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徳之島から約2時間の船旅。沖永良部島が見えた。
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沖永良部島(和泊港)に到着。
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出迎えの人達や乗り込む人達で港は沢山の人だ。
沖永良部島は、沖縄本島から北に約60km離れている。島全体は隆起珊瑚礁で生成され、石灰岩で覆われている。
島内には河川は少ないものの、湧水の数は多く、また石灰岩と基盤との間に地下河川(暗川)が形成されている。
和泊町と知名町の2つの自治体から成り、人口約14000人で、奄美群島では奄美大島徳之島に続き、人口規模3番目
の島である。沖永良部島ではテッポウユリ(えらぶゆり)の球根栽培が盛んであったが、近年では菊やグラジオラス、
フリージアなどの切り花栽培が主要産業となっている。この他、サトウキビやじゃがいも、葉たばこなどの農業や、エ
ラブ牛などの畜産業が行われている。

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この船の次の泊地は与論島だろう。与論島の次は終点、沖縄本島(本部港か那覇港)だ。
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▼和泊港のコンテナ置き場には「えらぶゆり」の出荷の為と思われる冷蔵コンテナもある。
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沖永良部島は「テッポウユリ」の原産地。沖永良部島のユリは「えらぶゆり」として多くの人々に愛されている。
沖永良部島でユリの栽培が始まったのは110年以上前。明治32年にイギリスの貿易商人アイザック・バンティング氏
が沖永良部島に咲く自然のユリを発見。その美しさに感動し、島の人々に栽培を勧めたのがきっかけと言われている。
欧米では古くから、純白のユリは春を告げる花「イースターリリー」、聖母マリアのシンボル「マドンナリリー」と呼
ばれ愛されていた。明治時代、シーボルトによって欧米にもたらされた日本のユリは瞬く間に人気となり、多くの球根
が日本から輸出された。そして実のほとんどが、沖永良部島生まれの「erabulily~えらぶゆり~」だった。
塩害に強く、島の赤土で良く育つユリ(百合)の球根の栽培は、瞬く間に島中に広がり、やがて、多くの商社が島に球根
を買い付けに来る様になり、「イースターリリー」として輸出され、世界的に有名な花となった。最盛期には、横浜の
倉庫が「えらぶゆり」の球根で一杯になった程だったという。島の人々はたゆまぬ努力を積み重ね、変わりゆく時代の
中、時には戦火からも球根を守り、大切に「えらぶゆり」を育て、守り続け、現在は切り花の生産が中心となっている。

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▲2017年11月18日天皇、皇后両陛下(現在の上皇ご夫妻)が2日間の日程で沖永良部島を行幸され、テッポウユリを
栽培する農家を訪問された。

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▲宿泊先はホテルシーワールド。宿泊からレンタカーまで全てお任せの港に近い綺麗なホテル。従業員の方達は本当
に親切で、観光アドバイスも丁寧に教えて頂いた。フロント担当の本州出身の美女はしっかりしていて頼もしかった。

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▲ホテル前の銅像。「誰ですか?」と尋ねると、かつてこの場所は海で、現在は埋め立て地にホテルが建っているそう。
現在の和泊港は、沖永良部島の北東岸に位置し、島の玄関港となっているが、埋め立て前は島の宿から大型船の停泊す
る海まで渡し舟(現在の水上タクシーの様なもの)してくれる業者があったそうだ。渡船(とせん)とも言う。
この銅像の方達は、その渡船の歴代船長さんだそうだ。島は隆起珊瑚に覆われ、平坦な地形のため農地が多く、埋め立
て前は港の水深が浅かったのだろう。補完港として和泊町管理の伊延港が島の反対側に位置している。

