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台湾日本軍航空基地

Category: 台湾   Tags: 台湾  

台湾(烏來)で「高砂義勇隊」の素晴らしい活躍をご紹介しましたが、日本軍(日本人)も当然決死の特攻作戦
に出撃しています。日本でもあまり知られていない台湾の陸海軍各航空基地より特攻出撃した(日本人)特攻隊
を少しだけご紹介します。(資料があまりにも少ないのでご提供お待ちしております)

▼日本統治時代、台湾における日本陸海軍航空基地の地図(40以上の航空基地があったと言われている)
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▼終戦当時進駐軍に提出された日本軍航空基地を示す地図
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全て読み取ることが難しいが、解る基地名は以下の通り▼写真は日本統治時代の松山(台北)航空基地
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▼日本統治時代の陸軍宜蘭西飛行場
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(北部) 松山(台北)基地 / 陸軍台北基地 / 陸軍宜蘭(北・西・南)基地 / 基隆基地 / 淡水基地 / 林口基地
    陸軍八塊基地 / 陸軍桃園基地 / 陸軍樹林口基地 / 陸軍龍潭基地
    紅毛基地 / 海軍新竹基地 / 陸軍湖口基地 / 後龍基地
(中部) 海軍虎尾基地(練習航空隊) / 陸軍花連港基地 / 陸軍草屯基地 / 陸軍嘉義基地 / 陸軍塩水基地
    東港飛行艇基地 / 海軍台中基地 / 南投基地 / 陸軍彰化基地 / 陸軍台中基地
    陸軍鹿港基地 / 東石港基地 / 陸軍公館基地 / 陸軍大肚山基地 / 陸軍埔里基地
(南部) 陸軍屏東(北・南)基地 / 海軍台南基地 / 高雄(小港)基地 / 陸軍恒春基地 / 陸軍佳冬基地 / 陸軍潮州基地
    陸軍北港基地 / 陸軍台東基地 / 陸軍池上基地 / 海軍里港基地 / (膨湖島)馬公基地※赤印
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▲日本統治時代の陸軍屏東飛行場(明治28年~昭和20年)※屏東飛行場は教育隊があった。
(位置?)陸軍新浦基地/陸軍知本基地/陸軍埔里基地/陸軍旗山基地
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▲米軍が撮影した日本陸軍台中基地(Toyohama Airfield Taichu)と記されている。
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▲日本統治時代、新竹飛行場にて。修学旅行で東京へ行く際に撮られた新竹高等女学校生徒の記念写真。
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▲航空機の種別は不明だが、海軍台南航空基地で撮影された画像。三菱A6M2-K零式練習戦闘機?
※零式練習戦闘機とは零戦の練習機型として、ゼロ戦21型を複座に改装した零式練習戦闘機一一型。

航空基地ではないが、陸軍基隆要塞(きいるんようさい)台湾北部の基隆に。高雄には高雄要塞(たかおようさい)
が残っているそうなのでこちらも次回行ってみたいと思う。
▼基隆要塞跡
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台湾高雄市鳳山区に今も残る日本海軍鳳山無線電信所(ほうざん)海軍が大正6年(1917)に建設した無線送信所
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昭和20年1月21日 神風特別攻撃隊「一航艦零戦隊」 台南基地よりゼロ戦で出撃 堀口吉秀少尉他1機
昭和20年1月21日 神風特別攻撃隊「第2新高隊」 台南基地よりゼロ戦4機で出撃
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▲▼昭和20年1月21日台湾沖で米空母タイコンデロガ(USS Ticonderoga)に零戦2機突入、炎上するタイコンデロガ
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昭和20年1月21日 神風特別攻撃隊「新高隊」 台南基地より「彗星」8機で出撃。
(台東沖機動部隊攻撃)
[操縦]西田 幸三大尉(石川県出身)/[偵察]高島 陸人少尉(兵庫県出身)
[操縦]宮野 健次郎2飛曹(東京都出身)/[偵察]新田 四郎1飛曹(石川県出身)
[操縦]平井 孝二少尉(香川県出身)/[偵察]杉山 喜一郎1飛曹(栃木県出身)
[操縦]山下 信博飛長(高知県出身)/[偵察]澤田 光男1飛曹(岐阜県出身)
[操縦]福島  昇飛長(岡山県出身)/[偵察]安留 亀一1飛曹(鹿児島県出身)

▼海軍99艦上爆撃機、尾翼に「虎」と書かれている。S,19.5/15台南州に開隊した陸上機操縦の教育部隊[虎尾空]?
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虎尾海軍航空隊(こびかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。太平洋戦争開戦後の航空要員
大量養成のため、初歩練習部隊として昭和19年(1944)5月15日開隊設置した。主力機種は93式中間練習機など各種
陸上練習機だったので、上記写真の99艦上爆撃機は虎尾空では無いかもしれない。
実機教育も機材・燃料・人員の枯渇によって困難になった上、天号作戦・菊水作戦に備え、台湾の海軍飛行場には実
施部隊の展開が推進されることになり、虎尾の訓練部隊は諸施設を実施部隊に譲渡する事になった。昭和20年2月15
日解隊と共に、要員は航路・空路を経て生徒の大多数が内地に送還されたが、3月16日に基隆を出港した南京丸に便
乗した士官50数名は、翌日に南京丸が撃沈された上に、荒天で救助活動が不可能であった為、全員溺死した。
一部の残留者は台湾海軍航空隊に編入され、天号作戦・菊水作戦に参加。放棄された機体は「忠誠隊」に転用された。

▼(台湾)海軍新竹基地にて神風特別攻撃隊「忠誠隊」出陣式
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▼▲神風特別攻撃隊「忠誠隊」勇士
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▼昭和20年4月1日(台湾)海軍新竹基地にて床尾中尉より出撃命令を受け、別れの水盃「忠誠隊」隊員10名(5機)
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▲4/1,13:10石垣島南方米機動部隊攻撃の為、床尾勝彦中尉機以下4機(8名)艦上爆撃機彗星で出撃。
エンジン不調で1機不時着、他2機は新竹基地に帰還、床尾中尉/多田上飛曹機のみ敵機動部隊に突入戦死。
※彗星は整備に時間を要し、整備が追いつかず不完全のままでの出撃が多かったと言う。
4/6,15:00帰還した彗星3機にて再出撃。17:00先島諸島を攻撃中の英第57機動部隊「英空母イラストリアス」
を発見、3機が突入開始。特攻機が接近するのをイラストリアスのレーダーが捉え、直ちにスクランブルした追撃
戦闘機に1機撃墜され、対空射撃によりまた1機が撃墜された。阻止幕を潜り抜けた残る1機がカメラマンの視界に
急速に迫りレーダーアンテナを掠め突入成功。イラストリアスは大きく損傷し修理の為にイギリスに戻された。
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▲(左)イギリス海軍航空母艦イラストリアスと「忠誠隊」彗星の特攻により破壊されたイラストリアス(右)
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▲海軍艦上爆撃機「彗星」
海軍神風特別攻撃隊「忠誠隊」出撃記録は以下の通り。
昭和20年4月1日 神風特別攻撃隊「第1忠誠隊」 新竹基地より彗星で出撃
(石垣島南方機動部隊に突入)
[操縦]床尾勝彦中尉(長野県出身)/[偵察]多田恒雄上飛曹(三重県出身)
※[操縦]田口唯明2飛曹(熊本県出身)/[偵察]飯田清2飛曹(千葉県出身)
※[操縦]南義雄1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]永田千春1飛曹(熊本県出身)
※[操縦]北川肇2飛曹(山口県出身)/[偵察]西田久2飛曹(大阪府出身)
※の3機がエンジントラブル等で帰還、4/6再出撃、突入戦死。

昭和20年4月3日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 新竹基地より「彗星」で出撃
(沖縄南方機動部隊に突入)
[操縦]時山武大尉(静岡県出身)/[偵察]打田恒春上飛曹(三重県出身)

昭和20年4月3日 神風特別攻撃隊「第3大義隊」 新竹基地より零戦で出撃 
「忠誠隊」直掩任務
山崎 州雄中尉(鹿児島県出身)/深澤 敏夫2飛曹(秋田県出身)/北浦 義夫2飛曹(香川県出身)

昭和20年4月6日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 新竹基地より再出撃
(石垣島南方機動部隊に突入)
[操縦]田口唯明2飛曹(熊本県出身)/[偵察]飯田清2飛曹(千葉県出身)
[操縦]南義雄1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]永田千春1飛曹(熊本県出身)
[操縦]北川肇2飛曹(山口県出身)/[偵察]西田久2飛曹(大阪府出身)

昭和20年4月16日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 新竹基地より「彗星」で出撃
(石垣島南方機動部隊に突入)
[操縦]宮崎富男大尉(福岡県出身)/[偵察]住吉語少尉(広島県出身)
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▲昭和20年4月16日15:30(台湾)海軍新竹基地から出撃前、笑顔で語らう宮崎富男大尉ら神風特別攻撃隊
 「忠誠隊」隊員。この数時間後、彼等は海軍艦上爆撃機「彗星」で石垣島南方敵機動部隊に突入、戦死。
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▲海軍艦上爆撃機「彗星」
昭和20年4月28日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 新竹基地より「彗星」で出撃
(宮古島東方機動部隊に突入)
[操縦]國房大丈夫中尉(福岡県出身)画像参照 /[偵察]大平歳澄1飛曹(香川県出身)

昭和20年5月4日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 16:25新竹基地より「彗星」で出撃
(宮古島南方機動部隊に突入)
[操縦]大石保造1飛曹(静岡県出身)/[偵察]南純之助上飛曹(福岡県出身)

昭和20年5月9日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 16:25新竹基地より「彗星」で出撃
(嘉手納沖艦船に突入)
[操縦]内田秀雄1飛曹(和歌山県出身)/[偵察員]中田良蔵上飛曹(北海道出身)

昭和20年5月9日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 15:30宜蘭基地より「96艦上爆撃機」で出撃
(慶良間列島付近機動部隊に突入)
[操縦]久保良介中尉(富山県出身)/[偵察]後藤守男上飛曹(鹿児島県出身)
[操縦]中野学上飛曹(福岡県出身)/[偵察]大石保造1飛曹(静岡県出身)

昭和20年5月13日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 宜蘭基地より「96艦上爆撃機」で出撃
(慶良間列島付近機動部隊に突入)
[操縦]阿部仁太郎中尉(北海道出身)/[偵察]福元清則1飛曹(鹿児島県出身)
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▲福元清則1飛曹(鹿児島県出身)18歳(旧式の「96艦上爆撃機」で出撃、突入戦死)
[操縦]持田歳雄1飛曹(島根県出身)/[偵察]森増太郎2飛曹(栃木県出身)
[操縦]元木恒夫中尉(千葉県出身)/[偵察]柴田昌里1飛曹(高知県出身)
[操縦]石原一郎1飛曹(愛知県出身)/[偵察]
[操縦]駒場一司2飛曹(栃木県出身)/[偵察]
[操縦]佐藤重男上飛曹(大分県出身)/[偵察]渡邊靖1飛曹(長崎県出身)
[操縦]児島與吉2飛曹(福岡県出身)/[偵察]
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▲海軍96艦上爆撃機(この様な旧式機で特攻に出撃した隊員を想うと心が痛む・・・。)

昭和20年5月15日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 宜蘭基地より「96艦上爆撃機」で出撃
(慶良間列島付近機動部隊に突入)
[操縦]深津進少尉(岐阜県出身)/[偵察]岩熊唯明中尉(福岡県出身)(振天隊)
[操縦]渡邊貞雄1飛曹(山口県出身)/[偵察]
[操縦]藤井俊彦1飛曹(山口県出身)/[偵察]

昭和20年5月17日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 宜蘭基地より「96艦上爆撃機」で出撃
(慶良間列島付近機動部隊に突入)
[操縦]柿本茂少尉(福岡県出身)/[偵察]萩原定七上飛曹(埼玉県出身)

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▲神風特別攻撃隊「帰一隊」昭和20年5月3日(台湾)海軍新竹基地より出撃。雷装の天山艦攻で沖縄周辺の米艦船
 に対して雷撃特攻を行った。
[操縦]清水清秀上飛曹(石川県出身)/[偵察]土山忠英中尉(広島県出身)/[電信]石場清一上飛曹(石川県出身)
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▲(台湾)海軍新竹基地に並んだ「帰一隊」の天山艦攻。超低空で目標艦艇に向けて魚雷を投下後、
 そのまま体当たりする雷撃特攻を行った。
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▲海軍艦上攻撃機「天山」
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▲米PB4Yの攻撃を受け、煙を吐きながら墜ちてゆく艦上攻撃機「天山」。米パイロットWilliam Janeshek少佐の話に
 よると、機上射手は脱出しようとしていたが、突然座して不動のまま海面に墜落・爆発したそうだ。
 (昭和19年(1944)7月2日カロリン諸島での画像)

画像や資料が乏しく詳細は解らないが、海軍新竹/宜蘭/台中/台南基地から神風特別攻撃隊「振天隊」「勇武隊」
「大義隊」も出撃している。「勇武隊」は銀河の部隊だった。
昭和20年3月25日神風特別攻撃隊「勇武隊」台中基地より銀河と彗星で出撃
(沖縄南方機動部隊攻撃)
[操縦]石井伸雄1飛曹(福岡県出身)/[偵察]竹岡明男2飛曹(京都府出身)/[電信]脇坂春男上飛曹(滋賀県出身)
[操縦]西村 勇2飛曹(京都府出身)/[偵察]高橋耕一1飛曹(北海道出身)/[電信]深井末雄1飛曹(和歌山県出身)
[操縦]森田利平2飛曹(千葉県出身)/[偵察]中村隆逸1飛曹(岐阜県出身)/[電信]薄井 栄1飛曹(栃木県出身)
(彗星)
[操縦]吉川 正志2飛曹(北海道出身)/[偵察]軽部 哲夫飛曹長(北海道出身)
 
昭和20年4月6日神風特別攻撃隊「勇武隊」台中基地より銀河で出撃
[操縦]根本道雄中尉(徳島県出身)台南より/[偵察]丸山保仁上飛曹(長野県出身)/[電信]福田増雄1飛曹(福岡県出身)
[操縦]佐藤安善2飛曹(鳥取県出身)台中より/[偵察]吉村一誠1飛曹(熊本県出身)/[電信]岩橋達雄2飛曹(福岡県出身)
[操縦]田中勝2飛曹(三重県出身)台中より/[偵察]村田守 2飛曹(北海道出身)/[電信]安田雅由2飛曹(兵庫県出身)
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▲海軍双発爆撃機「銀河」

