ロタ島

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ロタ島は1521年マゼランの一行より発見され、スペイン統治領土とされた。マリアナ郡島(マリアナ諸島)という呼び
名はスペインの女王マリ・アンにちなむもの。米西戦争で敗れたスペインはグアム島を米国に譲渡。1899年ロタ島
テニアン島を含む北マリアナ諸島の支配権を450万ドルでドイツに売却した。
その後第1次世界大戦でドイツが敗れ、宣戦していた日本は、ドイツ領南洋諸島全体を占領。
大正3年(1914)北マリアナ諸島をその支配下においた。
大正9年(1920)に国際連盟委任統治領として正式な日本領土となり、敗戦までの約40年間日本が統治した島である。
昭和10年(1935)南洋興発製糖工場が完成したが、生産効率がままならず工場は3年余りで操業停止に追い込まれた。
グアム島北方40kmに位置するロタ島は、昭和19年初頭までは何の軍事施設も無く、サイパンから海軍の見張員6名
が派遣されていただけであった。昭和19年3月マリアナ諸島防備強化の為、陸海軍部隊が進出。
数度に渡る配備変更の後、独立混成第10連隊歩兵第1大隊(大隊長 徳永明大尉)を主力とする陸軍約1031名を教育総
監部派遣教官から今川茂雄少佐が守備隊長として指揮し、海軍第56警備隊派遣隊・341空・265空派遣隊・設営隊等
2005名を、昭和19年6月19日マリアナ沖海戦に参加し、グアム基地に帰還中、米軍F6F戦闘機に追跡され、ロタ島
不時着した艦上爆撃機「彗星」の搭乗員 阿部善次大尉が海軍部隊の指揮官となり 同年10月海軍少佐に昇進。
ロタ島海軍部隊指揮官としてロタ島の守備に就いた。(阿部機不時着時の偵察員は中島米吉少尉)
米軍はサイパン島攻略後、ロタ島を飛び越えてテニアン島・グアム島に上陸した為、ロタ島に米軍が上陸したのは日本
が無条件降伏してからであった。なので、米軍が上陸したマリアナ郡島激戦地の様な地上戦は無かったとはいえ、空爆
や艦砲射撃は熾烈だったと言う。激しい空爆や艦砲射撃の中で陸海軍合わせて236名の日本兵が戦死している。
▼ロタ島空襲を終え、帰還する米戦闘機(奥にロタ島が写っている)
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敵中に孤立したロタ島守備隊は、連日の様に米軍の空襲を受けながらも、自給自足を続けながら必死に日本本土空襲に
向かうB-29爆撃機の機数・方位を無線で日本本土(東京)に警告する役目を担った。
昭和20年(1945)9月2日米軍の駆逐艦が投錨。午前11時ロタ島で現地部隊の降伏調印式と武装解除が行われた。
9月4日海軍将兵1853名/陸軍将兵947名が武装解除の上、ロタ島を離れグアム島米国海兵隊捕虜収容所に軟禁された
後(指揮官や幹部のみか、全員かどうかは不明)昭和21年(1946)11月帰国した。
戦後ロタ島はアメリカの信託統治領を経て、1978年以降アメリカの自治領となり現在に至っている。
地上戦が無かった為、島ごと丸焼けにならなかった事もあり、原生林や自然が多く残り、マリアナ諸島で唯一、飲用に
適した「湧き水」の豊富(石灰粉が少々キツイ)なマリアナ諸島最後の楽園「ロタ島」に行ってきた。

※海軍部隊の指揮官としてロタ島を守備した阿部善次大尉(山口県出身)は帰国後、航空自衛隊1佐として英語教育隊の
 隊長を勤める。戦後ハワイを訪れ、生き残りの米国元軍人らと友好を深めた。
 日本側の宣戦布告が遅れた事を知ったのは戦後数年が経ってからだった様で 「何故最後通告が遅れたのかを第三国
 を通じてでも謝らなかったのかというのが非常に悔しい。軍人として対等に戦いたかった、準備も出来なかった米軍
 兵士は悔しかったに違いない。」と言う言葉を残している。2007年4月6日死去 享年90歳
 阿部善次大尉は「ハワイ真珠湾攻撃」で第二次攻撃隊の中隊長だった人である。
 戦後「勝ち抜くための条件・艦爆隊長の戦訓新装版」という本も出版されている。是非読んでみたいと思う。
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※阿部善郎は彼のペンネーム。昭和21年11月26日復員。戦後は航空自衛隊一等空佐。
報道大河スペシャル『歴史の罠 そして真珠湾』YouTubeで生前の姿を見る事が出来る。
 
