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【那覇基地開庁50周年記念】ということで、美ら島エアーフェスタ2022in航空自衛隊那覇基地に初めて行ってきた。
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陸自祭の時と同じく、てだこ浦西駅からゆいレールに乗って那覇(赤嶺駅)に向かう。
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那覇軍港と美らSUNビーチから無料シャトルバスが出ているとの事だった。
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空自那覇基地は、赤嶺駅から徒歩5分程度なので歩く事にしていたが、信号の先には既に長蛇の列が・・・。
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長蛇の列で、信号を渡って右の筈が、左へ曲がって列の最後尾に行くことに・・・。
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ゆっくり進んではいるので、長時間列が止まりはしなかったが、5分の距離が15分程度かかった。
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混むのは仕方ない。興味持っている日本人が多い事はいい事だ。しかもいい天気で最高だ。
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検温、手荷物検査をしてもらっていよいよ基地内へ。
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ここは元々大田実中将率いる小禄海軍部隊が駐屯し、戦後米軍基地となり、現在は返還されて航空自衛隊那覇基地だ。
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▲この先に沖縄戦当時、旧日本海軍が設置した砲台が1基現存していて、見たかったのだが・・・立ち入り禁止(涙)
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※この砲台は昭和18年6月~10月、帝国海軍小禄飛行場が対潜水艦用基地として整備拡大されるに伴い、海軍の軍艦
 から取り外し、小禄飛行場那覇基地に施工整備された15センチ水上砲台6基のうちの1基。

▼米兵と一緒に写る沖縄戦当時の写真(昭和20年6月撮影)
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▼丘の上で軽機関銃を発射する米兵士。後方のコンクリート建造物が現存する日本海軍の砲台(6/6撮影)
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大田実中将率いる小禄海軍部隊は、米軍上陸時は小禄半島、本部半島で奮戦する。
米軍沖縄侵攻が迫ってくる中で、大田実中将が沖縄への突然の海軍部隊司令官任命には訳があった。
前任の司令官は航海出身で陸上の事がさっぱり分からず、状況が段々切迫して来る中で戦備が進まない。そこで白羽の
矢が立ったのが、海軍で陸戦の第一人者と言われた大田中将だった。
大田中将は上海事変の際、陸戦隊長として勇戦し、全滅の危機に瀕していた在留邦人を救出した勇将として知られてい
た。昭和20年1月20日大田中将は水上機で司令部に着任。3月末の米軍侵攻開始の約2ヶ月前の沖縄着任だった。
着任草々大田中将は島内各地の陣地を車で視察して回った。視察で車の運転を務めた堀川徳栄1等機関兵曹(沖縄県出身
で、後に沖縄トヨペット社長)は、大田中将が車中で参謀方と作戦会議をしていたと語っている。
沖縄戦当時、大田実中将率いる小禄地区旧海軍部隊は、昭和20年5月中旬「勝田大隊」「丸山大隊」「山口大隊」迫撃
砲隊などが陸軍部隊指揮下に入り、総計2500名、軽兵器の約3分の1、迫撃砲の大部分が海軍小禄地区から抽出され、
兵員は約8300名となっていた。
陸軍第32軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日頃に初めて知らさ
れたとされる。沖縄戦の時期になっても日本陸軍と日本海軍の歯車はかみ合わないままだった・・・。
いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」
との命令を勘違いしたことが解り、5月28日には再び小禄海軍司令部壕へ引き返した。
6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田実中将は従わなかった。
大田実中将以下海軍将兵は小禄飛行場を南東から見下ろす小禄海軍司令部壕付近に孤立する状況となった。
6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し、司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。
大田司令官は6日夕刻「辞世の句」と共に訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電
報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中、司令部壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵に
よる突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
11日午前7時、小禄司令部壕に米軍の集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として、海軍根拠
地隊が玉砕したとの電報が発せられている。
昭和20年6月13日午前1時、大田実司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。
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▲▼凛々しい航空自衛隊員と警備犬
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▼正門から真っすぐ歩い来て、もう少しで那覇空港の滑走路だ。
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▼自衛隊グッズ販売のテントがいくつか出ていた。
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陸自祭の時は入れる施設が多かったが、空時祭は格納庫以外はほぼ入れない。ファミマもテント販売していた。
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▼▲正門通りを抜けるとそこはもう滑走路。
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▼いきなりの展示物がスーパーカー?(隊員のお子さん達のためかな?もう車世代ではないだろうけど・・・)
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小生、機名などが詳しくない為、ここからは展示物を順次画像で紹介していきます。
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ここがかつての帝国海軍小禄飛行場那覇基地で、格納庫にはゼロ戦や96式陸上攻撃機、天山や彗星、銀河が並んでいた
と思うとグッとくるものがある・・・昭和20年3月25日神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」の出撃が最後だった。
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勿論現在の格納庫は当時物では無いが、格納庫の全景は、戦時中と大差無いはずだ。
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PM12:30頃に、ブルーインパルスの1番機が、宮古島から帰還するとの話を、隊員の方から聞いていた・・・。
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残念ながら今回、那覇基地でのブルーインパルスの飛行は無かった。しかし、宮古空港使用に難癖をつけた沖縄県知事
もスルー出来たようで、宮古島上空で見事な飛行を披露したとの吉報を聞いて、本当に良かったと思った。
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那覇基地でのブルーインパルスの飛行は無いが、展示はあるので、皆帰還を待ちわびている。
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ブルーインパルスの予備機?1機が、寂しそうに仲間の帰還を待ちながら展示されている。
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▲旅客機が離着陸していく中、ブルーインパルスの精鋭機が1機、また1機と、まだ新しい第二滑走路に帰還してきた。
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▲昭和20年6月大破した零戦と米兵。遠近感は違うが上記写真とだいたい同じ感じ。奥に瀬長島が写る。
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自衛隊の皆様、いつもご苦労様です。
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▲▼那覇空港を離陸していく旅客機を常に眺めながらの空自祭。日本全国見渡しても那覇基地だけだろう。
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▼基地太鼓部の演奏は最高だった。
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南西航空音楽隊演奏会が、何故か中止になったのは残念だったが、楽しい空自祭だった。
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この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。

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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2022_12_20


開戦の詔書には、我が国が何とかして戦争を回避しようと外交的努力を重ねた事や、本来戦争などしたくはないという
昭和天皇の思いがハッキリ記されておりますが、終戦の詔書では「責任は私にある」と述べられている。
国の中心に座している御方が、己よりも国民を優先する我が国は、他に二つと無い素晴らしい国、日本。
学校でも教わらず、報道されることも無い昭和天皇の『開戦の詔書』。今一度読み返して欲しい。
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開戦の詔書【現代語版】
『開戦の詔書』(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)

天の助けにより、万世一系の大日本帝国天皇は、忠誠で勇武なる国民に示します。
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私はここに、米国及び英国に対して戦争を布告します。陸海軍の将兵は全力を奮って交戦に従事し、官僚は職務を全う
し、国民もそれぞれの本分をつくして心を一つにし、国家の総力を挙げて戦いの目的を達成するよう望みます。
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そもそも東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大正天皇へと受け継がれてきた将来へ
の配慮であり、私もそれを常に心に留めてきたことであります。そして、各国との友好を大切にし、全ての国が共に栄
える喜びを共有することもまた、日本が常に外交の重要な意義としてきたことであります。今、不幸にして米英両国と
戦いを始めるのが避けられなくなっていますが、これは私の意志であろうはずがありません。

中華民国政府は、我が国の真意を理解せず、無用に事を荒立てて東アジアの平和を掻き乱し、ついに我が国と戦争を始
めてから既に4年が経過しました。幸いなことに国民政府は新たに生まれ変わり、我が国はこれ(汪兆銘政府)と国交
を結び、互いに提携するようになりましたが、重慶に残存する政権(蒋介石政府)は米英の庇護に期待して仲間内の争
いを止めようとしません。
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米英両国は残存政権を支援し、東アジアの騒乱を助長し、平和の美名の下に東洋を制覇しようという誤った望みを強く
しています。そればかりか、同盟国に働きかけて我が国の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、更には我が国の平和的
な通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交まで行い、我が国の生存に重大な脅威を与えています。
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私は政府に、事態を平和に解決させようとし長く耐えてきましたが、彼らは少しも譲り合う気持ちもなく、無用に時局
の解決を引き延ばそうとして、その間さらに経済面や軍事面での脅威を一段と増大し我が国を屈服させようとしていま
す。このようにして事態がこのまま推移すると、東アジアの安定についての我が国の長年の努力はことごとく水泡に帰
し、我が国の存続そのものが非常に危険な状態に瀕しています。このような事態になり、我が国は自らの存立と自衛の
ためにやむなく立ち上がり、一切の障害を打ち破るほかないのです。
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皇室の祖先や歴代天皇が見護って下さっています。私は国民の忠誠さや勇武さを信頼し、歴代天皇の遺業を成し遂げ、
速やかに災いを除き去り、東アジアの永遠の平和を確立し、これによって我が国の栄光を護ることを期そうとするので
あります。

御名御璽 昭和16年12月8日
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 2022_12_08


沖縄県で初めての陸自祭!コロナで3年無かったとの事で、とても楽しみにしていた。
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【第15旅団創隊12周年、那覇駐屯地創立50周年記念】ということで、陸上自衛隊那覇駐屯地に初めて行ってきた。
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てだこ浦西駅からゆいレールに乗って那覇に向かう。
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▲奥武山公園、小禄、赤嶺からシャトルバスが出ているとので、小禄まで乗る事にした。
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てだこ浦西駅は、ゆいレールの終点だ。(小禄、赤嶺、那覇空港まで370円)
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▲▼早速来たので乗り込む。
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▲▼一番後ろの席だったので景色はこんな感じ。
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小禄駅に到着。
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無料シャトルバスを待つ行列が出来ていた・・・TVや沖縄2紙で取り上げられなくとも、ネット社会だから問題なし❤
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奥武山公園から来ているので、既に席は少ない。満席になると順次発車していく。2台目のバスでようやく乗れた。
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15分ほどで陸上自衛隊那覇駐屯地に到着
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銃を持った入り口の衛門歩哨(上番警衛隊)の前を通リ、持ち物検査場へ。
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ここは最前線の沖縄諸島・・・ご苦労様です!
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持ち物検査が終われば自由見学だ。初めて来たのでワクワクする。
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戦後米軍基地だったものを自衛隊が引き継ぎ、そのまま使用している施設だそうだ。
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▲▼和製ハマーと言われるトヨタ・メガクルーザーが並ぶ姿は圧巻!
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戦時中は日本海軍小禄基地の一角として、陸海軍部隊が小禄飛行場(現・那覇空港)や那覇港を管理、警備していた。
陸上自衛隊那覇駐屯地の敷地内には、小禄海軍司令部壕の完成前まで使われていた壕が、多数現存しているという。
那覇飛行場は昭和11年に軍民共用の飛行場となり、昭和18年、海軍に所管が変更され、沖縄戦終了まで名称も小禄航
空基地だった。南西諸島方面航空隊本部として、小禄飛行場には第25航空戦隊の偵察第3飛行隊小禄派遣隊が常駐して
いた。敗戦後、那覇空港がある小禄半島は、そのほぼ全域が米空軍基地として長らく接収されていた。 那覇海軍航空施
設 (滑走路・ミサイル基地含む) 那覇サイト。那覇港湾施設 (那覇軍港) 那覇サービスセンター (現・奥武山公園内武道
館など) 那覇空軍・海軍補助施設 (現・航空自衛隊那覇基地と住宅地) 那覇ホイール地区 (現・陸上自衛隊那覇駐屯地)
の施設である。昭和47年の沖縄返還により第二種空港になったものの、依然、管理権は米軍にあり、昭和57年ようや
く管理権が全面的に航空自衛隊に移管された。現在までに順次滑走路、施設の近代化拡張が行われ、航空法に定める国
管理空港として、民間航空及び陸・海・空自衛隊、県警、海上保安庁の航空部隊が共存しており、南西諸島における基
幹的国際空港となっている。
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▲▼正面駐屯地グランドの一番奥に見えるのが那覇空港。そして、写真右端のこんもりとした丘(森)が、小禄海軍司令
部壕完成前まで使用した司令部壕があった場所。見学は出来ないが、今も壕が残っていると自衛隊員の方から聞いた。
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▼駐屯地グランドでは式典が行われていた。
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エイサーと音楽演奏も良かった。
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予想以上の見学者の多さに驚いた。隊員のご家族も多いが、若い方や女性が多かったので何だか安心した・・・。
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米海兵隊が混じっての訓練展示は迫力があった。米兵はほぼ何もしてなかったけどね。
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(自分の国は自分で守る気概を常に持ってないとね)
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▼駐屯地内にあるコンビニはローソンだった。
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▼私の一番の目的はこれ。第15音楽隊と米海兵隊音楽隊の演奏だ。最高に良かった!
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沖縄戦で「鉄の暴風」と呼ばれた激しい艦砲射撃で使われた砲弾約20万トン中、5%が不発弾だったとされる。
回収された分や、海などに落ちた永久不明弾を除く約1950トンが未発見とされる沖縄本島。陸上自衛隊第101不発弾
処理隊23名(隊長 佐藤 景一2等陸佐)は、「いつかゼロになる日まで」と誓い、日々24時間態勢で任務に取り組んで
おられる。近年も年約700件、計20トン前後の不発弾が処理され続け、過去約2万回の出動で事故は1件もない。
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▲女性隊員も数多く見うけられた。ご苦労様です!
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▲電報・電話受付って・・・まだ使う事があるのかな??
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▲帰りは、駐屯地内までシャトルバスが入って来てくれていたので、衛門まで歩かなくて済んだ。



この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。

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「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2022_11_15


令和4年度「第57回琉球王朝祭り首里」は、新型コロナ第7波により、実施する事業と中止する事業を選別されての開
催になったが、初めて行ってきた。この祭りは昭和35年に「教育、文化の発祥の地として、青少年の向上心の高揚と、
健全育成、併せて城下町首里の活性化を図ること」を目的に始まり、那覇市の三大祭り(「那覇大綱引き」「那覇ハー
リー」と並ぶ)の一つとなっているそうだ。
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首里城祭は正殿完成まで「首里城復興祭」と改称したそうだ。琉球王朝祭り首里と併催って事かな?よく分からん。
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屋外だというのにマスク着用の方が大半・・・、日本人は真面目だ。
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週間天気予報では雨50%だったが、そこは南国、しっかり裏切って晴れてくれた。
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▲首里杜館芝生広場では、首里城復興祈念ステージが行われていた。
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▼2019年12月に撮影した同じ場所。
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※令和元年(2019年10月31日午前2時半頃)首里城正殿など主要6棟が全焼した火災の原因は特定出来ず…。
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▲広福門をくぐると下之御庭に出る。
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見学者は中高年が圧倒的に多い印象・・・。
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▲県民割とか有料とかあったので、何かと思えば「首里城復興特別見学ツアー」と題して、写真の倉庫(首里城正殿復元
に向けて整備した木材倉庫)・原寸場の中を見れる有料(400円)の特別見学ツアーなんだと・・・無論申し込んでない。
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古式行列に参加する方達が準備し始めた。
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古式行列は守礼門付近で見学する事にした。
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しかし見学者は中高年が多い印象・・・。
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古式行列が来た。
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ゆっくり歩いている。
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お隣で見学していた老夫婦が「あちゃ、もう終わりね・・・毎年短くなってるさぁ~・・・って言ってた。
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古式行列は結構あっけなく終わった・・・。他の人にも聞いたが、行列は年々短くなっているらしい。
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城内を少し見学してから帰ろうと歩いていると・・・。
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▲第32軍司令部壕の保存・公開を求める会❓だいたい戦跡を残そうとする人達は左向きの団体が多いが・・・。
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▲案内人の方が、「是非お話を聞いて帰って下さい、牛島中将のお孫さんがお話されています。」と、熱心に言って頂
いたので、聞いてみる事にした・・・。
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▲熱心に語られているのが牛島満中将の孫(牛島貞満さん)らしい。
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2022年9月にもこの司令部壕の模型を使って浦添市の仲西小学校6年生対象に、戦争について語る授業を行ったとの事。
いったい何を訴えていたかと思えば、要は「日本軍の方針は、沖縄を守る為の戦争じゃなくて、沖縄戦は、本土を守る
為の戦争、本土で戦争の準備をするための時間かせぎだった。軍は民を守らない。戦争を起こさないために何ができる
のか考えてほしい」と言っている。そして、ミサイル配備や基地構築が「戦争を起こそうとしている」という考え方。
何もせずただ占領されて奴隷でいいという事か?それとも基地がある県だけが犠牲になって、基地の無い県は戦争に巻
き込まれないとでも??死ぬより奴隷の方がマシという考え方は、敵(相手)次第。先の大戦は結果、相手がアメリカだ
ったから今、マシな奴隷国家、日本がある。戦勝国を主張する国では、ロシア(ソ連)・中国(中華民国)も入っていた。
占領された相手がロシア、中国だったとしたら日本はどうなっていただろうか・・・恐ろしくて考えたくもない。
「戦争を起こさないために何ができるのか考えてほしい」それはそうだろう。世界中の先進国が考えるべきだ。
日本だけでなく、大国アメリカ・イギリス・ロシア・中国も。そして今、日本をとりまく世界情勢がどのような状況で
あるかも子供達にちゃんと伝えているのだろうか??
「軍は民を守らない」と言うが、極限の劣勢になった時に人は自分以外を守る余裕などあるものか。
今の自衛隊でも同じだ。25万人の隊員でどうやって日本国全て(民も含め)を守れると言うのか。
逆の立場で考えれば容易に分かる事ではないか。軍は神様か?軍は不死身のモビルスーツの様なガンダムの世界の妄想
でも描いて話しているのだろうか・・・沖縄を守る為?奄美を守る為?九州を守る為?本州を守る為?四国を守る為?
サイパン陥落から、そもそも負け戦をしている最中、パラオ、フィリピン、硫黄島・・・場所なんてどうでもいいでは
ないのか?全ての土地での戦いは、「日本国」を守る為でしかないはずだ。本土決戦の時間稼ぎ?沖縄諸島だけが??
戦争全体を見ずに、沖縄県民に自虐史観や日本国に対する憎悪を植え付けるだけの全く無駄な話だった。
戦前、確かに軍や政治家に、許しがたい売国奴はいた。自分の保身だけの為に兵を無駄死にさせた軍幹部も沢山いた。
しかし、牛島中将がそんな幹部だったとは思えない。そうやって日本軍全体をディスる事や、外国(仮想敵国)が喜ぶ事
をするのが、戦争を起こさない為にやるべき事なんだと、元小学校教諭は熱弁している(呆)
牛島中将が約9万4000人(推計)もの沖縄島の一般住民を殺したと言わんばかりの講演・・・天国で牛島中将もさぞ悲
しまれている事だろう・・・自分の祖父をディスるような孫にはなりたくないと思いを新たに、ご先祖様、牛島中将以
下将兵(英霊)に感謝した。
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▲▼司令部壕の保存や、公開する事には大賛成だ。
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首里城公園の地下には今も約1000mの巨大な人口壕が眠っている。牛島中将他約1000人の軍人軍属達が南部撤退まで
の2ヶ月間居た戦闘指令所である。当初は安里(那覇市内中心部)にあったが、10/10空襲後の昭和20年1月に、首里城
の地下司令部壕に移動した。壕掘り作業は軍の設営部隊や沖縄師範男子学徒があてがわれた。軍民が力を合わせて掘ら
れた地下要塞、当時の方達のご苦労や、中で戦死していった将兵を弔う意味ならば、司令部壕の保存や、公開する事に
は大賛成だ。
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しかし、第32軍も含め、旧日本軍をディスるようなネタにする利用(公開)なのであれば、このままでいいと思う。
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昭和20年5月30日~31日首里城は米軍艦砲射撃などで無残に破壊される。首里攻防戦線を制圧した陸上の米軍兵士は、
用心深く首里城内に入ったという。日本軍は首里に残された残存兵力で夜間斬り込みを敢行、玉砕していった。
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▲首里城内にて、ことごとく戦死した日本兵を眺める米兵達。米軍は司令部壕内に侵入していった。
しかし、そこに主要装備は無く、散乱する日本兵の腐敗した死臭が充満していた。司令部壕内に牛島中将/長中将/
八原大佐の姿は無く、自力で南部へ撤退出来なかった負傷兵で、自決した日本兵約5000人の死体があるだけだった。
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南部撤退まで、首里司令部壕内には将兵の他、指揮官や参謀の世話係の女性達も雑居していたという。
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首里司令部壕撤退を決める直前、大本営へ沖縄作戦戦況報告の為に、5/10(19:00頃)司令部豪から本土へ脱出した
第32軍航空参謀神直道少佐が、首里司令部壕内の女性達について、以下の事を戦後に証言している。
「司令部壕内に20人~30人の「辻遊郭」の女性達が炊事要員として軍に仕していた」事。
「良家の子女10人余が牛島・長などの将校の身の回りの世話をしていた」事。
「女子師範学校学徒も何人か居た」事「司令部内に慰安所は無かった」事「朝鮮人女性や本土の芸者はいなかった」事。
「飯炊き要員として駆りだされていた辻遊郭の女性は遊郭の女性だという事で兵隊の中にその様な行為に及ぶ者があり、
壕内の風紀が乱れそうになったから壕内から出てもらった」事、などである。
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沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い(戦闘)は以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
津堅島⇒津堅島
現在の日本国で、反撃の可否を判断する権限は防衛省には無い。あくまで抑止力として南西諸島の守りを強化している
に過ぎない。核爆弾数個持てば済む話を、牛島貞満さんの様な左翼思想の団体が煩いから、チマチマ駐屯地を増やして
いるだけ・・・。やられたとしても、反撃命令を出せる気概を持った首相など日本の政治家にいるのだろうか・・・。
有事に際し、国民を避難させるのは行政の仕事。沖縄県の行政トップにそんな大役が出来る人材がいる(選ばれる)とは、
今の段階では到底思えない・・・。

