都出身)/[偵察]中島 平上飛曹(佐賀県出身)/[電信]坪川武彦1飛曹(東京都出身)
[操縦]望月敞一1飛曹(静岡県出身)/[偵察]今井全志郎少尉(神奈川県出身)/[電信]中内 清上飛曹(愛知県出身)
[操縦]田中敏男1飛曹(香川県出身)/[偵察]栗村正教少尉(福島県出身)/[電信]山岡智明1飛曹(高知県出身)
[操縦]稲澤邦彦1飛曹(宮崎県出身)/[偵察]安田太一少尉(神奈川県出身)/[電信]小野静雄1飛曹(佐賀県出身)
[操縦]石井正雄少尉(東京都出身)/[偵察]照山知男1飛曹(茨城県出身)/[電信]桑野正昭1飛曹(秋田県出身)
[操縦]中谷五郎上飛曹(山口県出身)/[偵察]吉田謙二郎少尉(福島県出身)/[電信]小林大介1飛曹(埼玉県出身)
[操縦]才田紀久雄1飛曹(熊本県出身)/[偵察]本川譲治少尉(東京都出身)/[電信]石橋憲司1飛曹(秋田県出身)
[操縦]浪江秀雄1飛曹(京都府出身)/[偵察]桝井敏夫少尉 (山口県出身)/[電信]大武節雄1飛曹(茨城県出身)
[操縦]小嶋 潔上飛曹(東京都出身)/[偵察]高野良治飛曹長 (群馬県出身)/[電信]新井郷治上飛曹(埼玉県出身)
[操縦]勝田久米雄飛曹長(静岡県出身)/[偵察]児玉 仁上飛曹(広島県出身)/[電信]井上伊之助1飛曹 (広島県出身)
tenzankanjyokougekiki.jpg
▲出撃前の艦上攻撃機「天山」
kamikazekanoya3_convert_20160810115221.jpg

kamikazekanoya.jpg
▲「天山」1機に隊員3名が乗り込み、二度と戻れぬ死地に向けて出撃していった。

第8回神雷桜花特別攻撃隊昭和20年5月11日 鹿屋より出撃(桜花3機、一式陸攻3機)戦果無し
[桜花]
高野次郎中尉(富山県出身)/小林常信中尉(埼玉県出身)/藤田幸保1飛曹(新潟県出身)
[陸攻]
古谷 真二中尉(東京都出身)/中島眞鏡少尉(埼玉県出身)/宮崎文雄少尉(香川県出身)
鑢敬蔵少尉(長崎県出身)/石田昌美上飛曹(山口県出身)/東川末吉上飛曹(滋賀県出身)
永田俊雄上飛曹(鹿児島県出身)/磯富次上飛曹(埼玉県出身)/三浦一男上整曹(北海道出身)
長澤政信1飛曹(山梨県出身)/大河内一春1飛曹(愛知県出身)/千葉登1飛曹(鹿児島県出身)
菊池邦壽1飛曹(福岡県出身)/田中辰三1飛曹(山形県出身)/髪櫛伊三1整曹(山梨県出身)
中内静雄2飛曹(高知県出身)/竹内良一2飛曹(福岡県出身)/田中泰夫2飛曹(和歌山県出身)
秋葉次男飛長(北海道出身)/木村好喜飛長(新潟県出身)/中村豊飛長(愛知県出身)
USSHughWHadley_convert_20160427112923.jpg
▲5/11米駆逐艦ヒュー・ W・ハドレイ(USS Hugh W. Hadley)は特攻機突入を受け乗組員30名が死亡。
 しかし、この戦いでヒュー・ W・ハドレイは特攻機23機の撃墜に成功した。
 なお、ヒュー・ W・ハドレイは爆弾1発と「桜花」が艦の中央部に命中、他に特攻機2機が突入したにもかかわらず
 沈没しなかった。もちろん本艦の場合は本格的修理もされず、その後にスクラップされたので全損と同様であったが、
 「桜花」が命中炸裂したにもかかわらず沈没しなかった唯一の例である。しかしながら損傷は甚大でそのまま廃艦。
 ヒュー・ W・ハドレイ乗組員の死者28名、艦長を含む67名負傷。

gekituibod.jpg
▲米艦船に書かれたスコアボード。

神雷部隊「第10建武隊」昭和20年5月11日 鹿屋より出撃(零戦4機)
柴田敬禧中尉(愛知県出身)/田中保夫1飛曹(兵庫県出身)/佐藤敬吉1飛曹(新潟県出身)/下里東1飛曹(長野県出身)

※神風特別攻撃隊「第9銀河隊」昭和20年5月11日 鳥取県第2美保基地より「銀河」9機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
fukai9gingataityo.jpg
▲第9銀河隊指揮官 深井 良中尉が5/11西南諸島のタスクフォース58機動艦隊に特攻する様子が描かれている。 
[操縦]深井 良中尉(神奈川県出身)/[偵察]俵  一上飛曹(東京都出身)/[電信]北山 博上飛曹(大分県出身)
[操縦]鈴木圓一郎中尉(静岡県出身)/[偵察]三宅文夫上飛曹(徳島県出身)/[電信]田中榮一上飛曹(埼玉県出身)
[操縦]小島弘上飛曹(兵庫県出身)/[偵察]村上 守中尉(大分県出身)/[電信]佐藤 昇1飛曹(新潟県出身)
[操縦]谷岡力上飛曹(福井県出身)/[偵察]山川芳男少尉(東京都出身)/[電信]杉野三次1飛曹(三重県出身)
[操縦]松木 学1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]山根三男1飛曹(広島県出身)/[電信]伊藤 勲1飛曹(大分県出身)
[操縦]長谷部六雄飛長(新潟県出身)/[偵察]吉田 雄1飛曹(和歌山県出身)/[電信]信本廣夫2飛曹(広島県出身)
永野金一1飛曹/ 飯島 守中尉/本田 勝1飛曹( 機体不調の為引き返しをはかるも、基地に戻らず「不時着戦死」)
古小路 裕1飛曹/ 藤田峰夫上飛曹/真鍋真之介1飛曹(機体不調の為、出撃取りやめとなる)
神津和男1飛曹/ 豊岡清澄上飛曹/ 穴口 尚上飛曹(出撃後、機体不調で引き返す)
yamane9ginga.jpg
▲山根三男1飛曹(広島県出身)5/11突入、戦死。

神風特別攻撃隊「第7七生隊」昭和20年5月11日 鹿屋よりゼロ戦で出撃 上月寅男飛長(兵庫県出身)

神風特別攻撃隊「第5筑波隊」昭和20年5月11日 鹿屋よりゼロ戦で出撃
岡部幸夫中尉(広島県出身)/西田高光中尉(大分県出身)/石丸進一少尉(佐賀県出身)/吉田信少尉(兵庫県出身)
町田道教少尉(鹿児島県出身)/森史郎少尉(長野県出身)/福田喬少尉(福岡県出身)/中村邦春少尉(福岡県出身)

神風特別攻撃隊「第6神剣隊」昭和20年5月11日 鹿屋よりゼロ戦で出撃
牧野缺中尉(石川県出身)/川野忠邦上飛曹(宮崎県出身)/淡路義二1飛曹(群馬県出身)/斎藤幸雄1飛曹(宮城県出身)

神風特別攻撃隊「第6昭和隊」昭和20年5月11日 鹿屋よりゼロ戦で出撃
根本宏少尉(茨城県出身)/黒野義一1飛曹(兵庫県出身)

神風特別攻撃隊「第7昭和隊」昭和20年5月11日 鹿屋よりゼロ戦で出撃
安則盛三中尉(兵庫県出身)/高橋三郎少尉(高知県出身)/小川清少尉(群馬県出身)
篠原惟則少尉(熊本県出身)/茂木忠少尉(北海道出身)/皿海彰1飛曹(広島県出身)
bankahirutokko_convert_20160403223055.jpg
▲安則盛三中尉
Ogawa1.jpeg
▲小川清少尉(群馬県出身)5/11米空母バンカー・ヒルに突入戦死。享年22歳
OkinawaUSSBunkHillmay45_convert_20160823110459.jpg
▲昭和20年5月沖縄周辺海域を航行する米空母バンカー・ヒル(USS Bunker Hill)
 小川清少尉は神風特別攻撃隊「第7昭和隊」として、500kg爆弾を抱いた零戦で5/11鹿屋基地を06:40離陸。
 9:21安則盛三中尉機から「敵部隊見ユ」のモールス信号入電。10:04南西諸島沖東方122kmにおいて小川清少尉
 機が「敵空母見ユ」と打電した。先ず安則盛三中尉機が急降下してバンカー・ヒルの後部甲板に突入。機体は右舷後
 方で激しく爆発。不意を突かれた米軍は対空砲の反撃が出来なかった。10:09小川清少尉機「ワレ突入ス」との無線
 の後バンカー・ヒルの飛行甲板に500kg爆弾を投下後、艦橋と甲板との境辺り(「アイランド」と呼ばれる艦橋に突き
 刺さる)に突入した。
USSBunkerHill_convert_20160324133120.jpg
 ▲▼安則盛三中尉機と小川清少尉機が30秒の間に突入し炎上する空母バンカー・ヒル(USS Bunker Hill)
USSBunkerHillhit_convert_20160324140454.jpg
空母バンカーヒルと二人の神風(ケネディ著)よりYouTube
g328618_convert_20160427105735.jpg

