日本陸軍の特攻は、海軍の神風特攻隊が戦果をあげる中、「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は
速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本
営指示が発せられ、昭和19年11月「万朶隊」「富嶽隊」によってフィリピンで最初に行われた。
陸軍特別攻撃隊①
陸軍参謀総長[ 梅津 美治郎 ]は「体当たりにより1機1艦、敵を必殺必滅する戦法に徹し敵の心肝を奪うる要あり」
と、陸軍各司令官に言い渡している。梅津は戦後の東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。
梅津 美治郎は関東軍司令官として満州国建国にも関わり、日本を戦争へ導いた立役者でもある。
昭和53年(1978)に靖国神社に合祀されている。
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▲アメリカ軍戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式の有名な写真、中央後ろ手姿の軍服の人物が梅津。

「万朶隊」が昭和19年11月7日早朝初出撃、「富嶽隊」も11月7.13日出撃。第4航空軍は焦りから遠距離目標を指示。
無理な特攻隊運用で空振りに終わった。
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▲西尾常三郎少佐を隊長とする「富嶽隊」隊員。11/7四式重爆撃機『飛龍』に800キロ爆弾を2個装備。
フィリピン東方海域で特別攻撃を敢行、山本中尉機が未帰還。1/13隊長西尾常三郎少佐以下6名が
米機動部隊に突入して戦死している。残った「富嶽隊」も順次出撃していった。
陸軍特別攻撃隊「富嶽隊」四式重爆撃機『飛龍』で昭和19年11月7日~昭和20年1月10日出撃
(ラモン湾東方洋上・クラーク東方400キロ・ミンダナオ北東・ミンドロ島南方・リンガエン湾に突入)
[11/7]山本達夫中尉/[11/7]浦田六郎軍曹/[11/13]西尾常三郎少佐/[11/13]柴田禎男少尉/[11/13]米津芳太郎少尉
[11/13]国重武夫准尉/[11/13]島村信夫曹長/[11/13]荘司楠一曹長/[11/15]幸保栄治曹長/[11/15]須永善次軍曹
[12/16]石川 廣中尉/[12/16]本谷友雄曹長/[12/16]古沢幸紀曹長/[12/16]丸山茂雄伍長/[1/10]曾我邦夫大尉
[1/10]進藤浩康大尉/[1/10]根木基夫大尉/[1/10]宇田富福伍長
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▲三菱 陸軍四式重爆撃機『飛龍』
 乗員8名(操縦席2名[機長/操縦士])両側に整備兵2名、後方は通信士/砲手等4名


陸軍特別攻撃隊「万朶隊」は昭和19年11月12、15、25日、12月20日99式双発軽爆撃機4機が次々に特攻出撃。
(レイテ湾・カロカン飛行場等に突入)敵艦船1隻撃沈、1隻に損傷をあたえ、隊員は帰らぬ人となった。
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▲出撃前純白シーツのかけられた別盃の席の「万朶隊」隊員、出撃前に無念の戦死を遂げた隊員の遺骨を胸に。
[ 万朶隊(ばんだたい)日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊 ]
▼岩本益臣大尉(福岡県出身)(隊長であったが特攻出撃前、出陣式でマニラに向う途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
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東条の盟友であった富永恭次司令官は、ルソン島の大富豪の屋敷で部下の下卒を召使のごとく使役して美食と豪奢
な暮らしを楽しみながら、口に特攻をとなえ、自ら出陣式を華麗に演出し軍刀を振って出撃隊員を鼓舞激励した。
岩本大尉以下4名の出撃前の戦死は、いつ米軍の攻撃があってもおかしくないフィリピンで、悠長に華麗な出陣式
をする為に、最前線から富永恭次司令官の居所のルソン島にわざわざ特攻隊員を呼び集めるという非常識な命令が、
彼等5人の無駄死にを招いたのである。
岩本益臣大尉(福岡県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
園田芳巳中尉(佐賀県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
安藤浩中尉(京都府出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
川島孝中尉(神奈川県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
中川勝巳少尉(和歌山県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
以上5名昭和19年11月15日ニコラス上空にてマニラに空襲に来ていたグラマンF6F2機に襲撃され胴体着陸し炎上。
5人全員が非業の死を遂、出撃前に無念の戦死。
社本 忍軍曹(愛知出身)11/3(敵の爆撃負傷)
11/5リパ飛行場の空襲で隊員浜崎曹長・石渡軍曹が負傷、整備の藤原雇用員戦死 特攻機2機が破壊される

昭和19年11月12日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
1番機[操縦]田中逸夫曹長(福岡県出身)/[通信]生田留夫曹長(兵庫県出身)と「岩本大尉の霊/中川小尉の霊」
※敵輸送船に突入、直掩隊戦闘機「隼」渡辺伍長も同船に体当たり轟沈
2番機[操縦] 久保昌昭曹長(大分県出身)と「園田中尉の霊」
※2番機は戦艦の舷側すれすれで突入失敗、撃墜される
3番機[操縦]奥原英孝伍長(長野県出身)と「安藤中尉の霊」
※3番機奥原英孝伍長エンジン不調で引き返す
4番機[操縦]佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)と「川島中尉の霊」 爆撃失敗ミンダナオ島カガヤンに不時着避難
※4番機は戦艦に突入を報告されていた。11/13ローカン基地に帰還
[誘導]百式偵察機1機 [直掩隊]隼20機
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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機

昭和19年11月15日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
※発進直後敵機来襲 4番機着陸・3番機着陸・掩護戦闘機8機着陸し攻撃中止
1番機[操縦]石渡俊行軍曹(千葉県出身)と「安藤中尉の霊」
※1番機石渡俊行軍曹と[誘導]百式司未帰還
2番機[操縦]近藤行雄伍長(朝鮮出身)と「川島中尉の霊」
※2番機墜落確認
3番機[操縦]奥原英孝伍長(長野県出身)再出撃/[操縦]4番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再出撃
[誘導]百式偵察機1機 [直掩隊]隼8機(第20戦隊)[隊長]大里大尉
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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機

昭和19年11月25日 ルソン島カローカン基地
出発直前に敵機来襲、敵機動部隊に先手を取られる。
特攻機が燃え、1番機[操縦]奥原英彦伍長(長野県出身)が爆撃にて戦死。
2番機[操縦]佐々木友次伍長(再々出撃予定だったが出撃出来ず)
[直掩隊]隼8機作見一郎中尉隊出撃出来ず

昭和19年11月28日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
[操縦]1番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再々出撃。
※誘導の隊長機がレイテ湾直前で方向転換したので引き返す、直掩隊は再三出撃を命令される佐々木友次伍長に
同情的であり、「レイテ湾敵発見できず」と報告
[直掩隊]隼6機(飛行第20戦隊)

昭和19年12月4日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
[操縦]1番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再々々出撃
※敵艦を発見するも敵機コルセアに囲まれ、さらにP381個編隊現れ有川中尉空中戦後燃料漏れ着地、佐藤曹長行方
 不明。 佐々木友次伍長はネグロス島のバコロド飛行場に不時着
[直掩隊]隼2機 有川中尉/佐藤曹長

昭和19年12月4日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
佐々木友次伍長はバコロドからカローカンに移動後、またしても特攻出撃命令を受ける。
「鉄心隊」(99襲撃機)3機と共に出撃
「鉄心隊」松井中尉隊長(99襲撃機)3機(250キロ爆弾)
佐々木伍長99式双発軽爆撃機(500キロ爆弾)
佐々木伍長の99双軽は爆撃大型船を撃沈し、カガヤン飛行場に着陸
※12/9佐々木伍長は99双軽でカローカン基地に戻る途中燃料不足で村落近傍に胴体着陸。
[直掩隊]隼9機

昭和19年12月14日(フィリピン)デルカルメン基地基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
菊水隊隊長 丸山義正大尉 第95戦隊第2中隊長(百式重爆)と共にまた出撃するも佐々木伍長は滑走路から飛び出
し出撃出来ず。(第95戦隊7機 5名と第74戦隊2機 7名)
その後も佐々木友次伍長は12/16 12/18にも特攻出撃命令を受けるも生き残り、終戦まで生きのびた。
昭和19年11月12日に特別攻撃隊「万朶隊」が大戦果を上げた事とし、大本営は発表していた。その為佐々木伍長は、
特攻軍神として戦死扱いになっていた。特攻を大本営に報告した後に戻ってきた隊員は、軍司令官の面汚しとして扱
われた。司令部では、面子を重んじて人命を軽く考えていた為、戦死報告の取り消しはできなかったと言う、最悪だ。
※上申取り消しできないのは天皇陛下に報告した事で、天皇陛下に嘘を言った事になると考えた為。

昭和19年12月20日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃。
[操縦]鵜沢邦夫軍曹(千葉県出身)と「若桜隊」3機で出撃。鵜沢邦夫軍曹未帰還。
[直掩隊]隼1機

昭和20年1月8日 ルソン島カローカン基地大隊撤退 タヤバス山系内の陣地に立てこもり、
「万朶隊」生存者 整備 村崎少尉 整備隊指揮(以下11名)整備 藤本曹長/雇員4名 柴田・上野・野村・遠藤(負傷)
(特攻隊員)[通信]浜崎曹長(安藤中尉機)・[通信]花田博治伍長(川島中尉機)/[操縦]佐々木伍長/社本軍曹(負傷) 
攻撃隊長機に通信手が同乗し突入を基地に連絡していたが、もはや下士官だけになり、浜崎曹長が上級者となり[通信]
は乗らないと決める。操縦者は北部ルソンに集結エチアゲに行けと命令される。
※陸軍初の特攻隊となった「万朶隊」には初の朝鮮人特攻隊員 近藤行雄伍長が含まれていた。
※佐々木友次伍長(当時21歳)は北海道・当別の出身。子供の頃から飛行機に憧れ17歳で仙台の航空機養成所で操縦の
 腕を磨いた。岩本大尉を心から尊敬していたと言う。佐々木友次伍長は「万朶隊」特攻隊員の中で機体故障の途中帰投
 等で唯一生存、その後何度も軍から特攻出撃を命令されるもミンドロ島方面出撃でも生還を果たした。
 佐々木伍長は帰還後の再出撃の度に「体当たり攻撃の実行」を参謀から強く求められた。ある時佐々木伍長は
 「私は必中攻撃でなくてもいいと思います。そのかわりに死ぬまで何度も行って爆弾を命中させます」
 と返答したと言う。ルソン島で生きて終戦を迎え日本に帰還されている。
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▲陸軍99式双発軽爆撃機
「万朶隊」の99式双発急降下爆撃機は、機種に5メートルの起爆管を伸ばし800㌔の爆弾を抱いて時速400㌔で体
当たり攻撃をする事になっていた。陸軍は爆撃機を特攻用に改造していたが当時整備兵だった方がこう語っている。
「二番機担当となった我々は前日から、まずできるだけ機体を軽くする為に操縦装置と無線装置を残して爆撃装置、
射撃装置はむろん小さなものまで撤去することで、後方機関銃のボルトを外しながら、敵機と応戦もできない姿に
怒りがこみ上げで力が入らない」と。
▼特攻機に改造された99式双発軽爆撃機の機首には800㌔爆弾を確実に爆発させる為に、機首に何本もの細長い信管
 を突き出させ、これが見慣れた99式双発軽爆撃機の姿かと、その優美さを知る整備兵には異様さだけが感じられた。
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▼陸軍99式双発軽爆撃機
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陸軍特別攻撃隊「菊水特攻隊」100式重爆撃機「呑竜」9機で昭和19年12月14日デルカルメン基地より06:45出撃
(米軍のミンドロ島上陸作戦を阻止すべくネグロス島パナイ湾近海に突入、全機撃墜され戦果無し)
[ 飛行第95戦隊 7機 ][ 飛行第74戦隊 2機 ]
丸山義正大尉/井之内誠二郎大尉/谷 正春軍曹/不破次雄軍曹/安田末晴軍曹/泉川正宏伍長/中本政次郎伍長
宮崎 隆中尉/芦田岩夫曹長 /荘田 清曹長/椿  彰曹長/別所福一曹長/松下清馨曹長/田畑十蔵軍曹 /竹本義雄軍曹
森 三次中尉/藍原六弥少尉 /吉野右吉准尉/枝元辰馬曹長/加藤 只曹長/川之上要曹長/木平正平曹長/国広 望曹長
小林光五郎曹長/小林 忠曹長/千葉春雄曹長/登藤文六曹長/堂用 清曹長/戸田佐佳久曹長/中村 眞曹長(生還者)
河井 明軍曹/久保田勝美軍曹/久保田勝作軍曹/佐藤正夫軍曹/篠崎運秀軍曹/橘 利雄軍曹/富田好之軍曹
樋口長光軍曹/丸山多喜男軍曹/森 基親軍曹/矢代一平軍曹/吉永忠弘軍曹/渡辺政雄軍曹/足立正義伍長
阿部幸夫伍長/井出太蔵伍長/浜平輝親伍長/石井武夫軍曹 菊水特攻隊YouTUBE
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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」飛行第95戦隊
飛行第95戦隊・陸軍曹長中村真
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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」飛行第74戦隊

その後、陸軍中央は新たに編成した12隊の特攻隊に[ 八紘隊 ]と名付けフィリピンに投入。名前の由来は
「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。「評価の高い将官」今村 均陸軍大将参照
八紘隊は第4航空軍司令官冨永恭次中将によって八紘第2隊「一宇隊」/八紘第3隊「靖国隊」/八紘第4隊「護国隊」
八紘第5隊「鉄心隊」/八紘第6隊「石腸隊」/八紘第7隊「丹心隊」/八紘第8隊「勤皇隊」/八紘第9隊「一誠隊」
八紘第10隊「殉義隊」/八紘第11隊「皇魂隊」/八紘第12隊「進襲隊」と命名された。

(八紘第1隊「八紘隊」隊員12名 レイテ湾等に陸軍一式戦闘機「隼」で突入)
陸軍特別攻撃隊「八紘隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年11月27日~12月12日出撃
(レイテ湾・オルモック湾・バイバイ沖等に突入)
[11/27]田中秀志中尉/[11/27]藤井 信少尉/[11/27]森本秀郎少尉/[11/27]白石国光少尉/[11/27]道場七郎少尉
[11/27]馬場駿吉少尉/[11/27]善家善四郎少尉/[11/27]武内健一少尉/[11/27]寺田行二少尉/[11/27]細谷幸吉少尉
[12/7]粕川健一少尉/[12/12]作道喜三郎少尉
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▲昭和19年11月三重県の明野基地を二度と本土に戻る事の無いフィリピンに向け出撃前の八紘第1隊「八紘隊」隊員。
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▲八紘第1隊「八紘隊」後列右より白石国光少尉、細谷孝吉少尉、田中秀志中尉(隊長)森本秀郎少尉。
 前列中央は寺田行二少尉。
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▲八紘第1隊「八紘隊」出撃時に別れの杯を交わす隊員、左から道場七郎少尉/細谷孝吉少尉/森本秀郎少尉。


(八紘第2隊「一宇隊」隊員6名 隼戦闘機でスリガオ海峡等に突入)
陸軍特別攻撃隊「一宇隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年12月5日~12月13日出撃
(スリガオ海峡・オルモック湾・ミンダナオ海等に突入)
[12/5]天野三郎少尉/[12/5]大谷秋夫少尉/[12/5]愛敬 理少尉/[12/7]喜田川等少尉/[12/7]田中穣二少尉
[12/13]小野正義少尉
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▲▼昭和19年11/10常陸教導飛行師団で編成された「一宇隊」前列右より3人目隊長 栗原恭一中尉。
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▲昭和19年11/10前渡飛行場(水戸飛行場)をフィリピン目指して離陸する「一宇隊」の隼3型(手前 栗原隊長機)


(八紘第3隊「靖国隊」隊員10名 隼戦闘機でオルモック湾等に突入)
陸軍特別攻撃隊「靖国隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年11月24日~12月26日出撃
(レイテ湾・オルモック湾・ミンドロ島付近等に突入)
[11/24]岡村義人軍曹/[11/26]谷川昌弘少尉/[12/5]大坪 明少尉/[12/5]秦音次郎少尉/[12/5]河島鉄蔵伍長
[12/5]寺島忠正伍長/[12/5]石井一十四伍長/[12/5]松井秀雄伍長/[12/7]五十嵐四郎伍長/[12/26]出丸一男中尉
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▲昭和19年11/9第2錬成飛行隊(朝鮮・京城)より立川航空廠に向け離陸する「靖国隊」隊長出丸一男中尉機隼2型
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▲「靖国隊」出丸一男中尉。昭和19年12月26日一式戦「隼」で出撃、突入戦死。
(公式には特攻戦死とされた[靖国隊]隊長出丸一男中尉だが、実は不時着生還しているという話もある)
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▲出撃直前、「靖国隊」隊員に最後の敬礼をする整備兵。
出丸一男中尉/大坪明少尉/谷川昌弘少尉/秦音次郎少尉/岡村義人軍曹/河島鉄蔵伍長
石井一十四伍長/五十嵐四郎伍長/寺島忠正伍長 以上9名突入戦死。
松井秀雄伍長(印在雄)朝鮮開城出身/特攻に失敗し海に墜落した所を米軍に救助され捕虜となり、ハワイ
の海軍病院で治療を受けた後、終戦の翌年帰国を果たしているが、その後の消息は全くつかめていない。
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▲朝鮮軍司令部首脳との別れの杯
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▲フィリピン・シライ基地で、武運を祈る守り札を受ける「靖国隊」


(八紘第4隊「護国隊」隊員8名 隼戦闘機でオルモック湾等に突入)
陸軍特別攻撃隊「護国隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年12月7日~昭和20年1月10日出撃
(オルモック湾・ルソン島西海面等に突入)
[12/7]遠藤 栄中尉/[12/7]西村正英少尉/[12/7]宮田淳作少尉/[12/7]瀬川正俊少尉
[12/7]三上正久少尉/[12/7]牧野顕吉少尉/[12/7]黒石川茂伍長/[1/10]田辺茂雄伍長
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▲「護国隊」昭和19年12月7日一式戦闘機「隼」で出撃、8名戦死。
写真は鉾田陸軍飛行場(茨城県)で菊花の下、別れの杯を交わす「護国隊」隊員。
隊長 遠藤栄中尉(神奈川県出身)/西村正英少尉(大阪府出身)/富田淳作少尉/瀬川正俊少尉(大阪府出身)
三上正久少尉(滋賀県出身)/牧野顕吉少尉(富山県出身)/黒石川茂伍長(鹿児島県出身)/田辺茂雄伍長(東京都出身)
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▲昭和19年12/7フィリピンカローカン基地で「隼」8機で特別攻撃出撃する直前の「護国隊」隊員。
[ NHK戦争証言アーカイブス[護国隊]

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▲12/5米駆逐艦マグフォード(USS Mugford)は、スリガオ海峡で「石腸隊」「鉄心隊」「万朶隊」「一宇隊」いずれか
 の特攻機が命中。大きく損傷し乗組員8名死亡、負傷者14名の被害が出た。

(八紘第5隊「鉄心隊」隊員12名 99式襲撃機でミンドロ島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「鉄心隊」99式襲撃機で昭和19年12月5日~昭和20年1月6日出撃
(スルアン島付近・ミンドロ島付近・ルソン島西海面等に突入)
[12/5]松井 浩中尉/[12/5]西山敬次少尉/[12/5]長濱清少尉/[12/16]志村政夫少尉/[12/16]藤原義行少尉
[12/18]長尾熊夫曹長/河合郁夫
[12/29]三木将司少尉/[12/29]星一二郎少尉/[12/29]林利喜夫曹長/[1/6]岩本広智少尉/[1/6]小川武士軍曹
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▲「鉄心隊」隊長 松井浩中尉。福島県原町から汽車で茨城県鉾田へ移動。鉾田飛行場から99式襲撃機でフィリピン
 に向かう本土で最期の姿。昭和19年12月5日フィリピン島スルアンシマ洋上で特攻戦死。
※フィリピン・ルソン島マニラ飛行場に進出した「鉄心隊」は12/5松井中尉以下3機がスルアン島付近の敵艦に突入、
 12/16に志村少尉以下2機がミンドロ島付近に、12/18に長尾曹長の1機が、12/29に三木少尉以下3機がそれぞれ
 同じ海域の敵艦船に。最後は昭和20年1月6日に岩広少尉以下2機がルソン島西方海上の敵に突入、全員散華。
▼昭和20年1月6日(ルソン島の戦い)米軽巡洋艦「コロンビア」に急降下突入し命中直前の「鉄心隊」99式襲撃機。
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▼上掲写真直後17時29分「コロンビア」に命中した瞬間の「鉄心隊」99式襲撃機。
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▼陸軍99式襲撃機
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▼「鉄心隊」長濱清少尉 レイテ湾沖スルアン島付近で敵艦に突入戦死。享年19歳
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八紘第6隊「石腸隊」隊員18名
陸軍特別攻撃隊「石腸隊」99式襲撃機で昭和19年12月5日~昭和20年1月8日出撃
(スリガオ海峡・サンホセ付近・ルソン島西海面・オルモック湾・サンフェルナンド沖等に突入)
[12/5]高石邦夫大尉(隊長)/[12/5]石原哲雄少尉/[12/5]大井隆夫少尉/[12/5]片岡正光少尉/[12/5]下柳田弘少尉
[12/5]山浦 豊少尉/[12/5]増田憲一少尉/[12/8]伊藤誓昌少尉/[12/12]井樋太郎少尉/[12/12]吉武利夫少尉
[12/22]安達 貢少尉/[1/5]細田吉夫中尉/[1/5]杉町研介少尉/[1/5]林 甲子郎少尉/[1/6]岡上直喜少尉
[1/8]鈴木敏治少尉/[1/8]時田芳造軍曹/[1/8]上野哲弥少尉
「石腸隊」18名の出撃は12/5第1次7機、12/8第2次1機、12/12第3次2機、12/22第4次1機、第5次3機
 第6次1機、1/8第7次3機の99式襲撃機がそれぞれ特攻出撃している。
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▲昭和19年12月4日出撃前夜の第1次「石腸隊」隊員達。
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▲「石腸隊」特別攻撃訓練中の写真。
高石隊長(手前後向)に敬礼する右より増田憲一少尉、片岡正光少尉、片岡正光少尉、安達貢少尉、伊藤誓昌少尉。
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▲陸軍99式襲撃機 ※画像の日本兵勇士は「石腸隊」隊員ではありません。
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▲昭和19年12/5フィリピンパコロド基地を出撃する第1次「石腸隊」99式襲撃機と、帽子を振って見送る基地隊員。
12/12第3次攻撃隊 吉武少尉はエンジン不調の為、遅れて出撃。
セブ島上空で敵グラマン戦闘機4機の襲撃を受けてエンジン停止、セブ島沖のマクタン島に不時着した。
吉武少尉は頭部裂傷、右半身打撲の負傷で、同島駐屯の友軍に収容されたが、頭部裂傷が化膿、悪化し、10日前後
寝たきりの状態が続く。12/29セブ島に海軍一式陸上攻撃機が不時着、同乗させてもらいネグロス島北端ファブリカに
脱出、シライの第2飛行師団司令部に帰着。1/9ルソン島に転進の命が下り、97式重爆にてルソン島ポーラックに帰還。
2/14操縦者だけがツゲガオから重爆で台湾に運ばれ、以後終戦となって日本に帰還された。
出撃した吉武少尉以外の「石腸隊」隊員は皆帰らぬ人となった。
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▲編成後笑顔で記念写真に収まる「石腸隊」隊員勇士。前列左より2人目は隊長の高石邦夫大尉。
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▲吉武利夫少尉が大切に保管していた「石腸隊」隊員の写真。
 左から上野哲弥少尉/林 甲子郎少尉/岡上直喜少尉/大井隆夫少尉/吉武利夫少尉
1944年11月8日東京の陸軍銚子飛行場からの離陸前に撮影された写真。
▼昭和19年11月下志津基地からフィリピンに向けて99式襲撃機で出撃する「石腸隊」吉武利夫少尉機他
 (昭和14年制式、古い固定脚の偵察機であった)
 昭和20年1月8日の第7次特攻では、残存機3機でルソン島のリンガエン湾に突入、全員戦死。
 しかしこの特攻攻撃の翌日、アメリカ軍はリンガエン湾上から上陸を開始した。
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▼戦後、当時の様子を語る吉武利夫元少尉(よくご無事で帰還されましたご苦労様でした。)
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※陸軍特攻隊の生みの親とも言える、第四航空司令官・富永中将は、「この富永も最後の一機で行く決心である」
 と刀を振り上げて言って置きながら、1/8第7次特攻の行われる前日1/7夕刻、車でマニラを去り300キロ離れた
 エチアゲに移動。エチアゲを16日離陸天候不良の為ツゲガラオに戻り翌17日台北に敵前逃亡した。
 この行動はフィリピン14方面軍の失望を招き、到着地の台湾第17方面軍及び本締の南方総軍から叱責されて
 2/13隷下の指揮下部隊は転属、航空軍司令部は解消させられた。陸の三馬鹿参照
 司令部の大部分は10日エチアゲ着。戦況不利とみるや部下を捨てて台湾へ遁走するという暴挙に出た。


八紘第7隊「丹心隊」隊員9名
陸軍特別攻撃隊「丹心隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月10日~12月17日出撃
(バイバイ沖・レイテ湾・ミンドロ島付近等に突入)
[12/10]石田国夫中尉/ [12/10]石村政敏少尉/[12/10]梅原 彰少尉/[12/10]大石 栄少尉/[12/10]佐々田真三郎少尉
[12/10]永塚孝三少尉/ [12/10]岡 二男少尉/[12/12]加治木文男少尉/[12/17]斉藤行雄少尉
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▲三重県の明野飛行場に到着した、真新しい「隼」戦闘機3型に見入る「丹心隊」隊員。
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▲昭和19年11月29日「丹心隊」隊員と「忠魂」塔(明野陸軍飛行学校にて)「忠魂」塔は現在再建されています。
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▲忠魂の塔で参拝を終えた「丹心隊」隊員達。
前列左より齋藤行雄少尉、 岡二男少尉、石村正敏少尉、佐々田真三郎少尉、梅原彰少尉
後列左より丸山少尉、大石栄少尉、小野少尉、石田国夫中尉、永塚孝三少尉、加治木文男少尉
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▲特別攻撃出撃前に服装を正す「丹心隊」隊員。
隊長 石田国夫中尉(千葉県出身)/石村正敏少尉(山口県出身)/梅原彰少尉(静岡県出身)/大石栄少尉(京都府出身)
佐々田真三郎中尉(東京都出身)/永塚孝三少尉(京都府出身)/岡二男少尉(東京都出身)/齋藤行雄少尉(長崎県出身)
加治木文男少尉(鹿児島県出身)/※今田廣美少尉(S19.11/24B-29迎撃戦死,特攻作戦に加われず)
▼昭和19年11月29日壮途を祝福して乾杯をする「丹心隊」隊員。
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▼昭和19年11月29日戦友の見送りを受け最後の本土三重県明野を離陸する石田隊長機
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▼11/29「丹心隊」のフィリピン進出を明野で最後の姿を見送る家族。
 右から丸山少尉父/梅原少尉父/丸山少尉母/石村少尉父/石村少尉妹/石村少尉母/石村少尉妹
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▼カローカン基地で別れの杯を交わす石田隊長他「丹心隊」隊員。
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(八紘第8隊「勤皇隊」隊員13名 二式複座戦闘機・屠龍でオルモック湾・レイテ湾に突入)
陸軍特別攻撃隊「勤皇隊」二式複座戦闘機・屠龍で昭和19年12月7日~12月10日出撃
[12/7]山本卓美中尉/[12/7]二瓶秀典少尉/[12/7]東直次郎少尉/[12/7]林 長守伍長/[12/7]入江真澄伍長
[12/7]大村秀一伍長/[12/7]片野 茂伍長/[12/7]白石二郎伍長/[12/7]増田良次伍長/[12/7]勝又 満伍長
[12/10]湯沢 豊曹長/[12/10]北井正之佐軍曹/[12/10]加藤和三郎伍長
※陸軍は複座であっても海軍と違い操縦士のみで出撃させたが、隊長の山本中尉機は林長守伍長(朝鮮出身)が同乗
した。山本中尉は通信員を内地に帰らせるつもりだったが、林伍長は自分から進んで山本隊長機に同乗を申し出た
と言う。山本中尉の人柄に惹かれて、彼は隊長機の複座の戦闘機に乗り込んだ。
「勤皇隊」出撃数時間後、山本隊長機から師団無線室に敵艦への突入を知らせる「ピーッ」という信号が入った。
林伍長が発信した電波だった・・・。
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▲自ら考案したマーク入り尾翼の前に立つ「勤皇隊」隊長 山本卓美中尉
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 山本中尉は同隊の林長守伍長(朝鮮出身)に対し、帰国し飛行学校の教官になる事を何度も説得
 したそうだが、林伍長は「私のたった1度の反抗ですその様な命令は聴く事が出来ません」と
 言い残し、突入戦死。後に「半島の神鷲」と讃えられた。 
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▲大村秀一伍長(勤皇隊最年少19歳)12/7の戦果は、米駆逐艦マハン小破。
山本卓美中尉/二瓶秀典少尉/東直次郎少尉/林長守伍長(朝鮮出身)/入江真澄伍長
片野茂伍長/白石二郎伍長/増田良次伍長/勝又満伍長/大村秀一伍長(勤皇隊最年少19歳)
12/7フィリピン・マルコットよりオルモック湾(レイテ島東海岸)以上10名突入戦死。
12/10湯沢豊曹長/北井正之佐軍曹/加藤和三郎伍長の3名がフィリピン・マルコットよりレイテ湾突入戦死。
[ NHK戦争証言アーカイブス[特攻勤皇隊]
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」 二式複座戦闘機"屠龍"YouTube


(八紘第9隊「一誠隊」隊員10名 「隼」戦闘機でルソン島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「一誠隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月21日~昭和20年1月9日出撃
(キュウヨウ島付近・レイテ湾・ミンドロ島付近・リンガエン湾等に突入)
[12/21]相川清司少尉/[1/4]都留 洋中尉/[1/4]石川誠司少尉/[1/5]大河原良之少尉/[1/5]伊藤 進少尉
[1/8]大原文雄少尉/[1/8]川野孝雄少尉/[1/8]山本正直少尉/[1/9]白井秀夫少尉/[1/9]石橋嘉郎少尉
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▲昭和19年11月明野教導飛行師団にて編成後に記念写真に収まる「一誠隊」隊員。
前列左より大原文雄少尉/大河原良之少 尉/都留洋中尉(隊長)/臼井秀夫少尉/石川識司少尉/山本正直少尉
相沢文雄少尉。後列左より新藤龍己少尉/伊藤進少尉/相川清司少尉/石橋嘉邦少尉/川 野孝雄少尉と隼3型。


(八紘第10隊「殉義隊」隊員9名 「隼」戦闘機でサンホセ海域の敵艦船群に突入戦死)
陸軍特別攻撃隊「殉義隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月21日~昭和20年1月7日出撃
(ミンドロ島付近・リンガエン湾等に突入)
[12/21]敦賀真二中尉/ [12/21]日野二郎少尉/ [12/21]若杉是俊少尉/[12/21]山崎武夫軍曹/ [12/21]門倉好也伍長
[12/22]樋野三男雄少尉/[12/22]林 与次伍長/[12/29]高宮芳司伍長/[1/7]東  宏少尉
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▲特別攻撃出撃前に遙か皇居に遙拝する「殉義隊」隊員。[隊長]敦賀真二中尉(徳島県出身享年21歳)


