評価の高い将官


「陸の三馬鹿」と言われた陸軍将官を3名紹介しましたが、逆に非常に評価の高い将官もおられます。
今回は、アメリカで評価の高い山本 五十六海軍大将 / 宮崎 繁三郎 陸軍中将 / 木村 昌福 海軍中将
/ 吉川潔(きっかわ きよし)中佐 / 今村 均陸軍大将の5名をご紹介します。
[ 日本の戦争記録 ]

▼山本五十六海軍大将
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山本五十六記念館」 山本五十六YouTube
連合艦隊司令長官としてハワイ真珠湾攻撃などで有名な山本五十六(いそろく)大将だが、日本海軍の
中で評価の高い軍人の1人である。日本海軍の教育(江田島海軍兵学校)は決して単純な好戦的なもの
ではなかった。サイレント・ネイビー(沈黙の海軍)という言葉がある様に、「大言壮語せず、国を守
る時は充分に任務を果たすという意味である」日本の国力を冷静に分析し、戦争回避を第一に考え、外
交努力に徹するという考えを日独伊三国同盟まで貫いた海軍山本五十六。
日本陸軍はドイツ、海軍はイギリスをモデルにして作られた事はよく知られている。海軍は当時の最強
海軍国、イギリスを範にとって建設された。 イギリス人の理想であるジェントルマンシップが最も重ん
じられ、海軍兵学校の教育は英国紳士を養成することを主眼としていた。 軍服の着こなしも野暮ったく
てはいけないとやかましく言われ、外国の停泊地で恥をかかない様、ダンスや洋食のマナーまでが教え
られた。 しかし英国紳士はあくまでもイギリスの風土に存在するもので、日本海軍に無理矢理存在させ
ようとする事が日本海軍の為になったかどうかは疑問が残るが、海軍将校のスマートな格好は少年達の
憧れであった事も事実である。 日本海軍とはこの英国流に官僚主義が加わった存在である。
山本に関しては有名な軍人であるのであえて生い立ちなどはここでは書かない事とする。
太平洋戦争中、山本は前線視察の為、バラレ島日本軍基地へ向かう途中、事前に情報を掴んだアメリカ
軍P-38によってブーゲンビル島上空で撃墜され戦死した。2015.山本機墜落現場YouTube
▼ブーゲンビル島のジャングルに墜落した山本五十六搭乗機(海軍一式陸上攻撃機)
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▼ブーゲンビル島ブイン海軍飛行場(昭和18年4月「い」号作戦の際に撮影されたとされる)
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▼ラバウル東飛行場かブーゲンビル島のブイン基地のどちらかとみられている。
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▼山本が訪れる予定だった日本軍バラレ基地。指揮所・テント張兵舎・ゼロ戦21型が写っている。
 1943年末以降補給が断たれ無力化されたが、連合軍は上陸せず、終戦まで日本軍が維持した。
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▲飛行場建設は1942年末から始まり「シンガポールの戦い」で捕虜になった多数のイギリス軍捕虜が
 使役され、多くが死亡した。元々無人島だった島は約1年間陸海軍航空機の前線基地として活動した。
 現在は無人島に戻っているが、戦後放置された日本軍機が多く残り、英国人捕虜の慰霊碑もある。
 現在はバラライ島(Ballalae Island)と呼ばれ、ソロモン航空の定期便が発着している。

