FC2ブログ



オーストラリア戦争記念館(Part2)からの続き。
DSCN6570_convert_20181010173621.jpg
▼▲此の展示場の中は「ニューギニアの戦い」のブナやゴナ、そしてココダの戦場を再現している。
DSCN6535_convert_20181010174459.jpg
中は薄暗かったので、まともな写真が撮れなかった・・・。
DSCN6537_convert_20181010174528.jpg
連合軍と日本陸軍が戦った「ニューギニアの戦い」をどれだけの日本人が知っているのだろうか・・・。
DSCN6533_convert_20181010174420.jpg
▼これもよく見る写真。(写真は「処刑時にヤスノ・チカオが部下に写真を撮らせた」と書いてある)
(写真は1944年4月ホーランディアで戦死した日本陸軍少佐が持っていたものを米軍が見つけたと書いてある。

DSCN6582_convert_20181010180858.jpg
1943年(昭和18年)10月24日、日本海軍基地があった(ニューギニア)アイタぺのビーチで行われた捕虜処刑。
捕虜はオーストラリア軍M特殊部隊のレナード・シファート軍曹、刀を振りかぶるのは日本海軍のヤスノ・チカオ。
この処刑はインドネシア第22特別根拠地隊司令官の鎌田 道章海軍中将(愛媛県出身)の命令で行われた。
ヤスノ・チカオは「終戦前に戦死」と、生き延びてBC級戦犯裁判で絞首刑の宣告を受けたが結局懲役10年に減刑され
たという説がある。
戦後、鎌田 道章海軍中将はBC級戦犯に指名され、シファート軍曹以外の捕虜2人・原住民に対する残虐行為の罪も含
めオランダ軍軍事裁判で有罪となり、1947年(昭和22年)10月インドネシアのポンティアナックで絞首刑となった。
(ボルネオの戦いで鎌田中将は、陸軍部隊を含む在バリクパパンの日本軍部隊の指揮を執り、防戦に努めるも敗戦)

       DSCN6584.jpg
シファート軍曹はオランダ軍の2人の兵士と日本軍の後方を偵察していた時、現地人に襲われ、捕まって日本軍に引き
渡された。尋問、拷問の末、3人とも斬首された。と書いてある。

        DSCN6586.jpg
この写真は広く報道され、日本人は慈悲を与えず、まったく受け入れられない野蛮人であるという認識が強まった。
ヤスノ・チカオは戦後に服役を命じられたが、その後懲役10年の懲役刑が科された。と書いてある。

※「ボルネオの戦い」は、昭和20年5月~7月下旬までの連合軍と日本軍の戦闘。
連合軍は上陸したタラカン島/ブルネイ湾及びラブアン島/ボルネオ島(バリクパパン)を占領したが、まもなく終戦を
迎えた為、戦略的には大きな影響はなかった。日本軍は4700人以上が戦死又は戦病死した。
連合軍はオーストラリア兵569人が戦死、約1400人が負傷した。

DSCN6588_convert_20181010193017.jpg

DSCN6593_convert_20181010193103.jpg
DSCN6595_convert_20181010193407.jpg

DSCN6596_convert_20181010193232.jpg

DSCN6579_convert_20181010192827.jpg

DSCN6597_convert_20181010193310.jpg
▼オーストラリア戦争記念館の展示物の中で「絵」はかなり多い。
DSCN6598_convert_20181010194010.jpg

DSCN6599_convert_20181010194237.jpg

DSCN6602_convert_20181010194256.jpg

DSCN6603_convert_20181010194703.jpg
DSCN6605_convert_20181010194846.jpg
DSCN6604_convert_20181010194724.jpg
DSCN6609_convert_20181010194958.jpg
DSCN6610_convert_20181010195027.jpg

DSCN6613_convert_20181010195115.jpg

DSCN6614_convert_20181010195147.jpg
▼小さいブースだが[ THE HOLOCAUST ]の展示があった・・・。
DSCN6617_convert_20181010195323.jpg
▼そろそろ第二次世界大戦も終盤に入ってきた。
DSCN6619_convert_20181010232452.jpg
DSCN6621_convert_20181010232910.jpg
DSCN6624_convert_20181010232951.jpg

DSCN6627_convert_20181010232814.jpg

DSCN6628_convert_20181010233211.jpg
DSCN6706_convert_20181011135530.jpg
DSCN6630_convert_20181010233228.jpg

DSCN6641_convert_20181011002007.jpg
        ▼オーストラリア海軍の紹介だ。
        DSCN6643_convert_20181011002210.jpg

DSCN6645_convert_20181011002312.jpg
▼▲日本軍の特攻機を迎撃した事を紹介している。
DSCN6642_convert_20181011002236.jpg

DSCN6631_convert_20181011001714.jpg
▲▼ん??何だ此れは・・・日本海軍から押収した物か・・・?
DSCN6632_convert_20181011001805.jpg

       DSCN6633.jpg

DSCN6637_convert_20181011001856.jpg
▲日本海軍の物である事は間違いないが、最後まで何なのか良く解らなかった・・・知っている方、ご教授下さい
DSCN6670_convert_20181011003519.jpg
▲▼桜花か!?思ったが、ドイツ軍のV1ロケットミサイルだった!本物かな・・・?
DSCN6668_convert_20181011004135.jpg
当時ドイツの占領下だったフランスに配備されたV1ロケットミサイル。連合軍の爆撃で発射基地が徹底的に破壊された
DSCN6673_convert_20181011005232.jpg
もう少し早く実戦配備されていたらイギリスは壊滅していたであろう。ほとんど戦果を挙げらずに終わった。
DSCN6674_convert_20181011005324.jpg

DSCN6677_convert_20181011105051.jpg

DSCN6655_convert_20181011004859.jpg
▲▼線路の上を走れる様に改造してあるアメリカ軍のジープ。
DSCN6649_convert_20181011005145.jpg
DSCN6672_convert_20181011094838.jpg

DSCN6647_convert_20181011094809.jpg

DSCN6671_convert_20181011104736.jpg

       DSCN6650_convert_20181011094904.jpg
       ▲▼これは何だろう・・・中国語?中華系の人が多いシンガポールの当時物か・・・。
DSCN6654_convert_20181011094956.jpg
▼今度は何やら石碑が展示してある。
DSCN6661_convert_20181011095820.jpg
       ▼聖旨顕現(せいしけんげん?) 陸軍中将 山脇正隆 謹書 と書いてある。
       DSCN6662_convert_20181011100522.jpg
       ▲間違いなく日本語で掘られている。山脇中将はボルネオ守備軍司令官だ。
※山脇正隆陸軍中将(高知県出身)昭和16年陸軍大学校校長、参謀本部付、同年12月予備役。
昭和17年9月臨時召集によりボルネオ守備軍司令官。昭和18年9月陸軍大将に昇進。第37軍司令官、参謀本部付。
昭和20年5月召集解除。戦犯容疑で軍事裁判を受けるも数日で無罪になった。昭和49年4月21日に死去(享年88歳)
DSCN6660_convert_20181011095855.jpg
       裏は 昭和17年8月15日開設記念建之 ボルネオ俘虜収容所長 管 辰次と書いてある。
       DSCN6657_convert_20181011100546.jpg
※菅 辰次中佐(広島出身)少佐の時に予備役となりアメリカに滞在。2度目の召集でボルネオの俘虜収容所長となる。
捕虜の中に『風下の国』の著者アグネス・キース女史とその夫、子供がいた。
ボルネオ赴任前にこの本を熟読していた菅は驚き、女史に紙と鉛筆を与え、収容所の出来事や感想を書いてくれる様
に頼んだ。喜んだ女史は、提出用の他に、収容所の日本人に対する赤裸々な感想を綴った自分用の手記も密かに書き
溜めた。しかし、その中でも菅中佐だけは、典型的な日本武士道にかなった人物として描かれていた。
戦局の悪化に伴い、俘虜の処遇についてもいろいろな討議がなされた。
軍司令部は「収容所にも重機の一挺ぐらい必要だろう」と言ってきたが、菅は受け取りを拒否した。
東京に於ける収容所長会議でも「如何なる場合があるとも、俘虜を敵手に委してはならぬ」という当局に対し、菅は
「私は、俘虜を殺す相談にきたのではない」と冷然として言い放ったという。
敗戦と同時に菅は戦犯としてラブアン島に護送された。連合軍の計らいで、台湾人の当番兵が付き添っていた。
※ラブアン島はマレーシア連邦直轄領の島で、日本軍占領時は、ボルネオ守備軍司令官だった陸軍中将前田利為にち
なんで、島名を「前田島」と改称していた(前田中将は旧加賀藩主前田本家第16代当主・享年57歳)
ラブアン島に着いた菅中佐を、原住民の石礫が襲った。携行したトランクで防いだが防ぎきれず、血達磨となった。
この惨めな仕打ちを受けて菅は、自決を決意した。
しかし身に寸鉄も帯びておらず、辛うじて食事用の丸いナイフがあるのみであった。
彼はこのナイフを頚動脈につきたて何とかこれを切ろうとしたが果たさなかった。
そこで水筒に砂を詰め、当番兵を呼んで、これで自分を殴るように命じた。菅の人柄を愛し付いて来ていた当番兵は、
ためらってなかなか撃てない。菅はこれを大喝して励まし、彼の心中を察した当番兵も意を決して、菅の後頭部に一
撃を加えた。しかし菅は一時的に昏倒しただけで、死に切れなかった。
息を吹き返した菅は、もう一度ナイフを首に当て、これを水筒で撃つように言った。
当番兵がナイフの柄頭を強く水筒で撃つと、ナイフは深く突き刺さり、ようやく致命傷となった。享年59歳。
解放されたキース女史は、この収容所での体験を元に、『三人は帰った』という本を書いた。
THREE CAME HOME
この物語は1942年から北ボルネオの母子捕虜収容所で3年半の年月を生き抜いた著者アグネス・キースの体験談。
収容所生活の記録の克明さで有名だ。天候、衣食住、人間関係などが詳細に綴られている。
著者アグネス・キースは、ボルネオの生活を描いた「風下の国」の著書があり、新聞記者の経歴も持つ著者のジャー
ナリスト魂で、収容所内で長男のぬいぐるみの中にまで隠した膨大なメモ類をまとめた本だ。
戦争が長引くに連れ、過酷さを増す収容所での暮らし、食べられるものすべてを口に入れ、密輸、盗みあらゆる事を
して子供と生き延びる。収容所生活に耐えていく唯一の道は泣かないで笑うこと、と自分に言い聞かす彼女の快活さ
と勇気が際立っている。
そして、著者は、愛国心や日本軍への憎しみによってではなく、「戦争こそが罪」という視点で本を書いている。
「戦争それ自身が人道に対する罪」であると。
1950年「THREE CAME HOME」と題して映画化され、菅中佐は早川雪洲が演じたが日本では公開されていない。
「THREE CAME HOME」 YouTube

DSCN6682_convert_20181011110101.jpg
▲タラカン島(現インドネシア)の戦いは、オーストラリア軍主導のボルネオ奪還作戦の最初の攻撃であった。
DSCN6683_convert_20181011105212.jpg
昭和20年5月1日未明、オーストラリア軍、アメリカ軍、オランダ軍はタラカン島に船で到着し上陸作戦開始。
AM8:00頃、陸海空軍と協調して上陸。犠牲者も比較的少なく、同島沿岸部における日本軍の防衛力を一掃した。

DSCN6681_convert_20181011105148.jpg
上陸拠点を確保した後、第26師団は日本軍飛行場滑走路のある島北部と、タラカンタウンのある島の東部へ進んだ。
日本軍の激しい抵抗に打ち勝った後、滑走路は5月5日に占領、そして町も主に5月6日までに確保。
島を確保し、占領した滑走路を日本軍の攻撃から守る為に、第26師団は大量の樹木で覆われた丘から日本軍の部隊を
一掃する事を命じられた。この必然ながらも、引き換えに代償の高くつく歩兵連隊の攻撃の間、オーストラリア軍は大
砲による砲撃と上空からの援護を強力に行った。日本軍の守備隊は徐々に破壊を受け6月14日、この日の攻撃で生き残
った日本兵は島の北方へ撤退し、あるいはボルネオ島本土へ退却しようともした。
日本軍の組織的な最後の反撃は6月19日だったが、その後終戦を迎えるまで残存兵の掃討作戦が続けられた。

DSCN6685_convert_20181011110126.jpg
DSCN6686_convert_20181011110206.jpg
DSCN6687_convert_20181011110240.jpg
連合軍は上陸したタラカン島/ブルネイ湾及びラブアン島/ボルネオ島(バリクパパン)を占領したが、まもなく終戦を迎
えた為、戦略的には大きな影響はなかった。第26師団は大部分が終戦後の昭和20年10月に解散されたが、その一部は
12月27日まで駐留部隊としてタラカン島に残った。同師団の本部は同年前半にはオーストラリアへ帰還し、昭和21年
1月にブリズベンで正式に解散した。
ボルネオ奪還作戦と同様、タラカン島でのオーストラリア軍の戦闘については今日も論争が続いている。
論争とは、この戦闘が無意味な「つけたし」に過ぎなかったのかどうか、東インド諸島をオランダや日本の占領から独
立解放させる為の正当な戦争行為だったのかどうか、終戦直後の1946年(昭和21年)から議論が続けられている。
日本軍は4700人以上が戦死又は戦病死。連合軍はオーストラリア兵569人が戦死、約1400人が負傷した。

DSCN6690_convert_20181011134659.jpg

DSCN6691_convert_20181011134721.jpg

DSCN6693_convert_20181011135050.jpg

DSCN6695_convert_20181011135011.jpg

DSCN6697_convert_20181011135312.jpg

DSCN6700_convert_20181011135236.jpg

       DSCN6702_convert_20181011140334.jpg

DSCN6703_convert_20181011215507.jpg

DSCN6699_convert_20181011140212.jpg
▼▲敗戦後インドネシアで捕虜となった日本兵達だ・・・ご苦労様でした。
DSCN6698_convert_20181011140132.jpg
▼昭和20年9月13日、終戦の詔勅に基き、ニューギニアの第18軍はオーストラリア陸軍第6師団に降伏した。
DSCN6709_convert_20181011140514.jpg
この時、ニューギニア方面の第18軍司令官は安達二十三中将(石川県出身)。
安達中将は麾下の将兵に対し、「軍は大命に基き豪州第六師団に降伏せんとす」と命令した。

HatazoAdachi2.jpg
▼ウォム岬での降伏調印式にてホレス・ロバートソン少将に降伏の証として軍刀を手渡す安達中将
HatazoAdachi1.jpg

HatazoAdachi.jpg
▼左が安達中将、真中が軍属・通訳の岩間和男氏、(右)サインする豪第6師団長のロ-バトソン少将。
adachi_convert_20181011162323.jpg
この後の昭和21年1月11日、安達中将はオーストラリア(豪)軍により将官4人を含む140名がラバウルの軍事裁判所に
連行され、裁判を受けた。安達中将は東部ニュ-ギニア戦で生起した全ての罪を負われ、その刑は終身刑だった。
安達中将の上官である今村均大将は自ら禁固10年の刑を受けマヌス島に服役した。
安達中将は、大部分の将兵が日本に復員した昭和21年1月以降もムシュ島(ニューギニア)で服役を続けた。
終身刑を宣告されながら部下の判決が全て下るのを待ち、拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると、弁護団に礼を述べ
た後、自決した。昭和22年9月10日の事であった。享年57歳
ラバウルの第8方面軍司令官 今村均大将と戦犯収容所にて同室であった。(「評価の高い将官」参照)
ムシュ島捕虜収容所でのオーストラリア(豪)軍からの食糧受領は、兵隊1人当たり、1週間分として、コンビーフの小缶
1個、オートミルの六百瓦位の包1個、携行パン1袋位のものだった。毎日、日本兵隊達はトカゲを捕ったり、野菜(サ
ユリ)を採ったり、椰子リンゴを探したりして、喰う事許りに専念していたという。
日本軍の捕虜に対する扱いがどうのこうのと言われるが、何処の国でも敵国捕虜の扱いはこんなものである。

DSCN6716_convert_20181011163032.jpg
DSCN6712_convert_201810111630000.jpg

DSCN6714_convert_201810111630000.jpg
DSCN6713_convert_201810111630000.jpg

        0123.jpg

DSCN6720_convert_20181011170011.jpg
▼退役軍人を紹介するコーナー
DSCN6723_convert_20181011170106.jpg
誇らしげな勲章が目立つ。日本にこの様な記念館が出来るのはいつの事だろうか・・・。
DSCN6724_convert_20181011170131.jpg
▼第二次世界大戦後もアフガン侵攻やイラクに軍隊を派遣しているオーストラリア軍。
DSCN6728_convert_20181011170300.jpg

DSCN6733_convert_20181011215547.jpg

DSCN6732_convert_20181011215409.jpg
現在進行形で兵士の戦死者は増え続けている。
DSCN6730_convert_20181011170322.jpg
▼次は、オーストラリア軍の特殊部隊と書いてある。
DSCN6734_convert_20181011220240.jpg
このブースにはほとんど見学者が居ない・・・。
DSCN6736_convert_20181011220315.jpg
私もそうだが、オーストラリア人も近代戦争には興味が無いらしい・・・見学者が全くと言っていいほど居ない。
DSCN6735_convert_20181011220343.jpg
▼木造船の様だが、展示物が年代別になっていないようなので何なのか解りずらい・・・。
DSCN6739_convert_20181011221257.jpg

DSCN6738_convert_20181011220518.jpg

DSCN6743_convert_20181011220735.jpg

DSCN6740_convert_20181011220422.jpg

DSCN6745_convert_20181011220556.jpg
▲あ!寄せ書き日の丸が・・・何で此処に展示??
DSCN6737_convert_20181011220452.jpg
戦利品として持ち帰られた日章旗を返還してくれる元兵士も沢山いるのだから何枚もあるなら返還して欲しい・・・。
DSCN6742_convert_20181011220621.jpg
DSCN6747_convert_20181011220638.jpg
「1945年マレー半島(マレーシア)でキャプテンのジョン・モリソンが持ち帰った幸運の日の丸。
これらの旗は伝統的に日本の兵士に与えられ、幸運と勝利の願いが刻まれ、友人、家族、仕事仲間が署名した。
ジョン・モリソンはオーストラリアZ特別部隊に派遣され、1944年8月コロンボ(現スリランカ)に行き、そこで英国
特殊部隊のフォース136に加わり、マレーシア語を学んだ後、マレーシアの抗日ゲリラ勢力の訓練に携わった。
彼はその後表彰されている。」簡単に訳すとこう説明書きに書いておる。

DSCN6746_convert_20181011223825.jpg
なるほど・・・何故此処に「寄せ書き日の丸」が展示してあるのかが解った・・・特殊部隊に関する展示だからだ。
DSCN6748_convert_20181012231037.jpg

DSCN6749_convert_20181012231102.jpg

DSCN6750_convert_20181012231123.jpg

DSCN6751_convert_20181012231152.jpg

DSCN6752_convert_20181012231219.jpg

DSCN6755_convert_20181012231359.jpg

DSCN6754_convert_20181012231713.jpg
▼日本で正規販売されていなかった「安さ」と「軽さ」が売りのホンダ CG125 だ!流石ホンダ!何処でも見るね!
DSCN6757_convert_20181012231824.jpg
▲▼オーストラリア軍の特殊部隊が使ったんだ・・・嬉しいやら悲しいやら複雑な気持ち・・・。
DSCN6758_convert_20181012231845.jpg
▲2018年現在も進化を続け、ブラジル・中国・ナイジェリア・イランなどのホンダ海外現地法人が製造を続けている。
DSCN6753_convert_20181012231754.jpg
▲9・11はまだ記憶に新しい・・・。


次回、オーストラリア戦争記念館(Part4)へ続きます。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
スポンサーサイト
 2018_10_10


オーストラリア戦争記念館(Part1)からの続き。1939年(昭和14年)まで進み、やっと日本が展示に出だした。
DSCN6727_convert_20181011170345.jpg

DSCN6358_convert_20180831093019.jpg
DSCN6360_convert_20180831211106.jpg
DSCN6364_convert_20180831093136.jpg
戦争が宣言されたと書いてある。第二次世界大戦の始まりだ。
DSCN6362_convert_20180831093118.jpg
昭和14年は既に満州国が建国されていて、加えて日中戦争も続いていた頃だがナチスドイツの展示が多い。
DSCN6366_convert_20180831093757.jpg

DSCN6370_convert_20180901111901.jpg
いきなり軽戦車の展示から始まった。戦車はギリシャ軍??イタリア軍??説明を見たが忘れた・・・
DSCN6372_convert_20180831093925.jpg
軽四位の大きさでかなり小さ目だった。(イタリア軍の戦車との事、Tony様ご教授有難うございます。)
DSCN6367_convert_20180831093903.jpg
フェラーリを作っている国だけど兵器は大した事無いな・・・イタリアの工業製品ってあまり印象無いからね・・・。
DSCN6371_convert_20180831093942.jpg

DSCN6373_convert_20181010231710.jpg

DSCN6365_convert_20180831093738.jpg

DSCN6377_convert_20180831094014.jpg
▲▼このBMW激シブ・・・ナチス時代の物とは言え、現在でもドイツ製品は世界中で高級品扱いだ。
DSCN6415_convert_20180831094141.jpg
なんとも素晴らしい芸術品だ・・・。
DSCN6413_convert_20180831094205.jpg
DSCN6411_convert_20180831094235.jpg
DSCN6396_convert_20180831094103.jpg
コレ欲しい!!
DSCN6378_convert_20180831094039.jpg
DSCN6369_convert_20180831115327.jpg
DSCN6408_convert_20180831123922.jpg

DSCN6379_convert_20180831094328.jpg
DSCN6398_convert_20180831094356.jpg
DSCN6407_convert_20180831094423.jpg
DSCN6410_convert_20180831124032.jpg

DSCN6380_convert_20180831211305.jpg
DSCN6388_convert_20180831115251.jpg
DSCN6383_convert_20180831120332.jpg
自国が侵略された訳でもないのにオーストラリア軍はけっこう遠くまで戦争しに行ってるね・・・。
DSCN6389_convert_20180831115202.jpg
ま、オーストラリア軍やらニュージーランド軍って言っても当時はイギリス軍の様なもんだけど・・・。
DSCN6392_convert_20180831211829.jpg
DSCN6393_convert_20180831122344.jpg
ナチスドイツも、イギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどと戦って大変だっただろう・・・。
DSCN6420_convert_20180831115551.jpg
DSCN6418_convert_20180831115529.jpg
▲▼2㎝FLAK38 ANTI-AIRCRAFTGUNというドイツ軍の兵器だ。流石ドイツ軍、造りが細かく丁寧だ。
DSCN6406_convert_20180831115457.jpg
DSCN6399_convert_20180831115433.jpg

DSCN6417_convert_20180831120946.jpg
DSCN6421_convert_20180831122222.jpg

DSCN6397_convert_20180831123945.jpg

DSCN6430_convert_20180831122824.jpg
DSCN6431_convert_20180831122622.jpg
DSCN6428_convert_20180831122724.jpg
▲▼日米開戦まで日本軍も輸入していたシボレーの軍用トラックだ!カッコいい!!!
DSCN6439_convert_20180831122855.jpg
DSCN6400_convert_20180831122651.jpg
DSCN6441_convert_20180831122742.jpg
DSCN6427_convert_20180831123839.jpg

DSCN6435_convert_20180831122917.jpg
DSCN6432_convert_20180831122932.jpg
DSCN6436_convert_20180831130219.jpg

DSCN6449_convert_20180831131200.jpg
Turning Pointと書いてあり、日本軍の南方進出の事が書いてある・・・。
DSCN6451_convert_20180831131232.jpg
ここからは日本軍の事だな・・・全体的にはとにかく『日独伊の敗戦国が悪い』と言う事を言いたいコーナーだ。
DSCN6457_convert_20180831131257.jpg
DSCN6459_convert_20180831131327.jpg
▲大柿部隊(近衛歩兵第5連隊第2大隊)の物
DSCN6460_convert_20180831132903.jpg

DSCN6481_convert_20180831132758.jpg
マレーシア占領の事だ・・・この辺りに旭日旗の踏み絵があった様に聞いていたが、今は無かったので安心した。
DSCN6462_convert_20180831132820.jpg
DSCN6461.jpg

DSCN6446_convert_20180831130306.jpg
         日本陸軍の軍服だ。「1941年タイと中国で・・・」と書いてある。
       DSCN6448_convert_20180831130402.jpg

DSCN6464_convert_20180831133013.jpg
▲▼これはオーストラリア軍の兵器。
DSCN6476_convert_20180831132924.jpg

DSCN6468_convert_20180831142515.jpg
DSCN6482_convert_20180831142559.jpg
DSCN6478_convert_20180831142440.jpg
DSCN6480_convert_20180831142639.jpg

       DSCN6475_convert_20180831141743.jpg

DSCN6469_convert_20180831141843.jpg
DSCN6455_convert_20180831141816.jpg
        ▼出た!欧米人らしい表現の日本軍イラストだ!
       DSCN6485_convert_20180831142055.jpg
        ▲Australia under threat /オーストラリアは恐怖に晒された。と書いてある
DSCN6487_convert_20180831142803.jpg

DSCN6490_convert_20180831142840.jpg
▲▼ガスマスクや日本軍爆撃機の模型。『日本軍のオーストラリア空襲に備え、女性達が消火訓練』といった話だ。
DSCN6491_convert_20180831142905.jpg
オーストラリアでは「日本が攻めて来るぞ~!」って大騒ぎだったのであろう。
DSCN6489_convert_20180901121933.jpg
DSCN6495_convert_20180831143606.jpg
DSCN6493_convert_20180831143823.jpg

