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「陸の三馬鹿」と言われた陸軍将官を3名紹介しましたが、逆に非常に評価の高い将官もおられます。
今回は、アメリカで評価の高い山本 五十六海軍大将 / 宮崎 繁三郎 陸軍中将 / 木村 昌福 海軍中将
/ 吉川潔(きっかわ きよし)中佐 / 今村 均陸軍大将の5名をご紹介します。
[ 日本の戦争記録 ]

▼山本五十六海軍大将
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山本五十六記念館」 山本五十六YouTube
連合艦隊司令長官としてハワイ真珠湾攻撃などで有名な山本五十六(いそろく)大将だが、日本海軍の
中で評価の高い軍人の1人である。日本海軍の教育(江田島海軍兵学校)は決して単純な好戦的なもの
ではなかった。サイレント・ネイビー(沈黙の海軍)という言葉がある様に、「大言壮語せず、国を守
る時は充分に任務を果たすという意味である」日本の国力を冷静に分析し、戦争回避を第一に考え、外
交努力に徹するという考えを日独伊三国同盟まで貫いた海軍山本五十六。
日本陸軍はドイツ、海軍はイギリスをモデルにして作られた事はよく知られている。海軍は当時の最強
海軍国、イギリスを範にとって建設された。 イギリス人の理想であるジェントルマンシップが最も重ん
じられ、海軍兵学校の教育は英国紳士を養成することを主眼としていた。 軍服の着こなしも野暮ったく
てはいけないとやかましく言われ、外国の停泊地で恥をかかない様、ダンスや洋食のマナーまでが教え
られた。 しかし英国紳士はあくまでもイギリスの風土に存在するもので、日本海軍に無理矢理存在させ
ようとする事が日本海軍の為になったかどうかは疑問が残るが、海軍将校のスマートな格好は少年達の
憧れであった事も事実である。 日本海軍とはこの英国流に官僚主義が加わった存在である。
山本に関しては有名な軍人であるのであえて生い立ちなどはここでは書かない事とする。
太平洋戦争中、山本は前線視察の為、バラレ島日本軍基地へ向かう途中、事前に情報を掴んだアメリカ
軍P-38によってブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。2015.山本機墜落現場YouTube
▼ブーゲンビル島のジャングルに墜落した山本五十六搭乗機(海軍一式陸上攻撃機)
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▼ブーゲンビル島ブイン海軍飛行場(昭和18年4月「い」号作戦の際に撮影されたとされる)
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▼ラバウル東飛行場かブーゲンビル島のブイン基地のどちらかとみられている。
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▼山本が訪れる予定だった日本軍バラレ基地。指揮所・テント張兵舎・ゼロ戦21型が写っている。
 1943年末以降補給が断たれ無力化されたが、連合軍は上陸せず、終戦まで日本軍が維持した。
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▲飛行場建設は1942年末から始まり「シンガポールの戦い」で捕虜になった多数のイギリス軍捕虜が
 使役され、多くが死亡した。元々無人島だった島は約1年間陸海軍航空機の前線基地として活動した。
 現在は無人島に戻っているが、戦後放置された日本軍機が多く残り、英国人捕虜の慰霊碑もある。
 現在はバラライ島(Ballalae Island)と呼ばれ、ソロモン航空の定期便が発着している。

この事件は、アメリカ側が山本の後を引き継げる優秀な人材は兵学校卒業順(ハンモックナンバー順/
卒業席次順←要は成績順)の海軍にはいない。と確信して山本機撃墜を実行した程である。
山本が戦死した後の連合艦隊司令長官の人選は官僚主義の典型である。
太平洋戦争開戦直前の事、当時の連合艦隊司令長官である山本は、これからの作戦遂行の為には、自分
が陣頭で突撃する形で行うべきだと考え、当時の海軍大臣の米内光政を連合艦隊司令長官、そして山本
五十六第一艦隊司令長官という草案を作り、航空本部長の井上成美に見せた事もあった。
「長門」「大和」には山本宛に大量の手紙が届いたが私信の返信が1日30通に及ぶ時もあったという。
しかし戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、場合によっては自ら墓参に訪れることもあった。
戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していた。手帳には万葉集、明治天皇、大正天
皇、昭和天皇の詩歌や山本の自作詩が書かれており、戦死者への賛美と死への決意で満ちていたという。
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▲言わずと知れた史上最大の戦艦「大和」
山本は南方ではパパイヤを好み、「大和」の冷蔵庫にはパパイヤが山のように保存されていたという。
戦艦大和ホテルにこもって最前線に出ようとしない無能な幹部という声も聞かれるが、アメリカとの戦
争に最後まで反対し続けた事、当時の常識を覆す航空機を主とした真珠湾攻撃等、山本でなければ出来
なかった事は多くある。 しかし敗戦した事で山本が立案した作戦等は批判されても仕方の無い部分もあ
る。「アメリカと戦っても勝てない」と開戦前から言い続けていた本人が指揮をとってハワイ作戦を実
行し、自分の予想通りに敗退を重ねる日本軍に対してどう思っていたのか・・・・無念だったであろう。
戦争とは勝たねば「悪者」になってしまうという事は現代の日本人が一番良く知っているはずである。
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▲前線視察でラバウルを訪れ、航空隊基地で出撃するゼロ戦(零戦)を見送る山本五十六司令長官
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▲ラバウル航空基地で出撃前の隊員に敬礼する山本五十六司令長官と、整備を受ける海軍ゼロ戦と花吹山。
戦艦「武蔵」で勤務した蝦名賢造少尉(連合艦隊司令部通信士官)は山本の敬礼の美しさに感激したという。
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▲ラバウル航空基地から出撃直前のゼロ戦22型、隊員達は山本長官の激励を喜んだという。

山本五十六名言集
『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』
(実際にやってみせる。やり方を言って聞かせて、褒める。)
『話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず』
(話し合って、相手の言葉に耳を傾け、相手を認めて、仕事を任せることによって人を育てる。
『やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず』
(やっている姿を感謝で見守って、信頼する)

他、『博打をしないような男はろくなものじゃない』という言葉も残し、博打好きだった一面もある。
また、女好きもあって新橋の芸者「梅龍」と名乗る愛人・河合千代子をかこっていた。
1884年(明治17年)4月4日~1943年(昭和18年)4月18日享年59歳


▼木村 昌福 海軍中将
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海軍兵学校の卒業時における成績は下位、海軍大学校に進学していない為日本海軍ではさして目立つ存在
ではなかったが、太平洋戦争開戦時には熟練した水雷屋として一定の評価は得ていた。
海軍省や軍令部での経験が無い艦隊勤務一筋の実戦派提督であり、勇猛果敢な上に豪放磊落な性格の人柄
で知られ、部下をむやみやたらに叱る事もなく、常に沈着冷静な態度であったので将兵からの信頼は厚か
ったと言われる。「鈴谷」艦長時代にベンガル湾での通商破壊戦において敵の輸送船(民間船)を撃沈す
る際に乗員を退去させてから沈めるという人道的配慮を見せた。この際、自艦の機銃指揮官が射撃命令を
出そうとした時、艦橋から身を乗り出して「撃っちゃあいかんぞォッ!」と大声を出して制止した。
ミッドウェイ海戦では、「我二続ケ」の信号旗を掲げて全速で戦場離脱を図る栗田健男戦隊司令官に対し、
「我機関故障」と偽って大破漂流する僚艦「三隈」乗員救助に当たり多くの命を救ったと伝えられている。
他にも数々の海戦に参加しており、ビスマルク海海戦では護衛部隊指揮官として参加。任務には失敗し、
艦橋で敵攻撃機の機銃掃射により左腿、右肩貫通、右腹部盲貫銃創を負い倒れるが最後まで指揮を行った。
この際、信号員が咄嗟に挙げた「指揮官、重傷」の信号旗を「陸兵さんが心配する」と叱りつけて下げさせ、
「只今の信号は誤りなり」と訂正させたというエピソードも残っている。
キスカ島撤退作戦では、隠密作戦に都合の良い濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事は
しなかった。1回目の出撃では突入を目前に霧が晴れた為断念、強行突入を主張する部下たちに「帰ろう、
(無事に)帰ればまた来られるから」と諭して途中で撤退し、状況をよく判断した指揮を行った。
痺れを切らした軍令部や連合艦隊司令部からの催促や弱腰との非難にも意に介さず、旗艦で釣りをしたり、
司令室で参謀と碁を打つなどして平気な顔をしていたという逸話がある。また、百神の加護を願う漢詩を
詠んでいる。上層部の批判に心動かされること無く慎重に慎重を重ねた指揮を行い、アメリカ軍に作戦を
悟らる事無く味方に全く犠牲を出さずにキスカ島の守備隊5,200人を短時間で救出する。
この作戦成功により昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。
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▲キスカ島撤退作戦に望む幌筵島沖に停泊する特設潜水母艦平安丸と伊号第171潜水艦1943年6月

