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日本陸軍の特攻は、海軍の神風特攻隊が戦果をあげる中、「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は
速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本
営指示が発せられ、昭和19年11月「万朶隊」「富嶽隊」によってフィリピンで最初に行われた。
陸軍特別攻撃隊①
陸軍参謀総長[ 梅津 美治郎 ]は「体当たりにより1機1艦、敵を必殺必滅する戦法に徹し敵の心肝を奪うる要あり」
と、陸軍各司令官に言い渡している。梅津は戦後の東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。
梅津 美治郎は関東軍司令官として満州国建国にも関わり、日本を戦争へ導いた立役者でもある。
昭和53年(1978)に靖国神社に合祀されている。

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▲アメリカ軍戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式の有名な写真、中央後ろ手姿の軍服の人物が梅津。

陸軍特別攻撃隊でまず初めに紹介するのは「陸軍海上挺進戦隊」
昭和20年1月フィリピン・ルソン島(リンガエン湾)に殺到した米軍に対し、特攻出撃した海上挺進第12戦隊は、米輸
送船撃沈、米駆逐艦撃破などの戦果を挙げたが、空からの特攻ばかりを意識していた米軍に対して、戦果を挙げたのは
最初に出撃した第12戦隊のみ。その後すぐに策を講じられ、「海上挺進戦隊」の海岸線秘匿陣地は壊滅状態となった。
フィリピンには約800名のマルレ特攻隊員が送り込まれたが、そのほとんどがフィリピンに向かう途中で輸送船ごと撃
沈されたり、無事フィリピンに到着してからも、艇を破壊されて島をさ迷い、敵弾や飢餓で戦死していった。

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▲▼昭和20年4月21日座間味島で撮影された陸軍海上挺進戦隊の「マルレ」特攻艇。または「肉薄攻撃艇」
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(※「マルレ」は「連絡艇」のレに○をつけて秘密記号としたものである)
陸軍海上挺進攻撃は、広島市(宇品)にあった船舶司令部と、大本営の陸軍船舶部が昭和19年4月末頃に考えたものだ。
隊の責任者である戦隊長は、陸士出身の大尉/少佐が選ばれた。第一次隊員は志望の有無を問われる事無く指名され、
昭和19年8月宇野港(玉野市)から輸送船で小豆島(土庄)にある船舶特別幹部候補生(略称「船舶特幹」)隊に配属され、
豊島で訓練を開始した。(兵舎があった東洋紡渕崎工場(土庄町)は今は更地で、特幹の別名「若潮部隊」の碑が残る)
第二次隊員は前橋/豊橋/久留米の予備士官学校から、歩兵などの兵科の10/11期の見習士官が昭和19年10月江田島
の幸ノ浦という村落につくられた第十教育隊に集められて訓練を開始した。
そして訓練を終えた隊員達は、5日間という限られた休暇を終えると、広島市の宇品に集結、各秘匿基地に配備された。
この内、先に紹介した第12戦隊はフィリピン(リンガエン湾)を防衛担当とし、サンフェルナンドに送られた。
日本(広島)から送られた16隊の海上挺進戦隊の内、無事フィリピンに到着出来たのは第12(戦隊長・高橋功大尉)/第
15(戦隊長・小串 修大尉)/第16(戦隊長・月井禎吉大尉)だけだった・・・。
それでも昭和19年12月には基地大隊(食事・治療・マルレ修理を担当)もフェルナンドに合流し、戦闘態勢を整えた。
昭和20年1月6日米大艦隊はリンガエン湾に侵入、艦砲射撃を開始。1月8日夜、19万人の米大部隊が上陸を開始する。
第12戦隊の高橋功大尉以下約90名の隊員は、40~70隻の「マルレ」で出撃。2名乗船の特攻艇もあったという。
第12戦隊の攻撃は1月9日05:00頃まで続けられ、LST-925/1028、LCI-974/365の4隻を撃沈、LST-610を
大破、駆逐艦ロビンソン、兵員輸送艦7隻に損害を与えている。
フィリピン/沖縄と決行された陸軍海上挺進戦隊の肉薄作戦での生き残りは僅か2名。進撃途中でエンジンが故障し、
漂流していたところをフィリピン人ゲリラに捕らえられた隊員2名だけだった。

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海軍の特攻艇「震洋」は艇首のハッチ内部に爆弾を搭載するのに対して、陸軍特攻艇「マルレ」は、艇尾に爆雷を2個搭
載する。したがって、海軍「震洋」は完全に自爆体当たり特攻艇であるが、陸軍「マルレ」は敵艦数十メートル以内に接
近して爆雷を投下後、反転退避する攻撃方法であった。「十死零生」の攻撃方法では無い事から、陸軍幹部の間では特攻
兵器では無い。と言う意見も未だにあるが、攻撃記録や戦況から見ても「マルレは特攻兵器では無い」と言っても何の説
得力も無い。

「陸軍特攻ボートマルレの実態」YouTube

以下からは陸軍特別攻撃隊(航空特攻)の記録。

「万朶隊」は昭和19年11月7日早朝初出撃、「富嶽隊」も11月7.13日出撃。第4航空軍は焦りから遠距離目標を指示。
無理な特攻隊運用で空振りに終わった。

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▲西尾常三郎少佐を隊長とする「富嶽隊」(ふがくたい)隊員。11/7四式重爆撃機『飛龍』に800キロ爆弾を2個装備。
フィリピン東方海域で特別攻撃を敢行、山本中尉機が未帰還。11/13隊長 西尾常三郎少佐(享年28歳)以下6名が
米機動部隊に突入して戦死している。18:00頃マニラ東方洋上の海域を飛行する「富嶽隊」に、約20機のグラマンが
来襲。西尾隊長機に攻撃を始めたが、西尾機は平然と針路を変えようともしなかった。西尾機は一瞬のうちに炎上爆発
した。その爆風は付近にいた敵機に傷害を与え、この間隙をついて他の1機が「敵艦発見、われ突入す」のモールス信号
を発進しながら敵艦に突入した。そして残った「富嶽隊」も年をまたいで順次出撃していった。
陸軍特別攻撃隊「富嶽隊」四式重爆撃機『飛龍』で昭和19年11月7日~昭和20年1月10日出撃。
(ラモン湾東方洋上・クラーク東方400キロ・ミンダナオ北東・ミンドロ島南方・リンガエン湾に突入)
[11/7]山本達夫中尉/[11/7]浦田六郎軍曹/[11/13]西尾常三郎少佐/[11/13]柴田禎男少尉
[11/13]米津芳太郎少尉/[11/13]国重武夫准尉/[11/13]島村信夫曹長/[11/13]荘司楠一曹長
[11/15]幸保栄治曹長/[11/15]須永善次軍曹/
[12/16]石川 廣中尉/[12/16]本谷友雄曹長/[12/16]古沢幸紀曹長/[12/16]丸山茂雄伍長
[1/10]曾我邦夫大尉/[1/10]進藤浩康大尉/[1/10]根木基夫大尉/[1/10]宇田富福伍長

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▲三菱 陸軍四式重爆撃機『飛龍』
 乗員8名(操縦席2名[機長/操縦士])両側に整備兵2名、後方は通信士/砲手等4名
※「富嶽隊」は浜松教導飛行師団で編成された教導第1隊。第2独立飛行隊、教導第3隊から飛行第110戦隊を編成。
 第3独立飛行隊は昭和20年5月24日「義烈空挺隊」として沖縄島の北・中飛行場に特攻出撃している。
フィリピンの戦い【実録】レイテ沖海戦 YouTube

陸軍特別攻撃隊「万朶隊」は昭和19年11月12、15、25日、12月20日99式双発軽爆撃機4機が次々に特攻出撃。
(レイテ湾・カロカン飛行場等に突入)敵艦船1隻撃沈、1隻に損傷をあたえ、隊員は帰らぬ人となった。
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▼▲訓示を聞く「万朶隊」隊員勇士達。
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▼出撃前純白シーツのかけられた別盃の席の「万朶隊」隊員、出撃前に無念の戦死を遂げた隊員の遺骨を胸に。
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[ 万朶隊(ばんだたい)日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊 ]
▼岩本益臣大尉(福岡県出身)(隊長であったが特攻出撃前、出陣式でマニラに向う途中グラマン編隊に遭遇、戦死)

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東条の盟友であった富永恭次司令官は、ルソン島の大富豪の屋敷で部下の下卒を召使のごとく使役して美食と豪奢
な暮らしを楽しみながら、口に特攻をとなえ、自ら出陣式を華麗に演出し軍刀を振って出撃隊員を鼓舞激励した。
岩本大尉以下4名の出撃前の戦死は、いつ米軍の攻撃があってもおかしくないフィリピンで、悠長に華麗な出陣式
をする為に、最前線から富永恭次司令官の居所のルソン島にわざわざ特攻隊員を呼び集めるという非常識な命令が、
彼等5人の無駄死にを招いたのである。
岩本益臣大尉(福岡県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
園田芳巳中尉(佐賀県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
安藤浩中尉(京都府出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
川島孝中尉(神奈川県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
中川勝巳少尉(和歌山県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
以上5名昭和19年11月5日ニコラス上空にてマニラに空襲に来ていたグラマンF6F2機に襲撃され胴体着陸し炎上。
5人全員が非業の死を遂、出撃前に無念の戦死。
社本 忍軍曹(愛知出身)11/3(敵の爆撃負傷)
11/5リパ飛行場の空襲で隊員浜崎曹長・石渡俊行軍曹が負傷、整備の藤原雇用員戦死 特攻機2機が破壊される
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▼「万朶隊」特攻隊員に酒を注ぐ富永恭次司令官
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昭和19年11月12日「万朶隊」初出撃 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機4機で出撃
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▲陸軍99式双発軽爆撃機
1番機[操縦]田中逸夫曹長(福岡県出身)/[通信]生田留夫曹長(兵庫県出身)と「岩本大尉の霊/中川小尉の霊」
※敵輸送船に突入、直掩隊戦闘機「隼」渡辺伍長も同船に体当たり轟沈
2番機[操縦] 久保昌昭曹長(大分県出身)と「園田中尉の霊」
※2番機は戦艦の舷側すれすれで突入失敗、撃墜される
3番機[操縦]奥原英孝伍長(長野県出身)と「安藤中尉の霊」
※3番機奥原英孝伍長エンジン不調で引き返す
4番機[操縦]佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)と「川島中尉の霊」 爆撃失敗ミンダナオ島カガヤンに不時着避難
※4番機の佐々木友次伍長は「戦艦に突入」と報告されていたが誤報で、11/13ローカン基地に帰還。
1番機2番機4番機がレイテ湾上空に到達。米艦隊を発見すると1番機の田中曹長は率先して突っ込んでいった。
4番機の佐々木伍長も突っ込んでいき、米揚陸艦に800㎏爆弾を投下するも外れてしまう。そして帰還するが大本営
発表では敵艦に体当たり戦死と発表され、郷里の北海道(当別)では「軍神」が出たと大騒ぎとなっていた。
[誘導]百式偵察機1機 [直掩隊]隼20機

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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機

昭和19年11月15日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
※発進直後2番機が爆発・炎上、4番機着陸・3番機着陸・掩護戦闘機8機着陸し攻撃中止
1番機[操縦]石渡俊行軍曹(千葉県出身)と「安藤中尉の霊」
※1番機石渡俊行軍曹は未帰還(享年20歳)
2番機[操縦]近藤行雄伍長(朝鮮出身)と「川島中尉の霊」
※2番機墜落確認
3番機[操縦]奥原英孝伍長(長野県出身)再出撃/[操縦]4番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再出撃
[誘導]百式偵察機1機(未帰還) [直掩隊]隼8機(第20戦隊)[ 隊長 ]大里大尉

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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機

昭和19年11月25日 ルソン島カローカン基地
出発直前に敵機来襲、敵機動部隊に先手を取られる。
特攻機が燃え、1番機[操縦]奥原英彦伍長(長野県出身)が爆撃にて戦死。
2番機[操縦]佐々木友次伍長(再々出撃予定だったが出撃出来ず)
[直掩隊]隼8機 作見一郎中尉以下出撃出来ず

昭和19年11月28日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
[操縦]1番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再々出撃。
※誘導の隊長機がレイテ湾直前で方向転換したので引き返す、直掩隊は再三出撃を命令される佐々木友次伍長に
同情的であり、「レイテ湾敵発見できず」と報告
[直掩隊]隼6機(飛行第20戦隊)

昭和19年12月4日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
[操縦]1番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再々々出撃
※敵艦を発見するも敵機コルセアに囲まれ、さらにP381個編隊現れ有川中尉空中戦後燃料漏れ着地、佐藤曹長が
行方不明。 佐々木友次伍長はネグロス島のバコロド飛行場に不時着してかろうじて命を繋いだ。
[直掩隊]隼2機 有川中尉/佐藤曹長
昭和19年12月5日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
佐々木友次伍長はバコロドからカローカンに移動後、またしても特攻出撃命令を受ける。
「鉄心隊」(99襲撃機)3機と共に出撃
「鉄心隊」松井中尉隊長(99襲撃機)3機(250キロ爆弾)
佐々木伍長の99式双発軽爆撃機(500キロ爆弾)の計4機で出撃。
佐々木伍長の99双軽は爆撃大型船を撃沈し、カガヤン飛行場に着陸。カローカン基地に帰還を命じられる。
※12/9佐々木伍長は敵艦に500㎏爆弾を命中させ、カローカン基地に戻る途中燃料不足で村落近傍に胴体着陸。
[直掩隊]隼9機

昭和19年12月14日(フィリピン)デルカルメン基地基地より 99式双発軽爆撃機と百式重爆撃機で出撃
菊水隊隊長 丸山義正大尉 第95戦隊第2中隊長(百式重爆)と共にまた出撃するも佐々木伍長は滑走路から飛び出
し出撃出来ず。(第95戦隊7機 5名と第74戦隊2機 7名)
その後も佐々木友次伍長は12/16 12/18にも特攻出撃命令を受けるも生き残り、終戦まで生きのびた。

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▲フィリピンの陸軍基地から出撃する「万朶隊」99式双発軽爆撃機の佐々木友次伍長機
昭和19年11月12日に特別攻撃隊「万朶隊」が大戦果を上げた事とし、大本営は発表していた。その為佐々木伍長は、
特攻軍神として戦死扱いになっていた。特攻を大本営に報告した後に戻ってきた隊員は、軍司令官の面汚しとして扱
われた。司令部では、面子を重んじて人命を軽く考えていた為、戦死報告の取り消しはできなかったと言う、最悪だ。
※上申取り消しできないのは天皇陛下に報告した事で、天皇陛下に嘘を言った事になると考えた為だと言う(呆)
「不死身の特攻兵」 YouTube
昭和19年12月20日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃。
[操縦]鵜沢邦夫軍曹(千葉県出身)と「若桜隊」3機で出撃。鵜沢邦夫軍曹未帰還。
[直掩隊]隼1機

昭和20年1月8日 ルソン島カローカン基地大隊撤退 タヤバス山系内の陣地に立てこもり、
「万朶隊」生存者(整備)村崎少尉以下11名(整備)藤本曹長/雇員4名柴田/上野/野村/遠藤(負傷)
(特攻隊員)[通信]浜崎曹長(安藤中尉機)・[通信]花田博治伍長(川島中尉機)/[操縦]佐々木伍長/社本軍曹(負傷) 
攻撃隊長機に通信手が同乗し突入を基地に連絡していたが、もはや下士官だけになり、浜崎曹長が上級者となり[通信]
は乗らないと決める。操縦者は北部ルソンに集結エチアゲに行けと命令される。
※陸軍初の特攻隊となった「万朶隊」には初の朝鮮人特攻隊員 近藤行雄伍長が含まれていた。
※佐々木友次伍長(当時21歳)は北海道・当別の出身。子供の頃から飛行機に憧れ17歳で仙台の航空機養成所で操縦
 の腕を磨いた。岩本大尉を心から尊敬していたと言う。佐々木友次伍長は「万朶隊」特攻隊員の中で機体故障の途中
 帰投等で唯一生存、その後何度も軍から特攻出撃を命令されるもミンドロ島方面出撃でも生還を果たした。
 佐々木伍長は帰還後の再出撃の度に「体当たり攻撃の実行」を参謀から強く求められた。ある時佐々木伍長は
 「私は必中攻撃でなくてもいいと思います。そのかわりに死ぬまで何度も行って爆弾を命中させます」
 と返答したと言う。ルソン島で生きて終戦を迎え日本に帰還されている。

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▲陸軍99式双発軽爆撃機
「万朶隊」の99式双発急降下爆撃機は、機種に5メートルの起爆管を伸ばし800㌔の爆弾を抱いて時速400㌔で体
当たり攻撃をする事になっていた。陸軍は爆撃機を特攻用に改造していたが当時整備兵だった方がこう語っている。
「二番機担当となった我々は前日から、まずできるだけ機体を軽くする為に操縦装置と無線装置を残して爆撃装置、
射撃装置はむろん小さなものまで撤去することで、後方機関銃のボルトを外しながら、敵機と応戦もできない姿に
怒りがこみ上げで力が入らない」と。
▼特攻機に改造された99式双発軽爆撃機の機首には800㌔爆弾を確実に爆発させる為に、機首に何本もの細長い信管
 を突き出させ、これが見慣れた99式双発軽爆撃機の姿かと、その優美さを知る整備兵には異様さだけが感じられた。

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▼陸軍99式双発軽爆撃機
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陸軍特別攻撃隊「菊水特攻隊」100式重爆撃機「呑竜」9機で昭和19年12月14日デルカルメン基地より06:45出撃
(米軍のミンドロ島上陸作戦を阻止すべくネグロス島パナイ湾近海に突入、全機撃墜され戦果無し)
[ 飛行第95戦隊 7機 ][ 飛行第74戦隊 2機 ]

丸山義正大尉/井之内誠二郎大尉/谷 正春軍曹/不破次雄軍曹/安田末晴軍曹/泉川正宏伍長/中本政次郎伍長
宮崎 隆中尉/芦田岩夫曹長 /荘田 清曹長/椿  彰曹長/別所福一曹長/松下清馨曹長/田畑十蔵軍曹 /竹本義雄軍曹
森 三次中尉/藍原六弥少尉 /吉野右吉准尉/枝元辰馬曹長/加藤 只曹長/川之上要曹長/木平正平曹長/国広 望曹長
小林光五郎曹長/小林 忠曹長/千葉春雄曹長/登藤文六曹長/堂用 清曹長/戸田佐佳久曹長/中村 眞曹長(生還者)
河井 明軍曹/久保田勝美軍曹/久保田勝作軍曹/佐藤正夫軍曹/篠崎運秀軍曹/橘 利雄軍曹/富田好之軍曹
樋口長光軍曹/丸山多喜男軍曹/森 基親軍曹/矢代一平軍曹/吉永忠弘軍曹/渡辺政雄軍曹/足立正義伍長
阿部幸夫伍長/井出太蔵伍長/浜平輝親伍長/石井武夫軍曹 菊水特攻隊YouTUBE
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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」飛行第95戦隊
飛行第95戦隊・陸軍曹長中村真
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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」飛行第74戦隊

その後、陸軍中央は新たに編成した12隊の特攻隊に[ 八紘隊 ]と名付けフィリピンに投入。名前の由来は
「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。「評価の高い将官」今村 均陸軍大将参照
八紘隊は第4航空軍司令官冨永恭次中将によって八紘第2隊「一宇隊」/八紘第3隊「靖国隊」/八紘第4隊「護国隊」
八紘第5隊「鉄心隊」/八紘第6隊「石腸隊」/八紘第7隊「丹心隊」/八紘第8隊「勤皇隊」/八紘第9隊「一誠隊」
八紘第10隊「殉義隊」/八紘第11隊「皇魂隊」/八紘第12隊「進襲隊」と命名された。


(八紘第1隊「八紘隊」隊員12名 レイテ湾等に陸軍一式戦闘機「隼」で突入)
陸軍特別攻撃隊「八紘隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年11月27日~12月12日出撃
(レイテ湾・オルモック湾・バイバイ沖等に突入)

[11/27]田中秀志中尉/[11/27]藤井 信少尉/[11/27]森本秀郎少尉/[11/27]白石国光少尉
[11/27]道場七郎少尉/[11/27]馬場駿吉少尉/[11/27]善家善四郎少尉/[11/27]武内健一少尉
[11/27]寺田行二少尉/[11/27]細谷幸吉少尉/[12/7]粕川健一少尉/[12/12]作道喜三郎少尉
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▲昭和19年11月三重県の明野基地を二度と本土に戻る事の無いフィリピンに向け出撃前の八紘第1隊「八紘隊」隊員。
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▲八紘第1隊「八紘隊」後列右より白石国光少尉、細谷孝吉少尉、田中秀志中尉(隊長)森本秀郎少尉。
 前列中央は寺田行二少尉。

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▲八紘第1隊「八紘隊」出撃時に別れの杯を交わす隊員、左から道場七郎少尉/細谷孝吉少尉/森本秀郎少尉。

(八紘第2隊「一宇隊」隊員6名 隼戦闘機でスリガオ海峡等に突入)
陸軍特別攻撃隊「一宇隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年12月5日~12月13日出撃
(スリガオ海峡・オルモック湾・ミンダナオ海等に突入)

[12/5]天野三郎少尉/[12/5]大谷秋夫少尉/[12/5]愛敬 理少尉/[12/7]喜田川等少尉/[12/7]田中穣二少尉
[12/13]小野正義少尉
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▲▼昭和19年11/10常陸教導飛行師団で編成された「一宇隊」前列右より3人目隊長 栗原恭一中尉。
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▲昭和19年11/10前渡飛行場(水戸飛行場)をフィリピン目指して離陸する「一宇隊」の隼3型(手前 栗原隊長機)

(八紘第3隊「靖国隊」隊員10名 隼戦闘機でオルモック湾等に突入)
陸軍特別攻撃隊「靖国隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年11月24日~12月26日出撃
(レイテ湾・オルモック湾・ミンドロ島付近等に突入)

[11/24]岡村義人軍曹/[11/26]谷川昌弘少尉/[12/5]大坪 明少尉/[12/5]秦音次郎少尉/[12/5]河島鉄蔵伍長
[12/5]寺島忠正伍長/[12/5]石井一十四伍長/[12/5]松井秀雄伍長/[12/7]五十嵐四郎伍長/[12/26]出丸一男中尉
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▲昭和19年11/9第2錬成飛行隊(朝鮮・京城)より立川航空廠に向け離陸する「靖国隊」隊長出丸一男中尉機隼2型
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▲「靖国隊」出丸一男中尉。昭和19年12月26日一式戦「隼」で出撃、突入戦死。
(公式には特攻戦死とされた[靖国隊]隊長出丸一男中尉だが、実は不時着生還しているという話もある)

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▲出撃直前、「靖国隊」隊員に最後の敬礼をする整備兵。
出丸一男中尉/大坪明少尉/谷川昌弘少尉/秦音次郎少尉/岡村義人軍曹/河島鉄蔵伍長
石井一十四伍長/五十嵐四郎伍長/寺島忠正伍長 以上9名突入戦死。
松井秀雄伍長(印在雄)朝鮮開城出身/特攻に失敗し海に墜落した所を米軍に救助され捕虜となり、ハワイ
の海軍病院で治療を受けた後、終戦の翌年帰国を果たしているが、その後の消息は全くつかめていない。

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▲朝鮮軍司令部首脳との別れの杯
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▲フィリピン・シライ基地で、武運を祈る守り札を受ける「靖国隊」

(八紘第4隊「護国隊」隊員8名 隼戦闘機でオルモック湾等に突入)
陸軍特別攻撃隊「護国隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年12月7日~昭和20年1月10日出撃
(オルモック湾・ルソン島西海面等に突入)

[12/7]遠藤 栄中尉/[12/7]西村正英少尉/[12/7]宮田淳作少尉/[12/7]瀬川正俊少尉
[12/7]三上正久少尉/[12/7]牧野顕吉少尉/[12/7]黒石川茂伍長/[1/10]田辺茂雄伍長
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▲「護国隊」昭和19年12月7日一式戦闘機「隼」で出撃、8名戦死。
写真は鉾田陸軍飛行場(茨城県)で菊花の下、別れの杯を交わす「護国隊」隊員。

隊長 遠藤栄中尉(神奈川県出身)/西村正英少尉(大阪府出身)/富田淳作少尉/瀬川正俊少尉(大阪府出身)
三上正久少尉(滋賀県出身)/牧野顕吉少尉(富山県出身)/黒石川茂伍長(鹿児島県出身)/田辺茂雄伍長(東京都出身)
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▲昭和19年12/7フィリピンカローカン基地で「隼」8機で特別攻撃出撃する直前の「護国隊」隊員。

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▲12/5米駆逐艦マグフォード(USS Mugford)は、スリガオ海峡で「石腸隊」「鉄心隊」「万朶隊」「一宇隊」いず
れかの特攻機が命中。大きく損傷し乗組員8名死亡、負傷者14名の被害が出た。


(八紘第5隊「鉄心隊」隊員12名 99式襲撃機でミンドロ島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「鉄心隊」99式襲撃機で昭和19年12月5日~昭和20年1月6日出撃
(スルアン島付近・ミンドロ島付近・ルソン島西海面等に突入)

[12/5]松井 浩中尉/[12/5]西山敬次少尉/[12/5]長濱清少尉/[12/16]志村政夫少尉/[12/16]藤原義行少尉
[12/18]長尾熊夫曹長/河合郁夫
[12/29]三木将司少尉/[12/29]星一二郎少尉/[12/29]林利喜夫曹長/[1/6]岩本広智少尉/[1/6]小川武士軍曹
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▲「鉄心隊」隊長 松井浩中尉。福島県原町から汽車で茨城県鉾田へ移動。鉾田飛行場から99式襲撃機でフィリピン
 に向かう本土で最期の姿。昭和19年12月5日フィリピン島スルアンシマ洋上で特攻戦死。
※フィリピン・ルソン島マニラ飛行場に進出した「鉄心隊」は12/5松井中尉以下3機がスルアン島付近の敵艦に突入、
 12/16に志村少尉以下2機がミンドロ島付近に、12/18に長尾曹長の1機が、12/29に三木少尉以下3機がそれぞ
 れ同じ海域の敵艦船に。最後は昭和20年1月6日に岩広少尉以下2機がルソン島西方海上の敵に突入、全員散華。
▼昭和20年1月6日(ルソン島の戦い)米軽巡洋艦「コロンビア」に急降下突入し命中直前の「鉄心隊」99式襲撃機。

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▼上掲写真直後17時29分「コロンビア」に命中した瞬間の「鉄心隊」99式襲撃機。
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▼陸軍99式襲撃機
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▼「鉄心隊」長濱清少尉 レイテ湾沖スルアン島付近で敵艦に突入戦死。享年19歳
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八紘第6隊「石腸隊」隊員18名
陸軍特別攻撃隊「石腸隊」99式襲撃機で昭和19年12月5日~昭和20年1月8日出撃
(スリガオ海峡・サンホセ付近・ルソン島西海面・オルモック湾・サンフェルナンド沖等に突入)

[12/5]高石邦夫大尉(隊長)/[12/5]石原哲雄少尉/[12/5]大井隆夫少尉/[12/5]片岡正光少尉/[12/5]下柳田弘少尉
[12/5]山浦 豊少尉/[12/5]増田憲一少尉/[12/8]伊藤誓昌少尉/[12/12]井樋太郎少尉/[12/12]吉武 登志夫少尉
[12/22]安達 貢少尉/[1/5]細田吉夫中尉/[1/5]杉町研介少尉/[1/5]林 甲子郎少尉/[1/6]岡上直喜少尉
[1/8]鈴木敏治少尉/[1/8]時田芳造軍曹/[1/8]上野哲弥少尉
「石腸隊」18名の出撃は12/5第1次7機、12/8第2次1機、12/12第3次2機、12/22第4次1機、第5次3機
 第6次1機、1/8第7次3機の99式襲撃機がそれぞれ特攻出撃している。

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▲昭和19年12月4日出撃前夜の第1次「石腸隊」隊員達。
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▲「石腸隊」特別攻撃訓練中の写真。
高石隊長(手前後向)に敬礼する右より増田憲一少尉、片岡正光少尉、片岡正光少尉、安達貢少尉、伊藤誓昌少尉。
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▲陸軍99式襲撃機※画像の日本兵勇士は「石腸隊」隊員ではありません。陸軍飛行第44戦隊の99式軍偵察機
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▲昭和19年12/5フィリピンパコロド基地を出撃する第1次「石腸隊」99式襲撃機と、帽子を振って見送る基地隊員。
12/12第3次攻撃隊 吉武少尉はエンジン不調の為、遅れて出撃。
セブ島上空で敵グラマン戦闘機4機の襲撃を受けてエンジン停止、セブ島沖のマクタン島に不時着した。
吉武少尉は頭部裂傷、右半身打撲の負傷で、同島駐屯の友軍に収容されたが、頭部裂傷が化膿、悪化し、10日前後
寝たきりの状態が続く。12/29セブ島に海軍一式陸上攻撃機が不時着、同乗させてもらいネグロス島北端ファブリカ
に脱出、シライ第2飛行師団司令部に帰着。1/9ルソン島に転進命令を受け97式重爆にてルソン島ポーラックに帰還。
2/14操縦者だけがツゲガオから重爆で台湾に運ばれ、以後終戦となって日本に帰還された。
出撃した吉武少尉以外の「石腸隊」隊員は皆帰らぬ人となった。

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▲編成後笑顔で記念写真に収まる「石腸隊」隊員勇士。前列左より2人目は隊長の高石邦夫大尉。
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▲吉武 登志夫少尉が大切に保管していた「石腸隊」隊員の写真。
 左から上野 哲弥少尉/林 甲子郎少尉/岡上 直喜少尉/大井 隆夫少尉/吉武 登志夫少尉
1944年11月8日東京の陸軍銚子飛行場からの離陸前に撮影された写真。
▼昭和19年11月下志津基地からフィリピンに向けて99式襲撃機で出撃する「石腸隊」吉武少尉機他
 (昭和14年制式、古い固定脚の偵察機であった)
 昭和20年1月8日の第7次特攻では、残存機3機でルソン島のリンガエン湾に突入、全員戦死。
 しかしこの特攻攻撃の翌日、アメリカ軍はリンガエン湾上から上陸を開始した。

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▼戦後、当時の様子を語る吉武 登志夫少尉(よくご無事で帰還されましたご苦労様でした。)
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※陸軍特攻隊の生みの親とも言える、第四航空司令官・富永中将は、「この富永も最後の一機で行く決心である」
と刀を振り上げて言って置きながら、1/8第7次特攻の行われる前日1/7夕刻、車でマニラを去り300キロ離れたエチ
アゲに移動。エチアゲを16日離陸天候不良の為ツゲガラオに戻り翌17日台北に敵前逃亡した。
この行動はフィリピン14方面軍の失望を招き、到着地の台湾第17方面軍及び本締の南方総軍から叱責されて、2/13
隷下の指揮下部隊は転属、航空軍司令部は解消させられた。陸の三馬鹿参照司令部の大部分は10日エチアゲ着。戦況不
利とみるや部下を捨てて台湾へ遁走するという暴挙に出た。


八紘第7隊「丹心隊」隊員9名
陸軍特別攻撃隊「丹心隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月10日~12月17日出撃
(バイバイ沖・レイテ湾・ミンドロ島付近等に突入)

[12/10]石田国夫中尉/[12/10]石村政敏少尉/[12/10]梅原 彰少尉/[12/10]大石 栄少尉
[12/10]佐々田真三郎少尉/[12/10]永塚孝三少尉/[12/10]岡 二男少尉
[12/12]加治木文男少尉/[12/17]斉藤行雄少尉
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▲三重県の明野飛行場に到着した、真新しい「隼」戦闘機3型に見入る「丹心隊」隊員。
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▲昭和19年11月29日「丹心隊」隊員と「忠魂」塔(明野陸軍飛行学校にて)「忠魂」塔は現在再建されています。
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▲忠魂の塔で参拝を終えた「丹心隊」隊員達。
前列左より齋藤行雄少尉、 岡二男少尉、石村正敏少尉、佐々田真三郎少尉、梅原彰少尉
後列左より丸山少尉、大石栄少尉、小野少尉、石田国夫中尉、永塚孝三少尉、加治木文男少尉
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▲特別攻撃出撃前に服装を正す「丹心隊」隊員。
隊長 石田国夫中尉(千葉県出身)/石村正敏少尉(山口県出身)/梅原彰少尉(静岡県出身)/大石栄少尉(京都府出身)
佐々田真三郎中尉(東京都出身)/永塚孝三少尉(京都府出身)/岡二男少尉(東京都出身)/齋藤行雄少尉(長崎県出身)
加治木文男少尉(鹿児島県出身)/※今田廣美少尉(S19.11/24B-29迎撃戦死,特攻作戦に加われず)
▼昭和19年11月29日壮途を祝福して乾杯をする「丹心隊」隊員。
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▼昭和19年11月29日戦友の見送りを受け最後の本土三重県明野を離陸する石田隊長機
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▼11/29「丹心隊」のフィリピン進出を明野で最後の姿を見送る家族。
 右から丸山少尉父/梅原少尉父/丸山少尉母/石村少尉父/石村少尉妹/石村少尉母/石村少尉妹

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▼カローカン基地で別れの杯を交わす石田隊長他「丹心隊」隊員。
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(八紘第8隊「勤皇隊」隊員13名 二式複座戦闘機・屠龍でオルモック湾・レイテ湾に突入)
陸軍特別攻撃隊「勤皇隊」二式複座戦闘機・屠龍で昭和19年12月7日~12月10日出撃

[12/7]山本卓美中尉/[12/7]二瓶秀典少尉/[12/7]東直次郎少尉/[12/7]林 長守伍長/[12/7]入江真澄伍長
[12/7]大村秀一伍長/[12/7]片野 茂伍長/[12/7]白石二郎伍長/[12/7]増田良次伍長/[12/7]勝又 満伍長
[12/10]湯沢 豊曹長/[12/10]北井正之佐軍曹/[12/10]加藤和三郎伍長
※陸軍は複座であっても海軍と違い操縦士のみで出撃させたが、隊長の山本中尉機は林長守伍長(朝鮮出身)が同乗
した。山本中尉は通信員を内地に帰らせるつもりだったが、林伍長は自分から進んで山本隊長機に同乗を申し出た
と言う。山本中尉の人柄に惹かれて、彼は隊長機の複座の戦闘機に乗り込んだ。
「勤皇隊」出撃数時間後、山本隊長機から師団無線室に敵艦への突入を知らせる「ピーッ」という信号が入った。
林伍長が発信した電波だった・・・。

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▲自ら考案したマーク入り尾翼の前に立つ「勤皇隊」隊長 山本卓美中尉
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 山本中尉は同隊の林長守伍長(朝鮮出身)に対し、帰国し飛行学校の教官になる事を何度も説得
 したそうだが、林伍長は「私のたった1度の反抗ですその様な命令は聴く事が出来ません」と
 言い残し、突入戦死。後に「半島の神鷲」と讃えられた。
 
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▲大村秀一伍長(勤皇隊最年少19歳)12/7の戦果は、米駆逐艦マハン小破。
山本卓美中尉/二瓶秀典少尉/東直次郎少尉/林長守伍長(朝鮮出身)/入江真澄伍長
片野茂伍長/白石二郎伍長/増田良次伍長/勝又満伍長/大村秀一伍長(勤皇隊最年少19歳)
12/7フィリピン・マルコットよりオルモック湾(レイテ島東海岸)以上10名突入戦死。
12/10湯沢豊曹長/北井正之佐軍曹/加藤和三郎伍長の3名がフィリピン・マルコットよりレイテ湾突入戦死。

[ NHK戦争証言アーカイブス[特攻勤皇隊]
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」 二式複座戦闘機"屠龍"YouTube

(八紘第9隊「一誠隊」隊員10名 「隼」戦闘機でルソン島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「一誠隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月21日~昭和20年1月9日出撃
(キュウヨウ島付近・レイテ湾・ミンドロ島付近・リンガエン湾等に突入)

[12/21]相川清司少尉/[1/4]都留 洋中尉/[1/4]石川誠司少尉/[1/5]大河原良之少尉/[1/5]伊藤 進少尉
[1/8]大原文雄少尉/[1/8]川野孝雄少尉/[1/8]山本正直少尉/[1/9]白井秀夫少尉/[1/9]石橋嘉郎少尉
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▲昭和19年11月明野教導飛行師団にて編成後に記念写真に収まる「一誠隊」隊員。
前列左より大原文雄少尉/大河原良之少 尉/都留洋中尉(隊長)/臼井秀夫少尉/石川識司少尉/山本正直少尉
相沢文雄少尉。後列左より新藤龍己少尉/伊藤進少尉/相川清司少尉/石橋嘉邦少尉/川 野孝雄少尉と隼3型。


(八紘第10隊「殉義隊」隊員9名 「隼」戦闘機でサンホセ海域の敵艦船群に突入戦死)
陸軍特別攻撃隊「殉義隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月21日~昭和20年1月7日出撃
(ミンドロ島付近・リンガエン湾等に突入)

[12/21]敦賀真二中尉/ [12/21]日野二郎少尉/ [12/21]若杉是俊少尉/[12/21]山崎武夫軍曹/ [12/21]門倉好也伍長
[12/22]樋野三男雄少尉/[12/22]林 与次伍長/[12/29]高宮芳司伍長/[1/7]東  宏少尉
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▲特別攻撃出撃前に遙か皇居に遙拝する「殉義隊」隊員。[隊長]敦賀真二中尉(徳島県出身享年21歳)
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▲「殉義隊」隼のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」

