サイパン島

Category: サイパン島   Tags: サイパン  

第一次世界大戦後、日本による委任統治領となったサイパン島は内地(日本)から南洋への玄関口として栄え、
南洋興発がサイパン島、ロタ島、テニアン島に製糖所を建設、アジア最大の製糖産地として発展した島で、沖縄
から移民した者や台湾、朝鮮からの移民者も多く住んでいた島で、漢字で彩帆(サイパン)島と書きました。
しかし、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まると劣勢におかれた日本は、ついに絶対国防圏サイパン島を失います。
海では「あ号作戦」で有名なマリアナ沖海戦、陸では激戦が繰り広げられ、結果日本軍は玉砕(全滅)しました。
組織的戦闘終了後、残存守備兵士達と多くの民間人が島の北へと追い詰められ、現在「バンザイクリフ」と呼ば
れているマッピ岬の断崖から「万歳」と叫び身を投げたそうです。崖下の海は真っ赤に染まり屍の海と化しました
そして戦後、このマッピ岬はBANZAI CLIFF(バンザイクリフ)と呼ばれる様になったそうです。

ナウル島(現ナウル共和国)やマーシャル諸島に進撃してきた米軍は、ついにギルバート諸島「マキン」「タラワ
に侵攻。勇敢に戦った日本軍でしたが全滅。そしてサイパン島・テニアン島での相次ぐ敗退で、兵士民間人合わせて
50000人以上の日本人が亡くなられています。タラワのベティオ島には戦没者慰霊碑があるとの事ですのでいずれ
慰霊に訪れたいと思っています。(タラワは現キリバス共和国の首都です)戦後60周年目の2005年6月28日、日本
の皇室としては初めて天皇・皇后両陛下がバンザイクリフを慰霊の為に訪問されたそうですが、出来る事なら全ての
戦地へ慰霊に訪れてほしいと思います・・・。

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▼▲機内からサイパン島&サイパン国際空港を撮影した。
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▼戦時中の日本軍アスリート飛行場(昭和19年(1944)6月20日米軍機から撮影された写真)現在と極端には変わらない。
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▼サイパン国際空港(元アスリート飛行場)周辺には日本海軍の施設が多数残っています。(2016年5月1日再訪)
サイパン国際空港は戦前日本海軍が建設した元アスリート飛行場です。(写真は国内線ターミナル)
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昭和12年(1937)日本海軍は南洋群島域内に軍事施設を建設する方針を固め、特別大演習の滑走路と同じ場所に海軍飛
行場を建設する事となった。しかし、国際連盟委任統治領として正式な日本領土となった南洋群島には軍事施設の構築
が禁止されていた為、「共同網干し場」の名目で建設された。国際連盟を脱退し、昭和16年(1941)日米開戦後には、
地名の「アスリート(As Lito)」から「アスリート飛行場」と命名された。
日本海軍部隊は、中部太平洋方面艦隊司令部(司令長官/南雲中将)第5根拠地隊司令部、第55警備隊等、約8400名が
サイパン島の守備に就いていた。1944(昭和19年)6月11日アメリカ軍艦載機1100機によるサイパン島に対する奇
襲的な空襲が行われ、6月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った米艦隊がサイパン島に接近、砲弾合
計18万発もの艦砲射撃が開始された。
これにより水際にあった日本軍の陣地は半壊し、海軍航空基地(アスリート飛行場)の日本軍機は20機を残し撃破された。
(▼その20機は後日、6/18飛行場を占領したアメリカ軍にそのまま鹵獲され13機持ち帰られている)
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▲▼日本海軍アスリート飛行場で米軍に鹵獲されたゼロ戦と破壊されたゼロ戦
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▼米軍に占領された日本海軍アスリート飛行場
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▼破壊された海軍機。海軍二式大型飛行艇の様に見える
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米軍上陸後の6月18日よりナフタン半島で敢闘してきた日本軍独立歩兵第317大隊らの生存者約500名は、米軍の猛攻
で進退窮まった6月26日夜、佐々木大隊長指揮の下でアスリート飛行場を混乱させ、味方主力に合流すべく最後の突撃
を行った。突撃隊は「七生報国」を合言葉に一心不乱にアスリート飛行場に向けて突撃を行った。
部隊の一部はアスリート飛行場に突入し既に展開していたP-47戦闘機を4機撃破、米軍と激しい白兵戦を演じ、米兵33
名が戦死、日本兵は143名が戦死した。また別の部隊が第104野砲大隊陣地にも突入し20名の米軍砲兵が戦死した。
しかし突撃は翌朝には鎮圧され、6月27日中にはナフタン半島全域がアメリカ軍の占領下となった。
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※地図は「戦跡の歩き方」よりお借りしています。
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▼破壊された海軍二式大型飛行艇を見る米兵。
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大本営発表では、海軍の基地航空隊が大戦果をあげたと報道を行ったが、実際にはほとんど戦果はあげられなかった。
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▲米軍に占領されたアスリート飛行場は拡張整備され、B29出撃基地となり、日本本土空襲へ飛び立つ事になる。
(写真は昭和19年12月アスリート飛行場から日本本土爆撃に向かうB29)

この時サイパン島在泊中の護送船団は脱出を図ったが、そのうち最大の第4611船団がほぼ全滅した。
▼サイパン島ガラパン北方の沿岸で炎上する日本の小型船群。
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▼サイパン空港内ローカル線ターミナル近くに現存する日本海軍防空バンカー(防空壕)
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サイパン国際空港周辺は多くの戦跡が残っている。サイパン国際空港北側の旧日本海軍基地施設地域には、主砲に弾が
込められたまま置き去りにされた戦車第9連隊所属の陸軍97式中戦車「チハ」や、海軍の弾薬庫や防空壕が当時のまま残
されている。今回は時間が無く全て見学出来なかった為、いずれ再訪しようと思っている。
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元々この辺りは南洋興発株式会社の農場で、一面サトウキビ畑だった。約600人の日本人街もあり、学校や駐在所、
商店などもあったと言う。昭和8年(1933)「共同網干し場」の名目で日本海軍飛行場建設が始まる。
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▼防空壕などがある敷地は国立歴史史跡として保存されて公園になっており、南洋桜(火焔樹)が綺麗に咲いていた。
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▼何の建物か不明だが当時のままアスリート飛行場内にあったという事で海軍航空隊が使用した施設であろう。
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▼日本海軍発電所跡。現在は赤十字が使用している。
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(サイパン島北部の戦跡と異なり、余り紹介される事の無い遺構がローカル線ターミナル付近に現存しています)

