哈爾浜から寝台特急列車で一晩走り、北朝鮮との国境の街、丹東を目指す。
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夜が明けた寝台特急の車窓からの景色。
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都会とは打って変わった田舎の農村地帯の景色が広がる。
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大都会や高層マンション群は見飽きていたので非常にのどかで良い風景だ。
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山が見え、日本でも赤煉瓦では無いが、地方へ行くと見られるのどかな風景と、どこか似ている。
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どこまでも続く大地とは少し違う大陸の風景。とにかく広い中国。色々な景色が堪能出来る。
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寝台特急とはいえ、ローカル線なので、丹東市に近くなると小さな駅にもほとんど止まる。
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駅の低さがお解り頂けるだろうか。昔は日本でもこの様な落差のある駅があった様な気がする。
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ローカル列車なので当然聞いた事の無い駅名ばかり・・・。
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朝の通勤渋滞かな~踏切待ちで混んでいた。
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何という駅だろう・・・全く読めない・・・
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▼一晩かけてやっと丹東に到着。ここから先(南)は北朝鮮だが、線路は続いているはずだ。
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中国の高速鉄道は2010年に初めて見て以来、変わっていないと思う(哈爾浜→丹東は高速鉄道には乗っていない)
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▼丹東駅、また大きな駅舎だ。
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▼駅舎内の待合所には、安東時代の駅舎などの写真が飾られている。
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▲昭和3年(1928年)の安東駅
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▲昭和16年(1941年)の安東駅
駅舎から出ると、此処はタクシーの呼び込み営業が凄い。外国人目がけてしつこいくらいに付きまとってくる・・・。
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▼中華人民共和国初代国家主席の毛沢東が居た・・・。
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▼丹東駅からほぼ真っ直ぐ南へ行くと、鴨緑江(おうりょくこう)に突き当たる。
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鴨緑江の反対側は北朝鮮・新義州市だ・・・。
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▲対岸の北朝鮮に数本の煙突が見える。日本統治時代の王子製紙朝鮮工場だ・・・。
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▲大正8年(1919年)操業開始の王子製紙朝鮮工場。今は北朝鮮が利用しているそうだが、煙が出ていなかった。
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中国と北朝鮮を結ぶ『鴨緑江大橋』(全長946.2m)が見えた。
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中国側を鴨緑江に沿って歩いて行く。
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この辺りは観光地なので、桜があったり公園があったり、大勢の観光客で賑わっていた。
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▼中国人ご夫婦が記念写真を撮っていた。
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『鴨緑江大橋』に近づいてきた。この橋は日本統治時代に建設されたと聞いたが、当時のままかどうかは解らない。
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▼また記念撮影している。朝鮮の民族衣装か?丹東市の人口は約220万人で内、朝鮮族の割合は20万人以上とされる。
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▼手漕ぎボート競走もやっているのかな?
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だんだん人が多くなってきた。
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中朝貿易最大の物流拠点『鴨緑江大橋』は、なかなか立派な橋だ。
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▼北朝鮮側から中国に入国するトラックの列が出来ている。ここから先は撮影禁止だ。
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▼丹東市の観光案内版
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北朝鮮との国境、鴨緑江大橋の他、今回は行けなかったが万里の長城の最東端『虎山長城』がある。
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▲中国語と英語と朝鮮語。当然だよね・・・ミサイル発射連発のこんな時期に観光に来る日本人は変わり者だね(笑)
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丁度、北朝鮮がミサイル発射連発で大きなニュースになっていた時だったが、中国ではそんな事は何処吹く風。
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撮影スポットである『鴨緑江断橋』。朝鮮戦争時に国連軍の爆撃で破壊され、真ん中で途切れたままの橋。
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▼遊覧船に乗って北朝鮮側と『鴨緑江断橋』・『鴨緑江大橋』を近づいて見学出来る。
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▼早速乗ってみる。
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▼出発
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▼『鴨緑江断橋』に向かう。重なって分かりにくいが橋が途中で終わっているのがお解りだろうか。右側が北朝鮮。
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▼『鴨緑江断橋』と『鴨緑江大橋』の下をくぐる。そしてしばらく行ってからUターンする。
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▼先程地上で見た中国へ入国を待つ北朝鮮側から来たトラックの列。
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▼北朝鮮側を見るとどこか寂しい感じだ。
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この地はかつて日本が統治していたんだな・・・日本統治時代のまま手つかずの建物も多く残っているかもしれない。
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▼このレトロチックな観覧車は稼働している所を見た事が無いという・・・。
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▼漁師?が川魚を獲っている様だった・・・。
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▼反対側の対岸は近代化された中国。川を挟み、左右で全く違う景色が広がる。
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▼またしばらくしてUターン。画像の左側が中国、右側が北朝鮮。格差を露骨に見る事が出来た・・・。
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遊覧船乗り場を後にして街をブラブラする。
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▼何だこれは?
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▼「英雄空軍」と書いてある。1951年(昭和26年)だから朝鮮戦争の最中で、「美国」とはアメリカの事だ・・・。
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お店が並んでいる・・・北朝鮮国旗も多く掲げられている。
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▼ハイエース?キャラバン?と思ったが、どちらでも無い様だ(笑)
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海鮮物が多い様だが、とてもこんな所で食事する気にはなれない。
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▼▲「北海道」?日本語でも「ほっかいどう」書いてある。本当かいな??多分嘘だろうけど・・・。
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当然この店にも行かなかったが、北朝鮮人が経営する飲食店は多く見られた。
あまり気の進まない丹東市観光だったが、丁度この日、北朝鮮が日本海に向けてミサイルを発射し、失敗したとの情報
をTVで見た。日本では東日本で電車が一時止まったりしたと聞いた。あの鴨緑江の向こう側から撃っているのである。
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ここまで大国になった中国が養護している北朝鮮・・・朝鮮戦争の歴史を踏まえると、韓国と中国との間にこの様な田
舎国家があった方が中国にとっては都合が良いのは当然だとも思った・・・。


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 2017_07_01

哈爾浜③

Category: 中国東北部   Tags: 731部隊  

哈爾浜②からの続き。
「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」を見終えて陳列館の外に出ると、旧731部隊本部跡の広い敷地内に出る。
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731部隊本部の建物が見えた。
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▲電動カートが並んでいる。敷地面積が広いので利用する人もいるのだろう。私は歩いて見て回った。
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▲赤印が現在地だ。
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▲反対側は当時南門だった方向。新しい陳列館が出来る前はここが入口だった様だ。
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▼▲現存する当時の南門衛兵所
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新しい陳列館が出来る前は、この南門衛兵所で、外国人のパスポートチェックや売店に利用されていたとの事。
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731部隊は独自の防衛施設を備え、周囲は長さ5km、高さ2.5m、幅1mの土壁で囲まれていた。壁の上には高電圧フェ
ンスが張り巡らされ、壁の外には壕が掘られ、土壁に沿って5つの衛兵所が設置されていた。
この南門衛兵所は日本人が本部大楼などに出入りする為に利用された通路で、現存する唯一の衛兵所。
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▼中に入る事も出来る。
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南門衛兵所の本来の位置はもう少し手前で、戦後奥に移設されているそうだ。
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さぁ、部隊本部を見学に行こう。
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部隊本部の建物は戦後、撤退の際に吹き飛ばされた屋根を修復し、哈爾浜市第25中学校として利用されていた。
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敷地内に新しい学校が完成し、子供達が新しい校舎で元気に学んでいた。
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731部隊本部が近づいてきた。赤煉瓦などは新しい物で修復されているのだろう、かなり綺麗な印象だ。
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保存に対する中国の気合を感じる修復だ・・・。
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昭和13年竣工の本部建屋には部隊長事務所、侍衛官室、診療部、標本陳列室、憲兵室などが設置されていた。
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▼正面玄関から東側棟を見る。
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▼正面玄関から西側棟を見る。
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731部隊本部大楼正面入り口には警備員らしき人が立っていた。
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早速、中に入っていく。
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2階へ通じる階段が正面に見えるが順路ではなさそうだ。
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731部隊本部建屋の見取り図だ。
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▲敷地地図
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1階部分を玄関より左右撮影。
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色々な部屋がある様だが、個別に見学する事はしなかった。
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▲この様に各部屋の入口には説明版があるのだが、何故かほとんどの入口に鍵がかかっていたからだ・・・。
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▲1階部分を東へどんどん進んでいく。
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▲突き当り手前で振り返って撮影。
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▲突き当り。
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▲突き当りの部屋は「人事課」となっていた。
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▲2階へ通じるこの細い階段は、石井部隊長の部屋に通じる部隊長専用階段だったそうだ。
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▲その階段を登り切るとご覧の通り。石井四郎陸軍軍医中将の使用していた部屋が再現されていた。
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豪華と言えば豪華だが、幹部の部屋としてはどこも同じかな?という印象だ。
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ただ、本土と違うのはやはり広さだろう。広い満州では建物・間取りが全てにおいて大きい。
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「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」で見たジオラマは此処を再現しているのであろう。
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ここで石井中将は、自分の天下が未来永劫続くと思っていたのだろうか・・・。
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現在は逆にその部屋が負の遺産として未来永劫保存されてしまった。
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部隊長以外は正面玄関の階段を使って2階へ行き、廊下の突き当りの石井部隊長の部屋を訪ねるという設計だ。
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多くの人が部隊長を訪ねて来たのだろう。待合場(接待室)が設けられている。
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▲「接待室」の隣は「副官室」
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中央階段に向かって2階部分を更に進む。
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中央階段が見えた。
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▲▼中央階段からの外の眺め。
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1階に降り、731部隊本部を後にした。
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▼正面に見える黒い建物が先程見学した「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」だ。
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▼南門衛兵所の方を振り返って撮影。
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▼見えている2階の一番手前が部隊長の部屋だ・・・。
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▼2008年11月に撮影された上記写真とほぼ同じアングル。かなり手が加えられている事が判る。
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本部建屋と繋がっている平屋の建物は武器庫だったらしい。
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▼2008年11月に撮影された上記写真とほぼ同じアングル。かなり手が加えられている事が判る。
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中国語オンリーで良く解らない・・・。
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▼途中から黒い鉄骨に変わっている部分から先がロ号棟だった敷地。徹底的に破壊し尽されて痕跡が残るのみ。
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▼2008年11月に撮影された上記写真とほぼ同じアングル。かなり手が加えられている事が判る。
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▼少し疲れたのでベンチで休憩する事にした。
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▲目の前の鉄骨は、ロ号棟跡地を屋根で覆う為に作られた雨除けだ。
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▲ベンチで休憩していると、1人の中国人男性が話しかけてきた。名前は周(シュウ)さんというお名前だそうだ。
 ほとんど話せない日本語を使い、一生懸命話をしてくる姿に感心し、「案内したい」との誘いをお受けした。
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周さんと一緒にロ号棟跡を見学する。
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雨でも雪でも見学出来る様に屋根が設けられ、まるで古代遺跡の様なロ号棟の基礎が保存されている・・・。
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▲「爆破地点」と書いてある。最初は建物の外から高射砲などで破壊を試みたそうだが、びくともせず、建物内で通常
のダイナマイトを爆破。それでもヒビが入る程度だったのでトラックで大量の500キロ爆弾を運び込み、それでやっと
破壊して証拠隠滅が行われたという。
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▼特設監獄7棟跡(7号牢獄)
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資料の通り赤煉瓦作りだった様だ・・・。
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▼特設監獄8棟跡(8号牢獄)
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ここに多くの囚人が監禁されていた・・・。
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▼ここにもロ号棟の模型が置いてあった。
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▼本部建屋と繋がっていた部分だ。
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▼ロ号棟跡から本部建屋をみる。
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周さんの案内で次へと移動する。
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▼周さんはマスクを欠かさない。綺麗になってきたと言っても中国の空気は良くはない。喉はイガイガのままだ。
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気が重い見学で、私が無口で居ると「70年前気にしない」と、宥める様に何度も声をかけてくれたのが印象的だった。
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▼▲本部建屋をさっきとは反対側から見る。
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▼周さんが「731ふたいある731ふたいある!こっちこっち」と、沈み気味の私を端の場所に連れっていってくれた。
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これには驚いた。731部隊が所有していたであろう旧日本軍の兵器が無造作に放置されていた・・・。
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トラックで牽引するタイプの機関銃?高射砲?だろうか・・・旧日本陸軍のこの兵器は初めて見た。
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▼▲「どうぞどうぞ」と座る様に言ってくるので座席に座ると、機関銃の角度も回転テーブル?もスムーズに動いた!
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「関東軍防疫給水部本部」と言っても軍隊だからね・・・空襲は無かっただろうから使って無いと思うけど。
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しかし、空からの備えとしては貧弱に思ったが、当時はもっと数があっただろうし、据え付け型もあったのだろう。
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▼「こっちこっち!」と周さんが呼ぶので行ってみると、何ともう1台あった!
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こちらはサスペンション部分が崩壊していた。
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しかし砲塔はしっかり残っている。「流石日本製!」と言いたいけど此処では言わなかった。
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▼名盤は残ってないかと必死に探したがそれらしい物は写真の物だけだった。僅かに漢字と数字が読み取れた。
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旧日本軍の兵器に触れて少し気が晴れた所で、また周さんと一緒に次の見学場所へ移動した。
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周さん有難う。
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▲次に見学したのは結核実験を行っていたと言う二木班の建物で、昭和60年に一部復元されたもの。
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病理試験室だった二木班の建物は昭和14年に建てられたが、こちらも部隊撤退の際、他の施設と同じく爆破された。
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当時は地下室も備えた実験施設として機能していたという。
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二木班の班長は二木秀雄。731部隊第一部第十一課(結核研究班)班長。
第731部隊慰霊碑である「精魂塔」(東京都にある多磨霊園内に昭和31年11月建立)の建立に尽力した人でもある。
実験材料にされた中国人・ロシア人もさることながら、731部隊員も約300名近い犠牲者が出ており、全ての犠牲者を
供養する意味もあるという。「懇心平等万霊供養塔」とも言う。
しかし、戦後、占領国であるアメリカとの取引により、裁判にかけられることもなく、存在自体が闇に葬られ、731部
隊第二部隊長だった北野政次、そして防疫研究室を取り仕切り、731部隊を国内で支えた内藤良一、そして二木秀雄の
3人は、共同事業の形で日本初の血液銀行を設立。
朝鮮戦争の際、米軍がその血液を大量に購入してくれるので当たり前のように事業は大成功。
後に「ミドリ十字」と命名された有名な会社である。 高度経済成長の中、ミドリ十字は日本有数の製薬会社に成長し、
昭和53年には米国アルファ・セラピュウテック社を買収。 この子会社はアメリカ貧民層の血液を恐ろしく安く買い集
めてミドリ十字に送ったのである。これが結果的に、薬害エイズ問題へと発展していった経緯がある。
旧日本陸軍731部隊隊員は、終戦後、米国との取引により活動時の内容を公開しない事となっているので、軍籍時の階
級等を示す形での墓石は存在しない。 戦犯を免責されたこれらの軍医達は、石井部隊長の命令を守って、部隊で行った
「人体実験」の事を絶対に口外しないことを誓って全国の大学や研究所などに散っていった。 その後彼等が年に1度集
まる親睦会「精魂会」の名簿は、副知事・大学学長・大学教授・病院長・研究所長・研究教授等の肩書きが並ぶ。
いずれも731部隊で中心的役割を果たしていた人物ばかりだ。この方達がいかに戦後、日本の医学会で影響力の大きい
地位を得ているかが想像出来る。
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平和な現在の結核実験施設跡周辺にはアヒルが元気に遊んでいた。
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次の見学に向かう。
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▲ロ号棟跡と次の見学地との間には、731部隊跡地敷地内の真ん中になんとマンションが建っている(写真左側)
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▲マンションをかわすような道を通って次の見学地へ。広い中国、あえて此処に住まなくてもいいのにな・・・。
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▲当時の遺構と思われる赤煉瓦塀
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▼簡単な門を通って敷地内に入る。
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▼凍傷実験(凍傷研究)の建物が・・・。
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▼吉村班(吉村寿人班長)の冷凍実験室。何とも不気味な建物だ・・・。
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元がどの様な施設だったか見当もつかない位に朽ち果てている・・・当時の写真等の資料も無いのでわからない。
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しかし、ここまで残っているという事は、此処は破壊途中で帰国したのか・・・。
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零下100度以上の速凍実験など、マルタと呼ばれた囚人を使って様々な実験が行われていたという。
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▼裏側にまわってみる。ガレージの様になっている・・・。
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▼早速ガレージの入口へ。
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▼入口横にも防空壕の様なコンクリートの遺構。今は掃除道具入れかな?
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中に入る・・・。
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凍傷実験施設だったという先入観からかもしれないが、寒気がした・・・。
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振り返って入口を撮影。
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いくら給料の高い731部隊と言えど、此処で働いていた隊員はさぞかし嫌だっただろう・・・。
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天井が普通の構造とは違う・・・冷凍室だから?誰よりも一番嫌だったのはマルタと呼ばれた囚人達だろう・・・。
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こんな不気味な戦争遺跡は初めてだ。丸型にくり貫かれた部分が異様な雰囲気をかもし出している・・・。
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凍傷実験施設を後にして次へと向かう。赤煉瓦塀が一帯に残る。
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▲「鼠飼育小屋」が見えた。動物実験の為に大量の鼠を飼育していたところだ・・・。
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▲防空壕かと思ったが、地下でも実験用の動物を飼っていたのか・・・。
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扉には鍵がかかっており、周さんに尋ねると、公開していないとの事。
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「鼠飼育小屋」へ向かう。
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振り返って撮影。
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「鼠飼育小屋」は入る事が出来る。
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何度もベニア板を張り替えているとは思うが、よく70年以上も建っているものだ。
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本当に戦争は色んな事をするもんだと改めて思う。「勝つ為に」結局、安くて楽に人を殺せる方法に流れてしまう。
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ある意味これも「戦跡」である・・・。
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特別班動物舎担当は石井部隊長の実弟、石井三男であった。石井三兄弟は、部隊長の四郎、特設監獄(丸太)担当の剛男
の三名が各部署の幹部として働き、731部隊に入隊する者は、圧倒的に石井兄弟の実家のある加茂(千葉県)の出身者が
多かった。縁故関係や郷土意識の強い者を集め、極秘の作戦や研究の秘匿性を強固なものにしていた。
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▲「鼠飼育小屋」を出て、マンションの方向を見ると、何やら慰霊碑の様なものがある・・・。
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何だこれは・・・?
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「謝罪と不戦平和の誓い」と書かれている・・・日本政府が建てた物では無さそうだ。でも日本語だ・・・。
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「日本ABC企画委員会一同」って何だ??2010年8月15日ってまだ新しい・・・元部隊員が建てた物でもなさそうだ。
敗戦後、米国との取引により活動時の内容を公開しない事となってから既に50年以上。アメリカ国家機密情報は50年
後公開されるというのを聞いた事がある。当然影響力の高い情報は滅多な事では公開されないと思うが、大量の人体実
験の資料が出回っている事からすると、アメリカ国立公文書記録管理局で50年後に公開された可能性が高い。
日本政府は、敗戦直前に生体実験の資料が焼却された事を理由に、どんな実験をしていたのかや、被害の実態を明らか
にはしていない。事実上はアメリカの傘の下で現在も「認めていない」立場のはずだが、いつまでも難しいだろう。
中華民国の国民党と中華人民共和国の共産党の争いの中で共産党が勝利したのは周知の事実。
日中共同声明は昭和24年(1949年)建国の中華人民共和国と交わされた中国と日本の約束が色々盛り込まれているが、
中華民国の国民党は日本に賠償を求めていた。しかしアメリカの強烈な圧力で賠償を諦めた。なので今の中華人民共和
国が昔を蒸し返して賠償を請求する様な器の小さい国では無いと思うし、「許すけど忘れない」と言ってくれている。
なので、日本政府は731部隊の事を今後どの様に日本国民に説明するのかにかかっていると思う。
世界の人達は知っているけど日本人は知らないというのは非常におかしな事で、それが色々な戦史で捏造を増殖させる
原因の1つになっていないだろうか。日本は戦後自由にものが言える国になったからといって、こんな重要な石碑を日
本政府の立場抜きに建ててしまうのも如何なものか?とも思った。でも、こうでもしないと前に進まないのか・・・。
 2014年2月完成の京都大学医学部資料館(京都市左京区)で、戦時中に同大学の医師が関与して細菌兵器を開発してい
た731部隊を説明する展示パネルが、直ぐに撤去された事もあった。ヤフーNEWSでも直ぐ消えた事を覚えている。
資料館は明治35年に建てられた医学部系統解剖講義室(旧解剖学講堂)で、京都大学歴史的建造物に指定されている。
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あからさまに頭を下げたりはしなかったが、石碑の前で目を閉じ、黙って犠牲者の冥福を祈った。
(※目を開けると、目の前のマンションの部屋から住民が何人かこちらを見学していた・・・。)
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周さんが「70年前気にしない」と、また言ってくれていた。優しい人だ・・・周さんと一緒に次の見学に向かった。
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731部隊専用の満鉄線の引き込み線路が今も残っている。
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▲上記2枚の写真は北向に撮影。
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ロ号棟などの主要施設を破壊した後、昭和20年8月11日~15日にかけて731部隊員やその家族は、ここから満鉄特別
貨車の約40両連結に乗って南下。安東を抜けて8月18日~8月25日、朝鮮(釜山)から船で舞鶴・島根・山口・長崎(佐
世保)などの本土の港に大量の資料や物資と共に帰還している。
昭和20年9月25日に石井四郎部隊長も帰国。アメリカと取引後の昭和26年に朝鮮戦争の前線に向かう。
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▲写真の南方向(朝鮮)へ撤退。当時関東軍のほとんどが南方戦線へ送られ、満州は放棄されたに等しい状態だった。
「沖縄戦」で紹介している第9師団(沖縄米軍上陸前に台湾へ移動)や第24師団は北満州からの移動。
北支那からは、独立混成第44旅団・山西省から第62師団などが沖縄に送られていた。
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▲線路からは巨大なボイラー室跡の遺構が見える。
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731部隊本部ボイラー室跡。観光案内等の写真に必ず掲載されている遺構だ・・・これか・・・ついに来てしまった。
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このボイラー室から731部隊施設全体に給湯され、セントラルヒーティングの設備が整っていた。
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▼何やら鉄骨が組まれている様だ。ひょっとして復元するつもりなのだろうか・・・!?
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ここで多くの資料が焼却された為、撤退の際に爆破され、3本あった中で2本の煙突のみがかろうじて残っている。
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原爆ドームの様に各所の補強は見られなかった。よくこの状態で70年以上も立っているものだ・・・。
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▼当時は3本の煙突が聳え立っていた事が古写真で確認出来る。
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▲▼この赤煉瓦であったであろう小屋も、周さんの話では731部隊本部当時の建物だそうだ。
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ボイラー室跡をぐるり一周して見てまわった。
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次は毒ガス実験室に向かった。
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ここも中に入る事が出来、2階部分に案内された。周辺が工事中だったが、周さんが特別に入れてくれた様だ。
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2階から見学していく。
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中央に小部屋があり、左右それぞれに大きな部屋が設けられている。
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▲入って右側の部屋。セントラルヒーティングの設備が残っている。
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▲入って左側の部屋。ここが毒ガス研究施設だった事を伺わせる物は何も残っていない。
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▲続いて1階の入口。扉が閉まっていたが、鍵がかかって無かったので開けてみた。
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工事現場の人達の物だろうか・・・物置きと化していた。此処は入ってはいけなかったのかもしれない。
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周さんが居なかったら、恐らく入る事は出来なかったであろう。
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セントラルヒーティングの設備は当時のままの様な気がした。
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1階の方が何か生々しい・・・実験施設だった匂いがプンプンする・・・。
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何か普通の部屋では無かった様な匂いがプンプンする・・・こんな間取りは珍しい。
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一通り見学して毒ガス実験室を出た。
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▲私が出ると、周さんが直ぐに1階入口の鍵をかけた。何人かの中国人が周さんに「見せろ」的な言葉を発している。
 この時、周さんがボランティアガイドの様な、この施設の何らかの関係者である事を確信した。周さん有難う。
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毒ガス実験室の隣は、半地下の毒ガス貯蔵庫。
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ここが正規の入口の様だが中に入る事は出来ない。
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地下で繋がっているであろう大きなコンクリート製の貯蔵庫が見える。
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▼朽ち果てかけていた扉の中にカメラをねじ込んで中を撮影。赤煉瓦塀で仕切りがされ、しかも綺麗に残っている。
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これで全ての遺構を見学し終わった。周さんにお礼を言って731部隊本部跡を後にした。
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この「負の遺産」を見学しに来る日本人は年間40人程だと周さんが言っていた。納得の数字だ。
私も、今回の「祖父母の軌跡を辿る旅」で東北部に来ていなかったら、一生来る事は無かっただろう。
訪れたからと言ってこれまでの考え方が変わる訳では無い。ただ事実としてこの目に焼き付けて日本に帰るだけだ。
かなりの長編となってしまった731部隊跡だが、このブログを閲覧している方達には、「行った様な気分」になって頂
ければ幸いだ。何故なら、日本人がわざわざ哈爾浜に足を運んでまで見学する価値があるかどうか疑問に思うからだ。
恐らく此処まで731部隊跡を紹介しているブログは他に無いと思うので、行った気になって、現在の状況・中国が言わ
んとする事を、個々それぞれが自分の意見と照らし合わせながらじっくり閲覧して頂ければそれで十分だと思う。
もし、このブログを閲覧しても、どうしても現地で見学したいという方がおられるのであればご連絡下さい。
信用出来る現地付き添い人(中国人)をご紹介します。(周さんではありません)
 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。
以上、中国東北部(旧満州)旅行、その6「哈爾浜旅行記③」を終わりとします。
次回は、その7「丹東(旧安東)旅行記」をお届けします。