BunkerHill1945_convert_20160324140552.jpg
▲小川少尉突入の30分後、更に1機の特攻機が低空でバンカー・ヒルに突入を図ったが駆逐艦の対空砲で撃墜された。
bunkerhillbeihei_convert_20160326192124.png
▲バンカー・ヒル乗組員の異体。特攻攻撃は無謀な作戦として太平洋戦争末期には戦果はほとんど無い様に言われてい
 るが、戦後新たに公表された米軍の被害は予想以上のものだった・・・。
 バンカー・ヒルは小川機から投下された爆弾と小川機突入によって大破・炎上、死者396名、負傷者264名、行方不
 明43名を出した。(小川少尉は二階級特進で海軍大尉となり、正七位勲五等功三級の金鵄勲章を受けた)
 しかし、小川機はバンカー・ヒルに多大なダメージを与えたのにもかかわらず、機体の識別が出来る程原形を留め、
 驚くべき事に操縦者の小川少尉の遺体は下半身こそ無くなっていたものの傷一つなく、まるで眠っている様であっ
 たとバンカー・ヒル乗組員は伝えています。「上半身だけ見ると、生きている様でもあった」
 バンカー・ヒル乗組員生存者の1人、シュカカン氏は、インタビュアーに向かってこう答えたと言う。
 「小川の傷一つない丸い顔は、何も教えてくれなかった。何と言ったらいいのか、その顔は―極めて普通だった。」
 小川少尉の突入はバンカー・ヒル艦上にいた男たちの運命を変えた。彼等のみならず、おそらく全てのアメリカ人の
 心に、自分たちの生きる世界と、その周りに起こる事に対する計り知れない不安が植え付けられたと言っても過言で
 はなかった。
 今まで「快適な戦争」をしていたバンカー・ヒルに2機の神風が突入した瞬間、彼等は自分達が戦争とそれが引き起
 こす惨事について今まで何も知らなかったと思い知らされる事になった。
BunkerHillkamikaze.gif
 ▼▲破壊された艦中央部。
bunkahilltotunyu.jpg

KamikazeUSSBunkerHill_convert_20160408214441.jpg
 ▲バンカー・ヒルに残された特攻機のエンジン
 さっきまでいた場所に直撃弾が落ち、同僚が消えてなくなっている。見るのも怖ろしい死体が何日経ってもどこから
 ともなく発見される。爆死、焼死、窒息死、圧死。あらゆる惨い遺体を水葬にすると、それが浮かび上がってずっと
 後を追いかけてくる・・・。
 2機の特攻機はバンカー・ヒルの乗員達が心の中に築いていた「安心な世界」を一瞬にして破壊させ、もはや彼等の
 日常の思考から「死」を払拭することは不可能となった。
 誰だか判別もつかない肉塊となって、国旗を掛けた水葬台から毛布に包まれて滑り落とされるのが、自分であっても
 何の不思議は無かったという思いから、彼らはもう逃れる事は出来なくなった。
 バンカー・ヒルはウルシー環礁まで撤退し、真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰投し、大修理を受けた。
 日本の敗戦もそこで迎えた。ウルシー環礁に向かう途中で行われた300名以上の水葬は、現在までにアメリカ海軍が
 1回に行った最大の水葬であった。(バンカー・ヒル船員は2600名士官含む)
 この地獄の直接の原因となった美しいカミカゼ搭乗員の死体が、この後どうなったのか、バンカー・ヒル乗組員生存
 者の口から語られる事は無かった。
 しかしシュカカン氏が何度か遺体の前を通る度に、乗組員が「記念品」を求めて小川少尉の遺体から純白のマフラー
 を、財布を、鉢巻を、指にはめていた指輪を持ち去り、見るたびにその様子が変わっていったと言う。
 シュカカン氏はその行為を「泥棒」と標榜したが、それが泥棒だったのか、辛くも難を逃れた奇跡を孫子に伝える為
 のよすがのつもりだったのかはともかく、小川少尉が身に着けていた物は遺体からことごとく乗組員によって持ち去
 られたものと思われる。
 太平洋戦争が終わって時が経ち、バンカー・ヒルの生存者も1人、また1人と世を去って行った。
 バンカー・ヒルの水兵だったロバート・ショック2000年11月7日に亡くなった時、遺品を整理した孫は、戦争中の記
 念品の箱の中に、小川少尉の物と思われる「パラシュートのベルトの切れ端」「血痕のついた手紙と写真」「血まみれ
 で文字盤の読めない航空時計」を見つけた。
 「川少尉」という漢字のついた飛行服の切れ端が、あの日バンカー・ヒルに突入したのが小川清少尉であったという事
 を、戦後何十年も経ったこの世界に知らしめる事となった。
 小川少尉は胸に航空時計を下げていた。突入の瞬間時計は胸郭を突き破り、胸腔内にめり込んだと言う。
 既にに誰も読む事の出来ない血で覆われたガラスの内では、文字盤の針がその瞬間を永遠に指している・・・。
 ロバートの孫は、小川の遺品を遺族に返還したいと、会社の上司で通訳業務に携わる日本人女性(美幸・グレースさん)
 を夫人に持つポール・グレース氏に「遺品を御遺族の方々に返還したい」と相談。その後、美幸さんのご尽力によって、
 御遺族の連絡先が判明。2001年3月27日サンフランシスコの日本料理店でご親族の大姪陽子さん(小川少尉兄孫)幸子
 さん(陽子さん母)に引き渡された。(小川の実兄は2000年4月に死去していた為、小川の義理の娘母子に返還された)
 遺品は「名前が書かれた布片」「戦友からの短歌が書かれた手紙」「戦友達と写った写真2枚」「落下傘の留め金・
 製造票」「日本の紙幣」「軍票」「懐中時計」 であった。
 ▼返還された小川少尉の遺品
 ogawaihin.jpeg
 遺品を受け取った小川少尉兄孫・陽子さんは以下の様に語っておられる。
 「清の長男(松一)は2000年4月に他界しましたので、松一から私の母に清のことで聞かされていることは、とにか
 く両親思いの優しい人だったそうです。今回の件を通し、改めて戦争の残した傷痕の深さ、残酷さを勉強させられた
 気がしました。子供が大きくなって成長したら、大叔父さんはこういう人だったんだよ、と小川家の誇りとして話を
 したいと思います。これらの事実がここで途切れてしまうのではなく、後世に伝えていかなければならないと思いま
 した。
 美幸様はじめ沢山の方々に協力して頂き、こうして私共遺族の元へ返還して頂きまして大変感謝しております。」
 Ogawa2.jpeg
 最後に小川が両親へ宛てて書いた遺書が残っている。
 お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。思えば二十有余年の間、父母のお手の
 中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を
 君と父に返す覚悟です。
 あの悠々たる白雲の間を超えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。
 人は一度は死するもの、悠久の大儀に生きる光栄の日は今を残してありません。
 父母様もこの私の為に喜んで下さい。
 殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。
 清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。
 清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。

※神風特別攻撃隊「第3正気隊」昭和20年5月11日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃。
(那覇沖艦船攻撃)
[操縦]小田切徳一少尉(山梨県出身)/[偵察]堀江荘次少尉(奈良県出身)/[電信]村田正作2飛曹(高知県出身)
[偵察]江名武彦少尉(東京都出身)他2名の[操縦][電信]隊員は、出撃するもエンジン不調で海面に不時着。
黒島まで泳ぎ着き生還。(これをもって「正気隊」特攻作戦終了)
黒島平和公園には黒島の島民の助けで生き延び、終戦までを戦友と共にこの島で過ごした江名武彦元少尉が2004年
に建立した特攻撃平和観音像があり、戦争で散った友への思いと平和への祈りがこめられ、毎年慰霊祭が開かれている。

神雷部隊「第11建武隊」昭和20年5月14日 鹿屋より出撃(零戦5機)
楠本二三夫中尉(長崎県出身)/日裏啓次郎中尉(東京都出身)/花田尚孝1飛曹(北海道出身)
古田稔1飛曹(愛知県出身)/鎌田教一1飛曹(広島県出身)
vittubagu_convert_20160418165728.jpg
▲5/14米軽巡洋艦ヴィックスバーグ(USS Vicksburg)に突入する爆装零戦。

昭和20年5月14日 神風特別攻撃隊「第8七生隊」鹿屋より零戦で出撃
藤田卓郎中尉(愛媛県出身)/橋本貞好1飛曹(富山県出身)/荒木一英2飛曹(新潟県出身)
essekusutokko_convert_20160418170621.jpg
▲5/14 08:05米空母エセックス(USS Essex)に突入中の爆装零戦。

