ハワイオアフ島・パールハーバー。日米開戦の舞台となったハワイ・フォード島、真珠湾攻撃・・・。
真珠湾は現在も米軍基地が置かれているが、そこには第二次世界大戦に関する博物館などがある。
本来、最初に訪問すべき場所ではあるが、その遠さと費用で今まで足踏みしていたが、やっと行く事ができた。
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▲日本から約8時間。オアフ島のダニエル・K・イノウエ国際空港(旧ホノルル国際空港)に到着。
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▲空港内にはダニエル・K・イノウエを紹介する場が設けられている(2017年4月27日より名称変更)
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▲ダニエル・K・イノウエ氏
ダニエル・K・イノウエは、ハワイ州出身の日系アメリカ人で、ハワイ大学在学中の1941年12月日本軍による真珠湾
攻撃が行われ、アメリカが第2次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願。その後アメリカ人としての
忠誠心を示す為にアメリカ軍に志願。アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、手榴弾の炸裂で
右腕を失うも、ヨーロッパ前線で勇敢に戦い、数多くの栄誉を受けた人でもある。
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▲ダニエル・K・イノウエ国際空港は、米空軍のヒッカム空軍基地に隣接しており、滑走路を軍民で共有している。
日本で言うと那覇空港の様な使い方だが、大きな違いはダニエル・K・イノウエ国際空港は24時間空港だという事だ。
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▲これは第100歩兵大隊を紹介する展示。
日系二世を中心に編成された部隊で、第2次大戦中ヨーロッパ戦線に投入され、イタリア戦線・フランス戦線でドイツ
軍を相手に戦闘を行った。死傷率は314%(のべ死傷者数9486人)だった。
アメリカ本土からの志願兵を加えて編成された第442連隊戦闘団がイタリア戦線に到着し、第442連隊戦闘団の第1大
隊となったが、それまでの功績から第100歩兵大隊の名称はそのまま継続した。
当初は「ジャップ」と呼ばれ、上級指揮官から「必要ない」と言われた日系部隊だったが、戦闘を重ねた後は各方面の
指揮官から日系二世部隊を増援で欲しいと言われる程の活躍だったという。
終戦後第100歩兵大隊は大統領部隊感状を始めとする多くの表彰を受け、現代に至るもアメリカ陸軍ベストユニットの
1つとされ、大隊の大部分の兵士が負傷し、パープル・ハート 章を受章した事からパープル・ハート大隊とも呼ばれた。
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▲他にも、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団したウォーリー・ヨナミネ氏も紹介さ
れていた。私は野球は詳しくないので、恥ずかしながら存じ上げませんでした・・・。
多くの日本人観光客がディスプレイを素通りして行くが、日系一世~現在は四世・五世と、脈々と続く日系人の活躍と、
一世・二世の想像を絶するご苦労を、日本人はもっと知り、学ぶところは学ぶべきだと強く思った。
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▲空港内には、中国庭園・日本庭園・ハワイ庭園があり、空港でありながら緑の中で時間を過ごす事が出来る。
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▲▼チャイニーズガーデン(中国庭園と言っても現在の中国では無く、中華民国の意味合いだ)
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▼チャイニーズガーデンには「中国革命の父」で初代中華民国臨時大総統の孫 文の石像がある。
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▼ジャングルを思わせる様なハワイアン庭園
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▼最後はお待ちかねの日本庭園。と言いたいところだが・・・。
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日本庭園独特の白砂か!?と思ったらコンクリート敷だった・・・メンテが大変だからね・・・仕方ないのか。
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ハワイアン庭園と言われてもうなずいてしまう様な日本庭園・・・。
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しかし、此処ハワイの玄関口に「日本庭園」と題されたスペースがある事に意味がある。と考える事にした。
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▼入国審査を終えて空港を後にする。
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観光客は日本人女性が特に多いと感じた。
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▼まずは宿泊先のホテルに向かう。やっぱり南国はいいね~!
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▼宿泊したホテルはアストン・ワイキキ・ビーチ・ホテル
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▼宿泊部屋(17階)から下を見る。プールは宿泊客であれば自由に使う事が出来る。
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▼宿泊部屋のベランダからの眺めは綺麗だった。部屋も綺麗だったが、トイレのウォシュレットは無かった・・・。
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▼ホテル前の道を挟んだ向かいはワイキキビーチだ。
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ここは人口ビーチで、砂はアメリカ本土からだけでは足らず、遠く北海道からも砂が運ばれたそうだ。
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▲▼ワイキキ周辺は高級ホテルが立ち並び、買い物をするにも何でも揃う大都会だ。
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芸能界を引退した島田紳助さんもこのワイキキの高級マンションに住んでいると聞いた。
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▼中国製のエンジンスクーターを結構見かけた・・・。
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▼▲何処の国でも居るんだね~。ストリートパフォーマー「シルバーマン」
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▼現在もフォード島は真珠湾に浮かぶ現役の米軍基地。そこに行く為にはフォードアイランド・ブリッジを渡る。
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▲この交差点の向こうはフォードアイランド・ブリッジ。橋に入ると検問所がある。ここから先は撮影禁止区域だ。
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▲真珠湾内に浮かぶフォード島(Ford Island)矢印(白)がフォードアイランド・ブリッジの入口。矢印(赤)はこれから
見学する真珠湾攻撃当時ままの格納庫を利用した、太平洋航空博物館パールハーバーだ。
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▲フォード島に上陸。一般見学者がここに来るにはツアーに申し込む以外に方法は無い。
鞄などの手荷物品は一切持ち込む事は許されず、車両は許可車両しかフォードアイランド・ブリッジを渡る事は許され
ていない。フォード島に入る前にはセキュリティー担当者が車内を点検しに来る。
我々の車両は日本人ばかりだったので、本当に簡単な見回り?程度で点検が終わった。
「日本人は信用出来るから見なくても大丈夫と思われている」というガイドさんの話が嬉しかった。
持ち込みが許可されているは、携帯電話・カメラ・財布といったポケットに入る程度の私物だけである。
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▲太平洋航空博物館パールハーバー以外は現役で訓練等に使用されている所も多く、うろちょろ撮影は許されない。
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▲▼真珠湾攻撃当時のまま残されている格納庫37号棟・79号棟の2棟が「太平洋航空博物館パールハーバー」だ。
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▼管制塔も当時のままだそうだ。
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▼早速37号棟から見学を開始する。
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真珠湾の拡大写真が床に貼られた小さなロビーで館内の説明・日本語訳発信機などを受け取る。
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とにかく時間が無い。与えられた時間は1時間程度。
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日本語訳発信機を使って展示物の説明を聞いていると、写真撮影の時間が取れなくなってしまう程の短時間だ。
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▼吊るされてる航空機の模型の中に、日本軍機もあるが、かなり上にあるので写りにくい。
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真珠湾攻撃の際、地上から見えた大きさで再現されているという。
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▼最初はどでかい真珠湾攻撃のパネル!
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▲中島B5N 九七式艦上攻撃機だろうか・・・。襲い掛かる日本軍機が描かれている。
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▲▼次は真珠湾攻撃仕様の零戦21型だ。本物だ・・・素晴らしい!
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機番「BⅡ-120」は「 ニイハウ島事件」の西開地重徳1飛曹の機番が書かれている。
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ゼロ戦が空母「飛龍」の飛行甲板上で搭乗員や整備兵の人形がリアルに配置されている・・・。
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機番「BⅡ-120」のBは第二航空戦隊、Ⅱは二番艦「飛龍」、1は戦闘機を表す(2は艦爆3は艦攻)20は先任順。
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此の零戦21型はパプアニューギニア・二ューブリテン島 ガスマタに放置された台南航空隊所属機をオーストラリア軍
が捕獲した物※ガスマタ(Gasmata)はパプアニューギニア ニューブリテン島 西ニューブリテン州南岸にある村。
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▲ハワイの小学生だろうか・・・先生かガイドの人が零戦の前で子供達に日米開戦に関するフェアな説明している。
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ガイドの方が「日本人は此処で立ち止まって時間を使い過ぎてしまい、他を見学されずに帰ってしまう人が多い」
と言っていたが、当たり前だ・・・いつまでも眺めていたい!!しかし、もう二度と来る事は無いと思うので先を急ぐ。
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▲▼真珠湾攻撃で日本海軍が使用した框板と安定器の付いた魚雷は、水深12mの真珠湾泊地の攻撃を可能にした。
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真珠湾攻撃以前から改良が続けられた結果、真珠湾攻撃の時には世界一深度が安定した航空魚雷になっていた。
それに加え、戦艦の分厚い防御甲鈑をブチ抜く為の800㌔特殊鉄鋼爆弾も水平爆撃で使用された。
真珠湾攻撃に参加した日本海軍空母群は「赤城」「加賀」「蒼竜」「飛竜」「瑞鶴」「翔鶴」そして航空機約350機だ
った。各空母の艦載機を水平爆撃機隊、雷撃機隊、急降下爆撃機隊及び戦闘機隊の四群に集約、各隊ごとに指揮官をお
き、その上に全体を統括する総指揮官をおく編成で、飛行隊長として旗艦「赤城」に赴任した淵田少佐が指揮をとった。
錦江湾(鹿児島県)で5ヵ月間の猛烈な訓練を重ねた日本海軍パイロットは当時世界一の技量を持った搭乗員達だった。
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▲ハワイ真珠湾で水平爆撃を終え、ヒッカム飛行場上空を飛行する空母瑞鶴所属の97式艦上攻撃機
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▼▲米軍の対空射撃で被弾、撃墜された空母「赤城」第1次攻撃隊 第2制空隊第1小隊2番機・平野崟1飛曹(戦死)
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▼▲カメハメハ大通りの直上をかすめながら、カメハメハ要塞の兵器庫に突入したと言う。平野崟(たかし)1飛曹は第1
次攻撃に参加した空母「赤城」零戦隊唯一の未帰還機。制空隊総指揮官の板谷茂少佐の2番機だった。
米軍対空砲火で被弾した平野崟(たかし)一飛曹はヤシの木に突っ込んだ後、カメハメハ要塞兵器庫の入り口にいた砲兵
のグループに衝突したと言う。その結果、米軍砲兵4人と平野1飛曹が死亡した。
「 ニイハウ島事件」の零戦だ・・・。
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真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属の零戦。パイロットは西開地重徳1飛曹(愛媛県出身) 享年21歳
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▼ニイハウ島に不時着して1週間後の西開地1飛曹の零戦。
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▼ニイハウ島に不時着➡西開地1飛曹と原田が零戦の無線を使おうと試みたが失敗し焼却された後の写真。
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空母「飛龍」戦闘機隊所属だった機番[ BII-120 ]昭和16年12月17日米国陸軍派遣隊撮影。
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▼このトラクターも「ニイハウ島事件」に関係あるから此処へ持ってきたのだろう・・・。
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西開地1飛曹をかくまった日系2世「原田義雄さん」享年39歳も紹介されている。
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▲▼アメリカ軍機はあまり詳しくないので写真のみでスルーする。練習機かな?
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▼▲これはP40かな?
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▲▼爆撃機の展示は場所とるね~日本本土を最初に空襲したB-25中型爆撃機。
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「ドーリットル空襲」昭和17年4月18日アメリカ軍が空母エンタープライズ、ホーネットの2隻に搭載した陸軍B-25
中型爆撃機で、日本本土に初めて行ったの空襲の事。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドーリットル中佐に由来。
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▲日米開戦前に日本が授与した勲章を、ホーネット艦上で爆弾に取り付けるジミー・ドーリットル中佐。
ドーリットル中佐自身は、被弾した場合は搭乗員を脱出させた後、目標に特攻する決意だったという。
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▲▼ミッドウェー海戦で活躍したダグラスSBD-3ドーントレス。
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▼▲グラマンF4Fワイルドキャットだ・・・。ガタルカナル・ヘンダーソン基地のジオラマになっている。
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▼退役軍人の方だろうか。ゴルフカートの様な物で79号棟に連れて行ってくれた。
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▼79号棟を見学する。
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見た感じ、日本軍機は無さそうだが・・・。
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▼中華民国軍(米義勇軍)のP40-Bトマホーク(Tomahawk)フライングタイガース。
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▲▼そういえば日中戦争でアメリカは当時の中華民国を支援していたんだよね・・・。
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▼パイロット達のサインだろう・・・水平尾翼にマジックで沢山書かれている。
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▼▲旧日本軍も買っていたダクラス輸送機かな?
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▲▼ミッドウェー海戦(Battle of Midway)の模型だ。
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▼もう日本軍機は無いのかと諦めていたその時、あった!97式艦上攻撃機の残骸・・・。
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アメリカ軍での愛称「Kate」で紹介されている。
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日本海軍 中島 B5N2 九七式三号艦上攻撃機を The Most Dangerous Plane = 最も危険な飛行機 と紹介している。
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日本軍機があったので良かった・・・そしてここでタイムアップ。お土産屋も見たいので集合場所に戻る。
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▲37号棟と79号棟の間には何やら飛行機が展示されていたが、時間も無く、日本軍機は無いだろうとスルー。
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フォード島の大部分は今でも滑走路だ。
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次は「戦艦ミズーリ記念館」に向かう。
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その前に、真珠湾攻撃で撃沈された戦艦オクラハマ(USS Oklahoma, BB-37)乗組員の慰霊碑で黙祷を捧げる。
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▼戦艦オクラハマ(USS Oklahoma, BB-37)
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▼いよいよ戦艦ミズーリ記念館に入る。
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まずはアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官、チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア元帥の銅像
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       東郷 平八郎元帥海軍大将の崇敬者だったニミッツ元帥はアメリカ軍のヒーローだ。
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       ▲アメリカ軍の人もこぞって銅像の前で記念撮影している。勝戦国だね・・Nice couple!
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星条旗に覆われた小さな橋を渡ると戦艦ミズーリ記念館だ。
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▼ゴミ箱も戦艦ミズーリ仕様。こういうところがカッコいい!
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「戦艦大和」と数メートルしか違わないというミズーリはとてつもない大きさだ。日本ではこの様な戦艦は見れない。
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アメリカって感じだね~当たり前だが敗戦国日本の重苦しい平和祈念館とは全く雰囲気が違う・・・。
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アメリカも朝鮮戦争やベトナム戦争では一応負けてるんだけどね・・・。



続く➡執筆中



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 2017_09_20

石見銀山

Category: 石見銀山  

(角島からの続き)
日本海側を海沿いに走り、最後の目的地「石見銀山跡」に向かう。
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▲石見銀山世界遺産センターに到着。この建物内の展示室は有料だった。
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▲▼此処に車を駐車してバスで石見銀山跡向かう。
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ここからは徒歩かレンタル自転車での散策となるが、貧乏旅なので当然徒歩を選ぶ。
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まずは五百羅漢(ごひゃくらかん)羅漢寺(らかんじ)から見学。早速有料だ・・・。
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車で来ているのにバス代を取られ、羅漢寺・石見銀山跡と何度もお金を徴収しようとする世界遺産に少々がっかり。
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当然外から眺めた程度で中は見学していない。たいして興味が無いからだ。
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見学もほどほどに石見銀山跡に向かう。
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▲此処で簡単な地図を頂いて、林道を歩き、石見銀山を目指す。
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静かな林道を歩いて行く。
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途中、小さなお寺がいくつもある。
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▼この長い階段は登っていない。
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▼▲銀脈の発見に観音のお告げがあったという清水寺。
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途中、林道から自転車が走る舗装道路に合流する。
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▲福神山間歩とは、福神山(ふくじんやま)の間歩(まぶ)=坑道で、山師と呼ばれた個人が経営した「自分山」だという。
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あちらこちらに坑口がある。
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戦跡ばかり見てきた私には日本軍の陣地壕にしか見えない・・・。
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しかし、ここは戦跡では無い。「銀」を採掘していた場所だ。
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何か建物が見える。どうやら目的地到着の様だ。
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公開されている龍源寺間歩(龍源寺坑道)に入る為には入場料を支払う。
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龍源寺間歩(坑道)入口。外は汗が噴き出る程の暑さだが、入口付近は冷たい空気が漂っていた。天然冷房は最高!
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しかし、どう見ても旧日本軍の陣地壕に見えてしまうのは私だけだろうか・・・。
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「沖縄戦」で米軍が撮影した日本軍陣地壕。
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外は暑いので早く中へ入る事にする。
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「龍源寺間歩」とは、江戸時代に造られた全長約600mの坑道跡。
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そのうち273mが公開され、坑道内の壁面に残るノミの跡など、往時の手彫り作業の痕跡が見学出来る。
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坑道内は12~13度で非常に快適だ。
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江戸時代の鉱夫達は鉱脈を求めて坑道を掘り進めた。
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▼出口へ向かって最後の登り坑道。
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▼出口近くの最後は、江戸時代の石見銀山絵巻二巻に描かれた当時の採掘作業の様子を映した電照板だ。
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これを見て感激し、真剣に見入ってしまった・・・江戸時代の話だ・・・昔の日本人は凄かった・・・。
▼「四つ留之図」
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坑道に入口は四つ留めと呼ばれ、石見銀山では縦1.8m横幅1.5mの間歩入口に直径90㎝程の栗の丸太で4本柱を組
んで四つ留とした。
▼「四つ留役所之図」
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江戸時代中期、間歩(坑道)入口の左右には、四つ留役所が置かれ、山方掛の役人3人・同心1人・山附などの役人が詰
めて、坑内監督や見張りや、銀鉱石の計量を行っていた。
▼「御代官様銀山御見廻之図」
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御用見廻りは、年に数回銀山附役人4~5人と共廻りの御仲間2~3人を連れて馬で巡見を行い、鉱山の採れ高の状況
や、坑内の様子などを四つ留役所の役人から事情説明を受ける習わしであった。
▼「四つ留役所前柄山捨場」
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山言葉で捨石の事を「柄山」と呼ばれた。良質の鉱石が混じっている事があることから、山内の女や子供、非番の人夫
達が鉱石拾いをする様になった。
▼「鋪内之図」
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坑内の図で、右側から捨て石を背負って歩く人夫。鉱石の運搬や坑内の支木の替え木を持ち運んでいる図である。
▼A➡押木留之図 B➡掘子共鎖堀図 C➡水鋪水取之図
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押木留之図➡天井の土砂を留める為に木材で被う図。
掘子共鎖堀図➡掘子人夫達が鉱石をミノで掘っている図。
水鋪水取之図➡坑内の溜り水を水箱に段々と竹ポンプで吸い上げる作業の図。
▼A➡「石留之図」
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石を掘り抜いてトンネル状の坑道を設えるところと、水引き上げるの図。
▼「大水鋪角樋二而水引揚ル図」(おおみずしきかくにひつきみずひきあげるのず)
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坑内の湧水を木製のポンプを使って段々上に引き揚げて、疎水抗へ流し出している作業図。
▼「唐箕風箱之図」
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江戸時代中頃から唐箕を改良して坑外の風を抗内に昼夜送る作業を行った。
▼「留木拵之図」(とめぎしつらえのず)
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抗口前の広場では坑内の支柱を拵(こし)らえる仕事を行った。
▼「鉱石を運ぶ」
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掘子(ほりこ)が鉱石をかますに入れて背負い運ぶ。狭い坑道の中をさざえの殻のランプの明かりだけがたよりだった。
▼「鉱石を掘る」
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掘子は鑚(たがね)を鋏(はさみ)で固定し、鎚(つち)でたたき鉱石を掘る。暗闇・油煙・石塵の中で大変な労力であった。
▼「坑木を組む」
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落盤防止の為に坑木を組むのが留山師の仕事。坑道内が崩れるのを防ぐ重要な仕事であった。
▼「水をくむ」
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深く掘れば水が湧く。坑内の排水作業は鉱石を掘る事以上に大変な仕事であった。竹や角樋のポンプ・桶を使用した。
※これらの作業は、戦時中に各地で数多く掘られた旧日本軍の陣地壕や病院壕も同じ様に坑木が組まれていたので、
壕を掘る手作業も含めて江戸時代から続いている方法なんだと改めて感心していた・・・。
同時に戦時中に多くの壕を掘った日本軍設営隊や動員された人達の大変なご苦労を感じていた。
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▲▼最後の電照板の見学を終えて外に出て出口を撮影。
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周辺にいくつか坑口が開いていた。
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さぁ帰ろう。
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出口にもトイレ休憩する小屋があり、丁度ボランティアガイドの方がいらっしゃったので少し話を聞いた。
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鉱石を見せて頂いた。
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銀が入っているのがお解りだろうか、大きな石の塊でたったこれだけの銀があるだけだ・・・。
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▼世界遺産の意義「平和と人権尊重」
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▲帰りは行きとは違う道で戻る。
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▲小学生のお土産?石を売っている。小学生へだったらもっと安くしないと・・・どうも理解出来なかった。
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▲歴史ある神社のようだ・・・。
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▼少々キツい階段だが、国指定史跡であれば見てみたい。登ってみる事にした。
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▲登り終えた。文政時代に建てられた本殿だ・・・。
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中に入ってみた。
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しかし・・・隙間だらけでいまにも崩壊しそうだ・・・。
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この襖・・・。これが国指定史跡・・・?
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もう、お賽銭だけで維持していくのは無理なのかもしれない・・・。
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さぁ戻ろう。
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▼行きしなに通た林道が見えた。ほぼ並走している。
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▼かわいいお店なんかもあっていい感じの帰り道。
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▼毛利氏が石見銀山を支配した16世紀後半には、ここで採れた銀は温泉津沖泊港まで運ばれ、そこで銀の積み出しと、
 石見銀山への物資補給が行われたという。
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▼どのお店もいい感じ。
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▼かなり古そうな建物を見つけた。
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▼▲昭和初期頃の建物だろうか・・・かなりいい感じ。
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戦時中の兵舎の様な建物だ・・・。
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大森小学校として現役の建物だった!凄い。
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またしばらく歩く。
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▼無料休憩所があった。
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「渡辺家住宅」と書いてある。
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昔からずっと残ってるんだ・・・凄い。
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少し中を見学した。
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素晴らしいけど、現代人には住みにくいだろうな・・・。無駄に部屋が多過ぎるのでメンテが大変だ・・・。
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昔の人はそんなに物が多かったのか・・・?広い敷地に無駄無く建つ建物に蔵。身の周りはシンプルが1番と思う。
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古民家を再利用した喫茶店やお食事処が多い。
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江戸時代から続くメインストリーム「中国自然歩道」はまだまだ続く。
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観光客は意外に多い。
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▲景観を損なわない様に自動販売機も工夫されている。これは素晴らしい。
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どんどん進んでいるが、来る時に降りたバス停はとっくに過ぎている・・・。
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江戸時代を思わせる景観とお土産屋さんに惹かれてメインストリームをどんどん歩く。
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西洋かぶれの明治・大正時代の街並みより、もう一昔前のこっちの街並みの方が落ち着くかも・・・。
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▼榮泉寺竜宮門
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永遠に続くかの様ないい感じの街並み。
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やっぱ低い建物の方が落ち着くね。
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▲▼映画「アイ・ラヴ・ピース」のロケ地。この映画は知らない・・・。
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▲▼裁判所
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▲岩山上に建てられた観世音寺。此処から「大森の町なみ」を一望出来るそうだが、歩き疲れていたので遠慮した。
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▼▲理容館アラタ
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この辺りで大森の町なみは終了となる。
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▲大森代官所跡にある大森銀山資料館。長屋門は1815年に建造されたものだ。
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▲江戸時代にカメラは無かっただろうから、恐らく明治時代に撮影された大森代官所。
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▲代官所跡に建つ「西南之役戦死者記念碑」



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 2017_09_13


山口県の離島、角島。本土と角島を結ぶ角島大橋はトヨタのCMなどで使用された橋で、1度見てみたかった。
今回は、前から行ってみたかった俵山温泉で前泊し、角島元乃隅稲成神社石見銀山に向かう計画を立てた。
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俵山温泉街の入口。車はこの辺りの旅館共同駐車場に駐車する。
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歩いてブラブラ見学する。
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猿まんじゅうが有名な様だが、何やら怪しい置物も販売している。麻羅観音(まらかんのん)だ。
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▲ここからが旅館街の入口の様だ。
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▲温泉マップを見るとそれなりに大きな温泉街の様だが、実際に歩いて見てまわると、廃業した建屋も結構あった。
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▲▼「昭和」が残る旅館街をゆっくり歩く。
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▼今回宿泊でお世話になった「保養旅館・京屋」
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▼この宿の前で、「俵山温泉会議 スペシャル」故やしきたかじんと安倍総理大臣が立ち話していた場所だ。
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俵山温泉は外湯の文化。どの旅館にも内湯は無く、「町の湯」か「白猿の湯」を利用する事になる。
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▼白猿山薬師寺
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俵山温泉を発見したと伝えられる白猿に化けた薬師如来が祀られている。
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白猿山薬師寺は少し小高い場所にあったので、階段を下りてメインストリームに戻る
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▼右手奥には「白猿の湯」が見えて来た。
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▼▲俵山温泉「白猿の湯」。ここに来たかった理由は、故やしきたかじんと安倍総理大臣が温泉につかりながら政治談
義を繰り広げた場所だからだ。FC2動画「俵山温泉会議 スペシャル」関東では放送されていませんね。
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階段を登って早速「白猿の湯」へ。白猿山薬師寺も見える。
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「白猿の湯」の中にある、日仏レストラン「涼風亭」で遅めの昼食。涼風荘は岸元総理がこよなく愛した邸宅宿。
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「涼風亭」で食事をすると割引き券が貰え、温泉が通常700円➡500円で入浴する事が出来る。
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▲ロケで使用された露天風呂にゆっくり浸かって「白猿の湯」を後にした。温めでいいお湯だった。
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湯冷ましにもう少しブラブラしてみる
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▼温泉街の終わりに近い郵便局がある辺りを更に奥へ。このあたりは廃業物件が多い様だ・・・。
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▼明治32年の町の湯 明治・大正時代の建物そのままで営業していれば現在もっと注目されていたであろう・・・。
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▼大正14年の町の湯
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▼明治36年の川の湯
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▼大正9年の川の湯
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▼現在の川の湯(画像右手の緑の屋根)残念ながら廃業したそうだ。
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短い滞在だったが、レトロな雰囲気たっぷりの歴史ある静かな温泉街だった。明朝、一路角島大橋を目指した。
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▲▼角島大橋に着いた。
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沖縄にでも来た様な素晴らしい景色だ・・・。
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早速角島大橋を渡って、角島に向かう。
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▼あっという間に渡り終えて角島側より角島大橋を見る。
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角島は基本的には海水浴場がメインで、観光名所と呼ばれる場所は少ない。
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しかし、観光バスも入ってきており、お盆も重なって凄い人出だった
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まずは駐車場に車を停め、明治9年に建てられた角島灯台を見学する。
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灯台周辺は下関市立角島灯台公園。
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▲海側を歩くと日本海が広がる。遠く反対側は朝鮮半島だ。韓国語の入ったゴミが流れついていた。
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角島灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台で、日本の灯台50選にも選ばれている。
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▼参観灯台として常時内部が一般公開(有料)されているが、外から眺めるだけにした。
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▼土産物を販売している建屋の屋上に行き、景色を眺める。
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▼▲土産物を販売している建屋の屋上に行き、景色を眺める。
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灯台よりは低いが十分綺麗だった。
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▼海岸を歩くと美しいビーチが広がる。(撮影場所は遊泳禁止区域)
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奥に見えるのは本土。更に右奥は九州だ。南洋諸島の様な景色に感激していた。
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▼角島中学校は、明治・大正風のいい感じの建物だ。
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▼島に来て初めて、この島にも日本陸軍が砲台を建設していた事を知った。これは再訪しなければならない・・・。
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時間も無く、弾薬庫らしき遺構だけ見学し角島を後にした。他にも残っている遺構はありそうだ。再訪して確認したい。
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▲昭和14年7月1日起工、昭和15年9月26日竣功で、ラ式15cmカノン砲4門を備えた砲台陣地であったという。
軍事施設が造られた島内の北西側は要塞化され、日本陸軍が駐留していた。砲台他、弾薬庫・探照灯・部隊宿舎・資材
倉庫・油庫・監視所が建設され、なんとコンクリート製のトーチカの様な立派な監視所が民家に転用されているとの事。
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帰りの道は酷い渋滞・・・角島大橋しか本土へ渡る手段が無いので、1度島に入ると必ずこの道しか戻れない・・・。
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渋滞のお陰でゆっくり景色を見ながらドライブ出来るメリット?もあった。
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▼次に訪れたのは「元乃隅稲成神社」だったが・・・狭い山道に永遠と続く車の列・・・。
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少しは待ってみたが、一向に動く気配が無いので、後、どの位で着くか解らぬまま徒歩に変更。
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標識を確認出来る場所まで辿り着くと、どうやら狭い駐車場への入口はT字路になっており、反対側からも続々と車が。
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永遠と続く駐車場待ち渋滞を横目に、ひたすら歩いて元乃隅稲成神社を目指した。(徒歩に変更して正解)
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やっと鳥居が見えた!
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本来は海側から鳥居をくぐり抜けて登るコースの様だが、人も多いので上から下ってみた。
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▼眼下には123本の連続鳥居が見えた。よく観光案内の写真で見た光景だ。
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▼おみくじを引いて運勢を見てから早速進んでいく。
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京都・伏見稲荷大社の千本鳥居ほどでは無いが、それでも十分素晴らしい光景だ。
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伏見稲荷大社には無い、先が「海」というシチュエーションがかなり大きなアドバンテージとなっている。
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鳥居を抜けるとこの絶景。これは山に建てられた伏見稲荷大社では見る事が出来ない風景だ。
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先は日本海だ・・・。
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しばし日本海の絶景を眺める。
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振り返ると、かなり下って来た事がわかる。
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帰りは本来のコースである海側から登る。時間もおしていたので足早に登って帰った。
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この後日本海側を走り、「石見銀山」を目指した。


