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笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)
日本の政治運動家、社会奉仕活動家。国粋大衆党総裁、衆議院議員、全日本カレー工業協同組合特別顧問
財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、福岡工業大学理事長、勲一等旭日大綬章受章者

大阪府三島郡豊川村(現:箕面市)に造り酒屋の長男として生まれる。笹川家は代々庄屋を務めた旧家で苗字帯刀を許
されており、父・鶴吉は笹川家10代目当主。笹川家の菩提寺は1579年(天正7年)に笹川市兵衞が創建したと伝えられ
る浄土宗理照寺。1914年(大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)高等科卒業。
作家の川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。
飛行機乗りを志し陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊。

戦後、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、マスメディアからは「右翼のドン」と呼ばれた。
1974年(昭和49年)アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えて
いる。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な
意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評
価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。
経歴としては、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈
放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから、有罪認定
はされていないが、A級戦犯容疑指定を受けたことが、その後左翼的な報道機関により意図的に報じられる事が多かっ
たこともあり誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことを「A級戦犯で極東国際軍事裁判において有罪となった」
と信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。
巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の
没後に公表された。なお、第二次世界大戦前の笹川は自分を「大衆右翼」と位置づけベニート・ムッソリーニを崇拝、
大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。強硬外交を主張しつつ、日本社会へのファシズムの浸透に
注力した。巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会
(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興を進め、更に福祉方面の公共事業を助成する財団
法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)を創設した。CIAエージェントであったとも報じられている。
株式取引に長け、姪婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して事態を乗り切
ることに成功している。
[政治活動]
1925年(大正14年)、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補し、当選して政治活動を始める。芸能事務所経営
を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。  
[川島芳子]
その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し
総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいた事もある。イタリアの指導者であるベニート・ムッソリーニの崇拝者であり、
ムッソリーニ率いるファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。
なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子と交際があったと噂されている。
本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。後に、多田駿の指示があ
ってか、暗殺の危険を感じた川島が里見甫などに相談した結果、笹川の元に身を寄せたこともあり、一方で党総裁の笹
川もそんな川島の国民的知名度や人気にあやかろうとしていたともされている。
1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。
大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後1939年(昭和14年)には飛行機で
単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の山本五十六の後援があった。
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の
姿勢の為、非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも
親交があったとされる。
A級戦犯容疑と「巣鴨日記」(巣鴨プリズン)
1945年(昭和20年)には、日本を占領下に置いた連合国指令によりA級戦犯容疑者として12/1に逮捕命令が出て12/11
巣鴨プリズンに入獄した。が、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった。
戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後、連合国の主要国であるアメリカの方針が
180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共の為に生かして利用する方針変換となった為(いわゆる逆コース)1948
年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党
を更に全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。
上記の様に、笹川は戦争中に戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁く
事は不当であり、アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。
また、「アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に
日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。
ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は、
「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS民間諜報局作成のファイルによる)としてであった
事を知る。笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズン
ンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念「日本が親米反共の道を選ぶべき事」
「日本同胞を餓死から救わねばならぬ事」「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、東條英機に対して「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛の為のものであったと
いう日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」と説いている。
また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。
一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合う。このことが日本のエスタブ
リッシュメント人脈との交流に繋がった。笹川は、巣鴨プリズンのことを「人生最高の大学」と評して、「ここは娑婆の
20倍、30倍勉強になる」と語った。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA
級戦犯達を励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大
な人望があったという。
後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採
用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波
書店も筆者を漏らさなかった為、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。
加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面識があった)。
[戦犯者救済活動]
笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求
めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、酒も煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者
の慰霊に奔走した。海外で収監されていた戦犯者や「三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊の
為に設立された宗教法人白蓮社、および家族会である白菊遺族会にも物心両面の協力を続けたとされる。
戦犯者とその家族を支援することは、当時としては連合国軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する
人間はほとんどいなかった。笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一
切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は伊藤隆編集の元に『戦犯者を救え 笹川良一と東京裁判2』 として
刊行された。
[反共産主義の活動](蒋介石と妻の宋美齢)
笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていたが、終戦直前に参戦し日本人捕虜をシベリア
に連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。
1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、現在のアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組
織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を中華民国総統の蒋介石らと共に設立した。
統一教会とはある時期まで協力関係にあり1963年(昭和38年)には統一教会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6/4
の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一教会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、
結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪化した為か、
1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。
笹川は反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り「政界の黒幕」として影響力を及ぼしたと見られているが、
戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とする事は無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達で
きた事に加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた。
[中国との関係]
中国国民党の蒋介石と世界反共連盟を設立するなど反共の立場を取ったにも関わらず、1972年(昭和47年)9月の日中
国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国国民党と対立する中国共産党が支配する中華人民共和国への支援に
回すなどしている。1987年(昭和62年)から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェ
クトで来日した中華人民共和国の医学生は延べ2000人を超える。同時に中国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した。
[タブーと親交]
1960年代から1990年代の各週刊誌などで批判的言説を受けていたにもかかわらず、笹川に批判的な左翼マスコミからは
生前「新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表する事は、
ある種のタブーとなっていた。と言われてきた。しかし、笹川は有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、
との例えどおり、実力の上において、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモ
チの方が強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのある事だった。
戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、
マイナス・イメージを持っていた為、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。
なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代になっている。また、
山口組三代目・田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。ロッキード事件が騒がれるとロ
ッキード副社長と会った事実などが明らかになるが、笹川は「会ったことがあるが疑惑はない」と反論し、実際にそれ以
上の追及はされていない。国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。
世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはアメリカの元大統領ジミー・カーター、
実業家ジョン・ロックフェラー等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』「解説」に詳しい。


