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富屋食堂は[特攻隊の母]として慕われた「鳥濱トメさん」の食堂でした。
富屋旅館は、戦後昭和27年、遺族を知覧に泊めるために作られたもので、知覧特攻平和会館
へ行く際には是非宿泊をお勧めします。知覧特攻平和会館は何も言う事はありません。
優秀・勇敢な特攻隊員の遺書を読むと涙が止まりません。優秀な若者が日本の未来を信じて命
を投げ打って戦ってくれた事を日本人は決して忘れてはならないと思います。知覧は陸軍の方
が特攻に出撃されていますが、海軍・陸軍関係無く全ての神風特別攻撃隊の英霊に感謝します。
富屋旅館の食事は美味しく、優しい女将と娘さんが出迎えてくれます。スケジュールに余裕が
あれば、朝の「女将のお話」も是非お聞き下さい。ドラマ「なでしこ隊」YouTube

昭和16年知覧に太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所が出来、多くの少年飛行兵達が巣立っていった。
昭和17年富屋食堂が軍の指定食堂となった時、女主人の鳥濱トメさんは40歳であった。
そして大戦末期、陸軍第六航軍の特攻基地となり、多くの若者が沖縄の空へと飛びたっていった。
知覧特攻平和会館
知覧特攻平和会館
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「知覧の桜」日野美歌YouTube
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▼特攻隊員が寝泊りする三角兵舎での夕食、搭乗員には栄養の多い物が与えられた。
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▼出撃の朝、搭乗員は一斉に身支度をして出撃に備える。
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皆、荷物を解くと、思い思いに最後の時を過ごしていました。何かを考え込んでいる者、毛布の上に横たわってじっ
としている者、一心不乱に何ごとかを書いている者、車座になって神妙に語り合う者達。
三角兵舎には息苦しい雰囲気が充満していた。
三角兵舎は地面を掘って作られていたため、雨が降ると最悪だった。
報道部員が押しかけてきて、「ただいまの心境は」と聞かれたりしたが、あれは鬱陶しかった。
彼らは突入するわけではないし、気楽なもので、勇ましいことを書いて美談にしようという魂胆が見え見えだった。
福岡から来ていた参謀から紙が一枚まわってきた。そこには「お父さん、○○はお国のために立派に死んで参ります」
「天皇陛下万歳」といった様な事が書いてある。父や母に対して書く遺書の見本だったが、隊長以下これを無視した。
前日の報道部員が参謀に頼み込んで、我々に遺書を書かせようとしたのでしょうが、冗談じゃないと皆憤慨した。
遺書に見本があって、そのとおりに書けなんて。(元第22振武隊 大貫健一郎氏)

富屋旅館
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▼多くの振武隊特攻隊員に愛された鳥濱トメさん。
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▼(左)第213振武隊 板津忠正伍長(生還し、知覧特攻平和会館初代館長)と鳥濱トメさん。
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▼陸軍知覧飛行場から出撃した陸軍第159振武隊の6名の写真(芦屋飛行場にて撮影)後列左から松原 新少尉22歳、
 高島俊三少尉21歳、賴田克己少尉24歳、前列左から磯部十四男伍長20歳、伊川要三軍曹22歳、西野岩根伍長19歳
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第159/160振武隊は、昭和20年4月26日244戦隊小林戦隊長命で下達された「飛二四四作命第六三八号」
により編成された特別攻撃隊である。両隊共、隊長は小林大尉の明野時代の教え子である陸士57期生
(航空転科) が任ぜられ、使用機は陸軍244戦隊の3式戦闘機「飛燕」各6機だった。
▼第159振武隊長「高島俊三少尉」搭乗機[ 飛燕 ]4424号機の写真(昭和20年5月初旬撮影)
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両隊は約1ヶ月の錬成訓練の後、159振武隊は昭和20年5月28日朝、調布を出発。明野、伊丹、芦屋を経由
して6月1日知覧基地に着いた。160振武隊も同行の予定だったが、最後の外泊休暇中であった松谷伍長が
夜間大空襲によって不慮の死を遂げるという、思いもかけない悲劇に見舞われ、160隊の同僚たちは彼の捜
索と遺体回収に奔走せねばならなかった為に叶わず、3日遅れて6月4日知覧に到着した。
6月5日午後出撃の予定であったが、天候悪化のため延期となり、翌6月6日13時半両隊は母隊である244
戦隊の直掩を受けて知覧を出撃。16時頃慶良間付近のアメリカ軍艦船群に突入した。
(無線傍受によって突入確認されたと言われている)
出撃前、佐々木鐵雄、賴田克己両少尉は、同期の親友古波津里英少尉を飛燕の翼上に呼び寄せ、堅く手を握
り、微笑みながら「後をよろしく…」と言い残し た。親友たちの翼に最期まで護られながら飛ぶことができ
た彼らは、数ある特別攻撃隊の中で幸運な連中であったかもしれない。
それに先立ち、佐々木少尉は244戦隊の準備線を不意に訪れ、居合わせた整備兵のポケットに「俺はもうい
らないから…」と、航空糧食(主に菓子類)を無理やり詰め込んで去っていった。
長らく調布飛行場で世話になった整備兵たちへの感謝の印であったのであろう。

[ 第159振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
高島俊三少尉(岡山県倉敷市出身)/賴田克己少尉(大阪市出身)/松原新少尉(神奈川県三浦市出身)
伊川要三軍曹(兵庫県安積町出身)/西野岩根伍長(徳島県那賀川町出身)/磯部十四男伍長(静岡県浜松市出身)
磯部伍長のみ6月11日戦死

[ 第160振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
豊嶋光顯少尉(鳥取県赤崎町出身)/佐々木鐵雄少尉(長崎県勝本町出身)/新井利郎少尉(群馬県出身)
松谷巌伍長(東京都出身)昭和20年5月25日の空襲により八王子付近で不慮死(防空壕にて窒息死)
荒木秀夫伍長(茨城県岩瀬町出身)昭和20年6月4日知覧到着直前、万世飛行場沖に不時着、生死不明
中川忠男伍長(東京都出身)昭和20年6月11日知覧から出撃するも宝島に不時着。帰還?
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▲愛機「飛燕」と写る佐々木鐵雄少尉6/6沖縄周辺洋上で米機動部隊艦船に突入戦死。享年20歳

▼知覧特攻平和会館に展示してあった現存する陸軍三式戦闘機「飛燕」
 ※現在は所有者の日本航空協会に返却され、各務ヶ原航空宇宙科学博物館に展示予定。
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沖縄戦で第6航空軍所属の各振武隊は多くはここ、「知覧」・万世飛行場から特攻出撃していった。
沖縄戦に参加して命を落とした陸軍特攻振武隊員は1036人(台湾の航空基地から出撃も含む)台湾日本軍航空基地 参照
冒頭で沖縄作戦に参加した第159/160振武隊をご紹介したが、知覧飛行場から沖縄戦に特攻出撃した
(又は出撃するはずだった)振武隊は当然他にも多くある。全て紹介しきれないが、以下少しだけご紹介する。

[ 第18振武隊 ]昭和20年4月29日~5月4日出撃
小西利雄中尉(富山県出身)/楠田信雄少尉(京都府出身)/多田六郎少尉(熊本県出身)
高村禮治少尉(熊本県出身)/井上啓軍曹(徳島県出身)/滝亘軍曹(神奈川県出身)
秋富末治軍曹(福岡県出身)/三木茂少尉(関節炎の為入院)/眞鍋清茂曹長(胸膜の為入院)
立木史郎軍曹/柿原栄一軍曹/中川七郎伍長(5/20飛行機受領の為、浜松ヘ)
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▲隼の発動機試運転中の第18振武隊多田六郎少尉と機付兵達の写真。
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▲第18振武隊勇士達
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▲▼特攻訓練中の第18振武隊員、地面に地図を広げ訓練飛行の打ち合わせを行っている。
後方に写る戦闘機は陸軍一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲。
昭和20年春以降に陸軍特攻振武隊として配備されたこの1式戦Ⅲ型は、一般的であった濃緑色とは異なり、カーキの
強い暗褐色が機体上面塗装採用された。下面は灰緑色あるいは無塗装銀色。
また、機体内部は通称の「青竹色」に塗られ、機種上面は他の陸軍戦闘機と同様に反射防止用の青みがかった艶消し
黒に塗られていた。
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▼お名前が解らないが、特攻訓練中の第18振武隊員。真剣さが伝わってくる写真だ。
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▲米軽巡洋艦バーミンガム(USS Birmingham)5/3、第2番砲塔付近に特攻機が命中。41名死亡、負傷者81名。
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▲▼特攻機の突入を受け大きく損傷した場所で乗組員を救助するバーミンガム乗組員
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米国側記録では、突入機は一式戦闘機「隼」となっている。だとすると、特攻機は5/3 05:00~05:30に知覧基地
から出撃した第18振武隊か第19振武隊の可能性が高い。

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▲米駆逐艦ルース(USS luce)5/4特攻機が2機命中、艦尾から煙を出しながら左舷に傾き、148名の乗組員と共に沈んだ
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▲米駆逐艦モリソン(USS Morrison)5/4 08:33特攻機が命中、沈没。乗組員155人死亡


[ 第19振武隊 ]昭和20年4月29日~5月4日出撃
四宮徹中尉(熊本県出身)/角谷隆正少尉(大阪府出身)/井上忠彦少尉(東京都出身)
平野俊雪少尉(熊本県出身)/小林龍曹長(大阪府出身)/林格少尉(青森県出身)
島袋秀敏曹長(沖縄県出身)/松原武曹長(熊本県出身)/向島幸一軍曹(岐阜県出身)
伊藤賀夫少尉(結核の為入院)/塩澤優少尉(2/24殉職)/阿部正軍曹(5/4喜界島不時着、生存)
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▲向島幸一軍曹5/4知覧より出撃、突入戦死。
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▲昭和20年3月調布飛行場西地区における第19振武隊。殉職等で2名減って10名になっている。
前左から向島軍曹、林少尉、4/29四宮中尉、井上少尉、後左から阿部軍曹(生還)、島袋曹長、平野少尉
角谷少尉、5/4小林曹長、松原曹長。写真の全員が出撃し、9名が突入戦死。
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▲昭和20年3月19日、調布を出撃直前の第19振武隊。この時の出撃は半数のみ。
※特攻隊は全国各航空基地から知覧などに集結している。各基地で燃料補給等を行いながら、沖縄に近い九州
 の各航空基地に向かったのである。(「調布」は東京都調布市にあった陸軍調布飛行場の事)
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▲夜間に調布飛行場から知覧飛行場へと移動する第19振武隊隊員。
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▲出撃準備中の小林曹長機以下4機の第19振武隊「隼」戦闘機。
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▲▼喜界島に不時着し、生還された阿部正軍曹
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▼昭和20年4月29日夜、沖縄本島北東沖で米駆逐艦ヘイゼルウッドUSS HAZELWOOD(DD-531)に特攻機2機が命中
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▼機能停止状態となり、海上で煙を上げる米駆逐艦ヘイゼルウッド
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[ 第20振武隊 ]昭和20年3月30日~5月4日知覧/徳之島より出撃
吉田市少尉(愛知県出身)3/30知覧より徳之島に前進中天候不良の為、奄美大島?崎海岸に不時着を
     試みるも岩石に撃突、即死
伊藤忠雄少尉(3/30徳之島に不時着5/23奄美大島守備隊に収容され6/10→福岡)
熊谷吉彦少尉(4/26徳之島より喜界島に不時着生存5/28→福岡)
瀧村明夫少尉(4/26徳之島より喜界島に不時着生存5/28→福岡)
小島五郎伍長(4/26徳之島より喜界島に不時着生存5/28→福岡)
山本秋彦少尉(群馬県出身)/長谷川實大尉(群馬県出身)徳之島より
山本英四少尉(高知県出身)/穴澤利夫少尉(福島県喜多方市出身)/大平誠志少尉(栃木県出身)
寺澤幾一郎軍曹(群馬県出身)/重政正男軍曹(広島県出身)
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▲長谷川實大尉。生粋の戦闘機乗りで飛行第5戦隊に所属、南方航空戦の作戦に従事した勇士だった。
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▲昭和20年1月末、北伊勢にて訓練機を見上げる第20振武隊員。左より長谷川隊長、重政軍曹、穴澤少尉、
小嶋伍長、山本英少尉(色眼鏡)、寺澤軍曹、吉田少尉、熊谷少尉。
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▲4/12知覧町立高等女学校の女学生達に見送られながら出撃する穴澤利夫少尉の一式戦闘機「隼」
※見送る女学生の左側に、特攻の母「鳥濱トメ」さんの次女、礼子さんがいる。
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▲出撃前の第20振武隊、長谷川隊長(左)、整列手前は穴澤少尉
※穴澤少尉の白いマフラーが首に二重に巻かれているので、他の隊員よりも膨らんでいる。
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▲穴澤利夫少尉(23歳)昭和20年4月12日出撃、沖縄方面洋上にて散華。
穴沢少尉は、白い飛行マフラーの下に婚約者の智恵子さんから贈られたマフラーを締めていた。
「神聖な帽手や剣にはなりたくないが、替われるものならあの白いマフラーの様にいつも離れない存在に
なりたい。」 彼女のこの一途な思いに、贈られたマフラーを彼女の身替りとして肌身につけて出撃した。
穴澤利夫少尉は3/29・3/30・4/2・4/6・4/7と、5度出撃し帰還している、そして4/12散華した・・・。
穴澤利夫少尉の遺書は有名なのでここでは紹介しない事にする。
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▲昭和20年4月12日沖縄近海の前島近くにて作戦行動中の敷設駆逐艦リンゼイ(DM-32)に2機の特攻機が命中。
 大きな損害を与えた。この日は知覧・万世から多くの特攻機が出撃している。陸軍特攻機の攻撃目標は輸送船
 の為、陸軍機の可能性が高い。写真は船首部分である。
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▲この状態でも駆逐艦リンゼイUSS LINDSEY(DM32)は沈まなかった・・・。


[ 第21振武隊 ]昭和20年4月7日~4月26日出撃
水川禎輔中尉(4/26喜界島不時着5/26第75振武隊田宮治隆少尉少尉機に同乗し知覧に帰還中行方不明)
井崎隆夫少尉(4/26喜界島不時着→5/28福岡)/石田京少尉((4/26喜界島不時着→5/29福岡)
上田克彦少尉(4/26喜界島不時着)/弘津勲軍曹(4/26喜界島不時着→5/28福岡)
須藤治韶軍曹(4/7 0605徳之島より)/小山廣子伍長(喜界島不時着→5/28福岡)
木村二郎伍長(喜界島不時着→5/28福岡)/牧信義伍長(喜界島不時着→5/28福岡)
畑中芳夫伍長(喜界島不時着→5/28福岡)/倉内豊美伍長(喜界島不時着→5/28福岡)
松田勉伍長((4/26喜界島不時着→5/28福岡)


[ 第22振武隊 ]昭和20年4月3日~4月11日一式戦闘機「隼」で出撃
※特攻機仕様の隼は軽量化の為、無線機・機関銃が外され、丸腰の戦闘機で出撃した。
※索敵機も飛ばず、護衛戦闘機も整備不良で出撃出来ず、第22振武隊は文字通り丸腰の出撃だった・・・。
藤山二典中尉(鹿児島県出身)4/3出撃するも発動機不良で徳之島不時着。直後グラマンの攻撃により戦死
伊東信夫大尉(東京都出身)藤山中尉の不時着を確認すべく徳之島上空を飛行中グラマンの攻撃により戦死
西長武志少尉(山形県出身)/立川美亀太少尉(三重県出身)/柴田秋歳大尉(熊本県出身)4/11徳之島より出撃。
大上弘少尉(広島県出身)4/11喜界島より出撃、敵機の攻撃を受けて自爆戦死
※大貫健一郎少尉(4/11喜界島より出撃、敵機の攻撃を受け被弾、徳之島に不時着 福岡)
※島津等少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/竹下重之少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)
柄澤嘉則少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/井上立智少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)
前田光彦少尉(4/5知覧から喜界島へ向け出発時250キロ爆弾2発懸吊の為、離陸に失敗、負傷し入院)
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▲昭和20年1月1日元旦初飛行を終えた第22振武隊員の写真。
 前列左から竹下少尉、島津少尉、山崎少尉、藤山隊長、伊東少尉、
 後列左から大上少尉、柴田少尉、柄澤少尉、立川少尉、西長少尉
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▲第22振武隊員が残した時世の寄せ書き。
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▲4/11早朝5時35分「柴田秋蔵少尉」は藤山隊長の遺骨と共に「隼」に搭乗「隊長と共に征くが世話になった。
 後日靖国で会おう」の言葉を残し、徳之島浅間陸軍飛行場より単機出撃。慶良間列島南方の敵艦隊に突入戦死。
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▲4/6 15:00第1次航空総攻撃で西長武志少尉は「隼」で知覧を出撃、沖縄西方海上米艦艇に突入、戦死。
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▲第22振武隊、戦死者一覧。
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▲▼昭和20年4月3日慶良間諸島停泊中の米戦車揚陸艦(LST-599)に特攻機が命中、炎上する戦車揚陸艦LST-599
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突入した機種は「隼」と見られている。
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▲LST-599の消火活動を手助けする戦車揚陸艦LST-79
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▲大貫健一郎少尉(左) と 島津等少尉(右)
※大貫健一郎少尉は「隼」で特攻出撃後、敵機の攻撃で被弾、徳之島に不時着している。その後福岡県にある
「振武寮」という施設に送られる。「振武寮」(しんぶりょう)とは、日本陸軍第6航空軍司令部内におかれた
施設で、軍司令部のあった福岡高等女学校(現福岡県立福岡中央高等学校)向かいにあり、福岡女学院の寄宿
舎を接収して設置された。実質的な管理者は陸軍の特攻を指揮した菅原道大中将部下の「倉澤清忠少佐」。
戦後、長らく知られてこなかったが、映画『月光の夏』の上映以降で近年その存在が明らかにされた。
※各振武隊の隊員名の横に(0/00→福岡)と書いてある隊員は全てこの「振武寮」に送られている。
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▲福岡県にあった「振武寮」(しんぶりょう)
陸軍では特攻隊員として出撃し、何らかの要因により攻撃に至らずに帰還した特攻隊員を「死んだはずの軍神が
生きていてはおかしい」ということで人目につかないよう秘密裏に「振武寮」に隔離した。
2007.10/21放送NHKスペシャル「学徒兵許されざる帰還 陸軍特攻隊の悲劇」で大貫健一郎少尉と島津等少尉
が振武寮についての生活を証言しています。実質的な管理者「倉澤清忠少佐」は、帰還した特攻隊員に対して、
「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ」「そんなに命が惜しいのか!」と罵った人物である。
振武寮での朝食時、倉澤少佐が前日の深酒で酒臭い息を吹きかけながら、特攻隊員に対して、はなった言葉が、
「おまえら、軍人のクズがよく飯食えるな。」「そんなに死ぬのが嫌か」それが毎朝、続いたという。
朝から酒を飲んでいることもあり、片手には必ず竹刀を持っていた。大貫少尉達特攻隊員が食欲もわかず、箸を
つけずににいると、今度は「なんで飯を食わない?食事も天皇陛下から賜ったものだぞ」とはき捨てたと言う。
大貫少尉は戦後一度だけ、「仲間達と一緒に倉澤少佐を殴りに行こう」という話になったそうだ。
大貫少尉曰く、「倉澤は慰霊祭ではいつもでかい顔をしていたからね」と。
特攻隊員に対して「本官も最後の一機で突入する」と叫んでおきながら自決もせず、どの面さげて慰霊祭に出席
出来たのかと思う。大貫少尉は慰霊祭の時に仲間と一緒に、倉澤をしょっ引いて、自分が大貫だと明かした。
すると、「あの時は悪かった」と詫びたそうだ。
「あの鬼の様なやつがとても小さく見えて、殴る気がすっかりうせてしまった」と大貫少尉は語っている。
大貫氏は戦後、陸軍の上層部には恩給が復活していた事実を知る。司令官や参謀、上層部の連中が軍人恩給を貰
って戦後をのうのうと暮らしていたのである。
軍人恩給は将校なら12年以上、下士官・兵士は10年以上軍に所属していれば貰える。
だが、特攻隊員の生還者も含め、少年兵や軍属、終戦少し前に入隊した赤紙兵士は軍の勤続年数が短く、規定か
ら外れて恩給を受け取る資格が無く、そのまま何も貰えていない方も多い。そもそも、殆どが死んでしまった。
これが大日本帝国の軍隊であり、その戦後における姿である。
最後に戦後の大貫健一郎少尉の言葉。
「喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘、陸海軍合わせ約4000人の特攻パイロットが死んでいますが、
私に言わせれば無駄死にです。特攻は外道の作戦なのです。
長距離飛行の途中で眠くならない様にとヒロポン(覚醒剤)入りの酒まで用意されて元気酒と名づけられていたよ。」
本当に特攻に出撃された方の正直な事実と思いです。
この言葉に反論出来るのは、同じ特攻隊で出撃して生還した方や最前線から生還された将兵。
最前線で戦っていない日本軍人、敗戦後の戦争体験の無い全ての日本人は何も意見してはいけないと思う。

