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今日は74年前の1941年12月8日、日本時間1941年12月8日未明ハワイ時間12月7日、休日である
日曜日を狙い、ハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海
軍が航空機及び特殊潜航艇による攻撃を仕掛けた、いわゆる「真珠湾攻撃」の日です。
日本陸軍は日本時間12月8日未明に、イギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近。
午前1時30分(日本時間午前2時15分)に上陸し、海岸線で英印軍と交戦し(マレー作戦)イギリス・
アメリカ政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれました。
74年前の今日、あの3年8ヶ月に及ぶ日本人にとって地獄の太平洋戦争が始まったのです。
パールハーバー「日米の運命を決めた日」
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▲当時のパールハーバー空撮
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▲1941年12月8日 ハワイ真珠湾にて攻撃を受ける直前のアメリカ戦艦群(日本軍機から撮影)
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▲真珠灣攻撃当実の日本海軍機から撮影されたフォード島周辺。島の右側にバトルシップロール(戦艦列)に1つの大きな
水しぶきが写っている。97式艦上攻撃が投下した魚雷が米戦艦ウェストバージニアに命中した瞬間である。
その隣に写る黒い点の物体は飛行中のゼロ戦だ。

「甲標的」という兵器をご存知でしょうか。山本五十六率いる連合艦隊の空母機動部隊艦載機が真珠
湾を爆撃した事は良く知られていますが、同日に真珠湾内に決死の突入をした「甲標的」。
これは日本海軍が開発した特殊潜航艇です。
真珠湾は潜水艦の侵入を防ぐ為にネットが張り巡らされていた。その潜水艦を防ぐネットを破る為に
「8の字型のネットカッター」があった。艇首(魚雷発射装置部分)に付いている8の字型の物がそ
れである。当日朝5時8分、米掃海艇クロスビルが真珠湾外から帰還した際に網が開かれていた。
直ぐ後に米貨物運送艦アンタレスと大型曳船ケエサンカの2隻が入港予定だった為しばらく開けっぱ
なしにされていた。その為日本軍特殊潜航艇「甲標的」2隻が湾内に潜入成功した。
(横山正治中尉 / 上田定2曹艇)と(岩佐直治大尉 / 佐々木直吉1曹艇)と推測されている。
真珠湾内に潜入して海底で待機し、日本軍飛行隊の空襲後に行動を開始し、飛行隊が打ち漏らした敵
艦を装備している2本の魚雷で攻撃、その後、湾外に脱出する計画だった。
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真珠湾を攻撃に参加した「甲標的」は5隻。「甲標的」の搭乗員は2名、出撃した5隻、
(10名)の搭乗員のうち戦死したのは9名。1人が捕虜となりました。
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▲グアム島グアム太平洋戦争国立歴史公園資料館に展示されている「甲標的」
(グアム島太平洋戦争国立歴史公園資料館へ行った時はハワイでその様な攻撃があった事を知りませんでした)

人間魚雷「回天」の様な、体当たり自爆特攻ではないが、決死の「特別攻撃隊」として編成された。
1941年11月18日午後8時、「甲標的」を搭載した大型巡洋潜水艦丙型の伊号潜水艦の4隻が、広島県倉橋島からハワイ
真珠湾へ向けて出港した。1隻は搭載する「甲標的」の転輪羅針儀(ジャイロ・コンパス)が故障の為、翌19日午前2時
16分出港した。各伊号潜水艦は、昼間は潜行、夜間は水上航行でハワイを目指した。開戦2日前の12月6日の日没までに
真珠湾口から185㌔圏に到達し、夜間に浮上して「甲標的」発進準備を完了した。酒巻艇のジャイロ・コンパス不具合は
改善されなかった様だ。開戦前夜、5隻の母潜水艦は湾口を包むように逆扇型の隊形に並んでいていた。湾口までの距離
は10~23㌔であった。そして現地時間12月7日、5隻の母潜水艦から5隻の「甲標的」が真珠湾内に向かって発進した。
そして酒巻和男少尉を除く9名の搭乗員が帰らぬ人となり、「軍神」になった・・・・。

▼特別攻撃隊「甲標的」5隻(10名)の搭乗員。
甲標的(伊22搭載 岩佐直治大尉 / 佐々木直吉1曹) 01時16分出撃
甲標的(伊16搭載 横山正治中尉 / 上田定2曹) 0時42分出撃
甲標的(伊18搭載 古野繁実中尉 / 横山薫範1曹) 02時15分出撃
甲標的(伊20搭載 広尾彰少尉 / 片山義雄2曹) 02時57分出撃
甲標的(伊24搭載 酒巻和男少尉 / 稲垣清2曹) 03時33分出撃
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▲当時、下列一番右の酒巻和男少尉は黒で塗りつぶされていた。
空母機動部隊の艦載機による真珠湾空襲前に「甲標的」が米軍哨戒機に発見され、米海軍駆逐艦に攻撃されています
決死の覚悟で出撃した甲標的の搭乗員10名は賞賛された。しかし酒巻和男少尉は捕虜となったため、酒巻和夫少尉を
除く1名少ない9名のみが「軍神」として称えられた。
捕虜となった酒巻和男少尉は自決も考えたが、思いなおして生きる道を選んだ。(2度の自殺未遂記録が残っている)
収容所に日本の敗戦が伝わると、絶望して自殺する捕虜が続出。そうしたなかで酒巻少尉は自決を叫ぶ日本兵捕虜を
説得し、大勢の日本人の命を救った。
捕虜収容所では、通訳としても働き、米軍側から賞賛された。彼の捕虜としての態度は立派なものであり、アメリカ
軍の軍人達も感心したという話は有名である。
その後、ハワイや米本土の捕虜収容所での生活を経て1946年1月に浦賀へ帰国。浦賀の復員局で米軍の捕虜服を日本
海軍の服に着替えて、郷里の徳島へ無事に生還した。
そしてトヨタ自動車に入社。輸出部次長などを経て、同社のブラジル現地法人の社長に就任。ブラジルの日系商工会
議所専務理事も務めた。その後トヨタの関連会社社長を勤めあげたた後、1987年退職。
酒巻さんは、戦友の集まりには積極的に顔を出したが、戦争ついては多くを語らず、また捕虜生活については口を閉
ざしたままだった。1949年に発行の著書「捕虜第1号」で「潔く死を選ぶのが正道だとも考えた」「捕虜になったか
らといって何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言い得るのであろうか」と、苦悩を記している。
(同書は後に英訳され、『私は真珠湾を攻撃したか』)の題名で出版された)。
1999年11月29日愛知県豊田市にて81歳で死去。

