ロタ島

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ロタ島は1521年マゼランの一行より発見され、スペイン統治領土とされた。マリアナ郡島(マリアナ諸島)という呼び
名はスペインの女王マリ・アンにちなむもの。米西戦争で敗れたスペインはグアム島を米国に譲渡。1899年ロタ島、
テニアン島を含む北マリアナ諸島の支配権を450万ドルでドイツに売却した。
その後第1次世界大戦でドイツが敗れ、宣戦していた日本は、ドイツ領南洋諸島全体を占領。
大正3年(1914)北マリアナ諸島をその支配下においた。
大正9年(1920)に国際連盟委任統治領として正式な日本領土となり、敗戦までの約40年間日本が統治した島である。
昭和10年(1935)南洋興発製糖工場が完成したが、生産効率がままならず工場は3年余りで操業停止に追い込まれた。
グアム島北方40kmに位置するロタ島は、昭和19年初頭までは何の軍事施設も無く、サイパンから海軍の見張員6名
が派遣されていただけであった。昭和19年3月マリアナ諸島防備強化の為、陸海軍部隊が進出。
数度に渡る配備変更の後、独立混成第10連隊歩兵第1大隊(大隊長 徳永明大尉)を主力とする陸軍約1031名を教育総
監部派遣教官から今川茂雄少佐が守備隊長として指揮し、海軍第56警備隊派遣隊・341空・265空派遣隊・設営隊等
2005名を、昭和19年6月19日マリアナ沖海戦に参加し、グアム基地に帰還中、米軍F6F戦闘機に追跡され、ロタ島に
不時着した艦上爆撃機「彗星」の搭乗員 阿部善次大尉が海軍部隊の指揮官となり 同年10月海軍少佐に昇進。
在ロタ島海軍部隊指揮官としてロタ島の守備に就いた。(阿部機不時着時の偵察員は中島米吉少尉)
米軍はサイパン島攻略後、ロタ島を飛び越えてテニアン島・グアム島に上陸した為、ロタ島に米軍が上陸したのは日本
が無条件降伏してからであった。なので、米軍が上陸したマリアナ郡島激戦地の様な地上戦は無かったとはいえ、空爆
や艦砲射撃は熾烈だったと言う。激しい空爆や艦砲射撃の中で陸海軍合わせて236名の日本兵が戦死している。
▼ロタ島空襲を終え、帰還する米戦闘機(奥にロタ島が写っている)
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敵中に孤立したロタ島守備隊は、連日の様に米軍の空襲を受けながらも、自給自足を続けながら必死に日本本土空襲に
向かうB-29爆撃機の機数・方位を無線で日本本土(東京)に警告する役目を担った。
昭和20年(1945)9月2日米軍の駆逐艦が投錨。午前11時ロタ島で現地部隊の降伏調印式と武装解除が行われた。
9月4日海軍将兵1853名/陸軍将兵947名が武装解除の上、ロタ島を離れグアム島米国海兵隊捕虜収容所に軟禁された
後(指揮官や幹部のみか、全員かどうかは不明)昭和21年(1946)11月帰国した。
戦後ロタ島はアメリカの信託統治領を経て、1978年以降アメリカの自治領となり現在に至っている。
地上戦が無かった為、島ごと丸焼けにならなかった事もあり、原生林や自然が多く残り、マリアナ諸島で唯一、飲用に
適した「湧き水」の豊富(石灰粉が少々キツイ)なマリアナ諸島最後の楽園「ロタ島」に行ってきた。

※海軍部隊の指揮官としてロタ島を守備した阿部善次大尉(山口県出身)は帰国後、航空自衛隊1佐として英語教育隊の
 隊長を勤める。戦後ハワイを訪れ、生き残りの米国元軍人らと友好を深めた。
 日本側の宣戦布告が遅れた事を知ったのは戦後数年が経ってからだった様で 「何故最後通告が遅れたのかを第三国
 を通じてでも謝らなかったのかというのが非常に悔しい。軍人として対等に戦いたかった、準備も出来なかった米軍
 兵士は悔しかったに違いない。」と言う言葉を残している。2007年4月6日死去 享年90歳
 阿部善次大尉は「ハワイ真珠湾攻撃」で第二次攻撃隊の中隊長だった人である。
 戦後「勝ち抜くための条件・艦爆隊長の戦訓新装版」という本も出版されている。是非読んでみたいと思う。
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※阿部善郎は彼のペンネーム。昭和21年11月26日復員。戦後は航空自衛隊一等空佐。
報道大河スペシャル『歴史の罠 そして真珠湾』YouTubeで生前の姿を見る事が出来る。
 
グアム→サイパン→ロタ島の順でロタ国際空港に到着した。グアム→サイパン55分 サイパン→ロタ島30分
今回の旅はロタ島がメインだった事もあり、まずはロタのホテルにチェックインし、次の日、ローカル便でロタ➡サイ
パン➡テニアンに向かった。スターマリアナズエアーのサイパン➡テニアン便セスナが2011年11月墜落事故を起こし
て以降、サイパン➡ロタ便の日帰りツアーは現在催行されていない。
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▼現在の空港は日本軍が建設途中だったものを米軍が拡張整備したものだと聞いた。
 戦時中は第341海軍航空隊[紫電]/第263海軍航空隊[ゼロ戦]/第521海軍航空隊[銀河]の配備予定があった
 又は配備されていた?様で基地地上員も含め総員2005名の海軍部隊が駐屯していたと言う(内152名戦死)
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▼入国を済ませロタ国際空港を出るといきなり目に飛び込んできたのは日本海軍の兵器と航空機のエンジンだった。
 空港駐車場脇にアツタ二一型エンジン1機がプロペラが付いた状態で、天山の火星二五型1機、零戦の栄二一型3機が
 展示(放置?)されている。以前は零戦の機体部分の残骸も置かれていたと聞いていたが現在は無かった。
