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2019年のお正月。人口5000人弱の小さい島「与論島」で年始を過ごした。
行きは鹿児島空港経由で与論島へ。帰りは那覇空港経由で本州へと戻る空路だった。
与論島は鹿児島県に属する。鹿児島県最南端の小さな島で、沖縄本島までの距離はたった22㎞。九州の鹿児島県まで
は約590kmもあるのだ。与論島が鹿児島県に属する理由は、「関ヶ原の戦い」で敗戦した島津氏が南島征伐に転換し
た為である。当時、琉球王朝は大陸の宋と交易していた為、手前の与論まで薩摩藩に組み入れ、沖縄本島以南は、貿易
の利権を得る目的で琉球王家を残したからである。

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▲▼鹿児島空港から約40分、鹿児島空港を拠点とするJAC(仏製ATR)で小さな与論空港に到着。
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今まで行ったロタ島テニアン島トラック諸島の様な可愛い空港だ。
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与論島へのかつての足は船で、鹿児島から与論までは約20時間の航程だ。島で急病人が出たときには、沖縄の米軍ヘリ
コプターに来援を要請し、与論小学校の校庭を空港代わりに急患を運んでいたと聞いた。
昭和46年から空港建設地などの調査が開始され、適地候補が挙げられ、狭い島内にあって比較的広くて平らである現在
でも有名観光スポットの百合ケ浜近辺は当初、有力候補となった。
しかし、島の宝であり、大事な観光資源でもある百合ケ浜は風向きも悪いこともあり断念。
現在の立長地区に絞られたが、島民の先祖が残してくれた土地への思い入れは強く、多くの地権者が反対。
島内は反対派と推進派に分かれ、衝突が繰り返された。測量に入るときには、反対派が筵旗(むしろばた)を掲げて取
り囲み、反対の気炎を上げた。そのため鹿児島県警の機動隊が来島し、測量を見守るという緊迫した事態に陥った。
沖縄島の米軍基地問題とは本質的に違うが、何処も空港建設となると必ず意見が二分される事態になるのだと思った。
なんとか最後は話し合いで解決に至り、強制収用という最悪の事態は回避され、昭和51年5月に開港した。

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▼周辺道路のすぐ脇から滑走路が見える。
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▲私が見た限りでは管制塔は無かった。聞けば1時間おきに空港では気象観測を行い、風速が毎時15m以上になると
運航が中止されるという。という事は与論空港に乗り入れるパイロットは有視界飛行に頼っているという事だ。凄い!
現在の滑走路の長さは1200m。旧日本海軍のゼロ戦が離陸するには十分だが、小型ジェット旅客機のボーイング737
でさえ離陸するには長さが足りない。なので物資などの輸送や輸送人員も限られてくる。大型旅客機で沢山の観光客を
呼び込もうとした場合、石垣島の様に別途空港を建設するか、現在の滑走路を延長する必要があるだろうが、与論島に
行って、現地の方達とふれ合い、なにより島を巡っていく中で、その様な大きな空港が必要かどうかは帰る時には答え
は出る。島民でも無いのに無責任な事は言えないが、今の与論島で十分訪れる人に懐かしさや感動を与えてくれる。
現在、滑走路延長の声を受け、用地買収は続けられているが、島民の土地への思い入れを無視するわけにはいかず、地
権者との話し合いは平行線をたどっているとの事。4日間与論島に滞在させて頂いての感想は、個人的にはこのままで
も良いのではないか・・・と思った。因みに第二次世界大戦中に旧日本軍は少人数駐屯していたが飛行場は無かった。