明治32年(1899)マリアナ諸島をドイツがスペインから買い取り、第1次世界大戦後に敗北したドイツから日本の委任統
治領となった後は、内南洋の委任統治施政官庁として大正11年(1922)に「南洋庁」が開設され、サイパン支庁が設けら
れた。後に「シュガー・キング」として知られる松江春次が大正10年に南洋興発株式会社(NKK)を設立。
日本統治時代のサイパン島/テニアン島/ロタ島における製糖産業の開発で1番知られている。
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 ▲南洋の島に理想郷の実現を夢見た会津人、松江春次(福島県出身)
 サイパン島で製糖会社としてスタートした南洋興発はテニアン島・ロタ島やパラオなどの南洋群島、更にニューギニ
 アやインドシナ等の外領地に事業を展開。内容は水産、繊維、貿易、交通運輸、土木など広範囲に及び、当時満州で
 隆盛を誇った南満州鉄道と並び “北の満鉄、南の南興”と呼ばれるようになる。
 しかし昭和15年65歳の松江春次は突然、脳溢血に倒れ、これを理由に社長を辞任、一線を退く。
 更に南洋開拓にかけた松江春次の夢が、打ち砕かれる時が近づいていた。
 留学の際に強大なアメリカの国力を肌で感じた松江は「日本が戦争に勝つことは不可能!平和的な解決の道を探るべ
 きだ」それが松江春次の持論だった。
 昭和14年8月松江春次は、もとより親交のあった連合艦隊司令長官、山本五十六を東京駅で見送っている。
 松江は非開戦派だった山本に頭を下げこう告げた「米英との戦争回避に向けてこの上ないご尽力を願いたい」
 しかし、2年後の昭和16年ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争勃発。
 宣戦布告が遅れたいきさつを聞いた松江は『駐米大使は切腹ものだ』と激怒した。
 更に松江は、サイパン島/テニアン島が激戦の場になることを想定していた。 
 当時、会長として経営の一線を退いていた松江だったが、南洋群島にいる社員、農業従事者らの安全を最優先に考え、
 本土への引き上げを主張、役員会は紛糾した。昭和19年海軍司令部は南洋興発に軍への全面協力を命じる。製糖工場
 は全て操業を中止。成人男子、日本人児童や公学校に通うチャモロ・カナカ人の生徒までもが飛行場の建設に駆り出
 された。昭和19年6月11日アメリカ軍によるサイパン攻撃が始まり、およそ6万発の砲弾が打ち込まれたサイパン島。
 数日間に及ぶ戦闘機による空襲と戦艦からの艦砲射撃に続いて海兵隊が上陸、松江の理想郷が地獄と化した。
 戦後、南洋興発は軍との協力関係を理由にGHQから閉鎖命令を受け松江春次は公職追放令の指定を受ける。
 こうして南洋興発株式会社(NKK)は消滅した。戦後、松江は再起をかけフィリピンを拠点とする南洋漁業の事業計画
 を進めたが、アメリカのビキニ環礁水爆実験の為断念。
 戊辰戦争で辛酸を舐めた会津藩士の子に生まれた松江の人生には暗い戦争の影が付きまとっていた。
 松江春次を支え続けた妻・「ふみ」は戦争中に病死、長男・一郎は出兵した南方ニューギニアで戦死した。
 昭和29年11月29日脳溢血により死去、享年78歳 命日は奇しくも33年前の南洋興発創立と同じ日だった。
 床の間に飾られた掛け軸には「人間生来無一物」“人間は裸で生まれ、裸で死んでいく“と書かれていた。

