終戦(敗戦)直後から昭和21,2年辺りまでの写真はモノクロ写真が多い。暗い戦争のイメージは、モノクロ写真が更に
暗さを倍増させる。「青空など無かったのではないか?」と錯覚してしまう程だ。ここに紹介する進駐軍が撮影した
写真は全てカラー写真。カラー写真は全てGHQ職員だったロバート・V・モージャー氏が、昭和21年~22年にかけて
撮影した写真だ。終戦直後の東京・名古屋・大阪・広島の風景が良く解る。
個別に全ての場所が特定出来れば、是非、現在の同じ場所に行ってみたいものだ。
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東京大空襲後の現在の墨田区両国付近、右手の川は隅田川。モノクロだとやはり限界がある。
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▲▼ここからはカラー写真。敗戦直後進駐軍管理下の日本をまずは皇居の桜田巽櫓から。
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▲皇居外苑坂下門付近の警備兵(イギリス連邦軍インド兵)終戦直後はインドはまだイギリスの植民地だった。
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▲▼北桔梗門前蛤濠の警備兵(米軍第1騎兵師団とイギリス連邦軍インド兵)
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▲ロバート・V・モージャー氏(Robert V. Mosier)
GHQの文民スタッフ(civilian secretarial staff)として昭和21年4月~翌年1月に日本に滞在した際、東京、名古屋、
大阪、広島等の全国各地で撮影したカラー写真を、2008年米国在住のモージャー氏の親族からカラースライド(304枚)
が寄贈された物。
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▼国会議事堂が見え、夏空が広がっている。
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▼国会議事堂前の道に駐車する多くのバス・・・進駐軍の車両だろうか・・・。
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▼皇居周辺の写真。この辺りは東京に住んでいなくてもだいたい何処だか解る。
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▼昭和13年竣工の第一生命ビル(戦時中は東部軍管区司令部)を接収。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)となる
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▲この車はなんていう車だろう・・・スチュードベーカー・コマンダーかな?
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▲皇居外苑の楠木正成像。今もあるのかな?
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▼▲アメリカ極東空軍司令部として接収された明治生命館
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▲東京銀行集会所。大連で同じ様な建物を見た事がある・・・。
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▼岸本ビル/内外ビル/日本郵船ビル/東京海上ビル。石炭暖房器具を使っているのだろう、煙突から黒煙が出ている。
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▼「日比谷帝國生命館」と書いてある。
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▼これは帝国ホテルかな。愛知県のテーマパーク「明治村」で見た事がある。
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▼これは空襲で被害を受けた修復中の東京駅だろう。
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▼空襲で焼けた建物。これは大本営陸軍部か!?
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▼東京宝塚劇場。ERNIE PYLEって書いてある。「沖縄戦」の伊江島で戦死した米軍従軍記者の事か?
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▼松屋銀座前。当時はPX(進駐軍の売店)として接収されていたそうだ。
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▼CITY HALLと書かれた建物は元何だったんだろう・・・東京都庁舎かな?
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▼▲これらは何処の何なのかは解らない・・・。
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▼横浜駅
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▼これは横浜港だろう。
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▼鎌倉の大仏かと思ったら、愛知県東海市の聚楽園大仏だという事だ。
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▼聚楽園弘法大師像と米軍軍人
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▼いつの時代も富士山は美しい・・・。
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▼山中湖かな?昭和の日本だ・・・何か美しい。
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▼▲山中湖周辺で進駐軍が接収したホテルだろうか・・・今も残っているのかな?
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テニスコートが写っている。何処だろう・・・。
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▲ 愛知県名古屋市中区の路面電車が走る大津通。
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▲遠望に名古屋日本徴兵館を望む。愛知県名古屋市
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▲愛知県名古屋市中区の松重閘門(まつしげこうもん)
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▲名古屋駅が見える。
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▲遠望に名古屋日本徴兵館を望む。
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▲▼一応余所行きの着物だろうけど、何か着物姿の普通の日本女性っていいな~って思えてくる写真。
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▼▲名古屋城だ。東南隅櫓(辰巳櫓)と思われる。
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▼名古屋城表二之門
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▼昭和20年5月14日未明の名古屋大空襲で全焼した天守閣は石垣だけが残っている・・・。
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▼奇跡的に残った西南隅櫓(未申櫓)
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名古屋は工業都市で、三菱重工業名古屋発動機、同名古屋航空機、愛知航空機、愛知時計電機、陸軍造兵廠、住友
金属工業、大同製鋼、神戸製鋼、日本車輌製造、名古屋造船、岡本工業、大隈鉄工等、多くの工場が立地していた為、
米軍の日本本土空襲の第一目標だった。名古屋は航空機産業のメッカであり、とりわけ航空機生産の最大拠点である
三菱重工業名古屋発動機は、東京の中島飛行機武蔵野工場と共に、米軍の日本本土初空襲初空襲(ドゥリットル空襲)
の最初の目標でもあった。
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▲陸海軍の飛行場跡か・・・凄い数の航空機の残骸・・・。
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▲▼綺麗な残骸だ・・・一式陸攻か?・・・塗装前に日の丸は入ってるんだ・・・。
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▼東海銀行の看板が見えるので、この写真も愛知県だろう。餓死者が沢山出た戦後において、写っている人はまだ裕
 福な人達だろう。笑顔も見える。
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進駐軍のカメラマンに写真を撮られるのに抵抗感は無い様だ。
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▼空襲で焼けた壁が痛々しい名古屋市中区の松坂屋。
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▼愛知県名古屋市の丸栄名古屋公証人合同役場五金。
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▼ミッキーマウスが描かれた愛知県内の飲食店。占領された・・・負けた・・・って思っただろうな・・・。
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▼名古屋市中区の松坂屋前の路上。
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▼愛知県庁か?名古屋市役所か・・・素晴らしい。旧満州国の「新京」みたいだ・・・。
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▼▲愛知県庁名古屋市役所遠景。
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▼・・・。
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▼愛知県名古屋市の中部配電付近。
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▲愛知県名古屋市中区
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▲名古屋観光ホテル
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▲名古屋市の護国神社鳥居
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▲愛知県名古屋市中区広小路東新町交差点の陸田ビル
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▲愛知県名古屋市中区の中村百貨店
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▲▼愛知県名古屋市の露店と映画演劇の広告看板
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▲▼愛知県名古屋市中区の名古屋日本徴兵館。
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▲愛知県名古屋市中区で建設中の丸栄百貨店。
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▲場所不詳
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▲岐阜県各務原市の「城山荘」
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▲製作中の和傘
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▲▼場所不詳
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▼心斎橋の「そうごう大阪店」(接収され、進駐軍の売店=PXとなっていた)
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▼原爆が落とされた広島・・・。
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▼原爆ドームと墓石とは何とも不気味な組み合わせだ・・・。
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広島は写真がカラーとなっても、尚も暗く感じるのは私だけだろうか・・・。
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▼オーストラリア軍兵士。これを見ると、豪州とも戦っていた事を再確認させられる。
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▲▼中に居た人達は一瞬にして吹き飛んでお亡くなりになったんだろう・・・原爆は恐ろしい・・・。
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▲京都の知恩院山門。
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▲東本願寺御影堂門
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▼▲これは間違いなく平安神宮だろう。平安神宮応天門
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京都に現存する寺院や神社は、今も昔も変わらない風景を残している事が良く解る。
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▲平安神宮拝殿
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▲平安神宮外拝殿
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現在は黒煙をあげている風景は京都には見られないが、当時はこんな感じだったんだ・・・。
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▼ここからの画像は、場所が何処か解らない
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▲▼今ではもう見られなくなった牛を引いての田起こしの風景。
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生き残った日本人は皆、必死に戦後の日本を復興させたんだな・・・と、つくづく思う。
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▼何処だろうな・・・奥に綺麗な雪山が見える。
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▼木造の物資運搬船だ。
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▼終戦直後から商売をしている人達は凄いバイタリティーだ。
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▼昭和の看板はカラフルで味があっていい!
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▼日本海軍に徴用されていた病院船「氷川丸」の貴重なカラー写真だ。今も重要文化財として残っている。
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▲焼け跡にバラック建てて商売スタート。ホント終戦直後の日本人は凄い・・・奇跡の復興と言われるのもよく解る。
自然災害でもないので何の保証も無く、全て「命さえがあれば」の精神で、国に文句も言わず頑張った日本人は偉い。
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▲▼映画館で娯楽を楽しんでいる人も大勢いる・・・ゼロからのスタートでは無い人も少なからず居たんだね・・・。
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▲元気そうな子供達だが、昭和22年以降の食糧飢饉で餓死者が大勢出ている・・・この子達は生き延びただろうか。
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▲▼飲食店が立ち並ぶバラック・・・裸電球も写っている。メニューに刺身が確認出来る・・・何の魚だろう・・・。
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▲愛知県名古屋市の様子だが「新興日本の春を楽しく迎ませう」と書いてある。終戦1年でこうも変われるものだ。
よく戦争映画やドラマで、戦後の極端な世の中の変わり様を驚くシーンがあるが、全く本当だった様だ。
▼戦時中クリスマスはあったのだろうか・・・少なくとも太平洋戦争末期はクリスマスを祝う余裕も無かっただろう。
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敗戦間際に戦死していった特攻隊員や自決した兵士の事を想うと、何とも複雑な気持ちになる・・・。
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▲何処だろう・・・富士山が見える。



続く➡執筆中



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 2017_11_19


今回は九州出張を利用して、以前行けなった鹿児島県鹿屋市の笠之原町・串良町の戦跡を巡ってきた。
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▲雨の予報を覆しての曇り空。桜島を見ながら鹿児島市内➡鹿屋へフェリーで向かう。
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▲あっという間に鹿屋市に着き、鹿屋市側より桜島を見ながら笠之原飛行場跡へ向かう。
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▲笠之原飛行場の歴史は古く、大正11年8月から敗戦までの24年間に渡って旧陸海軍の飛行場として使用されてた。
海軍が航空基地として使用を始めたのは太平洋戦争末期の昭和19年1月15日。
昭和20年1月には第203航空隊のゼロ戦72機が配備され、神風特別攻撃隊の直掩隊(零戦)が出撃していった。
昭和20年3月18日アメリカ軍による空襲で、格納庫を始めとする基地施設は消滅した。
敗戦後、民有地を買収して作られた飛行場跡は、地元地区民に農地として無償で払い下げられた。
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▲▼現在ただ1つのみ残る笠之原飛行場の掩体壕。(川東掩体壕)
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終戦後30基以上残っていた海軍式掩体壕も、現在はこの1基のみが現存するだけである。
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▼前部が崩れて喪失しているが、かなり粗い作りだった事が確認出来る。
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▼天井部分のアップ。鉄筋は入っていない様だ・・・。
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▼爆撃で出来たであろう穴も確認出来る。
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▼「セメント共販・・・」って書いてある・・・袋ごと固めてしまった様だ・・・。
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▼鹿屋航空基地に現存していた掩体壕が、今年に入って取り壊した際の破片が飾ってあった・・・。
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▼▲こんな物を展示する価値はあるのだろうか・・・状態が良かった掩体壕だったのに・・・。
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取り壊さず何とか保存出来なかったのだろうか・・・鹿屋は特攻隊が数多く出撃した現役の自衛隊基地なのに・・・。
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▲▼山口県の岩国基地に残る掩体壕とレプリカのゼロ戦21型
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映画「零戦燃ゆ」の撮影用に製作された機体で、7000万掛かったレプリカだという事だ。
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日本国内の岩国米軍基地内で、この様な演出で見学出来るにもかかわらず、何故鹿屋航空基地でこの様に、解りやすく
保存・修復する事が出来ないのか・・・。どんな事情があるにせよ、取り壊しは全くもって理解不能である。
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▲経年劣化も補修され、掩体壕も綺麗に保存されている。
※画像は-廃墟日常記録帳-様から提供して頂いた。有難うございました!
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▼ここから1本の滑走路が伸び、特攻機の直掩隊が出撃して行った・・・。
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▼現在は、畑の中に当時滑走路だったという事を物語るコンクリートが僅かに残るだけである。
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▼▲当時を物語るもう1つの遺構。コンクリート製の「地下通路電信司令室に通じていた」とされる入口が残る。
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▲何のくぼみだろう・・・銃眼ではなさそうだ。
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東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道の入口とされるが、地下道はまだ確認されていない。
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▲此処が入口かどうかは定かでないので、今後の調査が期待される。何とか掘り起して頂きたいものである。
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▲一見普通の民家に見えるが、実は笠之原飛行場時代初期に建てられた弾薬庫だそうだ。
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▲▼機銃掃射や爆撃の破片を受けた傷が無数に残る外壁も残っている。
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無償で払い下げられた際に民家として再生したのであろう。お住まいの方がいらっしゃるので見学する事は出来ない。
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▲しかし強度抜群の家だろうな・・・白く塗られているが、元々赤煉瓦造りである事が見て確認出来る。
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▲次は海軍串良航空基地跡に向かった。
現在は平和公園となっている一帯は、旧海軍教育航空隊があった場所だ。
昭和18年4月1日串良航空隊開隊・練習航空隊に指定され、整備教育を担当
昭和20年3月1日第22連合航空隊に編入、神風特別攻撃隊(艦爆隊)の基地となり、予科練教育を担当
昭和20年7月10日串良航空隊解隊、昭和20年8月15日敗戦。
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  ▲昭和23年に米軍が空撮した串良基地。赤い星印が現在の平和公園だ。滑走路は現在道路となっている。
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▲一帯が「平和公園」となったのは昭和44年10月1日からだそうだ。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、教育航空隊として開隊され、約5000人の飛行予科練習生が航空機の整備・搭乗・通信
などの猛訓練を受けた。昭和19年4月実戦部隊に編入、更に昭和20年3月1日より神風特別攻撃隊の基地となり、終戦
までの半年間に、神風特攻隊の精鋭363名、攻撃隊202名の合計565名の最後の地となったところである。
串良基地は沖縄作戦の際に、艦上攻撃機の出撃基地として使用され、特攻出撃や夜間雷撃に数多くの艦上攻撃機が出撃
し、沖縄周辺の敵艦船攻撃に向かったのである。ドラマ「永遠の0」のロケがこの平和公園でも行われた。
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▲訪れた時は丁度10月15日だった・・・偶然であった。追悼式が10/15だとは全く知らなかったのである。
※来毎年10月15日には、全国各地から御遺族や生存者が集まり、町民と共に追悼式が行われているとの事であった。
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▲当然の事ながら、私も慰霊させて頂いた。
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▼▲公園内には多くの慰霊碑がある。
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個別に慰霊する事はしなかったが、これだけ多くの慰霊碑がある公園も珍しい。
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▲これは間違いなく神風特別攻撃隊だろう・・・。
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▲▼東西1300m南北1200mの滑走路跡の両脇には、桜が植えられ、本土の桜前線はここから始まるとの事だ。
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▼次は串良基地の第1電信室に向かった。ドラマ「永遠の0」のロケにも使われた壕だ。
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此処は特攻機の最後の無線を傍受していた電信室だったという事だ。
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▲▼壕の入口を守る、分厚いコンクリートの爆風除け。
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半端ない分厚さだ・・・。
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▲▼入口を分厚い爆風除けが守る様に設置されているのが良く解る。
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▼では、早速中へ入ってみる。
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ドラマ「永遠の0」第3回のロケで使われた。『永遠の0』第3夜16:34辺りから平和公園・通信壕が映像に出てくる。
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当時も入口付近や階段には明かりが設置されていただろう。
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地下に吸い込まれそうな長い階段だ・・・。
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階段を下りると二手に分かれる。
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まずは左側。
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▲細長い廊下と通気口の様な役割だろう・・・出口の登り階段に続いていた。
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▲そして、メインの電信室だった部屋に入る。
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▼▲思ったより広くなかった。しかし、此処で特攻機の最後の個別識別単独符号を傍受していたんだ・・・黙祷。
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特攻機は突入時、電鍵を押しっぱなしにして送信し、その信号が途切れた時、「突入」として時刻等が記録された。
それはパイロットが戦死した瞬間でもあった。此処串良基地からは97式艦上攻撃機、艦上攻撃機「天山」など、2名か
3名で出撃した機が多く、操縦/偵察/電信のフル定員3名で出撃した特攻機が多かった。
なので、ゼロ戦などの単座戦闘機では、パイロット(特攻隊員)は操縦や航路、電信、銃撃などを全て1人でこなし、最
後の無電は電信キーを右肘で押し付けて送信し続けたが、複座式攻撃機では電信員が別に居る為、本来、識別信号の連
送だけで良いのだが、故国に向けて最後の電文(モールス信号)メッセージを発した特攻機もあった。
その内容のほとんどが『お母さーん!』であった。まれに『海軍のバカヤロー!』というメッセージもあったという。
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▼▲特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵(撮影場所不詳/昭和20年4月撮影)
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抜けている隊もあるかもしれないが、海軍串良航空基地から出撃した神風特別攻撃隊は以下の通り。
詳しくは 「鹿屋航空基地史料館」 参照。
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第1八幡護皇隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第3御楯隊」天山隊 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「第2八幡護皇隊」 昭和20年4月12日串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「常磐忠華隊」 昭和20年4月12日串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「八幡護皇隊」 昭和20年4月16日串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月16日串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「天桜隊」 昭和20年4月16日串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「皇花隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「八幡神忠隊」 昭和20年4月28日 串良基地97艦上攻撃機で出撃 
神風特別攻撃隊「第1正気隊」 昭和20年4月28日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2正気隊」 昭和20年5月4日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「菊水雷桜隊」 昭和20年5月11日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「第3正気隊」 昭和20年5月11日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「徳島第1白菊隊」 昭和20年5月24日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第2白菊隊」 昭和20年5月27日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第3白菊隊」 昭和20年5月29日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第4白菊隊」 昭和20年6月21日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「徳島第5白菊隊」 昭和20年6月25日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
第931海軍航空隊「雷風雷撃隊」 昭和20年7月22日 串良基地より艦上攻撃機「天山」で出撃(夜間雷撃)
第931海軍航空隊「攻撃第251飛行隊」 昭和20年8月12日 串良基地より艦上攻撃機「天山」で出撃(夜間雷撃)
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▲海軍97式艦上攻撃機(B5M1)
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▲海軍が79式艦上攻撃機の後継機として 開発・実戦配備した艦上攻撃機「天山」(B6N)
当時「ガソリンの1滴は血の1滴に匹敵する」と、燃料使用は厳しく監督されていた。特攻隊が片道燃料で・・・とい
う話はよく聞く。 しかし、その厳しい中で串良基地の燃料担当掌整備長は「搭乗員には決して燃料の心配はさせるな!
必要とあらば惜しみなく使用せよ」と、部下の整備兵に 申し渡していたという。
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▲案内板は、最後の無電を再現した音声が流れる仕組みになっていた。
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壁には、串良基地から出撃風景の写真がいく枚か飾られていた。
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「真珠湾攻撃」で活躍した97式艦上攻撃機ももはや老兵だった。戦争末期においてもかなりの数が残っていたという
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部屋らしい部屋は此処1室だけなので、黙祷して壕を出た。
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▲出口に通じる階段を登り終え、振り返って撮影(入口と出口は別階段)
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▲▼入口と同じ形の出口。出口側には爆風除けは無かったが、うっすら当時の土塁が残っていた。
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▼単純な作りの壕だったが、特攻機の最後の無電を傍受していた場所という事が意味深い。
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▼第1電信室と全く同じ構造の壕がもう1箇所残されているというので、次の遺構を見学しに行く。
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それは畑の端の方にポツンと残っていた・・・。
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▲▼さっきと同じ爆風除けと、こんもりした入口が見える。私有地の畑の中なのでこれ以上近寄る事が出来ない。
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▼出口も畑の真ん中に取り残される様に残っていた・・・。
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▼入れない様にブロックで蓋がされている。恐らく同じ構造だと感じた。
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次は串良基地に電力を供給していた発電室跡に向かう。
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此処は案内版などは一切無い・・・。
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ただのコンクリートの箱の様な構造だ。ディーゼル発電機を設置していただけの建物だからこれでいいのだろう。
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中に入る。思った通りただの箱だ・・・この狭さだと発電機は2基程度か・・・。
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発電機の台座すらも残っていない・・・どこかに重油を保管いていたタンクもあるはずだが・・・。
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▲奥には小さな小部屋があった。
しかし、近々この遺構は取り壊される事が既に決まっているらしい・・・なので、見納めだった。
次に、近くの大塚山公園には海軍が構築した高射砲陣地跡が残っているというので行ってみたが・・・。
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▲特にコレと言った遺構は残っておらず、大塚山公園の山頂付近から志布志湾を眺めてその場を後にした。
▼次に、鹿屋基地近くに第5航空艦隊司令部壕が残っているというので行ってみた。
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草木が生い茂る民家の裏山にひっそりと残っているらしい・・・。
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昭和20年3月、米軍の空襲が激しくなった鹿屋航空基地は、司令部ごと近くの山の壕に移転。
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▲右手に壕口が見えた。昭和20年1月頃から約200人の工員が3交代制/24時間体制の突貫工事だったという。
鹿児島県本土の52%、宮崎県の16%の面積を占めるシラス台地は、火山噴出物からなる台地で崩れやすく、掘るのは
難しいと言われていた。総勢約600名の工員の大半は朝鮮半島出身者で、壕造り・採石・採砂・滑走路補修の3中隊に
分かれ、外出・外泊原則禁止の中、必死に作業に従事していた。
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この付近には三角兵舎が建てられ、出撃を待つ特攻隊員や学徒通信隊の女学生が共同生活をしていたという。
学徒通信隊員は壕が完成してまもなく、軍が借り上げた大きな民家に寝泊まりし、こちらも3交代制/24時間勤務で任務
にあったっていたという。
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今回、入壕はかなわなかったが、鹿屋市が調査した際の動画がYouTubeにUPされたのを見た事がある。
(YouTubeをご紹介しようと思ったが、現在は削除されている様で探しも見つからなかった。見つけた方教えて下さい)
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▲入口からカメラをねじ込んで撮影。かなりの規模の大きな壕が延びているそうだ。見学出来る様になるのを願う。
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▲玉音放送翌日に部下と共に沖縄の海に消えた「宇垣特攻」で有名な宇垣纏 海軍中将。
敗色濃厚の昭和20年。海軍が、残存戦力を総結集して第5航空艦隊を編成したのは昭和20年2月10日。
宇垣纏中将が司令長官に任命され、鹿児島・鹿屋基地に赴任した。
海軍省から第5航空艦隊に与えられた任務は、練習機を含む約2000機の航空兵力で全機特別攻撃を展開する事だった。
もはや熟練搭乗員や保有機数が少なく補給もままならない第5航空艦隊としては、危急存亡の状況下で特攻作戦に変わ
る方策が無く、宇垣中将は、この第5航空艦隊司令部壕から特攻命令を出し続けた。
それまで特攻は現地部隊で自発的意思に基づいて編成されてきたものが、軍令部・連合艦隊の指示意向という形で、特
攻作戦が「沖縄戦」以降、主攻撃とされていく事になる。
山本五十六司令長官亡き後、日本海軍の相次ぐ敗報に次第に戦意を喪いつつある海軍中枢にあって、徹底抗戦を主張し
たのが宇垣纏と、第1航空艦隊司令長官だった特攻の生みの親、敗戦後割腹自決でこの世を去った大西瀧治郎であった。

