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陸の三馬鹿


戦って亡くなられた(戦わずして亡くなられた)英霊の多くは、無能な上層部の戦犯とも
言える無謀な作戦によって尊い命を国に捧げた方が多いという事も忘れてはいけません。
ここでは戦後アメリカで「陸の三馬鹿」と言われた有名な3名の陸軍幹部、寺内寿一大将 ・
牟田口廉也中将 ・ 富永恭次中将 を紹介しておきます。
特にイギリスでは、「日本兵を大量に見殺しにしてくれたので勲章を与える」 とのブラッ
クジョークまで出る程軽蔑されています。

( 木村兵太郎大将 ・ 牟田口廉也中将 ・ 富永恭次中将 の3名を挙げる人もいます。)
※木村兵太郎大将は戦後東京裁判において死刑が言い渡され昭和23年12月23日絞首刑。
ですのでここではあえて紹介しない事にします。
[映像記録史 太平洋戦争前編][映像記録史 太平洋戦争後編]

▼寺内寿一大将
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寺内 寿一(てらうち ひさいち) 1879年(明治12年)8月8日~1946年(昭和21年)6月12日
日本の陸軍軍人・政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通
して親子2代で元帥府に列せられた人物。南方軍総司令官。
南方軍総司令官在任時、牟田口廉也中将の無謀なインパール作戦を黙認したのもこの人物。

1944年10月、フィリピン決戦を前にマニラを去り、赤坂の芸妓を軍属として呼び寄せて、「東洋の
パリ」と言われたベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)に司令部を置き、旧フランス総督の大邸
宅豪邸で優雅な生活をしながら命令を出し続けた。ルソン島で総力戦を構える山下奉文大将に対し、
レイテ島への兵力分散を命じて約37万人という太平洋戦争最大の犠牲者を出した。(87%が餓死)
(レイテ島への戦力分散は、海軍の行った「台湾沖航空戦」の幻の大戦果結果の真相を陸軍に伝えな
かった海軍の責任も重大であるが・・・。)フィリピンでの戦いの後も何もおとがめ無し・・・・。
山下奉文大将は部下達と共に空腹でフラフラしながらフィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦
ったのである。レイテ島の戦い 

寺内は愛人(お妾さん)の芸妓を、陸軍軍属として輸送機で自分の総司令部の官舎に連れ込んでいた。
もちろん、日本軍の上級幹部には、現地の敵性国人(たとえばオランダ)の女性を“現地妻”ないしは
愛人として囲った人間はいただろう。だが日本本土から赤坂の美貌の芸妓を軍用機に搭乗させて呼び
よせた。という人間は、寺内以外にまずいなかったのではあるまいか?
終戦の年の9月、脳溢血で倒れなかったら、おそらく戦犯として絞首刑は間違い無かっただろう。
1946年(昭和21年)6月12日マレーシア(レンガム)で拘留中に病死。享年66歳

※寺内寿一大将と東條英機(陸軍大臣)首相との間柄は極めて不良だった。
東条英機の父東條英教は日露戦争で旅団長として指揮に問題がありと烙印をおされた。
また当時、長州閥が陸軍を支配していたため出世を妨げられ、日露戦争後、中将に昇進の上、予備役に
された。その後息子、東条英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなど長州
閥の解体に尽力した。

寺内寿一の父寺内正毅は長州出身で、東条英機の父東条英教が陸軍少将で参謀本部第四部長の時、参謀
次長だった寺内正毅により旅団長に左遷された。また、東条英教を予備役にしたとも言われている。

このようなことから、寺内寿一大将は、東條英機首相にとっては父英教の仇敵の子供でもあり、長州出
身であるから、当然敵視していたといわれる。
太平洋戦争開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将を南方軍総
司令官として、遠く南冥の地に追いやり、寺内大将はシンガポール、サイゴンから一歩も動けない立場
に置かれたのも事実である。しかしそういったお家の事情は最前線で戦う兵士には関係無い、上司の為
に戦ったのでは無い。戦死していった最前線の兵士は日本の為、家族を守る為に戦って倒れたのである。


▼牟田口廉也中将
Mutaguchi_Renya.jpg
牟田口 廉也(むたぐち れんや)1888年(明治21年)10月7日~1966年(昭和41年)8月2日
日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や
同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。責任なき戦場 ビルマ・インパール