グアム→サイパン→ロタ島の順でロタ国際空港に到着した。グアム→サイパン55分 サイパン→ロタ島30分
今回の旅はロタ島がメインだった事もあり、まずはロタのホテルにチェックインし、次の日、ローカル便でロタ➡サイ
パン➡テニアンに向かった。スターマリアナズエアーのサイパン➡テニアン便セスナが2011年11月墜落事故を起こし
て以降、サイパン➡ロタ便の日帰りツアーは現在催行されていない。
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▼現在の空港は日本軍が建設途中だったものを米軍が拡張整備したものだと聞いた。
 戦時中は第341海軍航空隊[紫電]/第263海軍航空隊[ゼロ戦]/第521海軍航空隊[銀河]の配備予定があった
 又は配備されていた?様で基地地上員も含め総員2005名の海軍部隊が駐屯していたと言う(内152名戦死)
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▼入国を済ませロタ国際空港を出るといきなり目に飛び込んできたのは日本海軍の兵器と航空機のエンジンだった。
 空港駐車場脇にアツタ二一型エンジン1機がプロペラが付いた状態で、天山の火星二五型1機、零戦の栄二一型3機が
 展示(放置?)されている。以前は零戦の機体部分の残骸も置かれていたと聞いていたが現在は無かった。
 戦後ロタ島を訪れた阿部善朗氏の証言によると、マリアナ沖海戦時の1944年6月19日空母「隼鷹」を発進した艦上
 爆撃機「彗星」(阿部善次大尉/中島米吉少尉)が1時間近くF6Fに追跡され、かろうじてロタ島に不時着した機体の物
 であると言う。(プロペラ付アツタ二一型エンジンの事)
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ロタリゾートホテル入り口から空港に向かって車で少し走った右手ジャングルにゼロ戦が放置されていると聞いた。
当時海軍が建設していたとされる飛行場(現ロタ国際空港)がどの程度完成していて、飛行場周辺がどの様になっていた
かなど、詳細が全く解らないとの事で、そのゼロ戦が被弾して不時着した物なのか配備されていて空爆にあい使い物に
ならなくなったのか等、詳細は解らない。再訪して是非そのゼロ戦を見たいと考えている。プロペラが無かったと聞い
たので、画像の空港に展示されているどれかかもしれない・・・。どなたか案内して頂ける方、ご一報下さい。
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昭和19年6月15日ヤップ島を出撃した「第二次機動部隊索敵攻撃隊」261空の銀河10機、ゼロ戦4機の内、ゼロ戦3機
がロタ島に不時着・大破の記録が残っている。(航空戦史 雑想ノート【海軍編】参照)
昭和19年6月17日夕刻テニアン島を出撃した「テニアン沖艦船攻撃隊」ゼロ戦12機の内、2機がロタ島に不時着。
搭乗員は終戦まで残留との記録が残っている。(航空戦史 雑想ノート【海軍編】参照)
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▲日本軍13mm連装機銃座
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▲▼海軍艦上爆撃機「彗星」のエンジン(アツタ二一型)阿部善次大尉/中島米吉少尉 搭乗機
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▼海軍艦上攻撃機「天山」のエンジン(火星二五型)
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▼残りは海軍零式艦上戦闘機(ゼロ戦)のエンジン(栄二一型)
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▼小さな空港だが、スコップ1つの人力で建設作業をしたという戦時中の日本海軍ロタ飛行場がどんな感じだったのか
 想像もつかない・・・資料も全く無く調べようが無い・・・。展示されているエンジンも説明書看板等は全く無い
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▼人口3000人程度の小さな島といえどレンタカー無しにはまわれない。
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▼日本統治時代のロタ島(昭和19年6月11日大規模な米軍の空襲により消失)
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日本統治時代のロタ島はサイパン島、テニアン島に比べ島の開拓が遅れ、昭和9年(1934)当時でも在住する日本人は
わずか1000人余りであった。それでも昭和10年(1935)12月南洋興発株式会社製糖工場が完成。
▼ロタ島南洋興発製糖工場
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サトウキビ栽培・砂糖の生産が開始された。サトウキビ栽培は経験のあった沖縄や奄美の方が中心だったが、サイパ
ン島に進出した別の会社が多数倒産し、帰国も出来ずに困って居た人々を南洋興発が救ってロタ島で採用した。
現地(ロタ島)で雇われた日本人の方々は東北方面の方が多かったと言う。しかし砂糖の生産はうまくいかず、製糖工場
は3年余りで操業停止してしまう。ロタ島の土が肥料分を含まない痩せた土だったという事と、病気(ココナッツの木
に湧く害虫?)を起こしてうまく育たなかった様だ。
(サイパン島・テニアン島でも当初はサトウキビの害虫被害が多く、島のココナッツの木を全て伐採したと聞いた)
加えて肥料を調達する為に本土へ行った者が、仕入れ資金と共に行方不明となり、結果サトウキビ栽培を諦め、サイパ
ン島・テニアン島で出る砂糖きびの搾りかすを発酵させて酒を造った。
出来た酒は南米などで言う“ラム酒”だが、それを水で薄めて“南洋誉”と言う名で国内販売をした様だ。
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▲▼ロタ島南部の西港付近に今も残る南洋興発株式会社製糖工場(南洋誉工場)跡
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▲当時の古写真と照らし合わせて見学するも損傷が激しく、原型が想像つかなかった。
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▲米軍による艦砲射撃による穴が生々しい。
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▲▼日本統治時代、サトウキビを運んだ汽車が現存している(ドイツ製と聞いた)
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▼南洋興発事務所跡
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▼ロタリゾート&カントリークラブ近くにもう1両シュガートレインが現存している。
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子供の頃に行った遊園地にはこの様な形の汽車のレプリカが園周を走っていた様な気がする。
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この汽車が活躍していた頃のロタ島にタイムスリップしてみたい衝動に駆られた
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サイパン島・テニアン島・ロタ島共に日本統治時代は線路が引かれ、秋の収穫期にはこの汽車に何両もの貨車が連結
され、収穫したサトウキビを製糖工場まで運んでいた。余地がある時には運賃1円で乗客も乗せたと聞いたが、1円は
当時、労働者の1日分に相当する金額であったと言う。
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▼ロタリゾート&カントリークラブ(左側はゴルフ場と海、右側は宿泊施設、真っ直ぐ走ると右側に汽車がある
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▼ロタココナッツビレッジに、当時ロタ島に住んでいた沖縄出身者達が記憶を頼りに完成させた日本統治時代の
 ロタ島地図が展示されている。現在は営業していない為、今回M氏による特別なはからいで見学させて頂いた。
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▼現在は営業していないロタココナッツビレッジ
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▲▼かつて日本人が経営していた。M氏は「誰か引き継いでくれる人がいれば嬉しい事だが、もう無理だろう」と。
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▲▼バブル期は日本人観光客が沢山宿泊していただろう。しかし観光客が減った今ぐらいが丁度良いとM氏は語った。
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▼南洋興発製糖工場跡から徒歩2分、西港がある。敗戦後日本軍守備隊がロタ島を離れた場所かもしれない。
 (10月頃は25cm~30cmのアジが入れ喰い状態だと聞いた。ロタ島で食べた刺身は最高に美味しかった)
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▼昭和20年(1945)9月2日武装解除し、米軍の舟艇に乗せられロタ島を離れる日本軍守備隊(米軍撮影)
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▼ソンソン村近くの東港(上記の古写真は東港かもしれない)
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ロタ島の港は水深が浅く大型船が入港出来ない。沖に停泊し、小型船で往復して物資等を陸揚げするのだと聞いた。
米軍の小型艇に乗せられた武装解除した日本軍ロタ島守備隊の画像でも同じ様に、沖合いに停泊している船に移送
されている様子が伺える。
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▼▲ロタ島東港停泊中米軍に撃沈された松運丸(現在有名な沈船ダイビングスポットとなっている)戦死者は0との事
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▼ソンソン村東港から海沿いに車で15分、海軍砲台跡が2基残っている、1基目は砲座・砲身は残されていない。
 当時から設置されなかったのか、戦後取り去られたのかは不明。
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▼1基目から歩いても3分程の並びに2基目がある。観光ガイド等に掲載されている有名な日本海軍砲台
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▼▲メンテナンスされており、少々力は要るが左右に動く。この様な状態の日本軍砲台を初めて見た。
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▼砲台内から東港を望む。試し撃ちの1発のみ発射されたと聞いた。ロタ島に限らず、設置された砲台の多くは海軍の
 旧式の軍艦から外され転用された物がほとんどだった。砲身寿命は200発程度だと言う。
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▼角度を変えるとロタ島の最南端にあるウエディングケーキマウンテンが見える
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▼この場所からのウエディングケーキマウンテン(立入禁止区域)が一番綺麗だと言う。
 ※ウエディングケーキマウンテンには砲台跡がいくつか残っていると、許可を得て行った事のあるM氏から聞いた。
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▼日本海軍砲台跡から更に走ると「斉藤隊戦死者の墓」がある。
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▲一礼して感謝を伝えた。案内して頂いたM氏はロタ島を訪れると必ずお参りし、タバコを供えると言っていた。
 素晴らしい方だと思った。ロタ島を訪れた際はバカンスの前に立ち寄ってお参りしてあげて欲しい。
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▲▼さらに10分程走って左側「日本軍人軍属」の墓がある。(空襲で亡くなった民間人も埋葬されていると聞いた)
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ここでも一礼して感謝を伝えた。
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ロタ島もか・・・と思った。同じ日本人の墓がバラバラにある。旧日本軍人と旧日本軍属の違いを知る若い世代がど
れ程居ようか。せめて同じ敷地内に立てる事は出来ないだろうか。ロタ島にも日本政府が建てた慰霊碑は無い。
御遺族の方や有志の方がそれぞれの想いで立てられた物に何も言う立場にないが、海外の戦地で戦いに倒れた先人へ
感謝の慰霊が日本人観光客に定着しないのはこれも原因の1つにあると思う。
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▲▼3つ目の日本陸軍砲台(ここは高射砲)はロタ島の丁度中心辺りの丘にあった。
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▼砲台の脇には退避壕があった。
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中に入ってみておそらく人口的に掘られた壕だと感じた。
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▼日本陸軍司令部跡。
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▼▲機銃掃射の跡が生々しい、空襲の激しさを物語っていた。
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空襲が激しくなるとソンソン村にあったロタ神社(トンガ洞窟野戦病院)に司令部を移動した。
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▼昭和20年(1945)9月2日武装解除に応じるロタ島日本軍守備隊(米軍撮影)
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▲激しい空爆を逃れて島を転々としていたのであろう、設営された臨時テントが見える。
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▲場所を見つけようと陸軍司令部跡から更にダート道を走って探しに行ったが、よく似た風景は沢山ある為、場所
 の特定は諦めた。
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▲▼現地人(チャモロ人)を守りつつも、バラック作りの小屋で自給自足の生活をし、終戦まで頑張ったロタ島守備隊。
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戦死者も多く出ているが、半数以上の日本兵が無事日本に帰還された事を非常に嬉しく思う。

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▲ソンソン村に残るロタ神社跡。階段しか残っていないが、階段を登るとその更に上にはトンガ洞窟がある。
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▼ここが戦時中、野戦病院(神威洞)として使われ、空襲が激しくなった後には司令部として使われた洞窟だ。
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▼中に入ると、入り口の狭さからは想像できない広い空間があった。その昔はトンガ人が住んでいたと聞いた。
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▼入って右手にはコンクリートで固められた平らなスペースが広がる。恐らく負傷兵を寝かせていた場所であろう
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▲▼中はかなり広い。各所に人工的に平らにされた場所があり、ここが最終の司令部だった事が伺える。
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▼見学を終えて入り口に向かう。
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▼トンガ洞窟のほぼ真上に位置するソンソン展望台はロタ島で1番有名な観光スポットだ。
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▼ロタ島ソンソン村と最南端の景色が一望出来る。
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▼この場所からの夕日は最高だった、日の入り時間は夕方6時。絶景が見れた。
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現在は観光名所のソンソン展望台も、戦時中は日本軍の見張台だった様だ。夕日を拝む為に時間潰しをしていた時、
たまたま沖縄から来られた御家族に出会った。おじい様と娘様、そのお子様お2人だった。
聞けばおじい様はロタ島で生まれ、10歳までロタ島で育ったそうだ。ソンソン展望台には機銃が設置され、日本兵が
上空を監視していたと言う。初めて知った。「野戦病院跡を見に行く」と言って御家族は去っていった。
なるほど、ここは最後の司令部壕の真上だ。私が息を切らして登ってきた道は先人が作ってくれた道だった。
御家族が去ってから展望台の周囲を再確認した。するとおじい様が言った通り、機銃座が設置されていたであろう岩
組と鋼鉄の残骸が確認出来た。
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沖縄から来られた御家族に出会わなければ見落としていたであろう。この場を借りてお礼を申し上げます。
展望台からの景色を眺めながら、娘様がおじい様に「どう?思い出した?」と優しく声をかけていたのが印象的だった。
▼※参考画像 日本海軍九六式25ミリ機銃。これが設置されていた可能性は高い。
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▲ソンソン展望台に登る道中に洞窟がある、ロタ島でもリン鉱石を採掘していたと聞いていた。
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▲入ってみるといくつも坑道があり、リン鉱石を採掘した様な跡があった。
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▲ソンソン村には東京苑という居酒屋風レストランがある。北海道出身の日本人が経営していると聞いた。
 食事は非常に美味しく、日本にいるのかと思う程だった。特に刺身料理、魚を使ったチャモロ料理は絶品だった。
 日本語が出来る優しいフィリピン人男性1人、女性2人で店をきりもりしていた。もちろん美味しいロタ水は無料だ。
 看板娘のエミリーさん、ウェイターのモンさんに親切にして頂いた。いいお店だったので滞在中は毎晩通った。
 ロタの東京苑はサイパン?テニアン?(どちらか忘れた)の2号店だったが今はロタ店だけだと聞いた。エミリーさん
 はサイパン?テニアン?に居たがオーナーに頼まれ、フィリピンに戻らずロタ店に来たという。ロタリゾートで働く
 ご主人と2人でロタ島で暮らしている。「フィリピンは人が多くて疲れるからロタに永住するかも?」と語った。

