水上機神風特別攻撃隊をご存知でしょうか。「神風特攻隊」と聞くとゼロ戦で敵艦に体当たりした。
というイメージで統一されている様に思われるが、ゼロ戦で特攻出撃された方達以外に、海軍のさまざ
まな航空機で特攻作戦は行われた。中でも太平洋戦争末期には航空機不足を補う為に、時代遅れとなっ
た旧式機で特攻出撃された方達の事も忘れてはいけない。
「水上機神風特別攻撃隊」が使用した機は、日本海軍が昭和15年に採用した「零式水上偵察機」そして
昭和9年に採用された「94式水上偵察機」と昭和11年採用の「零式観測機(2人乗)」だった。
速度の遅い旧式偵察機に800㌔爆弾や500㌔爆弾を搭載し、香川県詫間町幸田和田内にあった詫間海軍
航空隊で編成された「琴平水心隊」などが、九州の指宿基地より沖縄に出撃していった。
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注目すべき点は「零式水上偵察機」「94式水上偵察機」ともに3人乗りだったという事だ。
海軍は偵察機を特攻作戦に使用したあげく、偵察機乗員の3名又は2名を乗せて出撃させた。当時の特攻目標は、
陸軍は輸送船、海軍は空母という事で、陸地から離れた海上の敵艦船を狙っていた為、偵察員や電信員を乗せる
必要があったとされているが、本当に特攻攻撃に3名も乗せる必要があったのだろうか・・・?
しかも隊員は全て学徒動員で徴兵されたエリート予備学生や予科練を出たばかりの20歳前後の若者達だ。
海軍では兵学校出の士官、特務士官、予備士官は判然と区別され、特攻を命じられたほとんどが学徒動員の予備
士官だった。30代以上の職業軍人は誰1人特攻出撃はしていない。
昨日まで学生服を着て勉学に勤しみ、将来の日本を背負っていくべき若者達を旧式偵察棺桶へ詰め込んで次々に
特攻に送り出した日本。敗戦後この作戦の責任を誰がとったのか・・・。誰か総括をしたのか?
大西瀧治郎中将の自決だけで終わり?
責任をとらない無能な政治家、若者を使い捨てにする日本は今も変わっていないのではないだろうか。
2015年度に過労死で労災認定された人は96名。未遂も含め過労自殺は93名が労災認定されている現在の日本は、
世界の中でも異常の国と言える。「従業員達の労働時間が不健康であるとして悪名高い」現在の日本。
過労死が出る程働きまくっているにもかかわらず、日本人の労働生産性は世界的に見て非常に低く、他のOECD
諸国より劣る。日本国民が総力を挙げて戦った相手、アメリカは今も世界最大の経済大国である。
戦争を捨てて敗戦国となり、戦争を捨て、経済優先の政策を続けて来た日本が何故未だにアメリカに遅れをとって
いるのは何故か?英エコノミスト紙はその理由を皮肉たっぷりに書いている。
「(日本の)超過労働は経済にあまり恩恵をもたらしていない。なぜなら、要領の悪い労働文化と、進まないテクノ
ロジー利用のお陰もあって、日本は富裕国からなるOECD(経済協力開発機構)諸国の中でも、最も生産性の悪い経
済のひとつであり、日本が1時間で生み出すGDPはたったの39ドルで、米国は62ドルである。つまり、労働者が
燃え尽きたり、時に過労死するのは、悲劇であるのと同時に無意味なのだ」と・・・。
無意味と言わないまでも、明らかに成功率に低い特攻作戦にどれだけの有能な若者を投入したかを見ると、現在も
形は違えど根本的には日本の体質は変わってないのではなかろうか・・・。
では世界各国では1時間でどれほどのGDPを生み出しているのか?ランキングは以下の通り。(2014年)
1位ルクセンブルグ(79.3ドル)/2位ノルウェー(79ドル)/3位/アイルランド(64ドル)/4位アメリカ(62.5ドル)
5位ベルギー(62.2ドル)/6位オランダ(60.9ドル)/7位フランス(60.3ドル)/8位ドイツ(59.1ドル)となっており、
G7の平均は54.5ドルだった。各国の人口差等もあるので一概には言えないが、精神論で無茶する傾向がまだ日本
に残っているのかもしれない・・・。勝算根拠無き戦争と同じ様にならない経済戦争にならない事を切に願う。
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▼▲海軍零式水上偵察機
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▼終戦後米軍撮影の海軍零式水上偵察機
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▼第951海軍航空隊(元 佐世保航空隊)の零式水上偵察機11型。 絵の機体は尾翼の部隊記号の上に元 佐世保を示す為、 
 "サ"の一文字が書かれ、部隊記号後ろの斜線と胴体にある逆向きのCマークを消した跡がある。
 機体番号後ろの斜線はレーダー装備を示していると思われ、また胴体の日の丸の前にある逆向きのCは、編隊飛行で
 磁探探索を行う場合、逆向きのCが 完全に円形に見えれば、適正距離にある事を示すという補助マークだという。
 それらのマークを消している機は、特攻仕様としてレーダー等の装備を外し軽量化したという事でしょう。
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※解説・画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
▼フィリピンで米軍が撮影した海軍零式水上偵察機の残骸。
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[ 水上機神風特別攻撃隊 ]昭和20年4月29日~7月3日指宿海軍航空基地より出撃
昭和20年4月29日(琴平水心隊)零式水上偵察機1機/94式水上偵察機1機出撃(隊員5名出撃)
[操縦]安田友彦少尉(大分県出身) / [偵察]井上静夫少尉(長崎県出身) / [電信]小住昭雄2飛曹(福岡県出身)
[操縦]佐藤年正少尉(福岡県出身) / [偵察]湯上和夫2飛曹(和歌山県出身) / [電信]
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▲出撃直前、カメラに向かって手を振る[操縦]安田友彦少尉と[偵察]井上静夫少尉。
 4/29指宿海軍航空基地より出撃、沖縄周辺の敵艦船に突入戦死。
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▲「琴平水心隊」安田友彦少尉、井上静夫少尉、佐藤年正少尉他隊員勇士達。
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▲出撃前の「琴平水心隊」隊員と94式水上偵察機
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▲94式水上偵察機

昭和20年5月4日(琴平水心隊)94式水上偵察機12機、零式水偵1機(隊員27名出撃)
零式水偵
[操縦]勝又徳2飛曹(静岡県出身) / [偵察]矢野弘一少尉(香川県出身) / [電信]
94式水偵
[操縦]碓本守少尉(滋賀県出身) / [偵察]田中敬治少尉(長野県出身) / [電信]高橋淳一2飛曹(神奈川県出身)
[操縦]橋本清水少尉(長崎県出身) / [偵察]斎藤友治少尉(山口県出身) / [電信]
[操縦]山口久明少尉(鹿児島県出身) / [偵察]斎藤裕1飛曹(東京都出身) / [電信]
[操縦]笹尾愛上飛曹(福岡県出身) / [偵察]四方正則少尉(京都府出身) / [電信]轟 慧1飛曹(福岡県出身)
[操縦]宇野茂2飛曹(兵庫県出身) / [偵察]中尾武徳少尉(福岡県出身) / [電信]
[操縦]野村龍三2飛曹(愛知県出身) / [偵察]中谷栄一少尉(石川県出身) / [電信]
[操縦]矢野幾衛少尉(福岡県出身) / [偵察]徳田昭夫1飛曹(岩手県出身) / [電信]
[操縦]関口剛史2飛曹(神奈川県出身) / [偵察]別所啓市少尉(滋賀県出身) / [電信]
[操縦]林真喜三少尉(福岡県出身) / [偵察]新山秀夫1飛曹(千葉県出身) / [電信]
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▲出撃直前の[操縦]橋本清水少尉と [偵察]斉藤友治少尉。沖縄周辺の敵艦船に突入戦死。
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▲海軍94式水上偵察機
昭和20年5月4日「第1魁隊」94式水上偵察機5機、零式水上偵察機1機出撃出撃(隊員18名出撃)
「零式水偵」飯塚英次上飛曹 /野美山俊輔少尉/金子清明2飛曹
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▲「第1魁隊」(さきがけたい)零式水上偵察機11型のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
「94式水偵」舟津一郎少尉/前原喜雄少尉/山本謹治少尉/
      宮村誠一少尉/玉木麻人少尉/渡部庄次少尉
      林 元一少尉/中村正一1飛曹(三重県出身)/岩佐忠男1飛曹
      佐藤憲次少尉/碇山達也少尉/武井 清少尉
      中島之夫少尉/山口龍太少尉/河野宗明少尉
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▲詫間空の森司令から壮行の別盃をうける「魁隊」隊員。
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神風特別攻撃隊「魁隊」隊員勇士達。
昭和20年5月11日「第2魁隊」94式水上偵察機1機/零式水上偵察機1機出撃出撃(隊員5名出撃)
[操縦]四方厳夫中尉(京都府出身) / [偵察]飯沼孟少尉(神奈川県出身) / [電信]大日向景介1飛曹(東京都出身)
[操縦]阪本明少尉(東京都出身) / [偵察]山崎誠一少尉(東京都出身) / [電信]
※徳之島の陸軍部隊上空で飛行靴に、「魁隊・坂本少尉機、単機突入す」旨の紙片を入れて投下した。
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▲昭和20年5月3日水上機の訓練場として予科練生の育成に寄与した茨城県の北浦基地隊員に見送られ、指宿へ向か
 う零式水上偵察機。特攻時には800キロ爆弾をくくり付けて出撃した。
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▲魁隊勇士達。彼等の多くは昭和20年5月4、11日出撃、戦死した。
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▲「第2魁隊」(さきがけたい)零式水上偵察機11型のカラーリング。
上が魁隊集合写真に写る機体、下が特攻出撃時と思われる機体。 魁隊の集合写真の後ろにあるキタ-50号には、磁探
探索用の補助マーク (白で書かれた逆向きのC。編隊飛行で磁探/探索を行う場合、逆向きのCが 完全に円形に見えれば
適正距離にある事を示すという補助マーク) が書いてあり、日の丸の縁も白く縁取りされているが、出撃時と思われる
写真では補助マークは消されており、日の丸の白縁取りも塗りつぶされている。 800kg通常爆弾を懸吊していた。
※解説・画像製作 「たまみち(@tamamichi8749)様」

昭和20年5月24日(第12航空隊二座水偵隊)零式観測機2機出撃(隊員3名出撃)
江代昭雄二飛曹/檜和田直成少尉/山口 昇二飛曹

昭和20年5月28日(琴平水心隊)94式水上偵察機3機(隊員7名出撃)
[操縦]山口平少尉(長崎県出身) / [偵察]細田真仁1飛曹(埼玉県出身) / [電信]
[操縦]岩坂英夫上飛曹(新潟県出身) / [偵察]桜井武少尉(山形県出身) / [電信]小林護2飛曹(静岡県出身)
[操縦]原光三2飛曹(広島県出身) / [偵察]重信隆丸少尉(香川県出身) / [電信]
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▲琴平水心隊。航続距離に難がある為、指宿水上基地から奄美大島の古仁屋水上基地に前進後、薄暮発進する
攻撃法を採用した。
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▲海軍零式観測機
昭和20年6月21日(第12航空隊二座水偵隊)零式観測機5機出撃。
[操縦]根上行介1飛曹 / [偵察]野路井正造中尉/ [電信]
[操縦]立山敏教2飛曹/ [偵察]相馬昴少尉/ [電信]
[操縦]小林清吉1飛曹 / [偵察]山口輝夫少尉/ [電信]
[操縦]中島昭二2飛曹/ [偵察]乙津和市少尉/ [電信]
[操縦]内田徹1飛曹 / [偵察]       / [電信]

昭和20年6月25日「琴平水偵隊」零式観測機で出撃
椎根 正中尉/久次勝美1飛曹/小酒悟郎2飛曹
加藤重信1飛曹/高口一雄2飛曹/佃 辰夫2飛曹

昭和20年6月25日
(第12航空隊二座水偵隊)零式観測機単機出撃(隊員2名出撃)
松永篤雄二飛曹/田所 昇少尉
昭和20年6月27日「琴平水偵隊」零式観測機単機出撃
杉田 巽2飛曹
昭和20年6月28日「琴平水偵隊」零式観測機単機出撃
中村 毅2飛曹/竹安末雄上飛曹
昭和20年7月3日
(第12航空隊二座水偵隊)零式観測機単機出撃(隊員2名出撃)
桑原辰雄二飛曹/須藤竹次郎少尉
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▲零式観測機をバックに記念写真に収まる「第12航空隊二座水偵隊」隊員勇士達
水上機神風特別攻撃隊 合計87名出撃

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▲特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵(撮影場所不詳)昭和20年4月早川弘本社特派員撮影
「今日もまた、『海軍のバカヤロー』と叫んで、散華する者あり」
特攻機は離陸後はずっと無線機のスイッチをオンにしていた。基地電信兵は特攻隊員の「最後の叫び」を聴いていた。
「お母さーん」や、女性(恋人)の名前が多く、「大日本帝国万歳」や「天皇陛下万歳」というのはほとんどなかった。
ところが、そうした通信記録は残っていない。
高級参謀をはじめ、日本の職業軍人とは何者だったのか・・・?
イギリスは階級社会だが、国を守るという点では王族・貴族も無い。戦争で死ぬということについて、平等性がある。
戦争に貴賤(きせん)なしである。日本でも高松宮さまは前線勤務を希望していた様だが、ある陸軍大学校出身の元
参謀は「息子を入学させるなら陸大だよ」と言っていたという。元参謀の同期50人程の内戦死は4人だけだったと言う。
エリートは前線に行かず、特攻や戦争を美化する傾向は今も昔も変わっていない・・・。
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沖縄戦の航空攻撃の主力は特攻機であった。正に「全軍特攻」であり、機材が不足すると水上機や練習機も投入された。
しかし、一部の部隊はこうした流れに逆らい最後まで通常攻撃を続けた。
有名なのは美農部正少佐が指揮した「芙蓉部隊」である。同隊は彗星艦上爆撃機と零式艦上戦闘機を装備し、主に米軍
に占領された沖縄の元日本軍飛行場への夜間攻撃を敗戦まで続けた。
もう1つ、一般にはあまり知られていない部隊がある。それが「瑞雲水上爆撃隊」である。同隊は奄美大島の古仁屋を
中継基地とし、沖縄への夜間攻撃を毎晩のように繰り返した。「瑞雲」は水上偵察機でありながら、250キロ爆弾を抱
えての急降下爆撃をこなし、20ミリ機銃2挺と13ミリ旋回機銃1挺という重武装であった。
既にフィリピンの夜間攻撃で活躍した実績があった。
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▲▼昭和20年5月15日伊平屋島に繋がる野甫島で米軍が撮影した写真。水上偵察機「瑞雲」の様に見える。
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奄美大島の古仁屋基地から250kgの爆弾を搭載して沖縄に向け出撃した海軍4抗戦641空「瑞雲水上爆撃隊」飯井敏雄
少尉(当時22歳)の水上偵察機「瑞雲」が、米軍機の攻撃を受け日本軍が守備していない野甫島付近に不時着。
部下と海上を漂い2人で伊平屋島を目指し約30㌔を12時間かけて泳いだが、伊平屋島約800m手前の永良部岩近くで力
尽きていたところを、浜辺の島民達に助けられて4時間後に蘇生し、九死に一生を得た。
救助された飯井敏雄少尉はその後終戦翌年に故郷に戻る事になったが、助けてくれた伊平屋島の方に少しでも恩返しが
したいと、定年を期に野甫島で暮らすことを決意、奥さんと二人で移住したと言う。
野甫島の丘の上に住居を構え、島民の交流の場としてその場所を開放していた事、戦争の犠牲となったかつての仲間を
慰める為、慰霊塔『雲流れる果てに』と刻まれた慰霊塔を庭に建てた。慰霊堂横の石碑には以下の言葉が刻まれている

命(ぬち)どう宝
1945年 日本は戦に敗れました
健康で英知に富む若者たちは
海軍航空隊を志願し 散ってゆきました
彼らは 自分の未来に 何を夢見たでしょうか
日本の未来に 何を夢見たでしょうか
地球の未来に 何を夢見たでしょう
1990年 飯井 敏雄 書

※飯井敏雄少尉は、8/15、最後の特攻と言われる「宇垣特攻」で岩場に激突する宇垣の乗る彗星を目撃したという。
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▲海軍水上偵察機「瑞雲」 『命どう宝~飯井敏雄の生涯~』という本も出版されているとの事。
沖縄戦に参加した瑞雲隊は2隊である。1つは「第634海軍航空隊」偵察第301飛行隊だ。
同隊は昭和19年10月からフィリピンに進出、米軍のルソン島上陸に伴って昭和20年1月に再編の為に台湾に後退した。
司令は江村日雄中佐、飛行長は古川明少佐、飛行隊長は山内順之助少佐で、基地を台湾の淡水に置いていた。
もう1つが「第801海軍航空隊」偵察第302飛行隊である。
同隊は昭和19年12月中旬に編成されたばかりでまだ練成途上であり、訓練の終わった機から順次九州に進出していた。
飛行隊長は伊藤敦夫少佐である。基地は福岡県の玄海や博多、鹿児島県の指宿などである。
「瑞雲」は航続距離が燃料満載時でも520カイリにすぎない為、九州~沖縄間、台湾~沖縄間の約350カイリの往復は
不可能であった。その為、両隊とも奄美大島の古仁屋(こにや)を中継基地として使用する事となった。
その攻撃方法は2通りあった。1つは古仁屋を中継基地として使用する方法である。
偵察第301飛行隊の場合は(台湾)淡水基地から発進、沖縄周辺の米艦隊を攻撃して古仁屋に着水、補給後再び攻撃に向
かい淡水に帰投するというものである。
一方の偵察第302飛行隊は九州の博多や指宿を出撃して「薄暮又ハ月明時古仁屋ニ進出燃弾補給ノ上電撃的ニ執拗ナル
(ゲリラ)的戦法ニ依リ輸送船上陸用舟艇軽快艦艇及好機航空母艦ヲ攻撃」するものであった。
もう1つが「夜間敵主力攻撃情況ニ依リ四機程度ヲ古仁屋ニ配備」古仁屋を根拠地として沖縄攻撃を行う方法である。
偵察第301飛行隊分隊長で瑞雲隊エースの宮本平治郎大尉は奄美大島の古仁屋(こにや)に常駐していた様だ。
古仁屋基地「瑞雲隊」をテーマにしたNHK終戦企画ドラマ「ラスト・アタック~引き裂かれた島の記憶」YouTube
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▲伊平屋島で沖縄戦最後の戦闘に向け前線へ進軍する米第2海兵師団第8連隊第3大隊(昭和20年6月3日撮影)


▼南方で撮られた写真、現地人女性・隊員と零式観測機が写っている。
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▼上記写真をカラー化したもの。南方の雰囲気・当時のカラーや隊員の装備服装等が良く解る。
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▼ニューギニアで撮影された日本海軍水上基地、零式観測機が並んでいる。
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▼インドネシアで撮影された日本海軍、零式観測機
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拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2016_02_25

台湾日本軍航空基地

Category: 台湾   Tags: 台湾  

台湾(烏來)で「高砂義勇隊」の素晴らしい活躍をご紹介しましたが、日本軍(日本人)も当然決死の特攻作戦
に出撃しています。日本でもあまり知られていない台湾の陸海軍各航空基地より特攻出撃した(日本人)特攻隊
を少しだけご紹介します。(資料があまりにも少ないのでご提供お待ちしております)