その後、志布志湾防衛の為に陸海軍が構築した「本土決戦陣地壕」を駆け足で数ヵ所を見学する。
▼「陸軍内之浦臨時要塞」跡。(有明要塞跡)を見学。
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「本土決戦」で最後まで戦い抜く覚悟の日本に対して、連合国軍は日本本土上陸作戦を計画していた。
この作戦は「ダウンフォール作戦」と呼ばれ、「オリンピック作戦」「コロネット作戦」に分かれていた。
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▲コンクリートの砲台が海岸に向かって開いている。有明地区隊/重砲兵第15連隊[ 連隊長 ]石黒豊治大佐
独立歩兵第664大隊/独立歩兵第666大隊/鹿児島地区第16特設警備隊の1小隊
重砲兵第15連隊[ 第1大隊・第2大隊・独立野砲兵中隊・独立十加小隊・独立速加小隊欠 ]1221名が陣地守備を担当。
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▲重砲陣地は南九州への米軍上陸予想地域として有力視された志布志湾(大隅半島と都井岬に挟まれた幅15km、奥行
15kmの太平洋に面した湾)に向けて構築された。
奥には10kmもの砂浜が広がってる為、米軍の大部隊の揚陸が可能と考えられた。
また内陸部には串良飛行場などが点在していた為、それらを占領する事を目標に上陸が予想されていた。
なので、その志布志湾南端の内之浦町海蔵に重砲陣地が構築されたのであった。
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オリンピック作戦とは、九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦である「コロネット作戦」の為の飛行場確
保であった。作戦予定日はXデーと呼称され昭和20年(1945)11月1日に上陸作戦が予定されていた。
(この日程は日本軍に完全に読まれていた事が戦後明らかとなり、後に機密漏えいを疑う騒動となった)
海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。
陸上部隊は14個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。なお、これを支援
する為の兵力誘導用欺瞞作戦としては「パステル作戦」が計画されていた。
「パステル作戦」は、連合国軍の作戦目標が昭和20年(1945)10月に日本が占領下に置いていた中華民国上海周辺に上
陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させるものであった。
また、直前の陽動作戦として10月23日~30日にアメリカ軍第9軍団(8万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行
う事や、イギリス空軍のアブロ・ランカスターが連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として
沖縄から出撃する予定であった。事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により種子島、屋久島、甑列島などの島嶼
を、本土上陸5日前に占領する事も検討された。
※空軍では無差別爆撃を続ければ昭和20年10月1日に戦争を終わらせる事が出来ると、カーチス・ルメイ将軍は考えて
 いたという。東京・名古屋・大阪・神戸と都市を焼き尽くし、鹿児島などの地方都市にまで爆撃の範囲を広げていた。
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▲砲塔は無く、今は水没が酷いので中に入る事は出来ない。しかし内部はしっかりとしたコンクリート造りだ。
砲台形式は穹窖砲台で、砲台には15糎加農砲。他に7門が構築されたという(計画は8門、砲不足により7門となる)
内訳は「96式15糎加農砲 2門」「45式15糎加農砲 1門」「7年式15糎加農砲 4門」であったが、この程度の守備では
到底連合軍の上陸は阻止出来るはずも無く、「沖縄戦」の二の舞を演じる事になったであろう。
他の施設として観測所3ヶ所、150糎探照灯1基であった。観測所は現存するが、今回は時間が無く、次回とした。
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ルーズベルト大統領の死去に伴い、跡を継いだトルーマン大統領はポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、
ソ連の日本参戦を阻止する為、そして日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させる事が可能になった事から広島・
長崎へ原爆投下。結果「ダウンフォール作戦」発動前に日本が降伏した為この計画は中止された。
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▼鹿屋市浜田町にある浜田砲台(坂元砲台)跡には弾薬庫だったという遺構が現存していた。
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大戦末期、浜田海岸に上陸する敵を迎え撃つ為、海軍が設置した砲台だそうだ。
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▼弾薬庫側から砲台が設置されていたという藪を見る。その向こうは浜田海岸だ。
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▼少し中に入って見る。砲員退避所も兼ねていたと思われる遺構は間口は広くとられていた。
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入口付近はコンクリート製だが、奥は素掘りのまま。崩落が激しいので入壕は断念した。
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▼最後は高須海岸に構築されたトーチカ陣地。
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高須海水浴場脇にひっそりと銃眼付のトーチカが残っているという。
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海岸線に沿って歩いていくと・・・。
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あった!銃眼だ・・・。
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自然の岩をくり貫いたのか加工したのか、コンクリート製の銃眼がビーチを狙っていた。
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裏側からどうにかは入れないものかと尋ねたが、現在は塞がってしまって無理な様だ・・・残念。
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石垣が追加で構築されているので水際交戦に備えてのトーチカだろう・・・。
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▲よじ登って銃眼内部を撮影。上手く写らなかった・・・。
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海岸線を先へ進むと、明らかに人工的に岩場が切り取られている部分がある。
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詳細不明との事だが、此処にレールを敷いて、特攻ボートの震洋かマルレを出撃させるつもりだったのではなかろうか
トーチカの直ぐ近くという事を考えると、船で構築機材や材料を運んでくる為に接岸場所を構築しただけかもしれない。
敗戦後の昭和20年9月4日進駐軍アメリカ海兵隊2500人が高須の金浜海岸に上陸した。
当時、鹿屋の多くの人々が進駐軍を恐れ、山間部に逃れたと言われている。
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▲敗戦後の昭和20年9月4日高須の金浜海岸に進駐軍のアメリカ海兵隊2500人が上陸した。
9月3日進駐軍先遣隊が先ず鹿屋航空基地に降り立ち、シリン大佐は「カミカゼ・ボーイはどこにいるのか?」と、最初
に質問したと言われている。
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▲▼フェリーの時間が迫ってきていたので急いで垂水港を目指す。桜島を見ながら鹿屋市を後にした。
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▼今まで鹿児島市内は、通過しただけで真面目に見学した事が無かった。
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折角なので少しだけ市内を見学してから帰路に就く事とした。鹿児島市公会堂からスタートする。
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▼▲辺りを見回すと、西郷さんは当然として、明治・大正・昭和初期頃に建てられた建物が目に付く。
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規模は小さいが、日本統治時代が色濃く残る「大連」を思い出していた。
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▲この建物もどう見ても古い。最近まで鹿児島県立博物館として活用されていた様だ。
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▲鹿児島大空襲の時、多くの人が避難・集まった照国神社が正面に見える。
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▲薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(しまずなりあきら)を祀る照国神社。
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▲西郷を逸材と見抜き、海外の文化や技術を積極的に取り入れ、薩摩藩の枠を超え幕府に日本全体の改革を求めた明君
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▼▲明治16年建築の元県立興業館。現在は活用されていない様だ。
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▼山形屋デパートは大正6年の建築物。
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路面電車も走っている。広島も原爆が無ければこの様な風景が少しは残ったんだろうな・・・。
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▲▼南日本銀行か・・・この建物も明らかに古い!
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昭和20年3月~8月にかけて8回の空襲を受けた鹿児島県。よく耐えて残ってくれた・・・。
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▼鹿児島市役所は昭和12年完成。昭和20年6月17日の空襲で半壊したが修理されて今でも現役だ。
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鹿児島県は本土最南端に位置するのに加え、知覧/万世/鹿屋/串良などの特攻基地が設けられていた為、地方都市の中
でも鹿児島県は特に空襲が激しかった。
昭和20年6月17日120機のB-29がマリアナ諸島から発進し、午後11時、鹿児島市上空に飛来。
6月17日の鹿児島大空襲で、死者は2316人、負傷者3500人、市街地の44.1%が損壊された。
昭和20年3月~8月にかけての8回の空襲で、最終的な死者は3329人負傷者4633人市街地の93%が焼失している。
▼最後に桜島が見える絶景ポイントと、西南戦争で西郷隆盛最後の地を見学しに城山に向かった。
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▲島津の居城だった鹿児島城(鶴丸城)跡付近から城山に登っていく。
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▼此処が「西郷隆盛最後の地」城山薩摩軍陣地だ。
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此処も1度来てみたかった。
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この壕は無料で入る事が出来る。
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早速入壕する
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入って直ぐ左側に小さな小部屋がある。そこには小さな西郷さんが居た。
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壕はコの字型に掘られた単純な壕だが、中には西南戦争を伝える絵が展示されている。
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西郷隆盛最後の時も描かれていた。私利私欲を嫌ったこの人が生きていれば歴史は変わっていたであろうか・・・。
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どうだろう・・・日清・日露・日中・日米の戦争に日本は向かったであろうか。そんな事を想いながら壕を後にした。
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▼壕から少し下がった場所にも壕口が2つ口を開けている。此処は薩摩軍の司令部壕跡だ。
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本来は此処から見学を開始すべきだと思うが、駐車場の位置関係で上から下ってきてしまった。
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日本国内最後の内戦と言われる西南戦争の戦跡だ。
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柵がしてあり、観光客も多いので、流石に入壕する事は出来なかった。
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しかし、「司令部壕」と言われている壕だが、そんなに深い壕ではなさそうだ。
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▼当時の城山薩摩軍陣地
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▼どこまでが本当かは解らないが、城山に立てこもった薩摩軍が、最後は官軍に完全に包囲されていた事が解る。
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明治10年9月24日西郷隆盛自決。とされている・・・ロシアに脱出したとか・・・西南戦争も詳しく勉強せねば・・・
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▼最後は桜島が見える絶景ポイントに向かった。此処は明治23年 鹿児島市に最初に出来た公園だ。
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▼展望台からは桜島が綺麗に見えた。
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▼鹿児島大空襲後の鹿児島市。恐らく昭和20年頃に城山から撮影されたものだ。山形屋も写っている。
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鹿児島県は、私の中で「THE戦跡」と呼んでもおかしくないくらい、戦跡が多く残る県。という印象だった。
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▲観光地をフォローする為にご紹介しておくと、鹿児島市の商業施設・ドルフィンポートにも少しだけ立ち寄った。
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▼晴れていればこんなに綺麗な桜島をまじかに見る事が出来るスポットだ。
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周辺には北海道「小樽」の様な石造りの古い倉庫群も残る。
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次は丸1日かけて鹿児島市を観光してみたいと思いながら鹿児島市を後にした。



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 2017_11_05


「 紫電改保存館」館長の取り計らいで、今回愛南町の戦跡を巡る機会を頂いた。
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▼▲まずはご挨拶がてら紫電改保存館へ。
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館長のブログ「 紫電改を伝えたい!あいなんからの祈り」
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▲此処は再訪となる。休日の中、飛行服で出迎えて頂いた館長と楽しい会話の時間を過ごしながら、紫電改を見学。
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▲翌日から愛南町の戦跡巡りに出発。
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▲▼まずは特殊潜航艇「蛟龍」(こうりゅう)が配備されていたという深浦基地跡を見学。
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この鳥居をくぐれば深浦湾に出る事が出来る。
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現在は静かな漁港だが・・・右手に壕の入口が見える。第10特攻戦隊第102突撃隊「第53蛟龍隊」の秘匿壕だ。
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入口は戦後ブロックで蓋をされた形になっているが、見学用?の小さな入口から入れる。
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中はしっかりとした海軍式のコンクリート巻き。此処に「蛟龍」が配備されていたという14番壕だ。
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▲昭和20年に5人乗り「甲標的」として開発された「蛟龍」(こうりゅう)。呉の海軍工廠や長崎造船所で大量産された。
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▲日本敗戦後、呉の海軍工廠で大量の蛟龍を視察する米軍の調査チーム。
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▲壕内部から入口を撮影。ハワイ真珠湾攻撃で採用された「甲標的」の進化型と言われる「蛟龍」は「人間魚雷回天」
「海龍」そして「蛟龍」と、特攻兵器にその姿を変えていった。
単独での攻撃では、魚雷2射線に過ぎないので命中率は低く、攻撃目標に肉薄しての攻撃となる。
しかし、運動性能も通信能力も貧弱であると共に、魚雷発射後に艇が水面上に飛び出してしまうという欠点があった。
船首の魚雷が無くなって重量が軽くなり、魚雷発射後は船体前半が浮上してしまい、敵艦から発見されてしまう。
米軍艦艇は単独ではなく、編隊を組んで航行しているので攻撃目標以外の艦艇や上空哨戒機から発見され、攻撃され
てしまうリスクはかなり高かった。元隊員の証言で、基地整備兵に「もし運良く帰還して整備に戻ってきても、もう積
む魚雷は残っていませんよ」と言われ、出撃後は2発の魚雷を発射した後は3発目として自爆するしか無かったと語って
おられる。▼画像のレールは戦時中の物では無いという事だ。
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「蛟龍」は「水中特攻部隊」として大戦末期、正式な出撃記録は確認出来ていないが「沖縄戦」で運天港から実戦出撃
した記録が残っている。深浦基地にも多くの若い特攻隊員が配置され、本土決戦に備えて4隻が出撃準備を整えていた。
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旧海軍の根拠地柏崎湾。綺麗な海沿いの道を次の見学地、回天が配備されていたという麦ヶ浦基地跡へ向かう。
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▼▲麦ヶ浦に到着。早速回天が配備されていたという麦ヶ浦基地跡に残る回天秘匿壕へ向かう。
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昭和20年8月4日第11回天隊が配置され、8基の回天が配備されていたという麦ヶ浦基地。
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今は静かで綺麗な海だ・・・。
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陸地に目をやると、2基の秘匿壕がかろうじて残っていた。
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▲▼まだ状態がましな方の1基目
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震洋艇の秘匿壕ではこの様な素掘りの秘匿壕を数多く見てきたが、回天の格納壕としてはかなりお粗末な秘匿壕だ。
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▲▼2基目は草木やゴミに覆われて入壕に苦労した。
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どちらも壕の前部は崩落しており、かなり奥行きの浅い壕になっているが、当時は回天が収納されていたのだろう。
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▲宿毛湾には終戦後、麦ヶ浦基地配備の回天8基が、米軍の命令で投棄され、今も海中に沈んでいる。
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戦跡では無いが外泊という場所にある「石垣の家・文化の里」という場所に案内して頂いた。
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かなり高い位置までの見事な石垣で囲われた外泊集落は愛南の観光スポットだそうだ。
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▼外泊港からは遊覧船も出航している。
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▼次の目的地である宿毛湾に行く為に高知県入り。宿毛リゾート「椰子の湯」で昼食をいただく。
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建物が何となく戦艦か潜水艦の艦橋に見えるのは私だけだろうか・・・。
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宿毛リゾート 椰子の湯(高知県)からは、宿毛湾が一望できる絶景ポイントがある。
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目の前に広がるのは宿毛湾。かつて連合艦隊の大小艦艇が訓練・停泊・公試を行っていた泊地だ。
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沖の島⇔鵜来島(うぐるしま)を戦艦大和が公試運転した有名な湾だ。
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▲公試運転中の戦艦大和
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▲沖の島が見えた。
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宿毛湾の旧海軍基地が宿毛市宇須々木(うすすき)地区に残っているので昼食後に向かう。すると偶然だった・・・
海上自衛隊のあすか型試験艦(ASE"ASUKA"Class)が、すくも84マリンターミナルに停泊していた!
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強烈な敗戦イメージが植え付けれた我々世代は、軍隊という名の付く物にアレルギーを発症する輩も多いが、国防は
現在進行形。アメリカ軍に守られて(ある意味支配されて)多少国防を疎かに考えても生きて来られたが、これからは
そうはいかない。アメリカ軍だって自国優先。しかし、先の大戦で日米双方共、先人達が武人として誇りをかけて戦
った過去を無駄にする事無く、自衛隊にはアメリカ軍と協力してこの国を守って欲しい。
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▲若い自衛隊員を見ると、先の大戦で散って行かれた多くの日本兵を思い浮かべてしまい、思わずグッときてしまう。
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気を取り直して宇須々木の宿毛海軍基地跡に向かう。
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当時、軍の機密保持が厳しかった為、資料はほとんど無いが、連合艦隊が頻繁に宿毛湾に投碇し始めたのは、昭和8年
頃からと言われている。
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▲戦時中に撮影された宇須々木の海軍基地。昭和11年完成の兵舎2棟確認出来る。
宿毛湾は大型艦艇が入港できる広さや水深があり、当時は鉄道が開通しておらず、良い意味で不便な場所であり、機
密保持出来る事から、艦艇の性能試験を行う海上公試や演習中の艦艇の休息場所として戦時中まで利用されていた。
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▲現在の風景。兵舎の跡には宇須々木公民館が建てられている。
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▲まずは旧海軍基地に残る二座/三座水上偵察機及び二式水上戦闘機が使用したスロープを見学する。
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▲▼と、その前に、当時の境界壁だったという、今は廃家になっている敷地のブロック塀を見ると・・・。
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何と菊花紋章が!!!欲しい・・・。末永く保存される事を願う。取り壊しの際はご一報下さい、引き取ります。
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名残惜しいが時間も押し迫っていたので、その場を離れて飛行艇揚陸スロープ跡を見学しに行く。
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宿毛海軍航空隊(昭和19年に453空と改称)は二座水上偵察機(9機)/三座水上偵察機(9機)/二式水上戦闘機(9機)が配備
され、隊員は250名だった。隊長の野口克巳氏(岡出身)によれば、宇須々木は波の関係で水上機の練習にあまり適して
いなかったので、鹿児島県指宿海軍航空隊配属となり、移動したとの事である。
※指宿海軍航空隊は「水上機神風特別攻撃隊」が出撃している基地だ。此処に居た隊員も出撃した可能性は高い。
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▲▼これらの石組みも全て当時の物だという。
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80年以上前の物だがよくここまで残っているものだ。
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▼戦時中の宿毛湾。海軍の艦船が沢山写っている。
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▼車を駐車していた場所はかつての水上機係留場だ。
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▼水上機係留場から宇須々木公民館を見る。当時は兵舎が見えていたことだろう。
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宇須々木の基地使用は昭和8年頃からで、兵舎2棟の完成は昭和11年。司令は海軍大佐が来ており、兵員約200名。
主に艦載機の寄港基地として利用され、陸揚げ・給油・整備をしていた。
昭和13年頃より艦隊の入港も少なくなり、入港しても小艦艇が主であった。訓練は定期的でなく、又訓練日程も知ら
されず、実戦が主になった模様である。
昭和20年終戦前には海軍陸戦隊用として、3個大隊10日分の食糧を非常用として楠山及び篠山に分散貯蔵していた。
昭和15年日本軍が仏印へ進駐した際、旗艦足柄・巡洋艦4隻を中心とする第7戦隊が宇須々木に集結して出撃した。
※仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、第2次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍
 の進駐の事。昭和15年の北部仏印進駐と、昭和16年の南部仏印進駐に分けられる。
 南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能点であると評されている。
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▼▲次は弾薬庫跡に向かう。弾薬庫外側の外壁が今も残る。
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中に入る事が出来た。
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▼外壁を内側から見る。
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▼弾薬庫の扉は当時のまま。
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弾薬庫の赤煉瓦外壁はかろうじて残っているが屋根は抜け、当然ながら中は何も無い。
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▼次は貯油庫に向かう。
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少し小高い丘に立派なコンクリート巻きの壕が築かれている。
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▼細い石段を登っていく。
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壕の中には入る事が出来ない。
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しかし、短い距離で壕は貫通しており、当時トンネル内ではクレーンで水雷艇を釣り上げて収納し、給油や整備をして
いたとの事。トンネルの構造になっているのは、防空壕の役目も兼ね備えているからだという。
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貯油庫として航空機のガソリンや、艦艇用の重油を保存していたガスタンクが設置されていた施設だったったという。
1階が油槽庫で、2階がトンネルのような構造で、ガソリンはそれぞれドラム缶に入っていたと考えられるので、大量の
ドラム缶は、トンネル式の壕の下にあたる1階に貯蔵していたものと思われる。1階部分は見る事が出来なかった。
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このトンネルを抜けた先にも手掘りの壕があるとの事だったが、トンネルに入る事が出来ないので行けなかった。
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▲貯油庫の横には魚雷艇庫跡ある。此処は大戦末期には特攻兵器「震洋」の格納壕として震洋が配備されたそうだ。
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▲旧日本海軍乙型魚雷艇。
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内部は分岐が2つあり、左右の壕に繋がっていた構造になっている。
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中に入れなかったが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には此処に震洋が入っていたのだろうか・・・。
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▲ベニア板製の1人乗りの海軍特攻ボート「震洋」。因みに陸軍は「マルレ」と呼ばれ、少し構造が異なっていた。
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▲現在は地元の方が倉庫として利用しているが、コンクリートの厚みから見ても当時何らかの海軍施設だった様だ。
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▲何か所か入口が塞がれた壕口がある。中で全て繋がっていたと思われる。
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▲最後は単独壕である魚雷艇庫跡。此処も大戦末期は第21突撃隊「震洋隊」の格納壕となった。
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▲▼恵比須神社と書かれた鳥居の横に壕口がある。
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此処も震洋を格納していたのだろうか・・・。
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ここは入壕出来そうだ。
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早速入壕。現在は漁港なので魚介類を入れる発泡スチロールの入れ物置きになっている。
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入口から数メートルはしっかりとしたコンクリート巻きだ。
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途中からは素掘り。かなり奥行きはある。
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この奥行きなら震洋艇であれば3隻は入っていただろう。
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▼奥から入口を見る。分岐は無く、直線的に掘られた単純な壕だった。
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さぁ戻ろう。
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こうして宿毛湾の旧海軍基地跡巡りは終わった。
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海軍連合艦隊の泊地・宿毛基地(宿毛水上機基地)というより、やはり大戦末期の本土決戦用特攻基地のイメージが強く
残った宿毛旧海軍基地跡。あまり知られていない戦跡という事だが、本土決戦が決行されなくて本当に良かった・・・。


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 2017_10_29


エア-パーク/航空自衛隊浜松広報館に行ってきた。此処に展示されている零戦を見学したかったからだ。
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駐車場(無料)に車を止めて、まずは屋外展示を見学。
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▼▲これは鳥取県の航空自衛隊美保基地でも見た事がある。輸送機かな?美保基地のは尾翼番号が91-1139だった。
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屋外見学もほどほどに早速館内を見学する。
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思ったより広く、展示物も充実している。
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平和学習も大事だけど、現在進行形で続く国防も同時に勉強しなければ意味は無い。
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しかし、敗戦前までの旧日本軍の様な教育が自衛隊の中で続いていない事を祈る。
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▼こんな沢山基地があるだ~。と驚くが、ほとんどは旧日本陸海軍の基地をそのまま使っている場所だろう。
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▼今訪れている航空自衛隊浜松基地も、元は旧陸軍の飛行場だった場所だ。今も滑走路はそのまま残っている。
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▼赤丸が現在居るエア-パークだ。
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兵器に関しては詳しく無いが、敗戦後、当然軍事産業はGHQが徹底的に解体したので、どこまでが日本製か解らない
が、展示されている兵器はアメリカ軍の兵器がほとんどだろう。
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現在でもパイロットは頭の良い人が多いんだろうな・・・。
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戦時中、特攻隊で多くの優秀な若者が散っていた過去を二度と繰り返さない事を祈った。
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渡り廊下を渡って、格納庫の形をした別館に行く。
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渡り廊下から見た中庭の展示戦闘機。何だろう?
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格納庫には沢山の航空機が展示されている。
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▲一番目立つ所にあった!国内では唯一の飛行姿勢で展示のゼロ戦が。
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機体は昭和19年6月19日グアム島アガナのジャングルに被弾不時着した第343海軍航空隊「尾崎伸弥大尉」の乗機。
尾崎大尉は昭和19年海軍第343航空隊飛行隊長で、同年3月27日香取基地より硫黄島経由、テニアン島へ進出。
同年6月6日アイライ飛行場(現在のパラオ国際空港)へ移動してパラオ諸島全体の防空任務にあたる。
同年6月17日零戦隊12機を率いてヤップへ移動。6月19日グアム島上空において尾崎大尉と他1機が哨戒中、敵機2機
と交戦となり、1機を撃墜。残る1機に追尾された尾崎大尉機は海面直前まで急降下し、敵追撃機を海面に激突させた
が、自らも被弾し、不時着させたが病院に向かう途中で息を引き取った。
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昭和38年3月グアム島アガナ市外で発見され、米空軍とグアム政庁に日本への返還を要請。
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昭和39年(1964)1/17米空軍C-130A輸送機でグアム島から岐阜基地へ空輸、返還。
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昭和39年(1964)2/11零戦設計者の堀越二郎氏が対面、自衛隊第二補給処整備部が復元修復作業開始。
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外修は生まれ故郷である三菱重工 大江工場の協力を得て戦後最初に復元された零戦。
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▲昭和38年(1963)3月グアム島アガナ市外で発見され、トレーラーで移動させられる零戦52型「43-188」号機。
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▲日本へ帰るのを待つ零戦52型「43-188」号機。
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▲昭和39年(1964)1/17グアム島から岐阜基地に還ってきた零戦52型「43-188」号機。
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▼零戦設計者の「堀越二郎氏」が還ってきた零戦52型「43-188」号機と対面
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▼昭和39年(1964)10/19零戦52型「43-188」号機復元修復完了。
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▼復元完成式にて
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(上空にゴミの様な物が写っているが、先の大戦で亡くなられた多くの英霊に対する慰霊の為に放たれた鳩)
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▼完成式には堀越二郎氏も訪れた。画像(右)の少年は誰か解らないが「戦争を知らない子供」である事は間違いない。
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▼ゼロ戦の腹を撮影出来る機会はそうそう無いので、下から撮影しまくる。
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いつまでも眺めていたいゼロ戦だが、他を見学しに行く。
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▼格納庫外では陸上自衛隊の車両達が展示されていた。
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災害派遣などでやっと国民の認知度と好感度が上がってきた様に思える現代の日本軍(自衛隊)。
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命を捨てて日本を守ろうとした先人達の意志を受け継いで、日米双方共、武人として誇りをかけて戦った過去を無駄に
する事無く、アメリカ軍と協力してこの国を守って欲しい。



