陸軍特別攻撃隊


日本陸軍の特攻は、海軍の神風特攻隊が戦果をあげる中、「もはや航空特攻以外に戦局打開の道なし、航空本部は
速やかに特攻隊を編成して特攻に踏み切るべし」との結論により、参謀本部から航空本部に航空特攻に関する大本
営指示が発せられ、昭和19年11月「万朶隊」「富嶽隊」によってフィリピンで最初に行われた。
陸軍特別攻撃隊①
陸軍参謀総長[ 梅津 美治郎 ]は「体当たりにより1機1艦、敵を必殺必滅する戦法に徹し敵の心肝を奪うる要あり」
と、陸軍各司令官に言い渡している。梅津は戦後の東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。
梅津 美治郎は関東軍司令官として満州国建国にも関わり、日本を戦争へ導いた立役者でもある。
昭和53年(1978)に靖国神社に合祀されている。
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▲アメリカ軍戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式の有名な写真、中央後ろ手姿の軍服の人物が梅津。

「万朶隊」が昭和19年11月7日早朝初出撃、「富嶽隊」も11月7.13日出撃。第4航空軍は焦りから遠距離目標を指示。
無理な特攻隊運用で空振りに終わった。
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▲西尾常三郎少佐を隊長とする「富嶽隊」隊員。11/7四式重爆撃機『飛龍』に800キロ爆弾を2個装備。
フィリピン東方海域で特別攻撃を敢行、山本中尉機が未帰還。1/13隊長西尾常三郎少佐以下6名が
米機動部隊に突入して戦死している。残った「富嶽隊」も順次出撃していった。
陸軍特別攻撃隊「富嶽隊」四式重爆撃機『飛龍』で昭和19年11月7日~昭和20年1月10日出撃
(ラモン湾東方洋上・クラーク東方400キロ・ミンダナオ北東・ミンドロ島南方・リンガエン湾に突入)
[11/7]山本達夫中尉/[11/7]浦田六郎軍曹/[11/13]西尾常三郎少佐/[11/13]柴田禎男少尉/[11/13]米津芳太郎少尉
[11/13]国重武夫准尉/[11/13]島村信夫曹長/[11/13]荘司楠一曹長/[11/15]幸保栄治曹長/[11/15]須永善次軍曹
[12/16]石川 廣中尉/[12/16]本谷友雄曹長/[12/16]古沢幸紀曹長/[12/16]丸山茂雄伍長/[1/10]曾我邦夫大尉
[1/10]進藤浩康大尉/[1/10]根木基夫大尉/[1/10]宇田富福伍長
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▲三菱 陸軍四式重爆撃機『飛龍』
 乗員8名(操縦席2名[機長/操縦士])両側に整備兵2名、後方は通信士/砲手等4名


陸軍特別攻撃隊「万朶隊」は昭和19年11月12、15、25日、12月20日99式双発軽爆撃機4機が次々に特攻出撃。
(レイテ湾・カロカン飛行場等に突入)敵艦船1隻撃沈、1隻に損傷をあたえ、隊員は帰らぬ人となった。
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▲出撃前純白シーツのかけられた別盃の席の「万朶隊」隊員、出撃前に無念の戦死を遂げた隊員の遺骨を胸に。
[ 万朶隊(ばんだたい)日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊 ]
▼岩本益臣大尉(福岡県出身)(隊長であったが特攻出撃前、出陣式でマニラに向う途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
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東条の盟友であった富永恭次司令官は、ルソン島の大富豪の屋敷で部下の下卒を召使のごとく使役して美食と豪奢
な暮らしを楽しみながら、口に特攻をとなえ、自ら出陣式を華麗に演出し軍刀を振って出撃隊員を鼓舞激励した。
岩本大尉以下4名の出撃前の戦死は、いつ米軍の攻撃があってもおかしくないフィリピンで、悠長に華麗な出陣式
をする為に、最前線から富永恭次司令官の居所のルソン島にわざわざ特攻隊員を呼び集めるという非常識な命令が、
彼等5人の無駄死にを招いたのである。
岩本益臣大尉(福岡県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
園田芳巳中尉(佐賀県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
安藤浩中尉(京都府出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
川島孝中尉(神奈川県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
中川勝巳少尉(和歌山県出身)(特攻出撃前出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死)
以上5名昭和19年11月15日ニコラス上空にてマニラに空襲に来ていたグラマンF6F2機に襲撃され胴体着陸し炎上。
5人全員が非業の死を遂、出撃前に無念の戦死。
社本 忍軍曹(愛知出身)11/3(敵の爆撃負傷)
11/5リパ飛行場の空襲で隊員浜崎曹長・石渡軍曹が負傷、整備の藤原雇用員戦死 特攻機2機が破壊される

昭和19年11月12日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
1番機[操縦]田中逸夫曹長(福岡県出身)/[通信]生田留夫曹長(兵庫県出身)と「岩本大尉の霊/中川小尉の霊」
※敵輸送船に突入、直掩隊戦闘機「隼」渡辺伍長も同船に体当たり轟沈
2番機[操縦] 久保昌昭曹長(大分県出身)と「園田中尉の霊」
※2番機は戦艦の舷側すれすれで突入失敗、撃墜される
3番機[操縦]奥原英孝伍長(長野県出身)と「安藤中尉の霊」
※3番機奥原英孝伍長エンジン不調で引き返す
4番機[操縦]佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)と「川島中尉の霊」 爆撃失敗ミンダナオ島カガヤンに不時着避難
※4番機は戦艦に突入を報告されていた。11/13ローカン基地に帰還
[誘導]百式偵察機1機 [直掩隊]隼20機
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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機

昭和19年11月15日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
※発進直後敵機来襲 4番機着陸・3番機着陸・掩護戦闘機8機着陸し攻撃中止
1番機[操縦]石渡俊行軍曹(千葉県出身)と「安藤中尉の霊」
※1番機石渡俊行軍曹と[誘導]百式司未帰還
2番機[操縦]近藤行雄伍長(朝鮮出身)と「川島中尉の霊」
※2番機墜落確認
3番機[操縦]奥原英孝伍長(長野県出身)再出撃/[操縦]4番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再出撃
[誘導]百式偵察機1機 [直掩隊]隼8機(第20戦隊)[隊長]大里大尉
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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機

昭和19年11月25日 ルソン島カローカン基地
出発直前に敵機来襲、敵機動部隊に先手を取られる。
特攻機が燃え、1番機[操縦]奥原英彦伍長(長野県出身)が爆撃にて戦死。
2番機[操縦]佐々木友次伍長(再々出撃予定だったが出撃出来ず)
[直掩隊]隼8機作見一郎中尉隊出撃出来ず

昭和19年11月28日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
[操縦]1番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再々出撃。
※誘導の隊長機がレイテ湾直前で方向転換したので引き返す、直掩隊は再三出撃を命令される佐々木友次伍長に
同情的であり、「レイテ湾敵発見できず」と報告
[直掩隊]隼6機(飛行第20戦隊)

昭和19年12月4日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
[操縦]1番機佐々木友次伍長(北海道石狩郡出身)再々々出撃
※敵艦を発見するも敵機コルセアに囲まれ、さらにP381個編隊現れ有川中尉空中戦後燃料漏れ着地、佐藤曹長行方
 不明。 佐々木友次伍長はネグロス島のバコロド飛行場に不時着
[直掩隊]隼2機 有川中尉/佐藤曹長

昭和19年12月4日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
佐々木友次伍長はバコロドからカローカンに移動後、またしても特攻出撃命令を受ける。
「鉄心隊」(99襲撃機)3機と共に出撃
「鉄心隊」松井中尉隊長(99襲撃機)3機(250キロ爆弾)
佐々木伍長99式双発軽爆撃機(500キロ爆弾)
佐々木伍長の99双軽は爆撃大型船を撃沈し、カガヤン飛行場に着陸
※12/9佐々木伍長は99双軽でカローカン基地に戻る途中燃料不足で村落近傍に胴体着陸。
[直掩隊]隼9機

昭和19年12月14日(フィリピン)デルカルメン基地基地より 99式双発軽爆撃機で出撃
菊水隊隊長 丸山義正大尉 第95戦隊第2中隊長(百式重爆)と共にまた出撃するも佐々木伍長は滑走路から飛び出
し出撃出来ず。(第95戦隊7機 5名と第74戦隊2機 7名)
その後も佐々木友次伍長は12/16 12/18にも特攻出撃命令を受けるも生き残り、終戦まで生きのびた。
昭和19年11月12日に特別攻撃隊「万朶隊」が大戦果を上げた事とし、大本営は発表していた。その為佐々木伍長は、
特攻軍神として戦死扱いになっていた。特攻を大本営に報告した後に戻ってきた隊員は、軍司令官の面汚しとして扱
われた。司令部では、面子を重んじて人命を軽く考えていた為、戦死報告の取り消しはできなかったと言う、最悪だ。
※上申取り消しできないのは天皇陛下に報告した事で、天皇陛下に嘘を言った事になると考えた為。

昭和19年12月20日 ルソン島カローカン基地より 99式双発軽爆撃機で出撃。
[操縦]鵜沢邦夫軍曹(千葉県出身)と「若桜隊」3機で出撃。鵜沢邦夫軍曹未帰還。
[直掩隊]隼1機

