福岡県にある太刀洗平和記念館へ行ってきました。大刀洗航空隊は、西日本の陸軍航空隊発祥の地
であり、東洋一を誇った戦略の拠点だったそうです。
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後に飛行学校や航空教育隊となり、太平洋戦争末期には旧陸軍特攻基地の中継基地となりました。
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戦時中は洗飛行場や航空教育隊、航空機工場などがあり、一大軍都として発展した場所です。
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太刀洗陸軍飛行学校及び飛行場は知覧/万世などの特攻隊前線基地として有名ですが、大刀洗は知覧
(太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所)の本校にあたります。
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日本陸軍の南方進出の最大の前線基地だったこの場所は、終戦間際の大空襲により壊滅的な被害を
受け、飛行場も工場も焼失し、航空機基地としての機能を殆ど失い、やがて終戦を迎えて飛行場は
消滅したそうです。戦後はしばらく放置された後、キリンビール福岡工場に一部分が生まれ変わり、
田畑に戻り、平和記念館が建てられて当時を伝えています。
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▲戦時中の九州の陸海軍航空基地(◆が海軍 ◇が陸軍)

▼記念館外観は米軍のカマボコ兵舎の様ですが、飛行機の格納庫をイメージした形だそうです。
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▼入場料500円を支払い中に入ると、世界に唯一現存するゼロ戦三二型が迎えてくれます
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昭和53年、マーシャル諸島タロア島のジャングルで発見され、いくつもの困難を乗
り越えて昭和58年に日本へ帰還し、修復されたとの事です。
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▲第252海軍航空隊は佐世保鎮守府所管の特設戦闘機隊で昭和17年9月、
 館山基地で開隊。その後ニューブリテン島ラバウル航空基地へ進出。
 ギルバート諸島マキン、タラワ島の玉砕に伴い、マーシャル群島タロア島に後退。
 昭和19年2月空襲によりタロア島施設壊滅。被弾航空機が放置されたうちの1機。

▼栄一二型発動機(ゼロ戦二一型・九七式艦上攻撃機・陸軍単座戦闘機「隼」などに
使用された千馬力級のエンジンで、零戦三二型のものでは無い)
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▼コクピットは非常に良く残っていて、計器類は割れたりしているものの当時のまま。
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▲1941年三菱重工業名古屋製作所で製造 総製造数343機中の1機(32型唯一の現存機)
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零戦は悲劇の戦闘機ですが本当に美しいです、特攻作戦になる前にもう少し早く搭乗員
を守る為の改良や、性能向上開発する余裕が日本にあれば・・・。たらればは禁物ですが。
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▲Y2-128は1942年9月第252海軍航空隊司令の柳村義種大佐のイニシャルをとってY記号とした
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▲零式艦上戦闘機三二型(第204航空隊所属機 ニューブリテン島ラバウル東飛行場にて昭和18年5月頃撮影)