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 2017_10_20


ハワイオアフ島・パールハーバー。日米開戦の舞台となったハワイ・フォード島、真珠湾攻撃・・・。
真珠湾は現在も米軍基地が置かれているが、そこには第二次世界大戦に関する博物館などがある。
本来、最初に訪問すべき場所ではあるが、その遠さと費用で今まで足踏みしていたが、やっと行く事ができた。
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▲日本から約8時間。オアフ島のダニエル・K・イノウエ国際空港(旧ホノルル国際空港)に到着。
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▲空港内にはダニエル・K・イノウエを紹介する場が設けられている(2017年4月27日より名称変更)
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▲ダニエル・K・イノウエ氏
ダニエル・K・イノウエは、ハワイ州出身の日系アメリカ人で、ハワイ大学在学中の1941年12月日本軍による真珠湾
攻撃が行われ、アメリカが第2次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願。その後アメリカ人としての
忠誠心を示す為にアメリカ軍に志願。アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、手榴弾の炸裂で
右腕を失うも、ヨーロッパ前線で勇敢に戦い、数多くの栄誉を受けた人でもある。
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▲ダニエル・K・イノウエ国際空港は、米空軍のヒッカム空軍基地に隣接しており、滑走路を軍民で共有している。
日本で言うと那覇空港の様な使い方だが、大きな違いはダニエル・K・イノウエ国際空港は24時間空港だという事だ。
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▲これは第100歩兵大隊を紹介する展示。
日系二世を中心に編成された部隊で、第2次大戦中ヨーロッパ戦線に投入され、イタリア戦線・フランス戦線でドイツ
軍を相手に戦闘を行った。死傷率は314%(のべ死傷者数9486人)だった。
アメリカ本土からの志願兵を加えて編成された第442連隊戦闘団がイタリア戦線に到着し、第442連隊戦闘団の第1大
隊となったが、それまでの功績から第100歩兵大隊の名称はそのまま継続した。
当初は「ジャップ」と呼ばれ、上級指揮官から「必要ない」と言われた日系部隊だったが、戦闘を重ねた後は各方面の
指揮官から日系二世部隊を増援で欲しいと言われる程の活躍だったという。
終戦後第100歩兵大隊は大統領部隊感状を始めとする多くの表彰を受け、現代に至るもアメリカ陸軍ベストユニットの
1つとされ、大隊の大部分の兵士が負傷し、パープル・ハート 章を受章した事からパープル・ハート大隊とも呼ばれた。
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▲他にも、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団したウォーリー・ヨナミネ氏も紹介さ
れていた。私は野球は詳しくないので、恥ずかしながら存じ上げませんでした・・・。
多くの日本人観光客がディスプレイを素通りして行くが、日系一世~現在は四世・五世と、脈々と続く日系人の活躍と、
一世・二世の想像を絶するご苦労を、日本人はもっと知り、学ぶところは学ぶべきだと強く思った。
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▲空港内には、中国庭園・日本庭園・ハワイ庭園があり、空港でありながら緑の中で時間を過ごす事が出来る。
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▲▼チャイニーズガーデン(中国庭園と言っても現在の中国では無く、中華民国の意味合いだ)
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▼チャイニーズガーデンには「中国革命の父」で初代中華民国臨時大総統の孫 文の石像がある。
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▼ジャングルを思わせる様なハワイアン庭園
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▼最後はお待ちかねの日本庭園。と言いたいところだが・・・。
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日本庭園独特の白砂か!?と思ったらコンクリート敷だった・・・メンテが大変だからね・・・仕方ないのか。
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ハワイアン庭園と言われてもうなずいてしまう様な日本庭園・・・。
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しかし、此処ハワイの玄関口に「日本庭園」と題されたスペースがある事に意味がある。と考える事にした。
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▼入国審査を終えて空港を後にする。
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観光客は日本人女性が特に多いと感じた。
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▼まずは宿泊先のホテルに向かう。やっぱり南国はいいね~!
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▼迎えの車に乗り込む。
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▼ハイウェイを走って宿泊先に向かう。送迎車もバスも長~い!
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▼ワイキキ周辺に到着。これも長~い、アメリカに来たって感じ。
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▼宿泊したホテルはアストン・ワイキキ・ビーチ・ホテル
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▼宿泊部屋(17階)から下を見る。プールは宿泊客であれば自由に使う事が出来る。
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▼宿泊部屋のベランダからの眺めは綺麗だった。部屋も綺麗だったが、トイレのウォシュレットは無かった・・・。
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▼ホテル前の道を挟んだ向かいはワイキキビーチだ。
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ここは人口ビーチで、砂はアメリカ本土からだけでは足らず、遠く北海道からも砂が運ばれたそうだ。
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▲▼ワイキキ周辺は高級ホテルが立ち並び、買い物をするにも何でも揃う大都会だ。
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芸能界を引退した島田紳助さんもワイキキの高級マンションに住んでいると聞いた。
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▼中国製のエンジンスクーターを結構見かけた・・・。
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▼▲何処の国でも居るんだね~。ストリートパフォーマー「シルバーマン」
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▼現在もフォード島は真珠湾に浮かぶ現役の米軍基地。そこに行く為にはフォードアイランド・ブリッジを渡る。
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▲この交差点の向こうはフォードアイランド・ブリッジ。橋に入ると検問所がある。ここから先は撮影禁止区域だ。
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▲真珠湾内に浮かぶフォード島(Ford Island)矢印(白)がフォードアイランド・ブリッジの入口。矢印(赤)はこれから
見学する真珠湾攻撃当時ままの格納庫を利用した、太平洋航空博物館パールハーバーだ。
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▲フォード島に上陸。一般見学者がここに来るにはツアーに申し込む以外に方法は無い。
鞄などの手荷物品は一切持ち込む事は許されず、車両は許可車両しかフォードアイランド・ブリッジを渡る事は許され
ていない。フォード島に入る前にはセキュリティー担当者が車内を点検しに来る。
我々の車両は日本人ばかりだったので、本当に簡単な見回り?程度で点検が終わった。
「日本人は信用出来るから見なくても大丈夫と思われている」というガイドさんの話が嬉しかった。
日米双方共 武人としての誇りをかけて戦ってくれた兵士達のお陰で、今の日米信頼関係があると私は思っている。
持ち込みが許可されているは、携帯電話・カメラ・財布といったポケットに入る程度の私物だけである。
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▲太平洋航空博物館パールハーバー以外は現役で訓練等に使用されている所も多く、うろちょろ撮影は許されない。
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▲▼真珠湾攻撃当時のまま残されている格納庫37号棟・79号棟の2棟が「太平洋航空博物館パールハーバー」だ。
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▼管制塔も当時のままだそうだ。
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▼早速37号棟から見学を開始する。
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▲▼真珠湾の拡大写真が床に貼られた小さなロビーで館内の説明・日本語訳発信機などを受け取る。
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とにかく時間が無い。与えられた時間は1時間程度。
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日本語訳発信機を使って展示物の説明を聞いていると、写真撮影の時間が取れなくなってしまう程の短時間だ。
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▼吊るされてる航空機の模型の中に、日本軍機もあるが、かなり上にあるので写りにくい。
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真珠湾攻撃の際、地上から見えた大きさで再現されているという。
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▼最初はどでかい真珠湾攻撃のパネル!
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▲中島B5N 九七式艦上攻撃機だろうか・・・。襲い掛かる日本軍機が描かれている。
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▲▼次は真珠湾攻撃仕様の零戦21型だ。エンジン・プロペラ・カウリング以外は本物だ・・・素晴らしい!
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機番「BⅡ-120」は「 ニイハウ島事件」の西開地重徳1飛曹の機番が書かれている。
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ゼロ戦が空母「飛龍」の飛行甲板上で搭乗員や整備兵の人形がリアルに配置されている・・・。
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機番「BⅡ-120」のBは第二航空戦隊、Ⅱは二番艦「飛龍」、1は戦闘機を表す(2は艦爆3は艦攻)20は先任順。
日の丸後ろの2本の帯は二番艦を表す。海軍は搭乗機は決まっておらず、早い者順に零戦に搭乗していたという。
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此の零戦21型はパプアニューギニア・二ューブリテン島 ガスマタに放置された台南航空隊所属機をオーストラリア軍
が捕獲した物※ガスマタ(Gasmata)はパプアニューギニア ニューブリテン島 西ニューブリテン州南岸にある村。
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此の零戦は1942年製、現状のエンジンとカウルはアメリカ製で現在も飛行可能だという
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▲ハワイの小学生だろうか・・・先生かガイドの人が零戦の前で子供達に日米開戦に関するフェアな説明している。
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ガイドの方が「日本人は此処で立ち止まって時間を使い過ぎてしまい、他を見学されずに帰ってしまう人が多い」
と言っていたが、当たり前だ・・・いつまでも眺めていたい!!しかし、もう二度と来る事は無いと思うので先を急ぐ。
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▲▼真珠湾攻撃で日本海軍が使用した框板と安定器の付いた魚雷は、水深12mの真珠湾泊地の攻撃を可能にした。
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真珠湾攻撃以前から改良が続けられた結果、真珠湾攻撃の時には世界一深度が安定した航空魚雷になっていた。
それに加え、戦艦の分厚い防御甲鈑をブチ抜く為の800㌔特殊鉄鋼爆弾も水平爆撃で使用された。
真珠湾攻撃に参加した日本海軍空母群は「赤城」「加賀」「蒼竜」「飛竜」「瑞鶴」「翔鶴」そして航空機約350機だ
った。各空母の艦載機を水平爆撃機隊、雷撃機隊、急降下爆撃機隊及び戦闘機隊の四群に集約、各隊ごとに指揮官をお
き、その上に全体を統括する総指揮官をおく編成で、飛行隊長として旗艦「赤城」に赴任した淵田少佐が指揮をとった。
錦江湾(鹿児島県)で5ヵ月間の猛烈な訓練を重ねた日本海軍パイロットは当時世界一の技量を持った搭乗員達だった。
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▲ハワイ真珠湾で水平爆撃を終え、ヒッカム飛行場上空を飛行する空母「瑞鶴」所属の97式艦上攻撃機
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▼▲米軍の対空射撃で被弾、撃墜された空母「赤城」第1次攻撃隊 第2制空隊第1小隊2番機・平野崟1飛曹(戦死)
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▼▲カメハメハ大通りの直上をかすめながら、カメハメハ要塞の兵器庫に突入したと言う。平野崟(たかし)1飛曹は第1
次攻撃に参加した空母「赤城」零戦隊唯一の未帰還機。制空隊総指揮官の板谷茂少佐の2番機だった。
米軍対空砲火で被弾した平野崟(たかし)一飛曹はヤシの木に突っ込んだ後、カメハメハ要塞兵器庫の入り口にいた砲兵
のグループに衝突したと言う。その結果、米軍砲兵4人と平野1飛曹が戦死した。
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▲ハワイの地で米軍に埋葬される平野崟(たかし)1飛曹。
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▲現在もハワイの地で永遠の眠りについている。
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▲日本軍の奇襲攻撃でパニックになったオアフ島で撮影された有名な写真。「日本軍は民間人も殺した」など、色々な
プロパガンダに使用された様だが、当時ハワイの人口の約40%が日本人。車の中で亡くなられている方も日系人との話
もある。いずれにせよ「やった・やられた」の次元で話をしていても何の解決にもならない事は、日本人とアメリカ人
は、世界中のどの国の人より良く理解している。犠牲者に報いる為には日米信頼関係を決して壊してはならないと思う。
「 ニイハウ島事件」の零戦だ・・・。
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真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属の零戦。パイロットは西開地重徳1飛曹(愛媛県出身) 享年21歳
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▼ニイハウ島に不時着して1週間後の西開地1飛曹の零戦。
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▼ニイハウ島に不時着➡西開地1飛曹と原田が零戦の無線を使おうと試みたが失敗し焼却された後の写真。
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空母「飛龍」戦闘機隊所属だった機番[ BII-120 ]昭和16年12月17日米国陸軍派遣隊撮影。
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▼このトラクターも「ニイハウ島事件」に関係あるから此処へ持ってきたのだろう・・・。
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西開地1飛曹をかくまった日系2世「原田義雄さん」享年39歳も紹介されている。
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▼▲エアロンカ 65TCモデル。当時アメリカで飛んでいた一般の飛行機という事だ。
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アメリカ軍機はあまり詳しくないので写真のみでスルーする。
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▼▲これはP40かな?
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▲▼爆撃機の展示は場所とるね~日本本土を最初に空襲したB-25中型爆撃機。
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「ドゥーリトル空襲」昭和17年4月18日アメリカ軍が空母エンタープライズ、ホーネットの2隻に搭載した陸軍B-25
中型爆撃機で、日本本土に初めて行ったの空襲の事。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドゥーリトル中佐に由来。
本来、陸上から発進させる陸軍B-25(16機)を空母から飛ばし、日本本土爆撃後は中国大陸などに不時着させる無謀な
作戦だった。目標は東京の兵器工場だったが、目標は外れ一般市民50人が亡くなった。
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▲日米開戦前に日本が授与した勲章を、ホーネット艦上で爆弾に取り付けるジミー・ドーリットル中佐。
ドーリットル中佐自身は、被弾した場合は搭乗員を脱出させた後、目標に特攻する決意だったという。
実際、日本陸軍戦闘機「飛燕」がテスト飛行中に遭遇。攻撃を仕掛けている。
出撃したB-25爆撃機16機は中国大陸や海上に不時着し、日本軍の捕虜になったり、戦死する者も出た。日米開戦まで
空軍に力を入れていなかった米軍は、ルーズベルト大統領が空軍に対してそれまでの100倍の予算を与え、「一刻も早
く日本本土を爆撃せよ」と命じる。「ドゥーリトル空襲」は空軍戦力が整わない中で、賭けに打って出た作戦だった。
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▲空母ホーネットに詰め込まれたB-25
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▲▼ミッドウェー海戦で活躍したダグラスSBD-3ドーントレス。
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▼▲グラマンF4Fワイルドキャットだ・・・。ガタルカナル・ヘンダーソン基地のジオラマになっている。
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▼退役軍人の方だろうか。ゴルフカートの様な物で79号棟に連れて行ってくれた。
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▼79号棟を見学する。
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見た感じ、日本軍機は無さそうだが・・・。
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▼中華民国軍(米義勇軍)のP40-Bトマホーク(Tomahawk)フライングタイガース。
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▲▼そういえば日中戦争でアメリカは当時の中華民国を支援していたんだよね・・・。
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▼パイロット達のサインだろう・・・水平尾翼にマジックで沢山書かれている。フライングタイガース社員に偽装した
 アメリカ軍パイロットが日米開戦前から戦闘行動に従事していたからね・・・。
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▲中国軍に偽装した爆撃機で日本本土空襲も計画されていた。
昭和16年7月23日当時のルーズベルト大統領は対日攻撃計画書[ JB355 ]にサインしている。
これは昭和16年10月までに350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機を中国に供与して、中国の基地から神戸・京都・
大阪・横浜・東京の産業地帯を爆撃する計画の事だ。表向きは中国空軍の行動としてやらせる計画だったが、中核にい
たフライングタイガースが、実働部隊として行動する事が決定しており、アメリカ軍の増強要員が中国軍(蒋介石)に送
られていた。この計画は欧州戦線が急迫した為実行される事は無かったが、遠かれ遅かれアメリカとの衝突は避けられ
なかった。事実上は戦争状態に突入していた日米だが、日本人の真面目過ぎる国民性が、宣戦布告無き奇襲攻撃という
汚名をきせられれる真珠湾攻撃となってしまった・・・。
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▲▼F-4 Phantomかな。
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▼▲旧日本軍も買っていたダクラス輸送機かな?
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▲▼ミッドウェー海戦(Battle of Midway)の模型だ。
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▼もう日本軍機は無いのかと諦めていたその時、あった!97式艦上攻撃機の残骸・・・。
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アメリカ軍での愛称「Kate」で紹介されている。
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日本海軍 中島 B5N2 九七式三号艦上攻撃機を The Most Dangerous Plane = 最も危険な飛行機 と紹介している。
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▼(参考画像)九七式艦上攻撃機
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日本軍機があったので良かった・・・そしてここでタイムアップ。お土産屋も見たいので集合場所に戻る。
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▲37号棟と79号棟の間には数機の飛行機が展示されていたが、時間も無く、日本軍機は無いだろうとスルー。
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フォード島の大部分は今でも滑走路だ。
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次は「戦艦ミズーリ記念館」に向かう。
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その前に、真珠湾攻撃で撃沈された戦艦オクラハマ(USS Oklahoma, BB-37)乗組員の慰霊碑で黙祷を捧げる。
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▼戦艦オクラハマ(USS Oklahoma, BB-37)
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▼いよいよ戦艦ミズーリ記念館に入る。
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チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア元帥の銅像の横にある3つのパネル。
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降伏文書調印式でのニミッツ元帥
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東郷 平八郎元帥も紹介されている。
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まずはアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官、チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア元帥の銅像
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       東郷 平八郎元帥海軍大将の崇敬者だったニミッツ元帥はアメリカ軍のヒーローだ。
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       ▲アメリカ軍の人もこぞって銅像の前で記念撮影している。勝戦国だね・・Nice couple!
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星条旗に覆われた小さな橋を渡ると戦艦ミズーリ記念館だ。
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▼ゴミ箱も戦艦ミズーリ仕様。こういうところがカッコいい!
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「戦艦大和」と数メートルしか違わないというミズーリはとてつもない大きさだ。日本ではこの様な戦艦は見れない。
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アメリカって感じだね~当たり前だが敗戦国日本の重苦しい平和祈念館とは全く雰囲気が違う・・・。
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アメリカも朝鮮戦争やベトナム戦争では一応負けてるんだけどね・・・。
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▼まずは外観の全体像を・・・艦橋部分がレストア中なのが残念だったが、デカい!
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日本も大和か伊400を引きあげて呉かどこかに展示しないと・・・説得力が全然違う。模型は所詮模型・・・。
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▲奥には「USSアリゾナ記念館」が見える。
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いよいよ戦艦ミズーリへ乗る。
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▲救命ボートだろうか。
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なんというデカさだ・・・「大和」や「武蔵」も実物大でこうやって見てみたい・・・。
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見学者はかなりの数だ・・・当然アメリカ人が多い。
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とりあえず艦首へ向かう。
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しばらくガイドさんの説明が続く。
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MARK7 50口径40.6cm砲。大きな主砲だ・・・しかし「大和」は九四式45口径46cm砲だったんだな・・・。
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「砲撃は正面向いて撃つ事はありません。何故なら爆風と炎で乗組員に死の危険性があるからです」と説明してくれた
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▲▼20mm単装機銃の対空機関銃。
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▼ガイドさんの案内で順路を進む。
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▼振り返って艦首方向を撮影。
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砲塔の横で説明を聞く。
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砲塔に書かれた数字は湾岸戦争で撃った弾の数だという・・・各砲塔には記録数字と場所が書かれている。
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▼次にその反対側に向かう。
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そこは東京湾内で日本の「降伏文書の調印式」が行われた場所だった・・・。
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サレンダー・デッキ(Surrender deck)と呼ばれるこの場所で、第2次世界大戦終結の降伏文書調印式が行われた。
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調印式はわずか23分だっという。
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▼机が置かれていた場所には記念の言葉が刻まれている。
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▼隣を見ると古いペリー来航時の星条旗や、降伏文書のレプリカ展示、そして小部屋の入口がある。
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▼当時マッカーサーが署名している写真にも、古いペリー来航時の星条旗が写っている。まさしくこの場所だ。
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降伏文書のレプリカが展示されている・・・なかなか離れようとしないこの子は日本人。何を想うのか・・・。
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此処はダン” ダニエル・ジャドソン・キャラハン(Daniel Judson Callaghan)艦長室の入口。
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降伏文書調印式が行われたこのデッキは艦長専用のプラーベートデッキだったそうだ。
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艦長室と応接室を窓越しに見る事が出来る。
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艦長室入口横に展示されているカラー写真。
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▼アメリカの勝利の象徴だね・・・戦艦ミズーリは。説明するまでも無い有名な写真が3枚・・・。
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「生きて虜囚の辱を受けず」と戦陣訓で徹底的に教育した張本人らが、「生きて国を虜囚」にした瞬間だった・・・。
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▼次へ順路を進む。
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▼すっと此処へ行きたかった・・・[ Kamikaze Attack Site ]
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▼次に見学する[ Kamikaze Attack Site ]の説明を受ける。
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昭和20年4月11日14:43九州(鹿児島県)の海軍鹿屋航空基地から出撃した神風特別攻撃隊の神雷部隊「第5建武隊」
の爆装零戦が低空飛行で戦艦ミズーリの右舷甲板に体当たりを敢行。
特攻機の右翼がミズーリの第3副砲塔上部に当たり、燃料に引火し炎上。しかし搭載爆弾は不発・・・ミズーリは表面
に損傷を受けた程度で速やかに消火作業が行われ、鎮火している。
その後、日本海軍特攻隊員である零戦搭乗員の遺体(ほぼ上半身のみ)が40mm機銃座から回収された。
ミズーリ艦長ウイリアム・キャラハン海軍大佐は、多くの乗組員の不満の声があがる中、「この日本のパイロットは我
々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても今は違う。激しい対空砲火を掻い潜ってここまで接近してきたパイ
ロットの勇気と技量は、同じ武人として称賛に値する。よってこのパイロットに敬意を表し、水葬に付したい」とし、
翌朝9時、艦上にて米海軍のしきたりに則り、海に葬ると艦内放送で全乗組員に命令を下した。
星条旗に包まれた遺体は木製の担架に乗せられ、5発礼砲と共に海に葬られたという。
(ガイドさんの話では3名のミズーリ乗組員が徹夜で「日の丸」を作って遺体を包んだという事だ)
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▲昭和20年4月11日14:43戦艦ミズーリに突入寸前の神風特別攻撃隊第5建武隊の特攻機(零戦52型)
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▲▼突入後に撮影された零戦の残骸。突き刺さった零戦の機関銃で52型である事が判明した。
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▼40mm機銃座から回収された特攻隊員の遺体。上半身しか無い。詳しくは「鹿屋航空基地史料館」 参照。
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▼▲まさにこの場所で特攻隊員の水葬が行われた。
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太平洋戦争当時は画像に写るバスケットゴールは無かったという事だ。
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▼▲甲板上には特攻隊員を水葬した際にミズーリ乗組員が整列した場所が足型で示されている。
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特攻隊員水葬が行われた4/12の午後、「ミズーリ」は再び特攻機による猛攻を受けた。
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▲特攻機が突入した跡の凹。航行に支障がない部分は修理されずにそのまま残された。
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特攻隊員水葬の様子と、特攻を敢行したと思われる石野節男2飛曹。そして水葬を決断したキャラハン艦長を紹介。
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簡単に翻訳すると「海の埋葬」1945年4月12日、沖縄北東部の海域で行われた第2次世界大戦の最後の大戦闘が海上
及び陸上で激しく戦闘を繰り広げた。戦艦USSミズーリを攻撃した日本人パイロットの体は海上埋葬された。とある。
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※ミズーリに突入した特攻隊員は石井兼吉2飛曹か石野節男2飛曹のどちらかと見られている。
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こみ上げる涙を必死にこらえながら[ Kamikaze Attack Site ]を後にした。
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YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 1/4」 
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 2/4」
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 3/4」
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 4/4」