この事件は、アメリカ側が山本の後を引き継げる優秀な人材は兵学校卒業順(ハンモックナンバー順/
卒業席次順←要は成績順)の海軍にはいない。と確信して山本機撃墜を実行した程である。
山本が戦死した後の連合艦隊司令長官の人選は官僚主義の典型である。
太平洋戦争開戦直前の事、当時の連合艦隊司令長官である山本は、これからの作戦遂行の為には、自分
が陣頭で突撃する形で行うべきだと考え、当時の海軍大臣の米内光政を連合艦隊司令長官、そして山本
五十六第一艦隊司令長官という草案を作り、航空本部長の井上成美に見せた事もあった。
「長門」「大和」には山本宛に大量の手紙が届いたが私信の返信が1日30通に及ぶ時もあったという。
しかし戦死した部下にはその家族に自筆で手紙を書き、場合によっては自ら墓参に訪れることもあった。
戦死した部下の氏名を手帳に認め、その手帳を常に携行していた。手帳には万葉集、明治天皇、大正天
皇、昭和天皇の詩歌や山本の自作詩が書かれており、戦死者への賛美と死への決意で満ちていたという。
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▲言わずと知れた史上最大の戦艦「大和」
山本は南方ではパパイヤを好み、「大和」の冷蔵庫にはパパイヤが山のように保存されていたという。
戦艦大和ホテルにこもって最前線に出ようとしない無能な幹部という声も聞かれるが、アメリカとの戦
争に最後まで反対し続けた事、当時の常識を覆す航空機を主とした真珠湾攻撃等、山本でなければ出来
なかった事は多くある。 しかし敗戦した事で山本が立案した作戦等は批判されても仕方の無い部分もあ
る。「アメリカと戦っても勝てない」と開戦前から言い続けていた本人が指揮をとってハワイ作戦を実
行し、自分の予想通りに敗退を重ねる日本軍に対してどう思っていたのか・・・・無念だったであろう。
戦争とは勝たねば「悪者」になってしまうという事は現代の日本人が一番良く知っているはずである。
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▲前線視察でラバウルを訪れ、航空隊基地で出撃するゼロ戦(零戦)を見送る山本五十六司令長官
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▲ラバウル航空基地で出撃前の隊員に敬礼する山本五十六司令長官と、整備を受ける海軍ゼロ戦と花吹山。
戦艦「武蔵」で勤務した蝦名賢造少尉(連合艦隊司令部通信士官)は山本の敬礼の美しさに感激したという。
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▲ラバウル航空基地から出撃直前のゼロ戦22型、隊員達は山本長官の激励を喜んだという。

山本五十六名言集
『やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ』
(実際にやってみせる。やり方を言って聞かせて、褒める。)
『話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず』
(話し合って、相手の言葉に耳を傾け、相手を認めて、仕事を任せることによって人を育てる。
『やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず』
(やっている姿を感謝で見守って、信頼する)

他、『博打をしないような男はろくなものじゃない』という言葉も残し、博打好きだった一面もある。
また、女好きもあって新橋の芸者「梅龍」と名乗る愛人・河合千代子をかこっていた。
1884年(明治17年)4月4日~1943年(昭和18年)4月18日享年59歳


▼木村 昌福 海軍中将
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海軍兵学校の卒業時における成績は下位、海軍大学校に進学していない為日本海軍ではさして目立つ存在
ではなかったが、太平洋戦争開戦時には熟練した水雷屋として一定の評価は得ていた。
海軍省や軍令部での経験が無い艦隊勤務一筋の実戦派提督であり、勇猛果敢な上に豪放磊落な性格の人柄
で知られ、部下をむやみやたらに叱る事もなく、常に沈着冷静な態度であったので将兵からの信頼は厚か
ったと言われる。「鈴谷」艦長時代にベンガル湾での通商破壊戦において敵の輸送船(民間船)を撃沈す
る際に乗員を退去させてから沈めるという人道的配慮を見せた。この際、自艦の機銃指揮官が射撃命令を
出そうとした時、艦橋から身を乗り出して「撃っちゃあいかんぞォッ!」と大声を出して制止した。
ミッドウェイ海戦では、「我二続ケ」の信号旗を掲げて全速で戦場離脱を図る栗田健男戦隊司令官に対し、
「我機関故障」と偽って大破漂流する僚艦「三隈」乗員救助に当たり多くの命を救ったと伝えられている。
他にも数々の海戦に参加しており、ビスマルク海海戦では護衛部隊指揮官として参加。任務には失敗し、
艦橋で敵攻撃機の機銃掃射により左腿、右肩貫通、右腹部盲貫銃創を負い倒れるが最後まで指揮を行った。
この際、信号員が咄嗟に挙げた「指揮官、重傷」の信号旗を「陸兵さんが心配する」と叱りつけて下げさせ、
「只今の信号は誤りなり」と訂正させたというエピソードも残っている。
キスカ島撤退作戦では、隠密作戦に都合の良い濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事は
しなかった。1回目の出撃では突入を目前に霧が晴れた為断念、強行突入を主張する部下たちに「帰ろう、
(無事に)帰ればまた来られるから」と諭して途中で撤退し、状況をよく判断した指揮を行った。
痺れを切らした軍令部や連合艦隊司令部からの催促や弱腰との非難にも意に介さず、旗艦で釣りをしたり、
司令室で参謀と碁を打つなどして平気な顔をしていたという逸話がある。また、百神の加護を願う漢詩を
詠んでいる。上層部の批判に心動かされること無く慎重に慎重を重ねた指揮を行い、アメリカ軍に作戦を
悟らる事無く味方に全く犠牲を出さずにキスカ島の守備隊5,200人を短時間で救出する。
この作戦成功により昭和天皇に拝謁する栄誉を受けた。
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▲キスカ島撤退作戦に望む幌筵島沖に停泊する特設潜水母艦平安丸と伊号第171潜水艦1943年6月