昭和20年5月14日神風特別攻撃隊「第6筑波隊」爆装ゼロ戦52型17機が鹿屋より出撃、14機が未帰還。
富安俊助中尉(東京都出身)/本田耕一少尉(兵庫県出身)/大木偉央少尉(埼玉県出身)
藤田暢明少尉(徳島県出身)/高山重三少尉(愛知県出身)/折口明少尉(長崎県出身)/桑野實少尉(京都府出身)
小山精一少尉(東京都出身)/中村恒二少尉(茨城県出身)/大喜田久男少尉(徳島県出身)
荒木弘少尉(愛知県出身)/時岡鶴夫少尉(兵庫県出身)/西野實少尉(石川県出身)/黒崎英之助少尉(群馬県出身)
原口鈴夫少尉(生還)/後藤尚平少尉(生還)/柳井和臣少尉(生還)
05:30零戦52型丙に500㎏爆弾を抱えて鹿屋基地を出撃。
柳井少尉他2機は敵を発見できず帰投。他の爆戦隊は種子島東方沖にて敵戦闘機の熾烈な迎撃を受ける。
筑波海軍航空隊の記憶YouTube 柳井和臣元さんは映画『永遠の0』の製作にも協力されている。
yanaisyoui1.jpg
▲柳井和臣少尉
tomoyasutyui.jpg
▲富安俊助中尉(東京都出身)空母エンタープライズ(USS Enterprise)に突入戦死。
以下は「米空母エンタープライズの戦闘記録より」
06:10本艦のレーダー上に最初の敵機影が数個、南西方向に出現。
06:23敵機数機37㎞圏内に侵入。06:45、26機の日本機飛来。6機を対空砲火で撃墜、19機が上空哨戒の戦闘機によ
って撃墜された。だが1機のみは集中砲火を避けて雲に隠れ、時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認し
つつ生き残っていた。この機を20分前からレーダーで認識していたので、5インチ砲で砲撃するが、雲に隠れるなどし
た為、効果的な反撃が出来ずにいた。
kamikazeattackingUSSEnterprise.jpg
▲突入態勢に入った富安俊助中尉のゼロ戦
06:53この機が右舷雲間から現れ06:56本艦に向かって降下してきたので回避運動を行う。
06:57回頭し艦尾を向けた時、左舷後部上方から斜めに降下してきた。集中砲火を浴びせたが、機体を横滑りさせるな
どして巧みに回避。オーバーシュートする寸前に艦尾の真上で180度に左回転し、背面飛行の状態から40~50度の角度
で急降下して前部エレベーターの後端に突入した。
tomoyasuki.jpg
▲艦尾上空で急反転、背面飛行で急降下突入する富安俊助中尉のゼロ戦
特攻機はエレベーター孔の中を落下して、爆弾は5層下方の甲板で炸裂した。前部エレベーターは爆発で120m上空まで
吹き上げられ、破孔からの浸水によって艦の前部は2.2メートル沈下し、艦は大破炎上した。
Enterprisehitbykamikaze_convert_20160324162052.jpg
▲富安俊助中尉機の特攻攻撃を受け、大破炎上する空母エンタープライズ
飛行甲板は歪み、エレベーターの穴が開き、飛行機の離発着が不可能となった。乗組員の戦死14名、負傷者68名。
USSEnterpriseafterKamikaze_convert_20160324163326.jpg
▲富安俊助中尉の突入で大きく損傷した飛行甲板エレベーター部分。
特攻隊員の遺体は空母エンタープライズ内エレベーターの孔の底で発見され、遺体のポケットに名刺が入っていた。
その名前は正確に読まれず、長い間「トミ・ザイ」として伝わっていたが、戦史研究家の菅原完氏によって富安俊助中尉
である事が特定された。富安中尉の遺体は、同艦乗組員と同様に水葬に付されたという。
3日前に被爆したバンカー・ヒルから旗艦を引き継いだものの、大破した為に旗艦を「ランドルフ」に譲った。
修理の為に戦場を離脱。空母エンタープライズは再び戦場に復帰することは無かった。
「富安俊助中尉の遺書」
父上様 母上様 姉上様
 突然、某方面に出撃を命ぜられ、只今より出発します。
 もとよりお国に捧げた身体故、生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。
 祖国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御國の防人として出て行くのです。
 私が居なくなったら淋しいかもしれませんが、大いに張り切って元気で暮らして下さい。
 心配なのは皆様が力を落とすことです。
 海軍に入る前に、当然死を覚悟していたのですから、皆様も淋しがることはないと思います。
 秀雄には便りを出す予定ですが、家からもよく言ってやって下さい。
 近藤中尉が訪ねて行く予定故、会ってやって下さい。
 では                                  俊助
 大いに頑張りますから、その点御安心ください。 

 神風特別攻撃隊「第6筑波隊」藤田暢明少尉(徳島県出身)には結婚を約束した人がいた・・・。
 fujita.jpg
 ▲結婚前に撮られた記念写真。
 藤田暢明少尉は出撃前に東京出身の睦重(むつえ)さんと結婚を望んだが、彼女の両親は娘が未亡人となる事
 が明白なので結婚に反対。然し、睦重さんが反対を押し切り結婚を望んだ為、ついに両親も折れて結婚を許した。
 ところが結婚許可の出た3日後、藤田少尉は神風特攻・第6筑波隊として鹿屋基地から出撃し、不帰の人となった。
 睦重さんは藤田少尉の戦死後、彼の実家で彼の遺影と結婚式を挙げた。
 kyosiki.jpg
 ▲藤田暢明少尉の遺影と挙式した睦重さん。
 戦後は養父の説得に応じて帰京。大学へ進学し最後まで一人の人生を貫かれ、1993年に亡くなられた。
 「藤田暢明少尉の遺書」
 御両親様
 本5月11日、鹿児島の鹿屋基地に転進予定の所天候不良の為12日に延期され候。
 さらばと別れし士官室に帰れば、御両親様よりの親書と、この大戦局の荘厳なる事実の中に
 「我」を見出したる喜びと併せて、特に天下一の幸運児なるを痛感致居候。
 筑波以来三ヶ月、苦楽を倶にせし同期の櫻の顔色益々明るく、意自ら通じ明朗且天真爛漫に
 て幸福なる一瞬を意義あらしめ居候。
 而して議を論ぜず将に淡如水、心境如斯次第に御座候。
 御両親様、睦重は優しい質素な貞淑なる暢明の妻たる故大事にしてやって被下度候。
 父上様、母上様、永い間お世話になりました。
 何時迄もいつまでも次の世も亦来る世も父上様、母上様の子にして下さいませ。
 では御両親様さやうなら、暢明元気で征きます。
 藤田家の隆昌と皆様のご幸福をお祈りします。
 昭和20年5月11日
  大日本帝国海軍 神風特別攻撃隊筑波隊 第10中隊第2区隊長 海軍少尉 藤田暢明
  身長 1米73糎 体重 18貫 9百匁 胸囲 97糎
 愛しい我が愛妻 睦重!
 来世も次の世もまた次の次の世も暢明の妻となってくれ。
 睦重、睦重、睦重。
 優しいおまえをだれよりもおれは愛する。睦重さようなら。
 むつゑ、睦重、睦重、睦重! 優しい優しいただ一人の睦重 さらば! 又の日
                                海軍少尉 藤田暢明


神風特別攻撃隊「菊水白菊隊」昭和20年5月24日 鹿屋基地より練習機「白菊」で出撃
(高知空)
19:26[操縦]柴原 繁1飛曹(大阪府出身)/[偵察]小堀淳三郎少尉(埼玉県出身)
19:36[操縦]川端 滋1飛曹(大阪府出身)/[偵察]荒東国夫2飛曹(広島県出身)
19:39[操縦]水野 博上飛曹(愛知県出身)/[偵察]木戸門一上飛曹(愛知県出身)
19:42[操縦]佐々木威夫少尉(宮城県出身)/[偵察]高橋 中少尉(栃木県出身)
19:44[操縦]松本 眞2飛曹(宮崎県出身)/[偵察]小倉敏男上飛曹(山形県出身)
19:45[操縦]菅原喜三1飛曹(秋田県出身)/[偵察]野田 勉中尉(山形県出身)
19:46[操縦]佐々木重衛1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]中根輝治1飛曹(愛知県出身)
19:50[操縦]能見 博1飛曹(広島県出身)/[偵察]力石権四郎少尉(静岡県出身)

※神風特別攻撃隊「徳島第1白菊隊」昭和20年5月24日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
(徳島空)
20:19[操縦]水戸丈夫上飛曹(新潟県出身)/[偵察]高木敏夫上飛曹(北海道出身)
20:51[操縦]隈倉悦二2飛曹(徳島県出身)/[偵察]木田由男1飛曹(富山県出身)
20:50[操縦]須田治少尉(東京都出身)/[偵察]根本喜一少尉(福島県出身)
20:51[操縦]藤原一男上飛曹(京都府出身)/[偵察]脇田七郎2飛曹(岐阜県出身)
20:53[操縦]井上 博上飛曹(兵庫県出身)/[偵察]伊東勝義1飛曹(岡山県出身)
20:55[操縦]高野利雄上飛曹(長野県出身)/[偵察]江田耕二1飛曹(岩手県出身)
21:27[操縦]岡島 勝2飛曹(福井県出身)/[偵察]浦上 博1飛曹(長崎県出身)
21:30[操縦]栗木朝明1飛曹(福岡県出身)/[偵察]真野敏弘少尉(富山県出身)
22:10[操縦]寺井政雄2飛曹(福岡県出身)/[偵察]平島 栄1飛曹(宮崎県出身)
22:10[操縦]成田松之助2飛曹(千葉県出身)/[偵察]渕元五十雄少尉(滋賀県出身)
23:02[操縦]中岡安美2飛曹(熊本県出身)/[偵察]三浦松義1飛曹(大分県出身)
tokkosiragikukikusuitai.jpg
▲練習機「白菊」をバックに写真に収まる「徳島白菊隊」勇士
hatisyutai.jpg
▲昭和20年3月練習航空隊から実施部隊に改編された第13聯合航空隊は、第10航空艦隊の命により、
 練習機「白菊」による「神風特別攻撃隊」を編成した。高知航空隊(菊水白菊隊)/徳島航空隊(徳島白菊隊)
 鈴鹿航空隊(若菊隊)/大井航空隊(八洲隊)で「白菊特攻隊」である。写真は八洲隊勇士。

神風特別攻撃隊「菊水白菊隊」昭和20年5月25日 鹿屋基地より練習機「白菊」で出撃
(高知空)
20:07[操縦]西 久道2飛曹(京都府出身)/[偵察]坂本俊実1飛曹(山口県出身)