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▲ホテル近くのカラオケボックスは東京オリンピック歓迎ムード。こういう看板ってなんか嬉しい。
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こじんまりした港町は夜の閉店が早い。それでも飲食店や雑貨店、お土産屋さんは十分だ。
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まず向かったのは南洲神社
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鹿児島市にも南洲神社があるが、此処も西郷隆盛を祭っている。
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明治35年建立
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▲祭られているのは西郷さんだけでは無い。日本の為に戦ってくれた大事な我々日本人の先輩方。
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▲南洲神社前の通リは、和泊町の中心街へと続くメインストリート。
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中心街へ行く前に西郷隆盛牢屋跡に立ち寄る。
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▲南洲神社から南洲橋を渡って直ぐ左へ。
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沖永良部島は主にサンゴで出来ている為、雨が降っても水を吸収してしまうので川がほとんど無い。
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▲南洲橋の架橋は大正8年10月。コンクリートの支柱で補強されているが、沖永良部島唯一の石橋だ。
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西郷南洲記念館の前に西郷が入れられていた牢獄の複製がある。場所的にはもう少し南洲橋寄りだったそうだ。
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西郷が上陸したという伊延港は和泊港の真反対。そこから歩いて此処まで連れてこられたのだろう。結構な距離だ
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壁も無く、吹きさらしの劣悪な場所で毎日座禅を組み、思索にふける西郷の姿を再現した銅像。
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入牢した西郷の監視役だった土持(つちもち)政照は、その姿に強く打たれ、西郷を「囲いに入れろ」とあった島津藩
の命令書を、「囲いがあれば家の中でもいいだろう」と解釈し、座敷牢に移したという。
座敷牢が出来るまで、西郷は土持の家に住んでいた。観光ホテル東(あずま)の裏には西郷が心を癒やしたという高さ
4.5mの巨大なソテツがあり、「西郷蘇鉄」と名付けられていた。
西郷は座敷牢に移されてからは読書に没頭し、子どもたちに学問を教えるようになった。また、台風や日照りで食糧が
不足する備えとして、豊作の年に米を蓄え、飢饉(ききん)の時に配給するという「社倉趣意書」を土持に渡している。
様々な教えを残した西郷への感謝の気持ちから、島民が「南洲神社」を建てたのだという。
沖永良部島の小学校では、総合学習の時間に、1年生は西郷、2年生は郷土の偉人、3年生は方言などを学ぶ。
和泊西郷南洲顕彰会がつくった本「えらぶの西郷さん」は、町内の小学3年生全員に配られている。

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▼西郷南洲記念館の見学もそこそこに和泊町の繁華街をフラフラ歩いてみる。
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「めんしょーり」か。沖縄諸島でも奄美諸島でも、それぞれの島で方言が違うな~。と感心して見て歩いた。
因みに、沖縄へ行くと那覇空港に「めんそ~れ」という大きな歓迎看板があるのを見た事がある人は多いと思う。
ただ聞くと全く日本語と違う様に感じる人も多いと思うが、それは間違い。「めんそ~れ」は立派な日本語で、日本語
の沖縄弁だ。「めんそ~れ」は昔の武士の言葉で「御免候へ」(ごめんそうらえ)がなまった言葉。
沖縄が日本じゃなかったなどという事を言う人達を信じていると、とんでもない捏造歴史を覚えてしまう事になるので
要注意だ。沖縄諸島も奄美諸島も皆、祖先は縄文人。皆、日本人なので変な勘違いをしない様に。

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沖縄諸島や奄美諸島の方言は「あいうえお」が「あいういう」になまっている。なので「お」が「う」に聞こえる、
もしくは「お」が「う」になって方言として言葉になっていると理解すっればだいたい理解しやすい。

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ん??私好みの旭日旗だ!!
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お店の中に入ってみたが、残念ながら誰もいらっしゃらなかった・・・残念。
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少々寂しい繁華街の様な気もするが、外国人観光客でごっちゃがえす観光地よりもこれはこれでホッと出来る。
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何でもかんでもあればいいってもんじゃ無い。そして何でも深夜までや24時間営業すれば良いってものでも無い。
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夜は寝ればいいし、必要なお店が多数あればそれで十分だと思う。24時間稼働する工場などが無い島の特権だ。
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おお・・・塾もある。
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▲ん??何だこれは・・・?琉球新報が無料??もう少しまともな新聞だったら頂くけどね~。要らねーよ!
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奄美群島は南日本新聞でよろしい!!現在は夕刊が廃刊になり、朝刊のみとの事だ。ネット時代だから仕方ない・・・
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和泊中心街の見学を終え、笠石海浜公園に沖永良部島の代名詞「えらぶゆり」を見に行く事にした。
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笠石海浜公園
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「えらぶゆり」の見ごろは4月下旬~5月中旬。ドンピシャとまではいかなかった様だがそこそこ見ごろだった。
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圧巻の景色だった。花を見て久しぶりに感動した!
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▲展望タワーは「えらぶゆり」をモチーフにしている。
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▲▼展望タワーからの眺め。美しい海、最高だ・・・。
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▼笠石海浜公園をあとにして、今回船で来たので見る事の出来なかった沖永良部空港を見に行った。
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島の最北端にある国頭岬にある沖永良部空港。開港は昭和44年5月。それまで沖永良部島には空港が無かった。
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▼赤〇が現在地の沖永良部空港。青〇が今回上陸した和泊港だ。空港が島の北端にある事が解る。
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戦時中の沖永良部島防衛体制は、昭和19年6月12日、独混21連隊第3大隊[ 大隊長 ]吉岡勝少佐 以下600名が配備さ
れ(内150名は沖永良部島からの現地召集兵で多数の島民が勤労奉仕隊として協力)、越山を中心に陣地を構築した。
現在の越山には当時の陸軍陣地の面影は全くと言っていいほど残っていない。
唯一、米軍上陸に備えて陣地構築された対戦車壕が僅かに残っているという事だったので、早速越山に向かった。