▼艦尾側の主砲も大きい。
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今度は艦の反対側を通って入口方向に戻っていく。
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艦橋を見たかったな~。
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振り返って艦尾方向を撮影。
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渡って来た星条旗に囲まれた小さな橋をミズーリから見る。
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▼艦内への入口を発見。
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ちょっとお邪魔して撮影。
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しかしツアーの人達は誰も入って来ない・・・[RESTRICTED AREA]➡「立ち入り禁止区域」を後で気づいた・・・。
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ゴメンナサイ・・・。
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このツアーは「パールハーバー&戦艦ミズーリ(軍艦カレー付き!)」15790円で申し込みしたオプショナルツアーだ。
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誰も入って来ないので、心配になって艦から出ると皆集合して艦を出ようとしている所だった・・・!
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急いでミズーリを退艦、合流して昼食会場へと向かう。
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東郷 平八郎元帥とニミッツ元帥の関係や「戦艦三笠」の話を聞きながら軍艦カレーを頂いた。
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世界三大記念艦「三笠」へはまだ行った事が無いので、今度時間を作って行こうと思う。
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▲ミズーリ記念館を離れ、次は「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」に向かう。
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此処はフォード島を離れ、オアフ島側にある。日本語に訳すと「第二次世界大戦武勲記念史跡」だ。
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なので戦争博物館と呼ばれるものでは無い。当然此処も手荷物は制限されている範囲の物のみだ。
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早速入館する。此処は無料との事で、ツアーガイドのガイドは許されておらず、ガイド無での見学だ。
ガイドによる偏った知識では無く、「自分の目で見て感じ、自分で考えろ」というのがアメリカ側の意図らしい。
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▼先に行った「太平洋航空博物館パールハーバー」の事だ。
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まずは「USSアリゾナ記念館」に行く為のチケットを貰い、見学者全員が視聴を義務付けられている映画を見る事に。
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▼「USSアリゾナ記念館」行きの船は写真奥の右手奥から出航する。
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▲▼この建物の中で映画を見るのだ。建物内での撮影は禁止だ。
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20分程の白黒映画は当時の映像を組み合わせた第二次世界大戦の大きな流れ・結果を伝える内容だった。
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船でアリゾナ記念館に向かう。操縦しているのは現役のアメリカ軍兵士の様だった。行きは男性、帰りは女性だった。
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▲▼先程見学した戦艦ミズーリが見える。
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▲見学し終えた組の、帰りの便とすれ違う。
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▲▼5分程乗っただろうか・・・あっという間に「USSアリゾナ記念館」に到着。
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ここは真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナが沈んでいる場所だ・・・約1000名の兵士と共に。
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アメリカ政府は戦艦アリゾナの残骸を国定慰霊碑にする事を決定し、1962年5月30日正式に指定された。
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燃料満タンで撃沈されたアリゾナの燃料庫からは、毎日数リットルの重油が漏れ出し、アリゾナの涙と言われる。
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        現在も収集されず「水葬」として約1000名の遺骨が海底の艦内で眠っているとの事だ。
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これだけ浅い所なので引き揚げて遺骨収集を・・・と思うのは日本人だけで、国によって色々考え方がある様だ。
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陸上での戦死者の遺体(遺骨)は徹底的に収集するアメリカ軍だが、海では違う様だ。
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記念館の奥には、大理石の壁に戦死した乗組員全員の名前が刻まれている。
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安倍首相と昭恵夫人が慰霊に訪れた場所だ。
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▲▼USS Arizona, BB-39
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▼日本軍が投下した爆弾が命中し、弾薬庫が爆発。炎上して艦の前方が大破した。
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戦艦アリゾナは、そこで戦死した人々にとっての神聖な墓地としてある物なので、ご冥福を祈りながら見学した。
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だんだん人が多くなってきたのでそろそろ戻る事にする。
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帰りの船を待つ列が出来始めた。そろそろ船が来るのであろう。
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帰りの船に乗り込む。
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日本人にとっては少し重い場所だが、日米双方の犠牲者があって今の日米信頼関係がある。慰霊出来て良かった。
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船がアリゾナ記念館を離れる。
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そう何度も来れる場所では無いので、もう1度目を閉じて戦死者の冥福を祈った。
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▼オアフ島の「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」に戻って来た。
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▼海岸線の公園内を少し散策する。
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▲ミズーリとアリゾナ記念館が見える場所に案内板がある。
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▲▼真珠湾攻撃の説明版がいくつもある。ま、戦争はお互い理由があって始まった事だからね・・・。
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▼「ボーフィン・サブマリンミュージアム&パーク」でどうしても見ておきたかった物がこの奥にあった・・・。
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▲それはボーフィン・サブマリンミュージアム&パークのこの建物(レストラン)の奥にひっそりと展示されていた。
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見たかった物。それは日本で見る事の出来ない人間魚雷「回天」の本物(完備品)だ・・・。
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初めて本物を見学する。
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「大津島」へ行って以来、ずっと本物をこの目で見たいと思っていた。
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何か所か切り抜かれ、内部が見える様になっている。
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▲本物が見れて感激したが、欲を言えば日本で完備品の本物を見たいものである。
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▲▼他を見て回る。
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▼▲第2次世界大戦時アメリカ潜水艦の象徴の1隻として保存されている「ボーフィン」USS Bowfin,SS/AGSS-287
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日本人としては「沖縄戦」の直前、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」を撃沈した潜水艦としてのイメージが強い・・・
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▲別料金を支払えば内部を見学出来るとの事だったが、見学する気にはとてもなれなかった・・・。
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集合時間も迫っていたが、展示館が少しあるので見学する事にした。
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2つある展示館の1つ目に入る。
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▼4000万以上かかった「赤城」の精密な模型
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▲2つ目の展示室に入る。
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▼▲真珠湾攻撃で戦死・負傷した米兵の写真だろうか。日本人が見学するには少々辛い写真の展示が続く・・・。
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▼これは日系人部隊の紹介かな・・・。
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▼先程訪れたアリゾナ記念館の模型。
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▼最後にガイドさんのお勧めの、真珠湾攻撃当時の映像が20分程上映。
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YouTubeなどで何度も見ているが、此処で上映されている当時の映像は見た事の無いシーンが多かった・・・。
左から、中国語・英語・日本語と字幕付きなのでアナウンスは英語だが、とてもよく解った。
映像を見終えて「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」を後にした。
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▼▲時間があったので夜にテスラのショールームに寄ってみた。
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とても買える金額では無いので見るだけ・・・。
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東京や京都のショールームでも見た事があるが、やっぱり製造国で見るのは同じ車でも何故か見方が違う。
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ハイブリッド車は日本車に勝ち目がない欧米各社はいよいよ日本車イジメとしてEVに完全シフトを言い始めているが。
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日本メーカーであれば直ぐに作れるだろう・・・しかし問題はインフラが整わなければ乗らないという国民性だ。
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ベンチャー企業に投資するアメリカ。「まずは走らそう」の中国。安心・安全を何処までも追及して動かない日本。
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オアフ島の様な離島でも電気自動車は結構見かけた・・・。
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個人的にはガソリン車には飽きているので、電池性能がもっと上がれば電気自動車(EV)は欲しいのだが・・・。
「パールハーバー最期の証人 Part 1」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 2」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 3」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 4」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 5」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 6」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 7」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 8」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part 9」YouTube
「パールハーバー最期の証人 Part10」YouTube



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 2017_09_20

石見銀山

Category: 石見銀山  

(角島からの続き)
日本海側を海沿いに走り、最後の目的地「石見銀山跡」に向かう。
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▲石見銀山世界遺産センターに到着。この建物内の展示室は有料だった。
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▲▼此処に車を駐車してバスで石見銀山跡向かう。
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ここからは徒歩かレンタル自転車での散策となるが、貧乏旅なので当然徒歩を選ぶ。
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まずは五百羅漢(ごひゃくらかん)羅漢寺(らかんじ)から見学。早速有料だ・・・。
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車で来ているのにバス代を取られ、羅漢寺・石見銀山跡と何度もお金を徴収しようとする世界遺産に少々がっかり。
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当然外から眺めた程度で中は見学していない。たいして興味が無いからだ。
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見学もほどほどに石見銀山跡に向かう。
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▲此処で簡単な地図を頂いて、林道を歩き、石見銀山を目指す。
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静かな林道を歩いて行く。
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途中、小さなお寺がいくつもある。
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▼この長い階段は登っていない。
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▼▲銀脈の発見に観音のお告げがあったという清水寺。
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途中、林道から自転車が走る舗装道路に合流する。
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▲福神山間歩とは、福神山(ふくじんやま)の間歩(まぶ)=坑道で、山師と呼ばれた個人が経営した「自分山」だという。
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あちらこちらに坑口がある。
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戦跡ばかり見てきた私には日本軍の陣地壕にしか見えない・・・。
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しかし、ここは戦跡では無い。「銀」を採掘していた場所だ。
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何か建物が見える。どうやら目的地到着の様だ。
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公開されている龍源寺間歩(龍源寺坑道)に入る為には入場料を支払う。
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龍源寺間歩(坑道)入口。外は汗が噴き出る程の暑さだが、入口付近は冷たい空気が漂っていた。天然冷房は最高!
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しかし、どう見ても旧日本軍の陣地壕に見えてしまうのは私だけだろうか・・・。
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「沖縄戦」で米軍が撮影した日本軍陣地壕。
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外は暑いので早く中へ入る事にする。
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「龍源寺間歩」とは、江戸時代に造られた全長約600mの坑道跡。
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そのうち273mが公開され、坑道内の壁面に残るノミの跡など、往時の手彫り作業の痕跡が見学出来る。
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坑道内は12~13度で非常に快適だ。
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江戸時代の鉱夫達は鉱脈を求めて坑道を掘り進めた。
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▼出口へ向かって最後の登り坑道。
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▼出口近くの最後は、江戸時代の石見銀山絵巻二巻に描かれた当時の採掘作業の様子を映した電照板だ。
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これを見て感激し、真剣に見入ってしまった・・・江戸時代の話だ・・・昔の日本人は凄かった・・・。
▼「四つ留之図」
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坑道に入口は四つ留めと呼ばれ、石見銀山では縦1.8m横幅1.5mの間歩入口に直径90㎝程の栗の丸太で4本柱を組
んで四つ留とした。
▼「四つ留役所之図」
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江戸時代中期、間歩(坑道)入口の左右には、四つ留役所が置かれ、山方掛の役人3人・同心1人・山附などの役人が詰
めて、坑内監督や見張りや、銀鉱石の計量を行っていた。
▼「御代官様銀山御見廻之図」
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御用見廻りは、年に数回銀山附役人4~5人と共廻りの御仲間2~3人を連れて馬で巡見を行い、鉱山の採れ高の状況
や、坑内の様子などを四つ留役所の役人から事情説明を受ける習わしであった。
▼「四つ留役所前柄山捨場」
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山言葉で捨石の事を「柄山」と呼ばれた。良質の鉱石が混じっている事があることから、山内の女や子供、非番の人夫
達が鉱石拾いをする様になった。
▼「鋪内之図」
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坑内の図で、右側から捨て石を背負って歩く人夫。鉱石の運搬や坑内の支木の替え木を持ち運んでいる図である。
▼A➡押木留之図 B➡掘子共鎖堀図 C➡水鋪水取之図
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押木留之図➡天井の土砂を留める為に木材で被う図。
掘子共鎖堀図➡掘子人夫達が鉱石をミノで掘っている図。
水鋪水取之図➡坑内の溜り水を水箱に段々と竹ポンプで吸い上げる作業の図。
▼A➡「石留之図」
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石を掘り抜いてトンネル状の坑道を設えるところと、水引き上げるの図。
▼「大水鋪角樋二而水引揚ル図」(おおみずしきかくにひつきみずひきあげるのず)
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坑内の湧水を木製のポンプを使って段々上に引き揚げて、疎水抗へ流し出している作業図。
▼「唐箕風箱之図」
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江戸時代中頃から唐箕を改良して坑外の風を抗内に昼夜送る作業を行った。
▼「留木拵之図」(とめぎしつらえのず)
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抗口前の広場では坑内の支柱を拵(こし)らえる仕事を行った。
▼「鉱石を運ぶ」
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掘子(ほりこ)が鉱石をかますに入れて背負い運ぶ。狭い坑道の中をさざえの殻のランプの明かりだけがたよりだった。
▼「鉱石を掘る」
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掘子は鑚(たがね)を鋏(はさみ)で固定し、鎚(つち)でたたき鉱石を掘る。暗闇・油煙・石塵の中で大変な労力であった。
▼「坑木を組む」
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落盤防止の為に坑木を組むのが留山師の仕事。坑道内が崩れるのを防ぐ重要な仕事であった。
▼「水をくむ」
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深く掘れば水が湧く。坑内の排水作業は鉱石を掘る事以上に大変な仕事であった。竹や角樋のポンプ・桶を使用した。
※これらの作業は、戦時中に各地で数多く掘られた旧日本軍の陣地壕や病院壕も同じ様に坑木が組まれていたので、
壕を掘る手作業も含めて江戸時代から続いている方法なんだと改めて感心していた・・・。
同時に戦時中に多くの壕を掘った日本軍設営隊や動員された人達の大変なご苦労を感じていた。
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▲▼最後の電照板の見学を終えて外に出て出口を撮影。
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周辺にいくつか坑口が開いていた。
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さぁ帰ろう。
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出口にもトイレ休憩する小屋があり、丁度ボランティアガイドの方がいらっしゃったので少し話を聞いた。
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鉱石を見せて頂いた。
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銀が入っているのがお解りだろうか、大きな石の塊でたったこれだけの銀があるだけだ・・・。
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▼世界遺産の意義「平和と人権尊重」
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▲帰りは行きとは違う道で戻る。
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▲小学生のお土産?石を売っている。小学生へだったらもっと安くしないと・・・どうも理解出来なかった。
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▲歴史ある神社のようだ・・・。
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▼少々キツい階段だが、国指定史跡であれば見てみたい。登ってみる事にした。
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▲登り終えた。文政時代に建てられた本殿だ・・・。
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中に入ってみた。
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しかし・・・隙間だらけでいまにも崩壊しそうだ・・・。
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この襖・・・。これが国指定史跡・・・?
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もう、お賽銭だけで維持していくのは無理なのかもしれない・・・。
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さぁ戻ろう。
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▼行きしなに通た林道が見えた。ほぼ並走している。
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▼かわいいお店なんかもあっていい感じの帰り道。
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▼毛利氏が石見銀山を支配した16世紀後半には、ここで採れた銀は温泉津沖泊港まで運ばれ、そこで銀の積み出しと、
 石見銀山への物資補給が行われたという。
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▼どのお店もいい感じ。
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▼かなり古そうな建物を見つけた。
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▼▲昭和初期頃の建物だろうか・・・かなりいい感じ。
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戦時中の兵舎の様な建物だ・・・。
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大森小学校として現役の建物だった!凄い。
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またしばらく歩く。
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▼無料休憩所があった。
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「渡辺家住宅」と書いてある。
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昔からずっと残ってるんだ・・・凄い。
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少し中を見学した。
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素晴らしいけど、現代人には住みにくいだろうな・・・。無駄に部屋が多過ぎるのでメンテが大変だ・・・。
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昔の人はそんなに物が多かったのか・・・?広い敷地に無駄無く建つ建物に蔵。身の周りはシンプルが1番と思う。
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古民家を再利用した喫茶店やお食事処が多い。
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江戸時代から続くメインストリーム「中国自然歩道」はまだまだ続く。
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観光客は意外に多い。
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▲景観を損なわない様に自動販売機も工夫されている。これは素晴らしい。
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どんどん進んでいるが、来る時に降りたバス停はとっくに過ぎている・・・。
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江戸時代を思わせる景観とお土産屋さんに惹かれてメインストリームをどんどん歩く。
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西洋かぶれの明治・大正時代の街並みより、もう一昔前のこっちの街並みの方が落ち着くかも・・・。
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▼榮泉寺竜宮門
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永遠に続くかの様ないい感じの街並み。
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やっぱ低い建物の方が落ち着くね。
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▲▼映画「アイ・ラヴ・ピース」のロケ地。この映画は知らない・・・。
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▲▼裁判所
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▲岩山上に建てられた観世音寺。此処から「大森の町なみ」を一望出来るそうだが、歩き疲れていたので遠慮した。
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▼▲理容館アラタ
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この辺りで大森の町なみは終了となる。
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▲大森代官所跡にある大森銀山資料館。長屋門は1815年に建造されたものだ。
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▲江戸時代にカメラは無かっただろうから、恐らく明治時代に撮影された大森代官所。
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▲代官所跡に建つ「西南之役戦死者記念碑」



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 2017_09_13


山口県の離島、角島。本土と角島を結ぶ角島大橋はトヨタのCMなどで使用された橋で、1度見てみたかった。
今回は、前から行ってみたかった俵山温泉で前泊し、角島元乃隅稲成神社石見銀山に向かう計画を立てた。
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俵山温泉街の入口。車はこの辺りの旅館共同駐車場に駐車する。
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歩いてブラブラ見学する。
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猿まんじゅうが有名な様だが、何やら怪しい置物も販売している。麻羅観音(まらかんのん)だ。
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▲ここからが旅館街の入口の様だ。
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▲温泉マップを見るとそれなりに大きな温泉街の様だが、実際に歩いて見てまわると、廃業した建屋も結構あった。
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▲▼「昭和」が残る旅館街をゆっくり歩く。
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▼今回宿泊でお世話になった「保養旅館・京屋」
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▼この宿の前で、「俵山温泉会議 スペシャル」故やしきたかじんと安倍総理大臣が立ち話していた場所だ。
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俵山温泉は外湯の文化。どの旅館にも内湯は無く、「町の湯」か「白猿の湯」を利用する事になる。
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▼白猿山薬師寺
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俵山温泉を発見したと伝えられる白猿に化けた薬師如来が祀られている。
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白猿山薬師寺は少し小高い場所にあったので、階段を下りてメインストリームに戻る
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▼右手奥には「白猿の湯」が見えて来た。
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▼▲俵山温泉「白猿の湯」。ここに来たかった理由は、故やしきたかじんと安倍総理大臣が温泉につかりながら政治談
義を繰り広げた場所だからだ。FC2動画「俵山温泉会議 スペシャル」関東では放送されていませんね。
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階段を登って早速「白猿の湯」へ。白猿山薬師寺も見える。
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「白猿の湯」の中にある、日仏レストラン「涼風亭」で遅めの昼食。涼風荘は岸元総理がこよなく愛した邸宅宿。
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「涼風亭」で食事をすると割引き券が貰え、温泉が通常700円➡500円で入浴する事が出来る。
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▲ロケで使用された露天風呂にゆっくり浸かって「白猿の湯」を後にした。温めでいいお湯だった。
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湯冷ましにもう少しブラブラしてみる
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▼温泉街の終わりに近い郵便局がある辺りを更に奥へ。このあたりは廃業物件が多い様だ・・・。
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▼明治32年の町の湯 明治・大正時代の建物そのままで営業していれば現在もっと注目されていたであろう・・・。
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▼大正14年の町の湯
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▼明治36年の川の湯
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▼大正9年の川の湯
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▼現在の川の湯(画像右手の緑の屋根)残念ながら廃業したそうだ。
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短い滞在だったが、レトロな雰囲気たっぷりの歴史ある静かな温泉街だった。明朝、一路角島大橋を目指した。
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▲▼角島大橋に着いた。
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沖縄にでも来た様な素晴らしい景色だ・・・。
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早速角島大橋を渡って、角島に向かう。
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▼あっという間に渡り終えて角島側より角島大橋を見る。
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角島は基本的には海水浴場がメインで、観光名所と呼ばれる場所は少ない。
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しかし、観光バスも入ってきており、お盆も重なって凄い人出だった
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まずは駐車場に車を停め、明治9年に建てられた角島灯台を見学する。
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灯台周辺は下関市立角島灯台公園。
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▲海側を歩くと日本海が広がる。遠く反対側は朝鮮半島だ。韓国語の入ったゴミが流れついていた。
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角島灯台は、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台で、日本の灯台50選にも選ばれている。
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▼参観灯台として常時内部が一般公開(有料)されているが、外から眺めるだけにした。
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▼土産物を販売している建屋の屋上に行き、景色を眺める。
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▼▲土産物を販売している建屋の屋上に行き、景色を眺める。
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灯台よりは低いが十分綺麗だった。
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▼海岸を歩くと美しいビーチが広がる。(撮影場所は遊泳禁止区域)
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奥に見えるのは本土。更に右奥は九州だ。南洋諸島の様な景色に感激していた。
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▼角島中学校は、明治・大正風のいい感じの建物だ。
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▼島に来て初めて、この島にも日本陸軍が砲台を建設していた事を知った。これは再訪しなければならない・・・。
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時間も無く、弾薬庫らしき遺構だけ見学し角島を後にした。他にも残っている遺構はありそうだ。再訪して確認したい。
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▲昭和14年7月1日起工、昭和15年9月26日竣功で、ラ式15cmカノン砲4門を備えた砲台陣地であったという。
軍事施設が造られた島内の北西側は要塞化され、日本陸軍が駐留していた。砲台他、弾薬庫・探照灯・部隊宿舎・資材
倉庫・油庫・監視所が建設され、なんとコンクリート製のトーチカの様な立派な監視所が民家に転用されているとの事。
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帰りの道は酷い渋滞・・・角島大橋しか本土へ渡る手段が無いので、1度島に入ると必ずこの道しか戻れない・・・。
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渋滞のお陰でゆっくり景色を見ながらドライブ出来るメリット?もあった。
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▼次に訪れたのは「元乃隅稲成神社」だったが・・・狭い山道に永遠と続く車の列・・・。
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少しは待ってみたが、一向に動く気配が無いので、残りどの位で着くか解らぬまま徒歩に変更。
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標識を確認出来る場所まで辿り着くと、どうやら狭い駐車場への入口はT字路になっており、反対側からも続々と車が。
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永遠と続く駐車場待ち渋滞を横目に、ひたすら歩いて元乃隅稲成神社を目指した。(徒歩に変更して正解)
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やっと鳥居が見えた!
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本来は海側から鳥居をくぐり抜けて登るコースの様だが、人も多いので上から下ってみた。
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▼眼下には123本の連続鳥居が見えた。よく観光案内の写真で見た光景だ。
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▼おみくじを引いて運勢を見てから早速進んでいく。
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京都・伏見稲荷大社の千本鳥居ほどでは無いが、それでも十分素晴らしい光景だ。
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伏見稲荷大社には無い、先が「海」というシチュエーションがかなり大きなアドバンテージとなっている。
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鳥居を抜けるとこの絶景。これは山に建てられた伏見稲荷大社では見る事が出来ない風景だ。
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先は日本海だ・・・。
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しばし日本海の絶景を眺める。
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振り返ると、かなり下って来た事がわかる。
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帰りは本来のコースである海側から登る。時間もおしていたので足早に登って帰った。
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この後日本海側を走り、「石見銀山」を目指した。


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 2017_09_03

大津島

Category: 大津島   Tags: 回天  

今日は広島に原爆が投下されて72年、まずは犠牲なった方達に黙祷です・・・。

山口県周南市に属する「大津島」。戦時中ここには日本海軍の秘密基地があった。周防大島の帰り、以前から
行きたかった大津島回天基地跡にやっと行く事が出来た。▼緑印が大津島回天基地。
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大津島回天基地は、昭和12年、93式酸素魚雷の発射試験場として開設され、太平洋戦争の戦局の悪化に伴い、
昭和19年9月5より回天発射訓練基地として、第1特別基地隊大津島分遣隊で回天の操縦訓練が始まった。
幕末から明治にかけての大維新を、『回天』という言葉で表した。回天とは、天をめぐらすの意。
「時勢を一変する事。衰えた勢いを盛り返す事」で、悪化する戦局を逆転する意味で命名された特攻兵器だった。
ガダルカナル島が米軍に占領され、戦況が悪化してきた昭和18年夏頃、余っていた93式酸素魚雷をどうにか活用
出来ないか。と考えた黒木博司海軍中尉と仁科関夫海軍少尉の発案で製作が開始されたとされる特攻兵器だ。
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▲黒木博司海軍中尉(岐阜県出身)昭和19年9月6日大津島にて回天訓練中、樋口博司大尉と共に殉職(享年22歳)
昭和19年9月6日の大津島地方は午後から急に風が強くなり、海面は大きくうねり出した。午後の訓練中止の声も
あったが、黒木は「天候が悪いからといって敵は待ってくれない!」樋口大尉も「やらせてください!」と続いた。
午後17時40分、樋口大尉の操縦する回天は黒木中尉を乗せて発進した。
訓練は、大津島から5000m離れた浮標までの往復。浮標を回ったまでは順調だったが、その直後に姿が消えた。
翌7日午前9時、大津島から約4000m離れた水深15mの海底に泥をかぶり突き刺さっている艇が発見された。
死亡推定時間は、事故発生から約12時間後の7日午前6時過ぎだった。
艇内には事故直後からの応急処置、事後の経過など、黒木中尉が息を引き取るまでの状況を記した2000字にも及
ぶ『19-9-6 回天第1号海底突入事故報告』が残されていた。
そこには「国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつつ死してゆくらん」と辞世の歌もつづられていた。
樋口大尉(享年22歳)の手帳にも「犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ」と遺文があった。
Hiroshi Kuroki Sekio Nishina
▲仁科関夫海軍少尉(左)滋賀県出身 享年21歳
昭和19年11月20日黒木中尉の遺骨を抱いたまま米輸送艦ミシシネワに突入・戦死。享年21歳。
右は上別府宣紀大尉(鹿児島県出身)仁科少尉と同日、回天で出撃。パラオ・コッソル水道海域にて戦死(享年21歳)
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▲「回天戦」展開地図
93式酸素魚雷は酸素を使用した雷跡が見えない日本海軍の秘密兵器で、射程2万m~3万m。
弾頭の炸薬量は米軍を上回り、破壊力は抜群だった。この魚雷に操縦席を付けたものが人間魚雷『回天』だった。
昭和19年11月8日、海の特攻兵器「人間魚雷回天」初の回天特別攻撃隊『菊水隊』が大津島基地から出撃した。
12基の回天で編成された『菊水隊』は、3隻の伊号潜水艦に搭載され、ウルシー環礁へ向けて出撃していった。
伊36潜水艦と伊47潜水艦の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地へ。
伊37潜水艦はパラオ諸島のコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。
これが回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」で、昭和19年11月20日決行された。
伊47潜水艦からは4基全ての回天が。伊36潜水艦からは4基の内1基、計5基の回天が、ウルシー環礁内に停泊中
の200隻余りの米艦艇目指して発進した。ウルシー泊地攻撃隊は給油艦ミシシネワ1隻を撃沈するも、2基はプグリ
ュー島の南側で珊瑚礁に座礁して自爆している。
回天は戦時中約400基生産され、回天特別攻撃隊「菊水隊」~「多聞隊」まで、回天搭乗員の死者は89名。
訓練中の殉職15名、自決2名。加えて回天を搭載した伊号潜水艦の未帰還8隻(乗組員845名、回天整備員35名)
合計986名の尊い命が、回天特別攻撃隊の作戦で犠牲となった。(回天の訓練を受けた特攻隊員は1375名)
そして戦果は、米給油艦ミシシネワ1隻撃沈、米駆逐艦アンダーヒル1隻撃沈、他2隻撃沈だけであった・・・。
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▲伊号潜水艦に搭載され、出撃する回天。回天の上で手を振る特攻隊員が確認出来る(画像は多聞隊・伊367潜水艦)
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▲米給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59)当時最新鋭の大型タンカーだった。
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▼▲ウルシー環礁で、回天の突入で沈没する米給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59)米兵63名戦死。
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▲昭和44年(1944)11月20日、給油艦ミシシネワの撃沈は、回天特別攻撃隊の初戦果だった。