昭和20年5月3日 神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より99/97艦上爆撃機で出撃
(99艦爆)
[操縦]村上勝巳大尉(山口県出身)/[偵察]森永茂中尉(佐賀県出身)
[操縦]森本 賜中尉(山口県出身)/[偵察]田中良光1飛曹(宮崎県出身)
(97艦攻)
[操縦]堀家 晃中尉(大阪府出身)/[偵察]居村 豊中尉(兵庫県出身)/[電信]高辻萬里1飛曹(福岡県出身)
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▲昭和20年5月3日米駆逐艦リトル(USS Little)とアーロン・ワード (USS Aaron Ward) はレーダーピケット任務に就く
 18:13、18機~24機の特攻機が雲の下から攻撃してきた。アーロン・ワードは18:41に最初の被弾を受ける。
 間もなくリトルも左舷に被弾。4分以内にもう3機の特攻機がリトルを攻撃、竜骨を損傷、船体中央部が破壊された。
 リトルは19:55乗組員30人と共に沈没した。

昭和20年5月4日 神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より99艦上爆撃機で出撃
清岡寛上飛曹/

昭和20年5月7日 神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より99艦上爆撃機で出撃
石田儀進(宮崎県出身17歳)(鹿8)12空 

昭和20年5月9日 神風特別攻撃隊「振天隊」16:30宜蘭基地より99艦上爆撃機で出撃
鳥居信(熊本県出身17歳)/黒岩芳人(福岡県出身17歳)/片山崇中尉

昭和20年5月13日 神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より97艦上攻撃機で出撃
大曲重賢(福岡県出身18歳)/細谷芳郎中尉/福元清則(鹿8)12空/柴田昌里(鹿8)12空
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▲海軍97式艦上攻撃機(日米合作映画「トラ・トラ・トラ」[Tora! Tora! Tora!]で使用された物)
昭和20年5月15日神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より97式艦上攻撃機で出撃
島元義春(鹿児島県出身18歳)(鹿8)12空/小原辰夫(鹿児島県出身17歳)(鹿8)12空/藤井俊彦(鹿4)12空
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昭和20年5月29日神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より97式艦上攻撃機で出撃
伊藤信照1飛曹(福岡県出身18歳)/古川正崇中尉/伊藤 忠1飛曹/笠井 至中尉
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▲5/29駆逐艦スーブリック(USS Shubrick)の後部に「振天隊」と思われる特攻機が命中。
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▲駆逐艦スーブリックに突き刺さった97式艦攻の物と思われるプロペラ。
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▲損傷した駆逐艦スーブリックの後部。
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▲負傷者と戦死者を懸命に探し出す米兵。負傷者/戦死者/行方不明者合わせて40名以上にのぼった。


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▲昭和20年7月26日海軍 神風特別攻撃隊「竜虎隊」別れの宴(台湾)新竹基地にて。
左から5番目の方は三村弘上飛曹。第3龍虎隊を指揮、93式中間操縦練習機で突入、戦死。
(「竜虎隊」とは通称「赤トンボ」と呼ばれた練習機で編成された第1陣、神風特別攻撃隊第3龍虎隊)
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▲海軍93式中間操縦練習機
既に落日の日本ではあったが、沖縄陥落後も、日本近海の米艦船を求めて、散発的に特攻が繰り返されていた。
内地(日本本土)からゼロ戦の補給は途絶え、万策尽きた台湾新竹基地に展開していた第29航空戦隊司令藤松大佐は
虎尾基地にある中間操縦練習機31機の特攻出撃を決断した。1次8機、2次8機の出撃は与那国島に不時着、特攻は
失敗。布張りの非力な93式中間操縦練習機に250㌔爆弾を積んで離陸し、沖縄まで到達するのは至難の業だった。
[ 赤トンボ悲話 ]
沖縄県宮古島市平良の市街地から少し離れた丘に旧日本軍戦没者の慰霊碑が幾つかある。
その中に神風特攻隊第三龍虎隊の慰霊碑がある。しかし宮古島から「神風特攻隊」が出撃した事は知られていない。
それもそのはず、この特攻隊、本拠地は台湾の虎尾基地(練習航空隊)だ。
特攻訓練教程すら満足に行う事が出来なくなってた日本陸海軍大本営は3/1ついに搭乗員錬成教育を中止。
全軍特攻の方針を決定した。昭和20年3月1日海軍は練習航空隊を解隊、訓練中の全ての練習機を実戦特攻部隊に繰り
込んだ。優先的に転用された「赤トンボ」は約600機、特攻訓練に入った主な航空戦隊は、5航艦12戦隊、3航艦13戦
隊だった。パイロットは、飛行経験が100時間に満たない予科練生や予備練習生(養成所出身者)がほとんどである。
昭和20年7月28日早朝、神風特攻隊第三龍虎隊8機は台湾・虎尾基地を出発。新竹基地、宜蘭基地を経由して石垣島で
給油し宮古島に降り立った。何故台湾の航空基地や石垣島から出撃せず、わざわざ宮古島に降り立ったのか。
それには訳があった。彼等の乗った特攻機は練習用の布張りの複葉機、通称「赤トンボ」。粗末な練習機に250キロ爆
弾を装備して長距離飛行は難しく、最短距離から出撃する必要があった。しかも作戦は月夜に限られた。
宮古島到着後夜11時。2度目の別盃式を終えた若き特攻隊員達は、雲一つ無い月明かりの中、沖縄近海に群がる米艦隊
に向け飛び立った…。話はそこで終わるはずだった。が、離陸直前、1機の飛行機のタイヤがパンク。出撃は中止された。
他の7機はそのまま飛び立ったが、2機がエンジン不調を理由に戻ってきた。その内の1機は滑走路脇の畑に不時着大破。
隊員は重傷を負った。整備兵達は不時着した飛行機の車輪を、パンクして飛ばなかった飛行機に移した。
一旦、出撃を免れたはずのパンクした飛行機の隊員は、再び出撃する事になった。
翌日、その隊員はベッドに横たわる不時着した隊員に「臆病者。恨んでやる」と言い残し、月夜の闇に消えた。
不時着機の特攻隊員は生還し、80歳余で亡くなった。彼は生前、宮古島を訪れることはなかった。
彼は自宅の庭に慰霊碑を建て、「神風特攻隊第三龍虎隊」7名を供養し続けたという。
7/29 3次出撃の戦果は陸海軍特別攻撃隊の攻撃で撃沈された最後の艦となった、米駆逐艦「キャラハン」撃沈だった。
※素人丸出しの飛行技量の若いパイロット、赤トンボの様な練習機で特攻を仕掛けてくる日本軍に対して、迎撃/撃墜す
 る側の米軍では、これは「男と男の喧嘩」ではない。と、相手を想い涙したと言う記録があり、戦闘機パイロットの
 勲章ともいえる「撃墜スコア」にカウントしなかった事も多かったと言う。
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▲米駆逐艦キャラハンUSS Callaghan(奇跡的な事が重なり「神風特攻隊第三龍虎隊」に撃沈された)
突入した特攻隊員を丁重に水葬した事で有名な「戦艦ミズーリ」の艦長キャラハン大佐の兄は、第三次ソロモン海戦で
日本軍と戦って戦死した。この時戦艦ミズーリを護衛していた駆逐艦の名は、戦死した兄の名をとった「キャラハン」
だった。この海戦で駆逐艦キャラハンは多くの特攻機を撃墜したが、そのうちの1機に、長谷川薫中尉の操縦する
海軍爆撃機「銀河」があった。長谷川中尉は撃墜され、海中に突入して海を漂っている所を、「駆逐艦キャラハン」の
バーソルフ艦長は特攻攻撃の続く中、危険を冒して艦を停止させ、長谷川中尉を救助した事で知られる。
長谷川薫中尉は後に製紙大手「レンゴー」の社長となった人である。
この時「銀河」に同乗していた吉田飛曹長も救助されたが、直後に出血多量で死亡した。この時も遺体は丁重に水葬さ
れたと言う。しかし、その駆逐艦「キャラハン」もの「第三龍虎隊」の特攻攻撃で撃沈される事となったのだ。

神風特攻隊「第三龍虎隊」戦死者は以下の通り。(132空)
昭和20年7月29日宮古島より93式中間操縦練習機で出撃
三村弘上飛曹(岡山県出身)/庵民男1飛曹(鹿児島県出身)/川平誠1飛曹(静岡県出身)
近藤清忠1飛曹(長野県出身)/原優1飛曹(長野県出身)/松田昇三1飛曹(東京都出身)    
昭和20年7月30日宮古島より93式中間操縦練習機で出撃
佐原正二郎1飛曹(静岡県出身)

※三村弘上飛曹(岡山県出身)と同期生の庭月野 英樹さん(神風特攻隊彩雲隊)生存者が戦後語っておられます。
 戦争証言アーカイブス
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▲インドネシア共和国軍博物館に展示されている93式中間操縦練習機(インドネシア共和国空軍色に塗装されている) 
※展示機は「インドネシア人が初めて空を飛んだ機体」としてインドネシアでは大きな扱いを受けています。 

昭和20年4月28日 神風特別攻撃隊「第16大義隊」 宜蘭基地より爆装零戦で出撃(宮古島南方機動部隊攻撃)
今野 惣助中尉(宮城県出身)

昭和20年5月4日 神風特別攻撃隊「第17大義隊」09:50宜蘭基地より爆装零戦で出撃(宮古島南方機動部隊攻撃)
谷本 逸司中尉(広島県出身)/常井 忠温上飛曹(茨城県出身)/鉢村 敏英1飛曹(栃木県出身)
近藤 親登2飛曹(長野県出身)/長田利平1飛曹(山梨県出身/敵を発見出来ず石垣島基地に着陸)
(直掩零戦)角田和男少尉
特攻機4機は全て敵艦に突入戦死。直掩/戦果確認任務の角田和男少尉は無事帰還。
角田和男少尉の証言によれば、特攻機4機の主翼機上面の日の丸は緑で塗りつぶされていたと言う。
アメリカ軍のレーダー探知を避ける為、ギリギリの低空飛行で敵艦まで接近する事に成功した特攻機は
谷本 逸司中尉を筆頭に次々と突入していった・・・。
※長田利平1飛曹は戦後、神奈川県警に入り、長く刑事を務められた。警部に昇進して定年退職するまで現場ひと筋。
 刑事事件の捜査、検挙にあたり、その間、「不起訴」の検挙者を一度も出さなかったというプロ魂を発揮された。


昭和20年5月8日 菊水六号作戦発動。宜蘭派遣隊10機特攻。突入4機を含む5機喪失。
昭和20年5月9日 神風特別攻撃隊「第18大義隊」 (台湾)宜蘭基地よりゼロ戦で出撃(2機トラブルで引き返す)
(宮古島南方機動部隊攻撃)
黒瀬順斎中尉(富山県出身)/中島信次郎上飛曹(京都府出身)/河合芳彦上飛曹/宮川孝義1飛曹(大阪府出身)
(直掩隊)前田秀秋上飛曹(青森県出身)
昭和20年5月15日 4機が出撃、特攻を目指すが会敵せず引き返す。
※この頃から205海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊「大義隊」単独の行動が不明確となる。
 以後、在台湾の各偵察機隊は散発的な偵察行動に従事する事となる。

以上、海軍特攻隊の記録
以下、陸軍特攻隊の記録

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▲陸軍誠第16飛行隊「玄武隊」の隼。昭和20年4月12日上野強軍曹が(台湾)花蓮港基地より出撃。
 慶良間列島洋上の敵艦船に突入戦死。
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▲4/12慶良間沖海域で至近距離での日本軍特攻隊の突入を受け小破した米護衛駆逐艦ロール(USS RALL)DE 304

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▲陸軍誠第119飛行隊勇士。昭和20年4月22日午前08:30頃(台湾)桃園飛行場にて出撃1時間半前の撮影
午前10時頃、二式複座戦闘機「屠龍」14機に隊員らが乗り込み離陸。離陸後間もなく海に落ちた1機を除き、飛行隊は
石垣島に立ち寄り500キロ爆弾を積み、沖縄本島周辺(粟国島南西方)へ特攻出撃していった。
昭和20年4月22日(台湾)桃園飛行場より二式複座戦闘機「屠竜」で出撃
竹垣 全小尉(石川県出身)/溜 洋小尉(鹿児島県出身)/岩上 要伍長(大分県出身)/永久 要伍長(山口県出身)
山本 茂伍長(埼玉県出身)
昭和20年4月28日(台湾)桃園飛行場より二式複座戦闘機「屠竜」で出撃
中村 潤小尉(千葉県出身)/小森 興彦小尉(東京都出身)/木原 正喜伍長(鹿児島県出身)/山澤 四郎伍長(福岡県出身)
※特攻用に改造された二式複座戦闘機「屠龍」は、「二式双襲」と呼ばれていた。
 「屠龍」は2名乗、陸軍は海軍の様に定員数を乗せるのではなく、1機1名で出撃していった。
 陸軍の場合、上陸地付近にある攻略船団(輸送船団)を目標としていた為、目標発見は容易である為に1機1名出撃が
 多かった様だ。それに対し海軍は敵機動部隊(特に空母を目標とし、広い洋上にある目標を発見するのが大前提とし
 ていた為、艦爆、艦攻などの多座機には座席数に応ずる人員が乗り組んだと言う。

※昭和20年4月28日、97式戦闘機で台湾から特攻出撃し、石垣島に不時着した「誠第121飛行隊」生還者の末吉初男
さんが戦後70年の節目に重い口を開き、太刀洗平和記念館で当時の体験を語っておられます。
戦後70年、初めて語られる元特攻隊員の体験談YouTube

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▲陸軍誠第35飛行隊。四式戦闘機で昭和20年4月下旬までに(台湾)台中飛行場に移動、5月3日隊長の遠藤秀山少尉
 以下5名、5月9日浅井良修少尉が沖縄西方洋上の敵艦船群に突入戦死。
 遠藤秀山少尉(大阪府出身)/間庭福次少尉(栃木県出身)/古本嘉男少尉(静岡県出身)
 村山政雄少尉(岩手県出身)/塚平真少尉(長野県出身)の5名が5/3台中より出撃、突入戦死
 浅井良修少尉(兵庫県出身)5/9台中より出撃、突入戦死
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▲誠第35飛行隊隊長、遠藤秀山少尉。後に四式戦闘機が見える。昭和20年5月3日(台湾)台中より出撃、戦死。
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▲陸軍四式戦闘機「疾風」(はやて)

