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テニアン島

Category: テニアン島   Tags: テニアン島  

日本統治時代があった島、テニアン島。約3500年前、マリアナ諸島の原住民は東南アジアから到達した。
彼等はチャモロと呼ばれる独自の民族となり、独自の文化を育て、原始的な生活していた。
スペイン統治時代にはテニアン島を制圧したスペイン政府に反抗したチャモロ人を虐殺・制圧し、チャモロ人
をグアム島に移した為、17世紀以降約200年間は無人島だった。

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▲▼テニアン島へはサイパン島からスターマリアナスエアを使い約10分程、チェロキー機の乗り味は最高だ。
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▼サイパン国際空港を離陸する。テニアン島までの直線距離は約5㎞だ。
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▼テニアン国際空港を機内より撮影。かつては日本軍カヒット飛行場だった。テニアン島の戦い後、米軍によって拡張
 され、昭和20年(1945)3月ウエスト・フィールド飛行場と命名される。戦後テニアン国際空港となった。

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▼サイパン島を離陸して約10分、テニアン国際空港に着陸態勢。
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▼テニアン国際空港に到着。
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▼テニアン空港はローカルな雰囲気漂う小さな空港。
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▲テニアン島民の75%が失業状態と言うが、新し目の車はチョクチョク見かける。
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明治32年(1899)マリアナ諸島をドイツがスペインから買い取り、第1次世界大戦後に敗北したドイツから日本
の委任統治領となった後は、内南洋の委任統治施政官庁として大正11年(1922)に「南洋庁」が開設され、テ
ニアン島にはサイパン支庁・テニアン出張所が設けられた。
サイパン島では後に「シュガー・キング」として知られる松江春次が大正10年に南洋興発株式会社(NKK)を設
立。日本統治時代のサイパン島/テニアン島/ロタ島における製糖産業の開発で1番知られている。

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 ▲南洋の島に理想郷の実現を夢見た会津人、松江春次(福島県出身)
 サイパン島での製糖工場が軌道にのると松江春次は、すぐさまテニアン島の開拓に着手。昭和5年テニアン
 製糖工場が完成し、南洋興発の製糖業はさらなる飛躍を遂げていく。開拓者、実業家、技術者としての3者
 を兼備えた松江春次は時間を見つけては農場や工場の視察に出かけたと言う。
 製糖会社としてスタートした南洋興発はロタ島やパラオなどの南洋群島、更にニューギニアやインドシナ等
 の外領地に事業を展開。内容は水産、繊維、貿易、交通運輸、土木など広範囲に及び、当時満州で隆盛を誇
 った南満州鉄道と並び “北の満鉄、南の南興”と呼ばれるようになる。
 しかし昭和15年65歳の松江春次は突然、脳溢血に倒れ、これを理由に社長を辞任、一線を退く。
 更に南洋開拓にかけた松江春次の夢が、打ち砕かれる時が近づいていた。
 留学の際に強大なアメリカの国力を肌で感じた松江は「日本が戦争に勝つことは不可能!平和的な解決の道
 を探るべきだ」それが松江春次の持論だった。
 昭和14年8月松江春次は、もとより親交のあった連合艦隊司令長官、山本五十六を東京駅で見送っている。
 松江は非開戦派だった山本に頭を下げこう告げた「米英との戦争回避に向けてこの上ないご尽力を願いたい」
 しかし、2年後の昭和16年ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争勃発。
 宣戦布告が遅れたいきさつを聞いた松江は『駐米大使は切腹ものだ』と激怒した。
 更に松江は、サイパン島/テニアン島が激戦の場になることを想定していた。 
 当時、会長として経営の一線を退いていた松江だったが、南洋群島にいる社員、農業従事者らの安全を最優
 先に考え、本土への引き上げを主張、役員会は紛糾した。
 昭和19年海軍司令部は南洋興発に軍への全面協力を命じる。製糖工場は全て操業を中止。成人男子、日本人
 児童や公学校に通うチャモロ・カナカ人の生徒までもが飛行場の建設に駆り出された。
 昭和19年6月11日アメリカ軍によるサイパン攻撃が始まり、およそ6万発の砲弾が打ち込まれたサイパン島。
 数日間に及ぶ戦闘機による空襲と戦艦からの艦砲射撃に続いて海兵隊が上陸、松江の理想郷が地獄と化した。
 戦後、南洋興発は軍との協力関係を理由にGHQから閉鎖命令を受け松江春次は公職追放令の指定を受ける。
 こうして南洋興発株式会社(NKK)は消滅した。
 戦後、松江は再起をかけフィリピンを拠点とする南洋漁業の事業計画を進めた。
 しかしアメリカのビキニ環礁水爆実験の為断念。
 戊辰戦争で辛酸を舐めた会津藩士の子に生まれた松江の人生には暗い戦争の影が付きまとっていた。
 松江春次を支え続けた妻・「ふみ」は戦争中に病死、長男・一郎は出兵した南方ニューギニアで戦死した。
 昭和29年11月29日脳溢血により死去、享年78歳 命日は奇しくも33年前の南洋興発創立と同じ日だった。
 床の間に飾られた掛け軸には「人間生来無一物」“人間は裸で生まれ、裸で死んでいく“と書かれていた。

植民地行政政府(南洋庁、所在地はパラオ諸島コロール)からの実質的支援そして東洋拓殖株式会社からは資金
提供を受け砂糖キビ畑/製糖工場を運営し、沖縄出身者(移住者の60%)や朝鮮人の移住を援助し、成功した。
南洋興発株式会社(NKK)は「海の満鉄」とも言われ、国家的使命を持った会社だった。
テニアン島には南洋興発株式会社(NKK)の2つの製糖工場(東洋第2の規模)や、酒精工場、農園などがあり、
島内は見渡す限りのサトウキビ畑になっていた。南洋興発株式会社(NKK)が巨大化すると共に、社員や小作人
作業員も数を増し、南洋興発株式会社(NKK)関係者を相手にする商店・料亭・遊廓なども集まり、テニアン島
は活況を呈した。米軍上陸時、同島には朝鮮人2700人、日本人13500人、チャモロ人26人が暮らしていた。
(戦争が激化し、テニアン島の戦いの前に日本人2000名程は疎開船に乗り、日本本土に避難していた)
▼日本時代、活気を呈していた頃のテニアン市街

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▼日本時代のテニアン町スズラン通り
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▲▼テニアン島サン・ホセ市街(旧テニアン町)に今も残る南洋興発株式会社(NKK)工事事務所跡
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昭和5年(1930)この場所一帯に1日1200tの生産能力を持つ「南洋興発テニアン精糖工場」が建設された。この周辺
には関連の施設・設備や、工場従業員の社宅が整備された。工事事務所付近には「糖度分析所」があった。

