航空自衛隊美保基地HPに掲載されていた「抽選でC-1輸送機に体験搭乗が出来る」との記事を見た。
7月ぐらいだったかハガキを送って申し込んでみた。すると8月初旬に当選の封筒が送られて来た。
嬉しかった、軍用機に乗せてもらうのは初めての事だ。ワクワクして鳥取県境港市にある美保基地に行ってきた。
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▼予め郵送されてきた駐車券をダッシュボードに置いて、基地内に入り持ち物チェックをして所定の位置に駐車する。
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▼まず目にしたのは陸上自衛隊の軽装甲機動車。良い感じの色褪感だが迷彩塗装では無い。
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▼基地内を歩いて滑走路付近に向かう(真新しい格納庫や基地施設が建設最終段階の様に見えた)
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▼格納庫付近で受付を済ませて搭乗の順番を待つ。
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▼目の前の駐機場には搭乗体験の為にスタンバイされたC-1輸送機が!
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先の順番の方達が既に搭乗を開始している。大きい・・・!
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▼1組30名ぐらいだろうか、搭乗が済んで全てのハッチが閉じられた。
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▼そして滑走路へと向かう・・・。早く乗りたい!
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ここは太平洋戦争当時、海軍美保基地として機能していた。
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昭和20年5月10日神風特別攻撃隊「第9銀河隊」が沖縄へ特攻出撃の為にここから宮崎基地に移動している。
昭和20年に入っても空襲のなかった美保基地では4/27に移動してきた攻撃406飛行隊が『銀河』で急降下爆撃の訓練
を行っていた。飛行隊長壱岐少佐の「次に示すペアは『銀河』を夕方までに宮崎基地まで空輸せよ」との命令を、隊員
の中にはこれが沖縄特攻作戦の前進の為の宮崎基地への移動とは夢にも思っていなかった者も居た様だ。
昭和20年5月11日04:00宮崎基地より出撃した8機の『銀河』は6機が米「タスクフォース58機動艦隊」に突入した。
[操縦]深井 良中尉(神奈川県出身)/[偵察]俵  一上飛曹(東京都出身)/[電信]北山 博上飛曹(大分県出身)
[操縦]鈴木圓一郎中尉(静岡県出身)/[偵察]三宅文夫上飛曹(徳島県出身)/[電信]田中榮一上飛曹(埼玉県出身)
[操縦]小島弘上飛曹(兵庫県出身)/[偵察]村上 守中尉(大分県出身)/[電信]佐藤 昇1飛曹(新潟県出身)
[操縦]谷岡力上飛曹(福井県出身)/[偵察]山川芳男少尉(東京都出身)/[電信]杉野三次1飛曹(三重県出身)
[操縦]松木 学1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]山根三男1飛曹(広島県出身)/[電信]伊藤 勲1飛曹(大分県出身)
[操縦]長谷部六雄飛長(新潟県出身)/[偵察]吉田 雄1飛曹(和歌山県出身)/[電信]信本廣夫2飛曹(広島県出身)
永野金一1飛曹/ 飯島 守中尉/本田 勝1飛曹( 機体不調の為引き返しをはかるも、基地に戻らず「不時着戦死」)
古小路 裕1飛曹/ 藤田峰夫上飛曹/真鍋真之介1飛曹(機体不調の為、出撃取りやめとなる)
神津和男1飛曹/ 豊岡清澄上飛曹/ 穴口 尚上飛曹(出撃後、機体不調で引き返す)
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▲海軍双発爆撃機「銀河」
昭和20年5月25日神風特別攻撃隊「第10銀河隊」 宮崎基地より「銀河」12機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]越野時貞1飛曹(愛知県出身)/[偵察]鈴木喜久男1飛曹(福島県出身)/[電信]藤澤彌須雄1飛曹(滋賀県出身)
[操縦]岩品福三郎1飛曹(静岡県出身)/[偵察]小口博造中尉(長野県出身)/[電信]平野 勇上飛曹(岩手県出身)
段ボール製造で有名な製紙メーカーのレンゴー株式会社東京工場に「気力、術力、精神力」という標語が大きく書いて
ある。海軍の標語らしい。5/25「銀河」で出撃、戦艦ウェストバージニアに突入前に撃墜されるも駆逐艦キャラハンに
救助されて生還した長谷川薫中尉が社長を勤めた会社だ。
長谷川中尉は海中に突入して海を漂っているところを駆逐艦キャラハンに救助された。
この時同乗していた吉田湊飛曹長も救助されたが、直後に出血多量で死亡した。
駆逐艦キャラハンのバーソルフ艦長は特攻攻撃の続く中、危険を冒して艦を停止させ、長谷川中尉と吉田飛曹長を救助
した。吉田湊飛曹長の遺体は丁重に水葬されたと言う。
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▲当時もこの様に死地に赴く為に飛んで行ったんだろうな・・・と、離陸していくC-1輸送機を眺めながら思った。
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▲戦時中の営門
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▲美保基地で撮影された予科練14期生の写真。ここにもダミー戦闘機があったんだ・・・沖縄戦だけだと思っていた。
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▲いよいよ順番が回ってきた!隊員の指示に従って並ぶ。
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▲駐機場を歩いて搭乗機に向かう。横には格納庫がある、中は戦時中当時のままかも?
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沖縄付近に台風が近づいていた時だったが少し晴れ間も見えてきた!
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▼搭乗機は既にハッチが開いている。024号機に乗る!ワクワクする!
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機体の大きさの割には「日の丸」が小さい様に感じた。
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乗り込む!
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シートベルトを締めて離陸準備!
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ハッチが閉じられる。
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隊員から飛行コースや注意事項等色々説明を受ける。
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駐機場から滑走路へ動き出した
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離陸してから高度が落ち着くと、シートベルトを外して自由に中を見学出来る。小さい窓から外を見る
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隊員は女性ファンが多い。コクピットも見学出来るが私の前の人で時間切れ!で、見学出来ず・・・次回リベンジ!
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着陸態勢になるので席に戻ってベルトを締める様指示が出されたので席に戻る。
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離陸・着陸含めて約25分ぐらいのフライトだったがC-1輸送機の離陸時の加速も体験出来て素晴らしい経験だった。
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これから主力輸送機がC-2へ移行していくと思うが、今回の様なC-1輸送機の搭乗体験は継続して欲しいと思う。
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▼管制塔に上って撮影
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▼奥の美保飛行場(米子鬼太郎空港)には駐機しているANAの旅客機が見える。滑走路は軍民共用だ。
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▼C-2輸送機の為の新設格納庫であろう、真新しい格納庫が見える。
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航空自衛隊基地は広いな~。
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▼管制塔を後にする。
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▼冬の美保基地は寒いんだろうな・・・隊員の皆様ご苦労様です。
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▼基地内には退役した航空機が展示してあった。
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▼▲一式陸上攻撃機の後継型の様にも見えるがなんという形式だろう・・・輸送機と思うが。
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続く
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 2016_09_17


「沖縄戦」で紹介した「陸軍北飛行場」と「陸軍中飛行場」
昭和20年4月1日の米軍上陸後に真っ先に占領された陸軍の飛行場だ。
中飛行場は現在も米軍が拡張・整備した「嘉手納飛行場」として使用している。
北飛行場は米軍接収後、読谷補助飛行場としてパラシュート降下訓練などに使われ、現在は日本に返還され、読谷村が
今後の活用方法を議論している。
陸軍北飛行場/中飛行場は紹介しているブログ等も少ない為、[沖縄戦]で紹介しきれなかった米軍上陸直後と、その後の
両飛行場の様子を米軍が撮影した写真でご紹介する。

※ここで紹介する写真は全て米軍が昭和20年4月1日以降に撮影したものである。
陸軍北(読谷)飛行場
▼上空から
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▼低空で撮影された北飛行場滑走路。飛行場周辺に亀甲墓が沢山ある事が解る。日本軍機も見える。
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▼北飛行場の端に設置されていた飛行場本部
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▼空爆で破壊されたレーダー施設
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▼飛行場内の半地下防空壕
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▼放棄された陸軍98式直協偵察機
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▼掩体壕の中に残された日本陸軍機の残骸
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▼4/1北飛行場の地下ガスタンクが炎上する中、第3上陸作戦部隊の兵士が水陸両用装甲戦車の後方を進む。
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▼飛行場放棄にあたり、日本軍は自ら残存機を爆破処分して山中に逃げて行った
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▼残骸をよく見ると、日の丸の後ろに白帯の入った隊長機が多い事が解る。
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▼海軍機の様にも見える。ラバウルでも陸海軍共用していた様に、北飛行場でもそうだったのかもしれない
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▼白帯付きの隊長機ばかりが残さたと言う事か・・・?沖縄に配属されていた陸軍飛行戦隊はどの部隊だろううか?
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飛べる状態の航空戦力がどの位あったか解らないが、かなりの数の航空機が残っていた事が解る
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▼上空から撮影されたダミー戦闘機(直ぐに見破られていた)
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▼北飛行場に置かれていたダミー戦闘機の数々
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▼ダミー戦闘機に横に置かれている自転車も日本軍が使用していた物である
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▼▲北飛行場を望む502高地で発見されたダミー対空砲
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▼占領され、米軍の使用が始まった
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▼米軍のブルドーザーで撤去される陸軍三式戦闘機「飛燕」
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▼ブルドーザーで牽引されていく「飛燕」。滑走路付近に捕虜となった住民達が移動している
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▼上陸後初めての水浴びを楽しむ米兵。ここは北飛行場近くの日本軍施設で井戸が設置され湧き水が出ている
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▼陸軍三式戦闘機「飛燕」
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知覧特攻基地から99式高等練習機や97式戦闘機、二式高等練習機で特攻出撃していった特攻隊員も多く居たという
のに、これだけの飛燕を放棄するとは第六航空軍司令官[ 菅原道大中将 ]は一体何をしていたのか・・・。
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「決しておまえたちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はお前達の後を追う」と特攻隊員に語りながら、自決せず
のうのうと戦後38年間を生き、多くを語らぬまま95歳まで生きた菅原道大中将。上層部の無能でどれだけ無駄な死と、
無駄な兵器を使った挙句敗戦したのか・・・。その総括は未だきちんと検証されないまま自衛隊に引き継がれている。
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▼北飛行場で米軍に初めて鹵獲された海軍特攻兵器「桜花」
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北飛行場では4機の「桜花」が鹵獲されたが、中には日本本土の工場から出荷された箱に入ったままの状態で発見され
た機もあり、技術者による解析の為に急いで米国へ送られた(昭和20年4月13日撮影)
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▼「桜花」のコクピット
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▼「桜花」の計器類
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▼梱包されていた木箱が写っている
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▼陸軍99式双発軽爆撃機の残骸。
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▼▲現在の北(読谷)飛行場跡。通リ抜けの道として車が行きかう生活道路替わりになっている
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▼当時の掩体壕がひっそりと残り、脇に「義烈空挺隊」慰霊碑が立っている(玉砕地のサトウキビ畑から移設された)
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▼4/1米軍が占領した直後に撮影した北飛行場の忠魂碑、奥に同じ物と思われる掩体豪が写っている
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▼掩体壕を倉庫代わりに使用する米軍
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▼北飛行場高射砲陣地
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▼高射砲陣地防空壕入口
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▼北飛行場防空施設?海軍の施設と比べると陸軍施設はお粗末だ・・・。
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▼飛行場東側に位置する読谷村にかかる橋。
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▼米軍整備班によって修理され、飛行可能な状態に復活した「飛燕」、別の飛行場に飛行して移動させる。
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▲▼米軍にとって不要な残骸はこの様にブルドーザーでかたずけられた。
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▼海兵隊員がシャワーとして使っている日本軍の放棄していった荷車は、日本軍の火消し車だった・・・。
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▼北飛行場のぬかるんだ地面にキャンプをはる第2海兵航空団。後方はコルセア戦闘機
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▼北飛行場に駐機中の海兵隊第2航空師団のコルセア戦闘機。
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▼北飛行場に放棄された日本軍の小型スチームローラーを使って作業する米兵。
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▼放棄された日本軍の機関車。飛行場に路線が入っていたという事か・・・米軍は何処でも汽車は再利用しないようだ
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陸軍中(嘉手納)飛行場
▼上空から。米軍の爆撃によって出来た滑走路の穴が、空爆と艦砲射撃の激しさを物語っている。
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▼中飛行場で撮影された日本陸軍機の残骸。この戦闘機は何だろう・・・。
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▲▼中飛行場で撮影されたダミー戦闘機
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▼陸軍四式重爆撃機「飛龍」か?
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▼陸軍四式戦闘機「疾風」か?
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▲▼陸軍単座戦闘機「隼」
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▲▼日本軍自ら爆破処分したのか空爆で破壊されたのか・・・中飛行場の情報は少ない。
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続く
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 2016_09_15

沖縄戦

Category: 沖縄  

昭和20年8月15日が終戦(敗戦)日だが、沖縄戦が公式に終結したのは昭和20年9月7日(沖縄戦降伏調印日)である。
今日でも沖縄の人々は8月15日を終戦と考えておらず、9月7日を終戦と考え、沖縄守備軍だった第32軍司令官牛島
満中将が摩文仁司令部豪で自決し、日本軍の組織的な戦闘が終わった6月23日を県民の休日と定めているとの事。
 確かに8月15日に戦争は終わっていない。沖縄県だけでなく、満州国や北海道の千島列島・南樺太では戦闘が続い
ていた事実がある以上、「8月15日を終戦と考えない」という意見に違和感は無い。しかし、6月23日を県民の休日
と定めている事に関しては特別だな、と感じた。「慰霊の日」という事で、糸満市摩文仁の平和祈念公園で、沖縄全
戦没者追悼式が行なわれる為である。6月23日正午には黙祷が捧げられ、この日は沖縄県平和祈念資料館やひめゆり
平和祈念資料館が入場無料となるとの事。
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▲平和祈念公園から太平洋を望む。
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▼平和の礎
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▼平和の礎から沖縄県平和祈念資料館を望む。
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沖縄戦開始の昭和20年4月1日から昭和47年5月15日までの27年間、アメリカの施政権下だった沖縄県。
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▲昭和30年頃の国際通り
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▲昭和47年3月に撮影された国際通り
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▲昭和35年代の那覇市街地
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本土復帰からまだ44年程しか経っていない。単純に右側通行から左側通行へ、など普通の暮らしが変わった(戻った?)
沖縄県民は大変だったであろう・・・。敗戦当時は車などほとんど走っていなかっただろうから、アメリカ統治時代に
道路などが近代化された沖縄県で普通の暮らしをしてきた人はとまどったであろう。
実際に左側通行になったのは昭和53年7月30日からだそうで、標識や信号機などの付け替えの下準備は事前から行って
おき、左側通行への移行作業は7月29日の夜から緊急車両以外の全ての車両の通行を禁止し、一晩で行われたそうだ。
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▲アメリカ統治時代後半の沖縄県(昭和40年代後半と思われる)まだ車は右側通行だ。(胡屋十字路付近とある)
「沖縄」は日本だが、本当の日本になるまでの道のりは暗く長いものだったに違いない。今回少しでも「沖縄」を勉強
する為に沖縄戦を知る戦跡ツアーに参加した。沖縄県は25年前に一度訪れた事があるはずだが全く記憶に無い。
ビーチで泳いだ程度の完全観光旅行だったのでさほど印象に残っていないのかもしれない。
戦史に興味を持ってから、いつか沖縄戦をちゃんと知ろうと思っていた。「日本は水に流す文化」とはいえ、琉球時代
の歴史、第2国民時代の差別問題、沖縄戦、アメリカ統治から本土復帰、教科書問題、基地問題などで沖縄県が話題に
ならない日は無い。TVでは見るけど「何で?」と沖縄県の怒りが理解不能な日本人も多いと思う。
私もその一人だった。だからこそちゃんと学ぶ必要がある。偏った見方では無く、事実として。
そんな思いで今回は、みっちり丸2日間、ガイド付で沖縄戦跡を見学した。

▼現在はウミカジテラスで有名な瀬長島を見ながら那覇国際空港に着陸する。
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▼那覇国際空港は旧日本海軍小禄(おろく)飛行場だった、米軍の沖縄本島上陸が差し迫った昭和20年3月24日、25日
神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」が小祿基地から艦上爆撃機「彗星」で出撃している。(沖縄周辺米機動部隊に特攻攻撃)
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▼昭和20年6月4日沖縄戦で米軍に占領された日本海軍小禄(おろく)飛行場。
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▼占領後に米軍が撮影した日本海軍小禄飛行場の格納庫
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▼破壊された小禄飛行場格納庫内の海軍機の尾翼に「オキ」が見える。
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▼格納庫の中より滑走路を見た写真。ドラム缶で主翼を支えている所を見ると、度重なる空襲で既に米軍が上陸する前
 に破壊されていたのであろう・・・昭和20年3月25日神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」出撃後の記録は無い。
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▼小禄飛行場で撮影された掩体壕。爆撃を受けたのか前半分が崩れ落ちている。
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▼小禄飛行場の海軍機の残骸。
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▼この海軍機はなんだろう・・・爆撃機か?
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▼現在は平和な那覇国際空港、滑走路は航空自衛隊と共用だ。ここが日本海軍小禄基地だった事をどの位の人が知って
 いるだろう。そしてここから神風特別攻撃隊「小禄彗星隊」が出撃したのを知っている人はどの位いるだろう・・・
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▼小禄飛行場(那覇国際空港ターミナル)から1㌔(徒歩約10分)の崎原(サチバル)の突端岩礁には先原崎灯台があった。
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▼この灯台施設の地下にも豪が掘られていた、上陸後に米軍が調査した時の写真が残っている。
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▲▼ご飯などを炊くかまどと、下の画像は食堂。
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▼豪の中に設置されたサーチライト。陸軍では「照空灯」海軍では「探照灯」と称していた。当時の先原崎灯台施設の
 管理が陸軍・海軍のどちらか解らない。先原崎灯台は明治時29年に建てられた物だが海軍の可能性が高い。
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▼執務室
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先原崎(さちばるざち)灯台は「国土交通省那覇空港交通管制部」の敷地内にある為、フェンス越しでの見学との事。
当時の先原崎灯台は沖縄戦で破壊され、瓦礫レンガが多少残るだけとの事で今回は見学コースには入れなかった。

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▲沖縄戦で米軍が撮影した機関車。当時沖縄には嘉手納−首里−那覇間の鉄道路線が引かれていた。

那覇国際空港からはゆいレールというモノレールが那覇市内を走っており、2019年春には首里まで繋がるとの事。
▼ゆいレール赤嶺駅
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赤嶺駅から徒歩5分、航空自衛隊那覇基地がある。一帯は小禄海軍基地だったとの事。戦後米軍基地が拡張整備され、
返還後は航空自衛隊がそのまま使用している。
▼航空自衛隊那覇基地
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▼ゆいレール車窓から航空自衛隊那覇基地を見下ろす事が出来る。
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▼航空自衛隊那覇基地内に旧日本海軍の砲台が1基現存している(沖縄戦では米巡洋艦を1隻撃破したと言う)
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沖縄戦当時、大田実中将率いる小禄地区旧海軍部隊は、昭和20年5月中旬「勝田大隊」「丸山大隊」「山口大隊」迫撃
砲隊などが陸軍部隊指揮下に入り、総計2500名、軽兵器の約3分の1、迫撃砲の大部分が海軍小禄地区から抽出され、
兵員は約8300名となっていた。小禄海軍部隊は米軍上陸時に小禄半島で奮戦する。

米軍沖縄侵攻が迫ってくる中で、大田実中将が沖縄への突然の海軍部隊司令官任命には訳があった。
前任の司令官は航海出身で陸上の事がさっぱり分からず、状況が段々切迫して来る中で戦備が進まない。そこで白羽
の矢が立ったのが、海軍で陸戦の第一人者と言われた大田中将だった。
大田中将は上海事変の際、陸戦隊長として勇戦し、全滅の危機に瀕していた在留邦人を救出した勇将として知られて
いた。昭和20年1月20日大田中将は水上機で司令部に着任。3月末の米軍侵攻開始の約2ヶ月前の着任だった。
着任草々大田中将は島内各地の陣地を車で視察して回った。視察で車の運転を務めた堀川徳栄1等機関兵曹(沖縄県出
身で、後に沖縄トヨペット社長)は、大田中将が車中で参謀方と作戦会議をしていたと語っている。

陸軍第32軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日頃に初めて知ら
されたとされる。沖縄戦の時期になっても日本陸軍と日本海軍の歯車はかみ合わないままだった・・・。
いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」
との命令を勘違いしたことが解り、5月28日には再び小禄海軍司令部壕へ引き返した。
6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田実中将は従わなかった。
大田実中将以下海軍将兵は小禄飛行場を南東から見下ろす小禄司令部壕付近に孤立する状況となった。
6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。
大田司令官は6日夕刻「辞世の句」と共に訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電
報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中、司令部壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵に
よる突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
11日午前7時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として、海軍根拠地隊が玉砕
したとの電報が発せられている。
昭和20年6月13日午前1時、大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。
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▲▼小禄地区に設置されていた砲座やトーチカ。
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また、現在は近くに古宇利大橋で有名な国頭郡今帰仁村の運天港には、海軍第27魚雷艇隊、特攻ボート震洋隊、
と、第2蛟龍隊(小型特攻潜水艇)が配備されていた。
▼古宇利大橋。橋の先に見えるのは今帰仁村 古宇利島。人口330人程度の小さな島で車で1周したが15分程度だった。
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▼慶良間諸島で米軍に捕獲された海軍特攻ボート「震洋」。
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昭和20年3月25日小禄の大田実中将は慶良間列島に集結した敵艦船を攻撃する為、白石海軍大尉指揮する運天港の
魚雷艇隊・第2蛟龍隊に出撃を命じる。
甲標的6隻、第1小隊蛟龍2隻は25日深夜に出撃。第1小隊は1時間間隔で古宇利水道を出撃、基地に戻る事は無かった。
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▼▲沖縄本島で米軍に引き揚げられる日本海軍特殊潜航艇「蛟龍」(蛟龍は5人乗、[甲標的]の後継モデルだ)
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▼沖縄戦で初めて実戦投入された「蛟龍」、引き揚げられた「蛟龍」からは魚雷が2本共発射されていた。
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甲標的丙型1隻は、慶伊瀬島北方で駆逐艦ハリガンを撃沈、26日夕刻に無事帰投した。
昭和20年3月26日出撃準備中の蛟龍1隻が、空襲により沈没。夕刻、第2小隊は甲標的2隻での出撃となった。
米艦船は嘉手納沖合いに居た。明けた27日甲標的2隻は残波岬西方で米艦船を発見。襲撃は成功するも、執拗な反撃に
被弾、翌28日、両艇は辛くも帰投した。
昭和20年3月27日第27魚雷艇隊の10隻が22:30出撃。敵艦船群に魚雷16本を発射。米巡洋艦2隻撃沈、駆逐艦1隻撃
破の戦果を上げ全艇無事帰投。大田中将は功績を讃える電報を打った。
昭和20年3月29日同じく2個艇隊が出撃、本部半島西方の敵を襲撃する。
一方、42震洋隊は2度、出撃するも敵とは出会えず隊長の豊広中尉はジリジリしていた所、敵艦発見の報を受け、29日
夜、独断で第3艇隊12隻を出撃させたが、またしても敵に出会えず、朝の帰投が遅れ格納壕に震洋艇を収容する時間が
無かった為、海岸線の木陰に擬装しておいた所、3/30米軍機の空襲に遭い、爆雷が爆発。12隻全てを失ってしまう。
▼ベニヤ板で製作された日本海軍特攻ボート「震洋」
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豊広中尉は自分の失策を大田司令官に電文で報告した。
大田司令官は以下の返電を打っている。
「死を急ぐのみが特攻隊の道に非(あら)ず。万事、慎重に事を決すべし」と。
昭和20年3月30日約200機以上の大空襲を受け、第27魚雷艇隊は全滅。海軍運天港基地は、ほぼその機能を喪失した。
米軍の大空襲後、焦土と化した運天港海軍基地に残されたのは第2蛟龍隊「蛟龍」2隻のみであった。
4月6日第27魚雷艇隊司令官 白石信治大尉は、上級部隊に「当隊は今より陸上戦闘移行、国頭支隊長の指揮下に入る」
と打電して国頭半島中央部の八重岳に移動、支隊長宇土大佐の指揮下に入り、陸軍部隊と共に戦闘行動に従事した。
組織的戦闘の終了の後は本部の山中に籠もり、主として遊撃活動を実施していたが、やがて終戦を知る事となる。
しかし、白石大尉以下183名は終戦後も降伏を拒み続けたが、地元市長などの勧めに応じ、昭和20年9月3日投降した。
※運天港は天然の良港で、現在は伊平屋島や宇古利島へのフェリーターミナルとなっている場所に海軍施設があった。
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▲▼沖縄本島で米軍に発見された日本海軍特攻ボート「震洋」
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陸海軍の特攻ボートはフィリピンでの戦いから実戦投入されたと聞く。沖縄戦では活躍の場はほぼ無く、いたずらに発
見した米兵のおもちゃとなって楽しませるだけの存在にしかならなかったと言う。
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▼現在はリゾート地になりつつある瀬長島のウミカジテラス。ここは戦時中は砲台がいくつも設置され、一般人は立ち
 入る事は出来なかった島だ。沖縄戦で跡形も無く撃破され、現在は沖縄戦の遺構は全く無かった。
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▼激戦当時に米軍が撮影した瀬長島の写真。破壊されたトーチカ内の日本軍火砲を見ている。
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▼瀬長島高台にある琉球温泉瀬長島ホテルから那覇国際空港と航空自衛隊那覇基地を望む。
 那覇国際空港の滑走路は軍民共同使用されている様で、自衛隊機が何度も離陸、着陸していた。
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▼瀬長島からは那覇国際空港に着陸する飛行機がほぼ5分おきに間近に見る事が出来る。
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昭和19年3月沖縄に航空作戦遂行の拠点を確保する為、日本陸軍第32軍が新設された。
この頃は、要塞部隊や飛行場設営部隊などの工兵隊が主力だった様だ。

昭和19年7月サイパン島が陥落すると、長勇参謀長の要望により大本営は精鋭とされる第9師団(武部隊13800名)
を沖縄に派遣。第32軍戦闘序列に編入され、精鋭師団として防衛の中核を期待されていた。
第32軍は八原博通大佐(高級参謀)立案の元、第9師団を中心に沖縄防衛計画を固め、日本本土へ進軍する米軍を
水際で撃滅する「決戦軍」と位置付け米軍撃滅の自信を深めていた。

昭和19年7月19日サイパンの次は沖縄だ。と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供
・女性を島外へ疎開させる指示を出し、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令、学校単位で疎開事務を進める。

昭和19年8月19日609船団の「対馬丸」が第62師団本郷義夫中将以下2409名や馬匹40頭を搭載し、那覇港に到着。
同船団の陸軍輸送船和浦丸/暁空丸 なども8/19那覇港に到着、第62師団「石部隊」8315名他が直ちに中城湾(東)と
北谷海岸(西)を結ぶラインの南側の防衛線等の陣地構築を開始する。

昭和19年8月21日陸軍部隊と入れ替わりで「対馬丸」で疎開する子供達は「ヤマト(本土)へ行けば汽車にも乗れる、
雪も桜も見る事ができる」と修学旅行気分ではしゃいでいたと言う。
8/21夕方、「対馬丸」は疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じ様に疎開者を乗せ
た和浦丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指して出航した。
昭和19年8月22日22:12頃、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を
受け「対馬丸」は22:23沈没。犠牲者数1,476名を出した。「対馬丸記念館」沖縄県那覇市若狭1-25-37
※当時、日本政府が沖縄県民疎開の為に出した船はのべ187隻、約16万人の沖縄県民が県外に疎開している。
昭和19年2月の沖縄県人口は約49万人(沖縄出身軍人軍属含まず)、2012年(平成24年)の人口は約142万人!
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▲学童疎開船に使用された「対馬丸」(日本郵船株式会社)戦時中「対馬丸沈没事件」を語ることは許されなかった。
昭和19年10月10日那覇を中心に沖縄全土の主要施設を米軍機約1300機が空爆(十十空襲)那覇の街は壊滅。
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▲空襲を受け炎上する那覇市
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▼▲壊滅した那覇市街地
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▲壊滅した那覇市街地(画像上部が那覇港)
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▲焦土と化した那覇市街上空を飛行する米軍OY-1観測連絡機(昭和20年5月撮影)

昭和19年11月大本営は、連合国軍が沖縄では無く台湾へ上陸する可能性が高いと判断。
11月4日第32軍の一兵団をフィリピンへ転用の為、第10方面軍第32軍が台北で会議を開いたが、台北会議は要領の
得ないまま散会となった。しかし11月17日第9師団に台湾へ転出命令が下され、12月末に台湾に移動させてしまう。
連合国軍は台湾を通り越して直接沖縄本島に上陸した為、第9師団は戦うことなく台湾で終戦を迎えた。後に大本営
作戦課長であった服部卓四郎元大佐が第9師団抽出を「魔がさしたとしか思えない。一世一代の不覚であった。」と、
述懐している。この為第32軍の戦力は落ち、アメリカ軍と正面から戦う事を諦め、本土決戦までの時間稼ぎを前提と
した持久戦に徹する事になる。
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▲沖縄侵攻に向け出撃準備の整ったウルシー環礁の史上最大規模の米機動部隊。
 (泊地近くの海域にて昭和20年3月15日米軍撮影)
昭和20年3月23日沖縄本島は、延べ360機の米艦載機により繰り返し激しい空襲を受ける。本格的な米軍沖縄侵攻の
始まりである。24日米艦隊が沖縄本島南東部沖合に姿を現し、島尻南部に700発を超える艦砲射撃を加え、720機の
米軍機が空爆を開始した。日本軍守備隊は本島南の港川方面の上陸戦に備えた。
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▲砲撃を開始する米戦艦ノースカロライナ(昭和20年3月24日米軍撮影)
昭和20年3月24日神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」が06:00海軍小祿(おろく)基地より「彗星」で出撃。
[操縦]前橋典美2飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]米森義治上飛曹(鹿児島県出身) 
昭和20年3月25日神風特別攻撃隊「小祿彗星隊」が05:00海軍小祿(おろく)基地より「彗星」で出撃。
[操縦]石渕利也少尉(三重県出身)/[偵察]石川貫二中尉(長崎県出身)
昭和20年3月25日アメリカ軍が島尻南東部と慶良間諸島を砲撃。那覇~糸満の海域の制海権を奪取。
昭和20年3月26日アメリカ軍が慶良間諸島(座間味島、阿嘉島、慶留間島)に上陸を開始。
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昭和19年9月海の特攻隊「陸軍海上挺進戦隊」が座間味島、阿嘉島、慶留間島、渡嘉敷島に配備された。
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海軍特攻挺「震洋」も配備されていた様で、米軍が慶良間諸島で撮影した「震洋」の写真が残っている。
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▲▼米軍に鹵獲され性能テストされる海軍特攻艇「震洋」
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ベニヤ板で製作された特攻ボートに爆雷を積み、沖縄本島に上陸する米軍を背後から奇襲するという作戦だ。
特攻艇の秘匿壕を掘る作業には住民も駆り出された。「軍事機密」を共有する状況になった住民達を、日本軍は厳しく
監視。「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の論理を住民にも強いて「捕虜になったら男性は八つ裂きにさ
れ、女性は強姦される」などと鬼畜米英の恐怖を植え付けた。
結果、慶良間諸島では約600人の住民が「集団自決」し、非業の最期を遂げた。
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▲3/26米軍が上陸を開始した慶良間列島において集団自決した住民。
昭和20年3月26日結局、米軍は沖縄本島に先駆けて慶良間諸島を攻略。翌27日には渡嘉敷島に上陸した。
一方の日本軍は、ほとんどのマルレ特攻艇を自ら破壊、陸上戦に転じていった。
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▲爆破処分され放棄された陸軍「マルレ」か海軍「震洋」
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▲座間味島に上陸する米軍。
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▲昭和20年3月27日避難先から部落に戻り保護された(慶良間諸島)座間味島の住民。
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▼▲慶良間諸島で捕虜となった日本兵(上)と、座間味島で捕虜となった日本兵(下)(3/28米軍撮影)
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▲昭和20年3月26日米軍の空襲を受ける奄美大島(古仁屋町)の日本軍施設。水上機用古仁屋基地の火災。

昭和20年3月26日陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」 04:00石垣島陸軍白保飛行場より99式襲撃機で出撃。
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▲誠第17飛行隊隊員。上列右から3人目が伊舎堂用久中佐(沖縄県石垣市出身)慶良間洋上突入戦死。
伊舎堂用久中佐(沖縄県石垣島出身24歳)/川瀬 嘉紀大尉(三重県出身24歳)
黒田 釋少尉(愛媛県出身21歳)/安原 正文大尉(高知県出身24歳)/久保 源次郎大尉(千葉県出身23歳)
有馬 達郎少尉(鹿児島県出身17歳)/林 至寛少尉(東京都出身17歳)/芝崎 茂大尉(埼玉県出身24歳)
(独立飛行第23中隊)三式戦闘機「飛燕」で出撃。
阿部 久作大尉(北海道出身29歳)/須賀 義榮少尉(千葉県出身23歳)/長野 光宏少尉(東京都出身21歳)
金井 勇少尉(富山県出身21歳)/岩本光守少尉朝鮮名不詳(朝鮮出身20歳)/廣瀬秀夫少尉(香川県出身19歳)
(飛行第17戦隊)
平井 俊光少佐(岡山県出身21歳)/児子 国高大尉(岡山県出身21歳)/西尾 卓三大尉(東京都出身25歳)
国谷 弘潤大尉(富山県出身21歳)/勝又 敬大尉(愛知県出身24歳)/照崎 善久少尉(大阪府出身21歳)
西川 福治少尉(兵庫県出身21歳)
(飛行第105戦隊)
長谷川 斎大尉(愛知県出身23歳)/山元 正巳少尉(鹿児島県出身19歳)/永田 一雄少尉(鹿児島県出身20歳)
石田  勝少尉(岐阜県出身20歳)/小川 多透少尉(福岡県出身20歳)/丸林 仙治少尉(岡山県出身19歳)
内藤 善次少佐(東京都出身22歳)
(飛行第19戦隊)
根本 敏雄大尉(千葉県出身22歳)/倉澤 和孝大尉(長野県出身22歳)/栗田 常雄少尉(静岡県出身22歳)
合計31名が、石垣島陸軍白保飛行場より特攻出撃している。