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 2017_09_03

大津島

Category: 大津島   Tags: 回天  

今日は広島に原爆が投下されて72年、まずは犠牲なった方達に黙祷です・・・。

山口県周南市に属する「大津島」。戦時中ここには日本海軍の秘密基地があった。周防大島の帰り、以前から
行きたかった大津島回天基地跡にやっと行く事が出来た。▼緑印が大津島回天基地。
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大津島回天基地は、昭和12年、93式酸素魚雷の発射試験場として開設され、太平洋戦争の戦局の悪化に伴い、
昭和19年9月5より回天発射訓練基地として、第1特別基地隊大津島分遣隊で回天の操縦訓練が始まった。
幕末から明治にかけての大維新を、『回天』という言葉で表した。回天とは、天をめぐらすの意。
「時勢を一変する事。衰えた勢いを盛り返す事」で、悪化する戦局を逆転する意味で命名された特攻兵器だった。
ガダルカナル島が米軍に占領され、戦況が悪化してきた昭和18年夏頃、余っていた93式酸素魚雷をどうにか活用
出来ないか。と考えた黒木博司海軍中尉と仁科関夫海軍少尉の発案で製作が開始されたとされる特攻兵器だ。
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▲黒木博司海軍中尉(岐阜県出身)昭和19年9月6日大津島にて回天訓練中、樋口博司大尉と共に殉職(享年22歳)
昭和19年9月6日の大津島地方は午後から急に風が強くなり、海面は大きくうねり出した。午後の訓練中止の声も
あったが、黒木は「天候が悪いからといって敵は待ってくれない!」樋口大尉も「やらせてください!」と続いた。
午後17時40分、樋口大尉の操縦する回天は黒木中尉を乗せて発進した。
訓練は、大津島から5000m離れた浮標までの往復。浮標を回ったまでは順調だったが、その直後に姿が消えた。
翌7日午前9時、大津島から約4000m離れた水深15mの海底に泥をかぶり突き刺さっている艇が発見された。
死亡推定時間は、事故発生から約12時間後の7日午前6時過ぎだった。
艇内には事故直後からの応急処置、事後の経過など、黒木中尉が息を引き取るまでの状況を記した2000字にも及
ぶ『19-9-6 回天第1号海底突入事故報告』が残されていた。
そこには「国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつつ死してゆくらん」と辞世の歌もつづられていた。
樋口大尉(享年22歳)の手帳にも「犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ」と遺文があった。
Hiroshi Kuroki Sekio Nishina
▲仁科関夫海軍少尉(左)滋賀県出身 享年21歳
昭和19年11月20日黒木中尉の遺骨を抱いたまま米輸送艦ミシシネワに突入・戦死。享年21歳。
右は上別府宣紀大尉(鹿児島県出身)仁科少尉と同日、回天で出撃。パラオ・コッソル水道海域にて戦死(享年21歳)
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▲「回天戦」展開地図
93式酸素魚雷は酸素を使用した雷跡が見えない日本海軍の秘密兵器で、射程2万m~3万m。
弾頭の炸薬量は米軍を上回り、破壊力は抜群だった。この魚雷に操縦席を付けたものが人間魚雷『回天』だった。
昭和19年11月8日、海の特攻兵器「人間魚雷回天」初の回天特別攻撃隊『菊水隊』が大津島基地から出撃した。
12基の回天で編成された『菊水隊』は、3隻の伊号潜水艦に搭載され、ウルシー環礁へ向けて出撃していった。
伊36潜水艦と伊47潜水艦の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地へ。
伊37潜水艦はパラオ諸島のコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。
これが回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」で、昭和19年11月20日決行された。
伊47潜水艦からは4基全ての回天が。伊36潜水艦からは4基の内1基、計5基の回天が、ウルシー環礁内に停泊中
の200隻余りの米艦艇目指して発進した。ウルシー泊地攻撃隊は給油艦ミシシネワ1隻を撃沈するも、2基はプグリ
ュー島の南側で珊瑚礁に座礁して自爆している。
回天は戦時中約400基生産され、回天特別攻撃隊「菊水隊」~「多聞隊」まで、回天搭乗員の死者は89名。
訓練中の殉職15名、自決2名。加えて回天を搭載した伊号潜水艦の未帰還8隻(乗組員845名、回天整備員35名)
合計986名の尊い命が、回天特別攻撃隊の作戦で犠牲となった。(回天の訓練を受けた特攻隊員は1375名)
そして戦果は、米給油艦ミシシネワ1隻撃沈、米駆逐艦アンダーヒル1隻撃沈、他2隻撃沈だけであった・・・。
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▲伊号潜水艦に搭載され、出撃する回天。回天の上で手を振る特攻隊員が確認出来る(画像は多聞隊・伊367潜水艦)
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▲米給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59)当時最新鋭の大型タンカーだった。
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▼▲ウルシー環礁で、回天の突入で沈没する米給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59)米兵63名戦死。
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▲昭和44年(1944)11月20日、給油艦ミシシネワの撃沈は、回天特別攻撃隊の初戦果だった。

昭和20年7月14日伊53潜「多聞隊」は回天6基を搭載して大津基地を出撃。沖縄とフィリピンの中間海域へ向かう。
伊53潜は7月20日頃パシー海峡東方海域に到着して哨戒配備に就き、24日敵輸送船団を発見した。
沖縄戦では6/23に日本軍の組織的な戦闘は途絶えており、これら輸送船団のLSTは休養の為、沖縄から引き揚げる米陸
軍歩兵師団の兵士を乗せてレイテ湾に戻るところであった。
この時、伊53潜水艦が遭遇した輸送船団は戦車揚陸艦LST7隻と冷蔵輸送艦アドリアで、これらを護衛駆逐艦アンダー
ヒルの他、大型駆潜艇PC-803・PC-804・PC-892・PC-1251、小型駆潜艇SC-1306・DC-1309・SC-1315、護衛駆
潜艇PCE-872の、合わせて9隻もの護衛がついていた。
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▲(参考画像)USS LST-647
船団の隊形は、護衛を受ける8隻が2隻ずつ四列の編隊を組み、その中央の前方三千米に指揮艦アンダーヒルが位置して
先導し、他の駆潜艇が舶団の周囲を警戒しながらフィリピン・エンガノ岬から200〜300マイル北東を針路183度、速
力9~10ノットで航行していた。
船団は国籍不明機の触接を受けていた事もあり、アンダーヒル艦長ロバートM.ニューカム少佐は、日本の航空機と潜
水艦の攻撃を警戒して神経質になり、護衛艦艇の配備位置をしばしば変更し、自艦が定位置を集れる時は代理の先導艦
を指名した。天候は晴、視界は良好で微風があり、南からのうねりがあるが、海上は平穏であった。
米輸送船団は、伊53潜水艦の近くを通り過ぎていったらしく、既に遠ざかりつつあった。
伊53潜水艦艦長大場佐一少佐は、直ちに総員配置に就け「魚雷戦用意、回天戦用意」を命令。搭乗員全員が回天に乗艇
した。しかし戦闘準備が終わる頃、方位角が120度と大きく後落しており、魚雷や回天での攻撃は無理な態勢であった。
伊53潜水艦の大場艦長は魚雷発射、回天発進共に諦めようとした。
その時、回天搭乗員達が発進を強く希望したので、艦長は先ず回天1号艇、勝山 淳中尉の発進を決定した。
相手がどんどん離れてゆくので、艦長は急いで「艦は今、敵船の後方、東側にいる。攻撃目標は輸送船」と命令。
進出針路、航走時間など簡単に指示した。14:25頃、勝山中尉の回天1号艇は伊53潜水艦を発進。
敵船団へ突進して行った。後続3基の発進は大場艦長がこの態勢では成功の見込みが薄いと判断して取り止めた。
先導中のアンダーヒルは14:15前方に触角のついた浮流機雷を発見していた。米駆逐艦アンダーヒルのニューカム艦
長は、船団を指揮して左45度の緊急一斉回頭を2回続けて行い、遠ざかった上で同艦は離れて機雷に接近し、14:40、
20粍機銃で射撃を開始した。しかし弾丸が命中しているのに機雷は一向に沈まなかった。
アンダーヒルは潜水艦の反応を掴んだので、駆潜艇PC-804を隊内電話で呼び出し、調査するよう指示。その後も前面
近距離に反応が出ていると重ねて通知し、誘導した。
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▲(参考画像)駆潜艇PC-546(USS PC-546)
駆潜艇PC-804は14:42、左舷後方、至近距離に潜望鏡を発見した。潜望鏡は海面下に引き込まれ、間もなく同艇の艦
底を潜水艦が潜り抜けて行った。続いて反対側の右前方100ヤードに潜望鏡が上がり、その下に潜水艦の艦体らしき物
が海面近くに見えた。同艇は直ちに40粍機銃と20粍機統で射撃を開始し、速力を一杯に上げたが、その物体は水中を
高速で突進してきて艦尾の直ぐ近くを通過した。爆雷を浅深度に設定して用意していたが、投下する暇もなかった。
同艦は直ちに「潜水艦が艦底の下を通過した!」と船団指揮艦アンダーヒルに報告した。
彼らは潜望鏡を見たので「潜水艦」と判断したが、これこそまさしく勝山中尉の回天であった。勝山中尉が操縦する回
天は、最初にこの駆潜艇PC-804を攻撃し、その艦底の直下を通り抜けた後、折り返して再度突入したのである。
船団は右90度の一斉回頭をして、元の針路に復帰した。アンダーヒルは潜水艦を探知し、14:53浅深度に調定した爆
雷13発を投下した。爆雷が海中で爆発して、奔騰する水柱が落下した跡に出来る、波が消えた丸い水面を見て、ニュ
ーカム艦長は「潜水艦の油が浮いてきた!」と思い込んだのであろう。「敵潜水艦1隻撃沈!」と隊内電話で各艦へ放
送したが、破片の様な物は浮かんでいなかった。
その直後、駆潜艇PC-804がまたもや潜望鏡を近距離に発見、アンダーヒルはこれに急行した。
潜望鏡はすぐに見えなくなった。ニューカム少佐は「1人乗りの潜航艇が速力15ノットほどで走り廻っている!こいつ
を追いかける」と各艦に流した。激しい操艦を続ける同艦で乗員は、海面上に「いるか」のように断続的に姿を現す潜
航艇を色々な方向に見た。15:05アンダーヒルの艦長は隊内無線電話で「衝撃用意!海の中にいる異様な者どもを追っ
払ってやる!」と放送し、乗員に「衝撃用意!」を重ねて号令した。
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▲米駆逐艦アンダーヒル(USS Underhill, DE-682)1945年7月24日沈没
15:07アンダーヒルの前方、艦首に近いところに潜航艇が浮上するのを駆潜艇PC-804が目撃、アンダーヒルは右に急
旋回した。「魚雷が突っ込んで来る!」と誰かが叫ぶ声が電話で聞こえ、その直後15:15、アンダーヒルの艦橋の右舷
で物凄い大爆発が起こり、前部の弾薬庫が誘爆した。煙と炎が1000フィートの高さに奔騰。300m程の大きな火柱が上
がり、煙は5100mの高さにまで立ち昇った。アンダーヒルはマストの所で真っ二つになり、艦橋は消し飛んだ。
アンダーヒルの乗員は238名。ニューカム艦長以下艦橋にいた乗員は全員戦死。乗員合計112名が戦死した。
交戦地点は北緯19度24分、東経126度43分であった。フィリピン北東端「エンガノ岬」から略東北東270浬だった。
勝山中尉の回天が出撃してから約40分後、目標の方向で重厚な爆発音を聴取した伊53潜水艦大場艦長は15:15頃潜望
鏡を揚げ、敵艦が燃えているのを確認した。同じく司令塔にいて補佐する航海長も潜望鏡を見せてもらったが、視野一
杯に黒煙が立ちのぼっていた。その黒煙が大量であったことから、回天が命中した相手は油送船であろうと推定された。
大場艦長は現場を離脱した後、「大型輸送船1隻轟沈」と第6艦隊に打電報告した。
回天特攻において誰が挙げた戦果であるかを確定できる唯一のケースで、勝山中尉は二階級特進で海軍少佐となった。
戦闘後、まだ多数の敵が周囲に潜んでいると判断した米軍は、19:18アンダーヒルを砲撃処分した。
この戦闘状況は米海軍全体に伝えられ「海中の見えない脅威・回天」を畏怖する心理がたちまち広がったという。
▼勝山 淳中尉(茨城県出身)昭和20年7月24日バシー海峡東方海域にて米駆逐艦アンダーヒルに突入戦死。享年20歳
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勝山中尉が撃沈した米護衛駆逐艦アンダーヒルは「人間魚雷の群と戦い、自らは斃れながらも船団を1隻も傷つける事
無く守り抜いた英雄」となった。ニューカム艦長は勇戦敢闘を讃える栄誉ある銀星勲章(シルバー・スター)を授けられ、
戦没、戦傷乗員及び生存者の一部に「パープルハート勲章」他の勲章が授与された。
メリーランド州の「アナポリス」にある米国海軍兵学校の教会で、戦友会が慰霊祭執行を許されている米国海軍の艦船
は唯ひとつ、第2次世界大戦で1番後に沈んだ小さな護衛駆逐艦に過ぎない「アンダーヒル」だけなのである。
慰霊祭は毎年、同艦が沈んだ7月24日に同艦の戦没者の遺族と生存者、それらの家族によって厳粛に営まれている。
同艦戦友会からは「回天・勝山艇1基だけの攻撃」が信じ難いのか、全国回天会に再三の照会があったという。
この戦闘を体験した米軍生存者達は「相手はたった1人、たった1基の回天」に今なお納得しかねる模様であるという。
「人間魚雷回天」YouTube

以下は回天戦出撃記録 [ 潜は潜水艦の略 ](発進)は、母艦から回天発射=戦死を意味する。
「菊水隊」昭和19年11月8日出撃(伊36潜、伊47潜、伊37潜)
伊36潜「菊水隊」11月8日大津島よりウルシー海域へ出撃
[ 艦長 ]寺本 巌少佐 [ 回天搭乗員 ]吉本健太郎中尉/豊住和寿中尉/工藤義彦少尉/今西太一少尉(発進)
今西少尉の遺書
太一は本日回天特別攻撃隊の一員として出撃します。日本男子と生まれ、これに過ぐる光栄はありません。
生死の程は論ずるところではありません。私達はただ、今日の日本が私達の突撃を必要としていると言うこと知ってい
るのみであります。
遺詠
敵見ゆの心知りたし 今日の袂 亀田兵曹長に贈る
国思う命そそぎし君が手に なれる魚雷ぞ撃たで止むべき
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▲大津島基地を出撃する伊47潜
伊47潜「菊水隊」11月8日大津島よりウルシー海域へ出撃
[ 艦長 ]折田善次少佐
[ 回天搭乗員 ]仁科関夫中尉(発進)/福田 斉中尉(発進)/佐藤 章少尉(発進)/渡辺幸三少尉(発進)
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「玄作戦」で大津島基地を出撃した「菊水隊」伊36潜、伊37潜、伊47潜は各4基ずつ回天を搭載し、12基の回
天特攻隊の初陣であった。
伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地へ。
伊37潜はパラオ諸島のコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。
ウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が11月20日決行され、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(今西
艇)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。2基の回天はプグリュー島南側
で珊瑚礁に座礁して自爆。1基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没。
残る2基がウルシー泊地進入に成功し、1基が05:47米給油艦ミシシネワへ命中(仁科関夫少尉艇とされる)。
最後の1基は軽巡洋艦モービル (USS Mobile, CL-63) に向けて突入。潜望鏡によって2~4ノットで直進して来
る回天を発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を
受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、後に護衛駆逐艦ラール(USS Rall, DE-304)の爆雷攻撃によ
って06:53に完全に破壊された(隊員と女学生が差入れた座布団が海面に上がった)。
伊37潜「菊水隊」11月8日大津島よりパラオ・コッソル水道へ出撃。
11月19日、米護衛駆逐艦コンクリンの攻撃によりパラオ・コッソル水道にて沈没(乗組員全員戦死)
[ 艦長 ]押本信雄中佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]上別府 宜紀大尉(戦死)/村上克巴中尉(戦死)/宇都宮 秀一少尉(戦死)/近藤和彦少尉(戦死)
[ 基地整備員 ]時田久美兵曹長(戦死)/土居完治兵曹長(戦死)前原 酉兵曹長(戦死)栗本 晃1曹(戦死)
伊37潜はパラオ・コッソル水道に向かったがパラオ本島北方で発見された。これは米設網艦ウィンターベリー(
USS Winterberry, AN-56)が、08:58に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、
通報したものだ。この報告を受けて、米護衛駆逐艦コンクリン(USS Conklin, DE-439)、マッコイ・レイノル
ズ(USS McCoy Reynolds, DE-440)が09:55現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。
午後も捜索を続けた後、15:04コンクリンが探知し、レイノルズが15:3915時39ヘッジホッグ(対潜迫撃砲)
13発を発射したが効果なく失探。16:15コンクリンが再度探知して攻撃したところ「小さい爆発音(命中音と
思われる)らしきもの1」を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。
レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近
したところ、17:01海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。
以後は反応無く、撃沈と判定され、伊37潜の乗員と隊員117名は全員戦死と認定された。
※ヘッジホッグはイギリスが開発した対潜迫撃砲。イギリス・アメリカなどの連合軍艦艇で広く採用された。


「金剛隊」昭和19年12月1日~昭和20年1月9日出撃(伊56潜、伊47潜、伊36潜、伊53潜、伊58潜、伊48潜)
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▲恐らく呉で撮影されと思われる伊53潜と伊36潜。
伊56潜「金剛隊」昭和19年12月22日13:00回天4基を搭載し、6隻中最も早く大津島基地を出撃。
金剛隊作戦に参加した回天搭載潜水艦6隻中、1番遠い攻撃地点はラバウル北西のドミラルティ諸島マヌス島の
米軍の戦略的要衝、セーアドラー港であった。
[ 艦長 ]森永正彦少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎実中尉/前田肇中尉/古川七郎上等兵曹/山口重雄1等兵曹
昭和20年1月13日第6艦隊司令部は金剛隊各艦宛「14日黎明までに攻撃の機を得ざる艦は中止、呉帰投を命ず」
と打電した。 しかし14日夜になって、艦長は突入敢行を企図するも、米軍哨戒機・警戒艦艦が動き始め、聴
音の感度がいつまでも消えなかったのに加え、13日未明以来40時間を超える苦闘の潜航となって、艦内の空気
は呼吸出来る限度一杯に近づき、遂に艦長は回天の発進を断念して再起を図ることに決定、帰途についた。
16日、伊56潜は制圧を受け不成功の旨を打電、これに対し第6艦隊司令部は18日、同艦へ「耐久試験の見地か
ら回天を搭載したまま帰投せよ」と命令した。 
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▲伊48潜「金剛隊」昭和20年1月9日回天4基を搭載し、大津島基地を出撃。ウルシー環礁(泊地)へ向かう。
[ 伊48潜艦長 ]当山全信少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]吉本健太郎中尉(戦死)/豊住和寿中尉(戦死)/塚本太郎少尉(戦死)/井芹勝見2等兵曹(戦死)
伊48潜は出撃後一切の連絡を行うことなく消息を絶ち、回天を出撃させる事無く、米護衛駆逐艦コンクリン
(USS Conklin, DE-439)のヘッジホッグ(対潜迫撃砲)で撃沈された。
沈没地点はヤップ島北端の北方17浬の北緯9度55分、東経138度17.5分であった。
駆逐艦コンクリンの艦全体が水平に、数フィートも海面から持ち上がった程の猛烈な水中爆発であったという。
USSConklinDE439_convert_20170808202940.jpg
▲伊37潜・伊48潜と、2隻の伊号潜水艦を撃沈した米護衛駆逐艦コンクリン(USS Conklin, DE-439)
伊53潜「金剛隊」昭和19年12月30日大津島基地を出撃。パラオ諸島コッソル水道へ向かう。
[ 艦長 ]豊増清八少佐
[ 回天搭乗員 ]久住 宏中尉(発進)/伊東 修少尉(発進)/有森文吉上曹(発進)/久家 稔少尉(回天故障により帰投)
パラオ諸島南部のペリリュー島は既に米軍に占領されていたが、日本国南洋政庁があったパラオ本島(バベルダオブ島)
には米軍は上陸せず兵糧攻めにした為、パラオ本島内には多くの日本軍将兵が飢餓と戦いながら活動していた。その中
の海軍第30根拠地隊が飢餓とパラオ本島北部のコッソル水道に居る米艦隊の状況を内地へ報告していた。
伊47潜「金剛隊」昭和19年12月25日大津島基地を出撃。ニューギニア北岸のホーランディア港へ向かう。
[ 艦長 ]折田善次少佐
[ 回天搭乗員 ]川久保 輝夫中尉(鹿児島県出身・発進)/原 敦郎中尉(長崎県出身・発進)
村松 実上曹(静岡県出身・発進)/佐藤勝美1曹(福島県出身・発進)
伊36潜「金剛隊」昭和19年12月30日大津島基地を出撃。西カロリン諸島のウルシー泊地へ向かう。
[ 艦長 ]寺本 巌少佐
[ 回天搭乗員 ]加賀谷 武大尉(発進)/都所静世中尉(発進)/本井文哉少尉(発進)/福本 百合満上曹(発進)
伊58潜「金剛隊」昭和19年12月30日10:00大津島基地を出撃。米軍に占領されたグアム島西岸のアプラ港へ向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]石川誠三中尉(発進)/工藤義彦中尉(発進)/森 稔2飛曹(発進)/三枝 直2飛曹(発進)


「千早隊」昭和20年2月20・21・22日出撃(伊368潜、伊370潜、伊44潜)
昭和20年2月19日米軍は硫黄島へ上陸を開始。第6艦隊は急遽、硫黄島水域への出撃に変更する。
3艦で「千早隊」を編成、伊368潜は2月20日、伊370潜は翌21日、伊44潜は22日に慌ただしく出撃していった。
伊368潜「千早隊」昭和20年2月20日光基地より出撃。昭和20年2月26日硫黄島海域にて沈没(乗組員85名戦死)
[ 艦長 ]入沢三輝少佐(戦死)
[回天搭乗員]川崎順二中尉(戦死)/石田敏雄少尉(戦死)/難波進少尉(戦死)/芝崎正七2飛曹(戦死)/磯部武雄2飛曹(戦死)
[ 基地整備員 ]黒川文男上曹(戦死)/浜本安雄1曹(戦死)/関 儀政1曹(戦死)/重松正市2曹(戦死)/岩橋繁行2曹(戦死)
「千早隊」が出撃前に指示された攻撃目標は「硫黄島付近を遊弋中の敵有力艦船」であった。
攻撃目標が泊地に停泊している空母、戦艦から、移動中を含めた主要艦船に移行したのだ。
この攻撃目標は広い洋上で遭遇した航行中の艦船ではなく、攻撃水面は交戦中の戦場の真ただ中になる。
泊地内の碇泊艦を奇襲攻撃した「菊水隊」「金剛隊」よりも一層厳重な敵の警戒の元での浮上充電、搭乗員乗艇、
更に発進した回天は交戦水域の中で敵艦を捜し求めての襲撃になる。
伊368潜は、硫黄島周辺に達する頃、米護衛空母アンジオの搭載機TBF(アメリカ海軍の主力雷撃機で、愛称はア
ヴェンジャー)に捕捉され潜航したが、執拗な追跡・攻撃が続き、遂に硫黄島西方24浬の地点で沈没した。
この交戦の際、TBF搭乗員は伊368潜甲板上に回天の姿は無かったと証言している。既に回天が発進した後の可
能性があり、硫黄島守備隊からも洋上に火柱多数を見たとの報告をしているが、確かな情報は得られていない。
TBFの爆弾倉に納まるのは、新兵器で小型の電池魚雷「24型魚雷」であった。
低空から投下すると潜水艦の推進機音を聴きながら海中を追いかけてゆく。火薬量は僅か44キロであるが、潜航
中の潜水艦に直接接触して爆発すればこれで撃沈が可能であった・・・。
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▲グラマンTBFアヴェンジャー雷撃機
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▲「千早隊」伊370潜出撃記念写真(昭和20年2月光基地庁舎横にて)前列左より橋口中尉/熊田2飛曹/田中少尉/
岡山少尉/是枝少佐/市川少尉/浦佐2飛曹/坪根少尉。後列左より河合中尉/三谷大尉/東島少尉/宮田大尉/浜口大尉
/池本少尉/加藤少尉/成瀬少尉/堀田少尉三好少尉/井上少尉。
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▲硫黄島に向かって出撃する「千早隊」伊370潜。昭和20年2月26日硫黄島南部海域にて沈没。
伊370潜「千早隊」昭和20年2月21日光基地より出撃。硫黄島海域へ向かう。
[ 艦長 ]藤川進大尉(戦死)
[ 回天搭乗員 ]岡山至中尉(宮崎県出身・戦死)/市川尊継少尉(新潟県出身・戦死)/田中二郎少尉(兵庫県出身・戦死)
浦佐登一2等飛行兵曹(群馬県出身・戦死)/熊田孝一2等飛行兵曹(福島県出身・戦死)
2月26日未明、硫黄島で積荷を全部陸揚げした米輸送船9隻は、船団を駆逐艦など4隻が護衛してサイパンに帰る途
中の米海軍護衛駆逐艦フィネガンが伊370潜を発見、ヘッジホッグ攻撃を開始し、伊370潜は撃沈された。
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▲駆逐艦フィネガン(USS Finnegan (DE-307)
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▲2月22日伊44潜「千早隊」回天4基を搭載して硫黄島方面に向かう為、大津島基地を出撃。
3月6日、第6艦隊司令部は「硫黄島水域に於ける回天作戦を中止、呉帰投」を打電命令。
伊44潜「千早隊」昭和20年2月20日大津島基地より出撃。硫黄島海域へ向かう。
[ 艦長 ]川口 源兵衛大尉
[ 回天搭乗員 ]土井秀夫中尉/亥角泰彦少尉/館脇孝治少尉/菅原彦五2飛曹
伊44潜は回天を搭載したまま3月9日大津島に帰着、11日呉に入港。