昭和20年7月14日伊53潜「多聞隊」は回天6基を搭載して大津基地を出撃。沖縄とフィリピンの中間海域へ向かう。
伊53潜は7月20日頃パシー海峡東方海域に到着して哨戒配備に就き、24日敵輸送船団を発見した。
沖縄戦では6/23に日本軍の組織的な戦闘は途絶えており、これら輸送船団のLSTは休養の為、沖縄から引き揚げる米陸
軍歩兵師団の兵士を乗せてレイテ湾に戻るところであった。
この時、伊53潜水艦が遭遇した輸送船団は戦車揚陸艦LST7隻と冷蔵輸送艦アドリアで、これらを護衛駆逐艦アンダー
ヒルの他、大型駆潜艇PC-803・PC-804・PC-892・PC-1251、小型駆潜艇SC-1306・DC-1309・SC-1315、護衛駆
潜艇PCE-872の、合わせて9隻もの護衛がついていた。
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▲(参考画像)USS LST-647
船団の隊形は、護衛を受ける8隻が2隻ずつ四列の編隊を組み、その中央の前方三千米に指揮艦アンダーヒルが位置して
先導し、他の駆潜艇が舶団の周囲を警戒しながらフィリピン・エンガノ岬から200〜300マイル北東を針路183度、速
力9~10ノットで航行していた。
船団は国籍不明機の触接を受けていた事もあり、アンダーヒル艦長ロバートM.ニューカム少佐は、日本の航空機と潜
水艦の攻撃を警戒して神経質になり、護衛艦艇の配備位置をしばしば変更し、自艦が定位置を集れる時は代理の先導艦
を指名した。天候は晴、視界は良好で微風があり、南からのうねりがあるが、海上は平穏であった。
米輸送船団は、伊53潜水艦の近くを通り過ぎていったらしく、既に遠ざかりつつあった。
伊53潜水艦艦長大場佐一少佐は、直ちに総員配置に就け「魚雷戦用意、回天戦用意」を命令。搭乗員全員が回天に乗艇
した。しかし戦闘準備が終わる頃、方位角が120度と大きく後落しており、魚雷や回天での攻撃は無理な態勢であった。
伊53潜水艦の大場艦長は魚雷発射、回天発進共に諦めようとした。
その時、回天搭乗員達が発進を強く希望したので、艦長は先ず回天1号艇、勝山 淳中尉の発進を決定した。
相手がどんどん離れてゆくので、艦長は急いで「艦は今、敵船の後方、東側にいる。攻撃目標は輸送船」と命令。
進出針路、航走時間など簡単に指示した。14:25頃、勝山中尉の回天1号艇は伊53潜水艦を発進。
敵船団へ突進して行った。後続3基の発進は大場艦長がこの態勢では成功の見込みが薄いと判断して取り止めた。
先導中のアンダーヒルは14:15前方に触角のついた浮流機雷を発見していた。米駆逐艦アンダーヒルのニューカム艦
長は、船団を指揮して左45度の緊急一斉回頭を2回続けて行い、遠ざかった上で同艦は離れて機雷に接近し、14:40、
20粍機銃で射撃を開始した。しかし弾丸が命中しているのに機雷は一向に沈まなかった。
アンダーヒルは潜水艦の反応を掴んだので、駆潜艇PC-804を隊内電話で呼び出し、調査するよう指示。その後も前面
近距離に反応が出ていると重ねて通知し、誘導した。
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▲(参考画像)駆潜艇PC-546(USS PC-546)
駆潜艇PC-804は14:42、左舷後方、至近距離に潜望鏡を発見した。潜望鏡は海面下に引き込まれ、間もなく同艇の艦
底を潜水艦が潜り抜けて行った。続いて反対側の右前方100ヤードに潜望鏡が上がり、その下に潜水艦の艦体らしき物
が海面近くに見えた。同艇は直ちに40粍機銃と20粍機統で射撃を開始し、速力を一杯に上げたが、その物体は水中を
高速で突進してきて艦尾の直ぐ近くを通過した。爆雷を浅深度に設定して用意していたが、投下する暇もなかった。
同艦は直ちに「潜水艦が艦底の下を通過した!」と船団指揮艦アンダーヒルに報告した。
彼らは潜望鏡を見たので「潜水艦」と判断したが、これこそまさしく勝山中尉の回天であった。勝山中尉が操縦する回
天は、最初にこの駆潜艇PC-804を攻撃し、その艦底の直下を通り抜けた後、折り返して再度突入したのである。
船団は右90度の一斉回頭をして、元の針路に復帰した。アンダーヒルは潜水艦を探知し、14:53浅深度に調定した爆
雷13発を投下した。爆雷が海中で爆発して、奔騰する水柱が落下した跡に出来る、波が消えた丸い水面を見て、ニュ
ーカム艦長は「潜水艦の油が浮いてきた!」と思い込んだのであろう。「敵潜水艦1隻撃沈!」と隊内電話で各艦へ放
送したが、破片の様な物は浮かんでいなかった。
その直後、駆潜艇PC-804がまたもや潜望鏡を近距離に発見、アンダーヒルはこれに急行した。
潜望鏡はすぐに見えなくなった。ニューカム少佐は「1人乗りの潜航艇が速力15ノットほどで走り廻っている!こいつ
を追いかける」と各艦に流した。激しい操艦を続ける同艦で乗員は、海面上に「いるか」のように断続的に姿を現す潜
航艇を色々な方向に見た。15:05アンダーヒルの艦長は隊内無線電話で「衝撃用意!海の中にいる異様な者どもを追っ
払ってやる!」と放送し、乗員に「衝撃用意!」を重ねて号令した。
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▲米駆逐艦アンダーヒル(USS Underhill, DE-682)1945年7月24日沈没
15:07アンダーヒルの前方、艦首に近いところに潜航艇が浮上するのを駆潜艇PC-804が目撃、アンダーヒルは右に急
旋回した。「魚雷が突っ込んで来る!」と誰かが叫ぶ声が電話で聞こえ、その直後15:15、アンダーヒルの艦橋の右舷
で物凄い大爆発が起こり、前部の弾薬庫が誘爆した。煙と炎が1000フィートの高さに奔騰。300m程の大きな火柱が上
がり、煙は5100mの高さにまで立ち昇った。アンダーヒルはマストの所で真っ二つになり、艦橋は消し飛んだ。
アンダーヒルの乗員は238名。ニューカム艦長以下艦橋にいた乗員は全員戦死。乗員合計112名が戦死した。
交戦地点は北緯19度24分、東経126度43分であった。フィリピン北東端「エンガノ岬」から略東北東270浬だった。
勝山中尉の回天が出撃してから約40分後、目標の方向で重厚な爆発音を聴取した伊53潜水艦大場艦長は15:15頃潜望
鏡を揚げ、敵艦が燃えているのを確認した。同じく司令塔にいて補佐する航海長も潜望鏡を見せてもらったが、視野一
杯に黒煙が立ちのぼっていた。その黒煙が大量であったことから、回天が命中した相手は油送船であろうと推定された。
大場艦長は現場を離脱した後、「大型輸送船1隻轟沈」と第6艦隊に打電報告した。
回天特攻において誰が挙げた戦果であるかを確定できる唯一のケースで、勝山中尉は二階級特進で海軍少佐となった。
戦闘後、まだ多数の敵が周囲に潜んでいると判断した米軍は、19:18アンダーヒルを砲撃処分した。
この戦闘状況は米海軍全体に伝えられ「海中の見えない脅威・回天」を畏怖する心理がたちまち広がったという。
▼勝山 淳中尉(茨城県出身)昭和20年7月24日バシー海峡東方海域にて米駆逐艦アンダーヒルに突入戦死。享年20歳
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勝山中尉が撃沈した米護衛駆逐艦アンダーヒルは「人間魚雷の群と戦い、自らは斃れながらも船団を1隻も傷つける事
無く守り抜いた英雄」となった。ニューカム艦長は勇戦敢闘を讃える栄誉ある銀星勲章(シルバー・スター)を授けられ、
戦没、戦傷乗員及び生存者の一部に「パープルハート勲章」他の勲章が授与された。
メリーランド州の「アナポリス」にある米国海軍兵学校の教会で、戦友会が慰霊祭執行を許されている米国海軍の艦船
は唯ひとつ、第2次世界大戦で1番後に沈んだ小さな護衛駆逐艦に過ぎない「アンダーヒル」だけなのである。
慰霊祭は毎年、同艦が沈んだ7月24日に同艦の戦没者の遺族と生存者、それらの家族によって厳粛に営まれている。
同艦戦友会からは「回天・勝山艇1基だけの攻撃」が信じ難いのか、全国回天会に再三の照会があったという。
この戦闘を体験した米軍生存者達は「相手はたった1人、たった1基の回天」に今なお納得しかねる模様であるという。
「人間魚雷回天」YouTube

以下は回天戦出撃記録 [ 潜は潜水艦の略 ](発進)は、母艦から回天発射=戦死を意味する。
「菊水隊」昭和19年11月8日出撃(伊36潜、伊47潜、伊37潜)
伊36潜「菊水隊」11月8日大津島よりウルシー海域へ出撃
[ 艦長 ]寺本 巌少佐 [ 回天搭乗員 ]吉本健太郎中尉/豊住和寿中尉/工藤義彦少尉/今西太一少尉(発進)
今西少尉の遺書
太一は本日回天特別攻撃隊の一員として出撃します。日本男子と生まれ、これに過ぐる光栄はありません。
生死の程は論ずるところではありません。私達はただ、今日の日本が私達の突撃を必要としていると言うこと知ってい
るのみであります。
遺詠
敵見ゆの心知りたし 今日の袂 亀田兵曹長に贈る
国思う命そそぎし君が手に なれる魚雷ぞ撃たで止むべき
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▲大津島基地を出撃する伊47潜
伊47潜「菊水隊」11月8日大津島よりウルシー海域へ出撃
[ 艦長 ]折田善次少佐
[ 回天搭乗員 ]仁科関夫中尉(発進)/福田 斉中尉(発進)/佐藤 章少尉(発進)/渡辺幸三少尉(発進)
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「玄作戦」で大津島基地を出撃した「菊水隊」伊36潜、伊37潜、伊47潜は各4基ずつ回天を搭載し、12基の回
天特攻隊の初陣であった。
伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地へ。
伊37潜はパラオ諸島のコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。
ウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が11月20日決行され、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(今西
艇)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。2基の回天はプグリュー島南側
で珊瑚礁に座礁して自爆。1基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没。
残る2基がウルシー泊地進入に成功し、1基が05:47米給油艦ミシシネワへ命中(仁科関夫少尉艇とされる)。
最後の1基は軽巡洋艦モービル (USS Mobile, CL-63) に向けて突入。潜望鏡によって2~4ノットで直進して来
る回天を発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を
受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、後に護衛駆逐艦ラール(USS Rall, DE-304)の爆雷攻撃によ
って06:53に完全に破壊された(隊員と女学生が差入れた座布団が海面に上がった)。
伊37潜「菊水隊」11月8日大津島よりパラオ・コッソル水道へ出撃。
11月19日、米護衛駆逐艦コンクリンの攻撃によりパラオ・コッソル水道にて沈没(乗組員全員戦死)
[ 艦長 ]押本信雄中佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]上別府 宜紀大尉(戦死)/村上克巴中尉(戦死)/宇都宮 秀一少尉(戦死)/近藤和彦少尉(戦死)
[ 基地整備員 ]時田久美兵曹長(戦死)/土居完治兵曹長(戦死)前原 酉兵曹長(戦死)栗本 晃1曹(戦死)
伊37潜はパラオ・コッソル水道に向かったがパラオ本島北方で発見された。これは米設網艦ウィンターベリー(
USS Winterberry, AN-56)が、08:58に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、
通報したものだ。この報告を受けて、米護衛駆逐艦コンクリン(USS Conklin, DE-439)、マッコイ・レイノル
ズ(USS McCoy Reynolds, DE-440)が09:55現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。
午後も捜索を続けた後、15:04コンクリンが探知し、レイノルズが15:3915時39ヘッジホッグ(対潜迫撃砲)
13発を発射したが効果なく失探。16:15コンクリンが再度探知して攻撃したところ「小さい爆発音(命中音と
思われる)らしきもの1」を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。
レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近
したところ、17:01海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。
以後は反応無く、撃沈と判定され、伊37潜の乗員と隊員117名は全員戦死と認定された。
※ヘッジホッグはイギリスが開発した対潜迫撃砲。イギリス・アメリカなどの連合軍艦艇で広く採用された。


「金剛隊」昭和19年12月1日~昭和20年1月9日出撃(伊56潜、伊47潜、伊36潜、伊53潜、伊58潜、伊48潜)
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▲恐らく呉で撮影されと思われる伊53潜と伊36潜。
伊56潜「金剛隊」昭和19年12月22日13:00回天4基を搭載し、6隻中最も早く大津島基地を出撃。
金剛隊作戦に参加した回天搭載潜水艦6隻中、1番遠い攻撃地点はラバウル北西のドミラルティ諸島マヌス島の
米軍の戦略的要衝、セーアドラー港であった。
[ 艦長 ]森永正彦少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎実中尉/前田肇中尉/古川七郎上等兵曹/山口重雄1等兵曹
昭和20年1月13日第6艦隊司令部は金剛隊各艦宛「14日黎明までに攻撃の機を得ざる艦は中止、呉帰投を命ず」
と打電した。 しかし14日夜になって、艦長は突入敢行を企図するも、米軍哨戒機・警戒艦艦が動き始め、聴
音の感度がいつまでも消えなかったのに加え、13日未明以来40時間を超える苦闘の潜航となって、艦内の空気
は呼吸出来る限度一杯に近づき、遂に艦長は回天の発進を断念して再起を図ることに決定、帰途についた。
16日、伊56潜は制圧を受け不成功の旨を打電、これに対し第6艦隊司令部は18日、同艦へ「耐久試験の見地か
ら回天を搭載したまま帰投せよ」と命令した。 
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▲伊48潜「金剛隊」昭和20年1月9日回天4基を搭載し、大津島基地を出撃。ウルシー環礁(泊地)へ向かう。
[ 伊48潜艦長 ]当山全信少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]吉本健太郎中尉(戦死)/豊住和寿中尉(戦死)/塚本太郎少尉(戦死)/井芹勝見2等兵曹(戦死)
伊48潜は出撃後一切の連絡を行うことなく消息を絶ち、回天を出撃させる事無く、米護衛駆逐艦コンクリン
(USS Conklin, DE-439)のヘッジホッグ(対潜迫撃砲)で撃沈された。
沈没地点はヤップ島北端の北方17浬の北緯9度55分、東経138度17.5分であった。
駆逐艦コンクリンの艦全体が水平に、数フィートも海面から持ち上がった程の猛烈な水中爆発であったという。
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▲伊37潜・伊48潜と、2隻の伊号潜水艦を撃沈した米護衛駆逐艦コンクリン(USS Conklin, DE-439)
伊53潜「金剛隊」昭和19年12月30日大津島基地を出撃。パラオ諸島コッソル水道へ向かう。
[ 艦長 ]豊増清八少佐
[ 回天搭乗員 ]久住 宏中尉(発進)/伊東 修少尉(発進)/有森文吉上曹(発進)/久家 稔少尉(回天故障により帰投)
パラオ諸島南部のペリリュー島は既に米軍に占領されていたが、日本国南洋政庁があったパラオ本島(バベルダオブ島)
には米軍は上陸せず兵糧攻めにした為、パラオ本島内には多くの日本軍将兵が飢餓と戦いながら活動していた。その中
の海軍第30根拠地隊が飢餓とパラオ本島北部のコッソル水道に居る米艦隊の状況を内地へ報告していた。
伊47潜「金剛隊」昭和19年12月25日大津島基地を出撃。ニューギニア北岸のホーランディア港へ向かう。
[ 艦長 ]折田善次少佐
[ 回天搭乗員 ]川久保 輝夫中尉(鹿児島県出身・発進)/原 敦郎中尉(長崎県出身・発進)
村松 実上曹(静岡県出身・発進)/佐藤勝美1曹(福島県出身・発進)
伊36潜「金剛隊」昭和19年12月30日大津島基地を出撃。西カロリン諸島のウルシー泊地へ向かう。
[ 艦長 ]寺本 巌少佐
[ 回天搭乗員 ]加賀谷 武大尉(発進)/都所静世中尉(発進)/本井文哉少尉(発進)/福本 百合満上曹(発進)
伊58潜「金剛隊」昭和19年12月30日10:00大津島基地を出撃。米軍に占領されたグアム島西岸のアプラ港へ向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]石川誠三中尉(発進)/工藤義彦中尉(発進)/森 稔2飛曹(発進)/三枝 直2飛曹(発進)


「千早隊」昭和20年2月20・21・22日出撃(伊368潜、伊370潜、伊44潜)
昭和20年2月19日米軍は硫黄島へ上陸を開始。第6艦隊は急遽、硫黄島水域への出撃に変更する。
3艦で「千早隊」を編成、伊368潜は2月20日、伊370潜は翌21日、伊44潜は22日に慌ただしく出撃していった。
伊368潜「千早隊」昭和20年2月20日光基地より出撃。昭和20年2月26日硫黄島海域にて沈没(乗組員85名戦死)
[ 艦長 ]入沢三輝少佐(戦死)
[回天搭乗員]川崎順二中尉(戦死)/石田敏雄少尉(戦死)/難波進少尉(戦死)/芝崎正七2飛曹(戦死)/磯部武雄2飛曹(戦死)
[ 基地整備員 ]黒川文男上曹(戦死)/浜本安雄1曹(戦死)/関 儀政1曹(戦死)/重松正市2曹(戦死)/岩橋繁行2曹(戦死)
「千早隊」が出撃前に指示された攻撃目標は「硫黄島付近を遊弋中の敵有力艦船」であった。
攻撃目標が泊地に停泊している空母、戦艦から、移動中を含めた主要艦船に移行したのだ。
この攻撃目標は広い洋上で遭遇した航行中の艦船ではなく、攻撃水面は交戦中の戦場の真ただ中になる。
泊地内の碇泊艦を奇襲攻撃した「菊水隊」「金剛隊」よりも一層厳重な敵の警戒の元での浮上充電、搭乗員乗艇、
更に発進した回天は交戦水域の中で敵艦を捜し求めての襲撃になる。
伊368潜は、硫黄島周辺に達する頃、米護衛空母アンジオの搭載機TBF(アメリカ海軍の主力雷撃機で、愛称はア
ヴェンジャー)に捕捉され潜航したが、執拗な追跡・攻撃が続き、遂に硫黄島西方24浬の地点で沈没した。
この交戦の際、TBF搭乗員は伊368潜甲板上に回天の姿は無かったと証言している。既に回天が発進した後の可
能性があり、硫黄島守備隊からも洋上に火柱多数を見たとの報告をしているが、確かな情報は得られていない。
TBFの爆弾倉に納まるのは、新兵器で小型の電池魚雷「24型魚雷」であった。
低空から投下すると潜水艦の推進機音を聴きながら海中を追いかけてゆく。火薬量は僅か44キロであるが、潜航
中の潜水艦に直接接触して爆発すればこれで撃沈が可能であった・・・。
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▲グラマンTBFアヴェンジャー雷撃機
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▲「千早隊」伊370潜出撃記念写真(昭和20年2月光基地庁舎横にて)前列左より橋口中尉/熊田2飛曹/田中少尉/
岡山少尉/是枝少佐/市川少尉/浦佐2飛曹/坪根少尉。後列左より河合中尉/三谷大尉/東島少尉/宮田大尉/浜口大尉
/池本少尉/加藤少尉/成瀬少尉/堀田少尉三好少尉/井上少尉。
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▲硫黄島に向かって出撃する「千早隊」伊370潜。昭和20年2月26日硫黄島南部海域にて沈没。
伊370潜「千早隊」昭和20年2月21日光基地より出撃。硫黄島海域へ向かう。
[ 艦長 ]藤川進大尉(戦死)
[ 回天搭乗員 ]岡山至中尉(宮崎県出身・戦死)/市川尊継少尉(新潟県出身・戦死)/田中二郎少尉(兵庫県出身・戦死)
浦佐登一2等飛行兵曹(群馬県出身・戦死)/熊田孝一2等飛行兵曹(福島県出身・戦死)
2月26日未明、硫黄島で積荷を全部陸揚げした米輸送船9隻は、船団を駆逐艦など4隻が護衛してサイパンに帰る途
中の米海軍護衛駆逐艦フィネガンが伊370潜を発見、ヘッジホッグ攻撃を開始し、伊370潜は撃沈された。
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▲駆逐艦フィネガン(USS Finnegan (DE-307)
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▲2月22日伊44潜「千早隊」回天4基を搭載して硫黄島方面に向かう為、大津島基地を出撃。
3月6日、第6艦隊司令部は「硫黄島水域に於ける回天作戦を中止、呉帰投」を打電命令。
伊44潜「千早隊」昭和20年2月20日大津島基地より出撃。硫黄島海域へ向かう。
[ 艦長 ]川口 源兵衛大尉
[ 回天搭乗員 ]土井秀夫中尉/亥角泰彦少尉/館脇孝治少尉/菅原彦五2飛曹
伊44潜は回天を搭載したまま3月9日大津島に帰着、11日呉に入港。


「神武隊」昭和20年3月1・2日出撃(伊58潜、伊36潜)
伊58潜「神武隊」3月1日光基地より出撃
[ 艦長 ]橋本以行少佐 [ 回天搭乗員 ]池淵信夫中尉/園田一郎少尉/入江雷太2飛曹/柳谷秀正2飛曹
伊36潜「神武隊」3月2日大津島基地より出撃
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎 実中尉/前田 肇中尉/古川七郎上曹/山口重雄1曹
以上、全員作戦中止により帰投。


「白龍隊」昭和20年3月13日光基地を沖縄へ向け出港(第18号輸送艦)
本部半島の運天港(現在の沖縄本島名護市)にあった海軍基地に配備される予定の回天隊だったのかもしれない。
米資料によると、那覇港到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発と、約1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら乗員
225人と、回天搭乗員「白龍隊」127名が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員14人の
氏名などが判明している以外は不明のままだという。