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▼日米開戦前のテニアン島南洋興発株式会社(NKK)製糖工場
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▼テニアン島・サンハロム湾直ぐ、テニアン町にあった南洋興発株式会社(NKK)製糖工場
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▼日の出神社跡
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▼入り口の鳥居には「昭和十六年一月十日」とはっきり読み取れる
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▼2018年10月24日夜にテニアン島を襲った台風26号で倒壊した日の出神社の鳥居。戦後73年耐えた鳥居が・・・。
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▼激戦後の日の出神社
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▼2つ目の鳥居は戦いの激しさを物語っていた・・・。
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▼日の出神社から徒歩3分、沖縄から移住してきた方が暮らしていた南洋興発社員寮跡があった。
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▼テニアン尋常小学校跡
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▼住吉神社跡。状態は良く、かつてサトウキビの豊作を祈って通ったであろう日本人・朝鮮人の事を想った。
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激しい戦いの果てにも、鳥居がしっかり残っておりその姿に驚かされる。この辺りの広場に負傷した兵士や最後の突撃
に行く兵士達が集められた。しかしその場所がアメリカ軍に知られ、多くの兵士が爆撃で死亡したと言われている。

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▼お参りして元来た道を戻る、南国の島の日陰は涼しくて気持ちが良い。
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太平洋戦争時、テニアン島の戦略的価値を見出した日本海軍は1939年から12000の囚人を使って飛行場を建設。
当時南洋最大と言われたハゴイ飛行場が完成する。
▼空襲前のテニアン島北部ハゴイ飛行場(牛飛行場)

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▼日本軍通信局跡
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▼日本軍通信所跡は中に入る事が出来る。戦い後は日本兵捕虜収容所として30名程が収容された。
 戦後は牛の屠殺場・冷凍庫として使用されていたとの事。

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▼戦い終決直後の日本軍通信局
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▼テニアン島北部に残る角田覚治中将指揮下第1航空艦隊司令部跡。
 ※現在は侵入が禁止されている。ガイドさんは大きなハチの巣があるからと言っていたが崩壊の危険性だろう。

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昭和19年(1944)2月、角田覚治中将はテニアン島へ着任し第1航空艦隊司令長官に就任。マリアナ沖海戦(あ号作戦)
を支援する事になる。テニアン島に着任した角田覚治中将は島の防御施設の貧弱さに激怒したと言う。
「いったい大本営はこの1年間何をしてきたんだ!」と。
この頃、クエゼリン、ルオット島(マーシャル諸島)日本軍守備隊は玉砕。トラック島が奇襲攻撃を受けていた。
角田覚治中将指揮下第1航空艦隊は、連合艦隊からの要請によりパラオ支援で航空機の損失を負い、南方へ航空隊
を送り込みながらもグアム島やテニアン島は米軍の攻撃を受ける。
昭和19年(1944)6月11日~13日マリアナ諸島に米海軍機動部隊が来襲、第1航空艦隊とハゴイ飛行場(牛飛行場)は激
しい空襲を受けた。15日、米軍はサイパン島へ上陸。続く19日~20日第一航空艦隊の残存航空機は「マリアナ沖海戦」
に呼応して出撃するも、殆ど戦果を挙げられないままに壊滅した。
角田覚治中将を部下はこう語っている。
「長官は一口で言えば上杉謙信の様な人だ。黙っているが、いざとなると大将自ら単騎敵の本陣に斬り込む猛将だよ」
見敵必戦、米軍がサイパン島に上陸を開始した6/11、日本海軍索敵機が3群に分かれる米機動部隊を捉える。
参謀達が角田覚治中将に必死に航空機温存を唱える中、角田中将は参謀長の三和義勇大佐を呼んでこう言った。
「参謀長、一航艦の各基地に電令を打とう。全機発進、敵機動部隊を攻撃せよ。だ!」と。
連合艦隊の指揮下にある第一航空艦隊は、連合艦隊の指令に無い事を命令出来ない。三和大佐は躊躇するが・・・。
更に角田中将は付け加える。
「かまわん。命令違反であろうと抗命の罪はこの角田が負う。いずれテニアンもサイパンと同じ運命を迎えるだろう。こ
のまま待機して戦闘もせず、敵の餌食になれというのか!」
そして、残存航空戦力の125機全機を発進させ、2群の敵を攻撃するも、敵1群がテニアン島を攻撃。
日本軍攻撃隊はグラマンの大編隊とVT信管などの新兵器によりことごとく撃墜され、テニアンの航空戦力は灰燼に帰し
てしまい、テニアン島の日本軍施設もことごとく破壊された。
しかし、軍法会議覚悟での連合艦隊の命令を待たずしての独断全機発進命令は、角田中将の闘将ぶりを表している。
1機の航空戦力もなくなってしまった総軍8500名は敵の上陸に備え防御作りに追われた。
日本人民間人は13500人程おり、ほとんどは南洋興発の社員だった。民間人は昼夜を問わず野戦陣地の構築に協力した。
角田覚治中将は「ありがとう。皆さんは民間人ですから、軍人の様に玉砕しなくともいいのですよ」と笑顔で最後の挨拶
をして回ったと言う。
昭和19年7月24日、圧倒的大戦力で米軍がテニアン島に上陸。その兵力は海兵隊2個師団54000人。
対する日本軍は緒方敬志大佐の第29師団第50連隊と第43師団第135連隊第1大隊と海軍部隊約8111人。
[ 陸軍4001名 ]
松本歩兵第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐以下2824名) 
歩兵第135連隊第1大隊(和泉文三大尉以下950名)/第18連隊戦車隊8両(鹿村一男中尉以下64名)
第31軍築城班(比留間正司大尉以下60名)/独立自動車第264中隊第3小隊63名
第29師団野戦病院(稲田壽郎軍医中佐以下40名)
[ 海軍4110名 ]
第56警備隊(大家吾一大佐以下950名)/第82防空隊(田中吉太郎中尉以下200名)
第83防空隊(田中明喜中尉以下250名)/第233設営隊(林邦夫 技少佐以下600名)
第1航空艦隊司令部(角田覚治中将以下200名)/航空隊640名零式輸送機36機、航空機561機
以下昭和19年(1944)6月初旬時点の海軍航空隊内訳
第121航空隊「雉部隊」岩男正次中佐以下 彩雲艦上偵察機36機 艦爆2機
第261航空隊「虎部隊」零戦54機/第263航空隊「豹部隊」零戦64機
第321航空隊「鵄部隊」久保徳太郎中佐以下 夜間戦闘機月光54機/第341航空隊「鵬部隊」銀河54機
第343航空隊「隼部隊」竹中正雄中佐以下 零戦54機/第521航空隊「獅子部隊」紫電54機
第523航空隊「鷹部隊」和田鉄二郎中佐以下 彗星72機/第761航空隊「龍部隊」松本真実中佐以下一式陸攻72機
第1021航空隊「鳩部隊」一式陸攻2機 ダグラス輸送機6機/第19魚雷調整班/航空部隊通過者200名
第23航空戦隊関係450名/設営隊800名
陸海軍合計8111名