「神武隊」昭和20年3月1・2日出撃(伊58潜、伊36潜)
伊58潜「神武隊」3月1日光基地より出撃
[ 艦長 ]橋本以行少佐 [ 回天搭乗員 ]池淵信夫中尉/園田一郎少尉/入江雷太2飛曹/柳谷秀正2飛曹
伊36潜「神武隊」3月2日大津島基地より出撃
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎 実中尉/前田 肇中尉/古川七郎上曹/山口重雄1曹
以上、全員作戦中止により帰投。


「白龍隊」昭和20年3月13日光基地を沖縄へ向け出港(第18号輸送艦)
本部半島の運天港(現在の沖縄本島名護市)にあった海軍基地に配備される予定の回天隊だったのかもしれない。
米資料によると、那覇港到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発と、約1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら乗員
225人と、回天搭乗員「白龍隊」127名が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員14人の
氏名などが判明している以外は不明のままだという。


中国に大帝国「元」を築いたモンゴル(蒙古)が13世紀の鎌倉時代、2度に渡り大船団を組んで日本へ襲来した。
その「元寇」第2次の「弘安の役」では兵力14万人、軍船4400余隻に及んだ。
この時、日本の武士団は博多湾の「多々良浜」などで、上陸して来る侵攻軍を迎え撃ち、ことごとく撃退した。
元の大軍は陸地を占領出来ないまま、佐賀県北部の鷹島周辺に一団となって固まっていたところに大型台風が
直撃して大船団は壊滅し、「生きて還る者、僅かに3人」と伝えられるほどの惨状となった。
この大型台風の暴風が「神風」だが、「多々良隊」の名はこの戦いの古戦場からとられた。
「多々良隊」昭和20年3月28日~昭和20年4月3日出撃(伊47潜、伊56潜、伊58潜、伊44潜)
硫黄島陥落後、米軍は昭和20年3月26日沖縄に進攻。第六艦隊司令部は27日、回天搭載伊号潜水艦4隻で、
「多々良隊」を編成、各艦は次々と瀬戸内海西部を出て、沖縄周辺の敵艦隊の攻撃に向かった。
伊47潜は「菊水隊」「金剛隊」に参加した後、前甲板の14糎砲を撤去し、2基の回天を搭載する設備を新設し、
合計6基の回天を積む事となった。食糧は2ヵ月分を積み込み、魚雷は20本搭載した。
伊47潜「多々良隊」昭和20年3月29日光基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 伊47潜艦長 ]折田善次少佐
回天搭乗員は、先の「金剛隊」で伊56潜に乗って出撃し、発進の機会が無く帰還した搭乗員と新たな2名だった。
柿崎 実中尉(山形県出身)/前田 肇中尉(福岡県出身)/古川七郎上等兵曹(岐阜県出身)
山口重雄1等兵曹(佐賀県出身)/新海菊雄2等飛行兵曹(山梨県出身)/横田寛2等飛行兵曹(山梨県出身)
伊47潜は「多々良隊」の先頭を切って3月28日朝の呉軍港を盛大な見送りを受けて出港、夕刻、光基地に着き、
回天6基を搭載して翌29日午後出撃、沖縄を目指したが米軍機の必要な攻撃で損傷し、呉に帰着している。
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▲4月3日伊44潜「多々良隊」亥角泰彦少尉/館脇孝治少尉/菅原彦五2飛曹/西山兵曹(整備員)/土井秀夫中尉
伊44潜「多々良隊」昭和20年4月3日大津島基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]増沢清司少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]土井秀夫中尉(大阪府出身・戦死)/亥角泰彦少尉(京都府出身・戦死)
館脇幸治少尉(福島県出身・戦死)/菅原彦五2等飛行兵曹(宮城県出身・戦死)
ご覧になってお解りの通り、2月20日に伊44潜で「千早隊」として出撃して帰還していた4名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
伊44潜は4月3日の出撃以後連絡が無く、そのまま消息を絶っている。
米軍側が伊44潜との交戦と記録している4月29日の対潜水艦攻撃は、護衛空母ツラギから発艦したTBF(グラマン・アヴ
ェンジャー雷撃機)によるものであった。哨戒飛行中に浮上潜水艦を探知し、急接近して航空爆雷を投下、潜没しつつあ
る潜水艦に命中。続けて聴音追尾魚雷を投下し、命中爆発する音響を聞いたというものであるが、伊44潜詳細は不明。
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▲「多々良隊」左から石直新五郎2飛曹/宮崎和夫2飛曹/福島誠二中尉/八木寛少尉/川浪由勝2飛曹/矢代清2飛曹
伊56潜「多々良隊」昭和20年3月31日大津島基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]正田啓二少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]福島誠二中尉(和歌山県出身・戦死)/八木 寛少尉(山口県出身・戦死)
川浪由勝2等飛行兵曹(北海道出身・戦死)/石直新五郎2等飛行兵曹(岩手県出身・戦死)
宮崎和夫2等飛行兵曹(北海道出身・戦死)/矢代 清2等飛行兵曹(東京都出身・戦死)
4月5日久米島周辺で米軍上陸支援艇LCS-115の対水上レーダーで発見され、駆逐艦ハドソンの爆雷攻撃で沈没。
伊56潜乗組員122名は母艦と共に散華した。
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▲米駆逐艦ハドソン(USS Hudson (DD-475)
伊58潜「多々良隊」昭和20年4月1日光基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]池淵信夫中尉(兵庫県出身)/園田一郎少尉(神奈川県出身)
入江雷太2等飛行兵曹(東京都出身)/柳谷秀正2等飛行兵曹(北海道出身)
ご覧になってお解りの通り、3月1日に伊58潜で「神武隊」として出撃して帰還していた4名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
伊58潜は、4月6日にようやく奄美大島の西方に出た。沖縄西方海面に近づくにつれて天侯が悪化し、白波が立つ
荒天となった。暗雲が低迷して天測出来ず、自艦の位置さえ不明で、回天を発進させるには不適当な状況だった。
同日、戦艦大和他の海上特攻出撃の通知を聞いた橋本艦長は、その艦隊の後を付いて行き、一緒に突入すれば
沖縄に辿り着けると考えて艦隊を待った。しかし米軍艦載機の攻撃で大和、矢矧と駆逐艦4隻は沈み中止となった。
連合艦隊司令部からは「決死突入せよ」との厳命が来たので、伊58潜は意を決して浮上進撃に移ったが、忽ち米軍
哨戒機に遭遇するほど警戒態勢は厳重であった。
橋本艦長は4月10日第6艦隊司令部へ「7日以来、西方より突入を企図したが、悪天候と敵の厳重な警戒の為、回天
の発進に不適、自艦の位置も5日以来解らない。敵の制圧下では回天の整備が出来ない上、哨戒機にも発見されて
おり、一時離脱して再挙を期す」旨報告した。
伊58潜は一時九州の近くにまで引き返し、天候の回復を待つと共に十分に充電を行い、回天の整備を行って11日よ
り再び沖縄に向かったが天候は依然として回復せず、敵機は絶え間なく飛来し、回天発進の機会は掴めそうにはな
かった。第6艦隊司令部は伊58潜の報告から、このままの作戦を続行する事は被害を受けるのみで成功の見込みが
乏しいと判断。4月14日「多々良隊」各艦へ一旦太平洋側に出て、沖縄とマリアナ諸島を結ぶ線上で敵輸送ルートを
航行する艦船を攻撃するよう命令したが、伊58潜はその後敵艦船に会う機会無く4月29日、光基地に帰還して回天4
基と搭乗員を陸に揚げた。第六艦隊司令部も、ようやく米軍の厳重な対潜水艦警戒態勢、防御能力を認識した。
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▲▼ハワイ米国陸軍博物館に保管されていた「回天」が昭和54年8月日本に返還され、遊就館に展示されているが、
この回天一型改一の実物は、米国から貸与中との事。日本が作った物を接収された米国側にお金を払って借りてい
るという事か・・・しかもこの回天は、胴体及び訓練用頭部が実物であるだけで、完備品ではないそうだ。
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第6艦隊司令部は回天搭載伊号潜水艦以外にも3月中旬、伊8潜・呂41潜・呂49潜・呂56潜の4隻を九州南東水域へ、
次いで沖縄南東水域へ敵機動部隊攻撃に向かわせ、更にその後沖縄周辺にいる艦船への突入攻撃を命じた。
しかし四隻とも、3月中に消息が途切れた。第6艦隊司令部は更に、呂46潜・呂50潜・呂109潜の3隻を出撃させ、沖
縄から二百浬圏付近の敵艦舶攻撃に向かわせた。通常型潜水艦は合計8隻が沖縄戦に投入され、その中で帰還した艦は
沖縄から離れて哨戒任務に就いた呂50潜ただ1隻であった。
結局、潜水艦11隻が沖縄戦に参加し、8隻が未帰還、戻ってきたのは3隻であり、その内2隻が回天搭載艦であった。
第6艦隊司令部は「千早隊」と同じく、戦場の局地に回天搭載潜水艦を投入する戦法をとり、「多々良隊」においても
同じ様に大きな損失を被った。
伊56潜が沈没した翌4月6日、神風特別攻撃隊「第3御楯隊」「菊水天山隊」「第1草薙隊」「第1八幡護皇隊」「第1
正統隊」などの海軍航空特攻や、「戦艦大和」と第2水雷戦隊の旗艦軽巡「矢矧」「冬月」「霞」など駆逐艦8隻から
なる海上特攻の出撃を含めた総攻撃が行われた。これに呼応して陸軍も航空総攻撃を行っている。
九州、台湾の各基地から出撃して突入した特攻機は海軍161機(乗員279名)、陸軍61機(61名)に及んだ。
第6艦隊司令部が沖縄に送り込んだ回天搭載艦を含む潜水艦11隻がこの総攻撃日と合致したならば、混乱に乗じで回
天攻撃の機会が生まれる可能性は大きかったと思われる。沖縄に投入された特攻作戦は全てがちぐはぐであり、沖縄
特攻作戦全てが、米軍が沖縄本島に上陸を開始した4月1日に成されるべきだったと思えてならない・・・。


「天武隊」昭和20年4月20・22日出撃(伊47潜、伊36潜)
伊36潜「天武隊」昭和20年4月22日光基地より出撃。沖縄東方海域へ向かう。
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐
[ 回天搭乗員 ]八木悌二中尉(熊本県出身・発進)/安部英雄2等飛行兵曹(北海道出身・発進)
松田光雄2等飛行兵曹(茨城県出身・発進)/海老原清三郎2等飛行兵曹(東京都出身・発進)
野村栄達2等飛行兵曹(東京都出身)/久家 稔少尉(大阪府出身)
伊36潜は敵の制空権の下で、昼夜を問わず敵機が飛来する都度、潜航を強いられながら南下を続け4月26日夜、沖縄
とサイパンを結ぶ線上、沖大東島の北東海面に到着した。
沖縄に向かう敵の大船団を発見して直ちに潜入、菅昌艦長は6基全ての回天に「魚雷戦、回天戦用意」を命令した。
しかし2基は故障であった。菅昌艦長は魚雷発射距離まで船団が接近してくる見込みがないと判断。回天だけで攻撃す
る事に決定。八木艇、松田艇、安部艇、海老原艇の順に、4基が一分間隔で次々と発進していった。
天候は晴、海上は平穏、視界は艮好であった。敵護衛艦艇が接近してきたので、伊36潜は深度40米に潜入した。
その後、大爆発音と艦体に響く程の震動が伝わり、計4回の爆発音を聴いた。菅昌艦長は、回天各艇が順調な機械音を
残して走り去ってから長い時間が経った様に感じていたが、後で発進後10分過ぎの事と聞かされたという。
夜「米艦船4隻撃沈」との戦闘速報を第6艦隊司令部に打電、折り返し帰投命令を受けた。
伊36潜は内地に向かい、4月30日光基地へ戻り残った回天2基と搭乗員・整備員をおろし、5月1日呉に帰着した。
4月27日に伊36潜が遭遇した敵輸送船団は、サイパンから沖縄に向かっていた戦車揚陸艦LST 、中形揚陸艇LSM等の
上陸用艦艇5縦列編成30隻以上の大集団であった。
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▲4月17日伊47潜に搭載した回天の上に太刀、見送りに答える搭乗員(山口県の光基地にて)
柿崎稔中尉/前田肇中尉/古川七郎上飛曹/山口重雄1飛曹/新海菊雄2飛曹/横田寛二2飛曹
伊47潜水艦「天武隊」は4月17日呉工廠の潜水艦桟橋を離れ、光基地(山口県光市)に回航して回天を搭載。
搭乗員と整備員を乗せて4月20日光基地を離れ、沖合で訓練を行い平生基地に寄港して22日午後発航、沖縄南東洋上
に於いてグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路を遮断する新たな作戦を実施するため、一路南下した。
僚艦伊36潜も同じく22日朝、光基地を出撃して徳山で燃料、清水を積載し、同日夕刻に、伊47潜より遅れること2時
間程で豊後水道を通過し、グアム・サイパン~沖縄間の敵補給線に向かって出撃した。
[ 伊47潜艦長 ]折田善次少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎 実中尉(山形県出身・発進)/前田肇中尉(福岡県出身・発進)
古川七郎上等兵曹(岐阜県出身・発進)/山口重雄1等兵曹(佐賀県出身・発進)
新海菊雄2等飛行兵曹(山梨県出身)/横田 寛2等飛行兵曹(山梨県出身)
ご覧になってお解りの通り3月29日に伊47潜で「多々良隊」として出撃し、帰還した6名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
4月26日伊47潜は沖縄南東200浬圏のグアムとを結ぶ線上の配備点に就いた。30日には350浬圏に移り、5月1日再び
250浬圏まで戻って哨戒を続けて敵船団らしい艦船を発見。
回天搭乗員の柿崎中尉は「輸送船団ならば、是非とも回天を攻撃に使って下さい」と要請したが、折田艦長は拒否。
極力接近を計って魚雷4発を発射した。折田艦長によれば「命中火柱が3本上がり、続いて爆発音三を聴いた。
潜望鏡による視認と聴音報告を総合して、1隻に2発が命中、後1発が別の1隻に命中、艦種不明だが1隻撃沈は確実」
と判断した。敵の反撃はな無く、捜索も受けなかったという。
翌5月2日、またも敵船団を発見。「敵は1万トン級の大型油送船1隻、護衛の駆逐艦2隻」と、折田艦長の潜望鏡観測
の状況が艦内に流れ、「魚雷戦、回天戦用意」を命令した。天候晴、海上は平穏で、相手は大型、しかも低速。
好目標だった。「1号艇、4号艇発進用意」の号令がかかり、柿崎中尉と山口兵曹は直ちに「七生報国」の鉢巻を締め
シャツと作業ズボン・半長靴の、訓練と同じく身軽な服装で、携帯電灯と砂時計を首に掛け、それぞれの艇に急ぐ。
柿崎中尉はいつも通りの淡々とした表情で「二コッ」と笑みを浮かべて、擦れ違う乗員の激励を背に受けながら交通
筒を昇り、回天に乗艇したという。
折田艦長は「各艇は発進後、針路30度、速力20ノットで12分間全没航走。第1回の露頂時の予想位置は、駆逐艦の
左前方約1000米。後は各自の観測に基づいて突入せよ。第1目標は油送船、第2目標駆逐艦」と、電話で命令した。
1号艇(柿崎中尉)4号艇(山口兵曹)が発進。柿崎艇発進から21分経過後、回天命中の大爆発音が聞こえた。
続いてその5分後、第2の大爆発音が、いずれも船団音源と同じ方向で起こった。
間違いなく回天のかなり近い距離での爆発だった。
戦後、折田艦長の戦記には、この時の敵船団を「2本煙突の大型輸送船2隻、大型駆逐艦1隻」と記述されている。
聴音室は又しても音源を捕捉した。「フレッチャー」型大型駆逐艦の2隻編隊、距離約4000米、中速力であった。
距離、態勢共に魚雷攻撃圏外だが、回天ならば追撃ができると折田艦長は判断、古川兵曹に乗艇・発進を命じた。
回天と敵駆逐艦の両音源は段々と聴音の感度が微弱となり、約20分経過した頃には両方とも消滅した。48分後「駆
逐艦と回天の感度が出ました」と聴音員が報告、やがて回天の推進機音が高くなり、大轟発音が長い余韻を引いて
潜水艦に伝わってきた。伊47潜は敵に所在を知られたので、南東に高速で移動して索敵を続けた。
残る魚雷は16本、回天は3基であった。
7日、またもレーダーが約40キロに敵目標を捕捉、音源を捉えた。折田艦長が潜望鏡で英国「レアンダー」型巡洋艦
1隻、駆逐艦2隻を視認し、「回天戦、魚雷戦用意」を号令、残る回天3基全艇の搭乗員に乗艇を命じた。
6号艇(新海2飛曹)3号艇(横田2飛曹)の2基は電話機が不調になって聴き取れず、5号艇(前田中尉)だけが発進した。
大爆発音が一発響いた。回天5号艇(前田中尉)が発進して約24分後の事であった。
7日夜、伊47潜は浮上して第一戦速で水上移動しながら、第6艦隊司令部に戦闘速報を発信した。
第6艦隊司令部から8日夜「伊47潜の奮闘、大戦果を感謝す。直ちに作戦行動を中止し、呉に帰投せよ」との電報を
受け、北上して帰途に就いた。12日光基地に帰着、発進出来なかった回天2基と搭乗員、整備員6名をおろし、13日
呉に帰着。天武隊作戦を終結した。ラジオは大本営発表を臨時ニュースで放送していた。
「我が潜水艦が軽巡洋艦1隻、大型駆逐艦2隻、大型輸送船5隻を轟沈、輸送船2隻を撃沈、輸送船1隻撃破、計11隻
の大戦果を挙げた」というものであった。
※「天武隊」の戦闘詳報は現存しておらず、伊47潜「天武隊」については、折田艦長が詳述した幾つかの手記の他、
戦友会会報、日本海軍潜水艦史の記述などが残されている。しかし米国側の各種記録は、上記のいずれの攻撃につ
いても認知していない。伊47潜が挙げた魚雷や回天の戦果は、いずれも潜望鏡で命中・沈没を目視したものでは無
く、聴音による推定であるのに加え、伊47潜から出た資料以外には、伊47潜の攻撃による沈没も、損傷も、また交
戦の事実さえ、証明する記録が発見されていないという・・・。


「振武隊」昭和20年5月5日出撃(伊367潜)
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▲伊367潜(※画像は多聞隊)
伊367潜「振武隊」5月5日08:30大津島基地よりグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路の中間水域へ出撃
[ 艦長 ]武富邦夫少佐 [ 回天搭乗員 ]藤田克己中尉(山口県出身)/小野正明2飛曹(北海道出身・発進)
千葉三郎2飛曹(岩手県出身・発進)/岡田  純2飛曹(長野県出身)/吉留文夫2飛曹(北海道出身)
サイパンと沖縄を結ぶ線上で、索敵を続ける日々であったが、洋上行動日数が20日以上経つと、回天の故障が多発
すると言う戦訓がある為か、5月26日には第6艦隊司令部から帰投命令を受けた。
武富艦長は搭乗員を発令所に集め「作戦を打ち切り帰途に就く」と伝えたが、搭乗員達は「明日は敵に会う様な気
がする」と、口々に1日の猶予を願い出た。艦長は了承して、50浬移動して待敵した。
搭乗員は更に身体を水で清めたいと希望して、潜水艦では貴重な真水を洗面器2杯貰い、狭い艦内の通路で身体
を拭った。潜水艦には浴室もシャワーも無い。
翌27日未明、予感が当って遂に敵船団を北方、約4万米の遠距離に発見した。「回天戦用意」の号令がかかり1号
艇(藤田中尉)2号艇(吉留1飛曹)3号艇(千葉2飛曹)が発進準備に入る。しかし、藤田中尉の電動縦舵機に不具合が生
じ、命令により発進を中止。吉留艇も縦舵機が同じ故障で作動せず、発進中止。
3号艇(千葉2飛曹)5号艇(小野2飛曹)が発進した。4号艇(岡田2飛曹)は速力を20ノットに調定し、発動桿を力一杯
後ろに押した。しかし発動音が聞こえず、高圧酸素の圧力計の針が速く下がりはじめた。
岡田2飛曹は艦内の連絡係りに電話で「4号艇冷走」と叫んだ。「冷走」が、訓練の時には使わなかった言葉なので、
連絡係りが聞き誤り「熱走」と司令塔に報告した。「第1バンド外せ」の号令で回天を艦体に固縛する前部バンド
が外され、後部の第2バンドだけで甲板に繋がる状態になったが連絡係りが異変に気付き「冷走」と司令塔に伝え、
最後のバンドが外される直前に発進中止となり、岡田2飛曹はどうにか艦に止まる事が出来た。
発進して行った3・5号艇の推進器音は順調に聞こえていたが、やがて遠くに消え、爆発音、数分後に又爆発音を艦
内の一同が聴いた。距離は約2万米であった。「両艇命中」と判断されたが、艦長は回天の発進後深く潜航し、そ
のまま北方へ退避を続け、潜望鏡深度まで浮き上がることもなかったので、爆発の状況を視認していない。
伊367潜は6月4日午後、大津島基地に帰還。整備員を退艦させ、光基地に回航して残った3基の回天を陸に揚げ、
5日呉に帰港した。回天搭乗員3名は呉まで乗って行き、第六艦隊司令部で開かれた報告研究会に出席した。
生身の人間が乗る回天を、自分の命令で発進させる事に武富艦長は航海中常々苦悩していたと言う。
武富艦長は病気退艦した。心痛のため、十二指腸潰瘍を患っていたと言われる。
一方、伊367潜軍医長の梶原貞信軍医大尉は熱誠の快男児であった。「振武隊」として出撃する直前に操舵手が肺
炎で入院、交替補充員が間に合わなかったが、梶原軍医長は「自分が操舵当直の勤務に就く」と名乗りを挙げた。
微妙な感覚と熟練を必要とする重要な配置であるが、慶応大学のボート部でオールを漕いでいて、操舵経験もある
梶原軍医は、艦長の潜航操舵の実技テストを受けて、文句なく合格。
2時間交代の三直哨戒の操舵手を受け持ち、水上航走中、潜航中とも出撃航海1ヵ月の間、完壁に勤め上げた。
「軍医長兼操舵手」とは稀有な例であった。


