台湾(烏來)

Category: 台湾   Tags: 烏來  

台北の次は烏來(ウーライ)に行きました。「温泉」「トロッコとロープウェイ」「白糸の滝」
「 タイヤル族の踊りと歌」などが有名な観光地ですが、私の目的は「高砂族主題紀念公園」
(高砂義勇隊慰霊碑)へ行く事でしたが・・・・。
▼台北から南へ、電車で「新店」へ。
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▼新店駅前
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▼新店駅周辺の高層マンション
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▼新店駅からはタクシーで「高砂族主題紀念公園」へ向かいました。
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▼2015年9月に台湾を襲った台風21号の被害で山道の途中は至る所で復旧作業が行われていました。
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ここで「高砂義勇隊」を説明したいと思う。「高砂族」とは、台湾先住民の事で、元々台湾にはタイヤル族、
トロック族、タウツア族、パイワン族などの複数民族が住んでおり、パイワン族はピューマ族やアミ族など
複数に分かれていて、民族間で争いごとも多くあった。「高砂族から首狩りをやめさせたことは、日本が入
った一番良いことだった。」と語る第5回高砂義勇隊生還者もいる。
日本が統治する(明治28年)まで先住民には首狩の風習があり、他民族と遭遇した時のみならず、男児が成人
する際も首を切り落とし持ち帰る掟があった。日本はその風習、それと密接に関わりがある入墨を禁止した。
日本が統治を開始以来、先祖伝来の生活様式を守り、外来民族の支配を嫌う先住民族の抵抗に日本は手を焼
き、徹底した隔離政策を採った。

▼台湾先住民(アミ族)
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※高砂義勇隊として選ばれたのはタイヤル族・アミ族などの台湾先住民であった。
 高砂族は基本、山の先住民の事を言う。アミ族は高砂族ではないという生還者の方も居る。
 高砂族(タイヤル族)は山から降りてきてアミ族の首を刈る。アミ族は首を刈られる側だった。
 先住民のことを「高砂族」と呼ぶ様になってから、山の人もアミ族も高砂義勇隊で一緒にされた。

原住民居住地を特別行政区として、漢民族住民の立ち入りを禁止、土地に所有も認めず、場所によっては高
圧電流を流した鉄条網で包囲した。反乱防止の為、駐在所の警察官に、学校の教師や行政事務官も兼務させ
警察官が各村の最高権力者になった。
昭和5年(1930)10月タイヤル族の一部が武装蜂起して駐在所や運動会を開催中の学校を襲い、139人の
日本人が犠牲になった。いわゆる『霧社事件』である。警察権力に対する反発が一因であった。
日本政府(台湾総督府)は報復として航空機、大砲などの近代兵器を動員して蜂起を鎮圧したが、644名の
死者を出した。翌年の報復事件(第2霧社事件)を含めると約1000名が犠牲となり、生き残った200余名は
山から下ろされ川中島(現・清流)に強制移住させられた。
『霧社事件』で六部落1300人の先住民は山中に立て籠もり、2カ月余に渡って数千の軍警と攻防戦を演じた。
この戦いで、日本軍は山中の白兵戦ではまったく彼等に歯が立たなかった。この時、彼らの戦闘力、そして
味方に対する忠誠心を軍幹部は深く肝に銘じていたはずで、日米開戦を目前にして、先住民による特殊部隊
の編成を計画したのは、そうしたことがヒントになっていたと考えられている。
この事件後、監督を強化するために、山地住民を駐在所近くに強制移住させた他、日本語や国家への忠誠心
を学校教育を通じて教え込んだ。その結果、初等教育進学率は台湾の漢民族系住民より高くなったと言う。
先住民族にとって日本は初めて出会った『国家』であり、国家意識が薄いと言うよりも全くの白紙であった
彼等は、この皇民化教育で日本人として純粋培養されていった経緯がある。
当時、彼等の人口は昭和4年(1929)の時点で14万人であった。
「高砂族」という呼び方は1935年(昭和10年)公式に先住民を「高砂族」(たかさごぞく)と呼ぶように
なった。現地の高砂族生き残りの方は「台湾人が高砂族をいじめたり、迫害した時、いつも日本人警察が高
砂族を助けた、だから高砂族は日本人が特別好きだ」と語ったと言う。
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▲昭和初期の先住民児童と教師達。(山地の教育所の教師は警察官が務めていた)
しかし、日本人警察が行った行為は全て良かった事ばかりでは無い。
次々に夫が志願して高砂義勇隊に出征してき、男手を失っていった村の生活は逼迫する。
そこへ駐在所の警察官が仕事を持ってきた。「近くの日本軍部隊の駐屯している兵舎で洗濯や縫い物をして
くれ」というものだったが、その後、彼女達は警察官や軍人の慰み者にされ続けた事実もある。
「亭主も兄達も、皆お国のために命を捧げているのだ。お前達もお国に身体を捧げよ」と警察官に言われ、
日本軍部隊数百人の相手を毎晩させられて妊娠したり、流産したり、心身共にぼろぼろになった時、彼女達
から見ても「祖国日本」の敗戦は更に戦後の彼女達の生活を追い詰める結果となった。この様な事実も知っ
ておかないと「統治」や「占領」が、統治された側がどの様な立場なのか理解を間違える事になってしまう。

太平洋戦争(大東亜戦争)中には高砂族を中心にした「高砂義勇隊」が結成され、日本軍の指揮下で戦って
くれた。「高砂義勇隊」の日本軍での評価は非常に高く、共に戦った日本兵の生存者は「未だ台湾に足を向
けて寝る事が出来ない」と言われる程である。以下、「高砂義勇隊」の経緯や戦績をご紹介したいと思う。

