知っておきたい人物


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笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年(明治32年)5月4日 - 1995年(平成7年)7月18日)
日本の政治運動家、社会奉仕活動家。国粋大衆党総裁、衆議院議員、全日本カレー工業協同組合特別顧問
財団法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)会長、福岡工業大学理事長、勲一等旭日大綬章受章者

大阪府三島郡豊川村(現:箕面市)に造り酒屋の長男として生まれる。笹川家は代々庄屋を務めた旧家で苗字帯刀を許
されており、父・鶴吉は笹川家10代目当主。笹川家の菩提寺は1579年(天正7年)に笹川市兵衞が創建したと伝えられ
る浄土宗理照寺。1914年(大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)高等科卒業。
作家の川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。
飛行機乗りを志し陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊。

戦後、ファシスト、右翼、また政財界の黒幕として扱われ、マスメディアからは「右翼のドン」と呼ばれた。
1974年(昭和49年)アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えて
いる。また同時に「社会奉仕活動に熱心なお爺さん」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な
意見、論評があり定まっていない。また、後年に行った様々な慈善事業等や歴史学者による検証により、その功罪と評
価は徐々にながら中和されつつある傾向がある。
経歴としては、第二次世界大戦後A級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈
放される。戦争に対して慎重であり、東條内閣の政策に反対の姿勢であったことが証明されたことなどから、有罪認定
はされていないが、A級戦犯容疑指定を受けたことが、その後左翼的な報道機関により意図的に報じられる事が多かっ
たこともあり誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことを「A級戦犯で極東国際軍事裁判において有罪となった」
と信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。
巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の
没後に公表された。なお、第二次世界大戦前の笹川は自分を「大衆右翼」と位置づけベニート・ムッソリーニを崇拝、
大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。強硬外交を主張しつつ、日本社会へのファシズムの浸透に
注力した。巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会
(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興を進め、更に福祉方面の公共事業を助成する財団
法人日本船舶振興会(現公益財団法人日本財団)を創設した。CIAエージェントであったとも報じられている。
株式取引に長け、姪婿にあたる糸山英太郎が中山製鋼所の仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して事態を乗り切
ることに成功している。
[政治活動]
1925年(大正14年)、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補し、当選して政治活動を始める。芸能事務所経営
を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。  
[川島芳子]
その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援1931年(昭和6年)には右翼団体・国粋大衆党を結成し
総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいた事もある。イタリアの指導者であるベニート・ムッソリーニの崇拝者であり、
ムッソリーニ率いるファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。
1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。
なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍のスパイ・川島芳子と交際があったと噂されている。
本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。後に、多田駿の指示があ
ってか、暗殺の危険を感じた川島が里見甫などに相談した結果、笹川の元に身を寄せたこともあり、一方で党総裁の笹
川もそんな川島の国民的知名度や人気にあやかろうとしていたともされている。
1935年(昭和10年)に大阪鉄道の買占めの際に、国粋大衆党の他の幹部とともに恐喝容疑で逮捕された。
大阪刑務所に約4年間収監されたが最終的には無罪となり、釈放されている。その後1939年(昭和14年)には飛行機で
単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の山本五十六の後援があった。
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の
姿勢の為、非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵や岸信介、安岡正篤とも
親交があったとされる。
A級戦犯容疑と「巣鴨日記」(巣鴨プリズン)
1945年(昭和20年)には、日本を占領下に置いた連合国指令によりA級戦犯容疑者として12/1に逮捕命令が出て12/11
巣鴨プリズンに入獄した。が、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった。
戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢であったことや、その後、連合国の主要国であるアメリカの方針が
180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共の為に生かして利用する方針変換となった為(いわゆる逆コース)1948
年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党
を更に全国勤労者同盟に衣替えし、右翼的な政治活動を再開した。
上記の様に、笹川は戦争中に戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁く
事は不当であり、アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。
また、「アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に
日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。
ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は、
「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS民間諜報局作成のファイルによる)としてであった
事を知る。笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズン
ンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念「日本が親米反共の道を選ぶべき事」
