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奄美大島から飛行機で約10分、シートベルト着用サインが消える間も無く喜界空港に到着。
喜界島は鹿児島市から南へ380㎞、奄美大島の北東端から25㎞の洋上にある周囲48.6㎞の隆起サンゴ礁の島で、
2019年6月現在、3804世帯、7018人が暮らす小さな島だ。

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喜界空港に到着。正直、この飛行時間で6200円はちょっと高いと思うのは私だけだろうか・・・。
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JRの駅より小さい可愛い空港だ。この雰囲気が良い!!
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チェックインカウンターも1つだけ。解りやすくて良い!!
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喜界島は「うもーり」だ・・・。確か奄美大島は「いもーれ」だったはず。こんな近い島々でも方言が違う。
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空港の外へ出る。
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空港全体がカメラに納まる小さな空港
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喜界空港の歴史は古い。昭和4年から中里集落の海岸沿いの荒地に不時着飛行場が建設され昭和6完成と言われている。
当時の滑走路はサンゴ礁が固く、飛行機の脚を破損する恐れがあるので、その後は使用しない事になり、この時の飛行
場は平坦地を利用した仮設不時着用程度のもので、常設の飛行場ではなかった様だ。
昭和14年頃の飛行場は、広く起伏のない原っぱで、まだ舗装していなかったようだ。
昭和15年頃に海軍の戦闘機が1機不時着している。その機は整備士がやって来たが直らず、解体して船で本土に運ばれ
たという話が残っている。この頃もまだ飛行場には整備隊は配備されておらず、純粋に緊急時の不時着基地だった。
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昭和17年11/25~昭和18年2/15にかけて喜界島の土地88215坪が飛行機不時着陸場敷地として買収されて整備が
行われ、飛行場は面積88000㎡であった。飛行場設備が強化されるのは、戦局が悪化し出す昭和18年頃からで、南西
諸島周辺でも米潜水艦による船舶の被害が増加した為、艦上攻撃機1隊が常駐可能な程度への整備が進み、喜界島飛行
場の対潜哨戒機基地としての更なる強化を目指した。
昭和19年には最低滑走路延長を1000mにするとされ、3/16付けで喜界島飛行場基地施設の築城工事が指令された。
そして海軍喜界島飛行場は従来の不時着用ではなく、作戦行動に使える飛行場としての整備が進められたのである。
同年5月喜界島に海軍第321設営隊が進出。隊長は宮本芳英大尉で、昭和20年6月時点で564名であった。
同隊は川嶺に本部を置き飛行場作業に従事した。更に12月増山藤一郎氏の指揮する星野組(民間委託業者?)が来島。
満15~60歳までの喜界島住民(男女)が動員されて、飛行場の拡張工事に従事した。喜界町と早町町の動員係は集落毎
に人夫を割り当て、国民学校や青年学校の生徒も作業に参加した。この拡張工事で今までは中里集落の西側南北1本の
滑走路(現在と同じレイアウト)だったのが、中里集落の北側に内陸に向かって東西方向にも離着陸出来る様になった。
現在の喜界空港になるまで、2本共に芝張りの滑走路であったが大戦末期は空襲でほぼ使い物にならなくなっていた。
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▲昭和20年4月に米軍が撮影した空襲中の喜界島飛行場。青線が現在と同じ位置の滑走路(東西線)、赤線が拡張工事で
新設された当時「南北線」と呼ばれた、長さ1000m幅120mの第2滑走路だ。空襲時の撮影で煙が上がっている。
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▲昭和20年5月に米軍が撮影した米艦載機空襲直後の喜界島飛行場。爆撃で穴だらけになり使用不能になっている。
滑走路の拡張に合わせて付属設備の建設も行われた。幅7~15m総延長14000mにも及ぶ誘導路が作られ、誘導路に
沿って飛行機を格納する為の掩体壕が、無蓋掩体55箇所、有蓋掩体1箇所、隔壁21箇所も建設された。掩体壕の建設
工事は、沖縄戦直前まで行われていた。※(有蓋掩体1箇所は現在も現存しており、保存されている)
沖縄戦中、これらの掩体壕は実際に使われた。敗戦後だが飛行場内に97式戦闘機1機と98式直協機があった他、池治
掩体壕には4式戦闘機1機、荒木掩体壕には99式襲撃機1機、水天宮掩体壕には99式襲撃機2機が格納されていた。
いずれも陸軍機で使用不能の状態だが、飛行場から遠く離れた所まで飛行機を格納していたことが分かる。
沖縄戦中は池治までの道路を、飛行機の車輪が通るだけの幅を補修し、両側の樹木等は翼の幅の部分の高さを低くして
地物を出来るだけそのままにし、上空から分からないように注意を払っていたという。
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沖縄戦で陸軍の飛行場に囮として置かれた竹と藁を使用して製作された模擬飛行機。
喜界島には本物の飛行場とは別に偽飛行場が建設されていた。場所は東海岸の志戸桶集落と佐手久集落の間である。
ここには「竹と藁を使用して模擬飛行機を作り米軍機が模擬飛行場を空爆している間に待機中の特攻機を出撃させる戦
法」を使った。本物の飛行場への攻撃を吸収する囮としての役目である。
また飛行場らしく装うために、米軍機が接近すると吹流しを立てた。偽飛行場は畑の中に作られていたが、上空からは
本物の滑走路に見えた様で、実際米軍機はこの模擬飛行機目掛け、何回となく爆弾を投下している。
※第601海軍航空隊の増戸興助一飛曹は昭和20年4月6日の出撃で本物の滑走路と思い、この偽飛行場に不時着した。
翌日、不時着した彗星で本物の飛行場へ向けて離陸しようとしたが凸凹に脚を取られて飛行機の脚が折れてしまった。
空戦後で必死だったとはいえ日本軍機が間違える程であったので、それなりの効果はあったと言えるだろう。
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▲昭和21年米軍撮影。終戦後だが既に元飛行場であった事が解らないくらい破壊されている。
現在の喜界空港の滑走路は、戦時中の場所のまま(東西線)舗装され、滑走路が延長(1200m)されて今も使われている

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当時も同じ飛行ルートで着陸し、出撃していったのだろう・・・眺めていると胸が締め付けられる・・・。
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特攻出撃と言えば、知覧鹿屋を思いがちだが、喜界島は陸海軍入り混じって沢山の特攻機が出撃した場所だ。
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飛行場の周りは空港臨海公園となっており、ゴルフ場やスギラビーチがあって島民の癒しの場所となっている。
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▼かつては特攻基地だった所で今はゴルフを楽しむ人達が居る。時代の流れは残酷だ・・・。
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キャンプを楽しむ人達も居る。
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そしてスギラビーチで海水浴を楽しむ人達も居る。真正面26Km先に奄美大島がハッキリ見える。
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なんという平和で幸せな素晴らしい光景だろう。
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美しいスギラビーチの夕暮れ。向かい側の奄美大島と喜界島の間で連日のように日米の空中戦が繰り広げられた。
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日本の未来の為に必死に戦ってくれた英霊が居たからこそ、穏やかな「今」がある。いつまでも続いて欲しい。
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▲そんな穏やかで平和な空港臨海公園内に、ポツンと慰霊碑が建っている。
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「海軍航空基地戦没者慰霊碑」 喜界島を訪れた際には是非立ち寄って手を合わせて頂きたい場所だ。
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碑文
喜界島海軍基地は、昭和19年(1944年)国土防衛の最前線基地として拡張整備され、7月海軍巖部隊が常駐することに
なった。翌20年、米軍沖縄上陸後は、戦争遂行上の最重要戦略基地として、連日連夜にわたって米軍機の猛爆撃を受け
ながら、特攻機の整備出撃に多大の貢献をした。しかし、その間莞爾として沖縄に向け飛び立ち、遙か征って帰らざる
壮途につかれた若き勇士たちをはじめ、巖部隊員で特攻機の出撃準備中の整備兵防空防衛の任務遂行中の砲台員等で戦
死された人達も多かった。ここに基地開設50周年にあたり、これら戦死者の霊を慰めるとともに、永久の平和を祈念し
て慰霊碑を建立するものである。   平成6年  旧海軍航空基地戦没者慰霊之碑建立期成会。

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▲慰霊碑の横でゲートボールを楽しむご老人達の姿もあった。
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灯籠には建立者のお名前が書かれていた。「元自衛隊喜界通信所勤務 (株)ワールドテック 社長 菊野季彦
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(株)ワールドテックは徳島県中小企業情報センターでも紹介されている。社長は今もご健在かな・・・。
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特攻作戦が始まってしばらくした頃、水天宮の兵舎に駐屯する特攻隊を、湾小学校の生徒が慰問に行った事があったそ
うだ。沖縄戦が始まる前の話という事なので、フィリピン戦の時に喜界島を経由した特攻隊の可能性が高い。
特攻隊員は笑顔で生徒を迎えたが、悲壮な面持ちの者、手をポケットに入れてうつむいている者、哀調を帯びた悲しい
歌声の者がいたという。沖縄戦が始まると、激化する空襲で住民は特攻隊の見送りも命がけだった様だ。
沖縄を包囲する米艦隊に特攻々撃をかける20歳前後の若者達に、島の娘達はそっと野の花を贈った。
特攻隊員達は喜界島の上空から贈られた野の花を落としていった。その花の種が風に舞い、70年以上経った今でも喜界
飛行場付近に咲き乱れ、島民はそれを「特攻花」と呼ぶ。「平和を願う花」として語り継がれている別名テンニンギク。
6月~10月が開花時期との事で、此処では見る事が出来なかったが、写真の花を「特攻花」と想って写真を撮った。

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特攻隊員が喜界島に立ち寄ると聞くと、島の人達は当時貴重であった生卵を集めて届けたという。
特攻隊員の中には「我々の命はもうしばらくだから、子供達へあげてください」と言って出撃した者もいたという。
当時、沖縄への特攻機は、九州の鹿屋基地などから喜界島に整備・給油の為に飛来していた。
島のお年寄りは、亡くなった人を「隣の爺さんがアメリカに行った」などと言うそうだ。
「アメリカに行った」とは、「渡米した」という意味ではなく、亡くなったという意味。島のお年寄り達は今も戦争を
揶揄し、亡くなった人を「アメリカに行った」と言う。

喜界島海軍基地から特攻出撃され、「アメリカに行った」優秀な若者達の記録は以下の通り。
神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」 昭和20年3月27日喜界島基地より「彗星」で出撃。
(沖縄本島周辺機動部隊攻撃)
[操縦]田中 巽2飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]佐藤一義少尉(徳島県出身) 
[操縦]細江志郎2飛曹(岐阜県出身)/[偵察]高橋紫壽雄上飛曹 (愛媛県出身)
[操縦]内田 続2飛曹(熊本県出身)/[偵察]武士精三1飛曹(茨城県出身)
[操縦]正木 廣2飛曹(千葉県出身)/[偵察]船橋良三1飛曹(愛知県出身)
[操縦]横山作二2飛曹(広島県出身)/[偵察]藤丸 哲上飛曹(大分県出身)
[操縦]谷 節夫少尉(和歌山県出身)/[偵察]椿  昇1飛曹(茨城県出身)
[操縦]菱沼  一飛長(埼玉県出身)/[偵察]廣田繁次郎1飛曹(広島県出身)
[操縦]木場 愛2飛曹(三重県出身)/[偵察]青木 清1飛曹(山口県出身)
[操縦]宮原1飛曹/[偵察]橋本飛長

陸軍特攻第22振武隊 昭和20年4月7日喜界島基地より「隼」2機で出撃。
大上弘少尉/大貫健一郎少尉(空戦後徳之島不時着)
陸軍特攻第46振武隊 昭和20年4月7日喜界島基地より「99式襲撃機」2機で出撃。
小山勝実少尉/伊原佐源次伍長
陸軍特攻第46振武隊 昭和20年4月7日喜界島基地より「99式襲撃機」2機で出撃。
古川栄輔伍長/堀越進伍長
陸軍特攻第42振武隊 昭和20年4月8日喜界島基地より「97式戦闘機」5機で出撃。
松澤平一少尉/牛島久男少尉/馬場洋少尉/尾久義周少尉/仙波久男少尉
陸軍特攻第68振武隊 昭和20年4月9日喜界島基地より「97式戦闘機」2機で出撃。
山田勇少尉/山口怡一少尉
陸軍特攻第42振武隊 昭和20年4月9日喜界島基地より「97式戦闘機」3機で出撃。
猫橋芳朗少尉/近藤幸雄少尉/中野友次郎少尉
陸軍特攻第30振武隊 昭和20年4月13日18:15喜界島基地より「99式襲撃機」で出撃。
池田強伍長
陸軍特攻第46振武隊 昭和20年4月13日18:15喜界島基地より「99式襲撃機」で出撃。
小林貞三伍長
陸軍特攻第29振武隊 昭和20年4月14日喜界島基地より「隼」2機で出撃。
及川喜一郎伍長/上川幟伍長
陸軍特攻第46振武隊 昭和20年4月15日喜界島基地より「99式襲撃機」1機で出撃。
中村 稠(しげる)伍長
陸軍特攻第30振武隊 昭和20年4月15日18:10喜界島基地より「99式襲撃機」1機で出撃。
今井 実伍長
陸軍特攻第42振武隊 昭和20年4月16日喜界島基地より「97式戦闘機」1機で出撃。
篠田庸三少尉

神風特別攻撃隊「第2神雷爆戦隊」 昭和20年8月13日(月曜日)喜界島基地より零戦5機で出撃。
(沖縄周辺艦船攻撃)
岡嶋四郎少尉(千葉県出身)/星野 實1飛曹(京都府出身)
岡本鼎中尉/細沢実1飛曹/松林信夫2飛曹の3機は機体トラブル等で喜界島に帰還。
米攻撃輸送艦ラグランジュに特攻機が突入、大破。米水兵21名戦死89名負傷
攻撃輸送艦ラグランジュは特攻による最後の損傷艦。そして沖縄への航空特攻が終結。
昭和20年8月15日(水曜日)の終戦2日前の特攻だった。

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▲攻撃輸送艦ラグランジュ(USS La Grange [APA-124] )
※因みに神風特別攻撃隊「第1神雷爆戦隊」は昭和20年6月22日 鹿屋基地より零戦7機で出撃している。

Victory At Sea - Suicide For Glory - Episode 25YouTube 
大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録は以下の通り。
※防衛研究所図書館所蔵『南西諸島海軍航空隊戦時日誌』より。
昭和19年10月10日(沖縄島を中心とした十十空襲)米海軍第38機動部隊が南西諸島一帯に艦載機による空襲を行った。
第141海軍航空隊の森田禎介大尉[ 偵察 ]/中村力中尉[ 操縦 ]の二式艦上偵察(艦上爆撃機「彗星」と同型)は、単機
で偵察に出撃。同機は南大東島付近で米機動部隊を発見し、対空砲火を浴びたが、海面すれすれに急降下し、喜界島飛
行場に滑り込んでいる。

昭和20年1月1日10:14 96式陸攻1機が着陸。同機は10:55には南大東島に向けて出発した。
昭和20年1月2日13:19 零式輸送機1機が着陸。同機は14:48に出発したが、機体故障で15:54再び着陸した。
昭和20年1月3日07:55 先日着陸した零式輸送機が試飛行を行い、08:40海軍小禄基地に向けて出発した。
           10:45 96式陸上輸送機1機が着陸。同機は11:05に出発した。
              ※96式陸上輸送機とは96式陸上攻撃機の輸送機型。
この日09:30~10:00頃、沖縄本島へ米艦載機約50機が来襲。米艦載機は主に沖縄島陸軍北飛行場・陸軍中飛行場
と那覇地区の船舶を攻撃した。これに伴い沖縄島海軍小録飛行場の巌部隊(南西諸島空)の96式陸上攻撃機2機は空襲
を避ける為、07:00頃空中退避し、離陸後に基地からの指示で喜界島に着陸。3日後に小録基地に戻っている。
昭和20年1月6日14:44 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は16:18沖縄島の海軍小録基地に向けて出発した。
昭和20年1月7日11:44 艦上爆撃機「彗星」1機が、燃料補給と整備の為に着陸。同機は14:54に出発した。
※南西諸島周辺の索敵を任務としていた沖縄本島小録海軍基地所属の彗星と思われる。
昭和20年1月8日13:20 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は14:10に出発するも16:28再び喜界島に着陸。
昭和20年1月10日10:30 8日に着陸していた96式陸上輸送機1機が海軍小録基地に向けて出発。
昭和20年1月11日10:05 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は10:45に海軍小録基地に向けて出発した。
昭和20年1月15日12:05 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は13:18に出発した。
昭和20年1月16日10:12 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は11:15に海軍小録基地に向けて出発した。
昭和20年1月19日花良治北西の211高地の電探が探信を開始した。
昭和20年1月21、22日米機動部隊から発進した艦載機は、南西諸島一帯に来襲。特に22日の空襲は激しく、沖縄本島
へは約780機が来襲した。奄美諸島では徳之島、奄美大島へも来襲し、飛行場や航行する船舶が攻撃を受けた。
喜界島でも21日から隊内哨戒第1配備が発令され、空襲に備えていた。22日06:00隊内哨戒第1配備が発令。
08:48グラマン18機が来襲、09:30にこれを迎撃したが、8機が高度4000mから喜界島上空に侵入、09:00頃か
ら主に飛行場を銃爆撃して09:15頃西方へ飛び去った。飛行場の損害は軽微だったが、住民22名が死亡、9名が負傷、
家屋23軒が全壊した。迎撃の戦果は撃墜1機、撃破2機と報じられ、被害は燃料車1台の炎上だった。
この日の空襲はほぼ奇襲攻撃となり、避難勧告のサイレンが鳴る前に見慣れない機影の米軍機が雲間に現れていた。
奉仕作業のため滝川の陸軍部隊本部に集合した坂嶺国民学校の生徒40数名は、現場に向かう途中に数機の機影を目撃。
生徒達はそれを友軍機だと思い、中には友軍機だと思い手を振った者もいた。兵隊達も誰も敵機だと騒ぐ者はいなかっ
たという。すると突然機銃音と爆発音が聞こえ、慌ててガジュマルの根元に避難した。
志戸桶国民学校の生徒も、作業に動員されて百之台に向かう途中だった。生徒達は40機編隊で飛ぶ飛行機を見て友軍機
だと思い手を振っていた。すると間もなく爆弾・機銃の音が聞こえ、引率の先生の声に慌てて石垣や木陰に避難した。
喜界島の住民にとって、初めての米軍機空襲は全く想定外で、機影を見た時、当然友軍機だと思い込んだ為である。
独立混成第22連隊第3大隊機関銃中隊の小隊長である西山玉男少尉は、この空襲で海軍部隊が被害を受けたとの知らせ
を受け、状況の偵察を命じられた。建物と物資が大分焼失し、海軍兵士3名が戦死したという。

昭和20年1月23日14:10 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は14:53に鹿屋に向けて出発した。
昭和20年1月29日12:10 96式陸上輸送機1機が着陸、同機は13:10に鹿屋に向けて出発した。
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▲96式陸上輸送機は巌部隊所属で、沖縄戦の始まる3月半ばまで定期的に小録(沖縄)と鹿屋(鹿児島)を往復していた。
昭和20年3月1日米機動部隊は、奄美諸島を含む南西諸島一帯を襲った。この日喜界島へは3回米艦載機が来襲した。
第1波14機は08:20~08:40までに北方から侵入して早町港を銃爆撃した。続く第2波15機は15:05~15:20
までに飛行場を目標に銃爆撃した。続く第3波7機も15:30~15:35まで同じく飛行場を攻撃した。
喜界島防衛隊の高角砲は第2波の1機を撃墜、第3波の1機を撃破したと戦果を報じた。
また、08:00~08:50まで米艦載機12機が来襲、飛行場を銃撃。15:15~15:44には米艦載機20機が来襲、再
び飛行場を銃撃。喜界島防衛隊の戦果はF4U 1機撃墜、同1機撃破で日本側に被害はな無かったものの、これまでで一
番激しい空襲となった。

昭和20年3月4日11:30頃 1機のB24が高度6000mで喜界島を偵察し、投弾後140度方向に飛び去った。
昭和20年3月5日米大型機が飛来し、島を偵察後に飛び去った。
昭和20年3月9日米PB2Y飛行艇が喜界島近海を哨戒。喜界島の偵察が任務の米機で沖縄攻略作戦の準備行動だった
昭和20年3月11日AM 第701海軍航空隊艦上攻撃機「天山」1機が着陸。午後には基地のある九州串良に飛び立った。
昭和20年3月12日AM 99式艦上爆撃機1機が着陸、午後には出発している。
昭和20年3月13日96式陸上輸送機1機が着陸、同機は30分程の滞在で海軍小録基地に向けて飛び立っている。

南西空所属(巌部隊)の96式陸上攻撃機2機は、沖縄上陸直前に海軍小録基地から九州に脱出し、沖縄戦中は沖縄や喜界
島への輸送任務に就いた。1番機の機長は二瓶飛曹長、2番機は大島篤兵曹長だった。

昭和20年3月16日10:42 B24 1機が飛来、喜界島南端沖を航行中の機帆船2隻を攻撃。これを撃沈させた。
沈没した船は機帆船「第19護国丸」と護衛の「大栄丸」で、2隻は喜界島への武器弾薬輸送中であり、第19護国丸は
喜界島に配備された海軍第111震洋隊の特攻艇「震洋」5隻を搭載していた。

昭和20年3月18日14:00米艦載機2機が来襲、早町と小野津に爆撃をして飛び去った。小野津では機銃掃射と焼夷弾
攻撃で民家5~6棟が全焼、死傷者各1名を出した。この日早朝から米機動部隊は、沖縄上陸作戦の準備として九州一帯
に大規模な空襲を行っていた。喜界島に飛来したのはその一部でB24 1機も飛来。島一周の偵察飛行して飛び去った。

昭和20年3月21日16:00~17:00頃、鹿屋を出撃した第1回神雷桜花特別攻撃隊の直援零戦6機が不時着。
18:00過ぎには鹿屋に向けて出発。直援零戦の1機、安部正治1飛曹(第203海軍航空隊所属)によると、直援機の内、
203空所属の岡嶋少佐、安部1飛曹、久住中尉、721空の浅井大尉、橋本飛長が喜界島に不時着している。
5機は燃料を補給してその日の内に笠之原基地に向けて飛び立った。
16:23所属不明の九六式陸上攻撃機1機が着陸、30分余りして小禄基地へ飛び立った。

昭和20年3月22日08:10前日南大東島に不時着していた第1回神雷桜花特別攻撃隊の直援零戦(721空)4機が着陸。
※4機は燃料補給後に鹿屋基地へ出発したが、天候不良の為、2機が喜界島に引き返している。

昭和20年3月23日沖縄へ南下した米機動部隊は沖縄島へ艦載機による大規模な空襲を開始。上陸前空襲である。
この日はAMにB24 1機が喜界島周辺を偵察した他、15:00頃グラマンF6F 2機が飛行場を銃爆撃した。

昭和20年3月24日10:06/13:15/14:14の3回に亘り、グラマンF6F合計23機が飛行場と砲台を銃爆撃。日本
軍の応戦は撃墜1機、撃破1機の戦果を報じたが、下士官1名が戦死した。
前日の空襲は偵察程度だったが、この日からいよいよ本格的に来襲したのである。
同日16:46 701空の艦上攻撃機「天山」15機が串良基地から進出。天山隊には1機の零式輸送機が随伴していた。
同機には701空の大河原中尉以下16名が乗っていた。通信担当の大河原中尉以外は全員整備員であった。
彼等は「天山」の整備の為に派遣されたのである。
この日、第5航空艦隊司令部は701空に、天山隊による沖縄方面の米機動部隊への薄暮攻撃を命令。攻撃後の機動基地
として、喜界島・徳之島・沖縄本島・宮古島・石垣島が指定されていた。海軍は喜界島を沖縄攻撃の中継基地として使
用する事を決定したのである。
22:45この日進出した天山隊(内7機)が沖縄方面の米艦船攻撃に出撃、内2機は攻撃終了後02:00頃喜界島に帰還し
ている。戦果は無かった様だ。
攻撃第251飛行隊の永田徹郎大尉は、この日の16:00に串良基地を出撃している。喜界島で燃料補給後、永田機は沖
縄島の小禄上空に飛来し、燃える沖縄島を目撃している。結局永田機は敵影を見ずに引き返している。
喜界島を出撃した7機の内1機は攻撃第251飛行隊所属の須藤登良夫2飛曹[電信]/大堀秀一少尉[偵察]/湯沢貞祐1飛
曹[操縦]機である。同機は島を出撃後南下したが敵を見ず、帰途中に発動機不調と燃料漏れの為、トカラ列島平島沖に
不時着水している。
第111震洋隊長後藤三夫中尉は、朝焼けを背景に天山11機の出撃を滑走路際で見送ったと回想している。

昭和20年3月25日09:38、14:48、15:04の3回に亘りグラマンF6F合計10機が飛行場周辺や早町集落を攻撃。
19:00頃701空の天山4機が進出。20:00頃同空の攻撃251飛行隊の整備員12名を乗せた零式輸送機が着陸。