太平洋戦争の開始直後から、日本軍は南方の密林戦での労働力、戦力として山岳民族出身の彼等を活用する
為に、先住民族の部隊を編成した。部隊は『高砂義勇隊』と呼ばれた。
台湾では昭和16年より志願兵制度が実施されており、徴兵制は昭和19年に始まった。
皇民化教育がもたらした日本への忠誠心、武勲を重んずる部族の伝統、更に現地警察官の強い働きかけもあ
って志願者が殺到。予想をはるかに上回る5000人もの志願があったと言う。その中から特別に編成したのが
「高砂挺身報国隊」後に「高砂義勇隊」となる特別部隊である。隊員たちの身分は軍属で、皆日本名が与え
られ、第一回~第七回まで編成されて陸軍/海軍合わせて合計4.200人にのぼった。
(※高砂義勇隊慰霊碑がある烏来からは34名が高砂義勇隊に参加、14名戦死)

驚くべき事に昭和16年に志願兵制度が実施された際、募集定員1020名に対し、何と45万人もの台湾の人々
が志願したのであった。翌年も1008人の募集に対し志願者は60万人にもなったという。
軍司令部には血書・嘆願書が山をなし、更に熱心な青年たちは陸軍省に陳情もしていた。
当時台湾の人口が600万人であった事を考えるとこの数字が如何なるものかをお解かり頂けると思う。
昭和13年(1938)台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人巡査「田北正記」に召集令状が
届き、出征する事となった。巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていた為、
下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨンもその一人だった。
一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑
らせ増水した川に落ち、命を落とした。この話は、[ 出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした ]
と言う事から台湾先住民宣撫の為の格好の愛国美談となって広まり、サヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付
近に建てられた。いわゆる映画「サヨンの鐘」(1943年7月封切)と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。
※第二次大戦中、日本人として戦地に送られた台湾人は約20万7000人。うち戦死したのは3万0304人。
 特に「高砂義勇隊」の戦死、戦傷者の割合は高かった。

▼軍夫として支那事変従軍を嘆願する台湾青年の血書。
 これが書かれた昭和13年は台湾人の兵役は認められておらず、多くの青年たちを悔しがらせた。
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昭和16年から志願兵制度が実施されたが血書志願したのに兵役検査で 落ち、一晩泣いた人も多くいたと言う
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▼▲出征前の台湾青年日本軍兵士の写真
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▼高砂義勇隊となる高砂族の青年達は、新竹州(現在の新竹市、桃園市、新竹県、苗栗県を合わせた地域)や
 花蓮港庁(現在は花蓮県)などで2週間程度の厳しい訓練を受け、「軍属」として戦地へ送られる事になる。
 (シンガポールで軍事教育を3ヶ月受け、地獄の「インパール作戦」で第15師団に加わった中隊もある)
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▲初年兵教育で「これから立派な大日本帝国軍人だ、大東亜共栄圏の為にしっかりやってくれ」と言われたと言う
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▲▼出征する高砂義勇隊員と整列する高砂義勇隊の勇士達。
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▼薫空挺隊に参加した高砂義勇隊員、津村重行(日本名)上等兵
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高砂義勇隊はフィリピン、ニューギニアなど密林地帯の戦場に投入するために創設され、陸軍中野学校出身
者の指揮下で第一回高砂義勇隊(高砂挺身報国隊)が編成され、約500名がフィリピン戦線に派遣された。
開戦間もない昭和17年3月22日高雄よりルソン島に向かいコレヒドール要塞戦、バターン半島作戦に従事し
た。日本軍の勝利に終わった「バターン・コレヒドール作戦」である。
高砂義勇隊は兵士ではなく、志願を前提とした「軍属」として運搬や道路、橋の建設が主であった。
全員台湾先住民で構成され、小隊長・中隊長も「蕃社」の日本人警察官が任命された。
フィリピン(マニラ)で6ヶ月の初年兵教育(明るいうちは戦いの訓練、夜は学課(作戦)を受け、特務兵と
して各戦地へ派遣され、民間の部落にも入って情報収集をする任務を与えられた中隊もあった。
高砂義勇隊は地位も階級も無い。多くは武器も与えられず、「蕃刀」一本で戦った。
※「蕃刀」はタイヤル族が使用した先祖伝来の鉈状の山刀で、高砂義勇兵 下の写真で腰上にさしている物。
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しかし彼等は磁石がなくても方向を見失わない、一度見た山は忘れない、食糧を見つけるのが天才、しかも
勇敢という才能を発揮し、日本兵は皆彼等を弟の様にかわいがったと言う。
コレヒドール島の戦いに向けての険しい山道での行軍中、持参した飲み水も底をつき疲れきった日本兵が峠
で小休止していた際、30~40キロもある荷物を軽々と担いだ、高砂義勇隊が「みなさん元気ですか?」と、
日本軍の後を追ってきた事があった。高砂義勇隊は疲れきった日本兵になみなみと水の入った水筒を与え、
宿泊する小屋の設営も手伝ってくれたという話が残っている。
彼等の多くは24、25歳位の青年で、大部分が妻帯者であり父親でもあった。日本兵と日本酒を飲み交わし
た際には非常に喜んで、早速飯盒(はんごう)のふたで飲み初め、その酒豪振りは准尉を驚かしたという。
昭和17年9月29日ルソン島最南部の義勇隊のパイワン族100名を残し、約400名は台湾に凱旋した。
華々しい勝利を飾った第一回高砂義勇隊の凱旋式は盛大に執り行われ、若者の功名心をそそった。
フィリピンに残った義勇隊のパイワン族100名は、昭和17年7月ミンダナオ島ダバオに移住した後、独立工
兵第15連隊に配属され、7月21日ニューギニア北岸のバサボアに上陸し、オーエンスタンレー山脈を越えて
陸路をポートモレスビーに向かい、陸軍第55師団[ 南海支隊 ]の先鋒を務めた。