(八紘第11隊「皇魂隊」隊員9名 二式複座戦闘機「屠龍」でルソン島北部・ラオアグ・リンガエン湾に突入)
陸軍特別攻撃隊「皇魂隊」二式複座戦闘機「屠龍」で昭和19年12月25日~昭和20年1月10日出撃

[12/25]門口燁夫少尉/[12/25]渡辺 力軍曹/[1/4]利光勝義伍長/[1/ ]小平 昭伍長/[1/8 ]桑原金彦少尉
[1/6]春日元喜軍曹/[1/8]三浦恭一中尉/[1/8]倉知政勝曹長/[1/8]寺田増生伍長/[1/10]入江千之助伍長
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▲「皇魂隊」隊員の遺墨
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▲S.19.11/29フィリピン進出を前に鉾田教導飛行師団にて「屠龍」を背に記念写真に収 まる「皇魂隊」隊員。
 隊長の三浦 恭一中尉(中央)

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▲陸軍二式複座戦闘機・屠龍

(八紘第12隊「進襲隊」隊員9名 99式襲撃機でミンドロ島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「進襲隊」99式襲撃機で昭和19年12月30日~昭和20年1月8日出撃
(ミンドロ島付近・ルソン島西海面等に突入)

[12/30]久木元延秀少尉/[12/30]大石 豊少尉/[12/30]沢田源二准尉/[12/30]天地孝志軍曹/[12/30]向瀬忠勇軍曹
[1/4]小林直行軍曹/[1/5]庄村覚太郎軍曹/[1/8]小串金作准尉/[1/8]新浜新吉軍曹
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▲別れの杯を交わす「進襲隊」隊員。一番左は久木元延秀少尉
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▲陸軍99式襲撃機
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▲「進襲隊」久木元延秀少尉と99式襲撃機(昭和19年12月30日フイリピン・ミンドロ島サンホセ沖にて特攻戦死)
▼昭和20年1月5日(ルソン島の戦い)重巡洋艦ルイビルに海軍神風「第18金剛隊」か「進襲隊」の特攻機突入の瞬間。

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昭和19年12月20日 第30戦闘飛行集団の隷下部隊から陸軍特別攻撃隊「第1精華隊」を編成。
四式戦闘機「疾風」でクラーク基地より出撃。
(ミンドロ島サンホセ沖敵上陸船団へ突入戦死)村山光一軍曹/久永軍曹/三浦軍曹
昭和20年1月5日、第30戦闘飛行集団長の命令で、戦闘機隊は全機特攻作戦に移行した。
第1、11、71~73、200戦隊の四式戦装備隊は混成で「精華隊」を編成、1月12日まで、リンガエン湾に上陸した船
団を目標に、2機ずつの編隊を組み(内1機は戦果確認機)、250㌔爆弾2個を翼下に装備し出撃した。

(昭和20年1月5日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」4機で出撃、ルソン西方海上に突入)
梶原 広満大尉/荒井 幸雄伍長/他1名、計3名突入戦死。


(昭和20年1月7日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」2機で出撃、ルソン西方海上に突入)
川原 安民少尉/

 
(昭和20年1月8日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」4機で出撃、ルソン西方海上に突入)
三隅 輝男少佐/他2名、計3名突入戦死。

 
昭和20年1月10日
第30戦闘飛行集団操縦者を主とする生存者47名は潜水艦などにより台湾へ脱出。
地上勤務者の殆どは臨時歩兵第25大隊に編入され地上戦闘にて戦死(30戦隊長三隅輝男少佐1/8空中戦で戦死)
岡田中尉以下の生存操縦者6名と、2機の可動機はバンバン飛行場に移動し津崎72戦隊長の指揮下に入る。

(昭和20年1月11日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)林 正信少尉
(昭和20年1月12日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)池内貞男少尉
(昭和20年1月13日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)吉田 修少尉
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▲米護衛空母サラマウア(USS Salamaua)
1/13、08:50頃250キロ爆弾2発を積んだ陸軍特攻「精華隊」の特攻機がサラマウアの飛行甲板に突入、サラマウ
アは大破する。80名以上負傷し15名が死亡。損害は飛行甲板、格納庫と広範囲に及び、その下部では火災が発生した。
爆弾の1発は不発となったが、右舷の喫水線部分に穴を開けた。艦は動力、通信および操舵不能となった。
機関室の1つは氾濫し、右舷機関は停止した。大きな損害を受けながらも砲手は9:10に2機の特攻機を撃墜した。 
(昭和20年1月15日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)
島本 準彦少尉/五島 司少尉
(昭和20年1月18日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)田中了一伍長
(※在フィリピン陸軍航空部隊最後の特攻出撃)フィリピン陸軍特攻作戦:突入機148機/未帰還機170機/自爆24機


その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた。陸軍はフィリピンでの捷一号作戦だけで約
210機を特攻に投入した。陸軍特別攻撃隊では他に「若櫻隊」や「旭光隊」、沖縄戦に投入された「振武隊」等があり、
「震天特別制空隊」(B-29へ体当たり攻撃隊)も編成されS20.1/9.27や5月の東京空襲で屠龍で迎撃に出撃した。
昭和20年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う。
沖縄戦では、第6航空軍所属の各振武隊と第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。


沖縄戦においての陸軍特別攻撃隊の最初の特攻は石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどう ようきゅう)大尉。
(陸軍第8飛行士団誠第17飛行隊隊長)
昭和20年3月26日04:00伊舎堂用久大尉率いる誠第17飛行隊(99式襲撃機)10機により遂行された。
出撃基地は、石垣島の陸軍白保飛行場からであった。

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▲上列右から3人目の方が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市出身)、慶良間洋上散華 享年24歳
『指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る、千尋(ちひろ)の海に散るぞ楽しき』という辞世の句を残して戦死した。
※石垣島から出撃し、特攻戦死した陸軍特攻隊員は下記の通り。(階級は2階級特進後)
(誠第17飛行隊) 99式襲撃機 慶良間洋上散華

伊舎堂用久中佐(沖縄県出身24歳)/川瀬 嘉紀大尉(三重県出身24歳)/芝崎 茂大尉(埼玉県出身24歳)
黒田 釋少尉(愛媛県出身21歳)/安原 正文大尉(高知県出身24歳)/久保 源次郎大尉(千葉県出身23歳)
有馬 達郎少尉(鹿児島県出身17歳)/林 至寛少尉(東京都出身17歳)
(独立飛行第23中隊) 三式戦闘機「飛燕」 那覇西方洋上散華
阿部 久作大尉(北海道出身29歳)/須賀 義榮少尉(千葉県出身23歳)/長野 光宏少尉(東京都出身21歳)
金井 勇少尉(富山県出身21歳)/岩本光守少尉朝鮮名不詳(朝鮮出身20歳)/廣瀬秀夫少尉(香川県出身19歳)
(飛行第17戦隊)
平井 俊光少佐(岡山県出身21歳)/児子 国高大尉(岡山県出身21歳)/西尾 卓三大尉(東京都出身25歳)
国谷 弘潤大尉(富山県出身21歳)/勝又 敬大尉(愛知県出身24歳)/照崎 善久少尉(大阪府出身21歳)
西川 福治少尉(兵庫県出身21歳)
(飛行第105戦隊)
長谷川 斎大尉(愛知県出身23歳)/山元 正巳少尉(鹿児島県出身19歳)/永田 一雄少尉(鹿児島県出身20歳)
石田  勝少尉(岐阜県出身20歳)/小川 多透少尉(福岡県出身20歳)/丸林 仙治少尉(岡山県出身19歳)
内藤 善次少佐(東京都出身22歳)
(飛行第19戦隊)
根本 敏雄大尉(千葉県出身22歳)/倉澤 和孝大尉(長野県出身22歳)/栗田 常雄少尉(静岡県出身22歳)
合計31名


当時満州国の首都だった新京では第2航空軍で編成された陸軍特別攻撃隊4隊が編成された。
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」(ぶようたい)15名[ 隊長 山本 薫中尉 ](徳島県出身)99式襲撃機
陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」(ぶこくたい)15名[ 隊長 広森達郎中尉 ](三重県出身)99式襲撃機
陸軍誠第41飛行隊「扶揺隊」(ふようたい)15名[ 隊長 寺山欽造大尉 ]97式戦闘機
そして1式戦闘機「隼」装備の「蒼龍隊」15名である。
四隊共、第8飛行師団で昭和20年2月11日旧満州の新京飛行場に於いて特攻隊の命名式が行われている。
沖縄戦で万世や知覧から出撃した振武隊は多くの記録が残っているが、特攻出撃記録も残っておらず、全く知られてい
ない特攻隊は数多くある。陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」は昭和20年2月10日、満州(新京)で編成され、5個編隊15機
で平壌→大刀洗飛行場→宇佐飛行場→各務原飛行場と移動し、2月20日に長野県松本へ移動。
陸軍松本飛行場で特攻機用の改修が行なわれた様だ。「武剋隊」隊員の内6人は浅間温泉に滞在した。
▼浅間温泉目之湯旅館又は富貴之湯に滞在中に撮影。「武揚隊」か「武剋隊」勇士(お名前不明)

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「武剋隊」と「武揚隊」隊員は、特攻機爆装改修期間が延びた事もあり、約1か月淺間温泉目之湯旅館に滞在した。
ここには世田谷下馬の駒繋国民学校や東大原国民学校の学童が疎開しており、全て女児だったという。
夕刻になると広森達郎隊長がやってきては歌ったり、踊ったりしたとの事。彼等は疎開学童の女児を可愛く思い、思慕
の念を抱いていた。それが募り募って『淺間温泉望郷の歌』となり今日に伝えられている。
昭和20年3/18・20日午前6時、隊長以下全隊員が揃った。どの機内にも東京世田谷下馬駒繋国民学校の児童達から、
「兵隊さん、私たちの代わりに、いつもお守りに持っていってください」と送られてきていた人形が飾られてあった。
武剋隊6機の先発隊が松本を出発したのは3/18各務原飛行場(岐阜県)経由で新田原飛行場(宮崎県)に向かった様だ。
残りの9機も20日松本を離陸している。最終的に「武剋隊」「武揚隊」2隊は、八塊基地(台湾)、新田原、知覧、沖縄
から特攻出撃する事になる。記録では「武剋隊」9機は3/25に米軍の激しい艦砲射撃の中、沖縄の中飛行場に到着。
整備・給油の後、台湾へ向かう予定が急遽変更され、昭和20年3月27日05:30沖縄周辺の米艦船に向けて突入戦死と
記録されている。この「武剋隊」広森隊長以下9機は八塊基地(台湾)へ向かう予定だった。

しかし第32軍兼第6航空軍兼第8飛行師団参謀「神直道」(後に中佐)は、このまま台湾に行かせた方が良いか、あるい
は、ここ(沖縄中飛行場)から出撃するにしても、特攻隊の増加を待ち、一緒に攻撃させた方が効果は大きいのではない
か、否、今夜、明日中にも飛行場は艦砲射撃を受け離陸する事は困難になるのではないか等々、迷いに迷ったあげく、
27日攻撃(特攻出撃)する様に下令した。命令文に「特攻すべし」とどうしても書けず「必沈すべし」と記したと言う。 
下令直後、航空参謀 神直道は隊員の顔を正視する事が出来ず、僅かだが離れた場所に立ち、涙を見せぬ様に飲み込み
ながら彼らを見守ったと言う。隊長広森達郎中尉の操縦時間はおよそ250時間前後。他の隊員も同様、まだ爆弾を積ん
で飛行した事も無かったと言う。重装備の離陸滑走、直後の上昇、第1旋回の注意等を出撃前に教わったと言う。
(※因みに現代の旅客機の話ではあるが日本航空パイロットの場合、コーパイ[副操縦士]で3000時間その後機長として
1000時間(約2年)飛んだら一人前とされている世界で、飛行時間250時間とは飛行場を離陸し、周りを一周して着陸出
来る程度の技量だと考えられる。)当然、艦船の攻撃部位、突入角度等全く教育を受けていない状態での出撃だった。
出撃前夜沖縄県読谷村比謝川畔の飛行場大隊入浴場で入浴を済ませた広森隊長以下9名は、比謝川沿い久得橋近くの飛
行戦隊兵舎内へ壮行会に向かった。その席上、広森隊長は部下隊員に対して以下の言葉をかけた。
「いよいよ明朝は特攻をかける。皆いつものように俺についてきてくれ。だがひとつだけ約束してくれ。今度生まれ変
わったら、たとえ蛆虫(うじむし)に生まれ変わってきても国を愛する忠誠心だけは失わないようにしよう」と。
陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」(99式襲撃機)昭和20年3月27日9名が沖縄読谷村の陸軍中飛行場より出撃。
[隊長]広守達郎中尉/清宗孝己少尉/小林一満少尉/今西修軍曹/今野勝郎軍曹/島田貫三軍曹
出戸栄吉軍曹/伊福孝軍曹/大平定雄伍長

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▲別れの杯を交わす誠第32飛行隊「武剋隊」隊長 広森達郎中尉(中飛行場より99式襲撃機で出撃、3/27突入戦死)
何のためらいも無く国家の為に身を捨てようとする至誠と気魄に、その場に居合わせた人達は臓腑をえぐられる思いで、
隊員達の顔を正視する事が出来ず、皆唇をかみ、涙を密かに拭ったと言う。
昭和20年3月27日午前5時30分。晴天の明け方に砂塵をあげて9機の武剋隊が沖縄本島中飛行場を飛び立った。
250㌔爆弾を抱えた陸軍99式襲撃機は3機づつの編隊を組んで飛行、慶良間北東の方向へ飛んで行った。
首里山上では軍司令官も見守った。編隊は西海岸を超低空で矢のように飛んで行く。くっきりと日の丸が見える。
天翔ける神々だ。頭が下がる。やがて敵の対空砲かが始まった。1機が被弾して海中に墜落、他の8機は目指す戦艦に突
入した。火災と共に黒煙が天に沖し、煙が薄らぐと5つの艦影は海に没し去った。「必沈」命令を成し遂げたのである。
一瞬の静寂、低いうめき声にも似た嘆声が起こったが、それは広森隊長以下9名の戦死を意味する事でもあった。

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▲3/27慶良間列島を哨戒中の米中型揚陸艦が沖縄陸軍飛行場から飛び立った特攻機の突入を受ける。
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▲▼特攻機の突入をうけた米中型揚陸艦LSM(R)-188
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▲特攻機の突入部分。満載だったロケット弾が艦内で爆発しなかったのが米軍にとっては幸いだった。
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▲3/27米戦艦ネバダ(USS Nevada)に誠第32飛行隊「武剋隊」か「赤心隊」の特攻機が突入。
 乗組員11人が死亡、主砲塔に被害を受けた。ネバダは日米開戦の真珠湾攻撃で海軍機に小破された艦だ。

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▲ネバダに特攻した搭乗員の遺体を調べる米兵。甲板に遺骸が飛び散り胴体だけが残っている・・・。
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▲特攻隊員の所持品から出てきた「日の丸」の寄せ書きか・・・?血だらけの様に見える・・・言葉がない。
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▲特攻機の突入で戦死したネバダ乗組員。
※写真は陸軍特別攻撃隊「赤心隊」が突入時の写真の可能性も否定出来ない。
陸軍特別攻撃隊「赤心隊」昭和20年3月27日陸軍中飛行場(沖縄)より99式直接協同偵察機で出撃。
谷川広士軍曹(熊本県出身)/三竹 忍伍長(愛知県出身)
陸軍特別攻撃隊「赤心隊」昭和20年3月28日陸軍中飛行場(沖縄)より99式直接協同偵察機で出撃。
上宮賢了少尉(新潟県出身)/鶴見国志郎少尉(台湾出身)/青木健次少尉(大阪府出身)/美坂洋男伍長(鹿児島県出身)
吉野芳積伍長(宮城県出身)
(「赤心隊」は独立飛行第46中隊/対潜哨戒隊(誠第19170)で編成された特別攻撃隊。)


松本を出発した「武剋隊」先発隊の6機は、昭和20年4月3日新田原基地(宮崎県)より特攻出撃している。
小林 勇少尉/結城尚弼少尉/時枝 宏軍曹/古屋五郎伍長/佐藤 正伍長/佐藤英実伍長


なお、陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」3機は昭和20年5月13日16:32台湾(八塊)より出撃。台湾日本軍航空基地参照。
誠第31飛行隊「武揚隊」隊員

山本 薫中尉(徳島県出身享年23歳)/五十嵐 栄少尉(山形県出身享年24歳)/柄澤 甲子夫伍長(長野県出身享年21歳)
以上3名は、昭和20年5月13日(台湾)陸軍八塊基地より出撃.。突入戦死。
高畑 保雄少尉(大阪府出身享年22歳)/五来 末義軍曹(茨城県出身享年19歳)
以上2名は、昭和20年5月17日戦死。
長谷部 良平伍長(岐阜県出身享年18歳) 
長谷部伍長は誠隊から「第31振武隊」に転属、昭和20年4月22日14:40知覧から特攻出撃、突入戦死。
藤井 清美少尉(京都府出身享年24歳) 昭和20年7月19日
飯沼 芳雄伍長(長野県出身享年19歳) 昭和20年7月19日特攻出撃するも戦果確認できず戦死扱い。
長谷川 信少尉(福島県出身享年22歳)/西尾 勇助軍曹(千葉県出身享年20歳)/海老根 重信伍長(茨城県出身享年19歳)
以上3名は、昭和20年4月12日台湾へ前進中与那国島で敵機に撃墜され戦死。
中村 欽男少尉(生還)/力石 文夫少尉(生還)/吉原 香軍曹(生還)/春田 政昭兵長(不明)
誠第31飛行隊「武揚隊」は、(満州)新京→(朝鮮)平壌→(朝鮮)大邱(たいきゅう)→大刀洗飛行場→各務原→松本
そして爆装改修を終え、松本→各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→杭州(筧橋)→台湾「八塊」とい
う特攻の為の長旅であった。松本を離陸したのは全部で15機であったが、長途の旅でほとんどを失い、たった3機が台
湾に辿り着いた。しかし、彼等は誇りを失わない。めげることなく三次にわたって特攻を敢行している。

昭和20年3月28日には陸軍誠第41飛行隊「扶揺隊」が97式戦闘機で沖縄陸軍北飛行場から出撃している。

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▲陸軍誠第41飛行隊15名(4名が沖縄戦で突入戦死。その中のお1人大河正明伍長は本名、朴東勲(朝鮮出身)
 昭和20年3月28日突入戦死の4名→高祖 一少尉/大河正明伍長/小川真一軍曹/堀口政則軍曹
誠第41飛行隊は97式戦闘機15機からなり、旧満州の第2航空軍で編成された。当初は石垣島に前進する予定だったが、
米軍の沖縄上陸が迫った為、急遽沖縄本島に前進しそこから特攻攻撃をかけることになった。
3/27に知覧を14機で出撃したが、機体の故障で次々に脱落して沖縄(北飛行場)には8機が到着した(1機中飛行場へ)
3/28早朝、出撃離陸時に米艦隊の艦砲射撃と空襲を受け5機が離陸不能となる。
辛うじて4機が離陸に成功、目の前の米艦隊に突入した。戦果は中型艦3隻轟沈、炎上1隻と報じられが、この日米艦隊
損害記録は報告されていない。
飛行機を失った5名の特攻隊員は内地帰還を命じられ沖縄北部山岳地帯を彷徨し、5月末北端の奥集落にたどり着いた。
※この中に3/29知覧を出撃した飛行65戦隊の今村貞夫軍曹もいた。沖縄上空で大型輸送船に命中を確認した直後米軍
 機と交戦、1機を撃墜するも被弾して沖縄本島の北飛行場に不時着していた。
そこで住民に刳舟を出してもらい6/1与論島に到着。その後独混64旅団差し向けの大発に乗って6/16徳之島に到着。
徳之島で彼らは「沖縄戦」のさ中、大本営に航空攻撃の支援を嘆願しに行く、沖縄第32軍航空参謀の神直道中佐と同軍
航空班の藤田忠雄曹長の一行に会い、寺山大尉は神参謀に同行を願い出でて操縦を任された。
6/11徳之島飛行場から1機の99式襲撃機が飛び立った。操縦は誠第41飛行隊長寺山欽造大尉。後席に神直道中佐と藤
田忠雄曹長が乗っていた。大尉を除く2名が九州佐世保に帰還したのは7月に入ってからで、古仁屋からの海軍水上機に
乗ってであった。そして再度出撃の機会は無く終戦を迎えている。(寺山大尉/塩谷伍長/上村軍曹/菊田軍曹/金田伍長)
一方で無事に九州に着いた神参謀は鹿屋の海軍第5航空艦隊、福岡の陸軍第6航空軍、更には東京の陸軍航空総軍司令部
に航空総攻撃を要請したが、その願いは容れられなかった。
この神参謀らの本土帰還が、確認出来る陸軍機の最後の徳之島飛行場使用となった。

沖縄戦に参加した各振武隊は→「富屋食堂と知覧特攻平和会館」「万世特攻平和祈念館」参照。
また飛行第62戦隊の重爆撃機「さくら弾機」による特攻も行われた。このうち、第6航空軍司令官は菅原道大中将が
務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から四式肉薄攻撃艇(マルレ)を装備した陸軍海上挺
進戦隊による水上特攻も行われた。陸軍空挺部隊の特攻作戦は「義烈空挺隊」と「薫空挺隊」が有名だ。

[義烈空挺隊]とは沖縄戦期間中の昭和20年(1945)5月24日沖縄の陸軍北・中飛行場の強行着陸と破壊を目標とした
[義号作戦]に用いられた空挺部隊である。(「薫空挺隊」は台湾(烏來)参照)
昭和19年サイパン陥落後、米軍はサイパンにB29の基地を設けて東京を空襲した。この米軍基地に対し、強行着陸
して飛行機を破壊し、搭乗員を殺傷する目的で昭和19年12月上旬第1挺進団(パラシュート部隊)から選抜した空挺特
攻隊が編成され、「義烈空挺隊」と称された。「義烈空挺隊」とは、第1挺進団第1挺進連隊第4中隊の選抜要員+陸
軍中野学校諜報要員+第3独立飛行隊から編成された部隊の名称である。
しかしサイパン突入作戦は中止、次いで硫黄島作戦も中止となった。そして5/24沖縄攻撃作戦(義号作戦)において、
北(読谷)飛行場・中(嘉手納)飛行場への強行着陸(特攻)に投入された。

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▲「義烈空挺隊」奥山隊 隊長 奥山道郎大尉(26才)以下136名
第3独立飛行隊 隊長 諏訪部忠一大尉(26才)以下32名 陸軍97式重爆撃機2型 12機
▼奥山隊は豊岡で丸太とトタンで造った実物大模型のB-29やスクラップの日本軍機を使用して爆破訓練を重ねた。

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昭和20年1月13日「義烈空挺隊」は浜松基地に移駐。17日には軍装検査(出撃直前に行われる装備品等の点検)
を終了してサイパンへの出撃待機態勢をとったが、この頃には燃料補給の中継基地である硫黄島が米軍の攻撃
で使用が困難となり、1/27にサイパン攻撃中止が指令された。
奥山隊は再度宮崎県唐瀬原に戻り、実爆を行う厳しい訓練を続けた。 2/19米軍が硫黄島に上陸。
この時再度「義烈空挺隊」の投入が計画され、3/8頃に唐瀬原から茨城県西筑波飛行場に移動となった。
奥山大尉は航空軍司令部へ出頭のため上京したが、この時に3月10日の「東京大空襲」に遭遇している。 
3/17硫黄島の栗林中将が最期の突撃を敢行して硫黄島は米軍の手に落ち、3/21の硫黄島攻撃も中止になった。
奥山隊は再度宮崎県唐瀬原へ、第3独立飛行隊は浜松基地へ戻った。 米軍の侵攻は沖縄へと向けられた。
2度の作戦中止命令を受けた隊員達は、自ら「義烈空挺隊」をもじって 「愚劣食い放題」 と称して自嘲した。
特攻作戦が決まってから義烈空挺隊員は特別食(特攻食)を与えられていたが2度目の中止後普通食に戻った。

沖縄読谷村渡具知、比謝河口付近で資材を揚陸する米軍(1945年4月撮影)
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▲4/1米軍6万人が上陸、即日進撃し、10キロ先の陸軍北飛行場と中飛行場を占拠。 日本軍は沖縄守備兵力10万人
 では太刀打ち出来ないと判断。沖縄島内で持久戦に持ち込もうと残存機を爆破処分、飛行場を放棄した。
 (▼画像は陸軍北[読谷]飛行場で米軍に撤去される「飛燕」の残骸)

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4/1沖縄本島へ上陸した米軍は北飛行場・中飛行場を制圧した。4/13の偵察の結果では既に150機の敵機が配備
されているのが確認された。この間、陸・海軍共に多くの艦船攻撃機や特攻機を出撃させたが、特攻機の命中率
は極めて低かった。これは敵レーダーに捕捉され、北・中飛行場米軍機に邀撃されているのが原因と推察された。

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▲沖縄県読谷村にあった陸軍北飛行場(読谷飛行場)昭和20年4月米軍撮影。
そこで台頭したのが両飛行場制圧の為に「義烈空挺隊」の投入であった。
5/2「義烈空挺隊」はそれまでの航空総軍から第6航空軍司へ編入された。5/3奥山大尉は第6航空軍司令部から
出頭を命ぜられ、そこで北・中飛行場制圧の為「義烈空挺隊」を投入する考えがあることを伝えられた。
この作戦を「義号作戦」と称した。 当初「義号作戦」の日本軍航空戦力は下記の通り。


(陸軍)「義烈空挺隊」奥山隊 五個小隊(136名)/[第三独立飛行隊]97式重爆撃機12機(32名)
    飛行場攻撃部隊→第六航空軍4式重爆撃機12機 特攻機100機/第五航空軍9式双発軽爆撃機10機
(海軍)戦闘機12機/爆撃機12機/艦船攻撃部隊→雷撃機30機/特攻機80機/桜花10機


「義烈空挺隊」「第三独立飛行隊」以外は、空挺隊突入を援護する目的に編成された。しかし5/23に九州東南
海域において敵空母群を発見。海軍部隊はこの敵に対し攻撃目標を変更した為、沖縄本島から本土決戦に目を移
していた大本営からも「義号作戦」の決裁が下りない。
もはや勝算無しとした沖縄戦に精鋭部隊である「義烈空挺隊」を投入することを躊躇したものと思われる。
だが第6航空軍は強く実施を求め、ついに大本営は5/18「義号作戦」の認可に踏み切った。
当初、第6航空軍司令は、敵情の如何に係わらず5/22の出撃を決定したが5/21の天候判断により5/23に延期さ
れた。5/23、17:00格納庫前に集合、軍装検査・軍司令官の激励の辞があり、乾杯・万歳三唱が行われた。

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▲搭乗機の前で整列する「義烈空挺」隊員達。
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▲出撃にあたりそれぞれの故郷の方向に頭を下げる「義烈空挺隊」隊員。
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▲熊本県健軍飛行場三角兵舎前で、軍服に迷彩を施す義烈空挺隊員。
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▲奥山隊長を中心に義烈空挺隊整列。最前列にはアンテナ用のポールを携えた無線班らが並ぶ。
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▲集合、整列した「義烈空挺隊」隊員。手前の隊員が胸に提げているのは帯状爆薬などを収納する雑嚢。
中央隊員が抱える吸盤付き黒い円筒は「吸着爆雷」。竹竿の束は吸着爆雷の柄。他破甲爆雷のケースを腰に装着

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▲軍装検査をする菅原道大中将
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▲陸軍特攻作戦の司令官として、出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原道大中将。
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▲「われに手榴弾あり。ひたすら任務に邁進、斃るゝもなほ已まず」などと隊員に語った菅原道大中将
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▲義烈空挺隊勇士。軍服や装具の各所にポケットが増設されている。
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▲義烈空挺隊勇士
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▲義烈空挺隊勇士の後ろ姿・・・。
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▲奥山道郎隊長と諏訪諏訪部忠一編隊長
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▲5/23軍装検査後に申告、菅原道大中将より激励の辞を受ける奥山隊。中央指揮官が奥山大尉
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熊本県健軍飛行場にて、最後の宴
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ところが沖縄の天候が悪く、海軍から菊水第7号攻撃を1日延期する旨の電話が入った。
陸軍は既に出発していた重爆隊の反転を命じて作戦は翌日に延期された。
5/24天候良好との報告があり、昨日と同様に重爆12機が先行して沖縄の飛行場を爆撃、ついに「義烈空挺隊」
に出撃命令が下された。5/24、18:00義烈空挺隊の陸軍97式重爆撃機11機は熊本県健軍飛行場滑走路の東
端に向かったが1機だけ始動出来なかった。 この為1機の搭乗予定だった隊員は急遽予備機に乗り換えた。
そして昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」12機は熊本県健軍飛行場から次々と出撃していった。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず海軍は敵機動部隊発見の報が入った12:40に既に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は出撃した後だった。「義烈空挺隊」の犠牲は本命の航空特攻を成功させる為のものだったはず。
陸軍と海軍の歯車は太平洋戦争の最初から最後まで噛みあわないままだった。
「義烈空挺隊」突入に際して陸軍第6航空軍は120機の特攻機を準備。しかし「義烈空挺隊」突入後、沖縄周辺
は雨が降り、天候不良で離陸できたのは70機であり、その内「突入」と報告されたのは24機であった。
米軍側の記録では特攻機の突入は13機。12隻の艦艇に命中したとの記録が残されている。
「義烈空挺隊」突入後の戦果拡大は出来ず、「尻切れトンボ」の作戦となって終わってしまった。

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▲▼陸軍97式重爆撃機
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▲搭乗直前に握手を交わす奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)
※この写真は出撃当日、取材カメラマンからあらかじめ航空機の横で握手をするように依頼されていた。ところが一度
握手をしたものの、カメラマンとのタイミングが合わず、要望により再度握手をしたときの写真である。
奥山大尉が「千両役者は忙しいなぁ」と発言して握手した瞬間で、諏訪部大尉他周囲の隊員からも笑みがこぼれている。

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▲▼続々と爆撃機に搭乗していく隊員達。
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▼そして出撃、1番機の中から笑顔で手を振る奥山隊長。
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▼12機の97式重爆撃機は米軍のレーダー探知を避ける為、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指した。
 (画像は飛行訓練中の第3独立飛行隊諏訪部隊機。海上30メートルという超低空で訓練するので、
 波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸した時、鴎の死骸が入っていることも度々だったという)

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作戦経路上「義烈空挺隊」は企図秘匿の為、変針時・本島到着・突入の3回のみ無線を使用する事になっていたが、
変針時・本島到着時の予定時刻になっても無線は入電しなかった。
熊本県の健軍作戦室は重苦しい雰囲気に包まれた。 そして22:00の突入予定時刻になっても無線の入電はない。
だが、22:11突然に「オクオクオクツイタツイタツイタ」の無線がスピーカーから流れた。(健軍と知覧で傍受)
22:25戦果確認の為同行した飛行第110戦隊草刈機が 「諏訪部隊着陸成功」と 報告。
22:45通信所敵信傍受班は、米軍の「北飛行場異変有り」「在空機は着陸するな」等の無線を傍受、それから米軍
は続けざまに異変の報を流し続けた。 
同行した状況視察任務の重爆は、着陸を意味する赤信号灯が北飛行場で4個、中飛行場で2個確認したと報告した。
(以下米軍側の記録)
5/24日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)嘉手納(中飛行場)の爆撃に成功した。
第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり23:30頃伊江島方向から低空で進入してきた。高射中隊がこれを要撃、
飛行場付近で4機を撃墜したが、最後の1機が読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して胴体着陸に成功した。
少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機破壊炎上26機に損害
を与え、更に7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。調査によれば、胴体着陸
機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。他の突入機4機にはそれぞれ14名
の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見された。
したがって確認されたのは合計69名である。翌日1名の日本兵が残波岬において射殺された。
(合計70名となり日本軍側の記録と一致するが沖縄へ突入した義烈空挺隊、8機112名の中に生還者はいない)

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▲北飛行場(読谷)付近を占領している米軍の凄まじい対空砲火(昭和20年4月28日米軍撮影)
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▲地上に設置された米軍電波探知機を無能にする為、日本軍が爆撃機で低空からばら撒いたアルミの細片を拾う米兵。
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▲撃墜された「義烈空挺隊」を乗せた97式重爆撃機。
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▲▼撃墜された「義烈空挺隊」を乗せた97式重爆撃機。辺りに黒焦げの日本兵が散乱している。
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▲▼北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆撃機9番機「6546」(機体尾翼に下3桁がマーキングされていた)
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▲北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆(546機体は渡部大尉らが乗り換えた予備機だった)
(6546)9番機搭乗員 第3小隊長渡部大尉/操縦担当 久野中尉、荒谷少尉/航法,通信担当 酒井少尉、簑島曹長
第3小隊第1分隊長 山城准尉/池島曹長/井上曹長/山本曹長/佐藤軍曹/岡本伍長/加藤伍長/田中伍長/村瀬伍長
▼北東から進入して滑走し、最終的に南東向きで停止した。手前に日本兵の遺体が確認できる。

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▼沖縄戦で米軍が撮影した北飛行場の空撮。黒線が546機強行着陸進路・赤点が隊員の遺体散乱場所。
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▼北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。
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▼前面。強行着陸時、米兵は透けた機首に向かって銃撃し、パイロットが射殺されたと言う。
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▼機首をこじ開け、パイロットの生死を確認する米兵達。
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▲▼翌日、北飛行場に胴体着陸した義烈空挺隊機を調べる米兵。着地の衝撃で左翼側のエンジンがもぎ取られている
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▲撤去される546機
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▲着陸を試みて失敗し、北飛行場のはずれで墜落した義烈空挺隊機7番機「6156」。機は斜面の端にあったサーチライ
ト管制施設を破壊した。手前には、墜落火災で黒焦げになった日本兵の死体が写っている。

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▲北飛行場はずれにあるサーチライト管制施設の残骸。7番機が着陸失敗した際に激突した。墜落後辺りには多くの日
 本兵の死体が散乱し、その内の1つが左奥の地面にある。
 
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▲撃墜された義烈空挺隊機7番機「6156」機体から放り出された日本兵の遺体が確認出来る
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▲▼北飛行場滑走路付近に墜落した97式重爆。激しい火災が起きたのであろう、黒焦げの日本兵が確認できる。
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▼撃墜された義烈空挺隊機。米兵が放出された日本兵の遺体を見ている。
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▼義烈空挺隊員の決死の爆破で破壊された米軍機の数々。
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米軍の記録によれば5月24日、日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)嘉手納(中飛行場)
の爆撃に成功した。第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり、23:30頃伊江島方向から低空で進入してきた。
高射中隊がこれを要撃、飛行場付近で4機を撃墜したが、最後の1機が、読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して、
胴体着陸に成功した。少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機を
破壊炎上、26機に損害を与え、更に7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。
戦闘後の調査では、胴体着陸機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。
他の突入機4機には、それぞれ14名の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見されたとある。

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確認されたのは合計69名で、翌日1名の日本兵が残波岬において射殺されている。
したがって合計70名となり日本軍側の記録と一致する。(中飛行場に関してのは記述は無い)

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だとすれば、たった8名の義烈空挺隊員がこれだけの米軍機や施設を破壊した事になる。訓練を重ねてきた精鋭部隊と
はいえ、訓練の成果を本番の戦場でいかんなく発揮した事に只々驚くばかりである。

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▲義烈空挺隊員によって破壊された米軍哨戒爆撃機
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▲義烈空挺隊員によって破壊された米軍戦闘機
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▲義烈空挺隊員が破壊した米軍機。機体向こう側で多くの米兵が散乱する日本兵の遺体を見ている。
 この場所に日本兵の遺体が集中している。

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▲義烈空挺隊員が破壊した米軍輸送機
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▲▼義烈空挺隊員が破壊した米軍機の数々・・・546機のたった数名の義烈空挺隊員の戦果である事に驚く。
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▼強行着陸突入後、米軍機を爆破し散華した義烈空挺隊員。
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▼▲散華し、散乱した義烈空挺隊員の遺体を見る米兵。
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▼▲散華した義烈空挺隊員の遺体を眺める米兵。奥に写る山は座喜味城祉である。
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写真の米軍資料の説明文は以下の通り。
向こう見ずな作戦--輸送機を改造した日本軍の爆撃機は読谷飛行場に夜襲をかけ、10数名の特攻兵を突入させた。
彼らは手榴弾、擲弾筒(てきだんとう)機関銃で武装し、殺される前に数機の米軍機を破壊した。
日本軍の兵員輸送機はこの他に、少なくとも10機が飛行場にたどり着く前に撃墜された。
そのうち6機は第2海兵航空団の夜間戦闘機に、残りは対空砲により撃墜された。
日本語訳では上記の様に書いてある・・・。


[ 沖縄第32軍八原高級参謀の記録より ]
「特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍
の戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ。五月二十四日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、
軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場ではなく、
小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遙か北、中飛行場の方向にあたって、火の手の揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して感動を久しくした。
連夜に亘る特攻隊の突入、「ドロドロ」の轟音、そして空挺隊の降下は軍司令部将兵はもちろん正面二十キロの戦夜
で死闘中の兵士一人一人に、戦うのは我々のみではないとの感懐を深く心に抱かしめたのである」 と・・・。
※小禄飛行場とは昭和8年竣工の海軍小禄飛行場の事で沖縄初の飛行場だった。民間使用時は那覇飛行場と言った。


