哈爾浜①

Category: 中国東北部   Tags: 満州  哈爾浜  

哈爾浜は、黒竜江省の政治・経済の中心で、ここも人口約600万人の大都市である。

1896年(明治29年)ロシアは日清戦争後の日本の遼東半島領有を阻止した報酬として、中東鉄道の敷設権と経営権を
獲得。中東鉄道株式会社を設立。沿線に鉄道付属地を所有する事を清朝から認められ、そこではロシアの行政・司法
権や森林伐採権などが行使された。
1898年(明治31年)ロシア帝国により満洲を横断する東清鉄道建設が着手されると、交通の要衝としてロシア人を初
めとする人口が急激に増加し経済の発展をみるようになった。
1900年(明治33年)義和団事件が勃発し、ロシアは満州を制圧する。清朝は猛反発。
日清戦争以降、清朝は「瓜分」(中国分割)の最大危機にさらされていたが、義和団の乱によって勢いに歯止めがか
けられた。戦闘において圧倒的な強さを示した連合軍(イギリス・アメリカ・オーストリア・イギリス領インド・ドイ
ツ・フランス・ロシア・イタリア・日本)であったが、その後の占領地支配には手を焼き、中国の領土支配の困難さに
嫌でも気づかざるを得なかった。列強のその時の思いは連合軍司令官ヴァルダーゼーの「列強の力を合わせたとして
も、中国人の4分の1でも治めるのは困難であろう」ということばに言い尽くされている。
ただ、例外的に領土支配を目指した国があった。ロシアと日本である。
ロシアの満州占領は日露戦争を導き、さらに辛うじてその勝者となった日本は一層の領土的野心を滾らせ、日中戦争
へと邁進していくようになる。※日露戦争(1904年[明治37年]2月6日~1905年[明治38年]9月5日)

1905年(明治38年)10月31日、清朝は哈爾関道(浜江関道を設置)、翌年5月11日には正式に道署を設置し、駐在。
1907年(明治40年)1月14日、清朝はハルビンを対外交易拠点とすることを決定、吉林将軍及び黒竜江将軍の奏准を
容れ浜江庁を設置、浜江関道の管轄とされ行政権の強化が図られた。
これに対しロシアは同年11月23日中東鉄道管理局が「ハルビン自治公議会章程」を発布、埠頭区(現在の道里区)、
新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定め公議会の管轄とし、清朝に対抗した。
1909年(明治42年)10月26日哈爾浜駅で、日清戦争の立役者で日本の枢密院議長 伊藤博文が安重根に暗殺される。
蒋介石の中華民国が成立すると1913年(大正2年)3月浜江庁は浜江県と改称され、翌年1月31日松北市政局に改編さ
れた。
第一次世界大戦でヨーロッパは、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国とフランス・ロシア帝国
イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね経済は破綻。
1917年(大正6年)「ロシア革命」(簡単に言えばロシア内戦である)2月革命・10月革命
ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に
反乱を起こして労働者側についた。1918年(大正7年)ついにロシア帝国が崩壊。
1918年(大正7年)夏、アメリカはシベリア出兵を決定。アメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれに
合わせて出兵を決定、連合軍はウラジヴォストークに上陸した。
※内政干渉戦争であるシベリア出兵に、一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、
 軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られていた。
連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は
日本やアメリカの軍隊であった。これが日本の「シベリア出兵」である。
同年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い1920年には相次いで撤兵
したが、日本陸軍は単独で駐留を続行した。
日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労
働者・農民から組織された非正規軍のパルチザンと戦闘を繰り返しながら北樺太・沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。
シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。
各国より数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた上、占領地に傀儡国家の建設を画策。
日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われる事になる。
1921年(大正10年)のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。
会議の中で、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。

当時の内閣総理大臣 加藤高明は日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交
上まれにみる失政の歴史である」と評価している。