昭和20年1月8日 ルソン島カローカン基地大隊撤退 タヤバス山系内の陣地に立てこもり、
「万朶隊」生存者 整備 村崎少尉 整備隊指揮(以下11名)整備 藤本曹長/雇員4名 柴田・上野・野村・遠藤(負傷)
(特攻隊員)[通信]浜崎曹長(安藤中尉機)・[通信]花田博治伍長(川島中尉機)/[操縦]佐々木伍長/社本軍曹(負傷) 
攻撃隊長機に通信手が同乗し突入を基地に連絡していたが、もはや下士官だけになり、浜崎曹長が上級者となり[通信]
は乗らないと決める。操縦者は北部ルソンに集結エチアゲに行けと命令される。
※陸軍初の特攻隊となった「万朶隊」には初の朝鮮人特攻隊員 近藤行雄伍長が含まれていた。
※佐々木友次伍長(当時21歳)は北海道・当別の出身。子供の頃から飛行機に憧れ17歳で仙台の航空機養成所で操縦の
 腕を磨いた。岩本大尉を心から尊敬していたと言う。佐々木友次伍長は「万朶隊」特攻隊員の中で機体故障の途中帰投
 等で唯一生存、その後何度も軍から特攻出撃を命令されるもミンドロ島方面出撃でも生還を果たした。
 佐々木伍長は帰還後の再出撃の度に「体当たり攻撃の実行」を参謀から強く求められた。ある時佐々木伍長は
 「私は必中攻撃でなくてもいいと思います。そのかわりに死ぬまで何度も行って爆弾を命中させます」
 と返答したと言う。ルソン島で生きて終戦を迎え日本に帰還されている。
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▲陸軍99式双発軽爆撃機
「万朶隊」の99式双発急降下爆撃機は、機種に5メートルの起爆管を伸ばし800㌔の爆弾を抱いて時速400㌔で体
当たり攻撃をする事になっていた。陸軍は爆撃機を特攻用に改造していたが当時整備兵だった方がこう語っている。
「二番機担当となった我々は前日から、まずできるだけ機体を軽くする為に操縦装置と無線装置を残して爆撃装置、
射撃装置はむろん小さなものまで撤去することで、後方機関銃のボルトを外しながら、敵機と応戦もできない姿に
怒りがこみ上げで力が入らない」と。
▼特攻機に改造された99式双発軽爆撃機の機首には800㌔爆弾を確実に爆発させる為に、機首に何本もの細長い信管
 を突き出させ、これが見慣れた99式双発軽爆撃機の姿かと、その優美さを知る整備兵には異様さだけが感じられた。
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▼陸軍99式双発軽爆撃機
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陸軍特別攻撃隊「菊水特攻隊」100式重爆撃機「呑竜」9機で昭和19年12月14日デルカルメン基地より06:45出撃
(米軍のミンドロ島上陸作戦を阻止すべくネグロス島パナイ湾近海に突入、全機撃墜され戦果無し)
[ 飛行第95戦隊 7機 ][ 飛行第74戦隊 2機 ]
丸山義正大尉/井之内誠二郎大尉/谷 正春軍曹/不破次雄軍曹/安田末晴軍曹/泉川正宏伍長/中本政次郎伍長
宮崎 隆中尉/芦田岩夫曹長 /荘田 清曹長/椿  彰曹長/別所福一曹長/松下清馨曹長/田畑十蔵軍曹 /竹本義雄軍曹
森 三次中尉/藍原六弥少尉 /吉野右吉准尉/枝元辰馬曹長/加藤 只曹長/川之上要曹長/木平正平曹長/国広 望曹長
小林光五郎曹長/小林 忠曹長/千葉春雄曹長/登藤文六曹長/堂用 清曹長/戸田佐佳久曹長/中村 眞曹長(生還者)
河井 明軍曹/久保田勝美軍曹/久保田勝作軍曹/佐藤正夫軍曹/篠崎運秀軍曹/橘 利雄軍曹/富田好之軍曹
樋口長光軍曹/丸山多喜男軍曹/森 基親軍曹/矢代一平軍曹/吉永忠弘軍曹/渡辺政雄軍曹/足立正義伍長
阿部幸夫伍長/井出太蔵伍長/浜平輝親伍長/石井武夫軍曹 菊水特攻隊YouTUBE
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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」飛行第95戦隊
飛行第95戦隊・陸軍曹長中村真
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▲陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍(どんりゅう)」飛行第74戦隊

その後、陸軍中央は新たに編成した12隊の特攻隊に[ 八紘隊 ]と名付けフィリピンに投入。名前の由来は
「八紘をもって家となす」(八紘一宇)による。「評価の高い将官」今村 均陸軍大将参照
八紘隊は第4航空軍司令官冨永恭次中将によって八紘第2隊「一宇隊」/八紘第3隊「靖国隊」/八紘第4隊「護国隊」
八紘第5隊「鉄心隊」/八紘第6隊「石腸隊」/八紘第7隊「丹心隊」/八紘第8隊「勤皇隊」/八紘第9隊「一誠隊」
八紘第10隊「殉義隊」/八紘第11隊「皇魂隊」/八紘第12隊「進襲隊」と命名された。

(八紘第1隊「八紘隊」隊員12名 レイテ湾等に陸軍一式戦闘機「隼」で突入)
陸軍特別攻撃隊「八紘隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年11月27日~12月12日出撃
(レイテ湾・オルモック湾・バイバイ沖等に突入)
[11/27]田中秀志中尉/[11/27]藤井 信少尉/[11/27]森本秀郎少尉/[11/27]白石国光少尉/[11/27]道場七郎少尉
[11/27]馬場駿吉少尉/[11/27]善家善四郎少尉/[11/27]武内健一少尉/[11/27]寺田行二少尉/[11/27]細谷幸吉少尉
[12/7]粕川健一少尉/[12/12]作道喜三郎少尉
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▲昭和19年11月三重県の明野基地を二度と本土に戻る事の無いフィリピンに向け出撃前の八紘第1隊「八紘隊」隊員。
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▲八紘第1隊「八紘隊」後列右より白石国光少尉、細谷孝吉少尉、田中秀志中尉(隊長)森本秀郎少尉。
 前列中央は寺田行二少尉。
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▲八紘第1隊「八紘隊」出撃時に別れの杯を交わす隊員、左から道場七郎少尉/細谷孝吉少尉/森本秀郎少尉。


(八紘第2隊「一宇隊」隊員6名 隼戦闘機でスリガオ海峡等に突入)
陸軍特別攻撃隊「一宇隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年12月5日~12月13日出撃
(スリガオ海峡・オルモック湾・ミンダナオ海等に突入)
[12/5]天野三郎少尉/[12/5]大谷秋夫少尉/[12/5]愛敬 理少尉/[12/7]喜田川等少尉/[12/7]田中穣二少尉
[12/13]小野正義少尉
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▲▼昭和19年11/10常陸教導飛行師団で編成された「一宇隊」前列右より3人目隊長 栗原恭一中尉。
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▲昭和19年11/10前渡飛行場(水戸飛行場)をフィリピン目指して離陸する「一宇隊」の隼3型(手前 栗原隊長機)


(八紘第3隊「靖国隊」隊員10名 隼戦闘機でオルモック湾等に突入)
陸軍特別攻撃隊「靖国隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年11月24日~12月26日出撃
(レイテ湾・オルモック湾・ミンドロ島付近等に突入)
[11/24]岡村義人軍曹/[11/26]谷川昌弘少尉/[12/5]大坪 明少尉/[12/5]秦音次郎少尉/[12/5]河島鉄蔵伍長
[12/5]寺島忠正伍長/[12/5]石井一十四伍長/[12/5]松井秀雄伍長/[12/7]五十嵐四郎伍長/[12/26]出丸一男中尉
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▲昭和19年11/9第2錬成飛行隊(朝鮮・京城)より立川航空廠に向け離陸する「靖国隊」隊長出丸一男中尉機隼2型
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▲「靖国隊」出丸一男中尉。昭和19年12月26日一式戦「隼」で出撃、突入戦死。
(公式には特攻戦死とされた[靖国隊]隊長出丸一男中尉だが、実は不時着生還しているという話もある)
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▲出撃直前、「靖国隊」隊員に最後の敬礼をする整備兵。
出丸一男中尉/大坪明少尉/谷川昌弘少尉/秦音次郎少尉/岡村義人軍曹/河島鉄蔵伍長
石井一十四伍長/五十嵐四郎伍長/寺島忠正伍長 以上9名突入戦死。
松井秀雄伍長(印在雄)朝鮮開城出身/特攻に失敗し海に墜落した所を米軍に救助され捕虜となり、ハワイ
の海軍病院で治療を受けた後、終戦の翌年帰国を果たしているが、その後の消息は全くつかめていない。
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▲朝鮮軍司令部首脳との別れの杯
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▲フィリピン・シライ基地で、武運を祈る守り札を受ける「靖国隊」


(八紘第4隊「護国隊」隊員8名 隼戦闘機でオルモック湾等に突入)
陸軍特別攻撃隊「護国隊」一式戦闘機「隼」で昭和19年12月7日~昭和20年1月10日出撃
(オルモック湾・ルソン島西海面等に突入)
[12/7]遠藤 栄中尉/[12/7]西村正英少尉/[12/7]宮田淳作少尉/[12/7]瀬川正俊少尉
[12/7]三上正久少尉/[12/7]牧野顕吉少尉/[12/7]黒石川茂伍長/[1/10]田辺茂雄伍長
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▲「護国隊」昭和19年12月7日一式戦闘機「隼」で出撃、8名戦死。
写真は鉾田陸軍飛行場(茨城県)で菊花の下、別れの杯を交わす「護国隊」隊員。
隊長 遠藤栄中尉(神奈川県出身)/西村正英少尉(大阪府出身)/富田淳作少尉/瀬川正俊少尉(大阪府出身)
三上正久少尉(滋賀県出身)/牧野顕吉少尉(富山県出身)/黒石川茂伍長(鹿児島県出身)/田辺茂雄伍長(東京都出身)
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▲昭和19年12/7フィリピンカローカン基地で「隼」8機で特別攻撃出撃する直前の「護国隊」隊員。
[ NHK戦争証言アーカイブス[護国隊]

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▲12/5米駆逐艦マグフォード(USS Mugford)は、スリガオ海峡で「石腸隊」「鉄心隊」「万朶隊」「一宇隊」いずれか
 の特攻機が命中。大きく損傷し乗組員8名死亡、負傷者14名の被害が出た。