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地元の人はわさびとキッコーマン醤油が大好き。わさびを強烈につけて刺身を食べているのが印象的だった。
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▲▼ロタ島のスーパーで撮影。バックで駐車するのは私だけだった・・・。日本人観光客だと直ぐわかってしまうか?
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▼ソンソン村から車で5分、ロタ洞窟博物館がある。ほとんど開館していないとの事だったが案の定閉館していた。
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▼少し覗いてみたが、旧日本軍の物が少し展示してあった。
階段を上って最初に目に飛び込んできたのは日本軍?アメリカ軍?の重機関銃だった。米軍が上陸後置いていった物か?
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▼日本海軍九六式25ミリ機銃(艦載用対空機銃の代表的な機関砲)
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▲▼「ひょっとしてこの機銃座がソンソン展望台に設置されていた物かもしれない」と思いながら見学した。
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▼戦時中の日本海軍九六式25ミリ機銃(ロタ島で撮影された写真ではない)
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ロタ島にはドイツ統治時代にハンティング目的で持ち込まれた鹿が繁殖し、野生の鹿が沢山いると聞いた。
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▼閉館していたが隙間からカメラを入れて撮影。
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▼ロタ洞窟博物館からソンソン村方面を望む。
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▼ロタ空港から車で10分。ラッテストーン石切り場がある。
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約3500年前、マリアナ諸島の原住民は東南アジアから到達した。
彼等はチャモロと呼ばれる独自の民族となり、独自の文化を育て、原始的な生活していた。
今から約490年前にスペインが統治するまでマリアナ諸島は紀元前、タガ王朝時代としてチャモロ民族が暮らしていた
タガ王朝時代の首都はテニアン島。テニアン島にはタガ遺跡が残されている。この石切り場で切り出された先材は、テ
ニアン島に運ばれる為の物だったのではないか?とも言われている。スペイン統治時代にはチャモロ人を虐殺・制圧し
チャモロ伝統文化を壊してチャモロ人をグアム島に移した。ロタ島の原住民(チャモロ)は激しく抵抗。
山間部に身を隠し生きのびた原住民が現在のロタ島チャモロ人の祖先とされ、彼等こそが真のチャモロ人だと聞いた。
スペインが植民地にする為の調査で、テニアン島上陸の際に使用した小舟に積んで有った物が全部盗まれて小競り合
いに発展したと言う話を聞いた。比較的治安の良いロタ島ですが、やはりコソ泥は居るらしく、スペイン統治時代には
「ドロボウ諸島」と呼ばれていたそうだ。
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▼切り出された巨大な石は住居の土台として使用されていたとの事。住居部分は釘を使わない建築だったそうだ。
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グアム島・サイパン島・テニアン島で現存している建った状態(当然ラッテストーンのみ)を見る事が出来る。
ロタ島でも現存するらしいが場所が解らなかった為、見学していない。

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▲ラッテストーン石切り場跡から東へ10分程、M氏お勧めの場所「バードサンクチュアリ」がある。
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マリアナ諸島で一番多くのレッドフーテドブービーを見る事が出来るとされ、沢山の種類の鳥を見学出来る場所だ。
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暑さと時間が経つのを忘れてしまうぐらいの素晴らしい場所だった。
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▼日本統治時代、ロタ松島と呼ばれた場所は「ピナタンパーク」というプールを備えたちょとした観光スポットになっ
 ていた様だが、現在は営業しておらず、廃墟になっていた。
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ウォータースライダーなどが廃墟となり放置されていたが、ロタ島の魅力はテーマパーク・レジャー施設などでは無い。
テーマパーク・レジャー施設へ行きたければわざわざグアムで乗り継ぎしてロタ島に来なくともグアム島で満喫出来る。
ロタ島の魅力はロタブルーの海、地上戦が無かったお陰で残った原生林と手付かずの大自然。そして日本統治時代を懐
かしくも快く思っていてくれている親日のチャモロ民族の人達だ。わずか3000人程度の静かな島にテーマパークは必
要無いとあらためて思った。静かなビーチと真っ青な海、美味しい天然水と治安の良さ。現地チャモロ人と出稼ぎに来
ている真面目なフィリピン人達の親切さ。新鮮な魚料理で食べ物も美味しい。南の島でこれ以上の贅沢は無いと思った。
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▼ソンソン村から南へ徒歩20分、ロタ島居住区最南端に公営住宅が建ち並ぶ地域がある。
 東日本大震災の後、北マリアナ連邦ロタ島では、公営住宅の空き家をリニューアルし、日本の被災者に提供を決定。
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約30棟程在る公営住宅をリニューアルし、日本人被災者に住んで貰うんだと、ロタ市長を始め、幹部が日本を訪問。
福島県まで出向き「被災者の受け入れ準備が整っています」と表明してくれたという。
震災後に被災者の為の住宅を用意して受け入れを表明したのは、ロタと台湾だけだと言う。
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しかし、日本政府からは公式な発表も無ければ、報道も無かった。私も何も知らなかった、初めて聞いた。
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▼結果、日本人(被災者)は誰も行かなかったという事だが、初めてのロタ島訪問時に、その事実を「知っている」と
 「知らない」とではロタ島に対する見方はかなり違ってくるものとなり、島で出会うと当たり前の挨拶をしてくれ
 る島民、車ですれ違う度に手を上げて挨拶してくれる島民に対して、自然と感謝の気持ちで接する事が出来、とて
 も気持ちが和むロタ島の旅だった。
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▼公営住宅の突き当たりはウエディングケーキマウンテン(立入禁止区域)と思ったが、廃墟のパウパウホテルがあった
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▼アスマンモス・クリフ(釣りの名所らしく年1回釣り大会が行われると聞いた)
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戦時中、ロタ島では日米の地上戦が無かった為、サイパンやテニアンの様な悲劇が無くて本当に良かった・・・。
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ロタ島で有名な観光スポットである「スイミングホール」「テテトビーチ」を見学してロタ島をあとにした。
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▲スイミングホール
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▲テテトビーチ
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ロタ島訪問前、かつてロタ島で居住経験を持つI氏にロタ島出国時にしか見れない「絵」の話を聞いていた。
最後にロタ国際空港出国待合室でしか見る事の出来ない「絵」で学ぶロタ島の歴史を紹介して終わりにしたいと思う。
※「絵」に対する説明文は全て、飾ってある「絵」の横に説明書として添えてある文章である。
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▲チャモロ時代(1500B.C-1521A.D)
紀元前1500年頃、チャモロ人は勇敢にもマリアナ諸島までカヌーで航海して来たと言われています。
男性は、特徴ある円柱形のラッテ・ストーン(絵の中央をご覧下さい)を基礎に家を建て、女性は布製品、レッド・スリ
ップ・マリアナスの模様に入った陶器、絨毯、亀の甲羅の装身具等を作り、腕利きの漁師達は大きなカジキマグロを捕
獲する技術を開発し、農民達は土地を耕し、段々畑を作り、巧みにたくさんの作物を作りました。
結果的にチューク、ヤップ、カロラインスを含めた諸島間で貿易が始まりました。当時、高価なコヤスガイや亀の甲羅
が貨幣として流通していました。
部族間の抗争も頻繁に起こり、味方が敵に傷を負わされたり、殺されたりすれば、直ちに戦争という状態でした。
「投石」「やり」が主な武器だったそうです。
ヨーロッパ人が初めてミクロネシアを訪れたのは、マゼランがそれら諸島を発見した時であり、それは世界一周の航海
の中で、初めて探検家達が経験した未知との遭遇でした。
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▲スペイン統治時代(1521-1898)
1565年、スペイン人ミゲル・ロペス・レスガスピィがグアムに上陸し、マリアナ諸島の所有権を主張しました。
まもなくスペインの帆船がメキシコとフィリピンの間を行き交うようになり、途中、食糧や水の補給の為、ロタ、グア
ムに立ち寄りました。その為、ロタは世界で初めて太洋を横断する交易路の中継地点となりました。
1668年、スペイン人はカソリック教徒の指導者ルイス・デ・サンビトーレスの下、マリアナ諸島に定住する事を宣言
し、また1682年ロタに教会を建てました。スペイン人は、チャモロ人にスペイン人社会の価値観や特色を受け入れさ
せるため、「征服」政策を持ち込みました。宗教上の改宗やチャモロ文化の排除は、やがて戦争へと発展しました。
1668年には60000人居たチャモロ人は、スペイン人との戦いや、水泡性疾患、インフルエンザが原因で1710年には、
3539人まで減少していました。右手上部のコーナーをご覧下さい。悲痛な表情の人物、倒れているラッテ・ストーン
これらは多くの古代文化が失われてしまったことを物語っています。
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▲ドイツ統治時代(1899-1914)
米西戦争の敗北により、宗主国であるスペインはその領土であったマリアナ諸島をドイツに売却しました。
白い征服を見につけた、有能なドイツ人官吏ジョージ・フリッツはコプラ(ヤシ油の原料)生産による経済自立を目指し
ました。また、その当時ロタでは米、コーヒー、砂糖、柑橘類が生産されていました。
教会では、僧侶がスペイン人からドイツ人にバトンタッチされ、社会面では、道路、水道、また、西港を建設するため
暗礁となっていた水路等の社会基礎整備が行われました。ドイツ人については、時間に厳しいこと、そして初めて船外
機を紹介したと言われています。
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▲日本統治時代(1914-1945)
第一次世界大戦のさなか、ドイツが太平洋より撤退した後、日本人は直ちに北マリアナ諸島を接収しました。
やがて1920年、国際連盟(国連の前進)は、ミクロネシアにおける日本の統治権を承認しました。
日本人は政府の貸付金や補助金を使って、事業を奨励し、島の経済に「独立採算制」を導入しました。
「サトウキビ」、列車、燐鉱業等がそれです。また、港の改修、軌間の狭い鉄道の敷設を行い、製糖業を発展させまし
た。1935年までは、ロタには8000人の日本人、800人のチャモロ人が住んでいました。また、多くの朝鮮人と沖縄の
人達も定住し、ロタの経済発展に貢献していました。交通機関では、日本郵船が日本・ロタ間の定期航路を開設し、人
々の異動や荷物の輸送に貢献していました。ロタの西港には石造りの埠頭があり、東港は人々の乗降船用に使用されて
いました。第二次世界大戦中、連合軍はロタを迂回して行ったため、食糧や医薬品が不足し、人々は困窮した生活を送
らざるを得ない状態でした。
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▲米国統治時代(1945-現在)
終戦後、国連は太平洋諸島の信託統治行政官に米国を指名しました。
アメリカ大陸と同じぐらい広大なこの領域は、ロタ島を含むミクロネシアWP取り囲んでいます。
やがて、ミクロネシア・ロタ・サイパン・テニアン諸島は米国の信託領ではなく、一つの連邦共和国として、認めるよ
う主張しました。1976年、米国との間で、北マリアナ連邦制定に関する条約が成立。1977年新憲法発布。
米国の統治下にもかかわらず、条約上北マリアナは民主的、且つ独自の政府を持ち、政治・経済をコントロールするユ
ニークな立場にあります。伝統的な農業を維持しながら、一方では観光業、そして中国、フィリピン、バングラディッ
シュ等の人々が雇用されている労働集約型産業が発展し、国の経済、人々の生活を支えるに至っています。
USA