「轟隊」昭和20年5月24日~昭和20年6月17日出撃(伊361潜、伊363潜、伊36潜、伊165潜)
回天攻撃目標を、洋上航行中の敵艦船に転換した「天武隊」「振武隊」の後を承け、5月末、回天特攻「轟隊」が
伊号潜水艦4隻で編成され、沖縄に侵攻した米軍の補給ルートを遮断する任務に就いた。
大型潜水艦は伊36潜のみ。残りは旧式の中型潜水艦伊165潜と、輸送潜水艦改造の伊361潜・伊363潜であった。
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▲伊361潜「轟隊」の出撃。
伊361潜「轟隊」5月24日光基地よりグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路の中間水域へ出撃。
[ 艦長 ]松浦正治少佐(伊361潜水艦乗員合計81名全員戦死)
[ 回天搭乗員 ]小林富三雄中尉(三重県出身)/金井行雄1等飛行兵曹(群馬県出身)
斉藤達雄1等飛行兵曹(茨城県出身)/田辺晋一1等飛行兵曹(千葉県出身)/岩崎静也1等飛行兵曹(北海道出身)
伊361潜は出撃以後連絡なく消息不明となった・・・。
米軍の記録によれば護衛空母アンジオが沖縄東方洋上で対潜水艦掃討の任務に就いていた5月31日、艦載機TBF機長
ストパル海軍中尉が操縦するアヴェンジャー雷撃機が潜水艦を発見。天候曇。ストパル機長は旋回して潜水艦の左舷
真横のロケット弾攻撃を加える射点に就き、04:48翼下に搭載した4発を発射。左へ旋回中、機長は潜水艦が潜航し
始めるのを見た。彼は接近して「24型機雷」を投下しようとしたが失敗。
アヴェンジャー雷撃機が潜水艦の上を通り過ぎた時、艦橋はまだ海面上にあったが、60秒後には波間に見えなくなり
機がもう一度左へ旋回して戻ってきた時は、潜没した後の渦がクッキリと見えていた。
機長は手動の緊急投下装置を使って爆弾倉の「24型機雷」を渦の60米前方に投下した。投下時刻04:52。
続いて聴音ブイ6個全部を連続投下した。全てが正常に作動し、多数のブイから音が聞こえた。その1つからはっきり
した推進機音が聞こえた。機雷投下の約4分後、電信員はいきなり、激しい音を聞いた。
蒸気が噴出する毎にその音は大きくなり、電信員がイヤホンを頭から外したほどであった。時刻は04:56であった。
その音響は始まってから約30秒後に小さくなり、代わって「石油缶を潰す様な破壊音」が起こった。
米護衛駆逐艦2隻が交戦現場に到着して捜索を開始。重油の油膜の中心に入って潜水艦を撃沈した証拠物件を拾い
揚げた。木甲板の破片、ニス塗り及びペンキ塗りの木片、コルク片、麦藁、蝋燭、日本文字を捺印した真空管入りの
小箱、日本語が書かれた紙などであった。交戦地点は北緯22度22分、東経134度09分であった。
護衛空母アンジオでは、母艦に帰還した乗員3名を1人づつ呼び出して日本潜水艦の写真を見せ、彼等が攻撃した潜水
艦はどれかと訊ねたが、3人共「伊161潜」と指摘した。しかし「海大四型」の伊61潜は海戦直前に事故で沈没して
おり、昭和17年5月にそれらが番号を付け替えた「伊161潜」なるものは存在しない。
米海軍の写真集作成者のミスであろう。同形艦はすべてが既に戦没していて、類似の「海大五型」等も、当時行動出
来たものは伊165潜のみであるが、同艦も「轟隊」で6月15日に出撃してマリアナ東方を行動し、6月27日に沈んだ。
伊361潜はこれらとは艦形がかなり違うので、3人の艦型識別能力には疑問があるものの、艦砲を持っていない事まで
認識しており、日出が近い薄明時に艦の真横から頭上を低空で通過しているのであるので、もし回天を搭載していれ
ば当然気付いた筈であるので、搭載回天5基が既に発進を終えていた可能性は否定出来ない。
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▲伊36潜「轟隊」左より横田寛一1飛曹/野村英造1飛曹/柳谷秀正1飛曹/久家稔少尉/園田一郎少尉/池淵信夫中尉
(※遺骨は訓練中に殉職した入江雷太1飛曹/坂本豊治1飛曹)
伊36潜「轟隊」は回天6基を搭載して昭和20年6月4日、光基地を出撃してマリアナ諸島東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐 [ 回天搭乗員 ]「振武隊」「多々良隊」の両作戦に伊58潜で出撃した4名。
池淵信夫中尉(大阪府出身・発進)/園田一郎少尉(神奈川県出身)/入江雷太1等飛行兵曹(東京都出身・殉職)
柳谷秀正1等飛行兵曹(北海道出身・発進)と、「金剛隊」伊53潜と「天武隊」伊36潜で発進できず帰還していた2名。
久家 稔少尉(大阪府出身・発進)/野村栄造1等飛行兵曹(東京都出身)
伊36潜は「天武隊」参加の後、呉で修理を終え、5月17日から光基地で訓練用回天を搭載し、発進と急速潜航訓練を
重ねた。初日の5月17日、入江1飛曹が大津島沖合で伊36潜から発進し、航行中の目標艦に向かって襲撃訓練中、目
標艦に衝突して沈没し、同乗中の坂本豊治1等飛行兵曹と共に殉職した。
補充に「多々良隊」伊47潜で帰還していた横田 寛1等飛行兵曹(山梨県出身)が任命された。
訓練を23日に終了し、呉に戻り燃料・食料を積載、28日呉発、光基地に戻り6月3日回天6基を搭載し、4日出撃し、
17日頃配備海面のマリアナ諸島東方の水域に到着。潜望鏡で大型輸送船3隻を発見「魚雷戦・回天戦用意」発令。
直ちに1号艇(池淵中尉)5号艇(久家少尉)が発進用意を整えたが、距離があり、遠ざかって行って発進を中止した。
27日大型輸送船1隻を発見して急速潜航、魚雷戦用意。大型タンカーが新たに出現したので、目標を転換し、艦長は
前甲板の回天2基に「発進用意」を命令。しかし5号艇(久家少尉)6号艇(野村1飛曹)とも機関が発動せず、攻撃中止。
菅昌艦長は「戦闘・魚雷戦」を号令、魚雷6本を発射。45秒後に命中音二。菅昌艦長が予想時刻に潜望鏡を挙げると、
魚雷1本が艦首に命中し、水柱が甲板に落下するのが見えた。1本は磁気信管付きの頭部で、艦底の下を通り過ぎた
後に反対舷で爆発した。戦後、この目標はLSTLを改装した工作艦エンディミオン1653トンと判明した。
出撃以来、洋上行動の日数が長くなっており、回天2基の機関発動不良を含めて搭載回天を点検すると、全機に故障が
発生していた。22日配備点を一時離脱、回天の故障箇所の復旧作業に努め、24日、1・2・5号艇の修復が完了したが、
他の3基は使用不能であった。26日深夜から両舷第一戦速で南下し、ブラウン島~硫黄島を結ぶ配備点へ急行した。
6月28日潜航してブラウン島とサイパン島の線上を哨戒中、単独航行中の大型輸送船を発見した。
菅昌艦長は回天発進を命令。1号艇(池淵中尉)が、「成功を祈る」「あとを頼みます」の電話連絡を最後に発進した。
菅昌艦長は潜望鏡を上げて、池淵中尉の成功を祈りながら奮闘ぶりを観戦し、命中の瞬間を見守っていたが、潜望鏡
を後方に向けると、敵駆逐艦が視野一杯に、のしかかるように迫っていた。
「潜望鎧下ろせ。深さ40急げ!」と菅昌艦長は叫び、辛うじて体当たりを回避できたが、駆逐艦は頭上を通過し、直
後に爆雷約10発が至近で爆発、あと繰り返し直上を通過しながら連続爆雷攻撃を加えた。
駆逐艦は速力を落として潜水艦の位置、針路、速力を測定したのち、速力を上げて突進してきて爆雷を投下する。
後部の被害が重なり、浸水が多くなって補助タンクやツリムタンクでは調整がつかず、潜舵、転舵の操作で水平を保
った。5号艇(久家少尉)が爆雷攻撃が始まった頃、回天発進を進言してきたが、艦長は即座に拒否した。
しかし頭上の2隻と見られる駆逐艦の爆雷攻撃がさらに激しくなり、2回目の久家少尉の回天発進進言があった。
艦長は、もし艦と運命を共にしたら、回天の搭乗員として今までの努力が無駄になると考え、使用可能な5号艇(久家
少尉)と2号艇(柳谷1飛曹)の発進用意を命じた。しかし、両艇とも電話が通じなくなっていた上、整備員から5号艇の
電動縦舵機が故障して使用不能と報告があり、菅昌艦長は2人の発進を中止し、退艇を命じた。
爆雷の爆発圧力は水圧にプラスするので、甲板搭載の回天が浸水するのを懸念し、菅昌艦長は深度を浅く40米に保っ
たまま回避を続けていた。6回目の爆雷攻撃で後部の浸水が急増、艦は次第に沈下をはじめ、深度70米に、仰角は15
度となり、米袋を乗員が担いで艦内を前部へ移動してツリムの修正に努めたが追いつかず、敵前では厳禁であるがメ
インタンク内の海水を高圧空気で少しづつ排出せざるを得ない窮状となった。
士官室に座っていた久家少尉はすっくと立ち上がり「自分の回天発進を」と、重ねて要請した。
電動縦舵機故障[ コンパス(羅針儀) ]が役に立たない回天を出撃させる事になり、艦長は苦悩していたが、伊36潜が
離脱出来る見込みは乏しく、回天が道連れになるとの思いが強まり、「行ってくれるか」と両名の乗艇を認めた。
電話が不通なのでハンマーで合図し、2号艇(柳谷1飛曹)は後甲板から発進、5号艇(久家少尉)は前甲板から発進。
海面上に浮上してから機械を発動した。あれだけの爆雷攻撃を受けながら、2基共順調に起動した。
発進後10数分で、回天命中の大爆発音が轟き1隻の駆逐艦の音源が消えた。もう1基の回天の音源は遠ざかって
ゆき、駆逐艦もいなくなった。2基の回天が発進したお蔭で伊36潜は惨愴たる窮地から蘇り応急修復作業を急いだ。
6月28日の夜になって浮上した時、放電量120%、高圧空気の量は浮上1日分しか残っていなかった。
伊36潜は7月2日帰投命令が入り、戦場を離れた。9日ようやく豊後水道に入った直後に、敵潜水艦の魚雷3本の攻撃
を受けたが回避して、何とか無事光基地に入港した。
発進出来なかった搭乗員3名は退艦、故障した回天を陸揚げし、10日朝出港、呉に帰着した。
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▲伊165潜「轟隊」の出撃。
伊165潜「轟隊」は回天2基を搭載して昭和20年6月15日、光基地を出撃してマリアナ諸島東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]大野保四少佐(伊165潜水艦乗員合計106名全員戦死)
[ 回天搭乗員 ]水知創一少尉(兵庫県出身)/北村十二郎1等飛行兵曹(長野県出身)
出撃以後、連絡がないまま消息不明となり、第6艦隊司令部は昭和20年7月16日をもって搭乗員は戦没、潜水艦は、
7月29日喪失と認定し、潜水艦乗員と回天整備員はこの日の戦死として公表した。
米軍記録では7月27日、伊165潜と思われる潜水艦と交戦した、米海軍第142哨戒爆撃隊・機長のジェーンズ中尉
が、潜水艦の艦橋の前と後の甲板に2本の大型魚雷を積載した見取り図を描いている。
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▲5月28日伊363潜「轟隊」久保吉輝1飛曹/石橋輝好1飛曹/上山春平中尉/和田稔少尉/西沢(小林)重幸1飛曹
伊363潜「轟隊」は回天5基を搭載して昭和20年5月28日、光基地を出撃して沖縄南東海域へ向かった。
[ 艦長 ]木原 栄少佐
[ 回天搭乗員 ]上山春平中尉(和歌山県出身)/和田 稔少尉(静岡県出身)/石橋輝好1等飛行兵曹(東京都出身)
小林重幸1等飛行兵曹(長野県出身)/久保吉輝1等飛行兵曹(大阪府出身)
6月5日、初めて「回天戦用意」がかかったが、荒天のため発進を中止した。12日空母らしい敵に行き合ったが、
発進には至らなかった。6月15日浮上航行中、艦首方向の水平線上に灯火を発見し、急速潜航した。
木原艦長は直ちに「魚雷戦用意」を号令、敵の接近を確かめて、20分後、更に「回天戦用意」の号令をかけた。
搭乗員は急いで身支度を整え、七生報国の鉢巻きを締めて先任搭乗員の上山中尉の周りに集まった。
「搭乗員乗艇、発進用意」の命令が下り、各自は艦内から、暗いトンネルの様な交通筒を昇って甲板上の回天に
乗り込んだ。敵は輸送船団であり、木原艦長は先ずは魚雷攻撃を試み、護衛の駆逐艦など反撃を受けたら回天を
発進させる心算であったという。
木原艦長は95式魚雷2本を発射し、1本が命中、誘爆音が2回聞こえた。回天操縦席に座って発進命令を待ってい
た上山中尉に、木原艦長が「命中したらしい。火焔が見えるから艦橋に見に来い」と電話したので、上山中尉は
交通筒から一旦艦内に降りて、司令塔に駆け登り、潜望鏡を覗かせてもらったという。
「不思議に何の感慨もない。痛快とも、残酷だとも思わない。暗い水平線にほの明るく描き出された小さな焔の
弧が、ただ絵のように美しく眺められただけである」と戦後、京都大学名誉教授となった上山春平元中尉は当時
の情景を回想している。18日夜、帰投命令が届き、19、20日と索敵を継続したが敵に遭遇する事はなかった。 
伊363潜は6月28日平生基地に帰着し、5基の回天を揚陸し、29日呉に入港し搭乗員達は艦を下りた。


「多聞隊」昭和20年7月14日~昭和20年8月8日出撃(伊53潜、伊58潜、伊47潜、伊367潜、伊366潜、伊363潜)
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▲伊363潜「多聞隊」の出撃。
伊363潜「多聞隊」は回天5基を搭載して昭和20年8月8日光基地を出撃。
8月9日のソ連参戦により12日配備を日本海に変更になるも作戦続行中、終戦により帰投。
[ 艦長 ]木原 栄少佐
[ 回天搭乗員 ]上山春平中尉/園田一郎少尉/石橋輝好1飛曹/小林重幸1飛曹/久保吉輝1飛曹
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▲伊363潜「多聞隊」
伊53潜「多聞隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月14日大津基地を出撃して沖縄とフィリピンの中間海域へ向かう。
[ 艦長 ]大場佐一少佐
[ 回天搭乗員 ]勝山 淳中尉(茨城県出身・発進)/開 豊興少尉(秋田県出身・発進)/高橋 博1飛曹(北海道出身)
荒川正弘1飛曹(山形県出身・発進)/川尻 勉1飛曹(北海道出身・発進)/坂本雅刀1飛曹(三重県出身)
上記で紹介した7月24日勝山 淳中尉の回天発進で護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈した後、伊53潜は引き続きパ
シー海峡東方海域で索敵中の27日、数十隻もの南下中の敵大輸送船団のど真ん中に遭遇。
直ちに総員配置に就いたが、またあまりにも至近距離である為に魚雷も回天も使えず、一旦列外に出てから攻撃しよ
うと判断して操艦し、敵舶団の後方に離脱したが、伊53潜の態勢が整った時には後方遠くに離れ、魚雷攻撃は到底で
きなくなっていた。回天は搭乗員が強く要請したので、大場艦長は2号艇(川尻1飛曹)の発進を決めた。
後甲板から発進。約1時間後に大音響が聞こえ、大場艦長は潜望鏡で目標の方向に黒煙を望見し「艦種不詳1隻撃沈」
と第6艦隊司令部に報告している。
8月4日伊53潜の頭上を敵駆逐艦が通過し、多数の爆雷が海面に落下する音が聞こえ、至近距離で爆発した。
同艦は在来の「93式聴音機」に加えて新式の「3式探信儀」を装備していたが、潜水艦にとって貴重な電力を大量に
消費する上、強力な超音波を発射するので敵に探知されやすく、平素は使わなかった。
しかし既に敵に発見されており、切羽詰まっている為、使用して敵情を採ると、対潜艦艇5隻が半径一粁で包囲し、
交互に伊53潜に接近して爆雷攻撃をしている事が分かった。大場艦長は回避を続けたが、爆雷が至近で爆発する度に
艦は激しく震動し、艦内の器具は散乱して惨憺たる有り様となった。
回天搭乗員の関少尉が司令塔に上がってきて「回天を出して下さい。相手が駆逐艦でも不足はありません」と発進を
催促したが、艦長は「暗夜の回天攻撃は無理」として斥けた。
歴戦の乗組員もこれほど猛烈な爆雷攻撃を受けた経験はなかったという。
そのうち爆雷が艦底の近くで爆発し、主蓄電池が破損した。一切の動力が停止して、舵も機械も動かず、艦内の電灯
は消えた。万策尽きたと思われたが、全員必至の努力で故障を復旧し、何とか動力を回復できた。その間に関少尉が
再び来て「私たちは回天で突入することを本望としております。このままでは死にきれません。夜間でも粘り強く食
い下がり必ず成功します。回天の搭乗員が大勢、出撃の順番を待っております。伊53潜は何としてでも生き残って、
回天作戦を繰り返してください」と艦長に詰め寄った。
爆雷攻撃は激しさを増しており、大場艦長も母潜がいつまで頑張れるか疑問と考え、まだ海上は暗黒であるが早めに、
全艇「回天戦用意」を命令。残る4基の搭乗員は暗い艦内を懐中電灯のほのかな明かりを頼りに、交通筒を通ってそれ
ぞれの回天に乗艇した。訓練には無かった深度40米からの回天発進である。5号艇(関少尉)が発進。
約20分後に回天爆発の大音響が轟いた。周囲の対潜艦艇は1隻減り、損傷艦救助の為か敵は3箇所になった。
大場艦長は大爆発音を聞いたのち3号艇(荒川1飛曹)に発進を命じ、03:00頃回天は艦を離れていった。
03:32頃大爆発音が轟き、敵の推進機音は2隻に減少、やがて1カ所になり、暫くして推進機音はすべて消滅した。
4号艇(高橋1飛曹)は自分の発進を待つ間も爆雷攻撃が続き、その衝撃で「四塩化炭素」の容器が破損してガスが艇内
に漏れ出したため、中毒して意識不明となった。
回天の機関を発動する際、純粋酸素が燃焼室内でいきなり燃料の灯油と接触すると爆発する為、最初は不燃性の四塩
化炭素を酸素に混入して純度を下げ、安全に燃焼が始まる様にしていた。この薬品は液体で毒性があり、金属と反応
する為、ガラスの瓶に入っている。
6号艇(坂本1飛曹)は、爆雷の至近爆発の為に酸素パイプに亀裂が入ったらしく、高圧酸素が漏洩し圧力計が下降しは
じめた。艇内の気圧が上昇して苦しく、彼は「一刻も早く出して下さい」と電話で叫んだ。
「6号艇発進」の号令と共に発動桿を力一杯押したが機械冷走、酸素の圧力計が急速に下がり始めた。
「冷走」と報告、命により機械を停止したが、艇内の気圧がさらに高まり、そのまま人事不省に陥った。
高橋1飛曹と坂本1飛曹は艦内に収容されて手当てを受けた後、意識を回復したが、高橋1飛曹は内地帰着次第入院し、
治療に長い期間かかかった。
この夜、伊53潜が遭遇した敵船団は沖蝿よりレイテ湾に向かう合計25隻の「OKl第9輸送船団」であった。
8月7日頃帰還命令を受信し、豊後水道を「シュノーケル」潜航で通過して12日大津島到着、残った2基の回天を陸に
揚げ、搭乗員と整備員を上陸させて13日発、同日呉に1ヵ月ぶりに帰還し、翌々日の玉音放送を聴いた。
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▲呉に帰還した伊58潜。米軍将校の姿が写っているので終戦後に撮影された写真と思われる。
伊58潜「多聞隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月18日平生基地を出撃、フィリピン東方海域に向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]伴 修二中尉(岡山県出身・発進)/水井淑夫少尉(東京都出身・発進)
林 義明1等飛行兵曹(新潟県出身・発進)/小森一之1等飛行兵曹(富山県出身・発進)
中井 昭1等飛行兵曹(京都府出身・発進)/白木一郎1等飛行兵曹(福岡県出身)※全員平生基地配属
7月28日駆逐艦を伴った大型油送船を発見。「回天戦用意、魚雷戦用意」に入った。
魚雷攻撃には距離が遠い。艦長は回天戦を決意、2基に乗艇を命じ、1号艇(伴中尉)と2号艇(小森1飛曹)が発進。
発進から約50分後に2つの爆発音が聞こえたと記録しているが、米軍艦船の損害は未だ分かっていない。
広島と長崎に投下された原子爆弾2発の部品(核部分)を米西海岸サンフランシスコで積載し、連続最大航海速力でマ
リアナ諸島・テニアン島に運ぶ任務に就いた米重巡洋艦インディアナポリス。途中ハワイで燃料を補給、約5千浬を10
日間で航走して無事任務を達成した。その後グアムに立ち寄り、護衛無しでレイテ湾に向かっていた。
昭和20年7月29日伊58潜「多聞隊」と遭遇。会敵時は暗く、回天戦は困難であり、橋本以行艦長の判断で魚雷攻撃を仕
掛けた。伊58潜の放った魚雷3発は見事命中し、艦前部をもぎ取られ、インディアナポリスは12分間で沈没した。
インディアナポリス沈没地点は北緯12度02分、東134経度48分である。
8月9日伊58潜はフィリビン比島北東端「アパリ」岬北東260浬海域で輸送船10隻、駆逐艦3隻を発見して「回天戦用意」
艦長は最初に6号艇(白木兵曹)に発進を命じたが冷走、発進を中止した。
続けて3、5号艇の乗艇を命じたが、3号艇(林兵曹)は故障、5号艇(中井兵曹)が発進していった。新たな駆逐艦と船団が
近づいてきたので追加して4号艇(水井少尉)が発進、爆発音が聞こえた。潜望鏡を揚げると駆逐艦1隻が見えなくなって
おり、橋本艦長はこれを仕留めたものと認定した。発進回天は同日、2基のみであった。
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▲「多聞隊」伊58潜
8月12日伊58潜は大型艦を発見、「回天戦用意、魚雷戦用意」を発令、唯一の動ける回天、3号艇(林義明1飛曹)に発進
用意を命じた。橋本艦長は潜望鏡で遠くから観測していたが、敵艦は突然煙突から黒煙を吐き上げて遁走を始め、右に
左に回避運動をする様子が見えた。30分程して駆逐艦が反撃に入ったのか、爆雷投下の轟音が連続して聞こえてきた。
伊58潜は戦果確認を第6艦隊司令部から強く要請されていた事もあり、他に敵影が無いので、この時は昼間用、夜間用
の2本の潜望鏡を海面上に高く挙げ、橋本以行艦長と航海長田中宏謨大尉が司令塔で並んで観戦していた。
航海長は「敵艦が水柱に包まれて、ぐーっと、のめり込むように水中に没する姿が潜望勤こ捉えられた。轟沈!敵艦の
影は既に無く、駆逐艦のマストのみが見えた」と記録している。
橋本艦長は「大型艦1隻轟沈」と判定し、夕闇迫る頃浮上、続けて北上しながら第6艦隊司令部に打電報告した。
その後、北上を続けながら8月15日終戦を告げる機密電報を受信したが、艦長は乗員には伏せたまま、17日に平生基地
に帰還した。白木兵曹と整備員6人が上陸し、甲板に残った回天1基を陸揚げし、翌18日呉に回航した。
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▲伊58潜「多門隊」艦長は橋本以行少佐。
伊58潜の雷撃で撃沈されたインディアナポリス乗組員は海へ投げ出され、救助されるのに約5日かかった。
原爆投下が極秘任務の為、正確な艦位置を司令部が特定出来ずに救助が遅れた為だった。
乗組員1196名中、879名が戦死。生き残ったのは317名。戦後、生き残ったインディアナポリスの艦長 チャールズ・
B・マクベイ3世大佐は軍法会議にかけられ有罪となった。証人として来ていた伊58潜艦長 橋本以行少佐は、敵艦長
の名誉の為に「たとえジグザグ運動をしていても撃沈出来た」と証言したが、米海軍は責任の全てをマクベイ大佐に
押し付けた。その後、戦死したインディアナポリス乗員遺族から責め立てられたマクベイ大佐は1968年に自殺した。 
一方、橋本元艦長は梅宮大社(京都)の神職となり、回天搭乗員を出撃させて戦死させた事、もっと早く哨戒海域に着い
ていれば広島・長崎への原爆投下を防げたと、自らを責め、戦争で亡くなった全ての御霊の鎮魂を祈る日々を送った。
また、橋本は自ら命を絶ったマクベイ大佐の名誉回復にも熱心に取り組んだ。
その後、アメリカで検証された結果、多くの犠牲者を出したのは米軍の救助が遅れた為だと解り、マクベイ大佐の名誉
は回復された。この名誉回復を知る事無く、橋本元艦長は、その5日前の平成12年10月25日に亡くなった。享年91歳
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▲重巡洋艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35)
※平成29年8月19日インディアナポリスの残骸の一部が72年ぶりにフィリピン海の水深5500mの海底で発見された。
伊47潜「多門隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月29日、光基地を出撃して沖縄東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]鈴木正吉少佐
[ 回天搭乗員 ]加藤 正中尉(広島県出身)/相沢鬼子衛少尉(北海道出身)/石渡昭三1等飛行兵曹(栃木県出身)
河村 哲1等飛行兵曹(北海道出身)/新海菊雄1等飛行兵曹(山梨県出身)久本晋作1等飛行兵曹(長崎県出身)
7月30日フィリピン北東方面の哨区で台風の中で海上は大時化となった。
この荒天で後甲板に固縛されていた回天1基が流失してしまった。他の回天も多くが浸水していた。
荒天に阻まれた後、会敵の機会は無く、敵の攻撃もなかったが回天が活躍する場面もとうとう起こらなかった。
8月6日呉に帰投せよとの命令が入電して帰途に就き、8月13日光基地に帰着した。
回天搭乗員6名と回天5基を下ろして、8月14日呉に帰着した。
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▲伊47潜「多聞隊」
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▲伊366潜「多門隊」
伊366潜「多門隊」は回天5基を搭載して昭和20年8月1日光基地を出撃、沖縄とグアム間の敵輸送路へ向かう。
[ 艦長 ]時岡隆美大尉
[ 回天搭乗員 ]成瀬謙治中尉(8/11発進)/上西徳英1飛曹(8/11発進)/佐野 元1飛曹(8/11発進)
岩井忠重1飛曹//鈴木 大三郎少尉
8月2日敵輸送船団発見、発進不能の2基を除き回天3基発進、攻撃。8月15日夜呉に帰投命令を受信。18日呉入港。
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▲▼伊367潜「多門隊」
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伊367潜「多門隊」は回天5基を搭載して昭和20年7月19日大津島地を出撃、沖縄とグアム間の敵輸送路へ向かう。
[ 艦長 ]今西三郎大尉
[ 回天搭乗員 ]藤田克己中尉(山口県出身)/安西信夫少尉(神奈川県出身)/岡田 純1等飛行兵曹(長野県出身)
吉留文夫1等飛行兵曹(北海道出身)/井上恒樹1等飛行兵曹(岩手県出身)
8月9日第六艦隊司令部より突然帰投命令が届き、翌日やむなく今西艦長は5基の回天を甲板に載せたまま、帰途に就
いた。豊後水道を通過し、8月15日正午、水の子灯台を通り過ぎた頃に玉音放送を航海長他が聴いたが、雑音が強く、
殆ど聞き取れなかった。1時間後に玉音放送の内容が機密電報でり、今西艦長は状況を明確に把握したが、戦時航海
中であるので、乗員が心理的な動揺を来すことがない様艦内伝達を抑え、そのまま航行を続けた。
夕刻、大津島に到着。艦長は乗員一同を甲板上に集め、戦争終結の玉音放送の内容を伝え、混乱のないよう訓示した。
伊367潜は翌16日08:00出港して呉に向かい、作戦行動を終えた。