昭和20年3月26日00:45天山5機が出撃。その後4機が攻撃を終え04:00頃相次いで帰還、06:00頃串良へ向け
て出発。※戦果は米戦艦2隻を撃沈・炎上させて全機が無事に帰着している。
小林文男1飛曹[操縦]/野口泰助上飛曹[偵察]/加藤正雄2飛曹[電信]の天山は02:50頃、碇泊している米戦艦に魚雷
を命中させた。合庭喜俊上飛曹[操縦]/大内公威上飛曹[偵察]/中根音松2飛曹[電信]の天山も同時刻頃戦艦に対して
数回やり直しの後に魚雷を命中させたと報告しているが、この日米軍の記録に、該当する戦果は記録されていない。
00:30には零戦1機が着陸し、06:15には合計零戦2機が鹿屋に向け出発した。
夜が明けると米軍機は再び来襲。午前中2回、午後2回の合計50機が飛行場と砲台を攻撃した。特にPMはそれぞれ27
機と17機が来襲する激しいものだった。戦果は1機撃墜、3機撃破と報じられた。
空襲の終った1時間余り後、701空の艦上爆撃機「彗星」18機(内1機は着陸時にプロペラ破損)、天山5機、零式輸送
機3機が飛来した。特にいたっては彗星は250㎏爆弾を積んだまま九州から飛来した。
零式輸送機には渋江清中尉以下准士官以上3名(兵器整備中尉/整備中尉/整曹長)、攻撃第103飛行隊の整備兵20名、
通信科11名、衛生兵1名、主計兵1名が乗っていた。
米軍の空襲は夜間も続いた。20:00から喜界島は夜間戦闘機の制圧を受け21:00に飛行場が銃撃を受けた。
これが喜界島への初めての夜間空襲である。

昭和20年3月27日02:00前日に進出した艦上攻撃機「天山」4機が沖縄へ出撃。
※1機減っているのは、串良基地から前進する途中、1機が喜界島西北に墜落したからである。
05:30神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」の彗星12機が特攻々撃の為離陸したが、内2機が離陸時に自爆し搭乗員4名が戦
死した。この日は前日夜の空襲で損害を受けた為、整備が出来た機から出撃することになっていた。
離陸しようとした宮原1飛曹/橋本飛長機が、離陸寸前に海岸沿いの岩礁に接触して爆発した。
夜が明けて調査すると、本来飛行場の端に置いてあるはずの目標灯が海岸の岩の上に移動されており、その為、岩礁に
衝突した可能性が高い事が判明した。日本軍はこれをスパイの仕業と判断し、懸命に捜索を行ったが犯人を逮捕する事
は出来なかったという。(出撃時は濃霧で離陸目標灯も見えない状態だったとも言われている)
橋本飛長の遺体は後頭部が半分飛んでいたが、その顔はまるで微笑みかけるような笑顔だったという。
遺体は小高い丘に埋葬され、島の乙女達が毎日花を供えてくれた。この日出撃した残りの彗星は07:35に1機が帰還
した他は全機未帰還となっている。
彗星隊のエンジン音に中里集落の住民は、眠りを覚まされた。出撃は密やかに一晩のうちに住民の間に伝わっており、
住民は滑走路の見える村外れで密かに見送ったという。出撃は軍事機密で極秘だっただろうが、出撃準備の為の人の動
きで住民達は知ったのだろう。この日も米軍機の空襲は激しく08:05~15:30までに合計83機が来襲した。
戦果は2機撃墜、1機撃破と報じられたが、中里の烹炊所が倒壊し兵1名が負傷。また701空の彗星2機が炎上している。
同日、九州の第五航空艦隊では各基地に基地指揮官をお置く事になり、大中少佐13名が着任。
喜界島には喜界基地指揮官として佐藤勇少佐が五航艦司令部付けとして4/1に着任することになる。

昭和20年3月28日15:45米軍機8機来襲。
18:45陸軍三式戦「飛燕」11機が着陸。(知覧基地に進出した飛行第59戦隊か?)
新田原基地を出撃した陸軍特別攻撃隊「誠第39飛行隊」(隊長 笹川勉大尉以下8機)の一式戦「隼」が喜界島に着陸。
同隊は徳之島を目指していたが、奄美大島上空で天候が悪化し、やむなく不時着した。
※米軍沖縄上陸直前に城久集落の区長の元に「特攻隊が沖縄に行くべきところ状況が悪くて行けない」と言って訪ねて
来た事があった。特攻隊は一晩宿泊し、住民は皆が一升ずつ酒を持ち寄って隊員を慰労した。
その特攻隊員は10名位だったというので、この話は誠第39飛行隊の特攻隊員の可能性が高い。
18:50 701空の天山1機が着陸。同機は17:00に串良を出撃していた。この1機と既に喜界島にいた3機を合わせた
4機が日付の変わった1:20~4:15までの間に喜界島を出撃した。1機は07:45に串良に帰還している。

昭和20年3月29日前日不時着した誠第39飛行隊の隼8機が徳之島浅間陸軍飛行場へ前進。
誠第39飛行隊4機は3/31徳之島から特攻出撃。(笹川 勉大尉/高橋晋二中尉/瓜田忠治少尉の3名が特攻戦死)
06:20 26日に進出した701空「彗星」の残存5機が、国分基地に帰還の為出発しが、種子島南東で米戦闘機と遭遇、
攻撃第105飛行隊長北詰実大尉と同分隊長梅田章大尉がこの空戦で戦死した。1機は引き返し07:10喜界島に着陸。
沖縄周辺の輸送船団攻撃の為、台湾の新竹基地を出撃した天山3機が宮古島通過後、喜界島に向っているが、実際に喜
界島に着陸したかは不明。

昭和20年3月30日01:06天山2機が沖縄攻撃に出撃。1機は輸送船を雷撃したが、もう1機は未帰還となった。
06:25零戦1機が鹿屋に出発。07:11零戦2機が着陸している。
14:25前日着陸した陸軍の飛燕11機が九州の基地へ帰還する為出発。
15:37グラマンF6F8機が来襲、飛行場を銃爆撃した。

昭和20年3月31日07:03、09:30、16:32の3回に亘り、米軍機合計38機が来襲。
このように3月23日以降、連日の様に米軍機が来襲。最初は空襲の度に警報発令と解除を繰り返していたが、空襲が激
化すると発令が間に合わなくなってきた。その為3/5頃から喜界島では空襲警報を出しっ放しにして、解除の警報を出
さない事にしたという。沖縄戦に伴う喜界島の使用は3/21から始まり、主に701空の天山・彗星が使用した。
飛行場に対する米軍機の空襲はほぼ連日行われていたが、全く行われない日もあった。そして喜界島を巡る日米両軍の
攻防は米軍沖縄島上陸の4/1以降激しさを増していくのである。

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喜界空港正面に戻り、そこから歩いて行ける場所に現存する「中里戦闘指揮所跡」を見に行く。
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今回お世話になった喜界レンタカーサービスから中里集落の中に入っていく。当時の滑走路は2本だったので、此の辺
りも完全に海軍の飛行場敷地内だった。

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歩く事2分程度。「中里戦闘指揮所跡」の案内表示があるので左折して入って行く。
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▲すると見えた。戦闘指揮所跡。建設時期は当時最高機密とされ不明となっているが昭和19年頃だろう。
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国内で唯一残る鉄筋コンクリート製の半地中式「戦闘指揮所」だ。特徴的な形をしている。
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         戦闘指揮所跡はぐるり一周見学する事が出来るが、中には現在は入れない。
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▼最初に見える入口は昭和20年4月29日の大規模な米軍の空爆で直撃弾を受け、激しく破壊されている。
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直撃弾は戦闘指揮所付近に居た日本兵を吹き飛ばし、日高玖治上等整備兵曹/大脇弘一等整備兵曹が戦死している。
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戦闘指揮所入口に命中した爆弾で、近藤宗男二等整備兵曹は1~2m吹き飛ばされた。爆撃で厚さ15㎝の扉は内側に開
き、通路はセメントの塊で一杯だった。近藤兵曹は仲間と負傷した村田繁之上等整備兵曹をセメントの塊を取り除いて
助け出した。近藤兵曹は木製の扉1枚のお陰で命拾いしたという。
小谷内時男整備兵曹は階段室の瓦礫の中から、同年兵の日高玖治上等整備兵曹を助け出したが、彼は内臓をやられて死
亡していた。小谷内兵曹は日高兵曹と、天長節に配られる酒・ビール・煙草・お菓子の話をしたばかりであった。
数日後には同じ階段室の瓦礫の中から、大脇弘一等整備兵曹の遺体が発見されている。

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         反時計回りに見学していく事にする。
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遺構の直ぐ脇は民家があるので、迷惑をかけずに静かに見学する事を心がけたい。
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周辺には燃料庫や弾薬庫も同様に作られた。詳細な位置は不明だが、燃料庫と燃弾庫は荒木集落周辺、弾薬庫は湾港周
辺にそれぞれ作られた様だ。燃料庫と燃弾庫には敗戦時で航空91揮発油(オクタン価91の燃料)が92.8㎘航空87揮
発、油が28㎘、航空85甲揮発油が17㎘で残っていた。別の資料では敗戦時、航空用揮発油19万ℓあったとされる。
湾港には敗戦時、800㎏爆弾18発、500㎏爆弾8発、250㎏爆弾41発、60㎏通常爆弾48発、6番2号爆弾8発があっ
たことが分かっている。こうした燃料や爆弾は沖縄戦中に相当量が消費されているので、沖縄戦開始前は敗戦時を遥か
に上回る量が備蓄されていた事になる。これらの多くが運ばれた時期は、飛行場に南西諸島海軍航空隊(通称巌部隊)が
配備された昭和19年7月頃だろう。

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直撃弾を受けた側と真反対。経年劣化でコンクリートが剥がれ、鉄筋がむき出しになっている。
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入口は前後対称に4ヵ所。この入口は坑木も残り、半地下の作戦室への階段も綺麗に残っている。
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2017年までは中に入って見学出来たらしいが現在は入壕禁止となっている。階段が残っているのは2ヶ所のみ
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戦闘指揮所跡では軍事的な判断や特攻隊員への作戦指示が行われていた場所と伝えられている。
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▲砂利やサンゴ混ざった外壁のコンクリート。コンクリートには砂利の代わりにサンゴが含まれている。
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入口が4つあって大きな地下壕に見えるが、半地下の作戦室は1つだけとの事。
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▼作戦室の写真。右奥に写る大きな穴2つが特徴的な形をした煙突の様な穴から繋がっている部分だ。
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▼此処で早咲きの特攻花を見る事が出来た。
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当時、喜界基地を中継した特攻機は、整備・給油の為に飛来。特攻隊員はこの指揮所内で最後の杯を仲間達と交わし、
翌日、沖縄に向けて出撃していったと伝えられる。
「戦闘指揮所跡」は、喜界空港から徒歩5分もかからないので、周辺道路の道幅や駐車場が無い事を考慮し、車ではな
く徒歩での見学をお勧めする。喜界空港到着後や、島を離れる前に飛行場での時間待ちに見学に行くのが効率が良い。


大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月1日沖縄本島に米軍上陸開始。米軍は上陸作戦に兵力を集中した為か喜界島への空襲は低調だった。
14:00頃グラマンF6F 8機が飛来哨戒し、その後B-29が1機飛来したのみであった。
日本軍機は、串良基地を出撃した攻撃第251飛行隊の天山3機が沖縄攻撃後、日付の変わった01:52~03:00まで
の間に喜界島に着陸し、燃料補給後に串良基地へ帰投した。これとは別に攻撃第256飛行隊の天山1機も沖縄攻撃後に
喜界島で燃料補給し、串良基地に帰還している。串良基地は「菊水天山隊」をはじめ、多くの神風特別攻撃隊が天山で
特攻出撃している。
19:10には131空の天山4機、721空の爆装零戦4機が喜界島に進出した。この内天山1機が着陸時に墜落。
23:00頃には進出した天山は相次いで沖縄に向けて出撃していった。
この日、喜界島基地指揮官として、第5航空艦隊司令部付の佐藤勇少佐が着任した。

昭和20年4月2日08:25/09:35/15:25/16:40の4波に亘り米軍機来襲、合計39機が飛行場砲台を空襲した。
応戦戦果は5機撃墜を報じたが、兵3名が戦死、兵1名が負傷した。他に高射砲1基が破損し使用不能となった。
19:24新たな天山6機が喜界島に進出してきた。攻撃第251飛行隊3機、同256飛行隊1機、210空2機。
夜間に飛行機が無事に着陸する為には、飛行場で夜設員がランプを点けて滑走路の位置を表示しなければならない。
その為、夜設員は何事が起きても部署を離れないように厳命されていた。だが夜設点灯の信号でランプを点けた途端に
米軍機は銃撃してくるので、ついにはもう信号があっても点灯してはいけないとの伝達がなされた。正に夜設員も命が
けだったのである。

昭和20年4月3日06:10台湾の新竹基地を出撃し、那覇を攻撃した天山1機が着陸した。
09:13には陸軍の99式襲撃機1機(第30振武隊?)が不時着しているが所属部隊等は不明。
07:45、16:20の2回に亘り、延べ35機の米軍機が来襲し飛行場を銃爆撃した。
午後来襲した米軍機は、空母「バンカーヒル」、「キャボット」、「バターン」の艦載機32機だった。
15:30爆撃を終えた米軍機が集結した時、国分基地から飛び立った601空の零戦隊が襲いかかり、激しい空戦となる。
この空戦で被弾した601空戦闘第310飛行隊の梅林義輝上飛曹は、空戦で1機を撃墜した直後、別の米軍機に銃撃され
被弾、喜界島飛行場に胴体着陸した。その晩は民家を接収した仮兵舎で過ごし、翌4日に不時着した彗星の後席に乗っ
て国分基地に帰還した。また、梅林上飛曹は喜界島に滞在中、同期の堀江真上飛曹に会っている。恐らく721空の爆戦
隊員として島にいたと思われる。(その後堀江上飛曹は6月22日「桜花」の搭乗員として出撃し戦死している)
18:00頃、知覧を出撃した陸軍第30振武隊の99式襲撃機13機が喜界島に着陸。本来は徳之島に前進する予定だった
が、徳之島上空が空襲中なのを見て喜界島に反転、米軍機の攻撃を受けながらも無事に穴だらけの滑走路に着陸した。
この他に、03:40に知覧基地を出撃した、飛行第65戦隊の一式戦「隼」2機(和田邦康曹長と石原勇曹長)が、攻撃
終了後喜界島で給油して帰還した。

昭和20年4月4日06:55、16:13の2回敵襲、合計25機で飛行場と砲台を銃爆撃。日本軍の応戦で6機を撃墜。
09:40戦闘機が護衛した米飛行艇が海面を捜索して、2回着水している。これは日本軍の応戦で撃墜された戦闘機の
搭乗員捜索&救助の為だ。日本軍でも開戦当初は潜水艦等で搭乗員を救助する計画が立てられた事もあったが、大戦末
期はその様な余裕は全く無く、出撃=死 が当たり前になっていた。
搭乗員1人を育てる時間と費用を考えれば、米軍がパイロットの人命を大切にするこの行動は、撃墜機が出ると必ずと
言って良いほど救助作業を行い、死体であっても極力アメリカ本国に連れて帰るという事を終戦まで続けている。
14:03陸軍99式襲撃機3機が不時着しているが所属部隊等は不明。
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▲海軍喜界島基地の写真では無いが、戦時中の海軍飛行場の古写真。この様な感じだったのだろう。

昭和20年4月5日08:16、13:23の2回に亘りそれぞれ約1時間づつ、延べ75機が大挙来襲、飛行場と砲台を空襲。
日本軍の応戦で6機撃墜、11機撃破。米軍は18:37に戦闘機が護衛する飛行艇が救助作業を行っている。
この大空襲で喜界島飛行場は40数発を被弾し使用不能となったが、南北滑走路は必至の復旧活動で16:23復旧した。
しかし、東西滑走路は完全に使用不能となってしまった。飛行場の修理は海軍第321設営隊の他、5日からは住民も動
員された。在郷軍人で編成された独立第18中隊や、満15歳以上の住民の男女が動員され、陸軍部隊も毎夜兵力を派遣
して協力した。弾痕を埋める為に中里・湾・赤連集落の石垣を徴発し、不足分はドラム缶を埋めて地面を整えた。
度重なる滑走路修理で中里集落の石垣がなくなってしまったと言われたほどであった。滑走路の穴埋めに使われた石垣
は戦後に掘り出されて販売されたという。
これだけ激しい空襲があったのには理由がある。翌6日から日本軍は菊水1号作戦を予定しており、沖縄周辺の米艦隊
に大規模な航空攻撃を予定していた。第5航艦司令部は喜界島基地へ「明六日所在部隊ノ全力ヲ指揮シ多数機ノ発着ニ
対シ燃弾補給飛行機ノ被害極限飛行場ノ修復ニ努メ作戦ニ支障ナキヲ期セラレ度」と命令している。
また陸軍でも特攻機約30機を喜界島に前進させ、6日の攻撃に参加させようとしていた。
これに対して米軍は作戦実施を暗号解読で事前に知っており、中継基地としての使用を阻止する為に大規模な爆撃を行
ったのである。

昭和20年4月6日02:00頃索敵に飛び立った芙蓉部隊の彗星1機が不時着した。
※芙蓉部隊は夜戦飛行隊3隊で編成された夜間攻撃専門の部隊で、最後まで特攻攻撃を拒否した部隊として有名。
03:20攻撃第251飛行隊の天山2機が沖縄攻撃へ出撃。しかし1機が発動機不調で海面に不時着炎上した。
峰村昇上飛曹[偵察]は重傷を負って一命を取り留めたが、佐藤勇上飛曹[操縦]と片寄守正2飛曹[電信]が戦死。
峰村上飛曹は4月末に飛行機で内地に帰還したが、右足を大腿部中央から切断して義足となってしまった。
06:10陸軍飛行第65戦隊の一式戦「隼」2機が着陸、神宮武少尉と前田健郎伍長だった。
2機は6日未明に知覧を出撃、喜界島に前進したが、敵機の妨害で出撃できずに7日に帰還している。
他には鹿屋を出撃した神風特別攻撃隊「第1七生隊」森丘哲四郎少尉が発動機不調で喜界島に不時着した。
菊水1号作戦の決行日であるこの日は、04:50、06:30、08:02、13:20の5波に亘り、合計90機の米軍機が大
挙来襲し、飛行場・砲台・飛行機秘匿所を攻撃した。日本軍の応戦は撃墜9機、撃破10機と報じられ、米軍搭乗員1名
を捕虜にしている。被害は戦死1名、負傷3名を出し、飛行場は100発以上被弾し滑走路には大型爆弾の破孔約30が空
いて使用不能になり、また復旧作業に追われる事となる。
捕虜になった米搭乗員はトーマス(Arthur・M・THOMAS)海軍少尉で、トーマス少尉はArthur・L
・MATHENY海軍3等飛行兵曹と艦上爆撃機SB2Cヘルダーバーに搭乗。午後に喜界島飛行場を爆撃に来たとこ
ろを、対空砲火に撃墜され捕虜となった。トーマス少尉は落下傘で脱出したが、同乗者は機と運命を共にした。
しばらくの間トーマス少尉は捕虜小屋に収容されていたが、4月末~5月初め頃に日本軍将校の手によって処刑された。
07:40陸軍一式戦「隼」2機が着陸、1機は着陸時に大破してしまった。この2機は第21振武隊所属機だった。
※4/6に知覧から出撃した第21振武隊の隼は1機が沖縄周辺の米艦隊に突入、散華しているとなっているが、第21振
武隊隊のほとんどが4/26に喜界島に不時着しており、戦闘行動は未だはっきりしていない隊でもある。
17:00一式戦「隼」2機、飛行第59戦隊所属の三式戦「飛燕」3機、第46振武隊の97式戦闘機6機が進出してきた。
「隼」2機は第22振武隊の大貫健一郎少尉と大上弘少尉機だった。2機は13:00知覧基地を第21振武隊長 水川禎輔
中尉と共に出撃。水川中尉は徳之島に着陸している。その後水川中尉は紆余曲折あり最終的に行方不明となる。
大貫少尉と大上少尉はその後喜界島から出撃し、敵機と空戦の後大上少尉が戦死。大貫少尉は徳之島に不時着して一命
をとりとめ、その後福岡県にあった振武寮(特攻出撃して生き残った者が入れられる寮)に入れられ終戦を迎えている。
12:45爆装零戦1機(721空の指田良男1飛曹)が米機動部隊攻撃の為出撃した。単機出撃となってしまったのは残りの
3機がこの日の米軍による空爆で大破してしまったからだ。
この日1人の日本軍搭乗員がパラシュートで降下後、海上に浮かんでいる所を米空母「ホーネット」に救助されている。
日本兵は「自分が飛行教官であり喜界島から出撃した」と米軍に語っている。この搭乗員の氏名は不明だが、証言内容
から判断して爆装零戦で単機出撃した指田良男1飛曹の可能性が高い。
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▲戦闘指揮所跡から歩いて10分程度の場所に、当時、戦闘機の誘導路に沿って飛行機を格納する為の掩体壕が、無蓋掩
体壕55箇所、有蓋掩体壕1箇所、隔壁21箇所建設された内の唯一の屋根付きコンクリート製の有蓋掩体壕が残る。
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海軍第2神雷爆戦隊の零戦6機(500㎏爆弾搭載)が喜界島に進出した際、細沢実1飛曹の零戦を格納している。
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▼知覧基地跡(鹿児島県)に復元された無蓋掩体壕。空爆の爆風等から飛行機を守る三方土盛しただけの簡単な物だ。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月6日の続き。
この日は日本軍機の不時着が多く17:00までに零戦7機、彗星2機、天山5機、隼3機、97式戦5機が喜界島に不時着。
陸軍97式戦4機は第42振武隊(隊長 猫橋芳朗少尉)の一部で、猫橋隊長率いる7機は知覧基地を離陸して喜界島に直行
した。この時、中野友次郎少尉と松澤平一少尉は種子島飛行場に不時着した為、2機は喜界島進出が遅れる事になった。
残り5機は4/8喜界島から出撃した牛島少尉、仙波少尉、尾久少尉、馬場少尉+(大西少尉)の可能性が高い。
不時着した搭乗員達は早町に駐屯する海軍第40震洋隊の兵舎に宿泊したり、飛行場の東の丘の上の平地に、穴を掘った
三角兵舎などで宿泊した。蚊やハエが沢山おり、照明はランプのみ、食事は7分づきのご飯に、味噌汁と沢庵という粗
末なものだった。空襲が激しく火が焚けない日は、乾パンが食事の替わりに支給された。
ある搭乗員は基地司令からの依頼で、集落を訪ねて島民が安心する戦闘状況を話して回ることになった。訪問した家で
白米と岩海苔の味噌汁の食事を頂いたり、板砂糖の天ぷらとお茶の接待に預かったりしたようだ。
兵舎の飯は7分搗きで美味しくなかったが、民家では銀飯が出された。
集落訪問は搭乗員にとってもよい栄養補給となったようだ。この様に6日は多数の日本機が喜界島を使用している。
だが天山と721空の爆装零戦だけが攻撃のた為の使用であり、陸軍機を含めてほとんどが不時着であるが、既に米軍機
の空襲の為、昼間の中継基地としての使用は、ほとんど不可能な状態になっていたのである。

昭和20年4月7日この日の敵襲は04:30、16:23に合計3機が来襲したのみ。
それは米機動部隊が戦艦「大和」を中心とする海上特攻隊に攻撃を集中したからである。11:30約220機の米軍機が
喜界島上空を通過している。これが大和攻撃に向う米軍機の大編隊だった。
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▲米軍の哨戒機に撮影された戦艦大和を含む日本海軍艦艇。前日6日午後に泊地の瀬戸内海・徳山沖から出撃した沖縄特
攻艦隊は、豊後水道を抜けて九州の東側を回るコースを取ると、7日未明には鹿児島県の大隅半島と種子島の間を通り西
に向かった。同日12:30頃約220機の米軍機が近づいて来るのを察知した艦隊は、それまでの対潜警戒陣形から巡洋艦、
駆逐艦で大和の周囲をぐるりと囲む対空戦闘陣形に切り替えた。写真では艦隊が輪形陣を形成していることが確認できる
為、喜界島上空と通過した第1波攻撃の直前に撮影されたと推測出来る。大和の戦闘は12:34から始まる。
Naval Legends: Yamato | World of WarshipsYouTube
06:00~07:30陸軍飛行59戦隊の直援機「飛燕」2機と共に陸軍特攻第22振武隊の隼2機、陸軍特攻第46振武隊の9
9式襲撃機2機(小山勝実少尉と伊原佐源次伍長)が特攻出撃。那覇周辺の米艦隊に突入していった。
3日に喜界島に前進していた第30振武隊の99式襲撃機5機は徳之島に進出。別に隼2機も出撃しているが所属は不明。
22振武隊の隼4機の内2機は大貫健一郎少尉と大上弘少尉機であろう。2機は5日に喜界島に前進していたが、7日朝に徳
之島前進の為?飛び立った。だが途中でグラマンの攻撃を受けて大下機はそのまま行方不明となり、大貫機は被弾しなが
らも徳之島飛行場に不時着し、その後終戦を福岡の振武寮で迎えて生き延びた。
17:30陸軍特攻第46振武隊の99式襲撃機2機(古川栄輔伍長と堀越進伍長)が特攻出撃。那覇周辺の米艦隊に突入して
いった。第46振武隊記録では同日「渡辺博伍長も喜界島から出撃」となっているが詳細は不明。
※陸軍99襲撃機の特攻機は60㎏程度の小型爆弾が座席後部下に、真っ赤に錆びた小指程の太さのワイヤーでぐるぐる巻
きに縛ってあったのを海軍の増戸1飛曹が目撃して愕然としたという。旧式で重い爆弾は装着不可だったのだろう。
また、増戸1飛曹は同年輩の陸軍特攻隊員が「宿泊の夜は黙して一語も話さなかったのが印象的に心の中に残っている」
と回想している。どんなに決死の覚悟を固めても、「明日死ぬ」となると、その心の中は穏やかではなかったのだろう。
17:45陸軍特攻42振武隊の97式戦闘機2機(松澤平一少尉/中野友次郎少尉)が種子島から進出した。
彼等は4/6知覧を離陸後、一旦種子島に降りて機体を修理。喜界島の様子を確認した所「喜界島は空襲中なので翌日出発
せよ」との命令で翌7日に喜界島に進出してきたのである。
42振武隊の97式戦闘機は旧式で、喜界島までは高度50~100mで飛行。100㎏爆弾を抱えている為速度は150~160
㎞/hがやっとだったという。喜界島に着陸した時は、翼内タンクは空で胴体タンクも10~20分飛べる量しか無かった。
大西造少尉機はその夜の米軍機の空襲で焼失してしまう。大西少尉はその後福岡の振武寮に入れられ、生きて終戦を迎え
ている。17:45陸軍特攻第29振武隊の「隼」3機(及川喜一郎伍長/上川幟伍長/山田忠男伍長)が喜界島に進出した。
3人は(隊長)中村實少尉と共に15:00頃知覧基地を4機で出撃した。進撃途中に雲中突破を図った際、中村少尉とは離
れ離れになり、中村少尉はそのまま未帰還となった。
小雨交じりの夕闇迫る中、3機は飛行を続け、そして敵味方不明の飛行場(喜界島)に着陸した。途中で遭遇した潜水艦を
爆撃しようと爆弾の信管を外してしまったので、まさに決死の不時着であった。
不時着後、基地隊員の話を聞いて始めて3人は此処が喜界島であることを知った。3機は整備員の手により、飛行場から5
~600m離れた雑木林の中の無蓋掩体壕に収容された。3人は第6航空軍の戦闘指揮所に申告、次命あるまで待機する様
に命令された。飛行場には爆弾跡の弾痕が無数に空き、周辺には爆撃で破壊された零戦の残骸が散乱していたという。
決死の不時着だった事を物語っている。
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▲七島鼻。喜界島で一番高い場所。
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▲こんもりした不自然な盛り上がりと突き出た煙突の様なコンクリートが見える。
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▲蓋がしてあるが、間違いなく地下壕に続く通気口だ。
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▲反対側に回ると、あった!地下壕への入口。
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▲流石一番高い場所が軍が抑えていた。戦時中は海軍の電波探知基地が置かれていた。
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当然、入壕する。
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先程見た通気口に繋がる穴が2ヵ所確認出来る。
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6畳位の大きさの部屋が1つあるだけだった。
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今直ぐ使えそうな程度の良い状態だった。
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▼さぁ、外に出よう。
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▼此処から太平洋を監視していたのだろう。度重なる空襲でも耐えた地下壕だ。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月8日06:30陸軍第68振武隊の97式戦闘機2機(山田勇少尉と山口怡一少尉)が進出喜界島に進出。
17:30陸軍特攻第42振武隊の97式戦闘機5機(松澤平一少尉、牛島久男少尉、馬場洋少尉、尾久義周少尉、仙波久男
少尉)が特攻出撃。沖縄の米艦隊に突入、散華した。

