台湾(台北)

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台湾は、日清戦争に勝利した日本が下関条約によって清朝(当時の中国)から日本に割譲された。
明治28年(1895)4月17日から、日本が第二次世界大戦敗戦の結果ポツダム宣言によって台湾が
日本から中華民国に編入された昭和20年(1945)10月25日までの50年間が日本統治時代である。
日本統治時代に総督府がおかれた台北は現在も中華民国(台湾総督府)がおかれ、日本時代に整備
された区画、多くの建物、路線が今もそのまま活用されている。
台湾には日本と比較して戦前の建物がかなり残っている。理由は色々あるが現在の総統府も空襲に
あって三日三晩焼けた。当時台湾には軍事拠点もあり、特攻隊の基地もあった。軍人も数十万単位
で存在したので台湾の主要都市には日本本土と同じく空襲があった。
▼(1945)5/26(台中)日本石油製油所を空襲するフィリピンを出撃した米第5空軍B-25ミッチェル爆撃機
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▼(1945)5/26米軍の爆撃を受ける(台中)苗栗駅(びょうりつえき)
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台北大空襲(たいほくだいくうしゅう)は第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)5月31日アメ
リカ軍の爆撃機(B-24/117機)により台湾台北州台北市に対して行われた無差別爆撃である。
この空襲で市民約3000人が死亡、重軽傷者並びに家屋を失った者は数万人以上に上った。
1944年10月10日より始まった台湾沖航空戦の結果、当初台湾に230機あった日本軍戦闘機はほぼ
壊滅状態にあり、地上に残された対空砲火施設のあった台北城内(現在の台北市忠孝西路、中華路、
愛国西路、中山南路に囲繞された地域)城外の台湾歩兵第一連隊、野砲兵第48連隊(現在の中正紀
念堂)などの軍事施設を初め、台湾総督府を含む栄町・京町・文武町・書院町・明石町・旭町など
の主要官庁などが3,800発の強力な爆弾の被害を受けた。
この空襲において最も大きな物的被害を受けたのは台湾総督府である。
総督府は空襲を避けるために偽装が施されていたが、正面に命中弾を受け建造物は傾斜、火災に見
舞われ使用不可能となった。この他総務長官官邸・鉄道ホテル・総督府図書館・台湾電力株式会社・
台湾軍司令部・台北帝国大学・付属病院・台北駅・高等法院・度量衡所などが被害を受けている。
日本本土空襲で100を越える都市が無差別爆撃により50万人を越える死者を出しが、台湾も同
じ時期に台北市が無差別爆撃の被害を受けている。

※台湾が空襲を受けたのは台北大空襲が初めてではない。太平洋戦争開始前の昭和13年(1938))
 2/23には、ソ連義勇軍と中華民国空軍第1大隊による松山飛行場に対する攻撃があった。
 この時に中国軍による爆撃で、台湾人37名が死傷したが、中国軍爆撃機を操縦していたのは、
 国際義勇兵となっていたソ連軍正規パイロットである。ソ連軍は既に参戦していたのである。
 昭和18年(1943)11/25には、アメリカ陸軍航空軍の第14空軍第11爆撃中隊に属する8機と、
 米中混成軍団第1大隊第2中隊の6機、合計14機のB-25が、第14空軍第23戦闘大隊のP-51及び
 P-38各8機の援護の下、中国遂川基地を飛び立ち、の新竹飛行場を爆撃、日本軍機52機に損害
 を与える新竹空襲を行った。これらはいずれも小規模且つ軍事拠点を目標にしたものであった。