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)は日本海軍の単座戦闘機です。太刀洗は日本陸軍の飛行場でした。
陸軍の単座戦闘機は「隼」でしたが記念館に「隼」はありません。なぜなら
「隼」の現存機は日本に1機も残っていないからです。
▼沖縄戦で陸軍中飛行場で米軍に鹵獲された陸軍単座戦闘機「隼」
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国内では「知覧特攻平和会館」に映画撮影用の実物大レプリカが展示されているだけです。
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▼▲現存機がインドネシア共和国軍博物館に展示されている(インドネシア共和国空軍色に塗装されている)
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特攻出撃した陸軍の爆撃機を含めた多くの日本陸軍戦闘機が紹介されていました。
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「さくら弾機」を知る人は少ないと思います。
「桜弾」とは「さくら弾機キ-67」専用の直径1.6m重さ2.9tの対艦用大型爆弾の事で、あまりに大型な為、そのまま
では機体内部に収納しきれず、四式重爆撃機を改造し、機体上部が膨らんだ形状になっています。
爆発威力は「前方3 km、後方300 mが吹き飛ぶ」と称されていたといいます。大型爆弾搭載のため重量軽減が図られ、
防御火器は撤去しており、燃料も片道分に減らした特攻機で、自衛の銃器類の装備も無く、前頭部と尾翼の一部にはベ
ニヤ板を使うという“人間爆弾”で、乗員も4人に減らされていました。完成したさくら弾機は飛行第62戦隊に配備され、
沖縄戦に特攻実戦投入。岐阜県の各務原航空廠で製造/テストされ、太刀洗飛行場へ移動。昭和20年4月17日四式重爆
撃機を改造し、軽量化の為、自衛の銃器類の装備も無い800㌔爆弾2発を搭載した特別攻撃専用型「ト号機」2機が初出
撃するも途中敵機と遭遇、エンジントラブルによりからくも1機が徳之島に引き返しています。
1機は消息不明となった。
加藤幸二郎中尉(青森県出身)/吉野英男少尉(山形県出身)/吉永卓仔軍曹(岡山県出身)/大橋愛志伍長(宮城県出身)
▼飛行第62戦隊「加藤幸二郎中尉(青森県出身)」
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同日昭和20年4月17日「さくら弾機」1機が鹿屋から出撃するも離陸2時間後消息不明となった。
[操縦]金子寅吉曹長(千葉県出身25歳)/[航法士]近藤和康兵長(北海道出身18歳)
[通信士]伊藤 實兵長(岩手県出身20歳)/[機関士]古俟金一伍長(東京都出身25歳)

昭和20年5月25日大刀洗飛行場から「さくら弾機」2機、800㌔爆弾2発を搭載した「ト号機」2機の計4機が沖縄に向
けて出撃、敵艦隊を発見出来ずト号機2機は鹿児島の海軍鹿屋基地に帰還。
(帰還途中、種子島・知覧への着陸も考えたが800㌔2本の爆弾を抱えた重荷の四式重爆撃機では滑走路の長さが足ら
ず、危険との判断で海軍鹿屋基地に着陸を決行したそうです)
さくら弾機2機は「突入ス」の電報後行方不明となり、戦果は確認出来ておらず、さくら弾機2機の搭乗員8名も未帰還
だそうです。完全に片道燃料の特攻出撃ですからね。無理な改造で動きの遅いさくら弾機は米軍戦闘機の恰好の餌食で
したでしょうね・・・。ト号機2機は往復分の燃料を搭載しており、搭乗員の方達は生還しておられます。
ト号機で出撃した生還者の中に花道柳太郎さんという方がおられます。出撃前2日前に謎の火災でさくら弾機1機が出撃
不可能になり、ト号機への搭乗変更を余儀なくされた結果が存命に繋がった方です。花道さんと一緒に出撃予定だった
通信兵の山本辰雄伍長がさくら弾機を放火した罪を着せられ、十分な裁判もされないまま、終戦直前の8月9日に福岡市
の油山で処刑された様です。(山本伍長は北朝鮮出身者だったので、無実の罪を着せられた可能性があるとの事です)
さくら弾機炎上のお陰で 生還者となった、花道柳太郎さんは戦後、TV番組で「山本伍長は私とずっと一緒に居たので無
実です」と証言されています。