DSCN6498_convert_20180831143839.jpg

DSCN6500_convert_20180831143925.jpg

DSCN6499_convert_20180831143906.jpg

DSCN6496_convert_20180831143752.jpg
DSCN6506_convert_20180901122316.jpg
「ラビの戦い」(Battle of Milne Bay)は、太平洋戦争中の1942年8月下旬~9月初旬に渡り、東部ニューギニア
のミルン湾ラビにおいて、日本軍とオーストラリア・アメリカ連合軍との間で行われた戦闘である。
連合軍が建設した飛行場に対し、日本軍が海軍陸戦隊を上陸させて占領を試みたが敗退した戦いの事だ。
豪軍を過小評価した日本軍は海軍陸戦隊のみで飛行場を占領しようとしたが、失敗して撤退に追い込まれた。

DSCN6512_convert_20180831192526.jpg
▼▲ニューギニア島東端ミルン湾で行われた「ラビの戦い」で戦死した日本海軍陸戦隊将校の制服と千人針だ。
DSCN6507_convert_20180831193659.jpg
名札からは「三小(隊)二分隊 中路利行」と読み取れる。肩から腕にかけて血痕が生々しく残っている・・・。
DSCN6508_convert_20180831193632.jpg
以下は、あまり知られていない「ラビの戦い」での日本軍と連合軍の詳細である。
【日本軍地上部隊➡戦闘員約1600名、後方要員約360名】
呉第5特別陸戦隊(呉5特)主力 - 司令:林鉦次郎中佐、兵力612名と95式軽戦車2両
※連合軍側には戦車は無く、95式軽戦車2両は大きな脅威となった。
呉第3特別陸戦隊主力-司令:矢野実中佐、兵力576名
佐世保第5特別陸戦隊の一部 - 兵力228名(本隊353名は別に舟艇機動の予定も到達できず。)
横須賀第5特別陸戦隊主力 - 司令:安田義達大佐、兵力約200名
第10設営隊の一部 - 軍属362名
航空部隊 - 零戦約20機、99艦爆約10機がブナに展開。
※安田義達大佐は「ブナでの戦闘」で米国公刊戦史に世界第一の猛闘と記述されている日本軍人である。

【連合軍「ミルン・フォース」 - 司令官:シリル・クローズ豪陸軍少将 、総兵力約9000名
オーストラリア軍 - 戦闘員約6500名(内、歩兵約4500名)、後方要員約1000名
第7旅団 - 歩兵3個大隊
第18旅団 - 歩兵3個大隊
その他 - 民兵2個大隊、野砲1個中隊、高射1個中隊など
アメリカ軍 - 第709高射中隊および第43工兵連隊F中隊など(合計約1400名)
航空部隊 - 3個飛行中隊(P-40戦闘機約40機、ハドソン爆撃機若干)のほかポートモレスビーより支援。


▼シンガポール攻略戦におけるジョホール水道渡河作戦の参加部隊一覧を記した札。
DSCN6522_convert_20180831194746.jpg
※鯉兵団とは日本陸軍第五師団の愛称。シンガポール攻略戦ではオーストラリア兵約15000名が捕虜となった。
DSCN6513_convert_20180831201202.jpg
▲有名な「Yes No会談」 イギリス軍降伏の会談。日本軍側は山下奉文将軍、イギリス軍側はパーシバル中将だ。
DSCN6523_convert_20180831201841.jpg
イギリス領マレーのクアラルンプールとシンガポール陥落か・・・最初は日本軍部隊も威勢が良かった。
DSCN6516_convert_20180831201709.jpg
DSCN6520_convert_20180831201806.jpg

DSCN6524_convert_20180831201944.jpg

       DSCN6525_convert_20180831202010.jpg

DSCN6521_convert_20180831201905.jpg

DSCN6502_convert_20180831200449.jpg

DSCN6539_convert_20181010171021.jpg
エジプトのTel el Eisaと書いてある・・・何処の戦いか解らない・・・
DSCN6540_convert_20181010170841.jpg
この標識は、El Alameinの北東にあるTel el Eisa(Jesus of Hillの為のアラビア語)の周りでの激しい戦いに従事
する軍隊の有名なランドマークと書いてある。Tel el Eisaは小さな駅の名前の様だ。

DSCN6543_convert_20181010170958.jpg
▼イギリス軍のホーカー ハリケーンか!??
DSCN6550_convert_20181010172451.jpg
此のあたりの展示はヨーロッパ戦線とか色々ごちゃまぜになっていて良く解らない・・・。
DSCN6561_convert_20181010173120.jpg

DSCN6560_convert_20181010173142.jpg

DSCN6558_convert_20181010173214.jpg

DSCN6547_convert_20181010172849.jpg

DSCN6563_convert_20181010175049.jpg

DSCN6566_convert_20181010175140.jpg

DSCN6562_convert_20181010175031.jpg

      DSCN6545_convert_20181010174938.jpg

DSCN6549_convert_20181010172917.jpg

次回、オーストラリア戦争記念館(Part3)へ続きます。

拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。


にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2018_08_31


オーストラリア(シドニー)旅行最終日の自由行動日、ガイドさんや同ツアーの参加者から「ホントに行くの!?」
と、言われながら「オーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)」へ行ってきた。
オーストラリア戦争記念館はシドニーからはかなり離れたオーストラリアの首都「キャンベラ」にある。
朝早く起きてシドニーのホテルを出発。歩いてシドニー・セントラル駅(Sydney Central Station)に向かう。

DSCN0721_convert_20180731195626.jpg
朝の時間帯で人が少ない駅までの道のりを、観光で見れなかった通りなどを徒歩でゆっくり見学しながら歩いた。
DSCN0714_convert_20180731195442.jpg

DSCN0715_convert_20180731195731.jpg

DSCN0711_convert_20180731195510.jpg
▼▲ん!?「見ざる聞かざる言わざる」か!日光東照宮の三猿を真似ている!オーストラリア銀行の建物だ。
DSCN0713_convert_20180731195552.jpg

DSCN0722_convert_20180731195655.jpg

DSCN0704_convert_20180807002206.jpg
▼少し小さめのチャイナタウン入口。
DSCN0703_convert_20180731195844.jpg

DSCN0700_convert_20180807002002.jpg

DSCN0694_convert_20180807002047.jpg
チャイナタウン以外でも街中には中国人経営の店も目立つ。中国企業の進出は凄い・・・。
DSCN0679_convert_20180807002529.jpg
日本人もそうだが、フィリピン人・中国人・韓国人は何処にでも居るといった印象だ。
DSCN0705_convert_20180731195815.jpg

DSCN0678_convert_20180807002607.jpg

DSCN0690_convert_20180807002458.jpg

DSCN0693_convert_20180807002127.jpg

DSCN0682_convert_20180807002355.jpg
▼クイーン・ビクトリア・ビルディング
DSCN0731_convert_20180731195144.jpg
オーストラリアが英国の植民地だった1898年、当時の英国国王ビクトリア女王の即位50年を記念して建てられた。
DSCN0737_convert_20180731195309.jpg

DSCN0653_convert_20180807224148.jpg

        DSCN0675_convert_20180807201758.jpg

DSCN6003_convert_20180807202357.jpg
▼▲路面電車が走っている。
DSCN6006_convert_20180807202414.jpg
思わずカメラごしに目で追ってしまった・・・日本の路面電車と違って結構速いのだ。
DSCN6007_convert_20180807202426.jpg

DSCN6011_convert_20180807224037.jpg
▼そうこうしている間にシドニー・セントラル駅(Sydney Central Station)に到着。
DSCN0661_convert_20180807225111.jpg

DSCN6016_convert_20180807225637.jpg
▼▲駅の入口は、先程見た路面電車の駅もかねていた!
DSCN6017_convert_20180807225925.jpg
早速駅構内へ。
DSCN6025_convert_20180807225951.jpg

DSCN6019_convert_20180807230006.jpg

DSCN6024_convert_20180807230022.jpg

DSCN6023_convert_20180807230056.jpg
キャンベラに向け、列車の旅でさぁ出発!では無く、実は前々日に急遽高速バスに変更したので駅は見学のみ。
DSCN6021_convert_20180807230122.jpg
色々調べて頂くと、価格は少し高くなるが、高速バスの方が列車よりも到着時間が1時間以上も早かったからだ。
DSCN6027_convert_20180807235245.jpg
▲シドニー・セントラル駅にMURRAYS高速バスのチケットを買う事務所もバス乗り場もある。
DSCN6028_convert_20180807235855.jpg
AM 8:00出発。キャンベラへの到着時間はAM 11:30の予定だ。
DSCN6029_convert_20180807235926.jpg
オーストラリアの首都「キャンベラ」に向けて出発。
DSCN6042_convert_20180808222610.jpg
途中、シドニー国際空港(キングスフォード・スミス)で客をひろう。
DSCN6047_convert_20180808222344.jpg
来た時に迎えの観光バスに乗った場所だった。
DSCN6049_convert_20180808222644.jpg
此処でほぼ満席状態となって一路キャンベラを目指す。
DSCN6054_convert_20180808223039.jpg
シドニー市内は渋滞が酷い。
DSCN6060_convert_20180808222727.jpg
高速道路に入って一路南にひた走る。
DSCN6061_convert_20180808223107.jpg
トンネルを抜けると空いてきた!やっと大陸らしい景色が見れる
DSCN6077_convert_20180808223012.jpg

DSCN6155_convert_20180808225818.jpg

DSCN6081_convert_20180810001736.jpg

DSCN6138_convert_20180808230006.jpg
▲広大な牧場がひろがり大陸らしい景色だ。
DSCN6104_convert_20180810001708.jpg

DSCN6153_convert_20180808230525.jpg
▲此処は高速道路だよな?自転車が走ってる!
DSCN6170_convert_20180809234922.jpg
高速道路を下り、一般道を走る。
DSCN6172_convert_20180810083845.jpg

DSCN6174_convert_20180809235001.jpg
ここが首都?と思う様な田舎のはるか向こうに都会らしき建物群がまだらに見えてきた。
DSCN6176_convert_20180809235037.jpg
オーストラリアの首都と言っても、シドニーとメルボルンが候補地として上がる中、両都市が譲らなかった為、両都市
のメンツを壊さない様にとシドニーとメルボルンの中間地点の此処キャンベラが首都として選ばれたとの事。

DSCN6180_convert_20180809235101.jpg
なのでキャンベラはまだまだ発展途上の都市なのだ。建設途中の建物が多く、当然シドニーの様なイギリス植民地時代
の古い建造物は見当たらない。

DSCN6193_convert_20180809235335.jpg
▲▼そうこう言っているうちにキャンベラバスステーションに到着。
DSCN6185_convert_20180809235403.jpg

DSCN6187_convert_20180809235424.jpg
受付で聞くと、オーストラリア戦争記念館までは徒歩で40分位との事。時間がもったいないのでタクシーで行く事に。
DSCN6195_convert_20180810000942.jpg
▲トヨタカムリのタクシーでオーストラリア戦争記念館までGO!
DSCN6197_convert_20180810084206.jpg
▲▼オーストラリア戦争記念館に到着。
DSCN6207_convert_20180810083753.jpg

DSCN6206_convert_20180810093401.jpg

DSCN6199_convert_20180810093424.jpg
▼送ってくれたタクシーがUターンして帰っていく。後ろには我々の直ぐ後に見学者を乗せて到着したタクシー。
DSCN6200_convert_20180810084221.jpg
簡単な持ち物チェックとリストバンドを巻いてもらって早速中へ入る。入場は無料だ。
DSCN6209_convert_20180810084649.jpg
想像していたより多くの見学者で賑わっている。そして若い世代が多い!!
DSCN6225_convert_20180810164843.jpg
展示は1916年(大正5年)から始まっている。正直オーストラリアの歴史はド素人で全然知らない・・・。
DSCN6210_convert_20180810164802.jpg
加えて、当然ながら説明文は全て英語で、読み取るのに時間がかかるのでほとんど読んでいない・・・。
DSCN6223_convert_20180810164909.jpg
日本で言うと大正5年の事だから西部戦線 (第一次世界大戦)の事かな?
DSCN6219_convert_20180810164829.jpg

DSCN6213_convert_20180810164725.jpg

DSCN6214_convert_20180810164934.jpg
博物館の中は凄く綺麗で見やすい。
DSCN6211_convert_20180810164741.jpg

DSCN6216_convert_20180810224531.jpg

DSCN6217_convert_20180810224617.jpg

        DSCN6228_convert_20180810224709.jpg

DSCN6226_convert_20180810224651.jpg

DSCN6218_convert_20180810224557.jpg

DSCN6233_convert_20180810224743.jpg
これは広いぞ!帰りのバスの時間まで約4時間しか無い。まだ1916年だし・・・
DSCN6232_convert_20180810224800.jpg
第二次世界大戦(太平洋戦争)時代の展示ブースまではまだまだ有る!昼食抜きで見学し続ける事にした。
DSCN6231_convert_20180810234147.jpg

DSCN6234_convert_20180810234029.jpg

DSCN6235_convert_20180810234047.jpg

DSCN6238_convert_20180810234123.jpg

DSCN6241_convert_20180810234204.jpg

DSCN6259_convert_20180810234239.jpg
DSCN6258_convert_20180810235412.jpg
DSCN6250_convert_20180810234729.jpg
▲日本軍でも同じ様な大砲を何度も見た事があるな・・・英国製だからほぼ同じかもしれない。
DSCN6245_convert_20180810234647.jpg
兵士を運んだ馬車だ。
DSCN6244_convert_20180810235454.jpg

DSCN6261_convert_20180810235114.jpg

DSCN6252_convert_20180810234751.jpg

DSCN6246_convert_20180810234708.jpg

DSCN6243_convert_20180810234622.jpg

DSCN6273_convert_20180811213445.jpg

DSCN6265_convert_20180811213814.jpg
DSCN6274_convert_20180811214128.jpg
DSCN6272_convert_20180811213836.jpg

DSCN6267_convert_20180811213036.jpg

DSCN6268_convert_20180811213505.jpg

DSCN6276_convert_20180811213557.jpg

DSCN6279_convert_20180811213537.jpg

DSCN6292_convert_20180812101758.jpg
DSCN6285_convert_20180812101735.jpg

DSCN6289_convert_20180812101815.jpg
DSCN6286_convert_20180812101920.jpg
DSCN6287_convert_20180812101836.jpg

DSCN6296_convert_20180812151422.jpg
DSCN6298_convert_20180812151441.jpg
DSCN6297_convert_20180812151458.jpg

DSCN6299_convert_20180812151534.jpg

       DSCN6310_convert_20180812151700.jpg

       DSCN6304_convert_20180812151637.jpg

DSCN6313_convert_20180812151820.jpg
▲オーストラリアとニュージーランドの国旗がまぎらわしい・・・星の数と大きさ、位置が違うんだけどね。
DSCN6312_convert_20180812151801.jpg

DSCN6311_convert_20180812151728.jpg

DSCN6302_convert_20180812151609.jpg

DSCN6352_convert_20180813104612.jpg
1918年の展示が多い。多分、第一次世界大戦の西部戦線だと思う・・・。
DSCN6339_convert_20180813104353.jpg

DSCN6345_convert_20180813104518.jpg
DSCN6346_convert_20180813105147.jpg
DSCN6349_convert_20180813104556.jpg

DSCN6344_convert_20180813104453.jpg

DSCN6343_convert_20180813104429.jpg

DSCN6314_convert_20180813104122.jpg

DSCN6357_convert_20180831093201.jpg

DSCN6356_convert_20180831092946.jpg

DSCN6355_convert_20180831092844.jpg

次回、オーストラリア戦争記念館(Part2)へ続きます。

拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。


にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2018_08_07


オーストラリア(シドニー)は観光の街。戦跡とはほぼ縁の無い大陸だが、太平洋戦争(大東亜戦争)時にはオーストラリ
アも連合軍として参戦していた為、日本軍はダーウィン周辺の北部都市への空爆や、特殊潜航艇でシドニー港を攻撃し
ている。そしてニューギニア(1975年ニューギニア信託統治地域がパプアニューギニアとして独立)や、ボルネオ、沖縄
戦等の広範囲で連合国として日本軍と戦い、ノルマンディー上陸作戦以降はヨーロッパ西部の地上戦にも参加。
日本降伏後の日本占領にもイギリス連邦占領軍の一員として多数の部隊を派遣したり、極東軍事裁判の裁判長ウィリアム
・ウェブを出すなどして参加、同裁判では天皇の訴追を要求している。
戦争/戦跡と聞いてオーストラリアを思い浮かべる事はあまり無いと思うが、朝鮮戦争やベトナム戦争にも積極的に参加
し、アメリカと共に戦い、後にベトナム難民を数多く受け入れ、世界中から移民を受け入れた「多文化主義」の国(豪州)
は英米と協同歩調を取った2003年のイラク戦争にも参加している。

DSCN9970_convert_20180711235830.jpg
▲日本から10時間以上かけて到着したシドニー国際空港から、そのまま観光バスでの弾丸シドニー見学だ。
DSCN9992_convert_20180711235703.jpg
▲まずはミセス・マッコーリーズ・ポイントへ。
DSCN9984_convert_20180712003428.jpg
シドニー湾はオーストラリア海軍の停泊地でもある。丁度オーストラリア海軍の軍艦が何処かから帰還した所だった。
DSCN9982_convert_20180712003335.jpg

DSCN9986_convert_20180712014447.jpg

DSCN9988_convert_20180712003456.jpg
▲オペラハウスそっちのけで、こんな所まで日本海軍は来たんだな・・・と思いながらシドニー湾を眺めていた。
KohyotekiSydney.jpg
昭和17年6月4日、5日シドニー湾で引き上げられる日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」(2隻が引き上げられた)
昭和17年4月27日伊21・伊29、同年5月18日朝、伊22・伊24・伊27が甲標的を搭載してトラック諸島を出撃した。
出港当日夕刻、伊24搭載艇が爆発事故を起こし「甲標的」乗員の松本静1等兵曹が吹き飛ばされて行方不明となる。
甲標的は損傷しており、「甲標的」乗員の八巻悌次中尉も負傷していたことから、同艦はトラック諸島に引き返し、乗
員を伴中尉らと交替させ、伊28に搭載するはずだった甲標的に乗せ換えて再度出港した。
昭和17年5月30日伊22、伊24、伊27の3隻がシドニー沖に到着。
昭和17年5月31日搭載艇「甲標的」が次々に発進。
17:21伊22搭載艇「甲標的」松尾敬宇大尉と都竹正雄2等兵曹が発進。

17:28伊27搭載艇「甲標的」中馬兼四大尉と大森猛1等兵曹が発進したが・・・。
シドニー港入り口で防潜網に絡まり、21時30分頃自爆。

17:40伊24搭載艇「甲標的」伴勝久中尉、芦辺守1等兵曹が発進。
港内侵入に成功。深夜00:29、港内に在泊していた連合国の1国である米重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射した。
魚雷は2本共外れ、内1本は岸壁に係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブル(HMAS Kuttabul)の
艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死。その隣で係留されていた蘭潜K IX(K IX)
も撃破された。米重巡シカゴ(USS Chicago, CA-29)が「甲標的」を発見、対空砲の砲撃を行い、艇に損傷を与えた。
その後「甲標的」は湾外に脱出することに成功したが、シカゴの砲撃を受けたことによる損傷がもとで沈没し、母艦伊24に
帰り着くことはなかった

そして、最後に松尾大尉艇が港内に侵入したが、この時には警戒が厳しくなっていた。松尾大尉艇はオーストラリア海
軍艦艇からの爆雷攻撃を受けて損傷。艇前方を岸壁にぶつけた事で、魚雷発射管が故障した為攻撃出来ず、艇を米重巡
シカゴへ体当たりさせる事で魚雷を爆発させようと図ったが、小接触におわり叶わなかった。
その後、松尾大尉は部下の都竹正雄2等兵曹と共に拳銃で自決した。
特殊潜航艇を発進させた日本軍潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4・5
日に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド
海軍少将は、2隻の「甲標的」乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹)の海軍葬を行った。
Keiu_Matsuo.jpg
▲松尾 敬宇大尉(熊本県出身/享年24歳)
戦時中に敵国である日本の軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の
薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降する事無しに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、
グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、豪州国民に以下の言葉で訴えた。
「私は敵国軍人を、海軍葬の礼をもって弔うことに反対する諸君に聞きたい。 勇敢な軍人に対して名誉ある儀礼をつく
す事がなぜいけないのか?勇気は一民族の私有物でもなければ伝統でもない。
これら日本の海軍軍人によって示された勇気は、誰も認めるべきであり、一様に讃えるべきものである。
このような鋼鉄の棺桶に乗って死地に赴くのには、最高度相の勇気が必要であるに違いない。
これらの勇士達は最高の愛国者であった。
これら勇士の犠牲的精神の千分の一でも持って祖国に捧げるオーストラリア人が、果たして何人いるであろうか?
我々のうちの幾人が、これらの人達が払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか?戦死した
日本軍勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中している事は承知している。
けれど私は、あえてこの葬儀を実行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼等の様に勇敢な死を遂げた場合、彼らにも
また、同様の名誉ある処遇を受けさせたい為である…」と。
Muirhead-Gould.jpg
▲ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将(Rear Admiral Gerard Muirhead-Gould)
ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将に感謝すると共に、彼等の考え方を見習いうべきところは沢山ある。
※戦死した松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹の遺骨は中立国であるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マル
 ケスで、シドニーに拘留中の日本公使河相達夫に引き渡され、第1次日英交換船の鎌倉丸の乗船した河相公使によっ
 て、S17/10/9遺族らが待ち受ける横浜港に到着した。
 S17/12/8山本五十六連合艦隊司令長官はディエゴ・スアレス攻撃部隊とあわせて感状を与えたと言う。

引き上げられた特殊潜航艇は、戦時オーストラリア国民の危機意識を高め、戦時募金を募る目的で、オーストラリア国
内4000キロを巡回展示された後、1943年4月28日キャンベラ(オーストラリアの首都)にあるオーストラリア戦争記
念館に展示された。(ツアー自由行動の日を使い、実際に行って見て来たので後にご紹介する)
海上自衛隊の練習艦隊がシドニー港に寄港する際には隊員が慰霊を行うのが通例で、75周年に当たる2017年5月31日
には、日豪両国による両軍戦没兵士の追悼式典が開かれた。


DSCN9956_convert_20180712142206.jpg
▲ツアーなので、決められたコースをバスで連れって行ってくれる。
DSCN0020_convert_20180712142323.jpg
▲次はセントメアリー大聖堂へ向かう。
DSCN0026_convert_20180712142410.jpg
▲各観光地での滞在時間はおよそ20分~40分。当然、決められた時間にはバスに戻らなくてはならない。
DSCN0016_convert_20180712142438.jpg
▲2005年10月18日にオープンしたシドニータワーが見える。
DSCN0023_convert_20180712142452.jpg
▲経緯は良く解らないが、古い大砲が飾られている。
DSCN0017_convert_20180712142507.jpg
▲お!オーストラリア軍だ。写真を撮っていると、陽気にピースサインをしてくれた。この雰囲気は非常に良い。
DSCN0015_convert_20180712142345.jpg
▲▼セントメアリー大聖堂の内部は撮影禁止だが、誰でも自由に見学出来る。立派な教会だった。
       DSCN0004_convert_20180712144726.jpg

DSCN0001_convert_20180712144432.jpg
▲この時期オーストラリアの季節は冬。スケートを楽しむ人達が居た。気温は14度程度で日本で言えば秋くらい。
DSCN0006_convert_20180712235231.jpg
▲セントメアリー大聖堂入口からスケートリンクとその先の風景。どう見ても冬空には見えない。
DSCN0008_convert_20180712235254.jpg
▲実際、街を歩く人達の中にはTシャツ短パンの人も居れば、コートを着ている人も居る。
DSCN0019_convert_20180712235321.jpg
これで真冬だと言うのだから羨ましい。シドニーは過ごし易い土地なんだろう。
DSCN0038_convert_20180712235409.jpg
▲次はフィッシュマーケットに向かった。
DSCN0048_convert_20180713221852.jpg
市場式のフードコートの様な感じだ。5月に行った唐戸市場に似ている
DSCN0044_convert_20180713221911.jpg
「カキ」が名物との事で、ガイドさんや同ツアー参加者の皆様にも勧められたが、昔社員旅行での旅先で大当たりして
から「カキ」は一切食べられない。食べたいとも思わないが・・・しかしオーストラリア(シドニー)の物価は高い。

DSCN0049_convert_20180713221935.jpg
1AUD(オーストラリアA$)=約83円
DSCN0051_convert_20180713221955.jpg

