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オーストラリア(シドニー)旅行最終日の自由行動日、ガイドさんや同ツアーの参加者から「ホントに行くの!?」
と、言われながら「オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)」へ行ってきた。
オーストラリア戦争記念館はシドニーからはかなり離れたオーストラリアの首都「キャンベラ」にある。
朝早く起きてシドニーのホテルを出発。歩いてシドニー・セントラル駅(Sydney Central Station)に向かう。

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朝の時間帯で人が少ない駅までの道のりを、観光で見れなかった通りなどを徒歩でゆっくり見学しながら歩いた。
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▼▲ん!?「見ざる聞かざる言わざる」か!日光東照宮の三猿を真似ている!オーストラリア銀行の建物だ。
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▼少し小さめのチャイナタウン入口。
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チャイナタウン以外でも街中には中国人経営の店も目立つ。中国企業の進出は凄い・・・。
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日本人もそうだが、フィリピン人・中国人・韓国人は何処にでも居るといった印象だ。
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▼クイーン・ビクトリア・ビルディング
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オーストラリアが英国の植民地だった1898年、当時の英国国王ビクトリア女王の即位50年を記念して建てられた。
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▼▲路面電車が走っている。
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思わずカメラごしに目で追ってしまった・・・日本の路面電車と違って結構速いのだ。
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▼そうこうしている間にシドニー・セントラル駅(Sydney Central Station)に到着。
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▼▲駅の入口は、先程見た路面電車の駅もかねていた!
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早速駅構内へ。
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キャンベラに向け、列車の旅でさぁ出発!では無く、実は前々日に急遽高速バスに変更したので駅は見学のみ。
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色々調べて頂くと、価格は少し高くなるが、高速バスの方が列車よりも到着時間が1時間以上も早かったからだ。
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▲シドニー・セントラル駅にMURRAYS高速バスのチケットを買う事務所もバス乗り場もある。
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AM 8:00出発。キャンベラへの到着時間はAM 11:30の予定だ。
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オーストラリアの首都「キャンベラ」に向けて出発。
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途中、シドニー国際空港(キングスフォード・スミス)で客をひろう。
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来た時に迎えの観光バスに乗った場所だった。
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此処でほぼ満席状態となって一路キャンベラを目指す。
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シドニー市内は渋滞が酷い。
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高速道路に入って一路南にひた走る。
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トンネルを抜けると空いてきた!やっと大陸らしい景色が見れる
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▲広大な牧場がひろがり大陸らしい景色だ。
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▲此処は高速道路だよな?自転車が走ってる!
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高速道路を下り、一般道を走る。
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ここが首都?と思う様な田舎のはるか向こうに都会らしき建物群がまだらに見えてきた。
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オーストラリアの首都と言っても、シドニーとメルボルンが候補地として上がる中、両都市が譲らなかった為、両都市
のメンツを壊さない様にとシドニーとメルボルンの中間地点の此処キャンベラが首都として選ばれたとの事。

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なのでキャンベラはまだまだ発展途上の都市なのだ。建設途中の建物が多く、当然シドニーの様なイギリス植民地時代
の古い建造物は見当たらない。

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▲▼そうこう言っているうちにキャンベラバスステーションに到着。
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受付で聞くと、オーストラリア戦争記念館までは徒歩で40分位との事。時間がもったいないのでタクシーで行く事に。
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▲トヨタカムリのタクシーでオーストラリア戦争記念館までGO!
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▲▼オーストラリア戦争記念館に到着。
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▼送ってくれたタクシーがUターンして帰っていく。後ろには我々の直ぐ後に見学者を乗せて到着したタクシー。
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簡単な持ち物チェックとリストバンドを巻いてもらって早速中へ入る。入場は無料だ。
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想像していたより多くの見学者で賑わっている。そして若い世代が多い!!
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展示は1916年(大正5年)から始まっている。正直オーストラリアの歴史はド素人で全然知らない・・・。
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加えて、当然ながら説明文は全て英語で、読み取るのに時間がかかるのでほとんど読んでいない・・・。
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日本で言うと大正5年の事だから西部戦線 (第一次世界大戦)の事かな?
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博物館の中は凄く綺麗で見やすい。
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これは広いぞ!帰りのバスの時間まで約4時間しか無い。まだ1916年だし・・・
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第二次世界大戦(太平洋戦争)時代の展示ブースまではまだまだ有る!昼食抜きで見学し続ける事にした。
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▲日本軍でも同じ様な大砲を何度も見た事があるな・・・英国製だからほぼ同じかもしれない。
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兵士を運んだ馬車だ。
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▲オーストラリアとニュージーランドの国旗がまぎらわしい・・・星の数と大きさ、位置が違うんだけどね。
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1918年の展示が多い。多分、第一次世界大戦の西部戦線だと思う・・・。
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次回、オーストラリア戦争記念館(Part2)へ続きます。➡執筆中


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 2018_08_07


オーストラリア(シドニー)は観光の街。戦跡とはほぼ縁の無い大陸だが、太平洋戦争(大東亜戦争)時にはオーストラリ
アも連合軍として参戦していた為、日本軍はダーウィン周辺の北部都市への空爆や、特殊潜航艇でシドニー港を攻撃し
ている。そしてニューギニア(1975年ニューギニア信託統治地域がパプアニューギニアとして独立)や、ボルネオ、沖縄
戦等の広範囲で連合国として日本軍と戦い、ノルマンディー上陸作戦以降はヨーロッパ西部の地上戦にも参加。
日本降伏後の日本占領にもイギリス連邦占領軍の一員として多数の部隊を派遣したり、極東軍事裁判の裁判長ウィリアム
・ウェブを出すなどして参加、同裁判では天皇の訴追を要求している。
戦争/戦跡と聞いてオーストラリアを思い浮かべる事はあまり無いと思うが、朝鮮戦争やベトナム戦争にも積極的に参加
し、アメリカと共に戦い、後にベトナム難民を数多く受け入れ、世界中から移民を受け入れた「多文化主義」の国(豪州)
は英米と協同歩調を取った2003年のイラク戦争にも参加している。

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▲日本から10時間以上かけて到着したシドニー国際空港から、そのまま観光バスでの弾丸シドニー見学だ。
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▲まずはミセス・マッコーリーズ・ポイントへ。
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シドニー湾はオーストラリア海軍の停泊地でもある。丁度オーストラリア海軍の軍艦が何処かから帰還した所だった。
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▲オペラハウスそっちのけで、こんな所まで日本海軍は来たんだな・・・と思いながらシドニー湾を眺めていた。
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昭和17年6月4日、5日シドニー湾で引き上げられる日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」(2隻が引き上げられた)
昭和17年4月27日伊21・伊29、同年5月18日朝、伊22・伊24・伊27が甲標的を搭載してトラック諸島を出撃した。
出港当日夕刻、伊24搭載艇が爆発事故を起こし「甲標的」乗員の松本静1等兵曹が吹き飛ばされて行方不明となる。
甲標的は損傷しており、「甲標的」乗員の八巻悌次中尉も負傷していたことから、同艦はトラック諸島に引き返し、乗
員を伴中尉らと交替させ、伊28に搭載するはずだった甲標的に乗せ換えて再度出港した。
昭和17年5月30日伊22、伊24、伊27の3隻がシドニー沖に到着。
昭和17年5月31日搭載艇「甲標的」が次々に発進。
17:21伊22搭載艇「甲標的」松尾敬宇大尉と都竹正雄2等兵曹が発進。

17:28伊27搭載艇「甲標的」中馬兼四大尉と大森猛1等兵曹が発進したが・・・。
シドニー港入り口で防潜網に絡まり、21時30分頃自爆。

17:40伊24搭載艇「甲標的」伴勝久中尉、芦辺守1等兵曹が発進。
港内侵入に成功。深夜00:29、港内に在泊していた連合国の1国である米重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射した。
魚雷は2本共外れ、内1本は岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブル(HMAS Kuttabul)の
艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死。その隣で係留されていた蘭潜K IX(K IX)
も撃破された。米重巡シカゴ(USS Chicago, CA-29)が「甲標的」を発見、対空砲の砲撃を行い、艇に損傷を与えた。
その後「甲標的」は湾外に脱出することに成功したが、シカゴの砲撃を受けたことによる損傷がもとで沈没し、母艦伊24に
帰り着くことはなかった

そして、最後に松尾大尉艇が港内に侵入したが、この時には警戒が厳しくなっていた。松尾大尉艇はオーストラリア海
軍艦艇からの爆雷攻撃を受けて損傷。艇前方を岸壁にぶつけた事で、魚雷発射管が故障した為攻撃出来ず、艇を米重巡
シカゴへ体当たりさせる事で魚雷を爆発させようと図ったが、小接触におわり叶わなかった。
その後、松尾大尉は部下の都竹正雄2等兵曹と共に拳銃で自決した。
特殊潜航艇を発進させた日本軍潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4・5
日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド
海軍少将は、2隻の「甲標的」乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹)の海軍葬を行った。
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▲松尾 敬宇大尉(熊本県出身/享年24歳)
戦時中に敵国である日本の軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の
薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降する事無しに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、
グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、豪州国民に以下の言葉で訴えた。
「私は敵国軍人を、海軍葬の礼をもって弔うことに反対する諸君に聞きたい。 勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつく
す事がなぜいけないのか?勇気は一民族の私有物でもなければ伝統でもない。
これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべきものである。
このような鋼鉄の棺桶に乗って死地に赴くのには、最高度相の勇気が必要であるに違いない。
これらの勇士達は最高の愛国者であった。
これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか?
我々のうちの幾人が、これらの人達が払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか?戦死した
日本軍勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中している事は承知している。
けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼等の様に勇敢な死を遂げた場合、彼らにも
また、同様の名誉ある処遇を受けさせたい為である…」と。
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▲ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将(Rear Admiral Gerard Muirhead-Gould)
ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将に感謝すると共に、彼等の考え方を見習いうべきところは沢山ある。
※戦死した松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹の遺骨は中立国であるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マル
 ケスで、シドニーに拘留中の日本公使河相達夫に引き渡され、第1次日英交換船の鎌倉丸の乗船した河相公使によっ
 て、S17/10/9遺族らが待ち受ける横浜港に到着した。
 S17/12/8山本五十六連合艦隊司令長官はディエゴ・スアレス攻撃部隊とあわせて感状を与えたと言う。

引き上げられた特殊潜航艇は、戦時オーストラリア国民の危機意識を高め、戦時募金を募る目的で、オーストラリア国
内4000キロを巡回展示された後、1943年4月28日キャンベラ(オーストラリアの首都)にあるオーストラリア戦争記
念館に展示された。(ツアー自由行動の日を使い、実際に行って見て来たので後にご紹介する)
海上自衛隊の練習艦隊がシドニー港に寄港する際には隊員が慰霊を行うのが通例で、75周年に当たる2017年5月31日
には、日豪両国による両軍戦没兵士の追悼式典が開かれた。


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▲ツアーなので、決められたコースをバスで連れって行ってくれる。
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▲次はセントメアリー大聖堂へ向かう。
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▲各観光地での滞在時間はおよそ20分~40分。当然、決められた時間にはバスに戻らなくてはならない。
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▲2005年10月18日にオープンしたシドニータワーが見える。
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▲経緯は良く解らないが、古い大砲が飾られている。
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▲お!オーストラリア軍だ。写真を撮っていると、陽気にピースサインをしてくれた。この雰囲気は非常に良い。
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▲▼セントメアリー大聖堂の内部は撮影禁止だが、誰でも自由に見学出来る。立派な教会だった。
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▲この時期オーストラリアの季節は冬。スケートを楽しむ人達が居た。気温は14度程度で日本で言えば秋くらい。
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▲セントメアリー大聖堂入口からスケートリンクとその先の風景。どう見ても冬空には見えない。
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▲実際、街を歩く人達の中にはTシャツ短パンの人も居れば、コートを着ている人も居る。
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これで真冬だと言うのだから羨ましい。シドニーは過ごし易い土地なんだろう。
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▲次はフィッシュマーケットに向かった。
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市場式のフードコートの様な感じだ。5月に行った唐戸市場に似ている
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「カキ」が名物との事で、ガイドさんや同ツアー参加者の皆様にも勧められたが、昔社員旅行での旅先で大当たりして
から「カキ」は一切食べられない。食べたいとも思わないが・・・しかしオーストラリア(シドニー)の物価は高い。

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1AUD(オーストラリアA$)=約83円
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▼一通り見学してフィッシュマーケットを後にする。此処でやっと喫煙出来たのが幸いだった。
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▼アンザックブリッジ(Anzac Bridge)が見える。
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次はサーキュラー・キーという埠頭に向かった。
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古い西洋建築物と高層ビルとの組み合わせ。空襲や震災が無ければ東京もこんな感じになっていたであろうか。
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▼埠頭が見えてきた。
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サーキュラー・キーに着いた。
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横浜みなとみらいの様な場所かな?シドニー湾に初めてヨーロッパ人が着いたのは、1788年1月26日との事。
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▼シドニー市街観光用の2階建てバス。その後、夜にこのバスに乗る事になる。
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▼オーストラリアに自動車会社と言えば「ホールデン」。2017年10月工場閉鎖に伴い操業を終了している。
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スポーツカータイプのピックアップトラックが有名だが、いすゞ自動車とも提携してたんですね~知らなかった。
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▲エンブレムはホールデンだが、もう日本では見かけなくなった、いすゞのピックアップトラック「ファスター」だ。
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▲▼テスラ(電気自動車)も走っていれば、日本ではまず見る事の無いヒュンダイの営業車バンも沢山走っている。
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▼これはFORDのピックアップトラック。アメ車も沢山走ってる!
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▼しかしオーストラリアで一番人気は「トヨタ」!嬉しいね~。
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▼このHILUX VIGOは日本にもアメリカにも無い7代目。

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▼ハイエースのエンブレムシールもTOYOTAが入っていてちょっと違う。
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▼都心にも道沿いにバイクやスクーター置き場がちゃんと整備されている。素晴らしい。
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車も好きだがスクーターはもっと好き。何を隠そう筆者は、「使った後は自宅で充電、短距離移動は電動バイクで。」
をコンセプトに電動バイクを専門とする、小さなバイクショップ「EV奈良」経営しております。
日本一速い電動原付スクーターをご検討の方は是非、弊社HPを覗いて見て下さい➡http://www.evnara.jp
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▼ダーリングハーバー(Darling Harbour)に入った。
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う~ん、綺麗で近代的だけど、横浜みなとみらいにしか見えない・・・。
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全然違うところは、観覧車の回転速度が異様に速い。
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▲リクエストすれば3周~5周乗らせてくれるそうだが乗っていない。
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もう高層ビルやショッピングーモールは見飽きたかな・・・大して感動しないがシドニーはバブルだ・・・。
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▼▲何処からでもシドニータワーが見えている。
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▼ワイルドライフ・シドニー動物園(Wild Life Sydney Zoo)に立ち寄る。
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▼小さな動物園だがチケットは42.00A$ 約3500円!高い。
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▲受付でコアラと一緒に写真を撮るオプションを勧めてくれたがThank you, but no thank you.
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▼此処でやっと日本語説明を見る事が出来た。街中では日本語表記はほぼ見かけないし、当然通じない。
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▼定番のコアラが居て・・・
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▼カンガルー仲間だけどカンガルーじゃないワラビーが居て・・・
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▼カンガルーが居る
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カンガルーは触りたい放題。夕食でカンガルーの肉を食べたが本場オーストラリアビーフより柔らかくで美味しい。
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「野生のカンガルー探し」にも行ったが、流石に野生は触れなかったので此処で十分だったのではないか・・・(笑)
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ダーリングハーバーには豪華客船やクルーザーが沢山停泊している。
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▼F1のモーターホームの様な船だ・・・。
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▼ん!?軍艦か!これは対岸にまわって確認したい!
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▼ピルモント橋(Pyrmont Bridge)を渡って確認しに行く。橋の上から見える。
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▼これだ!
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▼ピルモント橋を渡り切った。
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▼橋を渡り切ると「オーストラリア国立海洋博物館」 (Australian National Maritime Museum)が・・・。
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今回、「オーストラリア戦争記念館」以外、何も下調べをしていなかったので全く知らなかった。
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オペラハウスぐらいしか知らなかったし、シドニーの観光スポットにあまり興味が無かったからだ。
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▲例の軍艦の近くまで来た。残り時間も少なかったのでオーストラリア国立海洋博物館に入っていない。
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▲対岸からは確認出来なかったが、隣には潜水艦が!どうやらこの2隻は退役して展示しているそうだ。
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広場では何やら学生達の演奏が始まるところだった、聴いてから戻る事にした。
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▲日本人でも無いし中国・韓国・フィリピン人でもない。香港人?何処の国の学生だろうか・・・マレーシアかな?
結局解らなかった。しかしアジア系のである事は間違いない。因みに演奏曲は「となりのトトロ」日本アニメは凄い!
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ピルモント橋を渡り戻る途中、丁度ピルモント橋が真ん中で回転して船を通すところだった。
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数分待ったであろうか。橋が元に戻り、対岸へ戻る。
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▼対岸に戻ると小さな遊覧船でオペラハウスへ向かう。
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▼出航。
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▼海から見たワイルドライフ・シドニー動物園
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▼海から見たオーストラリア国立海洋博物館。行きたかった・・・。
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▼すれ違う船の客は皆手を振ってくれる。
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▼1ヵ所だけ途中停泊してお客さんが1人乗ってきた。
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▼再び出航。まだまだ建設ラッシュの様だ。
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▼スピードが上がっていく。
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▼有名なシドニー・ハーバーブリッジが見えてきた。
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▼振り返って撮影。
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▼シドニー・ハーバーブリッジをくぐるとオペラハウスが見えた。
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▼シドニー・ハーバーブリッジ
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▼世界遺産に登録されているオペラハウス。世界遺産とは知らなかった・・・そんな古いの??
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▼追いかける様に後から続々と遊覧船が来る。この海域は船の渋滞が起こるそうだ。
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▲▼今度は船でサーキュラー・キーに到着。何度も同じ場所へ連れて行かれる事の多いツアーだった・・・。
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▼オペラハウスに向かう途中、文化財に指定されているという旧税関の建物を見学する。
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▼オペラハウスが見えた。
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▼これか・・・。
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▼振り返って撮影。日差しが戻って来た。
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オーストラリア滞在中は雨は無く、ずっと良い天気に恵まれた。いつも英霊のお陰だと思っている。
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▼シドニー・ハーバーブリッジを見ると、誰かが橋の上に立っている!
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▼シドニー・ハーバーブリッジを歩いて登る体験型名物アトラクション「ブリッジ・クライム」だ。
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▼オペラハウスの中も見学した。
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オペラハウス建設秘話は色々ガイドの方が説明してくれたが、あまり興味が無かったので覚えていない。
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とにかく世界で最も建造年代が新しい世界遺産だという事だ。
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▲シドニー港に突き出した岬であるベネロング・ポイントを、斜めに設置されたガラス越しに見る。
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ベネロング・ポイントはオーストラリアの先住民族「アボリジニ」の人達の聖地だった場所との事。
建設当初は先住民達の反対も多少あった様だが、1959年に着工➡竣工は1973年だった。
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▲▼夜の2階建てオープントップバスツアーでもオペラハウスに立ち寄った・・・もう何回もいいのに・・・。
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▼夜のシドニー・ハーバーブリッジ(いつも夜景は上手く撮れない・・・)
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▲▼この様な感じで市内を案内してくれる。
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シドニー・ハーバーブリッジを通る。
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走行中のバスから夜景を撮影するのは猶更難しい・・・無理。
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シドニーは夜景を重視している様で、ビル内の企業が終業していても、ある程度の時間は電気を点けたままにしておく
決まりがあるそうだ・・・無駄なエネルギーを少しでも節約する日本人との感覚の違いが凄い。国力の余裕を感じる。
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▼日も暮れてきたので宿泊先のホテルへと向かう。
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古い建物と現代の高層ビルが混ざっているが、古い建物を尊重しているので景観に違和感は無い。
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▼シドニーのパトカー。赤でカッコいい!警察車両でTOYOTAを採用してくれているのは嬉しいねー!
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▼日本人が路上商売で頑張っていた!
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どんどん日が暮れてきたが、夜7時半をまわっても全然明るい。これでも真冬だ。
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       ▼宿泊先のホテル。中国かと思った(笑)
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       ▼シドニーの朝は結構早くから車の通る音が響く。マフラーを交換したうるさい車が多い
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▲ホールデンのスポーツトラック。
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朝から2台の車に別れて観光に向かう。
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私は上記写真のコースターだったが、ハイエースに割り当てられたお客は狭くて辛かったそうだ・・・。
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▼高速道路を西へ西へとひた走る。
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▼そして、Lincoln's Rock(リンカーン ロック)ブルーマウンテンズ国立公園を見学して、
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▼Echo Point(エコーポイント展望台)へ行って、
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細い峠道を延々走ると・・・。
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▼▲大きな岩の中を走る自然のトンネルが出てきた。
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そのちょっと大きな洞窟の中を散策すると・・・ん?何か居る!
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▼野生のワラビーだ!飾り物のぬいぐるみかと思ったが本物だった!
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冬だから暖かいスポットライトに近づいて温めてたんですね。ついでに自分をライトアップして(笑)可愛い!
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▼そこを抜けると、
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▼120年以上続くゲストハウス「ケーブ・ハウス」に到着。国の文化財に指定されている。
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▼防空壕の様な人口の入口から入壕し、
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世界最古というJenolan Caves(ジェノラン鍾乳洞)を見学した。
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かなり長い洞窟見学を終えて外へ。停めてあったバイクを撮影。何処のバイクだろう?
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▼次はブルーマウンテンズ地区にある可愛い街Leura「ルーラ」に立ち寄る。緑豊かな山間の小さな街だ。
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▲当日、日本と中国の国旗がはためいていた。ガイドさんに何故?と聞いてもよく解らないとの事・・・。
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60〜70年代の雰囲気たっぷりのお店が並ぶ。
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▲▼女性に大人気のルーラ・ビンテージ(Leura Vintage)
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▲女性用だけでなく男性用も含め50〜60年代位のイメージのドレスやスーツ、帽子やカバンなどが所狭しと並ぶ。
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▲ルーラ・ビンテージが入っているストランド・アーケード(Strand Arcade)
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▼路上でバイオリンを弾く少女が居て、バイオリンケースにコインを入れてしばし聞き入っていた。
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短い滞在時間でシドニーに戻った。