第二回以降の高砂義勇隊は昭和17年から18年前半、東部ニューギニアだけでも16万の将兵が戦死し、当時
の日本兵が「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と恐れた「ニューギニアの戦い」
でも大活躍した。写真は花蓮港庁で行われた第三回高砂義勇隊訓練時の記念写真
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▲第三回高砂義勇隊の部隊の中にはオーストラリア上陸作戦に参加した中隊もあった。
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▲第三回高砂義勇隊出征写真。昭和17年9月頃台湾を出発。マニラ、シンガポールを経てラバウルに上陸。
 ラバウルから各中隊に分かれ、それぞれの担当戦地(主にニューギニア戦線)へ送られた。

ニューギニアの作戦の当初から高砂義勇隊と共にした日本兵の生還者は戦後戦地での高砂義勇隊の素晴らしい
仕事を語っている。「我々は高砂義勇隊と共に戦ってきました。食料の無い日が何日も続きました。 ある日、
高砂義勇隊の1人がずっと後方の兵站基地に下がって、食料を運ぶ事になりました。 ところがその次に隊員に
出会った時には死んでいました。50キロの米をかついだまま隊員はジャングルの中で餓死にしていたのです。
背中に担いだ米には一指もつけずに・・。」 なんという忠誠心、涙が溢れてくる・・・。
また、高砂義勇兵達がニューギニア戦線で活躍した理由として 夜目が非常に利き、完全に暗闇なジャングルで
も戦えた事が挙げられる。 高砂族を指揮した中野学校出身の将校にも最初は彼らの索敵報告を信じられない程
だったと言う。ラバウルの第八方面軍司令部に勤務していた小俣洋三陸軍中尉は陸軍中野学校出身者で、第二
高砂義勇隊長としてニューギニア戦線で高砂義勇兵を指揮した。 「ジャングルでの方向感覚や夜目が利く視力、
食料なる動植物の知識や敵に立ち向かう勇敢さ、そして彼らの徹底した忠誠心に誰もが舌を巻いた」 と戦後に
語っている。加えて小俣中尉はニューギニアで負傷し、後に病院船で帰国したが 「4人の高砂義勇兵が木を切
ってその場で担架を作り、意識不明だった私をジャングルの中から何週間もかついで港まで連れてきてくれた。
今こうして生きているのは、高砂義勇兵のお陰」 と言葉を詰まらせながら語ったと言う。
戦地で高砂義勇隊は将校から一兵卒に至るまで正規の日本兵に頼りにされたという。 高砂義勇兵がおぶった上
官が背中で死んでいた事もあったという。荷物を担ぐのがうまく、100キロぐらいの荷物を担いでもしっかり
と歩き、腹が減った時には首にぶら下げていた靴の革を煮てかじっていたと言う。
何故靴を首からぶらさげていたのか?その事は以下の出来事がきっかけである。
高砂族は、まるでグローブのような手、そして靴を履いているのかと見間違うばかりに盛り上がった足の皮。
表情の優しさとは裏腹に強靭な肉体を持っていた彼等は、軍靴を履く事を嫌がった。はだしで生活している彼
等にとっては靴をはくと歩きにくく、軍靴は無用の長物であった。軍の規則で靴を脱ぐ事を当初は許可されな
かったが、戦況の悪化と共に高砂義勇兵の訴えは聞き入れられ、軍靴を脱ぐ事を許可された。
軍靴を脱ぐと、素足で足音さえ立てずに暗闇のジャングルを駆け回る。そのため潜入攻撃や切り込み攻撃は群
を抜いた活躍を見せて日本兵の度肝を抜いた。地獄の「インパール作戦」では食糧の無い中「世界最強の傭兵」
といわれた英国特殊部隊「グルカ連隊」とも高砂義勇隊は互角以上に渡り合い、連合軍から恐れられた。
▼写真は訓練中の高砂義勇隊員(薫空挺隊)
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第二回高砂義勇隊は台湾中部の原住民が多く暮らす南投県仁愛郷のタイヤル族で編成された。
第三回高砂義勇隊(620名)は昭和19年2月15日ニューギニア・ウエワク島を出港数時間後、アメリカ軍大
編隊の空襲を受け、船が沈没。病気・怪我・特別な命令を受けて部隊を離れて行動していた人以外はほぼ全
滅したとされている。(戦死確認は404人)
第四回高砂義勇隊は昭和17年11月14日台湾を出発。マニラ経由でラバウルへ。ラバウルからニュージョージ
ア島(ソロモン諸島)に11月25日上陸、その後昭和18年3月ニューギニア島・ウエワクに入港し、当時日本
軍のニューギニア島最大の航空基地建設に従事している。
第五回高砂義勇隊もニューギニアに派遣され、戦死者233名、生還者92名、生死不明者75名の計500名。
(第五回高砂義勇隊を引率した巡査の遺族が部隊全員の復員資料等を所持していた為、正確な数字だと言う)
第六回高砂義勇隊もフィリピン・ラバウル・ソロモン諸島・ニューギニアを転戦。
第七回高砂義勇隊 昭和18年遊撃第一中隊・遊撃第二中隊が編成された。(これが第七回高砂義勇隊である
         かどうかははっきりしない。)
※第八回高砂義勇隊も編成されたそうだが、終戦間際の編成だった為戦地へ赴いたどうかは不明。
[ 陸軍特別志願兵/遊撃第一、第二中隊の編成と出動 ]
昭和18年10月15日高砂族青年500名を、始めから陸軍特別志願兵として徴募し、訓練を施した。
爆弾を抱えて敵中に突入する訓練も行なっていたという。
この中には第一回高砂高砂義勇隊員も多数含まれていた。彼等は昭和19年3月輸送船で高雄を出発。フィリピ
ンマニラ経由で「薫空挺隊」と「川島部隊300名」に分かれ、川島部隊は4中隊に分かれインドネシアのモロ
タイ島、セレベス島などへ送られる。薫空挺隊はフィリピンのレイテ島へ送られ全滅したとされている。
日本軍は昭和17年末から18年にかけ、ガダルカナルの戦いで敗れ、ニューギニア戦線で敗退を続けている時、
南方のジャングル内で遊撃戦を行う専門部隊を正式に編成することになり、昭和18年12月24日台湾軍は遊撃
第一中隊、遊撃第二中隊の編成を命ぜられた。両中隊共総人員百192名、兵の人数は152名だった。その兵の
うち、通信、衛生の特技者を除き、高砂義勇兵が充てられた。1個中隊に日本人が5~6人、残りは高砂族(ブ
ヌン族、タイヤル族、パイワン族、アミ族)がいた。従って高砂義勇兵は一個中隊に140名程いたと思われる。