DSCN0052_convert_20180713222015.jpg

DSCN0053_convert_20180713222054.jpg

DSCN0050_convert_20180713222910.jpg
▼一通り見学してフィッシュマーケットを後にする。此処でやっと喫煙出来たのが幸いだった。
DSCN0056_convert_20180713222933.jpg
▼アンザックブリッジ(Anzac Bridge)が見える。
DSCN0055_convert_20180713222950.jpg
次はサーキュラー・キーという埠頭に向かった。
DSCN0074_convert_20180714170603.jpg
古い西洋建築物と高層ビルとの組み合わせ。空襲や震災が無ければ東京もこんな感じになっていたであろうか。
DSCN0071_convert_20180714170643.jpg
▼埠頭が見えてきた。
DSCN0076_convert_20180714170657.jpg
サーキュラー・キーに着いた。
DSCN0078_convert_20180714170731.jpg
横浜みなとみらいの様な場所かな?シドニー湾に初めてヨーロッパ人が着いたのは、1788年1月26日との事。
DSCN0085_convert_20180714170904.jpg
▼シドニー市街観光用の2階建てバス。その後、夜にこのバスに乗る事になる。
DSCN0088_convert_20180714172207.jpg
▼オーストラリアに自動車会社と言えば「ホールデン」。2017年10月工場閉鎖に伴い操業を終了している。
DSCN0066_convert_20180714173147.jpg
スポーツカータイプのピックアップトラックが有名だが、いすゞ自動車とも提携してたんですね~知らなかった。
DSCN0091_convert_20180714171009.jpg
▲エンブレムはホールデンだが、もう日本では見かけなくなった、いすゞのピックアップトラック「ファスター」だ。
DSCN0092_convert_20180714171029.jpg
▲▼テスラ(電気自動車)も走っていれば、日本ではまず見る事の無いヒュンダイの営業車バンも沢山走っている。
DSCN0094_convert_20180714171043.jpg

DSCN0723_convert_20180727170725.jpg
▼これはFORDのピックアップトラック。アメ車も沢山走ってる!
DSCN0716_convert_20180727171604.jpg
▼しかしオーストラリアで一番人気は「トヨタ」!嬉しいね~。
DSCN0068_convert_20180727232206.jpg
▼このHILUX VIGOは日本にもアメリカにも無い7代目。

DSCN0720_convert_20180714235847.jpg
▼ハイエースのエンブレムシールもTOYOTAが入っていてちょっと違う。
DSCN0090_convert_20180714170945.jpg
▼都心にも道沿いにバイクやスクーター置き場がちゃんと整備されている。素晴らしい。
DSCN0717_convert_20180727225952.jpg
車も好きだがスクーターはもっと好き。何を隠そう筆者は、「使った後は自宅で充電、短距離移動は電動バイクで。」
をコンセプトに電動バイクを専門とする、小さなバイクショップ「EV奈良」経営しております。
日本一速い電動原付スクーターをご検討の方は是非、弊社HPを覗いて見て下さい➡http://www.evnara.jp
DSCN0095_convert_20180727230009.jpg
▼ダーリングハーバー(Darling Harbour)に入った。
DSCN0749_convert_20180715000044.jpg
う~ん、綺麗で近代的だけど、横浜みなとみらいにしか見えない・・・。
DSCN0871_convert_20180715000122.jpg
全然違うところは、観覧車の回転速度が異様に速い。
DSCN0878_convert_20180715104727.jpg
▲リクエストすれば3周~5周乗らせてくれるそうだが乗っていない。
DSCN0873_convert_20180715000009.jpg
もう高層ビルやショッピングーモールは見飽きたかな・・・大して感動しないがシドニーはバブルだ・・・。
DSCN0881_convert_20180715000235.jpg
▼▲何処からでもシドニータワーが見えている。
DSCN0935_convert_20180714235750.jpg
▼ワイルドライフ・シドニー動物園(Wild Life Sydney Zoo)に立ち寄る。
DSCN0769_convert_20180715104640.jpg
▼小さな動物園だがチケットは42.00A$ 約3500円!高い。
DSCN0863_convert_20180715104836.jpg
▲受付でコアラと一緒に写真を撮るオプションを勧めてくれたがThank you, but no thank you.
DSCN0846_convert_20180715104956.jpg
▼此処でやっと日本語説明を見る事が出来た。街中では日本語表記はほぼ見かけないし、当然通じない。
DSCN0829_convert_20180715105112.jpg
▼定番のコアラが居て・・・
KIMG4637_convert_20180715111733.jpg
▼カンガルー仲間だけどカンガルーじゃないワラビーが居て・・・
DSCN0825_convert_20180715111300.jpg
▼カンガルーが居る
DSCN0836_convert_20180715111143.jpg
カンガルーは触りたい放題。夕食でカンガルーの肉を食べたが本場オーストラリアビーフより柔らかくで美味しい。
DSCN0833_convert_20180715111232.jpg
「野生のカンガルー探し」にも行ったが、流石に野生は触れなかったので此処で十分だったのではないか・・・(笑)
DSCN0782_convert_20180715210132.jpg
ダーリングハーバーには豪華客船やクルーザーが沢山停泊している。
DSCN0780_convert_20180715210624.jpg
▼F1のモーターホームの様な船だ・・・。
DSCN0776_convert_20180715210600.jpg

DSCN0785_convert_20180727225342.jpg
▼ん!?軍艦か!これは対岸にまわって確認したい!
DSCN0784_convert_20180715210929.jpg
▼ピルモント橋(Pyrmont Bridge)を渡って確認しに行く。橋の上から見える。
DSCN0939_convert_20180715211553.jpg
▼これだ!
DSCN0941_convert_20180715212548.jpg
▼ピルモント橋を渡り切った。
DSCN0926_convert_20180715212237.jpg
▼橋を渡り切ると「オーストラリア国立海洋博物館」 (Australian National Maritime Museum)が・・・。
DSCN0923_convert_20180715212431.jpg
今回、「オーストラリア戦争記念館」以外、何も下調べをしていなかったので全く知らなかった。
DSCN0889_convert_20180715212357.jpg
オペラハウスぐらいしか知らなかったし、シドニーの観光スポットにあまり興味が無かったからだ。
DSCN0908_convert_20180715213503.jpg
▲例の軍艦の近くまで来た。残り時間も少なかったのでオーストラリア国立海洋博物館に入っていない。
DSCN0900_convert_20180715213538.jpg
▲対岸からは確認出来なかったが、隣には潜水艦が!どうやらこの2隻は退役して展示しているそうだ。
DSCN0898_convert_20180715214148.jpg
広場では何やら学生達の演奏が始まるところだった、聴いてから戻る事にした。
DSCN0905_convert_20180715214229.jpg
▲日本人でも無いし中国・韓国・フィリピン人でもない。香港人?何処の国の学生だろうか・・・マレーシアかな?
結局解らなかった。しかしアジア系のである事は間違いない。因みに演奏曲は「となりのトトロ」日本アニメは凄い!
DSCN0946_convert_20180721211707.jpg
ピルモント橋を渡り戻る途中、丁度ピルモント橋が真ん中で回転して船を通すところだった。
DSCN0942_convert_20180721211758.jpg
数分待ったであろうか。橋が元に戻り、対岸へ戻る。
DSCN0950_convert_20180721211821.jpg
▼対岸に戻ると小さな遊覧船でオペラハウスへ向かう。
DSCN0954_convert_20180721212230.jpg
▼出航。
DSCN0958_convert_20180721212306.jpg
▼海から見たワイルドライフ・シドニー動物園
DSCN0961_convert_20180721212549.jpg
▼海から見たオーストラリア国立海洋博物館。行きたかった・・・。
DSCN0967_convert_20180721212622.jpg
▼すれ違う船の客は皆手を振ってくれる。
DSCN0972_convert_20180721213226.jpg
▼1ヵ所だけ途中停泊してお客さんが1人乗ってきた。
DSCN0976_convert_20180721213300.jpg
▼再び出航。まだまだ建設ラッシュの様だ。
DSCN0977_convert_20180721213339.jpg
▼スピードが上がっていく。
DSCN0979_convert_20180721213419.jpg
▼有名なシドニー・ハーバーブリッジが見えてきた。
DSCN0982_convert_20180721213444.jpg
▼振り返って撮影。
DSCN0983_convert_20180724111020.jpg
▼シドニー・ハーバーブリッジをくぐるとオペラハウスが見えた。
DSCN0987_convert_20180724111102.jpg
▼シドニー・ハーバーブリッジ
DSCN0993_convert_20180724111155.jpg
▼世界遺産に登録されているオペラハウス。世界遺産とは知らなかった・・・そんな古いの??
DSCN0995_convert_20180724111230.jpg
▼追いかける様に後から続々と遊覧船が来る。この海域は船の渋滞が起こるそうだ。
DSCN1012_convert_20180724111313.jpg

DSCN1031_convert_20180724111419.jpg
▲▼今度は船でサーキュラー・キーに到着。何度も同じ場所へ連れて行かれる事の多いツアーだった・・・。
DSCN1026_convert_20180724111345.jpg
▼オペラハウスに向かう途中、文化財に指定されているという旧税関の建物を見学する。
DSCN1034_convert_20180724111441.jpg
▼オペラハウスが見えた。
DSCN1035_convert_20180724111528.jpg
▼これか・・・。
DSCN1038_convert_20180724111546.jpg
▼振り返って撮影。日差しが戻って来た。
DSCN1057_convert_20180724111804.jpg
オーストラリア滞在中は雨は無く、ずっと良い天気に恵まれた。いつも英霊のお陰だと思っている。
DSCN1053_convert_20180724111740.jpg
▼シドニー・ハーバーブリッジを見ると、誰かが橋の上に立っている!
DSCN1059_convert_20180724111625.jpg
▼シドニー・ハーバーブリッジを歩いて登る体験型名物アトラクション「ブリッジ・クライム」だ。
DSCN1045_convert_20180724111657.jpg
▼オペラハウスの中も見学した。
DSCN1063_convert_20180725210719.jpg
オペラハウス建設秘話は色々ガイドの方が説明してくれたが、あまり興味が無かったので覚えていない。
DSCN1061_convert_20180725210743.jpg
とにかく世界で最も建造年代が新しい世界遺産だという事だ。
DSCN1065_convert_20180725210811.jpg
▲シドニー港に突き出した岬であるベネロング・ポイントを、斜めに設置されたガラス越しに見る。
DSCN1070_convert_20180725210828.jpg
ベネロング・ポイントはオーストラリアの先住民族「アボリジニ」の人達の聖地だった場所との事。
建設当初は先住民達の反対も多少あった様だが、1959年に着工➡竣工は1973年だった。
DSCN0634_convert_20180726214337.jpg
▲▼夜の2階建てオープントップバスツアーでもオペラハウスに立ち寄った・・・もう何回もいいのに・・・。
DSCN0645_convert_20180726214105.jpg
▼夜のシドニー・ハーバーブリッジ(いつも夜景は上手く撮れない・・・)
DSCN0600_convert_20180726214451.jpg

DSCN0589_convert_20180726214219.jpg
▲▼この様な感じで市内を案内してくれる。
DSCN0579_convert_20180726214246.jpg
シドニー・ハーバーブリッジを通る。
DSCN0610_convert_20180726220245.jpg

DSCN0616_convert_20180726221145.jpg
走行中のバスから夜景を撮影するのは猶更難しい・・・無理。
DSCN0120_convert_20180726220203.jpg
シドニーは夜景を重視している様で、ビル内の企業が終業していても、ある程度の時間は電気を点けたままにしておく
決まりがあるそうだ・・・無駄なエネルギーを少しでも節約する日本人との感覚の違いが凄い。国力の余裕を感じる。
DSCN0126_convert_20180726215312.jpg
▼日も暮れてきたので宿泊先のホテルへと向かう。
DSCN1079_convert_20180731195240.jpg

DSCN1080_convert_20180727105529.jpg
古い建物と現代の高層ビルが混ざっているが、古い建物を尊重しているので景観に違和感は無い。
DSCN1083_convert_20180727105428.jpg
▼シドニーのパトカー。赤でカッコいい!警察車両でTOYOTAを採用してくれているのは嬉しいねー!
DSCN1081_convert_20180727105545.jpg
▼日本人が路上商売で頑張っていた!
DSCN1088_convert_20180727105505.jpg

DSCN1085_convert_20180727105405.jpg
どんどん日が暮れてきたが、夜7時半をまわっても全然明るい。これでも真冬だ。
DSCN1084_convert_20180727105332.jpg
       ▼宿泊先のホテル。中国かと思った(笑)
       DSCN0142_convert_20180726220308.jpg
       ▼シドニーの朝は結構早くから車の通る音が響く。マフラーを交換したうるさい車が多い
       DSCN0107_convert_20180727110826.jpg

DSCN0106_convert_20180727110947.jpg
▲ホールデンのスポーツトラック。
DSCN0103_convert_20180727111042.jpg
朝から2台の車に別れて観光に向かう。
DSCN0262_convert_20180727111345.jpg
私は上記写真のコースターだったが、ハイエースに割り当てられたお客は狭くて辛かったそうだ・・・。
DSCN0182_convert_20180727111139.jpg
▼高速道路を西へ西へとひた走る。
DSCN0539_convert_20180727171158.jpg
▼そして、Lincoln's Rock(リンカーン ロック)ブルーマウンテンズ国立公園を見学して、
DSCN0204_convert_20180727111244.jpg
▼Echo Point(エコーポイント展望台)へ行って、
DSCN0249_convert_20180727111424.jpg
細い峠道を延々走ると・・・。
DSCN0362_convert_20180727114235.jpg
▼▲大きな岩の中を走る自然のトンネルが出てきた。
DSCN0366_convert_20180727114259.jpg

DSCN0365_convert_20180727114328.jpg
そのちょっと大きな洞窟の中を散策すると・・・ん?何か居る!
DSCN0368_-_コピー_convert_20180727115407
▼野生のワラビーだ!飾り物のぬいぐるみかと思ったが本物だった!
DSCN0373_convert_20180727115433.jpg
冬だから暖かいスポットライトに近づいて温めてたんですね。ついでに自分をライトアップして(笑)可愛い!
DSCN0372_convert_20180727115524.jpg
▼そこを抜けると、
DSCN0376_convert_20180727114347.jpg

DSCN0379_convert_20180727114517.jpg
▼120年以上続くゲストハウス「ケーブ・ハウス」に到着。国の文化財に指定されている。
DSCN0332_convert_20180727111546.jpg

DSCN0331_convert_20180727120524.jpg

DSCN0384_convert_20180727120546.jpg

DSCN0380_convert_20180727120653.jpg
▼防空壕の様な人口の入口から入壕し、
DSCN0385_convert_20180727121006.jpg
世界最古というJenolan Caves(ジェノラン鍾乳洞)を見学した。
DSCN0456_convert_20180727113809.jpg

DSCN0430_convert_20180727170913.jpg
かなり長い洞窟見学を終えて外へ。停めてあったバイクを撮影。何処のバイクだろう?
DSCN0516_convert_20180727170950.jpg
▼次はブルーマウンテンズ地区にある可愛い街Leura「ルーラ」に立ち寄る。緑豊かな山間の小さな街だ。
DSCN0220_convert_20180727171046.jpg
▲当日、日本と中国の国旗がはためいていた。ガイドさんに何故?と聞いてもよく解らないとの事・・・。
DSCN0271_convert_20180727173020.jpg

DSCN0529_convert_20180727173255.jpg
60〜70年代の雰囲気たっぷりのお店が並ぶ。
DSCN0525_convert_20180727173201.jpg
▲▼女性に大人気のルーラ・ビンテージ(Leura Vintage)
DSCN0524_convert_20180727174322.jpg
▲女性用だけでなく男性用も含め50〜60年代位のイメージのドレスやスーツ、帽子やカバンなどが所狭しと並ぶ。
DSCN0523_convert_20180727173345.jpg
▲ルーラ・ビンテージが入っているストランド・アーケード(Strand Arcade)
DSCN0536_convert_20180727173415.jpg

DSCN0526_convert_20180727173136.jpg
▼路上でバイオリンを弾く少女が居て、バイオリンケースにコインを入れてしばし聞き入っていた。
DSCN0532_convert_20180727202238.jpg

DSCN0281_convert_20180727225244.jpg
短い滞在時間でシドニーに戻った。


次回「オーストラリア戦争記念館(Part1)」に続きます。

拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2018_07_08


普段は通り過ぎる事の多い、大阪(難波)で寄り道して、難波グランド花月に寄ってみた。
DSCN7835_convert_20180602001720.jpg

DSCN7836_convert_20180602001746.jpg
千日前通りを抜けて「難波グランド花月」を目指す。
DSCN7838_convert_20180602001803.jpg

DSCN7883_convert_20180602011355.jpg
大阪は美味いものが多くて目移りしてしまう。
DSCN7841_convert_20180602001847.jpg
どこも美味しそうなお店ばかりだ。
DSCN7839_convert_20180602001820.jpg
▲▼ホントに安い!帰りに寄って帰ろうと思っていたのに忘れてた・・・。
DSCN7840_convert_20180602001831.jpg

DSCN7878_convert_20180602010407.jpg
▲▼あっという間に難波グランド花月に到着。一度来た事があるが、リニューアルされてからは初めてだ。
DSCN7879_convert_20180602010424.jpg

DSCN7846_convert_20180602001924.jpg
特にファンという訳では無いが、2階フロアに新設された「吉本歴史ストーリー」を見学したかったのだ。
DSCN7865_convert_20180602002312.jpg
小さな陳列スペースに、過去の歴史が解る写真が展示されている。
DSCN7859_convert_20180602005343.jpg
吉本興行の歴史は古く、明治45年創業(写真は大正6年大阪北新地「北陽花月亭」)創業者の吉本泰三が写っている
DSCN7847_convert_20180602001957.jpg
昭和8年に派遣された「慰問団」の写真だ・・・何処だろう。
DSCN7849_convert_20180602004548.jpg
▲戦史古写真ではあまり見る事の無い日本兵のリラックスしたお顔を見る事が出来る。場所は中国だろう。
DSCN7850_convert_20180602004951.jpg
▲吉本興行の創業者「吉本せい」は通天閣を買ったんだ・・・軍需資材になっていたとは知らなかった・・・。
DSCN7866_convert_20180602005850.jpg
▲創業者自ら「慰問袋」を作ってたんですね・・・正に日本全体が隅々まで戦争の時代・・・。
DSCN7860_convert_20180602010340.jpg

DSCN7851_convert_20180602005307.jpg

DSCN7855_convert_20180602010745.jpg
▲戦時中の漫才台本
DSCN7856_convert_20180602011312.jpg

DSCN7857_convert_20180602011325.jpg
難波グランド花月を後にし、昔から気になっていた「レジャーシティ味園ビル」へ向かう。
DSCN7884_convert_20180609230715.jpg
DSCN7885_convert_20180609230746.jpg
▲「レジャーシティ味園」に到着。昭和31年建築の割と古いレジャービルだ。
DSCN7945_convert_20180609231652.jpg
▲かつてはキャバレー「ユニバース」もあったが、2011年3月15日に営業を終了し、貸ホールになっている。
DSCN7948_convert_20180609231720.jpg
▲1階は宴会なども出来る大きなレストランだ。
DSCN7949_convert_20180609231735.jpg
▲見たかったのは2階。左手のスロープを登ると2階に行ける。
DSCN7894_convert_20180609230958.jpg
壁に貼られたポスターからしてなんだかディープなゾーンに入ってきた。
DSCN7892_convert_20180609230936.jpg
2004年に運営会社の方針でテナント料を大幅に下げ、若いオーナーが中心のバーや飲食店を誘致。
DSCN7898_convert_20180609231119.jpg
東京新宿ゴールデン街と並んで日本のサブカルチャー、アンダーグラウンド文化の発信地としても注目されている。
DSCN7896_convert_20180609231032.jpg
どれもこれも聞いた事が無いものばかりで。。。自分の無知さと世間の広さを実感していた・・・。
DSCN7897_convert_20180609231049.jpg

DSCN7891_convert_20180609230858.jpg
しかし夜に来る勇気はまだない・・・。
DSCN7888_convert_20180609230832.jpg
ぼったぐりバーの様な店は無いと思うが1人では流石に入りずらい。昼間見学程度で精一杯・・・。
DSCN7889_convert_20180609232847.jpg
▼近くには昔何度か訪れた事のあるお店がまだ健在だった。
DSCN7956_convert_20180613232859.jpg

DSCN7960_convert_20180613232919.jpg
ザ・昭和って感じの看板が並ぶ。
DSCN7954_convert_20180613232834.jpg
▼次に、今は外国人観光客だらけと聞いている黒門市場へ向かう。
DSCN7928_convert_20180613233443.jpg
凄い人だ。外国人だらけ!
DSCN7925_convert_20180614233357.jpg

DSCN7927_convert_20180614233306.jpg
▼▲美味しいに決まってるいちご大福屋さん
DSCN7922_convert_20180614233332.jpg

DSCN7904_convert_20180615213654.jpg

DSCN7931_convert_20180616151357.jpg
まるで正月の様なにぎわいだ。
DSCN7908_convert_20180615213900.jpg
中国語や英語、韓国語が並ぶ。もはや日本人客は相手にしていない様な感じだ・・・。
DSCN7919_convert_20180615213925.jpg
大阪らしい激安を期待したが、流石に観光客ターゲットなので価格は安くは無い。
DSCN7921_convert_20180615213617.jpg

DSCN7940_convert_20180615213958.jpg

DSCN7932_convert_20180615213833.jpg

DSCN7934_convert_20180615213807.jpg

DSCN7941_convert_20180615214035.jpg

DSCN7938_convert_20180616151725.jpg

DSCN7914_convert_20180615214054.jpg
▲やはり行くなら「ビフテキの末廣軒」だろう!日章旗に吸い込まれそうになった(笑)
DSCN7967_convert_20180616151658.jpg
▲▼次はとりあえず法善寺横丁にお参り。
DSCN7965_convert_20180616152220.jpg
DSCN7963_convert_20180616152239.jpg
DSCN7962_convert_20180616152258.jpg
▼かすうどんは食べた事が無いな・・・。
DSCN7971_convert_20180618222702.jpg

DSCN7973_convert_20180618222740.jpg
▼▲大正12年竣工の大阪松竹座。当日は関西ジャニーズJrのイベントで女性達が長蛇の列を作っていた。
DSCN7978_convert_20180618222850.jpg

DSCN7977_convert_20180618222829.jpg

DSCN7980_convert_20180618223502.jpg

DSCN7981_convert_20180618223147.jpg
▼▲戎橋(ひっかけ橋)は外国人観光客の撮影スッポットになっている。凄い人だ・・・。
DSCN7983_convert_20180618223445.jpg

DSCN7994_convert_20180618223110.jpg

DSCN8008_convert_20180618223312.jpg

DSCN8005_convert_20180618223329.jpg

DSCN8009_convert_20180618223405.jpg
暗くなってくると難波の街は、より一層面白そうになってくるが、夜の世界はリッチな時に再訪する事とした。
DSCN8014_convert_20180618223426.jpg

拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2018_06_02

下関と門司

Category: 門司港  

出張で山口県を訪れたので帰りに時間を作り、「出川哲郎の充電させてもらえませんか?」を見て、以前から行きたか
った下関の唐戸市場と、「海賊と呼ばれた男」を見てから是非とも行って見たかった門司へ行ってきた。

DSCN9514_convert_20180503221944.jpg
▲まずは午前中に行くのがBESTの唐戸市場へGO!(昼から行っても店がほとんど閉まっている)
DSCN9516_convert_20180503222132.jpg
▲下関らしく巨大なフグがお出迎え。
DSCN9523_convert_20180503222014.jpg
▲土曜日だった事もあり、かなり賑わっていた。
DSCN9519_convert_20180503222118.jpg
▲▼食べたい物ばかりで、ついつい取り過ぎると結構なお支払いになる・・・大トロは500円の店や400円の店も。
DSCN9506_convert_20180503222046.jpg
▼やはり揚げ物は美味しい!クジラの竜田揚げは最高だった。
DSCN9505_convert_20180503222059.jpg
▼此処のマグロは美味しかった。
DSCN9517_convert_20180503222146.jpg
▼市場で買った物を、関門海峡を見ながらいただく。最高のロケーションだ。
DSCN9508_convert_20180503223535.jpg
▼目の前は九州。行く予定の門司港が見える。
DSCN9532_convert_20180503223700.jpg
▼次はカモンワークへ向かう。
DSCN9533_convert_20180503224924.jpg
カモンワークは食事が出来るお店や、お土産物屋が沢山入った小さな複合施設の様な感じだった。
DSCN9536_convert_20180503225139.jpg
この周辺にも門司と同じく、明治・大正・昭和初期の建物が数多く残っているのでサクッと見学する。
DSCN9725_convert_20180504002131.jpg
▲▼まずは明治39年完成の旧下関英国領事館から見て行こう。
DSCN9713_convert_20180503225521.jpg
▼領事室
DSCN9715_convert_20180504132239.jpg
▼エリザベス女王か・・・たいして興味無いけど。
DSCN9718_convert_20180504132302.jpg
サラっと見学(無料)して次に向かう。
DSCN9721_convert_20180504132332.jpg
▼次は大正4年完成の旧秋田商会ビル
DSCN9729_convert_20180504132406.jpg

DSCN9727_convert_20180504132449.jpg
▼旧秋田商会ビルの隣は現存最古の現役郵便局舎、今も下関南部町郵便局として現役の旧赤間関郵便電信局
DSCN9731_convert_20180504133253.jpg

DSCN9735_convert_20180504133204.jpg

DSCN9732_convert_20180504133316.jpg
▼明治33年完成の煉瓦造の明治建築物は、隣の大正建築物の「旧秋田商会」とよい対照を見せている。
DSCN9738_convert_20180504133233.jpg
▼下関の原付ご当地プレートは可愛いフグ
DSCN9740.jpg
▼次に訪れたのは映画の撮影でも使用される事のある旧山口銀行本店
DSCN9744_convert_20180505155934.jpg
DSCN9796_convert_20180505160004.jpg
大正9年に三井銀行下関支店として、建築設計家長野宇平治の設計監督により建築され、昭和8年山口銀行の前身である
百十銀行(明治11年に第百十国立銀行として創設、同31年に株式会社百十銀行として改組)の本店となり、昭和19年に
は県下の6つの本店銀行(百十銀行、華浦(かほ)銀行、船城(せんじょう)銀行、大島銀行、宇部銀行、長周銀行)を統
合して山口銀行が創立され、本店となる。昭和40年新本店が新築されて移転した後は観音崎支店となり、同44年観音
崎支店が入江支店として移転した後は山口銀行別館として行内の会議や集会に使われていた。