▼日本統治時代、台湾における日本陸海軍航空基地の地図(40以上の航空基地があったと言われている)
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▼終戦当時進駐軍に提出された日本軍航空基地を示す地図
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全て読み取ることが難しいが、解る基地名は以下の通り▼写真は日本統治時代の松山(台北)航空基地
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▼日本統治時代の陸軍宜蘭西飛行場
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(北部) 松山(台北)基地 / 陸軍台北基地 / 陸軍宜蘭(北・西・南)基地 / 基隆基地 / 淡水基地 / 林口基地
    陸軍八塊基地 / 陸軍桃園基地 / 陸軍樹林口基地 / 陸軍龍潭基地
    紅毛基地 / 海軍新竹基地 / 陸軍湖口基地 / 後龍基地
(中部) 海軍虎尾基地(練習航空隊) / 陸軍花連港基地 / 陸軍草屯基地 / 陸軍嘉義基地 / 陸軍塩水基地
    東港飛行艇基地 / 海軍台中基地 / 南投基地 / 陸軍彰化基地 / 陸軍台中基地
    陸軍鹿港基地 / 東石港基地 / 陸軍公館基地 / 陸軍大肚山基地 / 陸軍埔里基地
(南部) 陸軍屏東(北・南)基地 / 海軍台南基地 / 高雄(小港)基地 / 陸軍恒春基地 / 陸軍佳冬基地 / 陸軍潮州基地
    陸軍北港基地 / 陸軍台東基地 / 陸軍池上基地 / 海軍里港基地 / (膨湖島)馬公基地※赤印
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▲日本統治時代の陸軍屏東飛行場(明治28年~昭和20年)※屏東飛行場は教育隊があった。
(位置?)陸軍新浦基地/陸軍知本基地/陸軍埔里基地/陸軍旗山基地
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▲米軍が撮影した日本陸軍台中基地(Toyohama Airfield Taichu)と記されている。
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▲日本統治時代、新竹飛行場にて。修学旅行で東京へ行く際に撮られた新竹高等女学校生徒の記念写真。
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▲航空機の種別は不明だが、海軍台南航空基地で撮影された画像。三菱A6M2-K零式練習戦闘機?
※零式練習戦闘機とは零戦の練習機型として、ゼロ戦21型を複座に改装した零式練習戦闘機一一型。

航空基地ではないが、陸軍基隆要塞(きいるんようさい)台湾北部の基隆に。高雄には高雄要塞(たかおようさい)
が残っているそうなのでこちらも次回行ってみたいと思う。
▼基隆要塞跡
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台湾高雄市鳳山区に今も残る日本海軍鳳山無線電信所(ほうざん)海軍が大正6年(1917)に建設した無線送信所
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昭和20年1月15日 神風特別攻撃隊「第3新高隊」 ツゲガラオ基地よりゼロ戦で出撃。
(台湾東方機動部隊攻撃)
川添  實大尉(鹿児島県出身)/斎藤 精一大尉(宮城県出身)
小川  昇1飛曹(東京都出身)/右松 岩雄1飛曹(宮城県出身)
昭和20年1月15日 神風特別攻撃隊「第1新高隊」 台中基地よりゼロ戦1機で出撃。
(馬公沖機動部隊攻撃)森岡 光治1飛曹(大阪府出身)
昭和20年1月21日 神風特別攻撃隊「第2新高隊」 台南基地よりゼロ戦2機で出撃。
(台東東方機動部隊攻撃)
堀口 吉秀少尉(三重県出身)/藤波 良信飛長(静岡県出身)
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▲▼昭和20年1月21日台湾沖で米空母タイコンデロガ(USS Ticonderoga)に零戦2機突入、炎上するタイコンデロガ
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昭和20年1月21日 神風特別攻撃隊「新高隊」 台南基地より「彗星」8機で出撃。
(台東沖機動部隊攻撃)
[操縦]西田 幸三大尉(石川県出身)/[偵察]高島 陸人少尉(兵庫県出身)
[操縦]宮野 健次郎2飛曹(東京都出身)/[偵察]新田 四郎1飛曹(石川県出身)
[操縦]平井 孝二少尉(香川県出身)/[偵察]杉山 喜一郎1飛曹(栃木県出身)
[操縦]山下 信博飛長(高知県出身)/[偵察]澤田 光男1飛曹(岐阜県出身)
[操縦]福島  昇飛長(岡山県出身)/[偵察]安留 亀一1飛曹(鹿児島県出身)

▼海軍99艦上爆撃機、尾翼に「虎」と書かれている。S,19.5/15台南州に開隊した陸上機操縦の教育部隊[虎尾空]?
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虎尾海軍航空隊(こびかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。太平洋戦争開戦後の航空要員
大量養成のため、初歩練習部隊として昭和19年(1944)5月15日開隊設置した。主力機種は93式中間練習機など各種
陸上練習機だったので、上記写真の99艦上爆撃機は虎尾空では無いかもしれない。
実機教育も機材・燃料・人員の枯渇によって困難になった上、天号作戦・菊水作戦に備え、台湾の海軍飛行場には実
施部隊の展開が推進されることになり、虎尾の訓練部隊は諸施設を実施部隊に譲渡する事になった。昭和20年2月15
日解隊と共に、要員は航路・空路を経て生徒の大多数が内地に送還されたが、3月16日に基隆を出港した南京丸に便
乗した士官50数名は、翌日に南京丸が撃沈された上に、荒天で救助活動が不可能であった為、全員溺死した。
一部の残留者は台湾海軍航空隊に編入され、天号作戦・菊水作戦に参加。放棄された機体は「忠誠隊」に転用された。

▼(台湾)海軍新竹基地にて神風特別攻撃隊「忠誠隊」出陣式
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▼▲神風特別攻撃隊「忠誠隊」勇士
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▼昭和20年4月1日(台湾)海軍新竹基地にて床尾中尉より出撃命令を受け、別れの水盃「忠誠隊」隊員10名(5機)
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▲4/1,13:10石垣島南方米機動部隊攻撃の為、床尾勝彦中尉機以下4機(8名)艦上爆撃機彗星で出撃。
エンジン不調で1機不時着、他2機は新竹基地に帰還、床尾中尉/多田上飛曹機のみ敵機動部隊に突入戦死。
※彗星は整備に時間を要し、整備が追いつかず不完全のままでの出撃が多かったと言う。
4/6,15:00帰還した彗星3機にて再出撃。17:00先島諸島を攻撃中の英第57機動部隊「英空母イラストリアス」
を発見、3機が突入開始。特攻機が接近するのをイラストリアスのレーダーが捉え、直ちにスクランブルした追撃
戦闘機に1機撃墜され、対空射撃によりまた1機が撃墜された。阻止幕を潜り抜けた残る1機がカメラマンの視界に
急速に迫りレーダーアンテナを掠め突入成功。イラストリアスは大きく損傷し修理の為にイギリスに戻された。
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▲(左)イギリス海軍航空母艦イラストリアスと「忠誠隊」彗星の特攻により破壊されたイラストリアス(右)
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▲海軍艦上爆撃機「彗星」
海軍神風特別攻撃隊「忠誠隊」出撃記録は以下の通り。
昭和20年4月1日 神風特別攻撃隊「第1忠誠隊」 新竹基地より彗星で出撃
(石垣島南方機動部隊に突入)
[操縦]床尾勝彦中尉(長野県出身)/[偵察]多田恒雄上飛曹(三重県出身)
※[操縦]田口唯明2飛曹(熊本県出身)/[偵察]飯田清2飛曹(千葉県出身)
※[操縦]南義雄1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]永田千春1飛曹(熊本県出身)
※[操縦]北川肇2飛曹(山口県出身)/[偵察]西田久2飛曹(大阪府出身)
※の3機がエンジントラブル等で帰還、4/6再出撃、突入戦死。

昭和20年4月3日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 新竹基地より「彗星」で出撃
(沖縄南方機動部隊に突入)
[操縦]時山武大尉(静岡県出身)/[偵察]打田恒春上飛曹(三重県出身)

昭和20年4月3日 神風特別攻撃隊「第3大義隊」 新竹基地より零戦で出撃 
「忠誠隊」直掩任務
山崎 州雄中尉(鹿児島県出身)/深澤 敏夫2飛曹(秋田県出身)/北浦 義夫2飛曹(香川県出身)

昭和20年4月6日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 新竹基地より再出撃
(石垣島南方機動部隊に突入)
[操縦]田口唯明2飛曹(熊本県出身)/[偵察]飯田清2飛曹(千葉県出身)
[操縦]南義雄1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]永田千春1飛曹(熊本県出身)
[操縦]北川肇2飛曹(山口県出身)/[偵察]西田久2飛曹(大阪府出身)

昭和20年4月16日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 新竹基地より「彗星」で出撃
(石垣島南方機動部隊に突入)
[操縦]宮崎富男大尉(福岡県出身)/[偵察]住吉語少尉(広島県出身)
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▲昭和20年4月16日15:30(台湾)海軍新竹基地から出撃前、笑顔で語らう宮崎富男大尉ら神風特別攻撃隊
 「忠誠隊」隊員。この数時間後、彼等は海軍艦上爆撃機「彗星」で石垣島南方敵機動部隊に突入、戦死。
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▲海軍艦上爆撃機「彗星」
昭和20年4月28日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 新竹基地より「彗星」で出撃
(宮古島東方機動部隊に突入)
[操縦]國房大丈夫中尉(福岡県出身)画像参照 /[偵察]大平歳澄1飛曹(香川県出身)
[操縦]土屋光明上飛曹/[偵察]坂田清一上飛曹
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▲「「忠誠隊」第701海軍航空隊攻撃第102飛行隊の[ 彗星33型 ] ※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
昭和20年5月4日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 09:45新竹基地より「彗星」で出撃
(宮古島南方機動部隊に突入)
[操縦]大石保造1飛曹(静岡県出身)/[偵察]南純之助上飛曹(福岡県出身)

昭和20年5月9日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 16:25新竹基地より「彗星」で出撃
(嘉手納沖艦船に突入)
[操縦]内田秀雄1飛曹(和歌山県出身)/[偵察員]中田良蔵上飛曹(北海道出身)

昭和20年5月9日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 15:30宜蘭基地より「96艦上爆撃機」で出撃
(慶良間列島付近機動部隊に突入)
[操縦]久保良介中尉(富山県出身)/[偵察]後藤守男上飛曹(鹿児島県出身)
[操縦]中野学上飛曹(福岡県出身)/[偵察]大石保造1飛曹(静岡県出身)

昭和20年5月13日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 宜蘭基地より「96艦上爆撃機」で出撃
(慶良間列島付近機動部隊に突入)
[操縦]阿部仁太郎中尉(北海道出身)/[偵察]福元清則1飛曹(鹿児島県出身)
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▲福元清則1飛曹(鹿児島県出身)18歳(旧式の「96艦上爆撃機」で出撃、突入戦死)
[操縦]持田歳雄1飛曹(島根県出身)/[偵察]森増太郎2飛曹(栃木県出身)
[操縦]元木恒夫中尉(千葉県出身)/[偵察]柴田昌里1飛曹(高知県出身)
[操縦]石原一郎1飛曹(愛知県出身)/[偵察]
[操縦]駒場一司2飛曹(栃木県出身)/[偵察]
[操縦]佐藤重男上飛曹(大分県出身)/[偵察]渡邊靖1飛曹(長崎県出身)
[操縦]児島與吉2飛曹(福岡県出身)/[偵察]
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▲海軍96艦上爆撃機(この様な旧式機で特攻に出撃した隊員を想うと心が痛む・・・。)

昭和20年5月15日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 宜蘭基地より「96艦上爆撃機」で出撃
(慶良間列島付近機動部隊に突入)
[操縦]深津進少尉(岐阜県出身)/[偵察]岩熊唯明中尉(福岡県出身)(振天隊)
[操縦]渡邊貞雄1飛曹(山口県出身)/[偵察]
[操縦]藤井俊彦1飛曹(山口県出身)/[偵察]

昭和20年5月17日 神風特別攻撃隊「忠誠隊」 宜蘭基地より「96艦上爆撃機」で出撃
(慶良間列島付近機動部隊に突入)
[操縦]柿本茂少尉(福岡県出身)/[偵察]萩原定七上飛曹(埼玉県出身)

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▲神風特別攻撃隊「帰一隊」昭和20年5月3日(台湾)海軍新竹基地より出撃。雷装の天山艦攻で沖縄周辺の米艦船
 に対して雷撃特攻を行った。
[操縦]清水清秀上飛曹(石川県出身)/[偵察]土山忠英中尉(広島県出身)/[電信]石場清一上飛曹(石川県出身)
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▲(台湾)海軍新竹基地に並んだ「帰一隊」の天山艦攻。超低空で目標艦艇に向けて魚雷を投下後、
 そのまま体当たりする雷撃特攻を行った。
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▲海軍艦上攻撃機「天山」
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▲米PB4Yの攻撃を受け、煙を吐きながら墜ちてゆく艦上攻撃機「天山」。米パイロットWilliam Janeshek少佐の話に
 よると、機上射手は脱出しようとしていたが、突然座して不動のまま海面に墜落・爆発したそうだ。
 (昭和19年(1944)7月2日カロリン諸島での画像)

画像や資料が乏しく詳細は解らないが、海軍新竹/宜蘭/台中/台南基地から神風特別攻撃隊「振天隊」「勇武隊」
「大義隊」も出撃している。「勇武隊」は銀河の部隊だった。
昭和20年3月25日神風特別攻撃隊「勇武隊」台中基地より銀河と彗星で出撃
(沖縄南方機動部隊攻撃)
[操縦]石井伸雄1飛曹(福岡県出身)/[偵察]竹岡明男2飛曹(京都府出身)/[電信]脇坂春男上飛曹(滋賀県出身)
[操縦]西村 勇2飛曹(京都府出身)/[偵察]高橋耕一1飛曹(北海道出身)/[電信]深井末雄1飛曹(和歌山県出身)
[操縦]森田利平2飛曹(千葉県出身)/[偵察]中村隆逸1飛曹(岐阜県出身)/[電信]薄井 栄1飛曹(栃木県出身)
(彗星)
[操縦]吉川 正志2飛曹(北海道出身)/[偵察]軽部 哲夫飛曹長(北海道出身)
 
昭和20年4月6日神風特別攻撃隊「勇武隊」台中基地より銀河で出撃
[操縦]根本道雄中尉(徳島県出身)台南より/[偵察]丸山保仁上飛曹(長野県出身)/[電信]福田増雄1飛曹(福岡県出身)
[操縦]佐藤安善2飛曹(鳥取県出身)台中より/[偵察]吉村一誠1飛曹(熊本県出身)/[電信]岩橋達雄2飛曹(福岡県出身)
[操縦]田中勝2飛曹(三重県出身)台中より/[偵察]村田守 2飛曹(北海道出身)/[電信]安田雅由2飛曹(兵庫県出身)
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▲海軍双発爆撃機「銀河」

昭和20年5月3日 神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より99/97艦上爆撃機で出撃
(99艦爆)
[操縦]村上勝巳大尉(山口県出身)/[偵察]森永茂中尉(佐賀県出身)
[操縦]森本 賜中尉(山口県出身)/[偵察]田中良光1飛曹(宮崎県出身)
(97艦攻)
[操縦]堀家 晃中尉(大阪府出身)/[偵察]居村 豊中尉(兵庫県出身)/[電信]高辻萬里1飛曹(福岡県出身)
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▲昭和20年5月3日米駆逐艦リトル(USS Little)とアーロン・ワード (USS Aaron Ward) はレーダーピケット任務に就く
 18:13、18機~24機の特攻機が雲の下から攻撃してきた。アーロン・ワードは18:41に最初の被弾を受ける。
 間もなくリトルも左舷に被弾。4分以内にもう3機の特攻機がリトルを攻撃、竜骨を損傷、船体中央部が破壊された。
 リトルは19:55乗組員30人と共に沈没した。

昭和20年5月4日 神風特別攻撃隊「振天隊」10:50新竹基地より99艦上爆撃機で出撃
[操縦]清岡  寛上飛曹(高知県出身)/[偵察]石田 儀進1飛曹(宮崎県出身17歳)

昭和20年5月9日 神風特別攻撃隊「振天隊」16:30宜蘭基地より99艦上爆撃機で出撃
[操縦]片山  崇中尉(広島県出身)/[偵察]黒岩 芳人1飛曹(福岡県出身17歳)
[操縦]難波江 康仁上飛曹(大分県出身)/[偵察]鳥居 信1飛曹(熊本県出身17歳)

昭和20年5月13日 神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より97艦上攻撃機で出撃
[操縦]細谷 芳郎中尉(宮城県出身)/[偵察]植竹 静男中尉(東京都出身)/[電信]大曲 重賢1飛曹(福岡県出身)
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▲海軍97式艦上攻撃機(日米合作映画「トラ・トラ・トラ」[Tora! Tora! Tora!]で使用された物)

昭和20年5月15日神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より97式艦上攻撃機で出撃
[操縦]岸 圭武中尉(東京都出身)/[偵察]鈴木 達也中尉(千葉県出身)/[電信]沖山 文忠中尉(広島県出身)
[操縦]川中 工1飛曹(宮崎県出身)/[偵察]島元 義春1飛曹(鹿児島県出身)/[電信]小原 辰夫1飛曹(鹿児島県出身)
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昭和20年5月29日神風特別攻撃隊「振天隊」新竹基地より97式艦上攻撃機で出撃
[操縦]笠井  至中尉(熊本県出身)/[偵察]古川 正崇中尉(奈良県出身)/[電信]伊藤 信照1飛曹(福岡県出身18歳)
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▲5/29駆逐艦スーブリック(USS Shubrick)の後部に「振天隊」と思われる特攻機が命中。
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▲駆逐艦スーブリックに突き刺さった97式艦攻の物と思われるプロペラ。
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▲損傷した駆逐艦スーブリックの後部。
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▲負傷者と戦死者を懸命に探し出す米兵。負傷者/戦死者/行方不明者合わせて40名以上にのぼった。

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▲昭和20年7月26日海軍 神風特別攻撃隊「竜虎隊」別れの宴(台湾)新竹基地にて。
左から5番目の方は三村弘上飛曹。第3龍虎隊を指揮、93式中間操縦練習機で突入、戦死。
(「竜虎隊」とは通称「赤トンボ」と呼ばれた練習機で編成された第1陣、神風特別攻撃隊第3龍虎隊)
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▲海軍93式中間操縦練習機
既に落日の日本ではあったが、沖縄陥落後も、日本近海の米艦船を求めて、散発的に特攻が繰り返されていた。
内地(日本本土)からゼロ戦の補給は途絶え、万策尽きた台湾新竹基地に展開していた第29航空戦隊司令藤松大佐は
虎尾基地にある中間操縦練習機31機の特攻出撃を決断した。1次8機、2次8機の出撃は与那国島に不時着、特攻は
失敗。布張りの非力な93式中間操縦練習機に250㌔爆弾を積んで離陸し、沖縄まで到達するのは至難の業だった。
[ 赤トンボ悲話 ]
沖縄県宮古島市平良の市街地から少し離れた丘に旧日本軍戦没者の慰霊碑が幾つかある。
その中に神風特攻隊第三龍虎隊の慰霊碑がある。しかし宮古島から「神風特攻隊」が出撃した事は知られていない。
それもそのはず、この特攻隊、本拠地は台湾の虎尾基地(練習航空隊)だ。
特攻訓練教程すら満足に行う事が出来なくなってた日本陸海軍大本営は3/1ついに搭乗員錬成教育を中止。
全軍特攻の方針を決定した。昭和20年3月1日海軍は練習航空隊を解隊、訓練中の全ての練習機を実戦特攻部隊に繰り
込んだ。優先的に転用された「赤トンボ」は約600機、特攻訓練に入った主な航空戦隊は、5航艦12戦隊、3航艦13戦
隊だった。パイロットは、飛行経験が100時間に満たない予科練生や予備練習生(養成所出身者)がほとんどである。
昭和20年7月28日早朝、神風特攻隊第三龍虎隊8機は台湾・虎尾基地を出発。新竹基地、宜蘭基地を経由して石垣島で
給油し宮古島に降り立った。何故台湾の航空基地や石垣島から出撃せず、わざわざ宮古島に降り立ったのか。
それには訳があった。彼等の乗った特攻機は練習用の布張りの複葉機、通称「赤トンボ」。粗末な練習機に250キロ爆
弾を装備して長距離飛行は難しく、最短距離から出撃する必要があった。しかも作戦は月夜に限られた。
宮古島到着後夜11時。2度目の別盃式を終えた若き特攻隊員達は、雲一つ無い月明かりの中、沖縄近海に群がる米艦隊
に向け飛び立った…。話はそこで終わるはずだった。が、離陸直前、1機の飛行機のタイヤがパンク。出撃は中止された。
他の7機はそのまま飛び立ったが、2機がエンジン不調を理由に戻ってきた。その内の1機は滑走路脇の畑に不時着大破。
隊員は重傷を負った。整備兵達は不時着した飛行機の車輪を、パンクして飛ばなかった飛行機に移した。
一旦、出撃を免れたはずのパンクした飛行機の隊員は、再び出撃する事になった。
翌日、その隊員はベッドに横たわる不時着した隊員に「臆病者。恨んでやる」と言い残し、月夜の闇に消えた。
不時着機の特攻隊員は生還し、80歳余で亡くなった。彼は生前、宮古島を訪れることはなかった。
彼は自宅の庭に慰霊碑を建て、「神風特攻隊第三龍虎隊」7名を供養し続けたという。
7/29 3次出撃の戦果は陸海軍特別攻撃隊の攻撃で撃沈された最後の艦となった、米駆逐艦「キャラハン」撃沈だった。
※素人丸出しの飛行技量の若いパイロット、赤トンボの様な練習機で特攻を仕掛けてくる日本軍に対して、迎撃/撃墜す
 る側の米軍では、これは「男と男の喧嘩」ではない。と、相手を想い涙したと言う記録があり、戦闘機パイロットの
 勲章ともいえる「撃墜スコア」にカウントしなかった事も多かったと言う。
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▲米駆逐艦キャラハンUSS Callaghan(奇跡的な事が重なり「神風特攻隊第三龍虎隊」に撃沈された)
突入した特攻隊員を丁重に水葬した事で有名な「戦艦ミズーリ」の艦長キャラハン大佐の兄は、第三次ソロモン海戦で
日本軍と戦って戦死した。この時戦艦ミズーリを護衛していた駆逐艦の名は、戦死した兄の名をとった「キャラハン」
だった。この海戦で駆逐艦キャラハンは多くの特攻機を撃墜したが、そのうちの1機に、長谷川薫中尉の操縦する
海軍爆撃機「銀河」があった。長谷川中尉は撃墜され、海中に突入して海を漂っている所を、「駆逐艦キャラハン」の
バーソルフ艦長は特攻攻撃の続く中、危険を冒して艦を停止させ、長谷川中尉を救助した事で知られる。
長谷川薫中尉は後に製紙大手「レンゴー」の社長となった人である。
この時「銀河」に同乗していた吉田飛曹長も救助されたが、直後に出血多量で死亡した。この時も遺体は丁重に水葬さ
れたと言う。しかし、その駆逐艦「キャラハン」も「第三龍虎隊」の特攻攻撃で撃沈される事となったのだ。