※ヒロポンは昭和16年、大日本製薬から発売されたアンフェタミンの商品名である。多くは軍用、特に特攻隊の隊員
 に眠気や恐怖心を取る薬として盛んに用いられ、また徹夜作業を続ける軍需工場の工員も半強制的に服用させられ
 たと言う。聞くと大和魂も覚醒剤頼みだったのかとガックリ来るが、このヒロポンは戦後も日本人の精神を荒廃さ
 せていく。敗戦後、大量に在庫を抱えた製薬会社が大々的に宣伝・販売し、敗戦で呆然自失した日本国民の精神状
 態がまた、これを流行らせるのである。
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 ▲▼製薬会社の合法ドラッグだった「ヒロポン」成分名は塩酸メタンフェタミン。剤型はアンプルおよび錠剤である。
 「ヒロポン」の名は、「疲労をポンと取る」にも掛けている。日本が大麻を禁止したのは第2次世界大戦後で、マッカ
 ーサーによって「大麻取締法」を押し付けられた結果、戦後は覚せい剤もどきのヒロポンで製薬会社は大儲けした。
 ※メタンフェタミとは覚せい剤の主成分である。
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 鈴木厚「戦後医療事件史」によると、市場に出回ったヒロポンの大部分は密造で1本12円と酒よりも安く、警察も
 取り締まるどころか張り込みの眠気覚ましに使用する有様だったと言う。
 昭和28年の全医薬品生産高は約740億円、その内覚醒剤の売り上げは220億円と3割を占めていたと言う。
 厚生省は昭和24年3月にやっとヒロポンを劇薬指定するが、その規制は14歳以上なら薬局で住所氏名を明記すれば
 購入可能という甘いものだった。昭和26年に覚醒剤取締法が公布され、製造や購入に制限が設けられたが沈静化に
 は至らず、最盛期の昭和29年には約5万6000人が覚醒剤取締法違反で摘発され、全国の常用者は285万人(内28%
 が中毒者)になった。ヒロポン中毒者は多くの凶悪犯罪を引き起こし、また、精神病院でも収容できないほどヒロポ
 ン中毒者は街に溢れかえっていた。彼らもまた、戦争の被害者なのかもしれない。
 ※ベトナム戦争で、アメリカ兵は『麻薬』の錠剤を持ち歩いていた。
  太平洋戦争末期 「ヒロポン」とお茶の粉末を混合した「突撃錠」という覚醒剤が、出撃する特攻隊員に配られた。

[ 第23振武隊 ]昭和20年4月1日~4月6日出撃
伍井芳夫大尉(埼玉県桶川市出身)/金子龍雄准尉(北海道砂川市出身)/大橋治男曹長(岐阜県羽島市出身)
藤野正行曹長(山口県出身)/前田啓少尉(北海道出身)/塩島清一少尉(東京都出身)
柴本勝美少尉(福岡県直方市出身)/豊崎儀治軍曹(東京都出身)/清水保三軍曹(滋賀県高島市出身)
松田豊少尉(熊本県出身)4/6喜界島不時着/谷山正夫少尉(入院中の為出撃できず)
岡本龍一准尉(4/26喜界島に不時着)
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▲第23振武隊隊長 伍井芳夫大尉 知覧から出撃した特攻隊員の中で最高齢の32歳。
 熊谷陸軍飛行学校桶川分教場で操縦教官として桶川教育隊を取り仕切っていた。  
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▲出撃前日伍井大尉が書き残した色紙
4/1 伍井大尉は奥様と3人のお子様を残しての出撃だった。
[ 当時生後4ヶ月だった息子さん(芳則)に宛てた遺書 ]
【遺書 昭和二十年三月九日】
物ノ道理ガ解ル年頃ニナッテカラ知ラセヨ
芳則ニ一筆遺ス
 父ハ大東亜戦争五年目ノ春 名誉アル特別攻撃隊第二十三振武隊長トシテ散華ス
 オ前達ノ成長ヲ見ズシテ去ルハ残念ナルモ悠久ノ大義ニ生キテ見守ッテイル
 良クオ母サンノ謂イ付ヲ守ッテ勉強シテ日本男子トシテ 陛下ノ御子トシテ立派ニ成人シテ下サイ 
 将来大キクナッテ何ヲ志望シテモ良シ 唯父ノ子トシテ他ニ恥ザル様進ミナサイ
 オ母サンニハ大変ナ苦労ヲ掛ケテ頂イタノデス 御恩ヲ忘ズ立派ナ人トナッテ孝行セネバイケマセン 
 体ヲ充分鍛エテ心身共ニ健全ナルベシ

 昭和二十年三月九日  父ヨリ
 芳則殿
※当時特別攻撃隊の任務は極秘事項とされ、家族にも知らす事ができなかった為、伍井大尉戦死をニュース
 で知った奥様は、ショックのあまり母乳が出なくなり、長男芳則さんはわずか8ヶ月でこの世を去った。
 妻の園子さんが68歳で息を引き取った3月25日は、くしくも、伍井大尉が特攻出撃を控え、別れの挨拶の
 為に最後に自宅に戻った日と同じだった。伍井大尉が天国から奥様を迎えに来てくれたのでしょうね。

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▲第23振武隊 前田啓大尉 昭和20年4月3日出撃。 99式襲撃機で突入戦死。
    【遺書 昭和二十年三月二十五日】
 父母様、啓ハ大命ヲ拝シ征ク事ニナリマシタ。
 二十有余年ノ今日ニ至ル迄厚キ御愛情ヲ受ケ、何一ツ孝行モ出来ズ御心配バカリカケ申シ訳御ザイマセン。
 厚ク御礼申シ上ゲマス。 啓ハ大君ノ御為太平洋ノ防波壁トナリ死ニマス。  
 武人ノ名誉之ニ過グルハナシ。元気旺盛ニシテ意気天ヲ衝ク有様ナリ。御安心下サイ。
 今日ノ誉レ啓ゴトキ小臣、軀ニ余ル光栄ナリト存ジマス。我ガ屍ハ敵艦ニアリテ消ユルトモ、魂ハ遠古天知ニ
 止マリテ皇国ノ礎ヲ護ラム。
 軍人タリ股衡肱トシテ大君ノ御為散レルコソ日本国ニ生享ケタル甲斐アルト言ヘヨウ。
 而シテ身命ヲ大君ニ捧グルハ日本臣民ノ大義大道ナリ。又軍人ノ本分ナリ。

 一、軍人ハ忠節ヲ尽スヲ本分トスベシ
 君ニ忠ナリ親ニ孝ナリノ両論コレノ道義ニ邁進シ、死ヲ以テ山ヨリ高ク海ヨリ深シノ君親大恩ノ万分ノ一ナリト
 報イ奉ル決心ナリ。 最後ニ父上様御一同ノ御壮健ナラン事ヲ御祈リ申シ上ゲマス。
 猶、特ニ自分ノ墓ハ不用デアリマス。亡母ノ御墓ノ側ニ静カニ寝カセテ下サイ。サヨウナラ。

 天皇陛下 万歳
 振武隊 万歳
 若桜屍ヲ空ニサラストモ
 何惜シカロウ大君ノタメ

 陸軍特別攻撃隊   振武隊陸軍少尉 前田 啓


[ 第24振武隊 ](振武錦隊)昭和20年4月29日~5月4日出撃
小澤大蔵中尉(東京都出身)/川田清美少尉(香川県出身)/福井與一少尉(兵庫県出身)
安部正也少尉(福岡県古賀市出身4/29夜10:24出撃、発動機不調の為黒島に不時着大破。 5/4知覧より再出撃、戦死)
立花康博少尉(5/18飛行機受領の為伊丹ヘ)/辻本彦登曹長
篠原親治郎少尉(4/29夜10:24出撃、発動機不調の為帰投、5/4突入戦死)/片柳経曹長(栃木県出身)
三浦秀逸少尉(4/29夜10:24出撃、発動機不調の為帰投。5/4出撃、敵艦の高射砲により墜落、敵に救助されて捕虜)
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▲第24振武隊員の勇士達。二式複座戦闘機「屠龍」(キ45改)で突入。
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」
「屠龍」は米軍ではNick(ニック)と呼ばれていた。
黒島に不時着した安部正也少尉に関して、下記のエピソードが伝えられている。
安部少尉は昭和20年4月29日夜、月明の知覧飛行場を2式双襲(屠龍)で出撃したが、黒島に不時着した。
既に黒島には4月8日に不時着し、その際に火傷を負っていた第29振武隊柴田信也少尉が島民に介抱されており、安部
少尉は彼と面会した。安部少尉は本土(知覧)への帰還と柴田少尉の治療に必要な医薬品の空輸を計画し、島民の若者
を説得して手漕ぎの小舟で出航した。そして30時間後の夕刻、本土(鹿児島)の海岸にたどり着き、翌日夕刻、知覧の
富屋食堂に現れた。その後、再び知覧基地から出撃した安部少尉は、生還した柴田少尉の記憶では5月4日、黒島上空
で約束の医薬品を投下した後、沖縄方面で戦死を遂げた。柴田少尉はその医薬品のお陰で回復。8月初め、陸軍の輸送
潜水艇により帰還した。


[ 第26振武隊 ](征夷隊)昭和20年5月25日~6月21日出撃
相良釟郎少尉(石川県出身 南京入院中→6/1福岡→都城飛行場より出撃)/荒木卓三少尉(?)/名木山登少尉(?)
梅津末雄少尉/小林位少尉/中村勝利少尉(?)/木村清治少尉(山形県出身)都城飛行場より出撃
西宮忠雄少尉(茨城県出身)都城飛行場より出撃/永嶋福次郎少尉(栃木県出身)都城飛行場より出撃
児玉直喜少尉(福島県出身6/2、8:15知覧飛行場東端にて敵機の銃撃により戦死=コルセアによる知覧飛行場攻撃)
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▲第26振武隊員。四式戦闘機で沖縄西方の敵艦船群に突入戦死。


[ 第27振武隊 ](疾風隊)昭和20年6月22日宮崎県都城東より出撃
川村勝少尉(東京都出身)/熊澤弘之少尉(愛知県出身)/高橋毅少尉(東京都出身)
原田栞少尉(熊本県出身)/矢口剛少尉(東京都出身)/奈良又男少尉(秋田県出身)
久保田邦夫少尉(5/26 菊池到着?)/三垣忠義少尉(入院中)/市村次郎少尉(?)
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▲第27振武隊員勇士
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▲原田栞少尉ユーチューブ動画→陸軍特別攻撃隊 第27振武隊 原田栞少尉

[ 第29振武隊 ]昭和20年4月7日~5月25日「隼」で出撃
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▲第29振武隊(隊長)中村實少尉(石川県出身享年20歳)4/7隼で出撃、突入戦死。
森内徳龍伍長(岐阜県出身)/益子博伍長/寺田實伍長(広島県出身)
及川喜一郎伍長(岩手県出身4/14喜界島より)/上川幟伍長(福島県出身4/14喜界島より)
美野輝雄伍長(兵庫県出身)/染谷勇少尉(茨城県出身)
阿部常義伍長(在知覧)/山田忠男伍長(4/11、1530知覧より4/26喜界島に生存)
柴田信也少尉(4/8知覧より出撃、エンジン不調で黒島に不時着、全身火傷で生死をさ迷うが、 4/29に知覧を出撃し、
黒島に不時着した24振武隊安部正也少尉が手漕ぎの釣り舟で30時間をかけ鹿児島に帰還した時、その事実を伝える。
5/4再出撃の際、薬が入った荷物を黒島に投下、安部少尉は沖縄の海上で散華し、柴田少尉は一命をとりとめた。)
井上彰伍長(山口県小月基地5/25知覧(?)
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▲美野輝雄伍長5/25知覧より隼で出撃、突入戦死。享年20歳
 美野輝雄伍長遺書
十八才遠く膝もとを離れ、御両親に萬分ノ一のご恩も出来なかった
輝雄誠に残念至極、しかしこゝに大命を拝し陸軍特攻隊に一員として参加出来た事は大和男子として本望の至りです。
今更何も思ひ残すことは無いです。一意君國のため散る覚悟、幼き頃の今に居たりて考えざる得ないです。
しかし立派な手柄を残すことが出来たら恩返しにもなるでせう。
一機一艦必ず轟沈致します。最後にあたって何も云ふことは無いのですが、弟を必ず軍人にして戴きたい。
京城の伯母は母上と同じです。自分には良き母が二人出来何も云ふことなし、幸福のうちに轟沈を期す。

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▲米戦艦ニューヨーク(USS New York)4/14特攻機の突入を受け、カタパルトと艦載機に損害を受けた。
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▲特攻機が突入した戦艦ニューヨークの三番砲塔付近。突入の衝撃でOS2Uキングフィッシャー水上観測機がカタパルト
から滑り落ちた。米国側記録では「隼」とあり、4/14隼で出撃した部隊は第29振武隊のみである事から、突入した機は
この日(4/14)出撃した第29振武隊の特攻機と判明した。
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▲4/8米駆逐艦グレゴリー(USS Gregory)に「第29振武隊」と見られる特攻機が突入、中破させた。

[ 第30振武隊 ]昭和20年4月10日~4月15日喜界島より出撃
大櫃繁夫中尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/宮崎彦次小尉
横田正顯少尉(喜界島に不時着5/28→福岡)/岩間勝己伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)
佐々木勇伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)/横尾賢二伍長(樺太出身 徳之島より)
今井實伍長(岐阜県出身4/15喜界島より)/池田強伍長(岡山県出身4/13喜界島より)
福家義信伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)/後藤正美伍長(喜界島に不時着5/28→福岡)
佐藤悌二郎伍長(3/9航空事故殉職(於各務ヶ原)/河崎廣光伍長(知覧より出撃?)
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▲第30振武隊。河崎伍長のみ知覧より出撃したが、1度目は天候不良で知覧基地に引き返す。その後黄疸を発症、
療養中空襲により河崎機は破損。出撃が延び、福岡~知覧へ飛行機受領に往復する内に終戦を迎え生き残った。
河崎機の受領の為、知覧に引き返す折に乗った飛行機の操縦者・吉羽少尉は同じ第30振武隊であったが出撃を拒
否し、隈府~熊本を逃亡していた。やがて憲兵に逮捕され菊池から福岡に護送、軍法会議の後不明となる・・・。

[ 第31振武隊 ]昭和20年4月22日出撃
吉原香軍曹(済州島に不時着)
長谷部良平伍長(岐阜県出身4/22、1440知覧より)

[ 第36振武隊 ]昭和20年4月16日、4月27日出撃
嶽山留治郎軍曹(滋賀県出身4/16、0700知覧より)
下手豊司曹長(広島県出身4/27、0550知覧より)

[ 第37振武隊 ]昭和20年4月26日出撃
春島邦武少尉(4/26 喜界島)

[ 第38振武隊 ]昭和20年4月16日出撃
宇野栄一少尉(京都府出身)
安部祐次軍曹(4/16開聞岳付近、黒島1粁海面不時着5/12知覧帰還)
崎田春雄伍長(4/16出水不時着、出水飛行場在)