昭和20年3月27日陸軍特別攻撃隊「赤心隊」 陸軍中飛行場より99式軍偵察機2機で出撃。
谷川広士軍曹/三竹 忍伍長

昭和20年3月27日陸軍特別攻撃隊(誠第32飛行隊)「武剋隊」が05:30陸軍中飛行場より99式襲撃機9機で出撃。
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▲誠第32飛行隊「武剋隊」隊員
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▲別れの杯を交わす誠第32飛行隊「武剋隊」隊長 広森達郎中尉(三重県出身)
250㌔爆弾を抱えた陸軍99式襲撃機は3機づつの編隊を組んで飛行、慶良間列島北東へ飛んで行った。
広森達郎中尉/清宗孝己少尉/林 一満少尉/今西 修軍曹/今野勝郎軍曹/出戸栄吉軍曹/伊福 孝軍曹
大平定雄伍長/島田貫三軍曹
首里城山上では牛島軍司令官も見守った。1機が被弾して海中に墜落、他の8機は次々に突入していった。
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▲3/27慶良間列島を哨戒中の米中型揚陸艦が特攻機の突入を受ける。
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▲▼特攻機の突入をうけた米中型揚陸艦LSM(R)-188
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▲特攻機の突入部分。満載だったロケット弾が艦内で爆発しなかったのが米軍にとっては幸いだった。
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▲3/27米戦艦ネバダ(USS Nevada)に誠第32飛行隊「武剋隊」か「赤心隊」の特攻機が突入。
 乗組員11人が死亡、主砲塔に被害を受けた。ネバダは日米開戦の真珠湾攻撃で海軍機に小破された艦だ。
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▲ネバダに特攻した搭乗員の遺体を調べる米兵。甲板に遺骸が飛び散り胴体だけが残っている・・・。
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▲特攻隊員の所持品から出てきた「日の丸」の寄せ書きか・・・?血だらけの様に見える・・・言葉がない。
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▲特攻機の突入で戦死したネバダ乗組員。

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▲3/28沖縄本島日本軍の対空砲火により損傷し空母エセックスに帰還するTBM機(第83飛行群所属)

昭和20年3月28日陸軍特別攻撃隊「赤心隊」が陸軍中飛行場より99式軍偵察機5機で出撃。
鶴見国志郎少尉/上宮賢了少尉/青木健二軍曹/美坂洋男伍長/吉野芳積伍長

昭和20年3月28日陸軍特別攻撃隊(誠第41飛行隊「扶揺隊」)が陸軍北飛行場より97式戦闘機9機で出撃。
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▲沖縄への特攻出撃が決まり、旧満州(新京)で写真におさまる誠第41飛行隊「扶揺隊」隊員
高祖 一少尉/小川真一曹長/堀口政則軍曹/大河正明伍長[本名、朴東勲(朝鮮出身)]
(離陸時、米艦隊艦砲射撃と空襲を受け5機が離陸不能となり、辛うじて4機が離陸に成功、目の前の米艦隊に突入)
以下は出撃時に搭乗機を失い沖縄本島を歩き続け、与論島→徳之島→佐世保に帰還し、新田原→知覧そして熊本県の
陸軍菊池飛行場→宮崎県都城東飛行場で終戦を迎えた金田伍長の体験記である。

寺山大尉/塩谷伍長/上村軍曹/菊田軍曹/金田伍長の5名は搭乗機を失い、第32軍航空参謀より「寺山大尉以下4名は
速やかに内地へ帰還の上、再度出撃せよ」との命令を受け、5名全員、飛行服に飛行長靴、拳銃一丁の装備で北飛行場
を出発、徒歩で金武の海軍基地(洞窟陣地)に向かう。海軍指揮官に内地帰還の為の舟艇の手配を頼むも「中城湾洋上に
は敵巡洋艦他の艦艇が遊弋(ゆうよく)中で基地が発見される恐れがある」と断られる。
「名護」又は「運天港」海軍基地の舟艇を利用して帰還する為に4/1金武を出発。宜野座村を経て名護岳に向う。
名護で「国頭支隊」宇土大佐率いる一個連隊の八重岳に向かう事となる'疲労困憊した身体に鞭打って歩く)
宇土部隊で対空監視及び敵状監視の任務に就く。国頭支隊には学徒動員された三高女学生約10名が勤務していた。
4/30頃、国頭支隊は八重岳を放棄して多野岳に転進。三高女生を山中に避難していた住民や家族を頼りに帰宅させる
宇土部隊副官は国頭支隊を小人数部隊に分散、自活戦闘に入る。5/12頃寺山大尉以下5名の空中勤務者(特攻隊員)
は別行動をとる事になる。
5/19頃、一ツ岳に到着。北大尉指揮する中野学校特務班が秘匿された隠れ家を拠点にして5~6名で情報蒐集活動を
行っている場所で特務班と行動を共にして情報活動を支援。塩谷伍長が偵察に出るも戻らず(戦死か捕虜)
ヤンバル地区中央突破(山岳密林地帯)を野宿を重ねながら歩き続ける。服は破け、靴は底が抜けて縛りつけながらの
行軍で栄養失調症状が出ながら奥部落民の避難していた山中の隠れ家に辿り着く。
よれよれの、しかも飛行服という見馴れない服装に、一時は米兵と見間違えられるハプニングもあった。
5/29頃,辺土岬が見える奥部落で漁民にくり舟で与論島への渡航を頼みこみ、くり舟二艘で与論島へ渡航。
6/1夜、敵に発見されない様に細心の注意を払って沖に出る。早朝、与論島の浜辺に着く。周辺は静かで不気味で浜辺
の岩陰に身を潜めたが偵察の結果、まだ米軍に占領はされておらず、守備隊が居るとの事で安堵する。守備隊の駐屯地
まで歩き、守備隊指揮官の陸軍少尉に、内地帰還の中途である旨を告げ、与論島で約10日間を過ごす。
6/11船舶部隊差し向けの「ダイハツ」により与論島20:00出発。6/12沖之永良部島に到着。
6/15夜、沖永良部島を「ダイハツ」で出発。朝方、徳之島に上陸し、奄美群島陸軍司令部で沖縄戦況報告をし、内地
帰還を図って戴く様お願いして連日空襲に見まわれる徳之島で約1週間留まる。
6/17沖縄を脱出して大本営に向かう途中来島していた第32軍航空参謀神直道中佐の乗る99式襲撃機に寺山大尉は同乗
操縦し、徳之島を飛び立ち九州に向かった。
6/23「ダイハツ」で徳之島を夜間出港。朝方に奄美大島名瀬港に着き上陸。名瀬海軍基地の宿舎で待機。
そこには既に20名程の空中勤務者(特攻隊員)が内地帰還を待っており、毎日囲碁をしながら海軍水上機の便を待つだけ
であった。名瀬海軍基地へは佐世保より週1~2回定期連絡の水上機が来ていたので、その帰路に1~2名乗せて内地へ
帰投していた。
7/4残った「扶揺隊」の3名が搭乗する事となり水上機は離水、佐世保に向かって飛び立ち、佐世保海軍基地に着水。
遂に内地に辿り着く。いよいよ沖縄北飛行場での挫折を挽回し、再度の出撃を早期に果たすべく覚悟を新たにする。
福岡市筑紫高女校に司令部を置く陸軍第6航空軍で10日間程待機するも当時軍には余裕の飛行機はなく、作戦的にも大
変な時期であった。飛行機の受領は菊田軍曹は新田原へ直行受領待機、上村軍曹は福岡菰田の飛行場から、金田伍長は
知覧で受領して新田原で待機となりその後出撃の機会は無く、終戦を迎える事となる。
生きて終戦を迎えてくれたからこそこの話が紹介出来る。強運の持ち主の特攻隊員ではあるが、私は本当にお疲れ様で
した と言いたい。そして本当に生きていてくれて良かったと思う。

(話を沖縄戦に戻します)
昭和20年3月31日夜、米艦隊は島尻東部沖合に終結、沖縄本島上陸の準備へ・・・ところがこれは 陽動作戦であった
昭和20年4月1日4:00史上最大級1300隻もの米大艦隊が一斉に北谷・嘉手納・読谷海岸に殺到。
※昭和20年4月1日神風特別攻撃隊「第1大義隊」が石垣島基地より零戦で出撃。
清水武中尉(山口県出身)/酒井正俊中尉(岐阜県出身)/松岡清治2飛曹(埼玉県出身)/大田静輝2飛曹(広島県出身)

昭和20年4月1日5:30米艦隊の容赦無い10万発にも及ぶ艦砲射撃が始まった・・・。
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沿岸部の構造物を全て吹き飛ばした後、8:00~9:00頃までに16000名、夕刻までに60000名の米軍上陸部隊が北谷
から読谷にかけて上陸。南方諸島で日本軍と戦ってきた海兵隊員は恐怖で誰もが神経質になっていたと言う。
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▲上陸用舟艇で沖縄本島を目指す米海兵隊。
しかし日本軍守備隊からの砲撃らしい砲撃は無く、上陸作戦は演習さながらの平穏な上陸ぶりであった様だ。
その頃、日本軍守備隊は首里司令部を防衛する為の各防衛線の陣地豪に潜み、米軍を迎え撃つ態勢を整えていた。
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▲米軍が上陸した読谷村渡具知ビーチ(泊城公園内)
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▲米軍上陸当時の同じ場所(米軍撮影)
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▼▲泊城公園の小高い場所に米軍上陸の碑がある。
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▲比謝河口付近で資材を揚陸する米軍(昭和20年4月撮影)
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▲米軍上陸の碑から比謝川河口付近を見下ろす。
 上記古写真とほぼ同じアングルだ。現在はかなり河口付近が広げられている
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▲読谷村渡具知、比謝河口付近で資材を揚陸する米軍(昭和20年4月撮影)
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▲上記古写真とほぼ同じ位置を撮影。
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▲4/1上陸後に米軍が撮影した比謝河口付近ビーチの日本軍トーチカの銃眼側。
▼4/1上陸後に米軍が撮影した比謝河口付近ビーチの日本軍トーチカの入口側。
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▼上記の現在の写真とは少々アングルが違うが米軍上陸当時の写真。現在の泊城公園内
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▼泊城公園直ぐ(位置的には「米軍上陸の碑」の下)比謝河口付近にマルレ(陸軍特攻ボート)の格納豪が残されている。
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この場所は私有地なので所有者に許可を得て見学させて頂く必要がある。
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▼米軍上陸後に撮影された比謝川近くのマルレ海上特攻艇格納豪(上記写真の右奥と思われる)
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地元住民も切削作業に従事し、いよいよ米軍が迫ってくると、特攻基地を知る住民は一ヶ所に集められ、軍秘密保持の
為に自決を強要されたケースも多かったと言う。
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▼米軍上陸後に撮影された比謝川近くのマルレ海上特攻艇格納豪(上記写真と同じ格納豪)
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「特攻艇秘匿壕跡」はここ以外にも複数遺されているとの事。陸軍特攻艇(四式肉薄攻撃艇/通称マルレ)は装甲のない
ベニヤ製の船体にトラック用のエンジンを搭載したモーターボートで、250kg爆雷を搭載していた。
夜間に数十隻で体当たり攻撃を行う戦術。正式な戦果は確認されていないが、ガイドさんの話では米軍輸送艇を1隻撃
破したとの話が残っているそうだ。
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飛行場が特攻機の基地となった様に海岸は特攻艇の基地となった。マルレは長さ5.6m、重さ1トン。マルレ海上特攻艇
は沖縄の各地に配備され、読谷、北谷は第29戦隊が山本大尉を長として置かれた。
昭和19年末から陸軍特攻隊海上艇進隊がやってきたが、輸送船団は途中の海上で空襲を受け、現地に到着したのは
第1中隊の特攻艇わずか20隻にすぎなかった。
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▲米軍上陸後に撮影された比謝川近くのマルレ海上特攻艇格納豪(下記写真と同じ場所)
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▼米軍上陸後に撮影された比謝川近くのマルレ海上特攻艇格納豪(特攻艇は無いが台と運搬レールが写っている)
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昭和20年3月29日特攻艇17隻が慶良間に集結した米艦隊めざして出撃したが、米軍側記録で戦果は確認されていない
昭和20年4月4日米軍上陸用舟艇LCI(G)-82を撃沈/LSM-12を沖縄沖で撃沈。
米軍LSM-12は戦車 3~5台あるいは水陸両用上陸用舟艇 LVT 6台又は水陸両用トラック DUKW9台を搭載した輸送艇
であった。ガイドさんがおっしゃっていたのはこの事かもしれない。
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▲陸軍四式肉薄攻撃艇(通称マルレ) ※海軍は「震洋」で船先端に爆弾を積み、陸軍マルレとは設計が異なる。

昭和20年4月1日米軍は上陸したその日僅か30分でチビチリガマの洞窟を発見、投降を呼びかけた。
しかし、「鬼畜米英」の教育を信じていたチビチリガマ内の住民達は投降しなかった。
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▼▲米軍上陸初日4/1に投降してきた住民達も多かったのも事実。不安げな表情が伝わってくる。
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昭和20年4月2日鬼畜米英と教えられた住民は、アメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れ、「民間人は殺さない」という米兵
の言葉を信じられない12~3名の住民が、「日本男児じゃないか!武鎗を持て!」と壕の中から竹槍持って出て行き、
米軍に反撃。米軍は応戦、銃撃で男2名が負傷。これを見た避難民は動揺し、鎌や包丁、看護婦が持っていた毒薬など
で、家族が殺し合い自決するという惨劇が繰り広げられた。布団に火が点けられ、煙で窒息死した人が1番多かったと
言う。住民避難者約140人中、83人が非業の最期を遂げた。
毎年4月2日は遺族だけで慰霊祭が行われている。読谷村では9か所で集団自決が起き、139人が自ら命を断った。
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▲県道6号線から少し入った場所にチビチリガマへの入口階段が設置されている(読谷村波平1136-2)
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▲階段を下り終えると大きなチビチリガマの入口と慰霊碑がある。
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▲ガマの中は亡くなった方の墓として、これ以上の立ち入りは現在禁止されている。
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▲亡くなった方のお名前が記された石碑。亡くなった方の6割が18歳以下の子供。中には4ヶ月の赤ん坊もいた。

▼チビチリガマから1㌔も離れていない場所にシムクガマの洞窟がある。サトウキビ畑から入って行く。
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▼細い1本道を森の中へ入って行くと、放置され、野生化したサトウキビが左右に迫る。
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収穫されたサトウキビは国が買い上げるシステムらしいが、重労働の為、若い人は敬遠し、こうやってサトウキビ畑が
野生化していく場所も多いと言う。
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▲サトウキビ畑を抜けると、いよいよ山道に入ってくる。
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▼波平又川原(マタガーバル)のシムクガマが見えた、大きい。
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このガマには住民約1000人が避難した。住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人も居
たと言う。まさに運命の分かれ道。昭和20年4月1日シムクガマでもチビチリガマ同様、米軍が投降を呼びかけた。
壕の中はパニックになったが、避難していた住民の中に、ハワイで出稼ぎ経験のある2人の老人、比嘉平治氏(72歳)と
比嘉平三氏(63歳)が「アメリカ人は民間人を殺すはずが無い、米軍は国際法に従って行動しているから大丈夫助かる」
と訴え人々を説き伏せる事に成功。そして英語も話せた2人が米兵と会話し、1人の犠牲者も無く全員が保護された。
チビチリガマとシムクガマの対照的な結末は、外国を知らない無知さと、当時の日本の教育とが複雑に混じり合って起
きた結末だった。現在の日本でも十分考えられる事だ、「外国から日本を見る」という事の重要性を思い知らされた。
しかし、米軍に保護された住民が収容所や米軍の占領地域で暴行や強盗行為が無かった訳では無い。
沖縄戦の最中、戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったと言う。
中には夫の目の前で犯された女性もいたともいわれている。米軍兵士により強姦された女性数は推定10000人・・・。
現在も続く沖縄県民に対する沖縄駐留米兵が起こす様々な事件は、沖縄戦からずっと続いている・・・。
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▼シムクガマとよく似た場所の沖縄戦古写真(違うかもしれない)
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▼米軍上陸初日4/1の読谷村
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※昭和20年4月2日神風特別攻撃隊「第2大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃。
伊藤 喜代治中尉(東京都出身)

▼昭和20年4月1日読谷村の海岸に上陸する米軍。
 米軍の猛攻撃で護岸は破壊され、日本軍は丘陵地帯へ逃げ、米軍は大した被害も死傷者も出さずに浜に上陸した。
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日本側の死者・行方不明者約19万人(県外出身将兵約66000人/沖縄県外出身正規兵約28000人/沖縄住民約95000人)
アメリカ軍側の死者・行方不明者14000人、イギリス軍の死者82人を出した壮絶な沖縄地上戦が始まった・・・。
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▼進撃する米軍M4戦車
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▼出征時に兵隊を送り出す「のぼり」を手に取る米兵。「知名 定序」君と書かれている・・・沖縄県出身者の兵か。
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▲米軍進行図(赤印は陸軍北飛行場/青印は陸軍中飛行場)
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▲▼陸軍北飛行場滑走路跡(米軍に占領され、読谷補助飛行場となり舗装がやり直されているが当時と同じ位置だ)
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▲平成18年12月全面返還され、今後の読谷村の活用が期待されている北飛行場(読谷補助飛行場)跡。
約660人の住民の土地を軍が接収、昭和18年から始まった建設工事には住民も動員し完成。1500m級の滑走路を3本
備え、県内最大の飛行場だった日本陸軍の北飛行場跡だ。
昭和19年秋から運用が始まったが、昭和20年4月1日米軍本島上陸3時間後の11:30に真っ先に占領されてしまう。
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▲陸軍北飛行場(米軍の爆撃で滑走路が荒れている)
昭和20年4月1日米軍約6万人が上陸、即日進撃し、10キロ先の北飛行場と中飛行場を占拠。 日本軍は沖縄守備兵力
10万人では太刀打ち出来ないと判断。沖縄島内で持久戦に持ち込もうと残存機を爆破処分、飛行場を放棄した。
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▲▼陸軍北飛行場を占領した米軍の目に飛び込んで来たのは木枠に藁や竹で作られたダミー日本軍機だった・・・。
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▲▼敵に上空から戦闘機が駐機している様に騙す為に、藁などで巧妙に作られた。
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これを見た米兵はどの様に感じていただろう・・・。資源の乏しい日本を哀れに思ったであろうか・・・。
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それとも、巧妙な作りに感激したであろうか・・・。これを製作するのも大変だったと思うが・・・。
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▼ダミー戦闘機を調べる米兵。
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ダミー機にしても日本人らしい細かい作りだ・・・。竹と木の枠だけでよくこの様な実物大を大量に作ったものだ。
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▼▲日本軍の努力を茶化す海兵隊員。実際、ダミー戦闘機は誰もだませていない。
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▼飛行場に置かれていたのかは不明だが、ダミー戦車を調べる米兵を写した写真。沖縄戦で4月に撮影された。
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▲▼日本軍自ら爆破処分した日本軍機(北飛行場)
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▼北飛行場では4機の「桜花」が米軍に捕獲された、米兵が「桜花」の実物を見るのはこれが初めてだった。
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コクピットより前側は約1.2t爆弾を搭載、ジェット・エンジンを搭載、アルミの胴体、木製の翼、爆撃機の腹下に桜花
を固定。敵艦船上空まで運ぶ。切り離された「桜花」は操縦士もろともジェットエンジンの加速と共に敵艦に特攻。
この日本海軍が開発した自殺兵器を米軍は「バカ爆弾」と呼んだ。
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▲▼北飛行場で米軍に捕獲された海軍特攻機「桜花」陸軍機はことごとく破壊して飛行場を放棄していった様だが、海
軍の兵器はそのまま放棄して行ったという事か・・・そもそも「桜花」を運ぶ母機は陸軍機を使う予定だったのか?
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▲▼この「桜花」写真は間違いなく沖縄戦の写真だが、海軍小禄基地で撮影された可能性は無いのであろうか?
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▲日本軍が放棄していったブルドーザを修理して使用しようとする米工兵隊員。物量豊かな米軍でもこの様に敵軍の
 物を分析し、使える物は修理して使い、相手を徹底的に分析する部分は日本が見習わなければならない部分だろう。
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▲放棄された日本軍ディーゼルトラクター
陸軍飛行場建設に動員された人達の話で「人力だけだった」「牛でローラーを引いていた」という話を聞くが、この写
真でも解る様に、飛行場建設には日本軍も重機を導入していた事が解る。でないと人力だけでは広大な飛行場を建設す
るのは無理だろう・・・。(導入された重機の数は米軍の比ではないだろうが・・・)
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▲米軍に占領された陸軍北飛行場
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▲陸軍北・中飛行場のどちらかと思われる。破壊された陸軍100式重爆撃機「呑龍」が写っている。
▼以下は陸軍北・中飛行場のどちらかで撮影された日本陸軍機の残骸である。
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▼▲陸軍三式戦闘機「飛燕」か・・・。
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▼これは何だろう・・・?もしかして海軍93式超重爆撃機か?
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▼陸軍99式双発軽爆撃機
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▼陸軍99式襲撃機
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▼米軍の艦砲射撃で壊滅した嘉手納村(昭和20年4月19日米軍撮影)
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▲高射砲で撃墜した日本軍機の翼を撃墜数スコアボードとして使用した。米軍が中城湾で撮影した物
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▲昭和20年3月27日朝に実施された爆撃の際に、TBM(米軍偵察機)が撮影した中飛行場と北飛行場。
 2基地が同時に写っている写真は非常に珍しく、中飛行場滑走路は爆撃で既に穴だらけになっている。
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▲陸軍中飛行場(現 米軍嘉手納飛行場)
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▲掩体壕
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▲▼陸軍中飛行場で撮影されたダミー戦闘機(米軍撮影)製作者は誰だろう?軍の工作隊か?それとも住民達?
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ダミー機は当然、沖縄本島で製作されたのであろう・・・。何処で作っていたのか?
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大規模な空襲があったにもかかわらずダミー機の損傷は少ない・・・効果はあったのだろうか・・・。
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▼中飛行場で米軍が撮影した防空壕か倉庫
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▲現在も幾つか残っているそうだが米軍嘉手納飛行場内の為、簡単に見学しに行く事は出来ない。
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▲陸軍中飛行場に放棄された陸軍一式戦闘機「隼」胴体の「日の丸」が無い事に注目。
 陸海軍共に、特攻作戦後期には、この様に機体全てを黒く塗られた機もあったと聞いた事がある。国を識別する国旗
 すら描かない程に追い詰められ、何とか特攻を成功させようとしていた日本軍の意図が読み取れる。
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▲陸軍中飛行場に放棄された陸軍四式戦闘機「疾風」米兵がコクピットを調べている。
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▲陸軍中飛行場に放棄された陸軍四式戦闘機「疾風」を本国へ持ち帰る為に修理し、エンジンに火を入れる米兵。
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▲▼占領された中飛行場を通り抜ける米軍戦車。
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▲▼「道の駅かでな」から現在の米軍嘉手納飛行場(旧陸軍中飛行場)を見渡す事が出来る。
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▼「道の駅かでな」の横には「独立行政法人駐留軍等労働者労務管理機構 沖縄支部」がある。ここは日本政府の出先
機関で、米軍基地で働く日本人人材派遣センターの様な場所。米軍基地内の芝生はとても綺麗に手入れされており、真
面目で勤勉な日本人の性格がよく表れている。当然給料はアメリカ政府。では無く我々の税金が使われている。
アメリカ軍内でも沖縄勤務は大人気。それもそのはず電気・水道・ガス・家賃など生活必要経費は全て日本もち~。
資源の無い敗戦国の国防はお金がかかるのだ。米軍関係者所有の自家用車などの自動車税はなんと正規金額の七分の一
でしかも任意~。任意で税金払う人っているんですか(笑)米兵は言います「沖縄勤務は貯金が出来るから助かってるよ」
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(話を沖縄戦に戻します)
※昭和20年4月4日神風特別攻撃隊「第4大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
矢田 義治上飛曹(愛知県出身)
※昭和20年4月5日神風特別攻撃隊「第5大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
小林 友一上飛曹(山梨県出身)/辻村 健一郎1飛曹(山口県出身)
昭和20年4月7日14時23分沖縄に向けて海上特攻出撃した戦艦大和が米軍機の激しい攻撃を受け沈没。
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この日、日本海軍連合艦隊は事実上壊滅した。
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4/13日本軍機の偵察結果で、奪われた北・中飛行場に既に150機の米軍機が配備されているのが確認された。
この間、陸・海軍共に多くの艦船攻撃機や特攻機を出撃させたが、特攻機の命中率は極めて低かった。
これは敵レーダーに捕捉され、北・中飛行場に配備された米軍機に邀撃されているのが原因と推察された。
そこで台頭したのが両飛行場制圧の為に陸軍「義烈空挺隊」の投入であった。
[義烈空挺隊]とは沖縄戦期間中の昭和20年5月24日北・中飛行場の強行着陸と破壊を目標とした[義号作戦]に用いら
空挺部隊である。昭和19年サイパン陥落後、米軍はサイパンにB29の基地を設けて東京を空襲した。
この米軍基地に対し、強行着陸して飛行機を破壊し、搭乗員等を殺傷する目的で昭和19年12月上旬第1挺進団(パラシ
ュート部隊)第4中隊の選抜要員+陸軍中野学校諜報要員+第3独立飛行隊から編成された部隊の名称である。
[陸軍特別攻撃隊参照]
しかしサイパン突入作戦は中止、次いで硫黄島作戦も中止となった。そして5/24沖縄攻撃作戦(義号作戦)において、
大本営が作戦に消極的な中、北(読谷)飛行場・中(嘉手納)飛行場への強行着陸(特攻)に投入された。
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▲陸軍北飛行場跡(読谷補助飛行場跡)には掩体豪が残され、義烈空挺隊玉砕の碑が立てられている。
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▲昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」を乗せた陸軍97式重爆撃機12機が熊本県健軍飛行場から出撃。
エンジントラブルや航路ミスで4機が帰還。8機112名が沖縄に向かうも7機は米軍の対空砲火で撃墜されてしまう。
たった1機(9番機)が北飛行場滑走路を北東から南西に滑走して胴体着陸に成功。少なくとも8名の隊員が飛び出した。
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▲北飛行場滑走路跡より「義烈空挺隊」を乗せた陸軍97式重爆撃機が飛んで来た方角を見る。
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▲北飛行場に強行着陸に成功した唯一の1機[9番機 尾翼番号(6)546]
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▲▼飛び出した義烈空挺隊員に爆破された米軍輸送機や戦闘機。
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▲▼強行着陸に成功した唯一の1機(546)から飛び出した義烈空挺隊員は決死で米軍機を次々に爆破し、散華。
(6546)9番機搭乗員 [第3小隊長]渡部大尉/[操縦担当]久野中尉、荒谷少尉/[航法,通信担当]酒井少尉、簑島曹長
[第3小隊第1分隊長]山城准尉/池島曹長/井上曹長/山本曹長/佐藤軍曹/岡本伍長/加藤伍長/田中伍長/村瀬伍長
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▲北飛行場に無残な姿で散らばる義烈空挺隊員を眺める米兵達。
陸軍沖縄第32軍[高級参謀]八原博通大佐が、北飛行場に突入した「義烈空挺隊」に関して以下の話を残している。
[ 沖縄第32軍八原高級参謀の記録より ]
特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍の
戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ。五月二十四日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、
軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は(北・中)両飛行場ではなく、
小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遙か北、中飛行場の方向にあたって、火の手の揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して感動を久しくした。
連夜に亘る特攻隊の突入、「ドロドロ」の轟音、そして空挺隊の降下は軍司令部将兵はもちろん正面二十キロの戦夜で
死闘中の兵士一人一人に、戦うのは我々のみではないとの感懐を深く心に抱かしめたのである」 と・・・。

ここで、沖縄を守備した陸軍第32軍の司令官、主な参謀を紹介する。
沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は116400人で陸軍が84600人海軍が10000人弱の他、「防衛隊」
と俗称される現地編成の補助兵力20000人強である。現地入営したばかりの初年兵や防衛召集された兵が35000人を
占め、当時の第32軍の評価で真の陸戦兵力といえるのは約4万人に過ぎなかった。
旧制中学校の生徒から成る「鉄血勤皇隊」・女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊なども組織された
この日本側のトップ3が、[第32軍司令官]牛島満中将/[参謀長]長 勇中将/[高級参謀]八原博通大佐 である。
牛島満中将は優しい性格だった様で、作戦等はほとんど長 勇中将と八原博通大佐が立案、牛島中将は「2人がよく考え
た上での作戦だろう」と、黙って判を押して決済していたと言う。
牛島中将は、住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、沖縄着任後直ぐ島田叡県知事と協議している。
当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。
牛島中将は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたと言う。
また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。
牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体の「玉砕」を防ごうとしたが、「やんばる」と呼ばれる山岳地
帯に食糧の備蓄は無く、「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死、そしてマラリアであった。
八原博通大佐も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島中将の北部疎開計画を支持していた。
牛島中将自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島中将は暇がある度に作業現場を視察し、中学生や
住民にまじって壕掘りの手伝いをした。
県民の献身に感動した牛島中将は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示したと言う。
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▲牛島満中将(鹿児島県出身)享年57歳  ▲八原博通大佐(鳥取県出身)享年78歳  ▲長 勇中将(福岡県出身)享年50歳
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▲沖縄地上戦は大きく5つ、「嘉数の戦い」「前田の戦い」「シュガーローフの戦い」「首里攻防戦」「摩文仁の丘」
「摩文仁の丘」は戦闘と言うより沖縄戦終結の地、又は追い詰められた日本軍民自決の地と呼ぶ方が適切かもしれない
※この地図には「摩文仁の丘」は載っていないが、地図上CHANのずっと左側(南側)の最南端である。

※以下掲載する米軍が撮影した当時の沖縄戦古写真は戦闘現場と必ずしも一致しないのでイメージとして見て頂きたい
昭和20年4月5日嘉数戦の序章ともいえる戦いが、北隣の85高地にてアメリカ軍歩兵383連隊(指揮官メイ大佐)と
日本軍独立歩兵第13大隊(指揮官原宗辰大佐)の間で始まった。
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▲85高地にて日本軍と戦闘中のアメリカ軍歩兵383連隊。
※85高地は現在、普天間飛行場敷地内になっており見る事は出来ない。
守備する第13大隊は善戦するも相当の損害を出し嘉数ラインまで後退。嘉数ライン北側には比屋良川が流れており、
この渓谷の渡川には水面までの高低がありすぎるため、ここで米軍を食い留めていた。
この戦いが皮切りとなり、ついに嘉数で日米両軍の主力が衝突する事となる。
昭和20年4月8日(7日)~16日間「嘉数の戦い」が始まる。
[沖縄本島第1防衛ライン]嘉数高地~南上原高地(師団長藤岡武雄中将以下陸軍第62師団の内12700人が守備) ]
4/7 85高地の戦いにおいて大きな被害を受けた日本軍の独立歩兵第13大隊が後退し、嘉数の主力と合流する。
この日、アメリカ軍歩兵383連隊の指揮官メイ大佐は、指揮下の部隊に「9日までには嘉数を占領せよ」と命令する。
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上陸時ほとんど抵抗を受けなかった米軍は嘉数方面の防衛ラインで、手痛い目に合う事となる。
嘉数高地は陸軍第62師団独立歩兵第13大隊(主に京都出身者の部隊)1233名が守備していた。
昭和20年4月9日
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アメリカ軍は行動を開始。アメリカ軍歩兵383連隊第1大隊(キング大佐)第3大隊(スティア中佐)は午前6時、嘉数
陣地北側に奇襲攻撃をかけ、この間に嘉数の主陣地深部まで他の主力が前進、日本軍と熾烈な白兵戦が始まった。
日本軍独立歩兵第13大隊は士官以下ほとんどが戦死し戦力が低下。しかし米軍3個中隊も一旦退却する。
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昭和20年4月10日
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アメリカ軍は、前日に引き続き攻撃に出た。(この時、大砲・艦砲・航空機の熾烈な援護射撃があったとされる)
日本軍は第13大隊と応援部隊として派遣された陸軍第272大隊(683名)が米海兵隊を迎え撃った。
前日の様な熾烈な白兵戦が再び展開され、北西陣地の一部が米軍に奪取(9時半頃)される。
▼激戦当時の嘉数西高地(現在の嘉数高台公園)を北側(アメリカ軍進行側)より。
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昭和20年4月10日~13日
両軍とも序盤戦において戦力を使い果たしていたが、補給の無い日本軍は砲弾の使い過ぎが後に響いた。
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※昭和20年4月13日神風特別攻撃隊「第9大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
満田  茂中尉(兵庫県出身)/山崎  隆2飛曹(京都府出身)
※昭和20年4月14日神風特別攻撃隊「第10大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
粕谷 仁司中尉(兵庫県出身)/三浦 義信2飛曹(北海道出身)
※昭和20年4月17日神風特別攻撃隊「第12大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
斎藤 信雄飛曹長(茨城県出身)/文谷 良明1飛曹(大阪府出身)

