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「 紫電改保存館」館長の取り計らいで、今回愛南町の戦跡を巡る機会を頂いた。
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▼▲まずはご挨拶がてら紫電改保存館へ。
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館長のブログ「 紫電改を伝えたい!あいなんからの祈り」
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▲此処は再訪となる。休日の中、飛行服で出迎えて頂いた館長と楽しい会話の時間を過ごしながら、紫電改を見学。
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▲翌日から愛南町の戦跡巡りに出発。
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▲▼まずは特殊潜航艇「蛟龍」(こうりゅう)が配備されていたという深浦基地跡を見学。
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この鳥居をくぐれば深浦湾に出る事が出来る。
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現在は静かな漁港だが・・・右手に壕の入口が見える。第10特攻戦隊第102突撃隊「第53蛟龍隊」の秘匿壕だ。
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入口は戦後ブロックで蓋をされた形になっているが、見学用?の小さな入口から入れる。
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中はしっかりとした海軍式のコンクリート巻き。此処に「蛟龍」が配備されていたという14番壕だ。
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▲昭和20年に5人乗り「甲標的」として開発された「蛟龍」(こうりゅう)。呉の海軍工廠や長崎造船所で大量産された。
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▲日本敗戦後、呉の海軍工廠のドックに111隻の「蛟龍」を集めて視察する米軍の調査チーム。
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▲壕内部から入口を撮影。ハワイ真珠湾攻撃で採用された「甲標的」の進化型と言われる「蛟龍」は「人間魚雷回天」
「海龍」そして「蛟龍」と、特攻兵器にその姿を変えていった。
単独での攻撃では、魚雷2射線に過ぎないので命中率は低く、攻撃目標に肉薄しての攻撃となる。
しかし、運動性能も通信能力も貧弱であると共に、魚雷発射後に艇が水面上に飛び出してしまうという欠点があった。
船首の魚雷が無くなって重量が軽くなり、魚雷発射後は船体前半が浮上してしまい、敵艦から発見されてしまう。
米軍艦艇は単独ではなく、編隊を組んで航行しているので攻撃目標以外の艦艇や上空哨戒機から発見され、攻撃され
てしまうリスクはかなり高かった。元隊員の証言で、基地整備兵に「もし運良く帰還して整備に戻ってきても、もう積
む魚雷は残っていませんよ」と言われ、出撃後は2発の魚雷を発射した後は3発目として自爆するしか無かったと語って
おられる。▼画像のレールは戦時中の物では無いという事だ。
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「蛟龍」は「水中特攻部隊」として大戦末期、正式な出撃記録は確認出来ていないが「沖縄戦」で運天港から実戦出撃
した記録が残っている。深浦基地にも多くの若い特攻隊員が配置され、本土決戦に備えて4隻が出撃準備を整えていた。
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旧海軍の根拠地柏崎湾。綺麗な海沿いの道を次の見学地、回天が配備されていたという麦ヶ浦基地跡へ向かう。
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▼▲麦ヶ浦に到着。早速回天が配備されていたという麦ヶ浦基地跡に残る回天秘匿壕へ向かう。
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昭和20年8月3日大分県「大神基地」から第21号一等輸送艦に搭載された8基の回天が麦ヶ浦基地へ向かう。
昭和20年8月4日麦ヶ浦基地に第11回天隊が配置され、8基の回天が配備された。
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因みに麦ケ浦基地に回天8基を運んだ第21号一等輸送艦は、呉海軍工廠で建造された最後の海軍艦艇。
昭和20年8月9日和歌山県の由良白崎基地(第16回天隊)へ回天4基を輸送する為、広島県の呉を出港したが、愛媛県の
松山沖において、九州・四国方面を攻撃していた伊江島所属米第318戦闘航空群/第19戦闘機中隊のP-47に捕捉され、
攻撃を受けて損傷、和歌山へ向かうのを断念し、呉へ引き返した。
しかし機銃掃射を受け続け死傷者続出、艦がもたないとの判断で愛媛県にある津和地島に座礁させた。
戦死者60数名・重軽傷者約100名、甲板配置の乗員は殆どが戦死してしまったという。
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陸地に目をやると、2基の秘匿壕がかろうじて残っていた。
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▲▼まだ状態がましな方の1基目
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震洋艇の秘匿壕ではこの様な素掘りの秘匿壕を数多く見てきたが、回天の格納壕としてはかなりお粗末な秘匿壕だ。
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▲▼2基目は草木やゴミに覆われて入壕に苦労した。
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どちらも壕の前部は崩落しており、かなり奥行きの浅い壕になっているが、当時は回天が収納されていたのだろう。
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▲宿毛湾には終戦後、麦ヶ浦基地配備の回天8基が、米軍の命令で投棄され、今も海中に沈んでいる。
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戦跡では無いが外泊という場所にある「石垣の家・文化の里」という場所に案内して頂いた。
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かなり高い位置までの見事な石垣で囲われた外泊集落は愛南の観光スポットだそうだ。