[ 第39振武隊 ]昭和20年4月11日出撃
木下孝之少尉(4/11喜界島に不時着?5/27福岡入院中)
原敬一郎少尉/山田千秋少尉/眞田豊一少尉/牧甫少尉の4名は5/28→福岡)

[ 第40振武隊 ]昭和20年4月16日出撃
石倉三郎少尉(石川県七尾市出身)/岡清治伍長(山口県出身)/東郷周一伍長(宮崎県出身)
片山淳伍長(奈良県出身)/瀧澤真平伍長(長野県出身)/中上敬一伍長(岡山県高梁市出身)
大堀宏少尉(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
譜久村朝光伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
小野衛伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
田中勢伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
箸満男伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
太田敏雄伍長(5/5付で第11教育飛行隊に指揮転移)
※小林威夫少尉(東京都出身 昭和20年3月29日知覧より出撃)
小林威夫少尉は教官として知覧に駐在していたことがあり、その時に鳥濱トメさんに下宿を探してもらったり
わが子同様に可愛がってもらっていた青年である。出撃前日に富屋食堂を訪れ、「小母さん、これまでの事、
本当に有難う。小母さんには実のおふくろより優しくしてもらった。忘れません。この思い出を持ってあの世
に行きます。達者で長生きしてください」と小林少尉は最後の敬礼をし、鳥濱トメは黙って頭を下げたと言う。


[ 第41振武隊 ]昭和20年3月29日~4月17日出撃
清水敏男少尉(肺炎の為入院)/山崎勲少尉(4/17不時着入院)/石田正雄曹長(入院)
加瀬嘉一曹長(入院)/山田泰治軍曹/大河正明少尉[ 朴東勲 ](朝鮮出身)3/29突入戦死
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▲大河正明少尉[ 朴東勲 ](朝鮮出身)享年17歳
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[ 第42振武隊 ]昭和20年4月8日~5月4日出撃
松澤平一少尉(長野県出身)4/8喜界島より出撃/牛島久男少尉(千葉県出身)4/8喜界島より出撃
尾久義周少尉(神奈川県出身)4/8喜界島より出撃/仙波久男少尉(愛媛県出身)4/8喜界島より出撃
猫橋芳郎少尉(大分県出身)4/9喜界島より出撃/近藤幸雄少尉(大分県出身)4/9喜界島より出撃
馬場洋少尉(東京都出身)4/9喜界島より出撃/岩崎辰雄少尉(宮崎県出身)5/4知覧より出撃
大西造少尉(喜界島 5/28→福岡)/中野友次郎少尉/篠田庸正少尉(知覧より出撃喜界島不時着4/16)
福永一馬少尉(3/29徳島県池内町附近不時着以後不明)
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▲第42振武隊員


[ 第43振武隊 ]昭和20年4月6日~4月12日出撃
浅川又之少尉(長野県出身)/清澤守少尉(愛知県出身)/酒井忠春少尉(岐阜県出身)
蓑島武一少尉(岐阜県出身)/村上稔少尉(北海道出身)/大野宗明少尉(兵庫県出身)
岸誠一少尉(島根県出身)/前田敏少尉(静岡県出身)/横尾勇少尉(病気入院6/13復帰)
村野博少尉(3/28江田島付近海上で殉職)/神尾崇少尉(3/7所沢にて殉職)
今井光少尉(徳之島不時着、4/15徳之島より再出撃するも離陸に失敗5/28→福岡)
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▲出撃前に談笑する第43振武隊員達。
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▲第43振武隊。4/6第1次航空総攻撃で、隊長の浅川又之少尉より出撃指示を受ける隊員達。後方は隼3型


[ 第44振武隊 ]昭和20年4月6日~6月3日徳之島/知覧より出撃
小原幸雄少尉(宮崎県出身)知覧より/向後新太郎軍曹(千葉県銚子市出身)知覧より
足立次彦伍長(大分県出身)知覧より/中村利雄伍長(岩手県出身)徳之島より 生存?
甲斐玉樹少尉(隊長)宮崎県延岡市出身(徳之島より)/清水定伍長(大阪府出身)徳之島より
岡本金吾少尉(東京都出身)知覧より/伊藤俊治軍曹(埼玉県出身)/栗田三郎少尉(徳之島より)
野中元少尉(徳之島より在口之永良部島)/武田遊亀軍曹(4/26喜界島不時着?)
堀之内博少尉(知覧より5/6口之永良部不時着 徳之島で生存)
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▲第44振武隊。昭和20年4月6、7日、5月11日、6月3日特攻出撃。

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▲昭和20年4月6日慶良間列島付近の海域で米戦車揚陸艦(LCT-447)に特攻機が命中した瞬間。

[ 第45振武隊 ](快心隊)昭和20年5月28日出撃
藤井一中尉(茨城県出身)/小川彰少尉(徳島県出身)/鈴木邦彦少尉(愛知県名古屋市出身)
中田茂少尉(大阪府出身)/小川春雄伍長(群馬県出身)/北村伊那夫伍長(長野県出身)
與國茂伍長(山口県出身)/一口義男伍長(宮崎県出身)/宮井政信伍長(和歌山県出身)
伊藤好久伍長(愛知県出身)/坂恒夫伍長(4/28航空事故殉職)
宮之原太吉伍長(宝島南方海上不時着?漂流中、宝島の島民に救助され奇跡的に生還)
▼前列左端は小川彰少尉、右隣が藤井一中尉。 小川少尉は訓練中事故死した戦友の遺骨を抱いている。
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▲第45振武隊快心隊。二式複座戦闘機「屠龍」で沖縄西方洋上の敵艦船群に突入。
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▲地元の婦人会、女子奉仕隊の見送りを受け、出陣式に挑む第45振武隊。
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▲第45振武隊、鈴木邦彦少尉と愛機 二式複座戦闘機「屠龍」5/28沖縄西方の敵艦に突入、戦死
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▲米駆逐艦ドレクスラー(USS Drexler)5/28を迎えるまでの間、米駆逐艦ドレクスラーは特攻機を3機撃墜し4機を撃破
 し、特攻機の習性についてに熟知していると自認していた。5月28日朝7時頃、2機の特攻機がドレクスラーとロウリー
  (USS Lowry) に突入する。この特攻機は日本海海戦の勝利を祝った海軍記念日を期して繰り出された「菊水八号作戦」
 で知覧から出撃してきた特攻機で、雨雲を突き抜けて突入してきた。
 1機目は両艦の砲撃および戦闘哨戒任務に当たっていた戦闘機の攻撃で撃墜した。
 2機目はロウリーへ突入しようとしたものの失敗、ロウリーとドレクスラーの間に墜落するかに見えた。
 突入にしくじって反転の後海中に自爆していくようにも見えた。しかし、この特攻機は次の瞬間にドレクスラーの真正
 面方向から突入。艦後部に突入してボイラー室と機械室をつなぐ蒸気パイプを破壊した。
 ドレクスラーは動力が全て停止、10箇所にわたってガソリンによる大きな火災を生じた。大きな損傷にもかかわらずド
 レクスラーは砲撃を続け、特攻機3機の撃墜に貢献した。
 しかし、艦内の乗員は閉じ込められ、外に出ていた何名かの乗員は衝撃で海中に放り出された。
 07:03別の特攻機が炎上するドレクスラーの上部構造物に突入。ドレクスラーはすさまじい爆発が続き、右舷に傾斜。
 2機目の突入後、1分に満たない時間、あるいは50秒も経たない時間で、北緯27度06分 東経127度38分の海域で転覆
 の後、艦尾から沈没していった。短時間で沈没した為158名死亡、艦長を含む52名負傷した。突入した特攻機が双発機
 であったとの生存者の証言(ドレクスラー生存者レユニオン協会)から第45振武隊「快心隊」二式複座戦闘機「屠龍」
 と見られている。▼陸軍二式複座戦闘機「屠龍」
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特攻隊 62年目の再会 米兵の心にも傷YouTube
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▲第45振武隊長 藤井一中尉
藤井中尉は茨城県出身、7人兄弟の長男として農家に生まれた。陸軍に志願、歩兵となったが、特別に優秀であった為、
転科し陸軍航空士官学校に入校。卒業後、熊谷陸軍飛行学校に赴任、中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていた。
(精神訓育とは生徒達に、軍人勅諭に沿った軍人精神をたたき込む重要な鍛錬だった)
 忠誠心が強く熱血漢の藤井中隊長は、厳しい教官であると共に、心根が優しく、生徒たちから慕われていた。
藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返
し言っていた。  
 その後、特攻作戦が開始され、自分の教え子達が教えの通り特攻出撃していく事となり、純粋な教え子達が次から次へ
と特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった藤井中尉は自分だけが安全な任務をしている事に堪えられなかった。
「自分の教えを守って、次々と将来ある純粋な教え子達が毎日敵艦に突っ込んで行く。あいつも、あいつも・・・。 
俺はいつまでこんな事をしているのか・・・。」ついに藤井中尉は教え子達との約束を果たすべく自らも特攻に志願する。  
 しかし妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており、支那事変(日中戦争)で迫撃砲の破片を受けた左腕
の為にパイロットにはなれなかった藤井中尉は、当然、志願が受け入れられるはずもなかった。
更には学校を仕切っている重要な任務を離れられては困るからであった。
 しかし藤井中尉は生徒達との約束を守る為、断られても、断られても二度までも特攻に志願していた。
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▲藤井中尉の奥様 藤井福子さん
藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育った。戦争中は野戦看護婦として活躍していた。
藤井中尉との出会いは、支那で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんだったと言う。
福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが十分過ぎるほど解っていた。
 しかし、解っているからといって特攻の許可さえ出ない人が、特攻志願することに納得できるものではない。
福子さんは夫を説得しようと必死だった。妻として二人の幼子の母として哀願もした。子供を盾にまでして必死に戦った
しかし、藤井中尉の決意は最後まで変わらなかった。夫の決意を知った福子さんは、二人の幼子を連れて飛行学校の近
くにある荒川(埼玉県)に入水自殺した。  
翌日の昭和19年12月15日早朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の
手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が近所の住人によって発見され、直ぐに遺体が藤井中尉の妻と子供であることが判
明、熊谷飛行学校に連絡された。
 知らせを受けた藤井中尉は、同僚の鳴田准尉といっしょに警察の車で現場に駆けつけた。
車の中で、藤井中尉は「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけは勘弁してくれ、解ってくれ」 と、呻く様な声で
言ったと言う。 鳴田准尉には、慰めの言葉は見つからなかった。
師走の荒川の河川敷は、凍てついた風が容赦なく吹きつける。歯が噛み合わないほどに寒い。  
 凍てついた川の流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、福子さんの最後の願いを物語る様に、三人いっしょ
に紐で結ばれたまま、蟻人形のように仲良さげに並んでいた。
その遺書には・・・、以下の様に書かれていた。
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」
という意味のことが書かれていた。副子24歳であった。  
凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と子供達の姿を見て、藤井中尉はその前にうずくまり、優しくさ
する様に白い肌についた砂を払い、そして呻くように泣いていた。

葬式は、軍の幹部と、家族と隣り組だけで済まされた。教え子達の参列は禁じられ一人の姿もなかった。
涙を誘うこの悲惨な事件に、各社の新聞記者も飛びついた。しかし軍と政府の通告によって報道が差し止められ、記事は
一切新聞にもラジオにも出なかった。

藤井中尉はこの事件の直後、三度目の特攻志願を行った。今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。
今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。すでに誰もが、藤井には死しかないと理解できていた。
陸軍は藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行ったのである。  
藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった。教えは厳しいが熱血漢で情に厚いという事で、生徒達は藤井中尉
を信頼し、尊敬し、憧れを持っていた。藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈った。
藤井中尉は大変喜んで、にこやかに、その軍刀を抜くと「これで奴らを一人残らず叩き切ってやる!」
と刀を高くかざした。藤井の笑顔に、みんなも笑顔で答えた。
 妻の事件の事は藤井も話さず、誰も口にするものはいなかった。しかし、全員既にに知っており、藤井を惜しみ、藤井
の心を分かって流す涙がさらに深く辛いものであったことは間違いない。
藤井中尉は熊谷飛行学校を去る時、中隊長室に生徒を一人一人呼び、家族の事や思い出話を聞いた。
そして、最後には「これからの日本を頼むぞ」と言って、若い教え子たちを励まし特攻隊の訓練地へと旅立った。
藤井中尉は昭和20年5月27日陸軍特別攻撃隊「第45振武隊」快心隊の隊長として知覧飛行場に進出。 
翌5月28日早朝、隊員10名と共に沖縄に向けて小川彰少尉の操縦する二式双発襲撃機に通信員として搭乗し、出撃。
「われ突入する」の電信を最後に沖縄でレーダー哨戒任務だった米駆逐艦ドレクスラーに命中、戦死。
ドレクスラー生存者の証言によると特攻機は迎撃されたが空中分解しながらも突入してきたと言う。
証言の特攻機が藤井一中尉/小川彰少尉機であったかどうか確かめようのない事だが、藤井中尉率いる第45振武隊(快心隊)
隊員の気迫が伝わってくるエピソードである。
藤井中尉は、教え子達、そして愛する家族との約束をやっと果たす事が出来たのである。享年29歳
 
藤井中尉は妻と子供三人の葬式が終わった後、長女の一子ちゃんあてに手紙を書いた。
一枚目は桜の花の絵、二枚目は子犬と蝶と共に戯れている幼子の絵の便箋である。
「娘への手紙」
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。
母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、
母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」


[ 第46振武隊 ](丹羽隊)昭和20年4月7日~4月15日喜界島より出撃
小山勝寶少尉(福島県出身)/渡辺博伍長(千葉県出身)/伊原佐源次伍長(埼玉県出身)
古川榮輔伍長(京都府出身)/堀越進伍長(栃木県出身)/米山和三郎伍長(埼玉県出身)
森光少尉(東京都出身)/小林貞三伍長(東京都出身)/中林稠伍長(大阪府出身)
丹羽信博少尉(第30教育飛行隊に指揮転移)/奥村明雄伍長(4/26在喜界島)/斎藤健伍長(4/26在喜界島)
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▲第46振武隊出陣式


[ 第47振武隊 ]一〇〇式重爆撃機「呑龍」の部隊だが出撃場所等は不明
千野實大尉/岩永英二少尉/横山淳少尉/遠山怜少尉/大木卓郎少尉/藤本靖矩少尉/坪田定治少尉
我喜屋宗二少尉/五十嵐國三郎曹長/沼尾仁曹長/中島勉軍曹/武藤光雄軍曹/梅田修軍曹/
野見山利夫軍曹/石井邦夫軍曹/廣川鴻伍長/岩佐定次伍長/大門幸作伍長
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▲陸軍一00式重爆撃機「呑龍」(どんりゅう)
※写真はフィリピンクラークフィルドに出撃する飛行第95戦隊の「呑龍」S19.11/19バシー海峡上にて
 47振武隊とは違いますが、爆撃機「呑龍」で特攻に参加した菊水特攻隊の生還者飛行第95戦隊・陸軍曹長中村真


[ 第48振武隊 ](惟神隊)(かむらいたい)昭和20年5月28日~6月8日出撃
鈴木誠一少尉(静岡県出身)/土屋光男伍長(宮城県出身)/掘恒治少尉(千葉県出身)
中嶋豊蔵軍曹(愛知県出身)/柴田信平少尉(東京都出身)/松本真太治軍曹(滋賀県出身)
中島章少尉(茨城県出身)/伊藤甲子郎伍長(秋田県出身)/土屋好央少尉/須藤勲二少尉
中島明伍長/川野勉伍長/須藤勲二少尉
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▲第48振武隊長堀恒治少尉。明野教導飛行師団付教官を経て惟神隊隊長に。6/3突入、戦死。
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▲「惟神隊」隊員の寄せ書き。
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▲中嶋豊蔵軍曹は軍用トラックで移動中に富屋食堂の前を通りかかった時、鳥濱トメを見かけ、懐かしさ
のあまり、まだ走行中のトラックから飛び降りてバランスを崩し転がり落ちて左腕をケガをした。
ケガは予想以上に酷く、包帯で首から腕を吊り治療中だった。6/2昼頃、中島軍曹が富屋食堂に行った時
ケガの為、軍の風呂に入れず梅雨の季節で汗臭かった中島軍曹を可愛そうに思った鳥濱トメさんは、富屋
食堂の風呂を沸かし中島軍曹を風呂に入れて上げた。中島軍曹の背中を鳥濱トメさんが流しながら
「中島さん出撃は何時頃ですか?明日にも命令が出るかもわかりませんよ、そんな手じゃ操縦も出来ない
でしょう、手が良くなってから出撃しなさいね」とトメがいくら言っても中島軍曹は、
「日本が勝つためには、自分が一刻も早く行かなければなりません」と答えたと言う。
中島軍曹のケガは右手を骨折していた為、なかなか出撃の許可が下りなかった。
しかし中島軍曹は「今行かなければ日本は負けてしまう」その並々ならぬ思いで軍航空司令部に掛け合い、
何度も嘆願。ついに許可が出たと言う。
中島軍曹は、翌6月3日不自由な左腕を自転車のチューブで無理やり操縦桿に縛りつけ出撃したと言う。
闘魂の出撃!その様子を見ていた整備兵が鳥濱トメに伝え、トメは富屋食堂の奥で崩れる様に泣いたと言う
「仰ぎ見る富嶽の重さよ 我が勤苦心を重ねて死して果さむ」  少飛十二期 中島軍曹
昭和20年6月3日知覧より出撃。突入、戦死(19歳)
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▲第48振武隊惟神(かむらい)隊の一式戦闘機「隼」の尾翼に描かれた“惟神”の文字。


[ 第49振武隊 ]昭和20年5月6日~5月25日出撃
伊奈剛次郎少尉(愛知県出身)/藤喜八郎少尉(佐賀県出身)/小柳瞭伍長(三重県出身)
小坂清一伍長(大阪府出身)/高橋定雄伍長(岩手県出身)/黒川久夫少尉(5/25出撃)
南部吉雄少尉/伊藤定雄少尉(入院中 退院5/26防府へ)/村松祐行少尉(成増 5/26防府へ)
柴田進伍長(成増 5/26防府へ 7/17福岡)/井勝忠枝伍長(成増 5/26防府へ 玉名不時着)
金指正夫伍長(成増生存?)