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児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日は、日本の右翼運動家。
CIAエージェントであったという。暴力団・錦政会顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した。
三男はTBSサービス社長の児玉守弘 戦後の日本・欧州の視点 No.3-1 児玉機関と笹川良一YouTube
戦後の日本・欧州の視点 No.3-2 児玉機関と笹川良一YouTube
最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏と津久井龍雄ら
高畠素之門下によって創設された急進的な右翼団体「建国会」(会長は上杉慎吉、顧問に頭山)に加わった。
すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。
その後、建国会を脱退した津久井の急進愛国党を経て1931年に津久井と狩野敏が作った全日本愛国者共同闘争協議会
に参加。そこで国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし投獄された。
1932年に釈放され、満州に渡り、大川周明門下の笠木良明ら率いる大雄峯会に参加。同年、帰国すると「独立青年社」
を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を
破壊して停電を起こすことで皇道派のクーデターを誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。
発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党に参加。
1937年外務省情報部長河相達夫の知遇を得て中国各地を視察。1938年海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関
を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。
60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の1人
であった。1961年この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。
60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。
1967年7月笹川良一の肝煎りで、「第1回アジア反共連盟」結成準備会」が開催された。
この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
1969年青思研より独立した右翼団体日本青年社が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。
[児玉機関]
1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川の紹介で採用され海軍航空本部の嘱託となった。
ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した。
1941年真珠湾攻撃直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将
(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。この縁で上海に児玉機関と呼ばれる店を出した。
これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約を
もらっていた。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言
われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、
秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた。
児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されると
いう結果となった。この間1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京
5区から立候補をして8位落選をしている。
[逆コース](戦犯として収容時のマグショット)
終戦後、講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となって
いた。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍によ
り右翼をパージするSCAPの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」
を走る様になった。1948年12月24日に釈放されるが、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている。
確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていた事と、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国
内鉱山を明らかにしている事、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析している事である。
「フィクサー」へ(児玉邸にて政治家たちと密談1953年)
児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた。
児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を鳩山ブランド
の日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。
1950年北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を
築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次
が大きな役割を果たすことになる。
[岸信介]
1954年には、河野一郎を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党に
なった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。
岸信介が首相になる際にもその力を行使した。岸首相の第1次FX問題問題をめぐる汚職を社会党の今澄勇が追及していた
時は、等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし今澄が聞き入れない為、身上調書
を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。
児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。
それらに書き立てられることは脅威となった。
[ドワイト・D・アイゼンハワー]
日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡
す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。
改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸信介首相は自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉は
その世話役も務めた。
1962年(昭和37年)夏頃から「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の
防波堤となる強固な組織を作る」という構想の元、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局結成されなかった。
しかし、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付けていた。
昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃」
を実現させた。
[フィクサー]
児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると
韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企
業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、後に韓国大統領となる朴正煕とは満州
人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って韓国
利権に走った。日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。
1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンライ
ンの土屋研一は児玉に事件の解決を依頼した。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。
そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。
児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石
油の子会社だった日本精蝋を1974年夏に買収した。
児玉が圧力をかけるときは今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに博報堂がある。
その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、
その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、靡かないメディアには広告依頼を回さない。
このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和の商号を、1975年博
報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、
この元親会社に業務を請け負わせた。役員は広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を
連ねた。広田は、福井純一(博報堂社長)の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークし
ていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉
側近の第一人者であった。
[ロッキード事件]
児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”
戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった
1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。
児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。
韓国に対する影響力の大きさが窺える。
しかしこの頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった。
そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、
ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、既に日本航空はマクドネル・ダグラス社製DC-10
型機の購入を決定していた事もあり、その矛先を全日空に向けた。
この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、全日空は既に
決定していたマクドネル・ダグラスDC-10の購入計画を、後に贈賄で逮捕される元運輸次官の若狭得治社長の指示で破棄
し、ロッキード社のL-1011トライスターの購入を決定。その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の
日本での売上は拡大した。更に全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚
への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及される事となった。
[ロッキード裁判]
しかし1976年(昭和51年)アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人とし
て雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後三木武夫首相によってこの事
件の捜査が開始され、既にこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」
を起こし、床についた。しかし間もなく児玉は脱税と外為法違反で起訴され、裁判に臨む事になった。1977年(昭和52年)
6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れなかった。
元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。
児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。
72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没した。


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瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問など多くの要職
に就任し、政治経済界に大きな影響力を持ち、「昭和の参謀」と呼ばれた。号は「立峰」。
義父は岡田政権で内閣総理大臣筆頭秘書官を務めた松尾伝蔵(陸軍大佐)である。

1911年12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家で村長の瀬島龍太郎の三男として生まれた。
旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年に陸軍士官学校(第44期)を次席(首席は原四郎)で卒業、昭和天
皇から恩賜の銀時計を受けた。その後、富山歩兵第35連隊附の歩兵将校として従軍。その後は師団長の推薦により陸軍大
学校(第51期)に入学、1938年12月8日に首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を受けた。
御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。
その後、1939年1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二
陸軍中将)参謀となり、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚附関東軍参謀本部部員となる。
翌1940年には、大本営陸軍部作戦課に配属される。なお、この関東軍参謀時代に瀬島は対ソ示威演習である関東軍特種演
習(関特演)の作戦担当として作戦立案にあたった。
[太平洋戦争時]
1941年7月に大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐となる。同年12月8日の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦以降、陸軍
の主要な軍事作戦を作戦参謀として指導した。主任として担当した物を含めて、主な物は南方作戦におけるマレー作戦(E
作戦)・フィリピン作戦(M作戦)、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作
戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦等であった。瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、第6航空軍の作戦参謀として南九州
の陸軍基地で勤務した。1944年12月、単独でモスクワに2週間出張した。
1945年1月島村矩康陸軍大佐/連合艦隊常勤参謀が戦死、その後任に瀬島が選ばれた。2/25海軍の連合艦隊参謀兼務とな
り、最終階級は陸軍中佐となった。6月末まで同僚の千早正隆海軍参謀と共に本土決戦準備の為日本各地を調査している。
特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。
瀬島は迫水久常(鈴木貫太郎内閣内閣書記官長)と親戚であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦
局の実情を訴えたという。
※1945年7月1日関東軍作戦参謀に任命され満州へ赴任。同年8/15日本の降伏後の8/19ジャリコーウォでソ連軍と停戦交
渉を行う。日本側の参加者は、関東軍参謀長秦彦三郎、瀬島作戦主任(中佐)、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の
参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第1極東方面軍司令官キリル・メレツコフ
元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。この時、瀬島は軍使として同地を訪れた為、内地に帰還する事
は可能であったが、同年9/5関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。
この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している。
[シベリア抑留]
その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留される事となる。この時、本来捕虜としての労働の義務のない将校であるに
もかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。後にこの時のことを諧謔として「佐官が左官になった」
と述懐している。
[東京裁判証人として一時出廷]
この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳・松村知勝と
共にウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極
東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められるが断固拒否する。
更にソ連側は瀬島らに自分らの主張に沿った証言をさせようと家族との面会の話を持ち出したが瀬島はこれも断ったがソ
連は家族の所在を突き止め強制的に面会を強要した。
なお出廷に当たって瀬島は草場辰巳陸軍中将(関東軍鉄道司令官)、松村知勝陸軍少将(総参謀副長)と供述内容につい
て事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画
に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異
なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている。
裁判後シベリアに戻され昭和30年代に入るまで抑留生活を余儀なくされた。抑留中ソ連側の日本人捕虜に対する不当な扱
いに対しては身を挺して抗議をしたため自身も危険な立場に立たされる事もあった。1947年末から1950年4月までの間
どこの収容所にいたかを語っておらずモンゴルのウランバートルにあった。第7006俘虜収容所に、朝枝繁春、種村佐孝、
志位正二らとともに収容されていたと見られている。
[伊藤忠商事時代]
1956年、シベリア抑留から帰還した。アメリカは日本の警察などに依嘱して、舞鶴港で1週間にわたり拘禁尋問した。
設立直後の自衛隊に入るよう原四郎から再三の誘いを受けたが、瀬島の長女が反対したため断念した。
瀬島はシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、1958年に伊藤忠商事に入社する。1960年、伊藤忠商事航空機部長。
入社3年目の1961年には業務本部長に抜擢され、翌1962年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、同社
がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会
長に就任した。1981年相談役、1987年に特別顧問に就く。
この間、防衛庁防衛研究所の戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆協力、1972年11月にはハーバード
大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「1930年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の
回顧」という講演を行った。田中角栄とは田中が1971年第3次佐藤栄作内閣時代の通産大臣だった時知り合ったとされる。
児玉誉士夫は源田実に紹介され知り合ったと言われる。
実権のない伊藤忠会長だった1978年、永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所
副会頭に抜擢される。瀬島はそれまで財界活動はしていなかったが、以後、財界活動を活発に行う様になり、永野の参謀
として太平洋経済協力委員会やASEANの民間経済会議などに出席した。1981年永野や鈴木善幸首相、宮澤喜一、福田赳夫
田中角栄らの推薦、或いは永野と中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第2次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就く
土光敏夫会長のもとで参謀役として働き「臨調の官房長官」と称され、中曽根政権(1982年〜1987年)のブレーンとして、
政財界に影響力を持つようになった。また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉
(クォン・イクヒョン권익현)を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪
化していた1980年代初頭の時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相の訪韓実現や全斗煥大統領の来日や昭和天皇と
の会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。
ソウル五輪開催の際にも影響力を行使し、当時有力視されていた名古屋市の招致に本腰を入れないよう要請していたとする
説が複数の書籍で唱えられている。
1984年に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争
戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年に伊藤忠商事特別顧問を退任。
2007年(平成19年)春、入院中の瀬島は同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱は
とても良いことだと思っている。しかし具体的な政策を出さないと国民がついて行けない。ここで同台としての最後の御奉
公として、骨太な柱となる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識と経験を集結して、国民に判り易く、そして国際的
にも日本の姿勢がアピール出来るようなテーマを考えてみたらどうか」と言った。
こうして平成19年5月30日、同台経済懇話会会長として瀬島龍三は安倍首相に提出した提案書のなかで美しい国づくりの大
テーマとして近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。
クリーンエネルギー提案書では、10年間で風力と太陽光で電力の30%を達成するために、風力とソーラーの統合発電機構
を作り、関係産業各社と電力会社の協力を推進する事、太陽光ケーブルの大々的利用(重層利用、地下発電も可能となる)
ソーラー関係機器商品の開発奨励などを提案、森と水資源に関する提案書では、特に定年を迎えた元気なシルバー世代への
啓発事業、保水と空気清浄の源となる里山の増加育成、湖沼・ダム・湾などの新しい装置・技術を活用した浄水事業を、
山本卓眞(富士通名誉会長)、山口信夫(旭化成会長)、下山敏郎(オリンパス最高顧問)、小長啓一(前アラビア石油会長)、
中條高徳(アサヒビール特別顧問)、野地二見(元産経新聞取締役)、秋山智英(元林野庁長官)、
鈴木正次(元日本弁理士協会会長)、南崎邦夫(石川島播磨重工副社長)、小野寺俊一(元港湾協会会長)、
小野重典(フジタ最高顧問)、植之原道行(元NEC副社長)、岸国平(農業研究センター所長)らと連名で提出した。
6月21日妻の清子が老衰で90歳にて死去。3ヶ月足らず後の9/4妻を追う様に老衰の為、東京都調布市の私邸において95歳
にて死去。死後、従三位が贈られた。同年10月17日築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執
り行われた。