植民地行政政府(南洋庁、所在地はパラオ諸島コロール)からの実質的支援そして東洋拓殖株式会社からは資金提供を受
け砂糖キビ畑/製糖工場を運営し、沖縄出身者(移住者の60%)や朝鮮人の移住を援助し、成功した。
南洋興発株式会社(NKK)は「海の満鉄」とも言われ、国家的使命を持った会社だった。
サイパン島には南洋興発株式会社(NKK)の本社が置かれ、大正12年(1923)サイパン島の製糖工場が稼働するが、オサ
ゾウムシによる虫害、サトウキビを運搬する鉄道路の不備が会社を悩ませた。また、同年に発生した関東大震災により、
東京に蔵置していた製品の砂糖が焼失する被害を受ける。先行きの見えない経営の為、内地からは南洋群島の開発の
可能性を疑問視する「南洋群島放棄論」も呈されたが、ジャワ品種のサトウキビの導入による虫害の撲滅、輸送状況の
改善により、大正14年(1925)から経営は好転する。同年南洋興発の工場で9000トンの砂糖が生産され、昭和10年(19
35)には68000トンにまで増加する。南洋庁は南洋興発に製糖事業を独占させ、耕作地の貸与に始まり砂糖の出荷に終
わる工程では制度面・資金面において厚い保護を受けた。製糖業の中心地であるサイパン島とテニアン島のジャングル
は開拓されて工場・農場に変わり、道路・軽便鉄道が敷設された。製糖業を中心にコーヒーの栽培も盛んに行われ、日
本本土に送られていた。最盛期には年間290トンのコーヒーを日本本土に輸出していたという。
▼サイパン島チャランカノア(現在のマウント・カーメル大聖堂)にあった南洋興発製糖工場
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▼サイパン島で運行されていた「シュガートレイン」はドイツ製と日本製があり、南洋興発がサトウキビの輸送と物資
 の運搬用に建設された。鉄道は28両の長大編成で最後の1両は客車になっており、運賃1円で乗客も乗せたが、1円
 は当時、労働者の1日分の賃金に相当する金額であったと言う。
 北部のバードアイランド付近からガラパンを通り南部のラウラウ湾まで島内を一周する様に走っていたが、サイパン
 戦で破壊され現在島には鉄道は走っていない。
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▼米軍の空襲・艦砲射撃により破壊されたサイパン島南洋興発製糖工場
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▼米軍上陸後に撮られた写真、米兵が写っている。
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▼サイパン島ガラパン中心部に残る米軍艦砲射撃の跡が生々しい日本統治時代の刑務所跡。
 戦時中はアメリカ軍の捕虜もここに収容されていたと言う。シュガーキング・パークの向かいに残るこの刑務所跡に
 はサイパン戦の砲撃の跡・弾痕がくっきり残っており、独房の壁には日数を数えた跡が今も残っている。
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南洋桜が綺麗でした。かつてこの島で暮らしていた日本人も故郷の桜を思い出していた事でしょう。
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日本海軍が建設した元アスリート飛行場はここの囚人も作業に従事した。
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米軍捕虜収容所時代に彫られたであろう西洋人の名前「J.A.Belser」と、米軍が上陸した「June15/44」の日付
が刻まれており、その様な経緯のある刑務所なので戦後も取り壊される事無く保存(放置)されていると思った。
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▼2016年5月1日再訪
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当時、第1国民が日本人、第2国民が沖縄移住者、第3国民が現地人、第4国民が朝鮮人だったと言う。
委任統治領と植民地とは全く違うが、「人の区別」は間違いなくあった。その事実を現代に生きる我々がどう理解する
かは個々の捉え方次第であるが、日本統治時代の教育と躾、産業を育て、線路を引き、学校を建て、医療も充実させた
日本を恨む人は少ない。しかし当時、国際連盟委任統治条項で現地人に酒類を提供することは禁止されており、隠れて
酒を飲み、この刑務所に入れられる現地人も多かったと言う。
※サイパン島の戦いで、現地人(チャモロ人やカロニアンの現地人)合わせて約1000人が亡くなっている。
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3年前に訪れた時より辺りが綺麗にされている印象を受けた。ガラパン中心部にはアメリカズ・メモリアルパーク(無料)
があり、サイパン戦の犠牲になったアメリカ人と現地人の為の追悼施設がある。アメリカ国立公園だそうだ。
ビジターセンターではサイパン戦の様子や当時の町などを日本語と英語でパネルや遺物で凝った展示がされているそう
なので次回訪れた際には必ず行こうと思う。


昭和19年6月15日7時15分アメリカ軍は、第一波の大型上陸用舟艇70隻、小型100隻、LVT68両が、上陸支援艦24隻
の支援射撃の下にチャラン・カノア南北の海岸に殺到した。
同海岸を守っていた日本軍歩兵2個大隊は連日の砲爆撃で大損害を被っていたが、上陸部隊に対し激しい集中砲火を
加えた。特に96式15糎榴弾砲大隊(大隊長 黒木少佐)は砲爆撃による損失は一門もなく絶大な威力を発揮した。
その後もアメリカ軍は第4派までを次々に海岸に向けて送り込み、その合計はLVTと上陸用舟艇で700両、兵員8000名
に達していたが、上陸開始からわずか1時間でアメリカ軍の死傷者は4名の大隊長も含めて1000名を超えていた。
対する日本側は陸軍第31軍以下約36000名、海軍約8400名、南洋興発社員他民間人約22000名の合計66400名。
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▲サイパン島に上陸作戦を展開するアメリカ軍
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▲サイパンに上陸した海兵隊員。
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▲水際で日本軍の激しい攻撃が命中。倒れこむ2名の海兵隊員(左端・中)
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▲水際で日本軍の攻撃で戦死した3名の海兵隊員。
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▲水際での日本軍との激戦を制し、続々と上陸していくアメリカ軍
6月16日大本営発表「マリアナ諸島に来襲せる敵は、15日朝に至りサイパンに上陸を企図せしも前後
2回之を水際に撃退せり。敵は同日正午頃3度来襲し今なお激戦中なり」という発表をするが・・・・
アメリカ軍は輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数で膨大な量の物資を揚陸し、激しい攻撃を加えた。
アメリカ軍の攻撃を何回も撃退してきたススべ崎の陣地も攻略され、アギガン岬を死守してきた独立歩兵第316大隊
(江藤大隊長)は機銃から高射砲まで駆使して激しく抵抗したが、包囲されて壊滅しアギガン岬も占領された。
しかし、アメリカ軍も上陸3日間で5000名以上の予想外の戦死傷者を出して、予備の第27歩兵師団を投入する。

6月18日更に戦力を充実させたアメリカ軍は9:00頃攻撃を開始、ヒナシス丘陵を再度占領すると、1時間後、アスリ
ート飛行場も占領した。日本軍はアメリカ軍の速攻攻撃により飛行場の設備を破壊する間もなく、酸素工場・発電所・
燃料タンクがそのままアメリカ軍に使用される事となり、また多くの航空機とその部品が鹵獲された。
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▲米軍に鹵獲され護衛空母「コパイ」に搭載されアメリカ本土へ運ばれる261海軍航空隊と263海軍航空隊の零戦52型
※現在この時に鹵獲された1機がカリフォルニアのプレーンオブフェイム航空博物館で動態保存されている。

第31軍司令官 小畑英良中将はサイパンへのアメリカ軍上陸後の6月16日にパラオに移動しサイパンへの帰還のタイミ
ングを見計らっていた。
東條首相から「貴官は手段を尽くして速やかにサイパンに帰着し直接該方面の作戦を指導するを要す」と強い指示が出
ており、第31軍の各参謀を連れて6月21日にペリリュー島、6月24日にグアム島と次第にサイパンに近づいたが、アメ
リカ軍の重囲下のサイパンへの上陸は困難であり、小畑中将は結局グアム島よりの指揮を行う事となった。