また、日本海軍の水上作戦で最後の勝利となった「礼号作戦」(ミンドロ島沖海戦)に司令官として参加。
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▲駆逐艦「霞」(かすみ)
この際、「大淀」「足柄」の巡洋艦2隻と駆逐艦6隻の布陣であったが、木村は敢えて旗艦に巡洋艦を選ばず、
駆逐艦「霞」を選んでいる。この作戦では「清霜」を失うものの、作戦目的の敵上陸地点の砲撃と敵輸送船団
への攻撃は大成功に終わり各艦避退に移る中、「旗艦は清霜の乗員を救出する、各艦は合同して避退せよ」
との命令を出し、自ら殿軍となって敵魚雷艇の襲撃及び敵空襲の危険の大きい海域に止まり機関を停止し
ての救出活動を敢行し、この行動に感銘を受けた艦隊各艦の必死の防戦と救助活動により、残った全艦で
無事帰還している。この際には撤退を勧める周囲の具申に対して「まだだ、まだ見落としていないか!」
と、海上に浮かんでいる生存者を徹底的に探索するよう命令を下している。
木村の敵味方を問わず常に人命を疎かにしなかったこと、慎重且つ的確な指揮統率を行い正しい判断を下
す判断能力、運の強さは身内の日本軍や戦後アメリカ海軍関係者や軍事研究家から高い評価を受けた。
1891年(明治24年)12月6日~1960年(昭和35年)2月14日享年68歳
※実弟近藤一声は1943年ソロモン諸島コロンバンガラ島沖海戦で軽巡洋艦「神通」の副長として戦死。
▼軽巡洋艦「神通」(じんつう)
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▼宮崎 繁三郎陸軍中将
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[ 宮崎繁三郎 真実の物語 ]
陸軍のモデルとなったドイツは徹底した軍国主義であった。
「国が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国を持っている」と言われたほどの国だった。
参謀本部の権限はきわめて強く、軍務遂行上必要とあらば、政府の命令によらず独断専行する事も認めら
れていた。 また、日本陸軍が師匠と仰いだビスマルク=モルトケの戦法は権謀術数に満ちたものだった。
勝利の為ならどの様な行為も許される。外交で敵を騙しておいて突如として宣戦布告。その瞬間国境線で
準備していた軍隊がなだれこみ、電撃的な勝利を収める。ナポレオン三世のフランスに勝利した普仏戦争
はその典型で日本陸軍もこの性格を濃厚に受け継いだ。 政府からの独立性、権謀術数好み。これに右翼独
善主義が加わって複雑怪奇なる昭和の日本陸軍が完成したと言っても過言では無い。
そんな陸軍の陸大で参謀教育を受けた宮崎はノモンハン事件・インパール作戦など、日本軍側が圧倒的不利
な状況で戦い、限定的な部隊内での指揮権しか与えられていない状況下の中、華々しい「勝利」を得る事
はなかったものの部隊を維持し粘り強く戦った。
日本軍が劣勢の戦場の中でも戦功を挙げた事は知られ、日本陸軍屈指の野戦指揮官として名高い。
陸軍大佐歩兵第16連隊長として参戦したノモンハン事件では、事件唯一の勝利戦指揮官とも言われている。
1944年のインパール作戦は、「陸の三馬鹿」で紹介した第15軍司令官牟田口廉也中将による補給を無視し
た無謀な作戦で多くの犠牲者を出した。宮崎は陸軍少将で、第31師団・歩兵団長として参戦した。
彼は険峻な山岳地帯を自ら大きな荷を背負い、先頭に立って部下を率い、要衝コヒマの占領を指揮した。
コヒマはインパールへの補給路でありイギリス軍の激烈な反撃が始まると第31師団は疲弊し、援軍、補給
が絶たれて孤立する。この時「佐藤幸徳」第31師団長は無謀な軍命令に背き師団の糧秣を供給しない事に
抗議、独断退却を開始するが、宮崎少将麾下の歩兵団には同地の死守を命令、師団主力は撤退を開始した。
宮崎はこの無謀な命令に最善を尽くし、巧みな遅滞戦術により数週間にわたり持久戦を行い、その後新た
な軍命令により撤退を果たした。この撤退時の行動が、優秀な指揮官・人格者・理性的軍人として賞賛さ
れる事になる。彼は、負傷兵を戦場に残さないという信念の下、自らも負傷兵の担架を担ぎ、食料が欲し
いと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励ましたという。また他隊の戦死者や負傷兵を見つける
と、遺体は埋葬し負傷兵を収容させ、日本軍の白骨死体で埋め尽くされた地獄の白骨街道を撤退し続けた
のである。そこには宮崎の、軍人としての理性のみならず、人としての倫理観をも滲ませた。
敗戦後ビルマの収容所に収容され、イギリス軍の捕虜となっていた時には、部下が不当な扱いを受けても
決して泣き寝入りすることなく、その都度イギリス軍に対し厳重な抗議を行って部下を守った。
戦いを終えて捕虜となっても、宮崎は指揮官としての義務を決して放棄しなかった。
1947年5月に帰国し、帰国後は自らの功績を吹聴するような行動を行わず、政治的・経済的な活動を慎み、
小田急線下北沢駅近くの商店街に『陶器小売店岐阜屋』を経営、店主として清廉で穏やかな生涯を終えた。
数多くの戦歴・インパール作戦時の優れた采配と理性的な行動から宮崎繁三郎に対する評価は非常に高く、
太平洋戦争における日本陸軍の名将の1人とされている。宮崎に与えられた権限や兵力は決して大きいと
は言えず、同じ戦場で同格だった他の指揮官に比べ、特別有利だったり優遇された事は一度もなかった。
しかしながら多くの武功を残したことは、どんなに過酷な事態に遭遇しても最善を尽くそうとする、野戦
将校としての優れた指揮能力と人徳の高さを示している。宮崎はどのような窮地に追い込まれても弱音を
吐いたり、無茶な命令を下す上官の文句や批判を決して口にしなかったという。
インパール作戦における“日本陸軍の良心”とも呼ぶべき宮崎の行動は、同作戦を立案、指揮した「牟田口
廉也司令官」と対極的なものとして語られる事が多い。戦後この作戦に従軍した兵士達は、牟田口の名を
口にするたび、一様に怒りに唇を震わせ、宮崎の名を口にするたび、一様にその怒りを鎮めたという。
明治25年(1892年)1月4日~昭和40年(1965年)8月30日享年73歳