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 2022_11_03


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2022/10/1 普天間フライトライン・フェアに行ってきた
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米軍普天間飛行場第3ゲート(宜野湾市野嵩、野嵩第3ゲート)から基地内に入った。
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フライトライン・フェア基地入場ゲートは、今回入場した野嵩第3ゲートと大山第1ゲートの2つだ。
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沖縄県で初めての米軍基地入場だ。
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広い敷地に格納庫等の軍事施設が見える。ここは元々日本軍の基地では無かった場所で、日本軍は現在の嘉手納基地に、
陸軍中飛行場、米軍読谷補助飛行場(現在は返還された)に陸軍北飛行場を置いていた。
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右折れして、会場となっている滑走路に向かう。
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滑走路に設置された仮駐車場に車を停めて、普天間フライトライン・フェア一日の始まりだ。
米軍普天間飛行場は沖縄戦中、住民達を収容所に閉じ込めている間に、米軍が集落も、田畑も、全てを潰して造られた
基地・・・なので、未だに「強奪基地」と呼ばれる大きな要因となり「基地負担軽減の為の代替え基地(辺野古移設)」
に反対する人達の的となっている。米軍普天間飛行場の周りに住宅街や学校などが沢山ある事も要因だが・・・。
※辺野古には戦後からキャンプ・シュワブがあり、既にある基地を海側に増設している工事で、新基地建設では無い。
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早めに着いたので入場はスムーズだった。身分証明書提示と持ち物検査、金属探知検査を済ませて会場入り。
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野郎3人での普天間フライトライン・フェア(私以外は沖縄県出身者)
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我ら日本軍(自衛隊)車両や航空機も多数展示していたのが嬉しかった。
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▲▼沖縄本島の国道、県道でよく見かける米軍用車両だ。
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▲▼沖縄戦で初投入された米軍155㎜榴弾砲の古写真を思い出していた・・・今はかなりコンパクトになったものだ。
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機内を見学出来る機体もある。
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オスプレイも機内を見学出来る。
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▲ビールはコップ一杯900円と割高・・・。
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▲ピザは1枚2100円(大きくて美味しい)、コーラ等の缶ジュースは1本200円で、昨今の物価高の水準。
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▲▼小さい子供達も遊べる施設も仮設なのに本格的
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この野外ライブは凄く楽しい。ザ・アメリカって感じ。
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日が暮れたら人が多くなってきた。
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この日は、最後に花火大会があるので大勢の人が夜(夕方)から入場してきたようだ。
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マスクしているのは日本人だけ(笑)。しかし、ゴミの分別含め、日本人の衛生管理意識の高さは世界一だと思う。
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▼野外ライブの方も、Fifth Harmony、最後のAlly Brookeで最高潮に。
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        ▲フィナーレの花火は素晴らしいものだった。
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花火が終わると同時に、皆一斉に帰るので、基地ゲートを出るまでの多少の渋滞は仕方ない・・・。
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▼ゲートの路面に注目。逆から侵入すると、タイヤがパンクするような仕掛けになっている。
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▼10月1日は天一の日。って事で、ラーメン一杯無料アプリを頂ける天下一品(北谷店)でラーメンを食って帰った。
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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2022_10_03


豊見城村は那覇の南に隣接する。豊見城城は600年以上前の「琉球戦国時代」に攻め滅ぼされた南山王系列[見城按司]
の城であった。現在は琉球当時の遺構はほとんど無く、石垣の一部や古井戸などが残るだけで、世界遺産に指定された
琉球グスク群からは外されている。豊見城村は現在県豊見城市。漫湖を見下ろす琉球石灰岩の丘陵地に豊見城城はあっ
た。14世紀末~15世紀初頭、沖縄が三山時代(北山/中山/南山)であった頃、南山王の従弟である汪応祖が、漫湖沿岸
の見晴らしの良い高台に城を築いたと伝わる。「三山統一の戦い」で中山王の尚巴志によって襲撃されて1429年落城。
1719年尚敬王の冊封副使として来沖し、ここを訪れた徐葆光が漢詩を詠んだ。1853年に来航したペリー艦隊一行が
描いた挿絵も残されている。城は三重の郭に、5つの城門を構えていたと言われている。
沖縄戦当時、現在の豊見城城跡公園には旧陸軍第24師団第2野戦病院壕があった。
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▲▼ここに配属され、従軍した軍医や積徳高等女学校学徒看護隊の生存者により昭和57年8月、合祀碑が建立された。
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隊長の小池勇助軍医少佐の部下として行動を共にされた島尾二中尉。第24師団第二野戦病院の南部移動の際、小池軍
医少佐は、自力で動けない重症兵の「始末」を命じられる。元学徒隊員の真喜志善子さんの手記によると、小池軍医少
佐から命令を受けた島尾二軍医中尉は、青酸カリを置く代わりに水、乾パン、手榴弾を枕元に置き、「敵が来たら潔く
戦え」と、励ましてその場を去ったそうだ。生き残った島尾二中尉は戦後復員。後に医局へと戻られた島尾軍医は呼吸
器科医として勤務しつつも、戦時中の第二野戦病院の出来事が常に頭から離れなかったと語られ、ふじ学徒生存者の方
々と共に、豊見城城跡公園にある旧陸軍第24師団第二野戦病院患者合祀碑の建立に尽力されたが、この慰霊碑を見る
ことなく亡くなられている。
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 ▼島尾二軍医中尉
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▼積徳高等女学校の生徒25名で編成された「ふじ学徒隊」は4年生56人が合宿看護訓練を受けた。
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積徳高等女学校は、仏教系の私立学校で、旧那覇市の真ん中にあった。戦時色が強まる中の昭和20年3月13日、4年生
56人に対し、軍の命令で合宿看護訓練が行われた。しかし、戦況の進展で訓練は10日間で中断、15日那覇市識名のシ
ッポージヌガマに行政機能が移る。17日にアメリカ軍が硫黄島を占領。この戦いを指揮した栗林中将の電文が紹介され
沖縄本島米軍上陸の1週間前の昭和20年3月23日、豊見城城址にあった陸軍第24師団第2野戦病院壕に配属される。
24日から艦砲射撃が始まり、26日には慶良間諸島にアメリカ軍上陸。27日首里高等女学校の卒業式が行われたが、積
徳高等女学校では行われなかった。
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隊長は小池勇助軍医少佐(長野県出身)。小池軍医少佐は学徒看護隊56人に従軍か除隊かの調書を取る。
結果31名が除隊。25名が従軍看護婦「ふじ学徒隊」として勤務する事となる。
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 ▲小池勇助軍医少佐(長野県出身)昭和20年6月27日「糸洲の壕」にて自決。
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▲昭和20年6月に米軍が撮影した第2野戦病院壕口。弾薬箱や日本兵の死体が複数写っている。
南部撤退の昭和20年5月26日まで使用された第2野戦病院壕は、最後まで勝利を信じて戦い傷つき倒れた多くの英霊を
供養し永遠の平和を祈念する為、昭和57年8月に慰霊碑が建ち、昭和58年7月陸軍野戦病院壕が復元保存された・・。
常時は閉鎖されている豊見城市の旧豊見城城祉公園。那覇市を一望する高台で、非公式で沖縄慰霊の日(6月23日)に
慰霊祭が行われる。
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▲▼合祀碑近くの高台から那覇市を一望出来る。
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ふじ学徒隊の慰霊碑は学び舎があった付近(那覇市松山)大典寺境内にある。隊長の小池勇助軍医少佐の墓は地元長野県
(野沢)の本覚寺に建立されており、回忌法要には積徳高等女学校のふじ学徒隊メンバーが訪れ、命の恩人との繋がりを
今なお続けておられるとの事だ。
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▲合祀碑から直ぐの場所に右折れに入れる場所がある。
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▲復元されてから10年以上放置され続け、荒れ果てた階段を下りていくと、いくつかの壕口がある。
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復元時に設置された鉄骨の崩落止めも錆びて朽ち果てている。
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野戦病院壕はアメリカ軍の上陸直前、昭和20年に建設された。建設には住民も動員され、総延長はおよそ300メートル
に及び、通称「山部隊」と言われる第24師団の軍医や衛生兵など200人の部隊が配属された。アメリカ軍上陸後は、激
戦地の首里、浦添、西原、那覇一帯から負傷兵が次々と運び込まれ、収容能力を超える600名余りの負傷兵を抱える事
になった。そのため、負傷兵には医薬品や食事も十分に与えることが出来ず、薄暗い壕の中で衰弱して亡くなる兵士も
多かったと言う。
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多くの負傷者の傷にはほとんど蛆虫がついており、中には包帯の上からも蛆虫がチラチラと頭を覗かせていた・・・。
つまんで捨てる・・・その兵隊の傷をあけると、深い傷口には無数の蛆虫が蜂の子の様にびっしりで、消毒液を落とす
と、素早く内に引っ込む蛆虫、はいだしてポロポロこぼれる蛆虫・・いちいちピンセットでつまみ出すには間にあわず
ガーゼでこすぎ落とす・・しかし、次の包帯交換にも同様に頭を並べていっぱい詰まっている。のくり返しであった。
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▲▼全長の1/3が復元されたそうだが、崩落が激しかったのだろう・・・見学出来なくなってから放置状態である
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しかし、その傷口は蛆虫が膿血を吸うために綺麗で、傷をもつ者は「痛い」と訴え、また私たちは肝を冷やしながら治
療に当たっていると、平林軍医は、慰めとも励ましともつかない「蛆治療もあるのだよ」と言われた。
また、負傷兵は、泥をかぶった砲弾破片創(射創)が大部分で、全員に破傷風の予防注射をした。ところが発病した者に
多量の血清を使用するには足りなくて、胸を痛めながら死を待つのであった。ガス壊疽(エソ)患者も同様で、痛みと
臭気をともなって、身体の一部がみるみるうちにドス黒く腐敗していき、死をみつめて時を待つ姿もあった。
と、積徳高等女子学校学徒看護隊の上原 利子(旧姓・志伊良)さんは語っておられる。
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▼積徳高等女子学校学徒看護隊の証言が書かれた物。
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▼そう遠くない将来、消滅してしまうだろう・・・。
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昭和58年(1983)に鉄骨補強されてから39年・・・。昭和20年(1945)に構築されてからは77年・・・
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▲この先は元々崩落していた坑道なのだろう。鉄筋柱で補強されていた形跡は無い。
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▲かつては壕口に掲げられていた看板も今は壕内にひっそりと置かれている・・・。
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▲豊見城城、城門の脇に立つ第22海兵連隊司令官ロバーツ大佐と第22海兵連隊第3大隊司令官シスラー中佐。
城壁やアーチ門等のグスク遺構は戦後の開発で壊されたが、漫湖側に城壁の一部と思われる石積みが確認されている。
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▲昭和10年代に撮影された豊同じ場所。城主は南山王の汪応祖 (おうおうそ)。中山の首里城に対抗していた王だ。
戦後、豊見城城址公園は県の管理物では無く豊見城村の管理であったが、昭和38年に岩崎産業(本社鹿児島県)が購入。
城址公園閉園後はそのまま放置される事になるが、公園内には高圧線の鉄塔が何本か走り、沖縄電力から収入がある。
日本復帰40周年事業として、当時の仲井真弘多元沖縄県知事が「空手道会館(仮称)」の建設地を豊見城城址公園跡地
とする案を決定(空手道会館の候補地には豊見城市のほか那覇市、浦添市、沖縄市、糸満市が挙がっていた)。
城址公園を運営していた岩崎産業も土地の譲渡に基本的に同意し、県は一括交付金で土地を購入。2017年に開館した。
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▲▼現在の豊見城城址公園一帯には「沖縄空手会館」や「おきなわ工芸の杜」が建ち、再開発?が進んでいる。
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▼▲県営沖縄空手会館
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▼空手そば
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▼2022年4月1日に0PENした立派な施設、「おきなわ工芸の杜」
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コンセプトは「沖縄県の工芸産業を担う人材支援、工芸品の情報発信、工芸品の作り手と使い手の交流促進などにより、
工芸産業の振興に資する。工芸産業の担い手となる人材の育成、製品開発の支援、技術の高度化及び交流等の拠点とな
る施設を提供することで、技術の継承及び産業の振興を図り、持って地域経済の発展に寄与する」との事。
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起業を目指す方が入居する貸し工房や、工芸品を製作するために利用する共同工房。来館者が製作体験することが出来
る体験工房や多目的室、展示室など・・・いつまでも続く箱物行政の象徴か?
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▲昭和20年6月に撮影された海軍司令部壕のある小禄半島東部豊見城地域の高地。
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▲現在(令和4年)のほぼ同じ場所をおきなわ工芸の杜より撮影。(高地の頂上付近に今も海軍司令部壕が残る)
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▲▼かつては植物園としても知られた豊見城城趾公園。2003年に閉園した城趾公園には線路がひっそりと残っている。
当時城址を買った岩崎産業が城趾公園建設中、ゴルフ場や線路を敷くために城門や石垣を撤去した。今なら城址跡を残
したままリゾート開発出来たであろうから悔やまれる。しかし、岩崎産業(国内企業)だったから、土地がまた日本人(
沖縄県)の自由に再考出来た。昨今の外資系企業の土地爆買いの様に、当時の売却先が岩崎産業では無く外国企業だった
らと考えると・・・特に中〇/韓〇系企業が土地を買っていたら野戦病院壕は消滅していただろう・・・ゾッとする。
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御嶽やお墓は壊さないのは日本人の素晴らしいところ。24師団第2野戦病院壕も英霊のお墓なので保存して頂きたい。
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昭和20年5月27日、豊見城野第2戦病院壕から糸満市の糸洲の壕へ撤退して来た「ふじ学徒隊」。
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糸洲の壕(ウッカーガマ)と呼ばれるこの自然壕は、水が豊富に湧き出ていた場所だったため、炊事などには困らなかっ
たものの壕内は常に湿っており、学徒隊の足袋は乾くことがなかったという証言が多い。しかし敗戦が決定的となった
6月17日、米軍の馬乗り攻撃を受け、学徒をはじめとする人々は壕の奥へと移動した。しかし戦況は既にどうしようも
ないところまで来ており、行動を共にしてきた衛生兵も斬り込み隊に任命され、夜襲をかけた者は戻ってくることはな
かった。衛生兵が減った分の仕事は学徒隊に回ってきていた。そして遂に、摩文仁の第32軍司令部より他の学徒隊同様
「解散命令」が出された。砲弾が飛び交う戦地での解散命令は「死」を意味した。
他の学徒隊の戦死者のほとんどがこの解散命令発令後に出ている。解散命令が出された日は6月17~19日と記録される
ものが多い中、小池勇助軍医少佐がふじ学徒隊に解散命令を出したのは6月26日。約1週間の解散命令のずれが結果的
に学徒隊の犠牲者を最小限に食い止めた小池隊長の英断だった事は言うまでもない。
第24師団第二野戦病院院長小池勇助軍医少佐は長野県佐久市出身で、地元中込駅前で眼科の開業医だった。
3回目の招集で沖縄に来た小池隊長は、他の部隊とほぼ時期を同じくして受け取った解散命令を、この状況で出すこと
は危険極まりないとの判断で軍命を握り潰し、壕内に残る選択肢を取った。
そして6月26日第32軍の牛島司令官と長参謀長の自決の報を受け取り、日本軍の組織的抵抗の終焉を知った上で解散
命令を出したのだ。学徒隊の前で最後の訓示をした小池隊長は、「長い間軍に協力してくれてご苦労だった、日本は負
けました。もし負け戦になると解っていれば、あなた達を預かりませんでした。親御さん達に本当に申し訳ない」と深
々と頭を下げられたそうだ。捕虜になるくらいならば自決を選ぶ!と、最後まで隊長をはじめとする野戦病院と行動を
共にしたいと食い下がる学徒隊に対して、小池隊長は「捕虜になるのは恥ではありません。本当の恥は死ぬ事です。な
ので、決して死んではいけない。必ず生きて家族の元に帰り、この凄惨な戦争の最後を後世の国民に伝えて下さい」と。
小池隊長は泣きじゃくる学徒達と、一人一人握手をし、数人のグループで行動して逃げるように指示して壕から送り出
したという。そして看護隊全員が壕を出たのを確認した後、小池隊長は青酸カリで自決した。
6月27日ふじ学徒隊は2~3名ずつ組を作って壕を脱出し、ほとんどが米軍の捕虜となった。最初に脱出した学徒3人の
内1人が日本軍と米軍の交戦に巻き込まれ戦死。他、米軍のキャンプに紛れ込んでしまった1人が米軍の銃撃を受けて戦
死している。そして戦後、戦争の心の傷から、自ら死を選んだ学徒を含めた3人が犠牲となった。しかし、他の学徒隊で
は半数以上の死者が出ているのに対して、この看護隊生存率の高さは小池勇助軍医少佐の素晴らしい功績だと言える。
「ふじ学徒隊」証言記録仲里ハルさんYouTube①「ふじ学徒隊」証言記録仲里ハルさんYouTube②
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▲現在も残る糸洲の壕(2017年2月16日訪問)
入口が2つある大きな壕で、米軍のガス弾攻撃・馬乗り攻撃を何度も受け、壕内では約100人が戦死した。看護隊員は
小池隊長の指示で水に濡らしたタオルで顔を覆い、ガス弾攻撃に必死に耐え、壕内では学徒25名全員が生き残った。
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糸洲の壕は、先の「二本松の壕」、「轟の壕」と地下で繋がる巨大な自然洞窟である。
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▲辺りが工事中だった為、入壕は叶わなかったが、壕の部分は手を付けられていないので残ると思う。
小池隊長は、看護隊員たちを、我が娘のように可愛がり、父母から大切な娘さんを預かったのだから、絶対に死なせて
はならないと考えていたという。
1番に壕を出たのは、上記YouTubeで紹介した、宮古島出身の仲里ハルさんと八重山、久米島の友人3人だった。
隊長に言われた通り北を目指し、昼はサトウキビ畑に隠れ、夜に移動したという。数日後、米軍のキャンプに紛れ込ん
でしまい、銃撃を受け3人が倒れ込み、血まみれの友人が『ハルちゃん助けて!ハルちゃん置いてかないで!』と。
気がつくと、ハルさんは銃弾を受けてなく、左の三つ編みが吹き飛ばされていた。友人1人が死亡。1人は重傷だった。
他に1人壕を出て逃避中に亡くなり、2人の犠牲者がでた。最後に壕を出たのは、皆川晴子さんの3人グループだった。
途中、米軍がまいたタバコを拾って隊長のもとへ届けに戻ってみると小池隊長は自決していたという。
小池勇助隊長は、長野県(現在の佐久市)出身、地元の旧制野沢中学(現長野県立野沢北高校)を卒業し、金沢医専(現金
沢大学医学部)を卒業。軍医経験の後、地元の中込駅前で眼科を開業していたが、再び軍医として応招され沖縄へ。
小池隊長のお墓は、地元野沢の本覚寺という寺にあり、法要が営まれ「ふじ学徒隊」12名が参列し、命の恩人の墓前に
手を合わせられたという。積徳高等女学校の沖縄戦を記録したドキュメンタリー映画
昭和20年7月2日米軍は沖縄本島の掃討作戦終了を宣言する。
昭和20年9月7日嘉手納基地内での降伏文章への調印によって沖縄戦が正式に終了する。
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▼▲ふじ学徒隊の慰霊碑は学び舎があった付近(那覇市松山)大典寺境内にある。
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▲戦前の本願寺派大典寺
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※ふじ学徒隊以外の沖縄戦に従事した女子学徒隊
 「沖縄陸軍病院」(南風原黄金森)
 沖縄師範学校女子部 (ひめゆり学徒隊157名)昭和20年3月23日~戦死81名
 県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊 65名)昭和20年3月23日~戦死42名
 