「神州隊」昭和20年8月16日出撃(伊159潜、伊36潜)※伊36潜は出撃したかどうかは不明。
[ 艦長 ]三宅辰夫大尉
[ 回天搭乗員 ]斉藤 正少尉(宮城県出身)/今田新三1飛曹(大阪府出身)
「神州隊」は、8月6日広島に原子爆弾が投下、9日に突如ソ連が参戦したので、急遽、日本海に向かい「ウラジホス
トック」のソ連艦船を攻撃する事になった。出撃基地に回航する直前の8/11、伊159潜は整備中の呉工廠が米戦闘機
P-51の空襲を受け、その際片舷主機械などが損傷した。呉工廠も既に度々被爆しており修理が間に合わず、やむなく
平生基地にそのまま回航して、回天と搭乗員を乗せて出撃した上で日本海沿岸の舞鶴に回航し、舞鶴工廠で修理した
後、ウラジホ方面へ向かう事になった。(平生基地は山口県熊毛郡平生町にあった回天基地で、現在も遺構が残る)
8/15正午、平生基地では総員がラジオで玉音放送を聞いたが、その音声は雑音が多く聞き取り難かったので、一同は
終戦とは受け取らず、予定通り出撃する事に決定。後の推移に備える為にも舞鶴まで行き、主機械を修理しておく必
要があった。8/16日昼、同艦は回天2基を搭載して出撃、豊後水道を経由して日本海へ向かった。
下関海峡には当時、B29が磁気機雷を多数投下しており、通航は危険であったのでこれを避け、九州の南を廻って日
本海へ向かったが、若し途中で米艦船と遭遇した場合はこれを攻撃するよう指示を受けていた。
平生を出撃後、豊後水道を潜航南下して17日、大隅半島を潜望鎧で遠望出来る地点まで到達した。
米艦船は終戦で撤退しており、その艦影を見なかった。ここで平生基地から無電で呼び戻されて反転し、一旦宮崎県
の油津に入港して浮上、機密書類を焼却。18日油津を出港、水上航行で豊後水道を北上して平生基地に帰着した。
伊159潜へ帰還命令打電を手配したのは平生基地特攻隊長で神洲隊伊36潜で出撃予定だった橋口寛大尉であった。
橋口寛大尉は、終戦後18日未明に回天の操縦席で拳銃自決を遂げた。現在平生基地跡には「阿多田交流館」が建てら
れ、平生回天基地の資料や、整備済の回天を運んだ「トロッコ」、光海軍工廠跡地から発掘した本物の回天2型の胴体
が平生町歴史民俗資料館下に展示されている。 機会があれば是非そちらにも見学しに行きたいと思う。
終戦時、大津島基地では伊156潜、伊155潜が交通筒を整備して回天の発進訓練を重ねており、神洲隊として8月25日
頃出撃する予定であったという。
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終戦後の昭和20年8月25日、回天搭乗員の松尾秀輔少尉が大神基地(大分県)にて自決。
台湾で生まれた松尾少尉は帰る家も無く、そして敗戦の悔しさからか、遺書を残し、練兵場の国旗掲揚台の下で手榴弾
を使って壮烈な自決を遂げた。戦後の日本立て直しに必要不可欠な優秀な若者を終戦後に失った、20歳だった・・・。
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▲大津島回天基地跡へは徳山港から大津島巡航フェリーで馬島港へ向かう。
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▲▼徳山港には映画「出口のない海」で使用された回天の実物大レプリカが展示されていた。
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戦後、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」
「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面、または事実と異なる説が強調された。特にハッチに関しては中から手
動で開けられ、外からは工具を使用するものの開閉は可能だった。
搭乗員は操縦の特異性から転用できない為、全てが回天戦の為に選抜されて訓練を受けた優秀な若い志願兵だった。
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但し、戦時の日本において事実上、志願を拒否する事は著しく困難で、戦果に関し49基出撃の結果に対し撃沈4隻と乏
しく、回天を輸送し発進させる伊号潜水艦の損耗率も高かった。
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▼フェリーチケット売り場も「回天」一色。
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▼▲フェリーチケット売り場も「回天」一色。
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▲▼2006年公開の松竹映画『出口のない海』のスチール写真、大津島の回天基地跡でも撮影された。
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▼時間になったのでフェリー乗り場に向かう。駐車場は無料だが数が少ないので朝早めに確保した方が良いだろう。
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▼フェリーに乗り込んでから乗り場を撮影。
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▼出航。徳山港を離れる。
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▼▲色々な海運会社の貨物船が浮いている。
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さぁ、大津島に向けての短い航海だ。
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▼見た感じ大津島より大きく、恐らく無人島であろう「黒髪島」を右手に見ながら大津島に向かう。
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▼▲画像は天候が回復してからの帰りに撮影。大津島に向かうフェリーとすれ違う。
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徳山港から15分~20分位。あっという間に大津島(馬島港)に着く。乗船はこの位の時間が一番気持ちいい。
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大津島に上陸。当日は雨との予報を覆して急速に天気が回復してきた。
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今まで戦跡慰霊の旅では雨に見舞われた事は1度も無い。英霊がいつも見守ってくれていると勝手に思い込んでいる。
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帰りの船の時間を確認しておく。此処は「馬島」だ。
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待合所には少しお土産物が売っている様だが立ち寄らなかった。
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写真でよく見ていた大きな「回天の島」の看板だ・・・。
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▼まずは見学前に、観音菩薩像で賽銭を添えて英霊に感謝の黙祷を捧げる。
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数分あるくと案内板が・・・。
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左は海だ。
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見えた!昭和19年9月に開設された回天発射訓練基地だ・・・。
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▼海沿いの崖がくり貫かれ、この数メートル先から強固な回天専用トンネルが構築されている。
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早速入って行く前に、徳山港でも見た「周南子ども百人一首」
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回天搭乗員が、日本に必ずや明る未来が来ると信じて死地へ出撃して行ったトンネルの入口だ。
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回天搭乗員はこのトンネルを通って海へ。生きて帰る事は無かった・・・。
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戦時中当時は回天を運ぶレールが敷かれていた。今は撤去されて現存しないが、僅かに形跡は確認出来る。
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▲映画『出口のない海』のスチール写真。回天を運んだトロッコとレールが良く解る。
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ただのコンクリートのトンネルでは無い。搭乗員には地獄の戦地へ続く、二度と帰る事の無いトンネルだったのだ。
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同じトンネルを今、死の心配も無く、気楽に通れる自分がどんなに幸せであるかを嚙みしめる・・・。
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海側に向かって分岐がある・・・防空指揮所跡らしい。
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海側に出てみる。防空指揮所跡らしき建物跡や痕跡は見当たらなかった。
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回天発射訓練基地が近い・・・。
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振り返って撮影。
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戻ろう。しかし70年以上経過しているにもかかわらず、非常に程度が良い。
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分岐後からは回天がすれ違える広いスペースとなっており、当時の写真がいく枚も展示されている。
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隊員のお顔を見ていると、胸が締め付けられる想いだ・・・。
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海側の出口に向かってまた細くなっていく。
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いよいよ海に抜ける。
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振り返って撮影。
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回天訓練基地から「回天」を海上に降ろす為にクレーンが東側に設置してあったという。
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ここからクレーンで海上に降ろされた回天は、回天を横に抱えるように運搬したことから「横抱艇」と呼ばれた船で訓練
がスタートする場所に置かれていた浮標まで運ばれ、横抱艇からの合図により訓練を開始していたという。
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▲同じ場所での当時の写真。「回天」試作基が海上に降ろされる。
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▼当時の訓練写真が残っている。回天と横抱艇。
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元来たトンネルを戻る。
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回天交差スペースの写真展示で再度足を止める・・・。
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▼米アヴェンジャー雷撃機に撃沈された伊号361潜水艦「轟隊」だ。(潜水艦乗員合計81名全員戦死)
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▼出撃桟橋まで続いた見送りを受けて出撃する「千早隊」隊員。硫黄島周辺水域に向かった隊だ。
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▼▲再び防空指揮所跡の入口をこえてトンネルを抜ける。
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次は回天記念館に向かう。
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▲▼案内板の順路標識に沿って回天記念館に向かう。この細い道は「回天坂」と呼ばれた。当時のままだそうだ。
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▼柵から下を見下ろすと、大津島幼稚園・小学校・中学校の運動場が見えた。
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▼終戦直後の同じ場所。現在の運動場が回天組み立て調整工場だった事が分かる。
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▼運動場を見下ろしていると、当時の遺構が確認出来た。
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回天記念館に行った後で確認する事とした。
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▼当時基地の隊員や兵士達が「地獄の石段」と呼んだ階段が今も残っている。
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港に運ばれてきた食料などを、現在の回天記念館辺りにあった兵舎に運ぶ際に駆け上らされていた階段で、訓練にも
使用されたという。体力づくりか罰ゲームか・・・。
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昔、中学時代のクラブで、こういう階段をウサギ飛びで登らされた経験を思い出していた。
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回天記念館はもうすぐ上だ。
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▼登り途中に休憩所の様な建物があったが、使用されている気配は無かった。
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入口が見えた。
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この奥が回天記念館だが、重たい雰囲気を感じる。
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通路脇両側には「回天特攻作戦」で亡くなった若者の名が刻まれた石碑がある。
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記念館正面。そっけない雰囲気が逆に胸にグッとくる・・・。
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▼記念館右側には実物大の回天模型が見えた。後で見学する事として記念館に入った。
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見学料を支払い中へはいる。職員の方にお聞きすると、遺影以外は撮影OKとの事だった。
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▲入口には大きな出撃時の写真が・・・硫黄島周辺海域に向かって出撃した「千早隊」伊370潜だ・・・。
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▲次は大きな地図だ・・・回天が出撃した海域は多くが太平洋だが、終戦間際にウラジオストクに向かった部隊もある。
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▲回天記念館の入口早々に中国の地図があるとは意外だった・・・。
「大連」「安東」「奉天」「新京」「ハルビン」は、当ブログでも紹介させて頂いる旧満州国の主要都市だ。
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学徒出陣か・・・。優秀な大学生の多くが航空特攻や回天で出撃していった。馬鹿では難しい操縦が出来ないからだ。
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▼回天を考案した黒木博司海軍中尉と仁科関夫海軍少尉だ・・・彼等も国を守る為に必死だったのだろう・・・。
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▼当時の大津島の模型
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▼▲「知覧」「万世」の様に特攻の母と呼ばれた方が「回天隊」にもおられたんだ・・・知らなかった・・・。
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優秀で礼儀正しい真面目な若者ばかりが特攻へ・・・全ての特攻隊員がそうだとは言わないが、胸がつまる・・・。
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「知覧」「万世」「鹿屋」でも思ったが、当時の隊員の達筆さには感心するばかりだ・・・。
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▲▼屋外展示の回天実物大模型
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日本国内にある本物の回天は米国から貸与中の遊就館に展示されている「回天一型改一」1基のみ。
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愛媛県の宿毛湾には終戦後、麦ヶ浦基地配備の8基の回天が、米軍の命令で投棄され、今も海中に沈んでいる。
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何とか引き揚げて、此処に本物を展示出来ないものだろうか・・・と考えながら眺めていた。
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こちらは本物の様だが屋外展示でボロボロ・・・。
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▲慰霊碑の前で一礼して記念館を後にした。
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400m先に「魚雷見張所跡」が残っている様なので、登ってみる事にした。
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しかし、登り道は辛い階段続きだ・・・。
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途中には看板が・・・。山口弁か?広島弁か?安芸方言の優しい方言で励ましてくれる。
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やっと「魚雷見張所跡」の看板が見えた。
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▲展望広場には最初から行く予定は無かったが、体力的にも「魚雷見張所跡」までが丁度いい。
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当時のままの姿の様だがかなり朽ち果てている・・・。
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コンクリートの中の赤煉瓦が見えている。
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中は何も無い・・・。
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見張所からの眺め。
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▲当時回天組み立て調整工場などの施設が建ち並んでいた大津島幼稚園・小学校・中学校。
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▲運動場の敷地内には当時の遺構が残っている。
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▲▼まずは変電所跡。
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▼次は危険物貯蔵庫。火薬などの爆発物を保管していたのだろう。
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今は学校で使用する物置きになっていた。
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島の学校の物置としては、場所を持て余す程の大きさだ・・・しかも頑丈。
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▼次は魚雷点火試験場跡。
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▼入口から見ると普通の家に見えるが、裏手から見ると当時の建物の雰囲気が良く解る。
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中はご多分に漏れず物置き状態・・・。
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グランドの突き当りは先程上から見学した「地獄の石段」。
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▼さぁ徳山港に戻る時間だ。
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▼大津島を離れる。
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▼あっという間に本土が見える。
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▼出航した船乗り場とは真反対側で下船した。
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▼JR徳山駅の中を通って反対側に抜けると徳山の繁華街だ。食事と土産物を買って山口県を後にした。
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 2017_08_06

周防大島

Category: 周防大島  

山口県の離島、周防大島へ行ってきた。瀬戸内の綺麗な海と景色で「日本のハワイ」と、言われていると聞いて、
かなり前から行ってみたかった。そして「陸奥記念館」にも行ってみたかったのだ。
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▲本州と周防大島を繋ぐ「大島大橋」を渡って周防大島へはいる。
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▲▼南国の離島を思わせる様な、綺麗な海水と景色が出迎えてくれる。
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ひとまず「道の駅」サザンセトとうわに向かう。
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▲「道の駅」サザンセトとうわ
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「道の駅」サザンセトとうわで、観光案内地図を確認。
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「真宮島」?なんだそれ。早速行ってみる。
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▼▲防波堤防沿いを歩くと見えた。「真宮島」
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海の色が綺麗!
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午前中だったので歩いて上陸する事が出来た。潮が満ちてくると歩いて渡れない。
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▼潮が満ちるとこの通り浮島だ。
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▼振り返って撮影。赤矢印の辺りが「道の駅」サザンセトとうわだ。
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▼▲「真宮島」からの眺め。
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「道の駅」サザンセトとうわを後にして車で15分程で「陸奥記念館」に到着。此処に来たかった。
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辺りはキャンプ場になっていて、多くの人がテントを張っていた。
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陸奥野営場の中には何と現役を退いた自衛隊機が展示されていた・・・!
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辺りがキャンプを張っていたり木々が多いので写真は撮りにくい・・・。
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「陸奥記念館」の前には昭和18年6月8日柱島泊地で停泊中、謎の大爆発で沈没した戦艦陸奥の猫鎖があった。
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早速「陸奥記念館」を見学する。
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館内は思ったより小じんまりした感じ・・・。
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▼資料館の外には引き揚げられた「陸奥」の残骸が展示されている。
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この綺麗な海に今も「戦艦陸奥」は乗組員と共に沈んでいる。合掌
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「陸奥記念館」を後にして島を巡る。
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しかし、日本とは思えない綺麗な風景と海の色だ。
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▼片添ヶ浜海浜公園に立ち寄る。
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南方のグアムやパラオに来たかの様な綺麗な海とビーチに感動する。
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今回は時間が無くて泳がなかったが、次回は是非泳ぎに来たいと思う。
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▼周防大島本島から橋で繋がっている沖家室島。
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沖家室島にも日の丸が風になびいていい感じ。やっぱり日の丸は落ち着きますね~。
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しばらくベンチに腰掛けて海を眺めていた。
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▼沖家室島を後にして周防大島本島巡りに戻る。
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▲「四石合わせ奇岩」でとりあえず旅の安全を祈願する。
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▼次は白木山山頂に上る。道は少々狭いが車で登る事が出来る。
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ここは戦時中の昭和16年頃、白木山防空高角砲台が設置され、海軍の聴音照射所なども設置されていた。
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▼画像は1939年代のドイツ軍の聴音機。この様な物が設置されていたという。
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戦後、進駐軍によって破壊された高射砲のコンクリートの台座が僅かに残っていた(写真撮り忘れ)
           Chuuk Islands
▲画像はトラック諸島に現存する日本海軍の高角砲。
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眺めは最高だ。
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次は「夕日の丘展望台」に向かった
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▲画像の「立島」にも戦時中は砲台や兵舎が建設され、まだ遺構が残っていると地元の方から聞いた。
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日が落ちてくるとまた違った綺麗な眺めに変わった。
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▼次は周防大島の富士とも呼ばれている嵩山の山頂展望台に行ってみた。
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ハングライダー・パラグライダーのランチャー台が設置されていた。
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山頂からは大島東部の殆どが見渡せる絶景ポイントだ。
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▼旅客機が飛んでいるのが見えた。何処の空港から離陸した飛行機だろう・・・山口宇部空港か?
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▼今回宿泊でお世話になったのは農家民宿「ログよねこ」
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智恵子さん・タエ子さん姉妹が切り盛りするアットホームな民宿で、ログハウスでいただく姉妹の手作り料理は最高だ。
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▲次の日、「ログよねこ」さんのはからいで町指定文化財の「服部屋敷」の見学会にお邪魔させて頂いた。
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早速中に入らせて頂く。
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古い日本の屋敷の間取りは、ほとんどこの様な感じだと思う。
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ガイドの方が色々説明してくれた。
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▼屋根裏部屋へ続く階段。祖父の田舎の家もこんな感じだった事をよく覚えている。
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▼屋根裏部屋。
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▼五右衛門風呂だ。祖父の家で入った事がある、懐かしい・・・まだ製造している業者もあるらしい。
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▼別の屋根裏部屋へ続く収納スペース付きの階段。
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▼長州大工のシンボルマークか!?
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▼外へ出て、屋敷裏から見る。
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▼蔵
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▼屋敷の敷地外から蔵を撮影。
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一通り見学を終え、服部屋敷を後にした。素晴らしい日本建築の見学は無料だった。
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周防大島は小さい島だが、噂通り、見所が沢山詰まった日本のハワイだった。砲台跡などの戦跡は、恐らくほとんどの
日本人が知らないと思う。和歌山県『友ヶ島』の様に、島国日本の防衛を考えさせてくれる島になって欲しいと思った。



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 2017_07_11


哈爾浜から寝台特急列車で一晩走り、北朝鮮との国境の街、丹東を目指す。
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夜が明けた寝台特急の車窓からの景色。
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都会とは打って変わった田舎の農村地帯の景色が広がる。
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大都会や高層マンション群は見飽きていたので非常にのどかで良い風景だ。
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山が見え、日本でも赤煉瓦では無いが、地方へ行くと見られるのどかな風景と、どこか似ている。
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どこまでも続く大地とは少し違う大陸の風景。とにかく広い中国。色々な景色が堪能出来る。
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寝台特急とはいえ、ローカル線なので、丹東市に近くなると小さな駅にもほとんど止まる。
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駅の低さがお解り頂けるだろうか。昔は日本でもこの様な落差のある駅があった様な気がする。
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ローカル列車なので当然聞いた事の無い駅名ばかり・・・。
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朝の通勤渋滞かな~踏切待ちで混んでいた。
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何という駅だろう・・・全く読めない・・・
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▼一晩かけてやっと丹東に到着。ここから先(南)は北朝鮮だが、日本統治時代の線路は丹東(満州国)と新義州(朝鮮)へ
と、途切れる事無く続いていたはずだ。現在は『鴨緑江大橋』に線路と車道があり、北朝鮮へ鉄道で行けるようだ。
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中国の高速鉄道は2010年に初めて見て以来、変わっていないと思う(哈爾浜→丹東は高速鉄道には乗っていない)
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▼丹東駅、また大きな駅舎だ。
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▼駅舎内の待合所には、安東時代の駅舎などの写真が飾られている。
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▲昭和3年(1928年)の安東駅
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▲昭和16年(1941年)の安東駅
駅舎から出ると、此処はタクシーの呼び込み営業が凄い。外国人目がけてしつこいくらいに付きまとってくる・・・。
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▼中華人民共和国初代国家主席の毛沢東が居た・・・。
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▼丹東駅からほぼ真っ直ぐ南へ行くと、鴨緑江(おうりょくこう)に突き当たる。
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鴨緑江の反対側は北朝鮮・新義州(シニジュ)市だ・・・。
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▲対岸の北朝鮮に数本の煙突が見える。日本統治時代の王子製紙朝鮮工場だ・・・。
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▲大正8年(1919年)操業開始の王子製紙朝鮮工場。今は北朝鮮が利用しているそうだが、煙が出ていなかった。
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中国と北朝鮮を結ぶ『鴨緑江大橋』(全長946.2m)が見えた。
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中国側を鴨緑江に沿って歩いて行く。
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この辺りは観光地なので、桜があったり公園があったり、大勢の観光客で賑わっていた。
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▼中国人ご夫婦が記念写真を撮っていた。
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『鴨緑江大橋』に近づいてきた。この橋は日本統治時代に建設されたと聞いたが、当時のままかどうかは解らない。
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▼また記念撮影している。朝鮮の民族衣装か?丹東市の人口は約220万人で内、朝鮮族の割合は20万人以上とされる。
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▼手漕ぎボート競走もやっているのかな?
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だんだん人が多くなってきた。
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中朝貿易最大の物流拠点『鴨緑江大橋』は、なかなか立派な橋だ。
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▼北朝鮮側から中国に入国するトラックの列が出来ている。ここから先は撮影禁止だ。
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▼丹東市の観光案内版
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北朝鮮との国境、鴨緑江大橋の他、今回は行けなかったが万里の長城の最東端『虎山長城』がある。
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▲中国語と英語と朝鮮語。当然だよね・・・ミサイル発射連発のこんな時期に観光に来る日本人は変わり者だね(笑)
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丁度、北朝鮮がミサイル発射連発で大きなニュースになっていた時だったが、中国ではそんな事は何処吹く風。
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撮影スポットである『鴨緑江断橋』。朝鮮戦争時に国連軍の爆撃で破壊され、真ん中で途切れたままの橋。
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▼遊覧船に乗って北朝鮮側と『鴨緑江断橋』・『鴨緑江大橋』を近づいて見学出来る。
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▼早速乗ってみる。
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▼出発
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▼『鴨緑江断橋』に向かう。重なって分かりにくいが橋が途中で終わっているのがお解りだろうか。右側が北朝鮮。
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▼『鴨緑江断橋』と『鴨緑江大橋』の下をくぐる。そしてしばらく行ってからUターンする。
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▼先程地上で見た中国へ入国を待つ北朝鮮側から来たトラックの列。
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▼北朝鮮側を見るとどこか寂しい感じだ。
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この地はかつて日本が統治していたんだな・・・日本統治時代のまま手つかずの建物も多く残っているかもしれない。
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▼このレトロチックな観覧車は稼働している所を見た事が無いというが、経済制裁の中、高層マンションもチラホラ。
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▼漁師?が川魚を獲っている様だった・・・しかし、北朝鮮にも富裕層は存在する。
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▼反対側の対岸は近代化された中国。川を挟み、左右で全く違う景色が広がる。
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▼またしばらくしてUターン。画像の左側が中国、右側が北朝鮮。格差を露骨に見る事が出来た・・・。
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遊覧船乗り場を後にして街をブラブラする。
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▼何だこれは?
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▼「英雄空軍」と書いてある。1951年(昭和26年)だから朝鮮戦争の最中で、「美国」とはアメリカの事だ・・・。
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お店が並んでいる・・・北朝鮮国旗も多く掲げられている。
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▼ハイエース?キャラバン?と思ったが、どちらでも無い様だ(笑)
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海鮮物が多い様だが、とてもこんな所で食事する気にはなれない。
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▼▲「北海道」?日本語でも「ほっかいどう」と書いてある。本当かいな??多分嘘だろうけど・・・。
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当然この店にも行かなかったが、北朝鮮人が経営する飲食店は多く見られた。
あまり気の進まない丹東市観光だったが、丁度この日、北朝鮮が日本海に向けてミサイルを発射し、失敗したとの情報
をTVで見た。日本では東日本で電車が一時止まったりしたと聞いた。あの鴨緑江の向こう側から撃っているのである。
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ここまで大国になった中国が養護している北朝鮮・・・朝鮮戦争の歴史を踏まえると、韓国と中国との間にこの様な田
舎国家があった方が中国にとっては都合が良いのは当然だとも思った・・・。