(八紘第11隊「皇魂隊」隊員9名 二式複座戦闘機「屠龍」でルソン島北部・ラオアグ・リンガエン湾に突入)
陸軍特別攻撃隊「皇魂隊」二式複座戦闘機「屠龍」で昭和19年12月25日~昭和20年1月10日出撃
[12/25]門口燁夫少尉/[12/25]渡辺 力軍曹/[1/4]利光勝義伍長/[1/ ]小平 昭伍長
[1/6]春日元喜軍曹/[1/8]三浦恭一中尉/[1/8]倉知政勝曹長/[1/8]寺田増生伍長/[1/10]入江千之助伍長
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▲「皇魂隊」隊員の遺墨
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▲S.19.11/29フィリピン進出を前に鉾田教導飛行師団にて「屠龍」を背に記念写真に収 まる「皇魂隊」隊員。
 隊長の三浦 恭一中尉(中央)
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▲陸軍二式複座戦闘機・屠龍


(八紘第12隊「進襲隊」隊員9名 99式襲撃機でミンドロ島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「進襲隊」99式襲撃機で昭和19年12月30日~昭和20年1月8日出撃
(ミンドロ島付近・ルソン島西海面等に突入)
[12/30]久木元延秀少尉/[12/30]大石 豊少尉/[12/30]沢田源二准尉/[12/30]天地孝志軍曹 /[12/30]向瀬忠勇軍曹
[1/4]小林直行軍曹/[1/5]庄村覚太郎軍曹/[1/8]小串金作准尉/[1/8]新浜新吉軍曹
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▲別れの杯を交わす「進襲隊」隊員。
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▲陸軍99式襲撃機
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▲「進襲隊」久木元延秀少尉と99式襲撃機(昭和19年12月30日フイリピン・ミンドロ島サンホセ沖にて特攻戦死)
▼昭和20年1月5日(ルソン島の戦い)重巡洋艦ルイビルに海軍神風「第18金剛隊」か「進襲隊」の特攻機突入の瞬間。
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昭和19年12月20日 第30戦闘飛行集団の隷下部隊から陸軍特別攻撃隊「第1精華隊」を編成。
四式戦闘機「疾風」でクラーク基地より出撃。
(ミンドロ島サンホセ沖敵上陸船団へ突入戦死)村山光一軍曹/久永軍曹/三浦軍曹
昭和20年1月5日、第30戦闘飛行集団長の命令で、戦闘機隊は全機特攻作戦に移行した。
第1、11、71~73、200戦隊の四式戦装備隊は混成で「精華隊」を編成、1月12日まで、リンガエン湾に上陸した船団
を目標に、2機ずつの編隊を組み(内1機は戦果確認機)、250㌔爆弾2個を翼下に装備し出撃した。

(昭和20年1月5日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」4機で出撃、ルソン西方海上に突入)
梶原 広満大尉/荒井 幸雄伍長/他1名、計3名突入戦死。

(昭和20年1月7日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」2機で出撃、ルソン西方海上に突入)
川原 安民少尉/
 
(昭和20年1月8日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」4機で出撃、ルソン西方海上に突入)
三隅 輝男少佐/他2名、計3名突入戦死。
 
昭和20年1月10日
第30戦闘飛行集団操縦者を主とする生存者47名は潜水艦などにより台湾へ脱出。
地上勤務者の殆どは臨時歩兵第25大隊に編入され地上戦闘にて戦死(30戦隊長三隅輝男少佐1/8空中戦で戦死)
岡田中尉以下の生存操縦者6名と、2機の可動機はバンバン飛行場に移動し津崎72戦隊長の指揮下に入る。
(昭和20年1月11日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)林 正信少尉
(昭和20年1月12日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)池内貞男少尉
(昭和20年1月13日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)吉田 修少尉
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▲米護衛空母サラマウア(USS Salamaua)
1/13、08:50頃、250キロ爆弾2発を積んだ陸軍特攻「精華隊」の特攻機がサラマウアの飛行甲板に突入、サラマウ
アは大破する。80名以上負傷し15名が死亡。損害は飛行甲板、格納庫と広範囲に及び、その下部では火災が発生した。
爆弾の1発は不発となったが、右舷の喫水線部分に穴を開けた。艦は動力、通信および操舵不能となった。
機関室の1つは氾濫し、右舷機関は停止した。大きな損害を受けながらも砲手は9:10に2機の特攻機を撃墜した。 
(昭和20年1月15日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)
島本 準彦少尉/五島 司少尉
(昭和20年1月18日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)田中了一伍長
(※在フィリピン陸軍航空部隊、最後の特攻出撃)フィリピン陸軍特攻作戦:突入機148機、未帰還機170機、自爆24機

その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた。陸軍はフィリピンでの捷一号作戦だけで約
210機を特攻に投入した。陸軍特別攻撃隊では他に「皇魂隊」、「皇華隊」、「振武隊」等があり「震天特別制空隊」
(B-29へ体当たり攻撃隊)も編成されS20.1/9.27や5月の東京空襲で屠龍で迎撃に出撃している。
昭和20年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う。
沖縄戦では、第6航空軍所属の各振武隊と第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。

沖縄戦においての陸軍特別攻撃隊の最初の特攻は石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどう ようきゅう)大尉。
(陸軍第8飛行士団誠第17飛行隊隊長)
昭和20年3月26日04:00伊舎堂用久大尉率いる誠第17飛行隊(99式襲撃機)10機により遂行された。
出撃基地は、石垣島の陸軍白保飛行場からであった。
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▲上列右から3人目の方が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市出身)、慶良間洋上散華 享年24歳
『指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る、千尋(ちひろ)の海に散るぞ楽しき』という辞世の句を残して戦死した。
※石垣島から出撃し、特攻戦死した陸軍特攻隊員は下記の通り。(階級は2階級特進後)
(誠第17飛行隊) 99式襲撃機 慶良間洋上散華
伊舎堂用久中佐(沖縄県出身24歳)/川瀬 嘉紀大尉(三重県出身24歳)/芝崎 茂大尉(埼玉県出身24歳)
黒田 釋少尉(愛媛県出身21歳)/安原 正文大尉(高知県出身24歳)/久保 源次郎大尉(千葉県出身23歳)
有馬 達郎少尉(鹿児島県出身17歳)/林 至寛少尉(東京都出身17歳)
(独立飛行第23中隊) 三式戦闘機「飛燕」 那覇西方洋上散華
阿部 久作大尉(北海道出身29歳)/須賀 義榮少尉(千葉県出身23歳)/長野 光宏少尉(東京都出身21歳)
金井 勇少尉(富山県出身21歳)/岩本光守少尉朝鮮名不詳(朝鮮出身20歳)/廣瀬秀夫少尉(香川県出身19歳)
(飛行第17戦隊)
平井 俊光少佐(岡山県出身21歳)/児子 国高大尉(岡山県出身21歳)/西尾 卓三大尉(東京都出身25歳)
国谷 弘潤大尉(富山県出身21歳)/勝又 敬大尉(愛知県出身24歳)/照崎 善久少尉(大阪府出身21歳)
西川 福治少尉(兵庫県出身21歳)
(飛行第105戦隊)
長谷川 斎大尉(愛知県出身23歳)/山元 正巳少尉(鹿児島県出身19歳)/永田 一雄少尉(鹿児島県出身20歳)
石田  勝少尉(岐阜県出身20歳)/小川 多透少尉(福岡県出身20歳)/丸林 仙治少尉(岡山県出身19歳)
内藤 善次少佐(東京都出身22歳)
(飛行第19戦隊)
根本 敏雄大尉(千葉県出身22歳)/倉澤 和孝大尉(長野県出身22歳)/栗田 常雄少尉(静岡県出身22歳)
合計31名

当時満州国の首都だった新京では特攻隊4隊が編成された。
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」(ぶようたい)15名[ 隊長 山本 薫中尉 ]99式襲撃機
陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」(ぶこくたい)15名[ 隊長広森達郎中尉(三重県出身) ]99式襲撃機
陸軍誠第41飛行隊「「扶揺隊」15名[ 隊長 寺山大尉 ]97式戦闘機
そして1式戦闘機「隼」装備の「蒼龍隊」15名である。
四隊共、第8飛行師団で昭和20年2月11日旧満州の新京飛行場に於いて特攻隊の命名式が行われている。
沖縄戦で万世や知覧から出撃した振武隊は多くの記録が残っているが、特攻出撃記録も残っておらず、全く知られてい
ない特攻隊は数多くある。陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」は昭和20年2月10日、満州(新京)で編成され、5個編隊15機
で平壌→大刀洗飛行場→宇佐飛行場→各務原飛行場と移動し、2月20日に長野県松本へ移動。
陸軍松本飛行場で特攻機用の改修が行なわれた様だ。「武剋隊」隊員の内6人は浅間温泉に滞在した。
陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」(99式襲撃機)昭和20年3月27日9名が沖縄読谷村の陸軍中飛行場より出撃。
[隊長]広守達郎中尉/清宗孝己少尉/小林一満少尉/今西修軍曹/今野勝郎軍曹/島田貫三軍曹
出戸栄吉軍曹/伊福孝軍曹/大平定雄伍長
▼浅間温泉目之湯旅館又は富貴之湯に滞在中に撮影。「武揚隊」か「武剋隊」勇士(お名前不明)
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「武剋隊」と「武揚隊」隊員は、特攻機爆装改修期間が延びた事もあり、約1か月淺間温泉目之湯旅館に滞在した。
ここには世田谷下馬の駒繋国民学校や東大原国民学校の学童が疎開しており、全て女児だったという。
夕刻になると広森達郎隊長がやってきては歌ったり、踊ったりしたとの事。彼等は疎開学童の女児を可愛く思い、思慕
の念を抱いていた。それが募り募って『淺間温泉望郷の歌』となり今日に伝えられている。
昭和20年3/18・20日午前6時、隊長以下全隊員が揃った。どの機内にも東京世田谷下馬駒繋国民学校の児童達から、
「兵隊さん、私たちの代わりに、いつもお守りに持っていってください」と送られてきていた人形が飾られてあった。
武剋隊6機の先発隊が松本を出発したのは3/18各務原飛行場(岐阜県)経由で新田原飛行場(宮崎県)に向かった様だ。
残りの9機も20日松本を離陸している。最終的に「武剋隊」「武揚隊」2隊は、八塊基地(台湾)、新田原、知覧、沖縄か
ら特攻出撃する事になる。記録では「武剋隊」9機は3/25に米軍の激しい艦砲射撃の中、沖縄の中飛行場に到着。
整備・給油の後、台湾へ向かう予定が急遽変更され、昭和20年3月27日05:30沖縄周辺の米艦船に向けて突入戦死と
記録されている。この「武剋隊」広森隊長以下9機は八塊基地(台湾)へ向かう予定だった。
しかし第32軍兼第6航空軍兼第8飛行師団参謀「神直道」(後に中佐)は、このまま台湾に行かせた方が良いか、あるい
は、ここ(沖縄中飛行場)から出撃するにしても、特攻隊の増加を待ち、一緒に攻撃させた方が効果は大きいのではない
か、否、今夜、明日中にも飛行場は艦砲射撃を受け離陸する事は困難になるのではないか等々、迷いに迷ったあげく、
27日攻撃(特攻出撃)する様に下令した。命令文に「特攻すべし」とどうしても書けず「必沈すべし」と記したと言う。 
下令直後、航空参謀 神直道は隊員の顔を正視する事が出来ず、僅かだが離れた場所に立ち、涙を見せぬ様に飲み込み
ながら彼らを見守ったと言う。隊長広森達郎中尉の操縦時間はおよそ250時間前後。他の隊員も同様、まだ爆弾を積ん
で飛行した事も無かったと言う。重装備の離陸滑走、直後の上昇、第1旋回の注意等を出撃前に教わったと言う。
(※因みに現代の旅客機の話ではあるが日本航空パイロットの場合、コーパイ[副操縦士]で3000時間その後機長として
1000時間(約2年)飛んだら一人前とされている世界で、飛行時間250時間とは飛行場を離陸し、周りを一周して着陸出
来る程度の技量だと考えられる。)当然、艦船の攻撃部位、突入角度等全く教育を受けていない状態での出撃だった。
出撃前夜沖縄県読谷村比謝川畔の飛行場大隊入浴場で入浴を済ませた広森隊長以下9名は、比謝川沿い久得橋近くの飛
行戦隊兵舎内へ壮行会に向かった。その席上、広森隊長は部下隊員に対して以下の言葉をかけた。
「いよいよ明朝は特攻をかける。皆いつものように俺についてきてくれ。だがひとつだけ約束してくれ。今度生まれ変
わったら、たとえ蛆虫(うじむし)に生まれ変わってきても国を愛する忠誠心だけは失わないようにしよう」と。
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▲別れの杯を交わす誠第32飛行隊「武剋隊」隊長 広森達郎中尉(中飛行場より99式襲撃機で出撃、3/27突入戦死)
何のためらいも無く国家の為に身を捨てようとする至誠と気魄に、その場に居合わせた人達は臓腑をえぐられる思いで、
隊員達の顔を正視する事が出来ず、皆唇をかみ、涙を密かに拭ったと言う。
昭和20年3月27日午前5時30分。晴天の明け方に砂塵をあげて9機の武剋隊が沖縄本島中飛行場を飛び立った。
250㌔爆弾を抱えた陸軍99式襲撃機は3機づつの編隊を組んで飛行、慶良間北東の方向へ飛んで行った。
首里山上では軍司令官も見守った。編隊は西海岸を超低空で矢のように飛んで行く。くっきりと日の丸が見える。
天翔ける神々だ。頭が下がる。やがて敵の対空砲かが始まった。1機が被弾して海中に墜落、他の8機は目指す戦艦に突
入した。火災と共に黒煙が天に沖し、煙が薄らぐと5つの艦影は海に没し去った。「必沈」命令を成し遂げたのである。
一瞬の静寂、低いうめき声にも似た嘆声が起こったが、それは広森隊長以下9名の戦死を意味する事でもあった。
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▲3/27慶良間列島を哨戒中の米中型揚陸艦が沖縄陸軍飛行場から飛び立った特攻機の突入を受ける。
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▲▼特攻機の突入をうけた米中型揚陸艦LSM(R)-188
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▲特攻機の突入部分。満載だったロケット弾が艦内で爆発しなかったのが米軍にとっては幸いだった。
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▲3/27米戦艦ネバダ(USS Nevada)に誠第32飛行隊「武剋隊」か「赤心隊」の特攻機が突入。
 乗組員11人が死亡、主砲塔に被害を受けた。ネバダは日米開戦の真珠湾攻撃で海軍機に小破された艦だ。
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▲ネバダに特攻した搭乗員の遺体を調べる米兵。甲板に遺骸が飛び散り胴体だけが残っている・・・。
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▲特攻隊員の所持品から出てきた「日の丸」の寄せ書きか・・・?血だらけの様に見える・・・言葉がない。
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▲特攻機の突入で戦死したネバダ乗組員。
松本を出発した「武剋隊」先発隊の6機は、昭和20年4月3日新田原基地(宮崎県)より特攻出撃している。
小林 勇少尉/結城尚弼少尉/時枝 宏軍曹/古屋五郎伍長/佐藤 正伍長/佐藤英実伍長

なお、陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」3機は昭和20年5月13日16:32台湾(八塊)より出撃。台湾日本軍航空基地参照。
誠第31飛行隊「武揚隊」隊員
山本 薫中尉(徳島県出身享年23歳)/五十嵐 栄少尉(山形県出身享年24歳)/柄澤 甲子夫伍長(長野県出身享年21歳)
以上3名は、昭和20年5月13日(台湾)陸軍八塊基地より出撃.。突入戦死。
高畑 保雄少尉(大阪府出身享年22歳)/五来 末義軍曹(茨城県出身享年19歳)
以上2名は、昭和20年5月17日戦死。
長谷部 良平伍長(岐阜県出身享年18歳) 
長谷部伍長は誠隊から「第31振武隊」に転属、昭和20年4月22日14:40知覧から特攻出撃、突入戦死。
藤井 清美少尉(京都府出身享年24歳) 昭和20年7月19日
飯沼 芳雄伍長(長野県出身享年19歳) 昭和20年7月19日特攻出撃するも戦果確認できず戦死扱い。
長谷川 信少尉(福島県出身享年22歳)/西尾 勇助軍曹(千葉県出身享年20歳)/海老根 重信伍長(茨城県出身享年19歳)
以上3名は、昭和20年4月12日台湾へ前進中与那国島で敵機に撃墜され戦死。
中村 欽男少尉(生還)/力石 文夫少尉(生還)/吉原 香軍曹(生還)/春田 政昭兵長(不明)
誠第31飛行隊「武揚隊」は、(満州)新京→(朝鮮)平壌→(朝鮮)大邱(たいきゅう)→大刀洗飛行場→各務原→松本
そして爆装改修を終え、松本→各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→杭州(筧橋)→台湾「八塊」という
特攻の為の長旅であった。松本を離陸したのは全部で15機であったが、長途の旅でほとんどを失い、たった3機が台湾に
辿り着いた。しかし、彼等は誇りを失わない。めげることなく三次にわたって特攻を敢行している。

昭和20年3月28日には陸軍誠第41飛行隊「扶揺隊」が97式戦闘機で沖縄陸軍北飛行場から出撃している。
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▲陸軍誠第41飛行隊15名(4名が沖縄戦で突入戦死。その中のお1人大河正明伍長は本名、朴東勲(朝鮮出身)
 ※山田泰治軍曹は5/11出撃
 昭和20年3月28日突入戦死の4名→高祖 一少尉/大河正明伍長/小川真一軍曹/堀口政則軍曹
誠第41飛行隊は97式戦闘機15機からなり、旧満州の第2航空軍で編成された。当初は石垣島に前進する予定だったが、
米軍の沖縄上陸が迫った為、急遽沖縄本島に前進しそこから特攻攻撃をかけることになった。
3/27に知覧を14機で出撃したが、機体の故障で次々に脱落して沖縄(北飛行場)には8機が到着した(1機中飛行場へ)
3/28早朝、出撃離陸時に米艦隊の艦砲射撃と空襲を受け5機が離陸不能となる。
辛うじて4機が離陸に成功、目の前の米艦隊に突入した。戦果は中型艦3隻轟沈、炎上1隻と報じられが、この日米艦隊
損害記録は報告されていない。
飛行機を失った5名の特攻隊員は内地帰還を命じられ沖縄北部山岳地帯を彷徨し、5月末北端の奥集落にたどり着いた。
そこで住民に刳舟を出してもらい6/1与論島に到着。その後独混64旅団差し向けの大発に乗って6/16徳之島に到着。
徳之島で彼らは神参謀の一行に会い、寺山大尉は神参謀に同行を願い出でて操縦を任された。
大尉を除く隊員が九州佐世保に帰還したのは7月に入ってからで、古仁屋からの海軍水上機に乗ってであった。
そして、再度出撃の機会は無く終戦を迎えている。(寺山大尉/塩谷伍長/上村軍曹/菊田軍曹/金田伍長)

沖縄戦に参加した各振武隊は→富屋食堂と知覧特攻平和会館万世特攻平和祈念館参照。
また飛行第62戦隊の重爆撃機「さくら弾機」による特攻も行われた。このうち、第6航空軍司令官は菅原道大中将が
務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から四式肉薄攻撃艇(マルレ)を装備した陸軍海上挺
進戦隊による水上特攻も行われた。陸軍空挺部隊の特攻作戦は「義烈空挺隊」と「薫空挺隊」が有名です。

[義烈空挺隊]とは沖縄戦期間中の昭和20年(1945)5月24日沖縄の陸軍北・中飛行場の強行着陸と破壊を目標とした
[義号作戦]に用いられた空挺部隊である。(「薫空挺隊」は台湾(烏來)参照)
昭和19年サイパン陥落後、米軍はサイパンにB29の基地を設けて東京を空襲した。この米軍基地に対し、強行着陸
して飛行機を破壊し、搭乗員を殺傷する目的で昭和19年12月上旬第1挺進団(パラシュート部隊)から選抜した空挺特
攻隊が編成され、「義烈空挺隊」と称された。「義烈空挺隊」とは、第1挺進団第1挺進連隊第4中隊の選抜要員+陸
軍中野学校諜報要員+第3独立飛行隊から編成された部隊の名称である。
しかしサイパン突入作戦は中止、次いで硫黄島作戦も中止となった。そして5/24沖縄攻撃作戦(義号作戦)において、
北(読谷)飛行場・中(嘉手納)飛行場への強行着陸(特攻)に投入された。
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▲「義烈空挺隊」奥山隊 隊長 奥山道郎大尉(26才)以下136名
第3独立飛行隊 隊長 諏訪部忠一大尉(26才)以下32名 陸軍97式重爆撃機2型 12機
▼奥山隊は豊岡で丸太とトタンで造った実物大模型のB-29やスクラップの日本軍機を使用して爆破訓練を重ねた。
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昭和20年1月13日「義烈空挺隊」は浜松基地に移駐。17日には軍装検査(出撃直前に行われる装備品等の点検)
を終了してサイパンへの出撃待機態勢をとったが、この頃には燃料補給の中継基地である硫黄島が米軍の攻撃
で使用が困難となり、1/27にサイパン攻撃中止が指令された。
奥山隊は再度宮崎県唐瀬原に戻り、実爆を行う厳しい訓練を続けた。 2/19米軍が硫黄島に上陸。
この時再度「義烈空挺隊」の投入が計画され、3/8頃に唐瀬原から茨城県西筑波飛行場に移動となった。
奥山大尉は航空軍司令部へ出頭のため上京したが、この時に3月10日の「東京大空襲」に遭遇している。 
3/17硫黄島の栗林中将が最期の突撃を敢行して硫黄島は米軍の手に落ち、3/21の硫黄島攻撃も中止になった。
奥山隊は再度宮崎県唐瀬原へ、第3独立飛行隊は浜松基地へ戻った。 米軍の侵攻は沖縄へと向けられた。
2度の作戦中止命令を受けた隊員達は、自ら「義烈空挺隊」をもじって 「愚劣食い放題」 と称して自嘲した。
特攻作戦が決まってから義烈空挺隊員は特別食(特攻食)を与えられていたが2度目の中止後普通食に戻った。

▼沖縄読谷村渡具知、比謝河口付近で資材を揚陸する米軍(1945年4月撮影)
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▲4/1米軍6万人が上陸、即日進撃し、10キロ先の陸軍北飛行場と中飛行場を占拠。 日本軍は沖縄守備兵力10万人
 では太刀打ち出来ないと判断。沖縄島内で持久戦に持ち込もうと残存機を爆破処分、飛行場を放棄した。
 (▼画像は陸軍北[読谷]飛行場で米軍に撤去される「飛燕」の残骸)
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4/1沖縄本島へ上陸した米軍は北飛行場・中飛行場を制圧した。4/13の偵察の結果では既に150機の敵機が配備
されているのが確認された。この間、陸・海軍共に多くの艦船攻撃機や特攻機を出撃させたが、特攻機の命中率
は極めて低かった。これは敵レーダーに捕捉され、北・中飛行場米軍機に邀撃されているのが原因と推察された。
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▲沖縄県読谷村にあった陸軍北飛行場(読谷飛行場)昭和20年4月米軍撮影。
そこで台頭したのが両飛行場制圧の為に「義烈空挺隊」の投入であった。
5/2「義烈空挺隊」はそれまでの航空総軍から第6航空軍司へ編入された。5/3奥山大尉は第6航空軍司令部から
出頭を命ぜられ、そこで北・中飛行場制圧の為「義烈空挺隊」を投入する考えがあることを伝えられた。
この作戦を「義号作戦」と称した。 当初「義号作戦」の日本軍航空戦力は下記の通り。

(陸軍)「義烈空挺隊」奥山隊 五個小隊(136名)/[第三独立飛行隊]97式重爆撃機12機(32名)
    飛行場攻撃部隊→第六航空軍4式重爆撃機12機 特攻機100機/第五航空軍9式双発軽爆撃機10機
(海軍)戦闘機12機/爆撃機12機/艦船攻撃部隊→雷撃機30機/特攻機80機/桜花10機

「義烈空挺隊」「第三独立飛行隊」以外は、空挺隊突入を援護する目的に編成された。しかし5/23に九州東南
海域において敵空母群を発見。海軍部隊はこの敵に対し攻撃目標を変更した為、沖縄本島から本土決戦に目を移
していた大本営からも「義号作戦」の決裁が下りない。
もはや勝算無しとした沖縄戦に精鋭部隊である「義烈空挺隊」を投入することを躊躇したものと思われる。
だが第6航空軍は強く実施を求め、ついに大本営は5/18「義号作戦」の認可に踏み切った。
当初、第6航空軍司令は、敵情の如何に係わらず5/22の出撃を決定したが5/21の天候判断により5/23に延期さ
れた。5/23、17:00格納庫前に集合、軍装検査・軍司令官の激励の辞があり、乾杯・万歳三唱が行われた。
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▲搭乗機の前で整列する「義烈空挺」隊員達。
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▲出撃にあたりそれぞれの故郷の方向に頭を下げる「義烈空挺隊」隊員。
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▲熊本県健軍飛行場三角兵舎前で、軍服に迷彩を施す義烈空挺隊員。
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▲奥山隊長を中心に義烈空挺隊整列。最前列にはアンテナ用のポールを携えた無線班らが並ぶ。
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▲集合、整列した「義烈空挺隊」隊員。手前の隊員が胸に提げているのは帯状爆薬などを収納する雑嚢。
中央隊員が抱える吸盤付き黒い円筒は「吸着爆雷」。竹竿の束は吸着爆雷の柄。他破甲爆雷のケースを腰に装着
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▲軍装検査をする菅原道大中将
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▲陸軍特攻作戦の司令官として、出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原道大中将。
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▲「われに手榴弾あり。ひたすら任務に邁進、斃るゝもなほ已まず」などと隊員に語った菅原道大中将
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▲義烈空挺隊勇士。軍服や装具の各所にポケットが増設されている。
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▲義烈空挺隊勇士
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▲義烈空挺隊勇士の後ろ姿・・・。
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▲奥山道郎隊長と諏訪諏訪部忠一編隊長
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▲5/23軍装検査後に申告、菅原道大中将より激励の辞を受ける奥山隊。中央指揮官が奥山大尉
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熊本県健軍飛行場にて、最後の宴
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ところが沖縄の天候が悪く、海軍から菊水第7号攻撃を1日延期する旨の電話が入った。
陸軍は既に出発していた重爆隊の反転を命じて作戦は翌日に延期された。
5/24天候良好との報告があり、昨日と同様に重爆12機が先行して沖縄の飛行場を爆撃、ついに「義烈空挺隊」
に出撃命令が下された。5/24、18:00義烈空挺隊の陸軍97式重爆撃機11機は熊本県健軍飛行場滑走路の東端
に向かったが1機だけ始動出来なかった。 この為1機の搭乗予定だった隊員は急遽予備機に乗り換えた。
そして昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」12機は熊本県健軍飛行場から次々と出撃していった。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず海軍は敵機動部隊発見の報が入った12:40に既に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は出撃した後だった。「義烈空挺隊」の犠牲は本命の航空特攻を成功させる為のものだったはず。
陸軍と海軍の歯車は太平洋戦争の最初から最後まで噛みあわないままだった。
「義烈空挺隊」突入に際して陸軍第6航空軍は120機の特攻機を準備。しかし「義烈空挺隊」突入後、沖縄周辺
は雨が降り、天候不良で離陸できたのは70機であり、その内「突入」と報告されたのは24機であった。
米軍側の記録では特攻機の突入は13機。12隻の艦艇に命中したとの記録が残されている。
「義烈空挺隊」突入後の戦果拡大は出来ず、「尻切れトンボ」の作戦となって終わってしまった。
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▲▼陸軍97式重爆撃機
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▲搭乗直前に握手を交わす奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)
※この写真は出撃当日、取材カメラマンからあらかじめ航空機の横で握手をするように依頼されていた。ところが一度
握手をしたものの、カメラマンとのタイミングが合わず、要望により再度握手をしたときの写真である。
奥山大尉が「千両役者は忙しいなぁ」と発言して握手した瞬間で、諏訪部大尉他周囲の隊員からも笑みがこぼれている。
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▲▼続々と爆撃機に搭乗していく隊員達。
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▼そして出撃、1番機の中から笑顔で手を振る奥山隊長。
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▼12機の97式重爆撃機は米軍のレーダー探知を避ける為、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指した。
 (画像は飛行訓練中の第3独立飛行隊諏訪部隊機。海上30メートルという超低空で訓練するので、
 波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸した時、鴎の死骸が入っていることも度々だったという)
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作戦経路上「義烈空挺隊」は企図秘匿の為、変針時・本島到着・突入の3回のみ無線を使用する事になっていたが、
変針時・本島到着時の予定時刻になっても無線は入電しなかった。
熊本県の健軍作戦室は重苦しい雰囲気に包まれた。 そして22:00の突入予定時刻になっても無線の入電はない。
だが突然に「22:11ただ今突入」の無線がスピーカーから流れた(健軍と知覧で傍受)22:25戦果確認の為同行
した飛行第110戦隊草刈機が 「諏訪部隊着陸成功」と 報告。22:45通信所敵信傍受班は、米軍の「北飛行場異変
有り」「在空機は着陸するな」等の無線を傍受、それから米軍は続けざまに異変の報を流し続けた。 
同行した状況視察任務の重爆は、着陸を意味する赤信号灯が北飛行場で4個、中飛行場で2個確認したと報告した。
(以下米軍側の記録)
5/24日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)嘉手納(中飛行場)の爆撃に成功した。
第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり23:30頃伊江島方向から低空で進入してきた。高射中隊がこれを要撃、
飛行場付近で4機を撃墜したが、最後の1機が読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して胴体着陸に成功した。
少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機破壊炎上26機に損害
を与え、更に7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。調査によれば、胴体着陸
機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。他の突入機4機にはそれぞれ14名
の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見された。
したがって確認されたのは合計69名である。翌日1名の日本兵が残波岬において射殺された。
(合計70名となり日本軍側の記録と一致するが沖縄へ突入した義烈空挺隊、8機112名の中に生還者はいない)
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▲北飛行場付近の凄まじい米軍の対空砲火。
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▲日本軍が爆撃機で散布したアルミ箔の様な物を拾い集める米兵(米軍のレーダー探知機を狂わす為の物だと言う)
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▲撃墜された「義烈空挺隊」を乗せた97式重爆撃機。
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▲▼撃墜された「義烈空挺隊」を乗せた97式重爆撃機。辺りに黒焦げの日本兵が散乱している。
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▲▼北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆撃機9番機「6546」(機体尾翼には下3桁がマーキングされていた)
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▲北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆(546機体は渡部大尉らが乗り換えた予備機だった)
(6546)9番機搭乗員 第3小隊長渡部大尉/操縦担当 久野中尉、荒谷少尉/航法,通信担当 酒井少尉、簑島曹長
第3小隊第1分隊長 山城准尉/池島曹長/井上曹長/山本曹長/佐藤軍曹/岡本伍長/加藤伍長/田中伍長/村瀬伍長
▼北東から進入して滑走し、最終的に南東向きで停止した。手前に日本兵の遺体が確認できる
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▼沖縄戦で米軍が撮影した北飛行場の空撮。黒線が546機強行着陸進路・赤点が隊員の遺体散乱場所。
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▼北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。
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▼前面。強行着陸時、米兵は透けた機首に向かって銃撃し、パイロットが射殺されたと言う。
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▼機首をこじ開け、パイロットの生死を確認する米兵達。
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▲▼翌日、北飛行場に胴体着陸した義烈空挺隊機を調べる米兵。着地の衝撃で左翼側のエンジンがもぎ取られている
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▲撤去される546機
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▲着陸を試みて失敗し、北飛行場のはずれで墜落した義烈空挺隊機7番機「6156」。機は斜面の端にあったサーチライ
ト管制施設を破壊した。手前には、墜落火災で黒焦げになった日本兵の死体が写っている。
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▲北飛行場はずれにあるサーチライト管制施設の残骸。7番機が着陸失敗した際に激突した。墜落後辺りには多くの日
 本兵の死体が散乱し、その内の1つが左奥の地面にある。 
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▲撃墜された義烈空挺隊機7番機「6156」機体から放り出された日本兵の遺体が確認出来る
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▲▼北飛行場滑走路付近に墜落した97式重爆。激しい火災が起きたのであろう、黒焦げの日本兵が確認できる。
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▼撃墜された義烈空挺隊機。米兵が放出された日本兵の遺体を見ている。
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▼義烈空挺隊員の決死の爆破で破壊された米軍機の数々。
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米軍の記録によれば5月24日、日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)・嘉手納(中飛行場)
の爆撃に成功した。第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり、23:30頃伊江島方向から低空で進入してきた。
高射中隊がこれを要撃、飛行場付近で4機を撃墜したが、最後の1機が、読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して、
胴体着陸に成功した。少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機を
破壊炎上、26機に損害を与え、更に7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。
戦闘後の調査では、胴体着陸機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。
他の突入機4機には、それぞれ14名の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見された。とある。
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確認されたのは合計69名で、翌日1名の日本兵が残波岬において射殺されている。
したがって合計70名となり日本軍側の記録と一致する。(中飛行場に関してのは記述は無い)
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だとすれば、たった8名の義烈空挺隊員がこれだけの米軍機や施設を破壊した事になる。訓練を重ねてきた精鋭部隊と
はいえ、訓練の成果を本番の戦場でいかんなく発揮した事に只々驚くばかりである。
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▲義烈空挺隊員によって破壊された米軍哨戒爆撃機
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▲義烈空挺隊員によって破壊された米軍戦闘機
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▲義烈空挺隊員が破壊した米軍機。機体向こう側で多くの米兵が散乱する日本兵の遺体を見ている。
 この場所に日本兵の遺体が集中している。
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▲義烈空挺隊員が破壊した米軍輸送機
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▲▼義烈空挺隊員が破壊した米軍機の数々・・・546機のたった数名の義烈空挺隊員の戦果である事に驚く。
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▼散華し、散乱した義烈空挺隊員の遺体を見る米兵。
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▼強行着陸突入後、米軍機を爆破し散華した義烈空挺隊員。
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▼▲散華した義烈空挺隊員の遺体を眺める米兵。奥に写る山は座喜味城祉である。
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写真の米軍資料の説明文は以下の通り。
向こう見ずな作戦--輸送機を改造した日本軍の爆撃機は読谷飛行場に夜襲をかけ、10数名の特攻兵を突入させた。
彼らは手榴弾、擲弾筒(てきだんとう)機関銃で武装し、殺される前に数機の米軍機を破壊した。
日本軍の兵員輸送機はこの他に、少なくとも10機が飛行場にたどり着く前に撃墜された。
そのうち6機は第2海兵航空団の夜間戦闘機に、残りは対空砲により撃墜された。
日本語訳では上記の様に書いてある・・・。