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2016_05_03


日本統治時代があった島、テニアン島。約3500年前、マリアナ諸島の原住民は東南アジアから到達した。
彼等はチャモロと呼ばれる独自の民族となり、独自の文化を育て、原始的な生活していた。
スペイン統治時代にはテニアン島を制圧したスペイン政府に反抗したチャモロ人を虐殺・制圧し、チャモロ人
をグアム島に移した為、17世紀以降約200年間は無人島だった。
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▲▼テニアン島へはサイパン島からスターマリアナスエアを使い約10分程、チェロキー機の乗り味は最高だ。
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▼サイパン国際空港を離陸する。
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▼テニアン国際空港を機内より撮影。かつては日本軍カヒット飛行場だった。テニアン島の戦い後、米軍によって拡張
 され、昭和20年(1945)3月ウエスト・フィールド飛行場と命名される。戦後テニアン国際空港となった。
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▼サイパン島を離陸して約10分、テニアン国際空港に着陸態勢。
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▼テニアン国際空港に到着。
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▼テニアン空港はローカルな雰囲気漂う小さな空港。
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▲テニアン島民の75%が失業状態と言うが、新し目の車はチョクチョク見かける。
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明治32年(1899)マリアナ諸島をドイツがスペインから買い取り、第1次世界大戦後に敗北したドイツから日本
の委任統治領となった後は、内南洋の委任統治施政官庁として大正11年(1922)に「南洋庁」が開設され、テ
ニアン島にはサイパン支庁・テニアン出張所が設けられた。
サイパン島では後に「シュガー・キング」として知られる松江春次が大正10年に南洋興発株式会社(NKK)を設
立。日本統治時代のサイパン島/テニアン島/ロタ島における製糖産業の開発で1番知られている。
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 ▲南洋の島に理想郷の実現を夢見た会津人、松江春次(福島県出身)
 サイパン島での製糖工場が軌道にのると松江春次は、すぐさまテニアン島の開拓に着手。昭和5年テニアン
 製糖工場が完成し、南洋興発の製糖業はさらなる飛躍を遂げていく。開拓者、実業家、技術者としての3者
 を兼備えた松江春次は時間を見つけては農場や工場の視察に出かけたと言う。
 製糖会社としてスタートした南洋興発はロタ島やパラオなどの南洋群島、更にニューギニアやインドシナ等
 の外領地に事業を展開。内容は水産、繊維、貿易、交通運輸、土木など広範囲に及び、当時満州で隆盛を誇
 った南満州鉄道と並び “北の満鉄、南の南興”と呼ばれるようになる。
 しかし昭和15年65歳の松江春次は突然、脳溢血に倒れ、これを理由に社長を辞任、一線を退く。
 更に南洋開拓にかけた松江春次の夢が、打ち砕かれる時が近づいていた。
 留学の際に強大なアメリカの国力を肌で感じた松江は「日本が戦争に勝つことは不可能!平和的な解決の道
 を探るべきだ」それが松江春次の持論だった。
 昭和14年8月松江春次は、もとより親交のあった連合艦隊司令長官、山本五十六を東京駅で見送っている。
 松江は非開戦派だった山本に頭を下げこう告げた「米英との戦争回避に向けてこの上ないご尽力を願いたい」
 しかし、2年後の昭和16年ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争勃発。
 宣戦布告が遅れたいきさつを聞いた松江は『駐米大使は切腹ものだ』と激怒した。
 更に松江は、サイパン島/テニアン島が激戦の場になることを想定していた。 
 当時、会長として経営の一線を退いていた松江だったが、南洋群島にいる社員、農業従事者らの安全を最優
 先に考え、本土への引き上げを主張、役員会は紛糾した。
 昭和19年海軍司令部は南洋興発に軍への全面協力を命じる。製糖工場は全て操業を中止。成人男子、日本人
 児童や公学校に通うチャモロ・カナカ人の生徒までもが飛行場の建設に駆り出された。
 昭和19年6月11日アメリカ軍によるサイパン攻撃が始まり、およそ6万発の砲弾が打ち込まれたサイパン島。
 数日間に及ぶ戦闘機による空襲と戦艦からの艦砲射撃に続いて海兵隊が上陸、松江の理想郷が地獄と化した。
 戦後、南洋興発は軍との協力関係を理由にGHQから閉鎖命令を受け松江春次は公職追放令の指定を受ける。
 こうして南洋興発株式会社(NKK)は消滅した。
 戦後、松江は再起をかけフィリピンを拠点とする南洋漁業の事業計画を進めた。
 しかしアメリカのビキニ環礁水爆実験の為断念。
 戊辰戦争で辛酸を舐めた会津藩士の子に生まれた松江の人生には暗い戦争の影が付きまとっていた。
 松江春次を支え続けた妻・「ふみ」は戦争中に病死、長男・一郎は出兵した南方ニューギニアで戦死した。
 昭和29年11月29日脳溢血により死去、享年78歳 命日は奇しくも33年前の南洋興発創立と同じ日だった。
 床の間に飾られた掛け軸には「人間生来無一物」“人間は裸で生まれ、裸で死んでいく“と書かれていた。