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▲館内に展示されている「さくら弾機」の模型
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昭和20年5月25日ト号機2機・さくら弾機2機、太刀洗飛行場より出撃(さくら弾機2機那覇西方洋上消息不明)
溝田彦二少尉(東京都出身)/高尾峯望伍長(福岡県出身)/山中正八見習士官(岐阜県出身)/田中弥一伍長(山形県出身)
福島 豊少尉(熊本県出身)/大川 実伍長(香川県出身)/永野和男伍長(大阪府出身)/山下正辰伍長(愛媛県出身)
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▼「さくら弾機」の貴重な写真 [飛行第62戦隊第1中隊溝田少彦二(機長)少尉機5/25出撃(消息不明)]
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前村 弘さんのお嬢さんが作画なさった陸軍62戦隊の 「さくら弾機」 とキ-67飛龍ト号機
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▼特攻出撃直前の「飛龍」を改造した特攻機に800㌔爆弾2本を搭載したト号機
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▼「飛龍」(靖国)1944年10月の台湾沖航空戦では写真ように魚雷を抱いた雷撃機として参戦した。
海軍と陸軍の搭乗員が協力した珍しい事例である。機動部隊合計部隊は「T攻撃隊」と呼ばれたが、
この部隊編成には海軍軍令部の源田実参謀が関わっていた。「T作戦」のTは台風の事。
昭和20年6月25日ジャワ島のスラバヤ飛行場を発進する魚雷を抱いた七生神雷隊の四式重爆撃機。
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▼四式重爆撃機「飛龍」
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太刀洗の四式重爆撃機「飛龍」は、昭和16年陸軍より生産増強命令を受けた三菱重工が、
名古屋航空機製作所の分工場として、熊本市健軍の約140万坪の敷地に新工場の建設を
開始します。現、熊本市東区 「三菱重工業㈱ 熊本航空機製作所(第九製作所)」
飛龍の航空運動能力は単発機なみの性能を有し、宙返りもできる軽快さ、1t爆弾装填での
急上昇、プロペラ停止状態での長距離滑空という理想的な爆撃機だった様です。 
三菱重工の工場ですが、国により建設され三菱により経営されるといういわゆる「官設民
営工場」で、昭和19年に竣工し、終戦までの間に42機の四式重爆撃機キ-67「飛龍」を
生産しました。(さくら弾機が熊本で製造されていたかは不明。)
熊本市東部にある陸上自衛隊健軍駐屯地(西部方面総監部)の広大な敷地の中に、終戦まで
重爆撃機「飛龍」を生産していた三菱重工の巨大な工場建屋が現存しているそうなのでい
ずれは訪れたいと思っています。
現在、四式重爆撃機「飛龍」は国内外問わず1機も現存していない様です。
※海軍軍令部はキ-67雷撃機として四式重爆撃機を使用、海軍では「靖国」と呼ばれた。
重爆撃機 攻撃ハ特攻トス ~陸軍飛行第62戦隊~戦争証言アーカイブス

▼大刀洗平和記念館でしか見れない陸軍の97式戦闘機を見学出来ます。
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1938年(日中戦争)から実戦に投入され、1939年にはノモンハン事変でソビエト空軍と戦火を交えた日本陸軍の
名機。太平洋戦争時(1941年~1945年)には既に旧式化していたが後継機「隼」の数が揃うまでは活躍し続けた。
▼陸軍97式戦闘機
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前線部隊から退いた後は練習機として。そして旧満州でも特攻訓練に使用された。大戦末期には特攻機に使用されたが
250㌔爆弾の重さに耐え切れずエンジントラブルが続出。ここに展示されている97式戦闘機も特攻命令を受けた渡辺
利廣陸軍少尉(鳥取県淀江町出身)が、昭和20年4月14日大邱(朝鮮半島)から鹿児島県の知覧飛行場に向かう途中エ
ンジントラブルにより博多湾雁の巣沖に不時着。その時は救助されたが、8日後の4月22日、同少尉は別の97式戦闘機
により知覧基地から沖縄に特攻出撃、戦死された。 平成8年(1996)9月10日、51年ぶりに博多湾より引き上げられた
97式戦闘機は修復されて現在に至っている。
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▲平成8年9月10日博多湾雁ノ巣鼻から南東約600m、水深3mの海底で発見。引き上げの写真
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▲この機体は佐賀市在住の佐藤亨さんの愛機であった。昭和20年(1945)4月3日第105振武隊(沖縄戦陸軍特攻隊)
所属の佐藤亨伍長の操縦によって旧満州公主嶺から大邱(朝鮮半島)に移動し、上記の通り、実際にこの機に乗り込み
出撃したのは、佐藤氏ではなく渡辺少尉であり、エンジントラブルのため、博多湾に不時着した経緯があった。引き上
げられた遺留品の水筒から渡辺利廣陸軍少尉が判明したのである。(※佐藤亨さんもその後知覧より特攻出撃されたが
奇跡的に生還された。)引上げられた97式戦闘機は佐藤氏から以前の大刀洗平和記念館(個人経営昭和62年4月~)
に寄贈されたが、甘木市、三輪町、大刀洗町はいっさい復元に協力してくれなかったという。損傷の激しい機体を大変
な苦労をして以前の経営者らが個人的に復元に挑み完成させたものである。個人経営時代には撮影も可能(遺影や遺留
品は撮影禁止)だった97式戦闘機が、現在の筑前町営「大刀洗平和記念館」になった途端に撮影禁止というのは理解
に苦しむところだ。

