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特設監視艇「黒潮部隊」というのをご存知だろうか。
日本海軍は太平洋東方面の警戒を強化する為、昭和16年(1941)末から監視網の増設と強化を図り116隻の監視艇を
第22戦隊に民間漁船などを徴傭配備し、第1、第2、第3監視艇隊を編成した。
底曳き網漁やカツオ・マグロ漁などの遠洋漁業に従事していた約100t、大きくて200t程度の漁船が、知られざる
戦場での壮絶な闘いに「レーダー代わり」として使用され、多数が散華していった。
その中で有名なのが「第二十三日東丸」だ。
昭和16年12月1日に徴傭され、機銃など若干の武装を施し、海軍軍人と船員が約半数ずつ乗り組む特設監視艇として
横須賀鎮守府の指揮下に入る。開戦後の昭和17年2月1日には同じ様な元漁船76隻で編成され、特設巡洋艦「浅香丸」
「粟田丸」「赤城丸」を隊長艦とした監視艇隊の一隻となり、任務は東方哨戒線の警備で通称第22戦隊「黒潮部隊」
と呼ばれ、徴傭された船員は、その他の民間船と同じく、漁師なども皆、軍属として身柄を徴傭された。
※漁船を漁師ごと徴傭して戦線に投入する事は、日中戦争の頃から既にに行われており、海軍は艦長や幹部には海兵
 出身の士官は乗せず、艦長は、東京/神戸の商船学校出で、各課の士官も予備士官や特務士官しか居なかった。
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▲漁船時代の「第二十三日東丸」

日本の航空母艦部隊がハワイを攻撃出来るのならば逆にハワイのアメリカ空母部隊が日本本土を攻撃する事も可能なは
ずだった。アメリカ艦隊が東方海上から接近した場合、レーダーも無く、長距離偵察機で広大な地域を継続的に監視す
る能力も無い日本軍は、敵の行動を察知する事は出来なかった。
そこで軍は漁船を特設監視艇に改造し、本土の東方約1000㌔の海上に多数を配置して交替で哨戒活動を行う事を決定。
東方哨戒線の警備にあたらせた。
日東漁業の底曳網漁船わずか90tの「第二十三日東丸」。船体に搭載されているのは原始的なディーゼルエンジン。
(焼き玉エンジン)速力は7~8ノットと低速で、とても戦闘が出来る様な船ではなかった。船体を灰色の軍艦色に塗装し
7.7ミリ機銃2丁を取り付け、乗組員用の小銃は2~3丁。それ以上の武装を施さなかったのは民間船を装う為だったと
言う。後に対策として更に57ミリ砲や駆潜艇は爆雷も装備したが、いずれも貧弱な装備のままで最前線の船団護衛に投
入された。敵機や敵艦船に見つかれば一瞬でひとたまりも無い捨て身の「人間レーダー」哨戒活動だった。
昭和17年4月18日日本を初空襲するために密かに接近していたアメリカ海軍機動部隊が任務を交替して帰還する途中に
「第二十三日東丸」に遭遇する。「第二十三日東丸」は東京から700浬の海域で米機動艦隊を発見したのであった。
直ちに空母エンタープライズの艦載機と巡洋艦の砲撃が開始され、日東漁業の底曳き網漁船に向けて938発もの15セン
チ砲弾が浴びせられた。撃沈されるまでの30分間に「第二十三日東丸」は何通かの緊急無電を打電している。
6:30「敵艦上機ラシキ機体三機見ユ針路南西」と打電。
6:45「敵空母一隻見ユ」と打電。
6:50「敵空母三隻見ユ北緯三十六度東経一五二…」と打電。(実際は二隻)
7:30「敵大部隊見ユ」と打電の後消息を絶った。

7:50米軍ナッシュビル砲撃開始。
7:57米艦載機からの爆撃が開始され、「第二十三日東丸」はナッシュビルへの突撃を開始したと言われている。
8:20「第二十三日東丸」は命中弾を受け炎上、命中弾を受けてからわずか7分後沈没。
※海面に浮かんでいた「第二十三日東丸」 乗組員は米軍の救助を拒否して全員戦死。
23NittoMaru1942.jpg
▲命中弾を受け炎上する「第二十三日東丸」
ハルゼー提督はこの後も日東丸の様な特設監視艇を艦載機に探させ、銃爆撃によって4隻を撃沈している。

