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ハワイオアフ島・パールハーバー。日米開戦の舞台となったハワイ・フォード島、真珠湾攻撃・・・。
真珠湾は現在も米軍基地が置かれているが、そこには第二次世界大戦に関する博物館などがある。
本来、最初に訪問すべき場所ではあるが、その遠さと費用で今まで足踏みしていたが、やっと行く事ができた。

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▲日本から約8時間。オアフ島のダニエル・K・イノウエ国際空港(旧ホノルル国際空港)に到着。
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▲空港内にはダニエル・K・イノウエを紹介する場が設けられている(2017年4月27日より名称変更)
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▲ダニエル・K・イノウエ氏
ダニエル・K・イノウエは、ハワイ州出身の日系アメリカ人で、ハワイ大学在学中の1941年12月日本軍による真珠湾
攻撃が行われ、アメリカが第2次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願。その後アメリカ人としての
忠誠心を示す為にアメリカ軍に志願。アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、手榴弾の炸裂で
右腕を失うも、ヨーロッパ前線で勇敢に戦い、数多くの栄誉を受けた人でもある。

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▲ダニエル・K・イノウエ国際空港は、米空軍のヒッカム空軍基地に隣接しており、滑走路を軍民で共有している。
日本で言うと那覇空港の様な使い方だが、大きな違いはダニエル・K・イノウエ国際空港は24時間空港だという事だ。

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▲これは第100歩兵大隊を紹介する展示。
日系二世を中心に編成された部隊で、第2次大戦中ヨーロッパ戦線に投入され、イタリア戦線・フランス戦線でドイツ
軍を相手に戦闘を行った。死傷率は314%(のべ死傷者数9486人)だった。
アメリカ本土からの志願兵を加えて編成された第442連隊戦闘団がイタリア戦線に到着し、第442連隊戦闘団の第1大
隊となったが、それまでの功績から第100歩兵大隊の名称はそのまま継続した。
当初は「ジャップ」と呼ばれ、上級指揮官から「必要ない」と言われた日系部隊だったが、戦闘を重ねた後は各方面の
指揮官から日系二世部隊を増援で欲しいと言われる程の活躍だったという。
終戦後第100歩兵大隊は大統領部隊感状を始めとする多くの表彰を受け、現代に至るもアメリカ陸軍ベストユニットの
1つとされ、大隊の大部分の兵士が負傷し、パープル・ハート 章を受章した事からパープル・ハート大隊とも呼ばれた。

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▲他にも、戦後日本でプレイする初のアメリカ人として読売ジャイアンツに入団したウォーリー・ヨナミネ氏も紹介さ
れていた。私は野球は詳しくないので、恥ずかしながら存じ上げませんでした・・・。
多くの日本人観光客がディスプレイを素通りして行くが、日系一世~現在は四世・五世と、脈々と続く日系人の活躍と、
一世・二世の想像を絶するご苦労を、日本人はもっと知り、学ぶところは学ぶべきだと強く思った。

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▲空港内には、中国庭園・日本庭園・ハワイ庭園があり、空港でありながら緑の中で時間を過ごす事が出来る。
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▲▼チャイニーズガーデン(中国庭園と言っても現在の中国では無く、中華民国の意味合いだ)
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▼チャイニーズガーデンには「中国革命の父」で初代中華民国臨時大総統の孫 文の石像がある。
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▼ジャングルを思わせる様なハワイアン庭園
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▼最後はお待ちかねの日本庭園。と言いたいところだが・・・。
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日本庭園独特の白砂か!?と思ったらコンクリート敷だった・・・メンテが大変だからね・・・仕方ないのか。
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ハワイアン庭園と言われてもうなずいてしまう様な日本庭園・・・。
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しかし、此処ハワイの玄関口に「日本庭園」と題されたスペースがある事に意味がある。と考える事にした。
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▼入国審査を終えて空港を後にする。
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観光客は日本人女性が特に多いと感じた。
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▼まずは宿泊先のホテルに向かう。やっぱり南国はいいね~!
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▼迎えの車に乗り込む。
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▼ハイウェイを走って宿泊先に向かう。送迎車もバスも長~い!
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▼ワイキキ周辺に到着。これも長~い、アメリカに来たって感じ。
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▼宿泊したホテルはアストン・ワイキキ・ビーチ・ホテル
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▼宿泊部屋(17階)から下を見る。プールは宿泊客であれば自由に使う事が出来る。
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▼宿泊部屋のベランダからの眺めは綺麗だった。部屋も綺麗だったが、トイレのウォシュレットは無かった・・・。
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▼ホテル前の道を挟んだ向かいはワイキキビーチだ。
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ここは人口ビーチで、砂はアメリカ本土からだけでは足らず、遠く北海道からも砂が運ばれたそうだ。
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▲▼ワイキキ周辺は高級ホテルが立ち並び、買い物をするにも何でも揃う大都会だ。
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芸能界を引退した島田紳助さんもワイキキの高級マンションに住んでいると聞いた。
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▼中国製のエンジンスクーターを結構見かけた・・・。
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▼▲何処の国でも居るんだね~。ストリートパフォーマー「シルバーマン」
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▼現在もフォード島は真珠湾に浮かぶ現役の米軍基地。そこに行く為にはフォードアイランド・ブリッジを渡る。
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▲この交差点の向こうはフォードアイランド・ブリッジ。橋に入ると検問所がある。ここから先は撮影禁止区域だ。
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▲真珠湾内に浮かぶフォード島(Ford Island)矢印(白)がフォードアイランド・ブリッジの入口。矢印(赤)はこれから
見学する真珠湾攻撃当時ままの格納庫を利用した、太平洋航空博物館パールハーバーだ。

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▲フォード島に上陸。一般見学者がここに来るにはツアーに申し込む以外に方法は無い。
鞄などの手荷物品は一切持ち込む事は許されず、車両は許可車両しかフォードアイランド・ブリッジを渡る事は許され
ていない。フォード島に入る前にはセキュリティー担当者が車内を点検しに来る。
我々の車両は日本人ばかりだったので、本当に簡単な見回り?程度で点検が終わった。
「日本人は信用出来るから見なくても大丈夫と思われている」というガイドさんの話が嬉しかった。
日米双方共 武人としての誇りをかけて戦ってくれた兵士達のお陰で、今の日米信頼関係があると私は思っている。
持ち込みが許可されているは、携帯電話・カメラ・財布といったポケットに入る程度の私物だけである。

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▲太平洋航空博物館パールハーバー以外は現役で訓練等に使用されている所も多く、うろちょろ撮影は許されない。
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▲▼真珠湾攻撃当時のまま残されている格納庫37号棟・79号棟の2棟が「太平洋航空博物館パールハーバー」だ。
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▼管制塔も当時のままだそうだ。
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▼早速37号棟から見学を開始する。
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▲▼真珠湾の拡大写真が床に貼られた小さなロビーで館内の説明・日本語訳発信機などを受け取る。
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とにかく時間が無い。与えられた時間は1時間程度。
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日本語訳発信機を使って展示物の説明を聞いていると、写真撮影の時間が取れなくなってしまう程の短時間だ。
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▼吊るされてる航空機の模型の中に、日本軍機もあるが、かなり上にあるので写りにくい。
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真珠湾攻撃の際、地上から見えた大きさで再現されているという。
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▼最初はどでかい真珠湾攻撃のパネル!
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▲中島B5N 九七式艦上攻撃機だろうか・・・。襲い掛かる日本軍機が描かれている。
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▲▼次は真珠湾攻撃仕様の零戦21型だ。エンジン・プロペラ・カウリング以外は本物だ・・・素晴らしい!
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機番「BⅡ-120」は「 ニイハウ島事件」の西開地重徳1飛曹の機番が書かれている。
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ゼロ戦が空母「飛龍」の飛行甲板上で搭乗員や整備兵の人形がリアルに配置されている・・・。
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機番「BⅡ-120」のBは第二航空戦隊、Ⅱは二番艦「飛龍」、1は戦闘機を表す(2は艦爆3は艦攻)20は先任順。
日の丸後ろの2本の帯は二番艦を表す。海軍は搭乗機は決まっておらず、早い者順に零戦に搭乗していたという。

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此の零戦21型はパプアニューギニア・二ューブリテン島 ガスマタに放置された台南航空隊所属機をオーストラリア軍
が捕獲した物※ガスマタ(Gasmata)はパプアニューギニア ニューブリテン島 西ニューブリテン州南岸にある村。
同じ台南航空隊所属機(垂直尾翼マーキングV-173)がキャンベラ/オーストラリア戦争記念館に展示されている。

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此の零戦は1942年製、現状のエンジンとカウルはアメリカ製で現在も飛行可能だという
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▲ハワイの小学生だろうか・・・先生かガイドの人が零戦の前で子供達に日米開戦に関するフェアな説明している。
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ガイドの方が「日本人は此処で立ち止まって時間を使い過ぎてしまい、他を見学されずに帰ってしまう人が多い」
と言っていたが、当たり前だ・・・いつまでも眺めていたい!!しかし、もう二度と来る事は無いと思うので先を急ぐ。

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▲▼真珠湾攻撃で日本海軍が使用した框板と安定器の付いた魚雷は、水深12mの真珠湾泊地の攻撃を可能にした。
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真珠湾攻撃以前から改良が続けられた結果、真珠湾攻撃の時には世界一深度が安定した航空魚雷になっていた。
それに加え、戦艦の分厚い防御甲鈑をブチ抜く為の800㌔特殊鉄鋼爆弾も水平爆撃で使用された。
真珠湾攻撃に参加した日本海軍空母群は「赤城」「加賀」「蒼竜」「飛竜」「瑞鶴」「翔鶴」そして航空機約350機だ
った。各空母の艦載機を水平爆撃機隊、雷撃機隊、急降下爆撃機隊及び戦闘機隊の四群に集約、各隊ごとに指揮官をお
き、その上に全体を統括する総指揮官をおく編成で、飛行隊長として旗艦「赤城」に赴任した淵田少佐が指揮をとった。
錦江湾(鹿児島県)で5ヵ月間の猛烈な訓練を重ねた日本海軍パイロットは当時世界一の技量を持った搭乗員達だった。