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 2017_07_01

哈爾浜③

Category: 中国東北部   Tags: 731部隊  

哈爾浜②からの続き。
「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」を見終えて陳列館の外に出ると、旧731部隊本部跡の広い敷地内に出る。
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731部隊本部の建物が見えた。
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▲電動カートが並んでいる。敷地面積が広いので利用する人もいるのだろう。私は歩いて見て回った。
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▲赤印が現在地だ。
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▲反対側は当時南門だった方向。新しい陳列館が出来る前はここが入口だった様だ。
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▼▲現存する当時の南門衛兵所
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新しい陳列館が出来る前は、この南門衛兵所で、外国人のパスポートチェックや売店に利用されていたとの事。
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731部隊は独自の防衛施設を備え、周囲は長さ5km、高さ2.5m、幅1mの土壁で囲まれていた。壁の上には高電圧フェ
ンスが張り巡らされ、壁の外には壕が掘られ、土壁に沿って5つの衛兵所が設置されていた。
この南門衛兵所は日本人が本部大楼などに出入りする為に利用された通路で、現存する唯一の衛兵所。
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▼中に入る事も出来る。
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南門衛兵所の本来の位置はもう少し手前で、戦後奥に移設されているそうだ。
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さぁ、部隊本部を見学に行こう。
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部隊本部の建物は戦後、撤退の際に吹き飛ばされた屋根を修復し、哈爾浜市第25中学校として利用されていた。
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敷地内に新しい学校が完成し、子供達が新しい校舎で元気に学んでいた。
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731部隊本部が近づいてきた。赤煉瓦などは新しい物で修復されているのだろう、かなり綺麗な印象だ。
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保存に対する中国の気合を感じる修復だ・・・。
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昭和13年竣工の本部建屋には部隊長事務所、侍衛官室、診療部、標本陳列室、憲兵室などが設置されていた。
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▼正面玄関から東側棟を見る。
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▼正面玄関から西側棟を見る。
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731部隊本部大楼正面入り口には警備員らしき人が立っていた。
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早速、中に入っていく。
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2階へ通じる階段が正面に見えるが順路ではなさそうだ。
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731部隊本部建屋の見取り図だ。
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▲敷地地図
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1階部分を玄関より左右撮影。
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色々な部屋がある様だが、個別に見学する事はしなかった。
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▲この様に各部屋の入口には説明版があるのだが、何故かほとんどの入口に鍵がかかっていたからだ・・・。
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▲1階部分を東へどんどん進んでいく。
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▲突き当り手前で振り返って撮影。
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▲突き当り。
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▲突き当りの部屋は「人事課」となっていた。
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▲2階へ通じるこの細い階段は、石井部隊長の部屋に通じる部隊長専用階段だったそうだ。
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▲その階段を登り切るとご覧の通り。石井四郎陸軍軍医中将の使用していた部屋が再現されていた。
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豪華と言えば豪華だが、幹部の部屋としてはどこも同じかな?という印象だ。
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ただ、本土と違うのはやはり広さだろう。広い満州では建物・間取りが全てにおいて大きい。
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「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」で見たジオラマは此処を再現しているのであろう。
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ここで石井中将は、自分の天下が未来永劫続くと思っていたのだろうか・・・。
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現在は逆にその部屋が負の遺産として未来永劫保存されてしまった。
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部隊長以外は正面玄関の階段を使って2階へ行き、廊下の突き当りの石井部隊長の部屋を訪ねるという設計だ。
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多くの人が部隊長を訪ねて来たのだろう。待合場(接待室)が設けられている。
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▲「接待室」の隣は「副官室」
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中央階段に向かって2階部分を更に進む。
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中央階段が見えた。
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▲▼中央階段からの外の眺め。
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1階に降り、731部隊本部を後にした。
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▼正面に見える黒い建物が先程見学した「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」だ。
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▼南門衛兵所の方を振り返って撮影。
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▼見えている2階の一番手前が部隊長の部屋だ・・・。
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▼2008年11月に撮影された上記写真とほぼ同じアングル。かなり手が加えられている事が判る。
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本部建屋と繋がっている平屋の建物は武器庫だったらしい。
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▼2008年11月に撮影された上記写真とほぼ同じアングル。かなり手が加えられている事が判る。
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中国語オンリーで良く解らない・・・。
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▼途中から黒い鉄骨に変わっている部分から先がロ号棟だった敷地。徹底的に破壊し尽されて痕跡が残るのみ。
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▼2008年11月に撮影された上記写真とほぼ同じアングル。かなり手が加えられている事が判る。
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▼少し疲れたのでベンチで休憩する事にした。
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▲目の前の鉄骨は、ロ号棟跡地を屋根で覆う為に作られた雨除けだ。
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▲ベンチで休憩していると、1人の中国人男性が話しかけてきた。名前は周(シュウ)さんというお名前だそうだ。
 ほとんど話せない日本語を使い、一生懸命話をしてくる姿に感心し、「案内したい」との誘いをお受けした。
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周さんと一緒にロ号棟跡を見学する。
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雨でも雪でも見学出来る様に屋根が設けられ、まるで古代遺跡の様なロ号棟の基礎が保存されている・・・。
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▲「爆破地点」と書いてある。最初は建物の外から高射砲などで破壊を試みたそうだが、びくともせず、建物内で通常
のダイナマイトを爆破。それでもヒビが入る程度だったのでトラックで大量の500キロ爆弾を運び込み、それでやっと
破壊して証拠隠滅が行われたという。
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▼特設監獄7棟跡(7号牢獄)
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資料の通り赤煉瓦作りだった様だ・・・。
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▼特設監獄8棟跡(8号牢獄)
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ここに多くの囚人が監禁されていた・・・。
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▼ここにもロ号棟の模型が置いてあった。
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▼本部建屋と繋がっていた部分だ。
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▼ロ号棟跡から本部建屋をみる。
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周さんの案内で次へと移動する。
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▼周さんはマスクを欠かさない。綺麗になってきたと言っても中国の空気は良くはない。喉はイガイガのままだ。
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気が重い見学で、私が無口で居ると「70年前気にしない」と、宥める様に何度も声をかけてくれたのが印象的だった。
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▼▲本部建屋をさっきとは反対側から見る。
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▼周さんが「731ふたいある731ふたいある!こっちこっち」と、沈み気味の私を端の場所に連れっていってくれた。
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これには驚いた。731部隊が所有していたであろう旧日本軍?の兵器が無造作に放置されていた・・・。
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トラックで牽引するタイプの機関銃?高射砲?だろうか・・・旧日本陸軍?のこの兵器は初めて見た。
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▼▲「どうぞどうぞ」と座る様に言ってくるので座席に座ると、機関銃の角度も回転テーブル?もスムーズに動いた!
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「関東軍防疫給水部本部」と言っても軍隊だからね・・・空襲は無かっただろうから使って無いと思うけど。
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しかし、空からの備えとしては貧弱に思ったが、当時はもっと数があっただろうし、据え付け型もあったのだろう。
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▼「こっちこっち!」と周さんが呼ぶので行ってみると、何ともう1台あった!
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生産数が極端に少なかった「四式高射砲」か?それとも中国軍(朝鮮戦争当時)の物か??か??
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こちらはサスペンション部分が崩壊していた。
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しかし砲塔はしっかり残っている。「流石日本製!」と言いたいけど此処では言わなかった。
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▼名盤は残ってないかと必死に探したがそれらしい物は写真の物だけだった。僅かに数字が読み取れた。
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旧日本軍?の兵器に触れて少し気が晴れた所で、また周さんと一緒に次の見学場所へ移動した。
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周さん有難う。
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▲次に見学したのは結核実験を行っていたと言う二木班の建物で、昭和60年に一部復元されたもの。
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病理試験室だった二木班の建物は昭和14年に建てられたが、こちらも部隊撤退の際、他の施設と同じく爆破された。
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当時は地下室も備えた実験施設として機能していたという。
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二木班の班長は二木秀雄。731部隊第一部第十一課(結核研究班)班長。
第731部隊慰霊碑である「精魂塔」(東京都にある多磨霊園内に昭和31年11月建立)の建立に尽力した人でもある。
実験材料にされた中国人・ロシア人もさることながら、731部隊員も約300名近い犠牲者が出ており、全ての犠牲者を
供養する意味もあるという。「懇心平等万霊供養塔」とも言う。
しかし、戦後、占領国であるアメリカとの取引により、裁判にかけられることもなく、存在自体が闇に葬られ、731部
隊第二部隊長だった北野政次、そして防疫研究室を取り仕切り、731部隊を国内で支えた内藤良一、そして二木秀雄の
3人は、共同事業の形で日本初の血液銀行を設立。
朝鮮戦争の際、米軍がその血液を大量に購入してくれるので当たり前のように事業は大成功。
後に「ミドリ十字」と命名された有名な会社である。 高度経済成長の中、ミドリ十字は日本有数の製薬会社に成長し、
昭和53年には米国アルファ・セラピュウテック社を買収。 この子会社はアメリカ貧民層の血液を恐ろしく安く買い集
めてミドリ十字に送ったのである。これが結果的に、薬害エイズ問題へと発展していった経緯がある。
旧日本陸軍731部隊隊員は、終戦後、米国との取引により活動時の内容を公開しない事となっているので、軍籍時の階
級等を示す形での墓石は存在しない。 戦犯を免責されたこれらの軍医達は、石井部隊長の命令を守って、部隊で行った
「人体実験」の事を絶対に口外しないことを誓って全国の大学や研究所などに散っていった。 その後彼等が年に1度集
まる親睦会「精魂会」の名簿は、副知事・大学学長・大学教授・病院長・研究所長・研究教授等の肩書きが並ぶ。
いずれも731部隊で中心的役割を果たしていた人物ばかりだ。この方達がいかに戦後、日本の医学会で影響力の大きい
地位を得ているかが想像出来る。
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平和な現在の結核実験施設跡周辺にはアヒルが元気に遊んでいた。
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次の見学に向かう。
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▲ロ号棟跡と次の見学地との間には、731部隊跡地敷地内の真ん中になんとマンションが建っている(写真左側)
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▲マンションをかわすような道を通って次の見学地へ。広い中国、あえて此処に住まなくてもいいのにな・・・。
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▲当時の遺構と思われる赤煉瓦塀
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▼簡単な門を通って敷地内に入る。
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▼凍傷実験(凍傷研究)の建物が・・・。
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▼吉村班(吉村寿人班長)の冷凍実験室。何とも不気味な建物だ・・・。
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元がどの様な施設だったか見当もつかない位に朽ち果てている・・・当時の写真等の資料も無いのでわからない。
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しかし、ここまで残っているという事は、此処は破壊途中で帰国したのか・・・。
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零下100度以上の速凍実験など、マルタと呼ばれた囚人を使って様々な実験が行われていたという。
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▼裏側にまわってみる。ガレージの様になっている・・・。
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▼早速ガレージの入口へ。
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▼入口横にも防空壕の様なコンクリートの遺構。今は掃除道具入れかな?
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中に入る・・・。
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凍傷実験施設だったという先入観からかもしれないが、寒気がした・・・。
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振り返って入口を撮影。
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いくら給料の高い731部隊と言えど、此処で働いていた隊員はさぞかし嫌だっただろう・・・。
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天井が普通の構造とは違う・・・冷凍室だから?誰よりも一番嫌だったのはマルタと呼ばれた囚人達だろう・・・。
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こんな不気味な戦争遺跡は初めてだ。丸型にくり貫かれた部分が異様な雰囲気をかもし出している・・・。
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凍傷実験施設を後にして次へと向かう。赤煉瓦塀が一帯に残る。
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▲「鼠飼育小屋」が見えた。動物実験の為に大量の鼠を飼育していたところだ・・・。
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▲防空壕かと思ったが、地下でも実験用の動物を飼っていたのか・・・。
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扉には鍵がかかっており、周さんに尋ねると、公開していないとの事。
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「鼠飼育小屋」へ向かう。
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振り返って撮影。
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「鼠飼育小屋」は入る事が出来る。
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何度もベニア板を張り替えているとは思うが、よく70年以上も建っているものだ。
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本当に戦争は色んな事をするもんだと改めて思う。「勝つ為に」結局、安くて楽に人を殺せる方法に流れてしまう。
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ある意味これも「戦跡」である・・・。
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特別班動物舎担当は石井部隊長の実弟、石井三男であった。石井三兄弟は、部隊長の四郎、特設監獄(丸太)担当の剛男
の三名が各部署の幹部として働き、731部隊に入隊する者は、圧倒的に石井兄弟の実家のある加茂(千葉県)の出身者が
多かった。縁故関係や郷土意識の強い者を集め、極秘の作戦や研究の秘匿性を強固なものにしていた。
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▲「鼠飼育小屋」を出て、マンションの方向を見ると、何やら慰霊碑の様なものがある・・・。
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何だこれは・・・?
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「謝罪と不戦平和の誓い」と書かれている・・・日本政府が建てた物では無さそうだ。でも日本語だ・・・。
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「日本ABC企画委員会一同」って何だ??2010年8月15日ってまだ新しい・・・元部隊員が建てた物でもなさそうだ。
敗戦後、米国との取引により活動時の内容を公開しない事となってから既に50年以上。アメリカ国家機密情報は50年
後公開されるというのを聞いた事がある。当然影響力の高い情報は滅多な事では公開されないと思うが、大量の人体実
験の資料が出回っている事からすると、アメリカ国立公文書記録管理局で50年後に公開された可能性が高い。
日本政府は、敗戦直前に生体実験の資料が焼却された事を理由に、どんな実験をしていたのかや、被害の実態を明らか
にはしていない。事実上はアメリカの傘の下で現在も「認めていない」立場のはずだが、いつまでも難しいだろう。
中華民国の国民党と中華人民共和国の共産党の争いの中で共産党が勝利したのは周知の事実。
日中共同声明は昭和24年(1949年)建国の中華人民共和国と交わされた中国と日本の約束が色々盛り込まれているが、
中華民国の国民党は日本に賠償を求めていた。しかしアメリカの強烈な圧力で賠償を諦めた。なので今の中華人民共和
国が昔を蒸し返して賠償を請求する様な器の小さい国では無いと思うし、「許すけど忘れない」と言ってくれている。
なので、日本政府は731部隊の事を今後どの様に日本国民に説明するのかにかかっていると思う。
世界の人達は知っているけど日本人は知らないというのは非常におかしな事で、それが色々な戦史で捏造を増殖させる
原因の1つになっていないだろうか。日本は戦後自由にものが言える国になったからといって、こんな重要な石碑を日
本政府の立場抜きに建ててしまうのも如何なものか?とも思った。でも、こうでもしないと前に進まないのか・・・。
 2014年2月完成の京都大学医学部資料館(京都市左京区)で、戦時中に同大学の医師が関与して細菌兵器を開発してい
た731部隊を説明する展示パネルが、直ぐに撤去された事もあった。ヤフーNEWSでも直ぐ消えた事を覚えている。
資料館は明治35年に建てられた医学部系統解剖講義室(旧解剖学講堂)で、京都大学歴史的建造物に指定されている。
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あからさまに頭を下げたりはしなかったが、石碑の前で目を閉じ、黙って犠牲者の冥福を祈った。
(※目を開けると、目の前のマンションの部屋から住民が何人かこちらを見学していた・・・。)
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周さんが「70年前気にしない」と、また言ってくれていた。優しい人だ・・・周さんと一緒に次の見学に向かった。
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731部隊専用の満鉄線の引き込み線路が今も残っている。
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▲上記2枚の写真は北向に撮影。
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ロ号棟などの主要施設を破壊した後、昭和20年8月11日~15日にかけて731部隊員やその家族は、ここから満鉄特別
貨車の約40両連結に乗って南下。安東を抜けて8月18日~8月25日、朝鮮(釜山)から船で舞鶴・島根・山口・長崎(佐
世保)などの本土の港に大量の資料や物資と共に帰還している。
昭和20年9月25日に石井四郎部隊長も帰国。アメリカと取引後の昭和26年に朝鮮戦争の前線に向かう。
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▲写真の南方向(朝鮮)へ撤退。当時関東軍のほとんどが南方戦線へ送られ、満州は放棄されたに等しい状態だった。
「沖縄戦」で紹介している第9師団(沖縄米軍上陸前に台湾へ移動)や第24師団は北満州からの移動。
北支那からは、独立混成第44旅団・山西省から第62師団などが沖縄に送られていた。
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▲線路からは巨大なボイラー室跡の遺構が見える。
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731部隊本部ボイラー室跡。観光案内等の写真に必ず掲載されている遺構だ・・・これか・・・ついに来てしまった。
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このボイラー室から731部隊施設全体に給湯され、セントラルヒーティングの設備が整っていた。
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▼何やら鉄骨が組まれている様だ。ひょっとして復元するつもりなのだろうか・・・!?
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ここで多くの資料が焼却された為、撤退の際に爆破され、3本あった中で2本の煙突のみがかろうじて残っている。
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原爆ドームの様に各所の補強は見られなかった。よくこの状態で70年以上も立っているものだ・・・。
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▼当時は3本の煙突が聳え立っていた事が古写真で確認出来る。
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▲▼この赤煉瓦であったであろう小屋も、周さんの話では731部隊本部当時の建物だそうだ。
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ボイラー室跡をぐるり一周して見てまわった。
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次は毒ガス実験室に向かった。
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ここも中に入る事が出来、2階部分に案内された。周辺が工事中だったが、周さんが特別に入れてくれた様だ。
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2階から見学していく。
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中央に小部屋があり、左右それぞれに大きな部屋が設けられている。
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▲入って右側の部屋。セントラルヒーティングの設備が残っている。
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▲入って左側の部屋。ここが毒ガス研究施設だった事を伺わせる物は何も残っていない。
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▲続いて1階の入口。扉が閉まっていたが、鍵がかかって無かったので開けてみた。
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工事現場の人達の物だろうか・・・物置きと化していた。此処は入ってはいけなかったのかもしれない。
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周さんが居なかったら、恐らく入る事は出来なかったであろう。
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セントラルヒーティングの設備は当時のままの様な気がした。
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1階の方が何か生々しい・・・実験施設だった匂いがプンプンする・・・。
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何か普通の部屋では無かった様な匂いがプンプンする・・・こんな間取りは珍しい。
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一通り見学して毒ガス実験室を出た。
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▲私が出ると、周さんが直ぐに1階入口の鍵をかけた。何人かの中国人が周さんに「見せろ」的な言葉を発している。
 この時、周さんがボランティアガイドの様な、この施設の何らかの関係者である事を確信した。周さん有難う。
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毒ガス実験室の隣は、半地下の毒ガス貯蔵庫。
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ここが正規の入口の様だが中に入る事は出来ない。
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地下で繋がっているであろう大きなコンクリート製の貯蔵庫が見える。
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▼朽ち果てかけていた扉の中にカメラをねじ込んで中を撮影。赤煉瓦塀で仕切りがされ、しかも綺麗に残っている。
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これで全ての遺構を見学し終わった。周さんにお礼を言って731部隊本部跡を後にした。
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この「負の遺産」を見学しに来る日本人は年間40人程だと周さんが言っていた。納得の数字だ。
私も、今回の「祖父母の軌跡を辿る旅」で東北部に来ていなかったら、一生来る事は無かっただろう。
訪れたからと言ってこれまでの考え方が変わる訳では無い。ただ事実としてこの目に焼き付けて日本に帰るだけだ。
かなりの長編となってしまった731部隊跡だが、このブログを閲覧している方達には、「行った様な気分」になって頂
ければ幸いだ。何故なら、日本人がわざわざ哈爾浜に足を運んでまで見学する価値があるかどうか疑問に思うからだ。
恐らく此処まで731部隊跡を紹介しているブログは他に無いと思うので、行った気になって、現在の状況・中国が言わ
んとする事を、個々それぞれが自分の意見と照らし合わせながらじっくり閲覧して頂ければそれで十分だと思う。
もし、このブログを閲覧しても、どうしても現地で見学したいという方がおられるのであればご連絡下さい。
信用出来る現地付き添い人(中国人)をご紹介します。(周さんではありません)
 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。
以上、中国東北部(旧満州)旅行、その6「哈爾浜旅行記③」を終わりとします。
次回は、その7「丹東(旧安東)旅行記」をお届けします。