次回「オーストラリア戦争記念館(Part1)」に続きます。


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 2018_07_08


普段は通り過ぎる事の多い、大阪(難波)で寄り道して、難波グランド花月に寄ってみた。
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千日前通りを抜けて「難波グランド花月」を目指す。
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大阪は美味いものが多くて目移りしてしまう。
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どこも美味しそうなお店ばかりだ。
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▲▼ホントに安い!帰りに寄って帰ろうと思っていたのに忘れてた・・・。
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▲▼あっという間に難波グランド花月に到着。一度来た事があるが、リニューアルされてからは初めてだ。
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特にファンという訳では無いが、2階フロアに新設された「吉本歴史ストーリー」を見学したかったのだ。
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小さな陳列スペースに、過去の歴史が解る写真が展示されている。
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吉本興行の歴史は古く、明治45年創業(写真は大正6年大阪北新地「北陽花月亭」)創業者の吉本泰三が写っている
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昭和8年に派遣された「慰問団」の写真だ・・・何処だろう。
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▲戦史古写真ではあまり見る事の無い日本兵のリラックスしたお顔を見る事が出来る。場所は中国だろう。
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▲吉本興行の創業者「吉本せい」は通天閣を買ったんだ・・・軍需資材になっていたとは知らなかった・・・。
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▲創業者自ら「慰問袋」を作ってたんですね・・・正に日本全体が隅々まで戦争の時代・・・。
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▲戦時中の漫才台本
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難波グランド花月を後にし、昔から気になっていた「レジャーシティ味園ビル」へ向かう。
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▲「レジャーシティ味園」に到着。昭和31年建築の割と古いレジャービルだ。
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▲かつてはキャバレー「ユニバース」もあったが、2011年3月15日に営業を終了し、貸ホールになっている。
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▲1階は宴会なども出来る大きなレストランだ。
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▲見たかったのは2階。左手のスロープを登ると2階に行ける。
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壁に貼られたポスターからしてなんだかディープなゾーンに入ってきた。
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2004年に運営会社の方針でテナント料を大幅に下げ、若いオーナーが中心のバーや飲食店を誘致。
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東京新宿ゴールデン街と並んで日本のサブカルチャー、アンダーグラウンド文化の発信地としても注目されている。
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どれもこれも聞いた事が無いものばかりで。。。自分の無知さと世間の広さを実感していた・・・。
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しかし夜に来る勇気はまだない・・・。
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ぼったぐりバーの様な店は無いと思うが1人では流石に入りずらい。昼間見学程度で精一杯・・・。
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▼近くには昔何度か訪れた事のあるお店がまだ健在だった。
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ザ・昭和って感じの看板が並ぶ。
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▼次に、今は外国人観光客だらけと聞いている黒門市場へ向かう。
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凄い人だ。外国人だらけ!
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▼▲美味しいに決まってるいちご大福屋さん
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まるで正月の様なにぎわいだ。
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中国語や英語、韓国語が並ぶ。もはや日本人客は相手にしていない様な感じだ・・・。
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大阪らしい激安を期待したが、流石に観光客ターゲットなので価格は安くは無い。
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▲やはり行くなら「ビフテキの末廣軒」だろう!日章旗に吸い込まれそうになった(笑)
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▲▼次はとりあえず法善寺横丁にお参り。
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▼かすうどんは食べた事が無いな・・・。
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▼▲大正12年竣工の大阪松竹座。当日は関西ジャニーズJrのイベントで女性達が長蛇の列を作っていた。
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▼▲戎橋(ひっかけ橋)は外国人観光客の撮影スッポットになっている。凄い人だ・・・。
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暗くなってくると難波の街は、より一層面白そうになってくるが、夜の世界はリッチな時に再訪する事とした。
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 2018_06_02

下関と門司

Category: 門司港  

出張で山口県を訪れたので帰りに時間を作り、「出川哲郎の充電させてもらえませんか?」を見て、以前から行きたか
った下関の唐戸市場と、「海賊と呼ばれた男」を見てから是非とも行って見たかった門司へ行ってきた。

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▲まずは午前中に行くのがBESTの唐戸市場へGO!(昼から行っても店がほとんど閉まっている)
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▲下関らしく巨大なフグがお出迎え。
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▲土曜日だった事もあり、かなり賑わっていた。
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▲▼食べたい物ばかりで、ついつい取り過ぎると結構なお支払いになる・・・大トロは500円の店や400円の店も。
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▼やはり揚げ物は美味しい!クジラの竜田揚げは最高だった。
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▼此処のマグロは美味しかった。
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▼市場で買った物を、関門海峡を見ながらいただく。最高のロケーションだ。
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▼目の前は九州。行く予定の門司港が見える。
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▼次はカモンワークへ向かう。
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カモンワークは食事が出来るお店や、お土産物屋が沢山入った小さな複合施設の様な感じだった。
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この周辺にも門司と同じく、明治・大正・昭和初期の建物が数多く残っているのでサクッと見学する。
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▲▼まずは明治39年完成の旧下関英国領事館から見て行こう。
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▼領事室
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▼エリザベス女王か・・・たいして興味無いけど。
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サラっと見学(無料)して次に向かう。
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▼次は大正4年完成の旧秋田商会ビル
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▼旧秋田商会ビルの隣は現存最古の現役郵便局舎、今も下関南部町郵便局として現役の旧赤間関郵便電信局
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▼明治33年完成の煉瓦造の明治建築物は、隣の大正建築物の「旧秋田商会」とよい対照を見せている。
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▼下関の原付ご当地プレートは可愛いフグ
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▼次に訪れたのは映画の撮影でも使用される事のある旧山口銀行本店
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大正9年に三井銀行下関支店として、建築設計家長野宇平治の設計監督により建築され、昭和8年山口銀行の前身である
百十銀行(明治11年に第百十国立銀行として創設、同31年に株式会社百十銀行として改組)の本店となり、昭和19年に
は県下の6つの本店銀行(百十銀行、華浦(かほ)銀行、船城(せんじょう)銀行、大島銀行、宇部銀行、長周銀行)を統
合して山口銀行が創立され、本店となる。昭和40年新本店が新築されて移転した後は観音崎支店となり、同44年観音
崎支店が入江支店として移転した後は山口銀行別館として行内の会議や集会に使われていた。

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昭和48年~50年は日本銀行下関支店として使用された後、建物の内・外部を山口銀行創立当時の姿に戻す復原工事と、
建物の耐震補強工事が平成16年4月~平成17年3月にかけて行われ平成17年10月に棟札と共に山口県指定有形文化財
となり一般公開されている。

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文句なしにカッコいい建物だ。素晴らしい!!
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中を見学(無料)すると・・・おぉ!!素晴らしい!!
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2階建てに見える外観だが、中身はほぼ吹き抜け!これは当時西洋の銀行をそのまま真似て建てられた為、2階部分の隅
に、ぐるり1周走っている廊下は、下を監視する警備員が銃を持って見張りをする為のスペースだったそうだ。
日本ではその様なスペースは必要無かったそうだが、そのまま真似た為、この様な造りになっているという。
因みに耐震強度はほぼ考えられていないそうだ。山口県は地震が少ない為、倒壊せずそのまま残っているそうだ。
昭和20年6月29日AM1:10頃B-29大編隊が壇之浦上空に現れ、壇之浦から赤間町までの間に焼夷弾を投下、市内東部
地区は焼け野原となった際も山口銀行本店は石造りの為、焼失せず残った。周りの木造建築は全焼だったとの事だ。

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       ▲建物左端に設置された階段は現在使用禁止、当時のカーペットを劣化させない為だとの事。
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▲建物の右端にある階段を使って2階へ向かう。
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▲▼2階部分から入口付近全体を撮影。
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見学していると、スタッフの方がガイドをしてくれると言って頂いた。ここからはガイドの方と共に見学させて頂いた
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▲当時の金庫。金庫の中には桐の入れ物。分厚い扉の中身は砂で、中のお金が燃えにくくしているとの事。
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▲こちらの金庫室は扉が2つ。上の扉は非常用との事。
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▲この扉は地下金庫室への階段の入口。中を案内してくれるという。
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▲早速地下へ続く階段を下りて行く。戦時中は従業員の防空壕代わりにもなっていたという。
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地下金庫室&倉庫のスペースはかなり広い。
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県指定有形文化財に指定され、建物基礎に追加された耐震強度を増す為の補強材の隙間から赤煉瓦が見えた。
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扉はかなり分厚い。軍事施設の様だ。
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何重にも設けられた扉。
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8畳程のスペースの部屋が3~4部屋あった。
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銀行の地下金庫室など入った事が無かったので良い経験になった。
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▲▼トイレの間取りや扉なども当時のまま、タイルも当時のままだと言う。
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▼隣接している史料館にはメジャーになる前に山口銀行のイメージガールに起用された夏目雅子が居た。
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▼史料館から旧山口銀行本店の屋上を見る。建築当時は銀行前の道の向こうは海だったそうだ。
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次は門司へ向かう為、カモンワークまで戻って船乗り場へ。
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対岸の北九州市門司港までは高速船で10分かからない距離だ。
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▼宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の戦い」で有名な巌流島へ向かう人も結構居た。
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▼門司に向けて出港!
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▼関門海峡が綺麗に見える。
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あっという間に門司港が近づいてくる。
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▼門司港に到着。船の操縦士や乗組員は皆女性だった!このところの女性の職場進出は凄い(中国はもっと凄いが)
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▼門司に着いて真っ先に向かったのは門司駅だったが・・・。
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ん?あの有名なレトロな重要文化財「門司港駅」が見当たらない・・・。
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絶賛補修工事中だった・・・まだ何年か先までレストア作業は続くとの事。折角門司まで来たのに・・・残念。
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▲作業足場に覆われ、見事に何も見えなかった・・・。
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▲▼大正3年完成の現在も残る門司港駅。補修完成後を楽しみにしておこう。
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▼門司港駅の隣にもちょっと古そうな建物が・・・昭和初期頃の建物か?
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▼門司港駅の目の前には旧門司三井倶楽部がある。
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此処は1階部分のみ無料で見学出来た。
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次に向かう途中で撮影。隣にも古そうな建物があった。
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▼▲港側に出て旧門司三井倶楽部を撮影
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▼お隣は旧大阪商船三井船舶株式会社門司支店。
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立派な建物だ・・・西洋の真似事とはいえ良く出来てる。
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旧満州国の大連の様だ。
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中は自由に入れる。お土産物屋や喫茶店が入って活用されていた。

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商船三井は現在でも日本郵船・川崎汽船と並び日本で指折りの船会社だ。
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門司港は小さいながらも見所満載。
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▲▼ロバート秋山の父が経営する海賊船「ファンキータイガーカリビアン」があったりする。
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▼港の向こうに「旧門司税関」が見える
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▼船が通ると2つに割れる橋を通って旧税関側へ渡る。
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▼▲旧門司税関。現在はエントランスホール、休憩室、喫茶店などに利用されている。
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▼▲北九州市立国際友好記念図書館
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大連にあった明治35年建築の東清鉄道汽船会社の事務所を複製建築した物らしい。古くから門司港は大連市と深い関
係にあった様だ。元々大連は日清戦争後に日本が譲り受け、三国干渉によりロシア領土となり、日露戦争後に日本が統
治していた複雑な場所だからね・・・。北九州市と大連市、友好都市締結150周年を記念して建てられたらしい。

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▲▼恐らく古くから敷かれていたであろう単線の線路にはレトロチックなディーゼル機関車が走る。
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▼線路沿いには「出光創業史料室」
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▼古くから残る倉庫の壁だけが残る。敷地内は駐車場に転用されている。
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近くの駐車場内にはレトロな電車があった。
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▼少し離れた場所には門司電気通信レトロ館
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▲大正13年逓信省門司郵便局電話課庁舎として建築された、門司における最初の鉄筋コンクリート建造物。
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かなり歩いて少々疲れたのでそろそろ下関に戻る事にした。
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門司港を後にする。
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下関と門司を同時に楽しめた1日だった。


この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。



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 2018_05_03


和歌山市加太に属する友ヶ島は、紀淡海峡に浮かぶ無人島群で、地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の総称。
瀬戸内海国立公園の一部となっている同島(沖ノ島/虎島)には、明治22年から外国船の大阪湾侵入に備え、砲台の建
設が開始され、最大28㎝砲台が設置された。明治37年~38年の日露戦争で、日本は辛くも勝利したので、ロシアな
どの外国艦隊が湾内に侵入して来る事は無く、その後太平洋戦争でもほとんど使われる事無く日本は敗戦を迎えた。
友ヶ島第一砲台:27cmカノン砲(4門)
友ヶ島第二砲台:27cmカノン砲(4門)
友ヶ島第三砲台:28cm榴弾砲(8門)
友ヶ島第四砲台:28cm榴弾砲(6門)
友ヶ島第五砲台:12cmカノン砲(6門)
虎島保塁:9cmカノン砲(4門)
友ヶ島の砲台施設は「由良要塞」の一角。淡路島の由良地区(現 洲本市由良)を中心に要塞司令部が置かれ、友ヶ島、
加太・深山地区の3地区で構成されていた。
由良要塞は終戦時には第2総軍第15方面軍直轄部隊で運営されており、敗戦まで要塞施設として一般人の立ち入りは
一切禁止され、当時の地図や地形図には掲載されていなかった。
第2次世界大戦は既に航空機が主力になった為、大砲の使用はほとんど無く、終戦と同時に米軍により砲施設は撤去
されたが、弾薬庫などの遺構が多く残り、現在は瀬戸内海国立公園に属しているものの、近代遺跡(廃墟)として写真
家やコスプレイヤーなどに「ラピュタっぽい!」と、人気の島となっている。

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和歌山市の加太港から友ヶ島汽船で友ヶ島に向かうのだが、船乗り場駐車場までは少し狭い道のり。
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▼対向車が来ない様に祈りながら進んで行く。此処を右折すれば駐車場だ。
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▼駐車場管理のおばちゃんに700円を支払い車を駐車する。いい天気だ~。
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▼▲船は停泊している様だが、この日は風がキツく09:00の便は欠航、10:00の便となった。
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▼この建物の隅にトイレがあるので用を足しておく。
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▼さぁ出発だ。往復2000円だが、このサイト(HIS)でクーポンをGETすると10%割引が受けられる。
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10:00の便は満席。次の船を駐車場で待つ人も多く見られた。
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▼加太港を出港する。友ヶ島まで20分程の船旅だ。
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▼釣り船だろうか、乗員が手を振ってくれている。
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▼虎島が左手に見えると友ヶ島港はもう直ぐそこだ。
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▼友ヶ島に到着、上陸を開始する。凄い人だ。若い女性の2~3人組が多いのには驚いた。
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友ヶ島港と言っても桟橋があるだけだ。この桟橋も当時の日本軍が作った物だ。
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セオリー通り、第2砲台跡から順に見学していく事にした。
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案内板の画面で言うと右方向(灯台方面)だ。
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▼乗って来た船が加太港に帰って行く。
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▼友ヶ島唯一の宿「海の家」が見えてきた。
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島では軽トラを何台か見たが、全てナンバープレートはついていなかった。流石無人島!
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▼▲早速廃墟が見えた。赤煉瓦の建物はおそらく当時の軍施設だろう。
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右手には海が綺麗だ。
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タンカー?LPガス?船もゆっくり走っている。海の向こうに見えるのは淡路島だ。
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先の方角をみると・・・?
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!出た、第2砲台跡!
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第2砲台跡が見えて思わず足取りが早くなってしまうが、途中にも旅館の廃墟が・・・。
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富士屋別館・・・、かつては此処で営業していたのだろう・・・。
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現在、友ヶ島の宿は1件のみ。「海の家」が夏季のみ営業しているそうだ。
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なので、夏季以外は、基本無人島というわけだ。「軽食」と書いてあっても食事が出来る所は無い。
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第2砲台に着いた。
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なかなか大きな砲台施設跡だ。此処は敗戦後、進駐軍が爆破処分しようとした砲台らしい。
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柵がしてあり、基本中には入れないが、自己責任で。
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中は見学する人は少ないとみているのか、弾薬庫などはゴミ箱と化していた・・・。
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何とかならんのかね、このゴミ。自己責任見学だとしても綺麗に保存して欲しいものだ・・・見学する気になれない。
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気を取り直して裏手にまわってみる。
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ダイナマイトを仕掛けて爆破したのだろうか・・・盛大に割れている。
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▲自己責任で・・・。
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27cmカノン砲の設置跡だ。
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▲紀淡海峡を望む。この先の淡路島(由良砲台)と挟み撃ちの位置関係だ。
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この先何十年とかけて腐食して無くなっていくのだろう・・・。
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次に向かうのは第1砲台跡と友ヶ島灯台。
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▲柵がしてあり中に入れない・・・順路は右手の階段を登って行く。
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▲左手の棲息掩蔽部に後付けされたと思われる謎の煙突。戦後何かに転用されて使用していたのか?
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▲先程の柵が向こうに見える、誰かがこちらを見ている。「入っていいの?」という小声が結構聞こえた(笑)
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▲弾薬庫はコンクリートブロックで完全に蓋がされている・・・ここまでしなくてもいいのに・・・。
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▲2つ目の弾薬庫もしっかり蓋がされている・・・。
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▲砲座跡
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▲監視所か兵舎が建っていたのだろう・・・門柱と外壁だけが残っていた。
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▲海側の景色は淡路島。こうやって見ると淡路島は大きい。
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友ヶ島灯台も見学、明治3年5月英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンにより着工されたAランクの保存灯台。
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明治23年8月由良要塞第1砲台建設の為、東に25m移設されている。
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▲▼友ヶ島灯台から少し奥に行くと観測所跡。
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若い女性達は観測所の上に乗って必死に景色を撮影している。当然、観測所には興味は無いのだろう・・・。
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鉄扉がちゃんと残っている。
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中の状態も良い、綺麗に作ってあるな~素晴らしい。
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鉄扉に付いている小窓にはガラスが入っていたのだろうか・・・まさかね。
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▼天井部分はコンクリートが剥がれ落ちて鉄がむき出しになっているが、逆にリベットが見えて構造が解りやすい。
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当然、当時カムフラージュの為に盛ってあったであろう土は無くなっている。画像の2人は「こんな薄い鉄板丸出しで
敵に攻撃されたら一発で終わりやで!」と、訳の解らない会話をしていた・・・無知は怖い。