また、日本海軍の水上作戦で最後の勝利となった「礼号作戦」(ミンドロ島沖海戦)に司令官として参加。
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▲駆逐艦「霞」(かすみ)
この際、「大淀」「足柄」の巡洋艦2隻と駆逐艦6隻の布陣であったが、木村は敢えて旗艦に巡洋艦を選ばず、
駆逐艦「霞」を選んでいる。この作戦では「清霜」を失うものの、作戦目的の敵上陸地点の砲撃と敵輸送船団
への攻撃は大成功に終わり各艦避退に移る中、「旗艦は清霜の乗員を救出する、各艦は合同して避退せよ」
との命令を出し、自ら殿軍となって敵魚雷艇の襲撃及び敵空襲の危険の大きい海域に止まり機関を停止し
ての救出活動を敢行し、この行動に感銘を受けた艦隊各艦の必死の防戦と救助活動により、残った全艦で
無事帰還している。この際には撤退を勧める周囲の具申に対して「まだだ、まだ見落としていないか!」
と、海上に浮かんでいる生存者を徹底的に探索するよう命令を下している。
木村の敵味方を問わず常に人命を疎かにしなかったこと、慎重且つ的確な指揮統率を行い正しい判断を下
す判断能力、運の強さは身内の日本軍や戦後アメリカ海軍関係者や軍事研究家から高い評価を受けた。
1891年(明治24年)12月6日~1960年(昭和35年)2月14日享年68歳
※実弟近藤一声は1943年ソロモン諸島コロンバンガラ島沖海戦で軽巡洋艦「神通」の副長として戦死。
▼軽巡洋艦「神通」(じんつう)
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▼宮崎 繁三郎陸軍中将
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[ 宮崎繁三郎 真実の物語 ]
陸軍のモデルとなったドイツは徹底した軍国主義であった。
「国が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国を持っている」と言われたほどの国だった。
参謀本部の権限はきわめて強く、軍務遂行上必要とあらば、政府の命令によらず独断専行する事も認めら
れていた。 また、日本陸軍が師匠と仰いだビスマルク=モルトケの戦法は権謀術数に満ちたものだった。
勝利の為ならどの様な行為も許される。外交で敵を騙しておいて突如として宣戦布告。その瞬間国境線で
準備していた軍隊がなだれこみ、電撃的な勝利を収める。ナポレオン三世のフランスに勝利した普仏戦争
はその典型で日本陸軍もこの性格を濃厚に受け継いだ。 政府からの独立性、権謀術数好み。これに右翼独
善主義が加わって複雑怪奇なる昭和の日本陸軍が完成したと言っても過言では無い。
そんな陸軍の陸大で参謀教育を受けた宮崎はノモンハン事件・インパール作戦など、日本軍側が圧倒的不利
な状況で戦い、限定的な部隊内での指揮権しか与えられていない状況下の中、華々しい「勝利」を得る事
はなかったものの部隊を維持し粘り強く戦った。
日本軍が劣勢の戦場の中でも戦功を挙げた事は知られ、日本陸軍屈指の野戦指揮官として名高い。
陸軍大佐歩兵第16連隊長として参戦したノモンハン事件では、事件唯一の勝利戦指揮官とも言われている。
1944年のインパール作戦は、「陸の三馬鹿」で紹介した第15軍司令官牟田口廉也中将による補給を無視し
た無謀な作戦で多くの犠牲者を出した。宮崎は陸軍少将で、第31師団・歩兵団長として参戦した。
彼は険峻な山岳地帯を自ら大きな荷を背負い、先頭に立って部下を率い、要衝コヒマの占領を指揮した。
コヒマはインパールへの補給路でありイギリス軍の激烈な反撃が始まると第31師団は疲弊し、援軍、補給
が絶たれて孤立する。この時「佐藤幸徳」第31師団長は無謀な軍命令に背き師団の糧秣を供給しない事に
抗議、独断退却を開始するが、宮崎少将麾下の歩兵団には同地の死守を命令、師団主力は撤退を開始した。
宮崎はこの無謀な命令に最善を尽くし、巧みな遅滞戦術により数週間にわたり持久戦を行い、その後新た
な軍命令により撤退を果たした。この撤退時の行動が、優秀な指揮官・人格者・理性的軍人として賞賛さ
れる事になる。彼は、負傷兵を戦場に残さないという信念の下、自らも負傷兵の担架を担ぎ、食料が欲し
いと言われれば自らの食料を与えて兵たちを直接励ましたという。また他隊の戦死者や負傷兵を見つける
と、遺体は埋葬し負傷兵を収容させ、日本軍の白骨死体で埋め尽くされた地獄の白骨街道を撤退し続けた
のである。そこには宮崎の、軍人としての理性のみならず、人としての倫理観をも滲ませた。
敗戦後ビルマの収容所に収容され、イギリス軍の捕虜となっていた時には、部下が不当な扱いを受けても
決して泣き寝入りすることなく、その都度イギリス軍に対し厳重な抗議を行って部下を守った。
戦いを終えて捕虜となっても、宮崎は指揮官としての義務を決して放棄しなかった。
1947年5月に帰国し、帰国後は自らの功績を吹聴するような行動を行わず、政治的・経済的な活動を慎み、
小田急線下北沢駅近くの商店街に『陶器小売店岐阜屋』を経営、店主として清廉で穏やかな生涯を終えた。
数多くの戦歴・インパール作戦時の優れた采配と理性的な行動から宮崎繁三郎に対する評価は非常に高く、
太平洋戦争における日本陸軍の名将の1人とされている。宮崎に与えられた権限や兵力は決して大きいと
は言えず、同じ戦場で同格だった他の指揮官に比べ、特別有利だったり優遇された事は一度もなかった。
しかしながら多くの武功を残したことは、どんなに過酷な事態に遭遇しても最善を尽くそうとする、野戦
将校としての優れた指揮能力と人徳の高さを示している。宮崎はどのような窮地に追い込まれても弱音を
吐いたり、無茶な命令を下す上官の文句や批判を決して口にしなかったという。
インパール作戦における“日本陸軍の良心”とも呼ぶべき宮崎の行動は、同作戦を立案、指揮した「牟田口
廉也司令官」と対極的なものとして語られる事が多い。戦後この作戦に従軍した兵士達は、牟田口の名を
口にするたび、一様に怒りに唇を震わせ、宮崎の名を口にするたび、一様にその怒りを鎮めたという。
明治25年(1892年)1月4日~昭和40年(1965年)8月30日享年73歳