[ モロタイ島の戦い ]
太平洋戦争(大東亜戦争)後期にインドネシア東部モルッカ諸島のモロタイ島で守備する日本軍と上陸したア
メリカ軍主力の連合国軍の間で行われた戦いである。アメリカ軍は、フィリピン反攻作戦の第一歩として、モ
ロタイ島を占領し飛行場など大規模な基地を建設した。終戦後の1956年には9人の元日本兵が発見され日本に
帰国。そして昭和49年(1974)12月には一等兵として戦死扱いになっていた「高砂義勇隊」の中村輝夫さん
(本名、李光輝 アミ族出身)が発見され、台湾に帰国している。
▼昭和49年(1974)1月台湾に帰国した李光輝さん。日本の為に戦い、帰国した台湾は蒋介石万歳に180度
 変わり、言葉も変わり、国も変わり、大変な思いであったであろう。
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▼中村輝夫(李光輝)さん
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李光輝(ス ニオン)さんは台湾に帰国後僅か4年で亡くなっている。彼の確認が日本の世論において「高砂義勇隊」
が話題に上った最初のきっかけとなった。彼の発見をきっかけに給与が未払で補償がないことに関する世論の批判
もおき、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に1人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払われたが、
李光輝さん以外の義勇兵への給与は現在でも未払である。また、当時強制的に軍事郵便貯金とされた兵士の給与
は引き出せなかったが、これは120倍にして返却することが決まり1995年に支払いが開始され一部の元隊員は受け
取った。しかし戦いでお金を使う暇も無く平均1000円ほどの残高を所持し、当時としては大金だったのに120倍で
引き出しても12万円にしかならない。これに抗議して1996年6月日本大使館に相当する台北の交流協会を元隊員が
襲撃する事件が起こった。現在でも、物価上昇を考慮すると数年間の戦闘の対価としてはあまりに少額として抗議す
る元隊員も多いのも事実である。
※日本政府は中村輝夫(李光輝)に対して帰還手当3万円と未払い給与38279円を公式に支払った。
 閣僚から特別な見舞金200万円、この他、数百万円の義援金が渡されている

[ 薫空挺隊 ] 日本ニュース「薫」空挺隊
薫空挺隊とは、レイテ島の戦いにおいて1944年11月26日にフィリピンのレイテ島アメリカ軍占領下ブラウエン飛行
場への強行着陸と破壊を目標とした義号作戦に用いられた大日本帝国陸軍の空挺部隊である。
薫空挺隊は台湾軍遊撃第1中隊の一部で、本来はジャングルでの遊撃戦専門の特殊部隊であった高砂義勇兵がかなりの
割合を占た。義号作戦で出撃した約40名を乗せた輸送機4機の内1機が日本軍勢力下のバレンシア飛行場に強行着陸し、
搭乗員は第26師団と共に行動したということのみが確認されている。
残りの3機のうち2機については、アメリカ軍戦史によればドラッグ海岸付近に着陸し、乗組員はいずこへともなく消
えていったと言う。残る1機は完全に消息不明である。薫空挺隊の生き残りがいるのかどうかも明らかになっていない。
この作戦が成功したのか、失敗したのか、はたまた敢行すら出来なかったのかさえ不明である。
アメリカ軍戦史の記述を信用すれば、戦いすら起きなかった可能性もあるが、この戦いに参加した高砂義勇兵は1人
も生還していない。当初同時に行なわれる予定だった?高千穂空挺隊(第2挺進団)、挺進第3連隊主力と挺進第4連隊の
一部(空挺隊員462名)が、12/6ルソン島(クラーク基地)より出撃。
挺進飛行第1戦隊(秘匿名[霧島部隊])と挺進飛行第2戦隊の一部など輸送機35機と重爆撃機4機、援護重爆撃機13機
と護衛戦闘機31機の大部隊だった。
落下傘降下した高千穂部隊はブラウエン南飛行場(米軍名/バユグ飛行場・サンパブロ飛行場)、ブラウエン北飛行場(米
軍名/ブリ飛行場)これらの飛行場に胴体着陸して斬込みを敢行(天号作戦)付近を防衛していたアメリカ軍第11空挺師団
と空挺兵同士で交戦となる。若干名は飛行場に突入し米航空機の破壊、一時的にブラウエン北飛行場奪還に成功した。
しかし、12月までに合計5万名に及ぶ兵力と物資をレイテ島に送り込んだ日本軍だったが、その大半が輸送途中に敵襲
で海没する船舶が相次ぎ、第26師団主力は11/9無事オルモックに入港するも、上陸用大発動艇の不足からほぼ兵員の
みの上陸となり、更に後続の補給物資船団は到着前に次々と沈められ、軍需品、糧食の8割が海中に沈められた。
その結果レイテに運ばれた日本軍を待っていたのはガダルカナルの戦いやインパール作戦にも引けを取らない飢餓戦と
なり、結果海上輸送も地上総攻撃も失敗した日本軍は空挺攻撃も打ち切りとし、空挺隊の犠牲が報われる事は無かった。
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▲ルソン島クラーク飛行場にて出撃準備中の日本軍挺進隊員
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▲▼薫空挺隊の集合写真[ NHK戦争証言アーカイブス[薫空挺隊]
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▼薫空挺隊出撃前の訓示
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▼出陣に当たり故国を遥拝する薫空挺隊。
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▼薫空挺隊出撃直前、聖壽の萬歳を奉唱。(胸の雑嚢には爆薬が入っている)
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▼フィリピンにて、薫空挺隊の中重男中尉を激励する富永恭次司令官(「陸の三馬鹿」参照 )
 戦況が悪化した翌年1月6日、富永司令官は部隊を見棄て台湾へ敵前逃亡た。(写真左)
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フィリピン・ルソン島ルバ飛行場の宿舎で出撃前のひと時。右が中重男中尉▲(写真右)
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▲出陣式の石田歳徳曹長。軍刀を左手に持ち、右手で「陛下」御下賜の清酒で乾杯。
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▲輸送機に乗り込む薫空挺隊
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▲輸送機の機種はさだかでないが、空挺隊が訓練に使った画像の陸軍97式輸送機ではないか?と思われる
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▲機内の薫空挺隊(通路中央でしゃがんでいるのは加来隆少尉)
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▲当時、薫空挺隊を伝える新聞記事(朝日新聞)