サイパン島内陸部に「黒木大隊玉砕の地」と記された管理地がある。米軍が4日間にも渡り、猛烈な艦砲射撃と空爆を
繰り返した場所である。現地民のロレンツォ・ゲレロさんはいつか日本人が黒木大隊の大砲を探しに来ることを信じて
完全な形になる様に保管していた。昭和50年「ダンダン」地区に復元した火砲と共に黒木大隊慰霊碑が祀られた。
黒木大隊(黒木弘景陸軍少佐)が守備していたアギガン岬には、現在もトーチカが1つだけ残っていると言う。
満州(現中国東北部)にいた黒木大隊は昭和19年3月19日サイパン島に着任。正式名称「野戦重砲兵第9連隊第2大隊」
大隊本部黒木隊以下、第4中隊(山川隊)、第5中隊(川口隊)、第6中隊(草間隊)などがサイパン島の守備に就いた。
人力で火砲を港からカナツタブラ谷地の展開地域まで移動させ、陣地と観測所を構築した。
米軍のサイパン上陸に先立ちジャングルの中で完全にカモフラージュし、米軍が上陸しても戦闘配備のままじっと我慢
して敵の観測を続けた。6/15米軍飛行機が母艦に引き揚げるのを見計らい黒木大隊は射撃を開始して猛反撃。
6/16米軍は戦車を先頭に観測所向かって攻撃。黒木大隊本隊にも米戦車は迫り、遂に対戦車射撃用のゼロ距離射撃
(砲を水平に向けて撃つ)となる。黒木大隊は死闘を続けた末に壊滅。黒木大隊長は6/17夜襲で負傷するも単身米戦車
に斬り込み壮絶な戦死を遂げる。黒木大隊291名の内、生還出来たのは僅か14名である。
(南部のオブジャン岬にもトーチカ「監視哨」が現存している、生還者の多くはここで監視に就いた兵だと言う。)
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▲サイパン島での死闘。決死の思いで米軍戦車に突入したであろう射殺された日本兵が見える。
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▲海岸付近に散乱する日本兵の遺体。
山本五十六戦死後、海軍連合艦隊司令長官豊田副武大将は6月15日「あ号作戦」を発動、19日「マリアナ沖海戦」。
機動部隊司令官小沢治三郎中将は、遠距離攻撃「アウトレンジ戦法」を採用したが、熟練搭乗員を数多く失っていた
海軍の搭乗員は未熟であり、レーダー・無線に誘導された米軍戦闘機による迎撃・近接TV信管の威力の前に海軍の
攻撃は大失敗に終わり大敗北。米軍は「マリアナの七面鳥撃ち」と嘲笑した。
連合艦隊によるサイパン島救援は絶望的で、もはや玉砕を待つだけとなった。サイパン島やテニアン島にいた日本の
将兵・民間人は連合艦隊が壊滅したことは知らず、日本艦隊がサイパン島を救援に来るものと信じて奮闘していた。
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▲南洋興発「松江春次」と島民が築き上げたサトウキビ畑を米軍戦車が進撃していく。
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▼擱座した日本軍97式中戦車と95式軽戦車、側には戦死した日本兵が写っている。
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もはや水際撃滅は不可能となった日本軍各部隊も組織としての戦闘力を失いつつあった。この状況により第31軍は全
軍にタポチョ山付近に後退し戦線を整理する事を下令した。
この頃グアム島・テニアン島から増援部隊がサイパン島逆上陸を目指して出撃しているが全て失敗している。
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サイパン島がいよいよ重大な局面に立ち至った6月18日夜サイパン守備隊に対し天皇から以下の言葉がはっせられる。
『前線将兵の善戦を嘉賞する、萬一サイパンを失うようなことになれば、東京空襲も行われる様になるから、是非とも
サイパンを確保せねばならぬ』と・・・。
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6月21日硫黄島から出撃した海軍八幡部隊の一式陸攻12機がサイパン沖合の米艦隊に攻撃したが戦果はなかった。
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サイパン島日本軍守備隊は、中部山岳地タポチョ山に後退し、地下陣地を中心に抗戦した。
6月22日アメリカ軍はタポチョ山日本軍防衛線に対して戦車150両を主軸として猛攻撃を開始。
しかし、河村大隊や歩兵第118連隊他残存部隊で編成された守備隊の地形を最大限利用し巧みに構築された日本軍陣地
による頑強な抵抗を受けて全く進撃が出来なかった。
6月24日戦意不足として、米軍の第27師団長ラルフ・スミス少将が更迭される。(ここが米軍の対応の早さ)
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死傷者が続出する峡谷にアメリカ軍は「死の谷」「パープルハートリッジ」「地獄谷」と思いつく限りの名前を付けた
日本軍守備隊がタポチョ山でアメリカ軍の進撃をよく足止めしていた6月24日井桁参謀長は大本営に増援と航空支援を
要請。しかし既に6月22日〜23日の陸海軍の協議で、19日の「マリアナ沖海戦」敗北でもはや連合艦隊にマリアナ海
域に突入出来る戦力が無い事や、制空・制海権が無い中での増援部隊の海上輸送は困難との事で、サイパン奪回作戦の
断念が決定されていた後でった。大本営の方針は「サイパン放棄」であり、増援は送れない旨を返電している。
これにより日本軍守備隊と住民は、事実上大本営から「見捨てられた」も同然であり、悲惨な玉砕を待つだけとなった。
6月26日激しい白兵戦のあげくタポチョ山頂はアメリカ軍支配下となり、日本軍は夜襲をかけるも奪回はできなかった。
一方でアメリカ軍の損害も大きく、このタポチョ山の一連の戦いでの死傷者は3987名に上った。
特に「死の谷」で苦戦した第27歩兵師団は第165連隊長のケリー大佐が戦死、他2名の大隊長も戦死、中隊長は22名が
死傷するといった様に高級将校の損失が大きかった
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▲サイパン島タポチョ山西側のオレアイ海岸に散乱する日本兵の遺体。
※6月26日夜トラック島を出撃した一式陸攻数機がアスリート飛行場とアメリカ艦船を攻撃し米兵11名が死傷している。
※タッポチョ山を拠点としていた歩兵第18連隊衛生隊[大場栄]大尉以下47名の部隊はその後もゲリラ戦を展開する。
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▲タポチョ山の山頂に陣取る米軍兵士
6月28日アメリカ軍は、サイパン最大の市街地ガラパンに攻撃を開始した。
日本陸海軍合同司令部は6月27日「タナバク、221高地、タロホホの線を最後の抵抗線として戦闘を続行する」と決定。
各部隊に新防衛線への移動開始を7月2日とする事を通知し、司令部も後方の地獄谷の自然豪に移動した。
この時、ガラパン市街地が戦場になり行き所を失った一般邦人の多くは島の北端パナデル付近に集まっていた・・・。
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▲昭和19年7月2日、37ミリ銃を押してガラパンを進撃するアメリカ海兵隊。破壊された民家が写っている。
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▲機関銃で日本軍と交戦中の米海兵隊射手。
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日本軍守備隊はガラパンの起伏が多い地形を活用したり、市街地の建築物を利用した市街戦で肉薄攻撃、白兵突撃を駆
使して3日に渡って勇戦・敢闘するも、食糧も飲料水もなく3日間飲まず食わずでの戦いとなり、守備隊主力第118連隊
は、ほぼ全滅した。
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▲昭和19年7月3日、ガラパンの街での激しい市街地戦。
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▲97式中戦車で応戦するも物量・質に勝るアメリカ軍には勝てず。擱座した97式中戦車と戦死した日本軍兵士。
※サイパン島で激戦を戦った戦車第9連隊所属の陸軍97式中戦車「チハ」が1台は靖国神社遊就館に、1台が静岡県に
 ある若獅子神社に展示されている。
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▲サイパン島で米軍に捕獲された日本陸軍97式中戦車「チハ」
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▲サイパン島で米軍に捕獲された日本陸軍95式戦車
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▲激しい市街地戦となり、廃墟と化したガラパンの街。
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▲▼破壊されたガラパン市街地。(昭和19年7月7日米軍撮影)
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7月4日連隊長小川雪松大佐ら司令部要員は米軍第165連隊の戦闘指揮所と不意に遭遇、日米の連隊司令部同士の銃撃戦
となり、日本軍第136連隊の小川大佐を含む司令部要員27名が全員戦死した。
また、日本軍各部隊がガラパン市街から撤退したことで、ガラパンを防衛していた海軍部隊や陸軍の残存部隊も退路を
断たれガラパンを放棄せざるを得なくなり、ガラパン全域はアメリカ軍に占領された。
同日、米軍の砲撃で地獄谷合同司令部付近にも着弾。第31軍高級参謀伊藤誠逸大佐が戦死、斎藤師団長も負傷した。
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昭和19年7月7日[海軍南雲忠一中将 最期の訓示]
サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵および軍属は、克く協力
一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せり。
然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず。人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材なく攻むるに砲熕悉く破壊し、
戦友相次いで斃る。無念、七生報国を誓ふに而も敵の暴虐なる進攻依然たり。サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈
なる砲爆撃下に散華するに過ぎず。
今や、止まるも死、進むも死、死生命あり。須く其の時を得て帝国男児の真骨頂を発揮するを要す。余は残留諸子と共に、
断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんとす。
戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦びとすべし。

そして斉藤義次陸軍中将は残存部隊約4000名に総攻撃「万歳突撃」を命じた後、南雲忠一中将以下司令部要人は地獄谷
の司令部豪で自決した。
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アメリカ軍は7月6日(日没後)に捕らえた日本兵捕虜から「万歳突撃」の情報を得ており、各部隊に警戒体制をとらせて
いた。米軍海兵隊員は「バンザイ突撃」の観覧を呼び掛けるジョークポスターを作っている。
そのポスターには「酒に酔っぱらったジャップどもの突撃の様を見よ。アメリカ海兵隊の優秀な兵士たちの実弾演習の
様子を見よ。今晩オールナイト上演。入場無料、さぁお友達を連れていらっしゃい」と書いてあった。
ホーランド・スミス中将はそのポスターを複製して全部隊に配布するよう命じている。

そして米軍の前に7月6日深夜から7月7日残存部隊約4000名に総攻撃「万歳突撃」を敢行する日本軍が現れた。
上記で紹介した黒木大隊長と同じ砲兵出身の平櫛参謀は約1000名の兵と共に米砲兵陣地に迫る。
米軍連隊指揮所約50メートルまで突入するも壊滅。米軍の猛攻撃により、日本軍4311名は戦死した・・・。
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▲塹壕で戦死している日本兵。突き刺さっている銃剣に注目、日本陸軍三八式歩兵銃だ。闇夜の万歳突撃では混乱が
 生じ、この様に同士討ちになった場合も少なくかったと言う。
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▲戦死した日本兵。名札を見ると「上田」とも読める。合掌
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ホーランド・スミス中将はいよいよ日本軍を撃滅する時が来たと考え、サイパン島を東西に分割し、西側を第27歩兵師団、
東側を第4海兵師団(第2海兵師団は予備)それぞれがマッピ岬に向けて進撃する事とした。
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▲▼トーチカの中に潜む日本兵を警戒しながら射殺する米軍兵士。
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▲昭和19年7月12日、火炎放射器で掃討作戦を展開する米軍兵士。
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▲最後まで戦った日本軍民の無残な姿。

