今回の中国東北部旅行の1番の目的地、長春は、旧満州国時代に新京と改められ、満州国国都とされた場所である。
此処で祖父母は終戦(敗戦)後の昭和21年9月まで暮らした。祖父は昭和12年から満鉄新京支社勤務(庶務課)だった。
日露戦争でからくも勝利した日本は、長春以南の権益をロシアより獲得すると南満州鉄道株式会社を設立、明治39年
(1906年)に長春駅を建設した。日本が溥儀を皇帝に満州国建国前から、中国東北部は満州と呼ばれ、張作霖が支配し、
その地域に暮らす現地人は、「満人」と呼ばれた。張作霖爆殺事件後、息子の張学良が、長引く内戦状態の国民政府と
共産党の間を取り持ち、蒋介石の国民政府も同意、一丸となって抗日を続けた。

昭和3年(1928年)6月4日、張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)9月18日、満州事変
昭和7年(1932年)3月、満州国建国
張学良は国民党か日本かを選ぶ中で国民党を選び、焦った日本は満州事変を起こし傀儡国家満州を建国。
昭和9年(1934年)3月1日、満洲国皇帝(康徳帝)に溥儀が即位。ここから満洲国の年号は康徳元年となる。
昭和11年(1936年)毛沢東率いる共産党は内戦の停止と抗日統一戦線を提案。しかし蒋介石は態度を硬化させたまま、
満州の軍閥(張学良ら)に共産党を攻めさせようとする。張学良は「日本と戦うべきではないか?」と難色を示す。
西安まで張学良の説得に出向いた蒋介石を張学良が誘拐、共産党員達と蒋介石を説得して抗日共同戦線を張る事になる
昭和12年(1937年)、日中戦争(支那事変)勃発の年に、祖父は日本で南満州鉄道株式会社の入社試験に合格。
昭和17年(1942年)、祖父は花嫁探しの為に一時帰国。祖母とお見合いし、婚約。
昭和18年(1943年)、祖母が満州(新京)へ。新京特別市昌平街の満鉄寮で新婚生活が始まる。
昭和19年(1944年)11月、母が新京満鉄病院で生まれる。
昭和20年(1945年)8月9日、ソ連軍、満州国に進攻開始。
昭和20年(1945年)8月10日、祖母は満鉄からの指示で新京駅に集合。
幼い母を連れ、満鉄で朝鮮(現北朝鮮)鎮南浦(チンナンポ)へ避難。そこで満鉄関係者と共に滞在する。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦(敗戦)。
昭和20年(1945年)8月18日、溥儀が満州国皇帝退位=満州国崩壊。
終戦後、祖父が心配で、朝鮮から満鉄で再び新京へ戻る。新京へ戻る際、日本兵が大勢乗った貨車を見たと言う。
恐らく祖母が見たのは、関東軍将兵ら約60万人が連行され、約6万人が強制労働などで死亡した「シベリア抑留者」だ
ったのだろう。関東軍参謀本部、陸軍中佐瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)は戦後11年間シベリアに抑留されたが、その
瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる「シベリア抑留密約説」だ。
瀬島氏は終戦直後の昭和20年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。
この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである・・・。
瀬島 龍三に関してはWikipediaから抜粋だが、「知っておきたい人物」で紹介しているのでご覧頂ければと思う。

再び新京へ戻った祖父と母は祖父と再会。新京で1年暮らす。(ソ連兵の強姦から身を守る為、髪は男の様に短くした)
しかし、哈爾浜などに比べて新京はソ連兵が少なく、意外と平和だった様だ。八路軍(共産党)やソ連兵の活発な時も
あったが、中央軍とアメリカ兵が市街地に入って来てからはとりあえず秩序は取り戻しつつあった。
昭和21年(1946年)9月初旬、祖父母と母の3人は、新京→釜山港→博多港の順で無事帰国する事が出来た。
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▲満州国時代の新京駅(明治40年撮影)
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▲現在の長春駅(当時の面影は全く無い)
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▲宿泊した長春駅前のホテルから撮影。駅前広場はもう何年も工事中との事。
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▲当時の新京駅前の風景
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▲▼同じ場所かどうかは分からないが、現在の駅前付近。
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在満日本人一般市民の人口は、昭和5年に23万人を越え、昭和15年には100万人になっていた。日本軍に加え、日本の
大手企業の職員や、官僚、そして民衆達も夢を託して満州に渡った。私の祖父もその中の1人だった。
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▲新京駅前にあった当時の満鉄新京支社(ここで祖父は働いていた)
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▲同じ場所にはほぼ当時のままの姿で建物があった・・・これは感激した。5階部分が増築されている事が解る。
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▲「長春鉄路〇事〇」と書かれているので、現在も鉄道関係の会社が使っている様だ。
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▲旧満鉄新京支社入口前にあった地下への入り口。当時から地下ショッピングセンターでもあったのかな?
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▲此処で祖父は働いていたんだ・・・もう亡くなって何十年も経つが、今、孫の私がその地に来ている・・・感動だ。
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▲新京ヤマトホテル。ここも何度も改修されているが、当時の面影が残っている。
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▲夜の姿はライトアップされてとても綺麗。
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▲旧満鉄新京支社から長春駅を見る。この道を祖父は通勤したのだろうか・・・当時「中央通」と呼ばれた
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▲当時の中央通を描いた絵ハガキ
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▼もうこれは取り壊しが決定しているのかな・・・明らかに古い日本時代の建物だ。
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昭和7年満州国建国だから、満州国が続いたのはたった約9年・・・1番新しくても72年前の建物だからね・・・。
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▲赤煉瓦造りのちょっと古めかしい建物は日本時代の物と思って良いだろう。
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いいですね~こんな街、日本の何処かで復刻しないかな・・・。
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▼中央通を歩いていると当時郵便局だった場所にそれらしい建物が残っていた。
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どうやら此処も改修中の様だ。
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▼当時の郵便局(長春では最初に帝国にとって最も重要な建物である警察本署と郵便局を建てた)
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新京の町づくりは日本本土の問題をすべて解決し、満州国国都として、他ならぬ文明を進めるモデルとなった。
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当時の古写真によく似た場所があった。恐らく同じ場所だろう・・・祖父母も当然此処を歩いただろう。
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新京は、日本が蓄積してきた都市計画の理念と社会資本整備の技術を一気に投入して建設されたという。
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▲郵便局の向かいは古地図では警察署だが、今は良く解らないゴーストビルが建設途中?だった。
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▲中央通から郵便局を左折し、旧吉野町を通って、次の目的である母が生まれた満鉄病院を目指す。
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▲この辺りは「新京銀座」と呼ばれた新京1の繁華街で吉野町と呼ばれていた。
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▼昭和53年(1978年)頃の吉野町。まだまだ日本時代がしっかり残っている。というよりそのままだ。
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20年前なら、もっと多くの日本時代の建物が残っていたという。
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しかし長春は明らかに私を見る中国人の視線は冷たい・・・観光地でも無いのに「何しに来た!?」的な顔で見られる
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絶賛取り壊し中の日本時代の建物。
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建物自体の低さと赤煉瓦で、当時物と現代物との見分けが直ぐつく。
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現在に至っても日本時代の建物に住んでいる方達は恐らく貧困層なので、撮影の際は細心の注意を払わないと怖い。
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上海・鄭州・大連・瀋陽・長春と訪問したが、明らかに長春は何か雰囲気が違う・・・ブラブラしている人も多い。
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暇な人ほど政治的な事を言い始めることが多いので、街の人と話した訳では無いが、この雰囲気も納得出来た。
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でも、何かいいな~。昔の日本人が建てた西洋と和がミックスされた独特の建物・・・。DSCN0261_convert_20170521114118.jpg
▼この建物も恐らく最上階部分は増築だろう・・・。
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▼当時学校があった場所にはほとんどが(建物は建て替えられているが)そのまま学校だ。
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▲此処は古地図では室町小学校・家政女学校・公学校となっている広い敷地だ。
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▲何て書いてあるのか読めないが、「教師」っぽい字が書いてあるので、現在は教員を育てる学校の様だ。
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▲そうしているうちに、当時満鉄病院だった場所に到着。建物は全て建て替えられているが、現在も病院だ。
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ここで母が生まれたのか・・・感激だ。しばし病院を眺めていた・・・敗戦後、満州引き揚げ者の多くが命を落とした。
祖母の話では、当時赤ん坊だった母を抱えての日本への引き揚げは、想像を絶する悪条件での帰路だったという。
もし、祖父母と母が、帰国途中に、満州や朝鮮で命を落としていたら、今の私は存在しない・・・。
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▲これは当時の建物っぽいが良く解らない・・・。
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▲当時の満鉄病院
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旧満鉄病院付近にも当時の建物は多少残っていた。
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▲煙突から煙が出ていたので、現役で中国人住居として使用されている様だ。
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長春は見た目的には大都会に変貌しつつある様に見えるが、街の人や車を見ても裕福な人が多いとは言えない・・・
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恐らく70年以上、ほぼそのまま住んでいるのだろう・・・崩壊寸前の住居が多い・・・。
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これ以上日本時代の住居を追い求めるととんでもない事に巻き込まれそうなのでこのへんで撮影を止めた・・・
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でも、中国人は根は優しい人が多いんだけどな・・・「中国残留孤児」。見捨てられた日本人の子を育ててくれた。
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▲「抗日」「反日」の中国で、日本車を愛用してくれている中国人も沢山居る。有難い事だ・・・。
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中央通に戻ってきた。当時西公園と呼ばれた場所が正面に見える。現在も公園の様だ、観覧車が見える。
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▲当時の西公園正門を描いた絵ハガキ(昭和13年児玉源太郎大将の銅像設置後、児玉公園と名称変更された)
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▲西公園前の巨大な交差点。
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当時の西公園。冬はスケートリンクも営業していた様だ。寒さで池の水が氷るのだろう。
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▼建物は近代化されても区画や道幅は当時のまま発展させている。
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▼中央通を更に南下していく。
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▼歩道からの景色を絵に描いている人が居た。上手だった~。
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しばらく歩くと写真などで見た事のある特徴ある建物が見えた。
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旧関東軍司令部だ。しっかりそのまま残っている。
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▼当時の関東軍司令部(名古屋城をモデルにしたと言われている)
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祖母から聞いている関東軍の話は悪い話が多い。昭和20年8月9日のソ連侵攻後、居住民(日本人)を見捨てて真っ先に
朝鮮方面に南下、新京関東軍司令部をはじめ、軍の施設を放棄し、さっさと逃げて行ったという。
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▲これは旧関東憲兵隊司令部(関東局)
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▲当時の関東憲兵隊司令部
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▲この建物は旧大興ビル。
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▲当時の大興ビル。当時と比べるとこのビルも5階6階部分が建て増しされている事がわかる。
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▲長春市第5中学となっている所は当時、長春市新京白菊小学校。
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▲長春市第5中学付近の大きな交差点
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▼▲これは長春市第5中学付近にあった公衆便所
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▼今もひっそり残る東本願寺満洲別院(敷地全体が工事中の為、敷地内に入っての見学は出来なかった)
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▼外から見るとこんな感じなので東本願寺全容を伺い知る事は出来ない。
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このあたりも一筋奥に入ると日本時代の住居がちょこちょこ残っている。
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しかし、ほんとんど面影は無いと言ってもいいかな・・・とにかく車の量が多過ぎる・・・。
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新京の南西郊外の孟家屯(もうかとん)には陸軍100部隊(関東軍軍馬防疫廠)があった。
100部隊は軍用動物の衛生管理・研究などを目的とした部隊(約700名)で、組織上は関東軍に属していた。
終戦時の部隊長であった若松有次郎の名を冠して、若松部隊と呼ばれることもある。
軍馬に代表される軍用動物の衛生管理を任務とし、動物の感染症研究や血清の製造、軍馬移動時の検疫作業などを行っ
ていた。補充馬廠などで軍用動物の衛生管理を行う兵員の教育機関としての役割もあった。
更に、防疫対策のみならず、敵国の軍用動物や家畜を標的とした攻撃用の生物兵器(細菌兵器)の開発をも進めていたと
も言われる。攻撃用の研究かは不明だが、日中戦争が勃発した昭和12年には所属の軍人・軍属の一部が軍用細菌の試験
研究も行っていたという。対人用の生物兵器研究機関だったと言われる哈爾浜郊外の関東軍防疫給水部本部(731部隊)
とは、密接な協力体制にあったという。
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この先は当時「皇居」建設予定地だった所。現在は公園だそうだ。本気で皇居を東京から移す予定だった様だ。
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この辺りはもう近代化されて、日本時代の建物は見かけない
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時期的には春になりつつあるが、気温は15度くらいで肌寒い。
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真冬はマイナス30度以上。平均気温も5度程度だからスクーターは辛いね・・・でも電気スクーターは沢山走ってる。
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日本人が夢を描いて移り住んだ新天地と言うが、私はあまりピンとこない土地だな・・・寒過ぎる・・・。
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▲これは日本時代の建物を外観だけ綺麗に手直ししてあるな・・・当時物の煙突が建物中央を突き抜けている。DSCN0382_convert_20170522124559.jpg
▼しばらく歩くと当時「興安橋」と呼ばれた短い橋が見えた、当時のままだそうだ。DSCN0385_convert_20170522124637.jpg

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▼橋の下は鉄道が走っている。右側の線路は新設の高速鉄道。左側(貨物列車)は当時のままの満鉄線だ。
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それにしても長~い貨物列車だ・・・なかなか通り過ぎないので、永遠に続くかと思った・・・アメリカなみだね。
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▼「興安橋」を渡り終えて振り返って撮影。
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祖母は楽しい思い出として、「興安橋」を渡り、新京競馬場へアルバイトに行った事があると私に話してくれていた。
ソ連参戦、日本敗戦で新京で起こった混乱の中、命を落とした日本人の「日本人埋葬場所」となった「新京競馬場」。
そして、「新京競馬場」は今どうなっているのか?と更に南下した事が裏目に出てしまった・・・。
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▲「興安橋」を過ぎて更に南下したが、新京競馬場らしき場所が見当たらない・・・DSCN0395_convert_20170524115823.jpg
▲これも日本時代の建物っぽいな~。と撮影していると、警察車両が来て話しかけてきた。
当然、中国語での会話は噛み合うはずも無く、近くの警察署で事情徴収される事になってしまった・・・。
どうやらこの辺りに軍の航空大学があるらしく、付近の住民からの通報で見回りに来たとの事。怪しい日本人と思われ
てしまった様だ・・・。別に悪い事をした認識は無かったが、日本時代の古い地図を頼りに散策していたので、その様
な施設周辺に来ていた事に気ずかなかった。「あなたが撮影して歩いている場所は軍の関係施設ですよ、気をつけなさ
い。」と少々説教された。通訳を呼んでくれていたので疑いも晴れ、少々長い拘束時間となったが昼時だったので食事
も頂いた。最後は警察署長と思われる美しい女性が「Welcome to China」と、笑顔でパスポートを返してくれた。
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▲「皆で記念写真を」と頼んだが、断られてたので建物だけの撮影となった。知らなかったとはいえ、何処の国でも軍
関係の施設は神経を尖らせる場所。長春の警察署の皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした、以後気を
つけます。真摯な対応、有難うございました。(残念ながらこのブログは中国では閲覧出来ないんだけどね・・・)
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気を取り直して、祖父母が暮らした満鉄寮に向かう。
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祖母からうる覚えの住所を聞いていた、「新京特別市昌平街」と・・・。
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古そうな赤煉瓦塀だな・・・と思い古地図を見ると、その敷地は当時「桜木小学校」となっている。昌平街は近い!
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▼当時の「桜木小学校」は現在、長春市第二中学校となっている。やはり学校跡は今も学校だ。
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これは当時の校舎では無いだろう・・・中国の建物は何もかもがBIGだ・・・中学校といえど立派な建物だ。
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しばらく歩くと昌平街だった辺りだ。
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この辺りだ、見つけた!現在も昌平街だ!!感動!
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祖母の話では自分達の住んでいた満鉄寮(満鉄社宅)の道挟んで前は、軍の官舎だったと聞いていた。
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▲当時軍の官舎とされていた場所は現在、温泉施設になっていた・・。という事はこの向かい側か!
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▲祖母からは、当時2階立ての建物で、4つの家族が入居していたと聞いていた。真ん中に階段があった様で、それぞれ
の部屋は階段を挟んでわかれていたという。日本でよくあるアパートの様な感じだ。
「赤煉瓦」では無かったという話から、恐らくこの建物ではないだろうか、それっぽい建物はこれしか見当たらない。
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祖母が番地を覚えていなかったので、この昌平街607がピンポイントかどうかは分らないが、多分此処だろうと思った。
祖母の向かいは村山さん。青年部の先生をしていたそうで、新潟出身の方だったそうだ。その下は赤塚さんだそうだ。
祖母は山田。下の階は名前は忘れたが、機関室(現場)勤めの方だったそうだ。情報ございましたらご一報下さい。
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▲正面側から見ると増築部分や新たに付け加えられた部分がはっきり確認出来る。
満鉄寮の写真や現存する建物を見た事が無いので断定は難しいが、祖母への聞き取りや写真を見てもらい、恐らく
あっているだろうと結論付けた。帰国後、写真を見た祖母は感激していた・・・本当に良かった。
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祖母に写真を見せても番地はやはり思い出せなかった様だが、新婚時代を過ごした昌平街の今を見て感激していた。
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感激を胸に昌平街を後にする。祖母が生きているうちにこの写真を見せる事が出来て本当に良かった。
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▼隣の筋も確認したが、昌平街では無いので、探し当てた場所は間違っていないはずだ。
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しかし、中国はそこらじゅうに警察車両が停まっているので、日本の田舎者の私は少し恐怖症になってしまった・・・
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▲さらば「昌平街」(しょうへいがい)
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▲そして有難う、昌平街。何度も振り返りながら目に焼き付けた。
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大きな通りまで出て、長春駅(旧新京駅)まではバスで戻った。
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▼長春駅の地下街は柱に暖房設備が確認出来る。
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▼お湯を建物中に巡らせて暖かくする昔からのシステムだ。
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▲日本では見かけた事が無いが、東北地方や北海道でまだ採用している県はあるのだろうか。
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▲長春でも吉野家に行った。
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▼中国の吉野家は、それぞれの地方でメニューや盛り付けが違う様だ。そしてセットメニューが瀋陽店よりも安い。
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▼これは28元(約470円)長春の吉野家はいまいち。今まで食べた吉野家の中で1番美味しくないと言っても良い。
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▼地下街の柱に観光案内があった。「偽満‘八大部‘」この8つの日本時代の建物は時間が無く行けなかった・・・。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その3「長春(旧新京)旅行記」を終わりとします。
次回は、その4「哈爾浜旅行記」をお届けします。


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 2017_05_21


瀋陽は満州国時代、奉天と呼ばれた場所。1636年、満洲において建国された清国(しんこく)の首都とされていた所。
清国は1644年~1912年まで中国を支配した最後の統一王朝である。後に首都は北京に移された。
今回の瀋陽へ行く目的は「九・一八」歴史博物館に行く事。
昭和6年(1931)9月18日旧奉天郊外の柳条湖で「南満州鉄道が中国軍によって爆破された」という関東軍自作自演の謀
略事件「柳条湖事件」(満州事変)によって関東軍は軍事出動。張学良の中国軍を攻撃、満州全土を制圧し、翌年満州国
を建国。結果的に日本が泥沼の日中戦争へ、そして太平洋戦争(大東亜戦争)へと突入していくきっかけになった場所だ。