 「陸軍24師団山第1野戦病院」(八重瀬岳、新城[アラグスク]分院ヌヌマチガマ・カラビガマ)
 糸満市真栄里【白梅之塔】(下の壕/上の壕)  八重瀬町富盛【手術場壕】
 県立第二高等女学校 (白梅学徒隊 56名)昭和20年3月24日~戦死22名
 
 「沖縄陸軍病院八重岳分院」(沖縄陸軍病院名護分院)
 県立第三高等女学校 (名護蘭[なごらん]学徒隊 10名)昭和20年3月24日~戦死1名
 ※本部半島では南部の様なガマはほとんど無く、「八重岳陸軍野戦病院」は人の手で作石垣を作り、小屋を建ててい
 たと、なごらん学徒隊生存者の方が証言している。小屋は5、6棟あった様で内1つはオペ室、残りは病棟との事。
 学徒隊員として従軍した沖縄県立第三中学校と沖縄県立第三高等女学校、三中生は防衛隊員・鉄血勤皇隊員及び通信
 隊員として従軍。真部山・八重岳・名護岳・多野岳等で奮戦。これらの方達の慰霊碑が名護高校内にある「南燈慰霊
 之塔」。慰霊祭は名護高校があとを次いで、現在でも行われている。

 「陸軍62師団野戦病院」(南風原町ナゲーラ豪/識名壕)
 県立首里高等女学校 (瑞泉[ずいせん]学徒隊 61名)昭和20年3月25日~戦死33名
 私立沖縄昭和女学校 (悌梧[ていご]学徒隊 17名)昭和20年3月23日~戦死9名

沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い等は、以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
屋我地島⇒屋我地島


この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2022_07_04


沖縄八社とは、社琉球八社とも呼ばれ、王府から特別の扱いを受けた「波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・安
里八幡宮・天久宮・金武宮
」の8つの神社の総称。 半年かけて時間を作っては巡った8つの神社をご紹介しましょう。
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▲①先ずは波上宮(なみのうえぐう)(令和4年2月撮影)
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▲昭和38年7月撮影の同じ場所。
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▲昭和38年7月撮影の同じ場所。
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▲▼②次は沖宮(おきのぐう)(令和3年8月15日撮影)
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奥武山公園内にある沖宮は、15世紀頃に海中より光輝ある枯木を拾い、熊野権現の霊木として神社と寺をつくり、霊木
を奉祀したとされ、航海安全、国家安泰、五穀豊穣などを願う宮として、今よりも海寄りに建てられていた。明治時代
末期に那覇港湾工事の為、安里に遷座。 昭和10年には国宝に指定されたが、第2次世界大戦でそこも消失してしまい、
神示により奥武山の現在の地に昭和36年に御遷座された。
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天受久女龍宮王御神が主神。(これは天照大神の事と解釈)
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他に天龍大御神、天久神乙女王御神、熊野三神も祭られている。
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他、奥武山公園内には農業や商売の神様である世持神社、戦没者を祭る護国神社がある。
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▼昭和15年内務大臣指定護国神社として建築。沖縄戦でも損害は軽微だったが、米軍が取り壊してしまった・・・。
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▲終戦直後昭和20年7月~8月に米軍が撮影した護国神社。本殿が現存していた事が確認出来る。
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▲靖国神社より沖縄戦に殉じた本土出身者の御霊代を奉移して昭和40年に現在の形になった。

(沖縄八社に話を戻します)
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▲▼③次は識名宮(しきなぐう)
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社号は琉球神道記(1608年)には「尸棄那権現」
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琉球国由来記(1703年)には「姑射山権現」と呼ばれ熊野権現と関わりがある。
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識名宮のもとの社殿は洞窟内にあったが、湿気で痛みが激しく1680年同地に建て替えられた。
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▲戦前の識名宮は本瓦葺きの三間社流造で、沖宮本殿によく似た造りであったが。沖縄戦によって焼失。
戦後(昭和43年)に社殿が復元された。
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現在も洞窟は本殿裏にあり、毎月1日と15日に扉を開門し洞窟開放日としている。戦時中は防空壕として使用された。
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訪問日は、1日(令和4年5月)だったので中を見学する事が出来た。
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          識名宮の御祭神は熊野本宮大社の第一殿・第二殿の祭神がお祀りされている。
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沖縄八社の権現信仰は熊野三山に見立てられており、末吉宮は熊野新宮、普天満宮は熊野那智、識名宮は熊野本宮に見
立てて信仰されている。(安里八幡宮のみ八社の中で唯一八幡神を祀り、他の七社は熊野権現を御祭神としている)
※熊野三山とは、和歌山県の南東部にそれぞれ20~40㎞の距離を隔てて位置しており、「熊野古道(熊野参詣道)中
辺路」によって結ばれる熊野本宮大社、熊野速玉(新宮)大社、熊野那智大社の事。熊野本宮大社は日本全国熊野神社の
総本山で、古くから熊野信仰の中枢を担っている。
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▼▲④次は普天間宮(ふてんまぐう)(令和4年1月撮影)※ご本尊は「普天満洞穴」
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普天満宮は宜野湾市唯一の神社、沖縄県出身者の心のよりどころとして愛され、正月時期は沢山の地元の人が訪れる。
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地元では「普天間神宮」と呼ばれ、沖縄定番の初詣スポットだ。現在の社殿は、平成16年に再建されたもの。
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琉球王朝時代、普天満宮洞穴に沖縄固有の多神宗教「琉球古神道」が祀られたことが始まりだと伝えられる。
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後に「尚金福王」から「尚泰久王」がおさめた時代(1450~60年頃)に、「熊野権現(ごんげん)」も合わせて祀られ、
今の神社の原型が出来上がった。日の神、竜宮神(ニライカナイ神)、普天満女神(グジー神)と天神・地神・海神と
いった、沖縄ならではの神様も祀られている。中でも、良縁祈願と建築関係諸祈願のご利益が特徴で、県内外からもた
くさんの参拝者が訪れる。
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沖縄戦ではアメリカ軍から逃れようとする人々と共に、本島南部の約30キロ離れた安全な糸満市まで、社掌さんが神体
を運んだと言う。
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▲昭和14年11月に普天間宮前で撮影された垣花女子警防団
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時代を見続けた狛犬は現在も居る。
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▲昭和4年12月3日と刻まれている。
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▲拝殿は新しくなったが、今も当時の狛犬が入口を守っている(2022年5月19日撮影)
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▲拝殿で必要事項を記入して申し込めば「普天間洞穴」を見学可能。洞穴内撮影禁止だが素晴らしい空間が存在する。
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▲昭和20年、終戦直後の普天間宮(米軍占領内で米軍のジープが写っている)拝殿・本殿は焼失して無くなっている。
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▲現在の普天間宮境内
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終戦後もしばらくの間は、アメリカ軍によって敷地が占領されていたため、具志川村(現在のうるま市)に仮設の宮が造
られた。昭和24年にアメリカ軍から現在の敷地が解放され、元の本殿へと戻された。
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▼⑤次は末吉宮(すえよしぐう)(令和3年10月撮影)
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▲末吉公園の北部、東西に亘る緑の丘陵、日本軍陣地壕も点在する通称「末吉山」に末吉宮はある。
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琉球王朝第6代国王「尚泰久王」の時代(1456年頃)天界寺鶴翁和尚が熊野三所権現を勧請して祀った。
明治時代に入り無格社となり、政府による経済的保証が無くなった末吉宮はしだいに寂れ、拝殿が大正2年に倒失。
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本殿と祭場はそれぞれ別の岩盤の上にあり、2つの岩盤を結ぶ独特の磴道(石造階段・アーチ型トンネル)と本殿は昭和
14年国宝に指定されるが沖縄戦で全て倒壊してしまう。
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▲▼戦前の末吉宮(大正2年に倒失した拝殿は無い)
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残った礎石と資材を基に磴道は昭和46年に修理、本殿は昭和47年5月に国の史跡指定を受けて復元された。
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▼末吉公園内に残る羽地朝秀(はねじ ちょうしゅう)の墓
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羽地朝秀は琉球王朝時代の政治家。
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薩摩の重臣との親交を通して藩⇔王国間のコネクションを築き上げ、薩摩との関係抜きには成立し得ない首里王府運営
機構を確立すべく、種々の改革を行った人物。また、それ以前の中世的な国家形態を近世的なかたちに改め、基礎づけ
た改革者としても注目されている。彼の人物像は、彼が1650年に尚質の王命により行った『中山世鑑』の編纂や、16
66年から1673年までのあいだに 尚質の摂政(しっしー)となって行った数々の改革のなかで語られることが多い。
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尚質とは従弟の間柄にあり、後に「王子」に称せられるようになる。このことについて『中山世鑑』の序において尚質
を「尚円公七世嫡孫」とするのに対し、羽地みずからのことも「尚円公嫡孫浦添王子若王月浦六世後胤」とし、第二尚
氏の末裔であることや尚質と親戚関係にあることを示している。


▼⑥次は安里八幡宮(あさとはちまんぐう)※社務所は波上宮にある
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那覇新都心の高層マンションとの絵。
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安里八幡宮の裏手は新都心おもろまちだ。昭和37年仮殿を建て、平成8年に復元。
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八社の中で唯一の八幡宮で、応神天皇、神功皇后、玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀っている。
1713年に成立した『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』では、創建は1457年-1464年)であるとし、第6代琉球国
王尚徳王の御代、兵を遣わして鬼界島(現在の鹿児島県に属する喜界島)を討伐しようとした。小島でありながら鬼界島
が王に従わなかったため、王自らが出陣、その門出、城の麓に水鳥がいた。王は矢をつがえ、「今我軍が有利であるな
らば、この鳥をすみやかに射落とせ」と誓って、一本の矢を地に立て、一本の矢を放った。矢は鳥を射止めたので、王
は帆を上げ出航した。鬼界島へ向かう海路を進むと、今度は小鐘が海面に浮いてきた。船人達がこれを得ようと欲する
と遠ざかるが、船の傍らより離れることはなかった。そこで王は、「この戦に利があるなら霊鐘わが手に入るべし。帰
国の後は八幡大菩薩を崇めるべし」と誓って右手を出すと、鐘は簡単に手に入った。王は歓喜して輿を造って御座船に
勧請し、祭祀を行った。本懐を遂げて帰国すると、王は矢を立てた場所に霊社を建て、浮鐘と神通矢を垂迹として八幡
大菩薩と号し奉じた。1648年『琉球神道記 巻第5』では、第5代琉球国王尚泰久王御代の出来事であるとしている。
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安里八幡宮社殿前には狛犬やシーサーではなく、灯籠が建つ。
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▲戦前の安里八幡宮。昭和19年10月10日(十十空襲)で焼失。
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※八幡宮とは八幡神を祭神とする神社。八幡神社、八幡社、八幡さまとも表記・呼称され、全国に約44,000社ある。
大分県宇佐市の宇佐神宮が総本社。
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▼⑦次は天久宮(あめくぐう)
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天久宮は15世紀頃に出来たとされ、昔は天久権現と呼ばれていた。廃藩置県後に援助が受けられなくなって荒廃し、昭
和12年老築化で倒壊し、昭和19年の十十空襲で壊滅。昭和47年に再建されて現在に至る。
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▼戦前の天久宮
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▲▼「泊之ユイヤギ御嶽」ユイヤギ=寄りあげ。
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「寄りあげ」とは、浜に打ち上げられた砂などが堆積してできた場所や、魚群や流木が打ち上げられた浜の事。今は埋
め立てられて完全な陸地だが、大正時代まではこの御嶽付近まで波が来て、直ぐ海だったそうだ。なので、御利益には
大漁祈願がある。
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▼⑧最後は金武宮(きんぐう)
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昭和9年、450年続いた観音寺は失火によって全焼、昭和14年住職及び村民の協力で現在の観音寺が建立された。
金武観音寺は幸運にも戦火を免れ、戦前のままの姿を残す貴重な木造建築物。金武宮は観音寺内の鍾乳洞内にある。
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▲沖縄戦をくぐりぬけた本堂は戦前のままだ。正式名称は金峯山観音寺
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▲沖縄戦終結後に米軍が撮影したカラー写真。
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▲終戦後、金武観音寺を視察する米軍高官
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金武観音寺は、16世紀に日秀上人によって創建された真言宗の寺で、室町時代?1503年上野国(群馬県)に生まれた
日秀は、19歳の時に誤って家臣を殺害してしまい懺悔の念から高野山に入山。
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その後、南方の海上にあるとされた浄土を目指す「補陀落ふだらく渡海」に紀伊国[ 熊野 ](和歌山県)から出港。
琉球国(沖縄県)の金武湾富花港に漂着後、金武観音寺を建てたとされている。
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「日秀洞」または「金武鍾乳洞」と呼ばれる境内にある鍾乳洞。
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洞内には観音寺鎮守「金武権現」と「水天」が祀られている。
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▲洞窟に入っていくと観音寺鎮守(金武宮)がある。これが金武宮だ。
「官社の制」により沖縄八社の各神職には、役俸並びに営繕費が琉球王府から支給されていたが、金武宮は神職を置か
ず金武観音寺の住職が管理していたため王府からの経営支援は受けていなかった。
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▲観音寺鎮守から入口を見上げる。
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洞窟は更に下へと続いている・・・。
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▲▼鍾乳洞の奥は、観音寺近くの蔵元「金武酒造」の泡盛の保管場所になっている。
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日秀上人は沖縄島において真言宗と熊野信仰を広め、波之上宮の再興を行い、阿弥陀・薬師・観音三像を作って護国寺
に祀り、沖縄における真言宗の総本山となった。
それは波上宮・護国寺を琉球王朝が最も尊んだことからも、日秀上人の名は沖縄中に知れ渡っていたと思われる。
沖縄八社のうち安里八幡宮以外の七社が熊野権現をお祀りしているのも日秀上人の功績によるもので、不思議な天命を
持った人がなすべきことを行った結果を現在の日本人が共有している。
日秀上人は晩年薩摩にわたり鹿児島神宮の再興に尽くし、鹿児島神宮境内裏手には即身仏になった石室が存在し、日秀
神社としてお祀りされている。
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▲観音寺入口の直ぐ隣には「征露記念碑」があるので是非立ち寄ってほしい。
日露戦役の終結は1905年9月5日。「征露」とは明治年間、日露戦役に関わる事。沖縄から大陸へと出征し勝利、無事
凱旋(がいせん)。戦勝の一翼を担った将兵を称え建立した石碑。戦前は民間薬「正露丸」は「征露丸」と表記され、日
露戦役で陸軍は水事情の悪い大陸での陸戦に備え、将兵に正露丸を配布。後に凱旋した将兵と共、民間にも広まった。


沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い等は、以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
屋我地島⇒屋我地島


この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2022_05_05

津堅島

Category: 津堅島  

津堅島(つけんじま)は、沖縄本島中部、勝連半島の南東約5km、中城湾の沖合に位置し、周囲7.0km、人口200人程
の小さな島だ。沖縄諸島で最も知られていない(沖縄戦や戦跡等で)津堅島は、沖縄諸島で最も早く戦時体制に入ってい
た島である。中城湾は明治期に軍港に指定され、明治28年北白川宮能久親王一行が台湾出兵の際に寄港。
明治29年には、沖縄県内初の灯台として島の南島端のカジチ崎に津堅島灯台が建設され、太平洋航路や中城湾の船舶の
出入りを監視した。大正10年、東宮殿下(皇太子時代の昭和天皇)を乗せた戦艦香取(艦長は沖縄出身の漢那憲和大佐)が
渡欧の途中に寄港。東宮殿下は与那原駅から軽便与那原鉄道にご乗車されて那覇駅へと向かい、与那原の海(中城湾)か
ら帰艦されている。昭和に入ると中城湾は、連合艦隊がしばしば入港して大演習を繰り広げた。昭和6年10月には、戦
艦榛名や巡洋艦、空母など64隻が中城湾に集結して大演習を実施。
津堅島では飛来した水上機約30機が、近くの岩礁めがけて爆弾投下演習をして、島民を驚かせたこともあったという。
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▲沖縄本島(北中城村)から中城湾を望む。正面は津堅島、右手は知念半島だ。
大正11年の中城湾要塞建設計画で、津堅島は宮古島、西表島と共に計画に加えられたが、ワシントン条約の影響で計画
は延期となり、臨時要塞建設が実行されたのは、昭和16年夏(8月)からであった。
津堅島民総動員で陣地構築が行われ、同年10月にはほぼ完成、重砲兵第7連隊第1中隊(苧島秀雄大尉)が陣を構えた。
昭和18年、県全体的に「大舛顕彰運動」が展開され、津堅国民学校でも「軍神大舛大尉に続け」を合言葉に早起き運動
が奨1励され、各班ごとに道路の清掃や体操などをしてから登校し、正門に入ると直立姿勢で奉安殿に向かって最敬礼し
てから教室に入ったという。
昭和19年6月22日マリアナ沖海戦に参加した戦艦大和・武蔵・長門が中城湾で一息入れ、翌日広島(呉)に向かっている。
「大舛顕彰運動」とは。
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▲昭和18年(1943)1月13日、ソロモン諸島ガダルカナル島で、与那国島出身の大舛松市陸軍中尉が戦死した。
陸軍省は軍最高の名誉である「個人感状」を授与し、大舛大尉(没後特進)は、沖縄が生んだ初の「軍神」として称賛の
的に。大舛大尉をたたえる顕彰運動が行われ、出身校の県立第一中学校には胸像が建った。
沖縄で感状を得るのは大舛が初めてだった様で、以降、大舛は上聞(昭和天皇に報告された)に達した事も含め「軍神」
とされた。新聞では大舛大尉についての特集記事が組まれ、「大舛大尉伝」という連載まで始まるほどであった。
大舛松市は大正6年(1917)与那国島生まれ。家は農業を営む一般的な家庭だったようだが、父親が教育に熱心だった
そうだ。そうしたこともあり大舛は県立一中に入学。優秀な成績を修め、配属将校の勧めもあり、昭和12年(1937)に
は、沖縄県でただ1人の現役合格者として陸軍士官学校(予科)に入学した。そして昭和15年(1940)大舛は見習士官と
して大陸に渡り、昭和16年の対米開戦後は香港攻略戦に従軍、歩兵第228連隊第1大隊に配属されて各地を転戦する。
昭和17年11月には歩兵第228連隊第1大隊第1中隊長として部下を率いてガダルカナル島に上陸、昭和18年1月13日
に戦死した。数え27歳(享年25歳)の短い生涯であった。
大舛中尉は8人兄弟の長男。戦前から教育熱心な大舛家では、大舛の兄弟姉妹も県女子師範や県立一中、あるいは大学
などに入学、教師になるなどし、沖縄師範学校女子部に通っていた大舛清子さんは、ひめゆり学徒として南風原陸軍病
院に動員され、沖縄戦終結4日前の6月19日早朝に戦死(16歳)されている。
戦後も大舛家の兄弟姉妹達はとても活躍し、三男は沖縄県警の第11代刑事部長として1989年3月に退官されている。
大舛の母ナサマは戦後、フィリピンのルバング島で生存が確認された、小野田寛郎少尉が日本に戻ってきた時のテレビ
を見て、「かたわになっててもいいから松市も戻ってきたらいいのにサー」と言ったという・・・。