※神風特別攻撃隊「第10銀河隊」昭和20年5月25日 宮崎第2美保基地より「銀河」12機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]越野時貞1飛曹(愛知県出身)/[偵察]鈴木喜久男1飛曹(福島県出身)/[電信]藤澤彌須雄1飛曹(滋賀県出身)
[操縦]岩品福三郎1飛曹(静岡県出身)/[偵察]小口博造中尉(長野県出身)/[電信]平野 勇上飛曹(岩手県出身)
段ボール製造で有名な製紙メーカーのレンゴー株式会社東京工場に「気力、術力、精神力」という標語が大きく書いてある
海軍の標語らしい。5/25「銀河」で出撃、戦艦ウェスト・バージニアに 突入前に撃墜されるも駆逐艦キャラハンに救助さ
れ生還した長谷川薫中尉が社長を勤めた会社だ。長谷川中尉は海中に突入して海を漂っているところを駆逐艦キャラハンに
救助された。この時同乗していた吉田湊飛曹長も救助されたが、直後に出血多量で死亡した。
「駆逐艦キャラハン」のバーソルフ艦長は特攻攻撃の続く中、危険を冒して艦を停止させ、長谷川中尉と吉田飛曹長を救助
した。吉田湊飛曹長の遺体は丁重に水葬されたと言う。
▼「第10銀河隊」吉田湊飛曹長は佐賀県出身。空母瑞鶴でハワイ作戦、珊瑚海海戦に参加した古参零戦搭乗員だった。
yoshidahisoutyo_convert_20160714093813.jpg

※神風特別攻撃隊「第3正統隊」昭和20年5月25日 第2国分基地より99艦上爆撃機1機で出撃
沖縄周辺艦船攻撃
[操縦]安斎 岩男上飛曹(福島県出身)/[偵察]鹿島 昭雄1飛曹(福岡県出身)

第9回神雷桜花特別攻撃隊昭和20年5月25日 鹿屋より出撃(桜花3機、一式陸攻3機)
[桜花]
秋吉 武明上飛曹(熊本県出身)/磯邊正勇喜上飛曹(福岡県出身)/徳安春海1飛曹(熊本県出身)
[陸攻]
永吉晃中尉(鹿児島県出身)/工藤正典少尉(広島県出身)/小作明男少尉(神奈川県出身)
登玉道郎上飛曹(長野県出身)/山口正治上飛曹(岩手県出身)/山浦甲子郎上飛曹(長野県出身)
河野常好上飛曹(愛媛県出身)/早坂敦郎1飛曹(茨城県出身)/藤原薫1飛曹(福岡県出身)
三宅六男1飛曹(福井県出身)/相川和夫1飛曹(佐賀県出身)/佐光勝美1飛曹(岐阜県出身)
石渡和作1飛曹(静岡県出身)/江面安治1飛曹(茨城県出身)/田村吉傳1飛曹(静岡県出身)
久保唯義1整曹(徳島県出身)/中村盛男2飛曹(東京都出身)/小野一寶2飛曹(山梨県出身)
田中秀夫2飛曹(新潟県出身)/杉野次夫飛長(山口県出身)/松枝金作飛長(秋田県出身)

USSButler_convert_20160425122852.jpg
▲昭和20年5月25日米駆逐艦バトラー(USS Butler)に特攻機が突入、乗組員9名死亡。
batorarkaikaze.png
▲突入の際に海に放り出され、米駆逐艦バトラー(USS Butler)に救助された特攻隊員。
batorarkaikaze1.png
▲傷の手当を受けている。
batorarkaikaze2.png
▲5/25は海軍は、(菊水白菊隊/徳島白菊隊/第10銀河隊/神雷部隊/第3正統隊)が出撃。
 陸軍は(56振武隊/57振武隊/58振武隊/60振武隊/61振武隊/66振武隊/70振武隊/78振武隊/105振武隊/433振武隊)
 が出撃しているが、天候不良の為、大部分の部隊が基地へ引返している。
 写真に残るお2人がどなたかは解らないが、とにかく無事で良かったと思う。ご苦労様でした。

神風特別攻撃隊「菊水白菊隊」昭和20年5月27日 鹿屋基地より練習機「白菊」で出撃
(高知空)
18:01[操縦]川田 茂中尉(北海道出身)/[偵察]増田幸男1飛曹(宮崎県出身)
18:32[操縦]市原重雄上飛曹(神奈川県出身)/[偵察]縄野恭平中尉(東京都出身)
18:32[操縦]佐藤新四郎1飛曹(宮城県出身)/[偵察]安藤 広2飛曹(静岡県出身)
18:34[操縦]牧ノ内幸雄少尉(東京都出身)/[偵察]後藤春夫2飛曹(熊本県出身)
18:42[操縦]横山誠雄2飛曹(大阪府出身)/[偵察]橋本隆夫1飛曹(大阪府出身)
18:42[操縦]今野作蔵1飛曹(宮城県出身)/[偵察]島田常次2飛曹(宮崎県出身)
18:45[操縦]畠中政人2飛曹(広島県出身)/[偵察]渡世 保少尉(東京都出身)
18:46[操縦]岩崎鉄也少尉(兵庫県出身)/[偵察]河本茂男2飛曹(山口県出身)
18:47[操縦]篠部克巳少尉(兵庫県出身)/[偵察]木藤静雄2飛曹(佐賀県出身)
kikusuisiragikutokkokikusuitai.jpg
▲神風特別攻撃隊「菊水白菊隊」

※神風特別攻撃隊「第2白菊隊」昭和20年5月27日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
(徳島空)
20:40[操縦]中尾照雄2飛曹(兵庫県出身)/[偵察]安達昭二2飛曹(静岡県出身)
20:52[操縦]荒木圭亮少尉(京都府出身)/[偵察]井上健吉少尉(福岡県出身)
21:00[操縦]佐藤四郎少尉(宮城県出身)/[偵察]市野義春少尉(愛媛県出身)
21:05[操縦]井尻登良一2飛曹(京都府出身)/[偵察]岩崎正男1飛曹(埼玉県出身)
21:10[操縦]石井正行2飛曹(広島県出身)/[偵察]稲子多喜男1飛曹(鹿児島県出身)
21:20[操縦]田中正喜中尉(東京都出身)/[偵察]中野喜弘少尉(茨城県出身)
21:20[操縦]帯川文男2飛曹(長野県出身)/[偵察]能勢寛治少尉(大阪府出身)
dai2siragikutai.jpg
▲神風特別攻撃隊「徳島第2白菊隊」

※神風特別攻撃隊「第3白菊隊」昭和20年5月29日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
(徳島空)
19:13[操縦]北 光圓1飛曹(熊本県出身)/[偵察]為広二見2飛曹(香川県出身)
19:14[操縦]上村早苗2飛曹(福岡県出身)/[偵察]三宅 四郎2飛曹(兵庫県出身)
19:15[操縦]山岸純一2飛曹(新潟県出身)/[偵察] 
19:19[操縦]門田善次2飛曹(高知県出身)/[偵察]滝本幸一2飛曹(和歌山県出身)
dai3siragiku.jpg
▲練習機「白菊」低速の練習機に250キロ爆弾を2発も搭載した為、80~90ノットしか出なかった。手前の白菊は
 昭和20年5月29日徳島第3白菊隊の北光円1飛曹、為広二見2飛曹の搭乗機として串良を出撃、沖縄の海に散る。
siragikutokkotai.jpg
▲練習機「白菊」速力は最大でも120ノットと極端に遅い為、昼間の攻撃は不可能と判断され、夜明け前に突入する
 戦法がとられた。出撃は全て夜半であった。(夜間に出撃した「特攻機」は白菊と水上偵察機のみである)

※神風特別攻撃隊「第4正統隊」昭和20年6月3日 第2国分基地より99艦上爆撃機3機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]鳥山政幸上飛曹(埼玉県出身)/[偵察]関島 進中尉(長野県出身)
[操縦]前山富士生少尉(神奈川県出身)/[偵察]南里 勇1飛曹(佐賀県出身)
[操縦]野津 誠少尉(東京都出身)/[偵察]服部英明1飛曹(岐阜県出身)

※神風特別攻撃隊「第21大義隊」昭和20年6月7日 石垣島基地より零戦で出撃
(宮古島東方機動部隊攻撃)
橋爪 和美1飛曹(和歌山県出身)/柳原 定夫2飛曹(北海道出身)

※神風特別攻撃隊「第4白菊隊」昭和20年6月21日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
(徳島空)
19:27[操縦]大住博也上飛曹(富山県出身)/[偵察]萩原満三少尉(鹿児島県出身)
19:29[操縦]井上国平中尉(神奈川県出身)/[偵察]末次直輔少尉(東京都出身)
19:30[操縦]北脇博夫中尉(滋賀県出身)/[偵察]水無瀬勇少尉(高知県出身)

神風特別攻撃隊「菊水第2白菊隊」昭和20年6月21日 鹿屋基地より練習機「白菊」で出撃
(高知空)
19:00[操縦]針生房吉中尉(宮城県出身)/[偵察]河野直義2飛曹(岐阜県出身)
19:05[操縦]藤本利雄2飛曹(大阪府出身)/[偵察]掛川諒一2飛曹(長野県出身)
19:16[操縦]井上幸胤中尉(大阪府出身)/[偵察]有賀康男1飛曹(長野県出身)
19:22[操縦]粟倉一雄2飛曹(静岡県出身)/[偵察]佐久間潔上飛曹(香川県出身)
19:30[操縦]古賀一義中尉(福岡県出身)/[偵察]宮沢茂雄1飛曹(東京都出身)
USSBarry_convert_20160420160612.jpg
▲米駆逐艦バリー (USS Barry)
 バリーは5月28日に慶良間諸島の泊地に曳航されたが被害の規模は大きく、復旧は割に合わないと判断された。
 バリーは部品取りとなり、再利用可能な部品は他の艦艇に転用される事となった。1か月後の昭和20年6月21日、
 バリーは除籍された。この日もまた、日本軍は菊水十号作戦を発動して神風を送り込んできたが、投入される機
 も人材も沖縄戦の末期にあたる頃からはほとんど払底した感じとなり、機材面では菊水七号作戦からは、練習機
 「白菊」が投入されるようになるという一種の末期的症状を呈していた。人材面も長時間の飛行に慣れる間もな
 く戦場に送り込まれ、レーダーピケット艦あたりが最初に見えてくるととりあえず突入するという有様であった。
 アメリカ側も神風のレベル低下を既に承知しており、菊水十号作戦に際しては囮作戦を仕掛けることとなった。
 バリーは中型揚陸艦 LSM-59 に護衛されて慶良間の泊地から引き出され、海上に向かった。
 間もなく6機の「白菊」が出現し、バリーとLSM-59に命中。LSM-59は沈没し、バリーは1日保ったが6/22沈没。
 バリーが沈んだ6/22、沖縄の日本軍最高司令官牛島満陸軍中将と参謀長の長勇陸軍中将は摩文仁丘の洞窟で共に
 切腹し、自決。沖縄戦は終結し、菊水作戦もこの6月22日をもって終了した。