「日本同胞を餓死から救わねばならぬ事」「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。
この日記によると獄中の笹川は、東條英機に対して「あなたの死刑は確実だから、この戦争が自衛の為のものであったと
いう日本の立場を明確にし、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよ」と説いている。
また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。
一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合う。このことが日本のエスタブ
リッシュメント人脈との交流に繋がった。笹川は、巣鴨プリズンのことを「人生最高の大学」と評して、「ここは娑婆の
20倍、30倍勉強になる」と語った。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA
級戦犯達を励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大
な人望があったという。
後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採
用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波
書店も筆者を漏らさなかった為、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。
加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面識があった)。
[戦犯者救済活動]
笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求
めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、酒も煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者
の慰霊に奔走した。海外で収監されていた戦犯者や「三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊の
為に設立された宗教法人白蓮社、および家族会である白菊遺族会にも物心両面の協力を続けたとされる。
戦犯者とその家族を支援することは、当時としては連合国軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する
人間はほとんどいなかった。笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一
切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は伊藤隆編集の元に『戦犯者を救え 笹川良一と東京裁判2』 として
刊行された。
[反共産主義の活動](蒋介石と妻の宋美齢)
笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていたが、終戦直前に参戦し日本人捕虜をシベリア
に連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。
1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、現在のアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組
織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を中華民国総統の蒋介石らと共に設立した。
統一教会とはある時期まで協力関係にあり1963年(昭和38年)には統一教会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6/4
の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一教会が1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、
結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪化した為か、
1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。
笹川は反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り「政界の黒幕」として影響力を及ぼしたと見られているが、
戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とする事は無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達で
きた事に加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた。
[中国との関係]
中国国民党の蒋介石と世界反共連盟を設立するなど反共の立場を取ったにも関わらず、1972年(昭和47年)9月の日中
国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国国民党と対立する中国共産党が支配する中華人民共和国への支援に
回すなどしている。1987年(昭和62年)から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェ
クトで来日した中華人民共和国の医学生は延べ2000人を超える。同時に中国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した。
[タブーと親交]
1960年代から1990年代の各週刊誌などで批判的言説を受けていたにもかかわらず、笹川に批判的な左翼マスコミからは
生前「新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表する事は、
ある種のタブーとなっていた。と言われてきた。しかし、笹川は有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、
との例えどおり、実力の上において、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモ
チの方が強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。
しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのある事だった。
戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」「政界の黒幕」「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、
マイナス・イメージを持っていた為、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。
なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代になっている。また、
山口組三代目・田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。ロッキード事件が騒がれるとロ
ッキード副社長と会った事実などが明らかになるが、笹川は「会ったことがあるが疑惑はない」と反論し、実際にそれ以
上の追及はされていない。国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。
世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはアメリカの元大統領ジミー・カーター、
実業家ジョン・ロックフェラー等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』「解説」に詳しい。


