本土決戦

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本土決戦とは、太平洋戦争(大東亜戦争)において想定された日本本土への連合軍陸上戦闘に対する日本側の呼称。
アメリカ軍とイギリス軍を中心とした連合国軍は、昭和20年(1945)秋以降に「ダウンフォール作戦」の実施を予定し、
対する日本軍は全てを決するという意味で「決号作戦」と称する防衛作戦を計画、最後の日本本土決戦を準備していた。
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▲▼千葉県の南端南房総安房地域に設置された砲台や平砂浦本土決戦陣地。
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当初、大本営は本土での地上戦を想定していなかったが、絶対国防圏(サイパン島などのマリアナ諸島)が破綻し、本土
防衛戦を一から考慮せざるを得ない状況となった。 国体護持が最優先課題であった為、昭和19年(1944)1月頃から大
本営の転進計画(松代大本営)が秘密裏に進められた。 昭和19年(1944)7/20参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』を示
し、連合国軍の上陸に備え、九十九里、鹿島灘、八戸に陣地構築を命じた。
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▲千葉県・九十九里浜で実施された第52軍による国民義勇隊訓練の様子(昭和20年撮影)
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▲九十九里、横須賀、三芳村に構築された人間爆弾「桜花」43乙型用発射基地跡(画像は千葉県南房総市旧三芳村)
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▲ロケット特攻機「桜花」(写真は米軍に接収された桜花43乙型複座練習機)

※滋賀県大津市の比叡山(標高848m)の山頂近くには、連合軍の大阪湾侵攻を阻止する為に
「桜花」43乙型用カタパルトが建設され、同基地は皮肉にも8/15完成した。
▼陸に上がった海軍は比叡山鉄道の坂本ケーブルを接収、客室天井と側壁を撤去。客車を
 貨車に改造し、カタパルト建設の為の資材運搬と桜花機体の輸送に使用した。
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▼終戦後米軍に破壊された第725海軍航空隊(7/1滋賀基地開隊)「桜花」43乙型発射基地(桜花回転台)
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▼「桜花」発射レール最終部分、奥に広がるのは琵琶湖である。
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▼進駐軍が来る前に自ら爆破したという説もあるがどうも違う様だ。
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また、関東防衛の為の大本営直属部隊として第36軍が編成された。 7/24大本営は『陸海軍爾後ノ作戦大綱』を定し、
フィリピン、千島列島、本土、台湾の4方面で、連合国軍の侵攻を想定した迎撃作戦の準備を命じた(捷号作戦)。
その約1カ月後にフィリピンに米軍が侵攻。レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅する大敗。
日本は海上作戦能力を事実上喪失し、大本営は本格的に本土防衛計画に迫られることになった。

連合国軍の日本本土上陸侵攻を遅延させ、その間に本土の作戦準備態勢を確立する為の『帝國陸海軍作戦計画大網』
を昭和20年(1945)1/20に定め、日本本土陸上防衛戦への準備が進められていく事になる。
この作戦計画は、「前縁地帯」つまり千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域を「外郭」
とし、連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、長駆侵攻してくる敵を日本本土深く
まで誘い込んだ上で撃退するという海軍の漸減迎撃戦略が採用された。
4/8大本営は、連合軍上陸の際には各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたる事と、『決号作戦準備要綱』を示達。