▼「軍神」と称えられた9名の「甲標的」搭乗員。(捕虜になった酒巻和男少尉は除外されている)
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ハワイ作戦に選別された10名の「甲標的」搭乗員は、いずれも地方出身者であり、都会出身者は1人もいない。彼等
の大半は農家出身で、子だくさんのなかで育ち、貧しく、寡黙で、剛毅木訥型だった。航空機による特攻作戦で命を
捧げた若者達の多くも「軍神」として称えられているが、必ずしも心から軍隊を志願した若者ばかりでは無い。
貧しい家計を助ける為に現金収入を得られる軍隊に身を投じた若者が少なくない事も忘れてはいけない。
ハワイ真珠湾攻撃で軍神扱いされたのは特殊潜航艇「甲標的」による「特別攻撃隊」隊員だけではない。
空母6隻を中心とする機動部隊による艦載機攻撃では、未帰還機29機(搭乗員55名戦死)の損害が出た。
その中でも勇敢な行為(敵艦や敵航空施設に体当たり自爆した機体の指揮官7名ほど)は、勇気と戦功を評価され、
戦死後二階級特進の扱いを受け「軍神」と称えられ、特に「海鷲三士官」として勇猛さを称えられたのは以下の3名
牧野三郎海軍大尉(海兵60期、空母「加賀」艦爆隊)
飯田房太海軍大尉(海兵62期、空母「蒼龍」艦戦隊)カネオヘに自爆、海兵隊基地内に米軍は墓を作り現在も有。
鈴木三守海軍大尉(海兵65期、空母「加賀」雷撃隊)最後の雷撃機編隊として速度を落として突入、全機未帰還。

開戦当初の体当たり自爆は、決して命じられた自爆攻撃ではないが、航空機搭乗員が帰還できない状況に陥った時に
捕虜とならない為には「自爆するしかなかった」日本軍は不時着した航空機の搭乗員を捜索・救出・救護する装備も
兵器も不足していたのも事実で、間違った教育が勇敢な若者を自爆の美学に導いた事は否定できない。

▼1945年(昭和20年)には5人乗り「甲標的」が開発され、「蛟龍」(こうりゅう)として呉の海軍工廠や長崎造
 船所で大量産された。大戦末期には正式な出撃記録は確認出来ていないが、「水中特攻部隊」として出撃を待っ
 て終戦を迎えた多くの若者隊員がいた事も忘れてはいけません。元隊員の証言に、「整備に戻ってきても、もう
 積む魚雷は残っていませんよ・・・。」と言われ、出撃後は2発の魚雷を発射した後は3発目として自爆するしか
 無かったとの事を語っておられます。
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「甲標的」は「人間魚雷回天」とは異なり、当初は母艦に回収されることが前提であったが、「甲標的」による攻撃
方法を踏まえれば決死の特攻兵器である。「甲標的」単独での攻撃では、魚雷2射線に過ぎないので命中率は低く、
攻撃目標に肉薄しての攻撃となる。しかし運動性能も通信能力も貧弱であると共に魚雷発射後に「甲標的」が水面上
に飛び出してしまうという欠点があった。船首の魚雷が無くなって重量が軽くなり、魚雷発射後は船体前半が浮上し
てしまい、敵艦から発見されてしまう。米軍艦艇は単独ではなく、編隊を組んでいるいるから攻撃目標以外の艦艇や
上空哨戒機から発見され、攻撃されてしまうのである。
日本海軍では落下傘も、航空機搭載用の救命ゴムボートも実用化されていた。しかし、搭乗員救出のための航空機、
潜水艦などの艦艇はほとんど準備されていなかった。真珠湾攻撃の際も、不時着救出地点が前もって決めてあったが
救出できた搭乗員は一人もいない。搭乗員と救出部隊の合同訓練も実施されていないし、緊急時の脱出・救出の訓練
も全く行われていない。日本軍にはまっとうな搭乗員救出計画などなかったのである。
「捕虜になってはいけない」 結局はいざとなれば 自爆/自決 するしかない状況に陥るのである。

真珠湾攻撃に参加した5隻の「甲標的」がその後どうなったかは下記の通りです。
【1隻目】(伊24搭載 酒巻和男少尉 / 稲垣清2曹)艇体番号HA-19(ハ-19)
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▲▼真珠湾の裏側であるワイマナロ湾に座礁した「甲標的」酒巻艇。
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捕虜となった酒巻和男少尉と稲垣清2曹の乗る「甲標的」は、ジャイロ(羅針儀)が故障していたが「千才一遇の好機
を逃したくない」と午前3時33分真珠湾の湾口202度、10.5海里の地点から強行出撃。
ジャイロコンパスが無い状態で座礁と離礁を繰り返している中、米駆逐艦「ヘルムUSS Helm」に発見され、爆雷を受
け、座礁を繰り返しながらも湾内に侵入し、米戦艦ウェストバージニアと、オクラホマに発の魚雷を発射、うちオクラ
ホマへの1発が命中、この被害がオクラホマへ転覆の原因になったとされている。
オクラホマへの攻撃終了後、真珠湾とは東の反対側のオアフ島ベローズ海岸沖に漂着。自沈(爆破失敗)させて2人共
夜の海へフンドシ一本で飛び込んだ。酒巻少尉は翌朝、意識不明で海岸に打ち上げられているところで日系二世のデイ
ヴィド・M・阿久井軍曹に捕らえられ、日本人捕虜第1号になった。稲垣清ニ曹は溺死遺体で収容されたとあるが、人
食い鮫にやられたという説もあり、真相は解らない。(稲垣清2曹は日本で9名の軍神の1人として称えられた)
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▲その後米軍に引き揚げられ、
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▲▼徹底調査後、再度組み立てられて、トレーラーに載せられ見世物にされた。
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ニックネームは、「東條の葉巻」
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▲▼アメリカ本土の各地で公開され、ルーズベルト大統領も見物したという。
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▼戦時国債購入を奨励する宣伝に使われ、6000万ドル以上の戦時国債を売ったという。
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▼戦後1947年~1991年までフロリダで展示された後1991年にテキサス州フレデリ
ックスバーグ市の国立太平洋戦争博物館へ移された。
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▲終戦後帰国した酒巻和男さんは1991年当地での会合に参加し、自身が搭乗していた
「甲標的」 艇体番号HA-19 に再会し、涙したそうです。
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▲現在は同博物館のジョージ・ブッシュ・ギャラリーに。
オアフ島沖合で潜水母艦伊24からまさに発射されんとする状態を模した形で展示
されているとの事です。(見学しに行きたい・・)