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順路を進んでいくと、丁度、富士屋別館の反対側に出た、兵舎か何かの遺構が残っている。
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▲キャンプ場を抜けて太平洋側に出ると素晴らしい景色が広がっていた。
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▲次は海軍聴音所跡に向かう。
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▲木陰の涼しい山道を少々登っていくと・・・。
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▲▼あった、海軍聴音所跡だ。周辺には当時の遺構と思われるコンクリートの基礎が沢山残っていた。
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▼早速中に入って見る。
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戦後、盛り土等や、付近の木々に隠れ、この施設が発見されたのが遅かった為、比較的良好な状態だったそうだ。
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それでも、発見されてからも何の手入れもされていないので荒れ放題だが・・・これはこれで味があって良い。
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▼再び外にまわって見学する。すると・・・ん?二階建てか!?
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知ってしまった以上、2階に行きたい!
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▲写真で見ると、何てこと無い高さだが、これが絶妙に高い・・・。
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ズボンが少し裂けたが何とか登る事が出来た。
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2階部分は一部屋の様だ。
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▼次に第3砲台跡に向かう途中、トイレがあった。
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経年劣化を考えると当時の建物とは考えにくいが、直ぐ近くに近代的なトイレが設置してあったのでこれは当時物か?
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▲▼当時の物を補修して使用していた時期がある様だ。明治時代の物だとしたら木材が綺麗過ぎる。
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それでも、外観を含め、当時の姿を偲ぶ事が出来るトイレの建物は初めて見た。
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「ラピュタっぽい!」と、人気の友ヶ島のメイン見学地、第3砲台跡は、懐中電灯があれば誰でも迷路の様な砲座施設
を思う存分楽しむ事が出来きる。若い女性グループもスマホの懐中電灯片手に肝試ししている人も沢山居た。

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トンネルを抜けると砲座跡、地下に入れば弾薬庫跡。と、カマドウマさえ気にしなければ楽しい空間が沢山!
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他の要塞も行っているが、これだけの地下トンネルが構築されている要塞は友ヶ島が最大ではなかろうか・・・。
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明治・大正時代に建設された要塞は、何処も似た様な造りだが、友ヶ島は島全部が要塞で規模が大きい。
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ふんだんに使われた赤煉瓦のアーチが素晴らしい形を作っている。
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棲息掩蔽部は全て一本の通路で繋がっている。
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見学者が多いので、人を入れず写真に収めるタイミングが大変。
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▼逆から来たが、本来は此処から第3砲台に入るのだろう、立派で美しい入口だ。
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▼将校の宿舎だったとされる銃眼を備えた兵舎が残る。
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▼すぐ横には屋根が抜け落ちた発電所跡が残る。
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▼▲本来の入口を出口として第3砲台跡を後にする。
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▼次は探照灯跡に向かう。
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▼道中、この様な石柱が何本もあった。何の為に建ててあるのだろう・・・壁でも作っていたのか・・・?
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▼探照灯跡に到着、先客は何と大学生位の若い女性2人組だった。こんな寂しい所に女性2人とは流石安全な日本!
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▼階段を登って見る。
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▼探照灯が格納されていたであろう部屋を見下ろす。
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女性2人組に別れの挨拶をして次へ向かう。
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女性達には「探照灯」の説明と、この島では戦いは無かった事を教えてあげると驚いていた。戦争が此処であったと思
っていたらしい・・・太平洋戦争(大東亜戦争)前から、他国(特にソ連)の侵略に対する備えだった事を教えてあげた。
こうした戦争遺跡には、ただ自由に見学させるだけで無く、自国の歴史を紹介する必要性を強く感じた。

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次に「虎島」へ!と思ったが、疲れと帰りの船の時間もあり、次回とした。
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▲船乗り場まで戻って来た。
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▲▼船乗り場の直ぐ反対側に何やら遺構が残っている・・・!
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▲▼これも間違いなく当時の遺構だろう。
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▼裏手にまわると、貯水池があった・・・。
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▼貯水池側から遺構を見ると立派な煙突まで備えている。でかいタービンでもあったのだろうか・・・。
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▼船の時間になり、名残惜しいが友ヶ島を後にした。
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▼虎島が見える・・・また来るよー!
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この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。



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 2018_03_28


宿泊先のホテルカレッタ(龍郷町)から古仁屋港までは車で約1時間半。朝早かったので道が空いていた。
レンタカーを船に載せると結構高いので、天気の心配はあったがスクーター(125CC)をレンタル予約しておいた。
加計呂麻島へは奄美大島(古仁屋)から船で25分程だ。朝08:10の船で加計呂麻島(生間)に向かう。

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125CCクラススクーターと人を合わせて1510円(往復運賃)だ。人690円/スクーター820円(往復)の内訳。
帰りに古仁屋でガソリンを入れて満タン返ししたが、古仁屋港のガソリンスタンドでは1ℓ=〇円の表示も無く、原付バ
イクで加計呂麻島を走ったと言えど、半分位しか残量計が減ってなかったのに400円程かかった・・・。
領収証にも1ℓ=〇円の詳細は無く、ガソリン400円と内税8.0%30円と記載されているだけ・・・。
計算してみるとレギュラーガソリン1ℓ=150円近く払わされた事になる。名瀬ではそんな事は無く1ℓ=139円で明細も
本州と変わらない領収書だった(出光石油和光SS)。筆者は電動バイクの販売を本業としているので、スクーターにガソ
リンを久しく(5~6年)入れていない。レンタルバイクがEVだったら余計な事を考えなくても済んだのに・・・。と思
わずにはいられなかった。
「使った後は自宅で充電、短距離移動は電動バイクで。」をコンセプトに電動バイクを専門とする、小さなバイクショ
ップ「EV奈良」経営しております。
日本一の電動原付スクーターをご検討の方は是非、弊社HPを覗いて見て下さい➡http://www.evnara.jp

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08:10定刻通り出航。古仁屋港を後にする。
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※仮に今回借りたレンタカー「デミオ」(普通車)をそのまま船に載せる場合、往復で9000円近くの費用がかかる。
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あっという間に生間港に到着、しかし心配していた雨がとうとう降り出した・・・。
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港には船の時間に合わせてバスが待機している。ハイエースなどの小型バスが主流の様だ。
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▼▲この船は恐らく次は瀬相に向かうのかな・・・?加計呂麻島には「生間」と「瀬相」の2つの港がある。
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行きに「生間」を選んだのは、1番目の目的地である安脚場戦跡公園に近かったからだ。
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▲雨の中をスクーターを走らせ安脚場戦跡公園に向かう。すると兵舎跡が現れた、砲台跡は近い!と思ったが・・・。
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▲ガーン・・・昨年8月の台風5号の影響で土砂崩れが発生し、行けないとの事・・・。残念
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▲▼行けないものは仕方無いので、兵舎見学のみとする。門柱から外壁まで綺麗に残っている。
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▼立派な兵舎だ。中から人の声が聞こえると思って中を覗き込むと、ラジオが鳴っていた。防犯の為か?
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此処の正式名称は「生間施設部隊指揮官宿舎跡」で、指揮官クラスの軍人が寝泊まりしていた様だ。
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敷地は結構広い。入口は開く様だったが、倉庫状態となっており、個別に建物に侵入する事はしなかった。
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敷地内には井戸も確認出来た。
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▼烹炊所跡。かなりの数の兵隊さんが此処で寝泊まりしていたのであろう・・・。
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次はまた生間方面に戻る事になるが、途中、渡連(どれん)地区に待網崎高角砲台跡が公園となっている様だ。入口には
立ち寄ったのだが、草が生い茂り、とてもスクーターでも徒歩でも入っていけそうにもないので今回はスルーした。

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途中、何本もの立派なガジュマロの木が見られる。因みに「日本一のガジュマル」は(奄美諸島)沖永良部島にある。
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閑散期という事もあるが、人が居ない・・・ピース・又吉の母の故郷である加計呂麻島は人口約1300人足らず。
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▲バナナを栽培しているご家庭もある!南国だね~。聞けば自分達や島の中での需要分だけ栽培しているとの事。
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▲▼スリ浜にも立ち寄ってみた。
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▲天気が悪かった為、空の色が最悪だが、透き通る様な海の綺麗なビーチだ。
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道はこんな感じ。今回はスクーターの為、極力海沿いを走った。2車線の立派な道も別で通っている。
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コンビニは無く、飛び入りで食事出来る所も無いに等しい。公衆トイレは完備!?使わせて頂いた。
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▲2008年4月開通の立派な呑之浦トンネルを抜けて、次に訪れた場所は呑之浦旧海軍第18震洋隊格納壕跡。
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▲震洋艇秘匿壕の手前には島尾敏雄文学碑記念公園入口がある。
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「島尾敏雄」は第18震洋特攻隊長として終戦。戦後は有名な小説家になった人で、昭和30~50年まで名瀬に住んだ。
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    ▲島尾敏雄海軍少尉(昭和19年夏頃)終戦時28歳。       ▲大平ミホ 終戦時26歳。
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妻である大平(旧姓)ミホも作家。島尾少尉とミホは加計呂麻島で出会う。
ミホは加計呂麻島で生まれ育ち、東京の女学校を出て島に帰って押角小学校の先生をしていた。
島尾少尉は横浜生まれ、九州帝国大学を繰り上げ卒業、昭和19年第18震洋隊隊長として加計呂麻島に赴任してきた。
東洋史を勉強した島尾少尉はミホの父の所蔵する中国関係の書物に興味をもち、ミホの家に出入りする様になり、2人
は恋に落ちる。その後昭和21年結婚し、長男伸三/長女マヤの2人の子供に恵まれる。島尾元少尉は昭和61年死去。

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▲呑之浦の入江を左に見ながら海岸線を歩いて行く。
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▲▼復元された「震洋」が収まる秘匿壕が迎えてくれる。
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この展示方法は非常に説得力があり、そして当時のままの現場にあるという事に意味がある。
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海軍でよくある入口付近のみコンクリート造り、奥は素掘りだ。欲を言えば発進レール(丸太)も復元して欲しかった。
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秘匿壕入口は正に震洋サイズギリギリに構築されているが、素掘り空間は割と余裕がある。
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▲奥行きはおよそ25m位。全長約5mの震洋が5隻収納出来る奥行きのはずだ。
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右手に秘匿壕が連なって口を開けている、当時は舗装道路道は無かったはず。丸太かレールで出撃態勢だろう。
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▲▼この秘匿壕は崩落するのは時間の問題だろう・・・。
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▼この秘匿壕は完全に崩落。
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▼この秘匿壕はかろうじて崩落をまぬがれているが・・・。
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▼ここも崩落は時間の問題だろう・・・素掘り壕はいつかは崩落する運命だ。
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ここも崩落か・・・。
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壕は5基確認出来た。第18震洋隊は52隻配備されていた。秘匿壕5基(25隻分)を見学した事になる。
加計呂麻島には、ここ呑之浦の第18震洋隊の他、三浦に姉妹隊の第17震洋隊が配備されていた。
大島海峡対岸の奄美大島本島の久慈湾には第44震洋隊があり、喜界島にも2個隊があった。
呑之浦では小舟による入江の他部落の交通を禁止し、入り江を封鎖した。
住民は浜沿いの道を通れずに山道を歩くことになっていたという。適当な場所に小さな番小屋が建ち、番兵が24時間
体制で住民から震洋隊を秘匿するのに海軍は神経を使っていた。奇襲攻撃(特攻)をする為の部隊だったからである。

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▲今は静かで美しい呑之浦の入り江。昭和62年、島尾敏雄著の「震洋発進」が出版された。その本には実際に出撃した
 震洋隊3隊の内の1つ、第22震洋隊の事が書かれているというので是非読んでみたいと思っている。
出撃した震洋隊は昭和20年2月15・16日フィリピン・コレヒドールに配備された第12震洋隊松枝義久隊長以下50隻。
昭和20年3月26日沖縄戦で運天港海軍基地より出撃した第42震洋隊、4月4日に出撃した第22震洋隊が中城湾や金武
湾沖に突入していった。

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▲ベニア板の船体にトヨタエンジン、船首に250㌔爆弾を積んで敵艦船に突入する海軍特攻艇「震洋」
[ 奄美諸島大島防備隊 ]※戦死はほとんどが空襲と戦争マラリア
(奄美大島久慈)第44震洋隊55隻S20.01.25配備 三木少尉以下178名(内13名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]三浦)第17震洋隊53隻S19.10.15配備 林大尉以下185名(内4名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]呑ノ浦)第18震洋隊52隻S19.10.15配備 島尾中尉以下186名
(喜界島早町)第40震洋隊55隻S20.01.25配備 安藤中尉以下192名(内3名戦死)
(喜界島小野津港)第111震洋隊26隻S20.02.25配備 後藤少尉以下190名(内5名戦死)
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▲▼次に向かったのは三浦にある艦船用給水ダム。瀬相の戦闘指揮所跡にも行きたかったが場所が解らなかった。
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▼案内標識に沿って舗装道路から反れると、この様な道になる。途中からは徒歩で行く事になる。
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少し歩いて小高い場所に行くと・・・再び案内板が。「あとちょっとでダムですよ」って何かホッとする。
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▼出た!ホントにダムだ・・・凄い。
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今でも満々と水が溜まっている。現役のダムの様だ・・・軍はダムまで造ってしまうとは恐れ入った。
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今でも使えるじゃないか?と錯覚してしまう程頑丈な造りで残っている。
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昭和初期から終戦まで、途方もない国防費が費やされていたであろう事が容易に想像出来る。
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雨が降ってなければもう少しダム下側を見学したかったが、草木に覆われている事もあり来た道を戻る事にした。
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▼▲戻る際に脇をよく見ると、ダムから繋がっている排水路が確認出来た。
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石垣が築かれ、しっかりとした造りだ。
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▲放水の際は此処を水が大量に流れて瀬相まで供給されるシステムだったのだろう。
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▲大島輸送隊 隊員勇士。大島輸送隊は民間の徴用船では無く、全てが海軍艦艇で編成されていた。
昭和20年3月27日、第17号1等輸送艦/第145号2等輸送艦/第146号2等輸送艦/第186号海防艦/第17号駆潜艇/第
49号駆潜艇の計6隻で編成された海上輸送部隊(大島輸送隊)が、3月31日18:00(加計呂麻島)瀬相に向けて佐世保を
出港した。
既に米軍は前日の26日沖縄の慶良間諸島への上陸作戦を開始しており、船団が沖縄本島へ辿り着くのは不可能だった。
そこで沖縄の手前の奄美大島・加計呂間島の大島防備隊に特殊潜航艇、弾薬、地雷、糧食などを一旦揚陸し、機会を見
て沖縄にピストン輸送しようと考えたのである。
しかし集まった6隻は全くの寄せ集めで、編隊航行すら出来ず信号も手旗信号以外は未熟だったのに加え、艦に乗るの
が初めての経験の浅い体力のない第2補充兵だった。
旗艦の第17号1等輸送艦は2月8日に竣工したばかりで、3月10日の沖縄輸送作戦が始めての作戦行動だった。
第186号海防艦も2月15日に竣工したばかりで、今回が初の作戦行動であった。

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▲(参考画像)第146号海軍二等輸送艦(戦車揚陸艦)
それでも何とか準備を整えた輸送隊は3月31日18:00に佐世保を出港、米軍機の攻撃を受けながらも4月2日午前1時
には無事、瀬相に入港して積荷の揚陸を開始した。
第17号1等輸送艦は特攻基地関係物資200トン、大島防備隊関係弾薬物資400トンを。2隻の2等輸送艦はそれぞれ乗
用車1台と120トンの物資を積んでいた。揚陸作業には防備隊や大島蛟龍隊の関係者、更に地元瀬相集落の住民がリレ
ー方式で揚陸作業を行った。軍民総出進軍ラッパを吹いての作業で4月2日06:30までに9割の分散揚陸を完了させた。
他に第17号1等輸送艦の後部には沖縄に進出する中平善司中尉の率いる甲標的2隻が積まれ、基地員・整備員約30名も
一緒に進出していた。

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▲(参考画像)第5号海軍一等輸送艦。昭和19年8月17日情島沖 甲標的発進実験時。後部に甲標的を搭載している。
甲標的は沖縄本島北部の運天港に基地があったが、一先ず奄美に進出して島伝いに沖縄を目指す計画であった。
入港前の空襲で中平艇は米軍機の銃弾を受けた。応急修理の後2日の空襲中は潜行していたが、修理途中の溶接不十分
な箇所から海水が浸入した為やむなく浮上している。
4月3日米軍機が大挙来襲、午前中の第1波~第3波の攻撃目標は瀬相沖の大島輸送隊の艦船だった。
各艦は地上からの対空砲火と合わせ米軍機を迎撃したが第186号海防艦が艦橋後部に直撃弾を受け大火災を起し轟沈。
この空襲で輸送隊は102名が戦死(海防艦53名、輸送艦49名)、負傷者80名をだした。

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▲(参考画像)海軍海防艦。領土近海で沿岸警備・船団護衛・対潜哨戒などを主要な任務とする目的で建造された艦。
 装甲が厚く航続距離・最高速は犠牲にされている。なので、鈍足の輸送船の護衛に適していたとも言える。

空襲終了後、第17号1等輸送艦の乗組員は応急修理に努めたが浸水が激しく、沈没は時間の問題だった。
そこで艦搭載の弾薬・食糧の他、船倉内の未揚陸の物資、更に25ミリ機銃も取り外して揚陸する事とし、乗組員と防
備隊の兵士達は、艦内の火災の熱で蒸風呂のような船倉内から、全身汗だくとなって物資を運び出した。
21:00総員退去が発令され、乗組員は大発で退艦した。上等主計兵曹の加藤重信さんは、陸上から沖合いでメラメラ
と燃える艦を見つめていた。真夜中頃に船倉に残っていた地雷の誘爆で大きな火柱と共に沈没したと語っている。
アメリカ軍の空襲と、座礁事故により輸送艦2隻と海防艦1隻を失った大島輸送隊の残存艦は、昭和20年4月4日午前に
瀬相を出港して佐世保を目指した。

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▲(参考画像)海軍駆潜艇。主に潜水艦の駆逐を主任務とし、局地での警備、艦船の護衛に当たる小型の軍艦艇だ。
4月7日佐世保を目指す大島輸送隊は、4月6日15:00山口県の徳山湾から出撃し、沖縄突入を目指す戦艦「大和」以下
8隻の海上特攻隊とすれ違った。11:00頃すれ違った両艦隊は互いの武運を祈る信号を送りあった。
その後12:30頃、大島輸送隊から6万メートル以上離れた南方に黒い爆煙が認められた。海上特攻隊の駆逐艦「朝霜」
か「浜風」の最期ではないかと言われている。他「雪風」「冬月」「矢矧」「磯風」「霞」が「大和」を護衛している。
実は佐世保を目指す大島輸送隊の残存艦は、08:30には海上特攻隊捜索に飛び立ったグラマンに発見されていた。
大島輸送隊が攻撃を受けなかったのは、米艦隊が大和撃沈に目標を絞っていたからである。

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▲昭和20年4月7日戦闘中の「大和」と「矢矧」
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▲必死の回避行動をとる「大和」。しかし戦闘機の護衛の無い船団は米軍機の恰好の攻撃目標にすぎなかった。
もし海上特攻隊が出撃していなかったら、大島輸送隊は空襲を受けて全滅していた可能性が高いだろう。
戦艦「大和」攻撃に向かった米艦載機は奄美諸島上空を通過している。奄美大島曽津高崎の海軍レーダーは4月7日早朝
200キロ以上の距離に大編隊を探知している。この編隊は帰途は島の上空を通りその数は約120機を数えたという。
喜界島では10:50頃、上空を艦上機150機が北西進するのが目撃され、その旨の電文が打たれ11:30頃にも大編隊
250機が北上中との電文が打たれたが、沖縄へ特攻出撃の「大和」の運命は変わらなかっただろう。