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 2017_06_14

哈爾浜②

Category: 中国東北部   Tags: 731部隊  

哈爾浜訪問のもう1つの目的、それは、731部隊本部跡を見学しに行く事。
祖父母の軌跡巡りで長春(旧新京)で終わりにしようかと思っていたが、各地戦跡巡りで曲がりなりにも戦史に多少詳し
くなっていたので、気が重い思いをするのは解っていたが、731部隊本部跡はどうしても見ておきたかった。
2015年8月15日に「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」という新館がオープンし、見学にあたって、外国人でもパス
ポートの提示義務が必要無くなったと聞いていたし、もっと前は外国人(日本人)は立ち入れなかったと聞いていた。
歴史問題で日本をけん制する為、戦後70年目の節目に「抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70年」と位置付ける習近平
指導部の記念活動の一環でリニューアルオープンしたという。良いも悪いも、そのお陰で行く気になった。
以前の様な「パスポート提示義務」があれば、自分が悪い事をしていなくても何となく行く気にはならなかっただろう
当然、「日本人歓迎の街であるはずがない」という思いが頭を占拠してしまっていたからだ。
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▲731部隊本部跡は、中央大街のある観光地からはバスで約40分程かかる。少し距離があるのでバス代は2元。
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▲途中、かなりディープな場所を通ってようやく近くまで到着。
近代化といっても広い中国。まだまだ全土が近代化されて綺麗になった訳では無い。
写真を撮るのが失礼にあたるのではないか、と思う様な村なども沢山ある・・・(撮影はしていない)
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▲入口だ・・・此処は哈爾濱市平房区。当時も平房(へいぼう)と呼ばれていたらしい。
現在平房区は哈爾浜開発区になっており、辺り一帯は工場が多数並んでいる。開発区だから日本企業もあるはずだ。
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しかし、平日だというのに特に渋滞や大型トラックなどが行き交う様子は見られなかった・・・。
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▲何処かの工場の従業員の様だが、行軍しながら並んでこっちへ歩いて来たので本当にビックリした。
72年前の事で、もう何も無いのは解っているのだが、731部隊本部跡付近という事で思わず少し構えてしまった。
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しかし、何か寂しい様な感じがする哈爾浜開発区だ。旧日本軍(関東軍)の印象が頭から離れないからかもしれないが、
中国の景気減速は色々な場所で肌で感じる事が出来る。もう世界の工場だった時代は終わった・・・。
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居住区が見えてきた。グランドハイエースかな?と思ったが違う様だ(笑)上手く作ってある。
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見えた!これが「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」か・・・手前の車はトヨタ・ヤリスLセダン。恐らく今年発売に
なったばかりのトヨタが中国で販売している日本名「ヴィッツ」の中国専用モデルだ。当然日本では売っていない。
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とうとう来てしまった・・・ここは哈爾濱市平房区新疆大街(しんきょうたいがい)25号。731部隊本部があった所だ。
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入館は、液体・ライターは入口で捨てなければならない。それ以外は何もなかったし、入場料は無料。
敷地内見学も全て無料で、中国の余裕が感じられた。日本では原爆資料館も遊就館も、安いけど有料だった・・・。
流石に世界文化遺産登録を目指しているだけあって、言語が6ヵ国・・・読んで字の如し既に重たい雰囲気だ・・・。
世界文化遺産登録は個人的には辞めて欲しいと思うが、アウシュヴィッツも世界遺産リストに登録されている事だし、
仕方無いのか・・・「負の世界遺産」だな・・・。
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PART1から見学していく。しかし「九・一八」歴史博物館の様に館内の展示物説明書に日本語訳は無かった・・・。
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中国語と英語のみか・・・こりゃ大変だ・・・。リニューアル前は日本語訳もあったと聞いていたのだが・・・。
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・・・ま、その通りだろうな・・・731部隊(満州第七三一部隊)の正式名称は「関東軍防疫給水部本部」。
防疫や水の供給の研究を行っていた他、細菌戦に必要な生物兵器の研究・開発の為、現地での捕虜などに対して人体実
験も行っていたとされている機関だ。長春(旧新京)の第100部隊(関東軍軍馬防疫廠)も書いてある・・・。
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「九・一八」歴史博物館の様に館内の展示物説明書に日本語訳が無いので、説明書は撮影しなかった。
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話す事は出来ないが、漢字なのである程度は理解出来るのが中国語の良い所。英語だと満州の地名が全く解らない。
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▲南京中央病院にあった第1644部隊(栄一六四四部隊)南京でも細菌戦研究をしていたんだ・・・。
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▲広州市の中山医科大学にあった第8604部隊(波八六〇四部隊)。
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▲シンガポ-ルのエドワ-ド7世医科大学病院にあった第9420部隊(岡九四二〇部隊)シンガポ-ルって・・・。
防疫給水部(ぼうえききゅうすいぶ)は大日本帝国陸軍に置かれた、疫病対策を目的とした医務、ならびに浄水を代表
するライフライン確保を目的とした部隊で、自然に存在する病原体に対しての防疫活動の他、生物兵器に対する防護
としての防疫も任務であった。しかし各部隊は生物兵器や化学兵器の研究開発機関として細菌戦研究が主な役割だっ
たとされている。
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本物も複製もあるとの事だが、どちらにしても悲しい事実だな・・・結局、殺し合いは最後はこうなるんだね・・・。
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スパイの疑いをかけられたロシア人や、レジスタンスの八路軍兵士(中国人)や、その協力者の疑いをかけられた者は、
憲兵隊や特務機関に捕らえられ、多くの場合、拷問を受け、正式な裁判もないままに処刑されていた。
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▲康徳五年六月三十日か。康徳元年が昭和9年だから昭和13年か。よくこんな物が残っているもんだ・・・。
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▲東京の陸軍軍医学校防疫研究室か・・・ここから石井四郎を中心にして研究活動が始まったんだ・・・。
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陸軍軍医学校と共同作業だったというが、軍医には良心がある人も沢山居ただろうに・・・だって一応医者でしょ。
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細菌戦を実行する為に多くの中国人・ロシア人捕虜達が実験材料にされたとされている・・・。
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▲「遠藤日誌」この本がきっかけで多くの日本人が知るところとなった訳だ・・・。
遠藤三郎は元陸軍中将。明治37年8月1日~昭和59年9月9日まで一日も欠かさず生涯にわたり「日誌」を書き残した。
「極秘」のスタンプが押された軍事機密書類も数十点含まれる93冊は、埼玉県狭山市立博物館に寄託され、研究者の
みの閲覧が可能となっている。一般人は見る事が出来ない・・・。
戦後の昭和56年に『悪魔の飽食』という本が角川書店から出版されて反響を呼んだが、捏造写真が多数含まれている
として、昭和58年『新版悪魔の飽食』として再出版された。(著者 森村誠一)
帝銀事件などで731部隊の存在が噂される事はあったが、本著以降、国内で広く731部隊の存在が認識されるターニン
グポイントとなった。この作品を元にした混声合唱組曲(池辺晋一郎作曲)・劇も作られ、劇を元に中国で映画が制作
された「黒い太陽731」YouTube※映画は想像で描かれた部分が多数あり、全て事実では無いが大筋あっていると思う
南方戦跡の慰霊碑を見てきたが、何処も隊や政府や個人が個別に建ててバラバラ・・・結局、日本人の敵は日本人?
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▲川島 清は731部隊第四部細菌製造部長で、敗戦時、逃げ遅れてソ連の捕虜になった人だ。
そして、細菌戦に関わった12名の関係者が、ソ連のハバロフスクで裁判にかけられて証言した人物の事を言っている。
萩原英夫は元憲兵で、731部隊本部建築に携わった鈴木組の一員として本部の建設工事に加わった経緯がある。
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▼731部隊長 石井四郎軍医中将(何故か写真が逆だ・・・服のボタンのかけ方が逆になっている・・・)
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▼よく見かける写真はこちら。立派な陳列館なのに・・・このへんが中国と言ってしまえばそれまでだが・・・。
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人体実験や細菌兵器開発で有名な石井四郎軍医中将だが、防疫給水でも成果を挙げ、防疫給水部は衛生部隊として、日
本初となる感状授与の栄誉を受け、金鵄勲章と陸軍技術有功賞を受けた人だ。(防疫給水に関して自作自演の噂もある)
南方戦線の劣悪環境で戦死していった日本兵を想うと、石井部隊は南方戦線で防疫・給水任務で活躍してほしかった。
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昭和17年8月1~昭和20年3月1日までは石井四郎の後任として北野 政次陸軍軍医中将が第2代部隊長を務めている。
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「九・一八」歴史博物館に北野 政次軍医中将が当時使っていた椅子と机が展示されている。DSCN9991_convert_20170613103532.jpg
昭和20年4月~支那派遣軍(上海)第13軍軍医部長となる。8月、終戦に伴い上海で捕虜となり、刑務所に拘留される。
昭和21年1月9日捕虜を解放されて上海から千葉県へ帰国。
昭和34年日本ブラッドバンク取蹄役、東京プラント長に就任。10月、石井四郎の死去に伴い葬儀委員長を務める。
昭和61年死去。享年91歳。
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(「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」に話を戻します)
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資料が少ないと言われているが、結構沢山写真が残っているもんだ・・・。
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1938年(昭和13年)末頃、731部隊が満州国賓江省双城縣平房の地点に大工事の入札を行った。
松村組が落札し、本部の建設は1939年(昭和14年)に着手、翌年完成した。そして1940年(昭和15年)に部隊員が移動
して来ている。731部隊の施設は、新京(現在長春)にあった関東軍司令部が直接監督し、工務関係部署の念入りな設計
と、日本特殊工業・大林組他、軍の御用業者の手による施工で完成した。
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▲このフロアは、足元のガラスの下が巨大な731部隊本部を再現した模型ジオラマとなっている。
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▲後で見学する事になるが、①②は現存している。③は731部隊が爆破して帰国しているので跡しか残っていない。
③はロ号棟と呼ばれた生体実験を繰り返したとされる収容所。内側の2棟は7号牢獄と8号牢獄という特設監獄だった。
この写真は、全体の写真を撮っていると、中国人見学者が私に「ここが重要だ、ここを撮れ」と中国語で一生懸命話か
けてきた。一目見て私が日本人だと解ったのであろう・・・キツイ言い方では無かったが、中国語でも何となく言いた
い事は理解出来た・・・「解ってますよ。」と日本語で返事をすると、多少柔らかい表情になって去って行った。
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▲地図の緑の部分が「ロ号棟」特設監獄があった場所。爆破処分された為、現在は基礎部分の跡のみが残る。
 青い部分は、今見学している「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」がある場所だ。
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▲完成まもない頃の哈爾浜731部隊本部の空撮。写真右方向が北だ。下に飛行場格納庫が写っている。
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特設監獄の造りは非常に頑丈で、ソ連参戦の日、1945年8月9日に部隊は特設監獄の破壊を決定したが、通常のダイナ
マイトでは壊れなかった為、トラックで大量の500キロ爆弾を運び込み、それでやっと破壊して証拠隠滅が行われた。
これらの作業は、監獄の存在を秘密にしておく為、部隊敷地内の工兵隊にも頼まず、その存在を知っている部隊員だけ
に密かに行わせたという。
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憲兵隊や特務機関に捕らえられ「どのみち殺される」存在とされていた囚人達は、「どうせ死ぬのなら、お国の為に役
立って死ね」という論理により、人体実験や生体解剖による殺害が正当化されていたとされている。
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▼少年兵の様に見える。貧しい家庭が多かった内地の少年だろうか。甘い誘いと徴兵義務で極寒の地に来たのか・・・
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▲2月か・・・哈爾浜の2月は極寒だろう・・・4ヵ月位しか暖かい季節は無いから部隊員も大変だったであろう。
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▲▼女性が写っているのには驚いた。彼女達も当然人体実験の噂ぐらいは知っていただろう。
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※[ 証言 ]七三一石井部隊 今、初めて明かす女子隊員の記録 という本があるらしい。機会がれば読んでみたい。
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何でこんな物が哈爾浜の731部隊跡に沢山残っているんだろう。ソ連と戦わず逃げて帰ったのに・・持って帰れよ・・。
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あまりこういう勲章の様な物には興味が無いが、本物か?これ・・・。
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「どのみち殺される」者の利用は、強制収容所のユダヤ人・ロマの人々やポーランド人を実験に利用したナチスドイツ
と構造的に共通している。社会主義者や共産主義者に対する差別思想は、当時日本本土でも「アカ」とされた人々が拷
問や虐殺に遭った時代・・・「硫黄島からの手紙」の映画でも「アカ」という言葉は聞いた事がある。
それが外地(中国)の筋金入りの「アカ」に対しては、残虐に扱う事への抵抗が少なかったのかもしれない・・・。
特に捕らえられても毅然として拷問に屈しないソ連のスパイや八路軍兵士には、なおさら恐怖と憎悪の念を募らせたは
ずだ・・・今では考えられない思考回路になっていた日本人が多かったのも事実だ・・・。
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▼満州国には哈爾浜の本部を合わせて6ヵ所も支部があったという事か・・・。
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▼孫呉(そんご)支部(満州第673部隊)
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▼牡丹江(ぼたんこう)支部(満州第643部隊)
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▼林口(りんこう)支部(満州第162部隊)
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▼大連(だいれん)支部(満州第319部隊)大連にもあったんだ・・・施設はまだ残っているのかな・・・?
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あとは、海拉爾(ハイラル)支部(満州第543部隊)か・・・(写真撮り忘れ)
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やっと1階フロアを見学し終え、エスカレーターで2階へ上がってきた。
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「九・一八」歴史博物館も此処も、とにかく大きい。陳列館だけの広さはトヨタ博物館並みだ・・・遊就館の比で無い。
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▲PART3「人体実験」のフロアだ・・・。
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頭の良い医学者達がこの顕微鏡を使い、罪悪感を胸にしまい込んで日々一生懸命研究していたんだ・・・
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▼長春にあったと書いてある・・・新京にあった第100部隊の物か・・・。
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旧日本軍の医療品関係品は見た事が無かった。南方戦跡の博物館で程度の良い物はあまり見かけない・・・。
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アルミでしっかり作られている・・・医療関連品は兵器以上に丁寧な作りの様な気がした。
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マウスを使った実験の事か・・・。
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動物実験で留めておけば良かったが・・・とことんいってしまうんだろうな・・・結果が欲しくて。
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▼現存する「鼠飼育小屋」
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小屋の中もしっかり当時のまま残っている。動物実験に関しての建物は爆破処分されずに残った様だ。
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▼地図上の赤矢印の黒部分辺りに「鼠飼育小屋」は現存する(青部分が今居る「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」)
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▼このフロアは床が全面「鼠飼育小屋」になっている・・・凄い演出だ・・・。
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色々な道具が残っている・・・。
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▼現存する鼠飼育小屋の他にもこんなにあったんだ・・・広大な敷地だから恐らく沢山色々な施設があったのだろう。
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▼▲この古写真の施設は現存していない。
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田中班班長 田中英雄や動物飼養班班長 石井三男・ 植物菌研究だった八木沢班班長 八木沢行正が紹介されている
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石井四郎が戦犯免責と引き換えに米軍に渡した研究データ。この膨大な資料が引き伸ばされて展示されている。
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アメリカに引き渡されたデータは約80%と言われているが・・・言葉が無い・・・。
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TOP SECRETと書かれた全ての資料は旧日本軍石井部隊の研究結果だ・・・。
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敗戦を知った時、何故此処で自決出来なかったのか・・・戦地では大勢の日本兵や幹部が自決しているというのに。
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百歩譲ってこの人体実験が「お国の為」ならば、全て証拠隠滅して自決するのも「お国の為」ではないのか・・・。
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今こうやって哈爾浜の地で「日本の恥」が全世界の人に晒されている・・・嘘だと思いたいが、そうでもなさそうだ
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また目を覆いたくなるようなセットが作られている・・・。
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ロ号棟の中での解剖実験室のジオラマだ・・・。
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731部隊員の多くは戦後医学界に復帰しているが、この研究成果が現代の医療に生かされているとは思えない。
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いや、思いたくない・・・。
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岡本班班長 病理研究だった岡本耕造・石川太刀雄丸・(もう1人は読み方解らず)は解剖技師だったと書いてある。
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▲死体焼却炉のレンガの残骸か・・・古写真の半壊した焼却炉は現存しない。
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▲▼この写真は「九・一八」歴史博物館に展示してあった731部隊を紹介するジオラマ。
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▲▼「九・一八」歴史博物館に展示するよりここに展示した方がいいのではないだろうか・・・。
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(侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館に話を戻します)
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人体野外実験か・・・。当時731部隊本部から北西へ約260キロ離れた場所に、731部隊専用の特設野外実験場だった
「安達(アンダー)野外実験場」があったという。
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▲元731部隊航空班の隊員だった松本正一という人の証言記録映像が流れていた・・・。
松本正一さんは埼玉県出身、19歳で仙台の陸軍飛行学校入校、8ヵ月の訓練後、熊谷飛行学校で半年間戦闘機乗りの実
用訓練を受けたパイロットだ。731部隊航空班の軍属として着任、26歳で終戦を迎えるまでの7年間731部隊航空班の
パイロットとして働いた。給料は当時の20歳前後の若者の2倍だったという。
松本によると、満州の細菌戦部隊の中で航空機を持っていたのは731部隊だけだったという。
731部隊航空班が所有していたのは88式2型(2人乗り偵察爆撃機)・91式(1人乗り戦闘機)・94式偵察機・97式軽爆磯
輸送用に使われていた重爆機などのかなり旧式の低性能機だった。
▼赤矢印の部分が飛行場だったが現在は残っていない。(青い部分が今居る「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」)
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つまり、731部隊が細菌兵器の研究・開発の総元締めであったと同時に、実戦部隊であった事を物語っている。
航空機による細菌作戦の実験と実戦以外にも、航空班の仕事があった。それは本土からネズミを輸送する事だった。
埼玉県春日部市では、1万軒にも上る農家が副業としてネズミを飼育していた。
松本は「731部隊本部から重爆撃機を操縦して春日部へネズミをとりに行った。大きい箱には約300匹、小さい箱には
約200匹入り、1回で約3000匹を運び、731部隊他、南京・シンガポール・ジャワへも輸送した」と証言している。
特設実験場だった「安達実験場」の上空から捕虜達の上に腸チフス菌を詰めた陶器製爆弾(宇治式爆弾)を1度投下した
事があると証言している。勤務中に菌液が機内に充満する事故で、同期生の鈴木さんが亡くなったそうだ。
石井隊長専用機の操縦担当だった、航空班班長で細菌戦実戦パイロットの増田美保少佐が平房を離れられない時は、
松本が石井隊長を乗せて東京へ飛ぶ事があった。その時は立川の飛行場へ降りることが多かったという。
敗戦直前の731部隊施設の爆破隠蔽工作に携わった後、松本は飛行機で平壌へ。後、帰国したとの事。
※増田美保少佐(薬剤将校)は航空班々長。細菌戦部隊のパイロットで、石井部隊長の親戚。戦後防衛大学校教官。
※宇治式爆弾とは石井四郎が開発した陶器製爆弾の事で、ウジ弾と呼ばれていた。
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▼このフロアは野外実験場のジオラマだ・・・。
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十字架に捕虜(マルタと呼ばれていた)をくくりつけて空から細菌爆弾を投下したって事か・・・。
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色々残っている様だが、何に使った物なのか良く解らなかった・・・。
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▼▲731部隊航空班で開発したという菌液雨下装置の圧搾空気のボンベか・・・?
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「凍傷実験」か・・・吉村班の事だな。
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毎年酷寒(零下20度以下)の1年中で一番寒い月(11月・12月・1月・2月)に部隊内で行われていたとされる凍傷実験。
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この研究は、将来再び起こるであろう対ソ戦を目的として行われていたという。
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▲凍傷研究の責任者だった吉村寿人(よしむら ひさと)班長と、越 定男部隊員(運輸班)が紹介されている。
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吉村班長は、生理学者として師である正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)より731部隊に赴任
するよう命じられ、凍傷研究に従事した。吉村の731部隊における研究について、かつての部下らによるハバロフスク
裁判での証言やイギリスの取材陣らが収集した証拠資料と証言資料では、人体実験での貴重な「研究」とされる。
戦後、731部隊の人体実験のデータと推定されるものを用いて日本生理学会に論文を多数発表する。
京都大学に戻り、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後
京都府立医科大学の教授となり、学長も務めた。
1978年(昭和53年)「環境適応学」の先駆的業績を果たした功績に勲三等旭日章が授与された。(ウィキペディアより)
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▲吉村班の冷凍実験室は朽ち果てながらも辛うじて現存していた(地図上4の茶色で囲っている部分)
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嫌々ながら送り込まれた吉村班長のような研究者にとっても、731部隊の研究施設は、研究費・設備・研究資材等、
どの点においても夢の様に贅沢な場所だった。731部隊は当時のお金で年間1千万円(現在の貨幣価値の約90億円)も
の莫大な経費を使っており、半分の500万円が研究事業費だった(残り半分の500万円は人件費)。
国家総動員体制が敷かれていた日本において石井部隊は、自分の研究テーマに制約なく研究に没頭できる「理想的」な
環境にあったという。石井部隊長は出身大学である京都大学医学部の教授達の協力を取り付けていた。
京大だけでなく、東京大学医学部・東京大学伝染病研究所・大阪大学・慶応義塾大学・東北大学・熊本医科大学・北海
道大学・金沢医科大学などの教授達を、陸軍軍医学校防疫研究室の「嘱託」にし、石井部隊長はこれらの教授達を通し
て優秀な弟子を石井部隊へ派遣してもらい、研究者を確保していた。
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▲軍馬もガスマスクをしている・・・生々しいジオラマだ・・・。
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▲毒ガス実験のジオラマか・・・ロシア人親子と書いてある・・・。
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▲右上の毒ガス貯蔵庫は現存している。
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毒ガス貯蔵庫を見学しながら「大久野島」を思い出していた・・・。
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▲大量の旧日本軍ガスマスクの展示
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千羽鶴が見えた・・・あえて写真は撮らなかったが、元隊員達が送った物なのか・・・。
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▲逮捕された者達はこのダッジ(Dodge)の特別トラックで哈爾浜駅から731部隊本部まで連れてこられた。
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元731部隊運輸班だった越 定男元隊員が証言している。戦後「日の丸は紅い泪に」という告白記を出した人だ・・・
昭和58年に本を出した後、相当な嫌がらせを受けたらしい・・・うぅ・・・難しい話だな・・・。
この特別トラック(4.5トン車)の荷台にはトイレも完備されていたと越 定男元隊員は証言している。
他、731部隊本部に隣接していた専用飛行場には、友軍機と言えども着陸を許されず、東京からの客は新京(現・長春)
の飛行場から平房までは汽車だった。しかし、視察に来た東条首相らの飛行機は専用飛行場に降りたのを見たという。
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しかし、本物かな・・・これ。朽ち果てて残されていた本物をレストアしたのだろうか・・・?
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旧日本軍の使ったダッジトラックのバンを初めて見た。不謹慎だがカッコいいと思った・・・これ欲しい・・・!
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日本最大と言われる石川県にある日本自動車博物館にも行った事があるが、流石にこれは無かったな・・・。
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▲参考画像。少し新しいが1947年式ダッジトラック(Dodge truck)。この荷台部分をバンに改造したのだろう。
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▲▼新京(現在の長春)にあった関東軍司令部と関東憲兵隊司令部が紹介されている。(今も建物は現存する)
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当時731部隊本部に連れてこられた囚人(捕虜)達は新京から連れて来られた人が多かったと言う。近いからか・・・。
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▲元731部隊員達の証言映像が流されている・・・下の黒電話は当時使われていた物か!?内地でも高級品のはず。
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「特設監獄」
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▲731部隊特別班の班長だった石井剛男班長は石井四郎部隊長の実弟で石井兄弟の次男。
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▼ロの字の内側にある2棟が7号牢獄と8号牢獄と呼ばれた特設監獄だった。
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▲当時のロ号棟を上空から撮影した物。終戦直前に跡形も無く爆破処分された。
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▲特設監獄の模型
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▲特設監獄の鍵か・・・。
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▲石井剛男班長の下で、特別班の囚人の健康診断をする部門に勤務していた石橋直方部隊員が紹介されていた。
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▲石橋直方 元部隊員がスケッチしたロ号棟と特設監獄7号牢獄と8号牢獄。
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「牡丹江事件」
1941年(昭和16年)敬蘭芝(けいらんし)さんが、夫の朱之盈(しゅしえい)さんと共に憲兵隊に捕まり、拷問の末に敬蘭芝
さんは釈放されたが、夫はそのまま「特移扱」となって731部隊に送られ、帰らぬ人となった。
「大連黒石礁事件」
1943年(昭和18年)王亦兵(おうえきへい)さんの父、王耀軒さんと叔父の王学年が憲兵隊に捕まり、拷問の末「特移扱」
となって731部隊に送られ、帰らぬ人となった。
などが紹介されている。
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昭和47年(1972年)田中角栄が命を懸けて訪中した際に「一切の賠償をお互いに求めない」という、対日賠償請求権の
放棄を約束してくれた周恩来首相。日中国交正常化が成された日中共同宣言を思い出した・・・。
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やっとPART3まで見終えた・・・しかしまだPART4もあるようだ・・・何という広さと量だ・・・。
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わぁ・・・風船爆弾だ・・・。
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▲細菌陶器爆弾の破片。日本にあった物と書いてある・・・。「大久野島」か・・・?
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▲▼細菌陶器爆弾だ・・・本物か?レプリカか?いや、本物っぽいな・・・。
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▲▼「九・一八」歴史博物館に展示してあった細菌陶器爆弾。こっちがレプリカだな・・・。
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▲「八八式炸弾延期引」と書いてる・・・何だろう?
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▲▼細菌陶器爆弾の図面か・・・。
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▲731部隊と直接関係あるのか無いのか「ふ号作戦」で使用された風船爆弾の紹介だ・・・。
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風船爆弾の爆弾も細菌爆弾だったからな・・・。実際1個アメリカに到達して被害を与えている事実がある。
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▲日本本土で風船爆弾を作る動員学徒の女学生の古写真。恐らく「大久野島」で撮影された写真だろう。
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▲川島 清軍医少将は731部隊第四部細菌製造部長で、ハバロフスク裁判にかけられて証言した1人だ。
 太田 澄は南京の第1644部隊(栄一六四四部隊)3代目隊長で、731部隊第二部長。細菌戦を指揮したとされる。
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▲「田村良雄が哈爾浜で使い方を説明」と書いてある・・・元731部隊少年兵だった篠塚良雄元隊員の事だ・・・。
この方の経歴を書くと長くなるのでウイキペディアを参考にして頂きたい。通化事件(つうかじけん)など奥が深い。
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▲名盤には「アクメ乾熱滅菌器 株式会社島津製作所」と書かれている・・島津製作所って戦時中からあるんだ・・。
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在日本国内と書いているから、終戦後本土から没収された物だろう・・・。
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▼「PART5」どこまであるのか・・・。
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▼▲何のジオラマだこれ?「Submision of the letter written in blood」と書かれている・・・。
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「血で書かれた手紙の提出」??
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昭和14年のノモンハン事件の事だ・・・。
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またジオラマだ・・・738高地と書いてある。
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ノモンハン事件で石井部隊が細菌戦を行ったと書いてある。
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出動部隊の給水支援を行う事となり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個他を編成して現地へ派遣。
当時部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。
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最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。
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その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった関東軍 荻洲立兵中将から衛生部隊としては日本初と
なる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。
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空から細菌を撒いたんだ・・・。
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原爆もそうだけど、殺し合いは結局とことんまでいってしまうのね・・・はぁ~・・・(呆)
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▲陸軍一式双発輸送機か?ロ式輸送機?のエンジンをかけている・・・場所は哈爾浜731部隊本部か?
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▲(参考画像)陸軍一式輸送機
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▲元731部隊航空班だった松本正一元隊員。
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▲満州国は、ソ連参戦まで本土と比べ、比較的食糧事情は良かった様で、ふっくらした隊員もいる。
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▼「PART6」やっと最後の展示まで来た。
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昭和20年8月9日ソ連参戦で731部隊は特設監獄の破壊を決定。8月12日その存在を知っている部隊員だけで破壊工作
証拠隠滅が行われた。
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破壊されたロ号棟跡のジオラマだ。
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ロ号棟に監禁されていた囚人(マルタ)は昭和20年8月10日の朝食に毒を混ぜて殺害。それでも死ななかった者には容赦
なく機関銃が向けられ、全員殺害された。ロ号棟中庭に穴を掘り、死体はそこに埋められた。
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▼残された残骸などが無造作に展示されている。
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▼▲HIGH PRESSURE STEAM STERILIZATION TANKと書かれている。高圧蒸気滅菌タンクの残骸だ・・・。
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▼残された新聞の欠片だろう・・・高島屋のロゴが確認出来る。
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▲私はかなり時間をかけて見学していたので、見学者の合間を狙って撮影していたが、実際は、写真に写っている様な
状態で、かなりの見学者数だった。修学旅行と思われる学生団体にも遭遇し、涙ぐむ女性生徒も多く見かけた。
しかし、中国人は皆、展示に見入る事は少なく、素早くあっさり見学してる感じだった。
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施設を破壊した後、8月14日731部隊員やその家族は、敷地内の引き込み満鉄線特別貨車約40両連結に乗って南下。
8月24日に朝鮮(釜山)から船で島根・山口・長崎などの本土の港に大量の資料や物資と共に帰還している。
(大本営に証拠隠滅写真を提出する為、石井部隊長は大連で爆破後の写真(映像)を現像している。)
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▲731部隊長石井四郎とアメリカ占領軍との研究資料に関する取引の事を言っている・・・。
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▲「障子の向こうで密かに密約が交わされた」みたいな凝った演出で紹介されている。
古写真に写るのはアメリカ軍のマレー·サンダース陸軍中佐でアメリカ合衆国の細菌学者(軍医)。
昭和20年9月アメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ)の命でつくられた科学情報調査団(通称コンプトン調査団)の一員とし
て横浜に上陸。元軍医内藤良一や政治家亀井貫一郎を窓口に、関東軍防疫給水部本部(731部隊)の本格調査に入った。
紹介された関係者を尋問しても、みな実態についてほとんど何も知らないことに業を煮やし、内藤に対し「皆がもし真
実を語るならその秘密を守り戦争犯罪人として訴追しないことを約束する」と述べた。内藤はサンダースと交渉、サン
ダースは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに内藤らの戦犯免責を提言した。
後に人体実験の資料など研究成果の提供を交換条件として、731部隊関係者は戦争犯罪に問われないこととなった。
同年10月に日本での調査を終え帰国、11月1日付で調査報告書(「サンダース・レポート」)をアメリカ国防総省に提
出した。(ウイキペディアより)
※第1次・第2次のレポートは旧731部隊員が証言しなかった為、人体実験の事実が明るみになる事は無かった。
 昭和22年6月20日にペンタゴン宛に出された第3次レーポート(フェルレポート)で人体実験の証言が提出された。
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逃げ遅れた哈爾浜本部以外の支部隊員は昭和20年8月22日武装解除。
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遼寧省瀋陽市と山西省太原市の2カ所で「日本戦犯特別軍事法廷」が開かれた。最高で禁固20年の判決が出た。
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※ソ連のハバロフスク裁判の判決では、死刑判決は無く、最高刑は懲役(強制労働)25年。
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19名が紹介されているが、お名前がわかる範囲は以下の通り。
高橋隆篤 獣医中将。関東軍臨時病馬収容所所長、関東軍獣医部長などの職を務めた。
昭和24年ハバロフスク裁判で強制労働25年の刑に処せられる。昭和27年脳出血のためソ連で死去。

柄沢十三夫 軍医少佐。731部隊第4部細菌製造課課長。ハバロフスク裁判で強制労働20年の刑に処せられる。
昭和31年12月26日釈放帰国と知るも、約1ヶ月前に自決した。

山田乙三 大将。関東軍司令官を務め、8月9日ソ連参戦後、総司令部を新京から通化に撤退させ持久戦を図る。19日ジ
ャリコウヴォのワシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を開始。
その後、関東軍総参謀長秦彦三郎や総参謀副長松村知勝、作戦主任参謀草地貞吾らと共にソ連に抑留され、10年以上
経って日本へ帰国した。

梶塚隆二 軍医中将。陸軍省医務局衛生課長、関東軍軍医部長を務めた。731部隊を監督する立場にあったことから、
昭和24年、ハバロフスク裁判で強制労働25年の刑に処せられる。昭和31年に帰国。

川島清 軍医少将。1934東郷部隊、731部隊第4部長を務めた。ハバロフスク裁判で強制労働25年の刑に処せられる。
川島少将はハバロフスク裁判で「人類に対する日本の犯罪は、徹底的に暴露されるべきだ」と言っている。

平桜今作 獣医中尉。新京第100部隊研究員。細菌・毒物を製造。ハバロフスク裁判で強制労働10年の刑に処せられる。
ハバロフスク裁判で「細菌戦争の責任をもちながら被告席にいない天皇、石井四郎の厳罰を望む」と言っている。

三友一男 獣医軍曹。昭和19年9月まで新京第100部隊所属。昭和23年に逮補され、ハバロフスク軍事裁判で強制労働
15年の刑に処せられる。

齋藤美夫 少将。憲兵隊長春憲兵分隊長、華南日本派遣憲兵隊隊長、満州国陸軍少将、憲兵訓練処処長を歴任。
西俊英 軍医中佐。731部隊教育部長 兼 孫呉支部長を務め、ハバロフスク軍事裁判で強制労働18年の刑に処せられる。
榊原秀夫 林口支部長。満州駐屯第1師団歩兵第57連隊附軍医、関東軍防疫給水部林口支部長を務めた。
小林喜一 分隊長。奉天日本憲兵分隊長などの職を務め、昭和20年8月20日、瀋陽でソ連軍の捕虜となった。
西永彰治 分隊長。 延吉間島日本派遣憲兵長、開封憲兵分隊長などを務めた。
木村光明 分隊長。満州国勃利縣憲兵分隊隊長を務めた。
志村行雄 海拉爾(ハイラル)日本憲兵隊隊長。
堀口正雄 新京憲兵隊惇化憲兵分隊長と錦州憲兵隊中佐隊長を務めた。
上坪鉄一 憲兵隊中佐隊長。鶏寧・東安・四平で職を務めた。昭和20年8月24日ソ連軍によって拘留された。
蜂須賀重雄 旅順で警察を担当、昭和19年奉天鉄道警護上校団長に就任。昭和20年9月28日に逮捕された。
藤田茂 師団長。陸軍騎兵第28連隊大佐連隊長、第43軍第59師団師団長務め、昭和20年8月朝鮮咸興で捕虜となった。
原弘志 満洲国鉄道警護総隊総監部警備科長、鉄路警護軍少将参謀長を務め、昭和20年9月に捕虜となった。

この様に満州に取り残された者や山田乙三大将の様に戦おうとした者も含め、捕らえられた日本軍将兵は、敗戦後の外
地で中国やソ連の裁きを受ける事となる。石井部隊長を筆頭に本土へ逃げ帰った者達は、秘密は墓場まで持っていくべ
きではなかったのか?それが出来ないのであれば現地で自決するか、素直に捕らえられるべきではなかったのか・・・
「嘘つきは泥棒の始まり」と言われるが、満州を泥棒したのであれば、最後まで嘘はつき通すべきではなかったのか?
戦争を知らない世代で、当時を生きていない者が何も言う権利は無いとも思うが、結果この様にほぼ全てが明るみにな
ってしまっている以上、当時、中国に駐屯していた日本軍人の愛国精神を賛美しようと努力しても、所詮ただの人間に
過ぎないと思ってしまうのが悲しいところだ。何の為に多くの日本兵が死んでいったのかと思うと非常に心苦しい。
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戦後証言している元部隊員に何か言える立場でも無いし、証言した気持ちもわかる。
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しかし、どうしても「よく言った」とは思えない・・・。
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軍人も軍属も、軍隊という所は「生半可な気持ちで入る組織では無い」という教訓だろう。自衛隊も含めて・・・。
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この方達は兵役義務時代の人達なので、どこまで本気で軍隊に入ったかは定かでないし、責められる必要も無い。
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細菌戦の被害者のコーナーだ・・・空から投下したペスト菌に感染した現地住民の証言などが紹介されている・・・。
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中国語と英語のみ・・・もう読もうと努力する気力が無かった・・・。
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元隊員の謝罪文が大きく引き伸ばされて展示されている・・・もう何度も見たけどな・・・ちょっと諄い。
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被害者の方達の現在の写真だ・・・。
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日本の原爆資料館を見ている様だ・・・皆、足の症状ばかりだ・・・。
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もう70年以上前だからお年寄りばかりだ・・・日本でも同じだが、証言者がご存命のうちに・・・という事だろう。
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大日本帝国陸軍の化学戦研究機関であった関東軍化学部(満州第516部隊)では、かなりの数の化学兵器を扱っていた。
関東軍防疫給水部(731部隊)と共同で人体実験をしたとされている部隊でもある。
戦時中、大久野島などで大量に生産された化学兵器は中国大陸に持ち込まれ、使用されなかったものが、終戦に伴い、
遺棄された。戦後、中国の開発が進むにつれて、工事現場などから化学兵器が掘り出され、被害者が出る事故も起きて
きた。旧日本軍が遺棄した化学兵器を、中国側が危険を減らす為に人里離れた場所に移した物もあるという。
細菌兵器や化学兵器には数十年経っても毒性を失わない物も多い。
1990年、中国政府は日本政府に対し、遺棄化学兵器の処理を非公式に打診。日本政府は1991年から現地調査を進め、
1995年の化学兵器禁止条約批准の後には、同条約の規定に基づいて、残存する化学兵器の処理を進めた。
1997年の化学兵器禁止条約(CWC)で、日本にはこうした化学兵器を処理する義務が生じた。
遺棄化学兵器は、中国北部の黒龍江省から南部の広東省までの広範囲で、最大の埋設地、吉林省敦化(とんか)市ハルバ
嶺(れい)には、約30~40万発にのぼる旧日本軍の化学兵器が埋設されているものと推定されている。
1999年日中両国政府が覚え書きを交わし、旧日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が条約に従って廃棄を行う事を
確認。その後、発掘調査や安全な処理技術の選定などを経て、2010年から、中国各地で比較的小規模な処理を開始。
条約では原則として10年以内に化学兵器を廃棄する事を求めていて、2007年が期日だったが、老朽化した遺棄化学兵
器の処理はこの期間ではできない為「2022年までの処理完了を目指して最善の努力をする」ということになり、国際
機関の承認を得て、今も内閣府の職員・自衛隊の方達による懸命な作業が続いている。
吉林省敦化市ハルバ嶺以外では2007年2月までに37000発が日本の事業で回収されている。
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という事で、やっと全ての展示資料を見終えた。
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順路には、まだ731部隊に関する資料が展示されている・・・もう終わったのでは?かなり諄い・・・。
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諄い展示物を見ながら順路を進んでいくと外に出れる。
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次は現存する731部隊施設、施設跡の実物だ・・・もうお腹一杯というところだが、最後まで見学して帰ろう。
以上、中国東北部(旧満州)旅行、その5「哈爾浜旅行記②」を終わりとします。
次回は、その6「哈爾浜旅行記③」をお届けします。


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 2017_06_03

哈爾浜①

Category: 中国東北部   Tags: 満州  哈爾浜  

哈爾浜は、黒竜江省の政治・経済の中心で、ここも人口約600万人の大都市である。

1896年(明治29年)ロシアは日清戦争後の日本の遼東半島領有を阻止した報酬として、中東鉄道の敷設権と経営権を
獲得。中東鉄道株式会社を設立。沿線に鉄道付属地を所有する事を清朝から認められ、そこではロシアの行政・司法
権や森林伐採権などが行使された。
1898年(明治31年)ロシア帝国により満洲を横断する東清鉄道建設が着手されると、交通の要衝としてロシア人を初
めとする人口が急激に増加し経済の発展をみるようになった。
1900年(明治33年)義和団事件が勃発し、ロシアは満州を制圧する。清朝は猛反発。
日清戦争以降、清朝は「瓜分」(中国分割)の最大危機にさらされていたが、義和団の乱によって勢いに歯止めがか
けられた。戦闘において圧倒的な強さを示した連合軍(イギリス・アメリカ・オーストリア・イギリス領インド・ドイ
ツ・フランス・ロシア・イタリア・日本)であったが、その後の占領地支配には手を焼き、中国の領土支配の困難さに
嫌でも気づかざるを得なかった。列強のその時の思いは連合軍司令官ヴァルダーゼーの「列強の力を合わせたとして
も、中国人の4分の1でも治めるのは困難であろう」ということばに言い尽くされている。
ただ、例外的に領土支配を目指した国があった。ロシアと日本である。
ロシアの満州占領は日露戦争を導き、さらに辛うじてその勝者となった日本は一層の領土的野心を滾らせ、日中戦争
へと邁進していくようになる。※日露戦争(1904年[明治37年]2月6日~1905年[明治38年]9月5日)

1905年(明治38年)10月31日、清朝は哈爾関道(浜江関道を設置)、翌年5月11日には正式に道署を設置し、駐在。
1907年(明治40年)1月14日、清朝はハルビンを対外交易拠点とすることを決定、吉林将軍及び黒竜江将軍の奏准を
容れ浜江庁を設置、浜江関道の管轄とされ行政権の強化が図られた。
これに対しロシアは同年11月23日中東鉄道管理局が「ハルビン自治公議会章程」を発布、埠頭区(現在の道里区)、
新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定め公議会の管轄とし、清朝に対抗した。
1909年(明治42年)10月26日哈爾浜駅で、日清戦争の立役者で日本の枢密院議長 伊藤博文が安重根に暗殺される。
蒋介石の中華民国が成立すると1913年(大正2年)3月浜江庁は浜江県と改称され、翌年1月31日松北市政局に改編さ
れた。
第一次世界大戦でヨーロッパは、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国とフランス・ロシア帝国
イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね経済は破綻。
1917年(大正6年)「ロシア革命」(簡単に言えばロシア内戦である)2月革命・10月革命
ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に
反乱を起こして労働者側についた。1918年(大正7年)ついにロシア帝国が崩壊。
1918年(大正7年)夏、アメリカはシベリア出兵を決定。アメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれに
合わせて出兵を決定、連合軍はウラジヴォストークに上陸した。
※内政干渉戦争であるシベリア出兵に、一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、
 軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られていた。
連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は
日本やアメリカの軍隊であった。これが日本の「シベリア出兵」である。
同年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い1920年には相次いで撤兵
したが、日本陸軍は単独で駐留を続行した。
日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労
働者・農民から組織された非正規軍のパルチザンと戦闘を繰り返しながら北樺太・沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。
シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。
各国より数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた上、占領地に傀儡国家の建設を画策。
日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われる事になる。
1921年(大正10年)のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。
会議の中で、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。

当時の内閣総理大臣 加藤高明は日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交
上まれにみる失政の歴史である」と評価している。