▼吉川潔海軍中佐
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吉川潔中佐は、「不滅の駆逐艦長」といわれ、連合軍が恐れた五人の提督の中のひとりです。
「五人の提督」とは、小沢治三郎 / 山本五十六 / 吉川潔 / 山口多聞 / 草鹿龍之介 の5名で全て海軍です
五人の提督の中で、彼だけが当時の階級が中佐でした。吉川は、海軍兵学校を受験しますが、身長が低か
った彼は、身長と胸囲の不足で不合格になってしまいます。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷
作業で体を鍛え上げ、翌年海軍兵学校に合格しています。吉川は大正11年6月に海軍兵学校卒業すると、
「長月」の水雷長などを経験した後「春風」「弥生」「山風」「江風」と4つの駆逐艦長を勤めています。
戦闘の指揮を執るときは専用の台の上に立ちました。部下を殴る時も飛びあがって殴ったそうです。
そして昭和15年40歳で中佐に昇進し、駆逐艦「大潮」の艦長となりました。艦長としての彼は、恐れを
知らない豪胆さと、決して偉ぶらない人柄、部下に対する思いやりの深さで、みんなから尊敬され、慕わ
れました。艦の中で最年長だった彼は、どんなに苦しい戦いの時でも明るさを失わず、乗員の中へ気軽に
入り、笑いの渦を巻き起こしながらも一本筋金の入った厳しさがあり、艦には「この艦長の為なら」とい
う気風が漲っていました。昭和17年2月バリ島沖海戦で吉川艦長の指揮する駆逐艦「大潮」は、僚艦と協
力して巡洋艦3、駆逐艦7からなる米蘭の連合艦隊に4回にわたって戦いを挑み、オランダの駆逐艦ピート
ハインを砲と雷撃で撃沈し、更に巡洋艦3隻を中破、駆逐艦3隻を小破という大金星をあげています。
同年4月、吉川は一時内地に帰還、駆逐艦「夕立」の艦長に異動となります。
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▲駆逐艦「夕立」(ゆふだち)
8月末「夕立」に乗った吉川は、ソロモン海北西の島を基地にして、後に全滅する陸軍一木支隊の兵員を
ガダルカナル島に上陸させる任務を負っています。以来、第三次ソロモン海戦開始までの2ヶ月半「夕立」
は危険な海域をガダルカナル島に18往復もしています。いわゆる駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)です。
うだる暑さ、絶え間ない空襲、2時間と寝る事のできない不眠という悪条件の中で一回に約150名の陸兵
と15~30トンの武器、弾薬、食糧を回送しています。輸送作戦に従事していた9月4日陸軍兵をガダルカ
ナル島に揚陸した後、米軍に占領されたヘンダーソン飛行場を発見した「夕立」は、これを砲撃して大打
撃を与え、更に駆逐艦二隻を撃沈しています。看護長の奥村忠義二等看護兵曹は、吉川から言われた事を
記憶しています。「なぁ奥村、俺は死んでも代わりがある。だがな、お前が死んだら誰が病気やけがの面
倒をみてくれるんだ? 奥村、お前は体に十分注意しろよ」と。軍医や看護長は陸海軍共皆が大事にした
が、激しい戦時中でのことです。奥村はこの言葉に涙したそうです。この様な話は陸軍でも聞かれます。
バリ島沖海戦では、撃沈したオランダの駆逐艦「ビートハイン」からボートで脱出中の敵乗員10人を吉川
の「大潮」が救助しました。そして彼らを捕虜収容所に送ったのです。捕虜収容所でオランダ水兵の捕虜
処刑話が出た時は「大潮」乗組員をひきいて慰問に訪れたといいます。
昭和17年11月12日深夜、第三次ソロモン海戦でルンガ岬沖に進出した日本艦隊を、キャラハン少将率い
る米艦隊が待ち伏せしていました。吉川は僚艦の「春雨」と共に2隻で米艦隊に向けて猛突進を敢行。
米艦隊は、この2隻の駆逐艦との衝突を避けようとパニックに陥いります。パニックに乗じて、後方にい
た日本側戦艦が先制砲火を開始します。これを確認した吉川は艦を反転させると、日本の主隊と交戦を始
めた敵艦隊の真っただ中に「夕立」を進め、敵艦隊の最後尾に入る。「春雨」はそのまま離脱。「夕立」
は敵艦隊に手当たり次第に砲撃を仕掛け、米巡洋艦「アトランタ」に魚雷2本を命中させて航行不能に陥
らせ、次いで至近距離から米旗艦「サンフランシスコ」に多数の命中弾を浴びせます。「夕立」単艦で巡
洋艦2隻撃沈、2隻撃破、駆逐艦1隻撃沈、3隻撃破という恐ろしい戦果をあげました。
その為米軍からはソロモンの悪夢と呼ばれています。
真夜中の戦いが終わった時、「夕立」は、多数の砲撃を満身に浴びて航行不能となったが、この海戦にお
ける吉川の働きは、その旺盛な攻撃精神、卓抜した戦闘技法、まさに駆逐戦隊の華と称えられ、吉川の駆
逐艦の戦いぶりは、世界の海軍史を通観してもこれに匹敵する事例を他に見出せないものとされています。
吉川の戦歴は、全海戦で8隻を撃沈、12隻撃破という輝かしい戦果ですが、吉川は戦果を誇ることは一
切しない人でもありました。第三次ソロモン海戦から帰投した吉川は、海軍兵学校教官への転任を断り駆
逐艦「大波」の艦長を引き受けて再び激闘のソロモン海へ向かいました。ガダルカナル島撤退の後、敵の
北進を阻止する為、「大波」はブーゲンビル島北端にある、ブカ島への輸送、補給の任務につきましたが
その帰投中の昭和18年11月24日ニューアイルランド島南端でのセントジョージ岬沖海戦にて、最新式レ
ーダーを装備した米駆逐艦アーレイ・バーク大佐指揮の米駆逐艦隊の先制攻撃を受け吉川の駆逐艦「大波」
「巻波」「夕霧」は応戦をする事も出来ずに撃沈され「大波」の生存者は一人も無く、艦と運命を共にし
た吉川の戦死は、日米の技術格差を象徴するものとなりました。
吉川は、戦死後、駆逐艦長としてただ一人、二階級特進の栄誉を担い、少将に昇進しています。
1900年(明治33年)11月3日~1943年(昭和18年)11月25日享年42歳


▼今村 均陸軍大将
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太平洋戦争開戦直後第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。
陸軍の最精鋭空挺部隊であり「空の神兵」と謳われる第1挺進団(挺進部隊)や、飛行第64戦隊・飛行第
59戦隊の一式戦闘機「隼」の活躍もあり、太平洋戦争における日本の最重要戦略目標であるパレンバンの
油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)更に100隻弱の船団を使用する最大規模の上陸作戦となったジャワ
上陸作戦では、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千の
イギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を無条件降伏させ、作戦は日本軍の大勝に終わった。
攻略の際、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯
を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者
としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、
オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治
安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は
住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な
軍政を行った。戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産され
る白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の
日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。
これは日本政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民
は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調
達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。
また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「インドネシア・ラヤ」が、ジャワ島で盛んに歌
われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたという。
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり1942(昭和17年)3月には今村とは親しい
仲である参謀総長「杉山元」が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足し
ており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判が多いから注意したまえ」と軽く叱責している。
また、陸軍省軍務局長の「武藤章」人事局長の「富永恭次」←(陸の三馬鹿参照)も今村に対し、ジャワ島で
もシンガポール同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』か
ら「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて「要綱を改正する前に自分を免職せよ!」と求め、軍
政の方針を変えることに抵抗した。今村は「八紘一宇」というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵
略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。
[八紘一宇]とは「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味で、宮崎県の平和台公園には1940年11
月に建てられた八紘一宇の塔が今も現存している。
現在「太平洋戦争」とされる戦いは日本側から言うと「大東亜戦争」と呼ぶ。これは大東亜共栄圏の名の元
日本が欧米列強による植民地支配に代わって、共存共栄の新秩序をアジアに樹立するというもの。
共栄とは言え、日本を盟主とし、全世界を天皇の元に一つの家とするという「八紘一宇」のスローガンが唱
えられ、現場にいた多くの日本軍人は、「アジア解放のために戦争している」という意識を宣伝や教育で植
え付けられていたので、「自分たちはいいことをしている」と信じて戦った日本軍兵士が多い。
そもそも日本のトップで指令を出していた官僚レベルと、現場で東南アジアの住民と接していた日本軍人と
の間でずれがあり、その人達が戦後日本に戻って来て「あれは侵略戦争だ」と言われると心外な訳で、日本
が国家として行ったことはABCD包囲網にもがきながらも明らかに「資源獲得のための支配だった」と考
えるが、しかし、今村の様な軍人が居て、それを信じて戦った部下が大勢いる。現場とトップを区別して考
える時「大東亜戦争」と呼ぶべきか「太平洋戦争」と呼ぶべきか真剣に考えなくてはならないと思う。

1942(昭和17年)11月20日今村は第8方面軍司令官としてニューブリテン島ラバウルに着任した後、山本
五十六海軍大将と会見している。今村と山本は佐官時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し
合える程の仲であり双方認め合っていたといわれる。その為山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。
今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の一式陸上攻撃機に搭乗し、前線陸軍部隊の視察
を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。
日本海軍ラバウル航空隊の素晴らしい活躍と今村によるラバウルの地下要塞化により、米軍はラバウルの占
領を回避し、打撃により無力化するに留める決定をした。今村はガダルカナル島の戦いの戦訓から、米海軍
の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を
整える事とし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという。 ラバウル無力化の為に米海軍はソロモン諸島を
占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加え、更に1944(昭和19年)2月日本
艦隊の根拠地[トラック諸島]を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退
させた為、ラバウルはほぼ無力化した。 こうしてラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が
完成しており、物資も備蓄していた為に、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に終戦
までラバウルを確保した。終戦後今村は戦争指導者(戦犯)として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令
官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言な
どもあり禁錮10年で判決が確定、1949(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られた。だが今村は「(未だに環境
の悪い南方で服役をしている元部下達の事を考えると)自分だけ東京に居る事は出来ない」として、昭和25
年に自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。
妻を通してGHQ司令官マッカーサーに直訴したといわれている。その態度にマッカーサーは、「私は今村将
軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道
に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。
その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。
その後、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責
任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その印税は全て戦死者や戦犯刑死者
の遺族の為に用いられた。元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、それは戦時中、死地に赴かせる
命令を部下に発せざるを得なかった事に対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。
その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されていると承知し
ても敢えて拒みはしなかったという。
1886年6月28日~1968年10月4日享年82歳
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▲ラバウル航空隊基地。手前は陸軍二式複座戦闘機「屠龍」(とりゅう)奥に見えるのは海軍のゼロ戦
 奥の山はダブル火山、日本時代は花吹山と呼ばれ、9万人以上の日本軍が駐屯していた。

▼米軍の空襲を受けるラバウル航空基地(海軍の一式陸上攻撃機が確認出来る)
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▼米軍の空襲でラバウル地域には約2万トンの爆弾が投下されたという(手前に海軍重巡洋艦羽黒が写っている)
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※ラバウルというとどうしても海軍・ラバウル航空隊のイメージが強いが、今村大将率いる陸軍部隊も居た
事、連合軍とのニューブリテン島での戦いで色々な事があった事も忘れてはいけないと思っている。
昨年11月『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家・水木しげるさんが93歳でこの世を去った。
水木しげるは1943年4月臨時招集令状により補充兵として激戦地ラバウル(ニューブリテン島)へ出征した。
「色々な事」というのはこの場では紹介しないが、水木しげるさんは戦記マンガを多く残しており、その中
でも有名な『総員玉砕せよ!』は水木が「90%は戦地で自分が見聞きしたこと」であり「最も愛着が深い作
品」だという。私も読んだ。あえて感想はここでは書かないが「当時の日本で都合の悪い事は見聞きしない」
という事は絶対避けたい。と思ってブログを書いているつもりである。
鬼太郎が見た玉砕 水木しげるの戦争YouTube