神風特別攻撃隊「第三龍虎隊」戦死者は以下の通り。(132空)
昭和20年7月29日宮古島より93式中間操縦練習機で出撃
三村弘上飛曹(岡山県出身)/庵民男1飛曹(鹿児島県出身)/川平誠1飛曹(静岡県出身)
近藤清忠1飛曹(長野県出身)/原優1飛曹(長野県出身)/松田昇三1飛曹(東京都出身)    
昭和20年7月30日宮古島より93式中間操縦練習機で出撃
佐原正二郎1飛曹(静岡県出身)
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▲「第三龍虎隊」93式中間操縦練習機のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
※三村弘上飛曹(岡山県出身)と同期生の庭月野 英樹さん(神風特攻隊彩雲隊)生存者が戦後語っておられます。
 戦争証言アーカイブス
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▲インドネシア共和国軍博物館に展示されている93式中間操縦練習機(インドネシア共和国空軍色に塗装されている)
この機体のエンジンは「天風一一型」(陸軍ではハ13)で「あまかぜ」と読む。第二次世界大戦前に東京瓦斯電気工業が
開発・製造した航空機用空冷星型エンジンである。 
※展示機は「インドネシア人が初めて空を飛んだ機体」としてインドネシアでは大きな扱いを受けています。 

昭和20年4月28日 神風特別攻撃隊「第16大義隊」 宜蘭基地より爆装零戦で出撃(宮古島南方機動部隊攻撃)
今野 惣助中尉(宮城県出身)

昭和20年5月4日 神風特別攻撃隊「第17大義隊」09:50宜蘭基地より爆装零戦で出撃(宮古島南方機動部隊攻撃)
細川 孜中尉(長野県出身)/谷本 逸司中尉(広島県出身)/大石 芳男飛曹長(静岡県出身)
田中 勇上飛曹(山口県出身)/常井 忠温上飛曹(茨城県出身)/鉢村 敏英1飛曹(栃木県出身)
近藤 親登2飛曹(長野県出身)/佐野 一斎2飛曹(山梨県出身)
長田利平1飛曹(山梨県出身/敵を発見出来ず石垣島基地に着陸)
(直掩零戦)角田和男少尉
特攻機4機が敵艦に突入戦死。直掩/戦果確認任務の角田和男少尉は無事帰還。
角田和男少尉の証言によれば、特攻機4機の主翼機上面の日の丸は緑で塗りつぶされていたと言う。
アメリカ軍のレーダー探知を避ける為、ギリギリの低空飛行で敵艦まで接近する事に成功した特攻機は
谷本 逸司中尉を筆頭に次々と突入していった・・・。
※長田利平1飛曹は戦後、神奈川県警に入り、長く刑事を務められた。警部に昇進して定年退職するまで現場ひと筋。
 刑事事件の捜査、検挙にあたり、その間、「不起訴」の検挙者を一度も出さなかったというプロ魂を発揮された。


昭和20年5月8日 菊水六号作戦発動。宜蘭派遣隊10機特攻。突入4機を含む5機喪失。
昭和20年5月9日 神風特別攻撃隊「第18大義隊」 (台湾)宜蘭基地よりゼロ戦で出撃(2機トラブルで引き返す)
(宮古島南方機動部隊攻撃)
黒瀬順斎中尉(富山県出身)/中島信次郎上飛曹(京都府出身)/河合芳彦上飛曹/宮川孝義1飛曹(大阪府出身)
(直掩隊)前田秀秋上飛曹(青森県出身)

昭和20年5月15日 4機が出撃、特攻を目指すが会敵せず引き返す。
※この頃から205海軍航空隊で編成された神風特別攻撃隊「大義隊」単独の行動が不明確となる。
 以後、在台湾の各偵察機隊は散発的な偵察行動に従事する事となる。
昭和20年6月7日 神風特別攻撃隊「第21大義隊」最後の大義隊が石垣島基地を出撃。
(宮古島東方機動部隊攻撃)8機で宮古島沖の船団に突入。
橋爪 和美1飛曹(和歌山県出身)/柳原 定夫2飛曹(北海道出身)
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▲昭和20年3月9日出撃待機中の(第二〇五海軍航空隊)神風特別攻撃隊「大義隊」隊員勇士達。(撮影場所不明)

以上、海軍特攻隊の記録
以下、陸軍特攻隊の記録

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▲陸軍誠第16飛行隊「玄武隊」の隼。昭和20年4月12日上野強軍曹が(台湾)花蓮港基地より出撃。
 慶良間列島洋上の敵艦船に突入戦死。
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▲4/12慶良間沖海域で至近距離での日本軍特攻隊の突入を受け小破した米護衛駆逐艦ロール(USS RALL)DE 304

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▲陸軍誠第119飛行隊勇士。昭和20年4月22日午前08:30頃(台湾)桃園飛行場にて出撃1時間半前の撮影
午前10時頃、二式複座戦闘機「屠龍」14機に隊員らが乗り込み離陸。離陸後間もなく海に落ちた1機を除き、飛行隊は
石垣島に立ち寄り500キロ爆弾を積み、沖縄本島周辺(粟国島南西方)へ特攻出撃していった。
昭和20年4月22日(台湾)桃園飛行場より二式複座戦闘機「屠竜」で出撃
竹垣 全小尉(石川県出身)/溜 洋小尉(鹿児島県出身)/岩上 要伍長(大分県出身)/永久 要伍長(山口県出身)
山本 茂伍長(埼玉県出身)
昭和20年4月28日(台湾)桃園飛行場より二式複座戦闘機「屠竜」で出撃
中村 潤小尉(千葉県出身)/小森 興彦小尉(東京都出身)/木原 正喜伍長(鹿児島県出身)/山澤 四郎伍長(福岡県出身)
※特攻用に改造された二式複座戦闘機「屠龍」は、「二式双襲」と呼ばれていた。
 「屠龍」は2名乗、陸軍は海軍の様に定員数を乗せるのではなく、1機1名で出撃していった。
 陸軍の場合、上陸地付近にある攻略船団(輸送船団)を目標としていた為、目標発見は容易である為に1機1名出撃が
 多かった様だ。それに対し海軍は敵機動部隊(特に空母を目標とし、広い洋上にある目標を発見するのが大前提とし
 ていた為、艦爆、艦攻などの多座機には座席数に応ずる人員が乗り組んだと言う。

※昭和20年4月28日、97式戦闘機で台湾から特攻出撃し、石垣島に不時着した「誠第121飛行隊」生還者の末吉初男
さんが戦後70年の節目に重い口を開き、太刀洗平和記念館で当時の体験を語っておられます。
戦後70年、初めて語られる元特攻隊員の体験談YouTube

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▲陸軍誠第35飛行隊。四式戦闘機で昭和20年4月下旬までに(台湾)台中飛行場に移動、5月3日隊長の遠藤秀山少尉
 以下5名、5月9日浅井良修少尉が沖縄西方洋上の敵艦船群に突入戦死。
 遠藤秀山少尉(大阪府出身)/間庭福次少尉(栃木県出身)/古本嘉男少尉(静岡県出身)
 村山政雄少尉(岩手県出身)/塚平真少尉(長野県出身)の5名が5/3台中より出撃、突入戦死
 浅井良修少尉(兵庫県出身)5/9台中より出撃、突入戦死
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▲誠第35飛行隊隊長、遠藤秀山少尉。後に四式戦闘機が見える。昭和20年5月3日(台湾)台中より出撃、戦死。
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▲陸軍四式戦闘機「疾風」(はやて)

[ 誠第34飛行隊 ]昭和20年4月28日~5月21日(台湾)台中基地より四式戦闘機「疾風」で出撃。
桑原孝夫少尉(東京都出身)/安東愛明少尉(神奈川県出身)/新山喬夫少尉(和歌山県出身)
中村嘉明少尉(香川県出身) 以上4/28「疾風」で出撃、慶良間列島南方海上突入、戦死。
金澤宏少尉(鳥取県出身)/富山信也少尉(三重県出身)/二神孝満少尉(愛媛県出身)/荒木周作少尉(群馬県出身)
小林富男少尉(東京都出身)/砂畑耕作少尉(東京都出身) 以上5/4(19:20)「疾風」で出撃、嘉手納沖突入戦死。
前川豊少尉(愛知県出身)5/9単機出撃、那覇西方海上突入、戦死。
北原賢一少尉(福岡県出身)5/21単機出撃、那覇西方海上突入、戦死。
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▲飛行第105戦隊。(台湾)陸軍宜蘭基地にて出撃前に地図を広げ飛行コースの打ち合わせをしている。
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▲(台中飛行場)飛行第105戦隊「飛燕」のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
 昭和20年4月3、9、11、12、28日、5月4日三式戦闘機で特攻出撃。
 昭和20年5月4日陸軍飛行第105戦隊 16:45宜蘭基地より三式戦闘機「飛燕」で長沼不二人少尉が出撃。
 昭和20年5月4日陸軍飛行第105戦隊 宜蘭基地より三式戦闘機「飛燕」で原仁少尉が出撃。
 昭和20年5月4日陸軍飛行第102戦隊 16:00八塊基地より三式戦闘機「飛燕」で畠山富雄少尉が出撃。
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▲米護衛空母サンガモン(USS Sangamon)は昭和20年5月4日補給の為、慶良間諸島に到着。
補給は神風特攻隊などの接近でしばしば中断されたものの18:30には終了して再び外洋に向かって動き出した。
しかし、間もなくサンガモンは47キロ先から神風特攻隊が接近しつつある事を知った。陸上戦闘機が迎撃して9機を
撃墜。残る1機は19:00頃にサンガモンの左舷艦尾部めがけて突入してきた。
サンガモンは取舵で急旋回しつつ対空砲火を撃ち、護衛艦艇の助けも得て特攻機を撃墜する事に成功。
サンガモンの右舷からわずか7.6メートル離れた海面に墜落した(陸軍飛行第105戦隊「飛燕」と思われる)
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▲5/4米護衛空母サンガモン(USS Sangamon)に突入寸前の陸軍飛行第105戦隊「飛燕」
 ※この特攻は失敗に終わったが、後に誠第123飛行隊[水越三郎伍長]操縦の「屠龍」が突入、大きな損害を与えた。
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▲▼陸軍飛行第105戦隊(第2中隊)「飛燕」のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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昭和20年5月4日陸軍誠第123飛行隊 水越三郎伍長が16:00(台湾)八塊基地より二式複座戦闘機「屠龍」で出撃。
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▲二式複座戦闘機「屠龍」(昭和20年、占領されたフィリピン・クラーク基地で米軍が撮影)
昭和20年5月4日水越三郎伍長操縦の「屠龍」が、19:25米迎撃戦闘機の哨戒網を突破し、対空砲火を避けるため一旦
雲中に入り、19:33に雲から出てきたかと思えば米護衛空母サンガモン(USS Sangamon)真一文字に突っ込んで、操
舵室中央部に突入。爆弾は艦内部で爆発し、サンガモンに多大な損害を与えた。
わずか15分の間に、格納庫や操舵室を初めとして艦のあちこちから制御不能なほどの火災が発生し、艦橋との音信が途
絶えることとなった。悪い事に、火災は風に煽られてますます大きくなりつつあった。
それでも20:15までには消火手順が整理され、サンガモン乗組員は大火災に立ち向かう事となった。
爆弾の炸裂で消防装置にダメージがあって水圧が低かったものの、消火ガスボンベによって消火が始まった。
また、近在の艦船もサンガモンの消火作業を手伝う為、集合してきた。その甲斐あって22:30までには鎮火した。
通信も、近接した駆逐艦フラム (USS FullamDD-474) を介した通信及び、艦内で唯一使用可能だった航空機用超短波
無線を利用し23:20頃までには回復した。サンガモンは1戦死者11名、行方不明者25名および21名の重傷者を出した。
生き残った乗組員は、修羅場を潜り抜けて生き残れた事を祝ってアイスクリームを食べたと言う。
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▲5/4炎上する米護衛空母サンガモン、その後サンガモンは仮修理の為慶良間諸島に引き返した。
護衛空母「サンガモン」乗組パイロットのマルカム・ハーバート・マックガン大尉は、戦後かなり後になってこう語った。
「わが艦の飛行甲板を突き抜けたあの男は、私より立派だ。私には、あんなことはやれなかっただろう」と、サンガモン
に命中した神風のパイロット(水越三郎伍長)を称えたと言う。(米軍では特攻機は陸海軍の全てをカミカゼと呼んだ)
マルカム・ハーバート・マックガン大尉は当時サンガモンで炎上中の特攻機を海中に投棄するのを手伝ったと言う。
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▼▲水越三郎伍長の「屠龍」が突入したサンガモンの飛行甲板。本土に回航後、全損とされスクラップ処分された。
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▼護衛空母サンガモン(CVE-26)艦内での戦死者の葬儀(昭和20年5月5日撮影)
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▼陸軍誠第33飛行隊。四式戦闘機で昭和20年4月16、27日、5月9日、6月6日(台湾)桃園基地より出撃、突入戦死。
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▲写真に収まる隊員。後列左から引地、石原、橋場、中村、坂口(隊長)、福井(副隊長)、内田、持丸、上田各少尉
持丸喜夫少尉(東京都出身4/16出撃)/福井喜夫少尉(広島県出身4/27出撃)/石原正嘉少尉(東京都出身4/27出撃)
橋場昇少尉(富山県出身4/27出撃)/内田雄二少尉(東京都出身4/27出撃)/天野博少尉(千葉県出身)4/27桃園より出撃、
嘉手納沖海上突入戦死。
5/9坂口英作少尉(隊長)(福岡県出身)が桃園より出撃、那覇西方海上突入戦死。
6/6草場道夫少尉(佐賀県出身)が桃園より出撃。沖縄西方海上突入戦死。
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▲昭和20年4月27日米駆逐艦ラルフ・タルポット(USS Ralph Talbot)に「誠第33飛行隊」特攻機が命中。
 大きく損傷したが沈没はまぬがれ任務を続行した。

[ 陸軍誠第120飛行隊 ](台湾)陸軍八塊基地基地より四式戦闘機「疾風」で出撃
5/4畠山富雄少尉/堀田明夫軍曹/田中瑛二伍長
5/12荻野光雄軍曹(京都府出身)/東局一文伍長(石川県出身)
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▲昭和20年5月12日米戦艦ニューメキシコ(USS New Mexico)に、誠飛行隊の特攻機が命中、54名死亡、119名負傷。
 直ちに消火作業が行われ30分以内に鎮火したが、その後5月28日修理の為レイテ島へ向かい戦線から離脱。
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▲昭和20年5月12日米戦艦ニューメキシコ(USS New Mexico)に特攻機が命中した瞬間。

[ 陸軍誠第10飛行隊 ](台湾)陸軍八塊基地基地より出撃
5/3北原弘次見習士官 5/9野本幸平少尉 5/21碓井正雄少尉(香川県出身)

[ 陸軍飛行第204戦隊 ]昭和20年5月20日(台湾)陸軍八塊基地基地より「隼」で出撃
栗原 義雄少尉(埼玉県出身)/小林 修少尉(香川県出身)/田川 唯雄軍曹(岐阜県出身)
大塚 喜信軍曹(神奈川県出身)/井澤 賢治軍曹(兵庫県出身)
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▲5/20米駆逐艦サッチャー(USS Thatcher)に突入、艦のダメージは少なかったが、14名死亡。
 負傷者/行方不明者合わせて53名を数えた

[ 陸軍誠第71飛行隊 ]昭和20年5月24日(台湾)陸軍八塊基地基地より「疾風」で出撃
渡辺 正美少尉(福島県出身)/中山 静雄少尉(香川県出身)/山本 登少尉(広島県出身)
押切 富家少尉(山形県出身)/畠山 正典少尉(岩手県出身)/湯村 恭少尉(大阪府出身)
中島 尚一少尉(大分県出身)昭和20年7月19日出撃
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▲米駆逐艦バリー(USS Barry)は5/16沖縄諸島に到着。到着後は諸島周辺海域の哨戒にあたった。
5/24・25日本軍は菊水七号作戦を発動、バリーにも誠第71飛行隊の四式戦闘機「疾風」2機の特攻機が突入してきた。
そのうちの1機は撃墜したが、もう1機は弾幕を突破してバリーの艦橋下に命中。バリーの乗組員のうち28名は破片で負
傷し、爆発で生じた火災は特攻機から流出したガソリンとバリーの燃料庫および弾薬に燃え移り、艦の前部に脅威をもた
らした。命中してから40分後の13:40艦長はバリーの放棄を決定、乗組員は救命ボートで脱出した。
15:00過ぎ、浸水がバリーの火災を抑え込むのを見た高速輸送艦シムス(USS Sims) とローパー(USS Roper)からの消
火班はバリーに乗り込み、活動の結果翌5/26、06:30頃にはおおむね鎮火した。
バリーは5/28慶良間諸島の泊地に曳航されたが被害の規模は大きく、復旧は割に合わないと判断された。
バリーは部品取りとなり、再利用可能な部品は他の艦艇に転用されることとなった。1か月後6/21バリーは除籍されたが
6/21神風特別攻撃隊「菊水第2白菊隊」が停泊中のバリーへ突入、1日保ったが6/22に沈没した。
バリーが沈んだ6/22沖縄の日本軍最高司令官牛島満陸軍中将と参謀長の長勇陸軍中将は摩文仁丘の洞窟で共に自決。
沖縄戦は終結し、菊水作戦も6/22をもって終了した。