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▲宿泊先は空港の隣にあるプリシアリゾートヨロン。美しいプライベートビーチの真上を着陸態勢のATRが通過する。
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▲▼シーサイドウエディング(愛の塔)で結婚式を挙げるカップルも多いとの事。
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プリシアリゾートヨロンの敷地は広く、食事も美味しい。そしてプライベートビーチでの絶景は素晴らしかった。
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与論島滞在中、冬季にもかかわらず、1日だけ快晴の日があった。年末から数えて久しぶりの快晴日との事だ。
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▼南を向けば沖縄本島、南西を向けば伊平屋島。北を向けば沖永良部島がはっきり見える。
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▼PRICIAのマリーナ(遊泳禁止)。
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鹿児島県の隣島の沖永良部島より沖縄島の方が近い。昭和47年5月の沖縄返還前は日本最南端の島だった。
与論の歴史は古く、口伝では3000年前に人が移り住み、記録では推古天皇の頃には大和(日本)に帰属していた。
そう、沖縄県の人が本州に住む人に良く言う「大和の人」の、「大和」は本州又は本土の事だ。
大和に帰属するまでのは牧歌的な小さな共同体の世界でその時代を「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶ。その後大和の支配
から外れ、「按司世(あじゆ)」と呼ばれる時代、按司という支配者の治める世が続く。
島の高台には城(ぐすく)が築かれ、その周りに村落が形成され、1つの小さな王国があった。
しかし、時おり琉球王が攻めてくる。与論に残る多くの民話にはこの琉球との戦いの光景も記されている。
しかし13世紀(1201年~1300年)古琉球(グスク時代/按司時代)に与論人は琉球王に朝貢し、支配下に入る。
これを「那覇世(なはゆ)」と呼ぶ。
14世紀~16世紀頃(1301年~1600年頃)琉球國(三山王国)時代には、与論城が築城されかけたが、当時与論島を支
配していた北山王国が当時3つの王家があった沖縄島での戦いで滅亡。与論城は未完成に終わった。
14世紀の沖縄島は北山王国(ほくざん)中山王国(ちゅうざん)南山王国(なんざん)の3つの国に分かれていた。
15世紀に入った1429年に南山を征服し、中山王国が始めて沖縄の島を統一し、尚氏王統を築いた。
そして15世紀の終わりまでに、琉球王国は琉球列島の最南端まで支配し、1571年までに北は九州の近くの奄美大島ま
でも琉球王国に組み込まれた。奄美大島では琉球王国の政治体制が採用され、首里の権威が認められていたが、琉球王
国が廃止されるまで南方の先島諸島(宮古列島/八重山列島/尖閣諸島)は何世紀もの間、進貢国(宗主国)の関係のままで
あった。

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▲琉球(北山王国時代)の15世紀(1401年~1500年)に築城された与論城跡(今帰仁城をモデルにしている様に見える)
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奄美群島南部と沖縄本島北部を支配下にしていた北山王国帕尼芝(はねじ)王の三男王舅(おーしゃん)。
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王舅が与論城を築く(築城期間は1405年~1416年)最中、1416年中山王国の尚巴志王によって北山王国が滅亡。
その為、城は未完成のまま築城中止になった。

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沖縄島は北山王国(今帰仁村を中心として主に現代の沖縄県国頭郡に存在していた王国)と、中山王国(現在の那覇市、
浦添市を中心に主に沖縄県中頭郡に存在していた王国)と、南山王国(現在の糸満市を中心に沖縄県島尻郡南部に存在し
た王国)の3つに分かれた三山時代があった。沖縄島北部(北山王国)は与論島の歴史や言葉に深い関係を持っている。

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17世紀、与論島は島津の薩摩藩の支配下となる。これによって与論は琉球と分断され、奄美の島々は過酷な薩摩の搾取
の元に苦しめられたという。サトウキビの年貢による搾取。この思い出が那覇世を平和な時代と思わせたかもしれない
とも言われている。この時代を再び「大和世(やまとゆ)」と呼ぶ。

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薩摩の役人をもてなす為に生まれた伝統「与論献奉」は今も残る。きつい地酒を飲ませて酔わせてしまう。
私の様にお酒に弱い人間にとっては恐ろしいもてなしだ。宴会があるとどこでも「献奉」で、地酒の黒糖焼酎で酔っぱ
らった島民はサトウキビ畑で寝てしまう事もあるそうだ。(与論島にはハブが居ないので安心して寝れる)

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▲▼与論城内に建つ琴平神社は文政7(1824)年創建。(昭和20年米軍による爆撃により一度焼失している。)
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太平洋戦争(大東亜戦争)後の昭和30年に琴平神社の境内社として登記。与論島初代島主「花城真三郎」が琉球舞踊と
大和踊りを融合させ、島中安穏・五穀豊穣・無病息災の祈願と島民との親交を図って創始した。

