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【島田叡】戦前最後の沖縄県知事。神戸市須磨区出身。(享年43歳)
医師の7人姉弟の長男として明治34年12月25日神戸市須磨区須磨寺町に生まれた。
文武両道で、神戸二中~東京帝大まで野球部で活躍。当時の日本では学生野球がトップスラス。スター選手だった。
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大正3年3月 西須磨尋常小学校卒
大正8年3月 兵庫県立神戸第二中学校卒
大正8年9月 三高文科丙類入学
大正11年4月 東京帝国大学入学
大正14年4月 東京帝国大学法学部政治学科卒
大正14年4月 山梨県属
大正14年11月 高等試験合格
昭和3年1月 地方警視
昭和3年1月 徳島県保安課長
昭和4年12月 岡山県保安課長
昭和6年1月 三重県警務課長
昭和7年1月 長崎県警務課長
昭和9年11月 福岡県警務課長
昭和12年1月 地方事務官、大阪土木部総務課長  
昭和13年1月 佐賀県書記官補警察部長
大阪府内政部長時に内務省から(泉知事の後任)沖縄県知事打診を受ける。
(沖縄戦を前に前任者の泉知事が本土に戻って(逃げて)しまった・・・。)
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▲前任者の泉守紀知事(いずみ しゅき)は転任届を出し、その後、香川県知事に就任している。
内務省の内示に接し、赴任すれば死確実の情勢に、任務辞退を勧める親友・周囲の声に対し、島田はきっぱりと、
「私が行かないと、誰かが行かなければならない」と、覚悟の「断」の一字を書き残し、妻子を残し沖縄へ赴いた。
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            ▲四天王寺に残した島田叡の筆跡
昭和20年1月12日 政府は島田叡を沖縄県知事に発令
島田のこうした性格は、すでに神戸二中時代からその片鱗を見せていた。野球部に席を置いた島田は、猛者連で結成さ
れたチームを見事に統率していた。ひとクセもふたクセもある部員のなかで、いつの間にかキャプテンに推されていた。
いたずら盛りの部員が、どんな“悪事”を働いても、決まって仲間を弁護。時には言われもない叱責を一人でかぶる。
こんな“受難者”的振る舞いが、チームメートに厚い信頼感を与えていたからだった。
島田は沖縄着任早々疎開推進の為「人口課」を創設。荒井、浦崎人口課長と疎開が必要な地域に足を運び「講演」の形
で、住民に疎開を要請した。最終的な疎開数は、県外約73000人・沖縄本島北部に15万人。疎開だけで20万人が命を
救われたと言われ(当時の沖縄県民総人口約70万人、宮古・八重山など含む)、約10万人が戦闘で亡くなっている。
不足する食料では単身台湾に行き、約450トンの米を調達(食料の運搬等では、海軍・太田中将の尽力も助けとなった)
島田知事は、住民の疎開と危険回避、危険を犯して自らが海を渡った食糧空輸、軍司令部との交渉、壕の中で行った行
政、酒や歌舞の許可など、死を覚悟させられた県民への仁政と人間味あふれる行動の末殉職した。
草木1本にまで県土に責任を持った最後の沖縄県知事として、戦中・戦後の沖縄県民、今も偲ばれ続けている。
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▲「島守の塔」には島田と行動を共にして殉職した荒井退造沖縄県警察部長も顕彰されている(栃木県出身 享年44歳)
島田知事は昭和20年1月31日沖縄県に着任。荒井退造警察部長は島田よりひと足速い昭和18年7月の着任だった。
泉前知事や高級官僚の何人かが本土へ出張名目で逃げていたりと、行政の機能がマヒ状態だった事態を、適材適所の抜
擢などで立て直し、島田と荒井は手を携えて、「県民が戦火に巻き込まれないよう疎開の推進」を目標に定め奔走する。
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▼▲島田叡沖縄県知事の顕彰碑が、那覇市奥武山町の「奥武山公園」内にある。
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2015年島田叡(あきら)氏の出身地である兵庫県との「友愛の証し」として、奥武山公園【多目的広場】が、島田氏
の顕彰事業の一環として「兵庫・沖縄友愛グラウンド」に改名された。
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広場横には記念碑が建てられ、バックネットに兵庫・沖縄友愛グラウンドの看板が設置された。
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島田叡沖縄県知事は、昭和20年6月17日摩文仁司令部豪に牛島司令官を陣中訪問した後、荒井退造警察部長と共に
7月初め頃に自決、共に殉職したとされるが、島田叡知事と荒井退造警察部長の遺骨は見つかっていない。
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▲▼沖縄戦跡国定公園内にある県職員及び島田叡知事の慰霊塔
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▲一番高い位置の島田知事/荒井部長終焉の地碑は1951年。奥に島田知事/荒井部長がいた軍医部壕がある。
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【 昭和20年5月以降の島田知事と荒井警察部長の足取り 】
4/25那覇市繫多川の新壕(ミィーゴウ)にいた島田叡知事は、那覇市真地(識名霊園内)の、荒井退造警察部長らが居た
「シッポウジヌガマ」に移動。島田知事も合流したことから「県庁・警察部壕」と呼ばれるようになった。
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【 5/23 志多伯の野戦重砲兵隊が県庁壕との交換を申し入れる 】
東風平村志多伯に展開していた野戦重砲兵第1連帯の将校が県庁・警察部壕を訪れ「作戦上、陣地を前進させたいので、
食糧共々野戦重砲兵第1連帯の壕と交換してくれ」と申し入れてきた。
島田知事は承諾の返事を出し、荒井部長は長堂の後方挺身隊本部へ伝令を飛ばした。
「首里戦線急迫により、挺身隊本部は高嶺村与座方面へ移動せよ」と。荒井部長は、先に大石橋で敵の集中砲火にあい、
豊見城村への脱出に失敗した山里和枝ら女性群20数人を再度出発させた。篤志看護婦として豊見城村の海軍沖根に身分
を引き継がれた十余人は、予想を絶する厳しい現実にたじろいだという。

【 5/24 長 軍参謀長、県に与座岳以南に移るよう指示 】
島田知事は、長参謀長宛に「かねて軍司令部壕内に築造中だった知事室がやっと完成したので、小職以下数名が移転し
お世話になりたい」との親書を知事付きの隈崎警視に届けさせる。長参謀長、折り返し「県は速やかに与座岳(糸満市
与座、大里の南にある標高168メートルの琉球石灰岩の丘陵以南に於いて県民指導に当たられたい」と返書。
壕内知事ポケットに各課長が集められ、長参謀長の書簡について協議した。
また内務大臣宛に本土決戦の際、参考となる「防衛対策」を意見具申の電報として打つ。

【 5/25 県、内務省に「六十万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク」打電 】
荒井警察部長は島田知事に相談し、内務省に打電。
「六十万県民只暗黒ナル壕内ニ生ク 此ノ決戦ニ破レテ皇国ノ安泰以テ望ムベクモナシト信ジ此ノ部民ト相倶ニ敢闘ス」
当日未明一行は壕を出発、約11キロ南に当たる東風平村志多伯の野戦重砲兵隊の壕を目指して南部撤退を開始した。
各自の装備は戦闘帽に鉄カブト、手榴弾、警察官はそれに拳銃、帯剣だけ。持ち物は着替えのシャツ類や日用品を入れ
たふろしき包みで、島田はそこへ常備薬と博多帯、手提げカバンに愛読書の『南洲翁遺訓』と『葉隠』を入れると、2
つのトランクを壕に残した。秘書官らの負担を出来るだけ少なくしようとの心遣いだった。
知事のグループはお付きの仲宗根官房主事、小渡、嘉数両秘書官に、当真警護官の5人。
荒井警察部長、そのお付きの仲村警部補、佐藤特高兼警務課長、隈崎警視らは別グループだった。

【 5/25午前8時 県庁、八重瀬町志多伯の野戦重砲兵第一連隊第四中隊壕に着く 】
野戦重砲兵第1連帯は軍命令で前進が中止となり、壕の交換が出来なくなった。「作戦だ」と言われれば、返す言葉も
ない時代。壕と共に食糧一切そのまま交換する約束だったので、知事一行は鍋・窯・一粒の米も持っていなかった。
その日のみの約束を借り、朝食を済ませた時には正午に近かった。となると、明日からの食糧を調達せねばならない。
夜を待って警務課の宮城警部を隊長に14、5名が真地の壕へ引き返して行った・・・。

【 5/26未明 真地壕に食糧等を取りに行った部隊戻る 】
明け方、米や味噌、炊飯用具を背負った宮城警部(隊長)一行が無事に帰ってきたが、一睡もせぬ徹夜作業だった。そし
て次の壕の確保に、佐藤特高兼警務課長と伊野波警防課長が、壕の交渉の為、高嶺(現・糸満市)に駐屯している山部隊
(第24師団)司令部へ向けて出発した。

【 5/27明暁 秋風台の壕に到着。さらに福地森の壕に移る 】
「出発した27日は大雨で、私たちは手荷物に体の自由を奪われ何度も転びました。その度に知事を警察部長は待って下
さったが、全員泥んこでぬれネズミ。都落ち、敗走という感じが強くしました。他の同僚は今度は食糧を背負わなけれ
ばならないので、辛く惨めな逃避行でした、志多伯へ来た時のコースを逆行しました。今の県道134号線を西へ、当銘
まで戻り、兼城村(現在の座波)へ出て、兼城国民学校前の村道を南下しました。この道が今の県道7号線と交わる辺
りで報得川が東から西へ流れ、糸満の海へ注いでいますが、そこに琉球王府時代からの由緒ある石橋・報得橋が架かっ
ていました。橋の手前で左折して、東方向へ入った細い農道沿いに秋風台の壕はありました。軍が掘ったらしい構築壕
で、中にはポケットもない単純な造りでした。この壕に知事さん、小渡、嘉数両秘書官と私の4名が入ったので、先ず
秋風台の壕に入られたのは間違いありません」(当真警護官の証言)
島田知事と荒井部長は秋風台の壕で、沖特陸浜野部隊の宮城嗣吉上等兵曹夫妻の訪問を受けた。
27日は沖特陸(海軍)も糸満の南約2キロの真壁村伊敷へ撤退を開始した日だが、宮城は妻を伴って南下、途中、島田と
荒井に妻を預けるため寄り道したのであった。
「島田さんは快く引き受けてくれました。その時『自分たちはもう覚悟しているから、どうなっても構わないが、何の
罪もない婦人や子供達を1人でも多く助けてやりたいと思っている』としんみり話され、『奥さんのことは、心配しな
くて良いですよ。あなたは必ず生き抜いて、迎えに来てあげて下さい』とおっしゃった。
荒井さんや佐藤さんも『奥さんの面倒は見るから、心配はいらないよ。
それより、あなたが頑張って生きなくっちゃ』と励ましてくれました。足手まといの女性が1人増えるのに、3人共本当
に優しい人でした」この後、島田と荒井の言葉を胸に懸命に生き、島田の念願通り婦女子を主とする約300人の避難民
救出を果たす。島田が最初に入った秋風台の壕から、福地森の壕へ移ったいきさつが隈崎手記にある。
福地森の壕にポケット状の小部屋が沢山あるのを知った隈崎は、知事に入ってもらおうと思ったが、敷物がない。
そこで部下の与那嶺巡査部長と浦崎巡査に近くの集落から敷物を探してくる様に命じ、2人が帰って来るまでの間、報
得川へ水浴びに出掛けた。蛇行する川は梅雨の大雨で乳色に濁り、川幅一杯に増水して川面に伸びたユウナの枝も水浸
しになっていた。抜け目なく、既に川に入っている先客に混じってユウナの木陰で水浴していると、「やってるね」の
声が掛かった。振り向くと、シャツとステテコ姿の島田知事がタオルを提げて笑っていた。「僕も浴びようかな」と裸
になって川に入って来て、「久し振りだな水浴なんて、サッパリするぞ」と嬉しそうだった。そこへ「やってますね」
と、荒井も現れ、水浴に加わった。サッパリしたところで隈崎は2人に新しい壕に移ってもらう事を告げた。

【 5/27昼食時 福地森の壕でのひとこま 】
隈崎が一足先に福地森の壕に戻ると、敷物探しに行った部下たちが古畳とむしろを各1枚見つけて帰っていた。
ほこりを払い、ぞうきんをかけ、畳は知事のポケットに、むしろは警察部長の部屋に敷いた。そのうち、何やら腕がモ
ゾモゾする。ロウソクの灯に照らして見るとシラミだった。「畳だろうか」「どうしましょう」3人でコソコソ話して
いるところへ島田と荒井が帰ってきた。「ホウ、畳だね、ご苦労さん」と島田は3人の部下をねぎらった。
遅い昼食を済ませると、島田は荒井と何事か相談を始めたが、そのうち島田は「体がかゆい」と言い出した。
「さて、わきましたかな」と、シラミに関しては先輩らしい荒井がニヤリ。「何がですか」「シラミですよ」。
2人の間で取り交わされる問答を、近くに居た課長たちがニヤニヤ笑いながら聞いていた。

【 5/27夕刻 島田、隈崎にさらに後退すべく壕探しを指示 】
島田知事は、隈崎に「今の様子では、この壕にも長くはおれまい。疲れていて気の毒だが、明朝、真壁村伊敷の首里警
察署の壕に行って、あの付近で適当な壕を探してくれ。2~3日中に自分もここを引き揚げることにするから」と指示。
「一県の知事ともあろう人が、まるで野良犬の様に追われ追われて、落ち着く場所もないのだと思うと、戦場とはいえ
お気の毒とも情けないとも思うのであった。こんな事態を予測もせず、無準備だったことを悔いると共に、神州不滅
を過信した浅はかさが情けなく、敗戦がいち早く迫ってきたかに思われて哀れであった」(隈崎の述懐)
「県民救護並ニ特殊任務ノ為 謝花警部以下八名ヲ民衆ニ潜入セシメタリ」の電報を最後に、県から内務省への通信連
絡は途絶える。

【 5/28未明 隈崎、真壁村伊敷に壕探しに行く 】
隈崎は与那嶺巡査部長と浦崎巡査の2人を伴って福地森の通信隊の壕を出る。辿り着いたのは、真壁村伊敷集落の南西
約500mの巨大な自然洞窟「轟壕」だった。本島南部・島尻地方には背の低い松やソテツなどが生えた琉球石灰岩の丘
陵が多く、轟の壕もそんな丘陵の一つにある。福地森や大城森の壕から南西約8キロ。本島最南端の断崖まで僅か4㎞
の地点だった。

【 5/28午後 浦崎一行、座波集落に着き生気を取り戻す 】
浦崎らの一行はやっと座波集落にたどり着き、ここへ来るまでとは別世界のような静かなたたずまいを残す農家で、蒸
し芋を腹一杯ご馳走になった。まる一日ぶりの食事で生気を取り戻すと、任務のことが浦崎の頭をよぎった。
夕方、浦崎と永山視学は兼城村役場と国民学校の共同壕へ陣中見舞いに出かけた。壕は岩盤をくり抜いたガッチリした
造りで、壁には書架がつくられ、書類や簿冊が積み重ねてあった。緊急事務も、ここで処理しているという。校長先生
の話では、児童は家族と一緒にそれぞれの集落の壕に避難させ、担当教師が巡回私道に当たっていた。県庁の挺身隊員
も時折この壕に来て、懇談会を開いたり、役場の人達と一緒に夜間増産の督励に回っている事も報告された。

【 5/28夜 日本軍に壕を追い出された住民が警察官に抗議 】
壕の近くで、中年以上の男女の一群が、警察官の指揮を受けていた。屈強な若者は1人も居なかった。前線への弾薬補
給と輸送の為かり出された義勇隊だったが、1人の中年の男が警察官に訴えている激しい口調に、皆はじっと耳を傾け
ていた。彼の訴えは前夜、近くの潮平集落で起きた惨劇だった。
「抜刀した友軍の将校らが村の壕に現れ、『出ろ、直ぐ出ろ、兵隊がいなけりゃ、この島が守れるか。出なけりゃこれ
だぞ!』と、日本刀や拳銃を突きつけたんだ。抵抗の出来ない女や年寄り達を村の壕から追い出したんだ。追い出され
た人達は焼け残った馬小屋や石垣の陰にしゃがんだり、集落内を右往左往しているうちに、糸満沖から射ちこまれた艦
砲でやられてしまった。我々は勝つ為に命がけで軍に協力しているのに、その軍が罪もない親、兄弟姉妹を死に追い
やっている。そんな軍にどうして協力できるんだ」と。
※「潮平権現壕」は約500人の民間人が避難していた。軍隊に壕を追い出された後、やはり死ぬなら潮平で・・・。
と思い壕に戻ると、日本軍は居なくなっていた。そのまま壕に入り(人数不明)その後米軍の捕虜となって助かった。

【 5/28 沖特陸、海軍を小禄に引き戻し、全滅を速める 】
海軍部隊の撤退は陸軍第32司令部から「過早後退」、つまり「退却作戦指導要領に反する早すぎる後退」との指摘を受
け、沖特陸は再び小禄陣地への復帰を命じられた。これが海軍部隊が陸軍より10日早く全滅することに繋がる。

【 5/28 法的根拠なき義勇隊動員が続き、県民を殺戮 】
3次に及ぶ防衛召集による県民の「根こそぎ動員」でも32軍は足りず、軍は戦況の悪化と南部への退却によって大量の
弾薬、糧秣を搬送せねばならなくなると、その労役をまたも県民に押し付けた。義勇隊の動員について法的根拠はなく、
参謀本部は本土決戦に備えて3月24日義勇奉公隊構想を閣議決定しているが、法を整備する前に構想を先取りしたと思
われる。しかも、実際に頭数を揃え、指揮する役回りは警察官に押しつけられた。
「義勇隊にかり出された人々は泣き叫ぶ妻子や家族と別れ、破裂する砲弾の中を突破して行きました。敗色濃厚な中で
選ぶ方も血を吐く思いでした。重い弾薬や米俵を背負って最期の土壇場まで歯を食いしばり、作業に従事した県民の姿
は誠に悲惨、かつ崇高でした。名もなきこれらの県民の死を忘れてはなりません」(那覇署署僚の山川泰邦証言)

【 5/29 島田知事、軍のいいかげんさに憤慨する 】
秋風台の東約1,5キロの高嶺村(糸満市)与座に司令部を置いていた第24師団から島田知事のもとへ「軍民協議会を開き
たい」との緊急連絡。島田、当真警護官を連れて与座の第24師団司令部壕へ走る。
「軽便鉄道高嶺駅近くまで行きますと、与座を管轄する上原糸満署長が出迎えておられ、沖縄製糖高嶺工場を南に上が
って行ったところにあった司令部まで案内された。山兵団からは杉森貢・少佐参謀が出て、島田知事、上原署長らと話
し合いをされました」(当間の回想)与座の東1キロの東風平村上高良集落に避難していた後方指導挺身隊本部の久保
田隊長と浦崎人口課長も、軍民協議会に呼ばれる。
軍は「与座岳(標高168m)と八重瀬岳(標高183m)を拠点に反撃を試みることになったが、地方人(軍隊用語で使
う民間人)がこの地域にいては作戦の邪魔になる。そこで早急に彼らを安全地帯の知念、玉城方面へ立ち退かせてほし
い」という要求だった。島田知事をはじめ、県側首脳はこの時初めて、県民を戦禍から救う為に知念、玉城方面が安全
地帯として指定されていた事を知った。「首里を捨てて、南端水際まで下がる事によって蒙る民間人に犠牲の余りにも
大であろうことを考え、憤然色をなして軍に抗していた島田知事としては、こうした軍が打つ手は不可解であり、敢え
て住民の犠牲を省みなかった軍の態度に憤慨した」(浦崎著述)。

【 5/30 島田知事、大城森の壕へ移動 】
東風平の「野戦重砲兵第1連隊壕」、現(糸満市大里)の「大城森の壕」
5月末、報得川が梅雨の豪雨で氾濫、北側にあった通信隊の壕(福地森)や弾薬庫の壕(秋風台)が水浸した。
連隊本部は通信隊の将兵を大城森の壕へ移動させたが、その時、北郷連隊長の配慮で島田知事一行も移ってもらった。
知事には22~3名、荒井部長には十数名の人がついてきたと記憶しますが、我々の壕は前年12月から3カ月がかりで掘
った総延長1300メートルもある立派な造りでしたから、それぐらいの人数を受け入れるのは、たやすいことでした。
島田知事一行は4~5日滞在されたと思います」(歩兵第32連隊・平尾正男軍曹の述懐)
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▲今もこの丘(69高地)の中にひっそりと残る「野戦重砲兵第1連隊(山3475部隊)の壕」(大城森の壕)
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▲(右手)大城森、サトウキビ畑の農道は軽便鉄道の線路跡。大城森の壕は69高地と呼ばれ、山形県出身者が多く居た歩
兵第32連隊の大規模な陣地壕だった。壕の中は那覇や首里から運び込まれる負傷兵、避難民でいっぱいとなり、さなが
ら野戦病院と化していた。「10人中4、5人が破傷風にかかっていた。破傷風にかかると胸から腹にかけて異様に膨れ、
もがき苦しむんです。口が開かなくなる為、水さえも満足に飲めない。布ぎれに水をひたしてそれを口にあてがって飲
ませた。毎日数人が死んでいった。」と、大城森壕の残置隊長をしていた歩兵第32連隊・平尾正男軍曹は語っている。
6月ついに米軍が壕に馬乗り攻撃するにいたり壕を手放し、1.7キロ離れた国吉に移動。その時壕内には遺体があふれ、
動けない重傷兵には青酸カリが配られた。置き去りにされた重傷兵300~400ともいわれる遺体をのみ込んだまま、昭
和56年に行われた、厚生省の大がかりな収骨収容作業でさえその口を開かず、未だに1柱も収骨されていない。

【 6/3 島田知事、無用の犠牲を避けるべく県庁を自然解散 】
後方指導挺身隊本部の久保田隊長と浦崎人口課長が、今後の指示を受ける為、「大城森の壕」に島田知事と荒井警察部
長を訪ねた。壕の入口近くにいた警察部長秘書室長の大宜味朝昌警部が、2人を島田知事のもとへ案内した。
大宜味警部は普段、部内でも知られた元気者で、万事に積極的な若手警部だったが、いつもの元気はなく、暗く沈んだ
表情で「お互いの運命も時間の問題ですよ」と淋しそうに話したと言う。
島田と荒井は長い壕生活のため、流石にやつれは隠せなかったが、厳しい戦場体験をくぐり抜けてきたせいか、ますま
す落ち着きを増し、いささかも動ずることがなかった。
島田は長い間たばこを切らしていた2人(久保田隊長と浦崎人口課長)に残り少ない「きんし」を1本ずつ与え、一緒
にうまそうに吸った後、司令を与えた。
「もはや艇身隊も、これまでの組織で行動を続けることは無理だろう。それで、挺身隊本部も町村分遣隊も編成を細分
化し、3~5人程度の小班に編成替えして、犠牲分散の態勢をとれ。艇身隊の今後の任務は、住民と共に、軍の指定した
知念、玉城方面に下がって彼らを保護する事にある。激しい戦場を突破することは非常に危険、かつ困難だが、細心の
注意を払って行動してくれ」と。5/6に豊見城村長堂の壕に本部を置いて、未占領地域を対象に戦場行政の3大施策の
士気昂揚、夜間増産、壕生活指導を展開した沖縄県最後の行政機構も、ここで当初の任務を放棄。
ついに避難民の誘導保護という悲しむべき最後の任務を担うことになったのである。
「編成替え」「犠牲分散」・・・無用の犠牲は出来るだけ避ける様に、という深い含みのある自然解散の指示だった。

【 6/3夕刻 島田知事、浦崎人口課長、久保田隊長に最後の言葉 】
指令を受けた浦崎人口課長、久保田隊長は、これが知事、警察部長との最後の別れになるのかと思うと、万感胸に迫っ
て立ち去り難かったという。大城森の壕の麓を流れている報得川は降り続いた雨で水かさを増し、濁流が流れていた。
島田知事は、そんな部下の気持ちを見透かすように言った。「久しぶりに水浴びしようじゃないか」
知事の誘いで4人は濁流を浴びた。「濁流で浄められた知事の体は、そのまま御仏に捧げても、よみさるべき清いもの
に思われた。知事は水を浴びながら『元気でいこう』と2人を励まの言葉が最後の言葉になった。

【 6/5頃、島田知事一行は伊敷の「轟の壕」へ 】
与那原方面から南下した米軍は5日、独混44旅団正面の具志頭付近に姿を現す。
報得橋から南へ、琉球三山の歴史で名高い南山城址の東側を通って、真壁村で右折。旧真壁村役場(現・三和郵便局)
の前を右折して西へ向かい、糸州~伊敷の集落のはずれを抜けると、轟の壕まではほぼ一本道。
途中の道路や畑は至る所に死体が散乱し、死臭ふんぷんの悲惨な状況だった。大雨の中、島尻や知念村方面へ向かう避
難民はそれには目もくれず、大きな荷物を抱えて右往左往してた。誰もが人の死を悼むまともな神経を既に失っていた。
島田知事は本当に辛そうに、時おり立ち止まって道端の死体に祈り、特に子供の死体には心を込めて合掌していた。
県民を守る立場の牧民官として、胸が張り裂ける思いだったに違いない。
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▲「轟壕」
【 6/6 砲弾雨の中、警察官は決死で避難民を誘導 】
荒井警察部長は下痢が続き(アメーバ赤痢)、ほとんど横に伏せている状態だったが、住民を知念方面に誘導しようと
病床で指揮を執った。警察官が何組も艦砲の合間を縫って避難民誘導のために次々と壕を出て行ったが、途中でやられ
て帰って来ない人が多くなった。それでもひるむ警察官は1人もいなかったという。
その頃米軍は八重瀬岳に猛攻を加え、小禄飛行場と周辺の海岸線を完全に制覇、沖根の海軍部隊もはすでに断末魔の状
況に置かれていた。

【 6/7朝 本土に連絡のため北上中の県庁職員が殉職 】
「万難を排して沖縄を脱出し、沖縄戦の現況および県民の奮闘ぶりを本土・内務省に報告せよ」との特命を受けた警察
捌動隊8隊員は、7日朝に知念村知念城跡丘陵の壕に集結、陸路北上に備えて4つの班を編成。その時約300メートル下
の集落へ米軍部隊が近づいたので4班は一旦、分散して退避、夕方、再びこの壕に集まって、北上を始めることにした。
謝花隊員と安富祖隊員は知念城跡の断崖絶壁で米兵7~8人のはさみ撃ちにあい、手榴弾戦の揚げ句、謝花警部はピスト
ルで頭部を撃って自決。隊長らの死を「轟の壕」の警備隊本部へ知らせる余裕など全く無く、加えて隠密行動だったの
で、隊員以外の警察官に伝言を頼むことも出来ず、艇身隊はついに難民の群れに消えていった。

【 6/7 海軍大田少将「沖縄県民斯ク戦ヘリ」】
海軍沖縄方面根拠地隊(沖根)司令部壕から海軍省宛に司令官・大田實少将が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世
特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」で締める686文字打電。
沖根司令部、篤志看護婦として豊見城村の海軍外科壕へ手伝いに来ていた県庁女子職員十余人の身柄を県へ返す。

【 6/7夕刻 海軍外科壕看護婦、身柄を県庁に返され小禄海軍司令部(海軍外科壕)から「轟の壕」へ向けて出発 】
豊見城にある海軍外科壕の山里和枝ら篤志看護婦5人、医務隊の近藤曹長の引率で「轟の壕」に向かうことになった。
「身柄を県庁に返す」という話があった時、看護婦達は『お国のために死ぬ覚悟で来たのですから、ここで最後まで働
かせて下さい』と懸命にお願いしたという。
しかし、根拠地隊司令部は大田司令官の意向だったのだろう『知事から預かった職員は、知事の元へお返しするのが海
軍のやり方だ』と言って聞き入れなかったという。

【 6/7深夜 島田知事、人事を尽くし「轟の壕」にて沖縄県庁を解散 】
深夜、荒井警察部長が突然、皆に提案した。
「明日は大詔奉戴日(昭和17年1月2日の閣議は、前年12月8日の開戦にちなんで、毎月8日を決めていた)だ。
周辺までやって来ている敵に馬乗り(敵が洞窟陣地の頭頂部を占領、上部に穴を開け、ガソリンや火炎放射器で全滅。
を図る皆殺し作戦)されて朽ち果てるより、壕を出て相手と戦おうではないか。
夜のうちに、あるいは明朝を期して、朝討ちしよう」と。
島田知事がこれに答えた。
「荒井君、我々は人事を尽くしたのだから、後は天命を待とうじゃないか。私は今日を期して、警察部を含む沖縄県庁
を解散する」県庁・警察警備隊の解散は、伝令によって那覇署や糸満署員が居る壕にも伝えられた。
明治12年の置県以来、67年間の沖縄県と警察部の歴史は遂に幕を閉じることになった。
艇身体や分遣隊の時は編成替えであり、犠牲分散の態勢を取れ、という事だったが今回ははっきりと『解散』だった。
事ここに及んでは非戦闘員である部下たちに行動の自由を与え、生き延びる機会を与えてやりたいとの配慮であったと
言われている。その傍ら、荒井警察部長は沖縄戦での官民の苦難と奮闘ぶりを何としても内務省に知らせたかった様で、
悲痛な声で『よし、東京へ行こう』と言ったという。
警防課長の伊野波盛和警視が「部長、その体ではとても無理です。私が代わりに行きましょう」と、その任務を買って
出た。伊野波は部下の小橋川正一警部補、名城政雄巡査部長、座間味栄昌巡査に同行を求め、明朝北へ向け出発する。

【 6/8 県庁の警察別働隊、北部に向け出発 】
警察別動隊は3班に編成替えし、北部の久志村へ向けてそれぞれ出発。
山中の道なき道を行き、警戒線にかかって銃撃され、川を泳ぎ渡るなど苦闘の連続を強いられる。
【 6/10 警察別動隊比嘉/安富祖班が与那原で米軍に捕まる 】

【 6/11 篤志看護婦の山里和枝、部隊解散で小禄海軍司令部(海軍外科壕)から「轟の壕」に到着する 】
篤志看護婦として豊見城村の海軍外科壕に派遣されていた山里和枝さんが元の上司達のいる「轟の壕」に合流。
途中、糸満で同僚2人を米軍の迫撃砲で失っていた。付き添いの海軍外科壕医務隊の近藤曹長が島田知事の前で、「沖
縄方面根拠地隊司令部から参りました。お借りした職員をお届けに上がりました。ご協力誠に有難うございました。
身柄をお返しいたします」と報告した。山里和枝さんは近藤曹長の後ろで小さくなっていたという。
山里和枝さんは島田知事に『申し訳ございません。死んできますと言って出た者が死ねなくて…申し訳ございません』
と謝った。すると、島田知事は、『よかった、よかった、心配していたぞ、よく帰ってきた。実家へ帰ってきたような
ものだから、ゆっくり休みなさい』と答えたという。

【 6/12 後の沖映社長・宮城嗣吉氏、妻のいる轟壕に迎えに来る 】
沖特陸浜野部隊の宮城嗣吉上曹は、部隊長から喜屋武岬に分駐していた海軍通信隊への伝令を命じられ脱出、任務を終
えた後「轟の壕」へ転がり込んだ。島田や荒井警察部長と約束した通り、妻を引き取りに来たのである。
宮城上曹 ⇒ 「最初、秋風台の壕に行ったら山部隊の兵隊が『知事らは轟の壕へ移った』というので、尋ねて行きます
と家内は無事でした。島田知事に会ってお礼を言いますと『奥さんに会えて良かったねえ。もう、どんなことがあって
も死んじゃあいけないよ。生きることが大切だ』と喜んで下さった。」
この時、宮城上曹は米軍の携行野戦食「Kレ−ション」に入っていたコーヒーの小さな缶を15個程お土産に持って来て
いた。米軍の本島上陸作戦が始まると、小禄半島の海岸には特攻機によって撃沈された米輸送船からたくさんの浮遊物
が流れ着いたが、レ−ションの中のコーヒーを蓄えておいたのだ。
宮城上曹 ⇒「『長官、ルーズベルト(太平洋戦争開戦時の米大統領)からの慰問品です』と言って渡しますと、エッ?
と驚いておられたが、中身が分かると相好をくずされた。
『こりゃあ有難い。みんなに飲ませてやろう』と早速、仲宗根官房主事を呼び、『皆で頂きましょう』と渡された。
『ルーズベルトからの慰問品』が余程、気に入られたらしく、何度も繰り返して笑っておられたが、あれが長官(島田
知事)の最後の笑顔だったのではないかと思います。」
宮城夫妻は特に親しかった佐藤特高兼警務課長が居た壕の地下2階に身を寄せた。

【 6/13 豊見城海軍壕の大田司令官が幕僚6人と共に自決、海軍部隊は玉砕した 】
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【 この頃、轟の壕に陸軍衛生隊がなだれ込み、狼藉行為 】
轟の壕に、豊見城村に居た那覇署、高嶺村に居た糸満署が申し合わせたように移って来たが、それを追う様に避難民の
出入りも激しくなった。敵の偵察機が注目するようになり、海上の艦艇から砲撃されるようになって、壕内外で死傷者
が出始めた。食糧難の避難民は、夜になると壕外の畑へイモやサトウキビを取りに出掛けたが、これも狙われた。
そんなある日、陸軍衛生隊の1団14~5人がなだれ込んだ。入って来るなり傍若無人の振る舞いで、包帯交換を
頼みに来た他部隊の負傷兵を追い返す冷淡さとは裏腹に、看護婦とは思えない連れの女性にはやけに親切だった。
その様子を苦々しげに見ていた島田知事は、吸殻入れにしていた空缶をキセルで不機嫌そうに叩いていたという。
更に「軍医殿」と呼ばれた准尉は「戦場に役人や警察官なんか要らない。この壕は野戦病院として使うから立ち退け」
と言い放った。
隈崎警察部輸送課長が「我々は軍司令部から『与座岳以南で県民指導に当たれ』との指示を受け、ここに居る。
軍司令部の司令書があれば、いつでも壕を出る」と反撃すると効果覿面。翌朝、この軍衛生隊一団は姿を消していた。

【 6/14 日本軍八重瀬岳陥落。米軍、八重瀬岳を突破 】
【 6/15 島田知事、県の活動を停止し軍司令部壕に移ることを決意する 】
島田さんから伝令が来て、『会いたい』といって来た。早速、真壁に島田さんを訪ねたところ『やはり自分は軍司令官
と最後の行動をとりたい。摩文仁へ案内してほしい』ということであった。
翌日の未明、島田さんを案内して摩文仁の壕に牛島軍司令官と長参謀長を訪ね、そのまま島田さんはすぐ近くの軍医壕
に入った。15日の夜、島田知事から集合の通知があった。あいにく私は2~3日前から発熱して居て、体を動かすこと
が億劫だったので、次席の松井警部に行って貰った。知事はその夜、県の活動を停止する事、職員の自由行動を許容す
る事、知事と警察部長は摩文仁の軍司令部の壕へ移る事を言い渡された。と、翌朝松井警部から聞いた。
急いで知事の居る壕に行ったが、島田知事は秘書課の嘉数属と小渡属を伴って出発された後だった。
(毎日新聞野村那覇支局長手記)

【 6/16未明 島田知事、摩文仁へ向け轟の壕を出発 】
「その時、私達女子職員は川下の方へ移動していた。早朝、水をくむために出入口近くの水くみ場へ来た時、長官が鉄
カブトをかぶって出ていらっしゃいました。『長官殿、どちらへですか』と尋ねますと、こんな風に(体をぐっと近づ
ける仕草をして)近寄られて、
『僕達はこれから軍の壕に行く。君たち女、子供には(米軍は)どうもしないから、最後は手を上げて出るんだぞ。決
して(友)軍と行動を共にするんじゃないぞ』とささやくように言われました。
長官を尊敬し、信じていた私は、それを聞いて悔しくて、悔しくてたまりませんでした。
長官は直接おっしゃっていませんが、県庁では常々、死ぬ時はみんな一緒じゃ、最後は靖国神社へ行くんだ、絶対捕虜
になるな、って聞かされてきましたから、あの時は長官の真意が分からず、情けないと思いました。
『長官、今になって捕虜になれとおっしゃるのですか』と言ったつもりですが、長官にそれが聞こえたかどうかは分か
りません。長官はそれだけ言うと、後ろも振り返らないで出て行かれました。
私はもうがっかりして、起き上がる元気もなくなり2、3日寝そべっていました」(山里和枝さんの述懐)
島田、仲宗根官房主事、嘉数・小渡秘書官、当真警護官、案内の野村記者の5人で壕を出発。
摩文仁までの約7キロは、間道伝いのコースを取った。
「あの日は夜明けと共に轟壕を出ました。米軍の艦砲射撃が本格的になる午前7時までに行き着こうというわけです。
轟の壕のある伊敷の丘陵を南へ突っ切り、小波蔵集落の東端をかすめて糸州⇒伊原⇒米須⇒小渡(現在の大渡)⇒摩文
仁へと丘陵地帯の山裾を拾って歩きました。道中は至る所電線が垂れ下がり、県民や兵士の遺体が累々と横たわってい
ました。その一体、一体に長官は手を合わせておられた。
少しやつれておられたが、動作は相変わらず機敏であられたですねえ。摩文仁では先ず軍司令部壕を訪問されました。
知事さんが軍司令部壕に入られ、私たちが表で待っていた時間は15、6分でした」 (当真警護官の述懐)
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       ▲戦後、八原高級参謀が書いた摩文仁軍司令部壕の見取り図