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戦いは序盤戦から中盤戦へと移ってゆく。 高台を有効に利用した陣地に籠もった日本軍3個大隊は、アメリカ軍3個連隊
の攻撃を撃退し、陣地を保持した。物量面では戦力に歴然とした差があったが、互角以上に戦って守り切ったといえる。
しかし、第13大隊は消耗し尽くし、兵員は5分の1以下に減少していた。
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▼米兵の哨戒中に射殺された日本兵。
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▼日本兵が潜んでいた民家は徹底的に焼かれた。手前に射殺された日本兵が写っている。
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▲破壊された日本陸軍94式軽装甲車を調べる米兵(名護市で撮影された写真)
昭和20年4月14日~24日(写真は浦添市「大名高地の戦闘」5/13~14日頃米軍撮影)
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4/19補給で満たされた米軍は陸海空あげて総攻撃開始。この日は嘉数戦の中で最も激しい戦いである、嘉数の対戦車
戦が行われ、消耗した第13大隊に代わって第23大隊(1233名)が中心となって米兵を迎え撃ち、米軍戦車30輌の内22
輌を撃破し、米軍を撃退する。
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▲4/20米軍が撮影した1枚。爆破される日本軍の陣地豪、日本軍から奪ったトリニトロトルエン爆弾が使われた。
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▲壕から吹き飛ばされた2人の日本兵の死体を調べるダーナビー上等兵、日本兵の1人は腰から下しか無い。
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▲▼4/20日本軍の肉弾攻撃により破壊された米軍M4シャーマン戦車(M4 Sherman tanks)
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米軍死傷者は700人を超えた。4/20の戦闘では日本軍の猛攻撃は凄まじく、米軍の損害は日本軍を上回ったと言う。
19日の総攻撃以来、米軍は1日に1㌔程しか進撃出来なかった。しかし日本軍の中には日本軍史上初の14~16歳の学徒
による少年兵部隊「鉄血勤皇隊」も戦闘に参加しており、爆弾を背負った少年兵が米軍戦車の下に潜り込み、自らの命
と引き換えに撃破した米戦車も少なくないと言う。
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▼戦車に潜り込むのを失敗したのか、爆弾の入った木箱を背負ったまま死んでいる日本軍少年兵(鉄血勤皇隊)
日本軍の奮闘は解るが、この様な少年を動員してまで続ける戦争に何の意味があるのか解らない・・・涙が止まらない
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▼米軍が捕獲した日本軍梱包爆弾。木箱に爆薬を詰め、荒縄で縛った手製の兵器。簡単な構造の起爆装置が付いている
 少年兵はこれを背負って米軍戦車の下に潜り込み、自爆攻撃を命令された。
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 米軍戦車を撃破するには当時の日本軍速射砲(戦車を撃つ砲)では米軍戦車の鋼板が厚くて効果がないので、木箱に火薬
 を何段も何列も入れ、それを釘付けにし、藁縄で背中に背負って行き、それを戦車の下に放り込んで撃破するという苦
 し紛れの戦法を採った。それが上記写真の「急造爆雷」だ。中飛行場近くの海岸で試作品紹介する事ことになり、会議
 が終わった後、兵器係の将校がテーブルの上にその箱を置いて風呂敷包みを広げていた最中に暴発。持っていた本人は
 長靴を履いていた足が残っただけだったと言う。他兵隊2人が即死、そこに居た各隊長は全部なぎ倒されて負傷し、野
 戦病院lに担ぎ込まれるという実戦使用前の事故も起こっている。
▼少年兵の自爆攻撃を受けたのだろうか・・糸満市南部で大破した米M4シャーマン戦車(昭和20年6月16日米軍撮影)
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※沖縄戦では「鉄血勤皇隊」以外にも「護郷隊」などの少年兵部隊が組織され、沖縄本島北部で戦闘に参加している。
 他にも「女子青年団」は危険な最前線の陣地豪で戦う日本兵におにぎりを運ぶなど、懸命に日本兵を助けた。
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▲アメリカ兵から取り調べを受ける日本軍少年兵(鉄血勤皇隊)6/17米軍撮影
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▲左の2人は鉄血勤皇隊の少年兵。その隣の成人男性は朝鮮人軍夫。
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▲食糧を盗みに来た所を捕虜となった日本軍少年兵。

激しい戦闘に明け暮れた毎日で日本軍第23大隊も戦力が低下。第13大隊は兵員僅か。第272大隊は半分となり、4/23
戦力が初期の3分の1まで低下した第62師団はわずかな部隊を残して嘉数、西原、棚原、157高地の守備隊を前田、仲間
へと後退させた。4/24アメリカ軍は嘉数に対し準備砲撃を開始、後にブラッドフォード特攻隊が嘉数陣地へ突入したが、
既に日本軍守備隊主力は撤退した後であった。この時残っていた日本軍残存部隊は激しく抵抗、アメリカ軍は2時間の激
闘の末、午前中までに嘉数陣地を完全に占領し、16日間にわたる嘉数の戦いが終わった。
※西原村では軍に招集された人も含め、村民(人口約10000人)の47%(5106人)が戦闘の犠牲となった。
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▲沖縄戦で米軍が撮影した1枚。少なくとも4人、上半身の無い日本兵の遺体が確認出来る。
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▼空き家となった民家に通信機器を設置する米兵。米軍も利用できる物は何でも利用した。
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▲▼宜野湾市、嘉数高台公園には今も日本軍地下豪、トーチカが残り、「京都の塔」の他多数慰霊碑がある。
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▼地下豪は立ち入り禁止となっているがカメラを入れて入口付近を撮影
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▼嘉数高台には激しい戦闘を物語る弾痕だらけのトーチカが残っている。地下豪と繋がっていたそうだ。
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▼トーチカ入口。写真右側下付近から地下壕と繋がっていた様だ。豪の部分今は崩れて塞がってしまっている。
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▼嘉数高台展望台から誰でも1度は聞いた事のある米軍普天間飛行場が綺麗に見えた。
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▼嘉数の戦いで倒れた(歩兵第13大隊)京都府出身の将兵約2500名の冥福を祈って建てられた「京都の塔」
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▼「京都の塔」と同一敷地内にある「嘉数の塔」。嘉数の戦いで主に京都出身者の部隊、歩兵第13大隊を助けたのが、
嘉数の住人であった。当時、嘉数の人口は695名で、沖縄戦で343名が亡くなられている。
「嘉数の戦没者」を慰霊する為、昭和50年6月沖縄京都の塔奉賛会の手によって建立された。管理が地元嘉数自治会と
いう事もあり、慰霊の献花と千羽鶴が絶えない。
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▼青丘之塔 (せいきゅうのとう)沖縄戦で亡くなった朝鮮民族386柱を祭った慰霊碑。
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昭和20年4月16日米軍伊江島に上陸作戦作戦を開始、4月21日占領。
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▲戦利品の日本軍ライフル銃や日の丸の旗を持って写真に収まる、ニュージャージー州出身の海兵隊員一等兵5名。
 (まだ戦闘が続く中での4月に撮影された写真)
▼上記と同じ場所で撮影された写真、フロリダ州出身海兵隊員マッキトリック二等軍曹他4名。
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米軍の余裕が感じられる写真だ。少年兵まで投入した日本軍には従軍カメラマンすらいなかったであろう。
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▲米軍占領後の伊江島の住民達。米軍の写真撮影の為、ポーズを取る先生と子供達。昭和20年4月25日米軍撮影。
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▲伊江島で撮影された写真。日本兵の人形を木につるして遊ぶ第318戦闘機群作戦部隊の兵士。
 (※首にかけられた[SON OF TOJO]のプレートに注目)
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▲沖縄美ら海水族館(ちゅらうみ)より伊江島を望む。今回伊江島へは行けなかったが次回行きたいと思う。
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▲昭和20年4月14日伊江島上陸前に航空機による急降下爆撃を行う米爆撃機(戦艦テキサス[BB-35]から撮影)

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▲普天間周辺の町中を通り前線へと進軍中の米第27師団。上陸後、北へ進撃した部隊(4月上旬撮影)
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▼▲廃墟と化した名護市、大通りと手前はバス発着所。
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▼米軍は飛行場からトラックでアメリカ本土からの郵便物を運び、占領後も郵便局として利用した(名護郵便局)
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※昭和20年4月28日神風特別攻撃隊「第15大義隊」 石垣島基地よりゼロ戦で出撃
和田 文蔵二飛曹(長崎県出身)

[沖縄本島第2防衛ライン]伊祖~前田高地~小那覇
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▲前田高地より撮影された戦闘直後の浦添国民学校や前田集落(米軍撮影)
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前田高地は、日本軍第二線主陣地帯の核心にあたる地区で、首里地区防衛に関して特に重要な地位を占めていた。
しかし日本軍には前田高地を守備する新鋭の部隊はなく、嘉数高地や西原高地そして南上原地区で激しい戦闘を繰り返
した第62師団が後退して前田高地の守備に就いた。 だが米軍の前田集落への進行が予想以上に早く、慌てた沖縄第32
軍は新戦力である第24師団歩兵第32連隊を前田奪還のために急遽投入した。
昭和20年4月25日仲間、前田の高地に対し米軍は猛砲撃を加え、航空機によるナパーム攻撃を行った。
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昭和20年4月26日米軍が前田高地為朝岩付近に辿り着くと、日本軍の猛攻撃が始まり、米軍は多数の犠牲者を出す。
嘉数高地同様、米軍が丘を登山中はわざと攻撃せず、頂上付近に達するや否や待ち伏せていた日本軍は機関銃掃射を浴
びせた。南側斜面には日本軍の陣地豪が多数ある。戦車隊を投入した米軍は、中街道側から回り込みながら砲弾や火炎
放射を猛烈に浴びせ、陣地豪を1つ1つ制圧していった。
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前田高地をめぐり、その後連日手榴弾の投げ合い・機銃掃射・斬り込み突撃等の血生臭い争奪戦が続いた。
昭和20年4月27日夜、陸軍第24師団第32連隊 第2大隊(志村大隊)800名が前田高地支援の為、首里を出発。
[ ※第2大隊(志村大隊)は北海道出身者が多く、今回は行けなかったが前田高地平和之碑は志村大隊の慰霊碑である ]
昭和20年4月28日朝、第2大隊が南側斜面の陣地豪に到着。第272大隊100名の残留兵に大歓迎されるも出来る攻撃は
手榴弾を投げ合うか夜間の斬り込みしか無く、米軍戦車と歩兵の圧倒的な火力の前には無力な攻撃方法であった。
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更にこの戦闘を厳しくしたのは、前田高地はそもそも司令部や後方兵站部隊の配置された地区であったことから、戦闘
を前提とした防御陣地としての機能を全く有していなかった事であった。守備に就いた各部隊は、それまでの戦闘で大
きな損害を受けた上に、戦闘機能を有しない陣地で、強大な機動力を誇る米軍との戦いを強いられる事となった。
前田高地は、前田集落の北側に広がる高地で、その北斜面は戦車の機動不可能な絶壁であり、歩兵部隊でさえ縄ばしご
を掛けて登坂せねばならない最大の地形障害であった。断崖の東部には石柱の様な「為朝岩」(米軍名ニードルロック)
がそびえ立ち、米兵を苦しめた。
▼丘の斜面に無数に築かれた日本軍陣地豪
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▼日本軍陣地豪に手榴弾を投げ込み、1つ1つ豪を制圧していく米軍兵士達
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昭和20年4月29日第32連隊 第2大隊は米軍と近接戦闘を交えながらも、その頂上付近及び南斜面を確保していた。
前田集落南側地区においては、第32連隊満尾大隊が昨夜攻撃に失敗し、米軍と近く対峙していた。
宜野湾街道東側に、戦車を伴う米軍が南下して来たが、第62師団輜重隊、高射砲部隊などが善戦して撃退した。
歩兵第32連隊第3大隊第9中隊は、29日明け方に経塚東側に進出して攻撃を準備していた。
29日夜に仲間南端の米軍を攻撃したが攻撃は失敗。中隊長は重傷、死傷者約100名を出した。
※昭和20年4月30日15:30ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが自殺。
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この時既に前田高地は米軍に制圧されつつあり、米軍戦車部隊は138高地頂上部に接近。南側の日本軍47ミリ対戦車砲
と対峙した。ついに米軍は沖縄上陸後約1ヶ月を経て沖縄第32軍司令部のある「首里」と直線距離3㎞の地点に到達し、
「首里」に向かって直射火器が狙いをつけたのである。
昭和20年5月1日前田高地においては依然その「為朝岩」頂上争奪(ニードルロック付近)の激戦が展開され、日本軍は多
くの損害を生じながらも健闘して陣地を保持していた。頂上付近では、米軍の集中砲火を受ける間は壕内に待機し、米
軍歩兵が頂上付近に現れると、壕から出て反撃するという状況が繰り返された。
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▲4月30日夜から米軍は断崖に4つの15m梯子と5つのカーゴネットを架け終えた。
5月1日A中隊は断崖の東端で梯子を登り始めた。しかし日本兵に狙撃され、全員が戦死するか負傷するかで攻撃は行き
詰まっていた。その西側ではB中隊がカーゴネットを使用して登頂し、夕方までに2個中隊が稜線上を確保する。
しかし彼らも夜間の日本軍の逆襲を受けてこの稜線から追い落とされる結果となった。
一方日本軍前田洞窟の志村大隊は前田東方高地の奪回を企図したが、出撃の都度多数の死傷を生じ成功しなかった。
前田集落南側の米軍は南方に向かって攻撃して来たが、奮戦して阻止していた。
5月2日は雨の中で戦闘が続けられ、米軍機の攻撃はほとんどなかった。前田高地では引き続き頂上争奪の死闘が繰り返
されるも、勇戦して頂上付近を確保していた。
5月3日第62師団の戦力は四分の一以下に減少していた。首里の第32軍司令部から「5月4日に勝敗を賭して前田高地の
守備軍陣地を起点に総反撃に打って出ろ」との命令が入る。
(その時、首里司令部内では「3日と4日の天気予報は雨。敵戦車は泥にはまって動けず、航空機は飛べないだろう、5日
の端午の節句には戦勝祝賀会をやるぞ」と戦勝前祝いの祝宴が行われた。
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▲豪雨で滑走路が冠水し動けなくなった米軍偵察機。沖縄戦中の雨季は米軍にとっても辛いものとなった。
※[高級参謀]八原博通大佐のみが「圧倒的に強力な敵に対して劣っている我が軍が攻撃を仕掛けるのは無謀極まりない、
敗北は目に見えている!」と強烈に反対したが・・・この決定を不服とした八原大佐は、その時の心境を「米軍は日本
軍を、兵は優秀・下級幹部は良好・中級将校は凡庸・高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線
軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないか?
と疑う」と記録している・・・。

※昭和20年5月4日神風特別攻撃隊「第17大義隊」 宮古基地基地よりゼロ戦で出撃。田中 勇上飛曹(山口県出身)
※昭和20年5月4日神風特別攻撃隊「第17大義隊」 石垣地基地よりゼロ戦で出撃
 細川 孜中尉(長野県出身)/橋爪和美2飛曹/佐野一斉2飛曹(山梨県出身)

5月4日04:50日本軍総攻撃開始。地下陣地に潜ませていた400門の砲撃の凄まじさに日本兵は「勝っている」と錯覚
した程だった。砲兵隊の砲術技能は日本軍全体においても最高のレベルにあったと言う。なので、一斉砲撃開始時期の
判断さえ誤る事がなければ、大戦果を収めるのは間違いない。と、信じられていた。
首里陣地正面の攻撃を担当したのは米第96師団だった。米軍は即座に火器を総動員して反撃を開始。
強力な火器をもって激しい攻撃を加えはしたものの、堅固なトーチカ深くに陣を構えて徹底抗戦を試みる日本軍精鋭部
隊を通常の戦法で攻略するのは困難だと悟った米軍司令部は、トーチカや地下洞穴内の日本軍守備兵を外に駆り出すに
は土を深く掘り起こす様な容赦のない砲爆撃を加えるしかない、と考えた。
彼らはそれを「耕し戦法」と名づけていたと言う。ホッジ少将の命令一下、米軍は、陸、海、空の全軍をあげて一大総
攻勢に転じ、通常の砲弾や爆弾の他、当時新兵器であったナパーム弾やロケット砲などを日本軍陣地に浴びせかけた。
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▲8発の5インチロケット弾を発射するF4Uコルセア戦闘機(沖縄本島にて米軍撮影)
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▲凄まじい猛爆を物語る1枚の写真。どこに居ても生きていられない程砲弾が降り注いだ事がよく解る写真だ。
その空前絶後の猛爆によって与那原から首里にかけての一帯は一面焼け野原になり、全ての住居建物は跡形もなく崩壊
して11:00過ぎにはほぼ全前線で日本軍を撃退した。
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▲沖縄本島陣地壕内の日本軍89式15センチ砲(沖縄戦で玉砕した独立重砲兵第100大隊の物)
米軍に鹵獲され、沖縄の米軍博物館、陸上自衛隊那覇駐屯地を経て1993年靖國神社(遊就館)に奉納された。
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▲遊就館入口付近に展示されている沖縄戦で使用された日本軍89式15センチ砲。
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▲▼米軍の火砲(沖縄戦での撮影)
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▼沖縄戦で初めて投入された米軍155㎜榴弾砲。
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「全ての望みは断たれ、敗北は時間の問題だ」と首里司令部は覚悟した。既に攻勢は挫折していたにもかかわらず、
首里司令部の撤退不可の命令により、第2大隊は戦闘を継続。5日間不眠不休で戦った挙句戦死していった。
昭和20年5月5日前田高地南斜面の陣地豪から残存日本兵が順次飛び出し、敵陣へ斬り込み突撃を敢行。最後の反撃
だった。16:00牛島司令官は総攻撃中止を決定、各方面に打電した。5/6米軍は前田高地戦闘終結を宣言。
昭和20年5月7日米軍は前田高地を離れ、首里に向けて兵を進めた。
※※昭和20年5月8日ドイツが連合国軍に対して無条件降伏。
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▲恐らく亀甲墓の中で保護された幼子。戦いを見て何を感じていただろう・・・言葉が見つからない。
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▲激戦当時の亀甲墓(米兵が通信場所として利用している)
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▲現在も沖縄各所に残る亀甲墓(普天間付近で撮影)

見学は浦添城跡に連れて行ってもらった。園内にある「浦添ようどれ」は沖縄県浦添市にある琉球王国の陵墓。
▼琉球王国時代は城の事を「グスク」と呼んでいた。今も浦添グスク跡と呼ぶ人は多い。
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浦添市の高台にある浦添城跡。敷地内には多くの壕がある。見学する事は出来なかったが周辺住民の避難場所となっ
たクチグヮーガマがある。昭和20年4月25日前田高地に陣取る日本軍を攻撃する為、米軍の猛烈な砲撃が始まった。
壕の入り口付近に日本兵が潜んでいた為、住民が避難した豪も攻撃され、艦砲射撃の砲弾の破片などで多くの死者を
出した場所だ。豪の天井には肉片などが飛び散り、想像を絶する光景だったと言う。米軍の馬乗り攻撃を受けた際、
壕内に住民約100名軍人、約50名程がいたが、馬乗り攻撃攻撃で落盤が起き、多くは生き埋めになったと言う。
30名程は脱出したそうだが今でも壕の中に多くの遺骨が残っているとの事。次回必ず慰霊しに来たい場所だ。

※馬乗り攻撃とは丘の上から地下壕の位置を予測してボーリングを行い、その穴からガソリン等の可燃物を注入して
火を着ける攻撃で、燃焼により壕内が酸欠状態となり、窒息死させる攻撃法である。爆薬も使う場合もあったと言う。
▼浦添城跡入口。沖縄戦で石垣もろとも原型もないほど破壊尽くされたが現在は見事に復元されている。
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▼城跡入口付近に今は半分以上埋もれかかった日本軍の陣地豪が確認できた。
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▼浦添城跡の小高い丘よりアメリカ軍が侵攻して来た北側を望む。
 左奥に見える海上は約1400隻のアメリカ軍の軍艦で真っ黒に見え、艦砲射撃はこの高台にも飛んで来たと言う。
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▼艦砲射撃 砲弾の破片は分厚い鉄のブーメランと言っても良い。破片が直撃すれば人間などひとたまりもない。
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▼南側を眺めると首里城が小さく確認できた。
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▼敷地内の壕の1つ、ディークガマ。戦時中は住民の避難壕として使われた。
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▼ディークガマは浦添で亡くなった5000人もの遺骨が納められていた。現在は平和祈念公園に合祀されている。
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[沖縄本島第3防衛ライン ※首里攻防戦 ]シュガーローフ・ヒル~石嶺~コニカル・ヒル(西原村運玉森)
わずか標高52mの丘陵を、日本軍は安里52高地と呼び、米軍はその形状からシュガーローフ(Sugar loaf アメリカ南
部地方の菓子パン)と名付けた。日本軍はこの丘陵を首里司令部の西側防衛陣地とし、蜂の巣の様にトンネルを張り巡
らし、側面からの対戦車砲、背面から迫撃砲などで米軍を迎え撃った。
▼北側から見たシュガーローフ・ヒル
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▼シュガーローフ・ヒルに配置された日本軍1式機動47粍砲。側背面を暴露して擱座しているのは米M4中戦車とLVT
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昭和20年5月11日海軍神風特別攻撃隊「神雷桜花特別攻撃隊」「第10建武隊」「第9銀河隊」「第7七生隊」「第5筑
波隊」「第6神剣隊」「第6昭和隊」「第7昭和隊」「第3正気隊」など150機が沖縄海域の米艦船団めがけて決死の特
攻々撃を敢行。ほとんどの特攻機は米艦船に到達する前に撃墜されたが「第7昭和隊」小川清少尉と安則盛三中尉が米
機動艦隊旗艦バンカーヒルに突入。大きな損壊を与えた。
▼安則盛三中尉機と小川清少尉機が30秒の間に突入し炎上する空母バンカー・ヒル(USS Bunker Hill)
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やむなく僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると、昭和20年5月14日
「第6筑波隊」富安俊助中尉がエンタープライズに突入、大破させた。司令官旗は結局、別の航空母艦に移された。
▼富安俊助中尉機の突入を受け、エレベーターが爆発で吹き飛び、大破炎上する米空母エンタープライズ
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米軍の特攻機対策が強化された沖縄戦では、沖縄方面特攻作戦で九州・台湾から出撃した3461機中、体当たりで散っ
た機数は海軍983機、陸軍932機の計1915機。その内132機が命中、122機が至近弾となり、至近命中を含めた命中
率は実に13.2%であった・・・。

昭和20年5月12日米軍はシュガーローフに日本軍陣地がある事は分かっていたが、あっさりと丘を登り占領・・・。
しかし、直ぐに日本軍猛反撃を受け日没までに半数以上の兵士が死傷、G中隊は事実上壊滅して撤退する。
作戦変更を余儀なくされる。
米軍は、嘉数の戦い・前田高地での苦戦に懲りていたにも拘わらず「単なるゴミ・ニキビ程度の丘」と称し、またもや
少数部隊で中央突破を試みて墓穴を掘った。
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▲昭和20年5月11日米軍撮影
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その結果、この地が「太平洋の戦場で最も厳しい戦いの1つ」として語り継がれる様になった日米の激戦地となった。
米軍が「どの場所における戦闘よりも苦戦し、太平洋戦争でどの戦場よりも1平方フィート当りの戦死者が多かった」
と言われる犠牲者を出す事となった。
サッカー場数面程の地が、世界史上で最も大量の血を吸い込んだ愚かで悲惨な地となった。
ここを守備していた日本軍は、既に消耗していた第62師団を後方の首里防衛線の最西翼の安里地区に。
知念半島で第2の米軍の上陸作戦に備えていた独立混成第44旅団を北上させて配置した。これまで後方に控えていた
ほぼ消耗の無い、武器・弾薬にも恵まれたフレッシュな部隊、陸軍第44旅団第15連隊であった。
昭和20年5月13日作戦を立て直した米軍は朝から艦砲射撃に合わせ、E中隊とF中隊の2個中隊が丘を攻撃。
更に戦闘爆撃機からロケット弾・450㎏爆弾の投下などで海兵隊を援護。しかし首里陣地からの日本軍の極めて正確な
砲撃で、前日のG中隊と全く同じ状況に陥った。
丘にたどり着いた両中隊は、激しい日本軍の十字砲火を浴びて、後退を余儀なくされた。
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昭和20年5月14日シュガーローフの攻撃を担当していた第22海兵連隊第2大隊は、前日までに消耗していた配下のE中
隊、F中隊、G中隊の全兵力を使ってシュガーローフの攻撃を敢行した。
日没までにF中隊は丘に張り付いたが、激しい日本軍の攻撃の中、大隊本部と連絡が取れなくなってしまった。
大隊幕僚のコートニー少佐は日没後、大隊の残存兵力を結集し丘の救援に向かったが、激しい日本軍の迫撃砲攻撃で
兵力は見る間に減少していった。大隊本部は、深夜になって炊事兵や通信兵、憲兵を掻き集め、丘に送り込んだものの
夜半には丘を維持できなくなり、更に午前3時頃には新たな増援としてK中隊を送り込んだ。
しかし日本軍は攻撃の手を緩めず、頂上部では稜線を挟んで、激しい手榴弾の投げ合いが続いた。
昭和20年5月15日夜明けと共に、第29海兵連隊のD中隊が、シュガーローフの救援に向かい、丘を維持していた部隊
と交代した。しかし視界が利くようになった日本軍は、周囲の丘からシュガーローフに十字砲火を浴びせて、海兵隊を
シュガーローフの周辺部からも一掃した。
この朝、大隊本部を日本軍の迫撃砲弾が直撃し、大隊長・通信兵・戦車中隊長が戦死、配下の中隊長も負傷した。
3日間の戦闘で米海兵隊は400人の死傷者を出した。
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米軍のバックナー司令官は、進撃のスピードが遅いとの各所からの批判に晒されていた。この為、沖縄北部戦線を予定
よりも早く完了した第3水陸両用軍団の第1海兵師団と第6海兵師団を南部戦線に投入し西側から防衛線を突破する計画
を立てていたが、日本軍は、この場所を突破されると首里司令部の裏側に回りこまれて、包囲される恐れが出てきた為、
予備兵力と残った砲兵力を惜しげもなくつぎ込む体制を整えていた。
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一帯は首里高地の日本軍砲兵隊から見通しが効いた為、米軍は常に激しい砲撃に晒された。
日本軍は、シュガーローフ、ホースシュー、ハーフムーンとアメリカ軍が呼んだ3つの丘からなる連携した巧みな防御陣
地を構築し、アメリカ海兵隊を撃退し続け、シュガーローフの丘は戦闘が行われた1週間で11回も持ち主を変えた。
アメリカ軍は、遮蔽物のない中を突撃しこれらの丘に攻撃を加えるしか方法はなく、被害が増大していった。
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昭和20年5月16日ようやく米軍は、2つの丘からなる日本軍の防御網の全体像を把握し始めており、シュガーローフ、ハ
ーフムーンを同時に攻撃しなければ、残った丘から十字砲火を浴びて、撃退されてしまうことに気が付き始めていた。
米軍は戦闘機のロケット弾・ナパーム弾を浴びせ、海からの艦砲射撃。夜は照明弾で殺戮を照らし続けていた。
この日は1個連隊もの兵力を動員しての総攻撃を実施した。しかし、首里高地からの砲撃も含めた、激しい日本軍の攻撃
の前に、支援の戦車隊は次々と撃破され、またしても歩兵部隊は十字砲火を浴びて、撃退されてしまった。
さらに撤退途中の部隊にも容赦なく銃弾が浴びせられ、死傷者は増大していった。結局この日も丘を掌握できずに、第6
海兵師団にとって、最悪の1日となった。
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昭和20年5月17日米軍は東側からハーフムーンを攻撃すると同時に西側からシュガーローフ頂上を目指した。
第22海兵連隊及び、第29海兵連隊の部隊により、再び連隊規模の攻撃を実施。3回頂上制圧を試み、2度白兵戦で追い
返され、3回目にしてやっと頂上を確保したが、弾薬を使い果たした米海兵隊はまたしても日本軍の激しい攻撃により、
160名の死傷者を出してシュガーローフ頂上を放棄せざるをえなかった。しかし日没までにハーフムーンの一部を掌握
し、翌日の攻撃路を確保する事が出来た。
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日本軍も絶え間ない艦砲射撃や空爆、あるいは夜間の斬り込み攻撃により、かなり消耗しており、陸軍正規兵の姿は少
なくなり、小禄地区からの海軍支援部隊や、沖縄の義勇兵が辛うじて戦線を維持している状況になった。
昭和20年5月18日兵員・武器弾薬の補給の無い日本軍の砲火力が目立って小さくなってきた。
▼ハーフムーンには亀甲墓が多くあり、日本軍は陣地豪として利用していた。
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米第29海兵連隊は、前日の攻撃でハーフムーン北側の進入路を確保しており、有利な位置から攻撃を開始した。
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既に日本軍対戦車網も消耗していた為、この日初めてシュガーローフの南側まで戦車隊を前進させる事に成功し、一気
にシュガーローフを占拠、反対側の斜面を戦車隊が掃討し、遂にシュガーローフが米軍側に手に落ち、午前、ついに日
本軍は力尽きた。米第6海兵師団の最後の予備部隊の第4海兵連隊が、投入され、一帯を掌握した。
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ここでの戦闘は、圧倒的な火力・戦力の米軍に対して日本軍が互角に戦ったと言われている。
接近戦になると米軍は砲兵隊や艦砲射撃の支援を受ける事が出来ず苦戦を強いられた。頂上付近の戦闘は、1日に日
米両軍の支配が4回も入れ替わる程凄まじかった。至近距離での銃撃戦・手榴弾の投げ合い・繰り返される斬り込み突
撃の死闘。肉体的・精神的緊張の極限状態の戦いは日米軍双方に多大な死傷者を出した。
▼重傷の海兵隊員を担架運搬者が運び、衛生兵が輸血を施す。
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米軍死傷者2662人と1289人の精神病者、太平洋戦争の全ての過程を通しても、沖縄戦程この種の「精神異常患者」を
多く出した戦闘は他に無かったと言われている。
▼疲れ果てた米兵を写した1枚
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▲現在のシュガーローフ・ヒル。再開発などで辺りの丘は全て削り取られ、激戦の丘を何とか残せないかという事で、
那覇市が頂上に「安里配水池」(給水施設)を平成9年に建設。かろうじてその敷地が残った。
この辺りは道路工事や商業施設建設工事などで当時戦死した日本兵の遺骨が今も出てくると言う。
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▲登った帰りに撮影したので写真が下りで解りずらいが、右手が現存するシュガーローフ・ヒル部分。
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▲小展望台より登ってきた道と安里配水池を見る。安里配水池の半周路を歩く事が出来る。写真の「東横イン」左手辺
りがハーフムーン・ヒルだった。開発などで2009年頃に姿を消した。ハーフムーンはアメリカ軍が戦時中に付けた名で
地元では大道森(だいどうむい)と呼ばれていた。
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▲激戦当時のハーフムーン・ヒル(同じアングルと思って上の写真を撮ったが、近い雰囲気だろう)現在はゆいレールや
 道路・商業ビルなどに変わってしまっているが、激戦当時はこの様な森の丘であった。那覇新都心から直進出来る道
 路を建設する為、ハーフムーン・ヒル全体で工事は行われ、森は重機で削り取られていった。
 ハーフムーンの戦いでの日本兵の奮戦上は記で紹介した通りだが、一回の戦闘が終了すると斜面には無数の日本兵の
 屍が重なり合っていた。後方に運ぶ事も出来ず、翌朝のアメリカ軍の砲撃によって遺体はバラバラにな、人間の形で
 は残らなかった様だ。この斜面から出てきた大半の遺骨は識別できない程に小さな物が多く、身元を特定する事は無
 理だったと言う。その小さな遺骨を最後まで手作業で探し続けたボランティアの方がいらっしゃる。
 沖縄戦遺骨収集ボランティア、那覇市の「NPO法人ガマフヤー」代表 具志堅 隆松さんだ。
 シュガーローフ・ヒル周辺やハーフムーン・ヒル開発工事は市役所の意向に反し何度も中断。具志堅さん達は休日を
 利用し、手弁当1つで遺骨や遺品を収集。遺族にお返ししたい一心の作業は成果を上げ、マスコミが世論を動かし、
 遺骨収集の一定の期間、わずか数ヶ月であったが工事が停止する事になった。
 時間との勝負の中、具志堅さんの選んだ最後の手段としてホームレスの手を借りて作業を行い、沖縄県庁・厚生大臣
 への陳情など勢力的に行動し、市や県を認めさせることに成功した。土の中からの叫びが聞こえますか?YouTube
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▲ここがかつて日米激戦地だった事を伝える案内碑
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▲戦いに散った日本兵のご遺族が訪ねて来たのであろう、松の木に慰霊碑が立てかけてあった。
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▲▼シュガーローフ・ヒルより北方の眺め。
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(当時の沖縄戦に話を戻します)
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▲米軍の爆撃で壊滅的な被害を受けた与那原町にあった日本軍兵舎。