日本の場合は焼夷弾だったが台湾の場合は建物の質が違う事もあり、爆弾であったこともあって被
害の大きかった台北でも比較的木造住宅が残った様だ。台湾には焼夷弾は使わなかったようだが爆
弾は投下され多くの人命が失われた。 米軍に押され日本の防衛ラインが狭まる中、日本軍は沖縄よ
り台湾を拠点に迎え撃つつもりであった様だが、米軍は台湾の日本軍の軍事力を台湾沖航空戦など
で完全に制空権を奪ったが、台湾に上陸して島内での戦闘になればかなりの労力が必要と見て台湾
を素通りし沖縄戦に総力を注いだ経緯もある。日本敗戦後連合軍から統治を委任された「蒋介石」
国民党に統治されて70年が過ぎようとしている。
2011年台湾では「民国100年」と称し、「建国」百年を祝う各種イベントが華々しく開催された。
台湾建国百年?と疑問が沸く。地球の歴史上、台湾という島は一度も独立も建国もした事がない。
正確に言えば台湾建国百年ではなく、「中華民国」建国百周年。孫文(そんぶん)指導の下、中国
大陸の民衆が武力をもって清朝を打倒したのが、1911年に始まる辛亥革命で、翌年1912(大正元)
年に中華民国が樹立されている。中国史上はもちろん、アジアでも最初の共和制国家である。
台湾本島の民衆が首長や議員を選んで成り立っている台北の現政権が、その中華民国の正当な継承
者たることを内外に宣布しようというのが、「建国」百年を祝う各種イベントの目的であった。
九州より小さい台湾本島は2016年総統選挙の結果民進党の蔡英文さんの圧勝に終わった。
日本は台湾と国交が無いが日本国民はなんとなく台湾は独立国家の様な印象を持っていると思う。
今後の台湾と日本はどう付き合っていくのか。真剣に考えねばならない時がきていると思う。
今回は台北駅から徒歩で出発して台北市内に残る日本時代の建物巡りと台湾観光をしてきました。
日本統治時代記録映像[ 日治時代宣傳片《南進台灣》]
▼「さよなら台湾」敗戦後1945年12月~1946年11月の間に約20万人の日本軍兵士と約38万人
 の民間人が日本へ送還。住居・財産を没収され、帰国する日本人は複雑な心境だったであろう。
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※日本人として決して忘れてはならない事があります、それは2011年に起きた東日本大震災。
 そして金銭的な援助でみると、アメリカに次ぐ約2億5200万円もの義援金を送ってくれた台
 湾国民の方達の善意。小国台湾がアメリカに次ぐ2位とは凄い事です(3位は中国)

 米国(軍人約8000名+救助隊144名+専門家2名+8名=8154名、救助犬12頭、義援金49億円以上物資150トン)
 台湾(救助隊63名、義援金約2億8千万円+104億円、支援物資500トン以上)
 中国(救助隊15名、義援金7200万円、ガソリン等燃料2万トン、3億6千万円相当の援助物資)

 台湾の方達は被災地に対するボランティア事業も積極的に行ってくれています。
 その事に対する感謝の気持ちを日本人は忘れてはいけません。

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▲日本統治時代の台北駅
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▲台北駅の現在。完全にリニューアルされ、日本時代の面影は無い。
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▲▼台北駅裏側には日本時代使用されていた明治時代製造の日本製汽車が展示してありました。
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▲後ろの客車は初の台湾自国製で1956年に4両が生産されたうちの1両。1982年引退
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▲戦後復興されたばかりの頃の台北駅
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▲1970年代(昭和40年代)の台北駅裏側
▼1970年代(昭和40年代)の台北駅周辺 (まだ高層ビルも少ない)
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▼台北駅前「三越百貨店」が入る高層ビルが目立つ。この場所には台北大空襲前「台湾鉄道ホテル」があった。
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▼日本統治時代 台湾鉄道ホテル 日本時代台北駅前一帯は「表町」と呼ばれた。
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▼台北大空襲で破壊された台湾鉄道ホテル
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※台湾には日本統治時代の建物が多く残っていますが1999年9月21日に起きた921大地震(台湾大震災マグニチュード
7.6)により被害を受けた建物も多くあり、修復の際に増築、又は増改築された部分もあり、日本統治時代そのままとい
うわけでは無い事も付け加えておきます。この地震の際に日本は最初に145人の国際消防救助隊を派遣した、次に多いの
は米国で93人。日本統治時代の建物の多くは台湾政府の史跡に指定され、現在も手厚く維持されています。

台北駅から東へ歩くと直ぐに行政院(旧台北市役所)があります。
全て徒歩で見学し、行った順番に紹介していきます。
▼行政院(旧台北市役所)
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▼日本統治時代 昭和15年(1940)竣工「台北市役所」
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▼次は交差点はさんで反対側(南側)に監察院(旧台北州庁舎)があります。
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▼日本統治時代 大正4年(1915)竣工「台北州庁舎」
大島久滿次