「義烈空挺隊」12機の中、目標である沖縄に達することが出来ずにエンジントラブルや航路ミス(5,8,10,11番機)
で4機が帰還、不時着している。1機(10番機)は何とか九州へ辿り着き、 隅之庄陸軍飛行場附近へ不時着したが、他
の3機は飛行場以外の場所に不時着した。1機は熊本県八代市郊外を流れる川への着水を試みた(11番機)が橋脚に激
突して炎上。操縦していた水上清孝曹長が殉職している。
1機は敵艦船の対空砲火で被弾して引き返し、福岡県大牟田市付近の海岸に、1機は熊本県三角の畠にそれぞれ不時着
している。エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機の搭乗員7名に沖縄への物資投下任務が命じられたの
は、不時着から4日後。そして5/28、6/3沖縄に向け再度出撃。二度と還ってくることはなかった。
奥山隊長等70名が散華した「義号作戦」終了後にも義烈空挺隊員7名が戦死していた事になる。

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義烈空挺隊 前編YouTube 義烈空挺隊 後編YouTube
[ 軍司令官菅原道大中将の戦後 ]
戦後、「義烈空挺隊」の生き残りの方々が菅原を糾弾する為、宅を訪れた。しかし、その宅は畳の一枚もないお粗末
過ぎる廃屋当然の家であった。生き残りの面々は当初の目的を忘れ、唖然として帰っていった。
そのボロ小屋で菅原一家5人は必死で生活をしていた。戦前より俸給は殉職した部下の家族等に送っていた為、無一
文に近い菅原家は困窮に喘ぐ。そのうち長男道紀が中支(中国戦線)で煩ったマラリアで病床に伏した。
長男の道紀は母の手を握り「私が死ぬと御両親は少しは肩身が広げられますね」と言ったのが最期の言葉となった。
どうあれ「決してお前たちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はお前達の後を追う」と語りながら、終戦の日に、
「閣下(菅原道大)一機の特攻機の準備が出来ました」と部下が伝えると、じろりと見据えた菅原は「今日から奉公の
先が違う」とヌケヌケと答え、特攻も自決もせず95歳まで生き、人生を全うしている。

義烈空挺隊YouTube
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▲趣味で模型を制作されている方が居る。素晴らしい出来で製作を依頼したが多忙との事で引き受けて頂けなかった
 が、製作者のブログには他沢山の素晴らしい完成品が紹介されている。日の丸ヒコーキ製作工房
※義烈空挺隊が出撃した健軍飛行場(熊本県)は、戦後熊本空港として長らく使用されたが、昭和46年に役目を終え、
 現在は高遊原に移転し、現在の熊本空港となっている。

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▲終戦後の陸軍健軍飛行場に残る三式戦闘機「飛燕」(昭和20年10月15日撮影)


[ 陸軍特別攻撃隊/司偵振武隊 ]
昭和20年3月22日調布飛行場「独立飛行第17中隊」を編成担当とし、100式司偵を使った初の特別攻撃隊を編成。
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▲特攻に使用された一〇〇式司令部偵察機の尾翼に描かれたドクロ
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司偵振武隊は短い訓練の後、3/26頃、調布を発って福岡県の蓆田飛行場(現福岡空港)へ向かった。
そして4/5頃、同隊は蓆田で出陣式を挙行した後、竹中隆雄隊長、東田一男少尉、吉原重発軍曹、中澤忠彦軍曹の4機
が大分を経由して4/6出撃基地である海軍の鹿屋基地へと移動した。
陸軍の特攻機が何故、海軍基地から出撃したのか?
それは「天号作戦」は台湾沖航空戦に次ぐ陸海軍の協同作戦であり、陸軍特攻作戦を遂行する第6航空軍は、昭和20年
3月19日~5月26日までの間、連合艦隊司令長官の指揮下に置かれていた。
通信網の整備が間に合わず、実現を見なかったが、当初は第6航空軍司令部も鹿屋へ移動する計画であった。
昭和20年4月初頭、司偵の飛行第2戦隊、第106戦隊、第19独立飛行隊の各々一部が鹿屋へ派遣された。
各隊は「彩雲」を装備する海軍偵察第11飛行隊の指揮下に編入され、沖縄方面敵艦隊捜索及び中攻特攻隊の誘導支援に
連日出動したのである。
しかし特攻でなくともこれら司偵機の任務は非常な危険を伴い、4月6日の第2戦隊 戸山秀雄少尉機を皮切りに計7機
の100式司令部偵察機が未帰還となり、14名が戦死している。
また、昭和20年4月17日、陸軍飛行第62戦隊の四式重爆も鹿屋基地から特攻出撃している。


昭和20年4月7日司偵振武隊 海軍鹿屋基地より出撃。
13:00海軍の爆弾を装着し、司偵振武隊(100式司令部偵察機Ⅱ型)4機が500キロ爆弾を装備して出撃。
第1編隊➡竹中隆雄中尉(神奈川県出身)/吉原重発軍曹(北海道出身) 1機が嘉手納沖に突入戦死。
第2編隊➡東田一男少尉(滋賀県出身)/中澤忠彦軍曹(滋賀県出身) 第2編隊は会敵せず、鹿屋に帰還。
[ 誘導/直掩隊 ]第131海軍航空隊(彗星) [ 操縦 ]宮田治夫上飛曹/[ 偵察 ]大沼宗五郎中尉
出撃前、直掩機の大沼海軍中尉が司偵振武隊特攻隊長竹中陸軍中尉の手を固く握りしめながら「しっかりたのみます」
「いやこちらこそ」と握手を交す。
竹中中尉を始め吉原軍曹以下待機の隊員達が隊長を囲んで握り飯の簡単な最後の昼食を済ませた。
竹中中尉が隊員達に隊長としての最後の訓示をする。
「空母が1隻しか認められない時は俺が沈めるから他のものは絶対にぶつかるな。そして絶対に帰るのだ。ぶつかる前
に眼なんかつぶるなよ」と・・・。聞き入る隊員達の眼が一段と光り輝いていたと言う。
※直掩隊大沼海軍中尉の彗星も敵艦船に特攻をかけたとみられ、未帰還。


昭和20年4月12日15:00司偵振武隊(第2編隊) 海軍鹿屋基地より再出撃。
東田一男少尉(滋賀県出身)/中沢忠彦軍曹(滋賀県出身) 1機が沖縄周辺洋上突入。

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昭和20年5月14日蓆田で待機していた隊員に対して出撃が下命された。
昭和20年5月14日10:40蓆田飛行場(現福岡空港)より500キロ爆弾を懸吊して出撃。
10:40 古山 弘少尉(島根県出身)/熱田稔夫軍曹(岡山県出身)
11:57 山路 実少尉(三重県出身)/慶増 税伍長(千葉県出身)慶増伍長は離陸直後に墜落自爆。
2機が沖縄東方洋上突入。
蓆田に残っていた司偵振武隊員は、出撃命令を待ちながら一部は偵察任務に就いていたが、5月23日森川不二雄軍曹は
沖縄方面偵察任務中、未帰還となった。
昭和20年5月23日沖縄本島偵察任務で出撃。
森川不二雄軍曹(未帰還)/井出敏秋少尉/植木 肇曹長/川上久雄伍長/平林森義伍長/佐藤武男伍長

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▲5/14 08:55 陸軍蓆田飛行場から出撃する500キロ爆弾を抱いた「司偵振武隊」古山弘少尉搭乗機。
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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機(昭和19年美保海軍航空基地で撮影)

[ 南西方面の特別攻撃隊 ]インドネシア(バンドン飛行場やスラバヤ飛行場など)
東部スラバヤ、西部ジャカルタ方面への英機動部隊来襲を控え、昭和20年5月に編成された特別攻撃隊は3隊。
「七生皇盾第2飛行隊」昭和20年1月29日97式重爆撃機10機出撃。
「第71中隊」昭和20年3月1日99式軍偵察機1機が出撃。
「神翔攻撃隊」昭和20年4月11日99式軍偵察機で出撃。座間重信中尉/杉山達作少尉 ニコバル諸島沖で突入戦死。
「七生神雷隊」昭和20年6月25日四式重爆撃機で出撃。バリクパパン沖で突入戦死。

中島 要少佐/吉谷正之大尉/新道定信大尉/山中領一郎中尉/前間久重少尉/前田正八准尉/山打一雄准尉
加藤清八郎曹長/谷 義美曹長/田中公福曹長/中村雅治曹長/馬場重男曹長/細江源之助曹長/真仲康四曹長
内倉龍三軍曹/大栗清一郎軍曹/加藤与一軍曹/河村銀之軍曹/立原幹一軍曹/高田政三軍曹/根本禎二軍曹


「七生昭道隊」昭和20年7月26日アロルスター飛行場より99式陸軍偵察機で出撃。プケット沖で突入戦死。
徳永勇夫曹長/山本玄治曹長/大村俊郎伍長
陸軍第3教育飛行隊で編成された「七生昭道隊」はマレー タイピン~アロルスター飛行場から特攻出撃。
護衛空母に軽微な損傷を負わせ、イギリス海軍機雷掃海艦ヴェステルに1機命中した(ヴェステルは火災後処分)
昭和20年7月26日 東南アジアへの攻撃作戦に参加中のイギリス海軍の重巡洋艦「サセックス」 (HMS Sussex96)
に「七生昭道隊」99式高等練習機(偵察機)と見られる特攻機が突入。鋼鉄の艦側面に激突した。損傷は少なく、9月に
はシンガポール再占領に参加している。

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▲▼サセックスの左舷にクッキリと残った 99式高等練習機突入の跡。爆弾は不発だったのだろうか・・・生々しい。
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▼重巡洋艦「サセックス」 (HMS Sussex96)
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▼「七生昭道隊」 99式高等練習機のカラーリング ※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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「七生昭武隊」昭和20年7月28日99式軍偵察機で出撃。スワ砲台沖で突入戦死。
中村安雄少尉

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▲ジャワ島バンドン飛行場の七生昭武隊。前列右より2人目の中村安雄少尉は、7/28僚機と共に日本船団を護衛中、
 スワ砲台付近で敵潜水艦を発見、爆撃に失敗、その後体当たりを敢行した。(搭乗機は97式戦闘機か99式軍偵察機)

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▲「七生昭武隊」99式軍偵察機のカラーリング ※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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▲陸軍99式軍偵察機(出撃機は恐らく99式襲撃機として特攻仕様に改造されていたであろう)
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▲日本国内には現存しない99式高等練習機は、タイ王国立空軍博物館(ROYAL THAI AIR FORCE MUSEUM)タイ空軍
 博物館に現存機が保存されている。(画像は戦跡の歩き方よりお借りしています)


▼「震天制空隊」二式複戦「屠龍」飛行第53戦隊「震天隊」に属した「屠龍」垂直尾翼には第53戦隊の部隊マークを。
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日本本土に空襲に来るB-29迎撃の為、機体もろともB-29に体当たり攻撃を仕掛ける「震天制空隊」が編成された。
昭和19年(1944)11月7日第10航空師団は隷下の各飛行戦隊に対し、各戦隊に4機の特別攻撃隊(主に戦闘機)で体当たりし
B-29を撃墜する空対空特攻隊の編成を下令した。
防衛総司令部総司令官・東久邇宮稔彦王陸軍大将によって「震天制空隊」と命名された。

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飛行第53戦隊震天制空隊は千葉県松戸市松飛台に基地が置かれ「千早隊」と名づけられた。
第一○飛行師団の当時の師団長であった吉田喜八郎少将が、その隷下各戦隊に戦闘機4機をもって、無線機と酸素のみ
で武装を外した、B-29への体当り専門の特攻隊を編成させたのは、1944年(昭和19年)11月7日であった。
昭和19年9月所沢から移転した飛行第53戦隊でも、児玉戦隊長により青木哲郎少尉以下4名が特攻隊員に選ばれた。
飛行第53戦隊は、第1(まつなみ)第2(こんごう)第3(さざなみ)という3つの飛行隊と整備中隊からなり、夜間防
空を主任務とした為、「猫の目部隊」「ふくろう部隊」と呼ばれた。その配備された戦闘機は、二式複座戦闘機「屠龍」
である。第53戦隊には、米軍機の本土空襲に備え、背中に斜銃2門を設置した対爆用屠竜が25機、他やはり斜銃を設置
された百式司偵改(一〇〇式司令部偵察機改)が数機配備された。
震天制空隊は昭和20年4月まで6次に渡り屠龍で編成され、11名が出撃、8名が戦死している。また第53戦隊全体では
50名以上の隊員が戦死している。
青木哲郎少尉(生還) / 飯岡重雄軍曹(戦死) / 沢本政美軍曹(戦死) / 山田健治伍長(戦死) / 田上 久伍長(戦死)

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▲機体側面には震天隊所属を意味する「鏑矢」(かぶらや)を描いている。
「帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をとどむる」 
という楠木正行の歌にちなんで、鏑矢が描かれた。楠木正行は言うまでもなく、楠木正成の子であり、父正成が湊川で
戦死した後も、楠木家の惣領として南朝のために戦った。この歌は、四条畷に足利の大軍を迎え撃つべく正行出陣の折
に詠んだ辞世の歌である。屠龍の機体に描かれた鏑矢は、歌に出てくる梓弓から足利の大軍に見立てられたB29の群れ
に向けて放たれ、生還を期せず迎え撃つとの決意を表しているのであろう。
震天制空隊の屠龍に描かれた鏑矢は、赤と白の派手なものであったという。
松戸では、終戦直前の昭和20年5月に飛行第18戦隊が柏から移駐してきた。入替りに、翌月飛行第53戦隊は新設され
た藤ヶ谷陸軍飛行場に移動する事になる。

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▲飛行第53戦隊第3震天制空隊
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▲第四次第53戦隊震天制空隊(1945年、青木哲郎氏蔵)
「震天制空隊」が他の特別攻撃隊との決定的な違いは、敵機(B-29)に衝突後に操縦者が機体より脱出し落下傘降下、
あるいは偶然操縦席より放り出される形で結果的に脱出、ないし損傷した乗機を操縦着陸させ、搭乗員が生還する
事が必ずしも不可能ではなかった点だ。
そもそも戦闘機操縦者、特に当時の日本機でB-29の高度まで飛行できる操縦者は貴重な人材であった為(技量不足
の操縦者が高空飛行に失敗して高度を落とす事はしばしばあった)、むしろ生還する事が求められていた。
この為、「震天制空隊」は他の特攻隊の様な「十死零生」ではない事だ。
中には、飛行第244戦隊震天制空隊「はがくれ隊」所属の板垣政雄伍長/中野松美伍長の様に2度の体当たりを敢行
し2度とも生還したという例もあった。(板垣伍長はのちに加藤に改姓)

▼昭和19年12月3日 12機編隊のB-29の内1機を撃墜し、奇跡的に生還(不時着)した中野松美伍長の飛燕
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※中野松美伍長と板垣政雄伍長は昭和19年12月3日、昭和20年1月27日と出撃して2回共生還している。
逆に戦果をあげる事ができず「技量不足」とみなされた操縦者が、通常の特攻隊に左遷される場合もあったという。
しかし、使用する機体の大半は使い古しの中古機で、他の特攻機同様軽量化の為、機関砲・防弾鋼板・無線機も撤去
され、高空での機体性能を少しでも向上させた「無抵抗機」と呼ばれる機体が用いられた。
戦果は第10飛行師団昭和19年11月~12月末日(師団参謀山本茂男少佐)でB-29撃墜確実16機、搭乗員戦死10名。

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▲S19,11/7はがくれ隊(後の震天制空隊)編成。左から隊長四宮徹中尉/板垣政雄伍長/吉田竹雄軍曹/阿部 正伍長
板垣政雄伍長は、調布基地(東京)飛行第244戦隊に配属され、主な任務は40機の三式戦闘機「飛燕」をもって帝都に
来襲する米軍爆撃機B29を迎え撃つ防空戦闘であった。
そして板垣軍曹を含め、わずか4名4機で編成されたこの対空特別攻撃隊は、「はがくれ隊(葉隠隊)」と命名された。
徹底して軽量化された飛燕は、4門の機関砲を2門にしたうえ弾数も減らし、更に座席の後ろにあった防弾板も外した。
だが、板垣伍長らの「対空特別攻撃隊」の機体は全機関砲を取り払い、機体そのものを武器とした。
昭和19年11月24日、飛行第244戦隊は100機ものB‐29の大梯団を迎え撃った。
「はがくれ隊」にとっては初陣だったが戦果を挙げられなかった。だが12月3日、この日帝都に飛来したB29は86機。
この時の迎撃戦では飛行第244戦隊は6機を撃墜する戦果を挙げたが、そのうち3機が「はがくれ隊」の体当たり攻撃に
よるものだった。板垣軍曹は11機編隊の最後尾を飛んでいたB-29の前上方から体当たりを試みた。
敵機の主翼を吹っ飛ばしたと同時に、板垣軍曹の乗機も空中分解し、彼は機外に放り出されて失神したという。
衝撃で操縦席から放り出され、落ちてゆく途中で意識を取り戻し、落下傘のもつれを直してなんとか無事に落下傘が開
き、千葉県印旛沼付近に着地した。農家で応急手当てを受けた後に列車で調布基地に戻ったという。
この日の戦闘では、「はがくれ隊」隊長・四宮徹中尉がB-29に後方から体当たりして尾翼をもぎ取って撃墜した。
自機の飛燕も主翼の半分を失ったが、片翼で飛行して帰還した。
更に中野伍長は印旛沼北方上空でB-29に後下方から接近して真下に入り込み、操縦桿を引き上げて上昇したところ、自
機のプロペラで尾翼左水平安定板を砕いたうえ、B-29に“馬乗り”になった。こうしてB-29は墜落し、自機もエンジン
が停止して滑空状態になったが、茨城県稲敷郡太田村の水田に不時着して無事だった。この武勲で板垣・中野両氏には
「武功徽章乙」が授与され、揃って軍曹に昇進「はがくれ隊」は「震天制空隊」と改称された。
※「震天制空隊」は終戦までは続けられず、途中(時期不明)で中止されて普通編成に戻っているが、「沖縄戦」の特攻
作戦で「知覧」「万世」から特攻出撃していった隊員もいる。

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▲S20,2震天隊最終メンバー左から隊長佐々木少尉/中野伍長/頼田少尉/板垣軍曹。後ろに写る戦闘機は「飛燕」
この写真に写る隊長 佐々木鐵雄少尉は後にS20,6/6陸軍特別攻撃隊・第160振武隊員として沖縄へ出撃、突入戦死。
B29撃墜YouTube
第6航空軍参謀「倉澤清忠少佐」によると、当時陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願
によって戦闘する「特攻部隊」に区別されたと言う。決号作戦(本土決戦)の為に航空機を温存する為、また、操縦
が容易な機体である97式戦闘機といった旧式機や99式高等練習機などの練習機も特攻に投入されたが、 同時に三式
戦闘機「飛燕」や四式戦「疾風」といった主力戦闘機も多数特攻に投入されている。
知覧特攻平和会館の記事でご紹介した沖縄戦に参加した「振武隊」の多くが、一式戦闘機「隼」や97式戦闘機といっ
た旧式機が多いのは、「戦闘部隊」では無く「特攻部隊」に区別されていたからである。
特攻出撃した部隊に三式戦闘機「飛燕」や四式戦「疾風」といった主力戦闘機で特攻出撃した部隊があるが、飛行第
244戦隊から選抜された「振武隊」が多い。
飛行○○戦隊というのは「戦闘部隊」で、多くは「飛燕」や「疾風」などの陸軍主力戦闘機が与えられた。

【震天制空隊】 B29に体当たりを敢行せよYouTube

[ 飛行第4戦隊 ]
偵察/戦闘機隊(天風第35001)
飛行第4戦隊は北九州地区防衛の飛行戦隊で、成都から飛来するB-29梯団の邀撃任務に就いた。
昭和19年12月二式複座戦闘機「屠龍」を使ってのB-29へ体当たり専門部隊、「回天隊」を編成した。
飛行第4戦隊は昭和13年、大刀洗飛行場で創設された。その後、山口県の小月(おづき)飛行場に拠点を移した。
本土に襲来するB-29を迎え撃つのが任務で、本土防空部隊として、日本一の精鋭とも称された。
昭和20年4月18日午前、「久留米、鳥栖方面に敵機、来襲」と空襲警報が鳴り響いた。
福岡県南部にあった大刀洗陸軍飛行場の一帯は何度も空襲に遭った。この日の空襲も大刀洗を狙ったものだった。
飛行第四戦隊 第一回天隊隊長「山本三男三郎(みおさぶろう)」少尉は、08:00頃雁ノ巣(がんのす)飛行場(現在の
福岡市東区)から、体当たりによる特攻攻撃の為、全武装を撤去、後席を塞ぎ、できる限りの軽量化を断行した必死必
殺の悲壮なる「屠龍」で出撃した。2018年造形村から山本少尉機を忠実に再現した1/32屠龍キ45が発売されている。

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▲小月飛行場で打ち合わせ中の飛行第四戦隊の隊員勇士と屠龍。
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▲二式複座戦闘機「屠龍」 飛行第4戦隊 第1回天隊隊長 山本三男三郎少尉機
山本少尉は小郡上空でB-29の編隊を見つけると、通常火器で応戦した後、B-29編隊最後尾の1機に体当たりした。
山本少尉はパラシュートで脱出したが、降下途中で米機の機銃掃射を受けた。
その後、久留米市の陸軍病院に運ばれるも治療中にB-29が墜落したと聞くと「山本の勝利」と言って亡くなったという。
山本三男三郎(みおさぶろう)少尉(北海道出身/享年23歳) 太刀洗平和記念館には、山本少尉の血痕の付いたマフラー
や飛行帽、メガネといった遺品が展示されている。

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▲B-29撃墜現場(松隈嵩氏撮影)B-29搭乗員11名は戦死。そしてB-29は運悪く防空壕の真上に墜落し、中に居た民間
人6名が巻き込まれて死亡した。米兵の遺体を住民が「畜生」と言いながら、恨みを込めて踏みつけていたという。
度重なる空襲の被害で米国への恨みが募っていた。当時カメラを持って現場に行き、写真を撮る事はスパイ行為として
厳しく監視されていた中での松隈嵩氏の勇気ある撮影のお陰で、現在こうやって墜落現場の写真を見る事が出来る。
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▲空対空特攻機に改造された二式複座戦闘機「屠龍」と「回天隊」隊員勇士達。
飛行第四戦隊所属の二式複座戦闘機「屠龍」によって編成された空対空特攻隊。
空対空特攻とは昭和19年の北九州空襲以降、B-29に対抗する為に防空戦闘機から銃器などの重量物を下して軽量化、
身軽にして高空性能を確保し、体当たりでB-29を撃墜しようと考案された作戦。
飛行第244戦隊など東部軍管区の「震天隊」が有名だが、西部軍管区でも第12飛行師団に隷属する飛行第4戦隊などで
空対空特攻隊が編成され「回天隊」と呼ばれた。写真の「屠龍」機首部分に回天と書かれた赤い稲妻が、白いB-29の
シルエットを切り裂く絵柄が描かれている。


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▲昭和20年7月14日岩手県釜石沖に戦艦インディアナ、戦艦マサチューセッツ、重巡洋艦クインシーなどが現れ砲撃。
終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍の指揮下で各神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側に
配備され、終戦間際の昭和20年(1945)8月9日には第255神鷲隊(岩手陸軍飛行場より釜石沖に出撃)が特攻出撃。
8/9夕刻、神鷲隊255隊の99式双発軽爆撃機3機が500kg爆弾を装備し、岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)を出撃基地
として、吉村公男中尉(22歳)/渡辺秀男少尉(22歳)/石井 博伍長(19歳)が特攻出撃。
出撃した3機の内、1機はエンジンの不調で進撃を断念、爆弾を北上川の中洲に投下して、後藤野飛行場に無事帰還。
進撃した2機は洋上の敵空母機動部隊を発見出来ずに追跡を断念、帰還途中1機は仙台湾に、1機は福島県原町に墜落
して、無念の戦死を遂げたと言う。
更に、終戦2日前の13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)第398
神鷲隊(相模より下田沖に出撃)の3隊が出撃している。
[ 第201神鷲特別攻撃隊 ] 昭和20年8月13日二式双発爆撃機6機で出撃
2機が米艦隊に突入、3機が目標未確認の為帰還。1機帰還途中不時着。
小川満中尉(香川県出身)/横山善次少尉(茨城県出身)/藤田重喜伍長(北海道出身)

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▲昭和20年8月13日出撃前、見送りを受ける小川満中尉(左)と藤田重喜伍長(中)。藤田伍長は通信員として同乗、
この2時間30分後、犬吠埼東方洋上で「小川編隊ただいま突入」の無電を発信、散華した。終戦2日前の事であった

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▲8/13出撃準備の整った第201神鷲特別攻撃隊(二式双発爆撃機)両主翼に250キロ爆弾を各1発を懸吊した。
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▲8/13那須飛行場で出陣式に臨む第201神鷲特別攻撃隊隊員。中央は隊長の小池辰男中尉。
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▲8/13出撃前、隊員に最終指示を伝達する小池辰男中尉(手前)。右は出撃を見送る第26飛行師団長高品明少将。
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▲昭和20年8月13日二式双戦の操縦席で最後の記念写真、第201神鷲特別攻撃隊の小川満中尉。
 この2日後、終戦(敗戦)をむかえる事になる祖国を予想していたのだろうか・・・・。

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▲陸軍二式双戦(二式複座戦闘機)
※那須野 陸軍飛行場は、昭和13年~3年の歳月をかけて完成した面積約280ヘクタールの飛行場。
熊谷及び、宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として、下士官・特別操縦見習士官・少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を
繰り返し、卒業後は次々と第一戦へ配属されていった。
戦況熾烈となった昭和20年4月茨城県より鉾田教導飛行士団が移駐して実戦部隊となり、双襲双軽爆撃機による特攻機
の訓練基地として「神鷲隊」12隊が編成される。内2隊は終戦直前、岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた。


※現在、岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地は当時の痕跡は何も残されていない。
昭和13年9月25日竣工の岩手陸軍飛行場は、陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた複葉
練習機が飛び交っていた。昭和19年に本土が空襲を受ける様になると俄かに実戦基地化され、陸軍特別攻撃隊「神鷲隊」
が移駐し短期間の訓練の末各地に配属されていった。
昭和20年8月9日米軍艦載機により空襲を受けて飛行場の施設が破壊され、隣接する民家にも爆弾が投下された。
終戦後飛行場の役目が終った後藤野は、国から払い下げを受け開拓団が入植して農地に生まれ変わり、さらにその一角
には工場が誘致され工業団地となって発展した。

陸軍特別攻撃隊 昭和20年 配給 日本映画社YouYube


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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2016_02_07


知覧は有名ですが、九州にはかつて太刀洗(陸軍)知覧(陸軍)万世(陸軍)鹿屋(海軍)都城西・東(陸軍)他数ヶ
所の航空基地があり、そこから祖国の為、家族を守る為、それぞれの方が死ぬ理由を自分に言い聞かせて沖縄に飛び立
って行かれた。
沖縄戦の陸軍特別攻撃隊は[ 振武隊 ]と呼ばれ、特別振武隊~練習機まで投入した第501振武隊まで編成された。
「万世飛行場」は昭和18年夏~19年末にかけて建設された陸軍最後の特攻基地で、この飛行場はわずか4ヶ月しか使
われませんでした。17歳の少年飛行兵を含め200人近い特攻隊員が沖縄の空に向けて飛び立っていかれました。
知覧、万世、鹿屋と訪れたわけですが、特攻隊員の精神力には言葉を失います。

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▼入口は当時の万世飛行場と同じ。
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当時の営門が残る。
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▼南九州の陸海軍航空基地
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万世特攻平和祈念館
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▼建物に入ると平成4年(1992)に吹上浜より引き上げられた海軍零式三座水上偵察機が展示してあります。
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展示機の搭乗員は存命との事。昭和20年福岡に展開していた海軍第634航空隊偵察302所属機で、太平洋戦争末期の
「沖縄戦」のさ中、南西諸島方面偵察の為に福岡を飛び立った機だった。偵察任務を終え帰途中、吹上浜付近で燃料が
尽きて不時着水し、操縦士・航法士・電信士の3名は水上機なので水没は免れ、無事に浜にたどり着き生還されている
との事。吹上浜沖には他にもまだ数多くの軍用機が沈んでいるとの事だ。



万世飛行場で出撃2時間前に撮られた有名な1枚、少年飛行兵[荒木幸雄]伍長
群馬県桐生市出身の陸軍少尉17歳です。(昭和20年5月27日撮影)
子犬を抱いている荒木さんはこの写真が撮影された後、沖縄へ出撃し戦死されました。
(第72振武隊は10名中7名が10代の飛行兵でした)
第72振武隊の少年飛行兵達は、昭和20年5月26日の出撃を天候不良により延期。
翌27日沖縄本島金武湾の東約50kmで米駆逐艦ブレインに突入、大破させ、同日四階級特進の陸軍少尉となった。
以下、荒木伍長の遺書です。17歳とは思えない立派な文章です。

兄上様、永い間御世話に預かり有難く御礼申し上げます。
何も思い残すことなく死んでゆけます。
只一筋に当たるのみ。
今迄何等恩返しも出来ず申訳ありませんでした。
此度の出動は幸雄の恩返しと思い御喜び下さい。
戦局も益々苛烈を極める今日、十八歳の身にて敵に当たるは当然の事なり。
兄上様にも今年入隊の事と思いますが、
何事も御努力と誠心誠意軍務に勉励されんことを切に祈ります。
御両親様と弟を頼みます。
特に三人の弟には良く御訓育なされ
将来立派な日本人として自分の後に続いてくれる様御願い致します。
九段の花の下でゆっくり会いましょう。 

▼前列左より早川勉伍長、荒木幸雄伍長、千田孝正伍長。後列左から高橋要伍長、高橋峰好伍長
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▲子犬を抱いているのが荒木幸雄伍長、荒木伍長が特攻隊員の宿舎になっていた飛龍荘から父親に
宛てた最後のハガキが残されているとの事。
そのハガキの消印は出撃当日昭和20年5月27日、宿舎の住所は川辺郡加世田町飛龍荘内であった。
飛龍荘は特攻隊員の宿舎になっており、多くの若者が出撃までの間を過ごした場所。
※写真の第七十二振武隊員が沖縄西海域に突入散華同日、四階級特進の陸軍少尉となっている。

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▲荒木伍長と交代で子犬を可愛がる高橋峰好伍長

▼多くの若者達がこの万世飛行場から沖縄に向けて飛び立っていかれました。石碑は沖縄の方向を向いています。
 石碑の中の特攻隊員が東の方向を向いているのは故郷を思う気持ちを表しているそうです。

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▼桜の咲く季節、特攻隊員の方々が、竹屋神社で必勝を祈願し、境内に咲いている桜の枝を持ち帰り、愛機に飾って
 沖縄の海に出撃されたそうです。

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万世飛行場から特攻出撃した陸軍振武隊は荒木幸雄伍長の所属した第72振武隊の他にも当然あるが、
全て紹介しきれないので以下少しだけ紹介する。

[ 第62振武隊 ](白梅隊)昭和20年4月3日~4月12日出撃 〔万世飛行場特攻第一陣〕
石川一彦中尉4/3(香川県出身)/杉田繁敏中尉(宮崎県出身)/坂本友恒大尉(長崎県出身)/木谷実(北海道出身)
込茶章大尉(兵庫県出身)/富澤健児大尉(東京都出身)/丹羽修平少尉(愛知県出身)/4/3鈴木満(東京都出身)
坂本清少尉4/6(秋田県出身)/三宅柾少尉(岐阜県出身)滝口尚文大尉(宮城県出身)/倉潔少尉(兵庫県出身)

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▲第62振武隊員の勇士達。
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▲▼第62振武隊 出陣式
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▲(左)石川一彦中尉(右)込茶章少尉。
昭和20年4月3日石川中尉は特攻機で福岡の大刀洗基地へ移動中、山口県内で濃霧の山中に激突、同乗の杉田中尉と共
に殉職している。石川中尉は昭和17年陸軍航空士官学校卒、少尉候補者第22期生として任官。飛行教官として各地の
飛行学校を転々とした。昭和20年1月、石川中尉は宮崎から下志津飛行隊(千葉・銚子分教場)へ転勤。
石川中尉の新任務は特別攻撃の教官だった。石川中尉は教官としての立場から、教え子ら11人で編成された第62振武
隊の隊長に志願したという。特攻戦死と記録されているのはそういった経緯も考慮してのことだろう。
昭和20年4月6日午後、第62振武隊の5機は次々と万世飛行場を出撃。
陸軍計8隊、57機、 海軍計15隊、211機と共に沖縄の海に散った。込茶章少尉はこの日第二編隊の長機として出撃。
かつての恩師、故・石川隊長の遺骨を抱いて散華したと伝えられている。

[ 第63振武隊 ](神州隊)昭和20年6月7日出撃
難波晋策准尉(岡山県出身)/後藤與二郎曹長(三重県出身)/宮光男准尉(広島県出身)
服部良策軍曹(三重県出身)/榊原吉一軍曹(福島県出身)/佐々木平吉軍曹(徳島県出身)
久木田清中尉(離陸出来ず)/木幡正義少尉(目達原に残留)/高田明少尉(離陸出来ず)
堀口良助軍曹(目達原に残留)/廣瀬廣義軍曹(負傷し終戦まで入院)/中沢留吉軍曹(徳之島に不時着)

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▲昭和20年4月8日撮影第63振武隊員(昭和20年4月8日撮影)昭和20年3月23日福島県原町飛行場で編成
後列左より佐々木/榊原/後藤/難波/服部/中沢 前列左より堀口/宮/木幡/久木田/高田/廣瀬
6/7 99式襲撃機で出撃(12名中6名戦死)

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▲ 榊原吉一軍曹               ▲後藤與二郎曹長
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▲服部良策軍曹                 ▲難波晋策准尉
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▲宮光男准尉                ▲佐々木平吉軍曹
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▲榊原吉一軍曹(戦死後四階級特進 任少尉)
昭和20年5月28日原町から万世へ向う途上に大阪から父へ
「鹿児島に行くと思います。皆様くれぐれも健康に注意されますように。小生のことは別に心配いりません。
隊名は陸軍特別攻撃隊振武隊。飛行機のマークは鳥の羽に桜の花です。記憶ください」
出撃6日前の遺言。
「お父様・お母様・弟妹達。皆様にはたいへんお世話になりました。吉一はただいまより出発致します。ご心配なく…。
くれぐれもご健康に留意し、末永く生活せられますように…。サヨウナラ、サヨウナラ。轟沈するものなり。」
6月7日出撃直前に父への最後の便り
「吉一、ただいま出発いたします。父上様・母上様・弟・妹たち 健在で生活せよ。沖縄の敵に向かい、轟沈せしむ。
昭和二十年六月七日午後四時、吉一」

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▲陸軍99式襲撃機


[ 第64振武隊 ](国華隊)昭和20年6月11日出撃
渋谷健一大尉(山形県出身)/稲垣忠男小尉(東京都出身)/巽精造小尉(大阪府出身)
井上清少尉(福岡県出身)/稲島竹三少尉(福島県出身)/加藤俊二少尉(三重県出身)
斉藤正敏少尉(北海道出身)/岸田盛夫伍長(京都府出身)/森高夫少尉(愛知県出身)
横田彦次郎伍長/鈴木文治伍長(エンジントラブルで帰還)
橘保軍曹(エンジントラブルで鹿児島県川辺郡上山田の山中に墜落)
※橘保軍曹機の墜落現場にかけつけた住民の証言。
午後10時頃、突然低空をかすめる爆音がしたと思うと、続いて大き な衝突音がしてピタリと静かになった。
土地の人々は、空襲警報も出ていな いので、もしや、敵機が墜落したのでは…?いや味方の特攻機かも…と。
救急用具やタンカ、それに竹槍も用意して、夜を徹して雨の中の捜索を始めた。
翌朝うす明るくなった頃、日の丸の飛行機を発見した。機体は翼を折って、雑木のまばらな平地にその機体
から外れたた500㌔爆弾が10メートル程離れた柔 らかい山中に、不発のまま横たわっていた。一滴の燃料も
無くなっての墜落で火災が無かったのが幸いだった。まさに奇蹟であった。
その機体の中で、意識不明の橘保軍曹を発見。顔面裂傷で出血多量の危い命が救われた。

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▲万世飛行場に移動前、お世話になった佐賀県目達原飛行場の地元の人達と記念撮影に収まる第64振武隊員。
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▲慰問に訪れた女子生徒たちと記念撮影する第64振武隊員。「桜花の如く散り逝く特別攻撃隊員を桜花に見立て、
一度矢の弓の弧をを離れたら生きて帰らない様を矢にたとえあしらった」国華隊のマークを女子生徒達が99式襲
撃機の垂直尾翼に描いた。

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▲第64振武隊「国華隊」の渋谷健一隊長(享年31歳)は、隊員に「お前達も私も空母や戦艦に体当たりすることを夢見
てきたが、艦船を選択せず目に入った船に突っ込む事。迷うと目的を達成できない」と訓示した。
昭和20年6月11日万世飛行場から出撃、沖縄西方洋上の敵艦船群に突入、戦死。

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▲出撃の日に井上清少尉の家族は全員が見送りに来ていた。生きながらの葬儀であった。
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▲第64振武隊員、出撃前の最後の敬礼。
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▲[ 第64振武隊 ](国華隊)99式襲撃機のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」