▼この第1航空艦隊司令部の2階で、12名の日本軍将校が自決したという。

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▼激戦後の海軍ハゴイ飛行場(牛飛行場)格納庫(米軍の飛行場拡張工事に伴い取り壊され現存しない)[米軍撮影]
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▲▼ハゴイ飛行場にのこされた使用不能になった海軍121空の「彩雲」偵察機
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▼激戦後の日本海軍ハゴイ飛行場(牛飛行場)格納庫付近。奥に司令部らしき建物が写っている(米軍撮影)
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▼日本軍海軍発電所跡
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▼昭和19年6月11月~13日の米海軍機による空襲と艦砲射撃を受けた大穴が開いている。
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▼激戦後当時の日本軍海軍発電所(米軍撮影)
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▼ディーゼル燃料タンク室跡(中には小型重油タンクが2基あり、まだ油臭い匂いが充満していた)
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▼日本軍海軍燃料庫跡の看板が見えたら右へ進む。左は弾薬庫跡があるが不発弾が多い為進入禁止。
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▼ジャングルに還りかけている道(元々谷だった天然の地形)を進む。
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▼日本軍海軍燃料庫跡が見えてきた、天然の地形を利用して建設されている。
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▼戦いの中で火災が発生し、三日三晩燃え続けたと言う。
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▼駐機場跡に残る日本軍海軍防空壕跡
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▼激戦当時の日本海軍防空壕。現在は2基現存しているが、4基~5基あった様だ。
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▼激戦当時の駐機場付近。現存する2基の日本海軍防空壕が写っている。[米軍撮影]
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▼日本海軍飛行場指揮所跡
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▼テニアン島の戦い終結後米軍はそのまま活用した。
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▼指揮所跡より駐機場、防空壕跡を望む
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そして戦争が勃発し、ギルバート諸島、マーシャル諸島を攻略した米軍は日本本土爆撃、及び内南洋における日本軍の
海上、航空兵站線を攻撃する基地を確保すべく、昭和19年(1944)6月マリアナ諸島攻略計画を発動させた。
一方、日本軍は同島のハゴイ飛行場を航空基地として使用していたが、陸上兵力が少なかった為、満州「遼陽」から陸
軍松本歩兵第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐/[第1大隊]松田和夫大尉/[第2大隊]神山新七大尉
[第3大隊]山本好江大尉/[山砲大隊]甲斐克己少佐)を移駐させた。
他、工兵中隊(325連隊第2中隊) 矢野忠一中尉/[補給中隊]野崎健司中尉などがテニアン島の守備に就いた。

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▲▼昭和19年7月ハゴイ飛行場を空爆する米軍機
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昭和19年6月から米軍の空襲が連日行われていた。523空(鷹部)隊の機関科員の植田常明1等機関兵は、昭和19年2月
末~3月初旬テニアン島に上陸、ソンソンの国民学校を宿舎とし、後にカーヒー第2飛行場へ機関科の任務に就く。
19年4月~米軍機のテニアン島へ対する(飛行場に対する空襲)が激しく、日本軍もテニアン全島の対空砲十二糎高角砲
及び二連装高射機関銃が応戦。勇ましく突っ込んで来る米機グラマンに命中し、搭乗員の米空軍中尉か大尉が主翼を吹
き飛ばされ、キビ畑に墜落寸前落下傘にて降下、付近の日本海軍に包囲され、日本空軍部隊の指揮所に連行されて尋問
されたが、米将校は「アメリカは必ず勝つ」と言い、米機動部隊の様子等を頑として口を割らず、夜間の小屋にて見張
りの日本兵の隙を見て首を吊り自決をしてしまった事があった。
米空軍パイロットにも筋金入りのアメリカ魂の持ち主も多勢居たのだ。遺体は植田氏や他の航空隊員により埋葬された。

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6月19日、20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊を撃退した米軍は7月8日、サイパン島の攻略を完了、それに続いて
グアム島、テニアン島の攻略を開始した。昭和19年(1944)7月24日早朝、米軍は第2海兵師団の上陸用舟艇100隻以
上を島の南西部、テニアン港前方に一斉に前進させた。
しかし、米軍上陸部隊が海岸から200m程に接近した瞬間、一斉に日本軍重砲が攻撃を開始。米軍を撃退した。
砲台長(小川和吉海軍大尉)以下70人の将兵がテニアン島に押し寄せる米艦艇を迎え撃った。

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▲現在も残る「小川砲台」に着いた。「テニアンビーチ」の丘、写真中央のこんもりした丘の中腹に砲台はあった。
 当時も草木で偽装され、上空や海上からは容易に発見できなかった言う。(ペペノゴル砲台跡)

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▲テニアン島の戦跡には説明書のプレートがあるが、鉄・銅高騰の際に所々プレートが盗まれたらしく、ここは
 台座だけだった・・・。中国人による落書き、いたずらも多く、テニアン市長は、歴史のある観光ポイントは
 出来るだけ綺麗に整備しておきたいと綺麗にされているのに非常に残念である。

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▲テニアン攻防戦の際、この砲台(安式40口径6インチ砲(15.2センチ)は必死に抵抗、米艦を大破させたと言う。
 昭和19年(1944)3月テニアン島に海軍第56警備隊が上陸し、直ちに沿岸砲台構築が開始された。
 テニアン港を望むテニアンビーチの丘には小川和吉海軍大尉の指揮する小川砲台(ペペノゴル砲台)が構築された。
 「小川砲台」には「安式四十口径六吋砲」3門が配備され、小川砲台長以下70名が配置についた。
 「安式四十口径六吋砲」は旧式の艦載砲であったが陸上の沿岸砲として転用されていた。
 昭和19年(1944)3月「安式四十口径六吋砲」6門が「テニアン港」に揚陸され、砲台まで輸送が開始された。
 約7tの砲身重量は海軍第56警備隊のトラックには重すぎた為、輸送はコロを用いて人力によって行われた。
 移動には数日間を要したと言う。

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▲当時3門の砲を据えたペペノゴル小川砲台上の山中に戦闘指揮所があり、コンクリートに覆われた指揮所の中では
 小川隊長と先任伍長の中村春一上曹が常にいた。この指揮所より来る小川隊長の命令を、各砲台員全員が米艦を目
 の前にして今か今かと待っていた。何日も何日も火を使わず、食器の音も出さない様にして、生米をかじり乾パン
 を食べ、少しの水だけで我慢強く待った。昭和19年7月24日サイパンよりテニアン港正面に向かって静かに前進を
 始めた米駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)がテニアン港の正面を向き様子を伺う。
 米駆逐艦を目の前にして小川隊長の伝声管と地上電話の声は「まだ待て、もう少し待て」と伝えていた。