▼お隣は立法院(旧台北州立台北第二高等女学校)大戦中に米軍の爆撃を受け屋根が吹き飛んだ。
 現在の姿は中華民国政府が修復したものだが面影が残っている。
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▼日本統治時代 大正8年(1919)竣工「台北州立台北第二高等女学校」
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▼済南基督長老教会(旧日本基督教団幸町教会)大正5年(1916)竣工
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▼東門(景福門)石垣から上は中華民国政府によって作り直され当時の面影は無い。
※各門(北門、小南門、東門、南門)は日本統治前、清朝時代の台北府城の遺構です。
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▼日本統治時代 東門の写真
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▼中華民国政府による建替えが行われる前の東門画像(日本統治終了後)
五城門 (1)

東門から歩いて1分、中正記念堂があります。日本時代には台湾第1連隊があった場所です。
現在は蒋介石を称える記念公園となっており観光地ですね。中正とは蒋介石の本名です。
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▼国家音楽庁(音楽ホール)
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▼1985年 建設中の国家音楽庁
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▼国家戯劇院(劇場)
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▼中正記念堂(本堂)
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▼孫文像左右には銃を持った兵役青年が護衛し、1時間微動だにせずに立ち尽くす(1時間ごとに交代の儀式がある)
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1975年蒋介石死去後、行政院(内閣)は紀念堂の建設を決定。1976年10月31日起工式→1980年3月31日完成。
▼1970年代後半 記念堂本堂建築作業当時の写真
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▼1980年 記念堂公園建築当時(国家戯劇院/国家音楽庁はまだ建っていない)
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▼記念堂から正門を見下ろす。
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▼日本統治時代の台湾第1連隊正門
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第二次世界大戦で日本の敗戦後、台湾には中国国内の内戦で敗戦を重ねていた蒋介石率いる国民党軍が中国大陸から逃げ
込んで来た。連合国軍の委託を受けて日本軍の武装解除を行うために中国国民党政府の官僚や軍人が進駐し行政を引き継
いだが、役所では汚職や腐敗がはびこり、軍隊には規律が無く、台湾の資材が大陸中国国民党官僚らによって接収・横領
され、上海の国際市場で競売にかけられるに到り、台湾の物価は高騰、インフレによって企業の倒産が相次ぎ、失業も深
刻化し経済は破綻。そして、日本人が台湾から去った2年後の1947年2月28日には台北市で二・二八事件が起こる。
1947年2月27日、台北市で闇菸草を販売していた本省人(台湾人)女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。
これが発端となって、翌2月28日には本省人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、国民党軍憲兵隊がこれに発砲、
抗争はたちまち台湾全土に広がることとなった。本省人(台湾人)は多くの地域で一時実権を掌握したが、国民党政府は大
陸から援軍を派遣し、武力によりこれを徹底的に鎮圧した。

戦後の台湾では、日本統治時代の専売制度を引き継ぎ酒・菸草(たばこ)・砂糖・塩等は全て中華民国(国民党軍)によって
専売となっていた。しかし、大陸ではタバコは自由販売が許されていたため、多くの台湾人がこの措置を差別的と考え、不
満を持っていた。タバコ売りの本省人女性に同情して、多くの本省人(台湾人)が集まった。すると中華民国取締官は今度
は民衆に威嚇発砲したが、まったく無関係な台湾人(陳文渓)に命中し死亡させ、後に逃亡した。
この二・二八事件をきっかけとし、民衆の中華民国への怒りが爆発した。翌2月28日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して
押しかけたが、中華民国側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別
に掃射を行う。多くの市民が殺害され、傷を負った。この後、国府軍は台北以外の各地でも台湾人への無差別発砲や処刑を
行っている。本省人(台湾人)側は国民政府に占拠されている諸施設へ大規模な抗議行動を展開。日本語や台湾語で話しか
け、答えられない者を外省人(大陸から来た中国人)と認めると暴行するなどの反抗手段を行った。台湾住民の中には日本
語が話せない部族もいたが、「君が代」は国歌として全ての台湾人が歌えたため、本省人たちは全台湾人共通の合言葉とし
て「君が代」を歌い、歌えない者(外省人)を排除しつつ行進した。また、本省人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと
共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」と呼びかけた。劣勢を悟った中華民国の長官府は、一時本省人側に対して対話の姿
勢を示したが、在台湾行政長官兼警備総司令陳儀は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請した。陳は「政治的な野望を持
っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」
「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蒋介石に送っている。
蒋介石は陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第21師団と憲兵隊を大陸から援軍として派遣した。これと連動して陳儀の
部隊も一斉に反撃を開始した。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投
獄・拷問され、その多くは殺害された。また、国民党軍の一部は一般市民にも無差別的な発砲を行っている。基隆では街頭
にて検問所を設け、市民に対し、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を本省人の手に刺し込んで縛って束ね
「粽(チマキ)」と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。台湾籍の旧日本軍人や学生の一部は、旧
日本軍の軍服や装備を身に付けて、国府軍部隊を迎え撃ち善戦した(「独立自衛隊」「学生隊」等)しかし、最後はこれら
も制圧され、台湾全土が国府軍の支配下に収まるのである。
この事件によって、約28,000人もの本省人(台湾人)が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたと言
われている。実際の被害者の数はさらに多いとの説が今尚根強く存在しており、正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、
今も政府・民間双方の間で行なわれている。1992年、台湾の行政院は、事件の犠牲者数を1万8千~2万8千人とする推計を
公表している。事件の際発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの
台湾人が投獄、処刑されてきた。また、内外の批判によって国民党政府が漸く戒厳令を解除した後も、国家安全法によって
言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、
言論の自由が認められてからのことである。
日本統治時代の台湾では、厳しい同化政策(皇民化教育)などはあったが、不正は少なく、経済は日本の地方都市を超えて
東京と同じ水準だった。日本の統治を体験した台湾人にとって、治安の悪化や役人の著しい腐敗、経済の混乱は到底受け入
れがたいものであり、人々の不満は高まっていった。当時の台湾人達は、「犬去りて、豚来たる」
(犬〔日本人〕はうるさくても役に立つが、豚〔国民党〕はただ貪り食うのみ)と揶揄し、「アメリカは日本に原爆を落と
しただけだが、台湾には蒋介石を落とした」という言葉まであるくらいだった。