▼大連駅から高速鉄道で瀋陽北駅に向かう。
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▼瀋陽北駅に降り立つ。
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▼瀋陽北駅前の風景。此処も大都会だ・・・。
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▼大きな駅前広場は何処も警備が徹底している。流石中国
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▼瀋陽北駅。しかし高速鉄道が停車する駅は何処も大きな駅舎だ・・・。
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広すぎて自分が何処の出口から出て来たのか分からなくなってしまう・・・。
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▼小腹がすいたので駅前で食事が出来る所を探す。
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中国にも美味しいお店は色々あるのだろうが・・・。DSCN0154_convert_20170520191345.jpg
▼「吉野家」を発見!結局安全パイで吉野家に行く事に。
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中国に行くと、歴史では色々あったにもかかわらず日本企業の進出にはいつも感心する。
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セットメニューで36元。日本円で600円程だ。
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これが非常に美味しい、台湾や日本で食べる吉野家より美味しかった。今まで食べた吉野家で1番旨い!
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▼完食してバス停に向かう。
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▼私の乗ったバスはディーゼルエンジン車だったが、中国ではハイブリッドバス・電気バスが沢山走っている。
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写真を撮っていると中国人の物珍しそうに見る視線がちょっと怖い・・・相手も日本人と直ぐ解っている・・・。
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▲これはハイブリッドバス。乗ってみたが、ほとんどEVでの走行だった。
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▲30分程で「九・一八」歴史博物館前に到着。市バス?は、だいたいが1元。距離が長くなると2元の場合もある。
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▲ついに「九・一八」歴史博物館に来た・・・。
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▲「九・一八」博物館入口前には多くの屋台が出ている。
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▲入口の門を入るとまず左手に「警世鐘」が現れる。
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▼次にあるのは博物館の見取り図かな。
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そしてドーンと大きな建物が現れる・・・写真では見ていたが、実物は想像を超えた大きさだった・・・。
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▼裏側。関東軍作戦参謀石原 莞爾(いしわらかんじ)はあの世でどう思っているだろう・・・。
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▼人と比べて頂ければ大きさが解って頂けると思う。
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▼振り返って入口門付近を撮影。
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▼日本語訳が無いので良く解らないが、「柳条湖事件」の現場から運んで来た物だと思う。
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他にも日本が残した色々な物が屋外展示してある。
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▲昭和7年7月と刻まれている・・・昭和7年(1932年)は満州国建国の年だ・・・。
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▲昭和7年3月10日以外はよく読み取れなかった。
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▼誰かのお墓の様だ・・・当然日本人の墓だろうけど・・・。
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▼満州事変殉職社員記念碑って・・・自作自演の爆破で満鉄の日本人社員が亡くなったという事か・・・。
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▼館入口に向かう。
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▼▲何を表した銅像なのかよく分からなかった・・・。
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中国の思想は一貫して「抗日」これは満州建国前から現在まですっど変わっていない。それを踏まえて見学する。
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▼いよいよ館内に入る。入場料は無料だ。
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よくこんな沢山残っているもんだ・・・。
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これも初めて見る様な気がする・・・日本軍94式山砲
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物凄く保存状態がいいな・・・「激戦」と呼べる様な戦いにならなかったからかもしれない。
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張学良の中国軍は不抵抗方針。世界の世論に日本の謀略を訴える作戦に出た。(当時は志那と呼ばれていた)
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当時の関東軍司令官は本庄 繁。1ヵ月前に旅順に着任したばかりだった・・・その為関東軍の謀略を知らなかった。
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そして作戦参謀石原 莞爾に説得された本庄は、満鉄沿線の主要都市への攻撃命令を下してしまう・・・。
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▲当時の軍服だろう・・・満州国は大連あたりの冬は-23度、奉天・新京・哈爾浜と北へいくにつれてもっと寒い・・・
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当時の中国(支那)は沿岸部辺りに清国を倒した蒋介石率いる中華民国が。山側に毛沢東率いる共産党政権。中国を狙う
諸外国との複雑な関係の元に置かれていた。満州国は清王国が明王朝を倒し、中華民国に清王国が滅ぼされ、中華民国
首都を奉天(現瀋陽)から北京に移して栄えていたので、事実上は満人が暮らす荒野が広がる大地で、蒋介石も内戦の忙
しさもあってか、さほど満州地域には興味を示してはいなかった様だ。
なので「誰の物でも無い」という言い方も出来るが、日本の土地で無かった事は明らかであり、元々日本人が暮らして
いた土地では無い事も事実である。
そこで日本は、清王朝最後の皇帝「溥儀」を招いて清王朝復活の形で満州国を建国したのだった・・・。
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とはいえ中国(支那)は「抗日」が旗印・・・反日派を日本は厳しく取り締まったという。
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▲▼太平洋戦争で戦利品として米兵が欲しがった日本軍の軍刀が沢山展示してある。血の演出が中国らしい。
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▼南満州鉄道株式会社が経営していた撫順炭鉱(平頂山事件)の事か・・・このへんは勉強不足でよく知らない。
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▼本物では無いと思うが、この演出が凄い・・・。
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この後の展示は哈爾浜郊外にあった「731部隊」に関する展示に移っていく・・・実はこの後、この旅の真の目的であ
る長春(旧新京)へ行った後、哈爾浜にも行く予定だ。そして731部隊本部跡を見学する予定だったので、ここでの731
部隊に関する展示資料は「哈爾浜旅行記」でご紹介しようと思う。
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▼凄い量の銃だ・・・。
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▼日中戦争当時、アメリカは蒋介石率いる中華民国を支援していた。
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▼▲「第二次世界大戦時のアメリカン軍用ジープ」と説明書された米軍のジープが展示されていた。
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▼あぁ・・・「日本投降」か。昭和20年8月15日の敗戦の事か・・・。
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中国での戦犯裁判の事か・・・。
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国民党政権によって撫順戦犯管理所(遼寧省撫順市)で日本の戦犯裁判が1946年~1949年に行われた。
149人に死刑判決が下された他、350人以上に有罪判決が下された。1949年の中華人民共和国の成立を受け、共産党
政権はこれとは別に、ソ連が拘束していた旧日本軍人ら約1000人に対して独自の審査を行った。
大半は「不起訴処分」とされたが、計45人が1956年に瀋陽と太原の2カ所で開かれた「日本戦犯特別軍事法廷」で裁
かれ、最高で禁固20年の判決が出た。
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▼主だった方のお名前だろうか・・・そういえば撫順戦犯管理所に 戦争犯罪人として抑留された日本軍人が帰国後の
 1957年9月24日に結成した 団体で中帰連(ちゅうきれん)ってあったな・・・。
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昭和25年(1950年)日ソ友好条約の締結時、一部の捕虜はスターリンから中国にプレゼントされ、撫順に収容された。
そして彼ら(捕虜)自身が「鬼から人間に戻った」と言わしめた洗脳が始まった・・・。
戦犯の処置は新中国の重要な国家政策として周恩来が直接指揮をとり、管理は司法部ではなく公安部が担当した。
公安部長の羅瑞卿は、延安で多数の日本兵捕虜を洗脳し、日本軍の正面に送り出してきた捕虜政策のエキスパートだ。
哈爾浜の尉官級以上の捕虜達も「学習」が続けられ「総括書」を書かされた。
これは、学習して得た共産主義の認識に基づき、過去の自分を自己批判しろということである。
罪は重くても完全に共産主義思想になった者は許す。逆に軽微な罪行でも思想を改造出来ない者は重く処罰する、と言
われた様だ。中国は共産主義思想に転向してこそ初めて「過去の旧思想時代の犯罪を自供出来る」としていたからだ。
「思想改造」と「認罪」の同時工作であり、中国国内の反革命分子に行使した方法と同じであった。
ソ連の氷点下30度を下回るシベリアで、強制労働のご苦労をされたシベリア抑留者達に植え付けた共産主義思想と同じ
である。日本語にはない罪行や、中国側のでっち上げ事件や過剰な言い分まで認めざるを得なかった場合もあった。
「とにかく、一日でも早く日本に帰りたい。」そのことしか捕虜の頭の中には無かったからだ。これは同情出来る。
撫順に収監された戦犯の中で、下士官・兵などは特に戦争犯罪など起こしていない人ばかりである。
理由もなく6年も監禁されたのに、自ら戦争犯罪人を認める自白をし、不起訴になったので中国の温情に感謝し、看守
達と抱きあって泣いたりしたのだった。日本に帰還出来る嬉しさと、ようやく戦争が終わった感での感激の涙であろう。
帰還した元日本軍将兵の中には日本に帰っても洗脳が解けないまま余生を送った人達も居た。
同様のことは朝鮮戦争で人民解放軍に捕まったアメリカ兵にも行われたという。
中国のやり方をとやかく言うつもりは無い。それが中国の常識であり、日本やアメリカの常識とは違うだけ。
どちらが正しいも間違っているも無い。「人類皆兄弟」と言っても、人種・国家・思想は皆それぞれ。
違いを武力で解決しようとすると結果、この様になる。そういう事だと思う。

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やっと肩の力を抜いて見学する事が出来るな・・・。見学しながら自分が平和な時代に生まれた事を感謝した。
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田中角栄も頑張ったよな・・・個人的には好きだった。
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あらら・・・また雲行きが怪しくなってきた・・・靖国神社問題か・・・。
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うぅ・・・中国の言いたい事も解るが・・・。「歴史教科書を歪曲」って・・別にそんな事してないと思うけど・・。
確かに中国側から見ると「靖国参拝」は気にいらないだろうね・・・。でも靖国神社に祀られているとされる御霊は日
中戦争の犠牲者だけじゃないからね・・・そこが難しい所。日本を破滅に追い込んだ無能な軍国主義者達も一緒に祀ら
れているから私は参拝した事無いけどね・・・でも上京時、行ける時には千鳥ケ淵戦没者墓苑に手を合わせに行く。
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▲博物館出口に、「まとめ」と題してある大きな石碑の日本語訳は以下の通り。

展示館を出ていこうとする時、中国人ならおそらく誰でも心から血が流れ、頭に次々と疑問符が浮かぶだろう。
なぜ、日本帝国主義は大胆にも堂々たる大国であるわが国に対して凶刃を向けたか?ここにある写真はすべて揺るぎな
き事実であるのに、なぜ今に至っても歴史を直視せず、ひいてはそれを歪曲し、改ざんしているものがいるのか?
「立ち後れれば喰い物にされる」といわれるが、なぜ立ち後れたのか?ここに展示されている犠牲者たちの生前の写真
は大声で叫んでいるような気がする。何を叫んでいるだろう?「国民がこの国の英雄を忘れた時、国は滅びる」とか、
「過去の苦難を忘れ去ったら、苦難は再び訪れてくる」とか、「自分から努力せよ」とか「中華の振興については一人
ひとりに責任がある」というようなことを教えているのではないだろうか?

と、書いてある。
うぅ・・・中国と日本との2国間の問題としては言いたい事は何となく理解出来るがこれは本当に難しい。
確かに「関東軍が勝手に・・・」とか、色々言い訳はあるだろうが、結果国家としてやった事を日本は何でも言い逃れ
する傾向は確かにある。「天皇に責任が及ばない様に」とか、「部下の強い意志で特攻兵器を開発した」とか・・・。
「まとめ」の日本語訳は、日本語としても日本人が読むと色々な意味で非常に難しい文章だった・・・。
日本にはこの様な、ある意味徹底した「歴史博物館」は無い様に思う。これが敗戦国の定めか・・・。いや、もし出来
たとしても、右か左、どちらかに偏った博物館しか出来ないだろう・・・それならば無い方が良いのかもしれない。

▼別室では撫順炭鉱(平頂山事件)の事を紹介していた。特に詳しい訳でも無いのでさらっと見学した。
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ここには原爆の事も紹介されていた・・・。
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この展示室には日本語訳が無いので、写真で何となく判断するしか無かった。
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英語訳も日本語訳も無かった様な気がする。ま、見る人に「抗日」を訴えたいのだろうと勝手に理解した。
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そしてお土産屋の様な区間を通り、博物館の外に出る。
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▼博物館を出て目に飛び込んでくるのが、この大きな文字。(日本を)「許すけど・忘れない」これが中国の本音だね。
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▼記念写真を撮る中国人夫婦と比べて頂ければその大きさが解って頂けるであろう。
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博物館を出て、屋外展示に行くと、ソ連軍の戦車が見えた。
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第二次大戦中の米軍戦車は何度も見た事があるが、やはり日本軍のおもちゃの様な戦車とは大違いだ・・・。
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▼戦車の隣に展示しているこれは何だ??
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成程・・・日本企業が敗戦後置いていった物をそのまま2000年頃まで使ってたんだね・・・。
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▼満州時代の空襲警報機か・・・日本本土でも同じような機械はあったんだろうな・・・。
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満州国よりも本土の方は空襲は頻繁だっただろう・・・ってか満州国ってソ連侵攻まで空襲はあったのかな・・・?
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重たい気持ちのまま「九・一八」歴史博物館を後にした。しかし、遠路遥々見学しに来た事を後悔はしていない。
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館内は撮影OKなので、出来る限り写真を撮っていたが、SDカードの容量が無くなってしまった・・・。
そこで、瀋陽に(中国に)唯一あるというヤマダ電機瀋陽店に買いに行く事にした。
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とりあず瀋陽北駅まで戻る。
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▲ここから1元の範囲だったがバスに乗ってヤマダ電機ある場所に向かった。
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一時期は中国に数店舗展開していた様だが、次々と撤退し、現在は瀋陽店のみとの事だ。
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店内は閑散としていた。DSCN0143_convert_20170519084335.jpg
本当は直ぐにでも撤退したいらしいが、瀋陽店は直ぐ撤退出来ない訳があるらしい・・・。
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社名が「パナソニック」に変更になってかなり経っているが、中国語では松下電器のままなのか・・・。
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従業員もとても暇そうだ。
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中国に限らず、どこもネットで購入してしまう時代・・・大がかりな取り付け工事が無ければ安いネットに客は流れる。
お目当てのSDカードは在庫処分の格安4GBを2枚買ってお店を後にした。
以上、中国東北部(旧満州)旅行、その2「瀋陽旅行記」を終わりとします。
次回は、その3「長春(旧新京)旅行記」をお届けします。

※「九・一八」博物館見学をご希望の方はご連絡下さい。中国では現地で中国語を話せないと厳しい面が多々あります。
 信用出来る現地付き添い人(中国人)をご紹介します。
 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2017_05_16

大連

Category: 中国東北部  

仕事で中国は何度か訪れた事があるが、今回は初めての中国東北部。祖父母の軌跡を辿る旧満州国の旅。
御歳94歳の祖母が、満鉄勤務だった祖父(故人)とともに暮らした新京(現在の長春)を見学しに行った。
母も新京(長春)の満鉄病院で生まれている。目的は長春だが、折角初めて東北部に行くのだからと、日本時代(旧満州
国時代)の「夢の残骸」と戦跡なども、出来る限り同時に見学する事にした。

まずは大連空港に降り立ち、中国東北部旅行の起点とする。(大連空港は元旧日本海軍の作った空港)
大連空港から地下鉄で大連駅周辺へ向かった。地下鉄で中山広場駅まで行く。
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近年乗り物内でのマナーUPが徹底され、初めて中国を訪れた2010年に比べて格段に綺麗で静かになっていた。
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▼この様な注意書の効果もあってか、高速鉄道に乗っても携帯電話で大声で話す人もみかけなくなった。DSCN9818_convert_20170517132351.jpg
▼中山広場駅で降り、地上で出るとやはり空気は良くない。直ぐに喉が反応してきた・・・私は結構敏感な方なのだ
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大連中山広場(だいれんちゅうざんひろば)と呼ばれる場所は日本時代が色濃く残る観光名所。
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主に20世紀前半の欧風建築群。現存する10棟のうち7棟が日本人建築家による設計だという。
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▲▼中山広場の欧風建築群。これは旧大連警察署。当時約22万人の日本人が暮らしていたという。
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▼当時の大連警察署
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ロシア時代(ダルニー)と旧満州国時代が色濃く残る街、大連。(遼東半島(りょうとう)の中華人民共和国大連市)
関東州(かんとうしゅう)と呼ばれた地域は、ユーラシア大陸の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借地。
1905年(明治38年)日露戦争を終結させたポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した地域で、日本
人はここで昭和20年の敗戦まで植民地経営を行っていた。
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▼▲ヤマトホテル。旧南満州鉄道株式会社が経営していた高級ホテルブランドで現在もホテルとして健在。
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▼当時のヤマトホテル
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▼大正9年(1920年)頃のヤマトホテルからの眺め。真ん中に写っている建物は正金銀行。
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▼現在のヤマトホテルからの眺め。旧正金銀行が現在も残る。
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周囲を見渡すと、近代化された中国の印象に負けず劣らず存在感を放つ欧風建築群。
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当時の世界は、いわゆる「帝国主義の時代」。軍隊や経済の力で他国や異文明を破壊し、植民地支配することが、ごく
当たり前の様に行われていた。日本も外国に負けじと満州国を建国し、植民地経営の夢の途中だった・・・。
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▲旧大連市役所の建物が手前に見える。
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▲写真はヤマトホテル2Fにあるヤマト喫茶店から撮影した。
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▲店内には夏目漱石の写真や日本時代に撮影された写真なども飾ってあり、非常に心地よい店だった。
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▲旧大連市役所
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▼当時の大連市役所
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▼南満州鉄道本社
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▼当時の南満州鉄道本社
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▼コの字型の建物だが、とにかく大き過ぎて1枚の写真におさまらない・・・。
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これが満鉄本社か・・・と、満州国野望の夢の残骸を見ている様だった・・・さすがに劣化は進んでいる。
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▲完成当時の大連駅(1937年/昭和12年完成)
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▲ライトアップがとても綺麗な現在の大連駅。当時のままの姿に感激する。
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大連の街には日本時代の路面電車が当時の姿で走っている。路線はかなり縮小されているが広島の様だった。
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▼日本時代のままの旧三越百貨店。当時はグレー色だったそうだ。
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▼日本時代の商店建築群がそのまま残る商店街。
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▼これも日本時代かな・・・街を歩いていると何となく解る様になってくる。台湾で目を鍛えられたからかも。
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▼近代化されても区画はほぼ当時のまま。もう日本では見る事の出来ない何か懐かしい感覚を受けた。
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▼ロシア時代の教会を利用して営業しているKFC
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▼大連駅周辺から少し離れるが、これも日本時代に建てられたものらしい。東京大学になんとなく似ている。
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▼▲カッコいいベンツがとまっていたので思わず撮影!
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大連は裕福な人が多い様だ。BMW・アウディーは当たり前、フェラーリやランボルギーニも走っていた。上海みたい!DSCN0136_convert_20170510234323.jpg
▼▲日本未発売の新型RAV4も多く見かけた。日本車なのに日本で売ってない車種も多くなったな・・・
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▼ホンダ車は多くみかけた。もちろんトヨタ車や日産車も見かけるが、ホンダが頑張っている印象を受けた。
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(話を戻します)
[ ロシア租借地時代 ]
日清戦争で日本が清朝(当時の中国)から割譲された領土の内、遼東半島はロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉で
返還する事となった。
1898年(明治31年)にロシアは遼東半島の一部を25年の期限で清朝から租借した。ロシアはここに旅順軍港を築港。
1900年(明治33年)義和団事件が勃発し、ロシアは満州を制圧する。
1902年(明治35年)日本はイギリスと同盟を締結してロシアに対抗する。この同盟が功を奏し、4月ロシアは満州撤兵
に同意した。しかし1903年(明治36)4月になっても約束の第二次撤兵を履行せず、更に5月には満州のロシア軍の一
部を森林保護の名目で竜岩浦朝鮮に進出させてきた。更にロシアは大韓民国と租借条約を結ぶ。
日本は強硬に抗議し、大韓民国政府は条約破棄を声明。しかし、ロシアは無視し、要塞工事に着手しポート・ニコラス
というロシア風名称に改称しました。ロシアは10月8日奉天を占領。清国軍を追い出し、日本が入り込めない様にする。
日本は外交交渉として1903年(明治36年)8月から翌年1月まで「清国の独立と領土保全」「大韓民国での利権承認」を
中心に主張するも、ロシア側の条件はとても日本が受け入れ難いものばかり。ついに日本は満州に戒厳令を布くに至り、
戦争準備を急ピッチで進めた。1904年(明治37年)1月13日、日本はロシアに最終提案を行うも、ロシアは何ら回答せ
ず、2月4日、ロシアと国交を断絶する。そして日本は巨大な国ロシアと、国運をかけて戦う事になっていく。
日露戦争(1904年[明治37年]2月6日~1905年[明治38年]9月5日)で遼東半島の旅順は日本とロシアの激戦地となった。
1904年[明治37年]11月27日AM10:00大本営から203高地総攻撃の命令が出され、激戦地跡が今も残っている。
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訪れた時はちょうど花見の季節、観光客で賑わっていた。数年前までは日本人が立ち入る事が出来なかった所だ。
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花見の時期では無い時は、この様な料金ゲートは無く、車でもう少し上まで行けたのだが・・・。
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しかし、中国で花見などこの先見る事も無いのでいい経験になった。
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中国人観光客に交じって花見をしながらゆっくり歩いていくと203高地が見えてきた・・・。
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9日間の戦闘で日本・ロシア合わせて約20000人の兵が犠牲になった激戦地を今やっと見学出来る・・・。
▼現地の司令官は乃木希典(のぎまれすけ)陸軍第三軍司令官。乃木は203高地総攻撃に消極的だったという。
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ロシア軍旅順要塞は、当時世界最強とも言える近代要塞に生まれ変わっていた・・・
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桜見区間を越えていよいよ203高地戦跡地区に入っていくが、要塞っぽい遺構はまだ見ていない。
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▲日本語表記もある案内板
読んでみると・・・
日露戦争の遺跡ーーー203高地
203高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪し合っていた旅順西部戦線における主な戦場である
旧日本軍が1904年9月19日からロシア軍周り陣地を奪い取った後、203高地に向かって総攻撃を行い始め、
 66日間続いて12月5日にその高地を攻めおとした。当該戦役の中に旧日本軍は万人以上、ロシア軍は
5千人以上死傷した。
 旧日本軍が203高地を奪い取った後、すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮しながら旅順口を砲撃し
た。その結果、港にあるロシア軍艦は砲撃されほとんど全部沈没した。
 戦後。旧日本軍国主義の頭である乃木希典は203の(中国語の)音読みによってそれを「爾霊山」と改
名した。日本軍の亡霊を供養するために、戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のよう
な形で10.3メートル高さの「爾霊山」記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。
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「爾霊山(にれいざん)」の事か・・・なるほど・・・日本国民は騙されているんですね・・・流石中国。
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▼記念撮影する中国人も気合入ってる!日本人はあそこまで登ってまで記念撮影しないね・・・。
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▼この様な道を更に登っていく
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途中、休憩所の様な場所を境に重砲観測所跡、爾霊山など行先が分かれている。
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まずは重砲観測所跡の方へ。
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見えてきた・・・。
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「狂気じみた無差別攻撃を加え」って・・軍と軍が戦った戦場だぞ此処は。しかし此処は中国だからね・・・仕方無い
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▼日本軍の大砲に模したダミー大砲が旅順港に向けて置かれていた。適当な造りだな・・・
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子供のおもちゃには丁度良いかもね。当時設置された28センチ砲は日本軍としては最新とされていた。
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▼当時最新とされた日本軍28センチ砲
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▼旅順港が見える・・・ここからロシア艦船を砲撃したんですね・・・
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スッキリしない景色だが、スモッグはましになってきている気がした。しかし中国に来てからずっと喉はイガイガ・・
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綺麗な青空が見える日はそう遠くない様にも思う。2010年に初めて中国を訪れた時よりはかなり良くなっている。
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▼陥落後の旅順港。旅順港に停泊していたロシア旅順艦隊は、日本軍の砲撃で外洋に出る事が出来なくなった。
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▼旅順の日本軍の砲撃を受け、旅順港内で擱座(かくざ)するロシア戦艦「レトウイザン」
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次は203高地頂上にある慰霊塔(爾霊山)に向かう。
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慰霊塔が見えた。
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ここも日本語表記の案内板がある
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読んでみると、
203高地の紹介
 203高地は1904年の日露戦争の主戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい強い争
いをし、結果、ロシア軍側では死傷者は5000名余り、日本軍側では死傷者は10000名余りに達した。戦
後、日本第三司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残片でこの高さ10.3
メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊山はすでに日本軍国主義に
よる対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった。
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日露戦争を「恥の柱」と書かれたら日本人はちょっと行きにくいですね・・・日中戦争なら理解出来るけど・・・。
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▲▼爾霊山慰霊塔
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乃木将軍が、旅順戦闘での犠牲者の慰霊と戦勝を記念して無数の砲弾を鋳ぶし建立した。
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▼203高地頂上から旅順港方面の眺め。
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慰霊塔の奥にはロシア軍のダミー大砲が置かれていた。
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説明書には、
ロシア式150ミリメートルカノン砲
二〇三高地争奪戦で、高地に駐屯するロシア軍は150ミリメートルカノン砲二台と76ミリメートル速射野戦砲二台を
もって人口による散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体など防御工事により、日本軍からの進撃を粘り強く阻止した。