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▲小川砲台小3門の内の1門当時の写真(米軍撮影)現存する小川砲台も艦砲射撃を受ける前はこうなっていた
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 ▲小川砲台から見えるテニアン港、今は非常に綺麗で静かなこの場所に米艦が来たのであろうと想いをはせた。
  (中央右に見えるのはテニアン島の南西約9㌔に位置するアギガン島「山羊島」)
 ▼アギガン島「山羊島」(移動中の機内から撮影)

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※アギガン島「山羊島」も日本統治時代はサトウキビ栽培をしていた。その時放された山羊が自然繁殖し、山羊の島
 と呼ばれ、戦後から現在まで無人島となり、野生の山羊が沢山いるとの事。戦争中は昭和19年4月21日歩兵第50
 連隊隊第2中隊の山田少尉の指揮する約40名が派遣されていた。艦砲射撃によって若干の死傷者をだしたが、主と
 して夜間耕作によって芋を栽培、これを主食にして終戦に至った。終戦時兵力は隊長以下61名、テニアン本島から
 の脱出者、補給要員等で20名増加していた。昭和21年2月11日投降勧告に応じた。


 ノーマン・スコットがテニアン港正面を向いた時、隊長より大声で「全砲発射用意。撃て!」との命令だ出された。
 ペペノゴル小川砲台の3門と2本ヤシ柴田砲台の3門が一斉に火を吹き、雷鳴のような砲声が轟く。最初の1発づつが
 ノーマン・スコットの機関部と艦橋部に命中。暫くして「米駆逐艦ノーマン、轟沈」と砲台の奥にいる兵隊にも伝
 わり歓声が上がる。「バンザーイ!バンザーイ」挟み撃ちされたノーマン・スコットは大破しサイパンに後退。

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 ▲米駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)オーエンス艦長以下22名戦死、67名負傷
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 ▲帰還した米軍兵士が戦後画いた当時の様子。
 次に米巡洋艦コロラド(USS Colorado)がテニアン港正面を向く。米艦に砲台の位置を知られてからの小川砲台は、
 柴田砲台と呼応し、連続発射し合計22発を命中させた。巡洋艦「コロラド」は火災を起こし、相当数の死者と重傷
 者を出し、後退した。

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▲テニアン港で撮影された米巡洋艦コロラド(USS Colorado)22発の砲弾が命中し、大きな被害を受けている。
 しかし、歓びも束の間、次に何が起こるかは砲台員全員が知っていた。米軍の報復は激烈なものであったと言う。
 サイパンより3隻の戦艦と巡洋艦、駆逐艦が急行し、テニアンの砲台を砲撃した。
 小川砲台2番砲の銃眼より米艦の砲弾が飛び込み、砲台内で火薬に引火。大火災が起こり、火柱が渦を巻いて火薬が
 飛び散り、戦死者多数を出した。夕刻頃、砲長の杉本兵曹は戦死者の中より起きあがり、両眼が見えない様だったが
 私の声が分かるらしく手探りで近づいてきた。体に付着した火薬を取り除き、手当を始めると「手がもげているぞ」
 との声によく見直すと、杉本兵曹の右の手首より先がないではないか。出血もなく、時計だけが動いていた。
 杉本兵曹は自分の事より、「大丈夫か」としっかりとした声で聞く。何と気丈な砲長かと感嘆させられた。
 側にいた神山兵曹に連絡し、野戦病院に運ぶ手配をして他の戦死者、荒井文衛門兵曹他の方々を砲台の南側に埋葬し
 夜に入ると陸戦隊の準備をして小川隊長の後に続いたと言う。
 「ああ、死の島テニアン」より

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▲ペペノゴル小川砲台3門中1門はテニアン空港に展示されている(小川砲台と同型安式40口径6インチ砲)

日本軍の海岸砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、駆逐艦ノーマン・スコット(USS Norman Scott)も
命中弾を浴び、艦長以下多数が死傷した。しかしこれは米軍の陽動作戦であった。
昭和19年(1944)7月24日07:00頃、米軍第4海兵師団はLCVP(ヒギンズ・ボート)LVT(水陸両用装軌車)か
らなる上陸用舟艇約150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に第4海兵師団と第2海兵師団
の一部が上陸した。

▼当時のチュルビーチ(CHULU BEACH)[チューロ海岸]
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「テニアン港」周辺での陽動作戦によって手薄になったチューロ海岸には、第29師団第50連隊第3中隊と
海軍第56警備隊が配備されていたが、米軍の砲爆撃と水際戦闘で全滅した。

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▲▼昭和19年(1944)7月24日チューロ海岸(チュルビーチ)に上陸する米軍
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(25日には第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した)
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▼チューロ海岸(チュルビーチ)に今も残るLVTの残骸。
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▼米軍に破壊された日本軍陸軍トーチカ、当時の写真(麻生隊トーチカかもしれない・・・)
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▼チュルビーチには上記写真とよく似た長方形のコンクリート製の遺構が残っていた。
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▲▼チューロ海岸(チュルビーチ)に今も残る日本陸軍麻生隊トーチカ
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▼陸軍 麻生隊トーチカ内部 激しい艦砲射撃を受け陸軍50連隊の主力だった麻生隊は壊滅し、全員戦死。
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▼内部の銃眼部分には「昭和十九年五月 麻生隊」と、まだはっきり読み取れる。
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昭和19年(1944)7月24日米軍はテニアン港に上陸すると見せかける。それに翻弄された日本軍は、兵力をテニアン港
付近に集中させた・・・。米軍は、警備が手薄になった島の北西、此処チューロ海岸から上陸を敢行する。
ここを守備していたのは歩兵第50連隊第3中隊(麻生隊)と海軍陸戦部隊の約200名。
水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘の為ほとんど全滅し、米軍は日没までに
第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊54000人を上陸させた。
圧倒的な米軍の前に日本軍守備隊全滅に対して、米軍死傷者は240名(内戦死15名)であった。

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▼チューロ海岸(チュルビーチ)近くに今も残る米軍LVT(水陸両用装軌車)
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▼テニアン島に上陸した米軍LVT(水陸両用装軌車)
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▼LVT(水陸両用装軌車) 画像はパラオ諸島ペリリュー島に上陸するLVT
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▼現場のチェルビーチに立つとかつての日米激戦地である事を忘れてしまう程綺麗な海に見惚れてしまう。
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そして24日の深夜に日本軍による反撃が開始されたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により、日本軍の
進撃が遅れた。それにより、調整の取れない攻撃を行い、約2,500名にも及ぶ損害を受けて反撃は失敗に終わった。
この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長が戦死、戦車は4両を残すだけとなった。
▼24日深夜の反撃で撃退された日本軍兵士の遺体。