中国に大帝国「元」を築いたモンゴル(蒙古)が13世紀の鎌倉時代、2度に渡り大船団を組んで日本へ襲来した。
その「元寇」第2次の「弘安の役」では兵力14万人、軍船4400余隻に及んだ。
この時、日本の武士団は博多湾の「多々良浜」などで、上陸して来る侵攻軍を迎え撃ち、ことごとく撃退した。
元の大軍は陸地を占領出来ないまま、佐賀県北部の鷹島周辺に一団となって固まっていたところに大型台風が
直撃して大船団は壊滅し、「生きて還る者、僅かに3人」と伝えられるほどの惨状となった。
この大型台風の暴風が「神風」だが、「多々良隊」の名はこの戦いの古戦場からとられた。
「多々良隊」昭和20年3月28日~昭和20年4月3日出撃(伊47潜、伊56潜、伊58潜、伊44潜)
硫黄島陥落後、米軍は昭和20年3月26日沖縄に進攻。第六艦隊司令部は27日、回天搭載伊号潜水艦4隻で、
「多々良隊」を編成、各艦は次々と瀬戸内海西部を出て、沖縄周辺の敵艦隊の攻撃に向かった。
伊47潜は「菊水隊」「金剛隊」に参加した後、前甲板の14糎砲を撤去し、2基の回天を搭載する設備を新設し、
合計6基の回天を積む事となった。食糧は2ヵ月分を積み込み、魚雷は20本搭載した。
伊47潜「多々良隊」昭和20年3月29日光基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 伊47潜艦長 ]折田善次少佐
回天搭乗員は、先の「金剛隊」で伊56潜に乗って出撃し、発進の機会が無く帰還した搭乗員と新たな2名だった。
柿崎 実中尉(山形県出身)/前田 肇中尉(福岡県出身)/古川七郎上等兵曹(岐阜県出身)
山口重雄1等兵曹(佐賀県出身)/新海菊雄2等飛行兵曹(山梨県出身)/横田寛2等飛行兵曹(山梨県出身)
伊47潜は「多々良隊」の先頭を切って3月28日朝の呉軍港を盛大な見送りを受けて出港、夕刻、光基地に着き、
回天6基を搭載して翌29日午後出撃、沖縄を目指したが米軍機の必要な攻撃で損傷し、呉に帰着している。
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▲4月3日伊44潜「多々良隊」亥角泰彦少尉/館脇孝治少尉/菅原彦五2飛曹/西山兵曹(整備員)/土井秀夫中尉
伊44潜「多々良隊」昭和20年4月3日大津島基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]増沢清司少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]土井秀夫中尉(大阪府出身・戦死)/亥角泰彦少尉(京都府出身・戦死)
館脇幸治少尉(福島県出身・戦死)/菅原彦五2等飛行兵曹(宮城県出身・戦死)
ご覧になってお解りの通り、2月20日に伊44潜で「千早隊」として出撃して帰還していた4名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
伊44潜は4月3日の出撃以後連絡が無く、そのまま消息を絶っている。
米軍側が伊44潜との交戦と記録している4月29日の対潜水艦攻撃は、護衛空母ツラギから発艦したTBF(グラマン・アヴ
ェンジャー雷撃機)によるものであった。哨戒飛行中に浮上潜水艦を探知し、急接近して航空爆雷を投下、潜没しつつあ
る潜水艦に命中。続けて聴音追尾魚雷を投下し、命中爆発する音響を聞いたというものであるが、伊44潜詳細は不明。
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▲「多々良隊」左から石直新五郎2飛曹/宮崎和夫2飛曹/福島誠二中尉/八木寛少尉/川浪由勝2飛曹/矢代清2飛曹
伊56潜「多々良隊」昭和20年3月31日大津島基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]正田啓二少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]福島誠二中尉(和歌山県出身・戦死)/八木 寛少尉(山口県出身・戦死)
川浪由勝2等飛行兵曹(北海道出身・戦死)/石直新五郎2等飛行兵曹(岩手県出身・戦死)
宮崎和夫2等飛行兵曹(北海道出身・戦死)/矢代 清2等飛行兵曹(東京都出身・戦死)
4月5日久米島周辺で米軍上陸支援艇LCS-115の対水上レーダーで発見され、駆逐艦ハドソンの爆雷攻撃で沈没。
伊56潜乗組員122名は母艦と共に散華した。
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▲米駆逐艦ハドソン(USS Hudson (DD-475)
伊58潜「多々良隊」昭和20年4月1日光基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]池淵信夫中尉(兵庫県出身)/園田一郎少尉(神奈川県出身)
入江雷太2等飛行兵曹(東京都出身)/柳谷秀正2等飛行兵曹(北海道出身)
ご覧になってお解りの通り、3月1日に伊58潜で「神武隊」として出撃して帰還していた4名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
伊58潜は、4月6日にようやく奄美大島の西方に出た。沖縄西方海面に近づくにつれて天侯が悪化し、白波が立つ
荒天となった。暗雲が低迷して天測出来ず、自艦の位置さえ不明で、回天を発進させるには不適当な状況だった。
同日、戦艦大和他の海上特攻出撃の通知を聞いた橋本艦長は、その艦隊の後を付いて行き、一緒に突入すれば
沖縄に辿り着けると考えて艦隊を待った。しかし米軍艦載機の攻撃で大和、矢矧と駆逐艦4隻は沈み中止となった。
連合艦隊司令部からは「決死突入せよ」との厳命が来たので、伊58潜は意を決して浮上進撃に移ったが、忽ち米軍
哨戒機に遭遇するほど警戒態勢は厳重であった。
橋本艦長は4月10日第6艦隊司令部へ「7日以来、西方より突入を企図したが、悪天候と敵の厳重な警戒の為、回天
の発進に不適、自艦の位置も5日以来解らない。敵の制圧下では回天の整備が出来ない上、哨戒機にも発見されて
おり、一時離脱して再挙を期す」旨報告した。
伊58潜は一時九州の近くにまで引き返し、天候の回復を待つと共に十分に充電を行い、回天の整備を行って11日よ
り再び沖縄に向かったが天候は依然として回復せず、敵機は絶え間なく飛来し、回天発進の機会は掴めそうにはな
かった。第6艦隊司令部は伊58潜の報告から、このままの作戦を続行する事は被害を受けるのみで成功の見込みが
乏しいと判断。4月14日「多々良隊」各艦へ一旦太平洋側に出て、沖縄とマリアナ諸島を結ぶ線上で敵輸送ルートを
航行する艦船を攻撃するよう命令したが、伊58潜はその後敵艦船に会う機会無く4月29日、光基地に帰還して回天4
基と搭乗員を陸に揚げた。第六艦隊司令部も、ようやく米軍の厳重な対潜水艦警戒態勢、防御能力を認識した。
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▲▼ハワイ米国陸軍博物館に保管されていた「回天」が昭和54年8月日本に返還され、遊就館に展示されているが、
この回天一型改一の実物は、米国から貸与中との事。日本が作った物を接収された米国側にお金を払って借りてい
るという事か・・・しかもこの回天は、胴体及び訓練用頭部が実物であるだけで、完備品ではないそうだ。
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第6艦隊司令部は回天搭載伊号潜水艦以外にも3月中旬、伊8潜・呂41潜・呂49潜・呂56潜の4隻を九州南東水域へ、
次いで沖縄南東水域へ敵機動部隊攻撃に向かわせ、更にその後沖縄周辺にいる艦船への突入攻撃を命じた。
しかし四隻とも、3月中に消息が途切れた。第6艦隊司令部は更に、呂46潜・呂50潜・呂109潜の3隻を出撃させ、沖
縄から二百浬圏付近の敵艦舶攻撃に向かわせた。通常型潜水艦は合計8隻が沖縄戦に投入され、その中で帰還した艦は
沖縄から離れて哨戒任務に就いた呂50潜ただ1隻であった。
結局、潜水艦11隻が沖縄戦に参加し、8隻が未帰還、戻ってきたのは3隻であり、その内2隻が回天搭載艦であった。
第6艦隊司令部は「千早隊」と同じく、戦場の局地に回天搭載潜水艦を投入する戦法をとり、「多々良隊」においても
同じ様に大きな損失を被った。
伊56潜が沈没した翌4月6日、神風特別攻撃隊「第3御楯隊」「菊水天山隊」「第1草薙隊」「第1八幡護皇隊」「第1
正統隊」などの海軍航空特攻や、「戦艦大和」と第2水雷戦隊の旗艦軽巡「矢矧」「冬月」「霞」など駆逐艦8隻から
なる海上特攻の出撃を含めた総攻撃が行われた。これに呼応して陸軍も航空総攻撃を行っている。
九州、台湾の各基地から出撃して突入した特攻機は海軍161機(乗員279名)、陸軍61機(61名)に及んだ。
第6艦隊司令部が沖縄に送り込んだ回天搭載艦を含む潜水艦11隻がこの総攻撃日と合致したならば、混乱に乗じで回
天攻撃の機会が生まれる可能性は大きかったと思われる。沖縄に投入された特攻作戦は全てがちぐはぐであり、沖縄
特攻作戦全てが、米軍が沖縄本島に上陸を開始した4月1日に成されるべきだったと思えてならない・・・。


「天武隊」昭和20年4月20・22日出撃(伊47潜、伊36潜)
伊36潜「天武隊」昭和20年4月22日光基地より出撃。沖縄東方海域へ向かう。
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐
[ 回天搭乗員 ]八木悌二中尉(熊本県出身・発進)/安部英雄2等飛行兵曹(北海道出身・発進)
松田光雄2等飛行兵曹(茨城県出身・発進)/海老原清三郎2等飛行兵曹(東京都出身・発進)
野村栄達2等飛行兵曹(東京都出身)/久家 稔少尉(大阪府出身)
伊36潜は敵の制空権の下で、昼夜を問わず敵機が飛来する都度、潜航を強いられながら南下を続け4月26日夜、沖縄
とサイパンを結ぶ線上、沖大東島の北東海面に到着した。
沖縄に向かう敵の大船団を発見して直ちに潜入、菅昌艦長は6基全ての回天に「魚雷戦、回天戦用意」を命令した。
しかし2基は故障であった。菅昌艦長は魚雷発射距離まで船団が接近してくる見込みがないと判断。回天だけで攻撃す
る事に決定。八木艇、松田艇、安部艇、海老原艇の順に、4基が一分間隔で次々と発進していった。
天候は晴、海上は平穏、視界は艮好であった。敵護衛艦艇が接近してきたので、伊36潜は深度40米に潜入した。
その後、大爆発音と艦体に響く程の震動が伝わり、計4回の爆発音を聴いた。菅昌艦長は、回天各艇が順調な機械音を
残して走り去ってから長い時間が経った様に感じていたが、後で発進後10分過ぎの事と聞かされたという。
夜「米艦船4隻撃沈」との戦闘速報を第6艦隊司令部に打電、折り返し帰投命令を受けた。
伊36潜は内地に向かい、4月30日光基地へ戻り残った回天2基と搭乗員・整備員をおろし、5月1日呉に帰着した。
4月27日に伊36潜が遭遇した敵輸送船団は、サイパンから沖縄に向かっていた戦車揚陸艦LST 、中形揚陸艇LSM等の
上陸用艦艇5縦列編成30隻以上の大集団であった。
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▲4月17日伊47潜に搭載した回天の上に太刀、見送りに答える搭乗員(山口県の光基地にて)
柿崎稔中尉/前田肇中尉/古川七郎上飛曹/山口重雄1飛曹/新海菊雄2飛曹/横田寛二2飛曹
伊47潜水艦「天武隊」は4月17日呉工廠の潜水艦桟橋を離れ、光基地(山口県光市)に回航して回天を搭載。
搭乗員と整備員を乗せて4月20日光基地を離れ、沖合で訓練を行い平生基地に寄港して22日午後発航、沖縄南東洋上
に於いてグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路を遮断する新たな作戦を実施するため、一路南下した。
僚艦伊36潜も同じく22日朝、光基地を出撃して徳山で燃料、清水を積載し、同日夕刻に、伊47潜より遅れること2時
間程で豊後水道を通過し、グアム・サイパン~沖縄間の敵補給線に向かって出撃した。
[ 伊47潜艦長 ]折田善次少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎 実中尉(山形県出身・発進)/前田肇中尉(福岡県出身・発進)
古川七郎上等兵曹(岐阜県出身・発進)/山口重雄1等兵曹(佐賀県出身・発進)
新海菊雄2等飛行兵曹(山梨県出身)/横田 寛2等飛行兵曹(山梨県出身)
ご覧になってお解りの通り3月29日に伊47潜で「多々良隊」として出撃し、帰還した6名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
4月26日伊47潜は沖縄南東200浬圏のグアムとを結ぶ線上の配備点に就いた。30日には350浬圏に移り、5月1日再び
250浬圏まで戻って哨戒を続けて敵船団らしい艦船を発見。
回天搭乗員の柿崎中尉は「輸送船団ならば、是非とも回天を攻撃に使って下さい」と要請したが、折田艦長は拒否。
極力接近を計って魚雷4発を発射した。折田艦長によれば「命中火柱が3本上がり、続いて爆発音三を聴いた。
潜望鏡による視認と聴音報告を総合して、1隻に2発が命中、後1発が別の1隻に命中、艦種不明だが1隻撃沈は確実」
と判断した。敵の反撃はな無く、捜索も受けなかったという。
翌5月2日、またも敵船団を発見。「敵は1万トン級の大型油送船1隻、護衛の駆逐艦2隻」と、折田艦長の潜望鏡観測
の状況が艦内に流れ、「魚雷戦、回天戦用意」を命令した。天候晴、海上は平穏で、相手は大型、しかも低速。
好目標だった。「1号艇、4号艇発進用意」の号令がかかり、柿崎中尉と山口兵曹は直ちに「七生報国」の鉢巻を締め
シャツと作業ズボン・半長靴の、訓練と同じく身軽な服装で、携帯電灯と砂時計を首に掛け、それぞれの艇に急ぐ。
柿崎中尉はいつも通りの淡々とした表情で「二コッ」と笑みを浮かべて、擦れ違う乗員の激励を背に受けながら交通
筒を昇り、回天に乗艇したという。
折田艦長は「各艇は発進後、針路30度、速力20ノットで12分間全没航走。第1回の露頂時の予想位置は、駆逐艦の
左前方約1000米。後は各自の観測に基づいて突入せよ。第1目標は油送船、第2目標駆逐艦」と、電話で命令した。
1号艇(柿崎中尉)4号艇(山口兵曹)が発進。柿崎艇発進から21分経過後、回天命中の大爆発音が聞こえた。
続いてその5分後、第2の大爆発音が、いずれも船団音源と同じ方向で起こった。
間違いなく回天のかなり近い距離での爆発だった。
戦後、折田艦長の戦記には、この時の敵船団を「2本煙突の大型輸送船2隻、大型駆逐艦1隻」と記述されている。
聴音室は又しても音源を捕捉した。「フレッチャー」型大型駆逐艦の2隻編隊、距離約4000米、中速力であった。
距離、態勢共に魚雷攻撃圏外だが、回天ならば追撃ができると折田艦長は判断、古川兵曹に乗艇・発進を命じた。
回天と敵駆逐艦の両音源は段々と聴音の感度が微弱となり、約20分経過した頃には両方とも消滅した。48分後「駆
逐艦と回天の感度が出ました」と聴音員が報告、やがて回天の推進機音が高くなり、大轟発音が長い余韻を引いて
潜水艦に伝わってきた。伊47潜は敵に所在を知られたので、南東に高速で移動して索敵を続けた。
残る魚雷は16本、回天は3基であった。
7日、またもレーダーが約40キロに敵目標を捕捉、音源を捉えた。折田艦長が潜望鏡で英国「レアンダー」型巡洋艦
1隻、駆逐艦2隻を視認し、「回天戦、魚雷戦用意」を号令、残る回天3基全艇の搭乗員に乗艇を命じた。
6号艇(新海2飛曹)3号艇(横田2飛曹)の2基は電話機が不調になって聴き取れず、5号艇(前田中尉)だけが発進した。
大爆発音が一発響いた。回天5号艇(前田中尉)が発進して約24分後の事であった。
7日夜、伊47潜は浮上して第一戦速で水上移動しながら、第6艦隊司令部に戦闘速報を発信した。
第6艦隊司令部から8日夜「伊47潜の奮闘、大戦果を感謝す。直ちに作戦行動を中止し、呉に帰投せよ」との電報を
受け、北上して帰途に就いた。12日光基地に帰着、発進出来なかった回天2基と搭乗員、整備員6名をおろし、13日
呉に帰着。天武隊作戦を終結した。ラジオは大本営発表を臨時ニュースで放送していた。
「我が潜水艦が軽巡洋艦1隻、大型駆逐艦2隻、大型輸送船5隻を轟沈、輸送船2隻を撃沈、輸送船1隻撃破、計11隻
の大戦果を挙げた」というものであった。
※「天武隊」の戦闘詳報は現存しておらず、伊47潜「天武隊」については、折田艦長が詳述した幾つかの手記の他、
戦友会会報、日本海軍潜水艦史の記述などが残されている。しかし米国側の各種記録は、上記のいずれの攻撃につ
いても認知していない。伊47潜が挙げた魚雷や回天の戦果は、いずれも潜望鏡で命中・沈没を目視したものでは無
く、聴音による推定であるのに加え、伊47潜から出た資料以外には、伊47潜の攻撃による沈没も、損傷も、また交
戦の事実さえ、証明する記録が発見されていないという・・・。


「振武隊」昭和20年5月5日出撃(伊367潜)
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▲伊367潜(※画像は多聞隊)
伊367潜「振武隊」5月5日08:30大津島基地よりグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路の中間水域へ出撃
[ 艦長 ]武富邦夫少佐 [ 回天搭乗員 ]藤田克己中尉(山口県出身)/小野正明2飛曹(北海道出身・発進)
千葉三郎2飛曹(岩手県出身・発進)/岡田  純2飛曹(長野県出身)/吉留文夫2飛曹(北海道出身)
サイパンと沖縄を結ぶ線上で、索敵を続ける日々であったが、洋上行動日数が20日以上経つと、回天の故障が多発
すると言う戦訓がある為か、5月26日には第6艦隊司令部から帰投命令を受けた。
武富艦長は搭乗員を発令所に集め「作戦を打ち切り帰途に就く」と伝えたが、搭乗員達は「明日は敵に会う様な気
がする」と、口々に1日の猶予を願い出た。艦長は了承して、50浬移動して待敵した。
搭乗員は更に身体を水で清めたいと希望して、潜水艦では貴重な真水を洗面器2杯貰い、狭い艦内の通路で身体
を拭った。潜水艦には浴室もシャワーも無い。
翌27日未明、予感が当って遂に敵船団を北方、約4万米の遠距離に発見した。「回天戦用意」の号令がかかり1号
艇(藤田中尉)2号艇(吉留1飛曹)3号艇(千葉2飛曹)が発進準備に入る。しかし、藤田中尉の電動縦舵機に不具合が生
じ、命令により発進を中止。吉留艇も縦舵機が同じ故障で作動せず、発進中止。
3号艇(千葉2飛曹)5号艇(小野2飛曹)が発進した。4号艇(岡田2飛曹)は速力を20ノットに調定し、発動桿を力一杯
後ろに押した。しかし発動音が聞こえず、高圧酸素の圧力計の針が速く下がりはじめた。
岡田2飛曹は艦内の連絡係りに電話で「4号艇冷走」と叫んだ。「冷走」が、訓練の時には使わなかった言葉なので、
連絡係りが聞き誤り「熱走」と司令塔に報告した。「第1バンド外せ」の号令で回天を艦体に固縛する前部バンド
が外され、後部の第2バンドだけで甲板に繋がる状態になったが連絡係りが異変に気付き「冷走」と司令塔に伝え、
最後のバンドが外される直前に発進中止となり、岡田2飛曹はどうにか艦に止まる事が出来た。
発進して行った3・5号艇の推進器音は順調に聞こえていたが、やがて遠くに消え、爆発音、数分後に又爆発音を艦
内の一同が聴いた。距離は約2万米であった。「両艇命中」と判断されたが、艦長は回天の発進後深く潜航し、そ
のまま北方へ退避を続け、潜望鏡深度まで浮き上がることもなかったので、爆発の状況を視認していない。
伊367潜は6月4日午後、大津島基地に帰還。整備員を退艦させ、光基地に回航して残った3基の回天を陸に揚げ、
5日呉に帰港した。回天搭乗員3名は呉まで乗って行き、第六艦隊司令部で開かれた報告研究会に出席した。
生身の人間が乗る回天を、自分の命令で発進させる事に武富艦長は航海中常々苦悩していたと言う。
武富艦長は病気退艦した。心痛のため、十二指腸潰瘍を患っていたと言われる。
一方、伊367潜軍医長の梶原貞信軍医大尉は熱誠の快男児であった。「振武隊」として出撃する直前に操舵手が肺
炎で入院、交替補充員が間に合わなかったが、梶原軍医長は「自分が操舵当直の勤務に就く」と名乗りを挙げた。
微妙な感覚と熟練を必要とする重要な配置であるが、慶応大学のボート部でオールを漕いでいて、操舵経験もある
梶原軍医は、艦長の潜航操舵の実技テストを受けて、文句なく合格。
2時間交代の三直哨戒の操舵手を受け持ち、水上航走中、潜航中とも出撃航海1ヵ月の間、完壁に勤め上げた。
「軍医長兼操舵手」とは稀有な例であった。