▼吉川潔海軍中佐
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吉川潔中佐は、「不滅の駆逐艦長」といわれ、連合軍が恐れた五人の提督の中のひとりです。
「五人の提督」とは、小沢治三郎 / 山本五十六 / 吉川潔 / 山口多聞 / 草鹿龍之介 の5名で全て海軍です
五人の提督の中で、彼だけが当時の階級が中佐でした。吉川は、海軍兵学校を受験しますが、身長が低か
った彼は、身長と胸囲の不足で不合格になってしまいます。口惜しさから器械体操と陸軍被服廠での積荷
作業で体を鍛え上げ、翌年海軍兵学校に合格しています。吉川は大正11年6月に海軍兵学校卒業すると、
「長月」の水雷長などを経験した後「春風」「弥生」「山風」「江風」と4つの駆逐艦長を勤めています。
戦闘の指揮を執るときは専用の台の上に立ちました。部下を殴る時も飛びあがって殴ったそうです。
そして昭和15年40歳で中佐に昇進し、駆逐艦「大潮」の艦長となりました。艦長としての彼は、恐れを
知らない豪胆さと、決して偉ぶらない人柄、部下に対する思いやりの深さで、みんなから尊敬され、慕わ
れました。艦の中で最年長だった彼は、どんなに苦しい戦いの時でも明るさを失わず、乗員の中へ気軽に
入り、笑いの渦を巻き起こしながらも一本筋金の入った厳しさがあり、艦には「この艦長の為なら」とい
う気風が漲っていました。昭和17年2月バリ島沖海戦で吉川艦長の指揮する駆逐艦「大潮」は、僚艦と協
力して巡洋艦3、駆逐艦7からなる米蘭の連合艦隊に4回にわたって戦いを挑み、オランダの駆逐艦ピート
ハインを砲と雷撃で撃沈し、更に巡洋艦3隻を中破、駆逐艦3隻を小破という大金星をあげています。
同年4月、吉川は一時内地に帰還、駆逐艦「夕立」の艦長に異動となります。
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▲駆逐艦「夕立」(ゆふだち)
8月末「夕立」に乗った吉川は、ソロモン海北西の島を基地にして、後に全滅する陸軍一木支隊の兵員を
ガダルカナル島に上陸させる任務を負っています。以来、第三次ソロモン海戦開始までの2ヶ月半「夕立」
は危険な海域をガダルカナル島に18往復もしています。いわゆる駆逐艦輸送作戦(鼠輸送)です。
うだる暑さ、絶え間ない空襲、2時間と寝る事のできない不眠という悪条件の中で一回に約150名の陸兵
と15~30トンの武器、弾薬、食糧を回送しています。輸送作戦に従事していた9月4日陸軍兵をガダルカ
ナル島に揚陸した後、米軍に占領されたヘンダーソン飛行場を発見した「夕立」は、これを砲撃して大打
撃を与え、更に駆逐艦二隻を撃沈しています。看護長の奥村忠義二等看護兵曹は、吉川から言われた事を
記憶しています。「なぁ奥村、俺は死んでも代わりがある。だがな、お前が死んだら誰が病気やけがの面