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▲越山のふもとに「戦車壕」と呼ばれる戦跡が残っている。写真左側は東シナ海で道の左側に「戦車壕」が残る。
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▲この看板には去年の台風が来るまでは「戦車壕」と書かれた説明版があったそうだが、台風で飛んでいったらしい。
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     ▲台風以前の写真。
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▲草木に覆われて非常に分かりにくいが、ピンクで示したラインに沿って深い溝が延々と掘られていた。
越山は標高180m。高い山が皆無に等しい沖永良部島においては2つある山(越山と大山)のうちの1つで、和泊町を一
望出来、太平洋、東シナ海を一望できる場所だ。現在、越山は越山公園となっており、戦没者慰霊塔などがある。

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▲越山公園は全て車で周る事が出来る。
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▼越山頂上にある戦没者慰霊塔。
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▲沖永良部島への米軍上陸は無かったが、空襲で約1450戸の家屋が全焼、多くの島民が亡くなっている。
昭和20年1月22日米機動部隊艦載機が南西諸島全域に来襲した。奄美諸島では奄美大島、徳之島、喜界島、沖永良部島
に来襲し、飛行場や船舶を攻撃した。以下は沖永良部島の空襲記録。
※元沖永良部島海軍特設見張所長、山口政秀氏の著書『沖永良部島 海軍特設見張所』に詳しく書かれている。
 山口政秀海軍少尉は昭和19年11月15日沖永良部島海軍特設見張所の所長として沖永良部島に着任した。

昭和20年1月9日 沖永良部島に初の空襲警報発令
昭和20年1月22日 11:50空襲警報発令(13:00敵戦闘機3、爆撃機5機来襲、沖永良部島は被害無し。
(沖縄島へ103機、喜界島、徳之島、奄美大島へ35機内外来襲、輸送船、港湾飛行場、市街地等に被害)
14:00徳之島の山港から機帆船「和泊丸」と長良治雄少尉の指揮する船舶工兵第26連隊第3中隊所属の大発2隻が沖永
良部島に向けて出港した。当初「和泊丸」は10:00出港を予定していたが、徳之島が空襲を受けていたため出港できず、
12:25に空襲警報が解除されて出港が許可された。
この時「和泊丸」には数日前に独立混成第64旅団司令部に打ち合わせのため徳之島に来ていた沖永良部島守備隊長の吉
岡勝少佐(独立混成第21連隊第3大隊長)、沖永良部島に視察及び作戦指導に向かう旅団の高級部員中溝猛中佐、多田
太吉主計大尉、作戦主任伯野淑一大尉等が乗船していた。
「和泊丸」と大発は沖永良部島へ運ぶ大量の軍需物資を積んでいた。内訳は小銃百、銃剣111、毛布381枚、階級章
2813、粉味噌248㎏、梅1054㎏、食用油153㎏、缶詰144㎏、救急食1065㎏、タバコ57600本などであった。
15:00井之川沖を航行中の大発が徳之島上空を飛行する米軍機を発見し、直ちに船首を海岸に向けた。だが15:05
米軍機7機が銃撃を加えてきた。和泊丸は2回目の掃射で機関部に火災が発生、炎上したまま船体は亀津沖の井之川海岸
に乗り上げて沈没した。この銃撃で、沖永良部守備隊長の吉岡勝少佐と兵士4名、和泊丸の船員1名が戦死。
中溝中佐は重傷を負って病院に収容され、多田大尉と船員2名が軽傷を負った。
同行していた大発は備え付けの機関銃と小銃で応戦したが、2番艇は被弾により浸水し、兵士1名が負傷、2隻共海岸に
乗り上げたが沈没は免れた。
「和泊丸」は26日名瀬で徴兵検査を受ける沖永良部島の壮丁を検査に間に合う様に、名瀬に運ぶ任務を帯びていた。
更に大発は、沖永良部島と与論島から徳之島の浅間陸軍飛行場工事に徴用した住民を輸送する任務を負っていた。