 戦後ロタ島を訪れた阿部善朗氏の証言によると、マリアナ沖海戦時の1944年6月19日空母「隼鷹」を発進した艦上
 爆撃機「彗星」(阿部善次大尉/中島米吉少尉)が1時間近くF6Fに追跡され、かろうじてロタ島に不時着した機体の物
 であると言う。(プロペラ付アツタ二一型エンジンの事)
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ロタリゾートホテル入り口から空港に向かって車で少し走った右手ジャングルにゼロ戦が放置されていると聞いた。
当時海軍が建設していたとされる飛行場(現ロタ国際空港)がどの程度完成していて、飛行場周辺がどの様になっていた
かなど、詳細が全く解らないとの事で、そのゼロ戦が被弾して不時着した物なのか配備されていて空爆にあい使い物に
ならなくなったのか等、詳細は解らない。再訪して是非そのゼロ戦を見たいと考えている。プロペラが無かったと聞い
たので、画像の空港に展示されているどれかかもしれない・・・。どなたか案内して頂ける方、ご一報下さい。
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昭和19年6月15日ヤップ島を出撃した「第二次機動部隊索敵攻撃隊」261空の銀河10機、ゼロ戦4機の内、ゼロ戦3機
がロタ島に不時着・大破の記録が残っている。(航空戦史 雑想ノート【海軍編】参照)
昭和19年6月17日夕刻テニアン島を出撃した「テニアン沖艦船攻撃隊」ゼロ戦12機の内、2機がロタ島に不時着。
搭乗員は終戦まで残留との記録が残っている。(航空戦史 雑想ノート【海軍編】参照)
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▲日本軍13mm連装機銃座
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▲▼海軍艦上爆撃機「彗星」のエンジン(アツタ二一型)阿部善次大尉/中島米吉少尉 搭乗機
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▼海軍艦上攻撃機「天山」のエンジン(火星二五型)
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▼残りは海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のエンジン(栄二一型)
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▼小さな空港だが、スコップ1つの人力で建設作業をしたという戦時中の日本海軍ロタ飛行場がどんな感じだったのか
 想像もつかない・・・資料も全く無く調べようが無い・・・。展示されているエンジンも説明書看板等は全く無い
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▼人口3000人程度の小さな島といえどレンタカー無しにはまわれない。
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▼日本統治時代のロタ島(昭和19年6月11日大規模な米軍の空襲により消失)
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日本統治時代のロタ島はサイパン島、テニアン島に比べ島の開拓が遅れ、昭和9年(1934)当時でも在住する日本人は
わずか1000人余りであった。それでも昭和10年(1935)12月南洋興発株式会社製糖工場が完成。
▼ロタ島南洋興発製糖工場
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サトウキビ栽培・砂糖の生産が開始された。サトウキビ栽培は経験のあった沖縄や奄美の方が中心だったが、サイパ
ン島に進出した別の会社が多数倒産し、帰国も出来ずに困って居た人々を南洋興発が救ってロタ島で採用した。
現地(ロタ島)で雇われた日本人の方々は東北方面の方が多かったと言う。しかし砂糖の生産はうまくいかず、製糖工場
は3年余りで操業停止してしまう。ロタ島の土が肥料分を含まない痩せた土だったという事と、病気(ココナッツの木
に湧く害虫?)を起こしてうまく育たなかった様だ。
(サイパン島・テニアン島でも当初はサトウキビの害虫被害が多く、島のココナッツの木を全て伐採したと聞いた)
加えて肥料を調達する為に本土へ行った者が、仕入れ資金と共に行方不明となり、結果サトウキビ栽培を諦め、サイパ
ン島・テニアン島で出る砂糖きびの搾りかすを発酵させて酒を造った。
出来た酒は南米などで言う“ラム酒”だが、それを水で薄めて“南洋誉”と言う名で国内販売をした様だ。
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▲▼ロタ島南部の西港付近に今も残る南洋興発株式会社製糖工場(南洋誉工場)跡
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▲当時の古写真と照らし合わせて見学するも損傷が激しく、原型が想像つかなかった。
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▲米軍による艦砲射撃による穴が生々しい。
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▲▼日本統治時代、サトウキビを運んだ汽車が現存している(ドイツ製と聞いた)
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▼南洋興発事務所跡