本ブログに掲載している画像等のデータは、非営利に限り自由にお使いください。商用利用は一切禁止します。
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 2017_06_14

哈爾浜②

Category: 中国東北部   Tags: 731部隊  

哈爾浜訪問のもう1つの目的、それは、731部隊本部跡を見学しに行く事。
祖父母の軌跡巡りで長春(旧新京)で終わりにしようかと思っていたが、各地戦跡巡りで曲がりなりにも戦史に多少詳し
くなっていたので、気が重い思いをするのは解っていたが、731部隊本部跡はどうしても見ておきたかった。
2015年8月15日に「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」という新館がオープンし、見学にあたって、外国人でもパス
ポートの提示義務が必要無くなったと聞いていたし、もっと前は外国人(日本人)は立ち入れなかったと聞いていた。
歴史問題で日本をけん制する為、戦後70年目の節目に「抗日戦争と反ファシズム戦争勝利70年」と位置付ける習近平
指導部の記念活動の一環でリニューアルオープンしたという。良いも悪いも、そのお陰で行く気になった。
以前の様な「パスポート提示義務」があれば、自分が悪い事をしていなくても何となく行く気にはならなかっただろう
当然、「日本人歓迎の街であるはずがない」という思いが頭を占拠してしまっていたからだ。
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▲731部隊本部跡は、中央大街のある観光地からはバスで約40分程かかる。少し距離があるのでバス代は2元。
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▲途中、かなりディープな場所を通ってようやく近くまで到着。
近代化といっても広い中国。まだまだ全土が近代化されて綺麗になった訳では無い。
写真を撮るのが失礼にあたるのではないか、と思う様な村なども沢山ある・・・(撮影はしていない)
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▲入口だ・・・此処は哈爾濱市平房区。当時も平房(へいぼう)と呼ばれていたらしい。
現在平房区は哈爾浜開発区になっており、辺り一帯は工場が多数並んでいる。開発区だから日本企業もあるはずだ。
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しかし、平日だというのに特に渋滞や大型トラックなどが行き交う様子は見られなかった・・・。
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▲何処かの工場の従業員の様だが、行軍しながら並んでこっちへ歩いて来たので本当にビックリした。
72年前の事で、もう何も無いのは解っているのだが、731部隊本部跡付近という事で思わず少し構えてしまった。
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しかし、何か寂しい様な感じがする哈爾浜開発区だ。旧日本軍(関東軍)の印象が頭から離れないからかもしれないが、
中国の景気減速は色々な場所で肌で感じる事が出来る。もう世界の工場だった時代は終わった・・・。
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居住区が見えてきた。グランドハイエースかな?と思ったが違う様だ(笑)上手く作ってある。
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見えた!これが「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」か・・・手前の車はトヨタ・ヤリスLセダン。恐らく今年発売に
なったばかりのトヨタが中国で販売している日本名「ヴィッツ」の中国専用モデルだ。当然日本では売っていない。
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とうとう来てしまった・・・ここは哈爾濱市平房区新疆大街(しんきょうたいがい)25号。731部隊本部があった所だ。
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入館は、液体・ライターは入口で捨てなければならない。それ以外は何もなかったし、入場料は無料。
敷地内見学も全て無料で、中国の余裕が感じられた。日本では原爆資料館も遊就館も、安いけど有料だった・・・。
流石に世界文化遺産登録を目指しているだけあって、言語が6ヵ国・・・読んで字の如し既に重たい雰囲気だ・・・。
世界文化遺産登録は個人的には辞めて欲しいと思うが、アウシュヴィッツも世界遺産リストに登録されている事だし、
仕方無いのか・・・「負の世界遺産」だな・・・。
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PART1から見学していく。しかし「九・一八」歴史博物館の様に館内の展示物説明書に日本語訳は無かった・・・。
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中国語と英語のみか・・・こりゃ大変だ・・・。リニューアル前は日本語訳もあったと聞いていたのだが・・・。
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・・・ま、その通りだろうな・・・731部隊(満州第七三一部隊)の正式名称は「関東軍防疫給水部本部」。
防疫や水の供給の研究を行っていた他、細菌戦に必要な生物兵器の研究・開発の為、現地での捕虜などに対して人体実
験も行っていたとされている機関だ。長春(旧新京)の第100部隊(関東軍軍馬防疫廠)も書いてある・・・。
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「九・一八」歴史博物館の様に館内の展示物説明書に日本語訳が無いので、説明書は撮影しなかった。
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話す事は出来ないが、漢字なのである程度は理解出来るのが中国語の良い所。英語だと満州の地名が全く解らない。
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▲南京中央病院にあった第1644部隊(栄一六四四部隊)南京でも細菌戦研究をしていたんだ・・・。
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▲広州市の中山医科大学にあった第8604部隊(波八六〇四部隊)。
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▲シンガポ-ルのエドワ-ド7世医科大学病院にあった第9420部隊(岡九四二〇部隊)シンガポ-ルって・・・。
防疫給水部(ぼうえききゅうすいぶ)は大日本帝国陸軍に置かれた、疫病対策を目的とした医務、ならびに浄水を代表
するライフライン確保を目的とした部隊で、自然に存在する病原体に対しての防疫活動の他、生物兵器に対する防護
としての防疫も任務であった。しかし各部隊は生物兵器や化学兵器の研究開発機関として細菌戦研究が主な役割だっ
たとされている。
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本物も複製もあるとの事だが、どちらにしても悲しい事実だな・・・結局、殺し合いは最後はこうなるんだね・・・。
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スパイの疑いをかけられたロシア人や、レジスタンスの八路軍兵士(中国人)や、その協力者の疑いをかけられた者は、
憲兵隊や特務機関に捕らえられ、多くの場合、拷問を受け、正式な裁判もないままに処刑されていた。
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▲康徳五年六月三十日か。康徳元年が昭和9年だから昭和13年か。よくこんな物が残っているもんだ・・・。
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▲東京の陸軍軍医学校防疫研究室か・・・ここから石井四郎を中心にして研究活動が始まったんだ・・・。
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陸軍軍医学校と共同作業だったというが、軍医には良心がある人も沢山居ただろうに・・・だって一応医者でしょ。
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細菌戦を実行する為に多くの中国人・ロシア人捕虜達が実験材料にされたとされている・・・。
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▲「遠藤日誌」この本がきっかけで多くの日本人が知るところとなった訳だ・・・。
遠藤三郎は元陸軍中将。明治37年8月1日~昭和59年9月9日まで一日も欠かさず生涯にわたり「日誌」を書き残した。
「極秘」のスタンプが押された軍事機密書類も数十点含まれる93冊は、埼玉県狭山市立博物館に寄託され、研究者の
みの閲覧が可能となっている。一般人は見る事が出来ない・・・。
戦後の昭和56年に『悪魔の飽食』という本が角川書店から出版されて反響を呼んだが、捏造写真が多数含まれている
として、昭和58年『新版悪魔の飽食』として再出版された。(著者 森村誠一)
帝銀事件などで731部隊の存在が噂される事はあったが、本著以降、国内で広く731部隊の存在が認識されるターニン
グポイントとなった。この作品を元にした混声合唱組曲(池辺晋一郎作曲)・劇も作られ、劇を元に中国で映画が制作
された「黒い太陽731」YouTube※映画は想像で描かれた部分が多数あり、全て事実では無いが大筋あっていると思う
南方戦跡の慰霊碑を見てきたが、何処も隊や政府や個人が個別に建ててバラバラ・・・結局、日本人の敵は日本人?
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▲川島 清は731部隊第四部細菌製造部長で、敗戦時、逃げ遅れてソ連の捕虜になった人だ。
そして、細菌戦に関わった12名の関係者が、ソ連のハバロフスクで裁判にかけられて証言した人物の事を言っている。
萩原英夫は元憲兵で、731部隊本部建築に携わった鈴木組の一員として本部の建設工事に加わった経緯がある。
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▼731部隊長 石井四郎軍医中将(何故か写真が逆だ・・・服のボタンのかけ方が逆になっている・・・)
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▼よく見かける写真はこちら。立派な陳列館なのに・・・このへんが中国と言ってしまえばそれまでだが・・・。
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人体実験や細菌兵器開発で有名な石井四郎軍医中将だが、防疫給水でも成果を挙げ、防疫給水部は衛生部隊として、日
本初となる感状授与の栄誉を受け、金鵄勲章と陸軍技術有功賞を受けた人だ。(防疫給水に関して自作自演の噂もある)
南方戦線の劣悪環境で戦死していった日本兵を想うと、石井部隊は南方戦線で防疫・給水任務で活躍してほしかった。
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昭和17年8月1~昭和20年3月1日までは石井四郎の後任として北野 政次陸軍軍医中将が第2代部隊長を務めている。
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「九・一八」歴史博物館に北野 政次軍医中将が当時使っていた椅子と机が展示されている。DSCN9991_convert_20170613103532.jpg
昭和20年4月~支那派遣軍(上海)第13軍軍医部長となる。8月、終戦に伴い上海で捕虜となり、刑務所に拘留される。
昭和21年1月9日捕虜を解放されて上海から千葉県へ帰国。
昭和34年日本ブラッドバンク取蹄役、東京プラント長に就任。10月、石井四郎の死去に伴い葬儀委員長を務める。
昭和61年死去。享年91歳。
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(「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」に話を戻します)
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資料が少ないと言われているが、結構沢山写真が残っているもんだ・・・。
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1938年(昭和13年)末頃、731部隊が満州国賓江省双城縣平房の地点に大工事の入札を行った。
松村組が落札し、本部の建設は1939年(昭和14年)に着手、翌年完成した。そして1940年(昭和15年)に部隊員が移動
して来ている。731部隊の施設は、新京(現在長春)にあった関東軍司令部が直接監督し、工務関係部署の念入りな設計
と、日本特殊工業・大林組他、軍の御用業者の手による施工で完成した。
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▲このフロアは、足元のガラスの下が巨大な731部隊本部を再現した模型ジオラマとなっている。
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▲後で見学する事になるが、①②は現存している。③は731部隊が爆破して帰国しているので跡しか残っていない。
③はロ号棟と呼ばれた生体実験を繰り返したとされる収容所。内側の2棟は7号牢獄と8号牢獄という特設監獄だった。
この写真は、全体の写真を撮っていると、中国人見学者が私に「ここが重要だ、ここを撮れ」と中国語で一生懸命話か
けてきた。一目見て私が日本人だと解ったのであろう・・・キツイ言い方では無かったが、中国語でも何となく言いた
い事は理解出来た・・・「解ってますよ。」と日本語で返事をすると、多少柔らかい表情になって去って行った。
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▲地図の緑の部分が「ロ号棟」特設監獄があった場所。爆破処分された為、現在は基礎部分の跡のみが残る。
 青い部分は、今見学している「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」がある場所だ。
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▲完成まもない頃の哈爾浜731部隊本部の空撮。写真右方向が北だ。下に飛行場格納庫が写っている。
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特設監獄の造りは非常に頑丈で、ソ連参戦の日、1945年8月9日に部隊は特設監獄の破壊を決定したが、通常のダイナ
マイトでは壊れなかった為、トラックで大量の500キロ爆弾を運び込み、それでやっと破壊して証拠隠滅が行われた。
これらの作業は、監獄の存在を秘密にしておく為、部隊敷地内の工兵隊にも頼まず、その存在を知っている部隊員だけ
に密かに行わせたという。
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憲兵隊や特務機関に捕らえられ「どのみち殺される」存在とされていた囚人達は、「どうせ死ぬのなら、お国の為に役
立って死ね」という論理により、人体実験や生体解剖による殺害が正当化されていたとされている。
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▼少年兵の様に見える。貧しい家庭が多かった内地の少年だろうか。甘い誘いと徴兵義務で極寒の地に来たのか・・・
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▲2月か・・・哈爾浜の2月は極寒だろう・・・4ヵ月位しか暖かい季節は無いから部隊員も大変だったであろう。
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▲▼女性が写っているのには驚いた。彼女達も当然人体実験の噂ぐらいは知っていただろう。
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※[ 証言 ]七三一石井部隊 今、初めて明かす女子隊員の記録 という本があるらしい。機会がれば読んでみたい。
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何でこんな物が哈爾浜の731部隊跡に沢山残っているんだろう。ソ連と戦わず逃げて帰ったのに・・持って帰れよ・・。
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あまりこういう勲章の様な物には興味が無いが、本物か?これ・・・。
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「どのみち殺される」者の利用は、強制収容所のユダヤ人・ロマの人々やポーランド人を実験に利用したナチスドイツ
と構造的に共通している。社会主義者や共産主義者に対する差別思想は、当時日本本土でも「アカ」とされた人々が拷
問や虐殺に遭った時代・・・「硫黄島からの手紙」の映画でも「アカ」という言葉は聞いた事がある。
それが外地(中国)の筋金入りの「アカ」に対しては、残虐に扱う事への抵抗が少なかったのかもしれない・・・。
特に捕らえられても毅然として拷問に屈しないソ連のスパイや八路軍兵士には、なおさら恐怖と憎悪の念を募らせたは
ずだ・・・今では考えられない思考回路になっていた日本人が多かったのも事実だ・・・。
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▼満州国には哈爾浜の本部を合わせて6ヵ所も支部があったという事か・・・。
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▼孫呉(そんご)支部(満州第673部隊)
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▼牡丹江(ぼたんこう)支部(満州第643部隊)
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▼林口(りんこう)支部(満州第162部隊)
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▼大連(だいれん)支部(満州第319部隊)大連にもあったんだ・・・施設はまだ残っているのかな・・・?
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あとは、海拉爾(ハイラル)支部(満州第543部隊)か・・・(写真撮り忘れ)
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やっと1階フロアを見学し終え、エスカレーターで2階へ上がってきた。
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「九・一八」歴史博物館も此処も、とにかく大きい。陳列館だけの広さはトヨタ博物館並みだ・・・遊就館の比で無い。
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▲PART3「人体実験」のフロアだ・・・。
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頭の良い医学者達がこの顕微鏡を使い、罪悪感を胸にしまい込んで日々一生懸命研究していたんだ・・・
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▼長春にあったと書いてある・・・新京にあった第100部隊の物か・・・。
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旧日本軍の医療品関係品は見た事が無かった。南方戦跡の博物館で程度の良い物はあまり見かけない・・・。
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アルミでしっかり作られている・・・医療関連品は兵器以上に丁寧な作りの様な気がした。
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マウスを使った実験の事か・・・。
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動物実験で留めておけば良かったが・・・とことんいってしまうんだろうな・・・結果が欲しくて。
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▼現存する「鼠飼育小屋」
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小屋の中もしっかり当時のまま残っている。動物実験に関しての建物は爆破処分されずに残った様だ。
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▼地図上の赤矢印の黒部分辺りに「鼠飼育小屋」は現存する(青部分が今居る「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」)
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▼このフロアは床が全面「鼠飼育小屋」になっている・・・凄い演出だ・・・。
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色々な道具が残っている・・・。
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▼現存する鼠飼育小屋の他にもこんなにあったんだ・・・広大な敷地だから恐らく沢山色々な施設があったのだろう。
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▼▲この古写真の施設は現存していない。
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田中班班長 田中英雄や動物飼養班班長 石井三男・ 植物菌研究だった八木沢班班長 八木沢行正が紹介されている
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石井四郎が戦犯免責と引き換えに米軍に渡した研究データ。この膨大な資料が引き伸ばされて展示されている。
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アメリカに引き渡されたデータは約80%と言われているが・・・言葉が無い・・・。
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TOP SECRETと書かれた全ての資料は旧日本軍石井部隊の研究結果だ・・・。
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敗戦を知った時、何故此処で自決出来なかったのか・・・戦地では大勢の日本兵や幹部が自決しているというのに。
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百歩譲ってこの人体実験が「お国の為」ならば、全て証拠隠滅して自決するのも「お国の為」ではないのか・・・。
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今こうやって哈爾浜の地で「日本の恥」が全世界の人に晒されている・・・嘘だと思いたいが、そうでもなさそうだ
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また目を覆いたくなるようなセットが作られている・・・。
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ロ号棟の中での解剖実験室のジオラマだ・・・。
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731部隊員の多くは戦後医学界に復帰しているが、この研究成果が現代の医療に生かされているとは思えない。
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いや、思いたくない・・・。
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岡本班班長 病理研究だった岡本耕造・石川太刀雄丸・(もう1人は読み方解らず)は解剖技師だったと書いてある。
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▲死体焼却炉のレンガの残骸か・・・古写真の半壊した焼却炉は現存しない。