昭和20年4月9日11:15、14:20、16:45の3回に亘り、延べ38機来の敵機襲、飛行場と砲台を銃爆撃。
この日、米軍は常時上空制圧を行った。これまでの空襲は1日に数回編隊で攻撃するもので、攻撃と攻撃の間は米軍機
は上空にいなかっだが上空制圧はそうした攻撃の間の空白を無くすもので、昼間の日本軍機の使用を完全に制圧する
効果をもたらすのが狙いだった。空襲の終わった17:10陸軍99式襲撃機4機が攻撃に発進。
17:30陸軍特攻第68振武隊の97式戦闘機2機(山田勇少尉と山口怡一少尉17:40)が特攻出撃。沖縄で散華した。
17:30陸軍特攻第42振武隊の97式襲撃機3機(猫橋芳朗少尉、近藤幸雄少尉、中野友次郎少尉)が特攻出撃。
徳之島を過ぎた所でグラマンと遭遇、中野少尉機はかねての打ち合わせ通り爆弾を落として空戦に入った。
旧式の97式戦闘機、空中分解寸前で空戦後、中野少尉は被弾だらけの機体で徳之島飛行場に不時着し、着陸と同時に
エンジンが停止。その後出撃出来なくなってしまった。
昭和20年4月10日午後より雨で両軍共活発な動きは無し。
昭和20年4月11日09:21、14:26、15:00の3回に亘り、延べ60機の米軍機が飛行場を銃爆撃した。
この日米軍機は06:25~18:58まで、2機乃至15機の編隊で間断なく喜界島周辺上空を哨戒。この日が米軍機によ
る上空哨戒戦法の開始で、上空出来る事常に飛行機を旋回させて飛行場の状況を監視、その使用を継続的に妨害する
戦法だった。この夜間空襲は空母「エンタープライズ」の雷撃飛行隊によるもので、米軍機は徳之島と喜界島に対し、
2機ペア5チームが飛行場を攻撃し、19:45~06:00まで120個の爆弾、80発のロケット弾、数百発の12.5㎜機
関砲弾を浴びせ、喜界島を一晩中眠らせなかったという。
この24時間空襲とも言える米軍の行動で、この日「彗星」2機、整備兵16名を乗せた零式輸送機1機、天山1機(児玉
研治1飛曹、芝祐寅2飛曹、喜多主俔飛長)が撃墜されている。
更に11:35米夜戦1機が飛行場に投弾し、この攻撃で陸軍一式戦「隼」1機が炎上、第29振武隊の山田忠男伍長の機
だった。電話連絡を受けて第29振武隊3人が飛行場へ行くと、掩体壕内の山田伍長機が炎上し、機体の機関銃弾が炸
裂していた。山田伍長は燃える愛機の側で呆然と立ち竦んでいたという。
米夜戦はパラシュート付きの照明弾を投下し、滑走路修理作業中の作業員やトラックにも銃撃を行った。
作業員は銃撃に慌てて大混乱になり、負傷者が続出したという。11日に米軍がこれほど執拗に夜戦で制圧したのは、
12日の菊水2号作戦での喜界島使用を阻止する為だった。米軍は見事その目的を達成し12日、喜界島からの日本軍機
の出撃は見合す事となったのである。

昭和20年4月12日この日も米軍は18:00頃まで終日、4機乃至8機編隊で島上空を旋回、飛行場へ銃爆撃を行った。
昨日に引き続いての上空哨戒戦法である。さらに日没時からは夜戦4機が来襲し、飛行場周辺の哨戒を続行した。
97式艦攻3機、彗星2機、零戦1機、97式戦闘機2機、3式戦飛燕1機が炎上した。
12:39~14:50頃まで、海軍343空の紫電23機/紫電改34機と、グラマン/コルセア50数機との空中戦が繰り広
げられた。343空の大坪通2飛曹はこの日グラマン1機を撃墜したが自らも被弾して喜界島に不時着した。
そして島の洞窟の病院のベッドで寝ていたという。

昭和20年4月13日14:30頃米軍機2機が飛行場に制圧照明弾並ロケット弾10数個投弾。
07:56、09:30に延べ36機来襲。18:40にはグラマンF6F/F4Uコルセア212機来襲。常態化した夜間制圧と
上空哨戒戦法がこの日も続けられ、天山1機と彗星1機が炎上。主滑走路が使用不能になった。
こうした状況を受けて喜界島航空基地は、鹿屋の第5航空艦隊司令部へ基地の使用方法について意見具申をした。
内容は喜界島へ前進する場合は到着時刻を発進基地へ島から通知し、時間が間に合わない時は着陸を取り止める。
飛行機とは直接無線連絡を取って、情勢の変化に応じて行動を指示する。
着陸が危険な場合は信号と赤旗で連絡し、退避の場合は発進基地に戻るか50浬圏外で待機する。
喜界島での燃料補給は極力しないように計画する。というものであった。ここ数日間で喜界島の状況は急激に悪化し
たのである。
日没後の18:15陸軍99式襲撃機2機が特攻出撃。第30振武隊(池田強伍長)/第46振武隊(小林貞三伍長)だった。

昭和20年4月14日米軍の空襲は低調で、06:15に8機が飛行場を銃爆撃しただけだった。
陸海軍兵士、そして島民の不眠不休の努力で滑走路は06:30には1300m×60mが復旧。
この復旧途中の滑走路から05:30零戦1機が国分基地に向けて出発。13:45には601空の零戦1機が不時着した。
そして19:10陸軍特攻第29振武隊(及川喜一郎伍長と上川幟伍長)の一式戦「隼」2機が特攻出撃。
及川伍長と上川伍長は第6航空軍将校の激励の言葉を受け、別れの杯を飲み干し、11日に愛機を空襲で破壊され、
出撃できない山田伍長と手を固く握り合うと、沖縄に向けて出撃していった。
陸軍守備隊の小川高男中尉は一升瓶を持って飛行場に駆け付け、整列を終えた特攻隊員に送別の酒を注いだ。
この日、沖縄周辺で戦艦ニューヨーク(USS New York BB-34)の三番砲塔付近に日本軍の特攻機が突入、カタパ
ルトを破壊して特攻機は跳ね返って落下、爆発。もう1機は船から50ヤード(46m)に墜落した。
戦艦ニューヨーク乗組員2人が負傷し、突入した特攻機をOSCARと米国が記録している。
OSCARとは陸軍一式戦闘機「隼」の米軍呼称で、この日「隼」で出撃した特攻隊は、喜界島から出撃した第29振武
隊のみである。戦果は及川伍長と上川伍長の特攻々撃によるものである可能性が非常に高い。

昭和20年4月15日06:18、16:00の2回に亘り延べ34機が飛行場を銃爆撃した。
05:30陸軍特攻第46振武隊の99式襲撃機1機(中村稠[ しげる ] 伍長)が特攻出撃。
18:00陸軍特攻第30振武隊の99式襲撃機1機(今井実伍長)が特攻出撃。
この日陸軍の第百飛行団では、沖縄飛行場攻撃の為にに4式戦「疾風」11機が出撃。この内飛行第101戦隊の矢野寛
曹長、飛行第102戦隊の橋本富治軍曹と下村軍久義曹が17:50喜界島に不時着。着陸時に矢野機は海岸に衝突して
機体は炎上したが、矢野曹長は軽傷を負っただけで無事だった。
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▼▲喜界島戦跡地図と当時の陸海軍喜界島守備隊
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陸軍部隊「田村部隊/田村少佐以下650名、海軍南西諸島航空隊喜界島派遣隊(巌部隊)伊藤大尉以下611名
海軍宮本部隊(飛行場設営隊含む)/宮本大尉以下564名、海軍友寄部隊/友寄大尉以下131名、
海軍第40震洋隊/安藤大尉以下180名、海軍第111震洋隊/後藤中尉以下182名
陸軍独立混成第22連隊第1大隊(隊長 橋爪捨雄少佐・副官 小川高男中尉)/第2大隊(隊長 荒二井芳衛少佐)
第3大隊(隊長 田村道之助少佐)
在郷軍人(郷軍)
独立第17中隊/福岡水彦軍曹以下363名、独立第18中隊/宮島喜蔵軍曹以下150名。
以上合計2831名の日本兵が守備を固めていた。

昭和20年4月16日17:30に8機の米軍機が島の上空を哨戒しただけで、飛行場への攻撃はなかった。
08:20~09:00頃まで、343空の紫電改32機と、空母ホーネットの第17戦闘飛行隊、空母バターンの第47戦闘飛
行隊のグラマン28機との空中戦が繰り広げられた。この空中戦で米軍は撃墜7機、同不確実1機、撃破5機を報じ、2機
が被弾して着艦時等に失われたが搭乗員は救助された。午後になると米軍が海上の搭乗員救出の為、3回に亘り飛行艇を
派遣するのが目撃されている。対する日本側は一挙に9機を失うという大敗を喫した。
343空の空戦は08:30に終了し、それと入れ違いに601空の零戦30機と紫電12機と、米軍の第47戦闘飛行隊との空
戦が行われた。日本軍は7機撃墜、5機撃破の戦果を報じたが、零戦4機を失っている。別の制空隊として奄美大島上空
で米軍機と交戦した252空の桑野孝也中尉は、喜界島~奄美大島の中間付近で零戦の発動機が停止し、08:45に喜界
島沖で落下傘降下。泳いで喜界島にたどり着いたようだ。(この搭乗員は桑野中尉の可能性大)
この日は陸軍特攻第42振武隊の篠田庸三少尉が単機で特攻出撃。沖縄の海で散華した。
12日に喜界島を視察した井戸田大佐は、司令部に帰還すると、徳之島飛行場は計画的使用を放棄して不時着用として
使用することを進言。一方喜界島は「対空火器が徳之島に比べて多く、敵機の跳梁を若干封じているので、しばらくは
利用の価値があるものと認められる」と報告した。これに伴い徳之島にいる陸軍の搭乗員70名と整備員15名は大発で
喜界島に移動し、同島から搭乗員は九州に戻る事になった。喜界島でも連日の空襲で飛行機を破壊され、滞留している
搭乗員が多数になっていたのである。
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▲海軍宮本部隊(飛行場設営隊含む)/宮本大尉以下564名が陣を構えていた鹿児島県で2番目に低い山、
「水天宮山」標高は僅か63m。この山のふもとには米軍上陸に備えて構築されたトーチカが1基残っている。
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水天宮山を正面に見て道を歩き、ちょっと左を気を付けて見てみると・・・。
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銃眼がこっちを狙っている!
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流石海軍の遺構はコンクリートでしっかり作られているものが多い。
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中を覗いて見る・・・。
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裏側に小さな入口がある様だ。大人2人入れば満席って感じの狭い部屋。
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トーチカの裏側に回ってみる。
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竈の跡か・・・?赤レンガの遺構が残る。トーチカはこの場所の他にもう1基現存しているそうだが今回は行けず。
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南国植物の根っこが張り巡らされ、トーチカの入口は確認出来たが入壕は断念した。

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月17日米軍機の飛行場攻撃はなく、4~8機のグラマンが2回飛来し、周辺を哨戒しただけだった。
この日、爆装零戦7機と彗星1機が不時着。これは「菊水三号作戦」で06:45~06:55に第1国分基地を出撃した
神風特別攻撃隊「第3御盾隊」252部隊だった。10:05爆装零戦5機、15:00爆装零戦2機が喜界島不時着。
田中 宏少尉/猪山昌彦2飛曹/堀川光政2飛曹/小宮邦晴飛長は敵を発見出来ず喜界島に不時着。
同日11:10喜界島を離陸。12:40第1国分基地帰投している。
宮内 忠飛長07:39駆逐艦7隻を発見、爆撃後12:40喜界島に不時着、15:00第1国分基地帰投
矢野 昇中尉07:39米駆逐艦7隻を発見、爆撃後喜界島に不時着、13:25喜界島離陸。15:00第1国分基地帰投
池田 亨2飛曹07:39米駆逐艦7隻を発見、爆撃後喜界島に不時着、13:25喜界島離陸。15:00第1国分基地帰投
※上記2機のどちらかの機に16日に落下傘降下した252空の桑野孝也中尉が同乗、第1国分基地に帰還している。
この日、陸軍第百飛行団の4式戦「疾風」12機が出撃、奄美大島、喜界島中間付近の海上で空戦となり10機が未帰還。
※この時未帰還となった飛行第102戦隊の本多正一准尉機の遺品が、喜界島の山中から出たという。本多准尉は奄美大
島東方海上で戦死と、日本軍の記録では書かれているが、空戦の末、喜界島の山中に墜落したのだろう。

昭和20年4月18日06:44米軍機4機来襲。
14:10海軍96式陸攻1機が機銃弾輸送のため着陸、10分後には鹿屋基地に向け飛び立っていった。
その後着陸した陸攻1機には、喜界島にいる飛行機を失った海軍搭乗員を乗せて鹿屋基地に帰還している。
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水天宮山から少し車を走らせると喜界島通信所がある。自衛隊の電波傍受用アンテナ施設で、何故か「象の檻」と呼
ばれている。1997年着工、直径約200mの円形で、約20本のアンテナを円状に配置されている。
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▲▼喜界島通信所入口。人気も無く静かなところだった。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月19日木田大佐は魚雷や陸戦兵器を始め、様々な物品・兵器の補給を要請している。更に27日には奄美
大島から喜界島へ漁船等による物資輸送が計画された。
終戦まで米軍上陸の無かった喜界島で一番奮戦した部隊は、海軍の対空砲部隊だった。機関銃隊は3ヵ月間で敵機70
数機に命中させ、南西諸島の対空部隊中で最高の成績を収めた。(日本軍記録なので米軍記録と比べる必要はある)
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▲日本軍の対空砲陣地。(写真はニューギニアの日本軍)
米軍機を撃墜したのは、ほとんどが25ミリ機関銃だった。日本軍は自分の方に向って来る機や、急降下から急上昇に
転じて腹を見せる時に攻撃を加え、多数を撃墜した。ある機関銃隊の下士官は赤褌の分隊長として有名で、いつも裸
で指揮を執り、この分隊だけで相当数を撃墜した。だが彼も6月半ば頃に戦死。
この戦果に米軍は喜界島基地には命中率の高い対空射撃兵器(電波による自動照準器付き)があると考え、敗戦後、特
に対空兵器について詳細に調査した。そして、それが日本兵の肉眼照準によるものだと知って驚いたという。
機関銃隊の中の1つ、湾集落の南側、第2機銃砲台の東にあった第3機銃砲台(永見隊)の機銃陣地は、班長(下士官)1
名、手1名、旋回手1名、補助4名の合計7名が配置されていた。班長を除く兵士は、応召後7ヶ月経っても第2補充兵
と兵役免除の老年兵達だった。その動作は下士官に適わないが、現役兵も遠く及ばない度胸で奮戦し、撃墜率は現役
兵よりもはるかに高かったという。こうした飛行場をめぐる空と地上の戦いは沖縄戦終了まで続くことになる。
この日は09:35~09:55の間に米軍機8機が2回飛行場を銃撃した。この日は日本軍機の喜界島使用はなかった。

昭和20年4月20日07:15~16:20までに戦爆連合76機が来襲。飛行場、砲台、機銃陣地を銃爆撃した。
激しい空襲で戦死23名、負傷10名の犠牲者を出し、兵舎1棟が全焼、12㎝高角砲弾10発と小銃30挺、小銃弾3000
発を焼失する損害を被った。更に空襲の結果、主滑走路はまた使用不能となってしまった。
07:45水天宮下にある三角兵舎が爆撃され、第1防空壕東入口が被弾。これにより巌部隊の整備兵5名が戦死した。
空襲終了後に整備兵は炊事場から空樽を持ってきて、その中にちりぢりになった遺体を空樽2個に拾い集めた。この日
沖縄戦開始後、喜界島の日本軍の最大の人的被害だった。
巌部隊の近藤宗男二等整備兵曹は、巌部隊の96式陸攻が物資輸送で着陸した時、米夜戦が上空にいたので、搭乗員に
その旨を告げて、機銃で曳光弾を発射したと回想している。因みに5月は1機を除いて全機が物量投下となり、着陸し
ての補給はしなくなった。
19:00陸軍4式戦「疾風」7機が着陸したが1機は着陸時に大破した。これは飛行第102戦隊(指揮官/成田稔大尉)で
喜界島南方の制空と、特攻機の直掩の為の進出で、これは来る第4次航空総攻撃の準備の為だった。

昭和20年4月21日09:30/10:38の2回16機の米軍機が飛行場と集落を銃爆撃した。前日の空襲で破壊された滑走
路は、陸海軍兵士と島民の懸命な復旧作業で夜中02:00頃に復旧した。
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▲▼現在「ウフヤグチ鍾乳洞」として観光スポットとなっている自然壕は戦時中、陸軍部隊が本部を置いていた場所。
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陸軍部隊は「田村部隊」(田村少佐以下650名)が喜界島の守備に就いていた。
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主に海軍が主体だった喜界島では、飛行場の修復に陸軍部隊も当然参加したが、陸軍兵の食事の保証を条件に協力した
という。大東亜戦争開戦前からあった陸軍と海軍の隔壁は最後の最後まで続いていた様だ・・・。
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陸軍陣地になる前は鍾乳石や石筍が発達して素晴らしい場所だったという。
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壕(洞窟)内はかなり広い。防空陣地となった時に中の鍾乳石は破壊され、石筍も取り除かれてしまった。
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当然壕外にも兵舎があっただろうが、此処に何人の陸軍兵士が寝泊まりしていたのだろうか・・・。
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人工的に作られた階段や出入口が確認出来る。陸軍らしい自然壕を利用した簡易的な作りだ。
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▼この橋は当然戦後観光用に設置されたものであろう。
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この洞窟(壕)は平成17年フジテレビ系ドラマ「遅すぎた帰還・実録小野田少尉」のロケ地にもなった。
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実録・小野田少尉 遅すぎた帰還 YouTube
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月22日04:10~17:45まで、8機乃至12機の米軍機が喜界島と奄美大島上空を旋回した。
その内約60機が飛行場と集落を銃撃した。この上空制圧作戦は、この日から陸軍第6航空軍が第4次航空総攻撃を開始
したからで、喜界島飛行場の使用を阻止する為の上空制圧作戦だった。
16:30陸軍飛行第102戦隊の4式戦「疾風」6機が出撃。沖縄に向かう特攻機を沖永良部島から沖縄上空まで直掩した
が、3機が未帰還となった。
17:00彗星3機と爆装零戦4機が不時着した。252空の爆装零戦2機と601空の爆装零戦2機であった。
爆装零戦3機は神風特別攻撃隊「第3御盾隊」252部隊所属で、4/17にも第1国分基地を出撃して喜界島に不時着した
池田亨2飛曹/矢野昇中尉/宮内忠飛長/だった。池田2飛曹は12:30第1国分基地を離陸し米機動部隊攻撃に向った。
変針地点を過ぎた所でグラマンと空戦になり、何とか離脱して喜界島への不時着を試みた。
だが発動機が停止して飛行場付近の海岸に不時着、機体は大破し池田2飛曹は重傷を負う。不時着時に池田2飛曹は右目
を失い、飛来した陸軍機に乗せられて宮崎山中の陸軍病院に収容された。

昭和20年4月23日06:00~17:30まで間断なく8機乃至16機のグラマンが、飛行場と砲台を銃撃した。
06:05昨日不時着した零戦4機が第1国分基地に向け発進したが、内1機が離陸直後にグラマンと交戦し自爆、2機は喜
界島に引き返してきた。自爆した1機は矢野昇中尉で、早朝離陸した所をグラマンに奇襲されたのである。
矢野中尉は4/11、4/16、4/17、4/22の4回特攻出撃、そしてとうとう特攻々撃は達成出来なかった。しかし命令
とは言え、12日間に4回もの特攻出撃をした精神力は並大抵の精神力では出来なかったはずだ。任務達成の為に出撃し
続けた矢野中尉は、最後は撃墜されてしまったが賞賛に値すると言える。

昭和20年4月24日終日天候が悪く空襲は無し。前日の空襲で破壊された滑走路は08:45には1200m×80mの修理が
完成。沖縄戦中、喜界島飛行場では米艦隊の電話傍受を行っていた。米艦隊はお互いに正規の艦名ではなく、コードネー
ムを付けて連絡を取り合っていた。傍受内容からは各艦の位置や、日本軍の攻撃による損害を知ることが出来たようだ。
傍受結果は第5航空艦隊などに知らされ、航空攻撃の作戦立案や戦果確認に活かされた。

昭和20年4月25日AM 2回に亘り米軍機8機が飛行場を銃爆撃した。
17:30陸軍97式重爆撃機1機が緊急輸送任務で着陸、20分後に鹿屋基地に向け出発した。
当初この輸送には重爆3機が予定され、帰還に際しては在喜界島の搭乗員を収容する事になっていた。
この任務を担当したのが陸軍航空輸送部第9飛行隊で、同隊の97式重爆3機はAM02:00鹿屋基地から出撃したが、途
中で隊長機が米夜戦に撃墜され、1機が鹿屋に引き帰し、残りの1機(樋口機)のみが輸送任務に成功した。
陸軍航空輸送部第9飛行隊は、この後の輸送任務で2機(樋口機と三堀機)が物資・弾薬の輸送と搭乗員の救出任務に
成功している。重爆が飛来すると飛行場では四隅にカンテラを燃やし、プロペラ始動車がライトを点灯して夜間照明を
行った。

昭和20年4月26日04:25~10:35まで米軍機延べ36機が飛行場を銃爆撃した。06:05にも16機が来襲、ロケッ
ト弾で飛行場を爆撃した。

昭和20年4月27日09:05~17:30まで米軍機が延べ41機、8機乃至16機の編隊で飛行場を銃爆撃した。
20:15陸軍97式重爆撃機2機が着陸、21:10鹿屋基地に向け出発した。97重爆2機は、喜界島で不時着した搭乗員
を収容して帰途に着き、1機は無事に鹿屋に帰還した。
だが15名を乗せたもう1機は、喜界島出発後50分頃に、片舷飛行を報じた後そのまま未帰還となってしまった。
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▲喜界島ではスーパーを4つ見た。一つ目は喜界空港に一番近い「ふくり」と「酒のキンコー」
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▲お土産物が豊富だった「ヨシカワ」
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▲離島の定番「Aコープ」
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島で見かける車は錆に相当やられているものが多いが、ここまで腐ると修復する気にならないだろう・・・車も消耗品。