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2016_01_10

台湾(烏來)

Category: 台湾   Tags: 烏來  

台北の次は烏來(ウーライ)に行きました。「温泉」「トロッコとロープウェイ」「白糸の滝」
「 タイヤル族の踊りと歌」などが有名な観光地ですが、私の目的は「高砂族主題紀念公園」
(高砂義勇隊慰霊碑)へ行く事でしたが・・・・。
▼台北から南へ、電車で「新店」へ。
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▼新店駅前
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▼新店駅周辺の高層マンション
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▼新店駅からはタクシーで「高砂族主題紀念公園」へ向かいました。
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▼2015年9月に台湾を襲った台風21号の被害で山道の途中は至る所で復旧作業が行われていました。
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ここで「高砂義勇隊」を説明したいと思う。「高砂族」とは、台湾先住民の事で、元々台湾にはタイヤル族、
トロック族、タウツア族、パイワン族などの複数民族が住んでおり、パイワン族はピューマ族やアミ族など
複数に分かれていて、民族間で争いごとも多くあった。「高砂族から首狩りをやめさせたことは、日本が入
った一番良いことだった。」と語る第5回高砂義勇隊生還者もいる。
日本が統治する(明治28年)まで先住民には首狩の風習があり、他民族と遭遇した時のみならず、男児が成人
する際も首を切り落とし持ち帰る掟があった。日本はその風習、それと密接に関わりがある入墨を禁止した。
日本が統治を開始以来、先祖伝来の生活様式を守り、外来民族の支配を嫌う先住民族の抵抗に日本は手を焼
き、徹底した隔離政策を採った。

▼台湾先住民(アミ族)
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※高砂義勇隊として選ばれたのはタイヤル族・アミ族などの台湾先住民であった。
 高砂族は基本、山の先住民の事を言う。アミ族は高砂族ではないという生還者の方も居る。
 高砂族(タイヤル族)は山から降りてきてアミ族の首を刈る。アミ族は首を刈られる側だった。
 先住民のことを「高砂族」と呼ぶ様になってから、山の人もアミ族も高砂義勇隊で一緒にされた。

原住民居住地を特別行政区として、漢民族住民の立ち入りを禁止、土地に所有も認めず、場所によっては高
圧電流を流した鉄条網で包囲した。反乱防止の為、駐在所の警察官に、学校の教師や行政事務官も兼務させ
警察官が各村の最高権力者になった。
昭和5年(1930)10月タイヤル族の一部が武装蜂起して駐在所や運動会を開催中の学校を襲い、139人の
日本人が犠牲になった。いわゆる『霧社事件』である。警察権力に対する反発が一因であった。
日本政府(台湾総督府)は報復として航空機、大砲などの近代兵器を動員して蜂起を鎮圧したが、644名の
死者を出した。翌年の報復事件(第2霧社事件)を含めると約1000名が犠牲となり、生き残った200余名は
山から下ろされ川中島(現・清流)に強制移住させられた。
『霧社事件』で六部落1300人の先住民は山中に立て籠もり、2カ月余に渡って数千の軍警と攻防戦を演じた。
この戦いで、日本軍は山中の白兵戦ではまったく彼等に歯が立たなかった。この時、彼らの戦闘力、そして
味方に対する忠誠心を軍幹部は深く肝に銘じていたはずで、日米開戦を目前にして、先住民による特殊部隊
の編成を計画したのは、そうしたことがヒントになっていたと考えられている。
この事件後、監督を強化するために、山地住民を駐在所近くに強制移住させた他、日本語や国家への忠誠心
を学校教育を通じて教え込んだ。その結果、初等教育進学率は台湾の漢民族系住民より高くなったと言う。
先住民族にとって日本は初めて出会った『国家』であり、国家意識が薄いと言うよりも全くの白紙であった
彼等は、この皇民化教育で日本人として純粋培養されていった経緯がある。
当時、彼等の人口は昭和4年(1929)の時点で14万人であった。
「高砂族」という呼び方は1935年(昭和10年)公式に先住民を「高砂族」(たかさごぞく)と呼ぶように
なった。現地の高砂族生き残りの方は「台湾人が高砂族をいじめたり、迫害した時、いつも日本人警察が高
砂族を助けた、だから高砂族は日本人が特別好きだ」と語ったと言う。
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▲昭和初期の先住民児童と教師達。(山地の教育所の教師は警察官が務めていた)
しかし、日本人警察が行った行為は全て良かった事ばかりでは無い。
次々に夫が志願して高砂義勇隊に出征してき、男手を失っていった村の生活は逼迫する。
そこへ駐在所の警察官が仕事を持ってきた。「近くの日本軍部隊の駐屯している兵舎で洗濯や縫い物をして
くれ」というものだったが、その後、彼女達は警察官や軍人の慰み者にされ続けた事実もある。
「亭主も兄達も、皆お国のために命を捧げているのだ。お前達もお国に身体を捧げよ」と警察官に言われ、
日本軍部隊数百人の相手を毎晩させられて妊娠したり、流産したり、心身共にぼろぼろになった時、彼女達
から見ても「祖国日本」の敗戦は更に戦後の彼女達の生活を追い詰める結果となった。この様な事実も知っ
ておかないと「統治」や「占領」が、統治された側がどの様な立場なのか理解を間違える事になってしまう。

太平洋戦争(大東亜戦争)中には高砂族を中心にした「高砂義勇隊」が結成され、日本軍の指揮下で戦って
くれた。「高砂義勇隊」の日本軍での評価は非常に高く、共に戦った日本兵の生存者は「未だ台湾に足を向
けて寝る事が出来ない」と言われる程である。以下、「高砂義勇隊」の経緯や戦績をご紹介したいと思う。

太平洋戦争の開始直後から、日本軍は南方の密林戦での労働力、戦力として山岳民族出身の彼等を活用する
為に、先住民族の部隊を編成した。部隊は『高砂義勇隊』と呼ばれた。
台湾では昭和16年より志願兵制度が実施されており、徴兵制は昭和19年に始まった。
皇民化教育がもたらした日本への忠誠心、武勲を重んずる部族の伝統、更に現地警察官の強い働きかけもあ
って志願者が殺到。予想をはるかに上回る5000人もの志願があったと言う。その中から特別に編成したのが
「高砂挺身報国隊」後に「高砂義勇隊」となる特別部隊である。隊員たちの身分は軍属で、皆日本名が与え
られ、第一回~第七回まで編成されて陸軍/海軍合わせて合計4.200人にのぼった。
(※高砂義勇隊慰霊碑がある烏来からは34名が高砂義勇隊に参加、14名戦死)

驚くべき事に昭和16年に志願兵制度が実施された際、募集定員1020名に対し、何と45万人もの台湾の人々
が志願したのであった。翌年も1008人の募集に対し志願者は60万人にもなったという。
軍司令部には血書・嘆願書が山をなし、更に熱心な青年たちは陸軍省に陳情もしていた。
当時台湾の人口が600万人であった事を考えるとこの数字が如何なるものかをお解かり頂けると思う。
昭和13年(1938)台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人巡査「田北正記」に召集令状が
届き、出征する事となった。巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていた為、
下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨンもその一人だった。
一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑
らせ増水した川に落ち、命を落とした。この話は、[ 出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした ]
と言う事から台湾先住民宣撫の為の格好の愛国美談となって広まり、サヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付
近に建てられた。いわゆる映画「サヨンの鐘」(1943年7月封切)と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。
※第二次大戦中、日本人として戦地に送られた台湾人は約20万7000人。うち戦死したのは3万0304人。
 特に「高砂義勇隊」の戦死、戦傷者の割合は高かった。

▼軍夫として支那事変従軍を嘆願する台湾青年の血書。
 これが書かれた昭和13年は台湾人の兵役は認められておらず、多くの青年たちを悔しがらせた。
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昭和16年から志願兵制度が実施されたが血書志願したのに兵役検査で 落ち、一晩泣いた人も多くいたと言う
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▼▲出征前の台湾青年日本軍兵士の写真
1942年臺籍老師日本兵出征前_Taiwanese_Teacher_drafted_as_solider_shoot_with_students_during_World_War_II