と書かれている・・・ロシア側には優しい書き方だな・・・悲しいけど要するに嫌いなんだね、日本が・・・仕方無い
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▲当時のロシア軍第23砲兵旅団
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▲▼再び休息所の様な場所に戻り、別のルートへ行くと、ロシア軍が築いた陣地跡が残る。
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中国は何処へ行っても人人人なので、誰も居ないタイミングでの撮影が難しい・・・。
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▼ロシア軍陣地現存区間を抜けてしばらく歩くと・・・。
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▼少し下った場所に乃木希典の次男、乃木保典戦死の地とされる場所がある。
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乃木希典は日露戦争で長兄の勝典、次男の保典を亡くしている。
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目的はどうであれ、残してくれた中国に感謝したい・・・一礼してその場を去った。
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▲この時から既に兵器の性能差は歴然としており、無謀なバイザイ突撃を繰り返して犠牲者が続出していた・・・。
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▼203高地占領後に撮影された歩兵第25連隊将校団
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203高地戦で、日本軍戦死者約16000人。ロシア軍戦死者約4000人。からくも勝利した日本は初めて西欧列強に勝っ
たという自負心を持ったという。

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下山道はゆっくり桜を見学しながら歩いた。
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この記念塔には中日友好(日中友好)の言葉が刻まれていた。此処は中国ですからね、中日友好となるよね・・・。
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日本の花見シーズン同様、食べ物を売る臨時店舗が立ち並び、非常に多くの人で賑わっていた。
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日本時代に大連で走っていた路面電車が店舗に生まれ変わっていた。
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桜の間から現在は平和な203高地を見る。
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次は東鶏冠山北堡塁(ひがしけいかんざんきたほるい)へと向かった。
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203高地からタクシーで30分程で、ロシアが作った三大永久要塞の1つ「東鶏冠山北堡塁」に到着。
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ここで帰りのタクシーを拾う事は難しいので、20元プラスして待っていてもらった。(1元=約17円)
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ここも日露激戦地の1つで、203高地とともに必ず見学しておきたい戦跡だ。
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まずは資料館へ。
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此処は日本語訳は無い。
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▼▲おそらく当時のロシア軍の武器が展示されていた。
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▲旅順での戦いで日本軍戦死・戦傷者6万人、ロシア軍戦死・戦傷者4万人と書かれている。凄い数だ・・・。
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▼資料館見学を終え、いよいよ東鶏冠山北堡塁へ向かう。
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右手に、日本の城のお堀の様な塹壕と共に見えてきた!
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これは凄い・・・戦国時代の城と同じ規模と例えたら解りやすいだろうか・・・。
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▼旅順の何処かは不明だが、当時の要塞をスケッチした物。この様な強固な要塞だった。
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この辺りは遊歩道から塹壕を挟んで向こう側を見学するしかないのだが、木々が多くて撮影しにくい・・・。
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どうやらこの辺りからが見学の見所の様だ・・・。
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道が二手に分かれている。
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まずは左側へ向かう。
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此処があの有名な日本軍が爆破して侵入した堡塁か・・・感無量だ・・・やっと来れた・・・。
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此処から日本軍は要塞内に突入していったのであろう・・・。
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大げさな言い方かもしれないが、今まで見た何処の戦跡よりも弾痕が多いと感じた・・・。
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旧日本軍とロシア軍の凄まじい激戦地だ・・・。
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東鶏冠山砲台は難攻不落で、第1回総攻撃で予想以上に要塞が強固で、第三軍は15860名の死傷者を出していた。
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井上幾太郎工兵少佐は「築城攻撃」を提案、塹壕を掘り進め、堡塁に爆薬を仕掛けて爆破。これを繰り返し行った。
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向こう側に「入口」がある!中に入れる様だ。
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もの凄い量の弾痕だ・・・。
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いよいよ中へ入る。
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ここに突入した日本軍とロシア軍との壮絶な戦闘があった場所だ・・・。
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旧ソ連軍が作った要塞に初めて入った・・・凄い・・・時代がかなり古いが、やはり日本軍とは全然違う・・・。
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旧日本軍が開けた穴から光が差し込み中は明るい。
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中に入れる区間は短いが、それでも十分激戦の跡を感じる事が出来た。
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無数の弾痕を見ながら次へと向かう。
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銃眼付近の弾痕が半端ない・・・。
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だんだん観光客が多くなってきた・・・しかし日本人観光客とは全く会わない・・・。
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日本人が中国人を見てすぐ解る様に、中国人も日本人は見てすぐ解るとの事。
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▼かなり崩落が進んでいる・・・日露戦争だもんね・・・110年以上前の物・・・。
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ここから当時地下道で左側へ行ける様になっていたのか。正面奥は入った「入口」方面
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地上路で左側へ。
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成程、この右側の陣地に繋がっているんだな。
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これを見た日本軍は勉強したんだろうな・・・明治時代の日本各地に作られた要塞とよく似ている・・・。
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此処も中に入れる。
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入ると左右・真っ直ぐに道が分かれる。
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右はこれ以上は立ち入り禁止。
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左へ行ってみる。
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振り返って撮影。
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この辺りは指揮所だった様だ。
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左手は弾薬庫。
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弾薬庫の隣は電話室。
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更に奥へ。
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ここからは立ち入り禁止。
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ここから先は兵舎だった様だ。
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元来た道を戻る。
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元の入り口まで戻る。
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戻って、トンネルを真っ直ぐぬけて振り返って撮影。
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トンネルを抜けると開けた場所に出る。
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ロシア軍のダミー大砲が並んでいる。
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▼先程の侵入禁止部分から見学した兵舎跡を外から見る。
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最後は「東鶏冠山北堡塁」が刻まれた岩を見てバスターミナルまでタクシーで戻った。
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▼旅順のバスターミナル、大連駅から約1時間かかる。バス代は片道7元だった(1元=約17円)
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▼バスターミナル周辺を撮影。
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▼バスターミナル待合室は人で溢れている。花見の時期は避けた方が良いかもしれない。
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▼帰りはこの様に荷物検査がある。中国は電車に乗る時も必ず荷物検査機を通さなければならない。
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ある意味で中国は徹底している。治安も悪くないし、テロなども聞かない。この徹底ぶりが効果を発揮しているかも。
しかし、旅順は日本人だけでは行きにくいかもしれない。バスに乗る手順など、言葉が解らなければまず無理だろう。
伊藤博文を哈爾濱で暗殺した安重根が収容されていた旅順監獄跡にも行きたかったが、時間が無く、今回は断念した。

星海公園という観光スポットがあるというのでちょっと寄ってみた。
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海沿いに巨大な街が築かれていた。DSCN1805_convert_20170510123737.jpg
▼大連には星海公園がある。海沿いに近年完成した観光スポットだ。
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昭和20年8月15日玉音放送後、日本軍は武装解除し、大連の星海公園へ集結した。大連には関東軍380部隊が居たが、
日に日に悪化する南方戦線に次々に送られ、敗戦時には既に主力部隊の姿は無く、現地招集された兵士ばかりだった。
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日が落ちると色々な物がライトアップされ、綺麗な景色が広がる
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集合屋台の様な場所で食事をする場所もあり、白人の方も多かった。でも空気は・・・ずっと喉はイガイガ・・・。
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写真でも何かスッキリしない空気を感じて頂けると思う。
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日本の田舎暮らしで空気の良いのが当たり前の生活をしている者は一発で喉がやられる・・・中国人は強い・・・
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▼星海遊園地
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奥の高い位置に見える城の様な建物は高級マンションらしい。
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人口も多い分、富裕層も多い。流石14億人の中国。
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写真はスケートボード練習場の様な大きな場所から撮影した。
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▼当日はHUAWEI(携帯電話会社)のブースも盛り上がっていた。Appleに次ぐ第2位の販売台数だそうだ。
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しかしiPoneの人気は絶大。出会った中国人は皆iPoneを持っていた。ま、どうでもいいけど・・・。
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さぁ、帰ろう、最後に海側を振り返る。撮影場所の巨大なスケートボード場がお解りになると思う。
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富裕層の住む高級マンションは綺麗にライトアップされている。
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富裕層が住む高級マンションを眺めながらバス停に向かい、大連駅に戻った。
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▼大連駅に戻ると、かつて日本時代に建設された駅舎が負けじとライトアップされ、存在感を放っていた。
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▼旅順行のバスに乗った、大連駅北側
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▼現代自動車(ヒュンダイ)か・・・。
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▼お!三菱が頑張ってる、って三菱自動車は所有した事無いけどね・・・。
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▼大連駅から歩いて5分、旧ロシア人街と呼ばれる場所がある。
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旧ロシアの雰囲気が感じられる場所としてちょっとした観光地になっている。
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かつての古き良きロシア風建築が並んだ場所は一気に再開発が進み、一角だけが観光地やホテルとなった。
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ロシア人と出会う事はめったと無いが、短い通りにお土産屋やホテルが立ち並ぶ。DSCN2302_convert_20170510160401.jpg
カラフルに塗装され、中国人らしい仕上がりになっている。
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当時のロシアの雰囲気はあまり感じられない・・・。
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此処を観光地とするならば、せめて当時のままの姿のロシア人街を残して欲しかった・・・。
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歴史好きにとっては残念な観光地になってしまった・・・。
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しかし、距離が短いので、ちょっとしたデートコースとして最適だと思う。
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同行してくれた中国人が言っていた。
「ロシア時代や日本時代を見に来る人は多いけど、どれも中国には関係無い事や建物ばかり・・・。
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観光客が中国に来てくれるのは嬉しけど、中国人としては何か複雑・・・」と。うん、うん。言いたい事は解るよ。
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▼突き当り付近のこの朽ち果てかけの立派な建物は、何故か再開発投資の対象から外されてた様だ。
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ロシア時代には1902年(明治35年)東清鉄道事務所(ロシアの鉄道会社で満鉄の前身)→初代大連市役所にも使われた。
日本統治時代1907年(明治40年)東京から移転した満鉄の本社となり、満鉄の本社が1908年(明治41年)に現在の魯迅
路に移転後は夏目漱石も宿泊した2代目ヤマトホテルとなった。
その後、満州物質参考館→満蒙資源館→満州資源館→終戦(敗戦)。
激動のロシア時代と日本時代を見つめて来た老房子は、静かに再利用の時を待っている。
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この通りもライトアップが始まると綺麗だった。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その1「大連旅行記」を終わりとします。
次回は、その2「瀋陽旅行記」をお届けします。

日本租借地時代
1905年9月日露戦争後のロシア帝国との講和条約であるポーツマス条約で、清朝からの租借地の権利を日本が引き継
ぐ事となる。同年12月22日には、清朝との間で満州善後条約(中日会議東三省事宜条約)を締結し、この地域における
権益をロシアから日本へ移譲し、ロシア時代のダルニーは「大連」と改称された。
この租借地の名称は「関東州」であり、当初は軍政が布かれていたが、1906年[明治39年]9月1日民政に移管され、関
東都督府が設置された。その後、関東都督府は1919年4月に関東軍が分離し関東庁に改組、1934年12月には関東局と
その下部機関である関東州庁に改組した。
※1912年は明治45年(1月1日~7月30日)大正元年(7月30日~12月31日)

清朝崩壊後、関東州の租借地は1915年に中華民国との条約により租借期限を1997年まで延長された。
1919年(大正8年)関東軍が東三省全土を占拠し満洲国を建国、租借権の設定は満洲国から受けてる形式に改定された。
1937年(昭和12年)には、満鉄附属地の行政権を満洲国に返還した。
1945年(昭和20年)のソ連対日参戦で関東州はソ連軍に占領されて関東軍は降伏し、関東局・関東州庁は瓦解した。

※旅順戦跡巡りをご希望の方はご連絡下さい。信用出来る現地付き添い人をご紹介します。
 大連駅から旅順まではバスで移動出来ますが、そこから203高地・東鶏冠山北堡塁は、タクシーでないと厳しいです。
 通常は、大連駅周辺からタクシーを1日借り切って旅順周辺を巡るのが一般的です。
 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2017_04_30


[ 三高山砲台の歴史 ]
江田島市北西部に位置する三高山(標高401.8M)の北部には、ロシアとの国交が急を告げる明治31年2月を境に、
バルチック艦隊の入港を阻止する為、広島湾一帯の数か所の一つとして起工し、2年の歳月を費やして完成させた。
播州煉瓦といわれる特殊な薬焼の煉瓦で造られた幾つかの掩蔽部があり、ここには280ミリ榴弾砲6門、90ミリ速射
砲4門、90ミリ臼砲4門、弾薬庫4個、機械設備庫や大規模な巡回監視所、その他建物跡が残されている。
三高山砲台は総面積約6万坪(198000m2)あり、西日本最大規模とも伝えらえれ、近代土木技術を今に伝えている。
(案内版より)
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三高山へは車で登る事が出来る。砲台跡の側に駐車し、歩いて周る。まずは旧軍兵舎跡の方角へ。
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▲徒歩で砲台跡への道中、瀬戸内海の素晴らしい眺め。
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▲しばらく歩くと、立派な兵舎跡(掩蔽部)が見えてくる。
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▲▼この時代の要塞跡は何処も似たような造りだが、何度見ても素晴らしい・・・。
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何処の要塞でも構わないが、明治当時の姿で砲なども置き、完全復元して欲しいものだ。
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▼兵舎前には当時の赤煉瓦塀も残っている。
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▲掩蔽部と炊事場跡の隣には立派な火薬庫がある。
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▲多少リメイクされている様だがこの様な石造りの現存する火薬庫を初めて見た。
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▲▼中に自由に入る事が出来る。屋根と床は間違いなく復元されているが立派な建物だ。
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訪れる人も少ないのか落書きなども無く、非常に綺麗で静かだった。
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▲火薬庫裏のパノラマ展望台からの素晴らしい景色。
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▲兵舎跡横の階段を使って北部砲台跡に向かう。
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▲階段を登りきると砲台跡が並ぶジブリの世界・・・。
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▼兵舎跡と観測所へ続く階段。
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▼兵舎跡から登って来た階段方向をを振り返って撮影。
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▼短い階段を登ると観測所跡。
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▼再び階段を下りて次に向かう。
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▲三高山砲台は砲台跡が綺麗に残っている。
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▼赤印が現在地、三高山砲台は 小島(芸予要塞)によく似ている。
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一旦駐車場まで戻り、南部砲台跡に向かう。駐車場から歩いても数分だ。
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奥へ進んでいく。
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▲▼石敷の細い道を通らなくても済む様に直線的な道もあるのだが、あえて石敷の道を行く。
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▼トイレ跡の様な遺構。
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▼南部砲台跡が見えてきた。
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此処の兵舎跡はレンガ造りだ。
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階段を登ってみる。登り終えて下を撮影。
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▼立っているのは兵舎跡の丁度真上だ。
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▼奥を見渡すと素晴らしい陣地が築かれている。
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奥へ進んでいく
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▲此処には弾薬庫があった
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▲正規の道に降りて、来た方向を撮影
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▲弾薬庫の奥はほぼ直角に曲がって、砲台跡へと続いている。
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▲砲台跡。更にもう一つ弾薬庫が・・・、この陣地構築は大変だったであろう・・・。
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▲砲台跡から下り坂の半地下に築かれている。素晴らしい!
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▲何処も同じで中は何も無いのは解っていても覗き込んでしまう・・・。ゴミ一つ落ちてない極上物件!
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▲トイレ跡まで戻って来た。ここは分岐しているので行って無い方向へ行ったが特筆する遺構は無かった。

この後三高山砲台跡を後にし、沖美町の三高港に向かった。
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▲フェリーに車を乗せ、三高港→広島港へ。本土へと戻る
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さらば江田島、素晴らしい島だった。
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拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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(お電話でのお問い合わせは、〇九〇-二六一八-二一四四 まで)
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 2017_04_02