※上記全てウイキペディアより



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 2016_04_23


「陸の三馬鹿」と言われた陸軍将官を3名紹介しましたが、逆に非常に評価の高い将官もおられます。
今回は、アメリカで評価の高い山本 五十六海軍大将 / 宮崎 繁三郎 陸軍中将 / 木村 昌福 海軍中将
/ 吉川潔(きっかわ きよし)中佐 / 今村 均陸軍大将の5名をご紹介します。
[ 日本の戦争記録 ]

▼山本五十六海軍大将
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山本五十六記念館」 山本五十六YouTube
連合艦隊司令長官としてハワイ真珠湾攻撃などで有名な山本五十六(いそろく)大将だが、日本海軍の
中で評価の高い軍人の1人である。日本海軍の教育(江田島海軍兵学校)は決して単純な好戦的なもの
ではなかった。サイレント・ネイビー(沈黙の海軍)という言葉がある様に、「大言壮語せず、国を守
る時は充分に任務を果たすという意味である」日本の国力を冷静に分析し、戦争回避を第一に考え、外
交努力に徹するという考えを日独伊三国同盟まで貫いた海軍山本五十六。
日本陸軍はドイツ、海軍はイギリスをモデルにして作られた事はよく知られている。海軍は当時の最強
海軍国、イギリスを範にとって建設された。 イギリス人の理想であるジェントルマンシップが最も重ん
じられ、海軍兵学校の教育は英国紳士を養成することを主眼としていた。 軍服の着こなしも野暮ったく
てはいけないとやかましく言われ、外国の停泊地で恥をかかない様、ダンスや洋食のマナーまでが教え
られた。 しかし英国紳士はあくまでもイギリスの風土に存在するもので、日本海軍に無理矢理存在させ
ようとする事が日本海軍の為になったかどうかは疑問が残るが、海軍将校のスマートな格好は少年達の
憧れであった事も事実である。 日本海軍とはこの英国流に官僚主義が加わった存在である。
山本に関しては有名な軍人であるのであえて生い立ちなどはここでは書かない事とする。
太平洋戦争中、山本は前線視察の為、バラレ島日本軍基地へ向かう途中、事前に情報を掴んだアメリカ
軍P-38によってブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。2015.山本機墜落現場YouTube
▼ブーゲンビル島のジャングルに墜落した山本五十六搭乗機(海軍一式陸上攻撃機)
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▼ブーゲンビル島ブイン海軍飛行場(昭和18年4月「い」号作戦の際に撮影されたとされる)
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▼ラバウル東飛行場かブーゲンビル島のブイン基地のどちらかとみられている。
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▼山本が訪れる予定だった日本軍バラレ基地。指揮所・テント張兵舎・ゼロ戦21型が写っている。
 1943年末以降補給が断たれ無力化されたが、連合軍は上陸せず、終戦まで日本軍が維持した。
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▲飛行場建設は1942年末から始まり「シンガポールの戦い」で捕虜になった多数のイギリス軍捕虜が
 使役され、多くが死亡した。元々無人島だった島は約1年間陸海軍航空機の前線基地として活動した。
 現在は無人島に戻っているが、戦後放置された日本軍機が多く残り、英国人捕虜の慰霊碑もある。
 現在はバラライ島(Ballalae Island)と呼ばれ、ソロモン航空の定期便が発着している。