昭和19年夏頃からは、高等科の生徒は対戦車壕堀りの作業に動員され、ほとんど授業が受けられなくなった。
度々の空襲警報で休校になる事も多くなり、米軍の本格的な空襲が始まった昭和20年3月からは完全に停止となった。

昭和20年1月26日独立混成第15連隊第1中隊第3小隊(山崎実少尉)が津堅島砲兵陣地援護のため上陸。
苧島秀雄大尉が地区隊長を兼務して津堅地区隊を編成した。編成は下記の通り。
重砲兵第7連隊第1中隊長 苧島(おじま)秀雄大尉以下約130名(球4152部隊)➡12センチ速射加農砲2門、野砲2門
独立混成第15連隊第1中隊第3小隊(小隊長)山崎實少尉以下33名➡重機関銃4 軽機関銃3 擲弾筒3
防衛津堅独立中隊 若干の小銃を持った約40名
(防衛隊の内訳は、戦闘訓練された島内在住の在郷軍人、学校職員、青年団で、3人に小銃1丁、手榴弾は1人8個)
女学生補助看護婦3名、島民女子青年団約10名
※防衛隊戦死者6名、島民2名死亡。女学生補助看護婦と島民女子青年団は全員無事。
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津堅島へは、平敷屋港から神谷観光の「フェリーくがに」と「高速船」が運航している。
2005年4月1日勝連町がうるま市の一部となり、中頭郡勝連町津堅だった住所表記がうるま市勝連津堅となる。
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▲左から「高速船」と「フェリーくがに」
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▲行きは09:00発の「フェリーくがに」で向かった。(往復チケット2480円)
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▲定刻出航。約30分の船旅だ。
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▲間もなく津堅島が正面に見える(平敷屋港から十分見えているが)左が無人島のアフグヮ(アフ岩)、右が津堅島
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▲▼津堅港が見えてきた。
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▼左に見える丘が戦前まで36高地と呼ばれ、津堅地区隊本部が置かれた洞窟陣地だ。
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▼▲30分で津堅港に到着
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▼津堅島は小さいのでレンタル自転車がお勧め。あずま商店でレンタル自転車(1日500円)を借りる事にした。
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▼店主の女将は大阪府高槻市ご出身。津堅島に嫁がれて50年以上の方だった(人参ケーキご馳走様でした)
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沖縄戦では、昭和20年4月5日、中城湾に侵入した米艦艇が、知念岬と勝連半島に砲撃と掃海を開始。
津堅地区隊は接近した米掃海艇を12センチ速射加農砲で砲撃、命中弾を浴びせたが、直後の反撃で津堅島は砲爆撃を受
ける。4月6日島の北海岸に米軍偵察部隊50~60名が上陸するも、独立混成第15連隊第1中隊第3小隊が攻撃をかけて
撃退する。米軍の本格的な上陸作戦が行われたのは4月10日、激しい砲爆撃の支援下の中で決行された。
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戦車を先頭として約1個大隊の米軍が津堅島南部及び南東部に上陸を開始。
津堅地区隊は、米軍の先頭部隊が上陸した後に主火力の射撃を開始した。部落北東地区にあった12センチ速射加農砲
(1門)は集中火を受け、火砲は破壊され多数の死傷者を生じた。独立混成第15連隊第の山崎小隊の一部は現在の津堅
漁港から津堅小中学校を結ぶ坂道の陣地にセナハ浜から上陸した米軍部隊が接近すると、激しい射撃を行い抵抗した。
こうした守備隊の反撃と、横雨で視界が悪かったこともあり、米軍の進出は阻まれたという。
だが山崎小隊(一部)は全滅し、砲兵中隊の小銃兵が防戦にまわった。この射撃により米軍の血が港まで流れたという。
ニンギ浜から上陸した米軍部隊はスムーズに進攻し、集落の東方を北上した。その辺りには12センチ速射加農砲を擁す
る西脇小隊(西脇二郎中尉)が配備されていたが、米軍の砲火で12センチ砲は破壊され砲兵小隊は一本松高地に後退。
米軍は日本軍を追い山崎小隊の主力と交戦。山崎小隊主力は、小隊長自ら重機関銃を射撃して勇戦したが、機関銃が戦
車砲によって破壊された為、軽機関銃、擲弾筒、小銃によって戦闘を継続。南部海岸正面に配置した歩兵部隊(山崎小
隊の一部)の殆どが死傷した為、地区隊長苧島大尉は、山崎小隊に地区隊本部の36高地洞窟拠点に後退を命じ、津堅地
区隊主力は津堅島部落西部側高地の陣地に拠って防戦した。
米軍部隊はこの日夕方までに島の北端に到達し、36高地一帯の津堅地区隊主力を包囲した。
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▲現在の津堅小中学校。既にこの位置も高台ではあるが、36高地洞窟陣地はその真裏に位置する。
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▲36高地洞窟陣地の入口付近。(3月5日だったが蚊が大量に・・・)
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▲突き当りにはアラカーと呼ばれる水源がある。岩から湧き出す水を貯めているカー(井戸)だ。
岩にはたくましい樹木の根が張り付いていて、生命力を感じる神聖な場所。
此処の水を汲んで産水として使ったり、死者を清める水として使ったりしていたと言われている。
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▲銃眼を備えた陣地壕が見える。この奥側が36高地洞窟陣地壕群だが、とても奥に行けそうもなかった。
「津堅の新川・クボウグスク周辺の陣地壕群」としてうるま市の文化財にも指定されているのだが・・・。
新川グスクの岩山をくり抜き構築された3階構造の「三六陣地壕」、中城湾に進入する艦船に対する攻撃陣地として構
築されていた新川グスクの「野砲陣地壕」、津堅島駐留の日本軍部隊の糧秣倉庫と野戦病院(A1・A2陣地壕)が残って
いるとの事だ・・・次回必ず行きたい。

36高地西側には病院壕があったそうだ。負傷者の対応は配属された島の女性達(補助看護係)では、とても対応できない
ほどの数だったと言う。自力で移動できない兵には手榴弾が配られ、自ら命を絶っていった。
昭和20年4月11日も早朝より戦車を使用した米軍の攻撃がおこなわれ、米軍は36高地陣地の僅か10メートルの距離ま
で迫り、津堅地区隊主力は重機関銃1つと、手榴弾による斬り込みなどで決死の抵抗を続け陣地を守り抜いた。
日没前米軍は、戦車をもって約30分にわたり洞窟拠点を砲撃したのち、攻撃を中止した。
米軍戦車は破壊された部落の石垣などによって洞窟に近接できなかったことも幸いした。
1日半の戦闘で11名が戦死、80名が負傷、3名が行方不明となった。
11日夜、津堅地区隊主力は、明日はいよいよ玉砕なりと覚悟を固め、夜間を利用して死傷者の収容を行うと共に陣地を
補修し、最後の決戦準備を整えたが、11日夜、米軍は津堅島から撤退した。
日本軍部隊をほぼ壊滅に追い込んだとの判断と、中城湾に待機している米艦艇への日本軍の攻撃を警戒したことが、早
期の撤退に繋がったようだ。
12日朝、島内を偵察した結果、米軍は津堅島から撤退して一兵も存在しないことが判明した。守備隊長苧島大尉は直ち
にこの状況を独立混成第44旅団司令部に電報報告した。12日12:00頃、旅団司令部から「地区隊は勝連半島に転進し
中頭地区において遊撃戦を実施し、状況により軍主力に合すべき」旨の旅団命令を受けた。
米軍が撤退した12日以降、苧島守備隊長らは、戦死者の埋葬、負傷者の収容などをおこない刳舟(クリ舟)で勝連半島に
転進することを決したが、米軍は4月23日津堅島に再上陸する事になる。
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        ▲▼36高地洞窟陣地の入口付近にある階段を登っていくと慰霊碑が建っている。
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当然一礼して黙祷。慰霊させて頂いた。
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▼36高地の慰霊碑から、米軍が上陸した島南東部(ニンギ浜/セナハ浜)付近を望む。奥の島は沖縄本島
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その後、津堅地区隊は上級部隊である独立混成第44旅団の命令により、沖縄本島に転進する事となる。
4月10日の戦闘開始以来、津堅島戦死者は、重砲兵第7連隊44名、独立混成第15連隊第1中隊第3小隊13名で、転進
人員は約80名となっており、捕虜となった者はいなかった。
戦死者57名を埋葬するとともに移動不可能な負傷者を洞窟内に残し、津堅地区隊主力約80名は4月12日夜、トマイ浜
から刳舟で本島(与那原)に向けて出発した。
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▲慰霊碑の更に上からの眺め。
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展望台の裏手に陣地壕群が残るが・・・簡単に見える壕口は2つほど。
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入口はかろうじて見える壕もあるが・・・この一帯を全て探索するのは次回とした。
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崩落していて入壕出来そうな壕は見当たらなかったが、一帯をくまなく探索すれば探し出せるはずだ。
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津堅地区隊はその後13日天明までに勝連半島平屋敷付近に到着した。しかし、陸路で本隊に合流するのは困難と考え、
水路中城湾を突破して島尻(本島南部)に転進することに決した。13日夜は近在する米軍遭遇の危険を避け、勝連半島
からほど近い無人島に再度、刳舟で移動、潜伏し、全員一夜を明かした。
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▲その無人島は船からハッキリ見える。右手は勝連半島、左の無人島がそれである。
14日夜与那原に向かって海上を南下したが、米艦艇に遭遇し西脇中尉以下3隻の刳舟は、津堅島に戻り、15日夜に再出
発したが、敵に発見され再び津堅島に戻っている。
4月20日、負傷者収容の為に津堅島に引き返した部隊と西脇中尉以下30名は津堅島で合流、西脇中尉一行と負傷者を収
容し直ちに出発しようとしたが、負傷者が多く中止した。
4月22日夜、再出発しようとしたが、重傷者の搬送に時間を要し、乗船完了が23日02:30頃となった為、再び出発を
中止して全員洞窟拠点に引き返した。
4月23日残敵掃討作戦で米軍が再上陸。負傷者と西脇中尉以下30名が米軍の洞窟陣地火焔攻撃で戦死している。
4月25日残存兵員十数名は夜、津堅島を脱出して本島に帰還した。与那原付近に到着して原隊に復帰した。
米軍上陸以降25日までに重砲兵第7連隊82名戦死(130名中)、独立混成第15連隊第1中隊第3小隊22名(33名中)
であった。※米軍戦死11名、負傷80名、行方不明3名。
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▲昭和10年(1935)に撮影された戦前の沖縄。漁から戻った刳舟(クリ舟)に積まれた魚を選別して籠に入れる女性達。
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      36高地入口付近にある根神輝夫先生頌徳碑(しょうとくひ)
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      頌徳碑とは、個人や団体などの偉業・功績を讃えるために建立された碑。(顕彰碑とも言う)
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校長先生を歴任されている立派な方だったんだ・・・沖縄県に移住してから初めて知る偉人の方は本当に多い。
昭和34年、第4次南極観測隊を乗せた観測船「宗谷」の甲板長として、沖縄県から初めて南極に渡った嘉保博道さんは
津堅島出身。南極に向かう宗谷が津堅島沖に達した時、島中の人々が船に向かって手を振り、嘉保氏の家族を乗せて漕
ぎ出した小舟に合わせて、宗谷もしばし並走。感動的な船上の出会いと別れを伝える新聞報道に沖縄中が沸き立った。
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  ▲戦後(沖縄戦中?)、38高地に米軍が建てた鉄やぐら型の灯台
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     ▲▼昭和47年の沖縄返還後、昭和51年3月日本政府が現在の津堅島灯台に建て直している。
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▼現在のニンジン展望台は、戦前の38高地で、津堅島で一番高い場所である。津堅島灯台も見える。
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▼ニンジン展望台に上ると絶景が広がる。
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▲▼ニンジン展望台よりトゥマイ浜から島の北を見る
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▲画像の正面辺りの平地が、独立混成第15連隊第1中隊第3小隊(山崎小隊)の主力陣地だった所。
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▲山崎小隊の主力陣地だった周辺には津堅国民学校があったようだ。
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▲▼美しいトゥマイ浜
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▲▼トゥマイ浜海岸にポッカリ開いた穴(壕)
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たまたま犬の散歩で通りがかった地元の方に聞いたところ、やはり旧軍が構築した監視壕だとの事。
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▲内部は兵隊1~2人入れればいい所。腰掛けられる椅子?のように綺麗に掘られた壁が突き当りにある狭い空間。
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▲監視壕?から中城湾を望む。
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▲戦後生まれの方だがとっくに還暦を超えて70代。昔の津堅島話を沢山聞かせて頂いた。有難うございました。
畑作業用の「作業着」との事だったが、古い米軍の軍服を着て犬を散歩させる姿はなかなかカッコよかった~。
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▲2021年2月21日に除幕式が開かれた、三線の始祖とされる「赤犬子(アカインコ)生誕の地」の石碑と案内板。
※赤犬子は、尚真王代(1477~1526年)王に仕え、詩や音楽、建築など各方面で活躍し、三線の始祖ともされる。
島には「身ごもった読谷村楚辺の女性が、身の危険を避けるため津堅に渡り、島のシヌグガマで生んだ子が赤犬子」と
いう伝承があり、「赤犬子」を祀っている読谷村にある赤犬子宮では「さんしんの日」に、琉球古典音楽と舞が奉納さ
れる。因みに3月4日は「さんしんの日」らしい。
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日本は国民の大部分が長期間単一民族であったことを反映して、明治末期、皇室=国民の宗家。天皇=国民の父。
国民=天皇の赤子(セキシ)という家族国家観(家族制度)だった?敗戦までは・・・。今でも天皇制ですけどね❤
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▲▼津堅島最北端、ヤジリ浜。干潮時には歩いて渡れる無人島のアフ岩(島)
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▼お隣のタナカ浜方面を見る。
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▲南国に似合わないビニールハウスは猫対策との事だ・・・。
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▼▲ニンジン畑
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▲▼小麦?畑もあった。
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▼増えすぎた猫に島の農家さん達は非常に困っておられた。去勢手術も行政が取り合ってもらえないという・・・。
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▲▼津堅港。津堅港からほど近い場所に、明治29年沖縄県内初の灯台として建設された津堅島灯台跡がある。
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▲島の南島端のカジチ崎を見る。このカジチ崎に津堅島灯台跡がある。赤瓦の建物は津堅汚水処理場。
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▲津堅汚水処理場
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▲津堅汚水処理場の直ぐ近くに津堅島灯台跡入口が見える。
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昭和19年(1944)10月10日、米軍の空襲で破壊され、土台のみが残る。
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▼正面に見える島は久高島
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戦後も1949年まで島民は沖縄本島の南風原地区に強制移住させられた経緯をもつ。
主な産業は農業と漁業。最高標高が40mに満たない平坦な島で、根菜類の栽培に適した土壌であったことから、戦前は
ダイコンの栽培を行い津堅ダイコンとして知られていた。現在は人参の生産が盛んで、島の面積の1/3がニンジン畑で、
キャロットアイランドの別名を持つ。人参の生産が始まったのは米軍統治時代の食料政策によるものという。
津堅島の人参は甘みがあり高品質で、沖縄県内で生産する人参の2割は津堅島で収穫される。以前の出荷先は県外が中心
であったが近年は県内にも出荷している。1981年に土地改良事業が完了した。
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コンビニも無く、どこか喜界島にも似てる。土地改良事業がなされ、静かで雰囲気の素晴らしい島だった。
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※[ ヒゲのボースン ]南極からの帰還。
昭和31年(1956)11月南極観測船「宗谷」は、第1次南極観測隊を乗せて日本を発ち、翌年1月日本の観測船として初
めて、南極大陸に接岸した。以降、宗谷は毎年南極大陸への航海を続け、昭和36年(1961)に第6次観測隊を南極に運
び、南極観測船としての役目を終えている。昭和32年の第2次観測隊は、悪天候に見舞われ、第1次観測隊の収容には
成功したものの、第2次観測隊の南極上陸を断念。その時、南極に取り残され、厳しい冬を生き抜いたカラフト犬のタ
ロとジロは有名な話。タロとジロが発見された翌年、昭和34年(1959)10月、第4次観測隊を乗せた宗谷の甲板長は、
津堅島出身の嘉保博道(かほひろみち)さん。宗谷の乗組員、観測隊員を通して唯一の沖縄県出身者だった。
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▲▼昭和35年4月16日宗谷が那覇港に寄港した時の嘉保甲板長「ヒゲのボースン」➡ボースンは甲板長の意味
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第4次観測隊を乗せた宗谷の最初の寄港地はシンガポールで、津堅島の沖を通る。宗谷が津堅島の沖を通る朝、津堅島
の子供達は丘に登り、港から出た多くの船は、歓迎の意味を込めて宗谷に伴走したという。
嘉保甲板長を激励する島の人達と、甲板からそれに応える嘉保甲板長。米国統治下の沖縄での見送る側の誇らしい気持
と、見送られる側の喜びは言葉にならなったことだろう・・・。
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▲宗谷は南極に第4次観測隊を無事に送り届け、日本への帰路途中(昭和35年4月16日)に那覇に寄港。
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太平洋戦争(大東亜戦争)で50人中19人しか残っていなかった嘉保甲板長の同級生が幟を立てて歓迎。那覇に到着した
宗谷は大歓迎を受け、約5万人が泊港に押し寄せたそうだ。
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日の丸の小旗が振られ、万歳の声が止まなかったという。未だ米国統治下だった沖縄だけに意味は大きい。
宗谷が那覇に滞在したのは2泊3日。嘉保甲板長は迎えに来た兄弟達と共に、一晩だけ津堅島に帰り、それが26年ぶり
の帰省となり、島は沸き返ったという。
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▲昭和13年の進水式から現在も、東京・お台場の「船の科学館」で保存されている南極観測船/強運の軍艦「宗谷」
「宗谷」は昭和13年進水式。ソ連が購入をキャンセルした事で、国内で商船「地領丸」として使用される。
昭和14年11月日本海軍が買い上げ軍艦扱いとなり、「宗谷」という艦名になる。当時の海軍には、海面の氷を割りな
がら航行できる砕氷艦が旧式の「大泊」しかなく、砕氷能力が高い「宗谷」は建造中から注目されており、ソ連との契
約解消を当時の外務省と海軍省も強く勧めたそうで、将来的に海軍が買い上げる事も予定通りだったという説もある。
海軍籍の軍艦になった当初から海軍内では、砕氷艦にする案はあったようだが、時世の変化により砕氷艦の価値が薄ま
った事で、結局、測量をする特務艦として南方の海で活動することになり、西太平洋トラック諸島、ポナペ島の正確な
海図を作るために測量を担当する。日米が開戦し太平洋で戦争が始まると、太平洋の島々で測量任務に加え、輸送任務
も担うようになった。宗谷の強運エピソードは戦時中に作られる。昭和17年(1942)1月トラック諸島で、宗谷はB24
の空襲を受けるが無傷でくぐり抜け、その後も何度か空襲に合うが、損傷を受けず、敵機撃墜の戦果を挙げる。
そして、昭和18年(1943)1月28日、南太平洋のブカ島(現パプアニユーギニア)クイーンカロライン沖で敵潜水艦
に魚雷4本を発射され、1本が宗谷船体に命中するが幸い不発で損傷は軽微だった。元々砕氷船として作られていた為、
二重船底で丈夫な構造となっており、浸水もなかったという。昭和19年(1944)2月16/17/18日、日本軍の艦船/
輸送船60隻以上、航空機270機以上の損害を出したトラック大空襲では、初日に回避行動をとった際に座礁し、身動
きが取れなくなり絶体絶命の状況に。2日目は自らを砲台とする形で他の艦船を援護するも、米軍機の機銃掃射により、
高射砲手全員が死傷、副長が戦死、艦長も負傷し、ついに総員退艦の命令が下る。通常この命令が出た時点で艦は諦め
て捨てるという事だが、空襲後「宗谷」は運命のいたずらか“自然に”離礁して浮いており、艦を確認しに戻った乗組員
を涙させたそうだ。大戦末期には測量機材を全部外し、横須賀~室蘭間で石炭輸送任務となり、この輸送は航路上で、
度重なる空襲や潜水艦の魚雷攻撃や、施設された機雷のなかを突っ切るため、「特攻輸送」と呼ばれていたそうだ。
しかし、ここでも奇跡的に「宗谷」は目立った損傷を受けることなく任務を続け、逆に敵潜水艦を爆雷で反撃して追い
払い、撃沈された僚船の乗組員救出なども行った。戦後「宗谷」は外地からの引き上げ船として運用され、任務終了後
は再び商船に戻る。宗谷が戦後に賠償艦として連合軍に接収されなかったのは、船速の遅さや、見た目の古めかしさな
どで、特に魅力的な艦に見えなかったことが理由だという話がある。いずれにせよ廃艦や接収も免れた幸運の艦船と言
える。昭和24年(1949)12月からは、海上保安庁所属の灯台補給船「そうや」となる。
昭和30年(1955)11月、南極観測船に抜擢。抜擢理由には「どんな過酷な環境でも宗谷ならきっと帰ってきてくれる」
という船運の強さも大きな理由として挙げられたそうだ。当時の国家予算が1兆円前後の日本で、改修費用は約5億円。
それだけ南極観測は当時の日本にとっての重要事だったと言える。そして船名も正式に南極観測船「宗谷」に改修され、
昭和37年(1962)まで南極観測任務を務め、海上保安庁で巡視船として運用された後の昭和53年(1978)10月2日に
退役した。現在は船の科学館(東京都品川区)で、日本海軍と海上保安庁に所属歴のある唯一の保存船として、その船
体を休めている。