一連の本土防衛計画を正式な作戦名「決号作戦」とし、以降の大本営の構想は、部隊の後退、持久を認めない旨を各
部隊に通達。一億玉砕の思想にとらわれていく事になる。
海軍軍令部第1部企画班が昭和20年6月12日付で示した「決戦作戦に於ける海軍作戦計画大綱(案)」では下記の通り。
「初動約10日間で約半数を海上で撃沈破し、残敵は地上で掃滅する。すべての戦闘は特攻を基調として遂行する」
最初に本土決戦用に温存されていた虎の子の「特攻機」が出撃。続いて特攻艇「震洋」/人間魚雷「回天」/特殊潜航艇
「蛟龍」/小型潜水艦「海竜」からなる特攻戦隊が岩陰などに構築された基地から殺到。「伏竜隊」が海中から攻撃。
であった・・・。

▼精神力で戦う事を強要した陸軍の本土決戦政策「国防婦人会の竹槍部隊」
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『昭和天皇独白録』によれば、昭和20年6月12日には「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事
であったが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。
敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。」
また、「終戦後元侍従長の坪島から聞いた事だが一番防備の出来ている筈の鹿児島半島の部隊でさえ、対戦車砲がない
有様で、兵は毎日塹壕堀に使役され、満足な訓練は出来て居らぬ有様だった相だ。」とある
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▲本土決戦に備えて竹槍による戦闘訓練を行う鹿児島志布志町「婦人部隊」
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▲鹿児島県の志布志町には本土決戦用に構築された海蔵要塞跡が今も現存している(画像は志布志湾を睨むトーチカ)
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▲同じく鹿児島県大崎町持留(四季の森)に現存する志布志湾を睨むトーチカ
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▲▼この写真に写っている方がご存命なら当時の気持ちをどう語るであろうか・・・。
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昭和20年(1945)7月26日に連合国の共同声明としてポツダム宣言が出される。
ソ連に仲介を望むという甘い最高戦争指導会議の結果はソ連からの仲介回答が出るまで静観するとされたが、軍部の側
から政府に国民の士気に関わるという理由で非難声明を出す要求があり、鈴木貫太郎首相は記者会見で「重大な価値あ
るものとは認めない、ただ黙殺するのみである」と述べた。
結果、広島/長崎の原爆投下とソ連の参戦によって最高戦争指導会議の御前会議において昭和天皇のいわゆる「聖断」に
よりポツダム宣言の受諾による停戦を決意、8月14日に宣言の正式受諾を連合国に通告する。
翌15日天皇陛下玉音放送、9/2宣言の正式な調印がなされ、「本土決戦」は想定や計画だけに終わる結果となった。
▼画像は終戦6年後(1951,8/3)原爆ドーム近くに土産物屋が立ち、終戦わずか6年で日本人女性達の顔つきも変わる。
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「本土決戦」は、絶対国防圏が破られた後に旧軍部が提案した泥縄的戦略で、その計画が未完に終わった為、戦後日本
の防衛戦略に与えた影響は多くはない。しかし、その戦略を計画として推考、実行する為には準備期間が必要であり、
本土決戦の「時間かせぎ」の為の捨て駒となった沖縄、小笠原諸島、南樺太、千島列島では多数の人的損害が発生した。
なかでも、自国民と領土を戦略的に犠牲にするという国民国家として「ありうる選択肢」を日本政府が対米戦争におい
ては沖縄にのみ負わせる結果に終わった事(沖縄戦)は、戦後、基地問題に代表される沖縄の本土への不信感を抱かせ
るに至った。大本営は本土決戦が行われた犠牲者数の試算を200万~300万としてた様だが、本土決戦に関し軍幹部は
「官民合わせて2000万人の犠牲をもって戦えば連合軍もあきらめるだろう」との証言も残っている。
国を滅ぼして誰が残るつもりだったのか・・・?特攻と竹槍と大和魂で本当に勝てると思っていたのか?