この事件は、アメリカ側が山本の後を引き継げる優秀な人材は兵学校卒業順(ハンモックナンバー順/
卒業席次順←要は成績順)の海軍にはいない。と確信して山本機撃墜を実行した程である。
山本が戦死した後の連合艦隊司令長官の人選は官僚主義の典型である。
太平洋戦争開戦直前の事、当時の連合艦隊司令長官である山本は、これからの作戦遂行の為には、自分
が陣頭で突撃する形で行うべきだと考え、当時の海軍大臣の米内光政を連合艦隊司令長官、そして山本
五十六第一艦隊司令長官という草案を作り、航空本部長の井上成美に見せた事もあった。
「長門」「大和」には山本宛に大量の手紙が届いたが私信の返信が1日30通に及ぶ時もあったという。
しかし戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、場合によっては自ら墓参に訪れることもあった。
戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していた。手帳には万葉集、明治天皇、大正天
皇、昭和天皇の詩歌や山本の自作詩が書かれており、戦死者への賛美と死への決意で満ちていたという。
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▲言わずと知れた史上最大の戦艦「大和」
山本は南方ではパパイヤを好み、「大和」の冷蔵庫にはパパイヤが山のように保存されていたという。
戦艦大和ホテルにこもって最前線に出ようとしない無能な幹部という声も聞かれるが、アメリカとの戦
争に最後まで反対し続けた事、当時の常識を覆す航空機を主とした真珠湾攻撃等、山本でなければ出来
なかった事は多くある。 しかし敗戦した事で山本が立案した作戦等は批判されても仕方の無い部分もあ
る。「アメリカと戦っても勝てない」と開戦前から言い続けていた本人が指揮をとってハワイ作戦を実
行し、自分の予想通りに敗退を重ねる日本軍に対してどう思っていたのか・・・・無念だったであろう。
戦争とは勝たねば「悪者」になってしまうという事は現代の日本人が一番良く知っているはずである。
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▲前線視察でラバウルを訪れ、航空隊基地で出撃するゼロ戦(零戦)を見送る山本五十六司令長官
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▲ラバウル航空基地で出撃前の隊員に敬礼する山本五十六司令長官と、整備を受ける海軍ゼロ戦と花吹山。
戦艦「武蔵」で勤務した蝦名賢造少尉(連合艦隊司令部通信士官)は山本の敬礼の美しさに感激したという。
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▲ラバウル航空基地から出撃直前のゼロ戦22型、隊員達は山本長官の激励を喜んだという。

山本五十六名言集
『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』
(実際にやってみせる。やり方を言って聞かせて、褒める。)
『話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず』
(話し合って、相手の言葉に耳を傾け、相手を認めて、仕事を任せることによって人を育てる。
『やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず』
(やっている姿を感謝で見守って、信頼する)

他、『博打をしないような男はろくなものじゃない』という言葉も残し、博打好きだった一面もある。
また、女好きもあって新橋の芸者「梅龍」と名乗る愛人・河合千代子をかこっていた。
1884年(明治17年)4月4日~1943年(昭和18年)4月18日享年59歳


▼木村 昌福 海軍中将
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海軍兵学校の卒業時における成績は下位、海軍大学校に進学していない為日本海軍ではさして目立つ存在
ではなかったが、太平洋戦争開戦時には熟練した水雷屋として一定の評価は得ていた。
海軍省や軍令部での経験が無い艦隊勤務一筋の実戦派提督であり、勇猛果敢な上に豪放磊落な性格の人柄
で知られ、部下をむやみやたらに叱る事もなく、常に沈着冷静な態度であったので将兵からの信頼は厚か
ったと言われる。「鈴谷」艦長時代にベンガル湾での通商破壊戦において敵の輸送船(民間船)を撃沈す
る際に乗員を退去させてから沈めるという人道的配慮を見せた。この際、自艦の機銃指揮官が射撃命令を
出そうとした時、艦橋から身を乗り出して「撃っちゃあいかんぞォッ!」と大声を出して制止した。
ミッドウェイ海戦では、「我二続ケ」の信号旗を掲げて全速で戦場離脱を図る栗田健男戦隊司令官に対し、
「我機関故障」と偽って大破漂流する僚艦「三隈」乗員救助に当たり多くの命を救ったと伝えられている。
他にも数々の海戦に参加しており、ビスマルク海海戦では護衛部隊指揮官として参加。任務には失敗し、
艦橋で敵攻撃機の機銃掃射により左腿、右肩貫通、右腹部盲貫銃創を負い倒れるが最後まで指揮を行った。
この際、信号員が咄嗟に挙げた「指揮官、重傷」の信号旗を「陸兵さんが心配する」と叱りつけて下げさせ、
「只今の信号は誤りなり」と訂正させたというエピソードも残っている。
キスカ島撤退作戦では、隠密作戦に都合の良い濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事は
しなかった。1回目の出撃では突入を目前に霧が晴れた為断念、強行突入を主張する部下たちに「帰ろう、
(無事に)帰ればまた来られるから」と諭して途中で撤退し、状況をよく判断した指揮を行った。
痺れを切らした軍令部や連合艦隊司令部からの催促や弱腰との非難にも意に介さず、旗艦で釣りをしたり、
司令室で参謀と碁を打つなどして平気な顔をしていたという逸話がある。また、百神の加護を願う漢詩を
詠んでいる。上層部の批判に心動かされること無く慎重に慎重を重ねた指揮を行い、アメリカ軍に作戦を
悟らる事無く味方に全く犠牲を出さずにキスカ島の守備隊5,200人を短時間で救出する。
この作戦成功により昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。
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▲キスカ島撤退作戦に望む幌筵島沖に停泊する特設潜水母艦平安丸と伊号第171潜水艦1943年6月