第10回神雷桜花特別攻撃隊昭和20年6月22日 鹿屋より出撃(桜花4機、一式陸攻4機)戦果無し
[桜花]
藤崎俊英中尉(千葉県出身)/堀江眞上飛曹(秋田県出身)/山崎三夫上飛曹(福岡県出身)
片桐清美1飛曹(福岡県出身)
[陸攻]
伊藤正一中尉(宮城県出身)/稲ヶ瀬隆治中尉(和歌山県出身)/根本次男中尉(福島県出身)
三浦北太郎中尉(岩手県出身)/千葉芳雄上飛曹(宮城県出身)/岡本繁上飛曹(石川県出身)
樫原一一上飛曹(香川県出身)/立川徳治上飛曹(大阪府出身)/山下幸信上飛曹(香川県出身)
鳥居義男上飛曹(愛媛県出身)/南藤憲上飛曹(宮崎県出身)/佐藤貞志1飛曹(福島県出身)
飛鷹義夫1飛曹(熊本県出身)/樋口武夫1飛曹(佐賀県出身)/土井惟三1飛曹(広島県出身)
木村茂1飛曹(愛媛県出身)/三木淑男1飛曹(和歌山県出身)/武田廣吉1飛曹(岩手県出身)
中島佐吉1整曹(群馬県出身)/村山省策1整曹(北海道出身)/藤木政戸2飛曹(群馬県出身)
杉田龍馬2飛曹(香川県出身)/牛濱重則2飛曹(鹿児島県出身)/但木正飛長(宮城県出身)
明神福徳飛長(高知県出身)/大熊賢飛長(岡山県出身)/北村義明飛長(神奈川県出身)
坂本吉一飛長(東京都出身)

第1神雷爆戦隊昭和20年6月22日 鹿屋より出撃(零戦7機)
川口光男中尉(三重県出身)/高橋英生中尉(大分県出身)/伊藤祥夫少尉(大分県出身)
石塚隆三少尉(茨城県出身)/河晴彦少尉(福井県出身)/溝口幸次郎少尉(静岡県出身)/金子照男少尉(埼玉県出身)

※神風特別攻撃隊「徳島第5白菊隊」昭和20年6月25日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
(徳島空)
19:22[操縦]高沢啓次1飛曹(富山県出身)/[偵察]前野博之2飛曹(兵庫県出身)
19:37[操縦]木塚梅夫2飛曹(佐賀県出身)/[偵察]岡田 清少尉(山口県出身)
20:05[操縦]今西登志男2飛曹(大阪府出身)/[偵察]緒方秀一1飛曹(熊本県出身)
20:08[操縦]菅野繁蔵上飛曹(福島県出身)/[偵察]沢原昭夫2飛曹(愛媛県出身)
20:12[操縦]山口清三郎2飛曹(新潟県出身)/[偵察]三浦猛輝少尉(鹿児島県出身)

神風特別攻撃隊「菊水第3白菊隊」昭和20年6月26日 鹿屋基地より練習機「白菊」で出撃
(高知空)
20:00[操縦]春木 茂1飛曹(愛知県出身)/[偵察]岩下 武2飛曹(神奈川県出身)

※神風特別攻撃隊「第7御盾隊」第1次流星隊 昭和20年7月25日 木更津基地より「流星」で出撃
(大王崎南東方機動部隊攻撃)
[操縦]向島重徳飛曹長(長崎県出身)/[偵察]森 正一大尉(東京都出身)
[操縦]関口洋上飛曹(大分県出身)/[偵察]小澤長三郎中尉(茨城県出身)
[操縦]石川泰三上飛曹(滋賀県出身)/[偵察]郡田英男中尉(埼玉県出身)
[操縦]本田只美1飛曹(香川県出身)/[偵察]斎藤七郎上飛曹(静岡県出身)
ryusei4_convert_20160406163419.jpg
▲海軍新鋭艦上攻撃機「流星」をも特攻に投入するも時既に遅し・・・。

※神風特別攻撃隊「第3龍虎隊」 昭和20年7月29日 宮古島基地より「93式中間操縦練習機」で出撃
三村弘上飛曹(岡山県出身)/庵民男1飛曹(鹿児島県出身)/川平誠1飛曹(静岡県出身)
近藤清忠1飛曹(長野県出身)/原優1飛曹(長野県出身)/松田昇三1飛曹(東京都出身)

※神風特別攻撃隊「第3龍虎隊」 昭和20年7月30日 宮古島基地より「93式中間操縦練習機」で出撃
佐原正二郎1飛曹(静岡県出身)

※昭和20年8月6日(米軍、広島原爆投下)
※昭和20年8月9日(米軍、長崎原爆投下)
※昭和20年8月9日長崎へ向かう原爆搭載B-29に対し築城基地より零戦10機が築城基地より緊急発進。
 天雷特別攻撃隊白虎隊出撃。加藤正治1飛曹/内藤宏上飛曹(築城海軍航空隊)
 天雷特別攻撃隊白虎隊とは零戦52型に3号250キロ爆弾を装備してB-29の大編隊の前方50-60度の角度から侵入し、
 1番機をかわした時にボタンを押して爆発することで直径250-300m範囲でダメージを与える空中特攻である。
 「海軍築城基地(ついききち)福岡県築上郡築上町」

※神風特別攻撃隊「第7御盾隊」第2次流星隊 昭和20年8月9日 木更津基地より「流星」で出撃
(金華山沖機動部隊攻撃)
[操縦]茨木松夫中尉(鹿児島県出身)/[偵察]田中喜芳上飛曹(香川県出身)
[操縦]島田栄助上飛曹(東京都出身)/[偵察]笹沼正雄中尉(宮崎県出身)
[操縦]曽我部譲上飛曹(愛媛県出身)/[偵察]野邊貞助1飛曹 (宮崎県出身)
[操縦]林  憲正中尉(愛媛県出身)/[偵察]横塚新一上飛曹(東京都出身)
[操縦]高須孝四郎1飛曹(愛知県出身)/[偵察]小松文男1飛曹(秋田県出身)
[操縦]拵 和夫1飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]吉野賢示1飛曹(静岡県出身)
ryuseitokko_convert_20160418164735.jpg
▲8/9 14:55米空母ワスプ(USS Wasp)に突入する「第7御楯隊」第2次流星隊の「流星」
Ryusei_convert_20160406164155.jpg
▲海軍艦上攻撃機「流星」

※神風特別攻撃隊「第4御盾隊」昭和20年(1945)8月9日 百里原基地より「彗星」で出撃
 (犬吠埼東方機動部隊攻撃)
[操縦]田中幸二中尉(大阪府出身)/[偵察]萬善東一1飛曹(鹿児島県出身)
[操縦]板橋泰夫上飛曹(福島県出身)/[偵察]北村久吉中尉(三重県出身)
[操縦]遠山明上飛曹(香川県出身)/[偵察]渋谷文男2飛曹(神奈川県出身)
[操縦]榊原 靖中尉(愛媛県出身)/[偵察]岩部敬次郎1飛曹(佐賀県出身)
[操縦]原島久仁信上飛曹(福岡県出身)/[偵察]原田敏夫1飛曹(神奈川県出身)
[操縦]遠藤良三上飛曹(静岡県出身)/[偵察]増岡輝彦1飛曹(福岡県出身)
[操縦]廣島忠夫1飛曹(福岡県出身)/[偵察]
suiseikanbaku.jpg
▲海軍艦上爆撃機「彗星」

※第931海軍航空隊「攻撃第251飛行隊」 昭和20年8月12日 串良基地より艦上攻撃機「天山」4機で出撃
米戦艦ペンシルベニアが、夜間雷撃隊による夜間雷撃を受ける。
出撃機4機のうちの1機が発射した航空魚雷1本が艦尾付近に命中、浸水・大破した。

※神風特別攻撃隊「第7御盾隊」第3次流星隊 昭和20年8月13日木更津基地より「流星」で出撃
(犬吠埼沖機動部隊攻撃)
[操縦]酒向公二1飛曹(岐阜県出身)/[偵察]元 八郎中尉(石川県出身)
[操縦]上大迫克巳中尉(鹿児島県出身)/[偵察]西森良臣上飛曹(高知県出身)
[操縦]弘寺富士人上飛曹(広島県出身)/[偵察]砂川啓英中尉(沖縄県出身)
[操縦]田中憲一1飛曹(福岡県出身)/[偵察]山中 誠少尉(茨城県出身)

※神風特別攻撃隊「第4御盾隊」昭和20年(1945)8月13日 百里原基地より「彗星」で出撃
 (犬吠埼東方機動部隊攻撃)
[操縦]小城亞細亞中尉(東京都出身)/[偵察]森 保上飛曹(京都府出身)
[操縦]平野 亨中尉(埼玉県出身)/[偵察]加藤康夫2飛曹(神奈川県出身)
[操縦]三橋 栄治中尉(神奈川県出身)/[偵察]今井 勲1飛曹(千葉県出身)
[操縦]武内良之1飛曹(栃木県出身)/[偵察]生津賢裕1飛曹(福岡県出身)