「沖縄戦」を深く知るツアー
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太平洋戦争(大東亜戦争)末期、日米激戦の舞台となった沖縄島。
硫黄島に次ぐ国内2番目の地上戦が繰り広げられた沖縄本島、そして国内で唯一、民間人を巻き込んだ壮絶な戦闘が約
3ヵ月にわたって繰り広げられた沖縄本島に今も残る戦跡をご案内します。
日本軍民の死者188136人、米軍の死者15050人を出した戦争の傷跡は、今も沖縄本島に多く残されています。
(日本側死者内訳→沖縄県外日本兵65908人。沖縄県出身の軍人・軍属28228人。一般住民約94000人)
離島を含んだ沖縄県民全体では約122000人以上の死者を出し、県民の4人に1人が亡くなったといわれています。

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まずはメールでお問い合わせ下さい。渡沖ご予定・希望日時等ご連絡頂いた後、ツアー期間の具体的なプランをご提案
させていただきます。お客様が満足いくツアーになる様、しっかり事前に打ち合わせしましょう。
出来る限り早め(渡沖数ヵ月前からがベスト)の打ち合わせが出来れば、より良いプランを組む事が出来ると思います。
※当ツアー参加者は、原則18歳以上、80歳以下の方でお願いしております、予めご了承下さい。
※ツアー期間によって料金は変動いたします、打ち合わせメールの際にご提示させて頂きます。(1~3名同額)
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現在の綺麗な沖縄の景色からは想像もつかない、昭和20年の戦時中にタイムスリップする事でしょう。
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「百聞は一見に如かず」実際に現場で見る戦跡は、現在の沖縄県と「戦争の無い日本をどの様にして維持していくか」を
真剣に考えさせてくれる事でしょう。
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先の大戦での多くの犠牲者の上に、現在の平和な暮らしがある事に感謝し、決してあの大戦を忘れはいけません。
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お客様それぞれ、戦史・戦跡に対する考え方は違いますが、犠牲になった方達を想う心は皆様同じだと感じます。
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[ お客様の声 ]
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定番戦跡コースで無理だった私達の希望が全て叶いました。ガイドブックでは解らない戦史でした(東京都)御夫婦様
DSCN849136_convert_20170304120257.jpg戦地で遠い先祖に会えた気がしました(京都府N様)

皆様参加される理由は様々です。特定地域の戦跡に想いを馳せる方、激戦で使用された兵器に見入る方、切削苦労の跡
が感じられる陣地壕を熱心に見学される方など、お客様のご希望に添える様、全力でサポートさせて頂いております。
 2017_03_05


「沖縄戦」でおおよその戦いの流れはご紹介したが、沖縄本島北部地域での戦闘はあまり知られていない。
沖縄美ら海水族館で本部半島を訪れる人は多いと思うが、今回は名護市を中心として本部半島の戦跡を巡ってきた。
名護市へは那覇から沖縄自動車道で向かう。1時間少々でまずは、高速道路終点「許田」にある道の駅許田で休憩。
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曇ると肌寒いが、太陽が見えた途端に暑さを感じる。流石南国だ、2月でもコートなどは不要。
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▼「道の駅許田」総合案内所屋上からの眺め。本部半島を望む。
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▼まずは名護城公園に向かう。国指定天然記念物の「名護のひんぷんガジュマル」が迎えてくれる。
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「ひんぷん」とは、家の正門と母屋との間に建てられた塀の事。外から家の中が見えない様にしたり、外から入ってく
る悪霊を跳ね返して、家の中に入れない役割だ。昔沖縄では多くの家にあったそうだ。此の「ひんぷんガジュマル」の
樹齢約280~300年と言われ、長い間名護の街の移り変わりを見てきた「名護市民の木」だ。
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名護は水が綺麗で美味しい事でも有名だ。お米も流通はしていなが名護米は美味しいと聞いた。沖縄の米栽培の歴史は
古く、県内では8世紀から10世紀には水稲栽培が行われていた。6月に販売開始するお米は「日本一早い新米」として
県内外に出荷されている。名護のお米は人気だが、地元で消費されてしまう為、なかなか出回る事は少ない。
▼沖縄と言えば「オリオンビール」。流石水の綺麗な名護市にはオリオンビール本社工場がある。
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オリオンビール本社工場を見ながら名護城公園に向かう。
▼名護城跡で直接戦闘が行われたという事は聞いていないが、米軍が撮影した古写真が気になっていた
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「沖縄戦で廃墟と化した名護市」と題されたこの写真は沖縄戦中の昭和20年5月頃に米軍が撮影した物だ。
恐らく名護城跡の何処かから撮影したものだろうと考え、その場所を探す為に名護城(なんぐすく)跡へ向かった。
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名護城公園に到着。城の遺構は現存しないが「日本の春はここからはじまる」がキャッチフレーズの桜まつりが終了し
たばかりで、まだ濃いピンクの寒緋桜が綺麗に咲いている遊歩道を散策するのも良かったが、時間の関係で頂上付近ま
で車で周る事にした。
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▼頂上までは車でどんどん登る事が出来、途中展望を兼ねた休憩所が沢山ある。
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▼毎年1月末頃が見ごろの寒緋桜がまだ綺麗に咲いていた。
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▼中腹から名護市街地を眺めてみたが、古写真より少し遠い様だ。
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頂上付近は逆に木々が多く、遠く同じアングルの写真が撮りにくかった為、反対側へ下っていく事にした。
車で下っているとそれらしい風景になってきた。車を止めて早速眺めてみる。まだ少し遠いかな・・・。
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▼駐車した場所が丁度曲がり角だった。するとよく見ると「平和の歌碑」の案内板が・・・気になるので行ってみる。
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ほんの少し走ると、小高い丘に碑が建っていた。
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此れが平和の歌碑か・・・。「岳精流日本吟院総本部」と書かれているので吟道(ぎんどう)いわゆる詩吟の世界か?
いずれにせよ本土の団体だろう。
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▲意味深い・・・。そしてそこから名護市街地・八重岳を眺めると・・・なんと古写真のアングルとよくにていた。
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▼再確認する。ピンポイントではないが、おおよそ同じ感じだろう。自分で納得して名護城周辺を後にした。
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沖縄戦が終結してから70年以上。日本復帰が決まった時は沖縄の人達は大変喜んだという・・・まだまだ復興途中では
あるが、今の国と県の対立(喧嘩)をみているとなんだか悲しくなる・・・。
気を取り直して、次に名護市役所の建物が奇抜で面白いとの事でちょっと寄ってみる事にした。
▼途中、何となく懐かしい風景を見ながら名護市役所へ向かう。
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▼名護市役所
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設置されているシーサーの数が半端ない・・・。
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確かに奇抜な建物だ。
沖縄県の役所はこの様に一風変わった建物が多い。確か糸満市役所も特徴あるデザインだったような気がする。
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市役所の反対側には琉球新報が・・・。
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国頭郡今帰仁村の運天港には、旧日本海軍第27魚雷艇隊・特攻ボート震洋隊・第2蛟龍隊(小型特攻潜水艇)が配備され
ていた。本部半島の戦闘はまず昭和20年3月25日小禄の大田実中将が、慶良間列島に集結した米艦船を攻撃する為に、
白石海軍大尉指揮する運天港第27魚雷艇隊「甲標的」・第2蛟龍隊[指揮官]鶴田大尉、大下真男少尉・第3艇隊「震洋」
特攻艇に出撃を命じたところから始まる。沖縄戦では「蛟龍」が初めて実戦投入された。
甲標的6隻、第1小隊蛟龍2隻は25日深夜出撃。第1小隊は1時間間隔で古宇利水道を出撃、基地に戻る事は無かった。
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▲運天港にあった小型潜水艦基地。8隻の小型潜水艦が寄港できるスペースがあった(昭和20年6月米軍撮影)
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▲▼現在の運天港。天然の良港だったが現在は埋め立てで更に広く便利になり、伊平屋島や宇古利島へのフェリーター
 ミナルとなっている。
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▲当時海軍が建てた門柱を利用した物だろうか。現代の物とは似つかぬ門柱が運天港入口付近にあった。
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▲甲標的などの潜水艇魚雷秘匿壕(昭和20年6月米軍撮影)
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▲▼今も運天付近に2ヶ所現存している潜水艇魚雷秘匿壕の1つ。
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▼壕の突き当りから入口を見る。現在は民家のブロック塀が見えるが、当時は直ぐ先は海だったのだろう。
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▼壕は現在民家の裏手になっており、ブロック塀と茂みの隙間から入っていく事になるので少々キツイ見学だ。
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▼画像右手奥が運天港。道路から右手は埋め立て地だ。
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当時ここまで陸地が多く無かった為、壕の前は海だったと考えられる。
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▼▲1ヶ所は入口の崩落が激しく、入壕は容易では無かった。
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▲レールが引かれV字形になっていた日本海軍魚雷秘匿壕の入り口付近(沖縄戦当時に米軍が撮影)
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▼▲沖縄本島で米軍に引き揚げられる日本海軍特殊潜航艇「甲標的」
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▼引き揚げられた「甲標的」からは魚雷が2本共発射されていた。
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甲標的丙型1隻は、慶伊瀬島北方で駆逐艦ハリガンを撃沈、昭和20年3月26日夕刻に無事帰投した。
昭和20年3月26日出撃準備中の蛟龍1隻が、空襲により沈没。夕刻、第2小隊は甲標的2隻での出撃となった。
米艦船は嘉手納沖合いに居た。明けた27日甲標的2隻は残波岬西方で米艦船を発見。襲撃は成功するも、執拗な反撃に
被弾、翌28日、両艇は辛くも帰投した。
昭和20年3月27日第27魚雷艇隊の10隻が22:30出撃。敵艦船群に魚雷16本を発射。米巡洋艦2隻撃沈、駆逐艦1隻撃
破の戦果を上げ全艇無事帰投。大田中将は功績を讃える電報を打った。
昭和20年3月29日「蛟龍隊」海上挺身第29戦隊第1中隊[指揮官]中川康敏少尉以下17隻が出撃。
本部半島西方の敵を襲撃し、中型船1隻轟沈、不詳船2隻撃破の戦果をあげる。
一方、第42震洋隊は2度出撃するも敵とは出会えず隊長の豊広中尉はジリジリしていた所、敵艦発見の報を受け、29日
夜、独断で第3艇隊12隻を出撃させたが、またしても敵に出会えず、朝の帰投が遅れ格納壕に震洋艇を収容する時間が
無かった為、海岸線の木陰に擬装しておいた所、3/30米軍機の空襲に遭い、爆雷が爆発。12隻全てを失ってしまう。
▼米軍に鹵獲されたベニヤ板で製作された日本海軍特攻ボート「震洋」
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豊広海軍中尉は自分の失策を大田司令官に電文で報告した。大田司令官は以下の返電を打っている。
「死を急ぐのみが特攻隊の道に非(あら)ず。万事、慎重に事を決すべし」と。
昭和20年3月30日約200機以上の大空襲を受け、第27魚雷艇隊は全滅。海軍運天港基地は、ほぼその機能を喪失した。
米軍の大空襲後、焦土と化した運天港海軍基地に残されたのは第2蛟龍隊「蛟龍」2隻のみであった。
▼今帰仁村渡喜仁には白石信治海軍大尉が魚雷の保管庫として構築させた壕(ハキジヌメー)が現存している。
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▼人物比較でお解りの通り入口はかなり大きく、軍用トラックで魚雷を運んでくるのにも容易な大きさだ。
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▼壕内の状態もかなり良い。地元の方達が常に清掃して頂いているからであろう。別名「渡喜仁の壕」
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▼他の坑口は崩落している場所もあるが、2ヶ所確認出来た。
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▼坑口付近で確認した文字の掘り込み。長しか読み取れない・・・。
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▼当時の物と思われる坑木も残っていた。
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▲▼流石海軍設営隊と思わせる丁寧な切削の壕だった。
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昭和20年4月6日運天港第27魚雷艇隊司令官 白石信治大尉は、小禄の上級部隊に「当隊は今より陸上戦闘移行、陸軍
国頭支隊長の指揮下に入る」と打電して国頭半島中央部の八重岳に移動、支隊長宇土大佐の指揮下に入り、陸軍部隊と
共に陸上戦闘行動に従事した。
沖縄本島北部の守備に就いていたのは独立混成第44旅団第2歩兵隊(球7071部隊)国頭支隊だった。
米軍進攻が始まった3月末に支隊本部を八重岳に移し本部半島一帯(八重岳を含む)を支隊直属部隊と第2歩兵隊第2大隊
(隊長佐藤富夫少佐以下約670名、真部山陣地)が防備。
通称宇土部隊と呼ばれた国頭支隊は、宇土武彦大佐以下500人(砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊等である
独立混成第44旅団の大半は昭和19年6月29日鹿児島から「富山丸」で沖縄へ向かう途中の徳之島南東12キロの地点で
米潜水艦に撃沈され大多数が戦死していた為、元々沖縄守備軍の中では極端に総兵力の少ない約3000人であった。
昭和20年4月7日名護方面は米軍の艦砲射撃を受ける。昼過ぎには米軍は名護に到達し、上陸を開始する。
昭和20年4月8日名護から本部半島方面に接近してきた米軍を。日本軍第3遊撃隊第3中隊が迎え撃つ。
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▲普天間周辺の町中を通り前線へと進軍中の米第27師団。上陸後、北へ進撃した部隊(4月上旬撮影)
昭和20年4月9日伊豆味付近に進出してきた米軍に対し、遊撃隊は猛射を加えて前進を阻止。
米第29連隊は日本軍に対して3方に分かれて行動を開始。第1大隊は本部半島中央部、第2大隊は半島東海岸、第3大隊
は半島西海岸に進撃。10日伊豆味付近にて西進をする米軍に対し、八重岳及び乙羽岳方面から射撃を加えて前進を阻止
日本軍は夜間米軍陣地に斬込隊を派遣して反撃。しかし西海岸の米軍は10日には渡久地付近に進出、主陣地前方の満名
付近にも米軍の一部が進出して来た。米第29連隊第1大隊は伊豆味を突破。
第2大隊は海軍が潜水艦や特攻艇を配備していた運天港を占領。運天港に残された大量の装備品や補給品が破棄されてい
るのを確認すると、現地住民から白石海軍大尉指揮する約150名の海軍兵士が内陸部山中に移動したことを聞き出した。
米第3大隊は渡具知を占領。内陸部へ(満名方面)斥候を派遣。
昭和20年4月11日米軍は八重岳地区に対し猛烈な艦砲射撃と飛行機の対地攻撃を敢行。12日早朝八重岳地区は米軍機に
よる猛烈な銃爆撃を受ける。
独立重砲兵第百大隊の平山大尉は、重砲の射撃開始を宇土支隊長に意見具申したが許可されなかった。
(結局平山隊は一発も射撃せずに、砲を破壊して本部半島から後退することになる)
乙羽岳地区の第3遊撃隊第3中隊及び302高地の鉄血勤皇隊も米軍の攻撃を受け、遊撃隊は激戦を交え小隊長3名、兵士
10名が戦死。
昭和20年4月13日伊豆味から西進した米軍は日本軍と交戦1時間の後撃退した。
八重岳の周辺に日本軍は巧みにかつ組織的に配置されていた。八重岳からは内陸部の全般と名護湾までも俯瞰できた。
急峻で複雑な地形は装甲車両の使用を制限し歩兵ですら通過が困難な地形であった。どこからこの陣地帯に近づこうと
も、幾重にも構築された地雷原と火力から逃れる事は出来なかった。米軍は八重岳の日本軍を撃滅するには現状の部隊
だけでは不可能であると判断。名護の南に居た米第4連隊に移動命令が下された。
昭和20年4月14日米軍は飛行機の対地攻撃と砲撃の支援下に08:00頃攻撃を開始。戦闘は午後から激烈となった。
「全く幽霊のような敵であった」と米軍に言わしめた戦いは、丘や渓谷から何処からともなく攻撃してくる日本軍に戦
闘を支配され、日本軍兵士に接近することさえ出来なかった米軍は、これまでの数日間による偵察で得た日本軍の攻撃
拠点を一つ一つ潰しながら西進し、伊豆味~渡具知道を確保した。
4月15日16日更に猛烈な砲爆撃を加え、東・南・西の3方面から猛攻。
宇土支隊長は戦況を考慮し「本夜転進の時機なり」とし、16日遊撃戦に移る事を命じ、第3遊撃隊(第1護郷隊)のいる
多野岳へ転進を命令。各隊は小隊・分隊の小部隊に分散し、夜暗に紛れて多野岳に向かい、宇土支隊長は八重岳陣地を
放棄した。その後米軍は4月20日北部海岸に到達。約1週間に及ぶ日本軍の本部半島での戦闘は事実上瓦解した。
米第6海兵師団は戦死207名、負傷者757名、行方不明者6名であった。
4月17日米軍は八重岳北東頂上を占領。18日、敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は4月中続いた。
※今回訪問する事が出来なかったが、「清末隊の陣地壕」が現存する。
清末隊は国頭支隊直属部隊に編成された第2歩兵隊の砲中隊(隊長清末一義中尉以下約120名)
四一式山砲4(陸軍の連隊砲)備え、主陣地の八重岳支隊本部と第2大隊本部の中間地点の本部町大嘉陽の山中で戦闘。
渡久地や崎本部方面からの米軍進攻を牽制、4月16日歩兵砲すべて破壊、中隊長清末中尉はじめ小隊長蔦井對馬中尉、
同亀田登盛曹長以下約20名が壕外への攻撃(斬り込み)を試みて全滅した。
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▲本部半島の国頭支隊司令部豪で、残していった重要書類が無いか調べる米第6海兵師団の情報収集班。
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▲行列の出来るお店「きしもと食堂 八重岳店」を目印に、八重岳桜の森公園に通じる道を登る。
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▲▼八重岳は現在八重岳桜の森公園となり、寒緋桜の名所として観光地となっている。
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▲▼しばらく登ると八重岳中腹に「三中鉄血勤皇隊・三中通信隊」三中学徒の碑がある。
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三中学徒約350名は軍名により、通信隊要員・鉄血勤皇隊員そして繰り上げ現役入隊の形で日本軍と共に戦闘に参加。
昭和20年4月下旬に多野岳で解散命令が出るが、激しい戦闘の中で約350人中、88名が戦死している。
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第3遊撃隊(隊長 村上治夫大尉以下4個中隊計約500名)は名護岳付近に拠点を設けて遊撃戦を実施しつつ潜伏した。
終戦を知り、宇土支隊長以下99名が下山投降した事も知ったが、降伏を承知せず拠点に潜伏を続けた。
説得の為、捕虜となった日本軍将校が数回訪れたが、降伏を拒否し続けた。
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昭和21年1月2日、日本軍将校が再度村上大尉を訪ね、八原高級参謀の手紙を手渡した。八原参謀が生存していることが
村上大尉に大きな衝撃を与え、結果1月3日村上大尉は意を決して下山(投降)した。

