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日本から3000キロも南にあるパラオ共和国は歴史的にも日本と深い関係にあります。
スペインの統治が15年間、ドイツの統治が15年間、そして日本の統治が25年間・・・。第一次大戦終了時、
それまでドイツ領であった南洋群島を、日本が敗戦する昭和20年(1945)までの25年間、日本の委任統治
領としていました。今もドイツ人・日本人も多く観光に訪れている小さな島国で、日本敗戦後も日本との関
係は深く、日本のODAで作られた橋などの建造物が多いです。
パラオは独立国家として大統領制をとり、国名もパラオ共和国としました。
特に国旗のデザインは、島民多数の応募の中から「日の丸」に似た「月の丸」が選ばれ、日本の言葉や日本
の文化・風俗が色濃く残っています。特に大戦末期の「ペリリュー島の戦い」は日米激戦地として今も多く
の日本兵のご遺骨と戦跡が残された英霊の墓場と言っても過言では無い場所です。ペリリュー島を守るのは
守備隊長「中川州男」大佐率いる約1万人。アンガウル島を守るのは守備隊「長後藤丑男」少佐率いる1800
人でした。 両島共、守備隊長は島民を避難させ日本軍だけで米軍と戦い、ほぼ全員が戦死しました。
この壮絶な戦いを米軍も称えていますが、パラオの人々も敬意を持って受け止めています。
ペリリューの戦い①
戦後70年を迎える2015年、天皇陛下の慰霊が実現される事を願います。

※日本人として決して忘れてはならない事があります、それは2011年に起きた東日本大震災。
 パラオ政府は日本に対してココナッツの物的支援を申し出てくれました。
 残念ながら被災地のニーズとのミスマッチングの結果実現しませんでしたが、パラオの人達
 の気持ちへの感謝を日本人は忘れてはいけません。

また、2013年にパラオを襲った台風30号では非常事態宣言を発令する程大きな被害が出た。日本政府は
最も早く人道支援に応じたが、200万円という小額の義援金に「親日国にわずか200万円か!」と金額の少
なさを疑問視する声があがり、在日パラオ大使館への義援金の申し入れが相次ぎ、集まった日本一般国
民からの義援金は1923万円となり、米国政府の支援金10万ドル(約1030万円)を上回った。
パラオ共和国レメンゲサウ大統領は「最も早く人道支援に応じてくれたのも日本政府だったが、日本の一般
の人々の心にそれ以上に感謝している」と述べた。