インパール作戦の失敗までは、人間性はともかくとして、軍人・将軍としては「有能」であったとい
えます。また、彼はもともと皇道派寄りな人物としてマークされ、そのために中国に飛ばされた経緯
をもっていたので、権謀術数を用いてのし上がったと言うわけでもないようです。しかし・・・・、
有名なインパール作戦自体は大失敗、正論を吐く部下の師団長を次々と首にして強引に継続しました
が、結果は惨憺たるもの。2万人以上の兵士が餓死・病死し、日本軍退却の道筋は「白骨街道」と呼ば
れました。作戦が大失敗なのは明らかなのにメンツにこだわり、上司のビルマ方面軍最高司令官の「河
辺中将との会談でこう言ったそうです。
「作戦中止を言いたかったが言い出せなかった。私の顔色からなんとか読み取って欲しかった」
と、漫画にもならない事を回想で言っています。牟田口は前線部隊が帰還するのを待たないでさっさと
日本へ逃げ帰り、牟田口は終戦後、昭和20年12月戦犯容疑で逮捕され昭和21年9月シンガポールに
移送された。昭和23年3月釈放され帰国。東京都調布市で余生を過ごした。
しばらくの間はインパール作戦に対する反省の弁を述べ、1961年(昭和36年)頃まで、敗戦の責任を
強く感じて公式の席を遠慮し続けながら生活していた。昭和36年2月26日、インパール作戦で自らが更
迭した佐藤 幸徳(さとう こうとく)元師団長の葬儀に参列し、佐藤家の遺族の前で頭を下げ、
「自分の至らなさのため、すまないことをした」と詫びた。
しかし、1962年(昭和37年)にバーカー元イギリス軍中佐からインパール作戦成功の可能性に言及した
書簡を受け取ったことを契機に、自己弁護活動を行うようになり、死去までの約4年間はインパール作戦
失敗の責任を問われると戦時中と同じ様に、
「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」などと頑なに自説を主張していた。
1966年(昭和41年)8月2日死去。享年77歳
自身の無謀な作戦(インパール作戦)に倒れた兵士達への謝罪の言葉は死ぬまで無く、8月4日に行われ
た自らの葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた。


▼富永恭次中将
150px-Tominaga_Kyouji.jpg
冨永 恭次(とみなが きょうじ)1892年(明治25年)1月2日~1960年(昭和35年)1月14日
明治25(1892)年1月2日、医師・富永吉太郎の二男として長崎県で誕生。日本の陸軍軍人
最終階級は陸軍中将。

富永は東條英機の腰巾着と言われ、徹底して東條にへつらう事で昇進しました。
マニラに着任した冨永は、フィリピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊「万朶隊」の出撃命令を
出しました。続いて「富嶽隊」が出撃。以後62回、400機近い特攻機を続々と出撃させました。
生存者の証言によれば、特攻前になると一升瓶をぶら下げて現れては訓示を垂れるしか能のない司令
官だったそうです。陸軍特攻隊の司令官として出撃前の大げさなパフォーマンスに生き甲斐を見出し、
特攻隊員に、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
と言いながら、エンジン不調などで帰還すると、「卑怯者!命が惜しいのか!」と罵倒しました。
400機近くの特攻機を出撃させ、搭乗員を戦死させながらも戦後のうのうと生き恥を晒した人物です。

冨永は視察を名目に上級司令部にも無断で突然フィリピンから台湾に単独で後退。
一説には、マニラから引き上げてきた司令部要員の大半をエチャーゲの南5キロにあるサンチャゴに
足止めし、その間に司令官・参謀などの高級将校たちは残り少ない戦闘機を駆り出して護衛を命じ、
フィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾の台北へと続々と逃亡した。
積み荷はウィスキーと芸者達であったという。
(冨永の敵前逃亡の様子については異論も存在する。脱出の際に使用した陸軍飛行機は2人乗りであ
り、芸者を同乗させて逃亡したという話は後年の創作の可能性もある。しかし部下を置き去りにして
自分だけが逃げた事実は変わらない。)
約1万の第4航軍の残存将兵は地上部隊に編成替えされ脆弱な歩兵部隊となってその大半が戦死した。
富永の台湾への移動は一応口実をつけてはいたものの、直属上官である山下大将にも無断で行われる
など明らかに軍規違反であり、軍規に則れば銃殺刑の敵前逃亡であった。
事後承諾を求めに行った参謀に対し山下 奉文陸軍大将は、
「部下を置き去りにして逃げるような奴に何ができるか!」と面罵したという。
富永の行状は逃亡先の台湾でも知れ渡っており、第10方面軍に申告を行った際、同軍司令官の安藤利
吉大将(兼台湾総督)から「申告は受け付けられない」と拒否されている。
また昼間から軍の乗用車に芸者を乗せて走っており、一兵卒でさえ富永に敬礼しなかったという。
本来であれば軍法会議が行われるべきところ暫く何の処分も下されなかったが、流石に陸軍中央でも問
題になり、2月23日待命、5月5日予備役編入の処置がとられた。
しかし「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか?」
という声があり7月に召集し、第139師団の師団長として満州の敦化に赴かせた。
この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。
8月9日のソ連参戦、終戦後、富永はシベリアのハバロフスク収容所に抑留された。ソ連の諜報員で戦後
ソ連当局に逮捕されて禁固刑に処されたレオポルド・トレッペルは、ブティルスク監獄において冨永と
同室だったと証言している。1955年(昭和30年)4月18日、引揚船「興安丸」で舞鶴港に帰国した。
昭和35年1月14日 東京都世田谷区の自宅で心臓衰弱のため病死。享年68歳