[ 第66振武隊 ]昭和20年5月4日~5月25日出撃
毛利理大尉(大阪府出身)/荒川英徳大尉(愛知県出身)/壺井重治少尉(三重県出身)/佐方栄一少尉
後藤光春大尉(三重県出身)/伊藤照友大尉(東京都出身)/金子彰少尉/松尾翠少尉/増田壽一少尉
福佐定夫少尉/加藤金四郎少尉/中村憲太郎少尉(黒島に不時着)

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▲第66振武隊長 後藤光春少尉。「ひたすらに神国たる自覚と神明の加護のもと南海に散っ
てゆく日本人のこの姿を米鬼に見せてやります」と別れの言葉を残して出撃。突入、戦死

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▲第66振武隊。5/4第六次航空総攻撃と25日の第八次航空総攻撃に97式戦闘機で出撃。

[ 第67振武隊 ]昭和20年4月28日~5月6日出撃
金子正男少尉(山形県出身)/寺田浩一大尉(栃木県出身)/清水真三大尉(神奈川県出身)
長澤徳治大尉(石川県出身)/網代一大尉(千葉県出身)/市川敏那大尉(栃木県出身)
幸田二郎中尉(東京都出身)


[ 第72振武隊 ]「ほがらか隊」昭和20年5月2日~5月27日99式襲撃機で出撃(上記でご紹介)
佐藤睦男中尉(千葉県出身)/新井一夫(東京都出身)/荒木幸雄伍長(群馬県出身)※上記紹介参照
千田孝正伍長(愛知県出身)/早川勉伍長(三重県出身)/高橋峯好伍長(神奈川県出身)
知崎利夫伍長(愛知県出身)/久永正人伍長(鹿児島県出身)/高橋要伍長(東京都出身)
西川信義軍曹(5/2中国上空を移動中、敵機の攻撃により負傷、出撃出来ず)/佐々木篤信伍長(5/2戦死)
以下は5/2西川軍曹の回想録より。
第五航空軍の指揮下で平壌から北京・洛南・南京へ向かう途中、西川・佐々木機が敵機P51戦闘機4機の不意の攻撃を
受け、佐々木篤信伍長は被弾し戦死。機は爆発炎上した。
西川機は燃料タンクを撃ち抜かれ、不時着した際に炎上、西川軍曹は顔に火傷を負ったが一命を取り留めた。

金本海龍伍長(5/27喜界島不時着➡万世帰還➡6/26知覧へ)※朝鮮人特攻隊員
後日振武寮行きとなった金本伍長は、軍人勅諭筆写や罵倒などの差別的待遇は特にされなかった上に、昭和20年6月末
に侍従武官の尾形健一大佐が第6航空軍を視察することが決まった際、菅原中将から昭和天皇に奏上する特攻美談の原
稿を書くように指示を受けた倉澤少佐は、その対象者として、振武寮に収容されている隊員の中から金本を「朝鮮人で
ありながら、日本人以上に立派な隊員です。」と参謀長の藤塚止戈夫 中将に推薦している。

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▲アメリカ海軍レーダーピケット駆逐艦「ブレイン」(USS Braine, DD-630)
昭和20年5月27日 第72振武隊の隊員は、万世飛行場を出撃後、沖縄本島中部に広がる金武湾の東、約50kmの位置で
米駆逐艦ブレインに突入したと推測されている。根拠として、突入直前の第72振武隊の99式襲撃機の写真が残存してい
る為。荒木伍長もこの駆逐艦を目標としたと考えられている。

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▲駆逐艦ブレインに突入する第72振武隊の99式襲撃機と見られる特攻機。5/27米軍撮影。
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▲特攻機の突入で大破した駆逐艦ブレイン。5/27米軍撮影(First Attackとあるので数機が突入した可能性が高い)
ブレインは第72振武隊の特攻機の突入により大破・炎上、約66名の乗組員が戦死。当然、荒木伍長も戦死した。
家族に公式に通知されるのは、終戦後の昭和20年11月30日付の死亡告知書で12月半ば過ぎであった。
故郷の群馬県桐生に残された墓には髪と爪だけが残っている。

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▲荒木幸雄伍長(群馬県出身)享年17歳。

[ 第73振武隊 ]昭和20年4月6日99式襲撃機で出撃
高田鉦三大尉(愛知県出身)/小澤三木大尉(栃木県出身)/後藤正一少尉(岩手県出身)
麻生末弘少尉(大分県出身)/加覧幸男少尉(鹿児島県出身)/木原愛夫少尉(福岡県出身)
後藤寛一少尉(宮崎県出身)/中澤流江少尉(東京都出身)/山本茂春少尉(神奈川県出身)
山中太郎少尉(山口県出身)/藤井秀男少尉(福井県出身)/藤田久雄少尉(和歌山県出身)

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▲出撃前、整備時間をくつろぐ隊員達。後ろに出撃機の99式襲撃機が写っている。

[ 第74振武隊 ]昭和20年4月7日~4月13日99式襲撃機で出撃
伊東實中佐(秋田県出身)/渡辺信少尉(愛知県出身)/大畠寛少尉(茨城県出身)
川島清少尉(東京都出身)/川島宏少尉(東京都出身)/澤口一男少尉(北海道出身)
安井昭一少尉(京都府出身)/橋本圭作少尉(千葉県出身)/野口鉄雄少尉(愛知県出身)
竹内貞一少尉(東京都出身)/森下良夫少尉(山口県出身)/山本了三少尉(高知県出身)


[ 第75振武隊 ]昭和20年4月7日~4月16日99式襲撃機で出撃
大岩覚少佐(滋賀県出身)/宗像芳郎少尉(長崎県出身)/佐藤徳司少尉(樺太出身)
福島保夫少尉(埼玉県出身)/政井柾一少尉(大阪府出身)/酒井十四男少尉(千葉県出身)
島袋清少尉(沖縄県出身)/岩田外次郎少尉(石川県出身)/小野田務少尉(愛知県出身)
梅村要二少尉(東京都出身)

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▲第75振武隊員の写真。99式襲撃機で昭和20年4月7、12、13、16日に特攻出撃。

[ 第102振武隊 ](第1降魔隊)昭和20年4月12日~4月28日出撃
天野重明大尉(兵庫県出身)/安部静彦大尉(福岡県出身)/小松啓一大尉(岩手県出身)
佐藤勲少尉(岩手県出身)/猪瀬弘之少尉(東京都北区出身)/小関真二少尉(福島県出身)
金澤富士雄少尉(愛知県出身)/原田甲子少尉(茨城県出身)/中島昭造少尉(兵庫県出身)
一木寅彦少尉(高知県出身)/福浦忠正少尉(島根県出身)/山口知三郎少尉(茨城県出身)


[ 第104振武隊 ](第3降魔隊)昭和20年4月12日~4月13日出撃
小佐野隆広少尉(山梨県出身)/渡部佐多雄少尉(新潟県出身)/梅田勤伍長(東京都出身)
江原道夫伍長(埼玉県出身)/上林博軍曹(滋賀県出身)/長嶺弥三郎少尉(東京都出身)
武政和夫少尉(千葉県出身)/近森佳忠伍長(高知県出身)/山本忠義伍長(神奈川県出身)
松土茂伍長(山梨県出身)/五十嵐次郎少尉(4/28出撃)/竹政和夫軍曹/朴木仁作伍長(5/22熊本)
宮川三郎軍曹(機体不良で引き返し、6/6知覧より出撃。戦死。新潟県出身)/加藤昇伍長/森田進一郎伍長

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▲宮川三郎軍曹(20歳)は万世飛行場から出撃したが、機体不良で引き返し、知覧からの出撃となる。
出撃の前夜(6/5)富屋食堂で鳥濱トメに「死んだらまた小母ちゃんのところへ帰ってきたい。そうだ!このホタルだ!
小母ちゃん、俺このホタルになって帰ってくるよ」と言い残し、暗い夜道を三角兵舎へと帰って行った。6/6突入戦死

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▲松土茂伍長4/13出撃、突入戦死。享年20歳
<遺書>
悠久三千年皇国は今鬼畜共の為に危急存亡の憂うべき秋(とき)に到りました。
帝国の精鋭なる皇軍が断じて之を撃滅すべく今大作戦を展開せんと致して居ります。
茂も此の昭和の元冠とも云うべき大国難を背負って彼の河野通有の如き大敢闘をすべく作戦に参加致します。
思えば今に至る迄よく育てよく成らせて下された御恩徳に対し、何ら成すところもなく散り行くを返すぐも残念に
又申し訳なく思って居ります。
早くから父母様の許を離れ、只余計な御心配を御掛け申したとえ身は異郷の海に捨つるとも絶対忘れは致しません。

先に不幸にして病の為に兄様を失い、悲憤の涙未だ去らぬ中に、又小生の悲報に接する父母様の心境実に察するに
余りありと思います。
然し乍ら総てが皇国護持の為であり、又取りわけて考えますれば、皆様が後世を安楽にお暮らし出来る為なのであります。
どうか茂が戦死の報に接しましても、絶対不覚をとるが如きことなく、父母様始め一同笑って万才を唱えて下されば茂は
幸甚の至りと思い、あの世できっと喜んで居ります。

今更何とて言い置くことも御座居ませんが、之が茂の運命にて最初古河航空機乗員養成所に入所致しました時は、民間航
空の操縦者として奉公致す心算で居りましたが、其の後の戦局の為に何も彼も一切を皇国に捧ぐべき秋(とき)に至った
のですから、此の事に関しては十分御承知の事と私は信じて居ります。

今大邸を出る時、神電号に乗せた桜は満開です。
此の桜の散る頃一緒に茂は立派に散って征きます。

どうか父母様皆様私の事は総てを諦めて、只管(ただひたすら)心身に御留意下されて御世を安楽に暮らされんことをお
祈りして擱筆(かくひつ)します。
四月八日

父母上様
外御一同様

[ 第431振武隊 ]昭和20年5月27日~5月28日97式戦闘機で出撃
5/27紺野孝伍長/鮭川林三伍長/橋ノ口勇伍長/広岡賢蔵伍長/渡辺綱三伍長/
5/28堀川義明少尉/金光永(金田光永)伍長(朝鮮出身)

[ 第432振武隊 ]昭和20年5月25日~5月28日二式高等練習機で出撃
舟橋卓次少尉(大阪府出身)/瀬谷隆茂軍曹(群馬県出身)/柳田昌男軍曹(栃木県出身)/若尾達夫伍長(神奈川県出身)
影山八郎伍長(福島県出身)/一井福治伍長(岩手県出身)/竹田源三伍長(北海道出身)/松本久成伍長(東京都出身)
矢内廉造伍長(福島県出身)/増渕松男伍長(栃木県出身)5/25知覧より出撃
管井薫軍曹(5/25万世より出撃、古仁屋に不時着)/川端一男伍長(?)/大木文司伍長(?)/中田文男伍長(?)
※中島寛伍長(5/25万世より出撃、徳ノ島に不時着。戦隊の将校の操縦する飛行機に同乗して九州に帰還)
中島寛元伍長がお出になられているYouTubeアメリカからみた【神風特攻隊】

[ 第433振武隊 ]昭和20年5月25日~5月28日二式高等練習機で出撃
三瀬七郎少尉(愛媛県出身)/上島博治少尉(大阪府出身)/大塚要少尉(茨城県出身)
浪川利庸少尉(千葉県出身)/大島浩少尉(栃木県出身)/宮永松永少尉(沖縄県出身)
石川敏夫少尉(静岡県出身)/三浦宏少尉(福岡県出身)/本多勇少尉(長崎県出身)
倉田道次少尉(長野県出身)/永井三郎少尉(生還?)
篠崎隆則少尉(6/1出撃、エンジン不調で海上不時着、沖縄県伊平屋島に泳ぎ着き生還)
※青木健児少尉(5/29知覧着6/3,10:20頃第214/431振武隊と共に知覧を出撃。昇降舵破損の為知覧基地に帰投。
※小柳善克少尉(福岡県出身)(5/28万世より出撃、徳ノ島に不時着、6/1小西吉彦少尉と共に徳ノ島から再出撃。
 沖縄本島嘉津宇岳付近に不時着、戦死を遂げた。
※小西吉彦少尉(5/28万世より出撃、徳ノ島に不時着、6/1小柳善克少尉と共に徳ノ島から再出撃。
 沖縄本島嘉津宇岳付近に不時着、重傷を負い、そのまま山中に潜んでいたが10/29下山して捕虜となり、
 昭和21年3月29日浦賀に上陸して生還を果たした。

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▲第433振武隊員。二式高練(二式高等練習機)で出撃、沖縄西方海上の敵艦船群に突入、散華。

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<万世飛行場からの出撃>
特攻振武隊 出撃回数29回 戦死者数121人/第66戦隊 出撃回数19回 戦死者数72人
第55戦隊 出撃回数5回 戦死者数6人/その他 戦死者数2人
合計(戦死者数)201人
※特攻作戦の為に急きょ作り上げた万世飛行場は地盤が砂地で軟弱だった為、出撃した航空機は、99式襲撃機や
 二式高等練習機など、旧式の固定脚機が多かったと言われている。

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▲平和祈念館から少し奥に行った広場に残る飛行場当時の側溝。2017年10月15日再訪。
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▲▼2013年11月に新たに発見された当時の裏門。
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ただのコンクリートの支柱だが、当時のままの姿を留めていて、何とも表現し難い物だ。
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▲支柱の間隔も当時のまま。移設されたりしていないそのままの姿だ。
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▲万世飛行場跡地にある海浜公園から吹上浜へ。70年前の空は多くの特攻機が飛んで行ったのでしょう。

17人のアリラン特攻隊員YouTube



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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2013_09_21


富屋食堂は[特攻隊の母]として慕われた「鳥濱トメさん」の食堂でした。
富屋旅館は戦後の昭和27年、特攻隊員の遺族を知覧に泊めるために作られたもので、知覧特攻平和会館へ行く際には
是非宿泊をお勧めします。(最近館内撮影禁止など理解に苦しむ規則がある様なのでお気をつけ下さい)
知覧特攻平和会館は何も言う事はありません。優秀・勇敢な特攻隊員の遺書を読むと涙が止まりません。
優秀な若者が日本の未来を信じて命を投げ打って戦ってくれた事を日本人は決して忘れてはならないと思います。
知覧は陸軍の方が特攻に出撃されていますが、陸・海軍関係無く航空・海上・陸戦全ての特攻隊の英霊に感謝したい。
富屋旅館の食事は美味しく、優しい女将と娘さんが出迎えてくれます。
スケジュールに余裕があれば、特攻隊員が食事をした広間(当時のまま)で聞ける、朝の「女将のお話」も聞けます。
「なでしこ隊」YouTube


昭和16年知覧に太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が出来、多くの少年飛行兵達が巣立っていった。
昭和17年富屋食堂が軍の指定食堂となった時、女主人の鳥濱トメさんは40歳であった。
そして大戦末期、陸軍第六航軍の特攻基地となり、多くの若者が沖縄の空へと飛びたっていった。

知覧特攻平和会館
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屋外展示では三角兵舎・「俺は、君のためにこそ死ににいく」で使われた隼のレプリカがある。
この映画の監督は沖縄県出身の新城 卓監督。新城監督はこの映画の製作にあたり「純粋に沖縄に突っ込んでくれた。
もちろん国を守る為ではあるが、沖縄を守る為に突っ込んでくれた特攻隊員に対して、まずお礼を言いたい。というの
が根源になっている、とインタビューで語っておられる。この映画で、新城監督の想い(お礼)も日本中に伝えている。

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「知覧の桜」日野美歌YouTube
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▼特攻隊員が寝泊りする三角兵舎での夕食、搭乗員には栄養の多い物が与えられた。
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▼出撃の朝、搭乗員は一斉に身支度をして出撃に備える。
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皆、荷物を解くと、思い思いに最後の時を過ごしていました。何かを考え込んでいる者、毛布の上に横たわってじっ
としている者、一心不乱に何ごとかを書いている者、車座になって神妙に語り合う者達。
三角兵舎には息苦しい雰囲気が充満していた。
三角兵舎は地面を掘って作られていたため、雨が降ると最悪だった。
報道部員が押しかけてきて、「ただいまの心境は」と聞かれたりしたが、あれは鬱陶しかった。
彼らは突入するわけではないし、気楽なもので、勇ましいことを書いて美談にしようという魂胆が見え見えだった。
福岡から来ていた参謀から紙が一枚まわってきた。そこには「お父さん、○○はお国のために立派に死んで参ります」
「天皇陛下万歳」といった様な事が書いてある。父や母に対して書く遺書の見本だったが、隊長以下これを無視した。
前日の報道部員が参謀に頼み込んで、我々に遺書を書かせようとしたのでしょうが、冗談じゃないと皆憤慨した。
遺書に見本があって、そのとおりに書けなんて。(元第22振武隊 大貫健一郎氏)

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▼▲復元されたレプリカとはいえ、中に入ると当時の特攻隊員が居る様な気にもなる・・・。
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▼▲残念なのがこれ。居住空間に何故この様な残骸を置くのか・・・理解出来ない。平和会館内に展示すれば良い。
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「俺は、君のためにこそ死ににいく」のロケで使われた1シーン。
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▼当時の知覧 三角兵舎が写る貴重な写真。ロケで再現された三角兵舎がかなり忠実に再現されている事が解る。
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▲昭和20年3月29日知覧より出撃した飛行65戦隊の隊員勇士達。
※65戦隊は飛行分科「襲撃」部隊であるにも拘わらず、爆装1式戦闘機「隼」の希有な爆撃(襲撃)任務だった。
昭和20年3月には全操縦者45名中、30数名が技倆甲(夜間戦闘可)という高練度を誇り、「天号作戦」時には250㌔爆
弾と400ℓ入り大型落下タンクを懸吊、整備隊が考案したチャフ散布装置を各機に装備し、超低空飛行を行うなどして
沖縄近海の連合軍艦船や制圧下の地上施設に対し、体当りではなく通常攻撃(対艦船爆撃)で戦果を挙げた。

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沖縄攻撃に出動した飛行第65戦隊の隼は15機。大部分は攻撃後に徳之島に不時着。戦隊長は吉田穆少佐。
3/29知覧から出撃した隊員の中で今村貞夫軍曹は、沖縄上空で敵大型輸送船に爆弾を命中させた直後、米軍機と交戦。
1機を撃墜するも被弾して沖縄本島の北飛行場に不時着。その後、沖縄本島の本部半島で陸軍部隊に合流し、自らも分
隊長として斬り込み作戦に参加した。昭和20年5月12日頃に誠第41飛行隊と合流(陸軍特別攻撃隊参照)以後徳之島
まで行動を共にした。今村軍曹も奄美大島古仁屋に移動して海軍の飛行艇に便乗、6月下旬に知覧に帰還している。
当時奄美大島の古仁屋には海軍水上機(瑞雲隊など)の基地があり、島と本土とを結ぶ唯一の連絡手段となっていた。
奄美大島への移動は、不時着等で特攻などに失敗した特攻隊員を水上機に便乗させ、本土へ帰還させる為だった。

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▲▼知覧特攻平和会館から車で15分程、ロケ地でもある、当時三角兵舎があった場所。
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緩やかな階段を登っていくと、そこに三角兵舎があった場所に出る。
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この様な山の中で特攻隊員は出撃までの時間を過ごした・・・。
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今は碑があるだけだが、復元するのであれば、本当のこの場所に再建した方が良かっただろう。
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▼特攻隊員はこの様な道を抜け、基地へ行ったり、冨屋食堂へ行ったりしていたのであろう。
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▲▼映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で使用された隼の実物大レプリカ
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レプリカでも、あると無いでは大違いだ。日本国内に現存する「隼」が無いのだから仕方ない。
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▼零戦は海軍だが、鹿児島県の甑島沖に不時着した52型丙の残骸が展示されている。
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▼こちらも海軍の特攻兵器「震洋」。陸軍特別攻撃隊「振部隊」とは関係が無い。
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簡素な造りで復元し易いのか、知覧だけで無く、色々な場所で復元展示されている。
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ただ此処の場合は、知覧町に実際に配備されていた震洋隊のスクリューが震洋を伝えている。
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富屋旅館
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▲駐車場奥にある特大ポスター
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現在の旅館は復元された冨屋食堂の駐車場を挟んで隣に位置し、新たに建てられた物だ。
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▼当時、特攻隊員達が食事をした同じ部屋(当時のまま)で食事をいただける。
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復元された冨屋食堂と冨屋旅館の丁度真ん中辺りに位置し、道路拡張で建物群が下がった時でも取り壊しを免れた。
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▼多くの振武隊特攻隊員に愛された鳥濱トメさん。
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▼(左)第213振武隊 板津忠正伍長(生還し、知覧特攻平和会館初代館長)と鳥濱トメさん。
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沖縄戦で第6航空軍所属の各振武隊は、多くは此処、「知覧」や万世飛行場から特攻出撃していった。
沖縄戦に参加して命を落とした陸軍特攻振武隊員は1036人(台湾の航空基地から出撃も含む)台湾日本軍航空基地 参照
陸軍知覧飛行場から沖縄戦に特攻出撃した(又は出撃するはずだった)振武隊は他にも多くある。
全て紹介しきれないが、以下少しだけご紹介する。


[ 第18振武隊 ]昭和20年4月29日~5月4日出撃
小西利雄中尉(富山県出身)/楠田信雄少尉(京都府出身)/多田六郎少尉(熊本県出身)
高村禮治少尉(熊本県出身)/井上啓軍曹(徳島県出身)/滝亘軍曹(神奈川県出身)
秋富末治軍曹(福岡県出身)/三木茂少尉(関節炎の為入院)/眞鍋清茂曹長(胸膜の為入院)
立木史郎軍曹/柿原栄一軍曹/中川七郎伍長(5/20飛行機受領の為、浜松ヘ)

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▲隼の発動機試運転中の第18振武隊多田六郎少尉と機付兵達の写真。
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▲第18振武隊勇士達
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▲▼特攻訓練中の第18振武隊員、地面に地図を広げ訓練飛行の打ち合わせを行っている。
後方に写る戦闘機は陸軍一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲。
昭和20年春以降に陸軍特攻振武隊として配備されたこの1式戦Ⅲ型は、一般的であった濃緑色とは異なり、カーキの
強い暗褐色が機体上面塗装採用された。下面は灰緑色あるいは無塗装銀色。
また、機体内部は通称の「青竹色」に塗られ、機種上面は他の陸軍戦闘機と同様に反射防止用の青みがかった艶消し
黒に塗られていた。

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▼お名前が解らないが、特攻訓練中の第18振武隊員。真剣さが伝わってくる写真だ。
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▲米軽巡洋艦バーミンガム(USS Birmingham)5/3、第2番砲塔付近に特攻機が命中。41名死亡、負傷者81名
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▲▼特攻機の突入を受け大きく損傷した場所で乗組員を救助するバーミンガム乗組員
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米国側記録では、突入機は一式戦闘機「隼」となっている。だとすると特攻機は5/3 05:00~05:30に知覧基地
から出撃した第18振武隊か第19振武隊の可能性が高い。


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▲米駆逐艦ルース(USS luce)5/4特攻機が2機命中、艦尾から煙を出しながら左舷に傾き、乗員148名と共に沈没
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▲米駆逐艦モリソン(USS Morrison)5/4 08:33特攻機が命中、沈没。乗組員155人死亡

[ 第19振武隊 ]昭和20年4月29日~5月4日出撃
四宮徹中尉(熊本県出身)/角谷隆正少尉(大阪府出身)/井上忠彦少尉(東京都出身)
平野俊雪少尉(熊本県出身)/小林龍曹長(大阪府出身)/林格少尉(青森県出身)
島袋秀敏曹長(沖縄県出身)/松原武曹長(熊本県出身)/向島幸一軍曹(岐阜県出身)
伊藤賀夫少尉(結核の為入院)/塩澤優少尉(2/24殉職)/阿部正軍曹(5/4奄美大島不時着、生存)

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▲向島幸一軍曹5/4知覧より出撃、突入戦死。
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▲昭和20年3月調布飛行場西地区における第19振武隊。殉職等で2名減って10名になっている。
前左から向島軍曹、林少尉、4/29四宮中尉、井上少尉、後左から阿部軍曹(生還)、島袋曹長、平野少尉
角谷少尉、5/4小林曹長、松原曹長。写真の全員が出撃し、9名が突入戦死。

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▲昭和20年3月19日、調布を出撃直前の第19振武隊。この時の出撃は半数のみ。
※特攻隊は全国各航空基地から知覧などに集結している。各基地で燃料補給等を行いながら、沖縄に近い九州
 の各航空基地に向かったのである。(「調布」は東京都調布市にあった陸軍調布飛行場の事)

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▲夜間に調布飛行場から知覧飛行場へと移動する第19振武隊隊員。
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▲出撃準備中の小林曹長機以下4機の第19振武隊「隼」戦闘機。
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▲▼5/4AM7:18、機体故障で奄美大島に不時着した阿部正軍曹。
不時着の際頭部を負傷したが、治療後6月になって古仁屋基地から海軍艇で佐世保に帰還した。

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▼再び還らぬ壮途につく第19振武隊爆装一式戦闘機「隼」 開聞岳の彼方に飛び去って征った・・・・。
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▼昭和20年4月29日夜、沖縄本島北東沖で米駆逐艦ヘイゼルウッドに特攻機2機が命中
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▼▲機能停止状態となり、海上で煙を上げる米駆逐艦ヘイゼルウッドUSS HAZELWOOD(DD-531)
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[ 第20振武隊 ]昭和20年3月30日~5月4日知覧/徳之島より出撃
吉田市少尉(愛知県出身)3/30知覧より徳之島に前進中、島を見失い、燃料切れで奄美大島名瀬付近に不時着を試みるも、
岩石に撃突、即死した。
伊藤忠雄少尉(3/30徳之島に不時着5/23奄美大島守備隊に収容され6/10→福岡)
熊谷吉彦少尉(4/26徳之島より出撃。天候不良で喜界島に不時着生存5/28→福岡)
瀧村明夫少尉(4/26徳之島より出撃。天候不良で喜界島に不時着生存5/28→福岡)
小島五郎伍長(4/26徳之島より出撃。天候不良で喜界島に不時着生存5/28→福岡)
長谷川實大尉(群馬県出身)4/2徳之島より/山本英四少尉(高知県出身)4/2徳之島より
山本秋彦少尉(群馬県出身)4/1徳之島より
穴澤利夫少尉4/12知覧より(福島県喜多方市出身)/大平誠志少尉4/12知覧より(栃木県出身)
寺澤幾一郎軍曹4/12知覧より(群馬県出身)/重政正男軍曹5/4知覧より(広島県出身)

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▲長谷川實大尉。生粋の戦闘機乗りで飛行第5戦隊に所属、南方航空戦の作戦に従事した勇士だった。
3/30瀧村明夫少尉は、奄美大島の名瀬西北の大浜海岸に不時着した。
この日は第20振武隊4機が徳之島に進出する為に知覧基地を離陸した。途中2機が脱落し、瀧村少尉は吉田市少尉と2機
だけになった。だが、喜界島も徳之島も発見することが出来ない・・・。
燃料が乏しくなってきた瀧村少尉は吉田機と別れ、海岸線の砂浜に不時着した。更に瀧村機は電磁器の故障で爆弾を投下
することが出来なかった・・・不時着時に機体は一回転したが爆弾は爆発する事が無く、機体は大破したものの大事には
至らなかった。瀧村少尉も打撲傷と口中切傷のみの軽傷で済んだ。
小宿と名瀬から、不時着を目撃した住民が乗った小舟が来たが、全員手に竹槍を持っていた。住民は米軍機と勘違いして
いたのだろう。度々こうゆう事があった為、陸海軍の兵隊の腕には日の丸が縫い付けられていた。
瀧村少尉は、その夜小宿の民家に宿泊た。
翌日、瀧村少尉の元に吉田市少尉の遭難の知らせが届いた。場所は名瀬から2~3㎞の海岸だった。
名瀬の立神付近で爆弾投下後、吉田少尉は海岸に不時着を試みたが、滑走中に岩に激突して即死したのである。
爆弾を投下出来た吉田少尉が戦死し、爆弾を付けたまま不時着した瀧村少尉が生還したのは正に偶然としか言い様がない
吉田少尉の遺体はこの地で荼毘に付され、名瀬の大正寺で霊を弔った。
瀧村少尉は吉田少尉の遺骨の入った白木の箱と共に、4/8古仁屋から船で徳之島に向かう。
そして徳之島から出撃するも、天候不良で喜界島に不時着。福岡で終戦を迎える。
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▲昭和20年1月末、北伊勢にて訓練機を見上げる第20振武隊員。左より長谷川隊長、重政軍曹、穴澤少尉、
小嶋伍長、山本英少尉(色眼鏡)、寺澤軍曹、吉田少尉、熊谷少尉。
▼当時の従軍記者・早川弘さん撮影。早川さんは戦後、東京オリンピックや大阪万博等を取材した後、1981年64歳で死去

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▲4/12知覧町立高等女学校の女学生達に見送られながら滑走路へ向かう穴澤利夫少尉の一式戦闘機「隼」
※見送る女学生の左側に、特攻の母「鳥濱トメ」さんの次女、礼子さんがいる。

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▲現在の同じ場所。見渡す限りの畑となっており、当時を偲ぶ事は難しい。
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▲出撃前の第20振武隊、長谷川隊長(左)、整列手前は穴澤少尉
※穴澤少尉の白いマフラーが首に二重に巻かれているので、他の隊員よりも膨らんでいる。

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▲穴澤利夫少尉(23歳)昭和20年4月12日出撃、沖縄方面洋上にて散華。
穴沢少尉は、白い飛行マフラーの下に婚約者の智恵子さんから贈られたマフラーを締めていた。
「神聖な帽手や剣にはなりたくないが、替われるものならあの白いマフラーの様にいつも離れない存在に
なりたい。」 彼女のこの一途な思いに、贈られたマフラーを彼女の身替りとして肌身につけて出撃した。
穴澤利夫少尉は3/29・3/30・4/2・4/6・4/7と、5度出撃し帰還している、そして4/12散華した・・・。
穴澤利夫少尉の遺書は有名なのでここでは紹介しない事にする。

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▲昭和20年4月12日沖縄近海の前島近くにて作戦行動中の敷設駆逐艦リンゼイ(DM-32)に2機の特攻機が命中。
 大きな損害を与えた。この日は知覧・万世から多くの特攻機が出撃している。陸軍特攻機の攻撃目標は輸送船
 の為、陸軍機の可能性が高い。写真は船首部分である。

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▲この状態でも駆逐艦リンゼイUSS LINDSEY(DM32)は沈まなかった・・・。
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[ 第21振武隊 ]昭和20年4月6日知覧より出撃
水川禎輔中尉(4/6喜界島に前進5/26第75振武隊田宮治隆少尉少尉機に同乗し知覧に帰還中行方不明)
井崎隆夫少尉(4/6喜界島に前進➡5/28福岡)/石田京少尉((4/6喜界島に前進➡5/29福岡)
上田克彦少尉(4/6喜界島に前進。空襲で愛機喪失➡福岡)/弘津勲軍曹(4/26喜界島に前進➡5/28福岡)
須藤治韶軍曹(4/7 06:05徳之島より出撃)/小山廣子伍長(喜界島に前進➡5/28福岡)
木村二郎伍長(喜界島に前進➡5/28福岡)/牧信義伍長(喜界島に前進➡5/28福岡)
畑中芳夫伍長(喜界島に前進➡5/28福岡)/倉内豊美伍長(喜界島に前進➡5/28福岡)
松田勉伍長(4/26喜界島不時着➡5/28福岡)
4/6海軍喜界島基地に07:40陸軍一式戦「隼」2機が着陸、1機は着陸時に大破の記録が残っている。
2機は第21振武隊所属機だった。4/6に知覧から出撃した第21振武隊の隼1機が沖縄周辺の米艦隊に突入、散華となっ
ているが、第21振武隊隊のほとんどが4/6に喜界島に不時着しており、戦闘行動は未だはっきりしていない隊でもある


[ 第22振武隊 ]昭和20年4月3日~4月11日一式戦闘機「隼」で出撃
※特攻機仕様の隼は軽量化の為、無線機・機関銃が外され、丸腰の戦闘機で出撃した。
※索敵機も飛ばず、護衛戦闘機も整備不良で出撃出来ず、第22振武隊は文字通り丸腰の出撃だった・・・。
藤山二典中尉(鹿児島県出身)4/3出撃するも発動機不良で徳之島不時着。直後グラマンの攻撃により戦死
伊東信夫大尉(東京都出身)藤山中尉の不時着を確認すべく徳之島上空を飛行中グラマンの攻撃により戦死
西長武志少尉(山形県出身)/立川美亀太少尉(三重県出身)/柴田秋歳大尉(熊本県出身)4/11徳之島より出撃。
大上弘少尉(広島県出身)4/7喜界島より出撃、敵機の攻撃を受けて自爆戦死
※大貫健一郎少尉(4/7喜界島より出撃、敵機の攻撃を受け被弾、徳之島に不時着 福岡)
※島津等少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/竹下重之少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)
柄澤嘉則少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/井上立智少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)
前田光彦少尉(4/5知覧から喜界島へ向け出発時250キロ爆弾2発懸吊の為、離陸に失敗、負傷し入院)

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▲昭和20年1月1日元旦初飛行を終えた第22振武隊員の写真。
 前列左から竹下少尉、島津少尉、山崎少尉、藤山隊長、伊東少尉、
 後列左から大上少尉、柴田少尉、柄澤少尉、立川少尉、西長少尉

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▲第22振武隊員が残した時世の寄せ書き。
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▲4/11早朝5時35分「柴田秋蔵少尉」は藤山隊長の遺骨と共に「隼」に搭乗「隊長と共に征くが世話になった。
 後日靖国で会おう」の言葉を残し、徳之島浅間陸軍飛行場より単機出撃。慶良間列島南方の敵艦隊に突入戦死。

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▲4/6 15:00第1次航空総攻撃で西長武志少尉は「隼」で知覧を出撃、沖縄西方海上米艦艇に突入、戦死。
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▲第22振武隊、戦死者一覧。
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▲▼昭和20年4月3日慶良間諸島停泊中の米戦車揚陸艦(LST-599)に特攻機が命中、炎上する戦車揚陸艦LST-599
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突入した機種は「隼」と見られている。
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▲LST-599の消火活動を手助けする戦車揚陸艦LST-79
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▲大上弘少尉(広島県出身)4/7喜界島より出撃、敵機の攻撃を受けて自爆戦死
大上弘少尉は4/6大貫健一郎少尉と第21振武隊長 水川禎輔中尉と共に13:00に知覧基地を出撃。
同日、大上弘少尉と大貫少尉は喜界島に着陸。水川中尉は徳之島に着陸している。
大上少尉と大貫少尉は翌日喜界島から出撃、敵機と空戦の後大上少尉が戦死。大貫少尉は徳之島に不時着して一命を
とりとめ、その後福岡県にあった振武寮(特攻出撃して生き残った者が入れられる寮)に入れられ終戦を迎えている。
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▲大貫健一郎少尉(左) と 島津等少尉(右)
※4/7大貫少尉は喜界島から「隼」で特攻出撃後、敵機の攻撃で被弾、徳之島に不時着している。その後福岡県にある
「振武寮」という施設に送られる。「振武寮」(しんぶりょう)とは、日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた
施設で、軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいにあり、福岡女学院の寄宿
舎を接収して設置された。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の「倉澤清忠少佐」。
戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』の上映以降で近年その存在が明らかにされた。
※各振武隊の隊員名の横に(0/00→福岡)と書いてある隊員は全てこの「振武寮」に送られている。