※現在、上記で紹介した米国立太平洋戦争博物館に、中国系団体及び在米中国商工会議所等から同博物館に対して、
中国政府の主張に添った展示をするよう度重なる要請が行われているという。
この博物館は米国国立博物館であるが、日本を一方的に悪者にするような展示ではなく、原爆投下の理由を除いて、
日本人が見学しても十分納得出来る極めて客観的フェアな展示をしている。
フレデリックスバーグ市は、テキサス州都オースティンの近くにある人口1万人の小さな市だが、太平洋戦争当時の
米国連合艦隊司令官ニミッツ提督の故郷であり、ニミッツ提督記念館が建立され、年月を経て今日の米国国立太平洋
戦争博物館となった。ニミッツ提督は、ハイレベル軍人特有の冷静かつ客観的能力に優れ、フェアな人物だった様で、
だからこそ米国海軍の最高責任者に任命されたのだろう。陸軍のマッカーサー元帥と並んで、米国の英雄である。
ニミッツ提督は日露戦争の帝国海軍司令官・東郷平八郎元帥を軍人として尊敬していて、日本に駐在していた時には
東郷元帥の葬儀に参列していたことを、生涯誇りにしていた程である。
ニミッツ記念館には東郷平八郎元帥の巨大な肖像画が掛けられ、軍刀まで飾ってあるという。
更に、日露戦争の日本海海戦の旗艦「三笠」が、太平洋戦争敗戦の混乱時に日本でスクラップされそうになった事を
知り、当時の文芸春秋に寄稿して「三笠」の重要性を広く訴えると共に、自著の印税を「三笠」の保存に拠出した。
ニミッツ提督は誠にフェアな最高級海軍軍人なのだ。
(現在戦艦「三笠」は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている)
その心は 「軍人だから命に従って日本と全知全能で戦う、しかしその背景にある情勢分析や日本の置かれた立場、
日本の戦いぶりは歴史のなかで冷静に評価する」 という素晴らしい言葉を残している。

その米国国立戦争博物館に中国の執拗な働きがけがあり、歴史改ざんの波が押し寄せているという。
中国は「日本帝国主義は中華人民共和国が打倒した」と主張しているが、1945年日本が降伏し、当時の戦勝国とし
て位置づけられたのは、蒋介石率いる中華民国(現台湾政権)であり、これが歴史の真実である。
中国が全世界、とりわけ米国で行っている対日宣伝戦の一つが国立米国太平洋戦争記念館(ニミッツ記念館)に及ん
でいるのだ。中国系団体は博物館のパブリックスペースを借りて中国の主張に添ったパネルを展示し、来館者にアピ
ールを繰り返し行っている。また博物館学芸員に北京までの無料航空チケットを招待状付きで送るなどの働きがけが
続いており、同博物館長は学芸員が調略されるかもしれないという危機感を抱いているという。
そこで同博物館館長は「日本の立場をはっきり述べないといけない」と危機感をもって岸田氏を渉外担当に任命した
という。岸田氏はほとんど無給で本来の仕事のかたわら、役割を果たしているという。(何故無給なのか・・。)
素晴らしい日本人とニミッツ記念館の皆様だ。外務省はただちに現地を調査する事とし、ヒューストン総領事館から
職員を派遣する事となった。(この様な事案には税金は惜しまず使って欲しいものである。)
ニミッツ提督のようなフェアな人物がたくさんいることが米国の力の源泉である。日本も大いに見習うべきである。


【2隻目】(伊22搭載 岩佐直治大尉 / 佐々木直吉1曹)
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▲米軍に引上げられた伊22搭載・岩佐艇(岩佐直治大尉、佐々木直吉1曹)
午前1時16分 真珠湾の湾口171度、9海里の地点から出撃。
午前7時59分、岩佐艇は真珠湾港内で停泊している水上機母艦「カーチス」や工作艦に向かっている所を発見された。
午前8時35分、米応急出動艦「モナハン」は、日本軍機からの空爆中であったが、湾内を航行中信号兵が、水上機母艦
「カーチス」が「敵潜水艦発見」の信号をあげていると艦橋に報告した。水上機母艦「カーチス」は日本機の急降下爆
撃を受け甲板上は火の海になっていた。まさかと思っていたモナハンの艦長に「あの海面に見えるものは何でしょう?」
と艦橋にいた部下が言った。「どうやら敵潜水艦のようだ」という艦長の言葉が終わらぬうちに、その敵艦「甲標的」
が水上機母艦「カーチス」めがけて魚雷を発射した。
至近距離過ぎて魚雷は命中せず、パールシティのドックに命中した。モナハンの艦長はフルスピードを命じ、この「甲
標的」めがけて突進した。今度は応急出動艦「モナハン」めがけて魚雷が発射されたが、これもはずれてフォード島の
海岸で爆発した。その間、水上機母艦「カーチス」は、魚雷を発射して軽くなり、飛び出すように浮上した「甲標的」
の司令塔に射撃を浴びせ、艇長の岩佐直治大尉を即死させた。
フルスピードで進んできた応急出動艦「モナハン」は「甲標的」に激突しその上を乗り越えた。さらに爆雷攻撃を加え、
「甲標的」の前部を吹っ飛ばした。無残な姿で撃沈されたのは、岩佐艇であった。
2週間後引き上げられたが、損傷があまりにも大きかったので、葬送の儀式を行った上、乗員二名の遺体を収めたまま、
当時建築中の潜水艦基地の基礎固めに用いられ埋められた。1947年(昭和22年)3月ハワイの米軍当局は、遺品として
真珠湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本に送還、遺族に送付された。
(出撃した隊員の中で大尉は岩佐直浩のみであった為岩佐艇と確定された)
1952年(昭和27)になって基地擴張工事ですっかり忘れられていた岩佐艇を掘り当てたが、塩素ガスの発生が酷く、
御遺骸と共に再度そのまま埋め戻されたという。現在、岩佐直浩大尉の袖章は靖国神社に収められているとの事。