▼三中学徒の碑から更に登ると、八重岳野戦病院跡の看板が出てくる。奥に見えるのは米軍の通信施設との事。
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▼国頭支隊(通称・宇土部隊)本部壕、野戦病院跡がひっそり残っている。
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この辺りに木造の野戦病院が建っていたという。この奥の渓谷には陣地壕が2ヶ所残されている。
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▼熱帯の木々が生い茂り、昼間でも薄暗い谷間を登って行く。
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▼丘の斜面の両側に陣地壕の抗口はあった。
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入口は土砂が流れ込み、かなり狭くなっているが、入れない大きさではない。
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▼ちょっと入って見る。入口が1ヶ所しか無い為か、壕内はかなり蒸し暑い。2月だというのに蚊もいる。
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直線部分は短く、中で蛇の様にS字になっていた。
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途中で崩落が激しくこれより進めなかったが、行き止まりの様だ。壕内はかがんで歩ける程度の高さがあった。
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▼2ヶ所目は入口奥で激しく崩落していたので入壕はしなかったが、此処も明らかに自然壕ではなさそうだ。
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その後ある程度上まで登ってみたが、それらしい遺構は塹壕の様な窪み以外は確認出来なかった。
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▼壕のあった場所から案内版のある場所を見下ろす。
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▼劣化の進んだ案内版には以下の説明書がある。
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宇土部隊(隊長 宇土武彦大佐)は、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成され、伊江島守備隊
の第一大隊と本島守備隊の第二大隊・砲兵隊・遊撃隊(護郷隊)・鉄血勤皇隊・防衛隊等から成る兵員約四千人である。
八重岳、真部山に布陣する国頭支隊は、四月十一日頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、十三~十六日にかけて西海
岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻に合い、真部山で激しい攻防戦となり日本軍に多数の死
傷者が出た。十七日米軍は遂に八重岳北東頂上を占領、十八日敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は四月中続いた。
一方宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、遊撃戦に移ることを命じ、第二
遊撃隊のいる多野岳に後退した。その際八重岳の野戦病院には多くの負傷者が遺棄され、この一帯は悲惨を極めたとい
われる。この本部半島地域における戦闘で、軍や町役場の命で山中に避難した住民は却って戦火に巻きこまれ、軍人・
軍属を含む町民一七五三人の尊い生命が失われた。                      本部町教育委員会
▼案内版の横には「なごらん学徒隊」の碑もあった。
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八重岳野戦病院で看護に当たった県立第三高等女学校「なごらん学徒隊」10名は4/16夜、名護市多野岳へ撤退する際
には、歩ける患者だけを連れて行き、歩けない患者約300人には、枕元に手榴弾と乾パンを配ったと証言してる。
沖縄県立第三高等女学校は沖縄戦が終結した際にそのまま自然閉校となり、その後「名護高等学校」に統合されている。
NHK戦争証言アーカイブスで「なごらん学徒隊」上原米子さんの証言を聴くことが出来る。
あまり知られていない貴重な沖縄本島北部の戦いの体験者の話だ。護郷隊の特攻話も衝撃的な内容となっている。
NHK戦争証言アーカイブス「八重岳野戦病院からの撤退」
※護郷隊は陸軍中野学校出身者に教育された14歳~19歳の名護国民学校生徒約800名で組織された部隊で、隊本部の
多野岳(たのだけ)・名護岳・久志岳・羽岳(おっぱだけ)などで遊撃戦・ゲリラ戦に従事した。
第1護郷隊と恩納岳・石川岳で奮戦した第2護郷隊(第4遊撃隊)合わせて162名が戦死している。
※第4遊撃隊(隊長 岩波壽大尉以下「第2護郷隊」3個中隊計393名)
昭和20年4月3日~6月4日まで北部転進や敵部隊に潜入して後方を攪乱し、敵陣地を破壊する等幾多の手柄を立てた。
特設第一連隊青柳(中佐)隊、山部隊、海軍二階堂隊等が恩納岳で合流した後、米軍に暴露。
昭和20年5月24日米軍、恩納岳を完全に包囲、陸と空から猛攻撃を開始する。正面攻撃を数度にわたって受け、隊員
の大部分が戦傷を受けたり砲弾に倒れた。昭和20年7月16日部隊解散。
第2護郷隊員は帰村して家業に就いた後も、残留そていた本部基幹要員の中隊長、隊本部に情報と食糧を提供した。 
岩波大尉は8月15日終戦を知る。9月に住民を通じて米軍からの下山勧告に従い10月2日中隊長と米軍収容所に入る。
昭和31年11月岩波元隊長が来島して除幕式が挙行された「第2護郷隊之碑」が完成。恩納村字安富祖にある。
※戦後、恩納岳は米軍の訓練場となっており、一般人が立ち入る事は出来ない。70年以上戦地はそのままである。
【NHKスペシャル】あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~YouTube
▼名護小学校には「第1護郷隊の碑」があり、「戦没者名簿」として第1護郷隊95名の名前が刻まれている。
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名護小学校正門横の階段を登っていくと「第1護郷隊の碑」はある。
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「少年護郷隊の碑」(第1護郷隊の碑)
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▼▲廃墟と化した名護市、大通りと手前はバス発着所。奥に八重岳が見える。
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▼米軍は飛行場からトラックでアメリカ本土からの郵便物を運び、占領後も郵便局として利用した(名護郵便局)
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▼名護市の産婦人科医院を写したもの。比較的被害が少ない。(6月撮影)
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▼名護市で撮影された消防署(昭和20年6月撮影)
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▼廃墟の名護市。手前は防空壕と放棄された自転車(6月撮影)
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国頭支隊組織的戦闘の終了の後は本部の山中に籠もり、主として遊撃活動を実施していた運天港の海軍部隊は、やがて
終戦を知る事となる。白石大尉以下183名は終戦後も降伏を拒み続けたが、地元市長などの勧めに応じ、昭和20年9月
3日ようやく下山し、投降した。
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▲9/3降伏式が行われる指定された場所へ移動する前に海兵隊員の監視の下、古我地郊外で軍刀やライフル銃、拳銃
 銃剣、弾薬などの武器を放棄する白石大尉率いる海軍部隊の兵士達。
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▼昭和20年9月3日本部半島で日本兵183人降伏の儀式において白石信治海軍大尉から軍刀を受け取るウィッコフ海兵
 隊大尉(ペリリュー諸島及び沖縄における戦闘の退役軍人)
 「アメリカ合衆国政府の名において、日本国の降伏を受理する」とウィッコフ大尉は部下の前で白石大尉に告げた。
 刀はウイッコフ大尉から海兵隊第7部隊指揮官スニーディカー大佐へ手渡された。
 その後海兵隊第1師団指揮官ペック少将へ献呈される事になっている。
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▼降伏の儀式が終わり、捕虜収容所へ向かうトラックに部下達を乗せる様に命令する白石信治海軍大尉。
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本部町の高台にある「特別老人養護施設本部園」敷地内に、戦時中敵機の飛来を監視した防空監視硝が残っている。
防空監視硝とは敵機の飛来をいち早く発見し、その情報を防空部隊に伝える為の軍事施設で、その任務には現地の民
間人が就いたという。
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六角形の本部監視硝は以前まで園内のお年寄りの休憩場所となっていたが、最近戦跡として保存が決まったとの事。
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奇跡的に戦火も受けておらず、非常に程度が良い。当時沖縄島には11ヶ所設置されたという。
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▲監視硝からは、伊江島・東シナ海が一望出来る。

▼八重岳山頂付近からの眺めは素晴らしかった。本土を思い起こさせる様な山岳地帯が見える。
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米軍関係の夫婦とみられるカップルも見学に来ていた。
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Yナンバーで軽自動車は見かけませんね~。だって米軍関係者は自動車税の支払いは任意で、結局タダみたいなもんだ
からね。因みに軽自動車の場合Yの部分がAになる。自衛隊だけでは守れない日本の防衛宜しくお願いします・・・。
25万人の自衛隊だけでは到底日本の防衛なんて無理ですからね・・・しかも少子化で今後若い隊員の補充が問題だし。
やはり色々な事情があったとしても信頼出来る国は、先人が血を流し、命を懸けて喧嘩したアメリカ合衆国だから。

沖縄滞在中に昼食をとる為に訪れたお店に「真壁ちなー」がある。2月16日(木)に訪れるも急な休みで行けなかった。
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▼どうしても行きたかったので、翌日に再チャレンジ!やっと入店する事が出来た。
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家主さんの先祖が村長さんだった事もあって、登録有形文化財の石垣に囲まれた敷地は400坪。
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当時としても立派な家構えだったという。
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明治24年頃に建てられた登録有形文化財のお店は、古民家を改装した店内が昔の沖縄を伝えてくれる。
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村長さんの過去の経歴や活動などが所狭しと紹介され、沖縄戦当時の島田知事との関わりなども紹介されていた。
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島田叡沖縄県知事は、昭和20年6月17日摩文仁司令部豪に牛島司令官を陣中訪問した後、荒井退造警察部長と共に
7月初め頃に自決、共に殉職したとされるが、島田叡知事と荒井退造警察部長の遺骨は見つかっていない。
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▼店内の柱には沖縄戦当時に傷ついた弾痕跡が残る。
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食事は「沖縄そばセット(大)」¥1160を非常に美味しく頂いた。
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立派な沖縄住宅の外観だった。
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「茶処 真壁ちなー」沖縄県糸満市真壁223

▼本部半島の観光スポット、世界遺産「今帰仁城跡」
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今帰仁城は、北山(今帰仁城)・中山(首里城)・南山(大里城)と沖縄島が3つの勢力に分かれていた頃の一角。
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▼「美ら海水族館」
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▼美ら海水族館から伊江島を望む
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拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。
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 2017_02_13

石垣島

Category: 石垣島  

石垣島は、沖縄県内で沖縄本島、西表島に次いで3番目に大きい島で、現在約5万人が暮らす沖縄県の離島。
八重山諸島の政治・経済・教育・交通などの中心地として現在は自衛隊配備が決定し、宮古島・奄美大島と同時進行
で尖閣諸島への中国脅威にらみをきかせ、南西防衛強化を急いでいる。
本土に住む我々も常に注視しておきたい島である。そんな石垣島だが先の大戦中、沖縄本島の様な地上戦は無かった
ものの、陸海軍の航空基地や震洋特攻基地があった為、度重なる空襲に悩まされた島だった。
今回、石垣市も保存に力を入れていない事もあって、ほとんど知られていない石垣島の戦跡を巡ってきた。
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関西国際空港から約2時間、石垣島が見えてきた。2013年にオープンした新石垣空港に着陸する。
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新しい空港は非常に綺麗。しかし住民の理解を得て工事着工から完成まで新空港建設には約30年の歳月を要した。
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2013年3月まで使用されていた旧石垣空港は、大戦中の海軍石垣島南(平得)飛行場だった。この旧飛行場滑走路を延長
させれば新石垣空港を作らなくても良いのではないか?という意見がある中での遅れ遅れの新空港建設着工だった様だ。
旧石垣空港は滑走路が1500mしか無く、ボーイング737でさえ、乗客や荷物を積んで燃料を満タンにすると1500mで
は離陸出来なかった。なので石垣島から本土へ直行便を飛ばす事が出来ず、那覇で燃料補給を余儀なくされていた。
日本海軍平得飛行場当時は滑走路1200m、それでもゼロ戦を飛ばすには十分な滑走路だった。
海軍石垣島南(平得)飛行場(旧石垣空港)からは太平洋戦争(大東亜戦争)中の昭和20年4月1日~5月に、神風特別攻撃隊
「大義隊」が沖縄本島に上陸を開始した米軍艦隊に向けて爆装零戦で特攻出撃している。
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▲海軍平得(ひらえ)飛行場の図(計画では2000m級の滑走路を3本持つ広大な飛行場計画だった)
平得飛行場は海軍平喜名飛行場への観音寺部隊の駐屯と歩調を合わせるように、昭和19年2月に工事着工。
本土の原田組によって施工され、1日延べ約2000人を動員した。現場事務所前には「この工事は天皇陛下の工事である」
と書かれた立て札があったという。
昭和19年当時八重山の人口は約33000人。そこへ県立八重山農学校に司令部を置いた「独立混成第45旅団」を中心に、
陸海軍合わせて約8000人の軍人が移駐して来た事で、食糧不足が深刻な問題となっていった。
※独立混成第45旅団は日本陸軍沖縄第32軍隷下の宮古島及び石垣島の基地設定を命じらた宮崎武之少将の部隊。
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▲米軍の激しい空襲にさらされる海軍石垣島南(平得)飛行場。
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▲かつての海軍石垣島南(平得)飛行場の面影は何も残っていなかった。
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▲昭和59年頃撮影された平得飛行場に現存していた掩体壕。
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▲その掩体壕が残っていたとされる場所に行ってみたが、何と壊されていた・・・私有地だった様なので仕方ないのか。
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▲10年以上前に撮影された平得飛行場の大浜掩体壕。2000年代だがまだちゃんと残っていた・・・。
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▲鉄筋入りコンクリートと石垣を組み合わせた強固な作りだった様で、この掩体壕は建設途中だったそうだ。
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▲かすかに残る遺構は、サトウキビ畑に変わった駐機場辺りに残る当時のコンクリート。粗目のコンクリートが当時を
かすかに伝えている様だった・・・。
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ここから神風特別攻撃隊「大義隊」が約420キロ離れた沖縄本島へ特攻出撃した事を伝える痕跡は何も無い・・・。
以下、海軍南(平得)飛行場から出撃した神風特別攻撃隊「大義隊」の出撃記録。※海軍平喜名飛行場からも可能性有
昭和20年4月1日神風特別攻撃隊「第1大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
清水 武中尉(山口県出身)/酒井 正俊中尉(岐阜県出身)/松岡 清治2飛曹(埼玉県出身)/大田 静輝2飛曹(広島県出身)
昭和20年4月2日神風特別攻撃隊「第2大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
伊藤 喜代治中尉(東京都出身)
昭和20年4月4日神風特別攻撃隊「第4大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
矢田 義治上飛曹(愛知県出身)
昭和20年4月5日神風特別攻撃隊「第5大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
小林 友一上飛曹(山梨県出身)/辻村 健一郎1飛曹(山口県出身)
昭和20年4月13日神風特別攻撃隊「第9大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
満田 茂中尉(兵庫県出身)/山崎 隆2飛曹(京都府出身)
昭和20年4月14日神風特別攻撃隊「第10大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
粕谷 仁司中尉(兵庫県出身)/三浦 義信2飛曹(北海道出身)
昭和20年4月17日神風特別攻撃隊「第12大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
斎藤 信雄飛曹長(茨城県出身)/文谷 良明1飛曹(大阪府出身)
昭和20年4月28日神風特別攻撃隊「第15大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
和田 文蔵2飛曹(長崎県出身)
昭和20年5月4日神風特別攻撃隊「第17大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
細川 孜中尉(長野県出身)/橋爪 和美2飛曹/佐野 一斉2飛曹(山梨県出身)
※「第17/18大義隊」は台湾の宜蘭基地から。「第17大義隊」2機が八重山諸島宮古基地から出撃している。
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▲平得飛行場敷地内だった画像の場所は、その昔、地元民の居住区だった様で、海軍が居住区を全て接収して飛行場を
建設したという。掩体壕が何基も並んでいたとされる場所は、昔の地元民の居住区が復元されつつあるが、この場所ま
で旧石垣空港の滑走路を延長すれば新空港建設の必要は無かった様だが、新空港建設の理由として無理やり遺構を復元
した感が強く、資料も無く、創造だけで復元された特に価値の無い遺構は管理費を生み出すダシとなりつつある。
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▲一見すると沖縄独特の城(グスク)の様にも見えるが、そうではないらしく、詳しい資料も全く無いとの事。
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▲この場所も平得飛行場敷地内だった。当時を思わせる日本軍飛行場独特の粗目のコンクリートが残っていた。
画像右手には掩体壕が立ち並び、この道は飛行場当時のものだと言う。零戦が滑走路に向けて移動したり、駐機したり
していただろう。石垣市の土地という事なので、何基かでも掩体壕が残っていれば、神風特別攻撃隊「大義隊」の慰霊
碑とセットで供養の場所として少しでもスペースを確保して欲しかった・・・。
掩体壕を全て破壊し、謎の史跡を復元させた石垣市にも過去の戦争を思い起こしたく無い色々理由があったのだろう。
敗戦国の日本で戦争遺跡を残すというのは本当に難しい様だ。
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▲米軍統治下の1970年頃に撮影された平得飛行場(旧石垣空港)
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▲謎の遺構がある場所の地下には平得飛行場施設当時の豪が残されている。
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早速中に入ってみると、わりと綺麗に掃除されていた。謎の史跡とセットで文化財化するつもりか?
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それほど長い距離では無いが、途中に爆風除けらしき石積みがあり、一番奥で左に折れて崩落していた。
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最後まで見たので、振り返って入口を撮影し、豪を出た。
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石垣島には自衛隊500人~600人規模の駐屯が決定している。しかし島民全員が歓迎している訳では無い・・・。
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※写真を撮り忘れたが、当然自衛隊配備推進派の看板も沢山あった。半々で意見が分かれている印象だった。

初日、石垣島に到着してまず向かったのが南部のサザンゲート広場(石垣新港埠頭緑地公園)だ。
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公園内に平成25年8月15日地元有志と全国各地からの寄付によって建立された「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」が
あるからだ。石垣島に到着したらまずは此処に来て、八重山諸島巡り旅の安全祈願と、感謝の誠を捧げたかった。
太平洋戦争(大東亜戦争)関連のモニュメントとしては沖縄県で最も新しいものだという。逆に今まで忘れ去られる様に
歴史の中に埋もれていた事が非常に歯痒い思いもした。
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▲▼駐車場に車を停め、少し歩くと公園内の海沿いの場所に「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」はあった。
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昭和20年3月26日石垣島にあった陸軍白保飛行場から沖縄本島に向け、「沖縄戦」陸軍航空特攻第1号として特攻出撃
した陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」 の隊長が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市登野城出身)だった。
伊舎堂大尉は出撃を前に、家族が面談にき来ても、「郷里遠く離れて石垣島にやってきて家族にも会えない部下達がい
るのに自分だけが会うわけにはいかない」と、最後まで家族と面会せず、部下と共に慶良間諸島に停泊する米艦隊に体
当たり攻撃をかけ散華した。
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▲石碑には、石垣島陸軍白保飛行場から出撃した特攻隊員の名前が出身地・年齢と共に刻まれている。
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▲石碑の裏側には以下の内容が刻まれている。
『大東亜戦争終結六十八年を経たわが国は、戦後の荒廃を乗り越え、平和で豊かな生活を送ることが出来ています。現
代のわが国の平和と繁栄は、国家存亡の危機に殉じた英霊と戦争の犠牲となった多くの方々の礎によってもたらされた
ことを心に留め、その史実を後世に伝えていかねばなりません』
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▲伊舎堂 用久大尉(沖縄県石垣市登野城出身 享年24歳)
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▲誠第17飛行隊隊員勇士。上列右から3人目が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市登野城出身)
昭和20年3月26日04:00石垣島陸軍白保飛行場より99式襲撃機で出撃、突入戦死。
伊舎堂 用久大尉(沖縄県石垣島出身24歳)/川瀬 嘉紀大尉(三重県出身24歳)
黒田 釋少尉(愛媛県出身21歳)/安原 正文大尉(高知県出身24歳)/久保 源次郎大尉(千葉県出身23歳)
有馬 達郎少尉(鹿児島県出身17歳)/林 至寛少尉(東京都出身17歳)/芝崎 茂大尉(埼玉県出身24歳)
(独立飛行第23中隊)三式戦闘機「飛燕」で出撃(直掩/特攻)
阿部 久作大尉(北海道出身29歳)/須賀 義榮少尉(千葉県出身23歳)/長野 光宏少尉(東京都出身21歳)
金井 勇少尉(富山県出身21歳)/岩本光守少尉朝鮮名不詳(朝鮮出身20歳)/廣瀬秀夫少尉(香川県出身19歳)
安西 為夫大尉(米軍機と空中戦の末被弾、沖永良部島に不時着)
(飛行第17戦隊)
平井 俊光少佐(岡山県出身21歳)/児子 国高大尉(岡山県出身21歳)/西尾 卓三大尉(東京都出身25歳)
国谷 弘潤大尉(富山県出身21歳)/勝又 敬大尉(愛知県出身24歳)/照崎 善久少尉(大阪府出身21歳)
西川 福治少尉(兵庫県出身21歳)
(飛行第105戦隊)
長谷川 斎大尉(愛知県出身23歳)/山元 正巳少尉(鹿児島県出身19歳)/永田 一雄少尉(鹿児島県出身20歳)
石田  勝少尉(岐阜県出身20歳)/小川 多透少尉(福岡県出身20歳)/丸林 仙治少尉(岡山県出身19歳)
内藤 善次少佐(東京都出身22歳)
(飛行第19戦隊)
根本 敏雄大尉(千葉県出身22歳)/倉澤 和孝大尉(長野県出身22歳)/栗田 常雄少尉(静岡県出身22歳)
合計31名が、石垣島陸軍白保飛行場より特攻出撃し、慶良間洋上にて突入戦死している。
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▲陸軍99式襲撃機
現在、陸軍白保飛行場の遺構としては弾薬庫が数か所残されている。
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▲草木に覆われ、道路からはほぼ確認出来ない様な場所にそれはひっそり残っていた。
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今回、2つの壕(弾薬庫)を確認する事が出来た。
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▼一つは中に入る事が出来た。奥で左に徐々に折れて隣の壕に続いていた。
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▼しかし隣の壕(弾薬庫)は水没していたので、見学を止めておいた。
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▼奥で右に徐々に折れ、隣の壕と繋がっている。
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▼辺り一帯は陸軍白保飛行場の敷地だった場所だ。
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通りかかった軽トラに乗ったお爺さんが、当時の空襲の様子を教えてくれた。聞けば昭和20年の空襲時は小学2年だっ
たそうだ。度重なる米軍の空襲で穴だらけになった滑走路の砲弾跡を毎回必死に埋め戻す作業に従事したという。
話を聞いているうちに、直ぐに「みのかさ部隊」を思い出した。
陸軍白保飛行場は、陸軍航空本部が昭和18年末頃着工昭和19年5月下旬第32軍に工事が引き継がれ8月滑走路が完成
白保飛行場の建設や補修に従事したのが昭和19年11月地元住民から召集された「郷土防衛隊」第506特設警備工兵隊
(高良隊)だ。その愛称は、「みのかさ部隊」と呼ばれた。何故「みのかさ」なのか?
 物資不足の折で軍服は配給されず、着衣はすべて私服だったからだ。当時を知る宮良祐八さん(87)は「雨が降ると、
みのかさをかぶり作業したところから「みのかさ部隊」と呼ばれた。」と語っておられる。
「空襲の酷い時には、頭に2~3ミリの薄い鉄板を切り取った鉄かぶとも被った事がある。」と、振り返る。
靴のない者はわらじを履き、野良仕事の為に田畑に出かける格好そのままだったと言う。
米軍機は日本の特攻機の出撃を妨げ様と、白保飛行場に連日の爆撃を浴びせた。「みのかさ部隊」は特攻機の離着陸を
可能にする為、敵機が去るのを待ち、モッコで土を運び、スコップで弾痕の穴を埋めた。作業中に米軍機が来襲し機銃
掃射を浴びせることもしばしばで、犠牲者が続出した。時には自宅の塀(石垣)を持って行って埋めるのに利用した。
部隊の一員だった故石垣正二さんは回想録で「血のにじむような思いで補修したら、翌日はまた(敵機が)来襲して破
壊していくという具合で、連日の出動に兵は精根も尽き果てていた」と語る。
それでも作業は沖縄戦終結まで続き「みのかさ部隊」は「八重山諸島の戦闘では最も功績が多い」と言われたという。
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▼▲昭和20年、米軍の爆撃を受ける陸軍白保飛行場
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▼緑で示した部分が現在使用されている新石垣島空港だ。
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▼石垣島地図で飛行場を見る。
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黄印(新石垣空港)、緑印(陸軍白保飛行場)、紫印(海軍平得飛行場/旧石垣空港)、ピンク印(海軍平喜名飛行場)