【 6/16朝 島田知事、摩文仁の司令部壕着。軍医部壕に入る 】
「島田さんに初めてお会いしたのは昭和20年の2月上旬、着任されてまだ1週間くらいの時でしたが『今度の知事は死
ぬ覚悟で来た、大した男だ』という噂が軍司令部内にも轟いていましてね、会った第1印象もその通りでした。
4カ月ぶりに軍医部の壕で再会した時、司令部壕の方が広くて堅固なのに、なぜ狭くて貧弱なこの壕に来られたのかな、
と不思議に思いましてね、私、島田さんに直接、聞いたんです。
すると『牛島司令官が、こちらへ行け、とおっしゃったので参りました』と言われた。
それ以上の理由はご自身では話されなかったが、戦後私は生還された高級参謀の八原さんを訪ねた時、改めて聞きまし
た。それによると、島田さんは司令部壕に牛島司令官と長参謀長を訪ねた時『最後の行動を共にさせて頂きたいので、
この壕に居させてほしい』と頼まれたそうです。ところが、司令官は『自決するのは我々だけでよろしい。知事は行政
官で、戦闘員ではないのだから、ここで死ぬ必要はありません』と言われた。
司令官は島田さんに軍司令部壕に居てもらうと、危機が迫った時、自決しかねないと思われたようで、軍医部の壕に入
るよう言われたのです」(軍医部壕に居た大塚康之・薬剤中尉の述懐)
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       ▲摩文仁の丘に残る軍医部壕

【 6/16 島田知事、随行職員を軍壕に入れず轟の壕に帰す 】
島田知事に同行の県・警察部職員4人は「長官と最後まで行動させて下さい」と懇願した。しかし、島田は知事官房の
代表者である仲宗根官房主事にはそれを許したが、小渡、嘉数両秘書官、当真警護官には「君たちは若い。生きて沖縄
再建のために働きなさい」と聞き入れなかった。
「壕の入口で、私たちはもう一度『このまま、お側におらせて下さい』とお願いしました。
すると長官は険しい表情になり『帰りなさいッ。これは私の命令だ!』と厳しい口調で言われた。
その後すぐいつもの柔和な顔に戻り、『長い間、いろいろご苦労だった。何にもあげるものがなくて気の毒だが、せめ
てもの名残りだ。このお金は使う機会があるかどうかわからないが、取ってくれ』と、国民服の胸のポケットから束ね
た100円札を全部取り出し、差し出された。私たちの月給が5~60円の時代ですから大金です。
辞退しますと『僕はもう使うことはないから、取っておいてくれ。皆、今後は自重自愛するように』とおっしゃった。
これが長官とのお別れか、と思うと、3人とも泣けて、泣けて、滂沱の涙でした。
すると『さあ、早く行かないと艦砲が始まるよ』と我々の肩を叩き、壕の外で押し出すようにされた。
止むなく私たちは再び轟の壕へ引き返しましたが、あのありがたい、ありがたいお札は、轟の壕で捕虜になった時、米
兵に没収されてしまったのが、いまだに残念で、残念で…」(小渡回想)

【 6/16日 米軍、与座岳突破。戦車による掃討戦へ 】
米軍は与座岳を突破。米軍は首里攻防戦まで徹底していた「耕す戦法」はもはや取らず、歩兵を伴わぬ巨大なM4戦車
が集団で日本軍陣地壕に突進、暴れ回った。有効な対戦車兵器を持たぬ各部隊は壕内に追い込まれ、M4戦車の火炎放
射で焼き殺されたり、歩兵の馬乗り攻撃を受けたりして、次々全滅した。
その上、北の陸地からは各種砲弾、残る三方の海からは艦砲弾で鉄の暴風。そのままに荒れ狂った。
米軍はそれでもまだ満足せず、飛行機で空中からガソリンの入ったドラム缶を投下、焼夷攻撃まで始めた。
南部の隙間が多い不完全な自然洞窟壕は、この新手の攻撃に弱かった。

【 6/16~17 知事の特命を受けた県職員、相次ぎ殉職 】
16日夜、具志頭村港川で、伊野波、小橋川、名城の3人は米軍の機銃掃射を浴びて殉職、座間味も7/2与那原で米軍に
捕まり、東京の内務省に知らせへの雄図はむなしく消えた。
17日、警察別動隊池原班の玉城警部補と長濱巡査、中頭郡中城村で米軍と銃撃戦の末、殉職。

【 6/18未明 荒井警察部長、容態悪いなか摩文仁に向け出発 】
真地からここまで一心同体で行動して来た荒井は容態が悪く、島田知事に同行出来なかっが2日後の18日未明、腹心の
仲村兼孝警部補や警防課員に付き添われ、遅れて出発。

【 6/18米軍司令官バックナーが糸満市真栄里(高嶺)にて日本軍の迫撃砲を受け戦死 】
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【 6/18夕刻 摩文仁司令部壕の牛島長官、決別電報を打電 】
牛島司令官は決別電報を打電、同時に八原高級参謀以下5人の参謀全員と司令部将兵のうち約20人、司令部壕に身を寄
せていた全国紙特派の報道班員3人の摩文仁脱出を19日夜と決めた。
理由は、これまでの大平洋の島々のように全員が玉砕したのでは戦訓を本土決戦に生かせない、との考えからである。
八原高級参謀、通信主任参謀・三宅忠雄少佐、作戦補佐参謀・長野英夫少佐(八原以外は、摩文仁脱出後戦死)3人には
大本営への戦況・戦訓報告を、木村、薬丸両参謀(いずれも戦死)には本島各地での遊撃戦の指揮を命じた。
報道班員にも「沖縄本島を脱出し、戦いの実相を本土に報告せよ」との命令が出た。
この夜、軍首脳部の最後の夕食会が軍司令部壕の参謀部で開かれた。
 
【 6/18 島田知事、荒井警察部長、摩文仁軍医部壕にて 】
「あの辺には軍司令部のほか、経理部、獣医部、法務部などが、それぞれ壕を構えていましたが、軍医部の壕が一番狭
く、お粗末でした。雨が降りますと、止んでからも3時間はポトリ、ポトリと雨漏りがするので、奥の方はいつもジト
ジト濡れていました。そんな所に軍医部長の篠田重直軍医大佐以下36人が、すし詰め状態で入っていました。
そこへ知事以下4人を受け入れたのですから、一層狭くなりました。あの壕は第九師団が台湾へ去った後、島尻へ配備
された山部隊(第24師団)が掘っておいたもので、入口に機関銃の銃座がありました。

※島守の塔は下に島田知事以下の戦没県職員を祀る慰霊塔、背後の数十段の石段の上に島田と荒井の終焉の地を示す石
碑が立つ二段構えの造りになっているが、銃座は上の碑の場所にあった。
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銃座の後ろは坂になっていて、突き当たりに横長の二十畳敷きぐらいの大部屋がありました。
天井の高さは1m50㎝位でかがんで入らねばなりませんでしたが、そこに軍医部の下士官や兵約30人が寝起きしていま
した。この部屋に降りる坂道の途中の左手、胸ぐらいの高さの位置に、もう1つの鍾乳洞に通じる人1人がやっと入れる
位の穴がありました。その鍾乳洞で我々は命拾いをするのですが、大部屋の右奥を左手に曲がると、幅2メートル奥行
き10メートル位、天井は大部屋より低い細長い部屋があり、将校3人はそこに居ました。島田さん達もここへ入って頂
きました。両方の壁際に、どこから持ってきたのか、体の幅位の湿気避けの木製の簀の子を敷きまして、縦2列に寝て
いました。配置は一番奥から左、右に篠田軍医部長と鈴木軍医中佐、2番目が私と島田知事、3番目が県庁職員(仲宗根
官房主事と思われる)と荒井警察部長…という順序になっていました。
つまり私と島田さんは通路を挟んで隣り合わせでした。島田さんが来られた頃には、南下して来た米軍の攻撃が激しく
なり、日中は壕の中に潜んでいました。島田さんは鈴木中佐と学生時代や京都の思い出などを、和やかに話されていま
した。鈴木中佐も私も酒好きでしたから、よく消毒用の局方アルコールを水で薄めて飲んでいました。
あれ、20パーセント位に薄めると甘くて美味しいんです。島田さんも酒好きでしたから差し上げましたが、あの頃はあ
まり飲まれず、お付きの方にあげておられた。荒井さんは大分弱っておられ、島田さんは『荒井君、大丈夫か。しっか
りせえよ』と病状を大変気づかい、励ましておられました」 (大塚述懐)

【 6/19 島田知事、参謀部壕に別れ 】
「島田県知事が荒井警察部長を伴い、お別れを告げるためにやってきた。かつての宴会の折には「しょっ、しょっ、し
ょじょじ」の童謡を歌い、無心に踊った島田知事。そして元気だった警察部長も、ともに今は憔悴していた。
『文官だからここで死ぬる必要はない』との牛島将軍の勧告を受けて、参謀部洞窟を出て行く両氏の後ろ姿は忘れる事
ができない」 (八原高級参謀手記)
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【 6/19 牛島長官「悠久の大義に」最後の軍命令 】
日本軍の戦死者、この日だけで約2000人(6月初旬から中旬まで1日平均約1000人だった)。米軍摩文仁の丘一帯
に迫撃砲による猛攻を開始した。2日後の総攻撃の前触れだったが、牛島は全軍に最後の軍命令を発した。
「今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る 既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし 軍司令官の指揮は至難となれり 爾今
各部隊は各極地における生存者中の上級者之を指揮し 最後まで敢闘し生きて虜囚の屈辱を受けることなく 悠久の大
義に生くべし」。だが、この日343人が投降(米軍記録)捕虜になった。
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▲摩文仁の丘から平和祈念公園を見下ろす。

【 6/19昼 毎日新聞野村支局長が島田に別れ 】
昼頃、島田と親しかった毎日新聞の野村支局長が19日夜の脱出を控え、お別れのあいさつのため軍医部壕を訪れる。
島田は薄暗い壕の中で長い膝小僧を抱いて所在なげに壁に寄り掛かっていた。荒井はその横で死んだように寝ていた。
野村は島田の前に屈み込んで挨拶した。
『知事さん、いろいろお世話になりました。今夜、奄美大島出身の2人の兵隊と北部へ脱出する事になりましたので、
お別れに参りました』島田知事は『そうですか、しっかり頑張って下さい。成功を祈っていますよ』と野村の手を固く
握り、励ました。親しく話す機会はこれが最後、と思った野村は、かねてからの考えを小声で口に出した。
『知事さんは赴任以来、県民のためにもう十分働かれました。文官なんですから最後は手を上げて、出られても良いの
ではありませんか?』すると、島田はキッと顔を上げ、切り返すように言った。
『君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね?沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろ?』
ややあって、自嘲するように暗然とした表情で付け加えた。
『それにしても、僕ぐらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。これはきっと、末代ま
での語り草になると思うよ』野村が『それじゃ、知事さんはこれからどうなさいますか?』と聞くと、島田は『無論軍
と最期を共にします。見苦しい体を残したくないから、遠い海の底へ行くかな』と笑った。
その後、打ち解けた時の癖で、神戸なまりを丸出しにして『うん、そうや。君にいい物をあげるわ』と傍らのふろしき
包みを引き寄せ、博多織の角帯を取り出した。『これは赴任する時、家内が行李に入れてくれたもんやけど、僕は必要
がなくなったから、君にあげるわ』 「負け戦の軍司令官は、その責めと、幾多将兵の戦死の責任をとって自決する。
とすれば、幾多県民を死なせた地方長官もまた、その責めを負わねばならない。」これが島田さんのお考えでした。
夜、野村はその帯を腹にしっかり巻いて、摩文仁の海に入った。泳ぎが得意な奄美出身の2人の兵は、野村を支えるよ
うに両側を並んで泳いでくれたが、野村が波に飲まれそうになると、兵隊は腹帯を掴んで引っ張り上げてくれたという。

【 6/20 沖縄の地獄、いよいよ極まる 】
南部へ撤退した日本軍の戦死者約3000人。投降者は大平洋戦争でかつて例のない977人(米軍記録)。
もはや、最後まで敢闘し得る状況ではなかった。〝鉄の暴風〟の真ッ只中にあった集落は、島田や荒井が恐れたとおり、
地獄と化した。
野村一行は海岸に上がった所で米軍の捕虜になる。野村は死ぬまで「僕は島田さんの帯で九死に一生を得た」と言い続
けたという。脱出を図った3報道班員のうち助かったのは、野村1人だけであった・・・。
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【 6/21 米軍、摩文仁に総攻撃開始 】
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「この日も例によって朝6時頃砲撃が一旦止んだので、急いで壕の外へ出ますと、良い天気でした。
砲弾が飛んで来る中で排便するのは落ち着きませんので、皆喜んでそれぞれに用を済ませ、深呼吸を楽しんでいました
ら、急に米軍のスピーカーが放送を始めました。日本語、沖縄の方言、英語の3種で『只今から総攻撃を開始する。戦
闘に関係ない者は壕から出て、東へ歩け』と繰り返し、道路を指定しました。
軍司令部や軍医部の壕には、書記の女性30人程も付いて来ていましたので、司令部から『出て行きなさい』の命令が
出た。しかし、娘達はなかなか出て行きません。結局、残った人もいました。島田知事に随行していた県庁の職員の方
2人はこの時、知事に説得され、知事と荒井警察部長を残して壕を出て行かれました。
残った軍医部長以下36人と知事、警察部長は、非常食として作ってあった焼米を分け、水筒に水を詰めて、壕内の鍾乳
洞の方へ潜り込むため、降りて行きました」(大塚の回想)
米軍、摩文仁を総攻撃。
午前7時から始まり、摩文仁の丘の一番高い所にあった経理部の壕は爆雷を投げ込まれて全滅。
軍医部壕も入口の機関銃座と壕口付近が吹っ飛ばされた。
「鍾乳洞の中は寝て手を伸ばすと天井につかえる程で、低い所は4、50センチぐらいしかなかったでしょう。
しかし案外広くて、皆それぞれに居心地の良い場所を選び、寝ころんで目と鼻の先の天井を睨みながら息を殺していま
した。軍医部壕の方へは硫黄弾やら催涙弾やら、色々な物が投げ込まれたが、鍾乳洞の入口にテントをぶら下げていた
ので、煙は来なかった。一日中、戦車のキャタピラの音がしていましたが、何をしているのかも全く分からないままで
焼米をかじっての不安な、長い長い一日でした。(夜になり)外へ出てみると、全く静かでした。
時々前方から機関銃が発射されるが、曳光弾が入っているので何処を撃っているのかが判る。なので安心して歩けまし
た。摩文仁の丘の上まで、米軍の軍用道路が1日で出来ていたのには驚きました。昼のキャタピラは戦車ではなく、そ
の工作機械車の音だったのです。米軍の物量のすごさに驚くばかりでした」(大塚回想)
県庁職員2人(仲宗根官房主事、仲村警部補)とも消息を断ち、遂に生還しなかった。

【 6/21頃 島田知事、最期への決意 】
「本島が陥落したら自分は生きておれぬから自決する、と何度も言われた。青酸カリを国民服の内ポケットに常に用意
しておられ、これを飲めば死ねるかと尋ねられたので、青酸カリは風化することがあるので、それだけでは駄目かもし
れません。と答えると、それでは拳銃の方が確実かな、と言っておられた。その責任感と決意を無下に否定することも
出来ず、私としては『まだ死なれるのは早い』と押し止めるほかありませんでした」
「『君も兵庫県の出身か、懐かしいなあ。僕も兵庫県出身じゃ、神戸じゃ』と言われ、私の現在の任務や年齢などを聞
いて下さいました。17歳という私の答えを聞いて、同い年の娘さんが居られるようなことも言っておられました。
今日死ぬか、明日死ぬか、の殺伐とした戦場で、久々に交わした人間らしい会話でした。暗くて顔の表情までははっき
り見えませんでしたが、黒縁のまん丸い眼鏡越しの目は優しく、穏やかな口調が印象的でした。
そして『僕も必ず生きて帰るから、君も頑張るように』とおっしゃった。戦後になって、あの頃にはもう死を決意され
ていた事を知り、あえて心にもないことを言って励まして下さったのだなあ、と感謝しています。
その後の私は、沖縄の最果てで聞いた同郷の大先輩の言葉を忘れず、懸命に生き延びましたから」
(三枝兵曹述懐)
当時17歳の志願兵で、南西諸島航空隊の海軍2等整備兵曹だった三枝利夫兵曹。小禄飛行場玉砕の13日、軍司令部に
居た航空参謀・松原少佐へ伝令を命じられ、迫撃砲の集中攻撃を浴び軍医部壕に飛び込む。この後、右足を負傷しなが
らも陸軍の兵隊3人と共に摩文仁を脱出、中部の中城村まで北上したが、ここで力尽きて米軍に投降。
終戦から1カ月後の9月13日だった。

【 6/23(6/22) 牛島司令官と長参謀長、自決 】
午前4時30分、牛島指令官と長参謀長が軍司令部壕で自決。沖縄戦の組織的戦闘が終わる。
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【 6/26 島田知事と荒井部長、軍医部壕を出る 】
「島田さんと荒井さんが軍医部壕を出られた日をはっきり確定できなくて申し訳ありませんが、確か25日か26日の午
前0時前でした。島田さんは『この壕にこもっとっても駄目だから国頭の方へ中央突破します』と言っておられたが、
荒井さんが相当弱っておられたから、そう遠くへ行けるはずはありません。
ああ、死に場所を求めて出られたな、壕内で死ぬと我々に迷惑が掛かると気遣われているな、とその時感じましたが、
我々にはもはや、止める気力はありませんでした。それが、お別れになりました。
どちらの方向へ行かれたか、その後の消息は知りませんが、かねて言っておられたように摩文仁近辺で自決されたと思
います」(大塚証言)。軍医部36人のうち生還したのは、5人に過ぎなかった。
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▲軍医部壕から平和祈念公園を見下ろす。
警察別動隊下地・長山班は15日かかって目的地の久志村にたどり着いたが、沖縄戦の終結で辺野古で米軍に投降。
内務省は大塚報告に基づき、遺族とも相談の上、島田と荒井が軍医部壕を出たと思われる26日を死亡の日と認定、この
日が命日となった。島田知事の在任期間はわずか5ヶ月、島田が43歳、荒井が44歳だった。

【 6/26 八原高級参謀、米軍捕虜となる 】

島田知事の死は、戦火の中での入水自殺、短銃自殺、あるいは軍と共に玉砕などといわれ、真相は不明とされていたが、
テレビ放送がきっかけで『島田知事の最期を目撃した』という元軍人が名乗り出た。
東京都三鷹市の鮮魚商、山本初雄さん(51)で、元「球一八八○部隊井村隊山川小隊(独立機関銃隊)の連絡係」の
伍長勤務兵長。沖縄戦で右頭を負傷、捕虜生活の後に復員した日本兵。
【 7月初旬 島田知事の最期 】
「私は他の部隊の兵隊2人、首里から来たという姉妹ら民間人3人と一緒に具志頭、玉城の辺りの自然洞窟に潜んでいま
した。昼間は危ないもんだから寝ていて、食糧捜しには夕方から出掛けました。それも、壕の中ばかり捜しました。
戦争が終わったのを知って、民間人が出て行った後の壕には何か食べ物が残っていて効率が良かったからねえ。
その日は、具志頭の自分たちの入っている洞窟から東の玉城方向へ、海岸沿いに200メートル程歩きました。
摩文仁の丘からは北東へ3キロくらいの場所だったと思います。海のすぐ近くの自然壕に男2人、女1人の中年の民間人
が入っていましたが、その上の方、水際から50メートルくらい上がった所の断崖の中腹に、入口の大きな横穴壕があり
ましたので、私は1人で入ってみました。奥行きは、あれで5~6メートルぐらいだったかなあ。
夕方の薄明かりが差し込んでいるだけなので、暗いんですが、男が1人、頭を奥にして横たわっているのが見えました。
私は初め、死んでいると思いまして、その辺に目を凝らしました。あの頃は遺体に手を合わせてから、枕元の食糧や持
ち物を頂くような事をしょっちゅうやっておりましたものねえ。
ところが、その人は息をしているようなんです。そして、向こうから声を掛けてきました。『兵隊さん、知事です』と
言われたように記憶しています。そして、枕元の図のうのような物から名刺を出し、差し出された。
知事さんは左大腿部を負傷しているらしく、左肩を下にし横になっておられた。『負傷されたのか』と聞くと『足をや
られました』と言われた。もう自由に体を動かせる状態じゃなかったですねえ。
何か黒っぽい国民服のようなものを着て、黒縁のまんまるい眼鏡を掛けていたのを覚えています。
壕の中には、他にだれも居らず、図のうの傍らにふたを取った飯盒がありました。すると、知事さんは『兵隊さん、飯
盒の中に黒砂糖があるから、持っていらっしゃい』と言われた。黒砂糖の四角い板が3枚入っていましたので『そいじゃ
申し訳ないが2枚貰って行きます。元気で居て下さい』と言って、壕を出ました。その翌日か翌々日、私らは海岸でタマ
ネギ1箱と紙袋に入ったメリケン粉1袋を拾いました。撃沈された味方の輸送船から流れ着いたものらしく、メリケン粉
は外側は海水がしみていましたが、中は良く乾いていました。
それで団子をこしらえ、もらった黒砂糖をまぶして飯盒に入れ、この前のお礼にと知事さんの所へ持って行ったのです。
そして、例の横穴に入ろうとしたら、下の壕に居た民間人の男女3人が『知事さんは亡くなりましたよ』と、はっきり言
いました。後で聞いたのですが、その人達は学校の教師だと言っておりましたから、知事の顔は知っていた訳で、私は
その時、ああやっぱり知事だったんだなあ、と改めて思ったのを記憶しています。
それで、壕に入ってみますと、知事さんは私が最初に見た時と同じ姿勢で横たわっておられたが、あごの近くに小さな
拳銃が落ちていまして、耳の下から後ろにかけて、ものすごく血が流れていました。飯盒も図のうも、あの時のままの
状態で辺りは乱れていませんでしたから、拳銃で自決されたな、と思いました。合掌して知事さんの壕を出ました。」
(32軍直轄独立機関銃第14大隊の山本初雄分隊長)
具志頭与座の壕(島尻郡八重瀬町与座)/ギーザバンタ (慶座絶壁)/具志頭サザンリンクスゴルフ場内にある壕
玻名城海岸/具志頭海岸 (全て推測)
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▲無数の自然洞窟が点在する具志頭海岸

西日本新聞の伝えでは、山本さんは昭和54年8月15日夜、フジテレビ「ドキュメンタリー劇場“島田沖縄県知事の死”」
を紹介した記事の中に「島田知事は、洞窟内で1人で短銃自殺したともまた入水自殺したとも伝えられ、その最期を見
届けた者はいない」とあったのを見て、『そんなバカな…、私は摩文仁近くの洞窟内で知事の最期を目撃した。こんな
大事なことは、とうに分かっているとばかり思っていた。』と語っている。

山本さんによる当時の模様は次の通り。
『私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食糧を探しに海岸沿いを糸満方
向へ約200メートル行った。海のすぐ近くに壕があり、民間人が3人いて“知事さんがはいっておられますよ”という。
奥行き6メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、身体の左側を下にしておられた。“知事さんだそうですね”と尋ねると“
私は島田知事です”と胸から名刺を出した。“負傷しているんですか”と聞くと、“足をやられました”といわれた。
知事さんが“兵隊ん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。何も食べ物がない時ですよ、偉いと思いま
す。黒砂糖の四角い板を2つ貰って“元気でいて下さい”と言って自分の壕に戻ったのを忘れません。
その翌日、海岸に流れついた袋の中に入っていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って
行った。ところが、先日と同じ民間人が“知事さんはなくなりましたよ”と言う。壕に入るとヒザのそばに短銃があった。
右手から落ちたような感じで“ああ自決したんだなあ”と思った。合掌して知事さんの壕を出ました。
知事は白の半袖シャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。髪、ヒゲは大分のびていた』

山本さんは、その後、昭和21初めに投降、その時米軍の前で沖縄県庁の役人らしい男に島田知事の名刺などをいれた
雑のうを没収された。仲座にある収容所に1年いて昭和22年復員した。
『証拠になるものを没収されたけど間違いない。現地をみれば知事最期の壕もわかる』と山本さんは語っている。
(昭和46年9月1日沖縄タイムス)
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沖縄滞在中に昼食をとる為に訪れたお店に「真壁ちなー」がある。

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定休日にはちあわせするも、どうしても行きたかったので翌日に再チャレンジ。入店する事が出来た。
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家主さんの先祖が村長さんだった事もあって、登録有形文化財の石垣に囲まれた敷地は400坪。
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当時としても立派な家構えだったという(当時の家はほとんどが茅葺屋根の家「穴屋【アナヤー】だった)
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明治24年頃に建てられた登録有形文化財のお店は、古民家を改装した店内が昔の沖縄を伝えてくれる。
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村長さんの過去の経歴や活動などが所狭しと紹介され、沖縄戦当時の島田知事との関わりなども紹介されていた。
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戦中戦後、沖縄で慕われた本土出身者の島田知事。
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ドキュメンタリー映画「生きろ 島田叡-戦中最後の沖縄県知事」予告編YouTube
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▲店内の柱には沖縄戦当時に傷ついた弾痕跡が残る。
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食事は「沖縄そばセット(大)」¥1160を非常に美味しく頂いた。
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立派な瓦屋根の家(沖縄方言で「カーラヤー」)だった。
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「茶処 真壁ちなー」沖縄県糸満市真壁223(現在は日、月曜日定休)
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柏田道夫さん脚本の映画「島守の塔」 沖縄・兵庫・栃木の3県限定で2020年秋に先行公開予定だったが、新型コロナ
の影響で撮影が中断していた。2021年撮影を再開、2022年夏に公開予定との事。是非見に行きたいと思う。

沖縄本島(中部/南部)、沖縄本島(北部)の戦いや伊江島の戦い(戦闘)は以下の別ページでご覧ください。
沖縄本島(北部)⇒沖縄戦(本部半島)
沖縄本島(中部/南部)⇒沖縄戦
伊江島⇒伊江島

この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2021_11_09


沖縄県営鉄道(軽便鉄道)
戦前の沖縄本島には、大正時代に3路線が開業し、昭和初期頃までは経営は安定していた。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期には軍事輸送が本格化し、昭和19年7月には、通常ダイヤによる営業運転を終了して実質
的な軍用鉄道となる。また、同年10月10日の那覇空襲によって那覇駅が焼失し、更に12月には糸満線喜屋武~稲嶺間
で、列車爆発事故(沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故)が発生している。
昭和20年3月には戦争の激化で完全に運行を停止し、その後の連合国軍上陸によって鉄道施設は破壊された。

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▲▼沖縄戦で、沖縄本島上陸後に米軍が撮影した軽便鉄道
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大正3年12月1日沖縄県営軽便鉄道(与那原線)那覇~与那原近くの8.1kmが開通、翌年1月20日与那原駅までの9.4
kmが全通開業する。当時の沖縄県は非常に貧しく、沖縄県の債権を日本赤十字社に買ってもらい、ようやく開通した
鐡道だった。その後、本島中部へ向かう「嘉手納線」、南部を走る「糸満線」、そして本島東海岸へ抜ける「与那原線」
の3路線(与那原線)那覇~与那原 (糸満線)那覇~糸満 (嘉手納線)那覇~嘉手納が開業したが、昭和19年の十十空襲で
那覇駅が壊滅状態に陥る。なんとか復旧して運行開始するも、度重なる空襲と、昭和20年4月1日からの沖縄本島地上
戦闘が開始されると、人知れず休止となった。
戦前の昭和8年までは「沖縄電気軌道」という路面電車も走っていた(那覇港通堂~首里山川)

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▲那覇駅で米軍が撮影した沖縄県営軽便鉄道の機関車(昭和20年6月撮影)
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▲壊滅した那覇駅のターンテーブル上に当時走っていた軽便偏心鋳鋼台車付気動車(キハ11)が写っている。
※「気動車」とは、ガソリンエンジン動力のガソリン列車である。(昭和20年5月撮影)
※写真左端奥には沖縄県庁に隣接した「武徳殿」も写っているのが確認出来る。

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▲壊滅前の上記写真とほぼ同じ位置の写真(左下にターンテーブル「転車台」が写っている)
※那覇駅は軽便鉄道3路線全ての始発駅で、ターンテーブルが設置されていたのは那覇駅だけだと言う。

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▲▼壊滅前の沖縄県営鉄道那覇駅(沖縄県営軽便鉄道とも言う)
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※戦後は那覇バスターミナルとなり、長らく使用されてきたが、現在は跡地に新しい那覇バスターミナルを建設中。
沖縄のバス会社の経営不振で、琉球バス(株)那覇バス(株)を福岡県の第一交通産業(株)が買収。
新那覇バスターミナルも第一交通産業(株)の所有となった。2015年9月新那覇バスターミナル建設作業中に軽便鉄道
時代の那覇駅ターンテーブルが発見された。
旧バスターミナル時代はバス駐車スペースとして舗装されていた部分で、恐らく地中に埋められていたと考えられる。
更に新那覇バスターミナルはバスの駐車スペース(待機駐車場)が地下になる為、今までにない程深く掘った結果、発掘
されたのだと思われる。(新那覇バスターミナル内で移築保存されるとの事)

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▼▲戦後、沖縄県営鉄道那覇駅から那覇バスターミナルとなった。
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▼▲昭和50年代の那覇バスターミナル。上の白黒写真は右側通行なので730前の写真だ。
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※沖縄祖国復帰から6年後の昭和53年7月30日、元の左側通行に戻された。
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▲新那覇バスターミナルは現状のバスターミナル機能を稼働させながらの工事だった。
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▲平成になってからも工事が続く旧那覇バスターミナル敷地(2017年2月15日訪問)
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▲▼現在の同じ場所。新那覇バスターミナル(2020年12月撮影)
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▼新那覇バスターミナルの片隅に展示された軽便鉄道時代の那覇駅ターンテーブル(2020年9月撮影)
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  ▼米軍が撮影した沖縄戦中の那覇駅ターンテーブル
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▼6分の1模型
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▼昭和9年12月1日に撮影された、那覇駅に停車中の20周年祝賀列車
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▼付属の案内板。発掘時の写真などが掲載されている。
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沖縄戦で放棄されたディーゼル機関車。サトウキビ運搬用車両か?米軍は何処でも汽車は再利用しない様だ
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▼那覇市壷川東公園に飾られているディーゼル機関車。米軍が撮影した物と同タイプの様に見える
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発掘された沖縄軽便鉄道 のレール上に、南大東島で使われていた、ディーゼル機関車と荷台が飾られている。
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(2017年2月15日訪問)
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▼▲KATO製のロゴがくっきり残り、サトウキビ運搬に活躍した時代に思いを馳せた。
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現在、ネオパークオキナワ(名護自然動植物公園)の園内を、大正3年の軽便鉄道開業時に導入されたドイツ「ヘンシェ
ル社」製B型タンク機関車の実物約4分の3の大きさで再現された物が走っている。

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沖縄県名護市にあるネオパークオキナワ
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動植物いっぱいの園内をゆっくり一周走っている。解説付きでとても楽しかった。
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レプリカは電気で走るが、ネオパークオキナワの副園長(宇栄原さん)のご努力で実現させた自信作。
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▼因みに日本最初の軽便鉄道は明治28年10月28日開通の「坊ちゃん列車」で有名な愛媛県松山市の伊予鉄道。
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▼米軍の空襲と地上戦で破壊された与那原駅舎。奥に写る丘は、激戦地の運玉森(コニカル・ヒル)に続く丘陵地帯。
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沖縄戦では昭和20年5月4日、日本軍総攻撃後の5/7頃から、首里攻防戦(シュガーローフ・ヒル~石嶺~コニカル・ヒ
ル(西原村運玉森【161高地】)で、与那原町も激戦地となり、町民の3分の1が犠牲となった。2015年1月31日、沖縄
県営軽便鉄道(与那原線)与那原駅が復元され、与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館として一般公開されている。
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▲▼与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館(上の森公園に駐車して歩いて行くのがベスト)
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▼昭和7年頃の与那原駅舎と与那原町の街並み。現在の埋め立てが進んだ東海岸と景色が全く違う。
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▲与那原町は海に面していた為、米艦艇から至近距離で艦砲射撃を受け、損害が非常に大きかった地区。
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▲大正10年、東宮殿下(昭和天皇)がヨーロッパ外遊の途中に、沖縄に立ち寄られた事を伝える記念碑。
東宮殿下は海軍の船で中城湾に到着、御召艦香取(おめしかんかとり)の艦長は、漢那憲和(沖縄県出身)大佐だった。
御召艦香取が中城湾に入ると、川越沖縄知事らが機動船で香取に到着、殿下一行は内火艇に移り、途中伝馬船に乗り換
え、仮桟橋に到着された。与那原の仮桟橋には紅白の布がまかれ、与那原付近の町村長、町村会議員、児童生徒、村民、
近隣村民らが並び奉迎した。その後、東宮殿下は徒歩にて漢那小道(漢那スージー)かや馬場通り、現在のえびす通り
を経て与那原駅まで進まれ、軽便与那原鉄道にご乗車されて那覇駅へと向かい、県庁まで人力車でお出かけになられた。
記念植樹をされ首里城訪問を終えると、東宮殿下は再び与那原へ向かい、与那原の海から帰艦されたと記されている。

現在、慢性的な交通渋滞に悩まされている沖縄の県都那覇。那覇国際空港からはゆいレールというモノレールが那覇
市内(那覇空港⇔首里)を走っており、渋滞解消が期待されている。
※ゆいレールの首里⇔てだこ浦西間の開業予定は2019年春とされていたが、その後工事に遅れが出て、2019年の
「早くて夏頃」に修正され、2019年5月24日に「10月1日開業」と正式発表され、予定通り開業した。

よみがえる軌道交通-沖縄都市モノレール-YouTube
▼ゆいレール赤嶺駅
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延伸区間の新設駅は4駅で、石嶺駅、経塚駅、浦添前田駅、てだこ浦西駅
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▼▲現在の終点「てだこ浦西駅」
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次の延伸はてだこ浦西駅から中城ルートで琉球大学までがもっとも事業性が高いという結果になっている。
一方、沖縄県では、2018年5月に「沖縄鉄軌道構想」について、概略計画をとりまとめている。
これは那覇~名護間に鉄道または軌道を建設する構想で、実現するかどうかは別として、那覇市、浦添市、宜野湾市、
北谷町、沖縄市、うるま市、恩納村、名護市を経由するルートが決定している。

沖縄戦終了の昭和20年6月後半から昭和47年5月15日までの27年間、アメリカの施政権下だった沖縄県。
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▲「那覇の目抜き通りをあてもなくさまよう、年老いた沖縄住民」と題された、那覇で米軍が撮影した1枚の写真。
 激しい地上戦が行われた沖縄戦中の昭和20年5月30日に米軍が撮影した国際通り(目抜き通り)だ。

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▲▼昭和30年頃の国際通り
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▲昭和47年3月に撮影された国際通り
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▲昭和26年12月3日に撮影された那覇市壺屋地区
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▲昭和26年12月3日に撮影された那覇郊外
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▼▲昭和30年8月に撮影された那覇市内
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▲昭和35年代の那覇市街地
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▲本土復帰当日の国際通り。復帰運動中は小学校の売店で「日の丸」が販売されていたが、いつの間にか無くなった。
子供達の「なぜ?」という問いに先生達は答えなかったという。右翼も左翼も関係無く皆が祖国復帰を喜んだはずでは
なかったのか??「米軍基地が置かれた土地」は沖縄県だけでは無い。日本各地に米軍基地はある。
他国の軍隊がこんなに長く駐留している事は異常と言えるかもしれないが、日本は敗戦国・・・しかも無条件降伏をし
た国で、戦後はずっとアメリカの核の傘に守られてきた。色々な事があるにせよ、外国の脅威を感じる事無く、平和に
そして幸せに暮らしてきたはずだ。それが今やグローバリスト達や中国、そして朝鮮民族がおかしな思想を植え付けよ
うと必死に沖縄県(特に沖縄本島)に攻勢をかけてきている。そして危険な思想に乗っかる沖縄県民も少なからず居る。
更に、沖縄県に住んでもいないのにざわざ本州から沖縄県に出向いて必死に基地反対運動で叫ぶ人がいる・・・。
沖縄県を含め、いつから日本はおかしくなったのか・・・