(八紘第5隊「鉄心隊」隊員12名 99式襲撃機でミンドロ島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「鉄心隊」99式襲撃機で昭和19年12月5日~昭和20年1月6日出撃
(スルアン島付近・ミンドロ島付近・ルソン島西海面等に突入)
[12/5]松井 浩中尉/[12/5]西山敬次少尉/[12/5]長濱清少尉/[12/16]志村政夫少尉/[12/16]藤原義行少尉
[12/18]長尾熊夫曹長/河合郁夫
[12/29]三木将司少尉/[12/29]星一二郎少尉/[12/29]林利喜夫曹長/[1/6]岩本広智少尉/[1/6]小川武士軍曹
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▲「鉄心隊」隊長 松井浩中尉。福島県原町から汽車で茨城県鉾田へ移動。鉾田飛行場から99式襲撃機でフィリピン
 に向かう本土で最期の姿。昭和19年12月5日フィリピン島スルアンシマ洋上で特攻戦死。
※フィリピン・ルソン島マニラ飛行場に進出した「鉄心隊」は12/5松井中尉以下3機がスルアン島付近の敵艦に突入、
 12/16に志村少尉以下2機がミンドロ島付近に、12/18に長尾曹長の1機が、12/29に三木少尉以下3機がそれぞれ
 同じ海域の敵艦船に。最後は昭和20年1月6日に岩広少尉以下2機がルソン島西方海上の敵に突入、全員散華。
▼昭和20年1月6日(ルソン島の戦い)米軽巡洋艦「コロンビア」に急降下突入し命中直前の「鉄心隊」99式襲撃機。
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▼上掲写真直後17時29分「コロンビア」に命中した瞬間の「鉄心隊」99式襲撃機。
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▼陸軍99式襲撃機
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▼「鉄心隊」長濱清少尉 レイテ湾沖スルアン島付近で敵艦に突入戦死。享年19歳
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八紘第6隊「石腸隊」隊員18名
陸軍特別攻撃隊「石腸隊」99式襲撃機で昭和19年12月5日~昭和20年1月8日出撃
(スリガオ海峡・サンホセ付近・ルソン島西海面・オルモック湾・サンフェルナンド沖等に突入)
[12/5]高石邦夫大尉(隊長)/[12/5]石原哲雄少尉/[12/5]大井隆夫少尉/[12/5]片岡正光少尉/[12/5]下柳田弘少尉
[12/5]山浦 豊少尉/[12/5]増田憲一少尉/[12/8]伊藤誓昌少尉/[12/12]井樋太郎少尉/[12/12]吉武利夫少尉
[12/22]安達 貢少尉/[1/5]細田吉夫中尉/[1/5]杉町研介少尉/[1/5]林 甲子郎少尉/[1/6]岡上直喜少尉
[1/8]鈴木敏治少尉/[1/8]時田芳造軍曹/[1/8]上野哲弥少尉
「石腸隊」18名の出撃は12/5第1次7機、12/8第2次1機、12/12第3次2機、12/22第4次1機、第5次3機
 第6次1機、1/8第7次3機の99式襲撃機がそれぞれ特攻出撃している。
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▲昭和19年12月4日出撃前夜の第1次「石腸隊」隊員達。
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▲「石腸隊」特別攻撃訓練中の写真。
高石隊長(手前後向)に敬礼する右より増田憲一少尉、片岡正光少尉、片岡正光少尉、安達貢少尉、伊藤誓昌少尉。
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▲陸軍99式襲撃機 ※画像の日本兵勇士は「石腸隊」隊員ではありません。
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▲昭和19年12/5フィリピンパコロド基地を出撃する第1次「石腸隊」99式襲撃機と、帽子を振って見送る基地隊員。
12/12第3次攻撃隊 吉武少尉はエンジン不調の為、遅れて出撃。
セブ島上空で敵グラマン戦闘機4機の襲撃を受けてエンジン停止、セブ島沖のマクタン島に不時着した。
吉武少尉は頭部裂傷、右半身打撲の負傷で、同島駐屯の友軍に収容されたが、頭部裂傷が化膿、悪化し、10日前後
寝たきりの状態が続く。12/29セブ島に海軍一式陸上攻撃機が不時着、同乗させてもらいネグロス島北端ファブリカに
脱出、シライの第2飛行師団司令部に帰着。1/9ルソン島に転進の命が下り、97式重爆にてルソン島ポーラックに帰還。
2/14操縦者だけがツゲガオから重爆で台湾に運ばれ、以後終戦となって日本に帰還された。
出撃した吉武少尉以外の「石腸隊」隊員は皆帰らぬ人となった。
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▲編成後笑顔で記念写真に収まる「石腸隊」隊員勇士。前列左より2人目は隊長の高石邦夫大尉。
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▲吉武利夫少尉が大切に保管していた「石腸隊」隊員の写真。
 左から上野哲弥少尉/林 甲子郎少尉/岡上直喜少尉/大井隆夫少尉/吉武利夫少尉
1944年11月8日東京の陸軍銚子飛行場からの離陸前に撮影された写真。
▼昭和19年11月下志津基地からフィリピンに向けて99式襲撃機で出撃する「石腸隊」吉武利夫少尉機他
 (昭和14年制式、古い固定脚の偵察機であった)
 昭和20年1月8日の第7次特攻では、残存機3機でルソン島のリンガエン湾に突入、全員戦死。
 しかしこの特攻攻撃の翌日、アメリカ軍はリンガエン湾上から上陸を開始した。
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▼戦後、当時の様子を語る吉武利夫元少尉(よくご無事で帰還されましたご苦労様でした。)
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※陸軍特攻隊の生みの親とも言える、第四航空司令官・富永中将は、「この富永も最後の一機で行く決心である」
 と刀を振り上げて言って置きながら、1/8第7次特攻の行われる前日1/7夕刻、車でマニラを去り300キロ離れた
 エチアゲに移動。エチアゲを16日離陸天候不良の為ツゲガラオに戻り翌17日台北に敵前逃亡した。
 この行動はフィリピン14方面軍の失望を招き、到着地の台湾第17方面軍及び本締の南方総軍から叱責されて
 2/13隷下の指揮下部隊は転属、航空軍司令部は解消させられた。陸の三馬鹿参照
 司令部の大部分は10日エチアゲ着。戦況不利とみるや部下を捨てて台湾へ遁走するという暴挙に出た。


八紘第7隊「丹心隊」隊員9名
陸軍特別攻撃隊「丹心隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月10日~12月17日出撃
(バイバイ沖・レイテ湾・ミンドロ島付近等に突入)
[12/10]石田国夫中尉/ [12/10]石村政敏少尉/[12/10]梅原 彰少尉/[12/10]大石 栄少尉/[12/10]佐々田真三郎少尉
[12/10]永塚孝三少尉/ [12/10]岡 二男少尉/[12/12]加治木文男少尉/[12/17]斉藤行雄少尉
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▲三重県の明野飛行場に到着した、真新しい「隼」戦闘機3型に見入る「丹心隊」隊員。
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▲昭和19年11月29日「丹心隊」隊員と「忠魂」塔(明野陸軍飛行学校にて)「忠魂」塔は現在再建されています。
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▲忠魂の塔で参拝を終えた「丹心隊」隊員達。
前列左より齋藤行雄少尉、 岡二男少尉、石村正敏少尉、佐々田真三郎少尉、梅原彰少尉
後列左より丸山少尉、大石栄少尉、小野少尉、石田国夫中尉、永塚孝三少尉、加治木文男少尉
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▲特別攻撃出撃前に服装を正す「丹心隊」隊員。
隊長 石田国夫中尉(千葉県出身)/石村正敏少尉(山口県出身)/梅原彰少尉(静岡県出身)/大石栄少尉(京都府出身)
佐々田真三郎中尉(東京都出身)/永塚孝三少尉(京都府出身)/岡二男少尉(東京都出身)/齋藤行雄少尉(長崎県出身)
加治木文男少尉(鹿児島県出身)/※今田廣美少尉(S19.11/24B-29迎撃戦死,特攻作戦に加われず)
▼昭和19年11月29日壮途を祝福して乾杯をする「丹心隊」隊員。
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▼昭和19年11月29日戦友の見送りを受け最後の本土三重県明野を離陸する石田隊長機
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▼11/29「丹心隊」のフィリピン進出を明野で最後の姿を見送る家族。
 右から丸山少尉父/梅原少尉父/丸山少尉母/石村少尉父/石村少尉妹/石村少尉母/石村少尉妹
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▼カローカン基地で別れの杯を交わす石田隊長他「丹心隊」隊員。
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(八紘第8隊「勤皇隊」隊員13名 二式複座戦闘機・屠龍でオルモック湾・レイテ湾に突入)
陸軍特別攻撃隊「勤皇隊」二式複座戦闘機・屠龍で昭和19年12月7日~12月10日出撃
[12/7]山本卓美中尉/[12/7]二瓶秀典少尉/[12/7]東直次郎少尉/[12/7]林 長守伍長/[12/7]入江真澄伍長
[12/7]大村秀一伍長/[12/7]片野 茂伍長/[12/7]白石二郎伍長/[12/7]増田良次伍長/[12/7]勝又 満伍長
[12/10]湯沢 豊曹長/[12/10]北井正之佐軍曹/[12/10]加藤和三郎伍長
※陸軍は複座であっても海軍と違い操縦士のみで出撃させたが、隊長の山本中尉機は林長守伍長(朝鮮出身)が同乗
した。山本中尉は通信員を内地に帰らせるつもりだったが、林伍長は自分から進んで山本隊長機に同乗を申し出た
と言う。山本中尉の人柄に惹かれて、彼は隊長機の複座の戦闘機に乗り込んだ。
「勤皇隊」出撃数時間後、山本隊長機から師団無線室に敵艦への突入を知らせる「ピーッ」という信号が入った。
林伍長が発信した電波だった・・・。
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▲自ら考案したマーク入り尾翼の前に立つ「勤皇隊」隊長 山本卓美中尉
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 山本中尉は同隊の林長守伍長(朝鮮出身)に対し、帰国し飛行学校の教官になる事を何度も説得
 したそうだが、林伍長は「私のたった1度の反抗ですその様な命令は聴く事が出来ません」と
 言い残し、突入戦死。後に「半島の神鷲」と讃えられた。 
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▲大村秀一伍長(勤皇隊最年少19歳)12/7の戦果は、米駆逐艦マハン小破。
山本卓美中尉/二瓶秀典少尉/東直次郎少尉/林長守伍長(朝鮮出身)/入江真澄伍長
片野茂伍長/白石二郎伍長/増田良次伍長/勝又満伍長/大村秀一伍長(勤皇隊最年少19歳)
12/7フィリピン・マルコットよりオルモック湾(レイテ島東海岸)以上10名突入戦死。
12/10湯沢豊曹長/北井正之佐軍曹/加藤和三郎伍長の3名がフィリピン・マルコットよりレイテ湾突入戦死。
[ NHK戦争証言アーカイブス[特攻勤皇隊]
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▲陸軍二式複座戦闘機「屠龍」 二式複座戦闘機"屠龍"YouTube