DSCN9793_convert_20180505160040.jpg
昭和48年~50年は日本銀行下関支店として使用された後、建物の内・外部を山口銀行創立当時の姿に戻す復原工事と、
建物の耐震補強工事が平成16年4月~平成17年3月にかけて行われ平成17年10月に棟札と共に山口県指定有形文化財
となり一般公開されている。

DSCN9792_convert_20180505160019.jpg
文句なしにカッコいい建物だ。素晴らしい!!
DSCN9746_convert_20180505161103.jpg
中を見学(無料)すると・・・おぉ!!素晴らしい!!
DSCN9747_convert_20180505161130.jpg
2階建てに見える外観だが、中身はほぼ吹き抜け!これは当時西洋の銀行をそのまま真似て建てられた為、2階部分の隅
に、ぐるり1周走っている廊下は、下を監視する警備員が銃を持って見張りをする為のスペースだったそうだ。
日本ではその様なスペースは必要無かったそうだが、そのまま真似た為、この様な造りになっているという。
因みに耐震強度はほぼ考えられていないそうだ。山口県は地震が少ない為、倒壊せずそのまま残っているそうだ。
昭和20年6月29日AM1:10頃B-29大編隊が壇之浦上空に現れ、壇之浦から赤間町までの間に焼夷弾を投下、市内東部
地区は焼け野原となった際も山口銀行本店は石造りの為、焼失せず残った。周りの木造建築は全焼だったとの事だ。

       DSCN9757_convert_20180505191217.jpg
       ▲建物左端に設置された階段は現在使用禁止、当時のカーペットを劣化させない為だとの事。
DSCN9748_convert_20180505191138.jpg
▲建物の右端にある階段を使って2階へ向かう。
DSCN9751_convert_20180505161200.jpg
▲▼2階部分から入口付近全体を撮影。
DSCN9750_convert_20180505224604.jpg
見学していると、スタッフの方がガイドをしてくれると言って頂いた。ここからはガイドの方と共に見学させて頂いた
DSCN9753_convert_20180505224631.jpg
▲当時の金庫。金庫の中には桐の入れ物。分厚い扉の中身は砂で、中のお金が燃えにくくしているとの事。
DSCN9756_convert_20180505224650.jpg
▲こちらの金庫室は扉が2つ。上の扉は非常用との事。
DSCN9778_convert_20180505224727.jpg
▲この扉は地下金庫室への階段の入口。中を案内してくれるという。
DSCN9777_convert_20180505225443.jpg
▲早速地下へ続く階段を下りて行く。戦時中は従業員の防空壕代わりにもなっていたという。
DSCN9768_convert_20180506170322.jpg
地下金庫室&倉庫のスペースはかなり広い。
DSCN9766_convert_20180506171035.jpg
DSCN9767.jpg
県指定有形文化財に指定され、建物基礎に追加された耐震強度を増す為の補強材の隙間から赤煉瓦が見えた。
DSCN9769_convert_20180506170413.jpg
扉はかなり分厚い。軍事施設の様だ。
DSCN9773_convert_20180506170438.jpg

DSCN9759_convert_20180506170345.jpg
何重にも設けられた扉。
DSCN9762_convert_20180506170927.jpg
8畳程のスペースの部屋が3~4部屋あった。
DSCN9775_convert_20180506170943.jpg
銀行の地下金庫室など入った事が無かったので良い経験になった。
DSCN9764_convert_20180506171006.jpg

DSCN9781_convert_20180506195257.jpg
▲▼トイレの間取りや扉なども当時のまま、タイルも当時のままだと言う。
DSCN9782_convert_20180506195316.jpg
▼隣接している史料館にはメジャーになる前に山口銀行のイメージガールに起用された夏目雅子が居た。
DSCN9787_convert_20180506195342.jpg
▼史料館から旧山口銀行本店の屋上を見る。建築当時は銀行前の道の向こうは海だったそうだ。
DSCN9783_convert_20180506195813.jpg
次は門司へ向かう為、カモンワークまで戻って船乗り場へ。
DSCN9535_convert_20180506202543.jpg
対岸の北九州市門司港までは高速船で10分かからない距離だ。
DSCN9541_convert_20180506202438.jpg
▼宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の戦い」で有名な巌流島へ向かう人も結構居た。
DSCN9542_convert_20180506202504.jpg
▼門司に向けて出港!
DSCN9553_convert_20180507235820.jpg
▼関門海峡が綺麗に見える。
DSCN9703_convert_20180508000059.jpg
あっという間に門司港が近づいてくる。
DSCN9558_convert_20180508000123.jpg
▼門司港に到着。船の操縦士や乗組員は皆女性だった!このところの女性の職場進出は凄い(中国はもっと凄いが)
DSCN9560_convert_20180508000146.jpg
▼門司に着いて真っ先に向かったのは門司駅だったが・・・。
DSCN9561_convert_20180508150151.jpg
ん?あの有名なレトロな重要文化財「門司港駅」が見当たらない・・・。
DSCN9562_convert_20180508150209.jpg
絶賛補修工事中だった・・・まだ何年か先までレストア作業は続くとの事。折角門司まで来たのに・・・残念。
DSCN9564_convert_20180508150225.jpg
▲作業足場に覆われ、見事に何も見えなかった・・・。
MOJIKOUEKI_convert_20180508151159.jpg
▲▼大正3年完成の現在も残る門司港駅。補修完成後を楽しみにしておこう。
1280px-Mojiko_Station_01_convert_20180508151700.jpg
▼門司港駅の隣にもちょっと古そうな建物が・・・昭和初期頃の建物か?
DSCN9575_convert_20180508201928.jpg
▼門司港駅の目の前には旧門司三井倶楽部がある。
DSCN9567_convert_20180508183552.jpg
此処は1階部分のみ無料で見学出来た。
DSCN9568_convert_20180508183616.jpg
DSCN9569_convert_20180508183640.jpg
次に向かう途中で撮影。隣にも古そうな建物があった。
DSCN9576_convert_20180508183707.jpg

DSCN9594_convert_20180508202044.jpg
▼▲港側に出て旧門司三井倶楽部を撮影
DSCN9581_convert_20180508184138.jpg
▼お隣は旧大阪商船三井船舶株式会社門司支店。
DSCN9580_convert_20180508184452.jpg
立派な建物だ・・・西洋の真似事とはいえ良く出来てる。
DSCN9688_convert_20180508184424.jpg
旧満州国の大連の様だ。
DSCN9586_convert_20180508184522.jpg
中は自由に入れる。お土産物屋や喫茶店が入って活用されていた。

DSCN9590_convert_20180508201902.jpg
商船三井は現在でも日本郵船・川崎汽船と並び日本で指折りの船会社だ。
DSCN9592_convert_20180508201946.jpg
DSCN9593_convert_20180508202009.jpg
門司港は小さいながらも見所満載。
DSCN9596_convert_20180515200037.jpg

DSCN9645_convert_20180515200016.jpg
▲▼ロバート秋山の父が経営する海賊船「ファンキータイガーカリビアン」があったりする。
DSCN9647_convert_20180515195953.jpg

DSCN9598_convert_20180515200104.jpg
▼港の向こうに「旧門司税関」が見える
DSCN9635_convert_20180515200750.jpg
▼船が通ると2つに割れる橋を通って旧税関側へ渡る。
DSCN9618_convert_20180515200817.jpg

DSCN9602_convert_20180515200631.jpg
▼▲旧門司税関。現在はエントランスホール、休憩室、喫茶店などに利用されている。
DSCN9609_convert_20180515201202.jpg

DSCN9681_convert_20180517195803.jpg
▼▲北九州市立国際友好記念図書館
DSCN9607_convert_20180517195549.jpg
大連にあった明治35年建築の東清鉄道汽船会社の事務所を複製建築した物らしい。古くから門司港は大連市と深い関
係にあった様だ。元々大連は日清戦争後に日本が譲り受け、三国干渉によりロシア領土となり、日露戦争後に日本が統
治していた複雑な場所だからね・・・。北九州市と大連市、友好都市締結150周年を記念して建てられたらしい。

DSCN9651_convert_20180517212404.jpg
▲▼恐らく古くから敷かれていたであろう単線の線路にはレトロチックなディーゼル機関車が走る。
DSCN9650_convert_20180517212426.jpg
▼線路沿いには「出光創業史料室」
DSCN9652_convert_20180517212457.jpg
▼古くから残る倉庫の壁だけが残る。敷地内は駐車場に転用されている。
DSCN9653_convert_20180517212534.jpg
近くの駐車場内にはレトロな電車があった。
DSCN9670_convert_20180517212649.jpg

DSCN9671_convert_20180517212616.jpg
▼少し離れた場所には門司電気通信レトロ館
DSCN9656_convert_20180517222348.jpg
▲大正13年逓信省門司郵便局電話課庁舎として建築された、門司における最初の鉄筋コンクリート建造物。
DSCN9693_convert_20180517222910.jpg
かなり歩いて少々疲れたのでそろそろ下関に戻る事にした。
DSCN9696_convert_20180517222951.jpg
門司港を後にする。
DSCN9701_convert_20180517223013.jpg
下関と門司を同時に楽しめた1日だった。


この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2018_05_03


和歌山市加太に属する友ヶ島は、紀淡海峡に浮かぶ無人島群で、地ノ島、神島、沖ノ島、虎島の総称。
瀬戸内海国立公園の一部となっている同島(沖ノ島/虎島)には、明治22年から外国船の大阪湾侵入に備え、砲台の建
設が開始され、最大28㎝砲台が設置された。明治37年~38年の日露戦争で、日本は辛くも勝利したので、ロシアな
どの外国艦隊が湾内に侵入して来る事は無く、その後太平洋戦争でもほとんど使われる事無く日本は敗戦を迎えた。
友ヶ島第一砲台:27cmカノン砲(4門)
友ヶ島第二砲台:27cmカノン砲(4門)
友ヶ島第三砲台:28cm榴弾砲(8門)
友ヶ島第四砲台:28cm榴弾砲(6門)
友ヶ島第五砲台:12cmカノン砲(6門)
虎島保塁:9cmカノン砲(4門)
友ヶ島の砲台施設は「由良要塞」の一角。淡路島の由良地区(現 洲本市由良)を中心に要塞司令部が置かれ、友ヶ島、
加太・深山地区の3地区で構成されていた。
由良要塞は終戦時には第2総軍第15方面軍直轄部隊で運営されており、敗戦まで要塞施設として一般人の立ち入りは
一切禁止され、当時の地図や地形図には掲載されていなかった。
第2次世界大戦は既に航空機が主力になった為、大砲の使用はほとんど無く、終戦と同時に米軍により砲施設は撤去
されたが、弾薬庫などの遺構が多く残り、現在は瀬戸内海国立公園に属しているものの、近代遺跡(廃墟)として写真
家やコスプレイヤーなどに「ラピュタっぽい!」と、人気の島となっている。

DSCN9051_convert_20180328121402.jpg
和歌山市の加太港から友ヶ島汽船で友ヶ島に向かうのだが、船乗り場駐車場までは少し狭い道のり。
DSCN1923_convert_20180328122139.jpg
▼対向車が来ない様に祈りながら進んで行く。此処を右折すれば駐車場だ。
DSCN1920_convert_20180328122207.jpg
▼駐車場管理のおばちゃんに700円を支払い車を駐車する。いい天気だ~。
DSCN1918_convert_20180328122249.jpg

DSCN1914_convert_20180328122316.jpg
▼▲船は停泊している様だが、この日は風がキツく09:00の便は欠航、10:00の便となった。
DSCN1913_convert_20180328122332.jpg
▼この建物の隅にトイレがあるので用を足しておく。
DSCN1925_convert_20180328122230.jpg
▼さぁ出発だ。往復2000円だが、このサイト(HIS)でクーポンをGETすると10%割引が受けられる。
DSCN1926_convert_20180328122425.jpg
10:00の便は満席。次の船を駐車場で待つ人も多く見られた。
DSCN1928_convert_20180328122449.jpg
▼加太港を出港する。友ヶ島まで20分程の船旅だ。
DSCN1929_convert_20180328122514.jpg
▼釣り船だろうか、乗員が手を振ってくれている。
DSCN1931_convert_20180328122531.jpg
▼虎島が左手に見えると友ヶ島港はもう直ぐそこだ。
DSCN9038_convert_20180328122639.jpg
▼友ヶ島に到着、上陸を開始する。凄い人だ。若い女性の2~3人組が多いのには驚いた。
DSCN1933_convert_20180328155219.jpg
友ヶ島港と言っても桟橋があるだけだ。この桟橋も当時の日本軍が作った物だ。
DSCN1936_convert_20180328155429.jpg
セオリー通り、第2砲台跡から順に見学していく事にした。
DSCN9016_convert_20180328155515.jpg
案内板の画面で言うと右方向(灯台方面)だ。
DSCN9019_convert_20180328155835.jpg
▼乗って来た船が加太港に帰って行く。
DSCN1937_convert_20180328193126.jpg
▼友ヶ島唯一の宿「海の家」が見えてきた。
DSCN1939_convert_20180328194957.jpg
島では軽トラを何台か見たが、全てナンバープレートはついていなかった。流石無人島!
DSCN1940_convert_20180328195524.jpg
▼▲早速廃墟が見えた。赤煉瓦の建物はおそらく当時の軍施設だろう。
DSCN1941_convert_20180328193522.jpg
DSCN1942_convert_20180328193540.jpg
右手には海が綺麗だ。
DSCN1948_convert_20180328193736.jpg
タンカー?LPガス?船もゆっくり走っている。海の向こうに見えるのは淡路島だ。
DSCN1947_convert_20180328193758.jpg
先の方角をみると・・・?
DSCN1944_convert_20180328193818.jpg
!出た、第2砲台跡!
DSCN1946_convert_20180328193835.jpg
第2砲台跡が見えて思わず足取りが早くなってしまうが、途中にも旅館の廃墟が・・・。
DSCN1949_convert_20180328194354.jpg
富士屋別館・・・、かつては此処で営業していたのだろう・・・。
DSCN1952_convert_20180328194427.jpg
現在、友ヶ島の宿は1件のみ。「海の家」が夏季のみ営業しているそうだ。
DSCN1950_convert_20180328194409.jpg
なので、夏季以外は、基本無人島というわけだ。「軽食」と書いてあっても食事が出来る所は無い。
DSCN1953_convert_20180328195854.jpg
第2砲台に着いた。
DSCN1965_convert_20180328200155.jpg
なかなか大きな砲台施設跡だ。此処は敗戦後、進駐軍が爆破処分しようとした砲台らしい。
DSCN1956_convert_20180328200319.jpg
柵がしてあり、基本中には入れないが、自己責任で。
DSCN1969_convert_20180328200843.jpg

DSCN1966_convert_20180328200900.jpg
中は見学する人は少ないとみているのか、弾薬庫などはゴミ箱と化していた・・・。
DSCN1968_convert_20180328200610.jpg
何とかならんのかね、このゴミ。自己責任見学だとしても綺麗に保存して欲しいものだ・・・見学する気になれない。
DSCN1964_convert_20180328201300.jpg
気を取り直して裏手にまわってみる。
DSCN1959_convert_20180328201502.jpg
ダイナマイトを仕掛けて爆破したのだろうか・・・盛大に割れている。
DSCN1958_convert_20180328201521.jpg
▲自己責任で・・・。
DSCN1960_convert_20180328201556.jpg
27cmカノン砲の設置跡だ。
DSCN1961_convert_20180328201620.jpg
▲紀淡海峡を望む。この先の淡路島(由良砲台)と挟み撃ちの位置関係だ。
DSCN1963_convert_20180328201639.jpg
この先何十年とかけて腐食して無くなっていくのだろう・・・。
DSCN1971_convert_20180328222231.jpg
次に向かうのは第1砲台跡と友ヶ島灯台。
DSCN1974_convert_20180328222418.jpg
▲柵がしてあり中に入れない・・・順路は右手の階段を登って行く。
DSCN1975_convert_20180328222439.jpg
▲左手の棲息掩蔽部に後付けされたと思われる謎の煙突。戦後何かに転用されて使用していたのか?
DSCN1978_convert_20180328222507.jpg

DSCN1980_convert_20180328222530.jpg
▲先程の柵が向こうに見える、誰かがこちらを見ている。「入っていいの?」という小声が結構聞こえた(笑)
DSCN1982_convert_20180328222545.jpg
▲弾薬庫はコンクリートブロックで完全に蓋がされている・・・ここまでしなくてもいいのに・・・。
DSCN8919_convert_20180329183515.jpg
▲2つ目の弾薬庫もしっかり蓋がされている・・・。
DSCN1976_convert_20180328222609.jpg
▲砲座跡
DSCN1985_convert_20180328222625.jpg
▲監視所か兵舎が建っていたのだろう・・・門柱と外壁だけが残っていた。
DSCN1983_convert_20180328222650.jpg
▲海側の景色は淡路島。こうやって見ると淡路島は大きい。
DSCN1984_convert_20180329184139.jpg
友ヶ島灯台も見学、明治3年5月英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンにより着工されたAランクの保存灯台。
DSCN8928_convert_20180329184008.jpg
明治23年8月由良要塞第1砲台建設の為、東に25m移設されている。
DSCN1987_convert_20180329185300.jpg

DSCN1994_convert_20180405134156.jpg
▲▼友ヶ島灯台から少し奥に行くと観測所跡。
DSCN1988_convert_20180330005326.jpg
若い女性達は観測所の上に乗って必死に景色を撮影している。当然、観測所には興味は無いのだろう・・・。
DSCN1990_convert_20180330005455.jpg
鉄扉がちゃんと残っている。
DSCN8926_convert_20180330005518.jpg
中の状態も良い、綺麗に作ってあるな~素晴らしい。
DSCN8925_convert_20180330005611.jpg
鉄扉に付いている小窓にはガラスが入っていたのだろうか・・・まさかね。
DSCN8923_convert_20180330005550.jpg
▼天井部分はコンクリートが剥がれ落ちて鉄がむき出しになっているが、逆にリベットが見えて構造が解りやすい。
DSCN8914_convert_20180330013501.jpg
当然、当時カムフラージュの為に盛ってあったであろう土は無くなっている。画像の2人は「こんな薄い鉄板丸出しで
敵に攻撃されたら一発で終わりやで!」と、訳の解らない会話をしていた・・・無知は怖い。

DSCN8929_convert_20180405133626.jpg
順路を進んでいくと、丁度、富士屋別館の反対側に出た、兵舎か何かの遺構が残っている。
DSCN8930_convert_20180405133651.jpg
▲キャンプ場を抜けて太平洋側に出ると素晴らしい景色が広がっていた。
DSCN1996_convert_20180405134351.jpg
▲次は海軍聴音所跡に向かう。
DSCN8932_convert_20180405134610.jpg
▲木陰の涼しい山道を少々登っていくと・・・。
DSCN8933_convert_20180405134629.jpg
▲▼あった、海軍聴音所跡だ。周辺には当時の遺構と思われるコンクリートの基礎が沢山残っていた。
DSCN8931_convert_20180405134931.jpg
▼早速中に入って見る。
DSCN8945_convert_20180405135047.jpg
戦後、盛り土等や、付近の木々に隠れ、この施設が発見されたのが遅かった為、比較的良好な状態だったそうだ。
DSCN8935_convert_20180405205623.jpg
それでも、発見されてからも何の手入れもされていないので荒れ放題だが・・・これはこれで味があって良い。
DSCN8936_convert_20180405205700.jpg
▼再び外にまわって見学する。すると・・・ん?二階建てか!?
DSCN8938_convert_20180405205722.jpg
知ってしまった以上、2階に行きたい!
DSCN8939_convert_20180405205757.jpg
▲写真で見ると、何てこと無い高さだが、これが絶妙に高い・・・。
DSCN8940_convert_20180405212907.jpg
ズボンが少し裂けたが何とか登る事が出来た。
DSCN8941_convert_20180405212927.jpg
2階部分は一部屋の様だ。
DSCN8942_convert_20180405212944.jpg
▼次に第3砲台跡に向かう途中、トイレがあった。
DSCN8947_convert_20180405213509.jpg
経年劣化を考えると当時の建物とは考えにくいが、直ぐ近くに近代的なトイレが設置してあったのでこれは当時物か?
DSCN8949_convert_20180405213840.jpg
▲▼当時の物を補修して使用していた時期がある様だ。明治時代の物だとしたら木材が綺麗過ぎる。
DSCN8950_convert_20180405214109.jpg
それでも、外観を含め、当時の姿を偲ぶ事が出来るトイレの建物は初めて見た。
DSCN1997_convert_20180406004524.jpg
「ラピュタっぽい!」と、人気の友ヶ島のメイン見学地、第3砲台跡は、懐中電灯があれば誰でも迷路の様な砲座施設
を思う存分楽しむ事が出来きる。若い女性グループもスマホの懐中電灯片手に肝試ししている人も沢山居た。

DSCN2004_convert_20180406005754.jpg

DSCN2000_convert_20180406004622.jpg
トンネルを抜けると砲座跡、地下に入れば弾薬庫跡。と、カマドウマさえ気にしなければ楽しい空間が沢山!
DSCN2001_convert_20180406004641.jpg

DSCN8955_convert_20180406004729.jpg

DSCN8952_convert_20180406004453.jpg

DSCN8959_convert_20180406004407.jpg
他の要塞も行っているが、これだけの地下トンネルが構築されている要塞は友ヶ島が最大ではなかろうか・・・。
DSCN8962_convert_20180406004749.jpg
明治・大正時代に建設された要塞は、何処も似た様な造りだが、友ヶ島は島全部が要塞で規模が大きい。
DSCN8964_convert_20180406005829.jpg
ふんだんに使われた赤煉瓦のアーチが素晴らしい形を作っている。
DSCN8961_convert_20180406010959.jpg

DSCN8965_convert_20180406010924.jpg
棲息掩蔽部は全て一本の通路で繋がっている。
DSCN8966_convert_20180406010940.jpg

DSCN8968_convert_20180406010856.jpg
見学者が多いので、人を入れず写真に収めるタイミングが大変。
DSCN8967_convert_20180406011018.jpg
▼逆から来たが、本来は此処から第3砲台に入るのだろう、立派で美しい入口だ。
DSCN8972_convert_20180406011044.jpg
▼将校の宿舎だったとされる銃眼を備えた兵舎が残る。
DSCN8973_convert_20180503215820.jpg
▼すぐ横には屋根が抜け落ちた発電所跡が残る。
DSCN8974_convert_20180503215841.jpg

DSCN8975_convert_20180503215900.jpg
▼▲本来の入口を出口として第3砲台跡を後にする。
DSCN8977_convert_20180503215932.jpg
▼次は探照灯跡に向かう。
DSCN8978_convert_20180503215950.jpg
▼道中、この様な石柱が何本もあった。何の為に建ててあるのだろう・・・壁でも作っていたのか・・・?
DSCN8979_convert_20180508224004.jpg
▼探照灯跡に到着、先客は何と大学生位の若い女性2人組だった。こんな寂しい所に女性2人とは流石安全な日本!
DSCN8982_convert_20180508224031.jpg
▼階段を登って見る。
DSCN8983_convert_20180508224121.jpg
▼探照灯が格納されていたであろう部屋を見下ろす。
DSCN8985_convert_20180508224137.jpg
女性2人組に別れの挨拶をして次へ向かう。
DSCN8986_convert_20180508224059.jpg
女性達には「探照灯」の説明と、この島では戦いは無かった事を教えてあげると驚いていた。戦争が此処であったと思
っていたらしい・・・太平洋戦争(大東亜戦争)前から、他国(特にソ連)の侵略に対する備えだった事を教えてあげた。
こうした戦争遺跡には、ただ自由に見学させるだけで無く、自国の歴史を紹介する必要性を強く感じた。

DSCN8994_convert_20180728182035.jpg
次に「虎島」へ!と思ったが、疲れと帰りの船の時間もあり、次回とした。
DSCN9013_convert_20180728182105.jpg
▲船乗り場まで戻って来た。
DSCN9005_convert_20180728182249.jpg
▲▼船乗り場の直ぐ反対側に何やら遺構が残っている・・・!
DSCN9007_convert_20180728182326.jpg
▲▼これも間違いなく当時の遺構だろう。
DSCN9008_convert_20180728182357.jpg
DSCN9010_convert_20180728182343.jpg
▼裏手にまわると、貯水池があった・・・。
DSCN9003_convert_20180728182419.jpg
▼貯水池側から遺構を見ると立派な煙突まで備えている。でかいタービンでもあったのだろうか・・・。
DSCN9004_convert_20180728182436.jpg
▼船の時間になり、名残惜しいが友ヶ島を後にした。
DSCN9028_convert_20180728182507.jpg
▼虎島が見える・・・また来るよー!
DSCN9027_convert_20180728182532.jpg
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2018_03_28


宿泊先のホテルカレッタ(龍郷町)から古仁屋港までは車で約1時間半。朝早かったので道が空いていた。
レンタカーを船に載せると結構高いので、天気の心配はあったがスクーター(125CC)をレンタル予約しておいた。
加計呂麻島へは奄美大島(古仁屋)から船で25分程だ。朝08:10の船で加計呂麻島(生間)に向かう。