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▲敗戦後、残った二等輸送艦は復員船としても使用された、沢山の帰還兵が乗っている。
三浦には艦船ダムの他、「佐世保海軍施設部隊鎮魂碑」があるという事だったが、場所は簡単には解らなかった。
昭和20年6月20日米軍の空襲の際、防空壕に避難していた佐世保海軍施設部隊(防空壕等の掘削任務に従事)に爆弾が
落ち、全員が防空壕で生き埋めになり死亡したとの事。この時たまたま内地から来島していた隊員の家族も爆弾の直撃
を受け亡くなられたそうで、これらの方々の霊を鎮めるため鎮魂碑が佐世保海軍施設部隊名で建立されている。
現在でも、毎年6月20日には生き残った方やその家族の方達により慰霊祭が執り行われている。

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▲薩川まで来た。薩川集落は現在、35世帯59人との事。案内板で辿ったルートを復習してみる。
生間(港)➡渡連(砲台跡行かず)➡安脚場(兵舎見学)➡スリ浜➡呑之浦(第18震洋壕)➡三浦(艦船ダム)➡薩川だ。

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▲薩川小学校に「奉安殿」が残っていると書いてあるので行ってみた。
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▲カジュマロの木にくくりつけられた案内標識、子供達の手書きだろうか、手作り感が何とも言えずいいですね~。
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▲薩川小学校正門。この学校はNHK土曜ドラマ「島の先生」のロケ地だ。教師役は仲間由紀恵だった。
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▲▼素晴らしい自然に囲まれたレトロな小学校!全校生徒は7名(1年1名/2年1名/3年1名/4年1名/5年2名/6年1名)
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▼正門からは海!天気悪いけど・・・。
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▼そして正門の直ぐ横に・・・あった!昭和10年建立の奉安殿。
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敗戦前まで全国各地の学校にあった奉安殿。此処の奉安殿は小さいけど立派だな・・・。
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沖縄で見た奉安殿とは形が違うので、色々な形があった事を知った。薩川小学校の奉安殿は国の登録有形文化財。
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▼因みにこれは沖縄本島(沖縄市知花)「美さと児童園」裏庭に残る旧美里尋常高等小学校の奉安殿。市指定文化財。
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瀬戸内町(奄美本島含む)には6つの奉安殿が解体を免れ、倉庫などとして使われてきた。そして平成18年8月3日、国
の「登録有形文化財」となった。薩川小学校の他、古仁屋小学校・須子茂小学校・池地小中学校・節子小中学校・木慈
小学校(廃校)に奉安殿が現存しているとの事。
▼創立80周年を記念してつくられた「亡師亡友の碑」。薩川小学校は明治40年4月開校の歴史ある学校だ。

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▼次は実久(さくね)に向かうのだが、ちょっと芝方面から「夕日の丘」に寄り道。天気悪い・・・。
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▼眼下に実久ビーチと江仁屋離島が見える。江仁屋離島は海軍砲台が建設されていた島だ。
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▲天気が悪く最悪な画像になったが、晴れていれば素晴らしい景色だろう。黒矢印がビーチ。海の色が全然違う!
こんな素晴らしい絶景スポット「夕日の丘」だが、アクセスは素晴らしい道が通っているのに、通行量が無いに等しく、
落ち葉や、小さながけ崩れによる泥・砂利が散乱している区間が長く続き、スリップには注意したいところだ。
そして次は、加計呂麻島最西端にある実久(さくね)へ向かう。

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▲実久に着いた。案内板に書いてある江仁屋離島は、先程「夕日の丘」から見えた海軍砲台跡がある島の事だ。
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▲▼実久のビーチ。「夕日の丘」から見えた海の色が全然違う部分だ・・・雨なのに綺麗!
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この綺麗さは写真ではなかなか伝わらないだろう・・・今まで見たビーチで1番綺麗かもしれない・・・。
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▼慰霊碑があった・・・。
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実久の戦没者慰霊碑だ・・・まだ新しい綺麗なお花が供えてある、未来永劫大事にしていかないといけない。
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奄美大島に来てから、忠魂碑や慰霊塔、慰霊碑が非常に大切にされている事に感動していた。此処も例外無く綺麗。
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▲昭和50年6月吉日 郷土出身者建立とサイドに書いてある。戦後30年経ってからか・・・昭和28年返還だからね。
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▲当然の事ながら、一礼して黙祷をさせて頂きました。
お名前の苗字が漢字一文字の方が目立つ。これは薩摩藩政時代、鹿児島を含めた内地の人が、見下げた見識で奄美の人
と、直ぐ解る様に改名させられた歴史のなごりだと地元の方から聞いた。もちろん、証拠があっての話では無いそうだ
が、奄美の当時の文献が全て薩摩藩によって処分され、悲しんだ奄美の人は、全てを唄に込めたと言われている。
現在でも加計呂麻には多くのシマ唄が唄い継がれ、歌詞を読み解くと薩摩藩政時代の改名も唄われているという。

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▲加計呂麻島には大正10年に安脚場砲台、実久砲台、江仁屋離島砲台が建設された。
 その後海軍によって須子茂モン崎砲台と待網崎高角砲台、震洋秘匿壕が構築された様だ。
 江仁屋離島へは特別に区長の許可をもらい、加えて船をチャーターしないと行けないので今回は無理だ。
 しかし、実久砲台があったという事は、この辺りに兵舎があってもおかしくないと、辺りを散策。
 すると、やはりあった!ほぼ完全な状態で残っていた。

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▲▼安脚場で見た兵舎と、入口の感じも含めてほぼ同じ形だ。此処は「監守衛舎」跡。
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「見学はご自由にどうぞ」って感じで開放されているので、まずは外観を見て回る。
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▲大正時代はまだ材料を豊富に注ぎ込めたのだろう・・・強固なコンクリートの壁で兵舎を囲っている。
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▲これは何だろう・・・国旗(軍旗?)掲揚台か?
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▲掲揚台に登って撮影。
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▼雨なのに窓?扉?は全て開放されているので中は外から撮影。
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此処でも指揮官クラスの軍人が生活していたのであろう。
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今の公民館ぐらいの広さはある。
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▼あ!トイレがある・・・。
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▲▼奄美大島本島の西古見で見た兵舎と同じだ!
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▲ぐるっと一周して見学し、兵舎を後にした。兵舎から山手に向かって道があり、砲台跡に行けそうだったが、草木が
 生い茂り、当時の軍道のままで舗装道路でも無い為、雨でぬかるんでいた事もあり、今回は見学を断念した。
 帰りは瀬相から船に乗って、奄美本島に戻る事にしていたので、瀬相港まで戻った。
 瀬相のフェリー待合所で2枚のポスター?が目に入った。
▼俵中学校(ひょうちゅうがっこう)の最後の卒業生との事だ。現在無期限休校との事・・・。

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「奄美大島」で先に紹介した自衛官募集のポスター
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瀬相には海軍の戦闘指揮所跡が残っているそうだが、今回は雨という事もあり次回にする事とした。
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▼▲瀬相港を後にする。
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▲徳洲会加計呂麻診療所が見える、此処で対応出来ない救急搬送はドクターヘリが本島から来るそうだ。
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本島まで毎日フェリーで通勤している人も多いらしい。スーパーも無く不便な島という感が無いと言ったら嘘になる。
しかし、静かで超綺麗な海と自然だらけの加計呂麻島の島民達は、島のリゾートホテル建設も拒否したという。
奄美大島には22万トン級クルーズ船の寄港地建設計画が持ち上がったそうだが断念したと聞いた。
心の中で安心した感があった・・・島の経済状況や加計呂麻島の人口減少など、将来の不安と常に隣り合わせの離島。
短期間の旅行では見えない事の方が多いだろう、しかし将来の不安は離島に限った事では無く、本州に住む者でも同じ
だ。人気の沖縄(那覇)は何度も訪れているが、大阪と変わらない人混みと忙しさで、心底リラックス出来る島の様な気
がしなかった。奄美は心底リラックス出来る場所が無数にある。このまま静かに奄美の歴史が続いて欲しいと思った。

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▲奄美大島に戻ってから「てっちゃん」龍郷店で夕食を済ませ、ホテルに戻った。此処は美味しかった~。
※奄美の外食店では鶏飯(けいはん)というメニューが至る所で出されているが、特筆する程の料理では無かった。


これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】 泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


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 2018_02_01

奄美大島

Category: 奄美大島  

鹿児島県に属する奄美大島は、佐渡島・沖縄本島などに次ぎ面積5位の島だ。
奄美大島・加計呂麻島には戦時中、奄美大島と加計呂麻島に挟まれた大島海峡防備の為、海軍の奄美大島要塞が建設さ
れ、奄美大島の名瀬・古仁屋・久慈は軍港として使用された。
加計呂麻島には海軍の砲台や艦船給水施設やダムが建設され、特に薩川湾は水深が深い天然の良港で、戦時中は軍港と
して連合艦隊の錨地として大和や武蔵を含め多くの艦艇が錨を休めた港として有名で瀬相港に海軍司令部が置かれた。
(渡連)待網崎には高角砲台が設置され、大戦末期には呑之浦に第17・18震洋隊を配備。その遺構は現在も残っている。
大戦末期、奄美諸島には奄美大島・加計呂麻島に3隊、喜界島に2隊の合計5隊の海軍震洋隊(特攻艇)が配備された。
陸軍の海上挺身戦隊は、奄美大島(阿鉄集落)に海上挺進第29戦隊が配備されていた様だ。
奄美大島(久慈湾)に第44震洋隊を配備。古仁屋基地から第801海軍航空隊偵察第302飛行隊・第634海軍航空隊偵察
第301飛行隊の「瑞雲隊」(水上偵察機)が沖縄攻撃に出撃している。
奄美群島の主な島の中に、喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島がある。太平洋戦争(大東亜戦争)中、本土上陸を目指
す米軍の侵攻に備え、喜界島・徳之島には日本軍の飛行場が建設された。
知覧・万世や鹿屋から出撃した特攻機が、機体トラブルや交戦被弾で不時着した飛行場として良く耳にする島だ。
喜界島の海軍飛行場(不時着場)には、昭和18年7月10日南西諸島航空隊が開隊(本部は沖縄本島の小禄航空基地)。
南西諸島の陸上航空基地が管理下に置かれ、同隊の喜界島派遣隊が常駐していた。現在も喜界空港の位置は同じ。
徳之島には昭和18年、陸軍特攻隊(知覧/万世)の中継基地として陸軍飛行場(浅間飛行場)が建設され、昭和19年6月
から運用を開始している。沖永良部島には独混21連隊第3大隊が配備され、大隊は越山を中心に陣地を構築した。
特攻部隊の基地がある各島は激しい空襲を受けた。米軍は昭和20年5月喜界島に上陸部隊を送り込む作戦計画があった
が、実施されずに終戦を迎えている。
戦後、北緯30度以南のトカラ列島・奄美群島や沖縄・小笠原諸島は日本から分離され、サンフランシスコ講和条約発効
後も米軍の施政下に置かれた。東京や関西在住の奄美出身者らが始めた祖国復帰運動は奄美にも波及。
島民による署名活動や総決起集会、密航による東京での陳情活動などを経て、昭和28年12月25日本土復帰を果たした。
その後、小笠原諸島は昭和43年・沖縄は昭和47年に本土復帰している。
3連休中に奄美群島全てを見学するのは不可能なので、今回は2017年3月26日に再就航したバニラ・エア大阪/関西空
港線を利用して奄美大島・加計呂麻島の戦跡を駆け足で巡ってきた。

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▲関西国際空港から僅か1時間45分程で奄美空港に到着。
旧奄美空港は昭和39年開設で、昭和63年から現在の埋め立て地による新空港の運用を開始している。
よって奄美空港の旧軍との関係は無いものと思われる。旧奄美空港は現在、奄美パークとなっている。

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▲1月は晴れた日が珍しいという話の通り、小雨が舞うあいにくの天気だったが、気温は18度で十分南国だ。
1998年日本エアシステムが運航休止。2001年エアーニッポンが運航から撤退。2010年にスカイマークが運航休止な
ど、沖縄に比べて極端にアクセスが悪かった奄美大島だが、世界自然遺産登録を見据えてか去年3月バニラ・エアが再
就航。直通便が運航されて行き易くなった。飛行機の乗り継ぎは面倒だからね・・・。

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▲▼けっして大きな空港では無いが、綺麗に整備されていて気持ちいい。
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世界遺産登録成るといいな~でないと、また直行便が運航撤退とか言い出すと行きにくくなってしまうからね・・・。
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▼空港でレンタカーを借りて島を周る。「奄美」ナンバーを初めて見た。
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聞けば2~3年前までは、普通に「鹿児島」ナンバーだった様だ。まだ島では鹿児島ナンバーの方が多い。
「奄美」の方が島らしくていいね!原付スクーターのご当地ナンバーもお洒落!

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▼奄美大島の中核都市というと名瀬だが、2006年いくつかの村と町が合併し、現在は奄美市となっている。
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▼昭和20年4月 米軍の空襲により焼け野原となった名瀬(奄美市の中心部)
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▼現在の名瀬(奄美市) 赤矢印の場所は名瀬末広町のAiAiひろば。湾は埋め立てられて狭くなっている様に見える
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▲AiAiひろば(赤矢印の場所)で「紬コーディネート・コンテスト」が開催されると聞いていたので行って見た。
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▼AiAiひろばを目指して街の中心とも言える商店街を通る。すると商店街入口に大きな看板が・・・。
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南西諸島の離島防衛強化を目的に、鹿児島県奄美大島に配備される陸上自衛隊部隊は約550人規模。
地元の奄美市長・瀬戸内町長も受け入れを表明し、奄美大島の駐屯地整備は2015年から既に着工している。
奄美空港から名瀬へ来る途中、58号線を走りながら、兵舎建設現場も見えた。
離島有事に対応する「中距離地対空誘導弾部隊」や大規模災害時に初動対応を担う「警備部隊」などが主な隊で、皆、
日本の領土を守る為に島に勤務する隊員ばかりだ。有事の際、隣国の大国に数では到底勝ち目は無い事も理解出来るが
奄美大島一の繁華街で、プロ左翼のこの様な看板を目にする事で自衛隊員の士気が下がらない事を祈る。

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▲正月シーズンという事もあるが、この様に「日の丸」を掲げているお宅も沢山見た事もお伝えしておく。
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      ▲これは後にご紹介する加計呂麻島で見た募集広告。当然奄美の若者も勤務するはずだ。

▼気を取り直してAiAiひろばで開催された「紬コーディネート・コンテスト」を見学する。
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有名な大島紬(つむぎ)は奄美大島の基幹産業で(と言っても年々需要は減るばかりだが)紬製造約1300年の歴史は古い。
一反(12m50cm)が織り上がるまで、半年から1年を要する着物愛好家なら誰もが憧れる日本を代表する絹織物だ。

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▲2018年紬美人がステージに登場。一番左の方はイギリス人。オックスフォード大学の学生さんで泥染めや藍染めを
 勉強しに来ているそうだ。流石紬美人に選ばれた方達なので皆、美しい方ばかりだ・・・。

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▲駐車場に戻る途中、懐かしい61クレスタを発見!塩害の多い島ではかなり程度が良い車に見えた。
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▲宿泊は龍郷町のホテルカレッタ。屋外プールも備えた綺麗なホテルだった。
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▲▼翌日、マングローブ原生林や綺麗な海を見ながら一路「西古見観測所跡公園」を目指す。
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天気予報を覆しての晴れ間。いつも戦跡巡りでは天気予報を見事に裏切って晴れてくれる。本当に感謝だ・・・。
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▲大島海峡を左に素晴らしい景色だった。
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▲奄美市から島を南下し、西古見集落を目指してひたすら島を西へ進んで休憩。加計呂麻島と江仁屋離島が見える。
 大島海峡の入口にあたるこの海域は軍事的に重要視され、海の向こう(加計呂麻島の隣)右手の江仁屋離島には海軍の
 砲台が設置されていた。現在は無人島で、軍事遺構はかなり残っているが、水上タクシー等をチャーターしなければ
 個人的にはなかなか行く事は出来ない。

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▲西古見集落を抜ける時に通った古い橋、気になって車を止めて見学。この辺りから道が狭くなっている。
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▲昭和13年に作られた西古見橋が今でも現役だ!
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▲西古見ナハンマ公園。トイレも完備された綺麗なビーチだった。
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▲更に進んで行くと、人気の無い廃墟が現れた!どうやら当時の「奄美大島要塞」地区に入った様だ。
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事前情報が少なく、此処も知らなかったが兵舎の様だ・・・早々に車を止めて見学体制に入る!!
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当時の海軍兵舎跡だろう・・・大正10年9月に西古見第1砲台・西古見第2砲台着工の時に建設されたと思われる。
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現在は地元の方が物置きとして利用しているのだろう。70年以上経っているがまだまだしっかり残っている。
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▲▼頑丈なコンクリートの壁で仕切られた敷地内は恐らく高官の兵舎だったのだろう・・・中を覗いてみる。
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屋根は朽ち果てて落ちている様だが遺構は残っていそうだ。
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▼▲壁や基礎はしっかり残っていた。奄美大島の重砲兵第6連隊長 末松五郎大佐が居たのだろうか・・・。
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▼トイレが残っている!
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小便器も当時の物か!?
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ここに駐屯していた海軍部隊は奄美大島要塞重砲兵連隊とある。昭和19年5月3日をもって重砲兵第6連隊に改称。
陸軍独立混成第64旅団に編合され、主力は引き続き奄美大島要塞の防備にあたる一方、1個中隊を徳之島陸軍飛行場へ。
1個小隊を喜界島海軍飛行場の防衛のために派遣したとある。兵舎があるという事は砲台は近いはず!
舗装された道とは別に、舗装されていない当時の軍道が更に奥へと進んでいるのでその方向へ進んでみる。

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▲▼あった。砲台跡と弾薬庫が!大正時代に建設された物だが赤煉瓦では無い。砲台跡は大島海峡を向いている。
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砲台跡と弾薬庫は2基確認出来た。明治時代は石積みや赤煉瓦造りが主流だが、大正時代はコンクリートか。
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▲砲台完成当時はこの様な曲射砲が設置されていたのであろう(参考画像は28糎榴弾砲)
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弾薬庫内部の保存状態は良好。
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兵舎も弾薬庫も、何の案内板も無くひっそりと当時を伝えている・・・。
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現在は誰の所有物なのだろう・・・強固な極上物件だ(笑)
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▼弾薬庫の壁に刻まれた謎の数字・・・何の意味だろうか・・・?全く理解不能だ。
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どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教授下さい。
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▼弾薬庫から更に奥地へ進んで行く。
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すると、水源にしていたと思われる川を発見!
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僅かではあるが遺構が残っていた・・・沈殿池跡との事(ビグロ様有難うございました)
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飲めそうなぐらい綺麗な水だ・・・。
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沈殿池跡を後にする。(沈殿池とは、水を清澄化する役目を果す池である)
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▼時間も押していたので元来た道を戻り、最初の目的地である「西古見観測所跡公園」に向かう。
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▼やっと「西古見観測所跡公園」に到着。
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誰も居ない・・・。
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▼▲車を駐車スペースに停めて早速見学。階段を登って進むと・・・おぉ~!これか。
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しっかりとしたコンクリート造りの観測所だ。
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当時はほぼ土と樹木に覆われてカムフラージュされていたであろう。
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▼▲大島海峡の入口がしっかり見渡せる絶好の場所だ。
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▼観測所は中に入る事が出来る。
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早速中へ入って見る。当時ついていたであろう鉄扉は無い。
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中は綺麗に清掃され、保存状態の良さが引き立つ。
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この丸い台座の上に観測望遠鏡が置かれていたのだ。大正当時は輸入品だろうか。大きかったと思う・・・。
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KANSOKU.jpgこんな感じの物だったのかな?
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▼▲この空間から砲身の様な大きな双眼鏡で大島海峡に侵入する敵を監視していたんだろう・・・。
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ここで得た情報を、さっき見学した砲台に伝える仕組みになっていた。
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▲▼2階部分もある。当時は梯子があったと思うが、現在はちょっと見学は難しい・・・。
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▼中から入口を見る。
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最後に雄大な海と大島海峡を眺める。
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この先もずっとこの遺構は大島海峡を見守っている事だろう・・・振り返って観測所を見て次へ移動する事にした。
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▼観測所跡から更に進んで行くと、奄美大島の西の端。曽津高崎(そつこうざき)灯台がある。
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曽津高崎灯台の案内標識がある場所からは、舗装されていない荒れた道が続くのでパンク等に注意が必要。
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▼矢印の所が曽津高崎灯台。展望所からは、曽津高崎灯台まで連なる岬と東シナ海の水平線が見える。
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この先も、舗装道路では無く、石がゴロゴロするかなり荒れた道路なので、スピードは控えめに。
この付近では野生のヤギの群が見れるそうだが出くわさなかった(増えすぎた野ヤギは排除に手を焼いているらしい)
しかし、灯台近くまで行ったものの、地元の方がいらっしゃって、「この先灯台へは行けない」と告げられた。
聞くと、去年の台風で道が崩落しているとの事。しかし、旧軍施設が残っているからと、案内してくれた!