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▲福岡県にあった「振武寮」(しんぶりょう)
陸軍では特攻隊員として出撃し、何らかの要因により攻撃に至らずに帰還した特攻隊員を「死んだはずの軍神が
生きていてはおかしい」ということで人目につかないよう秘密裏に「振武寮」に隔離した。
2007.10/21放送NHKスペシャル「学徒兵許されざる帰還 陸軍特攻隊の悲劇」で大貫健一郎少尉と島津等少尉
が振武寮についての生活を証言している。実質的な管理者「倉澤清忠少佐」は、帰還した特攻隊員に対して、
「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ」「そんなに命が惜しいのか!」と罵った人物である。
しかし、倉澤少佐は特攻作戦に対しては、「貴重な戦力を使い捨てなんぞにできるか」と、海軍参謀と激論を交
わした人物でもある。倉澤少佐に罵倒され、帝都防空で有名な244戦隊に転属させられた者も多数いる。
振武寮での朝食時、倉澤少佐が前日の深酒で酒臭い息を吹きかけながら、特攻隊員に対して、はなった言葉が、
「おまえら、軍人のクズがよく飯食えるな。」「そんなに死ぬのが嫌か」それが毎朝、続いたという。
しかし倉澤少佐も、参謀といえど上の命令を実行しているにすぎない人物。本心は辛かったのであろう・・・。
映画[ 俺は、君のためにこそ死ににいく ]の1シーンでも、倉澤少佐演じる遠藤憲一が、到底沖縄まで辿り着く技
量を持たない若い特攻隊員を死地へ出撃させる立場としての苦悩を、酒で紛らわすシーンが再現されている。
朝から酒を飲んでいることもあり、片手には必ず竹刀を持っていた。大貫少尉達特攻隊員が食欲もわかず、箸を
つけずににいると、今度は「なんで飯を食わない?食事も天皇陛下から賜ったものだぞ」とはき捨てたと言う。
大貫少尉は再出撃を直談判するも「(死にたければ)海にでも突っ込んどけ」と、再出撃を許されず「腕が悪い」
と罵倒され、明野教導隊に送り返された後、戦闘機パイロットとして再練成された。
大貫少尉は戦後一度だけ、「仲間達と一緒に倉澤少佐を殴りに行こう」という話になったそうだ。
大貫少尉曰く、「倉澤は慰霊祭ではいつもでかい顔をしていたからね」と。
特攻隊員に対して「本官も最後の一機で突入する」と叫んでおきながら自決もせず、どの面さげて慰霊祭に出席
出来たのかと思う。大貫少尉は慰霊祭の時に仲間と一緒に、倉澤をしょっ引いて、自分が大貫だと明かした。
すると、「あの時は悪かった」と詫びたそうだ。
「あの鬼の様なやつがとても小さく見えて、殴る気がすっかりうせてしまった」と大貫少尉は語っている。
大貫氏は戦後、陸軍の上層部には恩給が復活していた事実を知る。司令官や参謀、上層部の連中が軍人恩給を貰
って戦後をのうのうと暮らしていたのである。
軍人恩給は将校なら12年以上、下士官・兵士は10年以上軍に所属していれば貰える。
だが、特攻隊員の生還者も含め、少年兵や軍属、終戦少し前に入隊した赤紙兵士は軍の勤続年数が短く、規定か
ら外れて恩給を受け取る資格が無く、そのまま何も貰えていない方も多い。そもそも、殆どが死んでしまった。
これが無能な上層部が間違った方向に導いた大日本帝国軍隊の末路であり、その戦後における無責任な姿である。
最後に戦後の大貫健一郎少尉の言葉。
「喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘、陸海軍合わせ約4000人の特攻パイロットが死んでいますが、
私に言わせれば無駄死にです。特攻は外道の作戦なのです。
長距離飛行の途中で眠くならない様にとヒロポン(覚醒剤)入りの酒まで用意されて元気酒と名づけられていたよ」
本当に特攻に出撃された方の正直な事実と想いだ。
この言葉に反論出来るのは、同じ特攻隊で出撃して生還した方や最前線から生還された将兵。
最前線で戦っていない日本軍人、敗戦後の戦争体験の無い全ての日本人は何も意見してはいけないと思う。


※ヒロポンは昭和16年、大日本製薬から発売されたアンフェタミンの商品名である。多くは軍用、特に特攻隊の隊員
 に眠気や恐怖心を取る薬として盛んに用いられ、また徹夜作業を続ける軍需工場の工員も半強制的に服用させられ
 たと言う。聞くと大和魂も覚醒剤頼みだったのかとガックリ来るが、このヒロポンは戦後も日本人の精神を荒廃さ
 せていく。敗戦後、大量に在庫を抱えた製薬会社が大々的に宣伝・販売し、敗戦で呆然自失した日本国民の精神状
 態がまた、これを流行らせるのである。

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 ▲▼製薬会社の合法ドラッグだった「ヒロポン」成分名は塩酸メタンフェタミン。剤型はアンプルおよび錠剤である。
 「ヒロポン」の名は、「疲労をポンと取る」にも掛けている。日本が大麻を禁止したのは第2次世界大戦後で、マッカ
 ーサーによって「大麻取締法」を押し付けられた結果、戦後は覚せい剤もどきのヒロポンで製薬会社は大儲けした。
 ※メタンフェタミとは覚せい剤の主成分である。

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 鈴木厚「戦後医療事件史」によると、市場に出回ったヒロポンの大部分は密造で1本12円と酒よりも安く、警察も
 取り締まるどころか張り込みの眠気覚ましに使用する有様だったと言う。
 昭和28年の全医薬品生産高は約740億円、その内覚醒剤の売り上げは220億円と3割を占めていたと言う。
 厚生省は昭和24年3月にやっとヒロポンを劇薬指定するが、その規制は14歳以上なら薬局で住所氏名を明記すれば
 購入可能という甘いものだった。昭和26年に覚醒剤取締法が公布され、製造や購入に制限が設けられたが沈静化に
 は至らず、最盛期の昭和29年には約5万6000人が覚醒剤取締法違反で摘発され、全国の常用者は285万人(内28%
 が中毒者)になった。ヒロポン中毒者は多くの凶悪犯罪を引き起こし、また、精神病院でも収容できないほどヒロポ
 ン中毒者は街に溢れかえっていた。彼らもまた、戦争の被害者なのかもしれない。
 ※ベトナム戦争で、アメリカ兵は『麻薬』の錠剤を持ち歩いていた。
  太平洋戦争末期 「ヒロポン」とお茶の粉末を混合した「突撃錠」という覚醒剤が、出撃する特攻隊員に配られた。


[ 第23振武隊 ]昭和20年4月1日~4月6日出撃
伍井芳夫大尉(埼玉県桶川市出身)/金子龍雄准尉(北海道砂川市出身)/大橋治男曹長(岐阜県羽島市出身)
藤野正行曹長(山口県出身)/前田啓少尉(北海道出身)/塩島清一少尉(東京都出身)
柴本勝美少尉(福岡県直方市出身)/豊崎儀治軍曹(東京都出身)/清水保三軍曹(滋賀県高島市出身)
松田豊少尉(熊本県出身)4/6喜界島不時着/谷山正夫少尉(入院中の為出撃できず)
岡本龍一准尉(4/26喜界島に不時着)

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▲第23振武隊隊長 伍井芳夫大尉 知覧から出撃した特攻隊員の中で最高齢の32歳。
 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場で操縦教官として桶川教育隊を取り仕切っていた。
  
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▲出撃前日伍井大尉が書き残した色紙
4/1 伍井大尉は奥様と3人のお子様を残しての出撃だった。
[ 当時生後4ヶ月だった息子さん(芳則)に宛てた遺書 ]
【遺書 昭和二十年三月九日】
物ノ道理ガ解ル年頃ニナッテカラ知ラセヨ
芳則ニ一筆遺ス
 父ハ大東亜戦争五年目ノ春 名誉アル特別攻撃隊第二十三振武隊長トシテ散華ス
 オ前達ノ成長ヲ見ズシテ去ルハ残念ナルモ悠久ノ大義ニ生キテ見守ッテイル
 良クオ母サンノ謂イ付ヲ守ッテ勉強シテ日本男子トシテ 陛下ノ御子トシテ立派ニ成人シテ下サイ 
 将来大キクナッテ何ヲ志望シテモ良シ 唯父ノ子トシテ他ニ恥ザル様進ミナサイ
 オ母サンニハ大変ナ苦労ヲ掛ケテ頂イタノデス 御恩ヲ忘ズ立派ナ人トナッテ孝行セネバイケマセン 
 体ヲ充分鍛エテ心身共ニ健全ナルベシ

 昭和二十年三月九日  父ヨリ
 芳則殿
※当時特別攻撃隊の任務は極秘事項とされ、家族にも知らす事ができなかった為、伍井大尉戦死をニュース
 で知った奥様は、ショックのあまり母乳が出なくなり、長男芳則さんはわずか8ヶ月でこの世を去った。
 妻の園子さんが68歳で息を引き取った3月25日は、くしくも、伍井大尉が特攻出撃を控え、別れの挨拶の
 為に最後に自宅に戻った日と同じだった。伍井大尉が天国から奥様を迎えに来てくれたのでしょうね。


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▲第23振武隊 前田啓大尉 昭和20年4月3日出撃。 99式襲撃機で突入戦死。
    【遺書 昭和二十年三月二十五日】
 父母様、啓ハ大命ヲ拝シ征ク事ニナリマシタ。
 二十有余年ノ今日ニ至ル迄厚キ御愛情ヲ受ケ、何一ツ孝行モ出来ズ御心配バカリカケ申シ訳御ザイマセン。
 厚ク御礼申シ上ゲマス。 啓ハ大君ノ御為太平洋ノ防波壁トナリ死ニマス。  
 武人ノ名誉之ニ過グルハナシ。元気旺盛ニシテ意気天ヲ衝ク有様ナリ。御安心下サイ。
 今日ノ誉レ啓ゴトキ小臣、軀ニ余ル光栄ナリト存ジマス。我ガ屍ハ敵艦ニアリテ消ユルトモ、魂ハ遠古天知ニ
 止マリテ皇国ノ礎ヲ護ラム。
 軍人タリ股衡肱トシテ大君ノ御為散レルコソ日本国ニ生享ケタル甲斐アルト言ヘヨウ。
 而シテ身命ヲ大君ニ捧グルハ日本臣民ノ大義大道ナリ。又軍人ノ本分ナリ。

 一、軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ
 君ニ忠ナリ親ニ孝ナリノ両論コレノ道義ニ邁進シ、死ヲ以テ山ヨリ高ク海ヨリ深シノ君親大恩ノ万分ノ一ナリト
 報イ奉ル決心ナリ。 最後ニ父上様御一同ノ御壮健ナラン事ヲ御祈リ申シ上ゲマス。
 猶、特ニ自分ノ墓ハ不用デアリマス。亡母ノ御墓ノ側ニ静カニ寝カセテ下サイ。サヨウナラ。

 天皇陛下 万歳
 振武隊 万歳
 若桜屍ヲ空ニサラストモ
 何惜シカロウ大君ノタメ

 陸軍特別攻撃隊   振武隊陸軍少尉 前田 啓
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▲昭和20年3月28日宇都宮の壬生飛行場で撮影された23振武隊記念写真。前列中央が隊長の伍井芳夫大尉。

[ 第24振武隊 ](振武錦隊)昭和20年4月29日~5月4日出撃
小澤大蔵中尉(東京都出身)/川田清美少尉(香川県出身)/福井與一少尉(兵庫県出身)
安部正也少尉(福岡県古賀市出身4/29夜10:24出撃、発動機不調の為黒島に不時着大破。 5/4知覧より再出撃、戦死)
立花康博少尉(5/18飛行機受領の為伊丹ヘ)/辻本彦登曹長
篠原親治郎少尉(4/29夜10:24出撃、発動機不調の為帰投、5/4突入戦死)/片柳経曹長(栃木県出身)
三浦秀逸少尉(4/29夜10:24出撃、発動機不調の為帰投。5/4出撃、敵艦の高射砲により墜落、敵に救助されて捕虜)

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▲第24振武隊員の勇士達。二式複座戦闘機「屠龍」(キ45改)で突入。
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」
「屠龍」は米軍ではNick(ニック)と呼ばれていた。
黒島に不時着した安部正也少尉に関して、下記のエピソードが伝えられている。
安部少尉は昭和20年4月29日夜、月明の知覧飛行場を2式双襲(屠龍)で出撃したが、黒島に不時着した。
既に黒島には4月8日に不時着し、その際に火傷を負っていた第29振武隊柴田信也少尉が島民に介抱されており、安部
少尉は彼と面会した。安部少尉は本土(知覧)への帰還と柴田少尉の治療に必要な医薬品の空輸を計画し、島民の若者
を説得して手漕ぎの小舟で出航した。そして30時間後の夕刻、本土(鹿児島)の海岸にたどり着き、翌日夕刻、知覧の
富屋食堂に現れた。その後、再び知覧基地から出撃した安部少尉は、生還した柴田少尉の記憶では5月4日、黒島上空
で約束の医薬品を投下した後、沖縄方面で戦死を遂げた。柴田少尉はその医薬品のお陰で回復。8月初め、陸軍の輸送
潜水艇により帰還した。


[ 第26振武隊 ](征夷隊)昭和20年5月25日~6月21日出撃
相良釟郎少尉(石川県出身 南京入院中→6/1福岡→都城飛行場より出撃)/荒木卓三少尉(?)/名木山登少尉(?)
梅津末雄少尉/小林位少尉/中村勝利少尉(?)/木村清治少尉(山形県出身)都城飛行場より出撃
西宮忠雄少尉(茨城県出身)都城飛行場より出撃/永嶋福次郎少尉(栃木県出身)都城飛行場より出撃
児玉直喜少尉(福島県出身6/2、8:15知覧飛行場東端にて敵機の銃撃により戦死=コルセアによる知覧飛行場攻撃)

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▲第26振武隊員。四式戦闘機で沖縄西方の敵艦船群に突入戦死。


[ 第27振武隊 ](疾風隊)昭和20年6月22日宮崎県都城東より出撃
川村勝少尉(東京都出身)/熊澤弘之少尉(愛知県出身)/高橋毅少尉(東京都出身)
原田栞少尉(熊本県出身)/矢口剛少尉(東京都出身)/奈良又男少尉(秋田県出身)
久保田邦夫少尉(5/26 菊池到着?)/三垣忠義少尉(入院中)/市村次郎少尉(?)

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▲第27振武隊員勇士
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▲原田栞少尉ユーチューブ動画→陸軍特別攻撃隊 第27振武隊 原田栞少尉

[ 第29振武隊 ](九段隊)昭和20年4月7日~5月25日「隼」で出撃
中村實少尉(石川県出身享年20歳)4/7知覧より出撃。山田忠男伍長(4/7知覧より➡在喜界島)
及川喜一郎伍長(岩手県出身4/14喜界島より)/上川幟伍長(福島県出身4/14喜界島より)
4/7(17:45)第29振武隊の隼3機(及川喜一郎伍長/上川幟伍長/山田忠男伍長)が知覧基地から喜界島に進出した。
3人は(隊長)中村少尉と共に15:00頃知覧基地を4機で出撃した。進撃途中に雲中突破を図った際、中村少尉とは離
れ離れになり、中村實少尉はそのまま未帰還(行方不明)となってしまった。
小雨交じりの夕闇迫る中、3機は飛行を続け、そして敵味方不明の飛行場(喜界島)に不時着した。途中で遭遇した潜水
艦を爆撃しようと爆弾の信管を外してしまったので、まさに決死の不時着であった。
不時着後、基地隊員の話を聞いて始めて3人は此処が喜界島であることを知った。3機は整備員の手により、飛行場か
ら5~600m離れた雑木林の中の無蓋掩体壕に収容された。3人は第6航空軍の戦闘指揮所に申告、次命あるまで待機
する様に命令された。飛行場には爆弾跡の弾痕が無数に空き、周辺には爆弾で破壊された零戦の残骸が散乱していた
という。決死の不時着だった事を物語っている。4/9喜界島は米軍の大規模な空襲に見舞われ、山田忠男伍長の愛機
隼が炎上。山田伍長は出撃機会を失ってしまった。
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▲第29振武隊(隊長)中村實少尉(石川県出身享年20歳)4/7隼で出撃。
森内徳龍伍長(岐阜県出身)/益子博伍長/寺田實伍長(広島県出身)美野輝雄伍長(兵庫県出身)/染谷勇少尉(茨城県出身)
柴田信也少尉(4/8知覧より出撃、エンジン不調で黒島に不時着、全身火傷で生死をさ迷うが、 4/29に知覧を出撃し、
黒島に不時着した24振武隊安部正也少尉が手漕ぎの釣り舟で30時間をかけ鹿児島に帰還した時、その事実を伝える。
5/4再出撃の際、薬が入った荷物を黒島に投下、安部少尉は沖縄の海上で散華し、柴田少尉は一命をとりとめた。)
井上彰伍長(山口県小月基地5/25知覧(?)/阿部常義伍長(在知覧)

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▲美野輝雄伍長5/25知覧より隼で出撃、突入戦死。享年20歳
 美野輝雄伍長遺書
十八才遠く膝もとを離れ、御両親に萬分ノ一のご恩も出来なかった
輝雄誠に残念至極、しかしこゝに大命を拝し陸軍特攻隊に一員として参加出来た事は大和男子として本望の至りです。
今更何も思ひ残すことは無いです。一意君國のため散る覚悟、幼き頃の今に居たりて考えざる得ないです。
しかし立派な手柄を残すことが出来たら恩返しにもなるでせう。
一機一艦必ず轟沈致します。最後にあたって何も云ふことは無いのですが、弟を必ず軍人にして戴きたい。
京城の伯母は母上と同じです。自分には良き母が二人出来何も云ふことなし、幸福のうちに轟沈を期す。

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▲米戦艦ニューヨーク(USS New York)4/14特攻機の突入を受け、カタパルトと艦載機に損害を受けた。
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▲特攻機が突入した戦艦ニューヨークの三番砲塔付近。突入の衝撃でOS2Uキングフィッシャー水上観測機がカタパル
トから滑り落ちた。もう1機の特攻機は船から50ヤード(46m)に墜落した。米国側記録ではOSCARとあり、OSCAR
は「隼」の事だ。4/14隼で出撃した特攻機は第29振武隊のみである事から、戦艦ニューヨークに突入した特攻機2機
は、この日喜界島から出撃した第29振武隊の特攻機2機(及川伍長と上川伍長)と判明した。

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▲4/8米駆逐艦グレゴリー(USS Gregory)に「第29振武隊」と見られる特攻機が突入、中破させた。
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▲[ 第29振武隊 ](九段隊)隼のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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▲寺田實伍長(広島県出身/享年19歳)最後の言葉。


[ 第30振武隊 ]昭和20年4月10日~4月15日喜界島より99式襲撃機で出撃
昭和20年4月3日13機が知覧を出撃、徳之島に前進する予定だったが、徳之島上空が空襲中なのを見て喜界島に反転、
米軍機の攻撃を受けながらも、無事に爆撃を受けて穴だらけの海軍喜界島飛行場の滑走路に着陸した。
大櫃繁夫中尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/宮崎彦次小尉
横田正顯少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/岩間勝己伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)
佐々木勇伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)/横尾賢二伍長(樺太出身 徳之島より)
今井實伍長(岐阜県出身4/15喜界島より)/池田強伍長(岡山県出身4/13喜界島より)
福家義信伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)/後藤正美伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)
佐藤悌二郎伍長(3/9航空事故殉職(於各務ヶ原)/河崎廣光伍長(知覧より出撃?)

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▲第30振武隊。河崎伍長のみ知覧より出撃したが、1度目は天候不良で知覧基地に引き返す。その後黄疸を発症。
療養中、空襲により河崎機は破損。出撃が延び、福岡~知覧へ飛行機受領に往復する内に終戦を迎え生き残った。
河崎機の受領の為、知覧に引き返す折に乗った飛行機の操縦者・吉羽少尉は同じ第30振武隊であったが出撃を拒否し、
隈府~熊本を逃亡していた。やがて憲兵に逮捕され菊池から福岡に護送、軍法会議の後不明となる・・・。


[ 第31振武隊 ]昭和20年4月22日出撃
吉原香軍曹(済州島に不時着)
長谷部良平伍長(岐阜県出身4/22、14:40知覧より)


[ 第36振武隊 ]昭和20年4月16日、4月27日知覧より出撃
嶽山留治郎軍曹(滋賀県出身4/16、07:00知覧より出撃)
下手豊司曹長(広島県出身4/27、05:50知覧より出撃)
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▲下手豊司曹長の遺詠。(第36誠飛行隊と678振武隊は間違い?)

[ 第38振武隊 ]昭和20年4月16日知覧より出撃
宇野栄一少尉(京都府出身)
安部祐次軍曹(4/16開聞岳付近、黒島1粁海面不時着5/12知覧帰還)
崎田春雄伍長(4/16出水不時着、出水飛行場在)


[ 第39振武隊 ]昭和20年4月11日知覧より出撃
木下孝之少尉(5/27福岡入院)/原敬一郎少尉/山田千秋少尉
眞田豊一少尉/牧甫少尉の5名は4/11喜界島に不時着、5/28→在福岡)


[ 第40振武隊 ]昭和20年4月16日知覧より出撃
石倉三郎少尉(石川県七尾市出身)/岡清治伍長(山口県出身)/東郷周一伍長(宮崎県出身)
片山淳伍長(奈良県出身)/瀧澤真平伍長(長野県出身)/中上敬一伍長(岡山県高梁市出身)
大堀宏少尉(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
譜久村朝光伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
小野衛伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
田中勢伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
箸満男伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
太田敏雄伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
※小林威夫少尉(東京都出身 昭和20年3月29日知覧より出撃)
小林威夫少尉は教官として知覧に駐在していたことがあり、その時に鳥濱トメさんに下宿を探してもらったり
わが子同様に可愛がってもらっていた青年である。出撃前日に富屋食堂を訪れ、「小母さん、これまでの事、
本当に有難う。小母さんには実のおふくろより優しくしてもらった。忘れません。この思い出を持ってあの世
に行きます。達者で長生きしてください」と小林少尉は最後の敬礼をし、鳥濱トメは黙って頭を下げたと言う。

[ 第41振武隊 ]昭和20年3月29日~5月10日 97式戦闘機で出撃
清水敏男少尉(肺炎の為入院)/山崎勲少尉(4/17不時着入院)/石田正雄曹長(入院)
加瀬嘉一曹長(入院)/山田泰治軍曹5/10突入戦死/大河正明少尉[ 朴東勲 ](朝鮮出身)3/29突入戦死

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▲大河正明少尉[ 朴東勲 ](朝鮮出身)享年17歳
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[ 第42振武隊 ]昭和20年4月6日~5月4日 陸軍97式戦闘機で出撃
松澤平一少尉(長野県出身)4/8喜界島より出撃/馬場洋少尉(東京都出身)4/8喜界島より出撃
牛島久男少尉(千葉県出身)4/8喜界島より出撃/中野友次郎少尉4/9喜界島より出撃、徳之島に不時着
尾久義周少尉(神奈川県出身)4/8喜界島より出撃/仙波久男少尉(愛媛県出身)4/8喜界島より出撃
大西造少尉(4/6喜界島進出。 5/28→福岡)※現姓結城
※大西造少尉機は7日夜の米軍の空襲で焼失してしまう。大西少尉はその後福岡の振武寮に入れられ終戦を迎えた。
※上記7名が先発隊として4/6知覧を出撃➡5機が喜界島に進出(牛島少尉、仙波少尉、尾久少尉、馬場少尉、大西少尉)
2機が種子島不時着(中野少尉と松澤少尉)➡4/7喜界島進出。
彼等は知覧を離陸後、一旦種子島に降りて喜界島の様子を確認した所、「喜界島は空襲中なので翌日出発せよ」との
命令で、翌7日に喜界島に進出している。陸軍97式戦闘機は旧式で、種子島から喜界島までは高度50~100mで飛行。
100㎏爆弾を抱えている為速度は150~160㎞/hがやっとだったという。喜界島に着陸した時、翼内タンクは空で、
胴体タンク燃料も10~20分飛べる程の量しか残っていなかった。
➡4/8[5機]17:30松澤平一少尉、牛島久男少尉、馬場洋少尉、尾久義周少尉、仙波久男少尉が喜界島より出撃。
猫橋芳郎少尉(大分県出身)4/9喜界島より出撃/近藤幸雄少尉(大分県出身)4/9喜界島より出撃
岩崎辰雄少尉(宮崎県出身)5/4知覧より出撃/篠田庸正少尉(福岡県出身)(4/16喜界島より出撃)
福永一馬少尉(3/29徳島県池内町附近不時着以後不明)
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▲第42振武隊員
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なでしこ隊だった菊永トミ子さん(79)は、忘れられない特攻隊員として、死への葛藤を決して表情に出さず、優しく軍歌
を教えてくれた篠田庸正少尉の出撃を知覧で見送る際、菊永さんは「決して流してはならない」と軍に禁じられた涙を堪
える事が出来なかったという。
「篠田さんが去った後は、寂しさを紛らわすために、教えて頂いた軍歌を何度も何度も歌いました」と語っておられます。
「今は年に一度、知覧の慰霊祭で篠田さんに会えることが、人生の楽しみなんです。」と、おっしゃっている。

[ 第43振武隊 ]昭和20年4月6日~4月12日出撃
浅川又之少尉(長野県出身)/清澤守少尉(愛知県出身)/酒井忠春少尉(岐阜県出身)
蓑島武一少尉(岐阜県出身)/村上稔少尉(北海道出身)/大野宗明少尉(兵庫県出身)
岸誠一少尉(島根県出身)/前田敏少尉(静岡県出身)/横尾勇少尉(病気入院6/13復帰)
村野博少尉(3/28江田島付近海上で殉職)/神尾崇少尉(3/7所沢にて殉職)
今井光少尉(4/6徳之島不時着、4/15徳之島より再出撃するも離陸に失敗。喜界島へ移動5/28➡福岡)
今井少尉は明野教導飛行師団都城分遣隊時代、ただ一人特攻志願を拒否したエピソードの持ち主でもあった。
今井光少尉の強運は凄かった。徳之島不時着後、徳之島が基地機能を失い、不時着搭乗員は喜界島に移動し、迎えの
飛行機を待つ事となる。昭和20年5月16日喜界島に海軍機が物資輸送で着陸。その機に乗って九州に帰還する予定だ
った。それが間近になって海軍搭乗員優先として今井少尉が外された。その海軍機は海軍搭乗員3名、陸軍搭乗員12
名を乗せて喜界島を離陸。すると6分後、米軍機の襲撃を受けて炎上しながら墜落。搭乗員全員が戦死した。
乗らなかった今井少尉は命を繋いだのである。しかし、第43振武隊の隊長だった今井少尉は福岡の振武寮で苦しい思
いをする事となる。

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▲出撃前に談笑する第43振武隊員達。
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▲第43振武隊。4/6第1次航空総攻撃で、浅川又之少尉より出撃指示を受ける隊員達。後方は隼3型
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▲[ 第43振武隊 ]隼のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
第43振武隊に関しては、「特攻第四十三振武隊 永遠の又之叔父」浅川利夫2001 という本が出ている。
浅川利夫さんというのは恐らく浅川又之少尉のご遺族の方だろう。

[ 第44振武隊 ]昭和20年4月6日~6月3日徳之島/知覧より隼で出撃
小原幸雄少尉(宮崎県出身)知覧より/向後新太郎軍曹(千葉県銚子市出身)知覧より
足立次彦伍長(大分県出身)知覧より/中村利雄伍長(岩手県出身)徳之島より 生存?
甲斐玉樹少尉(隊長)宮崎県延岡市出身(徳之島より)/清水定伍長(大阪府出身)徳之島より
岡本金吾少尉(東京都出身)5/10知覧より/伊藤俊治軍曹(埼玉県出身)/栗田三郎少尉(徳之島より)
野中元少尉(徳之島より在口之永良部島)/武田遊亀軍曹(4/26喜界島不時着?)
堀之内博少尉(知覧より5/6口之永良部不時着 徳之島で生存 6/27福岡に帰還)

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▲第44振武隊。昭和20年4月6、7日、5月10日、6月3日特攻出撃。

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▲昭和20年4月6日慶良間列島付近の海域で米戦車揚陸艦(LCT-447)に特攻機が命中した瞬間

[ 第45振武隊 ](快心隊)昭和20年5月28日出撃
藤井一中尉(茨城県出身)/小川彰少尉(徳島県出身)/鈴木邦彦少尉(愛知県名古屋市出身)
中田茂少尉(大阪府出身)/小川春雄伍長(群馬県出身)/北村伊那夫伍長(長野県出身)
與國茂伍長(山口県出身)/一口義男伍長(宮崎県出身)/宮井政信伍長(和歌山県出身)
伊藤好久伍長(愛知県出身)/坂恒夫伍長(4/28航空事故殉職)
宮之原太吉伍長(宝島南方海上不時着?漂流中、宝島の島民に救助され奇跡的に生還)
▼前列左端は小川彰少尉、右隣が藤井一中尉。 小川少尉は訓練中事故死した戦友の遺骨を抱いている。

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▲第45振武隊快心隊。二式複座戦闘機「屠龍」で沖縄西方洋上の敵艦船群に突入。
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▲地元の婦人会、女子奉仕隊の見送りを受け、出陣式に挑む第45振武隊。
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▲第45振武隊、鈴木邦彦少尉と愛機 二式複座戦闘機「屠龍」5/28沖縄西方の敵艦に突入、戦死
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▲米駆逐艦ドレクスラー(USS Drexler)
5/28を迎えるまでの間、米駆逐艦ドレクスラーは特攻機を3機撃墜し4機を撃破し、特攻機の習性についてに熟知して
いると自認していた。5月28日朝7時頃、2機の特攻機がドレクスラーとロウリー (USS Lowry) に突入する。
この特攻機は日本海海戦の勝利を祝った海軍記念日を期して繰り出された「菊水八号作戦」で知覧から出撃してきた
特攻機で、雨雲を突き抜けて突入してきた。
1機目は両艦の砲撃および戦闘哨戒任務に当たっていた戦闘機の攻撃で撃墜した。
2機目はロウリーへ突入しようとしたものの失敗、ロウリーとドレクスラーの間に墜落するかに見えた。
突入にしくじって反転の後海中に自爆していくようにも見えた。しかし、この特攻機は次の瞬間にドレクスラーの真正
面方向から突入。艦後部に突入してボイラー室と機械室をつなぐ蒸気パイプを破壊した。
ドレクスラーは動力が全て停止、10箇所にわたってガソリンによる大きな火災を生じた。大きな損傷にもかかわらずド
レクスラーは砲撃を続け、特攻機3機の撃墜に貢献した。
しかし、艦内の乗員は閉じ込められ、外に出ていた何名かの乗員は衝撃で海中に放り出された。
07:03別の特攻機が炎上するドレクスラーの上部構造物に突入。ドレクスラーはすさまじい爆発が続き、右舷に傾斜。
2機目の突入後、1分に満たない時間、あるいは50秒も経たない時間で、北緯27度06分東経127度38分の海域で転覆
の後、艦尾から沈没していった。
短時間で沈没した為、乗員158名死亡、艦長を含む52名負傷した。突入した特攻機が双発機であったとの生存者の証
言(ドレクスラー生存者レユニオン協会)から第45振武隊「快心隊」二式複座戦闘機「屠龍」と見られている。
▼陸軍二式複座戦闘機「屠龍」

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特攻隊 62年目の再会 米兵の心にも傷YouTube
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▲第45振武隊長 藤井一中尉
藤井中尉は茨城県出身、7人兄弟の長男として農家に生まれた。陸軍に志願、歩兵となったが、特別に優秀であった為、
転科し陸軍航空士官学校に入校。卒業後、熊谷陸軍飛行学校に赴任、中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていた。
(精神訓育とは生徒達に、軍人勅諭に沿った軍人精神をたたき込む重要な鍛錬だった)
 忠誠心が強く熱血漢の藤井中隊長は、厳しい教官であると共に、心根が優しく、生徒たちから慕われていた。
藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り
返し言っていた。  
その後特攻作戦が開始され、自分の教え子達が教えの通り特攻出撃していく事となり、純粋な教え子達が次から次へ
と特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった藤井中尉は、自分だけが安全な任務をしている事に堪えられなか
った。「自分の教えを守って、次々と将来ある純粋な教え子達が毎日敵艦に突っ込んで行く。あいつも、あいつも。 
俺はいつまでこんな事をしているのか。」ついに藤井中尉は教え子達との約束を果たすべく自らも特攻に志願する。  
しかし妻と幼子20人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており、支那事変(日中戦争)で迫撃砲の破片を受けた左
腕の為にパイロットにはなれなかった藤井中尉は、当然、志願が受け入れられるはずもなかった。
更には学校を仕切っている重要な任務を離れられては困るからであった。
 しかし藤井中尉は生徒達との約束を守る為、断られても、断られても二度までも特攻に志願していた。

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▲藤井中尉の奥様 藤井福子さん
藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育った。戦争中は野戦看護婦として活躍していた。
藤井中尉との出会いは、支那で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんだったと言う。
福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが十分過ぎるほど解っていた。
 しかし、解っているからといって特攻の許可さえ出ない人が、特攻志願することに納得できるものではない。
福子さんは夫を説得しようと必死だった。妻として二人の幼子の母として哀願もした。子供を盾にして必死に戦った。
しかし、藤井中尉の決意は最後まで変わらなかった。夫の決意を知った福子さんは、二人の幼子を連れて飛行学校の近
くにある荒川(埼玉県)に入水自殺した。  
翌日昭和19年12月15日早朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の
手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が近所の住人によって発見され、直ぐに遺体が藤井中尉の妻と子供であることが判
明、熊谷飛行学校に連絡された。
 知らせを受けた藤井中尉は、同僚の鳴田准尉といっしょに警察の車で現場に駆けつけた。
車の中で、藤井中尉は「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけは勘弁してくれ、解ってくれ」 と、呻く様な声
で言ったと言う。 鳴田准尉には、慰めの言葉は見つからなかった。
師走の荒川の河川敷は、凍てついた風が容赦なく吹きつける。歯が噛み合わないほどに寒い。  
 凍てついた川の流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、福子さんの最後の願いを物語る様に、三人いっしょ
に紐で結ばれたまま、蟻人形のように仲良さげに並んでいた。
その遺書には・・・、以下の様に書かれていた。
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」
という意味のことが書かれていた。副子24歳であった。  
凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と子供達の姿を見て、藤井中尉はその前にうずくまり、優しく
さする様に白い肌についた砂を払い、そして呻くように泣いていた。

葬式は、軍の幹部と、家族と隣り組だけで済まされた。教え子達の参列は禁じられ一人の姿もなかった。
涙を誘うこの悲惨な事件に、各社の新聞記者も飛びついた。しかし軍と政府の通告によって報道が差し止められ、記事は
一切新聞にもラジオにも出なかった。

藤井中尉はこの事件の直後、三度目の特攻志願を行った。今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。
今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。すでに誰もが、藤井には死しかないと理解できていた。
陸軍は藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行ったのである。  
藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった。教えは厳しいが熱血漢で情に厚いという事で、生徒達は藤井中尉
を信頼し、尊敬し、憧れを持っていた。藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈った。
藤井中尉は大変喜んで、にこやかに、その軍刀を抜くと「これで奴らを一人残らず叩き切ってやる!」
と刀を高くかざした。藤井の笑顔に、みんなも笑顔で答えた。
 妻の事件の事は藤井も話さず、誰も口にするものはいなかった。しかし、全員既にに知っており、藤井を惜しみ、藤井
の心を分かって流す涙がさらに深く辛いものであったことは間違いない。
藤井中尉は熊谷飛行学校を去る時、中隊長室に生徒を一人一人呼び、家族の事や思い出話を聞いた。
そして、最後には「これからの日本を頼むぞ」と言って、若い教え子たちを励まし特攻隊の訓練地へと旅立った。
藤井中尉は昭和20年5月27日陸軍特別攻撃隊「第45振武隊」快心隊の隊長として知覧飛行場に進出。 
翌5月28日早朝、隊員10名と共に沖縄に向けて小川彰少尉の操縦する二式双発襲撃機に通信員として搭乗し、出撃。
「われ突入する」の電信を最後に沖縄でレーダー哨戒任務だった米駆逐艦ドレクスラーに命中、戦死。
ドレクスラー生存者の証言によると特攻機は迎撃されたが空中分解しながらも突入してきたと言う。
証言の特攻機が藤井一中尉/小川彰少尉機であったかどうか確かめ様のない事だが、藤井中尉率いる第45振武隊(快心隊)
隊員の気迫が伝わってくるエピソードである。
藤井中尉は、教え子達、そして愛する家族との約束をやっと果たす事が出来たのである。享年29歳
 
藤井中尉は妻と子供三人の葬式が終わった後、長女の一子ちゃんあてに手紙を書いた。
一枚目は桜の花の絵、二枚目は子犬と蝶と共に戯れている幼子の絵の便箋である。
「娘への手紙」
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。
母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、
母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。

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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」

[ 第46振武隊 ](丹羽隊)昭和20年4月6日~4月15日喜界島より99式襲撃機で出撃
4/6小山少尉以下8機が先発隊として知覧を出撃➡喜界島着陸。4/7喜界島より出撃。
山勝寶少尉(福島県出身)/渡辺博伍長(千葉県出身)/伊原佐源次伍長(埼玉県出身)
古川榮輔伍長(京都府出身)/堀越進伍長(栃木県出身)/米山和三郎伍長(埼玉県出身)
森光少尉(東京都出身)/小林貞三伍長(東京都出身)4/13喜界島より出撃
中村稠(しげる)伍長(大阪府出身)4/15喜界島より単機出撃
丹羽信博少尉(第30教育飛行隊に指揮転移)/奥村明雄伍長(4/26在喜界島)/斎藤健伍長(4/26在喜界島)

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▲第46振武隊出陣式
4/7喜界島06:00~07:30陸軍飛行59戦隊の直援機「飛燕」2機と共に第22振武隊の隼2機、第46振武隊の99
式襲撃機2機(小山勝実少尉と伊原佐源次伍長)が特攻出撃。那覇周辺の米艦隊に突入していった。
4/7喜界島17:30陸軍特攻46振武隊の99式襲撃機3機(古川栄輔伍長/堀越進伍長/渡辺博少尉)が特攻出撃。
那覇周辺の米艦隊に突入していった。
※陸軍99式襲撃機の特攻機は60㎏程度の小型爆弾が座席後部下に、真っ赤に錆びた小指程の太さのワイヤーでぐるぐ
る巻きに縛ってあったのを海軍の増戸1飛曹が喜界島で目撃して愕然としたという。


[ 第47振武隊 ]一〇〇式重爆撃機「呑龍」の部隊だが出撃場所等は不明
昭和20年5月4日未明出撃(菊水5号作戦発令)19機の一〇〇式重爆が出撃。

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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍」Ⅱ型 第47振武隊機
千野實大尉/岩永英二少尉/横山淳少尉/遠山怜少尉/大木卓郎少尉/藤本靖矩少尉/坪田定治少尉
我喜屋宗二少尉/五十嵐國三郎曹長/沼尾仁曹長/中島勉軍曹/武藤光雄軍曹/梅田修軍曹/
野見山利夫軍曹/石井邦夫軍曹/廣川鴻伍長/岩佐定次伍長/大門幸作伍長

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▲陸軍一00式重爆撃機「呑龍」(どんりゅう)
※写真はフィリピンクラークフィルドに出撃する飛行第95戦隊の「呑龍」S19.11/19バシー海峡上にて
 47振武隊とは違いますが、爆撃機「呑龍」で特攻に参加した菊水特攻隊の生還者飛行第95戦隊・陸軍曹長中村真


[ 第48振武隊 ](惟神隊)(かむらいたい)昭和20年5月28日~6月8日出撃
鈴木誠一少尉(静岡県出身)/土屋光男伍長(宮城県出身)/掘恒治少尉(千葉県出身)
中嶋豊蔵軍曹(愛知県出身)/柴田信平少尉(東京都出身)/松本真太治軍曹(滋賀県出身)
中島章少尉(茨城県出身)/伊藤甲子郎伍長(秋田県出身)/土屋好央少尉/須藤勲二少尉
中島明伍長/川野勉伍長/須藤勲二少尉

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▲第48振武隊長堀恒治少尉。明野教導飛行師団付教官を経て惟神隊隊長に。6/3突入、戦死。
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▲「惟神隊」隊員の寄せ書き。
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▲中嶋豊蔵軍曹は軍用トラックで移動中に富屋食堂の前を通りかかった時、鳥濱トメを見かけ、懐かしさ
のあまり、まだ走行中のトラックから飛び降りてバランスを崩し転がり落ちて左腕をケガをした。
ケガは予想以上に酷く、包帯で首から腕を吊り治療中だった。6/2昼頃、中島軍曹が富屋食堂に行った時
ケガの為、軍の風呂に入れず梅雨の季節で汗臭かった中島軍曹を可愛そうに思った鳥濱トメさんは、富屋
食堂の風呂を沸かし中島軍曹を風呂に入れて上げた。中島軍曹の背中を鳥濱トメさんが流しながら
「中島さん出撃は何時頃ですか?明日にも命令が出るかもわかりませんよ、そんな手じゃ操縦も出来ない
でしょう、手が良くなってから出撃しなさいね」とトメがいくら言っても中島軍曹は、
「日本が勝つためには、自分が一刻も早く行かなければなりません」と答えたと言う。
中島軍曹のケガは右手を骨折していた為、なかなか出撃の許可が下りなかった。
しかし中島軍曹は「今行かなければ日本は負けてしまう」その並々ならぬ思いで軍航空司令部に掛け合い、
何度も嘆願。ついに許可が出たと言う。
中島軍曹は、翌6月3日不自由な左腕を自転車のチューブで無理やり操縦桿に縛りつけ出撃したと言う。
闘魂の出撃!その様子を見ていた整備兵が鳥濱トメに伝え、トメは富屋食堂の奥で崩れる様に泣いたと言う
「仰ぎ見る富嶽の重さよ 我が勤苦心を重ねて死して果さむ」  少飛十二期 中島軍曹
昭和20年6月3日知覧より出撃。突入、戦死(19歳)

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▲第48振武隊惟神(かむらい)隊の一式戦闘機「隼」の尾翼に描かれた“惟神”の文字。
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▲[ 第48振武隊 ](惟神隊)隼のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」

[ 第49振武隊 ]昭和20年5月6日~5月25日 隼で出撃
伊奈剛次郎少尉(愛知県出身)/藤喜八郎少尉(佐賀県出身)/小柳瞭伍長(三重県出身)
小坂清一伍長(大阪府出身)/高橋定雄伍長(岩手県出身)5/10出撃/黒川久夫少尉(5/25出撃)
南部吉雄少尉/伊藤定雄少尉(入院中 退院5/26防府へ)/村松祐行少尉(成増 5/26防府へ)
柴田進伍長(成増 5/26防府へ 7/17福岡)/井勝忠枝伍長(成増 5/26防府へ 玉名不時着)
金指正夫伍長(成増生存?)