▼高砂義勇隊となる高砂族の青年達は、新竹州(現在の新竹市、桃園市、新竹県、苗栗県を合わせた地域)や
 花蓮港庁(現在は花蓮県)などで2週間程度の厳しい訓練を受け、「軍属」として戦地へ送られる事になる。
 (シンガポールで軍事教育を3ヶ月受け、地獄の「インパール作戦」で第15師団に加わった中隊もある)
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▲初年兵教育で「これから立派な大日本帝国軍人だ、大東亜共栄圏の為にしっかりやってくれ」と言われたと言う
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▲▼出征する高砂義勇隊員と整列する高砂義勇隊の勇士達。
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▼薫空挺隊に参加した高砂義勇隊員、津村重行(日本名)上等兵
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高砂義勇隊はフィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入するために創設され、陸軍中野学校出身
者の指揮下で第一回高砂義勇隊(高砂挺身報国隊)が編成され、約500名がフィリピン戦線に派遣された。
開戦間もない昭和17年3月22日高雄よりルソン島に向かいコレヒドール要塞戦、バターン半島作戦に従事し
た。日本軍の勝利に終わった「バターン・コレヒドール作戦」である。
高砂義勇隊は兵士ではなく、志願を前提とした「軍属」として運搬や道路、橋の建設が主であった。
全員台湾先住民で構成され、小隊長・中隊長も「蕃社」の日本人警察官が任命された。
フィリピン(マニラ)で6ヶ月の初年兵教育(明るいうちは戦いの訓練、夜は学課(作戦)を受け、特務兵と
して各戦地へ派遣され、民間の部落にも入って情報収集をする任務を与えられた中隊もあった。
高砂義勇隊は地位も階級も無い。多くは武器も与えられず、「蕃刀」一本で戦った。
※「蕃刀」はタイヤル族が使用した先祖伝来の鉈状の山刀で、高砂義勇兵 下の写真で腰上にさしている物。
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しかし彼等は磁石がなくても方向を見失わない、一度見た山は忘れない、食糧を見つけるのが天才、しかも
勇敢という才能を発揮し、日本兵は皆彼等を弟の様にかわいがったと言う。
コレヒドール島の戦いに向けての険しい山道での行軍中、持参した飲み水も底をつき疲れきった日本兵が峠
で小休止していた際、30~40キロもある荷物を軽々と担いだ、高砂義勇隊が「みなさん元気ですか?」と、
日本軍の後を追ってきた事があった。高砂義勇隊は疲れきった日本兵になみなみと水の入った水筒を与え、
宿泊する小屋の設営も手伝ってくれたという話が残っている。
彼等の多くは24、25歳位の青年で、大部分が妻帯者であり父親でもあった。日本兵と日本酒を飲み交わし
た際には非常に喜んで、早速飯盒(はんごう)のふたで飲み初め、その酒豪振りは准尉を驚かしたという。
昭和17年9月29日ルソン島最南部の義勇隊のパイワン族100名を残し、約400名は台湾に凱旋した。
華々しい勝利を飾った第一回高砂義勇隊の凱旋式は盛大に執り行われ、若者の功名心をそそった。
フィリピンに残った義勇隊のパイワン族100名は、昭和17年7月ミンダナオ島ダバオに移住した後、独立工
兵第15連隊に配属され、7月21日ニューギニア北岸のバサボアに上陸し、オーエンスタンレー山脈を越えて
陸路をポートモレスビーに向かい、陸軍第55師団[ 南海支隊 ]の先鋒を務めた。

第二回以降の高砂義勇隊は昭和17年から18年前半、東部ニューギニアだけでも16万の将兵が戦死し、当時
の日本兵が「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と恐れた「ニューギニアの戦い」
でも大活躍した。写真は花蓮港庁で行われた第三回高砂義勇隊訓練時の記念写真
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▲第三回高砂義勇隊の部隊の中にはオーストラリア上陸作戦に参加した中隊もあった。
IMG003a.jpg
▲第三回高砂義勇隊出征写真。昭和17年9月頃台湾を出発。マニラ、シンガポールを経てラバウルに上陸。
 ラバウルから各中隊に分かれ、それぞれの担当戦地(主にニューギニア戦線)へ送られた。

ニューギニアの作戦の当初から高砂義勇隊と共にした日本兵の生還者は戦後戦地での高砂義勇隊の素晴らしい
仕事を語っている。「我々は高砂義勇隊と共に戦ってきました。食料の無い日が何日も続きました。 ある日、
高砂義勇隊の1人がずっと後方の兵站基地に下がって、食料を運ぶ事になりました。 ところがその次に隊員に
出会った時には死んでいました。50キロの米をかついだまま隊員はジャングルの中で餓死にしていたのです。
背中に担いだ米には一指もつけずに・・。」 なんという忠誠心、涙が溢れてくる・・・。
また、高砂義勇兵達がニューギニア戦線で活躍した理由として 夜目が非常に利き、完全に暗闇なジャングルで
も戦えた事が挙げられる。 高砂族を指揮した中野学校出身の将校にも最初は彼らの索敵報告を信じられない程
だったと言う。ラバウルの第八方面軍司令部に勤務していた小俣洋三陸軍中尉は陸軍中野学校出身者で、第二
高砂義勇隊長としてニューギニア戦線で高砂義勇兵を指揮した。 「ジャングルでの方向感覚や夜目が利く視力、
食料なる動植物の知識や敵に立ち向かう勇敢さ、そして彼らの徹底した忠誠心に誰もが舌を巻いた」 と戦後に
語っている。加えて小俣中尉はニューギニアで負傷し、後に病院船で帰国したが 「4人の高砂義勇兵が木を切
ってその場で担架を作り、意識不明だった私をジャングルの中から何週間もかついで港まで連れてきてくれた。
今こうして生きているのは、高砂義勇兵のお陰」 と言葉を詰まらせながら語ったと言う。
戦地で高砂義勇隊は将校から一兵卒に至るまで正規の日本兵に頼りにされたという。 高砂義勇兵がおぶった上
官が背中で死んでいた事もあったという。荷物を担ぐのがうまく、100キロぐらいの荷物を担いでもしっかり
と歩き、腹が減った時には首にぶら下げていた靴の革を煮てかじっていたと言う。
何故靴を首からぶらさげていたのか?その事は以下の出来事がきっかけである。
高砂族は、まるでグローブのような手、そして靴を履いているのかと見間違うばかりに盛り上がった足の皮。
表情の優しさとは裏腹に強靭な肉体を持っていた彼等は、軍靴を履く事を嫌がった。はだしで生活している彼
等にとっては靴をはくと歩きにくく、軍靴は無用の長物であった。軍の規則で靴を脱ぐ事を当初は許可されな
かったが、戦況の悪化と共に高砂義勇兵の訴えは聞き入れられ、軍靴を脱ぐ事を許可された。
軍靴を脱ぐと、素足で足音さえ立てずに暗闇のジャングルを駆け回る。そのため潜入攻撃や切り込み攻撃は群
を抜いた活躍を見せて日本兵の度肝を抜いた。地獄の「インパール作戦」では食糧の無い中「世界最強の傭兵」
といわれた英国特殊部隊「グルカ連隊」とも高砂義勇隊は互角以上に渡り合い、連合軍から恐れられた。
▼写真は訓練中の高砂義勇隊員(薫空挺隊)
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第二回高砂義勇隊は台湾中部の原住民が多く暮らす南投県仁愛郷のタイヤル族で編成された。
第三回高砂義勇隊(620名)は昭和19年2月15日ニューギニア・ウエワク島を出港数時間後、アメリカ軍大
編隊の空襲を受け、船が沈没。病気・怪我・特別な命令を受けて部隊を離れて行動していた人以外はほぼ全
滅したとされている。(戦死確認は404人)
第四回高砂義勇隊は昭和17年11月14日台湾を出発。マニラ経由でラバウルへ。ラバウルからニュージョージ
ア島(ソロモン諸島)に11月25日上陸、その後昭和18年3月ニューギニア島・ウエワクに入港し、当時日本
軍のニューギニア島最大の航空基地建設に従事している。
第五回高砂義勇隊もニューギニアに派遣され、戦死者233名、生還者92名、生死不明者75名の計500名。
(第五回高砂義勇隊を引率した巡査の遺族が部隊全員の復員資料等を所持していた為、正確な数字だと言う)
第六回高砂義勇隊もフィリピン・ラバウル・ソロモン諸島・ニューギニアを転戦。
第七回高砂義勇隊 昭和18年遊撃第一中隊・遊撃第二中隊が編成された。(これが第七回高砂義勇隊である
         かどうかははっきりしない。)
※第八回高砂義勇隊も編成されたそうだが、終戦間際の編成だった為戦地へ赴いたどうかは不明。
[ 陸軍特別志願兵/遊撃第一、第二中隊の編成と出動 ]
昭和18年10月15日高砂族青年500名を、始めから陸軍特別志願兵として徴募し、訓練を施した。
爆弾を抱えて敵中に突入する訓練も行なっていたという。
この中には第一回高砂高砂義勇隊員も多数含まれていた。彼等は昭和19年3月輸送船で高雄を出発。フィリピ
ンマニラ経由で「薫空挺隊」と「川島部隊300名」に分かれ、川島部隊は4中隊に分かれインドネシアのモロ
タイ島、セレベス島などへ送られる。薫空挺隊はフィリピンのレイテ島へ送られ全滅したとされている。
日本軍は昭和17年末から18年にかけ、ガダルカナルの戦いで敗れ、ニューギニア戦線で敗退を続けている時、
南方のジャングル内で遊撃戦を行う専門部隊を正式に編成することになり、昭和18年12月24日台湾軍は遊撃
第一中隊、遊撃第二中隊の編成を命ぜられた。両中隊共総人員百192名、兵の人数は152名だった。その兵の
うち、通信、衛生の特技者を除き、高砂義勇兵が充てられた。1個中隊に日本人が5~6人、残りは高砂族(ブ
ヌン族、タイヤル族、パイワン族、アミ族)がいた。従って高砂義勇兵は一個中隊に140名程いたと思われる。