(追伸)2015年4月天皇陛下のパラオご訪問が実現しました、良かったです。両陛下パラオ訪問
両陛下パラオ慰霊の旅  パラオ遺骨収集

▼パラオ本島(バベルダオブ島)に旧日本軍が建設途中だった飛行場は、現在ロマン・トメトゥ
 チェル国際空港としてパラオ共和国の玄関口になっています。
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▼入国審査を終え迎えの車でホテルに向かったが、到着は深夜の便だった為、画像は別の日に撮ったもの
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送迎車は何軒かのホテルをまわり、最後に宿泊先のプラザホテルパラオに到着した。
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▼ホテル前の国旗が半旗だったのが何の理由か思い出せなかった・・・。
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▼ホテルの部屋からの眺め。
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▼レンタカーを借りてコロール島をまわってみた。
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日本の中古車を買っているので右ハンドル。でも走行はアメリカなどと同じく右側通行。
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車自体は快適だが、右ハンドル車はあまり安全ドライブという訳ではなかった。やはり左ハンドルの方が運転し易い。
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手あたり次第にウロウロしてみる。
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コロール島の繁華街。
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▼コロール島に残る日本軍通信所跡を見学。パラオ大空襲で破壊された。
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▼パラオ大空襲。1944・3/30、31日アメリカ軍が行ったパラオ日本軍に対する大規模な航空攻撃
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▼パラオ日本軍飛行場「ペリリュー島の戦い」の後、米軍はパラオ本島に上陸せず兵糧攻めにした。
 1944.10/23米軍に迂回されたので、日本軍は飛行場に「Welcome Yankee」と書いて挑発。
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▲パラオ大空襲で出来たと思われる爆弾による大穴が2箇所確認出来る。
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▲興味の無い人から見ればただの廃墟だが、日本統治時代の貴重な遺構とも言える。
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▼こちらの遺構は現在、廃棄物解体屋で再利用されている様だった。
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▼コロール島には日本統治時代に南洋神社があった。米軍が上陸した際にことごとく破壊されたが、現在は地元の方が
 残った石段を綺麗に整備して管理してくれている。
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▼日本統治時代の南洋神社。昭和15年コロール島アルミズ高地に天照大神を奉祀する官幣大社南洋神社を創建。
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▼日本統治時代のコロール島南洋庁パラオ支庁庁舎(現在も現存し、パラオ最高裁判所として使われている)
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▼コロール島の至る所に今も旧日本軍の戦車や武器が放置されたままオブジェとなっている。
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▼▲日本海軍陸戦隊の水陸両用戦車(特二式内火艇)
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場所はコロール島の繁華街から少し離れたアサヒ・フィールド横の端っこにあった。
※アサヒ・フィールドは日本統治時代は旭球場と呼ばれていた。
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▼この高射砲や機銃は、日本人(当然奥様はパラオ人)が暮らす民家の庭に飾ってあった・・・。
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聞けば、この兵器は元々此処にあった訳では無く、コーロル島各所から持って来た物だという。
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此処のご主人は大阪のご出身だそうで、関西のお話を懐かしそうに話しておられた。
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▼日本統治時代のパラオは当時の日本政府が実施した移民政策により、南洋興発がパイナップル缶詰工場を建てた。
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今は見る影も無いが、当時の工場があった場所には錆びついた当時の工場機械が放置されている(コロール島)
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▼現存する工場機器の残骸にはしっかり日本製である事が確認出来た。
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パラオ本島(バベルダオブ島)は10の州がある。その内の1つアルモノグイ州アルマテンに残る海軍アルモノグイ砲台。
(日本統治時代、アルモノグイ州には「朝日村」「大和村」があった)
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▼呉海軍工廠の名盤がしっかり確認出来た。
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ペリリユー島・アンガウル島を占領した米軍はパラオ本島には上陸せず、本島に残る日本軍を兵糧攻めにした。
その結果戦わずして4800人以上の本島の日本兵が餓死、病死したという。
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▼▲これらの砲台も使われる事無く、その役目を終え、今はひっそり戦争を語っている様に見えた。
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▼コンクリートに覆われた大砲。
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このトーチカには入る事が出来た。
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裏手にまわって中に入ってみる。
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▼ほぼ完全状態で時が止まっていた・・・凄い。
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▲弾薬庫なども保存状態は良く、ほぼ完全な状態の陣地跡だった。(大砲は合計4基ほぼ完全な状態で残っている)
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▼パラオ本島に退避壕と共に残る機銃。(九六式二十五粍機銃と思われる)
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パラオ本島は首都がコロール島から移転したにもかかわらず、人口はパラオ全体の約2万人に対して1割程度。
ほとんど車も走っていないのどかな島であると共に、また他国の援助でインフラ整備を整えていくのかと思うと複雑な
気持ちになった。のどかな田舎島の民家の玄関には、日本軍かアメリカ軍の物であろう爆弾が飾ってあった。
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パラオ本島/コロール島間には立派な橋がかかっている。1度韓国企業によって建設された後、崩壊事故により2人死亡。