▼今年終戦70年企画で放送されたTVドラマ「妻と飛んだ特攻兵」のポスターが飾ってあった。
昭和20年8月19日終戦後に満州からソ連軍の戦車に特攻した夫婦の実話をドラマ化したものだ。
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(神州不滅特別攻撃隊)終戦後の昭和20年8月19日「陸軍第五練習飛行隊」今田達夫少尉以下11名は当時の満州国
大虎山飛行場から特攻出撃、ソ連軍の戦車に突入。このドラマの主人公「谷藤徹夫少尉」は、結婚間もない新妻を
後席に同乗させての出撃であった。
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▲谷藤徹夫少尉と妻の朝子さん
谷藤徹夫少尉は、当時狭き門であった「特別操縦見習士官(特操)」に合格、昭和18年10月「大刀洗陸軍飛行学校」
へ入学。通常数年かけて教え込まれる飛行機の操縦、軍事法規、国際法、航空力学等の知識を、1年で叩き込まれる厳
しい教育を受け、(入学時点で下士官のトップである曹長の肩書きがもらえた)卒業後陸軍少尉に任官、卒業生のほと
んどが南方激戦地に送られていた中、谷藤少尉に与えられた任務は、その時点では戦闘地域が存在しない満州で「少年
飛行兵に基礎操縦法を教える」というものだった。実戦経験もなく、訓練を終えたばかりで「教官」だった。
谷藤徹夫少尉の任地は北満州大虎山にあった陸軍第五練習飛行隊第一教育隊大虎山分屯隊。
陸軍第五練習飛行隊第一教育隊大虎山分屯隊は、鹿児島県の知覧基地から飛び立つ特攻隊員を育てる訓練隊だった。
隊長は箕輪三郎中尉。箕輪中尉は8/19特攻出撃する11名を見送り、シベリアに抑留された後、無事帰国している。
(率先して出撃しようとしたが谷藤徹夫少尉に「私達以外にも航空隊には隊員がいるのです。隊長には大勢の部下達を
まとめれいただけねば困ります。見て見ぬ振りをしてください」と言われ、出撃せず、黙って見送ったと言う)

「神州不滅特別攻撃隊」 昭和20年8月19日大虎山飛行場より出撃(1機離陸失敗1機途中エンジン不調により不時着)
下記11名+女性2名 8/19 14:00頃 大虎山飛行場より11機が出撃。
谷藤少尉と大倉少尉の乗機は陸軍99式高等練習機2機、他隊員は二式高等練習機9機の計11機で、赤峰のソ連戦車群
に向かって出撃していった。
谷藤徹夫少尉(青森県出身24歳)と妻の朝子(福岡県出身)さん26歳 (昭和19年結婚)
※官舎に残されていた谷藤徹夫少尉の辞世 「国破れて山河なし生きて甲斐なき生命なら死して護国の鬼たらむ」
今田達夫少尉(広島県出身26歳)/馬場伊与次少尉(山形県出身24歳)/日野敏一少尉(兵庫県出身21歳)
波田野五男少尉(広島県出身22歳)/二宮清准尉(静岡県出身27歳)/北島孝次少尉(東京都出身22歳)
岩佐輝夫少尉(北海道出身25歳)は出撃の朝、許婚(いいなづけ)と母親が共に覚悟の自決を見届けてから出撃。
大倉巌少尉(北海道出身)23歳は大虎山にあった伊予屋旅館の女中をしていたスミ子という20歳前後の女性が同乗。
伴元和少尉(石川県出身年齢不明)は離陸に失敗、飛行場外れに墜落(不時着?)シベリアに抑留され収容所で死亡。
宮川進二少尉(東京都出身23歳)はエンジン不調で不時着、日本人居留民に助けられ錦州の本部に帰還。伴元和少尉と
共にシベリアに抑留されシベリアから復員帰国したが、帰国後は神州不滅特攻隊について何も語らず病死。