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本土復帰から来年50年を迎える沖縄県。
本土復帰(昭和47年)後、道路も右側通行から左側通行へ変わった(戻った?)
実際に左側通行になったのは昭和53年7月30日で「730」と言われる。標識や信号機などの付け替えの下準備は事前
から準備しておき、左側通行への移行作業は7月29日の夜から緊急車両以外の全ての車両の通行を禁止し、一晩で行わ
れたそうだ。「沖縄730・道の記録」シネマ沖縄1977年製作 YouTube

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▲アメリカ統治時代後半の沖縄県(昭和40年代後半と思われる)まだ車は右側通行だ(胡屋十字路付近)
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▲現在の胡屋十字路付近
「沖縄」は日本だが、本当の日本になるまでの道のりは暗く長いものだったに違いない。
戦史に興味を持ってから、いつか沖縄戦をちゃんと知ろうと思っていた。「日本は水に流す文化」とはいえ、琉球時代
の歴史、第2国民時代の差別問題、沖縄戦、アメリカ統治から本土復帰、教科書問題、基地問題などで沖縄県が話題に
ならない日は無い。TVでは見るけど「何で?」と沖縄県の怒りが理解不能な日本人も多いと思う。
地元出身のお年を召した方達は沖縄戦を実体験されて大変な思いをされているので、戦争を知らない世代が滅多な事を
言うものではないと思っている。
琉球以前の城(グスク)の中でも最大級の規模を誇る今帰仁城跡(世界遺産)を見学した際、案内して頂いたガイドの方か
らは(かなりご高齢)、城案内の他「薩摩に侵略された時代」の事もお話されていて「鹿児島県民に私はガイドしない」
と言っておられた(驚)。本州出身の私の様な勉強不足の沖縄無知も「沖縄県の怒りが理解不能な日本人」の一人だった。
だからこそちゃんと学ぶ必要がある。「右だ」・「左だ」と偏った見方では無く事実と現状を。
因みに「琉球」という呼び方は中国が名付けた他称で、「沖縄」が呼称。「沖縄」は本島の住民が周辺の島々や宮古島、
八重山(石垣島)に対する本島を指す事が語源で、沖縄固有の言葉(うちなー)に基づく名称だ。14世紀以後中国(明)で
は、沖縄本島の事を「大琉球」と呼称し、台湾の事を「小琉球」と呼称していた。


「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は「おもろさうし」( 沖縄最古の歌謡集1531~1623年)にも「お
きなわ」として確認されている。沖縄という漢字は日本語的な当て字だが、これは新井白石の『南島誌』(1719年)が
初出で、新井が長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。
「沖縄」という名称は薩摩藩の琉球処分後、日本の領土である事を示す為に「琉球」から「沖縄」に呼称が戻され、明
治時代から沖縄県として県名に採用されたとされているが・・・。
戦後、アメリカが日本との分断政策を実行する為、あえて「琉球」という呼称を復活させたが、琉球國以前から「おき
なは」は「沖縄」だったのである。

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▲2017年2月撮影の国際通り(歩行者天国時に撮影)
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▲近年(コロナ禍)の国際通り。閉店やお店の入れ替わりが激しい・・・。

この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


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沖縄県は本州などと違い、医療体制が完全ではない離島です。
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断りさせて頂きます(見学途中であっても即中止します)
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 2021_10_23

屋我地島

Category: 沖縄本島  

屋我地島は沖縄本島と橋で繋がる人口約1300人の小さな島。
第二次世界大戦では屋我地島北部、済井出地区のハンセン病療養所「沖縄愛楽園」が、日本軍の兵舎施設と間違われ、
昭和19年10月10日(いわゆる十十空襲)米軍の激しい攻撃を受け、施設の90%が破壊された。
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▲米軍が作成した戦略地図の愛楽園はBARRACKS(兵舎)と記されており、軍関連施設と考えていた可能性大である。
米軍の空襲で水タンクが破壊され、十分な治療ができなくなった愛楽園では、元患者の約30%、289人が亡くなった。
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 ▲米軍の空襲で破壊された愛楽園
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▲現在の愛楽園(ほぼ同じアングルから撮影。左奥に見える島は古宇利島)
昭和50年、戦後初めて皇族として、平成天皇ご夫妻(当時は皇太子ご夫妻)が沖縄県をご訪問された。
「ひめゆりの塔」で火炎瓶が投げられる事件があったが、予定通りの日程を続られた。
翌日、国立療養所・沖縄愛楽園を訪問された平成天皇ご夫妻は、在園者一人一人にお見舞いの言葉をかけられた。
帰りに、在園者から船出を祝う意味の琉球民謡が贈られた。感銘を受けた上皇さまが作詞し、上皇后さまが作曲をした
唄が「歌声の響」だ。
「歌声の響」は天皇陛下御在位30年記念式典でも、沖縄出身の歌手・三浦大知さんが歌い、日本国中を感動させた。
両陛下が作詞作曲「歌声の響」 三浦大知さん独唱(2019/02/24)
三浦大知さん「だんじよかれよしの歌声の響 見送る笑顔 目にど残る」

「歌声の響」と題されたこの歌は、当時、皇太子だった陛下と美智子さまが初めて沖縄を訪問された際、訪れた国立ハ
ンセン病療養所「沖縄愛楽園」での一コマが描かれている。愛楽園には、その時の記憶をとどめる写真が今も残されて
いる。当時はまだハンセン病への認識に誤りがあり、国による強制隔離が続き、差別や偏見にさらされていた時代。
陛下は、病によって視力を失った人々にとって、琉歌を読むのが生きがいだったことを知り、この時の歓迎のお返しと
して、後日、琉歌を送られた。その琉歌に、皇后さまが曲をつけて生まれたのが「歌声の響」だった。

『だんじよかれよしの歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て』


羽地奥武橋を経由して屋我地大橋に繋がる。
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屋我地島ビーチを右手に見ながら屋我地大橋を渡って屋我地島に上陸。
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屋我地島には沢山の立派な橋が3つ架かっている。屋我地大橋、古宇利大橋、ワルミ大橋。
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▲▼屋我地ビーチ
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▲夕暮れ時の屋我地大橋
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▲▼名護市役所(屋我地支所)にある慰霊之塔に立ち寄って一礼する。
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屋我地島出身者の陸軍、海軍、軍属。それぞれのお名前が刻まれている。慰霊してから屋我地島を満喫して欲しい。
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▼名護市役所(屋我地支所)から、沖縄本島を望む。
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▼▲済井出ビーチに立ち寄った。
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▲▼正面に見える小島は「大石(うぷいし)」で、この辺りの地域の聖地。
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▼南洋杉の間から大きな積乱雲。
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▼▲屋我地島の2つ目の橋、「ワルミ大橋」
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▲「ワルミ大橋」
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▲沖縄本島側、橋の駅リカリカワルミ(今帰仁村)からワルミ大橋と屋我地島を望む
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▲湾は運天港。右手は屋我地島、左手、手前は沖縄本島(今帰仁村)奥に見えるのは古宇利大橋、古宇利島。
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▲屋我地島で買い物出来るお店、運天原共同売店。新鮮な野菜が豊富。島にコンビニは無い。
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▲直線道路の先は屋我地島3つ目の橋、「古宇利大橋」
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▲屋我地島から古宇利島を望む。右手が古宇利大橋
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▲古宇利島から古宇利大橋、屋我地島を望む。
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▲屋我地島と屋我地漁港を結ぶ済井出橋。
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▲▼屋我地漁港
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屋我地本島と橋で繋がっている事から、陸地部分は半分程度埋立地かもしれない。
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屋我地島はかなりお金がかかっている島だ・・・。
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▼ホテルのような立派な家も多い。
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▲▼最近出来たホテル?コテージ?や施設も多い。
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▲▼そうこうしているうちに島の最北端にある国立のハンセン病療養所「愛楽園」に到着。
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ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」は、国のハンセン病患者隔離政策にもとづいて、昭和13年につくられた。
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▲屋我地癩療養所 愛楽園全景(昭和13年8月下旬、沖縄県衛生課撮影)
ハンセン病は人類の歴史上もっとも古くから知られ、恐れられてきた病気の一つで、らい菌が主に皮膚と神経を侵す慢
性の感染症。1873年に「らい菌」を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前をとり、ハンセン病と
呼ばれるようになった。
ハンセン病に罹患した人々は遠く離れた島や、隔離された施設へ追いやられ、自由を奪われ「leper」という差別的な
呼ばれ方で社会から疎外された状態で生涯を過ごすことを余儀なくされた。
らい菌の増殖速度は非常に遅く、最初の兆候は皮膚にできる斑点、患部の感覚喪失などがある。
潜伏期間は約5年。20年かかって症状が進む場合もあるが、現代では特効薬も開発されており完治する病気だ。
感染経路はまだはっきりと解っていないが、日本で「らい予防法」は1996年に廃止され、2001年に同法による国家
賠償請求が認められた。
ハンセン病はもはや完治する病気であり、ハンセン病回復者や治療中の患者さえからも感染する可能性は無い。
※治療法も確立された現代では、重篤な後遺症を残すことや感染源になることは無いものの、適切な治療を受けない・
受けられない場合、皮膚に重度の病変が生じ、他者への二次感染を生じる事もある。

日本では、明治時代にハンセン病患者の救済が行われ、1889年にテストウィード神父が静岡県御殿場市神山に神山復
生病院を設立(最初の療養所)その後各地に私立療養所が建てられ、今も現存している。
公立療養所(都道府県連合)に関しては、1907年に設置の法律ができ、その2年後に全国に設置された。
その後、多くの私立療養所は閉鎖されていった。1930~1940年頃になると、国による一括統治・強制隔離政策を推
進する事や、患者数に比例して各県から予算を決定する会議が毎年大変であったことなどの理由により、公立療養所
(都道府県連合)は国に移管され国立となった。国立ハンセン病療養所の一つである国立駿河療養所は、1942年にハ
ンセン病傷痍軍人療養所として建てられたものである。これは日本で初めてであった。
神山復生病院と同様、静岡県御殿場市神山にあるが場所は離れている。1945年に現在の名前に改称し、厚生省(現在
の厚生労働省)の所管となった。2019年5月現在、13の国立療養所と1の私立療養所が現存している。
国立療養所沖縄愛楽園(沖縄県 屋我地島) 国立療養所宮古南静園(沖縄県 宮古島)
国立療養所松丘保養園(青森県) 国立療養所東北新生園(宮城県) 国立療養所栗生楽泉園(群馬県) 
国立療養所多磨全生園(東京都) 国立駿河療養所(静岡県) 国立療養所長島愛生園(岡山県)
国立療養所邑久光明園(岡山県) 国立療養所大島青松園(香川県) 国立療養所菊池恵楓園(熊本県) 
国立療養所星塚敬愛園(鹿児島県) 国立療養所奄美和光園(鹿児島県)
神山復生病院(静岡県御殿場市)
※現在ハンセン病は回復しているが過去の強制隔離政策により入所させられた人の内、後遺症が残っており介助を必要
としている人と、社会における生活基盤の喪失と家族との関係絶縁が原因で入所継続が必要な人の施設となっている。
また、ハンセン病療養所を退所後、療養所に戻った元患者が、2009~18年度の10年間で、延べ129人に上っている
現状もある。


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▲沖縄愛楽園では今、入所者数が減少していく中で、将来ビジョンとして愛楽園将来構想を模索している最中だ。

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▼▲当時のまま残る職員官舎の塀。
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▲▼米軍機の機銃掃射による弾痕が生々しく残る。
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▼当時のまま残る貯水タンク
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米軍は昭和20年4月21日に屋我地島に進攻、同園が療養所であることを確認すると攻撃を止めた。
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        ▲凄い量の弾痕だ・・・空襲の激しさを物語っている。
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▲▼国立療養所沖縄愛楽園附属准看護学校跡
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▼開園当時の愛楽園
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▼面会室のみ復元??されているが・・・古写真を見ても分かる通り形も違うし赤瓦でもない・・・。
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首里城でも同様だが、沖縄県の歴史建造物等は復元される際に当時と全く違う物を建ててる事が多く見受けられる。
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▲愛楽園内にある済井出簡易郵便局
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▼「希望と自信の鐘」は元々は少し丘を登ったこの場所にあったらしい。
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丘からは施設を一望出来る。ハンセン病が完治する病になり、隔離する必要も無くなり、感染の心配も無い中、
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現在この施設に入所されている方は100名を切っているという・・・。
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この巨大な施設を今後どう活用するかはもう真剣に考えないといけないところまできている。
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▼▲古宇利大橋、古宇利島が一望出来る最高の場所だ。昔あった「かんぽの宿」の様な国営宿泊施設になるといいな~。
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▲沖縄本島ではお墓と言えば亀甲墓のイメージが強いが、土地も取る為、一般的なお墓はこのようなタイプが多い。
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▲屋我地島で見た珍しい形をしたお墓。地元の同僚に聞いたらフリーメイソン信者のお墓らしい・・・

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▼▲折角なので帰りは古宇利島の観光スポット「ハートロック」に寄って帰った。
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 2021_09_29


沖縄戦では日本海軍の小型潜水艦基地が置かれた運天港。
運天港には、大正11年に建立された「源為朝公上陸之跡碑」がある。
源平の争乱(保元の乱)に敗れ、源為朝が伊豆大島に流された後、伊豆大島を脱出し、暴風にあいながら「運を天にまか
せて」たどり着いた港と言い伝えられている。「運天港」の名はそうしたエピソードからつけられた港だ。
沖縄では、源為朝が流れ着き、地元の有力者の娘を娶り琉球王統の始祖を作ったという伝説がある。
運天港に上陸した為朝は、地元、勢理客(じっちゃく)のノロ(神女)との間に男子を授かり、その子が後に今帰仁城を再
興した大舜であると伝承されている。そこには、こんな言い伝えが残っている。
その頃の勢理客ノロクモイ(クモイは、ノロの尊称)は、うら若き美しい娘で、ある夜、琉球の装束とは異なる姿の人が
数人の家来を引き連れて訪ねてくると云う夢を見たそうだ。不思議なことに両親も同じ夢を見たと云う。
それから数日後、ノロクモイが森の中で薪を集めていると、4~5人の見知らぬ人に出会い、それが夢の中に出てきた人
物の源為朝の一行であったと云うのだ。やがて為朝と勢理客ノロクモイは結ばれ、男子を出生した、と云う伝承である。
為朝は、その後、中部の浦添に移り住み、本島南部の大里按司の妹を妻に迎え、男子を授かったとある。
子どもの名前を尊敦(そんとん)といい、後の舜天王であるというものだ。舜天王の幼年期の逸話は伝わっていない。
だとすれば、為朝は琉球に漂着したのち、2人の男児をなしたわけで、兄が大舜、弟が舜天ということになる。
為朝伝説は、琉球王府が編纂した史書、『中山世鑑』(1650年)にも採録されているそうだ。一方、それより100年も
前に、京都五山の僧侶、月舟寿柱(げっしゅうじゅけい・1470年~1533年)の著した『鶴翁字銘井序』の中で、為朝
の琉球渡来伝説が語られていると云う。江戸時代後期の読本作者、曲亭馬琴は、1807年(文化5)~1811年(文化8)
にかけて『椿説弓張月』を刊行しているが、為朝が琉球へ逃れ、琉球国建国に関わったとする壮大な物語になっている。
為朝の琉球渡来説は、古くから知られた伝承なので、この「為朝伝説」から、「日琉同祖論」が始まっている。
つまり、琉球の人々の先祖は日本から渡来したのだと云う理論である。しかし、為朝伝説を史実として証明する史料は
全く無く、あくまでも伝承(伝説)である。この伝承を元にして「源為朝公上陸之趾」の碑が建てられたのである。
英勇一百伝_鎮西八郎為朝
源為朝
東京都の伊豆大島では今でも源為朝公が親しまれており、為朝の碑も建てられている。
島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその
名残である。

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石碑に利用された石材は、明治5年に宜名真沖で沈没した英国船の積み石(バラスト)を利用したものらしい。
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       ▲碑の文字は「元帥伯爵東郷平八郎書」との事。
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       ▲碑(裏側)には大正11年とある。
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▲碑の台座に記される「国頭郡教育部會発起」では、為朝の来琉を根拠に、琉球の祖先が日本人と同じだったことを印
象づける事によって、当時愛国心の育成に力を注いでいたという話も・・1609年(慶長14年2月26日)薩摩(島津氏)
の琉球出兵(侵攻)の正当性を主張する為に、琉球王と薩摩は源氏の血筋で同族なのだ、とする理由付けに利用された。
との話もあるようだ。この碑を知る人が沖縄県・・・いや、日本にどのくらいいるだろう・・・。
沖縄戦では、高台にあって遠望の利く石碑であったことから、米軍の艦砲射撃の標的にされたとの事で、石碑、台座に
は砲撃の痕が残っている。いずれにせよここは「平安時代に源為朝がたどり着いたのではないか?」という、歴史ロマ
ンの地。そして「琉球王朝の誕生伝説の入り口」の地でもあり、更には世界大戦へと突き進んで(巻き込まれて)いった
日本(大正~昭和)の国策が見え隠れする難しい場所である事は間違いない。


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▲▼運天森園地からは古宇利大橋、古宇利島、屋我地島、運天港を見る事が出来る。
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今帰仁城跡に行って帰る人が大半の中、訪れる人も少ないこの場所は今帰仁村の隠れスポットだ。
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▲▼近くには、今帰仁城でかつて北山王に仕えた位の高い方のお墓とされる場所がある。
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確かに人骨がある・・・。
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▲▼明治20年代に石積み囲い修復がなされ、その状態で残っている。
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▲▼石積み囲いの真ん中に開いている穴は「銃眼」では無い。
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▼お墓は運天港を望む見晴らしのいい場所にある。
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▼大正13年竣工の運天トンネルを抜けるとその先は海に繋がる1本道。かつての今帰仁の目抜き通りだ。
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▼付近には戦時中に掘られた防空壕が各所に今も残る。
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今は正規のゴミ置き場として再利用されている。
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▼海側に下りると正面に見えるのは屋我地島
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▼右手は運天トンネルがある来た側。奥の先は運天港
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▼この海岸にもムムジャナ墓が数多く口を開けている。
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壕口を塞いでいるコンクリートの壁(ブロック)は最近施工されたものだという。
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「研究目的」と称する遺骨ドロボーがいるからだという。
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簡単な木枠で塞がれた墓はかろうじて中が見える。
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ムムジャナ墓を後にする。
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▲「源為朝公上陸之趾」の碑とは離れた場所に、この地に流れ着いた源為朝がかつて生活していたという「ティラガマ」
(洞窟)が今も残っているという事なので、再度運天トンネルを抜けて集落側に向かう。

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▲この景色が見えたたら右手。案内標識も何も無いので、知らずに1人で来てもまずわからないだろう・・・。
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▲あぜ道が二手に分かれているので右側へ進む。
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▲すると・・・。
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▲大きなガマが口を開けている。ティラガマは今帰仁上りの拝所(聖地)の一つ。
源為朝公が住んでいたという伝説は、地元の人なら誰でも知っているという。

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洞窟内には源為朝の指跡とされる窪みのある岩があるらしいが良く解らなかった(笑)岩に指跡付くか??伝説伝説。
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かつて洞窟内部には拝所があり、そこには霊石「ビジュアル石」があったとされる。中はかなり広い。
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ビジュル石は仏教の「びんずる様」に由来すると考えられている石で、子授け祈願や吉凶を占う力がある他、治したい病
を思い描きながら石を撫でると病気が治る霊力が秘められていると信仰を集めている石。しかし現在は罰当たりな何者
かによって持ち去られてしまったらしい。
それでも今現在、子授け祈願のために洞窟に向かって祈りを捧げる人は後を絶たないという。

※源為朝伝説の残る洞窟ティランガマ(牧港テラブのガマ)
ティランガマには伝説があり、伊豆大島に流刑になった源為朝が、潮流に流され沖縄に辿り着き、そこで大里按司の妹
と結ばれ子供を授かるが、源為朝は一人で故郷へ戻ってしまう。幼い舜天と母が源為朝の帰りを待ち続け、牧港の地名
は「待港(まちみなと)」に由来するという説もある。現在も「御嶽(うたき)」(祈りの場所、聖域)として信仰を
集めている。次回行ってみようと思う。沖縄県浦添市伊祖5丁目


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今回史跡を案内してくれたのは、仕事でも人生においても大先輩が経営する民宿「よしもと家」のオーナー義元さん。
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民宿「よしもと家」は、冷暖房、電子レンジ、冷凍冷蔵庫、調理器具から食器類までフル完備の、築60年になる古民家
(ご実家)を丸ごと使えます。修学旅行生を対象とした民泊体験も実績豊富で、義元ご夫妻がサーターアンダギーなどの
伝統菓子作り体験から窯焼きピザ体験まで、何でもサポートしてくれる「楽しい!」がいっぱい詰まった民宿です。

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義元夫妻の人柄と静かな立地で本州や九州、四国、北海道まで全国から宿泊しに来られます。中には1週間泊まる方も!
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沖縄本島北部の観光に来られる際は是非是非ご利用下さい。お取次ぎします。
(このブログから問い合わせしてもらっても大丈夫です、素泊まりプランから食事付プランまでプラン色々。格安です)

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民宿「よしもと家」 沖縄県国頭郡今帰仁村上運天6
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今帰仁の隠れ人気宿です。

この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2021_06_21


沖縄県名護市の多野岳は、標高383mの沖縄本島で3番目に高い山。
因みに1番は国頭村字奥間の与那覇岳で標高503m、2番は本部町と名護市にまたがる標高453mの八重岳だ。

多野岳は昭和31年米軍に強制接収され、昭和34年、沖縄配備計画に基づき米軍羽地陸軍補助施設としてミサイル発射
台と関連施設が構築され、ホークミサイル基地として使用されていた。
昭和37年からその敷地は徐々に返還され、昭和47年(沖縄祖国復帰)に全面返還されている。
沖縄戦では日本軍第3遊撃隊「護郷隊」の拠点となっていた。

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▲那覇方面から国道58号線を北へ、仲尾次交差点を右折して登っていく。
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▲▼登り途中にあるソーラーパネル施設。以前はジムカーナ場があるミニサーキットだったと地元の友達に聞いた。
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道は一本道なのでどんどん登っていく。
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アンテナ施設がいくつも建っている。
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▲中腹からの眺め。羽地ダムも見える
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▲▼また太陽光パネルの施設が広がっている。
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名護市の施設(廃墟)跡地を活用しているようだ・・・。
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▼更に登っていく
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▼▲来た道を振り返ると、本部半島、瀬底大橋、瀬底島が綺麗に見えた。
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この辺り一帯がホークミサイル基地だった場所だ。
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昭和44年頃から保養施設「名護いこいの村」となったそうだが、それらしい施設は見当たらず。
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この先には羽地陸軍補助施設時代の保管庫も残っているそうだが今回は行けずじまい・・・。
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▲アメリカ陸軍ホークミサイル(多野岳サイトの写真ではない)
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▲ホーク発射台跡
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▲アメリカ陸軍ホークミサイル(多野岳サイトの写真ではない)
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▲▼この先は東シナ海。中共に睨みを効かせていたものが徐々に減り、それにつれて中共の力も増している・・・。
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どうする沖縄県・・・国のやる事にいつまでも「反対!反対!」では生活していけないぞ・・・?
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▲一緒に行った元自衛隊員のうちなーんちゅも呆れている・・・。
今の辺野古などの反対運動員の多くは「ないちゃー」である事を本土の人達は良く理解すべきである。


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 2021_06_12


糸満市宇江城一帯は日本軍最後の抵抗拠点の一つ。
激戦地糸満の中でもここ「真栄平」地区は、住民の戦没率が最も高く、2人に1人以上が亡くなられた一帯である。
第32軍牛島司令官の自決により、沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終了した昭和20年6月23日(22日説有)
以降も、付近の真栄平や宇江城の壕に籠りながらゲリラ戦を戦っていた隷下の部隊が抵抗を続けていた・・・。
それが日本陸軍第24師団以下22連隊+工兵第24連隊(第1中隊)、89連隊+工兵第24連隊(第3中隊)、32連隊で
あった。24師団主力は昭和19年7月、沖縄戦に転用され第32軍隷下に移り沖縄本島に上陸、第9師団が台湾へ移
動となった為、担任区域(南部島尻方面)を代わりに引継いで昭和19年12月防御体制を固めた。
真栄平・宇江城は、第24師団歩兵89連隊などが最期を遂げた地域である。この第24師団(雨宮中将)は北海道で
編成されたが、昭和19年第32軍に編入され8月に満州から沖縄へ移動している。司令部、歩兵22連隊、32連隊、
89連隊(金山均大佐)、制毒隊、捜索24連隊、野砲42連隊、工兵24連隊、通信隊、輜重兵24連隊など合計120
00名で編成され、派遣隊要員として抽出されて欠けていた大隊は、沖縄の現地召集者などにより再編成された。
(第24師団司令部は通称山3430)
昭和20年4月アメリカ軍が上陸し沖縄戦が始まると第32軍総予備として控え、4月23日に戦闘加入し首里北西にお
いて米軍と交戦。5月4日に総反撃に出たが、歩兵第32連隊第1大隊が棚原高地を占領した以外に戦果を挙げられず、
攻撃は失敗した。その後は後退しつつ防御したが、6月初の段階で師団固有の練度の高い人員は3000人以下に減少。
昭和20年6月5日、真栄平の宇江城集落にあるクラガーに後退してきた第24師団(山部隊)は司令部を置いた。
後に6月20日に師団長の雨宮巽中将が『最後の忠を全うすべし』(自活自戦)を指示して師団の組織的戦闘を終える。
6月23日米軍は真栄平集落に戦車と火炎放射器を先頭に侵入、村の掃討作戦を展開した。
真栄平では、900名の住民の内349名だけが生き残った。
6月25~28日頃、米軍が司令部壕入口を爆破。入口が塞がれたが、換気口があり、壕内に居た兵士達の呼吸だけは
大丈夫であった。しかし・・・米軍は「壕から出てこないとガソリンを流し込んで火をつける」と繰り返し放送した。
そして米軍はガソリンを流し込み火をつけた。(その前に飛行機からもガソリンを撒き散らし3時間で真栄平は全焼)
生き残りの兵士(第24師団司令部通信隊所属 牧野茂治さん)は以下の様に語っておられる。
「火を食い止めたが、通路の下が川になっていてその川の水と一緒に火のついたガソリンが流れてきて・・・毛布で
叩き消した。」
6月30日師団残存人員総数262名。クラガーには雨宮巽師団長、木谷美雄参謀長、川尻参謀以下の幕僚達が居た。
解散命令を出し「各自本分を尽くせ」と訓示し退路を断たれた師団長をはじめとする幕僚達が青酸カリや手榴弾で次
々に自決した。また同地で玉砕したとされる歩兵第89連隊(金山均連隊長)や22連隊の連隊旗も奉焼された。
「夜間の斬り込みが始まり、少しずつ数が減っていった。私も何度か志願したが、川尻参謀が私を止めるのです。お
前はまだ死ぬなと。結局この川尻参謀は、斬り込みで戦死しました。」
司令部の将兵自らが「斬り込み攻撃」を実施していた。自決を選ばなかった兵達はこの日洞窟からの脱出を試みた。
「米軍に塞がれていたのですが、たまたま工兵隊の者がいて道具があったんです。通路を掘って外に出たんです。夜
を選んだつもりだが、外は午後の太陽が燦々と降り注いでいた」洞窟暮らしで時間感覚が無かったのだろう・・・。
「私達の岩を砕く音を聞いて、戦車が待ち伏せしていた。直ぐに銃撃されて、先に出ようとした兵は殺された。米兵
が去る夜を選んで、同じ幹部候補生の小林(函館出身)と外へ出た。辺りは一面焼け野原だった。外に出て身を屈め
て進んでいたが、狙撃された。小林は、声も出さずに死んだ・・・即死でした。」
師団残存人員のうち、歩兵第32連隊第1大隊と第3大隊は終戦まで部隊行動を続け、8月末から9月初旬に投降した。
牧野茂治さんが投降したのは、昭和20年8月18日。
「私のいた師団司令部で生きて帰ってきたのは、私1人の様です。音更町でも沖縄で亡くなった人は120名もいるん
ですよ」と語られている。
※牧野茂治さん 大正12年生まれ(北海道音更町)
昭和19年1月入隊(北海道第7師団通信隊)旭川に10日間のみで満州の東安に送らて半年。最後は沖縄に送られる。
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▲雨宮巽師団長(享年53歳)山梨県出身 昭和20年6月30日自決※(24日の説もあり)
昭和20年6月23日クラガーの師団司令部は、米軍の完全な包囲下にあった。既に摩文仁の第32軍司令部との連絡は
途絶え、僅かに隷下部隊の一部と無線が通じているのみだった。この日の夜、師団長は壕の中で自決する覚悟を決め
ていたという。当番兵が、師団長に夕食を差し出した。師団長はそれを静かに食している。
そこへそれまで壕外と無線連絡を取っていた杉森参謀が来て、「歩兵第89連隊長と工兵第24連隊が今から10分後、
新垣の壕で刺し違えて自決します」と報告した。師団長は表情一つ動かさず、ただ黙って頷いたまま箸をとり続けて
いた。しばらくして杉森参謀が報告した。「これから各方面との連絡を打ちきり、通信機材を破壊します。」
「うむ」雨宮師団長は短く答えた。壕の外で銃撃が一瞬弱まったとき、雨宮は誰に言うともなく呟いた。
「誰か劇作家がいて、この最期を劇にすれば、きっと素晴らしいものになるだろうなぁ・・・」その夜、動ける者は
全員、斬り込みの命令が下された。師団長と幕僚、また動けない重傷者は壕内で自決することになった。
仁位少佐は師団長の近くで、これらの一部始終を見聞きしていたという。彼は斬り込み出撃することになっていた。
仁位は師団司令部の苗代参謀と同期である。仁位は苗代に、何度となく共に斬り込みに出ようと誘った。しかし苗代
の答えは決まっていた。「気持ちはわかる。感謝するが、どこへ行っても同じだ。俺は師団長と運命を共にするよ」
僅かに微笑を浮かべてそう言うばかりだった。仁位は説得をあきらめた。
夜半近く、斬り込みの出撃が迫った頃、苗代は師団長に爆薬の準備が終わったことを告げた。
自決組は全員で円座を作り、中心に置いた爆薬で同時に自決するという。雨宮師団長は事もなげに側近に言った。
「ここにとっておきの上等なウィスキーもあるし、一杯機嫌になったところでドカンとやるか」周囲もまた、何の屈
託もなく又未練もなさそうに何やら世話話をしていた。仁位は出撃に際し師団長と苗代参謀に最後の挨拶をした。
そして夜中2時過ぎ、仁位は真っ暗闇の中へ飛び出していった・・・。
雨宮師団長の最期は、6月24日午前2時以降、天明までの間と推測された。
▲「沖縄戦 二十四歳の大隊長 陸軍大尉 伊東孝一の闘い」(笹幸枝Gakken) 「第24師団の砲兵(野砲兵第42聯隊)
将校、陸海混成砲兵大隊長の仁位 顕少佐の手記」の内容より※(24日の説)
※仁位 顕少佐
陸軍重砲兵学校教官。召集で戦地に赴くこととなり、陸海軍混成砲兵部隊の大隊長として沖縄戦に参加。
沖縄戦での砲兵の活躍は「牛乳瓶の中にでも撃ち込むことができた」とい程高いレベル、教官等の高い技術を持った
軍人が招集された事も大きな要因。(兵員のひっ迫が酷い状況の裏返しでもあるが)
戦後は太宰府天満宮崇敬会の事務局長を務めたとの事・・・師団長と運命を共にしなかったという事実・・・。
斬り込みに出撃して?生き残ったという事です・・・(1973年『珊瑚礁を朱にそめて』という本を出版している)

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▲▼「山雨の塔」は糸満市北東部の宇江城集落に位置しており、最寄りの宇江城バス停から歩いてすぐの場所。
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「山雨の塔」慰霊塔下部にあるクラガーでは戦後統治していた米軍兵士によって、雨宮師団長並びに配下の幕僚の戦死
を確認する為に入壕した後、しばらくの間放置されていた。
昭和27年、元日本軍兵士の手によって発掘され、雨宮師団長並びに配下の幕僚の遺骨は遺族の元へと帰ったそうだ。
昭和41年8月11日沖縄南部の壕で発見された約80体の遺骨の内、14体が高級将校のものであることが判明している。
何故「山雨の塔」と呼ばれるのか?
「山雨の塔」の前、師団兵士の生き残りの方々の手によって建立された〝雨宮中将戦没の跡〟の木柱がかつて存在した。
その後昭和37年10月に沖縄遺族連合会沖縄協会の委託を受けて現在の塔に改修されたものが今に至っている訳だが、
山雨の塔(やまあめのとう)はふたつの言葉から成り立っているものであり、まず第24師団は通称「山部隊」。そして
師団長は「雨宮巽」。その頭文字を取って命名されたものが「山雨の塔」だ。

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昭和20年6月24日歩兵第22連隊(山3474部隊)の連隊旗を託された本田昇少尉(愛媛県上浮穴出身)は、24師団司令
部(クラガー)に後送のうえ奉焼した。軍旗の最後は、24師団司令部の白石直之准尉(愛媛県松山出身)が見届けた。
※歩兵第22連隊は愛媛県で編成された日本陸軍の歩兵連隊。
※白石直之准尉は大正6年生まれ。第24師団司令部副官部に勤務していた陸軍准尉。
歩兵第22連隊軍旗奉焼を見届けた後も勇猛果敢に戦い、昭和20年10月に漸く終戦を迎えている。
22連隊本部が玉砕した後も、糸満南方の防御に就いていた22連隊の兵士達は、最後の一兵まで手榴弾を投げ続け、徹
底抗戦をしていたという。22連隊玉砕の地には、戦後、慰霊碑「栄里の塔」が建立された。

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▲▼「栄里の塔」昭和27年3月建立(昭和43年3月改修)
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以下、碑文
歩兵第22連隊は第32軍の左第一線部隊として真栄里付近に布陣し、南進を続ける優勢なる米軍に対し熾烈なる砲火を
あびせ遂に米軍司令官バーグナー中将もこの地に戦死す。住民とともに勇戦奮闘せる我が軍は物量を誇る米軍の攻撃に
抗しきれず善戦空しく昭和20年6月17日玉砕し悠久の大義に生く。終戦後真栄里部落民は本戦闘に協力せし住民並び
に将兵の遺骨1万2千柱を収集し栄里之塔を建立せしもこのたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を
改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う。  昭和四三年三月 財団法人 沖縄遺族連合会

▼「山雨の塔」に話を戻す。

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歩兵第22連隊 陸軍准尉 合田輝明 供養碑 とある。
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▲合田准尉のお母様が書いた歌碑だろう・・・合掌
あささんはもう他界されていると思うが(昭和40年で78歳とあるので)4人中3人の息子さんを戦争で失ったらしい。
合田准尉の遺骨は戻らず、死亡通知のみだったという。戦死した息子を偲んで当時まだアメリカ統治の沖縄に来て建て
たのだろう・・・。現在の物は遺族の方が歌碑の修復をされた物だと聞いた。

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クラガー(暗川の壕または宇江城の壕)は「山雨の塔」の真下にあり、東側にはアブガマが地下で繋がる。
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鉄扉があるものの鍵はかかっておらず、自己責任の元で見学できる様になっている。
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クラガーの中は二股に分かれていて、米須を通って最後は大渡の海岸まで地下水のトンネルになっている。
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▲向かって左側は浅いので行けそうだが・・・。
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▲向かって右側は結構な水深がありそう・・・しかし奥にずっと繋がっている事は確認出来る。
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地上に戻る。
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▲慰霊塔(クラガー)全体
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周辺には「福井泉(クンシンガー)」(地元の人は「暗泉(クラガー)と呼ぶ)や「福出泉(フクラシガー)」の湧き水
(水源)があり、これらの壕は元々宇江城住民の井戸として利用していたところを陸軍(第24師団)が陣地壕として使用
した自然壕。地元住民が避難壕として使用していたが軍が使用する事となり、現在「南北之塔」があるアバタガマに移
動させられたという。
※「南北之塔」は今回行けなかったので次回慰霊に訪れたいと思う。
激戦地であった真栄平では、屋敷内や道路、田畑、山野に散在していた身元不明の遺骨を住民が収集し、集落後方のア
バタガマに納め、ここを真栄平納骨堂と呼んだ。収骨された遺骨は数千体に及んだという。