その後、日本の鹿島建設が建設した通称「KBブリッジ」だ。パラオ本島とコロール島を結ぶなくてはならない生命線だ。
旧KBブリッジ建設は1977年、建設業者選定入札において、韓国企業の[SOCIO]が鹿島建設の半額の入札価格で受注。
その後崩壊事故後にパラオ政府の要請により、日本政府の23億円もの援助が決定し、結局、鹿島建設がゼロから作り直し
た橋だ(呆)。援助というものは先進国の義務かの様に理解してしまうが、日本人の血税ですね、いつまでお金で援助し続け
る事が日本は出来るのだろうか・・・。
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▼日本とパラオの国旗が刻まれたFRIENDSHIP BRIDGEの名盤。
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橋の下へ降りる事fが出来る。(韓国製の時に崩壊事故で亡くなった方の慰霊碑があった)
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パラオ共和国では他国の援助で成り立っている部分が多くある。アメリカをはじめ、日本や台湾などの援助だ。
▼台湾の援助で建設された国会議事堂。(2006年10月首都移転)
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▼コロール島にある老人施設の送迎バス。
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その他色々日本が援助している分野が沢山ある。親日国なので未来永劫良い関係が続く事を望む。
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▲少し老人施設に立ち寄った。日本統治時代を経験したお年寄りは、懐かしそうに日本語で話をしてくれた。
たまたま催し物が開かれていた。聞けば、世界1周を旅する豪華客船の乗客への歓迎の踊りだという事だった。
▼ミューンス・スコウジョウという場所がある・・・水上“ひこうじょう”が語源のようだ。
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▲▼日本海軍水上機基地跡のスロープ。二式大艇が飛びったっていた所。当時のコンクリート敷が残っている。
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昭和19年3月30日~31日のパラオ大空襲後、サイパンから二式大艇を2機呼び、1機に古賀峯一連合艦隊司令長官が。
1機は福留 繁海軍中将が乗りこみパラオを脱出。ミンダナオ島(ダバオ)へ向かった・・・が、途中で低気圧に遭遇し、
福留中将機はセブ島沖(フィリピン)に不時着。ゲリラに捕る。これがいわゆる海軍乙事件。
搭乗していた9名は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、3月8日に作成されたばかりの新Z号作戦計画書、司令部
用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われた。ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留らは拘束時に
抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった(鞄を川に投げ込んだが、すぐに回収されたと自供しているが、その件に関
する米軍側の報告書が未だ公表されておらず、全てを承知でゲリラ側に譲渡したのではないか?と疑う向きもある)。
日本国はゲリラと交渉して福留を解放させ、帰還した福留は海軍次官・沢本頼雄中将らから事情聴取を受けることにな
るが、本人が徹底して機密書類紛失の容疑を否定した。当時の日本では敵の捕虜となる事をこの上ない恥としており、
福留中将がゲリラに捕縛された事を、「敵の捕虜になったとみなす」かどうかが問題となったが、戦時は捕虜にならな
かったという見地で不問となった。
戦後も福留は、GHQで戦史編纂の仕事をしていた大井篤のところに出向き、「君や千早が機密書類が盗まれたと言って
おり、迷惑している。こんな事実は全くないんだ」と述べたが、大井は「盗まれたのは事実です。お帰り下さい」と追
い返したと言う。一方、古賀長官の1番機はパラオ脱出後行方不明で、1ヶ月後に殉職となっている。
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▲此処から2機の二式大艇が密かに飛び立った。
太平洋戦争開戦後、山本五十六長官に続き、古賀峯一長官までも失う事になり、日本海軍にとって大きな打撃となった。
※古賀峯一長官は戦死ではなく殉職した事が原因で靖國神社には合祀されていない。
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▲夕方のコロール島は渋滞が激しい・・・1本道に集中するので仕方ないのだが・・・。
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▲街角で中国製電動スクーターを発見。見たのはこの1台だけだったが海を渡って此処まで送られてきたのだ・・・。
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▼▲宿泊していなくても、食事だけも利用出来るちょっと高級なホテルで夕食。ホントに綺麗なホテルだった。
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▼最高の夕暮れを見ながらの夕食をいただいた。
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次は、日米の激戦地、ペリリュー島に向かう。
▼ペリリュー島へはコロール島から船かセツナ機での移動となるが、私は高速艇で行った。
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コロール島を離れペリリュー島に向かう。この辺りの海にはゼロ戦や輸送船が沈んでいるという。
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※ペリリュー島の戦いは昭和19年(1944)9月15日~11月25日ペリリュー島で行われた日本軍守備隊(守備隊長:
 中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポ
 ール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘の事。
▼ペリリュー島に到着。高速艇と言えど小さな船なので、多少の波でも結構揺れる。
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▼ペリリュー島のお洒落なペンションで昼食。
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今は本当に綺麗で平和な場所に見えるが、激戦当時は悲惨極まる島だったという・・・。
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ペリリュー島の舗装道路は限られている。車通りも少なくコロール島の様な渋滞も無い。
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▼ペリリュー島の自動車のナンバープレート
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▼米軍によるパラオ大空襲時の写真、炎上するペリリュー島の日本軍地上施設。
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▼米軍ペリリュー島上陸支援の艦砲射撃
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▼ペリリュー島オレンジビーチ、米軍は艦砲射撃の後、この海岸から上陸した。
 激しい地上戦の始まりだった。海岸は日本とアメリカの戦死者で海は血の海だったと言う。
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▼激戦当時のオレンジビーチ
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千人墓地と呼ばれた場所(米陸軍81師団慰霊碑)はオレンジビーチへの入口の場所にある。
日米激戦の後、この場所には米軍戦死者を埋葬無数の十字架が慰霊碑の周りにあった。
米軍も戦死傷者約9000人以上の犠牲者をペリリュー島で出している。
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▼当時米軍戦死者を葬った墓地。現在遺骨は全てアメリカ本土に埋葬されている。