昭和20年1月23日 14:00空襲警報発令

昭和20年1月29日和泊港で陸軍の暁3号艇が米軍機の攻撃を受けた。至近弾を受けて船尾が中破、梶が損傷して航行不
能となった。この時隊員3名が負傷。暁3号艇は陸軍の暁部隊所属の船で木造150t、武装は重機関銃1基のみで、沖縄
島への物資輸送の為、前年12月に鹿児島県山川港を出港し、島伝いに南下している途中だった。

昭和20年1月30日 グラマン4機で空襲[ 北東より侵入。監視哨から大隊本部に「撃つか」と照会➡「撃つな」と命令。
昭和20年2月14日 10:00空襲警報発令
昭和20年2月15日 15:00空襲警報発令

昭和20年2月18日09:00頃、沖永良部島と与論島の中間付近で、木造船「開門丸」(80t)が、フィリピンから飛来
したと思われるB24の銃爆撃を受けて沈没した。同船は徳之島浅間陸軍飛行場の建設工事に徴用された与論島の住民を
乗せて徳之島に向かう途中だった。乗船していた住民の数は30~50名程度だったというがはっきりしていない。
生存者の中田盛雄さんによると、超低空で飛来した米軍機の投下した爆弾は船尾に命中した。
機銃掃射で引率の軍曹は戦死し、住民にも負傷者が出て慌てて船室に逃げ込んだが、米軍機は再度爆撃、船体が真っ二
つに折れて沈没した。乗員2名と伍長1人を含む生存者8人が開門丸の救命ボートに乗っているところを、沖永良部島の
海軍見張所が発見し、サバニで引っ張って救助した。別の5人は沖縄の伊平屋島に漂着したところを救助された。
この日は11:00にも沖永良部島に敵双発機が来襲し、屋子母5浬で輸送船1隻が攻撃を受けて沈没、別の1隻は、余多
海岸で攻撃を受けて船体は浅瀬に乗り上げた。

昭和20年3月26~27日 空襲  3/27 田皆国民学校が全焼
昭和20年4月4日 沖から米戦艦が大山基地を艦砲射撃
昭和20年4月5日 沖からの米戦艦砲撃により和泊国民学校が火災。 小米、上平川、和泊、国頭に被害。
昭和20年4月15日 沖からの米戦艦砲撃により知名役場が砲撃により火災。
昭和20年4月19日 知名国民学校、大城国民学校が空襲を受ける。
昭和20年4月20日 屋子母が空襲を受け54戸が焼失。
昭和20年6月3日 知覧を出撃した陸軍特攻第214振武隊長の97式戦闘機(当山幸一少尉)が喜美留集落の畑に不時着。
不時着時に気を失った当山少尉は、農家で目を覚ました。周囲には棒や鎌、はては竹槍で武装した住民がいた。
沖永良部島の住民は、日の丸が描かれた戦闘機はもちろん、特攻隊員を見るのも初めてだった。
その為、米軍の2世が日本兵になりすましていると疑い、当山少尉を殺す為の道具を持って集まっていたのだった。
農家で介抱を受けた後、体の痛みで動けない当山少尉は雨戸に乗せられ、越山の陸軍部隊に運ばれた。
集落を通ると、住民は少尉を励まし、中には卵や黒砂糖を雨戸の上に置いていく人もいた。
その後、少尉は越山の陸軍部隊の長屋風の一軒家に案内された。
翌4日、当山少尉は集落に戻って、兵隊を指揮して飛行機解体と爆弾埋置作業を行った。
その後少尉は和泊町の無人の家屋で過ごしていた。しばらくすると、暁部隊の舟艇が入港し、沖縄島から脱出してきた
誠第41飛行隊の寺山欽造大尉や、戦訓報告の為に沖縄を脱出した第32軍の神直道参謀等と徳之島へ渡った。

昭和20年7月5日 空襲を受け知名青年学校が全焼。
昭和20年7月21日 初めてB29襲来。

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▼「非核宣言の町」本州でも何処の市町村に行っても見かける言葉。
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▲確かに核兵器はとんでもないけど、非核だ平和だと言ってれば国を守れるんですかね?抑止力はどう考えているの?
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▼越山頂上より島の最北端、東シナ海側方面を望む。
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▼太平洋側に目を向けると大山(現在は航空自衛隊沖永良部島分屯基地)が見える。
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次は大山の航空自衛隊沖永良部島分屯基地を見に行く事にした。
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▼▲大山へ行く途中、可愛い建物の小学校を発見。内城小学校というらしい。
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自衛隊が駐屯している島の小学校ってなんか羨ましいな~本土の何処かみたいな左翼教育が無さそうで。
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因みに、天皇皇后両陛下が見学されたという「日本一のカジュマル」があるのは国頭小学校で、内城小学校では無い。
和泊町指定天然記念物との事だが、カジュマルの木は結構見飽きているのと、小学校の校庭に有り、職員室か何処かに
声をかけて校門を開けてもらう必要があるとの事で、通りざまに見る程度にしておいた。