1922年(大正11年)にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライ
ナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合。ソビエト社会主義共和国連邦が成立。
1926年(昭和元年)3月30日中華民国のハルビン自治臨時委員会が設置され、ロシア人による統治は終焉をむかえる。
1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件
1931年(昭和6年)9月18日、満州事変
1932年(昭和7年)3月、満洲国が建国されると、1933年(昭和8年)7月1日哈爾浜特別市となり、日本の統治が始まる。
ロシア革命後、ソ連も中東鉄道(東清鉄道の後身で、満鉄の前身)の利権を維持したが、1934年(昭和9年)満洲国に譲
渡した。哈爾浜は、満洲地区からロシア・ヨーロッパ方面への鉄道輸送の要衝として発展し、1940年(昭和15年)に
は、人口約60万人に達している。
日本の敗戦で満洲国が崩壊、国共内戦の結果、中国共産党が1946年(昭和21年)4月28日ハルビンの支配権を獲得。
現在に至っている。
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▲▼哈爾浜駅前の風景。中国は何処も大都会に発展している・・・。
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▼駅舎は取り壊しの真っ最中、新しい駅舎へ生まれ変わろうとしていた。新駅舎完成予定日は不明。
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▼駅前には恐らくロシア統治時代の建物であろう建物を見ることが出来た。
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一見して年代物という事が解る。何とか保存してほしいものだ。
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哈爾浜ではヤマトホテル(現 龍門貴賓楼)に宿泊した。
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ロシア統治時代は、中東鉄道賓館と呼ばれ、中東鉄道工程局の副総技師のイグナチウスが総デザインを指揮。
1903年(明治36年)2月に完成したハルビン初の豪華ホテルであった。
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※1918年以後、張学良が司令官として哈爾浜を訪れた際、このホテルに滞在した。
日露戦争が勃発するとロシア軍軍司令部として使用され、終戦後は中東鉄路公司理事会として使用された。
満州事変までは、この場所が中東鉄路の最高権利機関であり、ハルビン市の行政の中心であった。
1935年(昭和10年)ソ連は1.4億円で中東鉄路、及びその一部支線を満州国に譲渡し、中東鉄路公司理事会は解散。
1936年(昭和11年)満鉄により、2度目の大規模な改築が行われ、翌年2月1日に改築作業が完了。
「ハルビンヤマトホテル」と改名され、大連(現大連賓館)・瀋陽(現遼寧賓館)・長春(現春誼賓館)のヤマトホテ
ルと共に南満州鉄道株式会社によって経営された。
日本敗戦後はハルビン軍招待所などとして使用されたが1997年(平成9年)にハルビン鉄路局によって改築作業が行われ、
ハルビン龍門貴賓楼酒店として生まれ変わり、現在に至る。
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▼ヤマトホテルの宿泊部屋から哈爾浜市街の眺め
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▼朝、ヤマトホテルを後にする。
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何度も改修されているので、どの部分がロシア時代で何処が日本時代なのか判別出来ないが、古そうだ。
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▼夜はこんな感じ。
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▼駅側とは反対側に位置する当時の正面入り口
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街を歩くと、ロシア時代が色濃く残る街だという事を感じる(ここまで来ると日本時代跡よりもロシアの方が気が楽だ)
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▼▲これは日本人が建てた物かな・・・哈爾浜は古地図を詳しく調べていないので良く解らない・・・。
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ある意味で中国も大変だ・・・街の基礎が全て他国によって形成され、建物は古くなっていく・・・。
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それをどの様な形で維持していくか、どの様に中国風に変貌させるか、今後ロシア・日本の足跡を残していくのか。
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他国の統治が終わった現在、中国らしさをどの様に演出していくのかは本当に難しいだろう・・・。
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▼当然、近代化された建物も並ぶ。
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日本は狭いのでそんな余裕は無いと思うが、その時代・時代の建物は何とか少しづつでも残して欲しいものだ。
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▼電動オート三輪車のタクシーが列を作っていた。中国はこの様な小型車がなんでも有りが面白い。
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▼斯大林公園(スターリン公園)の近くまで来た。凧あげをしている人を多く見かけた。懐かしい光景だ。
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▲右側のロシア風の建物は、松花江対岸の太陽島へ行くロープウェイ乗り場。
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▼目の前には松花江(しょうかこう)
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松花江南岸沿いの気持ちいい散策路を斯大林公園に向かって歩く。満州国時代は路面電車が走っていたそうだ。
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桜が咲いていた。
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お年寄りが音楽に合わせて踊っていた。何とものどかな風景だ。
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遊覧船を見た時に、ハッとして此処が中国だという事を再認識した。やっと中国風の感じを見た様な気がする。
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▼哈爾浜中心部と太陽島を結ぶ松花江に架かる、日本が建設した鉄道橋「浜州鉄路橋」(手前の黒い方)
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中国のガイドには次の様に書かれている。

元は中東鉄道西部線(浜州線)の第一鉄橋で、中東鉄道沿線では橋脚幅が最大の単線の鉄橋。
当時は「第一松花江大橋」と呼ばれていた。ロシアの橋梁専門家で中東鉄道局橋梁主任技師「リエンドフスキー」が自
ら監督し、技師「アリエクシエルオフ」が建設の責務にあたった。
1900年5月着工。1901年10月開通。鉄橋の長さ949.185メートル。

と・・・。
ウラジオストク→綏芬河(すいふんか)→哈爾浜(ハルビン)と続く東清鉄道は、この鉄橋で松花江を渡り、更にチチハル、
満州里、チタ、そしてモスクワへと続いている。って事は、日本が建設したってのは間違いか・・・?
1900年は明治33年。日露戦争開戦の前だな・・・やはり帝政ロシアが建設した橋という事になる。日本が改修程度を
したという事かもしれない・・・。このへんの歴史は今後詳しく勉強する必要がありそうだ・・・。
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2014年4月10日、100年以上続いた「浜州鉄路橋」は閉鎖。現在は歩行者専用の橋となって活用されている。
奥の白い橋は新たに建設された高速鉄道も走る新しい「松花江特大橋」。
松花江は満州語で「スンガリ・ウラー」と呼ばれ、「天の川」という意味。当時の日本人はスンガリ川と呼んだ。
松花江はやがてアムール川に合流する。冬はマイナス30度近くまで下がる哈爾浜。当然この川も凍る・・・。
凍結時期は歩いて対岸の太陽島まで行けるらしい。
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斯大林公園の中心にある1956年(昭和31年)の大洪水を記憶に留める為に建てられた「防洪記念塔」へ向かう。
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▼「防洪記念塔」最初これを見た時、また抗日の記念塔か?と思ったが違う様でホッとした・・・。
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塔の彫刻はロシア人、その周りを囲う扇状の建造物に中国という組み合わせ。
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1998年にもっとすごい洪水があり、120.89mを記録したということで、その高さには鉄すりの様な物が付いていた。
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近くには青島ビールのビアガーデンが・・・真昼間と言う事と本来の目的地への時間の関係で今回はスルー。
哈爾浜ビール祭りもあるという、ビール好きが多い街でも有名。行きたかった~。
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中央大街に向かう。
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▼ロシア風のお土産店
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お酒・タバコ・戦車の模型まで、色々あって面白い。
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地下ショッピングセンター街もある。これがまた大きい。巨大な地下壕だ(笑)
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▲少し入ったが、確実に迷いそうなので、そこそこで地上に出た。
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▼ロシア風の街並みが今も残る美しいショッピングストリート、中央大街に到着。
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▼1930年頃[ 昭和初期 ](昭和5年頃)の中央大街。当時は道行く人のほとんどがロシア人だった。
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現在も古写真の建物はホテルとして残っている。
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当時は車も走っていた様だが、現在の中央大街は歩行者天国となっている。
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「西洋のパリ」との呼び方にふさわしい、西洋風の建物が並び、通り全体が市の指定建築物になっている。
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哈爾浜は、既にロシアが街を形成していた事もあってか、満州国時代に建てられた日本建築は少ない様だ。
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▲▼道路の石畳はロシア時代当時のままだという。
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▼ここではバーガーキングに立ち寄った。店内も綺麗だし、普通に美味しかった!
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時間も押し迫っていたので道をそれて、聖ソフィア大聖堂に向かう。
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中央大街を外れても何処の通りも大都会だ・・・。
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▼久しぶりに中国風の建物を見た。戦後の建物だろう。
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▼これは日本が建てた物。旧横浜正金銀行哈爾浜支店(1912年「大正元年」完成) 現在は黒龍江省美術館。
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この辺の歴史が良く解らない・・・満州国建国が昭和7年。日露戦争勝利が明治38年。大正元年は明治45年だから、
横浜正金銀行哈爾浜支店はロシア統治時代の真っ最中に建設されている・・・どうなってんの??
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▼そうこうしているうちに聖ソフィア大聖堂に到着!
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これか・・・ロシアって感じだな・・・。
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此処は中国か・・・。
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ヨーロッパにでも来た様な錯覚を覚える・・・。
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1903年3月東清鉄道が開通すると共に、ロシア帝国軍隊は哈爾浜に侵入。1907年帝政ロシア軍兵士の軍用教会として
聖ソフィア大聖堂は創建された。1923年(大正12年)9月27日の再建儀式後、約9年間に渡る拡張工事が行われ、今の姿
になった。現在は教会では無く、哈爾浜市建築芸術館となっている。
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                   白鳩が沢山居る・・・立派な建物だ・・・。
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敷地一帯は大きな広場となっている。
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▼マクドナルドも此処ではこんな感じ。この様に合わせるのは大事ですね~。
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写真を何枚撮っていても飽きないが、次があるので名残惜しいが聖ソフィア大聖堂を後にした。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その4「哈爾浜旅行記①」を終わりとします。
次回は、その5「哈爾浜旅行記②」をお届けします。