特攻隊員に、「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」
と言った本人は戦後15年間、68歳まで生き恥を晒した様です・・・・。

富永の敵前逃亡はフィリピンに残った兵士たちの怒りと嘲笑を買い、当時、現地で軍歌「若鷲の歌」の
替え歌が流行りました。以下その替え歌の歌詞です。

 命惜しさに 富永が
 台湾に逃げた その後にゃ
 今日も飛ぶ飛ぶ ロッキード
 でっかい爆弾に 身が縮む

人はいくら優秀でも、世渡りが旨いだけだと、後々とんでもないしっぺ返しを喰らいます。
富永のようなとんでもない人間の出世を許し、前線の指揮官に任命した東条や陸軍中央もその責めを問
われるべきであると考える。

※富永恭次中将の息子さん富永靖(やすし)少尉は、第58振武隊 特別攻撃隊として昭和20年5月25日、
 宮崎県の都城東飛行場(都北町)より沖縄へ出撃し、特攻戦死。享年22歳
 朝4時50分出撃の際、当時そこに滞在していた参謀に「これを家族に」と言い、財布を渡したとの事です。
 父親の事には何も触れず、立派に死んでいったそうです。そのあまりに堂々とした態度に、後でその参謀が
 下士官に「あれは誰か?」と尋ねると、「富永閣下の息子さんです」という答えが返ってきたと言います。
 実父の挙動によって生じた家の汚名を晴らそうという気持ちだったのかもしれません。

 陸軍特別操縦見習士官(特操)試験不合格の結果に終わりながら、当時陸軍次官だった実父・恭次中将の
 権力で合格させてもらったという話も残っていますが結果的に、最後は特攻出撃となります。

(宮崎県の陸軍都城飛行場からは昭和20年4月6日から7月1日にかけ振武隊10隊、79人が出撃しています、
都城を発進した特攻機は、全機四式戦闘機「疾風」で編成の為、「都城疾風特攻振武隊」と呼称された。)
51.jpg
▲都城飛行場から出撃していった陸軍四式戦闘機「疾風」 特別攻撃隊第58振武隊所属機

▼昭和20年5月25日出撃時の写真。富永靖少尉も含め沖縄方面へ突入した第58振武隊機「疾風」
陸軍特攻隊は後方で編成し、機に応じて前線へ投入するシステムだったので編成後多少の時間的余裕があり、
士気高揚のためスペシャルマーキングが許された。尾翼に描かれたマークは釜ゆで髑髏(どくろ)で、本隊
の別名を髑髏隊と言われた。
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▲富永靖少尉もこの中の何処かに居るはずです、この日10機が出撃していきました。
父親の恭次中将は敵前逃亡の最悪な幹部でしたが、息子さんの最後は立派だったと思います。

※特攻隊員に「後で必ず自分も行く」と言ってのうのうと生きた幹部に菅原道大中将も挙げられます。
「決しておまえたちだけを死なせない。最後の一機で必ず私はおまえたちの後を追う」と語りながら
1983年12月29日死去。本当に最悪な幹部です。自分が死ぬ勇気もないのによく隊員に「死んでこい」
と言えたものです。呆れるのを通り超えて憎悪が沸いてきます。

[中国版太平洋戦争]




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2015_12_08

Comments

Re: タイトルなし 

閲覧有難うございます、そうですね。本当に胸糞が悪くなります。「これが日本軍」と一言で言ってしまうのは簡単ですが、戦って(戦わずして)戦死していった一兵卒の方達を想うと、その方達も日本軍なので難しいところです。ただ、日本国が嫌いな訳では無い。この様な無能な幹部達が戦後のうのうと生き残り、子孫がその後政治家になったり、自衛隊の幹部になっていたりしている事が更に腹立たしいですね。なので、今の日本は先の戦争を総括せず、誰も責任をとらずにズルズルと・・・とりあえず見た目上は独立国家として復活しただけで、有事となれば、必ず同じ事を繰り返すと思います。
WhitePigeon  URL   2017-08-15 22:17  

今の日本と同じでは・・。 

国の未来を背負っていく若者を使い捨てるのは今も昔も変わっていませんね、この様な事実は知りませんでした、勉強になりました。有難うございました。
名無  URL   2015-12-09 10:13  

有難う御座います 

有難う御座います
Tony  URL   2015-12-08 15:49  

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今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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