この時点で米軍の奇襲計画は挫折した。空母ホーネット艦上にあった16機の陸軍爆撃機B-25は予定を1日早めて緊急発
進。そして米艦隊は他の監視艇と戦闘を交えながら反転、帰途に就いた。
B-25爆撃機隊は東京・名古屋・神戸などを空襲した後、中国大陸まで飛行して燃料切れとなる。日本の陸軍都市防空部
隊は、艦載機ではなく陸軍の長距離爆撃機が空母から発進してくるという常識外の作戦を予想出来なかった為、有効な反
撃を行う事が出来なかった。この史上名高いドーリットル隊の日本本土初空襲により民間人45名死亡、53名が重傷を負
った。更に監視艇部隊は「第二十三日東丸」乗員14名をはじめ33名が戦死するという犠牲を出した。
B-25爆撃機は計画を変更して飛び立った結果、夜間の不時着と落下傘による脱出を余儀なくされ、結果的に全機が大破
または墜落によって失われる。
「レーダー代わり」にされて配備され、938発もの艦砲射撃を浴びながら無電を打ち続けて撃沈された「第二十三日東丸」
14名の戦闘状況は全員が戦死した為に不明。
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▲米軍の攻撃を受ける寸前の「第二十三日東丸」

命を祖国に捧げて殉じた兵士と漁船員の貢献が戦時下の国民に知らされる事は無かった。
漁師は操船技術が高く海について熟知しており、荒波や、台風でも難なく乗り切ることが出来、揺れる船から遠くの魚群
やカモメなどを見つける事が出来た。なので生きたレーダーの様に、空や海の異変を察知出来る事が徴傭された大きな理
由だったが、問題はこちらの発見が早くとも、それを無電で知らせる事で直ぐに敵に位置を確定され、敵からの攻撃を受
けてしまう事だった。米軍艦載機はまずは低空飛行して、翼で監視艇のアンテナ線を切断し、その後でゆうゆうと船体に
銃爆撃を加えてくるのが常だったと言う。無線をやられ、まともな武器を持たず、艦長以外船員がろくな戦闘訓練を受け
た事もない監視艇は、そのままなすすべもなく米軍機の餌食となって海の底に消えて行った。
ハルゼー提督率いる米海軍機動部隊との戦闘が「黒潮部隊」にとって最初の戦闘になったが、反撃の出来ない船では見つ
かったが最後やられるしかなく、従って終戦までに徴用された漁船約400隻のうち約200隻が撃沈され、7割が何らかの
損害を受けるという結果になった。大戦末期には兵学校出身の軍人ですら、その戦死状況については全く内地に伝わって
きていなかったという終戦直前の日本において、「黒潮部隊」についても、戦死者は最低でも千数百名以上と解っている
のみであり、その全貌は、ほとんどそれを伝える記録が無い。
戦後の日本で、ゼロ戦搭乗員の様に「ヒーロー化」されてその活躍が人々に賞賛されるなどということもなく、「黒潮部
隊」の存在すら戦史から全く忘れられた存在となっている。
しかも彼等は軍属という立場であった為、死後の叙勲はおろか年金などの補償も曖昧なままになっていると言う。
※(「第二十三日東丸」乗組員は後に金鵄勲章を叙勲されている)
漁師の徴用は「赤紙」ならぬ「白紙」と呼ばれる通知でやってきたと言う。この「白紙」一枚で漁師達は、ほとんど生き
て帰る事は望めない戦場に出て行った。その実態は特攻と言ってもいい様な状況だった為、監視艇や駆潜艇の船員は食料
には、白い米を好きなだけ与えられていたと言う。
しかし監視艇が無電を打ったが最後、敵に撃沈されるしかなかったという構図は、海軍が漁師の命を「使い捨てレーダー」
にしていたというに等しく、いかに内外で軍・民間問わず命が大量に失われていたかを考えても、それでも他に何か方法は
無かったのか?と、暗然たる気持になる。
ETV特集 戦時徴用船YouTube




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 2016_03_09




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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