[ 第50振武隊 ](山吹隊)昭和20年5月20日~5月25日出撃
斎藤数夫少尉(岡山県出身)/小木曽亮助少尉(愛知県出身)/多田良政行少尉(広島県出身)
速水修少尉(兵庫県出身)/飯高喜久夫伍長(宮城県出身)/大野昌文伍長(長野県出身)
松崎義勝伍長(新潟県出身)/松尾登代喜伍長(佐賀県出身)/柳清伍長(和歌山県出身)
高橋暲少尉(東京都出身)/藤田典澄少尉(広島県出身)/磯田徳行伍長(熊本県出身)
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▲第50振武隊(山吹隊)勇士達。全員突入、戦死
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▲第50振武隊 多田良政行少尉。5/20一式戦闘機「隼」で出撃。沖縄西方の敵艦に突入、戦死
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▲愛機の隼を背にした第50振武隊 隊長 斉藤数夫少尉。野戦重砲兵より航空に転科した。5/20突入、戦死
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▲第50振武隊 松崎義勝伍長5/20、16:30出撃、突入戦死。享年19歳


[ 第51振武隊 ](悠久隊)昭和20年5月6日~5月28日出撃
鮫島豊少尉(鹿児島県出身)/荒木春雄少尉(宮城県出身)/光山文博少尉(卓庚鉉)(タク・キョンヒョン)朝鮮出身
野上康光少尉(熊本県出身)/安藤康治伍長(大分県出身)/島仁伍長(東京都出身)
鈴木惣一伍長(愛知県出身)/豊田良一伍長(愛媛県出身)/市川豊伍長(佐賀県出身)
伊藤博少尉(5/8航空事故入院)/川崎渉少尉(5/30.16:30国分附近殉職)/堀岡一馬伍長(4/24福岡?)
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▲第51振武隊員の勇士達。
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▲第51振武隊員の勇士達。
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▲光山文博少尉(卓庚鉉)(タク・キョンヒョン)朝鮮出身(京都薬学専門学校)24歳
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▲光山文博少尉と鳥濱トメさんの有名な写真。
光山少尉は日本が政府間交渉を経た上で、国際的な承認のもとに韓国を併合してから10年目にあたる1920年
11月5日、朝鮮半島の慶尚南道泗川市にて生まれた。光山少尉誕生時一家の暮らしは裕福な方だったとされる。
しかし、祖父が事業に失敗した結果、生活は次第に困窮。そんな彼らが選んだのが、日本に「出稼ぎ」に赴き、
生計を一から立て直すという道だった。がまだ幼少だった頃の話である。一家は訪日し京都府に定住した。
当時の京都には1万人以上もの朝鮮半島出身者が住んでいたと言われている。併合以降、朝鮮よりも賃金条件
の良い日本での仕事を求めて、多くの朝鮮人が海を渡っていた。 光山少尉の父・卓在植は、京都市内で乾物商
を立ち上げた。 こうして彼等は、所謂「在日」となった。
決して「強制」や「徴用」によって日本に来たわけではない。一家は「光山」という姓を名乗り、卓庚鉉は
「光山文博」となったが、この改名も法的強制によるものではない。
当時、「朝鮮名のままだと商売がやりにくい」といった理由から、多くの朝鮮人が日本名に改名した。
光山少尉は地元の小学校を卒業した後、立命館中学へと進んだ。名門中学への進学は、彼自身の十分なる能力
の高さを証明している。 光山少尉は人生の大半を日本で過ごしており、日本の教育を受け、日本語を使いなが
ら育った。その後、光山は京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)に進学した。
昭和18年(1943)9月同校を繰り上げ卒業した光山少尉は、翌10月に陸軍特別操縦見習士官(特操)を志願。
見事試験に合格し、同校の第一期生となった。陸軍特別操縦見習士官とは、高等教育機関の卒業生や在校生の
志願者の中から、予備役将校操縦者として登用された者のことを指す。愛称は「学鷲」。短期間で優秀な航空
要員を養成することが、同制度の目的であった。 併合後の日本は、朝鮮人に対して徴兵制を敷かなかった。
しかし、少なからぬ朝鮮人が「日本人と共に戦いたい」と入隊を希望した。日本軍が朝鮮人に門戸を閉ざす事
こそ「差別」「屈辱」であると彼等は主張した。
昭和12年(1937)日本の衆議院議員となっていた朝鮮出身の朴春琴が「朝鮮人志願兵制度」を請願。
翌昭和13年(1938)「陸軍特別志願兵令」が公布されたことにより、朝鮮人による兵卒の志願が認められる
様になる。日中戦争下、朝鮮人の志願兵は右肩上がりに増え続けた。
朝鮮人への徴兵制が施行されたのは後の昭和19年(1944)4月実際の徴兵適用は同年9月以降のことである。
日本は欧米列強と比べても、「植民地人の軍事利用」には概して消極的であった。イギリス軍は東南アジアの
戦線において、インド人兵士やグルカ兵(ネパールの山岳民族)を最も危険な最前線に投入して戦局を組み立
てたが、日本軍はそのような体制は構築しなかった。
昭和18年10月大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所に入校した光山少尉は、航空兵としての基礎的な訓練課程へと
入った。 そんな彼が、休みの日曜日になると頻繁に訪れるようになったのが近隣の「富屋食堂」であった。
知覧駅からほど近い商店街に面して建つ富屋食堂は、昭和4年(1929)に女主人鳥濱トメが開いた店である。
知覧分教所の開校は昭和16年(1941)12月だが、富屋食堂は翌昭和17年(1942)1月以降、陸軍の指定食
堂となった。うどんや蕎麦の他、各種丼物やカレーライスが人気で、夏はかき氷も好評だったという。
光山少尉は鳥濱トメを実母のように慕った。普段はもの静かな照れ屋で、一人でいる事の多かった光山少尉だ
が、トメとはとりわけ親しくなった。 光山少尉はトメと出逢ってまだ間もない時期に、自分が朝鮮人だという
事を告げたという。当時の日本国内において、朝鮮人を不当に蔑視する愚人がいた事は否定し難き事実である。
そんな背景を知悉していたトメは、光山少尉に対して殊に気を使って接した。
光山少尉は食堂の裏手にある離れの座敷で過ごすことを好んだ。トメの夫・義勇は南薩鉄道のバスの運転手だ
ったが、2人の間には長女の美阿子、次女の節子という2人の娘があった。当時美阿子17歳、礼子13歳だった。
光山少尉はこの2人とも程なくして仲良くなり、共に連れ立って近くの麓川の土手などをよく散歩した。
光山少尉には妹が1人いたが、トメの娘たちの姿に実妹の面影を重ねていたのかもしれない。
昭和19年(1944)7月栃木県宇都宮市の教育隊へ転属。トメたちとも別れることとなった。
その後光山少尉は茨城県の鉾田基地へと移動。そんな転々とした営為の中でも、光山少尉はしばしばトメに
「知覧のおばちゃん、元気ですか」 などと綴った葉書を寄せた。
昭和19年10月光山は陸軍少尉を拝命。順調な昇進だったが、翌11月彼を思わぬ不幸が襲った。
京都にいた母親が逝去したのである。死に目にも会えなかったが、父親から伝えられた母の遺言は、
「文博はもうお国に捧げた体だから、十分にご奉公するように」 という内容のものだった。
やがて、父もまた同じ気持ちである事を知った光山少尉は特攻を志願。折から海軍が始めた特攻に、陸軍が続
いた時期であった。周囲の戦友達も、次々と特攻を志願していた。
上官の1人は、光山少尉が朝鮮出身であることから、その覚悟の有無を改めて彼に確認した。しかし光山少尉の
決意は固かった。上官は光山の強い意志に心を動かされ、光山少尉の特別攻撃隊への配属が決定した。
昭和20年(1945)3月光山少尉は一旦、三重県の明野教導飛行師団に転属。同月29日、明野教導飛行師団の
主導により、14個隊もの特別攻撃隊が編成され、その中の一つである第51振武隊の隊員の中に光山少尉の名
前があった。隊長は荒木春雄少尉、総員12名である。
第51振武隊は山口県の防府飛行場を経て、知覧飛行場へと前進。光山少尉はこうして再び知覧の地を踏んだ。
当時の知覧はすでに「特攻基地」と化していた。 光山少尉は最初の外出日に早速、懐かしき富屋食堂を訪れた。
トメは温かく彼を迎えた。そして、トメはすぐに光山少尉が特攻隊員であるという事実を悟った。
何故なら、この時期に知覧に戻って来るのは、特攻隊員ばかりだったからである。
「今度は俺、特攻隊員なんだ。だから、あんまり長くいられないよ」 と光山少尉はトメに告げた。
約半年前に実母を亡くした光山少尉にとって、トメの存在はより大きなものとして感じられたであろう。
久しぶりとなるお気に入りの「離れ」に通された光山少尉は、そこで大きく伸びをして寝転がったという。
以降、光山少尉は富屋食堂に毎日のように顔を出した。特攻隊員の外出は、せめてもの温情として、かなり自由
に認められていた。光山少尉は父と妹を朝鮮に帰郷させた。戦況の悪化を知り及んだ光山が、朝鮮の方が安全だ
ろうと判断して促した結果であった。 そんな光山少尉にも、確実に出撃の日が迫る。
出撃前夜の5月10日光山少尉はやはり富屋食堂の「離れ」にいた。トメと彼女の娘達を前にして、こう言った。
「おばちゃん、いよいよ明日、出撃なんだ、長い間、いろいろありがとう。おばちゃんのようないい人は見たこ
とがないよ。俺、ここにいると朝鮮人っていう事を忘れそうになるんだ。でも俺は朝鮮人なんだ。長い間、本当
に親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」
光山少尉の着ている飛行服には、幾つかの小さな手作りの人形がぶら下がっていた。それらは、トメや娘達が彼
に贈った物だった。トメが造った人形は、頭部が大き過ぎて「てるてる坊主」のようだったが、光山はこれを殊
に大切にしていたという。 トメが目頭を押え俯いていると、光山少尉が「おばちゃん、歌を唄ってもいいかな」
と切り出した。トメは思わずこう答えた。 「まあ、光山さん、あんたが唄うの」
トメには光山少尉の言葉が意外だった。それまでの光山少尉は他の隊員たちが大声で軍歌などを唄っている時で
も一緒に声を合わせるような事は殆どなかったからである。
光山少尉「おばちゃん、今夜は唄いたいんだ。唄ってもいいかい」 トメが 「いいわよ、どうぞ、どうぞ」
光山少尉 「じゃ、俺の国の歌を唄うからな」
光山少尉はあぐらをかいて座り、両目を庇の下に隠すようにして戦闘帽を目深に被り直し、朝鮮民謡である
「アリラン」を歌った。この歌を知っていたトメは、光山少尉と一緒になって声を揃えた。
トメと娘たちは、嗚咽しながら大粒の涙を流した。最後には4人、肩を抱き合うようにして泣いた。
それから、光山少尉は形見として、トメに自らの財布を手渡した。
「おばちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、
よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」
その夜の別れ際、トメは自分と娘たちが写った写真を、「これ、持ってって」と差し出した。
光山少尉は「そうかい、おばちゃん有難う。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しい事はないよ」
と言い残し、灯火管制のために暗い夜道を、手を振りながら三角兵舎がある知覧基地に戻って行ったという。
翌11日第7次航空総攻撃の実施により、光山少尉は午前6時33分、爆装した一式戦闘機「隼」に搭乗。
知覧飛行場の滑走路から出撃、陸軍計12隊29機、海軍計11隊69機と共に、沖縄近海を目指した。
航行する敵艦船群を確認した編隊は、特攻作戦を開始。結句、アメリカの空母1隻、駆逐艦2隻を「戦列復帰不能」
とした上、オランダ商船1隻に損傷を与えた。しかし、轟沈した艦船は1隻もなかった。
この戦闘において、光山少尉も散華。享年24歳であった。

戦後かなり経った平成20年(2008)5月ある日本人の働きかけにより、光山の故郷である泗川市に「帰郷記念碑」
が建立されたが、これに地元団体が激しく抗議。結果、除幕式が中止に追い込まれる事態にまで発展した。
泗川市の議員の一人は、「出撃前にアリランを唄ったなどという話は、とうてい信じられない」「日本軍に志願し
た人間を、この国の貢献者のように扱えるものか」と言い放った。
結句、記念碑は市によって撤去された。日本側の慰霊の気持ちを、韓国側が拒否するという歪な結末であった。
現在、光山の遺影は靖國神社の遊就館に民族の別なく飾られているが、韓国側にはこれに反対する声も多い。
現在の韓国は、自国を「戦勝国側」「侵略戦争の被害者」と位置付けているが、実際は「日本と共に戦った」のが
真実である。韓国は都合の良い歴史の歪曲を改め、史実を冷静に咀嚼する必要があるが、戦後の朝鮮戦争で
北と南に分かれた朝鮮にかつての日本統治時代の事を学ぶ機会は無いだろう。
戦後の韓国において「反日」という奔流が理性の堤防を決壊させる中、光山少尉は「対日協力者」「親日派」とし
て、あろうことか「国賊」「売国奴」などと罵倒されるに至った。
今の「韓国」「北朝鮮」はかつて光山少尉が愛した「朝鮮」では無い。
光山少尉の事は日本人として日本人が忘れない様にしていればそれでいいと思う。



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▲昭和20年5月11日 第7次航空総攻撃で出撃した各特攻振武隊の隊長達。
 左から第55振武隊長 黒木国雄少尉、第51振武隊長 荒木春雄少尉、第65振武隊長 桂正少尉


[ 第52振武隊 ]昭和20年5月18日~6月8日出撃
下平正人軍曹(長野県出身)/渡辺幸美伍長/田中勝伍長/中原常信少尉(徳島県出身)/太田増信伍長(愛知県出身)
荒川宣治少尉(山口県出身)/谷苗菊夫少尉(神奈川出身)/市川実少尉(石川県出身)
横山正雄少尉(東京都出身)/小石順一郎伍長(愛知県出身)/林田務伍長(熊本県出身)
須藤保少尉(栃木県出身5/10知覧飛行場にて殉職)
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▲第52振武隊員の勇士達。
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▲第52振武隊。下平正人軍曹 出撃前日、富屋食堂の“特攻の母”と特攻隊員に慕われた鳥浜トメさんに、
 「明日、お母さんの代わりに見送りに来てください」とお願いした。5/11 06:22出撃、突入戦死。


[ 第53振武隊 ](天誅隊)昭和20年5月18日~6月8日出撃
近間満男少尉(鹿児島県出身)/三島芳郎少尉(富山県射水郡出身)/小笠五夫少尉(長崎県出身)
山嵜 忠兵長(愛媛県出身)/梅野芳朗兵長(長崎県出身)/土器手茂生兵長(鹿児島県出身)
星忠治兵長(栃木県那須塩原市出身)/丸山好男兵長(福島県出身)/河井春男兵長(東京都出身)
中村孝之兵長(4/24福岡着?)/横山輝男兵長(5/16防府へ)/北川孝義兵長(5/16防府へ)
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▲第53振武隊員の勇士
※「陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く―愛するものを護るため、大空に飛び立った若者たち」
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▲この本の表紙になっている第53振武隊。
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▲出撃前、快心の笑みで写真におさまる第53振武隊員達。この数時間後、彼等はこの世にいない。
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▲5/18特攻出撃の日、地元の人達の深々とした礼の見送りに、軍用トラック上で笑顔で答礼する第53振武隊員。
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▲出撃20分前、最後の食事となるおにぎりを頬張る第53振武隊員。
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▲出撃前、知覧飛行場の本部に集合し、別盃を酌み交わす第53振武隊員。
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▲出撃前の「隼」戦闘機を見つめる振武隊員。
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▲5/28沖縄西方海上敵艦船群を目指し、知覧飛行場から出撃する第53振武隊長近間満男少尉搭乗機「隼」三型
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▲5/18知覧飛行場。戦友達のうち振る日の丸に見送られ、二度と生きて戻ることのない死地へと旅立った。
 第53振武隊の一式戦闘機「隼」三型。


[ 第54振武隊 ]昭和20年5月25日~6月6日出撃
葛西宏少尉(青森県出身)/三島邦夫少尉(愛媛県出身)/内海京一郎少尉(埼玉県出身)
大越通明少尉(栃木県出身)/坂内隆夫少尉(福島県出身)/松本勲少尉(茨城県出身)
中西伸一少尉(和歌山県出身)/上垣隆美少尉(兵庫県出身)/高井政満少尉(佐賀県出身)
岡本一利少尉(5/28知覧を出撃07:54喜界島に不時着。同日10:12第109振武寺田伍長を同乗させ
喜界島を出発、知覧に帰還。後の6/6再度出撃、戦死を遂げた)
小川光悦少尉(4/26京城付近にて冷却水漏れ不時着、負傷。6月福岡に帰還)
坂部潔少尉(5/25知覧より出撃。離陸時脚折損、飛行機大破炎上。顔部火傷)
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▲第54振武隊。三式戦闘機「飛燕」で5/25第8次航空総攻撃、5/28第9次航空総攻撃、6/6第10次航空総攻撃
に加わり、知覧から沖縄西方洋上の敵艦船群に突入。
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▲第54振武隊長 葛西宏少尉。第8次航空総攻撃で出撃。突入、戦死。後方は愛機の「飛燕」一型丁。
250キロ爆弾を搭載する為、操縦席後方の防弾板、無線機、機関砲4門中3門を外して軽量化を図った。
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▲特攻出撃していく陸軍三式戦闘機「飛燕」