[ モロタイ島の戦い ]
太平洋戦争(大東亜戦争)後期にインドネシア東部モルッカ諸島のモロタイ島で守備する日本軍と上陸したア
メリカ軍主力の連合国軍の間で行われた戦いである。アメリカ軍は、フィリピン反攻作戦の第一歩として、モ
ロタイ島を占領し飛行場など大規模な基地を建設した。終戦後の1956年には9人の元日本兵が発見され日本に
帰国。そして昭和49年(1974)12月には一等兵として戦死扱いになっていた「高砂義勇隊」の中村輝夫さん
(本名、李光輝 アミ族出身)が発見され、台湾に帰国している。
▼昭和49年(1974)1月台湾に帰国した李光輝さん。日本の為に戦い、帰国した台湾は蒋介石万歳に180度
 変わり、言葉も変わり、国も変わり、大変な思いであったであろう。
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▼中村輝夫(李光輝)さん
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李光輝(ス ニオン)さんは台湾に帰国後僅か4年で亡くなっている。彼の確認が日本の世論において「高砂義勇隊」
が話題に上った最初のきっかけとなった。彼の発見をきっかけに給与が未払で補償がないことに関する世論の批判
もおき、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に1人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払われたが、
李光輝さん以外の義勇兵への給与は現在でも未払である。また、当時強制的に軍事郵便貯金とされた兵士の給与
は引き出せなかったが、これは120倍にして返却することが決まり1995年に支払いが開始され一部の元隊員は受け
取った。しかし戦いでお金を使う暇も無く平均1000円ほどの残高を所持し、当時としては大金だったのに120倍で
引き出しても12万円にしかならない。これに抗議して1996年6月日本大使館に相当する台北の交流協会を元隊員が
襲撃する事件が起こった。現在でも、物価上昇を考慮すると数年間の戦闘の対価としてはあまりに少額として抗議す
る元隊員も多いのも事実である。
※日本政府は中村輝夫(李光輝)に対して帰還手当3万円と未払い給与38279円を公式に支払った。
 閣僚から特別な見舞金200万円、この他、数百万円の義援金が渡されている

[ 薫空挺隊 ] 日本ニュース「薫」空挺隊
薫空挺隊とは、レイテ島の戦いにおいて1944年11月26日にフィリピンのレイテ島アメリカ軍占領下ブラウエン飛行
場への強行着陸と破壊を目標とした義号作戦に用いられた大日本帝国陸軍の空挺部隊である。
薫空挺隊は台湾軍遊撃第1中隊の一部で、本来はジャングルでの遊撃戦専門の特殊部隊であった高砂義勇兵がかなりの
割合を占た。義号作戦で出撃した約40名を乗せた輸送機4機の内1機が日本軍勢力下のバレンシア飛行場に強行着陸し、
搭乗員は第26師団と共に行動したということのみが確認されている。
残りの3機のうち2機については、アメリカ軍戦史によればドラッグ海岸付近に着陸し、乗組員はいずこへともなく消
えていったと言う。残る1機は完全に消息不明である。薫空挺隊の生き残りがいるのかどうかも明らかになっていない。
この作戦が成功したのか、失敗したのか、はたまた敢行すら出来なかったのかさえ不明である。
アメリカ軍戦史の記述を信用すれば、戦いすら起きなかった可能性もあるが、この戦いに参加した高砂義勇兵は1人
も生還していない。当初同時に行なわれる予定だった?高千穂空挺隊(第2挺進団)、挺進第3連隊主力と挺進第4連隊の
一部(空挺隊員462名)が、12/6ルソン島(クラーク基地)より出撃。
挺進飛行第1戦隊(秘匿名[霧島部隊])と挺進飛行第2戦隊の一部など輸送機35機と重爆撃機4機、援護重爆撃機13機
と護衛戦闘機31機の大部隊だった。
落下傘降下した高千穂部隊はブラウエン南飛行場(米軍名/バユグ飛行場・サンパブロ飛行場)、ブラウエン北飛行場(米
軍名/ブリ飛行場)これらの飛行場に胴体着陸して斬込みを敢行(天号作戦)付近を防衛していたアメリカ軍第11空挺師団
と空挺兵同士で交戦となる。若干名は飛行場に突入し米航空機の破壊、一時的にブラウエン北飛行場奪還に成功した。
しかし、12月までに合計5万名に及ぶ兵力と物資をレイテ島に送り込んだ日本軍だったが、その大半が輸送途中に敵襲
で海没する船舶が相次ぎ、第26師団主力は11/9無事オルモックに入港するも、上陸用大発動艇の不足からほぼ兵員の
みの上陸となり、更に後続の補給物資船団は到着前に次々と沈められ、軍需品、糧食の8割が海中に沈められた。
その結果レイテに運ばれた日本軍を待っていたのはガダルカナルの戦いやインパール作戦にも引けを取らない飢餓戦と
なり、結果海上輸送も地上総攻撃も失敗した日本軍は空挺攻撃も打ち切りとし、空挺隊の犠牲が報われる事は無かった。
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▲ルソン島クラーク飛行場にて出撃準備中の日本軍挺進隊員
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▲▼薫空挺隊の集合写真[ NHK戦争証言アーカイブス[薫空挺隊]
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▼薫空挺隊出撃前の訓示
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▼出陣に当たり故国を遥拝する薫空挺隊。
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▼薫空挺隊出撃直前、聖壽の萬歳を奉唱。(胸の雑嚢には爆薬が入っている)
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▼フィリピンにて、薫空挺隊の中重男中尉を激励する富永恭次司令官(「陸の三馬鹿」参照 )
 戦況が悪化した翌年1月6日、富永司令官は部隊を見棄て台湾へ敵前逃亡た。(写真左)
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フィリピン・ルソン島ルバ飛行場の宿舎で出撃前のひと時。右が中重男中尉▲(写真右)
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▲出陣式の石田歳徳曹長。軍刀を左手に持ち、右手で「陛下」御下賜の清酒で乾杯。
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▲輸送機に乗り込む薫空挺隊
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▲輸送機の機種はさだかでないが、空挺隊が訓練に使った画像の陸軍97式輸送機ではないか?と思われる
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▲機内の薫空挺隊(通路中央でしゃがんでいるのは加来隆少尉)
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▲当時、薫空挺隊を伝える新聞記事(朝日新聞)

[ 薫空挺隊の編成 ]指揮官 中勇男中尉(写真参照)
第一小隊(小隊長)中勇男中尉[指揮官と兼務]/甲斐将夫曹長/清水敏次伍長
高砂義勇兵→石川正信上等兵/岡野弘上等兵/山下登上等兵/藤野秀夫上等兵/宮崎一郎上等兵
      西村秀夫上等兵/西山義一上等兵/河井東男上等兵/徳永正利上等兵/本多純一上等兵
      西村照秋上等兵/上田初喜上等兵 以上合計15名

第二小隊(小隊長)須永富蔵少尉/石田歳徳曹長(写真参照)/八木橋俊曹長
高砂義勇兵→森田実上等兵/稲田茂上等兵/池田三郎上等兵/井手敏上等兵/草田良夫上等兵
      ※有村※上等兵/結城文男上等兵/前田隆男上等兵/栗原二男上等兵/東山晴夫上等兵
      津村重行上等兵(写真参照)/田村幸吉上等兵 以上合計15名

第三小隊(小隊長)川原英雄少尉/浜田新軍曹/金原庚鎮軍曹(朝鮮慶道北道尚州郡出身)
高砂義勇兵→石川正義上等兵/大橋要英上等兵/高橋金三郎上等兵/伊藤秀雄上等兵/矢野秀雄上等兵
      菊田光治上等兵/永野賢龍上等兵/田中幸徳上等兵/金川見洙上等兵/瀬ノ口信男上等兵
      金重信男上等兵/三浦豊之上等兵 以上計15名

第四小隊(小隊長)加来隆少尉(写真参照)/木下敏一軍曹/中村寛軍曹
高砂義勇兵→藤川光三上等兵/甲斐亘上等兵/久川勝康上等兵/石井誠上等兵/齋藤新三郎上等兵
      石建美水上等兵/小野寺清一郎上等兵/実田健吉上等兵/林吉則上等兵/手島進上等兵
      青木達一上等兵/保浦久良上等兵 以上計15名