(八紘第9隊「一誠隊」隊員10名 「隼」戦闘機でルソン島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「一誠隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月21日~昭和20年1月9日出撃
(キュウヨウ島付近・レイテ湾・ミンドロ島付近・リンガエン湾等に突入)
[12/21]相川清司少尉/[1/4]都留 洋中尉/[1/4]石川誠司少尉/[1/5]大河原良之少尉/[1/5]伊藤 進少尉
[1/8]大原文雄少尉/[1/8]川野孝雄少尉/[1/8]山本正直少尉/[1/9]白井秀夫少尉/[1/9]石橋嘉郎少尉
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▲昭和19年11月明野教導飛行師団にて編成後に記念写真に収まる「一誠隊」隊員。
前列左より大原文雄少尉/大河原良之少 尉/都留洋中尉(隊長)/臼井秀夫少尉/石川識司少尉/山本正直少尉
相沢文雄少尉。後列左より新藤龍己少尉/伊藤進少尉/相川清司少尉/石橋嘉邦少尉/川 野孝雄少尉と隼3型。


(八紘第10隊「殉義隊」隊員9名 「隼」戦闘機でサンホセ海域の敵艦船群に突入戦死)
陸軍特別攻撃隊「殉義隊」一戦闘機「隼」で昭和19年12月21日~昭和20年1月7日出撃
(ミンドロ島付近・リンガエン湾等に突入)
[12/21]敦賀真二中尉/ [12/21]日野二郎少尉/ [12/21]若杉是俊少尉/[12/21]山崎武夫軍曹/ [12/21]門倉好也伍長
[12/22]樋野三男雄少尉/[12/22]林 与次伍長/[12/29]高宮芳司伍長/[1/7]東  宏少尉
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▲特別攻撃出撃前に遙か皇居に遙拝する「殉義隊」隊員。[隊長]敦賀真二中尉(徳島県出身享年21歳)


(八紘第11隊「皇魂隊」隊員9名 二式複座戦闘機「屠龍」でルソン島北部・ラオアグ・リンガエン湾に突入)
陸軍特別攻撃隊「皇魂隊」二式複座戦闘機「屠龍」で昭和19年12月25日~昭和20年1月10日出撃
[12/25]門口燁夫少尉/[12/25]渡辺 力軍曹/[1/4]利光勝義伍長/[1/ ]小平 昭伍長
[1/6]春日元喜軍曹/[1/8]三浦恭一中尉/[1/8]倉知政勝曹長/[1/8]寺田増生伍長/[1/10]入江千之助伍長
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▲「皇魂隊」隊員の遺墨
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▲S.19.11/29フィリピン進出を前に鉾田教導飛行師団にて「屠龍」を背に記念写真に収 まる「皇魂隊」隊員。
 隊長の三浦 恭一中尉(中央)
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▲陸軍二式複座戦闘機・屠龍


(八紘第12隊「進襲隊」隊員9名 99式襲撃機でミンドロ島沖等に突入)
陸軍特別攻撃隊「進襲隊」99式襲撃機で昭和19年12月30日~昭和20年1月8日出撃
(ミンドロ島付近・ルソン島西海面等に突入)
[12/30]久木元延秀少尉/[12/30]大石 豊少尉/[12/30]沢田源二准尉/[12/30]天地孝志軍曹 /[12/30]向瀬忠勇軍曹
[1/4]小林直行軍曹/[1/5]庄村覚太郎軍曹/[1/8]小串金作准尉/[1/8]新浜新吉軍曹
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▲別れの杯を交わす「進襲隊」隊員。
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▲陸軍99式襲撃機
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▲「進襲隊」久木元延秀少尉と99式襲撃機(昭和19年12月30日フイリピン・ミンドロ島サンホセ沖にて特攻戦死)
▼昭和20年1月5日(ルソン島の戦い)重巡洋艦ルイビルに海軍神風「第18金剛隊」か「進襲隊」の特攻機突入の瞬間。
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昭和19年12月20日 第30戦闘飛行集団の隷下部隊から陸軍特別攻撃隊「第1精華隊」を編成。
四式戦闘機「疾風」でクラーク基地より出撃。
(ミンドロ島サンホセ沖敵上陸船団へ突入戦死)村山光一軍曹/久永軍曹/三浦軍曹
昭和20年1月5日、第30戦闘飛行集団長の命令で、戦闘機隊は全機特攻作戦に移行した。
第1、11、71~73、200戦隊の四式戦装備隊は混成で「精華隊」を編成、1月12日まで、リンガエン湾に上陸した船団
を目標に、2機ずつの編隊を組み(内1機は戦果確認機)、250㌔爆弾2個を翼下に装備し出撃した。

(昭和20年1月5日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」4機で出撃、ルソン西方海上に突入)
梶原 広満大尉/荒井 幸雄伍長/他1名、計3名突入戦死。

(昭和20年1月7日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」2機で出撃、ルソン西方海上に突入)
川原 安民少尉/
 
(昭和20年1月8日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」4機で出撃、ルソン西方海上に突入)
三隅 輝男少佐/他2名、計3名突入戦死。
 
昭和20年1月10日
第30戦闘飛行集団操縦者を主とする生存者47名は潜水艦などにより台湾へ脱出。
地上勤務者の殆どは臨時歩兵第25大隊に編入され地上戦闘にて戦死(30戦隊長三隅輝男少佐1/8空中戦で戦死)
岡田中尉以下の生存操縦者6名と、2機の可動機はバンバン飛行場に移動し津崎72戦隊長の指揮下に入る。
(昭和20年1月11日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)林 正信少尉
(昭和20年1月12日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)池内貞男少尉
(昭和20年1月13日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)吉田 修少尉
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▲米護衛空母サラマウア(USS Salamaua)
1/13、08:50頃、250キロ爆弾2発を積んだ陸軍特攻「精華隊」の特攻機がサラマウアの飛行甲板に突入、サラマウ
アは大破する。80名以上負傷し15名が死亡。損害は飛行甲板、格納庫と広範囲に及び、その下部では火災が発生した。
爆弾の1発は不発となったが、右舷の喫水線部分に穴を開けた。艦は動力、通信および操舵不能となった。
機関室の1つは氾濫し、右舷機関は停止した。大きな損害を受けながらも砲手は9:10に2機の特攻機を撃墜した。 
(昭和20年1月15日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)
島本 準彦少尉/五島 司少尉
(昭和20年1月18日陸軍特別攻撃隊「精華隊」四式戦闘機「疾風」で出撃、ルソン西方海上に突入)田中了一伍長
(※在フィリピン陸軍航空部隊、最後の特攻出撃)フィリピン陸軍特攻作戦:突入機148機、未帰還機170機、自爆24機

その後も特攻隊は増加していったが、この命名式は終戦まで続けられた。陸軍はフィリピンでの捷一号作戦だけで約
210機を特攻に投入した。陸軍特別攻撃隊では他に「皇魂隊」、「皇華隊」、「振武隊」等があり「震天特別制空隊」
(B-29へ体当たり攻撃隊)も編成されS20.1/9.27や5月の東京空襲で屠龍で迎撃に出撃している。
昭和20年1月19日陸海軍大本営は、「帝国陸海軍作戦計画大綱」の奏上で、天皇に全軍特攻化の説明を行う。
沖縄戦では、第6航空軍所属の各振武隊と第8飛行師団所属の各誠飛行隊が次々と編成され、出撃していった。

沖縄戦においての陸軍特別攻撃隊の最初の特攻は石垣島出身の伊舎堂用久(いしゃどう ようきゅう)大尉。
(陸軍第8飛行士団誠第17飛行隊隊長)
昭和20年3月26日04:00伊舎堂用久大尉率いる誠第17飛行隊(99式襲撃機)10機により遂行された。
出撃基地は、石垣島の陸軍白保飛行場からであった。
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▲上列右から3人目の方が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市出身)、慶良間洋上散華 享年24歳
『指折りつ待ちに待ちたる機ぞ来る、千尋(ちひろ)の海に散るぞ楽しき』という辞世の句を残して戦死した。
※石垣島から出撃し、特攻戦死した陸軍特攻隊員は下記の通り。(階級は2階級特進後)
(誠第17飛行隊) 99式襲撃機 慶良間洋上散華
伊舎堂用久中佐(沖縄県出身24歳)/川瀬 嘉紀大尉(三重県出身24歳)/芝崎 茂大尉(埼玉県出身24歳)
黒田 釋少尉(愛媛県出身21歳)/安原 正文大尉(高知県出身24歳)/久保 源次郎大尉(千葉県出身23歳)
有馬 達郎少尉(鹿児島県出身17歳)/林 至寛少尉(東京都出身17歳)
(独立飛行第23中隊) 三式戦闘機「飛燕」 那覇西方洋上散華
阿部 久作大尉(北海道出身29歳)/須賀 義榮少尉(千葉県出身23歳)/長野 光宏少尉(東京都出身21歳)
金井 勇少尉(富山県出身21歳)/岩本光守少尉朝鮮名不詳(朝鮮出身20歳)/廣瀬秀夫少尉(香川県出身19歳)
(飛行第17戦隊)
平井 俊光少佐(岡山県出身21歳)/児子 国高大尉(岡山県出身21歳)/西尾 卓三大尉(東京都出身25歳)
国谷 弘潤大尉(富山県出身21歳)/勝又 敬大尉(愛知県出身24歳)/照崎 善久少尉(大阪府出身21歳)
西川 福治少尉(兵庫県出身21歳)
(飛行第105戦隊)
長谷川 斎大尉(愛知県出身23歳)/山元 正巳少尉(鹿児島県出身19歳)/永田 一雄少尉(鹿児島県出身20歳)
石田  勝少尉(岐阜県出身20歳)/小川 多透少尉(福岡県出身20歳)/丸林 仙治少尉(岡山県出身19歳)
内藤 善次少佐(東京都出身22歳)
(飛行第19戦隊)
根本 敏雄大尉(千葉県出身22歳)/倉澤 和孝大尉(長野県出身22歳)/栗田 常雄少尉(静岡県出身22歳)
合計31名