また、日本海軍の水上作戦で最後の勝利となった「礼号作戦」(ミンドロ島沖海戦)に司令官として参加。
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▲駆逐艦「霞」(かすみ)
この際、「大淀」「足柄」の巡洋艦2隻と駆逐艦6隻の布陣であったが、木村は敢えて旗艦に巡洋艦を選ばず、
駆逐艦「霞」を選んでいる。この作戦では「清霜」を失うものの、作戦目的の敵上陸地点の砲撃と敵輸送船団
への攻撃は大成功に終わり各艦避退に移る中、「旗艦は清霜の乗員を救出する、各艦は合同して避退せよ」
との命令を出し、自ら殿軍となって敵魚雷艇の襲撃及び敵空襲の危険の大きい海域に止まり機関を停止し
ての救出活動を敢行し、この行動に感銘を受けた艦隊各艦の必死の防戦と救助活動により、残った全艦で
無事帰還している。この際には撤退を勧める周囲の具申に対して「まだだ、まだ見落としていないか!」
と、海上に浮かんでいる生存者を徹底的に探索するよう命令を下している。
木村の敵味方を問わず常に人命を疎かにしなかったこと、慎重且つ的確な指揮統率を行い正しい判断を下
す判断能力、運の強さは身内の日本軍や戦後アメリカ海軍関係者や軍事研究家から高い評価を受けた。
1891年(明治24年)12月6日~1960年(昭和35年)2月14日享年68歳
※実弟近藤一声は1943年ソロモン諸島コロンバンガラ島沖海戦で軽巡洋艦「神通」の副長として戦死。
▼軽巡洋艦「神通」(じんつう)
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▼宮崎 繁三郎陸軍中将
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[ 宮崎繁三郎 真実の物語 ]
陸軍のモデルとなったドイツは徹底した軍国主義であった。
「国が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国を持っている」と言われたほどの国だった。
参謀本部の権限はきわめて強く、軍務遂行上必要とあらば、政府の命令によらず独断専行する事も認めら
れていた。 また、日本陸軍が師匠と仰いだビスマルク=モルトケの戦法は権謀術数に満ちたものだった。
勝利の為ならどの様な行為も許される。外交で敵を騙しておいて突如として宣戦布告。その瞬間国境線で
準備していた軍隊がなだれこみ、電撃的な勝利を収める。ナポレオン三世のフランスに勝利した普仏戦争
はその典型で日本陸軍もこの性格を濃厚に受け継いだ。 政府からの独立性、権謀術数好み。これに右翼独
善主義が加わって複雑怪奇なる昭和の日本陸軍が完成したと言っても過言では無い。
そんな陸軍の陸大で参謀教育を受けた宮崎はノモンハン事件・インパール作戦など、日本軍側が圧倒的不利
な状況で戦い、限定的な部隊内での指揮権しか与えられていない状況下の中、華々しい「勝利」を得る事
はなかったものの部隊を維持し粘り強く戦った。
日本軍が劣勢の戦場の中でも戦功を挙げた事は知られ、日本陸軍屈指の野戦指揮官として名高い。
陸軍大佐歩兵第16連隊長として参戦したノモンハン事件では、事件唯一の勝利戦指揮官とも言われている。
1944年のインパール作戦は、「陸の三馬鹿」で紹介した第15軍司令官牟田口廉也中将による補給を無視し
た無謀な作戦で多くの犠牲者を出した。宮崎は陸軍少将で、第31師団・歩兵団長として参戦した。
彼は険峻な山岳地帯を自ら大きな荷を背負い、先頭に立って部下を率い、要衝コヒマの占領を指揮した。
コヒマはインパールへの補給路でありイギリス軍の激烈な反撃が始まると第31師団は疲弊し、援軍、補給
が絶たれて孤立する。この時「佐藤幸徳」第31師団長は無謀な軍命令に背き師団の糧秣を供給しない事に
抗議、独断退却を開始するが、宮崎少将麾下の歩兵団には同地の死守を命令、師団主力は撤退を開始した。
宮崎はこの無謀な命令に最善を尽くし、巧みな遅滞戦術により数週間にわたり持久戦を行い、その後新た
な軍命令により撤退を果たした。この撤退時の行動が、優秀な指揮官・人格者・理性的軍人として賞賛さ
れる事になる。彼は、負傷兵を戦場に残さないという信念の下、自らも負傷兵の担架を担ぎ、食料が欲し
いと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励ましたという。また他隊の戦死者や負傷兵を見つける
と、遺体は埋葬し負傷兵を収容させ、日本軍の白骨死体で埋め尽くされた地獄の白骨街道を撤退し続けた
のである。そこには宮崎の、軍人としての理性のみならず、人としての倫理観をも滲ませた。
敗戦後ビルマの収容所に収容され、イギリス軍の捕虜となっていた時には、部下が不当な扱いを受けても
決して泣き寝入りすることなく、その都度イギリス軍に対し厳重な抗議を行って部下を守った。
戦いを終えて捕虜となっても、宮崎は指揮官としての義務を決して放棄しなかった。
1947年5月に帰国し、帰国後は自らの功績を吹聴するような行動を行わず、政治的・経済的な活動を慎み、
小田急線下北沢駅近くの商店街に『陶器小売店岐阜屋』を経営、店主として清廉で穏やかな生涯を終えた。
数多くの戦歴・インパール作戦時の優れた采配と理性的な行動から宮崎繁三郎に対する評価は非常に高く、
太平洋戦争における日本陸軍の名将の1人とされている。宮崎に与えられた権限や兵力は決して大きいと
は言えず、同じ戦場で同格だった他の指揮官に比べ、特別有利だったり優遇された事は一度もなかった。
しかしながら多くの武功を残したことは、どんなに過酷な事態に遭遇しても最善を尽くそうとする、野戦
将校としての優れた指揮能力と人徳の高さを示している。宮崎はどのような窮地に追い込まれても弱音を
吐いたり、無茶な命令を下す上官の文句や批判を決して口にしなかったという。
インパール作戦における“日本陸軍の良心”とも呼ぶべき宮崎の行動は、同作戦を立案、指揮した「牟田口
廉也司令官」と対極的なものとして語られる事が多い。戦後この作戦に従軍した兵士達は、牟田口の名を
口にするたび、一様に怒りに唇を震わせ、宮崎の名を口にするたび、一様にその怒りを鎮めたという。
明治25年(1892年)1月4日~昭和40年(1965年)8月30日享年73歳