DSCN8661_convert_20180131153731.jpg
125CCクラススクーターと人を合わせて1510円(往復運賃)だ。人690円/スクーター820円(往復)の内訳。
帰りに古仁屋でガソリンを入れて満タン返ししたが、古仁屋港のガソリンスタンドでは1ℓ=〇円の表示も無く、原付バ
イクで加計呂麻島を走ったと言えど、半分位しか残量計が減ってなかったのに400円程かかった・・・。
領収証にも1ℓ=〇円の詳細は無く、ガソリン400円と内税8.0%30円と記載されているだけ・・・。
計算してみるとレギュラーガソリン1ℓ=150円近く払わされた事になる。名瀬ではそんな事は無く1ℓ=139円で明細も
本州と変わらない領収書だった(出光石油和光SS)。筆者は電動バイクの販売を本業としているので、スクーターにガソ
リンを久しく(5~6年)入れていない。レンタルバイクがEVだったら余計な事を考えなくても済んだのに・・・。と思
わずにはいられなかった。
「使った後は自宅で充電、短距離移動は電動バイクで。」をコンセプトに電動バイクを専門とする、小さなバイクショ
ップ「EV奈良」経営しております。
日本一の電動原付スクーターをご検討の方は是非、弊社HPを覗いて見て下さい➡http://www.evnara.jp

DSCN8659_convert_20180131153806.jpg
08:10定刻通り出航。古仁屋港を後にする。
DSCN8341_convert_20180131164232.jpg
※仮に今回借りたレンタカー「デミオ」(普通車)をそのまま船に載せる場合、往復で9000円近くの費用がかかる。
DSCN8346_convert_20180116120758.jpg
DSCN8348_convert_20180116120846.jpg
あっという間に生間港に到着、しかし心配していた雨がとうとう降り出した・・・。
DSCN8357_convert_20180116121007.jpg
港には船の時間に合わせてバスが待機している。ハイエースなどの小型バスが主流の様だ。
DSCN8358_convert_20180131164540.jpg

DSCN8360_convert_20180116121044.jpg
▼▲この船は恐らく次は瀬相に向かうのかな・・・?加計呂麻島には「生間」と「瀬相」の2つの港がある。
DSCN8363_convert_20180131164826.jpg
行きに「生間」を選んだのは、1番目の目的地である安脚場戦跡公園に近かったからだ。
DSCN8383_convert_20180116121141.jpg
▲雨の中をスクーターを走らせ安脚場戦跡公園に向かう。すると兵舎跡が現れた、砲台跡は近い!と思ったが・・・。
DSCN8381_convert_20180116121213.jpg
▲ガーン・・・昨年8月の台風5号の影響で土砂崩れが発生し、行けないとの事・・・。残念
DSCN8371_convert_20180116121343.jpg
▲▼行けないものは仕方無いので、兵舎見学のみとする。門柱から外壁まで綺麗に残っている。
DSCN8377_convert_20180116121719.jpg
▼立派な兵舎だ。中から人の声が聞こえると思って中を覗き込むと、ラジオが鳴っていた。防犯の為か?
DSCN8380_convert_20180116121658.jpg
此処の正式名称は「生間施設部隊指揮官宿舎跡」で、指揮官クラスの軍人が寝泊まりしていた様だ。
DSCN8372_convert_20180116121441.jpg
DSCN8376_convert_20180116121518.jpg
敷地は結構広い。入口は開く様だったが、倉庫状態となっており、個別に建物に侵入する事はしなかった。
DSCN8373_convert_20180116121541.jpg
敷地内には井戸も確認出来た。
DSCN8374_convert_20180116121604.jpg
▼烹炊所跡。かなりの数の兵隊さんが此処で寝泊まりしていたのであろう・・・。
DSCN8375_convert_20180116121627.jpg
次はまた生間方面に戻る事になるが、途中、渡連(どれん)地区に待網崎高角砲台跡が公園となっている様だ。入口には
立ち寄ったのだが、草が生い茂り、とてもスクーターでも徒歩でも入っていけそうにもないので今回はスルーした。

DSCN8385_convert_20180116121844.jpg
途中、何本もの立派なガジュマロの木が見られる。因みに「日本一のガジュマル」は(奄美諸島)沖永良部島にある。
DSCN8386_convert_20180116121911.jpg
閑散期という事もあるが、人が居ない・・・ピース・又吉の母の故郷である加計呂麻島は人口約1300人足らず。
DSCN8361_convert_20180131164856.jpg
▲バナナを栽培しているご家庭もある!南国だね~。聞けば自分達や島の中での需要分だけ栽培しているとの事。
DSCN8393_convert_20180131165523.jpg
▲▼スリ浜にも立ち寄ってみた。
DSCN8390_convert_20180131165635.jpg
▲天気が悪かった為、空の色が最悪だが、透き通る様な海の綺麗なビーチだ。
DSCN8396_convert_20180131170357.jpg
道はこんな感じ。今回はスクーターの為、極力海沿いを走った。2車線の立派な道も別で通っている。
DSCN8395_convert_20180131170631.jpg
コンビニは無く、飛び入りで食事出来る所も無いに等しい。公衆トイレは完備!?使わせて頂いた。
DSCN8497_convert_20180131172205.jpg
▲2008年4月開通の立派な呑之浦トンネルを抜けて、次に訪れた場所は呑之浦旧海軍第18震洋隊格納壕跡。
DSCN8402_convert_20180131174140.jpg
▲震洋艇秘匿壕の手前には島尾敏雄文学碑記念公園入口がある。
DSCN8404_convert_20180131174312.jpg
「島尾敏雄」は第18震洋特攻隊長として終戦。戦後は有名な小説家になった人で、昭和30~50年まで名瀬に住んだ。
    SHIMAZAKISYOUI.jpg            miho.jpg
    ▲島尾敏雄海軍少尉(昭和19年夏頃)終戦時28歳。       ▲大平ミホ 終戦時26歳。
DSCN8414_convert_20180131174748.jpg
妻である大平(旧姓)ミホも作家。島尾少尉とミホは加計呂麻島で出会う。
ミホは加計呂麻島で生まれ育ち、東京の女学校を出て島に帰って押角小学校の先生をしていた。
島尾少尉は横浜生まれ、九州帝国大学を繰り上げ卒業、昭和19年第18震洋隊隊長として加計呂麻島に赴任してきた。
東洋史を勉強した島尾少尉はミホの父の所蔵する中国関係の書物に興味をもち、ミホの家に出入りする様になり、2人
は恋に落ちる。その後昭和21年結婚し、長男伸三/長女マヤの2人の子供に恵まれる。島尾元少尉は昭和61年死去。

DSCN8433_convert_20180131184142_convert_20180131184819.jpg
▲呑之浦の入江を左に見ながら海岸線を歩いて行く。
DSCN8434_convert_20180131191746.jpg
▲▼復元された「震洋」が収まる秘匿壕が迎えてくれる。
DSCN8435_convert_20180131192127.jpg
この展示方法は非常に説得力があり、そして当時のままの現場にあるという事に意味がある。
DSCN8442_convert_20180131192426.jpg
海軍でよくある入口付近のみコンクリート造り、奥は素掘りだ。欲を言えば発進レール(丸太)も復元して欲しかった。
DSCN8483_convert_20180131192758.jpg
秘匿壕入口は正に震洋サイズギリギリに構築されているが、素掘り空間は割と余裕がある。
DSCN8481_convert_20180131193042.jpg
▲奥行きはおよそ25m位。全長約5mの震洋が5隻収納出来る奥行きのはずだ。
DSCN8422_convert_20180131193503.jpg
右手に秘匿壕が連なって口を開けている、当時は舗装道路道は無かったはず。丸太かレールで出撃態勢だろう。
DSCN8459_convert_20180131193720.jpg
▲▼この秘匿壕は崩落するのは時間の問題だろう・・・。
DSCN8456_convert_20180131194011.jpg
▼この秘匿壕は完全に崩落。
DSCN8461_convert_20180131194451.jpg
▼この秘匿壕はかろうじて崩落をまぬがれているが・・・。
DSCN8423_convert_20180201121229.jpg
▼ここも崩落は時間の問題だろう・・・素掘り壕はいつかは崩落する運命だ。
DSCN8425_convert_20180201121301.jpg
DSCN8431_convert_20180201121328.jpg
ここも崩落か・・・。
DSCN8463_convert_20180131194646.jpg
DSCN8467_convert_20180131203629.jpg
壕は5基確認出来た。第18震洋隊は52隻配備されていた。秘匿壕5基(25隻分)を見学した事になる。
加計呂麻島には、ここ呑之浦の第18震洋隊の他、三浦に姉妹隊の第17震洋隊が配備されていた。
大島海峡対岸の奄美大島本島の久慈湾には第44震洋隊があり、喜界島にも2個隊があった。
呑之浦では小舟による入江の他部落の交通を禁止し、入り江を封鎖した。
住民は浜沿いの道を通れずに山道を歩くことになっていたという。適当な場所に小さな番小屋が建ち、番兵が24時間
体制で住民から震洋隊を秘匿するのに海軍は神経を使っていた。奇襲攻撃(特攻)をする為の部隊だったからである。

DSCN8452_convert_20180131211750.jpg
▲今は静かで美しい呑之浦の入り江。昭和62年、島尾敏雄著の「震洋発進」が出版された。その本には実際に出撃した
 震洋隊3隊の内の1つ、第22震洋隊の事が書かれているというので是非読んでみたいと思っている。
出撃した震洋隊は昭和20年2月15・16日フィリピン・コレヒドールに配備された第12震洋隊松枝義久隊長以下50隻。
昭和20年3月26日沖縄戦で運天港海軍基地より出撃した第42震洋隊、4月4日に出撃した第22震洋隊が中城湾や金武
湾沖に突入していった。

Shinyo.jpg
▲ベニア板の船体にトヨタエンジン、船首に250㌔爆弾を積んで敵艦船に突入する海軍特攻艇「震洋」
[ 奄美諸島大島防備隊 ]※戦死はほとんどが空襲と戦争マラリア
(奄美大島久慈)第44震洋隊55隻S20.01.25配備 三木少尉以下178名(内13名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]三浦)第17震洋隊53隻S19.10.15配備 林大尉以下185名(内4名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]呑ノ浦)第18震洋隊52隻S19.10.15配備 島尾中尉以下186名
(喜界島早町)第40震洋隊55隻S20.01.25配備 安藤中尉以下192名(内3名戦死)
(喜界島小野津港)第111震洋隊26隻S20.02.25配備 後藤少尉以下190名(内5名戦死)
DSCN8541_convert_20180131220519.jpg
▲▼次に向かったのは三浦にある艦船用給水ダム。瀬相の戦闘指揮所跡にも行きたかったが場所が解らなかった。
DSCN8539_convert_20180131220959.jpg
▼案内標識に沿って舗装道路から反れると、この様な道になる。途中からは徒歩で行く事になる。
DSCN8529_convert_20180131221247.jpg
少し歩いて小高い場所に行くと・・・再び案内板が。「あとちょっとでダムですよ」って何かホッとする。
DSCN8499_convert_20180131221547.jpg
▼出た!ホントにダムだ・・・凄い。
DSCN8523_convert_20180131221959.jpg
今でも満々と水が溜まっている。現役のダムの様だ・・・軍はダムまで造ってしまうとは恐れ入った。
DSCN8510_convert_20180131222229.jpg
今でも使えるじゃないか?と錯覚してしまう程頑丈な造りで残っている。
DSCN8517_convert_20180131222924.jpg

DSCN8515_convert_20180131223238.jpg

DSCN8513_convert_20180131223306.jpg
昭和初期から終戦まで、途方もない国防費が費やされていたであろう事が容易に想像出来る。
DSCN8506_convert_20180131223704.jpg
DSCN8511_convert_20180131222749.jpg
雨が降ってなければもう少しダム下側を見学したかったが、草木に覆われている事もあり来た道を戻る事にした。
DSCN8531_convert_20180131224420.jpg
▼▲戻る際に脇をよく見ると、ダムから繋がっている排水路が確認出来た。
DSCN8535_convert_20180131224340.jpg
石垣が築かれ、しっかりとした造りだ。
DSCN8530_convert_20180131224308.jpg
▲放水の際は此処を水が大量に流れて瀬相まで供給されるシステムだったのだろう。
ohshimayusoutai1_convert_20180201023111.png
▲大島輸送隊 隊員勇士。大島輸送隊は民間の徴用船では無く、全てが海軍艦艇で編成されていた。
昭和20年3月27日、第17号1等輸送艦/第145号2等輸送艦/第146号2等輸送艦/第186号海防艦/第17号駆潜艇/第
49号駆潜艇の計6隻で編成された海上輸送部隊(大島輸送隊)が、3月31日18:00(加計呂麻島)瀬相に向けて佐世保を
出港した。
既に米軍は前日の26日沖縄の慶良間諸島への上陸作戦を開始しており、船団が沖縄本島へ辿り着くのは不可能だった。
そこで沖縄の手前の奄美大島・加計呂間島の大島防備隊に特殊潜航艇、弾薬、地雷、糧食などを一旦揚陸し、機会を見
て沖縄にピストン輸送しようと考えたのである。
しかし集まった6隻は全くの寄せ集めで、編隊航行すら出来ず信号も手旗信号以外は未熟だったのに加え、艦に乗るの
が初めての経験の浅い体力のない第2補充兵だった。
旗艦の第17号1等輸送艦は2月8日に竣工したばかりで、3月10日の沖縄輸送作戦が始めての作戦行動だった。
第186号海防艦も2月15日に竣工したばかりで、今回が初の作戦行動であった。

2toyusoukan_convert_20180201002614.jpg
▲(参考画像)第146号海軍二等輸送艦(戦車揚陸艦)
それでも何とか準備を整えた輸送隊は3月31日18:00に佐世保を出港、米軍機の攻撃を受けながらも4月2日午前1時
には無事、瀬相に入港して積荷の揚陸を開始した。
第17号1等輸送艦は特攻基地関係物資200トン、大島防備隊関係弾薬物資400トンを。2隻の2等輸送艦はそれぞれ乗
用車1台と120トンの物資を積んでいた。揚陸作業には防備隊や大島蛟龍隊の関係者、更に地元瀬相集落の住民がリレ
ー方式で揚陸作業を行った。軍民総出進軍ラッパを吹いての作業で4月2日06:30までに9割の分散揚陸を完了させた。
他に第17号1等輸送艦の後部には沖縄に進出する中平善司中尉の率いる甲標的2隻が積まれ、基地員・整備員約30名も
一緒に進出していた。

kaigun1touyusoukan.jpg
▲(参考画像)第5号海軍一等輸送艦。昭和19年8月17日情島沖 甲標的発進実験時。後部に甲標的を搭載している。
甲標的は沖縄本島北部の運天港に基地があったが、一先ず奄美に進出して島伝いに沖縄を目指す計画であった。
入港前の空襲で中平艇は米軍機の銃弾を受けた。応急修理の後2日の空襲中は潜行していたが、修理途中の溶接不十分
な箇所から海水が浸入した為やむなく浮上している。
4月3日米軍機が大挙来襲、午前中の第1波~第3波の攻撃目標は瀬相沖の大島輸送隊の艦船だった。
各艦は地上からの対空砲火と合わせ米軍機を迎撃したが第186号海防艦が艦橋後部に直撃弾を受け大火災を起し轟沈。
この空襲で輸送隊は102名が戦死(海防艦53名、輸送艦49名)、負傷者80名をだした。

kaibokan1_convert_20180201010405.jpg
▲(参考画像)海軍海防艦。領土近海で沿岸警備・船団護衛・対潜哨戒などを主要な任務とする目的で建造された艦。
 装甲が厚く航続距離・最高速は犠牲にされている。なので、鈍足の輸送船の護衛に適していたとも言える。

空襲終了後、第17号1等輸送艦の乗組員は応急修理に努めたが浸水が激しく、沈没は時間の問題だった。
そこで艦搭載の弾薬・食糧の他、船倉内の未揚陸の物資、更に25ミリ機銃も取り外して揚陸する事とし、乗組員と防
備隊の兵士達は、艦内の火災の熱で蒸風呂のような船倉内から、全身汗だくとなって物資を運び出した。
21:00総員退去が発令され、乗組員は大発で退艦した。上等主計兵曹の加藤重信さんは、陸上から沖合いでメラメラ
と燃える艦を見つめていた。真夜中頃に船倉に残っていた地雷の誘爆で大きな火柱と共に沈没したと語っている。
アメリカ軍の空襲と、座礁事故により輸送艦2隻と海防艦1隻を失った大島輸送隊の残存艦は、昭和20年4月4日午前に
瀬相を出港して佐世保を目指した。

kaigunkusentei.jpg
▲(参考画像)海軍駆潜艇。主に潜水艦の駆逐を主任務とし、局地での警備、艦船の護衛に当たる小型の軍艦艇だ。
4月7日佐世保を目指す大島輸送隊は、4月6日15:00山口県の徳山湾から出撃し、沖縄突入を目指す戦艦「大和」以下
8隻の海上特攻隊とすれ違った。11:00頃すれ違った両艦隊は互いの武運を祈る信号を送りあった。
その後12:30頃、大島輸送隊から6万メートル以上離れた南方に黒い爆煙が認められた。海上特攻隊の駆逐艦「朝霜」
か「浜風」の最期ではないかと言われている。他「雪風」「冬月」「矢矧」「磯風」「霞」が「大和」を護衛している。
実は佐世保を目指す大島輸送隊の残存艦は、08:30には海上特攻隊捜索に飛び立ったグラマンに発見されていた。
大島輸送隊が攻撃を受けなかったのは、米艦隊が大和撃沈に目標を絞っていたからである。

Sea7Apr_1945Yamato-Yahagi_convert_20180209205342.jpg
▲昭和20年4月7日戦闘中の「大和」と「矢矧」
Yamatomaneuvering7Apr1945_convert_20180209205842.jpg
▲必死の回避行動をとる「大和」。しかし戦闘機の護衛の無い船団は米軍機の恰好の攻撃目標にすぎなかった。
もし海上特攻隊が出撃していなかったら、大島輸送隊は空襲を受けて全滅していた可能性が高いだろう。
戦艦「大和」攻撃に向かった米艦載機は奄美諸島上空を通過している。奄美大島曽津高崎の海軍レーダーは4月7日早朝
200キロ以上の距離に大編隊を探知している。この編隊は帰途は島の上空を通りその数は約120機を数えたという。
喜界島では10:50頃、上空を艦上機150機が北西進するのが目撃され、その旨の電文が打たれ11:30頃にも大編隊
250機が北上中との電文が打たれたが、沖縄へ特攻出撃の「大和」の運命は変わらなかっただろう。

2toyusoukan2.jpg
▲敗戦後、残った二等輸送艦は復員船としても使用された、沢山の帰還兵が乗っている。
三浦には艦船ダムの他、「佐世保海軍施設部隊鎮魂碑」があるという事だったが、場所は簡単には解らなかった。
昭和20年6月20日米軍の空襲の際、防空壕に避難していた佐世保海軍施設部隊(防空壕等の掘削任務に従事)に爆弾が
落ち、全員が防空壕で生き埋めになり死亡したとの事。この時たまたま内地から来島していた隊員の家族も爆弾の直撃
を受け亡くなられたそうで、これらの方々の霊を鎮めるため鎮魂碑が佐世保海軍施設部隊名で建立されている。
現在でも、毎年6月20日には生き残った方やその家族の方達により慰霊祭が執り行われている。

DSCN8620_convert_20180201124529.jpg
▲薩川まで来た。薩川集落は現在、35世帯59人との事。案内板で辿ったルートを復習してみる。
生間(港)➡渡連(砲台跡行かず)➡安脚場(兵舎見学)➡スリ浜➡呑之浦(第18震洋壕)➡三浦(艦船ダム)➡薩川だ。

DSCN8618_convert_20180201143952.jpg
▲薩川小学校に「奉安殿」が残っていると書いてあるので行ってみた。
DSCN8615_convert_20180201145225.jpg
DSCN8616_convert_20180201144443.jpg
▲カジュマロの木にくくりつけられた案内標識、子供達の手書きだろうか、手作り感が何とも言えずいいですね~。
DSCN8595_convert_20180201144417.jpg
▲薩川小学校正門。この学校はNHK土曜ドラマ「島の先生」のロケ地だ。教師役は仲間由紀恵だった。
DSCN8598_convert_20180201145008.jpg
▲▼素晴らしい自然に囲まれたレトロな小学校!全校生徒は7名(1年1名/2年1名/3年1名/4年1名/5年2名/6年1名)
DSCN8603_convert_20180201145038.jpg
DSCN8609_convert_20180201145106.jpg
▼正門からは海!天気悪いけど・・・。
DSCN8610_convert_20180201145142.jpg
▼そして正門の直ぐ横に・・・あった!昭和10年建立の奉安殿。
DSCN8605_convert_20180201150654.jpg
敗戦前まで全国各地の学校にあった奉安殿。此処の奉安殿は小さいけど立派だな・・・。
DSCN8599_convert_20180201150723.jpg
沖縄で見た奉安殿とは形が違うので、色々な形があった事を知った。薩川小学校の奉安殿は国の登録有形文化財。
DSCN8608_convert_20180201150750.jpg
▼因みにこれは沖縄本島(沖縄市知花)「美さと児童園」裏庭に残る旧美里尋常高等小学校の奉安殿。市指定文化財。
DSCN8865_convert_20180201151652.jpg
瀬戸内町(奄美本島含む)には6つの奉安殿が解体を免れ、倉庫などとして使われてきた。そして平成18年8月3日、国
の「登録有形文化財」となった。薩川小学校の他、古仁屋小学校・須子茂小学校・池地小中学校・節子小中学校・木慈
小学校(廃校)に奉安殿が現存しているとの事。
▼創立80周年を記念してつくられた「亡師亡友の碑」。薩川小学校は明治40年4月開校の歴史ある学校だ。

DSCN8606_convert_20180201150948.jpg
▼次は実久(さくね)に向かうのだが、ちょっと芝方面から「夕日の丘」に寄り道。天気悪い・・・。
DSCN8592_convert_20180201182630.jpg
▼眼下に実久ビーチと江仁屋離島が見える。江仁屋離島は海軍砲台が建設されていた島だ。
DSCN8591_convert_20180201183500.jpg
▲天気が悪く最悪な画像になったが、晴れていれば素晴らしい景色だろう。黒矢印がビーチ。海の色が全然違う!
こんな素晴らしい絶景スポット「夕日の丘」だが、アクセスは素晴らしい道が通っているのに、通行量が無いに等しく、
落ち葉や、小さながけ崩れによる泥・砂利が散乱している区間が長く続き、スリップには注意したいところだ。
そして次は、加計呂麻島最西端にある実久(さくね)へ向かう。

DSCN8547_convert_20180201122229.jpg
DSCN8546_convert_20180201122347.jpg
▲実久に着いた。案内板に書いてある江仁屋離島は、先程「夕日の丘」から見えた海軍砲台跡がある島の事だ。
DSCN8544_convert_20180201185757.jpg
▲▼実久のビーチ。「夕日の丘」から見えた海の色が全然違う部分だ・・・雨なのに綺麗!
DSCN8554_convert_20180201185832.jpg
この綺麗さは写真ではなかなか伝わらないだろう・・・今まで見たビーチで1番綺麗かもしれない・・・。
DSCN8555_convert_20180201190228.jpg
▼慰霊碑があった・・・。
DSCN8548_convert_20180201203658.jpg
実久の戦没者慰霊碑だ・・・まだ新しい綺麗なお花が供えてある、未来永劫大事にしていかないといけない。
DSCN8549_convert_20180201203727.jpg
奄美大島に来てから、忠魂碑や慰霊塔、慰霊碑が非常に大切にされている事に感動していた。此処も例外無く綺麗。
DSCN8551_convert_20180203225318.jpg
▲昭和50年6月吉日 郷土出身者建立とサイドに書いてある。戦後30年経ってからか・・・昭和28年返還だからね。
DSCN8550_convert_20180201203814.jpg
▲当然の事ながら、一礼して黙祷をさせて頂きました。
お名前の苗字が漢字一文字の方が目立つ。これは薩摩藩政時代、鹿児島を含めた内地の人が、見下げた見識で奄美の人
と、直ぐ解る様に改名させられた歴史のなごりだと地元の方から聞いた。もちろん、証拠があっての話では無いそうだ
が、奄美の当時の文献が全て薩摩藩によって処分され、悲しんだ奄美の人は、全てを唄に込めたと言われている。
現在でも加計呂麻には多くのシマ唄が唄い継がれ、歌詞を読み解くと薩摩藩政時代の改名も唄われているという。

DSCN8556_convert_20180202204609.jpg
▲加計呂麻島には大正10年に安脚場砲台、実久砲台、江仁屋離島砲台が建設された。
 その後海軍によって須子茂モン崎砲台と待網崎高角砲台、震洋秘匿壕が構築された様だ。
 江仁屋離島へは特別に区長の許可をもらい、加えて船をチャーターしないと行けないので今回は無理だ。
 しかし、実久砲台があったという事は、この辺りに兵舎があってもおかしくないと、辺りを散策。
 すると、やはりあった!ほぼ完全な状態で残っていた。