【3隻目】(伊20搭載 広尾彰少尉 / 片山義雄2曹)とされている。
午前2時57分真珠湾の湾口151度、5.3海里の地点から出撃。
午前11時8分、魚雷艇が「甲標的」潜望鏡を発見、アメリカ軍駆逐艦が爆雷攻撃を実施。
午前11時27分、別の米駆逐艦「カミングス」がソナーで探知した目標「甲標的」に対し、爆雷攻撃を2回実施し、
油と破片を確認している。
1960年6月13日にアメリカ軍によってヒッカム飛行場沖で発見されて引き上げられ、1週間後の6月20日に海上
自衛隊揚陸艦『しれとこ』に搭載され、7月20日、約20年ぶりに横須賀に帰還。
7月28日には江田島に到着し、旧海軍学校(現海上自衛隊第一術科学校)に保存されている。
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▲1960年(昭和35年)6月13日真珠湾湾口からダイヤモンド・ヘッドへ向かって1.8㌔、深さ23メートルの海底から引
き揚げられた。牡蠣(かき)が艇全体に付着して、艇番号もわからず、司令塔に砲弾痕、電池室付近に爆雷攻撃を受けた
痕跡があるものの艇体の破損は少なかった。2本の魚雷は装着されたままで、未発射。その火薬は、約19年間も海底にあ
りながら有効だった。衝撃的なことは、艇内に2名の乗組員の遺骨、遺歯が無かった事だ。遺留されたものは作業衣1着、
靴1足、一升瓶1本のみで、艇内は整理されていた。米海軍当局は、『搭乗員は沈没と同時に艇外に脱出、逃亡したものと
推測される』とした。更に「司令塔ハッチの掛金が内側からはずされている」という米側の報告と、万一の場合には浮上、
上陸して敵陣に切り込むために、携行する日本刀と拳銃も艇内に無かった事から、搭乗員2名は、艇を浮上させ、司令塔
ハッチを開いて、斬込みを敢行せんが為に海上に脱出した。更に真珠湾湾口からわずか1.8㌔。この海域は、裏オアフの
海上とは違って波浪も穏やかで人喰い鮫もめったに出ない。しかし、鮫にやられる、溺死、自決の可能性も否定出来ない。
ただ、1.8㌔の沖合いから陸地目指して泳ぎつくことは、『帝国海軍の遠泳の訓練』に比べれば楽だったのではないか。
オアフ島で日本海軍軍人による斬込事件はない。これは引き上げられた「甲標的」の調査結果後の推測ではあるが、脱出
に成功をなし、ずっとハワイの人となって生き続けた可能性は否定出来ない。(日本では「軍神」となっていたが・・)
無駄な切り込みなどせず、そして自決せず、生きていて欲しいと願うのは私だけであろうか。
(※3隻目が、広尾彰少尉 / 片山義雄2曹艇か古野繁実中尉 / 横山薫範1曹かは未だはっきりしていない。)
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▲艇内で発見された搭乗員の作業服と靴と手袋。
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▲▼江田島旧海軍学校(現海上自衛隊第一術科学校)に保存されている真珠湾攻撃で使用された甲標的
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2016年12月18日訪問
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【4隻目】(伊18搭載 古野繁実中尉 / 横山薫範1曹)とされている。
午前2時15分真珠湾の湾口150度、12.6海里の地点から出撃。
午前6時33分哨戒からもどる途中の米偵察機が国籍不明の小型潜航艇「甲標的」を発見。
位置を明確にするため発煙弾2個を投下した。その「甲標的」は米貨物運送艦アンタレスの後ろにぴったりとつけて、
湾内に侵入しようとしていた。駆逐艦「ウォード」が現場に急行、午前6時45分その艇「甲標的」に90メートルの至
近距離から発砲。第2弾目を司令塔に命中させ、さらに爆雷攻撃を加えて沈没させた。
命中した司令塔で艇長は潜望鏡を握ったまま即死、操縱員は攻撃を逃れようと最大戦速19ノットで必死に操縦桿を操作
して 水深300mのところまで疾走。魚雷装填のまま 沈沒着底したものと考えられている。
アメリカ海軍は午前7時55分に開始された日本機による奇襲より1時間早く日本海軍の秘密兵器「甲標的」を撃沈した。

▼2002年8月ハワイ大学海洋調査船KoKの搭載する深海調査船パイシー4&5により真珠湾外で偶然発見された。
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▲艇体後部(スクリュー部分)から。
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▲艇体前部(魚雷発射装置部分)から。魚雷が発射されていない事が確認出来る。
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▲艇には司令塔に右舷から左舷に貫通した着彈痕が確認されており、米攻撃記録と一致する。

駆逐艦「ウォード」乗組員の証言通り司令塔に4インチ砲弾を被弾していた。発見された「甲標的」はアメリカ側への
配慮もあり、引き上げない事となっている。いわゆる[ 駆逐艦「ウォード」事件 ]である。
駆逐艦「ウォード」は攻撃直後、未識別の潜水艦を撃沈した旨を真珠湾の太平洋艦隊司令部に打電したが、同海域では
漁船などに対する誤射がしばしばあったことからその重要性は認識されず、また通報自体暗号文での送信であり平文へ
の展開に手間取ったこともあり、キンメル海軍大将(米太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官)への報告は大きく
遅延し、日本軍の奇襲を事前に察知する機会を逸した。アメリカ海軍でも現在に至るまで何故か公式の戦果として認め
られていない。加えてこの「甲標的」は、日本軍機の奇襲攻撃以前に攻撃を受けており、宣戦布告より1時間前にそこで
は既に戦争が始まっていた事になり、アメリカ側はそれを知っていた事になる・・・つまり、自らに有利な相手を攻撃す
るに最高の情報を隠し続けた可能性もある。その様な事情から日本政府は何も出来ず、引き上げも、艇内の調査も行われ
ておらず、隊員の手がかりが残っている可能性は否定出来ないが、現実は今も真珠湾沖の水深400mの海底に沈んだまま
になっている、これが敗戦国の定めか悲しい限りである。難しいとは思うが、日本政府には調査と引き上げを強く望む!
(※4隻目が、広尾彰少尉 / 片山義雄2曹艇か古野繁実中尉 / 横山薫範1曹かは未だはっきりしていない。)