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 2017_05_31


今回の中国東北部旅行の1番の目的地、長春は、旧満州国時代に新京と改められ、満州国国都とされた場所である。
此処で祖父母は終戦(敗戦)後の昭和21年9月まで暮らした。祖父は昭和12年から満鉄新京支社勤務(庶務課)だった。
日露戦争でからくも勝利した日本は、長春以南の権益をロシアより獲得すると南満州鉄道株式会社を設立、明治39年
(1906年)に長春駅を建設した。日本が溥儀を皇帝に満州国建国前から、中国東北部は満州と呼ばれ、張作霖が支配し、
その地域に暮らす現地人は、「満人」と呼ばれた。張作霖爆殺事件後、息子の張学良が、長引く内戦状態の国民政府と
共産党の間を取り持ち、蒋介石の国民政府も同意、一丸となって抗日を続けた。

昭和3年(1928年)6月4日、張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)9月18日、満州事変
昭和7年(1932年)3月、満州国建国
張学良は国民党か日本かを選ぶ中で国民党を選び、焦った日本は満州事変を起こし傀儡国家満州を建国。
昭和9年(1934年)3月1日、満洲国皇帝(康徳帝)に溥儀が即位。ここから満洲国の年号は康徳元年となる。
昭和11年(1936年)毛沢東率いる共産党は内戦の停止と抗日統一戦線を提案。しかし蒋介石は態度を硬化させたまま、
満州の軍閥(張学良ら)に共産党を攻めさせようとする。張学良は「日本と戦うべきではないか?」と難色を示す。
西安まで張学良の説得に出向いた蒋介石を張学良が誘拐、共産党員達と蒋介石を説得して抗日共同戦線を張る事になる
昭和12年(1937年)、日中戦争(支那事変)勃発の年に、祖父は日本で南満州鉄道株式会社の入社試験に合格。
昭和17年(1942年)、祖父は花嫁探しの為に一時帰国。祖母とお見合いし、婚約。
昭和18年(1943年)、祖母が満州(新京)へ。新京特別市昌平街の満鉄寮で新婚生活が始まる。
昭和19年(1944年)11月、母が新京満鉄病院で生まれる。
昭和20年(1945年)8月9日、ソ連軍、満州国に進攻開始。
昭和20年(1945年)8月10日、祖母は満鉄からの指示で新京駅に集合。
幼い母を連れ、満鉄で朝鮮(現北朝鮮)鎮南浦(チンナンポ)へ避難。そこで満鉄関係者と共に滞在する。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦(敗戦)。
昭和20年(1945年)8月18日、溥儀が満州国皇帝退位=満州国崩壊。
終戦後、祖父が心配で、朝鮮から満鉄で再び新京へ戻る。新京へ戻る際、日本兵が大勢乗った貨車を見たと言う。
恐らく祖母が見たのは、関東軍将兵ら約60万人が連行され、約6万人が強制労働などで死亡した「シベリア抑留者」だ
ったのだろう。関東軍参謀本部、陸軍中佐瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)は戦後11年間シベリアに抑留されたが、その
瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる「シベリア抑留密約説」だ。
瀬島氏は終戦直後の昭和20年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。
この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである・・・。
瀬島 龍三に関してはWikipediaから抜粋だが、「知っておきたい人物」で紹介しているのでご覧頂ければと思う。