DSCN8582_convert_20180202204656.jpg
▲▼安脚場で見た兵舎と、入口の感じも含めてほぼ同じ形だ。此処は「監守衛舎」跡。
DSCN8562_convert_20180202204942.jpg
「見学はご自由にどうぞ」って感じで開放されているので、まずは外観を見て回る。
DSCN8564_convert_20180202205225.jpg
▲大正時代はまだ材料を豊富に注ぎ込めたのだろう・・・強固なコンクリートの壁で兵舎を囲っている。
DSCN8559_convert_20180202204905.jpg
DSCN8563_convert_20180202205038.jpg
▲これは何だろう・・・国旗(軍旗?)掲揚台か?
DSCN8584_convert_20180202213615.jpg
▲掲揚台に登って撮影。
DSCN8579_convert_20180202205256.jpg
▼雨なのに窓?扉?は全て開放されているので中は外から撮影。
DSCN8576_convert_20180202205325.jpg
此処でも指揮官クラスの軍人が生活していたのであろう。
DSCN8577_convert_20180202205356.jpg
今の公民館ぐらいの広さはある。
DSCN8581_convert_20180202205426.jpg
DSCN8566_convert_20180202214213.jpg
▼あ!トイレがある・・・。
DSCN8565_convert_20180202214146.jpg
▲▼奄美大島本島の西古見で見た兵舎と同じだ!
DSCN8567_convert_20180202214243.jpg
DSCN8558_convert_20180202204823.jpg
DSCN8573_convert_20180202205141.jpg
▲ぐるっと一周して見学し、兵舎を後にした。兵舎から山手に向かって道があり、砲台跡に行けそうだったが、草木が
 生い茂り、当時の軍道のままで舗装道路でも無い為、雨でぬかるんでいた事もあり、今回は見学を断念した。
 帰りは瀬相から船に乗って、奄美本島に戻る事にしていたので、瀬相港まで戻った。
 瀬相のフェリー待合所で2枚のポスター?が目に入った。
▼俵中学校(ひょうちゅうがっこう)の最後の卒業生との事だ。現在無期限休校との事・・・。

       DSCN8624_convert_20180203121935.jpg
「奄美大島」で先に紹介した自衛官募集のポスター
       DSCN8625_convert_20180112000934.jpg
瀬相には海軍の戦闘指揮所跡が残っているそうだが、今回は雨という事もあり次回にする事とした。
DSCN8626_convert_20180203130606.jpg
▼▲瀬相港を後にする。
DSCN8627_convert_20180203130701.jpg
▲徳洲会加計呂麻診療所が見える、此処で対応出来ない救急搬送はドクターヘリが本島から来るそうだ。
DSCN8631_convert_20180203130739.jpg
本島まで毎日フェリーで通勤している人も多いらしい。スーパーも無く不便な島という感が無いと言ったら嘘になる。
しかし、静かで超綺麗な海と自然だらけの加計呂麻島の島民達は、島のリゾートホテル建設も拒否したという。
奄美大島には22万トン級クルーズ船の寄港地建設計画が持ち上がったそうだが断念したと聞いた。
心の中で安心した感があった・・・島の経済状況や加計呂麻島の人口減少など、将来の不安と常に隣り合わせの離島。
短期間の旅行では見えない事の方が多いだろう、しかし将来の不安は離島に限った事では無く、本州に住む者でも同じ
だ。人気の沖縄(那覇)は何度も訪れているが、大阪と変わらない人混みと忙しさで、心底リラックス出来る島の様な気
がしなかった。奄美は心底リラックス出来る場所が無数にある。このまま静かに奄美の歴史が続いて欲しいと思った。

DSCN8664_convert_20180205224716.jpg
▲奄美大島に戻ってから「てっちゃん」龍郷店で夕食を済ませ、ホテルに戻った。此処は美味しかった~。
※奄美の外食店では鶏飯(けいはん)というメニューが至る所で出されているが、特筆する程の料理では無かった。


これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】 泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2018_02_01

奄美大島

Category: 奄美大島  

鹿児島県に属する奄美大島は、佐渡島・沖縄本島などに次ぎ面積5位の島だ。
奄美大島・加計呂麻島には戦時中、奄美大島と加計呂麻島に挟まれた大島海峡防備の為、海軍の奄美大島要塞が建設さ
れ、奄美大島の名瀬・古仁屋・久慈は軍港として使用された。
加計呂麻島には海軍の砲台や艦船給水施設やダムが建設され、特に薩川湾は水深が深い天然の良港で、戦時中は軍港と
して連合艦隊の錨地として大和や武蔵を含め多くの艦艇が錨を休めた港として有名で瀬相港に海軍司令部が置かれた。
(渡連)待網崎には高角砲台が設置され、大戦末期には呑之浦に第17・18震洋隊を配備。その遺構は現在も残っている。
大戦末期、奄美諸島には奄美大島・加計呂麻島に3隊、喜界島に2隊の合計5隊の海軍震洋隊(特攻艇)が配備された。
陸軍の海上挺身戦隊は、奄美大島(阿鉄集落)に海上挺進第29戦隊が配備されていた様だ。
奄美大島(久慈湾)に第44震洋隊を配備。古仁屋基地から第801海軍航空隊偵察第302飛行隊・第634海軍航空隊偵察
第301飛行隊の「瑞雲隊」(水上偵察機)が沖縄攻撃に出撃している。
奄美群島の主な島の中に、喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島がある。太平洋戦争(大東亜戦争)中、本土上陸を目指
す米軍の侵攻に備え、喜界島・徳之島には日本軍の飛行場が建設された。
知覧・万世や鹿屋から出撃した特攻機が、機体トラブルや交戦被弾で不時着した飛行場として良く耳にする島だ。
喜界島の海軍飛行場(不時着場)には、昭和18年7月10日南西諸島航空隊が開隊(本部は沖縄本島の小禄航空基地)。
南西諸島の陸上航空基地が管理下に置かれ、同隊の喜界島派遣隊が常駐していた。現在も喜界空港の位置は同じ。
徳之島には昭和18年、陸軍特攻隊(知覧/万世)の中継基地として陸軍飛行場(浅間飛行場)が建設され、昭和19年6月
から運用を開始している。沖永良部島には独混21連隊第3大隊が配備され、大隊は越山を中心に陣地を構築した。
特攻部隊の基地がある各島は激しい空襲を受けた。米軍は昭和20年5月喜界島に上陸部隊を送り込む作戦計画があった
が、実施されずに終戦を迎えている。
戦後、北緯30度以南のトカラ列島・奄美群島や沖縄・小笠原諸島は日本から分離され、サンフランシスコ講和条約発効
後も米軍の施政下に置かれた。東京や関西在住の奄美出身者らが始めた祖国復帰運動は奄美にも波及。
島民による署名活動や総決起集会、密航による東京での陳情活動などを経て、昭和28年12月25日本土復帰を果たした。
その後、小笠原諸島は昭和43年・沖縄は昭和47年に本土復帰している。
3連休中に奄美群島全てを見学するのは不可能なので、今回は2017年3月26日に再就航したバニラ・エア大阪/関西空
港線を利用して奄美大島・加計呂麻島の戦跡を駆け足で巡ってきた。

DSCN8030_convert_20180109142734.jpg
▲関西国際空港から僅か1時間45分程で奄美空港に到着。
旧奄美空港は昭和39年開設で、昭和63年から現在の埋め立て地による新空港の運用を開始している。
よって奄美空港の旧軍との関係は無いものと思われる。旧奄美空港は現在、奄美パークとなっている。

DSCN8035_convert_20180109141601.jpg
▲1月は晴れた日が珍しいという話の通り、小雨が舞うあいにくの天気だったが、気温は18度で十分南国だ。
1998年日本エアシステムが運航休止。2001年エアーニッポンが運航から撤退。2010年にスカイマークが運航休止な
ど、沖縄に比べて極端にアクセスが悪かった奄美大島だが、世界自然遺産登録を見据えてか去年3月バニラ・エアが再
就航。直通便が運航されて行き易くなった。飛行機の乗り継ぎは面倒だからね・・・。

DSCN8038_convert_20180109161352.jpg
DSCN8042_convert_20180109155856.jpg
▲▼けっして大きな空港では無いが、綺麗に整備されていて気持ちいい。
DSCN8041_convert_20180109160107.jpg
世界遺産登録成るといいな~でないと、また直行便が運航撤退とか言い出すと行きにくくなってしまうからね・・・。
DSCN8040_convert_20180109155726.jpg
▼空港でレンタカーを借りて島を周る。「奄美」ナンバーを初めて見た。
DSCN8063_convert_20180109161837.jpg
聞けば2~3年前までは、普通に「鹿児島」ナンバーだった様だ。まだ島では鹿児島ナンバーの方が多い。
「奄美」の方が島らしくていいね!原付スクーターのご当地ナンバーもお洒落!

DSCN8057 - コピー
▼奄美大島の中核都市というと名瀬だが、2006年いくつかの村と町が合併し、現在は奄美市となっている。
DSCN8045_convert_20180109164905.jpg
▼昭和20年4月 米軍の空襲により焼け野原となった名瀬(奄美市の中心部)
kusyugonaze_convert_20180121160911.png
▼現在の名瀬(奄美市) 赤矢印の場所は名瀬末広町のAiAiひろば。湾は埋め立てられて狭くなっている様に見える
genzainazeamami_convert_20180121160953.png
▲AiAiひろば(赤矢印の場所)で「紬コーディネート・コンテスト」が開催されると聞いていたので行って見た。
DSCN8046_convert_20180109164927.jpg
▼AiAiひろばを目指して街の中心とも言える商店街を通る。すると商店街入口に大きな看板が・・・。
DSCN8048_convert_20180109165737.jpg
南西諸島の離島防衛強化を目的に、鹿児島県奄美大島に配備される陸上自衛隊部隊は約550人規模。
地元の奄美市長・瀬戸内町長も受け入れを表明し、奄美大島の駐屯地整備は2015年から既に着工している。
奄美空港から名瀬へ来る途中、58号線を走りながら、兵舎建設現場も見えた。
離島有事に対応する「中距離地対空誘導弾部隊」や大規模災害時に初動対応を担う「警備部隊」などが主な隊で、皆、
日本の領土を守る為に島に勤務する隊員ばかりだ。有事の際、隣国の大国に数では到底勝ち目は無い事も理解出来るが
奄美大島一の繁華街で、プロ左翼のこの様な看板を目にする事で自衛隊員の士気が下がらない事を祈る。

KIMG3712_convert_20180109172253.jpg
▲正月シーズンという事もあるが、この様に「日の丸」を掲げているお宅も沢山見た事もお伝えしておく。
      DSCN8625_convert_20180112000934.jpg
      ▲これは後にご紹介する加計呂麻島で見た募集広告。当然奄美の若者も勤務するはずだ。

▼気を取り直してAiAiひろばで開催された「紬コーディネート・コンテスト」を見学する。
DSCN8052_convert_20180109172520.jpg
有名な大島紬(つむぎ)は奄美大島の基幹産業で(と言っても年々需要は減るばかりだが)紬製造約1300年の歴史は古い。
一反(12m50cm)が織り上がるまで、半年から1年を要する着物愛好家なら誰もが憧れる日本を代表する絹織物だ。

DSCN8055_convert_20180109172544.jpg
▲2018年紬美人がステージに登場。一番左の方はイギリス人。オックスフォード大学の学生さんで泥染めや藍染めを
 勉強しに来ているそうだ。流石紬美人に選ばれた方達なので皆、美しい方ばかりだ・・・。

DSCN8049_convert_20180109212628.jpg
▲駐車場に戻る途中、懐かしい61クレスタを発見!塩害の多い島ではかなり程度が良い車に見えた。
DSCN8059_convert_20180109212254.jpg
▲宿泊は龍郷町のホテルカレッタ。屋外プールも備えた綺麗なホテルだった。
DSCN8071_convert_20180109212233.jpg
▲▼翌日、マングローブ原生林や綺麗な海を見ながら一路「西古見観測所跡公園」を目指す。
DSCN8073_convert_20180109213245.jpg
天気予報を覆しての晴れ間。いつも戦跡巡りでは天気予報を見事に裏切って晴れてくれる。本当に感謝だ・・・。
DSCN8079_convert_20180109213331.jpg
▲大島海峡を左に素晴らしい景色だった。
DSCN8092_convert_20180109214032.jpg
▲奄美市から島を南下し、西古見集落を目指してひたすら島を西へ進んで休憩。加計呂麻島と江仁屋離島が見える。
 大島海峡の入口にあたるこの海域は軍事的に重要視され、海の向こう(加計呂麻島の隣)右手の江仁屋離島には海軍の
 砲台が設置されていた。現在は無人島で、軍事遺構はかなり残っているが、水上タクシー等をチャーターしなければ
 個人的にはなかなか行く事は出来ない。

DSCN8101_convert_20180109214632.jpg
▲西古見集落を抜ける時に通った古い橋、気になって車を止めて見学。この辺りから道が狭くなっている。
DSCN8100_convert_20180109214843.jpg
▲昭和13年に作られた西古見橋が今でも現役だ!
DSCN8103_convert_20180109215038.jpg
▲西古見ナハンマ公園。トイレも完備された綺麗なビーチだった。
DSCN8126_convert_20180109215514.jpg
▲更に進んで行くと、人気の無い廃墟が現れた!どうやら当時の「奄美大島要塞」地区に入った様だ。
DSCN8122_convert_20180109215844.jpg
事前情報が少なく、此処も知らなかったが兵舎の様だ・・・早々に車を止めて見学体制に入る!!
DSCN8129_convert_20180109215904.jpg
当時の海軍兵舎跡だろう・・・大正10年9月に西古見第1砲台・西古見第2砲台着工の時に建設されたと思われる。
DSCN8119_convert_20180109220221.jpg
現在は地元の方が物置きとして利用しているのだろう。70年以上経っているがまだまだしっかり残っている。
DSCN8124_convert_20180109220657.jpg
▲▼頑丈なコンクリートの壁で仕切られた敷地内は恐らく高官の兵舎だったのだろう・・・中を覗いてみる。
DSCN8127_convert_20180109220905.jpg
屋根は朽ち果てて落ちている様だが遺構は残っていそうだ。
DSCN8132_convert_20180109221038.jpg
▼▲壁や基礎はしっかり残っていた。奄美大島の重砲兵第6連隊長 末松五郎大佐が居たのだろうか・・・。
DSCN8139_convert_20180109221138.jpg
▼トイレが残っている!
DSCN8134_convert_20180109221056.jpg

DSCN8135_convert_20180109221211.jpg
小便器も当時の物か!?
DSCN8136_convert_20180109221227.jpg
ここに駐屯していた海軍部隊は奄美大島要塞重砲兵連隊とある。昭和19年5月3日をもって重砲兵第6連隊に改称。
陸軍独立混成第64旅団に編合され、主力は引き続き奄美大島要塞の防備にあたる一方、1個中隊を徳之島陸軍飛行場へ。
1個小隊を喜界島海軍飛行場の防衛のために派遣したとある。兵舎があるという事は砲台は近いはず!
舗装された道とは別に、舗装されていない当時の軍道が更に奥へと進んでいるのでその方向へ進んでみる。

DSCN8218_convert_20180110000049.jpg
▲▼あった。砲台跡と弾薬庫が!大正時代に建設された物だが赤煉瓦では無い。砲台跡は大島海峡を向いている。
DSCN8219_convert_20180109235813.jpg
砲台跡と弾薬庫は2基確認出来た。明治時代は石積みや赤煉瓦造りが主流だが、大正時代はコンクリートか。
DSCN6353_-_コピー_convert_20180112225200
▲砲台完成当時はこの様な曲射砲が設置されていたのであろう(参考画像は28糎榴弾砲)
DSCN8209_convert_20180110011958.jpg
弾薬庫内部の保存状態は良好。
DSCN8215_convert_20180110012029.jpg
兵舎も弾薬庫も、何の案内板も無くひっそりと当時を伝えている・・・。
DSCN8213_convert_20180110012055.jpg
現在は誰の所有物なのだろう・・・強固な極上物件だ(笑)
DSCN8214_convert_20180110012133.jpg
▼弾薬庫の壁に刻まれた謎の数字・・・何の意味だろうか・・・?全く理解不能だ。
DSCN8231_convert_20180110012754.jpg
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教授下さい。
DSCN8232_convert_20180110012820.jpg

DSCN8233_convert_20180110012849.jpg
▼弾薬庫から更に奥地へ進んで行く。
DSCN8229_convert_20180110013309.jpg
すると、水源にしていたと思われる川を発見!
DSCN8228_convert_20180110013528.jpg
僅かではあるが遺構が残っていた・・・沈殿池跡との事(ビグロ様有難うございました)
DSCN8224_convert_20180110013756.jpg
飲めそうなぐらい綺麗な水だ・・・。
DSCN8225_convert_20180110013852.jpg
沈殿池跡を後にする。(沈殿池とは、水を清澄化する役目を果す池である)
DSCN8227_convert_20180110014022.jpg
▼時間も押していたので元来た道を戻り、最初の目的地である「西古見観測所跡公園」に向かう。
DSCN8222_convert_20180110014135.jpg
▼やっと「西古見観測所跡公園」に到着。
DSCN8143_convert_20180110141815.jpg
誰も居ない・・・。
DSCN8144_-_コピー_convert_20180110142256

DSCN8177_convert_20180110142502.jpg
▼▲車を駐車スペースに停めて早速見学。階段を登って進むと・・・おぉ~!これか。
DSCN8172_convert_20180120220441.jpg
しっかりとしたコンクリート造りの観測所だ。
DSCN8154_convert_20180110142409.jpg
当時はほぼ土と樹木に覆われてカムフラージュされていたであろう。
DSCN8175_convert_20180110143128.jpg
DSCN8179_convert_20180110172042.jpg
DSCN8176_convert_20180110172427.jpg
▼▲大島海峡の入口がしっかり見渡せる絶好の場所だ。
DSCN8188_convert_20180110143205.jpg
▼観測所は中に入る事が出来る。
DSCN8170_convert_20180110143608.jpg
早速中へ入って見る。当時ついていたであろう鉄扉は無い。
DSCN8169_convert_20180110143627.jpg
中は綺麗に清掃され、保存状態の良さが引き立つ。
DSCN8156_convert_20180110143707.jpg
この丸い台座の上に観測望遠鏡が置かれていたのだ。大正当時は輸入品だろうか。大きかったと思う・・・。
DSCN8167_convert_20180110143817.jpg
KANSOKU.jpgこんな感じの物だったのかな?
DSCN8163_convert_20180110143917.jpg
▼▲この空間から砲身の様な大きな双眼鏡で大島海峡に侵入する敵を監視していたんだろう・・・。
DSCN8164_convert_20180110143849.jpg
ここで得た情報を、さっき見学した砲台に伝える仕組みになっていた。
DSCN8158_convert_20180110143733.jpg
▲▼2階部分もある。当時は梯子があったと思うが、現在はちょっと見学は難しい・・・。
DSCN8168_convert_20180110150715.jpg
▼中から入口を見る。
DSCN8161_convert_20180110143750.jpg
最後に雄大な海と大島海峡を眺める。
DSCN8173_convert_20180110150954.jpg
この先もずっとこの遺構は大島海峡を見守っている事だろう・・・振り返って観測所を見て次へ移動する事にした。
DSCN8190_convert_20180110151203.jpg
▼観測所跡から更に進んで行くと、奄美大島の西の端。曽津高崎(そつこうざき)灯台がある。
DSCN8207_convert_20180111215140.jpg
曽津高崎灯台の案内標識がある場所からは、舗装されていない荒れた道が続くのでパンク等に注意が必要。
DSCN8194_convert_20180111214035.jpg
▼矢印の所が曽津高崎灯台。展望所からは、曽津高崎灯台まで連なる岬と東シナ海の水平線が見える。
DSCN8196_-_コピー_convert_20180111213825
この先も、舗装道路では無く、石がゴロゴロするかなり荒れた道路なので、スピードは控えめに。
この付近では野生のヤギの群が見れるそうだが出くわさなかった(増えすぎた野ヤギは排除に手を焼いているらしい)
しかし、灯台近くまで行ったものの、地元の方がいらっしゃって、「この先灯台へは行けない」と告げられた。
聞くと、去年の台風で道が崩落しているとの事。しかし、旧軍施設が残っているからと、案内してくれた!

DSCN8201_convert_20180111215915.jpg
▲どうやら、この崖の下に旧軍施設が残っているとの事。足を滑らせると海へ転げ落ちる可能性もある・・・!
DSCN8200_convert_20180111220211.jpg
▲因みに通行禁止となっている場所からの絶景。かなり高い位置だ。
DSCN8206_convert_20180111221617.jpg
▲黒矢印は歩いて来た方向。赤矢印は遺構が残る斜面の方向。慎重に斜面を下りると・・・。
DSCN8205_convert_20180111221952.jpg
▲あった!斜面のほんの少しの平地に建設されている!監視所跡だろうか・・・?
DSCN8204_convert_20180111222144.jpg
海の方向に窓が無いので、ただの倉庫かもしれない・・・台風対策で海の方向に窓が無いのか?
DSCN8203_convert_20180111222208.jpg
結局灯台を見学する事は出来なかったが、案内してくれた地元の方によると、現在の灯台は戦後作り直された灯台だそ
うで、現在の灯台建設の際、海からコンクリートなどの資材を運搬したとの事!
此処に灯台が建設されたのは日清戦争後の明治28年12月6日で、翌年の11月8日竣工されたとの事。建設は陸軍省で、
奄美大島で最初の灯台だったという。戦時中は陸海軍の砲台や弾薬庫、防備衛所、監視所が建設されたそうだ。
戦後は海上保安部が管理し、灯台職員が住み、子供達は歩いて西古見小学校に通っていたという。
奄美方言があまり無い方だったので、お話を更にお聞きすると、その地元の方は出稼ぎで尼崎の川崎重工に10年以上勤
めていたそうだ。どうりで少し関西混じりの話方だと思った~!そういえば兵庫県尼崎杭瀬(くいせ)地区は奄美・鹿児
島出身者が多い街で「リトル奄美」と呼ばれているのを思い出した。
 その方からは米軍統治下の沖縄・奄美群島とで使用されていたアメリカ軍の軍票「B円」のお話も伺った。
奄美群島本土復帰後、本土で日本円に換金してもらった時、2倍程度だった事をよく覚えているとも語っておられた。
敗戦直後本土地域でも、占領軍によってB円も日本円と同じく正式な通貨とされ支払が開始されたが、日本政府が占領
経費を日本円で支弁する事を交換条件として軍票支払の停止を要請し、占領軍に承認された為、出回った量は極少だ。
昭和23年7月15日をもって、本土ではB円は廃止されたが、ほとんど流通していなかった為混乱はなかった。
本土で回収されたB円紙幣は沖縄で使用された様だ。
地元の方にお礼を言ってその場を後にした。
▼今回見学した遺構は白矢印の所。他にも未開の旧軍施設の遺構が沢山残っていそうだ・・・見てみたい!