【5隻目】(伊16搭載 横山正治中尉 / 上田定2曹)
午前0時42分他の四艇の先頭を切って真珠湾の湾口212度、7海里の地点から母潜イ16を発進。
午前3時42分、湾口付近で作業中の米掃海艇の1隻が、外方3.2㌔の海面に「甲標的」の潜望鏡を発見、付近を哨戒中の
駆逐艦「ウォード」に発光信号。同艦は30分間付近の海上を捜索したが何も発見出来ず。午前5時08分米掃海艇「クロス
ビル」が真珠湾外から帰還した際に網が開かれていた。その間に岩佐艇と共に湾内侵入に成功したと考えられる。
午前7時30分、日本軍機の空爆開始直前に駆逐艦「ウォード」の音波探知機が新たな挙動不審の潜航艇「甲標的」をと
らえた。駆逐艦「ウォード」は激しい爆雷攻撃を浴びせ、「甲標的」はかなりのダメージを受けたと思われるが、追跡
を逃れて、湾口攻撃を断念、空爆を避けて湾外へ脱出をはかる米艦をねらった。午前10時04分湾口に姿を現した巡洋艦
「セントルイス」に魚雷二本を発射したが、危うくかわされて、魚雷は水道入口のサンゴ礁にあたって爆発した。
「甲標的」は魚雷を二本発射すると、艇首は急に軽くなって海面に跳ね上がり、司令塔までが海上に浮上する。
今度は巡洋艦「セントルイス」が司令塔を砲撃し、ルード船長はこれを撃沈したと判断した。
「甲標的」横山艇は発進から22時間後(日本時間午後18時11分)母潜へ奇襲成功の電信 をしている・・・。
「甲標的」横山艇の母艦である伊号第16号潜水艦母艦では「キラ」という信号を感受している。
モールス信号においては「キ」「ト」は短音か長音かの違いでしかなく、海軍上層部には「トラ」として報告されている。
「トラ」は言うまでもなく奇襲作戦成功の暗号である。しかしその暗号が発信されたのは発進から22時間後・・・。
「甲標的」は直径1.8メートルしかなく、乗艦している2名はほとんど身動きがとれない構造になっていたのだという。
更に艇内は気温が45度、湿度はほぼ100%。加えて機械が発する水素ガスや排泄物の匂いなどで、乗務員は頭痛や目まい
で、立つ事の出来ない程の疲労感に襲われるとされる。10時間も乗れば、人間の能力がかなり落ちるわけである。
真珠湾内は狭く、水路は複雑である事、発進から「キラ」の電信を感受した8日まで20時間以上経っており、どう考えて
も正確な攻撃を繰り出せるような状況には無かったはずだと言うのである。
日本時間午後20時21分に 『航行不能』を打電の後、自爆したものと考えられるが、近年艇は人為的に3つに切断されて発
見されている。横山艇は湾内には侵入せず、湾の西側で湾内から逃げ出そうとする艦船を狙っていたと言われている。
巡洋艦「セントルイス」が湾の外で「小さな潜水艦から2発の魚雷攻撃を受けた」との記録が残っている。
魚雷は巡洋艦「セントルイス」の左右のサンゴ礁に命中し、攻撃は成功しなかった事は明白である。
しかし、大本営発表ではこの横山艇の魚雷が艦船「アリゾナ」を撃沈させたと嘘の発表をしている。
それではなぜ大本営は横山艇がアリゾナを轟沈したと発表したのであろうか。「甲標的」特別攻撃隊設立に深く関わり、
当時海軍司令部にいた有泉龍之介中佐が、海軍首脳部に対して、「アリゾナ」轟沈の戦果を特殊潜航艇「甲標的」の手柄
に出来ないか? と申し入れをしたとの記録が残っている。
以来を受けた真珠湾攻撃における空襲部隊の総指揮官淵田 美津雄中佐(ふちだ みつお)は、「アリゾナの前には別の艦
船が横づけされていて、魚雷攻撃を加える事は不可能であり、そんなことをすれば世界の笑いものになると返答した」
と淵田の手記には残っている。何がどうなったか分からないが、大本営発表は有泉の意を汲んだ形になっている。
開戦から大本営は嘘の発表を流し続け、国民を騙し続けた。[ 嘘つきは泥棒のはじまり ] である・・・。
何処の国も国民に伝えにくい事はあると思うが、結局それが本当の事を言えなくなり、国民を追い詰める結果となる

横山艇は出撃した5隻の「甲標的」としては2007年11月に最後に発見されているが、発見された場所は航空機などを破棄
する様な場所で発見され、魚雷も遺骨も発見されなかったという。真珠湾奇襲攻撃で破壊され、海中に投棄された米軍の
水陸両用強襲車両(AAV)のスクラップと一緒になっていた。タイタニック号の調査をしたメンバーも加わり日米共同調査
が始まったが、発見された「甲標的」は3つに分断され、それぞれの部分にチェ-ンやワイヤーが乱雑に巻き付けられてい
たという。滑らかな切り口は人為的である事を示しており、弾丸による物ではなかった。24メートルの胴体は三つに分断
され、一部が無いという。戦争中に1度引き上げられ、記録を米海軍が隠蔽した可能性は否定出来ない。
DSCN1183_convert_20151219144449.jpg
▲海底に眠る横山艇と見られる司令塔部分。人為的に切断されているのが確認出来る。
img9.jpg
▲海底に眠る横山艇と見られる魚雷発射装置部分(前)魚雷が2本共発射されているのが確認出来る。
 司令塔がある中央部分と後部(スクリュー)の艇体は確認されているが司令塔直ぐ後ろ部分が無いという。

「甲標的」の調査に同行した軍事評論家のパークス・スティーベンスンさんは米海軍が戦争中に引き上げ、切断して捨て
た物と推定している。今回発見された「甲標的」も[ 駆逐艦「ウォード」事件 ]の様なアメリカの大人の事情がからんでい
るのか真相は解らないままである。難しいとは思うが、日本政府による調査と引き上げを強く望む!
この様な事には惜しまず税金を投入して欲しいと思う。「無駄死に」「犬死に」という人もいるがこの様な状態で放置し
ておく事が英霊を「無駄死に」させているのと同じだと思う。アメリカでは今もベトナム戦争で戦死した米兵の遺骨収集
をし、最後の最後まで探し続けているという。