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▲真珠湾攻撃前日に撮影された空母「瑞鶴」戦闘機隊搭乗員の集合写真。2列目右端は撃墜王の岩本徹三1飛曹
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▲真珠湾攻撃前に小雨が降る空母「加賀」の飛行甲板で撮影された雷撃隊員達。
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▲昭和16年12月6日北嶋一良中尉を中心に空母「加賀」でミーティングを行う雷撃隊員達。
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▲真珠灣攻撃当実の日本海軍機から撮影されたフォード島周辺。島の右側にバトルシップロール(戦艦列)に1つの大き
な水しぶきが写っている。97式艦上攻撃が投下した魚雷が米戦艦ウェストバージニアに命中した瞬間である。
その隣に写る黒い点の物体は飛行中のゼロ戦だ。

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▲ハワイ真珠湾で水平爆撃を終え、ヒッカム飛行場上空を飛行する空母「瑞鶴」所属の97式艦上攻撃機
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▼▲米軍の対空射撃で被弾、撃墜された空母「赤城」第1次攻撃隊 第2制空隊第1小隊2番機・平野崟1飛曹(戦死)
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▼▲カメハメハ大通りの直上をかすめながら、カメハメハ要塞の兵器庫に突入したと言う。平野崟(たかし)1飛曹は第1
次攻撃に参加した空母「赤城」零戦隊唯一の未帰還機。制空隊総指揮官の板谷茂少佐の2番機だった。
米軍対空砲火で被弾した平野崟(たかし)一飛曹はヤシの木に突っ込んだ後、カメハメハ要塞兵器庫の入り口にいた砲兵
のグループに衝突したと言う。その結果、米軍砲兵4人と平野1飛曹が戦死した。

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▲ハワイ(カネオへ基地内)で米軍に埋葬される空母「蒼龍」第二次攻撃隊の第三制空隊第三中隊長・飯田房太大尉
(尾翼番号 BI-151)
飯田大尉はカネオヘ海軍航空基地を銃撃した後、ベローズ陸軍航空基地を機銃掃射。再びカネオへ海軍基地を攻撃中、
燃料タンクに被弾した。飯田大尉は、隷下の第二小隊長・藤田怡与蔵中尉に燃料切れを意味する手信号を送り、列機
に帰投方向を示した後、カネオへ海軍基地格納庫に向かって突入して行った(享年28歳)。
※飯田大尉の2番機・厚見峻1飛曹は被弾して燃料漏れを起こし自爆。
※同じく3番機・石井三郎2飛曹は空戦ではぐれ、帰投方向を見失ってニイハウ島付近で海面に突入し自爆した。
ゼロ戦の様な単座戦闘機は1人乗りで航法士がいない為、洋上で単機はぐれると母艦への帰投方向を見失う事が多い。
母艦(空母)に帰投無線の発信を要求できるが、それを要求した機は一機もない。

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▲飯田大尉の自爆する最期を見ていた米軍が「理屈を超越した感動を与えた」として、自爆の地に顕彰碑を建立し、そ
の勇敢な行為を顕彰した顕彰碑は真珠湾攻撃から30年目の1971年にカネオヘ海兵隊基地内に米軍が記念碑を建立。
現在も米海兵隊により維持・管理され、1981年以降は毎年法要が行われている。

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▲日本軍の奇襲攻撃でパニックになったオアフ島で撮影された有名な写真。「日本軍は民間人も殺した」など、色々な
プロパガンダに使用された様だが、当時ハワイの人口の約40%が日本人。車の中で亡くなられている方も日系人との話
もある。いずれにせよ「やった・やられた」の次元で話をしていても何の解決にもならない事は、日本人とアメリカ人
は、世界中のどの国の人より良く理解している。犠牲者に報いる為には日米信頼関係を決して壊してはならないと思う。
「 ニイハウ島事件」の零戦だ・・・。

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真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属の零戦。パイロットは西開地重徳1飛曹(愛媛県出身) 享年21歳
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▼ニイハウ島に不時着して1週間後の西開地1飛曹の零戦。落下増槽を着けたままという事に注目。
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制空戦闘機は機体運動を軽快にする為、戦闘前に必ず落下増槽を投棄する。落下増槽を抱いていたという事は、明らか
に戦闘行動に入る前を意味する。即ち、オワフ島上空に到達する以前に何らかのトラブル(エンジン不調)を起こし、西
開地1飛曹は進撃途中にニイハウ島に不時着したと考えられる。
ニイハウ島は日本海軍が真珠湾攻撃の際、搭乗員収容地点に指定した島で、潜水艦が救出しに来るはずだった・・・。

▼ニイハウ島に不時着➡西開地1飛曹と原田が零戦の無線を使おうと試みたが失敗し焼却された後の写真。
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▲空母「飛龍」戦闘機隊所属だった機番[ BII-120 ]昭和16年12月17日 米国陸軍派遣隊撮影。
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▼このトラクターも「ニイハウ島事件」に関係あるから此処へ持ってきたのだろう・・・。
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西開地1飛曹をかくまった日系2世「原田義雄さん」享年39歳も紹介されている。
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▼▲エアロンカ 65TCモデル。当時アメリカで飛んでいた一般の飛行機という事だ。
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アメリカ軍機はあまり詳しくないので写真のみでスルーする。
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▼▲これはP40かな?
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▲▼爆撃機の展示は場所とるね~日本本土を最初に空襲したB-25中型爆撃機。
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「ドゥーリトル空襲」昭和17年4月18日アメリカ軍が空母エンタープライズ、ホーネットの2隻に搭載した陸軍B-25
中型爆撃機で、日本本土に初めて行ったの空襲の事。名称は空襲の指揮官であったジミー・ドゥーリトル中佐に由来。
本来、陸上から発進させる陸軍B-25(16機)を空母から飛ばし、日本本土爆撃後は中国大陸などに不時着させる無謀な
作戦だった。目標は東京の兵器工場だったが、目標は外れ一般市民50人が亡くなった。

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▲日米開戦前に日本が授与した勲章を、ホーネット艦上で爆弾に取り付けるジミー・ドーリットル中佐。
ドーリットル中佐自身は、被弾した場合は搭乗員を脱出させた後、目標に特攻する決意だったという。
実際、日本陸軍戦闘機「飛燕」がテスト飛行中に遭遇。攻撃を仕掛けている。
出撃したB-25爆撃機16機は中国大陸や海上に不時着し、日本軍の捕虜になったり、戦死する者も出た。日米開戦まで
空軍に力を入れていなかった米軍は、ルーズベルト大統領が空軍に対してそれまでの100倍の予算を与え、「一刻も早
く日本本土を爆撃せよ」と命じる。「ドゥーリトル空襲」は空軍戦力が整わない中で、賭けに打って出た作戦だった。

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▲空母ホーネットに詰め込まれたB-25
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▲▼ミッドウェー海戦で活躍したダグラスSBD-3ドーントレス。
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▼▲グラマンF4Fワイルドキャットだ・・・。ガタルカナル・ヘンダーソン基地のジオラマになっている。
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▼退役軍人の方だろうか。ゴルフカートの様な物で79号棟に連れて行ってくれた。
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▼79号棟を見学する。
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見た感じ、日本軍機は無さそうだが・・・。
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▼中華民国軍(米義勇軍)のP40-Bトマホーク(Tomahawk)フライングタイガース。
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▲▼そういえば日中戦争でアメリカは当時の中華民国を支援していたんだよね・・・。
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▼パイロット達のサインだろう・・・水平尾翼にマジックで沢山書かれている。フライングタイガース社員に偽装した
 アメリカ軍パイロットが日米開戦前から戦闘行動に従事していたからね・・・。

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▲中国軍に偽装した爆撃機で日本本土空襲も計画されていた。
昭和16年7月23日当時のルーズベルト大統領は対日攻撃計画書[ JB355 ]にサインしている。
これは昭和16年10月までに350機の戦闘機と150機の長距離爆撃機を中国に供与して、中国の基地から神戸・京都・
大阪・横浜・東京の産業地帯を爆撃する計画の事だ。表向きは中国空軍の行動としてやらせる計画だったが、中核にい
たフライングタイガースが、実働部隊として行動する事が決定しており、アメリカ軍の増強要員が中国軍(蒋介石)に送
られていた。この計画は欧州戦線が急迫した為実行される事は無かったが、遠かれ遅かれアメリカとの衝突は避けられ
なかった。事実上は戦争状態に突入していた日米だが、日本人の真面目過ぎる国民性が、宣戦布告無き奇襲攻撃という
汚名をきせられれる真珠湾攻撃となってしまった・・・。