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▲どうやら、この崖の下に旧軍施設が残っているとの事。足を滑らせると海へ転げ落ちる可能性もある・・・!
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▲因みに通行禁止となっている場所からの絶景。かなり高い位置だ。
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▲黒矢印は歩いて来た方向。赤矢印は遺構が残る斜面の方向。慎重に斜面を下りると・・・。
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▲あった!斜面のほんの少しの平地に建設されている!監視所跡だろうか・・・?
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海の方向に窓が無いので、ただの倉庫かもしれない・・・台風対策で海の方向に窓が無いのか?
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結局灯台を見学する事は出来なかったが、案内してくれた地元の方によると、現在の灯台は戦後作り直された灯台だそ
うで、現在の灯台建設の際、海からコンクリートなどの資材を運搬したとの事!
此処に灯台が建設されたのは日清戦争後の明治28年12月6日で、翌年の11月8日竣工されたとの事。建設は陸軍省で、
奄美大島で最初の灯台だったという。戦時中は陸海軍の砲台や弾薬庫、防備衛所、監視所が建設されたそうだ。
戦後は海上保安部が管理し、灯台職員が住み、子供達は歩いて西古見小学校に通っていたという。
奄美方言があまり無い方だったので、お話を更にお聞きすると、その地元の方は出稼ぎで尼崎の川崎重工に10年以上勤
めていたそうだ。どうりで少し関西混じりの話方だと思った~!そういえば兵庫県尼崎杭瀬(くいせ)地区は奄美・鹿児
島出身者が多い街で「リトル奄美」と呼ばれているのを思い出した。
 その方からは米軍統治下の沖縄・奄美群島とで使用されていたアメリカ軍の軍票「B円」のお話も伺った。
奄美群島本土復帰後、本土で日本円に換金してもらった時、2倍程度だった事をよく覚えているとも語っておられた。
敗戦直後本土地域でも、占領軍によってB円も日本円と同じく正式な通貨とされ支払が開始されたが、日本政府が占領
経費を日本円で支弁する事を交換条件として軍票支払の停止を要請し、占領軍に承認された為、出回った量は極少だ。
昭和23年7月15日をもって、本土ではB円は廃止されたが、ほとんど流通していなかった為混乱はなかった。
本土で回収されたB円紙幣は沖縄で使用された様だ。
地元の方にお礼を言ってその場を後にした。
▼今回見学した遺構は白矢印の所。他にも未開の旧軍施設の遺構が沢山残っていそうだ・・・見てみたい!

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次に、久慈湾近くに残る、海軍艦船補給基地(給水施設)と第44震洋隊秘匿壕に行く予定だったが行けずじまい。
久慈湾が軍港だった戦時中は、軍艦や輸送船に給水する施設が建設され、大戦末期には第44震洋隊が配備された。

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▲▼米空母ハンコック(CV-19)から出撃した米軍航空機によって撮影された久慈湾の日本軍艦船への爆撃の様子。
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▼▲米軍の空爆を受ける久慈湾に停泊している日本軍艦船(昭和20年3月1日米軍機より撮影)
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▲上記の3枚写真がそのものかどうかは不明だが、恐らく「大信丸」ではないかと思う。
「大信丸」は明治37年起工の大阪商船の貨物船で、大戦末期には当然軍に徴用されていた。
直前の航海としては昭和20年2月27日(カタ604船団)鹿児島港を出港、3月1日久慈湾に入港している。
沈没日時は昭和20年3月1日08:39奄美大島久慈湾内で米第58機動部隊艦載機による空爆を受け、右舷後部に直撃弾
2発を受けて沈没、と記録されている。
この時「大信丸」の所属はカタ604船団。大信丸には、海上挺身第30戦隊の特攻隊員達が乗船しており、宮古島へ向か
う途中であったが、沈没により16名の戦死者を出している。(海上挺身戦隊は陸軍の特攻ボート「マルレ」の部隊)
この沈没で積み荷であった海上挺身第30戦隊のマルレは全て喪失。生き残った隊員は広島県安芸郡江田島町の「幸の浦
基地」に戻る事となり、後に8月6日の原爆を経験、戦隊長 富田大尉の命令を受け、彼等は素晴らしい救援活動を行う。
広島の壊滅を知った第30戦隊長の富田稔大尉は、広島市民救援の為、偵察任務の「第一次救援隊」を編成。
これは第30戦隊の隊員10名と軍医で構成、大発で幸の浦から陸軍船舶司令部のある宇品に向かわせている。
隊員の多くは10代後半の少年兵で、危険を顧みず広島市内で勇敢に懸命に救助活動を行っている。
8月15日玉音放送を聞いた後、江田島(幸の浦)の海岸で、積み上げた自分達の特攻艇「マルレ」を焼き払い、少年兵の
戦争は終わった筈だった。が・・・原爆症が少年兵達を襲った。
原爆投下当日に広島市内に居た被爆者には「被爆手帳」が交付されたが、救援隊の少年兵の様に後日市内に入って被爆
した者への救済処置が戦後長らく無く、高額な治療費を全額自弁するほかは無かった。
「被爆者」へのいわれなき差別は、これこそ当日被爆者の方達と差別無く受けたという。当時の被爆に対する無知で、
本来称賛されるべき兵士達を「ピカの病人」と差別した同胞が多かったのも事実である。

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奄美大島は1周460㌔もある大きな島。一言で観光と言っても、各所~各所を車で巡るには相当な時間がかかる。
鉄道は通って無く、高速道路も無い。時間も押していたのもあるが、国道沿いを、ただ通過しただけでは簡単に見つけ
る事は出来なかったが、「カンツメの碑」だけ立ち寄った。

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先の大戦とは関係が無いが、宇検村名柄と瀬戸内町久慈を舞台とした悲しい伝説がある。
薩摩藩政下時代、名柄に裕福な豪農の家があった。そこには使用人(ヤンチュ)➡[ 借金返済の代わりに身売りした人 ]
と呼ばれる人々がおり、その中に「カンツメ」と言う名の従順で美しい娘がいた。
歳は19~20の頃。カンツメは、ヤンチュ仲間からはもちろん、屋敷の主人からも想いを寄せられていた。
 ある日、隣村の久慈の役所で筆子役として働いていた岩加郎という青年が、名柄の豪農であるその家を訪れた。
屋敷の主人は岩加郎をもてなす為にカンツメに引き合わせた。夜も更けるにつれ2人の呼吸は冴えるばかりで、カンツ
メは身分も忘れて一夜を過ごした。その後2人は愛し合うようになり、両村の間の山で人目を忍び密会を繰り返すが、
ほどなくして、2人の仲はカンツメの主人にばれてしまう。
かねてからカンツメに想いをかけ、その度に拒まれ続けていた主人は激怒し、ある晩夜露に濡れて帰ってきたカンツメ
をその場に引き倒し、焼火箸で彼女を折檻した。
見るも無惨な姿になってしまったカンツメは、その日も山での重労働に追われ、仕事が終わると仲間と別れ、1人で岩
加郎と忍び会った場所に走った。何も知らない岩加郎は、沈んだ表情のカンツメを迎え、いつものように楽しい一夜を
過ごした。やがて山鳥が朝を告げようとする頃、カンツメは「あかす夜は暮れて、わきゃ夜は明ける 果報節のあらば
また見逢いそ(冥界の夜は暮れて貴方の夜は明けます。よい時節が来ればまた会いましょう)」と歌って姿を消した。
我に返った岩太郎が目にしたのは、カンツメの変わり果てた姿であった。カンツメの霊は、その後多くの祟りを主家に
もたらし、名柄の豪農の家は衰え消え去った。厳しい労働に加えて、主人の嫉妬と暴力。
ささやかな恋の想いをとげられぬヤンチュの立場。恨みをのんで死を選ぶしかなかったカンツメの悲しい物語である。

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碑文は以下の様に書かれている。
奄美は民謡の宝庫と言われ、先人から幾千首の民謡が唄い継がれ情緒豊かな旋律は、島の津々浦々に今なお聞く事が出
来ます。その数多い唄の中で、かんつめ節ほど島人に愛唄されているものはない。
この唄はその昔、この地方に主家で生涯を奴隷同様に働くヤンチュという制度があり、名柄集落のある農家で、ヤンチ
ュ娘(使用人)として仕える年の頃19~20歳、容姿端麗で気立ての優しいカンツメと、久慈集落の役所に勤める、歌と
三味線の巧みな青年岩加郎とはかない恋物語をうたった唄で、美貎で制度の中の弱き者がゆえに、周囲から妬みしいた
げられ一人寂しく散った乙女心をしのび、いつしか誰とはなしに人々にうたいい継がれてきた唄です。
島唄は奄美の自然を歴史に密着し、民族文化の基盤として島人の生活と共に生き続けてきたのです。
この様な祖先の貴産を風化させることなく未来に伝えていく事は大事な事であります。
ここに有志の方々の心暖まる援助をいただき「かんつめ節」の碑を建立するにあたり、かんつめの魂に永遠の冥福を祈
り、ふくつの名作を記念するものであります。  昭和59年3月20日建立

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▲先を急ぎ、宇検村に入る。
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▲次に立ち寄ったのが厳島神社。え?厳島神社って広島(宮島)の・・・?と思ったが平家は源氏に滅ぼされて・・・。
ここで明治・大正・昭和からもっと昔(得意分野では無いが)の時代を少し勉強する事になった。
奄美大島は元は琉球王国の一部だった。なので文化や方言なども沖縄の色が濃かった様だ。しかし壇ノ浦の戦いで源氏
に敗れ、落ち延びてきた平家の落人(おちゅうど)らによって、日本本土の文化が伝えられ、島には幾つかの城砦が築か
れたと言う。喜界島には追って来る源氏を警戒する為の城跡となる平家森も残っていると言う。そして平資盛、平有盛、
平行盛の三将平家が約50日間掛けて、奄美を平定したと伝えられている。
平有盛の家臣は龍郷町今井崎に、見張り用の砦を築き、源氏が来襲するのを警戒したと伝えられている。
(龍郷町は西郷隆盛が幕末に奄美大島で生活した際に、建てた新居がある場所)
平行盛は奄美の人々に農業(稲作)を教えたり、漁法や学問を教えたと伝わる。龍郷付近には「平家漁法」と伝わる遺構
が、海に残っているとの事だ。奄美大島は琉球文化と平安文化(大和文化)が融合した島という事だ。
なので、厳島神社が奄美大島にあっても不思議では無いという事が解った。勉強になりました(感謝)
因みに奄美大島には此処も含めて20ヵ所程の厳島神社(分社)があるとの事。確かに車から神社は沢山見た様に思う。

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▲黒兎のイラストが可愛い看板。
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▲右手がサクラツツジ。花の色が桜色であることからサクラツツジと呼ばれるそうだ。綺麗な花を咲かせる事だろう。
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▲かなり古そうな寄進塔がある。これが村指定文化財か・・・1702年!300年前の物だ・・・。
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▼移動中、牧場をみかけた。
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奄美の肥育素牛(そぎゅう)としての能力は、非常に高いレベルで安定しているとの事。
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奄美群島は鹿児島県内有数の子牛生産地帯としての地位を確立している。
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▼大島群宇検村を抜けて一気に島を北上、今里漁港「立神」と東シナ海が見えた。海の向こうは中国(杭州)辺りかな?
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▼宇検村の綺麗なビーチ。透き通る様な綺麗な海は絶景だった。
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▼大島郡大和村戸円を通過。
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▼戸円海岸は奄美有数のサーフィンスポットだ。
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▼大島郡大和村大金久嶺山の「嶺山公園」を通過、予定には無かったが何か少し気になったので寄ってみた。
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奄美大島の高台は全て綺麗に整備され、ほとんどがトイレ完備で非常に安心感が高い。
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階段を登っていくと東シナ海の絶景が・・・。
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展望台の直ぐ横に石碑があった。「祈 平和」・・・この場所は何か歴史・戦史に関係がありそうだ。
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石碑の裏を見ると、成程平家の落人らが監視していた場所なんだ・・・。
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明治時代から島の人は本土に出稼ぎに行き、残った家族は此処で無事を祈願したんだ・・・。
戦時中は出征将兵達の武運長久を祈願したとある・・・聖地なんだな・・・。来て良かった。

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▲この東シナ海のはるか向こうの中国大陸へ出兵した奄美出身の兵士も沢山居ただろうな・・・。
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▲▼展望台には立派な銅製の地図が置かれていた。☆(赤)印が現在地だ。
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▼展望台から島側を眺める、南国の山が連なっている。
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▼別の場所にあった案内板。石碑と同じ様な事が書かれているが「大東亜戦争」と書かれている事が意味深い。
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▼大和村国直への移動の途中、忠魂碑が見えたので立ち寄った。
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石碑の裏には大東亜戦争で戦死された大和村大金久(オオカネク)出身者のお名前が刻まれていた。
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大東亜戦争大金久出身者戦没者として14名のお階級・名前・戦死年月日・戦没地が刻まれている。
一番上の方は陸軍上等兵で昭和13年10月に中支(中国)で戦死したとあり、南太平洋、ブーゲンビル島、五島列島、ビ
ルマ、硫黄島、比島(フィリピン)そして最後から2番目の方は、昭和20年8月満州とある。陸軍と書いてあるから関東
軍だったのだろう・・・そして最後の方は、海軍兵長で昭和27年5月朝鮮と書いてある。
昭和20年に敗戦で何故?しかも朝鮮で・・・シベリア抑留から帰還途中に力尽きたという事か?無念だったであろう。
翌年の昭和28年12月25日が奄美群島本土復帰だった・・・さぞかし故郷に帰りたかったであろう、悲しい歴史だ。

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大島群大和村国直に到着。この先は奄美市だ。
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▼古仁屋には海軍基地があった。その遺構と思われる建物が加計呂麻島行きのフェリー乗り場近くに残っている。
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▼古仁屋港周辺(昭和20年3月27日米軍撮影)
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古仁屋港は海軍の対潜哨戒用・船団護衛及び索敵を行うた為の水上機基地で、米軍が沖縄本島に上陸を開始した昭和20
年4月1日以降、古仁屋基地を中継基地として合計75機(内「瑞雲」62機)が沖縄爆撃に出撃している。
沖縄戦に参加した「瑞雲隊」は2隊である。
1つは「第634海軍航空隊」偵察第301飛行隊(台湾の淡水から飛来し、古仁屋で補給を受け、沖縄戦に参加)
もう1つは「第801海軍航空隊」偵察第302飛行隊(福岡県の玄海や博多、鹿児島県指宿から飛来し沖縄戦に参加)
「瑞雲」は航続距離が燃料満載時でも520カイリにすぎない為、九州~沖縄間、台湾~沖縄間の約350カイリの往復は
不可能であった。その為、両隊とも奄美大島の古仁屋を中継基地として使用する事となったのである。
偵察第301飛行隊の場合は(台湾)淡水基地から発進、沖縄周辺の米艦隊を攻撃して古仁屋に着水、補給後再び攻撃に向
かい淡水に帰投するというものであった。
一方の偵察第302飛行隊は九州の博多や指宿を出撃して古仁屋で燃弾補給し、敵輸送船・上陸用舟艇・艦艇・航空母艦
を攻撃するものであった。古仁屋に常駐していた隊も居たという。詳しくは「水上機神風特別攻撃隊」参照。
古仁屋の海軍基地には、九州から特攻出撃し、機体トラブルや空戦で傷を負い、徳之島や喜界島に不時着した陸海軍の
特攻隊員が数多く古仁屋から九州へ海軍の水偵に乗って帰還している。

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▲▼古仁屋(こにや)港に残る旧海軍施設と思われる遺構。案内板などは全く無いので詳しい事は解らない・・・。
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海軍の燃料貯蔵庫か弾薬庫か、指揮所か・・・それとも大正12年竣工の大島要塞司令部関連の建物跡か?
瀬戸内町須手に地下壕などが残っていると聞いたが場所も解らず、今回は見学出来なかった・・・。

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▲少し埋まっている様にも見える・・・古仁屋も米軍の激しい空襲を受けている。夜間空襲も激しく連日連夜に及んだ。
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   ▼米軍の空襲を受け炎上する古仁屋港周辺(昭和20年3月26日米軍撮影)
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▼海軍水上偵察機 「瑞雲」(福岡県の玄海基地で撮影)
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▼2017年6月『艦隊これくしょん』と富士急ハイランドのコラボイベント「瑞雲祭り」で展示された瑞雲1/1模型
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古仁屋は軍と深い関わりのある瀬戸内町らしく、立派な慰霊塔や慰霊碑が綺麗に管理されている事でも有名だ。
今回は行けなかったが「富山丸慰霊塔」には行きたかった。充実した戦跡関連の案内パンフレットがあれば・・・。

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▲約3700人の軍関係者や民間人を乗せ鹿児島から沖縄へ向け航行中であった徴用船「富山丸」。
昭和19年6月27日「富山丸」を含めた12隻の船舶は「カタ412船団」を構成し、鹿児島湾を出港。
翌28日貨客船「履門丸」と「開城丸」は名瀬港に寄港し、「富山丸」を含めた他の船舶は17時に古仁屋に入港した。
翌朝、船団は名瀬と古仁屋からそれぞれ出港して那覇に向かう。
その頃、米軍の潜水艦スタージョン(USS Sturgeon, SS-187) が徳之島の東で浮上哨戒を行っており、04:33に
潜航哨戒を開始、05:29カタ412船団は針路220度で航行中と判断され、スタージョンは「富山丸」に照準を定める。
7時25分、スタージョンは艦首発射管から「富山丸」に向けて魚雷を4本発射、4本の内3本が「富山丸」の左舷船首と
二番船倉及び四番船倉と機関室の中間部に命中。
左舷船首と二番船倉に命中した魚雷の衝撃でガソリンが船内及び海上で発火して炎上する。
止めを刺したのは四番船倉と機関室の中間部に命中した魚雷で、「富山丸」は船体を二つに折って北緯27度43分東経
129度06分の徳之島南東12キロの地点で轟沈した。
轟沈と海上に流出して引火したガソリンの為、将兵4600名が脱出する余裕はほとんどなかった。
独混第44旅団をはじめとして、沖縄の現地部隊を統括する第32軍は大本営より飛行場の急速造成を指令されていたが、
本船の沈没によって旅団の生き残りは約700名その内活動出来る者約500名となり、トラック等も失われ、沖縄第32
軍が担当した飛行場建設(陸軍北飛行場と中飛行場)遅延原因の一つとなっている。
この沈没で、旅団将兵や船員、船砲隊員の合わせて約3700名が戦死。一隻の船による死亡者数としてはタイタニック
号や、翌年の戦艦「大和」の沈没よりも多く、当時としては第一級の惨事であったが、多くの船舶の沈没の実態と同様、
大本営により秘匿された。
情報を聞きつけ、ここ古仁屋からも漁船等で徳之島沖まで救助に向かい、当時古仁屋に陸軍病院があった事もあり、多
くの火傷を負った傷者が運び込まれた。古仁屋で亡くなられた方も大勢いたという。
昭和39年6月29日には徳之島亀徳に慰霊塔が建立され、昭和60年6月30日には古仁屋に供養塔が建立され、毎年遺族
等による供養祭が開催されている。

