石垣島

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石垣島は、沖縄県内で沖縄本島、西表島に次いで3番目に大きい島で、現在約5万人が暮らす沖縄県の離島。
八重山諸島の政治・経済・教育・交通などの中心地として現在は自衛隊配備が決定し、宮古島・奄美大島と同時進行
で尖閣諸島への中国脅威にらみをきかせ、南西防衛強化を急いでいる。
本土に住む我々も常に注視しておきたい島である。そんな石垣島だが先の大戦中、沖縄本島の様な地上戦は無かった
ものの、陸海軍の航空基地や震洋特攻基地があった為、度重なる空襲に悩まされた島だった。
今回、石垣市も保存に力を入れていない事もあって、ほとんど知られていない石垣島の戦跡を巡ってきた。
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関西国際空港から約2時間、石垣島が見えてきた。2013年にオープンした新石垣空港に着陸する。
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新しい空港は非常に綺麗。しかし住民の理解を得て工事着工から完成まで新空港建設には約30年の歳月を要した。
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2013年3月まで使用されていた旧石垣空港は、大戦中の海軍石垣島南(平得)飛行場だった。この旧飛行場滑走路を延長
させれば新石垣空港を作らなくても良いのではないか?という意見がある中での遅れ遅れの新空港建設着工だった様だ。
旧石垣空港は滑走路が1500mしか無く、ボーイング737でさえ、乗客や荷物を積んで燃料を満タンにすると1500mで
は離陸出来なかった。なので石垣島から本土へ直行便を飛ばす事が出来ず、那覇で燃料補給を余儀なくされていた。
日本海軍平得飛行場当時は滑走路1200m、それでもゼロ戦を飛ばすには十分な滑走路だった。
海軍石垣島南(平得)飛行場(旧石垣空港)からは太平洋戦争(大東亜戦争)中の昭和20年4月1日~5月に、神風特別攻撃隊
「大義隊」が沖縄本島に上陸を開始した米軍艦隊に向けて爆装零戦で特攻出撃している。
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▲海軍平得(ひらえ)飛行場の図(計画では2000m級の滑走路を3本持つ広大な飛行場計画だった)
平得飛行場は海軍平喜名飛行場への観音寺部隊の駐屯と歩調を合わせるように、昭和19年2月に工事着工。
本土の原田組によって施工され、1日延べ約2000人を動員した。現場事務所前には「この工事は天皇陛下の工事である」
と書かれた立て札があったという。
昭和19年当時八重山の人口は約33000人。そこへ県立八重山農学校に司令部を置いた「独立混成第45旅団」を中心に、
陸海軍合わせて約8000人の軍人が移駐して来た事で、食糧不足が深刻な問題となっていった。
※独立混成第45旅団は日本陸軍沖縄第32軍隷下の宮古島及び石垣島の基地設定を命じらた宮崎武之少将の部隊。
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▲米軍の激しい空襲にさらされる海軍石垣島南(平得)飛行場。
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▲かつての海軍石垣島南(平得)飛行場の面影は何も残っていなかった。
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▲昭和59年頃撮影された平得飛行場に現存していた掩体壕。
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▲その掩体壕が残っていたとされる場所に行ってみたが、何と壊されていた・・・私有地だった様なので仕方ないのか。
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▲10年以上前に撮影された平得飛行場の大浜掩体壕。2000年代だがまだちゃんと残っていた・・・。
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▲鉄筋入りコンクリートと石垣を組み合わせた強固な作りだった様で、この掩体壕は建設途中だったそうだ。
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▲かすかに残る遺構は、サトウキビ畑に変わった駐機場辺りに残る当時のコンクリート。粗目のコンクリートが当時を
かすかに伝えている様だった・・・。
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ここから神風特別攻撃隊「大義隊」が約420キロ離れた沖縄本島へ特攻出撃した事を伝える痕跡は何も無い・・・。
以下、海軍南(平得)飛行場から出撃した神風特別攻撃隊「大義隊」の出撃記録。※海軍平喜名飛行場からも可能性有
昭和20年4月1日神風特別攻撃隊「第1大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
清水 武中尉(山口県出身)/酒井 正俊中尉(岐阜県出身)/松岡 清治2飛曹(埼玉県出身)/大田 静輝2飛曹(広島県出身)
昭和20年4月2日神風特別攻撃隊「第2大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
伊藤 喜代治中尉(東京都出身)
昭和20年4月4日神風特別攻撃隊「第4大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
矢田 義治上飛曹(愛知県出身)
昭和20年4月5日神風特別攻撃隊「第5大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
小林 友一上飛曹(山梨県出身)/辻村 健一郎1飛曹(山口県出身)
昭和20年4月13日神風特別攻撃隊「第9大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
満田 茂中尉(兵庫県出身)/山崎 隆2飛曹(京都府出身)
昭和20年4月14日神風特別攻撃隊「第10大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
粕谷 仁司中尉(兵庫県出身)/三浦 義信2飛曹(北海道出身)
昭和20年4月17日神風特別攻撃隊「第12大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
斎藤 信雄飛曹長(茨城県出身)/文谷 良明1飛曹(大阪府出身)
昭和20年4月28日神風特別攻撃隊「第15大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
和田 文蔵2飛曹(長崎県出身)
昭和20年5月4日神風特別攻撃隊「第17大義隊」 石垣島平得飛行場より零戦で出撃
細川 孜中尉(長野県出身)/橋爪 和美2飛曹/佐野 一斉2飛曹(山梨県出身)
※「第17/18大義隊」は台湾の宜蘭基地から。「第17大義隊」2機が八重山諸島宮古基地から出撃している。
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▲平得飛行場敷地内だった画像の場所は、その昔、地元民の居住区だった様で、海軍が居住区を全て接収して飛行場を
建設したという。掩体壕が何基も並んでいたとされる場所は、昔の地元民の居住区が復元されつつあるが、この場所ま
で旧石垣空港の滑走路を延長すれば新空港建設の必要は無かった様だが、新空港建設の理由として無理やり遺構を復元
した感が強く、資料も無く、創造だけで復元された特に価値の無い遺構は管理費を生み出すダシとなりつつある。
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▲一見すると沖縄独特の城(グスク)の様にも見えるが、そうではないらしく、詳しい資料も全く無いとの事。
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▲この場所も平得飛行場敷地内だった。当時を思わせる日本軍飛行場独特の粗目のコンクリートが残っていた。
画像右手には掩体壕が立ち並び、この道は飛行場当時のものだと言う。零戦が滑走路に向けて移動したり、駐機したり
していただろう。石垣市の土地という事なので、何基かでも掩体壕が残っていれば、神風特別攻撃隊「大義隊」の慰霊
碑とセットで供養の場所として少しでもスペースを確保して欲しかった・・・。
掩体壕を全て破壊し、謎の史跡を復元させた石垣市にも過去の戦争を思い起こしたく無い色々理由があったのだろう。
敗戦国の日本で戦争遺跡を残すというのは本当に難しい様だ。
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▲米軍統治下の1970年頃に撮影された平得飛行場(旧石垣空港)
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▲謎の遺構がある場所の地下には平得飛行場施設当時の豪が残されている。
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早速中に入ってみると、わりと綺麗に掃除されていた。謎の史跡とセットで文化財化するつもりか?
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それほど長い距離では無いが、途中に爆風除けらしき石積みがあり、一番奥で左に折れて崩落していた。
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最後まで見たので、振り返って入口を撮影し、豪を出た。
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石垣島には自衛隊500人~600人規模の駐屯が決定している。しかし島民全員が歓迎している訳では無い・・・。
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※写真を撮り忘れたが、当然自衛隊配備推進派の看板も沢山あった。半々で意見が分かれている印象だった。