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▲▼F-4 Phantomかな。
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▼▲旧日本軍も買っていたC-47ダクラス輸送機かな?
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▲▼ミッドウェー海戦(Battle of Midway)の模型だ。
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▼もう日本軍機は無いのかと諦めていたその時、あった!97式艦上攻撃機の残骸・・・。
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アメリカ軍での愛称「Kate」で紹介されている。
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海軍 中島 B5N2 九七式三号艦上攻撃機をThe Most Dangerous Plane = 最も危険な飛行機 と紹介している。
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▼(参考画像)九七式艦上攻撃機
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日本軍機があったので良かった・・・そしてここでタイムアップ。お土産屋も見たいので集合場所に戻る。
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▲37号棟と79号棟の間には数機の飛行機が展示されていたが、時間も無く、日本軍機は無いだろうとスルー。
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フォード島の大部分は今でも滑走路だ。
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次は「戦艦ミズーリ記念館」に向かう。
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その前に、真珠湾攻撃で撃沈された戦艦オクラハマ(USS Oklahoma, BB-37)乗組員の慰霊碑で黙祷を捧げる。
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▼戦艦オクラハマ(USS Oklahoma, BB-37)
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▼いよいよ戦艦ミズーリ記念館に入る。
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チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア元帥の銅像の横にある3つのパネル。
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降伏文書調印式でのニミッツ元帥
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東郷 平八郎元帥も紹介されている。
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まずはアメリカ太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域最高司令官、チェスター・ウィリアム・ニミッツ・シニア元帥の銅像
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       東郷 平八郎元帥海軍大将の崇敬者だったニミッツ元帥はアメリカ軍のヒーローだ。
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       ▲アメリカ軍の人もこぞって銅像の前で記念撮影している。勝戦国だね・・Nice couple!
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星条旗に覆われた小さな橋を渡ると戦艦ミズーリ記念館だ。
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▼ゴミ箱も戦艦ミズーリ仕様。こういうところがカッコいい!
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「戦艦大和」と数メートルしか違わないというミズーリはとてつもない大きさだ。日本ではこの様な戦艦は見れない。
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アメリカって感じだね~当たり前だが敗戦国日本の重苦しい平和祈念館とは全く雰囲気が違う・・・。
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アメリカも朝鮮戦争やベトナム戦争では一応負けてるんだけどね・・・。
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▼まずは外観の全体像を・・・艦橋部分がレストア中なのが残念だったが、デカい!
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日本も大和か伊400を引きあげて呉かどこかに展示しないと・・・説得力が全然違う。模型は所詮模型・・・。
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▼▲昭和20年9月2日東京湾上の戦艦ミズーリ。
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▲奥には「USSアリゾナ記念館」が見える。
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いよいよ戦艦ミズーリへ乗る。
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▲救命ボートだろうか。
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なんというデカさだ・・・「大和」や「武蔵」も実物大でこうやって見てみたい・・・。
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見学者はかなりの数だ・・・当然アメリカ人が多い。
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とりあえず艦首へ向かう。
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しばらくガイドさんの説明が続く。
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MARK7 50口径40.6cm砲。大きな主砲だ・・・しかし「大和」は九四式45口径46cm砲だったんだな・・・。
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「砲撃は正面向いて撃つ事はありません。何故なら爆風と炎で乗組員に死の危険性があるからです」と説明してくれた
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▲▼20mm単装機銃の対空機関銃。
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▼ガイドさんの案内で順路を進む。
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▼振り返って艦首方向を撮影。
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砲塔の横で説明を聞く。
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砲塔に書かれた数字は湾岸戦争で撃った弾の数だという・・・各砲塔には記録数字と場所が書かれている。
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▼次にその反対側に向かう。
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そこは東京湾内で日本の「降伏文書の調印式」が行われた場所だった・・・。
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サレンダー・デッキ(Surrender deck)と呼ばれるこの場所で、第2次世界大戦終結の降伏文書調印式が行われた。
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調印式はわずか23分だっという。
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▼机が置かれていた場所には記念の言葉が刻まれている。
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▼隣を見ると古いペリー来航時の星条旗や、降伏文書のレプリカ展示、そして小部屋の入口がある。
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▼当時マッカーサーが署名している写真にも、古いペリー来航時の星条旗が写っている。まさしくこの場所だ。
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降伏文書のレプリカが展示されている・・・なかなか離れようとしないこの子は日本人。何を想うのか・・・。
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此処はダン” ダニエル・ジャドソン・キャラハン(Daniel Judson Callaghan)艦長室の入口。
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降伏文書調印式が行われたこのデッキは艦長専用のプラーベートデッキだったそうだ。
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艦長室と応接室を窓越しに見る事が出来る。
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艦長室入口横に展示されているカラー写真。
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▼アメリカの勝利の象徴だね・・・戦艦ミズーリは。説明するまでも無い有名な写真が3枚・・・。
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「生きて虜囚の辱を受けず」と戦陣訓で徹底的に教育した張本人らが、「生きて国を虜囚」にした瞬間だった・・・。
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▼次へ順路を進む。
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▼ずっと此処へ行きたかった・・・[ Kamikaze Attack Site ]
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▼次に見学する[ Kamikaze Attack Site ]の説明を受ける。
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昭和20年4月11日14:43九州(鹿児島県)の海軍鹿屋航空基地から出撃した神風特別攻撃隊の神雷部隊「第5建武隊」
の爆装零戦が低空飛行で戦艦ミズーリの右舷甲板に体当たりを敢行。
特攻機の右翼がミズーリの第3副砲塔上部に当たり、燃料に引火し炎上。しかし搭載爆弾は不発・・・ミズーリは表面
に損傷を受けた程度で速やかに消火作業が行われ、鎮火している。
その後、日本海軍特攻隊員である零戦搭乗員の遺体(ほぼ上半身のみ)が40mm機銃座から回収された。
ミズーリ艦長ウイリアム・キャラハン海軍大佐は、多くの乗組員の不満の声があがる中、「この日本のパイロットは我
々と同じ軍人である。生きている時は敵であっても今は違う。激しい対空砲火を掻い潜ってここまで接近してきたパイ
ロットの勇気と技量は、同じ武人として称賛に値する。よってこのパイロットに敬意を表し、水葬に付したい」とし、
翌朝9時、艦上にて米海軍のしきたりに則り、海に葬ると艦内放送で全乗組員に命令を下した。
星条旗に包まれた遺体は木製の担架に乗せられ、5発礼砲と共に海に葬られたという。
(ガイドさんの話では3名のミズーリ乗組員が徹夜で「日の丸」を作って遺体を包んだという事だ)

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▲昭和20年4月11日14:43戦艦ミズーリに突入寸前の神風特別攻撃隊第5建武隊の特攻機(零戦52型)
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▲▼突入後に撮影された零戦の残骸。突き刺さった零戦の機関銃で52型である事が判明した。
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▼40mm機銃座から回収された特攻隊員の遺体。上半身しか無い。詳しくは「鹿屋航空基地史料館」 参照。
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▼▲まさにこの場所で特攻隊員の水葬が行われた。
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太平洋戦争当時は画像に写るバスケットゴールは無かったという事だ。
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▼▲甲板上には特攻隊員を水葬した際にミズーリ乗組員が整列した場所が足型で示されている。
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特攻隊員水葬が行われた4/12の午後、「ミズーリ」は再び特攻機による猛攻を受けた。
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▲特攻機が突入した跡の凹。航行に支障がない部分は修理されずにそのまま残された。
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特攻隊員水葬の様子と、特攻を敢行したと思われる石野節男2飛曹。そして水葬を決断したキャラハン艦長を紹介。
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簡単に翻訳すると「海の埋葬」1945年4月12日、沖縄北東部の海域で行われた第2次世界大戦の最後の大戦闘が海上
及び陸上で激しく戦闘を繰り広げた。戦艦USSミズーリを攻撃した日本人パイロットの体は海上埋葬された。とある。

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※ミズーリに突入した特攻隊員は石井兼吉2飛曹か石野節男2飛曹のどちらかと見られている。
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こみ上げる涙を必死にこらえながら[ Kamikaze Attack Site ]を後にした。
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YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 1/4」 
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 2/4」
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 3/4」
YouTube「カミカゼ2000分の1の航跡(戦艦ミズーリに突入した隊員を探し求めて) 4/4」

▼艦尾側の主砲も大きい。

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今度は艦の反対側を通って入口方向に戻っていく。
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艦橋を見たかったな~。
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振り返って艦尾方向を撮影。
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渡って来た星条旗に囲まれた小さな橋をミズーリから見る。
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▼艦内への入口を発見。
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ちょっとお邪魔して撮影。
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しかしツアーの人達は誰も入って来ない・・・[RESTRICTED AREA]➡「立ち入り禁止区域」を後で気づいた・・・
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ゴメンナサイ・・・。
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このツアーは「パールハーバー&戦艦ミズーリ(軍艦カレー付き!)」15790円で申し込みしたオプショナルツアーだ。
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誰も入って来ないので、心配になって艦から出ると皆集合して艦を出ようとしている所だった・・・!
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急いでミズーリを退艦、合流して昼食会場へと向かう。
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東郷 平八郎元帥とニミッツ元帥の関係や「戦艦三笠」の話を聞きながら軍艦カレーを頂いた。
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世界三大記念艦「三笠」へはまだ行った事が無いので、今度時間を作って行こうと思う。
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▲ミズーリ記念館を離れ、次は「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」に向かう。
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此処はフォード島を離れ、オアフ島側にある。日本語に訳すと「第二次世界大戦武勲記念史跡」だ。
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なので戦争博物館と呼ばれるものでは無い。当然此処も手荷物は制限されている範囲の物のみだ。
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早速入館する。此処は無料との事で、ツアーガイドのガイドは許されておらず、ガイド無での見学だ。
ガイドによる偏った知識では無く、「自分の目で見て感じ、自分で考えろ」というのがアメリカ側の意図らしい。