終戦(敗戦)によりこの惨禍を逃れたのは「幸運であった」が、同時にこの代償として、戦後の日本人が何を失ったのか
(愛国心や大和魂?)を正確に知る必要がある。


※桜花43型乙
従来の桜花11型では航続距離が短く、目標地点まで到達するには母機の一式陸攻に頼るしか術が無く、敵機動部隊の輪
型陣の中心にいる空母を狙う事は難しかった。その為、母機を必要とせず自力飛行が可能な「22型」、更に航続距離
と速度増加を図った「桜花33型」、潜水艦のカタパルト射出式の「桜花43型甲」そして本土決戦用に開発された地上基
地のカタパルト射出式の「桜花43型乙」「桜花33型」を飛行機曳航式に改造した「52型」等が考案され、最終的に
「43型乙」が採用された。「43型乙」はジェットエンジンを搭載して200km近い航続距離を持ち、練習型及び多くの
発進基地は完成し、射出実験にも成功して実戦機の量産体制への計画も進んでいた。
昭和20年7月1日「43型乙」を初めて運用する第725海軍航空隊が実機の完成を待たずに滋賀基地に開隊され、本土決戦
に備え実戦配備を待つ状態だったが、実戦の機会がないまま終戦を迎えた。
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▲昭和20年9月、横須賀の格納庫で米軍に発見され捕獲された「桜花22型」モータージェットエンジン搭載
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▲桜花11型MXY7(コクピットの前は約1.2t爆弾を搭載)※写真は沖縄戦で陸軍中飛行場で米軍に鹵獲された桜花
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▲桜花43型(コクピットの前は約800㌔爆弾を搭載)
本土決戦に使用される予定だった「桜花43型」は全長約8.2mジェット・エンジンを搭載。約100mの滑走路からカタパ
ルト(射出機)で離陸し、敵輸送艦船や上陸用支援母艦への体当たりを想定していた。
飛行時間は約30分で、約280㌔航続できる設計だった。

桜花43型の様に本土決戦で使用する予定だった特攻機の中に陸軍が製作を命じた「剣」という特攻機があった。
キ115 「剣」(つるぎ)は陸軍における名称。海軍では「藤花」(とうか)の名称で呼んだ。終戦までに105機完成し、
実戦には使われず終戦を迎えたとされるが昭和20年3月末に壬生飛行場から剣による特攻出撃があったという証言もある
と言うがはっきりしない・・・。軍は兵士に命を投げ出させる以上、管理も最後まで行うのが義務であろう。
こういった軍人に対する管理は勝・負関係無く、国家の責任で戦地に出撃させた以上最後まで最低記録は残すのが国の
責任ではなかろうか、戦後70年以上も経っているのに遺骨収集も終わっていない現実、今も体質は変わっていない。
▼中島特殊攻撃機「剣」(藤花)
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車輪など着陸装置は、離陸後に投下してしまう為、「桜花」同様片道体当たり自爆特攻機として105機以上量産された
が部隊編成前に終戦。剣の試作機はアルミニウムで製作されたが量産モデルは木材と鉄鋼で製造された。
特攻出撃後は飛行場上空で特攻隊員が降着装置を投下させた着陸装置を回収・再使用するつもりだった。
設計も資材も簡素化された作りであり、「トタン張り」の胴体は荒い鋲で留められ、風防もなく、直線型形態の為、空力
的にも洗練されておらず、粗悪なエンジン工作であった。軽量小型にもかかわらず最高速度は零戦の530kmよりも遅い
515km程度だったと言う。資源・労働力の不足と航空機製造工場の被爆という厳しい状況にあって、簡単に量産出来る
航空機が必要不可欠であった。練習機等で特攻出撃した隊員に続き、全軍特攻の道しか残されていなかった日本。
「剣」は安定性、操縦性共にレベルが低かった様で、まともなゼロ戦等の戦闘機をもってしても突入出来た特攻機はわず
かであったのに、この様な粗悪な「剣」で未熟練搭乗員が敵船舶に接近し、突入出来たとは到底考えられない。
勇敢な搭乗員がたとえ犠牲的精神を沸き立たせていたとしても粗悪な武器では戦えない。
まして航空特攻は敵レーダー網で作戦が筒抜けであり、連合軍はただ待ち伏せして撃墜するだけだった。
日本軍にそれに対抗する手立ては無く、ただ特攻/突撃するのみ・・・。これでは無駄死にと言われても仕方が無いので
はなかろうか・・・。
▼栃木県の中島飛行機太田工場量産ラインのキ115。戦後の撮影で飛べないようにプロペラが外されている。