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▲▼この写真は「九・一八」歴史博物館に展示してあった731部隊を紹介するジオラマ。
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▲▼「九・一八」歴史博物館に展示するよりここに展示した方がいいのではないだろうか・・・。
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(侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館に話を戻します)
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人体野外実験か・・・。当時731部隊本部から北西へ約260キロ離れた場所に、731部隊専用の特設野外実験場だった
「安達(アンダー)野外実験場」があったという。
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▲元731部隊航空班の隊員だった松本正一という人の証言記録映像が流れていた・・・。
松本正一さんは埼玉県出身、19歳で仙台の陸軍飛行学校入校、8ヵ月の訓練後、熊谷飛行学校で半年間戦闘機乗りの実
用訓練を受けたパイロットだ。731部隊航空班の軍属として着任、26歳で終戦を迎えるまでの7年間731部隊航空班の
パイロットとして働いた。給料は当時の20歳前後の若者の2倍だったという。
松本によると、満州の細菌戦部隊の中で航空機を持っていたのは731部隊だけだったという。
731部隊航空班が所有していたのは88式2型(2人乗り偵察爆撃機)・91式(1人乗り戦闘機)・94式偵察機・97式軽爆磯
輸送用に使われていた重爆機などのかなり旧式の低性能機だった。
▼赤矢印の部分が飛行場だったが現在は残っていない。(青い部分が今居る「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」)
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つまり、731部隊が細菌兵器の研究・開発の総元締めであったと同時に、実戦部隊であった事を物語っている。
航空機による細菌作戦の実験と実戦以外にも、航空班の仕事があった。それは本土からネズミを輸送する事だった。
埼玉県春日部市では、1万軒にも上る農家が副業としてネズミを飼育していた。
松本は「731部隊本部から重爆撃機を操縦して春日部へネズミをとりに行った。大きい箱には約300匹、小さい箱には
約200匹入り、1回で約3000匹を運び、731部隊他、南京・シンガポール・ジャワへも輸送した」と証言している。
特設実験場だった「安達実験場」の上空から捕虜達の上に腸チフス菌を詰めた陶器製爆弾(宇治式爆弾)を1度投下した
事があると証言している。勤務中に菌液が機内に充満する事故で、同期生の鈴木さんが亡くなったそうだ。
石井隊長専用機の操縦担当だった、航空班班長で細菌戦実戦パイロットの増田美保少佐が平房を離れられない時は、
松本が石井隊長を乗せて東京へ飛ぶ事があった。その時は立川の飛行場へ降りることが多かったという。
敗戦直前の731部隊施設の爆破隠蔽工作に携わった後、松本は飛行機で平壌へ。後、帰国したとの事。
※増田美保少佐(薬剤将校)は航空班々長。細菌戦部隊のパイロットで、石井部隊長の親戚。戦後防衛大学校教官。
※宇治式爆弾とは石井四郎が開発した陶器製爆弾の事で、ウジ弾と呼ばれていた。
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▼このフロアは野外実験場のジオラマだ・・・。
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十字架に捕虜(マルタと呼ばれていた)をくくりつけて空から細菌爆弾を投下したって事か・・・。
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色々残っている様だが、何に使った物なのか良く解らなかった・・・。
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▼▲731部隊航空班で開発したという菌液雨下装置の圧搾空気のボンベか・・・?
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「凍傷実験」か・・・吉村班の事だな。
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毎年酷寒(零下20度以下)の1年中で一番寒い月(11月・12月・1月・2月)に部隊内で行われていたとされる凍傷実験。
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この研究は、将来再び起こるであろう対ソ戦を目的として行われていたという。
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▲凍傷研究の責任者だった吉村寿人(よしむら ひさと)班長と、越 定男部隊員(運輸班)が紹介されている。
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吉村班長は、生理学者として師である正路倫之助(兵庫県立医科大学、後の神戸医科大学初代学長)より731部隊に赴任
するよう命じられ、凍傷研究に従事した。吉村の731部隊における研究について、かつての部下らによるハバロフスク
裁判での証言やイギリスの取材陣らが収集した証拠資料と証言資料では、人体実験での貴重な「研究」とされる。
戦後、731部隊の人体実験のデータと推定されるものを用いて日本生理学会に論文を多数発表する。
京都大学に戻り、正路倫之助が学長になった兵庫県立医科大学(現在の神戸大学医学部)に移動して研究を続け、その後
京都府立医科大学の教授となり、学長も務めた。
1978年(昭和53年)「環境適応学」の先駆的業績を果たした功績に勲三等旭日章が授与された。(ウィキペディアより)
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▲吉村班の冷凍実験室は朽ち果てながらも辛うじて現存していた(地図上4の茶色で囲っている部分)
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嫌々ながら送り込まれた吉村班長のような研究者にとっても、731部隊の研究施設は、研究費・設備・研究資材等、
どの点においても夢の様に贅沢な場所だった。731部隊は当時のお金で年間1千万円(現在の貨幣価値の約90億円)も
の莫大な経費を使っており、半分の500万円が研究事業費だった(残り半分の500万円は人件費)。
国家総動員体制が敷かれていた日本において石井部隊は、自分の研究テーマに制約なく研究に没頭できる「理想的」な
環境にあったという。石井部隊長は出身大学である京都大学医学部の教授達の協力を取り付けていた。
京大だけでなく、東京大学医学部・東京大学伝染病研究所・大阪大学・慶応義塾大学・東北大学・熊本医科大学・北海
道大学・金沢医科大学などの教授達を、陸軍軍医学校防疫研究室の「嘱託」にし、石井部隊長はこれらの教授達を通し
て優秀な弟子を石井部隊へ派遣してもらい、研究者を確保していた。
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▲軍馬もガスマスクをしている・・・生々しいジオラマだ・・・。
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▲毒ガス実験のジオラマか・・・ロシア人親子と書いてある・・・。
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▲右上の毒ガス貯蔵庫は現存している。
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毒ガス貯蔵庫を見学しながら「大久野島」を思い出していた・・・。
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▲大量の旧日本軍ガスマスクの展示
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千羽鶴が見えた・・・あえて写真は撮らなかったが、元隊員達が送った物なのか・・・。
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▲逮捕された者達はこのダッジ(Dodge)の特別トラックで哈爾浜駅から731部隊本部まで連れてこられた。
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元731部隊運輸班だった越 定男元隊員が証言している。戦後「日の丸は紅い泪に」という告白記を出した人だ・・・
昭和58年に本を出した後、相当な嫌がらせを受けたらしい・・・うぅ・・・難しい話だな・・・。
この特別トラック(4.5トン車)の荷台にはトイレも完備されていたと越 定男元隊員は証言している。
他、731部隊本部に隣接していた専用飛行場には、友軍機と言えども着陸を許されず、東京からの客は新京(現・長春)
の飛行場から平房までは汽車だった。しかし、視察に来た東条首相らの飛行機は専用飛行場に降りたのを見たという。
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しかし、本物かな・・・これ。朽ち果てて残されていた本物をレストアしたのだろうか・・・?
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旧日本軍の使ったダッジトラックのバンを初めて見た。不謹慎だがカッコいいと思った・・・これ欲しい・・・!
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日本最大と言われる石川県にある日本自動車博物館にも行った事があるが、流石にこれは無かったな・・・。
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▲参考画像。少し新しいが1947年式ダッジトラック(Dodge truck)。この荷台部分をバンに改造したのだろう。
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▲▼新京(現在の長春)にあった関東軍司令部と関東憲兵隊司令部が紹介されている。(今も建物は現存する)
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当時731部隊本部に連れてこられた囚人(捕虜)達は新京から連れて来られた人が多かったと言う。近いからか・・・。
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▲元731部隊員達の証言映像が流されている・・・下の黒電話は当時使われていた物か!?内地でも高級品のはず。
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「特設監獄」
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▲731部隊特別班の班長だった石井剛男班長は石井四郎部隊長の実弟で石井兄弟の次男。
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▼ロの字の内側にある2棟が7号牢獄と8号牢獄と呼ばれた特設監獄だった。
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▲当時のロ号棟を上空から撮影した物。終戦直前に跡形も無く爆破処分された。
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▲特設監獄の模型
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▲特設監獄の鍵か・・・。
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▲石井剛男班長の下で、特別班の囚人の健康診断をする部門に勤務していた石橋直方部隊員が紹介されていた。
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▲石橋直方 元部隊員がスケッチしたロ号棟と特設監獄7号牢獄と8号牢獄。
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「牡丹江事件」
1941年(昭和16年)敬蘭芝(けいらんし)さんが、夫の朱之盈(しゅしえい)さんと共に憲兵隊に捕まり、拷問の末に敬蘭芝
さんは釈放されたが、夫はそのまま「特移扱」となって731部隊に送られ、帰らぬ人となった。
「大連黒石礁事件」
1943年(昭和18年)王亦兵(おうえきへい)さんの父、王耀軒さんと叔父の王学年が憲兵隊に捕まり、拷問の末「特移扱」
となって731部隊に送られ、帰らぬ人となった。
などが紹介されている。
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昭和47年(1972年)田中角栄が命を懸けて訪中した際に「一切の賠償をお互いに求めない」という、対日賠償請求権の
放棄を約束してくれた周恩来首相。日中国交正常化が成された日中共同宣言を思い出した・・・。
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やっとPART3まで見終えた・・・しかしまだPART4もあるようだ・・・何という広さと量だ・・・。
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わぁ・・・風船爆弾だ・・・。
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▲細菌陶器爆弾の破片。日本にあった物と書いてある・・・。「大久野島」か・・・?
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▲▼細菌陶器爆弾だ・・・本物か?レプリカか?いや、本物っぽいな・・・。
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▲▼「九・一八」歴史博物館に展示してあった細菌陶器爆弾。こっちがレプリカだな・・・。
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▲「八八式炸弾延期引」と書いてる・・・何だろう?
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▲▼細菌陶器爆弾の図面か・・・。
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▲731部隊と直接関係あるのか無いのか「ふ号作戦」で使用された風船爆弾の紹介だ・・・。
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風船爆弾の爆弾も細菌爆弾だったからな・・・。実際1個アメリカに到達して被害を与えている事実がある。
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▲日本本土で風船爆弾を作る動員学徒の女学生の古写真。恐らく「大久野島」で撮影された写真だろう。
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▲川島 清軍医少将は731部隊第四部細菌製造部長で、ハバロフスク裁判にかけられて証言した1人だ。
 太田 澄は南京の第1644部隊(栄一六四四部隊)3代目隊長で、731部隊第二部長。細菌戦を指揮したとされる。
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▲「田村良雄が哈爾浜で使い方を説明」と書いてある・・・元731部隊少年兵だった篠塚良雄元隊員の事だ・・・。
この方の経歴を書くと長くなるのでウイキペディアを参考にして頂きたい。通化事件(つうかじけん)など奥が深い。
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▲名盤には「アクメ乾熱滅菌器 株式会社島津製作所」と書かれている・・島津製作所って戦時中からあるんだ・・。
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在日本国内と書いているから、終戦後本土から没収された物だろう・・・。
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▼「PART5」どこまであるのか・・・。
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▼▲何のジオラマだこれ?「Submision of the letter written in blood」と書かれている・・・。
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「血で書かれた手紙の提出」??
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昭和14年のノモンハン事件の事だ・・・。
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またジオラマだ・・・738高地と書いてある。
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ノモンハン事件で石井部隊が細菌戦を行ったと書いてある。
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出動部隊の給水支援を行う事となり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個他を編成して現地へ派遣。
当時部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。
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最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。
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その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった関東軍 荻洲立兵中将から衛生部隊としては日本初と
なる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。
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空から細菌を撒いたんだ・・・。
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原爆もそうだけど、殺し合いは結局とことんまでいってしまうのね・・・はぁ~・・・(呆)
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▲陸軍一式双発輸送機か?ロ式輸送機?のエンジンをかけている・・・場所は哈爾浜731部隊本部か?
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▲(参考画像)陸軍一式輸送機
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▲元731部隊航空班だった松本正一元隊員。
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▲満州国は、ソ連参戦まで本土と比べ、比較的食糧事情は良かった様で、ふっくらした隊員もいる。
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▼「PART6」やっと最後の展示まで来た。
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昭和20年8月9日ソ連参戦で731部隊は特設監獄の破壊を決定。8月12日その存在を知っている部隊員だけで破壊工作
証拠隠滅が行われた。
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破壊されたロ号棟跡のジオラマだ。
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ロ号棟に監禁されていた囚人(マルタ)は昭和20年8月10日の朝食に毒を混ぜて殺害。それでも死ななかった者には容赦
なく機関銃が向けられ、全員殺害された。ロ号棟中庭に穴を掘り、死体はそこに埋められた。
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▼残された残骸などが無造作に展示されている。
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▼▲HIGH PRESSURE STEAM STERILIZATION TANKと書かれている。高圧蒸気滅菌タンクの残骸だ・・・。
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▼残された新聞の欠片だろう・・・高島屋のロゴが確認出来る。
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▲私はかなり時間をかけて見学していたので、見学者の合間を狙って撮影していたが、実際は、写真に写っている様な
状態で、かなりの見学者数だった。修学旅行と思われる学生団体にも遭遇し、涙ぐむ女性生徒も多く見かけた。
しかし、中国人は皆、展示に見入る事は少なく、素早くあっさり見学してる感じだった。
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施設を破壊した後、8月14日731部隊員やその家族は、敷地内の引き込み満鉄線特別貨車約40両連結に乗って南下。
8月24日に朝鮮(釜山)から船で島根・山口・長崎などの本土の港に大量の資料や物資と共に帰還している。
(大本営に証拠隠滅写真を提出する為、石井部隊長は大連で爆破後の写真(映像)を現像している。)
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▲731部隊長石井四郎とアメリカ占領軍との研究資料に関する取引の事を言っている・・・。
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▲「障子の向こうで密かに密約が交わされた」みたいな凝った演出で紹介されている。
古写真に写るのはアメリカ軍のマレー·サンダース陸軍中佐でアメリカ合衆国の細菌学者(軍医)。
昭和20年9月アメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ)の命でつくられた科学情報調査団(通称コンプトン調査団)の一員とし
て横浜に上陸。元軍医内藤良一や政治家亀井貫一郎を窓口に、関東軍防疫給水部本部(731部隊)の本格調査に入った。
紹介された関係者を尋問しても、みな実態についてほとんど何も知らないことに業を煮やし、内藤に対し「皆がもし真
実を語るならその秘密を守り戦争犯罪人として訴追しないことを約束する」と述べた。内藤はサンダースと交渉、サン
ダースは連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに内藤らの戦犯免責を提言した。
後に人体実験の資料など研究成果の提供を交換条件として、731部隊関係者は戦争犯罪に問われないこととなった。
同年10月に日本での調査を終え帰国、11月1日付で調査報告書(「サンダース・レポート」)をアメリカ国防総省に提
出した。(ウイキペディアより)
※第1次・第2次のレポートは旧731部隊員が証言しなかった為、人体実験の事実が明るみになる事は無かった。
 昭和22年6月20日にペンタゴン宛に出された第3次レーポート(フェルレポート)で人体実験の証言が提出された。
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逃げ遅れた哈爾浜本部以外の支部隊員は昭和20年8月22日武装解除。
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遼寧省瀋陽市と山西省太原市の2カ所で「日本戦犯特別軍事法廷」が開かれた。最高で禁固20年の判決が出た。
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※ソ連のハバロフスク裁判の判決では、死刑判決は無く、最高刑は懲役(強制労働)25年。
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19名が紹介されているが、お名前がわかる範囲は以下の通り。
高橋隆篤 獣医中将。関東軍臨時病馬収容所所長、関東軍獣医部長などの職を務めた。
昭和24年ハバロフスク裁判で強制労働25年の刑に処せられる。昭和27年脳出血のためソ連で死去。