初日、石垣島に到着してまず向かったのが南部のサザンゲート広場(石垣新港埠頭緑地公園)だ。
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公園内に平成25年8月15日地元有志と全国各地からの寄付によって建立された「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」が
あるからだ。石垣島に到着したらまずは此処に来て、八重山諸島巡り旅の安全祈願と、感謝の誠を捧げたかった。
太平洋戦争(大東亜戦争)関連のモニュメントとしては沖縄県で最も新しいものだという。逆に今まで忘れ去られる様に
歴史の中に埋もれていた事が非常に歯痒い思いもした。
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▲▼駐車場に車を停め、少し歩くと公園内の海沿いの場所に「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」はあった。
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昭和20年3月26日石垣島にあった陸軍白保飛行場から沖縄本島に向け、「沖縄戦」陸軍航空特攻第1号として特攻出撃
した陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」 の隊長が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市登野城出身)だった。
伊舎堂大尉は出撃を前に、家族が面談にき来ても、「郷里遠く離れて石垣島にやってきて家族にも会えない部下達がい
るのに自分だけが会うわけにはいかない」と、最後まで家族と面会せず、部下と共に慶良間諸島に停泊する米艦隊に体
当たり攻撃をかけ散華した。
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▲石碑には、石垣島陸軍白保飛行場から出撃した特攻隊員の名前が出身地・年齢と共に刻まれている。
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▲石碑の裏側には以下の内容が刻まれている。
『大東亜戦争終結六十八年を経たわが国は、戦後の荒廃を乗り越え、平和で豊かな生活を送ることが出来ています。現
代のわが国の平和と繁栄は、国家存亡の危機に殉じた英霊と戦争の犠牲となった多くの方々の礎によってもたらされた
ことを心に留め、その史実を後世に伝えていかねばなりません』
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▲伊舎堂 用久大尉(沖縄県石垣市登野城出身 享年24歳)
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▲誠第17飛行隊隊員勇士。上列右から3人目が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市登野城出身)
昭和20年3月26日04:00石垣島陸軍白保飛行場より99式襲撃機で出撃、突入戦死。
伊舎堂 用久大尉(沖縄県石垣島出身24歳)/川瀬 嘉紀大尉(三重県出身24歳)
黒田 釋少尉(愛媛県出身21歳)/安原 正文大尉(高知県出身24歳)/久保 源次郎大尉(千葉県出身23歳)
有馬 達郎少尉(鹿児島県出身17歳)/林 至寛少尉(東京都出身17歳)/芝崎 茂大尉(埼玉県出身24歳)
(独立飛行第23中隊)三式戦闘機「飛燕」で出撃(直掩/特攻)
阿部 久作大尉(北海道出身29歳)/須賀 義榮少尉(千葉県出身23歳)/長野 光宏少尉(東京都出身21歳)
金井 勇少尉(富山県出身21歳)/岩本光守少尉朝鮮名不詳(朝鮮出身20歳)/廣瀬秀夫少尉(香川県出身19歳)
安西 為夫大尉(米軍機と空中戦の末被弾、沖永良部島に不時着)
(飛行第17戦隊)
平井 俊光少佐(岡山県出身21歳)/児子 国高大尉(岡山県出身21歳)/西尾 卓三大尉(東京都出身25歳)
国谷 弘潤大尉(富山県出身21歳)/勝又 敬大尉(愛知県出身24歳)/照崎 善久少尉(大阪府出身21歳)
西川 福治少尉(兵庫県出身21歳)
(飛行第105戦隊)
長谷川 斎大尉(愛知県出身23歳)/山元 正巳少尉(鹿児島県出身19歳)/永田 一雄少尉(鹿児島県出身20歳)
石田  勝少尉(岐阜県出身20歳)/小川 多透少尉(福岡県出身20歳)/丸林 仙治少尉(岡山県出身19歳)
内藤 善次少佐(東京都出身22歳)
(飛行第19戦隊)
根本 敏雄大尉(千葉県出身22歳)/倉澤 和孝大尉(長野県出身22歳)/栗田 常雄少尉(静岡県出身22歳)
合計31名が、石垣島陸軍白保飛行場より特攻出撃し、慶良間洋上にて突入戦死している。
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▲陸軍99式襲撃機
現在、陸軍白保飛行場の遺構としては弾薬庫が数か所残されている。
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▲草木に覆われ、道路からはほぼ確認出来ない様な場所にそれはひっそり残っていた。
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今回、2つの壕(弾薬庫)を確認する事が出来た。
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▼一つは中に入る事が出来た。奥で左に徐々に折れて隣の壕に続いていた。
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▼しかし隣の壕(弾薬庫)は水没していたので、見学を止めておいた。
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▼奥で右に徐々に折れ、隣の壕と繋がっている。
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▼辺り一帯は陸軍白保飛行場の敷地だった場所だ。
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通りかかった軽トラに乗ったお爺さんが、当時の空襲の様子を教えてくれた。聞けば昭和20年の空襲時は小学2年だっ
たそうだ。度重なる米軍の空襲で穴だらけになった滑走路の砲弾跡を毎回必死に埋め戻す作業に従事したという。
話を聞いているうちに、直ぐに「みのかさ部隊」を思い出した。
陸軍白保飛行場は、陸軍航空本部が昭和18年末頃着工昭和19年5月下旬第32軍に工事が引き継がれ8月滑走路が完成
白保飛行場の建設や補修に従事したのが昭和19年11月地元住民から召集された「郷土防衛隊」第506特設警備工兵隊
(高良隊)だ。その愛称は、「みのかさ部隊」と呼ばれた。何故「みのかさ」なのか?
 物資不足の折で軍服は配給されず、着衣はすべて私服だったからだ。当時を知る宮良祐八さん(87)は「雨が降ると、
みのかさをかぶり作業したところから「みのかさ部隊」と呼ばれた。」と語っておられる。
「空襲の酷い時には、頭に2~3ミリの薄い鉄板を切り取った鉄かぶとも被った事がある。」と、振り返る。
靴のない者はわらじを履き、野良仕事の為に田畑に出かける格好そのままだったと言う。
米軍機は日本の特攻機の出撃を妨げ様と、白保飛行場に連日の爆撃を浴びせた。「みのかさ部隊」は特攻機の離着陸を
可能にする為、敵機が去るのを待ち、モッコで土を運び、スコップで弾痕の穴を埋めた。作業中に米軍機が来襲し機銃
掃射を浴びせることもしばしばで、犠牲者が続出した。時には自宅の塀(石垣)を持って行って埋めるのに利用した。
部隊の一員だった故石垣正二さんは回想録で「血のにじむような思いで補修したら、翌日はまた(敵機が)来襲して破
壊していくという具合で、連日の出動に兵は精根も尽き果てていた」と語る。
それでも作業は沖縄戦終結まで続き「みのかさ部隊」は「八重山諸島の戦闘では最も功績が多い」と言われたという。
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▼▲昭和20年、米軍の爆撃を受ける陸軍白保飛行場
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▼緑で示した部分が現在使用されている新石垣島空港だ。
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▼石垣島地図で飛行場を見る。
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黄印(新石垣空港)、緑印(陸軍白保飛行場)、紫印(海軍平得飛行場/旧石垣空港)、ピンク印(海軍平喜名飛行場)