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年4月28日05:20~09:55までに米軍機18機、13:00~17:45までには7回に亘り米軍機延べ50機以上
が来襲、飛行場を銃爆撃した。毎日の様に空襲に晒される日々、兵士・島民共に疲れ切っていたであろう・・・。
16:48陸軍四式戦「疾風」1機が着陸。この日は菊水4号作戦が発動され、飛行第101戦隊が都城西飛行場から出撃、
飛行第103戦隊が知覧から、四式戦「疾風」合計11機が制空隊として出撃し、喜界島付近でグラマンと交戦。
103戦隊は全機帰還したが、101戦隊は喜界島に不時着した岩崎喜久造少尉を除いて全機未帰還となった。
岩崎少尉機は沖縄近くで空戦前に発動機不調となり、喜界島に不時着。着陸するや米軍機8機の銃爆撃を受けたが、幸
にも機は無傷だった。地上の対空火器はこれらの米軍機に応戦し1機を撃墜した。
丁度喜界島には103戦隊の整備員が徳之島から移動してきており、故障を修理して帰還する事になった。不時着した際、
この日出撃して戦死した101戦隊の鈴木達雄少尉の落下傘の縛帯が島に漂着したのを見せられたという。
岩崎少尉は案内された戦闘指揮所(現在も残る戦闘指揮所跡)で冷えたサイダーをご馳走になったと語っておられる。
修理を待つ間少尉は谷間の兵舎に案内されたが、夕食は湯呑み茶碗一杯の切り詰めたものだったという。
翌4/29(04:25)修理したばかりの軟弱な所のある滑走路から飛び立ち、岩崎少尉は無事都城東飛行場に帰還した。
21:58芙蓉部隊の彗星1機(伏屋国男一飛曹・鈴木淑夫上飛曹)が不時着。23:35には天山1機が着陸した。
この日大島防備隊の漁船「第7大漁丸」「第66大漁丸」の2隻が、奄美大島小湊で米軍機の空襲を受けて大破した。
2隻は前日瀬相を出港して、喜界島へ弾薬・軍需品の輸送中だった。3号大発が同行していたが、機械故障のため住用に
退避し、結局3隻共航行不能となり、この時の喜界島輸送は中止された。
喜界島飛行場は度重なる使用により、航空機に補給する爆弾や対空機銃弾が不足していた。米軍の制空権下では九州か
らの補給は望めず、一番近い奄美大島からの補給に頼る他無かった。奄美大島には海軍大島防備隊が展開しており、古
仁屋には水上機基地があった。九州からの補給が途絶えがちなのは奄美大島も同じだったが、それでも喜界島よりは余
裕があったのだろう。(奄美大島には海軍の水上基地の他は陸海軍共に飛行場は無かった)

昭和20年4月29日この日の米軍機の空襲は非常に激しかった。08:20~09:05まで約70機の米軍機が来襲。
飛行場を銃爆撃。更に14:30~15:00まで約70機の米軍機が再び飛行場を銃爆撃した。
この間米軍は8機乃至12機で常時上空哨戒を行い、午後の空襲では時限爆弾を使用、時限爆弾は16:30以降、2時間
に亘り27個が爆発した。飛行場は数十個被弾し、今日明日中は使用不能となる損害を被った。
被害は滑走路以外にも及び、戦死2名、負傷1名を出した。戦闘指揮所入口が直撃弾で破壊されたのはこの日だった。
戦闘指揮所入口に命中した爆弾で、近藤宗男二等整備兵曹は1~2m吹き飛ばされた。爆撃で厚さ15㎝の扉は内側に開
き、通路はセメントの塊で一杯だった。近藤兵曹は仲間と負傷した村田繁之上等整備兵曹をセメントの塊を取り除いて
助け出した。近藤兵曹は木製の扉1枚のお陰で命拾いしたという。
小谷内時男整備兵曹は階段室の瓦礫の中から、同年兵の日高玖治上等整備兵曹を助け出したが、彼は内臓をやられて死
亡していた。小谷内兵曹は日高兵曹と天長節に配られる、酒・ビール・煙草・お菓子の話をしたばかりであった。
後には同じ階段室の瓦礫の中から、大脇弘一等整備兵曹の遺体が発見されている。
米軍が時限爆弾を使ったのはこの日が最初である。米軍は瞬発式(穴を深く掘る爆弾)、地上すれすれに爆発する物、焼
夷弾等様々な種類の爆弾を使用した。一番始末が悪いのが時限爆弾で、いつ破裂するのか分からないので、飛行場部隊
もほとほと手を焼き、修理作業の時には相当の犠牲者を出したという。
陸軍喜界島守備隊の西山玉男少尉はこの日夕刻、海軍部隊の要請で1個小隊を率いて滑走路の穴埋め作業に参加した。
滑走路では住民も車・モッコ・手蓑を使って穴埋めをしていた。爆弾穴は直径10m、深さ7~8mにも達していた。
穴に土を集めて投げ込んだが、穴の数が多くてとても修理が間に合わない。そこで海軍の指示で空のドラム缶を投入し
て何とか徹夜作業で飛行機の発着が出来るようになったと語っておられる。
17:00零戦3機が喜界島上空でグラマン6機と空戦となった。2機は自爆し1機は海中に不時着した。
18:15爆装零戦1機が不時着。この日は16:55~18:00の間に神風特別攻撃隊「第4筑波隊」「第5七生隊」「第
4神剣隊」「第5昭和隊」の爆装零戦合計33機が鹿屋基地から特攻出撃し、27機が米機動部隊に突入している。

昭和20年4月30日04:05~09:30に亘り米軍機4乃至8機が飛行場周辺を哨戒した。午後も同様の状況が続いた他、
16機が飛行場を銃撃した。
夜00:55海軍96式陸攻1機が物量投下の為飛来、積荷は25㎜機銃弾だった。これまでは喜界島に着陸して物資を下ろ
していたが、今回は積荷にパラシュートを付けて投下した。これは滑走路が使用不能だった事に加え、たとえ夜間であ
っても米夜戦の攻撃を受ける恐れがあり、着陸することが危険だったからだ。
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安全ドライブでのんびり戦跡巡りと観光してみた。(あんぜんマンって・・・センス無さ過ぎ 笑)
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▲▼喜界島名所の一つ「サトウキビ畑の中をまっすぐに伸びる直線道路」
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第40震洋隊の秘匿壕が早町に現存するとの事で車で見学に向かった。
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少し解り難い場所であるが早町港から少しだけ山側の場所にある。
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昭和20年1月25日に編成された第40震洋隊。安藤末喜大尉以下187名が2/11に配置された。以下看板説明文
太平洋戦争末期、喜界島上陸を目的とした米軍艦船に対して、250キロ爆弾を搭載し、体当たり攻撃を計画した海軍の
木製小型モーターボート、特効艇「震洋」(通称:○四艇)格納壕跡。
この一帯に数カ所あった奥行き50m程の格納壕には、50艇が格納されていたといわれています。
海軍設営隊(宮元部隊)と共に大島中学3年生により構築され、24時間2交代体制で短期間のうちに完成されました。
完成直後の昭和20年2月11日、安藤末喜大尉率いる第40震洋隊187人が配置されました。安藤隊は塩道グスンガァー
山中に拠を構えて出撃命令を待ったが米軍上陸部隊が接近することはなく終戦を迎え、ついに1艇も出撃することはあ
りませんでした。終戦まで約6000艇が製造された震洋は、オーストラリア・シドニーの戦争記念博物館に現存する1艇
を残すのみです。
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資料では55隻が配備されたとある。秘匿壕1基に長さ5mの震洋艇10隻程度格納できたはずなので、単純計算で5~6
基の秘匿壕があったと思われる。震洋の出撃機会は無かったが、度重なる空襲で震洋特攻隊員3名が戦死している。
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突き当りには戦後石垣が組まれ、壕全体の崩落を防いでいる。元々は加計呂麻島に現存する震洋秘匿壕の様に、入口付
近のみコンクリート造り、石積の奥は素掘り状態だったと思われる。
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小野津にも2月25日に編成された第111震洋隊(後藤三夫中尉以下182名)26隻が配備された。
秘匿壕の現存情報は無いが、こちらも震洋特攻隊員5名が空襲等で戦死しているとの事。
秘匿壕見学を終え、車を走らせようとした時、道の向こうで、こちらに向かって何か話かけているご老人が居た。
慌ててそのご老人のところに走った。私に話かけていた内容は「ちゃんと見学出来ましたか?」との事だった。
私が「はい。見学出来ました」と言うと、ご老人は満足そうに昔話を語ってくれた。聞けば、そのご老人は当時この秘
匿壕堀りに参加した方だった!当時大島中学3年生だったご老人は以下の様におっしゃった。
「壕堀りばかりして授業は全く無かったよ。勉強なんてぜんぜんしてない。でも島に来た特攻隊員は立派だったよー!
海軍のカッコいい軍服をピシっと着てて・・・覚悟を決めて島に来た姿はホントに立派だった。島の人はご馳走をした
りして親身になってお世話した。それに比べて島の陸軍部隊の兵隊さん達は靴も履かず素足・・・可哀そうだった。」
とおっしゃっていた。思わぬところで体験者の生の声を聞かせて頂いて本当に感激した。震洋隊は結果出撃する事無く
終戦(敗戦)を迎えたので生き残る事が出来た。元隊員達は戦後の日本復興の為に活躍してくれた事だろう。

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月1日06:22~20:00までグラマン4機が常時喜界島周辺を哨戒していたが、直接の攻撃はなかった。
4/29の空襲で破壊された滑走路も15:00には900m×80mの滑走路が使用可能になっていた。
昭和20年5月2日04:20~14:55まで米軍機は上空哨戒を行った。AMに2回延べ10機が飛行場を銃爆撃した。
この日は来襲機が少なかった為、1000m×80mの滑走路が復旧。滑走路がほぼ全て使用可能になった。

昭和20年5月3日この日、米軍機は喜界島に激しい攻撃を加えた。
09:30~20:27の間に7回に亘り合計154機が飛行場を銃爆撃した。特に激しかったのが15:25~16:30で少し
の中断を挟み、3回に分けて合計80機が来襲。復旧したばかりの滑走路は10個被弾し、また使用不能となった。
その他の被害も大きくトラック1台、士官舎1棟、兵舎1棟が炎上した。
米軍機の空襲が激しかったのは、翌日に菊水5号作戦が予定されていた為である。沖縄島の陸軍第32軍が総攻撃を実施
するのに合わせ、陸海軍航空部隊も大規模な攻撃を計画したのだった。
23:00頃、台湾の新竹基地を出撃した神風特別攻撃隊「帰一隊」の天山1機が不時着した。
23:00頃、大島防備隊所属の第3号報国丸と長水丸の2隻が緊急輸送の為入港。搭載物品は12㎝高角砲弾296発、25
㎜機銃弾5000発、その他弾薬火工兵器であった。機銃弾が枯渇しかけていた喜界島基地は大島防備隊に対し、機銃弾
の分割急送を要請した。この輸送はこの要請を受けて急遽実施されたのである。

昭和20年5月4日05:40~07:42まで米軍の上空哨戒が行われ、06:15~17:30の間10回に亘り合計108機が
飛行場と周辺集落を焼夷弾の他に時限爆弾も使用して激しく銃爆撃した。
前日の空襲で破壊された滑走路は04:45に1200m×80mの修理が完成した。
08:00からの25分間、喜界島上空で空戦が行われた。これは343空の36機と、空母「ランドルフ」の第12戦闘爆撃
飛行隊の12機、空母「ヨークタウン」の第9戦闘飛行隊2機との交戦だった。米第12戦闘爆撃飛行隊は07:45頃から
500ポンド爆弾で喜界島を爆撃し、その後島周辺を旋回して日本機を見張っていた。そこへ343空の紫電改が上空から
襲いかかって空戦となった。そこへ喜界島の偵察写真を撮っていた米第9戦闘飛行隊2機も加わっての空戦だった。
グラマンと日本軍機それぞれ15~16機が交戦し、島から日本軍5機が自爆(墜落)するのが目撃されている。
実際には日本側の6機未帰還の記録に対し、米軍は3機が被弾したのみであった。喜界島で目撃された自爆機は全て紫電
改の最期だった。09:09坂嶺集落付近に1機が不時着しているが343空の紫電改の可能性が高い。
08:45陸軍四式戦「疾風」1機が不時着、09:09四式戦「疾風」1機が海中に自爆。もう1機は赤連集落に不時着。
この日は第60振武隊の四式戦「疾風」8機が06:30頃、都城東飛行場を出撃しているが陸軍の特攻記録では宝島に不
時着した1機の他は喜界島への不時着記録は無い。
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震洋秘匿壕を見学した後も喜界島をドライブしてテーバルバンタに到着。
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喜界島を構成する石灰岩は、約10万年前から造礁性サンゴが絶え間なく生き続けることにより形成されている。
年間約2㎜といわれる極めて早い隆起速度により、世界でも類い稀なるサンゴ礁段丘の景観を見る事が出来る。
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喜界島の南西部を見渡す。
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地面ごと隆起した段丘が一望出来る。
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▼黄色線で印している所が喜界空港。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月5日05:15米軍は上空哨戒を開始。07:05~05:45までの間17回に亘り米軍機180機が来襲、飛行
場及び砲台、周辺の集落を攻撃。投弾延べ機数は100機以上に及び、飛行場は200発以上被弾した。
来襲機は13:30に100機を超え、16:00には70機の編隊が来襲、これは沖縄島の占領された元日本軍の陸上基地か
ら出撃している米軍機と判断された。修理された滑走路は16:00以降、また使用不能となってしまった。
この日は空輸のため多数の日本軍機が飛来した。00:05陸攻1機が物量投下のため飛来したが投下せずに引き返した。
01:20に陸攻1機が飛来し物量投下した。物資は飛行場付近の集落に落ち、4個が変形、3個が炸裂し1個だけが完全
状態で回収された。投下された弾薬箱がガジマルの木にひっかかり住民の犠牲者も多く出たと言われ、住民にとって空
輸は危険なものだったようだ。03:20にも陸攻1機が物量を投下、飛行場内に投下された8個は全て完全であった。
機銃弾輸送には海軍の輸送専門航空隊である1001空も従事した。一式陸攻の爆弾槽に筒に入れた弾丸・戦給品・整備
部品を12個搭載し、飛行場を目標に投下する。米夜戦を警戒しながらの飛行で、何回も星を夜戦と見間違えたという。

昭和20年5月6日米軍は06:50~17:45まで上空哨戒を行った。4回に亘り延べ16機が来襲、飛行場と周辺の集落
を銃爆撃。滑走路は13:00以降は使用不能となってしまった。
5月に入ると喜界島飛行場へは時々日本軍機が不時着する程度で、菊水作戦が行われても使用する機はほとんど増加し
ていない。徳之島から喜界島へ飛行場使用の重点を移した陸軍であるが、こうした状況を見て、陸軍の菅原道大第6航
空軍司令官は喜界島の使用放棄を決断したのである。
このように南西諸島は喜界島も含めて昭和20年入ると激しい空襲を連日の様にうけた。沖縄島だけが沖縄戦では無い
事が「昭和20年喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録」を読んで頂けくとお解りになるだろう。
2018年10月18日14:00過ぎ、喜界島メイン集落である湾(わん)集落にある、農家の敷地内で爆発事故が発生した。
湾港辺りは喜界空港があり、大戦中は最も激しく、そして毎日の様に米軍が空爆した場所だ。
2回の大きな爆発音と振動が響き渡り、地面に深さ約3mのすり鉢状の穴が開き、敷地内にあった農業用倉庫が倒壊した。
幸いケガ人などは居なかったそうだが、この爆発は大戦当時に米軍が落とした爆弾(不発弾)である事は疑いようもない。
喜界島では現在でも、毎年1~3発の不発弾が発見されている。土木工事や農地整備の際に地中から発見されること多く、
その度に自衛隊が処理にあたっている。

昭和20年5月7日米軍機は04:45~08:35まで在空。8回に亘り延べ44機が来襲、飛行場と砲台付近の集落を爆撃。
09:20の空襲で滑走路中央に被弾、使用不能となってしまった。

昭和20年5月8日15:55グラマン4機が飛来したものの、上空を旋回しただけで去っていった。
滑走路は06:30、1000m×50mが復旧。この日は来襲がなかったので午後に全力で補修作業を行い、00:00には、
1000m×100mが完成し、大型機でも離着陸が可能になった。

昭和20年5月9日米軍機は05:20~19:50まで上空哨戒を行った。4回に亘り延べ112機が来襲。焼夷弾を多数使用
して集落山林地帯を攻撃した。
この日の戦死者の内3名は、一整曹夏目磯吉、和田一三、浜口秋男であった。3名は茅葺三角兵舎の第3兵舎でタバコ・
菓子等の分配作業をしていたころ直撃弾を受けて戦死した。他に藪長二郎も戦死している。

昭和20年5月10日米軍機は06:35~12:50までの間に3回に亘り延べ約26機が飛行場と付近の集落を銃爆撃した。
19:51には夜戦7~8機が来襲、照明弾・ロケット弾・焼夷弾を投下した。米軍は時限爆弾を投下し終日爆発が起きて
いた。この日、日本軍の応戦で撃墜された米搭乗員1名が捕虜になった。
捕虜になったのはDavid・C・KINCANNON海軍大尉でF4Uコルセア戦闘機の搭乗員。喜界島付近に墜落、
海上に落下傘降下して捕虜になった。14:45F4U4機が護衛したPBM飛行艇1機が搭乗員救助の為に飛来している。
その後5月中旬頃、David・C・KINCANNON海軍大尉は海軍第321設営隊の大島宗彦主計大尉によって斬
首された。この時は住民が処刑を見物していたという。

昭和20年5月11日08:15と13:37に1回ずつ延べ12機が飛行場を銃爆撃。その後も17:00頃まで上空哨戒が行わ
れ、20:25には夜戦が飛来した。この日は菊水6号作戦が実施された為、米軍機は上空哨戒を行って飛行場の使用を妨
害した。09:15に721空の零戦1機(石嶋健三少尉)が着陸。石嶋少尉は06:42鹿屋基地を出撃、燃料不足の為に喜界
島に不時着した。10:00日本軍機2機が着陸準備旋回中、米軍機8機が来襲して空戦となった。日本機は砲火を使用せ
ず米軍機に撃たれ、1機は上嘉鉄川嶺間の上原の畑に、もう1機は中熊字先内字中間の田に墜落した。
このうち前者は菊池飛行士(海軍)の機で、14:00頃に米軍機4機に撃たれて墜落したとも言われている。遺体は第321
設営隊が埋葬した。15:00頃、空戦で大破し中里字コマに墜落した大坪飛行士を中里集落の住民3人が救助した。
駆け付けた巌部隊の田中教官に対し、大坪飛行士は「教官殿グラマン1機は撃墜しました」と報告した。大坪飛行士は
顔面に負傷し、右足に機銃弾の貫通銃創を受けていた。

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分散した農地を一つの区画にまとめ、効率化を進め、そして災害にも強い農業を確立する為に、少しづつ島民の農地移
動に向けて農地整備が進められている喜界島。2017年9月4日観測史上最大となる110.5ミリの雨量を観測し、奄美群
島では比較的災害に強いと言われていた喜界島を襲った記録的大雨は、床上浸水被害や土砂崩れなど、甚大な被害をも
たらした。9/4の降り始めからの総雨量が2日間あまりで549ミリと、平年の9月ひと月分の3倍を超える雨量となった。
建物の被害は半壊1棟、床上浸水20棟、床下浸水79棟。住宅以外にも県道2ヵ所、町道6ヵ所、農道45ヵ所が通行止め
となり、さとうきび栽培など農業が基幹産業の喜界島。農地/水路/農道で合せて85件の被害が出た。
しかし、喜界町の自主防災組織率は100%。50年に1度の大雨にみまわれながらも、人的被害が無かった事は、日頃か
らの住民同士のつながりの強さを示している。
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▼ドライブ中、トイレをお借りさせて頂いた志戸桶地区の「グループホームがじゅまる」
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9/4大雨の中、地域住民がグループホームがじゅまる入所者8人を背中に担いで、近くの安全な住宅へ避難させた。
当時9人の高齢者が居る中で豪雨にさらされ、周囲を水に囲まれ差し迫った状況となった中、地域の方が助けに来て、
一人一人おんぶして安全な場所へ連れていったという。近くの住民の協力で避難することができたあの日以来、職員の
意識が大きく変わったという。
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東日本大震災の津波で流され、はるばる喜界島まで流されて来た宮城県気仙沼の漁船が展示されている。
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2012年5月2日喜界島北西部沖合のリーフに無人の漁船(0.4t)が打ち上げられているのが見つかった。
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奄美海上保安部などが3日、漁船登録番号などを基に確認した結果、宮城県気仙沼市の男性(64歳)が所有する船だ
と分かった。漁船は2011年3月11日気仙沼市の漁港に陸揚げしたが、東日本大震災による津波で海に流されていた。
宮城から直線距離で約1500㎞を約1年2ヵ月にわたって漂流していた事になる。
東日本大震災による津波で流された漂流物はアメリカのアラスカ州やワシントン州でサッカーボールなどが確認されて
いるが、南へ漂流して発見されるケースは珍しいという。
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▼小さいが近くには喜界島唯一の「滝」がある。
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後白河法皇の側近だった俊寛(しゅんかん)は、平家への謀反を企てた為に、鬼界ヶ島へ島流しになったと言われる。
同じ話は鹿児島県硫黄島や長崎県伊王島にも伝わっており、それぞれの島に俊寛の墓がある。
鬼界ヶ島は喜界島であると信じるも信じないも自由で、文学研究者の間では硫黄島に流されたというのが定説だ。
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墓の周辺は昔から坊主前と呼ばれていたという。喜界町は以前にこの墓を発掘した結果、身分の高いと思われる人骨が
発見され、一緒に埋葬されていた木棺は木曽地方(長野県)に算するクロベ材だったという。
俊寛で無かったとしても、当時(平安時代)の高貴な者であったことは間違いなさそうだ。京の都を中心に貴族が華やか
な生活していた平安時代。平安時代は詳しく無いし、あまり興味も無いが、俊寛のような人が居た事を初めて知った。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月12日米軍機は午前2回、午後2回に亘り、延べ28機で飛行場、兵舎地帯、砲台を銃爆撃した。
昭和20年5月13日この日は08:25に17機が飛行場と砲台陣地を銃爆撃しただけだった。
昭和20年5月14日03:00に米軍機飛来。04:10照明弾とロケット弾を投弾し、滑走路修理の妨害を行った。
その後06:45に16機が来襲し飛行場・砲台陣地を攻撃したが、その後は昨日と同様に米軍機は飛来するだけだった。

昭和20年5月15日13:15米軍機12機が飛行場に投弾。20:30には夜戦2機が来襲、飛行場と周辺集落に照明弾と
ロケット弾を投弾し銃撃。滑走路は1250m×100mが使用可能だったが、日本軍機の使用は12日から丸4日間無い。
明らかに日本軍にとって、喜界島基地の重要性が低下していることが分かる。

昭和20年5月16日04:45と17:00に1機ずつ来襲、照明弾を投下。直接攻撃は05:12に2機が来襲したのみ。
この日22:40久しぶりに96式陸攻1機が着陸。機銃弾12箱と電探部品を運んできた。同機は23:24に不時着搭乗
員を乗せて離陸したが、6分後に米夜戦の攻撃を受け、火を吐きつつ海中に突入するのが島から目撃された。
墜落の様子は地上で多くの人が目撃した。第39振武隊の山田千秋少尉は、離陸直後に待ち構えていた夜戦に海中に
撃墜されるのを呆然と眺めていた。山田千秋少尉は4/11知覧を出撃し、同隊5名と喜界島に不時着していた。
第29振武隊の山田忠男伍長も目の前で不時着搭乗員を乗せた飛行機が、夜戦に撃墜されるのを目撃している。
島の陸軍守備隊の小川高男中尉は、陸攻の出発の数分後に米軍機が、陸攻を追う様に北に向かうのを目撃した。
米軍機の爆音が消えて間もなく、彼方の暗闇が一瞬真っ赤になった。陸攻の最後だった・・・。
96式陸攻には海軍2名と陸軍12名の搭乗員を乗せていた。海軍搭乗員は細井亨少尉(筑波空)と大田上飛曹(721空)
だった。陸軍搭乗員は、飛行第59戦隊の平田保少尉、飛行第66戦隊の田野本源二曹長、栗本一雄曹長、井塚武好曹長、
志村初夫軍曹、入星弘曹長、渡辺正衛曹長、長谷部晴夫伍長、檜山光衛兵長、久賀野務兵長、田口貞一郎兵長、平沼
忍澄兵長の12名を一気に失った。
戦死した飛行第66戦隊員は徳之島に前進したが、空襲で飛行機を失い、喜界島に移動して迎機を待っていたのだ。
喜界島で帰還の便を待っていた不時着搭乗員は5班に分けられていた。その中でくじ引きによって先発後発を決めた。
飛来した陸攻に先発組が乗り込んだが、離陸直後に夜戦に撃墜されてしまった・・・くじ引きの勝ち負けが生死を分け
たのだった。残った者は言葉も無く宿舎に帰っていった。
また、第43振武隊の今井光少尉は、当初、この96式陸攻に乗る予定だったが、海軍の搭乗が3名増えたということで
降ろされて命拾いしたという。▼海軍96式陸上攻撃機
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撃墜された陸攻は巌部隊の2番機だった。巌部隊の陸攻2機は、命令で沖縄本島海軍小禄基地を米軍の上陸直前に脱出し
た。だが彼等は、第5航空艦隊の参謀から逃亡兵扱いされ、死ぬまで何回でも物量投下に行く様命令されていた。
この日も2機は命令で、1番機は沖縄島小録の巌部隊陣地へ物量投下に、2番機は喜界島へ向かうことになった。
出発前に1番機の市川安人上飛曹は、2番機の同期の大島篤上飛曹に「2番機の方が死ぬ確率が低いから、自分のマフラ
ーを家に送ってくれ」と託した。この時、大島上飛曹は飛行場の片隅に生えていたテンニンギクの花を大事そうに抱え
てきた。大島上飛曹は、「これを喜界島の飛行場に移植してやろうと思う」と言い、鹿屋基地から花を持って愛機に搭
乗したという。2番機搭乗員は堀口貞康上飛曹、渡辺巌上整曹、志田昭一飛曹、大島篤上飛曹の4名だった。
現在、喜界島の飛行場周辺では、島から飛び立つ特攻隊員に、島の娘達が送ったという花が、春から初夏にかけて咲い
ている。現在この花は「特攻花」と呼ばれている。戦後喜界島に行った市川安人上飛曹はこの花を見て、その花が大島
上飛曹の持って行ったテンニンギクと同じ花だと確認している。
喜界島において「島から飛び立つ特攻隊員に島の娘達が送った」という証言の根拠は無い。ただ喜界島でも、時期は不
明だが特攻隊員を婦人達が涙をぬぐって接待しており、住民と特攻隊員の接触自体はあったようだ。
4/7着陸した第29振武隊の山田忠男伍長は、喜界島で一時期民家に宿泊していた。
その時は芋焼酎の作り方を習い、製糖作業を見学している。また、巌部隊には勤労奉仕隊として、島の女性が主計科に
勤務していた。場所は水天宮下の三角兵舎の主計科烹炊所(後、羽里に移転)だった。
勤労奉仕隊の班長は湾集落の中沢ヒデさん(旧姓喜島)で人数は10人だった。彼女たちは空襲下に陣地への食缶運び
も行っている。この様に住民が特攻隊員と接する機会はあり、そうした流れの中で出撃する隊員に花を渡した可能性は
十分あっただろう。
※1983年喜界島を訪れた1番機の搭乗員(野沢正一さん)は、民宿の主人から2番機が海岸から20mの海中に沈んでい
る事を聞き、自身もそれを確認したという。現在もまだ沈んだままなのだろうか・・・。