[ 誠第34飛行隊 ]昭和20年4月28日~5月21日(台湾)台中基地より四式戦闘機「疾風」で出撃。
桑原孝夫少尉(東京都出身)/安東愛明少尉(神奈川県出身)/新山喬夫少尉(和歌山県出身)
中村嘉明少尉(香川県出身) 以上4/28「疾風」で出撃、慶良間列島南方海上突入、戦死。
金澤宏少尉(鳥取県出身)/富山信也少尉(三重県出身)/二神孝満少尉(愛媛県出身)/荒木周作少尉(群馬県出身)
小林富男少尉(東京都出身)/砂畑耕作少尉(東京都出身) 以上5/4(19:20)「疾風」で出撃、嘉手納沖突入戦死。
前川豊少尉(愛知県出身)5/9単機出撃、那覇西方海上突入、戦死。
北原賢一少尉(福岡県出身)5/21単機出撃、那覇西方海上突入、戦死。
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▲飛行第105戦隊。(台湾)陸軍宜蘭基地にて出撃前に地図を広げ飛行コースの打ち合わせをしている。
 昭和20年4月3、9、11、12、28日、5月4日三式戦闘機で特攻出撃。
 昭和20年5月4日陸軍飛行第105戦隊 16:45宜蘭基地より三式戦闘機「飛燕」で長沼不二人少尉が出撃。
 昭和20年5月4日陸軍飛行第105戦隊 宜蘭基地より三式戦闘機「飛燕」で原仁少尉が出撃。
 昭和20年5月4日陸軍飛行第102戦隊 16:00八塊基地より三式戦闘機「飛燕」で畠山富雄少尉が出撃。
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▲米護衛空母サンガモン(USS Sangamon)は昭和20年5月4日補給の為、慶良間諸島に到着。
補給は神風特攻隊などの接近でしばしば中断されたものの18:30には終了して再び外洋に向かって動き出した。
しかし、間もなくサンガモンは47キロ先から神風特攻隊が接近しつつある事を知った。陸上戦闘機が迎撃して9機を
撃墜。残る1機は19:00頃にサンガモンの左舷艦尾部めがけて突入してきた。
サンガモンは取舵で急旋回しつつ対空砲火を撃ち、護衛艦艇の助けも得て特攻機を撃墜する事に成功。
サンガモンの右舷からわずか7.6メートル離れた海面に墜落した(陸軍飛行第105戦隊「飛燕」と思われる)
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▲5/4米護衛空母サンガモン(USS Sangamon)に突入寸前の陸軍飛行第105戦隊「飛燕」
 ※この特攻は失敗に終わったが、後に誠第123飛行隊[三越三郎伍長]操縦の「屠龍」が突入、大きな損害を与えた。
昭和20年5月4日陸軍誠第123飛行隊 三越三郎伍長が16:00(台湾)八塊基地より二式複座戦闘機「屠龍」で出撃。
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▲二式複座戦闘機「屠龍」
昭和20年5月4日三越三郎伍長操縦の「屠龍」が、19:25米迎撃戦闘機の哨戒網を突破し、対空砲火を避けるため一旦
雲中に入り、19:33に雲から出てきたかと思えば米護衛空母サンガモン(USS Sangamon)真一文字に突っ込んで、操
舵室中央部に突入。爆弾は艦内部で爆発し、サンガモンに多大な損害を与えた。
わずか15分の間に、格納庫や操舵室を初めとして艦のあちこちから制御不能なほどの火災が発生し、艦橋との音信が途
絶えることとなった。悪い事に、火災は風に煽られてますます大きくなりつつあった。
それでも20:15までには消火手順が整理され、サンガモン乗組員は大火災に立ち向かう事となった。
爆弾の炸裂で消防装置にダメージがあって水圧が低かったものの、消火ガスボンベによって消火が始まった。
また、近在の艦船もサンガモンの消火作業を手伝う為、集合してきた。その甲斐あって22:30までには鎮火した。
通信も、近接した駆逐艦フラム (USS FullamDD-474) を介した通信及び、艦内で唯一使用可能だった航空機用超短波
無線を利用し23:20頃までには回復した。サンガモンは1戦死者11名、行方不明者25名および21名の重傷者を出した。
生き残った乗組員は、修羅場を潜り抜けて生き残れた事を祝ってアイスクリームを食べたと言う。
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▲5/4炎上する米護衛空母サンガモン、その後サンガモンは仮修理の為慶良間諸島に引き返した。
護衛空母「サンガモン」乗組パイロットのマルカム・ハーバート・マックガン大尉は、戦後かなり後になってこう語った。
「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。私には、あんなことはやれなかっただろう」と、サンガモン
に命中した神風のパイロット(三越三郎伍長)を称えたと言う。
マルカム・ハーバート・マックガン大尉は当時サンガモンで炎上中の特攻機を海中に投棄するのを手伝ったと言う。
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▼▲三越三郎伍長の「屠龍」が突入したサンガモンの飛行甲板。本土に回航後、全損とされスクラップ処分された。
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▼護衛空母サンガモン(CVE-26)艦内での戦死者の葬儀(昭和20年5月5日撮影)
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▼陸軍誠第33飛行隊。四式戦闘機で昭和20年4月16、27日、5月9日、6月6日(台湾)桃園基地より出撃、突入戦死。
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▲写真に収まる隊員。後列左から引地、石原、橋場、中村、坂口(隊長)、福井(副隊長)、内田、持丸、上田各少尉
持丸喜夫少尉(東京都出身4/16出撃)/福井喜夫少尉(広島県出身4/27出撃)/石原正嘉少尉(東京都出身4/27出撃)
橋場昇少尉(富山県出身4/27出撃)/内田雄二少尉(東京都出身4/27出撃)/天野博少尉(千葉県出身)4/27桃園より出撃、
嘉手納沖海上突入戦死。
5/9坂口英作少尉(隊長)(福岡県出身)が桃園より出撃、那覇西方海上突入戦死。
6/6草場道夫少尉(佐賀県出身)が桃園より出撃。沖縄西方海上突入戦死。
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▲昭和20年4月27日米駆逐艦ラルフ・タルポット(USS Ralph Talbot)に「誠第33飛行隊」特攻機が命中。
 大きく損傷したが沈没はまぬがれ任務を続行した。

[ 陸軍誠第120飛行隊 ](台湾)陸軍八塊基地基地より四式戦闘機「疾風」で出撃
5/4畠山富雄少尉/堀田明夫軍曹/田中瑛二伍長
5/12荻野光雄軍曹(京都府出身)/東局一文伍長(石川県出身)
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▲昭和20年5月12日米戦艦ニューメキシコ(USS New Mexico)に、誠飛行隊の特攻機が命中、54名死亡、119名負傷。
 直ちに消火作業が行われ30分以内に鎮火したが、その後5月28日修理の為レイテ島へ向かい戦線から離脱。
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▲昭和20年5月12日米戦艦ニューメキシコ(USS New Mexico)に特攻機が命中した瞬間。

[ 陸軍誠第10飛行隊 ](台湾)陸軍八塊基地基地より出撃
5/3北原弘次見習士官 5/9野本幸平少尉 5/21碓井正雄少尉(香川県出身)

[ 陸軍飛行第204戦隊 ]昭和20年5月20日(台湾)陸軍八塊基地基地より「隼」で出撃
栗原 義雄少尉(埼玉県出身)/小林 修少尉(香川県出身)/田川 唯雄軍曹(岐阜県出身)
大塚 喜信軍曹(神奈川県出身)/井澤 賢治軍曹(兵庫県出身)
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▲5/20米駆逐艦サッチャー(USS Thatcher)に突入、艦のダメージは少なかったが、14名死亡。
 負傷者/行方不明者合わせて53名を数えた

[ 陸軍誠第71飛行隊 ]昭和20年5月24日(台湾)陸軍八塊基地基地より「疾風」で出撃
渡辺 正美少尉(福島県出身)/中山 静雄少尉(香川県出身)/山本 登少尉(広島県出身)
押切 富家少尉(山形県出身)/畠山 正典少尉(岩手県出身)/湯村 恭少尉(大阪府出身)
中島 尚一少尉(大分県出身)昭和20年7月19日出撃
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▲米駆逐艦バリー(USS Barry)は5/16沖縄諸島に到着。到着後は諸島周辺海域の哨戒にあたった。
5/24・25日本軍は菊水七号作戦を発動、バリーにも誠第71飛行隊の四式戦闘機「疾風」2機の特攻機が突入してきた。
そのうちの1機は撃墜したが、もう1機は弾幕を突破してバリーの艦橋下に命中。バリーの乗組員のうち28名は破片で負
傷し、爆発で生じた火災は特攻機から流出したガソリンとバリーの燃料庫および弾薬に燃え移り、艦の前部に脅威をもた
らした。命中してから40分後の13:40艦長はバリーの放棄を決定、乗組員は救命ボートで脱出した。
15:00過ぎ、浸水がバリーの火災を抑え込むのを見た高速輸送艦シムス(USS Sims) とローパー(USS Roper)からの消
火班はバリーに乗り込み、活動の結果翌5/26、06:30頃にはおおむね鎮火した。
バリーは5/28慶良間諸島の泊地に曳航されたが被害の規模は大きく、復旧は割に合わないと判断された。
バリーは部品取りとなり、再利用可能な部品は他の艦艇に転用されることとなった。1か月後6/21バリーは除籍されたが
6/21神風特別攻撃隊「菊水第2白菊隊」が停泊中のバリーへ突入、1日保ったが6/22に沈没した。
バリーが沈んだ6/22沖縄の日本軍最高司令官牛島満陸軍中将と参謀長の長勇陸軍中将は摩文仁丘の洞窟で共に自決。
沖縄戦は終結し、菊水作戦も6/22をもって終了した。

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▲誠第31飛行隊武揚隊[隊長] 山本薫中尉。愛機の九九式襲撃機の垂直尾翼に「必沈」の文字を書き入れている。
 陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」昭和20年5月13日16:32(台湾)八塊基地より出撃。19:30沖縄・中城湾に突入戦死。
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▲(隊長)山本薫中尉(徳島県出身享年23歳)/五十嵐栄少尉(山形県出身)/柄澤甲子夫伍長(長野県出身)
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▲誠第31飛行隊「武揚隊」五十嵐栄少尉と愛機の99式襲撃機。昭和20年5月13日(台湾)陸軍八塊基地より出撃。
 沖縄西方海上の敵艦に突入、戦死。
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▲陸軍99式襲撃機
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」昭和20年5月13日(台湾)陸軍八塊基地より99式襲撃機で出撃(沖縄周辺洋上)
山本 薫中尉/五十嵐栄少尉/柄沢甲子夫伍長
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」昭和20年5月17日(台湾)陸軍八塊基地より99式襲撃機で出撃(沖縄周辺洋上)
高畑保雄少尉/五来末義軍曹
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」昭和20年7月19日(台湾)陸軍八塊基地より99式襲撃機単機出撃。(藤井清美少尉)

陸軍誠第123飛行隊昭和20年5月3日(台湾)?基地より二式双襲で出撃(西垣秀夫伍長)慶良間西方突入戦死
陸軍飛行第17戦隊昭和20年5月3日(台湾)花蓮港基地より16:40「飛燕」で出撃。嘉手納沖突入戦死
下山道康少尉/斉藤長之進少尉/辻中清一少尉/原 一道曹長
陸軍飛行第20戦隊昭和20年5月3日(台湾)竜潭基地より16:40「隼」で出撃。慶良間西方突入戦死
島田治郎少尉/須見 洋少尉 /後藤常人少尉/宮田精一少尉/菊井耕造伍長
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▲「飛行第20戦隊」左から須見洋少尉/後藤常人少尉/宮田猪一少尉 5/3慶良間西方の敵艦船に突入、戦死。
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▲昭和20年5月3日慶良間諸島周辺で誠第123飛行隊等の特攻を受け炎上する米駆逐艦ワード(USS ARRON WARD)
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▲特攻機6機の突入を受け大破した米駆逐艦アロン・ワーUSS ARRON WARD(DM34)
※日本海軍ハワイ真珠湾攻撃において日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」を撃沈した艦艇として知られる。
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▲辛うじて浮かんでいたが結局米軍によって沈没処理された。

陸軍誠第123飛行隊昭和20年5月4日(台湾)?基地より二式双襲で出撃(水越三郎伍長)嘉手納沖突入戦死
陸軍誠第123飛行隊昭和20年5月9日(台湾)?基地より二式双襲で出撃(南出義光伍長)那覇西方突入戦死
陸軍誠第123飛行隊昭和20年5月12日(台湾)?基地より二式双襲で出撃(加治木利秋少尉)慶良間西方突入戦死
陸軍飛行第17戦隊昭和20年6月5日(台湾)花蓮港基地より「飛燕」で出撃。嘉手納沖突入戦死
稲森静二少尉/岡田政雄少尉/佐田通安 少尉/富永幹夫少尉
陸軍飛行第20戦隊昭和20年5月29日(台湾)竜潭基地より「隼」で出撃。沖縄周辺洋上突入戦死
石橋志郎少尉(朝鮮名不明)/大野好治少尉/武本郁夫少尉/山田三郎伍長/森 弘伍長
(6/1出撃)猪股 寛少尉/(6/1出撃)芦立孝郎伍長
陸軍飛行第20戦隊昭和20年6月6日(台湾)竜潭基地より「隼」で出撃。慶良間西方突入戦死
及川真輔少尉/東 勉伍長/遠藤昭三郎伍長/吉川昭孝伍長
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▲昭和20年6月3日陸軍飛行第20戦隊 隊員に訣別の訓示を与える戦隊長。(台湾)高雄にあった小港飛行場にて。
 第20戦隊は沖縄戦に一・四式戦特攻隊を編成、散華。村岡英夫少佐(戦隊長)が小港飛行場で終戦を迎え証言。
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▲飛行第20戦隊「誠忠隊」遠藤昭三郎伍長(静岡県出身17歳)昭和20年6月6日竜潭基地より出撃。
 慶良間西方海上の敵艦船に突入戦死。

宜蘭(ぎらん)には民間飛行場を接収した陸軍の宜蘭北(員山-現・金六結新兵訓練中心)飛行場、宜蘭西(内城-現・
金車威士忌酒廠)飛行場があったが、宜蘭南飛行場が陸海軍主飛行場として使われていたそうだ。
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▲飛行第19戦隊の搭乗員達。三式戦闘機で昭和20年4月11、18、22、30日、5月4、18、21日(台湾)宜蘭より出撃。
[隊長]大出博紹少尉(大阪府出身)22歳/山縣 徹少尉/新屋 勇軍曹 以上4/11三式戦闘機[ 飛燕 ]で突入戦死。
根本敏雄少尉/倉沢和孝少尉 以上4/18三式戦闘機[ 飛燕 ]で沖縄周辺洋上突入戦死。
渡辺国臣少尉/小野 博少尉 以上4/22三式戦闘機[ 飛燕 ]で慶良間洋上突入戦死。
栗田常雄軍曹4/30三式戦闘機[ 飛燕 ]で沖縄周辺洋上突入戦死。
長沼不二人少尉/橋本郁治軍曹 以上5/4三式戦闘機[ 飛燕 ]で宮古南側突入戦死。
大立目公雄少尉/飯野武一少尉/中村憲二少尉 以上5/18三式戦闘機[ 飛燕 ]で嘉手納西方突入戦死。 
沢田卓三少尉 以上5/21三式戦闘機[ 飛燕 ]で嘉手納西方突入戦死。
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▲特攻機の突入を受け大破したUSS YMS-92(昭和20年5月16日米軍撮影)