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▼先に行った「太平洋航空博物館パールハーバー」の事だ。
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まずは「USSアリゾナ記念館」に行く為のチケットを貰い、見学者全員が視聴を義務付けられている映画を見る事に。
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▼「USSアリゾナ記念館」行きの船は写真奥の右手奥から出航する。
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▲▼この建物の中で映画を見るのだ。建物内での撮影は禁止だ。
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20分程の白黒映画は当時の映像を組み合わせた第二次世界大戦の大きな流れ・結果を伝える内容だった。
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船でアリゾナ記念館に向かう。操縦しているのは現役のアメリカ軍兵士の様だった。行きは男性、帰りは女性だった。
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▲▼先程見学した戦艦ミズーリが見える。
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▲見学し終えた組の、帰りの便とすれ違う。
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▲▼5分程乗っただろうか・・・あっという間に「USSアリゾナ記念館」に到着。
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ここは真珠湾攻撃で撃沈された戦艦アリゾナが沈んでいる場所だ・・・約1000名の兵士と共に。
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アメリカ政府は戦艦アリゾナの残骸を国定慰霊碑にする事を決定し、1962年5月30日正式に指定された。
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燃料満タンで撃沈されたアリゾナの燃料庫からは、毎日数リットルの重油が漏れ出し、アリゾナの涙と言われる。
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        現在も収集されず「水葬」として約1000名の遺骨が海底の艦内で眠っているとの事だ。
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これだけ浅い所なので引き揚げて遺骨収集を・・・と思うのは日本人だけで、国によって色々考え方がある様だ。
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陸上での戦死者の遺体(遺骨)は徹底的に収集するアメリカ軍だが、海では違う様だ。
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記念館の奥には、大理石の壁に戦死した乗組員全員の名前が刻まれている。
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安倍首相と昭恵夫人が慰霊に訪れた場所だ。
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▲▼USS Arizona, BB-39
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▼日本軍が投下した爆弾が命中し、弾薬庫が爆発。炎上して艦の前方が大破した。
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戦艦アリゾナは、そこで戦死した人々にとっての神聖な墓地としてある物なので、ご冥福を祈りながら見学した。
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だんだん人が多くなってきたのでそろそろ戻る事にする。
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帰りの船を待つ列が出来始めた。そろそろ船が来るのであろう。
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帰りの船に乗り込む。
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日本人にとっては少し重い場所だが、日米双方の犠牲者があって今の日米信頼関係がある。慰霊出来て良かった。
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船がアリゾナ記念館を離れる。
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そう何度も来れる場所では無いので、もう1度目を閉じて戦死者の冥福を祈った。
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▼オアフ島の「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」に戻って来た。
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▼海岸線の公園内を少し散策する。
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▲ミズーリとアリゾナ記念館が見える場所に案内板がある。
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▲▼真珠湾攻撃の説明版がいくつもある。ま、戦争はお互い理由があって始まった事だからね・・・。
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▼「ボーフィン・サブマリンミュージアム&パーク」でどうしても見ておきたかった物がこの奥にあった・・・。
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▲それはボーフィン・サブマリンミュージアム&パークのこの建物(レストラン)の奥にひっそりと展示されていた。
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見たかった物。それは日本で見る事の出来ない人間魚雷「回天」の本物(完備品)だ・・・。
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初めて本物を見学する。
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「大津島」へ行って以来、ずっと本物をこの目で見たいと思っていた。
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何か所か切り抜かれ、内部が見える様になっている。
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▲本物が見れて感激したが、欲を言えば日本で完備品の本物を見たいものである。
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▲▼他を見て回る。
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▼▲第2次世界大戦時アメリカ潜水艦の象徴の1隻として保存される「ボーフィン」USS Bowfin,SS/AGSS-287
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日本人としては「沖縄戦」の直前、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」を撃沈した潜水艦としてのイメージが強い・・・
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▲別料金を支払えば内部を見学出来るとの事だったが、見学する気にはとてもなれなかった・・・。
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集合時間も迫っていたが、展示館が少しあるので見学する事にした。
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2つある展示館の1つ目に入る。
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▼4000万以上かかった「赤城」の精密な模型
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▲2つ目の展示室に入る。
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▼▲真珠湾攻撃で戦死・負傷した米兵の写真だろうか。日本人が見学するには少々辛い写真の展示が続く・・・。
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▼これは日系人部隊の紹介かな・・・。
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▼先程訪れたアリゾナ記念館の模型。
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▼最後にガイドさんのお勧めの、真珠湾攻撃当時の映像が20分程上映。
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YouTubeなどで何度も見ているが、此処で上映されている当時の映像は見た事の無いシーンが多かった・・・。
左から、中国語・英語・日本語と字幕付きなのでアナウンスは英語だが、とてもよく解った。
映像を見終えて「World WarⅡ Valor In The Pacific National Monument」を後にした。

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▼▲時間があったので夜にテスラのショールームに寄ってみた。
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とても買える金額では無いので見るだけ・・・モデルSの赤。カッコいい・・・!
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東京や京都のショールームでも見た事があるが、やっぱり製造国で見るのは同じ車でも何故か見方が違う。
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ハイブリッド車は日本車に勝ち目がない欧米各社はいよいよ日本車イジメとしてEVに完全シフトを言い始めているが。
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日本メーカーであれば直ぐに作れるだろう・・・しかし問題はインフラが整わなければ乗らないという国民性だ。
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ベンチャー企業に投資するアメリカ。「まずは走らそう」の中国。安心・安全を何処までも追及して動かない日本。
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オアフ島の様な離島でも電気自動車は結構見かけた・・・。
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個人的にはガソリン車には飽きているので、電池性能がもっと上がれば電気自動車は欲しいのだが・・・。

この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
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 2017_09_20


ニイハウ島事件は、昭和16年(1941)12月7日日本海軍による真珠湾攻撃に加わった空母「飛龍」所属のゼロ戦が、ハ
ワイ諸島のニイハウ島に不時着して起きた一連の出来事である。
1864年以来、ハワイ諸島の中で最も西にあるニイハウ島はロビンソン家が私的に所有している。島民のほとんどはハ
ワイ先住民で、彼らの第一言語は、他の島の住民のような英語やハワイ・クレオール英語ではなく、ハワイ語だった。
現在もニイハウ島は観光などでは訪れる事が出来ない島である。(アメリカ軍関係者と先住民のみが行き来している)
許可なしには上陸出来ず、カウアイ島からヘリコプターや船のチャーターで行くことが許されている。
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当時、日本海軍 軍令部情報では、ニイハウ島は牛の放牧場で管理人は日本人3名、土人労務者約20名がいるが白人は1
人も居住していないと記されていた為、ハワイ真珠湾攻撃に際し、ニイハウ島を真珠湾攻撃時に損傷を受けた航空機の
緊急着陸地として、更にパイロットを潜水艦によって救出するための集合地点として指定されていた。
これは西側の海岸が平坦な地形で滑走路として使い易く、また水深が深い為に潜水艦をギリギリまで寄せることが可能
だった事が挙げられる。
昭和16年12月7日、日本海軍の空母「飛龍」に所属する西開地重徳(にしかいち・しげのり)1飛曹は、真珠湾攻撃の第2
波攻撃に参加した後、搭乗したゼロ戦に銃撃を受け自爆認定された。
しかし実際には、西開地1飛曹は命令通りハワイ・ニイハウ島の野原に不時着していた。
西開地1飛曹は3日間救出を待つも日本海軍の潜水艦は現れず、日本では交戦後「自決」とされているが、日本の情報不
足で、ニイハウ島は日系人ばかりと搭乗員に教え、帰還不能の時は「ニイハウ島にて潜水艦を待て」との命令だったが、
ニイハウ島の住人は250名、内日系人は3名しかおらず、その原田義男夫妻に匿われたが、カナカ族の民兵(島の先住民
ベニ・カナヘレ)に喉をナイフで切り裂かれ、撲殺されたとされる。(ベニ・カナヘレは叙勲されている)
当時ニイハウ島に不時着した西開地1飛曹は軽症で、島民たちが手厚く看護したという。
ところが、ニイハウ島住民の1人が西開地1飛曹が不時着させたゼロ戦の機内から地図と拳銃を盗み出した。
帝国海軍の軍人にとっては機密書類と拳銃。当然、住民との間に緊張感が漂った。
間に入ったのが、カウアイ島から農場管理人として働きに来ていた日系2世の原田義雄さん(当時39歳)と妻の梅乃さん夫
妻だった。西開地一飛曹は住民との抗争によって撲殺又は自決したが、その際、原田夫婦も、御主人は自害(米国人であ
りながら、両親の国で敵国だった日本軍に加担したジレンマからだったと言われている)又は死亡。
奥様の梅乃さんは抗争で片手を失い、国家反逆罪で逮捕され、犯罪者として収監。
2年9か月の収容所生活後釈放されたが、世間の目は冷たかった。
大変苦しい生活をされたが3人の子供の為に自殺を我慢されたと言う。
亡くなった原田義雄さんの弟は、兄の汚名を晴らすかのように米軍日系2世部隊に志願した。
(戦後、原田夫婦に対しては日本政府は何もしていない)
西開地1飛曹をかくまった日系2世「原田義雄さん」享年39歳
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▲ニイハウ島に不時着し、色々な事が重なり焼却された西海地重徳一飛曹搭乗機のゼロ戦
西海地重徳一飛曹の遺骨は、勇敢な兵士として、米軍はニイハウ島(後にマウイ島の陸軍基地)に安置保管していたが、
戦後、現地日系人の奥様達が「あの兵隊は若かったので、日本のお母さんの所に帰してほしい」と再三にわたり請願。
長い間無視されたが、昭和29年アメリカ政府が根負けし、遺骨の経緯を含めて全て明らかにした上で「母親の所に帰し
て」とし、日本の厚生省に返還したが、厚生省は、西海地重徳一飛曹の遺骨を、横浜の復員課の無縁仏の棚に10年以上
放置。ハワイからの再三問い合わせがあり、母親の元に渡されたのは戦死後20年以上経過していた。
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▲西開地重徳1飛曹(愛媛県出身) 享年21歳
西海地一飛曹の母は戦時中は「軍神の母」と祭り上げられ、敗戦後は「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。
西海地重徳一飛曹の母親は小学校の代用教員(実質は用務員)で、生活に困窮し、57歳で勤務中に心筋梗塞で死亡した
と記録されている。
西海地重徳一飛曹の遺骨に関する日本政府の扱いにハワイの日系人は激怒し、この顛末を日本で「ニイハウ島の零戦」
という本にし、ハワイで英語に翻訳。州の全小学校の図書館に置き「日本という国は、祖国の為に戦った兵士にこの様
な扱いをする国」として、悪い事の見本としている。(この本は日本では絶版・入手困難)
西海地重徳一飛曹が不時着させ、焼却したゼロ戦は真珠湾内フォード島航空博物館にて、ニイハウ島の現場を再現した
ジオラマ展示されている。(焼却したゼロ戦をそのまま展示)その横にはゼロ戦21型が(機番「BⅡ-120」Bは第二航空
戦隊、Ⅱは二番艦「飛龍」、1は戦闘機を表す。(2は艦爆3は艦攻)20は先任順)展示されている。
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▲パプアニューギニア・二ューブリテン島 ガスマタに放置された台南航空隊所属機をオーストラリア軍が捕獲した物
※ガスマタ(Gasmata)はパプアニューギニア ニューブリテン島 西ニューブリテン州南岸にある村。
 太平洋戦争中の昭和17年(1942)2月、日本軍は村を占領した。 ラバウルから東ニューギニアへの前進中継基地とし
 て、村の西にあるスルミ半島に飛行場が建設された。が昭和19年(1944)3月28日ガスマタはオーストラリア陸軍部
 隊によって再占領された。日本軍が建設したスルミ半島の飛行場はガスマタ空港として戦後も運用されており、村の
 中心部は空港の周辺に移っている。