※津堅島の[ 神谷ファミリーズ ]。
神谷幸一、神谷幸裕、神谷千尋など、津堅島出身の親族で結成された「神谷ファミリーズ」
民謡歌手である〝神谷幸一〟を筆頭に、沖縄の民謡シーンを盛り上げてきた実力のある歌い手集団だ。
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民宿神谷荘は「神谷ファミリーズ」が経営するとてもロケーションの良い宿。
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神谷ファミリーズの歌い手さんの演奏が神谷荘のステージ楽しめるそうだ。
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津堅島といえば「神谷」なんですね~。
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沖縄民謡 神谷幸一「津堅ビーチソング」YouTube
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帰りは最終便の時間になった。最終便は高速船しかないので、マリンターミナルで追加料金(高速船代)を支払う。
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17:30発の高速船で沖縄本島(平敷屋港)に戻った。高速船だと15分で着く。加えて船内の揺れなど少なく快適。
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沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い等は、以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
屋我地島⇒屋我地島


この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2022_03_08


【島田叡】戦前最後の沖縄県知事。神戸市須磨区出身。(享年43歳)
医師の7人姉弟の長男として明治34年12月25日神戸市須磨区須磨寺町に生まれた。
文武両道で、神戸二中~東京帝大まで野球部で活躍。当時の日本では学生野球がトップスラス。スター選手だった。
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大正3年3月 西須磨尋常小学校卒
大正8年3月 兵庫県立神戸第二中学校卒
大正8年9月 三高文科丙類入学
大正11年4月 東京帝国大学入学
大正14年4月 東京帝国大学法学部政治学科卒
大正14年4月 山梨県属
大正14年11月 高等試験合格
昭和3年1月 地方警視
昭和3年1月 徳島県保安課長
昭和4年12月 岡山県保安課長
昭和6年1月 三重県警務課長
昭和7年1月 長崎県警務課長
昭和9年11月 福岡県警務課長
昭和12年1月 地方事務官、大阪土木部総務課長  
昭和13年1月 佐賀県書記官補警察部長
大阪府内政部長時に内務省から(泉知事の後任)沖縄県知事打診を受ける。
(沖縄戦を前に前任者の泉知事が本土に戻って(逃げて)しまった・・・。)
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▲前任者の泉守紀知事(いずみ しゅき)は転任届を出し、その後、香川県知事に就任している。
内務省の内示に接し、赴任すれば死確実の情勢に、任務辞退を勧める親友・周囲の声に対し、島田はきっぱりと、
「私が行かないと、誰かが行かなければならない」と、覚悟の「断」の一字を書き残し、妻子を残し沖縄へ赴いた。
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            ▲四天王寺に残した島田叡の筆跡
昭和20年1月12日 政府は島田叡を沖縄県知事に発令
島田のこうした性格は、すでに神戸二中時代からその片鱗を見せていた。野球部に席を置いた島田は、猛者連で結成さ
れたチームを見事に統率していた。ひとクセもふたクセもある部員のなかで、いつの間にかキャプテンに推されていた。
いたずら盛りの部員が、どんな“悪事”を働いても、決まって仲間を弁護。時には言われもない叱責を一人でかぶる。
こんな“受難者”的振る舞いが、チームメートに厚い信頼感を与えていたからだった。
島田は沖縄着任早々疎開推進の為「人口課」を創設。荒井、浦崎人口課長と疎開が必要な地域に足を運び「講演」の形
で、住民に疎開を要請した。最終的な疎開数は、県外約73000人・沖縄本島北部に15万人。疎開だけで20万人が命を
救われたと言われ(当時の沖縄県民総人口約70万人、宮古・八重山など含む)、約10万人が戦闘で亡くなっている。
不足する食料では単身台湾に行き、約450トンの米を調達(食料の運搬等では、海軍・太田中将の尽力も助けとなった)
島田知事は、住民の疎開と危険回避、危険を犯して自らが海を渡った食糧空輸、軍司令部との交渉、壕の中で行った行
政、酒や歌舞の許可など、死を覚悟させられた県民への仁政と人間味あふれる行動の末殉職した。
草木1本にまで県土に責任を持った最後の沖縄県知事として、戦中・戦後の沖縄県民、今も偲ばれ続けている。
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▲「島守の塔」には島田と行動を共にして殉職した荒井退造沖縄県警察部長も顕彰されている(栃木県出身 享年44歳)
島田知事は昭和20年1月31日沖縄県に着任。荒井退造警察部長は島田よりひと足速い昭和18年7月の着任だった。
泉前知事や高級官僚の何人かが本土へ出張名目で逃げていたりと、行政の機能がマヒ状態だった事態を、適材適所の抜
擢などで立て直し、島田と荒井は手を携えて、「県民が戦火に巻き込まれないよう疎開の推進」を目標に定め奔走する。
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▼▲島田叡沖縄県知事の顕彰碑が、那覇市奥武山町の「奥武山公園」内にある。
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2015年島田叡(あきら)氏の出身地である兵庫県との「友愛の証し」として、奥武山公園【多目的広場】が、島田氏
の顕彰事業の一環として「兵庫・沖縄友愛グラウンド」に改名された。
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広場横には記念碑が建てられ、バックネットに兵庫・沖縄友愛グラウンドの看板が設置された。
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島田叡沖縄県知事は、昭和20年6月17日摩文仁司令部豪に牛島司令官を陣中訪問した後、荒井退造警察部長と共に
7月初め頃に自決、共に殉職したとされるが、島田叡知事と荒井退造警察部長の遺骨は見つかっていない。
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▲▼沖縄戦跡国定公園内にある県職員及び島田叡知事の慰霊塔
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▲一番高い位置の島田知事/荒井部長終焉の地碑は1951年。奥に島田知事/荒井部長がいた軍医部壕がある。
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【 昭和20年5月以降の島田知事と荒井警察部長の足取り 】
4/25那覇市繫多川の新壕(ミィーゴウ)にいた島田叡知事は、那覇市真地(識名霊園内)の、荒井退造警察部長らが居た
「シッポウジヌガマ」に移動。島田知事も合流したことから「県庁・警察部壕」と呼ばれるようになった。
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▲識名園内に残る第62師団(石部隊)野戦病院識名分院壕の通気口。ずゐせん学徒隊/梯梧学徒隊が活躍した。
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【 5/23 志多伯の野戦重砲兵隊が県庁壕との交換を申し入れる 】
東風平村志多伯に展開していた野戦重砲兵第1連帯の将校が県庁・警察部壕を訪れ「作戦上、陣地を前進させたいので、
食糧共々野戦重砲兵第1連帯の壕と交換してくれ」と申し入れてきた。
島田知事は承諾の返事を出し、荒井部長は長堂の後方挺身隊本部へ伝令を飛ばした。
「首里戦線急迫により、挺身隊本部は高嶺村与座方面へ移動せよ」と。荒井部長は、先に大石橋で敵の集中砲火にあい、
豊見城村への脱出に失敗した山里和枝ら女性群20数人を再度出発させた。篤志看護婦として豊見城村の海軍沖根に身分
を引き継がれた十余人は、予想を絶する厳しい現実にたじろいだという。

【 5/24 長 軍参謀長、県に与座岳以南に移るよう指示 】
島田知事は、長参謀長宛に「かねて軍司令部壕内に築造中だった知事室がやっと完成したので、小職以下数名が移転し
お世話になりたい」との親書を知事付きの隈崎警視に届けさせる。長参謀長、折り返し「県は速やかに与座岳(糸満市
与座、大里の南にある標高168メートルの琉球石灰岩の丘陵以南に於いて県民指導に当たられたい」と返書。
壕内知事ポケットに各課長が集められ、長参謀長の書簡について協議した。
また内務大臣宛に本土決戦の際、参考となる「防衛対策」を意見具申の電報として打つ。

【 5/25 県、内務省に「六十万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク」打電 】
荒井警察部長は島田知事に相談し、内務省に打電。
「六十万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク 此ノ決戦ニ破レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ此ノ部民ト相倶ニ敢闘ス」
当日未明一行は壕を出発、約11キロ南に当たる東風平村志多伯の野戦重砲兵隊の壕を目指して南部撤退を開始した。
各自の装備は戦闘帽に鉄カブト、手榴弾、警察官はそれに拳銃、帯剣だけ。持ち物は着替えのシャツ類や日用品を入れ
たふろしき包みで、島田はそこへ常備薬と博多帯、手提げカバンに愛読書の『南洲翁遺訓』と『葉隠』を入れると、2
つのトランクを壕に残した。秘書官らの負担を出来るだけ少なくしようとの心遣いだった。
知事のグループはお付きの仲宗根官房主事、小渡、嘉数両秘書官に、当真警護官の5人。
荒井警察部長、そのお付きの仲村警部補、佐藤特高兼警務課長、隈崎警視らは別グループだった。

【 5/25午前8時 県庁、八重瀬町志多伯の野戦重砲兵第一連隊第四中隊壕に着く 】
野戦重砲兵第1連帯は軍命令で前進が中止となり、壕の交換が出来なくなった。「作戦だ」と言われれば、返す言葉も
ない時代。壕と共に食糧一切そのまま交換する約束だったので、知事一行は鍋・窯・一粒の米も持っていなかった。
その日のみの約束を借り、朝食を済ませた時には正午に近かった。となると、明日からの食糧を調達せねばならない。
夜を待って警務課の宮城警部を隊長に14、5名が真地の壕へ引き返して行った・・・。

【 5/26未明 真地壕に食糧等を取りに行った部隊戻る 】
明け方、米や味噌、炊飯用具を背負った宮城警部(隊長)一行が無事に帰ってきたが、一睡もせぬ徹夜作業だった。そし
て次の壕の確保に、佐藤特高兼警務課長と伊野波警防課長が、壕の交渉の為、高嶺(現・糸満市)に駐屯している山部隊
(第24師団)司令部へ向けて出発した。

【 5/27明暁 秋風台の壕に到着。さらに福地森の壕に移る 】
「出発した27日は大雨で、私たちは手荷物に体の自由を奪われ何度も転びました。その度に知事を警察部長は待って下
さったが、全員泥んこでぬれネズミ。都落ち、敗走という感じが強くしました。他の同僚は今度は食糧を背負わなけれ
ばならないので、辛く惨めな逃避行でした、志多伯へ来た時のコースを逆行しました。今の県道134号線を西へ、当銘
まで戻り、兼城村(現在の座波)へ出て、兼城国民学校前の村道を南下しました。この道が今の県道7号線と交わる辺
りで報得川が東から西へ流れ、糸満の海へ注いでいますが、そこに琉球王府時代からの由緒ある石橋・報得橋が架かっ
ていました。橋の手前で左折して、東方向へ入った細い農道沿いに秋風台の壕はありました。軍が掘ったらしい構築壕
で、中にはポケットもない単純な造りでした。この壕に知事さん、小渡、嘉数両秘書官と私の4名が入ったので、先ず
秋風台の壕に入られたのは間違いありません」(当真警護官の証言)
島田知事と荒井部長は秋風台の壕で、沖特陸浜野部隊の宮城嗣吉上等兵曹夫妻の訪問を受けた。
27日は沖特陸(海軍)も糸満の南約2キロの真壁村伊敷へ撤退を開始した日だが、宮城は妻を伴って南下、途中、島田と
荒井に妻を預けるため寄り道したのであった。
「島田さんは快く引き受けてくれました。その時『自分たちはもう覚悟しているから、どうなっても構わないが、何の
罪もない婦人や子供達を1人でも多く助けてやりたいと思っている』としんみり話され、『奥さんのことは、心配しな
くて良いですよ。あなたは必ず生き抜いて、迎えに来てあげて下さい』とおっしゃった。
荒井さんや佐藤さんも『奥さんの面倒は見るから、心配はいらないよ。
それより、あなたが頑張って生きなくっちゃ』と励ましてくれました。足手まといの女性が1人増えるのに、3人共本当
に優しい人でした」この後、島田と荒井の言葉を胸に懸命に生き、島田の念願通り婦女子を主とする約300人の避難民
救出を果たす。島田が最初に入った秋風台の壕から、福地森の壕へ移ったいきさつが隈崎手記にある。
福地森の壕にポケット状の小部屋が沢山あるのを知った隈崎は、知事に入ってもらおうと思ったが、敷物がない。
そこで部下の与那嶺巡査部長と浦崎巡査に近くの集落から敷物を探してくる様に命じ、2人が帰って来るまでの間、報
得川へ水浴びに出掛けた。蛇行する川は梅雨の大雨で乳色に濁り、川幅一杯に増水して川面に伸びたユウナの枝も水浸
しになっていた。抜け目なく、既に川に入っている先客に混じってユウナの木陰で水浴していると、「やってるね」の
声が掛かった。振り向くと、シャツとステテコ姿の島田知事がタオルを提げて笑っていた。「僕も浴びようかな」と裸
になって川に入って来て、「久し振りだな水浴なんて、サッパリするぞ」と嬉しそうだった。そこへ「やってますね」
と、荒井も現れ、水浴に加わった。サッパリしたところで隈崎は2人に新しい壕に移ってもらう事を告げた。

【 5/27昼食時 福地森の壕でのひとこま 】
隈崎が一足先に福地森の壕に戻ると、敷物探しに行った部下たちが古畳とむしろを各1枚見つけて帰っていた。
ほこりを払い、ぞうきんをかけ、畳は知事のポケットに、むしろは警察部長の部屋に敷いた。そのうち、何やら腕がモ
ゾモゾする。ロウソクの灯に照らして見るとシラミだった。「畳だろうか」「どうしましょう」3人でコソコソ話して
いるところへ島田と荒井が帰ってきた。「ホウ、畳だね、ご苦労さん」と島田は3人の部下をねぎらった。
遅い昼食を済ませると、島田は荒井と何事か相談を始めたが、そのうち島田は「体がかゆい」と言い出した。
「さて、わきましたかな」と、シラミに関しては先輩らしい荒井がニヤリ。「何がですか」「シラミですよ」。
2人の間で取り交わされる問答を、近くに居た課長たちがニヤニヤ笑いながら聞いていた。

【 5/27夕刻 島田、隈崎にさらに後退すべく壕探しを指示 】
島田知事は、隈崎に「今の様子では、この壕にも長くはおれまい。疲れていて気の毒だが、明朝、真壁村伊敷の首里警
察署の壕に行って、あの付近で適当な壕を探してくれ。2~3日中に自分もここを引き揚げることにするから」と指示。
「一県の知事ともあろう人が、まるで野良犬の様に追われ追われて、落ち着く場所もないのだと思うと、戦場とはいえ
お気の毒とも情けないとも思うのであった。こんな事態を予測もせず、無準備だったことを悔いると共に、神州不滅
を過信した浅はかさが情けなく、敗戦がいち早く迫ってきたかに思われて哀れであった」(隈崎の述懐)
「県民救護並ニ特殊任務ノ為 謝花警部以下八名ヲ民衆ニ潜入セシメタリ」の電報を最後に、県から内務省への通信連
絡は途絶える。

【 5/28未明 隈崎、真壁村伊敷に壕探しに行く 】
隈崎は与那嶺巡査部長と浦崎巡査の2人を伴って福地森の通信隊の壕を出る。辿り着いたのは、真壁村伊敷集落の南西
約500mの巨大な自然洞窟「轟壕」だった。本島南部・島尻地方には背の低い松やソテツなどが生えた琉球石灰岩の丘
陵が多く、轟の壕もそんな丘陵の一つにある。福地森や大城森の壕から南西約8キロ。本島最南端の断崖まで僅か4㎞
の地点だった。

【 5/28午後 浦崎一行、座波集落に着き生気を取り戻す 】
浦崎らの一行はやっと座波集落にたどり着き、ここへ来るまでとは別世界のような静かなたたずまいを残す農家で、蒸
し芋を腹一杯ご馳走になった。まる一日ぶりの食事で生気を取り戻すと、任務のことが浦崎の頭をよぎった。
夕方、浦崎と永山視学は兼城村役場と国民学校の共同壕へ陣中見舞いに出かけた。壕は岩盤をくり抜いたガッチリした
造りで、壁には書架がつくられ、書類や簿冊が積み重ねてあった。緊急事務も、ここで処理しているという。校長先生
の話では、児童は家族と一緒にそれぞれの集落の壕に避難させ、担当教師が巡回私道に当たっていた。県庁の挺身隊員
も時折この壕に来て、懇談会を開いたり、役場の人達と一緒に夜間増産の督励に回っている事も報告された。

【 5/28夜 日本軍に壕を追い出された住民が警察官に抗議 】
壕の近くで、中年以上の男女の一群が、警察官の指揮を受けていた。屈強な若者は1人も居なかった。前線への弾薬補
給と輸送の為かり出された義勇隊だったが、1人の中年の男が警察官に訴えている激しい口調に、皆はじっと耳を傾け
ていた。彼の訴えは前夜、近くの潮平集落で起きた惨劇だった。
「抜刀した友軍の将校らが村の壕に現れ、『出ろ、直ぐ出ろ、兵隊がいなけりゃ、この島が守れるか。出なけりゃこれ
だぞ!』と、日本刀や拳銃を突きつけたんだ。抵抗の出来ない女や年寄り達を村の壕から追い出したんだ。追い出され
た人達は焼け残った馬小屋や石垣の陰にしゃがんだり、集落内を右往左往しているうちに、糸満沖から射ちこまれた艦
砲でやられてしまった。我々は勝つ為に命がけで軍に協力しているのに、その軍が罪もない親、兄弟姉妹を死に追い
やっている。そんな軍にどうして協力できるんだ」と。
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▼▲住民追い出しの惨劇がおきた潮平権現壕は今もそのまま残っている(鳥居は戦後建てられたもの)
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    ▼潮平権現壕は全長130メートルの細長い自然壕で入口も見えている壕口の他にもう1箇所あったようだ。
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※「潮平権現壕」は約500人の民間人が避難していた。軍隊に壕を追い出された後、やはり死ぬなら潮平で・・・。
と思い壕に戻ると、日本軍は居なくなっていた。そのまま壕に入り(人数不明)その後米軍の捕虜となって助かった。