当時満州国の首都だった新京では特攻隊4隊が編成された。
陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」(ぶようたい)15名[ 隊長 山本 薫中尉 ]99式襲撃機
陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」(ぶこくたい)15名[ 隊長広森達郎中尉(三重県出身) ]99式襲撃機
陸軍誠第41飛行隊「「扶揺隊」15名[ 隊長 寺山大尉 ]97式戦闘機
そして1式戦闘機「隼」装備の「蒼龍隊」15名である。
四隊共、第8飛行師団で昭和20年2月11日旧満州の新京飛行場に於いて特攻隊の命名式が行われている。
沖縄戦で万世や知覧から出撃した振武隊は多くの記録が残っているが、特攻出撃記録も残っておらず、全く知られてい
ない特攻隊は数多くある。陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」は昭和20年2月10日、満州(新京)で編成され、5個編隊15機
で平壌→大刀洗飛行場→宇佐飛行場→各務原飛行場と移動し、2月20日に長野県松本へ移動。
陸軍松本飛行場で特攻機用の改修が行なわれた様だ。「武剋隊」隊員の内6人は浅間温泉に滞在した。
陸軍誠第32飛行隊「武剋隊」(99式襲撃機)昭和20年3月27日9名が沖縄読谷村の陸軍中飛行場より出撃。
[隊長]広守達郎中尉/清宗孝己少尉/小林一満少尉/今西修軍曹/今野勝郎軍曹/島田貫三軍曹
出戸栄吉軍曹/伊福孝軍曹/大平定雄伍長
▼浅間温泉目之湯旅館又は富貴之湯に滞在中に撮影。「武揚隊」か「武剋隊」勇士(お名前不明)
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「武剋隊」と「武揚隊」隊員は、特攻機爆装改修期間が延びた事もあり、約1か月淺間温泉目之湯旅館に滞在した。
ここには世田谷下馬の駒繋国民学校や東大原国民学校の学童が疎開しており、全て女児だったという。
夕刻になると広森達郎隊長がやってきては歌ったり、踊ったりしたとの事。彼等は疎開学童の女児を可愛く思い、思慕
の念を抱いていた。それが募り募って『淺間温泉望郷の歌』となり今日に伝えられている。
昭和20年3/18・20日午前6時、隊長以下全隊員が揃った。どの機内にも東京世田谷下馬駒繋国民学校の児童達から、
「兵隊さん、私たちの代わりに、いつもお守りに持っていってください」と送られてきていた人形が飾られてあった。
武剋隊6機の先発隊が松本を出発したのは3/18各務原飛行場(岐阜県)経由で新田原飛行場(宮崎県)に向かった様だ。
残りの9機も20日松本を離陸している。最終的に「武剋隊」「武揚隊」2隊は、八塊基地(台湾)、新田原、知覧、沖縄か
ら特攻出撃する事になる。記録では「武剋隊」9機は3/25に米軍の激しい艦砲射撃の中、沖縄の中飛行場に到着。
整備・給油の後、台湾へ向かう予定が急遽変更され、昭和20年3月27日05:30沖縄周辺の米艦船に向けて突入戦死と
記録されている。この「武剋隊」広森隊長以下9機は八塊基地(台湾)へ向かう予定だった。
しかし第32軍兼第6航空軍兼第8飛行師団参謀「神直道」(後に中佐)は、このまま台湾に行かせた方が良いか、あるい
は、ここ(沖縄中飛行場)から出撃するにしても、特攻隊の増加を待ち、一緒に攻撃させた方が効果は大きいのではない
か、否、今夜、明日中にも飛行場は艦砲射撃を受け離陸する事は困難になるのではないか等々、迷いに迷ったあげく、
27日攻撃(特攻出撃)する様に下令した。命令文に「特攻すべし」とどうしても書けず「必沈すべし」と記したと言う。 
下令直後、航空参謀 神直道は隊員の顔を正視する事が出来ず、僅かだが離れた場所に立ち、涙を見せぬ様に飲み込み
ながら彼らを見守ったと言う。隊長広森達郎中尉の操縦時間はおよそ250時間前後。他の隊員も同様、まだ爆弾を積ん
で飛行した事も無かったと言う。重装備の離陸滑走、直後の上昇、第1旋回の注意等を出撃前に教わったと言う。
(※因みに現代の旅客機の話ではあるが日本航空パイロットの場合、コーパイ[副操縦士]で3000時間その後機長として
1000時間(約2年)飛んだら一人前とされている世界で、飛行時間250時間とは飛行場を離陸し、周りを一周して着陸出
来る程度の技量だと考えられる。)当然、艦船の攻撃部位、突入角度等全く教育を受けていない状態での出撃だった。
出撃前夜沖縄県読谷村比謝川畔の飛行場大隊入浴場で入浴を済ませた広森隊長以下9名は、比謝川沿い久得橋近くの飛
行戦隊兵舎内へ壮行会に向かった。その席上、広森隊長は部下隊員に対して以下の言葉をかけた。
「いよいよ明朝は特攻をかける。皆いつものように俺についてきてくれ。だがひとつだけ約束してくれ。今度生まれ変
わったら、たとえ蛆虫(うじむし)に生まれ変わってきても国を愛する忠誠心だけは失わないようにしよう」と。
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▲別れの杯を交わす誠第32飛行隊「武剋隊」隊長 広森達郎中尉(中飛行場より99式襲撃機で出撃、3/27突入戦死)
何のためらいも無く国家の為に身を捨てようとする至誠と気魄に、その場に居合わせた人達は臓腑をえぐられる思いで、
隊員達の顔を正視する事が出来ず、皆唇をかみ、涙を密かに拭ったと言う。
昭和20年3月27日午前5時30分。晴天の明け方に砂塵をあげて9機の武剋隊が沖縄本島中飛行場を飛び立った。
250㌔爆弾を抱えた陸軍99式襲撃機は3機づつの編隊を組んで飛行、慶良間北東の方向へ飛んで行った。
首里山上では軍司令官も見守った。編隊は西海岸を超低空で矢のように飛んで行く。くっきりと日の丸が見える。
天翔ける神々だ。頭が下がる。やがて敵の対空砲かが始まった。1機が被弾して海中に墜落、他の8機は目指す戦艦に突
入した。火災と共に黒煙が天に沖し、煙が薄らぐと5つの艦影は海に没し去った。「必沈」命令を成し遂げたのである。
一瞬の静寂、低いうめき声にも似た嘆声が起こったが、それは広森隊長以下9名の戦死を意味する事でもあった。
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▲3/27慶良間列島を哨戒中の米中型揚陸艦が沖縄陸軍飛行場から飛び立った特攻機の突入を受ける。
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▲▼特攻機の突入をうけた米中型揚陸艦LSM(R)-188
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▲特攻機の突入部分。満載だったロケット弾が艦内で爆発しなかったのが米軍にとっては幸いだった。
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▲3/27米戦艦ネバダ(USS Nevada)に誠第32飛行隊「武剋隊」か「赤心隊」の特攻機が突入。
 乗組員11人が死亡、主砲塔に被害を受けた。ネバダは日米開戦の真珠湾攻撃で海軍機に小破された艦だ。
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▲ネバダに特攻した搭乗員の遺体を調べる米兵。甲板に遺骸が飛び散り胴体だけが残っている・・・。
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▲特攻隊員の所持品から出てきた「日の丸」の寄せ書きか・・・?血だらけの様に見える・・・言葉がない。
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▲特攻機の突入で戦死したネバダ乗組員。
松本を出発した「武剋隊」先発隊の6機は、昭和20年4月3日新田原基地(宮崎県)より特攻出撃している。
小林 勇少尉/結城尚弼少尉/時枝 宏軍曹/古屋五郎伍長/佐藤 正伍長/佐藤英実伍長

なお、陸軍誠第31飛行隊「武揚隊」3機は昭和20年5月13日16:32台湾(八塊)より出撃。台湾日本軍航空基地参照。
誠第31飛行隊「武揚隊」隊員
山本 薫中尉(徳島県出身享年23歳)/五十嵐 栄少尉(山形県出身享年24歳)/柄澤 甲子夫伍長(長野県出身享年21歳)
以上3名は、昭和20年5月13日(台湾)陸軍八塊基地より出撃.。突入戦死。
高畑 保雄少尉(大阪府出身享年22歳)/五来 末義軍曹(茨城県出身享年19歳)
以上2名は、昭和20年5月17日戦死。
長谷部 良平伍長(岐阜県出身享年18歳) 
長谷部伍長は誠隊から「第31振武隊」に転属、昭和20年4月22日14:40知覧から特攻出撃、突入戦死。
藤井 清美少尉(京都府出身享年24歳) 昭和20年7月19日
飯沼 芳雄伍長(長野県出身享年19歳) 昭和20年7月19日特攻出撃するも戦果確認できず戦死扱い。
長谷川 信少尉(福島県出身享年22歳)/西尾 勇助軍曹(千葉県出身享年20歳)/海老根 重信伍長(茨城県出身享年19歳)
以上3名は、昭和20年4月12日台湾へ前進中与那国島で敵機に撃墜され戦死。
中村 欽男少尉(生還)/力石 文夫少尉(生還)/吉原 香軍曹(生還)/春田 政昭兵長(不明)
誠第31飛行隊「武揚隊」は、(満州)新京→(朝鮮)平壌→(朝鮮)大邱(たいきゅう)→大刀洗飛行場→各務原→松本
そして爆装改修を終え、松本→各務原→松山→健軍→新田原→済州島→上海(大場鎮)→杭州(筧橋)→台湾「八塊」という
特攻の為の長旅であった。松本を離陸したのは全部で15機であったが、長途の旅でほとんどを失い、たった3機が台湾に
辿り着いた。しかし、彼等は誇りを失わない。めげることなく三次にわたって特攻を敢行している。

昭和20年3月28日には陸軍誠第41飛行隊「扶揺隊」が97式戦闘機で沖縄陸軍北飛行場から出撃している。
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▲陸軍誠第41飛行隊15名(4名が沖縄戦で突入戦死。その中のお1人大河正明伍長は本名、朴東勲(朝鮮出身)
 ※山田泰治軍曹は5/11出撃
 昭和20年3月28日突入戦死の4名→高祖 一少尉/大河正明伍長/小川真一軍曹/堀口政則軍曹
誠第41飛行隊は97式戦闘機15機からなり、旧満州の第2航空軍で編成された。当初は石垣島に前進する予定だったが、
米軍の沖縄上陸が迫った為、急遽沖縄本島に前進しそこから特攻攻撃をかけることになった。
3/27に知覧を14機で出撃したが、機体の故障で次々に脱落して沖縄(北飛行場)には8機が到着した(1機中飛行場へ)
3/28早朝、出撃離陸時に米艦隊の艦砲射撃と空襲を受け5機が離陸不能となる。
辛うじて4機が離陸に成功、目の前の米艦隊に突入した。戦果は中型艦3隻轟沈、炎上1隻と報じられが、この日米艦隊
損害記録は報告されていない。
飛行機を失った5名の特攻隊員は内地帰還を命じられ沖縄北部山岳地帯を彷徨し、5月末北端の奥集落にたどり着いた。
そこで住民に刳舟を出してもらい6/1与論島に到着。その後独混64旅団差し向けの大発に乗って6/16徳之島に到着。
徳之島で彼らは神参謀の一行に会い、寺山大尉は神参謀に同行を願い出でて操縦を任された。
大尉を除く隊員が九州佐世保に帰還したのは7月に入ってからで、古仁屋からの海軍水上機に乗ってであった。
そして、再度出撃の機会は無く終戦を迎えている。(寺山大尉/塩谷伍長/上村軍曹/菊田軍曹/金田伍長)