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児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年(明治44年)2月18日 - 1984年(昭和59年)1月17日は、日本の右翼運動家。
CIAエージェントであったという。暴力団・錦政会顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した。
三男はTBSサービス社長の児玉守弘 戦後の日本・欧州の視点 No.3-1 児玉機関と笹川良一YouTube
戦後の日本・欧州の視点 No.3-2 児玉機関と笹川良一YouTube
最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏と津久井龍雄ら
高畠素之門下によって創設された急進的な右翼団体「建国会」(会長は上杉慎吉、顧問に頭山)に加わった。
すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。
その後、建国会を脱退した津久井の急進愛国党を経て1931年に津久井と狩野敏が作った全日本愛国者共同闘争協議会
に参加。そこで国会ビラ撒き事件や井上準之助蔵相脅迫事件を起こし投獄された。
1932年に釈放され、満州に渡り、大川周明門下の笠木良明ら率いる大雄峯会に参加。同年、帰国すると「独立青年社」
を設立。頭山満の三男頭山秀三が主宰する天行会と共に、陸軍特別大演習に随行する斎藤首相や閣僚を暗殺し発電所を
破壊して停電を起こすことで皇道派のクーデターを誘発しようと計画(天行会・独立青年者事件)。
発覚して、3年半の懲役刑を受けた。その後、笹川良一が結成した右翼団体·国粋大衆党に参加。
1937年外務省情報部長河相達夫の知遇を得て中国各地を視察。1938年海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関
を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。
60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の1人
であった。1961年この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。
60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。
1967年7月笹川良一の肝煎りで、「第1回アジア反共連盟」結成準備会」が開催された。
この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
1969年青思研より独立した右翼団体日本青年社が結成。これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。
[児玉機関]
1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川の紹介で採用され海軍航空本部の嘱託となった。
ここで源田実と知り合い、戦後に源田が児玉に瀬島龍三を紹介した。
1941年真珠湾攻撃直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将
(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。この縁で上海に児玉機関と呼ばれる店を出した。
これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約を
もらっていた。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言
われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、
秘密兵器工場も運営。戦略物資、とくにタングステンを得るため、日本のヘロインを売っていた。
児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されると
いう結果となった。この間1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京
5区から立候補をして8位落選をしている。
[逆コース](戦犯として収容時のマグショット)
終戦後、講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となって
いた。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、ジャパン・ロビーの暗躍によ
り右翼をパージするSCAPの方針が批判され、アメリカの占領政策は協力的な戦犯を反共のために利用する「逆コース」
を走る様になった。1948年12月24日に釈放されるが、そこでCIAに協力するようになったかが今でも議論されている。
確かなのは、拘留中に昭和通商との関係を暴かれていた事と、釈放後も続く調査で吉田彦太郎が児玉機関の所有した国
内鉱山を明らかにしている事、そして後にCIAが、児玉を反共思想・軍閥構想の持ち主であると分析している事である。
「フィクサー」へ(児玉邸にて政治家たちと密談1953年)
児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた。
児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を鳩山ブランド
の日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。
1950年北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を
築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次
が大きな役割を果たすことになる。
[岸信介]
1954年には、河野一郎を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党に
なった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。
岸信介が首相になる際にもその力を行使した。岸首相の第1次FX問題問題をめぐる汚職を社会党の今澄勇が追及していた
時は、等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし今澄が聞き入れない為、身上調書
を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。