[ 第55振武隊 ]昭和20年5月6日~5月28日出撃
伊藤敏夫少尉(熊本県出身)/北澤元治少尉(茨城県出身)/中島英一少尉(京都府出身)
黒木国雄少尉(宮崎県出身)/鷲尾克己少尉(兵庫県出身)/佐伯修少尉/菊地誠少尉
大岩泰雄少尉(東京都出身)/森清司少尉(京都府出身)/長谷川東少尉(防府入院)
太田穣少尉(調布で入院)/大澤茂少尉(5/17,08;55 芦屋にて試験飛行中墜落死)
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▲5/11出撃直前の第55振武隊長 黒木国雄少尉
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▲整備兵からマスコット人形を渡される北澤元治少尉5/6「飛燕」で出撃、沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
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▲5/25戦友の遺骨を胸に出撃する菊地誠少尉(戦友とは同期の第56振武隊三根耕造少尉(5/17試飛行中殉職)
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▲菊地誠少尉が遺骨を胸に出撃した戦友の第56振武隊三根耕造少尉(佐賀県多久市出身)
 東京帝国大学法学部在学、学徒出陣。調布より知覧に前進、試験飛行中不慮の戦傷死。
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▲5月11日朝6時出撃5分前、円陣を組んで「男なら」を手拍子をとって歌う第55、56振武隊隊員。
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▲昭和20年5月11日早朝、第七次航空総攻撃の日、知覧で攻撃隊隊員に訣別の訓示をする第六航空
軍司令官[菅原道大中将](左)「決しておまえたちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はおまえ
たちの後を追う」と語りながら、終戦の日「閣下(菅原道大)一機の特攻機の準備が出来ました」と部
下が伝えると、じろりと見据えた菅原は「今日から奉公の先が違う」とヌケヌケと答えたと言う。
若者にのみに犠牲を求め、全く痛痒を感じず、恥ずかしいとも思っていない。人間として最低の男だ。
戦後38年間を生き、多くを語らぬまま昭和58年(1983)12月29日95歳で死去。
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▲軍司令官 菅原道大中将(長崎県出身)
その他特攻隊員に対して「最後の一機で突入する」と叫んだ陸軍第六航空軍の幕僚達は下記の通り。
(参謀長)藤塚止戈夫中将/(参謀副長)青木喬少将 天号作戦により海軍鹿屋航空基地に派遣される。
(高級参謀)井戸田勇大佐/(作戦主任参謀)水町勝城中佐/参謀(教育及び作戦)川元浩中佐
(後方参謀)道場行道少佐/(情報参謀)藤本正雄少佐/参謀(作戦及び編成)倉澤清忠少佐(東京都出身)


[ 第56振武隊 ]昭和20年5月6日~6月11日出撃
池田元威少尉(大阪市出身)/金子範夫少尉(長野県出身)/小山信介少尉(神奈川県出身)
四家稔少尉(福島県出身)/上原良司少尉(長野県池田町出身)/小澤幸夫少尉/鈴木重幸少尉
川路晃少尉(東京都出身)/京谷英治少尉/橋本良男少尉(入院中)/朝倉豊少尉
三根耕造少尉(5/16、13:55 試飛行中不時着重傷、5/17死亡)
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▲第56振武隊員。昭和20年5月6、11、25日、6月11日特攻出撃。
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▲昭和20年4月頃、調布で編成完結したばかりの第56振武隊員。
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▲上原良司少尉と愛機の三式戦闘機一型。5/11の第7次航空総攻撃で知覧より出撃、突入戦死。
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▲上原良司少尉(佐賀県 目達原基地にて)
長野県北安曇郡七貴村(現・池田町)に医師の上原寅太郎の三男として生まれ、旧穂高町(現・安曇野市)有明で育つ。
2人の兄、良春と龍男はともに慶應義塾大学医学部を卒業後に軍医となり、龍男は良司が慶大に進学した年に、ニューヘ
ブリデス諸島沖で潜水艦と共に沈んで戦死している。
旧制松本中学校を卒業後に上京し、慶應義塾大学予科に入学。1942年に慶應義塾大学経済学部に進学するが、経済学部
在学中に徴兵猶予停止によって学徒出陣、大学を繰り上げ卒業。1943年12月1日に陸軍入営。歩兵第50連隊に配属とな
り、第2期特別操縦見習士官として熊谷陸軍飛行学校入校、館林教育で操縦訓練を開始1944年に熊谷陸軍飛行学校卒業。
5/11,06:15他の隊員たちと『男なら』を合唱した後、愛機の三式戦闘機「飛燕」に搭乗し知覧基地から出撃、約3時間
後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死。享年22歳
戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』では「所感」という題名の遺書が巻頭に掲載されている。この文章は多くの人々
の胸に響き、映画「きけ わだつみのこえ」やドキュメンタリー番組でも特集されるなど戦没学生の手記の代表格とされ
度々取り上げられている。上原良司少尉の妹さんは、兄と仲間たちの会話を手帳に残していた。
彼等は「向こうの奴(やつ)ら(=米軍)何と思うかな」「ホラ今日も馬鹿(ばか)共が来た。こんな所までわざわざ自
殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」と、言い合っていたと言う。
上原少尉は特攻出撃前夜に、陸軍報道班員に「所感」を託していた。
以下上原少尉が残した「所感」を紹介する。

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなきと痛感いたして
おります。思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは自由主
義者といわれるかもしれませんが。自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく
例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には勝つという事は、かのイタリアのクロー
チェも言っているごとく真理であると思います。
権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。
我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事ができると思います。
ファシズムのイタリアは如何、ナチズムのドイツまた既に敗れ、今や権力主義国家は土台石の壊れた建築物のごとく、次
から次へと滅亡しつつあります。
真理の普遍さは今現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明していくと
思われます。自己の信念の正しかった事、この事あるいは祖国にとって恐るべき事であるかも知れませんが吾人にとって
は嬉しい限りです。現在のいかなる闘争もその根底を為すものは必ず思想なりと思う次第です。
既に思想によって、その闘争の結果を明白に見る事が出来ると信じます。
愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。
真に日本を愛する者をして立たしめたなら、日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。
世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。操縦桿をとる器械、人格もなく感情も
なくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。
理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。
精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば
愛する日本を偉大ならしめられん事を国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったなら、もちろん死んでも何にもならないかも知れません。
ゆえに最初に述べたごとく、特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一旦下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。
愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると
思うと、死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。
明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽らぬ心境は以上述べたごとくです。
何も系統立てず思ったままを雑然と並べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。
彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
言いたい事を言いたいだけ言いました。無礼をお許し下さい。ではこの辺で
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▲上原良司少尉 沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入戦死。(享年22歳)
上原良司少尉の遺書
生を受けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。
温かき御両親の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送る事が出来ました。
そしてややもすれば我ままになりつつあった事もありました。
この間、御両親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。
それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くす事が、孝行する事である
と言う日本に於いては、私の行動をお許し下さる事と思います。

空中勤務者としての私は、毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。
一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。
このまま突っ込んで果して死ぬのだろうか、否、どうしても死ぬとは思えません。
そして、何かこう、突っ込んでみたい衝動に駈られた事もありました。

私は決して死を恐れてはいません。むしろ嬉しく感じます。何故ならば、懐かしい龍兄さんに会えると信ずるからです。
天国における再会こそ私の最も希わしい事です。私はいわゆる、死生観は持っていませんでした。
何となれば死生観そのものが、あくまで死を意義づけ、価値づけようとする事であり、不明確の死を怖れるの余りなす
事だと考えたからです。私は死を通じて天国における再会を信じているいるが故に、死を怖れないのです。
死をば、天国に上る過程なりと考える時、何ともありません。私は明確に云えば、自由主義に憧れていました。
日本が真に永久に続くためには自由主義が必用であると思ったからです。これは、馬鹿な事に聞えるかもしれません。
それは現在、日本が全体主義的な気分に包まれているからです。
しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思います。

戦争において勝敗を見んとすれば、その国の主義を見れば、事前に於て判明すると思います。
人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は、火を見るより明らかであると思います。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする、私の理想は空しく敗れました。
この上はただ、日本の自由、独立のため、喜んで、命を捧げます。

人間にとって一国の興亡は、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は、実に些細な事です。
驕れる者久しからずのたとえ通り、もし、この戦に米英が勝ったとしても彼等は必ず敗れる日が来る事を知るでしょう。
もし敗れないとしても、幾年後かには、地球の破裂により、粉となるのだと思うと、痛快です。
しかしのみならず、現在生きて良い気になっている彼等も、必ず死が来るのです。
ただ、早いか晩いかの差です。

離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい。
ではくれぐれも御自愛のほど祈ります。大きい兄さん、清子始め皆さんに宜しく。
ではさようなら、御機嫌良く、さらば永遠に。
御両親様へ良司より
「特攻に散った学徒兵」YouTube
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▲金子少尉と胴体に名前の書かれた三式戦闘機「飛燕」で5/6出撃、沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
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▲第56振武隊 鈴木重幸少尉。名前入りの愛機、「飛燕」一型丁の左翼には250キロ爆弾が懸吊されている。
 5/25 沖縄西方の敵艦船に突入、戦死。
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▲昭和20年5月25日慶良間列島近海で米輸送駆逐艦ローパー(USS ROPER)APD-20に特攻機が突入。小破した。


[ 第57振武隊 ]昭和20年5月25日宮崎県都城東飛行場より出撃
伊藤喜得少尉(宮城県出身)/唐澤鐵次郎少尉(静岡県出身)/戸澤吾郎少尉(秋田県出身)
吉川富治少尉(東京都出身)/青木清二少尉(埼玉県出身)/小林昭二少尉(長野県出身)
桟武夫少尉(岡山県出身)/志水一少尉(兵庫県出身)/高埜徳少尉(千葉県出身)
西田久少尉(三重県出身)/山下孝之少尉(熊本県出身)
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▲第57振武隊
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▲第57振武隊吉川富治少尉、戸沢五郎少尉。5/25四式戦闘機で出撃。突入、戦死
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▲出撃前に辞世の書“魁”を揮毫する第57振武隊 隊長 伊藤喜得少尉。
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▲出撃前の打ち合わせをする第57振武隊員。左より吉川富治少尉、伊東喜得隊長、戸澤五郎少尉。
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▲軍刀を手に、胴体に“必殺”の文字の書かれた四式戦闘機に乗り込もうとする唐澤鐵次郎大尉。
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▲整備兵より花束をもらい最後の別れ。昭和20年5月25日、沖縄西方洋上の敵艦に突入、戦死。
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▲愛機の四式戦闘機と写る第57振武隊 志水一伍長。5/25沖縄西方洋上の敵艦船に突入、戦死。
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▲宮崎県の都城東飛行場より出撃直前の第57振武隊 四式戦闘機「疾風」。

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▲集合した航士第57期生の特攻隊長達。左2人目より第58振武隊長 高柳隆少尉、第57振武隊長 伊藤喜得少尉、
第61振武隊長 岡本勇少尉。全員沖縄の海に散った。


[ 第58振武隊 ](髑髏隊)昭和20年5月25日~5月28日都城東飛行場より出撃
高柳隆少尉(神奈川出身)/上田徳少尉(福岡出身)/高田光太郎少尉(福岡出身)
西村潤二少尉(京都府出身)/宮尾克彦少尉(東京都出身)/國吉秀俊軍曹(高知県出身)
栄龍志伍長(鹿児島県出身)/藤山恒彰伍長(長崎県出身)/今村岩美伍長(福岡県筑紫野市出身)
田宮治隆大尉/紺田博少尉(北海道出身)/富永靖少尉(長崎県出身)※富永中将の息子さん
井野隆伍長(隈ノ庄飛行場に不時着 5/28都城東飛行場に引返す)
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▲出撃直前の第58振武隊の四式戦闘機。この部隊は尾翼に釜ゆでにされたドクロマークが描かれている。
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▲第58振武隊 高柳隆少尉と愛機の四式戦闘機「疾風」。5/25沖縄西方洋上の敵艦船に突入、戦死。
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▲第58振武隊員。後は対空偽装された第58振武隊部隊の四式戦戦闘機「疾風」。


[ 第59振武隊 ]都城東飛行場より出撃
野口肇太郎少尉/芦刈茂金少尉/田中平一少尉/大竹俍一少尉/御宮司秀雄少尉
河合徳和少尉(5/23防府飛行場にて殉職)
林一男少尉(5/28出撃、口之永良部島に不時着。小舟を使い自力で帰還。都城東飛行場で
第21突撃隊(集成振武隊)に編入されたが、敗戦直後の8月18日拳銃自決を遂げる。
近藤一一伍長/増岡武男伍長/小川榮伍長/永添照彦伍長/黒田政勝伍長


[ 第60振武隊 ]昭和20年5月4日~5月11日都城東飛行場より出撃
平柳芳郎大尉(埼玉県出身)/柴田治少尉(徳島県出身)/永田利夫伍長(鹿児島県出身)
吉水成明少尉(鹿児島県出身)/若杉正喜伍長(北海道出身)/田中治伍長(福井県出身)
手塚進伍長/村岡和男少尉/倉元利雄少尉/荒正彦伍長/堀元官一伍長
向井忠伍長(広島県出身)5/25知覧より出撃、(与論島に不時着。生存?)
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▲第60振武隊。四式戦闘機「疾風」で5/4、11、25日都城東飛行場より出撃。
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▲第60振武隊の平柳隊長を囲み、訓練についての反省を行う隊員達。
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▲平柳芳郎少尉、明野教導飛行師団教官を経て第60振武隊隊長に。5/4第6次航空総攻撃で突入、戦死
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▲愛機四式戦闘機「疾風」の操縦席に立つ第60振武隊 若杉正喜伍長。
 「いざ征かん散りて砕けん若桜 身は深海に藻屑たらなむ」の詩を残し5/4突入、戦死
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▲陸軍四式戦闘機「疾風」


[ 第61振武隊 ]昭和20年4月28日都城東飛行場より出撃
岡本勇大尉(和歌山県出身)/若杉潤二郎大尉(長崎県出身)/長谷川三郎少尉(岐阜県出身)
田中英男少尉(新潟県出身)/請川房夫少尉(北海道出身)/香川俊一少尉(香川県出身)
篠原穂津美少尉(佐賀県出身)/高野博軍曹(宮城県伊具郡丸森町出身)
新井武夫少尉(群馬県出身)※昭和20年5月25日出撃
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▲主翼下面に250㎏爆弾、左主翼下面に200リットル入落下タンクを懸吊、都城飛行場を出撃する四式戦闘機。


[ 第65振武隊 ]昭和20年5月11日出撃
桂正少尉/田中藤次郎少尉/石塚糠四郎少尉
以下、飛行機の整備不良等で出撃できず、福岡市の陸軍「振武寮」に送られた。
三島茂少尉(5/24菊池陸軍病院入院)/鈴木龍雄少尉(5/14→福岡)/木原宇一少尉(5/14→福岡)
後藤博司少尉(5/14→福岡)/川合平三少尉(5/14→福岡)/渡邊準平少尉(5/14→福岡)
吉田善一少尉(4/23左肺骨折顔面打撲入院)/高橋静夫少尉(5/14→福岡)/片山啓二少尉(5/14→福岡)
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▲第65振武隊員。昭和20年3月29日明野にて編成。97式戦闘機で5/11 3機が突入した。
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▲片山啓二少尉(NHKスペシャル「学徒兵許されざる帰還 陸軍特攻隊の悲劇」で証言しています。


[ 第67振武隊 ]昭和20年4月28日出撃
金子正男少尉/寺田浩一少尉/清水眞三少尉/長澤徳治少尉/網代一少尉/市川敏邦少尉/小池龍夫少尉(5/14福岡)
山下尚武少尉(5/14福岡)/山岸聡少尉(5/14福岡)/米谷悌少尉(5/14福岡)/後藤幸一郎少尉(5/10福岡)
幸田二郎少尉(知覧飛行場離陸滑走時に進路を誤った第55振武隊大澤茂少尉の3式戦が、第67振武隊の準備線に
突っ込み、見送りに出ていた幸田二郎少尉他1名がはねられて即死)
※大澤少尉は、代機受領の命を受け芦屋飛行場に於いて試験飛行を実施中5/17,08:55墜落死。


[ 第68振武隊 ]昭和20年4月8日~4月9日喜界島より出撃
山口怡一少尉(佐賀県出身)/山田政夫少尉/山田勇少尉(京都府出身)/臼井常政少尉
千代田寛少尉/加藤武夫少尉/橋本武見少尉/藤坂亮少尉
長尾秀任少尉/長木義信少尉/沖野正人軍曹/片山悦次少尉(埼玉県出身)4/8 知覧より出撃
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▲第68振武隊、隊長山口怡一少尉と愛機97式戦闘機。4/9 17:00喜界島より出撃。突入、戦死
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▲4/9米駆逐艦ステレット(USS Sterett)に「第68か42振武隊」と見られる特攻機が突入、中破させた。