沖縄戦に参加した各振武隊は→富屋食堂と知覧特攻平和会館万世特攻平和祈念館参照。
また飛行第62戦隊の重爆撃機「さくら弾機」による特攻も行われた。このうち、第6航空軍司令官は菅原道大中将が
務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。また、海上から四式肉薄攻撃艇(マルレ)を装備した陸軍海上挺
進戦隊による水上特攻も行われた。陸軍空挺部隊の特攻作戦は「義烈空挺隊」と「薫空挺隊」が有名です。

[義烈空挺隊]とは沖縄戦期間中の昭和20年(1945)5月24日沖縄の陸軍北・中飛行場の強行着陸と破壊を目標とした
[義号作戦]に用いられた空挺部隊である。(「薫空挺隊」は台湾(烏來)参照)
昭和19年サイパン陥落後、米軍はサイパンにB29の基地を設けて東京を空襲した。この米軍基地に対し、強行着陸
して飛行機を破壊し、搭乗員を殺傷する目的で昭和19年12月上旬第1挺進団(パラシュート部隊)から選抜した空挺特
攻隊が編成され、「義烈空挺隊」と称された。「義烈空挺隊」とは、第1挺進団第1挺進連隊第4中隊の選抜要員+陸
軍中野学校諜報要員+第3独立飛行隊から編成された部隊の名称である。
しかしサイパン突入作戦は中止、次いで硫黄島作戦も中止となった。そして5/24沖縄攻撃作戦(義号作戦)において、
北(読谷)飛行場・中(嘉手納)飛行場への強行着陸(特攻)に投入された。
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▲「義烈空挺隊」奥山隊 隊長 奥山道郎大尉(26才)以下136名
第3独立飛行隊 隊長 諏訪部忠一大尉(26才)以下32名 陸軍97式重爆撃機2型 12機
▼奥山隊は豊岡で丸太とトタンで造った実物大模型のB-29やスクラップの日本軍機を使用して爆破訓練を重ねた。
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昭和20年1月13日「義烈空挺隊」は浜松基地に移駐。17日には軍装検査(出撃直前に行われる装備品等の点検)
を終了してサイパンへの出撃待機態勢をとったが、この頃には燃料補給の中継基地である硫黄島が米軍の攻撃
で使用が困難となり、1/27にサイパン攻撃中止が指令された。
奥山隊は再度宮崎県唐瀬原に戻り、実爆を行う厳しい訓練を続けた。 2/19米軍が硫黄島に上陸。
この時再度「義烈空挺隊」の投入が計画され、3/8頃に唐瀬原から茨城県西筑波飛行場に移動となった。
奥山大尉は航空軍司令部へ出頭のため上京したが、この時に3月10日の「東京大空襲」に遭遇している。 
3/17硫黄島の栗林中将が最期の突撃を敢行して硫黄島は米軍の手に落ち、3/21の硫黄島攻撃も中止になった。
奥山隊は再度宮崎県唐瀬原へ、第3独立飛行隊は浜松基地へ戻った。 米軍の侵攻は沖縄へと向けられた。
2度の作戦中止命令を受けた隊員達は、自ら「義烈空挺隊」をもじって 「愚劣食い放題」 と称して自嘲した。
特攻作戦が決まってから義烈空挺隊員は特別食(特攻食)を与えられていたが2度目の中止後普通食に戻った。

▼沖縄読谷村渡具知、比謝河口付近で資材を揚陸する米軍(1945年4月撮影)
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▲4/1米軍6万人が上陸、即日進撃し、10キロ先の陸軍北飛行場と中飛行場を占拠。 日本軍は沖縄守備兵力10万人
 では太刀打ち出来ないと判断。沖縄島内で持久戦に持ち込もうと残存機を爆破処分、飛行場を放棄した。
 (▼画像は陸軍北[読谷]飛行場で米軍に撤去される「飛燕」の残骸)
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4/1沖縄本島へ上陸した米軍は北飛行場・中飛行場を制圧した。4/13の偵察の結果では既に150機の敵機が配備
されているのが確認された。この間、陸・海軍共に多くの艦船攻撃機や特攻機を出撃させたが、特攻機の命中率
は極めて低かった。これは敵レーダーに捕捉され、北・中飛行場米軍機に邀撃されているのが原因と推察された。
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▲沖縄県読谷村にあった陸軍北飛行場(読谷飛行場)昭和20年4月米軍撮影。
そこで台頭したのが両飛行場制圧の為に「義烈空挺隊」の投入であった。
5/2「義烈空挺隊」はそれまでの航空総軍から第6航空軍司へ編入された。5/3奥山大尉は第6航空軍司令部から
出頭を命ぜられ、そこで北・中飛行場制圧の為「義烈空挺隊」を投入する考えがあることを伝えられた。
この作戦を「義号作戦」と称した。 当初「義号作戦」の日本軍航空戦力は下記の通り。

(陸軍)「義烈空挺隊」奥山隊 五個小隊(136名)/[第三独立飛行隊]97式重爆撃機12機(32名)
    飛行場攻撃部隊→第六航空軍4式重爆撃機12機 特攻機100機/第五航空軍9式双発軽爆撃機10機
(海軍)戦闘機12機/爆撃機12機/艦船攻撃部隊→雷撃機30機/特攻機80機/桜花10機