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▲誠第31飛行隊武揚隊[隊長] 山本薫中尉。愛機の九九式襲撃機の垂直尾翼に「必沈」の文字を書き入れている。
 陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」昭和20年5月13日16:32(台湾)八塊基地より出撃。19:30沖縄・中城湾に突入戦死。
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▲(隊長)山本薫中尉(徳島県出身享年23歳)/五十嵐栄少尉(山形県出身)/柄澤甲子夫伍長(長野県出身)
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▲誠第31飛行隊「武揚隊」五十嵐栄少尉と愛機の99式襲撃機。昭和20年5月13日(台湾)陸軍八塊基地より出撃。
 沖縄西方海上の敵艦に突入、戦死。
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▲陸軍99式襲撃機
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」昭和20年5月13日(台湾)陸軍八塊基地より99式襲撃機で出撃(沖縄周辺洋上)
山本 薫中尉/五十嵐栄少尉/柄沢甲子夫伍長
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」昭和20年5月17日(台湾)陸軍八塊基地より99式襲撃機で出撃(沖縄周辺洋上)
高畑保雄少尉/五来末義軍曹
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」昭和20年7月19日(台湾)陸軍八塊基地より99式襲撃機単機出撃。(藤井清美少尉)

陸軍飛行第17戦隊昭和20年5月3日(台湾)花蓮港基地より16:40「飛燕」で出撃。嘉手納沖突入戦死
下山道康少尉/斉藤長之進少尉/辻中清一少尉/原 一道曹長
陸軍飛行第20戦隊昭和20年5月3日(台湾)竜潭基地より16:40「隼」で出撃。慶良間西方突入戦死
島田治郎少尉/須見 洋少尉 /後藤常人少尉/宮田精一少尉/菊井耕造伍長
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▲「飛行第20戦隊」左から須見洋少尉/後藤常人少尉/宮田猪一少尉 5/3慶良間西方の敵艦船に突入、戦死。
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▲昭和20年5月3日慶良間諸島周辺で誠第123飛行隊等の特攻を受け炎上する米駆逐艦ワード(USS ARRON WARD)
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▲特攻機6機の突入を受け大破した米駆逐艦アロン・ワーUSS ARRON WARD(DM34)
※日本海軍ハワイ真珠湾攻撃において日本海軍の特殊潜航艇「甲標的」を撃沈した艦艇として知られる。
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▲辛うじて浮かんでいたが結局米軍によって沈没処理された。
陸軍誠第123飛行隊昭和20年5月3日(台湾)八塊基地より二式双襲で出撃(西垣秀雄伍長)沖縄周辺洋上突入戦死
陸軍誠第123飛行隊昭和20年5月4日(台湾)八塊基地より二式双襲で出撃(水越三郎伍長)嘉手納沖突入戦死
陸軍誠第123飛行隊昭和20年5月9日(台湾)八塊基地より二式双襲で出撃(南出義光伍長)那覇西方突入戦死
陸軍誠第123飛行隊昭和20年5月12日(台湾)?基地より二式双襲で出撃(加治木利秋少尉)慶良間西方突入戦死
陸軍飛行第17戦隊昭和20年6月5日(台湾)花蓮港基地より「飛燕」で出撃。嘉手納沖突入戦死
稲森静二少尉/岡田政雄少尉/佐田通安 少尉/富永幹夫少尉
陸軍飛行第20戦隊昭和20年5月29日(台湾)竜潭基地より「隼」で出撃。沖縄周辺洋上突入戦死
石橋志郎少尉(朝鮮名不明)/大野好治少尉/武本郁夫少尉/山田三郎伍長/森 弘伍長
(6/1出撃)猪股 寛少尉/(6/1出撃)芦立孝郎伍長
陸軍飛行第20戦隊昭和20年6月6日(台湾)竜潭基地より「隼」で出撃。慶良間西方突入戦死
及川真輔少尉/東 勉伍長/遠藤昭三郎伍長/吉川昭孝伍長
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▲昭和20年6月3日陸軍飛行第20戦隊 隊員に訣別の訓示を与える戦隊長。(台湾)高雄にあった小港飛行場にて。
 第20戦隊は沖縄戦に一・四式戦特攻隊を編成、散華。村岡英夫少佐(戦隊長)が小港飛行場で終戦を迎え証言。
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▲飛行第20戦隊「誠忠隊」遠藤昭三郎伍長(静岡県出身17歳)昭和20年6月6日竜潭基地より出撃。
 慶良間西方海上の敵艦船に突入戦死。

宜蘭(ぎらん)には民間飛行場を接収した陸軍の宜蘭北(員山-現・金六結新兵訓練中心)飛行場、宜蘭西(内城-現・
金車威士忌酒廠)飛行場があったが、宜蘭南飛行場が陸海軍主飛行場として使われていたそうだ。
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▲飛行第19戦隊の搭乗員達。三式戦闘機で昭和20年4月11、18、22、30日、5月4、18、21日(台湾)宜蘭より出撃。
[隊長]大出博紹少尉(大阪府出身)22歳/山縣 徹少尉/新屋 勇軍曹 以上4/11三式戦闘機[ 飛燕 ]で突入戦死。
根本敏雄少尉/倉沢和孝少尉 以上4/18三式戦闘機[ 飛燕 ]で沖縄周辺洋上突入戦死。
渡辺国臣少尉/小野 博少尉 以上4/22三式戦闘機[ 飛燕 ]で慶良間洋上突入戦死。
栗田常雄軍曹4/30三式戦闘機[ 飛燕 ]で沖縄周辺洋上突入戦死。
長沼不二人少尉/橋本郁治軍曹 以上5/4三式戦闘機[ 飛燕 ]で宮古南側突入戦死。
大立目公雄少尉/飯野武一少尉/中村憲二少尉 以上5/18三式戦闘機[ 飛燕 ]で嘉手納西方突入戦死。 
沢田卓三少尉 以上5/21三式戦闘機[ 飛燕 ]で嘉手納西方突入戦死。
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▲特攻機の突入を受け大破したUSS YMS-92(昭和20年5月16日米軍撮影)

※陸軍宜蘭南飛行場場跡には現在も測候所、管制塔、指揮所などの建物や掩体壕が残っている。
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▲陸軍宜蘭南飛行場場跡に残る測候所跡。
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▲陸軍宜蘭南飛行場場跡に残る管制塔「通称・八角亭」(現在、南飛行場跡地は造成中で立ち入り禁止との事)
 2009年までは昔のままの南飛行場が残っていたそうで、2012年には既に整地されていた様だ 。
 ここから出撃した飛行第20戦隊所属で小隊長だった石橋志郎少尉は朝鮮出身で沖縄戦の特攻で戦死した朝鮮人
 特攻隊員の内の1人として有名である。宜蘭南機場跡You Tube→宜蘭南機場、員山機堡、思原機堡、北機場
 石橋志郎少尉[ 朝鮮出身 ]本名不明(昭和20年5月29日沖縄周辺洋上にて戦死)
▼陸軍宜蘭飛行場付近に現存する掩体壕を歴史文化施設として活用する動きも進んでいる様だ。
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宜蘭飛行場は 台湾(烏來)ご紹介した高砂義勇隊「薫空挺隊」が出撃していった飛行場と言われています。
そういった観点からも非常に興味深い。宜蘭北飛行場跡地に員山公園がある。圓山と云う小高い丘の上に建てられた
宜蘭神社は日本統治時代(大正8年)に建てられた物だそうだ。終戦後に進駐してきた国民党軍に社殿を破壊され燈籠
や狛犬も打ち壊されたが、奇跡的に「神馬像」は地元の住人によって宜蘭の文昌廟に保管されていて今でも見学する
事が出来る。次回是非行ってみたいと思う。
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▲宜蘭員山公園にある宜蘭神社

「飛行第29戦隊」昭和20年5月21日/6月6日(台湾)台中基地より四式戦闘機[疾風]で出撃
浅野史郎少尉/指方 久軍曹/浜島長吉伍長 以上5/21四式戦闘機[疾風]で沖縄周辺洋上突入戦死。
中島三夫少尉/吉森 茂軍曹/林田敏治伍長 以上6/6四式戦闘機[疾風]で沖縄周辺洋上突入戦死。
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▲6/6(台湾)台中基地から疾風で出撃し、散華した中島三夫少尉(左端)/吉森 茂軍曹/林田敏治伍長
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▲「飛行第29戦隊」浅野史郎少尉 昭和20年5月21日(台湾)台中基地より四式戦闘機で出撃、突入戦死。

昭和20年7月19日陸軍誠第31飛行隊「揚武隊」99式襲撃機1機(藤井清美少尉)八塊基地より出撃(那覇西方)
昭和20年7月19日陸軍誠第71飛行隊 99式襲撃機1機(中島尚一伍長)八塊基地より出撃
昭和20年7月19日陸軍第204戦隊 花漣港基地より出撃 
[隼4機]織田安也少尉(鹿児島県出身)/笠原卓三軍曹(長野県出身)/塚田方也軍曹(静岡県出身)/渡井香伍長
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▲伊江島作戦遂行中に特攻機の突入を受け船首部分をもぎとられた米軍上陸用舟艇(昭和20年7月9日撮影)

※海軍特攻ボート「震洋」も台湾に配備されていた(出撃日時・戦果等不明)
「沖縄戦」で米軍に鹵獲された海軍特攻ボート「震洋」
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[ 高雄 ]
第20震洋隊 薄中尉/第21震洋隊 竹内中尉/第31震洋隊 栗原中尉
高雄/左営 S19.10.20配備50隻(184名内9名戦死)
高雄/左営 S19.10.20配備55隻(183名)
高雄/左営 S19.11.15配備55隻(187名)
第29震洋隊 永井大尉 高雄/桃子園S19.11.15配備54隻(191名)    
[ 澎湖諸島 ]馬公・西嶼島・望安島
第24震洋隊 若松禄朗中尉(西嶼島/望安島)には震洋格納庫跡と弾薬庫跡が残っているとの事。
西嶼島(漁翁) S19.11.05配備68隻(183名)  
西嶼島(漁翁) S19.11.05配備50隻(184名内44名戦死)
[ 基隆 ]
第25震洋隊 和田中尉
[ 淡水 ]
第102震洋隊 佐々木大尉/第105震洋隊
淡水/江頭 S20.01.18配備25隻(191名内2名戦死)
淡水/関渡 S20.01.18配備28隻(186名内2名戦死)
[ 海口 屏東/車城 ]
第28震洋隊 浦木中尉/第30震洋隊 山本中尉
海口 S19.11.15配備54隻(191名内3名戦死) 
海南島 新村S20.01.18配備50隻(185名内1名戦死)
海南島 三亜S20.01.18配備49隻(187名内1名戦死)
※海南島は現在の中華人民共和国海南省

[ 新竹空襲 ]
新竹空襲は昭和18年(1943)11月25日アメリカ陸軍航空軍と中国国民革命軍の連合部隊が、台湾新竹市の海軍新竹基
地に対して行った航空攻撃で、中国大陸から日本領に対して行われた初めての本格的空襲である。
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▼▲空襲を受ける海軍新竹飛行場
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▼空襲を受ける新竹駅周辺
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▼空襲を伝える当時の新聞記事(号外とされている)
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連合国軍による奇襲は成功し、空襲の結果、日本海軍の記録によれば地上で13機が炎上、戦闘機と陸攻各2機が撃墜さ
れ、25人戦死20人が負傷した。連合国側の記録は地上で日本機42機を破壊、14~15機を撃墜したと判定している。
対する連合国軍の損害は、連合国側の記録によれば対空砲火と樹木との接触で2機が軽く損傷したのみであった。
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▲1943年の中国で作戦中のアメリカ陸軍航空軍のP-40戦闘機とB-24爆撃機。
台湾が空襲されるという事態は、日本の大本営に衝撃を与えた。大本営は、さしあたりの対策として飛行第246戦隊主
力(伊丹飛行場)と第18飛行団の司令部偵察機中隊を台湾へ派遣し、昭和19年(1944))1月下旬には独立飛行第23
中隊を派遣して任務を引き継がせた。更に大本営は、地上部隊により航空基地を占領することで本土空襲を阻止できな
いか検討を始めた。杉山元参謀総長が、服部卓四郎参謀本部作戦課長に対して検討を指示。大陸打通作戦が計画・実行
される事になった。
その後、連合国側は、約1年後の台湾沖航空戦まで台湾に対する大規模空襲こそ繰り返さなかったが、1944年1月11日
B-25数機で高雄市を空襲した。
▼空襲を受ける高雄軍港
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1944年3月4日には海南島(現・中華人民共和国海南省)の日本海軍基地を戦爆連合30機で奇襲攻撃、その他各地の航空
基地や沿岸航行中の商船を襲撃し、1944年6月には、成都基地から出撃したB-29爆撃機による八幡(九州)空襲が行われ、
日本本土にも空襲が及んでいる。その後「大陸打通作戦」により中国戦線の連合国軍航空部隊の活動は大きく妨げられた
が、戦略的意義は乏しかった。
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▲日本統治時代の台湾の製糖工場
台湾製糖株式会社は、日本統治時代の台湾に創立され、台湾最初の新式製糖工場を建設した製糖会社である。
台糖株式会社(たいとう)は台湾製糖の後身で、かつて東京都中央区に存在した株式会社である。
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▲米軍の空襲で被害を受けた製糖工場。
※現在、台南の高雄市には台湾糖業博物館があり、日本統治時代、南部最大の製糖工場跡を見学する事が出来る。
 高雄市橋南里糖廠路24号(年中無休)


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
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 2016_02_10


日本陸軍の特攻は、海軍の神風特攻隊が戦果をあげる中、「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は
速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本
営指示が発せられ、昭和19年11月「万朶隊」「富嶽隊」によってフィリピンで最初に行われた。
陸軍特別攻撃隊①
陸軍参謀総長[ 梅津 美治郎 ]は「体当たりにより1機1艦、敵を必殺必滅する戦法に徹し敵の心肝を奪うる要あり」
と、陸軍各司令官に言い渡している。梅津は戦後の東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。
梅津 美治郎は関東軍司令官として満州国建国にも関わり、日本を戦争へ導いた立役者でもある。
昭和53年(1978)に靖国神社に合祀されている。

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▲アメリカ軍戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式の有名な写真、中央後ろ手姿の軍服の人物が梅津。

陸軍特別攻撃隊でまず初めに紹介するのは「陸軍海上挺進戦隊」
昭和20年1月フィリピン・ルソン島(リンガエン湾)に殺到した米軍に対し、特攻出撃した海上挺進第12戦隊は、米輸
送船撃沈、米駆逐艦撃破などの戦果を挙げたが、空からの特攻ばかりを意識していた米軍に対して、戦果を挙げたのは
最初に出撃した第12戦隊のみ。その後すぐに策を講じられ、「海上挺進戦隊」の海岸線秘匿陣地は壊滅状態となった。
フィリピンには約800名のマルレ特攻隊員が送り込まれたが、そのほとんどがフィリピンに向かう途中で輸送船ごと撃
沈されたり、無事フィリピンに到着してからも、艇を破壊されて島をさ迷い、敵弾や飢餓で戦死していった。

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▲▼昭和20年4月21日座間味島で撮影された陸軍海上挺進戦隊の「マルレ」特攻艇。または「肉薄攻撃艇」
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(※「マルレ」は「連絡艇」のレに○をつけて秘密記号としたものである)
陸軍海上挺進攻撃は、広島市(宇品)にあった船舶司令部と、大本営の陸軍船舶部が昭和19年4月末頃に考えたものだ。
隊の責任者である戦隊長は、陸士出身の大尉/少佐が選ばれた。第一次隊員は志望の有無を問われる事無く指名され、
昭和19年8月宇野港(玉野市)から輸送船で小豆島(土庄)にある船舶特別幹部候補生(略称「船舶特幹」)隊に配属され、
豊島で訓練を開始した。(兵舎があった東洋紡渕崎工場(土庄町)は今は更地で、特幹の別名「若潮部隊」の碑が残る)
第二次隊員は前橋/豊橋/久留米の予備士官学校から、歩兵などの兵科の10/11期の見習士官が昭和19年10月江田島
の幸ノ浦という村落につくられた第十教育隊に集められて訓練を開始した。
そして訓練を終えた隊員達は、5日間という限られた休暇を終えると、広島市の宇品に集結、各秘匿基地に配備された。
この内、先に紹介した第12戦隊はフィリピン(リンガエン湾)を防衛担当とし、サンフェルナンドに送られた。
日本(広島)から送られた16隊の海上挺進戦隊の内、無事フィリピンに到着出来たのは第12(戦隊長・高橋功大尉)/第
15(戦隊長・小串 修大尉)/第16(戦隊長・月井禎吉大尉)だけだった・・・。
それでも昭和19年12月には基地大隊(食事・治療・マルレ修理を担当)もフェルナンドに合流し、戦闘態勢を整えた。
昭和20年1月6日米大艦隊はリンガエン湾に侵入、艦砲射撃を開始。1月8日夜、19万人の米大部隊が上陸を開始する。
第12戦隊の高橋功大尉以下約90名の隊員は、40~70隻の「マルレ」で出撃。2名乗船の特攻艇もあったという。
第12戦隊の攻撃は1月9日05:00頃まで続けられ、LST-925/1028、LCI-974/365の4隻を撃沈、LST-610を
大破、駆逐艦ロビンソン、兵員輸送艦7隻に損害を与えている。
フィリピン/沖縄と決行された陸軍海上挺進戦隊の肉薄作戦での生き残りは僅か2名。進撃途中でエンジンが故障し、
漂流していたところをフィリピン人ゲリラに捕らえられた隊員2名だけだった。

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海軍の特攻艇「震洋」は艇首のハッチ内部に爆弾を搭載するのに対して、陸軍特攻艇「マルレ」は、艇尾に爆雷を2個搭
載する。したがって、海軍「震洋」は完全に自爆体当たり特攻艇であるが、陸軍「マルレ」は敵艦数十メートル以内に接
近して爆雷を投下後、反転退避する攻撃方法であった。「十死零生」の攻撃方法では無い事から、陸軍幹部の間では特攻
兵器では無い。と言う意見も未だにあるが、攻撃記録や戦況から見ても「マルレは特攻兵器では無い」と言っても何の説
得力も無い。

「陸軍特攻ボートマルレの実態」YouTube

以下からは陸軍特別攻撃隊(航空特攻)の記録。

「万朶隊」は昭和19年11月7日早朝初出撃、「富嶽隊」も11月7.13日出撃。第4航空軍は焦りから遠距離目標を指示。
無理な特攻隊運用で空振りに終わった。

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▲西尾常三郎少佐を隊長とする「富嶽隊」(ふがくたい)隊員。11/7四式重爆撃機『飛龍』に800キロ爆弾を2個装備。
フィリピン東方海域で特別攻撃を敢行、山本中尉機が未帰還。11/13隊長 西尾常三郎少佐(享年28歳)以下6名が
米機動部隊に突入して戦死している。18:00頃マニラ東方洋上の海域を飛行する「富嶽隊」に、約20機のグラマンが
来襲。西尾隊長機に攻撃を始めたが、西尾機は平然と針路を変えようともしなかった。西尾機は一瞬のうちに炎上爆発
した。その爆風は付近にいた敵機に傷害を与え、この間隙をついて他の1機が「敵艦発見、われ突入す」のモールス信号
を発進しながら敵艦に突入した。そして残った「富嶽隊」も年をまたいで順次出撃していった。
陸軍特別攻撃隊「富嶽隊」四式重爆撃機『飛龍』で昭和19年11月7日~昭和20年1月10日出撃
(ラモン湾東方洋上・クラーク東方400キロ・ミンダナオ北東・ミンドロ島南方・リンガエン湾に突入)

[11/7]山本達夫中尉/[11/7]浦田六郎軍曹/[11/13]西尾常三郎少佐/[11/13]柴田禎男少尉/[11/13]米津芳太郎少尉
[11/13]国重武夫准尉/[11/13]島村信夫曹長/[11/13]荘司楠一曹長/[11/15]幸保栄治曹長/[11/15]須永善次軍曹
[12/16]石川 廣中尉/[12/16]本谷友雄曹長/[12/16]古沢幸紀曹長/[12/16]丸山茂雄伍長/[1/10]曾我邦夫大尉
[1/10]進藤浩康大尉/[1/10]根木基夫大尉/[1/10]宇田富福伍長
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▲三菱 陸軍四式重爆撃機『飛龍』
 乗員8名(操縦席2名[機長/操縦士])両側に整備兵2名、後方は通信士/砲手等4名