なお、「甲標的」の作戦展開地は真珠湾だけではなかった。1942年5月にはシドニーで係留中の艦船を沈めている。
マダガスカルでは英国の戦艦、タンカーを1隻ずつ沈め、他にもフィリピンやガダルカナルで展開していたようである。
KohyotekiSydney.jpg
▲オーストラリアのシドニーで引き上げられた「甲標的」
1942年4月27日伊21・伊29、1942年5月18日朝、伊22・伊24・伊27が、トラック諸島から出撃。
出港当日夕刻、伊24搭載艇が爆発事故を起こし乗員が死傷した為同艦はトラック諸島に引き返し、乗員を伴中尉らと交
替させて再度出港した。5月30日伊22、伊24、伊27 3隻がシドニー沖に到着。5月31日16:21伊22搭載艇「甲標的」
が発進。続いて16:28に伊27搭載艇「甲標的」が、16:40伊24搭載艇「甲標的」が発進した。
伊27搭載艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり21:30頃自爆。伊24搭載艇は港内に向かい侵入に成功。港内に在泊
していたアメリカ海軍重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射したが、魚雷は2本ともはずれ、そのうち1本は岸壁に係留さ
れていたオーストラリア海軍宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。
これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。伊24搭載艇は帰途シカゴの攻撃によって撃沈された。
最後に伊22搭載艇が港内に侵入したが、この時には警戒が厳しくなっていた。伊22搭載艇はオーストラリア海軍艦艇か
らの爆雷攻撃を受け結局自爆し、魚雷は未発射であった。
特殊潜航艇を発進させた日本軍潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。自爆した2隻の特殊潜航艇は1942年6月4、5日
に引き上げられ、9日にイギリス海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍
少将は、「甲標的」乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹)の海軍葬を行った。
戦時中に敵国である日本の軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の
薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降する事無しに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、
グールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、豪州国民に訴えた。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃する為には、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であ
った。我々のうちの幾人が、これらの人達が払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか?戦死した日本
軍勇士の葬儀を我が海軍葬で行うという私に、非難が集中している事は承知している。けれど私は、あえてこの葬儀を実
行する。なぜなら、もし我が国の兵士が彼らの様に勇敢な死を遂げた場合、彼らにもまた、同様の名誉ある処遇を受けさ
せたい為である…」と。グールド海軍に感謝すると共に、彼の素晴らしい考え方を見習うべきである。
※戦死した松尾大尉・中馬大尉・大森1曹・都竹2曹の遺骨は中立国であるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケ
 スで、シドニーに拘留中の日本公使河相達夫に引き渡され、第1次日英交換船の鎌倉丸の乗船した河相公使によって
 10/9遺族らが待ち受ける横浜港に到着した。12/8山本五十六連合艦隊司令長官はディエゴ・スアレス攻撃部隊とあわ
 せて感状を与えたと言う。
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▲▼戦後キスカ島で米軍に捕獲された「甲標的」と、現在もそのまま放置されている甲標的を写した同じ場所。
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真珠湾攻撃の次に実施し、大敗を喫したミッドウェー作戦の陽動作戦として実施されたアリューシャン作戦(AL作戦)。
この作戦中、1機の零戦がほぼ無傷な状態で米軍の手に渡った。
昭和17年アリューシャン作戦の一環としてダッチハーバーへ空襲が行なわれた。空母龍驤から出撃した古賀忠義1飛曹
の零戦は、この攻撃で唯一未帰還となった。
古賀1飛曹機は地上からの対空砲火によって被弾、ダッチハーバーに近いアクタン島の海岸近くに不時着した。
古賀1飛曹は湿地帯を草原と間違い、不時着の際に脚を下ろした状態で着地を試みた。だが着地と同時に脚をとられ、
前のめりに転倒。これが原因で古賀1飛曹は首の骨を骨折して即死した。(発見した米軍によって確認されている)
Tadayoshi_Koga1.jpg
▲零戦から米軍によって引き出された古賀忠義1飛曹。既に戦死していたという。
また、古賀機が不時着した際、上空には僚機が2機いたが、古賀1飛曹の安否を気遣って、本来なら敵への情報流出を防
ぐ為に、銃撃によって機体を破壊しなければいけないところだったが、果たす事が出来なかった。
AkutanZero1_convert_20170902220225.jpg
▲不時着転倒した古賀忠義1飛曹搭乗機を調べる米兵。
古賀機が不時着してから35日後、たまたま上空を飛行していた米軍の哨戒機によって発見され、直ぐさま回収部隊が派
遣された。回収部隊の調査の結果、不時着した機体が零戦で、しかも修理すれば十分に飛行可能であることが分かり回
収された。その後古賀機はアメリカのサンディエゴ海軍基地に運ばれ、修理された後さまざまなテストが行なわれた。
AkutanZero2_convert_20170902221311.jpg
▲米軍によって鹵獲され、アメリカ本国に輸送される古賀機。
飛行可能な零戦が鹵獲されたのは古賀機が最初ではない。
太平洋戦争直前の昭和16年11月26日。中国戦線で既に零戦は鹵獲されていた。
台南空所属の零戦21型2機が台湾から海南島に向かう途中、悪天候の為に機位を見失ない、海南島と思える砂浜に不時
着したが、そこは対岸の中国大陸の沿岸部で中国軍の支配区域だった。不時着した2機の内、1機は鹵獲に来た中国軍と
戦闘になり、搭乗員は戦死、機体は炎上して消失するが、もう1機の機体と搭乗員は捕獲された(V-172三菱製3372号
機)※パイロットのお名前は不明
捕獲された地域は中国軍の支配下であったが、日本軍の占領区域に近く、知られたら奪回される恐れがある為、中国軍
は鹵獲した零戦を分解して運び去り、現地にいた米軍に引き渡したが、当初米国の日本機蔑視から、真剣に調査をしな
かった為、1年程かかって飛行可能な状態にし、昆明(中国)での飛行試験完了が昭和18年3月15日とされており、既に
古賀機のアメリカ本国での徹底調査が終わった後だった。昆明で飛行試験を終えた零戦も本国に送られたが、既に時期
を失っていた。こうして対零戦マニュアルが作成され、弱点を徹底的に調べられた零戦の無敵神話が崩壊していった。