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昭和20年(1945)3月の東京大空襲など本土空襲が激化したことから、政府は航空機の生産維持のために、中島飛行機
をはじめとする航空機工業の国営化方針を決定した。4月第一軍需工廠に選定され国民徴用令に基づく徴用工や学徒、
女子挺身隊を含む従業員25万人は軍の直接管理下となった。中島飛行機は創業以来、機体25935機、発動機46726基
を生産した。
▼戦後横田基地に展示された特殊攻撃機キ115「剣」
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この様に正攻法では量・質の両面で連合軍に全く太刀打ちできなくなっており、この事を戦争末期になってやっと認識し
た軍高官は、精神主義を振りかざして「断じて行えば鬼神もこれを避く」として特攻を唯一の対抗手段としようとした。
人間魚雷「回天」「海龍」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」「マルレ」、特殊攻撃機キ115「剣」。このほかにも潜
水艦搭載の特殊攻撃機「晴嵐」、体当たり自爆改造戦車、対戦車爆雷を抱いたまま突っ込む肉弾兵、爆薬を持って海中に
潜み自爆する「伏龍」という特攻兵器も存在する。このような特攻兵器は、犠牲的精神を有する将兵の発意で作られたと
いう俗説が流布されているが、兵器の開発・生産はもちろん、特攻隊の編成,運用は個人で行うことは出来ず、軍上層部の
主導、命令が不可欠である。特攻は現地の将兵の自発的な攻撃ではなく、特攻作戦として軍上層部が策定した軍事行動で
ある。軍事行動である以上、戦果と損失・コストが問題となるから特攻に向かった将兵の心情・苦悩は、二義的になり、
あくまでも特攻/突入/敵艦撃沈が優先される。
しかし、特攻兵器にはそれを使用する人間が必要不可欠であり、犠牲的精神を発揮して祖国・国体の護持、家族を守る為
に命を投げ出す若者が求められた。(将来を背負う若者で無くても良かったはずだ)
しかし、兵士達の自己犠牲や祖国への忠誠、家族への愛を貫こうとして自分の死を納得させようと悩み,苦しんでいる状
況とは裏腹に特攻兵器は着実に計画的に開発,量産されている。
これに合わせて自己犠牲精神を量産しようとすれば、個人の自由や選択の余地は命もろとも押し潰すしかない。
特攻兵器の開発・量産は祖国愛や家族愛を持っている人間を血液の詰まった皮袋として扱う状況になってしまった。
世界で日本の特攻隊は自爆テロ・殉教と同じ様に認識されている様に思える。狂信的な天皇への忠誠心があり国体護持の
為には自らの生命も犠牲にしても惜しくはない。天皇陛下万歳といって体当たり自爆する。
日本軍の将兵について、多数の連合国の市民や将兵が、「日本人は天皇を守るためには死をも厭わない狂信者である」
「日本人は死ぬまで戦い続ける好戦的な侍の精神を持っている」
「日本人は捕虜・敵国民間人など敗者を情け容赦なく処刑する」と認識していた。
この様な日本人への先入観、偏見は、日本の特攻に対しても、強烈な敵愾心を生み出した。
「正義と民主主義を守る戦争」を遂行する連合国にとって、攻撃・反抗という破壊的行為を行ういう日本人は「テロリ
スト」と判断され、特攻隊は自爆テロリスト集団とみなされてしまう。
「(天皇の)大御心(おおみごころ)に沿う為に命を投げ出す攻撃」という狂信・軍国主義あるいは宗教的心情・愛国心の側
面だけを受け入れるのであれば、「自爆テロ/殉教と特攻は同じ」であるし、自爆テロも特攻も、狂信と洗脳が生み出した
物となってしまう。特攻が大量の死傷者を出すことを意図した無差別テロと同じとは口が裂けても言いたくないが、自分
の命を犠牲にしてまで「叩き潰したい何か」があり、その敵愾心は、民族や家族を守る為の冷静な判断の下に、自己犠牲
的に行われる破壊行為である点は共通している。特攻の目標は敵艦船であり、民家人を巻き込む自爆テロとは最初から
目標が違う。しかし「敵」を叩く/「敵」を撃滅するというだけの意味においては特攻と自爆テロと違うとは言い切れない。
何故なら一般市民も世論の支持による戦争継続支持、ビジネス活動、納税・国債購入による軍資金提供、生産の為の労働
力・個人消費節約による軍需への資源の移転など戦争協力している。
言ってしまえば皆が戦争協力者であり「無辜の市民」はありえない。戦争が始まってしまえば敵国人は軍人であれ民間人
であれ、全て「敵」なのである。よって「敵」を叩く/「敵」を撃滅するという意味だけにおいては特攻と自爆テロは同じ