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▼破壊された鹿村一男中尉率いる第18連隊戦車隊独立戦車第2中隊の戦車
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▼日本軍を撃退し南下する米軍。道端に破壊された日本軍戦車が写っている。
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▼日本軍を撃退し南下する米軍。
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日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は25日、第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した。
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▼▲破壊されたテニアン市街地(現サン・ホセ市街)
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日本軍は新防衛線を構築すると共に、民間人の中から16歳から45歳までの男子約3500名を集め、民間義勇隊6個中隊
を編制。戦闘に協力させた。7月28日陸軍 緒方守備隊長は陸海軍大臣宛の電報を発した。
「在テニアン邦人1万5千名中、16より45才のもの3500名義勇隊を編成し軍に配属、奮戦敢闘しつつありて、皇国人
としての伝統を遺憾なく発揮しあり。老人婦女子は集合の上、爆薬により処刑す」と。
28日海軍 角田中将も「老人婦女子を爆薬にて処決せん」とする電文を海軍軍令部に送っている。
しかし7月30日までにアメリカ軍は防衛線を突破、テニアン市街を占領した。
7月31日、カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始、マルポ水源地、テニアン町南側付近 第3飛
行場南側で戦闘を行った。戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、島南端のカロリナス高地へ撤退した。
この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸は米軍が占領し、日本軍は長期の抵抗を行う事が困難となった。
夜半、緒方連隊長はグアム島第31軍司令官小畑英良中将に対し、最後の報告を打電する。
翌8月1日も日本軍は前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃を行ったが、失敗。海軍の栗野原大佐、設営隊長林技術
少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。
8月2日緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と斬りこみ隊を組織した民間義勇隊等約1000名が、アメリカ軍に対し夜間
突撃を敢行したが多勢に無勢。アメリカ軍は機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえた為、日本軍に死傷者が続出。
緒方連隊長は後退中に戦死。27日には司令部を放棄し、南部のカロリナス洞窟に後退する。
▼南部のカロリナス付近まで迫ってきた米軍。

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第一航空艦隊飛行士の横森直行少尉は、この時の事を以下の様に語っている。
「この間に見た様相は、地獄の一丁目とも思われるもので、何十年経っても忘れない。暗闇に黙々と歩く列があった。
荷物を持つ者、持たぬ者、車を引く者、色々居るが、皆目的も無く歩いている様だった。時々、米軍が打った照明弾が
上がる。パラシュートが付いていてゆっくり降りるが、青白がかっていて実に明るい。
行列はこの時、だれ言うとも無く停止する。何か悪い事でもしている様にお互いの視線を避けている。
何故か皆の目が、海軍の制服を着ている私に厳しい様である。誰も一言も喋らない。
止まっている時は目をつむって溜息をつくだけである。
人々はただ黙々と島の最南端「カロリナス山地」へ向かって行った」と。

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角田中将は31日最後の電報を打った。「今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム」
この時、大本営から電報が入る。
清水中佐「長官、大本営からテニアンを脱出せよとの電報が届いています」
カロリナス沖に迎えの潜水艦を用意すると言う。この頃、優秀な人材が皆戦死し、軍部では非常に困っていた様だ。
大本営はグアムやテニアンに居たパイロットや技術を持った工兵をなんとか脱出させようとしていた。
角田中将「もう間に合わんよ」
8月2日朝、角田中将は最後の突撃命令を出した。飛行士の横森直行少尉が出発しようとすると、司令部に呼ばれた。
この時、角田中将は階級章をつけていなかったと言う。死地に赴く幹部の姿だった。
横森少尉「お先に出発します」 角田中将「横森、ご苦労だった」そして角田中将は2つに割った「オニギリ」の1つ
を差し出した。最後の別れは酒でもない、水でもない「オニギリ」だった。
その後、角田覚治中将は手榴弾2つを持ち、「じゃあな」と笑顔を残して洞窟から姿を消したと戦史は伝えている。

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▲角田覚治 海軍中将 享年53歳
角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令
の大家大佐も戦死し、結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は8月3日夜明けに終結した。
その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、テニアン島は隆起珊瑚礁からな
る平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。日本軍戦死者約8100名、生存者 313名。
アメリカ軍戦死者389名、戦傷者 1816名を出しテニアンの戦いは終わった。

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▲カロリナス大地で掃討作戦を行う米軍兵士
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▲戦いが集結し、戦利品の日の丸の寄せ書きを持っての米軍記念撮影。
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▲テニアン島の戦いで負傷した米兵を運ぶ米軍兵士達。
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▲海兵隊巡察隊員が、丘の中腹の洞窟に隠れていた日本人家族を発見。激しい戦闘から身を隠していた母親と4人の
 子供と犬であった。

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▲戦い終結後に日本人民間人に尋問をする米軍兵士。
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▲生き残った民間人は終戦までテニアン島の捕虜収容施設で暮らした。終戦後、日本に引き揚げた人員は約2300名。
 米軍来攻時には16200名(内朝鮮人2700名)の邦人が在島していた。軍に協力して玉砕した者、スーサイドクリフ
 から身を投げた者も含め、13000人以上の民間人が戦いの犠牲となった事も忘れてはいけない。
▼テニアン島スーサイドクリフ(サイパン同様SUICIDE CLIFF→「自殺の崖」)である。[カロリナス大地]
 岩肌には無数の洞窟が遠くからも見える。周囲はうっそうとした密林で、現在も簡単には近づくことは出来ない。

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昭和19年7月31日~8月1日にかけて激しい攻防戦が続き日本軍は島南端のカロリナス台地に追い詰められていく。
カロリナス大地のジャングルの中の洞窟にいた民間人でダイナマイトや青酸カリを持っている人は自決していった。
首をつろうとした民間人に『民間人には罪はないのだから止めなさい』と言った日本兵もいたと言う。 
テニアン島には川は無く、飲まず食わずで、1週間程。自分のおしっこを、子供に飲ませる人もいたそうだが子供が嫌
がって飲まず、泣きやまないので『子供を殺せ』と言った日本兵もいたと言う。
自分の手で子供を海に放りこんだり自分の手で子供を殺した人もいた。のこぎりで子供の首を切ってしまった人もいた。

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テニアン島の面積はサイパン島の半分程、地形は平坦で農地や飛行場には適しているが、立てこもるには向いていない。
「水もお菓子もあげるから、出てきなさい」というアメリカ軍の投降を呼びかける放送も始まったが最後まで投降しな
かった人々もいた。断崖のあちこちには天然の洞窟があり、ここにも多くの日本人が潜んだ。
目に映る断崖の無数の穴は、米軍の海からの艦砲射撃の跡でもある。1000名の兵士と民間人がこのあたりに潜み、捨
て身の突撃を待っていたと言う。その多くは、アメリカの掃討作戦と飢餓に倒れた。

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サイパン島「バンザイクリフ」同様、絶望した日本人が身を躍らせた海岸である。多くの慰霊碑が立っているが犠牲者
の正確な数は分かっていない・・・。近年の遺骨収集でこの海岸で多数のご遺骨が出たと聞いた。