※陸軍宜蘭南飛行場場跡には現在も測候所、管制塔、指揮所などの建物や掩体壕が残っている。
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▲陸軍宜蘭南飛行場場跡に残る測候所跡。
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▲陸軍宜蘭南飛行場場跡に残る管制塔「通称・八角亭」(現在、南飛行場跡地は造成中で立ち入り禁止との事)
 2009年までは昔のままの南飛行場が残っていたそうで、2012年には既に整地されていた様だ 。
 ここから出撃した飛行第20戦隊所属で小隊長だった石橋志郎少尉は朝鮮出身で沖縄戦の特攻で戦死した朝鮮人
 特攻隊員の内の1人として有名である。宜蘭南機場跡You Tube→宜蘭南機場、員山機堡、思原機堡、北機場
 石橋志郎少尉[ 朝鮮出身 ]本名不明(昭和20年5月29日沖縄周辺洋上にて戦死)
▼陸軍宜蘭飛行場付近に現存する掩体壕を歴史文化施設として活用する動きも進んでいる様だ。
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宜蘭飛行場は 台湾(烏來)ご紹介した高砂義勇隊「薫空挺隊」が出撃していった飛行場と言われています。
そういった観点からも非常に興味深い。宜蘭北飛行場跡地に員山公園がある。圓山と云う小高い丘の上に建てられた
宜蘭神社は日本統治時代(大正8年)に建てられた物だそうだ。終戦後に進駐してきた国民党軍に社殿を破壊され燈籠
や狛犬も打ち壊されたが、奇跡的に「神馬像」は地元の住人によって宜蘭の文昌廟に保管されていて今でも見学する
事が出来る。次回是非行ってみたいと思う。
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▲宜蘭員山公園にある宜蘭神社

「飛行第29戦隊」昭和20年5月21日/6月6日(台湾)台中基地より四式戦闘機[疾風]で出撃
浅野史郎少尉/指方 久軍曹/浜島長吉伍長 以上5/21四式戦闘機[疾風]で沖縄周辺洋上突入戦死。
中島三夫少尉/吉森 茂軍曹/林田敏治伍長 以上6/6四式戦闘機[疾風]で沖縄周辺洋上突入戦死。
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▲6/6(台湾)台中基地から疾風で出撃し、散華した中島三夫少尉(左端)/吉森 茂軍曹/林田敏治伍長
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▲「飛行第29戦隊」浅野史郎少尉 昭和20年5月21日(台湾)台中基地より四式戦闘機で出撃、突入戦死。

昭和20年7月19日陸軍誠第31飛行隊「揚武隊」99式襲撃機1機(藤井清美少尉)八塊基地より出撃(那覇西方)
昭和20年7月19日陸軍誠第71飛行隊 99式襲撃機1機(中島尚一伍長)八塊基地より出撃
昭和20年7月19日陸軍第204戦隊 花漣港基地より出撃 
[隼4機]織田安也少尉(鹿児島県出身)/笠原卓三軍曹(長野県出身)/塚田方也軍曹(静岡県出身)/渡井香伍長
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▲伊江島作戦遂行中に特攻機の突入を受け船首部分をもぎとられた米軍上陸用舟艇(昭和20年7月9日撮影)

※海軍特攻ボート「震洋」も台湾に配備されていた(出撃日時・戦果等不明)
「沖縄戦」で米軍に鹵獲された海軍特攻ボート「震洋」
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第20震洋隊 薄中尉(台湾高雄)/第21震洋隊 竹内中尉(台湾高雄)/第29震洋隊 永井大尉(台湾高雄)
第24震洋隊 若松中尉(台湾馬公)/第25震洋隊 和田中尉(台湾馬公)/第28震洋隊 浦木中尉(台湾海口)
第30震洋隊 山本中尉(台湾海口)/第31震洋隊 栗原中尉(台湾高雄)/第102震洋隊 佐々木大尉(台湾淡水)
台湾 高雄 左営 S19.10.20配備50隻(184名内9名戦死)
台湾 高雄 左営 S19.10.20配備55隻(183名)
台湾 漁翁島 S19.11.05配備68隻(183名)  
台湾 漁翁島 S19.11.05配備50隻(184名内44名戦死)
台湾 海口 S19.11.15配備53隻(191名内3名戦死)
台湾 高雄桃子園S19.11.15配備54隻(191名)  
台湾 海口 S19.11.15配備54隻(191名)  
台湾 高雄 左営 S19.11.15配備55隻(187名)  
台湾 海南島新村S20.01.18配備50隻(185名内1名戦死)
台湾 海南島三亜S20.01.18配備49隻(187名内1名戦死)
台湾 海没解隊 S20.01.08配備52隻(167名内167名戦死)
台湾 海没解隊 S20.01.18配備26隻(183名内163名戦死)
台湾 淡水/江頭 S20.01.18配備25隻(191名内2名戦死)
台湾 淡水 S20.01.18配備28隻(186名内2名戦死)

[ 新竹空襲 ]
新竹空襲は昭和18年(1943)11月25日アメリカ陸軍航空軍と中国国民革命軍の連合部隊が、台湾新竹市の海軍新竹基
地に対して行った航空攻撃で、中国大陸から日本領に対して行われた初めての本格的空襲である。
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▼▲空襲を受ける海軍新竹飛行場
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▼空襲を受ける新竹駅周辺
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▼空襲を伝える当時の新聞記事(号外とされている)
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連合国軍による奇襲は成功し、空襲の結果、日本海軍の記録によれば地上で13機が炎上、戦闘機と陸攻各2機が撃墜さ
れ、25人戦死20人が負傷した。連合国側の記録は地上で日本機42機を破壊、14~15機を撃墜したと判定している。
対する連合国軍の損害は、連合国側の記録によれば対空砲火と樹木との接触で2機が軽く損傷したのみであった。
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▲1943年の中国で作戦中のアメリカ陸軍航空軍のP-40戦闘機とB-24爆撃機。
台湾が空襲されるという事態は、日本の大本営に衝撃を与えた。大本営は、さしあたりの対策として飛行第246戦隊主
力(伊丹飛行場)と第18飛行団の司令部偵察機中隊を台湾へ派遣し、昭和19年(1944))1月下旬には独立飛行第23
中隊を派遣して任務を引き継がせた。更に大本営は、地上部隊により航空基地を占領することで本土空襲を阻止できな
いか検討を始めた。杉山元参謀総長が、服部卓四郎参謀本部作戦課長に対して検討を指示。大陸打通作戦が計画・実行
される事になった。
その後、連合国側は、約1年後の台湾沖航空戦まで台湾に対する大規模空襲こそ繰り返さなかったが、1944年1月11日
B-25数機で高雄市を空襲した。
▼空襲を受ける高雄軍港
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1944年3月4日には海南島(現・中華人民共和国海南省)の日本海軍基地を戦爆連合30機で奇襲攻撃、その他各地の航空
基地や沿岸航行中の商船を襲撃し、1944年6月には、成都基地から出撃したB-29爆撃機による八幡(九州)空襲が行われ、
日本本土にも空襲が及んでいる。その後「大陸打通作戦」により中国戦線の連合国軍航空部隊の活動は大きく妨げられた
が、戦略的意義は乏しかった。
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▲日本統治時代の台湾の製糖工場
台湾製糖株式会社は、日本統治時代の台湾に創立され、台湾最初の新式製糖工場を建設した製糖会社である。
台糖株式会社(たいとう)は台湾製糖の後身で、かつて東京都中央区に存在した株式会社である。
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▲米軍の空襲で被害を受けた製糖工場。
※現在、台南の高雄市には台湾糖業博物館があり、日本統治時代、南部最大の製糖工場跡を見学する事が出来る。
 高雄市橋南里糖廠路24号(年中無休)




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2016_02_10

台湾(烏來)

Category: 台湾   Tags: 烏來  

台北の次は烏來(ウーライ)に行きました。「温泉」「トロッコとロープウェイ」「白糸の滝」
「 タイヤル族の踊りと歌」などが有名な観光地ですが、私の目的は「高砂族主題紀念公園」
(高砂義勇隊慰霊碑)へ行く事でしたが・・・・。
▼台北から南へ、電車で「新店」へ。
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▼新店駅前
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▼新店駅周辺の高層マンション
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▼新店駅からはタクシーで「高砂族主題紀念公園」へ向かいました。
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▼2015年9月に台湾を襲った台風21号の被害で山道の途中は至る所で復旧作業が行われていました。
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ここで「高砂義勇隊」を説明したいと思う。「高砂族」とは、台湾先住民の事で、元々台湾にはタイヤル族、
トロック族、タウツア族、パイワン族などの複数民族が住んでおり、パイワン族はピューマ族やアミ族など
複数に分かれていて、民族間で争いごとも多くあった。「高砂族から首狩りをやめさせたことは、日本が入
った一番良いことだった。」と語る第5回高砂義勇隊生還者もいる。
日本が統治する(明治28年)まで先住民には首狩の風習があり、他民族と遭遇した時のみならず、男児が成人
する際も首を切り落とし持ち帰る掟があった。日本はその風習、それと密接に関わりがある入墨を禁止した。
日本が統治を開始以来、先祖伝来の生活様式を守り、外来民族の支配を嫌う先住民族の抵抗に日本は手を焼
き、徹底した隔離政策を採った。

▼台湾先住民(アミ族)
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※高砂義勇隊として選ばれたのはタイヤル族・アミ族などの台湾先住民であった。
 高砂族は基本、山の先住民の事を言う。アミ族は高砂族ではないという生還者の方も居る。
 高砂族(タイヤル族)は山から降りてきてアミ族の首を刈る。アミ族は首を刈られる側だった。
 先住民のことを「高砂族」と呼ぶ様になってから、山の人もアミ族も高砂義勇隊で一緒にされた。

原住民居住地を特別行政区として、漢民族住民の立ち入りを禁止、土地に所有も認めず、場所によっては高
圧電流を流した鉄条網で包囲した。反乱防止の為、駐在所の警察官に、学校の教師や行政事務官も兼務させ
警察官が各村の最高権力者になった。
昭和5年(1930)10月タイヤル族の一部が武装蜂起して駐在所や運動会を開催中の学校を襲い、139人の
日本人が犠牲になった。いわゆる『霧社事件』である。警察権力に対する反発が一因であった。
日本政府(台湾総督府)は報復として航空機、大砲などの近代兵器を動員して蜂起を鎮圧したが、644名の
死者を出した。翌年の報復事件(第2霧社事件)を含めると約1000名が犠牲となり、生き残った200余名は
山から下ろされ川中島(現・清流)に強制移住させられた。
『霧社事件』で六部落1300人の先住民は山中に立て籠もり、2カ月余に渡って数千の軍警と攻防戦を演じた。
この戦いで、日本軍は山中の白兵戦ではまったく彼等に歯が立たなかった。この時、彼らの戦闘力、そして
味方に対する忠誠心を軍幹部は深く肝に銘じていたはずで、日米開戦を目前にして、先住民による特殊部隊
の編成を計画したのは、そうしたことがヒントになっていたと考えられている。
この事件後、監督を強化するために、山地住民を駐在所近くに強制移住させた他、日本語や国家への忠誠心
を学校教育を通じて教え込んだ。その結果、初等教育進学率は台湾の漢民族系住民より高くなったと言う。
先住民族にとって日本は初めて出会った『国家』であり、国家意識が薄いと言うよりも全くの白紙であった
彼等は、この皇民化教育で日本人として純粋培養されていった経緯がある。
当時、彼等の人口は昭和4年(1929)の時点で14万人であった。
「高砂族」という呼び方は1935年(昭和10年)公式に先住民を「高砂族」(たかさごぞく)と呼ぶように
なった。現地の高砂族生き残りの方は「台湾人が高砂族をいじめたり、迫害した時、いつも日本人警察が高
砂族を助けた、だから高砂族は日本人が特別好きだ」と語ったと言う。
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▲昭和初期の先住民児童と教師達。(山地の教育所の教師は警察官が務めていた)
しかし、日本人警察が行った行為は全て良かった事ばかりでは無い。
次々に夫が志願して高砂義勇隊に出征してき、男手を失っていった村の生活は逼迫する。
そこへ駐在所の警察官が仕事を持ってきた。「近くの日本軍部隊の駐屯している兵舎で洗濯や縫い物をして
くれ」というものだったが、その後、彼女達は警察官や軍人の慰み者にされ続けた事実もある。
「亭主も兄達も、皆お国のために命を捧げているのだ。お前達もお国に身体を捧げよ」と警察官に言われ、
日本軍部隊数百人の相手を毎晩させられて妊娠したり、流産したり、心身共にぼろぼろになった時、彼女達
から見ても「祖国日本」の敗戦は更に戦後の彼女達の生活を追い詰める結果となった。この様な事実も知っ
ておかないと「統治」や「占領」が、統治された側がどの様な立場なのか理解を間違える事になってしまう。

太平洋戦争(大東亜戦争)中には高砂族を中心にした「高砂義勇隊」が結成され、日本軍の指揮下で戦って
くれた。「高砂義勇隊」の日本軍での評価は非常に高く、共に戦った日本兵の生存者は「未だ台湾に足を向
けて寝る事が出来ない」と言われる程である。以下、「高砂義勇隊」の経緯や戦績をご紹介したいと思う。

太平洋戦争の開始直後から、日本軍は南方の密林戦での労働力、戦力として山岳民族出身の彼等を活用する
為に、先住民族の部隊を編成した。部隊は『高砂義勇隊』と呼ばれた。
台湾では昭和16年より志願兵制度が実施されており、徴兵制は昭和19年に始まった。
皇民化教育がもたらした日本への忠誠心、武勲を重んずる部族の伝統、更に現地警察官の強い働きかけもあ
って志願者が殺到。予想をはるかに上回る5000人もの志願があったと言う。その中から特別に編成したのが
「高砂挺身報国隊」後に「高砂義勇隊」となる特別部隊である。隊員たちの身分は軍属で、皆日本名が与え
られ、第一回~第七回まで編成されて陸軍/海軍合わせて合計4.200人にのぼった。
(※高砂義勇隊慰霊碑がある烏来からは34名が高砂義勇隊に参加、14名戦死)

驚くべき事に昭和16年に志願兵制度が実施された際、募集定員1020名に対し、何と45万人もの台湾の人々
が志願したのであった。翌年も1008人の募集に対し志願者は60万人にもなったという。
軍司令部には血書・嘆願書が山をなし、更に熱心な青年たちは陸軍省に陳情もしていた。
当時台湾の人口が600万人であった事を考えるとこの数字が如何なるものかをお解かり頂けると思う。
昭和13年(1938)台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人巡査「田北正記」に召集令状が
届き、出征する事となった。巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていた為、
下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨンもその一人だった。
一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑
らせ増水した川に落ち、命を落とした。この話は、[ 出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした ]
と言う事から台湾先住民宣撫の為の格好の愛国美談となって広まり、サヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付
近に建てられた。いわゆる映画「サヨンの鐘」(1943年7月封切)と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。
※第二次大戦中、日本人として戦地に送られた台湾人は約20万7000人。うち戦死したのは3万0304人。
 特に「高砂義勇隊」の戦死、戦傷者の割合は高かった。