【 5/28 沖特陸、海軍を小禄に引き戻し、全滅を速める 】
海軍部隊の撤退は陸軍第32司令部から「過早後退」、つまり「退却作戦指導要領に反する早すぎる後退」との指摘を受
け、沖特陸は再び小禄陣地への復帰を命じられた。これが海軍部隊が陸軍より10日早く全滅することに繋がる。

【 5/28 法的根拠なき義勇隊動員が続き、県民を殺戮 】
3次に及ぶ防衛召集による県民の「根こそぎ動員」でも32軍は足りず、軍は戦況の悪化と南部への退却によって大量の
弾薬、糧秣を搬送せねばならなくなると、その労役をまたも県民に押し付けた。義勇隊の動員について法的根拠はなく、
参謀本部は本土決戦に備えて3月24日義勇奉公隊構想を閣議決定しているが、法を整備する前に構想を先取りしたと思
われる。しかも、実際に頭数を揃え、指揮する役回りは警察官に押しつけられた。
「義勇隊にかり出された人々は泣き叫ぶ妻子や家族と別れ、破裂する砲弾の中を突破して行きました。敗色濃厚な中で
選ぶ方も血を吐く思いでした。重い弾薬や米俵を背負って最期の土壇場まで歯を食いしばり、作業に従事した県民の姿
は誠に悲惨、かつ崇高でした。名もなきこれらの県民の死を忘れてはなりません」(那覇署署僚の山川泰邦証言)

【 5/29 島田知事、軍のいいかげんさに憤慨する 】
秋風台の東約1,5キロの高嶺村(糸満市)与座に司令部を置いていた第24師団から島田知事のもとへ「軍民協議会を開き
たい」との緊急連絡。島田、当真警護官を連れて与座の第24師団司令部壕へ走る。
「軽便鉄道高嶺駅近くまで行きますと、与座を管轄する上原糸満署長が出迎えておられ、沖縄製糖高嶺工場を南に上が
って行ったところにあった司令部まで案内された。山兵団からは杉森貢・少佐参謀が出て、島田知事、上原署長らと話
し合いをされました」(当間の回想)与座の東1キロの東風平村上高良集落に避難していた後方指導挺身隊本部の久保
田隊長と浦崎人口課長も、軍民協議会に呼ばれる。
軍は「与座岳(標高168m)と八重瀬岳(標高183m)を拠点に反撃を試みることになったが、地方人(軍隊用語で使
う民間人)がこの地域にいては作戦の邪魔になる。そこで早急に彼らを安全地帯の知念、玉城方面へ立ち退かせてほし
い」という要求だった。島田知事をはじめ、県側首脳はこの時初めて、県民を戦禍から救う為に知念、玉城方面が安全
地帯として指定されていた事を知った。「首里を捨てて、南端水際まで下がる事によって蒙る民間人に犠牲の余りにも
大であろうことを考え、憤然色をなして軍に抗していた島田知事としては、こうした軍が打つ手は不可解であり、敢え
て住民の犠牲を省みなかった軍の態度に憤慨した」(浦崎著述)。

【 5/30 島田知事、大城森の壕へ移動 】
東風平の「野戦重砲兵第1連隊壕」、現(糸満市大里)の「大城森の壕」
5月末、報得川が梅雨の豪雨で氾濫、北側にあった通信隊の壕(福地森)や弾薬庫の壕(秋風台)が水浸した。
連隊本部は通信隊の将兵を大城森の壕へ移動させたが、その時、北郷連隊長の配慮で島田知事一行も移ってもらった。
知事には22~3名、荒井部長には十数名の人がついてきたと記憶しますが、我々の壕は前年12月から3カ月がかりで掘
った総延長1300メートルもある立派な造りでしたから、それぐらいの人数を受け入れるのは、たやすいことでした。
島田知事一行は4~5日滞在されたと思います」(歩兵第32連隊・平尾正男軍曹の述懐)
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▲今もこの丘(69高地)の中にひっそりと残る「野戦重砲兵第1連隊(山3475部隊)の壕」(大城森の壕)
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▲(右手)大城森、サトウキビ畑の農道は軽便鉄道の線路跡。大城森の壕は69高地と呼ばれ、山形県出身者が多く居た歩
兵第32連隊の大規模な陣地壕だった。壕の中は那覇や首里から運び込まれる負傷兵、避難民でいっぱいとなり、さなが
ら野戦病院と化していた。「10人中4、5人が破傷風にかかっていた。破傷風にかかると胸から腹にかけて異様に膨れ、
もがき苦しむんです。口が開かなくなる為、水さえも満足に飲めない。布ぎれに水をひたしてそれを口にあてがって飲
ませた。毎日数人が死んでいった。」と、大城森壕の残置隊長をしていた歩兵第32連隊・平尾正男軍曹は語っている。
6月ついに米軍が壕に馬乗り攻撃するにいたり壕を手放し、1.7キロ離れた国吉に移動。その時壕内には遺体があふれ、
動けない重傷兵には青酸カリが配られた。置き去りにされた重傷兵300~400ともいわれる遺体をのみ込んだまま、昭
和56年に行われた、厚生省の大がかりな収骨収容作業でさえその口を開かず、未だに1柱も収骨されていない。

【 6/3 島田知事、無用の犠牲を避けるべく県庁を自然解散 】
後方指導挺身隊本部の久保田隊長と浦崎人口課長が、今後の指示を受ける為、「大城森の壕」に島田知事と荒井警察部
長を訪ねた。壕の入口近くにいた警察部長秘書室長の大宜味朝昌警部が、2人を島田知事のもとへ案内した。
大宜味警部は普段、部内でも知られた元気者で、万事に積極的な若手警部だったが、いつもの元気はなく、暗く沈んだ
表情で「お互いの運命も時間の問題ですよ」と淋しそうに話したと言う。
島田と荒井は長い壕生活のため、流石にやつれは隠せなかったが、厳しい戦場体験をくぐり抜けてきたせいか、ますま
す落ち着きを増し、いささかも動ずることがなかった。
島田は長い間たばこを切らしていた2人(久保田隊長と浦崎人口課長)に残り少ない「きんし」を1本ずつ与え、一緒
にうまそうに吸った後、司令を与えた。
「もはや艇身隊も、これまでの組織で行動を続けることは無理だろう。それで、挺身隊本部も町村分遣隊も編成を細分
化し、3~5人程度の小班に編成替えして、犠牲分散の態勢をとれ。艇身隊の今後の任務は、住民と共に、軍の指定した
知念、玉城方面に下がって彼らを保護する事にある。激しい戦場を突破することは非常に危険、かつ困難だが、細心の
注意を払って行動してくれ」と。5/6に豊見城村長堂の壕に本部を置いて、未占領地域を対象に戦場行政の3大施策の
士気昂揚、夜間増産、壕生活指導を展開した沖縄県最後の行政機構も、ここで当初の任務を放棄。
ついに避難民の誘導保護という悲しむべき最後の任務を担うことになったのである。
「編成替え」「犠牲分散」・・・無用の犠牲は出来るだけ避ける様に、という深い含みのある自然解散の指示だった。

【 6/3夕刻 島田知事、浦崎人口課長、久保田隊長に最後の言葉 】
指令を受けた浦崎人口課長、久保田隊長は、これが知事、警察部長との最後の別れになるのかと思うと、万感胸に迫っ
て立ち去り難かったという。大城森の壕の麓を流れている報得川は降り続いた雨で水かさを増し、濁流が流れていた。
島田知事は、そんな部下の気持ちを見透かすように言った。「久しぶりに水浴びしようじゃないか」
知事の誘いで4人は濁流を浴びた。「濁流で浄められた知事の体は、そのまま御仏に捧げても、よみさるべき清いもの
に思われた。知事は水を浴びながら『元気でいこう』と2人を励まの言葉が最後の言葉になった。

【 6/5頃、島田知事一行は伊敷の「轟の壕」へ 】
与那原方面から南下した米軍は5日、独混44旅団正面の具志頭付近に姿を現す。
報得橋から南へ、琉球三山の歴史で名高い南山城址の東側を通って、真壁村で右折。旧真壁村役場(現・三和郵便局)
の前を右折して西へ向かい、糸州~伊敷の集落のはずれを抜けると、轟の壕まではほぼ一本道。
途中の道路や畑は至る所に死体が散乱し、死臭ふんぷんの悲惨な状況だった。大雨の中、島尻や知念村方面へ向かう避
難民はそれには目もくれず、大きな荷物を抱えて右往左往してた。誰もが人の死を悼むまともな神経を既に失っていた。
島田知事は本当に辛そうに、時おり立ち止まって道端の死体に祈り、特に子供の死体には心を込めて合掌していた。
県民を守る立場の牧民官として、胸が張り裂ける思いだったに違いない。
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▲「轟壕」
【 6/6 砲弾雨の中、警察官は決死で避難民を誘導 】
荒井警察部長は下痢が続き(アメーバ赤痢)、ほとんど横に伏せている状態だったが、住民を知念方面に誘導しようと
病床で指揮を執った。警察官が何組も艦砲の合間を縫って避難民誘導のために次々と壕を出て行ったが、途中でやられ
て帰って来ない人が多くなった。それでもひるむ警察官は1人もいなかったという。
その頃米軍は八重瀬岳に猛攻を加え、小禄飛行場と周辺の海岸線を完全に制覇、沖根の海軍部隊もはすでに断末魔の状
況に置かれていた。

【 6/7朝 本土に連絡のため北上中の県庁職員が殉職 】
「万難を排して沖縄を脱出し、沖縄戦の現況および県民の奮闘ぶりを本土・内務省に報告せよ」との特命を受けた警察
捌動隊8隊員は、7日朝に知念村知念城跡丘陵の壕に集結、陸路北上に備えて4つの班を編成。その時約300メートル下
の集落へ米軍部隊が近づいたので4班は一旦、分散して退避、夕方、再びこの壕に集まって、北上を始めることにした。
謝花隊員と安富祖隊員は知念城跡の断崖絶壁で米兵7~8人のはさみ撃ちにあい、手榴弾戦の揚げ句、謝花警部はピスト
ルで頭部を撃って自決。隊長らの死を「轟の壕」の警備隊本部へ知らせる余裕など全く無く、加えて隠密行動だったの
で、隊員以外の警察官に伝言を頼むことも出来ず、艇身隊はついに難民の群れに消えていった。

【 6/7 海軍大田少将「沖縄県民斯ク戦ヘリ」】
海軍沖縄方面根拠地隊(沖根)司令部壕から海軍省宛に司令官・大田實少将が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世
特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で締める686文字打電。
沖根司令部、篤志看護婦として豊見城村の海軍外科壕へ手伝いに来ていた県庁女子職員十余人の身柄を県へ返す。

【 6/7夕刻 海軍外科壕看護婦、身柄を県庁に返され小禄海軍司令部(海軍外科壕)から「轟の壕」へ向けて出発 】
豊見城にある海軍外科壕の山里和枝ら篤志看護婦5人、医務隊の近藤曹長の引率で「轟の壕」に向かうことになった。
「身柄を県庁に返す」という話があった時、看護婦達は『お国のために死ぬ覚悟で来たのですから、ここで最後まで働
かせて下さい』と懸命にお願いしたという。
しかし、根拠地隊司令部は大田司令官の意向だったのだろう『知事から預かった職員は、知事の元へお返しするのが海
軍のやり方だ』と言って聞き入れなかったという。

【 6/7深夜 島田知事、人事を尽くし「轟の壕」にて沖縄県庁を解散 】
深夜、荒井警察部長が突然、皆に提案した。
「明日は大詔奉戴日(昭和17年1月2日の閣議は、前年12月8日の開戦にちなんで、毎月8日を決めていた)だ。
周辺までやって来ている敵に馬乗り(敵が洞窟陣地の頭頂部を占領、上部に穴を開け、ガソリンや火炎放射器で全滅。
を図る皆殺し作戦)されて朽ち果てるより、壕を出て相手と戦おうではないか。
夜のうちに、あるいは明朝を期して、朝討ちしよう」と。
島田知事がこれに答えた。
「荒井君、我々は人事を尽くしたのだから、後は天命を待とうじゃないか。私は今日を期して、警察部を含む沖縄県庁
を解散する」県庁・警察警備隊の解散は、伝令によって那覇署や糸満署員が居る壕にも伝えられた。
明治12年の置県以来、67年間の沖縄県と警察部の歴史は遂に幕を閉じることになった。
艇身体や分遣隊の時は編成替えであり、犠牲分散の態勢を取れ、という事だったが今回ははっきりと『解散』だった。
事ここに及んでは非戦闘員である部下たちに行動の自由を与え、生き延びる機会を与えてやりたいとの配慮であったと
言われている。その傍ら、荒井警察部長は沖縄戦での官民の苦難と奮闘ぶりを何としても内務省に知らせたかった様で、
悲痛な声で『よし、東京へ行こう』と言ったという。
警防課長の伊野波盛和警視が「部長、その体ではとても無理です。私が代わりに行きましょう」と、その任務を買って
出た。伊野波は部下の小橋川正一警部補、名城政雄巡査部長、座間味栄昌巡査に同行を求め、明朝北へ向け出発する。

【 6/8 県庁の警察別働隊、北部に向け出発 】
警察別動隊は3班に編成替えし、北部の久志村へ向けてそれぞれ出発。
山中の道なき道を行き、警戒線にかかって銃撃され、川を泳ぎ渡るなど苦闘の連続を強いられる。
【 6/10 警察別動隊比嘉/安富祖班が与那原で米軍に捕まる 】

【 6/11 篤志看護婦の山里和枝、部隊解散で小禄海軍司令部(海軍外科壕)から「轟の壕」に到着する 】
篤志看護婦として豊見城村の海軍外科壕に派遣されていた山里和枝さんが元の上司達のいる「轟の壕」に合流。
途中、糸満で同僚2人を米軍の迫撃砲で失っていた。付き添いの海軍外科壕医務隊の近藤曹長が島田知事の前で、「沖
縄方面根拠地隊司令部から参りました。お借りした職員をお届けに上がりました。ご協力誠に有難うございました。
身柄をお返しいたします」と報告した。山里和枝さんは近藤曹長の後ろで小さくなっていたという。
山里和枝さんは島田知事に『申し訳ございません。死んできますと言って出た者が死ねなくて…申し訳ございません』
と謝った。すると、島田知事は、『よかった、よかった、心配していたぞ、よく帰ってきた。実家へ帰ってきたような
ものだから、ゆっくり休みなさい』と答えたという。

【 6/12 後の沖映社長・宮城嗣吉氏、妻のいる轟壕に迎えに来る 】
沖特陸浜野部隊の宮城嗣吉上曹は、部隊長から喜屋武岬に分駐していた海軍通信隊への伝令を命じられ脱出、任務を終
えた後「轟の壕」へ転がり込んだ。島田や荒井警察部長と約束した通り、妻を引き取りに来たのである。
宮城上曹 ⇒ 「最初、秋風台の壕に行ったら山部隊の兵隊が『知事らは轟の壕へ移った』というので、尋ねて行きます
と家内は無事でした。島田知事に会ってお礼を言いますと『奥さんに会えて良かったねえ。もう、どんなことがあって
も死んじゃあいけないよ。生きることが大切だ』と喜んで下さった。」
この時、宮城上曹は米軍の携行野戦食「Kレ−ション」に入っていたコーヒーの小さな缶を15個程お土産に持って来て
いた。米軍の本島上陸作戦が始まると、小禄半島の海岸には特攻機によって撃沈された米輸送船からたくさんの浮遊物
が流れ着いたが、レ−ションの中のコーヒーを蓄えておいたのだ。
宮城上曹 ⇒「『長官、ルーズベルト(太平洋戦争開戦時の米大統領)からの慰問品です』と言って渡しますと、エッ?
と驚いておられたが、中身が分かると相好をくずされた。
『こりゃあ有難い。みんなに飲ませてやろう』と早速、仲宗根官房主事を呼び、『皆で頂きましょう』と渡された。
『ルーズベルトからの慰問品』が余程、気に入られたらしく、何度も繰り返して笑っておられたが、あれが長官(島田
知事)の最後の笑顔だったのではないかと思います。」
宮城夫妻は特に親しかった佐藤特高兼警務課長が居た壕の地下2階に身を寄せた。

【 6/13 豊見城海軍壕の大田司令官が幕僚6人と共に自決、海軍部隊は玉砕した 】
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【 この頃、轟の壕に陸軍衛生隊がなだれ込み、狼藉行為 】
轟の壕に、豊見城村に居た那覇署、高嶺村に居た糸満署が申し合わせたように移って来たが、それを追う様に避難民の
出入りも激しくなった。敵の偵察機が注目するようになり、海上の艦艇から砲撃されるようになって、壕内外で死傷者
が出始めた。食糧難の避難民は、夜になると壕外の畑へイモやサトウキビを取りに出掛けたが、これも狙われた。
そんなある日、陸軍衛生隊の1団14~5人がなだれ込んだ。入って来るなり傍若無人の振る舞いで、包帯交換を
頼みに来た他部隊の負傷兵を追い返す冷淡さとは裏腹に、看護婦とは思えない連れの女性にはやけに親切だった。
その様子を苦々しげに見ていた島田知事は、吸殻入れにしていた空缶をキセルで不機嫌そうに叩いていたという。
更に「軍医殿」と呼ばれた准尉は「戦場に役人や警察官なんか要らない。この壕は野戦病院として使うから立ち退け」
と言い放った。
隈崎警察部輸送課長が「我々は軍司令部から『与座岳以南で県民指導に当たれ』との指示を受け、ここに居る。
軍司令部の司令書があれば、いつでも壕を出る」と反撃すると効果覿面。翌朝、この軍衛生隊一団は姿を消していた。

【 6/14 日本軍八重瀬岳陥落。米軍、八重瀬岳を突破 】
【 6/15 島田知事、県の活動を停止し軍司令部壕に移ることを決意する 】
島田さんから伝令が来て、『会いたい』といって来た。早速、真壁に島田さんを訪ねたところ『やはり自分は軍司令官
と最後の行動をとりたい。摩文仁へ案内してほしい』ということであった。
翌日の未明、島田さんを案内して摩文仁の壕に牛島軍司令官と長参謀長を訪ね、そのまま島田さんはすぐ近くの軍医壕
に入った。15日の夜、島田知事から集合の通知があった。あいにく私は2~3日前から発熱して居て、体を動かすこと
が億劫だったので、次席の松井警部に行って貰った。知事はその夜、県の活動を停止する事、職員の自由行動を許容す
る事、知事と警察部長は摩文仁の軍司令部の壕へ移る事を言い渡された。と、翌朝松井警部から聞いた。
急いで知事の居る壕に行ったが、島田知事は秘書課の嘉数属と小渡属を伴って出発された後だった。
(毎日新聞野村那覇支局長手記)