[ 沖縄第32軍八原高級参謀の記録より ]
「特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍
の戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ。五月二十四日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察す
れば、軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場で
はなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遙か北、中飛行場の方向にあたって、火の手の揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して感動を久しくした。
連夜に亘る特攻隊の突入、「ドロドロ」の轟音、そして空挺隊の降下は軍司令部将兵はもちろん正面二十キロの戦夜
で死闘中の兵士一人一人に、戦うのは我々のみではないとの感懐を深く心に抱かしめたのである」 と・・・。
※小禄飛行場とは昭和8年竣工の海軍小禄飛行場の事で沖縄初の飛行場だった。民間使用時は那覇飛行場と言った

「義烈空挺隊」12機の中、目標である沖縄に達することが出来ずにエンジントラブルや航路ミス(5,8,10,11番機)
で4機が帰還、不時着している。1機(10番機)は何とか九州へ辿り着き、 隅之庄陸軍飛行場附近へ不時着したが、
他の3機は飛行場以外の場所に不時着した。1機は熊本県八代市郊外を流れる川への着水を試みた(11番機)が橋脚
に激突して炎上。操縦していた水上清孝曹長が殉職している。
1機は敵艦船の対空砲火で被弾して引き返し、福岡県大牟田市付近の海岸に、1機は熊本県三角の畠にそれぞれ不
時着している。エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機の搭乗員7名に沖縄への物資投下任務が
命じられたのは、不時着から4日後。そして5/28、6/3沖縄に向け再度発進。二度と還ってくることはなかった。
奥山隊長等70名が散華した「義号作戦」終了後にも義烈空挺隊員7名が戦死している事になる。
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義烈空挺隊 前編YouTube 義烈空挺隊 後編YouTube
[ 軍司令官菅原道大中将の戦後 ]
戦後、「義烈空挺隊」の生き残りの方々が菅原を糾弾する為、宅を訪れた。しかし、その宅は畳の一枚もないお粗末
過ぎる廃屋当然の家であった。生き残りの面々は当初の目的を忘れ、唖然として帰っていった。
そのボロ小屋で菅原一家5人は必死で生活をしていた。戦前より俸給は殉職した部下の家族等に送っていた為、無一
文に近い菅原家は困窮に喘ぐ。そのうち長男道紀が中支(中国戦線)で煩ったマラリアで病床に伏した。
長男の道紀は母の手を握り「私が死ぬと御両親は少しは肩身が広げられますね」と言ったのが最期の言葉となった。
どうあれ「決してお前たちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はお前達の後を追う」と語りながら、終戦の日に、
「閣下(菅原道大)一機の特攻機の準備が出来ました」と部下が伝えると、じろりと見据えた菅原は「今日から奉公の
先が違う」とヌケヌケと答え、特攻も自決もせず95歳まで生き、人生を全うしている。
義烈空挺隊YouTube
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▲趣味で模型を制作されている方が居る。素晴らしい出来で製作を依頼したが多忙との事で引き受けて頂けなかった
 が、製作者のブログには他沢山の素晴らしい完成品が紹介されている。日の丸ヒコーキ製作工房


[ 司偵振武隊 ]
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▲特攻に使用された一〇〇式司令部偵察機の尾翼に描かれたドクロ
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蓆田飛行場(現福岡空港)より「司偵振武隊」(一〇〇式司令部偵察機)の特攻機が500キロ爆弾を装備して出撃。
昭和20年4月7日竹中隆雄中尉/吉原重発軍曹 1機が嘉手納沖に突入戦死。
昭和20年4月12日東田一男少尉/中沢忠彦軍曹 1機が沖縄周辺洋上突入戦死。
昭和20年5月14日古山 弘少尉/山路 実少尉 /熱田稔夫軍曹 2機が沖縄東方洋上突入戦死。
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▲5/14 08:55 陸軍蓆田飛行場から出撃する500キロ爆弾を抱いた「司偵振武隊」古山弘少尉搭乗機。
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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機(昭和19年美保海軍航空基地で撮影)


▼「震天制空隊」二式複戦「屠龍」飛行第53戦隊「震天隊」に属した「屠龍」垂直尾翼には第53戦隊の部隊マークを。
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日本本土に空襲に来るB-29迎撃の為、機体もろともB-29に体当たり攻撃を仕掛ける「震天制空隊」も編成された。
昭和19年(1944)11月7日第10航空師団は隷下の各飛行戦隊に対し、各戦隊に4機の特別攻撃隊(主に戦闘機)で
体当たりしB-29を撃墜する空対空特攻隊の編成を下令した。防衛総司令部総司令官・東久邇宮稔彦王陸軍大将に
よって「震天制空隊」と命名された。
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▲▼機体側面には震天隊所属を意味する「鏑矢」(かぶらや)を描いている。
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「震天制空隊」が他の特別攻撃隊との決定的な違いは、敵機(B-29)に衝突後に操縦者が機体より脱出し落下傘降下、
あるいは偶然操縦席より放り出される形で結果的に脱出、ないし損傷した乗機を操縦着陸させ、搭乗員が生還する
事が必ずしも不可能ではなかった点だ。
そもそも戦闘機操縦者、特に当時の日本機でB-29の高度まで飛行できる操縦者は貴重な人材であった為(技量不足
の操縦者が高空飛行に失敗して高度を落とす事はしばしばあった)、むしろ生還する事が求められていた。
この為、「震天制空隊」は他の特攻隊の様な「十死零生」ではない事だ。
中には、飛行第244戦隊震天制空隊「はがくれ隊」所属の板垣政雄軍曹/中野松美軍曹の様に2度の体当たりを敢行
し2度とも生還したという例もあった。
逆に戦果をあげる事ができず「技量不足」とみなされた操縦者が、通常の特攻隊に左遷される場合もあったという。
しかし、使用する機体の大半は使い古しの中古機で、他の特攻機同様軽量化の為、機関砲・防弾鋼板・無線機も撤去
され、高空での機体性能を少しでも向上させた「無抵抗機」と呼ばれる機体が用いられた。
戦果は第10飛行師団昭和19年11月~12月末日(師団参謀山本茂男少佐)でB-29撃墜確実16機、搭乗員戦死10名。
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▲S19,11/7はがくれ隊(後の震天制空隊)編成。左から隊長四宮徹中尉/板垣政雄伍長/吉田竹雄軍曹/阿部 正伍長
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▲S20,2震天隊最終メンバー左から隊長佐々木少尉/中野軍曹/頼田少尉/板垣軍曹。後ろに写る戦闘機は「飛燕」
この写真に写る隊長 佐々木鐵雄少尉は後にS20,6/6陸軍特別攻撃隊・第160振武隊員として沖縄へ出撃、突入戦死。
B29撃墜YouTube
第6航空軍参謀「倉澤清忠少佐」によると、当時陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願
によって戦闘する「特攻部隊」に区別されたと言う。決号作戦(本土決戦)の為に航空機を温存する為、また、操縦
が容易な機体である97式戦闘機といった旧式機や99式高等練習機などの練習機も特攻に投入されたが、 同時に三式
戦闘機「飛燕」や四式戦「疾風」といった主力戦闘機も多数特攻に投入されている。
知覧特攻平和会館 の記事でご紹介した沖縄戦に参加した「振武隊」の多くが一式戦闘機「隼」や97式戦闘機といっ
た旧式機が多いのは「戦闘部隊」では無く「特攻部隊」に区別されていたからである。
特攻出撃した部隊に三式戦闘機「飛燕」や四式戦「疾風」といった主力戦闘機で特攻出撃した部隊があるが、
飛行第244戦隊から選抜された「振武隊」が多い。
飛行○○戦隊というのは「戦闘部隊」で多くは「飛燕」や「疾風」などの陸軍主力戦闘機が与えられた。
終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍の指揮下で各神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側
に配備され、終戦間際の昭和20年(1945)8月9日には第255神鷲隊(岩手陸軍飛行場より釜石沖に出撃)が特攻出撃。
8/9夕刻、神鷲隊255隊の99式双発軽爆撃機3機が500kg爆弾を装備し後藤野飛行場を特攻出撃基地として、
吉村公男中尉(22歳)/渡辺秀男少尉(22歳)/石井 博伍長(19歳)が出撃。
出撃した3機の内、1機はエンジンの不調で進撃を断念、爆弾を北上川の中洲に投下して、後藤野飛行場に無事帰還。
進撃した2機は洋上の敵空母機動部隊を発見出来ずに追跡を断念、帰還途中1機は仙台湾に、1機は福島県原町に墜落
して、無念の戦死を遂げたと言う。
更に、終戦2日前の13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)第398
神鷲隊(相模より下田沖に出撃)の3隊が出撃している。
第201神鷲特別攻撃隊(小川満中尉/横山善次少尉/藤田重喜伍長)
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▲昭和20年8月13日出撃前、見送りを受ける小川満中尉(左)と藤田重喜伍長(中)。藤田伍長は通信員として同乗、
この2時間30分後、犬吠埼東方洋上で「小川編隊ただいま突入」の無電を発信、散華した。終戦2日前の事であった
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▲8/13出撃準備の整った第201神鷲特別攻撃隊(二式双発爆撃機)両主翼に250キロ爆弾を各1発懸吊した。
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▲昭和20年8月13日二式双戦の操縦席で最後の記念写真、第201神鷲特別攻撃隊の小川満中尉。
 この2日後、終戦(敗戦)をむかえる事になる祖国を予想していたのだろうか・・・・。
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▲陸軍二式双戦(二式複座戦闘機)

陸軍特別攻撃隊You Tube1 陸軍特別攻撃隊YouTube2 陸軍特別攻撃隊YouTube3 陸軍特別攻撃隊YouTube4



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 2016_02_07


知覧は有名ですが、九州にはかつて太刀洗(陸軍)知覧(陸軍)万世(陸軍)鹿屋(海軍)
都城西・東(陸軍)他数ヶ所の航空基地があり、そこから祖国の為、家族を守る為、それ
ぞれの方が死ぬ理由を自分に言い聞かせて沖縄に飛び立って行かれた。
沖縄戦の陸軍特別攻撃隊は[ 振武隊 ]と呼ばれ、特別振武隊~練習機まで投入した第501振
武隊まで編成された。「万世飛行場」は昭和18年夏~19年末にかけて建設された陸軍最後
の特攻基地で、この飛行場はわずか4ヶ月しか使われませんでした。
17歳の少年飛行兵を含め200人近い特攻隊員が沖縄の空に向けて飛び立っていかれました。
知覧、万世、鹿屋と訪れたわけですが、特攻隊員の精神力には言葉を失います。
▼南九州の陸海軍航空基地
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万世特攻平和祈念館
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▼建物に入ると平成4年(1992)に吹上浜より引き上げられた海軍零式三座水上偵察機が展示してあります。
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展示機の搭乗員は存命との事。昭和20年福岡に展開していた海軍第634航空隊偵察302所属機で、太平洋戦争末期の
「沖縄戦」のさ中、南西諸島方面偵察の為に福岡を飛び立った機だった。偵察任務を終え帰途中、吹上浜付近で燃料が
尽きて不時着水し、操縦士・航法士・電信士の3名は水上機なので水没は免れ、無事に浜にたどり着き生還されている
との事。吹上浜沖には他にもまだ数多くの軍用機が沈んでいるとの事だ。


万世飛行場で出撃2時間前に撮られた有名な1枚、少年飛行兵[荒木幸雄]伍長
群馬県桐生市出身の陸軍少尉17歳です。(昭和20年5月27日撮影)
子犬を抱いている荒木さんはこの写真が撮影された後、沖縄へ出撃し戦死され
ました(第72振武隊は10名中7名が10代の飛行兵でした)
以下、荒木伍長の遺書です。17歳とは思えない立派な文章です。

兄上様、永い間御世話に預かり有難く御礼申し上げます。
何も思い残すことなく死んでゆけます。
只一筋に当たるのみ。
今迄何等恩返しも出来ず申訳ありませんでした。
此度の出動は幸雄の恩返しと思い御喜び下さい。
戦局も益々苛烈を極める今日、十八歳の身にて敵に当たるは当然の事なり。
兄上様にも今年入隊の事と思いますが、
何事も御努力と誠心誠意軍務に勉励されんことを切に祈ります。
御両親様と弟を頼みます。
特に三人の弟には良く御訓育なされ
将来立派な日本人として自分の後に続いてくれる様御願い致します。
九段の花の下でゆっくり会いましょう。 

▼前列左より早川勉伍長、荒木幸雄伍長、千田孝正伍長。後列左から高橋要伍長、高橋峰好伍長
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▲子犬を抱いているのが荒木幸雄伍長、荒木伍長が特攻隊員の宿舎になっていた飛龍荘から父親に
宛てた最後のハガキが残されているとの事。
そのハガキの消印は出撃当日昭和20年5月27日、宿舎の住所は川辺郡加世田町飛龍荘内であった。
飛龍荘は特攻隊員の宿舎になっており、多くの若者が出撃までの間を過ごした場所。
※写真の第七十二振武隊員が沖縄西海域に突入散華同日、四階級特進の陸軍少尉となっている。
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▲荒木伍長と交代で子犬を可愛がる高橋峰好伍長

▼多くの若者達がこの万世飛行場から沖縄に向けて飛び立っていかれました。石碑は沖縄の方向を向いています。
 石碑の中の特攻隊員が東の方向を向いているのは故郷を思う気持ちを表しているそうです。
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▼桜の咲く季節、特攻隊員の方々が、竹屋神社で必勝を祈願し、境内に咲いている桜の枝を持ち帰り、愛機に飾って
 沖縄の海に出撃されたそうです。
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万世飛行場から特攻出撃した陸軍振武隊は荒木幸雄伍長の所属した第72振武隊の他にも当然あるが、
全て紹介しきれないので以下少しだけ紹介する。

[ 第62振武隊 ](白梅隊)昭和20年4月3日~4月12日出撃 〔万世飛行場特攻第一陣〕
石川一彦大尉(香川県出身)/杉田繁敏中尉(宮崎県出身)/坂本友恒大尉(長崎県出身)
込茶章大尉(兵庫県出身)/富澤健児大尉(東京都出身)/丹羽修平少尉(愛知県出身)
坂本清少尉(秋田県出身)/三宅柾少尉(岐阜県出身)滝口尚文大尉(宮城県出身)/倉潔少尉(兵庫県出身)
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▲第62振武隊員の勇士達。
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▲▼第62振武隊 出陣式
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▲(左)石川一彦中尉(右)込茶章少尉。


[ 第63振武隊 ](神州隊)昭和20年6月7日出撃
難波晋策准尉(岡山県出身)/後藤與二郎曹長(三重県出身)/宮光男准尉(広島県出身)
服部良策軍曹(三重県出身)/榊原吉一軍曹(福島県出身)/佐々木平吉軍曹(徳島県出身)
久木田清中尉(離陸出来ず)/木幡正義少尉(目達原に残留)/高田明少尉(離陸出来ず)
堀口良助軍曹(目達原に残留)/廣瀬廣義軍曹(負傷し終戦まで入院)/中沢留吉軍曹(徳之島に不時着)
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▲昭和20年4月8日撮影第63振武隊員(昭和20年4月8日撮影)昭和20年3月23日福島県原町飛行場で編成
後列左より佐々木/榊原/後藤/難波/服部/中沢 前列左より堀口/宮/木幡/久木田/高田/廣瀬
6/7 99式襲撃機で出撃(12名中6名戦死)
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▲ 榊原吉一軍曹                ▲後藤與二郎曹長
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▲服部良策軍曹                 ▲難波晋策准尉
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▲宮光男准尉                ▲佐々木平吉軍曹
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▲陸軍99式襲撃機


[ 第64振武隊 ](国華隊)昭和20年6月11日出撃
渋谷健一大尉(山形県出身)/稲垣忠男小尉(東京都出身)/巽精造小尉(大阪府出身)
井上清少尉(福岡県出身)/稲島竹三少尉(福島県出身)/加藤俊二少尉(三重県出身)
斉藤正敏少尉(北海道出身)/岸田盛夫伍長(京都府出身)/森高夫少尉(愛知県出身)
横田彦次郎伍長/鈴木文治伍長(エンジントラブルで帰還)
橘保軍曹(エンジントラブルで鹿児島県川辺郡上山田の山中に墜落)
※橘保軍曹機の墜落現場にかけつけた住民の証言。
午後10時頃、突然低空をかすめる爆音がしたと思うと、続いて大き な衝突音がしてピタリと静かになった。
土地の人々は、空襲警報も出ていな いので、もしや、敵機が墜落したのでは…?いや味方の特攻機かも…と。
救急用具やタンカ、それに竹槍も用意して、夜を徹して雨の中の捜索を始めた。
翌朝うす明るくなった頃、日の丸の飛行機を発見した。機体は翼を折って、雑木のまばらな平地にその機体
から外れたた500㌔爆弾が10メートル程離れた柔 らかい山中に、不発のまま横たわっていた。一滴の燃料も
無くなっての墜落で火災が無かったのが幸いだった。まさに奇蹟であった。
その機体の中で、意識不明の橘保軍曹を発見。顔面裂傷で出血多量の危い命が救われた。
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▲万世飛行場に移動前、お世話になった佐賀県目達原飛行場の地元の人達と記念撮影に収まる第64振武隊員。
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▲慰問に訪れた女子生徒たちと記念撮影する第64振武隊員。「桜花の如く散り逝く特別攻撃隊員を桜花に見立て、
一度矢の弓の弧をを離れたら生きて帰らない様を矢にたとえあしらった」国華隊のマークを女子生徒達が99式襲
撃機の垂直尾翼に描いた。
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▲第64振武隊「国華隊」の渋谷健一隊長(享年31歳)は、隊員に「お前達も私も空母や戦艦に体当たりすることを夢見
てきたが、艦船を選択せず目に入った船に突っ込む事。迷うと目的を達成できない」と訓示した。
昭和20年6月11日万世飛行場から出撃、沖縄西方洋上の敵艦船群に突入、戦死。
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▲出撃の日に井上清少尉の家族は全員が見送りに来ていた。生きながらの葬儀であった。


[ 第66振武隊 ]昭和20年5月4日~5月25日出撃
毛利理大尉(大阪府出身)/荒川英徳大尉(愛知県出身)/壺井重治少尉(三重県出身)/佐方栄一少尉
後藤光春大尉(三重県出身)/伊藤照友大尉(東京都出身)/金子彰少尉/松尾翠少尉/増田壽一少尉
福佐定夫少尉/加藤金四郎少尉/中村憲太郎少尉(黒島に不時着)
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▲第66振武隊長 後藤光春少尉。「ひたすらに神国たる自覚と神明の加護のもと南海に散っ
てゆく日本人のこの姿を米鬼に見せてやります」と別れの言葉を残して出撃。突入、戦死
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▲第66振武隊。5/4第六次航空総攻撃と25日の第八次航空総攻撃に97式戦闘機で出撃。


[ 第67振武隊 ]昭和20年4月28日~5月6日出撃
金子正男少尉(山形県出身)/寺田浩一大尉(栃木県出身)/清水真三大尉(神奈川県出身)
長澤徳治大尉(石川県出身)/網代一大尉(千葉県出身)/市川敏那大尉(栃木県出身)
幸田二郎中尉(東京都出身)


[ 第72振武隊 ]昭和20年5月2日~5月27日99式襲撃機で出撃(上記でご紹介)
佐藤睦男中尉(千葉県出身)/西川信義軍曹(昭和20年5月2日敵機攻撃により負傷)佐々木篤信伍長
新井一夫(東京都出身)/荒木幸雄伍長(群馬県出身)※上記紹介参照/千田孝正伍長(愛知県出身)
早川勉伍長(三重県出身)/高橋峯好伍長(神奈川県出身)/高橋要伍長(東京都出身)
知崎利夫伍長(愛知県出身)/久永正人伍長(鹿児島県出身)/金本海流伍長(出撃機不調の為、基地へ帰還)


[ 第73振武隊 ]昭和20年4月6日99式襲撃機で出撃
高田鉦三大尉(愛知県出身)/小澤三木大尉(栃木県出身)/後藤正一少尉(岩手県出身)
麻生末弘少尉(大分県出身)/加覧幸男少尉(鹿児島県出身)/木原愛夫少尉(福岡県出身)
後藤寛一少尉(宮崎県出身)/中澤流江少尉(東京都出身)/山本茂春少尉(神奈川県出身)
山中太郎少尉(山口県出身)/藤井秀男少尉(福井県出身)/藤田久雄少尉(和歌山県出身)
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▲出撃前、整備時間をくつろぐ隊員達。後ろに出撃機の99式襲撃機が写っている。


[ 第74振武隊 ]昭和20年4月7日~4月13日99式襲撃機で出撃
伊東實中佐(秋田県出身)/渡辺信少尉(愛知県出身)/大畠寛少尉(茨城県出身)
川島清少尉(東京都出身)/川島宏少尉(東京都出身)/澤口一男少尉(北海道出身)
安井昭一少尉(京都府出身)/橋本圭作少尉(千葉県出身)/野口鉄雄少尉(愛知県出身)
竹内貞一少尉(東京都出身)/森下良夫少尉(山口県出身)/山本了三少尉(高知県出身)


[ 第75振武隊 ]昭和20年4月7日~4月16日99式襲撃機で出撃
大岩覚少佐(滋賀県出身)/宗像芳郎少尉(長崎県出身)/佐藤徳司少尉(樺太出身)
福島保夫少尉(埼玉県出身)/政井柾一少尉(大阪府出身)/酒井十四男少尉(千葉県出身)
島袋清少尉(沖縄県出身)/岩田外次郎少尉(石川県出身)/小野田務少尉(愛知県出身)
梅村要二少尉(東京都出身)
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▲第75振武隊員の写真。99式襲撃機で昭和20年4月7、12、13、16日に特攻出撃。


[ 第102振武隊 ](第1降魔隊)昭和20年4月12日~4月28日出撃
天野重明大尉(兵庫県出身)/安部静彦大尉(福岡県出身)/小松啓一大尉(岩手県出身)
佐藤勲少尉(岩手県出身)/猪瀬弘之少尉(東京都北区出身)/小関真二少尉(福島県出身)
金澤富士雄少尉(愛知県出身)/原田甲子少尉(茨城県出身)/中島昭造少尉(兵庫県出身)
一木寅彦少尉(高知県出身)/福浦忠正少尉(島根県出身)/山口知三郎少尉(茨城県出身)


[ 第104振武隊 ](第3降魔隊)昭和20年4月12日~4月13日出撃
小佐野隆広少尉(山梨県出身)/渡部佐多雄少尉(新潟県出身)/梅田勤伍長(東京都出身)
江原道夫伍長(埼玉県出身)/上林博軍曹(滋賀県出身)/長嶺弥三郎少尉(東京都出身)
武政和夫少尉(千葉県出身)/近森佳忠伍長(高知県出身)/山本忠義伍長(神奈川県出身)
松土茂伍長(山梨県出身)/五十嵐次郎少尉(4/28出撃)/竹政和夫軍曹/朴木仁作伍長(5/22熊本)
宮川三郎軍曹(機体不良で引き返し、6/6知覧より出撃。戦死。新潟県出身)/加藤昇伍長/森田進一郎伍長
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▲宮川三郎軍曹(20歳)は万世飛行場から出撃したが、機体不良で引き返し、知覧からの出撃となる。
 出撃の前夜(6/5)富屋食堂で鳥濱トメに「死んだらまた小母ちゃんのところへ帰ってきたい。そうだ!このホタルだ」
 「俺、このホタルになって帰ってくるよ」と言い残し、暗い夜道を三角兵舎へと帰って行ったという。6/6突入戦死
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▲松土茂伍長4/13出撃、突入戦死。享年20歳
<遺書>
悠久三千年皇国は今鬼畜共の為に危急存亡の憂うべき秋(とき)に到りました。
帝国の精鋭なる皇軍が断じて之を撃滅すべく今大作戦を展開せんと致して居ります。
茂も此の昭和の元冠とも云うべき大国難を背負って彼の河野通有の如き大敢闘をすべく作戦に参加致します。
思えば今に至る迄よく育てよく成らせて下された御恩徳に対し、何ら成すところもなく散り行くを返すぐも残念に
又申し訳なく思って居ります。
早くから父母様の許を離れ、只余計な御心配を御掛け申したとえ身は異郷の海に捨つるとも絶対忘れは致しません。

先に不幸にして病の為に兄様を失い、悲憤の涙未だ去らぬ中に、又小生の悲報に接する父母様の心境実に察するに
余りありと思います。
然し乍ら総てが皇国護持の為であり、又取りわけて考えますれば、皆様が後世を安楽にお暮らし出来る為なのであります。
どうか茂が戦死の報に接しましても、絶対不覚をとるが如きことなく、父母様始め一同笑って万才を唱えて下されば茂は
幸甚の至りと思い、あの世できっと喜んで居ります。

今更何とて言い置くことも御座居ませんが、之が茂の運命にて最初古河航空機乗員養成所に入所致しました時は、民間航
空の操縦者として奉公致す心算で居りましたが、其の後の戦局の為に何も彼も一切を皇国に捧ぐべき秋(とき)に至った
のですから、此の事に関しては十分御承知の事と私は信じて居ります。

今大邸を出る時、神電号に乗せた桜は満開です。
此の桜の散る頃一緒に茂は立派に散って征きます。

どうか父母様皆様私の事は総てを諦めて、只管(ただひたすら)心身に御留意下されて御世を安楽に暮らされんことをお
祈りして擱筆(かくひつ)します。
四月八日

父母上様
外御一同様


[ 第431振武隊 ]昭和20年5月27日~5月28日97式戦闘機で出撃
5/27紺野孝伍長/鮭川林三伍長/橋ノ口勇伍長/広岡賢蔵伍長/渡辺綱三伍長/
5/28堀川義明少尉/金光永(金田光永)伍長(朝鮮出身)


[ 第432振武隊 ]昭和20年5月25日~5月28日二式高等練習機で出撃
舟橋卓次少尉(大阪府出身)/瀬谷隆茂軍曹(群馬県出身)/柳田昌男軍曹(栃木県出身)/若尾達夫伍長(神奈川県出身)
影山八郎伍長(福島県出身)/一井福治伍長(岩手県出身)/竹田源三伍長(北海道出身)/松本久成伍長(東京都出身)
矢内廉造伍長(福島県出身)/増渕松男伍長(栃木県出身)5/25知覧より出撃
管井薫軍曹(5/25万世より出撃、古仁屋に不時着)/川端一男伍長(?)/大木文司伍長(?)/中田文男伍長(?)
※中島寛伍長(5/25万世より出撃、徳ノ島に不時着。戦隊の将校の操縦する飛行機に同乗して九州に帰還)
中島寛元伍長がお出になられているYouTubeアメリカからみた【神風特攻隊】


[ 第433振武隊 ]昭和20年5月25日~5月28日二式高等練習機で出撃
三瀬七郎少尉(愛媛県出身)/上島博治少尉(大阪府出身)/大塚要少尉(茨城県出身)
浪川利庸少尉(千葉県出身)/大島浩少尉(栃木県出身)/宮永松永少尉(沖縄県出身)
石川敏夫少尉(静岡県出身)/三浦宏少尉(福岡県出身)/本多勇少尉(長崎県出身)
倉田道次少尉(長野県出身)/永井三郎少尉(生還?)
篠崎隆則少尉(6/1出撃、エンジン不調で海上不時着、沖縄県伊平屋島に泳ぎ着き生還)
※青木健児少尉(5/29知覧着6/3,10:20頃第214/431振武隊と共に知覧を出撃。昇降舵破損の為知覧基地に帰投。
※小柳善克少尉(福岡県出身)(5/28万世より出撃、徳ノ島に不時着、6/1小西吉彦少尉と共に徳ノ島から再出撃。
 沖縄本島嘉津宇岳付近に不時着、戦死を遂げた。
※小西吉彦少尉(5/28万世より出撃、徳ノ島に不時着、6/1小柳善克少尉と共に徳ノ島から再出撃。
 沖縄本島嘉津宇岳付近に不時着、重傷を負い、そのまま山中に潜んでいたが10/29下山して捕虜となり、
 昭和21年3月29日浦賀に上陸して生還を果たした。
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▲第433振武隊員。二式高練(二式高等練習機)で出撃、沖縄西方海上の敵艦船群に突入、散華。