[ 第50振武隊 ](山吹隊)昭和20年5月20日~5月25日出撃
斎藤数夫少尉(岡山県出身)/小木曽亮助少尉(愛知県出身)/多田良政行少尉(広島県出身)
速水修少尉(兵庫県出身)/飯高喜久夫伍長(宮城県出身)/大野昌文伍長(長野県出身)
松崎義勝伍長(新潟県出身)/松尾登代喜伍長(佐賀県出身)/柳清伍長(和歌山県出身)
高橋暲少尉(東京都出身)/藤田典澄少尉(広島県出身)/磯田徳行伍長(熊本県出身)

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▲第50振武隊(山吹隊)勇士達。全員突入、戦死
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▲第50振武隊 多田良政行少尉。5/20一式戦闘機「隼」で出撃。沖縄西方の敵艦に突入、戦死
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▲愛機の隼を背にした第50振武隊 隊長 斉藤数夫少尉。野戦重砲兵より航空に転科した。5/20突入、戦死
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▲第50振武隊 松崎義勝伍長5/20、16:30出撃、突入戦死。享年19歳

[ 第51振武隊 ](悠久隊)昭和20年5月6日~5月28日 隼で出撃第
鮫島豊少尉(鹿児島県出身)/荒木春雄少尉(宮城県出身)/光山文博少尉(卓庚鉉)(タク・キョンヒョン)朝鮮出身
野上康光少尉(熊本県出身)/安藤康治伍長(大分県出身)/島仁伍長(東京都出身)
鈴木惣一伍長(愛知県出身)/豊田良一伍長(愛媛県出身)/市川豊伍長(佐賀県出身)
伊藤博少尉(5/8航空事故入院)/川崎渉少尉(5/30.16:30国分附近殉職)/堀岡一馬伍長(4/24福岡?)

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▲第51振武隊員の勇士達。第七次航空総攻撃で出撃(昭和20年5月11日~5月20日)
第51振武隊隊長・荒木春雄少尉は新婚1ヶ月だった。奥様のお名前は「しげ子」さん。
下記は、荒木少尉が妻に宛てた遺書。
「しげ子、元気なりや。
あれから1ヶ月たった。楽しき夢は過ぎ去って明日は敵艦に殴りこみ、ヤンキー道連れ三途の川を渡る。
振り返れば、俺は随分、お前に邪険だった。
邪険にしながら、後で後悔するのが癖だ。許しておくれ。
お前の行く先、長き一生を考えると断腸の思いがする。
どうか、心堅固に多幸にしてくれ。
俺の亡き後、俺に代わって父上に尽くしてくれ。
悠久の大儀に生きてこの国を、永く護らん」

荒木少尉は5月11日AM6:30、6名6機の部下と共に知覧から一式戦闘機「隼」で出撃、戦死。享年21歳。
荒木少尉の飛行服の左のポケットには何時も妻、しげ子さんの写真をしまっていたそうだ。

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▲第51振武隊員の勇士達。
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▲光山文博少尉(卓庚鉉)(タク・キョンヒョン)朝鮮出身(京都薬学専門学校)24歳
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▲光山文博少尉と鳥濱トメさんの有名な写真。
光山少尉は日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたる1920年
11月5日、朝鮮半島の慶尚南道泗川市にて生まれた。光山少尉誕生時一家の暮らしは裕福な方だったとされる。
しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、
生計を一から立て直すという道だった。がまだ幼少だった頃の話である。一家は訪日し京都府に定住した。
当時の京都には1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。併合以降、朝鮮よりも賃金条件
の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。 光山少尉の父・卓在植は、京都市内で乾物商
を立ち上げた。 こうして彼等は、所謂「在日」となった。
決して「強制」や「徴用」によって日本に来たわけではない。一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は
「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。
当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。
光山少尉は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。名門中学への進学は、彼自身の十分なる能力
の高さを証明している。 光山少尉は人生の大半を日本で過ごしており、日本の教育を受け、日本語を使いなが
ら育った。その後、光山は京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)に進学した。
昭和18年(1943)9月同校を繰り上げ卒業した光山少尉は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。
見事試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の
志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空
要員を養成することが、同制度の目的であった。 併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。
しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざす事
こそ「差別」「屈辱」であると彼等は主張した。
昭和12年(1937)日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。
翌昭和13年(1938)「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められる
様になる。日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。
朝鮮人への徴兵制が施行されたのは後の昭和19年(1944)4月実際の徴兵適用は同年9月以降のことである。
日本は欧米列強と比べても、「植民地人の軍事利用」には概して消極的であった。イギリス軍は東南アジアの
戦線において、インド人兵士やグルカ兵(ネパールの山岳民族)を最も危険な最前線に投入して戦局を組み立
てたが、日本軍はそのような体制は構築しなかった。
昭和18年10月大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した光山少尉は、航空兵としての基礎的な訓練課程へと
入った。 そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。
知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、昭和4年(1929)に女主人鳥濱トメが開いた店である。
知覧分教所の開校は昭和16年(1941)12月だが、富屋食堂は翌昭和17年(1942)1月以降、陸軍の指定食
堂となった。うどんや蕎麦の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏はかき氷も好評だったという。
光山少尉は鳥濱トメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいる事の多かった光山少尉だ
が、トメとはとりわけ親しくなった。 光山少尉はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人だという
事を告げたという。当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいた事は否定し難き事実である。
そんな背景を知悉していたトメは、光山少尉に対して殊に気を使って接した。
光山少尉は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。トメの夫・義勇は南薩鉄道のバスの運転手だ
ったが、2人の間には長女の美阿子、次女の節子という2人の娘があった。当時美阿子17歳、礼子13歳だった。
光山少尉はこの2人とも程なくして仲良くなり、共に連れ立って近くの麓川の土手などをよく散歩した。
光山少尉には妹が1人いたが、トメの娘たちの姿に実妹の面影を重ねていたのかもしれない。
昭和19年(1944)7月栃木県宇都宮市の教育隊へ転属。トメたちとも別れることとなった。
その後光山少尉は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山少尉はしばしばトメに
「知覧のおばちゃん、元気ですか」 などと綴った葉書を寄せた。
昭和19年10月光山は陸軍少尉を拝命。順調な昇進だったが、翌11月彼を思わぬ不幸が襲った。
京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、
「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」 という内容のものだった。
やがて、父もまた同じ気持ちである事を知った光山少尉は特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続
いた時期であった。周囲の戦友達も、次々と特攻を志願していた。
上官の1人は、光山少尉が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。しかし光山少尉の
決意は固かった。上官は光山の強い意志に心を動かされ、光山少尉の特別攻撃隊への配属が決定した。
昭和20年(1945)3月光山少尉は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。同月29日、明野教導飛行師団の
主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成され、その中の一つである第51振武隊の隊員の中に光山少尉の名
前があった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。
第51振武隊は山口県の防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。光山少尉はこうして再び知覧の地を踏んだ。
当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。 光山少尉は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。
トメは温かく彼を迎えた。そして、トメはすぐに光山少尉が特攻隊員であるという事実を悟った。
何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。
「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」 と光山少尉はトメに告げた。
約半年前に実母を亡くした光山少尉にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。
久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山少尉は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。
以降、光山少尉は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由
に認められていた。光山少尉は父と妹を朝鮮に帰郷させた。戦況の悪化を知り及んだ光山が、朝鮮の方が安全だ
ろうと判断して促した結果であった。 そんな光山少尉にも、確実に出撃の日が迫る。
出撃前夜の5月10日光山少尉はやはり富屋食堂の「離れ」にいた。トメと彼女の娘達を前にして、こう言った。
「おばちゃん、いよいよ明日、出撃なんだ、長い間、いろいろありがとう。おばちゃんのようないい人は見たこ
とがないよ。俺、ここにいると朝鮮人っていう事を忘れそうになるんだ。でも俺は朝鮮人なんだ。長い間、本当
に親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」
光山少尉の着ている飛行服には、幾つかの小さな手作りの人形がぶら下がっていた。それらは、トメや娘達が彼
に贈った物だった。トメが造った人形は、頭部が大き過ぎて「てるてる坊主」のようだったが、光山はこれを殊
に大切にしていたという。 トメが目頭を押え俯いていると、光山少尉が「おばちゃん、歌を唄ってもいいかな」
と切り出した。トメは思わずこう答えた。 「まあ、光山さん、あんたが唄うの」
トメには光山少尉の言葉が意外だった。それまでの光山少尉は他の隊員たちが大声で軍歌などを唄っている時で
も一緒に声を合わせるような事は殆どなかったからである。
光山少尉「おばちゃん、今夜は唄いたいんだ。唄ってもいいかい」 トメが 「いいわよ、どうぞ、どうぞ」
光山少尉 「じゃ、俺の国の歌を唄うからな」
光山少尉はあぐらをかいて座り、両目を庇の下に隠すようにして戦闘帽を目深に被り直し、朝鮮民謡である
「アリラン」を歌った。この歌を知っていたトメは、光山少尉と一緒になって声を揃えた。
トメと娘たちは、嗚咽しながら大粒の涙を流した。最後には4人、肩を抱き合うようにして泣いた。
それから、光山少尉は形見として、トメに自らの財布を手渡した。
「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、
よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」
その夜の別れ際、トメは自分と娘たちが写った写真を、「これ、持ってって」と差し出した。
光山少尉は「そうかい、おばちゃん有難う。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しい事はないよ」
と言い残し、灯火管制のために暗い夜道を、手を振りながら三角兵舎がある知覧基地に戻って行ったという。
翌11日第7次航空総攻撃の実施により、光山少尉は午前6時33分、爆装した一式戦闘機「隼」に搭乗。
知覧飛行場の滑走路から出撃、陸軍計12隊29機、海軍計11隊69機と共に、沖縄近海を目指した。
航行する敵艦船群を確認した編隊は、特攻作戦を開始。結句、アメリカの空母1隻、駆逐艦2隻を「戦列復帰不能」
とした上、オランダ商船1隻に損傷を与えた。しかし、轟沈した艦船は1隻もなかった。
この戦闘において、光山少尉も散華。享年24歳であった。


戦後かなり経った平成20年(2008)5月ある日本人の働きかけにより、光山の故郷である泗川市に「帰郷記念碑」
が建立されたが、これに地元団体が激しく抗議。結果、除幕式が中止に追い込まれる事態にまで発展した。
泗川市の議員の一人は、「出撃前にアリランを唄ったなどという話は、とうてい信じられない」「日本軍に志願し
た人間を、この国の貢献者のように扱えるものか」と言い放った。
結句、記念碑は市によって撤去された。日本側の慰霊の気持ちを、韓国側が拒否するという歪な結末であった。
現在、光山の遺影は靖國神社の遊就館に民族の別なく飾られているが、韓国側にはこれに反対する声も多い。
現在の韓国は、自国を「戦勝国側」「侵略戦争の被害者」と位置付けているが、実際は「日本と共に戦った」のが
真実である。韓国は都合の良い歴史の歪曲を改め、史実を冷静に咀嚼する必要があるが、戦後の朝鮮戦争で
北と南に分かれた朝鮮にかつての日本統治時代の事を学ぶ機会は無いだろう。
戦後の韓国において「反日」という奔流が理性の堤防を決壊させる中、光山少尉は「対日協力者」「親日派」とし
て、あろうことか「国賊」「売国奴」などと罵倒されるに至った。
今の「韓国」「北朝鮮」はかつて光山少尉が愛した「朝鮮」では無い。
光山少尉の事は日本人として日本人が忘れない様にしていればそれでいいと思う。


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▲昭和20年5月11日 第7次航空総攻撃で出撃した各特攻振武隊の隊長達。
 左から第55振武隊長 黒木国雄少尉、第51振武隊長 荒木春雄少尉、第65振武隊長 桂正少尉


[ 第52振武隊 ]昭和20年5月18日~6月8日出撃
下平正人軍曹(長野県出身)/渡辺幸美伍長/田中勝伍長/中原常信少尉(徳島県出身)/太田増信伍長(愛知県出身)
荒川宣治少尉(山口県出身)/谷苗菊夫少尉(神奈川出身)/市川実少尉(石川県出身)
横山正雄少尉(東京都出身)/小石順一郎伍長(愛知県出身)/林田務伍長(熊本県出身)
須藤保少尉(栃木県出身5/10知覧飛行場にて殉職)

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▲第52振武隊員の勇士達。
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▲第52振武隊。下平正人軍曹 出撃前日、富屋食堂の“特攻の母”と特攻隊員に慕われた鳥浜トメさんに、
 「明日、お母さんの代わりに見送りに来てください」とお願いした。5/11 06:22出撃、突入戦死。


[ 第53振武隊 ](天誅隊)昭和20年5月18日~6月8日出撃
近間満男少尉(鹿児島県出身)/三島芳郎少尉(富山県射水郡出身)/小笠五夫少尉(長崎県出身)
山嵜 忠兵長(愛媛県出身)/梅野芳朗兵長(長崎県出身)/土器手茂生兵長(鹿児島県出身)
星忠治兵長(栃木県那須塩原市出身)/丸山好男兵長(福島県出身)/河井春男兵長(東京都出身)
中村孝之兵長(4/24福岡着?)/横山輝男兵長(5/16防府へ)/北川孝義兵長(5/16防府へ)

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▲第53振武隊員の勇士
※「陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く―愛するものを護るため、大空に飛び立った若者たち」

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▲この本の表紙になっている第53振武隊。
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▲出撃前、快心の笑みで写真におさまる第53振武隊員達。この数時間後、彼等はこの世にいない。
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▲5/18特攻出撃の日、地元の人達の深々とした礼の見送りに、軍用トラック上で笑顔で答礼する第53振武隊員。
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▲出撃20分前、最後の食事となるおにぎりを頬張る第53振武隊員。
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▲出撃前、知覧飛行場の本部に集合し、別盃を酌み交わす第53振武隊員。
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▲出撃前の「隼」戦闘機を見つめる振武隊員。
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▲5/28沖縄西方海上敵艦船群を目指し、知覧から出撃する第53振武隊長近間満男少尉搭乗機「隼」三型
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▲5/18知覧飛行場。戦友達のうち振る日の丸に見送られ、二度と生きて戻ることのない死地へと旅立った。
 第53振武隊の一式戦闘機「隼」三型。

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[ 第54振武隊 ]昭和20年5月25日~6月6日出撃
葛西宏少尉(青森県出身)/三島邦夫少尉(愛媛県出身)/内海京一郎少尉(埼玉県出身)
大越通明少尉(栃木県出身)/坂内隆夫少尉(福島県出身)/松本勲少尉(茨城県出身)
中西伸一少尉(和歌山県出身)/上垣隆美少尉(兵庫県出身)/高井政満少尉(佐賀県出身)
岡本一利少尉(5/28知覧を出撃07:54喜界島に不時着。同日10:12第109振武寺田伍長を同乗させ
喜界島を出発、知覧に帰還。後の6/6再度出撃、戦死を遂げた)
小川光悦少尉(4/26京城付近にて冷却水漏れ不時着、負傷。6月福岡に帰還)
坂部潔少尉(5/25知覧より出撃。離陸時脚折損、飛行機大破炎上。顔部火傷)

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▲第54振武隊。三式戦闘機「飛燕」で5/25第8次航空総攻撃、5/28第9次航空総攻撃、6/6第10次航空総攻撃
に加わり、知覧から沖縄西方洋上の敵艦船群に突入。

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▲第54振武隊長 葛西宏少尉。第8次航空総攻撃で出撃。突入、戦死。後方は愛機の「飛燕」一型丁。
250キロ爆弾を搭載する為、操縦席後方の防弾板、無線機、機関砲4門中3門を外して軽量化を図った。

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▲特攻出撃していく陸軍三式戦闘機「飛燕」

[ 第55振武隊 ]昭和20年5月6日~5月28日出撃
伊藤敏夫少尉(熊本県出身)/北澤元治少尉(茨城県出身)/中島英一少尉(京都府出身)
黒木国雄少尉(宮崎県出身)/鷲尾克己少尉(兵庫県出身)/佐伯修少尉/菊地誠少尉
大岩泰雄少尉(東京都出身)/森清司少尉(京都府出身)/長谷川東少尉(防府入院)
太田穣少尉(調布で入院)/大澤茂少尉(5/17,08;55 芦屋にて試験飛行中墜落死)

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▲5/11出撃直前の第55振武隊(隊長) 黒木国雄少尉
※黒木少尉は5/6出撃したがエンジントラブルで知覧に帰還している。出撃前に遺書を整備兵に投函する様に頼んでい
 た為、3日後に遺書が黒木家に配達。それを読んだ父が居ても立っても居られず知覧を訪問。すると、帰還していた
 黒木少尉に奇跡的に会う事が出来、特別なはからいで三角兵舎で最後の一晩を過ごすことが出来た。

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▲5/11出撃直前、黒木少尉は見送りに来ていた父の耳に口を近ずけ「父ちゃん、国雄の晴れ姿見て嬉しいじゃろ」と。
 肇さん(父)が「おう、嬉しい」と答えると、「行きます」と言って飛燕に乗り込んだ時の満足げな表情の黒木少尉だ。

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▲5/11知覧飛行場で帽子を振って出撃を見送る父の後ろ姿と、出撃する黒木少尉の飛燕。最後の写真である。
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▲整備兵からマスコット人形を渡される北澤元治少尉5/6「飛燕」で出撃、沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
※画像は知覧へ前進する際、調布飛行場で撮影された写真。

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▲出撃の朝、知覧飛行場で撮影されたコックピットに収まる鷲尾克己少尉。5/11嘉手納沖にて突入戦死。
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▲5/25戦友の遺骨を胸に出撃する菊地誠少尉(戦友とは同期の第56振武隊三根耕造少尉(5/17試飛行中殉職)
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▲菊地誠少尉が遺骨を胸に出撃した戦友の第56振武隊三根耕造少尉(佐賀県多久市出身)
 東京帝国大学法学部在学、学徒出陣。調布より知覧に前進、試験飛行中不慮の戦傷死。

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▲5月11日朝6時出撃5分前、円陣を組んで「男なら」を手拍子をとって歌う第55、56振武隊隊員。
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▲昭和20年5月11日早朝、第七次航空総攻撃の日、知覧で攻撃隊隊員に訣別の訓示をする第六航空
軍司令官[菅原道大中将](左)「決しておまえたちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はおまえ
たちの後を追う」と語りながら、終戦の日「閣下(菅原道大)一機の特攻機の準備が出来ました」と部
下が伝えると、じろりと見据えた菅原は「今日から奉公の先が違う」とヌケヌケと答えたと言う。
若者にのみに犠牲を求め、全く痛痒を感じず、恥ずかしいとも思っていない。人間として最低の男だ。
戦後38年間を生き、多くを語らぬまま昭和58年(1983)12月29日95歳で死去。

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▲軍司令官 菅原道大中将(長崎県出身)
その他特攻隊員に対して「最後の一機で突入する」と叫んだ陸軍第六航空軍の幕僚達は下記の通り。
(参謀長)藤塚止戈夫中将/(参謀副長)青木喬少将 天号作戦により海軍鹿屋航空基地に派遣される。
(高級参謀)井戸田勇大佐/(作戦主任参謀)水町勝城中佐/参謀(教育及び作戦)川元浩中佐
(後方参謀)道場行道少佐/(情報参謀)藤本正雄少佐/参謀(作戦及び編成)
(第6航空軍参謀)倉澤清忠少佐(東京都出身/享年86歳)


[ 第56振武隊 ]昭和20年5月6日~5月11日「飛燕」で出撃
池田元威少尉(大阪市出身)/金子範夫少尉(長野県出身)/小山信介少尉(神奈川県出身)
四家稔少尉(福島県出身)/上原良司少尉(長野県池田町出身)/小澤幸夫少尉/鈴木重幸少尉
川路晃少尉(東京都出身)/京谷英治少尉/橋本良男少尉(入院中)/朝倉豊少尉
三根耕造少尉(5/16、13:55 試飛行中不時着重傷、5/17死亡)

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▲第56振武隊員。昭和20年5月6、11、25日特攻出撃。
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▼▲5/6慶良間諸島に停泊中の水上機母艦セント・ ジョージに56振武隊の「飛燕」が突入、爆発炎上している。
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▼[ USS St. George (AV-16) ]  5/6知覧から「飛燕」で出撃したのは55振武隊、56振武隊である。
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※金子少尉と上原少尉は敵機に撃墜される事無く、米艦隊まで辿り着いた事を直援機の搭乗員が確認している。
▼昭和20年4月頃、調布で編成完結したばかりの第56振武隊員。

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▼上原良司少尉と愛機の三式戦闘機一型。5/11の第7次航空総攻撃で知覧より出撃、突入戦死。
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▼上原良司少尉(佐賀県 目達原基地にて)
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長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。
2人の兄、良春と龍男はともに慶應義塾大学医学部を卒業後に軍医となり、龍男は良司が慶大に進学した年に、ニューヘ
ブリデス諸島沖で潜水艦と共に沈んで戦死している。
旧制松本中学校を卒業後に上京し、慶應義塾大学予科に入学。1942年に慶應義塾大学経済学部に進学するが、経済学部
在学中に徴兵猶予停止によって学徒出陣、大学を繰り上げ卒業。1943年12月1日に陸軍入営。歩兵第50連隊に配属とな
り、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校、館林教育で操縦訓練を開始1944年に熊谷陸軍飛行学校卒業。
5/11,06:15他の隊員たちと『男なら』を合唱した後、愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗し知覧基地から出撃、約3時間
後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死。享年22歳
戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』では「所感」という題名の遺書が巻頭に掲載されている。この文章は多くの人々
の胸に響き、映画「きけ わだつみのこえ」やドキュメンタリー番組でも特集されるなど戦没学生の手記の代表格とされ
度々取り上げられている。上原良司少尉の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していた。
彼等は「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自
殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と、言い合っていたと言う。
上原少尉は特攻出撃前夜に、陸軍報道班員に「所感」を託していた。
以下上原少尉が残した「所感」を紹介する。


栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたして
おります。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主
義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく
例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、かのイタリアのクロー
チェも言っているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまた既に敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次
から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと
思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとって
は嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。
既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。
世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情も
なくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。
理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。
精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば
愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。
ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一旦下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。
愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると
思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。
何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。
彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で

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▲上原良司少尉 沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入戦死。(享年22歳)
上原良司少尉の遺書
生を受けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。
温かき御両親の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送る事が出来ました。
そしてややもすれば我ままになりつつあった事もありました。
この間、御両親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。
それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くす事が、孝行する事である
と言う日本に於いては、私の行動をお許し下さる事と思います。

空中勤務者としての私は、毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。
一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。
このまま突っ込んで果して死ぬのだろうか、否、どうしても死ぬとは思えません。
そして、何かこう、突っ込んでみたい衝動に駈られた事もありました。

私は決して死を恐れてはいません。むしろ嬉しく感じます。何故ならば、懐かしい龍兄さんに会えると信ずるからです。
天国における再会こそ私の最も希わしい事です。私はいわゆる、死生観は持っていませんでした。
何となれば死生観そのものが、あくまで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確の死を怖れるの余りなす
事だと考えたからです。私は死を通じて天国における再会を信じているいるが故に、死を怖れないのです。
死をば、天国に上る過程なりと考える時、何ともありません。私は明確に云えば、自由主義に憧れていました。
日本が真に永久に続くためには自由主義が必用であると思ったからです。これは、馬鹿な事に聞えるかもしれません。
それは現在、日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。

戦争において勝敗を見んとすれば、その国の主義を見れば、事前に於て判明すると思います。
人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るより明らかであると思います。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上はただ、日本の自由、独立のため、喜んで、命を捧げます。

人間にとって一国の興亡は、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は、実に些細な事です。
驕れる者久しからずのたとえ通り、もし、この戦に米英が勝ったとしても彼等は必ず敗れる日が来る事を知るでしょう。
もし敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂により、粉となるのだと思うと、痛快です。
しかしのみならず、現在生きて良い気になっている彼等も、必ず死が来るのです。
ただ、早いか晩いかの差です。

離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい。
ではくれぐれも御自愛のほど祈ります。大きい兄さん、清子始め皆さんに宜しく。
ではさようなら、御機嫌良く、さらば永遠に。
御両親様へ良司より
「特攻に散った学徒兵」YouTube

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▲[ 第56振武隊 ]飛燕(上原少尉機)のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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▲出撃の朝、知覧飛行場で撮影された京谷英治少尉。昭和20年5月11日沖縄西方洋上の敵艦に突入、戦死。
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▲金子少尉と胴体に名前の書かれた三式戦闘機「飛燕」で5/6出撃、沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
※画像は、知覧飛行場へ向かう途中、明野飛行場で撮影された写真。

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▲[ 第56振武隊 ]飛燕(金子範夫少尉機)のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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▲第56振武隊 鈴木重幸少尉。名前入りの愛機、「飛燕」一型丁の左翼には250キロ爆弾が懸吊されている。
※画像は出撃の朝に知覧で撮影された写真。5/25 沖縄西方の敵艦船に突入、戦死。

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▲[ 第56振武隊 ]飛燕(鈴木少尉機)のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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▲昭和20年5月25日慶良間列島近海で米輸送駆逐艦ローパー(USS ROPER)APD-20に特攻機が突入。小破した。

[ 第57振武隊 ]昭和20年5月25日宮崎県都城東飛行場より出撃
伊藤喜得少尉(宮城県出身)/唐澤鐵次郎少尉(静岡県出身)/戸澤吾郎少尉(秋田県出身)
吉川富治少尉(東京都出身)/青木清二少尉(埼玉県出身)/小林昭二少尉(長野県出身)
桟武夫少尉(岡山県出身)/志水一少尉(兵庫県出身)/高埜徳少尉(千葉県出身)
西田久少尉(三重県出身)/山下孝之少尉(熊本県出身)

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▲▼第57振武隊員勇士達
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▲第57振武隊吉川富治少尉、戸沢五郎少尉。5/25四式戦闘機で出撃。突入、戦死
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▲出撃前に辞世の書“魁”を揮毫する第57振武隊 隊長 伊藤喜得少尉。
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▲出撃前の打ち合わせをする第57振武隊員。左より吉川富治少尉、伊東喜得隊長、戸澤五郎少尉。
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▲軍刀を手に、胴体に“必殺”の文字の書かれた四式戦闘機に乗り込もうとする唐澤鐵次郎大尉。
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▲整備兵より花束をもらい最後の別れ。昭和20年5月25日、沖縄西方洋上の敵艦に突入、戦死。
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▲愛機の四式戦闘機と写る第57振武隊 志水一伍長。5/25沖縄西方洋上の敵艦船に突入、戦死。
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▲昭和20年5月17日訓練基地の下館飛行場を出発する第57振武隊。
3月に明野教導飛行師団で編成され下館、明野、防府を経て前進基地の都城東飛行場(宮崎県)に進出したのは5月24日。

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▲集合した航士第57期生の特攻隊長達。左2人目より第58振武隊長 高柳隆少尉、第57振武隊長 伊藤喜得少尉、
第61振武隊長 岡本勇少尉。全員沖縄の海に散った。

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▼▲知覧特攻平和会館に展示される国内唯一現存の四式戦闘機「疾風」
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連合軍のコードネームは「Frank(フランク)」知覧には飛行103戦隊が配備され、特攻機の直掩・誘導に就いた。
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昭和19年中頃登場の「疾風」は零戦、一式戦闘機「隼」に次ぐ約3500機が生産された。
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▲この機体はフィリピンで米軍が接収。完全修復の後、徹底的にテストされた機。昭和48年里帰り飛行➡愛好家購入
➡栃木➡京都➡知覧と渡り歩いた機体で、里帰り時は飛行可能だったが、例のごとく日本に帰ると、場所によっては
撮影禁止のただのオブジェとなってしまう。


[ 第58振武隊 ](髑髏隊)昭和20年5月25日~5月28日都城東飛行場より出撃
高柳隆少尉(神奈川出身)/上田徳少尉(福岡出身)/高田光太郎少尉(福岡出身)
西村潤二少尉(京都府出身)/宮尾克彦少尉(東京都出身)/國吉秀俊軍曹(高知県出身)
栄龍志伍長(鹿児島県出身)/藤山恒彰伍長(長崎県出身)/今村岩美伍長(福岡県筑紫野市出身)
田宮治隆大尉/紺田博少尉(北海道出身)/富永靖少尉(長崎県出身)※富永中将の息子さん
井野隆伍長(隈ノ庄飛行場に不時着 5/28都城東飛行場に引返す)

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▲出撃直前の第58振武隊の四式戦闘機。この部隊は尾翼に釜ゆでにされたドクロマークが描かれている。
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▲第58振武隊 高柳隆少尉と愛機の四式戦闘機「疾風」。5/25沖縄西方洋上の敵艦船に突入、戦死。
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▲第58振武隊員。後は対空偽装された第58振武隊部隊の四式戦戦闘機「疾風」。
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▲隊歌を合唱する第58振武隊隊員と女子挺身隊


[ 第59振武隊 ]都城東飛行場より出撃
野口肇太郎少尉/芦刈茂金少尉/田中平一少尉/大竹俍一少尉/御宮司秀雄少尉
河合徳和少尉(5/23防府飛行場にて殉職)
林一男少尉(5/28出撃、口之永良部島に不時着。小舟を使い自力で帰還。都城東飛行場で
第21突撃隊(集成振武隊)に編入されたが、敗戦直後の8月18日拳銃自決を遂げる。
近藤一一伍長/増岡武男伍長/小川榮伍長/永添照彦伍長/黒田政勝伍長


[ 第60振武隊 ]昭和20年5月4日~5月11日都城東飛行場より四式戦闘機「疾風」で出撃
5/4平柳芳郎大尉(埼玉県出身) / 5/4柴田治少尉(徳島県出身) / 5/4永田利夫伍長(鹿児島県出身)
5/4吉水成明少尉(鹿児島県出身) / 5/4若杉正喜伍長(北海道出身 )/ 5/4田中治伍長(福井県出身)
5/11倉元利雄少尉(鹿児島県出身) / 5/11荒 正彦伍長(北海道出身) / 5/11堀元官一伍長(愛媛県出身)
5/4手塚 進伍長(離陸直後、倉元少尉機と接触して墜落。戦死を遂げた)
5/4村岡和男少尉(トカラ列島の宝島に不時着。5/28奄美大島守備隊に収容され健在)
5/25向井忠伍長(広島県出身)知覧より出撃、(与論島に不時着。生存?)