陸軍特別攻撃隊「万朶隊」は昭和19年11月12、15、25日、12月20日99式双発軽爆撃機4機が次々に特攻出撃。
(レイテ湾・カロカン飛行場等に突入)敵艦船1隻撃沈、1隻に損傷をあたえ、隊員は帰らぬ人となった。

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▲出撃前純白シーツのかけられた別盃の席の「万朶隊」隊員、出撃前に無念の戦死を遂げた隊員の遺骨を胸に。
[ 万朶隊(ばんだたい)日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊 ]
▼岩本益臣大尉(福岡県出身)(隊長であったが特攻出撃前、出陣式でマニラに向う途中グラマン編隊に遭遇、戦死)

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東条の盟友であった富永恭次司令官は、ルソン島の大富豪の屋敷で部下の下卒を召使のごとく使役して美食と豪奢
な暮らしを楽しみながら、口に特攻をとなえ、自ら出陣式を華麗に演出し軍刀を振って出撃隊員を鼓舞激励した。
岩本大尉以下4名の出撃前の戦死は、いつ米軍の攻撃があってもおかしくないフィリピンで、悠長に華麗な出陣式
をする為に、最前線から富永恭次司令官の居所のルソン島にわざわざ特攻隊員を呼び集めるという非常識な命令が、
彼等5人の無駄死にを招いたのである。
岩本益臣大尉(福岡県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
園田芳巳中尉(佐賀県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
安藤浩中尉(京都府出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
川島孝中尉(神奈川県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
中川勝巳少尉(和歌山県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
以上5名昭和19年11月15日ニコラス上空にてマニラに空襲に来ていたグラマンF6F2機に襲撃され胴体着陸し炎上。
5人全員が非業の死を遂、出撃前に無念の戦死。
社本 忍軍曹(愛知出身)11/3(敵の爆撃負傷)
11/5リパ飛行場の空襲で隊員浜崎曹長・石渡軍曹が負傷、整備の藤原雇用員戦死 特攻機2機が破壊される

昭和19年11月12日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
1番機[操縦]田中逸夫曹長(福岡県出身)/[通信]生田留夫曹長(兵庫県出身)と「岩本大尉の霊/中川小尉の霊」
※敵輸送船に突入、直掩隊戦闘機「隼」渡辺伍長も同船に体当たり轟沈
2番機[操縦] 久保昌昭曹長(大分県出身)と「園田中尉の霊」
※2番機は戦艦の舷側すれすれで突入失敗、撃墜される
3番機[操縦]奥原英孝伍長(長野県出身)と「安藤中尉の霊」
※3番機奥原英孝伍長エンジン不調で引き返す
4番機[操縦]佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)と「川島中尉の霊」 爆撃失敗ミンダナオ島カガヤンに不時着避難
※4番機の佐々木友次伍長は「戦艦に突入」と報告されていたが誤報で、11/13ローカン基地に帰還。
[誘導]百式偵察機1機 [直掩隊]隼20機

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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機

昭和19年11月15日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
※発進直後敵機来襲 4番機着陸・3番機着陸・掩護戦闘機8機着陸し攻撃中止
1番機[操縦]石渡俊行軍曹(千葉県出身)と「安藤中尉の霊」
※1番機石渡俊行軍曹は未帰還
2番機[操縦]近藤行雄伍長(朝鮮出身)と「川島中尉の霊」
※2番機墜落確認
3番機[操縦]奥原英孝伍長(長野県出身)再出撃/[操縦]4番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再出撃
[誘導]百式偵察機1機(未帰還) [直掩隊]隼8機(第20戦隊)[ 隊長 ]大里大尉

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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機

昭和19年11月25日 ルソン島カローカン基地
出発直前に敵機来襲、敵機動部隊に先手を取られる。
特攻機が燃え、1番機[操縦]奥原英彦伍長(長野県出身)が爆撃にて戦死。
2番機[操縦]佐々木友次伍長(再々出撃予定だったが出撃出来ず)
[直掩隊]隼8機 作見一郎中尉以下出撃出来ず

昭和19年11月28日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
[操縦]1番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再々出撃。
※誘導の隊長機がレイテ湾直前で方向転換したので引き返す、直掩隊は再三出撃を命令される佐々木友次伍長に
同情的であり、「レイテ湾敵発見できず」と報告
[直掩隊]隼6機(飛行第20戦隊)

昭和19年12月4日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
[操縦]1番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再々々出撃
※敵艦を発見するも敵機コルセアに囲まれ、さらにP381個編隊現れ有川中尉空中戦後燃料漏れ着地、佐藤曹長が
行方不明。 佐々木友次伍長はネグロス島のバコロド飛行場に不時着してかろうじて命を繋いだ。
[直掩隊]隼2機 有川中尉/佐藤曹長

昭和19年12月4日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
佐々木友次伍長はバコロドからカローカンに移動後、またしても特攻出撃命令を受ける。
「鉄心隊」(99襲撃機)3機と共に出撃
「鉄心隊」松井中尉隊長(99襲撃機)3機(250キロ爆弾)
佐々木伍長の99式双発軽爆撃機(500キロ爆弾)の計4機で出撃。
佐々木伍長の99双軽は爆撃大型船を撃沈し、カガヤン飛行場に着陸。カローカン基地に帰還を命じられる。
※12/9佐々木伍長は99双軽爆撃機でカローカン基地に戻る途中、燃料不足で村落近傍に胴体着陸。
[直掩隊]隼9機

昭和19年12月14日(フィリピン)デルカルメン基地基地より 99式双発軽爆撃機と百式重爆撃機で出撃
菊水隊隊長 丸山義正大尉 第95戦隊第2中隊長(百式重爆)と共にまた出撃するも佐々木伍長は滑走路から飛び出
し出撃出来ず。(第95戦隊7機 5名と第74戦隊2機 7名)
その後も佐々木友次伍長は12/16 12/18にも特攻出撃命令を受けるも生き残り、終戦まで生きのびた。

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▲フィリピンの陸軍基地から出撃する「万朶隊」99式双発軽爆撃機の佐々木友次伍長機
昭和19年11月12日に特別攻撃隊「万朶隊」が大戦果を上げた事とし、大本営は発表していた。その為佐々木伍長は、
特攻軍神として戦死扱いになっていた。特攻を大本営に報告した後に戻ってきた隊員は、軍司令官の面汚しとして扱
われた。司令部では、面子を重んじて人命を軽く考えていた為、戦死報告の取り消しはできなかったと言う、最悪だ。
※上申取り消しできないのは天皇陛下に報告した事で、天皇陛下に嘘を言った事になると考えた為だと言う(呆)

昭和19年12月20日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃。
[操縦]鵜沢邦夫軍曹(千葉県出身)と「若桜隊」3機で出撃。鵜沢邦夫軍曹未帰還。
[直掩隊]隼1機

昭和20年1月8日 ルソン島カローカン基地大隊撤退 タヤバス山系内の陣地に立てこもり、
「万朶隊」生存者(整備)村崎少尉以下11名(整備)藤本曹長/雇員4名柴田/上野/野村/遠藤(負傷)
(特攻隊員)[通信]浜崎曹長(安藤中尉機)・[通信]花田博治伍長(川島中尉機)/[操縦]佐々木伍長/社本軍曹(負傷) 
攻撃隊長機に通信手が同乗し突入を基地に連絡していたが、もはや下士官だけになり、浜崎曹長が上級者となり[通信]
は乗らないと決める。操縦者は北部ルソンに集結エチアゲに行けと命令される。
※陸軍初の特攻隊となった「万朶隊」には初の朝鮮人特攻隊員 近藤行雄伍長が含まれていた。
※佐々木友次伍長(当時21歳)は北海道・当別の出身。子供の頃から飛行機に憧れ17歳で仙台の航空機養成所で操縦
 の腕を磨いた。岩本大尉を心から尊敬していたと言う。佐々木友次伍長は「万朶隊」特攻隊員の中で機体故障の途中
 帰投等で唯一生存、その後何度も軍から特攻出撃を命令されるもミンドロ島方面出撃でも生還を果たした。
 佐々木伍長は帰還後の再出撃の度に「体当たり攻撃の実行」を参謀から強く求められた。ある時佐々木伍長は
 「私は必中攻撃でなくてもいいと思います。そのかわりに死ぬまで何度も行って爆弾を命中させます」
 と返答したと言う。ルソン島で生きて終戦を迎え日本に帰還されている。

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▲陸軍99式双発軽爆撃機
「万朶隊」の99式双発急降下爆撃機は、機種に5メートルの起爆管を伸ばし800㌔の爆弾を抱いて時速400㌔で体
当たり攻撃をする事になっていた。陸軍は爆撃機を特攻用に改造していたが当時整備兵だった方がこう語っている。
「二番機担当となった我々は前日から、まずできるだけ機体を軽くする為に操縦装置と無線装置を残して爆撃装置、
射撃装置はむろん小さなものまで撤去することで、後方機関銃のボルトを外しながら、敵機と応戦もできない姿に
怒りがこみ上げで力が入らない」と。
▼特攻機に改造された99式双発軽爆撃機の機首には800㌔爆弾を確実に爆発させる為に、機首に何本もの細長い信管
 を突き出させ、これが見慣れた99式双発軽爆撃機の姿かと、その優美さを知る整備兵には異様さだけが感じられた。

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▼陸軍99式双発軽爆撃機
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陸軍特別攻撃隊「菊水特攻隊」100式重爆撃機「呑竜」9機で昭和19年12月14日デルカルメン基地より06:45出撃
(米軍のミンドロ島上陸作戦を阻止すべくネグロス島パナイ湾近海に突入、全機撃墜され戦果無し)
[ 飛行第95戦隊 7機 ][ 飛行第74戦隊 2機 ]

丸山義正大尉/井之内誠二郎大尉/谷 正春軍曹/不破次雄軍曹/安田末晴軍曹/泉川正宏伍長/中本政次郎伍長
宮崎 隆中尉/芦田岩夫曹長 /荘田 清曹長/椿  彰曹長/別所福一曹長/松下清馨曹長/田畑十蔵軍曹 /竹本義雄軍曹
森 三次中尉/藍原六弥少尉 /吉野右吉准尉/枝元辰馬曹長/加藤 只曹長/川之上要曹長/木平正平曹長/国広 望曹長
小林光五郎曹長/小林 忠曹長/千葉春雄曹長/登藤文六曹長/堂用 清曹長/戸田佐佳久曹長/中村 眞曹長(生還者)
河井 明軍曹/久保田勝美軍曹/久保田勝作軍曹/佐藤正夫軍曹/篠崎運秀軍曹/橘 利雄軍曹/富田好之軍曹
樋口長光軍曹/丸山多喜男軍曹/森 基親軍曹/矢代一平軍曹/吉永忠弘軍曹/渡辺政雄軍曹/足立正義伍長
阿部幸夫伍長/井出太蔵伍長/浜平輝親伍長/石井武夫軍曹 菊水特攻隊YouTUBE
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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」飛行第95戦隊
飛行第95戦隊・陸軍曹長中村真
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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」飛行第74戦隊

その後、陸軍中央は新たに編成した12隊の特攻隊に[ 八紘隊 ]と名付けフィリピンに投入。名前の由来は
「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。「評価の高い将官」今村 均陸軍大将参照
八紘隊は第4航空軍司令官冨永恭次中将によって八紘第2隊「一宇隊」/八紘第3隊「靖国隊」/八紘第4隊「護国隊」
八紘第5隊「鉄心隊」/八紘第6隊「石腸隊」/八紘第7隊「丹心隊」/八紘第8隊「勤皇隊」/八紘第9隊「一誠隊」
八紘第10隊「殉義隊」/八紘第11隊「皇魂隊」/八紘第12隊「進襲隊」と命名された。


(八紘第1隊「八紘隊」隊員12名 レイテ湾等に陸軍一式戦闘機「隼」で突入)
陸軍特別攻撃隊「八紘隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年11月27日~12月12日出撃
(レイテ湾・オルモック湾・バイバイ沖等に突入)

[11/27]田中秀志中尉/[11/27]藤井 信少尉/[11/27]森本秀郎少尉/[11/27]白石国光少尉/[11/27]道場七郎少尉
[11/27]馬場駿吉少尉/[11/27]善家善四郎少尉/[11/27]武内健一少尉/[11/27]寺田行二少尉/[11/27]細谷幸吉少尉
[12/7]粕川健一少尉/[12/12]作道喜三郎少尉
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▲昭和19年11月三重県の明野基地を二度と本土に戻る事の無いフィリピンに向け出撃前の八紘第1隊「八紘隊」隊員。
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▲八紘第1隊「八紘隊」後列右より白石国光少尉、細谷孝吉少尉、田中秀志中尉(隊長)森本秀郎少尉。
 前列中央は寺田行二少尉。

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▲八紘第1隊「八紘隊」出撃時に別れの杯を交わす隊員、左から道場七郎少尉/細谷孝吉少尉/森本秀郎少尉。

(八紘第2隊「一宇隊」隊員6名 隼戦闘機でスリガオ海峡等に突入)
陸軍特別攻撃隊「一宇隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年12月5日~12月13日出撃
(スリガオ海峡・オルモック湾・ミンダナオ海等に突入)

[12/5]天野三郎少尉/[12/5]大谷秋夫少尉/[12/5]愛敬 理少尉/[12/7]喜田川等少尉/[12/7]田中穣二少尉
[12/13]小野正義少尉
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▲▼昭和19年11/10常陸教導飛行師団で編成された「一宇隊」前列右より3人目隊長 栗原恭一中尉。
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▲昭和19年11/10前渡飛行場(水戸飛行場)をフィリピン目指して離陸する「一宇隊」の隼3型(手前 栗原隊長機)

(八紘第3隊「靖国隊」隊員10名 隼戦闘機でオルモック湾等に突入)
陸軍特別攻撃隊「靖国隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年11月24日~12月26日出撃
(レイテ湾・オルモック湾・ミンドロ島付近等に突入)

[11/24]岡村義人軍曹/[11/26]谷川昌弘少尉/[12/5]大坪 明少尉/[12/5]秦音次郎少尉/[12/5]河島鉄蔵伍長
[12/5]寺島忠正伍長/[12/5]石井一十四伍長/[12/5]松井秀雄伍長/[12/7]五十嵐四郎伍長/[12/26]出丸一男中尉
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▲昭和19年11/9第2錬成飛行隊(朝鮮・京城)より立川航空廠に向け離陸する「靖国隊」隊長出丸一男中尉機隼2型
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▲「靖国隊」出丸一男中尉。昭和19年12月26日一式戦「隼」で出撃、突入戦死。
(公式には特攻戦死とされた[靖国隊]隊長出丸一男中尉だが、実は不時着生還しているという話もある)

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▲出撃直前、「靖国隊」隊員に最後の敬礼をする整備兵。
出丸一男中尉/大坪明少尉/谷川昌弘少尉/秦音次郎少尉/岡村義人軍曹/河島鉄蔵伍長
石井一十四伍長/五十嵐四郎伍長/寺島忠正伍長 以上9名突入戦死。
松井秀雄伍長(印在雄)朝鮮開城出身/特攻に失敗し海に墜落した所を米軍に救助され捕虜となり、ハワイ
の海軍病院で治療を受けた後、終戦の翌年帰国を果たしているが、その後の消息は全くつかめていない。

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▲朝鮮軍司令部首脳との別れの杯
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▲フィリピン・シライ基地で、武運を祈る守り札を受ける「靖国隊」

(八紘第4隊「護国隊」隊員8名 隼戦闘機でオルモック湾等に突入)
陸軍特別攻撃隊「護国隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年12月7日~昭和20年1月10日出撃
(オルモック湾・ルソン島西海面等に突入)

[12/7]遠藤 栄中尉/[12/7]西村正英少尉/[12/7]宮田淳作少尉/[12/7]瀬川正俊少尉
[12/7]三上正久少尉/[12/7]牧野顕吉少尉/[12/7]黒石川茂伍長/[1/10]田辺茂雄伍長
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▲「護国隊」昭和19年12月7日一式戦闘機「隼」で出撃、8名戦死。
写真は鉾田陸軍飛行場(茨城県)で菊花の下、別れの杯を交わす「護国隊」隊員。

隊長 遠藤栄中尉(神奈川県出身)/西村正英少尉(大阪府出身)/富田淳作少尉/瀬川正俊少尉(大阪府出身)
三上正久少尉(滋賀県出身)/牧野顕吉少尉(富山県出身)/黒石川茂伍長(鹿児島県出身)/田辺茂雄伍長(東京都出身)
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▲昭和19年12/7フィリピンカローカン基地で「隼」8機で特別攻撃出撃する直前の「護国隊」隊員。

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▲12/5米駆逐艦マグフォード(USS Mugford)は、スリガオ海峡で「石腸隊」「鉄心隊」「万朶隊」「一宇隊」いず
れかの特攻機が命中。大きく損傷し乗組員8名死亡、負傷者14名の被害が出た。


(八紘第5隊「鉄心隊」隊員12名 99式襲撃機でミンドロ島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「鉄心隊」99式襲撃機で昭和19年12月5日~昭和20年1月6日出撃
(スルアン島付近・ミンドロ島付近・ルソン島西海面等に突入)

[12/5]松井 浩中尉/[12/5]西山敬次少尉/[12/5]長濱清少尉/[12/16]志村政夫少尉/[12/16]藤原義行少尉
[12/18]長尾熊夫曹長/河合郁夫
[12/29]三木将司少尉/[12/29]星一二郎少尉/[12/29]林利喜夫曹長/[1/6]岩本広智少尉/[1/6]小川武士軍曹
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▲「鉄心隊」隊長 松井浩中尉。福島県原町から汽車で茨城県鉾田へ移動。鉾田飛行場から99式襲撃機でフィリピン
 に向かう本土で最期の姿。昭和19年12月5日フィリピン島スルアンシマ洋上で特攻戦死。
※フィリピン・ルソン島マニラ飛行場に進出した「鉄心隊」は12/5松井中尉以下3機がスルアン島付近の敵艦に突入、
 12/16に志村少尉以下2機がミンドロ島付近に、12/18に長尾曹長の1機が、12/29に三木少尉以下3機がそれぞ
 れ同じ海域の敵艦船に。最後は昭和20年1月6日に岩広少尉以下2機がルソン島西方海上の敵に突入、全員散華。
▼昭和20年1月6日(ルソン島の戦い)米軽巡洋艦「コロンビア」に急降下突入し命中直前の「鉄心隊」99式襲撃機。

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▼上掲写真直後17時29分「コロンビア」に命中した瞬間の「鉄心隊」99式襲撃機。
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▼陸軍99式襲撃機
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▼「鉄心隊」長濱清少尉 レイテ湾沖スルアン島付近で敵艦に突入戦死。享年19歳
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八紘第6隊「石腸隊」隊員18名
陸軍特別攻撃隊「石腸隊」99式襲撃機で昭和19年12月5日~昭和20年1月8日出撃
(スリガオ海峡・サンホセ付近・ルソン島西海面・オルモック湾・サンフェルナンド沖等に突入)

[12/5]高石邦夫大尉(隊長)/[12/5]石原哲雄少尉/[12/5]大井隆夫少尉/[12/5]片岡正光少尉/[12/5]下柳田弘少尉
[12/5]山浦 豊少尉/[12/5]増田憲一少尉/[12/8]伊藤誓昌少尉/[12/12]井樋太郎少尉/[12/12]吉武 登志夫少尉
[12/22]安達 貢少尉/[1/5]細田吉夫中尉/[1/5]杉町研介少尉/[1/5]林 甲子郎少尉/[1/6]岡上直喜少尉
[1/8]鈴木敏治少尉/[1/8]時田芳造軍曹/[1/8]上野哲弥少尉
「石腸隊」18名の出撃は12/5第1次7機、12/8第2次1機、12/12第3次2機、12/22第4次1機、第5次3機
 第6次1機、1/8第7次3機の99式襲撃機がそれぞれ特攻出撃している。