柄沢十三夫 軍医少佐。731部隊第4部細菌製造課課長。ハバロフスク裁判で強制労働20年の刑に処せられる。
昭和31年12月26日釈放帰国と知るも、約1ヶ月前に自決した。

山田乙三 大将。関東軍司令官を務め、8月9日ソ連参戦後、総司令部を新京から通化に撤退させ持久戦を図る。19日ジ
ャリコウヴォのワシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を開始。
その後、関東軍総参謀長秦彦三郎や総参謀副長松村知勝、作戦主任参謀草地貞吾らと共にソ連に抑留され、10年以上
経って日本へ帰国した。

梶塚隆二 軍医中将。陸軍省医務局衛生課長、関東軍軍医部長を務めた。731部隊を監督する立場にあったことから、
昭和24年、ハバロフスク裁判で強制労働25年の刑に処せられる。昭和31年に帰国。

川島清 軍医少将。1934東郷部隊、731部隊第4部長を務めた。ハバロフスク裁判で強制労働25年の刑に処せられる。
川島少将はハバロフスク裁判で「人類に対する日本の犯罪は、徹底的に暴露されるべきだ」と言っている。

平桜今作 獣医中尉。新京第100部隊研究員。細菌・毒物を製造。ハバロフスク裁判で強制労働10年の刑に処せられる。
ハバロフスク裁判で「細菌戦争の責任をもちながら被告席にいない天皇、石井四郎の厳罰を望む」と言っている。

三友一男 獣医軍曹。昭和19年9月まで新京第100部隊所属。昭和23年に逮補され、ハバロフスク軍事裁判で強制労働
15年の刑に処せられる。

齋藤美夫 少将。憲兵隊長春憲兵分隊長、華南日本派遣憲兵隊隊長、満州国陸軍少将、憲兵訓練処処長を歴任。
西俊英 軍医中佐。731部隊教育部長 兼 孫呉支部長を務め、ハバロフスク軍事裁判で強制労働18年の刑に処せられる。
榊原秀夫 林口支部長。満州駐屯第1師団歩兵第57連隊附軍医、関東軍防疫給水部林口支部長を務めた。
小林喜一 分隊長。奉天日本憲兵分隊長などの職を務め、昭和20年8月20日、瀋陽でソ連軍の捕虜となった。
西永彰治 分隊長。 延吉間島日本派遣憲兵長、開封憲兵分隊長などを務めた。
木村光明 分隊長。満州国勃利縣憲兵分隊隊長を務めた。
志村行雄 海拉爾(ハイラル)日本憲兵隊隊長。
堀口正雄 新京憲兵隊惇化憲兵分隊長と錦州憲兵隊中佐隊長を務めた。
上坪鉄一 憲兵隊中佐隊長。鶏寧・東安・四平で職を務めた。昭和20年8月24日ソ連軍によって拘留された。
蜂須賀重雄 旅順で警察を担当、昭和19年奉天鉄道警護上校団長に就任。昭和20年9月28日に逮捕された。
藤田茂 師団長。陸軍騎兵第28連隊大佐連隊長、第43軍第59師団師団長務め、昭和20年8月朝鮮咸興で捕虜となった。
原弘志 満洲国鉄道警護総隊総監部警備科長、鉄路警護軍少将参謀長を務め、昭和20年9月に捕虜となった。

この様に満州に取り残された者や山田乙三大将の様に戦おうとした者も含め、捕らえられた日本軍将兵は、敗戦後の外
地で中国やソ連の裁きを受ける事となる。石井部隊長を筆頭に本土へ逃げ帰った者達は、秘密は墓場まで持っていくべ
きではなかったのか?それが出来ないのであれば現地で自決するか、素直に捕らえられるべきではなかったのか・・・
「嘘つきは泥棒の始まり」と言われるが、満州を泥棒したのであれば、最後まで嘘はつき通すべきではなかったのか?
戦争を知らない世代で、当時を生きていない者が何も言う権利は無いとも思うが、結果この様にほぼ全てが明るみにな
ってしまっている以上、当時、中国に駐屯していた日本軍人の愛国精神を賛美しようと努力しても、所詮ただの人間に
過ぎないと思ってしまうのが悲しいところだ。何の為に多くの日本兵が死んでいったのかと思うと非常に心苦しい。
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戦後証言している元部隊員に何か言える立場でも無いし、証言した気持ちもわかる。
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しかし、どうしても「よく言った」とは思えない・・・。
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軍人も軍属も、軍隊という所は「生半可な気持ちで入る組織では無い」という教訓だろう。自衛隊も含めて・・・。
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この方達は兵役義務時代の人達なので、どこまで本気で軍隊に入ったかは定かでないし、責められる必要も無い。
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細菌戦の被害者のコーナーだ・・・空から投下したペスト菌に感染した現地住民の証言などが紹介されている・・・。
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中国語と英語のみ・・・もう読もうと努力する気力が無かった・・・。
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元隊員の謝罪文が大きく引き伸ばされて展示されている・・・もう何度も見たけどな・・・ちょっと諄い。
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被害者の方達の現在の写真だ・・・。
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日本の原爆資料館を見ている様だ・・・皆、足の症状ばかりだ・・・。
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もう70年以上前だからお年寄りばかりだ・・・日本でも同じだが、証言者がご存命のうちに・・・という事だろう。
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大日本帝国陸軍の化学戦研究機関であった関東軍化学部(満州第516部隊)では、かなりの数の化学兵器を扱っていた。
関東軍防疫給水部(731部隊)と共同で人体実験をしたとされている部隊でもある。
戦時中、大久野島などで大量に生産された化学兵器は中国大陸に持ち込まれ、使用されなかったものが、終戦に伴い、
遺棄された。戦後、中国の開発が進むにつれて、工事現場などから化学兵器が掘り出され、被害者が出る事故も起きて
きた。旧日本軍が遺棄した化学兵器を、中国側が危険を減らす為に人里離れた場所に移した物もあるという。
細菌兵器や化学兵器には数十年経っても毒性を失わない物も多い。
1990年、中国政府は日本政府に対し、遺棄化学兵器の処理を非公式に打診。日本政府は1991年から現地調査を進め、
1995年の化学兵器禁止条約批准の後には、同条約の規定に基づいて、残存する化学兵器の処理を進めた。
1997年の化学兵器禁止条約(CWC)で、日本にはこうした化学兵器を処理する義務が生じた。
遺棄化学兵器は、中国北部の黒龍江省から南部の広東省までの広範囲で、最大の埋設地、吉林省敦化(とんか)市ハルバ
嶺(れい)には、約30~40万発にのぼる旧日本軍の化学兵器が埋設されているものと推定されている。
1999年日中両国政府が覚え書きを交わし、旧日本軍が遺棄した化学兵器は、日本政府が条約に従って廃棄を行う事を
確認。その後、発掘調査や安全な処理技術の選定などを経て、2010年から、中国各地で比較的小規模な処理を開始。
条約では原則として10年以内に化学兵器を廃棄する事を求めていて、2007年が期日だったが、老朽化した遺棄化学兵
器の処理はこの期間ではできない為「2022年までの処理完了を目指して最善の努力をする」ということになり、国際
機関の承認を得て、今も内閣府の職員・自衛隊の方達による懸命な作業が続いている。
吉林省敦化市ハルバ嶺以外では2007年2月までに37000発が日本の事業で回収されている。
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という事で、やっと全ての展示資料を見終えた。
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順路には、まだ731部隊に関する資料が展示されている・・・もう終わったのでは?かなり諄い・・・。
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諄い展示物を見ながら順路を進んでいくと外に出れる。
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次は現存する731部隊施設、施設跡の実物だ・・・もうお腹一杯というところだが、最後まで見学して帰ろう。
以上、中国東北部(旧満州)旅行、その5「哈爾浜旅行記②」を終わりとします。
次回は、その6「哈爾浜旅行記③」をお届けします。


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 2017_06_03

哈爾浜①

Category: 中国東北部   Tags: 満州  哈爾浜  

哈爾浜は、黒竜江省の政治・経済の中心で、ここも人口約600万人の大都市である。

1896年(明治29年)ロシアは日清戦争後の日本の遼東半島領有を阻止した報酬として、中東鉄道の敷設権と経営権を
獲得。中東鉄道株式会社を設立。沿線に鉄道付属地を所有する事を清朝から認められ、そこではロシアの行政・司法
権や森林伐採権などが行使された。
1898年(明治31年)ロシア帝国により満洲を横断する東清鉄道建設が着手されると、交通の要衝としてロシア人を初
めとする人口が急激に増加し経済の発展をみるようになった。
1900年(明治33年)義和団事件が勃発し、ロシアは満州を制圧する。清朝は猛反発。
日清戦争以降、清朝は「瓜分」(中国分割)の最大危機にさらされていたが、義和団の乱によって勢いに歯止めがか
けられた。戦闘において圧倒的な強さを示した連合軍(イギリス・アメリカ・オーストリア・イギリス領インド・ドイ
ツ・フランス・ロシア・イタリア・日本)であったが、その後の占領地支配には手を焼き、中国の領土支配の困難さに
嫌でも気づかざるを得なかった。列強のその時の思いは連合軍司令官ヴァルダーゼーの「列強の力を合わせたとして
も、中国人の4分の1でも治めるのは困難であろう」ということばに言い尽くされている。
ただ、例外的に領土支配を目指した国があった。ロシアと日本である。
ロシアの満州占領は日露戦争を導き、さらに辛うじてその勝者となった日本は一層の領土的野心を滾らせ、日中戦争
へと邁進していくようになる。※日露戦争(1904年[明治37年]2月6日~1905年[明治38年]9月5日)

1905年(明治38年)10月31日、清朝は哈爾関道(浜江関道を設置)、翌年5月11日には正式に道署を設置し、駐在。
1907年(明治40年)1月14日、清朝はハルビンを対外交易拠点とすることを決定、吉林将軍及び黒竜江将軍の奏准を
容れ浜江庁を設置、浜江関道の管轄とされ行政権の強化が図られた。
これに対しロシアは同年11月23日中東鉄道管理局が「ハルビン自治公議会章程」を発布、埠頭区(現在の道里区)、
新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定め公議会の管轄とし、清朝に対抗した。
1909年(明治42年)10月26日哈爾浜駅で、日清戦争の立役者で日本の枢密院議長 伊藤博文が安重根に暗殺される。
蒋介石の中華民国が成立すると1913年(大正2年)3月浜江庁は浜江県と改称され、翌年1月31日松北市政局に改編さ
れた。
第一次世界大戦でヨーロッパは、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国とフランス・ロシア帝国
イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね経済は破綻。
1917年(大正6年)「ロシア革命」(簡単に言えばロシア内戦である)2月革命・10月革命
ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に
反乱を起こして労働者側についた。1918年(大正7年)ついにロシア帝国が崩壊。
1918年(大正7年)夏、アメリカはシベリア出兵を決定。アメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれに
合わせて出兵を決定、連合軍はウラジヴォストークに上陸した。
※内政干渉戦争であるシベリア出兵に、一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、
 軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られていた。
連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は
日本やアメリカの軍隊であった。これが日本の「シベリア出兵」である。
同年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い1920年には相次いで撤兵
したが、日本陸軍は単独で駐留を続行した。
日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労
働者・農民から組織された非正規軍のパルチザンと戦闘を繰り返しながら北樺太・沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。
シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。
各国より数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた上、占領地に傀儡国家の建設を画策。
日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われる事になる。
1921年(大正10年)のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。
会議の中で、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。