DSCN8195_convert_20180111225839.jpg
次に、久慈湾近くに残る、海軍艦船補給基地(給水施設)と第44震洋隊秘匿壕に行く予定だったが行けずじまい。
久慈湾が軍港だった戦時中は、軍艦や輸送船に給水する施設が建設され、大戦末期には第44震洋隊が配備された。

KUJIWANKOUGEKI19450301_convert_20180116221823.jpg
▲▼米空母ハンコック(CV-19)から出撃した米軍航空機によって撮影された久慈湾の日本軍艦船への爆撃の様子。
KUJIWANBAKUGEKI1945_convert_20180116221941.jpg
▼▲米軍の空爆を受ける久慈湾に停泊している日本軍艦船(昭和20年3月1日米軍機より撮影)
KUJIWANBAKUGEKI_convert_20180116222206.jpg
▲上記の3枚写真がそのものかどうかは不明だが、恐らく「大信丸」ではないかと思う。
「大信丸」は明治37年起工の大阪商船の貨物船で、大戦末期には当然軍に徴用されていた。
直前の航海としては昭和20年2月27日(カタ604船団)鹿児島港を出港、3月1日久慈湾に入港している。
沈没日時は昭和20年3月1日08:39奄美大島久慈湾内で米第58機動部隊艦載機による空爆を受け、右舷後部に直撃弾
2発を受けて沈没、と記録されている。
この時「大信丸」の所属はカタ604船団。大信丸には、海上挺身第30戦隊の特攻隊員達が乗船しており、宮古島へ向か
う途中であったが、沈没により16名の戦死者を出している。(海上挺身戦隊は陸軍の特攻ボート「マルレ」の部隊)
この沈没で積み荷であった海上挺身第30戦隊のマルレは全て喪失。生き残った隊員は広島県安芸郡江田島町の「幸の浦
基地」に戻る事となり、後に8月6日の原爆を経験、戦隊長 富田大尉の命令を受け、彼等は素晴らしい救援活動を行う。
広島の壊滅を知った第30戦隊長の富田稔大尉は、広島市民救援の為、偵察任務の「第一次救援隊」を編成。
これは第30戦隊の隊員10名と軍医で構成、大発で幸の浦から陸軍船舶司令部のある宇品に向かわせている。
隊員の多くは10代後半の少年兵で、危険を顧みず広島市内で勇敢に懸命に救助活動を行っている。
8月15日玉音放送を聞いた後、江田島(幸の浦)の海岸で、積み上げた自分達の特攻艇「マルレ」を焼き払い、少年兵の
戦争は終わった筈だった。が・・・原爆症が少年兵達を襲った。
原爆投下当日に広島市内に居た被爆者には「被爆手帳」が交付されたが、救援隊の少年兵の様に後日市内に入って被爆
した者への救済処置が戦後長らく無く、高額な治療費を全額自弁するほかは無かった。
「被爆者」へのいわれなき差別は、これこそ当日被爆者の方達と差別無く受けたという。当時の被爆に対する無知で、
本来称賛されるべき兵士達を「ピカの病人」と差別した同胞が多かったのも事実である。

DSCN8239_convert_20180110173018.jpg
奄美大島は1周460㌔もある大きな島。一言で観光と言っても、各所~各所を車で巡るには相当な時間がかかる。
鉄道は通って無く、高速道路も無い。時間も押していたのもあるが、国道沿いを、ただ通過しただけでは簡単に見つけ
る事は出来なかったが、「カンツメの碑」だけ立ち寄った。

DSCN8243_convert_20180110172821.jpg
先の大戦とは関係が無いが、宇検村名柄と瀬戸内町久慈を舞台とした悲しい伝説がある。
薩摩藩政下時代、名柄に裕福な豪農の家があった。そこには使用人(ヤンチュ)➡[ 借金返済の代わりに身売りした人 ]
と呼ばれる人々がおり、その中に「カンツメ」と言う名の従順で美しい娘がいた。
歳は19~20の頃。カンツメは、ヤンチュ仲間からはもちろん、屋敷の主人からも想いを寄せられていた。
 ある日、隣村の久慈の役所で筆子役として働いていた岩加郎という青年が、名柄の豪農であるその家を訪れた。
屋敷の主人は岩加郎をもてなす為にカンツメに引き合わせた。夜も更けるにつれ2人の呼吸は冴えるばかりで、カンツ
メは身分も忘れて一夜を過ごした。その後2人は愛し合うようになり、両村の間の山で人目を忍び密会を繰り返すが、
ほどなくして、2人の仲はカンツメの主人にばれてしまう。
かねてからカンツメに想いをかけ、その度に拒まれ続けていた主人は激怒し、ある晩夜露に濡れて帰ってきたカンツメ
をその場に引き倒し、焼火箸で彼女を折檻した。
見るも無惨な姿になってしまったカンツメは、その日も山での重労働に追われ、仕事が終わると仲間と別れ、1人で岩
加郎と忍び会った場所に走った。何も知らない岩加郎は、沈んだ表情のカンツメを迎え、いつものように楽しい一夜を
過ごした。やがて山鳥が朝を告げようとする頃、カンツメは「あかす夜は暮れて、わきゃ夜は明ける 果報節のあらば
また見逢いそ(冥界の夜は暮れて貴方の夜は明けます。よい時節が来ればまた会いましょう)」と歌って姿を消した。
我に返った岩太郎が目にしたのは、カンツメの変わり果てた姿であった。カンツメの霊は、その後多くの祟りを主家に
もたらし、名柄の豪農の家は衰え消え去った。厳しい労働に加えて、主人の嫉妬と暴力。
ささやかな恋の想いをとげられぬヤンチュの立場。恨みをのんで死を選ぶしかなかったカンツメの悲しい物語である。

DSCN8241_convert_20180110181711.jpg
碑文は以下の様に書かれている。
奄美は民謡の宝庫と言われ、先人から幾千首の民謡が唄い継がれ情緒豊かな旋律は、島の津々浦々に今なお聞く事が出
来ます。その数多い唄の中で、かんつめ節ほど島人に愛唄されているものはない。
この唄はその昔、この地方に主家で生涯を奴隷同様に働くヤンチュという制度があり、名柄集落のある農家で、ヤンチ
ュ娘(使用人)として仕える年の頃19~20歳、容姿端麗で気立ての優しいカンツメと、久慈集落の役所に勤める、歌と
三味線の巧みな青年岩加郎とはかない恋物語をうたった唄で、美貎で制度の中の弱き者がゆえに、周囲から妬みしいた
げられ一人寂しく散った乙女心をしのび、いつしか誰とはなしに人々にうたいい継がれてきた唄です。
島唄は奄美の自然を歴史に密着し、民族文化の基盤として島人の生活と共に生き続けてきたのです。
この様な祖先の貴産を風化させることなく未来に伝えていく事は大事な事であります。
ここに有志の方々の心暖まる援助をいただき「かんつめ節」の碑を建立するにあたり、かんつめの魂に永遠の冥福を祈
り、ふくつの名作を記念するものであります。  昭和59年3月20日建立

DSCN8247_convert_20180110222048.jpg
▲先を急ぎ、宇検村に入る。
DSCN8251_convert_20180110191214.jpg
▲次に立ち寄ったのが厳島神社。え?厳島神社って広島(宮島)の・・・?と思ったが平家は源氏に滅ぼされて・・・。
ここで明治・大正・昭和からもっと昔(得意分野では無いが)の時代を少し勉強する事になった。
奄美大島は元は琉球王国の一部だった。なので文化や方言なども沖縄の色が濃かった様だ。しかし壇ノ浦の戦いで源氏
に敗れ、落ち延びてきた平家の落人(おちゅうど)らによって、日本本土の文化が伝えられ、島には幾つかの城砦が築か
れたと言う。喜界島には追って来る源氏を警戒する為の城跡となる平家森も残っていると言う。そして平資盛、平有盛、
平行盛の三将平家が約50日間掛けて、奄美を平定したと伝えられている。
平有盛の家臣は龍郷町今井崎に、見張り用の砦を築き、源氏が来襲するのを警戒したと伝えられている。
(龍郷町は西郷隆盛が幕末に奄美大島で生活した際に、建てた新居がある場所)
平行盛は奄美の人々に農業(稲作)を教えたり、漁法や学問を教えたと伝わる。龍郷付近には「平家漁法」と伝わる遺構
が、海に残っているとの事だ。奄美大島は琉球文化と平安文化(大和文化)が融合した島という事だ。
なので、厳島神社が奄美大島にあっても不思議では無いという事が解った。勉強になりました(感謝)
因みに奄美大島には此処も含めて20ヵ所程の厳島神社(分社)があるとの事。確かに車から神社は沢山見た様に思う。

DSCN8252_convert_20180110191251.jpg
▲黒兎のイラストが可愛い看板。
DSCN8253_convert_20180110194252.jpg
▲右手がサクラツツジ。花の色が桜色であることからサクラツツジと呼ばれるそうだ。綺麗な花を咲かせる事だろう。
DSCN8254_convert_20180110191316.jpg
▲かなり古そうな寄進塔がある。これが村指定文化財か・・・1702年!300年前の物だ・・・。
DSCN8250_-_コピー_convert_20180110195017
▼移動中、牧場をみかけた。
DSCN8262_convert_20180121190554.jpg
奄美の肥育素牛(そぎゅう)としての能力は、非常に高いレベルで安定しているとの事。
DSCN8263_convert_20180121190630.jpg
奄美群島は鹿児島県内有数の子牛生産地帯としての地位を確立している。
DSCN8265_convert_20180121190716.jpg
▼大島群宇検村を抜けて一気に島を北上、今里漁港「立神」と東シナ海が見えた。海の向こうは中国(杭州)辺りかな?
DSCN8269_convert_20180110214130.jpg
▼宇検村の綺麗なビーチ。透き通る様な綺麗な海は絶景だった。
DSCN8274_convert_20180110225548.jpg
▼大島郡大和村戸円を通過。
DSCN8288_convert_20180110235644.jpg
▼戸円海岸は奄美有数のサーフィンスポットだ。
DSCN8281_convert_20180110235727.jpg
▼大島郡大和村大金久嶺山の「嶺山公園」を通過、予定には無かったが何か少し気になったので寄ってみた。
DSCN8291_convert_20180111110350.jpg
奄美大島の高台は全て綺麗に整備され、ほとんどがトイレ完備で非常に安心感が高い。
DSCN8292_convert_20180111110432.jpg
階段を登っていくと東シナ海の絶景が・・・。
DSCN8294_convert_20180111110512.jpg
展望台の直ぐ横に石碑があった。「祈 平和」・・・この場所は何か歴史・戦史に関係がありそうだ。
DSCN8295_convert_20180111110545.jpg
石碑の裏を見ると、成程平家の落人らが監視していた場所なんだ・・・。
DSCN8304_-_コピー_convert_20180111112001
明治時代から島の人は本土に出稼ぎに行き、残った家族は此処で無事を祈願したんだ・・・。
戦時中は出征将兵達の武運長久を祈願したとある・・・聖地なんだな・・・。来て良かった。

DSCN8301_convert_20180111112550.jpg
▲この東シナ海のはるか向こうの中国大陸へ出兵した奄美出身の兵士も沢山居ただろうな・・・。
DSCN8296_convert_20180111113145.jpg
▲▼展望台には立派な銅製の地図が置かれていた。☆(赤)印が現在地だ。
DSCN8298_convert_20180111113341.jpg
▼展望台から島側を眺める、南国の山が連なっている。
DSCN8302_convert_20180201164843.jpg
▼別の場所にあった案内板。石碑と同じ様な事が書かれているが「大東亜戦争」と書かれている事が意味深い。
DSCN8308_convert_20180111113820.jpg
▼大和村国直への移動の途中、忠魂碑が見えたので立ち寄った。
DSCN8315_convert_20180111135459.jpg
石碑の裏には大東亜戦争で戦死された大和村大金久(オオカネク)出身者のお名前が刻まれていた。
DSCN8311_convert_20180111135702.jpg
DSCN8312_convert_20180111135725.jpg
大東亜戦争大金久出身者戦没者として14名のお階級・名前・戦死年月日・戦没地が刻まれている。
一番上の方は陸軍上等兵で昭和13年10月に中支(中国)で戦死したとあり、南太平洋、ブーゲンビル島、五島列島、ビ
ルマ、硫黄島、比島(フィリピン)そして最後から2番目の方は、昭和20年8月満州とある。陸軍と書いてあるから関東
軍だったのだろう・・・そして最後の方は、海軍兵長で昭和27年5月朝鮮と書いてある。
昭和20年に敗戦で何故?しかも朝鮮で・・・シベリア抑留から帰還途中に力尽きたという事か?無念だったであろう。
翌年の昭和28年12月25日が奄美群島本土復帰だった・・・さぞかし故郷に帰りたかったであろう、悲しい歴史だ。

DSCN8327_convert_20180111200507.jpg
大島群大和村国直に到着。この先は奄美市だ。
DSCN83212_convert_20180111200952.jpg
DSCN8326_convert_20180111200548.jpg
▼古仁屋には海軍基地があった。その遺構と思われる建物が加計呂麻島行きのフェリー乗り場近くに残っている。
DSCN8645_convert_20180112001655.jpg
▼古仁屋港周辺(昭和20年3月27日米軍撮影)
KONIYA1945.jpg
古仁屋港は海軍の対潜哨戒用・船団護衛及び索敵を行うた為の水上機基地で、米軍が沖縄本島に上陸を開始した昭和20
年4月1日以降、古仁屋基地を中継基地として合計75機(内「瑞雲」62機)が沖縄爆撃に出撃している。
沖縄戦に参加した「瑞雲隊」は2隊である。
1つは「第634海軍航空隊」偵察第301飛行隊(台湾の淡水から飛来し、古仁屋で補給を受け、沖縄戦に参加)
もう1つは「第801海軍航空隊」偵察第302飛行隊(福岡県の玄海や博多、鹿児島県指宿から飛来し沖縄戦に参加)
「瑞雲」は航続距離が燃料満載時でも520カイリにすぎない為、九州~沖縄間、台湾~沖縄間の約350カイリの往復は
不可能であった。その為、両隊とも奄美大島の古仁屋を中継基地として使用する事となったのである。
偵察第301飛行隊の場合は(台湾)淡水基地から発進、沖縄周辺の米艦隊を攻撃して古仁屋に着水、補給後再び攻撃に向
かい淡水に帰投するというものであった。
一方の偵察第302飛行隊は九州の博多や指宿を出撃して古仁屋で燃弾補給し、敵輸送船・上陸用舟艇・艦艇・航空母艦
を攻撃するものであった。古仁屋に常駐していた隊も居たという。詳しくは「水上機神風特別攻撃隊」参照。
古仁屋の海軍基地には、九州から特攻出撃し、機体トラブルや空戦で傷を負い、徳之島や喜界島に不時着した陸海軍の
特攻隊員が数多く古仁屋から九州へ海軍の水偵に乗って帰還している。

DSCN8648_convert_20180112001744.jpg
▲▼古仁屋(こにや)港に残る旧海軍施設と思われる遺構。案内板などは全く無いので詳しい事は解らない・・・。
DSCN8653_convert_20180112005628.jpg
海軍の燃料貯蔵庫か弾薬庫か、指揮所か・・・それとも大正12年竣工の大島要塞司令部関連の建物跡か?
瀬戸内町須手に地下壕などが残っていると聞いたが場所も解らず、今回は見学出来なかった・・・。

DSCN8654_convert_20180112005700.jpg
▲少し埋まっている様にも見える・・・古仁屋も米軍の激しい空襲を受けている。夜間空襲も激しく連日連夜に及んだ。
DSCN8655_convert_20180112005728.jpg
   ▼米軍の空襲を受け炎上する古仁屋港周辺(昭和20年3月26日米軍撮影)
   AmamiOshimaIsland19450326.jpg
▼海軍水上偵察機 「瑞雲」(福岡県の玄海基地で撮影)
genkaikitizaiun_convert_20180112101723.jpg
▼2017年6月『艦隊これくしょん』と富士急ハイランドのコラボイベント「瑞雲祭り」で展示された瑞雲1/1模型
1515718825621_convert_20180112102420.jpg
古仁屋は軍と深い関わりのある瀬戸内町らしく、立派な慰霊塔や慰霊碑が綺麗に管理されている事でも有名だ。
今回は行けなかったが「富山丸慰霊塔」には行きたかった。充実した戦跡関連の案内パンフレットがあれば・・・。

toyamamaru.jpg
▲約3700人の軍関係者や民間人を乗せ鹿児島から沖縄へ向け航行中であった徴用船「富山丸」。
昭和19年6月27日「富山丸」を含めた12隻の船舶は「カタ412船団」を構成し、鹿児島湾を出港。
翌28日貨客船「履門丸」と「開城丸」は名瀬港に寄港し、「富山丸」を含めた他の船舶は17時に古仁屋に入港した。
翌朝、船団は名瀬と古仁屋からそれぞれ出港して那覇に向かう。
その頃、米軍の潜水艦スタージョン(USS Sturgeon, SS-187) が徳之島の東で浮上哨戒を行っており、04:33に
潜航哨戒を開始、05:29カタ412船団は針路220度で航行中と判断され、スタージョンは「富山丸」に照準を定める。
7時25分、スタージョンは艦首発射管から「富山丸」に向けて魚雷を4本発射、4本の内3本が「富山丸」の左舷船首と
二番船倉及び四番船倉と機関室の中間部に命中。
左舷船首と二番船倉に命中した魚雷の衝撃でガソリンが船内及び海上で発火して炎上する。
止めを刺したのは四番船倉と機関室の中間部に命中した魚雷で、「富山丸」は船体を二つに折って北緯27度43分東経
129度06分の徳之島南東12キロの地点で轟沈した。
轟沈と海上に流出して引火したガソリンの為、将兵4600名が脱出する余裕はほとんどなかった。
独混第44旅団をはじめとして、沖縄の現地部隊を統括する第32軍は大本営より飛行場の急速造成を指令されていたが、
本船の沈没によって旅団の生き残りは約700名その内活動出来る者約500名となり、トラック等も失われ、沖縄第32
軍が担当した飛行場建設(陸軍北飛行場と中飛行場)遅延原因の一つとなっている。
この沈没で、旅団将兵や船員、船砲隊員の合わせて約3700名が戦死。一隻の船による死亡者数としてはタイタニック
号や、翌年の戦艦「大和」の沈没よりも多く、当時としては第一級の惨事であったが、多くの船舶の沈没の実態と同様、
大本営により秘匿された。
情報を聞きつけ、ここ古仁屋からも漁船等で徳之島沖まで救助に向かい、当時古仁屋に陸軍病院があった事もあり、多
くの火傷を負った傷者が運び込まれた。古仁屋で亡くなられた方も大勢いたという。
昭和39年6月29日には徳之島亀徳に慰霊塔が建立され、昭和60年6月30日には古仁屋に供養塔が建立され、毎年遺族
等による供養祭が開催されている。

奄美大島の北部方面には有名はビーチが集中している。その中で土盛海岸に立ち寄った。

DSCN8680_convert_20180112111251.jpg
▼天気が悪かったのでさえない空の色だが、土盛海岸は綺麗なビーチだった。
DSCN8681_convert_20180112111427.jpg
▼冬季なので当然泳いでいる人はいないが、この注意看板は必ず確認してビーチに行った方が良いだろう。
DSCN8683_convert_20180112111632.jpg
▼奄美大島で多くの海岸を見たが、ほとんどのビーチにこの様な警告看板がある。
DSCN8704_convert_20180112111902.jpg
▼▲必ずルールを守って海を楽しみたい。大人がルールを守らないと子供達も守らなくなってしまうからね!
DSCN8703_convert_20180112112646.jpg
「るりかけす運動」って初めて聞いたな~。
DSCN8712_convert_20180112114643.jpg
▲あやまる岬にも寄ってみた。
DSCN8710_convert_20180112114902.jpg
▼展望台からは太平洋が一望出来た。眼下に見える公園は「あやまる岬観光公園」だ。
DSCN8715_convert_20180112115404.jpg
▼「あやまる岬観光公園」に下りてみた。赤矢印の所が、先程見下ろしていた展望台だ。
DSCN8726_convert_20180112115907.jpg
▼海水プールもある様だ。
DSCN8731_convert_20180112141801.jpg
▼海水プール。海水浴シーズンはいいだろうな。
DSCN8728_convert_20180112142025.jpg
▼因みにこの地図は龍郷町までの奄美大島北部だけの地図。現在地は赤☆の場所。黒☆は奄美空港。
DSCN8798_-_コピー_convert_20180112143037
▼「あやまるソテツジャングル」ジャングルの中に見学コースがあって「あやまる岬観光公園」は楽しめる場所が多い。
DSCN8755_convert_20180112143732.jpg
DSCN8758_convert_20180112144032.jpg
敗戦後、米軍米軍施政下に置かれた奄美群島では深刻な食糧難が発生。ソテツの身からでんぷんを取ったナリガユ(ソ
テツ粥)はどんなにお金を持っている人であっても、当時食べた事が無い人はいなかったという。

▼この日1月8日は成人の日。「笠利町民族博物館」が無料との事で立ち寄った。
DSCN8801_convert_20180112143338.jpg
それほど大きくない展示室が2つ。ギッシリ奄美の歴史が展示されていた。
DSCN8762_convert_20180112154454.jpg
DSCN8797_convert_20180112154834.jpg
その中で気になった展示物をいくつかご紹介する。
DSCN8763_convert_20180112155105.jpg
▲左側の展示ケースの中は、戦時中の軍服??と、ゼロ戦のプロペラ?の残骸だ。
DSCN8777_convert_20180112155835.jpg
▲説明文によると「昭和19年頃、あやまる岬近海にて空中戦で戦った帝国海軍ゼロ戦の残骸。今でも残骸が水深20m
 の所で眠っている。」とある。昭和19年には既に奄美大島上空でも激しい空中戦があったんだ・・・。

DSCN8764_convert_20180112160421.jpg
▲米軍の100ポンド普通爆弾。説明文では「第二次世界大戦で米軍はこの種の爆弾を奄美各地に投下した。その数は
 あまりにも多く、現在開発工事中に不発弾がこの様に発見されるケースは多い。」とある。

DSCN8780_convert_20180112161159.jpg
▲千人針だ・・・ベースは大きな腹まきだろうか・・・。
DSCN8767_convert_20180112161434.jpg
▲昭和28年12月25日の産業経済新聞。奄美群島本土復帰の新聞記事だ!
DSCN8796_convert_20180112162147.jpg
DSCN8787_convert_20180112162553.jpg
DSCN8794_convert_20180112162709.jpg
▲どういう経緯でお亡くなりになったのかは解らないが、生涯を終えるには若い・・・若すぎる・・・合掌。
DSCN8808_convert_20180112192116.jpg
▲▼最後は奄美大島の最北端、笠利崎灯台。晴れていれば太平洋の向こうに喜界島が見えたのだが・・・。
DSCN8806_convert_20180112192532.jpg
この地方で昔から伝わる竜宮伝説のモニュメント「夢をかなえるかめさん」を見て奄美大島巡りを終えた。
事前情報も少なく、全て見学出来た訳では無い。皆津崎第1/第2砲台も行けなかったし、久慈の海軍艦船補給基地(給
水施設)と第44震洋隊秘匿壕も行けなかった。観光案内にも記載されておらず、奄美大島の戦跡は意外と知られていな
いのが現状の様だ。しがし大島海峡沿岸は日露戦争直後から、国土防衛の要として重要視され、早くから軍事施設が次
々と建設された。以下は奄美大島・加計呂麻島の主な軍事施設構築の記録と奄美群島/日本国の主な出来事である。
(※印は内戦・大戦名)
15世紀頃 琉球王国に相次いで支配される。
1185年平安時代末期(寿永4年)※壇ノ浦の戦い
1609年江戸時代初期(慶長14年)薩摩藩が奄美群島・琉球に侵攻
1614年(慶長19年)※大阪冬の陣
1615年(元和元年)※大阪夏の陣
1637年(寛永14年)※島原の乱
1702年(元禄15年)赤穂浪士討ち入り
1707年(宝永4年)富士山噴火
1803年(享和3年)江戸開府200年
1853年(嘉永6年)黒船来航
1860年(万延元年)桜田門外の変
1863年(文久3年)※薩英戦争
1867年(慶応3年)大政奉還
1868年(明治元年)※鳥羽・伏見の戦い
1873年(明治6年)徴兵制布告
1877年(明治10年)※西南戦争
1879年(明治12年)奄美が鹿児島県大島郡となる。
1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布
1894年(明治27年)※日清戦争
1904年(明治37年)※日露戦争
1908年(明治41年) 大島海峡で海軍が大演習を実施
1910年(明治43年)韓国併合
1920年(大正9年) 陸軍築城部支部が古仁屋に開設し要塞の構築を開始
1921年(大正10年) 加計呂麻島➡安脚場砲台、実久砲台、江仁屋離島砲台
奄美大島➡皆津崎第1砲台、皆津崎第2砲台、西古見第1砲台、西古見第2砲台、手安の弾薬庫造成工事(昭和2年完成)
1923年(大正12年) 奄美大島➡古仁屋に大島要塞司令部構築(現・鹿児島県立古仁屋高等学校)
同年(※関東大震災)
大まかに奄美大島(本島)は陸軍、加計呂麻島は海軍であった。
1931年(昭和6年)※満州事変
1937年(昭和12年)※日中戦争
1940年(昭和15年) 加計呂麻島➡安脚場に海軍防備衛所を追加構築
1941年(昭和16年)※大東亜戦争[ 太平洋戦争 ]
1941年(昭和16年) 加計呂麻島➡瀬相に海軍大島防備隊3000~3600名を配備。
1941年(昭和16年) 加計呂麻島➡瀬相に海軍病院・艦船給水ダム・高角砲台・防備衛所・兵舎など構築。
1942年(昭和17年)?月 加計呂麻島➡江仁屋離島に高角砲台・高射砲陣地増築。
1944年(昭和19年)5月 徳之島/喜界島の飛行場防衛の為、古仁屋の大島要塞司令部が閉庁
1944年(昭和19年)6月 徳之島南東12キロの地点で「富山丸」が米潜水艦の魚雷攻撃で轟沈。
1944年(昭和19年)8月 加計呂麻島➡(渡連)海軍待網崎高角砲台着工
1944年(昭和19年)10月 南西諸島に初空襲 那覇を壊滅させた10・10空襲は奄美群島にも及んだ。
1944年(昭和19年)?月 加計呂麻島➡(須子茂)海軍モン崎平射砲台・探照灯台・迎撃陣地構築。
1944年(昭和19年)11月 加計呂麻島➡(呑之浦・三浦)海軍第17/18震洋艇特攻基地着工。
1945年(昭和20年)3月 空襲により古仁屋の街がほぼ焼失
1945年(昭和20年)4月 空襲により名瀬(奄美市の中心部)の街がほぼ焼失。
奄美群島で終戦までに空襲で亡くなった人(461名)負傷者(299名)
1945年(昭和20年)8月15日 敗戦
1945年(昭和20年)9月 武装解除

KOUFUKUTYOUIN_convert_20180116223640.jpg
▲昭和20年9月7日沖縄本島(嘉手納基地)にて行われた琉球列島の降伏調印式で第2調印者として降伏文書にサインする
 奄美群島守備隊司令官 高田利貞 陸軍少将。米軍側は第10軍司令官スティルウェル大将。
(沖縄市森根地区にあたるこの場所には現在、記念碑が建てられているが、米軍嘉手納基地内で立ち入る事は出来ない)

NANSEISYOTOUKOUFUKUBUNSYO.jpg
第10軍司令部 1945年9月7日
降 伏
下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、
ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。

北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より
北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より
北緯30度東経131度30分より頭書の地点

納見敏郎中将
先島群島日本軍司令官

高田利貞少将
奄美群島日本陸軍司令官

加藤唯雄海軍少将
奄美群島日本海軍司令官

J.W.スティルウェル 米国陸軍大将

宮古島からは第28師団長の納見敏郎中将、奄美大島から高田利貞陸軍少将、加藤唯男海軍少将らが降伏調印式に召還さ
れ、「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」を申し入れ、6通の降伏文書に署名して正式に降伏した。
9月21日アメリカ第10軍カンドン大佐が奄美守備隊の武装解除の為に命令文書を携え徳之島に来島した。
命令書には 「北部琉球の兵器を渡せ」と書いてあったが、高田少将は「ここは奄美群島であって、北部琉球ではない」
として「北部琉球」を「奄美群島」と書き換えさせたという。
昭和20年12月加計呂麻島の(瀬相)海軍防備隊司令部で行われた復員完了の証明書も「北部琉球」となっていた証明書
を「奄美群島」と改めさせている。
高田少将は終戦直後の9月3日、沖縄のアメリカ第10軍司令官ジョセフW・スチルウェル大将宛に手紙を書いている。
手紙には 「希わくは奄美群島を第2のアルサス・ローレンたらしむる、ねが勿れ」と書かれていた。
「行政権を奪い、占領状態を長く続け、民心を失うようなことをしてはいけない」という忠告の内容だった。
高田利貞少将は奄美群島本土復帰後の昭和31年に『運命の島々・奄美と沖縄』という著書を出版している。
高田利貞少将の忠告も空しく、敗戦後奄美群島の人達は苦難の道を歩む事になる。
昭和21年1月29日米軍(アメリカ合衆国)は沖縄周辺の支配権を確立する為、北緯30度(トカラ列島)以南を日本から分
離、米軍統治下に置くと鹿児島県大島支庁に通告した。
通告が奄美群島の島民約20万人にラジオで伝えられたのは2月2日。
既に米軍に占領されていた沖縄と違い、後に「2・2宣言」と言われたこの通告は寝耳に水だった。
日本復帰まで7年10ヵ月に及ぶ苦難の時代「アメリカ世(ゆ)」の始まりでもあった。

195011OSHIMA_ISLAND_convert_20161013121216.jpg
▲昭和25年11月米軍施政下による奄美群島政府発足(奄美大島で撮影)
米など食料の大部分を本土に頼っていた奄美群島の人達は、米軍が海上を封鎖して本土との往来を禁止した事でたちま
ち困窮し、米軍から見て軍事的価値が無い事から、物資や資金が沖縄に集中し、奄美群島は取り残された状態になった
疎開先から引き揚げによる人口増加も加わり、奄美群島の人々は食糧不足で飢餓の寸前にまで追い込まれ、米軍に拿捕
される危険を冒して黒砂糖と食糧などを交換する「密航」(鹿児島県下の離島へ4日かけて行く)でなんとか生き抜いた。
奄美大島の密航出発地点は名瀬港に程近い「水浜」であった。
ここから闇夜に紛れて目指すのは、当時国境の島となる約200キロ離れた鹿児島県の口之島(くちのしま)。

hokui30dosenkagoshima_convert_20180121150429.png
▲実際、口之島にたどり着くまでに250隻以上の「密航船」が米軍に拿捕されている。
一方で、新たな文化に触れさせたのも米軍政の一側面だった。軍政府が奨励したボクシングに熱中し「奄美バンタム級
チャンピオン」にもなった島民も居たほどだ。
米軍政府に楯突(たてつ)く者には厳しい態度だが「スポーツや文化の面ではフェアに評価する」と島民は感じていた。
しかし、食べるもの着るものにも困り、島民の我慢は限界に達していた。
昭和26年には日本復帰運動が本格化し、8月に始まった「復帰を願う断食」には多くの島民が参加した。
この時集まった「日本復帰の署名」は約14万人。当時、14歳以上の住民の99.8%が署名したと言われている。
復帰を果たした昭和28年12月25日奄美の全ての人がちょうちん行列や万歳で祝った。
実際訪れて車で走ると良く解るが、道路整備など、本当に各所綺麗に整備されている。
次に紹介する加計呂麻島は、現在人口減少が激しく、今は1300人程度だ。しかし道路はきちんと整備され、2008年
4月に完成したまだ新しい立派なトンネルがあった(ほとんど車は行き交わない)
奄美群島には2013年度までの60年間に2兆3000億円の国費が投入され、社会資本は格段に整備された。
いわゆるよく聞く「沖縄振興予算」と言われる国費は、鹿児島県にも投入されていて、鹿児島県の離島である奄美群島
他のインフ整備?に使われている。(他に島を活性化させるお金の使い道は無いのだろうか・・・)

AmamiMAP_-_コピー_convert_20180114001409
▲おおまかに今回巡った奄美大島の戦跡や展望台は地図の赤印の部分。まだまだほんの一部。奄美大島は大きい!