再び新京へ戻った祖父と母は祖父と再会。新京で1年暮らす。(ソ連兵の強姦から身を守る為、髪は男の様に短くした)
しかし、哈爾浜などに比べて新京はソ連兵が少なく、意外と平和だった様だ。八路軍(共産党)やソ連兵の活発な時も
あったが、中央軍とアメリカ兵が市街地に入って来てからはとりあえず秩序は取り戻しつつあった。
昭和21年(1946年)9月初旬、祖父母と母の3人は、新京→釜山港→博多港の順で無事帰国する事が出来た。
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▲満州国時代の新京駅(明治40年撮影)
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▲現在の長春駅(当時の面影は全く無い)
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▲宿泊した長春駅前のホテルから撮影。駅前広場はもう何年も工事中との事。
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▲当時の新京駅前の風景
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▲▼同じ場所かどうかは分からないが、現在の駅前付近。
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在満日本人一般市民の人口は、昭和5年に23万人を越え、昭和15年には100万人になっていた。日本軍に加え、日本の
大手企業の職員や、官僚、そして民衆達も夢を託して満州に渡った。私の祖父もその中の1人だった。
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▲新京駅前にあった当時の満鉄新京支社(ここで祖父は働いていた)
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▲同じ場所にはほぼ当時のままの姿で建物があった・・・これは感激した。5階部分が増築されている事が解る。
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▲「長春鉄路〇事〇」と書かれているので、現在も鉄道関係の会社が使っている様だ。
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▲旧満鉄新京支社入口前にあった地下への入り口。当時から地下ショッピングセンターでもあったのかな?
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▲此処で祖父は働いていたんだ・・・もう亡くなって何十年も経つが、今、孫の私がその地に来ている・・・感動だ。
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▲新京ヤマトホテル。ここも何度も改修されているが、当時の面影が残っている。
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▲夜の姿はライトアップされてとても綺麗。
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▲旧満鉄新京支社から長春駅を見る。この道を祖父は通勤したのだろうか・・・当時「中央通」と呼ばれた
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▲当時の中央通を描いた絵ハガキ
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▼もうこれは取り壊しが決定しているのかな・・・明らかに古い日本時代の建物だ。
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昭和7年満州国建国だから、満州国が続いたのはたった約9年・・・1番新しくても72年前の建物だからね・・・。
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▲赤煉瓦造りのちょっと古めかしい建物は日本時代の物と思って良いだろう。
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いいですね~こんな街、日本の何処かで復刻しないかな・・・。
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▼中央通を歩いていると当時郵便局だった場所にそれらしい建物が残っていた。
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どうやら此処も改修中の様だ。
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▼当時の郵便局(長春では最初に帝国にとって最も重要な建物である警察本署と郵便局を建てた)
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新京の町づくりは日本本土の問題をすべて解決し、満州国国都として、他ならぬ文明を進めるモデルとなった。
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当時の古写真によく似た場所があった。恐らく同じ場所だろう・・・祖父母も当然此処を歩いただろう。
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新京は、日本が蓄積してきた都市計画の理念と社会資本整備の技術を一気に投入して建設されたという。
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▲郵便局の向かいは古地図では警察署だが、今は良く解らないゴーストビルが建設途中?だった。
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▲中央通から郵便局を左折し、旧吉野町を通って、次の目的である母が生まれた満鉄病院を目指す。
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▲この辺りは「新京銀座」と呼ばれた新京1の繁華街で吉野町と呼ばれていた。
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▼昭和53年(1978年)頃の吉野町。まだまだ日本時代がしっかり残っている。というよりそのままだ。
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20年前なら、もっと多くの日本時代の建物が残っていたという。
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しかし長春は明らかに私を見る中国人の視線は冷たい・・・観光地でも無いのに「何しに来た!?」的な顔で見られる
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絶賛取り壊し中の日本時代の建物。
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建物自体の低さと赤煉瓦で、当時物と現代物との見分けが直ぐつく。
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現在に至っても日本時代の建物に住んでいる方達は恐らく貧困層なので、撮影の際は細心の注意を払わないと怖い。
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上海・鄭州・大連・瀋陽・長春と訪問したが、明らかに長春は何か雰囲気が違う・・・ブラブラしている人も多い。
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暇な人ほど政治的な事を言い始めることが多いので、街の人と話した訳では無いが、この雰囲気も納得出来た。
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でも、何かいいな~。昔の日本人が建てた西洋と和がミックスされた独特の建物・・・。DSCN0261_convert_20170521114118.jpg
▼この建物も恐らく最上階部分は増築だろう・・・。
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▼当時学校があった場所にはほとんどが(建物は建て替えられているが)そのまま学校だ。
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▲此処は古地図では室町小学校・家政女学校・公学校となっている広い敷地だ。
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▲何て書いてあるのか読めないが、「教師」っぽい字が書いてあるので、現在は教員を育てる学校の様だ。
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▲そうしているうちに、当時満鉄病院だった場所に到着。建物は全て建て替えられているが、現在も病院だ。
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ここで母が生まれたのか・・・感激だ。しばし病院を眺めていた・・・敗戦後、満州引き揚げ者の多くが命を落とした。
祖母の話では、当時赤ん坊だった母を抱えての日本への引き揚げは、想像を絶する悪条件での帰路だったという。
もし、祖父母と母が、帰国途中に、満州や朝鮮で命を落としていたら、今の私は存在しない・・・。
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▲これは当時の建物っぽいが良く解らない・・・。
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▲当時の満鉄病院
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旧満鉄病院付近にも当時の建物は多少残っていた。
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▲煙突から煙が出ていたので、現役で中国人住居として使用されている様だ。
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長春は見た目的には大都会に変貌しつつある様に見えるが、街の人や車を見ても裕福な人が多いとは言えない・・・
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恐らく70年以上、ほぼそのまま住んでいるのだろう・・・崩壊寸前の住居が多い・・・。
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これ以上日本時代の住居を追い求めるととんでもない事に巻き込まれそうなのでこのへんで撮影を止めた・・・
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でも、中国人は根は優しい人が多いんだけどな・・・「中国残留孤児」。見捨てられた日本人の子を育ててくれた。
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▲「抗日」「反日」の中国で、日本車を愛用してくれている中国人も沢山居る。有難い事だ・・・。
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中央通に戻ってきた。当時西公園と呼ばれた場所が正面に見える。現在も公園の様だ、観覧車が見える。
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▲当時の西公園正門を描いた絵ハガキ(昭和13年児玉源太郎大将の銅像設置後、児玉公園と名称変更された)
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▲西公園前の巨大な交差点。
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当時の西公園。冬はスケートリンクも営業していた様だ。寒さで池の水が氷るのだろう。
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▼建物は近代化されても区画や道幅は当時のまま発展させている。
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▼中央通を更に南下していく。
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▼歩道からの景色を絵に描いている人が居た。上手だった~。
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しばらく歩くと写真などで見た事のある特徴ある建物が見えた。
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旧関東軍司令部だ。しっかりそのまま残っている。
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▼当時の関東軍司令部(名古屋城をモデルにしたと言われている)
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祖母から聞いている関東軍の話は悪い話が多い。昭和20年8月9日のソ連侵攻後、居住民(日本人)を見捨てて真っ先に
朝鮮方面に南下、新京関東軍司令部をはじめ、軍の施設を放棄し、さっさと逃げて行ったという。
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▲これは旧関東憲兵隊司令部(関東局)
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▲当時の関東憲兵隊司令部
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▲この建物は旧大興ビル。
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▲当時の大興ビル。当時と比べるとこのビルも5階6階部分が建て増しされている事がわかる。
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▲長春市第5中学となっている所は当時、長春市新京白菊小学校。
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▲長春市第5中学付近の大きな交差点
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▼▲これは長春市第5中学付近にあった公衆便所
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▼今もひっそり残る東本願寺満洲別院(敷地全体が工事中の為、敷地内に入っての見学は出来なかった)
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▼外から見るとこんな感じなので東本願寺全容を伺い知る事は出来ない。
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このあたりも一筋奥に入ると日本時代の住居がちょこちょこ残っている。
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しかし、ほんとんど面影は無いと言ってもいいかな・・・とにかく車の量が多過ぎる・・・。
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新京の南西郊外の孟家屯(もうかとん)には陸軍100部隊(関東軍軍馬防疫廠)があった。
100部隊は軍用動物の衛生管理・研究などを目的とした部隊(約700名)で、組織上は関東軍に属していた。
終戦時の部隊長であった若松有次郎の名を冠して、若松部隊と呼ばれることもある。
軍馬に代表される軍用動物の衛生管理を任務とし、動物の感染症研究や血清の製造、軍馬移動時の検疫作業などを行っ
ていた。補充馬廠などで軍用動物の衛生管理を行う兵員の教育機関としての役割もあった。
更に、防疫対策のみならず、敵国の軍用動物や家畜を標的とした攻撃用の生物兵器(細菌兵器)の開発をも進めていたと
も言われる。攻撃用の研究かは不明だが、日中戦争が勃発した昭和12年には所属の軍人・軍属の一部が軍用細菌の試験
研究も行っていたという。対人用の生物兵器研究機関だったと言われる哈爾浜郊外の関東軍防疫給水部本部(731部隊)
とは、密接な協力体制にあったという。
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この先は当時「皇居」建設予定地だった所。現在は公園だそうだ。本気で皇居を東京から移す予定だった様だ。
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この辺りはもう近代化されて、日本時代の建物は見かけない
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時期的には春になりつつあるが、気温は15度くらいで肌寒い。
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真冬はマイナス30度以上。平均気温も5度程度だからスクーターは辛いね・・・でも電気スクーターは沢山走ってる。
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日本人が夢を描いて移り住んだ新天地と言うが、私はあまりピンとこない土地だな・・・寒過ぎる・・・。
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▲これは日本時代の建物を外観だけ綺麗に手直ししてあるな・・・当時物の煙突が建物中央を突き抜けている。DSCN0382_convert_20170522124559.jpg
▼しばらく歩くと当時「興安橋」と呼ばれた短い橋が見えた、当時のままだそうだ。DSCN0385_convert_20170522124637.jpg