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▲大山の入口(山へ登る入口付近)には知名町平和之塔がある。
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付近一帯は公園になっており、林間休養施設らしい。割と広い場所なので戦時中は兵舎などがあったかもしれない。
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▼大山は人気が無く、何となく寂しい感じ・・・出会ったのは野生のニワトリだけ・・・。
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▼島内で最も標高の高い大山なので、古びた展望台に上って周囲を見てみた。
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▼航空自衛隊沖永良部島分屯基地が見える。もう直ぐそこだ。
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ボーっとしてたら見落としそうな標識?ひっそりとこの先が航空自衛隊沖永良部島分屯基地である事を伝えている。
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▼壁には頼もしいロゴと言葉が~!!
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▼カッコいい!!
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▼▲人気が無く、隊員の方達を見る事は無かった。しかし24時間365日誰かが勤務されているはず。ご苦労様です。
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▼沖永良部島分屯基地がある大山頂上付近には大山神社がある。
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相変わらず神社内も人気が無く、鬱蒼と茂った木々に覆われて薄暗く、少し寂しい感じ。
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かつて霊能者の冝保愛子さんが沖永良部島を訪れ、飛行機から降りようとした時、「この島には霊が多すぎて降りれな
い」と言って帰って行ったとか。感じ過ぎの人は大変だね・・・因みに私は沖永良部島で霊など全く感じなかった。

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駐車場に戻り、大きなアンテナを見ながら大山をあとにした。自衛隊の皆さま、日本の防衛よろしくお願いします。
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▼大山をあとにして車を走らせていると慰霊碑らしきものが見えた。
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「殉国慰霊碑」と書かれている。たまたま見つけたので詳しい事は解らず立ち寄った。
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▼先の大戦(大東亜戦争/太平洋戦争)で戦死された沖永良部島ご出身の方達だと思う。当然慰霊させて頂いた。
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▼これは恐らく慰霊碑建立にご尽力された方達のお名前だろう。
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▼はみやま神社(明治29年建立の護国神社で501柱の英霊を祀る)
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▼▲通りがかりに見つけたNSX!かなり程度が良さそうな車両で、ビートと共に室内展示されていた。
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▼また通りがかりに慰霊碑を見つけた。「新生丸避難者慰霊の碑」(隣には越之山神社がある)
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観光させて頂いているので、戦史関係無く島の歴史(先祖様)には敬意を示す意味でも慰霊させて頂く。
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本土復帰する少し前の昭和28年2月4日未明、旅客船「新生丸」(18.5t)が、知名町屋子母沖で沈没した。
新生丸は定員51人を上回る82人が乗船し、沖縄県那覇市から知名町小米港へ向けて航行中、高波を受けて沈没。
生存者は僅か2人。乗員乗客80人が犠牲となった事件。戦争が終わった後でも悲劇はあったんだ・・・。

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▼沖縄に出稼に行った帰りだったのだろうか・・・。年齢を見ると、1歳や4歳の小さなお子さんも居る。
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▼西郷隆盛が上陸したという伊延港に行ってみた。
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▼伊延港
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葉タバコ農家さんもいらっしゃる様だ。
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引き続き島内を車でドライブ。
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▲▼マツモトキヨシもコンビニ、スーパー、ニシムタなどもあり、生活に不便は感じられない。
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▼沖永良部島には自動車学校もあった。
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若い頃、「合宿免許」という言葉を聞いた事があるが、この様な美しい島で合宿免許に申し込むのも有りだと思った。
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▼沖永良部島唯一の製糖工場。南栄糖業株式会社
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沖永良部島でサトウキビが栽培されたのは約190年前と言われている。日本復帰後の昭和30年頃には、日本の大手商社
が南西諸島における黒糖生産に乗り出し、奄美群島の島々に大型製糖工場が建設された。
昭和37年、さとうきび集荷の混乱を抑える為、国の方針として一島一社体制の行政指導を受け、和泊町の奄美興発株式
会社と知名町の共和産商株式会社が合併し、南栄糖業株式会社が設立された。