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▲与論城内にある慰霊碑。
昭和18年(1943年)8月4日、満洲与論開拓団が満洲錦洲省盤山県(現在の中華人民共和国遼寧省盤錦市)に入植。
昭和20年(1945年)8月の敗戦後にその多くが犠牲となった。
と書いてある・・・これは正直驚いた。私の祖父と祖母が満州に住んでいた事もあり、満州移民の事は結構知っていた。
しかし、沖縄地方やその他の南国の多くの方達は、当時の委任統治領だったサイパン島テニアン島そしてパラオなど
の南方に行った人が多いと勝手に思っていた。南国から北の極寒の地、満州での生活は大変だったであろう・・・。

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▲古くは西南戦争、日清戦争、日露戦争を含め、戦死者の慰霊碑である忠魂碑。明治43年(1910年)建設。
後に第33代内閣総理大臣となる当時の陸軍大臣 林銑十郎の書。
明治10年西南戦争で2名、明治27年日清戦争で7名、明治37年日露戦争で23名、第一次世界大戦で10名の方達が戦死
されている。合掌

太平洋戦争(大東亜戦争)中、目と鼻の先にある沖縄島は沖縄戦でご存知の通り最大の激戦地。
与論島は空襲をうけ、茶花など市街地の370世帯が焼けたものの、地上戦は無く、被害は最小限で抑えられた。
しかし昭和19年10月10日(通称十十空襲と言われる沖縄島を中心とした南西諸島への米軍による空襲と爆撃)を始めに
して、与論も空襲、艦砲射撃を受けており、また島からは日本機の墜落や戦艦の撃沈も目撃されている。昭和20年3月
末以降は、毎日の様に焼夷弾が降り、一般島民4名が犠牲となっている。
米軍が沖縄に上陸すると沖縄からは砲声の轟が絶えず、与論からは燃え上がる沖縄島が見えたという。これは1609年
5月6日(慶長14年4月3日)島津の琉球出兵で薩摩藩軍が首里城を陥し、琉球国王尚寧を捕らえた戦い以来2度目の経験
だった。
当時、与論島に駐屯していた日本軍守備隊 小野少尉(隊長)/山 市郎軍曹(防衛隊長)らが、沖縄島周辺の海と空を埋め尽
くす米軍の圧倒的な軍事力を目の当たりにし「一発なりとも撃ってはならぬ!一発でも撃てばこの島はたちどころに無
くなってしまう」と命令を下したそうだ。昭和20年3月下旬頃、米軍機の空襲が激しくなると、駐屯部隊は97高地(ピ
ヤーヌパンタ)の避難壕に入り、一発も撃たずに耐えた。
しかし、敵がいよいよ上陸という時には、島中央にある叶集落のハジピキパンタ西側に集結し、与論島民は全員玉砕す
るよう指示が出されたが、山 市郎軍曹が反発し異議を唱えた。小野隊長からは明確な答えは無く、結果、島人が敗戦を
知ったのは18月18日だったが約7000人の島民は命を落とさずに無事終戦を迎えたという。
抗命罪とされてもおかしくない状況で、勇気ある反論をした山 市郎軍曹(防衛隊長)に敬意を表したいと思う。

そして、付け加えておきたいのは昭和18年、戦局の悪化に伴い、南西諸島防備の為、陸軍は徳之島、沖縄島、宮古島、
石垣島の飛行場建設を急ぎ、人夫出動命令が出される。その際、奄美大島、沖永良部島や与論島から人夫、青年学校の
生徒など4280名が作業員として徴用された。飛行場は完成したが、与論島に帰る人達34人を乗せた開門丸(輸送船20
トン)が米潜水艦に撃沈され、帰らぬ人となっている事も忘れてはならない。

