道東(根室)

Category: 北海道  

根室は終戦直前、オホーツク地方一帯は米軍やソ連軍の上陸危機にありました。
根室半島のトーチカ群は、1944年夏頃から翌45年にかけて、多大な労力を費やして建造されました。
これらの防衛陣地は、アリューシャン列島を経由したアメリカ軍による本土進攻を想定して作られたも
のでしたが、実際に千島列島を南下してきたのはソ連軍でした。
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しかしアメリカの持つ強大な影響力により、ソ連軍の進攻が歯舞諸島(現北方領土)で止まった為、海峡を挟んだ根室
半島のトーチカ群が敵軍に向けてその砲火を開くことはありませんでした。
当時構築にあたって指揮を執ったのは、第33警備大隊長・大山柏少佐でした、軍人でありながら慶応義塾で歴史学を
講じる学者でもあった大山が戦後に記した回想録には、困難な状況下での作業の詳細を今に伝えています。
「…各隊とも築城の知識が皆無に近く、その強度も区々であったので、築城学教程をもとに将校教育を行い、まず角材、
厚板等の規格を統一しました。最初は木材だけであったが、後にセメントが補給されコンクリート製トーチカを作った」
戦後、一部のトーチカは占領軍によって破壊され、また戦後復興工事等で撤去された物もありますが、現在も十数基の
トーチカが現存しています。

根室の海軍飛行場(根室第2飛行場)が完成する事はありませんでした。
未完成のまま終戦を迎えた「旧牧の内海軍第二飛行場跡」には当時の滑走路の一部と掩体壕が多数現存しています。
掩体壕は2基見学する事が出来ましたが他は立ち入れない場所にあるので近づいての見学は困難です。
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▲国道から見える平らなコンクリート。荒れ果てていますが確かに滑走路がここにあった事が確認出来ました
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▲現在はソーラーパネルが設置され、徐々に姿を変えつつありました。
(根室の至るところにこの様なソーラーパネルが設置されているのを見ました。)
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▲見学し易い場所にある掩体壕で、国道から少し中に入った場所にあります(地主に許可を得て見学する事が出来ます)
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▲上記地主さんと同じ所有地の牧場内に現存する掩体壕。地元の人は「格納庫」と呼んでいました。

今回は北海道根室市まで足を延ばして「旧牧の内海軍第二飛行場跡」と「東海岸トーチカ群」の一部を
見学してきました。解りにくい場所で見つけるのに何度も国道を往復してしまいました・・・。
今回見学出来たトーチカは下記地図のNO.3~6の4基です。残りは時間の関係で周りきれませんでした。

▼現存する根室半島防御陣地の地図です。(少し古い為今は撤去されたトーチカもあるかもしれません)
 赤印の場所は「旧牧の内海軍第二飛行場跡」です。現在は太陽光発電ソーラーパネルが目印です。
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▼上記地図のNO.5とNO.6 「桂木トーチカ」(1944年4月第33警備大隊構築)写真左をNO.5右をNO.6とします。
  (当時は現在の状態とは異なり、土で覆って隠していたとされています)
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▼NO.5入り口
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▼NO.5銃眼側
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▼NO.5内部(最近綺麗にされた様で、以前は浮浪者などが住みついていたそうです)
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▼NO.5横から
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▼NO.6このトーチカは崩壊が進んでいます。NO.5とは形が違う様です。
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▼NO.6
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▼NO.6
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▼NO.6銃眼
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▼NO.6入り口
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▼NO.6銃眼側内部(このトーチカは2部屋あった様です)
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▼NO.6後ろから
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▼別の角度からNO.5 NO.6を撮影。根室半島上陸は無かった為、実戦には使用されず、ただのコンクリートの
固まりですが、戦時中に作られたという緊張感と、一目見て使用目的が解る単純な構造が何ともいえません。
当時、トーチカ本体は近くの工場で作られ、トレーラーで配置場所まで運ばれたそうです。
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▲写真の右手200m程先は海岸です、トーチカは海岸際にあり、上陸阻止の最前線であった事が解ります。