▼軍夫として支那事変従軍を嘆願する台湾青年の血書。
 これが書かれた昭和13年は台湾人の兵役は認められておらず、多くの青年たちを悔しがらせた。
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昭和16年から志願兵制度が実施されたが血書志願したのに兵役検査で 落ち、一晩泣いた人も多くいたと言う
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▼▲出征前の台湾青年日本軍兵士の写真
1942年臺籍老師日本兵出征前_Taiwanese_Teacher_drafted_as_solider_shoot_with_students_during_World_War_II

▼高砂義勇隊となる高砂族の青年達は、新竹州(現在の新竹市、桃園市、新竹県、苗栗県を合わせた地域)や
 花蓮港庁(現在は花蓮県)などで2週間程度の厳しい訓練を受け、「軍属」として戦地へ送られる事になる。
 (シンガポールで軍事教育を3ヶ月受け、地獄の「インパール作戦」で第15師団に加わった中隊もある)
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▲初年兵教育で「これから立派な大日本帝国軍人だ、大東亜共栄圏の為にしっかりやってくれ」と言われたと言う
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▲▼出征する高砂義勇隊員と整列する高砂義勇隊の勇士達。
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▼薫空挺隊に参加した高砂義勇隊員、津村重行(日本名)上等兵
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高砂義勇隊はフィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入するために創設され、陸軍中野学校出身
者の指揮下で第一回高砂義勇隊(高砂挺身報国隊)が編成され、約500名がフィリピン戦線に派遣された。
開戦間もない昭和17年3月22日高雄よりルソン島に向かいコレヒドール要塞戦、バターン半島作戦に従事し
た。日本軍の勝利に終わった「バターン・コレヒドール作戦」である。
高砂義勇隊は兵士ではなく、志願を前提とした「軍属」として運搬や道路、橋の建設が主であった。
全員台湾先住民で構成され、小隊長・中隊長も「蕃社」の日本人警察官が任命された。
フィリピン(マニラ)で6ヶ月の初年兵教育(明るいうちは戦いの訓練、夜は学課(作戦)を受け、特務兵と
して各戦地へ派遣され、民間の部落にも入って情報収集をする任務を与えられた中隊もあった。
高砂義勇隊は地位も階級も無い。多くは武器も与えられず、「蕃刀」一本で戦った。
※「蕃刀」はタイヤル族が使用した先祖伝来の鉈状の山刀で、高砂義勇兵 下の写真で腰上にさしている物。
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しかし彼等は磁石がなくても方向を見失わない、一度見た山は忘れない、食糧を見つけるのが天才、しかも
勇敢という才能を発揮し、日本兵は皆彼等を弟の様にかわいがったと言う。
コレヒドール島の戦いに向けての険しい山道での行軍中、持参した飲み水も底をつき疲れきった日本兵が峠
で小休止していた際、30~40キロもある荷物を軽々と担いだ、高砂義勇隊が「みなさん元気ですか?」と、
日本軍の後を追ってきた事があった。高砂義勇隊は疲れきった日本兵になみなみと水の入った水筒を与え、
宿泊する小屋の設営も手伝ってくれたという話が残っている。
彼等の多くは24、25歳位の青年で、大部分が妻帯者であり父親でもあった。日本兵と日本酒を飲み交わし
た際には非常に喜んで、早速飯盒(はんごう)のふたで飲み初め、その酒豪振りは准尉を驚かしたという。
昭和17年9月29日ルソン島最南部の義勇隊のパイワン族100名を残し、約400名は台湾に凱旋した。
華々しい勝利を飾った第一回高砂義勇隊の凱旋式は盛大に執り行われ、若者の功名心をそそった。
フィリピンに残った義勇隊のパイワン族100名は、昭和17年7月ミンダナオ島ダバオに移住した後、独立工
兵第15連隊に配属され、7月21日ニューギニア北岸のバサボアに上陸し、オーエンスタンレー山脈を越えて
陸路をポートモレスビーに向かい、陸軍第55師団[ 南海支隊 ]の先鋒を務めた。

第二回以降の高砂義勇隊は昭和17年から18年前半、東部ニューギニアだけでも16万の将兵が戦死し、当時
の日本兵が「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と恐れた「ニューギニアの戦い」
でも大活躍した。写真は花蓮港庁で行われた第三回高砂義勇隊訓練時の記念写真
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▲第三回高砂義勇隊の部隊の中にはオーストラリア上陸作戦に参加した中隊もあった。
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▲第三回高砂義勇隊出征写真。昭和17年9月頃台湾を出発。マニラ、シンガポールを経てラバウルに上陸。
 ラバウルから各中隊に分かれ、それぞれの担当戦地(主にニューギニア戦線)へ送られた。

ニューギニアの作戦の当初から高砂義勇隊と共にした日本兵の生還者は戦後戦地での高砂義勇隊の素晴らしい
仕事を語っている。「我々は高砂義勇隊と共に戦ってきました。食料の無い日が何日も続きました。 ある日、
高砂義勇隊の1人がずっと後方の兵站基地に下がって、食料を運ぶ事になりました。 ところがその次に隊員に
出会った時には死んでいました。50キロの米をかついだまま隊員はジャングルの中で餓死にしていたのです。
背中に担いだ米には一指もつけずに・・。」 なんという忠誠心、涙が溢れてくる・・・。
また、高砂義勇兵達がニューギニア戦線で活躍した理由として 夜目が非常に利き、完全に暗闇なジャングルで
も戦えた事が挙げられる。 高砂族を指揮した中野学校出身の将校にも最初は彼らの索敵報告を信じられない程
だったと言う。ラバウルの第八方面軍司令部に勤務していた小俣洋三陸軍中尉は陸軍中野学校出身者で、第二
高砂義勇隊長としてニューギニア戦線で高砂義勇兵を指揮した。 「ジャングルでの方向感覚や夜目が利く視力、
食料なる動植物の知識や敵に立ち向かう勇敢さ、そして彼らの徹底した忠誠心に誰もが舌を巻いた」 と戦後に
語っている。加えて小俣中尉はニューギニアで負傷し、後に病院船で帰国したが 「4人の高砂義勇兵が木を切
ってその場で担架を作り、意識不明だった私をジャングルの中から何週間もかついで港まで連れてきてくれた。
今こうして生きているのは、高砂義勇兵のお陰」 と言葉を詰まらせながら語ったと言う。
戦地で高砂義勇隊は将校から一兵卒に至るまで正規の日本兵に頼りにされたという。 高砂義勇兵がおぶった上
官が背中で死んでいた事もあったという。荷物を担ぐのがうまく、100キロぐらいの荷物を担いでもしっかり
と歩き、腹が減った時には首にぶら下げていた靴の革を煮てかじっていたと言う。
何故靴を首からぶらさげていたのか?その事は以下の出来事がきっかけである。
高砂族は、まるでグローブのような手、そして靴を履いているのかと見間違うばかりに盛り上がった足の皮。
表情の優しさとは裏腹に強靭な肉体を持っていた彼等は、軍靴を履く事を嫌がった。はだしで生活している彼
等にとっては靴をはくと歩きにくく、軍靴は無用の長物であった。軍の規則で靴を脱ぐ事を当初は許可されな
かったが、戦況の悪化と共に高砂義勇兵の訴えは聞き入れられ、軍靴を脱ぐ事を許可された。
軍靴を脱ぐと、素足で足音さえ立てずに暗闇のジャングルを駆け回る。そのため潜入攻撃や切り込み攻撃は群
を抜いた活躍を見せて日本兵の度肝を抜いた。地獄の「インパール作戦」では食糧の無い中「世界最強の傭兵」
といわれた英国特殊部隊「グルカ連隊」とも高砂義勇隊は互角以上に渡り合い、連合軍から恐れられた。
▼写真は訓練中の高砂義勇隊員(薫空挺隊)
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第二回高砂義勇隊は台湾中部の原住民が多く暮らす南投県仁愛郷のタイヤル族で編成された。
第三回高砂義勇隊(620名)は昭和19年2月15日ニューギニア・ウエワク島を出港数時間後、アメリカ軍大
編隊の空襲を受け、船が沈没。病気・怪我・特別な命令を受けて部隊を離れて行動していた人以外はほぼ全
滅したとされている。(戦死確認は404人)
第四回高砂義勇隊は昭和17年11月14日台湾を出発。マニラ経由でラバウルへ。ラバウルからニュージョージ
ア島(ソロモン諸島)に11月25日上陸、その後昭和18年3月ニューギニア島・ウエワクに入港し、当時日本
軍のニューギニア島最大の航空基地建設に従事している。
第五回高砂義勇隊もニューギニアに派遣され、戦死者233名、生還者92名、生死不明者75名の計500名。
(第五回高砂義勇隊を引率した巡査の遺族が部隊全員の復員資料等を所持していた為、正確な数字だと言う)
第六回高砂義勇隊もフィリピン・ラバウル・ソロモン諸島・ニューギニアを転戦。
第七回高砂義勇隊 昭和18年遊撃第一中隊・遊撃第二中隊が編成された。(これが第七回高砂義勇隊である
         かどうかははっきりしない。)
※第八回高砂義勇隊も編成されたそうだが、終戦間際の編成だった為戦地へ赴いたどうかは不明。
[ 陸軍特別志願兵/遊撃第一、第二中隊の編成と出動 ]
昭和18年10月15日高砂族青年500名を、始めから陸軍特別志願兵として徴募し、訓練を施した。
爆弾を抱えて敵中に突入する訓練も行なっていたという。
この中には第一回高砂高砂義勇隊員も多数含まれていた。彼等は昭和19年3月輸送船で高雄を出発。フィリピ
ンマニラ経由で「薫空挺隊」と「川島部隊300名」に分かれ、川島部隊は4中隊に分かれインドネシアのモロ
タイ島、セレベス島などへ送られる。薫空挺隊はフィリピンのレイテ島へ送られ全滅したとされている。
日本軍は昭和17年末から18年にかけ、ガダルカナルの戦いで敗れ、ニューギニア戦線で敗退を続けている時、
南方のジャングル内で遊撃戦を行う専門部隊を正式に編成することになり、昭和18年12月24日台湾軍は遊撃
第一中隊、遊撃第二中隊の編成を命ぜられた。両中隊共総人員百192名、兵の人数は152名だった。その兵の
うち、通信、衛生の特技者を除き、高砂義勇兵が充てられた。1個中隊に日本人が5~6人、残りは高砂族(ブ
ヌン族、タイヤル族、パイワン族、アミ族)がいた。従って高砂義勇兵は一個中隊に140名程いたと思われる。

[ モロタイ島の戦い ]
太平洋戦争(大東亜戦争)後期にインドネシア東部モルッカ諸島のモロタイ島で守備する日本軍と上陸したア
メリカ軍主力の連合国軍の間で行われた戦いである。アメリカ軍は、フィリピン反攻作戦の第一歩として、モ
ロタイ島を占領し飛行場など大規模な基地を建設した。終戦後の1956年には9人の元日本兵が発見され日本に
帰国。そして昭和49年(1974)12月には一等兵として戦死扱いになっていた「高砂義勇隊」の中村輝夫さん
(本名、李光輝 アミ族出身)が発見され、台湾に帰国している。
▼昭和49年(1974)1月台湾に帰国した李光輝さん。日本の為に戦い、帰国した台湾は蒋介石万歳に180度
 変わり、言葉も変わり、国も変わり、大変な思いであったであろう。
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▼中村輝夫(李光輝)さん
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李光輝(ス ニオン)さんは台湾に帰国後僅か4年で亡くなっている。彼の確認が日本の世論において「高砂義勇隊」
が話題に上った最初のきっかけとなった。彼の発見をきっかけに給与が未払で補償がないことに関する世論の批判
もおき、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に1人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払われたが、
李光輝さん以外の義勇兵への給与は現在でも未払である。また、当時強制的に軍事郵便貯金とされた兵士の給与
は引き出せなかったが、これは120倍にして返却することが決まり1995年に支払いが開始され一部の元隊員は受け
取った。しかし戦いでお金を使う暇も無く平均1000円ほどの残高を所持し、当時としては大金だったのに120倍で
引き出しても12万円にしかならない。これに抗議して1996年6月日本大使館に相当する台北の交流協会を元隊員が
襲撃する事件が起こった。現在でも、物価上昇を考慮すると数年間の戦闘の対価としてはあまりに少額として抗議す
る元隊員も多いのも事実である。
※日本政府は中村輝夫(李光輝)に対して帰還手当3万円と未払い給与38279円を公式に支払った。
 閣僚から特別な見舞金200万円、この他、数百万円の義援金が渡されている

[ 薫空挺隊 ] 日本ニュース「薫」空挺隊
薫空挺隊とは、レイテ島の戦いにおいて1944年11月26日にフィリピンのレイテ島アメリカ軍占領下ブラウエン飛行
場への強行着陸と破壊を目標とした義号作戦に用いられた大日本帝国陸軍の空挺部隊である。
薫空挺隊は台湾軍遊撃第1中隊の一部で、本来はジャングルでの遊撃戦専門の特殊部隊であった高砂義勇兵がかなりの
割合を占た。義号作戦で出撃した約40名を乗せた輸送機4機の内1機が日本軍勢力下のバレンシア飛行場に強行着陸し、
搭乗員は第26師団と共に行動したということのみが確認されている。
残りの3機のうち2機については、アメリカ軍戦史によればドラッグ海岸付近に着陸し、乗組員はいずこへともなく消
えていったと言う。残る1機は完全に消息不明である。薫空挺隊の生き残りがいるのかどうかも明らかになっていない。
この作戦が成功したのか、失敗したのか、はたまた敢行すら出来なかったのかさえ不明である。
アメリカ軍戦史の記述を信用すれば、戦いすら起きなかった可能性もあるが、この戦いに参加した高砂義勇兵は1人
も生還していない。当初同時に行なわれる予定だった?高千穂空挺隊(第2挺進団)、挺進第3連隊主力と挺進第4連隊の
一部(空挺隊員462名)が、12/6ルソン島(クラーク基地)より出撃。
挺進飛行第1戦隊(秘匿名[霧島部隊])と挺進飛行第2戦隊の一部など輸送機35機と重爆撃機4機、援護重爆撃機13機
と護衛戦闘機31機の大部隊だった。
落下傘降下した高千穂部隊はブラウエン南飛行場(米軍名/バユグ飛行場・サンパブロ飛行場)、ブラウエン北飛行場(米
軍名/ブリ飛行場)これらの飛行場に胴体着陸して斬込みを敢行(天号作戦)付近を防衛していたアメリカ軍第11空挺師団
と空挺兵同士で交戦となる。若干名は飛行場に突入し米航空機の破壊、一時的にブラウエン北飛行場奪還に成功した。
しかし、12月までに合計5万名に及ぶ兵力と物資をレイテ島に送り込んだ日本軍だったが、その大半が輸送途中に敵襲
で海没する船舶が相次ぎ、第26師団主力は11/9無事オルモックに入港するも、上陸用大発動艇の不足からほぼ兵員の
みの上陸となり、更に後続の補給物資船団は到着前に次々と沈められ、軍需品、糧食の8割が海中に沈められた。
その結果レイテに運ばれた日本軍を待っていたのはガダルカナルの戦いやインパール作戦にも引けを取らない飢餓戦と
なり、結果海上輸送も地上総攻撃も失敗した日本軍は空挺攻撃も打ち切りとし、空挺隊の犠牲が報われる事は無かった。
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▲ルソン島クラーク飛行場にて出撃準備中の日本軍挺進隊員
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▲▼薫空挺隊の集合写真[ NHK戦争証言アーカイブス[薫空挺隊]
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▼薫空挺隊出撃前の訓示
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▼出陣に当たり故国を遥拝する薫空挺隊。
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▼薫空挺隊出撃直前、聖壽の萬歳を奉唱。(胸の雑嚢には爆薬が入っている)
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▼フィリピンにて、薫空挺隊の中重男中尉を激励する富永恭次司令官(「陸の三馬鹿」参照 )
 戦況が悪化した翌年1月6日、富永司令官は部隊を見棄て台湾へ敵前逃亡た。(写真左)
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フィリピン・ルソン島ルバ飛行場の宿舎で出撃前のひと時。右が中重男中尉▲(写真右)
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▲出陣式の石田歳徳曹長。軍刀を左手に持ち、右手で「陛下」御下賜の清酒で乾杯。
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▲輸送機に乗り込む薫空挺隊
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▲輸送機の機種はさだかでないが、空挺隊が訓練に使った画像の陸軍97式輸送機ではないか?と思われる
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▲機内の薫空挺隊(通路中央でしゃがんでいるのは加来隆少尉)
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▲当時、薫空挺隊を伝える新聞記事(朝日新聞)