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<万世飛行場からの出撃>
特攻振武隊 出撃回数29回 戦死者数121人/第66戦隊 出撃回数19回 戦死者数72人
第55戦隊 出撃回数5回 戦死者数6人/その他 戦死者数2人
合計(戦死者数)201人
※特攻作戦の為に急きょ作り上げた万世飛行場は地盤が砂地で軟弱だった為、出撃した航空機は、99式襲撃機や
 二式高等練習機など、旧式の固定脚機が多かったと言われている。
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▲万世飛行場跡地にある海浜公園から吹上浜へ。70年前の空は多くの特攻機が飛んで行ったのでしょう。

17人のアリラン特攻隊員YouTube

幻の特攻基地「徳之島」 陸軍浅間飛行場
徳之島(鹿児島県大島郡徳之島町)には陸軍浅間飛行場があり、特攻機の不時着や、再出撃したりした島である。
昭和19年3月竣工。昭和20年3月下旬から沖縄上陸を狙う米軍艦載機の空襲が日増しに激しさを増してくる中で、攻撃
の前線基地を万世基地(鹿児島)から浅間陸軍飛行場に移すことになる。
昭和20年3月28日万世飛行場から進出した陸軍飛行第66戦隊第1中隊の99式襲撃機10機と飛行第103戦隊の4式戦闘
機「疾風」4機が徳之島浅間基地に到着した。兵士も住民も飛行機に駆け寄って機体に触れ「日の丸」を撫でたと言う
3/23以来、見るのは米軍機ばかり。日本機を間近に見るのは久しぶりであった為だ。
(浅間基地の戦力は、最大で、一般機21機・特攻機10機という記録が残っている)
3/29飛行66戦隊と護衛の103戦隊は04:30沖縄攻撃に出撃した。だが慣れない飛行場の為か離陸時に疾風1機が飛行
場外で爆破炎上、66戦隊も4機が後続機のプロペラに尾部をかじられ出撃は7機に留まった。
66戦隊第1中隊長 山崎武雄大尉は(篠原新吉中尉/坪井宗一軍曹)(今田義基少尉/長沢一郎伍長)(島崎昭二軍曹/播磨
勝三郎伍長)ら3機(99式襲撃機は2名乗)を率いて沖縄に向かい、米艦隊発見。
激しい対空砲火で山崎機は被弾、徳之島に帰還。篠原中尉機は沖縄本島西方面の米艦隊を爆撃し、徳之島に帰還した。
この攻撃で今田中尉機と島崎軍曹機が未帰還。今田中尉機は敵艦に突入、撃沈させたとしている。
[ 今田義基少尉(広島県出身)慶良間列島米艦隊に突入、戦死。享年23歳 ]
以来米軍による昼夜分かたずの攻撃で、飛行場としての機能を失い、幾多の若い兵士達の人命が犠牲になったあまり知
られていない陸軍の飛行場である。以下は「徳之島」陸軍浅間飛行場の記録である。
[ 昭和20年3月21日 ]
鹿児島県鹿屋基地を出撃した第721海軍航空隊の桜花隊直掩の零戦1機が空戦後に徳之島に不時着。
[ 昭和20年3月24日 ]
午前1時30分頃、索敵機が不時着。徳之島の独立混成第64旅団はこの偵察機から敵機動部隊北進中の情報を得る。
(沖縄本島(那覇)海軍小禄基地から飛び立った海軍「彗星」1機)
[ 昭和20年3月28日 ]
第6飛行団長(第3攻撃集団長)今津大佐直卒で、飛行第66戦隊(戦隊長 藤井権吉少佐)の第1中隊(中隊長 山崎武雄
大尉)99式襲撃機11機、護衛の飛行第103戦隊(戦隊長 東条道明少佐)の「疾風」8機が、鹿児島県万世基地から
徳之島に進出。▼陸軍99式襲撃機
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[ 昭和20年3月29日 ]
前日進出した機の内、66戦隊の99式襲撃機7機、103戦隊の疾風7機が午前4時30分沖縄周辺艦船攻撃に出撃。
(離陸時の事故で66戦隊の4機、103戦隊の1機が発進不能)66戦隊は2機未帰還、5機が小破、軽傷者3名を出した。
この日知覧から沖縄攻撃に出動した飛行第65戦隊の隼15機(襲撃機として使用)の大部分は、攻撃後に徳之島に
不時着した様だ(着陸機数不明)
第20振武隊(隊長 長谷川実大尉)の隼6機が午後5時過ぎに知覧から徳之島に進出。
(着陸時に1機が脚を痛めて4月2日に知覧に戻る)
誠第39飛行隊は新田原基地→3/28喜界島基地→徳之島基地3/29笹川 勉大尉以下8機「隼」で出撃(3名突入)
[ 昭和20年3月30日 ]
飛行可能な66戦隊の99式襲撃機5機に3名ずつが乗って万世に向かったが、途中で米戦闘機の攻撃を受け1機墜落。
この日65戦隊第1中隊の隼4機(中隊長 中神春雄大尉)が進出。
重爆3機で250キロ爆弾を8発などを九州から空輸(この日の在徳之島兵力は一般機12機、特攻機が最大で16機)
[ 昭和20年3月31日 ]
在徳之島兵力は第103戦隊6機、65戦隊4機、第20振武隊5機。誠第39振武隊の4機が出撃。
3機は突入し1機は徳之島に戻ったところをグラマンに撃墜された。この出撃を103戦隊の疾風(機数不明)が直援。
[ 昭和20年4月1日 ]
第20振武隊の5機が午前5時に103戦隊(指揮官 小川倶治郎大尉)の掩護を受けて出撃。
4機は引き返し1機のみ突入。
夕方、66戦隊の山崎武雄大尉率いる99式襲撃機4機が万世から進出。
更に2日にかけて66戦隊の99式襲撃機15機が万世から進出。
[ 昭和20年4月2日 ]
陸軍飛行第66戦隊6機の99式襲撃機が、第20振武隊 長谷川實少尉1機と、飛行第103戦隊久保元治郎少尉
矢作一郎少尉の「疾風」2機と共に出撃。
飛行第66戦隊 高山昇中尉(崔貞根)朝鮮出身/飯沼良一軍曹/路川存損軍曹の3機が未帰還、戦死。
飛行第66戦隊は特攻では無く、通常攻撃・護衛・戦果確認の任務だった。
残る99式襲撃機の石原一夫兵長/勝本多資軍曹/山崎殖林兵長の3機は帰還?。
未帰還となった高山昇中尉機は任務は通常攻撃にもかかわらず、被弾しながら巡洋艦に突入戦死。
※高山中尉(崔貞根)は朝鮮出身、沖縄戦で戦死した11名の朝鮮人特攻戦死者の1人である。
 飛行66戦隊には昭和43年11月に赴任。翌年7月戦隊と共にフィリピンに進出しレイテ作戦にも参加。
 そして沖縄戦では第3中隊の先任将校として、戦隊の中核パイロットの立場にあった。

早朝に66戦隊の99式襲撃機7機、103戦隊の疾風2機(小川倶治郎大尉と宮本林泰大尉)第20振武隊2機が出撃。
(第20振武隊は4機が準備されたが離陸時の事故で2機のみ出撃、突入)
103戦隊も離陸時の事故で蘇鉄也少尉が戦死。66戦隊は3機が未帰還。内1機は高山昇中尉(朝鮮名/崔貞根)と飯沼
良一軍曹の乗機で、巡洋艦に体当たりして撃沈したと報告された。
夕刻、第1攻撃集団(隊長 河原大佐)の隼18機と第21振武隊(隊長 水川禎輔中尉)の隼6機、第44振武隊(隊長 甲斐玉
樹少尉)の隼5機、飛行第59戦隊の飛燕7機)が徳之島への進出を図った。
103戦隊長東条道明少佐の回想によると、東条少佐は疾風4機を率いてこれに同行した。他に整備員を乗せた99式襲撃
機5機、97式戦闘機と直協偵察機の特攻機20機が同行したと言う。
しかし、第1攻撃集団は途中で2機が引き返し、2機が行方不明となり、14機が徳之島上空に到達した。
ところが飛行場は爆撃直後だった為、着陸時に7機が大破した。着陸時の事故で栗田三郎少尉(第44振武隊)が戦死。
東條少佐も着陸時に飛行機を壊してしまった。
午後3時10分~午後4時10分、第22振武隊(隊長 藤山二典中尉)の隼7機、第30部類部隊(隊長 大櫃繁夫中尉)の99式襲
撃機5機、第46振武隊(隊長 丹羽信博少尉)の99式襲撃機9機 を59戦隊の飛燕5機が掩護し、徳之島と喜界島に向かう。
第46振武隊は屋久島付近で米戦闘機の迎撃を受けて引き返し、第30振武隊は喜界島に進出した。
第22振武隊は藤山隊長率いる4機が沖縄に向けて午後3時に知覧を出撃、もう3機は午後4時に知覧を出撃した。
先行した藤山隊長は着陸時にグラマンの銃撃を受けて戦死、第22振武隊の1機と59戦隊の直掩2機も同じく撃墜された。
航続の3機は無事に進出した。
[ 昭和20年4月3日 ]
66戦隊の99式襲撃機5機が徳之島を出撃し、午前5時15分沖縄の米艦隊を攻撃した。1機未帰還。
※昭和20年4月1日午前2時半頃、鹿屋を出撃した「桜花」を積んだ第721海軍航空隊の一式陸攻1機は(台湾)新竹基地に
着陸していた。同機は3日に同基地を発進したが徳之島沖に不時着水し、全員が救助された。
[ 昭和20年4月6日 ]
徳之島には特攻機18機、襲撃機10機、戦闘機6機がいたが、この日は空襲で出撃できず。
第43振武隊長 今井光少尉が午後、隼で知覧を出撃し、同島に不時着。
第203海軍航空隊の制空隊の零戦1機が、空戦後の午後4時5分に不時着。
第210海軍航空隊の制空隊の零戦1機(直居欽也中尉)は徳之島上空で空戦後、被弾し徳之島付近海中に不時着。
漂流12時間の末、犬田布岬に泳ぎ着いて住民に救助される。
神園望大尉は沖縄周辺偵察のため偵察機「彩雲」で鹿屋基地を発進したが、米戦闘機の銃撃を受け被弾しながらも徳之
島の畑に着陸した。
挺身飛行第2戦隊の輸送機4機が午後5時に福岡県板付飛行場を飛び立ち、午後7時に着陸(徳之島へ通信機空輸の為)
[ 昭和20年4月7日 ]
第44振武隊の隼2機が出撃(隊長 甲斐玉樹少尉)が払暁、沖縄周辺米艦船に突入。
この日は空襲が激しく第20振武隊の2機が地上で破壊された。
[ 昭和20年4月8日 ]
挺身飛行第2戦隊の輸送機3機が徳之島に60キロ爆弾を落下傘で空輸投下。
[ 昭和20年4月9日 ]
第22振武隊は残る6機で沖縄攻撃を計画するが、空襲で1機を残して全て破壊される。
第42振武隊(隊長 猫橋芳賀朗少尉。機種は97式戦闘機)の中野友次郎少尉は、午後4時30分僚機と共に「喜界島」から
97式戦闘機で出撃するも、途中グラマンと交戦被弾し徳之島に不時着。
[ 昭和20年4月10日 ]
第30振武隊の2機に出撃命令が出るが、整備員の不手際で1機(横尾賢治伍長)のみ午前5時35分に出撃 突入。
66戦隊の99式襲撃機1機が喜界島に連絡に行った帰りに、徳之島着陸時に米軍機に撃墜される。
[ 昭和20年4月11日 ]
第22振武隊の残る1機「柴田秋蔵少尉」が沖縄へ出撃、突入散華。
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▲4/11早朝5時35分「柴田秋蔵少尉」は藤山隊長の遺骨と共に「隼」に搭乗「隊長と共に征くが世話になった。
 後日靖国で会おう」の言葉を残し、徳之島浅間陸軍飛行場より単機出撃。慶良間列島南方の敵艦隊に突入戦死。
同時に出撃しようとした第43振武隊長の今井光少尉は地上滑走中に弾痕に脚を落として出撃中止。
午後0時35分鹿児島県国分基地を発進した第601海軍航空隊戦闘308飛行隊の桂正中尉(零戦特攻第3御盾601部隊)は、
米機動部隊攻撃に向かう途中喜界島南方でグラマンと交戦し被弾、徳之島基地着陸の際に機体が転覆し重傷を負った。
[ 昭和20年4月13日 ]
早朝、喜界島から陸軍第六航空軍高級参謀の井戸田勇大佐を乗せた軍偵が進出。
(徳之島、喜界島両基地が引き続いて中継基地として使用可能かどうかの視察の為)
前日喜界島を視察して徳之島に飛来した。この日の夜に井戸田勇大佐九州に帰還。
進出時に軍偵は空襲で破壊されたので、第30振武隊の横田正顕少尉の機を取り上げて帰還した。
65戦隊の隼1機が12日夜に知覧を出撃して沖縄攻撃後、帰途喜界島に着陸。この日の朝、徳之島に飛来。
[ 昭和20年4月14日 ]
66戦隊の99式襲撃機1機が井戸田勇大佐を迎えに飛来(行き違いになった)
[ 昭和20年4月15日 ]
午前4時、第43振武隊長の今井光少尉は沖縄に出撃しようとするが離陸に失敗。
(これで徳之島の飛べる機体はゼロになった)
午後5時50分、第1国分基地を出撃した第601海軍航空隊(戦闘第310飛行隊)神風特別攻撃隊「第3御楯隊」の零戦2機
が沖縄上空で米軍と空戦後、徳之島に不時着破損。
第203海軍航空隊沖縄飛行場夜間銃撃隊の零戦1機が、攻撃後の午後8時15分に徳之島に不時着。
着陸時に爆弾孔に脚を突っ込み、機体は転覆大破。
[ 昭和20年4月16日 ]
飛行機を失った在徳之島の陸軍搭乗員の半数が船で奄美大島古仁屋に向かった(17日午前6時に無事到着)
その後喜界島から飛行機で九州に帰還する事となる。
[ 昭和20年4月17日 ]
在徳之島の陸軍搭乗員の残る37名が徳之島を出発。
[ 昭和20年4月18日 ]
午前4時50分、今津大佐は修理した飛行機で知覧に帰還。103戦隊の東条戦隊長も同じく帰還した模様。
[ 昭和20年4月22日 ]
午後2時40分に知覧を出撃した第105振武隊(隊長 林義則少尉)の藤野道人軍曹は97式戦闘機で沖縄に向かう途中、
徳之島近海で米軍機と空中戦となり墜落戦死。
[ 昭和20年4月23日 ]
前日、徳之島に不時着した第105振武隊の日下弘實伍長は単機沖縄へ出撃、突入戦死。
[ 昭和20年4月29日 ]
第77振武隊(隊長 須山佳市少尉)の金子誓伍長が97式戦闘機で単機沖縄へ出撃、突入戦死。
(金子誓伍長は前日知覧から出撃、徳之島に不時着していた)
[ 昭和20年4月30日 ]
65戦隊の隼5機が沖縄周辺艦船攻撃、帰途に徳之島を中継して知覧に帰還。
[ 昭和20年5月4日 ]
第百飛行団の「疾風」数機は徳之島に着陸して損害を出した。
[ 昭和20年5月11日 ]
※鹿島海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊「第2魁隊」94式水偵1機は、徳之島陸軍部隊上空で飛行靴に、
「吾 魁隊坂本少尉機、単機突入す」旨の紙片を入れて投下した。
知覧に帰還していた103戦隊の宮本林泰中尉が、沖縄飛行場爆撃の帰途に不時着。6月に帰還するまで滞在する。
[ 昭和20年5月17日 ]
66戦隊の99式襲撃機1機が沖縄攻撃の帰途に徳之島に不時着して知覧に帰還。
その1時間後に同戦隊のもう1機が不時着、米艦の対空砲火で偵察員は機上戦死、操縦者も負傷していた。
[ 昭和20年5月25日 ]
万世を出撃した第432振武隊(隊長 舟橋卓次少尉)の中島寛伍長は、2式高等練習機エンジン故障で徳之島不時着。
[ 昭和20年5月27日 ]
65戦隊隼2機が沖縄周辺艦船攻撃、帰途に徳之島を中継して知覧に帰還。
66戦隊99式襲撃機2機が沖縄周辺艦船攻撃、伊仙村と徳之島南端飛行場西海岸付近に不時着、搭乗員戦死。
[ 昭和20年5月28日 ]
第433振武隊(隊長 小西吉彦少尉)の2式高等練習機7機は万世を出撃後、徳之島に着陸。
この日のうちに再度沖縄に出撃。
第213振武隊(隊長 小林信和少尉)の板津忠正伍長は午前5時31分97式戦闘機で知覧を出撃、エンジン故障の為、
徳之島の海岸に不時着(板津忠正伍長は後に知覧特攻平和会館初代館長)
鹿児島県串良基地から出撃した徳島海軍航空隊第3次白菊特別攻撃隊15機のうち1機が徳之島に不時着。
[ 昭和20年6月1日 ]
第433振武隊 篠崎孝則少尉は沖縄に出撃。途中エンジン不調で海上に不時着、沖縄県伊平屋島に泳ぎ着いた。
[ 昭和20年6月3日 ]
午前11時、鹿児島県第二国分基地を発進した名古屋海軍航空隊編成の第四草薙隊の99式艦爆3機が不時着。
着陸時に1機が使用不能に。翌日2機に分乗して基地に帰還する途中、悪天候のため1機が行方不明に。
5月25日に不時着した第432振武隊の中島寛伍長は、戦隊の将校の操縦する飛行機に同乗して九州に帰還。
第111振武隊(隊長 鈴木泰治少尉)の島田昌往伍長は97式戦闘機で知覧を出撃、エンジン故障の為徳之島面縄集落
に不時着。
[ 昭和20年6月8日 ]
第634海軍航空隊の水上爆撃機「瑞雲」1機が沖縄攻撃の帰途に徳之島に不時着。機体は転覆した。
[ 昭和20年6月11日 ]
沖縄から脱出した第32軍航空参謀神直道中佐と誠第41飛行隊長寺山欽造大尉、第32軍航空班の藤田忠雄曹長が
99式襲撃機に乗って九州に帰還。
[ 昭和20年6月21日 ]
鹿屋基地を出撃した徳島空の第4次白菊隊8機の内1機が燃料欠乏のため徳之島に不時着した。
機体は大破したが搭乗員は無事だった。

沖縄に米軍が上陸する気配を見せると、陸軍第6航空軍は徳之島や喜界島を中継基地として3月29日から沖縄攻撃を
開始した。だが米軍は飛行場へ昼夜を問わず空襲を行ってその使用を妨害し、前進する日本機を途中で戦闘機で迎撃
して前進を阻止した。その為、4月6日頃からは徳之島からの出撃はほとんど不可能となった。
更に徳之島は対空砲部隊が配備されていなかった為、米軍機の跳梁を許し、輸送機で何回か爆弾を空輸したことからも
分かる様に、飛行場の整備も充分でなかった様だ。
最終的には13日の井戸田参謀の視察の結果、徳之島は不時着基地として使用し、海軍の対空砲部隊のある喜界島は、
まだ活用の余地あると判断された。
以降徳之島は陸海軍共に沖縄攻撃の行き帰りに使用する不時着基地として敗戦を迎えたのである。




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2013_09_21


富屋食堂は[特攻隊の母]として慕われた「鳥濱トメさん」の食堂でした。
富屋旅館は、戦後昭和27年、遺族を知覧に泊めるために作られたもので、知覧特攻平和会館
へ行く際には是非宿泊をお勧めします。知覧特攻平和会館は何も言う事はありません。
優秀・勇敢な特攻隊員の遺書を読むと涙が止まりません。優秀な若者が日本の未来を信じて命
を投げ打って戦ってくれた事を日本人は決して忘れてはならないと思います。知覧は陸軍の方
が特攻に出撃されていますが、海軍・陸軍関係無く全ての神風特別攻撃隊の英霊に感謝します。
富屋旅館の食事は美味しく、優しい女将と娘さんが出迎えてくれます。スケジュールに余裕が
あれば、朝の「女将のお話」も是非お聞き下さい。ドラマ「なでしこ隊」YouTube

昭和16年知覧に太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が出来、多くの少年飛行兵達が巣立っていった。
昭和17年富屋食堂が軍の指定食堂となった時、女主人の鳥濱トメさんは40歳であった。
そして大戦末期、陸軍第六航軍の特攻基地となり、多くの若者が沖縄の空へと飛びたっていった。
知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館
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「知覧の桜」日野美歌YouTube
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▼特攻隊員が寝泊りする三角兵舎での夕食、搭乗員には栄養の多い物が与えられた。
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▼出撃の朝、搭乗員は一斉に身支度をして出撃に備える。
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皆、荷物を解くと、思い思いに最後の時を過ごしていました。何かを考え込んでいる者、毛布の上に横たわってじっ
としている者、一心不乱に何ごとかを書いている者、車座になって神妙に語り合う者達。
三角兵舎には息苦しい雰囲気が充満していた。
三角兵舎は地面を掘って作られていたため、雨が降ると最悪だった。
報道部員が押しかけてきて、「ただいまの心境は」と聞かれたりしたが、あれは鬱陶しかった。
彼らは突入するわけではないし、気楽なもので、勇ましいことを書いて美談にしようという魂胆が見え見えだった。
福岡から来ていた参謀から紙が一枚まわってきた。そこには「お父さん、○○はお国のために立派に死んで参ります」
「天皇陛下万歳」といった様な事が書いてある。父や母に対して書く遺書の見本だったが、隊長以下これを無視した。
前日の報道部員が参謀に頼み込んで、我々に遺書を書かせようとしたのでしょうが、冗談じゃないと皆憤慨した。
遺書に見本があって、そのとおりに書けなんて。(元第22振武隊 大貫健一郎氏)

富屋旅館
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▼多くの振武隊特攻隊員に愛された鳥濱トメさん。
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▼(左)第213振武隊 板津忠正伍長(生還し、知覧特攻平和会館初代館長)と鳥濱トメさん。
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▼陸軍知覧飛行場から出撃した陸軍第159振武隊の6名の写真(芦屋飛行場にて撮影)後列左から松原 新少尉22歳、
 高島俊三少尉21歳、賴田克己少尉24歳、前列左から磯部十四男伍長20歳、伊川要三軍曹22歳、西野岩根伍長19歳
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第159/160振武隊は、昭和20年4月26日244戦隊小林戦隊長命で下達された「飛二四四作命第六三八号」
により編成された特別攻撃隊である。両隊共、隊長は小林大尉の明野時代の教え子である陸士57期生
(航空転科) が任ぜられ、使用機は陸軍244戦隊の3式戦闘機「飛燕」各6機だった。
▼第159振武隊長「高島俊三少尉」搭乗機[ 飛燕 ]4424号機の写真(昭和20年5月初旬撮影)
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両隊は約1ヶ月の錬成訓練の後、159振武隊は昭和20年5月28日朝、調布を出発。明野、伊丹、芦屋を経由
して6月1日知覧基地に着いた。160振武隊も同行の予定だったが、最後の外泊休暇中であった松谷伍長が
夜間大空襲によって不慮の死を遂げるという、思いもかけない悲劇に見舞われ、160隊の同僚たちは彼の捜
索と遺体回収に奔走せねばならなかった為に叶わず、3日遅れて6月4日知覧に到着した。
6月5日午後出撃の予定であったが、天候悪化のため延期となり、翌6月6日13時半両隊は母隊である244
戦隊の直掩を受けて知覧を出撃。16時頃慶良間付近のアメリカ軍艦船群に突入した。
(無線傍受によって突入確認されたと言われている)
出撃前、佐々木鐵雄、賴田克己両少尉は、同期の親友古波津里英少尉を飛燕の翼上に呼び寄せ、堅く手を握
り、微笑みながら「後をよろしく…」と言い残し た。親友たちの翼に最期まで護られながら飛ぶことができ
た彼らは、数ある特別攻撃隊の中で幸運な連中であったかもしれない。
それに先立ち、佐々木少尉は244戦隊の準備線を不意に訪れ、居合わせた整備兵のポケットに「俺はもうい
らないから…」と、航空糧食(主に菓子類)を無理やり詰め込んで去っていった。
長らく調布飛行場で世話になった整備兵たちへの感謝の印であったのであろう。

[ 第159振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
高島俊三少尉(岡山県倉敷市出身)/賴田克己少尉(大阪市出身)/松原新少尉(神奈川県三浦市出身)
伊川要三軍曹(兵庫県安積町出身)/西野岩根伍長(徳島県那賀川町出身)/磯部十四男伍長(静岡県浜松市出身)
磯部伍長のみ6月11日戦死

[ 第160振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
豊嶋光顯少尉(鳥取県赤崎町出身)/佐々木鐵雄少尉(長崎県勝本町出身)/新井利郎少尉(群馬県出身)
松谷巌伍長(東京都出身)昭和20年5月25日の空襲により八王子付近で不慮死(防空壕にて窒息死)
荒木秀夫伍長(茨城県岩瀬町出身)昭和20年6月4日知覧到着直前、万世飛行場沖に不時着、生死不明
中川忠男伍長(東京都出身)昭和20年6月11日知覧から出撃するも宝島に不時着。帰還?
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▲愛機「飛燕」と写る佐々木鐵雄少尉6/6沖縄周辺洋上で米機動部隊艦船に突入戦死。享年20歳

▼知覧特攻平和会館に展示してあった現存する陸軍三式戦闘機「飛燕」
 ※現在は所有者の日本航空協会に返却され、各務ヶ原航空宇宙科学博物館に展示予定。
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沖縄戦で第6航空軍所属の各振武隊は多くはここ、「知覧」・万世飛行場から特攻出撃していった。
沖縄戦に参加して命を落とした陸軍特攻振武隊員は1036人(台湾の航空基地から出撃も含む)台湾日本軍航空基地 参照
冒頭で沖縄作戦に参加した第159/160振武隊をご紹介したが、知覧飛行場から沖縄戦に特攻出撃した
(又は出撃するはずだった)振武隊は当然他にも多くある。全て紹介しきれないが、以下少しだけご紹介する。

[ 第18振武隊 ]昭和20年4月29日~5月4日出撃
小西利雄中尉(富山県出身)/楠田信雄少尉(京都府出身)/多田六郎少尉(熊本県出身)
高村禮治少尉(熊本県出身)/井上啓軍曹(徳島県出身)/滝亘軍曹(神奈川県出身)
秋富末治軍曹(福岡県出身)/三木茂少尉(関節炎の為入院)/眞鍋清茂曹長(胸膜の為入院)
立木史郎軍曹/柿原栄一軍曹/中川七郎伍長(5/20飛行機受領の為、浜松ヘ)
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▲隼の発動機試運転中の第18振武隊多田六郎少尉と機付兵達の写真。
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▲第18振武隊勇士達
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▲▼特攻訓練中の第18振武隊員、地面に地図を広げ訓練飛行の打ち合わせを行っている。
後方に写る戦闘機は陸軍一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲。
昭和20年春以降に陸軍特攻振武隊として配備されたこの1式戦Ⅲ型は、一般的であった濃緑色とは異なり、カーキの
強い暗褐色が機体上面塗装採用された。下面は灰緑色あるいは無塗装銀色。
また、機体内部は通称の「青竹色」に塗られ、機種上面は他の陸軍戦闘機と同様に反射防止用の青みがかった艶消し
黒に塗られていた。
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▼お名前が解らないが、特攻訓練中の第18振武隊員。真剣さが伝わってくる写真だ。
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▲米軽巡洋艦バーミンガム(USS Birmingham)5/3、第2番砲塔付近に特攻機が命中。41名死亡、負傷者81名。
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▲▼特攻機の突入を受け大きく損傷した場所で乗組員を救助するバーミンガム乗組員
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米国側記録では、突入機は一式戦闘機「隼」となっている。だとすると、特攻機は5/3 05:00~05:30に知覧基地
から出撃した第18振武隊か第19振武隊の可能性が高い。

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▲米駆逐艦ルース(USS luce)5/4特攻機が2機命中、艦尾から煙を出しながら左舷に傾き、148名の乗組員と共に沈んだ
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▲米駆逐艦モリソン(USS Morrison)5/4 08:33特攻機が命中、沈没。乗組員155人死亡


[ 第19振武隊 ]昭和20年4月29日~5月4日出撃
四宮徹中尉(熊本県出身)/角谷隆正少尉(大阪府出身)/井上忠彦少尉(東京都出身)
平野俊雪少尉(熊本県出身)/小林龍曹長(大阪府出身)/林格少尉(青森県出身)
島袋秀敏曹長(沖縄県出身)/松原武曹長(熊本県出身)/向島幸一軍曹(岐阜県出身)
伊藤賀夫少尉(結核の為入院)/塩澤優少尉(2/24殉職)/阿部正軍曹(5/4喜界島不時着、生存)
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▲向島幸一軍曹5/4知覧より出撃、突入戦死。
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▲昭和20年3月調布飛行場西地区における第19振武隊。殉職等で2名減って10名になっている。
前左から向島軍曹、林少尉、4/29四宮中尉、井上少尉、後左から阿部軍曹(生還)、島袋曹長、平野少尉
角谷少尉、5/4小林曹長、松原曹長。写真の全員が出撃し、9名が突入戦死。
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▲昭和20年3月19日、調布を出撃直前の第19振武隊。この時の出撃は半数のみ。
※特攻隊は全国各航空基地から知覧などに集結している。各基地で燃料補給等を行いながら、沖縄に近い九州
 の各航空基地に向かったのである。(「調布」は東京都調布市にあった陸軍調布飛行場の事)
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▲夜間に調布飛行場から知覧飛行場へと移動する第19振武隊隊員。
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▲出撃準備中の小林曹長機以下4機の第19振武隊「隼」戦闘機。
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▲▼喜界島に不時着し、生還された阿部正軍曹
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▼昭和20年4月29日夜、沖縄本島北東沖で米駆逐艦ヘイゼルウッドUSS HAZELWOOD(DD-531)に特攻機2機が命中
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▼機能停止状態となり、海上で煙を上げる米駆逐艦ヘイゼルウッド
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[ 第20振武隊 ]昭和20年3月30日~5月4日知覧/徳之島より出撃
吉田市少尉(愛知県出身)3/30知覧より徳之島に前進中天候不良の為、奄美大島?崎海岸に不時着を
     試みるも岩石に撃突、即死
伊藤忠雄少尉(3/30徳之島に不時着5/23奄美大島守備隊に収容され6/10→福岡)
熊谷吉彦少尉(4/26徳之島より喜界島に不時着生存5/28→福岡)
瀧村明夫少尉(4/26徳之島より喜界島に不時着生存5/28→福岡)
小島五郎伍長(4/26徳之島より喜界島に不時着生存5/28→福岡)
山本秋彦少尉(群馬県出身)/長谷川實大尉(群馬県出身)徳之島より
山本英四少尉(高知県出身)/穴澤利夫少尉(福島県喜多方市出身)/大平誠志少尉(栃木県出身)
寺澤幾一郎軍曹(群馬県出身)/重政正男軍曹(広島県出身)
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▲長谷川實大尉。生粋の戦闘機乗りで飛行第5戦隊に所属、南方航空戦の作戦に従事した勇士だった。
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▲昭和20年1月末、北伊勢にて訓練機を見上げる第20振武隊員。左より長谷川隊長、重政軍曹、穴澤少尉、
小嶋伍長、山本英少尉(色眼鏡)、寺澤軍曹、吉田少尉、熊谷少尉。
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▲4/12知覧町立高等女学校の女学生達に見送られながら出撃する穴澤利夫少尉の一式戦闘機「隼」
※見送る女学生の左側に、特攻の母「鳥濱トメ」さんの次女、礼子さんがいる。
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▲出撃前の第20振武隊、長谷川隊長(左)、整列手前は穴澤少尉
※穴澤少尉の白いマフラーが首に二重に巻かれているので、他の隊員よりも膨らんでいる。
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▲穴澤利夫少尉(23歳)昭和20年4月12日出撃、沖縄方面洋上にて散華。
穴沢少尉は、白い飛行マフラーの下に婚約者の智恵子さんから贈られたマフラーを締めていた。
「神聖な帽手や剣にはなりたくないが、替われるものならあの白いマフラーの様にいつも離れない存在に
なりたい。」 彼女のこの一途な思いに、贈られたマフラーを彼女の身替りとして肌身につけて出撃した。
穴澤利夫少尉は3/29・3/30・4/2・4/6・4/7と、5度出撃し帰還している、そして4/12散華した・・・。
穴澤利夫少尉の遺書は有名なのでここでは紹介しない事にする。
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▲昭和20年4月12日沖縄近海の前島近くにて作戦行動中の敷設駆逐艦リンゼイ(DM-32)に2機の特攻機が命中。
 大きな損害を与えた。この日は知覧・万世から多くの特攻機が出撃している。陸軍特攻機の攻撃目標は輸送船
 の為、陸軍機の可能性が高い。写真は船首部分である。
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▲この状態でも駆逐艦リンゼイUSS LINDSEY(DM32)は沈まなかった・・・。