石垣島に布陣していた陸軍は下記の通り。
沖縄第32軍管下 独立混成第45旅団(宮崎武之少将)
独立歩兵第271大隊(宮田金吾少佐)/独立歩兵第272大隊(下田直美少佐)/独立歩兵第273大隊(楠瀬一珍少佐)    
独立歩兵第298大隊(毛木 昭少佐)/独立歩兵第299大隊(高木清太郎大尉)/独立歩兵第300大隊(瀧口武臣大尉) 
独立歩兵第301大隊(阿部 繁少佐)/独立混成第15旅団工兵隊(大藤芳久大尉)

石垣島に初めて飛行場が完成したのは昭和8年に完成した平喜名飛行場(海軍石垣島北飛行場)である。
現在跡地の大部分が国際農林水産業研究センター熱帯・島嶼研究拠点となっており一般人立入禁止となっている。
敷地内に通信施設が現存(見学不可)、北側の宮良川沿いの崖には、昭和18年12月に佐世保海軍航空部隊から来た
観音時部隊の駐屯した壕が現存している。石垣島では最大級の地下豪陣地である。
※昭和19年1月には石垣島で「郷土防衛隊」として第227特設警備隊(三木隊)、第226隊(又吉隊)が招集、編成される。
※石垣島南東部に位置する石垣市宮良には宮良飛行場(秘匿飛行場)も存在していたそうだ。
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▼宮良川
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▼平喜名橋
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▼平喜名橋を渡ると、そこからはかつて海軍平喜名飛行場(海軍石垣島北飛行場)だった場所だ。
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川沿いを進んで行くとジャングルに戻りつつある元飛行場下の崖に向かう。左は川、右手丘の上は元飛行場。
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藪の中に入り、崖沿いを進んで行くと・・・平喜名飛行場地下陣地壕口があった!大きい坑口!
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特に危険な様子も無いので、早速入壕を開始する。
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しばらく奥に行くと左に曲がっている。
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海軍掘削という事もあり、とのたま氏とyakumo氏に連れって行ってもらった野島地下壕によく似ている。
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左へ折れてからも奥まで続いている。石垣島まで来てこの様な壕探索が出来るとは夢にも思わなかった。
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再度左へ折れると、外へと抜ける場所があった。海軍らしいコンクリートまきだ!
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筆者との比較で壕の大きさが解って頂けると思う。
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素晴らしい!戦闘が無かったとはいえ、流石海軍設営隊、強固に作られている。
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外に出てみると爆風除けの石垣など、かなり上陸戦闘を意識して作られている。
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幹部クラスの避難壕としての役割もにらっていた為か、南方離島の壕としてはかなり手間がかかっている様だ。
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▲碍子などもそのまま放置されており、壕内に電気が通っていた事が確認出来る。
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▲発電機の台座の様な跡も残っている、まだ奥へと続いている。
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▲行き止まりかと思ったが左へ折れ、出口へと続いていた。
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▲また外へと抜けた。壕口は3つ確認出来た。
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▼さぁ、戻ろう。
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▼元来た通りに戻って地下壕を後にした。
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▼地下壕を出て丘の上へ。豪の上(地上)は畑になっている。かつて此処は日本軍機が駐機していた場所だ。
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画像の斜め左側下が宮良川だ。
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▼畑と国際農林水産業研究センターの間には道路が走っている。左側が畑、右側は国際農林水産業研究センター
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国際農林水産業研究センター敷地内には通信壕が残っているそうだが、徐々に壊されつつあるとの事。
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▲国際農林水産業研究センター敷地内が平喜名飛行場(海軍石垣島北飛行場)の滑走路があった場所だ。