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▲平成元年(1989)に撮影された同じ場所。案内看板に日本語が併記されている事に注目。現在は日本語併記は無い。
 いかに最近日本人が訪れていないかを物語っている。観光に来ても慰霊には来ないのであろう・・・。

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同じ日本人の銃弾に倒れた人々もいる「降伏を許さない軍隊」から逃れ、アメリカ軍のもとに行くことは極めて危険
であった。同じ日本人にスパイ呼ばわりされ、命を失う事にも繋がったと言う。

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▲日本海軍第56警備隊の慰霊碑
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サイパン同様、いくつも慰霊碑があるが日本政府が建てた慰霊碑は無いらしい・・・。どこもバラバラである。
海外の戦跡・戦地の慰霊で、日本人は永遠に一つになれることは無いのだろうか・・・、悲しくなる。

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▲サンホセ市街にある韓国人(朝鮮人)慰霊碑。この一帯は日本統治時代は火葬場だったそうで、朽ち果てたレンガ
 作りの火葬場が残っていた。

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▲▼「無縁塔」もあり裏には「昭和十五年七月・・・・テニアン町役場」と読める。
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▼この付近には戦時中に使用された洞窟がいくつもあり、3つは入る事が可能だった。
1つ目は現在「マリア像」が置かれている広い洞窟で、日本軍野戦病院として使用されたとの事。
(陸軍第29師団所属第一野戦病院・稲田壽郎軍医中佐/小野直樹軍医大尉以下40名)

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▼2つ目は火炎放射器で焼かれた跡が生々しい洞窟だった。洞窟入り口付近に十字架がある。
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▼3つ目は見つけにくい場所だが日本海軍第56警備隊本部跡の洞窟がある。入り口に到達するまで少し
 木々が多いので行き難い場所だが一番軍事壕らしい内部でコンクリートで固めてある強固な作りだった

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▲入り口は狭く、石垣が組まれ外から見えにくくなっている(撮影もしにくい・・・。)
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▲中に入ると床はコンクリート、サイドもコンクリートでしっかり固められており通り抜けると2つ目の入り口に
 繋がり、Uの字になっていた。中は真っ暗で入り口付近に放置されていた「DAINIPPON BREWERY」と書かれ
 た当時のビール瓶が転がっていたので端に立てておいた。戦地の日本軍司令部等でよく見られるビールだ。



日本海軍のハゴイ飛行場は拡張整備され、島の東部にはウエストフィールド飛行場(現テニアン国際空港)
が建設され、本格的な日本本土空襲を行う基地となった。
▼完成当時の米軍ウエストフィールド飛行場。

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▼米軍占領後のテニアン島。南側(下)に4本の滑走路が確認出来る。右奥はアギガン島「山羊島」
※ブログ上記でアギガン島「山羊島」の山羊が自然繁殖した事を紹介したと思う。戦後アメリカ軍は荒廃したサトウキ
 ビ畑跡にタンガンタンガンの木の種を空中散布した為、 テニアン島は高さ3m程のタンガンタンガンの木に覆われて、
 島の植物体系が変わってしまった。将来の基地使用に備え、住民にこの密林を取り払って耕作するなど出来ない、と
 諦めさせるのが米軍の狙いだったが、山羊はタンガンタンガンの葉が好物だったので自然繁殖した経緯がある。

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昭和19年(1944)11月以降、連日の様に日本に向かうB-29 がこの島を離陸していった。
▼テニアン島ノース・フィールド飛行場から出撃するB-29。

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▼日本海軍ハゴイ飛行場を拡張整備して作られたテニアン島ノース・フィールド飛行場
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昭和20年(1945)8月6日広島、8月9日長崎への原爆投下作戦のB-29は、テニアン島ノース・フィールド飛行場か
ら発進した。1度自分の目で見たかった、そんな日本にとって深い繋がりのあるテニアン島を訪れた。
▼画像はエーブル滑走路。2600mの滑走路が4本あるが、ここは1番北側の物。この滑走路こそ広島/長崎に飛び立
 った「エノラゲイ」と「ボックスカー」の使用したものである。

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昭和20年(1945)8月5日夕刻B-29に積まれた原爆は日付が6日に変わった真夜中2:45この滑走路を飛び立った。
そして昭和20年(1945)8月6日8:15広島であの惨劇が起こった。

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▲原爆搭載準備に入るB-29「エノラゲイ」
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▲▼原爆ピットに納まる広島型原爆(リトルボーイ)
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▲原爆ピットから油圧ジャッキで持ち上げられ、B-29エノラゲイに搭載される広島型原爆(リトルボーイ)
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▲「エノラゲイ」搭乗員
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▲昭和20年(1945)8月6日真夜中02:45出撃前笑顔で手を振る「エノラゲイ」搭乗員
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▲NO.1原爆ピット。広島型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)/長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)を搭載
NHK戦跡と証言「原爆ピット」テニアン島

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▲NO.2原爆ピット。長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)が収められたが、油圧ジャッキの故障で搭載時は
 NO.1原爆ピットが使用されたと聞いた。

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▲当時の原爆ピットNO.2
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▲長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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▲NO.2原爆ピットに収まる長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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▲廃墟となった長崎
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▲原爆組み立て工場。
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▲戦後取り壊される前の原爆組み立て工場。
人類史上初めて実践で使用された核兵器は、マンハッタン計画に基づき米国国内で製造された。
昭和20年(1945)7月26日テニアン港に原子爆弾の部品と核燃料を積載した米海軍重巡洋艦インディアナポリスが入港。
荷揚げされた部品と核燃料は米軍テニアン占領後に原爆を運ぶ為に整備された道路「ブロードウェイ」を通り、原爆ピ
ット北の「原爆組立工場」に運び込まれた。
原子爆弾の部品と核燃料がテニアン島に届けられた4日後の昭和20年(1945)7月30日日本海軍潜水艦「伊-五八」に
よって米海軍重巡洋艦インディアナポリスは撃沈された。
部品と核燃料がテニアン島に届けられる前に撃沈されていれば、歴史は違ったものになっていたかもしれない・・・。
原爆投下計画が日本側に知られたと感じた米軍は広島原爆投下を急いだと言う。
しかし、日本側が原爆の情報をキャッチしていたのではなく、インディアナポリスの撃沈は偶然であった。
5日後の7月31日広島型ウラニウム原子爆弾「リトル・ボーイ」の組立てが完了した。