なのかもしれない。更に言えば、特攻隊員もそうでない兵隊も同じで、特攻隊員は「必ず死ぬ兵士」として戦争の犠牲者
であり、一番批判されなければならないのは特攻隊・自爆者(殉教者)を平然と送り出す司令官・参謀(テロ首謀者)達。
特攻隊・殉教者を送り出したにもかかわらず「特攻・殉教は自然発生的に行われた」として特攻/自爆テロ作戦の責任を回
避しようとする「特攻/自爆しない」司令官・参謀達。特攻・自爆の「大義に殉じ、家族を守ろうとする犠牲的精神の発露」
という一面を英雄的行為として過大に賛美し、プロパガンダを展開して、純真な若者に特攻(自爆テロ)を志願させ、愛国者
殉教者の名のもとにテロリストを育成、編成する行為、それを画策する政治的指導者・軍司令官(テロ首謀者)達で、彼等や
その行為こそ憎むべきものであると考える。特攻隊員の抱いた忠誠心・祖国愛・家族愛だけではなく、彼らの苦衷と特攻/
自爆テロを展開した司令官への憤怒を心に留めることが現代の我々には必要であると考える。

▼アメリカでは桜花の事をBAKA-BOMB(馬鹿爆弾)と言っていた。
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▼アメリカで見せ物にされる「桜花」その後スミソニアン国立航空宇宙博物館に展示された。
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もし本土決戦になっていれば日本は滅びていたでしょう、そして北はソ連、南はアメリカ・イギリス・フランスなどに
占領され西ドイツ/東ドイツの様に西日本・東日本に分断され、日本の復興は現在の様にはいかなかったでしょう。
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本土決戦で最後まで戦い抜く覚悟の日本に対して、連合国軍は日本本土上陸作戦を計画していた。
この作戦は「ダウンフォール作戦」と呼ばれ、「オリンピック作戦」「コロネット作戦」に分かれていた。
ルーズベルト大統領の死去に伴い、跡を継いだトルーマン大統領はポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、
ソ連の日本参戦を阻止する為、そして日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させる事が可能になった事から作戦中止
を決定する。結果、広島/長崎へ原爆投下・・・。発動前に日本が降伏した為この計画は中止された。
(※以下に掲載の当時白黒画像は全てイメージです)
オリンピック作戦とは、九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦である「コロネット作戦」の為の飛行場確
保であった。作戦予定日はXデーと呼称され昭和20年(1945)11月1日が予定されていた。
(この日程は日本軍に完全に読まれていた事が戦後明らかとなり、後に機密漏えいを疑う騒動となった)
海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。
陸上部隊は14個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。なお、これを支援
する為の兵力誘導用欺瞞作戦としては「パステル作戦」が計画されていた。
「パステル作戦」は、連合国軍の作戦目標が昭和20年(1945)10月に日本が占領下に置いていた中華民国上海周辺に上
陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させるものであった。
また、直前の陽動作戦として10月23日~30日にアメリカ軍第9軍団(8万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行
う事や、イギリス空軍のアブロ・ランカスターが連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として
沖縄から出撃する予定であった。事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により種子島、屋久島、甑列島などの島嶼
を本上陸5日前に占領する事も検討された。
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これは、沖縄戦の時と同じく、本上陸海岸の近傍に良好な泊地を確保することが目的である。