植民地行政政府(南洋庁、所在地はパラオ諸島コロール)からの実質的支援そして東洋拓殖株式会社からは資金
提供を受け砂糖キビ畑/製糖工場を運営し、沖縄出身者(移住者の60%)や朝鮮人の移住を援助し、成功した。
南洋興発株式会社(NKK)は「海の満鉄」とも言われ、国家的使命を持った会社だった。
テニアン島には南洋興発株式会社(NKK)の2つの製糖工場(東洋第2の規模)や、酒精工場、農園などがあり、
島内は見渡す限りのサトウキビ畑になっていた。南洋興発株式会社(NKK)が巨大化すると共に、社員や小作人
作業員も数を増し、南洋興発株式会社(NKK)関係者を相手にする商店・料亭・遊廓なども集まり、テニアン島
は活況を呈した。米軍上陸時、同島には朝鮮人2700人、日本人13500人、チャモロ人26人が暮らしていた。
(戦争が激化し、テニアン島の戦いの前に日本人2000名程は疎開船に乗り、日本本土に避難していた)
▼日本時代、活気を呈していた頃のテニアン市街
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▼日本時代のテニアン町スズラン通り
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▲▼テニアン島サン・ホセ市街(旧テニアン町)に今も残る南洋興発株式会社(NKK)工事事務所跡
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昭和5年(1930)この場所一帯に1日1200tの生産能力を持つ「南洋興発テニアン精糖工場」が建設された。この周辺
には関連の施設・設備や、工場従業員の社宅が整備された。工事事務所付近には「糖度分析所」があった。
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▼開戦前のテニアン島南洋興発株式会社(NKK)製糖工場
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▼テニアン島・サンハロム湾直ぐ、テニアン町にあった南洋興発株式会社(NKK)製糖工場
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▼日の出神社跡
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▼入り口の鳥居には「昭和十六年一月十日」とはっきり読み取れる
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▼激戦後の日の出神社
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▼2つ目の鳥居は戦いの激しさを物語っていた・・・。
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▼日の出神社から徒歩3分、沖縄から移住してきた方が暮らしていた南洋興発社員寮跡があった。
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▼テニアン尋常小学校跡
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▼住吉神社跡。状態は良く、かつてサトウキビの豊作を祈って通ったであろう日本人・朝鮮人の事を想った。
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激しい戦いの果てにも、鳥居がしっかり残っておりその姿に驚かされる。この辺りの広場に負傷した兵士や最後の突撃
に行く兵士達が集められた。しかしその場所がアメリカ軍に知られ、多くの兵士が爆撃で死亡したと言われている。
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▼お参りして元来た道を戻る、南国の島の日陰は涼しくて気持ちが良い。
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太平洋戦争時、テニアン島の戦略的価値を見出した日本海軍は1939年から12000の囚人を使って飛行場を建設。
当時南洋最大と言われたハゴイ飛行場が完成する。
▼空襲前のテニアン島北部ハゴイ飛行場(牛飛行場)
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▼日本軍通信局跡
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▼日本軍通信所跡は中に入る事が出来る。戦い後は日本兵捕虜収容所として30名程が収容された。
 戦後は牛の屠殺場・冷凍庫として使用されていたとの事。
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▼戦い終決直後の日本軍通信局
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▼テニアン島北部に残る角田覚治中将指揮下第1航空艦隊司令部跡(現在進入禁止)
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 昭和19年(1944)2月、角田覚治中将はテニアン島へ着任し第1航空艦隊司令長官に就任。マリアナ沖海戦(あ号作戦)
 を支援する事になる。テニアン島に着任した角田覚治中将は島の防御施設の貧弱さに激怒したと言う。
 「いったい大本営はこの1年間何をしてきたんだ!」と。
 この頃、クエゼリン、ルオット島(マーシャル諸島)日本軍守備隊は玉砕。トラック島が奇襲攻撃を受けていた。
 昭和19年(1944)6月11日~13日マリアナ諸島に米海軍機動部隊が来襲、第1航空艦隊とハゴイ飛行場(牛飛行場)は激
 しい空襲を受けた。続く19日~20日第一航空艦隊の残存航空機は「マリアナ沖海戦」に呼応して出撃するも、殆ど戦
 果を挙げられないままに壊滅した。角田覚治中将を部下はこう語っている。
 「長官は一口で言えば上杉謙信の様な人だ。黙っているが、いざとなると大将自ら単騎敵の本陣に斬り込む猛将だよ」
 見敵必戦、索敵機が3群に分かれる敵機動部隊を捉え、参謀たちが航空機温存を唱える中125機全機を発進させ、2群
 の敵を攻撃するも、敵1群がテニアン島を攻撃。日本軍攻撃隊は大損害を受け、島の施設は破壊された。
 この後、連合艦隊からの要請によりパラオ支援で航空機の損失を負い、南方へ航空隊を送り込みながらもグアム島や
 テニアン島は米軍の攻撃を受ける。6/15米軍はサイパン島へ上陸。テニアンからサイパンは目と鼻の先であり米艦隊
 を見ながら見敵必戦の角田覚治中将は独断で全航空機の発進を命じる。しかし、グラマンの大編隊とVT信管などの
 新兵器によりことごとく撃墜され、テニアンの航空戦力は灰燼に帰してしまった。
 1機の航空戦力もなくなってしまった総軍8500名は敵の上陸に備え防御作りに追われた。日本人民間人は13500人程
 おり、ほとんどは南洋興発の社員だった。民間人は昼夜を問わず野戦陣地の構築に協力した。
 角田覚治中将は「ありがとう。皆さんは民間人ですから、軍人の様に玉砕しなくともいいのですよ」と笑顔で最後の
 挨拶をして回ったと言う。
 昭和19年7月24日、圧倒的大戦力で米軍がテニアン島に上陸。その兵力は海兵隊2個師団54000人。
 対する日本軍は緒方敬志大佐の第29師団第50連隊と第43師団第135連隊第1大隊と海軍部隊約8111人。
 [陸軍4001名]
 松本歩兵第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐以下2824名) 
 歩兵第135連隊第1大隊(和泉文三大尉以下950名)/第18連隊戦車隊8両(鹿村一男中尉以下64名)
 第31軍築城班(比留間正司大尉以下60名)/独立自動車第264中隊第3小隊63名
 第29師団野戦病院(稲田壽郎軍医中佐以下40名)
 [海軍4110名]
 第56警備隊(大家吾一大佐以下950名)/第82防空隊(田中吉太郎中尉以下200名)
 第83防空隊(田中明喜中尉以下250名)/第233設営隊(林邦夫 技少佐以下600名)
 第1航空艦隊司令部(角田覚治中将以下200名)/航空隊640名零式輸送機36機、航空機561機
 以下昭和19年(1944)6月初旬時点の海軍航空隊内訳
 第121航空隊「雉部隊」岩男正次中佐以下 彩雲艦上偵察機36機 艦爆2機
 第261航空隊「虎部隊」零戦54機/第263航空隊「豹部隊」零戦64機
 第321航空隊「鵄部隊」久保徳太郎中佐以下 夜間戦闘機月光54機/第341航空隊「鵬部隊」銀河54機
 第343航空隊「隼部隊」竹中正雄中佐以下 零戦54機/第521航空隊「獅子部隊」紫電54機
 第523航空隊「鷹部隊」和田鉄二郎中佐以下 彗星72機/第761航空隊「龍部隊」松本真実中佐以下一式陸攻72機
 第1021航空隊「鳩部隊」一式陸攻2機 ダグラス輸送機6機/第19魚雷調整班/航空部隊通過者200名
 第23航空戦隊関係450名/設営隊800名

 陸海軍合計8111名
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▼激戦後の日本軍ハゴイ飛行場(牛飛行場)格納庫(米軍の飛行場拡張工事に伴い取り壊され現存しない)[米軍撮影]
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▼激戦後の日本軍ハゴイ飛行場(牛飛行場)格納庫付近。奥に司令部らしき建物が写っている(米軍撮影)
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▼日本軍海軍発電所跡
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▼昭和19年6月11月~13日の米海軍機による空襲と艦砲射撃を受けた大穴が開いている。
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▼激戦後当時の日本軍海軍発電所(米軍撮影)
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▼ディーゼル燃料タンク室跡(中には小型重油タンクが2基あり、まだ油臭い匂いが充満していた)
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▼日本軍海軍燃料庫跡の看板が見えたら右へ進む。左は弾薬庫跡があるが不発弾が多い為進入禁止。
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▼ジャングルに還りかけている道(元々谷だった天然の地形)を進む。
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▼日本軍海軍燃料庫跡が見えてきた、天然の地形を利用して建設されている
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▼戦いの中で火災が発生し、三日三晩燃え続けたと言う。
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▼駐機場跡に残る日本軍海軍防空壕跡
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▼激戦当時の日本海軍防空壕。現在は2基現存しているが、4基~5基あった様だ。
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▼激戦当時の駐機場付近。現存する2基の日本海軍防空壕が写っている。[米軍撮影]
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▼日本海軍飛行場指揮所跡
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▼テニアン島の戦い終結後米軍はそのまま活用した。
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▼指揮所跡より駐機場、防空壕跡を望む
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そして戦争が勃発し、ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻略した米軍は日本本土爆撃、及び内南洋における日本軍の
海上、航空兵站線を攻撃する基地を確保すべく、昭和19年(1944)6月マリアナ諸島攻略計画を発動させた。
一方、日本軍は同島のハゴイ飛行場を航空基地として使用していたが、陸上兵力が少なかった為、満州「遼陽」から陸
軍松本歩兵第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐/[第1大隊]松田和夫大尉/[第2大隊]神山新七大尉
[第3大隊]山本好江大尉/[山砲大隊]甲斐克己少佐)を移駐させた。
他、工兵中隊(325連隊第2中隊) 矢野忠一中尉/[補給中隊]野崎健司中尉などがテニアン島の守備に就いた。
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▲▼昭和19年7月ハゴイ飛行場を空爆する米軍機
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6月19日、20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊を撃退した米軍は7月8日、サイパン島の攻略を完了、そ
れに続いてグアム島、テニアン島の攻略を開始した。昭和19年(1944)7月24日早朝、米軍は第2海兵師団
の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部、テニアン港前方に一斉に前進させた。しかし、米軍上陸部隊が海
岸から200m程に接近した瞬間、一斉に日本軍重砲が攻撃を開始。米軍を撃退した。
砲台長(小川和吉海軍大尉)以下70人の将兵がテニアン島に押し寄せる米艦艇を迎え撃った。
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▲現在も残る「小川砲台」に着いた。「テニアンビーチ」の丘、写真中央のこんもりした丘の中腹に砲台はあった。
 当時も草木で偽装され、上空や海上からは容易に発見できなかった言う。(ペペノゴル砲台跡)
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▲テニアン島の戦跡には説明書のプレートがあるが、鉄・銅高騰の際に所々プレートが盗まれたらしく、ここは
 台座だけだった・・・。中国人による落書き、いたずらも多く、テニアン市長は、歴史のある観光ポイントは
 出来るだけ綺麗に整備しておきたいと綺麗にされているのに非常に残念である。
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▲テニアン攻防戦の際、この砲台(安式40口径6インチ砲(15.2センチ)は必死に抵抗、米艦を大破させたと言う。
 昭和19年(1944)3月テニアン島に海軍第56警備隊が上陸し、直ちに沿岸砲台構築が開始された。
 テニアン港を望むテニアンビーチの丘には小川和吉海軍大尉の指揮する小川砲台(ペペノゴル砲台)が構築された。
 「小川砲台」には「安式四十口径六吋砲」3門が配備され、小川砲台長以下70名が配置についた。
 「安式四十口径六吋砲」は旧式の艦載砲であったが陸上の沿岸砲として転用されていた。
 昭和19年(1944)3月「安式四十口径六吋砲」6門が「テニアン港」に揚陸され、砲台まで輸送が開始された。
 約7tの砲身重量は海軍第56警備隊のトラックには重すぎた為、輸送はコロを用いて人力によって行われた。
 移動には数日間を要したと言う。
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▲当時3門の砲を据えたペペノゴル小川砲台上の山中に戦闘指揮所があり、コンクリートに覆われた指揮所の中では
 小川隊長と先任伍長の中村春一上曹が常にいた。この指揮所より来る小川隊長の命令を、各砲台員全員が米艦を目
 の前にして今か今かと待っていた。何日も何日も火を使わず、食器の音も出さない様にして、生米をかじり乾パン
 を食べ、少しの水だけで我慢強く待った。昭和19年7月24日サイパンよりテニアン港正面に向かって静かに前進を
 始めた米駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)がテニアン港の正面を向き様子を伺う。
 米駆逐艦を目の前にして小川隊長の伝声管と地上電話の声は「まだ待て、もう少し待て」と伝えていた。