▼制圧したシュガーローフ付近から那覇市街地を見下ろす米軍兵士。10/10空襲で既に街は壊滅している。
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昭和20年5月22日米軍は那覇市街地に侵入、首里司令部に迫りつつあった。日本陸軍第32軍の組織的戦闘力はほぼ
尽き、敗戦は時間の問題となった。
当時沖縄は5月10日までには梅雨に入ったと見られ、5月20日を過ぎると激しい豪雨の日が続いた。
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▲那覇に進撃してく米軍戦車
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▼▲那覇市街地を進撃していく米軍
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▼波之上宮(那覇神社)ここには第32軍司令官 牛島中将以下多くの将兵が戦勝祈願に赴いている。
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▼▲破壊された波之上宮(那覇神社)ここには第32軍司令官 牛島中将以下多くの将兵が戦勝祈願に赴いている。
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▼那覇占領後に波之上宮を見る米兵達。
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▼沖縄戦以前の昭和6年に撮影された波之上宮
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▼那覇市を進撃していくM4シャーマン戦車と第6海兵隊員。
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▼那覇地方裁判所の正門で構える米兵達。(5/28~29日頃米軍撮影)
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▼頭を抱え途方に暮れるた老いた住民を尻目に進撃していく第3海兵団第22部隊の米海兵隊員。
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▼日本兵の死体が横たわる小さな集落を足下に用心しながら歩く海兵隊員。
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▼捕虜となり、幸運にも命を捨てる事無く生き延びた沖縄住民の人達。
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色々な住民達の写真を見るが、本当に見事に女性・子供・老人の姿しか見ない・・住民根こそぎ動員は恐ろしい・・。
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▼この様に戦闘中に捕虜となって助かった女性も、後に収容所で米兵から強姦をうけた例も少なくない。
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▼艦砲射撃と砲兵隊の砲撃で破壊された沖縄県立第一中学校校舎
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▲▼米軍は首里城第32軍司令部付近まで迫ってきた、破壊された昭和10年建築の首里教会が写っている。
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▼現在の那覇市安泊辺りだと思われる。
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▼豊見城アーチ道の脇に立つ第22海兵連隊司令官ロバーツ大佐と第22海兵連隊第3大隊司令官シスラー中佐。
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第32軍司令官牛島満中将以下幕僚達は、「最後まで首里に残って戦うか」「南部へ退却するか」を検討した。
「南部へ退却して決戦」論が大勢を占めたので、結局南部に撤退して戦力を立て直し、持久戦続行を決定した。
この時、長 勇中将は「首里で最後まで戦う」と訴えたが、八原博通大佐の「南部へ退却して決戦」の意見を牛島中将は
採用した。この決定が南部へ避難していた10万人を超える住民を戦闘に巻き込む事となり、惨烈な損害を出す事になる
この時、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日頃に初めて知らされたとされる。
梅雨に入った沖縄では5月26日には88㎜の雨が降り、以降10日間は毎日平均30㎜の豪雨が続いた。
この間戦線は膠着状態となっていた。
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▲身長約120センチという沖縄で一番小柄な具志堅コクエさん(24歳)と並ぶボイド三等軍曹
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▲▼昭和20年5月26日米軽巡洋艦ヴィンセンスからの砲撃で破壊された日本軍の高角砲
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昭和20年5月27日首里司令部を放棄、降りしきる雨の中約4万人の日本軍は沖縄南部の摩文仁を目指して撤退を開始。
摩文仁の新陣地まで約15㌔である。(海軍陸戦隊が第32軍司令部の撤退を支援している)
5月28日には牛島満中将以下幕僚達が摩文仁司令部に到着している。
この時海軍司令部一旦は完全撤退と受け止め、小禄地区の重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍
司令部の撤退を支援せよ」との命令を勘違いしたことが解り、5月28日には再び小禄海軍司令部壕へ引き返した。
▼戦火で焼失する前の首里城正殿(空手演武)昭和13年撮影。
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▼焼失前の首里城正殿入口付近(正殿入口が左側に少し写っている)
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▼現在は見事に復元されている。
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首里城の地下には陸軍第32軍総司令部豪が掘られた。城山の南北直線距離400mを貫通させ、総延長1kmを越える豪
で、壕内部の幅は最大で3m、天井高さは2m内部は丸太で補強され、1t爆弾にも耐える事が出来た。
首里城は、5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け27日に焼失、日米両軍の激しい戦闘
で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。
5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能の重傷兵約5000名が首里城の地下陣地で自決した。
宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還された。
また、所在が明らかになり返還に向け交渉中の物もある。
▼当時の首里上空写真
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▼首里城内に進撃していく米兵達。
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▼▲首里城付近で破壊された日本軍の軽装甲車。
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▼激しい戦闘で破壊し尽くされた首里城。写真右側に継世門が写っている。
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▼沖縄戦以前の継世門。門の櫓や城壁の石垣が沖縄戦でことごとく破壊されたことがよく解る。
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▼正殿入口付近から龍潭池を見渡した写真(昭和20年6月8日米軍撮影)
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▼見事に復元された現在の弁財天堂と龍潭池。
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▼玉御殿城壁のふもとに設置された米海兵隊の司令部。
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▼沖縄戦後の首里 玉御殿。
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▼平成4年11月見事に復元されたが信仰の対象であった御嶽(うたき)には自由に立ち入る事が出来なくなったと言う。
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昭和20年5月31日首里城は艦砲射撃などで無残に破壊され、瓦礫の山と化し500年余の歴史を誇る雄姿も、もはや見る
影も無かった。首里攻防戦線を制圧した米軍兵士は用心深く首里城内に入った。
しかしそこに主要装備は無く、散乱する日本兵の腐敗した死臭が充満していた・・・。司令部豪内に牛島中将/長中将/
八原大佐の姿は無く、自力で南部へ撤退出来なかった自決した日本兵約5000人の死体があるだけだった。
▼現存する司令部豪入口(崩落部分が多く、中に入る事は禁止されている)
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▼入口からカメラを入れて撮影。直ぐ左へ直角に曲って奥に続いている様だ。
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▼米軍が撮影した当時の司令部豪内部
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▼「司令官室」壕内は天井や壁のあちこちから水が浸み出し、滴下することが多い為、天井は波板トタンで水避け対策
 が施され、牛島満中将が使っていたであろう机も写っている。(米軍撮影)
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▼「司令官室」の真上は丁度、守礼門辺りである。
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▼道を挟んで反対側には通信豪と豪入口がある。司令部豪入口は5つあったそうだが今は2つしか残っていないとの事
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▼▲通信豪跡
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▼米軍が撮影した通信豪内部とされる写真。
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▼こちらは沖縄戦で簡易施設内での米軍通信の様子。
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▼5月30日~31日首里に残された残存兵力で夜間斬り込みを敢行。ことごとく戦死した日本兵を眺める米兵達。
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▼首里城に放棄された日本軍火砲。
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5月26日以降10日間は毎日毎日平均30㎜の豪雨が続いた。南部撤退作戦が成功したのはひとえに悪天候のお陰だった。
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▲▼豪雨でぬかるんだ地面にスタックする車両を引き出す米軍。
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▲首里城内への入口の1つである木曳門で眠る米兵。ここまで進軍してきた米軍も当然、相当疲れていただろう。
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▲現在の木曳門で撮影。首里城は平成元年11月~平成4年11月で復元工事が完了した。
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▲戦闘があった場所だと言う事を忘れる程見事に復元されている。教えてもらわなければ古写真の場所とは解らない
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▲首里城内で休息をとる米兵達。
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▲首里城の鐘を見つめる米軍指揮官。
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▲日本軍陣地豪で残していった重要書類が無いか調べる米兵。
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▲首里城内東西にアザナ(物見台)がある。西アザナは一般公開されていて牛島中将も戦況を眺めていた場所だ。
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▲西アザナからは、米軍上陸地点~第1・2・3防衛線まで綺麗に見渡す事が出来た。
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▲首里城公園を見学した時間が夕方前だった為、少々時間が経つと西側の夕暮れの景色が絶景だった。
 海の向こう側に見えるのは慶良間諸島である。那覇空港を飛び立った旅客機も見え、平和な景色に感謝した。

首里城から南へ約5㌔。那覇市南風原町の黄金森に南風原陸軍病院豪が残されている。
沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、昭和19年5月熊本で第32軍の陸軍病院として編成された。6月から那覇市内で活動
を始めるも同年10月10日十十空襲により施設が消失、南風原国民学校校舎に移転する。それ以来第32軍野戦築城部
隊指導の元、字喜屋武(黄金森)と字兼城(現在の南風原町役場北側の丘)に約30の横穴壕が作られた。
米軍の艦砲射撃が始まった昭和20年3月下旬、地上施設での治療を諦め陸軍病院は各壕へと移る。
広池文吉病院長以下、軍医・看護婦・衛生兵ら約350人に加え、昭和20年3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第
一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
昭和20年4月1日の米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第1外科、内科を第2外科、伝染病科を第3外
科へと改める。5月下旬、第32軍司令部は首里司令部を放棄し、更に南部の摩文仁への撤退を決定。
陸軍病院に撤去命令が出される。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われた。
南風原町は平成2年、戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定。平成19年6
月一般公開された。第二次世界大戦の戦争遺跡を文化財に指定したのは日本全国で初めての事だった。
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▲「飯上げの道」沖縄陸軍病院では、黄金森のふもとにある炊事場で調理を行っていた。炊き上がった飯や汁をタルに
 つめ、2人1組で担いで丘の上まで駆け上がるのだが、このルートは米軍の標的とされて激しい銃撃・砲撃を受けた。
▼後で行った南風原文化センターに人形を使ったジオラマが展示してあった。
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▼途中、現在は崩れてしまっている豪口。遺骨収集も出来ていないと言う。
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▼内閣総理大臣 佐藤榮作 書とかいてある・・・。
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▲▼ひめゆり学徒が何度も往復した「飯上げの道」アップダウンのある急な坂道で、かなり豪まで距離があった。
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ここで命を失った「ひめゆり学徒」もいる。危険をくぐり抜け食料を運んで命を繋いだ道は現在も残されている。
▼「飯上げの道」を終えると一般公開されている陸軍病院20号豪がある。
※沖縄で唯一海に面する場所が無い南風原町が艦砲射撃が届かない村として病院豪建設の場所として選ばれた。
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受付の休憩所では希望者に「当時の病院豪内の匂い」を体験させてもらえる(小さなビンの中に復元された当時の匂い
の元が入っている)当時は血・薬・死臭・汗・尿・汚物など様々な匂いが凝縮された耐え難い匂いの豪内だったと言う。
復元された匂いをかがせてもらったがアンモニアか消毒液のキツイ匂いという感想だった・・・。(この体験必要か?)
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▲ガイドさんに中を案内してもらう。
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▼▲入って直ぐに、当時使われていた医療品のビンやツルハシが展示してあった(ツルハシのみの手掘りだ)
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▼ガイドさんの案内を聞きながら懐中電灯1つで奥へ進んで行く(8名1組が交代で掘り続け約2か月で完成させた)
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▼脇には当時の支柱が朽ち果てようとしていた。米軍の火炎放射器で焼かれて焦げたと見られている。
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20号豪の遺骨収集は終わっているとの事。厚生労働省の遺骨収集では、収集作業員の安全を第一に考え、地上から穴
を開け、空が見える状態での収集作業となる為、作業が終わった後放置された豪は崩落して残らなかったと言う。
この20号豪はそういった方法がとられなかった為、そのまま現存していたとの事。
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▼▲ガイドさんと間隔をあけるとこの通り、カメラのフラッシュのみの暗黒の世界。
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▲後で行った南風原文化センターのジオラマ。当時の病院豪内部はこんな感じだった。
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▲▼19号豪へ繋がっていた通路(崩落している為行く事は出来ない)反対側は21号豪への道(同じく行く事は出来ない)
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▲写真に写っているアルミ台の辺りの天井部分に入院していた兵士が書いた文字が残っているとの事。
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▼20号豪から歩いて1分、24号豪入口(貫通していない未完成の豪)があるが崩落部分が多い為公開されていない。
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24号豪は当時、しずくがしたり、中はぬかるんでいた。「ひめゆり学徒隊」70~80人の待機所となってからも豪の奥
では切削作業が続き、落盤の危険がった。酸素が減ってロウソクの火が消えそうになると、上着やフロシキ・毛布など
をふって空気を入れ替えていた。昭和20年4月末には患者の病室として使用された。

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▲これは米軍の病院船レリーフ(USS RELIEF)。沖縄海上に常に待機、万全の治療体制を整えていた。
アメリカは何でも対応が早くて合理的だ。日本は現在でも大震災や自然災害への対応はいつも後手にまわっている。
熊本地震の際、車中泊を続ける被災者を見たアメリカ人は「何故直ぐにキャンピングカーを用意してあげないんだ?」
「アメリカだったら直ちにトレーラーハウスを用意するだろう」と言っていたのが印象的だった。

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▲沖縄県島尻郡南風原(はえばる)町立南風原文化センター(300円)
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▲入口には強烈な印象が残るタイルで描かれた沖縄戦が・・・。
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▲館内には上記で紹介した病院豪のジオラマがある。
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▲手術台の様子
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▲豪内の明かり。
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▲当時の医療用品
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▼日本陸軍第32軍の配置が解り易く書かれている。
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▼奉安殿の実物レプリカ(ほうあんでん)は戦前、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物だ。
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沖縄県には登野城国民学校・美里国民学校・旧謝花国民学校の3基が現存しているとの事だ。本州にもまだ残っている
物もあるが、台湾(台南)にも現存しているとの事。形も色々な形があったと言う。
※旧美里尋常高等小学校の奉安殿は半壊状態ながら「戦争遺跡」として文化財に登録されている。
昭和20年12月15日GHQの神道指令の為、奉安殿は廃止され、奉安殿の多くは、戦後に解体・または地中に埋められた
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▲・・・・痛ましい事だが、事実として起ってしまった以上、知っておかなければならない。
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南風原陸軍病院豪から更に南東へ約10㌔。沖縄県南城市玉城糸数に糸数アブチラガマがある(見学は要予約)
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▼受付を済ませ、専門のガイドさんといっしょにガマの入口に向かう(250円+懐中電灯レンタル代)
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▲おおざっぱであるが、青印が首里城・赤印が南風原陸軍病院豪・白印が現在居る糸数アブチラガマ。
糸数アブチラガマは自然洞窟(ガマ)で、沖縄戦時、元々は糸数集落の避難指定壕だったが日本軍の陣地壕や倉庫とし
て使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となった。
軍医、看護婦、「ひめゆり学徒隊」が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされた。
昭和20年5月25日南部搬退命令により病院が搬退した後は、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態だった。
日本軍から放置された糸数アブチラガマは米軍の攻撃に遭いながらも生き残り、8月22日の米軍の投降勧告に従って、
住民と負傷兵がガマを出た。
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▼ヘルメットを借りて中へと入っていく。オリジナルの入口は崩壊してしまっている為、この入口を見学用に開口した。
 小さな入口でかがまないと入れない。修学旅行生もここから入るとガイドさんがおっしゃっていた。
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中は本当に広かった。撮影禁止の為画像は無いが、かまどや井戸、爆風除けの石垣、自然豪とはいえ、豪内は明らかに
人の手で築かれた物が沢山確認出来る。遺品の数々など入って体験しないと解らない事が満載だった。
特に重症患者が運ばれた墓部屋は異様に広く。ガイドさんの指示に従って懐中電灯を消し、黙祷を捧げた。
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▲ガマを出て出口を撮影。オリジナルの出口は入口より広い。出口付近には監視の日本兵が立っていたと言う。
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▲▼出口付近にもガマはいくつもある、全て中はアブチラガマに繋がっている。負傷兵の墓場だ・・・。
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▼アブチラガマ受付から豪入口までの間に独立重砲兵第100大隊が使用した日本陸軍89式15センチ砲と海軍93式酸素
 魚が展示されている。時間もおしていたのか、ガイド無くスルーされたが写真に収めて帰った。
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以下は案内石版の文章
「八九式十五糎加農砲」昭和四年旧日本軍によって制式化された大砲で開脚式装輪砲架を持ち、遠距離でも命中精度に
優れていた。砲身車と砲架車をそれぞれ牽引車で牽引して移動し、陣地で組み立てて使用したが、準備に1時間程かかっ
たそうである。大里村内には昭和20年3月に旧日本陸軍独立重砲兵第百大隊が布陣した際に、2門が配置された。
しかし沖縄戦においては米軍とのあまりにも大きな物量の差により、その効果は乏しく、一発撃つと何十、何百という
反撃をうけたといわれている。(平成15年12月大里村教育委員会)
砲としては靖国神社遊就館にも展示されている。(平成28年3月移設 南城市)
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▼日本海軍93式酸素魚雷
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以下は案内石版の文章
「旧日本海軍93式発射魚雷」 全長7.55メートル 重量約2000キログラム 発見場所佐敷字津波古1400-1 
発見日時1955年5月12日魚雷は同所で8発発見され、いずれも弾頭部・信管が装備されてなく無事撤去された。
1発は旧佐敷町が管理し2発は県が保管する事となった。(1991年6月8日設置 旧佐敷町) (平成28年3月移設 南城市)


[ 南部戦線 最後の戦い](那覇市)小禄地区海軍部隊の最後・摩文仁の丘~終焉へ。
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南部へ撤退した日本軍は防衛線を、具志頭村玻名城から八重瀬岳・与座岳・高嶺村の国吉・真栄里の東西に敷いた。
具志頭村は戦場となり、住民を巻き込んだ熾烈で残酷な地上戦が6月後半まで続いた。村の人口6315人の4割以上が
犠牲となった。首里から摩文仁へ撤退した日本軍はもはや単なる「敗戦部隊」として、最後の決定的瞬間を待つだけの
存在に過ぎなかった。南部戦線における日本軍将兵と、そこに避難していた約10万人の一般住民は、最後は本島南端
の喜屋武と摩文仁一帯の狭い地域に追い詰められ、身動き叶わぬ事態に陥っていた。全滅は時間の問題だった・・・。
具志頭村民の多くが地元に残り、4割以上が亡くなった背景には、村民が県外や北部などに逃げる事が出来なかった史
実があった。集団疎開の出発日、激しい空襲が始まり中止となった。以後、集団疎開は叶わなかった。
日本軍に避難先として指定された場所が既に米軍に占領されていたり、壕がいっぱいだったりで、住民は右往左往する
しかない現実があった・・・。
昭和20年6月1日日本軍は知念村・玉城村の村長へ立ち退きを命令。しかし、両村に行く途中の港川方面は、米海兵隊
が配備され、桃原には6月に米軍が日本本土へ向けた偵察航空機用に建設した「本部飛行場」(別名 桃原飛行場)もあっ
た。その為、住民達は米戦線を突破出来きず、立ち退きは叶わなかった。

昭和20年6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し、海軍司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。
※海軍小禄飛行場は、現在の那覇国際空港である。
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昭和20年6月5日那覇小禄の海軍司令官 大田実中将より以下の電文が摩文仁司令部に打電される。
「軍主力の喜屋武半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地地帯に拠る(よる)わが海軍の奮闘により、既に成功
したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて小禄地区を死守し、
武人の最期をまっとうせんとする考えである。
ここに懇篤(こんとく)なる指導恩顧を受けた軍司令官閣下に、厚く御礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る」
司令官牛島中将はこの電文を見て愕然となり「武運尽きて玉砕するときは陸軍も海軍も一緒である」と打電し、何とか
撤退させようと「最期を同じくされんこと切望に堪えず。摩文仁へ撤退せよ」と命令するも、大田中将は従わなかった。

昭和20年6月5日夜 海軍司令官の大田実中将は海軍次官宛に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打っている。

昭和20年6月7日米軍は八重瀬岳地区に猛烈な砲爆撃を加えると共に、日本軍独立混成第44旅団の正面に猛攻。
逃げ惑う避難民と日本兵で混乱状態となる。水を汲みに行く泉は、米軍艦砲射撃の集中する場所で飲料水も無かった。
昭和20年6月8日米軍は、糸満・兼城・与座・世名城・富盛・具志頭の日本軍防衛ライン手前に侵攻、攻撃準備を整える
昭和20年6月9日米軍は、糸満の報得川を渡り日本軍前進基地を攻撃するも、待ち伏せに会い撃退される。
昭和20年6月10日米軍が糸満・照屋・与座を攻撃。八重瀬岳~具志頭の日本軍防衛ラインに進出。
独立混成第44旅団正面は米軍戦車16両を伴う猛攻を受け、戦力は大隊長以下約80名となっていた。
特に具志頭・玻名城・安里付近は10日早朝から戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けていた。
米軍は具志頭陣地を制し、安里北側台地にも米軍が進出し安里正面は危険な状況となった。
昭和20年6月11日具志頭陣地に立て籠もる武器弾薬の底をついた日本軍独立混成第15連隊第1大隊が、夜間斬り込みを
敢行し玉砕。米軍は摩文仁を落とさんとすべく沖縄の南部における西部側から、国吉を通って進撃を開始した。しかし、
国吉台地で日本軍陣地(歩兵第32連隊)から機関銃や小銃などが火を噴き、激しい抵抗にあい、米軍は釘づけにされた。

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▲沖縄海軍司令官 大田実中将(千葉県出身)享年55歳
昭和20年6月11日7:00小禄の海軍司令部壕に集中攻撃が加えられる。大田中将は可能な限りの部下を地下壕から脱出
させ、後方攪乱や遊撃戦を命じた。最後の自決に巻き込まない様にとの配慮である。
※これらの海軍将兵が陸軍からの脱走兵と誤解されない様、海軍根拠地隊玉砕の電報と共に陸軍に通知している。
昭和20年6月12日午後、小禄海軍司令部壕上の丘も占領され、海軍部隊最後の時は迫った。
「自力で行動できる者は最後まで生き延びて戦ってくれ」との指示が出された。
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▲海軍司令部豪の通気口を覗き込む米兵、海軍司令部豪はそれまでの米軍の攻撃ではびくともしなかった。
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▲海軍司令部豪入口に白リン弾が投げ込まれた瞬間(米軍撮影)
海軍次官宛、大田司令官の最後の電文。
(発)沖根13:35 ※沖根とは沖縄根拠地隊司令官の事
一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集いしゅうし、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む
(発)沖根16:19
これにて通信連絡を絶つ。
昭和20年6月13日午前1時「総員、脱出せよ!壕は爆破される」との大声での命令が伝えられた。
大田中将以下、幕僚達6名が拳銃で自決する銃声が響いた。小禄海軍司令部壕内で爆雷の爆発音が響き、爆風が押し寄
せ、電気が消えて真っ暗になる。大田実中将は自決を遂げ那覇市小禄地区における海軍の組織的な戦闘は終結した。
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▲小禄海軍司令部壕のある丘の上には慰霊碑がある。昭和28年3月、太平洋戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部
壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まっている有様であった。
壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された。
昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立された。
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▼現在は海軍豪公園として駐車場完備、市民の憩いの場となっている。車を止め、400円を支払い入館する。
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▼海軍司令部壕入口(入口付近は昭和45年3月1日、壕内長さ300mの区域が復元され、一般に公開された)
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▼ある程度下り、振り返って入口を撮影。
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▼50m以上下っていくと、そこからは当時のままの豪だ。海軍らしい綺麗なコンクリートまきの豪内だ。
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▼作戦室
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▼幕僚室(司令官室・作戦室に近い幕僚室は幕僚が手榴弾で自決した時の破片の跡が当時のままくっきり残っていた)
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▼司令官室
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▼壁面には「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」の大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残る。
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以下
昭和20年6月5日夜 大田実中将が海軍次官宛に送った「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報(原文)文中の□部分は不明
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メ
ラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋
ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツ
ツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ
捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタ
ルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動
スルアリ是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキ
ニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島
ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

(現代語訳)
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司
令部もまたその様な余裕は無いと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま
見過ごす事はとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることが出来なか
った。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。
残された老人・子供・女は頼る者がなくなった為、自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれ
てしまって、ただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならない様な場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避
けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者ま
でいる。どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうか
らと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
更に、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転する事を命じられ、輸送手段を持たない
人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、
(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥・(判読不能)
与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らない程の焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
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▼資料館には豪内から出た遺品。やかんや水筒、薬ビンなどが展示してある。
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▼下士官室
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▼発電室
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▼医療室
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▼ツルハシの跡が生々しく残る豪の側壁
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▼資料館には豪内から出たツルハシが展示してある。
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※海軍司令部豪は陸軍の豪と同じく軍極秘の豪だが、海軍は住民を一切動員せず、海軍部隊だけで完成させている
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▲小禄地区の海岸を逃げる海軍部隊の少年兵(隣に射殺された海軍兵が倒れている)
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▲そして捕虜となった。
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▲それを見ていたのか海軍部隊の兵隊が続々と投降してきた。
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▲「やっと終わった・・・」という安堵感が見て取れる。上官次第で生死が決まる。教育次第で国民の生死が決まる。
この写真は沖縄戦が完全に終結した時期では無い。摩文仁では降伏しない牛島中将率いる陸軍部隊が民間人を巻き込ん
で米軍の激しい掃討作戦を受けていた頃である。たらればは言っても仕方ない、死んだ人は帰って来ない・・・。
しかし、もし沖縄守備軍の陸海軍最高責任者が大田実中将だったらせめて民間人は・・・。と、考えずにはいられない。

昭和20年6月12日~14日 12日未明から南部一帯に立ちこめた深い霧を利用するかの様に米軍(3個中隊)が八重瀬岳の
日本軍洞窟陣地に猛攻を開始。(八重瀬岳山頂付近は飲料水が全く無かった)
昭和20年6月15日八重瀬岳方面の米軍は逐次増大し、戦車21両が破壊されながらも東部戦線を突破。
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西部戦線「国吉台地の戦闘」は膠着状態であったが、日本軍兵力(歩兵第32連隊約250名)の消耗も激しく、米軍の戦線突
破も時間の問題となる。
昭和20年6月17日日本軍の抵抗らしい抵抗は止んだが、米軍は13日~17日までの間に1150名もの死傷者を出した。
同日、バックナー米軍司令官からの降伏勧告が届く(11日発信だが届いたのは17日)
以下、バックナー中将が戦死の1週間前に日本軍牛島中将宛に打電した「降伏勧告文書」(日本語訳)

第32軍司令官 牛島満中将閣下へ
牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。
貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。
私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しま
ぬもので有ります。 然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々が使用する所となりました。
この上貴下が、戦闘を継続して前途ある青年達を、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。
私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を、救助せられる事を勧告します。
明12日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待期させます。貴軍に於かれても、軍使5名を選び、白旗を持って同地
海岸に差し出される様、切に望みます。米軍上陸軍司令官 サイモン、バックナー中将より
昭和20年6月11日降伏勧告文

※牛島中将は降伏勧告を黙殺した。
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日本軍は沖縄に一体どのくらの数の陣地豪を掘ったのだろう・・・第32軍防衛築城隊や要塞建築勤務中隊、第2野戦
築城隊など、資料を見る限りで確認出来るが、撤退決定後の陣地構築も含め、土方仕事の比では無かったであろう。
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▼米軍が撮影した日本軍のロケット砲陣地豪
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資材不足だったのか丸太などの木で組まれた場所が多い。
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硬い珊瑚岩を掘ったり、大変だったであろう・・・「硫黄島」で掘られた陣地豪規模ではなかろうか。
「ガマ」と呼ばれる自然豪も多いが、病院豪も含め、数で言えば太平洋戦争の戦地では最高数ではなかろうか・・・
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ほとんどの豪が、それぞれの戦地となった丘の中腹の地下で繋がっていたと言う。
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※日本軍陣地豪の画像は全て沖縄戦で米軍が撮影した物、場所の特定は困難だが本島に築かれた豪と亀甲墓だ。
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▲この豪は伊江島で撮影された写真。補給物資・武器・弾薬などの倉庫替りとしても利用された。
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巧妙に築かれた日本軍陣地豪は戦車でないと危険過ぎて近づくことは困難であったと言う。
米資料には「航空機や火焔戦車で休まず攻撃を加え、戦意を喪失するまで17日になっても進撃は無理であった」とある。
しかし、国吉・与座・八重瀬・具志頭の日本軍防衛ラインを殲滅。一気に喜屋武と摩文仁一帯になだれ込んだ。
結果、国吉陣地は米側の手に落ち、最後の防衛線の与座・八重瀬岳陣地も陥落し日本軍は事実上沖縄戦に敗北した。
国吉戦線含め17日までに各戦線の防衛隊は八重瀬岳方面の独立混成第44旅団は6月14日までにほぼ全滅。
6月15日頃には、摩文仁第32軍司令部への侵攻を防ぐ為に第62師団は全力反撃したが、残存戦力の大半を失った。
喜屋武地区の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。各戦線が崩壊した日本軍はそ
れらを埋める兵力・武器弾薬は無きに等しく、日本軍は潰走を重ねるのみとなる。

昭和20年6月18日米軍司令官バックナーが糸満市真栄里にて日本軍の迫撃砲を受け戦死。
バックナー中将は沖縄に侵攻した米上陸軍の最高司令官で優秀な人物だった。4/1沖縄に上陸して以降、地上戦の指揮を
執った。日本軍が南部に追い詰められ、勝負の見えた6/18南部の真栄里地区を前線視察中に日本軍の15センチ榴弾もし
くは小銃の狙撃により戦死した。(日本では松田定雄氏による、小野一等兵による狙撃説が有名)
太平洋戦争で戦って戦死した米軍指揮官の中では最高位の戦死者となり、山本五十六大将の戦死に匹敵するような衝撃
だったと思われる事件となった。
日本側証言によると小銃による狙撃説が有力で、実際この付近で第96師団副師団長イーズリー准将や第6師団383歩兵
連隊のメイ連隊長(大佐)も日本兵の狙撃で戦死している。この頃になると米軍にも気の緩みがあったのかも知れない。
しかし、同じ場所で数日の間に米軍高官が3名も狙撃されて戦死した事は、他の太平洋の戦場ではありえない事だった。
米軍司令官バックナー中将戦死後、『動くものは何でも撃ち殺せとの米軍の命令』の結果、戦場はいっそう悲劇的な実
相になっていく事になる・・・。
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▲サイモン・ボリバー・バックナー・ジュニア中将(Simon Bolivar Buckner, Jr)ヘルメット黒点の人物
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▲司令官を失った米兵達の中で日本軍に対する憎悪と怒りが噴出した事も事実である。
 沖縄戦の戦場で木に吊るされた日本兵の首。
▼「山形の塔」からほど近い場所にバックナー中将が戦死した場所がある
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▼▲投降する日本軍兵士。服装に注目 この様に沖縄住民の服を着て民間人に偽装して戦う日本兵もいた。
当然その逆もあり得る訳で、民間人に紛れて逃げていた日本兵も居るだろう。極限状態では国民を守る事が兵士の仕事
である事など考えていられなくなるのであろう。ガマで日本兵に脅されたり自決を強要された住民の証言も理解出来る。
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昭和20年6月17日島田叡沖縄県知事が、摩文仁の司令部豪に牛島司令官を陣中訪問したが、軍の命運もこれまでと察し
6月18日随行して来ている荒井警察部長他4名の役職員を道連れするに忍びず、自由行動を命令して軍医部所在の壕よ
り去った。 しかし、荒井警察部長は残留し、島田知事と共に自決し共に殉職した。
島田叡沖縄県知事は明治34年12月25日生(兵庫県神戸出身)享年42歳、立派な知事であった。
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▲愛知県警察部長時代の島田一家。
※昭和18年7月~昭和19年1月までは日本軍と意見が対立する事も多かった泉 守紀沖縄県知事だった。

昭和20年6月18日沖縄県民と日本軍将兵は、米軍に追われ南下を続ける。
この日「ひめゆり学徒隊」に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した
(死亡者の内、実に80%がこの間に集中している)最終的には教師・学徒240人のうち136人が死亡。
その内の10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸 伊原の壕内で集団自決している。
また、隣の洞窟でも米軍の銃乱射で3名が死亡、3名が重傷を負った。
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▲昭和19年春に撮影された野田校長を囲む様に写真に収まる沖縄県女子師範学校の生徒達。
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▲写真に収まる沖縄県立第一高等女学校か沖縄県女子師範学校の女学生。
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▲6月12日包帯など衛生材料や手投げ弾の入ったカバンを持って走り抜けようとした学徒看護婦が米軍に射殺された。
 「ひめゆり学徒看護隊」に解散命令が出されたのは、この約1週間後だった・・・。
 沖縄戦で動員された女子学徒隊は10校およそ500人、本島南部でほとんどの学徒隊が半数近くの戦死者を出した。
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▲日本全国から約2億円の寄付で建てられた「ひめゆり平和祈念資料館」にも立ち寄った(沖縄県糸満市)
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▲伊原第三外科壕の横にひっそりと昭和21年4月7日に建てられた「ひめゆりの塔」がある。
 「ひめゆりの塔」は戦死した生徒の親達によって壕が発見され、遺骨が集められて建てられた慰霊碑の事。
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▲伊原第三外科壕。通称「ひめゆりの洞窟」は、米軍にガス弾を投下され、ここに避難していた約100名の内約80名が
 死亡した。ひめゆり学徒もここで50名中42名が亡くなっている。
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▲▼訪れる人は少ないらしいが、近くに伊原第一外科壕が残っている。
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昭和20年5月27日頃ひめゆり学徒が入っている。
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▼▲6/17至近弾が着弾、この豪は米軍の火炎放射を受け、中に居た女学生2人が亡くなっている。
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▲摩文仁司令部豪のある辺りの丘から撮影したものと思われる。摩文仁は本島の南端、もう直ぐそこは海である。
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▲現在のほぼ同じ位置を摩文仁の丘から撮影。
昭和20年6月20日第32軍司令部豪付近の残存兵力で最後の総攻撃を仕掛けるもほとんど全滅。
昭和20年6月21日米軍、摩文仁を占領。午後遅く、司令部豪の中で牛島中将と長中将の自決について話し合われた。
「司令官達は洞窟内で自決すると珊瑚岩が固く、埋める事が出来ない。それに敵に直ぐ発見される危険と腐った死体が残
ると不様だ。高地頂上で自決して頂き、死体はそのまま海に投じて水葬とした方が良い。」との結論を出し、6月22日夜
半を期して、司令部豪内の将兵で摩文仁高地頂上を奪還し、6月23日未明に頂上で自決する事が決まった。
昭和20年6月22日米軍は司令部豪の通気口から手榴弾を投げ込み、馬乗り攻撃を仕掛ける。
米兵が投げ込んだ手榴弾の爆発で牛島中将は足や腕を負傷した様だ。最後の時は迫っていた。
6月22日晩には最後の晩餐会が開かれ、とっておきのウイスキーが開けられ、残っていたパイン缶もすべて開けられた。
通りかかる将兵や少年兵(鉄血勤皇隊の中学生)に牛島中将は、パインをフォークにさして差し出す。
少年兵(鉄血勤皇隊)それを押し戴こうとすると、「口を開けなさい」と言って一人ずつ口に入れてあげたと言う。