[ 第69振武隊 ](池田隊)昭和20年4月12日~4月16日出撃
池田亨少尉(静岡県出身)/岡安明少尉(埼玉県出身)/持木恒二少尉(北海道出身)
柳生諭少尉(岐阜県出身)/本島桂一少尉(長野県出身)
岡安明少尉や本島桂一少尉は「ドラマ「なでしこ隊」YouTube」(『なでしこ隊~少女達だけが見た特攻隊・封印された
23日間~』)で取り上げられている。
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▲第69振武隊池田亨少尉「れんげの花輪の特攻隊長」と呼ばれ、知覧高等女学校の女生徒達に慕われた。
 昭和20年4月12日沖縄西方海上の敵艦船に突入戦死。
[ 知覧特攻機地の思い出 ]を、当時14歳~15歳、知覧高等女学校3年生達の「なでしこ隊」のリーダー永崎笙子
(旧姓・前田)さんが~朗読による平和の祈り~で語っておられます。
<出撃前夜>
特攻隊の隊長は、毎日、戦闘指揮所へ出撃命令の授与の為に出頭します。兵舎に帰ってこられる隊長のお顔が普段と
は違うのを見ると、私たちはそれが何を意味するのか、すぐに察しがつきました。
 その時私たちは、この門出に「ご成功をお祈りします」と言っていいのか、言葉に迷いました。
隊員の方々には確実な死が待っているからです。私たちは言葉を失い、ただ黙って頭を下げるだけでした。
出撃日を知らされた隊員の中には、兵舎で頭から毛布を被って横になり、長い間身じろぎ一つしない方もおられました。
出撃の前夜は壮行会があり、酒を酌み交わしながら隊歌を歌ったりして、賑やかに過ごされた後、薄暗い裸電球の下で
遺書を書かれたり、別れの手紙をお書きになったり、あるいは、そっと抜け出て三角兵舎の屋根に腹ばいになり、月明
かりの中で何かを書かれている方もいらっしゃいました。
これはあとでわかったことですが、先生と生徒一同に対する感謝の手紙でした。
 そして、それらの書簡や遺品は、私達が帰るまぎわになると「家族の許へ送ってくれるように」と度々依頼を受けま
した。隊員の私信は厳しく検閲されていながら、幸いなことに、私たちは所持品の検査を受けることもなく、無事に家
まで持ち帰る事ができました。家に帰ると早速、発信人を自分の名前にしたり、住所を自分の番地にして投函しました。
<出撃>
 ある日、私達は当番兵から、特攻機におにぎりを二個ずつ積み込むように言われました。
ただ、おにぎりを配るだけでは、どうしても私たちの気持ちを現す事が出来ない様な気がして、機中の隊員お方に桜の
小枝を差し上げましたところ、隊員の方に大変喜ばれ、「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返し言われました。
その様子から、「時が来れば何の未練もなく散ってゆく桜の花のように、武士のいさぎよさを見た」と言った人もいま
した。それ以来、私たちは出撃する特攻機の操縦席を、桜の花で飾る様になりました。当時、知覧は桜の盛りでした。
4月12日の朝の事です。私達は、出撃される特攻隊の方々に花の首飾りを作って上げようと思い、田圃に下りてレンゲ
の花を摘んでいました。そこへ岡安明少尉が通りかかり、突然立ち止まると胸の階級章を外して、私達の方へと投げら
れたのです。そして、そのまま飛行機のある方へ立ち去られました。
その瞬間、私たちはハッとしました。くるべき時が来た、二度と再び会う事はないであろう、自分は階級にとらわれず
出撃する、といった決意の印として受けとりました。岡安少尉は兵舎には帰られず、その日の午後4時頃そのまま出撃
されました。
岡安 明少尉(享年23歳)遺書
 父上様
長い間の御愛育有難う御座居ました。何一つ孝行らしきものもせず先に征きます。
最後に只一つの御奉公、悦んでやつて下さい。御健康を祈ります。  
 母上様
長い間の御愛撫有難う御座居ました。何一つ孝行もせず済みませんでした。
明無き後も、御健康に充分注意されて、強く生きて下さい。
 昭和20年4月6日

岡安 明少尉家族全員に遺書を書いている。祖母には「長生きしてください」と。
兄には「結婚のお祝い」を。姉には「末永き幸福」を。妹、弟には「元気で成人するように」と。

 特攻隊の中には、兵長、伍長、軍曹、曹長、少尉、中尉、大尉など、色々な階級の方がいらっしゃいました。
しかし、私達には、特攻隊員同士は階級の上下というよりも、対等な人間としての温かい付き合いの中で、一緒に死ぬ
地に赴く仲間と言う印象を強く受けました。出撃の時刻が近づくと、振武隊ごとに戦闘指揮所の前へ整列して、軍司令
官又は作戦参謀から激励の言葉を受け、皇居のある東の方へ向いて遥拝した後、別れの盃がかわされました。
出発までのひとときを、車座になって隊歌を歌ったり、恩賜の煙草をふかしたりして思い思いに過ごし、やがて搭乗時
刻になりますと、黙って顔を見交わされたり、肩をたたきあってから、自分の飛行機に向かって散って行かれました。
 知覧基地は、民間人が飛行機へ近づくのを厳しく禁じていましたが、特攻隊の方々が苦心して出撃の日をご家族へ知
らせる事が出来たのでしょうか。そのうちに特攻機を見送る人々の姿が戦闘指揮所近くに見受けられる様になりました。
 ある日のこと、搭乗したばかりの特攻隊員の所へ息せき切って走りよる初老の男の方がいらっしゃいました。
ふたことみこと言葉を交わしてから来ていた羽織の紐をもぎ取ると、それを隊員に差し出しました。二人は手を固く握
りしめたまま、身じろぎもしないで思いを込めた眼差しを交わしていました。
その様子から、その男の方が、隊員のお父様であることがわかり、胸が熱くなりました。
 やがて羽織の紐を乗せて特攻機は飛び立ちましたが、機影が開聞岳の向こうへ消えたとも、乱れた羽織姿のままで南
の空をいつまでも見つめながら、悄然と立ちつくしておられました。親子の絆を羽織の紐に託して永遠の別れを告げら
れたその情景に、私達は思わずもらい泣きをしてしまいました。離陸した特攻機は、飛行場の上空を旋回しながら隊別
に三機編隊を組み、編隊を組み終えると機首を戦闘指揮所へ向けて急降下しました。
そして皆一様に三回、翼を左右に振りながら最後の別れを告げると、急上昇して開門岳の彼方へ消えていきました。
基地に残った隊員や整備兵達は一斉に帽子を振り、私達も桜の枝やハンカチを振って見送りました。
機影が見えなくなってからも、私達はしばらく呆然と立ちつくし、その後で急に襲ってkる激しい悲しみに堰を切った様
に泣き出しました。
でも、私達は涙の乾かないうちに、また次に到着される特攻隊の方々をお世話しなければなりませんでした。
そんな悲しみに堪えながら三角兵舎へ戻る事が度々でした。
寒々と静まり返った兵舎内に足をふみいれますと新たな思いにかられて、とめどもなく涙が頬を流れ落ちました。
<むすび>
 生あるものは必ず滅し、会えば必ず別れなければなりません。人との出会いは、別れへの前兆でもあります。
特攻隊の方々との出会いは、ほんのつかの間の出来事で終わりました。
そして、さまざまな状況は50年の間に目まぐるしく変わっていきました。人はよく「戦争は終わった」と言います。
で、も私達の心の中の戦後は終わらないままに今日まできました。
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▲昭和20年4月上旬、知覧で写真におさまる出撃を控えた特攻隊員と「なでしこ隊」


[ 第70振武隊 ](葉隠隊)昭和20年5月11日~5月28日出撃
佐久田潤少尉/神内敏雄軍曹/三村龍弘伍長(徳島県徳島市出身)/朝倉岩次伍長(愛知県出身)
浅見忠次伍長(埼玉県出身)/渡邊輝義伍長/水川豊伍長(佐賀県嬉野市出身)/藤田文六伍長(三重県出身)
田片恒之輔伍長(岡山県出身)/山口啓一伍長/山田良治郎伍長/河村英世伍長(東京都出身)
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▲愛機の一式戦闘機「隼」三型を背にした第70振武隊長 佐久田潤少尉。5/11 06:35出撃。突入、戦死
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▲浅見忠二伍長 富屋食堂では手巻きの蓄音機を独り占めする音楽好きの心優しい青年だった。
 何故かネコが大嫌いだったという。5/28突入、戦死。


[ 第76振武隊 ]昭和20年4月28日出撃
岡村博二中尉(広島県出身)/境忠軍曹(北海道出身)/長谷川武弘伍長(新潟県出身)/本田保伍長(航空事故殉職)
山口慶喜伍長(山梨県出身)/鈴木啓之伍長(兵庫県出身)/中川芳穂伍長(新潟県出身)
久冨基作少尉(福岡県豊前市出身)/木村廣秋両少尉/垣尾幸男伍長/小島英雄伍長/戸次政雄軍曹
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▲4/27知覧飛行場三角兵舎で、慰問人形を笑顔で手に取る第76振武隊員。この翌日人形と共に突入散華。
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▲第76振武隊員。旧式である97式戦闘機で特攻出撃した。(加古川陸軍飛行場にて撮影)
前列左から山口伍長/境軍曹/岡村隊長/木村少尉/垣尾伍長
後列左から小島伍長/中川伍長/鈴木伍長/長谷川伍長/久富少尉/戸次軍曹/(本田伍長を失った後の撮影)
後方の97式戦闘機の垂直尾翼には7と6を組み合わせ、爆弾型に図案化した部隊章が描かれている。
4/28第六航空軍は第5次航空総攻撃を発動16:50岡村隊長/境軍曹/長谷川伍長/山口伍長/中川伍長/鈴木伍長は
第67振武隊(7機)第77振武隊(7機)第106振武隊(4機)第107振武隊(2機)第108振武隊(1機)と共に知覧出撃。
沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
5/11第六航空軍は第7次航空總攻撃を発動16:41久富少尉/戸次軍曹/小島伍長が知覧出撃、
嘉手納沖の敵船団に突入戦死。
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▲久冨基作少尉 9人兄弟の末っ子で長男。
※長男は特攻隊員になる事は無いという間違った解釈をしている人が多いが、実は違うことが解る。


[ 第77振武隊 ]昭和20年4月28日~5月4日97式戦闘機で出撃
須山佳市少尉(静岡県出身)4/28徳之島不時着後生死不明
長谷川榮七伍長(愛知県出身)4/28徳之島不時着後生死不明
鈴木三男伍長(福島県出身)/西嶋重利伍長(5/5付 原所属ニ転属)
本間忠男伍長(新潟県出身)/三枝英明伍長(徳島県出身)/木村正碩伍長(朝鮮出身)
寺尾正通伍長(兵庫県出身)/中秀夫伍長(奈良県出身)/相花信夫伍長(宮城県出身)
金子誓伍長(福岡県出身)4/28徳之島不時着 4/29,05:00徳之島より再出撃、戦死。
秋村友芳伍長(4/28,16:50知覧出撃後、中ノ島ニ不時着)
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▲第77振武隊 相花信夫伍長5/4出撃、突入戦死。享年18歳
相花信夫伍長[ 遺書 ] 母を慕いて

母上お元気ですか。永い間本当に有難うございました。
我六歳の時より育て下されし母。継母と言え此の種の女にある如き不祥事は一度たりてなく
慈しみ育て下されし母、有難い母、尊い母

俺は幸福だった。遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。
お母さん お母さん お母さんと


[ 第78振武隊 ]昭和20年5月4日~5月25日出撃
吉田節郎少尉(大阪府出身)/勝又勝男少尉(千葉県出身)/河野博少尉(熊本県出身)
種田實少尉(北海道出身)/坪谷邦彦中尉5/2航空事故で殉職/樺島資彦少尉(鹿児島県出身)
土谷恭三少尉(栃木県出身)/内藤寛次郎少尉(栃木県出身)/佐藤利男少尉(神奈川県出身)
湯澤三壽少尉/瀬尾努少尉(埼玉県出身)
田宮治隆少尉(5/25喜界島に不時着5/26第21振武隊今井光少尉機に同乗し知覧に帰還中行方不明)
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▲第78振武隊若桜隊。左より内藤寛次郎少尉、勝又勝雄少尉、佐藤利男少尉、河野博少尉、種田実少尉。
内藤少尉は5/25、写真の他の隊員は5/4に知覧から一式戦闘機「隼」で沖縄西方の敵艦船に突入戦死。
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▲河野博少尉は尺八を肌身離さず、富屋食堂に来たときは、窓際に座って何時間も吹いていた。
 「明日はこの尺八をもって敵艦に突入するよ。」と言い残して5/4出撃、突入戦死。
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▲再び還らぬ壮途につく爆装一式戦闘機「隼」 開聞岳の彼方に一機再た一機と飛び去って征った・・・・。


[ 第79振武隊 ]昭和20年4月16日出撃(訓練機を特攻作戦に初めて投入)
(隊長)山田信義大尉(愛知県出身享年27歳)/郷田志郎大尉(大分県出身)/二村源八大尉(大分県出身)
清水義雄大尉(滋賀県出身)/田中富太郎大尉(群馬県出身)/川島猪之助少尉(栃木県出身)
難波武士少尉(岡山県出身)佐藤新平少尉(岩手県出身)上野實少尉(茨城県出身)/山本研一少尉(京都府出身)
池田保男大尉(新潟県出身)途中、爆弾が機体から落下した為、知覧に引き返す。4/22国分基地より再出撃、戦死
高橋静夫少尉(東京都出身)敵機の攻撃を受けサンゴ礁に不時着。奄美大島の島民に救出された後、
福岡県「振武寮」で再教育を受ける。高橋少尉は出撃命令を待ったがそのまま終戦。
昭和61年に亡くなるまで、特攻隊や戦争の事について、家族らにも一言も語らなかったと言う。
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▲第79振武隊山本研一少尉(享年22歳)4/16第3次航空総攻撃で沖縄西方海上敵艦船に突入戦死。
 山本少尉と熊谷陸軍飛行学校桶川分教場から山口県(下関陸軍飛行場)まで同乗した、当時19歳だった元整備兵の
 柳井政徳さんが同時の事を語っておられます。訓練機で特攻隊が出撃した、陸軍飛行学校YouTube
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▲昭和20年4月5日陸軍初の練習機による特攻となる第79振武隊が熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川飛行学校)
 から次々と飛び立つ。99式高等練習機12機の内6機の後部座席には整備員が同乗していた。
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▲第79振武隊の98式直協偵察機、これは99式高等練習機を特攻仕様に改造した機で、熊谷陸軍飛行学校桶川分教場
 から知覧まで11日をかけ、日本本土各航空基地を経由しながら埼玉県から鹿児島県まで移動した。
 桶川(埼玉県)→各務原(岐阜県)→小月(山口県)→知覧(鹿児島県)
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▲第79振武隊員の勇士。
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▲第79振武隊 佐藤新平少尉4/16出撃、突入戦死。享年23歳
佐藤新平少尉[ 遺書 ]
三月二十七日
待望の日は遂に来た。特別攻撃隊の一員として悠久の大義に生く。日本男児として、又、空中戦士として、
之に過ぐる喜びは無し。
有難き御世に生まれ、そして育てられし広恩、必死、必中、唯これを以て報いんのみ。
思えば大空に志し、翼の生活に入り、早六歳。昨年より特別攻撃隊の熱望三度にして、漸く(ようやく)希望
入れらる。神我を見捨て給わ ず。
六歳に亙り(わたり)、練り鍛えし腕に十二分の自信あり。唯健康に充分注意なし、轟沈の訓練に励まんのみ。
父上、母上様も御喜び下さい。軍人としての修養は只立派な死場所を得るにあります。
最後まで操縦桿を握って死ねる有難い死場所を得ることが出来、新平、幸福感で一 杯です。
亡き兄もきっと喜んでくれる事でしょう。これから轟沈の日まで日誌を続けます。
死生有命 不足論 男児従容 散大空
三月二十八日
午前新しき航空服一式支給さる。
午後、部隊長と共に熊谷へ飛行機受領に行く。御園大尉殿に今度の事を申告、御礼をのぶ。
愈々明日から轟沈の訓練の予定なり。豊崎軍曹より「愈々出発沖縄沖の戦果に期待あれ」との伝言あり。
唯命中を祈るのみ。
九八式直協同偵察機
▲陸軍98式直協偵察機[キ36]/陸軍99式高等練習機[キ55] 旧陸軍桶川飛行学校を語り継ぐ会


[ 第80振武隊 ]昭和20年4月22日~4月27日出撃
杉戸勝平大尉(栃木県出身)/川瀬明大尉(北海道出身)/高橋弘中尉(栃木県出身)
田畑與四郎少尉(北海道出身)/上成義徳少尉(鹿児島県西之表市出身)/川上喜一郎少尉(新潟県出身)
平木義範(李允範)(イ・ユンポン)少尉(朝鮮出身)/五十嵐慎二少尉(北海道出身)/永瀬一則少尉(島根県出身)
大友勉少尉(兵庫県出身)/中村鐡一少尉(大分県出身)/渡辺正興少尉(愛媛県出身)
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▲第80振武隊員の勇士。昭和20年4月22、27日に特攻出撃、12名全員戦死。
第80振武隊 平木義範(李允範)(イ・ユンポン)少尉(朝鮮出身)
大正10年12月に韓国の全羅南道で生まれた李充範(日本名・平木義範)は、昭和12年頃に日本へ移住、熊本県有明海
に面した鏡町が終の棲家になった。以来、日本で成長していった李青年は昭和14年12月、米子航養所5期生として入所
した。当時の教官は馬詰太郎。在学中、平木義範という日本名に変わった。彼の弟も特攻を志願、8月20日に出撃予定だ
ったが、終戦により出撃は無かった。李一家は、戦後、韓国へ引き上げたが「朝鮮民族の裏切り者」としての評価を受け
る屈辱を受ける事になる。


[ 第82振武隊 ]昭和20年4月22日~4月27日出撃(知覧から出撃したかは不確定)
横田利夫少尉/沼田 泉少尉/人見秀豊少尉/近藤 瑩軍曹/松元繁美伍長/山崎好一伍長
山口文夫伍長/早水一二三伍長/井上勝美伍長/見吉春雄伍長/石木操伍長/真杉尚之伍長


[ 第103振武隊 ](第二降魔隊)昭和20年4月12日~4月23日出撃
石切山文一少尉(静岡県出身)/板倉震少尉(埼玉県出身)/源善正少尉(大阪府出身)
渡邊三郎軍曹(群馬県出身)/青木俊英伍長(東京都出身)/内田新一伍長(宮崎県出身)
城所一郎伍長(愛知県出身)/滝澤泉三伍長(群馬県出身)/長家利左衛門伍長(福井県出身)
宗平誠三伍長(広島県出身)/矢島嚆矢伍長(石川県出身)/岩井定好伍長(岐阜県出身)
大野一郎少尉(岐阜県出身)/竹下政夫軍曹(5/15目達原生存)/乾太一郎伍長(5/18目達原生存)
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▲第103振武隊(第2降魔隊)隊長の石切山文一大尉。4/12、99式襲撃機で隊員10名
 と共に沖縄西方海上の偵艦船群に突入戦死。


[ 第105振武隊 ](第4降魔隊)昭和20年4月22日~5月25日97式戦闘機で出撃
林義則少尉(岐阜県出身)/中川昌俊少尉(広島県出身)
藤野道人軍曹(福岡県出身)4/22 14:40知覧出撃後、徳ノ島近海で米軍機と空中戦、墜落戦死
小野寅蔵伍長(秋田県出身)/陣内政治伍長(佐賀県出身) 
田渕哲雄伍長(長崎県出身)/服部武雄伍長(愛知県出身)
山本儀吉伍長(兵庫県出身)仲西久雄伍長(兵庫県出身)
穴田宏志伍長(5/5付第52航空師団司令部転属)/石川正美伍長(滋賀県出身)
佐藤享伍長(屋久島不時着5/8知覧ヘ前進?)/森重丈治伍長(菊池1/16?)
日下弘實伍長(広島県出身)4/22徳之島不時着4/23徳之島より単機出撃、突入戦死
※渡部利廣少尉(鳥取県出身)太刀洗平和記念館に展示されている97式戦闘機を4/14大邱
(朝鮮)から知覧に向かう途中エンジントラブルにより博多湾雁の巣沖に不時着水させた人物。4/22突入戦死
[ 渡部利廣少尉の出撃前日の日記 ]
明日はいよいよ出撃です。花々しく戦って必ず必ず敵艦をほうむります。
皆様ご安心下さい。私の心はいま日本晴れです。
お母さん、おばあさん、お父さん、おじいさん、皆様  さようなら