▼吉川潔海軍中佐
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吉川潔中佐は、「不滅の駆逐艦長」といわれ、連合軍が恐れた五人の提督の中のひとりです。
「五人の提督」とは、小沢治三郎 / 山本五十六 / 吉川潔 / 山口多聞 / 草鹿龍之介 の5名で全て海軍です
五人の提督の中で、彼だけが当時の階級が中佐でした。吉川は、海軍兵学校を受験しますが、身長が低か
った彼は、身長と胸囲の不足で不合格になってしまいます。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷
作業で体を鍛え上げ、翌年海軍兵学校に合格しています。吉川は大正11年6月に海軍兵学校卒業すると、
「長月」の水雷長などを経験した後「春風」「弥生」「山風」「江風」と4つの駆逐艦長を勤めています。
戦闘の指揮を執るときは専用の台の上に立ちました。部下を殴る時も飛びあがって殴ったそうです。
そして昭和15年40歳で中佐に昇進し、駆逐艦「大潮」の艦長となりました。艦長としての彼は、恐れを
知らない豪胆さと、決して偉ぶらない人柄、部下に対する思いやりの深さで、みんなから尊敬され、慕わ
れました。艦の中で最年長だった彼は、どんなに苦しい戦いの時でも明るさを失わず、乗員の中へ気軽に
入り、笑いの渦を巻き起こしながらも一本筋金の入った厳しさがあり、艦には「この艦長の為なら」とい
う気風が漲っていました。昭和17年2月バリ島沖海戦で吉川艦長の指揮する駆逐艦「大潮」は、僚艦と協
力して巡洋艦3、駆逐艦7からなる米蘭の連合艦隊に4回にわたって戦いを挑み、オランダの駆逐艦ピート
ハインを砲と雷撃で撃沈し、更に巡洋艦3隻を中破、駆逐艦3隻を小破という大金星をあげています。
同年4月、吉川は一時内地に帰還、駆逐艦「夕立」の艦長に異動となります。
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▲駆逐艦「夕立」(ゆふだち)
8月末「夕立」に乗った吉川は、ソロモン海北西の島を基地にして、後に全滅する陸軍一木支隊の兵員を
ガダルカナル島に上陸させる任務を負っています。以来、第三次ソロモン海戦開始までの2ヶ月半「夕立」
は危険な海域をガダルカナル島に18往復もしています。いわゆる駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)です。
うだる暑さ、絶え間ない空襲、2時間と寝る事のできない不眠という悪条件の中で一回に約150名の陸兵
と15~30トンの武器、弾薬、食糧を回送しています。輸送作戦に従事していた9月4日陸軍兵をガダルカ
ナル島に揚陸した後、米軍に占領されたヘンダーソン飛行場を発見した「夕立」は、これを砲撃して大打
撃を与え、更に駆逐艦二隻を撃沈しています。看護長の奥村忠義二等看護兵曹は、吉川から言われた事を
記憶しています。「なぁ奥村、俺は死んでも代わりがある。だがな、お前が死んだら誰が病気やけがの面
倒をみてくれるんだ? 奥村、お前は体に十分注意しろよ」と。軍医や看護長は陸海軍共皆が大事にした
が、激しい戦時中でのことです。奥村はこの言葉に涙したそうです。この様な話は陸軍でも聞かれます。
バリ島沖海戦では、撃沈したオランダの駆逐艦「ビートハイン」からボートで脱出中の敵乗員10人を吉川
の「大潮」が救助しました。そして彼らを捕虜収容所に送ったのです。捕虜収容所でオランダ水兵の捕虜
処刑話が出た時は「大潮」乗組員をひきいて慰問に訪れたといいます。
昭和17年11月12日深夜、第三次ソロモン海戦でルンガ岬沖に進出した日本艦隊を、キャラハン少将率い
る米艦隊が待ち伏せしていました。吉川は僚艦の「春雨」と共に2隻で米艦隊に向けて猛突進を敢行。
米艦隊は、この2隻の駆逐艦との衝突を避けようとパニックに陥いります。パニックに乗じて、後方にい
た日本側戦艦が先制砲火を開始します。これを確認した吉川は艦を反転させると、日本の主隊と交戦を始
めた敵艦隊の真っただ中に「夕立」を進め、敵艦隊の最後尾に入る。「春雨」はそのまま離脱。「夕立」
は敵艦隊に手当たり次第に砲撃を仕掛け、米巡洋艦「アトランタ」に魚雷2本を命中させて航行不能に陥
らせ、次いで至近距離から米旗艦「サンフランシスコ」に多数の命中弾を浴びせます。「夕立」単艦で巡
洋艦2隻撃沈、2隻撃破、駆逐艦1隻撃沈、3隻撃破という恐ろしい戦果をあげました。
その為米軍からはソロモンの悪夢と呼ばれています。
真夜中の戦いが終わった時、「夕立」は、多数の砲撃を満身に浴びて航行不能となったが、この海戦にお
ける吉川の働きは、その旺盛な攻撃精神、卓抜した戦闘技法、まさに駆逐戦隊の華と称えられ、吉川の駆
逐艦の戦いぶりは、世界の海軍史を通観してもこれに匹敵する事例を他に見出せないものとされています。
吉川の戦歴は、全海戦で8隻を撃沈、12隻撃破という輝かしい戦果ですが、吉川は戦果を誇ることは一
切しない人でもありました。第三次ソロモン海戦から帰投した吉川は、海軍兵学校教官への転任を断り駆
逐艦「大波」の艦長を引き受けて再び激闘のソロモン海へ向かいました。ガダルカナル島撤退の後、敵の
北進を阻止する為、「大波」はブーゲンビル島北端にある、ブカ島への輸送、補給の任務につきましたが
その帰投中の昭和18年11月24日ニューアイルランド島南端でのセントジョージ岬沖海戦にて、最新式レ
ーダーを装備した米駆逐艦アーレイ・バーク大佐指揮の米駆逐艦隊の先制攻撃を受け吉川の駆逐艦「大波」
「巻波」「夕霧」は応戦をする事も出来ずに撃沈され「大波」の生存者は一人も無く、艦と運命を共にし
た吉川の戦死は、日米の技術格差を象徴するものとなりました。
吉川は、戦死後、駆逐艦長としてただ一人、二階級特進の栄誉を担い、少将に昇進しています。
1900年(明治33年)11月3日~1943年(昭和18年)11月25日享年42歳


▼今村 均陸軍大将
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太平洋戦争開戦直後第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。
陸軍の最精鋭空挺部隊であり「空の神兵」と謳われる第1挺進団(挺進部隊)や、飛行第64戦隊・飛行第
59戦隊の一式戦闘機「隼」の活躍もあり、太平洋戦争における日本の最重要戦略目標であるパレンバンの
油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)更に100隻弱の船団を使用する最大規模の上陸作戦となったジャワ
上陸作戦では、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千の
イギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を無条件降伏させ、作戦は日本軍の大勝に終わった。
攻略の際、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯
を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者
としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、
オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治
安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は
住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な
軍政を行った。戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産され
る白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の
日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。
これは日本政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民
は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調
達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。
また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「インドネシア・ラヤ」が、ジャワ島で盛んに歌
われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたという。
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり1942(昭和17年)3月には今村とは親しい
仲である参謀総長「杉山元」が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足し
ており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判が多いから注意したまえ」と軽く叱責している。
また、陸軍省軍務局長の「武藤章」人事局長の「富永恭次」←(陸の三馬鹿参照)も今村に対し、ジャワ島で
もシンガポール同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』か
ら「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて「要綱を改正する前に自分を免職せよ!」と求め、軍
政の方針を変えることに抵抗した。今村は「八紘一宇」というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵
略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。
[八紘一宇]とは「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味で、宮崎県の平和台公園には1940年11
月に建てられた八紘一宇の塔が今も現存している。
現在「太平洋戦争」とされる戦いは日本側から言うと「大東亜戦争」と呼ぶ。これは大東亜共栄圏の名の元
日本が欧米列強による植民地支配に代わって、共存共栄の新秩序をアジアに樹立するというもの。
共栄とは言え、日本を盟主とし、全世界を天皇の元に一つの家とするという「八紘一宇」のスローガンが唱
えられ、現場にいた多くの日本軍人は、「アジア解放のために戦争している」という意識を宣伝や教育で植
え付けられていたので、「自分たちはいいことをしている」と信じて戦った日本軍兵士が多い。
そもそも日本のトップで指令を出していた官僚レベルと、現場で東南アジアの住民と接していた日本軍人と
の間でずれがあり、その人達が戦後日本に戻って来て「あれは侵略戦争だ」と言われると心外な訳で、日本
が国家として行ったことはABCD包囲網にもがきながらも明らかに「資源獲得のための支配だった」と考
えるが、しかし、今村の様な軍人が居て、それを信じて戦った部下が大勢いる。現場とトップを区別して考
える時「大東亜戦争」と呼ぶべきか「太平洋戦争」と呼ぶべきか真剣に考えなくてはならないと思う。

1942(昭和17年)11月20日今村は第8方面軍司令官としてニューブリテン島ラバウルに着任した後、山本
五十六海軍大将と会見している。今村と山本は佐官時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し
合える程の仲であり双方認め合っていたといわれる。その為山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。
今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の一式陸上攻撃機に搭乗し、前線陸軍部隊の視察
を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。
日本海軍ラバウル航空隊の素晴らしい活躍と今村によるラバウルの地下要塞化により、米軍はラバウルの占
領を回避し、打撃により無力化するに留める決定をした。今村はガダルカナル島の戦いの戦訓から、米海軍
の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を
整える事とし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという。 ラバウル無力化の為に米海軍はソロモン諸島を
占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加え、更に1944(昭和19年)2月日本
艦隊の根拠地[トラック諸島]を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退
させた為、ラバウルはほぼ無力化した。 こうしてラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が
完成しており、物資も備蓄していた為に、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に終戦
までラバウルを確保した。終戦後今村は戦争指導者(戦犯)として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令
官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言な
どもあり禁錮10年で判決が確定、1949(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られた。だが今村は「(未だに環境
の悪い南方で服役をしている元部下達の事を考えると)自分だけ東京に居る事は出来ない」として、昭和25
年に自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。
妻を通してGHQ司令官マッカーサーに直訴したといわれている。その態度にマッカーサーは、「私は今村将
軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道
に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。
その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。
その後、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責
任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その印税は全て戦死者や戦犯刑死者
の遺族の為に用いられた。元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、それは戦時中、死地に赴かせる
命令を部下に発せざるを得なかった事に対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。
その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されていると承知し
ても敢えて拒みはしなかったという。
1886年6月28日~1968年10月4日享年82歳
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▲ラバウル航空隊基地。手前は陸軍二式複座戦闘機「屠龍」(とりゅう)奥に見えるのは海軍のゼロ戦
 奥の山はダブルブル火山、日本時代は花吹山と呼ばれ、9万人以上の日本軍が駐屯していた。