倒をみてくれるんだ? 奥村、お前は体に十分注意しろよ」と。軍医や看護長は陸海軍共皆が大事にした
が、激しい戦時中でのことです。奥村はこの言葉に涙したそうです。この様な話は陸軍でも聞かれます。
バリ島沖海戦では、撃沈したオランダの駆逐艦「ビートハイン」からボートで脱出中の敵乗員10人を吉川
の「大潮」が救助しました。そして彼らを捕虜収容所に送ったのです。捕虜収容所でオランダ水兵の捕虜
処刑話が出た時は「大潮」乗組員をひきいて慰問に訪れたといいます。
昭和17年11月12日深夜、第三次ソロモン海戦でルンガ岬沖に進出した日本艦隊を、キャラハン少将率い
る米艦隊が待ち伏せしていました。吉川は僚艦の「春雨」と共に2隻で米艦隊に向けて猛突進を敢行。
米艦隊は、この2隻の駆逐艦との衝突を避けようとパニックに陥いります。パニックに乗じて、後方にい
た日本側戦艦が先制砲火を開始します。これを確認した吉川は艦を反転させると、日本の主隊と交戦を始
めた敵艦隊の真っただ中に「夕立」を進め、敵艦隊の最後尾に入る。「春雨」はそのまま離脱。「夕立」
は敵艦隊に手当たり次第に砲撃を仕掛け、米巡洋艦「アトランタ」に魚雷2本を命中させて航行不能に陥
らせ、次いで至近距離から米旗艦「サンフランシスコ」に多数の命中弾を浴びせます。「夕立」単艦で巡
洋艦2隻撃沈、2隻撃破、駆逐艦1隻撃沈、3隻撃破という恐ろしい戦果をあげました。
その為米軍からはソロモンの悪夢と呼ばれています。
真夜中の戦いが終わった時、「夕立」は、多数の砲撃を満身に浴びて航行不能となったが、この海戦にお
ける吉川の働きは、その旺盛な攻撃精神、卓抜した戦闘技法、まさに駆逐戦隊の華と称えられ、吉川の駆
逐艦の戦いぶりは、世界の海軍史を通観してもこれに匹敵する事例を他に見出せないものとされています。
吉川の戦歴は、全海戦で8隻を撃沈、12隻撃破という輝かしい戦果ですが、吉川は戦果を誇ることは一
切しない人でもありました。第三次ソロモン海戦から帰投した吉川は、海軍兵学校教官への転任を断り駆
逐艦「大波」の艦長を引き受けて再び激闘のソロモン海へ向かいました。ガダルカナル島撤退の後、敵の
北進を阻止する為、「大波」はブーゲンビル島北端にある、ブカ島への輸送、補給の任務につきましたが
その帰投中の昭和18年11月24日ニューアイルランド島南端でのセントジョージ岬沖海戦にて、最新式レ
ーダーを装備した米駆逐艦アーレイ・バーク大佐指揮の米駆逐艦隊の先制攻撃を受け吉川の駆逐艦「大波」
「巻波」「夕霧」は応戦をする事も出来ずに撃沈され「大波」の生存者は一人も無く、艦と運命を共にし
た吉川の戦死は、日米の技術格差を象徴するものとなりました。
吉川は、戦死後、駆逐艦長としてただ一人、二階級特進の栄誉を担い、少将に昇進しています。
1900年(明治33年)11月3日~1943年(昭和18年)11月25日享年42歳