昭和20年5月17日米軍機は03:15~10:37の間に4回に亘り延べ30機が飛行場や対空砲陣地を銃爆撃した。
飛行場の対空砲陣地は大きな被害を受け、25ミリ機銃1基が直撃弾で使用不能となり、戦死6名、負傷1名が出だ。
22:25に飛行第66戦隊の99式襲撃機1機が着陸した。この日万世基地から飛行第66戦隊の4機が出撃している。
内1機が未帰還、2機は徳之島に不時着し、残りの1機が喜界島に着陸したのである。
徳之島から奄美大島の古仁屋経由で喜界島に移動し、迎えの飛行機を待っていた搭乗員の中に、飛行第66戦隊の赤
堀春一中尉がいた。赤堀中尉は16日に飛来した巌部隊の陸攻で帰還することになっていたが、突然の高熱で断念せざ
るを得なくなり、同じ66戦隊の仲間が飛行場に向かうのを見送った。
だが皮肉なことに見送った同僚は16日で書いたように戦死し、中尉はこの日着陸した99式襲撃機に乗って18日に九
州に帰還している。生か死か・・・戦時下の運命は残酷である。
23:30大島防備隊所属の第3号報国丸と長水丸の2隻が、緊急輸送の為入港した。5/3に続いて2度目の海上補給だ。
揚陸したのは白米200俵(5t),12センチ高角砲弾150発、25ミリ機銃弾5000発だった。

昭和20年5月18日04:00揚陸を終えた第3号報国丸と長水丸の2隻が出港した。
米軍機は06:27と16:25の2回、合計44機が飛行場、砲台陣地と周辺の集落を銃爆撃した。
18:59前日着陸した飛行第66戦隊の99式襲撃機1機が赤堀中尉が同乗して九州に向けて飛び立った。
00:13攻撃第251飛行隊の天山1機が着陸し、同機は01:25串良基地に向けて飛び立った。

昭和20年5月19日終日喜界島に米軍機は来襲しなかった。滑走路は1250m×150mが復旧して使用可能だった。
この日は喜界島に重大な事態が起こっていた。沖縄島で奮戦中の陸軍第32軍から、米軍が「二十日前後沖縄本島方面
ニ対シ強力ナ増援乃至奄美大島就中喜界ケ島状況ニヨリ先島方面等ニ新ニ上陸ヲ開始ノ算大ナリ」との情報を指揮下の
部隊に伝達したのである。要は、奄美群島の島々に米軍が上陸する可能性がると伝えてきたのである。
これを受けて04:00独立混成第64旅団の高田貞利少将は、奄美諸島全域に甲号戦備を発令。
これを受けて、喜界島海軍部隊では信令作第2号が発令された。この命令は5/1に木田大佐の名前で伝達されていたも
ので海軍部隊の陸上戦闘警戒規定を定めていた。敵上陸の危険度に応じて、第1~第3まで警戒配備の度合いが決めら
れていた。これに基づき16:00陸戦第2警戒配備が発令された。これは敵上陸の恐れがある場合に発令され、2時間で
陸戦配備につけるように待機するものであった。

昭和20年5月20日甲号戦備発令にもかかわらず、米軍機の来襲は低調だった。07:05に8機による空襲があっただけ
で後はグラマンやPBM飛行艇、P38による哨戒が行われただけだった。
昭和20年5月21日07:30と08:30の2回に亘り、米軍機約30機が飛行場と周辺集落を銃爆撃した。
昭和20年5月22日米軍機は09:35、16:10、16:40の3回に亘り延べ81機で来襲、飛行場と砲台陣地、周辺集落
を銃爆撃した。
昭和20年5月23日16:45合計16機の米軍機が飛行場と周辺集落を銃爆撃した。

昭和20年5月24日米軍機は10:45~19:20までの間に4回に亘り合計34機が飛行場と高角砲陣地を攻撃した。
23:58陸軍四式重爆撃機1機が、片方の発動機が被弾した為不時着。この日は沖縄島の北・中飛行場に義烈空挺部隊
を突入させる義号作戦が行われ、その直協の為に出撃した飛行第60戦隊か第110戦隊の内の1機であった。
昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」の重爆12機は、熊本県健軍飛行場から次々と出撃していった。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず海軍は敵機動部隊発見の報が入った12:40に既に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は出撃した後だった。「義烈空挺隊」の犠牲は本命の航空特攻を成功させる為のものだったはず。
陸軍と海軍の歯車は太平洋戦争の最初から最後まで噛みあわないままだった。
因みに飛行第60戦隊は昭和20年に熊本県にあった健軍飛行場に移動、沖縄戦に投入された。
昭和20年3月28、29日健軍飛行場より沖縄周辺の米艦船攻撃に出撃。
昭和20年4月7日健軍飛行場より沖縄島集積所攻撃に出撃。
昭和20年4月12、16、22、28日健軍飛行場より沖縄島の米軍に占領された北・中飛行場爆撃に出撃。
昭和20年5月10、18日健軍飛行場より沖縄島の米軍に占領された北・中飛行場爆撃に出撃。
昭和20年5月24日「義烈特攻隊」の直協として健軍飛行場より沖縄島の北・中飛行場へ出撃。
※この日、第110戦隊は「義烈特攻隊」の戦果確認の任務も担って出撃している。
「義烈空挺隊」突入に際して陸軍第6航空軍は120機の特攻機を準備。しかし「義烈空挺隊」突入後、沖縄周辺は雨が
降り、天候不良で離陸出来た特攻機は70機であり、その内「突入」と報告されたのは24機であった。
「世界が語る神風特攻隊」YouTube

▼教習のドライビングコースは見当たらなかったが自動車学校もあった。運転免許更新時の講習所かな?
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▼喜界島の製糖工場。
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▼喜界島滞在中、宿泊したのは「ビジネスホテル喜界」女将が作ってくれる朝食が最高に美味しいお勧めの宿。
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宿の女将は物静かで口数は少ないがいい人だった。こういう人居ますよね、話さなくても良い人感のオーラ出てる人。

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月25日米軍機は00:49来襲。吊光投弾7個を投下して哨戒を行い04:50にも飛行場に銃撃を加えた。
06:10には8機が飛行場と周辺集落を銃爆撃し、07:38には16機が短時間哨戒をして飛び去った。
この日は義号作戦に呼応して菊水7号作戦が行われている。
08:42陸軍特攻第78振武隊の97式戦闘機1機(田宮治隆少尉)が不時着。
08:45陸軍特攻第109振武隊の97式戦闘機1機(寺田譲伍長)が不時着。
19:25沖縄島の北・中飛行場を爆撃した飛行第60戦隊か第110戦隊の重爆1機が着陸。
同機は25分後に熊本の健軍飛行場に向けて出発した。

昭和20年5月26日終日降雨が続き、米軍機は全く来襲しなかった。
03:54前日不時着した第78振武隊の97式戦闘機1機(田宮治隆少尉)が知覧基地へ出発した。
この話は、「田宮少尉が4月末に徳之島から喜界島に移動して帰還の機を待っていた第21振武隊長の水川禎輔中尉から
愛機を譲ってくれと嘆願、説得され、水川中尉が操縦して田宮少尉を同乗させて、喜界島を出撃、沖縄に突入した」と、
一般には言われている。だが、『南西空』の記録では「同機は知覧に向けて出発した」となっており、沖縄突入とは正
反対で九州に帰還した事になる。これを裏付けるのが第43振武隊の今井光少尉の回想だ。
それによると、25日に不時着した97戦2機を水川中尉と今井少尉が内地に送還する事になった。だが水川中尉が乗った
97戦はエンジンが停止し飛行不能となった。
「貴様は1人だが、俺はまだ5名も残っている。1日も早く内地に帰って飛行機の手配をしなければならない。頼むから
譲ってくれ」と懇願された今井少尉は97戦を譲り、水川中尉は同機に乗って飛び立ったという。
つまり水川中尉は沖縄に突入したのではなく、内地に帰還したのである。
この頃第21振武隊は隊長以下11名が喜界島にいたが、その中に石田京少尉の姿もあった。石田少尉は4/2知覧から徳
之島に前進したが、おそらく空襲で飛行機を破壊されたのだろう、古仁屋経由で帰還の便を求めて喜界島に移動してき
ていた。石田少尉は田宮機について、「5月25日二式単高練に2人乗って夜間出発した」と回想している。二式単高練
とは二式高等練習機のことである。同機は97式戦闘機を改造して練習機としたものなので、両者はほとんど同一の機種
である。もし水川中尉が本当に沖縄に突入したのならば、部下であり、石田少尉は自著でその旨を書くはずである。
なんと言っても自分の隊の隊長なのだから。だがその文脈からは、田宮機の離陸は沖縄出撃ではなく九州への帰還作戦
の一環だったとしか読み取ることが出来ないし、97式戦闘機に2人が乗って突入することは考えにくい。
この頃喜界島にいた第29振武隊の山田伍長は、内地にいる時に飛行場間の移動に際して、自分の機が故障したので、同
僚の機の胴体内に入って飛行した事があった。ただ胴体内はラダーとかエルロンとかの索が中にあるので、それらに触
らないようにじっとしているしかないという。通常は戦闘に行く時に胴体内にもう1人乗せることは考えにくく、別隊の
隊員に胴体内に乗せてくれと頼まれても、まず受け入れないと山田伍長は語っている。
田宮少尉については第6航空軍の史料でも、「二六日帰還ノタメ2F水川中尉操縦同乗出発、行方不明」となっており、
当時でも帰還途中の戦死とされていた。
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中里集落をブラブラ歩く。
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道幅は広くは無いが、ゴミ一つ落ちてない綺麗な集落。
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土俵もあった。この場所はお祭りなどでも活用される場所。
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お家はいたって普通。綺麗なお宅が多い。
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本州や四国と違うところは「石敢當」。鹿児島県と沖縄県にのみ見られる魔よけの石標だ。
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表札のように立派な物から自作した感じの物まで様々。
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喜界島にも神社は沢山ある。
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鳥居の形が特徴的だ。
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▼今回戦跡を案内して頂いた方は日の丸が掲げられたお家の方。
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中里集落の元区長さんの野間昭夫さんだ。喜界島観光物産協会のシマあるきガイドをされている。
でもご高齢なので、ここ最近は中里地区のみをご担当されていて、もうそろそろ引退なさるかもしれないとの事。
喜界島の戦史は非常に詳しく、考え方も御立派で、今までの戦跡ガイド中で一番素晴らしかった。
今回は2日間も私の戦跡巡りに付き合って頂き、奥様の手料理までご馳走になった。本当に有難うございました。
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外食は一回、ビジネスホテル喜界さんの女将に教えて頂いた「喰い処 十兵衛」さん。
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▲喜界島名物「油そうめん」(喜界島の方言では「そうむぃんすーき」)茹でた素麺を、いりこ/鰹の出汁&焼いた油に
絡ませたシンプルな料理。実はメーニューには掲載されていないが、十兵衛の優しい大将が特別に作ってくれた。
十兵衛さん、有難うございました!また行きます。喰い処 十兵衛 0997-65-3520(お昼はランチ、夜は居酒屋)

大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年5月27日午前中は雨、その後曇りで米軍機の来襲はなかった。
08:35陸軍特攻第72振武隊の99式襲撃機1機(金本海龍伍長)が不時着した。04:30万世基地を出撃した機だった。
金本伍長は沖縄に向かったが、雨による視界不良で敵艦を発見出来なかった。そのうちに燃料不足となり、基地までは
もたない為、途中の喜界島に不時着した。金本伍長は帰還の際に、島で帰還の便を待っている搭乗員2人(少尉と軍曹)
を後席に同乗させてくれるように頼まれた。伍長は離陸する時、「後ろの2人の笑顔が印象的である」と回想している。
※金本海龍伍長は朝鮮人特攻隊員。
特攻隊員になったとはいえ、やはり内地へ帰還する事は死から生への転換であり、自然と顔もほころんだのだろう。
この時帰還した少尉とは先述した第21振武隊石田京少尉である。少尉は水川中尉の帰還した翌日、伍長1名と共に指名
されて金本機に乗って無事万世に帰還している。

昭和20年5月28日久々に米軍機が来襲した。05:31と06:38に合計14機が来襲して飛行場と砲台陣地を銃爆撃した。
03:00鹿屋から出撃した陸軍航空輸送部第9飛行隊の重爆2機が着陸。多くの特攻隊員を乗せて福岡に帰還した。
02:45海軍神風特別攻撃隊「第2白菊隊」の練習機「白菊」1機が着陸。
27日菊水8号作戦発動に伴い徳島第2白菊隊16機が串良を出撃、7機14名は、鹿屋を出撃した菊水部隊白菊隊(高知空)
12機と共に沖縄周辺海域の敵艦船群に突入散華した。
この機は27日21:10串良基地を出撃した徳島海軍航空隊所属の特攻機(植原廣2飛曹と相澤彬一1飛曹が搭乗)で、発
動機不調の為、海上に爆弾を投下、沖縄に到着したものの視界不良のため不時着したのであった。
同機は25日に不時着した931空の天山の3人の搭乗員(宮本2飛曹等)を乗せて、18:26串良基地に向けて出発した。
宮本2飛曹は出発の際、飛行場の参謀から秘密書類を預かった。白菊は海面すれすれを飛行して無事帰還した。
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▲讃岐山脈上空を飛ぶ徳島空の練習機「白菊」五一二号機
練習機「白菊」低速の練習機に250キロ爆弾を2発も搭載した為、速度は極端に遅く、80~90ノットしか出なかった。

07:54陸軍特攻第54振武隊の三式戦「飛燕」1機(岡本一利少尉)が着陸。
岡本少尉は知覧基地を4機で出撃したが、グラマン戦闘機の攻撃を受けて海上を超低空で逃れ喜界島に不時着した
10:21岡本少尉は、25日に不時着し、不時着後愛機を空襲で焼失して島に残留していた第109振武隊の寺田伍長を
「飛燕」の胴体内に乗せて知覧基地に帰還した。
19:29四式戦「疾風」1機が着陸。これは15:02に都城東基地を出撃した第58振武隊1機と第59振武隊3機の内の1
機と思われる。

昭和20年5月29、30日は終日降雨が続き米軍機の姿は無かった。
昭和20年5月31日00:00長水丸と第3号報国丸が入港した。積荷は食料(米俵20)で、揚陸を終えると01:00過ぎに
出港した。
昭和20年6月3日陸軍特攻第106振武隊の97式戦闘機2機(成田磯次伍長と本夛保男伍長)が不時着。
成田伍長と本夛伍長は17:00知覧基地から出撃。成田機は飛行して2時間後、滑油漏れの為前が見えなくなって不時着
同時に本夛機も着陸したが、本夛伍長は胴体着陸して機が壊れた。この日も米軍機の空襲は行われており、成田機が無事
だったのは奇跡である。

昭和20年6月6日陸軍特攻第113振武隊の(二式高等練習機)12機が知覧基地を出撃した。
だが奄美大島を過ぎる頃、3~40機のグラマンに攻撃された。特攻機は重い爆弾を抱えたまま回避を試みるが、練習機
という低性能に加え、爆弾で重量が増した機では抵抗すら出来ず、菊池秀雄伍長、中島璋夫伍長が相次いで撃墜された。
それを見た椿恵之伍長は爆弾を落とすと米軍機と空戦に入った。1機に機銃弾を浴びせたものの、その直後に被弾して機
は海面めがけて落下した。ところが奇跡的に機は立ち直り、そのまま海上に不時着した。
機から脱出した椿伍長は喜界島の海岸に漂着し、住民に助けられた。その後1週間の間守備隊の世話になり、内地に連絡
に行く大発に便乗して、6/15鹿児島の枕崎港に到着した。第113振武隊は椿機と徳之島に不時着した板東 晃少尉機以
外は、全機沖縄に突入し未帰還となっている。
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▲知覧から出撃していく第113振武隊の二式高等練習機(写真の搭乗員は中島璋夫伍長の最後の姿)
昭和20年6月7日10:00米軍機3機来襲、空襲で民家8戸が焼失した。
昭和20年6月8日06:48から米軍機の上空哨戒が始まった。10:00米軍機3機来襲、飛行場爆撃と共に焼夷弾で攻撃。
民家6戸が焼失した。そして15:50以降米軍機はいなくなった。
この日は陸攻による空輸作戦が実施されている。海軍第5航空艦隊長官宇垣纏中将は「沖縄及び喜界島に対する物量投下
は成功せり(沖縄は領収非ず)」と日記に記している。喜界島へは陸攻2機が、沖縄島へは801空の陸攻3機が手榴弾を
投下して物資空輸作戦を実行している。
昭和20年6月9日14:00米軍機2機が飛行場と共に民家を攻撃し1戸が焼失した。米軍機は高空より投弾した為、対空
砲火は応戦せず見学するしか出来なった。
6/3に不時着した第106振武隊の成田伍長が、機体の修理を終えて知覧基地に帰還している。
同じ日に不時着した本夛伍長の消息ははっきりしないが、成田機に同乗して帰還したのかもしれない。

昭和20年6月10日14:00米軍機4機が来襲、飛行場と民家を攻撃して民家17戸が焼失した。
この日は鹿屋基地から、海軍第2神雷爆戦隊の零戦6機(500㎏爆弾搭載)が喜界島に進出した。
6機は岡本鼎中尉、細沢実1飛曹、松林信夫2飛曹の小隊、岡島四郎中尉、星野実1飛曹、竹谷行康2飛曹の小隊。
細沢実1飛曹の爆装零戦は、現存する中里集落の有蓋掩体壕に収容され、他は無蓋掩体壕に収容された。
喜界島(小野津)の第111震洋隊長 後藤三夫中尉は、岡本中尉・岡島中尉が三重海軍航空隊同期入隊だったので、空襲の
合間を縫って飛行場によく出かけた。灯火管制の士官室で飲み明かしたこともあったという。
その後、特攻隊員が喜界島に待機中、空襲を受けて竹谷2飛曹の機は炎上し、竹谷2飛曹は内地へ帰還した。

昭和20年6月16日久し振りに大規模な空襲となった。AMはP47戦闘機34機、PMはF4UとF6F合わせて32機が来襲。
飛行場と集落を攻撃。17:15以降は米軍機はいなくなった。この攻撃で12センチ高角砲1基が直撃弾の為大破、下士
官1名と兵3名が戦死、兵7名が重傷を負った。この日飛来したP47は沖縄の伊江島飛行場から発進した38機で、喜界
島の舟艇・対空陣地・滑走路・建物を攻撃した。これが確認出来るP47による最初の喜界島飛行場空襲であった。
昭和20年6月17日09:00F4U8機が周辺を哨戒。AMはP38(2機)、F4U(22機)、PMは4機が主に海岸付近の艦船
を銃撃した。占領された沖縄の元日本軍飛行場が整備されるのに伴い、米陸上機による攻撃が増加しつつあった。
昭和20年6月20日14:00に米軍機3機が来襲、低空から曳光弾掃射で6戸が焼失した。
昭和20年6月21日11:00に米軍機8機が来襲、民家は1戸が焼失した。
昭和20年6月22日AM/PMとも米軍機2機前後が来襲し、飛行場を爆撃した。
この日の05:30~06:00第721海軍航空隊の一式陸攻6機(桜花搭載)が鹿屋基地を出撃した。その内の1機には副操
縦員として長濱敏行1飛曹、機長として上田照行上飛曹が乗っていた。
07:00頃、陸攻隊が奄美大島付近を飛行中、グラマンの攻撃で僚機が次々に火を吹い
て撃墜された。(出撃した第10回神雷桜花特別攻撃隊の陸攻7機中、4機が未帰還)
長濱1飛曹機も被弾してエンジン不調となり、桜花を捨てて機を軽くし、海面すれすれに飛行し、空襲で穴だらけの喜界
島飛行場になんとか不時着した。着陸する時地上の機銃陣地からの射撃を受けたが、これは陸攻の背後に付いたグラマン
を追い払うための射撃だった。喜界島不時着時には片方のエンジンは焼きつき、燃料の残りはゼロだった。
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▲4/12 第3回神雷桜花特別攻撃隊出撃前の(攻撃708飛行隊)「桜花」を抱いた一式陸上攻撃機。721-K05
不時着した一式陸攻を見て、3日に不時着していた「彩雲」の近藤芳雄少尉は、エンジンの修理を希望する陸攻の機長(
上田照行上飛曹)に対し、近藤少尉は基地の状況を説明し、早急に脱出する必要があると説いた。
だが機は片発機の為、離陸が難しい。そこで余分の燃料と飛行機以外の兵器を下ろして身軽にした。
それでも上田機長は修理を望んだ。留まって捕虜になるか、離陸に失敗して死ぬか、離陸に成功して鹿屋に帰投するか
のいずれかだと説得し、強引に離陸帰投する事になった。彩雲搭乗員3人も乗せた陸攻はレバー全開で右エンジンだけで
離陸、滑走路を目一杯使って離陸成功。だが飛行するだけで精一杯で高度も取れず変針も出来なかった。
銃撃を受けた時に損傷したのか、脚の出し入れが出来ず、米軍機を避けて海面を超低空で鹿屋基地に向かった。
鹿屋基地に接近した時は高度100m、燃料計はゼロ。そして着陸すると滑走路の終点でエンジンが停止したという。
6/22、沖縄の日本軍最高司令官牛島満陸軍中将と参謀長の長勇陸軍中将は摩文仁丘の洞窟で共に自決。
沖縄戦は事実上終結し、菊水作戦もこの6月22日をもって終了した。

7月になっても米軍機の攻撃は散発的ながら続けられた。
喜界島にいた不時着陸海軍搭乗員の多くは5月中に内地に帰還。しかし一部は7月に入っても喜界島に残されていた。
7/2喜界島にいた陸軍搭乗員は、誠第39飛行隊(木下孝之少尉)、誠第37飛行隊(春島邦武少尉)、第23振武隊(岡本龍
一伍長)、第29振武隊(山田忠男伍長)、第44振武隊(武田亀遊軍曹)、第46振武隊(斉藤健伍長/奥村明雄伍長)、第75
振武隊(大本正伍長)の8名。
このうち第23振武隊の岡本伍長、第44振武隊の武田軍曹は、徳之島から帰還の便を求めて喜界島に移動して来た。
第46振武隊の斉藤伍長・奥村伍長は4/5喜界島に前進、その後の空襲で愛機を破壊されていた。

第75振武隊の大本伍長に関して詳細は不明だが、4/7~4/16に万世基地を出撃後、喜界島に不時着した可能性が高い。
誠第37飛行隊の春島少尉も詳細は不明だが同隊の僚機が4/6新田原基地から出撃しているので、こちらも出撃途上の喜
界島不時着と思われる。ちなみに春島少尉は奄美大島の宇検村出身である。
第29振武隊の山田伍長は先述のように4/7喜界島に着陸、その後空襲で愛機を破壊された。その後の帰還の便にも洩れ
て島で待機していたある日、徳之島で参謀本部への書類を届ける為に97式戦闘機の搭乗員を探していた所、山田伍長が
選ばれて喜界島から徳之島へ渡っている。
7月2日現在、徳之島にいた搭乗員は、木下少尉・春島少尉・武田軍曹・山田伍長が戦闘機の搭乗員だった。
この内2人の少尉は特操出身者で、後の2人は少飛出身者だった。おそらく操縦経験の豊富さという点で、急速養成の特
操ではなく、少飛の山田伍長が選ばれたと思われる。
徳之島に渡った山田伍長は、7/5沖縄本島から脱出して来た森脇弘二陸軍大尉に会っている。
この森脇大尉が伍長の操縦する戦闘機に乗って、九州へ向かうことになっていた。だが肝心の戦闘機が7/9の空襲で破
壊された為、この計画は中止となり、森脇大尉は奄美大島から水偵で内地に帰還している。
その後山田伍長を初めとする在喜界島搭乗員は、7月初旬に奄美大島に移動した。
この時移動したのは若林中尉(通信)/木下少尉/春島少尉/岡本准尉他下士官6名だった。奄美大島でしばらく待機した
後、山田伍長/木下少尉/春島少尉/当山少尉(6/3沖永良部島に不時着した第214振武隊長)/岡本准尉の5人は7/22
7/23の両日に飛来した97式飛行艇に乗って無事に内地に帰還した。
山田伍長は飛行艇の着いた詫間基地から九州に帰還する途中で、第44振武隊の武田軍曹の実家(岡山)に泊まっている。
また列車で帰る途中にグラマンの攻撃を受けて、武田軍曹と2人で線路脇の叢に逃げ込んだと回想していることから、武
田軍曹も一緒に帰還したと思われる。
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喜界島は小さなビーチが多いが、各所とても綺麗で落ち着ける場所ばかり。
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平家上陸の地
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私が一番綺麗だと感じたのは小野津漁港。
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大戦末期(昭和20年)の喜界島海軍基地の米軍空襲及び陸海軍航空隊の戦闘記録の続き。
昭和20年7月3日15:00に米軍機3機が来襲、飛行場爆撃と共に民家1戸を焼失させた。
昭和20年7月4日大規模な空襲があった。16:00頃に米軍機約30機が来襲、飛行場を爆撃した。
昭和20年7月5日13:00に米軍機2機が来襲、民家2戸が焼失した。
昭和20年7月6日15:00に米軍機2機が来襲し、飛行場爆撃と共に民家7戸が焼失した。
昭和20年7月9日14:00に米軍機2機が来襲し、9戸の民家が焼失した。
昭和20年7月10日米軍は7月で最大規模の空襲を喜界島に対して行った。11:00に3機来襲、民家19戸が焼失した。
13:30頃にはB-24の9機編隊及び4機が来襲、飛行場を爆撃した。この攻撃で親子爆弾、時限爆弾が無数に投下され、
飛行場は大破、使用不能となった。また中里機関砲陣地、高角砲陣地、赤連殿森高角砲陣地が大破した。
これまでの艦載機中心の空襲に対し、B24のような重爆撃機が直掩機付きで来襲したのは、喜界島ではこの日が始め
てであった。
この空襲で大損害を受けた「中里機関砲陣地、高角砲陣地」とは、中里集落の南側にあった第2高角砲台(高角砲4門)
と第2機銃砲台(25ミリ機銃8門)である。もう一つの「赤連殿森高角砲陣地」とは、赤連集落と羽里集落の間の高地に
あった第1高角砲台(高角砲8門と13ミリ機銃4門)である。被害は飛行場周辺に留まらず、川嶺のゴリヤ前付近八五
高地で、7月中の陣地完成を目指し作業中の勤労奉仕隊員からも犠牲者を出し、軍作業現場で住民4名が全身に爆弾破片
創を受けて死亡。この日、喜界島では21名が空襲で死亡している。