【 6/16未明 島田知事、摩文仁へ向け轟の壕を出発 】
「その時、私達女子職員は川下の方へ移動していた。早朝、水をくむために出入口近くの水くみ場へ来た時、長官が鉄
カブトをかぶって出ていらっしゃいました。『長官殿、どちらへですか』と尋ねますと、こんな風に(体をぐっと近づ
ける仕草をして)近寄られて、
『僕達はこれから軍の壕に行く。君たち女、子供には(米軍は)どうもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ。決
して(友)軍と行動を共にするんじゃないぞ』とささやくように言われました。
長官を尊敬し、信じていた私は、それを聞いて悔しくて、悔しくてたまりませんでした。
長官は直接おっしゃっていませんが、県庁では常々、死ぬ時はみんな一緒じゃ、最後は靖国神社へ行くんだ、絶対捕虜
になるな、って聞かされてきましたから、あの時は長官の真意が分からず、情けないと思いました。
『長官、今になって捕虜になれとおっしゃるのですか』と言ったつもりですが、長官にそれが聞こえたかどうかは分か
りません。長官はそれだけ言うと、後ろも振り返らないで出て行かれました。
私はもうがっかりして、起き上がる元気もなくなり2、3日寝そべっていました」(山里和枝さんの述懐)
島田、仲宗根官房主事、嘉数・小渡秘書官、当真警護官、案内の野村記者の5人で壕を出発。
摩文仁までの約7キロは、間道伝いのコースを取った。
「あの日は夜明けと共に轟壕を出ました。米軍の艦砲射撃が本格的になる午前7時までに行き着こうというわけです。
轟の壕のある伊敷の丘陵を南へ突っ切り、小波蔵集落の東端をかすめて糸州⇒伊原⇒米須⇒小渡(現在の大渡)⇒摩文
仁へと丘陵地帯の山裾を拾って歩きました。道中は至る所電線が垂れ下がり、県民や兵士の遺体が累々と横たわってい
ました。その一体、一体に長官は手を合わせておられた。
少しやつれておられたが、動作は相変わらず機敏であられたですねえ。摩文仁では先ず軍司令部壕を訪問されました。
知事さんが軍司令部壕に入られ、私たちが表で待っていた時間は15、6分でした」 (当真警護官の述懐)
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       ▲戦後、八原高級参謀が書いた摩文仁軍司令部壕の見取り図

【 6/16朝 島田知事、摩文仁の司令部壕着。軍医部壕に入る 】
「島田さんに初めてお会いしたのは昭和20年の2月上旬、着任されてまだ1週間くらいの時でしたが『今度の知事は死
ぬ覚悟で来た、大した男だ』という噂が軍司令部内にも轟いていましてね、会った第1印象もその通りでした。
4カ月ぶりに軍医部の壕で再会した時、司令部壕の方が広くて堅固なのに、なぜ狭くて貧弱なこの壕に来られたのかな、
と不思議に思いましてね、私、島田さんに直接、聞いたんです。
すると『牛島司令官が、こちらへ行け、とおっしゃったので参りました』と言われた。
それ以上の理由はご自身では話されなかったが、戦後私は生還された高級参謀の八原さんを訪ねた時、改めて聞きまし
た。それによると、島田さんは司令部壕に牛島司令官と長参謀長を訪ねた時『最後の行動を共にさせて頂きたいので、
この壕に居させてほしい』と頼まれたそうです。ところが、司令官は『自決するのは我々だけでよろしい。知事は行政
官で、戦闘員ではないのだから、ここで死ぬ必要はありません』と言われた。
司令官は島田さんに軍司令部壕に居てもらうと、危機が迫った時、自決しかねないと思われたようで、軍医部の壕に入
るよう言われたのです」(軍医部壕に居た大塚康之・薬剤中尉の述懐)
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       ▲摩文仁の丘に残る軍医部壕

【 6/16 島田知事、随行職員を軍壕に入れず轟の壕に帰す 】
島田知事に同行の県・警察部職員4人は「長官と最後まで行動させて下さい」と懇願した。しかし、島田は知事官房の
代表者である仲宗根官房主事にはそれを許したが、小渡、嘉数両秘書官、当真警護官には「君たちは若い。生きて沖縄
再建のために働きなさい」と聞き入れなかった。
「壕の入口で、私たちはもう一度『このまま、お側におらせて下さい』とお願いしました。
すると長官は険しい表情になり『帰りなさいッ。これは私の命令だ!』と厳しい口調で言われた。
その後すぐいつもの柔和な顔に戻り、『長い間、いろいろご苦労だった。何にもあげるものがなくて気の毒だが、せめ
てもの名残りだ。このお金は使う機会があるかどうかわからないが、取ってくれ』と、国民服の胸のポケットから束ね
た100円札を全部取り出し、差し出された。私たちの月給が5~60円の時代ですから大金です。
辞退しますと『僕はもう使うことはないから、取っておいてくれ。皆、今後は自重自愛するように』とおっしゃった。
これが長官とのお別れか、と思うと、3人とも泣けて、泣けて、滂沱の涙でした。
すると『さあ、早く行かないと艦砲が始まるよ』と我々の肩を叩き、壕の外で押し出すようにされた。
止むなく私たちは再び轟の壕へ引き返しましたが、あのありがたい、ありがたいお札は、轟の壕で捕虜になった時、米
兵に没収されてしまったのが、いまだに残念で、残念で…」(小渡回想)

【 6/16日 米軍、与座岳突破。戦車による掃討戦へ 】
米軍は与座岳を突破。米軍は首里攻防戦まで徹底していた「耕す戦法」はもはや取らず、歩兵を伴わぬ巨大なM4戦車
が集団で日本軍陣地壕に突進、暴れ回った。有効な対戦車兵器を持たぬ各部隊は壕内に追い込まれ、M4戦車の火炎放
射で焼き殺されたり、歩兵の馬乗り攻撃を受けたりして、次々全滅した。
その上、北の陸地からは各種砲弾、残る三方の海からは艦砲弾で鉄の暴風。そのままに荒れ狂った。
米軍はそれでもまだ満足せず、飛行機で空中からガソリンの入ったドラム缶を投下、焼夷攻撃まで始めた。
南部の隙間が多い不完全な自然洞窟壕は、この新手の攻撃に弱かった。

【 6/16~17 知事の特命を受けた県職員、相次ぎ殉職 】
16日夜、具志頭村港川で、伊野波、小橋川、名城の3人は米軍の機銃掃射を浴びて殉職、座間味も7/2与那原で米軍に
捕まり、東京の内務省に知らせへの雄図はむなしく消えた。
17日、警察別動隊池原班の玉城警部補と長濱巡査、中頭郡中城村で米軍と銃撃戦の末、殉職。

【 6/18未明 荒井警察部長、容態悪いなか摩文仁に向け出発 】
真地からここまで一心同体で行動して来た荒井は容態が悪く、島田知事に同行出来なかっが2日後の18日未明、腹心の
仲村兼孝警部補や警防課員に付き添われ、遅れて出発。

【 6/18米軍司令官バックナーが糸満市真栄里(高嶺)にて日本軍の迫撃砲を受け戦死 】
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【 6/18夕刻 摩文仁司令部壕の牛島長官、決別電報を打電 】
牛島司令官は決別電報を打電、同時に八原高級参謀以下5人の参謀全員と司令部将兵のうち約20人、司令部壕に身を寄
せていた全国紙特派の報道班員3人の摩文仁脱出を19日夜と決めた。
理由は、これまでの大平洋の島々のように全員が玉砕したのでは戦訓を本土決戦に生かせない、との考えからである。
八原高級参謀、通信主任参謀・三宅忠雄少佐、作戦補佐参謀・長野英夫少佐(八原以外は、摩文仁脱出後戦死)3人には
大本営への戦況・戦訓報告を、木村、薬丸両参謀(いずれも戦死)には本島各地での遊撃戦の指揮を命じた。
報道班員にも「沖縄本島を脱出し、戦いの実相を本土に報告せよ」との命令が出た。
この夜、軍首脳部の最後の夕食会が軍司令部壕の参謀部で開かれた。
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▲作戦会議中の参謀部。赤矢印の方が牛島中将(沖縄での撮影ではないと思われる)
 
【 6/18 島田知事、荒井警察部長、摩文仁軍医部壕にて 】
「あの辺には軍司令部のほか、経理部、獣医部、法務部などが、それぞれ壕を構えていましたが、軍医部の壕が一番狭
く、お粗末でした。雨が降りますと、止んでからも3時間はポトリ、ポトリと雨漏りがするので、奥の方はいつもジト
ジト濡れていました。そんな所に軍医部長の篠田重直軍医大佐以下36人が、すし詰め状態で入っていました。
そこへ知事以下4人を受け入れたのですから、一層狭くなりました。あの壕は第九師団が台湾へ去った後、島尻へ配備
された山部隊(第24師団)が掘っておいたもので、入口に機関銃の銃座がありました。

※島守の塔は下に島田知事以下の戦没県職員を祀る慰霊塔、背後の数十段の石段の上に島田と荒井の終焉の地を示す石
碑が立つ二段構えの造りになっているが、銃座は上の碑の場所にあった。
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銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。
天井の高さは1m50㎝位でかがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵約30人が寝起きしていま
した。この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう1つの鍾乳洞に通じる人1人がやっと入れる
位の穴がありました。その鍾乳洞で我々は命拾いをするのですが、大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル奥行
き10メートル位、天井は大部屋より低い細長い部屋があり、将校3人はそこに居ました。島田さん達もここへ入って頂
きました。両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅位の湿気避けの木製の簀の子を敷きまして、縦2列に寝て
いました。配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、2番目が私と島田知事、3番目が県庁職員(仲宗根
官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。
つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした。島田さんが来られた頃には、南下して来た米軍の攻撃が激しく
なり、日中は壕の中に潜んでいました。島田さんは鈴木中佐と学生時代や京都の思い出などを、和やかに話されていま
した。鈴木中佐も私も酒好きでしたから、よく消毒用の局方アルコールを水で薄めて飲んでいました。
あれ、20パーセント位に薄めると甘くて美味しいんです。島田さんも酒好きでしたから差し上げましたが、あの頃はあ
まり飲まれず、お付きの方にあげておられた。荒井さんは大分弱っておられ、島田さんは『荒井君、大丈夫か。しっか
りせえよ』と病状を大変気づかい、励ましておられました」 (大塚述懐)

【 6/19 島田知事、参謀部壕に別れ 】
「島田県知事が荒井警察部長を伴い、お別れを告げるためにやってきた。かつての宴会の折には「しょっ、しょっ、し
ょじょじ」の童謡を歌い、無心に踊った島田知事。そして元気だった警察部長も、ともに今は憔悴していた。
『文官だからここで死ぬる必要はない』との牛島将軍の勧告を受けて、参謀部洞窟を出て行く両氏の後ろ姿は忘れる事
ができない」 (八原高級参謀手記)
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【 6/19 牛島長官「悠久の大義に」最後の軍命令 】
日本軍の戦死者、この日だけで約2000人(6月初旬から中旬まで1日平均約1000人だった)。米軍摩文仁の丘一帯
に迫撃砲による猛攻を開始した。2日後の総攻撃の前触れだったが、牛島は全軍に最後の軍命令を発した。
「今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る 既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし 軍司令官の指揮は至難となれり 爾今
各部隊は各極地における生存者中の上級者之を指揮し 最後まで敢闘し生きて虜囚の屈辱を受けることなく 悠久の大
義に生くべし」。だが、この日343人が投降(米軍記録)捕虜になった。
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▲摩文仁の丘から平和祈念公園を見下ろす。

【 6/19昼 毎日新聞野村支局長が島田に別れ 】
昼頃、島田と親しかった毎日新聞の野村支局長が19日夜の脱出を控え、お別れのあいさつのため軍医部壕を訪れる。
島田は薄暗い壕の中で長い膝小僧を抱いて所在なげに壁に寄り掛かっていた。荒井はその横で死んだように寝ていた。
野村は島田の前に屈み込んで挨拶した。
『知事さん、いろいろお世話になりました。今夜、奄美大島出身の2人の兵隊と北部へ脱出する事になりましたので、
お別れに参りました』島田知事は『そうですか、しっかり頑張って下さい。成功を祈っていますよ』と野村の手を固く
握り、励ました。親しく話す機会はこれが最後、と思った野村は、かねてからの考えを小声で口に出した。
『知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから最後は手を上げて、出られても良いの
ではありませんか?』すると、島田はキッと顔を上げ、切り返すように言った。
『君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね?沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ?』
ややあって、自嘲するように暗然とした表情で付け加えた。
『それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。これはきっと、末代ま
での語り草になると思うよ』野村が『それじゃ、知事さんはこれからどうなさいますか?』と聞くと、島田は『無論軍
と最期を共にします。見苦しい体を残したくないから、遠い海の底へ行くかな』と笑った。
その後、打ち解けた時の癖で、神戸なまりを丸出しにして『うん、そうや。君にいい物をあげるわ』と傍らのふろしき
包みを引き寄せ、博多織の角帯を取り出した。『これは赴任する時、家内が行李に入れてくれたもんやけど、僕は必要
がなくなったから、君にあげるわ』 「負け戦の軍司令官は、その責めと、幾多将兵の戦死の責任をとって自決する。
とすれば、幾多県民を死なせた地方長官もまた、その責めを負わねばならない。」これが島田さんのお考えでした。
夜、野村はその帯を腹にしっかり巻いて、摩文仁の海に入った。泳ぎが得意な奄美出身の2人の兵は、野村を支えるよ
うに両側を並んで泳いでくれたが、野村が波に飲まれそうになると、兵隊は腹帯を掴んで引っ張り上げてくれたという。

【 6/20 沖縄の地獄、いよいよ極まる 】
南部へ撤退した日本軍の戦死者約3000人。投降者は大平洋戦争でかつて例のない977人(米軍記録)。
もはや、最後まで敢闘し得る状況ではなかった。〝鉄の暴風〟の真ッ只中にあった集落は、島田や荒井が恐れたとおり、
地獄と化した。
野村一行は海岸に上がった所で米軍の捕虜になる。野村は死ぬまで「僕は島田さんの帯で九死に一生を得た」と言い続
けたという。脱出を図った3報道班員のうち助かったのは、野村1人だけであった・・・。
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【 6/21 米軍、摩文仁に総攻撃開始 】
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「この日も例によって朝6時頃砲撃が一旦止んだので、急いで壕の外へ出ますと、良い天気でした。
砲弾が飛んで来る中で排便するのは落ち着きませんので、皆喜んでそれぞれに用を済ませ、深呼吸を楽しんでいました
ら、急に米軍のスピーカーが放送を始めました。日本語、沖縄の方言、英語の3種で『只今から総攻撃を開始する。戦
闘に関係ない者は壕から出て、東へ歩け』と繰り返し、道路を指定しました。
軍司令部や軍医部の壕には、書記の女性30人程も付いて来ていましたので、司令部から『出て行きなさい』の命令が
出た。しかし、娘達はなかなか出て行きません。結局、残った人もいました。島田知事に随行していた県庁の職員の方
2人はこの時、知事に説得され、知事と荒井警察部長を残して壕を出て行かれました。
残った軍医部長以下36人と知事、警察部長は、非常食として作ってあった焼米を分け、水筒に水を詰めて、壕内の鍾乳
洞の方へ潜り込むため、降りて行きました」(大塚の回想)
米軍、摩文仁を総攻撃。
午前7時から始まり、摩文仁の丘の一番高い所にあった経理部の壕は爆雷を投げ込まれて全滅。
軍医部壕も入口の機関銃座と壕口付近が吹っ飛ばされた。
「鍾乳洞の中は寝て手を伸ばすと天井につかえる程で、低い所は4、50センチぐらいしかなかったでしょう。
しかし案外広くて、皆それぞれに居心地の良い場所を選び、寝ころんで目と鼻の先の天井を睨みながら息を殺していま
した。軍医部壕の方へは硫黄弾やら催涙弾やら、色々な物が投げ込まれたが、鍾乳洞の入口にテントをぶら下げていた
ので、煙は来なかった。一日中、戦車のキャタピラの音がしていましたが、何をしているのかも全く分からないままで
焼米をかじっての不安な、長い長い一日でした。(夜になり)外へ出てみると、全く静かでした。
時々前方から機関銃が発射されるが、曳光弾が入っているので何処を撃っているのかが判る。なので安心して歩けまし
た。摩文仁の丘の上まで、米軍の軍用道路が1日で出来ていたのには驚きました。昼のキャタピラは戦車ではなく、そ
の工作機械車の音だったのです。米軍の物量のすごさに驚くばかりでした」(大塚回想)
県庁職員2人(仲宗根官房主事、仲村警部補)とも消息を断ち、遂に生還しなかった。

【 6/21頃 島田知事、最期への決意 】
「本島が陥落したら自分は生きておれぬから自決する、と何度も言われた。青酸カリを国民服の内ポケットに常に用意
しておられ、これを飲めば死ねるかと尋ねられたので、青酸カリは風化することがあるので、それだけでは駄目かもし
れません。と答えると、それでは拳銃の方が確実かな、と言っておられた。その責任感と決意を無下に否定することも
出来ず、私としては『まだ死なれるのは早い』と押し止めるほかありませんでした」
「『君も兵庫県の出身か、懐かしいなあ。僕も兵庫県出身じゃ、神戸じゃ』と言われ、私の現在の任務や年齢などを聞
いて下さいました。17歳という私の答えを聞いて、同い年の娘さんが居られるようなことも言っておられました。
今日死ぬか、明日死ぬか、の殺伐とした戦場で、久々に交わした人間らしい会話でした。暗くて顔の表情までははっき
り見えませんでしたが、黒縁のまん丸い眼鏡越しの目は優しく、穏やかな口調が印象的でした。
そして『僕も必ず生きて帰るから、君も頑張るように』とおっしゃった。戦後になって、あの頃にはもう死を決意され
ていた事を知り、あえて心にもないことを言って励まして下さったのだなあ、と感謝しています。
その後の私は、沖縄の最果てで聞いた同郷の大先輩の言葉を忘れず、懸命に生き延びましたから」
(三枝兵曹述懐)
当時17歳の志願兵で、南西諸島航空隊の海軍2等整備兵曹だった三枝利夫兵曹。小禄飛行場玉砕の13日、軍司令部に
居た航空参謀・松原少佐へ伝令を命じられ、迫撃砲の集中攻撃を浴び軍医部壕に飛び込む。この後、右足を負傷しなが
らも陸軍の兵隊3人と共に摩文仁を脱出、中部の中城村まで北上したが、ここで力尽きて米軍に投降。
終戦から1カ月後の9月13日だった。

【 6/23(6/22) 牛島司令官と長参謀長、自決 】
午前4時30分、牛島指令官と長参謀長が軍司令部壕で自決。沖縄戦の組織的戦闘は終わる。
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【 6/26 島田知事と荒井部長、軍医部壕を出る 】
「島田さんと荒井さんが軍医部壕を出られた日をはっきり確定できなくて申し訳ありませんが、確か25日か26日の午
前0時前でした。島田さんは『この壕にこもっとっても駄目だから国頭の方へ中央突破します』と言っておられたが、
荒井さんが相当弱っておられたから、そう遠くへ行けるはずはありません。
ああ、死に場所を求めて出られたな、壕内で死ぬと我々に迷惑が掛かると気遣われているな、とその時感じましたが、
我々にはもはや、止める気力はありませんでした。それが、お別れになりました。
どちらの方向へ行かれたか、その後の消息は知りませんが、かねて言っておられたように摩文仁近辺で自決されたと思
います」(大塚証言)。軍医部36人のうち生還したのは、5人に過ぎなかった。
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▲軍医部壕から平和祈念公園を見下ろす。
警察別動隊下地・長山班は15日かかって目的地の久志村にたどり着いたが、沖縄戦の終結で辺野古で米軍に投降。
内務省は大塚報告に基づき、遺族とも相談の上、島田と荒井が軍医部壕を出たと思われる26日を死亡の日と認定、この
日が命日となった。島田知事の在任期間はわずか5ヶ月、島田が43歳、荒井が44歳だった。