あとでご紹介する台北市内の二・二八和平公園内「二・二八紀念館」には当時の資料や慰霊碑がある。

▼東門から西へ歩いて3分、台北賓館があります。この日は見学不可でした。
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▼お借りした画像で。
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▼現在の台北賓館裏側
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▼日本統治時代 明治34年(1901年)完成 台湾総督官邸・日本家屋別館裏側
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▼日本統治時代 台湾総督官邸・日本家屋別館
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▼台北賓館から南へ徒歩5分、南門(麗正門)が見えてきます。ここも石積だけが清朝時代からの物です。
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▼日本統治時代 南門の写真
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▼南門から徒歩1分、旧台湾総督府専売局が現存しています。現在は台湾の一般企業が使用しています。
 ここは日本敗戦後の1947(昭和22)年に起こった二・二八事件(闇タバコの摘発を発端とする国民
 党政権による台湾人虐殺事件)の発端となった歴史的に重要な場所でもある。
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▼日本統治時代 台湾総督府専売局 大正11年(1922)竣工
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ここまで行政院から南へ歩いて来た訳ですが、今回見学した最南端は旧台湾総督府専売局です。
ここで日本時代の地図と現在の地図を紹介しておきます。
▼まずは日本統治時代
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▼現在の地図(赤点印がここまで歩いて来た所です)
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▼南門から北へ5分、台北市立第一女子高級中学(旧台北第一高等女学校)があります。
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▼日本統治時代 昭和5年(1930年)完成 台北第一高等女学校
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▼日本統治時代 台北第一高等女学校
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▼道路はさんで反対側に司法院(旧台湾総督府高等方院)があります。昭和9年(1934年)完成
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▼日本統治時代 台湾総督府高等方院(現在の建物は4階部分が増築されている事が解る)
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▼司法院の斜め前には中華電信(旧台湾総督府電話交換局)があります。昭和12年(1937年)完成
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▼日本統治時代 台湾総督府電話交換局(この建物も4階部分が増築されている事が解る)
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▼中華電信から南へ10分、国防部(旧台湾軍司令部)があります、撮影禁止だった為少しだけ。
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▼日本統治時代 台湾軍司令部(画像の建物が今も現存しています)大正9年(1920年)竣工
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▼国防部から西へ15分、小南門(重熙門)があります。
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▼日本統治時代 小南門(重熙門)
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▼日本統治時代 小南門と兵舎
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▼小南門から東へ戻って中華民国総督府へ(日本統治時代に建築された中で最大の建物)
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▼日本時代 台湾総督府 7年の歳月をかけ大正8年(1919年)完成
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▼1960年代(日本統治終了後)台湾総督府
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▼太平洋戦争末期 台北大空襲で被害を受けた台湾総督府
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▼総督府裏側
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▲▼台湾上空のアメリカ軍機(台湾大空襲)
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▼台湾総督府の道はさんで隣には台湾銀行総行(旧台湾銀行本店)があります。
 この場所はTBSドラマ日曜劇場の『華麗なる一族』のロケが行われた事でも有名です。
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▼日本統治時代 昭和13年(1938)竣工「台湾銀行本店」
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▼台湾銀行から北へ3分、「二・二八和平公園」があり、敷地内には二・二八紀念館/台湾国立博物館がある。
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▼国立台湾博物館(旧児玉総督後藤民政長官記念館)
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▼日本統治時代 昭和4年(1915)竣工「児玉総督後藤民政長官記念館」
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▼日本統治時代 昭和10年台湾博覧会時、台北新公園(現在の二・二八和平公園)周辺の空撮
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▼公園内には二・二八記念館(旧台北放送台北支局THK)があります。
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▼日本統治時代 昭和6年(1931年)開局 台北放送台北支局THK
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▼国立台湾博物館の前には、土地銀行(旧三井物産台北支店)があります。大正9年(1920年)完成
 当時、台湾の全てのアヘン輸入専売権を独占し砂糖・茶・米・食塩などを取り扱っていたそうです。
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▼日本統治時代 勧業銀行台北支店と三井物産台北支店
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▼土地銀行の隣は国立台湾博物館士銀展示館(旧勧業銀行台北支店)昭和8年(1933年)完成
 当時、台湾の農業における開拓・整備を中心に融資を行っていたそうです。