「義烈空挺隊」「第三独立飛行隊」以外は、空挺隊突入を援護する目的に編成された。しかし5/23に九州東南
海域において敵空母群を発見。海軍部隊はこの敵に対し攻撃目標を変更した為、沖縄本島から本土決戦に目を移
していた大本営からも「義号作戦」の決裁が下りない。
もはや勝算無しとした沖縄戦に精鋭部隊である「義烈空挺隊」を投入することを躊躇したものと思われる。
だが第6航空軍は強く実施を求め、ついに大本営は5/18「義号作戦」の認可に踏み切った。
当初、第6航空軍司令は、敵情の如何に係わらず5/22の出撃を決定したが5/21の天候判断により5/23に延期さ
れた。5/23、17:00格納庫前に集合、軍装検査・軍司令官の激励の辞があり、乾杯・万歳三唱が行われた。
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▲搭乗機の前で整列する「義烈空挺」隊員達。
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▲出撃にあたりそれぞれの故郷の方向に頭を下げる「義烈空挺隊」隊員。
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▲熊本県健軍飛行場三角兵舎前で、軍服に迷彩を施す義烈空挺隊員。
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▲奥山隊長を中心に義烈空挺隊整列。最前列にはアンテナ用のポールを携えた無線班らが並ぶ。
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▲集合、整列した「義烈空挺隊」隊員。手前の隊員が胸に提げているのは帯状爆薬などを収納する雑嚢。
中央隊員が抱える吸盤付き黒い円筒は「吸着爆雷」。竹竿の束は吸着爆雷の柄。他破甲爆雷のケースを腰に装着
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▲軍装検査をする菅原道大中将
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▲陸軍特攻作戦の司令官として、出撃前の義烈空挺隊を閲兵する菅原道大中将。
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▲「われに手榴弾あり。ひたすら任務に邁進、斃るゝもなほ已まず」などと隊員に語った菅原道大中将
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▲義烈空挺隊勇士。軍服や装具の各所にポケットが増設されている。
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▲義烈空挺隊勇士
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▲義烈空挺隊勇士の後ろ姿・・・。
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▲奥山道郎隊長と諏訪諏訪部忠一編隊長
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▲5/23軍装検査後に申告、菅原道大中将より激励の辞を受ける奥山隊。中央指揮官が奥山大尉
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熊本県健軍飛行場にて、最後の宴
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ところが沖縄の天候が悪く、海軍から菊水第7号攻撃を1日延期する旨の電話が入った。
陸軍は既に出発していた重爆隊の反転を命じて作戦は翌日に延期された。
5/24天候良好との報告があり、昨日と同様に重爆12機が先行して沖縄の飛行場を爆撃、ついに「義烈空挺隊」
に出撃命令が下された。5/24、18:00義烈空挺隊の陸軍97式重爆撃機11機は熊本県健軍飛行場滑走路の東端
に向かったが1機だけ始動出来なかった。 この為1機の搭乗予定だった隊員は急遽予備機に乗り換えた。
そして昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」12機は熊本県健軍飛行場から次々と出撃していった。
しかし、義烈空挺隊の出撃を待たず海軍は敵機動部隊発見の報が入った12:40に既に菊水第7号作戦を発動。
海軍の特攻機は出撃した後だった。「義烈空挺隊」の犠牲は本命の航空特攻を成功させる為のものだったはず。
陸軍と海軍の歯車は太平洋戦争の最初から最後まで噛みあわないままだった。
「義烈空挺隊」突入に際して陸軍第6航空軍は120機の特攻機を準備。しかし「義烈空挺隊」突入後、沖縄周辺
は雨が降り、天候不良で離陸できたのは70機であり、その内「突入」と報告されたのは24機であった。
米軍側の記録では特攻機の突入は13機。12隻の艦艇に命中したとの記録が残されている。
「義烈空挺隊」突入後の戦果拡大は出来ず、「尻切れトンボ」の作戦となって終わってしまった。
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▲▼陸軍97式重爆撃機
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▲搭乗直前に握手を交わす奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)
※この写真は出撃当日、取材カメラマンからあらかじめ航空機の横で握手をするように依頼されていた。ところが一度
握手をしたものの、カメラマンとのタイミングが合わず、要望により再度握手をしたときの写真である。
奥山大尉が「千両役者は忙しいなぁ」と発言して握手した瞬間で、諏訪部大尉他周囲の隊員からも笑みがこぼれている。
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▲▼続々と爆撃機に搭乗していく隊員達。
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▼そして出撃、1番機の中から笑顔で手を振る奥山隊長。
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▼12機の97式重爆撃機は米軍のレーダー探知を避ける為、海面を這うような低空飛行で一路沖縄を目指した。
 (画像は飛行訓練中の第3独立飛行隊諏訪部隊機。海上30メートルという超低空で訓練するので、
 波頭がプロペラで吹きちぎられ、着陸した時、鴎の死骸が入っていることも度々だったという)
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作戦経路上「義烈空挺隊」は企図秘匿の為、変針時・本島到着・突入の3回のみ無線を使用する事になっていたが、
変針時・本島到着時の予定時刻になっても無線は入電しなかった。
熊本県の健軍作戦室は重苦しい雰囲気に包まれた。 そして22:00の突入予定時刻になっても無線の入電はない。
だが突然に「22:11ただ今突入」の無線がスピーカーから流れた(健軍と知覧で傍受)22:25戦果確認の為同行
した飛行第110戦隊草刈機が 「諏訪部隊着陸成功」と 報告。22:45通信所敵信傍受班は、米軍の「北飛行場異変
有り」「在空機は着陸するな」等の無線を傍受、それから米軍は続けざまに異変の報を流し続けた。 
同行した状況視察任務の重爆は、着陸を意味する赤信号灯が北飛行場で4個、中飛行場で2個確認したと報告した。
(以下米軍側の記録)
5/24日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)嘉手納(中飛行場)の爆撃に成功した。
第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり23:30頃伊江島方向から低空で進入してきた。高射中隊がこれを要撃、
飛行場付近で4機を撃墜したが、最後の1機が読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して胴体着陸に成功した。
少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機破壊炎上26機に損害
を与え、更に7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。調査によれば、胴体着陸
機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。他の突入機4機にはそれぞれ14名
の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見された。
したがって確認されたのは合計69名である。翌日1名の日本兵が残波岬において射殺された。
(合計70名となり日本軍側の記録と一致するが沖縄へ突入した義烈空挺隊、8機112名の中に生還者はいない)
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▲北飛行場付近の凄まじい米軍の対空砲火。
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▲日本軍が爆撃機で散布したアルミ箔の様な物を拾い集める米兵(米軍のレーダー探知機を狂わす為の物だと言う)
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▲撃墜された「義烈空挺隊」を乗せた97式重爆撃機。
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▲▼撃墜された「義烈空挺隊」を乗せた97式重爆撃機。辺りに黒焦げの日本兵が散乱している。
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▲▼北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆撃機9番機「6546」(機体尾翼には下3桁がマーキングされていた)
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▲北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊の97式重爆(546機体は渡部大尉らが乗り換えた予備機だった)
(6546)9番機搭乗員 第3小隊長渡部大尉/操縦担当 久野中尉、荒谷少尉/航法,通信担当 酒井少尉、簑島曹長
第3小隊第1分隊長 山城准尉/池島曹長/井上曹長/山本曹長/佐藤軍曹/岡本伍長/加藤伍長/田中伍長/村瀬伍長
▼北東から進入して滑走し、最終的に南東向きで停止した。手前に日本兵の遺体が確認できる
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▼沖縄戦で米軍が撮影した北飛行場の空撮。黒線が546機強行着陸進路・赤点が隊員の遺体散乱場所。
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▼北飛行場へ強行着陸した義烈空挺隊機。プロペラが曲がっているのは地面を叩いた為。
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▼前面。強行着陸時、米兵は透けた機首に向かって銃撃し、パイロットが射殺されたと言う。
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▼機首をこじ開け、パイロットの生死を確認する米兵達。
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▲▼翌日、北飛行場に胴体着陸した義烈空挺隊機を調べる米兵。着地の衝撃で左翼側のエンジンがもぎ取られている
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▲撤去される546機
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▲着陸を試みて失敗し、北飛行場のはずれで墜落した義烈空挺隊機7番機「6156」。機は斜面の端にあったサーチライ
ト管制施設を破壊した。手前には、墜落火災で黒焦げになった日本兵の死体が写っている。
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▲北飛行場はずれにあるサーチライト管制施設の残骸。7番機が着陸失敗した際に激突した。墜落後辺りには多くの日
 本兵の死体が散乱し、その内の1つが左奥の地面にある。 
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▲撃墜された義烈空挺隊機7番機「6156」機体から放り出された日本兵の遺体が確認出来る
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▲▼北飛行場滑走路付近に墜落した97式重爆。激しい火災が起きたのであろう、黒焦げの日本兵が確認できる。
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▼撃墜された義烈空挺隊機。米兵が放出された日本兵の遺体を見ている。
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▼義烈空挺隊員の決死の爆破で破壊された米軍機の数々。
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米軍の記録によれば5月24日、日本軍の第1回目、3回目、4回目、6回目の飛行群が読谷(北飛行場)・嘉手納(中飛行場)
の爆撃に成功した。第7回目の攻撃は双発爆撃機5機からなり、23:30頃伊江島方向から低空で進入してきた。
高射中隊がこれを要撃、飛行場付近で4機を撃墜したが、最後の1機が、読谷飛行場滑走路を北東から南西に滑走して、
胴体着陸に成功した。少なくとも8名の完全武装の日本兵がこの機体から飛び出し、手榴弾、焼夷弾により飛行機7機を
破壊炎上、26機に損害を与え、更に7万ガロンのガソリンを炎上させた。米軍は戦死2名、負傷者18名を生じた。
戦闘後の調査では、胴体着陸機周辺で日本兵10名が戦死、3名が対空砲火により機内での戦死が確認された。
他の突入機4機には、それぞれ14名の兵士が搭乗していたが、いずれも炎上した機体内に散乱して発見された。とある。
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確認されたのは合計69名で、翌日1名の日本兵が残波岬において射殺されている。
したがって合計70名となり日本軍側の記録と一致する。(中飛行場に関してのは記述は無い)
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だとすれば、たった8名の義烈空挺隊員がこれだけの米軍機や施設を破壊した事になる。訓練を重ねてきた精鋭部隊と
はいえ、訓練の成果を本番の戦場でいかんなく発揮した事に只々驚くばかりである。
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▲義烈空挺隊員によって破壊された米軍哨戒爆撃機
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▲義烈空挺隊員によって破壊された米軍戦闘機
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▲義烈空挺隊員が破壊した米軍機。機体向こう側で多くの米兵が散乱する日本兵の遺体を見ている。
 この場所に日本兵の遺体が集中している。
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▲義烈空挺隊員が破壊した米軍輸送機
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▲▼義烈空挺隊員が破壊した米軍機の数々・・・546機のたった数名の義烈空挺隊員の戦果である事に驚く。
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▼散華し、散乱した義烈空挺隊員の遺体を見る米兵。
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▼強行着陸突入後、米軍機を爆破し散華した義烈空挺隊員。
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▼▲散華した義烈空挺隊員の遺体を眺める米兵。奥に写る山は座喜味城祉である。
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写真の米軍資料の説明文は以下の通り。
向こう見ずな作戦--輸送機を改造した日本軍の爆撃機は読谷飛行場に夜襲をかけ、10数名の特攻兵を突入させた。
彼らは手榴弾、擲弾筒(てきだんとう)機関銃で武装し、殺される前に数機の米軍機を破壊した。
日本軍の兵員輸送機はこの他に、少なくとも10機が飛行場にたどり着く前に撃墜された。
そのうち6機は第2海兵航空団の夜間戦闘機に、残りは対空砲により撃墜された。
日本語訳では上記の様に書いてある・・・。

[ 沖縄第32軍八原高級参謀の記録より ]
「特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍
の戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ。五月二十四日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察す
れば、軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場で
はなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遙か北、中飛行場の方向にあたって、火の手の揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して感動を久しくした。
連夜に亘る特攻隊の突入、「ドロドロ」の轟音、そして空挺隊の降下は軍司令部将兵はもちろん正面二十キロの戦夜
で死闘中の兵士一人一人に、戦うのは我々のみではないとの感懐を深く心に抱かしめたのである」 と・・・。
※小禄飛行場とは昭和8年竣工の海軍小禄飛行場の事で沖縄初の飛行場だった。民間使用時は那覇飛行場と言った

「義烈空挺隊」12機の中、目標である沖縄に達することが出来ずにエンジントラブルや航路ミス(5,8,10,11番機)
で4機が帰還、不時着している。1機(10番機)は何とか九州へ辿り着き、 隅之庄陸軍飛行場附近へ不時着したが、
他の3機は飛行場以外の場所に不時着した。1機は熊本県八代市郊外を流れる川への着水を試みた(11番機)が橋脚
に激突して炎上。操縦していた水上清孝曹長が殉職している。
1機は敵艦船の対空砲火で被弾して引き返し、福岡県大牟田市付近の海岸に、1機は熊本県三角の畠にそれぞれ不
時着している。エンジントラブルや航法ミスにより途中帰還した4機の搭乗員7名に沖縄への物資投下任務が
命じられたのは、不時着から4日後。そして5/28、6/3沖縄に向け再度発進。二度と還ってくることはなかった。
奥山隊長等70名が散華した「義号作戦」終了後にも義烈空挺隊員7名が戦死している事になる。
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義烈空挺隊 前編YouTube 義烈空挺隊 後編YouTube
[ 軍司令官菅原道大中将の戦後 ]
戦後、「義烈空挺隊」の生き残りの方々が菅原を糾弾する為、宅を訪れた。しかし、その宅は畳の一枚もないお粗末
過ぎる廃屋当然の家であった。生き残りの面々は当初の目的を忘れ、唖然として帰っていった。
そのボロ小屋で菅原一家5人は必死で生活をしていた。戦前より俸給は殉職した部下の家族等に送っていた為、無一
文に近い菅原家は困窮に喘ぐ。そのうち長男道紀が中支(中国戦線)で煩ったマラリアで病床に伏した。
長男の道紀は母の手を握り「私が死ぬと御両親は少しは肩身が広げられますね」と言ったのが最期の言葉となった。
どうあれ「決してお前たちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はお前達の後を追う」と語りながら、終戦の日に、
「閣下(菅原道大)一機の特攻機の準備が出来ました」と部下が伝えると、じろりと見据えた菅原は「今日から奉公の
先が違う」とヌケヌケと答え、特攻も自決もせず95歳まで生き、人生を全うしている。
義烈空挺隊YouTube
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▲趣味で模型を制作されている方が居る。素晴らしい出来で製作を依頼したが多忙との事で引き受けて頂けなかった
 が、製作者のブログには他沢山の素晴らしい完成品が紹介されている。日の丸ヒコーキ製作工房
※義烈空挺隊が出撃した健軍飛行場(熊本県)は、戦後熊本空港として長らく使用されたが、昭和46年に役目を終え、
 現在は高遊原に移転し、現在の熊本空港となっている。
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▲終戦後の陸軍健軍飛行場に残る三式戦闘機「飛燕」(昭和20年10月15日撮影)