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▲当時「原爆組立工場」には空調が完備され、温度差によって原子爆弾の部品同士が合わなくなるのを防止していた。
※原爆組立工場は戦後解体され、現在はコンクリートの土台がわずかに残るだけとの事で見学していない。
原爆ピットは戦後埋め戻されプルメリアとココナッツの木が植えられていた。2004年6月15日サイパン侵攻を記念し
て第2次世界大戦60周年記念式典が挙行されるのに合せ、埋め戻されていた2基の原爆搭載ピットを掘り返して公開さ
れた経緯がある。「パールハーバー(真珠湾攻撃)がなければ、広島・長崎も無かった」というのが米国の立場だが、
「ABCD包囲網がなければ、パールハーバー(真珠湾攻撃)も無かった」というのが日本の本音だと思う・・・。
▼戦後埋め戻された時のNO.1原爆ピット

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▼平成元年(1989)に撮影されたNO.1原爆ピット(まだ埋め戻された状態で案内看板に日本語も併記されている)
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▼平成元年(1989)に撮影されたNO.2原爆ピット(まだ埋め戻された状態で案内看板に日本語も併記されている)
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広島/長崎に続いて3個目の原爆用プルトニウム核と起爆装置をテニアンに輸送する為B-29を米本土に待機させていた
マンハッタン計画の長グローヴス将軍は「これ以上原爆の使用は望まない」とのトルーマン大統領の意向を受けてこの
計画を中止した経緯もある。エノラゲイのパイロット、ティベッツ氏が「原爆を投下したが為に、日本本土上陸作戦を
行わずして日本を降伏させる事が出来た。広島/長崎の市民が 多数犠牲になったとしても、上陸作戦で失われたであろ
う、数十万人の米軍兵士の命に代え難い」と言った様に、原爆が無ければ「本土決戦」が行われていたであろう。
そして日本という国は消滅していただろう。米軍だけでは無く、日本軍民も広島/長崎以上の死者が出ていただろう。
喧嘩両成敗という言葉があるが、国と国との戦争の後には勝戦国と敗戦国しか無く、負けると解っていた日本は「対話」
の努力を続けるべきだったであろう。しかし、戦って学んだ事が日米に必ずあるはずだ。そうでなければ先の大戦で亡
くなった全ての人に対して堂々と慰霊が出来ない。原爆救護 ~被曝した兵士の歳月~YouTube
▼アメリカ軍戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書調印式

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原爆は核分裂によって生ずるエネルギーを利用する点において、化学反応による通常兵器と根本的に異なる。
人体に与える深刻な影響は通常兵器の比べものにならない。化学兵器の使用は人類にとって恐怖以外に言葉が見つから
ない。原爆を使用したアメリカに対して、日本では批判的な意見も多くある。しかしプルトニウムの原料不足で開発を
断念したものの、日本も原爆開発を進めていた事実がある事を忘れてはいけない。
国力が逆であったならば、日本も同じ事をしていたかもしれない。

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▲原爆投下による巨大なキノコ雲(広島上空にて)
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▼広島に原爆を投下し、テニアン島ノース・フィールド飛行場に帰還するエノラゲイ。
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▼戦後70年以上が経っても世界では「戦争」というものは続いている、日米共に多くの人が亡くなって日本の平和は
 続いている。それが「当たり前」と思っている日本人の多さに危機感を感じるのは私だけだろうか・・・。

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▼ダイナシティーホテル社宅裏に、リトルボーイとファット・マンの実物大模型が展示?放置?されている。
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誰が何の為に製作したかは不明との事。案内板の文字は英語と中国語のみであった。
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ノース・フィールド原爆ピットの中に展示する案も出た様だが、色が違うとの事でアメリカ軍から却下されたそうだ。
テニアン市では市長が変わる度に前市長が行った事が全て無になる事が多い様で、この模型が出来た時の市長が作らせ
た物かもしれない。との事だ。いずれにせよ詳しい経緯は何も解らないとの事だった。

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▲▼広島型ウラニウム原子爆弾(リトルボーイ)
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▲▼長崎型プルトニウム原子爆弾(ファット・マン)
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※ファット・マンの実物大模型は大津市歴史博物館でも見る事が出来る。本土空襲の中で米軍はファット・マンと同型
爆弾(原爆では無いパンプキン爆弾と呼ばれる物)を投下し、本番の原爆投下の練習をしていた。
別名「模擬爆弾」と呼ばれたパンプキン爆弾は、爆撃機B-29に搭載し、昭和20年7月20日~8月14日までの間に日本
全国30都市に49発が落とされ、原爆の投下訓練を行った。機体が原爆の爆風に巻き込まれないよう、投下後、速やか
に上空を離れるための操縦訓練などが目的だったが、模擬原爆によっても日本全国で計約400人が犠牲になった。
(※大阪では7月26日09:26、1発の模擬原爆が東住吉区田辺の元料亭付近に落下。7人が死亡、73人が負傷した。)
その内1ヶ所が滋賀県大津市内だった。場所は当時、魚雷を製造していた東洋レーヨン石山工場(現東レ滋賀事業場)で、
日時は7月24日07:47。16名の方が亡くなられたと記録されている。その事実を語り継ぐ為に展示されている。
小生も2015年に見学に行った。画像はその時撮影したものだ。
▼大津市歴史博物館(滋賀県)に展示されているパンプキン爆弾実物大模型

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(ファット・マンと同型全長3.2m球体部直径1.5m重量約4.5t)
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▼テニアン島の戦いで撮影された有名な写真。
 (孤児となった収容所の子供にキャンディーを与えるフェデリーコ・クラベーリャ1等海兵)

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[ テニアン日本人学校 ]
アメリカ軍に投降し、保護された日本の民間人は、カーヒー地区に建設されたキャンプに収容された。
掘っ立て小屋の様な所で、むしろを敷いただけのものだったと言う。仕事(米軍のお手伝い)に行けば、チョコレートや
ガムが貰えたと言う。アメリカ軍は戦時中にもかかわらず、昭和19年戦いで荒れ放題になったテニアン島に日本人の
子供達の為に学校を作った。生徒数は2074名である。
「私も、学校で英語を習ったんですよ。そしてここで星恵美子さんとも、一緒になったんですよ。戦後日本に戻った後
も、ここで覚えた英語が役に立って、山形の米軍図書館で働いたんです」
と、当時14歳、生まれて半年でテニアン島に渡り、生還された井上茂さんは語っておられる。
この学校の創設に尽力したのは当時26歳のムック海軍中尉である。敵国の為にと周囲の反対を押し切って学校を作った。


▼圧倒的兵力とはいえ日本軍の猛攻で389名の米兵が戦死した(当時米軍戦死者を埋葬したウエストフィールド墓地)
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▼テニアン島を南北に貫く「ブロードウェイ」の北に[アメリカ記念碑」があり、戦没した米兵の慰霊碑として戦後アメ
リカ政府によって建てられた。戦後米軍戦死者の遺骨はアメリカ本土に還り、アメリカンメモリアルだけとなっている

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現在、沖縄に滞在する在日米軍の一部がテニアン北部に移転する事が決まっており、テニアン島北部にある
ノース・フィールド飛行跡や原爆ピット、日本海軍ハゴイ飛行場関連施設跡は見学が出来なくなるかもしれ
ない為、今回予定を早めてテニアン島を訪れた。カジノも現在建設中で、米軍が駐屯すればテニアン島の活
気が戻る事が期待されている。