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▲そして一番右には上野應介翁頌徳碑がある。
19世紀(1801年~1900年)末、天然痘・台風・火災の被害により大規模な飢饉が発生。
私財を投じて長崎県口之津への移住を推進した当時の戸長上野應介氏の功績を後世に伝える碑文。
明治31年にやって来た台風によって与論は飢饉に襲われる。南方の島には多くのソテツが自生しているが、この蘇鉄
の実を粉にしてなんとか餓えをしのいだという。蘇鉄には毒が含まれており、よく水に晒さないと中毒になるという。
食べるものもなく、蘇鉄の毒で死ぬ人まで現れる。これらの苦難を切り抜ける為に、小作農民達は島外で働く事を決意
多くの与論島民が三井の炭鉱へ移住する。この慰霊碑に書かれている長崎にも池島炭鉱があった。
厳しい差別と重労働と貧困の生活だったという。
与論の言葉は日本の言葉とまったく違う。その為、なかなか大和の人とうまく話せない。言葉でも苦労し、厳しい差別
と過酷な条件下で低賃金重労働に必死に耐え・・・。
しかし、与論の人は飢餓から脱出してきたという現実、そして働ける事に感謝し、こらえて真面目によく働いたという。
しばらく与論の人は帰れぬ故郷を想い、三線を引き唄う事で慰めを見いだしていた。
与論の人々はやがて三井三池炭鉱に移される。ここでも苦労を重ね、やがて彼らの子供達が「三井三池争議」によって
勝利を勝ち取るまで、彼らは黙々と働き続けた。

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▲プリシアリゾートヨロンに立ち並ぶ宿泊部屋。50棟程あっただろうか。昨年9月29日の台風24号で被害を受けた。
実際、沖縄、奄美群島を含め、与論島は毎年の様に台風に襲われる。実は今回の宿泊先は最初からプリシアリゾートヨ
ロンでは無かった。与論島ビレッジに宿泊予定だったが、台風24号で屋根が飛び、営業再開の目途が立たないとの連絡
があり、急遽被害が少なかった?プリシアリゾートヨロンに変更したのだ。

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▲▼台風24号で宿泊部屋の棟が丸ごと吹っ飛んだプリシアリゾートヨロンの宿泊部屋跡。
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▼島の宝である「百合ケ浜」。
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大金久海岸から約2㎞にわたって白い砂浜が続く与論島最大の砂浜がある観光スポットで、百合ケ浜クルーズを体験す
ると、ウミガメを見れたり、沖合い約1.5kmにぽっかり浮かぶ百合ヶ浜を見る事が出来る。

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▲大金久海岸
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▲百合ケ浜クルーズ(Tome Cruise)百合ケ浜渡し¥3000[TEL]090-2967-0722 優しい方なので是非!
春から夏にかけて中潮から大潮の干潮時だけに姿を現す真っ白な砂浜だが、昨年9月の台風24号の影響で砂浜の形状が
変わっているという。

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今回は冬場の為、干潮時でも水深が70㎝以上あるので上陸する事は出来なかったが、ウミガメを見る事が出来た。
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非常に透明度の高い海。ウミガメが見える。夏にまた来たいと思う。(トメクルーズさん、また宜しくお願いします!)
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2018年11月10日第29回日本ウミガメ会議in与論島(NPO法人日本ウミガメ協議会主催)が与論町中央公民館で
始まった。増加傾向が続くアオウミガメと観光利用、漁業への影響をテーマにシンポジウムがあり、専門家や地元関係
者らが環境保全と産業振興の両立に向けて意見交換した。
山元宗与論町長は「与論島は間近に泳いでいるウミガメが頻繁に見られる一方で、漁業被害が懸念されている。
関係機関との調整も必要」と指摘。同協議会の松沢慶将会長は「保護の裏側で起きている漁業への影響を受け止めない
といけない。古くから人とウミガメがどう向き合ってきたかという文化にも目を向け、どう進むべきか議論したい」と
述べている。
クジラでもウミガメでも、見るだけの観光客は「処分する」のは可哀想と言い、一方で漁場を荒らされる漁業者は、可
哀想という感情はあっても、背に腹は代えられない。モズク養殖場業者は、一生懸命育てた海産物が増え過ぎたウミガ
メに食い荒らされるのを黙って見ていられない。と言う。当たり前だ。
観光も漁業もどちらも大切。両立の方法が見つからないか現在模索中だ。