当時の内閣総理大臣 加藤高明は日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交
上まれにみる失政の歴史である」と評価している。

1922年(大正11年)にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライ
ナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合。ソビエト社会主義共和国連邦が成立。
1926年(昭和元年)3月30日中華民国のハルビン自治臨時委員会が設置され、ロシア人による統治は終焉をむかえる。
1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件
1931年(昭和6年)9月18日、満州事変
1932年(昭和7年)3月、満洲国が建国されると、1933年(昭和8年)7月1日哈爾浜特別市となり、日本の統治が始まる。
ロシア革命後、ソ連も中東鉄道(東清鉄道の後身で、満鉄の前身)の利権を維持したが、1934年(昭和9年)満洲国に譲
渡した。哈爾浜は、満洲地区からロシア・ヨーロッパ方面への鉄道輸送の要衝として発展し、1940年(昭和15年)に
は、人口約60万人に達している。
日本の敗戦で満洲国が崩壊、国共内戦の結果、中国共産党が1946年(昭和21年)4月28日ハルビンの支配権を獲得。
現在に至っている。
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▲▼哈爾浜駅前の風景。中国は何処も大都会に発展している・・・。
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▼駅舎は取り壊しの真っ最中、新しい駅舎へ生まれ変わろうとしていた。新駅舎完成予定日は不明。
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▼駅前には恐らくロシア統治時代の建物であろう建物を見ることが出来た。
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一見して年代物という事が解る。何とか保存してほしいものだ。
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哈爾浜ではヤマトホテル(現 龍門貴賓楼)に宿泊した。
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ロシア統治時代は、中東鉄道賓館と呼ばれ、中東鉄道工程局の副総技師のイグナチウスが総デザインを指揮。
1903年(明治36年)2月に完成したハルビン初の豪華ホテルであった。
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※1918年以後、張学良が司令官として哈爾浜を訪れた際、このホテルに滞在した。
日露戦争が勃発するとロシア軍軍司令部として使用され、終戦後は中東鉄路公司理事会として使用された。
満州事変までは、この場所が中東鉄路の最高権利機関であり、ハルビン市の行政の中心であった。
1935年(昭和10年)ソ連は1.4億円で中東鉄路、及びその一部支線を満州国に譲渡し、中東鉄路公司理事会は解散。
1936年(昭和11年)満鉄により、2度目の大規模な改築が行われ、翌年2月1日に改築作業が完了。
「ハルビンヤマトホテル」と改名され、大連(現大連賓館)・瀋陽(現遼寧賓館)・長春(現春誼賓館)のヤマトホテ
ルと共に南満州鉄道株式会社によって経営された。
日本敗戦後はハルビン軍招待所などとして使用されたが1997年(平成9年)にハルビン鉄路局によって改築作業が行われ、
ハルビン龍門貴賓楼酒店として生まれ変わり、現在に至る。
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▼ヤマトホテルの宿泊部屋から哈爾浜市街の眺め
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▼朝、ヤマトホテルを後にする。
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何度も改修されているので、どの部分がロシア時代で何処が日本時代なのか判別出来ないが、古そうだ。
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▼夜はこんな感じ。
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▼駅側とは反対側に位置する当時の正面入り口
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街を歩くと、ロシア時代が色濃く残る街だという事を感じる(ここまで来ると日本時代跡よりもロシアの方が気が楽だ)
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▼▲これは日本人が建てた物かな・・・哈爾浜は古地図を詳しく調べていないので良く解らない・・・。
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ある意味で中国も大変だ・・・街の基礎が全て他国によって形成され、建物は古くなっていく・・・。
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それをどの様な形で維持していくか、どの様に中国風に変貌させるか、今後ロシア・日本の足跡を残していくのか。
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他国の統治が終わった現在、中国らしさをどの様に演出していくのかは本当に難しいだろう・・・。
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▼当然、近代化された建物も並ぶ。
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日本は狭いのでそんな余裕は無いと思うが、その時代・時代の建物は何とか少しづつでも残して欲しいものだ。
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▼電動オート三輪車のタクシーが列を作っていた。中国はこの様な小型車がなんでも有りが面白い。
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▼斯大林公園(スターリン公園)の近くまで来た。凧あげをしている人を多く見かけた。懐かしい光景だ。
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▲右側のロシア風の建物は、松花江対岸の太陽島へ行くロープウェイ乗り場。
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▼目の前には松花江(しょうかこう)
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松花江南岸沿いの気持ちいい散策路を斯大林公園に向かって歩く。満州国時代は路面電車が走っていたそうだ。
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桜が咲いていた。
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お年寄りが音楽に合わせて踊っていた。何とものどかな風景だ。
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遊覧船を見た時に、ハッとして此処が中国だという事を再認識した。やっと中国風の感じを見た様な気がする。
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▼哈爾浜中心部と太陽島を結ぶ松花江に架かる、日本が建設した鉄道橋「浜州鉄路橋」(手前の黒い方)
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中国のガイドには次の様に書かれている。

元は中東鉄道西部線(浜州線)の第一鉄橋で、中東鉄道沿線では橋脚幅が最大の単線の鉄橋。
当時は「第一松花江大橋」と呼ばれていた。ロシアの橋梁専門家で中東鉄道局橋梁主任技師「リエンドフスキー」が自
ら監督し、技師「アリエクシエルオフ」が建設の責務にあたった。
1900年5月着工。1901年10月開通。鉄橋の長さ949.185メートル。

と・・・。
ウラジオストク→綏芬河(すいふんか)→哈爾浜(ハルビン)と続く東清鉄道は、この鉄橋で松花江を渡り、更にチチハル、
満州里、チタ、そしてモスクワへと続いている。って事は、日本が建設したってのは間違いか・・・?
1900年は明治33年。日露戦争開戦の前だな・・・やはり帝政ロシアが建設した橋という事になる。日本が改修程度を
したという事かもしれない・・・。このへんの歴史は今後詳しく勉強する必要がありそうだ・・・。
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2014年4月10日、100年以上続いた「浜州鉄路橋」は閉鎖。現在は歩行者専用の橋となって活用されている。
奥の白い橋は新たに建設された高速鉄道も走る新しい「松花江特大橋」。
松花江は満州語で「スンガリ・ウラー」と呼ばれ、「天の川」という意味。当時の日本人はスンガリ川と呼んだ。
松花江はやがてアムール川に合流する。冬はマイナス30度近くまで下がる哈爾浜。当然この川も凍る・・・。
凍結時期は歩いて対岸の太陽島まで行けるらしい。
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斯大林公園の中心にある1956年(昭和31年)の大洪水を記憶に留める為に建てられた「防洪記念塔」へ向かう。
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▼「防洪記念塔」最初これを見た時、また抗日の記念塔か?と思ったが違う様でホッとした・・・。
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塔の彫刻はロシア人、その周りを囲う扇状の建造物に中国という組み合わせ。
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1998年にもっとすごい洪水があり、120.89mを記録したということで、その高さには鉄すりの様な物が付いていた。
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近くには青島ビールのビアガーデンが・・・真昼間と言う事と本来の目的地への時間の関係で今回はスルー。
哈爾浜ビール祭りもあるという、ビール好きが多い街でも有名。行きたかった~。
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中央大街に向かう。
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▼ロシア風のお土産店
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お酒・タバコ・戦車の模型まで、色々あって面白い。
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地下ショッピングセンター街もある。これがまた大きい。巨大な地下壕だ(笑)
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▲少し入ったが、確実に迷いそうなので、そこそこで地上に出た。
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▼ロシア風の街並みが今も残る美しいショッピングストリート、中央大街に到着。
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▼1930年頃[ 昭和初期 ](昭和5年頃)の中央大街。当時は道行く人のほとんどがロシア人だった。
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現在も古写真の建物はホテルとして残っている。
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当時は車も走っていた様だが、現在の中央大街は歩行者天国となっている。
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「西洋のパリ」との呼び方にふさわしい、西洋風の建物が並び、通り全体が市の指定建築物になっている。
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哈爾浜は、既にロシアが街を形成していた事もあってか、満州国時代に建てられた日本建築は少ない様だ。
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▲▼道路の石畳はロシア時代当時のままだという。
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▼ここではバーガーキングに立ち寄った。店内も綺麗だし、普通に美味しかった!
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時間も押し迫っていたので道をそれて、聖ソフィア大聖堂に向かう。
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中央大街を外れても何処の通りも大都会だ・・・。
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▼久しぶりに中国風の建物を見た。戦後の建物だろう。
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▼これは日本が建てた物。旧横浜正金銀行哈爾浜支店(1912年「大正元年」完成) 現在は黒龍江省美術館。
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この辺の歴史が良く解らない・・・満州国建国が昭和7年。日露戦争勝利が明治38年。大正元年は明治45年だから、
横浜正金銀行哈爾浜支店はロシア統治時代の真っ最中に建設されている・・・どうなってんの??
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▼そうこうしているうちに聖ソフィア大聖堂に到着!
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これか・・・ロシアって感じだな・・・。
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此処は中国か・・・。
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ヨーロッパにでも来た様な錯覚を覚える・・・。
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1903年3月東清鉄道が開通すると共に、ロシア帝国軍隊は哈爾浜に侵入。1907年帝政ロシア軍兵士の軍用教会として
聖ソフィア大聖堂は創建された。1923年(大正12年)9月27日の再建儀式後、約9年間に渡る拡張工事が行われ、今の姿
になった。現在は教会では無く、哈爾浜市建築芸術館となっている。
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                   白鳩が沢山居る・・・立派な建物だ・・・。
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敷地一帯は大きな広場となっている。
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▼マクドナルドも此処ではこんな感じ。この様に合わせるのは大事ですね~。
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写真を何枚撮っていても飽きないが、次があるので名残惜しいが聖ソフィア大聖堂を後にした。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その4「哈爾浜旅行記①」を終わりとします。
次回は、その5「哈爾浜旅行記②」をお届けします。


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 2017_05_31


今回の中国東北部旅行の1番の目的地、長春は、旧満州国時代に新京と改められ、満州国国都とされた場所である。
此処で祖父母は終戦(敗戦)後の昭和21年9月まで暮らした。祖父は昭和12年から満鉄新京支社勤務(庶務課)だった。
日露戦争でからくも勝利した日本は、長春以南の権益をロシアより獲得すると南満州鉄道株式会社を設立、明治39年
(1906年)に長春駅を建設した。日本が溥儀を皇帝に満州国建国前から、中国東北部は満州と呼ばれ、張作霖が支配し、
その地域に暮らす現地人は、「満人」と呼ばれた。張作霖爆殺事件後、息子の張学良が、長引く内戦状態の国民政府と
共産党の間を取り持ち、蒋介石の国民政府も同意、一丸となって抗日を続けた。

昭和3年(1928年)6月4日、張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)9月18日、満州事変
昭和7年(1932年)3月、満州国建国
張学良は国民党か日本かを選ぶ中で国民党を選び、焦った日本は満州事変を起こし傀儡国家満州を建国。
昭和9年(1934年)3月1日、満洲国皇帝(康徳帝)に溥儀が即位。ここから満洲国の年号は康徳元年となる。
昭和11年(1936年)毛沢東率いる共産党は内戦の停止と抗日統一戦線を提案。しかし蒋介石は態度を硬化させたまま、
満州の軍閥(張学良ら)に共産党を攻めさせようとする。張学良は「日本と戦うべきではないか?」と難色を示す。
西安まで張学良の説得に出向いた蒋介石を張学良が誘拐、共産党員達と蒋介石を説得して抗日共同戦線を張る事になる
昭和12年(1937年)、日中戦争(支那事変)勃発の年に、祖父は日本で南満州鉄道株式会社の入社試験に合格。
昭和17年(1942年)、祖父は花嫁探しの為に一時帰国。祖母とお見合いし、婚約。
昭和18年(1943年)、祖母が満州(新京)へ。新京特別市昌平街の満鉄寮で新婚生活が始まる。
昭和19年(1944年)11月、母が新京満鉄病院で生まれる。
昭和20年(1945年)8月9日、ソ連軍、満州国に進攻開始。
昭和20年(1945年)8月10日、祖母は満鉄からの指示で新京駅に集合。
幼い母を連れ、満鉄で朝鮮(現北朝鮮)鎮南浦(チンナンポ)へ避難。そこで満鉄関係者と共に滞在する。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦(敗戦)。
昭和20年(1945年)8月18日、溥儀が満州国皇帝退位=満州国崩壊。
終戦後、祖父が心配で、朝鮮から満鉄で再び新京へ戻る。新京へ戻る際、日本兵が大勢乗った貨車を見たと言う。
恐らく祖母が見たのは、関東軍将兵ら約60万人が連行され、約6万人が強制労働などで死亡した「シベリア抑留者」だ
ったのだろう。関東軍参謀本部、陸軍中佐瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)は戦後11年間シベリアに抑留されたが、その
瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる「シベリア抑留密約説」だ。
瀬島氏は終戦直後の昭和20年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。
この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである・・・。
瀬島 龍三に関してはWikipediaから抜粋だが、「知っておきたい人物」で紹介しているのでご覧頂ければと思う。