下記激文の最後に隊員11名の署名と血判が記されていたと言う。
「神州不滅特別攻撃隊」

戦い得ずして戦わざる空の勇士11名
生きて捕虜の汚辱を受けるのを忍び難し
ここに神州不滅特別飛行攻撃隊を編成し
昭和維新のさきがけたらんとす

シベリアでの過酷な労働に耐えて帰国した、第五練習飛行隊長だった箕輪三郎元中尉達は、彼等がシベリアで抑留され
ている間、日本国内で最後の特攻を敢行した11名については、軍の正式命令に基づく特攻ではなく、自らの判断による
特攻だったとされ、戦後の日本政府による正式な調査も行われず、また靖国神社への合祀も行われなかった事を知り、
粘り強く厚生省と折衝を続け、昭和32年になって、ようやく彼等10名(シベリア抑留中亡くなった伴元和少尉以外)は戦
没者として認められ、靖国神社に合祀された。そして第五練習飛行隊生存者を含む箕輪元中尉らは募金を集め、昭和42
年5月東京都の世田谷観音内に「神州不滅特別攻撃隊之碑」を建立。現在も慰霊されている。
▼陸軍99式高等練習機
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▼陸軍99式高等練習機
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▼陸軍二式高等練習機
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▼陸軍二式高等練習機
世界で唯一の現存機がインドネシア共和国軍博物館に展示されている(インドネシア共和国空軍色に塗装されている)
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※「神州不滅特別攻撃隊」特攻の結果(戦果)についてはソ連側の記録もなく不明である。
神州不滅特別攻撃隊11名は飛行教官として自らは実戦経験もないまま少年飛行兵を育て特攻隊員として送り出していた。
その際「必ず俺も後から行くから」との言葉を掛けて見送っていた様だ。[富屋食堂と知覧特攻平和会館]で紹介している
陸軍振武隊員は北満州大虎山「日本陸軍第五練習飛行隊」で訓練を受けた隊員が多かったと言う。
陸軍特別攻撃隊」は、満州各地でも続々と編成され、満州各地にある訓練隊で訓練を積んだ後、鹿児島県知覧飛行場な
どから沖縄米艦隊に向けて出撃していった・・・。
満州で訓練を受け、九州/沖縄/台湾より出撃していった特攻隊員がどれぐらいいるのか詳細は解らないが、知覧から出撃
した第45振武隊長 藤井一中尉の様に「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長も必ず行く」と言って教え子
達を送り出した下士官はとても辛かっただろう。そして最後は約束を果たした藤井中尉の様な下士官も少なくない。
特攻隊員に対して「最後の一機で突入する」と叫んで戦後のうのうと生き長らえた陸軍幕僚達はこの事をどう感じて戦後
を生きたのであろうか・・・。「最後には必ず行く」と言って終戦後も死ななかった代表的な陸軍幕僚達は下記の通り。
(軍司令官)菅原道大中将/(軍司令官)冨永 恭次中将/(参謀長)藤塚止戈夫中将/(参謀副長)青木喬少将
(高級参謀)井戸田勇大佐/(作戦主任参謀)水町勝城中佐/(参謀)川元浩中佐/(後方参謀)道場行道少佐
(情報参謀)藤本正雄少佐/参謀(作戦及び編成)倉澤清忠少佐 など。