[ニイハウ島事件]史実に関して英語では「The Niihau Incident」(Allan Beekman著、出版社Heritage Pr of Pacific)
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日本語では「真珠湾の不時着機 二人だけの戦争」(河出文庫、牛島秀彦著)に詳しく記されている。

ハワイは未だ訪れた事は無い、いつか行きたいと思っている。しかしハワイ在住経験のある知り合いは、ハワイの戦跡
は軍の敷地内にある事が多いので、一般人は立ち入れない場所が多く、博物館以外はたいして戦跡も無いと言う。

これまで戦跡ガイド付で訪れた、グアム島、サイパン島、トラック諸島、テニアン島の戦跡ガイドは酷いものだった。
グアム島に関しては旅行ツアーでの自由行動の1日を使って現地で戦跡ツアーをお願いしたので予想通りであったが、
サイパン島では中国人女性ガイドであった。これもグアム滞在中に現地で日帰りツアーをお願いしたので無理があった
と後悔している部分もあるが、そもそも日米激戦地の戦跡ツアーが中国人とは、サイパン到着時から困惑した。
案の定大した説明も無く、ただ車で連れて行ってくれるタクシードライバーの様なもので、サイパン戦もあまり知らな
い様であったし、何より、早く仕事を終わらせたいのか、まだまだ帰りの飛行機まで時間があるにもかかわらず、ほん
の数箇所の戦跡しか周ってくれなかった。そんな物と言えばそんなものだが、戦跡オンリーのガイドをお願いしたのに
もかかわらず、ビーチに連れて行かれたりして無駄な時間を費やした。コースが決まっているのか地図無しでも走れそ
うな道で行ける簡単な場所だけだった様に思う。支払う費用に対する仕事をしている様には到底思えなかった。
トラック諸島、テニアン島も同様で「ただ案内人が日本人だったので、言葉が通じる分気が楽。」というだけで、戦史
に詳しい訳でも無く、地図を配って説明するわけでも無く、自分が楽に行ける場所に淡々と案内している様にしか見え
なかった。ガイド時間も現地人に合わせているのか、まだ日が明るいうちにさっさと切り上げてしまう始末。
まだまだ周れるのに。と思っていた。料金は日本と変わらない感覚で請求しているにもかかわらず日本人の様な仕事は
全く出来ていない。長年現地に住んでいるとこうなってしまうのか・・・。と、働かない現地人の楽な部分だけ真似す
る変な日本人になってしまっていると感じた。滅多に来ない日本人観光客からどうにかしてお金を使わそうとする意図
が見え見えで、見たい場所をリクエストすると、ジャングルで危ないだの時間が無いだの追加料金が発生するだの、断
る言い訳だけはすらすら説明する。義務を果たさず権利だけ主張する最悪のタイプの様に思えた。
「日本人観光客が減り、慰霊に訪れる慰霊団も高齢になり先が見えない」と愚痴を言っていたが、私はそうなって当た
り前だと思った。何の為に日本で観光するよりも高いガイド料払って海外の地まで来ているのか全く理解出来なくなる
様な素人ガイドだ。これでは再訪する気にはならないだろう。トラック諸島は無理だが、見知らぬ土地で少々疲れる事
もあるが、レンタカーで個人的に周った方が金額的にも気分的にも断然良いだろう。
トラック諸島に関しては、ツアー料金以外に、戦跡全てが島民住居内もしくは島民が地主で、戦跡場所に行く度にその
都度地主に見学料金を払わなければならない。2$~5$程度だが、何ヵ所も払っているうちに馬鹿らしくなってくる。
ツアー申込時に事前に知らされていなかったのでいい気分はしなかった。
私の経験ではサイパン・テニアン・トラック諸島でのガイド付戦跡巡りは費用を払った分だけの満足感は無いと思う。
そもそも戦跡巡りや慰霊を希望する人がほとんどいないのだから仕方無い部分もあるが。



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 2016_04_04



今日は74年前の1941年12月8日、日本時間1941年12月8日未明ハワイ時間12月7日、休日である
日曜日を狙い、ハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海
軍が航空機及び特殊潜航艇による攻撃を仕掛けた、いわゆる「真珠湾攻撃」の日です。
日本陸軍は日本時間12月8日未明に、イギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近。
午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸し、海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)イギリス・
アメリカ政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれました。
74年前の今日、あの3年8ヶ月に及ぶ日本人にとって地獄の太平洋戦争が始まったのです。
パールハーバー「日米の運命を決めた日」
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▲当時のパールハーバー空撮
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▲1941年12月8日 ハワイ真珠湾にて攻撃を受ける直前のアメリカ戦艦群(日本軍機から撮影)
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▲真珠灣攻撃当実の日本海軍機から撮影されたフォード島周辺。島の右側にバトルシップロール(戦艦列)に1つの大きな
水しぶきが写っている。97式艦上攻撃が投下した魚雷が米戦艦ウェストバージニアに命中した瞬間である。
その隣に写る黒い点の物体は飛行中のゼロ戦だ。

「甲標的」という兵器をご存知でしょうか。山本五十六率いる連合艦隊の空母機動部隊艦載機が真珠
湾を爆撃した事は良く知られていますが、同日に真珠湾内に決死の突入をした「甲標的」。
これは日本海軍が開発した特殊潜航艇です。
真珠湾は潜水艦の侵入を防ぐ為にネットが張り巡らされていた。その潜水艦を防ぐネットを破る為に
「8の字型のネットカッター」があった。艇首(魚雷発射装置部分)に付いている8の字型の物がそ
れである。当日朝5時8分、米掃海艇クロスビルが真珠湾外から帰還した際に網が開かれていた。
直ぐ後に米貨物運送艦アンタレスと大型曳船ケエサンカの2隻が入港予定だった為しばらく開けっぱ
なしにされていた。その為日本軍特殊潜航艇「甲標的」2隻が湾内に潜入成功した。
(横山正治中尉 / 上田定2曹艇)と(岩佐直治大尉 / 佐々木直吉1曹艇)と推測されている。
真珠湾内に潜入して海底で待機し、日本軍飛行隊の空襲後に行動を開始し、飛行隊が打ち漏らした敵
艦を装備している2本の魚雷で攻撃、その後、湾外に脱出する計画だった。
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真珠湾を攻撃に参加した「甲標的」は5隻。「甲標的」の搭乗員は2名、出撃した5隻、
(10名)の搭乗員のうち戦死したのは9名。1人が捕虜となりました。
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▲グアム島グアム太平洋戦争国立歴史公園資料館に展示されている「甲標的」
(グアム島太平洋戦争国立歴史公園資料館へ行った時はハワイでその様な攻撃があった事を知りませんでした)

人間魚雷「回天」の様な、体当たり自爆特攻ではないが、決死の「特別攻撃隊」として編成された。
1941年11月18日午後8時、「甲標的」を搭載した大型巡洋潜水艦丙型の伊号潜水艦の4隻が、広島県倉橋島からハワイ
真珠湾へ向けて出港した。1隻は搭載する「甲標的」の転輪羅針儀(ジャイロ・コンパス)が故障の為、翌19日午前2時
16分出港した。各伊号潜水艦は、昼間は潜行、夜間は水上航行でハワイを目指した。開戦2日前の12月6日の日没までに
真珠湾口から185㌔圏に到達し、夜間に浮上して「甲標的」発進準備を完了した。酒巻艇のジャイロ・コンパス不具合は
改善されなかった様だ。開戦前夜、5隻の母潜水艦は湾口を包むように逆扇型の隊形に並んでいていた。湾口までの距離
は10~23㌔であった。そして現地時間12月7日、5隻の母潜水艦から5隻の「甲標的」が真珠湾内に向かって発進した。
そして酒巻和男少尉を除く9名の搭乗員が帰らぬ人となり、「軍神」になった・・・・。

▼特別攻撃隊「甲標的」5隻(10名)の搭乗員。
甲標的(伊22搭載 岩佐直治大尉 / 佐々木直吉1曹) 01時16分出撃
甲標的(伊16搭載 横山正治中尉 / 上田定2曹) 0時42分出撃
甲標的(伊18搭載 古野繁実中尉 / 横山薫範1曹) 02時15分出撃
甲標的(伊20搭載 広尾彰少尉 / 片山義雄2曹) 02時57分出撃
甲標的(伊24搭載 酒巻和男少尉 / 稲垣清2曹) 03時33分出撃
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▲当時、下列一番右の酒巻和男少尉は黒で塗りつぶされていた。
空母機動部隊の艦載機による真珠湾空襲前に「甲標的」が米軍哨戒機に発見され、米海軍駆逐艦に攻撃されています
決死の覚悟で出撃した甲標的の搭乗員10名は賞賛された。しかし酒巻和男少尉は捕虜となったため、酒巻和夫少尉を
除く1名少ない9名のみが「軍神」として称えられた。
捕虜となった酒巻和男少尉は自決も考えたが、思いなおして生きる道を選んだ。(2度の自殺未遂記録が残っている)
収容所に日本の敗戦が伝わると、絶望して自殺する捕虜が続出。そうしたなかで酒巻少尉は自決を叫ぶ日本兵捕虜を
説得し、大勢の日本人の命を救った。
捕虜収容所では、通訳としても働き、米軍側から賞賛された。彼の捕虜としての態度は立派なものであり、アメリカ
軍の軍人達も感心したという話は有名である。
その後、ハワイや米本土の捕虜収容所での生活を経て1946年1月に浦賀へ帰国。浦賀の復員局で米軍の捕虜服を日本
海軍の服に着替えて、郷里の徳島へ無事に生還した。
そしてトヨタ自動車に入社。輸出部次長などを経て、同社のブラジル現地法人の社長に就任。ブラジルの日系商工会
議所専務理事も務めた。その後トヨタの関連会社社長を勤めあげたた後、1987年退職。
酒巻さんは、戦友の集まりには積極的に顔を出したが、戦争ついては多くを語らず、また捕虜生活については口を閉
ざしたままだった。1949年に発行の著書「捕虜第1号」で「潔く死を選ぶのが正道だとも考えた」「捕虜になったか
らといって何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言い得るのであろうか」と、苦悩を記している。
(同書は後に英訳され、『私は真珠湾を攻撃したか』)の題名で出版された)。
1999年11月29日愛知県豊田市にて81歳で死去。