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▼橋の下は鉄道が走っている。右側の線路は新設の高速鉄道。左側(貨物列車)は当時のままの満鉄線だ。
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それにしても長~い貨物列車だ・・・なかなか通り過ぎないので、永遠に続くかと思った・・・アメリカなみだね。
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▼「興安橋」を渡り終えて振り返って撮影。
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祖母は楽しい思い出として、「興安橋」を渡り、新京競馬場へアルバイトに行った事があると私に話してくれていた。
ソ連参戦、日本敗戦で新京で起こった混乱の中、命を落とした日本人の「日本人埋葬場所」となった「新京競馬場」。
そして、「新京競馬場」は今どうなっているのか?と更に南下した事が裏目に出てしまった・・・。
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▲「興安橋」を過ぎて更に南下したが、新京競馬場らしき場所が見当たらない・・・DSCN0395_convert_20170524115823.jpg
▲これも日本時代の建物っぽいな~。と撮影していると、警察車両が来て話しかけてきた。
当然、中国語での会話は噛み合うはずも無く、近くの警察署で事情徴収される事になってしまった・・・。
どうやらこの辺りに軍の航空大学があるらしく、付近の住民からの通報で見回りに来たとの事。怪しい日本人と思われ
てしまった様だ・・・。別に悪い事をした認識は無かったが、日本時代の古い地図を頼りに散策していたので、その様
な施設周辺に来ていた事に気ずかなかった。「あなたが撮影して歩いている場所は軍の関係施設ですよ、気をつけなさ
い。」と少々説教された。通訳を呼んでくれていたので疑いも晴れ、少々長い拘束時間となったが昼時だったので食事
も頂いた。最後は警察署長と思われる美しい女性が「Welcome to China」と、笑顔でパスポートを返してくれた。
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▲「皆で記念写真を」と頼んだが、断られてたので建物だけの撮影となった。知らなかったとはいえ、何処の国でも軍
関係の施設は神経を尖らせる場所。長春の警察署の皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした、以後気を
つけます。真摯な対応、有難うございました。(残念ながらこのブログは中国では閲覧出来ないんだけどね・・・)
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気を取り直して、祖父母が暮らした満鉄寮に向かう。
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祖母からうる覚えの住所を聞いていた、「新京特別市昌平街」と・・・。
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古そうな赤煉瓦塀だな・・・と思い古地図を見ると、その敷地は当時「桜木小学校」となっている。昌平街は近い!
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▼当時の「桜木小学校」は現在、長春市第二中学校となっている。やはり学校跡は今も学校だ。
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これは当時の校舎では無いだろう・・・中国の建物は何もかもがBIGだ・・・中学校といえど立派な建物だ。
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しばらく歩くと昌平街だった辺りだ。
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この辺りだ、見つけた!現在も昌平街だ!!感動!
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祖母の話では自分達の住んでいた満鉄寮(満鉄社宅)の道挟んで前は、軍の官舎だったと聞いていた。
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▲当時軍の官舎とされていた場所は現在、温泉施設になっていた・・。という事はこの向かい側か!
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▲祖母からは、当時2階立ての建物で、4つの家族が入居していたと聞いていた。真ん中に階段があった様で、それぞれ
の部屋は階段を挟んでわかれていたという。日本でよくあるアパートの様な感じだ。
「赤煉瓦」では無かったという話から、恐らくこの建物ではないだろうか、それっぽい建物はこれしか見当たらない。
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祖母が番地を覚えていなかったので、この昌平街607がピンポイントかどうかは分らないが、多分此処だろうと思った。
祖母の向かいは村山さん。青年部の先生をしていたそうで、新潟出身の方だったそうだ。その下は赤塚さんだそうだ。
祖母は山田。下の階は名前は忘れたが、機関室(現場)勤めの方だったそうだ。情報ございましたらご一報下さい。
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▲正面側から見ると増築部分や新たに付け加えられた部分がはっきり確認出来る。
満鉄寮の写真や現存する建物を見た事が無いので断定は難しいが、祖母への聞き取りや写真を見てもらい、恐らく
あっているだろうと結論付けた。帰国後、写真を見た祖母は感激していた・・・本当に良かった。
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祖母に写真を見せても番地はやはり思い出せなかった様だが、新婚時代を過ごした昌平街の今を見て感激していた。
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感激を胸に昌平街を後にする。祖母が生きているうちにこの写真を見せる事が出来て本当に良かった。
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▼隣の筋も確認したが、昌平街では無いので、探し当てた場所は間違っていないはずだ。
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しかし、中国はそこらじゅうに警察車両が停まっているので、日本の田舎者の私は少し恐怖症になってしまった・・・
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▲さらば「昌平街」(しょうへいがい)
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▲そして有難う、昌平街。何度も振り返りながら目に焼き付けた。
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大きな通りまで出て、長春駅(旧新京駅)まではバスで戻った。
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▼長春駅の地下街は柱に暖房設備が確認出来る。
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▼お湯を建物中に巡らせて暖かくする昔からのシステムだ。
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▲日本では見かけた事が無いが、東北地方や北海道でまだ採用している県はあるのだろうか。
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▲長春でも吉野家に行った。
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▼中国の吉野家は、それぞれの地方でメニューや盛り付けが違う様だ。そしてセットメニューが瀋陽店よりも安い。
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▼これは28元(約470円)長春の吉野家はいまいち。今まで食べた吉野家の中で1番美味しくないと言っても良い。
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▼地下街の柱に観光案内があった。「偽満‘八大部‘」この8つの日本時代の建物は時間が無く行けなかった・・・。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その3「長春(旧新京)旅行記」を終わりとします。
次回は、その4「哈爾浜旅行記①」をお届けします。