しかしながら摩文仁高地頂上奪還は米軍の頑強な反撃で失敗。その為6月23日04:30頃、牛島中将と長中将はやむなく
司令部豪出口付近にて青酸カリで自決。05:30頃米兵によって丘の頂上付近に運び出されて遺骸にはシートを被せてあ
ったと言う。その3日後には埋葬された様だ。
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▲自決後の写真。手前が長中将、奥が牛島中将。頭をつき合わせた状態で横になって死んでいる(米軍撮影)
長中将は酒豪であったので自決間際も飯盒の蓋一杯の酒を飲んだと言う。そして介錯は坂口勝副官であった。手前の長
中将の耳の辺りに白い布の様な物がかけてあり、坂口勝副官が介錯した事が写真を見るとよく分かる。牛島中将は負傷
して衰弱しており、痛み止めのモルヒネや麻薬で既に意識が朦朧とした状態での自決だった様だ。
[第32軍司令官 牛島満中將 訣別の辞]
大命を奉じ擧軍醜敵撃滅の一念に徹し勇戰敢鬪茲に三箇月、全軍鬼神の奮戰力鬪にも拘はらず敵の攻勢を粉碎する能
はず、事態正に危急に瀕せり麾下部隊本島進駐以来現地同胞の献身的恊力の下に鋭意作戰準備に邁進し來り敵を邀ふ
るに方つては航空部隊と相呼應し皇土沖縄防衛の完壁を期したるも満不敏不徳の致すところ事志と違ひ遂に負荷の重任
を継續する能はざるに至れり上 陛下に對し奉り下國民に對し眞に申訳なし、事茲に到れる以上残存手兵を提げ最後の一
戰を展開し阿修羅となりてなほ敵兵を撃殺せん存念なるも唯々重任を果し得ざりしを思ひ長恨千歳に盡るなし最後の決
鬪に當り既に散下せる麾下将兵の英靈と共に 皇室の彌榮を祈念し奉り皇國の必勝を確信しつゝ或は護國の鬼と化して
敵の本土來冦を破摧し、或は神風となりて天翔り必勝戰に馳せ参ずべき所存なり
茲に従來の御指導、御懇情並に作戰恊力に任ぜられたる各上司並に各部隊に對し深甚なる謝意を表す、遙かに微衷を披
瀝し以て訣別の辞とす

 秋を待たで枯ゆく島の靑草は皇國の春に甦らなむ
 矢彈盡き天地染めて散るとても魂がへり魂がへりつゝ皇國護らむ

(現代語訳)
(前略)
最後の決闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国必勝とを衷心より祈念しつつ、全員
あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。
戦雲碧々たる洋上なお小官統括下の離島各隊あり。何卒よろしく御指導賜りたく、切にお願い申上ぐ。
ここに平素の御懇情、御指導並びに絶大なる作戦協力に任じられし各上司、各兵団に対して深甚なる謝意を表し、遥か
に微衷を披瀝し以て訣別の辞とする。

 秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ
 矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん

そして、配下将兵に「鉄血勤皇隊を率いてゲリラ戦に出よ」「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、
最後まで敢闘し、悠久の大儀に生くべし」と、死を賭して戦うよう命令した。
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▲私が登った摩文仁の丘への入口。少々キツイ階段ではあるが摩文仁の丘まで登る事が出来る。
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▲階段上り途中で北側を望む。
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▲▼「義烈空挺隊」の慰霊碑もあった。
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他沢山の慰霊碑が並び、それぞれの敷地は各県や府の所有地となっており、沖縄戦で戦死した各県・府の出身者の霊
を祭っている。これだけ広い敷地に各都道府県が所有する慰霊碑が並ぶ光景は今だかつて見た事が無かった・・・。
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▼摩文仁司令部豪に向かって更に登っていく。
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▼摩文仁の丘終点地点には、牛島中将の座って自決する後姿を模した石碑が建っている(実際は青酸カリで自決)
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▼自決した牛島中将と長中将が米兵によって埋葬された場所には慰霊碑がある。石碑には摩文仁司令部で戦死した方
 のお名前が刻まれている(最後まで司令部に居ながら捕虜となった八原博通大佐の名は当然無い)
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▼当時の同じ場所。(牛島大将と長勇中将の墓の前に立つ日本兵捕虜。昭和20年6月28日米軍撮影)
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▼慰霊碑の横に少し下っていく道がある。2人が自決を遂げた第32軍最後の司令部豪跡へ行く道だ。
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▼更に下った場所に司令部豪の入口が見えた。しかし、当時よくこの様な自然豪を見つけたものだ・・・。
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▼司令部豪入口、これ以上は入る事が禁止されている。
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昭和20年6月23日米軍が戦闘終結を告げてもなお抵抗を続ける日本兵の掃討戦を開始。
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掃討戦は米軍が沖縄作戦終了を宣言する7月2日まで続いた。
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司令官らは住民の保護について米軍と交渉する事もせず、砲煙弾雨の中に住民を放置したまま自決した為、摩文仁~
喜屋武の海岸一帯は、数万の一般住民が右往左往し、逃げ惑っていた。
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▲6/23「ずいせん学徒隊」が捕虜となった(県立首里高等女学校61名で編成され、第2防衛ラインの南風原、浦添など
の激戦地の野戦病院に勤務していた。内33名が死亡、そのほとんどが島尻(首里撤退後の本島南部)で命を落とした。
海上からは狙い撃つ米軍艦船の機銃掃射と陸上を攻めてくる米兵の機銃や火炎放射に追われ、自決も至る所で起こり、
その様相は、さながらこの世の最後の様だったと言う。
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▲▼海上と陸上から投降を促す米軍。
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▲5月27日豊見城野第2戦病院壕から糸洲壕へ撤退して来た「ふじ学徒隊」にも、6月26日解散命令が出される。
隊長だった小池勇助軍医少佐が学徒へ最後の訓示「必ず生き残れ、親元へ帰れ」と言い残し、青酸カリで自決。
ふじ学徒隊は2~3名ずつ組を作って壕を脱出し、ほとんどが米軍の捕虜になる。
しかし、最初に脱出した3人は日本軍と米軍の交戦に巻き込まれ戦死した。
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▲積徳高等女学校の生徒25名で編成された「ふじ学徒隊」は3/23陸軍第24師団豊見城野第2戦病院壕に配属された
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▲▼米軍の南部掃討作戦で投降した日本兵(ご苦労様でした)
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▼▲対照的に射殺されたり、火炎放射で顔の原型無い状態で戦死している日本兵。
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▲放置された住民の恐怖と苦労は計り知れないものだったであろう。現在も軍は信用出来ないという感情は十分理解出
 来る。司令官達の無責任な自決が、その後の沖縄県民にどれほどの苦痛を与えたであろうか。これが悠久の大義か?
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▲▼投降した日本兵(ご苦労様でした)
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さて、自決したのは牛島中将と長中将の2名だ。作戦指導の中核の一人、八原博通大佐はどうしたのであろう?
実は八原博通大佐は自決せず、沖縄住民の服を着て住民に紛れて捕虜となり、尋問の際、沖縄語が解らない八原を不審
に思った米軍は、沖縄住民に尋問を担当させる。その時、八原は沖縄住民に「大本営に援軍を求めるので通信させろ」
と言ったと言う。直ぐに住民が米兵に伝え、結局、住民に偽装した八原博通大佐の身元は米軍の知る所となった。
八原は昭和21年に復員。第32軍の残務整理部長となって千葉に赴任したりしていたと言う。
八原博通は戦後『沖縄決戦 高級参謀の手記』を出している。1度読みたいと思っている。
沖縄守備軍司令官は牛島満中将、参謀総長は長勇中将だったが、実質的に戦略を主導したのは高級参謀八原博通大佐だ
った。長勇中将とは反りが合わなかった様なので、自決をどう見ていたのか、南部撤退をどうふり返ったのか非常に気
になるところだ。
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昭和56年5月7日永眠

昭和20年7月2日米軍が沖縄作戦の終了を宣言した。
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▼昭和20年7月3日戦利品を見せ合うボーウェン上等兵とデービットソン上等兵(第96師団第383歩兵部隊K中隊所属)
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▼昭和20年9月7日嘉手納基地(元陸軍中飛行場)において、南西諸島の全日本軍を代表して宮古島から第28師団(豊部隊)
師団長 納見敏郎(のうみとしろう)中将他、奄美大島から高田利貞陸軍少将・加藤唯男海軍少将らが参列し、米軍に対し
て琉球列島の全日本軍は無条件降伏を受け入れる旨を記した降伏文書に署名した。
これに対し、米軍を代表して、スティルウェル大将が日本軍の降伏を受諾・署名し、沖縄戦は公式に終結 した。
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※宮古島(第28師団)納見敏郎中将は武装解除、復員業務の見通しをつけた後、昭和20年12月13日任地で自決した。
 宮古守備軍(陸海軍合わせて約30000人)の武装解除・降伏調印は昭和20年9月26日であった。
 宮古島(第28師団)は旧満州から宮古島に移って来た部隊。

国吉台地(現 糸満市真栄里地区)は山形県出身者で編成された歩兵第32連隊が守備していた。
第32軍司令部消滅後は、国吉台の洞窟で過ごす。昭和20年8月15日終戦~8月22日アメリカ軍軍使と接触。
8月23日生存将兵約50名が敬礼するなかで軍旗奉焼(現在の「山形の塔」)この場所は、「白梅学徒看護隊」が解散後、
46名の生徒達が数名ずつに分かれて南部へと逃げた際、国吉に後退した第24師団第1野戦病院壕に迎えられて勤務を
続けていた病院壕にほど近い場所である。その女子学徒達も6月21日~22日の米軍の猛攻によって犠牲となった。
沖縄県立第二高等女学校4年生56名の生徒の内22名が戦死している。
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▲▼「白梅の塔」の敷地内には、白梅学徒隊16名が勤務を続けた第24師団第1野戦病院壕が今も残っている。
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▼八重瀬岳にある八重瀬公園には白梅学徒隊が勤務を続け、昭和20年6月4日解散命令が出された「第24師団第1野戦
 病院手術場壕」が現在も残っている。
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▼手術豪前には中にすら入る事が出来ない沢山の負傷兵がうめき声を出しながら横たわっていたと言う。
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「白梅学徒隊」の生存者の方達が証言なさっています。白梅学徒隊員沖縄戦を語るYouTube
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(話を歩兵第32連隊に戻します)
軍旗を奉焼した地には山形県産の石材が使用された「山形の塔」が建てられ、沖縄県をはじめ海外諸地域において戦没
した山形県出身者4万余柱の諸霊を祀っている。敷地は山形県が所有し合祀者数は40834柱で納骨はされていない。
現在も山形県の委託によって公益財団法人沖縄県平和祈念財団が管理し、慰霊祭が毎年行われている。
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▲「山形の塔」入口、入って直ぐ右手に柵がある。この下が歩兵第32連隊の陣地豪である(侵入禁止)
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▲この陣地豪からも多くの遺骨が発見された。
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▼「打ちひしがれたこの日本兵捕虜は、有刺鉄線の囲いの中でがっくりと座っている。
 彼を含む306人の捕虜は、沖縄戦終結までの最後の24時間で第6海兵師団に捕らえられた。
 日本陸軍、海軍、沖縄防衛隊の兵士らがこの囲いに拘束されていた」 (6月小禄にて米軍撮影)
 と、米軍が撮影した写真の説明に書いてあった・・・。本当にご苦労様でした。
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▼ 第6海兵師団の憲兵の監視のもと、検査のために1列に並ばされる投降した3人の日本兵捕虜。
 左右の2人はぼろぼろの軍服を身につけ、1人は沖縄住民のの着物を着ている。(6月小禄にて米軍撮影)
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※小禄で撮影されているという事は、大田中将率が逃がした海軍陸戦隊の兵士かもしれない・・・。
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▲同じ小禄での日本兵捕虜の写真。「カメラを向けると顔を伏せる3人の日本兵捕虜」と説明書があった・・・。
死ねなかった自分に引け目を感じているのであろう・・・何とも言えない写真だ。でも「ご苦労様でした」と言いたい。

沖縄戦当時の鈴木首相は戦後の回顧談の中で「沖縄の日本軍が敵を一度海中に突き落としてくれたら、これを契機とし
て具体的平和政策を開始しようと考えていたが、期待に反して沖縄守備軍はそうしてくれなかった」と述べた。
後にそれを知った八原博通大佐は「いやしくも一国の首相が、沖縄戦にこんな期待を寄せていたとすれば、沖縄の実情
をご存知なかったものと言わねばならぬ。沖縄戦においては、現地の首脳は戦闘開始数ヶ月前から希望を失っていた。
決戦は本土でやると公言し、沖縄守備軍は本土の前進部隊だと断じておきながら、現地軍に決戦を強いて本気で戦勝を
期待するのは本末転倒も甚だしい」と、反論している。
八原博通大佐は、大本営と現地守備軍との間には正反対に近い意志の乖離(かいり)があったことを指摘、その裏事情
を明らかにしている。彼によると、沖縄戦の始まる前年あたり以降、上は参謀総長から、下は参謀本部部員に至るまで、
1人として沖縄に直接視察に来たり、将兵を激励しに来たりした者はいなかったと言う。
それどころか、沖縄方面の作戦について現地の作戦主任である八原大佐自身とさえ親しく膝を交えて談合した大本営関
係者は1人もいなかったらしい。しかもその本当の理由は、10/10空襲で那覇市の遊郭が全滅して享楽に耽る事が出来
なくなった事、南西諸島の海域に米軍の飛行機や潜水艦が多数出没し始め、身の危険を感じたからであったと言う。
八原大佐は更に、大本営の幕僚たちのこの無責任な態度は、米国の場合とはあまりにも対照的だったと述べている。
米国などでは、大統領や首相が自ら前線に出かけて将兵と語り合い、国政方針と戦争現場の実態との調整をは図るのが
常だったが、当時の日本政府や大本営首脳にはそんな配慮などまるで欠けていたと言う。
結局、大本営は、自らが導いた沖縄作戦に見切りをつけて増援部隊を送ることを辞め、沖縄本島守備軍、南西諸島海軍
部隊、更には動員された多数の沖縄住民総力をあげての戦いをみすみす見殺しにしたという結末になった。
昭和20年5月5日の司令官牛島満中将が総攻撃中止を命令して以降、「最後まで首里に残って戦うか」
「南部へ退却するか」を検討した際、長 勇中将の「首里で最後まで戦う」の意見を退け「南部へ退却して決戦」の意見
を通した八原博通大佐は、結局、摩文仁の司令部豪で自決せず、戦後の時代をのうのうと生き、生涯を全うしている。
この決定が南部へ避難していた10万人を超える住民を戦闘に巻き込み、更に悲惨な沖縄戦終結の結末を招く事になった
実質的な作戦の指揮官が八原博通大佐だった事を思うと、どこかに責任逃れの匂いがしないでもない。
ま、敗戦後自決しなかった司令官や高級参謀は皆、責任逃れを主張した腐った連中ばかりだが・・・。
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▲昭和25年11月米陸軍通信隊が撮影した沖縄本島南端の崖「慶座絶壁」(ぎーざばんた)。沖縄のスーサイド・クリフ
 (Suicide Cliff)と呼ばれた崖は、サイパン・テニアン同様数千の人が身を投げ、自決した。
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▲沖縄戦終結後に撮影された1枚。米軍機を修理する米兵を眺める沖縄の子供。生きていてくれて本当に良かった。
 サイパン・テニアンなどでも、この様な戦い終結後の子供達の写真を見た事があるが、本当に子供は純粋で強い。
 子供の教育がいかに大事かを思い知らされる1枚である。
 
沖縄の原則とは「ぬちどぅ宝」。ぬちどぅ宝とは「命は尊い」という意味だそうで、武器や暴力を嫌う昔からの沖縄人
の表現だと言う。(あえて沖縄人という表現を使わせてもらった)
日本全国の出生率ランキング TOP10の内、2位~4位までを占める沖縄県、少子化問題がよく取りざたされる日本。
沖縄戦そして沖縄県から学ぶ事は多いのではないだろうか・・・。
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続く
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 2016_08_15


ずっと行きたかった場所、愛媛県西条市にある楢本神社。
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ここには神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長 関行男大尉の墓碑があります。
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「敷島隊」が突入した当時の新聞は朝刊1面で「身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じた。
関大尉は命令を受けた際「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したとされるが、 報道班員だった小野田政特
派員は、出撃を控えた関大尉とのやり取りを回想録「神風特攻隊出撃の日」の中でこう記す。
関は腹立たしげにこういった。『日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』
『ぼくは最愛のKAのために行くんだ。 命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。
最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!』と。
関大尉は戦時中当時(昭和19年)新婚5カ月。KAは海軍用語で妻を指しその言葉からは苦渋に満ちた決断が伝わる。
特攻隊員が愛する者を守り、国の行く末を案じる気持ちが行動の芯であったのはまぎれもない事実だが、
美辞麗句で片付ける前に、生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。
ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、遺族を取り巻く環境も一変した。

関大尉の母サカエさんも敗戦後「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。
関大尉の奥様は再婚。母サカエさんの関家は訪れる人もなく、日々の生活にも事欠く様になり、衣類を闇米に代え、
草餅を作って売り歩いた。晩年は西条市の小学校に住み込みで働き、昭和28年11月還暦を前に亡くなり関家は断絶。
意識が混濁する床で、「行男の墓を建ててください」 とつぶやいて息を引きとったという。
昭和56年、ようやく神風特攻隊「敷島隊」関行男大尉(死後中佐)の慰霊碑を建立。
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戦後日本の世相は、国の為に散華した軍神に対して冷たいもので、永らく墓すら作らせなかったのである。
昭和54年「大東亜戦争・特攻記念館」が出来、しばらくは開館していた様だが、今回の訪問時、近くに住む友人に、
何とか見学出来ないものか?と頼み、管轄の市役所に問い合わせてもらったが、返答は「訪れる人が無く、長らく閉館
しているので、開けるのは難しい」との事で見学する事は叶わなかった。
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何と冷たい国だろう・・・楢本神社の宮司さんのご尊父は、かつて海軍兵学校で教官をされていたとの事で、五軍神の
遺品の収集や、慰霊祭で海上自衛隊の協賛をなさっているそうだ。折角に遅ればせながらも墓碑と特攻記念館が出来た
のに訪れる人がいないから閉館とは・・・・。国の為に命を捧げた英霊に感謝する気持ちを日本人は忘れてしまったの
だろうか・・・。日本は必ず良い方向にはいかない。そして日本人はいつまでたっても外圧が無ければ何も変わらない。
左翼も右翼も無い。最前線で戦ってくれた英霊は只々日本の為に戦ってくれた、悪い事など何もしていない。
日本の為に戦ってくれた英霊に対して感謝する気持ちは絶対忘れてはいけない。
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▼関大尉の墓碑を囲う様に置かれた250㌔爆弾型の石碑には「敷島隊」隊員の名が記されている。
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 2016_08_12


明治時代、対露戦国土防衛として。そして舞鶴軍港を守る沿岸砲台として建設された舞鶴要塞の一角、
金岬砲台跡/槙山砲台跡に行ってきました。

「槙山砲台」着工1898年(明治31年11月)→竣工1901年(明治33年10月)昭和20年終戦まで稼働。
道の駅 舞鶴港とれとれセンターの交差点を北へ。舞鶴湾沿いに車で約20分。槙山公園の看板を目印に山側へ細い
道を登って行くと槙山砲台跡にたどり着きます。車で行ける比較的楽な場所ですが、道が細い為、対向車に注意が必
要です。(今回1台だけ対向車に出会いました)
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▼道中はこの様な時代を感じる小橋がいくつもあります。砲台建設当時に整備された軍道と思われます
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どのくらい登ったでしょうか、距離はあまり無い様に思いますが道が細いと遠く感じますが無事頂上付近に
到着すると、NHK中継アンテナと槙山砲台跡が見えます。駐車スペースがあるのでここに駐車しました。
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この砲台は28センチ榴弾砲が6門、15センチ臼砲が4門設置されていたそうだ。砲座跡は草木が多く、侵入しても良い
写真が撮れそうにもなかったので近づかず、掩蔽部を見学してまわりました。
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▲▼1つ目の掩蔽部右手階段を上って奥に行くと舞鶴湾入口の素晴らしい景色が広がります。
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▲パラグライダー滑空地点より撮影、パラグライダーは経験あるのでここでも飛んでみたい!
不謹慎にも「桜花」発射レールを思い出していました。ここが太平洋側だったら間違いなく設置されていたでしょう。
当日は曇っていましたので良い絵になりませんでしたが、雨の予報を覆しての曇りだったので感謝です。
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▼明治時代に築かれた掩蔽部は何処も同じ様な作りですが、その場所によって地形に合わせた建設で感動します
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▼▲3連掩蔽部はいいですね~。
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▼3連掩蔽部が見学最終場所で、その脇道から奥へ少し行けます。ここも景色が良いです。
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「槙山砲台跡」見学後、次は「金岬砲台跡」に向かいます。
▼元来た道を下っていくと、キツいヘアピンカーブがあります。ここで車を止めて歩きます。
カーブミラーが設置されていて駐車スペースがあるのはここだけなので解り易いと思います。
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▼大き目の木が倒れている場所から入って行きます。
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途中極端に狭くなっている場所や、倒木を乗り越えたりして少々厳しい行軍ではありますがなんとかなります。
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▲以前にトレッキングに来られた方がご親切にロープを設置してくれてます、有り難いです。
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▲20分程歩いたでしょうか、当時の営門が姿をあらわします、暑さで疲れましたが感激です。
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▲井戸か?兵舎の基礎か?色々遺構を見た先には掩蔽部が出迎えてくれます。
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▲金岬砲台の砲座跡は比較的見易いです。落書きなども無く非常に状態は良い100年以上前の遺構!
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▲ここは5連掩蔽部があった・・・。素晴らしい!中は全て繋がってます(当然空っぽですが)
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▲5連掩蔽部の前には何やら建物跡の遺構。
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▲更に登っていくと・・・、またあった!2連掩蔽部
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ここまで資材を運んでくるのは軍道が整備されていたとはいえ大変だっただろう・・・。
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▲▼2連掩蔽部の上には見張り場所?
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▲本当に綺麗に作られている。100年以上前の遺構とは思えない程
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▲枯れ葉で埋もれかけの砲座跡。「槙山砲台」と同じく着工1898年(明治31年)→竣工1901年(明治33年)
 舞鶴要塞の中でここ、金岬砲台のみが昭和9年に廃止された様です。
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舞鶴湾入口の防衛として21センチ砲4門、15センチ砲4門が設置された金岬砲台。短い期間と言っても、明治33年~
昭和9年・・・1901年~1934年の33年間、明治/大正/昭和と、激動の日本史を見てきた砲台なんですね。
金岬砲台廃止2年後に日中戦争が始まり太平洋(大東亜戦争)へ・・・、航空機の時代になっていったという事ですね。
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▲砲座はしっかり4門残っていました。砲が無い以外は全て当時の面影を残しています。
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▲画像は(芸予要塞)愛媛県今治の市小島で撮影した物。「坂の上の雲」のロケで使用されたレプリカ。
 芸予要塞は24センチ砲で、舞鶴要塞より強力ですが、似た様な砲が設置されていたのでしょう。
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▲砲座跡の下にはしっかり掩蔽部
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半地下にレイアウトされた掩蔽部は何処の要塞跡を見てもいいですね~。
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▼オタマジャクシが沢山泳いでました。
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もっともっと時が経てば自然に埋もれてしまうだろう・・・。年に1度ぐらいは大掃除してあげたいと思う遺構でした。

今回舞鶴訪問は前日7/16入で舞鶴地方隊サマーフェスタ2016も見学しました。その時の画像も少し紹介して終りです
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▼陸上自衛隊の軽装甲機動車に体験搭乗出来た、悪路での乗り心地の良さが体験出来た。
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▼海上自衛隊 第23航空隊
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▼海上自衛隊舞鶴地方隊に現存する「大講堂」昭和8年10月完成(現在は海軍記念館として見学可能)
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軍が国民を威圧し、支配するのはいけませんが、敗戦国と言えど国防は必要(常識)でしょ!?
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 2016_07_17


昭和20年2月19日~3月26日に日米が激突した「硫黄島の戦い」は、映画「硫黄島からの手紙」等で有名だ。
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▲昭和20年2月19日硫黄島に上陸作戦を開始する米軍。
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小笠原方面陸海軍最高指揮官「栗林忠道陸軍中将」率いる日本軍の奮闘は周知の通り。
昭和20年2月19日米海兵隊第1波が硫黄島に上陸を開始した。この時、栗林陸軍中将の命令を無視し、応戦砲撃を
行った日本海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し、全滅した。日本海軍の指揮官は「市丸利之助海軍少将」
戦いの最後に市丸利之助少将が残した「ルーズベルトニ与フル書」も忘れてはいけない。
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▲市丸利之助海軍少将(いちまるりのすけ満53歳没)

『ルーズベルトニ与フル書』(現代語訳)
日本海軍市丸海軍少将が 「フランクリン ・ルーズベルト」 君に書を宛てる。
私は今、我が戦いを終えるに当たり一言貴方に告げることがある。

日本国が 「ペルリー(ペリー)」提督の下田入港を機とし、広く世界と国交を結ぶようになった時より約百年の間、
国の歩みは困難を極め、自ら欲しないにも関わらず日清戦争、日露戦争、第一次欧州大戦(第一次世界大戦)、満州事
変、支那事変を経て、不幸にも貴国と交戦することになった。
そして貴方は我々を、あるいは好戦的国民であるとし、あるいは黄禍論を用い貶め、あるいは軍閥の独断専行である
とする。

思いよらぬもの甚だしいと言わざるを得ない。貴方は真珠湾攻撃の不意打ちを理由に対日戦争(大東亜戦争) 唯一の
宣伝資料とするが、そもそもにおいて日本国が自滅を免れるためこの行動に出る他ないという程の窮地にまで追い詰
めたような諸種の情勢というのは、貴方の最も熟知するものであると思う。

畏れ多くも日本天皇は皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、養成(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三鋼(
秩序)とする八紘一宇(天下を一つの屋根の下に)の文字によって表される皇謨に基づき、地球上のあらゆる人間は
その分に従い、その郷土においてその生を生まれながらに持たせ、それによって恒久的平和の確立を唯一の念願にな
さったのに他ならない。

これは 「 四方の海皆はらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ 」 (意訳:人は皆家族であるのに、なにゆえ
争わねばならないのか) という明治天皇の御製(天皇の詩)は貴方の叔父セオドア・ルーズベルト閣下が感嘆したも
のであるが故に、貴方もよく熟知しているのは事実であろう。

私たち日本人はそれぞれ階級を持ち、また各種の職業に従事するけれども、結局はその職を通じ皇謨、つまりは天業
(天皇の事業)を翼賛(補佐)しようとするのに他ならない。

我ら軍人は交戦を以て天業を広めることを承るに他ならない。

我らは今、物量に頼った貴方の空軍の爆撃、艦隊の射撃の下、外形的に後ろへ退くもやむなきに至っているが、精神
的にはついに豊かになり、心地ますます明朗になり、歓喜を抑えることができなくもある。

この天業翼賛の信念が燃えるのは日本国民共通の心理であるが、貴方やチャーチル君は理解に苦しむところであろう。

今、ここに貴方達の精神的貧弱さを憐れみ、以下の一言を以て少しでも悔いることがあれば良いと思う。

貴方達のなすことを見れば、白人、とくにアングロサクソン(アメリカとイギリスの主な民族)が世界の利益を独占
しようとして、有色人種をその野望実現のための奴隷として扱おうということに他ならない。

この為に邪な政策をとり有色人種を欺き、所謂悪意の善政を行うことで彼らを喪心無力化しようとしている。

近世に至り日本国が貴方達の野望に抗し有色人種、特に東洋民族を貴方達の束縛より解放しようと試みたところ、貴
方達は少しも日本の真意を理解しようと努めることなく、ただ貴方達に有害な存在となし、かつて友邦とみなしてい
たにも関わらず仇敵野蛮人であるとし、公然として日本人種の絶滅を叫ぶに至った。これは決して神意にかなうもの
ではないだろう。

大東亜戦争によって所謂(いわゆる)大東亜共栄圏が成立し、所在する各民族はわれらの善政を謳歌しているから、
貴方達がこれを破壊することが無ければ、全世界にわたる恒久的平和の招来は決して遠くは無いだろう。
貴方達はすでに成した。十分な繁栄にも満足することはなく数百年来にわたるあなた方の搾取から免れようとするこ
れらの憐れむべき人類の希望の芽をどうして若葉のうちに摘み取ろうとするのか。

ただ東洋のものを東洋に返すに過ぎないではないか。

あなた方はどうしてこのように貪欲で狭量なのか。

大東亜共栄圏の存在は少しも貴方達の存在を脅威するものではない。 むしろ世界平和の一翼として世界人類の安寧
幸福を保障するものであって、日本天皇の真意はまったくこれに他ならない。
このことを理解する雅量(器)があることを希望してやまないものである。

翻って欧州の事情を観察すると、また相互無理解に基づく人類闘争がいかに悲惨であるかを痛感し嘆かざるをえない
今ヒトラー総統の行動の是非を云々するのは慎むが、彼の第二次世界大戦開戦の原因が第一次世界大戦の終結の際、
その開戦責任の一切を敗戦国ドイツに押し付け、その正当な存在を極度に圧迫しようとした貴方達の処置に対する反
発に他ならないということは看過できない。

貴方達の善戦によって力を尽くしてヒトラー総統を倒すことができたとして、どうやってスターリン率いるソヴィエ
ト(※共産主義:著者注)と協調するのか。世界を強者が独専しようとすれば永久に闘争を繰り返し、ついに世界人
類に安寧幸福の日はないだろう。

あなた方は今世界制覇の野望が一応、まさに実現しようとしている。あなた方は得意げに思っているに違いない。
しかし貴方達の先輩ウィルソン大統領はその得意の絶頂において失脚した。

願わくば私の言外の意を汲んでその轍を踏まないで欲しい。

市丸海軍少将 
(『米国大統領への手紙』 平川祐弘 新潮社より引用 )

昭和20年3月26日未明、日本軍硫黄島守備隊は最後の組織的反攻を行い、栗林陸軍中将、市丸海軍少将以下数百名の
残存部隊がアメリカ軍陣地へ総攻撃をかけた。
市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、
これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、日本語/英語各一通を作りアメリカ軍が将校の遺体を検査す
ることを見越してこれを村上治重大尉に渡した。村上大尉は最後の突撃の際にこれを懐中に抱いて出撃し、戦死。
『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。
それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くもので
あった。(ルーズベルトは4月12日に死去した為『ルーズベルトニ与フル書』は本人は目にしていないとみられる)
公式な戦死日は訣別の電報が打電された3月17日とされている。市丸の最期を確認した者はおらず、遺体も発見されて
いない。市丸が所有していた刀を米兵が拾い、ニュージャージー州の骨董店に並べられていたが、市丸の遺品であるこ
とが判明しNHKのテレビ番組を通じ遺族の元へ戻っている。
太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、この手紙をアナポリスの海軍兵学校に提出させ、そこに納めさせた
現在もこの書は、アメリカ海軍兵学校内アナポリス博物館に今でも大切に保管されている。
『ルーズベルトニ与フル書』これを読むといつも考えさせられる・・・。硫黄島「戦場の郵便配達」YouTube

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 ▲栗林忠道陸軍中将(満53歳没)      ▲西竹一陸軍中佐(満42歳没)

[ 西竹一陸軍中佐 ]
硫黄島守備隊として戦車第26連隊の指揮をとった。硫黄島での戦闘で西は戦場に遺棄されたアメリカ軍の兵器を積極的
に鹵獲し、整備・修理した後それらを使用して勇戦したと伝えられている。
戦闘末期の撤退戦の中でもはぐれた兵士を洞窟内に入れることを拒絶する他指揮官が多かった中、西は「一緒に戦おう」
と受け入れたという。
「硫黄島からの手紙」でも描かれた、負傷したアメリカ兵を尋問の後、乏しい医薬品で出来るだけの手当てをした事、
母親からの手紙がその米兵のポケットにあった・・・といったエピソードも証言として大野芳、城山三郎、R.F.ニューカム
などの著作でも触れられている。
昭和20年3月17日に音信を絶ち、3月21日払暁、兵団司令部への移動の為、敵中突破中に掃射を受けその場で戦死した
か、もしくはその後に銀明水及び双子岩付近にて副官と共に拳銃自決したとも、あるいは3月22日火炎放射器で片目を
やられながらも、数人の部下らと共に最期の突撃を行い戦死したともいわれている。
また他の説に、硫黄島戦末期に日本軍に鹵獲され使用されたM4中戦車の話がある。
接近してくる戦車に挨拶した米海兵隊員がいきなり銃撃を受けたり、戦場で合流した戦車から至近距離で砲撃を受け、
戦車が複数台撃破されたりした。後にこのM4中戦車は撃破され、中から日本兵の死体が発見されたが、その中の1人が
西ではないかとも言われている。しかし、西の最期の詳細は不明である。
昭和7年ロサンゼルスオリンピックでは、西はウラヌスを駆って馬術大障害飛越競技にて優勝金メダリストとなる。
これは2015年(平成27年)現在においても日本がオリンピック馬術競技でメダルを獲得した唯一の記録である。
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▲▼硫黄島上陸作戦前、日本兵が「定期便」と呼んだ空襲が何度も繰り返された。
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しかし、日本兵の命がけとも言える過酷な地下豪構築作業により作られた地下陣地のお陰で被害は最小限だった。
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▲戦い終結後、投降する日本兵の写真(ご苦労様でした・・としか言いようが無い)
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▲「硫黄島の戦い」が終結し、アメリカ軍に占領された硫黄島に米軍機が並ぶ。奥には摺鉢山が見える。

硫黄島の現在は日本に返還されたものの、一般人は「遺骨収集」以外では立ち入る事が出来ない島だ。
旧日本海軍は硫黄島に、千鳥、元山、北と3つの飛行場を建設した。
「硫黄島の戦い」終結後、米軍が拡張整備した旧元山飛行場は、日本兵の遺体が多数残っているであろう洞窟陣地坑道
のある元山飛行場と、その東側エリアの上にコンクリートを流し拡張整備し、日本本土爆撃の基地として使用した。
現在は自衛隊に引き継がれてそのまま使用されている・・・。
2万を超える日本軍戦死者の内、現在も約12000柱の遺骨が見つかっておらず、その多くは現在の硫黄島飛行場下の坑
道内にあると見られており、防衛省の調査では滑走路下の約1800カ所で遺骨が埋まっている可能性があるとしている。
一日も早く英霊を助け出してあげて、日本人であれば誰でも慰霊に訪れる事が出来る様になって欲しいと強く望む。