「轟隊」昭和20年5月24日~昭和20年6月17日出撃(伊361潜、伊363潜、伊36潜、伊165潜)
回天攻撃目標を、洋上航行中の敵艦船に転換した「天武隊」「振武隊」の後を承け、5月末、回天特攻「轟隊」が
伊号潜水艦4隻で編成され、沖縄に侵攻した米軍の補給ルートを遮断する任務に就いた。
大型潜水艦は伊36潜のみ。残りは旧式の中型潜水艦伊165潜と、輸送潜水艦改造の伊361潜・伊363潜であった。
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▲伊361潜「轟隊」の出撃。
伊361潜「轟隊」5月24日光基地よりグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路の中間水域へ出撃。
[ 艦長 ]松浦正治少佐(伊361潜水艦乗員合計81名全員戦死)
[ 回天搭乗員 ]小林富三雄中尉(三重県出身)/金井行雄1等飛行兵曹(群馬県出身)
斉藤達雄1等飛行兵曹(茨城県出身)/田辺晋一1等飛行兵曹(千葉県出身)/岩崎静也1等飛行兵曹(北海道出身)
伊361潜は出撃以後連絡なく消息不明となった・・・。
米軍の記録によれば護衛空母アンジオが沖縄東方洋上で対潜水艦掃討の任務に就いていた5月31日、艦載機TBF機長
ストパル海軍中尉が操縦するアヴェンジャー雷撃機が潜水艦を発見。天候曇。ストパル機長は旋回して潜水艦の左舷
真横のロケット弾攻撃を加える射点に就き、04:48翼下に搭載した4発を発射。左へ旋回中、機長は潜水艦が潜航し
始めるのを見た。彼は接近して「24型機雷」を投下しようとしたが失敗。
アヴェンジャー雷撃機が潜水艦の上を通り過ぎた時、艦橋はまだ海面上にあったが、60秒後には波間に見えなくなり
機がもう一度左へ旋回して戻ってきた時は、潜没した後の渦がクッキリと見えていた。
機長は手動の緊急投下装置を使って爆弾倉の「24型機雷」を渦の60米前方に投下した。投下時刻04:52。
続いて聴音ブイ6個全部を連続投下した。全てが正常に作動し、多数のブイから音が聞こえた。その1つからはっきり
した推進機音が聞こえた。機雷投下の約4分後、電信員はいきなり、激しい音を聞いた。
蒸気が噴出する毎にその音は大きくなり、電信員がイヤホンを頭から外したほどであった。時刻は04:56であった。
その音響は始まってから約30秒後に小さくなり、代わって「石油缶を潰す様な破壊音」が起こった。
米護衛駆逐艦2隻が交戦現場に到着して捜索を開始。重油の油膜の中心に入って潜水艦を撃沈した証拠物件を拾い
揚げた。木甲板の破片、ニス塗り及びペンキ塗りの木片、コルク片、麦藁、蝋燭、日本文字を捺印した真空管入りの
小箱、日本語が書かれた紙などであった。交戦地点は北緯22度22分、東経134度09分であった。
護衛空母アンジオでは、母艦に帰還した乗員3名を1人づつ呼び出して日本潜水艦の写真を見せ、彼等が攻撃した潜水
艦はどれかと訊ねたが、3人共「伊161潜」と指摘した。しかし「海大四型」の伊61潜は海戦直前に事故で沈没して
おり、昭和17年5月にそれらが番号を付け替えた「伊161潜」なるものは存在しない。
米海軍の写真集作成者のミスであろう。同形艦はすべてが既に戦没していて、類似の「海大五型」等も、当時行動出
来たものは伊165潜のみであるが、同艦も「轟隊」で6月15日に出撃してマリアナ東方を行動し、6月27日に沈んだ。
伊361潜はこれらとは艦形がかなり違うので、3人の艦型識別能力には疑問があるものの、艦砲を持っていない事まで
認識しており、日出が近い薄明時に艦の真横から頭上を低空で通過しているのであるので、もし回天を搭載していれ
ば当然気付いた筈であるので、搭載回天5基が既に発進を終えていた可能性は否定出来ない。
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▲伊36潜「轟隊」左より横田寛一1飛曹/野村英造1飛曹/柳谷秀正1飛曹/久家稔少尉/園田一郎少尉/池淵信夫中尉
(※遺骨は訓練中に殉職した入江雷太1飛曹/坂本豊治1飛曹)
伊36潜「轟隊」は回天6基を搭載して昭和20年6月4日、光基地を出撃してマリアナ諸島東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐 [ 回天搭乗員 ]「振武隊」「多々良隊」の両作戦に伊58潜で出撃した4名。
池淵信夫中尉(大阪府出身・発進)/園田一郎少尉(神奈川県出身)/入江雷太1等飛行兵曹(東京都出身・殉職)
柳谷秀正1等飛行兵曹(北海道出身・発進)と、「金剛隊」伊53潜と「天武隊」伊36潜で発進できず帰還していた2名。
久家 稔少尉(大阪府出身・発進)/野村栄造1等飛行兵曹(東京都出身)
伊36潜は「天武隊」参加の後、呉で修理を終え、5月17日から光基地で訓練用回天を搭載し、発進と急速潜航訓練を
重ねた。初日の5月17日、入江1飛曹が大津島沖合で伊36潜から発進し、航行中の目標艦に向かって襲撃訓練中、目
標艦に衝突して沈没し、同乗中の坂本豊治1等飛行兵曹と共に殉職した。
補充に「多々良隊」伊47潜で帰還していた横田 寛1等飛行兵曹(山梨県出身)が任命された。
訓練を23日に終了し、呉に戻り燃料・食料を積載、28日呉発、光基地に戻り6月3日回天6基を搭載し、4日出撃し、
17日頃配備海面のマリアナ諸島東方の水域に到着。潜望鏡で大型輸送船3隻を発見「魚雷戦・回天戦用意」発令。
直ちに1号艇(池淵中尉)5号艇(久家少尉)が発進用意を整えたが、距離があり、遠ざかって行って発進を中止した。
27日大型輸送船1隻を発見して急速潜航、魚雷戦用意。大型タンカーが新たに出現したので、目標を転換し、艦長は
前甲板の回天2基に「発進用意」を命令。しかし5号艇(久家少尉)6号艇(野村1飛曹)とも機関が発動せず、攻撃中止。
菅昌艦長は「戦闘・魚雷戦」を号令、魚雷6本を発射。45秒後に命中音二。菅昌艦長が予想時刻に潜望鏡を挙げると、
魚雷1本が艦首に命中し、水柱が甲板に落下するのが見えた。1本は磁気信管付きの頭部で、艦底の下を通り過ぎた
後に反対舷で爆発した。戦後、この目標はLSTLを改装した工作艦エンディミオン1653トンと判明した。
出撃以来、洋上行動の日数が長くなっており、回天2基の機関発動不良を含めて搭載回天を点検すると、全機に故障が
発生していた。22日配備点を一時離脱、回天の故障箇所の復旧作業に努め、24日、1・2・5号艇の修復が完了したが、
他の3基は使用不能であった。26日深夜から両舷第一戦速で南下し、ブラウン島~硫黄島を結ぶ配備点へ急行した。
6月28日潜航してブラウン島とサイパン島の線上を哨戒中、単独航行中の大型輸送船を発見した。
菅昌艦長は回天発進を命令。1号艇(池淵中尉)が、「成功を祈る」「あとを頼みます」の電話連絡を最後に発進した。
菅昌艦長は潜望鏡を上げて、池淵中尉の成功を祈りながら奮闘ぶりを観戦し、命中の瞬間を見守っていたが、潜望鏡
を後方に向けると、敵駆逐艦が視野一杯に、のしかかるように迫っていた。
「潜望鎧下ろせ。深さ40急げ!」と菅昌艦長は叫び、辛うじて体当たりを回避できたが、駆逐艦は頭上を通過し、直
後に爆雷約10発が至近で爆発、あと繰り返し直上を通過しながら連続爆雷攻撃を加えた。
駆逐艦は速力を落として潜水艦の位置、針路、速力を測定したのち、速力を上げて突進してきて爆雷を投下する。
後部の被害が重なり、浸水が多くなって補助タンクやツリムタンクでは調整がつかず、潜舵、転舵の操作で水平を保
った。5号艇(久家少尉)が爆雷攻撃が始まった頃、回天発進を進言してきたが、艦長は即座に拒否した。
しかし頭上の2隻と見られる駆逐艦の爆雷攻撃がさらに激しくなり、2回目の久家少尉の回天発進進言があった。
艦長は、もし艦と運命を共にしたら、回天の搭乗員として今までの努力が無駄になると考え、使用可能な5号艇(久家
少尉)と2号艇(柳谷1飛曹)の発進用意を命じた。しかし、両艇とも電話が通じなくなっていた上、整備員から5号艇の
電動縦舵機が故障して使用不能と報告があり、菅昌艦長は2人の発進を中止し、退艇を命じた。
爆雷の爆発圧力は水圧にプラスするので、甲板搭載の回天が浸水するのを懸念し、菅昌艦長は深度を浅く40米に保っ
たまま回避を続けていた。6回目の爆雷攻撃で後部の浸水が急増、艦は次第に沈下をはじめ、深度70米に、仰角は15
度となり、米袋を乗員が担いで艦内を前部へ移動してツリムの修正に努めたが追いつかず、敵前では厳禁であるがメ
インタンク内の海水を高圧空気で少しづつ排出せざるを得ない窮状となった。
士官室に座っていた久家少尉はすっくと立ち上がり「自分の回天発進を」と、重ねて要請した。
電動縦舵機故障[ コンパス(羅針儀) ]が役に立たない回天を出撃させる事になり、艦長は苦悩していたが、伊36潜が
離脱出来る見込みは乏しく、回天が道連れになるとの思いが強まり、「行ってくれるか」と両名の乗艇を認めた。
電話が不通なのでハンマーで合図し、2号艇(柳谷1飛曹)は後甲板から発進、5号艇(久家少尉)は前甲板から発進。
海面上に浮上してから機械を発動した。あれだけの爆雷攻撃を受けながら、2基共順調に起動した。
発進後10数分で、回天命中の大爆発音が轟き1隻の駆逐艦の音源が消えた。もう1基の回天の音源は遠ざかって
ゆき、駆逐艦もいなくなった。2基の回天が発進したお蔭で伊36潜は惨愴たる窮地から蘇り応急修復作業を急いだ。
6月28日の夜になって浮上した時、放電量120%、高圧空気の量は浮上1日分しか残っていなかった。
伊36潜は7月2日帰投命令が入り、戦場を離れた。9日ようやく豊後水道に入った直後に、敵潜水艦の魚雷3本の攻撃
を受けたが回避して、何とか無事光基地に入港した。
発進出来なかった搭乗員3名は退艦、故障した回天を陸揚げし、10日朝出港、呉に帰着した。
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▲伊165潜「轟隊」の出撃。
伊165潜「轟隊」は回天2基を搭載して昭和20年6月15日、光基地を出撃してマリアナ諸島東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]大野保四少佐(伊165潜水艦乗員合計106名全員戦死)
[ 回天搭乗員 ]水知創一少尉(兵庫県出身)/北村十二郎1等飛行兵曹(長野県出身)
出撃以後、連絡がないまま消息不明となり、第6艦隊司令部は昭和20年7月16日をもって搭乗員は戦没、潜水艦は、
7月29日喪失と認定し、潜水艦乗員と回天整備員はこの日の戦死として公表した。
米軍記録では7月27日、伊165潜と思われる潜水艦と交戦した、米海軍第142哨戒爆撃隊・機長のジェーンズ中尉
が、潜水艦の艦橋の前と後の甲板に2本の大型魚雷を積載した見取り図を描いている。
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▲5月28日伊363潜「轟隊」久保吉輝1飛曹/石橋輝好1飛曹/上山春平中尉/和田稔少尉/西沢(小林)重幸1飛曹
伊363潜「轟隊」は回天5基を搭載して昭和20年5月28日、光基地を出撃して沖縄南東海域へ向かった。
[ 艦長 ]木原 栄少佐
[ 回天搭乗員 ]上山春平中尉(和歌山県出身)/和田 稔少尉(静岡県出身)/石橋輝好1等飛行兵曹(東京都出身)
小林重幸1等飛行兵曹(長野県出身)/久保吉輝1等飛行兵曹(大阪府出身)
6月5日、初めて「回天戦用意」がかかったが、荒天のため発進を中止した。12日空母らしい敵に行き合ったが、
発進には至らなかった。6月15日浮上航行中、艦首方向の水平線上に灯火を発見し、急速潜航した。
木原艦長は直ちに「魚雷戦用意」を号令、敵の接近を確かめて、20分後、更に「回天戦用意」の号令をかけた。
搭乗員は急いで身支度を整え、七生報国の鉢巻きを締めて先任搭乗員の上山中尉の周りに集まった。
「搭乗員乗艇、発進用意」の命令が下り、各自は艦内から、暗いトンネルの様な交通筒を昇って甲板上の回天に
乗り込んだ。敵は輸送船団であり、木原艦長は先ずは魚雷攻撃を試み、護衛の駆逐艦など反撃を受けたら回天を
発進させる心算であったという。
木原艦長は95式魚雷2本を発射し、1本が命中、誘爆音が2回聞こえた。回天操縦席に座って発進命令を待ってい
た上山中尉に、木原艦長が「命中したらしい。火焔が見えるから艦橋に見に来い」と電話したので、上山中尉は
交通筒から一旦艦内に降りて、司令塔に駆け登り、潜望鏡を覗かせてもらったという。
「不思議に何の感慨もない。痛快とも、残酷だとも思わない。暗い水平線にほの明るく描き出された小さな焔の
弧が、ただ絵のように美しく眺められただけである」と戦後、京都大学名誉教授となった上山春平元中尉は当時
の情景を回想している。18日夜、帰投命令が届き、19、20日と索敵を継続したが敵に遭遇する事はなかった。 
伊363潜は6月28日平生基地に帰着し、5基の回天を揚陸し、29日呉に入港し搭乗員達は艦を下りた。


「多聞隊」昭和20年7月14日~昭和20年8月8日出撃(伊53潜、伊58潜、伊47潜、伊367潜、伊366潜、伊363潜)
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▲伊363潜「多聞隊」の出撃。
伊363潜「多聞隊」は回天5基を搭載して昭和20年8月8日光基地を出撃。
8月9日のソ連参戦により12日配備を日本海に変更になるも作戦続行中、終戦により帰投。
[ 艦長 ]木原 栄少佐
[ 回天搭乗員 ]上山春平中尉/園田一郎少尉/石橋輝好1飛曹/小林重幸1飛曹/久保吉輝1飛曹
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▲伊363潜「多聞隊」
伊53潜「多聞隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月14日大津基地を出撃して沖縄とフィリピンの中間海域へ向かう。
[ 艦長 ]大場佐一少佐
[ 回天搭乗員 ]勝山 淳中尉(茨城県出身・発進)/開 豊興少尉(秋田県出身・発進)/高橋 博1飛曹(北海道出身)
荒川正弘1飛曹(山形県出身・発進)/川尻 勉1飛曹(北海道出身・発進)/坂本雅刀1飛曹(三重県出身)
上記で紹介した7月24日勝山 淳中尉の回天発進で護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈した後、伊53潜は引き続きパ
シー海峡東方海域で索敵中の27日、数十隻もの南下中の敵大輸送船団のど真ん中に遭遇。
直ちに総員配置に就いたが、またあまりにも至近距離である為に魚雷も回天も使えず、一旦列外に出てから攻撃しよ
うと判断して操艦し、敵舶団の後方に離脱したが、伊53潜の態勢が整った時には後方遠くに離れ、魚雷攻撃は到底で
きなくなっていた。回天は搭乗員が強く要請したので、大場艦長は2号艇(川尻1飛曹)の発進を決めた。
後甲板から発進。約1時間後に大音響が聞こえ、大場艦長は潜望鏡で目標の方向に黒煙を望見し「艦種不詳1隻撃沈」
と第6艦隊司令部に報告している。
8月4日伊53潜の頭上を敵駆逐艦が通過し、多数の爆雷が海面に落下する音が聞こえ、至近距離で爆発した。
同艦は在来の「93式聴音機」に加えて新式の「3式探信儀」を装備していたが、潜水艦にとって貴重な電力を大量に
消費する上、強力な超音波を発射するので敵に探知されやすく、平素は使わなかった。
しかし既に敵に発見されており、切羽詰まっている為、使用して敵情を採ると、対潜艦艇5隻が半径一粁で包囲し、
交互に伊53潜に接近して爆雷攻撃をしている事が分かった。大場艦長は回避を続けたが、爆雷が至近で爆発する度に
艦は激しく震動し、艦内の器具は散乱して惨憺たる有り様となった。
回天搭乗員の関少尉が司令塔に上がってきて「回天を出して下さい。相手が駆逐艦でも不足はありません」と発進を
催促したが、艦長は「暗夜の回天攻撃は無理」として斥けた。
歴戦の乗組員もこれほど猛烈な爆雷攻撃を受けた経験はなかったという。
そのうち爆雷が艦底の近くで爆発し、主蓄電池が破損した。一切の動力が停止して、舵も機械も動かず、艦内の電灯
は消えた。万策尽きたと思われたが、全員必至の努力で故障を復旧し、何とか動力を回復できた。その間に関少尉が
再び来て「私たちは回天で突入することを本望としております。このままでは死にきれません。夜間でも粘り強く食
い下がり必ず成功します。回天の搭乗員が大勢、出撃の順番を待っております。伊53潜は何としてでも生き残って、
回天作戦を繰り返してください」と艦長に詰め寄った。
爆雷攻撃は激しさを増しており、大場艦長も母潜がいつまで頑張れるか疑問と考え、まだ海上は暗黒であるが早めに、
全艇「回天戦用意」を命令。残る4基の搭乗員は暗い艦内を懐中電灯のほのかな明かりを頼りに、交通筒を通ってそれ
ぞれの回天に乗艇した。訓練には無かった深度40米からの回天発進である。5号艇(関少尉)が発進。
約20分後に回天爆発の大音響が轟いた。周囲の対潜艦艇は1隻減り、損傷艦救助の為か敵は3箇所になった。
大場艦長は大爆発音を聞いたのち3号艇(荒川1飛曹)に発進を命じ、03:00頃回天は艦を離れていった。
03:32頃大爆発音が轟き、敵の推進機音は2隻に減少、やがて1カ所になり、暫くして推進機音はすべて消滅した。
4号艇(高橋1飛曹)は自分の発進を待つ間も爆雷攻撃が続き、その衝撃で「四塩化炭素」の容器が破損してガスが艇内
に漏れ出したため、中毒して意識不明となった。
回天の機関を発動する際、純粋酸素が燃焼室内でいきなり燃料の灯油と接触すると爆発する為、最初は不燃性の四塩
化炭素を酸素に混入して純度を下げ、安全に燃焼が始まる様にしていた。この薬品は液体で毒性があり、金属と反応
する為、ガラスの瓶に入っている。
6号艇(坂本1飛曹)は、爆雷の至近爆発の為に酸素パイプに亀裂が入ったらしく、高圧酸素が漏洩し圧力計が下降しは
じめた。艇内の気圧が上昇して苦しく、彼は「一刻も早く出して下さい」と電話で叫んだ。
「6号艇発進」の号令と共に発動桿を力一杯押したが機械冷走、酸素の圧力計が急速に下がり始めた。
「冷走」と報告、命により機械を停止したが、艇内の気圧がさらに高まり、そのまま人事不省に陥った。
高橋1飛曹と坂本1飛曹は艦内に収容されて手当てを受けた後、意識を回復したが、高橋1飛曹は内地帰着次第入院し、
治療に長い期間かかかった。
この夜、伊53潜が遭遇した敵船団は沖蝿よりレイテ湾に向かう合計25隻の「OKl第9輸送船団」であった。
8月7日頃帰還命令を受信し、豊後水道を「シュノーケル」潜航で通過して12日大津島到着、残った2基の回天を陸に
揚げ、搭乗員と整備員を上陸させて13日発、同日呉に1ヵ月ぶりに帰還し、翌々日の玉音放送を聴いた。
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▲呉に帰還した伊58潜。米軍将校の姿が写っているので終戦後に撮影された写真と思われる。
伊58潜「多聞隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月18日平生基地を出撃、フィリピン東方海域に向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]伴 修二中尉(岡山県出身・発進)/水井淑夫少尉(東京都出身・発進)
林 義明1等飛行兵曹(新潟県出身・発進)/小森一之1等飛行兵曹(富山県出身・発進)
中井 昭1等飛行兵曹(京都府出身・発進)/白木一郎1等飛行兵曹(福岡県出身)※全員平生基地配属
7月28日駆逐艦を伴った大型油送船を発見。「回天戦用意、魚雷戦用意」に入った。
魚雷攻撃には距離が遠い。艦長は回天戦を決意、2基に乗艇を命じ、1号艇(伴中尉)と2号艇(小森1飛曹)が発進。
発進から約50分後に2つの爆発音が聞こえたと記録しているが、米軍艦船の損害は未だ分かっていない。
広島と長崎に投下された原子爆弾2発の部品(核部分)を米西海岸サンフランシスコで積載し、連続最大航海速力でマ
リアナ諸島・テニアン島に運ぶ任務に就いた米重巡洋艦インディアナポリス。途中ハワイで燃料を補給、約5千浬を10
日間で航走して無事任務を達成した。その後グアムに立ち寄り、護衛無しでレイテ湾に向かっていた。
昭和20年7月29日伊58潜「多聞隊」と遭遇。会敵時は暗く、回天戦は困難であり、橋本以行艦長の判断で魚雷攻撃を仕
掛けた。伊58潜の放った魚雷3発は見事命中し、艦前部をもぎ取られ、インディアナポリスは12分間で沈没した。
インディアナポリス沈没地点は北緯12度02分、東134経度48分である。
8月9日伊58潜はフィリビン比島北東端「アパリ」岬北東260浬海域で輸送船10隻、駆逐艦3隻を発見して「回天戦用意」
艦長は最初に6号艇(白木兵曹)に発進を命じたが冷走、発進を中止した。
続けて3、5号艇の乗艇を命じたが、3号艇(林兵曹)は故障、5号艇(中井兵曹)が発進していった。新たな駆逐艦と船団が
近づいてきたので追加して4号艇(水井少尉)が発進、爆発音が聞こえた。潜望鏡を揚げると駆逐艦1隻が見えなくなって
おり、橋本艦長はこれを仕留めたものと認定した。発進回天は同日、2基のみであった。
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▲「多聞隊」伊58潜
8月12日伊58潜は大型艦を発見、「回天戦用意、魚雷戦用意」を発令、唯一の動ける回天、3号艇(林義明1飛曹)に発進
用意を命じた。橋本艦長は潜望鏡で遠くから観測していたが、敵艦は突然煙突から黒煙を吐き上げて遁走を始め、右に
左に回避運動をする様子が見えた。30分程して駆逐艦が反撃に入ったのか、爆雷投下の轟音が連続して聞こえてきた。
伊58潜は戦果確認を第6艦隊司令部から強く要請されていた事もあり、他に敵影が無いので、この時は昼間用、夜間用
の2本の潜望鏡を海面上に高く挙げ、橋本以行艦長と航海長田中宏謨大尉が司令塔で並んで観戦していた。
航海長は「敵艦が水柱に包まれて、ぐーっと、のめり込むように水中に没する姿が潜望勤こ捉えられた。轟沈!敵艦の
影は既に無く、駆逐艦のマストのみが見えた」と記録している。
橋本艦長は「大型艦1隻轟沈」と判定し、夕闇迫る頃浮上、続けて北上しながら第6艦隊司令部に打電報告した。
その後、北上を続けながら8月15日終戦を告げる機密電報を受信したが、艦長は乗員には伏せたまま、17日に平生基地
に帰還した。白木兵曹と整備員6人が上陸し、甲板に残った回天1基を陸揚げし、翌18日呉に回航した。
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▲伊58潜「多門隊」艦長は橋本以行少佐。
伊58潜の雷撃で撃沈されたインディアナポリス乗組員は海へ投げ出され、救助されるのに約5日かかった。
原爆投下が極秘任務の為、正確な艦位置を司令部が特定出来ずに救助が遅れた為だった。
乗組員1196名中、879名が戦死。生き残ったのは317名。戦後、生き残ったインディアナポリスの艦長 チャールズ・
B・マクベイ3世大佐は軍法会議にかけられ有罪となった。証人として来ていた伊58潜艦長 橋本以行少佐は、敵艦長
の名誉の為に「たとえジグザグ運動をしていても撃沈出来た」と証言したが、米海軍は責任の全てをマクベイ大佐に
押し付けた。その後、戦死したインディアナポリス乗員遺族から責め立てられたマクベイ大佐は1968年に自殺した。 
一方、橋本元艦長は梅宮大社(京都)の神職となり、回天搭乗員を出撃させて戦死させた事、もっと早く哨戒海域に着い
ていれば広島・長崎への原爆投下を防げたと、自らを責め、戦争で亡くなった全ての御霊の鎮魂を祈る日々を送った。
また、橋本は自ら命を絶ったマクベイ大佐の名誉回復にも熱心に取り組んだ。
その後、アメリカで検証された結果、多くの犠牲者を出したのは米軍の救助が遅れた為だと解り、マクベイ大佐の名誉
は回復された。この名誉回復を知る事無く、橋本元艦長は、その5日前の平成12年10月25日に亡くなった。享年91歳
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▲重巡洋艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35)
※平成29年8月19日インディアナポリスの残骸の一部が72年ぶりにフィリピン海の水深5500mの海底で発見された。
伊47潜「多門隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月29日、光基地を出撃して沖縄東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]鈴木正吉少佐
[ 回天搭乗員 ]加藤 正中尉(広島県出身)/相沢鬼子衛少尉(北海道出身)/石渡昭三1等飛行兵曹(栃木県出身)
河村 哲1等飛行兵曹(北海道出身)/新海菊雄1等飛行兵曹(山梨県出身)久本晋作1等飛行兵曹(長崎県出身)
7月30日フィリピン北東方面の哨区で台風の中で海上は大時化となった。
この荒天で後甲板に固縛されていた回天1基が流失してしまった。他の回天も多くが浸水していた。
荒天に阻まれた後、会敵の機会は無く、敵の攻撃もなかったが回天が活躍する場面もとうとう起こらなかった。
8月6日呉に帰投せよとの命令が入電して帰途に就き、8月13日光基地に帰着した。
回天搭乗員6名と回天5基を下ろして、8月14日呉に帰着した。
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▲伊47潜「多聞隊」
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▲伊366潜「多門隊」
伊366潜「多門隊」は回天5基を搭載して昭和20年8月1日光基地を出撃、沖縄とグアム間の敵輸送路へ向かう。
[ 艦長 ]時岡隆美大尉
[ 回天搭乗員 ]成瀬謙治中尉(8/11発進)/上西徳英1飛曹(8/11発進)/佐野 元1飛曹(8/11発進)
岩井忠重1飛曹//鈴木 大三郎少尉
8月2日敵輸送船団発見、発進不能の2基を除き回天3基発進、攻撃。8月15日夜呉に帰投命令を受信。18日呉入港。
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▲▼伊367潜「多門隊」
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伊367潜「多門隊」は回天5基を搭載して昭和20年7月19日大津島地を出撃、沖縄とグアム間の敵輸送路へ向かう。
[ 艦長 ]今西三郎大尉
[ 回天搭乗員 ]藤田克己中尉(山口県出身)/安西信夫少尉(神奈川県出身)/岡田 純1等飛行兵曹(長野県出身)
吉留文夫1等飛行兵曹(北海道出身)/井上恒樹1等飛行兵曹(岩手県出身)
8月9日第六艦隊司令部より突然帰投命令が届き、翌日やむなく今西艦長は5基の回天を甲板に載せたまま、帰途に就
いた。豊後水道を通過し、8月15日正午、水の子灯台を通り過ぎた頃に玉音放送を航海長他が聴いたが、雑音が強く、
殆ど聞き取れなかった。1時間後に玉音放送の内容が機密電報でり、今西艦長は状況を明確に把握したが、戦時航海
中であるので、乗員が心理的な動揺を来すことがない様艦内伝達を抑え、そのまま航行を続けた。
夕刻、大津島に到着。艦長は乗員一同を甲板上に集め、戦争終結の玉音放送の内容を伝え、混乱のないよう訓示した。
伊367潜は翌16日08:00出港して呉に向かい、作戦行動を終えた。