7月9日北部のマッピ岬(バンザイクリフ)やタポチョ山の断崖(スーサイドクリフ)に避難してきた民間人は投身自殺した。
昭和19年(1944)7月9日16:45米軍はサイパン島北端「マッピ岬」に到達、占領宣言を出した。7月7日未明の日本軍
総攻撃から9日までの間に、米軍掃討作戦によって1000人近い日本人が殺された。その中には日本軍将兵以外にも大勢
の一般邦人が含まれていた。この日、米軍はサイパン島の占領を宣言。サイパン島の戦いは終了した。
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▲7月5日、タナパグの海岸に横たわる日本兵の遺体。船で脱出しようとやってきたところを射殺されたという。
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▲昭和19年7月13日、アメリカ海兵隊によって埋葬される斎藤義次陸軍中将の棺。
※昭和19年サイパン島に派遣され、第43師団長としてサイパン守備隊を指揮した。日本兵が次々に玉砕する中、斎藤も
 榴弾によって負傷、7月6日[地獄谷]洞窟内で井桁敬治少将、南雲忠一中将と共に自決した。最期は切腹した後に、高
 級副官の鈴木二郎中佐が彼の頭を撃ち抜いたとされる。
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▲日本軍が玉砕し、戦いが終わったサイパンの浜辺。捕獲されたゼロ戦が写っている。
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▲捕獲された日本軍戦車を見る米軍兵士
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▲捕獲された日本軍機銃座を見る米軍兵士
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▲日本人が使っていたとみられる自転車に乗る米兵、南洋興発のサトウキビ運搬汽車の線路が写っている。
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▲戦いの中で焼失したガラパンにあった香取神社(1985年北マリアナ連邦政府によって再建された)
当時サイパン島には香取神社の他に南興神社・南郷神社・泉神社・カラベラ神社・八幡神社があった。
現在も島の中心に位置するガラパン シュガーキング・パーク「砂糖王公園」(彩帆香取神社)には、昭和9年(1934)
南洋興発の従業員達の寄付によって建てられた南洋興発株式会社の創設者[松江春次]を称える銅像が現存して
いる。サイパン島地上戦でも奇跡的に破壊されずに残ったのは、松江春次がルイジアナ州立大出身という事と、マッ
カーサー陸軍元帥と顔見知りだったとの事で、米本土から「決して壊すな」という命令があったからだと言う。
3週間続いた激戦中は境内にテントが張られ野戦病院になっていたという。「砂糖王公園」内にはサトウキビや燃料な
どを輸送する為に使用された蒸気機関車や、南洋庁サイパン実業学校の建物が残っている。
ミドルロードを挟んだ反対側には日本統治時代の病院建物が残っており「北マリアナ博物館」として使用されている。
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▲戦い終結後サイパン島で発見された日本軍車両
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▼戦利品の「日の丸」を見せてサイパン戦勝利を喜ぶアメリカ軍兵士達。
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▲昭和19年7月14日日本軍最後の斬り込みでは、タナパグ海岸近くに殺到したことが報告されている。
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▲▼7/14日本軍は最後の斬り込みを敢行。タナパグ海岸は約1300人の日本兵の遺体が散乱した。
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天皇からは「是非ともサイパンを確保せねばならぬ」と言われて戦い続け。
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6月は連合艦隊や大本営の応援を信じて戦い続け。
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結局は大本営に見捨てられ、7月陸の孤島サイパンで玉砕しなければならなかった日本兵と住民達・・・。
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この戦いで日本軍将兵・民間人約37000人が死亡し守備隊は殲滅された。大本営発表は「全員壮烈なる戦死を遂げた」
と公表(7月18日)され軍人・軍属の死者は約2万9000人であった。しかし多数の捕虜が出ている。
サイパン島では軍人・軍属の捕虜2300人(日本軍将兵1000人、朝鮮労務者(飛行場設営部隊)捕虜1300人)があった。
日本軍将兵(設営部隊を含む)の捕虜率は8%。
日本の民間人約22000人のうち約12000人が米軍によって収容され、生き残った。民間人の捕虜率は60%。玉砕した
日本の軍民は少なくなかったが、生き残った日本の軍民捕虜・投降者を黙殺することは出来ない。
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▲戦い終結後、米軍に保護された子供や赤ん坊、捕虜となったサイパン在住の日本人(民間人)
しかし軍人・軍属の捕虜、朝鮮人労務者(飛行場設営部隊)捕虜について、軍は言及しなかった。
なお、民間人約22000人のうち約10000人が米軍によって暴行・殺害されたり、自殺に追い込まれるなどした。
サイパン島は今も日本人の墓場となっている。同島でバカンスを楽しむ前には感謝と祈りを捧げて頂きたい。
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▲おそらくガラパン地区で撮影されたサイパン戦の写真。
米軍ブルドーザーで穴を掘る横には無数の日本兵や民間人の遺体。これが戦争である・・・。
この様に、南方の玉砕島では日本兵や民家人の死体は米軍によって埋葬?されたケースも多いが、放置された遺体の方
が多いだろう。戦後、道路拡張や再インフラ整備により、日本兵や民間人が埋葬された場所の特定が難しく、遺骨収集
は続けられているものの、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に帰還したご遺骨はわずかである。
 現在、今まで放置されていたサイパン島ガラパン地区の一等地に中国資本のカジノを建設中との事。
ガラパン中心街のその一等地は、サイパンの戦い終結後、何故か今の工事が開始されるまでジャングルのままだった。
カジノ建設工事が開始されると遺骨が山の様に出てきたと言う。
サイパン島の歴史を何も知らない中国人が始めた工事ではあるが、これは供養をしなければいけない。という事で、工
事関係者、作業員全員で供養を行ったそうだ。すると供養の席に出席しなかったフィリピン人2名がいたそうだ。
日米戦を知ってか知らずか「俺には関係無い」と思ったのだろう・・・。厳しい工事現場の仕事を請け負うフィリピン
人労働者のその気持ちも否定はしない。しかしその2名は工事中の事故で次々に命を落とした・・・。と、サイパン在
住の方に聞いた。怨念という言葉は信じたくは無いが、国の為、当時日本だったサイパンの為に必死に戦って亡くなっ
ていった日本人の遺骨を日本政府(日本人)が無視してきた事は、激戦地の異国に眠る英霊が化けて出てくる原因にもな
っていると思う。私は靖国神社へは参った事は無い。A級戦犯や無謀な命令を下してのうのうと生きながららえた高級
軍人も奉ってある事もあるが、そもそも御霊は靖国に還るなどと日本政府が勝手に決めた事ではないかと思う。
遺骨があり墓があり、そこにお参りする人が居て初めて供養される。御霊が本当に存在するのならば墓など要らない。
先の大戦で海外の地で亡くなった日本人が御霊となって全て靖国神社に還っているとは思えない。もし、還っていれば
奇妙な事件は起こらないし、慰霊碑も墓も1つの島に数多く要らないし、アメリカ式の様にメモリアルパーク1つで十分
である。サイパン島をはじめ、南方の島々には日本人が建てた墓や慰霊碑が所狭しと色々な場所にある。
それは先の大戦で亡くなった英霊への慰霊が日本人が一つになってない証拠であるし、この様にまだまだ遺骨が野ざら
しにされたままで靖国神社を参拝しても何の意味があるのだろう?と思う事も靖国神社へ行かない理由の1つでもある。