▼今村 均陸軍大将
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太平洋戦争開戦直後第16軍司令官としてオランダ領東インド(インドネシア)を攻略する蘭印作戦を指揮。
陸軍の最精鋭空挺部隊であり「空の神兵」と謳われる第1挺進団(挺進部隊)や、飛行第64戦隊・飛行第
59戦隊の一式戦闘機「隼」の活躍もあり、太平洋戦争における日本の最重要戦略目標であるパレンバンの
油田地帯を制圧(パレンバン空挺作戦)更に100隻弱の船団を使用する最大規模の上陸作戦となったジャワ
上陸作戦では、敵軍が日本軍の兵力を見誤っていたこともあり、9日間で約9万3千のオランダ軍と約5千の
イギリス軍・アメリカ軍・オーストラリア軍を無条件降伏させ、作戦は日本軍の大勝に終わった。
攻略の際、オランダによって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者、スカルノとハッタら政治犯
を解放し資金や物資の援助、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、今村は軍政指導者
としてもその能力を発揮し、攻略した石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額としたり、
オランダ軍から没収した金で各所に学校の建設を行い、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治
安の維持に努めるなど現地住民の慰撫に努めた。かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は
住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人についても高待遇な処置を受けさせるなど寛容な
軍政を行った。戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産され
る白木綿の大量輸入を申し入れてきたが、今村はこの要求を拒んだ。今村は白木綿を取り上げると現地人の
日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという宗教心まで傷つけると考えたからである。
これは日本政府や軍部などから批判を浴びたが、その実情を調査しに来た政府高官の児玉秀雄らは「原住民
は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調
達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告しジャワの軍政を賞賛した。
また、オランダ統治下で歌うことが禁じられていた独立歌「インドネシア・ラヤ」が、ジャワ島で盛んに歌
われていることを知った今村は、東京でそのレコードを作らせて住民に配り喜ばれたという。
しかし政府や軍部の一部には、今村の施政を批判する者もおり1942(昭和17年)3月には今村とは親しい
仲である参謀総長「杉山元」が直々にバタビアに出張し、今村に対し「中央はジャワ攻略戦について満足し
ており褒めてはいるが、一方でその後の軍政については批判が多いから注意したまえ」と軽く叱責している。
また、陸軍省軍務局長の「武藤章」人事局長の「富永恭次」←(陸の三馬鹿参照)も今村に対し、ジャワ島で
もシンガポール同様に強圧的な政策に転換するよう求めたが、今村は陸軍が布告した『占領地統治要綱』か
ら「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一節をひいて「要綱を改正する前に自分を免職せよ!」と求め、軍
政の方針を変えることに抵抗した。今村は「八紘一宇」というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵
略主義のように思われている」と述べており、その語に対する誤解に疑念をいだいている。
[八紘一宇]とは「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味で、宮崎県の平和台公園には1940年11
月に建てられた八紘一宇の塔が今も現存している。
現在「太平洋戦争」とされる戦いは日本側から言うと「大東亜戦争」と呼ぶ。これは大東亜共栄圏の名の元
日本が欧米列強による植民地支配に代わって、共存共栄の新秩序をアジアに樹立するというもの。
共栄とは言え、日本を盟主とし、全世界を天皇の元に一つの家とするという「八紘一宇」のスローガンが唱
えられ、現場にいた多くの日本軍人は、「アジア解放のために戦争している」という意識を宣伝や教育で植
え付けられていたので、「自分たちはいいことをしている」と信じて戦った日本軍兵士が多い。
そもそも日本のトップで指令を出していた官僚レベルと、現場で東南アジアの住民と接していた日本軍人と
の間でずれがあり、その人達が戦後日本に戻って来て「あれは侵略戦争だ」と言われると心外な訳で、日本
が国家として行ったことはABCD包囲網にもがきながらも明らかに「資源獲得のための支配だった」と考
えるが、しかし、今村の様な軍人が居て、それを信じて戦った部下が大勢いる。現場とトップを区別して考
える時「大東亜戦争」と呼ぶべきか「太平洋戦争」と呼ぶべきか真剣に考えなくてはならないと思う。