▼次はNO.3とNO.4「友知トーチカ」です、ここは国道35号から見えます。左をNO.3右をNO.4とします。
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▼NO.4銃眼側
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▼NO.4入り口
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▼NO.4内部(武器を置く為の台座があります。全て同じ様に見えるトーチカですが、火砲/山砲/対戦車用火砲/歩兵砲
重機関銃などの対人用火砲等、用途が色々あった様なので、ここは重機関銃用のトーチカだったのかもしれません。)
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▼NO.3入り口
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▼NO.3内部
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▼NO.3内部
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▼NO.3銃眼
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▼NO.3、NO.4を別の角度から撮影。
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「無鉄筋コンクリートの塊」「大きな荒い石が多く混ざった粗悪なコンクリート」「木材で作られた頼りない骨格」
出来上がった物を見るだけの我々は言いたい事が言えます。しかし鉄等の物資不足の中、しかも切迫する戦況の中で、
必死に本土防衛の為に汗を流した人々の事を考えると、とてもただのコンクリートのかたまりには見えません。
北海道は沖縄の様な悲劇にならなかったとはいえ、終戦までの日本人の苦労を今に伝えている様な気がします。
今回見学したトーチカは全て海岸近くに現存していましたが、戦後70年近く海風にさらされながらも保存状態が良いの
は当時資材不足の「鉄筋抜き」の為、塩害から守られたのかもしれません。

以下は1944(昭和19)年に防御陣地築城に携わった歩兵第28連隊第7中隊附 日比野透中尉の回想記録です。
中隊は所命陣地の後方に幕営して作業に任じた。夏頃、方面軍司令官が参謀を連れて視察にきた。10月頃までに完成せよ。
ということであったが、そう簡単にできそうにもなかった。地盤が固く、十字鍬が少なく、また爆薬も少なく、作業がなか
なか進まなかった。銃眼孔を低くするためには深く掘り下げねばならず、終わりには人力で投土できなくなったので、石垣
軍曹考案によるウインチを用い馬力で土砂を運びだし、また一輪車を作って土砂捨てに使用した。材料は鉄材がないのです
べて木材を使用した。築城材料は陣地後方の森林を伐採し、徴用した馬車で運搬し、コンクリート掩蓋の上にも十分遮断層
を入れた。作業は雪の降るころまで続けられた。
   防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面陸軍作戦<2> -千島・樺太・北海道の防衛-』(1971)のP263より引用


陸軍「 池田末男大佐」 を皆さん御存知でしょうか。
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陸軍戦車第11連隊長で陸軍戦車学校校長も勤めた「戦車隊の神様」と言われた人物です。
占守島で、終戦後8月18日侵攻してきたソ連軍に突撃戦死、部下に優しく、戦死後少将に。
この戦車11連隊は別名「士魂部隊」と呼ばれる精鋭部隊でした。

カムチャッカ半島はロシア領です。しかし、その下の占守島(シュムシュトウ)から根室までの千島列島
は日本固有の領土です。現在も北海道根室支庁占守郡とされています。(行きたくても行けませんが・・)
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[ 北海道をソ連の侵略から守る為、国のために戦った兵士達 ]
1945年(昭和20年)8月15日終戦。天皇の玉音放送がラジオから流れる。
占守島は電波状況が悪いため玉音放送はほとんど聞こえなかったそうですが、16日に大本営(最高統帥機関)より
「一切の戦闘行動を停止す。ただしやむを得ない自衛行動を妨げず。その完全徹底の時期を18日16時とする」
という命令が届き戦闘行動の中止が指示されました。
占守島の陸軍守備隊は武装解除と復員の準備をしはじめます。
「士魂部隊」も終戦処理に入り、戦車砲の取り外しや弾薬の信管取り外しなどの武装解除に備えていました。
ところがいきなりソ連軍が侵攻してきました。何故ソ連が終戦したにもかかわらず攻め込んできたかというと、ス
ターリンが北海道の北部半分を占領するためです。ヤルタ会談で行われたルーズベルト(アメリカ)、チャーチル
(イギリス)、スターリン(ソ連)の三者会談において、ソ連には対日参戦の見返りとして満州、朝鮮38度線以北、
樺太、千島の占領行政を行うというヤルタ秘密協定がありました。
しかしソ連はカイロ宣言に違反する日本領土の千島列島占領を米英が本当にソ連に引き渡すかは疑っていました。