※満州国に関して少し書くと、日本が作った傀儡国家だと言う事は、当時の満州が現在の中華人民共和国だったとすれば
正解だろう。しかし、満州は満人の土地であり、当時の支那では無かったと言える。
リットン調査団は満州国を傀儡と断じたが、勧告書の中身の殆どは日本の満州国建国の経緯から述べ、日本の経営権を認
め、満州国の主権を認めなかったのは一条だけだった。そして「今この国(満州)を無にするのは現実的でない」とまで言
っている。要するに「満州国の経営をアメリカと一緒にやりなさい」という勧告だった。
満州は日本が侵略したのでは無いとはっきり言える。
アメリカは自身は手を汚さず中国(中華民国)に進出を図かり、蒋介石に手を貸した。
それは気に入らない!とロシアが中国共産党側に手を貸した。結果、日本降伏後裏では代理戦争の中国内乱が起こった。
当時、共産主義は中国人民になじまなかったが、目の前の日本の侵略(日中戦争)に対して、これで一時的に内乱から人民
の目をそらし統一出来た。毛沢東の言う「革命は日本軍国主義のお蔭で成就した」というのは、皮肉だが事実である。


▼昭和20年3月16日松根油等拡充増産対策措置要綱が閣議決定され広く国民に無償労働奉仕が求められた。
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▲南方からの原油還送が困難となって燃料事情が極度に逼迫していたため、国内で同様の燃料を製造する事
が検討された。当初はマツの枝や材を材料にする事が考えられたが、日本には松根油製造という既存技術が
ある事が林業試験場から軍に伝えられ、松根油を原料に航空揮発油(ガソリン)を製造する事となった。
製造された航空揮発油はそのまま使用できるものではなく、エンジンを含めテストと調整が必要であった。
戦後進駐軍が未調整のままをジープに用いてみた所、「数日でエンジンが止まって使い物にならなかった」
という記述がJ. B. コーヘン『戦時戦後の日本経済』にあるという。なお、海軍の当初計画でもテスト及び
調整が完了し実戦に投入されるのは1945年(昭和20年)後半の予定であった。この松根油確保の為に谷田
部海軍航空隊の練習航空隊の学生も借り出されている。この任に予備学生14期として従事した、元鹿屋海軍
航空隊昭和隊所属の杉山幸照少尉曰く、当時「こんなものを掘って、いつまで続くもんかなあ…」と思った。
と著書で述べている。実用前に終戦となるが松根油を原料に製造されたガソリンは『日本海軍燃料史』には
「20万キロリットルに達す」という記述があるというが信じがたい。
戦後残された松根油は、漁船の燃料として活用された。

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大刀洗平和記念館
開館時間 09:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 年末年始のみ(12/29~1/3)
入館料 大人500円
〒838-0814
福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1
0946-23-1227


キリンビール福岡工場の直ぐ近くに福祉施設「ひばりが丘学園」があります。かつてはここも陸軍太刀洗飛行場の敷地
でした。ここに今も司令部壕が現存しています。一般公開はしていないとの事でしたが、園長先生に無理を言って見学
させてもらいました。ひばりが丘学園の正門を入って左奥にひっそりと戦争遺跡が残っていました。太刀洗平和記念館
のパンフレットにも掲載されていない唯一飛行場の現存する建造物です。

▼太刀洗大空襲にも耐えた半地下の陸軍太刀洗飛行場司令部壕跡です。
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▼司令部壕入り口です。
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▼ふり返って入り口を撮影。
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現在はひばりが丘学園が倉庫として使用しています。なので電気を点けて見学出来ました。
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ここで幹部達はどんな気持ちで戦果確認をしたり特攻指令を出し続けていたのでしょうか・・・。
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▲壕内を見学して外へ出ると辺りは暗くなっていました。園長先生がおっしゃるにはこの場所では霊感の強い人は
 「近寄れない」と言います。私は感じない方なので何もありませんでしたが、買ったばかりのデジカメなのにど
 うもピントがうまく合わず、綺麗に写真が撮れませんでした。
 当然上層部を怨んで出撃していった隊員も多くいた事でしょう。「後から必ず行く」と言って戦後のうのうと生
 きながらえた幹部が多くいた事も事実ですから・・・・。海軍の幹部だった大西 瀧治郎中将の様に、敗戦決定後
 責任をとって自決した男気のある幹部が日本陸軍には居たのでしょうか?阿南 惟幾陸軍大臣は自決されましたが。

 NHK証言アーカイブス太刀洗
 ▼62戦隊におられた台湾出身の元特攻隊員 郭徳発 さんのHPです。是非ご覧下さい。
 平和への祈り




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2015_11_21




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
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