この泊地は、輸送艦やダメージを受けた艦の休息場所に使われる。また、九州主要戦略目標地域に対して、マスタード
ガスを主体とする毒ガス攻撃も検討されていた。さらに米統合参謀本部は、神経ガス(サリン)を使用すれば、日本に
侵攻してもほとんど死者を出さずに済むと信じ、ドイツ崩壊後から米軍が太平洋で毒ガス戦を展開出来る様、マスコミ
と協力して世論づくりをしていた事を記録したアメリカ軍の極秘資料がアメリカで報道された。
この文書では、ジュネーブ議定書で毒ガスの使用は禁止されていたが、日本軍が中華民国内で使用したという事実と、
アメリカ白人による黄色人種への人種差別感情が、アメリカ側の罪悪感を軽減したとも指摘されている。
上陸部隊はアメリカ第6軍であり、隷下の3個軍団がそれぞれ宮崎、大隅半島、薩摩半島に上陸する事となっていた。
これは日本軍の3倍以上の兵力になると、アメリカ軍では見積もっていた。大隅半島には日本軍の防御施設があったも
のの、宮崎や薩摩半島は手薄であったという事も判断材料となった。
アメリカ軍の動員される兵力は25万2千人の歩兵と8万7千人の海兵隊から成る16個師団でありヨーロッパ戦線の部隊
は予定されていない。上陸作戦を支援する為、アメリカ海軍はチェスター・ニミッツ提督に第3艦隊と第5艦隊を与えた
が、これは太平洋で利用出来る全ての艦隊に等しかった。
第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス提督)は10隻の空母16隻の支援空母で上陸作戦への近接支援を行い、上陸用舟
艇や輸送船を含めた艦船の数は3,000隻に達した。またイギリス海軍も極東方面に展開していた艦隊を派遣する事とな
った。第3艦隊(ウイリアム・ハルゼー提督)は、17隻の空母と8隻の高速戦艦によって機動攻撃を担当した。
ドイツが1945年5月に降伏したこともあり、1945年の中期までにアメリカ軍、イギリス軍、オーストラリア軍、ニュ
ージーランド軍を中心とした連合軍は1,200機の戦闘機が投入可能であり、その数は月を追うごとに増えていた。
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オリンピック作戦が開始されるまでにアメリカ海軍は22隻の空母、イギリス海軍は10隻の空母を用意する予定であり、
計1,914機の戦闘機が運用可能だった。そして予想される連合軍の損害は27万人と見積もったと言われる。
航空基地の確保が目的のため、南部九州のみの占領で作戦は終了し、北部九州への侵攻は行わないことになっていた。
この基地は、翌年3月のコロネット作戦のための前進基地であり、72万人の兵員と3,000機が収納できる巨大基地とな
るはずだった。この基地からは、長距離爆撃機のみならず中距離爆撃機も関東平野を爆撃する事が出来た。

コロネット作戦とはオリンピック作戦で得られた九州南部の航空基地を利用し、関東地方へ上陸する作戦である。
上陸予定日はYデーと呼ばれ昭和21年(1946)3月1日が予定されていた。
コロネット作戦は洋上予備も含めると25個師団が参加する作戦であり、それまでで最大の上陸作戦となる予定であった。
上陸地点は湘南海岸(相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより東京都区部へ進行する計画予定)
と九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけての砂浜海岸が設定され、首都を挟撃することが予定されていた。
湘南海岸には第8軍、九十九里浜には第1軍が割り当てられていた。
湘南海岸周辺には現在も日本軍が構築した陣地豪が数多く残っている。
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▲湘南海岸稲村ヶ崎に残る特攻隊の中でも最も悲壮な部隊、「伏竜隊」出撃待機豪と銃眼。
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▲龍口寺の境内には陸軍護東(第140師団)22053部隊が、本土決戦に備えて築いた陣地豪が現存する。
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▲陣地豪の豪口
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▲▼陣地豪内部