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 2017_05_21


瀋陽は満州国時代、奉天と呼ばれた場所。1636年、満洲において建国された清国(しんこく)の首都とされていた所。
清国は1644年~1912年まで中国を支配した最後の統一王朝である。後に首都は北京に移された。
今回の瀋陽へ行く目的は「九・一八」歴史博物館に行く事。
昭和6年(1931)9月18日旧奉天郊外の柳条湖で「南満州鉄道が中国軍によって爆破された」という関東軍自作自演の謀
略事件「柳条湖事件」(満州事変)によって関東軍は軍事出動。張学良の中国軍を攻撃、満州全土を制圧し、翌年満州
を建国。結果的に日本が泥沼の日中戦争へ、そして太平洋戦争(大東亜戦争)へと突入していくきっかけになった場所だ。

▼大連駅から高速鉄道で瀋陽北駅に向かう。
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▼瀋陽北駅に降り立つ。
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▼瀋陽北駅前の風景。此処も大都会だ・・・。
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▼大きな駅前広場は何処も警備が徹底している。流石中国
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▼瀋陽北駅。しかし高速鉄道が停車する駅は何処も大きな駅舎だ・・・。
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広すぎて自分が何処の出口から出て来たのか分からなくなってしまう・・・。
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▼小腹がすいたので駅前で食事が出来る所を探す。
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中国にも美味しいお店は色々あるのだろうが・・・。DSCN0154_convert_20170520191345.jpg
▼「吉野家」を発見!結局安全パイで吉野家に行く事に。
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中国に行くと、歴史では色々あったにもかかわらず日本企業の進出にはいつも感心する。
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セットメニューで36元。日本円で600円程だ。
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これが非常に美味しい、台湾や日本で食べる吉野家より美味しかった。今まで食べた吉野家で1番旨い!
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▼完食してバス停に向かう。
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▼私の乗ったバスはディーゼルエンジン車だったが、中国ではハイブリッドバス・電気バスが沢山走っている。
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写真を撮っていると中国人の物珍しそうに見る視線がちょっと怖い・・・相手も日本人と直ぐ解っている・・・。
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▲これはハイブリッドバス。乗ってみたが、ほとんどEVでの走行だった。
中国政府は2016年12月から上海・南京・無錫・済南・深圳の5都市で、EV車に色違いの専用ナンバープレートを付け
る実験を始め、今後中国全土で展開する計画だという。このナンバーを付けている車は公営駐車場で料金の優遇を受け
られるなど、購入時の補助金だけでなく、EVならではのさまざまな恩典を受けられ、国を挙げてEV化を推進している。
中国でEV販売台数首位の自動車メーカー「BYD」の本社がある深圳では、今年中に市内を走る全てのバス約18000台、
更に2020年までには全てのタクシーがEV化されるという。北京や上海などの大都市ではEVのバスやタクシーが多い。
日本と中国とでは人口も車の量も違う。しかし日本は先進国?として本気で環境対策に取り組む気があるのだろうか。
日本は2015年以降「水素社会の実現」としてFCV(燃料電池車)の実用化に力を入れている様だが、EV充電ステーショ
ンですら整わない日本ではたして水素ステーションがどんどん出来るだろうか・・・?
大国に先を越された部分を取り戻すのはかなり難しい。今後EVバスは中国BYD社からの輸入になるだろう。
中国に対する変なプライドや、中国に対する意識が昔のままの日本人は多い・・・EVでは完全に日本は出遅れている。
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▲30分程で「九・一八」歴史博物館前に到着。市バス?は、だいたいが1元。距離が長くなると2元の場合もある。
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▲ついに「九・一八」歴史博物館に来た・・・。
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▲「九・一八」博物館入口前には多くの屋台が出ている。
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▲入口の門を入るとまず左手に「警世鐘」が現れる。
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▼次にあるのは博物館の見取り図かな。
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そしてドーンと大きな建物が現れる・・・写真では見ていたが、実物は想像を超えた大きさだった・・・。
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▼裏側。関東軍作戦参謀石原 莞爾(いしわらかんじ)はあの世でどう思っているだろう・・・。
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▼人と比べて頂ければ大きさが解って頂けると思う。
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▼振り返って入口門付近を撮影。
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▼日本語訳が無いので良く解らないが、「柳条湖事件」の現場から運んで来た物だと思う。
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他にも日本が残した色々な物が屋外展示してある。
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▲昭和7年7月と刻まれている・・・昭和7年(1932年)は満州国建国の年だ・・・。
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▲昭和7年3月10日以外はよく読み取れなかった。
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▼誰かのお墓の様だ・・・当然日本人の墓だろうけど・・・。
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▼満州事変殉職社員記念碑って・・・自作自演の爆破で満鉄の日本人社員が亡くなったという事か・・・。
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▼館入口に向かう。
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「江沢民」が揮毫した大きな壁面があった。
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▲1993年3月~2003年3月まで中国国家主席を務めた江沢民。平成10年11月中国国家主席として初めて日本を訪れた