飛行部隊編隊長 桐村弘三中尉
[一番機] 桐村弘三中尉/田中正澄軍曹 [二番機] 五藤武準尉/北 史軍曹
[三番機] 大沢正弘中尉/塚田弘治曹長 [四番機] 寺島近馬準尉/高木弘軍曹

各上等兵は全員高砂族出身※については、靖國神社御祭神名簿に「有村晴夫」「有村繁敏」の二名があり、
どちらが薫空挺隊に入ったか不明。薫空挺隊は隊長、下士官計12名のうち11名と飛行部隊8名が日本人。
朝鮮人1名。高砂義勇隊員48名。合計68名の構成であった。
この戦いで戦死したと認定された高砂義勇隊の兵士は靖国神社に合祀されている。

※2005年6月台湾先住民出身「立法委員」高金素梅氏が、先の大戦で旧日本軍に徴募された「高砂義勇隊」
 の戦死者の遺族代表60人と共に訪日し、靖国神社に合祀された「高砂義勇隊」戦死者の位牌を同神社から
 除くよう日本側に求め、日本政府に賠償と謝罪を求めた。高金素梅氏は台湾では有名な反日活動家です。
 朝日新聞の記事では「台湾先住民族出身」と書いてありますが、母親は確かに高砂族出身ですが、父親は
 戦後中国から逃げ込んだ大陸人であり、その思想は高潔な高砂族のものではなく、反日に染まった中国人
 のそのものであった。 更にこの人物は2003年にも、高砂族の123名を原告として、小泉首相が靖国神社
 に参拝した事に対し、慰謝料を請求するとして大阪地裁に訴訟を起こしています。(大阪地裁は請求棄却)
 この時高砂族123名を原告としていましたが、この123名には台湾に現住所が確認できない者なども多く、
 実際は高砂族の意思ではなかったことも明らかになっており高金素梅氏が反日活動を行う為に、高砂族の
 名を悪用した事に高砂族が怒り、「高金素梅は高砂族の恥」として、数々の抗議を行っています。

戦後、日本政府は台湾の戦後処理で、高砂義勇隊に対して報いず放置し、戦時中に高砂義勇隊を部下に持っ
た元日本陸軍少尉は戦後の日本政府の薄情さに怒り、「我々日本人の恥である。戦友として誠に忍びない。
国が補償しないなら俺がする。ほんの気持ちだ」と言って高砂義勇隊の部下20数名に10万円ずつ贈り、こ
れに元高砂義勇隊達は皆涙し、「この金を戴くわけにはいかない」と言って全額を返した。
戦後、昭和27年(1952)に発効した日華平和条約により、台湾の人達は日本国籍を喪失する。
それを理由に、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、元軍人・軍属やその遺族に対して障害
年金、遺族年金、恩給、弔慰金、また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかった。
昭和52年(1977)8月「台湾人元日本兵」の鄧盛氏ら戦傷者と戦死者の遺族13名が、日本国を相手どり1人
500万円の補償金を要求して裁判を起こした。
上記で紹介した元高砂義勇兵「中村輝夫」(李光輝)がモロタイ島で発見されたのを契機として、台湾人元
日本兵への補償を求める運動が日本と台湾で具現化。しかし日本政府に動きがなかった為、戦後32年目にし
て上述の提訴となった。昭和57年(1982)2月26日東京地裁は「同情は禁じ得ないが、国際的外交処理な
いし立法政策に委ねられるもの」として、請求棄却の判決を下した。
原告団は判決を不服とし「日本には人道も誠意もないのか」と控訴する。
しかし、日本政府(外務省)の、第二次大戦に関する賠償問題は決着している。個人的な賠償は行わない。
という基本方針を転換させる事はいわば日米安保を破棄するがごとく、日本の政策の根幹に触れる事になる。
先の大戦で戦った日本人軍属の方でも戦後生還して日本で暮らしているが「軍人」では無く「軍属」だった
から。「少年兵」だったから。との理由で障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、戦争中の未払い給与等の支
払いを日本政府から一切受けていない元日本人軍属の方も数多くいらっしゃる。
戦後保証の問題は何も外国人だけに限った事では無いので難しい問題でもある。

一方で平成12年(2000)4月ボランティア団体「ユニバース国際援助基金」が元高砂義勇兵生還者23名を、
1週間の日本観光旅行に招待した事があった。
日本人以上に日本人で、愛国心溢れる彼らの姿に、歓迎した日本の一行が、逆に感動させられたと言う。
羽田空港に到着し、降機先頭に出てこられた元高砂義勇兵の方は日本陸軍の制服に制帽を身に纏い、
「第一回高砂義勇隊、大村国太郎であります。只今日本に帰って参りました」と深々頭を下げられたと言う。
靖国神社を参拝した際には、皆さん「戦友に会えました」と涙ながらに語り、宴会では軍歌や唱歌の大合唱
で盛り上がり祖国の地を踏んだことに涙し、日本文化を存分に満喫し台湾に帰られたとの事だ。
この日本観光旅行に参加した高砂族の1人「陳徳儀」さんは、靖国神社参拝を控えて、東京・九段の偕行社
で、非公式に出席された三笠宮様臨席の下、勲五等瑞宝章を授けられたという。
(叙勲として公式に認められた物ではないと推測する)関係者は言葉を濁すが、陸軍中野学校出身の「小俣洋
三」がパイワン族元義勇兵「平山勇」(楊清課)に小俣自身が授かった勲章を与えた様に、招いた日本側の
有志が勲章を提出したとの想像も出来る。仮にそうであったとしても、陳徳儀にとっては人生最大の喜びで
ある様だった。  陳は「三笠宮さま(ご臨席の下での叙勲は)本当に尊いことです。日本は敗戦したという
が、行ってみたら第一級の姿です。三笠宮さまが頭を下げられた。その瞬間、私はもう(感極まって)何も
覚えていません。それで十分です」と言ったという。
報われる事がほとんどなかった高砂義勇兵の中で、陳はある意味で最も報われた男の一人かもしれない。
実に素晴らしい企画と素晴らしい高砂族の方達ではないか、日本人は絶対忘れてはいけない。
「高砂義勇隊」が命をかけて日本軍と共に戦ってくれた事を。

[ 高砂義勇隊生還者や学徒兵の方達から日本人へのメッセージをお三人分ご紹介します ]※2009年時点
①日本のみなさんへ
「志願したのは、国を愛する気持ちでいっぱいだった、自分の国を自分で守る気持ちでいっぱいだったから。
そういう文化と時代だった。どうせ受からないだろうといたずらな気持ちもあった。当時植民地で差別され
ていたが、それで日本を嫌いになるのではない。平等でないから、兵隊になれば平等になると思った。
初年兵教育のとき、「これから立派な大日本帝国軍人だ、大東亜共栄圏のためにしっかりやってくれ」と言
われた。前線の為にしっかり駆け回っているのに「帝国主義だ」は飲み込めない。
日本の為に命を出して駆け回ったのに、敵の国にさせられた。

前線にいた兵隊は大東亜共栄圏の為に戦っている。自分の事で戦っているのではない。みな命が惜しい。
それを捨てて戦っている。GHQの弱体化政策で軍が悪いとされているが、また本国のリーダー達のことは知
らないが、前線の兵士は皆そうだった。
自分にとっての大東亜共栄圏とは、シンガポールでの体験から、同じ黄色人種がアジアで平等にやってゆけ
たら。と考えていた。今、大東亜共栄圏は実現している。戦前の地図はみな白人の奴隷だった。あの戦争の
お陰で今のアジアがある。230万人の命を投げ込んで戦った甲斐があった。
この戦争の責任をみんな日本に投げ込んでいる。けんか両成敗ではないが、これは不公平と思う。

しかし、戦後の日本政府の態度も納得できない。終戦直後は余裕ないから仕方ない、それは解る。しかしそ
の後の神武景気で日本は発展した。負けたとたんに切り離されてしまった。日本政府に一言ある。
お金ではない、「台湾の軍人軍属の皆さん、ご苦労さんでした、有難うございました。」
この一言が欲しい。天皇は恐れ多いからせめて総理大臣の誰か一人に。それが台湾日本語族の願いだ。

②日本のみなさんへ
戦後、日本は台湾を引き揚げたあと、台湾の30何万の兵士軍属らに一つも面倒を見なかった。
敗戦で祖国の中国に戻れたからとサヨナラだった。
日本が台湾を引き上げた後、台湾の兵士たちは言葉も文字も解らない社会で、日本の手先だといじめられた。
台湾人は中国人でも日本人でもない。日本時代は中国人、敗戦後は日本人と言われる。
戦後日本は神武景気でよくなったが、台湾は長い戒厳令でひどい目にあった。
日本との50年の繋がりの為にひどい目に遭わされた。田中首相の時に、利益の為、人情も省みず台湾は切り
捨てられた。日本は50年の間に文化を残し、それを引き受けたが、故にマイナスにもなった。