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ペリリュー島での日米激戦はアメリカ製作のザ・パシフィックを見るとその激しい戦いが良く解ります。
現地へ行くととてもリアルに出来た作品だった事に感動します。
▼上官の死を悼む米軍兵士達
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▼ペリリュー島西カロリン航空隊司令部跡
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▼激戦当時の撮影
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▼米軍に占領された航空隊司令部付近(米軍撮影)
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▼近年ジャングルの中から姿をあらわした日本海軍の待避壕
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▼待避壕内部(トーチカの中は凄く暑い。数分居ただけで汗が噴出してきました)
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▼生き残って生還された土田喜代一さんが見張りをしていた監視所跡と使われなかった高角砲。
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▼ペリリュー島に残る日本軍95式軽戦車。ペリリュー島には7台の戦車が配備されていたが、全滅。
 ジャングルの中にはご遺骨が乗ったままの戦車がまだあるそうだ。早く見つけ出してあげて欲しい。
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▼激戦当時の写真左(米軍撮影の日本軍95式軽戦車が上記車両と思われる)
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▼ペリリュー島に残る米軍水陸両用戦車。日本軍の戦車がおもちゃに見えます
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▼日本軍武器弾薬庫(中は戦争博物館になっており、日米のペリリュー戦の資料が数多く展示されている)
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▼当時の日本軍武器弾薬庫(米軍撮影)
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戦争博物館には興味深い展示物が数多くあります。近年アメリカの資金で整備され、半分以上は米軍の資料ですが、
旧日本軍資料も多く展示されています。博物館入り口にある来館者の記帳はアメリカ人が圧倒的に多く、日本人の記帳
は数える程しか確認出来ませんでした。パラオに観光へ行かれた際は是非ペリリュー島へも足を運び英霊に感謝を伝え
てあげて欲しいと思います。
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▼ペリリュー島守備隊長中川州男大佐の自決の地を記した米軍の資料。この資料の
 発見により最後の打電(サクラ、サクラ)がこの場所より打たれた事が判明した
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▼陸軍大佐「中川州男」昭和19年11月24日自決。享年46歳
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▼ブラッディー・ノーズのジャングルに中川大佐自決の洞窟があった
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▼戦後「終焉の地」とされた最後の司令部壕跡。
 後に米軍の資料(上記参照)で別の洞窟陣地である事が判明した。
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▼ブラッディー・ノーズの入口です。当時は激しい爆撃で草木も少なかったでしょう。
 (白いテントはオーストラリアの不発弾処理団体の物)
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▼▲ブラッディー・ノーズに進撃していく米軍(激戦当時の写真)
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沢山の壕とその中や脇にある日本兵が使ったであろう「飯ごう」「水筒」等を見ながら奥へ進んでいきました。
遺骨収集も終わっていないので、遺骨が眠ったままです。病院壕跡ではご遺骨と対面し手を合わせてきました。
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▼ブラッディー・ノーズには洞窟陣地が沢山あり、日本軍が使用した物が沢山残されている。
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▼ブラッディー・ノーズでの激戦を当時米軍側の写真で見ると、激しい戦いが良く解る。
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▼激しい戦闘で傷ついた兵士を手当てする米軍兵士達、日本軍も米軍も必死だった。
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▼[ブラッディー・ノーズ・リッジ・モニュメント]ペリリュー島の最高地点で360度見渡せ、
 隣のアンガウル島も見えます。また、米軍が建てたモニュメントもあります。
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▼激戦当時のペリリュー島飛行場周辺。
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▼ペリリュー島に残るゼロ戦の残骸。かろうじてコクピット部分が残っています
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▼当時のペリリュー島で撮影されたゼロ戦の写真がある。機体整備中であったのか車輪は出た状態でエンジンは降
 ろされており、上のゼロ戦の残骸とよく似た状態である。同一機体かは確認ができないがおそらくそれと思われる。
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▼島のあちこちにこの様なトーチカがあり、米軍の攻撃を受けたままの状態で残っています。
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終戦後も島で戦い続けた日本兵が1947年、米軍の投降勧告まで34人が生存していました。投降しようとした者が終戦
を信じない味方に打たれるという事件もあった中、最後まで戦い、生きて帰って来られた方がいたのは幸いです。
アメリカ軍の司令官は投降に応じた日本兵にこう言ったそうです。「あなた方は捕虜ではありません。捕虜は戦争中に捕
まった兵隊です。もう戦争は終わっています。あなた達は立派に任務を遂行した日本兵だ」と。
▼ペリリュー島米軍司令部前で山口少尉以下28名整列時の写真。
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コロール島とペリリュー島の間にあるカープ島(当時はガラカヨと呼ばれていたそうです)
この島でも日本兵が沢山亡くなられたそうです。ペリリュー島から追い詰められた日本兵が、この島の洞窟陣地で
ぺリリュー島奪回の為に結集したという話を聞きました。戦後、ここでも遺骨収集が行われ、多くのご遺骨が洞窟
陣地から日本へ帰られました。島には日本軍が作った桟橋の跡がかろうじて残っています。
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ペリリュー島では現在も遺骨収集が行われていますが、オーストラリアのボランティア団体が不発弾処理をしている為、
その作業が終わるまでは思う様に遺骨収集が進んでいない様です。また、パラオ共和国の法律により、島で掘削作業が
しにくくなっている現実もある様です。今は「外国」という現実が遺骨収集に重くのしかかっています。
パラオ共和国ペリリュー島は先の大戦で亡くなった日米の英霊達の大きな墓島です。

[証言記録 兵士たちの戦争] ペリリュー島 終わりなき持久戦




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2014_03_21




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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沖縄戦跡巡り

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