【 6/26 八原高級参謀、米軍捕虜となる 】

島田知事の死は、戦火の中での入水自殺、短銃自殺、あるいは軍と共に玉砕などといわれ、真相は不明とされていたが、
テレビ放送がきっかけで『島田知事の最期を目撃した』という元軍人が名乗り出た。
東京都三鷹市の鮮魚商、山本初雄さん(51)で、元「球一八八○部隊井村隊山川小隊(独立機関銃隊)の連絡係」の
伍長勤務兵長。沖縄戦で右頭を負傷、捕虜生活の後に復員した日本兵。
【 7月初旬 島田知事の最期 】
「私は他の部隊の兵隊2人、首里から来たという姉妹ら民間人3人と一緒に具志頭、玉城の辺りの自然洞窟に潜んでいま
した。昼間は危ないもんだから寝ていて、食糧捜しには夕方から出掛けました。それも、壕の中ばかり捜しました。
戦争が終わったのを知って、民間人が出て行った後の壕には何か食べ物が残っていて効率が良かったからねえ。
その日は、具志頭の自分たちの入っている洞窟から東の玉城方向へ、海岸沿いに200メートル程歩きました。
摩文仁の丘からは北東へ3キロくらいの場所だったと思います。海のすぐ近くの自然壕に男2人、女1人の中年の民間人
が入っていましたが、その上の方、水際から50メートルくらい上がった所の断崖の中腹に、入口の大きな横穴壕があり
ましたので、私は1人で入ってみました。奥行きは、あれで5~6メートルぐらいだったかなあ。
夕方の薄明かりが差し込んでいるだけなので、暗いんですが、男が1人、頭を奥にして横たわっているのが見えました。
私は初め、死んでいると思いまして、その辺に目を凝らしました。あの頃は遺体に手を合わせてから、枕元の食糧や持
ち物を頂くような事をしょっちゅうやっておりましたものねえ。
ところが、その人は息をしているようなんです。そして、向こうから声を掛けてきました。『兵隊さん、知事です』と
言われたように記憶しています。そして、枕元の図のうのような物から名刺を出し、差し出された。
知事さんは左大腿部を負傷しているらしく、左肩を下にし横になっておられた。『負傷されたのか』と聞くと『足をや
られました』と言われた。もう自由に体を動かせる状態じゃなかったですねえ。
何か黒っぽい国民服のようなものを着て、黒縁のまんまるい眼鏡を掛けていたのを覚えています。
壕の中には、他にだれも居らず、図のうの傍らにふたを取った飯盒がありました。すると、知事さんは『兵隊さん、飯
盒の中に黒砂糖があるから、持っていらっしゃい』と言われた。黒砂糖の四角い板が3枚入っていましたので『そいじゃ
申し訳ないが2枚貰って行きます。元気で居て下さい』と言って、壕を出ました。その翌日か翌々日、私らは海岸でタマ
ネギ1箱と紙袋に入ったメリケン粉1袋を拾いました。撃沈された味方の輸送船から流れ着いたものらしく、メリケン粉
は外側は海水がしみていましたが、中は良く乾いていました。
それで団子をこしらえ、もらった黒砂糖をまぶして飯盒に入れ、この前のお礼にと知事さんの所へ持って行ったのです。
そして、例の横穴に入ろうとしたら、下の壕に居た民間人の男女3人が『知事さんは亡くなりましたよ』と、はっきり言
いました。後で聞いたのですが、その人達は学校の教師だと言っておりましたから、知事の顔は知っていた訳で、私は
その時、ああやっぱり知事だったんだなあ、と改めて思ったのを記憶しています。
それで、壕に入ってみますと、知事さんは私が最初に見た時と同じ姿勢で横たわっておられたが、あごの近くに小さな
拳銃が落ちていまして、耳の下から後ろにかけて、ものすごく血が流れていました。飯盒も図のうも、あの時のままの
状態で辺りは乱れていませんでしたから、拳銃で自決されたな、と思いました。合掌して知事さんの壕を出ました。」
(32軍直轄独立機関銃第14大隊の山本初雄分隊長)
具志頭与座の壕(島尻郡八重瀬町与座)/ギーザバンタ (慶座絶壁)/具志頭サザンリンクスゴルフ場内にある壕
玻名城海岸/具志頭海岸 (全て推測)
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▲無数の自然洞窟が点在する具志頭海岸

西日本新聞の伝えでは、山本さんは昭和54年8月15日夜、フジテレビ「ドキュメンタリー劇場“島田沖縄県知事の死”」
を紹介した記事の中に「島田知事は、洞窟内で1人で短銃自殺したともまた入水自殺したとも伝えられ、その最期を見
届けた者はいない」とあったのを見て、『そんなバカな…、私は摩文仁近くの洞窟内で知事の最期を目撃した。こんな
大事なことは、とうに分かっているとばかり思っていた。』と語っている。

山本さんによる当時の模様は次の通り。
『私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食糧を探しに海岸沿いを糸満方
向へ約200メートル行った。海のすぐ近くに壕があり、民間人が3人いて“知事さんがはいっておられますよ”という。
奥行き6メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、身体の左側を下にしておられた。“知事さんだそうですね”と尋ねると“
私は島田知事です”と胸から名刺を出した。“負傷しているんですか”と聞くと、“足をやられました”といわれた。
知事さんが“兵隊ん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。何も食べ物がない時ですよ、偉いと思いま
す。黒砂糖の四角い板を2つ貰って“元気でいて下さい”と言って自分の壕に戻ったのを忘れません。
その翌日、海岸に流れついた袋の中に入っていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って
行った。ところが、先日と同じ民間人が“知事さんはなくなりましたよ”と言う。壕に入るとヒザのそばに短銃があった。
右手から落ちたような感じで“ああ自決したんだなあ”と思った。合掌して知事さんの壕を出ました。
知事は白の半袖シャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。髪、ヒゲは大分のびていた』

山本さんは、その後、昭和21初めに投降、その時米軍の前で沖縄県庁の役人らしい男に島田知事の名刺などをいれた
雑のうを没収された。仲座にある収容所に1年いて昭和22年復員した。
『証拠になるものを没収されたけど間違いない。現地をみれば知事最期の壕もわかる』と山本さんは語っている。
(昭和46年9月1日沖縄タイムス)
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沖縄滞在中に昼食をとる為に訪れたお店に「真壁ちなー」がある。

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定休日にはちあわせするも、どうしても行きたかったので翌日に再チャレンジ。入店する事が出来た。
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家主さんの先祖が村長さんだった事もあって、登録有形文化財の石垣に囲まれた敷地は400坪。
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当時としても立派な家構えだったという(当時の家はほとんどが茅葺屋根の家「穴屋【アナヤー】だった)
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明治24年頃に建てられた登録有形文化財のお店は、古民家を改装した店内が昔の沖縄を伝えてくれる。
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村長さんの過去の経歴や活動などが所狭しと紹介され、沖縄戦当時の島田知事との関わりなども紹介されていた。
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戦中戦後、沖縄で慕われた本土出身者の島田知事。
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ドキュメンタリー映画「生きろ 島田叡-戦中最後の沖縄県知事」予告編YouTube
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▲店内の柱には沖縄戦当時に傷ついた弾痕跡が残る。
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食事は「沖縄そばセット(大)」¥1160を非常に美味しく頂いた。
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立派な瓦屋根の家(沖縄方言で「カーラヤー」)だった。
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「茶処 真壁ちなー」沖縄県糸満市真壁223(現在は日、月曜日定休)
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柏田道夫さん脚本の映画「島守の塔」 沖縄・兵庫・栃木の3県限定で2020年秋に先行公開予定だったが、新型コロナ
の影響で撮影が中断していた。2021年撮影を再開、2022年夏に公開予定との事。是非見に行きたいと思う。

沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い(戦闘)は以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島
津堅島⇒津堅島

この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2021_11_09


沖縄県営鉄道(軽便鉄道)
戦前の沖縄本島には、大正時代に3路線が開業し、昭和初期頃までは経営は安定していた。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期には軍事輸送が本格化し、昭和19年7月には、通常ダイヤによる営業運転を終了して実質
的な軍用鉄道となる。また、同年10月10日の那覇空襲によって那覇駅が焼失し、更に12月には糸満線喜屋武~稲嶺間
で、列車爆発事故(沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故)が発生している。
昭和20年3月には戦争の激化で完全に運行を停止し、その後の連合国軍上陸によって鉄道施設は破壊された。

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▲▼沖縄戦で、沖縄本島上陸後に米軍が撮影した軽便鉄道
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大正3年12月1日沖縄県営軽便鉄道(与那原線)那覇~与那原近くの8.1kmが開通、翌年1月20日与那原駅までの9.4
kmが全通開業する。当時の沖縄県は非常に貧しく、沖縄県の債権を日本赤十字社に買ってもらい、ようやく開通した
鐡道だった。その後、本島中部へ向かう「嘉手納線」、南部を走る「糸満線」、そして本島東海岸へ抜ける「与那原線」
の3路線(与那原線)那覇~与那原 (糸満線)那覇~糸満 (嘉手納線)那覇~嘉手納が開業したが、昭和19年の十十空襲で
那覇駅が壊滅状態に陥る。なんとか復旧して運行開始するも、度重なる空襲と、昭和20年4月1日からの沖縄本島地上
戦闘が開始されると、人知れず休止となった。
戦前の昭和8年までは「沖縄電気軌道」という路面電車も走っていた(那覇港通堂~首里山川)

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▲那覇駅で米軍が撮影した沖縄県営軽便鉄道の機関車(昭和20年6月撮影)
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▲壊滅した那覇駅のターンテーブル上に当時走っていた軽便偏心鋳鋼台車付気動車(キハ11)が写っている。
※「気動車」とは、ガソリンエンジン動力のガソリン列車である。(昭和20年5月撮影)
※写真左端奥には沖縄県庁に隣接した「武徳殿」も写っているのが確認出来る。

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▲壊滅前の上記写真とほぼ同じ位置の写真(左下にターンテーブル「転車台」が写っている)
※那覇駅は軽便鉄道3路線全ての始発駅で、ターンテーブルが設置されていたのは那覇駅だけだと言う。

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▲▼壊滅前の沖縄県営鉄道那覇駅(沖縄県営軽便鉄道とも言う)
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※戦後は那覇バスターミナルとなり、長らく使用されてきたが、現在は跡地に新しい那覇バスターミナルを建設中。
沖縄のバス会社の経営不振で、琉球バス(株)那覇バス(株)を福岡県の第一交通産業(株)が買収。
新那覇バスターミナルも第一交通産業(株)の所有となった。2015年9月新那覇バスターミナル建設作業中に軽便鉄道
時代の那覇駅ターンテーブルが発見された。
旧バスターミナル時代はバス駐車スペースとして舗装されていた部分で、恐らく地中に埋められていたと考えられる。
更に新那覇バスターミナルはバスの駐車スペース(待機駐車場)が地下になる為、今までにない程深く掘った結果、発掘
されたのだと思われる。(新那覇バスターミナル内で移築保存されるとの事)

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▼▲戦後、沖縄県営鉄道那覇駅から那覇バスターミナルとなった。
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▼▲昭和50年代の那覇バスターミナル。上の白黒写真は右側通行なので730前の写真だ。
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※沖縄祖国復帰から6年後の昭和53年7月30日、元の左側通行に戻された。
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▲新那覇バスターミナルは現状のバスターミナル機能を稼働させながらの工事だった。
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▲平成になってからも工事が続く旧那覇バスターミナル敷地(2017年2月15日訪問)
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▲▼現在の同じ場所。新那覇バスターミナル(2020年12月撮影)
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▼新那覇バスターミナルの片隅に展示された軽便鉄道時代の那覇駅ターンテーブル(2020年9月撮影)
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  ▼米軍が撮影した沖縄戦中の那覇駅ターンテーブル
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▼6分の1模型
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▼昭和9年12月1日に撮影された、那覇駅に停車中の20周年祝賀列車
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▼付属の案内板。発掘時の写真などが掲載されている。
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沖縄戦で放棄されたディーゼル機関車。サトウキビ運搬用車両か?米軍は何処でも汽車は再利用しない様だ
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▼那覇市壷川東公園に飾られているディーゼル機関車。米軍が撮影した物と同タイプの様に見える
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発掘された沖縄軽便鉄道 のレール上に、南大東島で使われていた、ディーゼル機関車と荷台が飾られている。
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(2017年2月15日訪問)
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▼▲KATO製のロゴがくっきり残り、サトウキビ運搬に活躍した時代に思いを馳せた。
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現在、ネオパークオキナワ(名護自然動植物公園)の園内を、大正3年の軽便鉄道開業時に導入されたドイツ「ヘンシェ
ル社」製B型タンク機関車の実物約4分の3の大きさで再現された物が走っている。

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沖縄県名護市にあるネオパークオキナワ
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動植物いっぱいの園内をゆっくり一周走っている。解説付きでとても楽しかった。
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レプリカは電気で走るが、ネオパークオキナワの副園長(宇栄原さん)のご努力で実現させた自信作。
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▼因みに日本最初の軽便鉄道は明治28年10月28日開通の「坊ちゃん列車」で有名な愛媛県松山市の伊予鉄道。
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▼米軍の空襲と地上戦で破壊された与那原駅舎。奥に写る丘は、激戦地の運玉森(コニカル・ヒル)に続く丘陵地帯。
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沖縄戦では昭和20年5月4日、日本軍総攻撃後の5/7頃から、首里攻防戦(シュガーローフ・ヒル~石嶺~コニカル・ヒ
ル(西原村運玉森【161高地】)で、与那原町も激戦地となり、町民の3分の1が犠牲となった。2015年1月31日、沖縄
県営軽便鉄道(与那原線)与那原駅が復元され、与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館として一般公開されている。
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▲▼与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館(上の森公園に駐車して歩いて行くのがベスト)
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▼昭和7年頃の与那原駅舎と与那原町の街並み。現在の埋め立てが進んだ東海岸と景色が全く違う。
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▲与那原町は海に面していた為、米艦艇から至近距離で艦砲射撃を受け、損害が非常に大きかった地区。
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▲大正10年、東宮殿下(昭和天皇)がヨーロッパ外遊の途中に、沖縄に立ち寄られた事を伝える記念碑。
東宮殿下は海軍の船で中城湾に到着、御召艦香取(おめしかんかとり)の艦長は、漢那憲和(沖縄県出身)大佐だった。
御召艦香取が中城湾に入ると、川越沖縄知事らが機動船で香取に到着、殿下一行は内火艇に移り、途中伝馬船に乗り換
え、仮桟橋に到着された。与那原の仮桟橋には紅白の布がまかれ、与那原付近の町村長、町村会議員、児童生徒、村民、
近隣村民らが並び奉迎した。その後、東宮殿下は徒歩にて漢那小道(漢那スージー)かや馬場通り、現在のえびす通り
を経て与那原駅まで進まれ、軽便与那原鉄道にご乗車されて那覇駅へと向かい、県庁まで人力車でお出かけになられた。
記念植樹をされ首里城訪問を終えると、東宮殿下は再び与那原へ向かい、与那原の海から帰艦されたと記されている。

現在、慢性的な交通渋滞に悩まされている沖縄の県都那覇。那覇国際空港からはゆいレールというモノレールが那覇
市内(那覇空港⇔首里)を走っており、渋滞解消が期待されている。
※ゆいレールの首里⇔てだこ浦西間の開業予定は2019年春とされていたが、その後工事に遅れが出て、2019年の
「早くて夏頃」に修正され、2019年5月24日に「10月1日開業」と正式発表され、予定通り開業した。

よみがえる軌道交通-沖縄都市モノレール-YouTube
▼ゆいレール赤嶺駅
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延伸区間の新設駅は4駅で、石嶺駅、経塚駅、浦添前田駅、てだこ浦西駅
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▼▲現在の終点「てだこ浦西駅」
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次の延伸はてだこ浦西駅から中城ルートで琉球大学までがもっとも事業性が高いという結果になっている。
一方、沖縄県では、2018年5月に「沖縄鉄軌道構想」について、概略計画をとりまとめている。
これは那覇~名護間に鉄道または軌道を建設する構想で、実現するかどうかは別として、那覇市、浦添市、宜野湾市、
北谷町、沖縄市、うるま市、恩納村、名護市を経由するルートが決定している。

沖縄戦終了の昭和20年6月後半から昭和47年5月15日までの27年間、アメリカの施政権下だった沖縄県。
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▲「那覇の目抜き通りをあてもなくさまよう、年老いた沖縄住民」と題された、那覇で米軍が撮影した1枚の写真。
 激しい地上戦が行われた沖縄戦中の昭和20年5月30日に米軍が撮影した国際通り(目抜き通り)だ。

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▲▼昭和30年頃の国際通り
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▲昭和47年3月に撮影された国際通り
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▲昭和26年12月3日に撮影された那覇市壺屋地区
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▲昭和26年12月3日に撮影された那覇郊外
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▼▲昭和30年8月に撮影された那覇市内
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▲昭和35年代の那覇市街地
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▲本土復帰当日の国際通り。復帰運動中は小学校の売店で「日の丸」が販売されていたが、いつの間にか無くなった。
子供達の「なぜ?」という問いに先生達は答えなかったという。右翼も左翼も関係無く皆が祖国復帰を喜んだはずでは
なかったのか??「米軍基地が置かれた土地」は沖縄県だけでは無い。日本各地に米軍基地はある。
他国の軍隊がこんなに長く駐留している事は異常と言えるかもしれないが、日本は敗戦国・・・しかも無条件降伏をし
た国で、戦後はずっとアメリカの核の傘に守られてきた。色々な事があるにせよ、外国の脅威を感じる事無く、平和に
そして幸せに暮らしてきたはずだ。それが今やグローバリスト達や中国、そして朝鮮民族がおかしな思想を植え付けよ
うと必死に沖縄県(特に沖縄本島)に攻勢をかけてきている。そして危険な思想に乗っかる沖縄県民も少なからず居る。
更に、沖縄県に住んでもいないのにざわざ本州から沖縄県に出向いて必死に基地反対運動で叫ぶ人がいる・・・。
沖縄県を含め、いつから日本はおかしくなったのか・・・

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本土復帰から来年50年を迎える沖縄県。
本土復帰(昭和47年)後、道路も右側通行から左側通行へ変わった(戻った?)
実際に左側通行になったのは昭和53年7月30日で「730」と言われる。標識や信号機などの付け替えの下準備は事前
から準備しておき、左側通行への移行作業は7月29日の夜から緊急車両以外の全ての車両の通行を禁止し、一晩で行わ
れたそうだ。「沖縄730・道の記録」シネマ沖縄1977年製作 YouTube

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▲アメリカ統治時代後半の沖縄県(昭和40年代後半と思われる)まだ車は右側通行だ(胡屋十字路付近)
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▲現在の胡屋十字路付近
「沖縄」は日本だが、本当の日本になるまでの道のりは暗く長いものだったに違いない。
戦史に興味を持ってから、いつか沖縄戦をちゃんと知ろうと思っていた。「日本は水に流す文化」とはいえ、琉球時代
の歴史、第2国民時代の差別問題、沖縄戦、アメリカ統治から本土復帰、教科書問題、基地問題などで沖縄県が話題に
ならない日は無い。TVでは見るけど「何で?」と沖縄県の怒りが理解不能な日本人も多いと思う。
地元出身のお年を召した方達は沖縄戦を実体験されて大変な思いをされているので、戦争を知らない世代が滅多な事を
言うものではないと思っている。
琉球以前の城(グスク)の中でも最大級の規模を誇る今帰仁城跡(世界遺産)を見学した際、案内して頂いたガイドの方か
らは(かなりご高齢)、城案内の他「薩摩に侵略された時代」の事もお話されていて「鹿児島県民に私はガイドしない」
と言っておられた(驚)。本州出身の私の様な勉強不足の沖縄無知も「沖縄県の怒りが理解不能な日本人」の一人だった。
だからこそちゃんと学ぶ必要がある。「右だ」・「左だ」と偏った見方では無く事実と現状を。
因みに「琉球」という呼び方は中国が名付けた他称で、「沖縄」が呼称。「沖縄」は本島の住民が周辺の島々や宮古島、
八重山(石垣島)に対する本島を指す事が語源で、沖縄固有の言葉(うちなー)に基づく名称だ。14世紀以後中国(明)で
は、沖縄本島の事を「大琉球」と呼称し、台湾の事を「小琉球」と呼称していた。


「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は「おもろさうし」( 沖縄最古の歌謡集1531~1623年)にも「お
きなわ」として確認されている。沖縄という漢字は日本語的な当て字だが、これは新井白石の『南島誌』(1719年)が
初出で、新井が長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。
「沖縄」という名称は薩摩藩の琉球処分後、日本の領土である事を示す為に「琉球」から「沖縄」に呼称が戻され、明
治時代から沖縄県として県名に採用されたとされているが・・・。
戦後、アメリカが日本との分断政策を実行する為、あえて「琉球」という呼称を復活させたが、琉球國以前から「おき
なは」は「沖縄」だったのである。

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▲2017年2月撮影の国際通り(歩行者天国時に撮影)
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▲近年(コロナ禍)の国際通り。閉店やお店の入れ替わりが激しい・・・。

この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2021_10_23




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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