児玉は東京スポーツを所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。
それらに書き立てられることは脅威となった。
[ドワイト・D・アイゼンハワー]
日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡
す誓約をした。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。
改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸信介首相は自民党の木村篤太郎らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉は
その世話役も務めた。
1962年(昭和37年)夏頃から「(安保闘争のような)一朝有事に備えて、全国博徒の親睦と大同団結のもとに、反共の
防波堤となる強固な組織を作る」という構想の元、児玉誉士夫は東亜同友会の結成を試みた。結局結成されなかった。
しかし、錦政会・稲川裕芳会長、北星会・岡村吾一会長、東声会・町井久之会長らの同意を取り付けていた。
昭和38年(1963年)には、関東と関西の暴力団の手打ちを進め、三代目山口組・田岡一雄組長と町井会長との「兄弟盃」
を実現させた。
[フィクサー]
児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると
韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉誉士夫もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企
業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。児玉だけではない。元満州国軍将校、後に韓国大統領となる朴正煕とは満州
人脈が形成され、岸信介、椎名悦三郎らの政治家や元大本営参謀で商社役員の瀬島龍三が日韓協力委員会まで作って韓国
利権に走った。日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。
1972年河本敏夫率いる三光汽船はジャパンラインの乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンライ
ンの土屋研一は児玉に事件の解決を依頼した。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。
そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。
児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。こうして児玉の支配下に収まったジャパンラインは、昭和石
油の子会社だった日本精蝋を1974年夏に買収した。
児玉が圧力をかけるときは今澄のときのように傘下のメディアを駆使した。利用された大手メディアに博報堂がある。
その中に児玉は次の二つの目的を持ったセクションを作った。一つは博報堂の取引先を児玉系列に組み込む。もう一つは、
その系列化された企業に持ち込まれるクレームを利用してマスコミを操作し、靡かないメディアには広告依頼を回さない。
このセクションは広告会社として品位に欠けた。そこで、当時の博報堂の持ち株会社であった伸和の商号を、1975年博
報堂コンサルタントへ変えて、また、定款にも「企業経営ならびに人事に関するコンサルタント業務」の項目を加えて、
この元親会社に業務を請け負わせた。役員は広田隆一郎社長の他に、町田欣一、山本弁介、太刀川恒夫が重役として名を
連ねた。広田は、福井純一(博報堂社長)の大学時代ラグビー関係者で、警視庁が関西系暴力団の準構成員としてマークし
ていた人物。町田は、元警察庁刑事部主幹。山本は元NHK政治部記者。太刀川は塚本素山ビルの等々力産業社長で児玉
側近の第一人者であった。
[ロッキード事件]
児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104“スターファイター”
戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党の大野伴睦、河野一郎、岸信介らであった
1960年代末の契約が更新され、韓国も含まれるようになった。
児玉は親しい仲にあった韓国の朴政権にロッキード社のジェット戦闘機を選定するよう働きかけていたのである。
韓国に対する影響力の大きさが窺える。
しかしこの頃、大野も河野も死亡しており、新しい総理大臣の佐藤栄作や田中角栄にはあまり影響力をもっていなかった。
そこで児玉は田中との共通の友人、小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空や全日本空輸の大株主でもあり、
ロッキード社製のジェット旅客機の売り込みでも影響力を発揮したが、既に日本航空はマクドネル・ダグラス社製DC-10
型機の購入を決定していた事もあり、その矛先を全日空に向けた。
この頃深い関係を作り上げていた田中角栄が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、全日空は既に
決定していたマクドネル・ダグラスDC-10の購入計画を、後に贈賄で逮捕される元運輸次官の若狭得治社長の指示で破棄
し、ロッキード社のL-1011トライスターの購入を決定。その後全日空は同機種を21機購入し、この結果ロッキード社の
日本での売上は拡大した。更に全日空は、ロッキードから得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚
への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及される事となった。
[ロッキード裁判]
しかし1976年(昭和51年)アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が日本の超国家主義者を秘密代理人とし
て雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。その後三木武夫首相によってこの事
件の捜査が開始され、既にこの事件の中心人物と目されていた65歳の児玉は衆議院での証人喚問が行われる直前に「発作」
を起こし、床についた。しかし間もなく児玉は脱税と外為法違反で起訴され、裁判に臨む事になった。1977年(昭和52年)
6月に一度公判に出廷した後は病気と称して自宅を離れなかった。
元総理の田中角栄は収賄容疑で逮捕され1983年(昭和58年)10月に有罪判決が出された。
児玉は死期が近づいた時、「自分はCIAの対日工作員であった」と告白している。
72歳の児玉は判決が出る直前の1984年(昭和59年)1月に再び発作を起こして没した。