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 2016_06_03

ロタ島

Category: ロタ島  

ロタ島は1521年マゼランの一行より発見され、スペイン統治領土とされた。マリアナ郡島(マリアナ諸島)という呼び
名はスペインの女王マリ・アンにちなむもの。米西戦争で敗れたスペインはグアム島を米国に譲渡。1899年ロタ島、
テニアン島を含む北マリアナ諸島の支配権を450万ドルでドイツに売却した。
その後第1次世界大戦でドイツが敗れ、宣戦していた日本は、ドイツ領南洋諸島全体を占領。
大正3年(1914)北マリアナ諸島をその支配下においた。
大正9年(1920)に国際連盟委任統治領として正式な日本領土となり、敗戦までの約40年間日本が統治した島である。
昭和10年(1935)南洋興発製糖工場が完成したが、生産効率がままならず工場は3年余りで操業停止に追い込まれた。
グアム島北方40kmに位置するロタ島は、昭和19年初頭までは何の軍事施設も無く、サイパンから海軍の見張員6名
が派遣されていただけであった。昭和19年3月マリアナ諸島防備強化の為、陸海軍部隊が進出。
数度に渡る配備変更の後、独立混成第10連隊歩兵第1大隊(大隊長 徳永明大尉)を主力とする陸軍約1031名を教育総
監部派遣教官から今川茂雄少佐が守備隊長として指揮し、海軍第56警備隊派遣隊・341空・265空派遣隊・設営隊等
2005名を、昭和19年6月19日マリアナ沖海戦に参加し、米軍F6F戦闘機に追跡され、ロタ島に不時着した艦上爆撃機
「彗星」の搭乗員 阿部善次大尉が海軍部隊の指揮官となり 同年10月海軍少佐に昇進。在ロタ島海軍部隊指揮官として
ロタ島の守備に就いた。
米軍はサイパン島攻略後、ロタ島を飛び越えてテニアン島・グアム島に上陸した為、ロタ島に米軍が上陸したのは日本
が無条件降伏してからであった。なので、米軍が上陸したマリアナ郡島激戦地の様な地上戦は無かったとはいえ、空爆
や艦砲射撃は熾烈だったと言う。激しい空爆や艦砲射撃の中で陸海軍合わせて236名の日本兵が戦死している。
▼ロタ島空襲を終え、帰還する米戦闘機(奥にロタ島が写っている)
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敵中に孤立したロタ島守備隊は、連日の様に米軍の空襲を受けながらも、自給自足を続けながら必死に日本本土空襲に
向かうB-29爆撃機の機数・方位を無線で日本本土(東京)に警告する役目を担った。
昭和20年(1945)9月2日米軍の駆逐艦が投錨。午前11時ロタ島で現地部隊の降伏調印式と武装解除が行われた。
9月4日海軍将兵1853名/陸軍将兵947名が武装解除の上、ロタ島を離れグアム島米国海兵隊捕虜収容所に軟禁された
後(指揮官や幹部のみか、全員かどうかは不明)昭和21年(1946)11月帰国した。
戦後ロタ島はアメリカの信託統治領を経て、1978年以降アメリカの自治領となり現在に至っている。
地上戦が無かった為、島ごと丸焼けにならなかった事もあり、原生林や自然が多く残り、マリアナ諸島で唯一、飲用に
適した「湧き水」の豊富(石灰粉が少々キツイ)なマリアナ諸島最後の楽園「ロタ島」に行ってきた。

※海軍部隊の指揮官としてロタ島を守備した阿部善次大尉(山口県出身)は帰国後、航空自衛隊1佐として英語教育隊の
 隊長を勤める。戦後ハワイを訪れ、生き残りの米国元軍人らと友好を深めた。
 日本側の宣戦布告が遅れた事を知ったのは戦後数年が経ってからだった様で 「何故最後通告が遅れたのかを第三国
 を通じてでも謝らなかったのかというのが非常に悔しい。軍人として対等に戦いたかった、準備も出来なかった米軍
 兵士は悔しかったに違いない。」と言う言葉を残している。2007年4月6日死去 享年90歳
 戦後「勝ち抜くための条件・艦爆隊長の戦訓新装版」という本も出版されている。是非読んでみたいと思う。
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※阿部善次大尉か阿部善郎大尉かお名前がどちらなのかご存知の方は御一報下さい(海兵名簿は善次となっております)
 
グアム→サイパン→ロタ島の順でロタ国際空港に到着した。グアム→サイパン55分 サイパン→ロタ島30分
今回の旅はロタ島がメインだった事もあり、まずはロタのホテルにチェックインし、次の日、ローカル便でロタ➡サイ
パン➡テニアンに向かった。スターマリアナズエアーのサイパン➡テニアン便セスナが2011年11月墜落事故を起こし
て以降、サイパン➡ロタ便の日帰りツアーは現在催行されていない。
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▼現在の空港は日本軍が建設途中だったものを米軍が拡張整備したものだと聞いた。
 戦時中は第341海軍航空隊[紫電]/第263海軍航空隊[ゼロ戦]/第521海軍航空隊[銀河]の配備予定があった
 又は配備されていた?様で基地地上員も含め総員2005名の海軍部隊が駐屯していたと言う(内152名戦死)
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▼入国を済ませロタ国際空港を出るといきなり目に飛び込んできたのは日本海軍の兵器と航空機のエンジンだった。
 空港駐車場脇にアツタ二一型エンジン1機がプロペラが付いた状態で、天山の火星二五型1機、零戦の栄二一型3機が
 展示(放置?)されている。以前は零戦の機体部分の残骸も置かれていたと聞いていたが現在は無かった。
 戦後ロタ島を訪れた阿部善朗氏の証言によると、マリアナ沖海戦時の1944年6月19日空母「隼鷹」を発進した艦上
 爆撃機「彗星」(阿部善次大尉/中島米吉少尉)が1時間近くF6Fに追跡され、かろうじてロタ島に不時着した機体の物
 であると言う。(プロペラ付アツタ二一型エンジンの事)
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ロタリゾートホテル入り口から空港に向かって車で少し走った右手ジャングルにゼロ戦が放置されていると聞いた。
当時海軍が建設していたとされる飛行場(現ロタ国際空港)がどの程度完成していて、飛行場周辺がどの様になっていた
かなど、詳細が全く解らないとの事で、そのゼロ戦が被弾して不時着した物なのか配備されていて空爆にあい使い物に
ならなくなったのか等、詳細は解らない。再訪して是非そのゼロ戦を見たいと考えている。プロペラが無かったと聞い
たので、画像の空港に展示されているどれかかもしれない・・・。どなたか案内して頂ける方、ご一報下さい。
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昭和19年6月15日ヤップ島を出撃した「第二次機動部隊索敵攻撃隊」261空の銀河10機、ゼロ戦4機の内、ゼロ戦3機
がロタ島に不時着・大破の記録が残っている。(航空戦史 雑想ノート【海軍編】参照)
昭和19年6月17日夕刻テニアン島を出撃した「テニアン沖艦船攻撃隊」ゼロ戦12機の内、2機がロタ島に不時着。
搭乗員は終戦まで残留との記録が残っている。(航空戦史 雑想ノート【海軍編】参照)
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▲日本軍13mm連装機銃座
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▲▼海軍艦上爆撃機「彗星」のエンジン(アツタ二一型)阿部善次大尉/中島米吉少尉 搭乗機
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▼海軍艦上攻撃機「天山」のエンジン(火星二五型)
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▼残りは海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のエンジン(栄二一型)
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▼小さな空港だが、スコップ1つの人力で建設作業をしたという戦時中の日本海軍ロタ飛行場がどんな感じだったのか
 想像もつかない・・・資料も全く無く調べようが無い・・・。展示されているエンジンも説明書看板等は全く無い
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▼人口3000人程度の小さな島といえどレンタカー無しにはまわれない。
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▼日本統治時代のロタ島(昭和19年6月11日大規模な米軍の空襲により消失)
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日本統治時代のロタ島はサイパン島、テニアン島に比べ島の開拓が遅れ、昭和9年(1934)当時でも在住する日本人は
わずか1000人余りであった。それでも昭和10年(1935)12月南洋興発株式会社製糖工場が完成。
▼ロタ島南洋興発製糖工場
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サトウキビ栽培・砂糖の生産が開始された。サトウキビ栽培は経験のあった沖縄や奄美の方が中心だったが、サイパ
ン島に進出した別の会社が多数倒産し、帰国も出来ずに困って居た人々を南洋興発が救ってロタ島で採用した。
現地(ロタ島)で雇われた日本人の方々は東北方面の方が多かったと言う。しかし砂糖の生産はうまくいかず、製糖工場
は3年余りで操業停止してしまう。ロタ島の土が肥料分を含まない痩せた土だったという事と、病気(ココナッツの木
に湧く害虫?)を起こしてうまく育たなかった様だ。
(サイパン島・テニアン島でも当初はサトウキビの害虫被害が多く、島のココナッツの木を全て伐採したと聞いた)
加えて肥料を調達する為に本土へ行った者が、仕入れ資金と共に行方不明となり、結果サトウキビ栽培を諦め、サイパ
ン島・テニアン島で出る砂糖きびの搾りかすを発酵させて酒を造った。
出来た酒は南米などで言う“ラム酒”だが、それを水で薄めて“南洋誉”と言う名で国内販売をした様だ。
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▲▼ロタ島南部の西港付近に今も残る南洋興発株式会社製糖工場(南洋誉工場)跡
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▲当時の古写真と照らし合わせて見学するも損傷が激しく、原型が想像つかなかった。
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▲米軍による艦砲射撃による穴が生々しい。
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▲▼日本統治時代、サトウキビを運んだ汽車が現存している(ドイツ製と聞いた)
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▼南洋興発事務所跡
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▼ロタリゾート&カントリークラブ近くにもう1両シュガートレインが現存している。
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子供の頃に行った遊園地にはこの様な形の汽車のレプリカが園周を走っていた様な気がする。
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この汽車が活躍していた頃のロタ島にタイムスリップしてみたい衝動に駆られた
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サイパン島・テニアン島・ロタ島共に日本統治時代は線路が引かれ、秋の収穫期にはこの汽車に何両もの貨車が連結
され、収穫したサトウキビを製糖工場まで運んでいた。余地がある時には運賃1円で乗客も乗せたと聞いたが、1円は
当時、労働者の1日分に相当する金額であったと言う。
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▼ロタリゾート&カントリークラブ(左側はゴルフ場と海、右側は宿泊施設、真っ直ぐ走ると右側に汽車がある
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▼ロタココナッツビレッジに、当時ロタ島に住んでいた沖縄出身者達が記憶を頼りに完成させた日本統治時代の
 ロタ島地図が展示されている。現在は営業していない為、今回M氏による特別なはからいで見学させて頂いた。
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▼現在は営業していないロタココナッツビレッジ
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▲▼かつて日本人が経営していた。M氏は「誰か引き継いでくれる人がいれば嬉しい事だが、もう無理だろう」と。
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▲▼バブル期は日本人観光客が沢山宿泊していただろう。しかし観光客が減った今ぐらいが丁度良いとM氏は語った。
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▼南洋興発製糖工場跡から徒歩2分、西港がある。敗戦後日本軍守備隊がロタ島を離れた場所かもしれない。
 (10月頃は25cm~30cmのアジが入れ喰い状態だと聞いた。ロタ島で食べた刺身は最高に美味しかった)
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▼昭和20年(1945)9月2日武装解除し、米軍の舟艇に乗せられロタ島を離れる日本軍守備隊(米軍撮影)
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▼ソンソン村近くの東港(上記の古写真は東港かもしれない)
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ロタ島の港は水深が浅く大型船が入港出来ない。沖に停泊し、小型船で往復して物資等を陸揚げするのだと聞いた。
米軍の小型艇に乗せられた武装解除した日本軍ロタ島守備隊の画像でも同じ様に、沖合いに停泊している船に移送
されている様子が伺える。
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▼▲ロタ島東港停泊中米軍に撃沈された松運丸(現在有名な沈船ダイビングスポットとなっている)戦死者は0との事
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▼ソンソン村東港から海沿いに車で15分、海軍砲台跡が2基残っている、1基目は砲座・砲身は残されていない。
 当時から設置されなかったのか、戦後取り去られたのかは不明。
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▼1基目から歩いても3分程の並びに2基目がある。観光ガイド等に掲載されている有名な日本海軍砲台
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▼▲メンテナンスされており、少々力は要るが左右に動く。この様な状態の日本軍砲台を初めて見た。
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▼砲台内から東港を望む。試し撃ちの1発のみ発射されたと聞いた。ロタ島に限らず、設置された砲台の多くは海軍の
 旧式の軍艦から外され転用された物がほとんどだった。砲身寿命は200発程度だと言う。
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▼角度を変えるとロタ島の最南端にあるウエディングケーキマウンテンが見える
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▼この場所からのウエディングケーキマウンテン(立入禁止区域)が一番綺麗だと言う。
 ※ウエディングケーキマウンテンには砲台跡がいくつか残っていると、許可を得て行った事のあるM氏から聞いた。
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▼日本海軍砲台跡から更に走ると「斉藤隊戦死者の墓」がある。
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▲一礼して感謝を伝えた。案内して頂いたM氏はロタ島を訪れると必ずお参りし、タバコを供えると言っていた。
 素晴らしい方だと思った。ロタ島を訪れた際はバカンスの前に立ち寄ってお参りしてあげて欲しい。
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▲▼さらに10分程走って左側「日本軍人軍属」の墓がある。(空襲で亡くなった民間人も埋葬されていると聞いた)
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ここでも一礼して感謝を伝えた。
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ロタ島もか・・・と思った。同じ日本人の墓がバラバラにある。旧日本軍人と旧日本軍属の違いを知る若い世代がど
れ程居ようか。せめて同じ敷地内に立てる事は出来ないだろうか。ロタ島にも日本政府が建てた慰霊碑は無い。
御遺族の方や有志の方がそれぞれの想いで立てられた物に何も言う立場にないが、海外の戦地で戦いに倒れた先人へ
感謝の慰霊が日本人観光客に定着しないのはこれも原因の1つにあると思う。
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▲▼3つ目の日本陸軍砲台(ここは高射砲)はロタ島の丁度中心辺りの丘にあった。
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▼砲台の脇には退避壕があった。
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中に入ってみておそらく人口的に掘られた壕だと感じた。
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▼日本陸軍司令部跡。
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▼▲機銃掃射の跡が生々しい、空襲の激しさを物語っていた。
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空襲が激しくなるとソンソン村にあったロタ神社(トンガ洞窟野戦病院)に司令部を移動した。
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▼昭和20年(1945)9月2日武装解除に応じるロタ島日本軍守備隊(米軍撮影)
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▲激しい空爆を逃れて島を転々としていたのであろう、設営された臨時テントが見える。
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▲場所を見つけようと陸軍司令部跡から更にダート道を走って探しに行ったが、よく似た風景は沢山ある為、場所
 の特定は諦めた。
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▲▼現地人(チャモロ人)を守りつつも、バラック作りの小屋で自給自足の生活をし、終戦まで頑張ったロタ島守備隊。
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戦死者も多く出ているが、半数以上の日本兵が無事日本に帰還された事を非常に嬉しく思う。

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▲ソンソン村に残るロタ神社跡。階段しか残っていないが、階段を登るとその更に上にはトンガ洞窟がある。
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▼ここが戦時中、野戦病院(神威洞)として使われ、空襲が激しくなった後には司令部として使われた洞窟だ。
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▼中に入ると、入り口の狭さからは想像できない広い空間があった。その昔はトンガ人が住んでいたと聞いた。
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▼入って右手にはコンクリートで固められた平らなスペースが広がる。恐らく負傷兵を寝かせていた場所であろう
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▲▼中はかなり広い。各所に人工的に平らにされた場所があり、ここが最終の司令部だった事が伺える。
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▼見学を終えて入り口に向かう。
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▼トンガ洞窟のほぼ真上に位置するソンソン展望台はロタ島で1番有名な観光スポットだ。
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▼ロタ島ソンソン村と最南端の景色が一望出来る。
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▼この場所からの夕日は最高だった、日の入り時間は夕方6時。絶景が見れた。
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現在は観光名所のソンソン展望台も、戦時中は日本軍の見張台だった様だ。夕日を拝む為に時間潰しをしていた時、
たまたま沖縄から来られた御家族に出会った。おじい様と娘様、そのお子様お2人だった。
聞けばおじい様はロタ島で生まれ、10歳までロタ島で育ったそうだ。ソンソン展望台には機銃が設置され、日本兵が
上空を監視していたと言う。初めて知った。「野戦病院跡を見に行く」と言って御家族は去っていった。
なるほど、ここは最後の司令部壕の真上だ。私が息を切らして登ってきた道は先人が作ってくれた道だった。
御家族が去ってから展望台の周囲を再確認した。するとおじい様が言った通り、機銃座が設置されていたであろう岩
組と鋼鉄の残骸が確認出来た。
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沖縄から来られた御家族に出会わなければ見落としていたであろう。この場を借りてお礼を申し上げます。
展望台からの景色を眺めながら、娘様がおじい様に「どう?思い出した?」と優しく声をかけていたのが印象的だった。
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▲ソンソン展望台に登る道中に洞窟がある、ロタ島でもリン鉱石を採掘していたと聞いていた。
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▲入ってみるといくつも坑道があり、リン鉱石を採掘した様な跡があった。
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▲ソンソン村には東京苑という居酒屋風レストランがある。北海道出身の日本人が経営していると聞いた。
 食事は非常に美味しく、日本にいるのかと思う程だった。特に刺身料理、魚を使ったチャモロ料理は絶品だった。
 日本語が出来る優しいフィリピン人男性1人、女性2人で店をきりもりしていた。もちろん美味しいロタ水は無料だ。
 看板娘のエミリーさん、ウェイターのモンさんに親切にして頂いた。いいお店だったので滞在中は毎晩通った。
 ロタの東京苑はサイパン?テニアン?(どちらか忘れた)の2号店だったが今はロタ店だけだと聞いた。エミリーさん
 はサイパン?テニアン?に居たがオーナーに頼まれ、フィリピンに戻らずロタ店に来たという。ロタリゾートで働く
 ご主人と2人でロタ島で暮らしている。「フィリピンは人が多くて疲れるからロタに永住するかも?」と語った。

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地元の人はわさびとキッコーマン醤油が大好き。わさびを強烈につけて刺身を食べているのが印象的だった。
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▲▼ロタ島のスーパーで撮影。バックで駐車するのは私だけだった・・・。日本人観光客だと直ぐわかってしまうか?
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▼ソンソン村から車で5分、ロタ洞窟博物館がある。ほとんど開館していないとの事だったが案の定閉館していた。
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▼少し覗いてみたが、旧日本軍の物が少し展示してあった。
階段を上って最初に目に飛び込んできたのは日本軍?アメリカ軍?の重機関銃だった。米軍が上陸後置いていった物か?
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▼日本海軍九六式25ミリ機銃(艦載用対空機銃の代表的な機関砲)
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▲▼「ひょっとしてこの機銃座がソンソン展望台に設置されていた物かもしれない」と思いながら見学した。
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ロタ島にはドイツ統治時代にハンティング目的で持ち込まれた鹿が繁殖し、野生の鹿が沢山いると聞いた。
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▼閉館していたが隙間からカメラを入れて撮影。
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▼ロタ洞窟博物館からソンソン村方面を望む。
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▼ロタ空港から車で10分。ラッテストーン石切り場がある。
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約3500年前、マリアナ諸島の原住民は東南アジアから到達した。
彼等はチャモロと呼ばれる独自の民族となり、独自の文化を育て、原始的な生活していた。
今から約490年前にスペインが統治するまでマリアナ諸島は紀元前、タガ王朝時代としてチャモロ民族が暮らしていた
タガ王朝時代の首都はテニアン島。テニアン島にはタガ遺跡が残されている。この石切り場で切り出された先材は、テ
ニアン島に運ばれる為の物だったのではないか?とも言われている。スペイン統治時代にはチャモロ人を虐殺・制圧し
チャモロ伝統文化を壊してチャモロ人をグアム島に移した。ロタ島の原住民(チャモロ)は激しく抵抗。
山間部に身を隠し生きのびた原住民が現在のロタ島チャモロ人の祖先とされ、彼等こそが真のチャモロ人だと聞いた。
スペインが植民地にする為の調査で、テニアン島上陸の際に使用した小舟に積んで有った物が全部盗まれて小競り合
いに発展したと言う話を聞いた。比較的治安の良いロタ島ですが、やはりコソ泥は居るらしく、スペイン統治時代には
「ドロボウ諸島」と呼ばれていたそうだ。
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▼切り出された巨大な石は住居の土台として使用されていたとの事。住居部分は釘を使わない建築だったそうだ。
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グアム島・サイパン島・テニアン島で現存している建った状態(当然ラッテストーンのみ)を見る事が出来る。
ロタ島でも現存するらしいが場所が解らなかった為、見学していない。

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▲ラッテストーン石切り場跡から東へ10分程、M氏お勧めの場所「バードサンクチュアリ」がある。
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マリアナ諸島で一番多くのレッドフーテドブービーを見る事が出来るとされ、沢山の種類の鳥を見学出来る場所だ。
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暑さと時間が経つのを忘れてしまうぐらいの素晴らしい場所だった。
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▼日本統治時代、ロタ松島と呼ばれた場所は「ピナタンパーク」というプールを備えたちょとした観光スポットになっ
 ていた様だが、現在は営業しておらず、廃墟になっていた。
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ウォータースライダーなどが廃墟となり放置されていたが、ロタ島の魅力はテーマパーク・レジャー施設などでは無い。
テーマパーク・レジャー施設へ行きたければわざわざグアムで乗り継ぎしてロタ島に来なくともグアム島で満喫出来る。
ロタ島の魅力はロタブルーの海、地上戦が無かったお陰で残った原生林と手付かずの大自然。そして日本統治時代を懐
かしくも快く思っていてくれている親日のチャモロ民族の人達だ。わずか3000人程度の静かな島にテーマパークは必
要無いとあらためて思った。静かなビーチと真っ青な海、美味しい天然水と治安の良さ。現地チャモロ人と出稼ぎに来
ている真面目なフィリピン人達の親切さ。新鮮な魚料理で食べ物も美味しい。南の島でこれ以上の贅沢は無いと思った。
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▼ソンソン村から南へ徒歩20分、ロタ島居住区最南端に公営住宅が建ち並ぶ地域がある。
 東日本大震災の後、北マリアナ連邦ロタ島では、公営住宅の空き家をリニューアルし、日本の被災者に提供を決定。
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約30棟程在る公営住宅をリニューアルし、日本人被災者に住んで貰うんだと、ロタ市長を始め、幹部が日本を訪問。
福島県まで出向き「被災者の受け入れ準備が整っています」と表明してくれたという。
震災後に被災者の為の住宅を用意して受け入れを表明したのは、ロタと台湾だけだと言う。
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しかし、日本政府からは公式な発表も無ければ、報道も無かった。私も何も知らなかった、初めて聞いた。
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▼結果、日本人(被災者)は誰も行かなかったという事だが、初めてのロタ島訪問時に、その事実を「知っている」と
 「知らない」とではロタ島に対する見方はかなり違ってくるものとなり、島で出会うと当たり前の挨拶をしてくれ
 る島民、車ですれ違う度に手を上げて挨拶してくれる島民に対して、自然と感謝の気持ちで接する事が出来、とて
 も気持ちが和むロタ島の旅だった。
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▼公営住宅の突き当たりはウエディングケーキマウンテン(立入禁止区域)と思ったが、廃墟のパウパウホテルがあった
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▼アスマンモス・クリフ(釣りの名所らしく年1回釣り大会が行われると聞いた)
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戦時中、ロタ島では日米の地上戦が無かった為、サイパンやテニアンの様な悲劇が無くて本当に良かった・・・。
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ロタ島で有名な観光スポットである「スイミングホール」「テテトビーチ」を見学してロタ島をあとにした。
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▲スイミングホール
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▲テテトビーチ
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ロタ島訪問前、かつてロタ島で居住経験を持つI氏にロタ島出国時にしか見れない「絵」の話を聞いていた。
最後にロタ国際空港出国待合室でしか見る事の出来ない「絵」で学ぶロタ島の歴史を紹介して終わりにしたいと思う。
※「絵」に対する説明文は全て、飾ってある「絵」の横に説明書として添えてある文章である。
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▲チャモロ時代(1500B.C-1521A.D)
紀元前1500年頃、チャモロ人は勇敢にもマリアナ諸島までカヌーで航海して来たと言われています。
男性は、特徴ある円柱形のラッテ・ストーン(絵の中央をご覧下さい)を基礎に家を建て、女性は布製品、レッド・スリ
ップ・マリアナスの模様に入った陶器、絨毯、亀の甲羅の装身具等を作り、腕利きの漁師達は大きなカジキマグロを捕
獲する技術を開発し、農民達は土地を耕し、段々畑を作り、巧みにたくさんの作物を作りました。
結果的にチューク、ヤップ、カロラインスを含めた諸島間で貿易が始まりました。当時、高価なコヤスガイや亀の甲羅
が貨幣として流通していました。
部族間の抗争も頻繁に起こり、味方が敵に傷を負わされたり、殺されたりすれば、直ちに戦争という状態でした。
「投石」「やり」が主な武器だったそうです。
ヨーロッパ人が初めてミクロネシアを訪れたのは、マゼランがそれら諸島を発見した時であり、それは世界一周の航海
の中で、初めて探検家達が経験した未知との遭遇でした。
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▲スペイン統治時代(1521-1898)
1565年、スペイン人ミゲル・ロペス・レスガスピィがグアムに上陸し、マリアナ諸島の所有権を主張しました。
まもなくスペインの帆船がメキシコとフィリピンの間を行き交うようになり、途中、食糧や水の補給の為、ロタ、グア
ムに立ち寄りました。その為、ロタは世界で初めて太洋を横断する交易路の中継地点となりました。
1668年、スペイン人はカソリック教徒の指導者ルイス・デ・サンビトーレスの下、マリアナ諸島に定住する事を宣言
し、また1682年ロタに教会を建てました。スペイン人は、チャモロ人にスペイン人社会の価値観や特色を受け入れさ
せるため、「征服」政策を持ち込みました。宗教上の改宗やチャモロ文化の排除は、やがて戦争へと発展しました。
1668年には60000人居たチャモロ人は、スペイン人との戦いや、水泡性疾患、インフルエンザが原因で1710年には、
3539人まで減少していました。右手上部のコーナーをご覧下さい。悲痛な表情の人物、倒れているラッテ・ストーン
これらは多くの古代文化が失われてしまったことを物語っています。
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▲ドイツ統治時代(1899-1914)
米西戦争の敗北により、宗主国であるスペインはその領土であったマリアナ諸島をドイツに売却しました。
白い征服を見につけた、有能なドイツ人官吏ジョージ・フリッツはコプラ(ヤシ油の原料)生産による経済自立を目指し
ました。また、その当時ロタでは米、コーヒー、砂糖、柑橘類が生産されていました。
教会では、僧侶がスペイン人からドイツ人にバトンタッチされ、社会面では、道路、水道、また、西港を建設するため
暗礁となっていた水路等の社会基礎整備が行われました。ドイツ人については、時間に厳しいこと、そして初めて船外
機を紹介したと言われています。
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▲日本統治時代(1914-1945)
第一次世界大戦のさなか、ドイツが太平洋より撤退した後、日本人は直ちに北マリアナ諸島を接収しました。
やがて1920年、国際連盟(国連の前進)は、ミクロネシアにおける日本の統治権を承認しました。
日本人は政府の貸付金や補助金を使って、事業を奨励し、島の経済に「独立採算制」を導入しました。
「サトウキビ」、列車、燐鉱業等がそれです。また、港の改修、軌間の狭い鉄道の敷設を行い、製糖業を発展させまし
た。1935年までは、ロタには8000人の日本人、800人のチャモロ人が住んでいました。また、多くの朝鮮人と沖縄の
人達も定住し、ロタの経済発展に貢献していました。交通機関では、日本郵船が日本・ロタ間の定期航路を開設し、人
々の異動や荷物の輸送に貢献していました。ロタの西港には石造りの埠頭があり、東港は人々の乗降船用に使用されて
いました。第二次世界大戦中、連合軍はロタを迂回して行ったため、食糧や医薬品が不足し、人々は困窮した生活を送
らざるを得ない状態でした。
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▲米国統治時代(1945-現在)
終戦後、国連は太平洋諸島の信託統治行政官に米国を指名しました。
アメリカ大陸と同じぐらい広大なこの領域は、ロタ島を含むミクロネシアWP取り囲んでいます。
やがて、ミクロネシア・ロタ・サイパン・テニアン諸島は米国の信託領ではなく、一つの連邦共和国として、認めるよ
う主張しました。1976年、米国との間で、北マリアナ連邦制定に関する条約が成立。1977年新憲法発布。
米国の統治下にもかかわらず、条約上北マリアナは民主的、且つ独自の政府を持ち、政治・経済をコントロールするユ
ニークな立場にあります。伝統的な農業を維持しながら、一方では観光業、そして中国、フィリピン、バングラディッ
シュ等の人々が雇用されている労働集約型産業が発展し、国の経済、人々の生活を支えるに至っています。
USA

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 2016_05_03


日本統治時代があった島、テニアン島。約3500年前、マリアナ諸島の原住民は東南アジアから到達した。
彼等はチャモロと呼ばれる独自の民族となり、独自の文化を育て、原始的な生活していた。
スペイン統治時代にはテニアン島を制圧したスペイン政府に反抗したチャモロ人を虐殺・制圧し、チャモロ人
をグアム島に移した為、17世紀以降約200年間は無人島だった。
明治32年(1899)マリアナ諸島をドイツがスペインから買い取り、第1次世界大戦後に敗北したドイツから日本
の委任統治領となった後は、内南洋の委任統治施政官庁として大正11年(1922)に「南洋庁」が開設され、テ
ニアン島にはサイパン支庁・テニアン出張所が設けられた。
サイパン島では後に「シュガー・キング」として知られる松江春次が大正10年に南洋興発株式会社(NKK)を設
立。日本統治時代のサイパン島/テニアン島/ロタ島における製糖産業の開発で1番知られている。
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 ▲南洋の島に理想郷の実現を夢見た会津人、松江春次(福島県出身)
 サイパン島での製糖工場が軌道にのると松江春次は、すぐさまテニアン島の開拓に着手。昭和5年テニアン
 製糖工場が完成し、南洋興発の製糖業はさらなる飛躍を遂げていく。開拓者、実業家、技術者としての3者
 を兼備えた松江春次は時間を見つけては農場や工場の視察に出かけたと言う。
 製糖会社としてスタートした南洋興発はロタ島やパラオなどの南洋群島、更にニューギニアやインドシナ等
 の外領地に事業を展開。内容は水産、繊維、貿易、交通運輸、土木など広範囲に及び、当時満州で隆盛を誇
 った南満州鉄道と並び “北の満鉄、南の南興”と呼ばれるようになる。
 しかし昭和15年65歳の松江春次は突然、脳溢血に倒れ、これを理由に社長を辞任、一線を退く。
 更に南洋開拓にかけた松江春次の夢が、打ち砕かれる時が近づいていた。
 留学の際に強大なアメリカの国力を肌で感じた松江は「日本が戦争に勝つことは不可能!平和的な解決の道
 を探るべきだ」それが松江春次の持論だった。
 昭和14年8月松江春次は、もとより親交のあった連合艦隊司令長官、山本五十六を東京駅で見送っている。
 松江は非開戦派だった山本に頭を下げこう告げた「米英との戦争回避に向けてこの上ないご尽力を願いたい」
 しかし、2年後の昭和16年ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争勃発。
 宣戦布告が遅れたいきさつを聞いた松江は『駐米大使は切腹ものだ』と激怒した。
 更に松江は、サイパン島/テニアン島が激戦の場になることを想定していた。 
 当時、会長として経営の一線を退いていた松江だったが、南洋群島にいる社員、農業従事者らの安全を最優
 先に考え、本土への引き上げを主張、役員会は紛糾した。
 昭和19年海軍司令部は南洋興発に軍への全面協力を命じる。製糖工場は全て操業を中止。成人男子、日本人
 児童や公学校に通うチャモロ・カナカ人の生徒までもが飛行場の建設に駆り出された。
 昭和19年6月11日アメリカ軍によるサイパン攻撃が始まり、およそ6万発の砲弾が打ち込まれたサイパン島。
 数日間に及ぶ戦闘機による空襲と戦艦からの艦砲射撃に続いて海兵隊が上陸、松江の理想郷が地獄と化した。
 戦後、南洋興発は軍との協力関係を理由にGHQから閉鎖命令を受け松江春次は公職追放令の指定を受ける。
 こうして南洋興発株式会社(NKK)は消滅した。
 戦後、松江は再起をかけフィリピンを拠点とする南洋漁業の事業計画を進めた。
 しかしアメリカのビキニ環礁水爆実験の為断念。
 戊辰戦争で辛酸を舐めた会津藩士の子に生まれた松江の人生には暗い戦争の影が付きまとっていた。
 松江春次を支え続けた妻・「ふみ」は戦争中に病死、長男・一郎は出兵した南方ニューギニアで戦死した。
 昭和29年11月29日脳溢血により死去、享年78歳 命日は奇しくも33年前の南洋興発創立と同じ日だった。
 床の間に飾られた掛け軸には「人間生来無一物」“人間は裸で生まれ、裸で死んでいく“と書かれていた。