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▼▲何を表した銅像なのかよく分からなかった・・・。
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中国の思想は一貫して「抗日」これは満州建国前から現在まですっど変わっていない。それを踏まえて見学する。
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▼いよいよ館内に入る。入場料は無料だ。
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よくこんな沢山残っているもんだ・・・。
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これも初めて見る様な気がする・・・日本軍94式山砲
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物凄く保存状態がいいな・・・「激戦」と呼べる様な戦いにならなかったからかもしれない。
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張学良の中国軍は不抵抗方針。世界の世論に日本の謀略を訴える作戦に出た。(当時は志那と呼ばれていた)
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当時の関東軍司令官は本庄 繁。1ヵ月前に旅順に着任したばかりだった・・・その為関東軍の謀略を知らなかった。
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そして作戦参謀石原 莞爾に説得された本庄は、満鉄沿線の主要都市への攻撃命令を下してしまう・・・。
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▲当時の軍服だろう・・・満州国は大連あたりの冬は-23度、奉天・新京・哈爾浜と北へいくにつれてもっと寒い・・・
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当時の中国(支那)は沿岸部辺りに清国を倒した蒋介石率いる中華民国が。山側に毛沢東率いる共産党政権。中国を狙う
諸外国との複雑な関係の元に置かれていた。満州国は清王国が明王朝を倒し、中華民国に清王国が滅ぼされ、中華民国
首都を奉天(現瀋陽)から北京に移して栄えていたので、事実上は満人が暮らす荒野が広がる大地で、蒋介石も内戦の忙
しさもあってか、さほど満州地域には興味を示してはいなかった様だ。
なので「誰の物でも無い」という言い方も出来るが、日本の土地で無かった事は明らかであり、元々日本人が暮らして
いた土地では無い事も事実である。
そこで日本は、清王朝最後の皇帝「溥儀」を招いて清王朝復活の形で満州国を建国したのだった・・・。
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とはいえ中国(支那)は「抗日」が旗印・・・反日派を日本は厳しく取り締まったという。
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▲▼太平洋戦争で戦利品として米兵が欲しがった日本軍の軍刀が沢山展示してある。血の演出が中国らしい。
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▼南満州鉄道株式会社が経営していた撫順炭鉱(平頂山事件)の事か・・・このへんは勉強不足でよく知らない。
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▼本物では無いと思うが、この演出が凄い・・・。
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この後の展示は哈爾浜郊外にあった「731部隊」に関する展示に移っていく・・・実はこの後、この旅の真の目的であ
る長春(旧新京)へ行った後、哈爾浜にも行く予定だ。そして731部隊本部跡を見学する予定だったので、ここでの731
部隊に関する展示資料は「哈爾浜旅行記②」でご紹介しようと思う。
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▼凄い量の銃だ・・・。
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▼日中戦争当時、アメリカは蒋介石率いる中華民国を支援していた。
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▼▲「第二次世界大戦時のアメリカン軍用ジープ」と説明書された米軍のジープが展示されていた。
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▼あぁ・・・「日本投降」か。昭和20年8月15日の敗戦の事か・・・。
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中国での戦犯裁判の事か・・・。
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国民党政権によって撫順戦犯管理所(遼寧省撫順市)で日本の戦犯裁判が1946年~1949年に行われた。
149人に死刑判決が下された他、350人以上に有罪判決が下された。1949年の中華人民共和国の成立を受け、共産党
政権はこれとは別に、ソ連が拘束していた旧日本軍人ら約1000人に対して独自の審査を行った。
大半は「不起訴処分」とされたが、計45人が1956年に瀋陽と太原の2カ所で開かれた「日本戦犯特別軍事法廷」で裁
かれ、最高で禁固20年の判決が出た。
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▼主だった方のお名前だろうか・・・そういえば撫順戦犯管理所に 戦争犯罪人として抑留された日本軍人が帰国後の
 1957年9月24日に結成した 団体で中帰連(ちゅうきれん)ってあったな・・・。
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昭和25年(1950年)日ソ友好条約の締結時、一部の捕虜はスターリンから中国にプレゼントされ、撫順に収容された。
そして彼ら(捕虜)自身が「鬼から人間に戻った」と言わしめた洗脳が始まった・・・。
戦犯の処置は新中国の重要な国家政策として周恩来が直接指揮をとり、管理は司法部ではなく公安部が担当した。
公安部長の羅瑞卿は、延安で多数の日本兵捕虜を洗脳し、日本軍の正面に送り出してきた捕虜政策のエキスパートだ。
哈爾浜の尉官級以上の捕虜達も「学習」が続けられ「総括書」を書かされた。
これは、学習して得た共産主義の認識に基づき、過去の自分を自己批判しろということである。
罪は重くても完全に共産主義思想になった者は許す。逆に軽微な罪行でも思想を改造出来ない者は重く処罰する、と言
われた様だ。中国は共産主義思想に転向してこそ初めて「過去の旧思想時代の犯罪を自供出来る」としていたからだ。
「思想改造」と「認罪」の同時工作であり、中国国内の反革命分子に行使した方法と同じであった。
ソ連の氷点下30度を下回るシベリアで、強制労働のご苦労をされたシベリア抑留者達に植え付けた共産主義思想と同じ
である。日本語にはない罪行や、中国側のでっち上げ事件や過剰な言い分まで認めざるを得なかった場合もあった。
「とにかく、一日でも早く日本に帰りたい。」そのことしか捕虜の頭の中には無かったからだ。これは同情出来る。
撫順に収監された戦犯の中で、下士官・兵などは特に戦争犯罪など起こしていない人ばかりである。
理由もなく6年も監禁されたのに、自ら戦争犯罪人を認める自白をし、不起訴になったので中国の温情に感謝し、看守
達と抱きあって泣いたりしたのだった。日本に帰還出来る嬉しさと、ようやく戦争が終わった感での感激の涙であろう。
帰還した元日本軍将兵の中には日本に帰っても洗脳が解けないまま余生を送った人達も居た。
同様のことは朝鮮戦争で人民解放軍に捕まったアメリカ兵にも行われたという。
中国のやり方をとやかく言うつもりは無い。それが中国の常識であり、日本やアメリカの常識とは違うだけ。
どちらが正しいも間違っているも無い。「人類皆兄弟」と言っても、人種・国家・思想は皆それぞれ。
違いを武力で解決しようとすると結果、この様になる。そういう事だと思う。