昭和20年7月12日13:00頃、米軍機2機が来襲し、飛行場爆撃と共に民家2戸が焼失。
この攻撃は厚い雲の為、福岡県築城飛行場の攻撃を断念したB-24の編隊(47機)が、喜界島飛行場を攻撃した。
7月に入って日本軍機が喜界島を使用した記録はほとんどない。沖縄島玉砕後は本土決戦に備えて戦力を温存し、
沖縄方面への攻撃は散発的になっていたのである。
8月になると喜界島は完全に戦場の焦点から取り残されていた。沖縄から出撃した米軍機は連日、喜界島の上空を
通って日本本土攻撃に向かった。制空・制海権は完全に米軍の手中にあった。
昭和20年8月7日12:30海軍偵察第4飛行隊の彩雲1機(高森一義少尉/藤村久芳上飛曹/下森道之上飛曹)が不時着。
同機は09:30に鹿屋基地を発進し、米艦隊の偵察後、敵機と交戦して被弾不時着した。
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  ▲海軍偵察機[ 彩雲 ](手前) 奥に写る2機は海軍艦上爆撃機[ 彗星 ]
昭和20年8月13日夕刻、6/10以来。喜界島で待機を続けていた第二神雷爆戦隊の零戦5機が沖縄へ特攻出撃。
出撃したのは岡本鼎少尉、細沢実1飛曹、松林信夫2飛曹の小隊、岡島四郎中尉、星野実1飛曹の小隊だ。
この特攻出撃の様子を坂嶺集落の英啓太郎さん(当時14歳)が目撃している。英さんが夕方田圃の土手に座って海を
見ていると、5機の戦闘機が離陸し南を指して飛び立った。その後しばらくすると3機の飛行機が現れ、3機は爆弾を海
中に投下すると飛行場に着陸した。
離陸した5機の内、岡本機は離陸後オイル漏れが発生し、松林機も離陸時に片脚を折損して格納できなくなった。
その為、岡本編隊は無傷の細沢機も含めて、暗くなりかけた喜界島に帰投した。松林機は胴体着陸し使用不能となった。
岡島編隊の2機はそのまま沖縄に向かい、沖縄沖に停泊中の米攻撃輸送艦ラグランジュに突入。1番機は19:47左舷
上部構造のキャビンデッキに突入した。そのため同艦は電力・通信機能等を一挙に失った。
続いて2番機は左翼を艦体にぶつけた後左舷海面に突入し、前部左舷にガソリンや機体の破片を海水と一緒に浴びせか
けた。この攻撃で同艦は戦死21名、負傷者89名を出し、その後同艦は応急修理のためグアム島へ向かった。

昭和20年8月14日沖縄への航空攻撃はこの日も行われた。931空「天山」4機が18:30に発進、沖縄攻撃に向かった。
(操縦)小船栄一中尉/(偵察)横馬場清二上飛曹/(電信)石井力1飛曹の乗る天山は、喜界島に不時着した。
その数十分後、共に串良基地を出撃した天山1機が燃料不足で不時着。
更に(操縦)加藤誠一少尉/(偵察)土谷照雄上飛曹/(電信)石沢忠義1飛曹の天山は、発動機不調で喜界島東方30浬
の海上へ不時着水した。漂流した3人は25日に第2明神丸に救助されたが、26日に加藤少尉が戦傷死した。
昭和20年8月15日終戦(敗戦)翌16日、第二神雷爆戦隊の細沢一飛曹と松林二飛曹は、岡本中尉の命令で先に帰還する
事になった。細沢実1飛曹の零戦には7日に不時着した彩雲の搭乗員2名が、松林機には残りの1人が乗って九州に帰還
する事となったが、松林機は離陸すると全速力で飛んで行ってしまい、細沢機は鹿児島に着くまでに発見できなかった。
細沢機は無事鹿屋基地に到着したが、松林機は屋久島沖に墜落したという。この終戦後の遭難で松林信2飛曹と、同乗
した彩雲の下森道之上飛曹が死亡した。喜界島に残った岡本中尉はまもなく古仁屋経由で帰還している。
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喜界町農産物加工販売施設
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▼『オオゴマダラ』日本のチョウとしては最大級である。
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日本では喜界島以南の南西諸島に分布する。喜界島では飼育して孵化したものを放しているせいもあってか、島の中で
も特に多い。島のいたるところで当たり前の様に見る事が出来る。喜界町農産物加工販売施設ではオオゴマダラを飼育
しており、飼育場所を手軽に観察出来る。今回は野間さんにご案内して頂いた。
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▲黄金色の「さなぎ」も見る事が出来た!
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▲仲の良いオオゴマダラの夫婦。(笑)
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ムチャ加那公園
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ムチャ加那物語
薩摩藩時代、瀬戸内町生間にウラトミという村一番の美人がいた。
薩摩から来た島役人は、ウラトミを島妻にしようとしたが彼女は拒み続けていた。
怒った役人は生間集落に年貢を重くするなど、さまざまなしめつけをしてきたので、たまりかねたウラトミの両親は彼
女を小舟に乗せにのせ生間から流した。
漂流の末、たどりついたところが小野津トゥバヤノ付近であったという。
ウラトミはその地で結婚しムチャ加那を生んだがムチャ加那も親に勝る美人だったという。
あまりにも美しく生まれたばかりに悲しい死をとげた「ウラトミ、ムチャ加那親子」の物語は民謡でも謡われ、奄美民
謡の代表のひとつとなっている。
先人たちが厳しい生活の中で謡い継いできた奄美民謡は貴重な地域文化であり、後世に伝えていかなければならない。
喜界町
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▼通称「地下ダムトンネル」を見学。
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水管理センター。水資源に乏しい離島では地下ダムを活用する場合が多いという。
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私は初めて聞いた。喜界島も地下ダムで水を蓄えて、島の色々な場所へ給水している。
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そのダムの一部の地下トンネルを見学することが出来る。(無料)
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入口は水管理センター側。
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出口は農産物加工センター側になる。
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喜界島は珊瑚で出来ている為水はけがよく、雨水は地下を通って海に流れ込んでしまう。
その為、ダムを造り雨水を堰き止めて農業用水にしている。本来なら山を崩し止水壁を造るが、止水壁が構築されるこ
の一帯は、砂丘防風林としての役目の他、喜界島の保護蝶である「オオゴマダラ」の生息地として知られる。
そこで、同地保護を目的とする環境保全型農業立島「喜界島」を目指し、地下にトンネルを造って止水壁として利用し、
地下水の流れを堰き止め、琉球石灰岩の隙 間に水を貯め、くみ上げられてスプリンクラー等で散水されている。
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トンネルはまだまだ続くが、見学はここまで。
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▼楽しかった喜界島滞在も終わり、喜界空港の軽食店で一息入れる。
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此処の軽食が安くて美味しかった。
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▼廃校記念って・・・悲しい・・・クラブ活動なんかも奄美大島の学校と一緒になってたりして通うのが大変らしい。
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▼またうも~りよ~=またようこそよ~ かな?ここは普通に「また来てね~」の方が日本語として良いと思うが。
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さぁ搭乗の時間が来た。
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「喜界島」また来たいな~。この島は来てみないと分からなかった事が多く、ホントに良い島だった。
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さようなら喜界島。
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特攻隊や輸送機、攻撃機が離陸した景色と同じはずだ・・・合掌。
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喜界島が遠くなっていく。赤印の部分が喜界空港。
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▼戦時中に米軍が撮影した空爆を受ける喜界島。飛行場付近から煙が上がっている(昭和20年5月5日撮影)
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拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2019_07_01


最初で最後という10連休となったGWを利用し、平成と令和をまたいでの奄美諸島巡りに出かけた。
バニラエアを利用して奄美大島へ。Peachとバニラエアが統合され、現状【Peachはバニラエアの路線網を段階的に
引き継ぐ】となっているが、奄美大島への直行便は【ウィンターダイヤ期間にPeachとして就航予定】となっており、
正式発表はまだされていない。Peachにはバニラエアの奄美路線は是非引き継いで頂きたいものだ。

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▼乗り継ぎ時間はスムーズでは無いが、奄美大島(奄美空港)でそのままJACに乗り換えて徳之島に向かう。
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▼眼下に加計呂麻島・与路島・請島(うけじま)を見ながら徳之島へ向かう。与路島・請島もいつか行きたい!
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▼奄美大島を離陸してから約30分、徳之島が見えた。
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▼徳之島空港に着陸態勢。青い屋根が沢山見えている建物が今回宿泊した『サンセットリゾート徳之島』
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▼徳之島空港に降り立つ。戦時中の日本軍浅間陸軍飛行場では無く、海側に移動させた埋め立て地の飛行場。
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徳之島子宝空港。この名は文字通り出世率2.81(伊仙町)という、少子化の日本(本州)にとって見習うべき数字と、子
供達に対する想い、愛が深い島民は「授かり物である子供は全ての人にとっての宝」という思いが自然に根付いており、
子供が生まれたら、血縁関係は気にせず、集落のみんなで育てるという意識が一般的な素晴らしい島だ。
逆にお年寄りへの配慮意識も高く、『長寿の島』と呼ばれるのも当然だと、行ってみれば良く解る。

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▼奄美大島以南の地図。亀徳(かめとく)/平土野(へとの)と書いてある島が徳之島。
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▼小さい空港だが、お土産屋さんは徳之島に特化した商品が多く、見どころ満載だし、レストランもレトロで安い!
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実は乗り継ぎ時間を潰す為、奄美空港で食事をしたが、価格は高く内容は??だったので、非常に後悔した。
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▼徳之島子宝空港から車で10分とかからない場所に、「幻の基地」陸軍浅間飛行場跡と慰霊碑がある。
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▼その場所は現在、一本道の道路(平和通り)となっており、左右にはサトウキビ畑が広がっている。
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▼▲昭和20年頃の浅間陸軍飛行場(米軍撮影) 赤矢印の部分が現在の平和通り撮影地点となる。
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▲案内板の④が撮影位置。
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▲一本道の道路(平和通り)突き当りに慰霊碑がある。
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▼戦時中の陸軍浅間飛行場(米軍撮影)。黄色の線で示した部分が現在の徳之島子宝空港である。
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「幻の基地」陸軍浅間飛行場の記録。
陸軍浅間飛行場は昭和19年3月竣工。陸海軍の特攻機が不時着、再出撃した飛行場である。
沖縄上陸を狙う米軍艦載機の空襲が日増しに激しさを増してくる中、攻撃の前線基地を陸軍万世飛行場(鹿児島)から
浅間陸軍飛行場に移す事になる。

昭和19年10月10日 (沖縄島を中心とした十十空襲)。午前/午後の2回襲来した米軍機の攻撃で28機が撃破される。

昭和20年1月22日 南西諸島に約900機の米軍機が襲来。民家など70棟が炎上。
浅間飛行場の滑走路はこの空襲で使用不能となる。修理は夜間に行われ、編成間もない陸軍第501特設警備工兵隊が出動。
修理は米軍機が去った18:00~翌日01:00までの70時間を要した。

昭和20年3月1日 3度目の空襲。朝~夕方5時まで続いた。(模擬飛行場を作って攻撃させた)
昭和20年3月21日 海軍鹿屋基地を出撃した第721海軍航空隊の桜花隊直掩の零戦1機が空戦後に徳之島に不時着。
昭和20年3月23日 米機動部隊の艦載機による空襲が始まり、7月まで連日の様に続く。
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▲米軍の空襲をうける浅間陸軍飛行場(米軍撮影)
昭和20年3月24日
13:30 沖縄(那覇)海軍小禄基地から飛び立った偵察機(海軍「彗星」1機)が浅間飛行場に不時着。
米機動部隊の発見を報告。徳之島の陸軍独立混成第64旅団は沖縄近海の敵を、徳之島から攻撃する事を決定。

昭和20年3月28日
第6飛行団長(第3攻撃集団長)今津大佐直卒で万世飛行場から進出した陸軍飛行第66戦隊第1中隊(戦隊長 藤井権吉少
佐/中隊長 山崎武雄大尉)の99式襲撃機11機と、護衛の飛行第103戦隊(戦隊長 東条道明少佐)の4式戦闘機「疾風」
8機が浅間飛行場に到着した。兵士も住民も飛行機に駆け寄って機体に触れ、「日の丸」を撫でたと言う…
3/23以来、見るのは米軍機ばかり。日本機を間近に見るのは久しぶりであった為だ。

昭和20年3月29日
04:30 飛行66戦隊の99式襲撃機11機、護衛の疾風8機が、沖縄に浅間飛行場からの初出撃。
だが慣れない飛行場の為か離陸時に疾風1機が飛行場外で爆破炎上、66戦隊も4機が後続機のプロペラに尾部をかじら
れ、66戦隊の出撃は7機に留まった。▼陸軍99式襲撃機(Ki51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機)
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66戦隊第1中隊長 山崎武雄大尉は(篠原新吉中尉/坪井宗一軍曹)(今田義基少尉/長沢一郎伍長)(島崎昭二軍曹/播磨
勝三郎伍長)ら3機(99式襲撃機は2名乗)を率いて沖縄に向かい、米艦隊発見。
激しい対空砲火で山崎機は被弾、徳之島に帰還。篠原中尉機は沖縄本島西方面の米艦隊を爆撃し、徳之島に帰還した。
この攻撃で今田中尉機と島崎軍曹機が未帰還。今田中尉機は敵艦に突入、撃沈させたとされる。
[ 今田義基少尉(広島県出身)慶良間列島米艦隊に突入、戦死。享年23歳 ]

昭和20年3月29日 知覧から出撃し、沖縄攻撃を終えた第65戦隊(隼15機)が徳之島に不時着する。
誠第39飛行隊(笹川 勉大尉以下「隼」8機)3/28新田原基地→奄美大島上空の天候悪化の為3/28喜界島基地着陸。
→3/29徳之島(浅間飛行場)に進出。

昭和20年3月30日
第20振武隊(隊長 長谷川実大尉)の隼4機が午後5時過ぎに知覧から徳之島に進出。途中2機が脱落し瀧村少尉と吉田
少尉の2機が奄美上空に到達。
(吉田市少尉機が遭難、殉職。瀧村少尉は奄美大島の海岸に不時着時、機体損傷。4月2日に知覧に戻る)
飛行可能な66戦隊の99式襲撃機5機に3名ずつが乗って万世に戻ったが、途中で米機の攻撃を受け1機墜落(3名戦死)。
65戦隊第1中隊の隼4機(中隊長 中神春雄大尉)が徳之島に進出。(九州から重爆3機で250㎏爆弾8個が空輸される)
この日の時点で浅間基地の戦力は、一般機12機・特攻機16機という記録が残っている。

昭和20年3月31日
誠第39飛行隊の一式戦「隼」4機が特攻出撃。(笹川 勉大尉/高橋晋二中尉/瓜田忠治少尉の3名が特攻戦死)
3機が突入し1機は徳之島に戻ったところをグラマンに撃墜された。この出撃を103戦隊の疾風(機数不明)が直援。
3/31時点で徳之島には、陸軍飛行第103戦隊の四式戦「疾風」6機、飛行第65戦隊の一式戦「隼」4機、第20振武
隊の一式戦「隼」5機、誠第39飛行隊の一式戦「隼」9機の合計24機が進出していた。
誠第39飛行隊の山田千秋少尉は仲間達4機の出撃を見送った。離陸直後、数機のグラマンが飛行場上空を哨戒し始め
た。離陸後10分が経過した頃に、同期の井上柳三少尉機が引き返してきた。井上機は爆弾を海中に投下した後、グラ
マンと交戦、火炎を吐いて山中に墜落した。
井上機撃墜後も米軍機は飛行場への攻撃を続けた。次々と日本機は炎上し、誠第39飛行隊の他の機体も、山田機を含
めて4機が撃破炎上している。

昭和20年4月1日05:00 第20振武隊の5機が103戦隊(指揮官 小川倶治郎大尉)の護衛を受けて出撃。
4機は引き返し、山本秋彦中尉の1機が突入。夕方、66戦隊の山崎武雄大尉率いる99式襲撃機4機が万世から進出。
更に2日にかけて66戦隊の99式襲撃機15機が万世から進出。
誠第39飛行隊の一式戦「隼」6機が特攻出撃。
宮元  卓少尉(東京都出身)/吉本 勝吉少尉(熊本県出身)/面田 定雄少尉(岡山県出身)
内村 重二軍曹(鹿児島県出身)/松岡 己義伍長(福岡県出身)/税田 存?軍曹(福岡県出身)
以上、6機6名。4/1徳之島浅間飛行場より出撃、特攻戦死(※?は多へんに”おおざと”の漢字だが変換出来ず)
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▲内村軍曹最後の言葉。「荷物はここに頼んであります」とある。何処で書かれたか不明だが多賀屋の事かもしれない

昭和20年4月2日
陸軍飛行第66戦隊の99式襲撃機7機が、第20振武隊(長谷川實少尉/山本英四少尉)2機と、飛行第103戦隊久保元治
郎少尉/矢作一郎少尉/蘇鉄也少尉の「疾風」3機と共に出撃。蘇鉄也少尉の「疾風」は離陸時の事故で殉職。
(第20振武隊は4機が準備されたが離陸時の事故で2機のみ出撃、突入)
飛行第66戦隊 (高山昇中尉(崔貞根)朝鮮出身/飯沼良一軍曹)/(路川存損軍曹/石原一夫兵長)/(勝本多資軍曹/山崎
殖林兵長)らの3機が未帰還。未帰還となった高山昇中尉機は任務は被弾しながら巡洋艦に突入したと伝えられている。
※高山中尉(崔貞根)は朝鮮出身、沖縄戦で戦死した11名の朝鮮人特攻戦死者の1人である。
 飛行66戦隊には昭和43年11月に赴任。翌年7月戦隊と共にフィリピンに進出しレイテ作戦にも参加。
 そして沖縄戦では第3中隊の先任将校として、戦隊の中核パイロットの立場にあった。66戦隊の任務は通常攻撃で、
 特攻任務では無かったが、公式には特攻戦死になっていない他の隊員も、66戦隊では平素の言動を理由として「体
 当リ攻撃ニヨリ自爆戦死ト認定」としている。▼飛行第66戦隊(第1中隊)の陸軍99式襲撃機
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夕刻、第1攻撃集団(隊長 河原大佐)の隼18機と第21振武隊(隊長 水川禎輔中尉)の隼6機、第44振武隊(隊長 甲斐
玉樹少尉)の隼5機、飛行第59戦隊の飛燕7機)が徳之島への進出を図った。
103戦隊長東条道明少佐の回想によると、東条少佐は疾風4機を率いてこれに同行した。他に整備員を乗せた99式襲撃
機5機、97式戦闘機と直協偵察機の特攻機20機が同行したと言う。
しかし、第1攻撃集団は途中で2機が引き返し、2機が行方不明となり、14機が徳之島上空に到達した。
ところが飛行場は爆撃直後だった為、着陸時に7機が大破した。着陸時の事故で栗田三郎少尉(第44振武隊)が戦死。
東條少佐も着陸時に飛行機を壊してしまった。

昭和20年4月3日
午後3時10分~午後4時10分、第22振武隊(隊長 藤山二典中尉)の隼7機、第30部類部隊(隊長 大櫃繁夫中尉)の99式
襲撃機5機、第46振武隊(隊長 丹羽信博少尉)の99式襲撃機9機を59戦隊の飛燕5機が掩護し、徳之島と喜界島に向かう
第46振武隊は屋久島付近で米戦闘機の迎撃を受けて引き返し、第30振武隊は喜界島に進出した。
第22振武隊は藤山隊長率いる4機が沖縄に向けて午後3時に知覧を出撃、もう3機は午後4時に知覧を出撃した。
先行した藤山隊長は着陸時にグラマンの銃撃を受けて戦死、第22振武隊の1機と59戦隊の直掩2機も同じく撃墜された。
航続の第22振武隊3機は無事に徳之島に進出した。

昭和20年4月4日
66戦隊の99式襲撃機4機が徳之島を出撃し、午前5時15分沖縄の米艦隊を攻撃した。1機(2名)未帰還。
※昭和20年4月1日午前2時半頃、鹿屋を出撃した「桜花」を積んだ第721海軍航空隊の一式陸攻1機は(台湾)新竹基地
に着陸していた。同機は3日に同基地を発進したが徳之島沖に不時着水し、全員が救助された。

昭和20年4月5日
知覧から出撃した第22振武隊(前田光彦少尉/西長武志少尉)2機が敵機と遭遇。1機(前田少尉)が徳之島に不時着。

昭和20年4月6日
徳之島には特攻機18機、襲撃機10機、戦闘機6機がいたが、この日は空襲で出撃できず。
第43振武隊の隼6機が知覧から出撃。1機(隊長 今井光少尉)が午後、徳之島に不時着。
第203海軍航空隊の制空隊の零戦1機が、空戦後の午後4時5分に徳之島に不時着。
第210海軍航空隊の制空隊の零戦1機(直居欽也中尉)は徳之島上空で空戦後、被弾し徳之島付近海中に不時着。
漂流12時間の末、犬田布岬に泳ぎ着いて住民に救助される。
神園望大尉は沖縄周辺偵察のため偵察機「彩雲」で鹿屋基地を発進したが、米戦闘機の銃撃を受け被弾しながらも徳之
島の畑に不時着した。
挺身飛行第2戦隊の輸送機4機が午後5時に福岡県板付飛行場を飛び立ち、午後7時に着陸(徳之島へ通信機空輸の為)

昭和20年4月7日
第44振武隊の隼2機が出撃(隊長 甲斐玉樹少尉/清水定伍長)が払暁、沖縄周辺米艦船に突入。
喜界島から第30振武隊の5機が徳之島へ前進してくる。この日は空襲が激しく第20振武隊の2機が地上で破壊された。

昭和20年4月8日 挺身飛行第2戦隊の輸送機3機が徳之島に60キロ爆弾を落下傘で空輸投下。

昭和20年4月9日
第22振武隊は残る6機で沖縄攻撃を計画するが、空襲で1機を残して全て破壊される。
第42振武隊(隊長 猫橋芳賀朗少尉。機種は97式戦闘機)の中野友次郎少尉は、午後4時30分僚機と共に「喜界島」か
ら97式戦闘機で出撃するも、途中グラマンとの交戦で被弾し徳之島に不時着。

昭和20年4月10日
第30振武隊の2機に出撃命令が出るが、整備員の不手際で1機(横尾賢治伍長)のみ午前5時35分に出撃、 突入。
66戦隊の99式襲撃機1機が喜界島に連絡に行った帰りに、徳之島着陸時に米軍機に撃墜される。

昭和20年4月11日
第22振武隊の残る1機「柴田秋蔵少尉」が単機で沖縄へ出撃、突入散華。

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▲4/11早朝5時35分「柴田秋蔵少尉」は藤山隊長の遺骨と共に「隼」に搭乗「隊長と共に征くが世話になった。
 後日靖国で会おう。」の言葉を残し、徳之島浅間陸軍飛行場より単機出撃。慶良間列島南方の敵艦隊に突入戦死。

同時に出撃しようとした第43振武隊長の今井光少尉は地上滑走中に弾痕に脚を落として出撃中止。
午後0時35分鹿児島県国分基地を発進した第601海軍航空隊戦闘308飛行隊の桂正中尉(零戦特攻第3御盾601部隊)は、
米機動部隊攻撃に向かう途中喜界島南方でグラマンと交戦し被弾、徳之島基地着陸の際に機体が転覆し重傷を負った。

昭和20年4月12日菊水2号作戦発動
浅間飛行場は空襲の為使えず。鴨池から出撃した海軍制空隊1機が名護(沖縄)上空で被弾、徳之島に不時着。
※鴨池は鹿児島県鹿児島市郡元町の鴨池海岸にあった鹿児島市営水陸両用飛行場(鹿児島海軍航空隊)