「神州隊」昭和20年8月16日出撃(伊159潜、伊36潜)※伊36潜は出撃したかどうかは不明。
[ 艦長 ]三宅辰夫大尉
[ 回天搭乗員 ]斉藤 正少尉(宮城県出身)/今田新三1飛曹(大阪府出身)
「神州隊」は、8月6日広島に原子爆弾が投下、9日に突如ソ連が参戦したので、急遽、日本海に向かい「ウラジホス
トック」のソ連艦船を攻撃する事になった。出撃基地に回航する直前の8/11、伊159潜は整備中の呉工廠が米戦闘機
P-51の空襲を受け、その際片舷主機械などが損傷した。呉工廠も既に度々被爆しており修理が間に合わず、やむなく
平生基地にそのまま回航して、回天と搭乗員を乗せて出撃した上で日本海沿岸の舞鶴に回航し、舞鶴工廠で修理した
後、ウラジホ方面へ向かう事になった。(平生基地は山口県熊毛郡平生町にあった回天基地で、現在も遺構が残る)
8/15正午、平生基地では総員がラジオで玉音放送を聞いたが、その音声は雑音が多く聞き取り難かったので、一同は
終戦とは受け取らず、予定通り出撃する事に決定。後の推移に備える為にも舞鶴まで行き、主機械を修理しておく必
要があった。8/16日昼、同艦は回天2基を搭載して出撃、豊後水道を経由して日本海へ向かった。
下関海峡には当時、B29が磁気機雷を多数投下しており、通航は危険であったのでこれを避け、九州の南を廻って日
本海へ向かったが、若し途中で米艦船と遭遇した場合はこれを攻撃するよう指示を受けていた。
平生を出撃後、豊後水道を潜航南下して17日、大隅半島を潜望鎧で遠望出来る地点まで到達した。
米艦船は終戦で撤退しており、その艦影を見なかった。ここで平生基地から無電で呼び戻されて反転し、一旦宮崎県
の油津に入港して浮上、機密書類を焼却。18日油津を出港、水上航行で豊後水道を北上して平生基地に帰着した。
伊159潜へ帰還命令打電を手配したのは平生基地特攻隊長で神洲隊伊36潜で出撃予定だった橋口寛大尉であった。
橋口寛大尉は、終戦後18日未明に回天の操縦席で拳銃自決を遂げた。現在平生基地跡には「阿多田交流館」が建てら
れ、平生回天基地の資料や、整備済の回天を運んだ「トロッコ」、光海軍工廠跡地から発掘した本物の回天2型の胴体
が平生町歴史民俗資料館下に展示されている。 機会があれば是非そちらにも見学しに行きたいと思う。
終戦時、大津島基地では伊156潜、伊155潜が交通筒を整備して回天の発進訓練を重ねており、神洲隊として8月25日
頃出撃する予定であったという。
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終戦後の昭和20年8月25日、回天搭乗員の松尾秀輔少尉が大神基地(大分県)にて自決。
台湾で生まれた松尾少尉は帰る家も無く、そして敗戦の悔しさからか、遺書を残し、練兵場の国旗掲揚台の下で手榴弾
を使って壮烈な自決を遂げた。戦後の日本立て直しに必要不可欠な優秀な若者を終戦後に失った、20歳だった・・・。
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▲大津島回天基地跡へは徳山港から大津島巡航フェリーで馬島港へ向かう。
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▲▼徳山港には映画「出口のない海」で使用された回天の実物大レプリカが展示されていた。
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戦後、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」
「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面、または事実と異なる説が強調された。特にハッチに関しては中から手
動で開けられ、外からは工具を使用するものの開閉は可能だった。
搭乗員は操縦の特異性から転用できない為、全てが回天戦の為に選抜されて訓練を受けた優秀な若い志願兵だった。
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但し、戦時の日本において事実上、志願を拒否する事は著しく困難で、戦果に関し49基出撃の結果に対し撃沈4隻と乏
しく、回天を輸送し発進させる伊号潜水艦の損耗率も高かった。
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▼フェリーチケット売り場も「回天」一色。
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▼▲フェリーチケット売り場も「回天」一色。
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▲▼2006年公開の松竹映画『出口のない海』のスチール写真、大津島の回天基地跡でも撮影された。
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▼時間になったのでフェリー乗り場に向かう。駐車場は無料だが数が少ないので朝早めに確保した方が良いだろう。
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▼フェリーに乗り込んでから乗り場を撮影。
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▼出航。徳山港を離れる。
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▼▲色々な海運会社の貨物船が浮いている。
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さぁ、大津島に向けての短い航海だ。
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▼見た感じ大津島より大きく、恐らく無人島であろう「黒髪島」を右手に見ながら大津島に向かう。
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▼▲画像は天候が回復してからの帰りに撮影。大津島に向かうフェリーとすれ違う。
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徳山港から15分~20分位。あっという間に大津島(馬島港)に着く。乗船はこの位の時間が一番気持ちいい。
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大津島に上陸。当日は雨との予報を覆して急速に天気が回復してきた。
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今まで戦跡慰霊の旅では雨に見舞われた事は1度も無い。英霊がいつも見守ってくれていると勝手に思い込んでいる。
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帰りの船の時間を確認しておく。此処は「馬島」だ。
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待合所には少しお土産物が売っている様だが立ち寄らなかった。
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写真でよく見ていた大きな「回天の島」の看板だ・・・。
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▼まずは見学前に、観音菩薩像で賽銭を添えて英霊に感謝の黙祷を捧げる。
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数分あるくと案内板が・・・。
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左は海だ。
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見えた!昭和19年9月に開設された回天発射訓練基地だ・・・。
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▼海沿いの崖がくり貫かれ、この数メートル先から強固な回天専用トンネルが構築されている。
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早速入って行く前に、徳山港でも見た「周南子ども百人一首」
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回天搭乗員が、日本に必ずや明る未来が来ると信じて死地へ出撃して行ったトンネルの入口だ。
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回天搭乗員はこのトンネルを通って海へ。生きて帰る事は無かった・・・。
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戦時中当時は回天を運ぶレールが敷かれていた。今は撤去されて現存しないが、僅かに形跡は確認出来る。
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▲映画『出口のない海』のスチール写真。回天を運んだトロッコとレールが良く解る。
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ただのコンクリートのトンネルでは無い。搭乗員には地獄の戦地へ続く、二度と帰る事の無いトンネルだったのだ。
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同じトンネルを今、死の心配も無く、気楽に通れる自分がどんなに幸せであるかを嚙みしめる・・・。
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海側に向かって分岐がある・・・防空指揮所跡らしい。
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海側に出てみる。防空指揮所跡らしき建物跡や痕跡は見当たらなかった。
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回天発射訓練基地が近い・・・。
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振り返って撮影。
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戻ろう。しかし70年以上経過しているにもかかわらず、非常に程度が良い。
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分岐後からは回天がすれ違える広いスペースとなっており、当時の写真がいく枚も展示されている。
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隊員のお顔を見ていると、胸が締め付けられる想いだ・・・。
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海側の出口に向かってまた細くなっていく。
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いよいよ海に抜ける。
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振り返って撮影。
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回天訓練基地から「回天」を海上に降ろす為にクレーンが東側に設置してあったという。
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ここからクレーンで海上に降ろされた回天は、回天を横に抱えるように運搬したことから「横抱艇」と呼ばれた船で訓練
がスタートする場所に置かれていた浮標まで運ばれ、横抱艇からの合図により訓練を開始していたという。
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▲同じ場所での当時の写真。「回天」試作基が海上に降ろされる。
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▼当時の訓練写真が残っている。回天と横抱艇。
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元来たトンネルを戻る。
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回天交差スペースの写真展示で再度足を止める・・・。
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▼米アヴェンジャー雷撃機に撃沈された伊号361潜水艦「轟隊」だ。(潜水艦乗員合計81名全員戦死)
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▼出撃桟橋まで続いた見送りを受けて出撃する「千早隊」隊員。硫黄島周辺水域に向かった隊だ。
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▼▲再び防空指揮所跡の入口をこえてトンネルを抜ける。
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次は回天記念館に向かう。
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▲▼案内板の順路標識に沿って回天記念館に向かう。この細い道は「回天坂」と呼ばれた。当時のままだそうだ。
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▼柵から下を見下ろすと、大津島幼稚園・小学校・中学校の運動場が見えた。
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▼終戦直後の同じ場所。現在の運動場が回天組み立て調整工場だった事が分かる。
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▼運動場を見下ろしていると、当時の遺構が確認出来た。
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回天記念館に行った後で確認する事とした。
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▼当時基地の隊員や兵士達が「地獄の石段」と呼んだ階段が今も残っている。
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港に運ばれてきた食料などを、現在の回天記念館辺りにあった兵舎に運ぶ際に駆け上らされていた階段で、訓練にも
使用されたという。体力づくりか罰ゲームか・・・。
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昔、中学時代のクラブで、こういう階段をウサギ飛びで登らされた経験を思い出していた。
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回天記念館はもうすぐ上だ。
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▼登り途中に休憩所の様な建物があったが、使用されている気配は無かった。
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入口が見えた。
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この奥が回天記念館だが、重たい雰囲気を感じる。
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通路脇両側には「回天特攻作戦」で亡くなった若者の名が刻まれた石碑がある。
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記念館正面。そっけない雰囲気が逆に胸にグッとくる・・・。
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▼記念館右側には実物大の回天模型が見えた。後で見学する事として記念館に入った。
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見学料を支払い中へはいる。職員の方にお聞きすると、遺影以外は撮影OKとの事だった。
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▲入口には大きな出撃時の写真が・・・硫黄島周辺海域に向かって出撃した「千早隊」伊370潜だ・・・。
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▲次は大きな地図だ・・・回天が出撃した海域は多くが太平洋だが、終戦間際にウラジオストクに向かった部隊もある。
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▲回天記念館の入口早々に中国の地図があるとは意外だった・・・。
「大連」「安東」「奉天」「新京」「ハルビン」は、当ブログでも紹介させて頂いる旧満州国の主要都市だ。
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学徒出陣か・・・。優秀な大学生の多くが航空特攻や回天で出撃していった。馬鹿では難しい操縦が出来ないからだ。
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▼回天を考案した黒木博司海軍中尉と仁科関夫海軍少尉だ・・・彼等も国を守る為に必死だったのだろう・・・。
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▼当時の大津島の模型
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▼▲「知覧」「万世」の様に特攻の母と呼ばれた方が「回天隊」にもおられたんだ・・・知らなかった・・・。
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優秀で礼儀正しい真面目な若者ばかりが特攻へ・・・全ての特攻隊員がそうだとは言わないが、胸がつまる・・・。
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「知覧」「万世」「鹿屋」でも思ったが、当時の隊員の達筆さには感心するばかりだ・・・。
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▲▼屋外展示の回天実物大模型
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日本国内にある本物の回天は米国から貸与中の遊就館に展示されている「回天一型改一」1基のみ。
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愛媛県の宿毛湾には終戦後、麦ヶ浦基地配備の8基の回天が、米軍の命令で投棄され、今も海中に沈んでいる。
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何とか引き揚げて、此処に本物を展示出来ないものだろうか・・・と考えながら眺めていた。
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こちらは本物の様だが屋外展示でボロボロ・・・。
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▲慰霊碑の前で一礼して記念館を後にした。
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400m先に「魚雷見張所跡」が残っている様なので、登ってみる事にした。
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しかし、登り道は辛い階段続きだ・・・。
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途中には看板が・・・。山口弁か?広島弁か?安芸方言の優しい方言で励ましてくれる。
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やっと「魚雷見張所跡」の看板が見えた。
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▲展望広場には最初から行く予定は無かったが、体力的にも「魚雷見張所跡」までが丁度いい。
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当時のままの姿の様だがかなり朽ち果てている・・・。
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コンクリートの中の赤煉瓦が見えている。
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中は何も無い・・・。
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見張所からの眺め。
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▲当時回天組み立て調整工場などの施設が建ち並んでいた大津島幼稚園・小学校・中学校。
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▲運動場の敷地内には当時の遺構が残っている。
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▲▼まずは変電所跡。
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▼次は危険物貯蔵庫。火薬などの爆発物を保管していたのだろう。
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今は学校で使用する物置きになっていた。
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島の学校の物置としては、場所を持て余す程の大きさだ・・・しかも頑丈。
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▼次は魚雷点火試験場跡。
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▼入口から見ると普通の家に見えるが、裏手から見ると当時の建物の雰囲気が良く解る。
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中はご多分に漏れず物置き状態・・・。
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グランドの突き当りは先程上から見学した「地獄の石段」。
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▼さぁ徳山港に戻る時間だ。
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▼大津島を離れる。
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▼あっという間に本土が見える。
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▼出航した船乗り場とは真反対側で下船した。
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▼JR徳山駅の中を通って反対側に抜けると徳山の繁華街だ。食事と土産物を買って山口県を後にした。
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 2017_08_06

周防大島

Category: 周防大島   Tags: 周防大島  陸奥  

山口県の離島、周防大島へ行ってきた。瀬戸内の綺麗な海と景色で「日本のハワイ」と、言われていると聞いて、
かなり前から行ってみたかった。そして「陸奥記念館」にも行ってみたかったのだ。
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▲本州と周防大島を繋ぐ「大島大橋」を渡って周防大島へはいる。
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▲▼南国の離島を思わせる様な、綺麗な海水と景色が出迎えてくれる。
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ひとまず「道の駅」サザンセトとうわに向かう。
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▲「道の駅」サザンセトとうわ
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「道の駅」サザンセトとうわで、観光案内地図を確認。
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「真宮島」?なんだそれ。早速行ってみる。
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▼▲防波堤防沿いを歩くと見えた。「真宮島」
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海の色が綺麗!
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午前中だったので歩いて上陸する事が出来た。潮が満ちてくると歩いて渡れない。
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▼潮が満ちるとこの通り浮島だ。
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▼振り返って撮影。赤矢印の辺りが「道の駅」サザンセトとうわだ。
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▼▲「真宮島」からの眺め。
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「道の駅」サザンセトとうわを後にして車で15分程で「陸奥記念館」に到着。此処に来たかった。
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辺りはキャンプ場になっていて、多くの人がテントを張っていた。
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陸奥野営場の中には何と現役を退いた自衛隊機が展示されていた・・・!
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辺りがキャンプを張っていたり木々が多いので写真は撮りにくい・・・。
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陸奥記念館」の前には昭和18年6月8日柱島泊地で停泊中、謎の大爆発で沈没した戦艦陸奥の猫鎖があった。
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早速「陸奥記念館」を見学する。
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館内は思ったより小じんまりした感じ・・・。
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▼資料館の外には引き揚げられた「陸奥」の残骸が展示されている。
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この綺麗な海に今も「戦艦陸奥」は乗組員と共に沈んでいる。合掌
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「陸奥記念館」を後にして島を巡る。
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しかし、日本とは思えない綺麗な風景と海の色だ。
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▼片添ヶ浜海浜公園に立ち寄る。
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南方のグアムやパラオに来たかの様な綺麗な海とビーチに感動する。
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今回は時間が無くて泳がなかったが、次回は是非泳ぎに来たいと思う。
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周防大島本島から橋で繋がっている沖家室島。
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沖家室島にも日の丸が風になびいていい感じ。やっぱり日の丸は落ち着きますね~。
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しばらくベンチに腰掛けて海を眺めていた。
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▼沖家室島を後にして周防大島本島巡りに戻る。
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▲「四石合わせ奇岩」でとりあえず旅の安全を祈願する。
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▼次は白木山山頂に上る。道は少々狭いが車で登る事が出来る。
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ここは戦時中の昭和16年頃、白木山防空高角砲台が設置され、海軍の聴音照射所なども設置されていた。
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▼画像は1939年代のドイツ軍の聴音機。この様な物が設置されていたという。
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戦後、進駐軍によって破壊された高射砲のコンクリートの台座が僅かに残っていた(写真撮り忘れ)
           Chuuk Islands
▲画像はトラック諸島に現存する日本海軍の高角砲。
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眺めは最高だ。
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次は「夕日の丘展望台」に向かった
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▲画像の「立島」にも戦時中は砲台や兵舎が建設され、まだ遺構が残っていると地元の方から聞いた。
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日が落ちてくるとまた違った綺麗な眺めに変わった。
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▼次は周防大島の富士とも呼ばれている嵩山の山頂展望台に行ってみた。
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ハングライダー・パラグライダーのランチャー台が設置されていた。
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山頂からは大島東部の殆どが見渡せる絶景ポイントだ。
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▼旅客機が飛んでいるのが見えた。何処の空港から離陸した飛行機だろう・・・山口宇部空港か?
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▼今回宿泊でお世話になったのは農家民宿「ログよねこ」
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智恵子さん・タエ子さん姉妹が切り盛りするアットホームな民宿で、ログハウスでいただく姉妹の手作り料理は最高だ。
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▲次の日、「ログよねこ」さんのはからいで町指定文化財の「服部屋敷」の見学会にお邪魔させて頂いた。
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早速中に入らせて頂く。
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古い日本の屋敷の間取りは、ほとんどこの様な感じだと思う。
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ガイドの方が色々説明してくれた。
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▼屋根裏部屋へ続く階段。祖父の田舎の家もこんな感じだった事をよく覚えている。
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▼屋根裏部屋。
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▼五右衛門風呂だ。祖父の家で入った事がある、懐かしい・・・まだ製造している業者もあるらしい。
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▼別の屋根裏部屋へ続く収納スペース付きの階段。
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▼長州大工のシンボルマークか!?
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▼外へ出て、屋敷裏から見る。
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▼蔵
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▼屋敷の敷地外から蔵を撮影。
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一通り見学を終え、服部屋敷を後にした。素晴らしい日本建築の見学は無料だった。
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周防大島は小さい島だが、噂通り、見所が沢山詰まった日本のハワイだった。砲台跡などの戦跡は、恐らくほとんどの
日本人が知らないと思う。和歌山県『友ヶ島』の様に、島国日本の防衛を考えさせてくれる島になって欲しいと思った。



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 2017_07_11


哈爾浜から寝台特急列車で一晩走り、北朝鮮との国境の街、丹東を目指す。
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夜が明けた寝台特急の車窓からの景色。
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都会とは打って変わった田舎の農村地帯の景色が広がる。
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大都会や高層マンション群は見飽きていたので非常にのどかで良い風景だ。
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山が見え、日本でも赤煉瓦では無いが、地方へ行くと見られるのどかな風景と、どこか似ている。
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どこまでも続く大地とは少し違う大陸の風景。とにかく広い中国。色々な景色が堪能出来る。
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寝台特急とはいえ、ローカル線なので、丹東市に近くなると小さな駅にもほとんど止まる。
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駅の低さがお解り頂けるだろうか。昔は日本でもこの様な落差のある駅があった様な気がする。
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ローカル列車なので当然聞いた事の無い駅名ばかり・・・。
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朝の通勤渋滞かな~踏切待ちで混んでいた。
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何という駅だろう・・・全く読めない・・・
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▼一晩かけてやっと丹東に到着。ここから先(南)は北朝鮮だが、日本統治時代の線路は丹東(満州国)と新義州(朝鮮)へ
と、途切れる事無く続いていたはずだ。現在は『鴨緑江大橋』に線路と車道があり、北朝鮮へ鉄道で行けるようだ。
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中国の高速鉄道は2010年に初めて見て以来、変わっていないと思う(哈爾浜→丹東は高速鉄道には乗っていない)
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丹東駅、また大きな駅舎だ。
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▼駅舎内の待合所には、安東時代の駅舎などの写真が飾られている。
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▲昭和3年(1928年)の安東駅
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▲昭和16年(1941年)の安東駅
駅舎から出ると、此処はタクシーの呼び込み営業が凄い。外国人目がけてしつこいくらいに付きまとってくる・・・。
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▼中華人民共和国初代国家主席の毛沢東が居た・・・。
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▼丹東駅からほぼ真っ直ぐ南へ行くと、鴨緑江(おうりょくこう)に突き当たる。
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鴨緑江の反対側は北朝鮮・新義州(シニジュ)市だ・・・。
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▲対岸の北朝鮮に数本の煙突が見える。日本統治時代の王子製紙朝鮮工場だ・・・。
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▲大正8年(1919年)操業開始の王子製紙朝鮮工場。今は北朝鮮が利用しているそうだが、煙が出ていなかった。
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中国と北朝鮮を結ぶ『鴨緑江大橋』(全長946.2m)が見えた。
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中国側を鴨緑江に沿って歩いて行く。
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この辺りは観光地なので、桜があったり公園があったり、大勢の観光客で賑わっていた。
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▼中国人ご夫婦が記念写真を撮っていた。
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『鴨緑江大橋』に近づいてきた。この橋は日本統治時代に建設されたと聞いたが、当時のままかどうかは解らない。
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▼また記念撮影している。朝鮮の民族衣装か?丹東市の人口は約220万人で内、朝鮮族の割合は20万人以上とされる。
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▼手漕ぎボート競走もやっているのかな?
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だんだん人が多くなってきた。
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中朝貿易最大の物流拠点『鴨緑江大橋』は、なかなか立派な橋だ。
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▼北朝鮮側から中国に入国するトラックの列が出来ている。ここから先は撮影禁止だ。
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▼丹東市の観光案内版
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北朝鮮との国境、鴨緑江大橋の他、今回は行けなかったが万里の長城の最東端『虎山長城』がある。
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▲中国語と英語と朝鮮語。当然だよね・・・ミサイル発射連発のこんな時期に観光に来る日本人は変わり者だね(笑)
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丁度、北朝鮮がミサイル発射連発で大きなニュースになっていた時だったが、中国ではそんな事は何処吹く風。
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撮影スポットである『鴨緑江断橋』。朝鮮戦争時に国連軍の爆撃で破壊され、真ん中で途切れたままの橋。
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▼日本統治時代の鴨緑江断橋。当然この頃は破壊されていない。
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▼日本統治時代は鴨緑江を通る船の為に橋の一部が回転する様に工夫されていた。
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▼遊覧船に乗って北朝鮮側と『鴨緑江断橋』・『鴨緑江大橋』を近づいて見学出来る。
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▼早速乗ってみる。
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▼出発
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▼『鴨緑江断橋』に向かう。重なって分かりにくいが橋が途中で終わっているのがお解りだろうか。右側が北朝鮮。
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▼『鴨緑江断橋』と『鴨緑江大橋』の下をくぐる。そしてしばらく行ってからUターンする。
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▼先程地上で見た中国へ入国を待つ北朝鮮側から来たトラックの列。
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▼北朝鮮側を見るとどこか寂しい感じだ。
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この地はかつて日本が統治していたんだな・・・日本統治時代のまま手つかずの建物も多く残っているかもしれない。
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▼このレトロチックな観覧車は稼働している所を見た事が無いというが、経済制裁の中、高層マンションもチラホラ。
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▼漁師?が川魚を獲っている様だった・・・しかし、北朝鮮にも富裕層は存在する。
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▼反対側の対岸は近代化された中国。川を挟み、左右で全く違う景色が広がる。
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▼またしばらくしてUターン。画像の左側が中国、右側が北朝鮮。格差を露骨に見る事が出来た・・・。
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遊覧船乗り場を後にして街をブラブラする。
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▼何だこれは?
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▼「英雄空軍」と書いてある。1951年(昭和26年)だから朝鮮戦争の最中で、「美国」とはアメリカの事だ・・・。
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お店が並んでいる・・・北朝鮮国旗も多く掲げられている。
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▼ハイエース?キャラバン?と思ったが、どちらでも無い様だ(笑)
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海鮮物が多い様だが、とてもこんな所で食事する気にはなれない。
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▼▲「北海道」?日本語でも「ほっかいどう」と書いてある。本当かいな??多分嘘だろうけど・・・。
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当然この店にも行かなかったが、北朝鮮人が経営する飲食店は多く見られた。
あまり気の進まない丹東市観光だったが、丁度この日、北朝鮮が日本海に向けてミサイルを発射し、失敗したとの情報
をTVで見た。日本では東日本で電車が一時止まったりしたと聞いた。あの鴨緑江の向こう側から撃っているのである。
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ここまで大国になった中国が養護している北朝鮮・・・朝鮮戦争の歴史を踏まえると、韓国と中国との間にこの様な田
舎国家があった方が中国にとっては都合が良いのは当然だとも思った・・・。


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 2017_07_01




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WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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