1922年(大正11年)にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライ
ナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合。ソビエト社会主義共和国連邦が成立。
1926年(昭和元年)3月30日中華民国のハルビン自治臨時委員会が設置され、ロシア人による統治は終焉をむかえる。
1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件
1931年(昭和6年)9月18日、満州事変
1932年(昭和7年)3月、満洲国が建国されると、1933年(昭和8年)7月1日哈爾浜特別市となり、日本の統治が始まる。
ロシア革命後、ソ連も中東鉄道(東清鉄道の後身で、満鉄の前身)の利権を維持したが、1934年(昭和9年)満洲国に譲
渡した。哈爾浜は、満洲地区からロシア・ヨーロッパ方面への鉄道輸送の要衝として発展し、1940年(昭和15年)に
は、人口約60万人に達している。
日本の敗戦で満洲国が崩壊、国共内戦の結果、中国共産党が1946年(昭和21年)4月28日ハルビンの支配権を獲得。
現在に至っている。
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▲▼哈爾浜駅前の風景。中国は何処も大都会に発展している・・・。
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▼駅舎は取り壊しの真っ最中、新しい駅舎へ生まれ変わろうとしていた。新駅舎完成予定日は不明。
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▼駅前には恐らくロシア統治時代の建物であろう建物を見ることが出来た。
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一見して年代物という事が解る。何とか保存してほしいものだ。
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哈爾浜ではヤマトホテル(現 龍門貴賓楼)に宿泊した。
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ロシア統治時代は、中東鉄道賓館と呼ばれ、中東鉄道工程局の副総技師のイグナチウスが総デザインを指揮。
1903年(明治36年)2月に完成したハルビン初の豪華ホテルであった。
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※1918年以後、張学良が司令官として哈爾浜を訪れた際、このホテルに滞在した。
日露戦争が勃発するとロシア軍軍司令部として使用され、終戦後は中東鉄路公司理事会として使用された。
満州事変までは、この場所が中東鉄路の最高権利機関であり、ハルビン市の行政の中心であった。
1935年(昭和10年)ソ連は1.4億円で中東鉄路、及びその一部支線を満州国に譲渡し、中東鉄路公司理事会は解散。
1936年(昭和11年)満鉄により、2度目の大規模な改築が行われ、翌年2月1日に改築作業が完了。
「ハルビンヤマトホテル」と改名され、大連(現大連賓館)・瀋陽(現遼寧賓館)・長春(現春誼賓館)のヤマトホテ
ルと共に南満州鉄道株式会社によって経営された。
日本敗戦後はハルビン軍招待所などとして使用されたが1997年(平成9年)にハルビン鉄路局によって改築作業が行われ、
ハルビン龍門貴賓楼酒店として生まれ変わり、現在に至る。
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▼ヤマトホテルの宿泊部屋から哈爾浜市街の眺め
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▼朝、ヤマトホテルを後にする。
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何度も改修されているので、どの部分がロシア時代で何処が日本時代なのか判別出来ないが、古そうだ。
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▼夜はこんな感じ。
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▼駅側とは反対側に位置する当時の正面入り口
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街を歩くと、ロシア時代が色濃く残る街だという事を感じる(ここまで来ると日本時代跡よりもロシアの方が気が楽だ)
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▼▲これは日本人が建てた物かな・・・哈爾浜は古地図を詳しく調べていないので良く解らない・・・。
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ある意味で中国も大変だ・・・街の基礎が全て他国によって形成され、建物は古くなっていく・・・。
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それをどの様な形で維持していくか、どの様に中国風に変貌させるか、今後ロシア・日本の足跡を残していくのか。
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他国の統治が終わった現在、中国らしさをどの様に演出していくのかは本当に難しいだろう・・・。
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▼当然、近代化された建物も並ぶ。
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日本は狭いのでそんな余裕は無いと思うが、その時代・時代の建物は何とか少しづつでも残して欲しいものだ。
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▼電動オート三輪車のタクシーが列を作っていた。中国はこの様な小型車がなんでも有りが面白い。
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▼斯大林公園(スターリン公園)の近くまで来た。凧あげをしている人を多く見かけた。懐かしい光景だ。
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▲右側のロシア風の建物は、松花江対岸の太陽島へ行くロープウェイ乗り場。
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▼目の前には松花江(しょうかこう)
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松花江南岸沿いの気持ちいい散策路を斯大林公園に向かって歩く。満州国時代は路面電車が走っていたそうだ。
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桜が咲いていた。
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お年寄りが音楽に合わせて踊っていた。何とものどかな風景だ。
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遊覧船を見た時に、ハッとして此処が中国だという事を再認識した。やっと中国風の感じを見た様な気がする。
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▼哈爾浜中心部と太陽島を結ぶ松花江に架かる、日本が建設した鉄道橋「浜州鉄路橋」(手前の黒い方)
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中国のガイドには次の様に書かれている。

元は中東鉄道西部線(浜州線)の第一鉄橋で、中東鉄道沿線では橋脚幅が最大の単線の鉄橋。
当時は「第一松花江大橋」と呼ばれていた。ロシアの橋梁専門家で中東鉄道局橋梁主任技師「リエンドフスキー」が自
ら監督し、技師「アリエクシエルオフ」が建設の責務にあたった。
1900年5月着工。1901年10月開通。鉄橋の長さ949.185メートル。

と・・・。
ウラジオストク→綏芬河(すいふんか)→哈爾浜(ハルビン)と続く東清鉄道は、この鉄橋で松花江を渡り、更にチチハル、
満州里、チタ、そしてモスクワへと続いている。って事は、日本が建設したってのは間違いか・・・?
1900年は明治33年。日露戦争開戦の前だな・・・やはり帝政ロシアが建設した橋という事になる。日本が改修程度を
したという事かもしれない・・・。このへんの歴史は今後詳しく勉強する必要がありそうだ・・・。
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2014年4月10日、100年以上続いた「浜州鉄路橋」は閉鎖。現在は歩行者専用の橋となって活用されている。
奥の白い橋は新たに建設された高速鉄道も走る新しい「松花江特大橋」。
松花江は満州語で「スンガリ・ウラー」と呼ばれ、「天の川」という意味。当時の日本人はスンガリ川と呼んだ。
松花江はやがてアムール川に合流する。冬はマイナス30度近くまで下がる哈爾浜。当然この川も凍る・・・。
凍結時期は歩いて対岸の太陽島まで行けるらしい。
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斯大林公園の中心にある1956年(昭和31年)の大洪水を記憶に留める為に建てられた「防洪記念塔」へ向かう。
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▼「防洪記念塔」最初これを見た時、また抗日の記念塔か?と思ったが違う様でホッとした・・・。
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塔の彫刻はロシア人、その周りを囲う扇状の建造物に中国という組み合わせ。
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1998年にもっとすごい洪水があり、120.89mを記録したということで、その高さには鉄すりの様な物が付いていた。
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近くには青島ビールのビアガーデンが・・・真昼間と言う事と本来の目的地への時間の関係で今回はスルー。
哈爾浜ビール祭りもあるという、ビール好きが多い街でも有名。行きたかった~。
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中央大街に向かう。
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▼ロシア風のお土産店
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お酒・タバコ・戦車の模型まで、色々あって面白い。
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地下ショッピングセンター街もある。これがまた大きい。巨大な地下壕だ(笑)
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▲少し入ったが、確実に迷いそうなので、そこそこで地上に出た。
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▼ロシア風の街並みが今も残る美しいショッピングストリート、中央大街に到着。
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▼1930年頃[ 昭和初期 ](昭和5年頃)の中央大街。当時は道行く人のほとんどがロシア人だった。
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現在も古写真の建物はホテルとして残っている。
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当時は車も走っていた様だが、現在の中央大街は歩行者天国となっている。
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「西洋のパリ」との呼び方にふさわしい、西洋風の建物が並び、通り全体が市の指定建築物になっている。
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哈爾浜は、既にロシアが街を形成していた事もあってか、満州国時代に建てられた日本建築は少ない様だ。
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▲▼道路の石畳はロシア時代当時のままだという。
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▼ここではバーガーキングに立ち寄った。店内も綺麗だし、普通に美味しかった!
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時間も押し迫っていたので道をそれて、聖ソフィア大聖堂に向かう。
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中央大街を外れても何処の通りも大都会だ・・・。
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▼久しぶりに中国風の建物を見た。戦後の建物だろう。
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▼これは日本が建てた物。旧横浜正金銀行哈爾浜支店(1912年「大正元年」完成) 現在は黒龍江省美術館。
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この辺の歴史が良く解らない・・・満州国建国が昭和7年。日露戦争勝利が明治38年。大正元年は明治45年だから、
横浜正金銀行哈爾浜支店はロシア統治時代の真っ最中に建設されている・・・どうなってんの??
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▼そうこうしているうちに聖ソフィア大聖堂に到着!
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これか・・・ロシアって感じだな・・・。
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此処は中国か・・・。
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ヨーロッパにでも来た様な錯覚を覚える・・・。
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1903年3月東清鉄道が開通すると共に、ロシア帝国軍隊は哈爾浜に侵入。1907年帝政ロシア軍兵士の軍用教会として
聖ソフィア大聖堂は創建された。1923年(大正12年)9月27日の再建儀式後、約9年間に渡る拡張工事が行われ、今の姿
になった。現在は教会では無く、哈爾浜市建築芸術館となっている。
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                   白鳩が沢山居る・・・立派な建物だ・・・。
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敷地一帯は大きな広場となっている。
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▼マクドナルドも此処ではこんな感じ。この様に合わせるのは大事ですね~。
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写真を何枚撮っていても飽きないが、次があるので名残惜しいが聖ソフィア大聖堂を後にした。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その4「哈爾浜旅行記①」を終わりとします。
次回は、その5「哈爾浜旅行記②」をお届けします。


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 2017_05_31


今回の中国東北部旅行の1番の目的地、長春は、旧満州国時代に新京と改められ、満州国国都とされた場所である。
此処で祖父母は終戦(敗戦)後の昭和21年9月まで暮らした。祖父は昭和12年から満鉄新京支社勤務(庶務課)だった。
日露戦争でからくも勝利した日本は、長春以南の権益をロシアより獲得すると南満州鉄道株式会社を設立、明治39年
(1906年)に長春駅を建設した。日本が溥儀を皇帝に満州国建国前から、中国東北部は満州と呼ばれ、張作霖が支配し、
その地域に暮らす現地人は、「満人」と呼ばれた。張作霖爆殺事件後、息子の張学良が、長引く内戦状態の国民政府と
共産党の間を取り持ち、蒋介石の国民政府も同意、一丸となって抗日を続けた。

昭和3年(1928年)6月4日、張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)9月18日、満州事変
昭和7年(1932年)3月、満州国建国
張学良は国民党か日本かを選ぶ中で国民党を選び、焦った日本は満州事変を起こし傀儡国家満州を建国。
昭和9年(1934年)3月1日、満洲国皇帝(康徳帝)に溥儀が即位。ここから満洲国の年号は康徳元年となる。
昭和11年(1936年)毛沢東率いる共産党は内戦の停止と抗日統一戦線を提案。しかし蒋介石は態度を硬化させたまま、
満州の軍閥(張学良ら)に共産党を攻めさせようとする。張学良は「日本と戦うべきではないか?」と難色を示す。
西安まで張学良の説得に出向いた蒋介石を張学良が誘拐、共産党員達と蒋介石を説得して抗日共同戦線を張る事になる
昭和12年(1937年)、日中戦争(支那事変)勃発の年に、祖父は日本で南満州鉄道株式会社の入社試験に合格。
昭和17年(1942年)、祖父は花嫁探しの為に一時帰国。祖母とお見合いし、婚約。
昭和18年(1943年)、祖母が満州(新京)へ。新京特別市昌平街の満鉄寮で新婚生活が始まる。
昭和19年(1944年)11月、母が新京満鉄病院で生まれる。
昭和20年(1945年)8月9日、ソ連軍、満州国に進攻開始。
昭和20年(1945年)8月10日、祖母は満鉄からの指示で新京駅に集合。
幼い母を連れ、満鉄で朝鮮(現北朝鮮)鎮南浦(チンナンポ)へ避難。そこで満鉄関係者と共に滞在する。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦(敗戦)。
昭和20年(1945年)8月18日、溥儀が満州国皇帝退位=満州国崩壊。
終戦後、祖父が心配で、朝鮮から満鉄で再び新京へ戻る。新京へ戻る際、日本兵が大勢乗った貨車を見たと言う。
恐らく祖母が見たのは、関東軍将兵ら約60万人が連行され、約6万人が強制労働などで死亡した「シベリア抑留者」だ
ったのだろう。関東軍参謀本部、陸軍中佐瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)は戦後11年間シベリアに抑留されたが、その
瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる「シベリア抑留密約説」だ。
瀬島氏は終戦直後の昭和20年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。
この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである・・・。
瀬島 龍三に関してはWikipediaから抜粋だが、「知っておきたい人物」で紹介しているのでご覧頂ければと思う。

再び新京へ戻った祖父と母は祖父と再会。新京で1年暮らす。(ソ連兵の強姦から身を守る為、髪は男の様に短くした)
しかし、哈爾浜などに比べて新京はソ連兵が少なく、意外と平和だった様だ。八路軍(共産党)やソ連兵の活発な時も
あったが、中央軍とアメリカ兵が市街地に入って来てからはとりあえず秩序は取り戻しつつあった。
昭和21年(1946年)9月初旬、祖父母と母の3人は、新京→釜山港→博多港の順で無事帰国する事が出来た。
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▲満州国時代の新京駅(明治40年撮影)
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▲現在の長春駅(当時の面影は全く無い)
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▲宿泊した長春駅前のホテルから撮影。駅前広場はもう何年も工事中との事。
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▲当時の新京駅前の風景
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▲▼同じ場所かどうかは分からないが、現在の駅前付近。
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在満日本人一般市民の人口は、昭和5年に23万人を越え、昭和15年には100万人になっていた。日本軍に加え、日本の
大手企業の職員や、官僚、そして民衆達も夢を託して満州に渡った。私の祖父もその中の1人だった。
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▲新京駅前にあった当時の満鉄新京支社(ここで祖父は働いていた)
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▲同じ場所にはほぼ当時のままの姿で建物があった・・・これは感激した。5階部分が増築されている事が解る。
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▲「長春鉄路〇事〇」と書かれているので、現在も鉄道関係の会社が使っている様だ。
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▲旧満鉄新京支社入口前にあった地下への入り口。当時から地下ショッピングセンターでもあったのかな?
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▲此処で祖父は働いていたんだ・・・もう亡くなって何十年も経つが、今、孫の私がその地に来ている・・・感動だ。
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▲新京ヤマトホテル。ここも何度も改修されているが、当時の面影が残っている。
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▲夜の姿はライトアップされてとても綺麗。
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▲旧満鉄新京支社から長春駅を見る。この道を祖父は通勤したのだろうか・・・当時「中央通」と呼ばれた
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▲当時の中央通を描いた絵ハガキ
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▼もうこれは取り壊しが決定しているのかな・・・明らかに古い日本時代の建物だ。
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昭和7年満州国建国だから、満州国が続いたのはたった約9年・・・1番新しくても72年前の建物だからね・・・。
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▲赤煉瓦造りのちょっと古めかしい建物は日本時代の物と思って良いだろう。
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いいですね~こんな街、日本の何処かで復刻しないかな・・・。
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▼中央通を歩いていると当時郵便局だった場所にそれらしい建物が残っていた。
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どうやら此処も改修中の様だ。
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▼当時の郵便局(長春では最初に帝国にとって最も重要な建物である警察本署と郵便局を建てた)
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新京の町づくりは日本本土の問題をすべて解決し、満州国国都として、他ならぬ文明を進めるモデルとなった。
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当時の古写真によく似た場所があった。恐らく同じ場所だろう・・・祖父母も当然此処を歩いただろう。
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新京は、日本が蓄積してきた都市計画の理念と社会資本整備の技術を一気に投入して建設されたという。
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▲郵便局の向かいは古地図では警察署だが、今は良く解らないゴーストビルが建設途中?だった。
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▲中央通から郵便局を左折し、旧吉野町を通って、次の目的である母が生まれた満鉄病院を目指す。
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▲この辺りは「新京銀座」と呼ばれた新京1の繁華街で吉野町と呼ばれていた。
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▼昭和53年(1978年)頃の吉野町。まだまだ日本時代がしっかり残っている。というよりそのままだ。
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20年前なら、もっと多くの日本時代の建物が残っていたという。
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しかし長春は明らかに私を見る中国人の視線は冷たい・・・観光地でも無いのに「何しに来た!?」的な顔で見られる
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絶賛取り壊し中の日本時代の建物。
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建物自体の低さと赤煉瓦で、当時物と現代物との見分けが直ぐつく。
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現在に至っても日本時代の建物に住んでいる方達は恐らく貧困層なので、撮影の際は細心の注意を払わないと怖い。
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上海・鄭州・大連・瀋陽・長春と訪問したが、明らかに長春は何か雰囲気が違う・・・ブラブラしている人も多い。
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暇な人ほど政治的な事を言い始めることが多いので、街の人と話した訳では無いが、この雰囲気も納得出来た。
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でも、何かいいな~。昔の日本人が建てた西洋と和がミックスされた独特の建物・・・。DSCN0261_convert_20170521114118.jpg
▼この建物も恐らく最上階部分は増築だろう・・・。
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▼当時学校があった場所にはほとんどが(建物は建て替えられているが)そのまま学校だ。
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▲此処は古地図では室町小学校・家政女学校・公学校となっている広い敷地だ。
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▲何て書いてあるのか読めないが、「教師」っぽい字が書いてあるので、現在は教員を育てる学校の様だ。
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▲そうしているうちに、当時満鉄病院だった場所に到着。建物は全て建て替えられているが、現在も病院だ。
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ここで母が生まれたのか・・・感激だ。しばし病院を眺めていた・・・敗戦後、満州引き揚げ者の多くが命を落とした。
祖母の話では、当時赤ん坊だった母を抱えての日本への引き揚げは、想像を絶する悪条件での帰路だったという。
もし、祖父母と母が、帰国途中に、満州や朝鮮で命を落としていたら、今の私は存在しない・・・。
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▲これは当時の建物っぽいが良く解らない・・・。
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▲当時の満鉄病院
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旧満鉄病院付近にも当時の建物は多少残っていた。
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▲煙突から煙が出ていたので、現役で中国人住居として使用されている様だ。
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長春は見た目的には大都会に変貌しつつある様に見えるが、街の人や車を見ても裕福な人が多いとは言えない・・・
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恐らく70年以上、ほぼそのまま住んでいるのだろう・・・崩壊寸前の住居が多い・・・。
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これ以上日本時代の住居を追い求めるととんでもない事に巻き込まれそうなのでこのへんで撮影を止めた・・・
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でも、中国人は根は優しい人が多いんだけどな・・・「中国残留孤児」。見捨てられた日本人の子を育ててくれた。
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▲「抗日」「反日」の中国で、日本車を愛用してくれている中国人も沢山居る。有難い事だ・・・。
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中央通に戻ってきた。当時西公園と呼ばれた場所が正面に見える。現在も公園の様だ、観覧車が見える。
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▲当時の西公園正門を描いた絵ハガキ(昭和13年児玉源太郎大将の銅像設置後、児玉公園と名称変更された)
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▲西公園前の巨大な交差点。
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当時の西公園。冬はスケートリンクも営業していた様だ。寒さで池の水が氷るのだろう。
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▼建物は近代化されても区画や道幅は当時のまま発展させている。
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▼中央通を更に南下していく。
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▼歩道からの景色を絵に描いている人が居た。上手だった~。
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しばらく歩くと写真などで見た事のある特徴ある建物が見えた。
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旧関東軍司令部だ。しっかりそのまま残っている。
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▼当時の関東軍司令部(名古屋城をモデルにしたと言われている)
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祖母から聞いている関東軍の話は悪い話が多い。昭和20年8月9日のソ連侵攻後、居住民(日本人)を見捨てて真っ先に
朝鮮方面に南下、新京関東軍司令部をはじめ、軍の施設を放棄し、さっさと逃げて行ったという。
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▲これは旧関東憲兵隊司令部(関東局)
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▲当時の関東憲兵隊司令部
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▲この建物は旧大興ビル。
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▲当時の大興ビル。当時と比べるとこのビルも5階6階部分が建て増しされている事がわかる。
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▲長春市第5中学となっている所は当時、長春市新京白菊小学校。
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▲長春市第5中学付近の大きな交差点
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▼▲これは長春市第5中学付近にあった公衆便所
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▼今もひっそり残る東本願寺満洲別院(敷地全体が工事中の為、敷地内に入っての見学は出来なかった)
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▼外から見るとこんな感じなので東本願寺全容を伺い知る事は出来ない。
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このあたりも一筋奥に入ると日本時代の住居がちょこちょこ残っている。
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しかし、ほんとんど面影は無いと言ってもいいかな・・・とにかく車の量が多過ぎる・・・。
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新京の南西郊外の孟家屯(もうかとん)には陸軍100部隊(関東軍軍馬防疫廠)があった。
100部隊は軍用動物の衛生管理・研究などを目的とした部隊(約700名)で、組織上は関東軍に属していた。
終戦時の部隊長であった若松有次郎の名を冠して、若松部隊と呼ばれることもある。
軍馬に代表される軍用動物の衛生管理を任務とし、動物の感染症研究や血清の製造、軍馬移動時の検疫作業などを行っ
ていた。補充馬廠などで軍用動物の衛生管理を行う兵員の教育機関としての役割もあった。
更に、防疫対策のみならず、敵国の軍用動物や家畜を標的とした攻撃用の生物兵器(細菌兵器)の開発をも進めていたと
も言われる。攻撃用の研究かは不明だが、日中戦争が勃発した昭和12年には所属の軍人・軍属の一部が軍用細菌の試験
研究も行っていたという。対人用の生物兵器研究機関だったと言われる哈爾浜郊外の関東軍防疫給水部本部(731部隊)
とは、密接な協力体制にあったという。
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この先は当時「皇居」建設予定地だった所。現在は公園だそうだ。本気で皇居を東京から移す予定だった様だ。
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この辺りはもう近代化されて、日本時代の建物は見かけない
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時期的には春になりつつあるが、気温は15度くらいで肌寒い。
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真冬はマイナス30度以上。平均気温も5度程度だからスクーターは辛いね・・・でも電気スクーターは沢山走ってる。
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日本人が夢を描いて移り住んだ新天地と言うが、私はあまりピンとこない土地だな・・・寒過ぎる・・・。
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▲これは日本時代の建物を外観だけ綺麗に手直ししてあるな・・・当時物の煙突が建物中央を突き抜けている。DSCN0382_convert_20170522124559.jpg
▼しばらく歩くと当時「興安橋」と呼ばれた短い橋が見えた、当時のままだそうだ。DSCN0385_convert_20170522124637.jpg

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▼橋の下は鉄道が走っている。右側の線路は新設の高速鉄道。左側(貨物列車)は当時のままの満鉄線だ。
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それにしても長~い貨物列車だ・・・なかなか通り過ぎないので、永遠に続くかと思った・・・アメリカなみだね。
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▼「興安橋」を渡り終えて振り返って撮影。
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祖母は楽しい思い出として、「興安橋」を渡り、新京競馬場へアルバイトに行った事があると私に話してくれていた。
ソ連参戦、日本敗戦で新京で起こった混乱の中、命を落とした日本人の「日本人埋葬場所」となった「新京競馬場」。
そして、「新京競馬場」は今どうなっているのか?と更に南下した事が裏目に出てしまった・・・。
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▲「興安橋」を過ぎて更に南下したが、新京競馬場らしき場所が見当たらない・・・DSCN0395_convert_20170524115823.jpg
▲これも日本時代の建物っぽいな~。と撮影していると、警察車両が来て話しかけてきた。
当然、中国語での会話は噛み合うはずも無く、近くの警察署で事情徴収される事になってしまった・・・。
どうやらこの辺りに軍の航空大学があるらしく、付近の住民からの通報で見回りに来たとの事。怪しい日本人と思われ
てしまった様だ・・・。別に悪い事をした認識は無かったが、日本時代の古い地図を頼りに散策していたので、その様
な施設周辺に来ていた事に気ずかなかった。「あなたが撮影して歩いている場所は軍の関係施設ですよ、気をつけなさ
い。」と少々説教された。通訳を呼んでくれていたので疑いも晴れ、少々長い拘束時間となったが昼時だったので食事
も頂いた。最後は警察署長と思われる美しい女性が「Welcome to China」と、笑顔でパスポートを返してくれた。
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▲「皆で記念写真を」と頼んだが、断られてたので建物だけの撮影となった。知らなかったとはいえ、何処の国でも軍
関係の施設は神経を尖らせる場所。長春の警察署の皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした、以後気を
つけます。真摯な対応、有難うございました。(残念ながらこのブログは中国では閲覧出来ないんだけどね・・・)
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気を取り直して、祖父母が暮らした満鉄寮に向かう。
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祖母からうる覚えの住所を聞いていた、「新京特別市昌平街」と・・・。
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古そうな赤煉瓦塀だな・・・と思い古地図を見ると、その敷地は当時「桜木小学校」となっている。昌平街は近い!
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▼当時の「桜木小学校」は現在、長春市第二中学校となっている。やはり学校跡は今も学校だ。
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これは当時の校舎では無いだろう・・・中国の建物は何もかもがBIGだ・・・中学校といえど立派な建物だ。
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しばらく歩くと昌平街だった辺りだ。
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この辺りだ、見つけた!現在も昌平街だ!!感動!
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祖母の話では自分達の住んでいた満鉄寮(満鉄社宅)の道挟んで前は、軍の官舎だったと聞いていた。
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▲当時軍の官舎とされていた場所は現在、温泉施設になっていた・・。という事はこの向かい側か!
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▲祖母からは、当時2階立ての建物で、4つの家族が入居していたと聞いていた。真ん中に階段があった様で、それぞれ
の部屋は階段を挟んでわかれていたという。日本でよくあるアパートの様な感じだ。
「赤煉瓦」では無かったという話から、恐らくこの建物ではないだろうか、それっぽい建物はこれしか見当たらない。
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祖母が番地を覚えていなかったので、この昌平街607がピンポイントかどうかは分らないが、多分此処だろうと思った。
祖母の向かいは村山さん。青年部の先生をしていたそうで、新潟出身の方だったそうだ。その下は赤塚さんだそうだ。
祖母は山田。下の階は名前は忘れたが、機関室(現場)勤めの方だったそうだ。情報ございましたらご一報下さい。
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▲正面側から見ると増築部分や新たに付け加えられた部分がはっきり確認出来る。
満鉄寮の写真や現存する建物を見た事が無いので断定は難しいが、祖母への聞き取りや写真を見てもらい、恐らく
あっているだろうと結論付けた。帰国後、写真を見た祖母は感激していた・・・本当に良かった。
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祖母に写真を見せても番地はやはり思い出せなかった様だが、新婚時代を過ごした昌平街の今を見て感激していた。
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感激を胸に昌平街を後にする。祖母が生きているうちにこの写真を見せる事が出来て本当に良かった。
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▼隣の筋も確認したが、昌平街では無いので、探し当てた場所は間違っていないはずだ。
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しかし、中国はそこらじゅうに警察車両が停まっているので、日本の田舎者の私は少し恐怖症になってしまった・・・
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▲さらば「昌平街」(しょうへいがい)
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▲そして有難う、昌平街。何度も振り返りながら目に焼き付けた。
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大きな通りまで出て、長春駅(旧新京駅)まではバスで戻った。
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▼長春駅の地下街は柱に暖房設備が確認出来る。
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▼お湯を建物中に巡らせて暖かくする昔からのシステムだ。
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▲日本では見かけた事が無いが、東北地方や北海道でまだ採用している県はあるのだろうか。
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▲長春でも吉野家に行った。
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▼中国の吉野家は、それぞれの地方でメニューや盛り付けが違う様だ。そしてセットメニューが瀋陽店よりも安い。
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▼これは28元(約470円)長春の吉野家はいまいち。今まで食べた吉野家の中で1番美味しくないと言っても良い。
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▼地下街の柱に観光案内があった。「偽満‘八大部‘」この8つの日本時代の建物は時間が無く行けなかった・・・。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その3「長春(旧新京)旅行記」を終わりとします。
次回は、その4「哈爾浜旅行記①」をお届けします。


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 2017_05_21




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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