▼「軍神」と称えられた9名の「甲標的」搭乗員。(捕虜になった酒巻和男少尉は除外されている)
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ハワイ作戦に選別された10名の「甲標的」搭乗員は、いずれも地方出身者であり、都会出身者は1人もいない。彼等
の大半は農家出身で、子だくさんのなかで育ち、貧しく、寡黙で、剛毅木訥型だった。航空機による特攻作戦で命を
捧げた若者達の多くも「軍神」として称えられているが、必ずしも心から軍隊を志願した若者ばかりでは無い。
貧しい家計を助ける為に現金収入を得られる軍隊に身を投じた若者が少なくない事も忘れてはいけない。
ハワイ真珠湾攻撃で軍神扱いされたのは特殊潜航艇「甲標的」による「特別攻撃隊」隊員だけではない。
空母6隻を中心とする機動部隊による艦載機攻撃では、未帰還機29機(搭乗員55名戦死)の損害が出た。
その中でも勇敢な行為(敵艦や敵航空施設に体当たり自爆した機体の指揮官7名ほど)は、勇気と戦功を評価され、
戦死後二階級特進の扱いを受け「軍神」と称えられ、特に「海鷲三士官」として勇猛さを称えられたのは以下の3名
牧野三郎海軍大尉(海兵60期、空母「加賀」艦爆隊)
飯田房太海軍大尉(海兵62期、空母「蒼龍」艦戦隊)カネオヘに自爆、海兵隊基地内に米軍は墓を作り現在も有。
鈴木三守海軍大尉(海兵65期、空母「加賀」雷撃隊)最後の雷撃機編隊として速度を落として突入、全機未帰還。

開戦当初の体当たり自爆は、決して命じられた自爆攻撃ではないが、航空機搭乗員が帰還できない状況に陥った時に
捕虜とならない為には「自爆するしかなかった」日本軍は不時着した航空機の搭乗員を捜索・救出・救護する装備も
兵器も不足していたのも事実で、間違った教育が勇敢な若者を自爆の美学に導いた事は否定できない。

▼1945年(昭和20年)には5人乗り「甲標的」が開発され、「蛟龍」(こうりゅう)として呉の海軍工廠や長崎造
 船所で大量産された。大戦末期には正式な出撃記録は確認出来ていないが、「水中特攻部隊」として出撃を待っ
 て終戦を迎えた多くの若者隊員がいた事も忘れてはいけません。元隊員の証言に、「整備に戻ってきても、もう
 積む魚雷は残っていませんよ・・・。」と言われ、出撃後は2発の魚雷を発射した後は3発目として自爆するしか
 無かったとの事を語っておられます。
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「甲標的」は「人間魚雷回天」とは異なり、当初は母艦に回収されることが前提であったが、「甲標的」による攻撃
方法を踏まえれば決死の特攻兵器である。「甲標的」単独での攻撃では、魚雷2射線に過ぎないので命中率は低く、
攻撃目標に肉薄しての攻撃となる。しかし運動性能も通信能力も貧弱であると共に魚雷発射後に「甲標的」が水面上
に飛び出してしまうという欠点があった。船首の魚雷が無くなって重量が軽くなり、魚雷発射後は船体前半が浮上し
てしまい、敵艦から発見されてしまう。米軍艦艇は単独ではなく、編隊を組んでいるいるから攻撃目標以外の艦艇や
上空哨戒機から発見され、攻撃されてしまうのである。
日本海軍では落下傘も、航空機搭載用の救命ゴムボートも実用化されていた。しかし、搭乗員救出のための航空機、
潜水艦などの艦艇はほとんど準備されていなかった。真珠湾攻撃の際も、不時着救出地点が前もって決めてあったが
救出できた搭乗員は一人もいない。搭乗員と救出部隊の合同訓練も実施されていないし、緊急時の脱出・救出の訓練
も全く行われていない。日本軍にはまっとうな搭乗員救出計画などなかったのである。
「捕虜になってはいけない」 結局はいざとなれば 自爆/自決 するしかない状況に陥るのである。

真珠湾攻撃に参加した5隻の「甲標的」がその後どうなったかは下記の通りです。
【1隻目】(伊24搭載 酒巻和男少尉 / 稲垣清2曹)艇体番号HA-19(ハ-19)
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▲▼真珠湾の裏側であるワイマナロ湾に座礁した「甲標的」酒巻艇。
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捕虜となった酒巻和男少尉と稲垣清2曹の乗る「甲標的」は、ジャイロ(羅針儀)が故障していたが「千才一遇の好機
を逃したくない」と午前3時33分真珠湾の湾口202度、10.5海里の地点から強行出撃。
ジャイロコンパスが無い状態で座礁と離礁を繰り返している中、米駆逐艦「ヘルムUSS Helm」に発見され、爆雷を受
け、座礁を繰り返しながらも湾内に侵入し、米戦艦ウェストバージニアと、オクラホマに発の魚雷を発射、うちオクラ
ホマへの1発が命中、この被害がオクラホマへ転覆の原因になったとされている。
オクラホマへの攻撃終了後、真珠湾とは東の反対側のオアフ島ベローズ海岸沖に漂着。自沈(爆破失敗)させて2人共
夜の海へフンドシ一本で飛び込んだ。酒巻少尉は翌朝、意識不明で海岸に打ち上げられているところで日系二世のデイ
ヴィド・M・阿久井軍曹に捕らえられ、日本人捕虜第1号になった。稲垣清ニ曹は溺死遺体で収容されたとあるが、人
食い鮫にやられたという説もあり、真相は解らない。(稲垣清2曹は日本で9名の軍神の1人として称えられた)
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▲その後米軍に引き揚げられ、
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▲▼徹底調査後、再度組み立てられて、トレーラーに載せられ見世物にされた。
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ニックネームは、「東條の葉巻」
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▲▼アメリカ本土の各地で公開され、ルーズベルト大統領も見物したという。
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▼戦時国債購入を奨励する宣伝に使われ、6000万ドル以上の戦時国債を売ったという。
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▼戦後1947年~1991年までフロリダで展示された後1991年にテキサス州フレデリ
ックスバーグ市の国立太平洋戦争博物館へ移された。
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▲終戦後帰国した酒巻和男さんは1991年当地での会合に参加し、自身が搭乗していた
「甲標的」 艇体番号HA-19 に再会し、涙したそうです。
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▲現在は同博物館のジョージ・ブッシュ・ギャラリーに。
オアフ島沖合で潜水母艦伊24からまさに発射されんとする状態を模した形で展示
されているとの事です。(見学しに行きたい・・)

※現在、上記で紹介した米国立太平洋戦争博物館に、中国系団体及び在米中国商工会議所等から同博物館に対して、
中国政府の主張に添った展示をするよう度重なる要請が行われているという。
この博物館は米国国立博物館であるが、日本を一方的に悪者にするような展示ではなく、原爆投下の理由を除いて、
日本人が見学しても十分納得出来る極めて客観的フェアな展示をしている。
フレデリックスバーグ市は、テキサス州都オースティンの近くにある人口1万人の小さな市だが、太平洋戦争当時の
米国連合艦隊司令官ニミッツ提督の故郷であり、ニミッツ提督記念館が建立され、年月を経て今日の米国国立太平洋
戦争博物館となった。ニミッツ提督は、ハイレベル軍人特有の冷静かつ客観的能力に優れ、フェアな人物だった様で、
だからこそ米国海軍の最高責任者に任命されたのだろう。陸軍のマッカーサー元帥と並んで、米国の英雄である。
ニミッツ提督は日露戦争の帝国海軍司令官・東郷平八郎元帥を軍人として尊敬していて、日本に駐在していた時には
東郷元帥の葬儀に参列していたことを、生涯誇りにしていた程である。
ニミッツ記念館には東郷平八郎元帥の巨大な肖像画が掛けられ、軍刀まで飾ってあるという。
更に、日露戦争の日本海海戦の旗艦「三笠」が、太平洋戦争敗戦の混乱時に日本でスクラップされそうになった事を
知り、当時の文芸春秋に寄稿して「三笠」の重要性を広く訴えると共に、自著の印税を「三笠」の保存に拠出した。
ニミッツ提督は誠にフェアな最高級海軍軍人なのだ。
(現在戦艦「三笠」は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている)
その心は 「軍人だから命に従って日本と全知全能で戦う、しかしその背景にある情勢分析や日本の置かれた立場、
日本の戦いぶりは歴史のなかで冷静に評価する」 という素晴らしい言葉を残している。

その米国国立戦争博物館に中国の執拗な働きがけがあり、歴史改ざんの波が押し寄せているという。
中国は「日本帝国主義は中華人民共和国が打倒した」と主張しているが、1945年日本が降伏し、当時の戦勝国とし
て位置づけられたのは、蒋介石率いる中華民国(現台湾政権)であり、これが歴史の真実である。
中国が全世界、とりわけ米国で行っている対日宣伝戦の一つが国立米国太平洋戦争記念館(ニミッツ記念館)に及ん
でいるのだ。中国系団体は博物館のパブリックスペースを借りて中国の主張に添ったパネルを展示し、来館者にアピ
ールを繰り返し行っている。また博物館学芸員に北京までの無料航空チケットを招待状付きで送るなどの働きがけが
続いており、同博物館長は学芸員が調略されるかもしれないという危機感を抱いているという。
そこで同博物館館長は「日本の立場をはっきり述べないといけない」と危機感をもって岸田氏を渉外担当に任命した
という。岸田氏はほとんど無給で本来の仕事のかたわら、役割を果たしているという。(何故無給なのか・・。)
素晴らしい日本人とニミッツ記念館の皆様だ。外務省はただちに現地を調査する事とし、ヒューストン総領事館から
職員を派遣する事となった。(この様な事案には税金は惜しまず使って欲しいものである。)
ニミッツ提督のようなフェアな人物がたくさんいることが米国の力の源泉である。日本も大いに見習うべきである。