[ 第21振武隊 ]昭和20年4月7日~4月26日出撃
水川禎輔中尉(4/26喜界島不時着5/26第75振武隊田宮治隆少尉少尉機に同乗し知覧に帰還中行方不明)
井崎隆夫少尉(4/26喜界島不時着→5/28福岡)/石田京少尉((4/26喜界島不時着→5/29福岡)
上田克彦少尉(4/26喜界島不時着)/弘津勲軍曹(4/26喜界島不時着→5/28福岡)
須藤治韶軍曹(4/7 0605徳之島より)/小山廣子伍長(喜界島不時着→5/28福岡)
木村二郎伍長(喜界島不時着→5/28福岡)/牧信義伍長(喜界島不時着→5/28福岡)
畑中芳夫伍長(喜界島不時着→5/28福岡)/倉内豊美伍長(喜界島不時着→5/28福岡)
松田勉伍長((4/26喜界島不時着→5/28福岡)


[ 第22振武隊 ]昭和20年4月3日~4月11日一式戦闘機「隼」で出撃
※特攻機仕様の隼は軽量化の為、無線機・機関銃が外され、丸腰の戦闘機で出撃した。
※索敵機も飛ばず、護衛戦闘機も整備不良で出撃出来ず、第22振武隊は文字通り丸腰の出撃だった・・・。
藤山二典中尉(鹿児島県出身)4/3出撃するも発動機不良で徳之島不時着。直後グラマンの攻撃により戦死
伊東信夫大尉(東京都出身)藤山中尉の不時着を確認すべく徳之島上空を飛行中グラマンの攻撃により戦死
西長武志少尉(山形県出身)/立川美亀太少尉(三重県出身)/柴田秋歳大尉(熊本県出身)4/11徳之島より出撃。
大上弘少尉(広島県出身)4/11喜界島より出撃、敵機の攻撃を受けて自爆戦死
※大貫健一郎少尉(4/11喜界島より出撃、敵機の攻撃を受け被弾、徳之島に不時着 福岡)
※島津等少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/竹下重之少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)
柄澤嘉則少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/井上立智少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)
前田光彦少尉(4/5知覧から喜界島へ向け出発時250キロ爆弾2発懸吊の為、離陸に失敗、負傷し入院)
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▲昭和20年1月1日元旦初飛行を終えた第22振武隊員の写真。
 前列左から竹下少尉、島津少尉、山崎少尉、藤山隊長、伊東少尉、
 後列左から大上少尉、柴田少尉、柄澤少尉、立川少尉、西長少尉
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▲第22振武隊員が残した時世の寄せ書き。
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▲4/11早朝5時35分「柴田秋蔵少尉」は藤山隊長の遺骨と共に「隼」に搭乗「隊長と共に征くが世話になった。
 後日靖国で会おう」の言葉を残し、徳之島浅間陸軍飛行場より単機出撃。慶良間列島南方の敵艦隊に突入戦死。
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▲4/6 15:00第1次航空総攻撃で西長武志少尉は「隼」で知覧を出撃、沖縄西方海上米艦艇に突入、戦死。
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▲第22振武隊、戦死者一覧。
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▲▼昭和20年4月3日慶良間諸島停泊中の米戦車揚陸艦(LST-599)に特攻機が命中、炎上する戦車揚陸艦LST-599
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突入した機種は「隼」と見られている。
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▲LST-599の消火活動を手助けする戦車揚陸艦LST-79
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▲大貫健一郎少尉(左) と 島津等少尉(右)
※大貫健一郎少尉は「隼」で特攻出撃後、敵機の攻撃で被弾、徳之島に不時着している。その後福岡県にある
「振武寮」という施設に送られる。「振武寮」(しんぶりょう)とは、日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた
施設で、軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいにあり、福岡女学院の寄宿
舎を接収して設置された。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の「倉澤清忠少佐」。
戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』の上映以降で近年その存在が明らかにされた。
※各振武隊の隊員名の横に(0/00→福岡)と書いてある隊員は全てこの「振武寮」に送られている。
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▲福岡県にあった「振武寮」(しんぶりょう)
陸軍では特攻隊員として出撃し、何らかの要因により攻撃に至らずに帰還した特攻隊員を「死んだはずの軍神が
生きていてはおかしい」ということで人目につかないよう秘密裏に「振武寮」に隔離した。
2007.10/21放送NHKスペシャル「学徒兵許されざる帰還 陸軍特攻隊の悲劇」で大貫健一郎少尉と島津等少尉
が振武寮についての生活を証言しています。実質的な管理者「倉澤清忠少佐」は、帰還した特攻隊員に対して、
「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ」「そんなに命が惜しいのか!」と罵った人物である。
振武寮での朝食時、倉澤少佐が前日の深酒で酒臭い息を吹きかけながら、特攻隊員に対して、はなった言葉が、
「おまえら、軍人のクズがよく飯食えるな。」「そんなに死ぬのが嫌か」それが毎朝、続いたという。
朝から酒を飲んでいることもあり、片手には必ず竹刀を持っていた。大貫少尉達特攻隊員が食欲もわかず、箸を
つけずににいると、今度は「なんで飯を食わない?食事も天皇陛下から賜ったものだぞ」とはき捨てたと言う。
大貫少尉は戦後一度だけ、「仲間達と一緒に倉澤少佐を殴りに行こう」という話になったそうだ。
大貫少尉曰く、「倉澤は慰霊祭ではいつもでかい顔をしていたからね」と。
特攻隊員に対して「本官も最後の一機で突入する」と叫んでおきながら自決もせず、どの面さげて慰霊祭に出席
出来たのかと思う。大貫少尉は慰霊祭の時に仲間と一緒に、倉澤をしょっ引いて、自分が大貫だと明かした。
すると、「あの時は悪かった」と詫びたそうだ。
「あの鬼の様なやつがとても小さく見えて、殴る気がすっかりうせてしまった」と大貫少尉は語っている。
大貫氏は戦後、陸軍の上層部には恩給が復活していた事実を知る。司令官や参謀、上層部の連中が軍人恩給を貰
って戦後をのうのうと暮らしていたのである。
軍人恩給は将校なら12年以上、下士官・兵士は10年以上軍に所属していれば貰える。
だが、特攻隊員の生還者も含め、少年兵や軍属、終戦少し前に入隊した赤紙兵士は軍の勤続年数が短く、規定か
ら外れて恩給を受け取る資格が無く、そのまま何も貰えていない方も多い。そもそも、殆どが死んでしまった。
これが大日本帝国の軍隊であり、その戦後における姿である。
最後に戦後の大貫健一郎少尉の言葉。
「喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘、陸海軍合わせ約4000人の特攻パイロットが死んでいますが、
私に言わせれば無駄死にです。特攻は外道の作戦なのです。
長距離飛行の途中で眠くならない様にとヒロポン(覚醒剤)入りの酒まで用意されて元気酒と名づけられていたよ。」
本当に特攻に出撃された方の正直な事実と思いです。
この言葉に反論出来るのは、同じ特攻隊で出撃して生還した方や最前線から生還された将兵。
最前線で戦っていない日本軍人、敗戦後の戦争体験の無い全ての日本人は何も意見してはいけないと思う。

※ヒロポンは昭和16年、大日本製薬から発売されたアンフェタミンの商品名である。多くは軍用、特に特攻隊の隊員
 に眠気や恐怖心を取る薬として盛んに用いられ、また徹夜作業を続ける軍需工場の工員も半強制的に服用させられ
 たと言う。聞くと大和魂も覚醒剤頼みだったのかとガックリ来るが、このヒロポンは戦後も日本人の精神を荒廃さ
 せていく。敗戦後、大量に在庫を抱えた製薬会社が大々的に宣伝・販売し、敗戦で呆然自失した日本国民の精神状
 態がまた、これを流行らせるのである。
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 ▲▼製薬会社の合法ドラッグだった「ヒロポン」成分名は塩酸メタンフェタミン。剤型はアンプルおよび錠剤である。
 「ヒロポン」の名は、「疲労をポンと取る」にも掛けている。日本が大麻を禁止したのは第2次世界大戦後で、マッカ
 ーサーによって「大麻取締法」を押し付けられた結果、戦後は覚せい剤もどきのヒロポンで製薬会社は大儲けした。
 ※メタンフェタミとは覚せい剤の主成分である。
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 鈴木厚「戦後医療事件史」によると、市場に出回ったヒロポンの大部分は密造で1本12円と酒よりも安く、警察も
 取り締まるどころか張り込みの眠気覚ましに使用する有様だったと言う。
 昭和28年の全医薬品生産高は約740億円、その内覚醒剤の売り上げは220億円と3割を占めていたと言う。
 厚生省は昭和24年3月にやっとヒロポンを劇薬指定するが、その規制は14歳以上なら薬局で住所氏名を明記すれば
 購入可能という甘いものだった。昭和26年に覚醒剤取締法が公布され、製造や購入に制限が設けられたが沈静化に
 は至らず、最盛期の昭和29年には約5万6000人が覚醒剤取締法違反で摘発され、全国の常用者は285万人(内28%
 が中毒者)になった。ヒロポン中毒者は多くの凶悪犯罪を引き起こし、また、精神病院でも収容できないほどヒロポ
 ン中毒者は街に溢れかえっていた。彼らもまた、戦争の被害者なのかもしれない。
 ※ベトナム戦争で、アメリカ兵は『麻薬』の錠剤を持ち歩いていた。
  太平洋戦争末期 「ヒロポン」とお茶の粉末を混合した「突撃錠」という覚醒剤が、出撃する特攻隊員に配られた。

[ 第23振武隊 ]昭和20年4月1日~4月6日出撃
伍井芳夫大尉(埼玉県桶川市出身)/金子龍雄准尉(北海道砂川市出身)/大橋治男曹長(岐阜県羽島市出身)
藤野正行曹長(山口県出身)/前田啓少尉(北海道出身)/塩島清一少尉(東京都出身)
柴本勝美少尉(福岡県直方市出身)/豊崎儀治軍曹(東京都出身)/清水保三軍曹(滋賀県高島市出身)
松田豊少尉(熊本県出身)4/6喜界島不時着/谷山正夫少尉(入院中の為出撃できず)
岡本龍一准尉(4/26喜界島に不時着)
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▲第23振武隊隊長 伍井芳夫大尉 知覧から出撃した特攻隊員の中で最高齢の32歳。
 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場で操縦教官として桶川教育隊を取り仕切っていた。  
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▲出撃前日伍井大尉が書き残した色紙
4/1 伍井大尉は奥様と3人のお子様を残しての出撃だった。
[ 当時生後4ヶ月だった息子さん(芳則)に宛てた遺書 ]
【遺書 昭和二十年三月九日】
物ノ道理ガ解ル年頃ニナッテカラ知ラセヨ
芳則ニ一筆遺ス
 父ハ大東亜戦争五年目ノ春 名誉アル特別攻撃隊第二十三振武隊長トシテ散華ス
 オ前達ノ成長ヲ見ズシテ去ルハ残念ナルモ悠久ノ大義ニ生キテ見守ッテイル
 良クオ母サンノ謂イ付ヲ守ッテ勉強シテ日本男子トシテ 陛下ノ御子トシテ立派ニ成人シテ下サイ 
 将来大キクナッテ何ヲ志望シテモ良シ 唯父ノ子トシテ他ニ恥ザル様進ミナサイ
 オ母サンニハ大変ナ苦労ヲ掛ケテ頂イタノデス 御恩ヲ忘ズ立派ナ人トナッテ孝行セネバイケマセン 
 体ヲ充分鍛エテ心身共ニ健全ナルベシ

 昭和二十年三月九日  父ヨリ
 芳則殿
※当時特別攻撃隊の任務は極秘事項とされ、家族にも知らす事ができなかった為、伍井大尉戦死をニュース
 で知った奥様は、ショックのあまり母乳が出なくなり、長男芳則さんはわずか8ヶ月でこの世を去った。
 妻の園子さんが68歳で息を引き取った3月25日は、くしくも、伍井大尉が特攻出撃を控え、別れの挨拶の
 為に最後に自宅に戻った日と同じだった。伍井大尉が天国から奥様を迎えに来てくれたのでしょうね。

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▲第23振武隊 前田啓大尉 昭和20年4月3日出撃。 99式襲撃機で突入戦死。
    【遺書 昭和二十年三月二十五日】
 父母様、啓ハ大命ヲ拝シ征ク事ニナリマシタ。
 二十有余年ノ今日ニ至ル迄厚キ御愛情ヲ受ケ、何一ツ孝行モ出来ズ御心配バカリカケ申シ訳御ザイマセン。
 厚ク御礼申シ上ゲマス。 啓ハ大君ノ御為太平洋ノ防波壁トナリ死ニマス。  
 武人ノ名誉之ニ過グルハナシ。元気旺盛ニシテ意気天ヲ衝ク有様ナリ。御安心下サイ。
 今日ノ誉レ啓ゴトキ小臣、軀ニ余ル光栄ナリト存ジマス。我ガ屍ハ敵艦ニアリテ消ユルトモ、魂ハ遠古天知ニ
 止マリテ皇国ノ礎ヲ護ラム。
 軍人タリ股衡肱トシテ大君ノ御為散レルコソ日本国ニ生享ケタル甲斐アルト言ヘヨウ。
 而シテ身命ヲ大君ニ捧グルハ日本臣民ノ大義大道ナリ。又軍人ノ本分ナリ。

 一、軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ
 君ニ忠ナリ親ニ孝ナリノ両論コレノ道義ニ邁進シ、死ヲ以テ山ヨリ高ク海ヨリ深シノ君親大恩ノ万分ノ一ナリト
 報イ奉ル決心ナリ。 最後ニ父上様御一同ノ御壮健ナラン事ヲ御祈リ申シ上ゲマス。
 猶、特ニ自分ノ墓ハ不用デアリマス。亡母ノ御墓ノ側ニ静カニ寝カセテ下サイ。サヨウナラ。

 天皇陛下 万歳
 振武隊 万歳
 若桜屍ヲ空ニサラストモ
 何惜シカロウ大君ノタメ

 陸軍特別攻撃隊   振武隊陸軍少尉 前田 啓


[ 第24振武隊 ](振武錦隊)昭和20年4月29日~5月4日出撃
小澤大蔵中尉(東京都出身)/川田清美少尉(香川県出身)/福井與一少尉(兵庫県出身)
安部正也少尉(福岡県古賀市出身4/29夜10:24出撃、発動機不調の為黒島に不時着大破。 5/4知覧より再出撃、戦死)
立花康博少尉(5/18飛行機受領の為伊丹ヘ)/辻本彦登曹長
篠原親治郎少尉(4/29夜10:24出撃、発動機不調の為帰投、5/4突入戦死)/片柳経曹長(栃木県出身)
三浦秀逸少尉(4/29夜10:24出撃、発動機不調の為帰投。5/4出撃、敵艦の高射砲により墜落、敵に救助されて捕虜)
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▲第24振武隊員の勇士達。二式複座戦闘機「屠龍」(キ45改)で突入。
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」
「屠龍」は米軍ではNick(ニック)と呼ばれていた。


[ 第26振武隊 ](征夷隊)昭和20年5月25日~6月21日出撃
相良釟郎少尉(石川県出身 南京入院中→6/1福岡→都城飛行場より出撃)/荒木卓三少尉(?)/名木山登少尉(?)
梅津末雄少尉/小林位少尉/中村勝利少尉(?)/木村清治少尉(山形県出身)都城飛行場より出撃
西宮忠雄少尉(茨城県出身)都城飛行場より出撃/永嶋福次郎少尉(栃木県出身)都城飛行場より出撃
児玉直喜少尉(福島県出身6/2、8:15知覧飛行場東端にて敵機の銃撃により戦死=コルセアによる知覧飛行場攻撃)
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▲第26振武隊員。四式戦闘機で沖縄西方の敵艦船群に突入戦死。


[ 第27振武隊 ](疾風隊)昭和20年6月22日宮崎県都城東より出撃
川村勝少尉(東京都出身)/熊澤弘之少尉(愛知県出身)/高橋毅少尉(東京都出身)
原田栞少尉(熊本県出身)/矢口剛少尉(東京都出身)/奈良又男少尉(秋田県出身)
久保田邦夫少尉(5/26 菊池到着?)/三垣忠義少尉(入院中)/市村次郎少尉(?)
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▲第27振武隊員勇士
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▲原田栞少尉ユーチューブ動画→陸軍特別攻撃隊 第27振武隊 原田栞少尉

[ 第29振武隊 ]昭和20年4月7日~5月25日「隼」で出撃
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▲第29振武隊(隊長)中村實少尉(石川県出身享年20歳)4/7隼で出撃、突入戦死。
森内徳龍伍長(岐阜県出身)/益子博伍長/寺田實伍長(広島県出身)
及川喜一郎伍長(岩手県出身4/14喜界島より)/上川幟伍長(福島県出身4/14喜界島より)
美野輝雄伍長(兵庫県出身)/染谷勇少尉(茨城県出身)
阿部常義伍長(在知覧)/山田忠男伍長(4/11、1530知覧より4/26喜界島に生存)
柴田信也少尉(4/8知覧より出撃、エンジン不調で黒島に不時着、全身火傷で生死をさ迷うが、 4/29に知覧を出撃し、
黒島に不時着した24振武隊安部正也少尉が手漕ぎの釣り舟で30時間をかけ鹿児島に帰還、その事実を伝える。
5/4再出撃の際、薬が入った荷物を黒島に投下、安部少尉は沖縄の海上で散華し、柴田少尉は一命をとりとめた。)
井上彰伍長(山口県小月基地5/25知覧(?)
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▲美野輝雄伍長5/25知覧より隼で出撃、突入戦死。享年20歳
 美野輝雄伍長遺書
十八才遠く膝もとを離れ、御両親に萬分ノ一のご恩も出来なかった
輝雄誠に残念至極、しかしこゝに大命を拝し陸軍特攻隊に一員として参加出来た事は大和男子として本望の至りです。
今更何も思ひ残すことは無いです。一意君國のため散る覚悟、幼き頃の今に居たりて考えざる得ないです。
しかし立派な手柄を残すことが出来たら恩返しにもなるでせう。
一機一艦必ず轟沈致します。最後にあたって何も云ふことは無いのですが、弟を必ず軍人にして戴きたい。
京城の伯母は母上と同じです。自分には良き母が二人出来何も云ふことなし、幸福のうちに轟沈を期す。

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▲米戦艦ニューヨーク(USS New York)4/14特攻機の突入を受け、カタパルトと艦載機に損害を受けた。
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▲特攻機が突入した戦艦ニューヨークの三番砲塔付近。突入の衝撃でOS2Uキングフィッシャー水上観測機がカタパルト
から滑り落ちた。米国側記録では「隼」とあり、4/14隼で出撃した部隊は第29振武隊のみである事から、突入した機は
この日(4/14)出撃した第29振武隊の特攻機と判明した。
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▲4/8米駆逐艦グレゴリー(USS Gregory)に「第29振武隊」と見られる特攻機が突入、中破させた。

[ 第30振武隊 ]昭和20年4月10日~4月15日喜界島より出撃
大櫃繁夫中尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/宮崎彦次小尉
横田正顯少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/岩間勝己伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)
佐々木勇伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)/横尾賢二伍長(樺太出身 徳之島より)
今井實伍長(岐阜県出身4/15喜界島より)/池田強伍長(岡山県出身4/13喜界島より)
福家義信伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)/後藤正美伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)
佐藤悌二郎伍長(3/9航空事故殉職(於各務ヶ原)/河崎廣光伍長(知覧より出撃?)
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▲第30振武隊。河崎伍長のみ知覧より出撃したが、1度目は天候不良で知覧基地に引き返す。その後黄疸を発症、
療養中空襲により河崎機は破損。出撃が延び、福岡~知覧へ飛行機受領に往復する内に終戦を迎え生き残った。
河崎機の受領の為、知覧に引き返す折に乗った飛行機の操縦者・吉羽少尉は同じ第30振武隊であったが出撃を拒
否し、隈府~熊本を逃亡していた。やがて憲兵に逮捕され菊池から福岡に護送、軍法会議の後不明となる・・・。

[ 第31振武隊 ]昭和20年4月22日出撃
吉原香軍曹(済州島に不時着)
長谷部良平伍長(岐阜県出身4/22、1440知覧より)

[ 第36振武隊 ]昭和20年4月16日、4月27日出撃
嶽山留治郎軍曹(滋賀県出身4/16、0700知覧より)
下手豊司曹長(広島県出身4/27、0550知覧より)

[ 第37振武隊 ]昭和20年4月26日出撃
春島邦武少尉(4/26 喜界島)

[ 第38振武隊 ]昭和20年4月16日出撃
宇野栄一少尉(京都府出身)
安部祐次軍曹(4/16開聞岳付近、黒島1粁海面不時着5/12知覧帰還)
崎田春雄伍長(4/16出水不時着、出水飛行場在)

[ 第39振武隊 ]昭和20年4月11日出撃
木下孝之少尉(4/11喜界島に不時着?5/27福岡入院中)
原敬一郎少尉/山田千秋少尉/眞田豊一少尉/牧甫少尉の4名は5/28→福岡)

[ 第40振武隊 ]昭和20年4月16日出撃
石倉三郎少尉(石川県七尾市出身)/岡清治伍長(山口県出身)/東郷周一伍長(宮崎県出身)
片山淳伍長(奈良県出身)/瀧澤真平伍長(長野県出身)/中上敬一伍長(岡山県高梁市出身)
大堀宏少尉(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
譜久村朝光伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
小野衛伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
田中勢伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
箸満男伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
太田敏雄伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
※小林威夫少尉(東京都出身 昭和20年3月29日知覧より出撃)
小林威夫少尉は教官として知覧に駐在していたことがあり、その時に鳥濱トメさんに下宿を探してもらったり
わが子同様に可愛がってもらっていた青年である。出撃前日に富屋食堂を訪れ、「小母さん、これまでの事、
本当に有難う。小母さんには実のおふくろより優しくしてもらった。忘れません。この思い出を持ってあの世
に行きます。達者で長生きしてください」と小林少尉は最後の敬礼をし、鳥濱トメは黙って頭を下げたと言う。


[ 第41振武隊 ]昭和20年3月29日~4月17日出撃
清水敏男少尉(肺炎の為入院)/山崎勲少尉(4/17不時着入院)/石田正雄曹長(入院)
加瀬嘉一曹長(入院)/山田泰治軍曹/大河正明少尉[ 朴東勲 ](朝鮮出身)3/29突入戦死
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▲大河正明少尉[ 朴東勲 ](朝鮮出身)享年17歳
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[ 第42振武隊 ]昭和20年4月8日~5月4日出撃
松澤平一少尉(長野県出身)4/8喜界島より出撃/牛島久男少尉(千葉県出身)4/8喜界島より出撃
尾久義周少尉(神奈川県出身)4/8喜界島より出撃/仙波久男少尉(愛媛県出身)4/8喜界島より出撃
猫橋芳郎少尉(大分県出身)4/9喜界島より出撃/近藤幸雄少尉(大分県出身)4/9喜界島より出撃
馬場洋少尉(東京都出身)4/9喜界島より出撃/岩崎辰雄少尉(宮崎県出身)5/4知覧より出撃
大西造少尉(喜界島 5/28→福岡)/中野友次郎少尉/篠田庸正少尉(知覧より出撃喜界島不時着4/16)
福永一馬少尉(3/29徳島県池内町附近不時着以後不明)
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▲第42振武隊員


[ 第43振武隊 ]昭和20年4月6日~4月12日出撃
浅川又之少尉(長野県出身)/清澤守少尉(愛知県出身)/酒井忠春少尉(岐阜県出身)
蓑島武一少尉(岐阜県出身)/村上稔少尉(北海道出身)/大野宗明少尉(兵庫県出身)
岸誠一少尉(島根県出身)/前田敏少尉(静岡県出身)/横尾勇少尉(病気入院6/13復帰)
村野博少尉(3/28江田島付近海上で殉職)/神尾崇少尉(3/7所沢にて殉職)
今井光少尉(徳之島不時着、4/15徳之島より再出撃するも離陸に失敗5/28→福岡)
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▲出撃前に談笑する第43振武隊員達。
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▲第43振武隊。4/6第1次航空総攻撃で、隊長の浅川又之少尉より出撃指示を受ける隊員達。後方は隼3型


[ 第44振武隊 ]昭和20年4月6日~6月3日徳之島/知覧より出撃
小原幸雄少尉(宮崎県出身)知覧より/向後新太郎軍曹(千葉県銚子市出身)知覧より
足立次彦伍長(大分県出身)知覧より/中村利雄伍長(岩手県出身)徳之島より 生存?
甲斐玉樹少尉(隊長)宮崎県延岡市出身(徳之島より)/清水定伍長(大阪府出身)徳之島より
岡本金吾少尉(東京都出身)知覧より/伊藤俊治軍曹(埼玉県出身)/栗田三郎少尉(徳之島より)
野中元少尉(徳之島より在口之永良部島)/武田遊亀軍曹(4/26喜界島不時着?)
堀之内博少尉(知覧より5/6口之永良部不時着 徳之島で生存)
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▲第44振武隊。昭和20年4月6、7日、5月11日、6月3日特攻出撃。

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▲昭和20年4月6日慶良間列島付近の海域で米戦車揚陸艦(LCT-447)に特攻機が命中した瞬間。

[ 第45振武隊 ](快心隊)昭和20年5月28日出撃
藤井一中尉(茨城県出身)/小川彰少尉(徳島県出身)/鈴木邦彦少尉(愛知県名古屋市出身)
中田茂少尉(大阪府出身)/小川春雄伍長(群馬県出身)/北村伊那夫伍長(長野県出身)
與國茂伍長(山口県出身)/一口義男伍長(宮崎県出身)/宮井政信伍長(和歌山県出身)
伊藤好久伍長(愛知県出身)/坂恒夫伍長(4/28航空事故殉職)
宮之原太吉伍長(宝島南方海上不時着?漂流中、宝島の島民に救助され奇跡的に生還)
▼前列左端は小川彰少尉、右隣が藤井一中尉。 小川少尉は訓練中事故死した戦友の遺骨を抱いている。
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▲第45振武隊快心隊。二式複座戦闘機「屠龍」で沖縄西方洋上の敵艦船群に突入。
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▲地元の婦人会、女子奉仕隊の見送りを受け、出陣式に挑む第45振武隊。
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▲第45振武隊、鈴木邦彦少尉と愛機 二式複座戦闘機「屠龍」5/28沖縄西方の敵艦に突入、戦死
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▲米駆逐艦ドレクスラー(USS Drexler)5/28を迎えるまでの間、米駆逐艦ドレクスラーは特攻機を3機撃墜し4機を撃破
 し、特攻機の習性についてに熟知していると自認していた。5月28日朝7時頃、2機の特攻機がドレクスラーとロウリー
  (USS Lowry) に突入する。この特攻機は日本海海戦の勝利を祝った海軍記念日を期して繰り出された「菊水八号作戦」
 で知覧から出撃してきた特攻機で、雨雲を突き抜けて突入してきた。
 1機目は両艦の砲撃および戦闘哨戒任務に当たっていた戦闘機の攻撃で撃墜した。
 2機目はロウリーへ突入しようとしたものの失敗、ロウリーとドレクスラーの間に墜落するかに見えた。
 突入にしくじって反転の後海中に自爆していくようにも見えた。しかし、この特攻機は次の瞬間にドレクスラーの真正
 面方向から突入。艦後部に突入してボイラー室と機械室をつなぐ蒸気パイプを破壊した。
 ドレクスラーは動力が全て停止、10箇所にわたってガソリンによる大きな火災を生じた。大きな損傷にもかかわらずド
 レクスラーは砲撃を続け、特攻機3機の撃墜に貢献した。
 しかし、艦内の乗員は閉じ込められ、外に出ていた何名かの乗員は衝撃で海中に放り出された。
 07:03別の特攻機が炎上するドレクスラーの上部構造物に突入。ドレクスラーはすさまじい爆発が続き、右舷に傾斜。
 2機目の突入後、1分に満たない時間、あるいは50秒も経たない時間で、北緯27度06分 東経127度38分の海域で転覆
 の後、艦尾から沈没していった。短時間で沈没した為158名死亡、艦長を含む52名負傷した。突入した特攻機が双発機
 であったとの生存者の証言(ドレクスラー生存者レユニオン協会)から第45振武隊「快心隊」二式複座戦闘機「屠龍」
 と見られている。▼陸軍二式複座戦闘機「屠龍」
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特攻隊 62年目の再会 米兵の心にも傷YouTube
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▲第45振武隊長 藤井一中尉
藤井中尉は茨城県出身、7人兄弟の長男として農家に生まれた。陸軍に志願、歩兵となったが、特別に優秀であった為、
転科し陸軍航空士官学校に入校。卒業後、熊谷陸軍飛行学校に赴任、中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていた。
(精神訓育とは生徒達に、軍人勅諭に沿った軍人精神をたたき込む重要な鍛錬だった)
 忠誠心が強く熱血漢の藤井中隊長は、厳しい教官であると共に、心根が優しく、生徒たちから慕われていた。
藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返
し言っていた。  
 その後、特攻作戦が開始され、自分の教え子達が教えの通り特攻出撃していく事となり、純粋な教え子達が次から次へ
と特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった藤井中尉は自分だけが安全な任務をしている事に堪えられなかった。
「自分の教えを守って、次々と将来ある純粋な教え子達が毎日敵艦に突っ込んで行く。あいつも、あいつも・・・。 
俺はいつまでこんな事をしているのか・・・。」ついに藤井中尉は教え子達との約束を果たすべく自らも特攻に志願する。  
 しかし妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており、支那事変(日中戦争)で迫撃砲の破片を受けた左腕
の為にパイロットにはなれなかった藤井中尉は、当然、志願が受け入れられるはずもなかった。
更には学校を仕切っている重要な任務を離れられては困るからであった。
 しかし藤井中尉は生徒達との約束を守る為、断られても、断られても二度までも特攻に志願していた。
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▲藤井中尉の奥様 藤井福子さん
藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育った。戦争中は野戦看護婦として活躍していた。
藤井中尉との出会いは、支那で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんだったと言う。
福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが十分過ぎるほど解っていた。
 しかし、解っているからといって特攻の許可さえ出ない人が、特攻志願することに納得できるものではない。
福子さんは夫を説得しようと必死だった。妻として二人の幼子の母として哀願もした。子供を盾にまでして必死に戦った
しかし、藤井中尉の決意は最後まで変わらなかった。夫の決意を知った福子さんは、二人の幼子を連れて飛行学校の近
くにある荒川(埼玉県)に入水自殺した。  
翌日の昭和19年12月15日早朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の
手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が近所の住人によって発見され、直ぐに遺体が藤井中尉の妻と子供であることが判
明、熊谷飛行学校に連絡された。
 知らせを受けた藤井中尉は、同僚の鳴田准尉といっしょに警察の車で現場に駆けつけた。
車の中で、藤井中尉は「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけは勘弁してくれ、解ってくれ」 と、呻く様な声で
言ったと言う。 鳴田准尉には、慰めの言葉は見つからなかった。
師走の荒川の河川敷は、凍てついた風が容赦なく吹きつける。歯が噛み合わないほどに寒い。  
 凍てついた川の流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、福子さんの最後の願いを物語る様に、三人いっしょ
に紐で結ばれたまま、蟻人形のように仲良さげに並んでいた。
その遺書には・・・、以下の様に書かれていた。
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」
という意味のことが書かれていた。副子24歳であった。  
凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と子供達の姿を見て、藤井中尉はその前にうずくまり、優しくさ
する様に白い肌についた砂を払い、そして呻くように泣いていた。