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昭和52年、沖永良部台風で壊滅的な被害を受けた農家は、生活の立て直しや台風被害で借り入れたお金の返済の為、サ
トウキビ以外の様々な農作物を栽培する様になり、サトウキビの栽培面積は年々減少していった。
平成9年には、生産量がピーク時の4分の1まで落ち込み、会社撤退の危機に陥った。
撤退か継続かの局面で、和泊町、知名町の行政、議会、農業協同組合(現JAあまみ)生産農家から強い継続要請があり、
話し合いを重ね最終的に農林水産省の指導の下、南栄糖業株式会社と地元で「さとうきびの増産に関する覚書」を取り
交わし、両町行政、両町農業協同組合が株主に加わり再スタートした。そしてサトウキビの収穫面積は、平成20年には
12年ぶりとなる1,000ha台を回復。その後も徐々に増加し、平成28年には昭和55年頃の収穫面積に戻ってきていると
いうから素晴らしい。現在、収穫時の機械化率は98%を超え、南西諸島において最も機械化が進んだ島となっている。
また、昭和52年の沖永良部台風で農作物に大きな被害を受けた教訓から、農業共済加入率が約8割という高い加入率
(他の島が3割~5割程度)となり、台風などの自然災害に遭った場合でも、サトウキビの収穫見込み量の8割を保証す
るなど、農家の人達が安心してサトウキビを作れるという態勢が整っている。

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▼ウジジ浜に行く前に拝山神社に立ち寄った。
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▼「世間遺産」という言葉を初めて聞いた。
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参拝させて頂いた後、ウジジ浜へ。
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▼▲ウジジ浜。本当に綺麗な場所だった・・・夕日を見に来たら最高の場所だろう。
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▼通りすがりに見た郵便局もレトロ!ちゃんと「日の丸」掲げられていていい感じ!
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▼住吉郵便局の近くには住吉暗川(クラゴー)がある。
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島の水源で、かつて島民はこの洞窟まで水を汲みに来ていたんだ・・・大変な作業だったであろう。
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▼▲早速洞窟に入ってみる。
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突き当りを左折れ。この狭く急な坂を水を持って上り下りしたのだろう。
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▼透き通った水が溜まっている。現在はポンプで汲み上げている様だ。
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▼さぁ戻ろう。
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急な登りに加え、鍾乳石なのでけっこう滑る。
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水桶を頭に乗せて登る島民の写真がある。昭和31年の撮影で、まだ63年前の事だ。しかも写っているのは女性だ。
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▼知名町瀬利覚集落にあるジッキョヌホー。
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「ジッキョ」は集落の名前、「ホー」は川という意味。ジッキョヌホーの湧水は、水道が整備されるまで貴重な水源と
して、野菜洗い/洗濯/灌漑用水など集落の人々の生活を支え使用されてきた。

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平成の名水100選の一つ。
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現在は「知名町指定有形文化財」また、集落民の交流の場として脈々と受け継がれている。
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▼「フーチャ」と呼ばれる観光スポットがある。
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沖永良部島は隆起サンゴ礁の島。島の北部(北海岸)は断崖絶壁の場所が多い。
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フーチャとは奄美の方言で「噴き上げる」という意味。石灰質の断崖が長い年月をかけて波に削られ、いつしか洞窟状
になった地形のことをフーチャと呼ぶ。

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沖永良部島には、かつてフーチャは4つあったらしい。しかし、波の高い日には「波しぶき」が島の南側まで到達し、
農作物に塩害を与えたので、3つはダイナマイトをしかけて爆破された。今見学しているのは残る1つのフーチャだ。