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Yデーの3ヶ月前からイギリス軍とアメリカ軍による艦砲射撃と空襲によって大規模な破壊を行ない、攻撃の中にはミサ
イルやジェット戦闘機、化学兵器の使用も含まれていた。昭和21年(1946)3月に関東平野の南東と南西から上陸する連
合軍は、古典的な挟撃作戦によって約10日で東京を包囲する。計画では湘南海岸に30万人、九十九里海岸に24万人、
予備兵力合わせて107万人の兵士と1900機の航空機というノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ規模の兵力が投入さ
れる予定であった。日本軍/連合国軍両軍共に当作戦に備えて数々の新兵器を準備しており、アメリカ軍側は「F8Fベアキ
ャット」「ジェット戦闘機P-80シューティングスター」「重戦車M26パーシング」を生産、イギリス軍は最新鋭のジェッ
ト戦闘機「グロスター ミーティア」を。日本側も特攻兵器を主軸としつつもジェット戦闘機「橘花改」戦闘機「烈風」
試作局地戦闘機「震電」ロケット戦闘機「秋水」五式中戦車などの開発を急いだ。
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この作戦計画については、統合参謀本部内で意見の対立があった。統合参謀本部議長のレーヒ元帥は、「既に壊滅してい
る日本に対し作戦を遂行する必要なし」として中止を提案。海軍作戦本部長キング元帥も「地上兵力投入による本土侵攻
より海上封鎖が有効」と主張。陸軍航空隊総司令官アーノルド元帥も「本土への戦略爆撃と海上封鎖が有効」と慎重論が
出た。彼らがこのような主張をしたのは、日本軍との南方各諸島での戦闘、硫黄島や沖縄戦でのアメリカ軍やイギリス軍
の損害の大きさに、本土戦での犠牲者の数を懸念した為である。
それに対し、「本土侵攻による大戦の早期終結を」と主張するアメリカ陸軍のマッカーサー元帥や、陸軍参謀総長マーシ
ャル元帥と太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥がこの計画を支持し、最終的に作戦は承認され、マッカーサーに対して作戦
準備指令が下っている。
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日本は大本営が提唱する「一億玉砕」のプロパガンダ通り、男子15歳~60歳、女子17歳~40歳まで根こそぎ徴兵した日
本国民2600万人を主力の陸海軍500万人と共に本土決戦に投入する事になっていた。
昭和20年(1945)初期、大本営は本土決戦を想定して、さまざまな体制変更を試みている。その中で最も大きな変更は、
本土防衛を主眼にして軍の命令系統を2つに分割した事である。東日本を第一総軍、西日本を第二総軍に振り分け、それぞ
れの司令部を市谷と広島に置いた。これはそれぞれ連合国軍の2つの作戦にも対応しており、連合国軍の作戦を事前に察知
していた事が伺える。なお、第二総軍司令部は広島市への原子爆弾投下で壊滅したが、指揮下にある九州と四国の軍は健
在で戦闘に支障はなかった。日本側では連合国軍の南九州・南四国侵攻の時期・規模をほぼ正確に予想していた。
第二総軍第16方面軍の予想では11月1日に上陸を開始、上陸地点は九州では宮崎海岸・志布志湾・吹上浜を挙げ、これら
に基づいて宮崎・大隅半島・屋久島・種子島を担当する第57軍に加え、第40軍を新設し吹上浜付近を担当させる事とした。
四国では第55軍を新設した。更にこれらの地域では陣地の新設が急ピッチで進められたが、九州では資材不足に加えてシ
ラス台地の掘削が難航し、終戦時でも60〜80%程度の完成率であったと言われている。
昭和天皇は御前会議において、本土決戦を諦めポツダム宣言受諾を支持する理由として、九十九里浜の陣地構築も出来て
いないことを指摘し、従来の例からしても計画に則った防衛体制は望めないであろうとの見通しを示唆していた。
本土決戦が実行されていればどの位の犠牲が出たか、そして国が滅びた後、どの様に占領されたかを考えると恐ろしい。




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2016_03_01




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WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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