葬式は、軍の幹部と、家族と隣り組だけで済まされた。教え子達の参列は禁じられ一人の姿もなかった。
涙を誘うこの悲惨な事件に、各社の新聞記者も飛びついた。しかし軍と政府の通告によって報道が差し止められ、記事は
一切新聞にもラジオにも出なかった。

藤井中尉はこの事件の直後、三度目の特攻志願を行った。今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。
今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。すでに誰もが、藤井には死しかないと理解できていた。
陸軍は藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行ったのである。  
藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった。教えは厳しいが熱血漢で情に厚いという事で、生徒達は藤井中尉
を信頼し、尊敬し、憧れを持っていた。藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈った。
藤井中尉は大変喜んで、にこやかに、その軍刀を抜くと「これで奴らを一人残らず叩き切ってやる!」
と刀を高くかざした。藤井の笑顔に、みんなも笑顔で答えた。
 妻の事件の事は藤井も話さず、誰も口にするものはいなかった。しかし、全員既にに知っており、藤井を惜しみ、藤井
の心を分かって流す涙がさらに深く辛いものであったことは間違いない。
藤井中尉は熊谷飛行学校を去る時、中隊長室に生徒を一人一人呼び、家族の事や思い出話を聞いた。
そして、最後には「これからの日本を頼むぞ」と言って、若い教え子たちを励まし特攻隊の訓練地へと旅立った。
藤井中尉は昭和20年5月27日陸軍特別攻撃隊「第45振武隊」快心隊の隊長として知覧飛行場に進出。 
翌5月28日早朝、隊員10名と共に沖縄に向けて小川彰少尉の操縦する二式双発襲撃機に通信員として搭乗し、出撃。
「われ突入する」の電信を最後に沖縄でレーダー哨戒任務だった米駆逐艦ドレクスラーに命中、戦死。
ドレクスラー生存者の証言によると特攻機は迎撃されたが空中分解しながらも突入してきたと言う。
証言の特攻機が藤井一中尉/小川彰少尉機であったかどうか確かめようのない事だが、藤井中尉率いる第45振武隊(快心隊)
隊員の気迫が伝わってくるエピソードである。
藤井中尉は、教え子達、そして愛する家族との約束をやっと果たす事が出来たのである。享年29歳
 
藤井中尉は妻と子供三人の葬式が終わった後、長女の一子ちゃんあてに手紙を書いた。
一枚目は桜の花の絵、二枚目は子犬と蝶と共に戯れている幼子の絵の便箋である。
「娘への手紙」
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。
母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、
母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」


[ 第46振武隊 ](丹羽隊)昭和20年4月7日~4月15日喜界島より出撃
小山勝寶少尉(福島県出身)/渡辺博伍長(千葉県出身)/伊原佐源次伍長(埼玉県出身)
古川榮輔伍長(京都府出身)/堀越進伍長(栃木県出身)/米山和三郎伍長(埼玉県出身)
森光少尉(東京都出身)/小林貞三伍長(東京都出身)/中林稠伍長(大阪府出身)
丹羽信博少尉(第30教育飛行隊に指揮転移)/奥村明雄伍長(4/26在喜界島)/斎藤健伍長(4/26在喜界島)
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▲第46振武隊出陣式


[ 第47振武隊 ]一〇〇式重爆撃機「呑龍」の部隊だが出撃場所等は不明
千野實大尉/岩永英二少尉/横山淳少尉/遠山怜少尉/大木卓郎少尉/藤本靖矩少尉/坪田定治少尉
我喜屋宗二少尉/五十嵐國三郎曹長/沼尾仁曹長/中島勉軍曹/武藤光雄軍曹/梅田修軍曹/
野見山利夫軍曹/石井邦夫軍曹/廣川鴻伍長/岩佐定次伍長/大門幸作伍長
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▲陸軍一00式重爆撃機「呑龍」(どんりゅう)
※写真はフィリピンクラークフィルドに出撃する飛行第95戦隊の「呑龍」S19.11/19バシー海峡上にて
 47振武隊とは違いますが、爆撃機「呑龍」で特攻に参加した菊水特攻隊の生還者飛行第95戦隊・陸軍曹長中村真


[ 第48振武隊 ](惟神隊)(かむらいたい)昭和20年5月28日~6月8日出撃
鈴木誠一少尉(静岡県出身)/土屋光男伍長(宮城県出身)/掘恒治少尉(千葉県出身)
中嶋豊蔵軍曹(愛知県出身)/柴田信平少尉(東京都出身)/松本真太治軍曹(滋賀県出身)
中島章少尉(茨城県出身)/伊藤甲子郎伍長(秋田県出身)/土屋好央少尉/須藤勲二少尉
中島明伍長/川野勉伍長/須藤勲二少尉
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▲第48振武隊長堀恒治少尉。明野教導飛行師団付教官を経て惟神隊隊長に。6/3突入、戦死。
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▲「惟神隊」隊員の寄せ書き。
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▲中嶋豊蔵軍曹は軍用トラックで移動中に富屋食堂の前を通りかかった時、鳥濱トメを見かけ、懐かしさ
のあまり、まだ走行中のトラックから飛び降りてバランスを崩し転がり落ちて左腕をケガをした。
ケガは予想以上に酷く、包帯で首から腕を吊り治療中だった。6/2昼頃、中島軍曹が富屋食堂に行った時
ケガの為、軍の風呂に入れず梅雨の季節で汗臭かった中島軍曹を可愛そうに思った鳥濱トメさんは、富屋
食堂の風呂を沸かし中島軍曹を風呂に入れて上げた。中島軍曹の背中を鳥濱トメさんが流しながら
「中島さん出撃は何時頃ですか?明日にも命令が出るかもわかりませんよ、そんな手じゃ操縦も出来ない
でしょう、手が良くなってから出撃しなさいね」とトメがいくら言っても中島軍曹は、
「日本が勝つためには、自分が一刻も早く行かなければなりません」と答えたと言う。
中島軍曹のケガは右手を骨折していた為、なかなか出撃の許可が下りなかった。
しかし中島軍曹は「今行かなければ日本は負けてしまう」その並々ならぬ思いで軍航空司令部に掛け合い、
何度も嘆願。ついに許可が出たと言う。
中島軍曹は、翌6月3日不自由な左腕を自転車のチューブで無理やり操縦桿に縛りつけ出撃したと言う。
闘魂の出撃!その様子を見ていた整備兵が鳥濱トメに伝え、トメは富屋食堂の奥で崩れる様に泣いたと言う
「仰ぎ見る富嶽の重さよ 我が勤苦心を重ねて死して果さむ」  少飛十二期 中島軍曹
昭和20年6月3日知覧より出撃。突入、戦死(19歳)
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▲第48振武隊惟神(かむらい)隊の一式戦闘機「隼」の尾翼に描かれた“惟神”の文字。


[ 第49振武隊 ]昭和20年5月6日~5月25日出撃
伊奈剛次郎少尉(愛知県出身)/藤喜八郎少尉(佐賀県出身)/小柳瞭伍長(三重県出身)
小坂清一伍長(大阪府出身)/高橋定雄伍長(岩手県出身)/黒川久夫少尉(5/25出撃)
南部吉雄少尉/伊藤定雄少尉(入院中 退院5/26防府へ)/村松祐行少尉(成増 5/26防府へ)
柴田進伍長(成増 5/26防府へ 7/17福岡)/井勝忠枝伍長(成増 5/26防府へ 玉名不時着)
金指正夫伍長(成増生存?)


[ 第50振武隊 ](山吹隊)昭和20年5月20日~5月25日出撃
斎藤数夫少尉(岡山県出身)/小木曽亮助少尉(愛知県出身)/多田良政行少尉(広島県出身)
速水修少尉(兵庫県出身)/飯高喜久夫伍長(宮城県出身)/大野昌文伍長(長野県出身)
松崎義勝伍長(新潟県出身)/松尾登代喜伍長(佐賀県出身)/柳清伍長(和歌山県出身)
高橋暲少尉(東京都出身)/藤田典澄少尉(広島県出身)/磯田徳行伍長(熊本県出身)
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▲第50振武隊(山吹隊)勇士達。全員突入、戦死
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▲第50振武隊 多田良政行少尉。5/20一式戦闘機「隼」で出撃。沖縄西方の敵艦に突入、戦死
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▲愛機の隼を背にした第50振武隊 隊長 斉藤数夫少尉。野戦重砲兵より航空に転科した。5/20突入、戦死
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▲第50振武隊 松崎義勝伍長5/20、16:30出撃、突入戦死。享年19歳


[ 第51振武隊 ](悠久隊)昭和20年5月6日~5月28日出撃
鮫島豊少尉(鹿児島県出身)/荒木春雄少尉(宮城県出身)/光山文博少尉(卓庚鉉)(タク・キョンヒョン)朝鮮出身
野上康光少尉(熊本県出身)/安藤康治伍長(大分県出身)/島仁伍長(東京都出身)
鈴木惣一伍長(愛知県出身)/豊田良一伍長(愛媛県出身)/市川豊伍長(佐賀県出身)
伊藤博少尉(5/8航空事故入院)/川崎渉少尉(5/30.16:30国分附近殉職)/堀岡一馬伍長(4/24福岡?)
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▲第51振武隊員の勇士達。
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▲第51振武隊員の勇士達。
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▲光山文博少尉(卓庚鉉)(タク・キョンヒョン)朝鮮出身(京都薬学専門学校)24歳
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▲光山文博少尉と鳥濱トメさんの有名な写真。
光山少尉は日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたる1920年
11月5日、朝鮮半島の慶尚南道泗川市にて生まれた。光山少尉誕生時一家の暮らしは裕福な方だったとされる。
しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、
生計を一から立て直すという道だった。がまだ幼少だった頃の話である。一家は訪日し京都府に定住した。
当時の京都には1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。併合以降、朝鮮よりも賃金条件
の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。 光山少尉の父・卓在植は、京都市内で乾物商
を立ち上げた。 こうして彼等は、所謂「在日」となった。
決して「強制」や「徴用」によって日本に来たわけではない。一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は
「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。
当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。
光山少尉は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。名門中学への進学は、彼自身の十分なる能力
の高さを証明している。 光山少尉は人生の大半を日本で過ごしており、日本の教育を受け、日本語を使いなが
ら育った。その後、光山は京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)に進学した。
昭和18年(1943)9月同校を繰り上げ卒業した光山少尉は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。
見事試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の
志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空
要員を養成することが、同制度の目的であった。 併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。
しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざす事
こそ「差別」「屈辱」であると彼等は主張した。
昭和12年(1937)日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。
翌昭和13年(1938)「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められる
様になる。日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。
朝鮮人への徴兵制が施行されたのは後の昭和19年(1944)4月実際の徴兵適用は同年9月以降のことである。
日本は欧米列強と比べても、「植民地人の軍事利用」には概して消極的であった。イギリス軍は東南アジアの
戦線において、インド人兵士やグルカ兵(ネパールの山岳民族)を最も危険な最前線に投入して戦局を組み立
てたが、日本軍はそのような体制は構築しなかった。
昭和18年10月大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した光山少尉は、航空兵としての基礎的な訓練課程へと
入った。 そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。
知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、昭和4年(1929)に女主人鳥濱トメが開いた店である。
知覧分教所の開校は昭和16年(1941)12月だが、富屋食堂は翌昭和17年(1942)1月以降、陸軍の指定食
堂となった。うどんや蕎麦の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏はかき氷も好評だったという。
光山少尉は鳥濱トメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいる事の多かった光山少尉だ
が、トメとはとりわけ親しくなった。 光山少尉はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人だという
事を告げたという。当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいた事は否定し難き事実である。
そんな背景を知悉していたトメは、光山少尉に対して殊に気を使って接した。
光山少尉は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。トメの夫・義勇は南薩鉄道のバスの運転手だ
ったが、2人の間には長女の美阿子、次女の節子という2人の娘があった。当時美阿子17歳、礼子13歳だった。
光山少尉はこの2人とも程なくして仲良くなり、共に連れ立って近くの麓川の土手などをよく散歩した。
光山少尉には妹が1人いたが、トメの娘たちの姿に実妹の面影を重ねていたのかもしれない。
昭和19年(1944)7月栃木県宇都宮市の教育隊へ転属。トメたちとも別れることとなった。
その後光山少尉は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山少尉はしばしばトメに
「知覧のおばちゃん、元気ですか」 などと綴った葉書を寄せた。
昭和19年10月光山は陸軍少尉を拝命。順調な昇進だったが、翌11月彼を思わぬ不幸が襲った。
京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、
「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」 という内容のものだった。
やがて、父もまた同じ気持ちである事を知った光山少尉は特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続
いた時期であった。周囲の戦友達も、次々と特攻を志願していた。
上官の1人は、光山少尉が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。しかし光山少尉の
決意は固かった。上官は光山の強い意志に心を動かされ、光山少尉の特別攻撃隊への配属が決定した。
昭和20年(1945)3月光山少尉は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。同月29日、明野教導飛行師団の
主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成され、その中の一つである第51振武隊の隊員の中に光山少尉の名
前があった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。
第51振武隊は山口県の防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。光山少尉はこうして再び知覧の地を踏んだ。
当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。 光山少尉は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。
トメは温かく彼を迎えた。そして、トメはすぐに光山少尉が特攻隊員であるという事実を悟った。
何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。
「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」 と光山少尉はトメに告げた。
約半年前に実母を亡くした光山少尉にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。
久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山少尉は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。
以降、光山少尉は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由
に認められていた。光山少尉は父と妹を朝鮮に帰郷させた。戦況の悪化を知り及んだ光山が、朝鮮の方が安全だ
ろうと判断して促した結果であった。 そんな光山少尉にも、確実に出撃の日が迫る。
出撃前夜の5月10日光山少尉はやはり富屋食堂の「離れ」にいた。トメと彼女の娘達を前にして、こう言った。
「おばちゃん、いよいよ明日、出撃なんだ、長い間、いろいろありがとう。おばちゃんのようないい人は見たこ
とがないよ。俺、ここにいると朝鮮人っていう事を忘れそうになるんだ。でも俺は朝鮮人なんだ。長い間、本当
に親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」
光山少尉の着ている飛行服には、幾つかの小さな手作りの人形がぶら下がっていた。それらは、トメや娘達が彼
に贈った物だった。トメが造った人形は、頭部が大き過ぎて「てるてる坊主」のようだったが、光山はこれを殊
に大切にしていたという。 トメが目頭を押え俯いていると、光山少尉が「おばちゃん、歌を唄ってもいいかな」
と切り出した。トメは思わずこう答えた。 「まあ、光山さん、あんたが唄うの」
トメには光山少尉の言葉が意外だった。それまでの光山少尉は他の隊員たちが大声で軍歌などを唄っている時で
も一緒に声を合わせるような事は殆どなかったからである。
光山少尉「おばちゃん、今夜は唄いたいんだ。唄ってもいいかい」 トメが 「いいわよ、どうぞ、どうぞ」
光山少尉 「じゃ、俺の国の歌を唄うからな」
光山少尉はあぐらをかいて座り、両目を庇の下に隠すようにして戦闘帽を目深に被り直し、朝鮮民謡である
「アリラン」を歌った。この歌を知っていたトメは、光山少尉と一緒になって声を揃えた。
トメと娘たちは、嗚咽しながら大粒の涙を流した。最後には4人、肩を抱き合うようにして泣いた。
それから、光山少尉は形見として、トメに自らの財布を手渡した。
「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、
よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」
その夜の別れ際、トメは自分と娘たちが写った写真を、「これ、持ってって」と差し出した。
光山少尉は「そうかい、おばちゃん有難う。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しい事はないよ」
と言い残し、灯火管制のために暗い夜道を、手を振りながら三角兵舎がある知覧基地に戻って行ったという。
翌11日第7次航空総攻撃の実施により、光山少尉は午前6時33分、爆装した一式戦闘機「隼」に搭乗。
知覧飛行場の滑走路から出撃、陸軍計12隊29機、海軍計11隊69機と共に、沖縄近海を目指した。
航行する敵艦船群を確認した編隊は、特攻作戦を開始。結句、アメリカの空母1隻、駆逐艦2隻を「戦列復帰不能」
とした上、オランダ商船1隻に損傷を与えた。しかし、轟沈した艦船は1隻もなかった。
この戦闘において、光山少尉も散華。享年24歳であった。

戦後かなり経った平成20年(2008)5月ある日本人の働きかけにより、光山の故郷である泗川市に「帰郷記念碑」
が建立されたが、これに地元団体が激しく抗議。結果、除幕式が中止に追い込まれる事態にまで発展した。
泗川市の議員の一人は、「出撃前にアリランを唄ったなどという話は、とうてい信じられない」「日本軍に志願し
た人間を、この国の貢献者のように扱えるものか」と言い放った。
結句、記念碑は市によって撤去された。日本側の慰霊の気持ちを、韓国側が拒否するという歪な結末であった。
現在、光山の遺影は靖國神社の遊就館に民族の別なく飾られているが、韓国側にはこれに反対する声も多い。
現在の韓国は、自国を「戦勝国側」「侵略戦争の被害者」と位置付けているが、実際は「日本と共に戦った」のが
真実である。韓国は都合の良い歴史の歪曲を改め、史実を冷静に咀嚼する必要があるが、戦後の朝鮮戦争で
北と南に分かれた朝鮮にかつての日本統治時代の事を学ぶ機会は無いだろう。
戦後の韓国において「反日」という奔流が理性の堤防を決壊させる中、光山少尉は「対日協力者」「親日派」とし
て、あろうことか「国賊」「売国奴」などと罵倒されるに至った。
今の「韓国」「北朝鮮」はかつて光山少尉が愛した「朝鮮」では無い。
光山少尉の事は日本人として日本人が忘れない様にしていればそれでいいと思う。



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▲昭和20年5月11日 第7次航空総攻撃で出撃した各特攻振武隊の隊長達。
 左から第55振武隊長 黒木国雄少尉、第51振武隊長 荒木春雄少尉、第65振武隊長 桂正少尉


[ 第52振武隊 ]昭和20年5月18日~6月8日出撃
下平正人軍曹(長野県出身)/渡辺幸美伍長/田中勝伍長/中原常信少尉(徳島県出身)/太田増信伍長(愛知県出身)
荒川宣治少尉(山口県出身)/谷苗菊夫少尉(神奈川出身)/市川実少尉(石川県出身)
横山正雄少尉(東京都出身)/小石順一郎伍長(愛知県出身)/林田務伍長(熊本県出身)
須藤保少尉(栃木県出身5/10知覧飛行場にて殉職)
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▲第52振武隊員の勇士達。
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▲第52振武隊。下平正人軍曹 出撃前日、富屋食堂の“特攻の母”と特攻隊員に慕われた鳥浜トメさんに、
 「明日、お母さんの代わりに見送りに来てください」とお願いした。5/11 06:22出撃、突入戦死。


[ 第53振武隊 ](天誅隊)昭和20年5月18日~6月8日出撃
近間満男少尉(鹿児島県出身)/三島芳郎少尉(富山県射水郡出身)/小笠五夫少尉(長崎県出身)
山嵜 忠兵長(愛媛県出身)/梅野芳朗兵長(長崎県出身)/土器手茂生兵長(鹿児島県出身)
星忠治兵長(栃木県那須塩原市出身)/丸山好男兵長(福島県出身)/河井春男兵長(東京都出身)
中村孝之兵長(4/24福岡着?)/横山輝男兵長(5/16防府へ)/北川孝義兵長(5/16防府へ)
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▲第53振武隊員の勇士
※「陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く―愛するものを護るため、大空に飛び立った若者たち」
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▲この本の表紙になっている第53振武隊。
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▲出撃前、快心の笑みで写真におさまる第53振武隊員達。この数時間後、彼等はこの世にいない。
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▲5/18特攻出撃の日、地元の人達の深々とした礼の見送りに、軍用トラック上で笑顔で答礼する第53振武隊員。
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▲出撃20分前、最後の食事となるおにぎりを頬張る第53振武隊員。
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▲出撃前、知覧飛行場の本部に集合し、別盃を酌み交わす第53振武隊員。
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▲出撃前の「隼」戦闘機を見つめる振武隊員。
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▲5/28沖縄西方海上敵艦船群を目指し、知覧飛行場から出撃する第53振武隊長近間満男少尉搭乗機「隼」三型
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▲5/18知覧飛行場。戦友達のうち振る日の丸に見送られ、二度と生きて戻ることのない死地へと旅立った。
 第53振武隊の一式戦闘機「隼」三型。


[ 第54振武隊 ]昭和20年5月25日~6月6日出撃
葛西宏少尉(青森県出身)/三島邦夫少尉(愛媛県出身)/内海京一郎少尉(埼玉県出身)
大越通明少尉(栃木県出身)/坂内隆夫少尉(福島県出身)/松本勲少尉(茨城県出身)
中西伸一少尉(和歌山県出身)/上垣隆美少尉(兵庫県出身)/高井政満少尉(佐賀県出身)
岡本一利少尉(5/28知覧を出撃07:54喜界島に不時着。同日10:12第109振武寺田伍長を同乗させ
喜界島を出発、知覧に帰還。後の6/6再度出撃、戦死を遂げた)
小川光悦少尉(4/26京城付近にて冷却水漏れ不時着、負傷。6月福岡に帰還)
坂部潔少尉(5/25知覧より出撃。離陸時脚折損、飛行機大破炎上。顔部火傷)
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▲第54振武隊。三式戦闘機「飛燕」で5/25第8次航空総攻撃、5/28第9次航空総攻撃、6/6第10次航空総攻撃
に加わり、知覧から沖縄西方洋上の敵艦船群に突入。
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▲第54振武隊長 葛西宏少尉。第8次航空総攻撃で出撃。突入、戦死。後方は愛機の「飛燕」一型丁。
250キロ爆弾を搭載する為、操縦席後方の防弾板、無線機、機関砲4門中3門を外して軽量化を図った。
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▲特攻出撃していく陸軍三式戦闘機「飛燕」


[ 第55振武隊 ]昭和20年5月6日~5月28日出撃
伊藤敏夫少尉(熊本県出身)/北澤元治少尉(茨城県出身)/中島英一少尉(京都府出身)
黒木国雄少尉(宮崎県出身)/鷲尾克己少尉(兵庫県出身)/佐伯修少尉/菊地誠少尉
大岩泰雄少尉(東京都出身)/森清司少尉(京都府出身)/長谷川東少尉(防府入院)
太田穣少尉(調布で入院)/大澤茂少尉(5/17,08;55 芦屋にて試験飛行中墜落死)
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▲5/11出撃直前の第55振武隊長 黒木国雄少尉
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▲整備兵からマスコット人形を渡される北澤元治少尉5/6「飛燕」で出撃、沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
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▲5/25戦友の遺骨を胸に出撃する菊地誠少尉(戦友とは同期の第56振武隊三根耕造少尉(5/17試飛行中殉職)
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▲菊地誠少尉が遺骨を胸に出撃した戦友の第56振武隊三根耕造少尉(佐賀県多久市出身)
 東京帝国大学法学部在学、学徒出陣。調布より知覧に前進、試験飛行中不慮の戦傷死。
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▲5月11日朝6時出撃5分前、円陣を組んで「男なら」を手拍子をとって歌う第55、56振武隊隊員。
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▲昭和20年5月11日早朝、第七次航空総攻撃の日、知覧で攻撃隊隊員に訣別の訓示をする第六航空
軍司令官[菅原道大中将](左)「決しておまえたちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はおまえ
たちの後を追う」と語りながら、終戦の日「閣下(菅原道大)一機の特攻機の準備が出来ました」と部
下が伝えると、じろりと見据えた菅原は「今日から奉公の先が違う」とヌケヌケと答えたと言う。
若者にのみに犠牲を求め、全く痛痒を感じず、恥ずかしいとも思っていない。人間として最低の男だ。
戦後38年間を生き、多くを語らぬまま昭和58年(1983)12月29日95歳で死去。
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▲軍司令官 菅原道大中将(長崎県出身)
その他特攻隊員に対して「最後の一機で突入する」と叫んだ陸軍第六航空軍の幕僚達は下記の通り。
(参謀長)藤塚止戈夫中将/(参謀副長)青木喬少将 天号作戦により海軍鹿屋航空基地に派遣される。
(高級参謀)井戸田勇大佐/(作戦主任参謀)水町勝城中佐/参謀(教育及び作戦)川元浩中佐
(後方参謀)道場行道少佐/(情報参謀)藤本正雄少佐/参謀(作戦及び編成)倉澤清忠少佐(東京都出身)


[ 第56振武隊 ]昭和20年5月6日~6月11日出撃
池田元威少尉(大阪市出身)/金子範夫少尉(長野県出身)/小山信介少尉(神奈川県出身)
四家稔少尉(福島県出身)/上原良司少尉(長野県池田町出身)/小澤幸夫少尉/鈴木重幸少尉
川路晃少尉(東京都出身)/京谷英治少尉/橋本良男少尉(入院中)/朝倉豊少尉
三根耕造少尉(5/16、13:55 試飛行中不時着重傷、5/17死亡)
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▲第56振武隊員。昭和20年5月6、11、25日、6月11日特攻出撃。
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▲昭和20年4月頃、調布で編成完結したばかりの第56振武隊員。
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▲上原良司少尉と愛機の三式戦闘機一型。5/11の第7次航空総攻撃で知覧より出撃、突入戦死。
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▲上原良司少尉(佐賀県 目達原基地にて)
長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。
2人の兄、良春と龍男はともに慶應義塾大学医学部を卒業後に軍医となり、龍男は良司が慶大に進学した年に、ニューヘ
ブリデス諸島沖で潜水艦と共に沈んで戦死している。
旧制松本中学校を卒業後に上京し、慶應義塾大学予科に入学。1942年に慶應義塾大学経済学部に進学するが、経済学部
在学中に徴兵猶予停止によって学徒出陣、大学を繰り上げ卒業。1943年12月1日に陸軍入営。歩兵第50連隊に配属とな
り、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校、館林教育で操縦訓練を開始1944年に熊谷陸軍飛行学校卒業。
5/11,06:15他の隊員たちと『男なら』を合唱した後、愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗し知覧基地から出撃、約3時間
後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死。享年22歳
戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』では「所感」という題名の遺書が巻頭に掲載されている。この文章は多くの人々
の胸に響き、映画「きけ わだつみのこえ」やドキュメンタリー番組でも特集されるなど戦没学生の手記の代表格とされ
度々取り上げられている。上原良司少尉の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していた。
彼等は「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自
殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と、言い合っていたと言う。
上原少尉は特攻出撃前夜に、陸軍報道班員に「所感」を託していた。
以下上原少尉が残した「所感」を紹介する。

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたして
おります。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主
義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく
例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、かのイタリアのクロー
チェも言っているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまた既に敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次
から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと
思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとって
は嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。
既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。
世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情も
なくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。
理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。
精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば
愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。
ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一旦下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。
愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると
思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。
何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。
彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で
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▲上原良司少尉 沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入戦死。(享年22歳)
上原良司少尉の遺書
生を受けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。
温かき御両親の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送る事が出来ました。
そしてややもすれば我ままになりつつあった事もありました。
この間、御両親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。
それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くす事が、孝行する事である
と言う日本に於いては、私の行動をお許し下さる事と思います。

空中勤務者としての私は、毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。
一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。
このまま突っ込んで果して死ぬのだろうか、否、どうしても死ぬとは思えません。
そして、何かこう、突っ込んでみたい衝動に駈られた事もありました。

私は決して死を恐れてはいません。むしろ嬉しく感じます。何故ならば、懐かしい龍兄さんに会えると信ずるからです。
天国における再会こそ私の最も希わしい事です。私はいわゆる、死生観は持っていませんでした。
何となれば死生観そのものが、あくまで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確の死を怖れるの余りなす
事だと考えたからです。私は死を通じて天国における再会を信じているいるが故に、死を怖れないのです。
死をば、天国に上る過程なりと考える時、何ともありません。私は明確に云えば、自由主義に憧れていました。
日本が真に永久に続くためには自由主義が必用であると思ったからです。これは、馬鹿な事に聞えるかもしれません。
それは現在、日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。

戦争において勝敗を見んとすれば、その国の主義を見れば、事前に於て判明すると思います。
人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るより明らかであると思います。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上はただ、日本の自由、独立のため、喜んで、命を捧げます。

人間にとって一国の興亡は、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は、実に些細な事です。
驕れる者久しからずのたとえ通り、もし、この戦に米英が勝ったとしても彼等は必ず敗れる日が来る事を知るでしょう。
もし敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂により、粉となるのだと思うと、痛快です。
しかしのみならず、現在生きて良い気になっている彼等も、必ず死が来るのです。
ただ、早いか晩いかの差です。

離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい。
ではくれぐれも御自愛のほど祈ります。大きい兄さん、清子始め皆さんに宜しく。
ではさようなら、御機嫌良く、さらば永遠に。
御両親様へ良司より

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▲金子少尉と胴体に名前の書かれた三式戦闘機「飛燕」で5/6出撃、沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
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▲第56振武隊 鈴木重幸少尉。名前入りの愛機、「飛燕」一型丁の左翼には250キロ爆弾が懸吊されている。
 5/25 沖縄西方の敵艦船に突入、戦死。
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▲昭和20年5月25日慶良間列島近海で米輸送駆逐艦ローパー(USS ROPER)APD-20に特攻機が突入。小破した。