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▲昭和19年12月4日出撃前夜の第1次「石腸隊」隊員達。
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▲「石腸隊」特別攻撃訓練中の写真。
高石隊長(手前後向)に敬礼する右より増田憲一少尉、片岡正光少尉、片岡正光少尉、安達貢少尉、伊藤誓昌少尉。
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▲陸軍99式襲撃機※画像の日本兵勇士は「石腸隊」隊員ではありません。陸軍飛行第44戦隊の99式軍偵察機
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▲昭和19年12/5フィリピンパコロド基地を出撃する第1次「石腸隊」99式襲撃機と、帽子を振って見送る基地隊員。
12/12第3次攻撃隊 吉武少尉はエンジン不調の為、遅れて出撃。
セブ島上空で敵グラマン戦闘機4機の襲撃を受けてエンジン停止、セブ島沖のマクタン島に不時着した。
吉武少尉は頭部裂傷、右半身打撲の負傷で、同島駐屯の友軍に収容されたが、頭部裂傷が化膿、悪化し、10日前後
寝たきりの状態が続く。12/29セブ島に海軍一式陸上攻撃機が不時着、同乗させてもらいネグロス島北端ファブリカ
に脱出、シライ第2飛行師団司令部に帰着。1/9ルソン島に転進命令を受け97式重爆にてルソン島ポーラックに帰還。
2/14操縦者だけがツゲガオから重爆で台湾に運ばれ、以後終戦となって日本に帰還された。
出撃した吉武少尉以外の「石腸隊」隊員は皆帰らぬ人となった。

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▲編成後笑顔で記念写真に収まる「石腸隊」隊員勇士。前列左より2人目は隊長の高石邦夫大尉。
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▲吉武 登志夫少尉が大切に保管していた「石腸隊」隊員の写真。
 左から上野 哲弥少尉/林 甲子郎少尉/岡上 直喜少尉/大井 隆夫少尉/吉武 登志夫少尉
1944年11月8日東京の陸軍銚子飛行場からの離陸前に撮影された写真。
▼昭和19年11月下志津基地からフィリピンに向けて99式襲撃機で出撃する「石腸隊」吉武少尉機他
 (昭和14年制式、古い固定脚の偵察機であった)
 昭和20年1月8日の第7次特攻では、残存機3機でルソン島のリンガエン湾に突入、全員戦死。
 しかしこの特攻攻撃の翌日、アメリカ軍はリンガエン湾上から上陸を開始した。

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▼戦後、当時の様子を語る吉武 登志夫少尉(よくご無事で帰還されましたご苦労様でした。)
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※陸軍特攻隊の生みの親とも言える、第四航空司令官・富永中将は、「この富永も最後の一機で行く決心である」
 と刀を振り上げて言って置きながら、1/8第7次特攻の行われる前日1/7夕刻、車でマニラを去り300キロ離れた
 エチアゲに移動。エチアゲを16日離陸天候不良の為ツゲガラオに戻り翌17日台北に敵前逃亡した。
 この行動はフィリピン14方面軍の失望を招き、到着地の台湾第17方面軍及び本締の南方総軍から叱責されて
 2/13隷下の指揮下部隊は転属、航空軍司令部は解消させられた。陸の三馬鹿参照
 司令部の大部分は10日エチアゲ着。戦況不利とみるや部下を捨てて台湾へ遁走するという暴挙に出た。


八紘第7隊「丹心隊」隊員9名
陸軍特別攻撃隊「丹心隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月10日~12月17日出撃
(バイバイ沖・レイテ湾・ミンドロ島付近等に突入)

[12/10]石田国夫中尉/ [12/10]石村政敏少尉/[12/10]梅原 彰少尉/[12/10]大石 栄少尉/[12/10]佐々田真三郎少尉
[12/10]永塚孝三少尉/ [12/10]岡 二男少尉/[12/12]加治木文男少尉/[12/17]斉藤行雄少尉
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▲三重県の明野飛行場に到着した、真新しい「隼」戦闘機3型に見入る「丹心隊」隊員。
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▲昭和19年11月29日「丹心隊」隊員と「忠魂」塔(明野陸軍飛行学校にて)「忠魂」塔は現在再建されています。
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▲忠魂の塔で参拝を終えた「丹心隊」隊員達。
前列左より齋藤行雄少尉、 岡二男少尉、石村正敏少尉、佐々田真三郎少尉、梅原彰少尉
後列左より丸山少尉、大石栄少尉、小野少尉、石田国夫中尉、永塚孝三少尉、加治木文男少尉
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▲特別攻撃出撃前に服装を正す「丹心隊」隊員。
隊長 石田国夫中尉(千葉県出身)/石村正敏少尉(山口県出身)/梅原彰少尉(静岡県出身)/大石栄少尉(京都府出身)
佐々田真三郎中尉(東京都出身)/永塚孝三少尉(京都府出身)/岡二男少尉(東京都出身)/齋藤行雄少尉(長崎県出身)
加治木文男少尉(鹿児島県出身)/※今田廣美少尉(S19.11/24B-29迎撃戦死,特攻作戦に加われず)
▼昭和19年11月29日壮途を祝福して乾杯をする「丹心隊」隊員。
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▼昭和19年11月29日戦友の見送りを受け最後の本土三重県明野を離陸する石田隊長機
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▼11/29「丹心隊」のフィリピン進出を明野で最後の姿を見送る家族。
 右から丸山少尉父/梅原少尉父/丸山少尉母/石村少尉父/石村少尉妹/石村少尉母/石村少尉妹

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▼カローカン基地で別れの杯を交わす石田隊長他「丹心隊」隊員。
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(八紘第8隊「勤皇隊」隊員13名 二式複座戦闘機・屠龍でオルモック湾・レイテ湾に突入)
陸軍特別攻撃隊「勤皇隊」二式複座戦闘機・屠龍で昭和19年12月7日~12月10日出撃

[12/7]山本卓美中尉/[12/7]二瓶秀典少尉/[12/7]東直次郎少尉/[12/7]林 長守伍長/[12/7]入江真澄伍長
[12/7]大村秀一伍長/[12/7]片野 茂伍長/[12/7]白石二郎伍長/[12/7]増田良次伍長/[12/7]勝又 満伍長
[12/10]湯沢 豊曹長/[12/10]北井正之佐軍曹/[12/10]加藤和三郎伍長
※陸軍は複座であっても海軍と違い操縦士のみで出撃させたが、隊長の山本中尉機は林長守伍長(朝鮮出身)が同乗
した。山本中尉は通信員を内地に帰らせるつもりだったが、林伍長は自分から進んで山本隊長機に同乗を申し出た
と言う。山本中尉の人柄に惹かれて、彼は隊長機の複座の戦闘機に乗り込んだ。
「勤皇隊」出撃数時間後、山本隊長機から師団無線室に敵艦への突入を知らせる「ピーッ」という信号が入った。
林伍長が発信した電波だった・・・。

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▲自ら考案したマーク入り尾翼の前に立つ「勤皇隊」隊長 山本卓美中尉
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 山本中尉は同隊の林長守伍長(朝鮮出身)に対し、帰国し飛行学校の教官になる事を何度も説得
 したそうだが、林伍長は「私のたった1度の反抗ですその様な命令は聴く事が出来ません」と
 言い残し、突入戦死。後に「半島の神鷲」と讃えられた。
 
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▲大村秀一伍長(勤皇隊最年少19歳)12/7の戦果は、米駆逐艦マハン小破。
山本卓美中尉/二瓶秀典少尉/東直次郎少尉/林長守伍長(朝鮮出身)/入江真澄伍長
片野茂伍長/白石二郎伍長/増田良次伍長/勝又満伍長/大村秀一伍長(勤皇隊最年少19歳)
12/7フィリピン・マルコットよりオルモック湾(レイテ島東海岸)以上10名突入戦死。
12/10湯沢豊曹長/北井正之佐軍曹/加藤和三郎伍長の3名がフィリピン・マルコットよりレイテ湾突入戦死。

[ NHK戦争証言アーカイブス[特攻勤皇隊]
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」 二式複座戦闘機"屠龍"YouTube

(八紘第9隊「一誠隊」隊員10名 「隼」戦闘機でルソン島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「一誠隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月21日~昭和20年1月9日出撃
(キュウヨウ島付近・レイテ湾・ミンドロ島付近・リンガエン湾等に突入)

[12/21]相川清司少尉/[1/4]都留 洋中尉/[1/4]石川誠司少尉/[1/5]大河原良之少尉/[1/5]伊藤 進少尉
[1/8]大原文雄少尉/[1/8]川野孝雄少尉/[1/8]山本正直少尉/[1/9]白井秀夫少尉/[1/9]石橋嘉郎少尉
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▲昭和19年11月明野教導飛行師団にて編成後に記念写真に収まる「一誠隊」隊員。
前列左より大原文雄少尉/大河原良之少 尉/都留洋中尉(隊長)/臼井秀夫少尉/石川識司少尉/山本正直少尉
相沢文雄少尉。後列左より新藤龍己少尉/伊藤進少尉/相川清司少尉/石橋嘉邦少尉/川 野孝雄少尉と隼3型。


(八紘第10隊「殉義隊」隊員9名 「隼」戦闘機でサンホセ海域の敵艦船群に突入戦死)
陸軍特別攻撃隊「殉義隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月21日~昭和20年1月7日出撃
(ミンドロ島付近・リンガエン湾等に突入)

[12/21]敦賀真二中尉/ [12/21]日野二郎少尉/ [12/21]若杉是俊少尉/[12/21]山崎武夫軍曹/ [12/21]門倉好也伍長
[12/22]樋野三男雄少尉/[12/22]林 与次伍長/[12/29]高宮芳司伍長/[1/7]東  宏少尉
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▲特別攻撃出撃前に遙か皇居に遙拝する「殉義隊」隊員。[隊長]敦賀真二中尉(徳島県出身享年21歳)
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▲「殉義隊」隼のカラーリング。※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」

(八紘第11隊「皇魂隊」隊員9名 二式複座戦闘機「屠龍」でルソン島北部・ラオアグ・リンガエン湾に突入)
陸軍特別攻撃隊「皇魂隊」二式複座戦闘機「屠龍」で昭和19年12月25日~昭和20年1月10日出撃

[12/25]門口燁夫少尉/[12/25]渡辺 力軍曹/[1/4]利光勝義伍長/[1/ ]小平 昭伍長
[1/6]春日元喜軍曹/[1/8]三浦恭一中尉/[1/8]倉知政勝曹長/[1/8]寺田増生伍長/[1/10]入江千之助伍長
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▲「皇魂隊」隊員の遺墨
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▲S.19.11/29フィリピン進出を前に鉾田教導飛行師団にて「屠龍」を背に記念写真に収 まる「皇魂隊」隊員。
 隊長の三浦 恭一中尉(中央)

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▲陸軍二式複座戦闘機・屠龍

(八紘第12隊「進襲隊」隊員9名 99式襲撃機でミンドロ島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「進襲隊」99式襲撃機で昭和19年12月30日~昭和20年1月8日出撃
(ミンドロ島付近・ルソン島西海面等に突入)

[12/30]久木元延秀少尉/[12/30]大石 豊少尉/[12/30]沢田源二准尉/[12/30]天地孝志軍曹/[12/30]向瀬忠勇軍曹
[1/4]小林直行軍曹/[1/5]庄村覚太郎軍曹/[1/8]小串金作准尉/[1/8]新浜新吉軍曹
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▲別れの杯を交わす「進襲隊」隊員。
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▲陸軍99式襲撃機
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▲「進襲隊」久木元延秀少尉と99式襲撃機(昭和19年12月30日フイリピン・ミンドロ島サンホセ沖にて特攻戦死)
▼昭和20年1月5日(ルソン島の戦い)重巡洋艦ルイビルに海軍神風「第18金剛隊」か「進襲隊」の特攻機突入の瞬間。

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昭和19年12月20日 第30戦闘飛行集団の隷下部隊から陸軍特別攻撃隊「第1精華隊」を編成。
四式戦闘機「疾風」でクラーク基地より出撃。
(ミンドロ島サンホセ沖敵上陸船団へ突入戦死)村山光一軍曹/久永軍曹/三浦軍曹
昭和20年1月5日、第30戦闘飛行集団長の命令で、戦闘機隊は全機特攻作戦に移行した。
第1、11、71~73、200戦隊の四式戦装備隊は混成で「精華隊」を編成、1月12日まで、リンガエン湾に上陸した船
団を目標に、2機ずつの編隊を組み(内1機は戦果確認機)、250㌔爆弾2個を翼下に装備し出撃した。

(昭和20年1月5日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」4機で出撃、ルソン西方海上に突入)
梶原 広満大尉/荒井 幸雄伍長/他1名、計3名突入戦死。


(昭和20年1月7日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」2機で出撃、ルソン西方海上に突入)
川原 安民少尉/

 
(昭和20年1月8日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」4機で出撃、ルソン西方海上に突入)
三隅 輝男少佐/他2名、計3名突入戦死。

 
昭和20年1月10日
第30戦闘飛行集団操縦者を主とする生存者47名は潜水艦などにより台湾へ脱出。
地上勤務者の殆どは臨時歩兵第25大隊に編入され地上戦闘にて戦死(30戦隊長三隅輝男少佐1/8空中戦で戦死)
岡田中尉以下の生存操縦者6名と、2機の可動機はバンバン飛行場に移動し津崎72戦隊長の指揮下に入る。

(昭和20年1月11日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)林 正信少尉
(昭和20年1月12日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)池内貞男少尉
(昭和20年1月13日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)吉田 修少尉
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▲米護衛空母サラマウア(USS Salamaua)
1/13、08:50頃250キロ爆弾2発を積んだ陸軍特攻「精華隊」の特攻機がサラマウアの飛行甲板に突入、サラマウ
アは大破する。80名以上負傷し15名が死亡。損害は飛行甲板、格納庫と広範囲に及び、その下部では火災が発生した。
爆弾の1発は不発となったが、右舷の喫水線部分に穴を開けた。艦は動力、通信および操舵不能となった。
機関室の1つは氾濫し、右舷機関は停止した。大きな損害を受けながらも砲手は9:10に2機の特攻機を撃墜した。 
(昭和20年1月15日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)
島本 準彦少尉/五島 司少尉
(昭和20年1月18日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)田中了一伍長
(※在フィリピン陸軍航空部隊最後の特攻出撃)フィリピン陸軍特攻作戦:突入機148機/未帰還機170機/自爆24機


その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた。陸軍はフィリピンでの捷一号作戦だけで約
210機を特攻に投入した。陸軍特別攻撃隊では他に「若櫻隊」や「旭光隊」、沖縄戦に投入された「振武隊」等があり、
「震天特別制空隊」(B-29へ体当たり攻撃隊)も編成されS20.1/9.27や5月の東京空襲で屠龍で迎撃に出撃した。
昭和20年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う。
沖縄戦では、第6航空軍所属の各振武隊と第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。


沖縄戦においての陸軍特別攻撃隊の最初の特攻は石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどう ようきゅう)大尉。
(陸軍第8飛行士団誠第17飛行隊隊長)
昭和20年3月26日04:00伊舎堂用久大尉率いる誠第17飛行隊(99式襲撃機)10機により遂行された。
出撃基地は、石垣島の陸軍白保飛行場からであった。

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▲上列右から3人目の方が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市出身)、慶良間洋上散華 享年24歳
『指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る、千尋(ちひろ)の海に散るぞ楽しき』という辞世の句を残して戦死した。
※石垣島から出撃し、特攻戦死した陸軍特攻隊員は下記の通り。(階級は2階級特進後)
(誠第17飛行隊) 99式襲撃機 慶良間洋上散華

伊舎堂用久中佐(沖縄県出身24歳)/川瀬 嘉紀大尉(三重県出身24歳)/芝崎 茂大尉(埼玉県出身24歳)
黒田 釋少尉(愛媛県出身21歳)/安原 正文大尉(高知県出身24歳)/久保 源次郎大尉(千葉県出身23歳)
有馬 達郎少尉(鹿児島県出身17歳)/林 至寛少尉(東京都出身17歳)
(独立飛行第23中隊) 三式戦闘機「飛燕」 那覇西方洋上散華
阿部 久作大尉(北海道出身29歳)/須賀 義榮少尉(千葉県出身23歳)/長野 光宏少尉(東京都出身21歳)
金井 勇少尉(富山県出身21歳)/岩本光守少尉朝鮮名不詳(朝鮮出身20歳)/廣瀬秀夫少尉(香川県出身19歳)
(飛行第17戦隊)
平井 俊光少佐(岡山県出身21歳)/児子 国高大尉(岡山県出身21歳)/西尾 卓三大尉(東京都出身25歳)
国谷 弘潤大尉(富山県出身21歳)/勝又 敬大尉(愛知県出身24歳)/照崎 善久少尉(大阪府出身21歳)
西川 福治少尉(兵庫県出身21歳)
(飛行第105戦隊)
長谷川 斎大尉(愛知県出身23歳)/山元 正巳少尉(鹿児島県出身19歳)/永田 一雄少尉(鹿児島県出身20歳)
石田  勝少尉(岐阜県出身20歳)/小川 多透少尉(福岡県出身20歳)/丸林 仙治少尉(岡山県出身19歳)
内藤 善次少佐(東京都出身22歳)
(飛行第19戦隊)
根本 敏雄大尉(千葉県出身22歳)/倉澤 和孝大尉(長野県出身22歳)/栗田 常雄少尉(静岡県出身22歳)
合計31名


当時満州国の首都だった新京では陸軍特別攻撃隊4隊が編成された。
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」(ぶようたい)15名[ 隊長 山本 薫中尉 ](徳島県出身)99式襲撃機
陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」(ぶこくたい)15名[ 隊長 広森達郎中尉 ](三重県出身)99式襲撃機
陸軍誠第41飛行隊「扶揺隊」(ふようたい)15名[ 隊長 寺山欽造大尉 ]97式戦闘機
そして1式戦闘機「隼」装備の「蒼龍隊」15名である。
四隊共、第8飛行師団で昭和20年2月11日旧満州の新京飛行場に於いて特攻隊の命名式が行われている。
沖縄戦で万世や知覧から出撃した振武隊は多くの記録が残っているが、特攻出撃記録も残っておらず、全く知られてい
ない特攻隊は数多くある。陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」は昭和20年2月10日、満州(新京)で編成され、5個編隊15機
で平壌→大刀洗飛行場→宇佐飛行場→各務原飛行場と移動し、2月20日に長野県松本へ移動。
陸軍松本飛行場で特攻機用の改修が行なわれた様だ。「武剋隊」隊員の内6人は浅間温泉に滞在した。
陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」(99式襲撃機)昭和20年3月27日9名が沖縄読谷村の陸軍中飛行場より出撃。
[隊長]広守達郎中尉/清宗孝己少尉/小林一満少尉/今西修軍曹/今野勝郎軍曹/島田貫三軍曹
出戸栄吉軍曹/伊福孝軍曹/大平定雄伍長
▼浅間温泉目之湯旅館又は富貴之湯に滞在中に撮影。「武揚隊」か「武剋隊」勇士(お名前不明)