▼テニアン島北東部の海岸「潮吹き海岸」という観光スポットに行って見た。
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▼潮吹きポイントの直ぐ南側は立ち入り禁止区域となっている。潮吹きポイントよりこちら側が気になった。
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▼潮吹きポイントからサイパン島が綺麗に見える、近い。サイパン島の戦いを見ていたテニアン島守備隊は覚悟を
 決めていたであろう・・・。

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▼(テニアン島→サイパン島→グアム島)サイパン島離陸後機内より撮影。
 左がテニアン島北部(原爆投下作戦のB-29が出撃したノース・フィールド飛行場が見える)
 右はサイパン島南部(最短距離の航路は、海流がぶつかるポイントで波が荒く戦艦でも無理らしい)

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▼グアムに戻る機内から原爆投下作戦のB-29が出撃したノース・フィールド飛行場が綺麗に見えた。
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歴史と未来を深く考える事が出来、勉強になったテニアン島の旅だった。
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▼▲2016年12月18日訪問
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G7広島外相会合で、ジョン・ケリー米国務長官はアメリカ現役閣僚として初の原爆死没者慰霊碑訪問となり献花した。
オバマ大統領の広島訪問が実現するかもしれない。「形だけだとしても」「嘘」でも小生はとても嬉しい。
慰霊碑の石碑前面「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑文は原爆投下の悲劇に対して、あえて米国
への名指しの非難をせず、人類全体の悲劇として追悼しているものと思う。
もしも名指しで米国を非難していたら、そんなところに、米国大統領は絶対に立ち寄らない。
加えて米国は、口では『核なき世界』と言いながら、核を減らすどころかどんどん核の予算は増えている。

先日のG7外相会合「広島宣言」採択は原爆投下の悲劇を、あえて人類全体の悲劇として、特定国への非難を避けてき
たからこそ実現したと強く思う。非難と追悼は別物だ、そうしないと世界は憎しみと復讐だらけになってしまう。
原爆による非戦闘員の無差別殺戮は、人類史に残すべき大虐殺である事は間違いない。
しかし特定国への非難は犠牲者追悼の場とは別の場所でやれば良いと思う。
「平和」と「自由」は非難からは生まれない。それを戦ってくれた全ての英霊が命をかけて教えてくれた。
死んだ人は戻ってこない。共に追悼し、過ち??敗戦?を繰り返さないと誓う事こそが供養だと思う。
同時に『核なき世界』は実現不可能。本音を言えば日本も核武装するべきだと思っているが、それは無理だろう。
なぜなら米国は、武人の誇りをかけ、日米が血を流して必死に戦い、叩きのめした日本を二度と刃向かわせない様に
しておきたいのだから。日本が米国に戦争を仕掛ける事はもう無いと思うが、アメリカは心からは信じていない。
玉砕戦や特攻作戦など、米兵から見れば信じられない戦いをした日本を、内心はまだ恐れている証拠だ・・・。

※2018年9月27日追記 平成30年に生まれ変わる「原爆資料館」に是非また行きたいと思う。
これは是非見て頂きたい動画だ。TSS報道特別番組 ヒロシマを遺した男 〜原爆資料館誕生物語〜(英語字幕版)

※5/10追記
オバマ米大統領は5月10日、5月27主要7カ国(G7)首脳会議(伊勢志摩サミット)出席の為に訪日する際、広島
を訪問する方針を決めた(日米両国政府発表)
ローズ大統領副補佐官は10日朝、オバマ氏の広島訪問の意義について「大統領は広島で『核なき世界』の理念のもと
で平和と安全を追求するという米国の考え方を再確認する」とウェブ上のブログで明らかにした。原爆投下の決断につ
いて再評価はしないとしつつ「大統領の(広島)訪問は戦時中に亡くなったすべての無実の人々に敬意を表する機会と
なる」とも述べた。
素晴らしい、平成28年(2016)5月27日は日本にとっては歴史的に重要な日になると思っている・・・。
が、『核なき世界』は妄想だろう。何故ならアメリカは他の国がどれだけ核を持ったとしても、日本にだけは「核兵器」
を絶対持たせない事を決めているからだ。ならば、未来永劫日本をアメリカの核の傘で守る事を誓って欲しい。
本音は日本も核武装すべきだと思うが・・・。インドやロシアに核兵器反対運動をしに行った日本人が沢山いた様だ。
その方達は、インドやロシアに以下の様な同じ事を言われてぐうの音も出なかったそうだ。
「抗議をしている日本人よ。アメリカの核の傘の下から出てからもの言え!」と。まったくその通り・・・世界は日本
をちゃんと見てる。お花畑しか見えてない日本人が多すぎる・・・。

※5/27追記オバマ大統領広島訪問首都官邸facebook オバマ大統領広島訪問 岩国基地演説YouTube
オバマ大統領 広島声明ノーカット1YouTube オバマ大統領 広島声明ノーカット2YouTube
安倍総理大臣 広島声明YouTube




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 2016_05_01

Comments

Re: 凄く解り易い! 

ナージャ 様
こちらこそ、ご訪問有難うございます。まだまだ知らない事が多く勉強不足ですが、宜しくお願いします。
EVNARA  URL   2016-07-29 10:34  

凄く解り易い! 

詳しく解り易く書いて頂いて大変勉強になりました。有難うございました、また訪問させて頂きます
ナージャ  URL   2016-07-28 09:53  

「松江春次」 

「松江春次」全く知りませんでした、有難う御座います、「会津藩、そして斗南藩、更に警視抜刀隊」、政府に対しては、この程度しか知りません、御子息の戦死、無念の帰国、更に多数の住民の戦死、平坦な島の戦闘、遺骨差へ野ざらしのままの日本、酷い国です、慰霊碑、頭を下げたのは両陛下のみ、余りに知らない日本人、悲しい現実です、有難う御座います。
Tony  URL   2016-05-09 00:15  

Re: 追加写真、有難う御座います 

Tony様

コメント有難うございます、テニアン島の戦いは資料が少なく謎が多いですね。民間人の最後などは詳しく解りませんが、スーサイドクリフから身を投げたのはサイパンと同じ様な状況だったと聞きましたが本当にそうなのか?気になるのは角田中将が「老人婦女子を爆薬にて処決せん」とする電文を軍令部に送ったとされる件ですね・・・。
EV奈良  URL   2016-05-06 18:32  

追加写真、有難う御座います 

追加写真有難う御座います、「勇敢な兵士、狂信的に戦った下級将校、無能な上層部」、準備不足の付けを兵士に負わせた典型的な戦闘ですね、有難う御座いました、お疲れ様でした。
Tony  URL   2016-05-06 16:26  

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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