[ 薫空挺隊の編成 ]指揮官 中勇男中尉(写真参照)
第一小隊(小隊長)中勇男中尉[指揮官と兼務]/甲斐将夫曹長/清水敏次伍長
高砂義勇兵→石川正信上等兵/岡野弘上等兵/山下登上等兵/藤野秀夫上等兵/宮崎一郎上等兵
      西村秀夫上等兵/西山義一上等兵/河井東男上等兵/徳永正利上等兵/本多純一上等兵
      西村照秋上等兵/上田初喜上等兵 以上合計15名

第二小隊(小隊長)須永富蔵少尉/石田歳徳曹長(写真参照)/八木橋俊曹長
高砂義勇兵→森田実上等兵/稲田茂上等兵/池田三郎上等兵/井手敏上等兵/草田良夫上等兵
      ※有村※上等兵/結城文男上等兵/前田隆男上等兵/栗原二男上等兵/東山晴夫上等兵
      津村重行上等兵(写真参照)/田村幸吉上等兵 以上合計15名

第三小隊(小隊長)川原英雄少尉/浜田新軍曹/金原庚鎮軍曹(朝鮮慶道北道尚州郡出身)
高砂義勇兵→石川正義上等兵/大橋要英上等兵/高橋金三郎上等兵/伊藤秀雄上等兵/矢野秀雄上等兵
      菊田光治上等兵/永野賢龍上等兵/田中幸徳上等兵/金川見洙上等兵/瀬ノ口信男上等兵
      金重信男上等兵/三浦豊之上等兵 以上計15名

第四小隊(小隊長)加来隆少尉(写真参照)/木下敏一軍曹/中村寛軍曹
高砂義勇兵→藤川光三上等兵/甲斐亘上等兵/久川勝康上等兵/石井誠上等兵/齋藤新三郎上等兵
      石建美水上等兵/小野寺清一郎上等兵/実田健吉上等兵/林吉則上等兵/手島進上等兵
      青木達一上等兵/保浦久良上等兵 以上計15名

飛行部隊編隊長 桐村弘三中尉
[一番機] 桐村弘三中尉/田中正澄軍曹 [二番機] 五藤武準尉/北 史軍曹
[三番機] 大沢正弘中尉/塚田弘治曹長 [四番機] 寺島近馬準尉/高木弘軍曹

各上等兵は全員高砂族出身※については、靖國神社御祭神名簿に「有村晴夫」「有村繁敏」の二名があり、
どちらが薫空挺隊に入ったか不明。薫空挺隊は隊長、下士官計12名のうち11名と飛行部隊8名が日本人。
朝鮮人1名。高砂義勇隊員48名。合計68名の構成であった。
この戦いで戦死したと認定された高砂義勇隊の兵士は靖国神社に合祀されている。

※2005年6月台湾先住民出身「立法委員」高金素梅氏が、先の大戦で旧日本軍に徴募された「高砂義勇隊」
 の戦死者の遺族代表60人と共に訪日し、靖国神社に合祀された「高砂義勇隊」戦死者の位牌を同神社から
 除くよう日本側に求め、日本政府に賠償と謝罪を求めた。高金素梅氏は台湾では有名な反日活動家です。
 朝日新聞の記事では「台湾先住民族出身」と書いてありますが、母親は確かに高砂族出身ですが、父親は
 戦後中国から逃げ込んだ大陸人であり、その思想は高潔な高砂族のものではなく、反日に染まった中国人
 のそのものであった。 更にこの人物は2003年にも、高砂族の123名を原告として、小泉首相が靖国神社
 に参拝した事に対し、慰謝料を請求するとして大阪地裁に訴訟を起こしています。(大阪地裁は請求棄却)
 この時高砂族123名を原告としていましたが、この123名には台湾に現住所が確認できない者なども多く、
 実際は高砂族の意思ではなかったことも明らかになっており高金素梅氏が反日活動を行う為に、高砂族の
 名を悪用した事に高砂族が怒り、「高金素梅は高砂族の恥」として、数々の抗議を行っています。