[ 第57振武隊 ]昭和20年5月25日宮崎県都城東飛行場より出撃
伊藤喜得少尉(宮城県出身)/唐澤鐵次郎少尉(静岡県出身)/戸澤吾郎少尉(秋田県出身)
吉川富治少尉(東京都出身)/青木清二少尉(埼玉県出身)/小林昭二少尉(長野県出身)
桟武夫少尉(岡山県出身)/志水一少尉(兵庫県出身)/高埜徳少尉(千葉県出身)
西田久少尉(三重県出身)/山下孝之少尉(熊本県出身)
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▲第57振武隊
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▲第57振武隊吉川富治少尉、戸沢五郎少尉。5/25四式戦闘機で出撃。突入、戦死
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▲出撃前に辞世の書“魁”を揮毫する第57振武隊 隊長 伊藤喜得少尉。
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▲出撃前の打ち合わせをする第57振武隊員。左より吉川富治少尉、伊東喜得隊長、戸澤五郎少尉。
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▲軍刀を手に、胴体に“必殺”の文字の書かれた四式戦闘機に乗り込もうとする唐澤鐵次郎大尉。
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▲整備兵より花束をもらい最後の別れ。昭和20年5月25日、沖縄西方洋上の敵艦に突入、戦死。
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▲愛機の四式戦闘機と写る第57振武隊 志水一伍長。5/25沖縄西方洋上の敵艦船に突入、戦死。
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▲宮崎県の都城東飛行場より出撃直前の第57振武隊 四式戦闘機「疾風」。

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▲集合した航士第57期生の特攻隊長達。左2人目より第58振武隊長 高柳隆少尉、第57振武隊長 伊藤喜得少尉、
第61振武隊長 岡本勇少尉。全員沖縄の海に散った。


[ 第58振武隊 ](髑髏隊)昭和20年5月25日~5月28日都城東飛行場より出撃
高柳隆少尉(神奈川出身)/上田徳少尉(福岡出身)/高田光太郎少尉(福岡出身)
西村潤二少尉(京都府出身)/宮尾克彦少尉(東京都出身)/國吉秀俊軍曹(高知県出身)
栄龍志伍長(鹿児島県出身)/藤山恒彰伍長(長崎県出身)/今村岩美伍長(福岡県筑紫野市出身)
田宮治隆大尉/紺田博少尉(北海道出身)/富永靖少尉(長崎県出身)※富永中将の息子さん
井野隆伍長(隈ノ庄飛行場に不時着 5/28都城東飛行場に引返す)
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▲出撃直前の第58振武隊の四式戦闘機。この部隊は尾翼に釜ゆでにされたドクロマークが描かれている。
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▲第58振武隊 高柳隆少尉と愛機の四式戦闘機「疾風」。5/25沖縄西方洋上の敵艦船に突入、戦死。
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▲第58振武隊員。後は対空偽装された第58振武隊部隊の四式戦戦闘機「疾風」。


[ 第59振武隊 ]都城東飛行場より出撃
野口肇太郎少尉/芦刈茂金少尉/田中平一少尉/大竹俍一少尉/御宮司秀雄少尉
河合徳和少尉(5/23防府飛行場にて殉職)
林一男少尉(5/28出撃、口之永良部島に不時着。小舟を使い自力で帰還。都城東飛行場で
第21突撃隊(集成振武隊)に編入されたが、敗戦直後の8月18日拳銃自決を遂げる。
近藤一一伍長/増岡武男伍長/小川榮伍長/永添照彦伍長/黒田政勝伍長


[ 第60振武隊 ]昭和20年5月4日~5月11日都城東飛行場より出撃
平柳芳郎大尉(埼玉県出身)/柴田治少尉(徳島県出身)/永田利夫伍長(鹿児島県出身)
吉水成明少尉(鹿児島県出身)/若杉正喜伍長(北海道出身)/田中治伍長(福井県出身)
手塚進伍長/村岡和男少尉/倉元利雄少尉/荒正彦伍長/堀元官一伍長
向井忠伍長(広島県出身)5/25知覧より出撃、(与論島に不時着。生存?)
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▲第60振武隊。四式戦闘機「疾風」で5/4、11、25日都城東飛行場より出撃。
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▲第60振武隊の平柳隊長を囲み、訓練についての反省を行う隊員達。
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▲平柳芳郎少尉、明野教導飛行師団教官を経て第60振武隊隊長に。5/4第6次航空総攻撃で突入、戦死
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▲愛機四式戦闘機「疾風」の操縦席に立つ第60振武隊 若杉正喜伍長。
 「いざ征かん散りて砕けん若桜 身は深海に藻屑たらなむ」の詩を残し5/4突入、戦死
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▲陸軍四式戦闘機「疾風」


[ 第61振武隊 ]昭和20年4月28日都城東飛行場より出撃
岡本勇大尉(和歌山県出身)/若杉潤二郎大尉(長崎県出身)/長谷川三郎少尉(岐阜県出身)
田中英男少尉(新潟県出身)/請川房夫少尉(北海道出身)/香川俊一少尉(香川県出身)
篠原穂津美少尉(佐賀県出身)/高野博軍曹(宮城県伊具郡丸森町出身)
新井武夫少尉(群馬県出身)※昭和20年5月25日出撃
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▲主翼下面に250㎏爆弾、左主翼下面に200リットル入落下タンクを懸吊、都城飛行場を出撃する四式戦闘機。


[ 第65振武隊 ]昭和20年5月11日出撃
桂正少尉/田中藤次郎少尉/石塚糠四郎少尉
以下、飛行機の整備不良等で出撃できず、福岡市の陸軍「振武寮」に送られた。
三島茂少尉(5/24菊池陸軍病院入院)/鈴木龍雄少尉(5/14→福岡)/木原宇一少尉(5/14→福岡)
後藤博司少尉(5/14→福岡)/川合平三少尉(5/14→福岡)/渡邊準平少尉(5/14→福岡)
吉田善一少尉(4/23左肺骨折顔面打撲入院)/高橋静夫少尉(5/14→福岡)/片山啓二少尉(5/14→福岡)
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▲第65振武隊員。昭和20年3月29日明野にて編成。97式戦闘機で5/11 3機が突入した。
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▲片山啓二少尉(NHKスペシャル「学徒兵許されざる帰還 陸軍特攻隊の悲劇」で証言しています。


[ 第67振武隊 ]昭和20年4月28日出撃
金子正男少尉/寺田浩一少尉/清水眞三少尉/長澤徳治少尉/網代一少尉/市川敏邦少尉/小池龍夫少尉(5/14福岡)
山下尚武少尉(5/14福岡)/山岸聡少尉(5/14福岡)/米谷悌少尉(5/14福岡)/後藤幸一郎少尉(5/10福岡)
幸田二郎少尉(知覧飛行場離陸滑走時に進路を誤った第55振武隊大澤茂少尉の3式戦が、第67振武隊の準備線に
突っ込み、見送りに出ていた幸田二郎少尉他1名がはねられて即死)
※大澤少尉は、代機受領の命を受け芦屋飛行場に於いて試験飛行を実施中5/17,08:55墜落死。


[ 第68振武隊 ]昭和20年4月8日~4月9日喜界島より出撃
山口怡一少尉(佐賀県出身)/山田政夫少尉/山田勇少尉(京都府出身)/臼井常政少尉
千代田寛少尉/加藤武夫少尉/橋本武見少尉/藤坂亮少尉
長尾秀任少尉/長木義信少尉/沖野正人軍曹/片山悦次少尉(埼玉県出身)4/8 知覧より出撃
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▲第68振武隊、隊長山口怡一少尉と愛機97式戦闘機。4/9 17:00喜界島より出撃。突入、戦死
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▲4/9米駆逐艦ステレット(USS Sterett)に「第68か42振武隊」と見られる特攻機が突入、中破させた。


[ 第69振武隊 ](池田隊)昭和20年4月12日~4月16日出撃
池田亨少尉(静岡県出身)/岡安明少尉(埼玉県出身)/持木恒二少尉(北海道出身)
柳生諭少尉(岐阜県出身)/本島桂一少尉(長野県出身)
岡安明少尉や本島桂一少尉は「ドラマ「なでしこ隊」YouTube」(『なでしこ隊~少女達だけが見た特攻隊・封印された
23日間~』)で取り上げられている。
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▲第69振武隊池田亨少尉「れんげの花輪の特攻隊長」と呼ばれ、知覧高等女学校の女生徒達に慕われた。
 昭和20年4月12日沖縄西方海上の敵艦船に突入戦死。
[ 知覧特攻機地の思い出 ]を、当時14歳~15歳、知覧高等女学校3年生達の「なでしこ隊」のリーダー永崎笙子
(旧姓・前田)さんが~朗読による平和の祈り~で語っておられます。
<出撃前夜>
特攻隊の隊長は、毎日、戦闘指揮所へ出撃命令の授与の為に出頭します。兵舎に帰ってこられる隊長のお顔が普段と
は違うのを見ると、私たちはそれが何を意味するのか、すぐに察しがつきました。
 その時私たちは、この門出に「ご成功をお祈りします」と言っていいのか、言葉に迷いました。
隊員の方々には確実な死が待っているからです。私たちは言葉を失い、ただ黙って頭を下げるだけでした。
出撃日を知らされた隊員の中には、兵舎で頭から毛布を被って横になり、長い間身じろぎ一つしない方もおられました。
出撃の前夜は壮行会があり、酒を酌み交わしながら隊歌を歌ったりして、賑やかに過ごされた後、薄暗い裸電球の下で
遺書を書かれたり、別れの手紙をお書きになったり、あるいは、そっと抜け出て三角兵舎の屋根に腹ばいになり、月明
かりの中で何かを書かれている方もいらっしゃいました。
これはあとでわかったことですが、先生と生徒一同に対する感謝の手紙でした。
 そして、それらの書簡や遺品は、私達が帰るまぎわになると「家族の許へ送ってくれるように」と度々依頼を受けま
した。隊員の私信は厳しく検閲されていながら、幸いなことに、私たちは所持品の検査を受けることもなく、無事に家
まで持ち帰る事ができました。家に帰ると早速、発信人を自分の名前にしたり、住所を自分の番地にして投函しました。
<出撃>
 ある日、私達は当番兵から、特攻機におにぎりを二個ずつ積み込むように言われました。
ただ、おにぎりを配るだけでは、どうしても私たちの気持ちを現す事が出来ない様な気がして、機中の隊員お方に桜の
小枝を差し上げましたところ、隊員の方に大変喜ばれ、「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返し言われました。
その様子から、「時が来れば何の未練もなく散ってゆく桜の花のように、武士のいさぎよさを見た」と言った人もいま
した。それ以来、私たちは出撃する特攻機の操縦席を、桜の花で飾る様になりました。当時、知覧は桜の盛りでした。
4月12日の朝の事です。私達は、出撃される特攻隊の方々に花の首飾りを作って上げようと思い、田圃に下りてレンゲ
の花を摘んでいました。そこへ岡安明少尉が通りかかり、突然立ち止まると胸の階級章を外して、私達の方へと投げら
れたのです。そして、そのまま飛行機のある方へ立ち去られました。
その瞬間、私たちはハッとしました。くるべき時が来た、二度と再び会う事はないであろう、自分は階級にとらわれず
出撃する、といった決意の印として受けとりました。岡安少尉は兵舎には帰られず、その日の午後4時頃そのまま出撃
されました。
岡安 明少尉(享年23歳)遺書
 父上様
長い間の御愛育有難う御座居ました。何一つ孝行らしきものもせず先に征きます。
最後に只一つの御奉公、悦んでやつて下さい。御健康を祈ります。  
 母上様
長い間の御愛撫有難う御座居ました。何一つ孝行もせず済みませんでした。
明無き後も、御健康に充分注意されて、強く生きて下さい。
 昭和20年4月6日

岡安 明少尉家族全員に遺書を書いている。祖母には「長生きしてください」と。
兄には「結婚のお祝い」を。姉には「末永き幸福」を。妹、弟には「元気で成人するように」と。

 特攻隊の中には、兵長、伍長、軍曹、曹長、少尉、中尉、大尉など、色々な階級の方がいらっしゃいました。
しかし、私達には、特攻隊員同士は階級の上下というよりも、対等な人間としての温かい付き合いの中で、一緒に死ぬ
地に赴く仲間と言う印象を強く受けました。出撃の時刻が近づくと、振武隊ごとに戦闘指揮所の前へ整列して、軍司令
官又は作戦参謀から激励の言葉を受け、皇居のある東の方へ向いて遥拝した後、別れの盃がかわされました。
出発までのひとときを、車座になって隊歌を歌ったり、恩賜の煙草をふかしたりして思い思いに過ごし、やがて搭乗時
刻になりますと、黙って顔を見交わされたり、肩をたたきあってから、自分の飛行機に向かって散って行かれました。
 知覧基地は、民間人が飛行機へ近づくのを厳しく禁じていましたが、特攻隊の方々が苦心して出撃の日をご家族へ知
らせる事が出来たのでしょうか。そのうちに特攻機を見送る人々の姿が戦闘指揮所近くに見受けられる様になりました。
 ある日のこと、搭乗したばかりの特攻隊員の所へ息せき切って走りよる初老の男の方がいらっしゃいました。
ふたことみこと言葉を交わしてから来ていた羽織の紐をもぎ取ると、それを隊員に差し出しました。二人は手を固く握
りしめたまま、身じろぎもしないで思いを込めた眼差しを交わしていました。
その様子から、その男の方が、隊員のお父様であることがわかり、胸が熱くなりました。
 やがて羽織の紐を乗せて特攻機は飛び立ちましたが、機影が開聞岳の向こうへ消えたとも、乱れた羽織姿のままで南
の空をいつまでも見つめながら、悄然と立ちつくしておられました。親子の絆を羽織の紐に託して永遠の別れを告げら
れたその情景に、私達は思わずもらい泣きをしてしまいました。離陸した特攻機は、飛行場の上空を旋回しながら隊別
に三機編隊を組み、編隊を組み終えると機首を戦闘指揮所へ向けて急降下しました。
そして皆一様に三回、翼を左右に振りながら最後の別れを告げると、急上昇して開門岳の彼方へ消えていきました。
基地に残った隊員や整備兵達は一斉に帽子を振り、私達も桜の枝やハンカチを振って見送りました。
機影が見えなくなってからも、私達はしばらく呆然と立ちつくし、その後で急に襲ってkる激しい悲しみに堰を切った様
に泣き出しました。
でも、私達は涙の乾かないうちに、また次に到着される特攻隊の方々をお世話しなければなりませんでした。
そんな悲しみに堪えながら三角兵舎へ戻る事が度々でした。
寒々と静まり返った兵舎内に足をふみいれますと新たな思いにかられて、とめどもなく涙が頬を流れ落ちました。
<むすび>
 生あるものは必ず滅し、会えば必ず別れなければなりません。人との出会いは、別れへの前兆でもあります。
特攻隊の方々との出会いは、ほんのつかの間の出来事で終わりました。
そして、さまざまな状況は50年の間に目まぐるしく変わっていきました。人はよく「戦争は終わった」と言います。
で、も私達の心の中の戦後は終わらないままに今日まできました。
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▲昭和20年4月上旬、知覧で写真におさまる出撃を控えた特攻隊員と「なでしこ隊」


[ 第70振武隊 ](葉隠隊)昭和20年5月11日~5月28日出撃
佐久田潤少尉/神内敏雄軍曹/三村龍弘伍長(徳島県徳島市出身)/朝倉岩次伍長(愛知県出身)
浅見忠次伍長(埼玉県出身)/渡邊輝義伍長/水川豊伍長(佐賀県嬉野市出身)/藤田文六伍長(三重県出身)
田片恒之輔伍長(岡山県出身)/山口啓一伍長/山田良治郎伍長/河村英世伍長(東京都出身)
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▲愛機の一式戦闘機「隼」三型を背にした第70振武隊長 佐久田潤少尉。5/11 06:35出撃。突入、戦死
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▲浅見忠二伍長 富屋食堂では手巻きの蓄音機を独り占めする音楽好きの心優しい青年だった。
 何故かネコが大嫌いだったという。5/28突入、戦死。


[ 第76振武隊 ]昭和20年4月28日出撃
岡村博二中尉(広島県出身)/境忠軍曹(北海道出身)/長谷川武弘伍長(新潟県出身)/本田保伍長(航空事故殉職)
山口慶喜伍長(山梨県出身)/鈴木啓之伍長(兵庫県出身)/中川芳穂伍長(新潟県出身)
久冨基作少尉(福岡県豊前市出身)/木村廣秋両少尉/垣尾幸男伍長/小島英雄伍長/戸次政雄軍曹
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▲4/27知覧飛行場三角兵舎で、慰問人形を笑顔で手に取る第76振武隊員。この翌日人形と共に突入散華。
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▲第76振武隊員。旧式である97式戦闘機で特攻出撃した。(加古川陸軍飛行場にて撮影)
前列左から山口伍長/境軍曹/岡村隊長/木村少尉/垣尾伍長
後列左から小島伍長/中川伍長/鈴木伍長/長谷川伍長/久富少尉/戸次軍曹/(本田伍長を失った後の撮影)
後方の97式戦闘機の垂直尾翼には7と6を組み合わせ、爆弾型に図案化した部隊章が描かれている。
4/28第六航空軍は第5次航空総攻撃を発動16:50岡村隊長/境軍曹/長谷川伍長/山口伍長/中川伍長/鈴木伍長は
第67振武隊(7機)第77振武隊(7機)第106振武隊(4機)第107振武隊(2機)第108振武隊(1機)と共に知覧出撃。
沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
5/11第六航空軍は第7次航空總攻撃を発動16:41久富少尉/戸次軍曹/小島伍長が知覧出撃、
嘉手納沖の敵船団に突入戦死。
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▲久冨基作少尉 9人兄弟の末っ子で長男。
※長男は特攻隊員になる事は無いという間違った解釈をしている人が多いが、実は違うことが解る。


[ 第77振武隊 ]昭和20年4月28日~5月4日97式戦闘機で出撃
須山佳市少尉(静岡県出身)4/28徳之島不時着後生死不明
長谷川榮七伍長(愛知県出身)4/28徳之島不時着後生死不明
鈴木三男伍長(福島県出身)/西嶋重利伍長(5/5付 原所属ニ転属)
本間忠男伍長(新潟県出身)/三枝英明伍長(徳島県出身)/木村正碩伍長(朝鮮出身)
寺尾正通伍長(兵庫県出身)/中秀夫伍長(奈良県出身)/相花信夫伍長(宮城県出身)
金子誓伍長(福岡県出身)4/28徳之島不時着 4/29,05:00徳之島より再出撃、戦死。
秋村友芳伍長(4/28,16:50知覧出撃後、中ノ島ニ不時着)
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▲第77振武隊 相花信夫伍長5/4出撃、突入戦死。享年18歳
相花信夫伍長[ 遺書 ] 母を慕いて

母上お元気ですか。永い間本当に有難うございました。
我六歳の時より育て下されし母。継母と言え此の種の女にある如き不祥事は一度たりてなく
慈しみ育て下されし母、有難い母、尊い母

俺は幸福だった。遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。
お母さん お母さん お母さんと


[ 第78振武隊 ]昭和20年5月4日~5月25日出撃
吉田節郎少尉(大阪府出身)/勝又勝男少尉(千葉県出身)/河野博少尉(熊本県出身)
種田實少尉(北海道出身)/坪谷邦彦中尉5/2航空事故で殉職/樺島資彦少尉(鹿児島県出身)
土谷恭三少尉(栃木県出身)/内藤寛次郎少尉(栃木県出身)/佐藤利男少尉(神奈川県出身)
湯澤三壽少尉/瀬尾努少尉(埼玉県出身)
田宮治隆少尉(5/25喜界島に不時着5/26第21振武隊今井光少尉機に同乗し知覧に帰還中行方不明)
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▲第78振武隊若桜隊。左より内藤寛次郎少尉、勝又勝雄少尉、佐藤利男少尉、河野博少尉、種田実少尉。
内藤少尉は5/25、写真の他の隊員は5/4に知覧から一式戦闘機「隼」で沖縄西方の敵艦船に突入戦死。
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▲河野博少尉は尺八を肌身離さず、富屋食堂に来たときは、窓際に座って何時間も吹いていた。
 「明日はこの尺八をもって敵艦に突入するよ。」と言い残して5/4出撃、突入戦死。
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▲再び還らぬ壮途につく爆装一式戦闘機「隼」 開聞岳の彼方に一機再た一機と飛び去って征った・・・・。


[ 第79振武隊 ]昭和20年4月16日出撃(訓練機を特攻作戦に初めて投入)
(隊長)山田信義大尉(愛知県出身享年27歳)/郷田志郎大尉(大分県出身)/二村源八大尉(大分県出身)
清水義雄大尉(滋賀県出身)/田中富太郎大尉(群馬県出身)/川島猪之助少尉(栃木県出身)
難波武士少尉(岡山県出身)佐藤新平少尉(岩手県出身)上野實少尉(茨城県出身)/山本研一少尉(京都府出身)
池田保男大尉(新潟県出身)途中、爆弾が機体から落下した為、知覧に引き返す。4/22国分基地より再出撃、戦死
高橋静夫少尉(東京都出身)敵機の攻撃を受けサンゴ礁に不時着。奄美大島の島民に救出された後、
福岡県「振武寮」で再教育を受ける。高橋少尉は出撃命令を待ったがそのまま終戦。
昭和61年に亡くなるまで、特攻隊や戦争の事について、家族らにも一言も語らなかったと言う。
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▲第79振武隊山本研一少尉(享年22歳)4/16第3次航空総攻撃で沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
 山本少尉と熊谷陸軍飛行学校桶川分教場から山口県(下関陸軍飛行場)まで同乗した、当時19歳だった元整備兵の
 柳井政徳さんが同時の事を語っておられます。訓練機で特攻隊が出撃した、陸軍飛行学校YouTube
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▲昭和20年4月5日陸軍初の練習機による特攻となる第79振武隊が熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)
 から次々と飛び立つ。99式高等練習機12機の内6機の後部座席には整備員が同乗していた。
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▲第79振武隊の98式直協偵察機、これは99式高等練習機を特攻仕様に改造した機で、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
 から知覧まで11日をかけ、日本本土各航空基地を経由しながら埼玉県から鹿児島県まで移動した。
 桶川(埼玉県)→各務原(岐阜県)→小月(山口県)→知覧(鹿児島県)
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▲第79振武隊員の勇士。
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▲第79振武隊 佐藤新平少尉4/16出撃、突入戦死。享年23歳
佐藤新平少尉[ 遺書 ]
三月二十七日
待望の日は遂に来た。特別攻撃隊の一員として悠久の大義に生く。日本男児として、又、空中戦士として、
之に過ぐる喜びは無し。
有難き御世に生まれ、そして育てられし広恩、必死、必中、唯これを以て報いんのみ。
思えば大空に志し、翼の生活に入り、早六歳。昨年より特別攻撃隊の熱望三度にして、漸く(ようやく)希望
入れらる。神我を見捨て給わ ず。
六歳に亙り(わたり)、練り鍛えし腕に十二分の自信あり。唯健康に充分注意なし、轟沈の訓練に励まんのみ。
父上、母上様も御喜び下さい。軍人としての修養は只立派な死場所を得るにあります。
最後まで操縦桿を握って死ねる有難い死場所を得ることが出来、新平、幸福感で一 杯です。
亡き兄もきっと喜んでくれる事でしょう。これから轟沈の日まで日誌を続けます。
死生有命 不足論 男児従容 散大空
三月二十八日
午前新しき航空服一式支給さる。
午後、部隊長と共に熊谷へ飛行機受領に行く。御園大尉殿に今度の事を申告、御礼をのぶ。
愈々明日から轟沈の訓練の予定なり。豊崎軍曹より「愈々出発沖縄沖の戦果に期待あれ」との伝言あり。
唯命中を祈るのみ。
九八式直協同偵察機
▲陸軍98式直協偵察機[キ36]/陸軍99式高等練習機[キ55] 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会


[ 第80振武隊 ]昭和20年4月22日~4月27日出撃
杉戸勝平大尉(栃木県出身)/川瀬明大尉(北海道出身)/高橋弘中尉(栃木県出身)
田畑與四郎少尉(北海道出身)/上成義徳少尉(鹿児島県西之表市出身)/川上喜一郎少尉(新潟県出身)
平木義範(李允範)(イ・ユンポン)少尉(朝鮮出身)/五十嵐慎二少尉(北海道出身)/永瀬一則少尉(島根県出身)
大友勉少尉(兵庫県出身)/中村鐡一少尉(大分県出身)/渡辺正興少尉(愛媛県出身)
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▲第80振武隊員の勇士。昭和20年4月22、27日に特攻出撃、12名全員戦死。
第80振武隊 平木義範(李允範)(イ・ユンポン)少尉(朝鮮出身)
大正10年12月に韓国の全羅南道で生まれた李充範(日本名・平木義範)は、昭和12年頃に日本へ移住、熊本県有明海
に面した鏡町が終の棲家になった。以来、日本で成長していった李青年は昭和14年12月、米子航養所5期生として入所
した。当時の教官は馬詰太郎。在学中、平木義範という日本名に変わった。彼の弟も特攻を志願、8月20日に出撃予定だ
ったが、終戦により出撃は無かった。李一家は、戦後、韓国へ引き上げたが「朝鮮民族の裏切り者」としての評価を受け
る屈辱を受ける事になる。


[ 第82振武隊 ]昭和20年4月22日~4月27日出撃(知覧から出撃したかは不確定)
横田利夫少尉/沼田 泉少尉/人見秀豊少尉/近藤 瑩軍曹/松元繁美伍長/山崎好一伍長
山口文夫伍長/早水一二三伍長/井上勝美伍長/見吉春雄伍長/石木操伍長/真杉尚之伍長


[ 第103振武隊 ](第二降魔隊)昭和20年4月12日~4月23日出撃
石切山文一少尉(静岡県出身)/板倉震少尉(埼玉県出身)/源善正少尉(大阪府出身)
渡邊三郎軍曹(群馬県出身)/青木俊英伍長(東京都出身)/内田新一伍長(宮崎県出身)
城所一郎伍長(愛知県出身)/滝澤泉三伍長(群馬県出身)/長家利左衛門伍長(福井県出身)
宗平誠三伍長(広島県出身)/矢島嚆矢伍長(石川県出身)/岩井定好伍長(岐阜県出身)
大野一郎少尉(岐阜県出身)/竹下政夫軍曹(5/15目達原生存)/乾太一郎伍長(5/18目達原生存)
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▲第103振武隊(第2降魔隊)隊長の石切山文一大尉。4/12、99式襲撃機で隊員10名
 と共に沖縄西方海上の偵艦船群に突入戦死。


[ 第105振武隊 ](第4降魔隊)昭和20年4月22日~5月25日97式戦闘機で出撃
林義則少尉(岐阜県出身)/中川昌俊少尉(広島県出身)
藤野道人軍曹(福岡県出身)4/22 14:40知覧出撃後、徳ノ島近海で米軍機と空中戦、墜落戦死
小野寅蔵伍長(秋田県出身)/陣内政治伍長(佐賀県出身) 
田渕哲雄伍長(長崎県出身)/服部武雄伍長(愛知県出身)
山本儀吉伍長(兵庫県出身)仲西久雄伍長(兵庫県出身)
穴田宏志伍長(5/5付第52航空師団司令部転属)/石川正美伍長(滋賀県出身)
佐藤享伍長(屋久島不時着5/8知覧ヘ前進?)/森重丈治伍長(菊池1/16?)
日下弘實伍長(広島県出身)4/22徳之島不時着4/23徳之島より単機出撃、突入戦死
※渡部利廣少尉(鳥取県出身)太刀洗平和記念館に展示されている97式戦闘機を4/14大邱
(朝鮮)から知覧に向かう途中エンジントラブルにより博多湾雁の巣沖に不時着水させた人物。4/22突入戦死
[ 渡部利廣少尉の出撃前日の日記 ]
明日はいよいよ出撃です。花々しく戦って必ず必ず敵艦をほうむります。
皆様ご安心下さい。私の心はいま日本晴れです。
お母さん、おばあさん、お父さん、おじいさん、皆様  さようなら

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▲第105振武隊(第4降魔隊)出発の申告をする隊長 林義則少尉(中央抜刀)
「亡き人の今はの際の足跡を 遺し給ひし知覧恋しく」
と知覧の慰霊祭でこの詩を詠まれた小栗楓子(ふうこ)さん(95歳)は第105振武隊隊長として4/22沖縄沖で戦死した
林義則少尉(当時24歳)の婚約者でした。小栗さんは戦後、林義則少尉を慰霊されてきました。
そして少尉が眠る沖縄の海に思いを馳せてこうおっしゃっています。
「私が死んだら、お骨は沖縄の海に沈めてほしい。あの人を捜して巡礼の旅に出るつもり。あの人に会えるかしら」
と涙をあふれさせ、言葉をつながれた。
「私はあの人のおかげで生かさせてもらった。でも今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない。あの人たちは何の
為に死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを、今の日本人は忘れてしまったのかしら」 と・・・・。

※徳之島には米軍機と交戦し撃墜された藤野道人軍曹の辞世の句碑が建立されている。
藤野道人軍曹は満洲公主嶺で特攻第105振武隊員となる。4/22徳之島トンバラ岩の海中に没した(享年21歳)
1979年、同期の第11期少飛会によって、現地に「黒潮の塔」慰霊碑が建立され、藤野軍曹が公主嶺で詠んだ辞世の
句が、翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
散華した藤野道人軍曹を陸揚げした時、曹長の腕と足はしっかり機に結んであったと、潜水夫は証言している。
陸海軍共、多くの特攻隊員は飛行機に自身をくくりつけ、失敗した時も捕虜にならない様、必ず死ぬ事を強要されて
いた。藤野軍曹は地元住民に丁重に葬られ、こうして戦死が確認された為、特攻戦死(2階級特進)ではなく、通常の
戦死として扱われている。同様の状況で戦死した特攻隊員は多数いるにもかかわらず、たまたま状況が明らかになっ
たが為にである。あまりにも機械的・事務的な対応といわざるを得ない。
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「沖縄戦」で米軍が撮影した特攻隊員の遺体。コンクリートブロックを腰に縛りつけている。
※写真の特攻隊員は藤野道人軍曹ではありません(陸海軍どちらのパイロットかは不明)
藤野軍曹の妹さんの藤野幸子さん(享年80歳)は、戦後兄の名誉を認めて欲しいと、援護局に乗り込んで行って訴えた。
それでも結局は特攻戦死者として認められる事はなかったという。あまりにも冷徹な日本国の判断である・・・。


[ 第106振武隊 ]昭和20年4月16日~5月4日出撃
清原勉大尉(京都府出身)/安田義男大尉(神奈川県出身)/石田耕治大尉(福岡県出身)
丹下寿雄少尉(愛知県出身)/河東繁少尉(朝鮮出身)/鈴木勇少尉(福島県出身)
二宮淳一少尉(大分県出身)/松原徳雄少尉(和歌山県出身)/宮之脇勇少尉(鹿児島県出身)
袴田治夫少尉(静岡県出身)/榎本孝一少尉(大阪府出身)/藤原勇少尉(静岡県出身)
尾鷲二郎少尉(福岡県出身)
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▲出撃前日、知覧飛行場三角兵舎付近の松林を背景に記念撮影する第106振武隊白虎隊(第5降魔隊)
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▲第106振武隊 袴田治夫伍長。5/4第6次航空総攻撃で沖縄西方の敵艦船に突入、戦死