植民地行政政府(南洋庁、所在地はパラオ諸島コロール)からの実質的支援そして東洋拓殖株式会社からは資金
提供を受け砂糖キビ畑/製糖工場を運営し、沖縄出身者(移住者の60%)や朝鮮人の移住を援助し、成功した。
南洋興発株式会社(NKK)は「海の満鉄」とも言われ、国家的使命を持った会社だった。
テニアン島には南洋興発株式会社(NKK)の2つの製糖工場(東洋第2の規模)や、酒精工場、農園などがあり、
島内は見渡す限りのサトウキビ畑になっていた。南洋興発株式会社(NKK)が巨大化すると共に、社員や小作人
作業員も数を増し、南洋興発株式会社(NKK)関係者を相手にする商店・料亭・遊廓なども集まり、テニアン島
は活況を呈した。米軍上陸時、同島には朝鮮人2700人、日本人13500人、チャモロ人26人が暮らしていた。
(戦争が激化し、テニアン島の戦いの前に日本人2000名程は疎開船に乗り、日本本土に避難していた)
▼日本時代、活気を呈していた頃のテニアン市街
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▼日本時代のテニアン町スズラン通り
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▲▼テニアン島サン・ホセ市街(旧テニアン町)に今も残る南洋興発株式会社(NKK)工事事務所跡
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昭和5年(1930)この場所一帯に1日1200tの生産能力を持つ「南洋興発テニアン精糖工場」が建設された。この周辺
には関連の施設・設備や、工場従業員の社宅が整備された。工事事務所付近には「糖度分析所」があった。
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▼開戦前のテニアン島南洋興発株式会社(NKK)製糖工場
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▼テニアン島・サンハロム湾直ぐ、テニアン町にあった南洋興発株式会社(NKK)製糖工場
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▼日の出神社跡
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▼入り口の鳥居には「昭和十六年一月十日」とはっきり読み取れる
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▼激戦後の日の出神社
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▼2つ目の鳥居は戦いの激しさを物語っていた・・・。
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▼日の出神社から徒歩3分、沖縄から移住してきた方が暮らしていた南洋興発社員寮跡があった。
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▼テニアン尋常小学校跡
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▼住吉神社跡。状態は良く、かつてサトウキビの豊作を祈って通ったであろう日本人・朝鮮人の事を想った。
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激しい戦いの果てにも、鳥居がしっかり残っておりその姿に驚かされる。この辺りの広場に負傷した兵士や最後の突撃
に行く兵士達が集められた。しかしその場所がアメリカ軍に知られ、多くの兵士が爆撃で死亡したと言われている。
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▼お参りして元来た道を戻る、南国の島の日陰は涼しくて気持ちが良い。
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太平洋戦争時、テニアン島の戦略的価値を見出した日本海軍は1939年から12000の囚人を使って飛行場を建設。
当時南洋最大と言われたハゴイ飛行場が完成する。
▼空襲前のテニアン島北部ハゴイ飛行場(牛飛行場)
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▼日本軍通信局跡
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▼日本軍通信所跡は中に入る事が出来る。戦い後は日本兵捕虜収容所として30名程が収容された。
 戦後は牛の屠殺場・冷凍庫として使用されていたとの事。
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▼戦い終決直後の日本軍通信局
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▼テニアン島北部に残る角田覚治中将指揮下第1航空艦隊司令部跡(現在進入禁止)
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 昭和19年(1944)2月、角田覚治中将はテニアン島へ着任し第1航空艦隊司令長官に就任。マリアナ沖海戦(あ号作戦)
 を支援する事になる。テニアン島に着任した角田覚治中将は島の防御施設の貧弱さに激怒したと言う。
 「いったい大本営はこの1年間何をしてきたんだ!」と。
 この頃、クエゼリン、ルオット島(マーシャル諸島)日本軍守備隊は玉砕。トラック島が奇襲攻撃を受けていた。
 昭和19年(1944)6月11日~13日マリアナ諸島に米海軍機動部隊が来襲、第1航空艦隊とハゴイ飛行場(牛飛行場)は激
 しい空襲を受けた。続く19日~20日第一航空艦隊の残存航空機は「マリアナ沖海戦」に呼応して出撃するも、殆ど戦
 果を挙げられないままに壊滅した。角田覚治中将を部下はこう語っている。
 「長官は一口で言えば上杉謙信の様な人だ。黙っているが、いざとなると大将自ら単騎敵の本陣に斬り込む猛将だよ」
 見敵必戦、索敵機が3群に分かれる敵機動部隊を捉え、参謀たちが航空機温存を唱える中125機全機を発進させ、2群
 の敵を攻撃するも、敵1群がテニアン島を攻撃。日本軍攻撃隊は大損害を受け、島の施設は破壊された。
 この後、連合艦隊からの要請によりパラオ支援で航空機の損失を負い、南方へ航空隊を送り込みながらもグアム島や
 テニアン島は米軍の攻撃を受ける。6/15米軍はサイパン島へ上陸。テニアンからサイパンは目と鼻の先であり米艦隊
 を見ながら見敵必戦の角田覚治中将は独断で全航空機の発進を命じる。しかし、グラマンの大編隊とVT信管などの
 新兵器によりことごとく撃墜され、テニアンの航空戦力は灰燼に帰してしまった。
 1機の航空戦力もなくなってしまった総軍8500名は敵の上陸に備え防御作りに追われた。日本人民間人は13500人程
 おり、ほとんどは南洋興発の社員だった。民間人は昼夜を問わず野戦陣地の構築に協力した。
 角田覚治中将は「ありがとう。皆さんは民間人ですから、軍人の様に玉砕しなくともいいのですよ」と笑顔で最後の
 挨拶をして回ったと言う。
 昭和19年7月24日、圧倒的大戦力で米軍がテニアン島に上陸。その兵力は海兵隊2個師団54000人。
 対する日本軍は緒方敬志大佐の第29師団第50連隊と第43師団第135連隊第1大隊と海軍部隊約8111人。
 [陸軍4001名]
 松本歩兵第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐以下2824名) 
 歩兵第135連隊第1大隊(和泉文三大尉以下950名)/第18連隊戦車隊8両(鹿村一男中尉以下64名)
 第31軍築城班(比留間正司大尉以下60名)/独立自動車第264中隊第3小隊63名
 第29師団野戦病院(稲田壽郎軍医中佐以下40名)
 [海軍4110名]
 第56警備隊(大家吾一大佐以下950名)/第82防空隊(田中吉太郎中尉以下200名)
 第83防空隊(田中明喜中尉以下250名)/第233設営隊(林邦夫 技少佐以下600名)
 第1航空艦隊司令部(角田覚治中将以下200名)/航空隊640名零式輸送機36機、航空機561機
 以下昭和19年(1944)6月初旬時点の海軍航空隊内訳
 第121航空隊「雉部隊」岩男正次中佐以下 彩雲艦上偵察機36機 艦爆2機
 第261航空隊「虎部隊」零戦54機/第263航空隊「豹部隊」零戦64機
 第321航空隊「鵄部隊」久保徳太郎中佐以下 夜間戦闘機月光54機/第341航空隊「鵬部隊」銀河54機
 第343航空隊「隼部隊」竹中正雄中佐以下 零戦54機/第521航空隊「獅子部隊」紫電54機
 第523航空隊「鷹部隊」和田鉄二郎中佐以下 彗星72機/第761航空隊「龍部隊」松本真実中佐以下一式陸攻72機
 第1021航空隊「鳩部隊」一式陸攻2機 ダグラス輸送機6機/第19魚雷調整班/航空部隊通過者200名
 第23航空戦隊関係450名/設営隊800名

 陸海軍合計8111名
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▼激戦後の日本軍ハゴイ飛行場(牛飛行場)格納庫(米軍の飛行場拡張工事に伴い取り壊され現存しない)[米軍撮影]
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▼激戦後の日本軍ハゴイ飛行場(牛飛行場)格納庫付近。奥に司令部らしき建物が写っている(米軍撮影)
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▼日本軍海軍発電所跡
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▼昭和19年6月11月~13日の米海軍機による空襲と艦砲射撃を受けた大穴が開いている。
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▼激戦後当時の日本軍海軍発電所(米軍撮影)
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▼ディーゼル燃料タンク室跡(中には小型重油タンクが2基あり、まだ油臭い匂いが充満していた)
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▼日本軍海軍燃料庫跡の看板が見えたら右へ進む。左は弾薬庫跡があるが不発弾が多い為進入禁止。
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▼ジャングルに還りかけている道(元々谷だった天然の地形)を進む。
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▼日本軍海軍燃料庫跡が見えてきた、天然の地形を利用して建設されている
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▼戦いの中で火災が発生し、三日三晩燃え続けたと言う。
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▼駐機場跡に残る日本軍海軍防空壕跡
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▼激戦当時の日本海軍防空壕。現在は2基現存しているが、4基~5基あった様だ。
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▼激戦当時の駐機場付近。現存する2基の日本海軍防空壕が写っている。[米軍撮影]
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▼日本海軍飛行場指揮所跡
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▼テニアン島の戦い終結後米軍はそのまま活用した。
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▼指揮所跡より駐機場、防空壕跡を望む
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そして戦争が勃発し、ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻略した米軍は日本本土爆撃、及び内南洋における日本軍の
海上、航空兵站線を攻撃する基地を確保すべく、昭和19年(1944)6月マリアナ諸島攻略計画を発動させた。
一方、日本軍は同島のハゴイ飛行場を航空基地として使用していたが、陸上兵力が少なかった為、満州「遼陽」から陸
軍松本歩兵第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐/[第1大隊]松田和夫大尉/[第2大隊]神山新七大尉
[第3大隊]山本好江大尉/[山砲大隊]甲斐克己少佐)を移駐させた。
他、工兵中隊(325連隊第2中隊) 矢野忠一中尉/[補給中隊]野崎健司中尉などがテニアン島の守備に就いた。
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▲▼昭和19年7月ハゴイ飛行場を空爆する米軍機
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6月19日、20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊を撃退した米軍は7月8日、サイパン島の攻略を完了、そ
れに続いてグアム島、テニアン島の攻略を開始した。昭和19年(1944)7月24日早朝、米軍は第2海兵師団
の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部、テニアン港前方に一斉に前進させた。しかし、米軍上陸部隊が海
岸から200m程に接近した瞬間、一斉に日本軍重砲が攻撃を開始。米軍を撃退した。
砲台長(小川和吉海軍大尉)以下70人の将兵がテニアン島に押し寄せる米艦艇を迎え撃った。
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▲現在も残る「小川砲台」に着いた。「テニアンビーチ」の丘、写真中央のこんもりした丘の中腹に砲台はあった。
 当時も草木で偽装され、上空や海上からは容易に発見できなかった言う。(ペペノゴル砲台跡)
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▲テニアン島の戦跡には説明書のプレートがあるが、鉄・銅高騰の際に所々プレートが盗まれたらしく、ここは
 台座だけだった・・・。中国人による落書き、いたずらも多く、テニアン市長は、歴史のある観光ポイントは
 出来るだけ綺麗に整備しておきたいと綺麗にされているのに非常に残念である。
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▲テニアン攻防戦の際、この砲台(安式40口径6インチ砲(15.2センチ)は必死に抵抗、米艦を大破させたと言う。
 昭和19年(1944)3月テニアン島に海軍第56警備隊が上陸し、直ちに沿岸砲台構築が開始された。
 テニアン港を望むテニアンビーチの丘には小川和吉海軍大尉の指揮する小川砲台(ペペノゴル砲台)が構築
 された。「小川砲台」には「安式四十口径六吋砲」3門が配備され、小川砲台長以下70名が配置についた。
 「安式四十口径六吋砲」は旧式の艦載砲であったが陸上の沿岸砲として転用されていた。
 昭和19年(1944)3月「安式四十口径六吋砲」6門が「テニアン港」に揚陸され、砲台まで輸送が開始された。
 約7tの砲身重量は海軍第56警備隊のトラックには重すぎた為、輸送はコロを用いて人力によって行われた。
 移動には数日間を要したと言う。
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▲当時3門の砲を据えたペペノゴル小川砲台上の山中に戦闘指揮所があり、コンクリートに覆われた指揮所の中では
 小川隊長と先任伍長の中村春一上曹が常にいた。この指揮所より来る小川隊長の命令を、各砲台員全員が米艦を目
 の前にして今か今かと待っていた。何日も何日も火を使わず、食器の音も出さない様にして、生米をかじり乾パン
 を食べ、少しの水だけで我慢強く待った。昭和19年7月24日サイパンよりテニアン港正面に向かって静かに前進を
 始めた米駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)がテニアン港の正面を向き様子を伺う。
 米駆逐艦を目の前にして小川隊長の伝声管と地上電話の声は「まだ待て、もう少し待て」と伝えていた。

 ▼小川砲台小3門の内の1門当時の写真(米軍撮影)現存する小川砲台も艦砲射撃を受ける前はこうなっていた
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 ▲小川砲台から見えるテニアン港、今は非常に綺麗で静かなこの場所に米艦が来たのであろうと想いをはせた。
  (中央右に見えるのはテニアン島の南西約9㌔に位置するアギガン島「山羊島」)
 ▼アギガン島「山羊島」(移動中の機内から撮影)
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※アギガン島「山羊島」も日本統治時代はサトウキビ栽培をしていた。その時放された山羊が自然繁殖し、山羊の島
 と呼ばれ、戦後から現在まで無人島となり、野生の山羊が沢山いるとの事。戦争中は、昭和19年4月21日歩兵第50
 連隊隊第2中隊の山田少尉の指揮する約40名が派遣されていた。艦砲射撃によって若干の死傷者をだしたが、主と
 して夜間耕作によって芋を栽培、これを主食にして終戦に至った。終戦時兵力は隊長以下61名、テニアン本島から
 の脱出者、補給要員等で20名増加していた。昭和21年2月11日投降勧告に応じた。

 ノーマン・スコットがテニアン港正面を向いた時、隊長より大声で「全砲発射用意。撃て!」との命令だ出された。
 ペペノゴル小川砲台の3門と2本ヤシ柴田砲台の3門が一斉に火を吹き、雷鳴のような砲声が轟く。最初の1発づつが
 ノーマン・スコットの機関部と艦橋部に命中。暫くして「米駆逐艦ノーマン、轟沈」と砲台の奥にいる兵隊にも伝
 わり歓声が上がる。「バンザーイ!バンザーイ」挟み撃ちされたノーマン・スコットは大破しサイパンに後退。
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 ▲米駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)オーエンス艦長以下22名戦死、67名負傷
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 ▲帰還した米軍兵士が戦後画いた当時の様子。
 次に米巡洋艦コロラド(USS Colorado)がテニアン港正面を向く。米艦に砲台の位置を知られてからの小川砲台は、
 柴田砲台と呼応し、連続発射し合計22発を命中させた。巡洋艦「コロラド」は火災を起こし、相当数の死者と重傷
 者を出し、後退した。しかし、歓びも束の間、次に何が起こるかは砲台員全員が知っていた。米軍の報復は激烈な
 ものであったと言う。サイパンより3隻の戦艦と巡洋艦、駆逐艦が急行し、テニアンの砲台を砲撃した。
 小川砲台2番砲の銃眼より米艦の砲弾が飛び込み、砲台内で火薬に引火。大火災が起こり、火柱が渦を巻いて火薬が
 飛び散り、戦死者多数を出した。夕刻頃、砲長の杉本兵曹は戦死者の中より起きあがり、両眼が見えない様だったが
 私の声が分かるらしく手探りで近づいてきた。体に付着した火薬を取り除き、手当を始めると「手がもげているぞ」
 との声によく見直すと、杉本兵曹の右の手首より先がないではないか。出血もなく、時計だけが動いていた。
 杉本兵曹は自分の事より、「大丈夫か」としっかりとした声で聞く。何と気丈な砲長かと感嘆させられた。
 側にいた神山兵曹に連絡し、野戦病院に運ぶ手配をして他の戦死者、荒井文衛門兵曹他の方々を砲台の南側に埋葬し
 夜に入ると陸戦隊の準備をして小川隊長の後に続いたと言う。
 「ああ、死の島テニアン」より
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▲ペペノゴル小川砲台3門中1門はテニアン空港に展示されている(小川砲台と同型安式40口径6インチ砲)

日本軍の海岸砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)も
命中弾を浴び、艦長以下多数が死傷した。しかしこれは米軍の陽動作戦であった。
昭和19年(1944)7月24日07:00頃、米軍第4海兵師団はLCVP(ヒギンズ・ボート)LVT(水陸両用装軌車)か
らなる上陸用舟艇約150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に第4海兵師団と第2海兵師団
の一部が上陸した。
▼当時のチュルビーチ(CHULU BEACH)[チューロ海岸]
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「テニアン港」周辺での陽動作戦によって手薄になったチューロ海岸には、第29師団第50連隊第3中隊と
海軍第56警備隊が配備されていたが、米軍の砲爆撃と水際戦闘で全滅した。
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▲▼昭和19年(1944)7月24日チューロ海岸に上陸する米軍
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(25日には第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した)
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▲チューロ海岸に今も残るLVTの残骸。
水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘の為ほとんど全滅し、米軍は日没
までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊54000人を上陸させた。
この上陸での、米軍死傷者は240名(うち戦死15名)であった。

▼米軍に破壊された日本軍陸軍トーチカ、当時の写真(麻生隊トーチカかもしれない・・・)
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▼ビーチには上記写真とよく似た長方形のコンクリート製の遺構が残っていた。
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▲▼チューロ海岸に今も残る日本陸軍麻生隊トーチカ
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▼陸軍 麻生隊トーチカ内部 激しい艦砲射撃を受け陸軍50連隊の主力だった麻生隊は壊滅し、全員戦死。
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▼内部の銃眼部分には「昭和十九年五月 麻生隊」と、まだはっきり読み取れる
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▼チューロ海岸近くに今も残る米軍LVT(水陸両用装軌車)
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▼テニアン島に上陸した米軍LVT(水陸両用装軌車)
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▼LVT(水陸両用装軌車) 画像はパラオ諸島ペリリュー島に上陸するLVT
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▼現場のチェルビーチに立つとかつての日米激戦地である事を忘れてしまう程綺麗な海に見惚れてしまう。
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そして24日の深夜に日本軍による反撃が開始されたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により、
日本軍の進撃が遅れた。それにより、調整の取れない攻撃を行い、約2,500名にも及ぶ損害を受けて反撃は
失敗に終わった。この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長が戦死、戦車は4両
を残すだけとなった。
▼24日深夜の反撃で撃退された日本軍兵士の遺体。
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▼破壊された鹿村一男中尉率いる第18連隊戦車隊独立戦車第2中隊の戦車
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▼▲日本軍を撃退し南下する米軍。▲道端に破壊された日本軍戦車が写っている。
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日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は25日、第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した。
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▲おそらくテニアン戦で撮影された写真。日本人のお墓が写っているが場所が特定出来ない(沖縄戦の写真かも・・・)
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▲破壊されたテニアン市街地(現サン・ホセ市街)
日本軍は新防衛線を構築すると共に、民間人の中から16歳から45歳までの男子約3500名を集め、民間義勇隊6個中隊
を編制。戦闘に協力させた。7月28日陸軍 緒方守備隊長は陸海軍大臣宛の電報を発した。
「在テニアン邦人1万5千名中、16より45才のもの3500名義勇隊を編成し軍に配属、奮戦敢闘しつつありて、皇国人と
しての伝統を遺憾なく発揮しあり。老人婦女子は集合の上、爆薬により処刑す」と。
28日海軍 角田中将も「老人婦女子を爆薬にて処決せん」とする電文を海軍軍令部に送っている。
しかし7月30日までにアメリカ軍は防衛線を突破、テニアン市街を占領した。
7月31日、カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始、マルポ水源地、テニアン町南側付近 第3飛
行場南側で戦闘を行った。戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、島南端のカロリナス高地へ撤退した。
この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸は米軍が占領し、日本軍は長期の抵抗を行う事が困難となった。
夜半、緒方連隊長はグアム島第31軍司令官小畑英良中将に対し、最後の報告を打電する。
翌8月1日も日本軍は前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃を行ったが、失敗。海軍の栗野原大佐、設営隊長林技術
少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。
8月2日緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と斬りこみ隊を組織した民間義勇隊等約1000名が、アメリカ軍に対し夜間
突撃を敢行したが多勢に無勢。アメリカ軍は機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえた為、日本軍に死傷者が続出。
緒方連隊長は後退中に戦死。27日には司令部を放棄し、南部のカロリナス洞窟に後退する。
▼南部のカロリナス付近まで迫ってきた米軍。
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角田中将は31日最後の電報を打った。「今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム」
この時、大本営から電報が入る。
清水中佐「長官、大本営からテニアンを脱出せよとの電報が届いています」
カロリナス沖に迎えの潜水艦を用意すると言う。この頃、優秀な人材が皆戦死し、軍部では非常に困っていた様だ。
大本営はグアムやテニアンに居たパイロットや技術を持った工兵をなんとか脱出させようとしていた。
角田中将「もう間に合わんよ」
8月2日朝、角田中将は最後の突撃命令を出した。飛行士の横森直行少尉が出発しようとすると、司令部に呼ばれた。
この時、角田中将は階級章をつけていなかったと言う。死地に赴く幹部の姿だった。
横森少尉「お先に出発します」 角田中将「横森、ご苦労だった」そして角田中将は2つに割った「オニギリ」の1つ
を差し出した。最後の別れは酒でもない、水でもない「オニギリ」だった。
その後、角田覚治中将は手榴弾2つを持ち、「じゃあな」と笑顔を残して洞窟から姿を消したと戦史は伝えている。
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▲角田覚治 海軍中将 享年53歳
角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令
の大家大佐も戦死し、結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は8月3日夜明けに終結した。
その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、テニアン島は隆起珊瑚礁からな
る平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。日本軍戦死者約8100名、生存者 313名。
アメリカ軍戦死者389名、戦傷者 1816名を出しテニアンの戦いは終わった。
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▲カロリナス大地で掃討作戦を行う米軍兵士
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▲戦いが集結し、戦利品の日の丸の寄せ書きを持っての米軍記念撮影。
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▲テニアン島の戦いで負傷した米兵を運ぶ米軍兵士達。
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▲海兵隊巡察隊員が、丘の中腹の洞窟に隠れていた日本人家族を発見。激しい戦闘から身を隠していた母親と4人の
 子供と犬であった。
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▲戦い終結後に日本人民間人に尋問をする米軍兵士。
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▲生き残った民間人は終戦までテニアン島の捕虜収容施設で暮らした。終戦後、日本に引き揚げた人員は約2300名。
 米軍来攻時には16200名(内朝鮮人2700名)の邦人が在島していた。軍に協力して玉砕した者、スーサイドクリフ
 から身を投げた者も含め、13000人以上の民間人が戦いの犠牲となった事も忘れてはいけない。
▼テニアン島スーサイドクリフ(サイパン同様SUICIDE CLIFF→「自殺の崖」)である。[カロリナス大地]
 岩肌には無数の洞窟が遠くからも見える。周囲はうっそうとした密林で、現在も簡単には近づくことは出来ない。
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昭和19年7月31日~8月1日にかけて激しい攻防戦が続き日本軍は島南端のカロリナス台地に追い詰められていく。
カロリナス大地のジャングルの中の洞窟にいた民間人でダイナマイトや青酸カリを持っている人は自決していった。
首をつろうとした民間人に『民間人には罪はないのだから止めなさい』と言った日本兵もいたと言う。 
テニアン島には川は無く、飲まず食わずで、1週間程。自分のおしっこを、子供に飲ませる人もいたそうだが子供が嫌が
って飲まず、泣きやまないので『子供を殺せ』と言った日本兵もいたと言う。
自分の手で子供を海に放りこんだり自分の手で子供を殺した人もいた。のこぎりで子供の首を切ってしまった人もいた。
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テニアン島の面積はサイパン島の半分程、地形は平坦で農地や飛行場には適しているが、立てこもるには向いていない。
「水もお菓子もあげるから、出てきなさい」というアメリカ軍の投降を呼びかける放送も始まったが最後まで投降しな
かった人々もいた。断崖のあちこちには天然の洞窟があり、ここにも多くの日本人が潜んだ。
目に映る断崖の無数の穴は、米軍の海からの艦砲射撃の跡でもある。1000名の兵士と民間人がこのあたりに潜み、捨て
身の突撃を待っていたと言う。その多くは、アメリカの掃討作戦と飢餓に倒れた。
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サイパン島「バンザイクリフ」同様、絶望した日本人が身を躍らせた海岸である。多くの慰霊碑が立っているが犠牲者
の正確な数は分かっていない・・・。近年の遺骨収集でこの海岸で多数のご遺骨が出たと聞いた。
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▲平成元年(1989)に撮影された同じ場所。案内看板に日本語が併記されている事に注目。現在は日本語併記は無い。
 いかに最近日本人が訪れていないかを物語っている。観光に来ても慰霊には来ないのであろう・・・。
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同じ日本人の銃弾に倒れた人々もいる「降伏を許さない軍隊」から逃れ、アメリカ軍のもとに行くことは極めて危険
であった。同じ日本人にスパイ呼ばわりされ、命を失う事にも繋がったと言う。
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▲日本海軍第56警備隊の慰霊碑
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サイパン同様、いくつも慰霊碑があるが日本政府が建てた慰霊碑は無いらしい・・・。どこもバラバラである。
海外の戦跡・戦地の慰霊で、日本人は永遠に一つになれることは無いのだろうか・・・、悲しくなる。
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▲サンホセ市街にある韓国人(朝鮮人)慰霊碑。この一帯は日本統治時代は火葬場だったそうで、朽ち果てたレンガ
 作りの火葬場が残っていた。KIMG0175_convert_20160508153503.jpg
▲▼「無縁塔」もあり裏には「昭和十五年七月・・・・テニアン町役場」と読める。
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▼この付近には戦時中に使用された洞窟がいくつもあり、3つは入る事が可能だった。
1つ目は現在「マリア像」が置かれている広い洞窟で、日本軍野戦病院として使用されたとの事。
(陸軍第29師団所属第一野戦病院・稲田壽郎軍医中佐/小野直樹軍医大尉以下40名)
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▼2つ目は火炎放射器で焼かれた跡が生々しい洞窟だった。洞窟入り口付近に十字架がある。
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▼3つ目は見つけにくい場所だが日本海軍第56警備隊本部跡の洞窟がある。入り口に到達するまで少し
 木々が多いので行き難い場所だが一番軍事壕らしい内部でコンクリートで固めてある強固な作りだった
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▲入り口は狭く、石垣が組まれ外から見えにくくなっている(撮影もしにくい・・・。)
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▲中に入ると床はコンクリート、サイドもコンクリートでしっかり固められており通り抜けると2つ目の入り口に
 繋がり、Uの字になっていた。中は真っ暗で入り口付近に放置されていた「DAINIPPON BREWERY」と書かれ
 た当時のビール瓶が転がっていたので端に立てておいた。戦地の日本軍司令部等でよく見られるビールだ。


日本海軍のハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)
が建設され、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。
▼完成当時の米軍ウエストフィールド飛行場。
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▼米軍占領後のテニアン島。南側(下)に4本の滑走路が確認出来る。右奥はアギガン島「山羊島」
※ブログ上記でアギガン島「山羊島」の山羊が自然繁殖した事を紹介したと思う。戦後アメリカ軍は荒廃したサトウキ
 ビ畑跡にタンガンタンガンの木の種を空中散布した為、 テニアン島は高さ3m程のタンガンタンガンの木に覆われて、
 島の植物体系が変わってしまった。将来の基地使用に備え、住民にこの密林を取り払って耕作するなど出来ない、と
 諦めさせるのが米軍の狙いだったが、山羊はタンガンタンガンの葉が好物だったので自然繁殖した経緯がある。
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昭和19年(1944)11月以降、連日の様に日本に向かうB-29 がこの島を離陸していった。
▼テニアン島ノース・フィールド飛行場から出撃するB-29。
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▼日本海軍ハゴイ飛行場を拡張整備して作られたテニアン島ノース・フィールド飛行場
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昭和20年(1945)8月6日広島、8月9日長崎への原爆投下作戦のB-29は、テニアン島ノース・フィールド飛
行場から発進した。1度自分の目で見たかった、そんな日本にとって深い繋がりのあるテニアン島を訪れた。
▼画像はエーブル滑走路。2600mの滑走路が4本あるが、ここは1番北側の物。この滑走路こそ広島/長崎に飛び立
 った「エノラゲイ」と「ボックスカー」の使用したものである。
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昭和20年(1945)8月5日夕刻B-29に積まれた原爆は日付が6日に変わった真夜中2:45この滑走路を飛び立った。
そして昭和20年(1945)8月6日8:15広島であの惨劇が起こった。
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▲原爆搭載準備に入るB-29「エノラゲイ」
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▲▼原爆ピットに納まる広島型原爆(リトルボーイ)
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▲原爆ピットから油圧ジャッキで持ち上げられ、B-29エノラゲイに搭載される広島型原爆(リトルボーイ)
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▲「エノラゲイ」搭乗員
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▲昭和20年(1945)8月6日真夜中02:45出撃前笑顔で手を振る「エノラゲイ」搭乗員
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▲NO.1原爆ピット。広島型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)/長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)を搭載
NHK戦跡と証言「原爆ピット」テニアン島
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▲NO.2原爆ピット。長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)が収められたが、油圧ジャッキの故障で搭載時は
 NO.1原爆ピットが使用されたと聞いた。
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▲当時の原爆ピットNO.2
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▲長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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▲NO.2原爆ピットに収まる長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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▲廃墟となった長崎
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▲原爆組み立て工場。
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▲戦後取り壊される前の原爆組み立て工場。
人類史上初めて実践で使用された核兵器は、マンハッタン計画に基づき米国国内で製造された。
昭和20年(1945)7月26日テニアン港に原子爆弾の部品と核燃料を積載した米海軍重巡洋艦インディアナポリスが入港。
荷揚げされた部品と核燃料は米軍テニアン占領後に原爆を運ぶ為に整備された道路「ブロードウェイ」を通り、原爆ピ
ット北の「原爆組立工場」に運び込まれた。
原子爆弾の部品と核燃料がテニアン島に届けられた4日後の昭和20年(1945)7月30日日本海軍潜水艦「伊-五八」によ
って米海軍重巡洋艦インディアナポリスは撃沈された。部品と核燃料がテニアン島に届けられる前に撃沈されていれば、
歴史は違ったものになっていたかもしれない・・・。原爆投下計画が日本側に知られたと感じた米軍は広島原爆投下を
急いだと言う。しかしインディアナポリスの撃沈は偶然であった。
5日後の7月31日広島型ウラニウム原子爆弾「リトル・ボーイ」の組立てが完了した。
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▲当時「原爆組立工場」には空調が完備され、温度差によって原子爆弾の部品同士が合わなくなるのを防止していた。
※原爆組立工場は戦後解体され、現在はコンクリートの土台がわずかに残るだけとの事で見学していない。
原爆ピットは戦後埋め戻されプルメリアとココナッツの木が植えられていた。2004年6月15日サイパン侵攻を記念し
て第2次世界大戦60周年記念式典が挙行されるのに合せ、埋め戻されていた2基の原爆搭載ピットを掘り返して公開さ
れた経緯がある。「パールハーバー(真珠湾攻撃)がなければ、広島・長崎も無かった」というのが米国の立場だが、
「ABCD包囲網がなければ、パールハーバー(真珠湾攻撃)も無かった」というのが日本の本音だと思う・・・。
▼戦後埋め戻された時のNO.1原爆ピット
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▼平成元年(1989)に撮影されたNO.1原爆ピット(まだ埋め戻された状態で案内看板に日本語も併記されている)
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▼平成元年(1989)に撮影されたNO.2原爆ピット(まだ埋め戻された状態で案内看板に日本語も併記されている)
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広島/長崎に続いて3個目の原爆用プルトニウム核と起爆装置をテニアンに輸送する為B-29を米本土に待機させていた
マンハッタン計画の長グローヴス将軍は「これ以上原爆の使用は望まない」とのトルーマン大統領の意向を受けてこの
計画を中止した経緯もある。エノラゲイのパイロット、ティベッツ氏が「原爆を投下したが為に、日本本土上陸作戦を
行わずして日本を降伏させる事が出来た。広島/長崎の市民が 多数犠牲になったとしても、上陸作戦で失われたであろ
う、数十万人の米軍兵士の命に代え難い」と言った様に、原爆が無ければ「本土決戦」が行われていたであろう。
そして日本という国は消滅していただろう。米軍だけでは無く、日本軍民も広島/長崎以上の死者が出ていただろう。
喧嘩両成敗という言葉があるが、国と国との戦争の後には勝戦国と敗戦国しか無く、負けると解っていた日本は「対話」
の努力を続けるべきだったであろう。しかし、戦って学んだ事が日米に必ずあるはずだ。そうでなければ先の大戦で亡
くなった全ての人に対して堂々と慰霊が出来ない。
▼アメリカ軍戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式
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原爆は核分裂によって生ずるエネルギーを利用する点において、化学反応による通常兵器と根本的に異なる。
人体に与える深刻な影響は通常兵器の比べものにならない。化学兵器の使用は人類にとって恐怖以外に言葉が見つから
ない。原爆を使用したアメリカに対して、日本では批判的な意見も多くある。しかしプルトニウムの原料不足で開発を
断念したものの、日本も原爆開発を進めていた事実がある事を忘れてはいけない。
国力が逆であったならば、日本も同じ事をしていたかもしれない。
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▼広島に原爆を投下し、テニアン島ノース・フィールド飛行場に帰還するエノラゲイ。
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▼戦後70年以上が経っても世界では「戦争」というものは続いている、日米共に多くの人が亡くなって日本の平和は
 続いている。それが「当たり前」と思っている日本人の多さに危機感を感じるのは私だけだろうか・・・。
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▼ダイナシティーホテル社宅裏に、リトルボーイとファット・マンの実物大模型が展示?放置?されている。
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誰が何の為に製作したかは不明との事。案内板の文字は英語と中国語のみであった。
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ノース・フィールド原爆ピットの中に展示する案も出た様だが、色が違うとの事でアメリカ軍から却下されたそうだ。
テニアン市では市長が変わる度に前市長が行った事が全て無になる事が多い様で、この模型が出来た時の市長が作らせ
た物かもしれない。との事だ。いずれにせよ詳しい経緯は何も解らないとの事だった。
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▲▼広島型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)
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▲▼長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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※ファット・マンの実物大模型は大津市歴史博物館でも見る事が出来る。本土空襲の中で米軍はファット・マンと同型
爆弾(原爆では無いパンプキン爆弾と呼ばれる物)を投下し、本番の原爆投下の練習をしていた。
別名「模擬爆弾」と呼ばれたパンプキン爆弾は、爆撃機B-29に搭載し、昭和20年7月20日~8月14日までの間に日本
全国30都市に49発が落とされ、原爆の投下訓練を行った。機体が原爆の爆風に巻き込まれないよう、投下後、速やか
に上空を離れるための操縦訓練などが目的だったが、模擬原爆によっても日本全国で計約400人が犠牲になった。
(※大阪では7月26日09:26、1発の模擬原爆が東住吉区田辺の元料亭付近に落下。7人が死亡、73人が負傷した。)
その内1ヶ所が滋賀県大津市内だった。場所は当時、魚雷を製造していた東洋レーヨン石山工場(現東レ滋賀事業場)で、
日時は7月24日07:47。16名の方が亡くなられたと記録されている。その事実を語り継ぐ為に展示されている。
小生も2015年に見学に行った。画像はその時撮影したものだ。
▼大津市歴史博物館(滋賀県)に展示されているパンプキン爆弾実物大模型
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(ファット・マンと同型全長3.2m球体部直径1.5m重量約4.5t)
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▼テニアン島の戦いで撮影された有名な写真。
 (孤児となった収容所の子供にキャンディーを与えるフェデリーコ・クラベーリャ1等海兵)
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[テニアン日本人学校]
アメリカ軍に投降し、保護された日本の民間人は、カーヒー地区に建設されたキャンプに収容された。
掘っ立て小屋の様な所で、むしろを敷いただけのものだったと言う。仕事(米軍のお手伝い)に行けば、チョコレートや
ガムが貰えたと言う。アメリカ軍は戦時中にもかかわらず、昭和19年戦いで荒れ放題になったテニアン島に日本人の
子供達の為に学校を作った。生徒数は2074名である。
「私も、学校で英語を習ったんですよ。そしてここで星恵美子さんとも、一緒になったんですよ。戦後日本に戻った後
も、ここで覚えた英語が役に立って、山形の米軍図書館で働いたんです」
と、当時14歳、生まれて半年でテニアン島に渡り、生還された井上茂さんは語っておられる。
この学校の創設に尽力したのは当時26歳のムック海軍中尉である。敵国の為にと周囲の反対を押し切って学校を作った。