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▲小川砲台小3門の内の1門当時の写真(米軍撮影)現存する小川砲台も艦砲射撃を受ける前はこうなっていた
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 ▲小川砲台から見えるテニアン港、今は非常に綺麗で静かなこの場所に米艦が来たのであろうと想いをはせた。
  (中央右に見えるのはテニアン島の南西約9㌔に位置するアギガン島「山羊島」)
 ▼アギガン島「山羊島」(移動中の機内から撮影)
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※アギガン島「山羊島」も日本統治時代はサトウキビ栽培をしていた。その時放された山羊が自然繁殖し、山羊の島
 と呼ばれ、戦後から現在まで無人島となり、野生の山羊が沢山いるとの事。戦争中は、昭和19年4月21日歩兵第50
 連隊隊第2中隊の山田少尉の指揮する約40名が派遣されていた。艦砲射撃によって若干の死傷者をだしたが、主と
 して夜間耕作によって芋を栽培、これを主食にして終戦に至った。終戦時兵力は隊長以下61名、テニアン本島から
 の脱出者、補給要員等で20名増加していた。昭和21年2月11日投降勧告に応じた。

 ノーマン・スコットがテニアン港正面を向いた時、隊長より大声で「全砲発射用意。撃て!」との命令だ出された。
 ペペノゴル小川砲台の3門と2本ヤシ柴田砲台の3門が一斉に火を吹き、雷鳴のような砲声が轟く。最初の1発づつが
 ノーマン・スコットの機関部と艦橋部に命中。暫くして「米駆逐艦ノーマン、轟沈」と砲台の奥にいる兵隊にも伝
 わり歓声が上がる。「バンザーイ!バンザーイ」挟み撃ちされたノーマン・スコットは大破しサイパンに後退。
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 ▲米駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)オーエンス艦長以下22名戦死、67名負傷
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 ▲帰還した米軍兵士が戦後画いた当時の様子。
 次に米巡洋艦コロラド(USS Colorado)がテニアン港正面を向く。米艦に砲台の位置を知られてからの小川砲台は、
 柴田砲台と呼応し、連続発射し合計22発を命中させた。巡洋艦「コロラド」は火災を起こし、相当数の死者と重傷
 者を出し、後退した。
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▲テニアン港で撮影された米巡洋艦コロラド(USS Colorado)22発の砲弾が命中し、大きな被害を受けている。
 しかし、歓びも束の間、次に何が起こるかは砲台員全員が知っていた。米軍の報復は激烈なものであったと言う。
 サイパンより3隻の戦艦と巡洋艦、駆逐艦が急行し、テニアンの砲台を砲撃した。
 小川砲台2番砲の銃眼より米艦の砲弾が飛び込み、砲台内で火薬に引火。大火災が起こり、火柱が渦を巻いて火薬が
 飛び散り、戦死者多数を出した。夕刻頃、砲長の杉本兵曹は戦死者の中より起きあがり、両眼が見えない様だったが
 私の声が分かるらしく手探りで近づいてきた。体に付着した火薬を取り除き、手当を始めると「手がもげているぞ」
 との声によく見直すと、杉本兵曹の右の手首より先がないではないか。出血もなく、時計だけが動いていた。
 杉本兵曹は自分の事より、「大丈夫か」としっかりとした声で聞く。何と気丈な砲長かと感嘆させられた。
 側にいた神山兵曹に連絡し、野戦病院に運ぶ手配をして他の戦死者、荒井文衛門兵曹他の方々を砲台の南側に埋葬し
 夜に入ると陸戦隊の準備をして小川隊長の後に続いたと言う。
 「ああ、死の島テニアン」より
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▲ペペノゴル小川砲台3門中1門はテニアン空港に展示されている(小川砲台と同型安式40口径6インチ砲)

日本軍の海岸砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)も
命中弾を浴び、艦長以下多数が死傷した。しかしこれは米軍の陽動作戦であった。
昭和19年(1944)7月24日07:00頃、米軍第4海兵師団はLCVP(ヒギンズ・ボート)LVT(水陸両用装軌車)か
らなる上陸用舟艇約150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に第4海兵師団と第2海兵師団
の一部が上陸した。
▼当時のチュルビーチ(CHULU BEACH)[チューロ海岸]
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「テニアン港」周辺での陽動作戦によって手薄になったチューロ海岸には、第29師団第50連隊第3中隊と
海軍第56警備隊が配備されていたが、米軍の砲爆撃と水際戦闘で全滅した。
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▲▼昭和19年(1944)7月24日チューロ海岸に上陸する米軍
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(25日には第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した)
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▲チューロ海岸に今も残るLVTの残骸。
水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘の為ほとんど全滅し、米軍は日没
までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊54000人を上陸させた。
この上陸での、米軍死傷者は240名(うち戦死15名)であった。