▼バンザイクリフへ向かう車中から牛がのんびりしている姿が見えた、近くには廃墟のニッコーホテルや無人のカート
場があり、ゴーストタウンの様だった。日本人の姿は少なく韓国人・中国人が多く、案内してくれた方も中国人だった。
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▼サイパン島の戦い終結後、さまよう牛を捕獲し移動させる米軍兵士
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BANZAI CLIFF(バンザイクリフ)の断崖に来ると当時追い詰められた女性が身を投げる映像を思い出しました。
多くの慰霊碑が立ち並ぶこの場所は当時は地獄から天国への入り口だったのでしょう。
身を投げ、天国に行かれた英霊達に一礼して感謝の念を伝えました。(地図赤印)
▼BANZAI CLIFF(バンザイクリフ)の断崖
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▼米軍に追い詰められ、米軍の投降勧告を受け入れず投身自殺する日本人(民間人)
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▼標高259mの「マッピ岬」(バンザイクリフ)周辺で掃討作戦を行う米軍兵士。
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▲マッピ岬から我が子と共に心中を図る父親が、子供を残して射殺された。
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▲米軍掃討作戦でマッピ岬の塹壕に追い込まれ、米軍の砲弾により爆死した母親と子供。
 「生きて鹵囚の辱めを受ける事なかれ」
日本軍のこの精神は軍人のみならず民間人にも徹底されていた。サイパン戦では多くの民間人が自ら命を絶った。
住民を守るのも軍隊の役目であるが、実際の戦闘中でしかも負け戦となれば住民を守りきる事など到底無理だろう。
逃げ歩くのに足手まといになる幼い子供やお年寄り、そして赤ん坊が戦闘に巻き込まれ、そして泣き止まない赤ん坊
は日本兵に虐殺された。今から死ぬと解っている兵隊が自分達の身を守る為に赤ん坊を殺す(または母親に殺せと命
令する)どう考えても理解に苦しむ。
戦って死んでいった日本兵に敬意を表するのは当たり前だ。しかし、同胞の芽を虐殺するとは許せない行為である。
結局サイパンで起こった悲劇はその後のテニアン島・沖縄でも繰り返される事となる・・・。
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バンザイクリフ当時のカラー映像YouTube
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私が不思議に思う事は慰霊碑の多さです、何故日本人が亡くなられた場所に同じ日本人が建てた慰霊碑がこんなにも
多くあるのでしょう・・。日本人が慰霊に関して1つになれないのでしょうか・・・・・・。
全ての慰霊碑に足を止める事は難しいです。この島に訪れた全ての日本人が違和感なく一礼出来る慰霊場所を指定す
る必要があると強く感じました。
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▼サイパン地図(上側が北=日本)
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[ サイパン島地図の軍艦島がマニャガハ島 ]
沖に浮かぶサイパン随一のマリンアクティビティスポットのマニャガハ島。ガラパン市街の沖合い約3kmに浮かぶ小島。
日本統治時代は「タナバク港」への入り口に位置するマニャガハ島は、沿岸防御拠点と監視所として重視された。
世界屈指の美しさを誇るラグーンから戦車が頭を覗かせている。島周辺には戦時中に沈んだ船艇や航機が遺されており、
ダイビングスポットとなっている。周囲約1km海抜3m、歩いても一周20分程度の小さな島は日本海軍によって要塞化
され、砲台8門・防空陣地を建設。別名「軍艦島」と名付けられていた。海軍第5根拠地隊の一部が配置されていたが、
米軍の艦砲射撃・空襲によって殆ど壊滅。
昭和19年(1944)7月13日、米軍はマニャガハ島にサイパン島最後の上陸作戦を行う。
11:00対岸のサイパン島から105mm砲900発・75mm砲720発による準備砲撃が15分間行われ、上陸を開始した。
しかし「軍艦島」には海軍第5根拠地隊の僅かな残存将兵と、サイパン島本島での最後の総攻撃以後に脱出してきてた
日本兵を合わせ29名しかおらず、「軍艦島」は約1時間で米軍部隊(第2海兵師団第6連隊第3大隊)に占領された。
29名の日本軍将兵のうち15名は米軍部隊に捕えられ捕虜となったが、14名は米軍部隊に殺された。