戦後、日本政府は台湾の戦後処理で、高砂義勇隊に対して報いず放置し、戦時中に高砂義勇隊を部下に持っ
た元日本陸軍少尉は戦後の日本政府の薄情さに怒り、「我々日本人の恥である。戦友として誠に忍びない。
国が補償しないなら俺がする。ほんの気持ちだ」と言って高砂義勇隊の部下20数名に10万円ずつ贈り、こ
れに元高砂義勇隊達は皆涙し、「この金を戴くわけにはいかない」と言って全額を返した。
戦後、昭和27年(1952)に発効した日華平和条約により、台湾の人達は日本国籍を喪失する。
それを理由に、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、元軍人・軍属やその遺族に対して障害
年金、遺族年金、恩給、弔慰金、また戦争中の未払い給与、軍事郵便貯金等の支払いを一切行わなかった。
昭和52年(1977)8月「台湾人元日本兵」の鄧盛氏ら戦傷者と戦死者の遺族13名が、日本国を相手どり1人
500万円の補償金を要求して裁判を起こした。
上記で紹介した元高砂義勇兵「中村輝夫」(李光輝)がモロタイ島で発見されたのを契機として、台湾人元
日本兵への補償を求める運動が日本と台湾で具現化。しかし日本政府に動きがなかった為、戦後32年目にし
て上述の提訴となった。昭和57年(1982)2月26日東京地裁は「同情は禁じ得ないが、国際的外交処理な
いし立法政策に委ねられるもの」として、請求棄却の判決を下した。
原告団は判決を不服とし「日本には人道も誠意もないのか」と控訴する。
しかし、日本政府(外務省)の、第二次大戦に関する賠償問題は決着している。個人的な賠償は行わない。
という基本方針を転換させる事はいわば日米安保を破棄するがごとく、日本の政策の根幹に触れる事になる。
先の大戦で戦った日本人軍属の方でも戦後生還して日本で暮らしているが「軍人」では無く「軍属」だった
から。「少年兵」だったから。との理由で障害年金、遺族年金、恩給、弔慰金、戦争中の未払い給与等の支
払いを日本政府から一切受けていない元日本人軍属の方も数多くいらっしゃる。
戦後保証の問題は何も外国人だけに限った事では無いので難しい問題でもある。

一方で平成12年(2000)4月ボランティア団体「ユニバース国際援助基金」が元高砂義勇兵生還者23名を、
1週間の日本観光旅行に招待した事があった。
日本人以上に日本人で、愛国心溢れる彼らの姿に、歓迎した日本の一行が、逆に感動させられたと言う。
羽田空港に到着し、降機先頭に出てこられた元高砂義勇兵の方は日本陸軍の制服に制帽を身に纏い、
「第一回高砂義勇隊、大村国太郎であります。只今日本に帰って参りました」と深々頭を下げられたと言う。
靖国神社を参拝した際には、皆さん「戦友に会えました」と涙ながらに語り、宴会では軍歌や唱歌の大合唱
で盛り上がり祖国の地を踏んだことに涙し、日本文化を存分に満喫し台湾に帰られたとの事だ。
この日本観光旅行に参加した高砂族の1人「陳徳儀」さんは、靖国神社参拝を控えて、東京・九段の偕行社
で、非公式に出席された三笠宮様臨席の下、勲五等瑞宝章を授けられたという。
(叙勲として公式に認められた物ではないと推測する)関係者は言葉を濁すが、陸軍中野学校出身の「小俣洋
三」がパイワン族元義勇兵「平山勇」(楊清課)に小俣自身が授かった勲章を与えた様に、招いた日本側の
有志が勲章を提出したとの想像も出来る。仮にそうであったとしても、陳徳儀にとっては人生最大の喜びで
ある様だった。  陳は「三笠宮さま(ご臨席の下での叙勲は)本当に尊いことです。日本は敗戦したという
が、行ってみたら第一級の姿です。三笠宮さまが頭を下げられた。その瞬間、私はもう(感極まって)何も
覚えていません。それで十分です」と言ったという。
報われる事がほとんどなかった高砂義勇兵の中で、陳はある意味で最も報われた男の一人かもしれない。
実に素晴らしい企画と素晴らしい高砂族の方達ではないか、日本人は絶対忘れてはいけない。
「高砂義勇隊」が命をかけて日本軍と共に戦ってくれた事を。

[ 高砂義勇隊生還者や学徒兵の方達から日本人へのメッセージをお三人分ご紹介します ]※2009年時点
①日本のみなさんへ
「志願したのは、国を愛する気持ちでいっぱいだった、自分の国を自分で守る気持ちでいっぱいだったから。
そういう文化と時代だった。どうせ受からないだろうといたずらな気持ちもあった。当時植民地で差別され
ていたが、それで日本を嫌いになるのではない。平等でないから、兵隊になれば平等になると思った。
初年兵教育のとき、「これから立派な大日本帝国軍人だ、大東亜共栄圏のためにしっかりやってくれ」と言
われた。前線の為にしっかり駆け回っているのに「帝国主義だ」は飲み込めない。
日本の為に命を出して駆け回ったのに、敵の国にさせられた。