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▲熊之庄飛行場で四式戦闘機「疾風」を背景に記念写真に納まる第60振武隊勇士達
前列左より堀元官一伍長、永田利夫伍長、田中治伍長、荒正彦伍長、若杉正喜伍長
後列左より手塚進伍長、柴田治少尉、村岡和男少尉、隊長平柳芳郎少尉、倉元利雄少尉、向井忠伍長

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▲第60振武隊の平柳隊長を囲み、訓練についての反省を行う隊員達。
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▲平柳芳郎少尉、明野教導飛行師団教官を経て第60振武隊隊長に。5/4第6次航空総攻撃で突入、戦死
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▲愛機四式戦闘機「疾風」の操縦席に立つ第60振武隊 若杉正喜伍長。
 「いざ征かん散りて砕けん若桜 身は深海に藻屑たらなむ」の詩を残し5/4突入、戦死

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▲陸軍四式戦闘機「疾風」
倉元利雄少尉は妻と過ごした旅館での僅か1ヵ月間の「新婚生活」。妻に最後まで特攻隊員であることを知らせなか
った倉元少尉は、妻と生まれてくるであろう愛児に遺筆と命名書を書き残している。

『喜美子 出発の時は許して呉れ、御許を愛すればこそ一時をも悲しみをさせたくない心にて一杯だった。
決して嘘を言うのではなかった。どうか元気を出して全(あら)ゆる苦しみ、悲しみと闘って行って呉れ。
強い心で生きて行って呉れる事を切に切に望む。では只今より出発する。
有難う 有難う 俺は幸福だった 喜んで征く 御許の幸福と健康を祈る』

『愛児よ 若し御許が男子であったなら、御父様に負けない 立派な日本人になれ 若し御許が女子であったなら、
気だてのやさしい女性になって呉れ そして御母様を大切に充分孝養をつくしてお呉れ 父より 愛児へ』

第60振武隊 倉元利雄少尉(享年30歳)
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▲われら若桜、少年飛行兵の集いたる攻撃隊なり。
左から請川伍長(61振武隊)/荒伍長(60振武隊)/山本伍長(61振武隊)/若杉伍長(60振武隊)。

[ 第61振武隊 ]昭和20年4月28日~5月11日 都城東飛行場より出撃
岡本勇少尉(和歌山県出身)/若杉潤二郎少尉(長崎県出身)/橋本初由少尉(兵庫県出身)
田中英男伍長(新潟県出身)/請川房夫伍長(北海道出身)/香川俊一伍長(香川県出身)
篠原穂津美伍長(佐賀県出身)/沖山富士雄伍長(東京都出身)/長谷川三郎伍長(岐阜県出身)
新井武夫伍長(埼玉県出身)※昭和20年5月25日出撃/山本隆幸伍長(北海道出身)※昭和20年5月11日出撃
高野博伍長(宮城県出身)4/28方向ヲ誤リ反対方向ニ進航シ、佐賀県唐津東方4粁ノ地点ニ墜落戦死ス

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▲主翼下面に250㎏爆弾、左主翼下面に200リットル入落下タンクを懸吊、都城飛行場を出撃する四式戦闘機。

[ 第65振武隊 ]昭和20年5月11日97式戦闘機で出撃
[ 隊長 ]桂正少尉(享年21歳)/田中藤次郎少尉(享年22歳)/石塚糠四郎少尉(享年21歳)
以下、飛行機の整備不良等で出撃できず、福岡市の陸軍「振武寮」に送られた。
三島茂少尉(5/24菊池陸軍病院入院)/鈴木龍雄少尉(5/14→福岡)/木原宇一少尉(5/14→福岡)
後藤博司少尉(5/14→福岡)/川合平三少尉(5/14→福岡)/渡邊準平少尉(5/14→福岡)
吉田善一少尉(4/23左肺骨折顔面打撲入院)/高橋静夫少尉(5/14→福岡)/片山啓二少尉(5/14→福岡)

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▲第65振武隊員。昭和20年3月29日明野にて編成。97式戦闘機で5/11 3機が沖縄本島/名護湾に突入した。
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▲片山啓二少尉(NHKスペシャル「学徒兵許されざる帰還 陸軍特攻隊の悲劇」で証言しています。

[ 第67振武隊 ]昭和20年4月28日16:50 97式戦闘機で出撃
金子正男少尉(山形県出身)/寺田浩一少尉/清水眞三少尉/長澤徳治少尉/網代一少尉/市川敏邦少尉
小池龍夫少尉(5/14福岡)/山下尚武少尉(5/14福岡)/山岸聡少尉(5/14福岡)/米谷悌少尉(5/14福岡)
後藤幸一郎少尉(5/10福岡)
幸田二郎少尉(知覧飛行場離陸滑走時に進路を誤った第55振武隊大澤茂少尉の3式戦が、第67振武隊の準備線に
突っ込み、見送りに出ていた幸田二郎少尉他1名がはねられて即死)
※大澤少尉は、代機受領の命を受け芦屋飛行場に於いて試験飛行を実施中5/17,08:55墜落死。

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▲第67振武隊勇士達。

[ 第68振武隊 ]昭和20年4月8日~4月9日喜界島より97式戦闘機で出撃
4月8日06:30第68振武隊の97式戦闘機2機(山田勇少尉と山口怡一少尉)が進出喜界島に進出。
4月9日17:30第68振武隊山田勇少尉と山口怡一少尉(山口少尉は17:40)が特攻出撃。沖縄の米艦隊に突入散華。
山口怡一少尉(佐賀県出身)/山田政夫少尉/山田勇少尉(京都府出身)/臼井常政少尉
千代田寛少尉/加藤武夫少尉/橋本武見少尉/藤坂亮少尉
長尾秀任少尉/長木義信少尉/沖野正人軍曹/片山悦次少尉(埼玉県出身)4/8 知覧より出撃

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▲第68振武隊、隊長山口怡一少尉と愛機97式戦闘機。4/9 17:30喜界島より出撃。突入戦死
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▲▼4/9米駆逐艦ステレット(USS Sterett)の記録によると、少なくとも5機の特攻機がLCS-36とLCS-24に襲い掛
かってきたと言う。3機を撃墜、1機は右舷に激突。艦は全ての電源が失われたと記録されている。その後、船上での火
災が消化され、操縦制御が復旧し、緊急通信回線が整備されて慶良間諸島で修理される事になる。
記録では1機突入となっているが、LCS-36とLCS-24それぞれ1機ずつが突入している可能性も否定出来ない。

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▲▼4/9米駆逐艦ステレット(USS Sterett)に「第68か42振武隊」と見られる特攻機が突入、中破させた。
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[ 第69振武隊 ](池田隊)昭和20年4月12日~4月16日九七式戦闘機で出撃
池田亨少尉(静岡県出身)/岡安明少尉(埼玉県出身)/持木恒二少尉(北海道出身)
柳生諭少尉(岐阜県出身)/本島桂一少尉(長野県出身)
岡安明少尉や本島桂一少尉はテレビドラマ「なでしこ隊」YouTube(なでしこ隊~少女達だけが見た特攻隊・封印された
23日間~)で取り上げられている。
※ドラマの中で再出撃の4月16日の前夜、本島少尉が夜の校舎で黒板を叩いて泣き叫ぶシーンは捏造。
※4/12機体トラブルで出撃出来なかった本島少尉は、「池田隊長と共に出撃できず、一人で思う存分泣いた」
 自分のお金を知覧女学校に寄付し、隊長の後を追って4/16出撃して戦死している。

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▲第69振武隊池田亨少尉「れんげの花輪の特攻隊長」と呼ばれ、知覧高等女学校の女生徒達に慕われた。
 昭和20年4月12日沖縄西方海上の敵艦船に突入戦死。
[ 知覧特攻機地の思い出 ]を、当時14歳~15歳、知覧高等女学校3年生達の「なでしこ隊」のリーダー永崎笙子
(旧姓・前田)さんが~朗読による平和の祈り~で語っておられます。
<出撃前夜>
特攻隊の隊長は、毎日、戦闘指揮所へ出撃命令の授与の為に出頭します。兵舎に帰ってこられる隊長のお顔が普段と
は違うのを見ると、私たちはそれが何を意味するのか、すぐに察しがつきました。
 その時私たちは、この門出に「ご成功をお祈りします」と言っていいのか、言葉に迷いました。
隊員の方々には確実な死が待っているからです。私たちは言葉を失い、ただ黙って頭を下げるだけでした。
出撃日を知らされた隊員の中には、兵舎で頭から毛布を被って横になり、長い間身じろぎ一つしない方もおられました。
出撃の前夜は壮行会があり、酒を酌み交わしながら隊歌を歌ったりして、賑やかに過ごされた後、薄暗い裸電球の下で
遺書を書かれたり、別れの手紙をお書きになったり、あるいは、そっと抜け出て三角兵舎の屋根に腹ばいになり、月明
かりの中で何かを書かれている方もいらっしゃいました。
これはあとでわかったことですが、先生と生徒一同に対する感謝の手紙でした。
 そして、それらの書簡や遺品は、私達が帰るまぎわになると「家族の許へ送ってくれるように」と度々依頼を受けま
した。隊員の私信は厳しく検閲されていながら、幸いなことに、私たちは所持品の検査を受けることもなく、無事に家
まで持ち帰る事ができました。家に帰ると早速、発信人を自分の名前にしたり、住所を自分の番地にして投函しました。
<出撃>
 ある日、私達は当番兵から、特攻機におにぎりを二個ずつ積み込むように言われました。
ただ、おにぎりを配るだけでは、どうしても私たちの気持ちを現す事が出来ない様な気がして、機中の隊員お方に桜の
小枝を差し上げましたところ、隊員の方に大変喜ばれ、「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返し言われました。
その様子から、「時が来れば何の未練もなく散ってゆく桜の花のように、武士のいさぎよさを見た」と言った人もいま
した。それ以来、私たちは出撃する特攻機の操縦席を、桜の花で飾る様になりました。当時、知覧は桜の盛りでした。
4月12日の朝の事です。私達は、出撃される特攻隊の方々に花の首飾りを作って上げようと思い、田圃に下りてレンゲ
の花を摘んでいました。そこへ岡安明少尉が通りかかり、突然立ち止まると胸の階級章を外して、私達の方へと投げら
れたのです。そして、そのまま飛行機のある方へ立ち去られました。
その瞬間、私たちはハッとしました。くるべき時が来た、二度と再び会う事はないであろう、自分は階級にとらわれず
出撃する、といった決意の印として受けとりました。岡安少尉は兵舎には帰られず、その日の午後4時頃そのまま出撃
されました。

岡安 明少尉(享年23歳)遺書
 父上様
長い間の御愛育有難う御座居ました。何一つ孝行らしきものもせず先に征きます。
最後に只一つの御奉公、悦んでやつて下さい。御健康を祈ります。  
 母上様
長い間の御愛撫有難う御座居ました。何一つ孝行もせず済みませんでした。
明無き後も、御健康に充分注意されて、強く生きて下さい。
 昭和20年4月6日

岡安 明少尉家族全員に遺書を書いている。祖母には「長生きしてください」と。
兄には「結婚のお祝い」を。姉には「末永き幸福」を。妹、弟には「元気で成人するように」と。

 特攻隊の中には、兵長、伍長、軍曹、曹長、少尉、中尉、大尉など、色々な階級の方がいらっしゃいました。
しかし、私達には、特攻隊員同士は階級の上下というよりも、対等な人間としての温かい付き合いの中で、一緒に死ぬ
地に赴く仲間と言う印象を強く受けました。出撃の時刻が近づくと、振武隊ごとに戦闘指揮所の前へ整列して、軍司令
官又は作戦参謀から激励の言葉を受け、皇居のある東の方へ向いて遥拝した後、別れの盃がかわされました。
出発までのひとときを、車座になって隊歌を歌ったり、恩賜の煙草をふかしたりして思い思いに過ごし、やがて搭乗時
刻になりますと、黙って顔を見交わされたり、肩をたたきあってから、自分の飛行機に向かって散って行かれました。
 知覧基地は、民間人が飛行機へ近づくのを厳しく禁じていましたが、特攻隊の方々が苦心して出撃の日をご家族へ知
らせる事が出来たのでしょうか。そのうちに特攻機を見送る人々の姿が戦闘指揮所近くに見受けられる様になりました。
 ある日のこと、搭乗したばかりの特攻隊員の所へ息せき切って走りよる初老の男の方がいらっしゃいました。
ふたことみこと言葉を交わしてから来ていた羽織の紐をもぎ取ると、それを隊員に差し出しました。二人は手を固く握
りしめたまま、身じろぎもしないで思いを込めた眼差しを交わしていました。
その様子から、その男の方が、隊員のお父様であることがわかり、胸が熱くなりました。
 やがて羽織の紐を乗せて特攻機は飛び立ちましたが、機影が開聞岳の向こうへ消えたとも、乱れた羽織姿のままで南
の空をいつまでも見つめながら、悄然と立ちつくしておられました。親子の絆を羽織の紐に託して永遠の別れを告げら
れたその情景に、私達は思わずもらい泣きをしてしまいました。離陸した特攻機は、飛行場の上空を旋回しながら隊別
に三機編隊を組み、編隊を組み終えると機首を戦闘指揮所へ向けて急降下しました。
そして皆一様に三回、翼を左右に振りながら最後の別れを告げると、急上昇して開門岳の彼方へ消えていきました。
基地に残った隊員や整備兵達は一斉に帽子を振り、私達も桜の枝やハンカチを振って見送りました。
機影が見えなくなってからも、私達はしばらく呆然と立ちつくし、その後で急に襲ってkる激しい悲しみに堰を切った様
に泣き出しました。
でも、私達は涙の乾かないうちに、また次に到着される特攻隊の方々をお世話しなければなりませんでした。
そんな悲しみに堪えながら三角兵舎へ戻る事が度々でした。
寒々と静まり返った兵舎内に足をふみいれますと新たな思いにかられて、とめどもなく涙が頬を流れ落ちました。
<むすび>
 生あるものは必ず滅し、会えば必ず別れなければなりません。人との出会いは、別れへの前兆でもあります。
特攻隊の方々との出会いは、ほんのつかの間の出来事で終わりました。
そして、さまざまな状況は50年の間に目まぐるしく変わっていきました。人はよく「戦争は終わった」と言います。
で、も私達の心の中の戦後は終わらないままに今日まできました。

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▲昭和20年4月上旬、知覧で写真におさまる出撃を控えた特攻隊員と「なでしこ隊」

[ 第70振武隊 ](葉隠隊)昭和20年5月11日~5月28日出撃
佐久田潤少尉/神内敏雄軍曹/三村龍弘伍長(徳島県徳島市出身)/朝倉岩次伍長(愛知県出身)
浅見忠次伍長(埼玉県出身)/渡邊輝義伍長/水川豊伍長(佐賀県嬉野市出身)/藤田文六伍長(三重県出身)
田片恒之輔伍長(岡山県出身)/山口啓一伍長/山田良治郎伍長/河村英世伍長(東京都出身)

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▲愛機の一式戦闘機「隼」三型を背にした第70振武隊長 佐久田潤少尉。5/11 06:35出撃。突入、戦死
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▲浅見忠二伍長 富屋食堂では手巻きの蓄音機を独り占めする音楽好きの心優しい青年だった。
 何故かネコが大嫌いだったという。5/28突入、戦死。

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▲[ 第70振武隊 ](葉隠隊)隼のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」

[ 第76振武隊 ]昭和20年4月28日出撃
岡村博二中尉(広島県出身)/境忠軍曹(北海道出身)/長谷川武弘伍長(新潟県出身)/本田保伍長(航空事故殉職)
山口慶喜伍長(山梨県出身)/鈴木啓之伍長(兵庫県出身)/中川芳穂伍長(新潟県出身)
久冨基作少尉(福岡県豊前市出身)/木村廣秋両少尉/垣尾幸男伍長/小島英雄伍長/戸次政雄軍曹

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▲4/27知覧飛行場三角兵舎で、慰問人形を笑顔で手に取る第76振武隊員。この翌日人形と共に突入散華。
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▲第76振武隊員。旧式である97式戦闘機で特攻出撃した。(加古川陸軍飛行場にて撮影)
前列左から山口伍長/境軍曹/岡村隊長/木村少尉/垣尾伍長
後列左から小島伍長/中川伍長/鈴木伍長/長谷川伍長/久富少尉/戸次軍曹/(本田伍長を失った後の撮影)
後方の97式戦闘機の垂直尾翼には7と6を組み合わせ、爆弾型に図案化した部隊章が描かれている。
4/28第六航空軍は第5次航空総攻撃を発動16:50岡村隊長/境軍曹/長谷川伍長/山口伍長/中川伍長/鈴木伍長は
第67振武隊(7機)第77振武隊(7機)第106振武隊(4機)第107振武隊(2機)第108振武隊(1機)と共に知覧出撃。
沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
5/11第六航空軍は第7次航空總攻撃を発動16:41久富少尉/戸次軍曹/小島伍長が知覧出撃、
嘉手納沖の敵船団に突入戦死。

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▲久冨基作少尉 9人兄弟の末っ子で長男。
※長男は特攻隊員になる事は無いという間違った解釈をしている人が多いが、実は違うことが解る。

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▲▼特攻平和会館から車で約10分程。かつての知覧飛行場敷地内だった場所に無蓋掩体壕が修復保存されている。
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無蓋掩体壕は、土塁を築き、近くに爆弾が落ちた場合その破片や爆風から飛行機を守る為のシェルターの様な物。
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コンクリート製の掩体壕では無く、知覧飛行場の掩体壕は土塁で囲っただけのお粗末な物だった様だ・・・。
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此処に展示されているのは97式戦闘機の実物大レプリカだが、尾翼マークは第76振武隊仕様になっている。
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レプリカでもこうやってあるだけで、此処が知覧飛行場基地内だった事を偲ばせる。
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ただ、訪れる人が極端に少ないのは非常に残念。イベントでも開いてもっとアピールして欲しい。
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[ 第77振武隊 ]昭和20年4月28日~5月4日97式戦闘機で出撃
須山佳市少尉(静岡県出身)4/28徳之島不時着後生死不明
長谷川榮七伍長(愛知県出身)4/28徳之島不時着後生死不明
鈴木三男伍長(福島県出身)/西嶋重利伍長(5/5付 原所属ニ転属)
本間忠男伍長(新潟県出身)/三枝英明伍長(徳島県出身)/木村正碩伍長(朝鮮出身)
寺尾正通伍長(兵庫県出身)/中秀夫伍長(奈良県出身)/相花信夫伍長(宮城県出身)
金子誓伍長(福岡県出身)4/28徳之島不時着 4/29,05:00徳之島より再出撃、戦死。
秋村友芳伍長(4/28,16:50知覧出撃後、中ノ島ニ不時着)

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▲第77振武隊 相花信夫伍長5/4出撃、突入戦死。享年18歳
相花信夫伍長[ 遺書 ] 母を慕いて


母上お元気ですか。永い間本当に有難うございました。
我六歳の時より育て下されし母。継母と言え此の種の女にある如き不祥事は一度たりてなく
慈しみ育て下されし母、有難い母、尊い母

俺は幸福だった。遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。
お母さん お母さん お母さんと


[ 第78振武隊 ]昭和20年5月4日~5月25日出撃
吉田節郎少尉(大阪府出身)/勝又勝男少尉(千葉県出身)/河野博少尉(熊本県出身)
種田實少尉(北海道出身)/坪谷邦彦中尉5/2航空事故で殉職/樺島資彦少尉(鹿児島県出身)
土谷恭三少尉(栃木県出身)/内藤寛次郎少尉(栃木県出身)/佐藤利男少尉(神奈川県出身)
湯澤三壽少尉/瀬尾努少尉(埼玉県出身)
田宮治隆少尉(5/25喜界島に不時着5/26第21振武隊今井光少尉機に同乗し知覧に帰還中行方不明)

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▲第78振武隊若桜隊。左より内藤寛次郎少尉、勝又勝雄少尉、佐藤利男少尉、河野博少尉、種田実少尉。
内藤少尉は5/25、写真の他の隊員は5/4に知覧から一式戦闘機「隼」で沖縄西方の敵艦船に突入戦死。

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▲河野博少尉は尺八を肌身離さず、富屋食堂に来たときは、窓際に座って何時間も吹いていた。
 「明日はこの尺八をもって敵艦に突入するよ。」と言い残して5/4出撃、突入戦死。

[ 第79振武隊 ]昭和20年4月16日出撃(訓練機を特攻作戦に初めて投入)
(隊長)山田信義大尉(愛知県出身享年27歳)/郷田志郎大尉(大分県出身)/二村源八大尉(大分県出身)
清水義雄大尉(滋賀県出身)/田中富太郎大尉(群馬県出身)/川島猪之助少尉(栃木県出身)
難波武士少尉(岡山県出身)佐藤新平少尉(岩手県出身)上野實少尉(茨城県出身)/山本研一少尉(京都府出身)
池田保男大尉(新潟県出身)途中、爆弾が機体から落下した為、知覧に引き返す。4/22国分基地より再出撃、戦死
高橋静夫少尉(東京都出身)敵機の攻撃を受けサンゴ礁に不時着。奄美大島の島民に救出された後、
福岡県「振武寮」で再教育を受ける。高橋少尉は出撃命令を待ったがそのまま終戦。
昭和61年に亡くなるまで、特攻隊や戦争の事について、家族らにも一言も語らなかったと言う。

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▲第79振武隊山本研一少尉(享年22歳)4/16第3次航空総攻撃で沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
 山本少尉と熊谷陸軍飛行学校桶川分教場から山口県(下関陸軍飛行場)まで同乗した、当時19歳だった元整備兵の
 柳井政徳さんが同時の事を語っておられます。訓練機で特攻隊が出撃した、陸軍飛行学校YouTube

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▲昭和20年4月5日陸軍初の練習機による特攻となる第79振武隊が熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)
 から次々と飛び立つ。99式高等練習機12機の内6機の後部座席には整備員が同乗していた。

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▲第79振武隊の98式直協偵察機、これは99式高等練習機を特攻仕様に改造した機で、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
 から知覧まで11日をかけ、日本本土各航空基地を経由しながら埼玉県から鹿児島県まで移動した。
 桶川(埼玉県)→各務原(岐阜県)→小月(山口県)→知覧(鹿児島県)

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▲第79振武隊員の勇士。
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▲[ 第79振武隊 ]99式高等練習機のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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▲第79振武隊 佐藤新平少尉4/16出撃、突入戦死。享年23歳
佐藤新平少尉[ 遺書 ]
三月二十七日
待望の日は遂に来た。特別攻撃隊の一員として悠久の大義に生く。日本男児として、又、空中戦士として、
之に過ぐる喜びは無し。
有難き御世に生まれ、そして育てられし広恩、必死、必中、唯これを以て報いんのみ。
思えば大空に志し、翼の生活に入り、早六歳。昨年より特別攻撃隊の熱望三度にして、漸く(ようやく)希望
入れらる。神我を見捨て給わ ず。
六歳に亙り(わたり)、練り鍛えし腕に十二分の自信あり。唯健康に充分注意なし、轟沈の訓練に励まんのみ。
父上、母上様も御喜び下さい。軍人としての修養は只立派な死場所を得るにあります。
最後まで操縦桿を握って死ねる有難い死場所を得ることが出来、新平、幸福感で一 杯です。
亡き兄もきっと喜んでくれる事でしょう。これから轟沈の日まで日誌を続けます。
死生有命 不足論 男児従容 散大空
三月二十八日
午前新しき航空服一式支給さる。
午後、部隊長と共に熊谷へ飛行機受領に行く。御園大尉殿に今度の事を申告、御礼をのぶ。
愈々明日から轟沈の訓練の予定なり。豊崎軍曹より「愈々出発沖縄沖の戦果に期待あれ」との伝言あり。
唯命中を祈るのみ。

九八式直協同偵察機
▲陸軍98式直協偵察機[キ36]/陸軍99式高等練習機[キ55] 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会

[ 第80振武隊 ]昭和20年4月22日~4月27日 99式高等練習機で出撃
杉戸勝平大尉(栃木県出身)/川瀬明大尉(北海道出身)/高橋弘中尉(栃木県出身)
田畑與四郎少尉(北海道出身)/上成義徳少尉(鹿児島県西之表市出身)/川上喜一郎少尉(新潟県出身)
平木義範(李允範)(イ・ユンポン)少尉(朝鮮出身)/五十嵐慎二少尉(北海道出身)/永瀬一則少尉(島根県出身)
大友勉少尉(兵庫県出身)/中村鐡一少尉(大分県出身)/渡辺正興少尉(愛媛県出身)

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▲第80振武隊員の勇士。昭和20年4月22、27日に特攻出撃、12名全員戦死。
第80振武隊 平木義範(李允範)(イ・ユンポン)少尉(朝鮮出身)
大正10年12月に韓国の全羅南道で生まれた李充範(日本名・平木義範)は、昭和12年頃に日本へ移住、熊本県有明海
に面した鏡町が終の棲家になった。以来、日本で成長していった李青年は昭和14年12月、米子航養所5期生として入所
した。当時の教官は馬詰太郎。在学中、平木義範という日本名に変わった。彼の弟も特攻を志願、8月20日に出撃予定だ
ったが、終戦により出撃は無かった。李一家は、戦後、韓国へ引き上げたが「朝鮮民族の裏切り者」としての評価を受け
る屈辱を受ける事になる。


[ 第82振武隊 ]昭和20年4月22日~4月27日出撃(知覧から出撃したかは不確定)
横田利夫少尉/沼田 泉少尉/人見秀豊少尉/近藤 瑩軍曹/松元繁美伍長/山崎好一伍長
山口文夫伍長/早水一二三伍長/井上勝美伍長/見吉春雄伍長/石木操伍長/真杉尚之伍長


[ 第103振武隊 ](第二降魔隊)昭和20年4月12日~4月23日出撃
石切山文一少尉(静岡県出身)/板倉震少尉(埼玉県出身)/源善正少尉(大阪府出身)
渡邊三郎軍曹(群馬県出身)/青木俊英伍長(東京都出身)/内田新一伍長(宮崎県出身)
城所一郎伍長(愛知県出身)/滝澤泉三伍長(群馬県出身)/長家利左衛門伍長(福井県出身)
宗平誠三伍長(広島県出身)/矢島嚆矢伍長(石川県出身)/岩井定好伍長(岐阜県出身)
大野一郎少尉(岐阜県出身)/竹下政夫軍曹(5/15目達原生存)/乾太一郎伍長(5/18目達原生存)

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▲第103振武隊(第2降魔隊)隊長の石切山文一大尉。4/12、99式襲撃機で隊員10名
 と共に沖縄西方海上の偵艦船群に突入戦死。


[ 第105振武隊 ](第4降魔隊)昭和20年4月22日~5月25日97式戦闘機で出撃
林義則少尉(岐阜県出身)/中川昌俊少尉(広島県出身)
藤野道人軍曹(福岡県出身)4/22 14:40知覧出撃後、徳ノ島近海で米軍機と空中戦、墜落戦死
小野寅蔵伍長(秋田県出身)/陣内政治伍長(佐賀県出身) 
田渕哲雄伍長(長崎県出身)/服部武雄伍長(愛知県出身)
山本儀吉伍長(兵庫県出身)仲西久雄伍長(兵庫県出身)
穴田宏志伍長(5/5付第52航空師団司令部転属)/石川正美伍長(滋賀県出身)
佐藤享伍長(屋久島不時着5/8知覧ヘ前進?)/森重丈治伍長(菊池1/16?)
日下弘實伍長(広島県出身)4/22徳之島不時着4/23徳之島より単機出撃、突入戦死
※渡部利廣少尉(鳥取県出身)太刀洗平和記念館に展示されている97式戦闘機を4/14大邱
(朝鮮)から知覧に向かう途中エンジントラブルにより博多湾雁の巣沖に不時着水させた人物。4/22突入戦死
[ 渡部利廣少尉の出撃前日の日記 ]
明日はいよいよ出撃です。花々しく戦って必ず必ず敵艦をほうむります。
皆様ご安心下さい。私の心はいま日本晴れです。
お母さん、おばあさん、お父さん、おじいさん、皆様  さようなら


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▲第105振武隊(第4降魔隊)出発の申告をする隊長 林義則少尉(中央抜刀)
「亡き人の今はの際の足跡を 遺し給ひし知覧恋しく」
と知覧の慰霊祭でこの詩を詠まれた小栗楓子(ふうこ)さん(95歳)は第105振武隊隊長として4/22沖縄沖で戦死した
林義則少尉(当時24歳)の婚約者でした。小栗さんは戦後、林義則少尉を慰霊されてきました。
そして少尉が眠る沖縄の海に思いを馳せてこうおっしゃっています。
「私が死んだら、お骨は沖縄の海に沈めてほしい。あの人を捜して巡礼の旅に出るつもり。あの人に会えるかしら」
と涙をあふれさせ、言葉をつながれた。
「私はあの人のおかげで生かさせてもらった。でも今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない。あの人たちは何の
為に死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを、今の日本人は忘れてしまったのかしら」 と・・・・。

※徳之島には米軍機と交戦し撃墜された藤野道人軍曹の辞世の句碑が建立されている。
藤野道人軍曹は満洲公主嶺で特攻第105振武隊員となる。4/22徳之島トンバラ岩の海中に没した(享年21歳)
1979年、同期の第11期少飛会によって、現地に「黒潮の塔」慰霊碑が建立され、藤野軍曹が公主嶺で詠んだ辞世の
句が、翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
散華した藤野道人軍曹を陸揚げした時、曹長の腕と足はしっかり機に結んであったと、潜水夫は証言している。
陸海軍共、多くの特攻隊員は飛行機に自身をくくりつけ、失敗した時も捕虜にならない様、必ず死ぬ事を強要されて
いた。藤野軍曹は地元住民に丁重に葬られ、こうして戦死が確認された為、特攻戦死(2階級特進)ではなく、通常の
戦死として扱われている。同様の状況で戦死した特攻隊員は多数いるにもかかわらず、たまたま状況が明らかになっ
たが為にである。あまりにも機械的・事務的な対応といわざるを得ない。

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「沖縄戦」で米軍が撮影した特攻隊員の遺体。コンクリートブロックを腰に縛りつけている。
※写真の特攻隊員は藤野道人軍曹ではありません(陸海軍どちらのパイロットかは不明)
藤野軍曹の妹さんの藤野幸子さん(享年80歳)は、戦後兄の名誉を認めて欲しいと、援護局に乗り込んで行って訴えた。
それでも結局は特攻戦死者として認められる事はなかったという。あまりにも冷徹な日本国の判断である・・・。


[ 第106振武隊 ]昭和20年4月16日~6月4日知覧より97式戦闘機で出撃
清原勉大尉(京都府出身)/安田義男大尉(神奈川県出身)/石田耕治大尉(福岡県出身)
丹下寿雄少尉(愛知県出身)/河東繁少尉(朝鮮出身)/鈴木勇少尉(福島県出身)
二宮淳一少尉(大分県出身)/松原徳雄少尉(和歌山県出身)/宮之脇勇少尉(鹿児島県出身)
袴田治夫少尉(静岡県出身)/榎本孝一少尉(大阪府出身)/藤原勇少尉(静岡県出身)
尾鷲二郎少尉(福岡県出身)
成田磯次伍長/本夛保男伍長 6/3知覧より
6/3 17:00第106振武隊の成田磯次伍長と本夛保男伍長が喜界島に不時着。
成田機は前進途中に不時着して機体を大破し、他の隊の特攻機に便乗して福岡に帰還、その後各地を回って5/16によ
うやく替わりの機を貰った。だが6/3知覧を出撃後飛行して2時間、滑油漏れの為前が見えなくなり喜界島に不時着。
同時に本夛機も着陸したが、本夛伍長は胴体着陸して機を壊してしまった。米軍機の空襲合間の胴体着陸で無事だった
のは奇跡である。

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▲出撃前日、知覧飛行場三角兵舎付近の松林を背景に記念撮影する第106振武隊白虎隊(第5降魔隊)
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▲第106振武隊 袴田治夫伍長。5/4第6次航空総攻撃で沖縄西方の敵艦船に突入、戦死

[ 第107振武隊 ]昭和20年4月13日~4月16日出撃
大内清少佐(茨城県出身)/粟津重信大尉(京都府出身)/井口清大尉(大分県出身)
北村早苗大尉(長野県出身)/若林富作大尉(富山県出身)/山本恵照大尉(三重県出身)
玉澤和俊少尉(山口県出身)/渡辺市郎少尉(福島県出身)/間中進一郎少尉(茨城県出身)
新井行雄少尉(神奈川県出身)/細金政吉少尉(東京都出身)/平山巌少尉(千葉県出身)
橋本孝雄少尉(群馬県出身)/降矢誠二少尉(福島県出身)

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▲第107振武隊(第六降魔隊)97式戦闘機で4/13、16出撃、沖縄西方洋上敵艦に突入戦死。
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▲何の場面か不明だが第107振武隊員が別盃を酌み交わしている。知覧の子供達も写っている。
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▲陸軍97式戦闘機

[ 第108振武隊 ]昭和20年4月16日~4月28日出撃
真鍋照雄少尉/古賀俊行少尉/長吉恒夫軍曹/白倉聞治軍曹/渡邊次雄軍曹/川又保雄軍曹
中村正軍曹/尾白文四郎伍長/八下田孝二伍長/土屋嘉光伍長/沼田忠伍長/井花敏夫伍長
小川斉少尉/衛藤周蔵伍長(第52航空師団司令部へ転属(5/5附)/加納岩男伍長(第52航空師団司令部へ転属(5/5附)

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▲井花敏夫伍長 17歳と1ヶ月での出撃であった・・・。

[ 第109振武隊 ](第8降魔隊)昭和20年4月22日~4月28日出撃
菊池繁三郎少尉(北海道出身)/大石安一少尉(京都府出身)/助田五助少尉(福井県出身)
平塚光雄伍長(東京都出身)/武田次郎軍曹(静岡県出身)/桐山勇少尉(東京都出身)
小林米太郎少尉(神奈川県出身)

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▲菊池繁三郎少尉(左)と武田次郎軍曹。菊池少尉は昭和20年4月22日、武田軍曹は27日突入戦死。
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▲平塚光雄伍長。4月22日旧式の97式戦闘機で出撃。第4次航空総攻撃で突入戦死。

[ 第110振武隊 ](血風隊)昭和20年5月26日出撃
田中隼人少尉(福岡県出身)/大友昭平少尉(宮城県出身)/清澤 廣少尉(長野県出身)
中牟田正雄少尉(佐賀県出身)/小浦和夫少尉(東京都出身)/西村敬次郎少尉(大阪府出身)
太田巌軍曹(静岡県出身)/窪川敏郎少尉(出撃時に飛行機トラブルで重傷を負う)
水崎正直少尉/山本利光伍長/村上久徳伍長(出撃時に飛行機トラブルで離陸中止・軽傷を負う)
太田 厳軍曹(静岡県出身・5/28出撃するも離陸直後に墜落死亡)
越村 宰伍長(奄美大島に不時着・重傷を負う)
※越村伍長は途中で菱機からはぐれ、羅針盤が故障して方向が解らなくなってしまう・・・。
喜界島が見えた時、飛行場に人影が無かったので燃料補給が出来ないと判断。更に飛行を続けた。
燃料が尽き、奄美大島に不時着しようと試みたが山に入ってしまい左翼を大木にぶつけてそのまま意識を失う。
住民が重度の火傷を負った越村伍長を救助し、住宅で医師の治療を受けさせた結果、意識が回復。
その後、海軍の飛行艇で九州に帰還、佐世保海軍病院に入院して助かる。

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▲昭和20年4月1日北京の西効飛行場で撮影された写真。「血風隊」は4月に第五航空軍で編成され、5月12日に朝鮮
を経て5月25日前進基地の知覧に進出した。翌26日、6機が沖縄西方海域の敵艦船群に突入、散華した。

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▲[ 第110振武隊 ](血風隊)飛燕のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」


[ 第111振武隊 ](若桜隊)昭和20年6月3日16:30頃97式戦闘機で出撃
※6/3第6航空軍は第10次航空総攻撃を発動
鈴木泰治少尉(静岡県出身)/掛井義則少尉(広島県出身)/木村賢次伍長(千葉県出身)
近藤 豊伍長(愛知県出身)/中山完弘(行)伍長(広島県出身)/松浦幸義伍長(宮崎県出身)
渡里修一伍長(徳島県出身)/若松藤夫伍長(鹿児島県霧島市出身)/牛濱 昭伍長(奄美大島不時着)
松林昭一伍長(奄美大島不時着)
島田昌往伍長(オイル漏れの為、徳之島面縄(おもなわ)集落の海岸に不時着。負傷した島田伍長は民家で1か月程
世話になっていたが、住民に頼んで漁船を出してもらい奄美大島に向った。その後古仁屋から出る水上機に便乗して
7/20頃内地に帰還。佐世保海軍病院に入院、退院後、大刀洗から菊池に前進中、熊本縣鹿本郡内田村に不時着、
額部に軽傷を負うも飛行機が大破。待機中に終戦を迎える。
牛濱伍長、松林伍長が奄美大島に不時着、7/5牛濱、松林両伍長は古仁屋から海軍の水上偵察機で九州へ帰還。

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▲第111振武隊員勇士
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▲知覧で航空図を広げ、沖縄までの進撃コースを確認する第111振武隊員。
左から松浦伍長、島田伍長、近藤伍長、中山伍長、若松伍長、牛濱伍長、鈴木少尉、渡里伍長、(右上)松林伍長
第111振武隊は6/3第10次航空総攻撃の一隊として薄暮攻撃の為16:30、97式戦闘機で知覧を出撃。
沖縄西方海上の敵艦船に突入、散華した。


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▲5/13中国の天津・張貴荘飛行場で壮行出陣式を行う若桜隊、必殺隊、天剣隊(第111~113振武隊)各隊員
昭和20年3月18日各隊員は櫻井晴一少佐率いる第18教育飛行隊(南京)に転属、天津飛行場において97式戦闘機を受領。
錬成を開始する。5月3日第111~113振武隊は第6航空軍に編入され、13日地上勤務者、在留邦人による壮行出陣式の
後、錦州、奉天、29日菊池を経由し知覧陸軍飛行場に前進する。※27日和田少尉が鹿児島市沖に不時着殉職している。


[ 第112振武隊 ](必殺隊)昭和20年6月3日~6月10日97式戦闘機で出撃
西崎重男少尉(東京都出身)/高村統一郎少尉(山口県出身)/福田勝治少尉(山形県出身)
新井義男伍長(群馬県出身)/北野恒雄伍長(大阪府出身)/高塚茂久伍長(大分県出身)
中野繁利伍長(佐賀県出身)/松村富治伍長(佐賀県出身)/福田治郎伍長(神奈川県出身)
杉山龍治伍長6/10(愛知県出身)/真高郁夫伍長6/10(鹿児島県出身)/檜山晴雄伍長(6/3与論島不時着)
檜山晴雄伍長は、沖縄に向かう途中、97式戦闘機の燃料パイプに穴が空いて床から燃料が霧状に吹きだした為、与論島
東の浜辺に不時着した。島の日本軍守備隊員が駆けつけ、伍長を島の西側へ待避させた。
その時、2機のグラマンに銃撃されて、97式戦闘機は火を噴いて海中に沈んだ。
その後檜山伍長は沖永良部島に移動、そこで誠第41飛行隊長の寺山大尉の一行に出会い、行動を共にする。
一行は沖永良部島から徳之島を経て、加計呂間島に渡り、7/10に 福岡(振武寮と思われる)ヘ移動している。

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▲恩賜の煙草を吸う第112振武隊員。6/3.10日、97式戦闘機で出撃。突入、戦死。
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▲6/10第112振武隊の特攻機の突入を受け大きく傾く米駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(USS William D. Porter)
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米軍の記録によると特攻機が舷側近くに撃墜されたが、命中はしなかったものの250㌔爆弾が水中を進んで艦底で爆発。
3時間後、写真のように右舷に傾いて沈んでいった。直接特攻機が命中しなかった事で乗組員の戦死者はいなかった。


[ 第113振武隊 ](隼天剣隊)昭和20年6月6日知覧より二式高等練習機(12機)で出撃
高野正治少尉(福岡県出身)/生駒寛彦少尉(滋賀県大津市出身)/泉田裕伍長(北海道出身)
菊池秀雄伍長(岩手県出身)/北澤丈夫伍長(長野県出身)/韓鼎實(清原鼎實)伍長(朝鮮出身)
坂口良介伍長(福岡県出身)/中島璋夫伍長(山梨県出身)/羽立光行伍長(大分県出身)
村串六郎伍長(静岡県出身)/椿恵之伍長/板東 晃少尉(徳之島に不時着)
出撃後、奄美大島を過ぎる頃、3~40機のグラマンに攻撃を受けた。特攻機は重い爆弾を抱えたまま回避を試みるが、
菊池秀雄伍長機、中島璋夫伍長機が相次いで撃墜された。
それを見た椿恵之伍長は爆弾を落とすと米軍機と空戦に入った。1機に機銃弾を浴びせたものの、その直後に被弾して
機は海面めがけて落下した。ところが奇跡的に機は立ち直り、そのまま海上に不時着した。
機から脱出した椿伍長は喜界島の海岸に漂着し、住民に助けられた。その後1週間、喜界島守備隊の世話になり、内地
に連絡に行く大発に便乗して、6/15鹿児島の枕崎港に到着した。後、徳之島に不時着した板東少尉以外は、全機沖縄
に突入し未帰還となっている。

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▲第十次航空総攻撃の出撃直前、最後の記念撮影におさまる第113振武隊天剣隊隊員6/6、97式と二式高練
 で知覧を出撃、沖縄西方海上の敵艦船に突入、散華した。著しく性能に劣る練習機での出撃であった。

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▲6月6日沖縄の敵艦船をめざして飛行中の第113振武隊の二式高練。搭乗員は中島璋夫伍長。
 本隊は別名を天剣隊と称し、垂直尾翼に描かれているのは交差した剣に日の丸を配した部隊
 マークである。3月に第五航空軍で編成され、突入機数は写真の中島機含め10機であった。
※二式高等練習機とは97式戦闘機を低馬力のエンジンに換装した練習機だ。本土決戦に備え「隼」
「飛燕」「疾風」といった主力戦闘機航空機を温存する為とはいえ、97式戦闘機でも十分旧式な上、
更に低馬力のエンジンを搭載した練習機で特攻出撃しなければならなかった隊員を想うと心が痛む。

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▲戦後、「天剣隊隊」の二式高等練習機はRS modelsからプラモデルが販売された事があった。
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▲陸軍二式高等練習機(97式戦闘機をベースにした練習機。満州飛行機にて3710機生産)
※現存機はインドネシアのサトリア・マンダラ博物館に戦後のインドネシア独立戦争で使用された機体が展示されている
99式高等練習機YouTube


[ 第141振武隊 ]昭和20年6月8日出撃
長井良夫少尉(宮城県出身)/平原太郎少尉(東京都出身)


[ 第144振武隊 ]昭和20年6月8日出撃
中島秀彦少尉(大分県出身)/岡田義人少尉(岡山県出身)/薄井義夫少尉6/19出撃(神奈川県出身)
奥澤一少尉(生還?)/松浦喜一少尉(生還?)/加藤英輔少尉(生還?)