[ 薫空挺隊の編成 ]指揮官 中勇男中尉(写真参照)
第一小隊(小隊長)中勇男中尉[指揮官と兼務]/甲斐将夫曹長/清水敏次伍長
高砂義勇兵→石川正信上等兵/岡野弘上等兵/山下登上等兵/藤野秀夫上等兵/宮崎一郎上等兵
      西村秀夫上等兵/西山義一上等兵/河井東男上等兵/徳永正利上等兵/本多純一上等兵
      西村照秋上等兵/上田初喜上等兵 以上合計15名

第二小隊(小隊長)須永富蔵少尉/石田歳徳曹長(写真参照)/八木橋俊曹長
高砂義勇兵→森田実上等兵/稲田茂上等兵/池田三郎上等兵/井手敏上等兵/草田良夫上等兵
      ※有村※上等兵/結城文男上等兵/前田隆男上等兵/栗原二男上等兵/東山晴夫上等兵
      津村重行上等兵(写真参照)/田村幸吉上等兵 以上合計15名

第三小隊(小隊長)川原英雄少尉/浜田新軍曹/金原庚鎮軍曹(朝鮮慶道北道尚州郡出身)
高砂義勇兵→石川正義上等兵/大橋要英上等兵/高橋金三郎上等兵/伊藤秀雄上等兵/矢野秀雄上等兵
      菊田光治上等兵/永野賢龍上等兵/田中幸徳上等兵/金川見洙上等兵/瀬ノ口信男上等兵
      金重信男上等兵/三浦豊之上等兵 以上計15名

第四小隊(小隊長)加来隆少尉(写真参照)/木下敏一軍曹/中村寛軍曹
高砂義勇兵→藤川光三上等兵/甲斐亘上等兵/久川勝康上等兵/石井誠上等兵/齋藤新三郎上等兵
      石建美水上等兵/小野寺清一郎上等兵/実田健吉上等兵/林吉則上等兵/手島進上等兵
      青木達一上等兵/保浦久良上等兵 以上計15名

飛行部隊編隊長 桐村弘三中尉
[一番機] 桐村弘三中尉/田中正澄軍曹 [二番機] 五藤武準尉/北 史軍曹
[三番機] 大沢正弘中尉/塚田弘治曹長 [四番機] 寺島近馬準尉/高木弘軍曹

各上等兵は全員高砂族出身※については、靖國神社御祭神名簿に「有村晴夫」「有村繁敏」の二名があり、
どちらが薫空挺隊に入ったか不明。薫空挺隊は隊長、下士官計12名のうち11名と飛行部隊8名が日本人。
朝鮮人1名。高砂義勇隊員48名。合計68名の構成であった。
この戦いで戦死したと認定された高砂義勇隊の兵士は靖国神社に合祀されている。

※2005年6月台湾先住民出身「立法委員」高金素梅氏が、先の大戦で旧日本軍に徴募された「高砂義勇隊」
 の戦死者の遺族代表60人と共に訪日し、靖国神社に合祀された「高砂義勇隊」戦死者の位牌を同神社から
 除くよう日本側に求め、日本政府に賠償と謝罪を求めた。高金素梅氏は台湾では有名な反日活動家です。
 朝日新聞の記事では「台湾先住民族出身」と書いてありますが、母親は確かに高砂族出身ですが、父親は
 戦後中国から逃げ込んだ大陸人であり、その思想は高潔な高砂族のものではなく、反日に染まった中国人
 のそのものであった。 更にこの人物は2003年にも、高砂族の123名を原告として、小泉首相が靖国神社
 に参拝した事に対し、慰謝料を請求するとして大阪地裁に訴訟を起こしています。(大阪地裁は請求棄却)
 この時高砂族123名を原告としていましたが、この123名には台湾に現住所が確認できない者なども多く、
 実際は高砂族の意思ではなかったことも明らかになっており高金素梅氏が反日活動を行う為に、高砂族の
 名を悪用した事に高砂族が怒り、「高金素梅は高砂族の恥」として、数々の抗議を行っています。

戦後、日本政府は台湾の戦後処理で、高砂義勇隊に対して報いず放置し、戦時中に高砂義勇隊を部下に持っ
た元日本陸軍少尉は戦後の日本政府の薄情さに怒り、「我々日本人の恥である。戦友として誠に忍びない。
国が補償しないなら俺がする。ほんの気持ちだ」と言って高砂義勇隊の部下20数名に10万円ずつ贈り、こ
れに元高砂義勇隊達は皆涙し、「この金を戴くわけにはいかない」と言って全額を返した。
戦後、昭和27年(1952)に発効した日華平和条約により、台湾の人達は日本国籍を喪失する。
それを理由に、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、元軍人・軍属やその遺族に対して障害
年金、遺族年金、恩給、弔慰金、また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかった。
昭和52年(1977)8月「台湾人元日本兵」の鄧盛氏ら戦傷者と戦死者の遺族13名が、日本国を相手どり1人
500万円の補償金を要求して裁判を起こした。
上記で紹介した元高砂義勇兵「中村輝夫」(李光輝)がモロタイ島で発見されたのを契機として、台湾人元
日本兵への補償を求める運動が日本と台湾で具現化。しかし日本政府に動きがなかった為、戦後32年目にし
て上述の提訴となった。昭和57年(1982)2月26日東京地裁は「同情は禁じ得ないが、国際的外交処理な
いし立法政策に委ねられるもの」として、請求棄却の判決を下した。
原告団は判決を不服とし「日本には人道も誠意もないのか」と控訴する。
しかし、日本政府(外務省)の、第二次大戦に関する賠償問題は決着している。個人的な賠償は行わない。
という基本方針を転換させる事はいわば日米安保を破棄するがごとく、日本の政策の根幹に触れる事になる。
先の大戦で戦った日本人軍属の方でも戦後生還して日本で暮らしているが「軍人」では無く「軍属」だった
から。「少年兵」だったから。との理由で障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、戦争中の未払い給与等の支
払いを日本政府から一切受けていない元日本人軍属の方も数多くいらっしゃる。
戦後保証の問題は何も外国人だけに限った事では無いので難しい問題でもある。

一方で平成12年(2000)4月ボランティア団体「ユニバース国際援助基金」が元高砂義勇兵生還者23名を、
1週間の日本観光旅行に招待した事があった。
日本人以上に日本人で、愛国心溢れる彼らの姿に、歓迎した日本の一行が、逆に感動させられたと言う。
羽田空港に到着し、降機先頭に出てこられた元高砂義勇兵の方は日本陸軍の制服に制帽を身に纏い、
「第一回高砂義勇隊、大村国太郎であります。只今日本に帰って参りました」と深々頭を下げられたと言う。
靖国神社を参拝した際には、皆さん「戦友に会えました」と涙ながらに語り、宴会では軍歌や唱歌の大合唱
で盛り上がり祖国の地を踏んだことに涙し、日本文化を存分に満喫し台湾に帰られたとの事だ。
この日本観光旅行に参加した高砂族の1人「陳徳儀」さんは、靖国神社参拝を控えて、東京・九段の偕行社
で、非公式に出席された三笠宮様臨席の下、勲五等瑞宝章を授けられたという。
(叙勲として公式に認められた物ではないと推測する)関係者は言葉を濁すが、陸軍中野学校出身の「小俣洋
三」がパイワン族元義勇兵「平山勇」(楊清課)に小俣自身が授かった勲章を与えた様に、招いた日本側の
有志が勲章を提出したとの想像も出来る。仮にそうであったとしても、陳徳儀にとっては人生最大の喜びで
ある様だった。  陳は「三笠宮さま(ご臨席の下での叙勲は)本当に尊いことです。日本は敗戦したという
が、行ってみたら第一級の姿です。三笠宮さまが頭を下げられた。その瞬間、私はもう(感極まって)何も
覚えていません。それで十分です」と言ったという。
報われる事がほとんどなかった高砂義勇兵の中で、陳はある意味で最も報われた男の一人かもしれない。
実に素晴らしい企画と素晴らしい高砂族の方達ではないか、日本人は絶対忘れてはいけない。
「高砂義勇隊」が命をかけて日本軍と共に戦ってくれた事を。

[ 高砂義勇隊生還者や学徒兵の方達から日本人へのメッセージをお三人分ご紹介します ]※2009年時点
①日本のみなさんへ
「志願したのは、国を愛する気持ちでいっぱいだった、自分の国を自分で守る気持ちでいっぱいだったから。
そういう文化と時代だった。どうせ受からないだろうといたずらな気持ちもあった。当時植民地で差別され
ていたが、それで日本を嫌いになるのではない。平等でないから、兵隊になれば平等になると思った。
初年兵教育のとき、「これから立派な大日本帝国軍人だ、大東亜共栄圏のためにしっかりやってくれ」と言
われた。前線の為にしっかり駆け回っているのに「帝国主義だ」は飲み込めない。
日本の為に命を出して駆け回ったのに、敵の国にさせられた。

前線にいた兵隊は大東亜共栄圏の為に戦っている。自分の事で戦っているのではない。みな命が惜しい。
それを捨てて戦っている。GHQの弱体化政策で軍が悪いとされているが、また本国のリーダー達のことは知
らないが、前線の兵士は皆そうだった。
自分にとっての大東亜共栄圏とは、シンガポールでの体験から、同じ黄色人種がアジアで平等にやってゆけ
たら。と考えていた。今、大東亜共栄圏は実現している。戦前の地図はみな白人の奴隷だった。あの戦争の
お陰で今のアジアがある。230万人の命を投げ込んで戦った甲斐があった。
この戦争の責任をみんな日本に投げ込んでいる。けんか両成敗ではないが、これは不公平と思う。

しかし、戦後の日本政府の態度も納得できない。終戦直後は余裕ないから仕方ない、それは解る。しかしそ
の後の神武景気で日本は発展した。負けたとたんに切り離されてしまった。日本政府に一言ある。
お金ではない、「台湾の軍人軍属の皆さん、ご苦労さんでした、有難うございました。」
この一言が欲しい。天皇は恐れ多いからせめて総理大臣の誰か一人に。それが台湾日本語族の願いだ。

②日本のみなさんへ
戦後、日本は台湾を引き揚げたあと、台湾の30何万の兵士軍属らに一つも面倒を見なかった。
敗戦で祖国の中国に戻れたからとサヨナラだった。
日本が台湾を引き上げた後、台湾の兵士たちは言葉も文字も解らない社会で、日本の手先だといじめられた。
台湾人は中国人でも日本人でもない。日本時代は中国人、敗戦後は日本人と言われる。
戦後日本は神武景気でよくなったが、台湾は長い戒厳令でひどい目にあった。
日本との50年の繋がりの為にひどい目に遭わされた。田中首相の時に、利益の為、人情も省みず台湾は切り
捨てられた。日本は50年の間に文化を残し、それを引き受けたが、故にマイナスにもなった。

国民党政府はかつての敵である共産党と一緒になり、台湾を中国の一部として扱っている。
日本と利害関係の多いこの台湾を取られた暁には、日本も酷い目に遭わされる。日本はそれを知りつつ、中
国に対して控えめ、台湾に対して支援も出来ない。この事を日本の人達に解ってもらいたい。
台湾は日本とも近いし、日本は文化も残した、それを解っている台湾人も多い。
もう少し交流が強くなり、台湾のこと、台湾の過去を知ってもらいたい。あなた方の事だから。と言わずに、
親戚、友人に関心を寄せるように切迫した情勢に関心を寄せ、もっと多くの日本人が声援を寄せてほしい。

日本が台湾を支配して50年。台湾に何をしたか、台湾の人が何を思っているか、ゆくゆくはどうなってゆく
か、日本の人達に知ってもらいたい。これは多くの台湾人の願いだ。
これは悲願になると思う。ゆくゆくは併合されるだろう。朝鮮が日本に併合されたように。そういうことが
将来あっても、それを何百万の人たちが煙たがっている、おそらく1000万以上の台湾の人が嫌っている。

そのために奮闘しないといけない。日本みたいに一つの国だからとのうのうとしているわけにはいかない。
次の世代は、中国に併合されるか独立するかの瀬戸際だ。日本はれっきとした一つの国だから永久に変わら
ないのに比べ、台湾は400年間、いくつかの国に統治されて誇りを失った。
自分がどこの国の人かわからない。自分の世代は、一つの国として生きてゆきたいと願っている。
台湾人であるという誇りを持っている。中国人とは違う。もともと原住民がいたところへ、中国南部から入
った人達と混血し、その後日本の文化を取り入れた、特別な文化がある。
自分には3つの祖国がある。戦前は日本、戦後は中国人、ここ20年は台湾人。
中国人にはなりたくない。中国人は「お前日本の教育を受けたからだ」というが、そうじゃない。日本の不
合理なところも知っている。3つの時代を生きて、辛かったこともあったが今は幸せだと思っている。
三つの祖国と三つの自分(日本人→中国人→台湾人)最後は台湾人としての誇りを忘れていない。
「3つの時代を生きて、辛かったこともあったが今は幸せだと思っている。三つの祖国と三つの自分
(日本人→中国人→台湾人)、最後は台湾人としての誇りを忘れていない。