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▼ロタリゾート&カントリークラブ近くにもう1両シュガートレインが現存している。
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子供の頃に行った遊園地にはこの様な形の汽車のレプリカが園周を走っていた様な気がする。
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この汽車が活躍していた頃のロタ島にタイムスリップしてみたい衝動に駆られた
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サイパン島・テニアン島・ロタ島共に日本統治時代は線路が引かれ、秋の収穫期にはこの汽車に何両もの貨車が連結
され、収穫したサトウキビを製糖工場まで運んでいた。余地がある時には運賃1円で乗客も乗せたと聞いたが、1円は
当時、労働者の1日分に相当する金額であったと言う。
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▼ロタリゾート&カントリークラブ(左側はゴルフ場と海、右側は宿泊施設、真っ直ぐ走ると右側に汽車がある
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▼ロタココナッツビレッジに、当時ロタ島に住んでいた沖縄出身者達が記憶を頼りに完成させた日本統治時代の
 ロタ島地図が展示されている。現在は営業していない為、今回M氏による特別なはからいで見学させて頂いた。
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▼現在は営業していないロタココナッツビレッジ
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▲▼かつて日本人が経営していた。M氏は「誰か引き継いでくれる人がいれば嬉しい事だが、もう無理だろう」と。
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▲▼バブル期は日本人観光客が沢山宿泊していただろう。しかし観光客が減った今ぐらいが丁度良いとM氏は語った。
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▼南洋興発製糖工場跡から徒歩2分、西港がある。敗戦後日本軍守備隊がロタ島を離れた場所かもしれない。
 (10月頃は25cm~30cmのアジが入れ喰い状態だと聞いた。ロタ島で食べた刺身は最高に美味しかった)
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▼昭和20年(1945)9月2日武装解除し、米軍の舟艇に乗せられロタ島を離れる日本軍守備隊(米軍撮影)
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▼ソンソン村近くの東港(上記の古写真は東港かもしれない)
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ロタ島の港は水深が浅く大型船が入港出来ない。沖に停泊し、小型船で往復して物資等を陸揚げするのだと聞いた。
米軍の小型艇に乗せられた武装解除した日本軍ロタ島守備隊の画像でも同じ様に、沖合いに停泊している船に移送
されている様子が伺える。
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▼▲ロタ島東港停泊中米軍に撃沈された松運丸(現在有名な沈船ダイビングスポットとなっている)戦死者は0との事
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▼ソンソン村東港から海沿いに車で15分、海軍砲台跡が2基残っている、1基目は砲座・砲身は残されていない。
 当時から設置されなかったのか、戦後取り去られたのかは不明。
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▼1基目から歩いても3分程の並びに2基目がある。観光ガイド等に掲載されている有名な日本海軍砲台
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▼▲メンテナンスされており、少々力は要るが左右に動く。この様な状態の日本軍砲台を初めて見た。
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▼砲台内から東港を望む。試し撃ちの1発のみ発射されたと聞いた。ロタ島に限らず、設置された砲台の多くは海軍の
 旧式の軍艦から外され転用された物がほとんどだった。砲身寿命は200発程度だと言う。
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▼角度を変えるとロタ島の最南端にあるウエディングケーキマウンテンが見える
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▼この場所からのウエディングケーキマウンテン(立入禁止区域)が一番綺麗だと言う。
 ※ウエディングケーキマウンテンには砲台跡がいくつか残っていると、許可を得て行った事のあるM氏から聞いた。
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▼日本海軍砲台跡から更に走ると「斉藤隊戦死者の墓」がある。
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▲一礼して感謝を伝えた。案内して頂いたM氏はロタ島を訪れると必ずお参りし、タバコを供えると言っていた。