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珊瑚礁が隆起して出来た島は比較的平坦な島で、島の沿岸には石灰質の断崖がたくさんある。
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因みにサンゴ礁で出来た島にはハブがいない。奄美大島徳之島にはいるが、沖永良部島と与論島にはハブはいない。
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▼ウミガメビューポイント
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満潮時にリーフ内側の浅瀬に海藻を食べにくるウミガメを陸上から多数見ることができるという事だったが・・・。
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満潮時にはタイミングが合わず、ウミガメを見る事は出来なかった。
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西側を見ると半崎と軍艦岩が見え、手前の砂浜(ウパマ浜)はウミガメの産卵場所として有名。
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▼半崎
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▲▼越山のふもとにある「世之主の墓」に行ってみた。
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沖永良部島の「世之主伝説」 自決して島を守った王様の物語がある。
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1400年頃、沖縄島は三つの国(北山王国、中山王国、南山王国)に分かれて争っていた。
沖永良部島は与論島と同じく、沖縄島の北部(ヤンバル)を支配していた北山王国に属し、沖永良部島を治めていたのは
「世之主(よのぬし)」と呼ばれた王様だった。世之主は北山王の次男で、沖永良部島の統治を北山王から任されていた。
善良な君主で整った政治を行い、島民からも非常に慕われていたと言う。
しかし、沖縄島は三つの国の争いの結果、中山王国が統一する方向に動いていった。
巴志(はし)という男の登場によって、沖縄島の支配図は大きく変化していく事になる。
巴志は、後に琉球王国を打ち立てる事になる尚巴志だ。巴志は元々、南山王国の一豪族だったが、中山王国の国王を戦
において殺し、自分の父親を中山王にして実権を握った。そして軍事力では三つの国で一番力を持つ北山王国と争う事
10年、ついに北山王国を滅ぼした。
そして世之主の兄に当たる、北山国王の攀安知(はんあんち)は沖縄島の今帰仁城にて自害してしまう。
北山王国が滅びたことで、小さな沖永良部島で取り残された世之主は、いつとも知れない中山王国の軍勢が攻め込んで
くるかもしれない恐怖と、沖永良部島民をどう守るかのストレスで城の中に引きこもってしまったという。
そしてとうとう中山王国の船が数隻、海を越えて沖永良部島へやって来た。でもそれは和睦の船だった。
世之主は使者を出し、こう命じたと言う。「中山の船が和睦の船である場合は白旗、征伐の船である場合は赤旗を掲げ
て城に知らせろ」と。しかし、使者が間違えて征伐の船であるサインを城に伝えてしまった事で、船を軍船だと思い絶
望した世之主は、「この小さな島で中山王国に敵うはずもない」として、島の島民を守るべく、奥方共々自決してしま
ったと伝えられる。世之主の死後、島を守る為に早まって自ら死を選んだ世之主を、島民達は丁重に葬った。

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▲▼崖を彫り込んで作った琉球式の墓(トゥール墓)。
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▲ここから先へは入れない。此処で手を合わさせて頂いた。
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▼この奥の部屋で世之主が永遠の眠りについている。
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この立派なお墓は、世之主に対する島の人達の感謝の想いが詰まっている。
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お墓の規模としては大きい方だと思う。墓の外周は崩れ防止の為にコンクリートで補強されている。
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▼世之主自害の地とされる丘。
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▼世之主神社は「世之主自害の地」の直ぐ近く。
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世之主神社は世之主の居城跡に建っている。
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台風で何度も飛ばされてきたのだろう。見た目はかなり新しかった。
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▲駐車スペースに2台の車が写っているが、1台は私のレンタカー。そしてもう1台の軽トラックは、ご親切に此処まで
誘導して連れて来てくださった地元の方の車だ。本当に優しい方だった。実は一度越山に入って「戦車壕」を探したが
解らなかった。戦車壕に連れていってくださった方は、実はこの軽トラックのオーナーさんだった。
そして世之主神社にも連れてきて下さり、更に地元の知り合いの方に携帯で電話をし、「自分は世之主に詳しくないか
ら・・・」と、詳しい知人に電話をして繋がった状態で私に代わって下さったのだ。
お陰で沖永良部の「世之主」の事が理解出来ました。この場を借りてお礼を申し上げます。
軽トラックのオーナー様、電話で歴史を教えて下さった方、本当に有難うございました。

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▼世之主神社から「世之主自害の地」が見える。
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▼世之主神社から大山方面を望む。城跡の石垣は僅かに残るだけ。ほぼ痕跡は無いに等しい。
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▼屋子母(やこも)海岸は沖永良部島最南端にあるビーチ。
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屋子母海岸の入り口に、常陸宮殿下、妃殿下 御清遊の地 昭和48年7月14日の碑がある。
(常陸宮殿下とは昭和天皇の第二王子で、今の上皇陛下の弟にあたる方だ。)