奄美大島の北部方面には有名はビーチが集中している。その中で土盛海岸に立ち寄った。

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▼天気が悪かったのでさえない空の色だが、土盛海岸は綺麗なビーチだった。
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▼冬季なので当然泳いでいる人はいないが、この注意看板は必ず確認してビーチに行った方が良いだろう。
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▼奄美大島で多くの海岸を見たが、ほとんどのビーチにこの様な警告看板がある。
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▼▲必ずルールを守って海を楽しみたい。大人がルールを守らないと子供達も守らなくなってしまうからね!
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「るりかけす運動」って初めて聞いたな~。
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▲あやまる岬にも寄ってみた。
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▼展望台からは太平洋が一望出来た。眼下に見える公園は「あやまる岬観光公園」だ。
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▼「あやまる岬観光公園」に下りてみた。赤矢印の所が、先程見下ろしていた展望台だ。
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▼海水プールもある様だ。
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▼海水プール。海水浴シーズンはいいだろうな。
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▼因みにこの地図は龍郷町までの奄美大島北部だけの地図。現在地は赤☆の場所。黒☆は奄美空港。
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▼「あやまるソテツジャングル」ジャングルの中に見学コースがあって「あやまる岬観光公園」は楽しめる場所が多い。
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敗戦後、米軍米軍施政下に置かれた奄美群島では深刻な食糧難が発生。ソテツの身からでんぷんを取ったナリガユ(ソ
テツ粥)はどんなにお金を持っている人であっても、当時食べた事が無い人はいなかったという。

▼この日1月8日は成人の日。「笠利町民族博物館」が無料との事で立ち寄った。
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それほど大きくない展示室が2つ。ギッシリ奄美の歴史が展示されていた。
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その中で気になった展示物をいくつかご紹介する。
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▲左側の展示ケースの中は、戦時中の軍服??と、ゼロ戦のプロペラ?の残骸だ。
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▲説明文によると「昭和19年頃、あやまる岬近海にて空中戦で戦った帝国海軍ゼロ戦の残骸。今でも残骸が水深20m
 の所で眠っている。」とある。昭和19年には既に奄美大島上空でも激しい空中戦があったんだ・・・。

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▲米軍の100ポンド普通爆弾。説明文では「第二次世界大戦で米軍はこの種の爆弾を奄美各地に投下した。その数は
 あまりにも多く、現在開発工事中に不発弾がこの様に発見されるケースは多い。」とある。

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▲千人針だ・・・ベースは大きな腹まきだろうか・・・。
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▲昭和28年12月25日の産業経済新聞。奄美群島本土復帰の新聞記事だ!
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▲どういう経緯でお亡くなりになったのかは解らないが、生涯を終えるには若い・・・若すぎる・・・合掌。
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▲▼最後は奄美大島の最北端、笠利崎灯台。晴れていれば太平洋の向こうに喜界島が見えたのだが・・・。
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この地方で昔から伝わる竜宮伝説のモニュメント「夢をかなえるかめさん」を見て奄美大島巡りを終えた。
事前情報も少なく、全て見学出来た訳では無い。皆津崎第1/第2砲台も行けなかったし、久慈の海軍艦船補給基地(給
水施設)と第44震洋隊秘匿壕も行けなかった。観光案内にも記載されておらず、奄美大島の戦跡は意外と知られていな
いのが現状の様だ。しがし大島海峡沿岸は日露戦争直後から、国土防衛の要として重要視され、早くから軍事施設が次
々と建設された。以下は奄美大島・加計呂麻島の主な軍事施設構築の記録と奄美群島/日本国の主な出来事である。
(※印は内戦・大戦名)
15世紀頃 琉球王国に相次いで支配される。
1185年平安時代末期(寿永4年)※壇ノ浦の戦い
1609年江戸時代初期(慶長14年)薩摩藩が奄美群島・琉球に侵攻
1614年(慶長19年)※大阪冬の陣
1615年(元和元年)※大阪夏の陣
1637年(寛永14年)※島原の乱
1702年(元禄15年)赤穂浪士討ち入り
1707年(宝永4年)富士山噴火
1803年(享和3年)江戸開府200年
1853年(嘉永6年)黒船来航
1860年(万延元年)桜田門外の変
1863年(文久3年)※薩英戦争
1867年(慶応3年)大政奉還
1868年(明治元年)※鳥羽・伏見の戦い
1873年(明治6年)徴兵制布告
1877年(明治10年)※西南戦争
1879年(明治12年)奄美が鹿児島県大島郡となる。
1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布
1894年(明治27年)※日清戦争
1904年(明治37年)※日露戦争
1908年(明治41年) 大島海峡で海軍が大演習を実施
1910年(明治43年)韓国併合
1920年(大正9年) 陸軍築城部支部が古仁屋に開設し要塞の構築を開始
1921年(大正10年) 加計呂麻島➡安脚場砲台、実久砲台、江仁屋離島砲台
奄美大島➡皆津崎第1砲台、皆津崎第2砲台、西古見第1砲台、西古見第2砲台、手安の弾薬庫造成工事(昭和2年完成)
1923年(大正12年) 奄美大島➡古仁屋に大島要塞司令部構築(現・鹿児島県立古仁屋高等学校)
同年(※関東大震災)
大まかに奄美大島(本島)は陸軍、加計呂麻島は海軍であった。
1931年(昭和6年)※満州事変
1937年(昭和12年)※日中戦争
1940年(昭和15年) 加計呂麻島➡安脚場に海軍防備衛所を追加構築
1941年(昭和16年)※大東亜戦争[ 太平洋戦争 ]
1941年(昭和16年) 加計呂麻島➡瀬相に海軍大島防備隊3000~3600名を配備。
1941年(昭和16年) 加計呂麻島➡瀬相に海軍病院・艦船給水ダム・高角砲台・防備衛所・兵舎など構築。
1942年(昭和17年)?月 加計呂麻島➡江仁屋離島に高角砲台・高射砲陣地増築。
1944年(昭和19年)5月 徳之島/喜界島の飛行場防衛の為、古仁屋の大島要塞司令部が閉庁
1944年(昭和19年)6月 徳之島南東12キロの地点で「富山丸」が米潜水艦の魚雷攻撃で轟沈。
1944年(昭和19年)8月 加計呂麻島➡(渡連)海軍待網崎高角砲台着工
1944年(昭和19年)10月 南西諸島に初空襲 那覇を壊滅させた10・10空襲は奄美群島にも及んだ。
1944年(昭和19年)?月 加計呂麻島➡(須子茂)海軍モン崎平射砲台・探照灯台・迎撃陣地構築。
1944年(昭和19年)11月 加計呂麻島➡(呑之浦・三浦)海軍第17/18震洋艇特攻基地着工。
1945年(昭和20年)3月 空襲により古仁屋の街がほぼ焼失
1945年(昭和20年)4月 空襲により名瀬(奄美市の中心部)の街がほぼ焼失。
奄美群島で終戦までに空襲で亡くなった人(461名)負傷者(299名)
1945年(昭和20年)8月15日 敗戦
1945年(昭和20年)9月 武装解除

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▲昭和20年9月7日沖縄本島(嘉手納基地)にて行われた琉球列島の降伏調印式で第2調印者として降伏文書にサインする
 奄美群島守備隊司令官 高田利貞 陸軍少将。米軍側は第10軍司令官スティルウェル大将。
(沖縄市森根地区にあたるこの場所には現在、記念碑が建てられているが、米軍嘉手納基地内で立ち入る事は出来ない)

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第10軍司令部 1945年9月7日
降 伏
下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、
ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。

北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より
北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より
北緯30度東経131度30分より頭書の地点

納見敏郎中将
先島群島日本軍司令官

高田利貞少将
奄美群島日本陸軍司令官

加藤唯雄海軍少将
奄美群島日本海軍司令官

J.W.スティルウェル 米国陸軍大将

宮古島からは第28師団長の納見敏郎中将、奄美大島から高田利貞陸軍少将、加藤唯男海軍少将らが降伏調印式に召還さ
れ、「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」を申し入れ、6通の降伏文書に署名して正式に降伏した。
9月21日アメリカ第10軍カンドン大佐が奄美守備隊の武装解除の為に命令文書を携え徳之島に来島した。
命令書には 「北部琉球の兵器を渡せ」と書いてあったが、高田少将は「ここは奄美群島であって、北部琉球ではない」
として「北部琉球」を「奄美群島」と書き換えさせたという。
昭和20年12月加計呂麻島の(瀬相)海軍防備隊司令部で行われた復員完了の証明書も「北部琉球」となっていた証明書
を「奄美群島」と改めさせている。
高田少将は終戦直後の9月3日、沖縄のアメリカ第10軍司令官ジョセフW・スチルウェル大将宛に手紙を書いている。
手紙には 「希わくは奄美群島を第2のアルサス・ローレンたらしむる、ねが勿れ」と書かれていた。
「行政権を奪い、占領状態を長く続け、民心を失うようなことをしてはいけない」という忠告の内容だった。
高田利貞少将は奄美群島本土復帰後の昭和31年に『運命の島々・奄美と沖縄』という著書を出版している。
高田利貞少将の忠告も空しく、敗戦後奄美群島の人達は苦難の道を歩む事になる。
昭和21年1月29日米軍(アメリカ合衆国)は沖縄周辺の支配権を確立する為、北緯30度(トカラ列島)以南を日本から分
離、米軍統治下に置くと鹿児島県大島支庁に通告した。
通告が奄美群島の島民約20万人にラジオで伝えられたのは2月2日。
既に米軍に占領されていた沖縄と違い、後に「2・2宣言」と言われたこの通告は寝耳に水だった。
日本復帰まで7年10ヵ月に及ぶ苦難の時代「アメリカ世(ゆ)」の始まりでもあった。

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▲昭和25年11月米軍施政下による奄美群島政府発足(奄美大島で撮影)
米など食料の大部分を本土に頼っていた奄美群島の人達は、米軍が海上を封鎖して本土との往来を禁止した事でたちま
ち困窮し、米軍から見て軍事的価値が無い事から、物資や資金が沖縄に集中し、奄美群島は取り残された状態になった
疎開先から引き揚げによる人口増加も加わり、奄美群島の人々は食糧不足で飢餓の寸前にまで追い込まれ、米軍に拿捕
される危険を冒して黒砂糖と食糧などを交換する「密航」(鹿児島県下の離島へ4日かけて行く)でなんとか生き抜いた。
奄美大島の密航出発地点は名瀬港に程近い「水浜」であった。
ここから闇夜に紛れて目指すのは、当時国境の島となる約200キロ離れた鹿児島県の口之島(くちのしま)。

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▲実際、口之島にたどり着くまでに250隻以上の「密航船」が米軍に拿捕されている。
一方で、新たな文化に触れさせたのも米軍政の一側面だった。軍政府が奨励したボクシングに熱中し「奄美バンタム級
チャンピオン」にもなった島民も居たほどだ。
米軍政府に楯突(たてつ)く者には厳しい態度だが「スポーツや文化の面ではフェアに評価する」と島民は感じていた。
しかし、食べるもの着るものにも困り、島民の我慢は限界に達していた。
昭和26年には日本復帰運動が本格化し、8月に始まった「復帰を願う断食」には多くの島民が参加した。
この時集まった「日本復帰の署名」は約14万人。当時、14歳以上の住民の99.8%が署名したと言われている。
復帰を果たした昭和28年12月25日奄美の全ての人がちょうちん行列や万歳で祝った。
実際訪れて車で走ると良く解るが、道路整備など、本当に各所綺麗に整備されている。
次に紹介する加計呂麻島は、現在人口減少が激しく、今は1300人程度だ。しかし道路はきちんと整備され、2008年
4月に完成したまだ新しい立派なトンネルがあった(ほとんど車は行き交わない)
奄美群島には2013年度までの60年間に2兆3000億円の国費が投入され、社会資本は格段に整備された。
いわゆるよく聞く「沖縄振興予算」と言われる国費は、鹿児島県にも投入されていて、鹿児島県の離島である奄美群島
他のインフ整備?に使われている。(他に島を活性化させるお金の使い道は無いのだろうか・・・)

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▲おおまかに今回巡った奄美大島の戦跡や展望台は地図の赤印の部分。まだまだほんの一部。奄美大島は大きい!


次回「加計呂麻島」へ続きます。
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


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 2018_01_10


終戦(敗戦)直後から昭和21,2年辺りまでの写真はモノクロ写真が多い。暗い戦争のイメージは、モノクロ写真が更に
暗さを倍増させる。「青空など無かったのではないか?」と錯覚してしまう程だ。ここに紹介する進駐軍が撮影した
写真は全てカラー写真。カラー写真は全てGHQ職員だったロバート・V・モージャー氏が、昭和21年~22年にかけて
撮影した写真だ。終戦直後の東京・名古屋・大阪・広島の風景が良く解る。
個別に全ての場所が特定出来れば、是非、現在の同じ場所に行ってみたいものだ。
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東京大空襲後の現在の墨田区両国付近、右手の川は隅田川。モノクロだとやはり限界がある。
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▲▼ここからはカラー写真。敗戦直後進駐軍管理下の日本をまずは皇居の桜田巽櫓から。
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▲皇居外苑坂下門付近の警備兵(イギリス連邦軍インド兵)終戦直後はインドはまだイギリスの植民地だった。
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▲▼北桔梗門前蛤濠の警備兵(米軍第1騎兵師団とイギリス連邦軍インド兵)
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▲ロバート・V・モージャー氏(Robert V. Mosier)
GHQの文民スタッフ(civilian secretarial staff)として昭和21年4月~翌年1月に日本に滞在した際、東京、名古屋、
大阪、広島等の全国各地で撮影したカラー写真を、2008年米国在住のモージャー氏の親族からカラースライド(304枚)
が寄贈された物。
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▼国会議事堂が見え、夏空が広がっている。
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▼国会議事堂前の道に駐車する多くのバス・・・進駐軍の車両だろうか・・・。
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▼皇居周辺の写真。この辺りは東京に住んでいなくてもだいたい何処だか解る。
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▼昭和13年竣工の第一生命ビル(戦時中は東部軍管区司令部)を接収。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)となる
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▲この車はなんていう車だろう・・・スチュードベーカー・コマンダーかな?
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▲皇居外苑の楠木正成像。今もあるのかな?
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▼▲アメリカ極東空軍司令部として接収された明治生命館
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▲東京銀行集会所。大連で同じ様な建物を見た事がある・・・。
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▼岸本ビル/内外ビル/日本郵船ビル/東京海上ビル。石炭暖房器具を使っているのだろう、煙突から黒煙が出ている。
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▼「日比谷帝國生命館」と書いてある。
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▼これは帝国ホテルかな。愛知県のテーマパーク「明治村」で見た事がある。
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▼これは空襲で被害を受けた修復中の東京駅だろう。
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▼空襲で焼けた建物。これは大本営陸軍部か!?
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▼東京宝塚劇場。ERNIE PYLEって書いてある。「沖縄戦」の伊江島で戦死した米軍従軍記者の事か?
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▼松屋銀座前。当時はPX(進駐軍の売店)として接収されていたそうだ。
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▼CITY HALLと書かれた建物は元何だったんだろう・・・東京都庁舎かな?
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▼▲これらは何処の何なのかは解らない・・・。
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▼横浜駅
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▼これは横浜港だろう。
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▼鎌倉の大仏かと思ったら、愛知県東海市の聚楽園大仏だという事だ。
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▼聚楽園弘法大師像と米軍軍人
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▼いつの時代も富士山は美しい・・・。
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▼山中湖かな?昭和の日本だ・・・何か美しい。
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▼▲山中湖周辺で進駐軍が接収したホテルだろうか・・・今も残っているのかな?
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テニスコートが写っている。何処だろう・・・。
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▲ 愛知県名古屋市中区の路面電車が走る大津通。
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▲遠望に名古屋日本徴兵館を望む。愛知県名古屋市
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▲愛知県名古屋市中区の松重閘門(まつしげこうもん)
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▲名古屋駅が見える。
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▲遠望に名古屋日本徴兵館を望む。
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▲▼一応余所行きの着物だろうけど、何か着物姿の普通の日本女性っていいな~って思えてくる写真。
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▼名古屋城表二之門と東南隅櫓(辰巳櫓)。
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▼現在の名古屋城表二之門と東南隅櫓(辰巳櫓)。(2018年7月22日訪問)
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▼名古屋城表二之門
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▼現在の名古屋城表二之門(2018年7月22日訪問)
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▼名古屋城東南隅櫓(辰巳櫓)
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▼現在の名古屋城東南隅櫓(辰巳櫓)(2018年7月22日訪問)
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▼昭和20年5月14日未明の名古屋大空襲で全焼した天守閣は石垣だけが残っている・・・。
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▼奇跡的に残った西南隅櫓(未申櫓)
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▼現在の名古屋城西南隅櫓(未申櫓)(2018年7月22日訪問)
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▼焼失前の名古屋城
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名古屋は工業都市で、三菱重工業名古屋発動機、同名古屋航空機、愛知航空機、愛知時計電機、陸軍造兵廠、住友
金属工業、大同製鋼、神戸製鋼、日本車輌製造、名古屋造船、岡本工業、大隈鉄工等、多くの工場が立地していた為、
米軍の日本本土空襲の第一目標だった。名古屋は航空機産業のメッカであり、とりわけ航空機生産の最大拠点である
三菱重工業名古屋発動機は、東京の中島飛行機武蔵野工場と共に、米軍の日本本土初空襲初空襲(ドゥリットル空襲)
の最初の目標でもあった。
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空襲で無残に崩壊した三菱重工業名古屋航空機製作所
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一〇式艦戦、零戦、一〇〇式司偵などの戦闘機やエンジンの製造を行っていた。
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▲陸海軍の飛行場跡か・・・凄い数の航空機の残骸・・・。
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▲▼綺麗な残骸だ・・・一式陸攻か?・・・塗装前に日の丸は入ってるんだ・・・。
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▼東海銀行の看板が見えるので、この写真も愛知県だろう。餓死者が沢山出た戦後において、写っている人はまだ裕
 福な人達だろう。笑顔も見える。
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進駐軍のカメラマンに写真を撮られるのに抵抗感は無い様だ。
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▼空襲で焼けた壁が痛々しい名古屋市中区の松坂屋。
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▼愛知県名古屋市の丸栄名古屋公証人合同役場五金。
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▼ミッキーマウスが描かれた愛知県内の飲食店。占領された・・・負けた・・・って思っただろうな・・・。
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▼名古屋市中区の松坂屋前の路上。
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▼昭和13年移転完了の愛知県庁と、昭和8年完成の名古屋市役所。素晴らしい。
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▼現在の愛知県庁と名古屋市役所。両方共に国の重要文化財だ。
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▲戦時中は当時の写真の様に、空襲を避ける為、黒に塗られていたが、当然現在は全て剥がされている。
旧満州国の「新京」みたいだ。今も現役で使われている。
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▼▲愛知県庁名古屋市役所遠景。
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▼・・・。
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▼愛知県名古屋市の中部配電付近。
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▲愛知県名古屋市中区
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▲名古屋観光ホテル
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▲名古屋市の護国神社鳥居
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▲愛知県名古屋市中区広小路東新町交差点の陸田ビル
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▲昭和15年頃の広小路東新町交差点付近。陸田ビルも写っている。
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▲愛知県名古屋市中区の中村百貨店
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▲▼愛知県名古屋市の露店と映画演劇の広告看板
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▲▼愛知県名古屋市中区の名古屋日本徴兵館。
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▲愛知県名古屋市中区で建設中の丸栄百貨店。
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映画『明日への遺言』では、若者を愛した人「青年将軍」の通称で部下に親しまれた岡田資 陸軍中将が、第13方面軍司
令官兼東海軍管区司令官を務めていた昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭
乗員27名を自らの命令(旧陸軍内での法的根拠は与えられており、私的制裁の類ではない)で処刑した事に対する終戦後
の軍事裁判(横浜法廷)を再現している。(この映画の中で「石垣島事件」も文言として紹介されている)
戦犯裁判で、岡田中将は米軍による空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」「搭乗員
はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張し(岡田自身は、これを『法戦』と呼んだ)、検察や
米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。
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▲岡田資 陸軍中将 昭和24年9月17日戦争犯罪人【B級】(捕虜虐待罪)として法務死。享年59歳
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▲場所不詳
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▲岐阜県各務原市の「城山荘」昭和40年頃まで営業していたそうだが、現在は廃業して跡形も無い。
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▲製作中の和傘
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▲▼場所不詳
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▼心斎橋の「そうごう大阪店」(接収され、進駐軍の売店=PXとなっていた)
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▼原爆が落とされた広島・・・。
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▼原爆ドームと墓石とは何とも不気味な組み合わせだ・・・。
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広島は写真がカラーとなっても、尚も暗く感じるのは私だけだろうか・・・。
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▼オーストラリア軍兵士。これを見ると、豪州とも戦っていた事を再確認させられる。
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▲▼中に居た人達は一瞬にして吹き飛んでお亡くなりになったんだろう・・・原爆は恐ろしい・・・。
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▲京都の知恩院山門。
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▲東本願寺御影堂門
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▼▲これは間違いなく平安神宮だろう。平安神宮応天門
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京都に現存する寺院や神社は、今も昔も変わらない風景を残している事が良く解る。
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▲平安神宮拝殿
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▲平安神宮外拝殿
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現在は黒煙をあげている風景は京都には見られないが、当時はこんな感じだったんだ・・・。
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▼ここからの画像は、場所が何処か解らない
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▲▼今ではもう見られなくなった牛を引いての田起こしの風景。
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生き残った日本人は皆、必死に戦後の日本を復興させたんだな・・・と、つくづく思う。
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▼何処だろうな・・・奥に綺麗な雪山が見える。
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▼木造の物資運搬船だ。
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▼終戦直後から商売をしている人達は凄いバイタリティーだ。
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▼昭和の看板はカラフルで味があっていい!
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▼日本海軍に徴用されていた病院船「氷川丸」の貴重なカラー写真だ。今も重要文化財として残っている。
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▲焼け跡にバラック建てて商売スタート。ホント終戦直後の日本人は凄い・・・奇跡の復興と言われるのもよく解る。
自然災害でもないので何の保証も無く、全て「命さえがあれば」の精神で、国に文句も言わず頑張った日本人は偉い。
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▲▼映画館で娯楽を楽しんでいる人も大勢いる・・・ゼロからのスタートでは無い人も少なからず居たんだね・・・。
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▲元気そうな子供達だが、昭和22年以降の食糧飢饉で餓死者が大勢出ている・・・この子達は生き延びただろうか。
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▲▼飲食店が立ち並ぶバラック・・・裸電球も写っている。メニューに刺身が確認出来る・・・何の魚だろう・・・。
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▲愛知県名古屋市の様子だが「新興日本の春を楽しく迎ませう」と書いてある。終戦1年でこうも変われるものだ。
よく戦争映画やドラマで、戦後の極端な世の中の変わり様を驚くシーンがあるが、全く本当だった様だ。
▼戦時中クリスマスはあったのだろうか・・・少なくとも太平洋戦争末期はクリスマスを祝う余裕も無かっただろう。
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敗戦間際に戦死していった特攻隊員や自決した兵士の事を想うと、何とも複雑な気持ちになる・・・。
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▲何処だろう・・・富士山が見える。
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▲露店
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▲▼何処だろうか・・・。
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▼恐らくロバート・V・モージャー氏と同行していたGHQ職員。
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ここからはロバート・V・モージャー氏が撮影した写真では無く、撮影場所等は全て不明だが、敗戦翌年から昭和22年
頃にかけてGHQ職員が撮影したモノクロ写真をご紹介する。貧困にあえぐ日本国民の姿が写真に収められている。
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写真に写るほとんどが、子供か女性、そしてお年寄りや中高年の日本人の先人達だ。
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GHQ職員にカメラを向けられた顔が、成人男性と、子供そして女性達の表情が対照的だ。
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餓死者も沢山出た戦後を生き抜いた先人達は偉い。