次回「加計呂麻島」へ続きます。
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2018_01_10


終戦(敗戦)直後から昭和21,2年辺りまでの写真はモノクロ写真が多い。暗い戦争のイメージは、モノクロ写真が更に
暗さを倍増させる。「青空など無かったのではないか?」と錯覚してしまう程だ。ここに紹介する進駐軍が撮影した
写真は全てカラー写真。カラー写真は全てGHQ職員だったロバート・V・モージャー氏が、昭和21年~22年にかけて
撮影した写真だ。終戦直後の東京・名古屋・大阪・広島の風景が良く解る。
個別に全ての場所が特定出来れば、是非、現在の同じ場所に行ってみたいものだ。
23737734_300764380419709_8171845295513302737_o_convert_20171119143040.jpg
東京大空襲後の現在の墨田区両国付近、右手の川は隅田川。モノクロだとやはり限界がある。
syusentyokugotokyo1_convert_20171119145508.png
▲▼ここからはカラー写真。敗戦直後進駐軍管理下の日本をまずは皇居の桜田巽櫓から。
syusengotokyo18_convert_20171119150116.png
▲皇居外苑坂下門付近の警備兵(イギリス連邦軍インド兵)終戦直後はインドはまだイギリスの植民地だった。
syusengotokyo17_convert_20171119150159.png
▲▼北桔梗門前蛤濠の警備兵(米軍第1騎兵師団とイギリス連邦軍インド兵)
syusenkoukyo_convert_20171121192255.png

syusenkokyorobert_convert_20171120235214.png
▲ロバート・V・モージャー氏(Robert V. Mosier)
GHQの文民スタッフ(civilian secretarial staff)として昭和21年4月~翌年1月に日本に滞在した際、東京、名古屋、
大阪、広島等の全国各地で撮影したカラー写真を、2008年米国在住のモージャー氏の親族からカラースライド(304枚)
が寄贈された物。
syusengotokyo16_convert_20171119150735.png
▼国会議事堂が見え、夏空が広がっている。
syusengotokyo19_convert_20171119150847.png
▼国会議事堂前の道に駐車する多くのバス・・・進駐軍の車両だろうか・・・。
syusentyokugotokyo_convert_20171119151134.png
▼皇居周辺の写真。この辺りは東京に住んでいなくてもだいたい何処だか解る。
syusengotokyo10_convert_20171119163958.png

syusengotokyo_convert_20171119152129.png

syusengotokyo1_convert_20171119152214.png
▼昭和13年竣工の第一生命ビル(戦時中は東部軍管区司令部)を接収。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)となる
syusengotokyo5_convert_20171119152050.png

syusengotokyo7_convert_20171119153320.png

syusengotokyo4_convert_20171119153402.png
▲この車はなんていう車だろう・・・スチュードベーカー・コマンダーかな?
syusengotokyo8_convert_20171119153439.png

syusengotokyo9_convert_20171119164406.png
▲皇居外苑の楠木正成像。今もあるのかな?
syusengotokyo11_convert_20171119164457.png
▼▲アメリカ極東空軍司令部として接収された明治生命館
syusengotokyo12_convert_20171119164556.png

syusengotokyo13_convert_20171119164640.png
▲東京銀行集会所。大連で同じ様な建物を見た事がある・・・。
syusengotokyo14_convert_20171119164719.png
▼岸本ビル/内外ビル/日本郵船ビル/東京海上ビル。石炭暖房器具を使っているのだろう、煙突から黒煙が出ている。
syusengotokyo20_convert_20171119155121.png
▼「日比谷帝國生命館」と書いてある。
syusengotokyo21_convert_20171119155203.png
▼これは帝国ホテルかな。愛知県のテーマパーク「明治村」で見た事がある。
syusengotokyoteikokuhoteru_convert_20171119155307.png
▼これは空襲で被害を受けた修復中の東京駅だろう。
syusengodoko72_convert_20171119154621.png
▼空襲で焼けた建物。これは大本営陸軍部か!?
syusengodoko70_convert_20171119160137.png
▼東京宝塚劇場。ERNIE PYLEって書いてある。「沖縄戦」の伊江島で戦死した米軍従軍記者の事か?
syusengodoko71_convert_20171119162507.png
▼松屋銀座前。当時はPX(進駐軍の売店)として接収されていたそうだ。
syusengotokyo15_convert_20171119164806.png
▼CITY HALLと書かれた建物は元何だったんだろう・・・東京都庁舎かな?
syusengodoko55_convert_20171119170511.png

syusengotokyo3_convert_20171119170546.png
▼▲これらは何処の何なのかは解らない・・・。
syusengodoko56_convert_20171119170631.png
▼横浜駅
syusengoyokohama_convert_20171119172121.png
▼これは横浜港だろう。
syusengoyokohama1_convert_20171119172326.png
▼鎌倉の大仏かと思ったら、愛知県東海市の聚楽園大仏だという事だ。
syusenkamakura_convert_20171119200844.png
▼聚楽園弘法大師像と米軍軍人
syusenaitci_convert_20171121180539.png
▼いつの時代も富士山は美しい・・・。
syusengofuji_convert_20171119173651.png
▼山中湖かな?昭和の日本だ・・・何か美しい。
syusengofuji2_convert_20171119200620.png

syusengofuji3_convert_20171119201729.png
▼▲山中湖周辺で進駐軍が接収したホテルだろうか・・・今も残っているのかな?
syusengodoko68_convert_20171119201655.png
テニスコートが写っている。何処だろう・・・。
syusengofuji1_convert_20171119202027.png

syusendoko_convert_20171121203114.png
▲ 愛知県名古屋市中区の路面電車が走る大津通。
syusendoko1_convert_20171121203517.png
▲遠望に名古屋日本徴兵館を望む。愛知県名古屋市
syusendoko29_convert_20171121232548.png
▲愛知県名古屋市中区の松重閘門(まつしげこうもん)
syusendoko2_convert_20171121203944.png
▲名古屋駅が見える。
syusendoko26_convert_20171121231408.png
▲遠望に名古屋日本徴兵館を望む。
syusendoko4_convert_20171121204608.png
▲▼一応余所行きの着物だろうけど、何か着物姿の普通の日本女性っていいな~って思えてくる写真。
syusendoko5_convert_20171121204837.png
▼名古屋城表二之門と東南隅櫓(辰巳櫓)。
syusennagoya_convert_20171119202459.png
▼現在の名古屋城表二之門と東南隅櫓(辰巳櫓)。(2018年7月22日訪問)
DSCN7401_convert_20180724161024.jpg
▼名古屋城表二之門
syusennagoyajyo1_convert_20171121214633.png
▼現在の名古屋城表二之門(2018年7月22日訪問)
DSCN7406_convert_20180724160653.jpg
▼名古屋城東南隅櫓(辰巳櫓)
syusendoko10_convert_20171119203329.png
▼現在の名古屋城東南隅櫓(辰巳櫓)(2018年7月22日訪問)
DSCN7409_convert_20180724160725.jpg
▼昭和20年5月14日未明の名古屋大空襲で全焼した天守閣は石垣だけが残っている・・・。
syusennagoyajyo_convert_20171119203003.png
▼奇跡的に残った西南隅櫓(未申櫓)
syusendoko11_convert_20171119203235.png
▼現在の名古屋城西南隅櫓(未申櫓)(2018年7月22日訪問)
DSCN7396_convert_20180724160818.jpg
▼焼失前の名古屋城
nagoyajyo.jpg
名古屋は工業都市で、三菱重工業名古屋発動機、同名古屋航空機、愛知航空機、愛知時計電機、陸軍造兵廠、住友
金属工業、大同製鋼、神戸製鋼、日本車輌製造、名古屋造船、岡本工業、大隈鉄工等、多くの工場が立地していた為、
米軍の日本本土空襲の第一目標だった。名古屋は航空機産業のメッカであり、とりわけ航空機生産の最大拠点である
三菱重工業名古屋発動機は、東京の中島飛行機武蔵野工場と共に、米軍の日本本土初空襲初空襲(ドゥリットル空襲)
の最初の目標でもあった。
syusengodoko19_convert_20171119205525.png
空襲で無残に崩壊した三菱重工業名古屋航空機製作所
syusengodoko26_convert_20171119205651.png
一〇式艦戦、零戦、一〇〇式司偵などの戦闘機やエンジンの製造を行っていた。
syusengodoko27_convert_20171119205809.png

syusenngodoko1_convert_20171119210606.png

syusengodoko25_convert_20171119205728.png

syusengodoko29_convert_20171119210950.png
▲陸海軍の飛行場跡か・・・凄い数の航空機の残骸・・・。
syusengodoko30_convert_20171119211032.png
▲▼綺麗な残骸だ・・・一式陸攻か?・・・塗装前に日の丸は入ってるんだ・・・。
syusengodoko31_convert_20171119211105.png

syusengodoko54_convert_20171119212813.png

syusengodoko41_convert_20171119212719.png

syusengodoko28_convert_20171119212632.png

syusengodoko24_convert_20171119213622.png

syusengodoko67_convert_20171119233451.png
▼東海銀行の看板が見えるので、この写真も愛知県だろう。餓死者が沢山出た戦後において、写っている人はまだ裕
 福な人達だろう。笑顔も見える。
syusengodoko46_convert_20171119234345.png
進駐軍のカメラマンに写真を撮られるのに抵抗感は無い様だ。
syusendoko14_convert_20171119234843.png
▼空襲で焼けた壁が痛々しい名古屋市中区の松坂屋。
syusengodoko64_convert_20171120223048.png
▼愛知県名古屋市の丸栄名古屋公証人合同役場五金。
syusengodoko9_convert_20171122142235.png
▼ミッキーマウスが描かれた愛知県内の飲食店。占領された・・・負けた・・・って思っただろうな・・・。
syusengodoko49_convert_20171120223416.png
▼名古屋市中区の松坂屋前の路上。
syusengodoko51_convert_20171120224301.png
▼昭和13年移転完了の愛知県庁と、昭和8年完成の名古屋市役所。素晴らしい。
syusengodoko62_convert_20171120224711.png
▼現在の愛知県庁と名古屋市役所。両方共に国の重要文化財だ。
aicikentyo_nagoyasiyakusyo_convert_20180303225312.jpg
▲戦時中は当時の写真の様に、空襲を避ける為、黒に塗られていたが、当然現在は全て剥がされている。
旧満州国の「新京」みたいだ。今も現役で使われている。
syusengodoko8_convert_20171122140758.png
▼▲愛知県庁名古屋市役所遠景。
syusengodoko1_convert_20171122133108.png
▼・・・。
syusennagoya1_convert_20171119235208.png
▼愛知県名古屋市の中部配電付近。
syusennagoya2_convert_20171121211827.png

syusenosaka_convert_20171120184800.png
▲愛知県名古屋市中区
syusendoko17_convert_20171121220521.png
▲名古屋観光ホテル
syusendoko20_convert_20171121223041.png
▲名古屋市の護国神社鳥居
syusendoko27_convert_20171121232127.png
▲愛知県名古屋市中区広小路東新町交差点の陸田ビル
showa15rikutabiru.jpg
▲昭和15年頃の広小路東新町交差点付近。陸田ビルも写っている。
syusengodoko34_convert_20171122131517.png
▲愛知県名古屋市中区の中村百貨店
raitasyuri_convert_20171123185720.png
▲▼愛知県名古屋市の露店と映画演劇の広告看板
syusengodoko20_convert_20171123190127.png

syusengodoko35_convert_20171122131838.png
▲▼愛知県名古屋市中区の名古屋日本徴兵館。
syusengodoko36_convert_20171122131917.png

syusengodoko60_convert_20171123180052.png
▲愛知県名古屋市中区で建設中の丸栄百貨店。
syusengodoko59_convert_20171123180158.png
映画『明日への遺言』では、若者を愛した人「青年将軍」の通称で部下に親しまれた岡田資 陸軍中将が、第13方面軍司
令官兼東海軍管区司令官を務めていた昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、撃墜され捕虜となった米軍のB-29爆撃機搭
乗員27名を自らの命令(旧陸軍内での法的根拠は与えられており、私的制裁の類ではない)で処刑した事に対する終戦後
の軍事裁判(横浜法廷)を再現している。(この映画の中で「石垣島事件」も文言として紹介されている)
戦犯裁判で、岡田中将は米軍による空襲について「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃である」「搭乗員
はハーグ条約違反の戦犯であり、捕虜ではない」と徹底的に主張し(岡田自身は、これを『法戦』と呼んだ)、検察や
米軍関係者による爆撃の正当化を批判、捕虜虐待の罪に付いても全面的に争った。
Tasuku_Okada.jpg
▲岡田資 陸軍中将 昭和24年9月17日戦争犯罪人【B級】(捕虜虐待罪)として法務死。享年59歳
syusenosaka1_convert_20171120184845.png
▲場所不詳
syusengifu_convert_20171121185507.png
▲岐阜県各務原市の「城山荘」昭和40年頃まで営業していたそうだが、現在は廃業して跡形も無い。
syusengifuwagasa_convert_20171121193510.png
▲製作中の和傘
syusen1946_convert_20171121191457.png
▲▼場所不詳
syusendoko34_convert_20171121191841.png

syusenosakashi_convert_20171121184007.png
▼心斎橋の「そうごう大阪店」(接収され、進駐軍の売店=PXとなっていた)
syusenosaka2_convert_20171121184342.png
▼原爆が落とされた広島・・・。
hiroshima_convert_20171120183857.png
▼原爆ドームと墓石とは何とも不気味な組み合わせだ・・・。
hiroshima3_convert_20171120184103.png

hiroshima2_convert_20171120184132.png

syusenyokohama_convert_20171119172907.png
広島は写真がカラーとなっても、尚も暗く感じるのは私だけだろうか・・・。
hiroshima5_convert_20171120184204.png

syusenyokohama1_convert_20171119172942.png
▼オーストラリア軍兵士。これを見ると、豪州とも戦っていた事を再確認させられる。
syousenhiroshima_convert_20171121183407.png

syusenhiroshima_convert_20171121181603.png

hiroshima4_convert_20171121181801.png

syusenhiroshima2_convert_20171121182756.png
▲▼中に居た人達は一瞬にして吹き飛んでお亡くなりになったんだろう・・・原爆は恐ろしい・・・。
syusenhiroshima1_convert_20171121182407.png

syusendoko24_convert_20171120201759.png
▲京都の知恩院山門。
syusenkyoto3_convert_20171120201019.png
▲東本願寺御影堂門
syusenkyoto2_convert_20171120201950.png
▼▲これは間違いなく平安神宮だろう。平安神宮応天門
syusenkyoto1_convert_20171120202148.png
京都に現存する寺院や神社は、今も昔も変わらない風景を残している事が良く解る。
syusenkyoto_convert_20171120202034.png
▲平安神宮拝殿
syusendoko21_convert_20171120202117.png
▲平安神宮外拝殿
syusendoko22_convert_20171120230607.png
現在は黒煙をあげている風景は京都には見られないが、当時はこんな感じだったんだ・・・。
syusendoko23_convert_20171120231838.png
▼ここからの画像は、場所が何処か解らない
syusendoko7_convert_20171121211239.png

syusendoko18_convert_20171121220610.png
▲▼今ではもう見られなくなった牛を引いての田起こしの風景。
syusendoko8_convert_20171121211206.png

syusengodoko61_convert_20171121222428.png

syusengodoko2_convert_20171122133347.png
生き残った日本人は皆、必死に戦後の日本を復興させたんだな・・・と、つくづく思う。
syusengodoko23_convert_20171121222631.png

syusendoko35_convert_20171121222335.png

syusendoko16_convert_20171121220037.png
▼何処だろうな・・・奥に綺麗な雪山が見える。
syusendoko15_convert_20171121220112.png
▼木造の物資運搬船だ。
syusendoko30_convert_20171122130500.png
▼終戦直後から商売をしている人達は凄いバイタリティーだ。
syusendoko31_convert_20171122130533.png
▼昭和の看板はカラフルで味があっていい!
syusendoko32_convert_20171122131138.png

syusendoko33_convert_20171122131321.png
▼日本海軍に徴用されていた病院船「氷川丸」の貴重なカラー写真だ。今も重要文化財として残っている。
syusengodoko37_convert_20171122132256.png

syusengo7_convert_20171122133946.png

syusendoko39_convert_20171122135250.png
▲焼け跡にバラック建てて商売スタート。ホント終戦直後の日本人は凄い・・・奇跡の復興と言われるのもよく解る。
自然災害でもないので何の保証も無く、全て「命さえがあれば」の精神で、国に文句も言わず頑張った日本人は偉い。
syusengodoko10_convert_20171123172310.png
▲▼映画館で娯楽を楽しんでいる人も大勢いる・・・ゼロからのスタートでは無い人も少なからず居たんだね・・・。
syusengodoko11_convert_20171123172746.png

syusengodoko12_convert_20171123173004.png
▲元気そうな子供達だが、昭和22年以降の食糧飢饉で餓死者が大勢出ている・・・この子達は生き延びただろうか。
syusengodoko13_convert_20171123173710.png
▲▼飲食店が立ち並ぶバラック・・・裸電球も写っている。メニューに刺身が確認出来る・・・何の魚だろう・・・。
syusengodoko14_convert_20171123174129.png

syusengodoko16_convert_20171123174757.png
▲愛知県名古屋市の様子だが「新興日本の春を楽しく迎ませう」と書いてある。終戦1年でこうも変われるものだ。
よく戦争映画やドラマで、戦後の極端な世の中の変わり様を驚くシーンがあるが、全く本当だった様だ。
▼戦時中クリスマスはあったのだろうか・・・少なくとも太平洋戦争末期はクリスマスを祝う余裕も無かっただろう。
syusengodoko17_convert_20171123174843.png
敗戦間際に戦死していった特攻隊員や自決した兵士の事を想うと、何とも複雑な気持ちになる・・・。
syusengodoko18_convert_20171123184109.png
▲何処だろう・・・富士山が見える。
syusengodoko21_convert_20171205222141.png
▲露店
syusengodoko43_convert_20171205223348.png
▲▼何処だろうか・・・。
syusengodoko42_convert_20171205223427.png
▼恐らくロバート・V・モージャー氏と同行していたGHQ職員。
syusengodoko22_convert_20171205222102.png
ここからはロバート・V・モージャー氏が撮影した写真では無く、撮影場所等は全て不明だが、敗戦翌年から昭和22年
頃にかけてGHQ職員が撮影したモノクロ写真をご紹介する。貧困にあえぐ日本国民の姿が写真に収められている。
syusenhinkon55_convert_20180524120326.jpg
syusenhinkon1_convert_20180522200600.jpg
写真に写るほとんどが、子供か女性、そしてお年寄りや中高年の日本人の先人達だ。
syusenhinkon2_convert_20180522200649.jpg
GHQ職員にカメラを向けられた顔が、成人男性と、子供そして女性達の表情が対照的だ。
syusenhinkon3_convert_20180522200734.jpg

syusenhinkon4_convert_20180522201433.jpg

syusenhinkon5_convert_20180522201508.jpg

syusenhinkon8_convert_20180522201803.jpg

syusenhinkon9_convert_20180522201839.jpg

syusenhinkon10_convert_20180522201917.jpg

Ki6188of244Sentai.jpg

syusenhinkon11_convert_20180522202608.jpg

syusenhinkon47_convert_20180524121125.jpg

syusenhinkon53_convert_20180524221242.jpg

syusenhinkon15_convert_20180522203848.jpg

syusenhinkon27_convert_20180523235553.jpg

syusenhinkon6_convert_20180522201543.jpg

syusenhinkon16_convert_20180522203927.jpg

syusenhinkon7_convert_20180522201619.jpg

syusenhinkon12_convert_20180522202649.jpg
syusenhinkon13_convert_20180522202755.jpg

syusenhinkon14_convert_20180522203759.jpg

syusenhinkon17_convert_20180522203959.jpg

syusenhinkon18_convert_20180522204030.jpg
syusenhinkon34_convert_20180524001218.jpg

syusenhinkon28_convert_20180524000520.jpg
syusenhinkon19_convert_20180522204114.jpg

syusenhinkon20_convert_20180522204153.jpg

syusenhinkon21_convert_20180523140421.jpg

syusenhinkon22_convert_20180523140459.jpg

syusenhinkon23_convert_20180523140549.jpg

syusenhinkon24_convert_20180523140750.jpg

syusenhinkon25_convert_20180523141116.jpg

syusenhinkon26_convert_20180523141157.jpg

syusenhinkon29_convert_20180524000940.jpg

syusenhinkon30_convert_20180524001014.jpg

syusenhinkon31_convert_20180524001052.jpg

syusenhinkon32_convert_20180524001133.jpg

syusenhinkon33.jpg

syusenhinkon35_convert_20180524115807.jpg

syusenhinkon37_convert_20180524115844.jpg

syusenhinkon40_convert_20180524115938.jpg

syusenhinkon43_convert_20180524120416.jpg

syusenhinkon48_convert_20180524121416.jpg
syusenhinkon50_convert_20180524121538.jpg
syusenhinkon51_convert_20180524121613.jpg

syusenhinkon44_convert_20180524120449.jpg

syusenhinkon45_convert_20180524120529.jpg

syusenhinkon46_convert_20180524121036.jpg

syusenhinkon39_convert_20180524121205.jpg

syusenhinkon41_convert_20180524121240.jpg

syusenhinkon42_convert_20180524121326.jpg

syusenhinkon49_convert_20180524121455.jpg

syusenhinkon54_convert_20180524221153.jpg

syusenhinkon52_convert_20180524221104.jpg
餓死者も沢山出た戦後を生き抜いた先人達は偉い。


戦後間もない日本のカラー写真 1949年~1950年YouTube
大日本帝国海軍の終焉YouTube
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。
 2017_11_19




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
pochetteevnara@gmail.com

ブロとも申請フォーム

Access counter

沖縄戦跡巡り

QRコード

QR