▼米軍の空襲を受けるラバウル航空基地(海軍の一式陸上攻撃機が確認出来る)
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▼米軍の空襲でラバウル地域には約2万トンの爆弾が投下されたという(手前に海軍重巡洋艦羽黒が写っている)
rabaurukusyu_convert_20160212135212.jpg
※ラバウルというとどうしても海軍・ラバウル航空隊のイメージが強いが、今村大将率いる陸軍部隊も居た
事、連合軍とのニューブリテン島での戦いで色々な事があった事も忘れてはいけないと思っている。
昨年11月『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家・水木しげるさんが93歳でこの世を去った。
水木しげるは1943年4月臨時招集令状により補充兵として激戦地ラバウル(ニューブリテン島)へ出征した。
「色々な事」というのはこの場では紹介しないが、水木しげるさんは戦記マンガを多く残しており、その中
でも有名な『総員玉砕せよ!』は水木が「90%は戦地で自分が見聞きしたこと」であり「最も愛着が深い作
品」だという。私も読んだ。あえて感想はここでは書かないが「当時の日本で都合の悪い事は見聞きしない」
という事は絶対避けたい。と思ってブログを書いているつもりである。
鬼太郎が見た玉砕 水木しげるの戦争YouTube




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 2016_01_10


戦って亡くなられた(戦わずして亡くなられた)英霊の多くは、無能な上層部の戦犯とも
言える無謀な作戦によって尊い命を国に捧げた方が多いという事も忘れてはいけません。
ここでは戦後アメリカで「陸の三馬鹿」と言われた有名な3名の陸軍幹部、寺内寿一大将 ・
牟田口廉也中将 ・ 富永恭次中将 を紹介しておきます。
特にイギリスでは、「日本兵を大量に見殺しにしてくれたので勲章を与える」 とのブラッ
クジョークまで出る程軽蔑されています。

( 木村兵太郎大将 ・ 牟田口廉也中将 ・ 富永恭次中将 の3名を挙げる人もいます。)
※木村兵太郎大将は戦後東京裁判において死刑が言い渡され昭和23年12月23日絞首刑。
ですのでここではあえて紹介しない事にします。
[映像記録史 太平洋戦争前編][映像記録史 太平洋戦争後編]

▼寺内寿一大将
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寺内 寿一(てらうち ひさいち) 1879年(明治12年)8月8日~1946年(昭和21年)6月12日
日本の陸軍軍人・政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通
して親子2代で元帥府に列せられた人物。南方軍総司令官。
南方軍総司令官在任時、牟田口廉也中将の無謀なインパール作戦を黙認したのもこの人物。

1944年10月、フィリピン決戦を前にマニラを去り、赤坂の芸妓を軍属として呼び寄せて、「東洋の
パリ」と言われたベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)に司令部を置き、旧フランス総督の大邸
宅豪邸で優雅な生活をしながら命令を出し続けた。ルソン島で総力戦を構える山下奉文大将に対し、
レイテ島への兵力分散を命じて約37万人という太平洋戦争最大の犠牲者を出した。(87%が餓死)
(レイテ島への戦力分散は、海軍の行った「台湾沖航空戦」の幻の大戦果結果の真相を陸軍に伝えな
かった海軍の責任も重大であるが・・・。)フィリピンでの戦いの後も何もおとがめ無し・・・・。
山下奉文大将は部下達と共に空腹でフラフラしながらフィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦
ったのである。レイテ島の戦い 

寺内は愛人(お妾さん)の芸妓を、陸軍軍属として輸送機で自分の総司令部の官舎に連れ込んでいた。
もちろん、日本軍の上級幹部には、現地の敵性国人(たとえばオランダ)の女性を“現地妻”ないしは
愛人として囲った人間はいただろう。だが日本本土から赤坂の美貌の芸妓を軍用機に搭乗させて呼び
よせた。という人間は、寺内以外にまずいなかったのではあるまいか?
終戦の年の9月、脳溢血で倒れなかったら、おそらく戦犯として絞首刑は間違い無かっただろう。
1946年(昭和21年)6月12日マレーシア(レンガム)で拘留中に病死。享年66歳

※寺内寿一大将と東條英機(陸軍大臣)首相との間柄は極めて不良だった。
東条英機の父東條英教は日露戦争で旅団長として指揮に問題がありと烙印をおされた。
また当時、長州閥が陸軍を支配していたため出世を妨げられ、日露戦争後、中将に昇進の上、予備役に
された。その後息子、東条英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなど長州
閥の解体に尽力した。

寺内寿一の父寺内正毅は長州出身で、東条英機の父東条英教が陸軍少将で参謀本部第四部長の時、参謀
次長だった寺内正毅により旅団長に左遷された。また、東条英教を予備役にしたとも言われている。

このようなことから、寺内寿一大将は、東條英機首相にとっては父英教の仇敵の子供でもあり、長州出
身であるから、当然敵視していたといわれる。
太平洋戦争開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将を南方軍総
司令官として、遠く南冥の地に追いやり、寺内大将はシンガポール、サイゴンから一歩も動けない立場
に置かれたのも事実である。しかしそういったお家の事情は最前線で戦う兵士には関係無い、上司の為
に戦ったのでは無い。戦死していった最前線の兵士は日本の為、家族を守る為に戦って倒れたのである。


▼牟田口廉也中将
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牟田口 廉也(むたぐち れんや)1888年(明治21年)10月7日~1966年(昭和41年)8月2日
日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や
同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。責任なき戦場 ビルマ・インパール

インパール作戦の失敗までは、人間性はともかくとして、軍人・将軍としては「有能」であったとい
えます。また、彼はもともと皇道派寄りな人物としてマークされ、そのために中国に飛ばされた経緯
をもっていたので、権謀術数を用いてのし上がったと言うわけでもないようです。しかし・・・・、
有名なインパール作戦自体は大失敗、正論を吐く部下の師団長を次々と首にして強引に継続しました
が、結果は惨憺たるもの。2万人以上の兵士が餓死・病死し、日本軍退却の道筋は「白骨街道」と呼ば
れました。作戦が大失敗なのは明らかなのにメンツにこだわり、上司のビルマ方面軍最高司令官の「河
辺中将との会談でこう言ったそうです。
「作戦中止を言いたかったが言い出せなかった。私の顔色からなんとか読み取って欲しかった」
と、漫画にもならない事を回想で言っています。牟田口は前線部隊が帰還するのを待たないでさっさと
日本へ逃げ帰り、牟田口は終戦後、昭和20年12月戦犯容疑で逮捕され昭和21年9月シンガポールに
移送された。昭和23年3月釈放され帰国。東京都調布市で余生を過ごした。
しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1961年(昭和36年)頃まで、敗戦の責任を
強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた。昭和36年2月26日、インパール作戦で自らが更
迭した佐藤 幸徳(さとう こうとく)元師団長の葬儀に参列し、佐藤家の遺族の前で頭を下げ、
「自分の至らなさのため、すまないことをした」と詫びた。
しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した
書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、死去までの約4年間はインパール作戦
失敗の責任を問われると戦時中と同じ様に、
「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」などと頑なに自説を主張していた。
1966年(昭和41年)8月2日死去。享年77歳
自身の無謀な作戦(インパール作戦)に倒れた兵士達への謝罪の言葉は死ぬまで無く、8月4日に行われ
た自らの葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた。