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クラガー周辺の山野にはいくつもガマ(壕口)が開いており、激戦当時に思いを馳せる・・・。
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そのうちの一つに入壕してみた。
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だいたい何処の陣地壕でもそうだが、壕口は小さく分かりにくいが、体を入れてしまえば中は立てる程広い。
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入ると2つの部屋が・・・1つは別の壕口に抜けている。
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自然壕をそのまま使って、奥へ掘り足した様な感じがする・・・明らかに人工的に掘られていた。
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海軍壕の様なコンクリート巻きではなく、間に合わせで急遽構築した「陸軍壕」といった感じだ。
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▲入って来た壕口を見る
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クラガーの北側にある与座岳には、後退してきた日本軍が最後の防衛線を敷いた。そしてこの頃、7キロ南の喜屋武岬
では、逃げ場を失った住民達が海に身を投げていた。そしてこの真栄平・宇江城周辺には、行き場を失った日本兵や他
の地区の住民がなだれ込んで来ていた・・・。
軍の組織が崩壊し、6月中旬敗残兵が首里方面からもなだれ込んできていた。暴徒化した一部の敗残兵が、逃げ場を求
めて住民をガマや壕から追い出す事案が多発し、6月21~23日未明、壕の退去に応じない村人を殺害する事件が起こ
っている。一部の日本兵は日本刀を振り回し、さらには手榴弾を壕に投げ込んで住民を追い出した。
7~8名の住民が日本刀で殺害され、30名以上が手榴弾で斃(たお)れたという。住民を追い出した壕で「海行かば」を
歌い、兵隊達の自決(手榴弾)も相次いで起こった。
自決を選ばず、白旗を掲げて家族皆で投降した民間人、兵士も沢山いた事も付け加えておく。

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▲南部(糸満付近)で米軍に投降する日本兵。                
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周辺にあるお墓。当時は弾薬庫代わりに使われていた筈だ。。
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この辺りは戦時中からあったであろう慰霊碑。
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日中戦争、ハワイ真珠湾海域もある・・・ご苦労様でした、合掌
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大切な場所だ。
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戦跡ガイドにも掲載されない「本物の戦跡」がここにはある。
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立派な亀甲墓だ。
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陸軍伍長殿のお墓だ・・・。
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しっかり手を合わせて感謝をお伝えさせて頂いた。「ご苦労様でした、そして有難う御座いました」と。
裏には以下の様に刻まれていた。
信綱は大東亜戦争で南支方面に於て昭和20年2月12日名誉の戦死をす 当年24歳

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米須集落の慰霊碑 一家全滅が多い
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米須地域は全体が霊域・・・。
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▲「ずゐせんの塔」(瑞泉学徒隊は首里高等女学校の生徒で構成)
62師団野戦病院(南風原町ナゲーラ壕)で梯梧学徒隊と共に活躍。南部撤退後は伊原、米須の壕へ移動。

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▲▼ひむかいの塔(宮崎県)
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▲▼陸軍海上挺進戦隊(通称マルレ)の慰霊碑
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陸軍海上挺進戦隊第29戦隊(第一中隊)
昭和20年3月29日北谷西方の敵進攻部隊に対して、中川泰敏中尉以下17隻が出撃、16名戦死。
敵艦船に与えた被害:3隻(撃沈1隻、大破2隻)
陸軍海上挺進戦隊第26戦隊
昭和20年4月7日船舶工兵第26連隊の米軍砲兵陣地への斬り込みに呼応して、岸本具郎中尉以下20隻が出撃。
敵艦船に与えた被害:3隻(大破1隻、小破3隻)
同10日、野田耕平見習士官以下10隻が出撃、全員帰還したが戦果は不明。
同15日、嘉手納西方海面の敵進攻部隊に対して、足立睦生大尉以下22隻が出撃。
敵艦船に与えた被害:5隻(撃沈2隻、大破3隻)。同26、27日にも嘉手納沖の敵艦船に攻撃を行っている。
陸軍海上挺進戦隊第28戦隊
昭和20年4月27~28日具志頭付近から中城湾の敵艦船に対して、小林浩三少尉以下23隻が出撃。
敵艦船に与えた被害:撃沈2隻。
昭和20年5月3日第32軍の総攻撃に際して、第27戦隊(第1中隊)、第28戦隊(主力)、第29戦隊(一部)が大山付
近に逆上陸を敢行した。また第27戦隊(第2・第3戦隊)の約20隻は中城湾、勝連半島付近の輸送船団を攻撃。
戦隊長岡部茂巳少佐(陸士52期)以下23名が戦死。
敵艦船に与えた被害:撃沈6隻。
昭和20年5月27日第27戦隊(第1中隊)が残存全艇で出撃したが、戦果は未確認。この攻撃で海上挺身作戦は終了。
戦隊の残存将兵は陸上戦闘に参加、その殆どが戦死を遂げた。

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▲陸海軍共に航空特攻だけではなく、べニア板で作られた特攻ボートで出撃した隊員の事も決してわすれてはいけない。
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沖縄戦でもご紹介したバクナー慰霊碑。

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此処はいつ訪れてもお供え物が無かったという記憶が無い。頻繁に駐留米軍関係者が慰霊に来ているのだと思う。
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▼▲歩兵第32連隊終焉之地
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歩兵第32連隊が第32軍司令部の南部撤退命令によりこの碑のある国吉台にやってきたのは、昭和20年6月初旬。
通信網の途絶により、クラガーの第24師団司令部と連絡も取れない状況でゲリラ戦を仕掛けていた。

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▲▼現在は山形県管理の「ウフ壕」(田原屋取の壕または32連隊の壕) 糸満市真栄里
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壕は奥行きは広いが部屋は一つだけで、元々は真栄里の住民が整備した避難壕だったで、昭和20年6月初旬に
歩兵第32連隊が接収して使用していた。第24師団の別名は山部隊。山が付くのは「山形県」出身者で構成されていた為だ。
牛島満司令官と長勇参謀長の自決により日本軍の組織的抵抗が終了してから約2カ月後の昭和20年8月22日、ウフ壕に
既に捕虜になっていた日本軍の下士官を連れた軍使が「戦いは終わった」という降伏の勧めを言いにやって来る。
32連隊第一大隊長の伊藤孝一大尉も最初は信じられなかったそうだ。しかし軍使として米軍司令部に通う中で、捕虜と
なっていた第32軍司令部高級参謀八原博通大佐に出会ったことにで敗戦を知り、連隊長に降伏を進言する。
米軍との橋渡しを一任された伊藤隊長は、8月29日第32連隊は武装解除することを第二大隊にも伝える。
その前夜には連隊旗を奉焼し、明治31(1894)年から続いた連隊の栄光と伝統に終止符を打った。

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「第32連隊終焉之地」であって、決して「玉砕の地」「自決の地」ではない。
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連隊の歴史は終わったが、連隊200余名の兵士の命が救われた。
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その裏で避難壕を追われた住民達が少なからず犠牲になった事も決して忘れてはいけない。

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▲ウフ壕の上にある「山形の塔」
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▲▼山形の塔の奥には「眞山の塔」
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右端の石碑には以下の文
怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心
胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり。
ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。
昭和四二年二月財団法人 沖縄遺族連合会

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昭和20年6月17日この付近の壕で玉砕した歩兵第32連隊の兵士達の慰霊碑
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「眞山の塔」の更に奥に行くと・・・。
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▲振り返って「眞山の塔」の裏側
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▲「白梅の塔 上の壕」
石碑には以下の文
左の竪穴は、沖縄戦当時軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。昭和二十年六月二十二日米軍
の攻撃を受け、軍人・白梅隊員及び一般住民が死傷した。昭和六十三年六月 白梅同窓会

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山部隊(第24師団)の弾薬庫としても使用されたようだ。
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昭和20年6月17日真栄里(ここから直ぐ近くの丘)で、米軍司令官サイモン・バクナー中将が日本軍の迫撃砲の破片が
命中して戦死。アメリカ軍の復讐心に火がつき、付近の壕やガマに対して激しい馬乗り攻撃を仕掛けた。
アメリカ軍の復讐心は武器を持たない白梅学徒達にも向けられ、6月21日には下の壕(白梅の塔がある壕)で6名、そし
て此処、上の壕でも2名が戦死し、1名は大火傷を負って米軍の野戦病院に運ばれたがその後死亡したという。

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▲▼壕は崩落個所が多く、入壕は容易ではなかったので断念した。
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▲▼下の壕は沖縄戦でも紹介た「白梅の塔」がある場所。『南禅廣寺』と記された寺子屋の横に入口がある。
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八重瀬岳の第24師団第1野戦病院解散後昭和20年6月4日以降に16人学徒隊が移動して辿り着いた壕。
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沖縄県立第二高等女学校の生徒からなる白梅学徒隊の最後の場所・・・。
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白梅学徒6名が戦死している。
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上の豪は食糧弾薬倉庫、ここ下の豪は傷病兵の看護場所で、白梅学徒達は懸命に負傷兵の手当を手伝った。
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中は思いのほか広い
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▼外へ出る
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▲敷地内には国吉住民が建立した「萬魂之塔」と「中村巌大尉の碑」がある。
「萬魂之塔」台座部分の納骨堂には国吉一帯で戦没された無名の兵士約4000余柱が祀られている。
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中村巌大尉は『歩兵第32聯隊第1大隊』に編成された『独立機関銃第17大隊第2中隊』の隊長だったそうだ。
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当時中尉で、この付近の戦闘で戦死されたとの事。

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▲現在は静かで平和な糸満市の美しい風景。
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この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。


沖縄県は本州などと違い、医療体制が完全ではない離島です。
新型コロナウィルス感染予防の観点から、マスク未着用の方、各所において感染対策ルールを守れない方はご依頼をお
断りさせて頂きます(見学途中であっても即中止します)
無症状であっても咳エチケットや感染予防対策等、常識あるふるまいや行動をお願いします。


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 2021_05_21

久高島

Category: 久高島  

知念半島は中城湾を望む丘陵地帯に位置する。久高島は知念半島から見る事が出来る琉球神話聖地の島だ。
戦時中は沖縄本島東海岸から敵が上陸してくることを想定し、昭和16年頃から中城湾臨時要塞が建設される事になり、
砲台や兵舎が建設されたが久高島に建設されたという記録は残っていない(海岸防衛施設程度は構築されたらしい)
昭和19年3月沖縄守備軍(第32軍)が編成されると、満州に配備されていた第9師団(武部隊)が同年7月沖縄に移駐
してきた。しかし、同年12月に同師団が台湾に抽出される事になると、代わって第6師団配下の独立歩兵第15大隊が
北谷から知念半島に移動してきたが…その後、同師団も第32軍の配備変更により、米軍上陸直前の昭和20年2月に独
立混成第44旅団第15連隊と入れ替わった。
同連隊は、第1大隊が旧玉城村字糸数、第2大隊が知念国民学校、第3大隊が玉城村字前川に本部を置いた。
大里村には独立混成第44旅団第2歩兵隊、第32軍直属の野戦重砲兵23連隊、重砲兵第7連隊などが配備された。
他には、重砲兵第7連隊第2中隊が知念村字久手堅、同第3中隊が知念村知名、野戦高射砲第79大隊が佐敷村字手登根
と玉城村百名、海軍の砲部隊が佐敷村屋比久にそれぞれ陣地を置いた。
昭和20年3月24日朝8時50分頃から14時30分頃までの間、知念半島と久高島に米艦隊による510発もの砲弾が撃ち
込まれた。大規模な艦砲射撃で日本軍陣地周辺には直径約25メートルのクレーターが数十ヵ所できるなど、甚大な被
害を受けた為、部隊は佐敷村字手登根のフナクブ洞穴などの自然壕などに避難した。
琉球神話の聖地「斎場御嶽」にもクレーターが残っている(雨等で埋まりかけると定期的に掘って保存しているらしい)
これは米軍が知念半島から上陸すると見せかけた陽動作戦が行われたからであった。
(西海岸の上陸作戦が万一成功しなかった場合は、米軍は第2案として中城湾及び知念半島への上陸を計画していた)
沖縄戦が始まり、米軍が首里の第32軍司令部に迫ってくると、独立混成第44旅団主力は首里戦線へと移動となり、昭
和20年4月26日以降は旅団知念支隊として重砲兵第7連隊、船舶工兵第23連隊のみが残され、玉城村には戦闘部隊は
いなくなっている。

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久高島へは安座真港から久高LINEで行く事が出来る
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▼「いも~り」は喜界島の「うも~り」とそっくり。奄美諸島が琉球時代同じ沖縄だったという証だ。
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▲因みに奄美大島は「いも~れ」だ。
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朝8時の便(フェリー)で久高島へ向かった。往復1300円(大人1人)
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朝8時、定刻出航。
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出航して約20分、久高島が見えてきた。山が無く平べったい島だ。
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無事「徳仁港」に入港する。
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▼久高島に上陸。
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G,Wも終わった平日朝1番の便だが、下りる人も乗る人も結構いる。
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「とくじん」と読むみたい。
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少し高い位置から徳仁港を望む。手前に停泊しているのは高速船で料金は往復で180円高い。
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▲▼周囲8㎞の島をレンタル自転車で巡る(電動アシスト自転車もあった)
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伊江島へ行った時の様にレンタル原付スクーターがあれば良かったが、レンタル自転車しか無かった・・・。
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最初に向かったのは「ピザ浜」。猫が出迎えてくれた
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続いてピザ浜で気持ちよく寝ているおじさんも迎えてくれた。
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次のイシキ浜に向かう
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久高島最北端
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▲津堅島がハッキリ見える
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▲▼もと来た道を戻る
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▲▼立派なソテツ
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▲▼正面に見えるのは沖縄本島(中部)
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▲「ヤグルガー」ここで手を清めるなどしてから「フボー御嶽」」へ向かうのが礼儀。
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▲少し湧き水が出ている水場がある。
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▼この奥へは立ち入り禁止
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続く→執筆中



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
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沖縄県は本州などと違い、医療体制が完全ではない離島です。
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 2021_05_13

伊江島

Category: 伊江島   Tags: 伊江島  

沖縄県の国頭郡に属する「伊江島」(沖縄県国頭郡伊江村)
長い間行きたかった島にやっと行く事が出来た。島のほぼ中央にそびえる城山と呼ばれる岩山以外は平坦な地形が広が
っている。この地形を活かし昭和19年(1943年春~1944年完成)日本陸軍航空本部により飛行場が建設された島だ。
建設には多くの島民が働き、当時は東洋一と称される飛行場だった。伊江島の戦い終結後、3本のメイン滑走路は米軍
によって拡張工事され、その内2本は今も米軍の管理下におかれ、1本は伊江島飛行場として使用(活用)されている。

(昭和20年4月16日米軍伊江島に上陸作戦作戦を開始、4月21日占領)
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▲沖縄美ら海水族館(ちゅらうみ)より伊江島を望む。
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▼▲昭和20年4月上旬の伊江島(米軍撮影)
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昭和20年1月22日米機動部隊による猛爆、空襲が伊江島の飛行場並びに部落全般にわたって丸一日繰り返された。
猛爆、空襲は3月1日にも行われ、陣地壕にも直撃弾、民家は次々に焼け、飛行場も含めて焼野原になった。
昭和20年3月13日、自軍劣勢とみた第32軍沖縄守備隊の司令部より滑走路の破壊命令が出される。
昭和20年3月23日未明、米大編隊の空襲で焼夷弾が雨のようにばらまかれ、伊江島は猛火につつまれ壊滅。
以降毎日激しい空襲にさらされて、軍民一緒に洞窟に避難しこもっていた。直撃弾を受け多くの命が生き埋めになった。
外に飛び出した者は、砲弾や機銃弾に倒れた。壕や洞窟では炊事もできず、生米をかじり、岩からしたたり落ちるしず
くでノドをうるおすのがやっとだったという。おびただしくふえるシラミに悩まされ、大人も子供もかゆみに悲鳴をあ
げた。3月25日からは海からの艦砲射撃も始まり、4月16日まで続いた。
4月3日夕刻、台湾各基地、九州各基地から飛び立った陸海軍の特攻機が、伊江島周辺に遊弋する米艦艇の物凄い弾幕
の中で次々に突入(特攻)していく光景が、伊江島/本部町(沖縄本島)からしっかり目撃されている。
目撃者証言で、米駆逐艦らしきもの4隻が黒煙を上げ、駆逐艦一隻が轟沈、他二本の黒煙が確認されている。
また、友軍機(特攻機)2機が米戦闘機6機に取り取り囲まれて被弾、火を吹きつつ無念にも渡久地海峡に墜落して行く
のを伊江島守備隊の兵達は見るも悔しがり、その夜兵達は、昼間の特攻機を語り「俺達も何時死んでも心残りはない」
と話し合ったという。
※4/3は鹿屋、新田原、第一国分、宮崎、新竹(台湾)、台南(台湾)、石垣島、知覧、万世から特攻機が出撃している。

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▲昭和20年4月14日伊江島上陸前に航空機による急降下爆撃を行う米爆撃機(戦艦テキサス[BB-35]から撮影)
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▲▼伊江島を空襲中の米軍機(昭和20年4月16日米軍撮影)伊江島タッチューも写っている。
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▼壊滅状態の伊江島(4/16米軍撮影)
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▼▲昭和20年4月16日米軍、2個大隊で伊江島に上陸開始。
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4月15日米軍、水納島に米軍師団砲兵隊3個大隊が陸揚げされ、伊江島に向けて火力戦闘準備を完了させる。
合わせて伊江島周辺を米戦艦約50隻が取り囲み、激しい砲撃が行われ、伊江島は焦土となった。
住民の4人に1人が亡くなったと言われる沖縄戦。伊江島住民の死者は実に2人に1人の割合だったという。
(約7000人の島の住民の多くは、沖縄本島に避難していた為、伊江島に残っていた住民は3000人程だったという)
昭和20年4月16日早朝、米軍伊江島に上陸。伊江島の6日間戦争が始まる。
昭和20年4月17日早朝、水納島の米軍師団砲兵隊3個大隊が一斉に砲撃を開始。
その後戦車大隊を含む新勢力が新波止場付近から上陸を開始。日本軍も必死の抵抗を見せ、集落外に米軍を追い返す。
「学校高地」「女山」での戦闘は激烈を極め・・・。「城山」の司令部はもちこたえていたが・・・。
しかし徐々に後退を余儀なくされ、19日には司令部の落盤により最後の電文を第32軍司令部に伝える手段をも失う。
昭和20年4月20日「学校高地」「女山」が米軍に占領される。19時頃、井川少佐は最後の突撃を命令。
昭和20年4月21日朝4時半頃に突撃を敢行しほとんど全滅。朝6時半頃には「最後の突撃」は終わった。
最後の兵力は将校約10名と兵数十名、一般住民を含む志願した防衛隊、女子救護班、女子協力隊だったという。
井川少佐は砲撃で負傷しながら「学校高地」で自決。伊江島守備軍(日本軍)の抵抗は終わった・・・。
昭和20年4月21日米軍は伊江島の攻略を宣言。

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▲本部港で伊江島行き(伊江村営フェリー)のチケットを購入する。
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コロナ蔓延防止の為、チケット購入前に検温、住所連絡先を専用用紙に記入してから港に向かう。
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▲▼伊江村営フェリー(フェリーぐすく)が本部港に入港してきた。AM09:00発の便だ。
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伊江島行は9時、11時、15時、17時。伊江島からの本部港行は8時、10時、13時、16時の4便ずつだ。
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※時期によって出航時間は変わるので、乗船前はHP等で要確認
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▲9時に定刻出航。丁度、那覇港から来た鹿児島行の船(有村商事のA"LINE)が本部港に入港する所だった。
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瀬底大橋をくぐって伊江島に向かう。30分の船旅だ。
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▲写真左手はヒルトン沖縄瀬底リゾート。右手に写っている島は人口約50人の水納島。
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▲別名「クロワッサンアイランド」と言われる水納島は次回是非行こうと思う。
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▲▼伊江フェリーの船内は非常に綺麗で快適。
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▲そうこう言っているうちに伊江島が近くなってきた。城山(伊江島タッチュー)が目立つ。
沖縄戦での米軍の艦砲射撃により、伊江島タッチューの形が大きく変わっている事が良く解る。
伊江島の戦闘では、日本軍守備隊はほぼ全滅、住民の多くも防衛隊/義勇軍として玉砕している。
伊江島守備隊部隊編成は以下の通り。
伊江島地区隊長/伊江島防衛隊(沖縄では15歳〜45歳までの男女が「根こそぎ動員」された) 
独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊(総員650名)大隊長 井川 正少佐(大分県出身)
井川少佐は支那事変の勇将。人情部隊長として部下達や住民からも敬愛を一身に受けていた。
副官緒方中尉(熊本県出身)は「ノモンハン」戦の勇猛中隊長。
緒方 文雄 中尉(副官)/生森 豊 少尉/比嘉 盛茂 中尉(軍医)/児玉 俊介 見習士官(軍医)/福山 貞次 中尉(主計)
[ 第1中隊 ] 
吉岡 登中尉/第1小隊長 前田 為徳中尉/第2小隊長 高野 善利少尉/第3小隊長 森 三千也少尉
[ 第2中隊 ]
大崎 優 中尉/第1小隊長 草牧 覚中尉/第2小隊長 永瀬 徳蔵少尉/第3小隊長 児島 高冨少尉
[ 第3中隊 ]平良 真太郎中尉/第1小隊長 三津家矩男少尉/第2小隊長 橋本 勇二少尉/第3小隊長 野口 篤少尉
第1機関銃中隊長 満留 勉 中尉/第1小隊長 吉見 五夫少尉/第2小隊長 中釜 達郎少尉/第3小隊長 堂園 次兵衛少尉
第2歩兵隊臨時編成砲兵小隊(蒲池中尉以下11名)  三八式野砲2門
独立機関銃第4大隊第3中隊(小川中尉以下108名)  重機関銃8
独立速射砲第7大隊第1中隊(諸江大尉以下115名)  一式47ミリ砲6
電信第36連隊の一部/第50飛行場大隊(田村大尉以下約310名) 20ミリ機関砲4
第118独立整備隊(小野中尉以下約100名)
第502特設警備工兵隊(宜保中尉以下約800名大半は住民編成の防衛隊/義勇隊)
以上約2700名の日本軍
米軍は6日間の戦闘で4706人の日本兵を殺害したとされるが、大半が防衛隊も含めた住民だという事が分かる。

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▲▼昭和20年4月16日伊江島に侵攻する米軍
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▲伊江港。「フェリーいえしま」が停泊している。伊江村営フェリーは2隻保有しているようだ。
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▲昭和43年11月撮影の伊江港。
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▲令和3年3月の伊江港
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09:30定刻に伊江港到着。伊江島物産センターといっしょになった立派な建物。
レストラン、ホールも備える大型複合施設は、人口約4400人の過疎化にあえぐ離島には不釣り合いのようにも見えた。
米軍基地を引き受ける事で造れたという立派な施設は島のあちらこちらで見る事が出来た。
伊江島より人口の多い与論島(鹿児島県)で生活したことのある私には月とスッポンくらいの差に見えた。

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当日(2021/03/25)は午前中雨の予報を覆して本当に素晴らしい天気に恵まれた。
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▲赤丸の所が伊江港
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       ▲タマレンタ企画さんで原付スクーターをレンタル予約しておいた。伊江島は「いめんしょり」
       沖永良部島の「めんしょーり」に似ている。

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▲レンタカーは電気自動車がメインのようだ。
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▲伊江島は一周22㎞なので原付スクーター(1時間850円)を帰りの船(16時発)までお借りした。
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まず最初に向かったのはアーニーパイルの碑
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▲戦利品の日本軍ライフル銃や日の丸の旗を持って写真に収まる、ニュージャージー州出身の海兵隊員一等兵5名。
 (まだ戦闘が続く中での4月に撮影された写真)
▼上記と同じ場所で撮影された写真、フロリダ州出身海兵隊員マッキトリック二等軍曹他4名。

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米軍の余裕が感じられる写真だ。少年兵まで投入した日本軍は、交代要員も無く戦い続けていた。
米軍の従軍記者アーニー・パイル(Ernie Pyle)は4/18伊江島で戦死している。

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▲戦死直後に撮影されたアーニーパイル(4/18米軍撮影)
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従軍記者、アーニーパイルは昭和20年4月18日、伊江島に上陸した米第305連隊と行動を共にし、戦場を取材中、
日本軍の機関銃弾に倒れた。遺体は粗末な木製の十字架の下に埋葬されていたが、後に沖縄本島の陸軍墓地、そして、
ホノルルの国立墓地へ移された。伊江島の彼の戦死の地には、米軍の手によってアーニーパイル記念碑が建てられた。

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▲日本敗戦後(昭和21年撮影)のアーニーパイル記念碑
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▲米軍伊江島占領後の記念碑(この時遺体は埋葬されている)
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▼▲記念碑の周り(伊江島)は葉タバコ畑が広がる。
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次はニャティア洞に向かう
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▲周辺には牧場もある。
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▲千人洞と呼ばれただけあって中はかなり広い。
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洞(ガマ)の奥にもいくつも穴が空いている。鍾乳洞は恐らく防空壕として使用される際に撤去されたのだろう。
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▲海側に抜けるとこんな感じ。見えている陸地は水納島と本部半島。
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▲洞を出て次の見学地へ向かう。夕方4時の船で本島に戻らなくてはならないので時間はタイトだ・・・。
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次の目的地は伊江島灯台
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▲パパイヤ・・・かな?
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▲見えた!伊江島灯台だ。がしかし・・・
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米軍基地エリア内だった・・・。この灯台は戦後建て直された物。戦前の灯台は沖縄戦で焼失している。
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こればかりは仕方ないので見学を諦めて次へ向かう。
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ここからの夕日はさぞかし美しいのだろう・・・。
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次に向かったのは団結道場
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着いた・・・。
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此処は一度来てみたかったので感動した・・・けど伊藤博文や東條英機は侵略者じゃないと思うけどな・・・
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戦後、米軍の強制的な土地接収に対抗して、土地を守る為に学び合い、真理を探求する場として1967年~1970年にか
けて団結道場が建設された。米軍に対して受け身ではなく、積極的に闘う伊江島土地闘争の拠点であり、その後の沖縄
全島ぐるみの闘争原点として、今も多くの人に語り継がれている。当時の闘いの様子が想像できる「壁書き」は圧巻だ。

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沖縄弁は難しいので全てが全て理解出来ないが、言いたい事は何となく分かる・・・。
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▲だから戦争を作った人の中に東条英機を混ぜてあげないで・・・。
同じ日本人なんだから戦争に突入せざるを得なかった当時の世界情勢や日本の事情も考えてみて欲しい・・・。

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▲伊江島で撮影された写真。日本兵の人形を木につるして遊ぶ第318戦闘機群作戦部隊の兵士。
 (※首にかけられた[SON OF TOJO]のプレートに注目)

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未だ世界中で世界平和を唱えて実現出来た人などいないと思う・・・大金持ちはそれを維持する為に戦争を起こす。
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▲一緒に行った友達は沖縄県出身の元自衛隊員。私と同じく「壁書き」に首をかしげる時が多々あった・・・。
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▲▼中は見学する事が出来なかった・・・。
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建設から50年、老朽化が進んだ団結道場は補修工事されたようだ・・・どうりで綺麗なはずだ。
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次に向かったのは湧出(わじい)
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此処の断崖からは、追い詰められた多くの住民や防衛隊が身を投げて戦死している。
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▲ちゃんとルールを守って日本の漁業(漁師さん達)を守ろう!!
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▲昭和20年8月22日の湧出。まだ日本軍を警戒して銃を上に構えている。(米軍撮影)
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▲現在▼コンクリートの低い壁が作られた以外当時と左程変わっていない。
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次は伊江島飛行場に向かった。
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▲昭和20年当時の伊江島(米軍機による空撮)東洋一と言われた日本陸軍伊江島飛行場が確認できる。
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▲日本軍が米軍に使わせない為に自ら滑走路を痛めていった跡。この部分は現在も米軍管理下だ▼
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▲米軍補助飛行場(旧・陸軍伊江島中飛行場)は伊江島空港の滑走路に並行して滑走路がある。
この滑走路は米軍の飛行場だが、周囲にフェンスなどはなく、通常時は解放されており、滑走路は自由に出入りできる。

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今も村の歳入の1割前後は国からの基地関連収入が占める。
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▼住民達も動員して造り、破壊を命じられ、住民達自ら滑走路を痛めていった飛行場を、米軍はたった2日で修復し、
本土空襲の足がかりとして利用した。昭和20年8月、長崎に原爆を投下したB29爆撃機が給油の為、伊江島に立ち寄っ
ている。画像に写るこの滑走路部分は現在も米軍管理下だ。

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現在も伊江島の35%は米軍の軍用地である。
(もちろん地権者の島民は日本政府から年間借地料がキッチリ払われており、伊江島は経済的余裕のある人は多い)

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▲伊江島占領後、日本軍の飛行場を拡張する米軍▼
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▼米軍管理地域に長居はよろしくないので伊江島空港を目指す。
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伊江島空港
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伊江島空港は昭和19年、旧陸軍伊江島飛行場として開場。戦後は米軍基地を経た後、昭和50年、沖縄国際海洋博覧会
関連事業として民間空港となった。

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米軍訓練空域内にある為に非常に厳しい運用制限があり、日本の民間航空機が飛ぶことが出来る空港の運用時間は土、
日のみ、しかも各曜日非常に短い時間帯のみだった。

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昭和52年には定期便が運休。平成に入ってから定期的な運航がされた時期もあったが令和3年3月現在、定期運航便は
就航していない。飛行場に設置(配備)が義務付けられている消防車両の年式を見ればほとんど使われて無い事が分かる。

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昭和50年完成のターミナルビルも廃墟の様相を呈している・・・。
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▲緊急時のヘリや、プライベートか?取材用か?要人用か?ドクターか?セツナ機が駐機していた。
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▲伊江島占領後、日本軍の飛行場を修理、拡張して使用する米軍。
この写真は、サイパン島の前線基地から長距離飛行を終えて伊江島へ着陸した第318戦闘機群リパブリックP-47サン
ダーボルト。(昭和20年米軍撮影)

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▲旅客ターミナルをエプロン側から見る。旅客ターミナル脇に格納庫がある。
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▼日本軍飛行場を占領後、日本軍が飛行場付近で使っていたため池をそのまま使用する米軍。
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▲このため池は現在も伊江島空港近くに現存し、畑などの農業用に使用されている。
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次はアハシャガマへ向かった。
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伊江島の6日間戦争で、米軍に追われた住民が身を潜めたガマは、島の中にいくつもある。
「アハシャガマ」でも痛ましい集団自決が起こった。
アハシャガマには住民150人程に加えて防衛隊員が避難していたが、4月22日ごろ米軍からの投降の呼びかけでパニ
ック状態に陥り、防衛隊が持ち込んでいた地雷で一斉に自爆が始まった。
「捕まったら女は慰みものにされ、男は虐殺されるから絶対に投降しないように」と教えられていた事も死を早める結
果となり、ガマにいた人達のほとんどが爆死した。
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沖縄が日本に復帰した後、アハシャガマからは百数十体の遺骨が発掘されている。
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       一礼して慰霊し、次の見学地に向かった。
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▲捕虜となって整列する伊江島の子供達
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▲不安と緊張の表情の先生と生徒達(昭和20年4月25日米軍撮影)
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▲笑顔でカメラの方を向くように指示されたのかな・・・?伊江島の若いご婦人達。
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▲捕虜となった住民の作業を監視する米兵
※【 久志浄水場近くの伊江村民収容地跡 】
生き延びた伊江村民は、沖縄戦終結後の昭和20年6月、大浦崎収容所(現在の名護市辺野古の大浦湾、米海兵隊キャン
プ・シュワブ基地)に強制収用され、同年9月に、現在の久志浄水場近くの山中に再移動を命じられた。
伊江村の人達は、食料難やマラリアで亡くなっていく人も多い中、昭和22年3月まで留め置かれ、伊江島に戻れたのは
同年5月だった。大浦崎収容所には今帰仁村の住民及び今帰仁村に疎開していた中南部の住民もいた。

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▲伊江島で民家を焼き払う米軍
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▲▼戦跡地か?と思ったら火葬場だった・・・。
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▲伊江島のゴミ焼却施設
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▼次の目的地は戦跡ではない「リリ-フィールド公園」
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此処はユリ祭が有名で、毎年GWは観光客でいっぱいになる場所だ。
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先ずはハダ植物群落から見学
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▼向こうに伊是名島と伊平屋島が見える
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▼▲テッポウユリはまだ植えたばかりの様だが、残念ながら新型コロナ(武漢ウィルス)のせいで2021年の開催はなし
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▲▼次の見学地に向かう
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▲ハイビスカスは何処でも普通に咲いてるのでここはスルーした。
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伊江島にもサトウキビ畑は沢山ある。
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1月~3月は収穫時期。
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立派な野球場もある(伊江村野球場)・・・ごみ処理施設も含め、全て米軍基地関連の国の予算で造られた。
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因みに沖縄本島の奥武山球場(セルラースタジアム)や、沖縄アリーナも建設費の大半は防衛予算からだという。
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▲▼伊江ビーチ(入園料100円)
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海の向こうに見える陸地は本部半島(沖縄本島)
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▲葉タバコ畑を見ながら次へ向かう
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▲1つしか信号は無いと聞いていたが、島内に信号はいくつもある。
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ファミマは2件確認出来た。
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Bombardment of Ie Shima, Invasion Of Okinawa, 04/1945 (full)
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この辺りは「城山」の司令部一帯で、日本軍が陣地を構築した場所だ。
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米軍が伊江島に上陸した4月16日夜、日本軍は総攻撃をかけた。そのほとんどが人間爆弾となって梱包爆弾(木箱に爆薬
を詰め、荒縄で縛った手製の兵器)を持って米軍陣地内突入する者、小銃、竹槍、袋に手榴弾を入れて突入していった。
夜中に繰り返された肉弾戦の後には、日本兵の死体152体が残されていたという。
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  ▲伊江島で日本軍民の肉弾攻撃で動けなくなった米軍戦車
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  ▲廃墟となった伊江島で、戦火にさらされた学校高地の上に建つ国民学校校舎。
4月16日夜中、伊江島守備隊長の井川少佐は敵情偵察のため第3中隊の橋本勇二少尉の指揮する将校斥候を島西部の山
々地区方面に派遣していた。橋本少尉以下斥候班の大半は米軍の攻撃により戦死未帰還となったが、4月17日朝兵数人
が帰還し、米軍が山々海岸、中・東飛行場付近にテントを張り、戦車数十両を並べており、兵力は約3000と報告した。
同日早朝、田村大隊長率いる第50飛行場大隊の将兵数十名が城山の伊江島守備隊の戦闘指揮所に後退してきて、田村
大隊長のいた壕が米軍の馬乗り攻撃をうけ生死不明、田村大隊及び防衛隊(第502特設警備工兵隊)は斬込隊を編成し
て抵抗中、そして山々方面へ出た橋本少尉以下は敵中深く潜入して偵察中遂に敵の重囲に陥り、橋本少尉は重傷を受け、
恐らく戦死せるものと思われると報告した。
この日は早朝から占領された水納島からも砲撃が行われ、伊江集落南西方地区の米軍の攻撃は活発であった。
朝10時頃、伊江集落南側の新波止場付近から戦車を伴う米軍の新兵力の上陸も実行され、米軍の攻撃は熾烈を極めた。
17日は終日戦闘が続き、城山南の学校高地を中心とする地区では激戦となり、近接した市街戦も展開されたが、正面を
守備する第3中隊および第1機関銃中隊は、上陸する米軍に猛射を加え、集落内に進入した米軍も夜に入ると集落外に撤
退した。※学校高地→現伊江村立伊江中学校

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▲▼第3中隊橋本勇二少尉の陣地壕。この丘の更に上にある丘が学校高地だ。
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残念ながら中に入る事は出来なかった・・・。
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▼当時の城山周辺日本軍陣地壕と砲座位置
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軍民一体となって構築された城山周辺の強固な地下陣地壕は、米軍上陸前の激しい空襲、空爆を耐え凌いだ。
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▲▼伊江島の日本軍陣地壕の内部(米軍撮影)
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▲当然戦闘終了後に撮影された写真なので、壕内に米兵が居る
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橋本少尉の陣地壕の直ぐ下は島の貴重な水源場所(マーガ)
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  ▲▼当時の山グシの陣地壕付近
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第2歩兵隊第3中隊の陣地跡(通称「山グシの陣地壕跡」)へ向かう。
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伊江島では昭和20年1月頃から17歳~25歳前後の少女を含む女性による女子救護班が結成され、守備隊の地下壕など
で看護業務に就いた。女子救護班の女性達は、伊江島に米軍が上陸する直前の4月10日頃には髪を短く切り落とし、戦
闘帽をかぶり男装の上、看護業務のみならず弾薬運搬まで担った。米軍上陸以降は人間爆弾として「斬込み」を敢行し
た者も多くいる・・・。伊江島の女子救護班や沖縄本島南部のひめゆり学徒隊やずいせん学徒隊などの少女達の献身な
る働きを「どうとらえるか」は日本人ひとりひとりの考え方次第だ。
「殉国美談」と考える人もいるし、「根こそぎ動員」の被害者と考える人もいるだろう・・・。
でもそれは「今」だから言える事であって、当時の状況に自分が置かれた時、どのような考え方、行動とするかは想像
もつかない。全て平和ボケの「今」だから好きな事が言っていられる・・・。
先人達のお陰で、今こうやって平和に暮らせている事に対し、只々「感謝」だけでいいのではないだろうか。

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第2歩兵隊臨時編成砲兵小隊(蒲池中尉以下11名)「三八式野砲2門配備」の部隊か、
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独立速射砲第7大隊第1中隊(諸江大尉以下115名)「一式47ミリ速射砲6門配備」の部隊が駐屯していたと思われる。
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▲一式47ミリ速射砲
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次に向かったのは「公益質屋跡」
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当時、新波止場通りと呼ばれた道の右手に「公益質屋跡」が見えてきた。
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▲次は伊江島タッチューを目指す
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▲南登山口の入口でスクーターを止めて撮影。右上にお墓が写っている。
これが伊江島守備隊長 井川正少佐の墓所だったという事を後で知り、今回は墓石の前で合掌出来ず・・・。
更に上れば左側に第五十飛行場大隊長「田村真三郎中佐戦死の碑」もあるとの事。次回再訪しようと思う。

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▲今回は楽をして東登山口から入り、中腹広場までスクーターで登った(汗)
次回は南登山口から慰霊しながら階段を登ります!