屋良部岳(216m)山頂の大岩の上にに機銃台座跡が残されているとの事で登山してみた。
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▲中腹までは車で行けたが、そこからは足で登山となる。
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多少足場は悪いが、一応登山道となっているので誰でも登れる道だ。
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▲こんな岩も乗り越えて登っていく。
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▲登山はこんな感じ、写っているのは筆者。
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▲頂上の岩が見えた!ここまで約15分~20分ぐらい。
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▲頂上の岩の上まで来ると確かにあった。台座跡が。しかし機関銃座ではなさそうだ。小さいので観測機器の台座跡と
思われる(情報求む)。しかし、ここからの眺めは絶景!於茂登岳や川平湾が一望出来た。
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▲正面の山が於茂登岳。右手奥の湾は川平湾。その手前方向のビーチは米原海岸という事になる。
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▲アングルを左(西側)にもっていくと、崎枝方面の御神崎の灯台まで見えた。
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ガイドブックにも掲載されない戦跡が観光客にも忘れ去られ、踏まれながらひっそりと残っている。
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▼米原ビーチに向かう途中、小さな展望台っぽい場所があったので立ち止まった。何やら高級住宅街の匂いがした。
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▼石垣島はプチバブル。本土移住者向の売土地は海沿いの至る所にあるが、とても私が買える様な価格では無い。
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▼地元の方は台風を考えて海沿は敬遠すると言うが、やはり綺麗な海が見えるロケーションはいいな~別荘欲しい!
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▼石垣市桴海地区にある米原ビーチは「米原キャンプ場」として古くからある有名な場所。
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平成2年4月16日オウム真理教の麻原教祖は、「日本が沈没する」との予言のもと救済セミナーを指示。
1270人の信者を引き連れ石垣島に集結し、米原キャンプ場で「石垣セミナー」を開催、約500人の出家者を認定。
静かな米原キャンプ場には1300人の教壇関係者とマスコミなどが殺到。現場は大混乱となった。
当時無料だった米原キャンプ場はそれ以来有料となり、キャンプをするには住所氏名を書類に書く事になったという。
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透き通る様な海は絶景だ。本土からの旅行者は地元民の迷惑とならない様、心がけて楽しみたい。
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オウム真理教「外報部長」だった上祐 史浩の元運転手は石垣島の老舗ホテルでフロント業務をしていたり、工芸品販売
員などをしながら島に残り、まだ残党が少なからず残っていると聞いた。
戦跡と関係無い話だが、上祐元受刑者が代表の「ひかりの輪」が、狂気の団体としてまだ存在する事に憤りを感じる。
2度とこの様な宗教団体が島に入らない事を熱望する。
▼戦跡から離れついでに、ミーハーと言われながらも米原キャンプ場から近いのでちょっと覗いてみた。
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▲大麻女優と呼ばれた「高樹 沙耶」(益戸 育江)が経営する1500坪のコテージ「虹の豆 浮世離れ」の入口だ。
2016年10月25日大麻取締法違反(所持)の疑いで現行犯逮捕されてから主を失い、現在は当然営業していない。
個人的には、ジャングルを切り開き、3年かけて本人と数人の手作りで作り上げたコテージは凄いと思っていたし、自
然回帰活動を推進し、自給自足の生活をする益戸 育江に憧れが無い訳では無い。
しかし、資本主義社会から離れて自由に生活するのは良いとしても法律違反は・・・非常に残念。戦場の極限状態でも
ない限り、平和な世の中で健康、五体満足であれば人間に薬物は基本不要!!と言いたい。
彼女を信用して手伝ったり関わった地元の方達も裏切った事になる。ナイチャーのイメージを下げないで頂きたい。

話が戦跡から脱線したが、元に戻したいと思う。
戦時中、石垣島には度々米軍の空襲があったのはお伝えした通りだが、現在でも工事等の度に不発弾が多く出る。
不発弾を除去した後、処理するまでの間保管しておく施設が作られている。屋良部岳周辺に最近建設されたそうだ。
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旧海軍の防空壕にそっくりなこのコンクリート製の建物の中には不発弾がギッシリ保管されている。
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崎枝に足を延ばすと明治30年建造の「電信屋」と呼ばれる建物がある。正式名称「元海底電線陸揚室」
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▼大崎牧場では牛がのんびりしていた。石垣牛は有名だが、基本子牛での出荷がメイン。本土で育てられて「神戸牛」
や「宮崎牛」などのブランド牛となる。サトウキビ農家より買い取り価格が良い黒毛和牛の酪農にシフトしつつある。
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アスファルトの道から大崎牧場が見えたら左へ。凸凹道を海に向かって走っていくと弾痕だらけの建物は建っていた。
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「沖縄戦」では重要な軍の施設と見なされ、連合軍の空からの猛攻撃を受けた。弾痕が多く残っている。
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▲中は劣化が進んでいるが空襲を受けながらも100年以上この場所に建ち続けている。
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鹿児島~奄美諸島~沖縄本島~石垣島~台湾(基隆)を結んでいた海底ケーブルの陸揚施設だった。
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▼「電信屋」の裏は綺麗な大崎ビーチだ。
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戦跡も魅力的なのだが、どうしても綺麗な海を眺めてしまう・・・。
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▼川平湾は国の名勝に指定されている。島内随一の人気観光地で、世界有数の透明度を誇る海に、小さな島々が浮かぶ
風景はパラオ共和国を思い出した。此処は絵に描いたような絶景だ。
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時間が経つのも忘れてしまう程の絶景だった・・・。
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ここは日本か・・・と思う程美しいビーチと海。大戦中も風景は同じだっただろう。
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▼戦後の昭和41年3月に撮影された川平湾
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▼17世紀中葉に創建されたという川平観音堂。
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▼綺麗な景色を眺めるのもほどほどに目的地に向かう。川平湾の奥(矢印の部分)は第19震洋隊の「特攻艇秘匿壕跡」
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昭和19年2月16~18日、日本海軍基地があり、連合艦隊の停泊地でもあった「トラック諸島」(現チューク諸島)が米
軍による大空襲を受けて壊滅状態になって以降、南西諸島の防備強化が着手され、昭和19年4月沖縄方面根拠地隊が編
成された。続いて9月、宮古島・石垣島に警備隊が新設され、大島防備隊と共にその指揮下に入った。
海軍石垣島警備隊(司令官は井上乙彦大佐)はバンナ岳に司令部を置いた。
昭和19年10月15日、川平湾に海軍第19震洋隊50隻が配備される(大河原中尉以下186名内4名戦死)
この時住民は九州の宮崎への疎開を命じられたが、川平の住民と町会議員の粘り強い陳情によって昭和19年10月15日
石垣島の崎枝地区への移転に疎開命令が変更された。
既に昭和19年7月には奄美大島・徳之島・沖縄本島・宮古島・石垣島(八重山諸島)の子供、老人を、本土と台湾に緊急
疎開させる事を閣議決定していたので、9月頃からは石垣島の島民も台湾への疎開をはじめていた。
しかし、米軍の空襲を避けて夜間に出航した「ポンポン船」や木造船は米軍の低空機銃掃射に襲われ、亡くなる者も多
かった。中には「魚釣島」(尖閣諸島)に漂流し、無人島の魚釣島の飢餓地獄で命を落とした者も少なくないという。
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美しい川平湾をグラスボートで遊覧するツアーに多くの観光客が吸い込まれていく。特攻艇秘匿壕目的で此処を訪れた
人が一体年間何人いるだろう・・・ま、特攻艇「震洋」を知っている人も少ないけど・・・。
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▲景色は堪能させて頂いたが、グラスボート遊覧は行かず、特攻艇秘匿壕探しに向かった。
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▲観光客でにぎわう人気の景勝地、グラスボート遊覧乗り場から車で少し南へ移動、解りにくい枝道から川平湾に出る
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お昼14:00頃の引き潮時がよいだろう。「特攻艇秘匿壕跡」まで歩き易い。
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▲画像中央の海岸を注意深く見ながら川平湾グラスボート遊覧乗り場に向かって戻る様に歩いていくと・・・。
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▲あった!海軍第19震洋隊の特攻艇「震洋」を格納していた「特攻艇秘匿壕」。西側には5つ残っているはず。
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▲1つ目は入口から直ぐ入った所で崩落していた・・・。2つ目に向かう。
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▲草木に覆われて思わず通り過ぎてしまったが、見つけた!2つ目。
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▲此処は崩落は無さそうだがしっかり柵が設置されていた。
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▲崩落・落盤・陥没の危険性は良くわかるが、「特殊地下壕」って何??ちゃんと説明版書こうよ・・・。
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▲柵の間から中を撮影。奥が崩落している・・・、確かに危ないわ・・・。気を取り直して3つ目を探す。
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▲戦跡巡りとはいえ、綺麗な川平湾の海に気をとられ、思わず眺めてしまう程の美しい海と景色。
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▲壕と壕の間隔がほぼ一定なので、もう慣れたもの。3つ目発見!此処は入れそうだ。
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早速入壕する。
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1つの壕に、全長約5mの震洋が5隻収められていたというから長さ25mはあるだろう。
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所々小崩落は見られるが突き当りまで行けた。
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さぁ、壕を出て4つ目を探そう。米軍が撮影した「震洋」。米兵との比較で大きさがよくわかる。
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▼あっさり4つ目を発見。一番解り易かった。此処に「震洋」が入っていたんだな・・・。
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▼沖縄本島で米軍に鹵獲された海軍特攻艇「震洋」。ベニア板で製作された船体にトラックのエンジン・・・。
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船首部分に250キロ爆弾を搭載。敵艦に体当たりする特攻ボートだ。
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4つ目にもこの看板・・・、マジックで[ 旧日本海軍特攻艇「震洋」秘匿壕跡 ]と書きたくなる・・・。
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▲奥の方は赤土が入り込んで崩落している・・・。
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▲5つ目はまわりこんだ海岸を少し歩いた場所にあった、断崖の様に見えるが当時はえぐられて無かったのだろう。
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ここも柵が・・・。
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此処も盛大に崩落していた。NHK沖縄「戦跡と証言」
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西側の秘匿壕は5つ全て見学したので川平湾を後にした。川平湾を挟んで東側にも3~5つ残っているそうだ。
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日本海軍第19震洋隊はここ川平湾に50隻が配備されていたという記録と合致するので納得して見学を終えた。