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やっと肩の力を抜いて見学する事が出来るな・・・。見学しながら自分が平和な時代に生まれた事を感謝した。
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田中角栄も頑張ったよな・・・個人的には好きだった。
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あらら・・・また雲行きが怪しくなってきた・・・靖国神社問題か・・・。
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うぅ・・・中国の言いたい事も解るが・・・。「歴史教科書を歪曲」って・・別にそんな事してないと思うけど・・。
確かに中国側から見ると「靖国参拝」は気にいらないだろうね・・・。でも靖国神社に祀られているとされる御霊は日
中戦争の犠牲者だけじゃないからね・・・そこが難しい所。日本を破滅に追い込んだ無能な軍国主義者達も一緒に祀ら
れているから私は参拝した事は無い・・・しかし、上京時は行ける時には千鳥ケ淵戦没者墓苑に手を合わせに行く。
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▲博物館出口に、「まとめ」と題してある大きな石碑の日本語訳は以下の通り。

展示館を出ていこうとする時、中国人ならおそらく誰でも心から血が流れ、頭に次々と疑問符が浮かぶだろう。
なぜ、日本帝国主義は大胆にも堂々たる大国であるわが国に対して凶刃を向けたか?ここにある写真はすべて揺るぎな
き事実であるのに、なぜ今に至っても歴史を直視せず、ひいてはそれを歪曲し、改ざんしているものがいるのか?
「立ち後れれば喰い物にされる」といわれるが、なぜ立ち後れたのか?ここに展示されている犠牲者たちの生前の写真
は大声で叫んでいるような気がする。何を叫んでいるだろう?「国民がこの国の英雄を忘れた時、国は滅びる」とか、
「過去の苦難を忘れ去ったら、苦難は再び訪れてくる」とか、「自分から努力せよ」とか「中華の振興については一人
ひとりに責任がある」というようなことを教えているのではないだろうか?

と、書いてある。
うぅ・・・中国と日本との2国間の問題としては言いたい事は何となく理解出来るがこれは本当に難しい。
確かに「関東軍が勝手に・・・」とか、色々言い訳はあるだろうが、結果国家としてやった事を日本は何でも言い逃れ
する傾向は確かにある。「天皇に責任が及ばない様に」とか、「部下の強い意志で特攻兵器を開発した」とか・・・。
「まとめ」の日本語訳は、日本語としても日本人が読むと色々な意味で非常に難しい文章だった・・・。
日本にはこの様な、ある意味徹底した「歴史博物館」は無い様に思う。これが敗戦国の定めか・・・。いや、もし出来
たとしても、右か左、どちらかに偏った博物館しか出来ないだろう・・・それならば無い方が良いのかもしれない。

▼別室では撫順炭鉱(平頂山事件)の事を紹介していた。特に詳しい訳でも無いのでさらっと見学した。
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ここには原爆の事も紹介されていた・・・。
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この展示室には日本語訳が無いので、写真で何となく判断するしか無かった。
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英語訳も日本語訳も無かった様な気がする。ま、見る人に「抗日」を訴えたいのだろうと勝手に理解した。
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そしてお土産屋の様な区間を通り、博物館の外に出る。
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▼博物館を出て目に飛び込んでくるのが、この大きな文字。(日本を)「許すけど・忘れない」これが中国の本音だね。
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▼記念写真を撮る中国人夫婦と比べて頂ければその大きさが解って頂けるであろう。
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博物館を出て、屋外展示に行くと、ソ連軍の戦車が見えた。
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第二次大戦中の米軍戦車は何度も見た事があるが、やはり日本軍のおもちゃの様な戦車とは大違いだ・・・。
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▼戦車の隣に展示しているこれは何だ??
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成程・・・日本企業が敗戦後置いていった物をそのまま2000年頃まで使ってたんだね・・・。
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▼満州時代の空襲警報機か・・・日本本土でも同じような機械はあったんだろうな・・・。
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満州国よりも本土の方は空襲は頻繁だっただろう・・・ってか満州国ってソ連侵攻まで空襲はあったのかな・・・?
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重たい気持ちのまま「九・一八」歴史博物館を後にした。しかし、遠路遥々見学しに来た事を後悔はしていない。
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館内は撮影OKなので、出来る限り写真を撮っていたが、SDカードの容量が無くなってしまった・・・。
そこで、瀋陽に(中国に)唯一あるというヤマダ電機瀋陽店に買いに行く事にした。
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とりあず瀋陽北駅まで戻る。
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▲ここから1元の範囲だったがバスに乗ってヤマダ電機ある場所に向かった。
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一時期は中国に数店舗展開していた様だが、次々と撤退し、現在は瀋陽店のみとの事だ。
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店内は閑散としていた。DSCN0143_convert_20170519084335.jpg
本当は直ぐにでも撤退したいらしいが、瀋陽店は直ぐ撤退出来ない訳があるらしい・・・。
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社名が「パナソニック」に変更になってかなり経っているが、中国語では松下電器のままなのか・・・。
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従業員もとても暇そうだ。
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中国に限らず、どこもネットで購入してしまう時代・・・大がかりな取り付け工事が無ければ安いネットに客は流れる。
お目当てのSDカードは在庫処分の格安4GBを2枚買ってお店を後にした。
以上、中国東北部(旧満州)旅行、その2「瀋陽旅行記」を終わりとします。
次回は、その3「長春(旧新京)旅行記」をお届けします。

※「九・一八」博物館見学をご希望の方はご連絡下さい。中国では現地で中国語を話せないと厳しい面が多々あります。
 信用出来る現地付き添い人(中国人)をご紹介します。
 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。


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 2017_05_16




プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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