[ 第149振武隊 ]出撃記録等不明
菊池 洋 他

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▲芦屋飛行場で撮影された第149振武隊の「飛燕」

▼陸軍知覧飛行場から出撃した陸軍第159振武隊の6名の写真(芦屋飛行場にて撮影)後列左から松原 新少尉22歳、
 高島俊三少尉21歳、賴田克己少尉24歳、前列左から磯部十四男伍長20歳、伊川要三軍曹22歳、西野岩根伍長19歳

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第159/160振武隊は、昭和20年4月26日244戦隊小林戦隊長命で下達された「飛二四四作命第六三八号」
により編成された特別攻撃隊である。両隊共、隊長は小林大尉の明野時代の教え子である陸士57期生
(航空転科) が任ぜられ、使用機は陸軍244戦隊の3式戦闘機「飛燕」各6機だった。

▼第159振武隊長「高島俊三少尉」搭乗機[ 飛燕 ]4424号機の写真(昭和20年5月初旬撮影)
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両隊は約1ヶ月の錬成訓練の後、159振武隊は昭和20年5月28日朝、調布を出発。明野、伊丹、芦屋を経由
して6月1日知覧基地に着いた。160振武隊も同行の予定だったが、最後の外泊休暇中であった松谷伍長が
夜間大空襲によって不慮の死を遂げるという、思いもかけない悲劇に見舞われ、160隊の同僚たちは彼の捜
索と遺体回収に奔走せねばならなかった為に叶わず、3日遅れて6月4日知覧に到着した。
6月5日午後出撃の予定であったが、天候悪化のため延期となり、翌6月6日13時半両隊は母隊である244
戦隊の直掩を受けて知覧を出撃。16時頃慶良間付近のアメリカ軍艦船群に突入した。
(無線傍受によって突入確認されたと言われている)
出撃前、佐々木鐵雄、賴田克己両少尉は、同期の親友古波津里英少尉を飛燕の翼上に呼び寄せ、堅く手を握
り、微笑みながら「後をよろしく…」と言い残し た。親友たちの翼に最期まで護られながら飛ぶことができ
た彼らは、数ある特別攻撃隊の中で幸運な連中であったかもしれない。
それに先立ち、佐々木少尉は244戦隊の準備線を不意に訪れ、居合わせた整備兵のポケットに「俺はもうい
らないから…」と、航空糧食(主に菓子類)を無理やり詰め込んで去っていった。
長らく調布飛行場で世話になった整備兵たちへの感謝の印であったのであろう。


[ 第159振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
高島俊三少尉(岡山県倉敷市出身)/賴田克己少尉(大阪市出身)/松原新少尉(神奈川県三浦市出身)
伊川要三軍曹(兵庫県安積町出身)/西野岩根伍長(徳島県那賀川町出身)/磯部十四男伍長(静岡県浜松市出身)
磯部伍長のみ6月11日戦死


[ 第160振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
豊嶋光顯少尉(鳥取県赤崎町出身)/佐々木鐵雄少尉(長崎県勝本町出身)/新井利郎少尉(群馬県出身)
松谷巌伍長(東京都出身)昭和20年5月25日の空襲により八王子付近で不慮死(防空壕にて窒息死)
荒木秀夫伍長(茨城県岩瀬町出身)昭和20年6月4日知覧到着直前、万世飛行場沖に不時着、生死不明
中川忠男伍長(東京都出身)昭和20年6月11日知覧から出撃するも宝島に不時着。帰還?

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▲愛機「飛燕」と写る佐々木鐵雄少尉6/6沖縄周辺洋上で米機動部隊艦船に突入戦死。享年20歳
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▲知覧特攻平和会館に展示してあった日本国内で唯一現存する陸軍三式戦闘機「飛燕」
 ※現在は所有者の日本航空協会に返却され、各務ヶ原航空宇宙科学博物館に展示予定。

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▼▲飛燕が返却された後は屋外展示同様、映画「俺は君のためにこそ死ににいく」で使用された隼が展示されている。
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これもレプリカだが、実物大は迫力がある。模型や写真とは違い、何より説得力が違う。
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[ 第165振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
中川勝大尉(東京都出身)/杉本明大尉(京都府出身)/和田照次大尉(長野県出身)
渡辺静少尉(長野県出身)/枝幹二少尉(富山県出身)
園部昌光少尉(発動機不調のため負傷し終戦。戦後空将補)

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▲6/6特攻出撃前に三式戦闘機の水平尾翼に地図を広げて打ち合わせを行う第165振武隊員。
垂直尾翼には「必沈」と書かれている。

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▲第165振武隊員の6名。
後列右、プロ野球朝日軍の投手だった渡辺静少尉。出撃にあたり「野球生活八年間わが心鍛えくれし野球かな」の言葉
を残した。背番号は20であったが公式戦は2試合に出場しただけで軍隊へ召集された。
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▲出撃を前に慰問品の人形を抱く渡辺静少尉。(昭和20年6月知覧飛行場にて)
昭和20年6月6日、爆装三式戦闘機「飛燕」に搭乗し知覧基地を13時31分出撃。
出撃直前、整備士に「座席は私の死に場所だから、手入れをたのむ」と声をかけたという。
16時00分頃沖縄洋上にて連合軍艦船群に突入戦死。「修養録」と題された日誌には辞世の句として、「いざ征かん
雨も風をも 乗越えて 吾れ沖縄の球と砕けん」と残している。(享年22歳)
※プロ野球選手の特攻隊員は陸海軍合わせて2名。渡辺少尉と石丸 進一 海軍少尉(第5筑波隊)である。両名戦死。

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▲枝幹二少尉 沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
枝幹二少尉[ 遺書 ]
昭和二〇年六月三日夜
作戦命令下る。知覧飛行場を明朝出発。あわただしい中に最後と思ってペンを取る。書くことが一杯ある様で何を
書いていいのやら、園部隊長不時着して同行出来ず。
身不肖なるも隊長代理を命ぜられ重任双肩にかかる。願わくは大業見事完成出来得んことを。
ここあし屋の町は海を渡る祭礼の港町と同一なり。ふくよかになつかしき思いあり。思いはめぐる三千里。
あれこれと昔のことが偲ばれる。女々しきにあらず楽しき過去の追憶なり。
半田の事、名古屋の事、東京の事、富山の事。父上様 母上様 色々有難うございました。
別に言うことはありません。最後の時まで決して御恩は忘れません。月なみな事しか出来ません。
姉妹の皆さん、いよ々本当にお別れ。今でも例のごとくギャーギャー皆とさわいでいます。
哲学的な死生感も今の小生には書物の内容でしかありません。
国のために死ぬよろこびを痛切に感じています。在世中お世話になった方々を一人一人思い出します。
時間がありません。ただ心から有難うございました。笑ってこれから床に入ります。オヤスミ
あんまり緑が美しい、今日これから死にに行く事すら忘れてしまいそうだ。
真青な空。ぽかんと浮かぶ白い雲。六月の知覧はもうセミの声がして夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に小鳥の声がたのしそう「俺もこんどは小鳥になるよ」
日のあたる草の上にねころんで杉本がこんなことを云っている。笑わせるな。本日一三時三五分
いよいよ知ランを離陸する。なつかしの祖国よさらば。使いなれた万年筆を“かたみ”に送ります。

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▲[ 第165振武隊 ]飛燕のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」

[ 第179振武隊 ](顕正隊)宮崎県都城東飛行場より出撃
金丸亨少尉/江副保郎少尉/西郡榮軍曹(?)/太田外茂行伍長/松尾秀雄伍長/浜田齊伍長


[ 第180振武隊 ](天翔隊)昭和20年7月1日宮崎県都城東飛行場より出撃
木下武彦大尉(大阪府出身)/村木伊三男曹長(秋田県出身)/新田祐夫伍長(島根県出身)
宇佐美輝夫伍長(福島県出身)

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▲第180振武隊天翔隊の宇佐美輝夫伍長(右)と新田祐夫伍長。7/1(06:10)四式戦闘機で出撃。
慶良間泊地の敵艦船に突入、戦死。この特攻をもって、第六航空軍の沖縄特攻作戦は終了した。


※宮崎県都城飛行場から特攻出撃した部隊に「特別振武隊」という名の特攻隊があった。
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▲昭和20年4月12日、都城西飛行場より出撃する「特別振武隊」の陸軍4式戦闘機「疾風」(はやて)
 飛行部隊が都城に配置された当初は、特攻作戦の準備が十分整っておらず、特攻隊員が少なかった為、直掩護隊
 だった第101/102戦隊から11名が志願し、特攻隊員となった。初めから特攻隊として編成された隊では無く都城
 において第101/102戦隊人員や飛行機を用いて急遽編成された隊であった。「特別振武隊」戦死者は下記の通り。
[ 飛行第101戦隊 ]昭和20年4月6日~4月12日都城より出撃
田中二也少少尉/友枝幹太郎少尉/浜谷理一少尉/孖谷毅軍曹/上津一紀伍長/斉藤信雄伍長
[ 飛行第102戦隊 ]昭和20年4月6日~4月12日都城より出撃
金沢武要少尉/林弘少尉/林玄郎少尉/伊藤二郎少尉/石賀兵一伍長

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▲昭和20年4月12日都城西飛行場から出撃直前の「特別振武隊」伊藤二郎少尉(右)と斉藤信雄伍長。

[ 第193/194振武隊 ]出撃基地(成増陸軍飛行場で編成、館林飛行場で終戦を迎える)
堀山 久生 他。

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[ 第197振武隊 ]桃太郎を垂直尾翼に描いた「疾風」装備だったが、出撃記録等不明
昭和20年5月4日明野で編成。
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(隊長)深川 巌/藪田/牧内/坂東/牧野/阿部。元隊長の深川さんは戦後「陸軍大尉/若杉是俊」を編述。
※若杉是俊少尉(特攻戦死後大尉に昇級)は八紘第10隊「殉義隊」隊員。
 昭和19年12月21日12:40頃フィリピン・ミンドロ島沖の敵艦船群に突入戦死。
淡路島の巡査の息子だった若杉少尉は、洲本中学では開校以来の秀才と言われた人物だったそうだ。
広島幼年学校、陸士予科、航空士官学校と進み、全て恩賜卒業。その後、常陸教導飛行師団で編成された八紘第10隊
(殉義隊)隊員に選ばれた。その態度は実に従容たるもので、一点の曇りも無い晴れ晴れとした表情であったと、皆に
語られている人物である。「銀時計の特攻―陸軍大尉若杉是俊の幼年学校魂」 (文春新書)は読んでおきたい。


[ 第213振武隊 ]昭和20年5月28日97式戦闘機で出撃(第11次総攻撃)
小林信昭少尉(発動機不調のため宝島に不時着)
松下貞義伍長(鹿児島県出身)/蘆田愼一伍長(広島県出身)/日向登伍長
小椋忠正伍長(戦闘機不備により出撃できず)/佐藤壮子次伍長(徳之島に不時着→6/19福岡)
※板津忠正伍長(5/26 5:31出撃、エンジン故障で徳之島海岸に不時着。知覧特攻平和会館初代館長)

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 ▲板津忠正伍長は戦後の昭和59年7月要請を受け知覧特攻平和会館事務局長、昭和61年新館建設と同時に
 初代館長に就任。昭和63年に特攻で亡くなった全ての方の資料収集する為に退職。
 約30年にわたり全国の特攻隊員の遺族を訪ね、自らが最後に見た仲間の様子を伝えると共に、遺影や遺書など
 の収集にあたり、平成7年知覧特攻攻撃で亡くなった1037人全員の遺影を集める。2015年4月6日90歳で死去。
 元特攻隊が語る戦争と特攻の真実知覧特攻平和会館初代館長「板津忠正」さんYouTube

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▲第213振武隊(左6名)第214振武隊(右6名)。両隊共97式戦闘機で出撃。

[ 第214振武隊 ]昭和20年6月3日~6月10日知覧より出撃
橋正豊次伍長(石川県出身)/佐々木暹伍長(島根県出身)/谷口積男伍長(鳥取県出身)
深田末義伍長(鳥取県出身)/金井良吉伍長(群馬県出身)/當山幸一少尉(隊長)
※当山幸一少尉(沖縄県出身)は、6/3知覧を出撃後、徳之島付近でエンジン不調、敵機に追われながらも沖永良部島の
喜美留集落の畑に不時着した。当山少尉の体験は、当山幸一『私と戦争』(私家版2006)に詳述されている。
 不時着時に気を失った当山少尉は、農家で目を覚ました。周囲には棒や鎌、はては竹槍で武装した住民がいた。
 住民は日の丸の飛行機はもちろん、搭乗員を見るのも初めてだった。その為、米軍の2世が日本兵になりすましている
 と疑い、少尉を殺すための道具を持って集まっていたのだった。
 農家で介抱を受けた後、体の痛みで動けない当山少尉は雨戸に乗せられ、越山の陸軍部隊に運ばれた。
 集落を通ると、住民は少尉を励まし、中には卵や黒砂糖を雨戸の上に置いていく人もいた。
 その後、少尉は越山の部隊の長屋風の一軒家に案内された。
 翌4日、当山少尉は集落に戻って、兵隊を指揮して飛行機解体と爆弾埋置作業を行った。その後少尉は和泊町の無人の
 家屋で過ごしていた。しばらくすると、暁部隊の舟艇が入港し、沖縄から脱出してきた誠第41飛行隊の寺山欽造大尉
 や、戦訓報告の為に沖縄を脱出した第32軍の神直道参謀等と徳之島へ渡った。
 徳之島では、松林の中の一軒家に、他の不時着した搭乗員達と共に滞在し、第75飛行場中隊の世話になった。
 この頃、徳之島へは連日米軍機が空襲に飛来するので、当山少尉達はその度に避難を余儀なくされた。
 乏しい食料を補う為に、川で小魚等を捕ったり、シラミのついた服を川で裸洗濯したりした。
 ある時は山の中腹の慰安所に行くことが許可され、酒を飲みながら蓄音機で音楽を聴き、歌の合唱で盛り上がった。
 その後6月20日に、先述の安西為夫大尉の指揮の下、山港から奄美大島の古仁屋に移動した。
 その時は徳之島の独立混成第64旅団長の高田貞利少将から、島産の黒砂糖が各人に与えられた。
 古仁屋では将校と下士官は別々の宿舎だった。知り合いの女性が亡くなっていたことが分かり、その女性の母親の疎開
 先の山を訪ねた。また滞在中に当山少尉は7月10日に出撃して奄美大島で捕虜になったフランク・J・コリンズ陸軍少
 佐と、少佐が徳之島に移送されるまで交流を深めた。
 コリンズ少佐は少尉のことを「ミスター・トーリー」と言って、親しく会話を交わしたという。
 7月に入ると、不時着搭乗員は潜水艦や水上機で相次いで本土に帰還した。当山少尉も7月22、23日に飛来した海軍の
 97式飛行艇に乗り込むことが出来、無事に本土に帰還した。
 当山少尉達が福岡の陸軍第6航空軍司令部に出頭すると、生還したことに対して、参謀に冷酷な侮蔑と罵倒の言葉を浴び
 せられた。その後2日間「振武寮」に隔離されたが、福岡陸軍病院に入院を命じられ、病院で敗戦を迎えることになる。

6/3第六航空軍は第10次航空総攻撃を発動10:19當山隊長/谷口/深田/佐々木/橋正各伍長は2知覧出撃、発動機不調
の為、當山隊長は沖永良部島に不時着大破、谷口伍長以下4名は沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
6/10,05:10金井良吉伍長が知覧出撃、沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。


[ 第431振武隊 ]昭和20年5月27日~6月3日二式高等練習機で出撃
紺野孝少尉(茨城県出身)/鮏川林三少尉(茨城県出身)/橋之口勇少尉(鹿児島県出身)
広岡賢載少尉[ 李賢載 ]イ・チョンヒェイ(朝鮮出身)/渡辺鋼三少尉(栃木県那須塩原市出身)
堀川義明大尉(群馬県出身)/金田光永少尉(朝鮮出身)岡澤實少尉(香川県出身)


[ 第303振武隊 ]太刀洗南飛行場
東山修二少尉/遠藤謹一軍曹/伊藤豊伍長/藤井與一伍長/高木泰次郎伍長/土田昭二伍長
本間蔵三伍長/小林雄吉伍長
特攻任務は、建前上は志願制を採っていたが、実際は兵士に有無を言わさぬ、強制的なものであった。
現実には形式上は志願という形をとりながらも、殆ど命令によって有無をいわせず編成した場合が多いのではあるまい
か。また、確かに志願書は提出したが、どうしても反対の意思表示ができないような雰囲気の中に追い込んでから書か
せたとか、あるいは志願しない者があると、個別に呼んで説諭し、無理矢理志願させた例もあったと聞いている。
その結果は100%志願として報告され、その隊の成績は高く評価される。これが逆に志願者が100%を欠くと、その隊
の指揮が低下していると評価され、時には隊長の責任まで問われる。だからどの隊でも無理してでも志願率100%に
しようとし、ずいぶんと阿漕な手段を講じた隊もあったという。
沖縄方面航空作戦では、99式高等練習機や二式高等練習機、あるいはそれらと同程度の性能の97式戦闘機、97式系爆
撃機、98式直協偵察機、99式襲撃機などの旧式機が、続々と機体の塵を払って出撃していった。
ある特攻隊員は「こんな脚の引っ込まないヤツに乗っていったら、アメ公さぞ笑うだろうなあ」
と、淋しげに自嘲しながら出撃していったという。こんな飛行機では、まさに犬死である。敵の対空砲火や戦闘機の射
撃訓練の標的になりにいくようなものである。(元第303振武隊、東山修二氏の証言)


[ 第304振武隊 ]太刀洗南飛行場
大槻浩少尉/雄勝金司軍曹/松田政次伍長/岡田忠公伍長/笹木守兵長/上野主計兵長
濱野政一兵長/吉野登志男兵長

[ 第501振武隊 ]太刀洗南飛行場
昭和20年8月大刀洗南飛行場には第501振武隊8名/303/304振武隊16名。24機の一式双発高等練習機が、特攻出撃
を待っていた。第501/303/304振武隊に特攻命令が下りる、出撃日時は昭和20年8月15日午後6時。

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▲(参考画像)一式双発高等練習機。
高松秀明少尉以下8名の501振武隊、上野伍長が所属する304振武隊を含め、大刀洗にいた特攻隊員達は、正午の玉音
放送によって、特攻出撃直前で終戦を迎えた。

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▲上野主計(うえのかずえ)元陸軍伍長(福岡県出身)大正15年4月21日生(大刀洗平和記念館で講演会もされています)
第501振武隊高松秀明少尉以下8名は張りきっていた。運命の8月15日早朝、整備隊の候補生が、偶然にもハワイか
ら発信されている電波を機上無線で、日本が無条件降伏した事を傍受していた。そして正午、天皇陛下による玉音放
送が流れた直後に、打ち合わせていた手筈通りに、ずらりとランプに係留中の爆装した一式双発高等練習機のタイヤ
の空気を抜いてまわり、暴動を回避するために、近くの雑木林へ姿を消した。
玉音放送が終わると、案じていた事が起こった。「何だ?降伏したのか!そんなバカなことがあるもんか!」
「オレは絶対に信じないぞっ!!」戦隊本部で玉音放送を聴いていた特攻隊員達に衝撃が走った。
本部は大混乱になった。出撃予定の午後6時を過ぎても何の指令もない事に、ついに特攻隊員たちは激昂した。
「隊長が行かないなら、俺1人でも出撃する!」特攻隊員達は宿舎を飛び出した。
しかし特攻機は全機のタイヤの空気が抜かれ、無残な姿を晒していた。
「飛行機が壊されている!」「いったい誰の仕業だっ!」日本刀を引っさげて飛行場大隊へ取って返した。
そこには元木大佐が待っていて、命がけで彼らを説得した。日暮と共に、ようやく特攻隊員達の激しい怒りと哀しみ
が収まろうとしていた。昭和20年5月6日501振武隊が組織されて以来、死と向かい合って明け暮れた104日間の悪
夢から開放された瞬間だった。
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▲陸軍一式双発高等練習機 (平成24年8月十和田湖から引き揚げられた機が青森県立三沢航空科学館に展示されている)
第一線で戦う種類の軍用機ではなく、練習機として又は輸送多用途機として活用された。
軍の要請により昭和14年(1939)から立川飛行機が開発・製造し、計1,342機が作られた。
(東條英機内閣総理大臣(兼陸軍大臣)の国内移動にも使用されたと言われている)


多くの若者の命が失われた日本陸海軍による特攻作戦だが、アメリカは、特攻に関する詳細な情報を総合的に把握
していた。まずは暗号解読で特攻機来襲の日時と場所、更にはレーダー網で約30分前には特攻機来襲を察知する。
肉眼で飛行機を発見するのは15km先が限界だが、レーダーにより160km先での発見が可能になり、グラマンやコ
ルセアなどの艦載機を徳之島や奄美大島周辺に大挙出動させ、特攻機を待っていた。6月半ばともなると、沖縄の飛
行場に配備された米軍機は400機以上である。
沖縄戦における陸軍航空特攻隊の犠牲者数は、知覧特攻平和会館によると1036人。
日本側の「戦史叢書」によると陸軍890機、海軍972機の特攻機が米艦隊に突入したとされているが、アメリカ側の
「第二次大戦米国海軍作戦年誌」によるとその被害は沈没11隻、損傷161隻。しかも沈没した艦船はほとんどが駆逐
艦で、戦艦、空母、巡洋艦などの大型艦船は含まれていない。犠牲者数の多さと戦果の少なさに、呆然とする。


▼富屋食堂(映画[俺は、君のためにこそ死ににいく][ホタル]の舞台)を復元した資料館「ホタル館」が建っている。
 出撃前夜に第51振武隊光山文博少尉(朝鮮出身)が鳥濱トメに託した形見の財布はここで大切に保管されている。

富屋食堂
▼当時の富屋食堂
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▼知覧には多くの「昭和」が残っています。
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戦場の「なでしこ隊」と題してフジテレビで放送されたドラマですが、事実とは少々異なる方向で特攻隊員の事を伝え
ている様な気がしました。「なでしこ隊」は実在し、素晴らしい活躍をされました。
ご存命の方もおられます。戦争を知らない世代が歴史や事実を捏造してはいけません。
特攻隊員の気持ちは英霊の隊員にしか解らないのです。「日本の為・家族の為に戦ってくれた」それ以上でもそれ以下
でもないと思います。「なでしこ隊」には特攻の母「鳥濱トメ」さんの次女、鳥濱礼子さんも加っていました。
真実は語っておられると思いますが、少なくとも日本において、過去の戦争に関して事実を捻じ曲げて世論操作したり、
捏造したりするのはもっての他だと思います。全ての英霊に感謝する事がまず先で、事実をありのままに伝え、それを
知った上での感想は我々日本国民個々それぞれの自由だと思います。
戦争へ行った人・行かされた人。皆さん気持ちは違うはずです。

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▲整備兵や女子挺身隊員と一緒に写る振武隊特攻隊員達(知覧で撮影されたとされる)

陸軍の特攻作戦では本土防衛の為に陸軍のあらゆる戦闘機で特攻と同じ様なB-29への体当たり攻撃が敢行さ
れた。陸軍義烈空挺隊や薫空挺隊は、空挺部隊を乗せた爆撃機が敵飛行場に強行着陸して破壊活動を行い、
敵機が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に航空特攻攻撃を行う。この作戦において陸軍空挺隊
は生還出来ない特別攻撃を敢行している。また、沖縄戦に参加した陸軍特攻隊も振武隊だけでは無い様だ。
全て把握している訳ではないが、宮崎県にあった陸軍新田原飛行場からも沖縄へ向け特攻機が出撃している。
出撃した特攻隊は、昭和20年4月1日に誠第39飛行隊の6名、3日に誠第32飛行隊の6名、6日に誠第36飛行
隊の10名、誠第37飛行隊の9名、誠第38飛行隊の7名の特攻隊員38名が出撃。
また、新田原から他の飛行場を経由して出撃した富嶽隊、第32飛行隊、誠第41飛行隊の特攻隊員は33名。
これらの新田原飛行場から飛び立った特攻隊員71名全員が戦死している。昭和20年4月6日出撃記録の中に
(陸軍第8飛行師団)
陸軍特攻誠第36飛行隊/98式直接協同偵察機10機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)角田乾太郎中尉(神奈川県出身)/片山佳典中尉(香川県出身)/北村正中尉(宮城県出身)
高島弘光中尉(香川県出身)/小川二郎伍長(千葉県出身)/森知澄伍長(和歌山県出身)/峯保昌伍長(長崎県出身)
岡部三郎伍長(香川県出身)/細木章伍長(島根県出身)/貴志泰昌伍長(和歌山県出身)

陸軍特攻誠第37飛行隊/98式直接協同偵察機9機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)柏木誠一中尉(東京都出身)/小林敏男中尉(23歳)茨城県出身/佐々木秀三中尉(岩手県出身)
藤澤鉄之助伍長(岡山県出身)/小屋哲郎伍長(鹿児島県出身)/玉野光一伍長(山口県出身)
赤峰均伍長(大分県出身)/百瀬恒男伍長(長野県出身)/入江寛伍長(山口県出身)

陸軍特攻誠第38飛行隊/98式直接協同偵察機7機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)喜浦義雄少尉(鹿児島県出身)/小野生少尉(大分県出身)/蕎麦田水少尉(栃木県出身)
高橋勝見伍長(岩手県出身)/水畑正国伍長(長野県出身)/石川寛一伍長(千葉県出身)/松井大典伍長(奈良県出身)

がある。上記の3隊は旧式固定足、しかも偵察機である98式直接協同偵察機で出撃している。
沖縄県北部の沖合、沖縄本島北部から橋で渡っていく古宇利島の沖、水深40M付近に、特攻機の突入を受けた
米軍掃海艇駆逐艦エモンズが沈んでいる。5機の特攻機の突入により航行不能となったエモンズは、乗組員276
人中、行方不明者を除いた全ての米兵救助後に秘密漏洩を防ぐ為に4/6米軍自らの手によってに沈められた。

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▼▲米軍掃海艇駆逐艦エモンズ
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2001年地元のダイバーの調査によって公表された。船体はほぼ原形をとどめ、巨大な主砲、スクリュー、ソナー、
機銃や兵士のヘルメットなども当時のま­まの姿で海底に横たわっている。(60名の米兵が戦死、77名負傷)
海底のエモンズ周辺に散らばる残骸の中に車輪・エンジン・プロペラがあった。この部品が98式直接協同偵察機
の物である事が解り、4/6新田原より出撃した98式直接協同偵察機 26機の内の誰かである事が解った。
エモンズに突入した特攻機の調査は今も続いている。お名前が判明する事を切に願う。
以来、毎年6/23沖縄全戦没者追悼の慰霊の日に、嘉手納のダイビングショップのダイバー達が、海中の特攻機の
エンジンに日の丸をかけ、献花を続けていらっしゃるとの事。彼等の調査で特攻機の所属部隊が判明したそうだ。

▼陸軍98式直接協同偵察機
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同日、米輸送艦カスウェルにも特攻機(98式直接協同偵察機)が命中している。
陸軍特攻誠第36飛行隊/岡部三郎伍長(戦死後陸軍少尉に特別昇進)だ。4/6新田原を出撃した岡部三郎伍長の98式
直接協同偵察機はカスウェルに突入。しかし250㌔爆薬は不発。輸送艦カスウェル艦長は海に投げ出された操縦士
(岡部三郎伍長)を艦上に引き揚げ、死亡を確認した後水葬にした。その際、軍医のブラッケン海軍中尉が、操縦士
の額に締められた血染めの鉢巻きをアメリカに持ち帰り、身元不明のまま保管し続けた。
昭和34年、米国に滞在中だった慶応大学の故外山敏夫助教授(後に名誉教授)に、戦後テネシー州ナッシュビル市
パンダビルト大学医学部に勤務していたブラッケン博士が「ぜひ遺族に返して欲しい」と外山教授に鉢巻を託した。
鉢巻きの生地には大きく「京養出身」と書かれ、当時15~16歳の少年達20名以上も名前を連ねていた事から
京都航空機乗員養成所の教官を務めた経験のある岡部伍長が、当時の教え子たちから貰った寄せ書きだと判明。
このことが日本の新聞に報道され、鉢巻に寄せ書きをした通信省筑後航空機乗員養成所本科5期生(京都養成所の
廃止に伴い筑後に移転)の眼に触れ、鉢巻の主が元京都航空機乗員養成所の教官で、誠第36飛行隊岡部三郎伍長
であることが判明し、鉢巻は遺族に返された。その後、鉢巻は岡部の教え子たちの手に渡り、現在は知覧特攻平
和会館に保管展示されている。


新田原飛行場から飛び立った特攻隊員の中に結城尚弼(金尚弼)少尉キム・サンピル(朝鮮出身)がいた。
結城尚弼(金尚弼)少尉の話は有名なので最後にご紹介したいと思う。
結城少尉は朝鮮併合後の大正九年(1920)に現在の北朝鮮内にあたる平安南道にて生まれた。
昭和18年(1943)ソウルの私立延禧専門学校を卒業し、大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校の特別操縦見習士官
一期生に合格。柔道・剣道に優れ、操縦はトップの成績だった。
満州綏中第23教育飛行隊から満州敦化飛行隊に配属されて各地を転戦。昭和20年(1945)2/11満州で編成さ
れた誠第32飛行連隊に志願して特攻隊への配属が決まった。
実兄から逃げるように説得されたものの、結城少尉(金尚弼)は兄にこう言ったという。

「自分は朝鮮を代表しているから逃げたりしたら祖国が笑われる。多くの同胞が一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本の為に死のうとしているのではありません。そこは良く解ってほしい。日本を勝利に導
き、その暁には我々の武功を認めさせて独立に持っていくのです。日本が強くなればなるほど地下の独立運動は無力
になりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る方が確かだと思います。」
「日本人が憎くない、と言うと嘘になりますが、 僕は少年飛行出身の部下を連れて行きますし、佐藤曹長には機体の整
備を親身にしてもらいました。戦友や部下達とは一心同体であり、そこに民族の壁はありません。
民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許してくれる筈です。」

こう言い残し昭和20年4月3日宮崎県の新田原基地より沖縄へ向けて出撃、突入24歳の命を散らした。

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▲金尚弼(結城尚弼)少尉 昭和20年4月3日誠第32飛行隊第5編隊長として新田原基地より99式襲撃機で出撃。
 沖縄西方洋上で突入戦死。享年24歳 
昭和20年4月3日金尚弼少尉と共に99式襲撃機で特攻出撃した6名
結城尚弼(金尚弼)少尉/小林勇少尉/時枝宏軍曹/古屋五朗伍長/佐藤正伍/佐藤英実伍長


他、新田原基地から(経由して)特攻出撃した隊は以下の通り。
昭和19年11月7~13日富嶽隊(四式重爆撃機でフィリピンマニラ東方洋上へ出撃。26名中18名戦死)

昭和20年3月28日誠第39飛行隊(隼8機)出撃、奄美大島上空で悪天候の為喜界島に不時着。翌日徳之島に進出。
[隊長]笹川  勉大尉(徳島県出身)/高橋 晋二少尉(京都府出身)/瓜田 忠治軍曹(静岡県出身)
井上柳三少尉
以上4機4名、昭和20年3月31日徳之島陸軍浅間飛行場より出撃、特攻戦死。
※3機が突入1機(井上少尉)は徳之島に戻ったところをグラマンに撃墜される。(井上少尉は特攻戦死と認定されず?)
宮元 卓少尉(東京都出身)/吉本 勝吉少尉(熊本県出身)/面田 定雄少尉(岡山県出身)
内村 重二軍曹(鹿児島県出身)/税田 存?軍曹(福岡県出身)/松岡 己義伍長(福岡県出身)
※?は多へんに”おおざと”の漢字だが変換出来ず。
以上6機6名、昭和20年4月1日徳之島陸軍浅間飛行場より出撃、特攻戦死。
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▲内村軍曹最後の言葉。
「荷物はここに頼んであります」とある。何処で書かれたか不明だが徳之島の旅館「多賀屋」のことかもしれない)

昭和20年4月6日17:25 98式直接協同偵察機で出撃。
誠第36飛行隊(10機)全員戦死/誠第37飛行隊(9機出撃8名戦死)春島邦武少尉(4/6 喜界島不時着)
誠第38飛行隊(8機出撃7名戦死)
昭和20年? 誠第32飛行隊(9名戦死)誠第32飛行隊(13名中6名戦死)
以上、新田原飛行場から特攻出撃での戦死者は71名

戦争末期、激しい爆撃を受けた新田原飛行場は機能が停止。残存部隊の挺進飛行隊は朝鮮(現北朝鮮)へ移動。
ソ連軍の進攻に遭遇し、終戦後多数の隊員がシベリアに抑留された。

▼新田原飛行場跡(現・航空自衛隊新田原基地)には現在も状態の良い掩体壕が4つ残っています。

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※昭和13年(1938)朝鮮人志願兵を募集。定員400人に対して2946人が応募。以後のデータは下記の通り。
 昭和14年(1939) 12348名志願→ 613名合格
 昭和15年(1940) 84403名志願→3060名合格 
 昭和16年(1941)144743名志願→3208名合格
 昭和17年(1942)254273名志願→4077名合格
 昭和18年(1943)303394名志願→6300名合格

 合格して日本軍と共に戦った朝鮮人兵士は特攻隊員だけでは無い。軍属・陸戦他さまざまな戦地で台湾兵同様、
 勇敢に戦ってくれている。日米激戦で有名な「硫黄島の戦い」でも朝鮮人軍属はまともな武器もない中、勇敢
 に戦った事が記録されている。爆雷を抱いて敵戦車に突入した者も1人や2人ではなかったと言う。

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▲第八航空総攻撃のため知覧に集合した特別攻撃隊隊員。この攻撃で陸海軍は航空兵力の全力を集中。
義烈空挺隊12機、陸軍特攻機100機、海軍特攻機80機、陸軍重爆22機、海軍爆戦24機、雷撃機30機、
中攻4機、神雷部隊10機の計282機を投入。

【我那覇真子「おおきなわ」#45】知覧特攻平和会館~後に続く日本人を信じてYouTube
「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員 我那覇真子さんの番組です。皆さん応援しましょう


※当時知覧基地で高射砲団の中隊長をしていたのが南海ホークスの黄金時代を築いた名監督「鶴岡 一人」さんだった。
 鶴岡氏は知覧基地で毎日特攻機が出るのを見ていたそうだ。知覧に空襲に来るグラマンを高射砲で撃ったが、なかな
 か当たらなかったと語っておられる。現在、知覧基地高射砲陣地跡には「益田隊戦没者慰霊碑」が設置されている。

当時同盟国ドイツでも特攻隊が存在した。日本同様追い詰められたドイツも多くのベテランパイロットを失い、特別攻
撃に参加したのは若いパイロットだった様だ。日本との大きな違いは生還を前提にした特攻攻撃だったという事だ。
エルベ特別攻撃隊①


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
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 2012_11_20




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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