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▼「二・二八和平公園」入り口付近に残る日本統治時代の建物
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▼二・二八和平公園から北へ3分。台大医院旧館(旧台北帝国大学医学部附属病院)があります。
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▼日本統治時代 大正13年(1924)完成 台北帝国大学医学部附属病院
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▼台大医院旧館から西へ15分、合作金庫銀行(旧台北信用組合本店)があります。
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▼日本統治時代 昭和2年(1927)完成 台北信用組合本店
 榮町(現在の衝陽路)の日本人経営中小企業向の銀行だったそうです。
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▼この辺り(衝陽路)は日本時代の商店・企業が使っていたであろう建物が多く残っています。
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▼日本統治時代の榮町 
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▼合作金庫銀行から1分、台北中山堂(旧台北公会堂)があります。
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▼日本統治時代 昭和11年(1936)完成 台北公会堂
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▼合作金庫銀行へ戻って衝陽路を西へ5分、中華路一段という大通りにぶつかります。
 かつてここには清の時代に建てられた西門があり、日本統治時代も現存しました。
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▲1903年(明治36年)頃の西門(中華民国となってから取り壊され現存しません)
▼当時西門をくぐると市場八角堂と呼ばれる日本人向の公設市場が今も現存しています。
 戦後民間に払い下げられ、西門紅樓と呼ばれ紅樓映画館として再出発。
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▲現在映画館は閉鎖され、お土産物販売スペース・展示スペースとして活用されています。
▼日本統治時代 明治41年(1908)完成 公設西門町食料品小売市場(現在3級古跡)
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▼日本統治時代の西門町
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▼現在の西門町(上記写真と同じ場所ではない)
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▼西門紅樓から中山堂を過ぎて北へ15分、高石組本店が現存しています。
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▼日本統治時代 明治43年(1910)完成 合資会社高石組本店
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高石組とは、主に公共建築物の建設を請け負った土木建築請負業者。「土木王」とよばれ
台湾の発電所建設や児玉総督後藤民政長官記念館(現台湾国立博物館)などを建設した。
▼日本統治時代の高石組周辺
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▼現在のほぼ同じ場所で撮影
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▼高石組から2分、北門が見えてきます。現存する門の中で唯一台北府城時代の姿を残す。
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▼戦後初期(1950年代)の北門 
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▼北門の前には台北郵便局が現存し、いまでも現役で郵便局です。(当時の車寄せは無い)
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▼日本統治時代 昭和5年(1930)完成 台北郵便局(現在の状態が建て増しされている事が解る)
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台北郵便局から5分、台北駅に戻って徒歩見学は終了です。ここまでの地図(赤印)です。
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ここで、何故台湾が親日国家で、韓国が反日国家なのか考えてみたいと思います。
台湾も、朝鮮半島も、南洋諸島も同じ日本統治時代がありました。どこも日本は同じ統治を行っています。
欧米の行った植民地とは全く違う経営で、日本国内と同様インフラ・教育・医療・その他投資をしました。
特に南洋諸島では欧米の植民地政策と日本の統治時代とは全く違うものだったと言います。現在でも親日
国家のパラオ共和国などは良い例です。では何故同じ日本統治時代の過去があった国で韓国だけが反日を
言い続けるのか?それは日本の朝鮮併合にさかのぼります。当時、ソビエト連邦は領土的野心が旺盛で、
中国東北部(満州国地域)と朝鮮半島が欲しかった訳です。当時の朝鮮は、清国の一部でした。
(朝鮮半島が独立国で有った事は歴史上一度も有りません、韓国/北朝鮮になった現在もです)
日本は、日清戦争に勝った時に清国(現在の中国)から台湾・朝鮮半島を割譲されました。
満州国は、当時は中国の土地ではありませんでした。満州人とモンゴル人が住む土地でした。
日露戦争で日本はからくも勝利し、ポーツマス講和条約によりロシアから譲られた満州権益は旅順・大連
及び付近の領土(関東州)の租借権及び長春・旅順間の鉄道(南満州鉄道)とそれに付属する炭坑の採掘
権等を獲得する事になります。しかし、ポーツマス講和会議においてアメリカが仲介の労をとったことは、
アメリカ自身の満州介入のためのワンステップだったのです。
大正11年(1921)ワシントン会議以降、アメリカは満州における日本権益を弱体化するための逆攻勢を
かけ、アメリカと中国政府がいわば「反日同盟」を結び、結果満州の地方政権である張政権が親日から反
日に転じ、その後「張作霖爆殺事件」やがて「満州事変」を引き起こす事になるのです。
要は当時ヨーロッパ列強諸国が中国に強固な足場を築いていたのに対して中国進出に立ち遅れたアメリカ
が中国介入の具体的目標として選んだのが「満州」だったという事です。
当時、東京のYMCAに通う朝鮮人青年の間から独立運動が始起こりました。突然キリスト教青年団の朝鮮
人が独立宣言とはおかしな話です。当時も今も日本いじめをしたい欧米の仕掛け人が居る訳で、それが現
在の大韓民国憲法前文の3・1(抗日独立)運動の精神云々につ繋がる訳ですが、当時も戦後も、日本を中
心に朝鮮半島と中国がスクラムを組むと困る国が居る訳です。そう、英霊が戦って敗れたアメリカです。
全く同じ併合と植民地経営をしたのに、台湾は親日国ですよね。それはアメリカの反日工作が入らなかっ
たからです。何故なら、「いずれ台湾は中国の一部に成るから放って置けば良い」とされたからです。
しかし世界情勢はアメリカの思い通りにならなくなってきています。敗戦国の日本がどうこう言える立場
にない事は戦後70年間のアメリカ占領時代を生きている日本人は良く解っていると思いますが、中国は
別として韓国の反日はそういった経緯があるという事も日本人は知るべきだと思っています。
韓国に言いたい事を言わせておくのは日本人として我慢ならない時が多すぎるという事で、こればかりは
日本政府が真実を言い続けるしか方法は無いと思っています。(資源の無い日本は戦争で負けますから)




拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
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お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。
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 2015_12_31

Comments

Re: 「良く此処まで」、悦雄 

悦雄 様

コメント有難うございます。忘れてはいけませんね、絶対に。
EV奈良  URL   2016-01-22 18:31  

「良く此処まで」、悦雄 

「有難う御座います」、良く此処までお書き下さいました日本では此処まで書いたのは初めてです(涙)感謝申し上げます、本当に有難うございます、絶対忘れません、感謝。
Tony  URL   2016-01-22 13:27  

すいません、 

[本省人]では無く、[外省人]でした、間違いです、お許し下さい、
Tony  URL   2016-01-05 17:03  

Re: 沢山の日本統治時代の物が 

Tony様、コメント有難うございます。私は本省人は悪いと思いませんね・・。おっしゃる順序で言えば、1番悪いのは外省人の印象を持っています。
EV奈良  URL   2016-01-05 14:50  

沢山の日本統治時代の物が 

素晴らしい物を有難う御座います、お帰りなさい、私が参りました時は、「一番悪いのは本省人」、「二番はアメリカ人」、「三番が日本」人、日本統治下では、社会的インフラの整備、教育制度の確立、医療の普及、此の愈な事で、日本人は、本省人より良いと、言われましたが、此れは本当になのでしょうか、お疲れ様でした。
Tony  URL   2016-01-05 14:01  

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今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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