前線にいた兵隊は大東亜共栄圏の為に戦っている。自分の事で戦っているのではない。みな命が惜しい。
それを捨てて戦っている。GHQの弱体化政策で軍が悪いとされているが、また本国のリーダー達のことは知
らないが、前線の兵士は皆そうだった。
自分にとっての大東亜共栄圏とは、シンガポールでの体験から、同じ黄色人種がアジアで平等にやってゆけ
たら。と考えていた。今、大東亜共栄圏は実現している。戦前の地図はみな白人の奴隷だった。あの戦争の
お陰で今のアジアがある。230万人の命を投げ込んで戦った甲斐があった。
この戦争の責任をみんな日本に投げ込んでいる。けんか両成敗ではないが、これは不公平と思う。

しかし、戦後の日本政府の態度も納得できない。終戦直後は余裕ないから仕方ない、それは解る。しかしそ
の後の神武景気で日本は発展した。負けたとたんに切り離されてしまった。日本政府に一言ある。
お金ではない、「台湾の軍人軍属の皆さん、ご苦労さんでした、有難うございました。」
この一言が欲しい。天皇は恐れ多いからせめて総理大臣の誰か一人に。それが台湾日本語族の願いだ。

②日本のみなさんへ
戦後、日本は台湾を引き揚げたあと、台湾の30何万の兵士軍属らに一つも面倒を見なかった。
敗戦で祖国の中国に戻れたからとサヨナラだった。
日本が台湾を引き上げた後、台湾の兵士たちは言葉も文字も解らない社会で、日本の手先だといじめられた。
台湾人は中国人でも日本人でもない。日本時代は中国人、敗戦後は日本人と言われる。
戦後日本は神武景気でよくなったが、台湾は長い戒厳令でひどい目にあった。
日本との50年の繋がりの為にひどい目に遭わされた。田中首相の時に、利益の為、人情も省みず台湾は切り
捨てられた。日本は50年の間に文化を残し、それを引き受けたが、故にマイナスにもなった。

国民党政府はかつての敵である共産党と一緒になり、台湾を中国の一部として扱っている。
日本と利害関係の多いこの台湾を取られた暁には、日本も酷い目に遭わされる。日本はそれを知りつつ、中
国に対して控えめ、台湾に対して支援も出来ない。この事を日本の人達に解ってもらいたい。
台湾は日本とも近いし、日本は文化も残した、それを解っている台湾人も多い。
もう少し交流が強くなり、台湾のこと、台湾の過去を知ってもらいたい。あなた方の事だから。と言わずに、
親戚、友人に関心を寄せるように切迫した情勢に関心を寄せ、もっと多くの日本人が声援を寄せてほしい。

日本が台湾を支配して50年。台湾に何をしたか、台湾の人が何を思っているか、ゆくゆくはどうなってゆく
か、日本の人達に知ってもらいたい。これは多くの台湾人の願いだ。
これは悲願になると思う。ゆくゆくは併合されるだろう。朝鮮が日本に併合されたように。そういうことが
将来あっても、それを何百万の人たちが煙たがっている、おそらく1000万以上の台湾の人が嫌っている。

そのために奮闘しないといけない。日本みたいに一つの国だからとのうのうとしているわけにはいかない。
次の世代は、中国に併合されるか独立するかの瀬戸際だ。日本はれっきとした一つの国だから永久に変わら
ないのに比べ、台湾は400年間、いくつかの国に統治されて誇りを失った。
自分がどこの国の人かわからない。自分の世代は、一つの国として生きてゆきたいと願っている。
台湾人であるという誇りを持っている。中国人とは違う。もともと原住民がいたところへ、中国南部から入
った人達と混血し、その後日本の文化を取り入れた、特別な文化がある。
自分には3つの祖国がある。戦前は日本、戦後は中国人、ここ20年は台湾人。
中国人にはなりたくない。中国人は「お前日本の教育を受けたからだ」というが、そうじゃない。日本の不
合理なところも知っている。3つの時代を生きて、辛かったこともあったが今は幸せだと思っている。
三つの祖国と三つの自分(日本人→中国人→台湾人)最後は台湾人としての誇りを忘れていない。
「3つの時代を生きて、辛かったこともあったが今は幸せだと思っている。三つの祖国と三つの自分
(日本人→中国人→台湾人)、最後は台湾人としての誇りを忘れていない。

③日本のみなさんへ
日本政府に、台湾の軍属にも恩給や慰問などを支給してほしいと要求したが相手にされなかった。
日本人と同じ待遇はされていない。終戦後60余年、無念で死んだ人が沢山いる。
日本のために兵隊軍属になったのに悔しい。

▼新店駅からタクシーで30分、烏来で有名な「白糸の滝」がある場所。ここから更に登った所に慰霊碑がある。
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※烏来(ウーライ)はタイヤル語で「温泉」という意味。約300年前タイヤル族によって温泉が発見された。

戦後、先住民集落の若者達を日本に送って芸能活動をさせるという事業を台湾で最初に始めた人がいる。
烏来で「愛子」と呼ばれていた女性である。烏来(ウーライ)は台北にもっとも近いタイヤル族の里で、温泉
があることから、日本時代から観光化が進み、先住民の観光資源としての利用の先駆けとなった場所だ。
「愛子」さんは、そうした伝統を受け継ぎ、青年たちを訓練して日本に送って成功し、往時先住民としては
有数の資産を築き、烏来の観光開発に寄与する一方で「高砂義勇隊慰霊碑」を建立した事で知られる。
1970年代半ば~1980年代にかけてこの手の商売の盛りだったと言う。そしてこの時期は、台湾売春観光の
最盛期とも重なる。日本円を稼ぐ手段として、女性の性や先住品の天性が動員された時代と言える。
ざるに水を流すようなビジネスは、後にフィリピン女性の日本進出によりダメになっていったと言う。