1942(昭和17年)11月20日今村は第8方面軍司令官としてニューブリテン島ラバウルに着任した後、山本
五十六海軍大将と会見している。今村と山本は佐官時代から親交があり、互いに気兼ねなく腹を割って話し
合える程の仲であり双方認め合っていたといわれる。その為山本が戦死した際には泣いて悲しんだという。
今村本人もラバウルに着任後、山本が戦死する直前に海軍の一式陸上攻撃機に搭乗し、前線陸軍部隊の視察
を行なった際、アメリカ軍戦闘機に襲撃されそうになったが難を逃れている。
日本海軍ラバウル航空隊の素晴らしい活躍と今村によるラバウルの地下要塞化により、米軍はラバウルの占
領を回避し、打撃により無力化するに留める決定をした。今村はガダルカナル島の戦いの戦訓から、米海軍
の補給路の封鎖を想定し、補給の途絶に対し島内に大量の田畑を作るよう指導を行い食料の自給自足体制を
整える事とし、今村自身も自ら率先して畑を耕したという。 ラバウル無力化の為に米海軍はソロモン諸島を
占領後、ビスマルク諸島の日本軍航空兵力、主にラバウルに猛爆を加え、更に1944(昭和19年)2月日本
艦隊の根拠地[トラック諸島]を空襲した結果、日本海軍の古賀連合艦隊司令長官はラバウルの海軍機を撤退
させた為、ラバウルはほぼ無力化した。 こうしてラバウル守備隊は孤立化したが既に現地自活可能な体制が
完成しており、物資も備蓄していた為に、今村以下の第8方面軍は草鹿中将以下の南東方面艦隊と共に終戦
までラバウルを確保した。終戦後今村は戦争指導者(戦犯)として軍法会議にかけられる。第8方面軍司令
官の責任を問われたオーストラリア軍による裁判では、一度は死刑にされかけたが、現地住民などの証言な
どもあり禁錮10年で判決が確定、1949(昭和24年)に巣鴨拘置所に送られた。だが今村は「(未だに環境
の悪い南方で服役をしている元部下達の事を考えると)自分だけ東京に居る事は出来ない」として、昭和25
年に自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望した。
妻を通してGHQ司令官マッカーサーに直訴したといわれている。その態度にマッカーサーは、「私は今村将
軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道
に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた」と言ったという。
その後の第16軍司令官時代の責任を問うためのオランダ軍による裁判では、無罪とされた。
その後、刑期満了で日本に帰国してからは、東京の自宅の一隅に建てた謹慎小屋に自らを幽閉し、戦争の責
任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら回顧録を出版し、その印税は全て戦死者や戦犯刑死者
の遺族の為に用いられた。元部下に対して今村は出来る限りの援助を施し、それは戦時中、死地に赴かせる
命令を部下に発せざるを得なかった事に対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。
その行動につけこんで元部下を騙って無心をする者もいたが、それに対しても今村は騙されていると承知し
ても敢えて拒みはしなかったという。
1886年6月28日~1968年10月4日享年82歳
img88.jpg
▲ラバウル航空隊基地。手前は陸軍二式複座戦闘機「屠龍」(とりゅう)奥に見えるのは海軍のゼロ戦
 奥の山はダブル火山、日本時代は花吹山と呼ばれ、9万人以上の日本軍が駐屯していた。