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「武剋隊」と「武揚隊」隊員は、特攻機爆装改修期間が延びた事もあり、約1か月淺間温泉目之湯旅館に滞在した。
ここには世田谷下馬の駒繋国民学校や東大原国民学校の学童が疎開しており、全て女児だったという。
夕刻になると広森達郎隊長がやってきては歌ったり、踊ったりしたとの事。彼等は疎開学童の女児を可愛く思い、思慕
の念を抱いていた。それが募り募って『淺間温泉望郷の歌』となり今日に伝えられている。
昭和20年3/18・20日午前6時、隊長以下全隊員が揃った。どの機内にも東京世田谷下馬駒繋国民学校の児童達から、
「兵隊さん、私たちの代わりに、いつもお守りに持っていってください」と送られてきていた人形が飾られてあった。
武剋隊6機の先発隊が松本を出発したのは3/18各務原飛行場(岐阜県)経由で新田原飛行場(宮崎県)に向かった様だ。
残りの9機も20日松本を離陸している。最終的に「武剋隊」「武揚隊」2隊は、八塊基地(台湾)、新田原、知覧、沖縄
から特攻出撃する事になる。記録では「武剋隊」9機は3/25に米軍の激しい艦砲射撃の中、沖縄の中飛行場に到着。
整備・給油の後、台湾へ向かう予定が急遽変更され、昭和20年3月27日05:30沖縄周辺の米艦船に向けて突入戦死と
記録されている。この「武剋隊」広森隊長以下9機は八塊基地(台湾)へ向かう予定だった。
しかし第32軍兼第6航空軍兼第8飛行師団参謀「神直道」(後に中佐)は、このまま台湾に行かせた方が良いか、あるい
は、ここ(沖縄中飛行場)から出撃するにしても、特攻隊の増加を待ち、一緒に攻撃させた方が効果は大きいのではない
か、否、今夜、明日中にも飛行場は艦砲射撃を受け離陸する事は困難になるのではないか等々、迷いに迷ったあげく、
27日攻撃(特攻出撃)する様に下令した。命令文に「特攻すべし」とどうしても書けず「必沈すべし」と記したと言う。 
下令直後、航空参謀 神直道は隊員の顔を正視する事が出来ず、僅かだが離れた場所に立ち、涙を見せぬ様に飲み込み
ながら彼らを見守ったと言う。隊長広森達郎中尉の操縦時間はおよそ250時間前後。他の隊員も同様、まだ爆弾を積ん
で飛行した事も無かったと言う。重装備の離陸滑走、直後の上昇、第1旋回の注意等を出撃前に教わったと言う。
(※因みに現代の旅客機の話ではあるが日本航空パイロットの場合、コーパイ[副操縦士]で3000時間その後機長として
1000時間(約2年)飛んだら一人前とされている世界で、飛行時間250時間とは飛行場を離陸し、周りを一周して着陸出
来る程度の技量だと考えられる。)当然、艦船の攻撃部位、突入角度等全く教育を受けていない状態での出撃だった。
出撃前夜沖縄県読谷村比謝川畔の飛行場大隊入浴場で入浴を済ませた広森隊長以下9名は、比謝川沿い久得橋近くの飛
行戦隊兵舎内へ壮行会に向かった。その席上、広森隊長は部下隊員に対して以下の言葉をかけた。
「いよいよ明朝は特攻をかける。皆いつものように俺についてきてくれ。だがひとつだけ約束してくれ。今度生まれ変
わったら、たとえ蛆虫(うじむし)に生まれ変わってきても国を愛する忠誠心だけは失わないようにしよう」と。

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▲別れの杯を交わす誠第32飛行隊「武剋隊」隊長 広森達郎中尉(中飛行場より99式襲撃機で出撃、3/27突入戦死)
何のためらいも無く国家の為に身を捨てようとする至誠と気魄に、その場に居合わせた人達は臓腑をえぐられる思いで、
隊員達の顔を正視する事が出来ず、皆唇をかみ、涙を密かに拭ったと言う。
昭和20年3月27日午前5時30分。晴天の明け方に砂塵をあげて9機の武剋隊が沖縄本島中飛行場を飛び立った。
250㌔爆弾を抱えた陸軍99式襲撃機は3機づつの編隊を組んで飛行、慶良間北東の方向へ飛んで行った。
首里山上では軍司令官も見守った。編隊は西海岸を超低空で矢のように飛んで行く。くっきりと日の丸が見える。
天翔ける神々だ。頭が下がる。やがて敵の対空砲かが始まった。1機が被弾して海中に墜落、他の8機は目指す戦艦に突
入した。火災と共に黒煙が天に沖し、煙が薄らぐと5つの艦影は海に没し去った。「必沈」命令を成し遂げたのである。
一瞬の静寂、低いうめき声にも似た嘆声が起こったが、それは広森隊長以下9名の戦死を意味する事でもあった。

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▲3/27慶良間列島を哨戒中の米中型揚陸艦が沖縄陸軍飛行場から飛び立った特攻機の突入を受ける。
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▲▼特攻機の突入をうけた米中型揚陸艦LSM(R)-188
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▲特攻機の突入部分。満載だったロケット弾が艦内で爆発しなかったのが米軍にとっては幸いだった。
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▲3/27米戦艦ネバダ(USS Nevada)に誠第32飛行隊「武剋隊」か「赤心隊」の特攻機が突入。
 乗組員11人が死亡、主砲塔に被害を受けた。ネバダは日米開戦の真珠湾攻撃で海軍機に小破された艦だ。

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▲ネバダに特攻した搭乗員の遺体を調べる米兵。甲板に遺骸が飛び散り胴体だけが残っている・・・。
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▲特攻隊員の所持品から出てきた「日の丸」の寄せ書きか・・・?血だらけの様に見える・・・言葉がない。
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▲特攻機の突入で戦死したネバダ乗組員。
松本を出発した「武剋隊」先発隊の6機は、昭和20年4月3日新田原基地(宮崎県)より特攻出撃している。
小林 勇少尉/結城尚弼少尉/時枝 宏軍曹/古屋五郎伍長/佐藤 正伍長/佐藤英実伍長


なお、陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」3機は昭和20年5月13日16:32台湾(八塊)より出撃。台湾日本軍航空基地参照。
誠第31飛行隊「武揚隊」隊員

山本 薫中尉(徳島県出身享年23歳)/五十嵐 栄少尉(山形県出身享年24歳)/柄澤 甲子夫伍長(長野県出身享年21歳)
以上3名は、昭和20年5月13日(台湾)陸軍八塊基地より出撃.。突入戦死。
高畑 保雄少尉(大阪府出身享年22歳)/五来 末義軍曹(茨城県出身享年19歳)
以上2名は、昭和20年5月17日戦死。
長谷部 良平伍長(岐阜県出身享年18歳) 
長谷部伍長は誠隊から「第31振武隊」に転属、昭和20年4月22日14:40知覧から特攻出撃、突入戦死。
藤井 清美少尉(京都府出身享年24歳) 昭和20年7月19日
飯沼 芳雄伍長(長野県出身享年19歳) 昭和20年7月19日特攻出撃するも戦果確認できず戦死扱い。
長谷川 信少尉(福島県出身享年22歳)/西尾 勇助軍曹(千葉県出身享年20歳)/海老根 重信伍長(茨城県出身享年19歳)
以上3名は、昭和20年4月12日台湾へ前進中与那国島で敵機に撃墜され戦死。
中村 欽男少尉(生還)/力石 文夫少尉(生還)/吉原 香軍曹(生還)/春田 政昭兵長(不明)
誠第31飛行隊「武揚隊」は、(満州)新京→(朝鮮)平壌→(朝鮮)大邱(たいきゅう)→大刀洗飛行場→各務原→松本
そして爆装改修を終え、松本→各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→杭州(筧橋)→台湾「八塊」とい
う特攻の為の長旅であった。松本を離陸したのは全部で15機であったが、長途の旅でほとんどを失い、たった3機が台
湾に辿り着いた。しかし、彼等は誇りを失わない。めげることなく三次にわたって特攻を敢行している。

昭和20年3月28日には陸軍誠第41飛行隊「扶揺隊」が97式戦闘機で沖縄陸軍北飛行場から出撃している。

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▲陸軍誠第41飛行隊15名(4名が沖縄戦で突入戦死。その中のお1人大河正明伍長は本名、朴東勲(朝鮮出身)
 昭和20年3月28日突入戦死の4名→高祖 一少尉/大河正明伍長/小川真一軍曹/堀口政則軍曹
誠第41飛行隊は97式戦闘機15機からなり、旧満州の第2航空軍で編成された。当初は石垣島に前進する予定だったが、
米軍の沖縄上陸が迫った為、急遽沖縄本島に前進しそこから特攻攻撃をかけることになった。
3/27に知覧を14機で出撃したが、機体の故障で次々に脱落して沖縄(北飛行場)には8機が到着した(1機中飛行場へ)
3/28早朝、出撃離陸時に米艦隊の艦砲射撃と空襲を受け5機が離陸不能となる。
辛うじて4機が離陸に成功、目の前の米艦隊に突入した。戦果は中型艦3隻轟沈、炎上1隻と報じられが、この日米艦隊
損害記録は報告されていない。
飛行機を失った5名の特攻隊員は内地帰還を命じられ沖縄北部山岳地帯を彷徨し、5月末北端の奥集落にたどり着いた。
※この中に3/29知覧を出撃した飛行65戦隊の今村貞夫軍曹もいた。沖縄上空で大型輸送船に命中を確認した直後米軍
 機と交戦、1機を撃墜するも被弾して沖縄本島の北飛行場に不時着していた。
そこで住民に刳舟を出してもらい6/1与論島に到着。その後独混64旅団差し向けの大発に乗って6/16徳之島に到着。
徳之島で彼らは「沖縄戦」のさ中、大本営に航空攻撃の支援を嘆願しに行く、沖縄第32軍航空参謀の神直道中佐と同軍
航空班の藤田忠雄曹長の一行に会い、寺山大尉は神参謀に同行を願い出でて操縦を任された。
6/11徳之島飛行場から1機の99式襲撃機が飛び立った。操縦は誠第41飛行隊長寺山欽造大尉。後席に神直道中佐と藤
田忠雄曹長が乗っていた。大尉を除く2名が九州佐世保に帰還したのは7月に入ってからで、古仁屋からの海軍水上機に
乗ってであった。そして再度出撃の機会は無く終戦を迎えている。(寺山大尉/塩谷伍長/上村軍曹/菊田軍曹/金田伍長)
一方で無事に九州に着いた神参謀は鹿屋の海軍第5航空艦隊、福岡の陸軍第6航空軍、更には東京の陸軍航空総軍司令部
に航空総攻撃を要請したが、その願いは容れられなかった。
この神参謀らの本土帰還が、確認出来る陸軍機の最後の徳之島飛行場使用となった。

沖縄戦に参加した各振武隊は→「富屋食堂と知覧特攻平和会館」「万世特攻平和祈念館」参照。
また飛行第62戦隊の重爆撃機「さくら弾機」による特攻も行われた。このうち、第6航空軍司令官は菅原道大中将が
務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から四式肉薄攻撃艇(マルレ)を装備した陸軍海上挺
進戦隊による水上特攻も行われた。陸軍空挺部隊の特攻作戦は「義烈空挺隊」と「薫空挺隊」が有名です。

[義烈空挺隊]とは沖縄戦期間中の昭和20年(1945)5月24日沖縄の陸軍北・中飛行場の強行着陸と破壊を目標とした
[義号作戦]に用いられた空挺部隊である。(「薫空挺隊」は台湾(烏來)参照)
昭和19年サイパン陥落後、米軍はサイパンにB29の基地を設けて東京を空襲した。この米軍基地に対し、強行着陸
して飛行機を破壊し、搭乗員を殺傷する目的で昭和19年12月上旬第1挺進団(パラシュート部隊)から選抜した空挺特
攻隊が編成され、「義烈空挺隊」と称された。「義烈空挺隊」とは、第1挺進団第1挺進連隊第4中隊の選抜要員+陸
軍中野学校諜報要員+第3独立飛行隊から編成された部隊の名称である。
しかしサイパン突入作戦は中止、次いで硫黄島作戦も中止となった。そして5/24沖縄攻撃作戦(義号作戦)において、
北(読谷)飛行場・中(嘉手納)飛行場への強行着陸(特攻)に投入された。

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▲「義烈空挺隊」奥山隊 隊長 奥山道郎大尉(26才)以下136名
第3独立飛行隊 隊長 諏訪部忠一大尉(26才)以下32名 陸軍97式重爆撃機2型 12機
▼奥山隊は豊岡で丸太とトタンで造った実物大模型のB-29やスクラップの日本軍機を使用して爆破訓練を重ねた。

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昭和20年1月13日「義烈空挺隊」は浜松基地に移駐。17日には軍装検査(出撃直前に行われる装備品等の点検)
を終了してサイパンへの出撃待機態勢をとったが、この頃には燃料補給の中継基地である硫黄島が米軍の攻撃
で使用が困難となり、1/27にサイパン攻撃中止が指令された。
奥山隊は再度宮崎県唐瀬原に戻り、実爆を行う厳しい訓練を続けた。 2/19米軍が硫黄島に上陸。
この時再度「義烈空挺隊」の投入が計画され、3/8頃に唐瀬原から茨城県西筑波飛行場に移動となった。
奥山大尉は航空軍司令部へ出頭のため上京したが、この時に3月10日の「東京大空襲」に遭遇している。 
3/17硫黄島の栗林中将が最期の突撃を敢行して硫黄島は米軍の手に落ち、3/21の硫黄島攻撃も中止になった。
奥山隊は再度宮崎県唐瀬原へ、第3独立飛行隊は浜松基地へ戻った。 米軍の侵攻は沖縄へと向けられた。
2度の作戦中止命令を受けた隊員達は、自ら「義烈空挺隊」をもじって 「愚劣食い放題」 と称して自嘲した。
特攻作戦が決まってから義烈空挺隊員は特別食(特攻食)を与えられていたが2度目の中止後普通食に戻った。

沖縄読谷村渡具知、比謝河口付近で資材を揚陸する米軍(1945年4月撮影)
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▲4/1米軍6万人が上陸、即日進撃し、10キロ先の陸軍北飛行場と中飛行場を占拠。 日本軍は沖縄守備兵力10万人
 では太刀打ち出来ないと判断。沖縄島内で持久戦に持ち込もうと残存機を爆破処分、飛行場を放棄した。
 (▼画像は陸軍北[読谷]飛行場で米軍に撤去される「飛燕」の残骸)

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4/1沖縄本島へ上陸した米軍は北飛行場・中飛行場を制圧した。4/13の偵察の結果では既に150機の敵機が配備
されているのが確認された。この間、陸・海軍共に多くの艦船攻撃機や特攻機を出撃させたが、特攻機の命中率
は極めて低かった。これは敵レーダーに捕捉され、北・中飛行場米軍機に邀撃されているのが原因と推察された。

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▲沖縄県読谷村にあった陸軍北飛行場(読谷飛行場)昭和20年4月米軍撮影。
そこで台頭したのが両飛行場制圧の為に「義烈空挺隊」の投入であった。
5/2「義烈空挺隊」はそれまでの航空総軍から第6航空軍司へ編入された。5/3奥山大尉は第6航空軍司令部から
出頭を命ぜられ、そこで北・中飛行場制圧の為「義烈空挺隊」を投入する考えがあることを伝えられた。
この作戦を「義号作戦」と称した。 当初「義号作戦」の日本軍航空戦力は下記の通り。


(陸軍)「義烈空挺隊」奥山隊 五個小隊(136名)/[第三独立飛行隊]97式重爆撃機12機(32名)
    飛行場攻撃部隊→第六航空軍4式重爆撃機12機 特攻機100機/第五航空軍9式双発軽爆撃機10機
(海軍)戦闘機12機/爆撃機12機/艦船攻撃部隊→雷撃機30機/特攻機80機/桜花10機


「義烈空挺隊」「第三独立飛行隊」以外は、空挺隊突入を援護する目的に編成された。しかし5/23に九州東南
海域において敵空母群を発見。海軍部隊はこの敵に対し攻撃目標を変更した為、沖縄本島から本土決戦に目を移
していた大本営からも「義号作戦」の決裁が下りない。
もはや勝算無しとした沖縄戦に精鋭部隊である「義烈空挺隊」を投入することを躊躇したものと思われる。
だが第6航空軍は強く実施を求め、ついに大本営は5/18「義号作戦」の認可に踏み切った。
当初、第6航空軍司令は、敵情の如何に係わらず5/22の出撃を決定したが5/21の天候判断により5/23に延期さ
れた。5/23、17:00格納庫前に集合、軍装検査・軍司令官の激励の辞があり、乾杯・万歳三唱が行われた。

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▲搭乗機の前で整列する「義烈空挺」隊員達。
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▲出撃にあたりそれぞれの故郷の方向に頭を下げる「義烈空挺隊」隊員。
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▲熊本県健軍飛行場三角兵舎前で、軍服に迷彩を施す義烈空挺隊員。
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▲奥山隊長を中心に義烈空挺隊整列。最前列にはアンテナ用のポールを携えた無線班らが並ぶ。
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▲集合、整列した「義烈空挺隊」隊員。手前の隊員が胸に提げているのは帯状爆薬などを収納する雑嚢。
中央隊員が抱える吸盤付き黒い円筒は「吸着爆雷」。竹竿の束は吸着爆雷の柄。他破甲爆雷のケースを腰に装着

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▲軍装検査をする菅原道大中将
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▲陸軍特攻作戦の司令官として、出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原道大中将。
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▲「われに手榴弾あり。ひたすら任務に邁進、斃るゝもなほ已まず」などと隊員に語った菅原道大中将
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▲義烈空挺隊勇士。軍服や装具の各所にポケットが増設されている。
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▲義烈空挺隊勇士
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▲義烈空挺隊勇士の後ろ姿・・・。
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▲奥山道郎隊長と諏訪諏訪部忠一編隊長
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▲5/23軍装検査後に申告、菅原道大中将より激励の辞を受ける奥山隊。中央指揮官が奥山大尉
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熊本県健軍飛行場にて、最後の宴
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ところが沖縄の天候が悪く、海軍から菊水第7号攻撃を1日延期する旨の電話が入った。
陸軍は既に出発していた重爆隊の反転を命じて作戦は翌日に延期された。
5/24天候良好との報告があり、昨日と同様に重爆12機が先行して沖縄の飛行場を爆撃、ついに「義烈空挺隊」
に出撃命令が下された。5/24、18:00義烈空挺隊の陸軍97式重爆撃機11機は熊本県健軍飛行場滑走路の東
端に向かったが1機だけ始動出来なかった。 この為1機の搭乗予定だった隊員は急遽予備機に乗り換えた。
そして昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」12機は熊本県健軍飛行場から次々と出撃していった。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず海軍は敵機動部隊発見の報が入った12:40に既に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は出撃した後だった。「義烈空挺隊」の犠牲は本命の航空特攻を成功させる為のものだったはず。
陸軍と海軍の歯車は太平洋戦争の最初から最後まで噛みあわないままだった。
「義烈空挺隊」突入に際して陸軍第6航空軍は120機の特攻機を準備。しかし「義烈空挺隊」突入後、沖縄周辺
は雨が降り、天候不良で離陸できたのは70機であり、その内「突入」と報告されたのは24機であった。
米軍側の記録では特攻機の突入は13機。12隻の艦艇に命中したとの記録が残されている。
「義烈空挺隊」突入後の戦果拡大は出来ず、「尻切れトンボ」の作戦となって終わってしまった。

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▲▼陸軍97式重爆撃機
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▲搭乗直前に握手を交わす奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)
※この写真は出撃当日、取材カメラマンからあらかじめ航空機の横で握手をするように依頼されていた。ところが一度
握手をしたものの、カメラマンとのタイミングが合わず、要望により再度握手をしたときの写真である。
奥山大尉が「千両役者は忙しいなぁ」と発言して握手した瞬間で、諏訪部大尉他周囲の隊員からも笑みがこぼれている。

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▲▼続々と爆撃機に搭乗していく隊員達。
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▼そして出撃、1番機の中から笑顔で手を振る奥山隊長。
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▼12機の97式重爆撃機は米軍のレーダー探知を避ける為、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指した。
 (画像は飛行訓練中の第3独立飛行隊諏訪部隊機。海上30メートルという超低空で訓練するので、
 波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸した時、鴎の死骸が入っていることも度々だったという)

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作戦経路上「義烈空挺隊」は企図秘匿の為、変針時・本島到着・突入の3回のみ無線を使用する事になっていたが、
変針時・本島到着時の予定時刻になっても無線は入電しなかった。
熊本県の健軍作戦室は重苦しい雰囲気に包まれた。 そして22:00の突入予定時刻になっても無線の入電はない。
だが、22:11突然に「オクオクオクツイタツイタツイタ」の無線がスピーカーから流れた。(健軍と知覧で傍受)
22:25戦果確認の為同行した飛行第110戦隊草刈機が 「諏訪部隊着陸成功」と 報告。
22:45通信所敵信傍受班は、米軍の「北飛行場異変有り」「在空機は着陸するな」等の無線を傍受、それから米軍
は続けざまに異変の報を流し続けた。 
同行した状況視察任務の重爆は、着陸を意味する赤信号灯が北飛行場で4個、中飛行場で2個確認したと報告した。
(以下米軍側の記録)
5/24日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)嘉手納(中飛行場)の爆撃に成功した。
第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり23:30頃伊江島方向から低空で進入してきた。高射中隊がこれを要撃、
飛行場付近で4機を撃墜したが、最後の1機が読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して胴体着陸に成功した。
少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機破壊炎上26機に損害
を与え、更に7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。調査によれば、胴体着陸
機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。他の突入機4機にはそれぞれ14名
の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見された。
したがって確認されたのは合計69名である。翌日1名の日本兵が残波岬において射殺された。
(合計70名となり日本軍側の記録と一致するが沖縄へ突入した義烈空挺隊、8機112名の中に生還者はいない)