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▲中腹広場到着。ここからは歩いて頂上を目指す。
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城山は伊江島の聖地でもあるので、地元の方が熱心に祈りをささげていた。
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▼登山道入り口から頂上を目指す。
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▼登山道はなかなか厳しい急坂の階段だ・・・。
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たった20分程の登山だが、急階段の連続のセイか日頃の運動不足のセイか・・・凄く疲れた。
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頂上からの眺め↑伊平屋、伊是名島が見え、↓水納島、沖縄本島(本部半島)が見える
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ホントに素晴らしい眺めだった。
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▼青で囲った部分が山グシ陣地。ピンクで囲った部分が学校高地。黄色で囲った部分が女山(島名ヤプスンジ)
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※女山(島名ヤプスンジ)を後に米軍は[Bloody Ridge]と呼んだ。
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船の時間も迫ってきていたので下山する。
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▼中腹広場まで帰ってきた。昭和51年1月17日に昭和天皇ご夫妻が来られてるんですね~知らなかった・・・。
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▼▲伊江島タッチューかっらの眺めを目に焼き付けて港に向かう。
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さようなら伊江島、また来ます。
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▲▼瀬底大橋をくぐって無事本部港に戻った。
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昭和20年8月19日朝、日本陸軍代表「河辺虎四郎中将」を長とする総勢16名の日本降伏使節団は、緑十字のマークを
つけた武装解除した海軍一式陸攻2機に乗り込み、東京湾の東岸にある木更津海軍航空基地から密かに出発した。

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▲昭和20年8月19日、日本の降伏調印使節の乗った一式陸攻が伊江島へ向かう。
 後方は第6緊急中隊の第5陸軍航空隊ボーイングB-17。(一式陸攻は米軍の命令により塗装が変更されている)

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▲伊江島飛行場に着陸する降伏全権団を乗せた海軍一式陸上攻撃機
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▲伊江島飛行場に着陸した海軍一式陸上攻撃機。米軍はBetty(ベティー)の愛称で呼んでいた。
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▲日本の降伏調印使節(降伏全権団)を乗せて伊江島に着陸した一式陸上攻撃機に興味を示して群がる米兵。
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▲沖縄に派遣された多くの米兵にとって海軍一式陸上攻撃機を見るのは初めてのことであった。
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▲日本の降伏調印使節一行。左から2番目は代表団の指揮官、帝国陸軍参謀次長 河辺鷹四郎陸軍中将
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▲駐機場に入る一式陸攻
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▲米軍の命令で塗装が塗り替えられた緑十字一式陸攻
伊江島に着陸後、日本の使節団はマッカーサー元帥の指示に従い、直ちにアメリカ陸軍の輸送機に乗り換えさせられ、
同日18時マニラ南部のニコルス飛行場に連れていかれた。

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▲マッカーサー元帥の司令部で降伏条項に関する話し合いをする為、フィリピン(マニラ)に向かう日本側使節団。
 (伊江島飛行場で2機の一式陸上攻撃機からC-54機に乗り換える様子)
敗戦直後、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、伊江島からフィリピンに向かい、連合軍と会談する。
フィリピンにて最高指揮官マッカーサーから降伏要求文書を受領した。
その後伊江島に戻った降伏全権団は、連合軍の進駐詳細や全軍武装解除を中央に伝達する為、8月20日伊江島から
専用の緑十字機にて東京へ飛行中であった。当初、木更津海軍飛行場を出発した1番機一式陸上輸送機と2番機一式
陸上攻撃機の緑十字機は、伊江島で2番機が故障した為、1番機のみで帰還。
しかし途中で燃料が切れ、20日深夜、現在の遠州灘の天竜川河口(鮫島海岸)に不時着水した。
全権団に怪我人は無く、降伏要求文書も近隣の住民の助けを得て全て回収し、一行は手配されたトラックで浜松陸軍飛
行場へ移動、代替機として同地にあった四式重爆撃機「飛龍」を急遽使用する事となり、翌21日朝に出発。
調布陸軍飛行場に無事到着している。そして本州各地(日本全体)も米軍占領下となっていく。

昭和20年6月伊江島を占領した米軍が、伊江島島民を捕虜として強制的に収容、大半が現在の名護市辺野古の大浦湾、
米海兵隊キャンプ・シュワブ(大浦崎収容所)に。慶良間諸島、慶留間島(げるまじま)にも多くの島民が収容された。
大浦崎収容所ではテントすら無い状態の丘地での生活を余儀なくされ、不衛生な環境での生活、食料不足、マラリアで
亡くなっていく人も少なくなかったという。大浦崎収容所、慶留間島は、伊江島島民にとって耐え難い日々を生きた苦
難の歴史の地でもある。
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▲大浦崎収容所 (昭和20年7月8日米軍撮影)
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▲テントすら無い状態の丘地での過酷な生活を強いられた捕虜(沖縄県民)。
戦時下の本物の戦地の中、生き残っただけマシと考えなければとても耐えれる生活ではなかったであろう。
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▲▼ようやくテント生活になり始めた頃
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米軍が設置した収容所
沖縄戦終結後米軍が沖縄本島に設置した民間人収容所。赤丸の屋嘉は軍人、軍属が収容された場所だ。


この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。


沖縄県は本州などと違い、医療体制が完全ではない離島です。
新型コロナウィルス感染予防の観点から、マスク未着用の方、各所において感染対策ルールを守れない方はご依頼をお
断りさせて頂きます(見学途中であっても即中止します)
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 2021_04_01


沖縄本島北部。名護市に私設博物館があると聞いて行ってきた。
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▲名護市親川にある民族資料博物館。名護市街を過ぎて国道58号線を北へ走ると右手にこの看板が見える。
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▲▼此処は2005年開設の「私設」博物館との事。
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展示物は、館長の真嘉比さんが1人で集めたと言うから驚きだ。
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総額1億近くかかっているらしい・・・。

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▲館長の真嘉比さんが入口まで案内してくれる。
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       ▲入館料500円を木箱に入れて、ここからは自由見学になる。
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倉庫を改造した展示スペースに、これでもかと言うくらいに「昭和の産物」が詰まっていた。
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ランプやランタン、蓄音機など、大正、昭和の産物が所狭しと展示されている。
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圧巻だ・・・。
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▲別館(2階建て)の戦争博物館に向かう。
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米軍関係も多数
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沖縄戦で、首里から島尻南部へ撤退した第32軍司令部は、第24師団の将兵ら約8000人に与座岳から西方の国吉や名城
(なしろ)までの線を死守するよう命令した。高さ約90mの断崖を有する与座岳に洞窟陣地を築き、地雷を敷設した。
此処に展示されている山砲は、そのうちの一つ第24師団司令部壕から掘り出された大砲である。
それに対し、アメリカ軍の第96歩兵師団は、火炎放射戦車で壕内の陣地を焼き尽くし、戦車と大砲で洞窟内を攻撃した。
日本軍は国吉丘陵に陣を置く自軍と連携を取り合って抵抗し、一時は戦況が進展しなかったが、昭和20年6月12日アメ
リカ軍は再攻撃を開始、同月16日、与座岳はアメリカ軍に占領された。

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▲これは沖縄戦のものか・・・?何処の戦いの物にせよ、アメリカからも「寄せ書き日の丸」が多く返還されている中、
国内にあるなら遺族の元に返してあげて欲しい・・・。館長のご家族やお身内の方の物なら話はべつだが。

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       ▲アメリカ統治時代の電話ボックスか・・・?
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「寄せ書き日の丸」を見て少し複雑な思いになりながら2Fに進んだ。
       
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       2Fに上がってきた。レコードやレーザーディスクなど昭和が満載。
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凄い数のテレカ(テレフォンカード)
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 2021_03_05


奄美大島から飛行機で約10分、シートベルト着用サインが消える間も無く喜界空港に到着。
喜界島は鹿児島市から南へ380㎞、奄美大島の北東端から25㎞の洋上にある周囲48.6㎞の隆起サンゴ礁の島で、
2019年6月現在、3804世帯、7018人が暮らす小さな島だ。

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喜界空港に到着。正直、この飛行時間で6200円はちょっと高いと思うのは私だけだろうか・・・。
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JRの駅より小さい可愛い空港だ。この雰囲気が良い!!
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チェックインカウンターも1つだけ。解りやすくて良い!!
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喜界島は「うもーり」だ・・・。確か奄美大島は「いもーれ」だったはず。こんな近い島々でも方言が違う。
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空港の外へ出る。
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空港全体がカメラに納まる小さな空港
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喜界空港の歴史は古い。昭和4年から中里集落の海岸沿いの荒地に不時着飛行場が建設され昭和6完成と言われている。
当時の滑走路はサンゴ礁が固く、飛行機の脚を破損する恐れがあるので、その後は使用しない事になり、この時の飛行
場は平坦地を利用した仮設不時着用程度のもので、常設の飛行場ではなかった様だ。
昭和14年頃の飛行場は、広く起伏のない原っぱで、まだ舗装していなかったようだ。
昭和15年頃に海軍の戦闘機が1機不時着している。その機は整備士がやって来たが直らず、解体して船で本土に運ばれ
たという話が残っている。この頃もまだ飛行場には整備隊は配備されておらず、純粋に緊急時の不時着基地だった。
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昭和17年11/25~昭和18年2/15にかけて喜界島の土地88215坪が飛行機不時着陸場敷地として買収されて整備が
行われ、飛行場は面積88000㎡であった。飛行場設備が強化されるのは、戦局が悪化し出す昭和18年頃からで、南西
諸島周辺でも米潜水艦による船舶の被害が増加した為、艦上攻撃機1隊が常駐可能な程度への整備が進み、喜界島飛行
場の対潜哨戒機基地としての更なる強化を目指した。
昭和19年には最低滑走路延長を1000mにするとされ、3/16付けで喜界島飛行場基地施設の築城工事が指令された。
そして海軍喜界島飛行場は従来の不時着用ではなく、作戦行動に使える飛行場としての整備が進められたのである。
同年5月喜界島に海軍第321設営隊が進出。隊長は宮本芳英技術大尉で、昭和20年6月時点で564名であった。
同隊は川嶺に本部を置き飛行場作業に従事した。更に12月増山藤一郎氏の指揮する星野組(民間委託業者?)が来島。
満15~60歳までの喜界島住民(男女)が動員されて、飛行場の拡張工事に従事した。喜界町と早町町の動員係は集落毎
に人夫を割り当て、国民学校や青年学校の生徒も作業に参加した。この拡張工事で今までは中里集落の西側南北1本の
滑走路(現在と同じレイアウト)だったのが、中里集落の北側に内陸に向かって東西方向にも離着陸出来る様になった。
現在の喜界空港になるまで、2本共に芝張りの滑走路であったが大戦末期は空襲でほぼ使い物にならなくなっていた。
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▲昭和20年4月に米軍が撮影した空襲中の喜界島飛行場。青線が現在と同じ位置の滑走路(東西線)、赤線が拡張工事で
新設された当時「南北線」と呼ばれた、長さ1000m幅120mの第2滑走路だ。空襲時の撮影で煙が上がっている。
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▲昭和20年5月に米軍が撮影した米艦載機空襲直後の喜界島飛行場。爆撃で穴だらけになり使用不能になっている。
滑走路の拡張に合わせて付属設備の建設も行われた。幅7~15m総延長14000mにも及ぶ誘導路が作られ、誘導路に
沿って飛行機を格納する為の掩体壕が、無蓋掩体55箇所、有蓋掩体1箇所、隔壁21箇所も建設された。掩体壕の建設
工事は、沖縄戦直前まで行われていた。※(有蓋掩体1箇所は現在も現存しており、保存されている)
沖縄戦中、これらの掩体壕は実際に使われた。敗戦後だが飛行場内に97式戦闘機1機と98式直協機があった他、池治
掩体壕には4式戦闘機1機、荒木掩体壕には99式襲撃機1機、水天宮掩体壕には99式襲撃機2機が格納されていた。
いずれも陸軍機で使用不能の状態だが、飛行場から遠く離れた所まで飛行機を格納していたことが分かる。
沖縄戦中は池治までの道路を、飛行機の車輪が通るだけの幅を補修し、両側の樹木等は翼の幅の部分の高さを低くして
地物を出来るだけそのままにし、上空から分からないように注意を払っていたという。
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沖縄戦で陸軍の飛行場に囮として置かれた竹と藁を使用して製作された模擬飛行機。
喜界島には本物の飛行場とは別に偽飛行場が建設されていた。場所は東海岸の志戸桶集落と佐手久集落の間である。
ここには「竹と藁を使用して模擬飛行機を作り米軍機が模擬飛行場を空爆している間に待機中の特攻機を出撃させる戦
法」を使った。本物の飛行場への攻撃を吸収する囮としての役目である。
また飛行場らしく装うために、米軍機が接近すると吹流しを立てた。偽飛行場は畑の中に作られていたが、上空からは
本物の滑走路に見えた様で、実際米軍機はこの模擬飛行機目掛け、何回となく爆弾を投下している。
※第601海軍航空隊の増戸興助一飛曹は昭和20年4月6日の出撃で本物の滑走路と思い、この偽飛行場に不時着した。
翌日、不時着した彗星で本物の飛行場へ向けて離陸しようとしたが凸凹に脚を取られて飛行機の脚が折れてしまった。
空戦後で必死だったとはいえ日本軍機が間違える程であったので、それなりの効果はあったと言えるだろう。
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▲昭和21年米軍撮影。終戦後だが既に元飛行場であった事が解らないくらい破壊されている。
現在の喜界空港の滑走路は、戦時中の場所のまま(東西線)舗装され、滑走路が延長(1200m)されて今も使われている

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当時も同じ飛行ルートで着陸し、出撃していったのだろう・・・眺めていると胸が締め付けられる・・・。
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特攻出撃と言えば、知覧鹿屋を思いがちだが、喜界島は陸海軍入り混じって沢山の特攻機が出撃した場所だ。
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飛行場の周りは空港臨海公園となっており、ゴルフ場やスギラビーチがあって島民の癒しの場所となっている。
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▼かつては特攻基地だった所で今はゴルフを楽しむ人達が居る。時代の流れは残酷だ・・・。
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キャンプを楽しむ人達も居る。
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そしてスギラビーチで海水浴を楽しむ人達も居る。真正面26Km先に奄美大島がハッキリ見える。
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なんという平和で幸せな素晴らしい光景だろう。
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美しいスギラビーチの夕暮れ。向かい側の奄美大島と喜界島の間で連日のように日米の空中戦が繰り広げられた。
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日本の未来の為に必死に戦ってくれた英霊が居たからこそ、穏やかな「今」がある。いつまでも続いて欲しい。
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▲そんな穏やかで平和な空港臨海公園内に、ポツンと慰霊碑が建っている。
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「海軍航空基地戦没者慰霊碑」 喜界島を訪れた際には是非立ち寄って手を合わせて頂きたい場所だ。
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碑文
喜界島海軍基地は、昭和19年(1944年)国土防衛の最前線基地として拡張整備され、7月海軍巖部隊が常駐することに
なった。翌20年、米軍沖縄上陸後は、戦争遂行上の最重要戦略基地として、連日連夜にわたって米軍機の猛爆撃を受け
ながら、特攻機の整備出撃に多大の貢献をした。しかし、その間莞爾として沖縄に向け飛び立ち、遙か征って帰らざる
壮途につかれた若き勇士たちをはじめ、巖部隊員で特攻機の出撃準備中の整備兵防空防衛の任務遂行中の砲台員等で戦
死された人達も多かった。ここに基地開設50周年にあたり、これら戦死者の霊を慰めるとともに、永久の平和を祈念し
て慰霊碑を建立するものである。   平成6年  旧海軍航空基地戦没者慰霊之碑建立期成会。

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▲慰霊碑の横でゲートボールを楽しむご老人達の姿もあった。
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灯籠には建立者のお名前が書かれていた。「元自衛隊喜界通信所勤務 (株)ワールドテック 社長 菊野季彦
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(株)ワールドテックは徳島県中小企業情報センターでも紹介されている。社長は今もご健在かな・・・。
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特攻作戦が始まってしばらくした頃、水天宮の兵舎に駐屯する特攻隊を、湾小学校の生徒が慰問に行った事があったそ
うだ。沖縄戦が始まる前の話という事なので、フィリピン戦の時に喜界島を経由した特攻隊の可能性が高い。
特攻隊員は笑顔で生徒を迎えたが、悲壮な面持ちの者、手をポケットに入れてうつむいている者、哀調を帯びた悲しい
歌声の者がいたという。沖縄戦が始まると、激化する空襲で住民は特攻隊の見送りも命がけだった様だ。
沖縄を包囲する米艦隊に特攻々撃をかける20歳前後の若者達に、島の娘達はそっと野の花を贈った。
特攻隊員達は喜界島の上空から贈られた野の花を落としていった。その花の種が風に舞い、70年以上経った今でも喜界
飛行場付近に咲き乱れ、島民はそれを「特攻花」と呼ぶ。「平和を願う花」として語り継がれている別名テンニンギク。
6月~10月が開花時期との事で、此処では見る事が出来なかったが、写真の花を「特攻花」と想って写真を撮った。

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特攻隊員が喜界島に立ち寄ると聞くと、島の人達は当時貴重であった生卵を集めて届けたという。
特攻隊員の中には「我々の命はもうしばらくだから、子供達へあげてください」と言って出撃した者もいたという。
当時、沖縄への特攻機は、九州の鹿屋基地などから喜界島に整備・給油の為に飛来していた。
島のお年寄りは、亡くなった人を「隣の爺さんがアメリカに行った」などと言うそうだ。
「アメリカに行った」とは、「渡米した」という意味ではなく、亡くなったという意味。島のお年寄り達は今も戦争を
揶揄し、亡くなった人を「アメリカに行った」と言う。

喜界島海軍基地から特攻出撃され、「アメリカに行った」優秀な若者達の記録は以下の通り。
神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」 昭和20年3月27日喜界島基地より「彗星」で出撃。
(沖縄本島周辺機動部隊攻撃)
[操縦]田中 巽2飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]佐藤一義少尉(徳島県出身) 
[操縦]細江志郎2飛曹(岐阜県出身)/[偵察]高橋紫壽雄上飛曹 (愛媛県出身)
[操縦]内田 続2飛曹(熊本県出身)/[偵察]武士精三1飛曹(茨城県出身)
[操縦]正木 廣2飛曹(千葉県出身)/[偵察]船橋良三1飛曹(愛知県出身)
[操縦]横山作二2飛曹(広島県出身)/[偵察]藤丸 哲上飛曹(大分県出身)
[操縦]谷 節夫少尉(和歌山県出身)/[偵察]椿  昇1飛曹(茨城県出身)
[操縦]菱沼  一飛長(埼玉県出身)/[偵察]廣田繁次郎1飛曹(広島県出身)
[操縦]木場 愛2飛曹(三重県出身)/[偵察]青木 清1飛曹(山口県出身)
[操縦]宮原1飛曹/[偵察]橋本飛長

陸軍特攻第22振武隊 昭和20年4月7日喜界島基地より「隼」2機で出撃。
大上弘少尉/大貫健一郎少尉(空戦後徳之島不時着)
陸軍特攻第46振武隊 昭和20年4月7日喜界島基地より「99式襲撃機」2機で出撃。
小山勝実少尉/伊原佐源次伍長
陸軍特攻第46振武隊 昭和20年4月7日喜界島基地より「99式襲撃機」2機で出撃。
古川栄輔伍長/堀越進伍長
陸軍特攻第42振武隊 昭和20年4月8日喜界島基地より「97式戦闘機」5機で出撃。
松澤平一少尉/牛島久男少尉/馬場洋少尉/尾久義周少尉/仙波久男少尉
陸軍特攻第68振武隊 昭和20年4月9日喜界島基地より「97式戦闘機」2機で出撃。
山田勇少尉/山口怡一少尉
陸軍特攻第42振武隊 昭和20年4月9日喜界島基地より「97式戦闘機」3機で出撃。
猫橋芳朗少尉/近藤幸雄少尉/中野友次郎少尉
陸軍特攻第30振武隊 昭和20年4月13日18:15喜界島基地より「99式襲撃機」で出撃。
池田強伍長
陸軍特攻第46振武隊 昭和20年4月13日18:15喜界島基地より「99式襲撃機」で出撃。
小林貞三伍長
陸軍特攻第29振武隊 昭和20年4月14日喜界島基地より「隼」2機で出撃。
及川喜一郎伍長/上川幟伍長
陸軍特攻第46振武隊 昭和20年4月15日喜界島基地より「99式襲撃機」1機で出撃。
中村 稠(しげる)伍長
陸軍特攻第30振武隊 昭和20年4月15日18:10喜界島基地より「99式襲撃機」1機で出撃。
今井 実伍長
陸軍特攻第42振武隊 昭和20年4月16日喜界島基地より「97式戦闘機」1機で出撃。
篠田庸三少尉

神風特別攻撃隊「第2神雷爆戦隊」 昭和20年8月13日(月曜日)喜界島基地より零戦5機で出撃。
(沖縄周辺艦船攻撃)
岡嶋四郎少尉(千葉県出身)/星野 實1飛曹(京都府出身)
岡本鼎中尉/細沢実1飛曹/松林信夫2飛曹の3機は機体トラブル等で喜界島に帰還。
米攻撃輸送艦ラグランジュに特攻機が突入、大破。米水兵21名戦死89名負傷
攻撃輸送艦ラグランジュは特攻による最後の損傷艦。そして沖縄への航空特攻が終結。
昭和20年8月15日(水曜日)の終戦2日前の特攻だった。

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▲攻撃輸送艦ラグランジュ(USS La Grange [APA-124] )
※因みに神風特別攻撃隊「第1神雷爆戦隊」は昭和20年6月22日 鹿屋基地より零戦7機で出撃している。

Victory At Sea - Suicide For Glory - Episode 25YouTube 
大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録は以下の通り。
※防衛研究所図書館所蔵『南西諸島海軍航空隊戦時日誌』より。
昭和19年10月10日(沖縄島を中心とした十十空襲)米海軍第38機動部隊が南西諸島一帯に艦載機による空襲を行った。
第141海軍航空隊の森田禎介大尉[ 偵察 ]/中村力中尉[ 操縦 ]の二式艦上偵察(艦上爆撃機「彗星」と同型)は、単機
で偵察に出撃。同機は南大東島付近で米機動部隊を発見し、対空砲火を浴びたが、海面すれすれに急降下し、喜界島飛
行場に滑り込んでいる。

昭和20年1月1日10:14 96式陸攻1機が着陸。同機は10:55には南大東島に向けて出発した。
昭和20年1月2日13:19 零式輸送機1機が着陸。同機は14:48に出発したが、機体故障で15:54再び着陸した。
昭和20年1月3日07:55 先日着陸した零式輸送機が試飛行を行い、08:40海軍小禄基地に向けて出発した。
           10:45 96式陸上輸送機1機が着陸。同機は11:05に出発した。
              ※96式陸上輸送機とは96式陸上攻撃機の輸送機型。
この日09:30~10:00頃、沖縄本島へ米艦載機約50機が来襲。米艦載機は主に沖縄島陸軍北飛行場・陸軍中飛行場
と那覇地区の船舶を攻撃した。これに伴い沖縄島海軍小録飛行場の巌部隊(南西諸島空)の96式陸上攻撃機2機は空襲
を避ける為、07:00頃空中退避し、離陸後に基地からの指示で喜界島に着陸。3日後に小録基地に戻っている。
昭和20年1月6日14:44 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は16:18沖縄島の海軍小録基地に向けて出発した。
昭和20年1月7日11:44 艦上爆撃機「彗星」1機が、燃料補給と整備の為に着陸。同機は14:54に出発した。
※南西諸島周辺の索敵を任務としていた沖縄本島小録海軍基地所属の彗星と思われる。
昭和20年1月8日13:20 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は14:10に出発するも16:28再び喜界島に着陸。
昭和20年1月10日10:30 8日に着陸していた96式陸上輸送機1機が海軍小録基地に向けて出発。
昭和20年1月11日10:05 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は10:45に海軍小録基地に向けて出発した。
昭和20年1月15日12:05 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は13:18に出発した。
昭和20年1月16日10:12 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は11:15に海軍小録基地に向けて出発した。
昭和20年1月19日花良治北西の211高地の電探が探信を開始した。
昭和20年1月21、22日米機動部隊から発進した艦載機は、南西諸島一帯に来襲。特に22日の空襲は激しく、沖縄本島
へは約780機が来襲した。奄美諸島では徳之島、奄美大島へも来襲し、飛行場や航行する船舶が攻撃を受けた。
喜界島でも21日から隊内哨戒第1配備が発令され、空襲に備えていた。22日06:00隊内哨戒第1配備が発令。
08:48グラマン18機が来襲、09:30にこれを迎撃したが、8機が高度4000mから喜界島上空に侵入、09:00頃か
ら主に飛行場を銃爆撃して09:15頃西方へ飛び去った。飛行場の損害は軽微だったが、住民22名が死亡、9名が負傷、
家屋23軒が全壊した。迎撃の戦果は撃墜1機、撃破2機と報じられ、被害は燃料車1台の炎上だった。
この日の空襲はほぼ奇襲攻撃となり、避難勧告のサイレンが鳴る前に見慣れない機影の米軍機が雲間に現れていた。
奉仕作業のため滝川の陸軍部隊本部に集合した坂嶺国民学校の生徒40数名は、現場に向かう途中に数機の機影を目撃。
生徒達はそれを友軍機だと思い、中には友軍機だと思い手を振った者もいた。兵隊達も誰も敵機だと騒ぐ者はいなかっ
たという。すると突然機銃音と爆発音が聞こえ、慌ててガジュマルの根元に避難した。
志戸桶国民学校の生徒も、作業に動員されて百之台に向かう途中だった。生徒達は40機編隊で飛ぶ飛行機を見て友軍機
だと思い手を振っていた。すると間もなく爆弾・機銃の音が聞こえ、引率の先生の声に慌てて石垣や木陰に避難した。
喜界島の住民にとって、初めての米軍機空襲は全く想定外で、機影を見た時、当然友軍機だと思い込んだ為である。
独立混成第22連隊第3大隊機関銃中隊の小隊長である西山玉男少尉は、この空襲で海軍部隊が被害を受けたとの知らせ
を受け、状況の偵察を命じられた。建物と物資が大分焼失し、海軍兵士3名が戦死したという。

昭和20年1月23日14:10 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は14:53に鹿屋に向けて出発した。
昭和20年1月29日12:10 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は13:10に鹿屋に向けて出発した。
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▲96式陸上輸送機は巌部隊所属で、沖縄戦の始まる3月半ばまで定期的に小録(沖縄)と鹿屋(鹿児島)を往復していた。
昭和20年3月1日米機動部隊は、奄美諸島を含む南西諸島一帯を襲った。この日喜界島へは3回米艦載機が来襲した。
第1波14機は08:20~08:40までに北方から侵入して早町港を銃爆撃した。続く第2波15機は15:05~15:20
までに飛行場を目標に銃爆撃した。続く第3波7機も15:30~15:35まで同じく飛行場を攻撃した。
喜界島防衛隊の高角砲は第2波の1機を撃墜、第3波の1機を撃破したと戦果を報じた。
また、08:00~08:50まで米艦載機12機が来襲、飛行場を銃撃。15:15~15:44には米艦載機20機が来襲、再
び飛行場を銃撃。喜界島防衛隊の戦果はF4U 1機撃墜、同1機撃破で日本側に被害はな無かったものの、これまでで一
番激しい空襲となった。

昭和20年3月4日11:30頃 1機のB24が高度6000mで喜界島を偵察し、投弾後140度方向に飛び去った。
昭和20年3月5日米大型機が飛来し、島を偵察後に飛び去った。
昭和20年3月9日米PB2Y飛行艇が喜界島近海を哨戒。喜界島の偵察が任務の米機で沖縄攻略作戦の準備行動だった
昭和20年3月11日AM 第701海軍航空隊艦上攻撃機「天山」1機が着陸。午後には基地のある九州串良に飛び立った。
昭和20年3月12日AM 99式艦上爆撃機1機が着陸、午後には出発している。
昭和20年3月13日96式陸上輸送機1機が着陸、同機は30分程の滞在で海軍小録基地に向けて飛び立っている。

南西空所属(巌部隊)の96式陸上攻撃機2機は、沖縄上陸直前に海軍小録基地から九州に脱出し、沖縄戦中は沖縄や喜界
島への輸送任務に就いた。1番機の機長は二瓶飛曹長、2番機は大島篤兵曹長だった。

昭和20年3月16日10:42 B24 1機が飛来、喜界島南端沖を航行中の機帆船2隻を攻撃。これを撃沈させた。
沈没した船は機帆船「第19護国丸」と護衛の「大栄丸」で、2隻は喜界島への武器弾薬輸送中であり、第19護国丸は
喜界島に配備された海軍第111震洋隊の特攻艇「震洋」5隻を搭載していた。

昭和20年3月18日14:00米艦載機2機が来襲、早町と小野津に爆撃をして飛び去った。小野津では機銃掃射と焼夷弾
攻撃で民家5~6棟が全焼、死傷者各1名を出した。この日早朝から米機動部隊は、沖縄上陸作戦の準備として九州一帯
に大規模な空襲を行っていた。喜界島に飛来したのはその一部でB24 1機も飛来。島一周の偵察飛行して飛び去った。

昭和20年3月21日16:00~17:00頃、鹿屋を出撃した第1回神雷桜花特別攻撃隊の直援零戦6機が不時着。
18:00過ぎには鹿屋に向けて出発。直援零戦の1機、安部正治1飛曹(第203海軍航空隊所属)によると、直援機の内、
203空所属の岡嶋少佐、安部1飛曹、久住中尉、721空の浅井大尉、橋本飛長が喜界島に不時着している。
5機は燃料を補給してその日の内に笠之原基地に向けて飛び立った。
16:23所属不明の九六式陸上攻撃機1機が着陸、30分余りして小禄基地へ飛び立った。

昭和20年3月22日08:10前日南大東島に不時着していた第1回神雷桜花特別攻撃隊の直援零戦(721空)4機が着陸。
※4機は燃料補給後に鹿屋基地へ出発したが、天候不良の為、2機が喜界島に引き返している。

昭和20年3月23日沖縄へ南下した米機動部隊は沖縄島へ艦載機による大規模な空襲を開始。上陸前空襲である。
この日はAMにB24 1機が喜界島周辺を偵察した他、15:00頃グラマンF6F 2機が飛行場を銃爆撃した。

昭和20年3月24日10:06/13:15/14:14の3回に亘り、グラマンF6F合計23機が飛行場と砲台を銃爆撃。日本
軍の応戦は撃墜1機、撃破1機の戦果を報じたが、下士官1名が戦死した。
前日の空襲は偵察程度だったが、この日からいよいよ本格的に来襲したのである。
同日16:46 701空の艦上攻撃機「天山」15機が串良基地から進出。天山隊には1機の零式輸送機が随伴していた。
同機には701空の大河原中尉以下16名が乗っていた。通信担当の大河原中尉以外は全員整備員であった。
彼等は「天山」の整備の為に派遣されたのである。
この日、第5航空艦隊司令部は701空に、天山隊による沖縄方面の米機動部隊への薄暮攻撃を命令。攻撃後の機動基地
として、喜界島・徳之島・沖縄本島・宮古島・石垣島が指定されていた。海軍は喜界島を沖縄攻撃の中継基地として使
用する事を決定したのである。
22:45この日進出した天山隊(内7機)が沖縄方面の米艦船攻撃に出撃、内2機は攻撃終了後02:00頃喜界島に帰還し
ている。戦果は無かった様だ。
攻撃第251飛行隊の永田徹郎大尉は、この日の16:00に串良基地を出撃している。喜界島で燃料補給後、永田機は沖
縄島の小禄上空に飛来し、燃える沖縄島を目撃している。結局永田機は敵影を見ずに引き返している。
喜界島を出撃した7機の内1機は攻撃第251飛行隊所属の須藤登良夫2飛曹[電信]/大堀秀一少尉[偵察]/湯沢貞祐1飛
曹[操縦]機である。同機は島を出撃後南下したが敵を見ず、帰途中に発動機不調と燃料漏れの為、トカラ列島平島沖に
不時着水している。
第111震洋隊長後藤三夫中尉は、朝焼けを背景に天山11機の出撃を滑走路際で見送ったと回想している。

昭和20年3月25日09:38、14:48、15:04の3回に亘りグラマンF6F合計10機が飛行場周辺や早町集落を攻撃。
19:00頃701空の天山4機が進出。20:00頃同空の攻撃251飛行隊の整備員12名を乗せた零式輸送機が着陸。

昭和20年3月26日00:45天山5機が出撃。その後4機が攻撃を終え04:00頃相次いで帰還、06:00頃串良へ向け
て出発。※戦果は米戦艦2隻を撃沈・炎上させて全機が無事に帰着している。
小林文男1飛曹[操縦]/野口泰助上飛曹[偵察]/加藤正雄2飛曹[電信]の天山は02:50頃、碇泊している米戦艦に魚雷
を命中させた。合庭喜俊上飛曹[操縦]/大内公威上飛曹[偵察]/中根音松2飛曹[電信]の天山も同時刻頃戦艦に対して
数回やり直しの後に魚雷を命中させたと報告しているが、この日米軍の記録に、該当する戦果は記録されていない。
00:30には零戦1機が着陸し、06:15には合計零戦2機が鹿屋に向け出発した。
夜が明けると米軍機は再び来襲。午前中2回、午後2回の合計50機が飛行場と砲台を攻撃した。特にPMはそれぞれ27
機と17機が来襲する激しいものだった。戦果は1機撃墜、3機撃破と報じられた。
空襲の終った1時間余り後、701空の艦上爆撃機「彗星」18機(内1機は着陸時にプロペラ破損)、天山5機、零式輸送
機3機が飛来した。特にいたっては彗星は250㎏爆弾を積んだまま九州から飛来した。
零式輸送機には渋江清中尉以下准士官以上3名(兵器整備中尉/整備中尉/整曹長)、攻撃第103飛行隊の整備兵20名、
通信科11名、衛生兵1名、主計兵1名が乗っていた。
米軍の空襲は夜間も続いた。20:00から喜界島は夜間戦闘機の制圧を受け21:00に飛行場が銃撃を受けた。
これが喜界島への初めての夜間空襲である。

昭和20年3月27日02:00前日に進出した艦上攻撃機「天山」4機が沖縄へ出撃。
※1機減っているのは、串良基地から前進する途中、1機が喜界島西北に墜落したからである。
05:30神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」の彗星12機が特攻々撃の為離陸したが、内2機が離陸時に自爆し搭乗員4名が戦
死した。この日は前日夜の空襲で損害を受けた為、整備が出来た機から出撃することになっていた。
離陸しようとした宮原1飛曹/橋本飛長機が、離陸寸前に海岸沿いの岩礁に接触して爆発した。
夜が明けて調査すると、本来飛行場の端に置いてあるはずの目標灯が海岸の岩の上に移動されており、その為、岩礁に
衝突した可能性が高い事が判明した。日本軍はこれをスパイの仕業と判断し、懸命に捜索を行ったが犯人を逮捕する事
は出来なかったという。(出撃時は濃霧で離陸目標灯も見えない状態だったとも言われている)
橋本飛長の遺体は後頭部が半分飛んでいたが、その顔はまるで微笑みかけるような笑顔だったという。
遺体は小高い丘に埋葬され、島の乙女達が毎日花を供えてくれた。この日出撃した残りの彗星は07:35に1機が帰還
した他は全機未帰還となっている。
彗星隊のエンジン音に中里集落の住民は、眠りを覚まされた。出撃は密やかに一晩のうちに住民の間に伝わっており、
住民は滑走路の見える村外れで密かに見送ったという。出撃は軍事機密で極秘だっただろうが、出撃準備の為の人の動
きで住民達は知ったのだろう。この日も米軍機の空襲は激しく08:05~15:30までに合計83機が来襲した。
戦果は2機撃墜、1機撃破と報じられたが、中里の烹炊所が倒壊し兵1名が負傷。また701空の彗星2機が炎上している。
同日、九州の第五航空艦隊では各基地に基地指揮官をお置く事になり、大中少佐13名が着任。
喜界島には喜界基地指揮官として佐藤勇少佐が五航艦司令部付けとして4/1に着任することになる。