そのためソ連は占守島を落として一気に千島列島を南下し、北海道の半分を占領統治させるよう米英に要求します
が、ルーズベルトの死後、トルーマンに北海道北部の占領を反対されたため、日本の終戦後に千島侵攻作戦を発令
し、大軍を送り込んできたのです。「占守島は一日で占領する」と豪語するソ連・・・・。
終戦から3日後の8月18日、武装解除の準備を進めていた占守島の日本軍に対し、ソ連軍が奇襲上陸攻撃を開始。
「日没までに全島を占領する」という作戦計画で、1個師団8363名、218門もの大砲を装備した上陸部隊と、艦隊
54隻で侵攻してきました。占守島日本軍守備隊には相次いで急報が入ってきました。
「敵輸送船団らしきものを発見!」 「敵上陸用舟艇を発見!」 「敵上陸、兵力数千人!」
日本軍は既に戦車から無線機や機関銃を取り外すなどの解除準備を 始めてしまっていたが、武装を整え直し、自衛
戦闘を開始しました。
占守島の竹田浜に展開していた部隊は第3中隊の2個小隊だけであり、たちまち包囲攻撃され激戦となります。
しかし、ここには「戦車隊の神様」といわれた池田連隊長がいます。「断固、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」
池田連隊長は終戦を迎えて大切にしていた戦車を海に沈め、自分も自決するつもりでした。
しかし、その池田連隊長の顔に生気がみなぎり、兵士は思わず 「連隊長殿おめでとうございます。やりましょう」
と言ったそうです。

池田戦車連隊の主力は天神山の麓に集結。池田連隊長は兵士に問いかけました。
「諸子はいま、赤穂浪士の如く恥を忍んで将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊のように玉砕もって日本民族
の防波堤となり後世の歴史に問わんとするか。赤穂浪士たらんものは一歩前に出よ、白虎隊たらんものは手を挙げよ」
と・・・・。
その言葉が終わる間もなく嘆声とともに全員の手が挙がりました。池田連隊長は師団、旅団の両司令部に打電します。
「連隊はこれより敵中に突撃せんとす。祖国の弥栄と平和を祈る」

池田連隊長は上半身裸で先頭に立ち、日の丸の手ぬぐいで鉢巻をし「ソ連上陸軍を一人残らず海にたたき落とすまで
奮闘せよ」と言って、日章旗を振って突撃の合図をします。
ついに敵部隊の中心部に突っ込んで行きます。この時の光景はまさに「戦車隊の神様」と言わしめたといいます。
運用教範の実演の如く見事な隊形だったと言います。
ちょうどこの時、北千島特有の濃霧が戦場一帯を包み込み、池田戦車隊は視界ゼロの状態で目標を見失います。
炎上する車両が続出するも士魂部隊は戦い続けます。そしてついに耐え切れなくなったソ連軍は多くの遺棄死体を残
したまま、竹田浜方面に撤退しました。突破されかけていた戦線を押し返した池田戦車隊の功績は大きいものでした。

しかし士魂部隊は戦車27両が撃破され、池田連隊長はじめ96名が戦死しました。これにより内陸部への侵攻を阻止
したのです。その後、第五方面軍からの停戦と自衛戦闘への移行命令が届き、ソ連軍に停戦の軍使を派遣します。
しかしソ連軍はこの軍使を射殺するという暴挙に出たため、各地で小規模な戦闘があり停戦となったのは8月21日ま
でかかりました。現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立し、8月21日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会
同して降伏文書の正式調印が行われました。そしてソ連軍の監視の下で武装解除が行われました。
占守島戦全体における最終的な損害は日本側死傷者500~700名、ソ連側約3000名。まさに日本軍の圧勝という
べき戦果でした。この時守備隊将兵は悔しい思いで言いました「なぜ勝った方が負けた連中に武装解除されるのか」
この占守島における日本軍の奮戦によって、日本はソ連の北海道分割占領の危機を免れたのです。
(ソ連側資料では、日本軍の死傷者1018名、ソ連側1567名とある)
陸軍第91師団は占守島、幌筵島を中心とする要域に配置され、北千島方面の防衛を担当していました。
第91師団は昭和19年4月に現役兵を主体に編成された新鋭兵団で、独立歩兵4個大隊を基幹とする第73旅団、第74
旅団と戦車第二連隊、師団砲兵隊、重砲隊等で成り、優秀な兵員と充実した装備を誇る精鋭兵団でした。
また、陸軍の一式戦闘機「隼」4機と海軍航空隊分遣隊の97式艦上攻撃機4機の計8機が配備されていました。
この内の1機がソ連軍海上部隊に特攻を敢行し、体当たりしている。8/19満州の特攻とならぶ最後の特攻だった。
ソ連政府機関紙イズベスチアは、この戦いについて「占守島の戦いは満州・朝鮮に於ける戦闘よりも遥かに損害は甚
大であった。 8月19日はソ連人民にとって悲しみの日である」との記事を掲載したそうです。
極東ソ連軍総司令部は北千島、中千島、南千島及び北海道に対する第2次、第3次侵攻作戦と、段階的に占領する作戦
計画を立案していました。 この占守島の戦いに於ける日本陸軍第91師団が奮闘したお陰で、1日で占領させる予定で
あった占守島でソ連軍に時間を浪費させた為、千島列島全体の侵攻作戦が遅滞し、その間に米軍の北海道進駐が完了
した事でソ連軍の北海道侵攻のタイミングを外し、ソ連が要求した北海道北部の分割統治が回避されたのです。
陸軍第91師団の勇戦が無かったら、北海道は南北に分断され、1950年代~1960年代の米ソ対立構造からして、朝鮮
半島や ベトナム同様、北海道で日本人同士が代理戦争させられていたであろうことは間違いの無いことだったのです。
8月15日の終戦の時に、占守島には日魯(ニチロ)漁業の従業員の方が2500人ほどいました。
この人たちは国民の食糧確保のために悪い戦局を承知で缶詰工場で働いていましたが、
その中には約400人の若い女子工員もいました。
終戦で内地から迎えの船が来れば真っ先に彼女たちを送り返す手筈を整えているところへソ連軍の攻撃でした。
参謀長と世話役の大尉は「このままでは必ずソ連軍に陵辱され被害者が出る。何としてもあの娘たちを北海道へ
送り返そう」と相談し、当時島にあった独航船二十数隻に約400人を分乗させ、霧に覆われた港から北海道に向け
て出港させました。ソ連機の爆撃が続く中、日本軍も高射砲の一斉射撃で必死の援護を行い無事に出港させるこ
とが出来たのです。
「全員、無事に北海道に着いた」との電報が島に届いたのは、それから5日後でした。