▼米軍に破壊された日本軍陸軍トーチカ、当時の写真(麻生隊トーチカかもしれない・・・)
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▼ビーチには上記写真とよく似た長方形のコンクリート製の遺構が残っていた。
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▲▼チューロ海岸に今も残る日本陸軍麻生隊トーチカ
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▼陸軍 麻生隊トーチカ内部 激しい艦砲射撃を受け陸軍50連隊の主力だった麻生隊は壊滅し、全員戦死。
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▼内部の銃眼部分には「昭和十九年五月 麻生隊」と、まだはっきり読み取れる
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▼チューロ海岸近くに今も残る米軍LVT(水陸両用装軌車)
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▼テニアン島に上陸した米軍LVT(水陸両用装軌車)
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▼LVT(水陸両用装軌車) 画像はパラオ諸島ペリリュー島に上陸するLVT
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▼現場のチェルビーチに立つとかつての日米激戦地である事を忘れてしまう程綺麗な海に見惚れてしまう。
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そして24日の深夜に日本軍による反撃が開始されたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により、
日本軍の進撃が遅れた。それにより、調整の取れない攻撃を行い、約2,500名にも及ぶ損害を受けて反撃は
失敗に終わった。この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長が戦死、戦車は4両
を残すだけとなった。
▼24日深夜の反撃で撃退された日本軍兵士の遺体。
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▼破壊された鹿村一男中尉率いる第18連隊戦車隊独立戦車第2中隊の戦車
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▼日本軍を撃退し南下する米軍。道端に破壊された日本軍戦車が写っている。
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▼日本軍を撃退し南下する米軍。
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日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は25日、第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した。
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▼▲破壊されたテニアン市街地(現サン・ホセ市街)
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日本軍は新防衛線を構築すると共に、民間人の中から16歳から45歳までの男子約3500名を集め、民間義勇隊6個中隊
を編制。戦闘に協力させた。7月28日陸軍 緒方守備隊長は陸海軍大臣宛の電報を発した。
「在テニアン邦人1万5千名中、16より45才のもの3500名義勇隊を編成し軍に配属、奮戦敢闘しつつありて、皇国人と
しての伝統を遺憾なく発揮しあり。老人婦女子は集合の上、爆薬により処刑す」と。
28日海軍 角田中将も「老人婦女子を爆薬にて処決せん」とする電文を海軍軍令部に送っている。
しかし7月30日までにアメリカ軍は防衛線を突破、テニアン市街を占領した。
7月31日、カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始、マルポ水源地、テニアン町南側付近 第3飛
行場南側で戦闘を行った。戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、島南端のカロリナス高地へ撤退した。
この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸は米軍が占領し、日本軍は長期の抵抗を行う事が困難となった。
夜半、緒方連隊長はグアム島第31軍司令官小畑英良中将に対し、最後の報告を打電する。
翌8月1日も日本軍は前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃を行ったが、失敗。海軍の栗野原大佐、設営隊長林技術
少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。
8月2日緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と斬りこみ隊を組織した民間義勇隊等約1000名が、アメリカ軍に対し夜間
突撃を敢行したが多勢に無勢。アメリカ軍は機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえた為、日本軍に死傷者が続出。
緒方連隊長は後退中に戦死。27日には司令部を放棄し、南部のカロリナス洞窟に後退する。
▼南部のカロリナス付近まで迫ってきた米軍。
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角田中将は31日最後の電報を打った。「今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム」
この時、大本営から電報が入る。
清水中佐「長官、大本営からテニアンを脱出せよとの電報が届いています」
カロリナス沖に迎えの潜水艦を用意すると言う。この頃、優秀な人材が皆戦死し、軍部では非常に困っていた様だ。
大本営はグアムやテニアンに居たパイロットや技術を持った工兵をなんとか脱出させようとしていた。
角田中将「もう間に合わんよ」
8月2日朝、角田中将は最後の突撃命令を出した。飛行士の横森直行少尉が出発しようとすると、司令部に呼ばれた。
この時、角田中将は階級章をつけていなかったと言う。死地に赴く幹部の姿だった。
横森少尉「お先に出発します」 角田中将「横森、ご苦労だった」そして角田中将は2つに割った「オニギリ」の1つ
を差し出した。最後の別れは酒でもない、水でもない「オニギリ」だった。
その後、角田覚治中将は手榴弾2つを持ち、「じゃあな」と笑顔を残して洞窟から姿を消したと戦史は伝えている。
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▲角田覚治 海軍中将 享年53歳
角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令
の大家大佐も戦死し、結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は8月3日夜明けに終結した。
その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、テニアン島は隆起珊瑚礁からな
る平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。日本軍戦死者約8100名、生存者 313名。
アメリカ軍戦死者389名、戦傷者 1816名を出しテニアンの戦いは終わった。
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▲カロリナス大地で掃討作戦を行う米軍兵士
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▲戦いが集結し、戦利品の日の丸の寄せ書きを持っての米軍記念撮影。
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▲テニアン島の戦いで負傷した米兵を運ぶ米軍兵士達。
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▲海兵隊巡察隊員が、丘の中腹の洞窟に隠れていた日本人家族を発見。激しい戦闘から身を隠していた母親と4人の
 子供と犬であった。
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▲戦い終結後に日本人民間人に尋問をする米軍兵士。
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▲生き残った民間人は終戦までテニアン島の捕虜収容施設で暮らした。終戦後、日本に引き揚げた人員は約2300名。
 米軍来攻時には16200名(内朝鮮人2700名)の邦人が在島していた。軍に協力して玉砕した者、スーサイドクリフ
 から身を投げた者も含め、13000人以上の民間人が戦いの犠牲となった事も忘れてはいけない。
▼テニアン島スーサイドクリフ(サイパン同様SUICIDE CLIFF→「自殺の崖」)である。[カロリナス大地]
 岩肌には無数の洞窟が遠くからも見える。周囲はうっそうとした密林で、現在も簡単には近づくことは出来ない。
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昭和19年7月31日~8月1日にかけて激しい攻防戦が続き日本軍は島南端のカロリナス台地に追い詰められていく。
カロリナス大地のジャングルの中の洞窟にいた民間人でダイナマイトや青酸カリを持っている人は自決していった。
首をつろうとした民間人に『民間人には罪はないのだから止めなさい』と言った日本兵もいたと言う。 
テニアン島には川は無く、飲まず食わずで、1週間程。自分のおしっこを、子供に飲ませる人もいたそうだが子供が嫌が
って飲まず、泣きやまないので『子供を殺せ』と言った日本兵もいたと言う。
自分の手で子供を海に放りこんだり自分の手で子供を殺した人もいた。のこぎりで子供の首を切ってしまった人もいた。
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テニアン島の面積はサイパン島の半分程、地形は平坦で農地や飛行場には適しているが、立てこもるには向いていない。
「水もお菓子もあげるから、出てきなさい」というアメリカ軍の投降を呼びかける放送も始まったが最後まで投降しな
かった人々もいた。断崖のあちこちには天然の洞窟があり、ここにも多くの日本人が潜んだ。
目に映る断崖の無数の穴は、米軍の海からの艦砲射撃の跡でもある。1000名の兵士と民間人がこのあたりに潜み、捨て
身の突撃を待っていたと言う。その多くは、アメリカの掃討作戦と飢餓に倒れた。
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サイパン島「バンザイクリフ」同様、絶望した日本人が身を躍らせた海岸である。多くの慰霊碑が立っているが犠牲者
の正確な数は分かっていない・・・。近年の遺骨収集でこの海岸で多数のご遺骨が出たと聞いた。
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▲平成元年(1989)に撮影された同じ場所。案内看板に日本語が併記されている事に注目。現在は日本語併記は無い。
 いかに最近日本人が訪れていないかを物語っている。観光に来ても慰霊には来ないのであろう・・・。
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同じ日本人の銃弾に倒れた人々もいる「降伏を許さない軍隊」から逃れ、アメリカ軍のもとに行くことは極めて危険
であった。同じ日本人にスパイ呼ばわりされ、命を失う事にも繋がったと言う。
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▲日本海軍第56警備隊の慰霊碑
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サイパン同様、いくつも慰霊碑があるが日本政府が建てた慰霊碑は無いらしい・・・。どこもバラバラである。
海外の戦跡・戦地の慰霊で、日本人は永遠に一つになれることは無いのだろうか・・・、悲しくなる。
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▲サンホセ市街にある韓国人(朝鮮人)慰霊碑。この一帯は日本統治時代は火葬場だったそうで、朽ち果てたレンガ
 作りの火葬場が残っていた。KIMG0175_convert_20160508153503.jpg
▲▼「無縁塔」もあり裏には「昭和十五年七月・・・・テニアン町役場」と読める。
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▼この付近には戦時中に使用された洞窟がいくつもあり、3つは入る事が可能だった。
1つ目は現在「マリア像」が置かれている広い洞窟で、日本軍野戦病院として使用されたとの事。
(陸軍第29師団所属第一野戦病院・稲田壽郎軍医中佐/小野直樹軍医大尉以下40名)
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▼2つ目は火炎放射器で焼かれた跡が生々しい洞窟だった。洞窟入り口付近に十字架がある。
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▼3つ目は見つけにくい場所だが日本海軍第56警備隊本部跡の洞窟がある。入り口に到達するまで少し
 木々が多いので行き難い場所だが一番軍事壕らしい内部でコンクリートで固めてある強固な作りだった
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▲入り口は狭く、石垣が組まれ外から見えにくくなっている(撮影もしにくい・・・。)
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▲中に入ると床はコンクリート、サイドもコンクリートでしっかり固められており通り抜けると2つ目の入り口に
 繋がり、Uの字になっていた。中は真っ暗で入り口付近に放置されていた「DAINIPPON BREWERY」と書かれ
 た当時のビール瓶が転がっていたので端に立てておいた。戦地の日本軍司令部等でよく見られるビールだ。