昭和20年3月28日15:45米軍機8機来襲。
18:45陸軍三式戦「飛燕」11機が着陸。(知覧基地に進出した飛行第59戦隊か?)
新田原基地を出撃した陸軍特別攻撃隊「誠第39飛行隊」(隊長 笹川勉大尉以下8機)の一式戦「隼」が喜界島に着陸。
同隊は徳之島を目指していたが、奄美大島上空で天候が悪化し、やむなく不時着した。
※米軍沖縄上陸直前に城久集落の区長の元に「特攻隊が沖縄に行くべきところ状況が悪くて行けない」と言って訪ねて
来た事があった。特攻隊は一晩宿泊し、住民は皆が一升ずつ酒を持ち寄って隊員を慰労した。
その特攻隊員は10名位だったというので、この話は誠第39飛行隊の特攻隊員の可能性が高い。
18:50 701空の天山1機が着陸。同機は17:00に串良を出撃していた。この1機と既に喜界島にいた3機を合わせた
4機が日付の変わった1:20~4:15までの間に喜界島を出撃した。1機は07:45に串良に帰還している。

昭和20年3月29日前日不時着した誠第39飛行隊の隼8機が徳之島浅間陸軍飛行場へ前進。
誠第39飛行隊4機は3/31徳之島から特攻出撃。(笹川 勉大尉/高橋晋二中尉/瓜田忠治少尉の3名が特攻戦死)
06:20 26日に進出した701空「彗星」の残存5機が、国分基地に帰還の為出発しが、種子島南東で米戦闘機と遭遇、
攻撃第105飛行隊長北詰実大尉と同分隊長梅田章大尉がこの空戦で戦死した。1機は引き返し07:10喜界島に着陸。
沖縄周辺の輸送船団攻撃の為、台湾の新竹基地を出撃した天山3機が宮古島通過後、喜界島に向っているが、実際に喜
界島に着陸したかは不明。

昭和20年3月30日01:06天山2機が沖縄攻撃に出撃。1機は輸送船を雷撃したが、もう1機は未帰還となった。
06:25零戦1機が鹿屋に出発。07:11零戦2機が着陸している。
14:25前日着陸した陸軍の飛燕11機が九州の基地へ帰還する為出発。
15:37グラマンF6F8機が来襲、飛行場を銃爆撃した。

昭和20年3月31日07:03、09:30、16:32の3回に亘り、米軍機合計38機が来襲。
このように3月23日以降、連日の様に米軍機が来襲。最初は空襲の度に警報発令と解除を繰り返していたが、空襲が激
化すると発令が間に合わなくなってきた。その為3/5頃から喜界島では空襲警報を出しっ放しにして、解除の警報を出
さない事にしたという。沖縄戦に伴う喜界島の使用は3/21から始まり、主に701空の天山・彗星が使用した。
飛行場に対する米軍機の空襲はほぼ連日行われていたが、全く行われない日もあった。そして喜界島を巡る日米両軍の
攻防は米軍沖縄島上陸の4/1以降激しさを増していくのである。

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喜界空港正面に戻り、そこから歩いて行ける場所に現存する「中里戦闘指揮所跡」を見に行く。
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今回お世話になった喜界レンタカーサービスから中里集落の中に入っていく。当時の滑走路は2本だったので、此の辺
りも完全に海軍の飛行場敷地内だった。

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歩く事2分程度。「中里戦闘指揮所跡」の案内表示があるので左折して入って行く。
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▲すると見えた。戦闘指揮所跡。建設時期は当時最高機密とされ不明となっているが昭和19年頃だろう。
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国内で唯一残る鉄筋コンクリート製の半地中式「戦闘指揮所」だ。特徴的な形をしている。
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         戦闘指揮所跡はぐるり一周見学する事が出来るが、中には現在は入れない。
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▼最初に見える入口は昭和20年4月29日の大規模な米軍の空爆で直撃弾を受け、激しく破壊されている。
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直撃弾は戦闘指揮所付近に居た日本兵を吹き飛ばし、日高玖治上等整備兵曹/大脇弘一等整備兵曹が戦死している。
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戦闘指揮所入口に命中した爆弾で、近藤宗男二等整備兵曹は1~2m吹き飛ばされた。爆撃で厚さ15㎝の扉は内側に開
き、通路はセメントの塊で一杯だった。近藤兵曹は仲間と負傷した村田繁之上等整備兵曹をセメントの塊を取り除いて
助け出した。近藤兵曹は木製の扉1枚のお陰で命拾いしたという。
小谷内時男整備兵曹は階段室の瓦礫の中から、同年兵の日高玖治上等整備兵曹を助け出したが、彼は内臓をやられて死
亡していた。小谷内兵曹は日高兵曹と、天長節に配られる酒・ビール・煙草・お菓子の話をしたばかりであった。
数日後には同じ階段室の瓦礫の中から、大脇弘一等整備兵曹の遺体が発見されている。

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         反時計回りに見学していく事にする。
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遺構の直ぐ脇は民家があるので、迷惑をかけずに静かに見学する事を心がけたい。
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周辺には燃料庫や弾薬庫も同様に作られた。詳細な位置は不明だが、燃料庫と燃弾庫は荒木集落周辺、弾薬庫は湾港周
辺にそれぞれ作られた様だ。燃料庫と燃弾庫には敗戦時で航空91揮発油(オクタン価91の燃料)が92.8㎘航空87揮
発、油が28㎘、航空85甲揮発油が17㎘で残っていた。別の資料では敗戦時、航空用揮発油19万ℓあったとされる。
湾港には敗戦時、800㎏爆弾18発、500㎏爆弾8発、250㎏爆弾41発、60㎏通常爆弾48発、6番2号爆弾8発があっ
たことが分かっている。こうした燃料や爆弾は沖縄戦中に相当量が消費されているので、沖縄戦開始前は敗戦時を遥か
に上回る量が備蓄されていた事になる。これらの多くが運ばれた時期は、飛行場に南西諸島海軍航空隊(通称巌部隊)が
配備された昭和19年7月頃だろう。

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直撃弾を受けた側と真反対。経年劣化でコンクリートが剥がれ、鉄筋がむき出しになっている。
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入口は前後対称に4ヵ所。この入口は坑木も残り、半地下の作戦室への階段も綺麗に残っている。
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2017年までは中に入って見学出来たらしいが現在は入壕禁止となっている。階段が残っているのは2ヶ所のみ
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戦闘指揮所跡では軍事的な判断や特攻隊員への作戦指示が行われていた場所と伝えられている。
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▲砂利やサンゴ混ざった外壁のコンクリート。コンクリートには砂利の代わりにサンゴが含まれている。
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入口が4つあって大きな地下壕に見えるが、半地下の作戦室は1つだけとの事。
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▼作戦室の写真。右奥に写る大きな穴2つが特徴的な形をした煙突の様な穴から繋がっている部分だ。
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▼此処で早咲きの特攻花を見る事が出来た。
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当時、喜界基地を中継した特攻機は、整備・給油の為に飛来。特攻隊員はこの指揮所内で最後の杯を仲間達と交わし、
翌日、沖縄に向けて出撃していったと伝えられる。
「戦闘指揮所跡」は、喜界空港から徒歩5分もかからないので、周辺道路の道幅や駐車場が無い事を考慮し、車ではな
く徒歩での見学をお勧めする。喜界空港到着後や、島を離れる前に飛行場での時間待ちに見学に行くのが効率が良い。


大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月1日沖縄本島に米軍上陸開始。米軍は上陸作戦に兵力を集中した為か喜界島への空襲は低調だった。
14:00頃グラマンF6F 8機が飛来哨戒し、その後B-29が1機飛来したのみであった。
日本軍機は、串良基地を出撃した攻撃第251飛行隊の天山3機が沖縄攻撃後、日付の変わった01:52~03:00まで
の間に喜界島に着陸し、燃料補給後に串良基地へ帰投した。これとは別に攻撃第256飛行隊の天山1機も沖縄攻撃後に
喜界島で燃料補給し、串良基地に帰還している。串良基地は「菊水天山隊」をはじめ、多くの神風特別攻撃隊が天山で
特攻出撃している。
19:10には131空の天山4機、721空の爆装零戦4機が喜界島に進出した。この内天山1機が着陸時に墜落。
23:00頃には進出した天山は相次いで沖縄に向けて出撃していった。
この日、喜界島基地指揮官として、第5航空艦隊司令部付の佐藤勇少佐が着任した。

昭和20年4月2日08:25/09:35/15:25/16:40の4波に亘り米軍機来襲、合計39機が飛行場砲台を空襲した。
応戦戦果は5機撃墜を報じたが、兵3名が戦死、兵1名が負傷した。他に高射砲1基が破損し使用不能となった。
19:24新たな天山6機が喜界島に進出してきた。攻撃第251飛行隊3機、同256飛行隊1機、210空2機。
夜間に飛行機が無事に着陸する為には、飛行場で夜設員がランプを点けて滑走路の位置を表示しなければならない。
その為、夜設員は何事が起きても部署を離れないように厳命されていた。だが夜設点灯の信号でランプを点けた途端に
米軍機は銃撃してくるので、ついにはもう信号があっても点灯してはいけないとの伝達がなされた。正に夜設員も命が
けだったのである。

昭和20年4月3日06:10台湾の新竹基地を出撃し、那覇を攻撃した天山1機が着陸した。
09:13には陸軍の99式襲撃機1機(第30振武隊?)が不時着しているが所属部隊等は不明。
07:45、16:20の2回に亘り、延べ35機の米軍機が来襲し飛行場を銃爆撃した。
午後来襲した米軍機は、空母「バンカーヒル」、「キャボット」、「バターン」の艦載機32機だった。
15:30爆撃を終えた米軍機が集結した時、国分基地から飛び立った601空の零戦隊が襲いかかり、激しい空戦となる。
この空戦で被弾した601空戦闘第310飛行隊の梅林義輝上飛曹は、空戦で1機を撃墜した直後、別の米軍機に銃撃され
被弾、喜界島飛行場に胴体着陸した。その晩は民家を接収した仮兵舎で過ごし、翌4日に不時着した彗星の後席に乗っ
て国分基地に帰還した。また、梅林上飛曹は喜界島に滞在中、同期の堀江真上飛曹に会っている。恐らく721空の爆戦
隊員として島にいたと思われる。(その後堀江上飛曹は6月22日「桜花」の搭乗員として出撃し戦死している)
18:00頃、知覧を出撃した陸軍第30振武隊の99式襲撃機13機が喜界島に着陸。本来は徳之島に前進する予定だった
が、徳之島上空が空襲中なのを見て喜界島に反転、米軍機の攻撃を受けながらも無事に穴だらけの滑走路に着陸した。
この他に、03:40に知覧基地を出撃した、飛行第65戦隊の一式戦「隼」2機(和田邦康曹長と石原勇曹長)が、攻撃
終了後喜界島で給油して帰還した。

昭和20年4月4日06:55、16:13の2回敵襲、合計25機で飛行場と砲台を銃爆撃。日本軍の応戦で6機を撃墜。
09:40戦闘機が護衛した米飛行艇が海面を捜索して、2回着水している。これは日本軍の応戦で撃墜された戦闘機の
搭乗員捜索&救助の為だ。日本軍でも開戦当初は潜水艦等で搭乗員を救助する計画が立てられた事もあったが、大戦末
期はその様な余裕は全く無く、出撃=死 が当たり前になっていた。
搭乗員1人を育てる時間と費用を考えれば、米軍がパイロットの人命を大切にするこの行動は、撃墜機が出ると必ずと
言って良いほど救助作業を行い、死体であっても極力アメリカ本国に連れて帰るという事を終戦まで続けている。
14:03陸軍99式襲撃機3機が不時着しているが所属部隊等は不明。
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▲海軍喜界島基地の写真では無いが、戦時中の海軍飛行場の古写真。この様な感じだったのだろう。

昭和20年4月5日08:16、13:23の2回に亘りそれぞれ約1時間づつ、延べ75機が大挙来襲、飛行場と砲台を空襲。
日本軍の応戦で6機撃墜、11機撃破。米軍は18:37に戦闘機が護衛する飛行艇が救助作業を行っている。
この大空襲で喜界島飛行場は40数発を被弾し使用不能となったが、南北滑走路は必至の復旧活動で16:23復旧した。
しかし、東西滑走路は完全に使用不能となってしまった。飛行場の修理は海軍第321設営隊の他、5日からは住民も動
員された。在郷軍人で編成された独立第18中隊や、満15歳以上の住民の男女が動員され、陸軍部隊も毎夜兵力を派遣
して協力した。弾痕を埋める為に中里・湾・赤連集落の石垣を徴発し、不足分はドラム缶を埋めて地面を整えた。
度重なる滑走路修理で中里集落の石垣がなくなってしまったと言われたほどであった。滑走路の穴埋めに使われた石垣
は戦後に掘り出されて販売されたという。
これだけ激しい空襲があったのには理由がある。翌6日から日本軍は菊水1号作戦を予定しており、沖縄周辺の米艦隊
に大規模な航空攻撃を予定していた。第5航艦司令部は喜界島基地へ「明六日所在部隊ノ全力ヲ指揮シ多数機ノ発着ニ
対シ燃弾補給飛行機ノ被害極限飛行場ノ修復ニ努メ作戦ニ支障ナキヲ期セラレ度」と命令している。
また陸軍でも特攻機約30機を喜界島に前進させ、6日の攻撃に参加させようとしていた。
これに対して米軍は作戦実施を暗号解読で事前に知っており、中継基地としての使用を阻止する為に大規模な爆撃を行
ったのである。

昭和20年4月6日02:00頃索敵に飛び立った芙蓉部隊の彗星1機が不時着した。
※芙蓉部隊は夜戦飛行隊3隊で編成された夜間攻撃専門の部隊で、最後まで特攻攻撃を拒否した部隊として有名。
03:20攻撃第251飛行隊の天山2機が沖縄攻撃へ出撃。しかし1機が発動機不調で海面に不時着炎上した。
峰村昇上飛曹[偵察]は重傷を負って一命を取り留めたが、佐藤勇上飛曹[操縦]と片寄守正2飛曹[電信]が戦死。
峰村上飛曹は4月末に飛行機で内地に帰還したが、右足を大腿部中央から切断して義足となってしまった。
06:10陸軍飛行第65戦隊の一式戦「隼」2機が着陸、神宮武少尉と前田健郎伍長だった。
2機は6日未明に知覧を出撃、喜界島に前進したが、敵機の妨害で出撃できずに7日に帰還している。
他には鹿屋を出撃した神風特別攻撃隊「第1七生隊」森丘哲四郎少尉が発動機不調で喜界島に不時着した。
菊水1号作戦の決行日であるこの日は、04:50、06:30、08:02、13:20の5波に亘り、合計90機の米軍機が大
挙来襲し、飛行場・砲台・飛行機秘匿所を攻撃した。日本軍の応戦は撃墜9機、撃破10機と報じられ、米軍搭乗員1名
を捕虜にしている。被害は戦死1名、負傷3名を出し、飛行場は100発以上被弾し滑走路には大型爆弾の破孔約30が空
いて使用不能になり、また復旧作業に追われる事となる。
捕虜になった米搭乗員はトーマス(Arthur・M・THOMAS)海軍少尉で、トーマス少尉はArthur・L
・MATHENY海軍3等飛行兵曹と艦上爆撃機SB2Cヘルダーバーに搭乗。午後に喜界島飛行場を爆撃に来たとこ
ろを、対空砲火に撃墜され捕虜となった。トーマス少尉は落下傘で脱出したが、同乗者は機と運命を共にした。
しばらくの間トーマス少尉は捕虜小屋に収容されていたが、4月末~5月初め頃に日本軍将校の手によって処刑された。
07:40陸軍一式戦「隼」2機が着陸、1機は着陸時に大破してしまった。この2機は第21振武隊所属機だった。
※4/6に知覧から出撃した第21振武隊の隼は1機が沖縄周辺の米艦隊に突入、散華しているとなっているが、第21振
武隊隊のほとんどが4/26に喜界島に不時着しており、戦闘行動は未だはっきりしていない隊でもある。
17:00一式戦「隼」2機、飛行第59戦隊所属の三式戦「飛燕」3機、第46振武隊の97式戦闘機6機が進出してきた。
「隼」2機は第22振武隊の大貫健一郎少尉と大上弘少尉機だった。2機は13:00知覧基地を第21振武隊長 水川禎輔
中尉と共に出撃。水川中尉は徳之島に着陸している。その後水川中尉は紆余曲折あり最終的に行方不明となる。
大貫少尉と大上少尉はその後喜界島から出撃し、敵機と空戦の後大上少尉が戦死。大貫少尉は徳之島に不時着して一命
をとりとめ、その後福岡県にあった振武寮(特攻出撃して生き残った者が入れられる寮)に入れられ終戦を迎えている。
12:45爆装零戦1機(721空の指田良男1飛曹)が米機動部隊攻撃の為出撃した。単機出撃となってしまったのは残りの
3機がこの日の米軍による空爆で大破してしまったからだ。
この日1人の日本軍搭乗員がパラシュートで降下後、海上に浮かんでいる所を米空母「ホーネット」に救助されている。
日本兵は「自分が飛行教官であり喜界島から出撃した」と米軍に語っている。この搭乗員の氏名は不明だが、証言内容
から判断して爆装零戦で単機出撃した指田良男1飛曹の可能性が高い。
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▲戦闘指揮所跡から歩いて10分程度の場所に、当時、戦闘機の誘導路に沿って飛行機を格納する為の掩体壕が、無蓋掩
体壕55箇所、有蓋掩体壕1箇所、隔壁21箇所建設された内の唯一の屋根付きコンクリート製の有蓋掩体壕が残る。
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海軍第2神雷爆戦隊の零戦6機(500㎏爆弾搭載)が喜界島に進出した際、細沢実1飛曹の零戦を格納している。
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▼知覧基地跡(鹿児島県)に復元された無蓋掩体壕。空爆の爆風等から飛行機を守る三方土盛しただけの簡単な物だ。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月6日の続き。
この日は日本軍機の不時着が多く17:00までに零戦7機、彗星2機、天山5機、隼3機、97式戦5機が喜界島に不時着。
陸軍97式戦4機は第42振武隊(隊長 猫橋芳朗少尉)の一部で、猫橋隊長率いる7機は知覧基地を離陸して喜界島に直行
した。この時、中野友次郎少尉と松澤平一少尉は種子島飛行場に不時着した為、2機は喜界島進出が遅れる事になった。
残り5機は4/8喜界島から出撃した牛島少尉、仙波少尉、尾久少尉、馬場少尉+(大西少尉)の可能性が高い。
不時着した搭乗員達は早町に駐屯する海軍第40震洋隊の兵舎に宿泊したり、飛行場の東の丘の上の平地に、穴を掘った
三角兵舎などで宿泊した。蚊やハエが沢山おり、照明はランプのみ、食事は7分づきのご飯に、味噌汁と沢庵という粗
末なものだった。空襲が激しく火が焚けない日は、乾パンが食事の替わりに支給された。
ある搭乗員は基地司令からの依頼で、集落を訪ねて島民が安心する戦闘状況を話して回ることになった。訪問した家で
白米と岩海苔の味噌汁の食事を頂いたり、板砂糖の天ぷらとお茶の接待に預かったりしたようだ。
兵舎の飯は7分搗きで美味しくなかったが、民家では銀飯が出された。
集落訪問は搭乗員にとってもよい栄養補給となったようだ。この様に6日は多数の日本機が喜界島を使用している。
だが天山と721空の爆装零戦だけが攻撃のた為の使用であり、陸軍機を含めてほとんどが不時着であるが、既に米軍機
の空襲の為、昼間の中継基地としての使用は、ほとんど不可能な状態になっていたのである。

昭和20年4月7日この日の敵襲は04:30、16:23に合計3機が来襲したのみ。
それは米機動部隊が戦艦「大和」を中心とする海上特攻隊に攻撃を集中したからである。11:30約220機の米軍機が
喜界島上空を通過している。これが大和攻撃に向う米軍機の大編隊だった。
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▲米軍の哨戒機に撮影された戦艦大和を含む日本海軍艦艇。前日6日午後に泊地の瀬戸内海・徳山沖から出撃した沖縄特
攻艦隊は、豊後水道を抜けて九州の東側を回るコースを取ると、7日未明には鹿児島県の大隅半島と種子島の間を通り西
に向かった。同日12:30頃約220機の米軍機が近づいて来るのを察知した艦隊は、それまでの対潜警戒陣形から巡洋艦、
駆逐艦で大和の周囲をぐるりと囲む対空戦闘陣形に切り替えた。写真では艦隊が輪形陣を形成していることが確認できる
為、喜界島上空と通過した第1波攻撃の直前に撮影されたと推測出来る。大和の戦闘は12:34から始まる。
Naval Legends: Yamato | World of WarshipsYouTube
06:00~07:30陸軍飛行59戦隊の直援機「飛燕」2機と共に陸軍特攻第22振武隊の隼2機、陸軍特攻第46振武隊の9
9式襲撃機2機(小山勝実少尉と伊原佐源次伍長)が特攻出撃。那覇周辺の米艦隊に突入していった。
3日に喜界島に前進していた第30振武隊の99式襲撃機5機は徳之島に進出。別に隼2機も出撃しているが所属は不明。
22振武隊の隼4機の内2機は大貫健一郎少尉と大上弘少尉機であろう。2機は5日に喜界島に前進していたが、7日朝に徳
之島前進の為?飛び立った。だが途中でグラマンの攻撃を受けて大下機はそのまま行方不明となり、大貫機は被弾しなが
らも徳之島飛行場に不時着し、その後終戦を福岡の振武寮で迎えて生き延びた。
17:30陸軍特攻第46振武隊の99式襲撃機2機(古川栄輔伍長と堀越進伍長)が特攻出撃。那覇周辺の米艦隊に突入して
いった。第46振武隊記録では同日「渡辺博伍長も喜界島から出撃」となっているが詳細は不明。
※陸軍99襲撃機の特攻機は60㎏程度の小型爆弾が座席後部下に、真っ赤に錆びた小指程の太さのワイヤーでぐるぐる巻
きに縛ってあったのを海軍の増戸1飛曹が目撃して愕然としたという。旧式で重い爆弾は装着不可だったのだろう。
また、増戸1飛曹は同年輩の陸軍特攻隊員が「宿泊の夜は黙して一語も話さなかったのが印象的に心の中に残っている」
と回想している。どんなに決死の覚悟を固めても、「明日死ぬ」となると、その心の中は穏やかではなかったのだろう。
17:45陸軍特攻42振武隊の97式戦闘機2機(松澤平一少尉/中野友次郎少尉)が種子島から進出した。
彼等は4/6知覧を離陸後、一旦種子島に降りて機体を修理。喜界島の様子を確認した所「喜界島は空襲中なので翌日出発
せよ」との命令で翌7日に喜界島に進出してきたのである。
42振武隊の97式戦闘機は旧式で、喜界島までは高度50~100mで飛行。100㎏爆弾を抱えている為速度は150~160
㎞/hがやっとだったという。喜界島に着陸した時は、翼内タンクは空で胴体タンクも10~20分飛べる量しか無かった。
大西造少尉機はその夜の米軍機の空襲で焼失してしまう。大西少尉はその後福岡の振武寮に入れられ、生きて終戦を迎え
ている。17:45陸軍特攻第29振武隊の「隼」3機(及川喜一郎伍長/上川幟伍長/山田忠男伍長)が喜界島に進出した。
3人は(隊長)中村實少尉と共に15:00頃知覧基地を4機で出撃した。進撃途中に雲中突破を図った際、中村少尉とは離
れ離れになり、中村少尉はそのまま未帰還となった。
小雨交じりの夕闇迫る中、3機は飛行を続け、そして敵味方不明の飛行場(喜界島)に着陸した。途中で遭遇した潜水艦を
爆撃しようと爆弾の信管を外してしまったので、まさに決死の不時着であった。
不時着後、基地隊員の話を聞いて始めて3人は此処が喜界島であることを知った。3機は整備員の手により、飛行場から5
~600m離れた雑木林の中の無蓋掩体壕に収容された。3人は第6航空軍の戦闘指揮所に申告、次命あるまで待機する様
に命令された。飛行場には爆弾跡の弾痕が無数に空き、周辺には爆撃で破壊された零戦の残骸が散乱していたという。
決死の不時着だった事を物語っている。
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▲七島鼻。喜界島で一番高い場所。
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▲こんもりした不自然な盛り上がりと突き出た煙突の様なコンクリートが見える。
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▲蓋がしてあるが、間違いなく地下壕に続く通気口だ。
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▲反対側に回ると、あった!地下壕への入口。
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▲流石一番高い場所が軍が抑えていた。戦時中は海軍の電波探知基地が置かれていた。
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当然、入壕する。
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先程見た通気口に繋がる穴が2ヵ所確認出来る。
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6畳位の大きさの部屋が1つあるだけだった。
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今直ぐ使えそうな程度の良い状態だった。
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▼さぁ、外に出よう。
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▼此処から太平洋を監視していたのだろう。度重なる空襲でも耐えた地下壕だ。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月8日06:30陸軍第68振武隊の97式戦闘機2機(山田勇少尉と山口怡一少尉)が進出喜界島に進出。
17:30陸軍特攻第42振武隊の97式戦闘機5機(松澤平一少尉、牛島久男少尉、馬場洋少尉、尾久義周少尉、仙波久男
少尉)が特攻出撃。沖縄の米艦隊に突入、散華した。

昭和20年4月9日11:15、14:20、16:45の3回に亘り、延べ38機来の敵機襲、飛行場と砲台を銃爆撃。
この日、米軍は常時上空制圧を行った。これまでの空襲は1日に数回編隊で攻撃するもので、攻撃と攻撃の間は米軍機
は上空にいなかっだが上空制圧はそうした攻撃の間の空白を無くすもので、昼間の日本軍機の使用を完全に制圧する
効果をもたらすのが狙いだった。空襲の終わった17:10陸軍99式襲撃機4機が攻撃に発進。
17:30陸軍特攻第68振武隊の97式戦闘機2機(山田勇少尉と山口怡一少尉17:40)が特攻出撃。沖縄で散華した。
17:30陸軍特攻第42振武隊の97式襲撃機3機(猫橋芳朗少尉、近藤幸雄少尉、中野友次郎少尉)が特攻出撃。
徳之島を過ぎた所でグラマンと遭遇、中野少尉機はかねての打ち合わせ通り爆弾を落として空戦に入った。
旧式の97式戦闘機、空中分解寸前で空戦後、中野少尉は被弾だらけの機体で徳之島飛行場に不時着し、着陸と同時に
エンジンが停止。その後出撃出来なくなってしまった。
昭和20年4月10日午後より雨で両軍共活発な動きは無し。
昭和20年4月11日09:21、14:26、15:00の3回に亘り、延べ60機の米軍機が飛行場を銃爆撃した。
この日米軍機は06:25~18:58まで、2機乃至15機の編隊で間断なく喜界島周辺上空を哨戒。この日が米軍機によ
る上空哨戒戦法の開始で、上空出来る事常に飛行機を旋回させて飛行場の状況を監視、その使用を継続的に妨害する
戦法だった。この夜間空襲は空母「エンタープライズ」の雷撃飛行隊によるもので、米軍機は徳之島と喜界島に対し、
2機ペア5チームが飛行場を攻撃し、19:45~06:00まで120個の爆弾、80発のロケット弾、数百発の12.5㎜機
関砲弾を浴びせ、喜界島を一晩中眠らせなかったという。
この24時間空襲とも言える米軍の行動で、この日「彗星」2機、整備兵16名を乗せた零式輸送機1機、天山1機(児玉
研治1飛曹、芝祐寅2飛曹、喜多主俔飛長)が撃墜されている。
更に11:35米夜戦1機が飛行場に投弾し、この攻撃で陸軍一式戦「隼」1機が炎上、第29振武隊の山田忠男伍長の機
だった。電話連絡を受けて第29振武隊3人が飛行場へ行くと、掩体壕内の山田伍長機が炎上し、機体の機関銃弾が炸
裂していた。山田伍長は燃える愛機の側で呆然と立ち竦んでいたという。
米夜戦はパラシュート付きの照明弾を投下し、滑走路修理作業中の作業員やトラックにも銃撃を行った。
作業員は銃撃に慌てて大混乱になり、負傷者が続出したという。11日に米軍がこれほど執拗に夜戦で制圧したのは、
12日の菊水2号作戦での喜界島使用を阻止する為だった。米軍は見事その目的を達成し12日、喜界島からの日本軍機
の出撃は見合す事となったのである。

昭和20年4月12日この日も米軍は18:00頃まで終日、4機乃至8機編隊で島上空を旋回、飛行場へ銃爆撃を行った。
昨日に引き続いての上空哨戒戦法である。さらに日没時からは夜戦4機が来襲し、飛行場周辺の哨戒を続行した。
97式艦攻3機、彗星2機、零戦1機、97式戦闘機2機、3式戦飛燕1機が炎上した。
12:39~14:50頃まで、海軍343空の紫電23機/紫電改34機と、グラマン/コルセア50数機との空中戦が繰り広
げられた。343空の大坪通2飛曹はこの日グラマン1機を撃墜したが自らも被弾して喜界島に不時着した。
そして島の洞窟の病院のベッドで寝ていたという。

昭和20年4月13日14:30頃米軍機2機が飛行場に制圧照明弾並ロケット弾10数個投弾。
07:56、09:30に延べ36機来襲。18:40にはグラマンF6F/F4Uコルセア212機来襲。常態化した夜間制圧と
上空哨戒戦法がこの日も続けられ、天山1機と彗星1機が炎上。主滑走路が使用不能になった。
こうした状況を受けて喜界島航空基地は、鹿屋の第5航空艦隊司令部へ基地の使用方法について意見具申をした。
内容は喜界島へ前進する場合は到着時刻を発進基地へ島から通知し、時間が間に合わない時は着陸を取り止める。
飛行機とは直接無線連絡を取って、情勢の変化に応じて行動を指示する。
着陸が危険な場合は信号と赤旗で連絡し、退避の場合は発進基地に戻るか50浬圏外で待機する。
喜界島での燃料補給は極力しないように計画する。というものであった。ここ数日間で喜界島の状況は急激に悪化し
たのである。
日没後の18:15陸軍99式襲撃機2機が特攻出撃。第30振武隊(池田強伍長)/第46振武隊(小林貞三伍長)だった。

昭和20年4月14日米軍の空襲は低調で、06:15に8機が飛行場を銃爆撃しただけだった。
陸海軍兵士、そして島民の不眠不休の努力で滑走路は06:30には1300m×60mが復旧。
この復旧途中の滑走路から05:30零戦1機が国分基地に向けて出発。13:45には601空の零戦1機が不時着した。
そして19:10陸軍特攻第29振武隊(及川喜一郎伍長と上川幟伍長)の一式戦「隼」2機が特攻出撃。
及川伍長と上川伍長は第6航空軍将校の激励の言葉を受け、別れの杯を飲み干し、11日に愛機を空襲で破壊され、
出撃できない山田伍長と手を固く握り合うと、沖縄に向けて出撃していった。
陸軍守備隊の小川高男中尉は一升瓶を持って飛行場に駆け付け、整列を終えた特攻隊員に送別の酒を注いだ。
この日、沖縄周辺で戦艦ニューヨーク(USS New York BB-34)の三番砲塔付近に日本軍の特攻機が突入、カタパ
ルトを破壊して特攻機は跳ね返って落下、爆発。もう1機は船から50ヤード(46m)に墜落した。
戦艦ニューヨーク乗組員2人が負傷し、突入した特攻機をOSCARと米国が記録している。
OSCARとは陸軍一式戦闘機「隼」の米軍呼称で、この日「隼」で出撃した特攻隊は、喜界島から出撃した第29振武
隊のみである。戦果は及川伍長と上川伍長の特攻々撃によるものである可能性が非常に高い。

昭和20年4月15日06:18、16:00の2回に亘り延べ34機が飛行場を銃爆撃した。
05:30陸軍特攻第46振武隊の99式襲撃機1機(中村稠[ しげる ] 伍長)が特攻出撃。
18:00陸軍特攻第30振武隊の99式襲撃機1機(今井実伍長)が特攻出撃。
この日陸軍の第百飛行団では、沖縄飛行場攻撃の為にに4式戦「疾風」11機が出撃。この内飛行第101戦隊の矢野寛
曹長、飛行第102戦隊の橋本富治軍曹と下村軍久義曹が17:50喜界島に不時着。着陸時に矢野機は海岸に衝突して
機体は炎上したが、矢野曹長は軽傷を負っただけで無事だった。
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▼▲喜界島戦跡地図と当時の陸海軍喜界島守備隊
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陸軍部隊「田村部隊/田村少佐以下650名、海軍南西諸島航空隊喜界島派遣隊(巌部隊)伊藤大尉以下611名
海軍宮本部隊(飛行場設営隊含む)/宮本大尉以下564名、海軍友寄部隊/友寄大尉以下131名、
海軍第40震洋隊/安藤大尉以下180名、海軍第111震洋隊/後藤中尉以下182名
陸軍独立混成第22連隊第1大隊(隊長 橋爪捨雄少佐・副官 小川高男中尉)/第2大隊(隊長 荒二井芳衛少佐)
第3大隊(隊長 田村道之助少佐)
在郷軍人(郷軍)
独立第17中隊/福岡水彦軍曹以下363名、独立第18中隊/宮島喜蔵軍曹以下150名。
以上合計2831名の日本兵が守備を固めていた。

昭和20年4月16日17:30に8機の米軍機が島の上空を哨戒しただけで、飛行場への攻撃はなかった。
08:20~09:00頃まで、343空の紫電改32機と、空母ホーネットの第17戦闘飛行隊、空母バターンの第47戦闘飛
行隊のグラマン28機との空中戦が繰り広げられた。この空中戦で米軍は撃墜7機、同不確実1機、撃破5機を報じ、2機
が被弾して着艦時等に失われたが搭乗員は救助された。午後になると米軍が海上の搭乗員救出の為、3回に亘り飛行艇を
派遣するのが目撃されている。対する日本側は一挙に9機を失うという大敗を喫した。
343空の空戦は08:30に終了し、それと入れ違いに601空の零戦30機と紫電12機と、米軍の第47戦闘飛行隊との空
戦が行われた。日本軍は7機撃墜、5機撃破の戦果を報じたが、零戦4機を失っている。別の制空隊として奄美大島上空
で米軍機と交戦した252空の桑野孝也中尉は、喜界島~奄美大島の中間付近で零戦の発動機が停止し、08:45に喜界
島沖で落下傘降下。泳いで喜界島にたどり着いたようだ。(この搭乗員は桑野中尉の可能性大)
この日は陸軍特攻第42振武隊の篠田庸三少尉が単機で特攻出撃。沖縄の海で散華した。
12日に喜界島を視察した井戸田大佐は、司令部に帰還すると、徳之島飛行場は計画的使用を放棄して不時着用として
使用することを進言。一方喜界島は「対空火器が徳之島に比べて多く、敵機の跳梁を若干封じているので、しばらくは
利用の価値があるものと認められる」と報告した。これに伴い徳之島にいる陸軍の搭乗員70名と整備員15名は大発で
喜界島に移動し、同島から搭乗員は九州に戻る事になった。喜界島でも連日の空襲で飛行機を破壊され、滞留している
搭乗員が多数になっていたのである。
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▲海軍宮本部隊(飛行場設営隊含む)/宮本大尉以下564名が陣を構えていた鹿児島県で2番目に低い山、
「水天宮山」標高は僅か63m。この山のふもとには米軍上陸に備えて構築されたトーチカが1基残っている。
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水天宮山を正面に見て道を歩き、ちょっと左を気を付けて見てみると・・・。
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銃眼がこっちを狙っている!
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流石海軍の遺構はコンクリートでしっかり作られているものが多い。
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中を覗いて見る・・・。
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裏側に小さな入口がある様だ。大人2人入れば満席って感じの狭い部屋。
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トーチカの裏側に回ってみる。
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竈の跡か・・・?赤レンガの遺構が残る。トーチカはこの場所の他にもう1基現存しているそうだが今回は行けず。
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南国植物の根っこが張り巡らされ、トーチカの入口は確認出来たが入壕は断念した。