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「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
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「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
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 2015_12_08


戦って亡くなられた(戦わずして亡くなられた)英霊の多くは、無能な上層部の戦犯とも
言える無謀な作戦によって尊い命を国に捧げた方が多いという事も忘れてはいけません。
ここでは戦後アメリカで「陸の三馬鹿」と言われた有名な3名の陸軍幹部、寺内寿一大将 ・
牟田口廉也中将 ・ 富永恭次中将 を紹介しておきます。
特にイギリスでは、「日本兵を大量に見殺しにしてくれたので勲章を与える」 とのブラッ
クジョークまで出る程軽蔑されています。

( 木村兵太郎大将 ・ 牟田口廉也中将 ・ 富永恭次中将 の3名を挙げる人もいます。)
※木村兵太郎大将は戦後東京裁判において死刑が言い渡され昭和23年12月23日絞首刑。
ですのでここではあえて紹介しない事にします。
[映像記録史 太平洋戦争前編][映像記録史 太平洋戦争後編]

▼寺内寿一大将
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寺内 寿一(てらうち ひさいち) 1879年(明治12年)8月8日~1946年(昭和21年)6月12日
日本の陸軍軍人・政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通
して親子2代で元帥府に列せられた人物。南方軍総司令官。
南方軍総司令官在任時、牟田口廉也中将の無謀なインパール作戦を黙認したのもこの人物。

1944年10月、フィリピン決戦を前にマニラを去り、赤坂の芸妓を軍属として呼び寄せて、「東洋の
パリ」と言われたベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)に司令部を置き、旧フランス総督の大邸
宅豪邸で優雅な生活をしながら命令を出し続けた。ルソン島で総力戦を構える山下奉文大将に対し、
レイテ島への兵力分散を命じて約37万人という太平洋戦争最大の犠牲者を出した。(87%が餓死)
(レイテ島への戦力分散は、海軍の行った「台湾沖航空戦」の幻の大戦果結果の真相を陸軍に伝えな
かった海軍の責任も重大であるが・・・。)フィリピンでの戦いの後も何もおとがめ無し・・・・。
山下奉文大将は部下達と共に空腹でフラフラしながらフィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦
ったのである。レイテ島の戦い 

寺内は愛人(お妾さん)の芸妓を、陸軍軍属として輸送機で自分の総司令部の官舎に連れ込んでいた。
もちろん、日本軍の上級幹部には、現地の敵性国人(たとえばオランダ)の女性を“現地妻”ないしは
愛人として囲った人間はいただろう。だが日本本土から赤坂の美貌の芸妓を軍用機に搭乗させて呼び
よせた。という人間は、寺内以外にまずいなかったのではあるまいか?
終戦の年の9月、脳溢血で倒れなかったら、おそらく戦犯として絞首刑は間違い無かっただろう。
1946年(昭和21年)6月12日マレーシア(レンガム)で拘留中に病死。享年66歳

※寺内寿一大将と東條英機(陸軍大臣)首相との間柄は極めて不良だった。
東条英機の父東條英教は日露戦争で旅団長として指揮に問題がありと烙印をおされた。
また当時、長州閥が陸軍を支配していたため出世を妨げられ、日露戦争後、中将に昇進の上、予備役に
された。その後息子、東条英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなど長州
閥の解体に尽力した。

寺内寿一の父寺内正毅は長州出身で、東条英機の父東条英教が陸軍少将で参謀本部第四部長の時、参謀
次長だった寺内正毅により旅団長に左遷された。また、東条英教を予備役にしたとも言われている。

このようなことから、寺内寿一大将は、東條英機首相にとっては父英教の仇敵の子供でもあり、長州出
身であるから、当然敵視していたといわれる。
太平洋戦争開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将を南方軍総
司令官として、遠く南冥の地に追いやり、寺内大将はシンガポール、サイゴンから一歩も動けない立場
に置かれたのも事実である。しかしそういったお家の事情は最前線で戦う兵士には関係無い、上司の為
に戦ったのでは無い。戦死していった最前線の兵士は日本の為、家族を守る為に戦って倒れたのである。


▼牟田口廉也中将
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牟田口 廉也(むたぐち れんや)1888年(明治21年)10月7日~1966年(昭和41年)8月2日
日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や
同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。責任なき戦場 ビルマ・インパール

インパール作戦の失敗までは、人間性はともかくとして、軍人・将軍としては「有能」であったとい
えます。また、彼はもともと皇道派寄りな人物としてマークされ、そのために中国に飛ばされた経緯
をもっていたので、権謀術数を用いてのし上がったと言うわけでもないようです。しかし・・・・、
有名なインパール作戦自体は大失敗、正論を吐く部下の師団長を次々と首にして強引に継続しました
が、結果は惨憺たるもの。2万人以上の兵士が餓死・病死し、日本軍退却の道筋は「白骨街道」と呼ば
れました。作戦が大失敗なのは明らかなのにメンツにこだわり、上司のビルマ方面軍最高司令官の「河
辺中将との会談でこう言ったそうです。
「作戦中止を言いたかったが言い出せなかった。私の顔色からなんとか読み取って欲しかった」
と、漫画にもならない事を回想で言っています。牟田口は前線部隊が帰還するのを待たないでさっさと
日本へ逃げ帰り、牟田口は終戦後、昭和20年12月戦犯容疑で逮捕され昭和21年9月シンガポールに
移送された。昭和23年3月釈放され帰国。東京都調布市で余生を過ごした。
しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1961年(昭和36年)頃まで、敗戦の責任を
強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた。昭和36年2月26日、インパール作戦で自らが更
迭した佐藤 幸徳(さとう こうとく)元師団長の葬儀に参列し、佐藤家の遺族の前で頭を下げ、
「自分の至らなさのため、すまないことをした」と詫びた。
しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した
書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、死去までの約4年間はインパール作戦
失敗の責任を問われると戦時中と同じ様に、
「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」などと頑なに自説を主張していた。
1966年(昭和41年)8月2日死去。享年77歳
自身の無謀な作戦(インパール作戦)に倒れた兵士達への謝罪の言葉は死ぬまで無く、8月4日に行われ
た自らの葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた。


▼富永恭次中将
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冨永 恭次(とみなが きょうじ)1892年(明治25年)1月2日~1960年(昭和35年)1月14日
明治25(1892)年1月2日、医師・富永吉太郎の二男として長崎県で誕生。日本の陸軍軍人
最終階級は陸軍中将。