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宮良湾には昭和19年10月25日、第23震洋隊52隻が配備された.。(幕田稔大尉以下184名内1名戦死)
翌年の昭和20年1月15日には小浜島から転進してきた第38震洋隊も配備。(旅井少尉以下188名内86名戦死)
宮良にも「震洋」秘匿壕跡がいくつか残っているが、私有地内や崩落などで全て見学出来ない為、今回2つ見学した。
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海沿いの国道390号線を東に進み、宮良川を渡って道をそれ、サトウキビ畑の農道を歩いていくと壕はあった。
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ここは第38震洋隊(旅井少尉以下188名内86名戦死)の使用した「震洋」秘匿壕跡。
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流石南国。2017年1月1日元旦というのに気温は26℃。暑いぐらい。植物は枯れる事無く元気に育っている。
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ここでも「特殊地下壕」の看板・・・。
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奥は崩落が始まっていた。壕の掘られている丘の上には新しいマンションがどんどん建設されているので、後10年もす
れば、崩れて痕跡すら無くなってしまうだろう・・・。
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飛行機の轟音がしたので空を見上げると、新石垣空港から離陸した旅客機が見えた。
国道390号線を挟んで反対側(宮良湾に近い方)の宮良集落入り口付近には第23震洋隊(幕田隊)の秘匿壕跡がある。
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▲幕田隊の兵舎があったとされる付近には、立派な鳥居が建てられていた。
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▲中国人が約1億円で買い取ったというペンション?ホテル?が目印。
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また畑跡の様なジャングルを歩いていくと豪はあった。しっかり柵が立てられている。
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▼柵の合間からカメラをねじ込んで内部を撮影。
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中はとても綺麗に保たれており、崩落個所も見当たらなかった。隣にもう豪が現存し、中でV字で繋がっているとの事
私有地内という事でそちらの壕は見学する事は出来なかった。
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▲第23震洋隊(幕田隊)の秘匿壕から宮良湾は近い。いつでも決死の特攻出撃態勢を整えていたことだろう。
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桟橋の跡が残っているという事だったが、コンクリートの残骸が既に自然と同化しつつあった。痕跡があまりにも少な
かったので、気にせず美しい海の景色に集中していた。見えているのは石垣島南部の大浜付近だろう。
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これで石垣島警備隊の震洋隊基地は全て見学した事になる。隊員の戦死はほとんどが空襲と戦争マラリアと聞いた。
※第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉は、日本敗戦後の昭和25年4月7日BC級戦犯として処刑されている。
同時に石垣島でも多くの住民が飛行場建設や陣地壕構築、「震洋」秘匿壕構築にかりだされた挙句マラリアに苦しんで
死んでいった。「天皇の大御心」(すめらみことのおおみこころ)の元で農地を奪われ、「供出」として軍への物品提供
や食糧の提供、木材や鍋・釜に至るまで供出し続けたという。
食糧事情がいよいよ悪化すると、強制的に島の人々から食糧を奪い取る兵隊も出始め、家畜の接収・牧牛や農耕用の牛
が軍によって無断で「演習」と称して射殺され、兵隊の食糧として奪われたという。
石垣島付近離島では、(竹富町)鳩間島・小浜島に第26震洋隊52隻[ 毛利大尉以下184名内5名戦死 ](S19.11.05配備)
が駐屯していた。小浜島・西表島には「震洋」秘匿壕が現存しているそうで、西表島には病院壕等の海軍独特の複数の
コンクリートまきの豪が現存するとの事。次回是非行って見たいと思う。
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▲沖縄本島国頭郡金武町で米軍に鹵獲された第42震洋隊か、第22震洋隊の海軍特攻艇「震洋」
 ※蓋が開けられ、船首部分にに250キロ爆弾が見える。