③日本のみなさんへ
日本政府に、台湾の軍属にも恩給や慰問などを支給してほしいと要求したが相手にされなかった。
日本人と同じ待遇はされていない。終戦後60余年、無念で死んだ人が沢山いる。
日本のために兵隊軍属になったのに悔しい。

▼新店駅からタクシーで30分、烏来で有名な「白糸の滝」がある場所。ここから更に登った所に慰霊碑がある。
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※烏来(ウーライ)はタイヤル語で「温泉」という意味。約300年前タイヤル族によって温泉が発見された。

戦後、先住民集落の若者達を日本に送って芸能活動をさせるという事業を台湾で最初に始めた人がいる。
烏来で「愛子」と呼ばれていた女性である。烏来(ウーライ)は台北にもっとも近いタイヤル族の里で、温泉
があることから、日本時代から観光化が進み、先住民の観光資源としての利用の先駆けとなった場所だ。
「愛子」さんは、そうした伝統を受け継ぎ、青年たちを訓練して日本に送って成功し、往時先住民としては
有数の資産を築き、烏来の観光開発に寄与する一方で「高砂義勇隊慰霊碑」を建立した事で知られる。
1970年代半ば~1980年代にかけてこの手の商売の盛りだったと言う。そしてこの時期は、台湾売春観光の
最盛期とも重なる。日本円を稼ぐ手段として、女性の性や先住品の天性が動員された時代と言える。
ざるに水を流すようなビジネスは、後にフィリピン女性の日本進出によりダメになっていったと言う。

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▲きつい階段ですがこの階段を「瀑布公園」目指して上っていきます。
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▲半分以上登った所でふり返って撮影。(この後、以前はあったと言う階段が途切れます・・。)
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▲「瀑布公園」 への入り口付近は台風被害による土砂崩れ復旧作業の為、この写真から上へ登る事が出
 来ませんでした。もう少し登る事が出来れば高砂義勇隊慰霊碑に行けたはずですが残念です。
 2015年8月8日花蓮に上陸した台風13号は台湾を横断して台湾海峡へ抜けましたが、各地で倒木が道路
 を塞ぎ、店舗の屋根が剥がれ落ちるなど大きな被害を受け、死者5人、行方不明者4人、負傷者185人、
 を出したそうです。高砂義勇隊慰霊碑のある烏来でも、慰霊碑裏の山肌が数十メートルにわたって地滑
 りを起こし、慰霊碑の像がなぎ倒され、李登輝元総統が揮毫された「霊安故郷」銘板がある台座も落石
 と倒木に埋もれているとの事で、無理に上って行っても慰霊碑に一礼する事は出来なかったでしょう。
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台風被害でどの様になったのかお借りした画像で。▼台風前(2014年5月)▼台風被害後(2015年8月24日)
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▲「高砂義勇隊慰霊碑」へこれからいかれる方は復旧確認をしてからお出かけ下さい。

▼土砂に埋まる前の「高砂義勇隊慰霊碑」をお借りした画像で。
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▼碑文が竹で覆われた「高砂義勇隊慰霊碑」(竹で覆われた経緯は下記をご覧下さい)
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◆「高砂義勇隊慰霊碑」の経緯
最初の「高砂義勇兵」の記念碑は、戒厳令が解かれた1992年、烏来郷高砂義勇隊記念協会(地元遺族の人達の協会)
と日本の(戦没者)遺族会、元日本陸軍軍人の南星会、元日本海軍軍人の海交会といった組織からの働きかけと援助
があって着想が生まれ、烏来郷に建立。
しかし、その敷地を無償提供していた地元の観光会社(山胞観光公司)がSARSの影響を受け2004年に倒産。
地主から撤去を求められたが、移設の為の遺族の募金活動や、「産経新聞社」の報道、「あけぼの会」会長の呼びか
けにより、「高砂義勇兵慰霊碑を守る会」を結成。日本から3200万円を超える義捐金が寄せられた。
代替地は台北県政府が無償提供し、烏来郷(現在地)の「烏来瀑布公園」への移設・存続が決定。
台座の銘板に当時の李登輝総統が「霊安故郷」と揮毫し、2006年2月8日新しい慰霊碑の除幕式が行われたが、数日
後の17日、中国時報(親中派)等が「軍国主義をあおっている」「烏来公園が日本に占領される」などと批判キャン
ペーンを展開。(上記「靖国神社合祀」問題で紹介した「高金素梅」立法委員が中国時報に働きかけた結果)
敷地を所有する台北県は2月20日までに、建立した先住民側に撤去を命令。台北県から「未申請の違法建築」「水土
保持違反」等の理由で碑の撤去命令が出される。これらの理由は「言い掛かり」で、当時の県長(知事)は中国国民
党の周錫瑋という反日抗議活動で必ずマスコミに出てくる外省人(中国人)だった為、本省人とはいえ、日本軍と共
に戦った高砂義勇隊の慰霊碑の存在が許せなかったと考えられている。
同県政府は同24日、14年前に建立された記念碑は存続させ、残る「皇民」など日本語が入った八つの石碑八基を警
察まで動員し強制撤去。抗議する地元有志と衝突。
そして、残る慰霊碑の碑文を竹で覆ってしまった。当然、地元烏来の団体は抗議声明を発表。2月26日泰雅民族議会
が、台北県の強制撤去行為に対しての抗議声明を出し、4月24日烏来郷高砂義勇隊記念協会は、台湾人権促進会の弁
護士団に委任し、内政部訴願審議委員会に訴願を提出し、3年もの間法廷で争うことになる。
2007年12月の高等行政法院は訴えを却下する裁定を下したが、最高行政法院は地元側の抗告を認めてこれを差し戻
し、3回の審理を経た2009年3月24日、判決で最高行政法院は処分撤回を支持。
3年に及んだ記念碑問題は、法廷論争で地元有志の意向が受け入れられ、解決に向けて大きく動き出した。
県側は、「日本語で書かれた碑文に訳文をつける事などを可能であれば処置する事」を条件としながらも、記念碑の
囲いのベニア板(竹で覆われた内側にはベニア板でも覆ってある)を取り払い、他の石碑も全面返還することを約束
した。3月に入ると記念碑の囲いの一部が取り外され、対立点を残しながらも新たな造成工事も始まった。
地元で記念碑を守ってきた「烏来郷高砂義勇隊記念協会」のマカイ・リムイ総幹事は「3年の道のりは長かったが、
判決は最終決着への大きな一歩だ。日本の善意に対して恥ずかしい思いをし続けたが、今度こそ記念碑を日本精神が
根づく義勇隊の誇りの軌跡として、また日台を結ぶ友情のきずなとして残していきたい」とメディアに語った。
2010年2月、3年間竹に覆われるという異常事態は解消され、再整備されて現在に至っている。
なお、2015年9月の台風被害による「高砂義勇隊慰霊碑、台風被害お見舞い募金のお願い」(受付終了)が
日本李登輝友の会から呼びかけられている。




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2016_01_02

台湾(台北)

Category: 台湾   Tags: 台北  

台湾は、日清戦争に勝利した日本が下関条約によって清朝(当時の中国)から日本に割譲された。
明治28年(1895)4月17日から、日本が第二次世界大戦敗戦の結果ポツダム宣言によって台湾が
日本から中華民国に編入された昭和20年(1945)10月25日までの50年間が日本統治時代である。
日本統治時代に総督府がおかれた台北は現在も中華民国(台湾総督府)がおかれ、日本時代に整備
された区画、多くの建物、路線が今もそのまま活用されている。
台湾には日本と比較して戦前の建物がかなり残っている。理由は色々あるが現在の総統府も空襲に
あって三日三晩焼けた。当時台湾には軍事拠点もあり、特攻隊の基地もあった。軍人も数十万単位
で存在したので台湾の主要都市には日本本土と同じく空襲があった。
▼(1945)5/26(台中)日本石油製油所を空襲するフィリピンを出撃した米第5空軍B-25ミッチェル爆撃機
B25taiwan_convert_20160308155120.jpg
▼(1945)5/26米軍の爆撃を受ける(台中)苗栗駅(びょうりつえき)
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台北大空襲(たいほくだいくうしゅう)は第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月31日アメ
リカ軍の爆撃機(B-24/117機)により台湾台北州台北市に対して行われた無差別爆撃である。
この空襲で市民約3000人が死亡、重軽傷者並びに家屋を失った者は数万人以上に上った。
1944年10月10日より始まった台湾沖航空戦の結果、当初台湾に230機あった日本軍戦闘機はほぼ
壊滅状態にあり、地上に残された対空砲火施設のあった台北城内(現在の台北市忠孝西路、中華路、
愛国西路、中山南路に囲繞された地域)城外の台湾歩兵第一連隊、野砲兵第48連隊(現在の中正紀
念堂)などの軍事施設を初め、台湾総督府を含む栄町・京町・文武町・書院町・明石町・旭町など
の主要官庁などが3,800発の強力な爆弾の被害を受けた。
この空襲において最も大きな物的被害を受けたのは台湾総督府である。
総督府は空襲を避けるために偽装が施されていたが、正面に命中弾を受け建造物は傾斜、火災に見
舞われ使用不可能となった。この他総務長官官邸・鉄道ホテル・総督府図書館・台湾電力株式会社・
台湾軍司令部・台北帝国大学・付属病院・台北駅・高等法院・度量衡所などが被害を受けている。
日本本土空襲で100を越える都市が無差別爆撃により50万人を越える死者を出しが、台湾も同
じ時期に台北市が無差別爆撃の被害を受けている。

※台湾が空襲を受けたのは台北大空襲が初めてではない。太平洋戦争開始前の昭和13年(1938))
 2/23には、ソ連義勇軍と中華民国空軍第1大隊による松山飛行場に対する攻撃があった。
 この時に中国軍による爆撃で、台湾人37名が死傷したが、中国軍爆撃機を操縦していたのは、
 国際義勇兵となっていたソ連軍正規パイロットである。ソ連軍は既に参戦していたのである。
 昭和18年(1943)11/25には、アメリカ陸軍航空軍の第14空軍第11爆撃中隊に属する8機と、
 米中混成軍団第1大隊第2中隊の6機、合計14機のB-25が、第14空軍第23戦闘大隊のP-51及び
 P-38各8機の援護の下、中国遂川基地を飛び立ち、の新竹飛行場を爆撃、日本軍機52機に損害
 を与える新竹空襲を行った。これらはいずれも小規模且つ軍事拠点を目標にしたものであった。

日本の場合は焼夷弾だったが台湾の場合は建物の質が違う事もあり、爆弾であったこともあって被
害の大きかった台北でも比較的木造住宅が残った様だ。台湾には焼夷弾は使わなかったようだが爆
弾は投下され多くの人命が失われた。 米軍に押され日本の防衛ラインが狭まる中、日本軍は沖縄よ
り台湾を拠点に迎え撃つつもりであった様だが、米軍は台湾の日本軍の軍事力を台湾沖航空戦など
で完全に制空権を奪ったが、台湾に上陸して島内での戦闘になればかなりの労力が必要と見て台湾
を素通りし沖縄戦に総力を注いだ経緯もある。日本敗戦後連合軍から統治を委任された「蒋介石」
国民党に統治されて70年が過ぎようとしている。
2011年台湾では「民国100年」と称し、「建国」百年を祝う各種イベントが華々しく開催された。
台湾建国百年?と疑問が沸く。地球の歴史上、台湾という島は一度も独立も建国もした事がない。
正確に言えば台湾建国百年ではなく、「中華民国」建国百周年。孫文(そんぶん)指導の下、中国
大陸の民衆が武力をもって清朝を打倒したのが、1911年に始まる辛亥革命で、翌年1912(大正元)
年に中華民国が樹立されている。中国史上はもちろん、アジアでも最初の共和制国家である。
台湾本島の民衆が首長や議員を選んで成り立っている台北の現政権が、その中華民国の正当な継承
者たることを内外に宣布しようというのが、「建国」百年を祝う各種イベントの目的であった。
九州より小さい台湾本島は2016年総統選挙の結果民進党の蔡英文さんの圧勝に終わった。
日本は台湾と国交が無いが日本国民はなんとなく台湾は独立国家の様な印象を持っていると思う。
今後の台湾と日本はどう付き合っていくのか。真剣に考えねばならない時がきていると思う。
今回は台北駅から徒歩で出発して台北市内に残る日本時代の建物巡りと台湾観光をしてきました。
日本統治時代記録映像[ 日治時代宣傳片《南進台灣》]
▼「さよなら台湾」敗戦後1945年12月~1946年11月の間に約20万人の日本軍兵士と約38万人
 の民間人が日本へ送還。住居・財産を没収され、帰国する日本人は複雑な心境だったであろう。
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※日本人として決して忘れてはならない事があります、それは2011年に起きた東日本大震災。
 そして金銭的な援助でみると、アメリカに次ぐ約2億5200万円もの義援金を送ってくれた台
 湾国民の方達の善意。小国台湾がアメリカに次ぐ2位とは凄い事です(3位は中国)

 米国(軍人約8000名+救助隊144名+専門家2名+8名=8154名、救助犬12頭、義援金49億円以上物資150トン)
 台湾(救助隊63名、義援金約2億8千万円+104億円、支援物資500トン以上)
 中国(救助隊15名、義援金7200万円、ガソリン等燃料2万トン、3億6千万円相当の援助物資)

 台湾の方達は被災地に対するボランティア事業も積極的に行ってくれています。
 その事に対する感謝の気持ちを日本人は忘れてはいけません。

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▲日本統治時代の台北駅
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▲台北駅の現在。完全にリニューアルされ、日本時代の面影は無い。
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▲▼台北駅裏側には日本時代使用されていた明治時代製造の日本製汽車が展示してありました。
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▲後ろの客車は初の台湾自国製で1956年に4両が生産されたうちの1両。1982年引退
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▲戦後復興されたばかりの頃の台北駅
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▲1970年代(昭和40年代)の台北駅裏側
▼1970年代(昭和40年代)の台北駅周辺 (まだ高層ビルも少ない)
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▼台北駅前「三越百貨店」が入る高層ビルが目立つ。この場所には台北大空襲前「台湾鉄道ホテル」があった。
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▼日本統治時代 台湾鉄道ホテル 日本時代台北駅前一帯は「表町」と呼ばれた。
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▼台北大空襲で破壊された台湾鉄道ホテル
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※台湾には日本統治時代の建物が多く残っていますが1999年9月21日に起きた921大地震(台湾大震災マグニチュード
7.6)により被害を受けた建物も多くあり、修復の際に増築、又は増改築された部分もあり、日本統治時代そのままとい
うわけでは無い事も付け加えておきます。この地震の際に日本は最初に145人の国際消防救助隊を派遣した、次に多いの
は米国で93人。日本統治時代の建物の多くは台湾政府の史跡に指定され、現在も手厚く維持されています。