沖縄戦の最中、特攻機にとって、与論島を過ぎれば目の前は沖縄本島。米艦隊が遊弋する嘉手納沖までは数分で着く距
離となる。特攻隊員にとって生か死の選択の浜であったことから「大金久海岸」や「百合ケ浜」には、たまに特攻機が
不時着し、特攻隊員が与論島の山林に終戦後まで潜んでいたという話もある。事実なら生き延びた特攻隊員の方には、
「お疲れ様でした」と言ってあげたい。
昭和20年8月15日敗戦。9月7日沖縄本島(嘉手納基地)にて行われた琉球列島の降伏調印式で日本軍の各司令官が降伏
文書にサインする。9月21日米第10軍カンドン大佐が奄美守備隊の武装解除の為に命令文書を携え徳之島に来島した。
命令書には 「北部琉球の兵器を渡せ」と書いてあったが、奄美群島日本陸軍司令官の高田利貞少将は「ここは奄美群島
であって、北部琉球ではない」として「北部琉球」を「奄美群島」と書き換えさせたという。
昭和21年1月29日米軍(アメリカ合衆国)は沖縄周辺の支配権を確立する為、北緯30度(トカラ列島)以南を日本から分
離、米軍統治下に置くと鹿児島県大島支庁に通告した。
通告が与論島を含む奄美群島の島民約20万人にラジオで伝えられたのは2月2日。
既に米軍に占領されていた沖縄と違い、後に「2・2宣言」と言われたこの通告は寝耳に水だった。
それは日本復帰まで7年10ヵ月に及ぶ与論島の苦難の時代「アメリカ世(ゆ)」の始まりでもあった。
アメリカの認識では「琉球は日本人に虐げられた少数民族」であり、最終的には一つの国家として独立させるつもりも
あったという。琉球の島々を4つにわけ「奄美」「沖縄」「宮古」「八重山」にそれぞれ自治政府を置いたのであった。
しかし島の人々は日本に帰ることを希望していた。独立など夢見ていなかった。共産党のみ独立を掲げて地下組織を作
り運動していたが、自治政府の知事選挙で、琉球の島々の民は日本返還を約束する党へと票を投じた。
アメリカはこの結果を受け、結局群島政府を廃止し、琉球臨時政府を作る。
この政策によって奄美は苦しむことになる。アメリカ統治下、奄美は本土と切り離され、のちに緩和されてからも渡航
許可はまず沖縄本島まで行かねばならなかった。アメリカは沖縄本島に作る基地の為に、沖縄本島の復興には力を注い
だが、奄美をはじめとする離島の復興は熱心ではなかった。
小学校での教育もままならない状態で、教師達が密航して教科書を本土から手に入れたりという有り様であった。
仕事のない島民は沖縄に移住した。ここでも沖縄と奄美の日本に対する温度差が生じはじめる。
復興運動が特に盛んだったのは奄美であった。何度もハンガーストライキをして復帰運動をしていた。
奄美群島の99.8パーセントが本土復帰を願っていた。
昭和25年6月25日、朝鮮戦争が勃発。アメリカにとって沖縄は軍事基地としての価値が高まった。しかしすでに独立
の事などは念頭にも無く、奄美などの離島は荷物になると判断したアメリカは、奄美群島の返還を決断する。
その時、沖永良部島と与論島を変換するつもりがなかったが、この2つの島民は「返還されないなら奄美に移住する」
と決議する。そして小中学生が返還嘆願の血判書を送るなど、返還による分離反対の運動が盛んになった為、についに
アメリカはこの2島も含めた返還を決定する。昭和28年12月25日クリスマスの本土復帰であった。