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瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - 2007年9月4日)は、日本の陸軍軍人、実業家。
大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長、中曽根康弘元首相の顧問など多くの要職
に就任し、政治経済界に大きな影響力を持ち、「昭和の参謀」と呼ばれた。号は「立峰」。
義父は岡田政権で内閣総理大臣筆頭秘書官を務めた松尾伝蔵(陸軍大佐)である。

1911年12月9日、富山県西砺波郡松沢村鷲島(現在の小矢部市鷲島)の農家で村長の瀬島龍太郎の三男として生まれた。
旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、1932年に陸軍士官学校(第44期)を次席(首席は原四郎)で卒業、昭和天
皇から恩賜の銀時計を受けた。その後、富山歩兵第35連隊附の歩兵将校として従軍。その後は師団長の推薦により陸軍大
学校(第51期)に入学、1938年12月8日に首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を受けた。
御前講演のテーマは「日本武将ノ統帥ニ就テ」。
その後、1939年1月15日に関東軍隷下の第4師団参謀として満州へ赴任し、同年5月15日には第5軍(司令官・土肥原賢二
陸軍中将)参謀となり、同年11月22日に大本営陸軍部幕僚附関東軍参謀本部部員となる。
翌1940年には、大本営陸軍部作戦課に配属される。なお、この関東軍参謀時代に瀬島は対ソ示威演習である関東軍特種演
習(関特演)の作戦担当として作戦立案にあたった。
[太平洋戦争時]
1941年7月に大本営陸軍部第1部第2課作戦班班長補佐となる。同年12月8日の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦以降、陸軍
の主要な軍事作戦を作戦参謀として指導した。主任として担当した物を含めて、主な物は南方作戦におけるマレー作戦(E
作戦)・フィリピン作戦(M作戦)、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作
戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦等であった。瀬島は特攻作戦である菊水作戦時、第6航空軍の作戦参謀として南九州
の陸軍基地で勤務した。1944年12月、単独でモスクワに2週間出張した。
1945年1月島村矩康陸軍大佐/連合艦隊常勤参謀が戦死、その後任に瀬島が選ばれた。2/25海軍の連合艦隊参謀兼務とな
り、最終階級は陸軍中佐となった。6月末まで同僚の千早正隆海軍参謀と共に本土決戦準備の為日本各地を調査している。
特に、高知県沿岸を決号作戦における米軍の上陸予想地点として、第55軍の作戦指導に熱心に取り組んだ。
瀬島は迫水久常(鈴木貫太郎内閣内閣書記官長)と親戚であることを千早に打ち明け、迫水を通じて鈴木貫太郎首相に戦
局の実情を訴えたという。
※1945年7月1日関東軍作戦参謀に任命され満州へ赴任。同年8/15日本の降伏後の8/19ジャリコーウォでソ連軍と停戦交
渉を行う。日本側の参加者は、関東軍参謀長秦彦三郎、瀬島作戦主任(中佐)、在ハルビン日本総領事宮川舩夫、ソ連側の
参加者は、極東ソビエト赤軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥、第1極東方面軍司令官キリル・メレツコフ
元帥、同軍司令部軍事会議委員シュチコフ大将であった。この時、瀬島は軍使として同地を訪れた為、内地に帰還する事
は可能であったが、同年9/5関東軍総司令官山田乙三陸軍大将や総参謀長秦彦三郎陸軍中将らとともに捕虜となった。
この交渉の際、日本人労力提供について密約が交わされたという説が刊行されたが、瀬島は否定している。
[シベリア抑留]
その後、瀬島はソ連のシベリアへ11年間抑留される事となる。この時、本来捕虜としての労働の義務のない将校であるに
もかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられた。後にこの時のことを諧謔として「佐官が左官になった」
と述懐している。
[東京裁判証人として一時出廷]
この間、連合国側から極東国際軍事裁判に証人として出廷することを命じられ、1946年9月17日に草場辰巳・松村知勝と
共にウラジオストクから空路東京へ護送され、訴追側証人として出廷した。ソ連側より日本への帰還の取引条件として極
東国際軍事裁判で昭和天皇の戦争責任を証言するように求められるが断固拒否する。
更にソ連側は瀬島らに自分らの主張に沿った証言をさせようと家族との面会の話を持ち出したが瀬島はこれも断ったがソ
連は家族の所在を突き止め強制的に面会を強要した。
なお出廷に当たって瀬島は草場辰巳陸軍中将(関東軍鉄道司令官)、松村知勝陸軍少将(総参謀副長)と供述内容につい
て事前に打ち合わせを行っている。その内容の例としては、ソ連側は1943年(昭和18年)以前の関東軍の攻勢作戦計画
に日本の侵略意図があると解釈したが、作戦計画は有事の際の用兵作戦計画に過ぎず、天皇が関わる政策決定とは全く異
なるという説明があり、その旨実際に証言を行っている。
裁判後シベリアに戻され昭和30年代に入るまで抑留生活を余儀なくされた。抑留中ソ連側の日本人捕虜に対する不当な扱
いに対しては身を挺して抗議をしたため自身も危険な立場に立たされる事もあった。1947年末から1950年4月までの間
どこの収容所にいたかを語っておらずモンゴルのウランバートルにあった。第7006俘虜収容所に、朝枝繁春、種村佐孝、