※第2神雷爆戦隊昭和20年8月13日喜界島基地より出撃(零戦2機)
(沖縄周辺艦船攻撃)
岡嶋四郎中尉(千葉県出身)/星野 實1飛曹(京都府出身)
米攻撃輸送艦ラグランジに特攻機が突入、大破。21名戦死89名負傷
輸送艦ラグランジは特攻による最後の損傷艦、沖縄への航空特攻が終結。
reisen.jpg
▲開戦時は無敵だったゼロ戦も戦争末期にはもはや老兵であった。

※神風特別攻撃隊「第4御盾隊」昭和20年8月15日 百里原基地より「彗星」8機で出撃「終戦(敗戦)日」
 (金華山沖機動部隊攻撃)
[操縦]谷山春男中尉(兵庫県出身)/[偵察]田島平三1飛曹(群馬県出身)
[操縦]田上初治1飛曹(兵庫県出身)/[偵察]田中 喬1飛曹(福岡県出身)
[操縦]藤本 嶺1飛曹(山口県出身)/[偵察]新井唯夫2飛曹(静岡県出身)
[操縦]岩谷樺王上飛曹(青森県出身)/[偵察]溝口和彦1飛曹(佐賀県出身)
[操縦]永田與四雄1飛曹(長崎県出身)/[偵察]矢上 保1飛曹(鹿児島県出身)
[操縦]川合壽一上飛曹(岐阜県出身)/[偵察]水上潤一中尉(石川県出身)
[操縦]山本好人上飛曹(佐賀県出身)/[偵察]勝原通利中尉(福岡県出身)
[操縦]弘光正治1飛曹(高知県出身)/[偵察]泉川 白2飛曹(香川県出身)

米軍戦闘記録によれば13:30空母ヨークタウンの防空戦闘機によって最後に撃墜された特攻機は百里原基地を出撃
した「彗星」弘光正治1飛曹(高知県出身)/泉川 白2飛曹(香川県出身)であった。
正午の天皇玉音放送後に突入した事になる。
なお、8/15に出撃した「第4御盾隊」8機「第7御盾隊」1機は全て撃墜されている。

※神風特別攻撃隊「第7御盾隊」第3次流星隊 昭和20年8月15日 木更津基地より「流星改」で出撃「終戦(敗戦)日」
(勝浦南東機動部隊攻撃)
[操縦]縄田准二1飛曹(福岡県出身)/[偵察]中内 理1飛曹(高知県出身)※日本軍最後の特攻隊とされている。
ryusei2.jpg
▲海軍艦上爆撃機「流星」
※第4次丹作戦として「第5御盾隊」が編成されるが実施前に終戦を迎えた。

昭和20年(1945)8月15(16)日「宇垣特攻」 大分基地より「彗星」11機で出撃「終戦(敗戦)後16日」
※「宇垣長官の出撃が16日であることは大分では誰でも知ってる」と話す人が居る様だ。
 これを裏付ける様に、豊の国宇佐市塾発行の「宇佐航空隊の世界」に、中津留大尉が宇佐航空隊
 で教官をされていた当時の話や、8月16日に沖縄に向かって出撃した事が記されている。
 当事の関係者は、命令に従って突入した隊員を「戦死」と認めさせる為、8月15日突入として発表し
 たものと思われる。

山本五十六司令長官搭乗の一式陸攻がブーゲンビル島上空で撃墜された時、別の一式陸攻でからくも助かった宇垣纏中
将は「自分もいずれは後を追う」と心に決めていたのだろう。昭和20年(1945)8月15日早朝、宇垣 纏中将は自ら最後
の特攻を行うべく艦上爆撃機彗星を5機用意するように部下の中津留達雄大尉に命じる。
正午、天皇陛下の玉音放送を聴くも決意は変わらず「戦藻録」最後のページを書き終えた後、自ら中津留大尉の操縦す
る彗星に座乗し、合計11機で沖縄沖に向かって大分基地から離陸する。
写真では軍服の中将の階級を示す襟章が外されていた(高官が死地に赴く時には、階級を示す物を外す習慣があった為)
ugakitokko1.jpg