▼バンザイクリフからスーサイドクリフが綺麗に見える。
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▼サイパン島の戦い後、米軍占領時のスーサイドクリフ。米軍兵舎が建てられている。
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▼米軍の艦砲射撃の跡が生々しい。DSCN4478_convert_20140603210209.jpg
スーサイドクリフとは、激戦中米軍に追い詰められた日本軍守備隊や民間人がこの崖で逃げ場を失い、
昭和19年7月9日バンザイクリフ同様、崖から身を投げたとされる悲劇の丘です(地図青印)
SUICIDE CLIFF→「自殺の崖」・BANAZAI CLIFF→「万歳の崖」訳すとこうなります。
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▼捕虜となった民家人と日本兵。バックにスーサイドクリフが写っている。
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▼スーサイドクリフからバンザイクリフを望む。
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スーサイドクリフの丘の足元には「日本」と刻まれたコンクリートがありました。
これは戦後慰霊に来られる日本人の為に作られたそうで、日本の方角を示しているそうです。
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▼日本を向いて撮影。故郷を想い身を投げていった方達の無念を感じます
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映画「太平洋の奇跡-フォックスと呼ばれた男-」(大場栄大尉)はサイパン島の戦いが舞台です。
1944年9月30日サイパンの戦いで戦死と判断され少佐に特進(生存確認後に取り消しとなる)した大場栄大尉率いる
大場隊は、サイパン島守備隊である第43師団が玉砕した後もタポチョ山(タコ山)を拠点にゲリラ化し、日本が降伏
した敗戦後も遊撃戦を展開する。1945年11月27日(発令は25日)独立混成第9連隊長・天羽馬八大佐から正式の降
伏命令を受け、昭和20年(1945)12月1日、大場隊47人は戦死者に対し3発の弔銃を捧げ慰霊をしたうえで、各自軍装
を整え、大場大尉を先頭に日章旗を掲げ隊列を組み、軍歌を歌いながら行進・下山しアメリカ軍に投降した。
慣例として、投降式典において大場大尉は降伏の証としてて自身の軍刀をアメリカ合衆国軍将校に手渡した。
映画「太平洋の奇跡」は、この事実を映画化したものです。
「大場隊ゲリラ戦の概略」
昭和19年7月から行われた米軍掃討作戦でコーヒー山で米軍巡察隊と戦い勝利。
昭和19年7月~10月サイパン島中央部に位置するタポチョ山(Mt.Tapochau)タコ山に野営地を作り部隊を移す。
昭和19年10月米軍作戦部は、投降呼びかけのチラシを撒く作戦を決めた。
昭和19年11月米軍の大掃討作戦が実施された。米第二海兵師団麾下の3つの歩兵連隊による約1m間隔で横に並ん
で6キロ間を調べて掃討する作戦で、大場隊活動範囲は、縦6キロ、横5キロの地域であり、約300人の人間が隠れてい
るものと推察されていた。
大場大尉はタコ山の頂上から大勢の米兵を見て殲滅的な掃討作戦だと気づき、タコ山の南の断崖に逃げることにした。
絶対絶命だと思われた時、単独で行動していた堀内一等兵が軽機関銃で米兵を射撃した。応戦する米兵の銃声が断崖
から遠くなり崖山の方に誘導してくれて助かる。
昭和20年1月大場大尉一人で収容所に潜入。ビラに書いてある東京空襲について日本人捕虜に本当か聞いた。
昭和20年3月食料が不足し、民間人120余人を白旗を掲げさせて下山させ、収容所に向かわせた。
昭和20年3月~4月民間人を下山させた後、部隊を崖山に移動。移動した後、民間人から情報が漏れてタコ山が迫撃砲で
攻撃された。
昭和20年9月~12月日本降伏後大場大尉は米軍のルイス中佐と交渉。大場は「上級指揮官からの命令書がなければ
降伏出来ない」と告げる。ルイス中佐は、パガン島日本軍最高司令官の天羽少将の命令書を大場大尉に渡した。
大場大尉は、パガン島の陸軍少将、天羽馬八の署名のある命令書を読んだ。
昭和20年12月1日大場隊47名は軍歌「歩兵の本領」を歌いながら下山して大勢の米兵の見守る中でルイス中佐に正式
に降伏した。

戦後復員した大場栄大尉は1952年から1992年まで有限会社丸栄産業代表取締役。
1967年4月から1979年3月まで愛知県蒲郡市議会議員を勤め1992年6月8日死去。
サイパン島から生還した方の証言の中に「大場隊は米軍の食料を盗み歩いて、ただ逃げ回っていただけ」
と語る人もいますが、多くの部下を玉砕や自決させる事無く無事に帰還させてあげた功績は大きいと思います。
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▲昭和20年(1945)12月1日サイパン島 投降式典後の大場栄大尉
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▲「サイパン島投降式典」1945(昭和20)年12月1日09:00米軍司令官のルイス中佐に軍刀を差し出す大場栄大尉。
 大場隊47名の1年半(512日)にわたる長い戦いが終わった瞬間だった。
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▼▲ご苦労様でした、玉砕戦の島で本当によくご無事で・・・。
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映画の中で大場栄大尉が投降を決意する際、「パガン島」天羽馬八大佐の命令で。とあります。
私はこの映画を見て、初めて「パガン島」を知りました。
サイパンの北に位置するパガン島も当時サイパン同様日本の委任統治領であり、米軍の爆撃を激しく受けた戦地です。
現在はアメリカ自治領となり、数人の現地人が暮らす静かな島となっている様です。
▼[ラストコマンドポスト]
最後の司令部跡と呼ばれるこの壕は、当時は海軍の監視所(トーチカ)として使われていた場所だそうです。
サイパン島の司令部首脳陣「南雲忠一中将以下3名」は同島の[地獄谷]と呼ばれる司令部壕で自決したとされています。
※斉藤義次中将/南雲忠一中将/井桁敬治少将/矢野英雄少将の4名(昭和19年7月6日午前10時頃自決)
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▼階段を上っていくとトーチカの入り口があります。
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▼中へ入っても砲撃で出来た穴から外の光が入ってきます。
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▼中から入り口を見る。
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トーチカの周りには島から集めたであろう、日本軍の戦車や武器が観光用に配置され、観光客(外人)が笑顔で記念撮
影をしていました・・。現在ここは外国ですからね・・、複雑な気持ちになりました。
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▼製糖工場にサトウキビを運んでいた貨車の車輪か・・・?
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▼サイパン島の戦い終了後、日本軍高射砲を触る米軍兵士。ラストコマンドポストに展示されている高射砲かもしれない
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▼戦いが終わって少し日数が経ってからの写真。米軍撮影班のカメラを覗き込む日本人の子供達。
 親兄弟を失って孤児になった子も多かったであろう。子供は強い・・・。
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※現地チャモロ人と結婚したバルシーナス米子さんが、サイパン観光コースから外れた戦跡ガイドをされていると聞いた
日本の戦争
マリアナ沖海戦(前編) マリアナ沖海戦(後編)




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2013_06_30

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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