 素晴らしい方だと思った。ロタ島を訪れた際はバカンスの前に立ち寄ってお参りしてあげて欲しい。
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▲▼さらに10分程走って左側「日本軍人軍属」の墓がある。(空襲で亡くなった民間人も埋葬されていると聞いた)
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ここでも一礼して感謝を伝えた。
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ロタ島もか・・・と思った。同じ日本人の墓がバラバラにある。旧日本軍人と旧日本軍属の違いを知る若い世代がど
れ程居ようか。せめて同じ敷地内に立てる事は出来ないだろうか。ロタ島にも日本政府が建てた慰霊碑は無い。
御遺族の方や有志の方がそれぞれの想いで立てられた物に何も言う立場にないが、海外の戦地で戦いに倒れた先人へ
感謝の慰霊が日本人観光客に定着しないのはこれも原因の1つにあると思う。
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▲▼3つ目の日本陸軍砲台(ここは高射砲)はロタ島の丁度中心辺りの丘にあった。
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▼砲台の脇には退避壕があった。
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中に入ってみておそらく人口的に掘られた壕だと感じた。
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▼日本陸軍司令部跡。
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▼▲機銃掃射の跡が生々しい、空襲の激しさを物語っていた。
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空襲が激しくなるとソンソン村にあったロタ神社(トンガ洞窟野戦病院)に司令部を移動した。
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▼昭和20年(1945)9月2日武装解除に応じるロタ島日本軍守備隊(米軍撮影)
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▲激しい空爆を逃れて島を転々としていたのであろう、設営された臨時テントが見える。
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▲場所を見つけようと陸軍司令部跡から更にダート道を走って探しに行ったが、よく似た風景は沢山ある為、場所
 の特定は諦めた。
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▲▼現地人(チャモロ人)を守りつつも、バラック作りの小屋で自給自足の生活をし、終戦まで頑張ったロタ島守備隊。
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戦死者も多く出ているが、半数以上の日本兵が無事日本に帰還された事を非常に嬉しく思う。

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▲ソンソン村に残るロタ神社跡。階段しか残っていないが、階段を登るとその更に上にはトンガ洞窟がある。
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▼ここが戦時中、野戦病院(神威洞)として使われ、空襲が激しくなった後には司令部として使われた洞窟だ。
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▼中に入ると、入り口の狭さからは想像できない広い空間があった。その昔はトンガ人が住んでいたと聞いた。
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▼入って右手にはコンクリートで固められた平らなスペースが広がる。恐らく負傷兵を寝かせていた場所であろう
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▲▼中はかなり広い。各所に人工的に平らにされた場所があり、ここが最終の司令部だった事が伺える。
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▼見学を終えて入り口に向かう。
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▼トンガ洞窟のほぼ真上に位置するソンソン展望台はロタ島で1番有名な観光スポットだ。
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▼ロタ島ソンソン村と最南端の景色が一望出来る。
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▼この場所からの夕日は最高だった、日の入り時間は夕方6時。絶景が見れた。
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現在は観光名所のソンソン展望台も、戦時中は日本軍の見張台だった様だ。夕日を拝む為に時間潰しをしていた時、
たまたま沖縄から来られた御家族に出会った。おじい様と娘様、そのお子様お2人だった。
聞けばおじい様はロタ島で生まれ、10歳までロタ島で育ったそうだ。ソンソン展望台には機銃が設置され、日本兵が