昭和20年4月13日
早朝、喜界島から陸軍第六航空軍高級参謀の井戸田勇大佐を乗せた軍偵が進出。
(徳之島、喜界島両基地が引き続き中継基地として使用可能かどうかの視察の為)
前日に喜界島を視察して徳之島に飛来した。この日の夜に井戸田勇大佐は九州に帰還。
進出時に軍偵は空襲で破壊されたので、第30振武隊の横田正顕少尉の機を取り上げて帰還した。
65戦隊の隼1機が12日夜に知覧を出撃して沖縄攻撃後、帰途喜界島に着陸。この日の朝、徳之島に飛来。
陸軍第六航空軍高級参謀井戸田勇大佐の判断で、徳之島の積極的使用を放棄。搭乗員70名と整備兵15名が喜界島の
海軍基地に移動。以後、浅間飛行場は中継基地としての役割を終え、不時着飛行場として位置づけられた。

昭和20年4月14日 66戦隊の99式襲撃機1機が井戸田勇大佐を迎えに飛来(行き違いになった)
昭和20年4月15日04:00第43振武隊長の今井光少尉は沖縄に出撃しようとするが離陸に失敗。
(これで徳之島の飛べる機体はゼロになった)
午後5時50分、第1国分基地を出撃した第601海軍航空隊(戦闘第310飛行隊)神風特別攻撃隊「第3御楯隊」の零戦2機
が沖縄上空で米軍と空戦後、徳之島に不時着破損。
第203海軍航空隊沖縄飛行場夜間銃撃隊の零戦1機が、攻撃後の午後8時15分に徳之島に不時着。
着陸時に爆弾孔に脚を突っ込み、機体は転覆大破。

昭和20年4月16日菊水3号作戦発動
飛行機を失った在徳之島の陸軍搭乗員の半数が船で奄美大島古仁屋に向かった(17日午前6時に無事到着)
その後喜界島から飛行機で九州に帰還する事となる。

昭和20年4月17日在徳之島の陸軍搭乗員の残る37名が徳之島(山港)を出発▼赤矢印が山港。黒矢印は平土野港
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昭和20年4月18日04:50今津大佐は修理した飛行機で知覧に帰還。103戦隊の東条戦隊長も同じく帰還した模様。
昭和20年4月22日
14:40知覧を出撃した第105振武隊6機の内2機が夕刻、徳之島トンバラ上空で敵機と空戦。
1機が撃墜されて海へ墜落。もう1機(日下弘實伍長)は別れ惜しそうに浅間飛行場に向かった。
墜落戦死したのは藤野道人軍曹の97式戦闘機で、手足を自らの操縦桿に縛り付けてあったと伝えられている。
藤野軍曹が墜落した母間には「黒潮の塔」という慰霊碑が建立され、藤野軍曹が満洲の公主嶺で詠んだ辞世の句が、
同期の第11期少飛会によって翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
『火急を知りて 馳せ参じ 我は征くなり 弥生の空に 特攻出撃を前に』

昭和20年4月23日
前日、徳之島に不時着した第105振武隊の日下弘實伍長は単機(97式戦闘機)沖縄へ出撃、突入戦死。
独立混成第64旅団の高級部員中溝猛中佐は、徳之島(山港)で海軍25ミリ高射機関銃隊(財田隊)を出迎える。

昭和20年4月28日第77振武隊の97式戦闘機1機(金子誓伍長)が徳之島に不時着。
(大津少年飛行隊出身で高田少将の教え子でもあった)

昭和20年4月29日昨日不時着した第77振武隊金子誓伍長が97式戦闘機で単機沖縄へ出撃、突入戦死。
昭和20年4月30日65戦隊の隼5機が沖縄周辺艦船攻撃、帰途に徳之島を中継して知覧に帰還。
昭和20年5月4日菊水5号作戦発動(この日、沖縄の第32軍は総攻撃を実施)
103戦隊第百飛行団の「疾風」数機は徳之島に着陸して損害を出した。

昭和20年5月9日(在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦)
財田隊(財田海軍高射機関銃隊)がグラマン1機を撃墜し、以後は奮戦を続けた。
米軍機撃墜を見た将兵や住民は、まだ他の機がいるにもかかわらず、洞窟から飛び出してきて万歳を叫んだ。
また戦闘終了後、財田隊の洞窟には軍民から何本もの祝い酒が届いたという。いかにこれまで浅間飛行場が米軍機の
跳梁に任せていたか、またそのことを軍民共に悔しく思っていたかがよく分かる逸話だ。
財田隊は翌日も、その翌日も米軍機を撃墜した。被害に驚いた米軍は低空飛行をしなくなった。
そこで高田少将は滑走路に偽装した破損機を囮として置き、米軍機がそれを攻撃するようにしむけた。
財田隊はその米軍機を迎撃してまた戦果を上げている。その後も財田隊は奮戦を続け、敗戦後の8/25高田少将からそ
の活躍を表彰された。同隊の犠牲者は移動時の艦上で戦死2名、徳之島陸上戦で病死3名であった。

対空射撃を担当したのは、飛行場中隊の他、独立混成第64旅団の独立混成第21連隊(連隊長 井上二一大佐)石原中
隊の重機関銃隊、同じく独立混成第22連隊(連隊長 鬼塚義惇大佐)の永田中隊の重機関銃隊であった。
石原中隊の重機関銃隊は湾屋川中流で4機撃墜。永田隊は真瀬名川南岸の洞窟陣地から1機を撃墜。
この日、敵機が海に不時着し、米軍飛行艇がパイロットを救出して飛び去るのを住民が見て悔しがった。
※財田隊とは、海軍25ミリ高射機関銃隊(隊長 財田三男中尉-海軍第3期兵科予備学生16名)。
武器は25ミリ高射機銃12門で、元々宮古島に派遣される予定だったが、情勢の悪化で行く先が奄美大島に急遽変更
され、4/2大島輸送隊の輸送艦に乗船して奄美に到着した。財田隊は航海中も空襲に備えて、いつでも戦える様、輸
送艦に機銃をボルト締めしていた。
財田隊が突然徳之島に派遣されたのは、連日の空襲による飛行場の被害に悩む64旅団が、対空火器の豊富な大島防備
隊に部隊の派遣を依頼したためである。中溝中佐自ら迎えに出たことからも64旅団の財田隊にかける期待の大きさを
伺う事ことが出来る。4/24中溝中佐は馬鞍岳で財田中尉同席のもと祝杯を挙げ、4/25には主計将校と軍医も集まっ
て財田隊支援の方法が話し合われ、陸軍挙げての支援態勢が組まれた。
だが、財田隊はそれどころではなかった。隊員はここ1ケ月の疲労に加えて、慣れぬ高温多湿の洞窟生活と玄米食、雨
季で道路が泥濘と化している中での機銃や弾薬の移動で疲弊しきっていた。それは「いっそ死んだ方がまし」との想い
を起こさせるものだったという。財田隊の隊員過半数が明治生まれで、平均年齢は37歳という老兵小隊だった。

昭和20年5月11日菊水6号作戦発動
※鹿島海軍航空隊で編成され、指宿から出撃した神風特別攻撃隊「第2魁隊」94式水偵1機は、徳之島陸軍部隊上空で
飛行靴に、「吾 魁隊坂本少尉機、単機突入す」旨の紙片を入れて投下した。(無線機を積んでいなかった為)
知覧に帰還していた103戦隊の宮本林泰中尉が、疾風14機で沖縄飛行場爆撃の帰途に徳之島に不時着。
6月に帰還するまで徳之島に滞在する。

昭和20年5月17日
66戦隊の99式襲撃機2機が沖縄攻撃の帰途に徳之島に不時着して1機は知覧に帰還。
その1時間後に同戦隊のもう1機が不時着、米艦の対空砲火で偵察員は機上戦死、操縦者も負傷していた。

[昭和20年5月25日
万世を出撃した第432振武隊(12機)の内、1機(中島寛伍長)の2式高等練習機がエンジン故障で徳之島不時着。

昭和20年5月27日
65戦隊隼2機が沖縄周辺艦船攻撃、帰途に徳之島を中継して知覧に帰還。
65戦隊/66戦隊の99式襲撃機2機が沖縄周辺艦船攻撃後、伊仙村と飛行場西海岸付近に不時着、搭乗員戦死。

昭和20年5月28日菊水8号作戦発動
第433振武隊(隊長 小西吉彦少尉)の2式高等練習機7機は万世を出撃後、徳之島に着陸。
この日のうちに再度沖縄に出撃。
第213振武隊(隊長 小林信和少尉)の板津忠正伍長は午前5時31分97式戦闘機で知覧を出撃、エンジン故障の為、
徳之島の海岸に不時着(板津忠正伍長は後に知覧特攻平和会館初代館長)
鹿児島県串良基地から出撃した徳島海軍航空隊第3次白菊特別攻撃隊15機のうち1機が徳之島に不時着。

昭和20年6月1日
第433振武隊 篠崎孝則少尉は沖縄に出撃。途中エンジン不調で海上に不時着、沖縄県伊平屋島に泳ぎ着いた。

昭和20年6月3日
午前11時、鹿児島県第二国分基地を発進した名古屋海軍航空隊編成の第四草薙隊の99式艦爆3機が不時着。
着陸時に1機が使用不能に。翌日2機に分乗して基地に帰還する途中、悪天候のため1機が行方不明に。
5月25日に不時着した第432振武隊の中島寛伍長は、戦隊の将校の操縦する飛行機に同乗して九州に帰還。
第111振武隊の島田昌往伍長は97式戦闘機で知覧を出撃、エンジン故障の為徳之島面縄集落に不時着。

昭和20年6月8日
古仁屋(奄美大島)を出撃した第634海軍航空隊の水上爆撃機「瑞雲」1機が沖縄攻撃の帰途に徳之島に不時着。
機体は転覆破損した。

昭和20年6月11日
沖縄から脱出した第32軍航空参謀神直道中佐と誠第41飛行隊長寺山欽造大尉、第32軍航空班の藤田忠雄曹長が
99式襲撃機に乗って九州に帰還。神直道中佐は大本営に航空機による総攻撃を要請するも聞き入れられず・・・。

昭和20年6月21日
鹿屋基地を出撃した徳島空の第4次白菊隊8機の内1機が燃料欠乏のため徳之島に不時着した。
機体は大破したが搭乗員は無事だった。

昭和20年6月23日 亀津で不時着したと思われる3名の特攻隊員が民家で世話になる。
昭和20年7月4日戦訓伝達で沖縄を脱出した森脇大尉が徳之島に辿り着き、古仁屋経由で帰還した。
昭和20年7月9日米軍によるこれまでで一番大規模な空爆が徳之島を襲った。
昭和20年7月10日B-25の大編隊が、飛行場一面が爆煙で覆われる程の大量の爆弾を投下した。
昭和20年8月15日終戦(敗戦)

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▲浅間陸軍飛行場建設工事の関係者(球7165部隊)全員揃っての記念写真(昭和19年9月撮影)
飛行場建設は昭和18年に畑や宅地買収を終え、同年12月には町村に人夫の徴用命令が出た。作業用具は各自持参であ
ったが、ツルハシにモッコと人力が中心で、軍には作業効率を高める機械や機材はほとんど無く、中古トラック5台と
30台のトロッコ、そして100台余りのリヤカーがあるだけだった。奄美大島からも650名の応援部隊が徴用されて作
業にあたった。明けて昭和19年1月、日増しに悪化する戦局に備えて飛行場建設を急ぐ為、沖永良部島・与論島からも
応援部隊として350人が徴用され、昼夜問わずの突貫工事で6月に完成した。

上記「幻の基地」陸軍浅間飛行場の記録。の中でご紹介した「在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦」だが、徳之島には浅
間飛行場を本部とする第75飛行場中隊(中隊長 山縣克己大尉)、独立混成第22連隊(隊長 鬼塚義淳大佐)、独立混成64
旅団が島を守備していた。独立混成第22連隊は独立混成64旅団と編合。
※島の何処かに独立混成第22連隊「鬼塚部隊忠魂碑」があるそうだが場所が解らなかった。
奄美大島守備隊(1個連隊)は、浅間飛行場完成と同時に古仁屋(奄美大島)に設置されていた奄美要塞司令部を昭和19年
6月に廃止。時の要塞司令官 井上二一陸軍大佐は、奄美大島守備隊長として昭和19年6月22日平土野港に上陸。
本部を天城村立青年学校に置いた。
同月末頃にはサイパン陥落が現実化し、更なる南西諸島防衛強化の為、昭和19年7月14日奄美大島守備隊として独立混
成64旅団を徳之島に配置する事となり、旅団長には東京陸軍飛行兵学校長だった高田利貞陸軍少将が8月15日に着任。
旅団司令部を大和城山に置いた。▼大和城山を見る。

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▲この日は天気が悪く曇り空だったが、赤矢印の頂上(248m)に戦闘指令所が残っているという事で登ってみた
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上名道森林公園として第1登山道と第2登山道に分かれて登山口があるが、戦闘指令所へは第1登山道からが最短だ。
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現在は戦前の遺構「大和城(ヤマトグスク)」として紹介されているが、戦闘指令所の場所には「トーチカ」とある。
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▲早速登山開始。
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▲昨年の台風被害か。大木が倒れたままの箇所も多い。地元の人でも滅多に行く人はいないらしい・・・。
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▲とは言え、きちんと階段が作られ、一度整備されている場所なので、当時の兵隊さんの苦労の比で無い。
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▲大木にへばりついているナメクジの大きさも半端ない(笑)
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▲因みに第2展望所にも行ってみたが、何も無いし、展望といっても草木が生い茂って何も見えない。
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▲第1展望所まで辿り着いた。戦闘指令所跡の場所だ。道が左右二手に分かれている。
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▲とりあえず左に行ってみる。右側に僅かに残る石垣は大和城時代の遺構か・・・?
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▲すると、あった。戦闘指令所のトーチカだ。
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四つの展望孔とあるが、目視で見学出来る部分は一つしか確認出来なかった。
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▼トーチカ上部にあがってきた。
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▼上部に入口がある様だが、階段なども無くとても入れる様な状態では無い。
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▼上部入口の底をUPで撮影。地下2階構造になっているのが解る。
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▼トーチカ上部からの眺め。東シナ海、平土野港、徳之島空港などが一望出来る。
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▼先程の「道が左右二手に分かれている」ところまで戻って、次は右に行ってみる。
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▼すると、入口があった!
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▼当然入壕する。
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どんな機材が設置されていたのだろうか。2階と1階の床部分は米軍が破壊したか、崩落している。
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当然1階か2階に発電機は置かれていただろう。米軍が処分を命じたか・・・。
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▼2階構造になっていたのが良く解る。右下は恐らく外に続いている。その上はトーチカ上部から見えた部分だ。
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他も出入口があったはず。昭和28年の本土復帰まで米軍占領下だったので、米軍が調査/鹵獲しているはずだ。
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▲戦時中の大和城山一帯。独立混成64旅団/奄美大島守備隊が一帯に陣を引いていた事が良く解る。
赤線は見学した戦闘指令所。緑線は浅間飛行場。青線は平土野港。黄線は「在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦」の中で
ご紹介した海軍25ミリ高射機関銃隊(財田隊)

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▲終戦後、米軍が調査で大和城山に入った時に撮影された、大和城山東側に設置されていた無線小屋。
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▲内部の地上用無線電話機2B型(受信機のみ)
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▲大和城山の指令本部と各部隊の駐屯地連絡の為、電信柱で電話網が張り巡らされていた。
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▲伝書鳩小屋。軍は伝言用に伝書鳩を飼育していたが、実際に利用する機会は無かったという。
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▲米軍の上陸に備え、あらゆる毒ガスから100%保護出来ると言われた毒ガス防護用ケーフを着用した日本兵。
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▲終戦後、武装解除の為、平土野港に上陸する米軍LST。度重なる空襲で焼け野原となっている事が解る
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▲押収され、一か所にまとめられた日本軍の弾薬集積場。
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▲電線などの通信機材の集積場。
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▲米軍の指示に従い、平土野港沖に海中投棄する為に、武器・弾薬・機材を米軍LSTに積み込む日本兵達。
扱いに苦労する重砲類の砲身などはガスで焼き切って分解投棄した。米軍の命令で作業する日本兵の心境を想うと、悔
しさと安堵感で複雑な気持ちだっただろうと思う・・・ご苦労様でした。

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▲昭和20年頃に撮影された三京の民家と住民達。
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▲昭和30年頃の徳之島の民家。米軍基地の無かった奄美諸島ではアメリカ政府は投資はせず、貧困状態が続いた。
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▲終戦から2年後の昭和22年に撮影された天城村天城中学校。昭和30年の上記写真と変わらぬ風景だ。
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▲天城村岡前小学校(昭和28年撮影)この年、奄美群島(奄美大島/喜界島/徳之島/沖永良部島/与論島)が本土復帰。
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▲徳之島からも多くの若者が戦ってくれた。出征前の兵士との別れを惜しみ、家族揃っての記念写真。

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▼▲犬田布岬には「戦艦大和の慰霊碑」がある。
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▼毎年慰霊祭が行われ、遺族や多くの方々が祈りを捧げる場所。
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長い間、戦艦大和は徳之島の犬田布沖で沈没したと考えられ、昭和43年に慰霊塔が建てられたが、昭和55年の海底調
査で鹿児島県枕崎市沖の沈没場所が特定された。

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慰霊塔には戦死された英霊の方々のお名前が刻まれたプレートが張り付けられている。
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慰霊塔は手を合わせた合掌がモチーフとなっていて、実際の大和の司令塔と同じ高さで建てられている。
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当然此処でも慰霊させて頂いた。一部で此処が心霊スポットと騒がれているらしいが、そんな事は全く無い。
絶景を見る前に、日本の為に戦ってくれた英霊に対し、敬意と感謝の念を持って慰霊碑の前で手を合わせて頂きたい。


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▼▲なごみの岬公園に「富山丸慰霊碑」があるとの事で行ってみた。
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▲2004年6月29日 内閣総理大臣 小泉純一郎 書 と書いてある・・・。何故小泉元総理??
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▼沖縄県糸満市摩文仁の「平和の礎」の様な立派な慰霊碑だ・・・。
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▲約3700人の軍関係者や民間人を乗せ鹿児島から沖縄へ向け航行中であった徴用船「富山丸」。
昭和19年6月27日「富山丸」を含めた12隻の船舶は「カタ412船団」を構成し、鹿児島湾を出港。
翌28日貨客船「履門丸」と「開城丸」は名瀬港に寄港し、「富山丸」を含めた他の船舶は17時に古仁屋に入港した。
翌朝29日、船団は奄美大島の名瀬と古仁屋から、それぞれ出港して那覇に向かう。
その頃、米軍の潜水艦スタージョン(USS Sturgeon, SS-187) が徳之島の東で浮上哨戒を行っており、04:33に
潜航哨戒を開始、05:29カタ412船団は針路220度で航行中と判断され、スタージョンは「富山丸」に照準を定める。
7時25分、スタージョンは艦首発射管から「富山丸」に向けて魚雷を4本発射、4本の内3本が「富山丸」の左舷船首と
二番船倉及び四番船倉と機関室の中間部に命中。
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▲アメリカ海軍潜水艦スタージョン (USS Sturgeon, SS-187)
「富山丸」の左舷船首と二番船倉に命中した魚雷の衝撃で、ガソリンが船内及び海上で発火して炎上する。
止めを刺したのは四番船倉と機関室の中間部に命中した魚雷で、「富山丸」は船体を二つに折って北緯27度43分東経
129度06分の徳之島南東12キロの地点で轟沈した。
轟沈と海上に流出して引火したガソリンの為、将兵4600名が脱出する余裕はほとんどなかった。
独混第44旅団をはじめとして、沖縄の現地部隊を統括する第32軍は大本営より飛行場の急速造成を指令されていたが、
本船の沈没によって旅団の生き残りは約700名その内活動出来る者約500名となり、トラック等も失われ、沖縄第32
軍が担当した飛行場建設(陸軍北飛行場と中飛行場)遅延原因の一つとなっている。
この沈没で、旅団将兵や船員、船砲隊員の合わせて約3700名が戦死。一隻の船による死亡者数としてはタイタニック
号や、翌年の戦艦「大和」の沈没よりも多く、当時としては第一級の惨事であったが、多くの船舶の沈没の実態と同様、
大本営により秘匿された。
情報を聞きつけ、奄美大島の古仁屋からも漁船などで徳之島沖まで救助に向かい、当時古仁屋に陸軍病院があった事も
あり、多くの火傷を負った傷者が運び込まれた。古仁屋で亡くなられた方も大勢いたという。
昭和39年6月29日に慰霊塔が建立され、毎年遺族等による供養祭が開催されている。
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立派な慰霊塔だ・・・真新しい花が供えられ、綺麗に管理されている・・・。
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当然此処でも慰霊させて頂いた。
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▼慰霊塔の奥は海が見える場所になっている。
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▼此処が「なごみの岬」。この岬の向こうの海で富山丸が轟沈した。
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▼静かに見える海も、戦時中はどれだけの軍民を飲み込んできたのだろう・・・合掌。
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▼丁度、亀徳港に船が入港するところだった。徳之島の次は船で沖永良部島に向かう予定だ。
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▼▲3打鳴らさせて頂いたが、一打一打想いを込めて鳴らした。
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▼周辺には慰霊碑や碑文が並んでいる。見過ごす所だったが、牛島中将の書があったので足を止めた。
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▼昭和19年9月10日とある。球第1616部隊長時代の牛島中将の直筆だ。慰霊祭はちゃんとやってたんだ・・・。
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▼隣には、入口の、内閣総理大臣 小泉純一郎 書 の揮毫に通じる事が・・・。
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小泉純一郎元首相のご親族の、小泉正一郎海軍一等飛行兵曹が陸軍浅間飛行場から沖縄へ出撃した記録が残っており、
一泊した徳之島の宿、「多賀屋」の宿帳に宿泊記録と最後の「書き置き」が残っているという。
この碑を読むと、検閲を免れた特攻兵304名の「書き置き」が伊仙町歴史民俗資料館に保管されている。とある。
早速、伊仙町歴史民俗資料館に向かった。
と、その前に、富山丸慰霊塔の直ぐ脇に、疎開船「武州丸」遭難者の碑があるので寄ってから。

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▲なごみの岬公園入口付近の画像。青矢印は富山丸慰霊塔へ。そして黄矢印の所が武州丸慰霊碑だ。
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▲少し階段を登る事になるが、此処にも是非立ち寄って手を合わせて頂きたい。
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慰霊碑の周辺は直ぐ近い所に民家があるので、静かにそっと手を合わせ、素早く立ち去る事を心がけて欲しい。
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昭和19年9月25日徳之島から九州への疎開者を乗せた「武州丸」(日之出汽船1222t)が、諏訪瀬島北端北西13キロ
付近で、米潜水艦「バーベル」(先に宮古丸と八木丸を沈めた潜水艦)の雷撃を受けて沈没した。
この時武州丸には徳之島からの疎開者154名(亀徳99人、井之川27人、山25人、尾母3人)が乗船していた。
年齢別では15歳未満の幼児学童が79人、16歳から59歳までの婦女が39人と、乗客の9割が学童と婦女だった。
これより前、サイパン島の陥落を受けた7月7日の緊急閣議で政府は、米軍の侵攻が予想される、南西諸島の奄美大島・
徳之島・沖縄本島・宮古島・石垣島の五島から老幼婦女子を本土及び台湾へ疎開させることを決定した。
これを受けて鹿児島県知事は7月15日に奄美諸島の住民に対して本土への疎開を命じた。
具体的には奄美諸島から3万人の疎開を予定し、この内24000人を無縁故疎開者(疎開先に親類縁者等がいない疎開者)
と見込み、疎開先は全員鹿児島県内を予定していた。
これを受けて徳之島では島全体で6200人を疎開させる事になった。疎開できる者は満60歳以上の高齢者、一般婦女子、
国民学校児童、その他の病身者とされた。「勧奨」の結果、徳之島では2300人が疎開する事になり、第1回目は8/18
午後、「天運丸」(200t機帆船)で徳之島、沖永良部島、与論島の希望者を乗せて奄美大島の古仁屋に運んだ。
徳之島などの島には九州へ行く船が寄港することはあまりない為、住民は船の寄港する古仁屋に集まり、港近くの集会
所や国民学校の教室、旅館などで船を待った。時には1週間から10日位待つこともあったという。
古仁屋からの疎開船第1陣がいつ出発したかは不明であるが、8/24物資を運んできた海軍の潜水母艦「長鯨」に瀬相で
引揚者30名を乗せて8/26に鹿児島に向かっている。後も「長鯨」は9/7、9/19と瀬相に寄港している。
人数は不明だが疎開する住民を度々乗せた様だ。露天甲板に帆布を展張し、合わせて800人以上の疎開者を乗せた。
武州丸が第何陣目かは不明。武州丸は疎開の為だけに寄港したわけではない。同船は9/8に7隻の僚船と5隻の護衛艦と
共に基隆(台湾)を出港した。ところが途中で米潜水艦の攻撃を受けて4隻が沈没、武州丸は命からがら古仁屋にたどり着
いたというのが実情であった。疎開者を乗せるのはあくまで、九州に帰るついでの仕事だった。
(沖縄で撃沈された対馬丸も同様であった。)武州丸は9/24[ 08:50頃 ]古仁屋を出港。壕などの陣地構築に必要な
坑木約500本を名瀬(奄美大島)で積んだ「相州丸」とナカ502船団を組み、護衛には第89号駆潜特務艇と、第200号特
設駆潜艇の2隻がついた。船団速力は7.5ノットで、同行する「相州丸」と共に26日には鹿児島港に到着する予定だった。
武州丸には疎開者約150人が乗船し、沖縄に行く途中に輸送船が沈没した為に鹿児島に引き返す兵士約15名も乗船して
いた。そして運命の9/25[ 09:00頃 ]米潜水艦バーベルの放った1発目の魚雷が命中。
船が沈没しかかった時、2発目の魚雷が命中、武州丸は2つに折れて沈没。魚雷命中から沈没まで5~10分程であった。
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▲アメリカ海軍潜水艦バーベル (USS Barbel, SS-316)
武州丸の沈没に僚船の相州丸は気付いていた。姿は見えなかったが、キャーという叫び声とボイラーが爆発し蒸気が吹く
音を見張り員が聞いていた。相州丸は全速力でひたすら逃げた。ただ生存者を傷つけないように遠く離れるまで爆雷は使
用しなかったという。武州丸の生存者は10名足らず。疎開者148名と乗組員11名が死亡する大惨事となった。
武州丸沈没の事実は例によって厳重に秘匿された。生存者が上陸した鹿児島港では憲兵が待ち構え、トラックで移された
県立病院にも憲兵がおり、武州丸沈没のことは口外しないようにと口止めされたという。
対馬丸(沖縄)と武州丸は共に政府の命令に基づく疎開船だが、その犠牲者に対する政府の対応は対照的である。
対馬丸の疎開学童には1人当たり2万円の見舞金と遺族支出金が支給され、勲八等瑞宝章が授与され靖国神社に合祀され、
対馬丸に乗船していた一般の疎開者に対しても1人当たり3万円の見舞金が支給されている。
それに対して「武州丸」の遭難者には何の補償もされていない。これはかなり不公平だろう・・・。
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▲疎開船「武州丸」遭難者の碑から富山丸慰霊塔、そして海を望む。

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伊仙町歴史民俗資料館に行く途中、思わず車を止めて撮影。懐かしいボンネットトラックだ!!
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最近出来た「奄美」ナンバーも付いているし、現役でまだまだサトウキビ運搬に使われている!!カッコイイ!!
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▲まさか戦時中の軍用車両ダッジトラックをリメイクした車両??ワイパーが逆だ・・・。いや、日産か・・・?