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月17日米軍機の飛行場攻撃はなく、4~8機のグラマンが2回飛来し、周辺を哨戒しただけだった。
この日、爆装零戦7機と彗星1機が不時着。これは「菊水三号作戦」で06:45~06:55に第1国分基地を出撃した
神風特別攻撃隊「第3御盾隊」252部隊だった。10:05爆装零戦5機、15:00爆装零戦2機が喜界島不時着。
田中 宏少尉/猪山昌彦2飛曹/堀川光政2飛曹/小宮邦晴飛長は敵を発見出来ず喜界島に不時着。
同日11:10喜界島を離陸。12:40第1国分基地帰投している。
宮内 忠飛長07:39駆逐艦7隻を発見、爆撃後12:40喜界島に不時着、15:00第1国分基地帰投
矢野 昇中尉07:39米駆逐艦7隻を発見、爆撃後喜界島に不時着、13:25喜界島離陸。15:00第1国分基地帰投
池田 亨2飛曹07:39米駆逐艦7隻を発見、爆撃後喜界島に不時着、13:25喜界島離陸。15:00第1国分基地帰投
※上記2機のどちらかの機に16日に落下傘降下した252空の桑野孝也中尉が同乗、第1国分基地に帰還している。
この日、陸軍第百飛行団の4式戦「疾風」12機が出撃、奄美大島、喜界島中間付近の海上で空戦となり10機が未帰還。
※この時未帰還となった飛行第102戦隊の本多正一准尉機の遺品が、喜界島の山中から出たという。本多准尉は奄美大
島東方海上で戦死と、日本軍の記録では書かれているが、空戦の末、喜界島の山中に墜落したのだろう。

昭和20年4月18日06:44米軍機4機来襲。
14:10海軍96式陸攻1機が機銃弾輸送のため着陸、10分後には鹿屋基地に向け飛び立っていった。
その後着陸した陸攻1機には、喜界島にいる飛行機を失った海軍搭乗員を乗せて鹿屋基地に帰還している。
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水天宮山から少し車を走らせると喜界島通信所がある。自衛隊の電波傍受用アンテナ施設で、何故か「象の檻」と呼
ばれている。1997年着工、直径約200mの円形で、約20本のアンテナを円状に配置されている。
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▲▼喜界島通信所入口。人気も無く静かなところだった。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月19日木田大佐は魚雷や陸戦兵器を始め、様々な物品・兵器の補給を要請している。更に27日には奄美
大島から喜界島へ漁船等による物資輸送が計画された。
終戦まで米軍上陸の無かった喜界島で一番奮戦した部隊は、海軍の対空砲部隊だった。機関銃隊は3ヵ月間で敵機70
数機に命中させ、南西諸島の対空部隊中で最高の成績を収めた。(日本軍記録なので米軍記録と比べる必要はある)
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▲日本軍の対空砲陣地。(写真はニューギニアの日本軍)
米軍機を撃墜したのは、ほとんどが25ミリ機関銃だった。日本軍は自分の方に向って来る機や、急降下から急上昇に
転じて腹を見せる時に攻撃を加え、多数を撃墜した。ある機関銃隊の下士官は赤褌の分隊長として有名で、いつも裸
で指揮を執り、この分隊だけで相当数を撃墜した。だが彼も6月半ば頃に戦死。
この戦果に米軍は喜界島基地には命中率の高い対空射撃兵器(電波による自動照準器付き)があると考え、敗戦後、特
に対空兵器について詳細に調査した。そして、それが日本兵の肉眼照準によるものだと知って驚いたという。
機関銃隊の中の1つ、湾集落の南側、第2機銃砲台の東にあった第3機銃砲台(永見隊)の機銃陣地は、班長(下士官)1
名、手1名、旋回手1名、補助4名の合計7名が配置されていた。班長を除く兵士は、応召後7ヶ月経っても第2補充兵
と兵役免除の老年兵達だった。その動作は下士官に適わないが、現役兵も遠く及ばない度胸で奮戦し、撃墜率は現役
兵よりもはるかに高かったという。こうした飛行場をめぐる空と地上の戦いは沖縄戦終了まで続くことになる。
この日は09:35~09:55の間に米軍機8機が2回飛行場を銃撃した。この日は日本軍機の喜界島使用はなかった。

昭和20年4月20日07:15~16:20までに戦爆連合76機が来襲。飛行場、砲台、機銃陣地を銃爆撃した。
激しい空襲で戦死23名、負傷10名の犠牲者を出し、兵舎1棟が全焼、12㎝高角砲弾10発と小銃30挺、小銃弾3000
発を焼失する損害を被った。更に空襲の結果、主滑走路はまた使用不能となってしまった。
07:45水天宮下にある三角兵舎が爆撃され、第1防空壕東入口が被弾。これにより巌部隊の整備兵5名が戦死した。
空襲終了後に整備兵は炊事場から空樽を持ってきて、その中にちりぢりになった遺体を空樽2個に拾い集めた。この日
沖縄戦開始後、喜界島の日本軍の最大の人的被害だった。
巌部隊の近藤宗男二等整備兵曹は、巌部隊の96式陸攻が物資輸送で着陸した時、米夜戦が上空にいたので、搭乗員に
その旨を告げて、機銃で曳光弾を発射したと回想している。因みに5月は1機を除いて全機が物量投下となり、着陸し
ての補給はしなくなった。
19:00陸軍4式戦「疾風」7機が着陸したが1機は着陸時に大破した。これは飛行第102戦隊(指揮官/成田稔大尉)で
喜界島南方の制空と、特攻機の直掩の為の進出で、これは来る第4次航空総攻撃の準備の為だった。

昭和20年4月21日09:30/10:38の2回16機の米軍機が飛行場と集落を銃爆撃した。前日の空襲で破壊された滑走
路は、陸海軍兵士と島民の懸命な復旧作業で夜中02:00頃に復旧した。
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▲▼現在「ウフヤグチ鍾乳洞」として観光スポットとなっている自然壕は戦時中、陸軍部隊が本部を置いていた場所。
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陸軍部隊は「田村部隊」(田村少佐以下650名)が喜界島の守備に就いていた。
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主に海軍が主体だった喜界島では、飛行場の修復に陸軍部隊も当然参加したが、陸軍兵の食事の保証を条件に協力した
という。大東亜戦争開戦前からあった陸軍と海軍の隔壁は最後の最後まで続いていた様だ・・・。
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陸軍陣地になる前は鍾乳石や石筍が発達して素晴らしい場所だったという。
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壕(洞窟)内はかなり広い。防空陣地となった時に中の鍾乳石は破壊され、石筍も取り除かれてしまった。
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当然壕外にも兵舎があっただろうが、此処に何人の陸軍兵士が寝泊まりしていたのだろうか・・・。
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人工的に作られた階段や出入口が確認出来る。陸軍らしい自然壕を利用した簡易的な作りだ。
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▼この橋は当然戦後観光用に設置されたものであろう。
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この洞窟(壕)は平成17年フジテレビ系ドラマ「遅すぎた帰還・実録小野田少尉」のロケ地にもなった。
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実録・小野田少尉 遅すぎた帰還 YouTube
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月22日04:10~17:45まで、8機乃至12機の米軍機が喜界島と奄美大島上空を旋回した。
その内約60機が飛行場と集落を銃撃した。この上空制圧作戦は、この日から陸軍第6航空軍が第4次航空総攻撃を開始
したからで、喜界島飛行場の使用を阻止する為の上空制圧作戦だった。
16:30陸軍飛行第102戦隊の4式戦「疾風」6機が出撃。沖縄に向かう特攻機を沖永良部島から沖縄上空まで直掩した
が、3機が未帰還となった。
17:00彗星3機と爆装零戦4機が不時着した。252空の爆装零戦2機と601空の爆装零戦2機であった。
爆装零戦3機は神風特別攻撃隊「第3御盾隊」252部隊所属で、4/17にも第1国分基地を出撃して喜界島に不時着した
池田亨2飛曹/矢野昇中尉/宮内忠飛長/だった。池田2飛曹は12:30第1国分基地を離陸し米機動部隊攻撃に向った。
変針地点を過ぎた所でグラマンと空戦になり、何とか離脱して喜界島への不時着を試みた。
だが発動機が停止して飛行場付近の海岸に不時着、機体は大破し池田2飛曹は重傷を負う。不時着時に池田2飛曹は右目
を失い、飛来した陸軍機に乗せられて宮崎山中の陸軍病院に収容された。

昭和20年4月23日06:00~17:30まで間断なく8機乃至16機のグラマンが、飛行場と砲台を銃撃した。
06:05昨日不時着した零戦4機が第1国分基地に向け発進したが、内1機が離陸直後にグラマンと交戦し自爆、2機は喜
界島に引き返してきた。自爆した1機は矢野昇中尉で、早朝離陸した所をグラマンに奇襲されたのである。
矢野中尉は4/11、4/16、4/17、4/22の4回特攻出撃、そしてとうとう特攻々撃は達成出来なかった。しかし命令
とは言え、12日間に4回もの特攻出撃をした精神力は並大抵の精神力では出来なかったはずだ。任務達成の為に出撃し
続けた矢野中尉は、最後は撃墜されてしまったが賞賛に値すると言える。

昭和20年4月24日終日天候が悪く空襲は無し。前日の空襲で破壊された滑走路は08:45には1200m×80mの修理が
完成。沖縄戦中、喜界島飛行場では米艦隊の電話傍受を行っていた。米艦隊はお互いに正規の艦名ではなく、コードネー
ムを付けて連絡を取り合っていた。傍受内容からは各艦の位置や、日本軍の攻撃による損害を知ることが出来たようだ。
傍受結果は第5航空艦隊などに知らされ、航空攻撃の作戦立案や戦果確認に活かされた。

昭和20年4月25日AM 2回に亘り米軍機8機が飛行場を銃爆撃した。
17:30陸軍97式重爆撃機1機が緊急輸送任務で着陸、20分後に鹿屋基地に向け出発した。
当初この輸送には重爆3機が予定され、帰還に際しては在喜界島の搭乗員を収容する事になっていた。
この任務を担当したのが陸軍航空輸送部第9飛行隊で、同隊の97式重爆3機はAM02:00鹿屋基地から出撃したが、途
中で隊長機が米夜戦に撃墜され、1機が鹿屋に引き帰し、残りの1機(樋口機)のみが輸送任務に成功した。
陸軍航空輸送部第9飛行隊は、この後の輸送任務で2機(樋口機と三堀機)が物資・弾薬の輸送と搭乗員の救出任務に
成功している。重爆が飛来すると飛行場では四隅にカンテラを燃やし、プロペラ始動車がライトを点灯して夜間照明を
行った。

昭和20年4月26日04:25~10:35まで米軍機延べ36機が飛行場を銃爆撃した。06:05にも16機が来襲、ロケッ
ト弾で飛行場を爆撃した。

昭和20年4月27日09:05~17:30まで米軍機が延べ41機、8機乃至16機の編隊で飛行場を銃爆撃した。
20:15陸軍97式重爆撃機2機が着陸、21:10鹿屋基地に向け出発した。97重爆2機は、喜界島で不時着した搭乗員
を収容して帰途に着き、1機は無事に鹿屋に帰還した。
だが15名を乗せたもう1機は、喜界島出発後50分頃に、片舷飛行を報じた後そのまま未帰還となってしまった。
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▲喜界島ではスーパーを4つ見た。一つ目は喜界空港に一番近い「ふくり」と「酒のキンコー」
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▲お土産物が豊富だった「ヨシカワ」
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▲離島の定番「Aコープ」
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島で見かける車は錆に相当やられているものが多いが、ここまで腐ると修復する気にならないだろう・・・車も消耗品。

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月28日05:20~09:55までに米軍機18機、13:00~17:45までには7回に亘り米軍機延べ50機以上
が来襲、飛行場を銃爆撃した。毎日の様に空襲に晒される日々、兵士・島民共に疲れ切っていたであろう・・・。
16:48陸軍四式戦「疾風」1機が着陸。この日は菊水4号作戦が発動され、飛行第101戦隊が都城西飛行場から出撃、
飛行第103戦隊が知覧から、四式戦「疾風」合計11機が制空隊として出撃し、喜界島付近でグラマンと交戦。
103戦隊は全機帰還したが、101戦隊は喜界島に不時着した岩崎喜久造少尉を除いて全機未帰還となった。
岩崎少尉機は沖縄近くで空戦前に発動機不調となり、喜界島に不時着。着陸するや米軍機8機の銃爆撃を受けたが、幸
にも機は無傷だった。地上の対空火器はこれらの米軍機に応戦し1機を撃墜した。
丁度喜界島には103戦隊の整備員が徳之島から移動してきており、故障を修理して帰還する事になった。不時着した際、
この日出撃して戦死した101戦隊の鈴木達雄少尉の落下傘の縛帯が島に漂着したのを見せられたという。
岩崎少尉は案内された戦闘指揮所(現在も残る戦闘指揮所跡)で冷えたサイダーをご馳走になったと語っておられる。
修理を待つ間少尉は谷間の兵舎に案内されたが、夕食は湯呑み茶碗一杯の切り詰めたものだったという。
翌4/29(04:25)修理したばかりの軟弱な所のある滑走路から飛び立ち、岩崎少尉は無事都城東飛行場に帰還した。
21:58芙蓉部隊の彗星1機(伏屋国男一飛曹・鈴木淑夫上飛曹)が不時着。23:35には天山1機が着陸した。
この日大島防備隊の漁船「第7大漁丸」「第66大漁丸」の2隻が、奄美大島小湊で米軍機の空襲を受けて大破した。
2隻は前日瀬相を出港して、喜界島へ弾薬・軍需品の輸送中だった。3号大発が同行していたが、機械故障のため住用に
退避し、結局3隻共航行不能となり、この時の喜界島輸送は中止された。
喜界島飛行場は度重なる使用により、航空機に補給する爆弾や対空機銃弾が不足していた。米軍の制空権下では九州か
らの補給は望めず、一番近い奄美大島からの補給に頼る他無かった。奄美大島には海軍大島防備隊が展開しており、古
仁屋には水上機基地があった。九州からの補給が途絶えがちなのは奄美大島も同じだったが、それでも喜界島よりは余
裕があったのだろう。(奄美大島には海軍の水上基地の他は陸海軍共に飛行場は無かった)

昭和20年4月29日この日の米軍機の空襲は非常に激しかった。08:20~09:05まで約70機の米軍機が来襲。
飛行場を銃爆撃。更に14:30~15:00まで約70機の米軍機が再び飛行場を銃爆撃した。
この間米軍は8機乃至12機で常時上空哨戒を行い、午後の空襲では時限爆弾を使用、時限爆弾は16:30以降、2時間
に亘り27個が爆発した。飛行場は数十個被弾し、今日明日中は使用不能となる損害を被った。
被害は滑走路以外にも及び、戦死2名、負傷1名を出した。戦闘指揮所入口が直撃弾で破壊されたのはこの日だった。
戦闘指揮所入口に命中した爆弾で、近藤宗男二等整備兵曹は1~2m吹き飛ばされた。爆撃で厚さ15㎝の扉は内側に開
き、通路はセメントの塊で一杯だった。近藤兵曹は仲間と負傷した村田繁之上等整備兵曹をセメントの塊を取り除いて
助け出した。近藤兵曹は木製の扉1枚のお陰で命拾いしたという。
小谷内時男整備兵曹は階段室の瓦礫の中から、同年兵の日高玖治上等整備兵曹を助け出したが、彼は内臓をやられて死
亡していた。小谷内兵曹は日高兵曹と天長節に配られる、酒・ビール・煙草・お菓子の話をしたばかりであった。
後には同じ階段室の瓦礫の中から、大脇弘一等整備兵曹の遺体が発見されている。
米軍が時限爆弾を使ったのはこの日が最初である。米軍は瞬発式(穴を深く掘る爆弾)、地上すれすれに爆発する物、焼
夷弾等様々な種類の爆弾を使用した。一番始末が悪いのが時限爆弾で、いつ破裂するのか分からないので、飛行場部隊
もほとほと手を焼き、修理作業の時には相当の犠牲者を出したという。
陸軍喜界島守備隊の西山玉男少尉はこの日夕刻、海軍部隊の要請で1個小隊を率いて滑走路の穴埋め作業に参加した。
滑走路では住民も車・モッコ・手蓑を使って穴埋めをしていた。爆弾穴は直径10m、深さ7~8mにも達していた。
穴に土を集めて投げ込んだが、穴の数が多くてとても修理が間に合わない。そこで海軍の指示で空のドラム缶を投入し
て何とか徹夜作業で飛行機の発着が出来るようになったと語っておられる。
17:00零戦3機が喜界島上空でグラマン6機と空戦となった。2機は自爆し1機は海中に不時着した。
18:15爆装零戦1機が不時着。この日は16:55~18:00の間に神風特別攻撃隊「第4筑波隊」「第5七生隊」「第
4神剣隊」「第5昭和隊」の爆装零戦合計33機が鹿屋基地から特攻出撃し、27機が米機動部隊に突入している。

昭和20年4月30日04:05~09:30に亘り米軍機4乃至8機が飛行場周辺を哨戒した。午後も同様の状況が続いた他、
16機が飛行場を銃撃した。
夜00:55海軍96式陸攻1機が物量投下の為飛来、積荷は25㎜機銃弾だった。これまでは喜界島に着陸して物資を下ろ
していたが、今回は積荷にパラシュートを付けて投下した。これは滑走路が使用不能だった事に加え、たとえ夜間であ
っても米夜戦の攻撃を受ける恐れがあり、着陸することが危険だったからだ。
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安全ドライブでのんびり戦跡巡りと観光してみた。(あんぜんマンって・・・センス無さ過ぎ 笑)
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▲▼喜界島名所の一つ「サトウキビ畑の中をまっすぐに伸びる直線道路」
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第40震洋隊の秘匿壕が早町に現存するとの事で車で見学に向かった。
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少し解り難い場所であるが早町港から少しだけ山側の場所にある。
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昭和20年1月25日に編成された第40震洋隊。安藤末喜大尉以下187名が2/11に配置された。以下看板説明文
太平洋戦争末期、喜界島上陸を目的とした米軍艦船に対して、250キロ爆弾を搭載し、体当たり攻撃を計画した海軍の
木製小型モーターボート、特効艇「震洋」(通称:○四艇)格納壕跡。
この一帯に数カ所あった奥行き50m程の格納壕には、50艇が格納されていたといわれています。
海軍設営隊(宮元部隊)と共に大島中学3年生により構築され、24時間2交代体制で短期間のうちに完成されました。
完成直後の昭和20年2月11日、安藤末喜大尉率いる第40震洋隊187人が配置されました。安藤隊は塩道グスンガァー
山中に拠を構えて出撃命令を待ったが米軍上陸部隊が接近することはなく終戦を迎え、ついに1艇も出撃することはあ
りませんでした。終戦まで約6000艇が製造された震洋は、オーストラリア・シドニーの戦争記念博物館に現存する1艇
を残すのみです。
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資料では55隻が配備されたとある。秘匿壕1基に長さ5mの震洋艇10隻程度格納できたはずなので、単純計算で5~6
基の秘匿壕があったと思われる。震洋の出撃機会は無かったが、度重なる空襲で震洋特攻隊員3名が戦死している。
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突き当りには戦後石垣が組まれ、壕全体の崩落を防いでいる。元々は加計呂麻島に現存する震洋秘匿壕の様に、入口付
近のみコンクリート造り、石積の奥は素掘り状態だったと思われる。
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小野津にも2月25日に編成された第111震洋隊(後藤三夫中尉以下182名)26隻が配備された。
秘匿壕の現存情報は無いが、こちらも震洋特攻隊員5名が空襲等で戦死しているとの事。
秘匿壕見学を終え、車を走らせようとした時、道の向こうで、こちらに向かって何か話かけているご老人が居た。
慌ててそのご老人のところに走った。私に話かけていた内容は「ちゃんと見学出来ましたか?」との事だった。
私が「はい。見学出来ました」と言うと、ご老人は満足そうに昔話を語ってくれた。聞けば、そのご老人は当時この秘
匿壕堀りに参加した方だった!当時大島中学3年生だったご老人は以下の様におっしゃった。
「壕堀りばかりして授業は全く無かったよ。勉強なんてぜんぜんしてない。でも島に来た特攻隊員は立派だったよー!
海軍のカッコいい軍服をピシっと着てて・・・覚悟を決めて島に来た姿はホントに立派だった。島の人はご馳走をした
りして親身になってお世話した。それに比べて島の陸軍部隊の兵隊さん達は靴も履かず素足・・・可哀そうだった。」
とおっしゃっていた。思わぬところで体験者の生の声を聞かせて頂いて本当に感激した。震洋隊は結果出撃する事無く
終戦(敗戦)を迎えたので生き残る事が出来た。元隊員達は戦後の日本復興の為に活躍してくれた事だろう。

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月1日06:22~20:00までグラマン4機が常時喜界島周辺を哨戒していたが、直接の攻撃はなかった。
4/29の空襲で破壊された滑走路も15:00には900m×80mの滑走路が使用可能になっていた。
昭和20年5月2日04:20~14:55まで米軍機は上空哨戒を行った。AMに2回延べ10機が飛行場を銃爆撃した。
この日は来襲機が少なかった為、1000m×80mの滑走路が復旧。滑走路がほぼ全て使用可能になった。

昭和20年5月3日この日、米軍機は喜界島に激しい攻撃を加えた。
09:30~20:27の間に7回に亘り合計154機が飛行場を銃爆撃した。特に激しかったのが15:25~16:30で少し
の中断を挟み、3回に分けて合計80機が来襲。復旧したばかりの滑走路は10個被弾し、また使用不能となった。
その他の被害も大きくトラック1台、士官舎1棟、兵舎1棟が炎上した。
米軍機の空襲が激しかったのは、翌日に菊水5号作戦が予定されていた為である。沖縄島の陸軍第32軍が総攻撃を実施
するのに合わせ、陸海軍航空部隊も大規模な攻撃を計画したのだった。
23:00頃、台湾の新竹基地を出撃した神風特別攻撃隊「帰一隊」の天山1機が不時着した。
23:00頃、大島防備隊所属の第3号報国丸と長水丸の2隻が緊急輸送の為入港。搭載物品は12㎝高角砲弾296発、25
㎜機銃弾5000発、その他弾薬火工兵器であった。機銃弾が枯渇しかけていた喜界島基地は大島防備隊に対し、機銃弾
の分割急送を要請した。この輸送はこの要請を受けて急遽実施されたのである。

昭和20年5月4日05:40~07:42まで米軍の上空哨戒が行われ、06:15~17:30の間10回に亘り合計108機が
飛行場と周辺集落を焼夷弾の他に時限爆弾も使用して激しく銃爆撃した。
前日の空襲で破壊された滑走路は04:45に1200m×80mの修理が完成した。
08:00からの25分間、喜界島上空で空戦が行われた。これは343空の36機と、空母「ランドルフ」の第12戦闘爆撃
飛行隊の12機、空母「ヨークタウン」の第9戦闘飛行隊2機との交戦だった。米第12戦闘爆撃飛行隊は07:45頃から
500ポンド爆弾で喜界島を爆撃し、その後島周辺を旋回して日本機を見張っていた。そこへ343空の紫電改が上空から
襲いかかって空戦となった。そこへ喜界島の偵察写真を撮っていた米第9戦闘飛行隊2機も加わっての空戦だった。
グラマンと日本軍機それぞれ15~16機が交戦し、島から日本軍5機が自爆(墜落)するのが目撃されている。
実際には日本側の6機未帰還の記録に対し、米軍は3機が被弾したのみであった。喜界島で目撃された自爆機は全て紫電
改の最期だった。09:09坂嶺集落付近に1機が不時着しているが343空の紫電改の可能性が高い。
08:45陸軍四式戦「疾風」1機が不時着、09:09四式戦「疾風」1機が海中に自爆。もう1機は赤連集落に不時着。
この日は第60振武隊の四式戦「疾風」8機が06:30頃、都城東飛行場を出撃しているが陸軍の特攻記録では宝島に不
時着した1機の他は喜界島への不時着記録は無い。
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震洋秘匿壕を見学した後も喜界島をドライブしてテーバルバンタに到着。
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喜界島を構成する石灰岩は、約10万年前から造礁性サンゴが絶え間なく生き続けることにより形成されている。
年間約2㎜といわれる極めて早い隆起速度により、世界でも類い稀なるサンゴ礁段丘の景観を見る事が出来る。
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喜界島の南西部を見渡す。
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地面ごと隆起した段丘が一望出来る。
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▼黄色線で印している所が喜界空港。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月5日05:15米軍は上空哨戒を開始。07:05~05:45までの間17回に亘り米軍機180機が来襲、飛行
場及び砲台、周辺の集落を攻撃。投弾延べ機数は100機以上に及び、飛行場は200発以上被弾した。
来襲機は13:30に100機を超え、16:00には70機の編隊が来襲、これは沖縄島の占領された元日本軍の陸上基地か
ら出撃している米軍機と判断された。修理された滑走路は16:00以降、また使用不能となってしまった。
この日は空輸のため多数の日本軍機が飛来した。00:05陸攻1機が物量投下のため飛来したが投下せずに引き返した。
01:20に陸攻1機が飛来し物量投下した。物資は飛行場付近の集落に落ち、4個が変形、3個が炸裂し1個だけが完全
状態で回収された。投下された弾薬箱がガジマルの木にひっかかり住民の犠牲者も多く出たと言われ、住民にとって空
輸は危険なものだったようだ。03:20にも陸攻1機が物量を投下、飛行場内に投下された8個は全て完全であった。
機銃弾輸送には海軍の輸送専門航空隊である1001空も従事した。一式陸攻の爆弾槽に筒に入れた弾丸・戦給品・整備
部品を12個搭載し、飛行場を目標に投下する。米夜戦を警戒しながらの飛行で、何回も星を夜戦と見間違えたという。

昭和20年5月6日米軍は06:50~17:45まで上空哨戒を行った。4回に亘り延べ16機が来襲、飛行場と周辺の集落
を銃爆撃。滑走路は13:00以降は使用不能となってしまった。
5月に入ると喜界島飛行場へは時々日本軍機が不時着する程度で、菊水作戦が行われても使用する機はほとんど増加し
ていない。徳之島から喜界島へ飛行場使用の重点を移した陸軍であるが、こうした状況を見て、陸軍の菅原道大第6航
空軍司令官は喜界島の使用放棄を決断したのである。
このように南西諸島は喜界島も含めて昭和20年入ると激しい空襲を連日の様にうけた。沖縄島だけが沖縄戦では無い
事が「昭和20年喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録」を読んで頂けくとお解りになるだろう。
2018年10月18日14:00過ぎ、喜界島メイン集落である湾(わん)集落にある、農家の敷地内で爆発事故が発生した。
湾港辺りは喜界空港があり、大戦中は最も激しく、そして毎日の様に米軍が空爆した場所だ。
2回の大きな爆発音と振動が響き渡り、地面に深さ約3mのすり鉢状の穴が開き、敷地内にあった農業用倉庫が倒壊した。
幸いケガ人などは居なかったそうだが、この爆発は大戦当時に米軍が落とした爆弾(不発弾)である事は疑いようもない。
喜界島では現在でも、毎年1~3発の不発弾が発見されている。土木工事や農地整備の際に地中から発見されること多く、
その度に自衛隊が処理にあたっている。

昭和20年5月7日米軍機は04:45~08:35まで在空。8回に亘り延べ44機が来襲、飛行場と砲台付近の集落を爆撃。
09:20の空襲で滑走路中央に被弾、使用不能となってしまった。

昭和20年5月8日15:55グラマン4機が飛来したものの、上空を旋回しただけで去っていった。
滑走路は06:30、1000m×50mが復旧。この日は来襲がなかったので午後に全力で補修作業を行い、00:00には、
1000m×100mが完成し、大型機でも離着陸が可能になった。

昭和20年5月9日米軍機は05:20~19:50まで上空哨戒を行った。4回に亘り延べ112機が来襲。焼夷弾を多数使用
して集落山林地帯を攻撃した。
この日の戦死者の内3名は、一整曹夏目磯吉、和田一三、浜口秋男であった。3名は茅葺三角兵舎の第3兵舎でタバコ・
菓子等の分配作業をしていたころ直撃弾を受けて戦死した。他に藪長二郎も戦死している。

昭和20年5月10日米軍機は06:35~12:50までの間に3回に亘り延べ約26機が飛行場と付近の集落を銃爆撃した。
19:51には夜戦7~8機が来襲、照明弾・ロケット弾・焼夷弾を投下した。米軍は時限爆弾を投下し終日爆発が起きて
いた。この日、日本軍の応戦で撃墜された米搭乗員1名が捕虜になった。
捕虜になったのはDavid・C・KINCANNON海軍大尉でF4Uコルセア戦闘機の搭乗員。喜界島付近に墜落、
海上に落下傘降下して捕虜になった。14:45F4U4機が護衛したPBM飛行艇1機が搭乗員救助の為に飛来している。
その後5月中旬頃、David・C・KINCANNON海軍大尉は海軍第321設営隊の大島宗彦主計大尉によって斬
首された。この時は住民が処刑を見物していたという。

昭和20年5月11日08:15と13:37に1回ずつ延べ12機が飛行場を銃爆撃。その後も17:00頃まで上空哨戒が行わ
れ、20:25には夜戦が飛来した。この日は菊水6号作戦が実施された為、米軍機は上空哨戒を行って飛行場の使用を妨
害した。09:15に721空の零戦1機(石嶋健三少尉)が着陸。石嶋少尉は06:42鹿屋基地を出撃、燃料不足の為に喜界
島に不時着した。10:00日本軍機2機が着陸準備旋回中、米軍機8機が来襲して空戦となった。日本機は砲火を使用せ
ず米軍機に撃たれ、1機は上嘉鉄川嶺間の上原の畑に、もう1機は中熊字先内字中間の田に墜落した。
このうち前者は菊池飛行士(海軍)の機で、14:00頃に米軍機4機に撃たれて墜落したとも言われている。遺体は第321
設営隊が埋葬した。15:00頃、空戦で大破し中里字コマに墜落した大坪飛行士を中里集落の住民3人が救助した。
駆け付けた巌部隊の田中教官に対し、大坪飛行士は「教官殿グラマン1機は撃墜しました」と報告した。大坪飛行士は
顔面に負傷し、右足に機銃弾の貫通銃創を受けていた。

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分散した農地を一つの区画にまとめ、効率化を進め、そして災害にも強い農業を確立する為に、少しづつ島民の農地移
動に向けて農地整備が進められている喜界島。2017年9月4日観測史上最大となる110.5ミリの雨量を観測し、奄美群
島では比較的災害に強いと言われていた喜界島を襲った記録的大雨は、床上浸水被害や土砂崩れなど、甚大な被害をも
たらした。9/4の降り始めからの総雨量が2日間あまりで549ミリと、平年の9月ひと月分の3倍を超える雨量となった。
建物の被害は半壊1棟、床上浸水20棟、床下浸水79棟。住宅以外にも県道2ヵ所、町道6ヵ所、農道45ヵ所が通行止め
となり、さとうきび栽培など農業が基幹産業の喜界島。農地/水路/農道で合せて85件の被害が出た。
しかし、喜界町の自主防災組織率は100%。50年に1度の大雨にみまわれながらも、人的被害が無かった事は、日頃か
らの住民同士のつながりの強さを示している。
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▼ドライブ中、トイレをお借りさせて頂いた志戸桶地区の「グループホームがじゅまる」
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9/4大雨の中、地域住民がグループホームがじゅまる入所者8人を背中に担いで、近くの安全な住宅へ避難させた。
当時9人の高齢者が居る中で豪雨にさらされ、周囲を水に囲まれ差し迫った状況となった中、地域の方が助けに来て、
一人一人おんぶして安全な場所へ連れていったという。近くの住民の協力で避難することができたあの日以来、職員の
意識が大きく変わったという。
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東日本大震災の津波で流され、はるばる喜界島まで流されて来た宮城県気仙沼の漁船が展示されている。
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2012年5月2日喜界島北西部沖合のリーフに無人の漁船(0.4t)が打ち上げられているのが見つかった。
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奄美海上保安部などが3日、漁船登録番号などを基に確認した結果、宮城県気仙沼市の男性(64歳)が所有する船だと
分かった。漁船は2011年3月11日気仙沼市の漁港に陸揚げしたが、東日本大震災による津波で海に流されていた。
宮城から直線距離で約1500㎞を約1年2ヵ月にわたって漂流していた事になる。
東日本大震災による津波で流された漂流物はアメリカのアラスカ州やワシントン州でサッカーボールなどが確認されて
いるが、南へ漂流して発見されるケースは珍しいという。
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▼小さいが近くには喜界島唯一の「滝」がある。
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後白河法皇の側近だった俊寛(しゅんかん)は、平家への謀反を企てた為に、鬼界ヶ島へ島流しになったと言われる。
同じ話は鹿児島県硫黄島や長崎県伊王島にも伝わっており、それぞれの島に俊寛の墓がある。
鬼界ヶ島は喜界島であると信じるも信じないも自由で、文学研究者の間では硫黄島に流されたというのが定説だ。
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墓の周辺は昔から坊主前と呼ばれていたという。喜界町は以前にこの墓を発掘した結果、身分の高いと思われる人骨が
発見され、一緒に埋葬されていた木棺は木曽地方(長野県)に算するクロベ材だったという。
俊寛で無かったとしても、当時(平安時代)の高貴な者であったことは間違いなさそうだ。京の都を中心に貴族が華やか
な生活していた平安時代。平安時代は詳しく無いし、あまり興味も無いが、俊寛のような人が居た事を初めて知った。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月12日米軍機は午前2回、午後2回に亘り、延べ28機で飛行場、兵舎地帯、砲台を銃爆撃した。
昭和20年5月13日この日は08:25に17機が飛行場と砲台陣地を銃爆撃しただけだった。
昭和20年5月14日03:00に米軍機飛来。04:10照明弾とロケット弾を投弾し、滑走路修理の妨害を行った。
その後06:45に16機が来襲し飛行場・砲台陣地を攻撃したが、その後は昨日と同様に米軍機は飛来するだけだった。

昭和20年5月15日13:15米軍機12機が飛行場に投弾。20:30には夜戦2機が来襲、飛行場と周辺集落に照明弾と
ロケット弾を投弾し銃撃。滑走路は1250m×100mが使用可能だったが、日本軍機の使用は12日から丸4日間無い。
明らかに日本軍にとって、喜界島基地の重要性が低下していることが分かる。

昭和20年5月16日04:45と17:00に1機ずつ来襲、照明弾を投下。直接攻撃は05:12に2機が来襲したのみ。
この日22:40久しぶりに96式陸攻1機が着陸。機銃弾12箱と電探部品を運んできた。同機は23:24に不時着搭乗
員を乗せて離陸したが、6分後に米夜戦の攻撃を受け、火を吐きつつ海中に突入するのが島から目撃された。
墜落の様子は地上で多くの人が目撃した。第39振武隊の山田千秋少尉は、離陸直後に待ち構えていた夜戦に海中に
撃墜されるのを呆然と眺めていた。山田千秋少尉は4/11知覧を出撃し、同隊5名と喜界島に不時着していた。
第29振武隊の山田忠男伍長も目の前で不時着搭乗員を乗せた飛行機が、夜戦に撃墜されるのを目撃している。
島の陸軍守備隊の小川高男中尉は、陸攻の出発の数分後に米軍機が、陸攻を追う様に北に向かうのを目撃した。
米軍機の爆音が消えて間もなく、彼方の暗闇が一瞬真っ赤になった。陸攻の最後だった・・・。
96式陸攻には海軍2名と陸軍12名の搭乗員を乗せていた。海軍搭乗員は細井亨少尉(筑波空)と大田上飛曹(721空)
だった。陸軍搭乗員は、飛行第59戦隊の平田保少尉、飛行第66戦隊の田野本源二曹長、栗本一雄曹長、井塚武好曹長、
志村初夫軍曹、入星弘曹長、渡辺正衛曹長、長谷部晴夫伍長、檜山光衛兵長、久賀野務兵長、田口貞一郎兵長、平沼
忍澄兵長の12名を一気に失った。
戦死した飛行第66戦隊員は徳之島に前進したが、空襲で飛行機を失い、喜界島に移動して迎機を待っていたのだ。
喜界島で帰還の便を待っていた不時着搭乗員は5班に分けられていた。その中でくじ引きによって先発後発を決めた。
飛来した陸攻に先発組が乗り込んだが、離陸直後に夜戦に撃墜されてしまった・・・くじ引きの勝ち負けが生死を分け
たのだった。残った者は言葉も無く宿舎に帰っていった。
また、第43振武隊の今井光少尉は、当初、この96式陸攻に乗る予定だったが、海軍の搭乗が3名増えたということで
降ろされて命拾いしたという。▼海軍96式陸上攻撃機
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撃墜された陸攻は巌部隊の2番機だった。巌部隊の陸攻2機は、命令で沖縄本島海軍小禄基地を米軍の上陸直前に脱出し
た。だが彼等は、第5航空艦隊の参謀から逃亡兵扱いされ、死ぬまで何回でも物量投下に行く様命令されていた。
この日も2機は命令で、1番機は沖縄島小録の巌部隊陣地へ物量投下に、2番機は喜界島へ向かうことになった。
出発前に1番機の市川安人上飛曹は、2番機の同期の大島篤上飛曹に「2番機の方が死ぬ確率が低いから、自分のマフラ
ーを家に送ってくれ」と託した。この時、大島上飛曹は飛行場の片隅に生えていたテンニンギクの花を大事そうに抱え
てきた。大島上飛曹は、「これを喜界島の飛行場に移植してやろうと思う」と言い、鹿屋基地から花を持って愛機に搭
乗したという。2番機搭乗員は堀口貞康上飛曹、渡辺巌上整曹、志田昭一飛曹、大島篤上飛曹の4名だった。
現在、喜界島の飛行場周辺では、島から飛び立つ特攻隊員に、島の娘達が送ったという花が、春から初夏にかけて咲い
ている。現在この花は「特攻花」と呼ばれている。戦後喜界島に行った市川安人上飛曹はこの花を見て、その花が大島
上飛曹の持って行ったテンニンギクと同じ花だと確認している。
喜界島において「島から飛び立つ特攻隊員に島の娘達が送った」という証言の根拠は無い。ただ喜界島でも、時期は不
明だが特攻隊員を婦人達が涙をぬぐって接待しており、住民と特攻隊員の接触自体はあったようだ。
4/7着陸した第29振武隊の山田忠男伍長は、喜界島で一時期民家に宿泊していた。
その時は芋焼酎の作り方を習い、製糖作業を見学している。また、巌部隊には勤労奉仕隊として、島の女性が主計科に
勤務していた。場所は水天宮下の三角兵舎の主計科烹炊所(後、羽里に移転)だった。
勤労奉仕隊の班長は湾集落の中沢ヒデさん(旧姓喜島)で人数は10人だった。彼女たちは空襲下に陣地への食缶運び
も行っている。この様に住民が特攻隊員と接する機会はあり、そうした流れの中で出撃する隊員に花を渡した可能性は
十分あっただろう。
※1983年喜界島を訪れた1番機の搭乗員(野沢正一さん)は、民宿の主人から2番機が海岸から20mの海中に沈んでい
る事を聞き、自身もそれを確認したという。現在もまだ沈んだままなのだろうか・・・。