富永は東條英機の腰巾着と言われ、徹底して東條にへつらう事で昇進しました。
マニラに着任した冨永は、フィリピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊「万朶隊」の出撃命令を
出しました。続いて「富嶽隊」が出撃。以後62回、400機近い特攻機を続々と出撃させました。
生存者の証言によれば、特攻前になると一升瓶をぶら下げて現れては訓示を垂れるしか能のない司令
官だったそうです。陸軍特攻隊の司令官として出撃前の大げさなパフォーマンスに生き甲斐を見出し、
特攻隊員に、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
と言いながら、エンジン不調などで帰還すると、「卑怯者!命が惜しいのか!」と罵倒しました。
400機近くの特攻機を出撃させ、搭乗員を戦死させながらも戦後のうのうと生き恥を晒した人物です。

冨永は視察を名目に上級司令部にも無断で突然フィリピンから台湾に単独で後退。
一説には、マニラから引き上げてきた司令部要員の大半をエチャーゲの南5キロにあるサンチャゴに
足止めし、その間に司令官・参謀などの高級将校たちは残り少ない戦闘機を駆り出して護衛を命じ、
フィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾の台北へと続々と逃亡した。
積み荷はウィスキーと芸者達であったという。
(冨永の敵前逃亡の様子については異論も存在する。脱出の際に使用した陸軍飛行機は2人乗りであ
り、芸者を同乗させて逃亡したという話は後年の創作の可能性もある。しかし部下を置き去りにして
自分だけが逃げた事実は変わらない。)
約1万の第4航軍の残存将兵は地上部隊に編成替えされ脆弱な歩兵部隊となってその大半が戦死した。
富永の台湾への移動は一応口実をつけてはいたものの、直属上官である山下大将にも無断で行われる
など明らかに軍規違反であり、軍規に則れば銃殺刑の敵前逃亡であった。
事後承諾を求めに行った参謀に対し山下 奉文陸軍大将は、
「部下を置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!」と面罵したという。
富永の行状は逃亡先の台湾でも知れ渡っており、第10方面軍に申告を行った際、同軍司令官の安藤利
吉大将(兼台湾総督)から「申告は受け付けられない」と拒否されている。
また昼間から軍の乗用車に芸者を乗せて走っており、一兵卒でさえ富永に敬礼しなかったという。
本来であれば軍法会議が行われるべきところ暫く何の処分も下されなかったが、流石に陸軍中央でも問
題になり、2月23日待命、5月5日予備役編入の処置がとられた。
しかし「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか?」
という声があり7月に召集し、第139師団の師団長として満州の敦化に赴かせた。
この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。
8月9日のソ連参戦、終戦後、富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留された。ソ連の諜報員で戦後
ソ連当局に逮捕されて禁固刑に処されたレオポルド・トレッペルは、ブティルスク監獄において冨永と
同室だったと証言している。1955年(昭和30年)4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国した。
昭和35年1月14日 東京都世田谷区の自宅で心臓衰弱のため病死。享年68歳

特攻隊員に、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
と言った本人は戦後15年間、68歳まで生き恥を晒した様です・・・・。

富永の敵前逃亡はフィリピンに残った兵士たちの怒りと嘲笑を買い、当時、現地で軍歌「若鷲の歌」の
替え歌が流行りました。以下その替え歌の歌詞です。

 命惜しさに 富永が
 台湾に逃げた その後にゃ
 今日も飛ぶ飛ぶ ロッキード
 でっかい爆弾に 身が縮む

人はいくら優秀でも、世渡りが旨いだけだと、後々とんでもないしっぺ返しを喰らいます。
富永のようなとんでもない人間の出世を許し、前線の指揮官に任命した東条や陸軍中央もその責めを問
われるべきであると考える。

※富永恭次中将の息子さん富永靖(やすし)少尉は、第58振武隊 特別攻撃隊として昭和20年5月25日、
 宮崎県の都城東飛行場(都北町)より沖縄へ出撃し、特攻戦死。享年22歳
 朝4時50分出撃の際、当時そこに滞在していた参謀に「これを家族に」と言い、財布を渡したとの事です。
 父親の事には何も触れず、立派に死んでいったそうです。そのあまりに堂々とした態度に、後でその参謀が
 下士官に「あれは誰か?」と尋ねると、「富永閣下の息子さんです」という答えが返ってきたと言います。
 実父の挙動によって生じた家の汚名を晴らそうという気持ちだったのかもしれません。

 陸軍特別操縦見習士官(特操)試験不合格の結果に終わりながら、当時陸軍次官だった実父・恭次中将の
 権力で合格させてもらったという話も残っていますが結果的に、最後は特攻出撃となります。

(宮崎県の陸軍都城飛行場からは昭和20年4月6日から7月1日にかけ振武隊10隊、79人が出撃しています、
都城を発進した特攻機は、全機四式戦闘機「疾風」で編成の為、「都城疾風特攻振武隊」と呼称された。)
51.jpg
▲都城飛行場から出撃していった陸軍四式戦闘機「疾風」 特別攻撃隊第58振武隊所属機

▼昭和20年5月25日出撃時の写真。富永靖少尉も含め沖縄方面へ突入した第58振武隊機「疾風」
陸軍特攻隊は後方で編成し、機に応じて前線へ投入するシステムだったので編成後多少の時間的余裕があり、
士気高揚のためスペシャルマーキングが許された。尾翼に描かれたマークは釜ゆで髑髏(どくろ)で、本隊
(第58振武隊)の別名を髑髏隊と言われた。
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▲富永靖少尉もこの中の何処かに居るはずです、この日04:50に10機が出撃していきました。
父親の恭次中将は敵前逃亡の最悪な幹部でしたが、息子さんの最後は立派だったと思います。
富永靖(やすし)少尉(長崎県出身/慶応大学)享年22歳

※特攻隊員に「後で必ず自分も行く」と言ってのうのうと生きた幹部に菅原道大中将も挙げられます。
「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と語りながら
1983年12月29日死去。本当に最悪な幹部です。自分が死ぬ勇気もないのによく隊員に「死んでこい」
と言えたものです。呆れるのを通り超えて憎悪が沸いてきます。

[中国版太平洋戦争]




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 2015_12_08




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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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