志位正二らとともに収容されていたと見られている。
[伊藤忠商事時代]
1956年、シベリア抑留から帰還した。アメリカは日本の警察などに依嘱して、舞鶴港で1週間にわたり拘禁尋問した。
設立直後の自衛隊に入るよう原四郎から再三の誘いを受けたが、瀬島の長女が反対したため断念した。
瀬島はシベリアからの復員兵の就職斡旋に奔走し、1958年に伊藤忠商事に入社する。1960年、伊藤忠商事航空機部長。
入社3年目の1961年には業務本部長に抜擢され、翌1962年に取締役業務本部長、半年後に常務となる。その後も、同社
がかかわる様々な案件で重要な役割を果たし、1968年に専務、1972年副社長、1977年副会長と昇進し、1978年には会
長に就任した。1981年相談役、1987年に特別顧問に就く。
この間、防衛庁防衛研究所の戦史叢書「大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯」の執筆協力、1972年11月にはハーバード
大学ジョン・F・ケネディー・スクール・オブ・ガバメントにて「1930年代より大東亜戦争までの間、日本が歩んだ途の
回顧」という講演を行った。田中角栄とは田中が1971年第3次佐藤栄作内閣時代の通産大臣だった時知り合ったとされる。
児玉誉士夫は源田実に紹介され知り合ったと言われる。
実権のない伊藤忠会長だった1978年、永野重雄日本商工会議所会頭に請われ、日本商工会議所特別顧問、東京商工会議所
副会頭に抜擢される。瀬島はそれまで財界活動はしていなかったが、以後、財界活動を活発に行う様になり、永野の参謀
として太平洋経済協力委員会やASEANの民間経済会議などに出席した。1981年永野や鈴木善幸首相、宮澤喜一、福田赳夫
田中角栄らの推薦、或いは永野と中曽根康弘行政管理庁長官から依頼を受け、第2次臨時行政調査会(土光臨調)委員に就く
土光敏夫会長のもとで参謀役として働き「臨調の官房長官」と称され、中曽根政権(1982年〜1987年)のブレーンとして、
政財界に影響力を持つようになった。また、大韓民国の軍事政権の全斗煥や盧泰愚等とは、両名と士官学校で同期の権翊鉉
(クォン・イクヒョン권익현)を通じて彼等が若手将校時代から親しく、金大中事件、光州事件等内外の事情で日韓関係が悪
化していた1980年代初頭の時期に、戦後初の公式訪問となった中曽根首相の訪韓実現や全斗煥大統領の来日や昭和天皇と
の会見の実現の裏舞台で奔走し、日韓関係の改善に動いた。
ソウル五輪開催の際にも影響力を行使し、当時有力視されていた名古屋市の招致に本腰を入れないよう要請していたとする
説が複数の書籍で唱えられている。
1984年に勲一等瑞宝章を受章。他にも亜細亜大学理事長、財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長、財団法人太平洋戦争
戦没者慰霊協会名誉会長などの公職を歴任した。2000年に伊藤忠商事特別顧問を退任。
2007年(平成19年)春、入院中の瀬島は同台経済懇話会常任幹事野地二見に「安倍首相の『美しい国』づくりという提唱は
とても良いことだと思っている。しかし具体的な政策を出さないと国民がついて行けない。ここで同台としての最後の御奉
公として、骨太な柱となる具体的な提案をしたらどうだろう。皆の知識と経験を集結して、国民に判り易く、そして国際的
にも日本の姿勢がアピール出来るようなテーマを考えてみたらどうか」と言った。
こうして平成19年5月30日、同台経済懇話会会長として瀬島龍三は安倍首相に提出した提案書のなかで美しい国づくりの大
テーマとして近未来を見据えた地球温暖化対策、クリーンエネルギーの増加、豊かな良い水を護ることを提案した。
クリーンエネルギー提案書では、10年間で風力と太陽光で電力の30%を達成するために、風力とソーラーの統合発電機構
を作り、関係産業各社と電力会社の協力を推進する事、太陽光ケーブルの大々的利用(重層利用、地下発電も可能となる)
ソーラー関係機器商品の開発奨励などを提案、森と水資源に関する提案書では、特に定年を迎えた元気なシルバー世代への
啓発事業、保水と空気清浄の源となる里山の増加育成、湖沼・ダム・湾などの新しい装置・技術を活用した浄水事業を、
山本卓眞(富士通名誉会長)、山口信夫(旭化成会長)、下山敏郎(オリンパス最高顧問)、小長啓一(前アラビア石油会長)、
中條高徳(アサヒビール特別顧問)、野地二見(元産経新聞取締役)、秋山智英(元林野庁長官)、
鈴木正次(元日本弁理士協会会長)、南崎邦夫(石川島播磨重工副社長)、小野寺俊一(元港湾協会会長)、
小野重典(フジタ最高顧問)、植之原道行(元NEC副社長)、岸国平(農業研究センター所長)らと連名で提出した。
6月21日妻の清子が老衰で90歳にて死去。3ヶ月足らず後の9/4妻を追う様に老衰の為、東京都調布市の私邸において95歳
にて死去。死後、従三位が贈られた。同年10月17日築地本願寺において、伊藤忠商事と亜細亜学園主催による合同葬が執
り行われた。

※上記全てウイキペディアより



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 2016_04_23

Comments

評価の定まらない人ばかり 

色々な評価、見方が分かれる人、但し戦後も活動した人、本で読んだ人ばかりです、シベリアは酷い事ばかり、強制労働ばかりでなく、共産主義教育が今の日本に多大な影響をもたらしている事実、現在の政権にも影響の有る人達ですね、有難う御座います。
Tony  URL   2016-04-23 08:36  

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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