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▲第105振武隊(第4降魔隊)出発の申告をする隊長 林義則少尉(中央抜刀)
「亡き人の今はの際の足跡を 遺し給ひし知覧恋しく」
と知覧の慰霊祭でこの詩を詠まれた小栗楓子(ふうこ)さん(95歳)は第105振武隊隊長として4/22沖縄沖で戦死した
林義則少尉(当時24歳)の婚約者でした。小栗さんは戦後、林義則少尉を慰霊されてきました。
そして少尉が眠る沖縄の海に思いを馳せてこうおっしゃっています。
「私が死んだら、お骨は沖縄の海に沈めてほしい。あの人を捜して巡礼の旅に出るつもり。あの人に会えるかしら」
と涙をあふれさせ、言葉をつながれた。
「私はあの人のおかげで生かさせてもらった。でも今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない。あの人たちは何の
為に死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを、今の日本人は忘れてしまったのかしら」 と・・・・。

※徳之島には米軍機と交戦し撃墜された藤野道人軍曹の辞世の句碑が建立されている。
藤野道人軍曹は満洲公主嶺で特攻第105振武隊員となる。4/22徳之島トンバラ岩の海中に没した(享年21歳)
1979年、同期の第11期少飛会によって、現地に「黒潮の塔」慰霊碑が建立され、藤野軍曹が公主嶺で詠んだ辞世の
句が、翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
散華した藤野道人軍曹を陸揚げした時、曹長の腕と足はしっかり機に結んであったと、潜水夫は証言している。
陸海軍共、多くの特攻隊員は飛行機に自身をくくりつけ、失敗した時も捕虜にならない様、必ず死ぬ事を強要されて
いた。藤野軍曹は地元住民に丁重に葬られ、こうして戦死が確認された為、特攻戦死(2階級特進)ではなく、通常の
戦死として扱われている。同様の状況で戦死した特攻隊員は多数いるにもかかわらず、たまたま状況が明らかになっ
たが為にである。あまりにも機械的・事務的な対応といわざるを得ない。
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「沖縄戦」で米軍が撮影した特攻隊員の遺体。コンクリートブロックを腰に縛りつけている。
※写真の特攻隊員は藤野道人軍曹ではありません(陸海軍どちらのパイロットかは不明)
藤野軍曹の妹さんの藤野幸子さん(享年80歳)は、戦後兄の名誉を認めて欲しいと、援護局に乗り込んで行って訴えた。
それでも結局は特攻戦死者として認められる事はなかったという。あまりにも冷徹な日本国の判断である・・・。


[ 第106振武隊 ]昭和20年4月16日~5月4日出撃
清原勉大尉(京都府出身)/安田義男大尉(神奈川県出身)/石田耕治大尉(福岡県出身)
丹下寿雄少尉(愛知県出身)/河東繁少尉(朝鮮出身)/鈴木勇少尉(福島県出身)
二宮淳一少尉(大分県出身)/松原徳雄少尉(和歌山県出身)/宮之脇勇少尉(鹿児島県出身)
袴田治夫少尉(静岡県出身)/榎本孝一少尉(大阪府出身)/藤原勇少尉(静岡県出身)
尾鷲二郎少尉(福岡県出身)
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▲出撃前日、知覧飛行場三角兵舎付近の松林を背景に記念撮影する第106振武隊白虎隊(第5降魔隊)
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▲第106振武隊 袴田治夫伍長。5/4第6次航空総攻撃で沖縄西方の敵艦船に突入、戦死


[ 第107振武隊 ]昭和20年4月13日~4月16日出撃
大内清少佐(茨城県出身)/粟津重信大尉(京都府出身)/井口清大尉(大分県出身)
北村早苗大尉(長野県出身)/若林富作大尉(富山県出身)/山本恵照大尉(三重県出身)
玉澤和俊少尉(山口県出身)/渡辺市郎少尉(福島県出身)/間中進一郎少尉(茨城県出身)
新井行雄少尉(神奈川県出身)/細金政吉少尉(東京都出身)/平山巌少尉(千葉県出身)
橋本孝雄少尉(群馬県出身)/降矢誠二少尉(福島県出身)
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▲第107振武隊(第六降魔隊)97式戦闘機で4/13、16出撃、沖縄西方洋上敵艦に突入戦死。
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▲何の場面か不明だが第107振武隊員が別盃を酌み交わしている。知覧の子供達も写っている。
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▲陸軍97式戦闘機


[ 第108振武隊 ]昭和20年4月16日~4月28日出撃
真鍋照雄少尉/古賀俊行少尉/長吉恒夫軍曹/白倉聞治軍曹/渡邊次雄軍曹/川又保雄軍曹
中村正軍曹/尾白文四郎伍長/八下田孝二伍長/土屋嘉光伍長/沼田忠伍長/井花敏夫伍長
小川斉少尉/衛藤周蔵伍長(第52航空師団司令部へ転属(5/5附)/加納岩男伍長(第52航空師団司令部へ転属(5/5附)
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▲井花敏夫伍長 17歳と1ヶ月での出撃であった・・・。


[ 第109振武隊 ](第8降魔隊)昭和20年4月22日~4月28日出撃
菊池繁三郎少尉(北海道出身)/大石安一少尉(京都府出身)/助田五助少尉(福井県出身)
平塚光雄伍長(東京都出身)/武田次郎軍曹(静岡県出身)/桐山勇少尉(東京都出身)
小林米太郎少尉(神奈川県出身)
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▲菊池繁三郎少尉(左)と武田次郎軍曹。菊池少尉は昭和20年4月22日、武田軍曹は27日突入戦死。
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▲平塚光雄伍長。4月22日旧式の97式戦闘機で出撃。第4次航空総攻撃で突入戦死。


[ 第110振武隊 ](血風隊)昭和20年5月26日出撃
田中隼人大尉(福岡県出身)/大友昭平少尉(宮城県出身)/清澤廣少尉(長野県出身)
中牟田正雄少尉(佐賀県出身)/小浦和夫少尉(東京都出身)/西村敬次郎少尉(大阪府出身)
太田巌軍曹(静岡県出身)
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▲3式戦闘機の第110振武隊5/26知覧を出撃、沖縄西方の敵艦船群に突入、散華した。


[ 第111振武隊 ](若桜隊)昭和20年6月3日10:00頃出撃
鈴木泰治少尉(静岡県出身)/掛井義則少尉(広島県出身)/木村賢次伍長(千葉県出身)
近藤豊伍長(愛知県出身)/中山完弘伍長(広島県出身)/松浦幸義伍長(宮崎県出身)
渡修一伍長(徳島県出身)/若松藤夫伍長(鹿児島県霧島市出身)
牛浜 昭伍長(徳之島に不時着)/
島田昌往伍長(オイル漏れの為、徳之島面縄(おもなわ)集落の海岸に不時着。負傷した島田伍長は民家で1か月程
世話になっていたが、住民に頼んで漁船を出してもらい奄美大島に向った。その後古仁屋から出る水上機に便乗して
7/20頃内地に帰還。
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▲第111振武隊員勇士
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▲第111振武隊員。6/3第10次航空総攻撃の一隊として薄暮攻撃の為16:30、97式戦闘機で知覧を出撃。
沖縄西方海上の敵艦船に突入、散華した。

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▲中国の天津・張貴荘飛行場での出陣式を行う若桜隊、必殺隊、天剣隊(第111~113振武隊)各隊員

[ 第112振武隊 ](必殺隊)昭和20年6月3日~6月10日出撃
西崎重男大尉(東京都出身)/高村統一郎大尉(山口県出身)/福田勝治大尉(山形県出身)
新井義男少尉(群馬県出身)/北野恒雄少尉(大阪府出身)/高塚茂久少尉(大分県出身)
中野繁利少尉(佐賀県出身)/松村富治少尉(佐賀県出身)/福田治郎少尉(神奈川県出身)
杉山龍治少尉(愛知県出身)/真高郁夫少尉(鹿児島県出身)/檜山晴雄(6/3與論島ニ不時着)
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▲恩賜の煙草を吸う第112振武隊員。6/3.10日、97式戦闘機で出撃。突入、戦死。
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▲6/10第112振武隊の特攻機の突入を受け大きく傾く米駆逐艦ウィリアム・D・ポーター(USS William D. Porter)
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米軍の記録によると特攻機が舷側近くに撃墜されたが、命中はしなかったものの250㌔爆弾が水中を進んで艦底で爆発。
3時間後、写真のように右舷に傾いて沈んでいった。直接特攻機が命中しなかった事で乗組員の戦死者はいなかった。

[ 第113振武隊 ](隼天剣隊)昭和20年6月6日二式高等練習機で出撃
高野正治大尉(福岡県出身)/生駒寛彦大尉(滋賀県大津市出身)/泉田裕少尉(北海道出身)
菊池秀雄少尉(岩手県出身)/北澤丈夫少尉(長野県出身)/韓鼎實(清原鼎實)少尉(朝鮮出身)
坂口良介少尉(福岡県出身)/中島璋夫少尉(山梨県出身)/羽立光行少尉(大分県出身)
村串六郎少尉(静岡県出身)
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▲第十次航空総攻撃の出撃直前、最後の記念撮影におさまる第113振武隊天剣隊隊員6/6、97式と二式高練
 で知覧を出撃、沖縄西方海上の敵艦船に突入、散華した。著しく性能に劣る練習機での出撃であった。
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▲6月6日沖縄の敵艦船をめざして飛行中の第113振武隊の二式高練。搭乗員は中島璋夫伍長。
 本隊は別名を天剣隊と称し、垂直尾翼に描かれているのは交差した剣に日の丸を配した部隊
 マークである。3月に第五航空軍で編成され、突入機数は写真の中島機含め10機であった。
※二式高等練習機とは97式戦闘機を低馬力のエンジンに換装した練習機だ。本土決戦に備え「隼」
「飛燕」「疾風」といった主力戦闘機航空機を温存する為とはいえ、97式戦闘機でも十分旧式な上、
更に低馬力のエンジンを搭載した練習機で特攻出撃しなければならなかった隊員を想うと心が痛む。
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▲戦後、「天剣隊隊」の二式高等練習機はRS modelsからプラモデルが販売された事があった。
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▲陸軍二式高等練習機(97式戦闘機をベースにした練習機。満州飛行機にて3710機生産)
※現存機はインドネシアのサトリア・マンダラ博物館に戦後のインドネシア独立戦争で使用された機体が展示されている
99式高等練習機YouTube

[ 第141振武隊 ]昭和20年6月8日出撃
長井良夫少尉(宮城県出身)/平原太郎少尉(東京都出身)

[ 第144振武隊 ]昭和20年6月8日出撃
中島秀彦少尉(大分県出身)/岡田義人少尉(岡山県出身)/薄井義夫少尉6/19出撃(神奈川県出身)
奥澤一少尉(生還?)/松浦喜一少尉(生還?)/加藤英輔少尉(生還?)

[ 第159振武隊 ]昭和20年6月6日出撃(上記でご紹介)
[ 第160振武隊 ]昭和20年6月6日出撃(上記でご紹介)

[ 第165振武隊 ]昭和20年6月6日出撃
中川勝大尉(東京都出身)/杉本明大尉(京都府出身)/和田照次大尉(長野県出身)
渡辺静少尉(長野県出身)/枝幹二少尉(富山県出身)
園部昌光少尉(発動機不調のため負傷し終戦。戦後空将補)
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▲6/6特攻出撃前に三式戦闘機の水平尾翼に地図を広げて打ち合わせを行う第165振武隊員。
垂直尾翼には「必沈」と書かれている。
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▲第165振武隊員の6名。
後列右、プロ野球朝日軍の投手だった渡辺静少尉。出撃にあたり「野球生活八年間わが心鍛えくれし野球かな」
の言葉を残した。背番号は20であった。沖縄西方海上の敵艦船群に突入、戦死
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▲枝幹二少尉 沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
枝幹二少尉[ 遺書 ]
昭和二〇年六月三日夜
作戦命令下る。知覧飛行場を明朝出発。あわただしい中に最後と思ってペンを取る。書くことが一杯ある様で何を
書いていいのやら、園部隊長不時着して同行出来ず。
身不肖なるも隊長代理を命ぜられ重任双肩にかかる。願わくは大業見事完成出来得んことを。
ここあし屋の町は海を渡る祭礼の港町と同一なり。ふくよかになつかしき思いあり。思いはめぐる三千里。
あれこれと昔のことが偲ばれる。女々しきにあらず楽しき過去の追憶なり。
半田の事、名古屋の事、東京の事、富山の事。父上様 母上様 色々有難うございました。
別に言うことはありません。最後の時まで決して御恩は忘れません。月なみな事しか出来ません。
姉妹の皆さん、いよ々本当にお別れ。今でも例のごとくギャーギャー皆とさわいでいます。
哲学的な死生感も今の小生には書物の内容でしかありません。
国のために死ぬよろこびを痛切に感じています。在世中お世話になった方々を一人一人思い出します。
時間がありません。ただ心から有難うございました。笑ってこれから床に入ります。オヤスミ
あんまり緑が美しい、今日これから死にに行く事すら忘れてしまいそうだ。
真青な空。ぽかんと浮かぶ白い雲。六月の知覧はもうセミの声がして夏を思わせる。
作戦命令を待っている間に小鳥の声がたのしそう「俺もこんどは小鳥になるよ」
日のあたる草の上にねころんで杉本がこんなことを云っている。笑わせるな。本日一三時三五分
いよいよ知ランを離陸する。なつかしの祖国よさらば。使いなれた万年筆を“かたみ”に送ります。


[ 第179振武隊 ](顕正隊)宮崎県都城東飛行場より出撃
金丸亨少尉/江副保郎少尉/西郡榮軍曹(?)/太田外茂行伍長/松尾秀雄伍長/浜田齊伍長


[ 第180振武隊 ](天翔隊)昭和20年7月1日宮崎県都城東飛行場より出撃
木下武彦大尉(大阪府出身)/村木伊三男曹長(秋田県出身)/新田祐夫伍長(島根県出身)
宇佐美輝夫伍長(福島県出身)
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▲第180振武隊天翔隊の宇佐美輝夫伍長(右)と新田祐夫伍長。7/1(06:10)四式戦闘機で出撃。
慶良間泊地の敵艦船に突入、戦死。この特攻をもって、第六航空軍の沖縄特攻作戦は終了した。

※宮崎県都城飛行場から特攻出撃した部隊に「特別振武隊」という名の特攻隊があった。
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▲昭和20年4月12日、都城西飛行場より出撃する「特別振武隊」の陸軍4式戦闘機「疾風」(はやて)
 飛行部隊が都城に配置された当初は、特攻作戦の準備が十分整っておらず、特攻隊員が少なかった為、直掩護隊
 だった第101/102戦隊から11名が志願し、特攻隊員となった。初めから特攻隊として編成された隊では無く都城
 において第101/102戦隊人員や飛行機を用いて急遽編成された隊であった。「特別振武隊」戦死者は下記の通り。
[ 飛行第101戦隊 ]昭和20年4月6日~4月12日都城より出撃
田中二也少少尉/友枝幹太郎少尉/浜谷理一少尉/孖谷毅軍曹/上津一紀伍長/斉藤信雄伍長
[ 飛行第102戦隊 ]昭和20年4月6日~4月12日都城より出撃
金沢武要少尉/林弘少尉/林玄郎少尉/伊藤二郎少尉/石賀兵一伍長
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▲昭和20年4月12日都城西飛行場から出撃直前の「特別振武隊」伊藤二郎少尉(右)と斉藤信雄伍長。


[ 第193/194振武隊 ]出撃基地(成増陸軍飛行場で編成、館林飛行場で終戦を迎える)
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[ 第213振武隊 ]昭和20年5月28日97式戦闘機で出撃(第11次総攻撃)
小林信昭少尉(発動機不調のため宝島に不時着)
松下貞義伍長(鹿児島県出身)/蘆田愼一伍長(広島県出身)/日向登伍長
小椋忠正伍長(戦闘機不備により出撃できず)/佐藤壮子次伍長(徳之島に不時着→6/19福岡)
※板津忠正伍長(5/26 5:31出撃、エンジン故障で徳之島海岸に不時着。知覧特攻平和会館初代館長)
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 ▲板津忠正伍長は戦後の昭和59年7月要請を受け知覧特攻平和会館事務局長、昭和61年新館建設と同時に
 初代館長に就任。昭和63年に特攻で亡くなった全ての方の資料収集する為に退職。
 約30年にわたり全国の特攻隊員の遺族を訪ね、自らが最後に見た仲間の様子を伝えると共に、遺影や遺書など
 の収集にあたり、平成7年知覧特攻攻撃で亡くなった1037人全員の遺影を集める。2015年4月6日90歳で死去。
 元特攻隊が語る戦争と特攻の真実知覧特攻平和会館初代館長「板津忠正」さんYouTube
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▲第213振武隊(左6名)第214振武隊(右6名)。両隊共97式戦闘機で出撃。


[ 第214振武隊 ]昭和20年6月3日~6月10日出撃
橋正豊次伍長(石川県出身)/佐々木暹伍長(島根県出身)/谷口積男伍長(鳥取県出身)
深田末義伍長(鳥取県出身)/金井良吉伍長(群馬県出身)/當山幸一少尉(隊長)
6/3第六航空軍は第10次航空総攻撃を発動10:19當山隊長/谷口/深田/佐々木/橋正各伍長は2知覧出撃、発動機不調
の為、當山隊長は沖永良部島に不時着大破、谷口伍長以下4名は沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。
6/10,05:10金井良吉伍長が知覧出撃、沖縄西方海上の敵艦船群に突入戦死。