昭和20年5月17日米軍機は03:15~10:37の間に4回に亘り延べ30機が飛行場や対空砲陣地を銃爆撃した。
飛行場の対空砲陣地は大きな被害を受け、25ミリ機銃1基が直撃弾で使用不能となり、戦死6名、負傷1名が出だ。
22:25に飛行第66戦隊の99式襲撃機1機が着陸した。この日万世基地から飛行第66戦隊の4機が出撃している。
内1機が未帰還、2機は徳之島に不時着し、残りの1機が喜界島に着陸したのである。
徳之島から奄美大島の古仁屋経由で喜界島に移動し、迎えの飛行機を待っていた搭乗員の中に、飛行第66戦隊の赤
堀春一中尉がいた。赤堀中尉は16日に飛来した巌部隊の陸攻で帰還することになっていたが、突然の高熱で断念せざ
るを得なくなり、同じ66戦隊の仲間が飛行場に向かうのを見送った。
だが皮肉なことに見送った同僚は16日で書いたように戦死し、中尉はこの日着陸した99式襲撃機に乗って18日に九
州に帰還している。生か死か・・・戦時下の運命は残酷である。
23:30大島防備隊所属の第3号報国丸と長水丸の2隻が、緊急輸送の為入港した。5/3に続いて2度目の海上補給だ。
揚陸したのは白米200俵(5t),12センチ高角砲弾150発、25ミリ機銃弾5000発だった。

昭和20年5月18日04:00揚陸を終えた第3号報国丸と長水丸の2隻が出港した。
米軍機は06:27と16:25の2回、合計44機が飛行場、砲台陣地と周辺の集落を銃爆撃した。
18:59前日着陸した飛行第66戦隊の99式襲撃機1機が赤堀中尉が同乗して九州に向けて飛び立った。
00:13攻撃第251飛行隊の天山1機が着陸し、同機は01:25串良基地に向けて飛び立った。

昭和20年5月19日終日喜界島に米軍機は来襲しなかった。滑走路は1250m×150mが復旧して使用可能だった。
この日は喜界島に重大な事態が起こっていた。沖縄島で奮戦中の陸軍第32軍から、米軍が「二十日前後沖縄本島方面
ニ対シ強力ナ増援乃至奄美大島就中喜界ケ島状況ニヨリ先島方面等ニ新ニ上陸ヲ開始ノ算大ナリ」との情報を指揮下の
部隊に伝達したのである。要は、奄美群島の島々に米軍が上陸する可能性がると伝えてきたのである。
これを受けて04:00独立混成第64旅団の高田貞利少将は、奄美諸島全域に甲号戦備を発令。
これを受けて、喜界島海軍部隊では信令作第2号が発令された。この命令は5/1に木田大佐の名前で伝達されていたも
ので海軍部隊の陸上戦闘警戒規定を定めていた。敵上陸の危険度に応じて、第1~第3まで警戒配備の度合いが決めら
れていた。これに基づき16:00陸戦第2警戒配備が発令された。これは敵上陸の恐れがある場合に発令され、2時間で
陸戦配備につけるように待機するものであった。

昭和20年5月20日甲号戦備発令にもかかわらず、米軍機の来襲は低調だった。07:05に8機による空襲があっただけ
で後はグラマンやPBM飛行艇、P38による哨戒が行われただけだった。
昭和20年5月21日07:30と08:30の2回に亘り、米軍機約30機が飛行場と周辺集落を銃爆撃した。
昭和20年5月22日米軍機は09:35、16:10、16:40の3回に亘り延べ81機で来襲、飛行場と砲台陣地、周辺集落
を銃爆撃した。
昭和20年5月23日16:45合計16機の米軍機が飛行場と周辺集落を銃爆撃した。

昭和20年5月24日米軍機は10:45~19:20までの間に4回に亘り合計34機が飛行場と高角砲陣地を攻撃した。
23:58陸軍四式重爆撃機1機が、片方の発動機が被弾した為不時着。この日は沖縄島の北・中飛行場に義烈空挺部隊
を突入させる義号作戦が行われ、その直協の為に出撃した飛行第60戦隊か第110戦隊の内の1機であった。
昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」の重爆12機は、熊本県健軍飛行場から次々と出撃していった。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず海軍は敵機動部隊発見の報が入った12:40に既に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は出撃した後だった。「義烈空挺隊」の犠牲は本命の航空特攻を成功させる為のものだったはず。
陸軍と海軍の歯車は太平洋戦争の最初から最後まで噛みあわないままだった。
因みに飛行第60戦隊は昭和20年に熊本県にあった健軍飛行場に移動、沖縄戦に投入された。
昭和20年3月28、29日健軍飛行場より沖縄周辺の米艦船攻撃に出撃。
昭和20年4月7日健軍飛行場より沖縄島集積所攻撃に出撃。
昭和20年4月12、16、22、28日健軍飛行場より沖縄島の米軍に占領された北・中飛行場爆撃に出撃。
昭和20年5月10、18日健軍飛行場より沖縄島の米軍に占領された北・中飛行場爆撃に出撃。
昭和20年5月24日「義烈特攻隊」の直協として健軍飛行場より沖縄島の北・中飛行場へ出撃。
※この日、第110戦隊は「義烈特攻隊」の戦果確認の任務も担って出撃している。
「義烈空挺隊」突入に際して陸軍第6航空軍は120機の特攻機を準備。しかし「義烈空挺隊」突入後、沖縄周辺は雨が
降り、天候不良で離陸出来た特攻機は70機であり、その内「突入」と報告されたのは24機であった。
「世界が語る神風特攻隊」YouTube

▼教習のドライビングコースは見当たらなかったが自動車学校もあった。運転免許更新時の講習所かな?
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▼喜界島の製糖工場。
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▼喜界島滞在中、宿泊したのは「ビジネスホテル喜界」女将が作ってくれる朝食が最高に美味しいお勧めの宿。
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宿の女将は物静かで口数は少ないがいい人だった。こういう人居ますよね、話さなくても良い人感のオーラ出てる人。

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月25日米軍機は00:49来襲。吊光投弾7個を投下して哨戒を行い04:50にも飛行場に銃撃を加えた。
06:10には8機が飛行場と周辺集落を銃爆撃し、07:38には16機が短時間哨戒をして飛び去った。
この日は義号作戦に呼応して菊水7号作戦が行われている。
08:42陸軍特攻第78振武隊の97式戦闘機1機(田宮治隆少尉)が不時着。
08:45陸軍特攻第109振武隊の97式戦闘機1機(寺田譲伍長)が不時着。
19:25沖縄島の北・中飛行場を爆撃した飛行第60戦隊か第110戦隊の重爆1機が着陸。
同機は25分後に熊本の健軍飛行場に向けて出発した。

昭和20年5月26日終日降雨が続き、米軍機は全く来襲しなかった。
03:54前日不時着した第78振武隊の97式戦闘機1機(田宮治隆少尉)が知覧基地へ出発した。
この話は、「田宮少尉が4月末に徳之島から喜界島に移動して帰還の機を待っていた第21振武隊長の水川禎輔中尉から
愛機を譲ってくれと嘆願、説得され、水川中尉が操縦して田宮少尉を同乗させて、喜界島を出撃、沖縄に突入した」と、
一般には言われている。だが、『南西空』の記録では「同機は知覧に向けて出発した」となっており、沖縄突入とは正
反対で九州に帰還した事になる。これを裏付けるのが第43振武隊の今井光少尉の回想だ。
それによると、25日に不時着した97戦2機を水川中尉と今井少尉が内地に送還する事になった。だが水川中尉が乗った
97戦はエンジンが停止し飛行不能となった。
「貴様は1人だが、俺はまだ5名も残っている。1日も早く内地に帰って飛行機の手配をしなければならない。頼むから
譲ってくれ」と懇願された今井少尉は97戦を譲り、水川中尉は同機に乗って飛び立ったという。
つまり水川中尉は沖縄に突入したのではなく、内地に帰還したのである。
この頃第21振武隊は隊長以下11名が喜界島にいたが、その中に石田京少尉の姿もあった。石田少尉は4/2知覧から徳
之島に前進したが、おそらく空襲で飛行機を破壊されたのだろう、古仁屋経由で帰還の便を求めて喜界島に移動してき
ていた。石田少尉は田宮機について、「5月25日二式単高練に2人乗って夜間出発した」と回想している。二式単高練
とは二式高等練習機のことである。同機は97式戦闘機を改造して練習機としたものなので、両者はほとんど同一の機種
である。もし水川中尉が本当に沖縄に突入したのならば、部下であり、石田少尉は自著でその旨を書くはずである。
なんと言っても自分の隊の隊長なのだから。だがその文脈からは、田宮機の離陸は沖縄出撃ではなく九州への帰還作戦
の一環だったとしか読み取ることが出来ないし、97式戦闘機に2人が乗って突入することは考えにくい。
この頃喜界島にいた第29振武隊の山田伍長は、内地にいる時に飛行場間の移動に際して、自分の機が故障したので、同
僚の機の胴体内に入って飛行した事があった。ただ胴体内はラダーとかエルロンとかの索が中にあるので、それらに触
らないようにじっとしているしかないという。通常は戦闘に行く時に胴体内にもう1人乗せることは考えにくく、別隊の
隊員に胴体内に乗せてくれと頼まれても、まず受け入れないと山田伍長は語っている。
田宮少尉については第6航空軍の史料でも、「二六日帰還ノタメ2F水川中尉操縦同乗出発、行方不明」となっており、
当時でも帰還途中の戦死とされていた。
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中里集落をブラブラ歩く。
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道幅は広くは無いが、ゴミ一つ落ちてない綺麗な集落。
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土俵もあった。この場所はお祭りなどでも活用される場所。
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お家はいたって普通。綺麗なお宅が多い。
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本州や四国と違うところは「石敢當」。鹿児島県と沖縄県にのみ見られる魔よけの石標だ。
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表札のように立派な物から自作した感じの物まで様々。
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喜界島にも神社は沢山ある。
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鳥居の形が特徴的だ。
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▼今回戦跡を案内して頂いた方は日の丸が掲げられたお家の方。
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中里集落の元区長さんの野間昭夫さんだ。喜界島観光物産協会のシマあるきガイドをされている。
でもご高齢なので、ここ最近は中里地区のみをご担当されていて、もうそろそろ引退なさるかもしれないとの事。
喜界島の戦史は非常に詳しく、考え方も御立派で、今までの戦跡ガイド中で一番素晴らしかった。
今回は2日間も私の戦跡巡りに付き合って頂き、奥様の手料理までご馳走になった。本当に有難うございました。
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外食は一回、ビジネスホテル喜界さんの女将に教えて頂いた「喰い処 十兵衛」さん。
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▲喜界島名物「油そうめん」(喜界島の方言では「そうむぃんすーき」)茹でた素麺を、いりこ/鰹の出汁&焼いた油に
絡ませたシンプルな料理。実はメーニューには掲載されていないが、十兵衛の優しい大将が特別に作ってくれた。
十兵衛さん、有難うございました!また行きます。喰い処 十兵衛 0997-65-3520(お昼はランチ、夜は居酒屋)

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月27日午前中は雨、その後曇りで米軍機の来襲はなかった。
08:35陸軍特攻第72振武隊の99式襲撃機1機(金本海龍伍長)が不時着した。04:30万世基地を出撃した機だった。
金本伍長は沖縄に向かったが、雨による視界不良で敵艦を発見出来なかった。そのうちに燃料不足となり、基地までは
もたない為、途中の喜界島に不時着した。金本伍長は帰還の際に、島で帰還の便を待っている搭乗員2人(少尉と軍曹)
を後席に同乗させてくれるように頼まれた。伍長は離陸する時、「後ろの2人の笑顔が印象的である」と回想している。
※金本海龍伍長は朝鮮人特攻隊員。
特攻隊員になったとはいえ、やはり内地へ帰還する事は死から生への転換であり、自然と顔もほころんだのだろう。
この時帰還した少尉とは先述した第21振武隊石田京少尉である。少尉は水川中尉の帰還した翌日、伍長1名と共に指名
されて金本機に乗って無事万世に帰還している。

昭和20年5月28日久々に米軍機が来襲した。05:31と06:38に合計14機が来襲して飛行場と砲台陣地を銃爆撃した。
03:00鹿屋から出撃した陸軍航空輸送部第9飛行隊の重爆2機が着陸。多くの特攻隊員を乗せて福岡に帰還した。
02:45海軍神風特別攻撃隊「第2白菊隊」の練習機「白菊」1機が着陸。
27日菊水8号作戦発動に伴い徳島第2白菊隊16機が串良を出撃、7機14名は、鹿屋を出撃した菊水部隊白菊隊(高知空)
12機と共に沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華した。
この機は27日21:10串良基地を出撃した徳島海軍航空隊所属の特攻機(植原廣2飛曹と相澤彬一1飛曹が搭乗)で、発
動機不調の為、海上に爆弾を投下、沖縄に到着したものの視界不良のため不時着したのであった。
同機は25日に不時着した931空の天山の3人の搭乗員(宮本2飛曹等)を乗せて、18:26串良基地に向けて出発した。
宮本2飛曹は出発の際、飛行場の参謀から秘密書類を預かった。白菊は海面すれすれを飛行して無事帰還した。
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▲讃岐山脈上空を飛ぶ徳島空の練習機「白菊」五一二号機
練習機「白菊」低速の練習機に250キロ爆弾を2発も搭載した為、速度は極端に遅く、80~90ノットしか出なかった。

07:54陸軍特攻第54振武隊の三式戦「飛燕」1機(岡本一利少尉)が着陸。
岡本少尉は知覧基地を4機で出撃したが、グラマン戦闘機の攻撃を受けて海上を超低空で逃れ喜界島に不時着した
10:21岡本少尉は、25日に不時着し、不時着後愛機を空襲で焼失して島に残留していた第109振武隊の寺田伍長を
「飛燕」の胴体内に乗せて知覧基地に帰還した。
19:29四式戦「疾風」1機が着陸。これは15:02に都城東基地を出撃した第58振武隊1機と第59振武隊3機の内の1
機と思われる。

昭和20年5月29、30日は終日降雨が続き米軍機の姿は無かった。
昭和20年5月31日00:00長水丸と第3号報国丸が入港した。積荷は食料(米俵20)で、揚陸を終えると01:00過ぎに
出港した。
昭和20年6月3日陸軍特攻第106振武隊の97式戦闘機2機(成田磯次伍長と本夛保男伍長)が不時着。
成田伍長と本夛伍長は17:00知覧基地から出撃。成田機は飛行して2時間後、滑油漏れの為前が見えなくなって不時着
同時に本夛機も着陸したが、本夛伍長は胴体着陸して機が壊れた。この日も米軍機の空襲は行われており、成田機が無事
だったのは奇跡である。

昭和20年6月6日陸軍特攻第113振武隊の(二式高等練習機)12機が知覧基地を出撃した。
だが奄美大島を過ぎる頃、3~40機のグラマンに攻撃された。特攻機は重い爆弾を抱えたまま回避を試みるが、練習機
という低性能に加え、爆弾で重量が増した機では抵抗すら出来ず、菊池秀雄伍長、中島璋夫伍長が相次いで撃墜された。
それを見た椿恵之伍長は爆弾を落とすと米軍機と空戦に入った。1機に機銃弾を浴びせたものの、その直後に被弾して機
は海面めがけて落下した。ところが奇跡的に機は立ち直り、そのまま海上に不時着した。
機から脱出した椿伍長は喜界島の海岸に漂着し、住民に助けられた。その後1週間の間守備隊の世話になり、内地に連絡
に行く大発に便乗して、6/15鹿児島の枕崎港に到着した。第113振武隊は椿機と徳之島に不時着した板東 晃少尉機以
外は、全機沖縄に突入し未帰還となっている。
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▲知覧から出撃していく第113振武隊の二式高等練習機(写真の搭乗員は中島璋夫伍長の最後の姿)
昭和20年6月7日10:00米軍機3機来襲、空襲で民家8戸が焼失した。
昭和20年6月8日06:48から米軍機の上空哨戒が始まった。10:00米軍機3機来襲、飛行場爆撃と共に焼夷弾で攻撃。
民家6戸が焼失した。そして15:50以降米軍機はいなくなった。
この日は陸攻による空輸作戦が実施されている。海軍第5航空艦隊長官宇垣纏中将は「沖縄及び喜界島に対する物量投下
は成功せり(沖縄は領収非ず)」と日記に記している。喜界島へは陸攻2機が、沖縄島へは801空の陸攻3機が手榴弾を
投下して物資空輸作戦を実行している。
昭和20年6月9日14:00米軍機2機が飛行場と共に民家を攻撃し1戸が焼失した。米軍機は高空より投弾した為、対空
砲火は応戦せず見学するしか出来なった。
6/3に不時着した第106振武隊の成田伍長が、機体の修理を終えて知覧基地に帰還している。
同じ日に不時着した本夛伍長の消息ははっきりしないが、成田機に同乗して帰還したのかもしれない。

昭和20年6月10日14:00米軍機4機が来襲、飛行場と民家を攻撃して民家17戸が焼失した。
この日は鹿屋基地から、海軍第2神雷爆戦隊の零戦6機(500㎏爆弾搭載)が喜界島に進出した。
6機は岡本鼎中尉、細沢実1飛曹、松林信夫2飛曹の小隊、岡島四郎中尉、星野実1飛曹、竹谷行康2飛曹の小隊。
細沢実1飛曹の爆装零戦は、現存する中里集落の有蓋掩体壕に収容され、他は無蓋掩体壕に収容された。
喜界島(小野津)の第111震洋隊長 後藤三夫中尉は、岡本中尉・岡島中尉が三重海軍航空隊同期入隊だったので、空襲の
合間を縫って飛行場によく出かけた。灯火管制の士官室で飲み明かしたこともあったという。
その後、特攻隊員が喜界島に待機中、空襲を受けて竹谷2飛曹の機は炎上し、竹谷2飛曹は内地へ帰還した。

昭和20年6月16日久し振りに大規模な空襲となった。AMはP47戦闘機34機、PMはF4UとF6F合わせて32機が来襲。
飛行場と集落を攻撃。17:15以降は米軍機はいなくなった。この攻撃で12センチ高角砲1基が直撃弾の為大破、下士
官1名と兵3名が戦死、兵7名が重傷を負った。この日飛来したP47は沖縄の伊江島飛行場から発進した38機で、喜界
島の舟艇・対空陣地・滑走路・建物を攻撃した。これが確認出来るP47による最初の喜界島飛行場空襲であった。
昭和20年6月17日09:00F4U8機が周辺を哨戒。AMはP38(2機)、F4U(22機)、PMは4機が主に海岸付近の艦船
を銃撃した。占領された沖縄の元日本軍飛行場が整備されるのに伴い、米陸上機による攻撃が増加しつつあった。
昭和20年6月20日14:00に米軍機3機が来襲、低空から曳光弾掃射で6戸が焼失した。
昭和20年6月21日11:00に米軍機8機が来襲、民家は1戸が焼失した。
昭和20年6月22日AM/PMとも米軍機2機前後が来襲し、飛行場を爆撃した。
この日の05:30~06:00第721海軍航空隊の一式陸攻6機(桜花搭載)が鹿屋基地を出撃した。その内の1機には副操
縦員として長濱敏行1飛曹、機長として上田照行上飛曹が乗っていた。
07:00頃、陸攻隊が奄美大島付近を飛行中、グラマンの攻撃で僚機が次々に火を吹い
て撃墜された。(出撃した第10回神雷桜花特別攻撃隊の陸攻7機中、4機が未帰還)
長濱1飛曹機も被弾してエンジン不調となり、桜花を捨てて機を軽くし、海面すれすれに飛行し、空襲で穴だらけの喜界
島飛行場になんとか不時着した。着陸する時地上の機銃陣地からの射撃を受けたが、これは陸攻の背後に付いたグラマン
を追い払うための射撃だった。喜界島不時着時には片方のエンジンは焼きつき、燃料の残りはゼロだった。
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▲4/12 第3回神雷桜花特別攻撃隊出撃前の(攻撃708飛行隊)「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機。721-K05
不時着した一式陸攻を見て、3日に不時着していた「彩雲」の近藤芳雄少尉は、エンジンの修理を希望する陸攻の機長(
上田照行上飛曹)に対し、近藤少尉は基地の状況を説明し、早急に脱出する必要があると説いた。
だが機は片発機の為、離陸が難しい。そこで余分の燃料と飛行機以外の兵器を下ろして身軽にした。
それでも上田機長は修理を望んだ。留まって捕虜になるか、離陸に失敗して死ぬか、離陸に成功して鹿屋に帰投するか
のいずれかだと説得し、強引に離陸帰投する事になった。彩雲搭乗員3人も乗せた陸攻はレバー全開で右エンジンだけで
離陸、滑走路を目一杯使って離陸成功。だが飛行するだけで精一杯で高度も取れず変針も出来なかった。
銃撃を受けた時に損傷したのか、脚の出し入れが出来ず、米軍機を避けて海面を超低空で鹿屋基地に向かった。
鹿屋基地に接近した時は高度100m、燃料計はゼロ。そして着陸すると滑走路の終点でエンジンが停止したという。
6/22、沖縄の日本軍最高司令官牛島満陸軍中将と参謀長の長勇陸軍中将は摩文仁丘の洞窟で共に自決。
沖縄戦は事実上終結し、菊水作戦もこの6月22日をもって終了した。

7月になっても米軍機の攻撃は散発的ながら続けられた。
喜界島にいた不時着陸海軍搭乗員の多くは5月中に内地に帰還。しかし一部は7月に入っても喜界島に残されていた。
7/2喜界島にいた陸軍搭乗員は、誠第39飛行隊(木下孝之少尉)、誠第37飛行隊(春島邦武少尉)、第23振武隊(岡本龍
一伍長)、第29振武隊(山田忠男伍長)、第44振武隊(武田亀遊軍曹)、第46振武隊(斉藤健伍長/奥村明雄伍長)、第75
振武隊(大本正伍長)の8名。
このうち第23振武隊の岡本伍長、第44振武隊の武田軍曹は、徳之島から帰還の便を求めて喜界島に移動して来た。
第46振武隊の斉藤伍長・奥村伍長は4/5喜界島に前進、その後の空襲で愛機を破壊されていた。

第75振武隊の大本伍長に関して詳細は不明だが、4/7~4/16に万世基地を出撃後、喜界島に不時着した可能性が高い。
誠第37飛行隊の春島少尉も詳細は不明だが同隊の僚機が4/6新田原基地から出撃しているので、こちらも出撃途上の喜
界島不時着と思われる。ちなみに春島少尉は奄美大島の宇検村出身である。
第29振武隊の山田伍長は先述のように4/7喜界島に着陸、その後空襲で愛機を破壊された。その後の帰還の便にも洩れ
て島で待機していたある日、徳之島で参謀本部への書類を届ける為に97式戦闘機の搭乗員を探していた所、山田伍長が
選ばれて喜界島から徳之島へ渡っている。
7月2日現在、徳之島にいた搭乗員は、木下少尉・春島少尉・武田軍曹・山田伍長が戦闘機の搭乗員だった。
この内2人の少尉は特操出身者で、後の2人は少飛出身者だった。おそらく操縦経験の豊富さという点で、急速養成の特
操ではなく、少飛の山田伍長が選ばれたと思われる。
徳之島に渡った山田伍長は、7/5沖縄本島から脱出して来た森脇弘二陸軍大尉に会っている。
この森脇大尉が伍長の操縦する戦闘機に乗って、九州へ向かうことになっていた。だが肝心の戦闘機が7/9の空襲で破
壊された為、この計画は中止となり、森脇大尉は奄美大島から水偵で内地に帰還している。
その後山田伍長を初めとする在喜界島搭乗員は、7月初旬に奄美大島に移動した。
この時移動したのは若林中尉(通信)/木下少尉/春島少尉/岡本准尉他下士官6名だった。奄美大島でしばらく待機した
後、山田伍長/木下少尉/春島少尉/当山少尉(6/3沖永良部島に不時着した第214振武隊長)/岡本准尉の5人は7/22
7/23の両日に飛来した97式飛行艇に乗って無事に内地に帰還した。
山田伍長は飛行艇の着いた詫間基地から九州に帰還する途中で、第44振武隊の武田軍曹の実家(岡山)に泊まっている。
また列車で帰る途中にグラマンの攻撃を受けて、武田軍曹と2人で線路脇の叢に逃げ込んだと回想していることから、武
田軍曹も一緒に帰還したと思われる。
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喜界島は小さなビーチが多いが、各所とても綺麗で落ち着ける場所ばかり。
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平家上陸の地
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私が一番綺麗だと感じたのは小野津漁港。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年7月3日15:00に米軍機3機が来襲、飛行場爆撃と共に民家1戸を焼失させた。
昭和20年7月4日大規模な空襲があった。16:00頃に米軍機約30機が来襲、飛行場を爆撃した。
昭和20年7月5日13:00に米軍機2機が来襲、民家2戸が焼失した。
昭和20年7月6日15:00に米軍機2機が来襲し、飛行場爆撃と共に民家7戸が焼失した。
昭和20年7月9日14:00に米軍機2機が来襲し、9戸の民家が焼失した。
昭和20年7月10日米軍は7月で最大規模の空襲を喜界島に対して行った。11:00に3機来襲、民家19戸が焼失した。
13:30頃にはB-24の9機編隊及び4機が来襲、飛行場を爆撃した。この攻撃で親子爆弾、時限爆弾が無数に投下され、
飛行場は大破、使用不能となった。また中里機関砲陣地、高角砲陣地、赤連殿森高角砲陣地が大破した。
これまでの艦載機中心の空襲に対し、B24のような重爆撃機が直掩機付きで来襲したのは、喜界島ではこの日が始め
てであった。
この空襲で大損害を受けた「中里機関砲陣地、高角砲陣地」とは、中里集落の南側にあった第2高角砲台(高角砲4門)
と第2機銃砲台(25ミリ機銃8門)である。もう一つの「赤連殿森高角砲陣地」とは、赤連集落と羽里集落の間の高地に
あった第1高角砲台(高角砲8門と13ミリ機銃4門)である。被害は飛行場周辺に留まらず、川嶺のゴリヤ前付近八五
高地で、7月中の陣地完成を目指し作業中の勤労奉仕隊員からも犠牲者を出し、軍作業現場で住民4名が全身に爆弾破片
創を受けて死亡。この日、喜界島では21名が空襲で死亡している。

昭和20年7月12日13:00頃、米軍機2機が来襲し、飛行場爆撃と共に民家2戸が焼失。
この攻撃は厚い雲の為、福岡県築城飛行場の攻撃を断念したB-24の編隊(47機)が、喜界島飛行場を攻撃した。
7月に入って日本軍機が喜界島を使用した記録はほとんどない。沖縄島玉砕後は本土決戦に備えて戦力を温存し、
沖縄方面への攻撃は散発的になっていたのである。
8月になると喜界島は完全に戦場の焦点から取り残されていた。沖縄から出撃した米軍機は連日、喜界島の上空を
通って日本本土攻撃に向かった。制空・制海権は完全に米軍の手中にあった。
昭和20年8月7日12:30海軍偵察第4飛行隊の彩雲1機(高森一義少尉/藤村久芳上飛曹/下森道之上飛曹)が不時着。
同機は09:30に鹿屋基地を発進し、米艦隊の偵察後、敵機と交戦して被弾不時着した。
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  ▲海軍偵察機[ 彩雲 ](手前) 奥に写る2機は海軍艦上爆撃機[ 彗星 ]
昭和20年8月13日夕刻、6/10以来。喜界島で待機を続けていた第二神雷爆戦隊の零戦5機が沖縄へ特攻出撃。
出撃したのは岡本鼎少尉、細沢実1飛曹、松林信夫2飛曹の小隊、岡島四郎中尉、星野実1飛曹の小隊だ。
この特攻出撃の様子を坂嶺集落の英啓太郎さん(当時14歳)が目撃している。英さんが夕方田圃の土手に座って海を見
ていると、5機の戦闘機が離陸し南を指して飛び立った。その後しばらくすると3機の飛行機が現れ、3機は爆弾を海中
に投下すると飛行場に着陸した。
離陸した5機の内、岡本機は離陸後オイル漏れが発生し、松林機も離陸時に片脚を折損して格納できなくなった。
その為、岡本編隊は無傷の細沢機も含めて、暗くなりかけた喜界島に帰投した。松林機は胴体着陸し使用不能となった。
岡島編隊の2機(岡島四郎中尉、星野実1飛曹)はそのまま沖縄に向かい、沖縄沖に停泊中の米攻撃輸送艦ラグランジュに
突入。1番機は19:47左舷上部構造のキャビンデッキに突入した。そのため同艦は電力・通信機能等を一挙に失った。
続いて19:50、2番機は左翼を揚陸艦体にぶつけた後左舷海面に突入し、前部左舷にガソリンや機体の破片を海水と一
緒に浴びせかけた。この攻撃で同艦は戦死21名、負傷者89名を出し、その後同艦は応急修理のためグアム島へ向かった。
星野実1飛曹は京都府出身(享年19歳)
喜界島に暮らす栄(さかえ)ヤエさん(96歳)は特攻隊員達と交流があり、星野実1飛曹のことを覚えていた。
栄さんの自宅は兵舎の近くにあり、星野1飛曹はヤギを見るのを楽しみに毎日のように半袖シャツ姿で訪れた。
稲刈りを手伝い、京都市伏見区下鳥羽の生家での農作業の様子を栄さんに伝えた。
柔らかな物言いで、妹の話をしきりにしていたという。栄さんは星野1飛曹に手作りのお守りを渡した。
昭和20年8月11日、出撃命令が下る。13日朝、栄ヤエさん宅を特攻隊員達が訪れ、一緒にご飯を食べた。星野1飛曹は、
「上から連絡が来た。今日は一緒に仕事へ行けない」と告げたという。午後6時、星野1飛曹他特攻隊員は、計5機で出撃。
家の外で見送った栄さんの上空で、何度も左右の翼を上下に振るゼロ戦が1機あった。
「優しい顔をしていてね、男前だった」。栄さんは、照れるように笑った。
星野1飛曹らの特攻を新聞が報じたのは2日後の8月15日。
毎日新聞2面に「わが航空部隊は十三日夕刻沖縄本島中城湾に在泊中の敵艦船に対し特別攻撃を敢行、現在までに判明せ
る状況は敵空母に必中突入を報じたるもの二機である」との記事がある。
1面の記事には「聖断拝し大東亜戦争を終結」と終戦を伝える大見出しが付いていた・・・。


昭和20年8月14日沖縄への航空攻撃はこの日も行われた。931空「天山」4機が18:30に発進、沖縄攻撃に向かった。
(操縦)小船栄一中尉/(偵察)横馬場清二上飛曹/(電信)石井力1飛曹の乗る天山は、喜界島に不時着した。
その数十分後、共に串良基地を出撃した天山1機が燃料不足で不時着。
更に(操縦)加藤誠一少尉/(偵察)土谷照雄上飛曹/(電信)石沢忠義1飛曹の天山は、発動機不調で喜界島東方30浬
の海上へ不時着水した。漂流した3人は25日に第2明神丸に救助されたが、26日に加藤少尉が戦傷死した。
昭和20年8月15日終戦(敗戦)翌16日、第二神雷爆戦隊の細沢一飛曹と松林二飛曹は、岡本中尉の命令で先に帰還する
事になった。細沢実1飛曹の零戦には7日に不時着した彩雲の搭乗員2名が、松林機には残りの1人が乗って九州に帰還
する事となったが、松林機は離陸すると全速力で飛んで行ってしまい、細沢機は鹿児島に着くまでに発見できなかった。
細沢機は無事鹿屋基地に到着したが、松林機は屋久島沖に墜落したという。この終戦後の遭難で松林信2飛曹と、同乗
した彩雲の下森道之上飛曹が死亡した。喜界島に残った岡本中尉はまもなく古仁屋経由で帰還している。
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喜界町農産物加工販売施設
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▼『オオゴマダラ』日本のチョウとしては最大級である。
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日本では喜界島以南の南西諸島に分布する。喜界島では飼育して孵化したものを放しているせいもあってか、島の中で
も特に多い。島のいたるところで当たり前の様に見る事が出来る。喜界町農産物加工販売施設ではオオゴマダラを飼育
しており、飼育場所を手軽に観察出来る。今回は野間さんにご案内して頂いた。
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▲黄金色の「さなぎ」も見る事が出来た!
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▲仲の良いオオゴマダラの夫婦。(笑)
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ムチャ加那公園
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ムチャ加那物語
薩摩藩時代、瀬戸内町生間にウラトミという村一番の美人がいた。
薩摩から来た島役人は、ウラトミを島妻にしようとしたが彼女は拒み続けていた。
怒った役人は生間集落に年貢を重くするなど、さまざまなしめつけをしてきたので、たまりかねたウラトミの両親は彼
女を小舟に乗せにのせ生間から流した。
漂流の末、たどりついたところが小野津トゥバヤノ付近であったという。
ウラトミはその地で結婚しムチャ加那を生んだがムチャ加那も親に勝る美人だったという。
あまりにも美しく生まれたばかりに悲しい死をとげた「ウラトミ、ムチャ加那親子」の物語は民謡でも謡われ、奄美民
謡の代表のひとつとなっている。
先人たちが厳しい生活の中で謡い継いできた奄美民謡は貴重な地域文化であり、後世に伝えていかなければならない。
喜界町
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▼通称「地下ダムトンネル」を見学。
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水管理センター。水資源に乏しい離島では地下ダムを活用する場合が多いという。
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私は初めて聞いた。喜界島も地下ダムで水を蓄えて、島の色々な場所へ給水している。
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そのダムの一部の地下トンネルを見学することが出来る。(無料)
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入口は水管理センター側。
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出口は農産物加工センター側になる。
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喜界島は珊瑚で出来ている為水はけがよく、雨水は地下を通って海に流れ込んでしまう。
その為、ダムを造り雨水を堰き止めて農業用水にしている。本来なら山を崩し止水壁を造るが、止水壁が構築されるこ
の一帯は、砂丘防風林としての役目の他、喜界島の保護蝶である「オオゴマダラ」の生息地として知られる。
そこで、同地保護を目的とする環境保全型農業立島「喜界島」を目指し、地下にトンネルを造って止水壁として利用し、
地下水の流れを堰き止め、琉球石灰岩の隙 間に水を貯め、くみ上げられてスプリンクラー等で散水されている。
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トンネルはまだまだ続くが、見学はここまで。
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▼楽しかった喜界島滞在も終わり、喜界空港の軽食店で一息入れる。
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此処の軽食が安くて美味しかった。
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▼廃校記念って・・・悲しい・・・クラブ活動なんかも奄美大島の学校と一緒になってたりして通うのが大変らしい。
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▼またうも~りよ~=またようこそよ~ かな?ここは普通に「また来てね~」の方が日本語として良いと思うが。
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さぁ搭乗の時間が来た。
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「喜界島」また来たいな~。この島は来てみないと分からなかった事が多く、ホントに良い島だった。
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さようなら喜界島。
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特攻隊や輸送機、攻撃機が離陸した景色と同じはずだ・・・合掌。
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喜界島が遠くなっていく。赤印の部分が喜界空港。
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▼戦時中に米軍が撮影した空爆を受ける喜界島。飛行場付近から煙が上がっている(昭和20年5月5日撮影)
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この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2019_07_01




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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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