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▲与論城跡の隣にあるサザンクロスセンター。「ここに来れば与論がわかる」という事なので行ってみた
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▼▲私は知らなかったのだが、2007年公開の映画「めがね」のロケ地としても与論島は有名との事。
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▼2017年11月17日天皇皇后両陛下が与論島を初めて訪問された事が大きく紹介されていた。
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沖縄が復帰するまで、与論は最南端の島であった。沖縄返還前には「与論ブーム」が起き、多くの若い人々や左翼運動
家、色々な宗教団体が与論島にやって来たという。
沖縄が本土復帰し、与論島の「日本の最南端」の立場はなくなった。かつての観光賑わいも無くなり、観光客も年々減
っている。しかし、島民の年配の方達とお話しすると、「今の方が良い」という方が多かった。
鹿児島空港から飛行機で1時間40分もかかる。沖縄の那覇空港からは約30分だ。
2017年3月から関空➡奄美大島の直行便がバニラエアから再就航したものの、奄美大島➡与論島は約1万円で約45分。
船だと約5000円だが8時間もかかる。
大阪や東京から安い便がいくらでもある沖縄(那覇)。那覇➡与論島は約9000円で約30分。船は約3000円で5時間だ。
島民のほとんどが観光や買い物(普段の食料品等では無く、お楽しみ買い物)は、船で本部や那覇に行くと聞いた。
しかし沖縄県ではない為に様々な特典からも除外されている。島民の離島割引は鹿児島に向いているからだ。
しかし、割引されても遠くて運賃の高い鹿児島に用はない。観光も沖縄の島々の方が楽しいだろう。
本音を言うなら与論島は沖縄県に入りたいという人もいるだろう。そうすれば沖縄の観光版図として助成金も降りるだ
ろうと考える事はごく普通の考えだ。
しかし、実際に与論島を訪れて見て、触れて、ここが沖縄県で無くて良かった・・・と思う自分が居た。
外国人観光客でごったがえす沖縄本島、那覇周辺の大渋滞、小さな島に約140万人が暮らし、福岡、大阪、名古屋とた
いして変わらない都会風景。与論島がそうなって欲しく無いと思うのは私だけではないはずだ。

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▲与論の方言は日本語とは全く違うと言っていい程違う・・・やんばる(沖縄島北部)の方言に似ているそうだ。
※やんばる➡「山原」を、やんばる と読む。沖縄島北部地域一帯を指す俗称。

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▲▼与論島には「与論民俗村」という施設がある。
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Yoron Island Japan in 8K HDR - 与論島YouTube
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村長の菊 秀史さんが与論の歴史や生活、そして「与論の言葉」を深く研究されている事を色々話をして頂いた。
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与論の言葉又は方言は、ユンヌフトゥバというそうだ。
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与論生まれの菊さんは2001年から与論の言葉継承活動を始め、「与論の言葉で話そう」全4巻を自力で完成させた。
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菊 秀史さんのお母様、千代さんは「与論方言辞典」を完成させている。与論島を訪れた際は是非立ち寄って欲しい。
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与論島の中心地(繁華街)は役場もある茶花だ。住所は鹿児島県大島郡与論町茶花
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▲お洒落な広報車があったがお正月という事もあり駐車場スペースに駐車されたままで島を走っている姿は見なかった。
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与論島は昭和40年代後半から脚光を浴びはじめたので、~50年代に建てられた建物が多い。
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役場から内陸側にコンビニ、商店、飲食店街が続いている。
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中心地のメイン通りはなんと「銀座通り」と名付けられている。
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観光化し始めた昭和40~50年代の建物が多く、とても落ち着いた昭和感満載のレトロな雰囲気。
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観光客だけらけでは無く、適度に本当にヨロンが好きな人だけが訪れる。いいですねー。
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小さな島ではあるが、買い物に不便は無い。ACOOPやTOPというスーパーも島に2店舗ある。
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台風の時期になると、どうしても船便に頼る物資が届かず、食品棚が空っぽになる事もあるそうだ。
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▲行きたかったが時間が合わず行けなかった和風居酒屋TAKIYAさん。写真で解る様に「日の丸」が掲げられている。
この様に与論島の多くの店舗、住宅で「日の丸」が掲げられている光景を、このお正月は気持ちよく見る事が出来た。