【2隻目】(伊22搭載 岩佐直治大尉 / 佐々木直吉1曹)
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▲米軍に引上げられた伊22搭載・岩佐艇(岩佐直治大尉、佐々木直吉1曹)
午前1時16分 真珠湾の湾口171度、9海里の地点から出撃。
午前7時59分、岩佐艇は真珠湾港内で停泊している水上機母艦「カーチス」や工作艦に向かっている所を発見された。
午前8時35分、米応急出動艦「モナハン」は、日本軍機からの空爆中であったが、湾内を航行中信号兵が、水上機母艦
「カーチス」が「敵潜水艦発見」の信号をあげていると艦橋に報告した。水上機母艦「カーチス」は日本機の急降下爆
撃を受け甲板上は火の海になっていた。まさかと思っていたモナハンの艦長に「あの海面に見えるものは何でしょう?」
と艦橋にいた部下が言った。「どうやら敵潜水艦のようだ」という艦長の言葉が終わらぬうちに、その敵艦「甲標的」
が水上機母艦「カーチス」めがけて魚雷を発射した。
至近距離過ぎて魚雷は命中せず、パールシティのドックに命中した。モナハンの艦長はフルスピードを命じ、この「甲
標的」めがけて突進した。今度は応急出動艦「モナハン」めがけて魚雷が発射されたが、これもはずれてフォード島の
海岸で爆発した。その間、水上機母艦「カーチス」は、魚雷を発射して軽くなり、飛び出すように浮上した「甲標的」
の司令塔に射撃を浴びせ、艇長の岩佐直治大尉を即死させた。
フルスピードで進んできた応急出動艦「モナハン」は「甲標的」に激突しその上を乗り越えた。さらに爆雷攻撃を加え、
「甲標的」の前部を吹っ飛ばした。無残な姿で撃沈されたのは、岩佐艇であった。
2週間後引き上げられたが、損傷があまりにも大きかったので、葬送の儀式を行った上、乗員二名の遺体を収めたまま、
当時建築中の潜水艦基地の基礎固めに用いられ埋められた。1947年(昭和22年)3月ハワイの米軍当局は、遺品として
真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還、遺族に送付された。
(出撃した隊員の中で大尉は岩佐直浩のみであった為岩佐艇と確定された)
1952年(昭和27)になって基地擴張工事ですっかり忘れられていた岩佐艇を掘り当てたが、塩素ガスの発生が酷く、
御遺骸と共に再度そのまま埋め戻されたという。現在、岩佐直浩大尉の袖章は靖国神社に収められているとの事。


【3隻目】(伊20搭載 広尾彰少尉 / 片山義雄2曹)とされている。
午前2時57分真珠湾の湾口151度、5.3海里の地点から出撃。
午前11時8分、魚雷艇が「甲標的」潜望鏡を発見、アメリカ軍駆逐艦が爆雷攻撃を実施。
午前11時27分、別の米駆逐艦「カミングス」がソナーで探知した目標「甲標的」に対し、爆雷攻撃を2回実施し、
油と破片を確認している。
1960年6月13日にアメリカ軍によってヒッカム飛行場沖で発見されて引き上げられ、1週間後の6月20日に海上
自衛隊揚陸艦『しれとこ』に搭載され、7月20日、約20年ぶりに横須賀に帰還。
7月28日には江田島に到着し、旧海軍学校(現海上自衛隊第一術科学校)に保存されている。
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▲1960年(昭和35年)6月13日真珠湾湾口からダイヤモンド・ヘッドへ向かって1.8㌔、深さ23メートルの海底から引
き揚げられた。牡蠣(かき)が艇全体に付着して、艇番号もわからず、司令塔に砲弾痕、電池室付近に爆雷攻撃を受けた
痕跡があるものの艇体の破損は少なかった。2本の魚雷は装着されたままで、未発射。その火薬は、約19年間も海底にあ
りながら有効だった。衝撃的なことは、艇内に2名の乗組員の遺骨、遺歯が無かった事だ。遺留されたものは作業衣1着、
靴1足、一升瓶1本のみで、艇内は整理されていた。米海軍当局は、『搭乗員は沈没と同時に艇外に脱出、逃亡したものと
推測される』とした。更に「司令塔ハッチの掛金が内側からはずされている」という米側の報告と、万一の場合には浮上、
上陸して敵陣に切り込むために、携行する日本刀と拳銃も艇内に無かった事から、搭乗員2名は、艇を浮上させ、司令塔
ハッチを開いて、斬込みを敢行せんが為に海上に脱出した。更に真珠湾湾口からわずか1.8㌔。この海域は、裏オアフの
海上とは違って波浪も穏やかで人喰い鮫もめったに出ない。しかし、鮫にやられる、溺死、自決の可能性も否定出来ない。
ただ、1.8㌔の沖合いから陸地目指して泳ぎつくことは、『帝国海軍の遠泳の訓練』に比べれば楽だったのではないか。
オアフ島で日本海軍軍人による斬込事件はない。これは引き上げられた「甲標的」の調査結果後の推測ではあるが、脱出
に成功をなし、ずっとハワイの人となって生き続けた可能性は否定出来ない。(日本では「軍神」となっていたが・・)
無駄な切り込みなどせず、そして自決せず、生きていて欲しいと願うのは私だけであろうか。
(※3隻目が、広尾彰少尉 / 片山義雄2曹艇か古野繁実中尉 / 横山薫範1曹かは未だはっきりしていない。)
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▲艇内で発見された搭乗員の作業服と靴と手袋。
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▲▼江田島旧海軍学校(現海上自衛隊第一術科学校)に保存されている真珠湾攻撃で使用された甲標的
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2016年12月18日訪問
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【4隻目】(伊18搭載 古野繁実中尉 / 横山薫範1曹)とされている。
午前2時15分真珠湾の湾口150度、12.6海里の地点から出撃。
午前6時33分哨戒からもどる途中の米偵察機が国籍不明の小型潜航艇「甲標的」を発見。
位置を明確にするため発煙弾2個を投下した。その「甲標的」は米貨物運送艦アンタレスの後ろにぴったりとつけて、
湾内に侵入しようとしていた。駆逐艦「ウォード」が現場に急行、午前6時45分その艇「甲標的」に90メートルの至
近距離から発砲。第2弾目を司令塔に命中させ、さらに爆雷攻撃を加えて沈没させた。
命中した司令塔で艇長は潜望鏡を握ったまま即死、操縱員は攻撃を逃れようと最大戦速19ノットで必死に操縦桿を操作
して 水深300mのところまで疾走。魚雷装填のまま 沈沒着底したものと考えられている。
アメリカ海軍は午前7時55分に開始された日本機による奇襲より1時間早く日本海軍の秘密兵器「甲標的」を撃沈した。

▼2002年8月ハワイ大学海洋調査船KoKの搭載する深海調査船パイシー4&5により真珠湾外で偶然発見された。
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▲艇体後部(スクリュー部分)から。
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▲艇体前部(魚雷発射装置部分)から。魚雷が発射されていない事が確認出来る。
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▲艇には司令塔に右舷から左舷に貫通した着彈痕が確認されており、米攻撃記録と一致する。

駆逐艦「ウォード」乗組員の証言通り司令塔に4インチ砲弾を被弾していた。発見された「甲標的」はアメリカ側への
配慮もあり、引き上げない事となっている。いわゆる[ 駆逐艦「ウォード」事件 ]である。
駆逐艦「ウォード」は攻撃直後、未識別の潜水艦を撃沈した旨を真珠湾の太平洋艦隊司令部に打電したが、同海域では
漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、また通報自体暗号文での送信であり平文へ
の展開に手間取ったこともあり、キンメル海軍大将(米太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官)への報告は大きく
遅延し、日本軍の奇襲を事前に察知する機会を逸した。アメリカ海軍でも現在に至るまで何故か公式の戦果として認め
られていない。加えてこの「甲標的」は、日本軍機の奇襲攻撃以前に攻撃を受けており、宣戦布告より1時間前にそこで
は既に戦争が始まっていた事になり、アメリカ側はそれを知っていた事になる・・・つまり、自らに有利な相手を攻撃す
るに最高の情報を隠し続けた可能性もある。その様な事情から日本政府は何も出来ず、引き上げも、艇内の調査も行われ
ておらず、隊員の手がかりが残っている可能性は否定出来ないが、現実は今も真珠湾沖の水深400mの海底に沈んだまま
になっている、これが敗戦国の定めか悲しい限りである。難しいとは思うが、日本政府には調査と引き上げを強く望む!
(※4隻目が、広尾彰少尉 / 片山義雄2曹艇か古野繁実中尉 / 横山薫範1曹かは未だはっきりしていない。)