▼富永恭次中将
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冨永 恭次(とみなが きょうじ)1892年(明治25年)1月2日~1960年(昭和35年)1月14日
明治25(1892)年1月2日、医師・富永吉太郎の二男として長崎県で誕生。日本の陸軍軍人
最終階級は陸軍中将。

富永は東條英機の腰巾着と言われ、徹底して東條にへつらう事で昇進しました。
マニラに着任した冨永は、フィリピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊「万朶隊」の出撃命令を
出しました。続いて「富嶽隊」が出撃。以後62回、400機近い特攻機を続々と出撃させました。
生存者の証言によれば、特攻前になると一升瓶をぶら下げて現れては訓示を垂れるしか能のない司令
官だったそうです。陸軍特攻隊の司令官として出撃前の大げさなパフォーマンスに生き甲斐を見出し、
特攻隊員に、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
と言いながら、エンジン不調などで帰還すると、「卑怯者!命が惜しいのか!」と罵倒しました。
400機近くの特攻機を出撃させ、搭乗員を戦死させながらも戦後のうのうと生き恥を晒した人物です。

冨永は視察を名目に上級司令部にも無断で突然フィリピンから台湾に単独で後退。
一説には、マニラから引き上げてきた司令部要員の大半をエチャーゲの南5キロにあるサンチャゴに
足止めし、その間に司令官・参謀などの高級将校たちは残り少ない戦闘機を駆り出して護衛を命じ、
フィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾の台北へと続々と逃亡した。
積み荷はウィスキーと芸者達であったという。
(冨永の敵前逃亡の様子については異論も存在する。脱出の際に使用した陸軍飛行機は2人乗りであ
り、芸者を同乗させて逃亡したという話は後年の創作の可能性もある。しかし部下を置き去りにして
自分だけが逃げた事実は変わらない。)
約1万の第4航軍の残存将兵は地上部隊に編成替えされ脆弱な歩兵部隊となってその大半が戦死した。
富永の台湾への移動は一応口実をつけてはいたものの、直属上官である山下大将にも無断で行われる
など明らかに軍規違反であり、軍規に則れば銃殺刑の敵前逃亡であった。
事後承諾を求めに行った参謀に対し山下 奉文陸軍大将は、
「部下を置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!」と面罵したという。
富永の行状は逃亡先の台湾でも知れ渡っており、第10方面軍に申告を行った際、同軍司令官の安藤利
吉大将(兼台湾総督)から「申告は受け付けられない」と拒否されている。
また昼間から軍の乗用車に芸者を乗せて走っており、一兵卒でさえ富永に敬礼しなかったという。
本来であれば軍法会議が行われるべきところ暫く何の処分も下されなかったが、流石に陸軍中央でも問
題になり、2月23日待命、5月5日予備役編入の処置がとられた。
しかし「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか?」
という声があり7月に召集し、第139師団の師団長として満州の敦化に赴かせた。
この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。
8月9日のソ連参戦、終戦後、富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留された。ソ連の諜報員で戦後
ソ連当局に逮捕されて禁固刑に処されたレオポルド・トレッペルは、ブティルスク監獄において冨永と
同室だったと証言している。1955年(昭和30年)4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国した。
昭和35年1月14日 東京都世田谷区の自宅で心臓衰弱のため病死。享年68歳

特攻隊員に、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
と言った本人は戦後15年間、68歳まで生き恥を晒した様です・・・・。

富永の敵前逃亡はフィリピンに残った兵士たちの怒りと嘲笑を買い、当時、現地で軍歌「若鷲の歌」の
替え歌が流行りました。以下その替え歌の歌詞です。

 命惜しさに 富永が
 台湾に逃げた その後にゃ
 今日も飛ぶ飛ぶ ロッキード
 でっかい爆弾に 身が縮む

人はいくら優秀でも、世渡りが旨いだけだと、後々とんでもないしっぺ返しを喰らいます。
富永のようなとんでもない人間の出世を許し、前線の指揮官に任命した東条や陸軍中央もその責めを問
われるべきであると考える。

※富永恭次中将の息子さん富永靖(やすし)少尉は、第58振武隊 特別攻撃隊として昭和20年5月25日、
 宮崎県の都城東飛行場(都北町)より沖縄へ出撃し、特攻戦死。享年22歳
 朝4時50分出撃の際、当時そこに滞在していた参謀に「これを家族に」と言い、財布を渡したとの事です。
 父親の事には何も触れず、立派に死んでいったそうです。そのあまりに堂々とした態度に、後でその参謀が
 下士官に「あれは誰か?」と尋ねると、「富永閣下の息子さんです」という答えが返ってきたと言います。
 実父の挙動によって生じた家の汚名を晴らそうという気持ちだったのかもしれません。

 陸軍特別操縦見習士官(特操)試験不合格の結果に終わりながら、当時陸軍次官だった実父・恭次中将の
 権力で合格させてもらったという話も残っていますが結果的に、最後は特攻出撃となります。

(宮崎県の陸軍都城飛行場からは昭和20年4月6日から7月1日にかけ振武隊10隊、79人が出撃しています、
都城を発進した特攻機は、全機四式戦闘機「疾風」で編成の為、「都城疾風特攻振武隊」と呼称された。)
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▲都城飛行場から出撃していった陸軍四式戦闘機「疾風」 特別攻撃隊第58振武隊所属機

▼昭和20年5月25日出撃時の写真。富永靖少尉も含め沖縄方面へ突入した第58振武隊機「疾風」
陸軍特攻隊は後方で編成し、機に応じて前線へ投入するシステムだったので編成後多少の時間的余裕があり、
士気高揚のためスペシャルマーキングが許された。尾翼に描かれたマークは釜ゆで髑髏(どくろ)で、本隊
の別名を髑髏隊と言われた。
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▲富永靖少尉もこの中の何処かに居るはずです、この日10機が出撃していきました。
父親の恭次中将は敵前逃亡の最悪な幹部でしたが、息子さんの最後は立派だったと思います。

※特攻隊員に「後で必ず自分も行く」と言ってのうのうと生きた幹部に菅原道大中将も挙げられます。
「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と語りながら
1983年12月29日死去。本当に最悪な幹部です。自分が死ぬ勇気もないのによく隊員に「死んでこい」
と言えたものです。呆れるのを通り超えて憎悪が沸いてきます。

[中国版太平洋戦争]




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 2015_12_08




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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