8月21日の停戦後に上陸してきたソ連軍は女性を捜し回ったそうです。(満州と同じですね・・・・。)
もし彼女たちがいち早く島を出ることが出来なかったとしたら・・・、占守島の第九一師団の心遣いに感謝したい。
終戦を迎えた後のソ連の卑劣な進行を防ぎ、多くの婦女子を守り通し、勇敢に戦って亡くなった英霊に敬意を表します。
これが占守島の戦いです。
▼占守島に今も残る11連隊の物とみられる日本軍の戦車と火砲
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1/2【証言シリーズ】元陸軍戦車第11連隊 陸軍伍長 神谷幾郎
2/2【証言シリーズ】元陸軍戦車第11連隊 陸軍伍長 神谷幾郎
はるかなる北千島・占守島(中編)最北の国端崎 日本軍戦車今も(北海道新聞)YouTube

※択捉島紗那村にもトーチカが残されているという話も聞きました、行ってみたい・・・・「北方領土返還!」

今回の根室訪問のもう1つの目的でもある納沙布岬にも立ち寄りました。北方領土をこの目で見る為に。
▼道中の国道には数キロごとに「北方領土返還」の看板が設置されていて、来なければ感じない何かを実感します。
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▼「四島のかけはし」
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▼日の丸と「島を返せ」が印象的な旗
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▼「希望の道」 奈良県の石もあったので一安心。
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▼北方領土の見える位置が記されたアスファルト。
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▼ふり返って撮影 根室市が運営する「北方館」は入場無料で北方領土をしっかり勉強出来ます、お勧めです。
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▼霧がかかると見えにくくなるとの事でしたが、灯台の裏側にまわると北方領土がはっきり見えました。
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▼立ち去ろうとした数分後、深い霧で北方領土は見えなくなりました・・・。
ロシアに持っていかれた様な感じがしました・・・・。
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4島のうち2島返還の話がある様なのですが、「4島全て同時返還でないと駄目!」という人達もいる様で、
言いたい事は解りますが、先の大戦での敗戦国は日本です。当時ソ連の強奪とも言える北方四島の占領
は許しがたいですが連合軍に無条件降伏し、どうする事も出来なかった当時の日本もまた日本です。
戦後70年を迎え、今はぐっとこらえて2島返還を受け入れて、少しでも返還を前に進めないと返還運動その
ものが日本人から忘れ去られるのではないかと不安になります。
敗戦後70年で2島返還、その後また粘り強い交渉でいつの日か残2島返還。それで良いと思います。
70年経って0島返還ではあまりにも時間がかかり過ぎている気がしますし、若い人達が熱意を持って返還を
切望するでしょうか?一部の人だけの声だけでは何も変わりません。
日本全国の人が関心を持つには、まず2島返還で国民の興味を持っていく事が大事ではないかと思います。
2島でも返還され、日本人が自由に旅行に行く事が出来る様になればもっと全国の日本人、親日的な外国人
が北方領土に関心を持つはずだと思います。今のままでは何も変わらないと思います・・・・。




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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 2015_07_20

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WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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