日本海軍のハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)
が建設され、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。
▼完成当時の米軍ウエストフィールド飛行場。
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▼米軍占領後のテニアン島。南側(下)に4本の滑走路が確認出来る。右奥はアギガン島「山羊島」
※ブログ上記でアギガン島「山羊島」の山羊が自然繁殖した事を紹介したと思う。戦後アメリカ軍は荒廃したサトウキ
 ビ畑跡にタンガンタンガンの木の種を空中散布した為、 テニアン島は高さ3m程のタンガンタンガンの木に覆われて、
 島の植物体系が変わってしまった。将来の基地使用に備え、住民にこの密林を取り払って耕作するなど出来ない、と
 諦めさせるのが米軍の狙いだったが、山羊はタンガンタンガンの葉が好物だったので自然繁殖した経緯がある。
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昭和19年(1944)11月以降、連日の様に日本に向かうB-29 がこの島を離陸していった。
▼テニアン島ノース・フィールド飛行場から出撃するB-29。
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▼日本海軍ハゴイ飛行場を拡張整備して作られたテニアン島ノース・フィールド飛行場
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昭和20年(1945)8月6日広島、8月9日長崎への原爆投下作戦のB-29は、テニアン島ノース・フィールド飛
行場から発進した。1度自分の目で見たかった、そんな日本にとって深い繋がりのあるテニアン島を訪れた。
▼画像はエーブル滑走路。2600mの滑走路が4本あるが、ここは1番北側の物。この滑走路こそ広島/長崎に飛び立
 った「エノラゲイ」と「ボックスカー」の使用したものである。
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昭和20年(1945)8月5日夕刻B-29に積まれた原爆は日付が6日に変わった真夜中2:45この滑走路を飛び立った。
そして昭和20年(1945)8月6日8:15広島であの惨劇が起こった。
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▲原爆搭載準備に入るB-29「エノラゲイ」
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▲▼原爆ピットに納まる広島型原爆(リトルボーイ)
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▲原爆ピットから油圧ジャッキで持ち上げられ、B-29エノラゲイに搭載される広島型原爆(リトルボーイ)
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▲「エノラゲイ」搭乗員
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▲昭和20年(1945)8月6日真夜中02:45出撃前笑顔で手を振る「エノラゲイ」搭乗員
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▲NO.1原爆ピット。広島型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)/長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)を搭載
NHK戦跡と証言「原爆ピット」テニアン島
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▲NO.2原爆ピット。長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)が収められたが、油圧ジャッキの故障で搭載時は
 NO.1原爆ピットが使用されたと聞いた。
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▲当時の原爆ピットNO.2
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▲長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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▲NO.2原爆ピットに収まる長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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▲廃墟となった長崎
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▲原爆組み立て工場。
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▲戦後取り壊される前の原爆組み立て工場。
人類史上初めて実践で使用された核兵器は、マンハッタン計画に基づき米国国内で製造された。
昭和20年(1945)7月26日テニアン港に原子爆弾の部品と核燃料を積載した米海軍重巡洋艦インディアナポリスが入港。
荷揚げされた部品と核燃料は米軍テニアン占領後に原爆を運ぶ為に整備された道路「ブロードウェイ」を通り、原爆ピ
ット北の「原爆組立工場」に運び込まれた。
原子爆弾の部品と核燃料がテニアン島に届けられた4日後の昭和20年(1945)7月30日日本海軍潜水艦「伊-五八」によ
って米海軍重巡洋艦インディアナポリスは撃沈された。部品と核燃料がテニアン島に届けられる前に撃沈されていれば、
歴史は違ったものになっていたかもしれない・・・。原爆投下計画が日本側に知られたと感じた米軍は広島原爆投下を
急いだと言う。しかしインディアナポリスの撃沈は偶然であった。
5日後の7月31日広島型ウラニウム原子爆弾「リトル・ボーイ」の組立てが完了した。
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▲当時「原爆組立工場」には空調が完備され、温度差によって原子爆弾の部品同士が合わなくなるのを防止していた。
※原爆組立工場は戦後解体され、現在はコンクリートの土台がわずかに残るだけとの事で見学していない。
原爆ピットは戦後埋め戻されプルメリアとココナッツの木が植えられていた。2004年6月15日サイパン侵攻を記念し
て第2次世界大戦60周年記念式典が挙行されるのに合せ、埋め戻されていた2基の原爆搭載ピットを掘り返して公開さ
れた経緯がある。「パールハーバー(真珠湾攻撃)がなければ、広島・長崎も無かった」というのが米国の立場だが、
「ABCD包囲網がなければ、パールハーバー(真珠湾攻撃)も無かった」というのが日本の本音だと思う・・・。
▼戦後埋め戻された時のNO.1原爆ピット
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▼平成元年(1989)に撮影されたNO.1原爆ピット(まだ埋め戻された状態で案内看板に日本語も併記されている)
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▼平成元年(1989)に撮影されたNO.2原爆ピット(まだ埋め戻された状態で案内看板に日本語も併記されている)
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広島/長崎に続いて3個目の原爆用プルトニウム核と起爆装置をテニアンに輸送する為B-29を米本土に待機させていた
マンハッタン計画の長グローヴス将軍は「これ以上原爆の使用は望まない」とのトルーマン大統領の意向を受けてこの
計画を中止した経緯もある。エノラゲイのパイロット、ティベッツ氏が「原爆を投下したが為に、日本本土上陸作戦を
行わずして日本を降伏させる事が出来た。広島/長崎の市民が 多数犠牲になったとしても、上陸作戦で失われたであろ
う、数十万人の米軍兵士の命に代え難い」と言った様に、原爆が無ければ「本土決戦」が行われていたであろう。
そして日本という国は消滅していただろう。米軍だけでは無く、日本軍民も広島/長崎以上の死者が出ていただろう。
喧嘩両成敗という言葉があるが、国と国との戦争の後には勝戦国と敗戦国しか無く、負けると解っていた日本は「対話」
の努力を続けるべきだったであろう。しかし、戦って学んだ事が日米に必ずあるはずだ。そうでなければ先の大戦で亡
くなった全ての人に対して堂々と慰霊が出来ない。原爆救護 ~被曝した兵士の歳月~YouTube
▼アメリカ軍戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式
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原爆は核分裂によって生ずるエネルギーを利用する点において、化学反応による通常兵器と根本的に異なる。
人体に与える深刻な影響は通常兵器の比べものにならない。化学兵器の使用は人類にとって恐怖以外に言葉が見つから
ない。原爆を使用したアメリカに対して、日本では批判的な意見も多くある。しかしプルトニウムの原料不足で開発を
断念したものの、日本も原爆開発を進めていた事実がある事を忘れてはいけない。
国力が逆であったならば、日本も同じ事をしていたかもしれない。
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▲原爆投下による巨大なキノコ雲(広島上空にて)
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▼広島に原爆を投下し、テニアン島ノース・フィールド飛行場に帰還するエノラゲイ。
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▼戦後70年以上が経っても世界では「戦争」というものは続いている、日米共に多くの人が亡くなって日本の平和は
 続いている。それが「当たり前」と思っている日本人の多さに危機感を感じるのは私だけだろうか・・・。
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▼ダイナシティーホテル社宅裏に、リトルボーイとファット・マンの実物大模型が展示?放置?されている。
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誰が何の為に製作したかは不明との事。案内板の文字は英語と中国語のみであった。
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ノース・フィールド原爆ピットの中に展示する案も出た様だが、色が違うとの事でアメリカ軍から却下されたそうだ。
テニアン市では市長が変わる度に前市長が行った事が全て無になる事が多い様で、この模型が出来た時の市長が作らせ
た物かもしれない。との事だ。いずれにせよ詳しい経緯は何も解らないとの事だった。
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▲▼広島型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)
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▲▼長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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※ファット・マンの実物大模型は大津市歴史博物館でも見る事が出来る。本土空襲の中で米軍はファット・マンと同型
爆弾(原爆では無いパンプキン爆弾と呼ばれる物)を投下し、本番の原爆投下の練習をしていた。
別名「模擬爆弾」と呼ばれたパンプキン爆弾は、爆撃機B-29に搭載し、昭和20年7月20日~8月14日までの間に日本
全国30都市に49発が落とされ、原爆の投下訓練を行った。機体が原爆の爆風に巻き込まれないよう、投下後、速やか
に上空を離れるための操縦訓練などが目的だったが、模擬原爆によっても日本全国で計約400人が犠牲になった。
(※大阪では7月26日09:26、1発の模擬原爆が東住吉区田辺の元料亭付近に落下。7人が死亡、73人が負傷した。)
その内1ヶ所が滋賀県大津市内だった。場所は当時、魚雷を製造していた東洋レーヨン石山工場(現東レ滋賀事業場)で、
日時は7月24日07:47。16名の方が亡くなられたと記録されている。その事実を語り継ぐ為に展示されている。
小生も2015年に見学に行った。画像はその時撮影したものだ。
▼大津市歴史博物館(滋賀県)に展示されているパンプキン爆弾実物大模型
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(ファット・マンと同型全長3.2m球体部直径1.5m重量約4.5t)
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▼テニアン島の戦いで撮影された有名な写真。
 (孤児となった収容所の子供にキャンディーを与えるフェデリーコ・クラベーリャ1等海兵)
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[テニアン日本人学校]
アメリカ軍に投降し、保護された日本の民間人は、カーヒー地区に建設されたキャンプに収容された。
掘っ立て小屋の様な所で、むしろを敷いただけのものだったと言う。仕事(米軍のお手伝い)に行けば、チョコレートや
ガムが貰えたと言う。アメリカ軍は戦時中にもかかわらず、昭和19年戦いで荒れ放題になったテニアン島に日本人の
子供達の為に学校を作った。生徒数は2074名である。
「私も、学校で英語を習ったんですよ。そしてここで星恵美子さんとも、一緒になったんですよ。戦後日本に戻った後
も、ここで覚えた英語が役に立って、山形の米軍図書館で働いたんです」
と、当時14歳、生まれて半年でテニアン島に渡り、生還された井上茂さんは語っておられる。
この学校の創設に尽力したのは当時26歳のムック海軍中尉である。敵国の為にと周囲の反対を押し切って学校を作った。

▼圧倒的兵力とはいえ日本軍の猛攻で389名の米兵が戦死した(当時米軍戦死者を埋葬したウエストフィールド墓地)
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▼テニアン島を南北に貫く「ブロードウェイ」の北に[アメリカ記念碑」があり、戦没した米兵の慰霊碑として戦後アメ
リカ政府によって建てられた。戦後米軍戦死者の遺骨はアメリカ本土に還り、アメリカンメモリアルだけとなっている
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現在、沖縄に滞在する在日米軍の一部がテニアン北部に移転する事が決まっており、テニアン島北部にある
ノース・フィールド飛行跡や原爆ピット、日本海軍ハゴイ飛行場関連施設跡は見学が出来なくなるかもしれ
ない為、今回予定を早めてテニアン島を訪れた。カジノも現在建設中で、米軍が駐屯すればテニアン島の活
気が戻る事が期待されている。

▼テニアン島北東部の海岸「潮吹き海岸」という観光スポットに行って見た。
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▼潮吹きポイントの直ぐ南側は立ち入り禁止区域となっている。潮吹きポイントよりこちら側が気になった。
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▼潮吹きポイントからサイパン島が綺麗に見える、近い。サイパン島の戦いを見ていたテニアン島守備隊は覚悟を
 決めていたであろう・・・。
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▼(テニアン島→サイパン島→グアム島)サイパン島離陸後機内より撮影。
 左がテニアン島北部(原爆投下作戦のB-29が出撃したノース・フィールド飛行場が見える)
 右はサイパン島南部(最短距離の航路は、海流がぶつかるポイントで波が荒く戦艦でも無理らしい)
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▼グアムに戻る機内から原爆投下作戦のB-29が出撃したノース・フィールド飛行場が綺麗に見えた。
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歴史と未来を深く考える事が出来、勉強になったテニアン島の旅だった。
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▼▲2016年12月18日訪問
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G7広島外相会合で、ジョン・ケリー米国務長官はアメリカ現役閣僚として初の原爆死没者慰霊碑訪問となり献花した。
オバマ大統領の広島訪問が実現するかもしれない。小生はとても嬉しい。
慰霊碑の石碑前面「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文は原爆投下の悲劇に対して、あえて米国
への名指しの非難をせず、人類全体の悲劇として追悼しているものと思う。
もしも名指しで米国を非難していたら、そんなところに、米国大統領は絶対に立ち寄らない。
先日のG7外相会合「広島宣言」採択は原爆投下の悲劇を、あえて人類全体の悲劇として、特定国への非難を避けてき
たからこそ実現したと強く思う。非難と追悼は別物だ、そうしないと世界は憎しみと復讐だらけになってしまう。
原爆による非戦闘員の無差別殺戮は、人類史に残すべき大虐殺である事は間違いない。
しかし特定国への非難は犠牲者追悼の場とは別の場所でやれば良いと思う。
「平和」と「自由」は非難からは生まれない。それを戦ってくれた全ての英霊が命をかけて教えてくれた。
死んだ人は戻ってこない。共に追悼し、過ちを繰り返さないと誓う。それこそが犠牲者への最大の供養になると思う。

※5/10追記
オバマ米大統領は5月10日、5月27主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)出席の為に訪日する際、広島を
訪問する方針を決めた(日米両国政府発表)
ローズ大統領副補佐官は10日朝、オバマ氏の広島訪問の意義について「大統領は広島で『核なき世界』の理念のもと
で平和と安全を追求するという米国の考え方を再確認する」とウェブ上のブログで明らかにした。原爆投下の決断につ
いて再評価はしないとしつつ「大統領の(広島)訪問は戦時中に亡くなったすべての無実の人々に敬意を表する機会と
なる」とも述べた。
素晴らしい、平成28年(2016)5月27日は日本にとっては歴史的に重要な日になると思っている。

※5/27追記オバマ大統領広島訪問首都官邸facebook オバマ大統領広島訪問 岩国基地演説YouTube
オバマ大統領 広島声明ノーカット1YouTube オバマ大統領 広島声明ノーカット2YouTube
安倍総理大臣 広島声明YouTube




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2016_05_01




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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