再び新京へ戻った祖父と母は祖父と再会。新京で1年暮らす。(ソ連兵の強姦から身を守る為、髪は男の様に短くした)
しかし、哈爾浜などに比べて新京はソ連兵が少なく、意外と平和だった様だ。八路軍(共産党)やソ連兵の活発な時も
あったが、中央軍とアメリカ兵が市街地に入って来てからはとりあえず秩序は取り戻しつつあった。
昭和21年(1946年)9月初旬、祖父母と母の3人は、新京→釜山港→博多港の順で無事帰国する事が出来た。
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▲満州国時代の新京駅(明治40年撮影)
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▲現在の長春駅(当時の面影は全く無い)
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▲宿泊した長春駅前のホテルから撮影。駅前広場はもう何年も工事中との事。
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▲当時の新京駅前の風景
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▲▼同じ場所かどうかは分からないが、現在の駅前付近。
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在満日本人一般市民の人口は、昭和5年に23万人を越え、昭和15年には100万人になっていた。日本軍に加え、日本の
大手企業の職員や、官僚、そして民衆達も夢を託して満州に渡った。私の祖父もその中の1人だった。
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▲新京駅前にあった当時の満鉄新京支社(ここで祖父は働いていた)
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▲同じ場所にはほぼ当時のままの姿で建物があった・・・これは感激した。5階部分が増築されている事が解る。
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▲「長春鉄路〇事〇」と書かれているので、現在も鉄道関係の会社が使っている様だ。
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▲旧満鉄新京支社入口前にあった地下への入り口。当時から地下ショッピングセンターでもあったのかな?
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▲此処で祖父は働いていたんだ・・・もう亡くなって何十年も経つが、今、孫の私がその地に来ている・・・感動だ。
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▲新京ヤマトホテル。ここも何度も改修されているが、当時の面影が残っている。
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▲夜の姿はライトアップされてとても綺麗。
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▲旧満鉄新京支社から長春駅を見る。この道を祖父は通勤したのだろうか・・・当時「中央通」と呼ばれた
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▲当時の中央通を描いた絵ハガキ
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▼もうこれは取り壊しが決定しているのかな・・・明らかに古い日本時代の建物だ。
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昭和7年満州国建国だから、満州国が続いたのはたった約9年・・・1番新しくても72年前の建物だからね・・・。
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▲赤煉瓦造りのちょっと古めかしい建物は日本時代の物と思って良いだろう。
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いいですね~こんな街、日本の何処かで復刻しないかな・・・。
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▼中央通を歩いていると当時郵便局だった場所にそれらしい建物が残っていた。
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どうやら此処も改修中の様だ。
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▼当時の郵便局(長春では最初に帝国にとって最も重要な建物である警察本署と郵便局を建てた)
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新京の町づくりは日本本土の問題をすべて解決し、満州国国都として、他ならぬ文明を進めるモデルとなった。
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当時の古写真によく似た場所があった。恐らく同じ場所だろう・・・祖父母も当然此処を歩いただろう。
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新京は、日本が蓄積してきた都市計画の理念と社会資本整備の技術を一気に投入して建設されたという。
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▲郵便局の向かいは古地図では警察署だが、今は良く解らないゴーストビルが建設途中?だった。
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▲中央通から郵便局を左折し、旧吉野町を通って、次の目的である母が生まれた満鉄病院を目指す。
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▲この辺りは「新京銀座」と呼ばれた新京1の繁華街で吉野町と呼ばれていた。
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▼昭和53年(1978年)頃の吉野町。まだまだ日本時代がしっかり残っている。というよりそのままだ。
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20年前なら、もっと多くの日本時代の建物が残っていたという。
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しかし長春は明らかに私を見る中国人の視線は冷たい・・・観光地でも無いのに「何しに来た!?」的な顔で見られる
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絶賛取り壊し中の日本時代の建物。
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建物自体の低さと赤煉瓦で、当時物と現代物との見分けが直ぐつく。
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現在に至っても日本時代の建物に住んでいる方達は恐らく貧困層なので、撮影の際は細心の注意を払わないと怖い。
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上海・鄭州・大連・瀋陽・長春と訪問したが、明らかに長春は何か雰囲気が違う・・・ブラブラしている人も多い。
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暇な人ほど政治的な事を言い始めることが多いので、街の人と話した訳では無いが、この雰囲気も納得出来た。
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でも、何かいいな~。昔の日本人が建てた西洋と和がミックスされた独特の建物・・・。DSCN0261_convert_20170521114118.jpg
▼この建物も恐らく最上階部分は増築だろう・・・。
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▼当時学校があった場所にはほとんどが(建物は建て替えられているが)そのまま学校だ。
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▲此処は古地図では室町小学校・家政女学校・公学校となっている広い敷地だ。
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▲何て書いてあるのか読めないが、「教師」っぽい字が書いてあるので、現在は教員を育てる学校の様だ。
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▲そうしているうちに、当時満鉄病院だった場所に到着。建物は全て建て替えられているが、現在も病院だ。
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ここで母が生まれたのか・・・感激だ。しばし病院を眺めていた・・・敗戦後、満州引き揚げ者の多くが命を落とした。
祖母の話では、当時赤ん坊だった母を抱えての日本への引き揚げは、想像を絶する悪条件での帰路だったという。
もし、祖父母と母が、帰国途中に、満州や朝鮮で命を落としていたら、今の私は存在しない・・・。
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▲これは当時の建物っぽいが良く解らない・・・。
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▲当時の満鉄病院
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旧満鉄病院付近にも当時の建物は多少残っていた。
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▲煙突から煙が出ていたので、現役で中国人住居として使用されている様だ。
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長春は見た目的には大都会に変貌しつつある様に見えるが、街の人や車を見ても裕福な人が多いとは言えない・・・
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恐らく70年以上、ほぼそのまま住んでいるのだろう・・・崩壊寸前の住居が多い・・・。
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これ以上日本時代の住居を追い求めるととんでもない事に巻き込まれそうなのでこのへんで撮影を止めた・・・
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でも、中国人は根は優しい人が多いんだけどな・・・「中国残留孤児」。見捨てられた日本人の子を育ててくれた。
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▲「抗日」「反日」の中国で、日本車を愛用してくれている中国人も沢山居る。有難い事だ・・・。
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中央通に戻ってきた。当時西公園と呼ばれた場所が正面に見える。現在も公園の様だ、観覧車が見える。
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▲当時の西公園正門を描いた絵ハガキ(昭和13年児玉源太郎大将の銅像設置後、児玉公園と名称変更された)
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▲西公園前の巨大な交差点。
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当時の西公園。冬はスケートリンクも営業していた様だ。寒さで池の水が氷るのだろう。
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▼建物は近代化されても区画や道幅は当時のまま発展させている。
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▼中央通を更に南下していく。
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▼歩道からの景色を絵に描いている人が居た。上手だった~。
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しばらく歩くと写真などで見た事のある特徴ある建物が見えた。
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旧関東軍司令部だ。しっかりそのまま残っている。
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▼当時の関東軍司令部(名古屋城をモデルにしたと言われている)
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祖母から聞いている関東軍の話は悪い話が多い。昭和20年8月9日のソ連侵攻後、居住民(日本人)を見捨てて真っ先に
朝鮮方面に南下、新京関東軍司令部をはじめ、軍の施設を放棄し、さっさと逃げて行ったという。
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▲これは旧関東憲兵隊司令部(関東局)
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▲当時の関東憲兵隊司令部
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▲この建物は旧大興ビル。
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▲当時の大興ビル。当時と比べるとこのビルも5階6階部分が建て増しされている事がわかる。
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▲長春市第5中学となっている所は当時、長春市新京白菊小学校。
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▲長春市第5中学付近の大きな交差点
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▼▲これは長春市第5中学付近にあった公衆便所
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▼今もひっそり残る東本願寺満洲別院(敷地全体が工事中の為、敷地内に入っての見学は出来なかった)
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▼外から見るとこんな感じなので東本願寺全容を伺い知る事は出来ない。
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このあたりも一筋奥に入ると日本時代の住居がちょこちょこ残っている。
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しかし、ほんとんど面影は無いと言ってもいいかな・・・とにかく車の量が多過ぎる・・・。
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新京の南西郊外の孟家屯(もうかとん)には陸軍100部隊(関東軍軍馬防疫廠)があった。
100部隊は軍用動物の衛生管理・研究などを目的とした部隊(約700名)で、組織上は関東軍に属していた。
終戦時の部隊長であった若松有次郎の名を冠して、若松部隊と呼ばれることもある。
軍馬に代表される軍用動物の衛生管理を任務とし、動物の感染症研究や血清の製造、軍馬移動時の検疫作業などを行っ
ていた。補充馬廠などで軍用動物の衛生管理を行う兵員の教育機関としての役割もあった。
更に、防疫対策のみならず、敵国の軍用動物や家畜を標的とした攻撃用の生物兵器(細菌兵器)の開発をも進めていたと
も言われる。攻撃用の研究かは不明だが、日中戦争が勃発した昭和12年には所属の軍人・軍属の一部が軍用細菌の試験
研究も行っていたという。対人用の生物兵器研究機関だったと言われる哈爾浜郊外の関東軍防疫給水部本部(731部隊)
とは、密接な協力体制にあったという。
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この先は当時「皇居」建設予定地だった所。現在は公園だそうだ。本気で皇居を東京から移す予定だった様だ。
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この辺りはもう近代化されて、日本時代の建物は見かけない
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時期的には春になりつつあるが、気温は15度くらいで肌寒い。
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真冬はマイナス30度以上。平均気温も5度程度だからスクーターは辛いね・・・でも電気スクーターは沢山走ってる。
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日本人が夢を描いて移り住んだ新天地と言うが、私はあまりピンとこない土地だな・・・寒過ぎる・・・。
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▲これは日本時代の建物を外観だけ綺麗に手直ししてあるな・・・当時物の煙突が建物中央を突き抜けている。DSCN0382_convert_20170522124559.jpg
▼しばらく歩くと当時「興安橋」と呼ばれた短い橋が見えた、当時のままだそうだ。DSCN0385_convert_20170522124637.jpg

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▼橋の下は鉄道が走っている。右側の線路は新設の高速鉄道。左側(貨物列車)は当時のままの満鉄線だ。
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それにしても長~い貨物列車だ・・・なかなか通り過ぎないので、永遠に続くかと思った・・・アメリカなみだね。
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▼「興安橋」を渡り終えて振り返って撮影。
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祖母は楽しい思い出として、「興安橋」を渡り、新京競馬場へアルバイトに行った事があると私に話してくれていた。
ソ連参戦、日本敗戦で新京で起こった混乱の中、命を落とした日本人の「日本人埋葬場所」となった「新京競馬場」。
そして、「新京競馬場」は今どうなっているのか?と更に南下した事が裏目に出てしまった・・・。
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▲「興安橋」を過ぎて更に南下したが、新京競馬場らしき場所が見当たらない・・・DSCN0395_convert_20170524115823.jpg
▲これも日本時代の建物っぽいな~。と撮影していると、警察車両が来て話しかけてきた。
当然、中国語での会話は噛み合うはずも無く、近くの警察署で事情徴収される事になってしまった・・・。
どうやらこの辺りに軍の航空大学があるらしく、付近の住民からの通報で見回りに来たとの事。怪しい日本人と思われ
てしまった様だ・・・。別に悪い事をした認識は無かったが、日本時代の古い地図を頼りに散策していたので、その様
な施設周辺に来ていた事に気ずかなかった。「あなたが撮影して歩いている場所は軍の関係施設ですよ、気をつけなさ
い。」と少々説教された。通訳を呼んでくれていたので疑いも晴れ、少々長い拘束時間となったが昼時だったので食事
も頂いた。最後は警察署長と思われる美しい女性が「Welcome to China」と、笑顔でパスポートを返してくれた。
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▲「皆で記念写真を」と頼んだが、断られてたので建物だけの撮影となった。知らなかったとはいえ、何処の国でも軍
関係の施設は神経を尖らせる場所。長春の警察署の皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした、以後気を
つけます。真摯な対応、有難うございました。(残念ながらこのブログは中国では閲覧出来ないんだけどね・・・)
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気を取り直して、祖父母が暮らした満鉄寮に向かう。
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祖母からうる覚えの住所を聞いていた、「新京特別市昌平街」と・・・。
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古そうな赤煉瓦塀だな・・・と思い古地図を見ると、その敷地は当時「桜木小学校」となっている。昌平街は近い!
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▼当時の「桜木小学校」は現在、長春市第二中学校となっている。やはり学校跡は今も学校だ。
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これは当時の校舎では無いだろう・・・中国の建物は何もかもがBIGだ・・・中学校といえど立派な建物だ。
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しばらく歩くと昌平街だった辺りだ。
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この辺りだ、見つけた!現在も昌平街だ!!感動!
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祖母の話では自分達の住んでいた満鉄寮(満鉄社宅)の道挟んで前は、軍の官舎だったと聞いていた。
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▲当時軍の官舎とされていた場所は現在、温泉施設になっていた・・。という事はこの向かい側か!
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▲祖母からは、当時2階立ての建物で、4つの家族が入居していたと聞いていた。真ん中に階段があった様で、それぞれ
の部屋は階段を挟んでわかれていたという。日本でよくあるアパートの様な感じだ。
「赤煉瓦」では無かったという話から、恐らくこの建物ではないだろうか、それっぽい建物はこれしか見当たらない。
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祖母が番地を覚えていなかったので、この昌平街607がピンポイントかどうかは分らないが、多分此処だろうと思った。
祖母の向かいは村山さん。青年部の先生をしていたそうで、新潟出身の方だったそうだ。その下は赤塚さんだそうだ。
祖母は山田。下の階は名前は忘れたが、機関室(現場)勤めの方だったそうだ。情報ございましたらご一報下さい。
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▲正面側から見ると増築部分や新たに付け加えられた部分がはっきり確認出来る。
満鉄寮の写真や現存する建物を見た事が無いので断定は難しいが、祖母への聞き取りや写真を見てもらい、恐らく
あっているだろうと結論付けた。帰国後、写真を見た祖母は感激していた・・・本当に良かった。
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祖母に写真を見せても番地はやはり思い出せなかった様だが、新婚時代を過ごした昌平街の今を見て感激していた。
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感激を胸に昌平街を後にする。祖母が生きているうちにこの写真を見せる事が出来て本当に良かった。
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▼隣の筋も確認したが、昌平街では無いので、探し当てた場所は間違っていないはずだ。
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しかし、中国はそこらじゅうに警察車両が停まっているので、日本の田舎者の私は少し恐怖症になってしまった・・・
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▲さらば「昌平街」(しょうへいがい)
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▲そして有難う、昌平街。何度も振り返りながら目に焼き付けた。
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大きな通りまで出て、長春駅(旧新京駅)まではバスで戻った。
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▼長春駅の地下街は柱に暖房設備が確認出来る。
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▼お湯を建物中に巡らせて暖かくする昔からのシステムだ。
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▲日本では見かけた事が無いが、東北地方や北海道でまだ採用している県はあるのだろうか。
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▲長春でも吉野家に行った。
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▼中国の吉野家は、それぞれの地方でメニューや盛り付けが違う様だ。そしてセットメニューが瀋陽店よりも安い。
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▼これは28元(約470円)長春の吉野家はいまいち。今まで食べた吉野家の中で1番美味しくないと言っても良い。
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▼地下街の柱に観光案内があった。「偽満‘八大部‘」この8つの日本時代の建物は時間が無く行けなかった・・・。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その3「長春(旧新京)旅行記」を終わりとします。
次回は、その4「哈爾浜旅行記①」をお届けします。


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 2017_05_21


瀋陽は満州国時代、奉天と呼ばれた場所。1636年、満洲において建国された清国(しんこく)の首都とされていた所。
清国は1644年~1912年まで中国を支配した最後の統一王朝である。後に首都は北京に移された。
今回の瀋陽へ行く目的は「九・一八」歴史博物館に行く事。
昭和6年(1931)9月18日旧奉天郊外の柳条湖で「南満州鉄道が中国軍によって爆破された」という関東軍自作自演の謀
略事件「柳条湖事件」(満州事変)によって関東軍は軍事出動。張学良の中国軍を攻撃、満州全土を制圧し、翌年満州
を建国。結果的に日本が泥沼の日中戦争へ、そして太平洋戦争(大東亜戦争)へと突入していくきっかけになった場所だ。