[ 第431振武隊 ]昭和20年5月27日~6月3日二式高等練習機で出撃
紺野孝少尉(茨城県出身)/鮏川林三少尉(茨城県出身)/橋之口勇少尉(鹿児島県出身)
広岡賢載少尉[ 李賢載 ]イ・チョンヒェイ(朝鮮出身)/渡辺鋼三少尉(栃木県那須塩原市出身)
堀川義明大尉(群馬県出身)/金田光永少尉(朝鮮出身)岡澤實少尉(香川県出身)

[ 第303振武隊 ]太刀洗南飛行場
東山修二少尉/遠藤謹一軍曹/伊藤豊伍長/藤井與一伍長/高木泰次郎伍長/土田昭二伍長
本間蔵三伍長/小林雄吉伍長
特攻任務は、建前上は志願制を採っていたが、実際は兵士に有無を言わさぬ、強制的なものであった。
現実には形式上は志願という形をとりながらも、殆ど命令によって有無をいわせず編成した場合が多いのではあるまい
か。また、確かに志願書は提出したが、どうしても反対の意思表示ができないような雰囲気の中に追い込んでから書か
せたとか、あるいは志願しない者があると、個別に呼んで説諭し、無理矢理志願させた例もあったと聞いている。
その結果は100%志願として報告され、その隊の成績は高く評価される。これが逆に志願者が100%を欠くと、その隊
の指揮が低下していると評価され、時には隊長の責任まで問われる。だからどの隊でも無理してでも志願率100%に
しようとし、ずいぶんと阿漕な手段を講じた隊もあったという。
沖縄方面航空作戦では、99式高等練習機や二式高等練習機、あるいはそれらと同程度の性能の97式戦闘機、97式系爆
撃機、98式直協偵察機、99式襲撃機などの旧式機が、続々と機体の塵を払って出撃していった。
ある特攻隊員は「こんな脚の引っ込まないヤツに乗っていったら、アメ公さぞ笑うだろうなあ」
と、淋しげに自嘲しながら出撃していったという。こんな飛行機では、まさに犬死である。敵の対空砲火や戦闘機の射
撃訓練の標的になりにいくようなものである。(元第303振武隊、東山修二氏の証言)

[ 第304振武隊 ]太刀洗南飛行場
大槻浩少尉/雄勝金司軍曹/松田政次伍長/岡田忠公伍長/笹木守兵長/上野主計兵長
濱野政一兵長/吉野登志男兵長

[ 第501振武隊 ]太刀洗南飛行場
昭和20年8月大刀洗南飛行場には第501振武隊8名/303/304振武隊16名。24機の一式双発高等練習機が、特攻出撃
を待っていた。第501/303/304振武隊に特攻命令が下りる、出撃日時は昭和20年8月15日午後6時。
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▲(参考画像)一式双発高等練習機。
高松秀明少尉以下8名の501振武隊、上野伍長が所属する304振武隊を含め、大刀洗にいた特攻隊員達は、正午の玉音
放送によって、特攻出撃直前で終戦を迎えた。
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▲上野主計(うえのかずえ)元陸軍伍長(福岡県出身)大正15年4月21日生(大刀洗平和記念館で講演会もされています)
第501振武隊高松秀明少尉以下8名は張りきっていた。運命の8月15日早朝、整備隊の候補生が、偶然にもハワイか
ら発信されている電波を機上無線で、日本が無条件降伏した事を傍受していた。そして正午、天皇陛下による玉音放
送が流れた直後に、打ち合わせていた手筈通りに、ずらりとランプに係留中の爆装した一式双発高等練習機のタイヤ
の空気を抜いてまわり、暴動を回避するために、近くの雑木林へ姿を消した。
玉音放送が終わると、案じていた事が起こった。「何だ?降伏したのか!そんなバカなことがあるもんか!」
「オレは絶対に信じないぞっ!!」戦隊本部で玉音放送を聴いていた特攻隊員達に衝撃が走った。
本部は大混乱になった。出撃予定の午後6時を過ぎても何の指令もない事に、ついに特攻隊員たちは激昂した。
「隊長が行かないなら、俺1人でも出撃する!」特攻隊員達は宿舎を飛び出した。
しかし特攻機は全機のタイヤの空気が抜かれ、無残な姿を晒していた。
「飛行機が壊されている!」「いったい誰の仕業だっ!」日本刀を引っさげて飛行場大隊へ取って返した。
そこには元木大佐が待っていて、命がけで彼らを説得した。日暮と共に、ようやく特攻隊員達の激しい怒りと哀しみ
が収まろうとしていた。昭和20年5月6日501振武隊が組織されて以来、死と向かい合って明け暮れた104日間の悪
夢から開放された瞬間だった。
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▲陸軍一式双発高等練習機 (平成24年8月十和田湖から引き揚げられた機が青森県立三沢航空科学館に展示されている)
第一線で戦う種類の軍用機ではなく、練習機として又は輸送多用途機として活用された。
軍の要請により昭和14年(1939)から立川飛行機が開発・製造し、計1,342機が作られた。
(東條英機内閣総理大臣(兼陸軍大臣)の国内移動にも使用されたと言われている)

多くの若者の命が失われた日本陸海軍による特攻作戦だが、アメリカは、特攻に関する詳細な情報を総合的に把握
していた。まずは暗号解読で特攻機来襲の日時と場所、更にはレーダー網で約30分前には特攻機来襲を察知する。
肉眼で飛行機を発見するのは15km先が限界だが、レーダーにより160km先での発見が可能になり、グラマンやコ
ルセアなどの艦載機を徳之島や奄美大島周辺に大挙出動させ、特攻機を待っていた。6月半ばともなると、沖縄の飛
行場に配備された米軍機は400機以上である。
沖縄戦における陸軍航空特攻隊の犠牲者数は、知覧特攻平和会館によると1036人。
日本側の「戦史叢書」によると陸軍890機、海軍972機の特攻機が米艦隊に突入したとされているが、アメリカ側の
「第二次大戦米国海軍作戦年誌」によるとその被害は沈没11隻、損傷161隻。しかも沈没した艦船はほとんどが駆逐
艦で、戦艦、空母、巡洋艦などの大型艦船は含まれていない。犠牲者数の多さと戦果の少なさに、呆然とする。

▼富屋食堂(映画[俺は、君のためにこそ死ににいく][ホタル]の舞台)を復元した資料館「ホタル館」が建っている。
 出撃前夜に第51振武隊光山文博少尉(朝鮮出身)が鳥濱トメに託した形見の財布はここで大切に保管されている。
富屋食堂
▼当時の富屋食堂
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▼知覧には多くの「昭和」が残っています。
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戦場の「なでしこ隊」と題してフジテレビで放送されたドラマですが、事実とは少々異なる方向で特攻隊員の事を伝え
ている様な気がしました。「なでしこ隊」は実在し、素晴らしい活躍をされました。
ご存命の方もおられます。戦争を知らない世代が歴史や事実を捏造してはいけません。
特攻隊員の気持ちは英霊の隊員にしか解らないのです。「日本の為・家族の為に戦ってくれた」それ以上でもそれ以下
でもないと思います。「なでしこ隊」には特攻の母「鳥濱トメ」さんの次女、鳥濱礼子さんも加っていました。
真実は語っておられると思いますが、少なくとも日本において、過去の戦争に関して事実を捻じ曲げて世論操作したり、
捏造したりするのはもっての他だと思います。全ての英霊に感謝する事がまず先で、事実をありのままに伝え、それを
知った上での感想は我々日本国民個々それぞれの自由だと思います。
戦争へ行った人・行かされた人。皆さん気持ちは違うはずです。
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▲整備兵や女子挺身隊員と一緒に写る振武隊特攻隊員達(知覧で撮影されたとされる)


陸軍の特攻作戦では本土防衛の為に陸軍のあらゆる戦闘機で特攻と同じ様なB-29への体当たり攻撃が敢行さ
れた。陸軍義烈空挺隊や薫空挺隊は、空挺部隊を乗せた爆撃機が敵飛行場に強行着陸して破壊活動を行い、
敵機が使用不能となった間に沖縄周辺のアメリカ艦艇に航空特攻攻撃を行う。この作戦において陸軍空挺隊
は生還出来ない特別攻撃を敢行している。また、沖縄戦に参加した陸軍特攻隊も振武隊だけでは無い様だ。
全て把握している訳ではないが、宮崎県にあった陸軍新田原飛行場からも沖縄へ向け特攻機が出撃している。
出撃した特攻隊は、昭和20年4月1日に誠第39飛行隊の6名、3日に誠第32飛行隊の6名、6日に誠第36飛行
隊の10名、誠第37飛行隊の9名、誠第38飛行隊の7名の特攻隊員38名が出撃。
また、新田原から他の飛行場を経由して出撃した富嶽隊、第32飛行隊、誠第41飛行隊の特攻隊員は33名。
これらの新田原飛行場から飛び立った特攻隊員71名全員が戦死している。昭和20年4月6日出撃記録の中に
(陸軍第8飛行師団)
陸軍特攻誠第36飛行隊/98式直接協同偵察機10機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)角田乾太郎中尉(神奈川県出身)/片山佳典中尉(香川県出身)/北村正中尉(宮城県出身)
高島弘光中尉(香川県出身)/小川二郎伍長(千葉県出身)/森知澄伍長(和歌山県出身)/峯保昌伍長(長崎県出身)
岡部三郎伍長(香川県出身)/細木章伍長(島根県出身)/貴志泰昌伍長(和歌山県出身)

陸軍特攻誠第37飛行隊/98式直接協同偵察機9機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)柏木誠一中尉(東京都出身)/小林敏男中尉(23歳)茨城県出身/佐々木秀三中尉(岩手県出身)
藤澤鉄之助伍長(岡山県出身)/小屋哲郎伍長(鹿児島県出身)/玉野光一伍長(山口県出身)
赤峰均伍長(大分県出身)/百瀬恒男伍長(長野県出身)/入江寛伍長(山口県出身)

陸軍特攻誠第38飛行隊/98式直接協同偵察機7機 昭和20年4月6日新田原飛行場より出撃
(隊長)喜浦義雄少尉(鹿児島県出身)/小野生少尉(大分県出身)/蕎麦田水少尉(栃木県出身)
高橋勝見伍長(岩手県出身)/水畑正国伍長(長野県出身)/石川寛一伍長(千葉県出身)/松井大典伍長(奈良県出身)

がある。上記の3隊は旧式固定足、しかも偵察機である98式直接協同偵察機で出撃している。
沖縄県北部の沖合、沖縄本島北部から橋で渡っていく古宇利島の沖、水深40M付近に、特攻機の突入を受けた
米軍掃海艇駆逐艦エモンズが沈んでいる。5機の特攻機の突入により航行不能となったエモンズは、乗組員276
人中、行方不明者を除いた全ての米兵救助後に秘密漏洩を防ぐ為に4/6米軍自らの手によってに沈められた。
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▼▲米軍掃海艇駆逐艦エモンズ
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2001年地元のダイバーの調査によって公表された。船体はほぼ原形をとどめ、巨大な主砲、スクリュー、ソナー、
機銃や兵士のヘルメットなども当時のま­まの姿で海底に横たわっている。(60名の米兵が戦死、77名負傷)
海底のエモンズ周辺に散らばる残骸の中に車輪・エンジン・プロペラがあった。この部品が98式直接協同偵察機
の物である事が解り、4/6新田原より出撃した98式直接協同偵察機 26機の内の誰かである事が解った。
エモンズに突入した特攻機の調査は今も続いている。お名前が判明する事を切に願う。
以来、毎年6/23沖縄全戦没者追悼の慰霊の日に、嘉手納のダイビングショップのダイバー達が、海中の特攻機の
エンジンに日の丸をかけ、献花を続けていらっしゃるとの事。彼等の調査で特攻機の所属部隊が判明したそうだ。
▼陸軍98式直接協同偵察機
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同日、米輸送艦カスウェルにも特攻機(98式直接協同偵察機)が命中している。
陸軍特攻誠第36飛行隊/岡部三郎伍長(戦死後陸軍少尉に特別昇進)だ。4/6新田原を出撃した岡部三郎伍長の98式
直接協同偵察機はカスウェルに突入。しかし250㌔爆薬は不発。輸送艦カスウェル艦長は海に投げ出された操縦士
(岡部三郎伍長)を艦上に引き揚げ、死亡を確認した後水葬にした。その際、軍医のブラッケン海軍中尉が、操縦士
の額に締められた血染めの鉢巻きをアメリカに持ち帰り、身元不明のまま保管し続けた。
昭和34年、米国に滞在中だった慶応大学の故外山敏夫助教授(後に名誉教授)に、戦後テネシー州ナッシュビル市
パンダビルト大学医学部に勤務していたブラッケン博士が「ぜひ遺族に返して欲しい」と外山教授に鉢巻を託した。
鉢巻きの生地には大きく「京養出身」と書かれ、当時15~16歳の少年達20名以上も名前を連ねていた事から
京都航空機乗員養成所の教官を務めた経験のある岡部伍長が、当時の教え子たちから貰った寄せ書きだと判明。
このことが日本の新聞に報道され、鉢巻に寄せ書きをした通信省筑後航空機乗員養成所本科5期生(京都養成所の
廃止に伴い筑後に移転)の眼に触れ、鉢巻の主が元京都航空機乗員養成所の教官で、誠第36飛行隊岡部三郎伍長
であることが判明し、鉢巻は遺族に返された。その後、鉢巻は岡部の教え子たちの手に渡り、現在は知覧特攻平
和会館に保管展示されている。

新田原飛行場から飛び立った特攻隊員の中に結城尚弼(金尚弼)少尉キム・サンピル(朝鮮出身)がいた。
結城尚弼(金尚弼)少尉の話は有名なので最後にご紹介したいと思う。
結城少尉は朝鮮併合後の大正九年(1920)に現在の北朝鮮内にあたる平安南道にて生まれた。
昭和18年(1943)ソウルの私立延禧専門学校を卒業し、大刀洗陸軍飛行学校隈之庄分校の特別操縦見習士官
一期生に合格。柔道・剣道に優れ、操縦はトップの成績だった。
満州綏中第23教育飛行隊から満州敦化飛行隊に配属されて各地を転戦。昭和20年(1945)2/11満州で編成さ
れた誠第32飛行連隊に志願して特攻隊への配属が決まった。
実兄から逃げるように説得されたものの、結城少尉(金尚弼)は兄にこう言ったという。

「自分は朝鮮を代表しているから逃げたりしたら祖国が笑われる。多くの同胞が一層の屈辱に耐えねばならなくなる」
「僕は日本人になりきって日本の為に死のうとしているのではありません。そこは良く解ってほしい。日本を勝利に導
き、その暁には我々の武功を認めさせて独立に持っていくのです。日本が強くなればなるほど地下の独立運動は無力
になりますから、それより日本に協力して独立を勝ち取る方が確かだと思います。」
「日本人が憎くない、と言うと嘘になりますが、 僕は少年飛行出身の部下を連れて行きますし、佐藤曹長には機体の整
備を親身にしてもらいました。戦友や部下達とは一心同体であり、そこに民族の壁はありません。
民族の魂は売り渡していません。朝鮮の魂で頑張ってきました。僕の考えはきっと御先祖様も許してくれる筈です。」

こう言い残し昭和20年4月3日宮崎県の新田原基地より沖縄へ向けて出撃、突入24歳の命を散らした。
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▲金尚弼(結城尚弼)少尉 昭和20年4月3日誠第32飛行隊第5編隊長として新田原基地より出撃。
 沖縄西方洋上で突入戦死。享年24歳 
昭和20年4月3日金尚弼と共に出撃した6名
結城尚弼(金尚弼)少尉/小林勇少尉/時枝宏軍曹/古屋五朗伍長/佐藤正伍/佐藤英実伍長

戦争末期、激しい爆撃を受けた新田原飛行場は機能が停止。残存部隊の挺進飛行隊は朝鮮(現北朝鮮)へ移動。
ソ連軍の進攻に遭遇し、終戦後多数の隊員がシベリアに抑留された。

▼新田原飛行場跡(現・航空自衛隊新田原基地)には現在も状態の良い掩体壕が4つ残っています。
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※昭和13年(1938)朝鮮人志願兵を募集。定員400人に対して2946人が応募。以後のデータは下記の通り。
 昭和14年(1939) 12348名志願→ 613名合格
 昭和15年(1940) 84403名志願→3060名合格 
 昭和16年(1941)144743名志願→3208名合格
 昭和17年(1942)254273名志願→4077名合格
 昭和18年(1943)303394名志願→6300名合格

 合格して日本軍と共に戦った朝鮮人兵士は特攻隊員だけでは無い。軍属・陸戦他さまざまな戦地で台湾兵同様、
 勇敢に戦ってくれている。日米激戦で有名な「硫黄島の戦い」でも朝鮮人軍属はまともな武器もない中、勇敢
 に戦った事が記録されている。爆雷を抱いて敵戦車に突入した者も1人や2人ではなかったと言う。


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▲第八航空総攻撃のため知覧に集合した特別攻撃隊隊員。この攻撃で陸海軍は航空兵力の全力を集中。
義烈空挺隊12機、陸軍特攻機100機、海軍特攻機80機、陸軍重爆22機、海軍爆戦24機、雷撃機30機、
中攻4機、神雷部隊10機の計282機を投入。

※当時知覧基地で高射砲団の中隊長をしていたのが南海ホークスの黄金時代を築いた名監督「鶴岡 一人」さんだった。
 鶴岡氏は知覧基地で毎日特攻機が出るのを見ていたそうだ。知覧に空襲に来るグラマンを高射砲で撃ったが、なかな
 か当たらなかったと語っておられる。現在、知覧基地高射砲陣地跡には「益田隊戦没者慰霊碑」が設置されている。


当時同盟国ドイツでも特攻隊が存在した。日本同様追い詰められたドイツも多くのベテランパイロットを失い、特別攻
撃に参加したのは若いパイロットだった様だ。日本との大きな違いは生還を前提にした特攻攻撃だったという事だ。
エルベ特別攻撃隊①


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2012_11_20




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WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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