石垣島南部。市役所や繁華街がある美崎町は石垣市の中心地だ(好きな720が現役で走っている姿を無意識に撮影)
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ここに730交差点という場所がある。
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戦前の沖縄県は日本国内の他の地域と同じく自動車は左側通行であったが、沖縄戦終了直後の昭和20年6月24日に沖縄
を占領下に置いたアメリカ軍により右側通行に変更されていた。「730」の名称は昭和47年沖縄返還後の昭和53年7月
30日をもって県内全域で日本本土同様の左側通行に戻したことに由来する。
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当日は午前6時に経過措置終了を知らせる消防署のサイレンと石垣港に停泊する船の汽笛が鳴らされ、県外からの応援
71名を含む総勢164名の警察官及び民間指導員が終日、本交差点を通過する自動車に左側通行を指導した。
この際に大きな事故も無くスムーズに左側通行への移行が完了したことを記念して「730の石碑」が立てられた。
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▼石垣市の中心地に桃林寺(とうりんじ)と権現堂(ごんげんどう)がある。国の重要文化財に指定されている寺院だ。
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石垣で初めての仏教寺院として、琉球に侵入した薩摩藩が尚寧王に進言して慶長19年(1614年)創建。
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▲桃林寺山門の2体の仁王像は元文2年(1737年)に作られた沖縄最古の木造彫刻。
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▲権現堂の表門と石垣。
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正月という事も重なって、権現堂(拝殿)でお参りさせて頂いた。
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▲権現堂神殿。沖縄戦で伝統的な建造物の多くを失った沖縄においては、本格的な近世社寺建築の唯一の遺構であり、
日本最南端に位置する遺構だ。権現堂は昭和56年6月5日国の重要文化財に指定された。
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▼桃林寺本堂
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此処のおみくじはよく当たる事で有名だ。お賽銭100円を納めれば引く事が出来る。
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▲本土の有名寺院の様に、拝観料・お賽銭・おみくじ料といった様に何度もお金をむしりとる様な事は無い。
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▲此処に来た理由はもう1つある。戦時中に起こった「石垣島事件」で、日本敗戦後BC級戦犯として処刑された石垣島
海軍警備隊司令官 井上乙彦大佐の墓碑を訪れる事だ。
「石垣島事件」とは、(昭和20年4月15日朝)石垣島宮良飛行場(南東部宮良にあった海軍秘匿飛行場)を空襲した米空母
マカースレイトの雷撃機グラマンTBFアヴェンジャー編隊の1機が、海軍石垣島警備隊の対空攻撃で撃墜され、テボ中尉
ロイド1等飛行通信兵曹・タッグル1等飛行機関兵曹の3名がパラシュートで大浜沖合に落下。
落下した3名の飛行士は石垣島海軍警備隊兵士に逮捕されて捕虜となった。海警隊による事情聴取後の当夜、テボ中尉
とタッグル兵曹はバンナ岳麓の本部近くで斬首。ロイド兵曹は刺突演習に供され殺害された。
日本敗戦が決定後、米軍の占領に備え井上乙彦は3名の遺体の掘り出しを命じ、焼却して灰は海中に投棄させた。
そして十字架を建て「丁重に葬った」と偽装して石垣島の米軍占領を乗り切った。しかしGHQへ匿名の密告投書があっ
たとされる「鹿児島消印の封書」から事件が発覚。事件に関わったとされる46人が逮捕された。
BC級戦犯裁判(1947/11/26~3/16)で石垣島海軍警備隊司令官 井上乙彦大佐(神奈川県出身)が絞首刑(享年52歳)
副司令 井上勝太郎大尉(岐阜県出身)も絞首刑(享年27歳)、第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉(山形県出身)は司令の命令
により捕虜1名処刑の罪で絞首刑(享年30歳)他、榎本宗憲中尉(絞首刑)/田口泰正少尉(絞首刑)/成迫忠邦兵曹(絞首刑)
/藤中松雄1等兵曹(福岡県出身)享年29歳(絞首刑)など将校3名と兵士29名が無期~懲役5年となった。
日本兵同志の裏切り・密告・責任の擦り合いで井上乙彦大佐は混乱、部下もこれに応じて大混乱し、法廷の混乱は本来、
司令と後数名の処罰で済んだ事件で多数の重刑者を出してしまった。
※一説には横浜軍事法廷で井上乙彦大佐が「部下が勝手にやったこと」と主張したことにより混乱したという話もある。
※(1950/4/7井上乙彦大佐絞首刑)/(1950/4/7井上勝太郎大尉絞首刑)/(1950/4/7幕田稔大尉絞首刑)
  昭和25年(1950)4月7日東京のスガモプリズンで戦犯最後の処刑となった。
▼墓碑裏の碑文
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※石垣島では陸上戦闘は無かったが、空襲や戦争マラリアで軍人約600人・島民約3800人余りが亡くなっている。
以下、警備隊司令・井上乙彦海軍大佐の歎願書と遺書。と、第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉の遺書。

歎願書
マッカアサー元帥閣下
私は四月七日巣鴨監獄にて絞首刑を受ける元石垣島海軍警備隊指令井上乙彦であります。
私独りが絞首刑を執行され、今回執行予定の旧部下の六名及び既に減刑された人達を減刑されん事を三回に亘り事情を
具して嘆願致しましたが、今日の結果となりました事を誠に遺憾に存じ乍ら私は刑死してゆくのであります。
由来、日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命令による場合は極めて責任が軽い事になって
ゐます。戦時中の私達の行動は総て其の様に処理されてゐたのであります。
若し間に合はばこの六名を助命して戴きたいのであります。
閣下よ。
今回の私達の処刑を以て日本戦犯絞首刑の最後の執行とせられんことを伏して私は歎願致します。
これ以上絞首刑を続行するは米国の為にも世界平和の為にも百害あって一利なきことを確信する次第であります。
また神は不公正及び欺瞞ある公判によって刑死者を続出するは好み給はぬと信じます。
尚之を押し進めるならば神の罰を被るは必然と信じます。
願くは刑死しゆく私の歎願書を慈悲深く、広量なる閣下の御心に聞き届け給はん事を。
4月6日   井上 乙彦

遺 書 昭和25年4月5日夜於巣鴨、絞刑前。
今朝文彦が面会に来てくれて誠に嬉うございました。
面会前今週はあぶないと感じましたので文彦にも来月千鶴子の面会は望みない旨申しておきました。
[ ゆくりなく初面会に来し次男永遠の別れと知らず帰りき ]
文彦も一人前の立派な男になった姿を見てすっかり安心しました。
千鶴子の面会の時はいつもこれが最後ではないかと思ってゐました。
既に戦場で幾度か死地に陥ってゐたのが今まで生きて来たのをもうけものだと思って下さい。
21年の大晦日に拘引されて以来父なき家をかよわい手で支へて来たのですがこの五年間の苦しみをいつまでつづけねば
ならぬか判りませぬが誠心の吾が家には何時かは必ず神様のお救ひがあると確信してゐます。
私の魂はそれを祈ってゐます。私の魂は天にも浄土にも行きません。
愛する千鶴子や和彦や文彦や千賀子といつも一緒にゐるつもりです。
今日までは牢獄に繋がれて手も足も出ませんでしたが魂が此の身体から抜け出せば何時でもまた何処へでもすぐ行って
あなた達を助けることが出来ます。助けの入用な時やまた苦しい時はお呼びなさい。何時でも助けになりますから。
私は齢51歳になって人生50を過ぎて、命の惜しい時ではありません。
また生きてゐても最早米食い虫に過ぎぬと思ふ体です。
然し愛する妻子が戦犯の汚名で死刑された者の家族であると言ふ事を考へると可哀想です。
当分は肩身の狭い思ひをし、またある処では白眼視されると思ふとたまらない気持がします。
くよくよしてもきりがありませんから私が息をひきとる4月7日の正午を境にして気持をきりかへて再出発の覚悟をきめ
なをして下さい。この遺書がいつお手にとどくか判りませんが若し着かなくてもあなた達の更生の覚悟は決ってゐて新
生活に邁進なさる事が出来るのを確信して行きます。あとで墓も不用です。
お葬ひや告別式などの儀式殊に饗宴類は私の為には無用です。絞刑の友〇名と準備室に曳かれてきてゐます。
皆しっかりしてゐるのには敬服とも感激とも言ひ様がありません。唯頭が下がるばかりです。
前から責任者である私だけにしてあとは減刑して下さいと幾度か願ったが終にこの結果になって御本人にも御遺族の方
にも誠に相済みません。公判以来弁護に歎願にたくさんの方々にお世話になりましたが御礼の方法もなく死亡通知も出
せるかどうか判らず、止むを得ぬ事だと思ひます。
辞 世
‘笑って行く’と署名してある壁文字を遺書おく棚のわきに見出しぬ
絞台に吾が息たゆるたまゆらを知らずに妻子は待ちつつあらむ
石垣島に逝きしここだの戦友の遺族思ひをり最期の夜ごろを
春雨に肌寒き今日を床のべて今宵限りのいのちを愛しむ
独房に燭をともしてうやうやしく神父は吾に授礼し給ふ