[ 司偵振武隊 ]
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▲特攻に使用された一〇〇式司令部偵察機の尾翼に描かれたドクロ
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蓆田飛行場(現福岡空港)より「司偵振武隊」(一〇〇式司令部偵察機)の特攻機が500キロ爆弾を装備して出撃。
昭和20年4月7日竹中隆雄中尉/吉原重発軍曹 1機が嘉手納沖に突入戦死。
昭和20年4月12日東田一男少尉/中沢忠彦軍曹 1機が沖縄周辺洋上突入戦死。
昭和20年5月14日古山 弘少尉/山路 実少尉 /熱田稔夫軍曹 2機が沖縄東方洋上突入戦死。
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▲5/14 08:55 陸軍蓆田飛行場から出撃する500キロ爆弾を抱いた「司偵振武隊」古山弘少尉搭乗機。
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▲陸軍一〇〇式司令部偵察機(昭和19年美保海軍航空基地で撮影)


▼「震天制空隊」二式複戦「屠龍」飛行第53戦隊「震天隊」に属した「屠龍」垂直尾翼には第53戦隊の部隊マークを。
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日本本土に空襲に来るB-29迎撃の為、機体もろともB-29に体当たり攻撃を仕掛ける「震天制空隊」も編成された。
昭和19年(1944)11月7日第10航空師団は隷下の各飛行戦隊に対し、各戦隊に4機の特別攻撃隊(主に戦闘機)で
体当たりしB-29を撃墜する空対空特攻隊の編成を下令した。防衛総司令部総司令官・東久邇宮稔彦王陸軍大将に
よって「震天制空隊」と命名された。
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▲▼機体側面には震天隊所属を意味する「鏑矢」(かぶらや)を描いている。
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「震天制空隊」が他の特別攻撃隊との決定的な違いは、敵機(B-29)に衝突後に操縦者が機体より脱出し落下傘降下、
あるいは偶然操縦席より放り出される形で結果的に脱出、ないし損傷した乗機を操縦着陸させ、搭乗員が生還する
事が必ずしも不可能ではなかった点だ。
そもそも戦闘機操縦者、特に当時の日本機でB-29の高度まで飛行できる操縦者は貴重な人材であった為(技量不足
の操縦者が高空飛行に失敗して高度を落とす事はしばしばあった)、むしろ生還する事が求められていた。
この為、「震天制空隊」は他の特攻隊の様な「十死零生」ではない事だ。
中には、飛行第244戦隊震天制空隊「はがくれ隊」所属の板垣政雄軍曹/中野松美軍曹の様に2度の体当たりを敢行
し2度とも生還したという例もあった。
逆に戦果をあげる事ができず「技量不足」とみなされた操縦者が、通常の特攻隊に左遷される場合もあったという。
しかし、使用する機体の大半は使い古しの中古機で、他の特攻機同様軽量化の為、機関砲・防弾鋼板・無線機も撤去
され、高空での機体性能を少しでも向上させた「無抵抗機」と呼ばれる機体が用いられた。
戦果は第10飛行師団昭和19年11月~12月末日(師団参謀山本茂男少佐)でB-29撃墜確実16機、搭乗員戦死10名。
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▲S19,11/7はがくれ隊(後の震天制空隊)編成。左から隊長四宮徹中尉/板垣政雄伍長/吉田竹雄軍曹/阿部 正伍長
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▲S20,2震天隊最終メンバー左から隊長佐々木少尉/中野軍曹/頼田少尉/板垣軍曹。後ろに写る戦闘機は「飛燕」
この写真に写る隊長 佐々木鐵雄少尉は後にS20,6/6陸軍特別攻撃隊・第160振武隊員として沖縄へ出撃、突入戦死。
B29撃墜YouTube
第6航空軍参謀「倉澤清忠少佐」によると、当時陸軍では部隊を天皇の命令で戦闘をする直結の「戦闘部隊」と志願
によって戦闘する「特攻部隊」に区別されたと言う。決号作戦(本土決戦)の為に航空機を温存する為、また、操縦
が容易な機体である97式戦闘機といった旧式機や99式高等練習機などの練習機も特攻に投入されたが、 同時に三式
戦闘機「飛燕」や四式戦「疾風」といった主力戦闘機も多数特攻に投入されている。
知覧特攻平和会館 の記事でご紹介した沖縄戦に参加した「振武隊」の多くが一式戦闘機「隼」や97式戦闘機といっ
た旧式機が多いのは「戦闘部隊」では無く「特攻部隊」に区別されていたからである。
特攻出撃した部隊に三式戦闘機「飛燕」や四式戦「疾風」といった主力戦闘機で特攻出撃した部隊があるが、
飛行第244戦隊から選抜された「振武隊」が多い。
飛行○○戦隊というのは「戦闘部隊」で多くは「飛燕」や「疾風」などの陸軍主力戦闘機が与えられた。
終戦間際になると、東日本を統括している第1航空軍の指揮下で各神鷲隊が編成された。これらの隊は主に太平洋側
に配備され、終戦間際の昭和20年(1945)8月9日には第255神鷲隊(岩手陸軍飛行場より釜石沖に出撃)が特攻出撃。
8/9夕刻、神鷲隊255隊の99式双発軽爆撃機3機が500kg爆弾を装備し後藤野飛行場を特攻出撃基地として、
吉村公男中尉(22歳)/渡辺秀男少尉(22歳)/石井 博伍長(19歳)が出撃。
出撃した3機の内、1機はエンジンの不調で進撃を断念、爆弾を北上川の中洲に投下して、後藤野飛行場に無事帰還。
進撃した2機は洋上の敵空母機動部隊を発見出来ずに追跡を断念、帰還途中1機は仙台湾に、1機は福島県原町に墜落
して、無念の戦死を遂げたと言う。
更に、終戦2日前の13日には第201神鷲隊(黒磯より銚子沖に出撃)第291神鷲隊(東金より銚子沖に出撃)第398
神鷲隊(相模より下田沖に出撃)の3隊が出撃している。
第201神鷲特別攻撃隊(小川満中尉/横山善次少尉/藤田重喜伍長)
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▲昭和20年8月13日出撃前、見送りを受ける小川満中尉(左)と藤田重喜伍長(中)。藤田伍長は通信員として同乗、
この2時間30分後、犬吠埼東方洋上で「小川編隊ただいま突入」の無電を発信、散華した。終戦2日前の事であった
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▲8/13出撃準備の整った第201神鷲特別攻撃隊(二式双発爆撃機)両主翼に250キロ爆弾を各1発懸吊した。
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▲昭和20年8月13日二式双戦の操縦席で最後の記念写真、第201神鷲特別攻撃隊の小川満中尉。
 この2日後、終戦(敗戦)をむかえる事になる祖国を予想していたのだろうか・・・・。
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▲陸軍二式双戦(二式複座戦闘機)

陸軍特別攻撃隊You Tube1 陸軍特別攻撃隊YouTube2 陸軍特別攻撃隊YouTube3 陸軍特別攻撃隊YouTube4



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 2016_02_07

Comments

Re: 記事に同館!軍部上層部に怒り 

鳥とミートボール 様
いつもご覧頂き有難うございます、本当にそうですね。自分が行かないからそんな事を命令出来るのですよね。
勝つ見込みも無いのに精神論ばかり・・・馬鹿バカしいですね。この時代の日本は国体護持さえ出来れば何でもいいという感じにしか見えませんね。国体の前に国民でしょ・・・国民あっての国なのに将来国を背負っていく若者ばかり犠牲にして・・・。
今の日本もそんな変わってない??様な感じが・・・。97重爆プラモデル出てますね。144/1はちょっとは小さいかな。
コメント有難うございました。
EVNARA  URL   2016-10-24 12:02  

記事に同館!軍部上層部に怒り 

いつも詳細な記事に感謝しています。無謀な戦争をし、若人の命を顧みない軍部には憤りしか感じません。丁度ヤフオクに義烈空挺隊の九七式重爆・突入機を凄くリアルに再現したモデルが出てますね。
鳥とミートボール  URL   2016-10-23 11:16  

Re: 素晴らしい! 

まさ 様

ご覧いただき誠に有難うございます、そう言って頂けると嬉しいです。
こちらこそ、有難うございます。これからも宜しくお願いします。
EV奈良  URL   2016-05-25 20:01  

素晴らしい! 

全文夢中で読みました。
細部まで記述されており、大変わかりやすくイメージ出来る内容で、以前から知りたかった事を確認する事が出来ました。
当時の写真も、初めて見るものも多く、大変勉強になりました。あなた様のような方がいて下さる事に本当に感動致します。
ありがとうございます。今後も閲覧させて頂きます。
まさ  URL   2016-05-25 19:49  

Re: 義烈空挺隊 

oni 様

ご覧頂き誠に有難うございます。おっしゃる通りですね、賛美するのでは無く、事実として伝えていかなければなりませんし、この様な方達の犠牲の上に今の平穏があるという事を感謝せねばならないと思っています。御多忙の合間にまた素晴らしい作品を作って我々を楽しませて下さい。またブログ拝見させて頂きます、リペアの件もいつかお願いしたいのでお手すきになりましたら御一報下さい。今後共宜しくお願いします。
EV奈良  URL   2016-02-09 22:53  

義烈空挺隊 

大変よくお調べになってますね。私が知らないことも多く、大変参考になります。特攻はあってはならない事ですが、これも歴史的事実です。後世まで語りつなげればならないと思います。また、拙作の重爆のご掲載もありがとうございます。昨年来、多忙も手伝って、スランプに陥っておりますが、ボチボチ更新していきたいとは思っておりますので、よろしくお願い致します。
oni  URL   2016-02-09 22:15  

「義烈空挺隊」 

有難う御座います、「義烈空挺隊」、忘れません、良く此処まで「NHK」以上です、97重爆では沖縄までは・・・、感謝申し上げます。
Tony  URL   2016-02-08 23:07  

この様な「固定脚機」で 

この様な「固定脚機」で,とても目標まで(涙)、行けるのでしょうか、上層部は此れで戦果が上がると考えてのでしょうか、「99双軽爆」での攻撃では、「19.10.24」「飛行第3戦隊」は「22機」の全力攻撃で戦果無しで全滅、「飛行時間1,000時間以上と言う乗員で充分なスキップ・ボミング」の訓練をしても・・・、涙が出て来ます、上層部は敵前逃亡、責任も取らず、絶対に忘れてはいけないと思います、有難う御座いました。
Tony  URL   2016-02-07 15:59  

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プロフィール

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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