▼大連駅から高速鉄道で瀋陽北駅に向かう。
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▼瀋陽北駅に降り立つ。
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▼瀋陽北駅前の風景。此処も大都会だ・・・。
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▼大きな駅前広場は何処も警備が徹底している。流石中国
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▼瀋陽北駅。しかし高速鉄道が停車する駅は何処も大きな駅舎だ・・・。
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広すぎて自分が何処の出口から出て来たのか分からなくなってしまう・・・。
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▼小腹がすいたので駅前で食事が出来る所を探す。
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中国にも美味しいお店は色々あるのだろうが・・・。DSCN0154_convert_20170520191345.jpg
▼「吉野家」を発見!結局安全パイで吉野家に行く事に。
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中国に行くと、歴史では色々あったにもかかわらず日本企業の進出にはいつも感心する。
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セットメニューで36元。日本円で600円程だ。
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これが非常に美味しい、台湾や日本で食べる吉野家より美味しかった。今まで食べた吉野家で1番旨い!
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▼完食してバス停に向かう。
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▼私の乗ったバスはディーゼルエンジン車だったが、中国ではハイブリッドバス・電気バスが沢山走っている。
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写真を撮っていると中国人の物珍しそうに見る視線がちょっと怖い・・・相手も日本人と直ぐ解っている・・・。
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▲これはハイブリッドバス。乗ってみたが、ほとんどEVでの走行だった。
中国政府は2016年12月から上海・南京・無錫・済南・深圳の5都市で、EV車に色違いの専用ナンバープレートを付け
る実験を始め、今後中国全土で展開する計画だという。このナンバーを付けている車は公営駐車場で料金の優遇を受け
られるなど、購入時の補助金だけでなく、EVならではのさまざまな恩典を受けられ、国を挙げてEV化を推進している。
中国でEV販売台数首位の自動車メーカー「BYD」の本社がある深圳では、今年中に市内を走る全てのバス約18000台、
更に2020年までには全てのタクシーがEV化されるという。北京や上海などの大都市ではEVのバスやタクシーが多い。
日本と中国とでは人口も車の量も違う。しかし日本は先進国?として本気で環境対策に取り組む気があるのだろうか。
日本は2015年以降「水素社会の実現」としてFCV(燃料電池車)の実用化に力を入れている様だが、EV充電ステーショ
ンですら整わない日本ではたして水素ステーションがどんどん出来るだろうか・・・?
大国に先を越された部分を取り戻すのはかなり難しい。今後EVバスは中国BYD社からの輸入になるだろう。
中国に対する変なプライドや、中国に対する意識が昔のままの日本人は多い・・・EVでは完全に日本は出遅れている。
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▲30分程で「九・一八」歴史博物館前に到着。市バス?は、だいたいが1元。距離が長くなると2元の場合もある。
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▲ついに「九・一八」歴史博物館に来た・・・。
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▲「九・一八」博物館入口前には多くの屋台が出ている。
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▲入口の門を入るとまず左手に「警世鐘」が現れる。
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▼次にあるのは博物館の見取り図かな。
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そしてドーンと大きな建物が現れる・・・写真では見ていたが、実物は想像を超えた大きさだった・・・。
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▼裏側。関東軍作戦参謀石原 莞爾(いしわらかんじ)はあの世でどう思っているだろう・・・。
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▼人と比べて頂ければ大きさが解って頂けると思う。
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▼振り返って入口門付近を撮影。
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▼日本語訳が無いので良く解らないが、「柳条湖事件」の現場から運んで来た物だと思う。
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他にも日本が残した色々な物が屋外展示してある。
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▲昭和7年7月と刻まれている・・・昭和7年(1932年)は満州国建国の年だ・・・。
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▲昭和7年3月10日以外はよく読み取れなかった。
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▼誰かのお墓の様だ・・・当然日本人の墓だろうけど・・・。
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▼満州事変殉職社員記念碑って・・・自作自演の爆破で満鉄の日本人社員が亡くなったという事か・・・。
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▼館入口に向かう。
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「江沢民」が揮毫した大きな壁面があった。
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▲1993年3月~2003年3月まで中国国家主席を務めた江沢民。平成10年11月中国国家主席として初めて日本を訪れた
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▼▲何を表した銅像なのかよく分からなかった・・・。
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中国の思想は一貫して「抗日」これは満州建国前から現在まですっど変わっていない。それを踏まえて見学する。
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▼いよいよ館内に入る。入場料は無料だ。
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よくこんな沢山残っているもんだ・・・。
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これも初めて見る様な気がする・・・日本軍94式山砲
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物凄く保存状態がいいな・・・「激戦」と呼べる様な戦いにならなかったからかもしれない。
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張学良の中国軍は不抵抗方針。世界の世論に日本の謀略を訴える作戦に出た。(当時は志那と呼ばれていた)
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当時の関東軍司令官は本庄 繁。1ヵ月前に旅順に着任したばかりだった・・・その為関東軍の謀略を知らなかった。
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そして作戦参謀石原 莞爾に説得された本庄は、満鉄沿線の主要都市への攻撃命令を下してしまう・・・。
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▲当時の軍服だろう・・・満州国は大連あたりの冬は-23度、奉天・新京・哈爾浜と北へいくにつれてもっと寒い・・・
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当時の中国(支那)は沿岸部辺りに清国を倒した蒋介石率いる中華民国が。山側に毛沢東率いる共産党政権。中国を狙う
諸外国との複雑な関係の元に置かれていた。満州国は清王国が明王朝を倒し、中華民国に清王国が滅ぼされ、中華民国
首都を奉天(現瀋陽)から北京に移して栄えていたので、事実上は満人が暮らす荒野が広がる大地で、蒋介石も内戦の忙
しさもあってか、さほど満州地域には興味を示してはいなかった様だ。
なので「誰の物でも無い」という言い方も出来るが、日本の土地で無かった事は明らかであり、元々日本人が暮らして
いた土地では無い事も事実である。
そこで日本は、清王朝最後の皇帝「溥儀」を招いて清王朝復活の形で満州国を建国したのだった・・・。
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とはいえ中国(支那)は「抗日」が旗印・・・反日派を日本は厳しく取り締まったという。
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▲▼太平洋戦争で戦利品として米兵が欲しがった日本軍の軍刀が沢山展示してある。血の演出が中国らしい。
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▼南満州鉄道株式会社が経営していた撫順炭鉱(平頂山事件)の事か・・・このへんは勉強不足でよく知らない。
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▼本物では無いと思うが、この演出が凄い・・・。
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この後の展示は哈爾浜郊外にあった「731部隊」に関する展示に移っていく・・・実はこの後、この旅の真の目的であ
る長春(旧新京)へ行った後、哈爾浜にも行く予定だ。そして731部隊本部跡を見学する予定だったので、ここでの731
部隊に関する展示資料は「哈爾浜旅行記②」でご紹介しようと思う。
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▼凄い量の銃だ・・・。
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▼日中戦争当時、アメリカは蒋介石率いる中華民国を支援していた。
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▼▲「第二次世界大戦時のアメリカン軍用ジープ」と説明書された米軍のジープが展示されていた。
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▼あぁ・・・「日本投降」か。昭和20年8月15日の敗戦の事か・・・。
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中国での戦犯裁判の事か・・・。
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国民党政権によって撫順戦犯管理所(遼寧省撫順市)で日本の戦犯裁判が1946年~1949年に行われた。
149人に死刑判決が下された他、350人以上に有罪判決が下された。1949年の中華人民共和国の成立を受け、共産党
政権はこれとは別に、ソ連が拘束していた旧日本軍人ら約1000人に対して独自の審査を行った。
大半は「不起訴処分」とされたが、計45人が1956年に瀋陽と太原の2カ所で開かれた「日本戦犯特別軍事法廷」で裁
かれ、最高で禁固20年の判決が出た。
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▼主だった方のお名前だろうか・・・そういえば撫順戦犯管理所に 戦争犯罪人として抑留された日本軍人が帰国後の
 1957年9月24日に結成した 団体で中帰連(ちゅうきれん)ってあったな・・・。
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昭和25年(1950年)日ソ友好条約の締結時、一部の捕虜はスターリンから中国にプレゼントされ、撫順に収容された。
そして彼ら(捕虜)自身が「鬼から人間に戻った」と言わしめた洗脳が始まった・・・。
戦犯の処置は新中国の重要な国家政策として周恩来が直接指揮をとり、管理は司法部ではなく公安部が担当した。
公安部長の羅瑞卿は、延安で多数の日本兵捕虜を洗脳し、日本軍の正面に送り出してきた捕虜政策のエキスパートだ。
哈爾浜の尉官級以上の捕虜達も「学習」が続けられ「総括書」を書かされた。
これは、学習して得た共産主義の認識に基づき、過去の自分を自己批判しろということである。
罪は重くても完全に共産主義思想になった者は許す。逆に軽微な罪行でも思想を改造出来ない者は重く処罰する、と言
われた様だ。中国は共産主義思想に転向してこそ初めて「過去の旧思想時代の犯罪を自供出来る」としていたからだ。
「思想改造」と「認罪」の同時工作であり、中国国内の反革命分子に行使した方法と同じであった。
ソ連の氷点下30度を下回るシベリアで、強制労働のご苦労をされたシベリア抑留者達に植え付けた共産主義思想と同じ
である。日本語にはない罪行や、中国側のでっち上げ事件や過剰な言い分まで認めざるを得なかった場合もあった。
「とにかく、一日でも早く日本に帰りたい。」そのことしか捕虜の頭の中には無かったからだ。これは同情出来る。
撫順に収監された戦犯の中で、下士官・兵などは特に戦争犯罪など起こしていない人ばかりである。
理由もなく6年も監禁されたのに、自ら戦争犯罪人を認める自白をし、不起訴になったので中国の温情に感謝し、看守
達と抱きあって泣いたりしたのだった。日本に帰還出来る嬉しさと、ようやく戦争が終わった感での感激の涙であろう。
帰還した元日本軍将兵の中には日本に帰っても洗脳が解けないまま余生を送った人達も居た。
同様のことは朝鮮戦争で人民解放軍に捕まったアメリカ兵にも行われたという。
中国のやり方をとやかく言うつもりは無い。それが中国の常識であり、日本やアメリカの常識とは違うだけ。
どちらが正しいも間違っているも無い。「人類皆兄弟」と言っても、人種・国家・思想は皆それぞれ。
違いを武力で解決しようとすると結果、この様になる。そういう事だと思う。

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やっと肩の力を抜いて見学する事が出来るな・・・。見学しながら自分が平和な時代に生まれた事を感謝した。
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田中角栄も頑張ったよな・・・個人的には好きだった。
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あらら・・・また雲行きが怪しくなってきた・・・靖国神社問題か・・・。
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うぅ・・・中国の言いたい事も解るが・・・。「歴史教科書を歪曲」って・・別にそんな事してないと思うけど・・。
確かに中国側から見ると「靖国参拝」は気にいらないだろうね・・・。でも靖国神社に祀られているとされる御霊は日
中戦争の犠牲者だけじゃないからね・・・そこが難しい所。日本を破滅に追い込んだ無能な軍国主義者達も一緒に祀ら
れているから私は参拝した事は無い・・・しかし、上京時は行ける時には千鳥ケ淵戦没者墓苑に手を合わせに行く。
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▲博物館出口に、「まとめ」と題してある大きな石碑の日本語訳は以下の通り。

展示館を出ていこうとする時、中国人ならおそらく誰でも心から血が流れ、頭に次々と疑問符が浮かぶだろう。
なぜ、日本帝国主義は大胆にも堂々たる大国であるわが国に対して凶刃を向けたか?ここにある写真はすべて揺るぎな
き事実であるのに、なぜ今に至っても歴史を直視せず、ひいてはそれを歪曲し、改ざんしているものがいるのか?
「立ち後れれば喰い物にされる」といわれるが、なぜ立ち後れたのか?ここに展示されている犠牲者たちの生前の写真
は大声で叫んでいるような気がする。何を叫んでいるだろう?「国民がこの国の英雄を忘れた時、国は滅びる」とか、
「過去の苦難を忘れ去ったら、苦難は再び訪れてくる」とか、「自分から努力せよ」とか「中華の振興については一人
ひとりに責任がある」というようなことを教えているのではないだろうか?

と、書いてある。
うぅ・・・中国と日本との2国間の問題としては言いたい事は何となく理解出来るがこれは本当に難しい。
確かに「関東軍が勝手に・・・」とか、色々言い訳はあるだろうが、結果国家としてやった事を日本は何でも言い逃れ
する傾向は確かにある。「天皇に責任が及ばない様に」とか、「部下の強い意志で特攻兵器を開発した」とか・・・。
「まとめ」の日本語訳は、日本語としても日本人が読むと色々な意味で非常に難しい文章だった・・・。
日本にはこの様な、ある意味徹底した「歴史博物館」は無い様に思う。これが敗戦国の定めか・・・。いや、もし出来
たとしても、右か左、どちらかに偏った博物館しか出来ないだろう・・・それならば無い方が良いのかもしれない。

▼別室では撫順炭鉱(平頂山事件)の事を紹介していた。特に詳しい訳でも無いのでさらっと見学した。
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ここには原爆の事も紹介されていた・・・。
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この展示室には日本語訳が無いので、写真で何となく判断するしか無かった。
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英語訳も日本語訳も無かった様な気がする。ま、見る人に「抗日」を訴えたいのだろうと勝手に理解した。
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そしてお土産屋の様な区間を通り、博物館の外に出る。
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▼博物館を出て目に飛び込んでくるのが、この大きな文字。(日本を)「許すけど・忘れない」これが中国の本音だね。
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▼記念写真を撮る中国人夫婦と比べて頂ければその大きさが解って頂けるであろう。
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博物館を出て、屋外展示に行くと、ソ連軍の戦車が見えた。
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第二次大戦中の米軍戦車は何度も見た事があるが、やはり日本軍のおもちゃの様な戦車とは大違いだ・・・。
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▼戦車の隣に展示しているこれは何だ??
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成程・・・日本企業が敗戦後置いていった物をそのまま2000年頃まで使ってたんだね・・・。
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▼満州時代の空襲警報機か・・・日本本土でも同じような機械はあったんだろうな・・・。
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満州国よりも本土の方は空襲は頻繁だっただろう・・・ってか満州国ってソ連侵攻まで空襲はあったのかな・・・?
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重たい気持ちのまま「九・一八」歴史博物館を後にした。しかし、遠路遥々見学しに来た事を後悔はしていない。
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館内は撮影OKなので、出来る限り写真を撮っていたが、SDカードの容量が無くなってしまった・・・。
そこで、瀋陽に(中国に)唯一あるというヤマダ電機瀋陽店に買いに行く事にした。
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とりあず瀋陽北駅まで戻る。
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▲ここから1元の範囲だったがバスに乗ってヤマダ電機ある場所に向かった。
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一時期は中国に数店舗展開していた様だが、次々と撤退し、現在は瀋陽店のみとの事だ。
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店内は閑散としていた。DSCN0143_convert_20170519084335.jpg
本当は直ぐにでも撤退したいらしいが、瀋陽店は直ぐ撤退出来ない訳があるらしい・・・。
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社名が「パナソニック」に変更になってかなり経っているが、中国語では松下電器のままなのか・・・。
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従業員もとても暇そうだ。
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中国に限らず、どこもネットで購入してしまう時代・・・大がかりな取り付け工事が無ければ安いネットに客は流れる。
お目当てのSDカードは在庫処分の格安4GBを2枚買ってお店を後にした。
以上、中国東北部(旧満州)旅行、その2「瀋陽旅行記」を終わりとします。
次回は、その3「長春(旧新京)旅行記」をお届けします。

※「九・一八」博物館見学をご希望の方はご連絡下さい。中国では現地で中国語を話せないと厳しい面が多々あります。
 信用出来る現地付き添い人(中国人)をご紹介します。
 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。


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 2017_05_16

大連

Category: 中国東北部   Tags: 満州  大連  

仕事で中国は何度か訪れた事があるが、今回は初めての中国東北部。祖父母の軌跡を辿る旧満州国の旅。
御歳94歳の祖母が、満鉄勤務だった祖父(故人)とともに暮らした新京(現在の長春)を見学しに行った。
母も新京(長春)の満鉄病院で生まれている。目的は長春だが、折角初めて東北部に行くのだからと、日本時代(旧満州
国時代)の「夢の残骸」と戦跡なども、出来る限り同時に見学する事にした。

まずは大連空港に降り立ち、中国東北部旅行の起点とする。(大連空港は元旧日本海軍の作った空港)
大連空港から地下鉄で中山広場駅まで向かった。
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近年乗り物内でのマナーUPが徹底され、初めて中国を訪れた2010年に比べて格段に綺麗で静かになっていた。
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▼この様な注意書の効果もあってか、高速鉄道に乗っても携帯電話で大声で話す人もみかけなくなった。DSCN9818_convert_20170517132351.jpg
▼中山広場駅で降り、地上で出るとやはり空気は良くない。直ぐに喉が反応してきた・・・私は結構敏感な方なのだ
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大連中山広場(だいれんちゅうざんひろば)と呼ばれる場所は日本時代が色濃く残る観光名所。
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主に20世紀前半の欧風建築群。現存する10棟のうち7棟が日本人建築家による設計だという。
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▲▼中山広場の欧風建築群。これは旧大連警察署。当時約22万人の日本人が暮らしていたという。
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▼当時の大連警察署
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ロシア時代(ダルニー)と旧満州国時代が色濃く残る街、大連。(遼東半島(りょうとう)の中華人民共和国大連市)
関東州(かんとうしゅう)と呼ばれた地域は、ユーラシア大陸の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借地。
1905年(明治38年)日露戦争を終結させたポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した地域で、日本
人はここで昭和20年の敗戦まで植民地経営を行っていた。
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▼▲ヤマトホテル。旧南満州鉄道株式会社が経営していた高級ホテルブランドで現在もホテルとして健在。
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▼当時のヤマトホテル
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▼大正9年(1920年)頃のヤマトホテルからの眺め。真ん中に写っている建物は正金銀行。
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▼現在のヤマトホテルからの眺め。旧正金銀行が現在も残る。
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周囲を見渡すと、近代化された中国の印象に負けず劣らず存在感を放つ欧風建築群。
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当時の世界は、いわゆる「帝国主義の時代」。軍隊や経済の力で他国や異文明を破壊し、植民地支配することが、ごく
当たり前の様に行われていた。日本も外国に負けじと満州国を建国し、植民地経営の夢の途中だった・・・。
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▲旧大連市役所の建物が手前に見える。
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▲写真はヤマトホテル2Fにあるヤマト喫茶店から撮影した。
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▲店内には夏目漱石の写真や日本時代に撮影された写真なども飾ってあり、非常に心地よい店だった。
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▲旧大連市役所
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▼当時の大連市役所
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▼南満州鉄道本社
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▼当時の南満州鉄道本社
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▼コの字型の建物だが、とにかく大き過ぎて1枚の写真におさまらない・・・。
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これが満鉄本社か・・・と、満州国野望の夢の残骸を見ている様だった・・・さすがに劣化は進んでいる。
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▲完成当時の大連駅(1937年/昭和12年完成)
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▲ライトアップがとても綺麗な現在の大連駅。当時のままの姿に感激する。
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大連の街には日本時代の路面電車が当時の姿で走っている。路線はかなり縮小されているが広島の様だった。
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▼日本時代のままの旧三越百貨店。当時はグレー色だったそうだ。
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▼日本時代の商店建築群がそのまま残る商店街。
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▼これも日本時代かな・・・街を歩いていると何となく解る様になってくる。台湾で目を鍛えられたからかも。
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▼近代化されても区画はほぼ当時のまま。もう日本では見る事の出来ない何か懐かしい感覚を受けた。
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▼ロシア時代の教会を利用して営業しているKFC
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▼大連駅周辺から少し離れるが、これも日本時代に建てられたものらしい。東京大学になんとなく似ている。
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▼▲カッコいいベンツがとまっていたので思わず撮影!
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大連は裕福な人が多い様だ。BMW・アウディーは当たり前、フェラーリやランボルギーニも走っていた。上海みたい!DSCN0136_convert_20170510234323.jpg
▼▲日本未発売の新型RAV4も多く見かけた。日本車なのに日本で売ってない車種も多くなったな・・・
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▼ホンダ車は多くみかけた。もちろんトヨタ車や日産車も見かけるが、ホンダが頑張っている印象を受けた。
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約4000社の日系企業が進出する大連。1人あたりのGDPは北京や上海を上回る・・・。