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▼外泊港からは遊覧船も出航している。
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▼次の目的地である宿毛湾に行く為に高知県入り。宿毛リゾート「椰子の湯」で昼食をいただく。
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建物が何となく戦艦か潜水艦の艦橋に見えるのは私だけだろうか・・・。
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宿毛リゾート 椰子の湯(高知県)からは、宿毛湾が一望できる絶景ポイントがある。
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目の前に広がるのは宿毛湾。かつて連合艦隊の大小艦艇が訓練・停泊・公試を行っていた泊地だ。
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沖の島⇔鵜来島(うぐるしま)を戦艦大和が公試運転した有名な湾だ。
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▲公試運転中の戦艦大和
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▲沖の島が見えた。
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宿毛湾の旧海軍基地が宿毛市宇須々木(うすすき)地区に残っているので昼食後に向かう。すると偶然だった・・・
海上自衛隊のあすか型試験艦(ASE"ASUKA"Class)が、すくも84マリンターミナルに停泊していた!
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強烈な敗戦イメージが植え付けれた我々世代は、軍隊という名の付く物にアレルギーを発症する輩も多いが、国防は
現在進行形。アメリカ軍に守られて(ある意味支配されて)多少国防を疎かに考えても生きて来られたが、これからは
そうはいかない。アメリカ軍だって自国優先。しかし、先の大戦で日米双方共、先人達が武人として誇りをかけて戦
った過去を無駄にする事無く、自衛隊にはアメリカ軍と協力してこの国を守って欲しい。
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▲若い自衛隊員を見ると、先の大戦で散って行かれた多くの日本兵を思い浮かべてしまい、思わずグッときてしまう。
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気を取り直して宇須々木の宿毛海軍基地跡に向かう。
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当時、軍の機密保持が厳しかった為、資料はほとんど無いが、連合艦隊が頻繁に宿毛湾に投碇し始めたのは、昭和8年
頃からと言われている。
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▲戦時中に撮影された宇須々木の海軍基地。昭和11年完成の兵舎2棟確認出来る。
宿毛湾は大型艦艇が入港できる広さや水深があり、当時は鉄道が開通しておらず、良い意味で不便な場所であり、機
密保持出来る事から、艦艇の性能試験を行う海上公試や演習中の艦艇の休息場所として戦時中まで利用されていた。
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▲現在の風景。兵舎の跡には宇須々木公民館が建てられている。
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▲まずは旧海軍基地に残る二座/三座水上偵察機及び二式水上戦闘機が使用したスロープを見学する。
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▲▼と、その前に、当時の境界壁だったという、今は廃家になっている敷地のブロック塀を見ると・・・。
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何と菊花紋章が!!!欲しい・・・。末永く保存される事を願う。取り壊しの際はご一報下さい、引き取ります。
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名残惜しいが時間も押し迫っていたので、その場を離れて飛行艇揚陸スロープ跡を見学しに行く。
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宿毛海軍航空隊(昭和19年に453空と改称)は二座水上偵察機(9機)/三座水上偵察機(9機)/二式水上戦闘機(9機)が配備
され、隊員は250名だった。隊長の野口克巳氏(岡出身)によれば、宇須々木は波の関係で水上機の練習にあまり適して
いなかったので、鹿児島県指宿海軍航空隊配属となり、移動したとの事である。
※指宿海軍航空隊は「水上機神風特別攻撃隊」が出撃している基地だ。此処に居た隊員も出撃した可能性は高い。
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▲▼これらの石組みも全て当時の物だという。
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80年以上前の物だがよくここまで残っているものだ。
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▼戦時中の宿毛湾。海軍の艦船が沢山写っている。
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▼車を駐車していた場所はかつての水上機係留場だ。
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▼水上機係留場から宇須々木公民館を見る。当時は兵舎が見えていたことだろう。
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宇須々木の基地使用は昭和8年頃からで、兵舎2棟の完成は昭和11年。司令は海軍大佐が来ており、兵員約200名。
主に艦載機の寄港基地として利用され、陸揚げ・給油・整備をしていた。
昭和13年頃より艦隊の入港も少なくなり、入港しても小艦艇が主であった。訓練は定期的でなく、又訓練日程も知ら
されず、実戦が主になった模様である。
昭和20年終戦前には海軍陸戦隊用として、3個大隊10日分の食糧を非常用として楠山及び篠山に分散貯蔵していた。
昭和15年日本軍が仏印へ進駐した際、旗艦足柄・巡洋艦4隻を中心とする第7戦隊が宇須々木に集結して出撃した。
※仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、第2次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍
 の進駐の事。昭和15年の北部仏印進駐と、昭和16年の南部仏印進駐に分けられる。
 南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能点であると評されている。
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▼▲次は弾薬庫跡に向かう。弾薬庫外側の外壁が今も残る。
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中に入る事が出来た。
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▼外壁を内側から見る。
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▼弾薬庫の扉は当時のまま。
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弾薬庫の赤煉瓦外壁はかろうじて残っているが屋根は抜け、当然ながら中は何も無い。
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▼次は貯油庫に向かう。
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少し小高い丘に立派なコンクリート巻きの壕が築かれている。
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▼細い石段を登っていく。
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壕の中には入る事が出来ない。
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しかし、短い距離で壕は貫通しており、当時トンネル内ではクレーンで水雷艇を釣り上げて収納し、給油や整備をして
いたとの事。トンネルの構造になっているのは、防空壕の役目も兼ね備えているからだという。
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貯油庫として航空機のガソリンや、艦艇用の重油を保存していたガスタンクが設置されていた施設だったったという。
1階が油槽庫で、2階がトンネルのような構造で、ガソリンはそれぞれドラム缶に入っていたと考えられるので、大量の
ドラム缶は、トンネル式の壕の下にあたる1階に貯蔵していたものと思われる。1階部分は見る事が出来なかった。
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このトンネルを抜けた先にも手掘りの壕があるとの事だったが、トンネルに入る事が出来ないので行けなかった。
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▲貯油庫の横には魚雷艇庫跡ある。此処は大戦末期には特攻兵器「震洋」の格納壕として震洋が配備されたそうだ。
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▲旧日本海軍乙型魚雷艇。
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内部は分岐が2つあり、左右の壕に繋がっていた構造になっている。
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中に入れなかったが、太平洋戦争(大東亜戦争)末期には此処に震洋が入っていたのだろうか・・・。
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▲ベニア板製の1人乗りの海軍特攻ボート「震洋」。因みに陸軍は「マルレ」と呼ばれ、少し構造が異なっていた。
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▲現在は地元の方が倉庫として利用しているが、コンクリートの厚みから見ても当時何らかの海軍施設だった様だ。
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▲何か所か入口が塞がれた壕口がある。中で全て繋がっていたと思われる。
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▲最後は単独壕である魚雷艇庫跡。此処も大戦末期は第21突撃隊「震洋隊」の格納壕となった。
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▲▼恵比須神社と書かれた鳥居の横に壕口がある。
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此処も震洋を格納していたのだろうか・・・。
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ここは入壕出来そうだ。
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早速入壕。現在は漁港なので魚介類を入れる発泡スチロールの入れ物置きになっている。
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入口から数メートルはしっかりとしたコンクリート巻きだ。
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途中からは素掘り。かなり奥行きはある。
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この奥行きなら震洋艇であれば5隻は入っていただろう。
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▼奥から入口を見る。秘匿壕なので分岐は無く、直線的に掘られた単純な壕だった。
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さぁ戻ろう。
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こうして宿毛湾の旧海軍基地跡巡りは終わった。
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海軍連合艦隊の泊地・宿毛基地(宿毛水上機基地)というより、やはり大戦末期の本土決戦用特攻基地のイメージが強く
残った宿毛旧海軍基地跡。あまり知られていない戦跡という事だが、本土決戦が決行されなくて本当に良かった・・・。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2017_10_29




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
pochetteevnara@gmail.com

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