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▲北飛行場(読谷)付近を占領している米軍の凄まじい対空砲火(昭和20年4月28日米軍撮影)
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▲日本軍が爆撃機で散布したアルミ箔を拾い集める米兵(米軍のレーダー探知機を狂わす為の物)
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▲撃墜された「義烈空挺隊」を乗せた97式重爆撃機。
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▲▼撃墜された「義烈空挺隊」を乗せた97式重爆撃機。辺りに黒焦げの日本兵が散乱している。
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▲▼北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆撃機9番機「6546」(機体尾翼に下3桁がマーキングされていた)
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▲北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆(546機体は渡部大尉らが乗り換えた予備機だった)
(6546)9番機搭乗員 第3小隊長渡部大尉/操縦担当 久野中尉、荒谷少尉/航法,通信担当 酒井少尉、簑島曹長
第3小隊第1分隊長 山城准尉/池島曹長/井上曹長/山本曹長/佐藤軍曹/岡本伍長/加藤伍長/田中伍長/村瀬伍長
▼北東から進入して滑走し、最終的に南東向きで停止した。手前に日本兵の遺体が確認できる。

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▼沖縄戦で米軍が撮影した北飛行場の空撮。黒線が546機強行着陸進路・赤点が隊員の遺体散乱場所。
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▼北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。
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▼前面。強行着陸時、米兵は透けた機首に向かって銃撃し、パイロットが射殺されたと言う。
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▼機首をこじ開け、パイロットの生死を確認する米兵達。
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▲▼翌日、北飛行場に胴体着陸した義烈空挺隊機を調べる米兵。着地の衝撃で左翼側のエンジンがもぎ取られている
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▲撤去される546機
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▲着陸を試みて失敗し、北飛行場のはずれで墜落した義烈空挺隊機7番機「6156」。機は斜面の端にあったサーチライ
ト管制施設を破壊した。手前には、墜落火災で黒焦げになった日本兵の死体が写っている。

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▲北飛行場はずれにあるサーチライト管制施設の残骸。7番機が着陸失敗した際に激突した。墜落後辺りには多くの日
 本兵の死体が散乱し、その内の1つが左奥の地面にある。
 
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▲撃墜された義烈空挺隊機7番機「6156」機体から放り出された日本兵の遺体が確認出来る
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▲▼北飛行場滑走路付近に墜落した97式重爆。激しい火災が起きたのであろう、黒焦げの日本兵が確認できる。
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▼撃墜された義烈空挺隊機。米兵が放出された日本兵の遺体を見ている。
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▼義烈空挺隊員の決死の爆破で破壊された米軍機の数々。
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米軍の記録によれば5月24日、日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)嘉手納(中飛行場)
の爆撃に成功した。第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり、23:30頃伊江島方向から低空で進入してきた。
高射中隊がこれを要撃、飛行場付近で4機を撃墜したが、最後の1機が、読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して、
胴体着陸に成功した。少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機を
破壊炎上、26機に損害を与え、更に7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。
戦闘後の調査では、胴体着陸機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。
他の突入機4機には、それぞれ14名の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見されたとある。

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確認されたのは合計69名で、翌日1名の日本兵が残波岬において射殺されている。
したがって合計70名となり日本軍側の記録と一致する。(中飛行場に関してのは記述は無い)

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だとすれば、たった8名の義烈空挺隊員がこれだけの米軍機や施設を破壊した事になる。訓練を重ねてきた精鋭部隊と
はいえ、訓練の成果を本番の戦場でいかんなく発揮した事に只々驚くばかりである。

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▲義烈空挺隊員によって破壊された米軍哨戒爆撃機
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▲義烈空挺隊員によって破壊された米軍戦闘機
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▲義烈空挺隊員が破壊した米軍機。機体向こう側で多くの米兵が散乱する日本兵の遺体を見ている。
 この場所に日本兵の遺体が集中している。

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▲義烈空挺隊員が破壊した米軍輸送機
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▲▼義烈空挺隊員が破壊した米軍機の数々・・・546機のたった数名の義烈空挺隊員の戦果である事に驚く。
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▼強行着陸突入後、米軍機を爆破し散華した義烈空挺隊員。
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▼▲散華し、散乱した義烈空挺隊員の遺体を見る米兵。
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▼▲散華した義烈空挺隊員の遺体を眺める米兵。奥に写る山は座喜味城祉である。
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写真の米軍資料の説明文は以下の通り。
向こう見ずな作戦--輸送機を改造した日本軍の爆撃機は読谷飛行場に夜襲をかけ、10数名の特攻兵を突入させた。
彼らは手榴弾、擲弾筒(てきだんとう)機関銃で武装し、殺される前に数機の米軍機を破壊した。
日本軍の兵員輸送機はこの他に、少なくとも10機が飛行場にたどり着く前に撃墜された。
そのうち6機は第2海兵航空団の夜間戦闘機に、残りは対空砲により撃墜された。
日本語訳では上記の様に書いてある・・・。


[ 沖縄第32軍八原高級参謀の記録より ]
「特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍
の戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ。五月二十四日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、
軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場ではなく、
小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遙か北、中飛行場の方向にあたって、火の手の揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して感動を久しくした。
連夜に亘る特攻隊の突入、「ドロドロ」の轟音、そして空挺隊の降下は軍司令部将兵はもちろん正面二十キロの戦夜
で死闘中の兵士一人一人に、戦うのは我々のみではないとの感懐を深く心に抱かしめたのである」 と・・・。
※小禄飛行場とは昭和8年竣工の海軍小禄飛行場の事で沖縄初の飛行場だった。民間使用時は那覇飛行場と言った。


「義烈空挺隊」12機の中、目標である沖縄に達することが出来ずにエンジントラブルや航路ミス(5,8,10,11番機)
で4機が帰還、不時着している。1機(10番機)は何とか九州へ辿り着き、 隅之庄陸軍飛行場附近へ不時着したが、他
の3機は飛行場以外の場所に不時着した。1機は熊本県八代市郊外を流れる川への着水を試みた(11番機)が橋脚に激
突して炎上。操縦していた水上清孝曹長が殉職している。
1機は敵艦船の対空砲火で被弾して引き返し、福岡県大牟田市付近の海岸に、1機は熊本県三角の畠にそれぞれ不時着
している。エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機の搭乗員7名に沖縄への物資投下任務が命じられたの
は、不時着から4日後。そして5/28、6/3沖縄に向け再度出撃。二度と還ってくることはなかった。
奥山隊長等70名が散華した「義号作戦」終了後にも義烈空挺隊員7名が戦死していた事になる。

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義烈空挺隊 前編YouTube 義烈空挺隊 後編YouTube
[ 軍司令官菅原道大中将の戦後 ]
戦後、「義烈空挺隊」の生き残りの方々が菅原を糾弾する為、宅を訪れた。しかし、その宅は畳の一枚もないお粗末
過ぎる廃屋当然の家であった。生き残りの面々は当初の目的を忘れ、唖然として帰っていった。
そのボロ小屋で菅原一家5人は必死で生活をしていた。戦前より俸給は殉職した部下の家族等に送っていた為、無一
文に近い菅原家は困窮に喘ぐ。そのうち長男道紀が中支(中国戦線)で煩ったマラリアで病床に伏した。
長男の道紀は母の手を握り「私が死ぬと御両親は少しは肩身が広げられますね」と言ったのが最期の言葉となった。
どうあれ「決してお前たちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はお前達の後を追う」と語りながら、終戦の日に、
「閣下(菅原道大)一機の特攻機の準備が出来ました」と部下が伝えると、じろりと見据えた菅原は「今日から奉公の
先が違う」とヌケヌケと答え、特攻も自決もせず95歳まで生き、人生を全うしている。

義烈空挺隊YouTube
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▲趣味で模型を制作されている方が居る。素晴らしい出来で製作を依頼したが多忙との事で引き受けて頂けなかった
 が、製作者のブログには他沢山の素晴らしい完成品が紹介されている。日の丸ヒコーキ製作工房
※義烈空挺隊が出撃した健軍飛行場(熊本県)は、戦後熊本空港として長らく使用されたが、昭和46年に役目を終え、
 現在は高遊原に移転し、現在の熊本空港となっている。

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▲終戦後の陸軍健軍飛行場に残る三式戦闘機「飛燕」(昭和20年10月15日撮影)


[ 司偵振武隊 ]
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▲特攻に使用された一〇〇式司令部偵察機の尾翼に描かれたドクロ
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蓆田飛行場(現福岡空港)より「司偵振武隊」(一〇〇式司令部偵察機)の特攻機が500キロ爆弾を装備して出撃。
昭和20年4月7日竹中隆雄中尉/吉原重発軍曹 1機が嘉手納沖に突入戦死。
昭和20年4月12日東田一男少尉/中沢忠彦軍曹 1機が沖縄周辺洋上突入戦死。
昭和20年5月14日古山 弘少尉/山路 実少尉 /熱田稔夫軍曹 2機が沖縄東方洋上突入戦死。

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▲5/14 08:55 陸軍蓆田飛行場から出撃する500キロ爆弾を抱いた「司偵振武隊」古山弘少尉搭乗機。
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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機(昭和19年美保海軍航空基地で撮影)

[ 南西方面の特別攻撃隊 ]インドネシア(バンドン飛行場やスラバヤ飛行場など)
東部スラバヤ、西部ジャカルタ方面への英機動部隊来襲を控え、昭和20年5月に編成された特別攻撃隊は3隊。
「七生皇盾第2飛行隊」昭和20年1月29日97式重爆撃機10機出撃。
「第71中隊」昭和20年3月1日99式軍偵察機1機が出撃。
「神翔攻撃隊」昭和20年4月11日99式軍偵察機で出撃。座間重信中尉/杉山達作少尉 ニコバル諸島沖で突入戦死。
「七生神雷隊」昭和20年6月25日四式重爆撃機で出撃。バリクパパン沖で突入戦死。

中島 要少佐/吉谷正之大尉/新道定信大尉/山中領一郎中尉/前間久重少尉/前田正八准尉/山打一雄准尉
加藤清八郎曹長/谷 義美曹長/田中公福曹長/中村雅治曹長/馬場重男曹長/細江源之助曹長/真仲康四曹長
内倉龍三軍曹/大栗清一郎軍曹/加藤与一軍曹/河村銀之軍曹/立原幹一軍曹/高田政三軍曹/根本禎二軍曹

「七生昭道隊」昭和20年7月26日アロルスター飛行場より99式陸軍偵察機で出撃。プケット沖で突入戦死。
徳永勇夫曹長/山本玄治曹長/大村俊郎伍長
陸軍第3教育飛行隊で編成された「七生昭道隊」はマレー タイピン~アロルスター飛行場から特攻出撃。
護衛空母に軽微な損傷を負わせ、イギリス海軍機雷掃海艦ヴェステルに1機命中した(ヴェステルは火災後処分)
昭和20年7月26日 東南アジアへの攻撃作戦に参加中のイギリス海軍の重巡洋艦「サセックス」 (HMS Sussex96)
に「七生昭道隊」99式高等練習機(偵察機)と見られる特攻機が突入。鋼鉄の艦側面に激突した。損傷は少なく、9月に
はシンガポール再占領に参加している。

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▲▼サセックスの左舷にクッキリと残った 99式高等練習機突入の跡。爆弾は不発だったのだろうか・・・生々しい。
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▼重巡洋艦「サセックス」 (HMS Sussex96)
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▼「七生昭道隊」 99式高等練習機のカラーリング ※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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「七生昭武隊」昭和20年7月28日99式軍偵察機で出撃。スワ砲台沖で突入戦死。
中村安雄少尉

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▲ジャワ島バンドン飛行場の七生昭武隊。前列右より2人目の中村安雄少尉は、7/28僚機と共に日本船団を護衛中、
 スワ砲台付近で敵潜水艦を発見、爆撃に失敗、その後体当たりを敢行した。(搭乗機は97式戦闘機か99式軍偵察機)

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▲「七生昭武隊」99式軍偵察機のカラーリング ※画像製作「たまみち(@tamamichi8749)様」
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▲陸軍99式軍偵察機(出撃機は恐らく99式襲撃機として特攻仕様に改造されていたであろう)
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▲日本国内には現存しない99式高等練習機は、タイ王国立空軍博物館(ROYAL THAI AIR FORCE MUSEUM)タイ空軍
 博物館に現存機が保存されている。(画像は戦跡の歩き方よりお借りしています)


▼「震天制空隊」二式複戦「屠龍」飛行第53戦隊「震天隊」に属した「屠龍」垂直尾翼には第53戦隊の部隊マークを。
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日本本土に空襲に来るB-29迎撃の為、機体もろともB-29に体当たり攻撃を仕掛ける「震天制空隊」も編成された。
昭和19年(1944)11月7日第10航空師団は隷下の各飛行戦隊に対し、各戦隊に4機の特別攻撃隊(主に戦闘機)で
体当たりしB-29を撃墜する空対空特攻隊の編成を下令した。防衛総司令部総司令官・東久邇宮稔彦王陸軍大将に
よって「震天制空隊」と命名された。

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▲▼機体側面には震天隊所属を意味する「鏑矢」(かぶらや)を描いている。
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「震天制空隊」が他の特別攻撃隊との決定的な違いは、敵機(B-29)に衝突後に操縦者が機体より脱出し落下傘降下、
あるいは偶然操縦席より放り出される形で結果的に脱出、ないし損傷した乗機を操縦着陸させ、搭乗員が生還する
事が必ずしも不可能ではなかった点だ。
そもそも戦闘機操縦者、特に当時の日本機でB-29の高度まで飛行できる操縦者は貴重な人材であった為(技量不足
の操縦者が高空飛行に失敗して高度を落とす事はしばしばあった)、むしろ生還する事が求められていた。
この為、「震天制空隊」は他の特攻隊の様な「十死零生」ではない事だ。
中には、飛行第244戦隊震天制空隊「はがくれ隊」所属の板垣政雄伍長/中野松美伍長の様に2度の体当たりを敢行
し2度とも生還したという例もあった。

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逆に戦果をあげる事ができず「技量不足」とみなされた操縦者が、通常の特攻隊に左遷される場合もあったという。
しかし、使用する機体の大半は使い古しの中古機で、他の特攻機同様軽量化の為、機関砲・防弾鋼板・無線機も撤去
され、高空での機体性能を少しでも向上させた「無抵抗機」と呼ばれる機体が用いられた。
戦果は第10飛行師団昭和19年11月~12月末日(師団参謀山本茂男少佐)でB-29撃墜確実16機、搭乗員戦死10名。

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▲S19,11/7はがくれ隊(後の震天制空隊)編成。左から隊長四宮徹中尉/板垣政雄伍長/吉田竹雄軍曹/阿部 正伍長
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▲S20,2震天隊最終メンバー左から隊長佐々木少尉/中野伍長/頼田少尉/板垣軍曹。後ろに写る戦闘機は「飛燕」
この写真に写る隊長 佐々木鐵雄少尉は後にS20,6/6陸軍特別攻撃隊・第160振武隊員として沖縄へ出撃、突入戦死。
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第6航空軍参謀「倉澤清忠少佐」によると、当時陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願
によって戦闘する「特攻部隊」に区別されたと言う。決号作戦(本土決戦)の為に航空機を温存する為、また、操縦
が容易な機体である97式戦闘機といった旧式機や99式高等練習機などの練習機も特攻に投入されたが、 同時に三式
戦闘機「飛燕」や四式戦「疾風」といった主力戦闘機も多数特攻に投入されている。
知覧特攻平和会館の記事でご紹介した沖縄戦に参加した「振武隊」の多くが、一式戦闘機「隼」や97式戦闘機といっ
た旧式機が多いのは、「戦闘部隊」では無く「特攻部隊」に区別されていたからである。
特攻出撃した部隊に三式戦闘機「飛燕」や四式戦「疾風」といった主力戦闘機で特攻出撃した部隊があるが、飛行第
244戦隊から選抜された「振武隊」が多い。
飛行○○戦隊というのは「戦闘部隊」で、多くは「飛燕」や「疾風」などの陸軍主力戦闘機が与えられた。


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▲昭和20年7月14日岩手県釜石沖に戦艦インディアナ、戦艦マサチューセッツ、重巡洋艦クインシーなどが現れ砲撃。
終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍の指揮下で各神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側に
配備され、終戦間際の昭和20年(1945)8月9日には第255神鷲隊(岩手陸軍飛行場より釜石沖に出撃)が特攻出撃。
8/9夕刻、神鷲隊255隊の99式双発軽爆撃機3機が500kg爆弾を装備し、岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)を出撃基地
として、吉村公男中尉(22歳)/渡辺秀男少尉(22歳)/石井 博伍長(19歳)が特攻出撃。
出撃した3機の内、1機はエンジンの不調で進撃を断念、爆弾を北上川の中洲に投下して、後藤野飛行場に無事帰還。
進撃した2機は洋上の敵空母機動部隊を発見出来ずに追跡を断念、帰還途中1機は仙台湾に、1機は福島県原町に墜落
して、無念の戦死を遂げたと言う。
更に、終戦2日前の13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)第398
神鷲隊(相模より下田沖に出撃)の3隊が出撃している。
[ 第201神鷲特別攻撃隊 ] 昭和20年8月13日二式双発爆撃機6機で出撃
2機が米艦隊に突入、3機が目標未確認の為帰還。1機帰還途中不時着。
小川満中尉(香川県出身)/横山善次少尉(茨城県出身)/藤田重喜伍長(北海道出身)

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▲昭和20年8月13日出撃前、見送りを受ける小川満中尉(左)と藤田重喜伍長(中)。藤田伍長は通信員として同乗、
この2時間30分後、犬吠埼東方洋上で「小川編隊ただいま突入」の無電を発信、散華した。終戦2日前の事であった

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▲8/13出撃準備の整った第201神鷲特別攻撃隊(二式双発爆撃機)両主翼に250キロ爆弾を各1発を懸吊した。
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▲8/13那須飛行場で出陣式に臨む第201神鷲特別攻撃隊隊員。中央は隊長の小池辰男中尉。
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▲8/13出撃前、隊員に最終指示を伝達する小池辰男中尉(手前)。右は出撃を見送る第26飛行師団長高品明少将。
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▲昭和20年8月13日二式双戦の操縦席で最後の記念写真、第201神鷲特別攻撃隊の小川満中尉。
 この2日後、終戦(敗戦)をむかえる事になる祖国を予想していたのだろうか・・・・。

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▲陸軍二式双戦(二式複座戦闘機)
※那須野 陸軍飛行場は、昭和13年~3年の歳月をかけて完成した面積約280ヘクタールの飛行場。
熊谷及び、宇都宮陸軍飛行学校那須野教育隊として、下士官・特別操縦見習士官・少年飛行兵等の操縦学生が猛訓練を
繰り返し、卒業後は次々と第一戦へ配属されていった。
戦況熾烈となった昭和20年4月茨城県より鉾田教導飛行士団が移駐して実戦部隊となり、双襲双軽爆撃機による特攻機
の訓練基地として「神鷲隊」12隊が編成される。内2隊は終戦直前、岩手及び鹿島東方洋上に特攻散華せられた。


※現在、岩手陸軍飛行場(後藤野飛行場)跡地は当時の痕跡は何も残されていない。
昭和13年9月25日竣工の岩手陸軍飛行場は、陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた複葉
練習機が飛び交っていた。昭和19年に本土が空襲を受ける様になると俄かに実戦基地化され、陸軍特別攻撃隊「神鷲隊」
が移駐し短期間の訓練の末各地に配属されていった。
昭和20年8月9日米軍艦載機により空襲を受けて飛行場の施設が破壊され、隣接する民家にも爆弾が投下された。
終戦後飛行場の役目が終った後藤野は、国から払い下げを受け開拓団が入植して農地に生まれ変わり、さらにその一角
には工場が誘致され工業団地となって発展した。

陸軍特別攻撃隊 昭和20年 配給 日本映画社YouYube


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
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 2016_02_07




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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