上空を監視していたと言う。初めて知った。「野戦病院跡を見に行く」と言って御家族は去っていった。
なるほど、ここは最後の司令部壕の真上だ。私が息を切らして登ってきた道は先人が作ってくれた道だった。
御家族が去ってから展望台の周囲を再確認した。するとおじい様が言った通り、機銃座が設置されていたであろう岩
組と鋼鉄の残骸が確認出来た。
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沖縄から来られた御家族に出会わなければ見落としていたであろう。この場を借りてお礼を申し上げます。
展望台からの景色を眺めながら、娘様がおじい様に「どう?思い出した?」と優しく声をかけていたのが印象的だった。
▼※参考画像 日本海軍九六式25ミリ機銃。これが設置されていた可能性は高い。
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▲ソンソン展望台に登る道中に洞窟がある、ロタ島でもリン鉱石を採掘していたと聞いていた。
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▲入ってみるといくつも坑道があり、リン鉱石を採掘した様な跡があった。
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▲ソンソン村には東京苑という居酒屋風レストランがある。北海道出身の日本人が経営していると聞いた。
 食事は非常に美味しく、日本にいるのかと思う程だった。特に刺身料理、魚を使ったチャモロ料理は絶品だった。
 日本語が出来る優しいフィリピン人男性1人、女性2人で店をきりもりしていた。もちろん美味しいロタ水は無料だ。
 看板娘のエミリーさん、ウェイターのモンさんに親切にして頂いた。いいお店だったので滞在中は毎晩通った。
 ロタの東京苑はサイパン?テニアン?(どちらか忘れた)の2号店だったが今はロタ店だけだと聞いた。エミリーさん
 はサイパン?テニアン?に居たがオーナーに頼まれ、フィリピンに戻らずロタ店に来たという。ロタリゾートで働く
 ご主人と2人でロタ島で暮らしている。「フィリピンは人が多くて疲れるからロタに永住するかも?」と語った。

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地元の人はわさびとキッコーマン醤油が大好き。わさびを強烈につけて刺身を食べているのが印象的だった。
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▲▼ロタ島のスーパーで撮影。バックで駐車するのは私だけだった・・・。日本人観光客だと直ぐわかってしまうか?
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▼ソンソン村から車で5分、ロタ洞窟博物館がある。ほとんど開館していないとの事だったが案の定閉館していた。
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▼少し覗いてみたが、旧日本軍の物が少し展示してあった。
階段を上って最初に目に飛び込んできたのは日本軍?アメリカ軍?の重機関銃だった。米軍が上陸後置いていった物か?
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▼日本海軍九六式25ミリ機銃(艦載用対空機銃の代表的な機関砲)
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▲▼「ひょっとしてこの機銃座がソンソン展望台に設置されていた物かもしれない」と思いながら見学した。
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▼戦時中の日本海軍九六式25ミリ機銃(ロタ島で撮影された写真ではない)
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ロタ島にはドイツ統治時代にハンティング目的で持ち込まれた鹿が繁殖し、野生の鹿が沢山いると聞いた。
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▼閉館していたが隙間からカメラを入れて撮影。
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▼ロタ洞窟博物館からソンソン村方面を望む。
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▼ロタ空港から車で10分。ラッテストーン石切り場がある。
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約3500年前、マリアナ諸島の原住民は東南アジアから到達した。
彼等はチャモロと呼ばれる独自の民族となり、独自の文化を育て、原始的な生活していた。
今から約490年前にスペインが統治するまでマリアナ諸島は紀元前、タガ王朝時代としてチャモロ民族が暮らしていた
タガ王朝時代の首都はテニアン島。テニアン島にはタガ遺跡が残されている。この石切り場で切り出された先材は、テ
ニアン島に運ばれる為の物だったのではないか?とも言われている。スペイン統治時代にはチャモロ人を虐殺・制圧し
チャモロ伝統文化を壊してチャモロ人をグアム島に移した。ロタ島の原住民(チャモロ)は激しく抵抗。
山間部に身を隠し生きのびた原住民が現在のロタ島チャモロ人の祖先とされ、彼等こそが真のチャモロ人だと聞いた。
スペインが植民地にする為の調査で、テニアン島上陸の際に使用した小舟に積んで有った物が全部盗まれて小競り合