石垣島第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉 遺書。
夜9時頃処刑言渡式があり、承認の署名を求められるかと考へていたがなかった。署名は兎に角こりごりである。
全く強制暴力により署名させられ、それが自発的自白になる苦い経験は二度とくりかへしたくない。
死によってすべて御破算になるのではない。
言渡式が始まるのを外の廊下で椅子に腰かけて待ってゐるとき本当に落着いた気持になって考へたら死といふものはな
い様に思はれる。かねがねの不死の確信が絶対間違いでなかった事が絶対の立場に臨んで確証されたと信ずる。
私の肉体は亡びる。生命も消滅するであらう。霊魂という様なものがあったら其れも無に帰するであらう。
然し現在の私は永遠に存続する。此の世界宇宙は残ってゐる。
昨年5月25日夜突然私の脳裏に深き確信をもって浮んで来た、
自己即宇宙―道元の言葉をかりて云えば尽十方世界といふ様なものであらうか-の意義は現在に於ては私が死んでも世
界は残るといふほのかな確信になって残ってゐるのであると考える。
死といふ事が昨年五月以前に考えてゐた様な感覚で私に迫って来ない。実在の死として感じられない。
此の感覚は私の幻覚としてほのかに私によみがへって来た様に最初は考え、言渡式が始まる頃まで消え失せるのではな
からうかなど危惧に似た思ひがしたが言渡式が終っても以前として残ってゐる。私の頭脳にほのぼのとしてゐる。
であるから今の私には死といふ物が殆ど平常の生活に於ける感じと異ならない。
恐らく読む人は誇張と受取るかも知れないがそうでない。
勿論明日の事はわからないが現在の心境は五棟の三階で何時もの様に起居してゐる時と少しも変りはない。
こんな理であるから理性的に考えてみれば署名した事が私の死後どうならうと私の知った事ではないのであるが私は現
在即永遠の私の残生に対して莫迦げた高圧的な圧力に屈したくなかったのである。
私の良心に対し、私の内なる仏に対し厳密に忠実でありたかったわけである。
いくら考えても軍隊組織内に於て命令でやった事が此の現実的な世界に於て死に価するとは考へられない。
原爆で死せる幾十万の人間を生かして私の眼の前に並べてくれたら私は喜んで署名もしよう。そうでない限り受諾でき
ないのである。大体この世界に於て人間の行為に対し罰し得る者は居ない筈である。罰し得るのは自分自身だけである。
自分自身の内なる仏があるのみである。敢て他人を罰するのは人間の増長慢なり。
神仏を知らざる神仏に逆きたる者である。
人間各自が各々自分自身を自分で罰し得る世界は理想であり現実に実現不可能なのかも知れないが少なくとも現在の二
十世紀の人間の余りに人間の仏性を無視し、ないがしろにしてゐる事が此処に於てはっきりと了解出来る。
正直の所私は今回の判決に対して死に価するとは思はない。
私の心をみきわめしとき、人間は必ず一度経験しなければならない死を無視して永遠に自分にだけは死がないといふ様
な考えを持って居った。それはそれでよいのであらうが一度現実の死を深く勇敢に凝視して人間の死は実際に於てはな
いものだとの自覚に到達するのが仏教の教えの一点であり、人生を自覚し永世を得る所以であると考える。
結果は同じであり、平凡であるが自覚の内容、根底に於て異なるものがあるのだと確信する。
私も如何なる経過をとり斯の様な自覚に達するのか哲学的の組織ある説明は出来ないが西田哲学に言はれる絶対無の体
験を得た時此の自覚が生ずるのであらうと思ふ。
永遠なる現在であり、それを透して望み得られるものは眼前に照々乎たる現実の世界である。そして、其処では永遠=
涅槃=地ごく=死=仏そして究極は総て無なのである。あらゆる物を疑ひ否定し尽した時、忽然として体験される「自
己は世界なり」とは絶体無の体験を通過して生ずる自覚であり、生命ある此の具体的事実である。
ニヒリズムは此の否定を観念で唯頭の中で否定を行ひ具体的事実から離れてゐる所に危険性があると考えてゐる。
だから仏教で言はれる無とニヒリズム(と)には、生命を内蔵した具体的事実と初めから生命のない抽象された観念的
遊戯との差異があり、仏教の否定をニヒリズムと考えるのは根本的に違ふのだと自己流に考えてゐる。
身体ごと体当りして体験してゆくのと頭の中の思考だけの事とは、全く違ったものであると考える。
古人曰く「人生は生死一大事因縁をあきらめる道場なり」と。
古人の此の気魄が私に無限の勇気を与へてくれ何となくうれしい。
一昨年九月頃から文字通り唯「仏の実在か不実在か」をあきらめんとして五里霧中の暗黒を彷徨しつづけた。
文字通り寝食を忘れた精神が全く莫迦げた私の三十年の人生にとり一点の光明であったと信ずる。
よくあの時の精力と根気がつづいたものだと吾ながら感心する。
そして昨年五月二十五日が私の人生の永遠に再生した日であった。何の理屈もいらない『吾即宇宙』。
勿論如何にしてそんな結果になったのか、そんな事は夢にも考えてゐなかった私にわからう筈もない。
唯釈尊も此のちっぽけな私も根本に於ては一つであったのだ。否釈尊がその侭私であったと感ずる所から来る自己の不
遜に対する畏怖、気が狂ってしまったのではないかとの自己に対する疑―此の幻覚を払ひ落さんとして頭をふり、部屋
を見廻して異状の有無を確めたりした事だった―次で此の世の中で苦労し悩む人々に対してどうしてこんな理屈も何も
ない簡単な事がわからないのかとの憐憫とも憤懣ともつかない涙がぽろりぽろりと落ちた。
次に頭に浮んだのは「私は正に処刑されんとしてゐるが、なあんだ此の大宇宙を殺さんとしてゐるのも同じ事ではない
か、知らざる者の阿呆さよ」と腹の底から湧き出んとする哄笑を止めんとするのに一苦労した事であった。
此の噴笑の衝動は其の後座禅してゐるときしばしば起り隣の佐藤氏を驚かしてはいけないと止めるのに骨折ったのが昨
日の事の様に私の頭にこびりついて離れない。「今頃此の俺を殺さんとするのは丁度空気を棒でたたく様なものだ。吊
り下げたと思ったらあに計らんや虚空の一角に呵々大笑するを聞かざるや」
思はず脱線して大風呂敷を広げてゐるような恰好になってしまった。
昨日から書き始めた漫談であるが遺書を書かなければならぬので一先ず筆を置く。外は霧雨がけむってゐる。
辞 世
網越しに今日見し母の額なる深き皺々(しはじは)眼はなれず
老母のかけし前歯が悲しけれ最後(つい)の別れと今に思へば
吾が最後の夜とも知らず陸奥(みちのく)に帰りつつあらむ老母思ふ
夜半にめざめ思い浮べる母の歌ついのかたみと書き留めにけり