▼米軍の空襲を受けるラバウル航空基地(海軍の一式陸上攻撃機が確認出来る)
Phosphorus_Bombs_on_Airfield_at_Rabaul_convert_20160115124210.jpg
▼米軍の空襲でラバウル地域には約2万トンの爆弾が投下されたという(手前に海軍重巡洋艦羽黒が写っている)
rabaurukusyu_convert_20160212135212.jpg
※ラバウルというとどうしても海軍・ラバウル航空隊のイメージが強いが、今村大将率いる陸軍部隊も居た
事、連合軍とのニューブリテン島での戦いで色々な事があった事も忘れてはいけないと思っている。
昨年11月『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家・水木しげるさんが93歳でこの世を去った。
水木しげるは1943年4月臨時招集令状により補充兵として激戦地ラバウル(ニューブリテン島)へ出征した。
「色々な事」というのはこの場では紹介しないが、水木しげるさんは戦記マンガを多く残しており、その中
でも有名な『総員玉砕せよ!』は水木が「90%は戦地で自分が見聞きしたこと」であり「最も愛着が深い作
品」だという。私も読んだ。あえて感想はここでは書かないが「当時の日本で都合の悪い事は見聞きしない」
という事は絶対避けたい。と思ってブログを書いているつもりである。
鬼太郎が見た玉砕 水木しげるの戦争YouTube




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 2016_01_10

Comments

 

名前恰好いいなあ。そして私は功に謝す。
うぃ  URL   2017-07-17 14:22  

素晴らしい方達です 

「国軍統帥の原則)、正に命令者の・・・、安達中将と双璧です、有難う御座います。
Tony  URL   2016-01-14 14:47  

有難う御座います。 

有難う御座います、「吉川 潔)、正しい名前の呼び方さへ、知られていない、本当に有難うございました。
Tony  URL   2016-01-13 09:37  

有難う御座います 

有難う御座います、「サイレントネービー」の意味、大変勉強に成りました、有難う御座います。
Tony  URL   2016-01-12 19:35  

Re: 素晴らしいです 

日本海軍のモデルはイギリスですからね、徹底した軍国主義の陸軍とは違い単純な好戦的な集団ではなかったでしょうね。
EV奈良  URL   2016-01-11 22:12  

素晴らしいです 

有難う御座います、素晴らしいです、サイレントネービーは何処の国もでしょうか。
Tony  URL   2016-01-11 13:00  

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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