ugakitokko_convert_20160403184029.jpg
▲出撃前に撮影された宇垣 纏中将
suisei43gata.jpg
▲「宇垣特攻」に使用されたのは彗星43型
ugakitokko2.jpg
▲彗星に乗り込んだ宇垣中将、左から中津留達雄大尉/遠藤秋章飛曹長/宇垣 纏中将
nakaturu.jpg
▲中津留達雄大尉
夕刻、沖縄県伊平屋島海岸付近に米軍が張っていたテントのすぐ近くに、1機の彗星が墜落した。中からは操縦士と思わ
れる若い将兵1人の他に、飛行服ではなく、階級章のない第三種軍装を着た壮年1人の遺体が収容された。
出撃前の写真から判断して、これが宇垣の乗っていた彗星だった可能性が高い。しかし墜落状況は、動くことも反撃する
事もない目標を前にしてわざわざ特攻を行わなかったようにも見え、操縦していた中津留大尉が停戦命令を死守すべく意
図的にテントを避けたとする説や、特攻の意味が無くなったと思い山本五十六の短刀で自決したとする説もある。
但し、これらの遺体が宇垣たちであると日本側によって公式に確認されたわけではない為、正確な死亡場所は現在も不明
とされ「敵艦に突入した」と説明する資料も存在する。
出撃した彗星の通信記録が残っている様だ。
18:30磯村堅少尉機より「敵水上部隊見ユ」という電文が入電、その後すぐに「突入」という無電が入る。
19:24宇垣中将搭乗機より宇垣中将の決別電が入り、20:25「ワレ奇襲に成功ス」との入電が入っている。
他の機からも突入電が入っているが、11機の中で突入と認められたのは、宇垣中将搭乗の中都留機、伊藤機、北見機、
池田機、内海機、磯村機、中島機、吉田機の8機とされている。残る3機の内2機はエンジン故障の為鹿児島県内に不時着。
最後の1機は沖縄上空まで到達したが、敵艦船を発見できず陸上部隊に爆弾を投下した後、燃料不足で不時着したと言う
この記録は当日7機の特攻機がアメリカ艦隊の艦船に向かって突入してきたというアメリカ側の無線を、日本側が傍受して
いるとの事で信憑性はあるかと思われる。
宇垣 纏中将は、ポツダム宣言受諾後に正式な命令もなく特攻を行った為、戦死とは見做されず大将昇級は無い。
むしろ、停戦命令後の理由なき戦闘行為を禁じた海軍刑法第三十一条に抵触していたのではないかとする意見が多い。
(但し、玉音放送を正式な「停戦命令」と解釈できるかどうかを巡って見解が分かれている。例えば秦郁彦は8/16、16時
に発せられた大陸命第1382号および大海令第48号を正式な停戦命令としている)
また、玉音放送後の出撃でいたずらに兵を犠牲にしたとして、遺族の非難を浴びる事にもなった。
連合艦隊司令長官小沢治三郎は、「自決するなら1人でやれ、若者を巻き込むな」と激怒したと言う。
「特攻の生みの親」大西瀧治郎中将の様に自決は1人でも出来る為、これは弁明にはならないとも思われる。
弁明を入れるなら、特攻作戦に関与した海軍中枢部の将官クラスで、「オレも後から必ず行く(死ぬ事)」と言ってそれ
を実行したのは、宇垣と大西瀧治郎中将だけである。
玉音放送後の宇垣 纏中将の心理状況については、なお検討する余地はあるかもしれない。
上記の問題点により戦死者(あるいは殉難者)とは認められず、現在靖国神社には合祀されていない。
尚、この部隊の指揮を取った中津留大尉の父親は、戦後或る作家のインタビューに対し「何故宇垣中将は息子を連れて行っ
たのでしょう」と歯を食いしばりながら答えたと言う。その後中津留大尉の遺族によれば、晩年の父親は宇垣の行為を「仕
方のない事」として受け入れる心境に達していたと言う。(NHK 城山三郎追悼特集より)
既に戦争は終わり、天皇の玉音放送もあり、海軍総隊から戦闘停止の命令が出ていたにも拘わらず、部下に特攻機の準備を
命じ、これから日本の再建の為にがんばってもらうべき若者を道連れに出撃・・・。
もし成功していたら停戦協定違反に怒った米軍の報復爆撃で死ななくてもいい日本人が更に沢山死んでいた事だろう。
(米軍の記録では8月15日の沖縄方面の特攻攻撃で輸送船(艦)1隻が被害を受けたとの記録があるそうだ)
隊長の中津留大尉は若妻と生まれたばかりの子供を残しての出撃だった。中津留大尉は1人息子で、父親は「海軍は息子を
返してくれ」と泣いたと言う。この様に宇垣 纏中将の道連れになって16名の若者が終戦後に無駄死にした。
[操縦]中津留達雄大尉(海兵70期)/[偵察]遠藤秋章飛曹長(乙飛9期)/宇垣 纏中将
[操縦]伊東幸彦中尉(海兵73期)[偵察]大木正夫上飛曹(乙飛17期)※親族女性(吉田さん)が調査中
[操縦]山川代夫上飛曹(丙飛 )/[偵察]北見武雄中尉(海兵73期)
[操縦]池田武徳中尉(学生13期)/[偵察]山田勇夫上飛曹(甲飛11期)
[操縦]渡辺操上飛曹(甲飛11期)/[偵察]内海進中尉(学生13期)
[操縦]後藤高男上飛曹(丙飛 )/[偵察]磯村堅少尉(生徒1期)伊平屋島の砂地に突入、爆発炎上
[操縦]松永茂男2飛曹(特乙1期)/[偵察]中島英雄1飛曹(乙飛18期)
[操縦]藤崎孝良1飛曹(丙飛 )/[偵察]吉田利一1飛曹(乙飛18期)
[操縦]前田又男1飛曹(丙飛 )/[偵察]川野良介中尉(学生13期)不時着
[操縦]川野和一1飛曹(乙飛18期)/[偵察]日高保1飛曹(乙飛18期)不時着
[操縦]二村治和1飛曹(甲飛12期愛知県出身)/[偵察]栗原浩一2飛曹(甲飛13期)不時着
「最後の特攻出撃」に参加されて生還された二村治和 元1飛曹の証言  
私は谷田部航空隊で赤トンボをやり、宇佐航空隊で96艦爆と99艦爆の操縦教育を受けた。この時の分隊長
兼教官が、「宇垣特攻」の指揮官として出撃した中津留大尉である。
海上自衛隊鹿屋基地の資料館にその遺影が飾られている。 ふっくらとした温顔の士官で、私は特に可愛がっても
らった。最後の出撃に際して、私を2番機につけてくれたのである。
昭和19年11月、飛練を卒業した私は明治基地の210空に赴任した。ここで、彗星艦爆(33型)の操縦員として錬成
訓練を開始した。実家から近かったので、訓練飛行のたびに我が家が無事かどうか確認することができた。
鹿児島県の国分基地に進出したのは、昭和20年3月末である。中津留大尉も少し遅れてやってきた。
出撃の機会は2回あったが一度は中止、1度は屋久島の上空まで進出した時、「引き返せ」の命令を受けた。
6月に再編成のため、美保基地まで後退した。私物はほとんど国分基地に残したままである。後輩甲飛13期生出身の
栗原浩一2飛曹とペアを組んで、近くの隠岐島~米子基地~美保基地のコースを飛んで訓練を行っていた。
7月始めごろ、中津留大尉に率いられて大分基地へ向かった。大分基地上空に着いたのは夕方5時頃であった。
着陸寸前のことである、前方の1番機がいきなり機首を起こして急上昇していくのが見えた。私もハッと気づいて急上昇
して離脱した。全く突然という感じで、グラマンF6Fに襲撃されたのである。
私は目の隅で3番機が別府湾に落ちていくのを見た。
耶馬渓の上空まで退避し、時間を見計らって引き返した。敵機は引き揚げたらしく、ようやく着陸することができた。
その後も頻繁に空襲を受けた。そのため、飛行機は掩体壕に隠したまま温存された。飛行訓練は止むなく中断して待機
する日々が続いた。8月14日の夜、珍しく中津留大尉が下士官宿舎に一升瓶を下げてやってきた。
「今夜はひとつ、皆であるだけの酒を飲んでしまおうや……、貴様たちも取っておきを出さないか」
大尉からそんなことを言われるのは初めての事である。一斉に歓声を上げながらそれぞれ秘蔵の酒を持ち出し、20名程
が車座になって酒盛りを始めた。大尉は酒には滅法強い、いくら飲んでも酔った様子はなくニコニコ笑っていた。
私は酔い潰れて、いつ寝たの か全く覚えていない。
「出撃命令だぞ」と、揺り起こされた時は既に午前9時を過ぎていた。素早く飛行服を着込んで、宿舎まで迎えに来た
トラックに乗り込んだ。「これは特攻だ!ついに来るべきものが来た」と、私は感じた。トラックが飛行場に向かう途中、
積んであった陣太鼓を打ち続けた。心の昂ぶりを押さえかねて撥を叩きつけた。
海軍橋の袂で道路作業をやっていた、甲飛の後輩たちが、「先輩、頼みまーす!」と、トラックを追いかけ、涙を溜めて
口々に大声をかけてきたのを覚えている。
飛行場には10時ごろ着いた。「搭乗割」の黒板を見ると、2番機に私の名前があった。
中津留隊長機に続く2番機の指定である。私は少なからぬ感激と優越感をおぼえた。12時出撃とのことで待機していたが、
そのうち出撃命令はなぜか解除され、「そのまま待機せよ」と指示された。私たちは指揮所に近い裏川の土手の上に行って
昼飯の赤飯の缶詰とパイ缶を食べた。
私達は正午に、天皇陛下の重大放送があった事については何も聞かされなかった。
午後何時頃だったか覚えていないが「沖縄に特攻をかける」との命令がきた。「搭乗割」から洩れていた連中が、同行させ
てくれと騒ぎだした。黒板を蹴倒したり、男泣きしながら隊長に詰め寄るさまを、私は選ばれた者の一種の優越感をもって
眺めていた。▼宇垣特攻出陣式の様子。
ugakitokkosyutujinnsiki0816.jpg
「爆弾を80番に変更せよ」との指示で、積み替えを実施したが、弾倉に入りきらず半ばはみ出したまま装着した。
「ガソリンも半分抜き取れ」との指示もでた。(実際は満タンで出撃した)
午後4時、我々22名は2列横隊で指揮所前に整列した。私は右から3番目に並 んだ。日の丸の鉢巻の裾を長く背中に垂らし
て次の命令を待っていた。やがて黒塗りの乗用車が3台近づいてきた。私は内心驚いた。
高官たちが揃って見送りにくるなんて初めての事である。
更に第5航空艦隊司令長官の訓示があると告げられた時は耳を疑った。
第三種軍装の宇垣中将が折り畳み椅子の上に立ち、
「本職先頭にたって、今から沖縄の米艦艇に最後の殴り込みをかける。一億総決起の模範として死のう!」
と言われ、山本五十六元帥から戴いた短剣をぐっと前に突き出された。
われわれも一斉に、「ワーッ」と歓声を上げ右の拳を突き上げた。続いて中津留大尉が「降爆してから一旦機を引き起こし、
そのあと空身で突っ込め」と指示された。
1番機の操縦は中津留大尉、その後席に宇垣中将と遠藤飛曹長が乗り込んだ。
▼彗星は2人乗りの為、ドラム缶を機内に入れ、そこに遠藤飛曹長が座った。
ugakitokko99_convert_20160707203454.jpg
1番機に続いて2番機の私も離陸、初めて積んだ800キロ爆弾の重さで、1000メートルの滑走路を一杯に使ってようやく
海面スレスレに浮上した。
別府湾や青い山々を見下ろして、これが祖国の見納めかと感慨にふけりながら、隊長機に従い阿蘇山を越えて九州を横断し
東支那海を南下するコースをとった。高度4、500メートル八代海を抜けた付近でプロペラピッチを2速に切り替えた。
途端に《ガタガタガタッ》と振動がきた。みるみるうちにブースト計、油圧計、回転計の針がゼロを指してしまった。
手動ポンプをついてみたが回復せず、ついにプロペラも止まってしまった。
「どこら辺だ! 甑島辺りか!」「よく分かりません……」「馬鹿やろう!」
と怒鳴り返したが、もう隊長機を見失ってしまった。とにかく不時着するしかない。高度1500メートルで爆弾を捨てた。
海に降りて鱶の餌食になるのは御免である。海岸を目指したがとても無理な距離である。
「不時着するぞー」と後ろに叫んだのと、左翼端が海面を叩いたのが同時であった。機はクルクルット激しく一回転して浮
かび逆立ちは免れた。風防を押し開け、栗原と一緒に海に飛び込んで海岸目指して泳いだ。
泳ぎ着いて分かったのだが、そこは鹿児島県の西方であった。
昭和59年、私は39年前に泳ぎ着いた砂浜を再び踏み締めた。そこは私の第一の人生を締めくくり、第二の人生の第一歩を
踏み出した美しい砂浜、西方海岸である。当時19歳であった。
「白菊特攻隊」第二部 かえらざる翼  二村治和 (光人社刊)より。

昭和20年8月15日正午 天皇玉音放送終戦(敗戦)
昭和20年8月16日神風特別攻撃隊の創始者大西瀧治郎中将自決
oonishityujyo.jpg
▲(右)大西瀧治郎中将享年55歳 (左)門司親徳大尉(副官 当時26歳/平成20年死去 享年91歳)
8/16渋谷南平台町の官舎にて大西中将は遺書を残し割腹自決した。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが
生きていた。官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。
熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様
がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていた
と伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生き
るんだよ。生きて新しい日本を作れ。」といさめた。遺書は5通あったとされる。
「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般壮年に対して軽挙
妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。
別紙には富岡定俊軍令部第一部長に当てた添え書きがあり「青年将兵指導上の一助ともならばご利用ありたし。」とあった。
妻淑恵(嘉子)に対する遺書には、全て淑恵の所信に一任すること、安逸をむさぼらず世のため人のため天寿を全くすること、
本家とは親睦保持すること、ただし必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はないこと、最後には「これでよし百万年の
仮寝かな」と辞世の句があった。他に多田、児玉、矢次に対しても遺書があった。
戦後特攻隊員の戦死者名簿には大西中将の名も刻まれた。

昭和20年8月18日「桜花」創案者の太田中尉、零戦に搭乗し自決未遂
昭和20年8月21日神雷部隊解散
[ 戦死者数 ](神雷部隊)桜花隊55名、一式陸攻隊365名、戦闘機隊10名 (建武隊)89名 (神雷爆戦隊)9名
      (神風特別攻撃隊)187名 (その他戦死・殉職者)114名 [合計]829名
昭和20年8月22日(小松基地)神雷部隊350名解散
昭和20年8月24日この日以降、占領軍により、日本国籍の航空機の飛行は全面禁止された。
itisikiouka.jpg
桜花」は一式陸上攻撃機に抱かれ、敵艦隊近くまで運ばれたが、その多くが母機もろとも撃墜された。
(桜花による撃沈戦果は駆逐艦1隻のみ)
ouka11okinawa.jpg
▼▲米軍に捕獲された桜花11型と桜花複座練習機
oukarensyu.jpg
▼横須賀で米軍に捕獲された「桜花11型」(米軍が撮影した当時の貴重なカラー写真)
BAKAohka.jpg

itisikirikukouohka_convert_20160401094806.jpg
▼鹿屋航空基地史料館から少し離れた場所にある「桜花隊」の慰霊碑
DSCN4800.jpg
サクラ花~桜花最期の特攻~
▼誰も死にたい兵士など居るはずがありません。最前線で戦った全ての英霊に感謝したいと思います。
ZEROtokko.jpg