石垣島に布陣していた陸軍は下記の通り。
沖縄第32軍管下 独立混成第45旅団(宮崎武之少将)
独立歩兵第271大隊(宮田金吾少佐)/独立歩兵第272大隊(下田直美少佐)/独立歩兵第273大隊(楠瀬一珍少佐)    
独立歩兵第298大隊(毛木 昭少佐)/独立歩兵第299大隊(高木清太郎大尉)/独立歩兵第300大隊(瀧口武臣大尉) 
独立歩兵第301大隊(阿部 繁少佐)/独立混成第15旅団工兵隊(大藤芳久大尉)

石垣島に初めて飛行場が完成したのは昭和8年に完成した平喜名飛行場(海軍石垣島北飛行場)である。
現在跡地の大部分が国際農林水産業研究センター熱帯・島嶼研究拠点となっており一般人立入禁止となっている。
敷地内に通信施設が現存(見学不可)、北側の宮良川沿いの崖には、昭和18年12月に佐世保海軍航空部隊から来た
観音時部隊の駐屯した壕が現存している。石垣島では最大級の地下豪陣地である。
※昭和19年1月には石垣島で「郷土防衛隊」として第227特設警備隊(三木隊)、第226隊(又吉隊)が招集、編成される。
※石垣島南東部に位置する石垣市宮良には宮良飛行場(秘匿飛行場)も存在していたそうだ。
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▼宮良川
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▼平喜名橋
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▼平喜名橋を渡ると、そこからはかつて海軍平喜名飛行場(海軍石垣島北飛行場)だった場所だ。
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川沿いを進んで行くとジャングルに戻りつつある元飛行場下の崖に向かう。左は川、右手丘の上は元飛行場。
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藪の中に入り、崖沿いを進んで行くと・・・平喜名飛行場地下陣地壕口があった!大きい坑口!
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特に危険な様子も無いので、早速入壕を開始する。
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しばらく奥に行くと左に曲がっている。
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海軍掘削という事もあり、とのたま氏とyakumo氏に連れって行ってもらった野島地下壕によく似ている。
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左へ折れてからも奥まで続いている。石垣島まで来てこの様な壕探索が出来るとは夢にも思わなかった。
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再度左へ折れると、外へと抜ける場所があった。海軍らしいコンクリートまきだ!
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筆者との比較で壕の大きさが解って頂けると思う。
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素晴らしい!戦闘が無かったとはいえ、流石海軍設営隊、強固に作られている。
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外に出てみると爆風除けの石垣など、かなり上陸戦闘を意識して作られている。
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幹部クラスの避難壕としての役割もにらっていた為か、南方離島の壕としてはかなり手間がかかっている様だ。
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▲碍子などもそのまま放置されており、壕内に電気が通っていた事が確認出来る。
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▲発電機の台座の様な跡も残っている、まだ奥へと続いている。
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▲行き止まりかと思ったが左へ折れ、出口へと続いていた。
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▲また外へと抜けた。壕口は3つ確認出来た。
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▼さぁ、戻ろう。
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▼元来た通りに戻って地下壕を後にした。
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▼地下壕を出て丘の上へ。豪の上(地上)は畑になっている。かつて此処は日本軍機が駐機していた場所だ。
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画像の斜め左側下が宮良川だ。
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▼畑と国際農林水産業研究センターの間には道路が走っている。左側が畑、右側は国際農林水産業研究センター
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国際農林水産業研究センター敷地内には通信壕が残っているそうだが、徐々に壊されつつあるとの事。
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▲国際農林水産業研究センター敷地内が平喜名飛行場(海軍石垣島北飛行場)の滑走路があった場所だ。

屋良部岳(216m)山頂の大岩の上にに機銃台座跡が残されているとの事で登山してみた。
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▲中腹までは車で行けたが、そこからは足で登山となる。
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多少足場は悪いが、一応登山道となっているので誰でも登れる道だ。
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▲こんな岩も乗り越えて登っていく。
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▲登山はこんな感じ、写っているのは筆者。
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▲頂上の岩が見えた!ここまで約15分~20分ぐらい。
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▲頂上の岩の上まで来ると確かにあった。台座跡が。しかし機関銃座ではなさそうだ。小さいので観測機器の台座跡と
思われる(情報求む)。しかし、ここからの眺めは絶景!於茂登岳や川平湾が一望出来た。
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▲正面の山が於茂登岳。右手奥の湾は川平湾。その手前方向のビーチは米原海岸という事になる。
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▲アングルを左(西側)にもっていくと、崎枝方面の御神崎の灯台まで見えた。
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ガイドブックにも掲載されない戦跡が観光客にも忘れ去られ、踏まれながらひっそりと残っている。
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▼米原ビーチに向かう途中、小さな展望台っぽい場所があったので立ち止まった。何やら高級住宅街の匂いがした。
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▼石垣島はプチバブル。本土移住者向の売土地は海沿いの至る所にあるが、とても私が買える様な価格では無い。
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▼地元の方は台風を考えて海沿は敬遠すると言うが、やはり綺麗な海が見えるロケーションはいいな~別荘欲しい!
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▼石垣市桴海地区にある米原ビーチは「米原キャンプ場」として古くからある有名な場所。
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平成2年4月16日オウム真理教の麻原教祖は、「日本が沈没する」との予言のもと救済セミナーを指示。
1270人の信者を引き連れ石垣島に集結し、米原キャンプ場で「石垣セミナー」を開催、約500人の出家者を認定。
静かな米原キャンプ場には1300人の教壇関係者とマスコミなどが殺到。現場は大混乱となった。
当時無料だった米原キャンプ場はそれ以来有料となり、キャンプをするには住所氏名を書類に書く事になったという。
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透き通る様な海は絶景だ。本土からの旅行者は地元民の迷惑とならない様、心がけて楽しみたい。
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オウム真理教「外報部長」だった上祐 史浩の元運転手は石垣島の老舗ホテルでフロント業務をしていたり、工芸品販売
員などをしながら島に残り、まだ残党が少なからず残っていると聞いた。
戦跡と関係無い話だが、上祐元受刑者が代表の「ひかりの輪」が、狂気の団体としてまだ存在する事に憤りを感じる。
2度とこの様な宗教団体が島に入らない事を熱望する。
▼戦跡から離れついでに、ミーハーと言われながらも米原キャンプ場から近いのでちょっと覗いてみた。
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▲大麻女優と呼ばれた「高樹 沙耶」(益戸 育江)が経営する1500坪のコテージ「虹の豆 浮世離れ」の入口だ。
2016年10月25日大麻取締法違反(所持)の疑いで現行犯逮捕されてから主を失い、現在は当然営業していない。
個人的には、ジャングルを切り開き、3年かけて本人と数人の手作りで作り上げたコテージは凄いと思っていたし、自
然回帰活動を推進し、自給自足の生活をする益戸 育江に憧れが無い訳では無い。
しかし、資本主義社会から離れて自由に生活するのは良いとしても法律違反は・・・非常に残念。戦場の極限状態でも
ない限り、平和な世の中で健康、五体満足であれば人間に薬物は基本不要!!と言いたい。
彼女を信用して手伝ったり関わった地元の方達も裏切った事になる。ナイチャーのイメージを下げないで頂きたい。

話が戦跡から脱線したが、元に戻したいと思う。
戦時中、石垣島には度々米軍の空襲があったのはお伝えした通りだが、現在でも工事等の度に不発弾が多く出る。
不発弾を除去した後、処理するまでの間保管しておく施設が作られている。屋良部岳周辺に最近建設されたそうだ。
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旧海軍の防空壕にそっくりなこのコンクリート製の建物の中には不発弾がギッシリ保管されている。
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崎枝に足を延ばすと明治30年建造の「電信屋」と呼ばれる建物がある。正式名称「元海底電線陸揚室」
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▼大崎牧場では牛がのんびりしていた。石垣牛は有名だが、基本子牛での出荷がメイン。本土で育てられて「神戸牛」
や「宮崎牛」などのブランド牛となる。サトウキビ農家より買い取り価格が良い黒毛和牛の酪農にシフトしつつある。
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アスファルトの道から大崎牧場が見えたら左へ。凸凹道を海に向かって走っていくと弾痕だらけの建物は建っていた。
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「沖縄戦」では重要な軍の施設と見なされ、連合軍の空からの猛攻撃を受けた。弾痕が多く残っている。
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▲中は劣化が進んでいるが空襲を受けながらも100年以上この場所に建ち続けている。
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鹿児島~奄美諸島~沖縄本島~石垣島~台湾(基隆)を結んでいた海底ケーブルの陸揚施設だった。
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▼「電信屋」の裏は綺麗な大崎ビーチだ。
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戦跡も魅力的なのだが、どうしても綺麗な海を眺めてしまう・・・。
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▼川平湾は国の名勝に指定されている。島内随一の人気観光地で、世界有数の透明度を誇る海に、小さな島々が浮かぶ
風景はパラオ共和国を思い出した。此処は絵に描いたような絶景だ。
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時間が経つのも忘れてしまう程の絶景だった・・・。
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ここは日本か・・・と思う程美しいビーチと海。大戦中も風景は同じだっただろう。
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▼戦後の昭和41年3月に撮影された川平湾
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▼17世紀中葉に創建されたという川平観音堂。
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▼綺麗な景色を眺めるのもほどほどに目的地に向かう。川平湾の奥(矢印の部分)は第19震洋隊の「特攻艇秘匿壕跡」
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昭和19年2月16~18日、日本海軍基地があり、連合艦隊の停泊地でもあった「トラック諸島」(現チューク諸島)が米
軍による大空襲を受けて壊滅状態になって以降、南西諸島の防備強化が着手され、昭和19年4月沖縄方面根拠地隊が編
成された。続いて9月、宮古島・石垣島に警備隊が新設され、大島防備隊と共にその指揮下に入った。
海軍石垣島警備隊(司令官は井上乙彦大佐)はバンナ岳に司令部を置いた。
昭和19年10月15日、川平湾に海軍第19震洋隊50隻が配備される(大河原中尉以下186名内4名戦死)
この時住民は九州の宮崎への疎開を命じられたが、川平の住民と町会議員の粘り強い陳情によって昭和19年10月15日
石垣島の崎枝地区への移転に疎開命令が変更された。
既に昭和19年7月には奄美大島・徳之島・沖縄本島・宮古島・石垣島(八重山諸島)の子供、老人を、本土と台湾に緊急
疎開させる事を閣議決定していたので、9月頃からは石垣島の島民も台湾への疎開をはじめていた。
しかし、米軍の空襲を避けて夜間に出航した「ポンポン船」や木造船は米軍の低空機銃掃射に襲われ、亡くなる者も多
かった。中には「魚釣島」(尖閣諸島)に漂流し、無人島の魚釣島の飢餓地獄で命を落とした者も少なくないという。
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美しい川平湾をグラスボートで遊覧するツアーに多くの観光客が吸い込まれていく。特攻艇秘匿壕目的で此処を訪れた
人が一体年間何人いるだろう・・・ま、特攻艇「震洋」を知っている人も少ないけど・・・。
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▲景色は堪能させて頂いたが、グラスボート遊覧は行かず、特攻艇秘匿壕探しに向かった。
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▲観光客でにぎわう人気の景勝地、グラスボート遊覧乗り場から車で少し南へ移動、解りにくい枝道から川平湾に出る
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お昼14:00頃の引き潮時がよいだろう。「特攻艇秘匿壕跡」まで歩き易い。
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▲画像中央の海岸を注意深く見ながら川平湾グラスボート遊覧乗り場に向かって戻る様に歩いていくと・・・。
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▲あった!海軍第19震洋隊の特攻艇「震洋」を格納していた「特攻艇秘匿壕」。西側には5つ残っているはず。
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▲1つ目は入口から直ぐ入った所で崩落していた・・・。2つ目に向かう。
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▲草木に覆われて思わず通り過ぎてしまったが、見つけた!2つ目。
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▲此処は崩落は無さそうだがしっかり柵が設置されていた。
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▲崩落・落盤・陥没の危険性は良くわかるが、「特殊地下壕」って何??ちゃんと説明版書こうよ・・・。
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▲柵の間から中を撮影。奥が崩落している・・・、確かに危ないわ・・・。気を取り直して3つ目を探す。
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▲戦跡巡りとはいえ、綺麗な川平湾の海に気をとられ、思わず眺めてしまう程の美しい海と景色。
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▲壕と壕の間隔がほぼ一定なので、もう慣れたもの。3つ目発見!此処は入れそうだ。
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早速入壕する。
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1つの壕に、全長約5mの震洋が5隻収められていたというから長さ25mはあるだろう。
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所々小崩落は見られるが突き当りまで行けた。
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さぁ、壕を出て4つ目を探そう。米軍が撮影した「震洋」。米兵との比較で大きさがよくわかる。
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▼あっさり4つ目を発見。一番解り易かった。此処に「震洋」が入っていたんだな・・・。
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▼沖縄本島で米軍に鹵獲された海軍特攻艇「震洋」。ベニア板で製作された船体にトラックのエンジン・・・。
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船首部分に250キロ爆弾を搭載。敵艦に体当たりする特攻ボートだ。
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4つ目にもこの看板・・・、マジックで[ 旧日本海軍特攻艇「震洋」秘匿壕跡 ]と書きたくなる・・・。
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▲奥の方は赤土が入り込んで崩落している・・・。
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▲5つ目はまわりこんだ海岸を少し歩いた場所にあった、断崖の様に見えるが当時はえぐられて無かったのだろう。
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ここも柵が・・・。
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此処も盛大に崩落していた。NHK沖縄「戦跡と証言」
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西側の秘匿壕は5つ全て見学したので川平湾を後にした。川平湾を挟んで東側にも3~5つ残っているそうだ。
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日本海軍第19震洋隊はここ川平湾に50隻が配備されていたという記録と合致するので納得して見学を終えた。

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宮良湾には昭和19年10月25日、第23震洋隊52隻が配備された.。(幕田稔大尉以下184名内1名戦死)
翌年の昭和20年1月15日には小浜島から転進してきた第38震洋隊も配備。(旅井少尉以下188名内86名戦死)
宮良にも「震洋」秘匿壕跡がいくつか残っているが、私有地内や崩落などで全て見学出来ない為、今回2つ見学した。
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海沿いの国道390号線を東に進み、宮良川を渡って道をそれ、サトウキビ畑の農道を歩いていくと壕はあった。
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ここは第38震洋隊(旅井少尉以下188名内86名戦死)の使用した「震洋」秘匿壕跡。
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流石南国。2017年1月1日元旦というのに気温は26℃。暑いぐらい。植物は枯れる事無く元気に育っている。
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ここでも「特殊地下壕」の看板・・・。
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奥は崩落が始まっていた。壕の掘られている丘の上には新しいマンションがどんどん建設されているので、後10年もす
れば、崩れて痕跡すら無くなってしまうだろう・・・。
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飛行機の轟音がしたので空を見上げると、新石垣空港から離陸した旅客機が見えた。
国道390号線を挟んで反対側(宮良湾に近い方)の宮良集落入り口付近には第23震洋隊(幕田隊)の秘匿壕跡がある。
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▲幕田隊の兵舎があったとされる付近には、立派な鳥居が建てられていた。
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▲中国人が約1億円で買い取ったというペンション?ホテル?が目印。
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また畑跡の様なジャングルを歩いていくと壕はあった。しっかり柵が立てられている。
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▼柵の合間からカメラをねじ込んで内部を撮影。
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中はとても綺麗に保たれており、崩落個所も見当たらなかった。隣にも壕が現存し、中でV字で繋がっているとの事。
私有地内という事でそちらの壕は見学する事は出来なかった。
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▲第23震洋隊(幕田隊)の秘匿壕から宮良湾は近い。いつでも決死の特攻出撃態勢を整えていたことだろう。
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桟橋の跡が残っているという事だったが、コンクリートの残骸が既に自然と同化しつつあった。痕跡があまりにも少な
かったので、気にせず美しい海の景色に集中していた。見えているのは石垣島南部の大浜付近だろう。
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これで石垣島警備隊の震洋隊基地は全て見学した事になる。隊員の戦死はほとんどが空襲と戦争マラリアと聞いた。
※第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉は、日本敗戦後の昭和25年4月7日BC級戦犯として処刑されている。
同時に石垣島でも多くの住民が飛行場建設や陣地壕構築、「震洋」秘匿壕構築にかりだされた挙句マラリアに苦しんで
死んでいった。「天皇の大御心」(すめらみことのおおみこころ)の元で農地を奪われ、「供出」として軍への物品提供
や食糧の提供、木材や鍋・釜に至るまで供出し続けたという。
食糧事情がいよいよ悪化すると、強制的に島の人々から食糧を奪い取る兵隊も出始め、家畜の接収・牧牛や農耕用の牛
が軍によって無断で「演習」と称して射殺され、兵隊の食糧として奪われたという。
石垣島付近離島では、(竹富町)鳩間島・小浜島に第26震洋隊52隻[ 毛利大尉以下184名内5名戦死 ](S19.11.05配備)
が駐屯していた。小浜島・西表島には「震洋」秘匿壕が現存しているそうで、西表島には病院壕等の海軍独特の複数の
コンクリートまきの豪が現存するとの事。次回是非行って見たいと思う。
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▲沖縄本島国頭郡金武町で米軍に鹵獲された第42震洋隊か、第22震洋隊の海軍特攻艇「震洋」
 ※蓋が開けられ、船首部分にに250キロ爆弾が見える。