戦後間もない日本のカラー写真 1949年~1950年YouTube
大日本帝国海軍の終焉YouTube
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube

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 2017_11_19


今回は九州出張を利用して、以前行けなった鹿児島県鹿屋市の笠之原町・串良町の戦跡を巡ってきた。
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▲雨の予報を覆しての曇り空。桜島を見ながら鹿児島市内➡鹿屋へフェリーで向かう。
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▲あっという間に鹿屋市に着き、鹿屋市側より桜島を見ながら笠之原飛行場跡へ向かう。
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▲笠之原飛行場の歴史は古く、大正11年8月から敗戦までの24年間に渡って旧陸海軍の飛行場として使用されてた。
海軍が航空基地として使用を始めたのは太平洋戦争末期の昭和19年1月15日。
昭和20年1月には第203航空隊のゼロ戦72機が配備され、神風特別攻撃隊の直掩隊(零戦)が出撃していった。
昭和20年3月18日アメリカ軍による空襲で、格納庫を始めとする基地施設は消滅した。
敗戦後、民有地を買収して作られた飛行場跡は、地元地区民に農地として無償で払い下げられた。
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▲▼現在ただ1つのみ残る笠之原飛行場の掩体壕。(川東掩体壕)
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終戦後30基以上残っていた海軍式掩体壕も、現在はこの1基のみが現存するだけである。
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▼前部が崩れて喪失しているが、かなり粗い作りだった事が確認出来る。
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▼天井部分のアップ。鉄筋は入っていない様だ・・・。
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▼爆撃で出来たであろう穴も確認出来る。
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▼「セメント共販・・・」って書いてある・・・袋ごと固めてしまった様だ・・・。
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▼鹿屋航空基地に現存していた掩体壕が、今年に入って取り壊した際の破片が飾ってあった・・・。
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▼▲こんな物を展示する価値はあるのだろうか・・・状態が良かった掩体壕だったのに・・・。
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取り壊さず何とか保存出来なかったのだろうか・・・鹿屋は特攻隊が数多く出撃した現役の自衛隊基地なのに・・・。
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▲▼山口県の岩国基地に残る掩体壕とレプリカのゼロ戦21型
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映画「零戦燃ゆ」の撮影用に製作された機体で、7000万掛かったレプリカだという事だ。
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日本国内の岩国米軍基地内で、この様な演出で見学出来るにもかかわらず、何故鹿屋航空基地でこの様に、解りやすく
保存・修復する事が出来ないのか・・・。どんな事情があるにせよ、取り壊しは全くもって理解不能である。
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▲経年劣化も補修され、掩体壕も綺麗に保存されている。
※画像は-廃墟日常記録帳-様から提供して頂いた。有難うございました!
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▼ここから1本の滑走路が伸び、特攻機の直掩隊が出撃して行った・・・。
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▼現在は、畑の中に当時滑走路だったという事を物語るコンクリートが僅かに残るだけである。
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▼▲当時を物語るもう1つの遺構。コンクリート製の「地下通路電信司令室に通じていた」とされる入口が残る。
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▲何のくぼみだろう・・・銃眼ではなさそうだ。
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東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道の入口とされるが、地下道はまだ確認されていない。
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▲此処が入口かどうかは定かでないので、今後の調査が期待される。何とか掘り起して頂きたいものである。
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▲一見普通の民家に見えるが、実は笠之原飛行場時代初期に建てられた弾薬庫だそうだ。
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▲▼機銃掃射や爆撃の破片を受けた傷が無数に残る外壁も残っている。
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無償で払い下げられた際に民家として再生したのであろう。お住まいの方がいらっしゃるので見学する事は出来ない。
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▲しかし強度抜群の家だろうな・・・白く塗られているが、元々赤煉瓦造りである事が見て確認出来る。
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▲次は海軍串良航空基地跡に向かった。
現在は平和公園となっている一帯は、旧海軍教育航空隊があった場所だ。
昭和18年4月1日串良航空隊開隊・練習航空隊に指定され、整備教育を担当
昭和20年3月1日第22連合航空隊に編入、神風特別攻撃隊(艦爆隊)の基地となり、予科練教育を担当
昭和20年7月10日串良航空隊解隊、昭和20年8月15日敗戦。
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  ▲昭和23年に米軍が空撮した串良基地。赤い星印が現在の平和公園だ。滑走路は現在道路となっている。
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▲一帯が「平和公園」となったのは昭和44年10月1日からだそうだ。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、教育航空隊として開隊され、約5000人の飛行予科練習生が航空機の整備・搭乗・通信
などの猛訓練を受けた。昭和19年4月実戦部隊に編入、更に昭和20年3月1日より神風特別攻撃隊の基地となり、終戦
までの半年間に、神風特攻隊の精鋭363名、攻撃隊202名の合計565名の最後の地となったところである。
串良基地は沖縄作戦の際に、艦上攻撃機の出撃基地として使用され、特攻出撃や夜間雷撃に数多くの艦上攻撃機が出撃
し、沖縄周辺の敵艦船攻撃に向かったのである。ドラマ「永遠の0」のロケがこの平和公園でも行われた。
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▲訪れた時は丁度10月15日だった・・・偶然であった。追悼式が10/15だとは全く知らなかったのである。
※来毎年10月15日には、全国各地から御遺族や生存者が集まり、町民と共に追悼式が行われているとの事であった。
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▲当然の事ながら、私も慰霊させて頂いた。
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▼▲公園内には多くの慰霊碑がある。
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個別に慰霊する事はしなかったが、これだけ多くの慰霊碑がある公園も珍しい。
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▲これは間違いなく神風特別攻撃隊だろう・・・。
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▲▼東西1300m南北1200mの滑走路跡の両脇には、桜が植えられ、本土の桜前線はここから始まるとの事だ。
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▼次は串良基地の第1電信室に向かった。ドラマ「永遠の0」のロケにも使われた壕だ。
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此処は特攻機の最後の無線を傍受していた電信室だったという事だ。
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▲▼壕の入口を守る、分厚いコンクリートの爆風除け。
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半端ない分厚さだ・・・。
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▲▼入口を分厚い爆風除けが守る様に設置されているのが良く解る。
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▼では、早速中へ入ってみる。
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ドラマ「永遠の0」第3回のロケで使われた。『永遠の0』第3夜16:34辺りから平和公園・通信壕が映像に出てくる。
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当時も入口付近や階段には明かりが設置されていただろう。
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地下に吸い込まれそうな長い階段だ・・・。
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階段を下りると二手に分かれる。
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まずは左側。
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▲細長い廊下と通気口の様な役割だろう・・・出口の登り階段に続いていた。
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▲そして、メインの電信室だった部屋に入る。
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▼▲思ったより広くなかった。しかし、此処で特攻機の最後の個別識別単独符号を傍受していたんだ・・・黙祷。
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特攻機は突入時、電鍵を押しっぱなしにして送信し、その信号が途切れた時、「突入」として時刻等が記録された。
それはパイロットが戦死した瞬間でもあった。此処串良基地からは97式艦上攻撃機、艦上攻撃機「天山」など、2名か
3名で出撃した機が多く、操縦/偵察/電信のフル定員3名で出撃した特攻機が多かった。
なので、ゼロ戦などの単座戦闘機では、パイロット(特攻隊員)は操縦や航路、電信、銃撃などを全て1人でこなし、最
後の無電は電信キーを右肘で押し付けて送信し続けたが、複座式攻撃機では電信員が別に居る為、本来、識別信号の連
送だけで良いのだが、故国に向けて最後の電文(モールス信号)メッセージを発した特攻機もあった。
その内容のほとんどが『お母さーん!』であった。まれに『海軍のバカヤロー!』というメッセージもあったという。
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▼▲特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵(撮影場所不詳/昭和20年4月~5月頃撮影)
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抜けている隊もあるかもしれないが、海軍串良航空基地から出撃した神風特別攻撃隊は以下の通り。
詳しくは 「鹿屋航空基地史料館」 参照。
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第1護皇白鷺隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第1八幡護皇隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第3御楯隊」天山隊 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「第2八幡護皇隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2護皇白鷺隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「常磐忠華隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2七生隊」 昭和20年4月12日 串良基地より零戦で出撃
神風特別攻撃隊「第3護皇白鷺隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「八幡護皇隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月16日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「天桜隊」 昭和20年4月16日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「皇花隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「白鷺 赤忠隊」 昭和20年4月28日 串良基地97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「八幡神忠隊」 昭和20年4月28日 串良基地97艦上攻撃機で出撃 
神風特別攻撃隊「第1正気隊」 昭和20年4月28日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2正気隊」 昭和20年5月4日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「白鷺 揚武隊」 昭和20年5月4日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「菊水雷桜隊」 昭和20年5月11日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「第3正気隊」 昭和20年5月11日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「徳島第1白菊隊」 昭和20年5月24日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第2白菊隊」 昭和20年5月27日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第3白菊隊」 昭和20年5月29日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第4白菊隊」 昭和20年6月21日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「徳島第5白菊隊」 昭和20年6月25日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
第931海軍航空隊「雷風雷撃隊」 昭和20年7月22日 串良基地より艦上攻撃機「天山」で出撃(夜間雷撃)
第931海軍航空隊「攻撃第251飛行隊」 昭和20年8月12日 串良基地より艦上攻撃機「天山」で出撃(夜間雷撃)
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▲海軍97式艦上攻撃機(B5M1)
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▲海軍が79式艦上攻撃機の後継機として 開発・実戦配備した艦上攻撃機「天山」(B6N)
当時「ガソリンの1滴は血の1滴に匹敵する」と、燃料使用は厳しく監督されていた。特攻隊が片道燃料で・・・とい
う話はよく聞く。 しかし、その厳しい中で串良基地の燃料担当掌整備長は「搭乗員には決して燃料の心配はさせるな!
必要とあらば惜しみなく使用せよ」と、部下の整備兵に 申し渡していたという。
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▲案内板は、最後の無電を再現した音声が流れる仕組みになっていた。
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壁には、串良基地から出撃風景の写真がいく枚か飾られていた。
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「真珠湾攻撃」で活躍した97式艦上攻撃機ももはや老兵だった。戦争末期においてもかなりの数が残っていたという
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部屋らしい部屋は此処1室だけなので、黙祷して壕を出た。
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▲出口に通じる階段を登り終え、振り返って撮影(入口と出口は別階段)
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▲▼入口と同じ形の出口。出口側には爆風除けは無かったが、うっすら当時の土塁が残っていた。
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▼単純な作りの壕だったが、特攻機の最後の無電を傍受していた場所という事が意味深い。
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▼第1電信室と全く同じ構造の壕がもう1箇所残されているというので、次の遺構を見学しに行く。
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それは畑の端の方にポツンと残っていた・・・。
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▲▼さっきと同じ爆風除けと、こんもりした入口が見える。私有地の畑の中なのでこれ以上近寄る事が出来ない。
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▼出口も畑の真ん中に取り残される様に残っていた・・・。
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▼入れない様にブロックで蓋がされている。恐らく同じ構造だと感じた。
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次は串良基地に電力を供給していた発電室跡に向かう。
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此処は案内版などは一切無い・・・。
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ただのコンクリートの箱の様な構造だ。ディーゼル発電機を設置していただけの建物だからこれでいいのだろう。
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中に入る。思った通りただの箱だ・・・この狭さだと発電機は2基程度か・・・。
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発電機の台座すらも残っていない・・・どこかに重油を保管いていたタンクもあるはずだが・・・。
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▲奥には小さな小部屋があった。
しかし、近々この遺構は取り壊される事が既に決まっているらしい・・・なので、見納めだった。
次に、近くの大塚山公園には海軍が構築した高射砲陣地跡が残っているというので行ってみたが・・・。
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▲特にコレと言った遺構は残っておらず、大塚山公園の山頂付近から志布志湾を眺めてその場を後にした。
▼次に、鹿屋基地近くに第5航空艦隊司令部壕が残っているというので行ってみた。
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草木が生い茂る民家の裏山にひっそりと残っているらしい・・・。
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昭和20年3月、米軍の空襲が激しくなった鹿屋航空基地は、司令部ごと近くの山の壕に移転。
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▲右手に壕口が見えた。昭和20年1月頃から約200人の工員が3交代制/24時間体制の突貫工事だったという。
鹿児島県本土の52%、宮崎県の16%の面積を占めるシラス台地は、火山噴出物からなる台地で崩れやすく、掘るのは
難しいと言われていた。総勢約600名の工員の大半は朝鮮半島出身者で、壕造り・採石・採砂・滑走路補修の3中隊に
分かれ、外出・外泊原則禁止の中、必死に作業に従事していた。
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この付近には三角兵舎が建てられ、出撃を待つ特攻隊員や学徒通信隊の女学生が共同生活をしていたという。
学徒通信隊員は壕が完成してまもなく、軍が借り上げた大きな民家に寝泊まりし、こちらも3交代制/24時間勤務で任務
にあったっていたという。
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今回、入壕はかなわなかったが、鹿屋市が調査した際の動画がYouTubeにUPされたのを見た事がある。
(YouTubeをご紹介しようと思ったが、現在は削除されている様で探しも見つからなかった。見つけた方教えて下さい)
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▲入口からカメラをねじ込んで撮影。かなりの規模の大きな壕が延びているそうだ。見学出来る様になるのを願う。
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▲玉音放送翌日に部下と共に沖縄の海に消えた「宇垣特攻」で有名な宇垣纏 海軍中将。
敗色濃厚の昭和20年。海軍が、残存戦力を総結集して第5航空艦隊を編成したのは昭和20年2月10日。
宇垣纏中将が司令長官に任命され、鹿児島・鹿屋基地に赴任した。
海軍省から第5航空艦隊に与えられた任務は、練習機を含む約2000機の航空兵力で全機特別攻撃を展開する事だった。
もはや熟練搭乗員や保有機数が少なく補給もままならない第5航空艦隊としては、危急存亡の状況下で特攻作戦に変わ
る方策が無く、宇垣中将は、この第5航空艦隊司令部壕から特攻命令を出し続けた。
それまで特攻は現地部隊で自発的意思に基づいて編成されてきたものが、軍令部・連合艦隊の指示意向という形で、特
攻作戦が「沖縄戦」以降、主攻撃とされていく事になる。
山本五十六司令長官亡き後、日本海軍の相次ぐ敗報に次第に戦意を喪いつつある海軍中枢にあって、徹底抗戦を主張し
たのが宇垣纏と、第1航空艦隊司令長官だった特攻の生みの親、敗戦後割腹自決でこの世を去った大西瀧治郎であった。