台北駅から東へ歩くと直ぐに行政院(旧台北市役所)があります。
全て徒歩で見学し、行った順番に紹介していきます。
▼行政院(旧台北市役所)
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▼日本統治時代 昭和15年(1940)竣工「台北市役所」
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▼次は交差点はさんで反対側(南側)に監察院(旧台北州庁舎)があります。
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▼日本統治時代 大正4年(1915)竣工「台北州庁舎」
大島久滿次

▼お隣は立法院(旧台北州立台北第二高等女学校)大戦中に米軍の爆撃を受け屋根が吹き飛んだ。
 現在の姿は中華民国政府が修復したものだが面影が残っている。
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▼日本統治時代 大正8年(1919)竣工「台北州立台北第二高等女学校」
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▼済南基督長老教会(旧日本基督教団幸町教会)大正5年(1916)竣工
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▼東門(景福門)石垣から上は中華民国政府によって作り直され当時の面影は無い。
※各門(北門、小南門、東門、南門)は日本統治前、清朝時代の台北府城の遺構です。
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▼日本統治時代 東門の写真
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▼中華民国政府による建替えが行われる前の東門画像(日本統治終了後)
五城門 (1)

東門から歩いて1分、中正記念堂があります。日本時代には台湾第1連隊があった場所です。
現在は蒋介石を称える記念公園となっており観光地ですね。中正とは蒋介石の本名です。
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▼国家音楽庁(音楽ホール)
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▼1985年 建設中の国家音楽庁
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▼国家戯劇院(劇場)
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▼中正記念堂(本堂)
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▼孫文像左右には銃を持った兵役青年が護衛し、1時間微動だにせずに立ち尽くす(1時間ごとに交代の儀式がある)
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1975年蒋介石死去後、行政院(内閣)は紀念堂の建設を決定。1976年10月31日起工式→1980年3月31日完成。
▼1970年代後半 記念堂本堂建築作業当時の写真
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▼1980年 記念堂公園建築当時(国家戯劇院/国家音楽庁はまだ建っていない)
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▼記念堂から正門を見下ろす。
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▼日本統治時代の台湾第1連隊正門
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第二次世界大戦で日本の敗戦後、台湾には中国国内の内戦で敗戦を重ねていた蒋介石率いる国民党軍が中国大陸から逃げ
込んで来た。連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために中国国民党政府の官僚や軍人が進駐し行政を引き継
いだが、役所では汚職や腐敗がはびこり、軍隊には規律が無く、台湾の資材が大陸中国国民党官僚らによって接収・横領
され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深
刻化し経済は破綻。そして、日本人が台湾から去った2年後の1947年2月28日には台北市で二・二八事件が起こる。
1947年2月27日、台北市で闇菸草を販売していた本省人(台湾人)女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。
これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、国民党軍憲兵隊がこれに発砲、
抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人(台湾人)は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大
陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。

戦後の台湾では、日本統治時代の専売制度を引き継ぎ酒・菸草(たばこ)・砂糖・塩等は全て中華民国(国民党軍)によって
専売となっていた。しかし、大陸ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不
満を持っていた。タバコ売りの本省人女性に同情して、多くの本省人(台湾人)が集まった。すると中華民国取締官は今度
は民衆に威嚇発砲したが、まったく無関係な台湾人(陳文渓)に命中し死亡させ、後に逃亡した。
この二・二八事件をきっかけとし、民衆の中華民国への怒りが爆発した。翌2月28日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して
押しかけたが、中華民国側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別
に掃射を行う。多くの市民が殺害され、傷を負った。この後、国府軍は台北以外の各地でも台湾人への無差別発砲や処刑を
行っている。本省人(台湾人)側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しか
け、答えられない者を外省人(大陸から来た中国人)と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本
語が話せない部族もいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉とし
て「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと
共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけた。劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿
勢を示したが、在台湾行政長官兼警備総司令陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請した。陳は「政治的な野望を持
っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」
「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蒋介石に送っている。
蒋介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第21師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣した。これと連動して陳儀の
部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投
獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭
にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね
「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧
日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち善戦した(「独立自衛隊」「学生隊」等)しかし、最後はこれら
も制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まるのである。
この事件によって、約28,000人もの本省人(台湾人)が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言
われている。実際の被害者の数はさらに多いとの説が今尚根強く存在しており、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、
今も政府・民間双方の間で行なわれている。1992年、台湾の行政院は、事件の犠牲者数を1万8千~2万8千人とする推計を
公表している。事件の際発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの
台湾人が投獄、処刑されてきた。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって
言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、
言論の自由が認められてからのことである。
日本統治時代の台湾では、厳しい同化政策(皇民化教育)などはあったが、不正は少なく、経済は日本の地方都市を超えて
東京と同じ水準だった。日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗、経済の混乱は到底受け入
れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。当時の台湾人達は、「犬去りて、豚来たる」
(犬〔日本人〕はうるさくても役に立つが、豚〔国民党〕はただ貪り食うのみ)と揶揄し、「アメリカは日本に原爆を落と
しただけだが、台湾には蒋介石を落とした」という言葉まであるくらいだった。

あとでご紹介する台北市内の二・二八和平公園内「二・二八紀念館」には当時の資料や慰霊碑がある。

▼東門から西へ歩いて3分、台北賓館があります。この日は見学不可でした。
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▼お借りした画像で。
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▼現在の台北賓館裏側
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▼日本統治時代 明治34年(1901年)完成 台湾総督官邸・日本家屋別館裏側
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▼日本統治時代 台湾総督官邸・日本家屋別館
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▼台北賓館から南へ徒歩5分、南門(麗正門)が見えてきます。ここも石積だけが清朝時代からの物です。
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▼日本統治時代 南門の写真
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▼南門から徒歩1分、旧台湾総督府専売局が現存しています。現在は台湾の一般企業が使用しています。
 ここは日本敗戦後の1947(昭和22)年に起こった二・二八事件(闇タバコの摘発を発端とする国民
 党政権による台湾人虐殺事件)の発端となった歴史的に重要な場所でもある。
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▼日本統治時代 台湾総督府専売局 大正11年(1922)竣工
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ここまで行政院から南へ歩いて来た訳ですが、今回見学した最南端は旧台湾総督府専売局です。
ここで日本時代の地図と現在の地図を紹介しておきます。
▼まずは日本統治時代
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▼現在の地図(赤点印がここまで歩いて来た所です)
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▼南門から北へ5分、台北市立第一女子高級中学(旧台北第一高等女学校)があります。
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▼日本統治時代 昭和5年(1930年)完成 台北第一高等女学校
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▼日本統治時代 台北第一高等女学校
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▼道路はさんで反対側に司法院(旧台湾総督府高等方院)があります。昭和9年(1934年)完成
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▼日本統治時代 台湾総督府高等方院(現在の建物は4階部分が増築されている事が解る)
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▼司法院の斜め前には中華電信(旧台湾総督府電話交換局)があります。昭和12年(1937年)完成
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▼日本統治時代 台湾総督府電話交換局(この建物も4階部分が増築されている事が解る)
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▼中華電信から南へ10分、国防部(旧台湾軍司令部)があります、撮影禁止だった為少しだけ。
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▼日本統治時代 台湾軍司令部(画像の建物が今も現存しています)大正9年(1920年)竣工
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▼国防部から西へ15分、小南門(重熙門)があります。
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▼日本統治時代 小南門(重熙門)
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▼日本統治時代 小南門と兵舎
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▼小南門から東へ戻って中華民国総督府へ(日本統治時代に建築された中で最大の建物)
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▼日本時代 台湾総督府 7年の歳月をかけ大正8年(1919年)完成
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▼1960年代(日本統治終了後)台湾総督府
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▼太平洋戦争末期 台北大空襲で被害を受けた台湾総督府
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▼総督府裏側
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▲▼台湾上空のアメリカ軍機(台湾大空襲)
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▼台湾総督府の道はさんで隣には台湾銀行総行(旧台湾銀行本店)があります。
 この場所はTBSドラマ日曜劇場の『華麗なる一族』のロケが行われた事でも有名です。
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▼日本統治時代 昭和13年(1938)竣工「台湾銀行本店」
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▼台湾銀行から北へ3分、「二・二八和平公園」があり、敷地内には二・二八紀念館/台湾国立博物館がある。
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▼国立台湾博物館(旧児玉総督後藤民政長官記念館)
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▼日本統治時代 昭和4年(1915)竣工「児玉総督後藤民政長官記念館」
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▼日本統治時代 昭和10年台湾博覧会時、台北新公園(現在の二・二八和平公園)周辺の空撮
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▼公園内には二・二八記念館(旧台北放送台北支局THK)があります。
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▼日本統治時代 昭和6年(1931年)開局 台北放送台北支局THK
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▼国立台湾博物館の前には、土地銀行(旧三井物産台北支店)があります。大正9年(1920年)完成
 当時、台湾の全てのアヘン輸入専売権を独占し砂糖・茶・米・食塩などを取り扱っていたそうです。
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▼日本統治時代 勧業銀行台北支店と三井物産台北支店
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▼土地銀行の隣は国立台湾博物館士銀展示館(旧勧業銀行台北支店)昭和8年(1933年)完成
 当時、台湾の農業における開拓・整備を中心に融資を行っていたそうです。
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▼「二・二八和平公園」入り口付近に残る日本統治時代の建物
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▼二・二八和平公園から北へ3分。台大医院旧館(旧台北帝国大学医学部附属病院)があります。
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▼日本統治時代 大正13年(1924)完成 台北帝国大学医学部附属病院
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▼台大医院旧館から西へ15分、合作金庫銀行(旧台北信用組合本店)があります。
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▼日本統治時代 昭和2年(1927)完成 台北信用組合本店
 榮町(現在の衝陽路)の日本人経営中小企業向の銀行だったそうです。
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▼この辺り(衝陽路)は日本時代の商店・企業が使っていたであろう建物が多く残っています。
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▼日本統治時代の榮町 
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▼合作金庫銀行から1分、台北中山堂(旧台北公会堂)があります。
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▼日本統治時代 昭和11年(1936)完成 台北公会堂
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▼合作金庫銀行へ戻って衝陽路を西へ5分、中華路一段という大通りにぶつかります。
 かつてここには清の時代に建てられた西門があり、日本統治時代も現存しました。
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▲1903年(明治36年)頃の西門(中華民国となってから取り壊され現存しません)
▼当時西門をくぐると市場八角堂と呼ばれる日本人向の公設市場が今も現存しています。
 戦後民間に払い下げられ、西門紅樓と呼ばれ紅樓映画館として再出発。
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▲現在映画館は閉鎖され、お土産物販売スペース・展示スペースとして活用されています。
▼日本統治時代 明治41年(1908)完成 公設西門町食料品小売市場(現在3級古跡)
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▼日本統治時代の西門町
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▼現在の西門町(上記写真と同じ場所ではない)
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▼西門紅樓から中山堂を過ぎて北へ15分、高石組本店が現存しています。
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▼日本統治時代 明治43年(1910)完成 合資会社高石組本店
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高石組とは、主に公共建築物の建設を請け負った土木建築請負業者。「土木王」とよばれ
台湾の発電所建設や児玉総督後藤民政長官記念館(現台湾国立博物館)などを建設した。
▼日本統治時代の高石組周辺
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▼現在のほぼ同じ場所で撮影
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▼高石組から2分、北門が見えてきます。現存する門の中で唯一台北府城時代の姿を残す。
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▼戦後初期(1950年代)の北門 
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▼北門の前には台北郵便局が現存し、いまでも現役で郵便局です。(当時の車寄せは無い)
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▼日本統治時代 昭和5年(1930)完成 台北郵便局(現在の状態が建て増しされている事が解る)
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台北郵便局から5分、台北駅に戻って徒歩見学は終了です。ここまでの地図(赤印)です。
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ここで、何故台湾が親日国家で、韓国が反日国家なのか考えてみたいと思います。
台湾も、朝鮮半島も、南洋諸島も同じ日本統治時代がありました。どこも日本は同じ統治を行っています。
欧米の行った植民地とは全く違う経営で、日本国内と同様インフラ・教育・医療・その他投資をしました。
特に南洋諸島では欧米の植民地政策と日本の統治時代とは全く違うものだったと言います。現在でも親日
国家のパラオ共和国などは良い例です。では何故同じ日本統治時代の過去があった国で韓国だけが反日を
言い続けるのか?それは日本の朝鮮併合にさかのぼります。当時、ソビエト連邦は領土的野心が旺盛で、
中国東北部(満州国地域)と朝鮮半島が欲しかった訳です。当時の朝鮮は、清国の一部でした。
(朝鮮半島が独立国で有った事は歴史上一度も有りません、韓国/北朝鮮になった現在もです)
日本は、日清戦争に勝った時に清国(現在の中国)から台湾・朝鮮半島を割譲されました。
満州国は、当時は中国の土地ではありませんでした。満州人とモンゴル人が住む土地でした。
日露戦争で日本はからくも勝利し、ポーツマス講和条約によりロシアから譲られた満州権益は旅順・大連
及び付近の領土(関東州)の租借権及び長春・旅順間の鉄道(南満州鉄道)とそれに付属する炭坑の採掘
権等を獲得する事になります。しかし、ポーツマス講和会議においてアメリカが仲介の労をとったことは、
アメリカ自身の満州介入のためのワンステップだったのです。
大正11年(1921)ワシントン会議以降、アメリカは満州における日本権益を弱体化するための逆攻勢を
かけ、アメリカと中国政府がいわば「反日同盟」を結び、結果満州の地方政権である張政権が親日から反
日に転じ、その後「張作霖爆殺事件」やがて「満州事変」を引き起こす事になるのです。
要は当時ヨーロッパ列強諸国が中国に強固な足場を築いていたのに対して中国進出に立ち遅れたアメリカ
が中国介入の具体的目標として選んだのが「満州」だったという事です。
当時、東京のYMCAに通う朝鮮人青年の間から独立運動が始起こりました。突然キリスト教青年団の朝鮮
人が独立宣言とはおかしな話です。当時も今も日本いじめをしたい欧米の仕掛け人が居る訳で、それが現
在の大韓民国憲法前文の3・1(抗日独立)運動の精神云々につ繋がる訳ですが、当時も戦後も、日本を中
心に朝鮮半島と中国がスクラムを組むと困る国が居る訳です。そう、英霊が戦って敗れたアメリカです。
全く同じ併合と植民地経営をしたのに、台湾は親日国ですよね。それはアメリカの反日工作が入らなかっ
たからです。何故なら、「いずれ台湾は中国の一部に成るから放って置けば良い」とされたからです。
しかし世界情勢はアメリカの思い通りにならなくなってきています。敗戦国の日本がどうこう言える立場
にない事は戦後70年間のアメリカ占領時代を生きている日本人は良く解っていると思いますが、中国は
別として韓国の反日はそういった経緯があるという事も日本人は知るべきだと思っています。
韓国に言いたい事を言わせておくのは日本人として我慢ならない時が多すぎるという事で、こればかりは
日本政府が真実を言い続けるしか方法は無いと思っています。(資源の無い日本は戦争で負けますから)




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2015_12_31




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今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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