石垣島南部。市役所や繁華街がある美崎町は石垣市の中心地だ(好きな720が現役で走っている姿を無意識に撮影)
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ここに730交差点という場所がある。
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戦前の沖縄県は日本国内の他の地域と同じく自動車は左側通行であったが、沖縄戦終了直後の昭和20年6月24日に沖縄
を占領下に置いたアメリカ軍により右側通行に変更されていた。「730」の名称は昭和47年沖縄返還後の昭和53年7月
30日をもって県内全域で日本本土同様の左側通行に戻したことに由来する。
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当日は午前6時に経過措置終了を知らせる消防署のサイレンと石垣港に停泊する船の汽笛が鳴らされ、県外からの応援
71名を含む総勢164名の警察官及び民間指導員が終日、本交差点を通過する自動車に左側通行を指導した。
この際に大きな事故も無くスムーズに左側通行への移行が完了したことを記念して「730の石碑」が立てられた。
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▼石垣市の中心地に桃林寺(とうりんじ)と権現堂(ごんげんどう)がある。国の重要文化財に指定されている寺院だ。
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石垣で初めての仏教寺院として、琉球に侵入した薩摩藩が尚寧王に進言して慶長19年(1614年)創建。
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▲桃林寺山門の2体の仁王像は元文2年(1737年)に作られた沖縄最古の木造彫刻。
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▲権現堂の表門と石垣。
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正月という事も重なって、権現堂(拝殿)でお参りさせて頂いた。
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▲権現堂神殿。沖縄戦で伝統的な建造物の多くを失った沖縄においては、本格的な近世社寺建築の唯一の遺構であり、
日本最南端に位置する遺構だ。権現堂は昭和56年6月5日国の重要文化財に指定された。
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▼桃林寺本堂
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此処のおみくじはよく当たる事で有名だ。お賽銭100円を納めれば引く事が出来る。
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▲本土の有名寺院の様に、拝観料・お賽銭・おみくじ料といった様に何度もお金をむしりとる様な事は無い。
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▲此処に来た理由はもう1つある。戦時中に起こった「石垣島事件」で、日本敗戦後BC級戦犯として処刑された石垣島
海軍警備隊司令官 井上乙彦大佐の墓碑を訪れる事だ。
「石垣島事件」とは、(昭和20年4月15日朝)石垣島宮良飛行場(南東部宮良にあった海軍秘匿飛行場)を空襲した米空母
マカースレイトの雷撃機グラマンTBFアヴェンジャー編隊の1機が、海軍石垣島警備隊の対空攻撃で撃墜され、テボ中尉
ロイド1等飛行通信兵曹・タッグル1等飛行機関兵曹の3名がパラシュートで大浜沖合に落下。
落下した3名の飛行士は石垣島海軍警備隊兵士に逮捕されて捕虜となった。海警隊による事情聴取後の当夜、テボ中尉
とタッグル兵曹はバンナ岳麓の本部近くで斬首。ロイド兵曹は刺突演習に供され殺害された。
日本敗戦が決定後、米軍の占領に備え井上乙彦は3名の遺体の掘り出しを命じ、焼却して灰は海中に投棄させた。
そして十字架を建て「丁重に葬った」と偽装して石垣島の米軍占領を乗り切った。しかしGHQへ匿名の密告投書があっ
たとされる「鹿児島消印の封書」から事件が発覚。事件に関わったとされる46人が逮捕された。
BC級戦犯裁判(1947/11/26~3/16)で石垣島海軍警備隊司令官 井上乙彦大佐(神奈川県出身)が絞首刑(享年52歳)
副司令 井上勝太郎大尉(岐阜県出身)も絞首刑(享年27歳)、第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉(山形県出身)は司令の命令
により捕虜1名処刑の罪で絞首刑(享年30歳)他、榎本宗憲中尉(絞首刑)/田口泰正少尉(絞首刑)/成迫忠邦兵曹(絞首刑)
/藤中松雄1等兵曹(福岡県出身)享年29歳(絞首刑)など将校3名と兵士29名が無期~懲役5年となった。
日本兵同志の裏切り・密告・責任の擦り合いで井上乙彦大佐は混乱、部下もこれに応じて大混乱し、法廷の混乱は本来、
司令と後数名の処罰で済んだ事件で多数の重刑者を出してしまった。
※一説には横浜軍事法廷で井上乙彦大佐が「部下が勝手にやったこと」と主張したことにより混乱したという話もある。
※(1950/4/7井上乙彦大佐絞首刑)/(1950/4/7井上勝太郎大尉絞首刑)/(1950/4/7幕田稔大尉絞首刑)
  昭和25年(1950)4月7日東京のスガモプリズンで戦犯最後の処刑となった。
▼墓碑裏の碑文
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※石垣島では陸上戦闘は無かったが、空襲や戦争マラリアで軍人約600人・島民約3800人余りが亡くなっている。
以下、警備隊司令・井上乙彦海軍大佐の歎願書と遺書。と、第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉の遺書。

歎願書
マッカアサー元帥閣下
私は四月七日巣鴨監獄にて絞首刑を受ける元石垣島海軍警備隊指令井上乙彦であります。
私独りが絞首刑を執行され、今回執行予定の旧部下の六名及び既に減刑された人達を減刑されん事を三回に亘り事情を
具して嘆願致しましたが、今日の結果となりました事を誠に遺憾に存じ乍ら私は刑死してゆくのであります。
由来、日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命令による場合は極めて責任が軽い事になって
ゐます。戦時中の私達の行動は総て其の様に処理されてゐたのであります。
若し間に合はばこの六名を助命して戴きたいのであります。
閣下よ。
今回の私達の処刑を以て日本戦犯絞首刑の最後の執行とせられんことを伏して私は歎願致します。
これ以上絞首刑を続行するは米国の為にも世界平和の為にも百害あって一利なきことを確信する次第であります。
また神は不公正及び欺瞞ある公判によって刑死者を続出するは好み給はぬと信じます。
尚之を押し進めるならば神の罰を被るは必然と信じます。
願くは刑死しゆく私の歎願書を慈悲深く、広量なる閣下の御心に聞き届け給はん事を。
4月6日   井上 乙彦

遺 書 昭和25年4月5日夜於巣鴨、絞刑前。
今朝文彦が面会に来てくれて誠に嬉うございました。
面会前今週はあぶないと感じましたので文彦にも来月千鶴子の面会は望みない旨申しておきました。
[ ゆくりなく初面会に来し次男永遠の別れと知らず帰りき ]
文彦も一人前の立派な男になった姿を見てすっかり安心しました。
千鶴子の面会の時はいつもこれが最後ではないかと思ってゐました。
既に戦場で幾度か死地に陥ってゐたのが今まで生きて来たのをもうけものだと思って下さい。
21年の大晦日に拘引されて以来父なき家をかよわい手で支へて来たのですがこの五年間の苦しみをいつまでつづけねば
ならぬか判りませぬが誠心の吾が家には何時かは必ず神様のお救ひがあると確信してゐます。
私の魂はそれを祈ってゐます。私の魂は天にも浄土にも行きません。
愛する千鶴子や和彦や文彦や千賀子といつも一緒にゐるつもりです。
今日までは牢獄に繋がれて手も足も出ませんでしたが魂が此の身体から抜け出せば何時でもまた何処へでもすぐ行って
あなた達を助けることが出来ます。助けの入用な時やまた苦しい時はお呼びなさい。何時でも助けになりますから。
私は齢51歳になって人生50を過ぎて、命の惜しい時ではありません。
また生きてゐても最早米食い虫に過ぎぬと思ふ体です。
然し愛する妻子が戦犯の汚名で死刑された者の家族であると言ふ事を考へると可哀想です。
当分は肩身の狭い思ひをし、またある処では白眼視されると思ふとたまらない気持がします。
くよくよしてもきりがありませんから私が息をひきとる4月7日の正午を境にして気持をきりかへて再出発の覚悟をきめ
なをして下さい。この遺書がいつお手にとどくか判りませんが若し着かなくてもあなた達の更生の覚悟は決ってゐて新
生活に邁進なさる事が出来るのを確信して行きます。あとで墓も不用です。
お葬ひや告別式などの儀式殊に饗宴類は私の為には無用です。絞刑の友〇名と準備室に曳かれてきてゐます。
皆しっかりしてゐるのには敬服とも感激とも言ひ様がありません。唯頭が下がるばかりです。
前から責任者である私だけにしてあとは減刑して下さいと幾度か願ったが終にこの結果になって御本人にも御遺族の方
にも誠に相済みません。公判以来弁護に歎願にたくさんの方々にお世話になりましたが御礼の方法もなく死亡通知も出
せるかどうか判らず、止むを得ぬ事だと思ひます。
辞 世
‘笑って行く’と署名してある壁文字を遺書おく棚のわきに見出しぬ
絞台に吾が息たゆるたまゆらを知らずに妻子は待ちつつあらむ
石垣島に逝きしここだの戦友の遺族思ひをり最期の夜ごろを
春雨に肌寒き今日を床のべて今宵限りのいのちを愛しむ
独房に燭をともしてうやうやしく神父は吾に授礼し給ふ


石垣島第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉 遺書。
夜9時頃処刑言渡式があり、承認の署名を求められるかと考へていたがなかった。署名は兎に角こりごりである。
全く強制暴力により署名させられ、それが自発的自白になる苦い経験は二度とくりかへしたくない。
死によってすべて御破算になるのではない。
言渡式が始まるのを外の廊下で椅子に腰かけて待ってゐるとき本当に落着いた気持になって考へたら死といふものはな
い様に思はれる。かねがねの不死の確信が絶対間違いでなかった事が絶対の立場に臨んで確証されたと信ずる。
私の肉体は亡びる。生命も消滅するであらう。霊魂という様なものがあったら其れも無に帰するであらう。
然し現在の私は永遠に存続する。此の世界宇宙は残ってゐる。
昨年5月25日夜突然私の脳裏に深き確信をもって浮んで来た、
自己即宇宙―道元の言葉をかりて云えば尽十方世界といふ様なものであらうか-の意義は現在に於ては私が死んでも世
界は残るといふほのかな確信になって残ってゐるのであると考える。
死といふ事が昨年五月以前に考えてゐた様な感覚で私に迫って来ない。実在の死として感じられない。
此の感覚は私の幻覚としてほのかに私によみがへって来た様に最初は考え、言渡式が始まる頃まで消え失せるのではな
からうかなど危惧に似た思ひがしたが言渡式が終っても以前として残ってゐる。私の頭脳にほのぼのとしてゐる。
であるから今の私には死といふ物が殆ど平常の生活に於ける感じと異ならない。
恐らく読む人は誇張と受取るかも知れないがそうでない。
勿論明日の事はわからないが現在の心境は五棟の三階で何時もの様に起居してゐる時と少しも変りはない。
こんな理であるから理性的に考えてみれば署名した事が私の死後どうならうと私の知った事ではないのであるが私は現
在即永遠の私の残生に対して莫迦げた高圧的な圧力に屈したくなかったのである。
私の良心に対し、私の内なる仏に対し厳密に忠実でありたかったわけである。
いくら考えても軍隊組織内に於て命令でやった事が此の現実的な世界に於て死に価するとは考へられない。
原爆で死せる幾十万の人間を生かして私の眼の前に並べてくれたら私は喜んで署名もしよう。そうでない限り受諾でき
ないのである。大体この世界に於て人間の行為に対し罰し得る者は居ない筈である。罰し得るのは自分自身だけである。
自分自身の内なる仏があるのみである。敢て他人を罰するのは人間の増長慢なり。
神仏を知らざる神仏に逆きたる者である。
人間各自が各々自分自身を自分で罰し得る世界は理想であり現実に実現不可能なのかも知れないが少なくとも現在の二
十世紀の人間の余りに人間の仏性を無視し、ないがしろにしてゐる事が此処に於てはっきりと了解出来る。
正直の所私は今回の判決に対して死に価するとは思はない。
私の心をみきわめしとき、人間は必ず一度経験しなければならない死を無視して永遠に自分にだけは死がないといふ様
な考えを持って居った。それはそれでよいのであらうが一度現実の死を深く勇敢に凝視して人間の死は実際に於てはな
いものだとの自覚に到達するのが仏教の教えの一点であり、人生を自覚し永世を得る所以であると考える。
結果は同じであり、平凡であるが自覚の内容、根底に於て異なるものがあるのだと確信する。
私も如何なる経過をとり斯の様な自覚に達するのか哲学的の組織ある説明は出来ないが西田哲学に言はれる絶対無の体
験を得た時此の自覚が生ずるのであらうと思ふ。
永遠なる現在であり、それを透して望み得られるものは眼前に照々乎たる現実の世界である。そして、其処では永遠=
涅槃=地ごく=死=仏そして究極は総て無なのである。あらゆる物を疑ひ否定し尽した時、忽然として体験される「自
己は世界なり」とは絶体無の体験を通過して生ずる自覚であり、生命ある此の具体的事実である。
ニヒリズムは此の否定を観念で唯頭の中で否定を行ひ具体的事実から離れてゐる所に危険性があると考えてゐる。
だから仏教で言はれる無とニヒリズム(と)には、生命を内蔵した具体的事実と初めから生命のない抽象された観念的
遊戯との差異があり、仏教の否定をニヒリズムと考えるのは根本的に違ふのだと自己流に考えてゐる。
身体ごと体当りして体験してゆくのと頭の中の思考だけの事とは、全く違ったものであると考える。
古人曰く「人生は生死一大事因縁をあきらめる道場なり」と。
古人の此の気魄が私に無限の勇気を与へてくれ何となくうれしい。
一昨年九月頃から文字通り唯「仏の実在か不実在か」をあきらめんとして五里霧中の暗黒を彷徨しつづけた。
文字通り寝食を忘れた精神が全く莫迦げた私の三十年の人生にとり一点の光明であったと信ずる。
よくあの時の精力と根気がつづいたものだと吾ながら感心する。
そして昨年五月二十五日が私の人生の永遠に再生した日であった。何の理屈もいらない『吾即宇宙』。
勿論如何にしてそんな結果になったのか、そんな事は夢にも考えてゐなかった私にわからう筈もない。
唯釈尊も此のちっぽけな私も根本に於ては一つであったのだ。否釈尊がその侭私であったと感ずる所から来る自己の不
遜に対する畏怖、気が狂ってしまったのではないかとの自己に対する疑―此の幻覚を払ひ落さんとして頭をふり、部屋
を見廻して異状の有無を確めたりした事だった―次で此の世の中で苦労し悩む人々に対してどうしてこんな理屈も何も
ない簡単な事がわからないのかとの憐憫とも憤懣ともつかない涙がぽろりぽろりと落ちた。
次に頭に浮んだのは「私は正に処刑されんとしてゐるが、なあんだ此の大宇宙を殺さんとしてゐるのも同じ事ではない
か、知らざる者の阿呆さよ」と腹の底から湧き出んとする哄笑を止めんとするのに一苦労した事であった。
此の噴笑の衝動は其の後座禅してゐるときしばしば起り隣の佐藤氏を驚かしてはいけないと止めるのに骨折ったのが昨
日の事の様に私の頭にこびりついて離れない。「今頃此の俺を殺さんとするのは丁度空気を棒でたたく様なものだ。吊
り下げたと思ったらあに計らんや虚空の一角に呵々大笑するを聞かざるや」
思はず脱線して大風呂敷を広げてゐるような恰好になってしまった。
昨日から書き始めた漫談であるが遺書を書かなければならぬので一先ず筆を置く。外は霧雨がけむってゐる。
辞 世
網越しに今日見し母の額なる深き皺々(しはじは)眼はなれず
老母のかけし前歯が悲しけれ最後(つい)の別れと今に思へば
吾が最後の夜とも知らず陸奥(みちのく)に帰りつつあらむ老母思ふ
夜半にめざめ思い浮べる母の歌ついのかたみと書き留めにけり

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▲石垣島南部冨崎の観音崎に唐人墓がある。ここには中国福建省出身者128人の霊が祀られている。
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1852年(嘉永5年)2月厦門[ アモイ ]現在の中華人民共和国福建省南部)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、
米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄される
などの暴行に堪えかねてついに蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。

※クーリーとは、奴隷制度が廃止された後、ヨーロッパ諸国の多くの植民地やアメリカで労働力が不足した、19世紀~
 20世紀初頭にかけて、イギリスの植民地であったインド亜大陸の貧民層や、アヘン戦争後には、広東・福建両省を中
 心に、汕頭市、厦門、マカオなどから労働力として世界各地に送られた出稼ぎの労働者である。
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船はその後台湾に向かったが、石垣島沖に座礁してしまい380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建てて彼らを収
容した。 しかし米国と英国の海軍が3回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸して厳しく捜索を行った。
中国人達は山中に逃亡したが、銃撃・逮捕され、自殺者や病没者が続出した。
琉球王朝と蔵元は人道的に対応。島民も密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮したという。
後に事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月琉球側が船2隻を仕立て生存者172人を福州に送還。
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の運動が起こった。
中国人が埋葬された墓が点在していたが、石垣市はこれらを合祀慰霊する為、台湾政府、在琉華僑の支援も受け、この
場所に唐人墓を昭和46年に完成させた。
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この墓地の一郭に、上記で紹介した「石垣島事件」で日本軍によって処刑された、テボ中尉・ロイド1等飛行通信兵曹・
タッグル1等飛行機関兵曹3名の米軍飛行士の慰霊碑が建てられている。平成13年に彼らの慰霊と平和祈念の為に建て
られたものだ。唐人墓と同様、どちらも非条理な死を迎えた方々の慰霊のモニュメントだが、欲を言えば隣に「石垣島
事件」でBC級戦犯として処刑された日本軍人の慰霊碑も建てて欲しかった・・・。結局「やられたらやり返す」の戦争
で、戦犯などあるはずがない。勝った者が負けた者を裁く、ただの仕返し裁判だったのだから・・・。
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▲テボ中尉(享年28歳)・ロイド1等飛行通信兵曹(享年24歳)・タッグル1等飛行機関兵曹(享年20歳)の慰霊碑。
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▲左から順に。
 Robert Tuggle, Jr.(タッグル1等飛行機関兵曹)Vernon L.Tebo(テボ中尉)Warren H.Loyd(ロイド1等飛行通信兵曹)
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▲唐人墓近くにある琉球冨崎灯台は、昭和28年7月米軍によって建設され、昭和47年5月の沖縄本土復帰とともに海上
保安庁に引き継がれた。何度かの改良が加えられて現在に至っている現役の灯台である。
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▲ここはフサキビーチとともに夕日の絶景ポイントとしても有名だ。
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▲言葉にならない程綺麗な景色だった、しばらくの間その絶景を眺めていた。
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▲逆に朝日が絶景なのは北部の玉取崎展望台だ。玉取崎展望台から北部(平久保半島・野底)を望む。
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▲1970年(昭和45年)1月に撮影された写真。ほぼ同じアングルだ。
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▲最北端は平久保崎灯台。此処も絶景なので、おさえておきたいポイントだ。
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沖縄と言えば「シーサー」シーサーは伝説の獣の像。建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられている。
家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持つ獅子だ。八重山諸島ではシーシーと呼ばれる。
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▲石垣島で15年以上シーサー職人としてシーサーの製作・販売をされている工房がある。
▼「井上シーサー工房」だ。 ご主人が心を込めて作るシーサーは人気が高く、全国から注文が入ってくる。
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▼工房は自宅兼用で決して広くはないが、常に全国の熱心なファンが狭い展示スペースで真剣に商品を選んでいる。
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▼北部観光の帰りに是非立ち寄って頂きたい。知る人ぞ知るシーサー工房だ。(シーサー作り体験教室ではありません)
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井上シーサー工房
沖縄県石垣市桴海337−5
電話:0980−89−2195
HP http://inoue-shisar.com/

2017年1月3日石垣島鍾乳洞で開催された「新春し~し~ゴンゴン」の様子。
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石垣島の伝統行事を興味深く拝見させて頂いた。皆、半袖なのにも注目。やっぱ南国はいいね~!
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▼楽しい時間はアッと言う間に終わり、新石垣島空港からまた寒い本土へと帰った。
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沖縄の言葉はある意味英語より難しい・・読めるけど話せない・・・でも、またいつの日か石垣島に来たいと思った。