国民党政府はかつての敵である共産党と一緒になり、台湾を中国の一部として扱っている。
日本と利害関係の多いこの台湾を取られた暁には、日本も酷い目に遭わされる。日本はそれを知りつつ、中
国に対して控えめ、台湾に対して支援も出来ない。この事を日本の人達に解ってもらいたい。
台湾は日本とも近いし、日本は文化も残した、それを解っている台湾人も多い。
もう少し交流が強くなり、台湾のこと、台湾の過去を知ってもらいたい。あなた方の事だから。と言わずに、
親戚、友人に関心を寄せるように切迫した情勢に関心を寄せ、もっと多くの日本人が声援を寄せてほしい。

日本が台湾を支配して50年。台湾に何をしたか、台湾の人が何を思っているか、ゆくゆくはどうなってゆく
か、日本の人達に知ってもらいたい。これは多くの台湾人の願いだ。
これは悲願になると思う。ゆくゆくは併合されるだろう。朝鮮が日本に併合されたように。そういうことが
将来あっても、それを何百万の人たちが煙たがっている、おそらく1000万以上の台湾の人が嫌っている。

そのために奮闘しないといけない。日本みたいに一つの国だからとのうのうとしているわけにはいかない。
次の世代は、中国に併合されるか独立するかの瀬戸際だ。日本はれっきとした一つの国だから永久に変わら
ないのに比べ、台湾は400年間、いくつかの国に統治されて誇りを失った。
自分がどこの国の人かわからない。自分の世代は、一つの国として生きてゆきたいと願っている。
台湾人であるという誇りを持っている。中国人とは違う。もともと原住民がいたところへ、中国南部から入
った人達と混血し、その後日本の文化を取り入れた、特別な文化がある。
自分には3つの祖国がある。戦前は日本、戦後は中国人、ここ20年は台湾人。
中国人にはなりたくない。中国人は「お前日本の教育を受けたからだ」というが、そうじゃない。日本の不
合理なところも知っている。3つの時代を生きて、辛かったこともあったが今は幸せだと思っている。
三つの祖国と三つの自分(日本人→中国人→台湾人)最後は台湾人としての誇りを忘れていない。
「3つの時代を生きて、辛かったこともあったが今は幸せだと思っている。三つの祖国と三つの自分
(日本人→中国人→台湾人)、最後は台湾人としての誇りを忘れていない。

③日本のみなさんへ
日本政府に、台湾の軍属にも恩給や慰問などを支給してほしいと要求したが相手にされなかった。
日本人と同じ待遇はされていない。終戦後60余年、無念で死んだ人が沢山いる。
日本のために兵隊軍属になったのに悔しい。

▼新店駅からタクシーで30分、烏来で有名な「白糸の滝」がある場所。ここから更に登った所に慰霊碑がある。
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※烏来(ウーライ)はタイヤル語で「温泉」という意味。約300年前タイヤル族によって温泉が発見された。

戦後、先住民集落の若者達を日本に送って芸能活動をさせるという事業を台湾で最初に始めた人がいる。
烏来で「愛子」と呼ばれていた女性である。烏来(ウーライ)は台北にもっとも近いタイヤル族の里で、温泉
があることから、日本時代から観光化が進み、先住民の観光資源としての利用の先駆けとなった場所だ。
「愛子」さんは、そうした伝統を受け継ぎ、青年たちを訓練して日本に送って成功し、往時先住民としては
有数の資産を築き、烏来の観光開発に寄与する一方で「高砂義勇隊慰霊碑」を建立した事で知られる。
1970年代半ば~1980年代にかけてこの手の商売の盛りだったと言う。そしてこの時期は、台湾売春観光の
最盛期とも重なる。日本円を稼ぐ手段として、女性の性や先住品の天性が動員された時代と言える。
ざるに水を流すようなビジネスは、後にフィリピン女性の日本進出によりダメになっていったと言う。

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▲きつい階段ですがこの階段を「瀑布公園」目指して上っていきます。
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▲半分以上登った所でふり返って撮影。(この後、以前はあったと言う階段が途切れます・・。)
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▲「瀑布公園」 への入り口付近は台風被害による土砂崩れ復旧作業の為、この写真から上へ登る事が出
 来ませんでした。もう少し登る事が出来れば高砂義勇隊慰霊碑に行けたはずですが残念です。
 2015年8月8日花蓮に上陸した台風13号は台湾を横断して台湾海峡へ抜けましたが、各地で倒木が道路
 を塞ぎ、店舗の屋根が剥がれ落ちるなど大きな被害を受け、死者5人、行方不明者4人、負傷者185人、
 を出したそうです。高砂義勇隊慰霊碑のある烏来でも、慰霊碑裏の山肌が数十メートルにわたって地滑
 りを起こし、慰霊碑の像がなぎ倒され、李登輝元総統が揮毫された「霊安故郷」銘板がある台座も落石
 と倒木に埋もれているとの事で、無理に上って行っても慰霊碑に一礼する事は出来なかったでしょう。
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台風被害でどの様になったのかお借りした画像で。▼台風前(2014年5月)▼台風被害後(2015年8月24日)
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▲「高砂義勇隊慰霊碑」へこれからいかれる方は復旧確認をしてからお出かけ下さい。

▼土砂に埋まる前の「高砂義勇隊慰霊碑」をお借りした画像で。
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▼碑文が竹で覆われた「高砂義勇隊慰霊碑」(竹で覆われた経緯は下記をご覧下さい)
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◆「高砂義勇隊慰霊碑」の経緯
最初の「高砂義勇兵」の記念碑は、戒厳令が解かれた1992年、烏来郷高砂義勇隊記念協会(地元遺族の人達の協会)
と日本の(戦没者)遺族会、元日本陸軍軍人の南星会、元日本海軍軍人の海交会といった組織からの働きかけと援助
があって着想が生まれ、烏来郷に建立。
しかし、その敷地を無償提供していた地元の観光会社(山胞観光公司)がSARSの影響を受け2004年に倒産。
地主から撤去を求められたが、移設の為の遺族の募金活動や、「産経新聞社」の報道、「あけぼの会」会長の呼びか
けにより、「高砂義勇兵慰霊碑を守る会」を結成。日本から3200万円を超える義捐金が寄せられた。
代替地は台北県政府が無償提供し、烏来郷(現在地)の「烏来瀑布公園」への移設・存続が決定。
台座の銘板に当時の李登輝総統が「霊安故郷」と揮毫し、2006年2月8日新しい慰霊碑の除幕式が行われたが、数日
後の17日、中国時報(親中派)等が「軍国主義をあおっている」「烏来公園が日本に占領される」などと批判キャン
ペーンを展開。(上記「靖国神社合祀」問題で紹介した「高金素梅」立法委員が中国時報に働きかけた結果)
敷地を所有する台北県は2月20日までに、建立した先住民側に撤去を命令。台北県から「未申請の違法建築」「水土
保持違反」等の理由で碑の撤去命令が出される。これらの理由は「言い掛かり」で、当時の県長(知事)は中国国民
党の周錫瑋という反日抗議活動で必ずマスコミに出てくる外省人(中国人)だった為、本省人とはいえ、日本軍と共
に戦った高砂義勇隊の慰霊碑の存在が許せなかったと考えられている。
同県政府は同24日、14年前に建立された記念碑は存続させ、残る「皇民」など日本語が入った八つの石碑八基を警
察まで動員し強制撤去。抗議する地元有志と衝突。
そして、残る慰霊碑の碑文を竹で覆ってしまった。当然、地元烏来の団体は抗議声明を発表。2月26日泰雅民族議会
が、台北県の強制撤去行為に対しての抗議声明を出し、4月24日烏来郷高砂義勇隊記念協会は、台湾人権促進会の弁
護士団に委任し、内政部訴願審議委員会に訴願を提出し、3年もの間法廷で争うことになる。
2007年12月の高等行政法院は訴えを却下する裁定を下したが、最高行政法院は地元側の抗告を認めてこれを差し戻
し、3回の審理を経た2009年3月24日、判決で最高行政法院は処分撤回を支持。
3年に及んだ記念碑問題は、法廷論争で地元有志の意向が受け入れられ、解決に向けて大きく動き出した。
県側は、「日本語で書かれた碑文に訳文をつける事などを可能であれば処置する事」を条件としながらも、記念碑の
囲いのベニア板(竹で覆われた内側にはベニア板でも覆ってある)を取り払い、他の石碑も全面返還することを約束
した。3月に入ると記念碑の囲いの一部が取り外され、対立点を残しながらも新たな造成工事も始まった。
地元で記念碑を守ってきた「烏来郷高砂義勇隊記念協会」のマカイ・リムイ総幹事は「3年の道のりは長かったが、
判決は最終決着への大きな一歩だ。日本の善意に対して恥ずかしい思いをし続けたが、今度こそ記念碑を日本精神が
根づく義勇隊の誇りの軌跡として、また日台を結ぶ友情のきずなとして残していきたい」とメディアに語った。
2010年2月、3年間竹に覆われるという異常事態は解消され、再整備されて現在に至っている。
なお、2015年9月の台風被害による「高砂義勇隊慰霊碑、台風被害お見舞い募金のお願い」(受付終了)が
日本李登輝友の会から呼びかけられている。




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2016_01_02




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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