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▲きつい階段ですがこの階段を「瀑布公園」目指して上っていきます。
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▲半分以上登った所でふり返って撮影。(この後、以前はあったと言う階段が途切れます・・。)
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▲「瀑布公園」 への入り口付近は台風被害による土砂崩れ復旧作業の為、この写真から上へ登る事が出
 来ませんでした。もう少し登る事が出来れば高砂義勇隊慰霊碑に行けたはずですが残念です。
 2015年8月8日花蓮に上陸した台風13号は台湾を横断して台湾海峡へ抜けましたが、各地で倒木が道路
 を塞ぎ、店舗の屋根が剥がれ落ちるなど大きな被害を受け、死者5人、行方不明者4人、負傷者185人、
 を出したそうです。高砂義勇隊慰霊碑のある烏来でも、慰霊碑裏の山肌が数十メートルにわたって地滑
 りを起こし、慰霊碑の像がなぎ倒され、李登輝元総統が揮毫された「霊安故郷」銘板がある台座も落石
 と倒木に埋もれているとの事で、無理に上って行っても慰霊碑に一礼する事は出来なかったでしょう。
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台風被害でどの様になったのかお借りした画像で。▼台風前(2014年5月)▼台風被害後(2015年8月24日)
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▲「高砂義勇隊慰霊碑」へこれからいかれる方は復旧確認をしてからお出かけ下さい。

▼土砂に埋まる前の「高砂義勇隊慰霊碑」をお借りした画像で。
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▼碑文が竹で覆われた「高砂義勇隊慰霊碑」(竹で覆われた経緯は下記をご覧下さい)
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◆「高砂義勇隊慰霊碑」の経緯
最初の「高砂義勇兵」の記念碑は、戒厳令が解かれた1992年、烏来郷高砂義勇隊記念協会(地元遺族の人達の協会)
と日本の(戦没者)遺族会、元日本陸軍軍人の南星会、元日本海軍軍人の海交会といった組織からの働きかけと援助
があって着想が生まれ、烏来郷に建立。
しかし、その敷地を無償提供していた地元の観光会社(山胞観光公司)がSARSの影響を受け2004年に倒産。
地主から撤去を求められたが、移設の為の遺族の募金活動や、「産経新聞社」の報道、「あけぼの会」会長の呼びか
けにより、「高砂義勇兵慰霊碑を守る会」を結成。日本から3200万円を超える義捐金が寄せられた。
代替地は台北県政府が無償提供し、烏来郷(現在地)の「烏来瀑布公園」への移設・存続が決定。
台座の銘板に当時の李登輝総統が「霊安故郷」と揮毫し、2006年2月8日新しい慰霊碑の除幕式が行われたが、数日
後の17日、中国時報(親中派)等が「軍国主義をあおっている」「烏来公園が日本に占領される」などと批判キャン
ペーンを展開。(上記「靖国神社合祀」問題で紹介した「高金素梅」立法委員が中国時報に働きかけた結果)
敷地を所有する台北県は2月20日までに、建立した先住民側に撤去を命令。台北県から「未申請の違法建築」「水土
保持違反」等の理由で碑の撤去命令が出される。これらの理由は「言い掛かり」で、当時の県長(知事)は中国国民
党の周錫瑋という反日抗議活動で必ずマスコミに出てくる外省人(中国人)だった為、本省人とはいえ、日本軍と共
に戦った高砂義勇隊の慰霊碑の存在が許せなかったと考えられている。
同県政府は同24日、14年前に建立された記念碑は存続させ、残る「皇民」など日本語が入った八つの石碑八基を警
察まで動員し強制撤去。抗議する地元有志と衝突。
そして、残る慰霊碑の碑文を竹で覆ってしまった。当然、地元烏来の団体は抗議声明を発表。2月26日泰雅民族議会
が、台北県の強制撤去行為に対しての抗議声明を出し、4月24日烏来郷高砂義勇隊記念協会は、台湾人権促進会の弁
護士団に委任し、内政部訴願審議委員会に訴願を提出し、3年もの間法廷で争うことになる。
2007年12月の高等行政法院は訴えを却下する裁定を下したが、最高行政法院は地元側の抗告を認めてこれを差し戻
し、3回の審理を経た2009年3月24日、判決で最高行政法院は処分撤回を支持。
3年に及んだ記念碑問題は、法廷論争で地元有志の意向が受け入れられ、解決に向けて大きく動き出した。
県側は、「日本語で書かれた碑文に訳文をつける事などを可能であれば処置する事」を条件としながらも、記念碑の
囲いのベニア板(竹で覆われた内側にはベニア板でも覆ってある)を取り払い、他の石碑も全面返還することを約束
した。3月に入ると記念碑の囲いの一部が取り外され、対立点を残しながらも新たな造成工事も始まった。
地元で記念碑を守ってきた「烏来郷高砂義勇隊記念協会」のマカイ・リムイ総幹事は「3年の道のりは長かったが、
判決は最終決着への大きな一歩だ。日本の善意に対して恥ずかしい思いをし続けたが、今度こそ記念碑を日本精神が
根づく義勇隊の誇りの軌跡として、また日台を結ぶ友情のきずなとして残していきたい」とメディアに語った。
2010年2月、3年間竹に覆われるという異常事態は解消され、再整備されて現在に至っている。
なお、2015年9月の台風被害による「高砂義勇隊慰霊碑、台風被害お見舞い募金のお願い」(受付終了)が
日本李登輝友の会から呼びかけられている。




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
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 2016_01_02




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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