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2017_01_01


戦前、江田島といえば「海軍兵学校」を意味した。
明治21年に(東京)築地から江田島に移転して以来、海軍将校養成の基地として若者の憧れの場所だった。
現在は、海上自衛隊幹部候補生学校や第1術科学校などになっている。
以前から訪れたかった場所にやっと行く事が出来た。教育参考館が1番の目的。
「鹿屋航空基地史料館」では見る事が出来ない神風特攻隊員の遺書や遺品をこの目で見る為に・・・。
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▲江田島市にある国民宿舎能美海上ロッジで前泊。
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▲能美海上ロッジ駐車場端にある「軍艦利根資料館」
太平洋戦争末期、江田島湾奥に避難停泊していた重巡洋艦「利根」は、昭和20年7月24日から米軍機大編隊の襲撃を
受け、乗員128名の戦死者を出し、28日夕刻トトウガ鼻沖に擱座した。この空襲では、町内の被害も甚大だった。
昭和40年3月「慰霊碑建設委員会」を結成し生存者や遺族も参画して慰霊碑を建立、以後、保存会を結成、碑の周囲一
帯を「利根公園」とし、昭和62年8月に「軍艦利根資料館」を建設した。
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▲昨晩泊まった場所の目の前の江田島湾に71年前、激しい爆撃に晒された「利根」が停泊していたとは・・・。
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▲資料館の見学は無料だ。正し、電気だけは自分で点け、帰りには必ず消灯する事が条件だ。
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軍艦関係はあまり詳しくないが、目の前の海での悲劇に、遺品を見ると胸を強く打つ
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▼利根の浴槽。 
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▼昭和20年7月29日江田島湾にて大破着底状態の重巡洋艦「利根」。
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「軍艦利根資料館」見学もそこそこに江田島旧海軍兵学校見学に向かう。
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受付を済ませて敷地内へ入る。
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敷地内を徒歩で江田島クラブ1階(見学者控室)へ向かう。
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見学スタート。ガイドさんが説明付で案内してくれる。
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大正6年建造の「大講堂」。卒業式などの式典で使用されるとの事。
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中に入る際に、しきりに砂利道を歩かない様に注意を促される。
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此処で卒業式を迎える事はこの先も一生無いだろう・・・入校する事もね。
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▼幹部候補生学校庁舎(旧海軍兵学校生徒館)
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此処で学んだ生徒は何を思って負け戦に進んでいったんだろう・・・太平洋戦争末期の学徒出陣の予備士官ばかりが
特攻に行かされ、特務士官に対する差別もキツかったという。今どんな教育をしているのか非常に気になった。
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▲一番来たかった場所、「教育参考館」
旧海軍関係の資料など14000点が展示されている。残念ながら館内は撮影禁止だったがしっかり見てきた。
皆さんご自分の目で見学されると良いでしょう。私は涙が止まりませんでした・・そして少し美化し過ぎとも思った。
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「ハワイ真珠湾攻撃」で使用された「甲標的」(伊20搭載の広尾彰少尉/片山義雄2曹 搭乗艇と言われている)
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1960年6月13日アメリカ軍によってヒッカム飛行場沖で発見されて引き上げられ、1週間後の6月20日に海上自衛隊
揚陸艦『しれとこ』に搭載され、7月20日約20年ぶりに横須賀に帰還。7月28日江田島到着。此処に保存されている。
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ほとんどの人が甲標的を見学せず館内に吸い込まれて行った・・・。甲標的の実物は日本で此処にしか無い。
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▲「安式四十口径六吋砲」
堺市の元市議会議員、加藤均氏がサイパン島で発見された物を寄贈した。と書いてあった。
旧海軍の艦載砲、日露戦争に於いて、英国(アームストロング社製)から180門が日本に輸入され、戦艦・巡洋艦の副砲
として使用された。これを準国産化した火砲が「安式四十口径六吋速射砲(アームストロング式40口径6インチ速射砲)」
太平洋戦争当時、艦載砲として既に旧式となった「安式四十口径六吋速射砲」は沿岸砲台として再利用された。
パラオ共和国バベルダオブ島でも見た事がある。

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▲旧海軍駆逐艦「雪風」の錨
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▲ガダルカナル島への砲撃で使用されたという一式徹甲弾
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▲特殊潜航艇「海龍」
本艇は昭和18年、海軍中佐浅野卯一郎の着想により、同20年4月、量産発令と同時に官民多数の建造所で全力をあ
げ急造、本土決戦に備えられた特攻武器である。
終戦までには230隻が完成し、なお多数建造中であったが一度も使用されていない。
魚雷2発を下部両側に装着発射することになっているが、一部の艇は魚雷にかわり艇首に炸薬を装備することとし、
自動車用機関により量産された前例のない有翼潜水艦であり、軽快に潜航浮上ができた。 (案内版より)
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内部が見える様に外板が切り取られている。
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▲凄い鉛バッテリーの量だ。
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 2016_12_18


広島県福山市の離島「横島」。ここにひっそりと戦争遺跡が残っている。
昭和18年に完成した「陸軍燃料廠 横島貯蔵所」だ。当時は11基の燃料タンクがあり、終戦まで稼働していた。
戦後は米軍が使用する事となり、昭和33年の返還まで「横島油槽所大浜貯油基地」として稼働していた。
日本に返還後の昭和35年からは㈱丸善石油大浜貯油所が再稼働させるがオイルショックによって昭和50年に閉鎖。
以後、LPガス貯蔵施設計画など色々あった様だが、現在はドルフィンビーチとしてシーパーク大浜(ツネイシホールデ
ィングス㈱)の海水浴場となっている。ビーチの奥にはコンクリート製の燃料タンク(油槽防弾壁)が4基現存している。
[ ドルフィンビーチ ]広島県福山市内海町2220大浜 
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▲沼隈半島から内海大橋(うつみおおはし)を渡ってまずは田島へ上陸。
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▲田島を過ぎると横島へ入る。迷う様な道ではないので解り易い(小さな睦橋を渡って直ぐ横島だった)
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▲横島のこの様な海沿いの道をとにかく南へ進んで行く。
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▲途中いくつかビーチが見える。天気が良かったので思わず撮影。瀬戸内はトラック諸島に似ている。
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▲油槽防弾壁4基を高い場所から確認する為、横山海岸海水浴場の少し手前で右に折れ、切石山展望台に向かう。
 田島が綺麗に見下ろせた(切石山展望台へ上る途中で撮影)
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▲展望台駐車場(無料)に車を置いてひたすら歩く。この日は12月とは思えない温かさだった。 
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▲登り切ると絶景が広がり、横島最南端と瀬戸内海が見渡せる。快晴だったので景色が最高だった。
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▼断崖絶壁から横島最南端を望む(左側が横山海岸海水浴場)岩場ギリギリまで行くとかなり足がすくむ。
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すると何やら怪しい軍事施設が・・・!これだ!
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▲見つけた!「陸軍燃料廠 横島貯蔵所」11基の内、現存する4基の油槽防弾壁!
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▲展望台の神社で軽く旅の安全を祈って、早速現場へと向かう。
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▲▼シーズンオフという事もありシーパーク大浜は閑散としていた。
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▼シーパーク大浜からほんの少し山側へ行くと・・・見えた!
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間違いなく切石山から見えた旧日本陸軍燃料廠 横島貯蔵所の遺構だ!大きい!が、トラック諸島に現存している旧日本
海軍の燃料タンクよりは小さいかな・・・。
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▼因みにトラック諸島(夏島)に現存する旧日本海軍の燃料タンク
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▲▼夏島に現存する燃料タンクには横島の様な防弾壁は無かった。米軍の空襲で破壊されたままの状態だ。
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▲米軍の爆撃による火災で鋼鉄の燃料タンクが飴の様に溶けて変形している。

陸軍の燃料タンクもこの防弾壁の中にはきっと海軍と同じ様な燃料タンクがあったのだろう。
シーパーク大浜が倉庫として活用しているそうなので「ザ・放置」状態では無い。
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現存する油槽防弾壁4基周辺は草木が刈られており、非常に歩き易かった(感謝)
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流石軍事施設。建設から70年以上経っても劣化は少ない。
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これが戦後の建造物だったら何も感じないのだが、戦時中の軍事施設だと思うと見方が変わる・・・。
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▲明らかに戦後にブチ開けられた入口があったので中を覗くと・・・。
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▲案の定ゴミ捨て場となっていた・・・。
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▲少し白けムードになってしまったので直ぐに出た(異臭もしていた)
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▲ゴミ捨て場ばかりでは無く、入口がちゃんと設置されて(戦後)綺麗な場所もあった。
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何も無い空間をしばし眺めていた。
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さぁ戻ろう。
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シーパーク大浜は直ぐ目の前だ。
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このままずっと残しておいて欲しい軍事遺構だ。
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▲戦時中とされる画像。矢印の4基を見学した事になると思う。画像はM茶の瀬戸内アウトドア紀行さんからお借りした
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▼1970年代後半とされる航空写真には11基のタンクが確認出来る、黄で囲んだ所が記事で紹介した箇所。
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この後は横島を離れて呉市に向かった。
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▲呉に向かう途中、安浦漁港で防波堤として現役?の「コンクリート船」を見学した。
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▲太平洋戦争中、鉄不足の日本は鉄筋コンクリートで船体を作った日本海軍所属の貨物船「武智丸」を4隻建造した。
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▲▼2隻を縦に繋げる感じで防波堤代わりに停泊?させてあるが、第一武智丸は半分以上沈みかかっている。
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▼第二武智丸に向かう。満潮時だったがよく見学出来た。程度は良好の様だ。
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▼船内に入ってみる。
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一応形的に船の形をしているので「船内」という感じがするが、武骨なコンクリートの壁は地下壕の様な感じだ。
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天井が抜けているので閉塞感は無いが、当然明かりはあったとしても、実用当時はとてつもない閉塞感だっただろう。
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▼艦橋へ出て、入った船内を再び眺める。何とも表現が難しい、竣工時の写真を見てみたい・・・。
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▼浸水している区画もある、船倉の部分だ。
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▼船首へ向かう。アンカーチェーンを通すホースパイプが見える。
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▼当然狭くなってとんがっている。腐食防止・船首強化の為、船首は当時から鉄板で覆われている。
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堤防代わりになっている事がよく解る。船首から見ると何の特徴も無い「戦時標準船」型だ。
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防波堤がなく、台風の度に漁船が被害を受けて困っていた安浦漁港。兵庫県高砂市で建造された「武智丸」は、
軍需物資輸送の役目を終えた戦後、第二の余生は安浦漁港の防波堤として役割を担っている。
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その後一路呉市へ。まずは「歴史の見える丘」から戦艦大和の建造されたドックを見学
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▲噫(ああ)戦艦大和之塔
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▼旧呉海軍工廠礎石記念塔
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▲旧呉海軍工廠の残存した礎石、旧呉鎮守府開庁当時の庁舎建材などを集めて建立したモニュメント
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▲アレイからすこじまへ向かう途中の下り道から見えた軍艦
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▲アレイからすこじまは国内で唯一、潜水艦を間近で見ることができる公園。「アレイからすこじま」の名前の由来は
「アレイ」は英語で路地。「からすこじま」呉浦にあった「烏小島」、。烏小島は大正時代に埋立てられている。
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▲海上自衛隊の潜水艦と護衛艦がイカリを下ろしている。かつて呉が帝国海軍の本拠地だった事を偲ばせる。
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▲これが見たかった、魚雷揚げ下しクレーン。大戦末期の空襲や戦火をくぐりぬけ、現存する奇跡のクレーン。
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▲明治時代の英国製で、吊上げ能力は最大15トン。油圧でも電動でも無いアナログでシンプルな構造。
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▲▼呉海軍工廠の前身である呉海軍造兵廠時代(明治30年~36年)に建てられた。空襲で被害を受け、建設当初よりも
 奥行きが短くなっているとの事。戦後は民間会社の倉庫として利用されて今も現役で使用されている。
 8号(造兵廠弾丸庫雑器)/10号倉庫(魚形水雷庫)が当時の建物で真ん中9号棟は戦後建てられたもの。
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付近には防空監視所が残っているそうだが今回は時間が無く・・・、その後宿泊先のある江田島に向かった。




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 2016_12_17


[ 小禄(那覇)海軍飛行場/那覇国際空港 ]
那覇国際空港は旧日本海軍小禄(おろく)飛行場だった、米軍の沖縄本島上陸が差し迫った昭和20年3月24日、25日
「小祿彗星隊」が海軍小祿基地から艦上爆撃機「彗星」で出撃している。(沖縄周辺米機動部隊索敵攻撃)
※「索敵攻撃」とは、先の大戦中、制空権を米軍に握られた沖縄では、航空特攻出撃は早朝に発進した索敵機の報告に
 頼らざるを得ず、特攻隊が敵艦船上空に到着した頃には既に報告された位置に敵艦隊がいない事のほうが多かった。
 その為、特攻機を数機ずつに分け、敵のいそうな海面を中心に扇状の飛行コースで飛ばせ、その中で敵艦隊と遭遇し
 た隊だけが突入する「索敵攻撃」という手段を用いた。敵がいなければ帰還するので隊員の中には3度、4度、5度と
 覚悟を決め直して特攻出撃を繰り返す特攻隊員も多かったという。
※太平洋戦争(大東亜戦争)当時、沖縄には以下の飛行場があった。
「沖縄本島」陸軍北飛行場(読谷)/陸軍中飛行場(嘉手納)/陸軍東飛行場(西原・小那覇)
     陸軍首里秘密飛行場/陸軍南飛行場(仲西・城間)/海軍小禄飛行場(小禄)/海軍糸満秘密飛行場(糸満)
「伊江島」陸軍伊江島飛行場
「宮古島」海軍宮古島飛行場/海軍宮古島中飛行場/陸軍宮古島西飛行場
「八重山(石垣島)」海軍石垣島北飛行場/陸軍白保飛行場/海軍石垣島南飛行場(元石垣空港)
「その他」海軍喜界島飛行場/陸軍徳之島北飛行場/陸軍徳之島南飛行場/海軍南大東島(喜界島)飛行場
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※ここで紹介する当時の写真は全て米軍が戦時中に撮影したものである。
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▲▼沖縄県の玄関口、那覇国際空港はかつての旧日本海軍小禄飛行場だ。
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現在の滑走路の位置は帝国海軍小禄飛行場時代に近いレイアウトとなっているが面影は無い。
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▼昭和19年10月10日(十十空襲)米軍の爆撃を受け炎上する日本海軍小禄飛行場
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▼昭和20年6月4日ついに日本海軍小禄飛行場まで進軍してきた米兵。奥に格納庫・滑走路が見える。
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▼破壊された日本海軍機の残骸。米軍占領前に空爆で大破していたのであろう、一式陸上攻撃機か?(6/4撮影)
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▼昭和20年6月5日米軍が小禄飛行場占領直後。奥に格納庫・滑走路が見える。
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▼▲既に廃墟となっていた日本海軍小禄飛行場の格納庫
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▼破壊された日本海軍小禄飛行場格納庫内の海軍機。尾翼に「オキ」が見える。
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▼格納庫の中より滑走路を見た写真。ドラム缶で主翼を支えている所を見ると、度重なる空襲で既に米軍が上陸する前
 に破壊されていたのであろう・・・昭和20年3月25日神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」出撃後の記録は無い。
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▼占領後、格納庫内で地雷や偽装地雷などを探す米軍第6海兵師団工兵爆弾処理B中隊(6/7撮影)
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▼米軍占領間もない小禄飛行場概観。上空には監視用米飛行機が写っている(6/6撮影)
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▼▲昭和20年6月16日占領した日本海軍小禄(おろく)飛行場を横切って前線へ向う第2海兵師団第8連隊の海兵隊員
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▼小禄飛行場の掩体壕。中に日本海軍機の残骸が・・・。
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▼▲海軍小禄飛行場の日本海軍機の残骸。
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▼▲小禄飛行場で休憩をとる米海兵隊員。ゼロ戦と思われる残骸が2機写っている(6/8撮影)
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▼この日本海軍機はなんだろう・・・海軍96式陸上攻撃機か?
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▼海軍96式陸上攻撃機(kan様ご教授有難うございます)
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▼海軍小禄飛行場に配備?されていたダミー戦闘機。残念ながらおとりの役目は果たせなかった・・・。
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▲米軍に占領されてからの小禄飛行場。元は3本の滑走路を有する日本海軍の飛行場だった(昭和20年6月撮影)
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▲米軍が整備し直した小禄飛行場。ルソン島から移動してきた米輸送機と米爆撃機が駐機している(7/9撮影)
※一部基地施設は昭和47年に返還されたが那覇(小禄飛行場)基地が日本に全面返還されたのは昭和57年4月だった
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▲終戦後の昭和23年10月26日に撮影された那覇(小禄)飛行場。米軍が滑走路など完全に作り変えている。
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▲▼終戦後昭和23年10月20日上空6000フィートから撮影された那覇(小禄)飛行場(現在の那覇国際空港の原型となる)
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▼戦後昭和29年4月10日に撮影された那覇(小禄)飛行場
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▼小禄飛行場南側全景。奥に見えるのは瀬長島、滑走路、格納庫が写っている。
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▼小禄飛行場南側、倉庫建設を始める第933連隊航空工兵隊(7/20撮影)
 大きな格納庫は米軍が活用する予定なのでまだ残っているが、小さい格納庫は無くなっている。
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▼小禄飛行場で撮影された掩体壕。爆撃を受けたのか前半分が崩れ落ちている。
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▲小禄半島に設置されていた日本海軍レーダー施設
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▲▼海軍小禄飛行場の丘に設置されていた日本海軍のレーダー施設
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▼レーダー背面
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▼▲小禄飛行場の砲弾跡で水浴びを楽しむ第6海兵師団第4大隊の兵士。大破した海軍機が見える(6/7撮影)
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▼海軍小禄飛行場にはまともな航空機は残っていなかった様だ・・・。
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▼海軍小禄飛行場に放棄されていた日本海軍の軍用トラック
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▼恐らく小禄飛行場近くの弾薬庫で撮影された写真、日本軍の弾薬。(6月撮影)
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▼小禄飛行場隣の海岸に面した日本軍塹壕。後方に見える小禄飛行場と塹壕自体の構造に注目。
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▼那覇港の奥武山島にあったバラック小屋。おそらく港湾部隊所属の海軍兵舎だろう(6月撮影)
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▼小禄飛行場の発電所を調べる米兵、度重なる空襲で屋根は焼け落ちている(6月撮影)
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▼小禄飛行場付近で南部の日本軍陣地を攻撃すべく、設営する105ミリ榴弾砲部隊。左奥に発電所が写っている(6/6)
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▼6月、小禄飛行場攻略後、前線へ移動する米兵。後方に海軍機の残骸。
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▼小禄飛行場端に設置された第6海兵師団第22連隊B医療中隊の前線病院。移動手術室として使用される。
 (那覇で鹵獲され、米軍に使用される日本の路線バスが写っている6/12撮影)
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▼沖縄の県都那覇の焼け跡に横たわる日本軍機のエンジン(6/17撮影)
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▼6/7小禄飛行場の格納庫前を通過し、前線へ移動する米軍戦車
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▼6/12戦車の点検中、兵士達は休憩し、格納庫近くで待機する第6海兵師団B中隊の大型戦車。
 状態がまだ良好な日本海軍の大型格納庫は近いうちに米空軍が使用する事になる。
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▼小禄飛行場のゼロ戦?の残骸をメインに瀬長島を写した写真(6/12撮影)
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沖縄戦のみならず、日本の戦争を象徴する様な写真だ・・・。
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▼現在は平和な那覇国際空港、滑走路は航空自衛隊と共用だ。ここが日本海軍小禄基地だった事をどの位の人が知って
いるだろう。右奥に見える島は瀬長島。米軍の沖縄本島上陸が差し迫った昭和20年3月24日,25日この飛行場から神風
特別攻撃隊「小祿彗星隊」が出撃し、沖縄の海で命を散らした若者がいた事を観光で訪れた際は、まず想って欲しい。
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▼昭和20年6月大破した零戦と米兵。遠近感は違うが上記写真とだいたい同じ感じ。奥に瀬長島が写る。
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ガダルカナル島の戦い以降、飛行場を作っては米軍に占領され、「米軍の為に飛行場を作っているのではないか?」と
囁く工兵も居たと言う。南洋諸島~沖縄まで、米軍に占領されて利用された日本軍飛行場は実に10ヵ所を超える。



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 2016_10_17




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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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