いに発展したと言う話を聞いた。比較的治安の良いロタ島ですが、やはりコソ泥は居るらしく、スペイン統治時代には
「ドロボウ諸島」と呼ばれていたそうだ。
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▼切り出された巨大な石は住居の土台として使用されていたとの事。住居部分は釘を使わない建築だったそうだ。
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グアム島・サイパン島・テニアン島で現存している建った状態(当然ラッテストーンのみ)を見る事が出来る。
ロタ島でも現存するらしいが場所が解らなかった為、見学していない。

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▲ラッテストーン石切り場跡から東へ10分程、M氏お勧めの場所「バードサンクチュアリ」がある。
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マリアナ諸島で一番多くのレッドフーテドブービーを見る事が出来るとされ、沢山の種類の鳥を見学出来る場所だ。
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暑さと時間が経つのを忘れてしまうぐらいの素晴らしい場所だった。
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▼日本統治時代、ロタ松島と呼ばれた場所は「ピナタンパーク」というプールを備えたちょとした観光スポットになっ
 ていた様だが、現在は営業しておらず、廃墟になっていた。
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ウォータースライダーなどが廃墟となり放置されていたが、ロタ島の魅力はテーマパーク・レジャー施設などでは無い。
テーマパーク・レジャー施設へ行きたければわざわざグアムで乗り継ぎしてロタ島に来なくともグアム島で満喫出来る。
ロタ島の魅力はロタブルーの海、地上戦が無かったお陰で残った原生林と手付かずの大自然。そして日本統治時代を懐
かしくも快く思っていてくれている親日のチャモロ民族の人達だ。わずか3000人程度の静かな島にテーマパークは必
要無いとあらためて思った。静かなビーチと真っ青な海、美味しい天然水と治安の良さ。現地チャモロ人と出稼ぎに来
ている真面目なフィリピン人達の親切さ。新鮮な魚料理で食べ物も美味しい。南の島でこれ以上の贅沢は無いと思った。
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▼ソンソン村から南へ徒歩20分、ロタ島居住区最南端に公営住宅が建ち並ぶ地域がある。
 東日本大震災の後、北マリアナ連邦ロタ島では、公営住宅の空き家をリニューアルし、日本の被災者に提供を決定。
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約30棟程在る公営住宅をリニューアルし、日本人被災者に住んで貰うんだと、ロタ市長を始め、幹部が日本を訪問。
福島県まで出向き「被災者の受け入れ準備が整っています」と表明してくれたという。
震災後に被災者の為の住宅を用意して受け入れを表明したのは、ロタと台湾だけだと言う。
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しかし、日本政府からは公式な発表も無ければ、報道も無かった。私も何も知らなかった、初めて聞いた。
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▼結果、日本人(被災者)は誰も行かなかったという事だが、初めてのロタ島訪問時に、その事実を「知っている」と
 「知らない」とではロタ島に対する見方はかなり違ってくるものとなり、島で出会うと当たり前の挨拶をしてくれ
 る島民、車ですれ違う度に手を上げて挨拶してくれる島民に対して、自然と感謝の気持ちで接する事が出来、とて
 も気持ちが和むロタ島の旅だった。
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▼公営住宅の突き当たりはウエディングケーキマウンテン(立入禁止区域)と思ったが、廃墟のパウパウホテルがあった
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▼アスマンモス・クリフ(釣りの名所らしく年1回釣り大会が行われると聞いた)
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戦時中、ロタ島では日米の地上戦が無かった為、サイパンやテニアンの様な悲劇が無くて本当に良かった・・・。
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ロタ島で有名な観光スポットである「スイミングホール」「テテトビーチ」を見学してロタ島をあとにした。
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▲スイミングホール
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▲テテトビーチ
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ロタ島訪問前、かつてロタ島で居住経験を持つI氏にロタ島出国時にしか見れない「絵」の話を聞いていた。
最後にロタ国際空港出国待合室でしか見る事の出来ない「絵」で学ぶロタ島の歴史を紹介して終わりにしたいと思う。