[ 第107振武隊 ]昭和20年4月13日~4月16日出撃
大内清少佐(茨城県出身)/粟津重信大尉(京都府出身)/井口清大尉(大分県出身)
北村早苗大尉(長野県出身)/若林富作大尉(富山県出身)/山本恵照大尉(三重県出身)
玉澤和俊少尉(山口県出身)/渡辺市郎少尉(福島県出身)/間中進一郎少尉(茨城県出身)
新井行雄少尉(神奈川県出身)/細金政吉少尉(東京都出身)/平山巌少尉(千葉県出身)
橋本孝雄少尉(群馬県出身)/降矢誠二少尉(福島県出身)
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▲第107振武隊(第六降魔隊)97式戦闘機で4/13、16出撃、沖縄西方洋上敵艦に突入戦死。
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▲何の場面か不明だが第107振武隊員が別盃を酌み交わしている。知覧の子供達も写っている。
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▲陸軍97式戦闘機


[ 第108振武隊 ]昭和20年4月16日~4月28日出撃
真鍋照雄少尉/古賀俊行少尉/長吉恒夫軍曹/白倉聞治軍曹/渡邊次雄軍曹/川又保雄軍曹
中村正軍曹/尾白文四郎伍長/八下田孝二伍長/土屋嘉光伍長/沼田忠伍長/井花敏夫伍長
小川斉少尉/衛藤周蔵伍長(第52航空師団司令部へ転属(5/5附)/加納岩男伍長(第52航空師団司令部へ転属(5/5附)
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▲井花敏夫伍長 17歳と1ヶ月での出撃であった・・・。


[ 第109振武隊 ](第8降魔隊)昭和20年4月22日~4月28日出撃
菊池繁三郎少尉(北海道出身)/大石安一少尉(京都府出身)/助田五助少尉(福井県出身)
平塚光雄伍長(東京都出身)/武田次郎軍曹(静岡県出身)/桐山勇少尉(東京都出身)
小林米太郎少尉(神奈川県出身)
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▲菊池繁三郎少尉(左)と武田次郎軍曹。菊池少尉は昭和20年4月22日、武田軍曹は27日突入戦死。
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▲平塚光雄伍長。4月22日旧式の97式戦闘機で出撃。第4次航空総攻撃で突入戦死。


[ 第110振武隊 ](血風隊)昭和20年5月26日出撃
田中隼人大尉(福岡県出身)/大友昭平少尉(宮城県出身)/清澤廣少尉(長野県出身)
中牟田正雄少尉(佐賀県出身)/小浦和夫少尉(東京都出身)/西村敬次郎少尉(大阪府出身)
太田巌軍曹(静岡県出身)
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▲3式戦闘機の第110振武隊5/26知覧を出撃、沖縄西方の敵艦船群に突入、散華した。


[ 第111振武隊 ](若桜隊)昭和20年6月3日10:00頃出撃
鈴木泰治少尉(静岡県出身)/掛井義則少尉(広島県出身)/木村賢次伍長(千葉県出身)
近藤豊伍長(愛知県出身)/中山完弘伍長(広島県出身)/松浦幸義伍長(宮崎県出身)
渡修一伍長(徳島県出身)/若松藤夫伍長(鹿児島県霧島市出身)
牛浜 昭伍長(徳之島に不時着)/
島田昌往伍長(オイル漏れの為、徳之島面縄(おもなわ)集落の海岸に不時着。負傷した島田伍長は民家で1か月程
世話になっていたが、住民に頼んで漁船を出してもらい奄美大島に向った。その後古仁屋から出る水上機に便乗して
7/20頃内地に帰還。
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▲第111振武隊員勇士
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▲第111振武隊員。6/3第10次航空総攻撃の一隊として薄暮攻撃の為16:30、97式戦闘機で知覧を出撃。
沖縄西方海上の敵艦船に突入、散華した。

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▲中国の天津・張貴荘飛行場での出陣式を行う若桜隊、必殺隊、天剣隊(第111~113振武隊)各隊員

[ 第112振武隊 ](必殺隊)昭和20年6月3日~6月10日出撃
西崎重男大尉(東京都出身)/高村統一郎大尉(山口県出身)/福田勝治大尉(山形県出身)
新井義男少尉(群馬県出身)/北野恒雄少尉(大阪府出身)/高塚茂久少尉(大分県出身)
中野繁利少尉(佐賀県出身)/松村富治少尉(佐賀県出身)/福田治郎少尉(神奈川県出身)
杉山龍治少尉(愛知県出身)/真高郁夫少尉(鹿児島県出身)/檜山晴雄(6/3與論島ニ不時着)
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▲恩賜の煙草を吸う第112振武隊員。6/3.10日、97式戦闘機で出撃。突入、戦死。
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▲6/10第112振武隊の特攻機の突入を受け大きく傾く米駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(USS William D. Porter)
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米軍の記録によると特攻機が舷側近くに撃墜されたが、命中はしなかったものの250㌔爆弾が水中を進んで艦底で爆発。
3時間後、写真のように右舷に傾いて沈んでいった。直接特攻機が命中しなかった事で乗組員の戦死者はいなかった。

[ 第113振武隊 ](隼天剣隊)昭和20年6月6日二式高等練習機で出撃
高野正治大尉(福岡県出身)/生駒寛彦大尉(滋賀県大津市出身)/泉田裕少尉(北海道出身)
菊池秀雄少尉(岩手県出身)/北澤丈夫少尉(長野県出身)/韓鼎實(清原鼎實)少尉(朝鮮出身)
坂口良介少尉(福岡県出身)/中島璋夫少尉(山梨県出身)/羽立光行少尉(大分県出身)
村串六郎少尉(静岡県出身)
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▲第十次航空総攻撃の出撃直前、最後の記念撮影におさまる第113振武隊天剣隊隊員6/6、97式と二式高練
 で知覧を出撃、沖縄西方海上の敵艦船に突入、散華した。著しく性能に劣る練習機での出撃であった。
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▲6月6日沖縄の敵艦船をめざして飛行中の第113振武隊の二式高練。搭乗員は中島璋夫伍長。
 本隊は別名を天剣隊と称し、垂直尾翼に描かれているのは交差した剣に日の丸を配した部隊
 マークである。3月に第五航空軍で編成され、突入機数は写真の中島機含め10機であった。
※二式高等練習機とは97式戦闘機を低馬力のエンジンに換装した練習機だ。本土決戦に備え「隼」
「飛燕」「疾風」といった主力戦闘機航空機を温存する為とはいえ、97式戦闘機でも十分旧式な上、
更に低馬力のエンジンを搭載した練習機で特攻出撃しなければならなかった隊員を想うと心が痛む。
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▲戦後、「天剣隊隊」の二式高等練習機はRS modelsからプラモデルが販売された事があった。
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▲陸軍二式高等練習機(97式戦闘機をベースにした練習機。満州飛行機にて3710機生産)
※現存機はインドネシアのサトリア・マンダラ博物館に戦後のインドネシア独立戦争で使用された機体が展示されている
99式高等練習機YouTube

[ 第141振武隊 ]昭和20年6月8日出撃
長井良夫少尉(宮城県出身)/平原太郎少尉(東京都出身)

[ 第144振武隊 ]昭和20年6月8日出撃
中島秀彦少尉(大分県出身)/岡田義人少尉(岡山県出身)/薄井義夫少尉6/19出撃(神奈川県出身)
奥澤一少尉(生還?)/松浦喜一少尉(生還?)/加藤英輔少尉(生還?)

[ 第159振武隊 ]昭和20年6月6日出撃(上記でご紹介)
[ 第160振武隊 ]昭和20年6月6日出撃(上記でご紹介)

[ 第165振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
中川勝大尉(東京都出身)/杉本明大尉(京都府出身)/和田照次大尉(長野県出身)
渡辺静少尉(長野県出身)/枝幹二少尉(富山県出身)
園部昌光少尉(発動機不調のため負傷し終戦。戦後空将補)
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▲6/6特攻出撃前に三式戦闘機の水平尾翼に地図を広げて打ち合わせを行う第165振武隊員。
垂直尾翼には「必沈」と書かれている。
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▲第165振武隊員の6名。
後列右、プロ野球朝日軍の投手だった渡辺静少尉。出撃にあたり「野球生活八年間わが心鍛えくれし野球かな」
の言葉を残した。背番号は20であった。沖縄西方海上の敵艦船群に突入、戦死
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▲枝幹二少尉 沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
枝幹二少尉[ 遺書 ]
昭和二〇年六月三日夜
作戦命令下る。知覧飛行場を明朝出発。あわただしい中に最後と思ってペンを取る。書くことが一杯ある様で何を
書いていいのやら、園部隊長不時着して同行出来ず。
身不肖なるも隊長代理を命ぜられ重任双肩にかかる。願わくは大業見事完成出来得んことを。
ここあし屋の町は海を渡る祭礼の港町と同一なり。ふくよかになつかしき思いあり。思いはめぐる三千里。
あれこれと昔のことが偲ばれる。女々しきにあらず楽しき過去の追憶なり。
半田の事、名古屋の事、東京の事、富山の事。父上様 母上様 色々有難うございました。
別に言うことはありません。最後の時まで決して御恩は忘れません。月なみな事しか出来ません。
姉妹の皆さん、いよ々本当にお別れ。今でも例のごとくギャーギャー皆とさわいでいます。
哲学的な死生感も今の小生には書物の内容でしかありません。
国のために死ぬよろこびを痛切に感じています。在世中お世話になった方々を一人一人思い出します。
時間がありません。ただ心から有難うございました。笑ってこれから床に入ります。オヤスミ
あんまり緑が美しい、今日これから死にに行く事すら忘れてしまいそうだ。
真青な空。ぽかんと浮かぶ白い雲。六月の知覧はもうセミの声がして夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に小鳥の声がたのしそう「俺もこんどは小鳥になるよ」
日のあたる草の上にねころんで杉本がこんなことを云っている。笑わせるな。本日一三時三五分
いよいよ知ランを離陸する。なつかしの祖国よさらば。使いなれた万年筆を“かたみ”に送ります。


[ 第179振武隊 ](顕正隊)宮崎県都城東飛行場より出撃
金丸亨少尉/江副保郎少尉/西郡榮軍曹(?)/太田外茂行伍長/松尾秀雄伍長/浜田齊伍長


[ 第180振武隊 ](天翔隊)昭和20年7月1日宮崎県都城東飛行場より出撃
木下武彦大尉(大阪府出身)/村木伊三男曹長(秋田県出身)/新田祐夫伍長(島根県出身)
宇佐美輝夫伍長(福島県出身)
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▲第180振武隊天翔隊の宇佐美輝夫伍長(右)と新田祐夫伍長。7/1(06:10)四式戦闘機で出撃。
慶良間泊地の敵艦船に突入、戦死。この特攻をもって、第六航空軍の沖縄特攻作戦は終了した。

※宮崎県都城飛行場から特攻出撃した部隊に「特別振武隊」という名の特攻隊があった。
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▲昭和20年4月12日、都城西飛行場より出撃する「特別振武隊」の陸軍4式戦闘機「疾風」(はやて)
 飛行部隊が都城に配置された当初は、特攻作戦の準備が十分整っておらず、特攻隊員が少なかった為、直掩護隊
 だった第101/102戦隊から11名が志願し、特攻隊員となった。初めから特攻隊として編成された隊では無く都城
 において第101/102戦隊人員や飛行機を用いて急遽編成された隊であった。「特別振武隊」戦死者は下記の通り。
[ 飛行第101戦隊 ]昭和20年4月6日~4月12日都城より出撃
田中二也少少尉/友枝幹太郎少尉/浜谷理一少尉/孖谷毅軍曹/上津一紀伍長/斉藤信雄伍長
[ 飛行第102戦隊 ]昭和20年4月6日~4月12日都城より出撃
金沢武要少尉/林弘少尉/林玄郎少尉/伊藤二郎少尉/石賀兵一伍長
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▲昭和20年4月12日都城西飛行場から出撃直前の「特別振武隊」伊藤二郎少尉(右)と斉藤信雄伍長。


[ 第193/194振武隊 ]出撃基地(成増陸軍飛行場で編成、館林飛行場で終戦を迎える)
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[ 第213振武隊 ]昭和20年5月28日97式戦闘機で出撃(第11次総攻撃)
小林信昭少尉(発動機不調のため宝島に不時着)
松下貞義伍長(鹿児島県出身)/蘆田愼一伍長(広島県出身)/日向登伍長
小椋忠正伍長(戦闘機不備により出撃できず)/佐藤壮子次伍長(徳之島に不時着→6/19福岡)
※板津忠正伍長(5/26 5:31出撃、エンジン故障で徳之島海岸に不時着。知覧特攻平和会館初代館長)
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 ▲板津忠正伍長は戦後の昭和59年7月要請を受け知覧特攻平和会館事務局長、昭和61年新館建設と同時に
 初代館長に就任。昭和63年に特攻で亡くなった全ての方の資料収集する為に退職。
 約30年にわたり全国の特攻隊員の遺族を訪ね、自らが最後に見た仲間の様子を伝えると共に、遺影や遺書など
 の収集にあたり、平成7年知覧特攻攻撃で亡くなった1037人全員の遺影を集める。2015年4月6日90歳で死去。
 元特攻隊が語る戦争と特攻の真実知覧特攻平和会館初代館長「板津忠正」さんYouTube
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▲第213振武隊(左6名)第214振武隊(右6名)。両隊共97式戦闘機で出撃。


[ 第214振武隊 ]昭和20年6月3日~6月10日出撃
橋正豊次伍長(石川県出身)/佐々木暹伍長(島根県出身)/谷口積男伍長(鳥取県出身)
深田末義伍長(鳥取県出身)/金井良吉伍長(群馬県出身)/當山幸一少尉(隊長)
6/3第六航空軍は第10次航空総攻撃を発動10:19當山隊長/谷口/深田/佐々木/橋正各伍長は2知覧出撃、発動機不調
の為、當山隊長は沖永良部島に不時着大破、谷口伍長以下4名は沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
6/10,05:10金井良吉伍長が知覧出撃、沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。


[ 第431振武隊 ]昭和20年5月27日~6月3日二式高等練習機で出撃
紺野孝少尉(茨城県出身)/鮏川林三少尉(茨城県出身)/橋之口勇少尉(鹿児島県出身)
広岡賢載少尉[ 李賢載 ]イ・チョンヒェイ(朝鮮出身)/渡辺鋼三少尉(栃木県那須塩原市出身)
堀川義明大尉(群馬県出身)/金田光永少尉(朝鮮出身)岡澤實少尉(香川県出身)

[ 第303振武隊 ]太刀洗南飛行場
東山修二少尉/遠藤謹一軍曹/伊藤豊伍長/藤井與一伍長/高木泰次郎伍長/土田昭二伍長
本間蔵三伍長/小林雄吉伍長
特攻任務は、建前上は志願制を採っていたが、実際は兵士に有無を言わさぬ、強制的なものであった。
現実には形式上は志願という形をとりながらも、殆ど命令によって有無をいわせず編成した場合が多いのではあるまい
か。また、確かに志願書は提出したが、どうしても反対の意思表示ができないような雰囲気の中に追い込んでから書か
せたとか、あるいは志願しない者があると、個別に呼んで説諭し、無理矢理志願させた例もあったと聞いている。
その結果は100%志願として報告され、その隊の成績は高く評価される。これが逆に志願者が100%を欠くと、その隊
の指揮が低下していると評価され、時には隊長の責任まで問われる。だからどの隊でも無理してでも志願率100%に
しようとし、ずいぶんと阿漕な手段を講じた隊もあったという。
沖縄方面航空作戦では、99式高等練習機や二式高等練習機、あるいはそれらと同程度の性能の97式戦闘機、97式系爆
撃機、98式直協偵察機、99式襲撃機などの旧式機が、続々と機体の塵を払って出撃していった。
ある特攻隊員は「こんな脚の引っ込まないヤツに乗っていったら、アメ公さぞ笑うだろうなあ」
と、淋しげに自嘲しながら出撃していったという。こんな飛行機では、まさに犬死である。敵の対空砲火や戦闘機の射
撃訓練の標的になりにいくようなものである。(元第303振武隊、東山修二氏の証言)

[ 第304振武隊 ]太刀洗南飛行場
大槻浩少尉/雄勝金司軍曹/松田政次伍長/岡田忠公伍長/笹木守兵長/上野主計兵長
濱野政一兵長/吉野登志男兵長

[ 第501振武隊 ]太刀洗南飛行場
昭和20年8月大刀洗南飛行場には第501振武隊8名/303/304振武隊16名。24機の一式双発高等練習機が、特攻出撃
を待っていた。第501/303/304振武隊に特攻命令が下りる、出撃日時は昭和20年8月15日午後6時。
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▲(参考画像)一式双発高等練習機。
高松秀明少尉以下8名の501振武隊、上野伍長が所属する304振武隊を含め、大刀洗にいた特攻隊員達は、正午の玉音
放送によって、特攻出撃直前で終戦を迎えた。
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▲上野主計(うえのかずえ)元陸軍伍長(福岡県出身)大正15年4月21日生(大刀洗平和記念館で講演会もされています)
第501振武隊高松秀明少尉以下8名は張りきっていた。運命の8月15日早朝、整備隊の候補生が、偶然にもハワイか
ら発信されている電波を機上無線で、日本が無条件降伏した事を傍受していた。そして正午、天皇陛下による玉音放
送が流れた直後に、打ち合わせていた手筈通りに、ずらりとランプに係留中の爆装した一式双発高等練習機のタイヤ
の空気を抜いてまわり、暴動を回避するために、近くの雑木林へ姿を消した。
玉音放送が終わると、案じていた事が起こった。「何だ?降伏したのか!そんなバカなことがあるもんか!」
「オレは絶対に信じないぞっ!!」戦隊本部で玉音放送を聴いていた特攻隊員達に衝撃が走った。
本部は大混乱になった。出撃予定の午後6時を過ぎても何の指令もない事に、ついに特攻隊員たちは激昂した。
「隊長が行かないなら、俺1人でも出撃する!」特攻隊員達は宿舎を飛び出した。
しかし特攻機は全機のタイヤの空気が抜かれ、無残な姿を晒していた。
「飛行機が壊されている!」「いったい誰の仕業だっ!」日本刀を引っさげて飛行場大隊へ取って返した。
そこには元木大佐が待っていて、命がけで彼らを説得した。日暮と共に、ようやく特攻隊員達の激しい怒りと哀しみ
が収まろうとしていた。昭和20年5月6日501振武隊が組織されて以来、死と向かい合って明け暮れた104日間の悪
夢から開放された瞬間だった。
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▲陸軍一式双発高等練習機 (平成24年8月十和田湖から引き揚げられた機が青森県立三沢航空科学館に展示されている)
第一線で戦う種類の軍用機ではなく、練習機として又は輸送多用途機として活用された。
軍の要請により昭和14年(1939)から立川飛行機が開発・製造し、計1,342機が作られた。
(東條英機内閣総理大臣(兼陸軍大臣)の国内移動にも使用されたと言われている)

多くの若者の命が失われた日本陸海軍による特攻作戦だが、アメリカは、特攻に関する詳細な情報を総合的に把握
していた。まずは暗号解読で特攻機来襲の日時と場所、更にはレーダー網で約30分前には特攻機来襲を察知する。
肉眼で飛行機を発見するのは15km先が限界だが、レーダーにより160km先での発見が可能になり、グラマンやコ
ルセアなどの艦載機を徳之島や奄美大島周辺に大挙出動させ、特攻機を待っていた。6月半ばともなると、沖縄の飛
行場に配備された米軍機は400機以上である。
沖縄戦における陸軍航空特攻隊の犠牲者数は、知覧特攻平和会館によると1036人。
日本側の「戦史叢書」によると陸軍890機、海軍972機の特攻機が米艦隊に突入したとされているが、アメリカ側の
「第二次大戦米国海軍作戦年誌」によるとその被害は沈没11隻、損傷161隻。しかも沈没した艦船はほとんどが駆逐
艦で、戦艦、空母、巡洋艦などの大型艦船は含まれていない。犠牲者数の多さと戦果の少なさに、呆然とする。

▼富屋食堂(映画[俺は、君のためにこそ死ににいく][ホタル]の舞台)を復元した資料館「ホタル館」が建っている。
 出撃前夜に第51振武隊光山文博少尉(朝鮮出身)が鳥濱トメに託した形見の財布はここで大切に保管されている。
富屋食堂
▼当時の富屋食堂
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▼知覧には多くの「昭和」が残っています。
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戦場の「なでしこ隊」と題してフジテレビで放送されたドラマですが、事実とは少々異なる方向で特攻隊員の事を伝え
ている様な気がしました。「なでしこ隊」は実在し、素晴らしい活躍をされました。
ご存命の方もおられます。戦争を知らない世代が歴史や事実を捏造してはいけません。
特攻隊員の気持ちは英霊の隊員にしか解らないのです。「日本の為・家族の為に戦ってくれた」それ以上でもそれ以下
でもないと思います。「なでしこ隊」には特攻の母「鳥濱トメ」さんの次女、鳥濱礼子さんも加っていました。
真実は語っておられると思いますが、少なくとも日本において、過去の戦争に関して事実を捻じ曲げて世論操作したり、
捏造したりするのはもっての他だと思います。全ての英霊に感謝する事がまず先で、事実をありのままに伝え、それを
知った上での感想は我々日本国民個々それぞれの自由だと思います。
戦争へ行った人・行かされた人。皆さん気持ちは違うはずです。
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▲整備兵や女子挺身隊員と一緒に写る振武隊特攻隊員達(知覧で撮影されたとされる)


陸軍の特攻作戦では本土防衛の為に陸軍のあらゆる戦闘機で特攻と同じ様なB-29への体当たり攻撃が敢行さ
れた。陸軍義烈空挺隊や薫空挺隊は、空挺部隊を乗せた爆撃機が敵飛行場に強行着陸して破壊活動を行い、
敵機が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に航空特攻攻撃を行う。この作戦において陸軍空挺隊
は生還出来ない特別攻撃を敢行している。また、沖縄戦に参加した陸軍特攻隊も振武隊だけでは無い様だ。
全て把握している訳ではないが、宮崎県にあった陸軍新田原飛行場からも沖縄へ向け特攻機が出撃している。
出撃した特攻隊は、昭和20年4月1日に誠第39飛行隊の6名、3日に誠第32飛行隊の6名、6日に誠第36飛行
隊の10名、誠第37飛行隊の9名、誠第38飛行隊の7名の特攻隊員38名が出撃。
また、新田原から他の飛行場を経由して出撃した富嶽隊、第32飛行隊、誠第41飛行隊の特攻隊員は33名。
これらの新田原飛行場から飛び立った特攻隊員71名全員が戦死している。昭和20年4月6日出撃記録の中に
(陸軍第8飛行師団)
陸軍特攻誠第36飛行隊/98式直接協同偵察機10機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)角田乾太郎中尉(神奈川県出身)/片山佳典中尉(香川県出身)/北村正中尉(宮城県出身)
高島弘光中尉(香川県出身)/小川二郎伍長(千葉県出身)/森知澄伍長(和歌山県出身)/峯保昌伍長(長崎県出身)
岡部三郎伍長(香川県出身)/細木章伍長(島根県出身)/貴志泰昌伍長(和歌山県出身)

陸軍特攻誠第37飛行隊/98式直接協同偵察機9機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)柏木誠一中尉(東京都出身)/小林敏男中尉(23歳)茨城県出身/佐々木秀三中尉(岩手県出身)
藤澤鉄之助伍長(岡山県出身)/小屋哲郎伍長(鹿児島県出身)/玉野光一伍長(山口県出身)
赤峰均伍長(大分県出身)/百瀬恒男伍長(長野県出身)/入江寛伍長(山口県出身)

陸軍特攻誠第38飛行隊/98式直接協同偵察機7機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)喜浦義雄少尉(鹿児島県出身)/小野生少尉(大分県出身)/蕎麦田水少尉(栃木県出身)
高橋勝見伍長(岩手県出身)/水畑正国伍長(長野県出身)/石川寛一伍長(千葉県出身)/松井大典伍長(奈良県出身)

がある。上記の3隊は旧式固定足、しかも偵察機である98式直接協同偵察機で出撃している。
沖縄県北部の沖合、沖縄本島北部から橋で渡っていく古宇利島の沖、水深40M付近に、特攻機の突入を受けた
米軍掃海艇駆逐艦エモンズが沈んでいる。5機の特攻機の突入により航行不能となったエモンズは、乗組員276
人中、行方不明者を除いた全ての米兵救助後に秘密漏洩を防ぐ為に4/6米軍自らの手によってに沈められた。
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▼▲米軍掃海艇駆逐艦エモンズ
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2001年地元のダイバーの調査によって公表された。船体はほぼ原形をとどめ、巨大な主砲、スクリュー、ソナー、
機銃や兵士のヘルメットなども当時のま­まの姿で海底に横たわっている。(60名の米兵が戦死、77名負傷)
海底のエモンズ周辺に散らばる残骸の中に車輪・エンジン・プロペラがあった。この部品が98式直接協同偵察機
の物である事が解り、4/6新田原より出撃した98式直接協同偵察機 26機の内の誰かである事が解った。
エモンズに突入した特攻機の調査は今も続いている。お名前が判明する事を切に願う。
以来、毎年6/23沖縄全戦没者追悼の慰霊の日に、嘉手納のダイビングショップのダイバー達が、海中の特攻機の
エンジンに日の丸をかけ、献花を続けていらっしゃるとの事。彼等の調査で特攻機の所属部隊が判明したそうだ。
▼陸軍98式直接協同偵察機
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同日、米輸送艦カスウェルにも特攻機(98式直接協同偵察機)が命中している。
陸軍特攻誠第36飛行隊/岡部三郎伍長(戦死後陸軍少尉に特別昇進)だ。4/6新田原を出撃した岡部三郎伍長の98式
直接協同偵察機はカスウェルに突入。しかし250㌔爆薬は不発。輸送艦カスウェル艦長は海に投げ出された操縦士
(岡部三郎伍長)を艦上に引き揚げ、死亡を確認した後水葬にした。その際、軍医のブラッケン海軍中尉が、操縦士
の額に締められた血染めの鉢巻きをアメリカに持ち帰り、身元不明のまま保管し続けた。
昭和34年、米国に滞在中だった慶応大学の故外山敏夫助教授(後に名誉教授)に、戦後テネシー州ナッシュビル市
パンダビルト大学医学部に勤務していたブラッケン博士が「ぜひ遺族に返して欲しい」と外山教授に鉢巻を託した。
鉢巻きの生地には大きく「京養出身」と書かれ、当時15~16歳の少年達20名以上も名前を連ねていた事から
京都航空機乗員養成所の教官を務めた経験のある岡部伍長が、当時の教え子たちから貰った寄せ書きだと判明。
このことが日本の新聞に報道され、鉢巻に寄せ書きをした通信省筑後航空機乗員養成所本科5期生(京都養成所の
廃止に伴い筑後に移転)の眼に触れ、鉢巻の主が元京都航空機乗員養成所の教官で、誠第36飛行隊岡部三郎伍長
であることが判明し、鉢巻は遺族に返された。その後、鉢巻は岡部の教え子たちの手に渡り、現在は知覧特攻平
和会館に保管展示されている。

新田原飛行場から飛び立った特攻隊員の中に結城尚弼(金尚弼)少尉キム・サンピル(朝鮮出身)がいた。
結城尚弼(金尚弼)少尉の話は有名なので最後にご紹介したいと思う。
結城少尉は朝鮮併合後の大正九年(1920)に現在の北朝鮮内にあたる平安南道にて生まれた。
昭和18年(1943)ソウルの私立延禧専門学校を卒業し、大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校の特別操縦見習士官
一期生に合格。柔道・剣道に優れ、操縦はトップの成績だった。
満州綏中第23教育飛行隊から満州敦化飛行隊に配属されて各地を転戦。昭和20年(1945)2/11満州で編成さ
れた誠第32飛行連隊に志願して特攻隊への配属が決まった。
実兄から逃げるように説得されたものの、結城少尉(金尚弼)は兄にこう言ったという。

「自分は朝鮮を代表しているから逃げたりしたら祖国が笑われる。多くの同胞が一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本の為に死のうとしているのではありません。そこは良く解ってほしい。日本を勝利に導
き、その暁には我々の武功を認めさせて独立に持っていくのです。日本が強くなればなるほど地下の独立運動は無力
になりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る方が確かだと思います。」
「日本人が憎くない、と言うと嘘になりますが、 僕は少年飛行出身の部下を連れて行きますし、佐藤曹長には機体の整
備を親身にしてもらいました。戦友や部下達とは一心同体であり、そこに民族の壁はありません。
民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許してくれる筈です。」

こう言い残し昭和20年4月3日宮崎県の新田原基地より沖縄へ向けて出撃、突入24歳の命を散らした。
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▲金尚弼(結城尚弼)少尉 昭和20年4月3日誠第32飛行隊第5編隊長として新田原基地より出撃。
 沖縄西方洋上で突入戦死。享年24歳 
昭和20年4月3日金尚弼と共に出撃した6名
結城尚弼(金尚弼)少尉/小林勇少尉/時枝宏軍曹/古屋五朗伍長/佐藤正伍/佐藤英実伍長

戦争末期、激しい爆撃を受けた新田原飛行場は機能が停止。残存部隊の挺進飛行隊は朝鮮(現北朝鮮)へ移動。
ソ連軍の進攻に遭遇し、終戦後多数の隊員がシベリアに抑留された。

▼新田原飛行場跡(現・航空自衛隊新田原基地)には現在も状態の良い掩体壕が4つ残っています。
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※昭和13年(1938)朝鮮人志願兵を募集。定員400人に対して2946人が応募。以後のデータは下記の通り。
 昭和14年(1939) 12348名志願→ 613名合格
 昭和15年(1940) 84403名志願→3060名合格 
 昭和16年(1941)144743名志願→3208名合格
 昭和17年(1942)254273名志願→4077名合格
 昭和18年(1943)303394名志願→6300名合格

 合格して日本軍と共に戦った朝鮮人兵士は特攻隊員だけでは無い。軍属・陸戦他さまざまな戦地で台湾兵同様、
 勇敢に戦ってくれている。日米激戦で有名な「硫黄島の戦い」でも朝鮮人軍属はまともな武器もない中、勇敢
 に戦った事が記録されている。爆雷を抱いて敵戦車に突入した者も1人や2人ではなかったと言う。


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▲第八航空総攻撃のため知覧に集合した特別攻撃隊隊員。この攻撃で陸海軍は航空兵力の全力を集中。
義烈空挺隊12機、陸軍特攻機100機、海軍特攻機80機、陸軍重爆22機、海軍爆戦24機、雷撃機30機、
中攻4機、神雷部隊10機の計282機を投入。

※当時知覧基地で高射砲団の中隊長をしていたのが南海ホークスの黄金時代を築いた名監督「鶴岡 一人」さんだった。
 鶴岡氏は知覧基地で毎日特攻機が出るのを見ていたそうだ。知覧に空襲に来るグラマンを高射砲で撃ったが、なかな
 か当たらなかったと語っておられる。現在、知覧基地高射砲陣地跡には「益田隊戦没者慰霊碑」が設置されている。


当時同盟国ドイツでも特攻隊が存在した。日本同様追い詰められたドイツも多くのベテランパイロットを失い、特別攻
撃に参加したのは若いパイロットだった様だ。日本との大きな違いは生還を前提にした特攻攻撃だったという事だ。
エルベ特別攻撃隊①


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2012_11_20




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WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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