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▲石垣島南部冨崎の観音崎に唐人墓がある。ここには中国福建省出身者128人の霊が祀られている。
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1852年(嘉永5年)2月厦門[ アモイ ]現在の中華人民共和国福建省南部)で集められた400人余りの苦力(クーリー)が、
米国船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途中、辮髪(べんぱつ)を切られたり、病人を海中に投棄される
などの暴行に堪えかねてついに蜂起し、船長ら7人を打ち殺した。

※クーリーとは、奴隷制度が廃止された後、ヨーロッパ諸国の多くの植民地やアメリカで労働力が不足した、19世紀~
 20世紀初頭にかけて、イギリスの植民地であったインド亜大陸の貧民層や、アヘン戦争後には、広東・福建両省を中
 心に、汕頭市、厦門、マカオなどから労働力として世界各地に送られた出稼ぎの労働者である。
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船はその後台湾に向かったが、石垣島沖に座礁してしまい380人が島に上陸。 石垣の人々は仮小屋を建てて彼らを収
容した。 しかし米国と英国の海軍が3回にわたり来島、砲撃を加え、武装兵が上陸して厳しく捜索を行った。
中国人達は山中に逃亡したが、銃撃・逮捕され、自殺者や病没者が続出した。
琉球王朝と蔵元は人道的に対応。島民も密かに食糧や水を運び、中国人側の被害が少なくするよう配慮したという。
後に事件処理に関する国際交渉に取り組んだ結果、翌1853年9月琉球側が船2隻を仕立て生存者172人を福州に送還。
中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対の運動が起こった。
中国人が埋葬された墓が点在していたが、石垣市はこれらを合祀慰霊する為、台湾政府、在琉華僑の支援も受け、この
場所に唐人墓を昭和46年に完成させた。
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この墓地の一郭に、上記で紹介した「石垣島事件」で日本軍によって処刑された、テボ中尉・ロイド1等飛行通信兵曹・
タッグル1等飛行機関兵曹3名の米軍飛行士の慰霊碑が建てられている。平成13年に彼らの慰霊と平和祈念の為に建て
られたものだ。唐人墓と同様、どちらも非条理な死を迎えた方々の慰霊のモニュメントだが、欲を言えば隣に「石垣島
事件」でBC級戦犯として処刑された日本軍人の慰霊碑も建てて欲しかった・・・。結局「やられたらやり返す」の戦争
で、戦犯などあるはずがない。勝った者が負けた者を裁く、ただの仕返し裁判だったのだから・・・。
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▲テボ中尉(享年28歳)・ロイド1等飛行通信兵曹(享年24歳)・タッグル1等飛行機関兵曹(享年20歳)の慰霊碑。
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▲左から順に。
 Robert Tuggle, Jr.(タッグル1等飛行機関兵曹)Vernon L.Tebo(テボ中尉)Warren H.Loyd(ロイド1等飛行通信兵曹)
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▲唐人墓近くにある琉球冨崎灯台は、昭和28年7月米軍によって建設され、昭和47年5月の沖縄本土復帰とともに海上
保安庁に引き継がれた。何度かの改良が加えられて現在に至っている現役の灯台である。
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▲ここはフサキビーチとともに夕日の絶景ポイントとしても有名だ。
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▲言葉にならない程綺麗な景色だった、しばらくの間その絶景を眺めていた。
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▲逆に朝日が絶景なのは北部の玉取崎展望台だ。玉取崎展望台から北部(平久保半島・野底)を望む。
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▲1970年(昭和45年)1月に撮影された写真。ほぼ同じアングルだ。
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▲最北端は平久保崎灯台。此処も絶景なので、おさえておきたいポイントだ。
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沖縄と言えば「シーサー」シーサーは伝説の獣の像。建物の門や屋根、村落の高台などに据え付けられている。
家や人、村に災いをもたらす悪霊を追い払う魔除けの意味を持つ獅子だ。八重山諸島ではシーシーと呼ばれる。
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▲石垣島で15年以上シーサー職人としてシーサーの製作・販売をされている工房がある。
▼「井上シーサー工房」だ。 ご主人が心を込めて作るシーサーは人気が高く、全国から注文が入ってくる。
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▼工房は自宅兼用で決して広くはないが、常に全国の熱心なファンが狭い展示スペースで真剣に商品を選んでいる。
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▼北部観光の帰りに是非立ち寄って頂きたい。知る人ぞ知るシーサー工房だ。(シーサー作り体験教室ではありません)
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井上シーサー工房
沖縄県石垣市桴海337−5
電話:0980−89−2195
HP http://inoue-shisar.com/

2017年1月3日石垣島鍾乳洞で開催された「新春し~し~ゴンゴン」の様子。
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石垣島の伝統行事を興味深く拝見させて頂いた。皆、半袖なのにも注目。やっぱ南国はいいね~!
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▼楽しい時間はアッと言う間に終わり、新石垣島空港からまた寒い本土へと帰った。
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沖縄の言葉はある意味英語より難しい・・読めるけど話せない・・・でも、またいつの日か石垣島に来たいと思った。




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
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 2017_01_01




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WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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