※「絵」に対する説明文は全て、飾ってある「絵」の横に説明書として添えてある文章である。
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▲チャモロ時代(1500B.C-1521A.D)
紀元前1500年頃、チャモロ人は勇敢にもマリアナ諸島までカヌーで航海して来たと言われています。
男性は、特徴ある円柱形のラッテ・ストーン(絵の中央をご覧下さい)を基礎に家を建て、女性は布製品、レッド・スリ
ップ・マリアナスの模様に入った陶器、絨毯、亀の甲羅の装身具等を作り、腕利きの漁師達は大きなカジキマグロを捕
獲する技術を開発し、農民達は土地を耕し、段々畑を作り、巧みにたくさんの作物を作りました。
結果的にチューク、ヤップ、カロラインスを含めた諸島間で貿易が始まりました。当時、高価なコヤスガイや亀の甲羅
が貨幣として流通していました。
部族間の抗争も頻繁に起こり、味方が敵に傷を負わされたり、殺されたりすれば、直ちに戦争という状態でした。
「投石」「やり」が主な武器だったそうです。
ヨーロッパ人が初めてミクロネシアを訪れたのは、マゼランがそれら諸島を発見した時であり、それは世界一周の航海
の中で、初めて探検家達が経験した未知との遭遇でした。
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▲スペイン統治時代(1521-1898)
1565年、スペイン人ミゲル・ロペス・レスガスピィがグアムに上陸し、マリアナ諸島の所有権を主張しました。
まもなくスペインの帆船がメキシコとフィリピンの間を行き交うようになり、途中、食糧や水の補給の為、ロタ、グア
ムに立ち寄りました。その為、ロタは世界で初めて太洋を横断する交易路の中継地点となりました。
1668年、スペイン人はカソリック教徒の指導者ルイス・デ・サンビトーレスの下、マリアナ諸島に定住する事を宣言
し、また1682年ロタに教会を建てました。スペイン人は、チャモロ人にスペイン人社会の価値観や特色を受け入れさ
せるため、「征服」政策を持ち込みました。宗教上の改宗やチャモロ文化の排除は、やがて戦争へと発展しました。
1668年には60000人居たチャモロ人は、スペイン人との戦いや、水泡性疾患、インフルエンザが原因で1710年には、
3539人まで減少していました。右手上部のコーナーをご覧下さい。悲痛な表情の人物、倒れているラッテ・ストーン
これらは多くの古代文化が失われてしまったことを物語っています。
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▲ドイツ統治時代(1899-1914)
米西戦争の敗北により、宗主国であるスペインはその領土であったマリアナ諸島をドイツに売却しました。
白い征服を見につけた、有能なドイツ人官吏ジョージ・フリッツはコプラ(ヤシ油の原料)生産による経済自立を目指し
ました。また、その当時ロタでは米、コーヒー、砂糖、柑橘類が生産されていました。
教会では、僧侶がスペイン人からドイツ人にバトンタッチされ、社会面では、道路、水道、また、西港を建設するため
暗礁となっていた水路等の社会基礎整備が行われました。ドイツ人については、時間に厳しいこと、そして初めて船外
機を紹介したと言われています。
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▲日本統治時代(1914-1945)
第一次世界大戦のさなか、ドイツが太平洋より撤退した後、日本人は直ちに北マリアナ諸島を接収しました。
やがて1920年、国際連盟(国連の前進)は、ミクロネシアにおける日本の統治権を承認しました。
日本人は政府の貸付金や補助金を使って、事業を奨励し、島の経済に「独立採算制」を導入しました。
「サトウキビ」、列車、燐鉱業等がそれです。また、港の改修、軌間の狭い鉄道の敷設を行い、製糖業を発展させまし
た。1935年までは、ロタには8000人の日本人、800人のチャモロ人が住んでいました。また、多くの朝鮮人と沖縄の
人達も定住し、ロタの経済発展に貢献していました。交通機関では、日本郵船が日本・ロタ間の定期航路を開設し、人
々の異動や荷物の輸送に貢献していました。ロタの西港には石造りの埠頭があり、東港は人々の乗降船用に使用されて
いました。第二次世界大戦中、連合軍はロタを迂回して行ったため、食糧や医薬品が不足し、人々は困窮した生活を送
らざるを得ない状態でした。
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▲米国統治時代(1945-現在)
終戦後、国連は太平洋諸島の信託統治行政官に米国を指名しました。
アメリカ大陸と同じぐらい広大なこの領域は、ロタ島を含むミクロネシアWP取り囲んでいます。
やがて、ミクロネシア・ロタ・サイパン・テニアン諸島は米国の信託領ではなく、一つの連邦共和国として、認めるよ
う主張しました。1976年、米国との間で、北マリアナ連邦制定に関する条約が成立。1977年新憲法発布。
米国の統治下にもかかわらず、条約上北マリアナは民主的、且つ独自の政府を持ち、政治・経済をコントロールするユ
ニークな立場にあります。伝統的な農業を維持しながら、一方では観光業、そして中国、フィリピン、バングラディッ
シュ等の人々が雇用されている労働集約型産業が発展し、国の経済、人々の生活を支えるに至っています。
USA




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2016_05_03




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
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