【5隻目】(伊16搭載 横山正治中尉 / 上田定2曹)
午前0時42分他の四艇の先頭を切って真珠湾の湾口212度、7海里の地点から母潜イ16を発進。
午前3時42分、湾口付近で作業中の米掃海艇の1隻が、外方3.2㌔の海面に「甲標的」の潜望鏡を発見、付近を哨戒中の
駆逐艦「ウォード」に発光信号。同艦は30分間付近の海上を捜索したが何も発見出来ず。午前5時08分米掃海艇「クロス
ビル」が真珠湾外から帰還した際に網が開かれていた。その間に岩佐艇と共に湾内侵入に成功したと考えられる。
午前7時30分、日本軍機の空爆開始直前に駆逐艦「ウォード」の音波探知機が新たな挙動不審の潜航艇「甲標的」をと
らえた。駆逐艦「ウォード」は激しい爆雷攻撃を浴びせ、「甲標的」はかなりのダメージを受けたと思われるが、追跡
を逃れて、湾口攻撃を断念、空爆を避けて湾外へ脱出をはかる米艦をねらった。午前10時04分湾口に姿を現した巡洋艦
「セントルイス」に魚雷二本を発射したが、危うくかわされて、魚雷は水道入口のサンゴ礁にあたって爆発した。
「甲標的」は魚雷を二本発射すると、艇首は急に軽くなって海面に跳ね上がり、司令塔までが海上に浮上する。
今度は巡洋艦「セントルイス」が司令塔を砲撃し、ルード船長はこれを撃沈したと判断した。
「甲標的」横山艇は発進から22時間後(日本時間午後18時11分)母潜へ奇襲成功の電信 をしている・・・。
「甲標的」横山艇の母艦である伊号第16号潜水艦母艦では「キラ」という信号を感受している。
モールス信号においては「キ」「ト」は短音か長音かの違いでしかなく、海軍上層部には「トラ」として報告されている。
「トラ」は言うまでもなく奇襲作戦成功の暗号である。しかしその暗号が発信されたのは発進から22時間後・・・。
「甲標的」は直径1.8メートルしかなく、乗艦している2名はほとんど身動きがとれない構造になっていたのだという。
更に艇内は気温が45度、湿度はほぼ100%。加えて機械が発する水素ガスや排泄物の匂いなどで、乗務員は頭痛や目まい
で、立つ事の出来ない程の疲労感に襲われるとされる。10時間も乗れば、人間の能力がかなり落ちるわけである。
真珠湾内は狭く、水路は複雑である事、発進から「キラ」の電信を感受した8日まで20時間以上経っており、どう考えて
も正確な攻撃を繰り出せるような状況には無かったはずだと言うのである。
日本時間午後20時21分に 『航行不能』を打電の後、自爆したものと考えられるが、近年艇は人為的に3つに切断されて発
見されている。横山艇は湾内には侵入せず、湾の西側で湾内から逃げ出そうとする艦船を狙っていたと言われている。
巡洋艦「セントルイス」が湾の外で「小さな潜水艦から2発の魚雷攻撃を受けた」との記録が残っている。
魚雷は巡洋艦「セントルイス」の左右のサンゴ礁に命中し、攻撃は成功しなかった事は明白である。
しかし、大本営発表ではこの横山艇の魚雷が艦船「アリゾナ」を撃沈させたと嘘の発表をしている。
それではなぜ大本営は横山艇がアリゾナを轟沈したと発表したのであろうか。「甲標的」特別攻撃隊設立に深く関わり、
当時海軍司令部にいた有泉龍之介中佐が、海軍首脳部に対して、「アリゾナ」轟沈の戦果を特殊潜航艇「甲標的」の手柄
に出来ないか? と申し入れをしたとの記録が残っている。
以来を受けた真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官淵田 美津雄中佐(ふちだ みつお)は、「アリゾナの前には別の艦
船が横づけされていて、魚雷攻撃を加える事は不可能であり、そんなことをすれば世界の笑いものになると返答した」
と淵田の手記には残っている。何がどうなったか分からないが、大本営発表は有泉の意を汲んだ形になっている。
開戦から大本営は嘘の発表を流し続け、国民を騙し続けた。[ 嘘つきは泥棒のはじまり ] である・・・。
何処の国も国民に伝えにくい事はあると思うが、結局それが本当の事を言えなくなり、国民を追い詰める結果となる

横山艇は出撃した5隻の「甲標的」としては2007年11月に最後に発見されているが、発見された場所は航空機などを破棄
する様な場所で発見され、魚雷も遺骨も発見されなかったという。真珠湾奇襲攻撃で破壊され、海中に投棄された米軍の
水陸両用強襲車両(AAV)のスクラップと一緒になっていた。タイタニック号の調査をしたメンバーも加わり日米共同調査
が始まったが、発見された「甲標的」は3つに分断され、それぞれの部分にチェ-ンやワイヤーが乱雑に巻き付けられてい
たという。滑らかな切り口は人為的である事を示しており、弾丸による物ではなかった。24メートルの胴体は三つに分断
され、一部が無いという。戦争中に1度引き上げられ、記録を米海軍が隠蔽した可能性は否定出来ない。
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▲海底に眠る横山艇と見られる司令塔部分。人為的に切断されているのが確認出来る。
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▲海底に眠る横山艇と見られる魚雷発射装置部分(前)魚雷が2本共発射されているのが確認出来る。
 司令塔がある中央部分と後部(スクリュー)の艇体は確認されているが司令塔直ぐ後ろ部分が無いという。

「甲標的」の調査に同行した軍事評論家のパークス・スティーベンスンさんは米海軍が戦争中に引き上げ、切断して捨て
た物と推定している。今回発見された「甲標的」も[ 駆逐艦「ウォード」事件 ]の様なアメリカの大人の事情がからんでい
るのか真相は解らないままである。難しいとは思うが、日本政府による調査と引き上げを強く望む!
この様な事には惜しまず税金を投入して欲しいと思う。「無駄死に」「犬死に」という人もいるがこの様な状態で放置し
ておく事が英霊を「無駄死に」させているのと同じだと思う。アメリカでは今もベトナム戦争で戦死した米兵の遺骨収集
をし、最後の最後まで探し続けているという。

なお、「甲標的」の作戦展開地は真珠湾だけではなかった。1942年5月にはシドニーで係留中の艦船を沈めている。
マダガスカルでは英国の戦艦、タンカーを1隻ずつ沈め、他にもフィリピンやガダルカナルで展開していたようである。
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▲オーストラリアのシドニーで引き上げられた「甲標的」
1942年4月27日伊21・伊29、1942年5月18日朝、伊22・伊24・伊27が、トラック諸島から出撃。
出港当日夕刻、伊24搭載艇が爆発事故を起こし乗員が死傷した為同艦はトラック諸島に引き返し、乗員を伴中尉らと交
替させて再度出港した。5月30日伊22、伊24、伊27 3隻がシドニー沖に到着。5月31日16:21伊22搭載艇「甲標的」
が発進。続いて16:28に伊27搭載艇「甲標的」が、16:40伊24搭載艇「甲標的」が発進した。
伊27搭載艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり21:30頃自爆。伊24搭載艇は港内に向かい侵入に成功。港内に在泊
していたアメリカ海軍重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射したが、魚雷は2本ともはずれ、そのうち1本は岸壁に係留さ
れていたオーストラリア海軍宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。
これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。伊24搭載艇は帰途シカゴの攻撃によって撃沈された。
最後に伊22搭載艇が港内に侵入したが、この時には警戒が厳しくなっていた。伊22搭載艇はオーストラリア海軍艦艇か
らの爆雷攻撃を受け結局自爆し、魚雷は未発射であった。
特殊潜航艇を発進させた日本軍潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4、5日
に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍
少将は、「甲標的」乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹)の海軍葬を行った。
戦時中に敵国である日本の軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の
薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降する事無しに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、
グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、豪州国民に訴えた。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃する為には、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であ
った。我々のうちの幾人が、これらの人達が払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか?戦死した日本
軍勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中している事は承知している。けれど私は、あえてこの葬儀を実
行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼らの様に勇敢な死を遂げた場合、彼らにもまた、同様の名誉ある処遇を受けさ
せたい為である…」と。グールド海軍に感謝すると共に、彼の素晴らしい考え方を見習うべきである。
※戦死した松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹の遺骨は中立国であるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケ
 スで、シドニーに拘留中の日本公使河相達夫に引き渡され、第1次日英交換船の鎌倉丸の乗船した河相公使によって
 10/9遺族らが待ち受ける横浜港に到着した。12/8山本五十六連合艦隊司令長官はディエゴ・スアレス攻撃部隊とあわ
 せて感状を与えたと言う。
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▲▼戦後キスカ島で米軍に捕獲された「甲標的」と、現在もそのまま放置されている甲標的を写した同じ場所。
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真珠湾攻撃の次に実施し、大敗を喫したミッドウェー作戦の陽動作戦として実施されたアリューシャン作戦(AL作戦)。
この作戦中、1機の零戦がほぼ無傷な状態で米軍の手に渡った。
昭和17年アリューシャン作戦の一環としてダッチハーバーへ空襲が行なわれた。空母龍驤から出撃した古賀忠義1飛曹
の零戦は、この攻撃で唯一未帰還となった。
古賀1飛曹機は地上からの対空砲火によって被弾、ダッチハーバーに近いアクタン島の海岸近くに不時着した。
古賀1飛曹は湿地帯を草原と間違い、不時着の際に脚を下ろした状態で着地を試みた。だが着地と同時に脚をとられ、
前のめりに転倒。これが原因で古賀1飛曹は首の骨を骨折して即死した。(発見した米軍によって確認されている)
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▲零戦から米軍によって引き出された古賀忠義1飛曹。既に戦死していたという。
また、古賀機が不時着した際、上空には僚機が2機いたが、古賀1飛曹の安否を気遣って、本来なら敵への情報流出を防
ぐ為に、銃撃によって機体を破壊しなければいけないところだったが、果たす事が出来なかった。
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▲不時着転倒した古賀忠義1飛曹搭乗機を調べる米兵。
古賀機が不時着してから35日後、たまたま上空を飛行していた米軍の哨戒機によって発見され、直ぐさま回収部隊が派
遣された。回収部隊の調査の結果、不時着した機体が零戦で、しかも修理すれば十分に飛行可能であることが分かり回
収された。その後古賀機はアメリカのサンディエゴ海軍基地に運ばれ、修理された後さまざまなテストが行なわれた。
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▲米軍によって鹵獲され、アメリカ本国に輸送される古賀機。
飛行可能な零戦が鹵獲されたのは古賀機が最初ではない。
太平洋戦争直前の昭和16年11月26日。中国戦線で既に零戦は鹵獲されていた。
台南空所属の零戦21型2機が台湾から海南島に向かう途中、悪天候の為に機位を見失ない、海南島と思える砂浜に不時
着したが、そこは対岸の中国大陸の沿岸部で中国軍の支配区域だった。不時着した2機の内、1機は鹵獲に来た中国軍と
戦闘になり、搭乗員は戦死、機体は炎上して消失するが、もう1機の機体と搭乗員は捕獲された(V-172三菱製3372号
機)※パイロットのお名前は不明
捕獲された地域は中国軍の支配下であったが、日本軍の占領区域に近く、知られたら奪回される恐れがある為、中国軍
は鹵獲した零戦を分解して運び去り、現地にいた米軍に引き渡したが、当初米国の日本機蔑視から、真剣に調査をしな
かった為、1年程かかって飛行可能な状態にし、昆明(中国)での飛行試験完了が昭和18年3月15日とされており、既に
古賀機のアメリカ本国での徹底調査が終わった後だった。昆明で飛行試験を終えた零戦も本国に送られたが、既に時期
を失っていた。こうして対零戦マニュアルが作成され、弱点を徹底的に調べられた零戦の無敵神話が崩壊していった。



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2015_12_08




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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