▼史料館の敷地内には現役を退いた飛行機が多く展示してあり、大きさを実感出来ます。
DSCN4832_convert_20140525191619.jpg DSCN4831_convert_20140525191535.jpg
DSCN4811_convert_20140525191430.jpg DSCN4808_convert_20140525191402.jpg
DSCN4807_convert_20140525191316.jpg DSCN4803_convert_20140525191235.jpg
DSCN4802_convert_20140525191207.jpg DSCN4801_convert_20140525191044.jpg

太平洋戦争末期に行われた特攻作戦では、特攻機は飛行機や人間爆弾・「桜花」だけではなく、人間魚雷・「回天」
特攻ボート・「震洋」があった。全ての特攻隊員に感謝の念を伝えたいと思います。
特攻隊肉声(遺された声 )

太平洋戦争中はゼロ戦搭乗員を経て海軍士官。特攻の始まりを現場で見届けた。
戦後群馬県多野郡上野村村長を10期連続で務め、日本航空123便墜落事故の際事故処理に尽力したことで知られる
黒澤丈夫さんの証言記録は是非ご覧頂きたいと思います。素晴らしい方だと思いました。


にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_03_21


東京は昭和19年(1944)11月14日以降106回もの空襲を受けたが、特に昭和20年(1945)3月10日、4月13~15日、
5月24~26日の5回は大規模だった。その中でも「東京大空襲」と言った場合、死者数が10万人以上と著しく多い
昭和20年(1945)3月10日の空襲(下町空襲)を指すことが多い。3/10の空襲だけでも罹災者は100万人を超えた。
平成23年(2011)3月11日に起きた東日本大震災が近年メインで取り上げられる事が多くなったが、東京大空襲も
忘れてはいけない。日本テレビ開局55年記念番組「東京大空襲」YouTube
fujib29_convert_20160311114219.jpg

b29tokyo.jpg

B29firebombs_convert_20160311112729.jpg

tokyoginza4.jpg
▲燃え上がる銀座4丁目交差点付近。(旧銀座尾張町)
tokyo15_convert_20160311122308.jpg

tokyo14_convert_20160311122621.jpg

tokyo9_convert_20160311123136.jpg
当初アメリカ軍は中国からの空襲を行った。司令官ハンセン准将は軍事目標に対して、高高度精密爆撃を開始。
特に航空機・エンジン工場が狙われた。「進入高度は8000~9000m」ノルデン照準器を使用した。
然しながら、成果が上がらず、サイパン島が占領されてからは、その攻撃の性格を一変させた。
アーノルド大将の命令で作戦計画を立て、綿密なテストと過去の検証をした。
ナパーム弾(焼夷弾)の効果については、アメリカ本土に日本家屋と町並みを再現。畳などはハワイから取り寄せ、
延焼効果を検証していた。更にアメリカは、「関東大震災」を徹底的に検証し、どの様な攻撃が効果的かを綿密に
調査した。大規模攻撃計画では、「人口密度」「火災密度」「交通機関」「工場」など爆攻撃有効度を測って一覧表
を作成。最も重要視したのは「人口密度」であった・・・。司令官を、カーチス・ルメイ少将に交代し、「ミーテイ
ング作戦」と、侵入方法を変更。「昼間攻撃から夜間攻撃」に変更。「進入高度」を高高度から「1500~3000mの
低高度」に変更。更に機銃、機銃手、その他装備を降ろし、爆弾を大幅に増加した。
乗員から攻撃は自殺行為として異議が出、正式な抗議文が攻撃隊長から提出されたが変更されなかった。
この異議に対して「低空攻撃はジェットストリーム」(燃費の大幅な改善)に邪魔されない、日本軍に夜間迎撃能力は
無い、としての攻撃であった。
Tokyo28_convert_20160311150019.jpg

tokyo8_convert_20160311123641.jpg

tokyo12_convert_20160311123326.jpg
▲小学生高学年あたりであろうか、ガレキの処理を手伝っている。
yosiwara14.jpg
▲吉原公園と書かれている。遊郭のあった辺りだろうか・・・。
Tokyo26_convert_20160311144401.jpg
「ミーテイング作戦」を第1段、第2段にして、第1目標を深川区(現在の江東区)、第2目標を本所区(墨田区)
第3目標を浅草区(台東区)、第4目標を日本橋区(中央区)とした。その効果は、関東大震災の延焼被害と合致し空前
の死者を出した。アメリカ軍による東京大空襲は綿密な計画に基づく緻密に計算された完璧な作戦だった。
戦後、日本政府は東京大空襲の司令官カーチス・ルメイ大将(昇進)に対して「航空自衛隊の育成の務めた」として、
「勲一等旭日大綬章」を授与している。但し「勲一」は天皇が親授するのが恒例であったが、「昭和天皇は拒否」。
時の防衛大臣が親授した。この受勲は、元海軍大佐「源田実」が進めたとされる。
カーチス・ルメイ大将は、後に「第5代アメリカ空軍参謀総長」になり、キューバ危機の際、ケネデイー大統領に、
ソ連に対して先制戦術核攻撃を進言。「今なら勝てます!」が彼の言葉として残る。
ケネデイー大統領が、当時のスパイ(現役のソ連参謀本部大佐、その後逮捕され銃殺刑)の情報でソ連は退くと確信
し、カーチス・ルメイの進言を受け入れなかったのは、今のアメリカでは有名な話である。
カーチス・ルメイはその後、北爆(ベトナム)を開始。彼の言葉では「石ころだけにする」と豪語したと伝えられる。
退役後、NHKの東京空襲の取材に対して、彼は何も話さず、「勲一等旭日大綬章」を見せたと言う。
アメリカの取材では「もしアメリカが負けていれば、私が最初に戦犯として絞首刑になる軍人」と話したと伝えられる。
Tokyo29_convert_20160311144708.jpg
▲犠牲者の遺体を調べる警察官
Tokyo27_convert_20160311145028.jpg
▲母子と思われる2つの遺体。子供を背負って逃げていたらしく、母親の背中が焦げていない。
tokyo28_convert_20160311161042.jpg

tokyo10_convert_20160311124202.jpg

tokyo11_convert_20160311124645.jpg
▲雙葉高等女学校の校門という事は東京都千代田区辺りであろう。
tokyo22_convert_20160311125117.jpg

tokyoasakusa_convert_20160311125314.jpg
▲浅草寺の僧侶もガスマスク装備・・・。
tokyo21.jpg
▲僧侶も怪我人の搬送を手伝う。
tokyo20.jpg
▲本土決戦が実行されていたら僧侶も最前線で戦ったのであろうか・・・。
tokyo16_convert_20160311130134.jpg
▲「今日の新聞」と書かれている・・・。空襲被害以外に伝える事などないだろう・・・。
tokyo19_convert_20160311130503.jpg
▲多少笑顔がこぼれている様にも見えるが、「女性はやはり逞しい」と見るべきか諦めの笑顔と見るべきか・・・。
tokyo27_convert_20160311160955.jpg

Tokyo1_convert_20160311113025.jpg
▲現在の墨田区両国付近、右手の川は隅田川。
TogoshikoenStation_convert_20160311145327.jpg
▲品川区戸越公園駅
tokyo18_convert_20160311130824.jpg
▲焼け野原でまだ軍事物資を生産しようと言うのか・・・。
tokyo17_convert_20160311131216.jpg
▲これだけやられておきながら何の万歳だろう・・・。
tokyo13.jpg
▲この子達には何の責任も無い・・・。
tokyo7_convert_20160311135840.jpg

tokyo29_convert_20160311160900.jpg

tokyo3_convert_20160311113237.jpg

tokyo4_convert_20160311114022.jpg

tokyo5_convert_20160311114423.jpg

tokyo30_convert_20160311164500.jpg

asakusaeki_convert_20160311163912.jpg
▲浅草駅前。現松屋デパート付近
tokyo24_convert_20160311141820.jpg
▲浅草寺 仲見世通り。焼け跡を通勤する人達・・・。
tokyogyokuonhouso_convert_20160311142519.jpg
▲昭和20年8月15日焼け野原の東京で天皇の玉音放送を聞き、悲しみに暮れる人達。
Tokyostation_convert_20160311150238.jpg
▲▼昭和20年年5月25日の空襲で焼失した東京駅全景
tokyo31.jpg
東京を爆撃した兵士たち ~アメリカ軍パイロット 60年後の証言1
東京を爆撃した兵士たち ~アメリカ軍パイロット 60年後の証言2
東京を爆撃した兵士たち ~アメリカ軍パイロット 60年後の証言3
東京を爆撃した兵士たち ~アメリカ軍パイロット 60年後の証言4
東京を爆撃した兵士たち ~アメリカ軍パイロット 60年後の証言5


にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村

戦史 ブログランキングへ
 2016_03_10



07  « 2016_08 »  09

SUN MON TUE WED THU FRI SAT
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

EVNARA

Author:EVNARA
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。情報提供等ございましたら★を@に換えてお願いします。
pochetteevnara★gmail.com

ブロとも申請フォーム

Access counter

検索フォーム

QRコード

QR




pagetop