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▲▼TOP茶花店を過ぎると銀座通りは一応終わりとなる。そこには島で唯一の信号がある(他は点滅信号)
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▼▲この交差点にあるホームセンターに立ち寄ってみた。
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流石に本州各県にあるホームセンターの様に品揃えが豊富なわけでは無いが、それでも十分な品揃えだった。
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▲陳列棚で見つけた「国旗セット」!!。本州の各ホームセンターの何店舗にこのライナップがあるだろう?
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素晴らしい!思わず買いそうになったが(1480円だったと思う)、本州に戻ってから調査がてら見てみる事にした。
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ホームセンターは大小合わせて3件確認出来たので十分だろうと思う。
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▼一番大きいと思ったのは与論空港の隣にあるニシムタ。鹿児島の会社らしい。
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▼ニシムタから与論空港を望む。
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▼喫煙者の私が、以外だったというか、驚いたのは西日本限定販売のHEETSがニシムタで買えた事だ!
松代大本営跡
▲兵庫や大阪、京都、奈良、もっと言えば東海、関東ではまだ売ってない物が与論島で買えた!
HEETSは現在、地域限定発売。対象地域は以下の通り。
北海道、岡山県、広島県、山口県、鳥取県、島根県、愛媛県、香川県、高知県、徳島県、福岡県、長崎県、大分県、
佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島県。
良く考えれば買えて当然だ。与論島は鹿児島県。22㎞先の沖縄県では売ってないのだ。

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与論島の人口5264人(2018年11月末現在)に対し、肉用牛の飼養頭数は5336頭で、島民より牛が多い畜産の島だ。
高校までしか無い与論島で学んだ学生達は島を離れ、沖縄や九州、本州、北海道の大学に進学する学生も多い。
そして農業大学や畜産大学で学び、島に戻って家業を継ぐ若者も、少しづつではあるが増えてきていると聞いた。
「与論牛」と聞いても聞いた事が無い人が多い。与論島は屠畜場が無いので、子牛を県外の名だたる地域に販売する。
ドナドナされた子牛達は、九州/本州などで有名な〇○牛として販売される。鹿○島牛とか神○牛とかになるそうだ。
因みに、史実として日本での肉用牛として歴史が最も長い牛は、滋賀県の「近江牛」である。

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▼島の南側(与論城の裏手)には「金の牛」がある。
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「お腹をさわると良い事がある」といわれているそうだ。(海の向こうに見える島は沖縄島)
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▼「金の牛」の山側には、与論島の沖縄本島北部(国頭村)と深い関係を象徴する「ヤンバルクイナの石像」がある。
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▼地元では「何でも願いが叶う」というパワースポットになっている按司根津栄神社(アジニッチェー)
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琉球統治以前に与論島を治めた按司根津栄を祀った神社(アジニッチェー神社)
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按司根津栄は幼児の頃から武術に長けていた為琉球王に惚れ込まれ、与論島を治める按司(アジ)の位を与えられた。
根津栄(ニッチェー)という場所で生まれたことから、按司根津栄と名を授けられ、琉球王の側で仕えていた。
しかし、与論島に帰ることを願い出ると琉球王と対立し、命を落としたと言い伝えられている。

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今も境内には頭蓋や遺品が奉納されている。与論島観光の際は先ず立ち寄ってご挨拶をして頂きたい。
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武術の神様、海の神様(インジュルキ)、農業の神様(キャーラドゥキ)、按司根津栄(アジニッチェー)島の守り神
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与論島には綺麗なビーチが沢山ある。ほぼ全て巡った中でいくつかご紹介しておく。
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▲寺崎海岸
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▲▼赤崎海岸
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▲▼赤崎海岸と赤崎灯台。
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▼赤崎灯台下にポッカリ空いた壕口。どう見ても人工的に掘られている。旧日本軍の遺構か?
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わりと大きな壕で、当時の陸軍の小さな木造上陸用舟艇ぐらいだったら入りそうなサイズだった。
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▼▲中に入ってみると、3mくらい奥で左に折れているがほぼ埋まっていた。
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戦時下の与論島の守備は奄美守備隊が担当し、昭和19年6月27日与論の守備隊として小野少尉(山口県出身)以下44名
の守備隊が配属され、駐屯部隊の本部は青年学校校舎(現中学校)に置かれた。
小野隊長を直属の上官とする与論在郷軍人一個中隊は、中隊長(山 市郎)、第一小隊長(宮崎 清菊)、第二小隊長(町 茂)
第三小隊長(山下 勇夫)、第四小隊長(白尾 義之助)が配され、同年7月15日より小野小隊長の指揮の元、島民総動員で
退避壕構築を開始した。昭和20年2月には、与論の在郷軍人が召集され、山 市郎軍曹を中隊長とする防衛隊を編成し、
島の海岸警備及び治安維持の任に付かせていた。この壕はそれらの史実に関連するかどうかは解らない。島民総動員で
掘ったと言われる退避壕が島の真ん中より南にあるピャーヌパンタ(パンタとは、与論の方言で丘と言う意味)の中腹の
松林に跡が残っているというので、次回見学したいと思う。