▼圧倒的兵力とはいえ日本軍の猛攻で389名の米兵が戦死した(当時米軍戦死者を埋葬したウエストフィールド墓地)
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▼テニアン島を南北に貫く「ブロードウェイ」の北に[アメリカ記念碑」があり、戦没した米兵の慰霊碑として戦後アメ
リカ政府によって建てられた。戦後米軍戦死者の遺骨はアメリカ本土に還り、アメリカンメモリアルだけとなっている
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現在、沖縄に滞在する在日米軍の一部がテニアン北部に移転する事が決まっており、テニアン島北部にある
ノース・フィールド飛行跡や原爆ピット、日本海軍ハゴイ飛行場関連施設跡は見学が出来なくなるかもしれ
ない為、今回予定を早めてテニアン島を訪れた。カジノも現在建設中で、米軍が駐屯すればテニアン島の活
気が戻る事が期待されている。
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▲▼テニアン島へはサイパン島からスターマリアナスエアを使い約10分程、チェロキー機の乗り味は最高だ。
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▼サイパン国際空港を離陸する。
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▼テニアン国際空港を機内より撮影。かつては日本軍カヒット飛行場だった、テニアン島の戦い後、米軍によって拡張
 され、昭和20年(1945)3月ウエスト・フィールド飛行場と命名される。戦後テニアン国際空港となった。
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▼サイパン島を離陸して約10分、テニアン国際空港に着陸態勢。
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▼テニアン国際空港に到着。
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▼テニアン空港はローカルな雰囲気漂う小さな空港。
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▲テニアン島民の75%が失業状態と言うが、新し目の車はチョクチョク見かける。
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▼テニアン島北東部の海岸「潮吹き海岸」という観光スポットに行って見た。
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▼潮吹きポイントの直ぐ南側は立ち入り禁止区域となっている。潮吹きポイントよりこちら側が気になった。
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▼潮吹きポイントからサイパン島が綺麗に見える、近い。サイパン島の戦いを見ていたテニアン島守備隊は覚悟を
 決めていたであろう・・・。
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▼(テニアン島→サイパン島→グアム島)サイパン島離陸後機内より撮影。
 左がテニアン島北部(原爆投下作戦のB-29が出撃したノース・フィールド飛行場が見える)
 右はサイパン島南部(最短距離の航路は、海流がぶつかるポイントで波が荒く戦艦でも無理らしい)
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▼グアムに戻る機内から原爆投下作戦のB-29が出撃したノース・フィールド飛行場が綺麗に見えた。
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▲歴史と未来を深く考える事が出来、勉強になったテニアン島の旅だった。
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G7広島外相会合で、ジョン・ケリー米国務長官はアメリカ現役閣僚として初の原爆死没者慰霊碑訪問となり献花した。
オバマ大統領の広島訪問が実現するかもしれない。小生はとても嬉しい。
慰霊碑の石碑前面「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文は原爆投下の悲劇に対して、あえて米国
への名指しの非難をせず、人類全体の悲劇として追悼しているものと思う。
もしも名指しで米国を非難していたら、そんなところに、米国大統領は絶対に立ち寄らない。
先日のG7外相会合「広島宣言」採択は原爆投下の悲劇を、あえて人類全体の悲劇として、特定国への非難を避けてき
たからこそ実現したと強く思う。非難と追悼は別物だ、そうしないと世界は憎しみと復讐だらけになってしまう。
原爆による非戦闘員の無差別殺戮は、人類史に残すべき大虐殺である事は間違いない。
しかし特定国への非難は犠牲者追悼の場とは別の場所でやれば良いと思う。
「平和」と「自由」は非難からは生まれない。それを戦ってくれた全ての英霊が命をかけて教えてくれた。
死んだ人は戻ってこない。共に追悼し、過ちを繰り返さないと誓う。それこそが犠牲者への最大の供養になると思う。

※5/10追記
オバマ米大統領は5月10日、5月27主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)出席の為に訪日する際、広島を
訪問する方針を決めた(日米両国政府発表)
ローズ大統領副補佐官は10日朝、オバマ氏の広島訪問の意義について「大統領は広島で『核なき世界』の理念のもと
で平和と安全を追求するという米国の考え方を再確認する」とウェブ上のブログで明らかにした。原爆投下の決断につ
いて再評価はしないとしつつ「大統領の(広島)訪問は戦時中に亡くなったすべての無実の人々に敬意を表する機会と
なる」とも述べた。
素晴らしい、平成28年(2016)5月27日は日本にとっては歴史的に重要な日になると思っている。

※5/27追記オバマ大統領広島訪問首都官邸facebook オバマ大統領広島訪問 岩国基地演説YouTube
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安倍総理大臣 広島声明YouTube

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 2016_05_01


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笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)
日本の政治運動家、社会奉仕活動家。国粋大衆党総裁、衆議院議員、全日本カレー工業協同組合特別顧問
財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、福岡工業大学理事長、勲一等旭日大綬章受章者

大阪府三島郡豊川村(現:箕面市)に造り酒屋の長男として生まれる。笹川家は代々庄屋を務めた旧家で苗字帯刀を許
されており、父・鶴吉は笹川家10代目当主。笹川家の菩提寺は1579年(天正7年)に笹川市兵衞が創建したと伝えられ
る浄土宗理照寺。1914年(大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)高等科卒業。
作家の川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。
飛行機乗りを志し陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊。

戦後、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、マスメディアからは「右翼のドン」と呼ばれた。
1974年(昭和49年)アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えて
いる。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な
意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評
価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。
経歴としては、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈
放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから、有罪認定
はされていないが、A級戦犯容疑指定を受けたことが、その後左翼的な報道機関により意図的に報じられる事が多かっ
たこともあり誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことを「A級戦犯で極東国際軍事裁判において有罪となった」
と信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。
巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の
没後に公表された。なお、第二次世界大戦前の笹川は自分を「大衆右翼」と位置づけベニート・ムッソリーニを崇拝、
大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。強硬外交を主張しつつ、日本社会へのファシズムの浸透に
注力した。巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会
(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興を進め、更に福祉方面の公共事業を助成する財団
法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)を創設した。CIAエージェントであったとも報じられている。
株式取引に長け、姪婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して事態を乗り切
ることに成功している。
[政治活動]
1925年(大正14年)、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補し、当選して政治活動を始める。芸能事務所経営
を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。  
[川島芳子]
その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し
総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいた事もある。イタリアの指導者であるベニート・ムッソリーニの崇拝者であり、
ムッソリーニ率いるファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。
なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子と交際があったと噂されている。
本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。後に、多田駿の指示があ
ってか、暗殺の危険を感じた川島が里見甫などに相談した結果、笹川の元に身を寄せたこともあり、一方で党総裁の笹
川もそんな川島の国民的知名度や人気にあやかろうとしていたともされている。
1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。
大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後1939年(昭和14年)には飛行機で
単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の山本五十六の後援があった。
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の
姿勢の為、非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも
親交があったとされる。
A級戦犯容疑と「巣鴨日記」(巣鴨プリズン)
1945年(昭和20年)には、日本を占領下に置いた連合国指令によりA級戦犯容疑者として12/1に逮捕命令が出て12/11
巣鴨プリズンに入獄した。が、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった。
戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後、連合国の主要国であるアメリカの方針が
180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共の為に生かして利用する方針変換となった為(いわゆる逆コース)1948
年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党
を更に全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。
上記の様に、笹川は戦争中に戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁く
事は不当であり、アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。
また、「アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に
日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。
ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は、
「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS民間諜報局作成のファイルによる)としてであった
事を知る。笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズン
ンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念「日本が親米反共の道を選ぶべき事」
「日本同胞を餓死から救わねばならぬ事」「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、東條英機に対して「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛の為のものであったと
いう日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」と説いている。
また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。
一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合う。このことが日本のエスタブ
リッシュメント人脈との交流に繋がった。笹川は、巣鴨プリズンのことを「人生最高の大学」と評して、「ここは娑婆の
20倍、30倍勉強になる」と語った。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA
級戦犯達を励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大
な人望があったという。
後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採
用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波
書店も筆者を漏らさなかった為、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。
加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面識があった)。
[戦犯者救済活動]
笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求
めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、酒も煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者
の慰霊に奔走した。海外で収監されていた戦犯者や「三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊の
為に設立された宗教法人白蓮社、および家族会である白菊遺族会にも物心両面の協力を続けたとされる。
戦犯者とその家族を支援することは、当時としては連合国軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する
人間はほとんどいなかった。笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一
切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は伊藤隆編集の元に『戦犯者を救え 笹川良一と東京裁判2』 として
刊行された。
[反共産主義の活動](蒋介石と妻の宋美齢)
笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていたが、終戦直前に参戦し日本人捕虜をシベリア
に連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。
1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、現在のアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組
織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を中華民国総統の蒋介石らと共に設立した。
統一教会とはある時期まで協力関係にあり1963年(昭和38年)には統一教会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6/4
の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一教会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、
結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪化した為か、
1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。
笹川は反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り「政界の黒幕」として影響力を及ぼしたと見られているが、
戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とする事は無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達で
きた事に加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた。
[中国との関係]
中国国民党の蒋介石と世界反共連盟を設立するなど反共の立場を取ったにも関わらず、1972年(昭和47年)9月の日中
国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国国民党と対立する中国共産党が支配する中華人民共和国への支援に
回すなどしている。1987年(昭和62年)から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェ
クトで来日した中華人民共和国の医学生は延べ2000人を超える。同時に中国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した。
[タブーと親交]
1960年代から1990年代の各週刊誌などで批判的言説を受けていたにもかかわらず、笹川に批判的な左翼マスコミからは
生前「新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表する事は、
ある種のタブーとなっていた。と言われてきた。しかし、笹川は有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、
との例えどおり、実力の上において、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモ
チの方が強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのある事だった。
戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、
マイナス・イメージを持っていた為、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。
なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代になっている。また、
山口組三代目・田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。ロッキード事件が騒がれるとロ
ッキード副社長と会った事実などが明らかになるが、笹川は「会ったことがあるが疑惑はない」と反論し、実際にそれ以
上の追及はされていない。国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。
世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはアメリカの元大統領ジミー・カーター、
実業家ジョン・ロックフェラー等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』「解説」に詳しい。


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児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日は、日本の右翼運動家。
CIAエージェントであったという。暴力団・錦政会顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した。
三男はTBSサービス社長の児玉守弘 戦後の日本・欧州の視点 No.3-1 児玉機関と笹川良一YouTube
戦後の日本・欧州の視点 No.3-2 児玉機関と笹川良一YouTube
最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏と津久井龍雄ら
高畠素之門下によって創設された急進的な右翼団体「建国会」(会長は上杉慎吉、顧問に頭山)に加わった。
すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。
その後、建国会を脱退した津久井の急進愛国党を経て1931年に津久井と狩野敏が作った全日本愛国者共同闘争協議会
に参加。そこで国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし投獄された。
1932年に釈放され、満州に渡り、大川周明門下の笠木良明ら率いる大雄峯会に参加。同年、帰国すると「独立青年社」
を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を
破壊して停電を起こすことで皇道派のクーデターを誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。
発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党に参加。
1937年外務省情報部長河相達夫の知遇を得て中国各地を視察。1938年海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関
を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。
60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の1人
であった。1961年この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。
60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。
1967年7月笹川良一の肝煎りで、「第1回アジア反共連盟」結成準備会」が開催された。
この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
1969年青思研より独立した右翼団体日本青年社が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。
[児玉機関]
1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川の紹介で採用され海軍航空本部の嘱託となった。
ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した。
1941年真珠湾攻撃直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将
(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。この縁で上海に児玉機関と呼ばれる店を出した。
これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約を
もらっていた。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言
われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、
秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた。
児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されると
いう結果となった。この間1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京
5区から立候補をして8位落選をしている。
[逆コース](戦犯として収容時のマグショット)
終戦後、講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となって
いた。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍によ
り右翼をパージするSCAPの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」
を走る様になった。1948年12月24日に釈放されるが、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている。
確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていた事と、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国
内鉱山を明らかにしている事、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析している事である。
「フィクサー」へ(児玉邸にて政治家たちと密談1953年)
児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた。
児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を鳩山ブランド
の日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。
1950年北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を
築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次
が大きな役割を果たすことになる。
[岸信介]
1954年には、河野一郎を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党に
なった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。
岸信介が首相になる際にもその力を行使した。岸首相の第1次FX問題問題をめぐる汚職を社会党の今澄勇が追及していた
時は、等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし今澄が聞き入れない為、身上調書
を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。
児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。
それらに書き立てられることは脅威となった。
[ドワイト・D・アイゼンハワー]
日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡
す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。
改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸信介首相は自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉は
その世話役も務めた。
1962年(昭和37年)夏頃から「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の
防波堤となる強固な組織を作る」という構想の元、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局結成されなかった。
しかし、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付けていた。
昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃」
を実現させた。
[フィクサー]
児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると
韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企
業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、後に韓国大統領となる朴正煕とは満州
人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って韓国
利権に走った。日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。
1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンライ
ンの土屋研一は児玉に事件の解決を依頼した。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。
そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。
児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石
油の子会社だった日本精蝋を1974年夏に買収した。
児玉が圧力をかけるときは今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに博報堂がある。
その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、
その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、靡かないメディアには広告依頼を回さない。
このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和の商号を、1975年博
報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、
この元親会社に業務を請け負わせた。役員は広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を
連ねた。広田は、福井純一(博報堂社長)の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークし
ていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉
側近の第一人者であった。
[ロッキード事件]
児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”
戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった
1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。
児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。
韓国に対する影響力の大きさが窺える。
しかしこの頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった。
そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、
ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、既に日本航空はマクドネル・ダグラス社製DC-10
型機の購入を決定していた事もあり、その矛先を全日空に向けた。
この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、全日空は既に
決定していたマクドネル・ダグラスDC-10の購入計画を、後に贈賄で逮捕される元運輸次官の若狭得治社長の指示で破棄
し、ロッキード社のL-1011トライスターの購入を決定。その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の
日本での売上は拡大した。更に全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚
への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及される事となった。
[ロッキード裁判]
しかし1976年(昭和51年)アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人とし
て雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後三木武夫首相によってこの事
件の捜査が開始され、既にこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」
を起こし、床についた。しかし間もなく児玉は脱税と外為法違反で起訴され、裁判に臨む事になった。1977年(昭和52年)
6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れなかった。
元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。
児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。
72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没した。


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瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問など多くの要職
に就任し、政治経済界に大きな影響力を持ち、「昭和の参謀」と呼ばれた。号は「立峰」。
義父は岡田政権で内閣総理大臣筆頭秘書官を務めた松尾伝蔵(陸軍大佐)である。

1911年12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家で村長の瀬島龍太郎の三男として生まれた。
旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年に陸軍士官学校(第44期)を次席(首席は原四郎)で卒業、昭和天
皇から恩賜の銀時計を受けた。その後、富山歩兵第35連隊附の歩兵将校として従軍。その後は師団長の推薦により陸軍大
学校(第51期)に入学、1938年12月8日に首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を受けた。
御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。
その後、1939年1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二
陸軍中将)参謀となり、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚附関東軍参謀本部部員となる。
翌1940年には、大本営陸軍部作戦課に配属される。なお、この関東軍参謀時代に瀬島は対ソ示威演習である関東軍特種演
習(関特演)の作戦担当として作戦立案にあたった。
[太平洋戦争時]
1941年7月に大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐となる。同年12月8日の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦以降、陸軍
の主要な軍事作戦を作戦参謀として指導した。主任として担当した物を含めて、主な物は南方作戦におけるマレー作戦(E
作戦)・フィリピン作戦(M作戦)、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作
戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦等であった。瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、第6航空軍の作戦参謀として南九州
の陸軍基地で勤務した。1944年12月、単独でモスクワに2週間出張した。
1945年1月島村矩康陸軍大佐/連合艦隊常勤参謀が戦死、その後任に瀬島が選ばれた。2/25海軍の連合艦隊参謀兼務とな
り、最終階級は陸軍中佐となった。6月末まで同僚の千早正隆海軍参謀と共に本土決戦準備の為日本各地を調査している。
特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。
瀬島は迫水久常(鈴木貫太郎内閣内閣書記官長)と親戚であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦
局の実情を訴えたという。
※1945年7月1日関東軍作戦参謀に任命され満州へ赴任。同年8/15日本の降伏後の8/19ジャリコーウォでソ連軍と停戦交
渉を行う。日本側の参加者は、関東軍参謀長秦彦三郎、瀬島作戦主任(中佐)、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の
参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第1極東方面軍司令官キリル・メレツコフ
元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。この時、瀬島は軍使として同地を訪れた為、内地に帰還する事
は可能であったが、同年9/5関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。
この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している。
[シベリア抑留]
その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留される事となる。この時、本来捕虜としての労働の義務のない将校であるに
もかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。後にこの時のことを諧謔として「佐官が左官になった」
と述懐している。
[東京裁判証人として一時出廷]
この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳・松村知勝と
共にウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極
東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められるが断固拒否する。
更にソ連側は瀬島らに自分らの主張に沿った証言をさせようと家族との面会の話を持ち出したが瀬島はこれも断ったがソ
連は家族の所在を突き止め強制的に面会を強要した。
なお出廷に当たって瀬島は草場辰巳陸軍中将(関東軍鉄道司令官)、松村知勝陸軍少将(総参謀副長)と供述内容につい
て事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画
に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異
なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている。
裁判後シベリアに戻され昭和30年代に入るまで抑留生活を余儀なくされた。抑留中ソ連側の日本人捕虜に対する不当な扱
いに対しては身を挺して抗議をしたため自身も危険な立場に立たされる事もあった。1947年末から1950年4月までの間
どこの収容所にいたかを語っておらずモンゴルのウランバートルにあった。第7006俘虜収容所に、朝枝繁春、種村佐孝、
志位正二らとともに収容されていたと見られている。
[伊藤忠商事時代]
1956年、シベリア抑留から帰還した。アメリカは日本の警察などに依嘱して、舞鶴港で1週間にわたり拘禁尋問した。
設立直後の自衛隊に入るよう原四郎から再三の誘いを受けたが、瀬島の長女が反対したため断念した。
瀬島はシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、1958年に伊藤忠商事に入社する。1960年、伊藤忠商事航空機部長。
入社3年目の1961年には業務本部長に抜擢され、翌1962年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、同社
がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会
長に就任した。1981年相談役、1987年に特別顧問に就く。
この間、防衛庁防衛研究所の戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆協力、1972年11月にはハーバード
大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「1930年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の
回顧」という講演を行った。田中角栄とは田中が1971年第3次佐藤栄作内閣時代の通産大臣だった時知り合ったとされる。
児玉誉士夫は源田実に紹介され知り合ったと言われる。
実権のない伊藤忠会長だった1978年、永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所
副会頭に抜擢される。瀬島はそれまで財界活動はしていなかったが、以後、財界活動を活発に行う様になり、永野の参謀
として太平洋経済協力委員会やASEANの民間経済会議などに出席した。1981年永野や鈴木善幸首相、宮澤喜一、福田赳夫
田中角栄らの推薦、或いは永野と中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第2次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就く
土光敏夫会長のもとで参謀役として働き「臨調の官房長官」と称され、中曽根政権(1982年〜1987年)のブレーンとして、
政財界に影響力を持つようになった。また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉
(クォン・イクヒョン권익현)を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪
化していた1980年代初頭の時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相の訪韓実現や全斗煥大統領の来日や昭和天皇と
の会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。
ソウル五輪開催の際にも影響力を行使し、当時有力視されていた名古屋市の招致に本腰を入れないよう要請していたとする
説が複数の書籍で唱えられている。
1984年に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争
戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年に伊藤忠商事特別顧問を退任。
2007年(平成19年)春、入院中の瀬島は同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱は
とても良いことだと思っている。しかし具体的な政策を出さないと国民がついて行けない。ここで同台としての最後の御奉
公として、骨太な柱となる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識と経験を集結して、国民に判り易く、そして国際的
にも日本の姿勢がアピール出来るようなテーマを考えてみたらどうか」と言った。
こうして平成19年5月30日、同台経済懇話会会長として瀬島龍三は安倍首相に提出した提案書のなかで美しい国づくりの大
テーマとして近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。
クリーンエネルギー提案書では、10年間で風力と太陽光で電力の30%を達成するために、風力とソーラーの統合発電機構
を作り、関係産業各社と電力会社の協力を推進する事、太陽光ケーブルの大々的利用(重層利用、地下発電も可能となる)
ソーラー関係機器商品の開発奨励などを提案、森と水資源に関する提案書では、特に定年を迎えた元気なシルバー世代への
啓発事業、保水と空気清浄の源となる里山の増加育成、湖沼・ダム・湾などの新しい装置・技術を活用した浄水事業を、
山本卓眞(富士通名誉会長)、山口信夫(旭化成会長)、下山敏郎(オリンパス最高顧問)、小長啓一(前アラビア石油会長)、
中條高徳(アサヒビール特別顧問)、野地二見(元産経新聞取締役)、秋山智英(元林野庁長官)、
鈴木正次(元日本弁理士協会会長)、南崎邦夫(石川島播磨重工副社長)、小野寺俊一(元港湾協会会長)、
小野重典(フジタ最高顧問)、植之原道行(元NEC副社長)、岸国平(農業研究センター所長)らと連名で提出した。
6月21日妻の清子が老衰で90歳にて死去。3ヶ月足らず後の9/4妻を追う様に老衰の為、東京都調布市の私邸において95歳
にて死去。死後、従三位が贈られた。同年10月17日築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執
り行われた。

※上記全てウイキペディアより

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 2016_04_23


ニイハウ島事件は、昭和16年(1941)12月7日日本海軍による真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属のゼロ戦が、ハ
ワイ諸島のニイハウ島に不時着して起きた一連の出来事である。
1864年以来、ハワイ諸島の中で最も西にあるニイハウ島はロビンソン家が私的に所有している。島民のほとんどはハ
ワイ先住民で、彼らの第一言語は、他の島の住民のような英語やハワイ・クレオール英語ではなく、ハワイ語だった。
現在もニイハウ島は観光などでは訪れる事が出来ない島である。(アメリカ軍関係者と先住民のみが行き来している)
許可なしには上陸出来ず、カウアイ島からヘリコプターや船のチャーターで行くことが許されている。
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当時、日本海軍 軍令部情報では、ニイハウ島は牛の放牧場で管理人は日本人3名、土人労務者約20名がいるが白人は1
人も居住していないと記されていた為、ハワイ真珠湾攻撃に際し、ニイハウ島を真珠湾攻撃時に損傷を受けた航空機の
緊急着陸地として、更にパイロットを潜水艦によって救出するための集合地点として指定されていた。
これは西側の海岸が平坦な地形で滑走路として使い易く、また水深が深い為に潜水艦をギリギリまで寄せることが可能
だった事が挙げられる。
昭和16年12月7日、日本海軍の空母「飛龍」に所属する西開地重徳(にしかいち・しげのり)1飛曹は、真珠湾攻撃の第2
波攻撃に参加した後、搭乗したゼロ戦に銃撃を受け自爆認定された。
しかし実際には、西開地1飛曹は命令通りハワイ・ニイハウ島の野原に不時着していた。
西開地1飛曹は3日間救出を待つも日本海軍の潜水艦は現れず、日本では交戦後「自決」とされているが、日本の情報不
足で、ニイハウ島は日系人ばかりと搭乗員に教え、帰還不能の時は「ニイハウ島にて潜水艦を待て」との命令だったが、
ニイハウ島の住人は250名、内日系人は3名しかおらず、その原田義男夫妻に匿われたが、カナカ族の民兵(島の先住民
ベニ・カナヘレ)に喉をナイフで切り裂かれ、撲殺されたとされる。(ベニ・カナヘレは叙勲されている)
当時ニイハウ島に不時着した西開地1飛曹は軽症で、島民たちが手厚く看護したという。
ところが、ニイハウ島住民の1人が西開地1飛曹が不時着させたゼロ戦の機内から地図と拳銃を盗み出した。
帝国海軍の軍人にとっては機密書類と拳銃。当然、住民との間に緊張感が漂った。
間に入ったのが、カウアイ島から農場管理人として働きに来ていた日系2世の原田義雄さん(当時39歳)と妻の梅乃さん夫
妻だった。西開地一飛曹は住民との抗争によって撲殺又は自決したが、その際、原田夫婦も、御主人は自害(米国人であ
りながら、両親の国で敵国だった日本軍に加担したジレンマからだったと言われている)又は死亡。
奥様の梅乃さんは抗争で片手を失い、国家反逆罪で逮捕され、犯罪者として収監。
2年9か月の収容所生活後釈放されたが、世間の目は冷たかった。
大変苦しい生活をされたが3人の子供の為に自殺を我慢されたと言う。
亡くなった原田義雄さんの弟は、兄の汚名を晴らすかのように米軍日系2世部隊に志願した。
(戦後、原田夫婦に対しては日本政府は何もしていない)
西開地1飛曹をかくまった日系2世「原田義雄さん」享年39歳
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▲ニイハウ島に不時着し、色々な事が重なり焼却された西海地重徳一飛曹搭乗機のゼロ戦
西海地重徳一飛曹の遺骨は、勇敢な兵士として、米軍はニイハウ島(後にマウイ島の陸軍基地)に安置保管していたが、
戦後、現地日系人の奥様達が「あの兵隊は若かったので、日本のお母さんの所に帰してほしい」と再三にわたり請願。
長い間無視されたが、昭和29年アメリカ政府が根負けし、遺骨の経緯を含めて全て明らかにした上で「母親の所に帰し
て」とし、日本の厚生省に返還したが、厚生省は、西海地重徳一飛曹の遺骨を、横浜の復員課の無縁仏の棚に10年以上
放置。ハワイからの再三問い合わせがあり、母親の元に渡されたのは戦死後20年以上経過していた。
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▲西開地重徳1飛曹(愛媛県出身) 享年21歳
西海地一飛曹の母は戦時中は「軍神の母」と祭り上げられ、敗戦後は「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。
西海地重徳一飛曹の母親は小学校の代用教員(実質は用務員)で、生活に困窮し、57歳で勤務中に心筋梗塞で死亡した
と記録されている。
西海地重徳一飛曹の遺骨に関する日本政府の扱いにハワイの日系人は激怒し、この顛末を日本で「ニイハウ島の零戦」
という本にし、ハワイで英語に翻訳。州の全小学校の図書館に置き「日本という国は、祖国の為に戦った兵士にこの様
な扱いをする国」として、悪い事の見本としている。(この本は日本では絶版・入手困難)
西海地重徳一飛曹が不時着させ、焼却したゼロ戦は真珠湾内フォード島航空博物館にて、ニイハウ島の現場を再現した
ジオラマ展示されている。(焼却したゼロ戦をそのまま展示)その横にはゼロ戦21型が(機番「BⅡ-120」Bは第二航空
戦隊、Ⅱは二番艦「飛龍」、1は戦闘機を表す。(2は艦爆3は艦攻)20は先任順)展示されている。
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▲パプアニューギニア・二ューブリテン島 ガスマタに放置された台南航空隊所属機をオーストラリア軍が捕獲した物
※ガスマタ(Gasmata)はパプアニューギニア ニューブリテン島 西ニューブリテン州南岸にある村。
 太平洋戦争中の昭和17年(1942)2月、日本軍は村を占領した。 ラバウルから東ニューギニアへの前進中継基地とし
 て、村の西にあるスルミ半島に飛行場が建設された。が昭和19年(1944)3月28日ガスマタはオーストラリア陸軍部
 隊によって再占領された。日本軍が建設したスルミ半島の飛行場はガスマタ空港として戦後も運用されており、村の
 中心部は空港の周辺に移っている。

[ニイハウ島事件]史実に関して英語では「The Niihau Incident」(Allan Beekman著、出版社Heritage Pr of Pacific)
niuhaui.jpg
日本語では「真珠湾の不時着機 二人だけの戦争」(河出文庫、牛島秀彦著)に詳しく記されている。

ハワイは未だ訪れた事は無い、いつか行きたいと思っている。しかしハワイ在住経験のある知り合いは、ハワイの戦跡
は軍の敷地内にある事が多いので、一般人は立ち入れない場所が多く、博物館以外はたいして戦跡も無いと言う。

これまで戦跡ガイド付で訪れた、グアム島、サイパン島、トラック諸島、テニアン島の戦跡ガイドは酷いものだった。
グアム島に関しては旅行ツアーでの自由行動の1日を使って現地で戦跡ツアーをお願いしたので予想通りであったが、
サイパン島では中国人女性ガイドであった。これもグアム滞在中に現地で日帰りツアーをお願いしたので無理があった
と後悔している部分もあるが、そもそも日米激戦地の戦跡ツアーが中国人とは、サイパン到着時から困惑した。
案の定大した説明も無く、ただ車で連れて行ってくれるタクシードライバーの様なもので、サイパン戦もあまり知らな
い様であったし、何より、早く仕事を終わらせたいのか、まだまだ帰りの飛行機まで時間があるにもかかわらず、ほん
の数箇所の戦跡しか周ってくれなかった。そんな物と言えばそんなものだが、戦跡オンリーのガイドをお願いしたのに
もかかわらず、ビーチに連れて行かれたりして無駄な時間を費やした。コースが決まっているのか地図無しでも走れそ
うな道で行ける簡単な場所だけだった様に思う。支払う費用に対する仕事をしている様には到底思えなかった。
トラック諸島、テニアン島も同様で「ただ案内人が日本人だったので、言葉が通じる分気が楽。」というだけで、戦史
に詳しい訳でも無く、地図を配って説明するわけでも無く、自分が楽に行ける場所に淡々と案内している様にしか見え
なかった。ガイド時間も現地人に合わせているのか、まだ日が明るいうちにさっさと切り上げてしまう始末。
まだまだ周れるのに。と思っていた。料金は日本と変わらない感覚で請求しているにもかかわらず日本人の様な仕事は
全く出来ていない。長年現地に住んでいるとこうなってしまうのか・・・。と、働かない現地人の楽な部分だけ真似す
る変な日本人になってしまっていると感じた。滅多に来ない日本人観光客からどうにかしてお金を使わそうとする意図
が見え見えで、見たい場所をリクエストすると、ジャングルで危ないだの時間が無いだの追加料金が発生するだの、断
る言い訳だけはすらすら説明する。義務を果たさず権利だけ主張する最悪のタイプの様に思えた。
「日本人観光客が減り、慰霊に訪れる慰霊団も高齢になり先が見えない」と愚痴を言っていたが、私はそうなって当た
り前だと思った。何の為に日本で観光するよりも高いガイド料払って海外の地まで来ているのか全く理解出来なくなる
様な素人ガイドだ。これでは再訪する気にはならないだろう。トラック諸島は無理だが、見知らぬ土地で少々疲れる事
もあるが、レンタカーで個人的に周った方が金額的にも気分的にも断然良いだろう。
トラック諸島に関しては、ツアー料金以外に、戦跡全てが島民住居内もしくは島民が地主で、戦跡場所に行く度にその
都度地主に見学料金を払わなければならない。2$~5$程度だが、何ヵ所も払っているうちに馬鹿らしくなってくる。
ツアー申込時に事前に知らされていなかったのでいい気分はしなかった。
私の経験ではサイパン・テニアン・トラック諸島でのガイド付戦跡巡りは費用を払った分だけの満足感は無いと思う。
そもそも戦跡巡りや慰霊を希望する人がほとんどいないのだから仕方無い部分もあるが。


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EVNARA

Author:EVNARA
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。情報提供等ございましたら★を@に換えてお願いします。
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