(話を戻します)
[ ロシア租借地時代 ]
日清戦争で日本が清朝(当時の中国)から割譲された領土の内、遼東半島はロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉で
返還する事となった。
1898年(明治31年)にロシアは遼東半島の一部を25年の期限で清朝から租借した。ロシアはここに旅順軍港を築港。
1900年(明治33年)義和団事件が勃発し、ロシアは満州を制圧する。
1902年(明治35年)日本はイギリスと同盟を締結してロシアに対抗する。この同盟が功を奏し、4月ロシアは満州撤兵
に同意した。しかし1903年(明治36)4月になっても約束の第二次撤兵を履行せず、更に5月には満州のロシア軍の一
部を森林保護の名目で竜岩浦朝鮮に進出させてきた。更にロシアは大韓民国と租借条約を結ぶ。
日本は強硬に抗議し、大韓民国政府は条約破棄を声明。しかし、ロシアは無視し、要塞工事に着手しポート・ニコラス
というロシア風名称に改称しました。ロシアは10月8日奉天を占領。清国軍を追い出し、日本が入り込めない様にする。
日本は外交交渉として1903年(明治36年)8月から翌年1月まで「清国の独立と領土保全」「大韓民国での利権承認」を
中心に主張するも、ロシア側の条件はとても日本が受け入れ難いものばかり。ついに日本は満州に戒厳令を布くに至り、
戦争準備を急ピッチで進めた。1904年(明治37年)1月13日、日本はロシアに最終提案を行うも、ロシアは何ら回答せ
ず、2月4日、ロシアと国交を断絶する。そして日本は巨大な国ロシアと、国運をかけて戦う事になっていく。
日露戦争(1904年[明治37年]2月6日~1905年[明治38年]9月5日)で遼東半島の旅順は日本とロシアの激戦地となった。
1904年[明治37年]11月27日AM10:00大本営から203高地総攻撃の命令が出され、激戦地跡が今も残っている。
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訪れた時はちょうど花見の季節、観光客で賑わっていた。数年前までは日本人が立ち入る事が出来なかった所だ。
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花見の時期では無い時は、この様な料金ゲートは無く、車でもう少し上まで行けたのだが・・・。
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しかし、中国で花見などこの先見る事も無いのでいい経験になった。
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中国人観光客に交じって花見をしながらゆっくり歩いていくと203高地が見えてきた・・・。
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9日間の戦闘で日本・ロシア合わせて約20000人の兵が犠牲になった激戦地を今やっと見学出来る・・・。
▼現地の司令官は乃木希典(のぎまれすけ)陸軍第三軍司令官。乃木は203高地総攻撃に消極的だったという。
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ロシア軍旅順要塞は、当時世界最強とも言える近代要塞に生まれ変わっていた・・・
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桜見区間を越えていよいよ203高地戦跡地区に入っていくが、要塞っぽい遺構はまだ見ていない。
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▲日本語表記もある案内板
読んでみると・・・
日露戦争の遺跡ーーー203高地
203高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪し合っていた旅順西部戦線における主な戦場である
旧日本軍が1904年9月19日からロシア軍周り陣地を奪い取った後、203高地に向かって総攻撃を行い始め、
 66日間続いて12月5日にその高地を攻めおとした。当該戦役の中に旧日本軍は万人以上、ロシア軍は
5千人以上死傷した。
 旧日本軍が203高地を奪い取った後、すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮しながら旅順口を砲撃し
た。その結果、港にあるロシア軍艦は砲撃されほとんど全部沈没した。
 戦後。旧日本軍国主義の頭である乃木希典は203の(中国語の)音読みによってそれを「爾霊山」と改
名した。日本軍の亡霊を供養するために、戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のよう
な形で10.3メートル高さの「爾霊山」記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。
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「爾霊山(にれいざん)」の事か・・・なるほど・・・日本国民は騙されているんですね・・・流石中国。
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▼記念撮影する中国人も気合入ってる!日本人はあそこまで登ってまで記念撮影しないね・・・。
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▼この様な道を更に登っていく
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途中、休憩所の様な場所を境に重砲観測所跡、爾霊山など行先が分かれている。
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まずは重砲観測所跡の方へ。
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見えてきた・・・。
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「狂気じみた無差別攻撃を加え」って・・軍と軍が戦った戦場だぞ此処は。しかし此処は中国だからね・・・仕方無い
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▼日本軍の大砲に模したダミー大砲が旅順港に向けて置かれていた。適当な造りだな・・・
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子供のおもちゃには丁度良いかもね。当時設置された28センチ砲は日本軍としては最新とされていた。
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▼当時最新とされた日本軍28センチ砲
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▼旅順港が見える・・・ここからロシア艦船を砲撃したんですね・・・
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スッキリしない景色だが、スモッグはましになってきている気がした。しかし中国に来てからずっと喉はイガイガ・・
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綺麗な青空が見える日はそう遠くない様にも思う。2010年に初めて中国を訪れた時よりはかなり良くなっている。
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▼陥落後の旅順港。旅順港に停泊していたロシア旅順艦隊は、日本軍の砲撃で外洋に出る事が出来なくなった。
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▼旅順の日本軍の砲撃を受け、旅順港内で擱座(かくざ)するロシア戦艦「レトウイザン」
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次は203高地頂上にある慰霊塔(爾霊山)に向かう。
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慰霊塔が見えた。
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ここも日本語表記の案内板がある
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読んでみると、
203高地の紹介
 203高地は1904年の日露戦争の主戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい強い争
いをし、結果、ロシア軍側では死傷者は5000名余り、日本軍側では死傷者は10000名余りに達した。戦
後、日本第三司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残片でこの高さ10.3
メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊山はすでに日本軍国主義に
よる対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった。
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日露戦争を「恥の柱」と書かれたら日本人はちょっと行きにくいですね・・・日中戦争なら理解出来るけど・・・。
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▲▼爾霊山慰霊塔
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乃木将軍が、旅順戦闘での犠牲者の慰霊と戦勝を記念して無数の砲弾を鋳ぶし建立した。
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▼203高地頂上から旅順港方面の眺め。
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慰霊塔の奥にはロシア軍のダミー大砲が置かれていた。
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説明書には、
ロシア式150ミリメートルカノン砲
二〇三高地争奪戦で、高地に駐屯するロシア軍は150ミリメートルカノン砲二台と76ミリメートル速射野戦砲二台を
もって人口による散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体など防御工事により、日本軍からの進撃を粘り強く阻止した。

と書かれている・・・ロシア側には優しい書き方だな・・・悲しいけど要するに嫌いなんだね、日本が・・・仕方無い
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▲当時のロシア軍第23砲兵旅団
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▲▼再び休息所の様な場所に戻り、別のルートへ行くと、ロシア軍が築いた陣地跡が残る。
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中国は何処へ行っても人人人なので、誰も居ないタイミングでの撮影が難しい・・・。
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▼ロシア軍陣地現存区間を抜けてしばらく歩くと・・・。
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▼少し下った場所に乃木希典の次男、乃木保典戦死の地とされる場所がある。
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乃木希典は日露戦争で長兄の勝典、次男の保典を亡くしている。
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目的はどうであれ、残してくれた中国に感謝したい・・・一礼してその場を去った。
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▲この時から既に兵器の性能差は歴然としており、無謀なバイザイ突撃を繰り返して犠牲者が続出していた・・・。
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▼203高地占領後に撮影された歩兵第25連隊将校団
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203高地戦で、日本軍戦死者約16000人。ロシア軍戦死者約4000人。からくも勝利した日本は初めて西欧列強に勝っ
たという自負心を持ったという。

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下山道はゆっくり桜を見学しながら歩いた。
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この記念塔には中日友好(日中友好)の言葉が刻まれていた。此処は中国ですからね、中日友好となるよね・・・。
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日本の花見シーズン同様、食べ物を売る臨時店舗が立ち並び、非常に多くの人で賑わっていた。
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日本時代に大連で走っていた路面電車が店舗に生まれ変わっていた。
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桜の間から現在は平和な203高地を見る。
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次は東鶏冠山北堡塁(ひがしけいかんざんきたほるい)へと向かった。
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203高地からタクシーで30分程で、ロシアが作った三大永久要塞の1つ「東鶏冠山北堡塁」に到着。
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ここで帰りのタクシーを拾う事は難しいので、20元プラスして待っていてもらった。(1元=約17円)
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ここも日露激戦地の1つで、203高地とともに必ず見学しておきたい戦跡だ。
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▼まずは資料館へ。(日本軍戦利品陳列所)
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此処は日本語訳は無い。
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▼▲日露戦争後に日本軍が鹵獲した当時のロシア軍の武器が展示されていた。
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▲旅順での戦いで日本軍戦死・戦傷者6万人、ロシア軍戦死・戦傷者4万人と書かれている。凄い数だ・・・。
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▼資料館見学を終え、いよいよ東鶏冠山北堡塁へ向かう。
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右手に、日本の城のお堀の様な塹壕と共に見えてきた!
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これは凄い・・・戦国時代の城と同じ規模と例えたら解りやすいだろうか・・・。
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▼旅順の何処かは不明だが、当時の要塞をスケッチした物。この様な強固な要塞だった。
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この辺りは遊歩道から塹壕を挟んで向こう側を見学するしかないのだが、木々が多くて撮影しにくい・・・。
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どうやらこの辺りからが見学の見所の様だ・・・。
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道が二手に分かれている。
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まずは左側へ向かう。
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此処があの有名な日本軍が爆破して侵入した堡塁か・・・感無量だ・・・やっと来れた・・・。
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此処から日本軍は要塞内に突入していったのであろう・・・。
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大げさな言い方かもしれないが、今まで見た何処の戦跡よりも弾痕が多いと感じた・・・。
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旧日本軍とロシア軍の凄まじい激戦地だ・・・。
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東鶏冠山砲台は難攻不落で、第1回総攻撃で予想以上に要塞が強固で、第三軍は15860名の死傷者を出していた。
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井上幾太郎工兵少佐は「築城攻撃」を提案、塹壕を掘り進め、堡塁に爆薬を仕掛けて爆破。これを繰り返し行った。
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向こう側に「入口」がある!中に入れる様だ。
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もの凄い量の弾痕だ・・・。
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いよいよ中へ入る。
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ここに突入した日本軍とロシア軍との壮絶な戦闘があった場所だ・・・。
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旧ソ連軍が作った要塞に初めて入った・・・凄い・・・時代がかなり古いが、やはり日本軍とは全然違う・・・。
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旧日本軍が開けた穴から光が差し込み中は明るい。
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中に入れる区間は短いが、それでも十分激戦の跡を感じる事が出来た。
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無数の弾痕を見ながら次へと向かう。
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銃眼付近の弾痕が半端ない・・・。
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だんだん観光客が多くなってきた・・・しかし日本人観光客とは全く会わない・・・。
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日本人が中国人を見てすぐ解る様に、中国人も日本人は見てすぐ解るとの事。
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▼かなり崩落が進んでいる・・・日露戦争だもんね・・・110年以上前の物・・・。
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ここから当時地下道で左側へ行ける様になっていたのか。正面奥は入った「入口」方面
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地上路で左側へ。
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成程、この右側の陣地に繋がっているんだな。
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これを見た日本軍は勉強したんだろうな・・・明治時代の日本各地に作られた要塞とよく似ている・・・。
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此処も中に入れる。
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入ると左右・真っ直ぐに道が分かれる。
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右はこれ以上は立ち入り禁止。
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左へ行ってみる。
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振り返って撮影。
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この辺りは指揮所だった様だ。
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左手は弾薬庫。
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弾薬庫の隣は電話室。
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更に奥へ。
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ここからは立ち入り禁止。
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ここから先は兵舎だった様だ。
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元来た道を戻る。
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元の入り口まで戻る。
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戻って、トンネルを真っ直ぐぬけて振り返って撮影。
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トンネルを抜けると開けた場所に出る。
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ロシア軍のダミー大砲が並んでいる。
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▼先程の侵入禁止部分から見学した兵舎跡を外から見る。
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最後は「東鶏冠山北堡塁」が刻まれた岩を見てバスターミナルまでタクシーで戻った。
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▼旅順のバスターミナル、大連駅から約1時間かかる。バス代は片道7元だった(1元=約17円)
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▼バスターミナル周辺を撮影。
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▼バスターミナル待合室は人で溢れている。花見の時期は避けた方が良いかもしれない。
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▼帰りはこの様に荷物検査がある。中国は電車に乗る時も必ず荷物検査機を通さなければならない。
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ある意味で中国は徹底している。治安も悪くないし、テロなども聞かない。この徹底ぶりが効果を発揮しているかも。
しかし、旅順は日本人だけでは行きにくいかもしれない。バスに乗る手順など、言葉が解らなければまず無理だろう。
伊藤博文を哈爾濱で暗殺した安重根が収容されていた旅順監獄跡にも行きたかったが、時間が無く、今回は断念した。

星海公園という観光スポットがあるというのでちょっと寄ってみた。
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海沿いに巨大な街が築かれていた。DSCN1805_convert_20170510123737.jpg
▼大連には星海公園がある。海沿いに近年完成した観光スポットだ。
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昭和20年8月15日玉音放送後、日本軍は武装解除し、大連の星海公園へ集結した。大連には関東軍380部隊が居たが、
日に日に悪化する南方戦線に次々に送られ、敗戦時には既に主力部隊の姿は無く、現地招集された兵士ばかりだった。
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日が落ちると色々な物がライトアップされ、綺麗な景色が広がる
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集合屋台の様な場所で食事をする場所もあり、白人の方も多かった。でも空気は・・・ずっと喉はイガイガ・・・。
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写真でも何かスッキリしない空気を感じて頂けると思う。
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日本の田舎暮らしで空気の良いのが当たり前の生活をしている者は一発で喉がやられる・・・中国人は強い・・・
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▼星海遊園地
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奥の高い位置に見える城の様な建物は高級マンションらしい。
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人口も多い分、富裕層も多い。流石14億人の中国。
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写真はスケートボード練習場の様な大きな場所から撮影した。
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▼当日はHUAWEI(携帯電話会社)のブースも盛り上がっていた。Appleに次ぐ第2位の販売台数だそうだ。
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しかしiPoneの人気は絶大。出会った中国人は皆iPoneを持っていた。
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さぁ、帰ろう、最後に海側を振り返る。撮影場所の巨大なスケートボード場がお解りになると思う。
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富裕層の住む高級マンションは綺麗にライトアップされている。
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富裕層が住む高級マンションを眺めながらバス停に向かい、大連駅に戻った。
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▼大連駅に戻ると、かつて日本時代に建設された駅舎が負けじとライトアップされ、存在感を放っていた。
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▼旅順行のバスに乗った、大連駅北側
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▼現代自動車(ヒュンダイ)か・・・。
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▼お!三菱が頑張ってる、って三菱自動車は所有した事無いけどね。リコール隠し・隠蔽体質は大本営みたいだから嫌。
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▼大連駅から歩いて5分、旧ロシア人街と呼ばれる場所がある。
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旧ロシアの雰囲気が感じられる場所としてちょっとした観光地になっている。
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かつての古き良きロシア風建築が並んだ場所は一気に再開発が進み、一角だけが観光地やホテルとなった。
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ロシア人と出会う事はめったと無いが、短い通りにお土産屋やホテルが立ち並ぶ。DSCN2302_convert_20170510160401.jpg
カラフルに塗装され、中国人らしい仕上がりになっている。
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当時のロシアの雰囲気はあまり感じられない・・・。
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此処を観光地とするならば、せめて当時のままの姿のロシア人街を残して欲しかった・・・。
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歴史好きにとっては残念な観光地になってしまった・・・。
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しかし、距離が短いので、ちょっとしたデートコースとして最適だと思う。
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同行してくれた中国人が言っていた。
「ロシア時代や日本時代を見に来る人は多いけど、どれも中国には関係無い事や建物ばかり・・・。
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観光客が中国に来てくれるのは嬉しけど、中国人としては何か複雑・・・」と。うん、うん。言いたい事は解るよ。
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▼突き当り付近のこの朽ち果てかけの立派な建物は、何故か再開発投資の対象から外されてた様だ。
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ロシア時代には1902年(明治35年)東清鉄道事務所(ロシアの鉄道会社で満鉄の前身)→初代大連市役所にも使われた。
日本統治時代1907年(明治40年)東京から移転した満鉄の本社となり、満鉄の本社が1908年(明治41年)に現在の魯迅
路に移転後は夏目漱石も宿泊した2代目ヤマトホテルとなった。
その後、満州物質参考館→満蒙資源館→満州資源館→終戦(敗戦)。
激動のロシア時代と日本時代を見つめて来た老房子は、静かに再利用の時を待っている。
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この通りもライトアップが始まると綺麗だった。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その1「大連旅行記」を終わりとします。
次回は、その2「瀋陽旅行記」をお届けします。

日本租借地時代
1905年9月日露戦争後のロシア帝国との講和条約であるポーツマス条約で、清朝からの租借地の権利を日本が引き継
ぐ事となる。同年12月22日には、清朝との間で満州善後条約(中日会議東三省事宜条約)を締結し、この地域における
権益をロシアから日本へ移譲し、ロシア時代のダルニーは「大連」と改称された。
この租借地の名称は「関東州」であり、当初は軍政が布かれていたが、1906年[明治39年]9月1日民政に移管され、関
東都督府が設置された。その後、関東都督府は1919年4月に関東軍が分離し関東庁に改組、1934年12月には関東局と
その下部機関である関東州庁に改組した。
※1912年は明治45年(1月1日~7月30日)大正元年(7月30日~12月31日)

清朝崩壊後、関東州の租借地は1915年に中華民国との条約により租借期限を1997年まで延長された。
1919年(大正8年)関東軍が東三省全土を占拠し満洲国を建国、租借権の設定は満洲国から受けてる形式に改定された。
1937年(昭和12年)には、満鉄附属地の行政権を満洲国に返還した。
1945年(昭和20年)のソ連対日参戦で関東州はソ連軍に占領されて関東軍は降伏し、関東局・関東州庁は瓦解した。

※旅順戦跡巡りをご希望の方はご連絡下さい。信用出来る現地付き添い人をご紹介します。
 大連駅から旅順まではバスで移動出来ますが、そこから203高地・東鶏冠山北堡塁は、タクシーでないと厳しいです。
 通常は、大連駅周辺からタクシーを1日借り切って旅順周辺を巡るのが一般的です。
 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2017_04_30




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
pochetteevnara@gmail.com

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