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▲ビーチに話を戻すと、赤崎海岸入口付近に「なつこばぁちゃんの店」という小さなアクセサリー屋さんがある。
(尋ねた次の日に、少し北側に移動するとの事で、写真の場所はサトウキビ畑に戻るという事だった。)
百合ケ浜の入口付近にもテントを張ってアクセサリーを販売されている島の優しいおばぁちゃん達がいらっしゃる。
貝殻や赤サンゴ、サメの歯などを加工して作ったネックレスやピアスなどが並ぶ。女性には嬉しくも楽しいお店だ。
冷たいお茶を出してくれたり、島のお話をしてくれたり・・・話をするだけでも心が和む。是非立ち寄って欲しい。

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▲「なつこばぁちゃんの店」のしめ縄。日の丸とヨロンの「与」が交わった可愛いしめ縄。
本州であまり見かけなくなった車のフロントグリルに付けるしめ縄、玄関の国旗掲揚、忘れかけている事を色々思い返
させてくれる与論島の風景と人達。「金金」とガッツかず、商売っ気が無くとも、店主の優しさに触れ、自然に心から
購入しよう、この島で何か買わせて頂こうと思わせてくれるお土産屋さんの数々。本当に素晴らしい島だと思った。

Yoron [ Island Japan in 8K HDR 与論島 ]
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▲▼少し無理やり感があるヨロン駅
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▼しかし、ちゃんと説明文を読むと、何故此処にこの様な観光スポットを作ったのかが解る。
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与論島に国道はありませんが、鹿児島から沖縄まで国道58号線が海上を通っています。この海上の国道58号線を海上
鉄道と考え、1979年にヨロン駅を建設しました。
レールの一部と車輪は、当時の鹿児島鉄道管理局から頂いたものです。
当時は有村運送店にJR九州の代理店契約をしてもらい、記念切符の販売をして頂いておりました。
その記念切符は実際鹿児島駅で使用する事が出来ました。現在ではその記念切符は販売しておりませんが、近い将来、
夢の鉄道が開通した時には、是非ご購入をお願い致します。
それまでは、天の川銀河鉄道本線ヨロン駅から流星号に乗車して、満天の星空の旅をお楽しみにください。
と書いてある。夜に来れば良かった~・・・笑

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▲▼ヨロン駅から「びどう遊歩道」が与論港まで続いている(画像は与論港からヨロン駅に引き返して来た時に撮影)
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▼正面に沖縄本島が見える。
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▼▲与論港からは丁度船が沖縄に向けて出港するところだった。
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「びどう遊歩道」で与論港から歩いて来た方と出会った。聞けば、今出た船で徳之島(亀徳港)から沖永良部島(和泊港)
を経由し、約4時間かけて与論島に来たという。時間がたっぷり取れれば船の旅もいいもんだ。今度経験してみたい。

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沖縄島に向け船が出港していく。目的地は本部港経由で那覇港だろう。本部港まで約2.5時間。那覇港までは約2時間。
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▲帰路は那覇経由で本州に戻った。那覇行きには多くの島民が乗っており、見送りに来られた島民の数も多い。
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さらば与論島・・・有難う!必ずまた戻ってきます!!
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▼那覇空港で乗り継ぎの時間を潰して本州に飛んだ。
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ありがとうばあちゃん与論島の“洗骨儀礼”洗い清めた骨は守り神 YouTube
2010年6月25日放送 NHK九州沖縄スペシャル「与論島の洗骨」



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2019_01_10




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
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