その後、志布志湾防衛の為に陸海軍が構築した「本土決戦陣地壕」を駆け足で数ヵ所を見学する。
▼「陸軍内之浦臨時要塞」跡。(有明要塞跡)を見学。
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「本土決戦」で最後まで戦い抜く覚悟の日本に対して、連合国軍は日本本土上陸作戦を計画していた。
この作戦は「ダウンフォール作戦」と呼ばれ、「オリンピック作戦」「コロネット作戦」に分かれていた。
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▲コンクリートの砲台が海岸に向かって開いている。有明地区隊/重砲兵第15連隊[ 連隊長 ]石黒豊治大佐
独立歩兵第664大隊/独立歩兵第666大隊/鹿児島地区第16特設警備隊の1小隊
重砲兵第15連隊[ 第1大隊・第2大隊・独立野砲兵中隊・独立十加小隊・独立速加小隊欠 ]1221名が陣地守備を担当。
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▲重砲陣地は南九州への米軍上陸予想地域として有力視された志布志湾(大隅半島と都井岬に挟まれた幅15km、奥行
15kmの太平洋に面した湾)に向けて構築された。
奥には10kmもの砂浜が広がってる為、米軍の大部隊の揚陸が可能と考えられた。
また内陸部には串良飛行場などが点在していた為、それらを占領する事を目標に上陸が予想されていた。
なので、その志布志湾南端の内之浦町海蔵に重砲陣地が構築されたのであった。
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オリンピック作戦とは、九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦である「コロネット作戦」の為の飛行場確
保であった。作戦予定日はXデーと呼称され昭和20年(1945)11月1日に上陸作戦が予定されていた。
(この日程は日本軍に完全に読まれていた事が戦後明らかとなり、後に機密漏えいを疑う騒動となった)
海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。
陸上部隊は14個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。なお、これを支援
する為の兵力誘導用欺瞞作戦としては「パステル作戦」が計画されていた。
「パステル作戦」は、連合国軍の作戦目標が昭和20年(1945)10月に日本が占領下に置いていた中華民国上海周辺に上
陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させるものであった。
また、直前の陽動作戦として10月23日~30日にアメリカ軍第9軍団(8万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行
う事や、イギリス空軍のアブロ・ランカスターが連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として
沖縄から出撃する予定であった。事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により種子島、屋久島、甑列島などの島嶼
を、本土上陸5日前に占領する事も検討された。
※空軍では無差別爆撃を続ければ昭和20年10月1日に戦争を終わらせる事が出来ると、カーチス・ルメイ将軍は考えて
 いたという。東京・名古屋・大阪・神戸と都市を焼き尽くし、鹿児島などの地方都市にまで爆撃の範囲を広げていた。
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▲砲塔は無く、今は水没が酷いので中に入る事は出来ない。しかし内部はしっかりとしたコンクリート造りだ。
砲台形式は穹窖砲台で、砲台には15糎加農砲。他に7門が構築されたという(計画は8門、砲不足により7門となる)
内訳は「96式15糎加農砲 2門」「45式15糎加農砲 1門」「7年式15糎加農砲 4門」であったが、この程度の守備では
到底連合軍の上陸は阻止出来るはずも無く、「沖縄戦」の二の舞を演じる事になったであろう。
他の施設として観測所3ヶ所、150糎探照灯1基であった。観測所は現存するが、今回は時間が無く、次回とした。
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ルーズベルト大統領の死去に伴い、跡を継いだトルーマン大統領はポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、
ソ連の日本参戦を阻止する為、そして日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させる事が可能になった事から広島・
長崎へ原爆投下。結果「ダウンフォール作戦」発動前に日本が降伏した為この計画は中止された。
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▼鹿屋市浜田町にある浜田砲台(坂元砲台)跡には弾薬庫だったという遺構が現存していた。
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大戦末期、浜田海岸に上陸する敵を迎え撃つ為、海軍が設置した砲台だそうだ。
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▼弾薬庫側から砲台が設置されていたという藪を見る。その向こうは浜田海岸だ。
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▼少し中に入って見る。砲員退避所も兼ねていたと思われる遺構は間口は広くとられていた。
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入口付近はコンクリート製だが、奥は素掘りのまま。崩落が激しいので入壕は断念した。
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▼最後は高須海岸に構築されたトーチカ陣地。
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高須海水浴場脇にひっそりと銃眼付のトーチカが残っているという。
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海岸線に沿って歩いていくと・・・。
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あった!銃眼だ・・・。
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自然の岩をくり貫いたのか加工したのか、コンクリート製の銃眼がビーチを狙っていた。
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裏側からどうにかは入れないものかと尋ねたが、現在は塞がってしまって無理な様だ・・・残念。
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石垣が追加で構築されているので水際交戦に備えてのトーチカだろう・・・。
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▲よじ登って銃眼内部を撮影。上手く写らなかった・・・。
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海岸線を先へ進むと、明らかに人工的に岩場が切り取られている部分がある。
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詳細不明との事だが、此処にレールを敷いて、特攻ボートの震洋かマルレを出撃させるつもりだったのではなかろうか
トーチカの直ぐ近くという事を考えると、船で構築機材や材料を運んでくる為に接岸場所を構築しただけかもしれない。
敗戦後の昭和20年9月4日進駐軍アメリカ海兵隊2500人が高須の金浜海岸に上陸した。
当時、鹿屋の多くの人々が進駐軍を恐れ、山間部に逃れたと言われている。
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▲敗戦後の昭和20年9月4日高須の金浜海岸に進駐軍のアメリカ海兵隊2500人が上陸した。
9月3日進駐軍先遣隊が先ず鹿屋航空基地に降り立ち、シリン大佐は「カミカゼ・ボーイはどこにいるのか?」と、最初
に質問したと言われている。
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▲▼フェリーの時間が迫ってきていたので急いで垂水港を目指す。桜島を見ながら鹿屋市を後にした。
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▼今まで鹿児島市内は、通過しただけで真面目に見学した事が無かった。
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折角なので少しだけ市内を見学してから帰路に就く事とした。鹿児島市公会堂からスタートする。
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▼▲辺りを見回すと、西郷さんは当然として、明治・大正・昭和初期頃に建てられた建物が目に付く。
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規模は小さいが、日本統治時代が色濃く残る「大連」を思い出していた。
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▲この建物もどう見ても古い。最近まで鹿児島県立博物館として活用されていた様だ。
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▲鹿児島大空襲の時、多くの人が避難・集まった照国神社が正面に見える。
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▲薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(しまずなりあきら)を祀る照国神社。
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▲西郷を逸材と見抜き、海外の文化や技術を積極的に取り入れ、薩摩藩の枠を超え幕府に日本全体の改革を求めた明君
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▼▲明治16年建築の元県立興業館。現在は活用されていない様だ。
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▼山形屋デパートは大正6年の建築物。
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路面電車も走っている。広島も原爆が無ければこの様な風景が少しは残ったんだろうな・・・。
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▲▼南日本銀行か・・・この建物も明らかに古い!
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昭和20年3月~8月にかけて8回の空襲を受けた鹿児島県。よく耐えて残ってくれた・・・。
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▼鹿児島市役所は昭和12年完成。昭和20年6月17日の空襲で半壊したが修理されて今でも現役だ。
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鹿児島県は本土最南端に位置するのに加え、知覧/万世/鹿屋/串良などの特攻基地が設けられていた為、地方都市の中
でも鹿児島県は特に空襲が激しかった。
昭和20年6月17日120機のB-29がマリアナ諸島から発進し、午後11時、鹿児島市上空に飛来。
6月17日の鹿児島大空襲で、死者は2316人、負傷者3500人、市街地の44.1%が損壊された。
昭和20年3月~8月にかけての8回の空襲で、最終的な死者は3329人負傷者4633人市街地の93%が焼失している。
▼最後に桜島が見える絶景ポイントと、西南戦争で西郷隆盛最後の地を見学しに城山に向かった。
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▲島津の居城だった鹿児島城(鶴丸城)跡付近から城山に登っていく。
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▼此処が「西郷隆盛最後の地」城山薩摩軍陣地だ。
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此処も1度来てみたかった。
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この壕は無料で入る事が出来る。
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早速入壕する
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入って直ぐ左側に小さな小部屋がある。そこには小さな西郷さんが居た。
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壕はコの字型に掘られた単純な壕だが、中には西南戦争を伝える絵が展示されている。
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西郷隆盛最後の時も描かれていた。私利私欲を嫌ったこの人が生きていれば歴史は変わっていたであろうか・・・。
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どうだろう・・・日清・日露・日中・日米の戦争に日本は向かったであろうか。そんな事を想いながら壕を後にした。
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▼壕から少し下がった場所にも壕口が2つ口を開けている。此処は薩摩軍の司令部壕跡だ。
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本来は此処から見学を開始すべきだと思うが、駐車場の位置関係で上から下ってきてしまった。
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日本国内最後の内戦と言われる西南戦争の戦跡だ。
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柵がしてあり、観光客も多いので、流石に入壕する事は出来なかった。
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しかし、「司令部壕」と言われている壕だが、そんなに深い壕ではなさそうだ。
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▼当時の城山薩摩軍陣地
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▼どこまでが本当かは解らないが、城山に立てこもった薩摩軍が、最後は官軍に完全に包囲されていた事が解る。
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明治10年9月24日西郷隆盛自決。とされている・・・ロシアに脱出したとか・・・西南戦争も詳しく勉強せねば・・・
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▼最後は桜島が見える絶景ポイントに向かった。此処は明治23年 鹿児島市に最初に出来た公園だ。
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▼展望台からは桜島が綺麗に見えた。
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▼鹿児島大空襲後の鹿児島市。恐らく昭和20年頃に城山から撮影されたものだ。山形屋も写っている。
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Kagoshima, Japan after American aerial bombing, 1945
鹿児島県は、私の中で「THE戦跡」と呼んでもおかしくないくらい、戦跡が多く残る県。という印象だった。
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▲観光地をフォローする為にご紹介しておくと、鹿児島市の商業施設・ドルフィンポートにも少しだけ立ち寄った。
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▼晴れていればこんなに綺麗な桜島をまじかに見る事が出来るスポットだ。
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周辺には北海道「小樽」の様な石造りの古い倉庫群も残る。
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次は丸1日かけて鹿児島市を観光してみたいと思いながら鹿児島市を後にした。



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 2017_11_05


「 紫電改保存館」館長の取り計らいで、今回愛南町の戦跡を巡る機会を頂いた。
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▼▲まずはご挨拶がてら紫電改保存館へ。
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館長のブログ「 紫電改を伝えたい!あいなんからの祈り」
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▲此処は再訪となる。休日の中、飛行服で出迎えて頂いた館長と楽しい会話の時間を過ごしながら、紫電改を見学。
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▲翌日から愛南町の戦跡巡りに出発。
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▲▼まずは特殊潜航艇「蛟龍」(こうりゅう)が配備されていたという深浦基地跡を見学。
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この鳥居をくぐれば深浦湾に出る事が出来る。
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現在は静かな漁港だが・・・右手に壕の入口が見える。第10特攻戦隊第102突撃隊「第53蛟龍隊」の秘匿壕だ。
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入口は戦後ブロックで蓋をされた形になっているが、見学用?の小さな入口から入れる。
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中はしっかりとした海軍式のコンクリート巻き。此処に「蛟龍」が配備されていたという14番壕だ。
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▲昭和20年に5人乗り「甲標的」として開発された「蛟龍」(こうりゅう)。呉の海軍工廠や長崎造船所で大量産された。
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▲日本敗戦後、呉の海軍工廠のドックに111隻の「蛟龍」を集めて視察する米軍の調査チーム。
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▲壕内部から入口を撮影。ハワイ真珠湾攻撃で採用された「甲標的」の進化型と言われる「蛟龍」は「人間魚雷回天」
「海龍」そして「蛟龍」と、特攻兵器にその姿を変えていった。
単独での攻撃では、魚雷2射線に過ぎないので命中率は低く、攻撃目標に肉薄しての攻撃となる。
しかし、運動性能も通信能力も貧弱であると共に、魚雷発射後に艇が水面上に飛び出してしまうという欠点があった。
船首の魚雷が無くなって重量が軽くなり、魚雷発射後は船体前半が浮上してしまい、敵艦から発見されてしまう。
米軍艦艇は単独ではなく、編隊を組んで航行しているので攻撃目標以外の艦艇や上空哨戒機から発見され、攻撃され
てしまうリスクはかなり高かった。元隊員の証言で、基地整備兵に「もし運良く帰還して整備に戻ってきても、もう積
む魚雷は残っていませんよ」と言われ、出撃後は2発の魚雷を発射した後は3発目として自爆するしか無かったと語って
おられる。▼画像のレールは戦時中の物では無いという事だ。
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「蛟龍」は「水中特攻部隊」として大戦末期、正式な出撃記録は確認出来ていないが「沖縄戦」で運天港から実戦出撃
した記録が残っている。深浦基地にも多くの若い特攻隊員が配置され、本土決戦に備えて4隻が出撃準備を整えていた。
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旧海軍の根拠地柏崎湾。綺麗な海沿いの道を次の見学地、回天が配備されていたという麦ヶ浦基地跡へ向かう。
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▼▲麦ヶ浦に到着。早速回天が配備されていたという麦ヶ浦基地跡に残る回天秘匿壕へ向かう。
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昭和20年8月3日大分県「大神基地」から第21号一等輸送艦に搭載された8基の回天が麦ヶ浦基地へ向かう。
昭和20年8月4日麦ヶ浦基地に第11回天隊が配置され、8基の回天が配備された。
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因みに麦ケ浦基地に回天8基を運んだ第21号一等輸送艦は、呉海軍工廠で建造された最後の海軍艦艇。
昭和20年8月9日和歌山県の由良白崎基地(第16回天隊)へ回天4基を輸送する為、広島県の呉を出港したが、愛媛県の
松山沖において、九州・四国方面を攻撃していた伊江島所属米第318戦闘航空群/第19戦闘機中隊のP-47に捕捉され、
攻撃を受けて損傷、和歌山へ向かうのを断念し、呉へ引き返した。
しかし機銃掃射を受け続け死傷者続出、艦がもたないとの判断で愛媛県にある津和地島に座礁させた。
戦死者60数名・重軽傷者約100名、甲板配置の乗員は殆どが戦死してしまったという。
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陸地に目をやると、2基の秘匿壕がかろうじて残っていた。
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▲▼まだ状態がましな方の1基目
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震洋艇の秘匿壕ではこの様な素掘りの秘匿壕を数多く見てきたが、回天の格納壕としてはかなりお粗末な秘匿壕だ。
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▲▼2基目は草木やゴミに覆われて入壕に苦労した。
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どちらも壕の前部は崩落しており、かなり奥行きの浅い壕になっているが、当時は回天が収納されていたのだろう。
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▲宿毛湾には終戦後、麦ヶ浦基地配備の回天8基が、米軍の命令で投棄され、今も海中に沈んでいる。
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戦跡では無いが外泊という場所にある「石垣の家・文化の里」という場所に案内して頂いた。
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かなり高い位置までの見事な石垣で囲われた外泊集落は愛南の観光スポットだそうだ。
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▼外泊港からは遊覧船も出航している。
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▼次の目的地である宿毛湾に行く為に高知県入り。宿毛リゾート「椰子の湯」で昼食をいただく。
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建物が何となく戦艦か潜水艦の艦橋に見えるのは私だけだろうか・・・。
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宿毛リゾート 椰子の湯(高知県)からは、宿毛湾が一望できる絶景ポイントがある。
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目の前に広がるのは宿毛湾。かつて連合艦隊の大小艦艇が訓練・停泊・公試を行っていた泊地だ。
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沖の島⇔鵜来島(うぐるしま)を戦艦大和が公試運転した有名な湾だ。
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▲公試運転中の戦艦大和
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▲沖の島が見えた。
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宿毛湾の旧海軍基地が宿毛市宇須々木(うすすき)地区に残っているので昼食後に向かう。すると偶然だった・・・
海上自衛隊のあすか型試験艦(ASE"ASUKA"Class)が、すくも84マリンターミナルに停泊していた!
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強烈な敗戦イメージが植え付けれた我々世代は、軍隊という名の付く物にアレルギーを発症する輩も多いが、国防は
現在進行形。アメリカ軍に守られて(ある意味支配されて)多少国防を疎かに考えても生きて来られたが、これからは
そうはいかない。アメリカ軍だって自国優先。しかし、先の大戦で日米双方共、先人達が武人として誇りをかけて戦
った過去を無駄にする事無く、自衛隊にはアメリカ軍と協力してこの国を守って欲しい。
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▲若い自衛隊員を見ると、先の大戦で散って行かれた多くの日本兵を思い浮かべてしまい、思わずグッときてしまう。
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気を取り直して宇須々木の宿毛海軍基地跡に向かう。
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当時、軍の機密保持が厳しかった為、資料はほとんど無いが、連合艦隊が頻繁に宿毛湾に投碇し始めたのは、昭和8年
頃からと言われている。
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▲戦時中に撮影された宇須々木の海軍基地。昭和11年完成の兵舎2棟確認出来る。
宿毛湾は大型艦艇が入港できる広さや水深があり、当時は鉄道が開通しておらず、良い意味で不便な場所であり、機
密保持出来る事から、艦艇の性能試験を行う海上公試や演習中の艦艇の休息場所として戦時中まで利用されていた。
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▲現在の風景。兵舎の跡には宇須々木公民館が建てられている。
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▲まずは旧海軍基地に残る二座/三座水上偵察機及び二式水上戦闘機が使用したスロープを見学する。
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▲▼と、その前に、当時の境界壁だったという、今は廃家になっている敷地のブロック塀を見ると・・・。
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何と菊花紋章が!!!欲しい・・・。末永く保存される事を願う。取り壊しの際はご一報下さい、引き取ります。
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名残惜しいが時間も押し迫っていたので、その場を離れて飛行艇揚陸スロープ跡を見学しに行く。
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宿毛海軍航空隊(昭和19年に453空と改称)は二座水上偵察機(9機)/三座水上偵察機(9機)/二式水上戦闘機(9機)が配備
され、隊員は250名だった。隊長の野口克巳氏(岡出身)によれば、宇須々木は波の関係で水上機の練習にあまり適して
いなかったので、鹿児島県指宿海軍航空隊配属となり、移動したとの事である。
※指宿海軍航空隊は「水上機神風特別攻撃隊」が出撃している基地だ。此処に居た隊員も出撃した可能性は高い。
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▲▼これらの石組みも全て当時の物だという。
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80年以上前の物だがよくここまで残っているものだ。
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▼戦時中の宿毛湾。海軍の艦船が沢山写っている。
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▼車を駐車していた場所はかつての水上機係留場だ。
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▼水上機係留場から宇須々木公民館を見る。当時は兵舎が見えていたことだろう。
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宇須々木の基地使用は昭和8年頃からで、兵舎2棟の完成は昭和11年。司令は海軍大佐が来ており、兵員約200名。
主に艦載機の寄港基地として利用され、陸揚げ・給油・整備をしていた。
昭和13年頃より艦隊の入港も少なくなり、入港しても小艦艇が主であった。訓練は定期的でなく、又訓練日程も知ら
されず、実戦が主になった模様である。
昭和20年終戦前には海軍陸戦隊用として、3個大隊10日分の食糧を非常用として楠山及び篠山に分散貯蔵していた。
昭和15年日本軍が仏印へ進駐した際、旗艦足柄・巡洋艦4隻を中心とする第7戦隊が宇須々木に集結して出撃した。
※仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、第2次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍
 の進駐の事。昭和15年の北部仏印進駐と、昭和16年の南部仏印進駐に分けられる。
 南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能点であると評されている。
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▼▲次は弾薬庫跡に向かう。弾薬庫外側の外壁が今も残る。
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中に入る事が出来た。
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▼外壁を内側から見る。
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▼弾薬庫の扉は当時のまま。
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弾薬庫の赤煉瓦外壁はかろうじて残っているが屋根は抜け、当然ながら中は何も無い。
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▼次は貯油庫に向かう。
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少し小高い丘に立派なコンクリート巻きの壕が築かれている。
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▼細い石段を登っていく。
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壕の中には入る事が出来ない。
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しかし、短い距離で壕は貫通しており、当時トンネル内ではクレーンで水雷艇を釣り上げて収納し、給油や整備をして
いたとの事。トンネルの構造になっているのは、防空壕の役目も兼ね備えているからだという。
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貯油庫として航空機のガソリンや、艦艇用の重油を保存していたガスタンクが設置されていた施設だったったという。
1階が油槽庫で、2階がトンネルのような構造で、ガソリンはそれぞれドラム缶に入っていたと考えられるので、大量の
ドラム缶は、トンネル式の壕の下にあたる1階に貯蔵していたものと思われる。1階部分は見る事が出来なかった。
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このトンネルを抜けた先にも手掘りの壕があるとの事だったが、トンネルに入る事が出来ないので行けなかった。
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▲貯油庫の横には魚雷艇庫跡ある。此処は大戦末期には特攻兵器「震洋」の格納壕として震洋が配備されたそうだ。
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▲旧日本海軍乙型魚雷艇。
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内部は分岐が2つあり、左右の壕に繋がっていた構造になっている。
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中に入れなかったが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には此処に震洋が入っていたのだろうか・・・。
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▲ベニア板製の1人乗りの海軍特攻ボート「震洋」。因みに陸軍は「マルレ」と呼ばれ、少し構造が異なっていた。
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▲現在は地元の方が倉庫として利用しているが、コンクリートの厚みから見ても当時何らかの海軍施設だった様だ。
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▲何か所か入口が塞がれた壕口がある。中で全て繋がっていたと思われる。
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▲最後は単独壕である魚雷艇庫跡。此処も大戦末期は第21突撃隊「震洋隊」の格納壕となった。
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▲▼恵比須神社と書かれた鳥居の横に壕口がある。
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此処も震洋を格納していたのだろうか・・・。
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ここは入壕出来そうだ。
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早速入壕。現在は漁港なので魚介類を入れる発泡スチロールの入れ物置きになっている。
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入口から数メートルはしっかりとしたコンクリート巻きだ。
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途中からは素掘り。かなり奥行きはある。
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この奥行きなら震洋艇であれば5隻は入っていただろう。
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▼奥から入口を見る。秘匿壕なので分岐は無く、直線的に掘られた単純な壕だった。
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さぁ戻ろう。
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こうして宿毛湾の旧海軍基地跡巡りは終わった。
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海軍連合艦隊の泊地・宿毛基地(宿毛水上機基地)というより、やはり大戦末期の本土決戦用特攻基地のイメージが強く
残った宿毛旧海軍基地跡。あまり知られていない戦跡という事だが、本土決戦が決行されなくて本当に良かった・・・。


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 2017_10_29




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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