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▲▼伊仙町歴史民俗資料館は旧農業高校の校舎がそのまま利用されている。
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少し前までは無料だったらしいが、最近入館料を徴収しているとの事。入館料は200円程度だったと思う。
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歴史に興味の無い方にはちょっと退屈な展示方法だが、徳之島の風土・文化を知る事は大変勉強になる。
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▲昭和11~15年の尋常小学校の教科書だ!本物だ!!昭和16年以降、国民学校に名を変えたと思う。
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▲▼砂糖車(サタグンマ)。大河ドラマ「せこどん」でも出ていたが、本物を見る事は珍しい。
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▼脱穀機。文明式旭光号!
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文明農機株式会社は今も社名を変えて続いているのだろうか?この当時から続いている会社は意外と多い。
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▼▲農耕用の扇風機。文明式と書かれているが、なんと手動式だ。
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風土・文化の展示物の見学もそこそこに、此処に来た本来の目的「多賀屋の宿帳」に残された、攻撃隊員、特攻隊員
の「書き置き」を見せて頂く事に。因みに、隊員が宿泊した宿「多賀屋」は今はもう現存していない。

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▲▼もちろん原本では無く、コピーだが、貴重な「書き置き」を見せて頂いたので、全てでは無いが一部ご紹介する。
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遺書では無いので、皆さん名前と一言程度だが、闘志というか勇ましく勇敢な青年達だったという事が良く解る。
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▲「愛機もろとも体当たり」と書かれている。特攻か・・・艦爆隊と書かれているが、部隊が解らなかった。
海軍であれば本来の中継基地は喜界島だが、「沖縄戦」が始まった大戦末期は、浅間飛行場(陸軍)も喜界島基地(海軍)
も、陸海軍で共用していたので、沖縄に出撃した攻撃隊/特攻隊/直援隊が各中継基地に不時着し、再度出撃する事は珍
しい事では無かった事から、鹿屋基地や国分基地、串良基地などの海軍飛行場。知覧基地や万世基地、新田原基地など
の陸軍飛行場からの出撃記録だけでは解らない事が沢山あるだろう。この多賀屋の「書き置き」は、「出撃後に消息を
絶った」など、不明の隊員の手掛かりになる様な事が詰まった最後の「書き置き」である事は間違い無い。
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▼これだ。小泉正一郎海軍一等飛行兵曹の書き置き。故海軍少尉??
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小泉正一郎海軍一等飛行兵曹に関しては情報が無く、よく解らない。しかし、神風特別攻撃隊では無い事は確かだ。
「攻専第三?隊」とはの様な隊だったのか・・・ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授下さい。
「なごみの岬」の石碑にはこう書かれている。
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もうすぐ死ぬけど「忘れないでね」と書き、自らを「故」と書き添えた。
「たったひと晩でしたが、忘れられない多賀屋になりました。」「最後の夜は確かに【徳之島】でした。」
「死んではじめて、命が生かされる」と書いたけれど・・・本当にそうだろうかと思っている。そこには一人ひとりの
人生が綴られている。昭和20年6月
と石碑には書かれていた。
これを読むと、小泉正一郎海軍一等飛行兵曹(一飛曹)だけが悲壮的な文章を書いている様にも見える。
自らを「故海軍少尉」と書いたというが、仮に特攻戦死とすれば2階級特進で一飛曹から少尉という事はありえる。
はたして小泉正一郎海軍一等飛行兵曹が所属していた「攻専第三?隊」とはどの様な部隊だったのだろうか・・・。
出撃日時もハッキリしない。昭和20年6月とだけ書かれているが、牛島中将の自決が6/23なので沖縄戦はほぼ終結し
ていた時期だ。沖縄戦終結後も、終戦まで日本軍各航空隊の沖縄攻撃が続いていたのは事実だが、何かしっくりこない
小泉正一郎海軍一等飛行兵曹の「書き置き」だった・・・。
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▲藤田 春男中尉(石川県出身)
平成7年6月24日、毎日新聞に「見る写真・読む写真」というタイトルで、″特攻の島″消せない記憶と題して「特攻隊
員が遺した絶筆の宿帳」の写真が掲載され、その宿帳を見ながら、当時を語る神田スミ子さんの記事が掲載された。
その開いた宿帳には「海軍中尉藤田春男」とあり、その記事を見た藤田貞子さん(藤田中尉の妹さん)は瞬間胸がドキド
キし、世の中には、同性同名も沢山あるだろうが、「海軍中尉」である事と、その筆跡には見覚えもあり、兄に間違い
ないと確信したという。
藤田中尉は、鹿児島県国分基地から昭和20年3月19日神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」の偵察員として操縦の飯塚英一
上飛曹(静岡県出身)と出撃。九州南東海面に於いて戦死した。
出撃地が「徳之島」とは聞いてなかった藤田貞子さんは、当時の分隊長だった本江 博さんに電話をかけたが「藤田が
徳之島に行った記憶はない」との返事であったが、当時国分基地で藤田中尉の戦友だった久原 滋様から目黒の防衛庁
防衛研究所を紹介され、早速出向いて事務官に会い、兄藤田中尉が所属していた彗星部隊攻撃103飛行隊の戦時日誌を
調べてもらったという。その日誌には「特攻機でペアの飯塚英一上飛曹と索敵哨戒に出撃した。」昭和20年1月28日付
の記録だけで、徳之島飛行の事実は見つからなかった。
 新聞には、徳之島の浅間飛行場は「陸軍の飛行場」とあり、藤田貞子さんは不安な気持になったが、どうしても、手
がかりが欲しいので、国分基地の当時の戦友、福岡県の久原 滋様(予科練出身)広島県の木松葉治様(予科練出身)
に新開記事を送り、戦時中の事を思い出して貰った。
すると、木舩さんからのお便りで『昭和19年10月から20年1月にかけて、内地、台湾、比島(フィリピン)間を、彗星
部隊や諸隊が前線進出ならびに移動の途中で、エンジン不調により徳之島飛行場に不時着したのだと思います。
故障機の修理部品や整備員を保有していた一番近い部隊は国分基地であったので、要務飛行で徳之島へ行かれたか、あ
るいは藤田中尉も国分から索敵の為に沖縄海域を飛行していて何かの事故で徳之島に着陸された可能性も考えられます。
木舟さんも徳之島に派遣されたことがあるそうです。』と書いてあったという。
 その後藤田貞子さんは平成8年4月22日国分基地の慰霊祭に参列した後、徳之島へ行かれた。
徳之島空港からタクシーに乗り「天城の多賀屋さん」と云うと、すぐに運転手はお解りになったという。空港から20分
程の場所だったという。おかみさんに会い、新聞で拝見した神田スミ子さんとすぐにわかり、来意を告げると部屋に通
され、別室から保存袋に入れられた当時の、宿帳を出して下さったという。
保存袋は近年町役場から支給されたとの事で、宿帳の表紙は白板白紙で「芳名録、昭和十九年以降、神田」と記してあ
った。古ぼけた宿帳を一頁ずつ開いていくうちに、そしてあまり上手とは言えない筆の字で「海軍中尉藤田春男」と書
いてあるのを見つけ、壊しい、兄の遺墨に万感の思いで合掌した。
藤田貞子さんは「やっぱり兄さんは徳之島に、昭和19年12月23日に宿泊していたのだ」と心の中で叫ばれた。
取材に来た毎日の記者に、神田スミ子さんが宿帳を開いて見せた頁が、全くの偶然で、藤田貞子さんの兄だった。
この事を伺い、52年間もしまわれていた宿帳が開かれ、そこに兄の筆跡があったというのですから、本当に奇跡としか
言いようがない。宿帳には、陸軍少将をはじめ、福岡県の知事、陸海軍の方、多勢記帳され、また国分基地の飛行長海
軍少佐江問 保様(海兵六十三期)や、藤田貞子さんにお便りを送って下さった木舩さんも書いてあるのを発見し、写
真を撮らせて頂いたという。
 神田スミ子さんは、多賀屋の二代目、現在70才(平成8年時点)で、スミ子さんのお話では、出撃する特攻隊員の方達
と、夜は皆で歌を歌ったりしたそうだ。戦意に満ち満ちた方達が、翌日は宿の上を低く飛んで、ハンカチを振りながら
出撃していったとの事。 本当に貴重なお話だ。
 現在(平成8年時点)は旅館よりも、ダイバーリゾートとしての神田マリンの方が有名で、スミ子さんは、息子さん、
お孫さん達とやっておられ、当時の宿は昭和20年4月の空襲で焼失したが、幸い「宿帳」は難を逃れたとの事。戦後、
徳之島は、アメリカの軍政府下におかれ、昭和28年12月25日、日本復帰した。その時に、戦前の場所から海岸の方に
建て替えられたので、藤田少尉の宿泊した宿の姿は全く残っていない。
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当時の若者は本当に素晴らしい字を書く。感心するばかりだ・・・。
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▼台19023部隊とは、恐らく牛島中将率いる第32軍指揮下の近藤卓二中佐率いる整備隊(航空修理廠)の事で、本来は
 湾19023部隊だろう。
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第32軍の位置づけは台湾軍に属していたので、台と書かれていると推測され、これらの書き置きの隊員は、第5野戦
航空修理廠第1支廠の兵士達である可能性が高い。
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整備隊(航空修理廠)は、徳之島に第1独立整備隊。宮古島に第2独立整備隊。沖縄本島に第3独立整備隊があった。
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▲八紘第6隊と書かれている。八紘第6隊とは、「陸軍特別攻撃隊」で紹介している「石腸隊」の事だ。
隊員は18名、昭和19年12月5日~昭和20年1月8日にフィリピンの陸軍基地から99式襲撃機で特攻出撃した部隊だ。
この書き置きを書いた鈴木敏治少尉、上野哲彌少尉(彌は弥の旧字)は昭和20年1月8日に出撃。特攻戦死している。
そして、鈴木少尉、上野少尉の右横に書かれている愛敬 理少尉は八紘第2隊「一宇隊」隊員で昭和19年12月7日特攻
戦死している。
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▲陸軍特別攻撃隊・八紘第6隊「石腸隊」隊員の写真。一番左に写っている方が上野哲彌少尉だ。
フィリピン戦線における陸軍の特攻隊は全て日本(内地)で編成された。石腸隊は千葉県にあった下志津陸軍飛行学校
(下志津教導飛行師団)で編成されているので、下志津基地を離陸した隊員は、各地を経由した後、徳之島を経由して
フィリピン(パコロド基地)に向かった可能性もある。多賀屋の書き置きがそれを証明している。
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▲花蓮港飛行隊と書かれている。恐らく陸軍第8飛行師団(誠)指揮下の飛行隊で、昭和19年6月から台北に進駐し、
台湾軍司令官(後、第10方面軍司令官)の隷下となった。7月、作戦に関して連合艦隊司令長官の指揮下に入る事とさ
れ、宜蘭・屏東・花蓮港を根拠飛行場とし、台湾近海を通過する輸送船団の掩護と、フィリピン島に転進する航空部隊
の整備、その他の援助に任じた。昭和20年3月米軍が沖縄に来襲し、天号航空作戦に参加。
第9飛行団を台湾宜蘭及び宮古島以西の南西諸島、第22飛行団を台湾南東部に展開。第6航空軍や連合艦隊と協同し、
のべ293機の特攻機を米機動艦隊に向け出撃させている。
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▲八紘第11隊「皇魂隊」桑原金彦少尉の書き置き。三浦隊とは「皇魂隊」隊長・三浦恭一中尉の事だ。
隊員9名 昭和19年12月25日~昭和20年1月10日二式複座戦闘機「屠龍」でルソン島北部・ラオアグ・リンガエ
ン湾に突入した陸軍特別攻撃隊だ。
▼出撃前の寄せ書きの右端に桑原金彦少尉の書が残っている。桑原金彦少尉は昭和20年1月8日特攻戦死
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▼二式複座戦闘機「屠龍」※写真は飛行第四戦隊 空対空特攻隊「回天隊」隊員。
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▼同じく八紘第11隊「皇魂隊」の倉知政勝曹長の書き置き。桑原金彦少尉と同じ昭和20年1月8日特攻戦死。
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▼鉾田陸軍飛行隊と書いてある。鉾田(ほこた)陸軍飛行学校出身者だ。
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鉾田陸軍飛行学校は、主として軽爆撃機/襲撃機による攻撃に関する教育と研究等を行った。昭和15年12月静岡県の
浜陸軍飛行学校内に開設され、昭和16年1月茨城県鹿島郡(鉾田市)に移転。6月鉾田教導飛行師団となり、更に7月教
導飛行師団 第3教導飛行隊と第26飛行団司令部に分離改編された。
この書き置きを書かれた方の中に、川島孝中尉とある。
川島孝中尉は日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊(特攻隊)「万朶隊(ばんだたい)」の一員で、昭和19年11月5日、陸軍初
の特攻隊出撃という事で、時の司令官 富永恭次司令官が、「万朶隊」の悠長に華麗な出陣式をする為、最前線に居た
特攻隊員を、わざわざ富永恭次司令官の居所「ルソン島」に呼び集めるという非常識な命令を出した。
万朶隊の隊員5名が出陣式でマニラに向かう途中、ニコラス上空でマニラに空襲に来ていたグラマンF6F2機に遭遇。
襲撃されて被弾。そのまま胴体着陸したが炎上し、搭乗員全員が戦死するという事件が、万朶隊特攻出撃前に起きた。
戦死した岩本隊長以下、下記5名の中に川島孝中尉(も含まれていた。
岩本益臣大尉(福岡県出身)「万朶隊」隊長(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年28歳)
園田芳巳中尉(佐賀県出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年23歳)
安藤浩中尉(京都府出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年22歳)
川島孝中尉(神奈川県出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年22歳)
中川勝巳少尉(和歌山県出身)[通信](出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年30歳)
5人全員が非業の死を遂、出撃前に無念の戦死。
生き残った万朶隊は昭和20年11月12日、海軍の神風特攻隊に遅れること3週間後、4機の99式双発軽爆撃機がルソ
ン島カローカン基地より出撃。以後12月までレイテ湾へと出撃を繰り返した。
隊員の大部分は戦死したが、佐々木友次伍長は機体故障での途中帰投や通常爆撃による攻撃などを9回以上行い続ける
も、かろうじて唯一生還した話は有名だ。11/12の出撃で戦死扱いされながらも、佐々木伍長はその後のミンドロ島
方面への出撃でも生還をし、ルソン島で生きて終戦を迎え、1946年に日本に帰国を果たしている。
以下は陸軍初の特別攻撃隊「万朶隊」が出撃した後の大本営発表。佐々木伍長は戦死扱いになっている。
大本営発表(昭和十九年十一月十三日午後二時)
一、我が特別攻撃隊万朶隊は、戦闘機隊掩護のもとに、十一月十二日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し、必死必殺の体当り
をもって、戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈せり。本攻撃に参加せる万朶飛行隊員次の如し。
陸軍曹長 田中 逸夫/同 生田 留夫/陸軍軍曹 久保 昌昭/陸軍伍長 佐々木友次
詳しくは「陸軍特別攻撃隊」の記事参照。
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▲▼誠第19107部隊と書いてある。独立飛行第46中隊/対潜哨戒隊の事で、九八式直接協同偵察機を使用した。
東部軍直協飛行隊を改編。書き置きの佐藤勇男大尉が隊長。
昭和19年10月20日台湾に展開、第八飛行師団長の隷下に入り、沖縄作戦を準備。沖縄第32軍の中飛行場(沖縄本島)
で急遽編成された陸軍特別攻撃隊「赤心隊」は独立飛行第46中隊の隊員から選ばれている。
昭和20年3月27日と28日に陸軍中飛行場(沖縄本島)より7名が99式直接協同偵察機で特攻出撃している。
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    ▲鶴見国志郎少尉は台湾出身。
陸軍特別攻撃隊「赤心隊」として昭和20年3月28日陸軍中飛行場(沖縄本島)より99式直接協同偵察機で出撃。
沖縄本島に上陸作戦を開始し始めた目の前の米艦隊に突入、散華。
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   ▲第一〇二二海軍航空隊とは、台湾方面で任務にあたった輸送機部隊だ。
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陸海軍のさまざまな部隊の兵士の書き置きがあった。航空兵、整備兵、船舶工兵、輸送部隊から特攻隊まで・・・。
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これだけ多くのさまざま部隊の書き置きが残る宿は他に無いかもしれない。
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特攻隊だけでは無く、皆が一丸となって戦っていた戦争である事が良く解る。
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 ▲まだまだ沢山の書き置きがあったが、最後に奄美大島守備隊(独立混成64旅団)旅団長の高田利貞陸軍少将

ひとつ心残りがある。徳之島にあるという「黒潮の塔」の場所がどうしても解らなかった。
時間的な事もあり、とことん聞いて探した訳では無いので、もっと時間をかけてヒアリングしながら探せば見つかった
かもしれない・・・。結局行けなかったが、此処で紹介しておく。
昭和20年4月22日14:40陸軍特別攻撃隊 第105振武隊の藤野道人軍曹(福岡県出身/享年21歳)は、97式戦闘機で
知覧から特攻出撃。沖縄に向けて出撃途中に敵戦と交戦になり、徳之島トンバラ岩の海中に没した。
戦後30年が経った昭和50年10月藤野軍曹の遺族が徳之島の母間を訪ね、住民の話をまとめたレポートを残している。
昭和20年4月22日夕刻、母間から約15㎞沖のトンバラ岩上空で激しい空中戦が行われた。
4/22も米軍機の空襲は激しく、「朝より夕方まで飛行場爆撃、夜間も時々爆音が聞こえた」という。
住民は岩陰や草むらに身を潜め、息をこらして見守っていた。黒い機影がいくつも海に散り、その内2機が沖に爆弾を
落として島に向かって来る。1機はふらふらと海に落ち、残る1機はその場を数回旋回し、翼を左右に振りながら別れ
にくそうにして浅間飛行場に飛んでいった。1週間後、2人の潜水夫が海に潜って墜落した97式戦闘機の中で搭乗員の
遺体を発見した。
遺体は、体当たり時に機体から体が飛び出さない為の配慮か、手足が操縦桿と踏み棒に縛り付けられていたという。
軍医の検死の後、高田少将が遺体の胸ポケットの軍隊手帳を確認し、搭乗員が藤野道人軍曹であることが判明した。
藤野軍曹は地元住民に丁重に葬られた。
4/22知覧から僚機6機が出撃したが、藤野機と一緒だったのは日下弘美伍長だった。日下伍長は浅間飛行場に着陸す
ると直ぐ、藤野機の収容を依頼し、翌日、仲間の後を追って浅間飛行場から単機出撃。沖縄の海で散華した。
藤野軍曹は、このようにして上官に戦死が確認された為、特攻戦死ではなく通常の「戦死」として扱われている。
同様の状況で戦死した特攻隊員は多数いるにもかかわらず、たまたま状況が明らかになったが為にである。
あまりにも機械的・事務的な対応だ。後に家族へ届いた死亡告知書(戦死公報)に記されていたのは「戦闘死」。
特攻隊員の恩典である2階級特進は認められず、一般戦死扱いの1階級昇進だった。
藤野軍曹の妹さんの藤野幸子さん(享年80歳)は、戦後兄の名誉を認めて欲しいと、援護局に乗り込んで行って訴えた。
それでも結局は特攻戦死者として認められる事はなかったという。あまりにも冷徹な日本国の判断である・・・。
昭和54年、現地に黒潮の塔という慰霊碑が建立され、藤野軍曹が満洲の公主嶺で詠んだ辞世の句が同期の第11期少飛
会によって翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
『火急を知りて 馳せ参じ 我は征くなり 弥生の空に 特攻出撃を前に』

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▲伊仙町歴史民俗資料館を後にして車を走らせていると、ふと目に入った爆弾??
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▲地域美化・環境保全活動表彰と書いてある。平成24年とはまだ最近の事だ。
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まだまだ空襲当時の不発弾が出てくる事があるというから、恐らく此処で出た米軍の不発弾だろう。
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▼徳之島を訪れた時は丁度海開きだった。
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▼美しい与名間ビーチが広がる。
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▼与名間ビーチ上空を徳之島空港に着陸態勢のJACが飛ぶ。昔は陸海軍の航空機が飛んでいた事でしょう。
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宿泊させて頂いた『サンセットリゾート徳之島』はとても良かった。食事も美味しい、大浴場施設もある。加えてオー
ナーの宮田さん一家の温かい歓迎が嬉しい。宮田さんのお子さんはナント9人!流石徳之島の男!素晴らしい!
食堂は与名間ビーチが目の前で、夕日スポットを見ながらの食事は最高だ。外で食事する事も可能だ。
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▼サンセットリゾート徳之島のレストラン(屋外)からの眺め。
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▼サンセットリゾート徳之島にほど近い場所には西郷公園がある。
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▼岡前曖役所跡。曖(あつかい)とは薩摩藩の行政用語。薩摩藩の支配下にあった明治5年までここには噯役場(あつ
かいやくじょう)と呼ばれる行政機関があった。
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▼岡前にある西郷隆盛謫居(たっきょ)跡。ここの松田勝伝方に69日間滞在した。西郷36歳の時だ。
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▼「西郷南洲先生謫居之跡」の碑。
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折角西郷さんゆかりの地を訪れたので、徳之島にある西郷ゆかりの地に向かった。
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▲井之川湊展望所
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▲徳之島空港の南にある湾屋港。此処に「西郷南洲翁上陸記念碑」がある。
西郷隆盛が、奄美大島と沖永良部島に2回流された事はよく知られているが、沖永良部島に流される途中、此処に上陸し
徳之島で2ヵ月半(69日間)滞在した。
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徳之島は闘牛が有名。丁度闘牛が開催されるとの事で、せっかくなので初闘牛観戦。
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▼闘牛場の臨時テントでチケットを購入。2500円
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次々とトラックに自慢の牛を載せた闘牛オーナーが会場入り。ほとんどのオーナーが趣味で牛を飼っている。
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▼会場に入ると観戦エリアはかなり広い。
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▼試合が始まる頃には超満員!
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初めて見学したが、牛の角や頭がぶつかる音、牛の闘志、相撲の様な競技で、好きになる気持ちが良く解った。
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一試合はおよそ5~10分程度。相手にビビッて直ぐ逃げる牛の場合は何秒かで終わってしまう試合もある。
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▲今回の大会(ろばた焼き 帆船花20周年記念感謝祭)の優勝牛は「幸龍皇」おめでとうございます!強かった。
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徳之島は大きな山が多い。一度も海の底になった事が無いのでハブも生息している。
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美しいビーチもあれば、断崖絶壁の場所もあり、さまざまな風景が楽しめる飽きない島だった。そして戦跡も多い。
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一周70㎞程の小さな島だが、良い意味でプライドが高く、そして愛国心強い島民ばかりで非常に気持ち良い島だった。
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▲徳之島最終日、「沖永良部島」へ行く為、亀徳新港に向かう。亀徳本港と新港があるが、本港は旧港の事。
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▲▼亀徳新港。亀徳本港の方にはホームセンター「ニシムタ」があるので、直ぐ解る。
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沖永良部島までのフェリー代は1780円(2等)。事前にネットで予約しておくとスムーズ。割と満席になる事が多い。
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▲船が入港してきた。奄美大島(名瀬)から来たのだろう。予約は1ヵ月前から。予約無ではチケット獲得は難しい。
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大きな船だ。富山丸もこの位の大きさだったのだろうか・・・旅行者も多いが、地元の学生(クラブ活動?)が大半。
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▲乗船して亀徳本港方面を見る。赤矢印の部分が本港。ニシムタが見える。船では荷物の積み込みが行われている。
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▲さぁ、沖永良部島に向けて出港だ。
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▲さようなら徳之島。有難う徳之島。また来ます!!

次回、沖永良部島に続きます。

拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2019_05_07




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
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