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▲屋子母ビーチ。
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▲田皆岬に行ってみた。
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▲子山羊とすれ違った・・・。
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▲どんどん出て来た・・・。進路妨害だ(笑)
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▲母山羊が居る。この辺りで飼われている様だ。しかし出会ったのは人では無く、山羊のみだった・・・。
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▲母山羊のお乳はもう何が何だか分からない状態・・・腸が飛び出ているかの様だ(笑)
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▲母山羊のみ繋がれていたので、母山羊はこの場所からほぼ移動する事無く、綺麗な海を生涯眺めているのだろう。
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▲ヤゴニヤ崎灯台が見える。
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▲昭和49年設置という事はまだ歴史は浅い。
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▲高さ18mの灯台。標高約50mの上に建っている。台風にも負けないコンクリート建造物はエライ!
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▼沖泊海浜公園に行ってみた
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此処ではキャンプ、バーベキューや海水浴を楽しめる。シャワー完備の整備されたビーチ。
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断崖とアダンの防風林に囲まれたビーチは比較的穏やかだ。
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▼山側を見ると滝が流れていた。南の島の風景に生える滝はとても綺麗だ。
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若者達のグループもちらほら見かけた。
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島では本州(関東)から移住してきた若い世代の人達(30代)と話す機会もあった。頑張って島を盛り上げて頂きたい。
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▼最後は2018年のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」のロケ地。
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行き方が少し解りにくいが、「西郷どん」の小さな看板と青い倉庫が目印。
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▲この倉庫沿いに海側に向かって細い道を入っていく。
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当然車では入って行けないので手前の広い場所に駐車する。くれぐれも駐車は手前の広い場所に。
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私が駐車した場所が邪魔な所だったのがきっかけで、関東方面(千葉)から移住して来られた若者達に出会った。
バイタリティー溢れる若者達と少し話し込んでから浜を後にしたが、ホント楽しい時間だった。
車両移動のお詫びと、楽しくお話しした時間をこの場を借りてお礼を申し上げます。有難うございました。
またお会い出来る事があったらその時も宜しくお願いします。それまでどうかお元気で。島を盛り上げて下さい。

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ビーチってわけでは無いが、とても綺麗な場所。
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この場所をロケ地に選んだ理由は「自然環境に人の手が加えられていない事」を条件に、NHKの製作スタッフが、何日
も沖永良部島に泊まり込んで、地元の方達と一緒に探しに探した結果決まった場所らしい。

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「西郷どん」を見た事がある人なら、此処で撮影されたシーンが思い浮かぶと思う。
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▼ホテルシーワールドで売っているお土産品。「島の恵みのポタージュスープ」購入したが¥500だったと思う。
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▲これが実に美味しい。実は徳之島も沖永良部島も、ジャガイモ栽培がおこなわれ、島の名産の1つになっている事を、
行ってから知った。しかし、耕地面積が限られている島での収穫量は他県に販売出来る程多く無く、全て島で供給され
て売り切れてしまうらしい。徳之島でそれを知って探し回ったが、食べる事も購入する事も出来ず、沖永良部島でなん
としても食べたかった。ホテルシーワールドの美人受付女行きつけのお店「笑屋」さんでやっと食べる事が出来た。

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▲だりやみ処「笑家」ご主人も奥様もとても優しい方。島のジャガイモを希望する私のわがままを聞いてくれた。
沖永良部島へ行った際は是非一度立ち寄って見てほしい。静かで美味しく温かいお店だ。0997-92-0514

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次の目的地は「喜界島」。直行便は無い為、船で一旦「奄美大島」に向かう。
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▼船に乗り込む列の最後尾に3人の男性が並んでいるのがお解りになるだろうか。
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実はこの3人の方は海上保安庁の方達。私が乗り込むずっと前から乗り場にいらっしゃった。乗船が開始されても微動だ
にせず、自然で当たり前かの様に、一般客の最後尾に並び、乗船している姿だ。仕事とはいえ、自衛官や海上保安官の
この自然な行動には本当に頭が下がる。尖閣諸島などの緊張する海域でのお仕事が続く昨今、相当お疲れである事は間
違いない。それでも素晴らしい自然な振舞いで一般日本国民を優先するこの姿には非常に感激した。

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さぁ出港だ。途中、「徳之島」に寄港して奄美大島(名瀬)まで約5.5時間の船旅。
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▼沖永良部島が遠ざかっていく・・・。有難う沖永良部島、また来ます!!
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徳之島に寄港する。途中下船してまた闘牛を見に行きたい衝動にかられた。
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夜には予定通り奄美大島に無事到着した。
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▲因みに船会社は2社。MARIX LINE と A"LINEが運航している。自分の動く予定時間で港と船会社を選ぶ。
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▲奄美大島到着後の翌日の朝、宿泊先の部屋からの眺め。名瀬港。
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▲宿泊先は名瀬港から歩いて3分の場所にある名瀬湾岸センター。島の学生達ご用達の格安宿。
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▲▼名瀬湾岸センター玄関に飾ってある爆弾!先の大戦中に投下された米軍の不発弾。
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奄美大島も昭和20年3月と4月に大きな空襲を受けて焼け野原となっている。詳しくは「奄美大島」をご覧ください。
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▲奄美空港に向かう為、バス停があるホテルウエストコート奄美へ。
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ここからバスで奄美空港に向かう。
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▲1時間程のドライブ。名瀬から奄美空港までは結構かかる。
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▲奄美大島から喜界島までは近いので、船もあるが今回は飛行機で喜界島に飛んだ。


次回、喜界島に続きます。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2019_05_31




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
pochetteevnara@gmail.com

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