沖縄戦

Category: 沖縄本島  

昭和20年8月15日が終戦(敗戦)日だが、沖縄戦が公式に終結したのは昭和20年9月7日(沖縄戦降伏調印日)である。
今日でも沖縄の人々は8月15日を終戦と考えておらず、9月7日を終戦と考え「沖縄市民平和の日」と定められている。
沖縄守備軍だった第32軍司令官牛島満中将が摩文仁司令部豪で自決し、日本軍の組織的な戦闘が終わった6月23日を
県民の休日と定めているとの事。
 確かに8月15日に戦争は終わっていない。沖縄県だけでなく、満州国や北海道の千島列島・南樺太では旧ソ連との
戦闘が続いていた事実がある以上、「8月15日を終戦と考えない」という意見に違和感は無い。
しかし、6月23日を県民の休日と定めている事に関しては特別だな、と感じた。
6/23は「慰霊の日」という事で、糸満市摩文仁の平和祈念公園で、沖縄全戦没者追悼式が行なわれる為である。
6月23日正午には黙祷が捧げられ、沖縄県平和祈念資料館やひめゆり平和祈念資料館が入場無料になるとの事だ。
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▲平和祈念公園から太平洋を望む。
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▼平和の礎
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▼沖縄県平和祈念資料館。
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沖縄戦開始の昭和20年4月1日から昭和47年5月15日までの27年間、アメリカの施政権下だった沖縄県。
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▲「那覇の目抜き通りをあてもなくさまよう、年老いた沖縄住民」と題された、那覇で米軍が撮影した1枚の写真。
 激しい地上戦が行われた沖縄戦中の昭和20年5月30日に米軍が撮影した国際通り(目抜き通り)だ。
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▲昭和30年頃の国際通り
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▲昭和47年3月に撮影された国際通り
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▲昭和26年12月3日に撮影された那覇市壺屋地区
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▲昭和26年12月3日に撮影された那覇郊外
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▼▲昭和30年8月に撮影された那覇市内
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▲昭和35年代の那覇市街地
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▲本土復帰当日の国際通り。復帰運動中は小学校の売店で「日の丸」が販売されていたが、いつの間にか無くなった。
 子供達の「なぜ?」という問いに先生達は答えなかったという。いつから沖縄を含め日本はおかしくなったのか・・・。
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本土復帰からまだ44年程しか経っていない。単純に右側通行から左側通行へ、など普通の暮らしが変わった(戻った?)
沖縄県民は大変だったであろう・・・。敗戦当時は車などほとんど走っていなかっただろうから、アメリカ統治時代に
道路などが近代化された沖縄県で普通の暮らしをしてきた人はとまどったであろう。
実際に左側通行になったのは昭和53年7月30日からだそうで、標識や信号機などの付け替えの下準備は事前から行って
おき、左側通行への移行作業は7月29日の夜から緊急車両以外の全ての車両の通行を禁止し、一晩で行われたそうだ。
「沖縄730・道の記録」シネマ沖縄1977年製作 YouTube
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▲アメリカ統治時代後半の沖縄県(昭和40年代後半と思われる)まだ車は右側通行だ。(胡屋十字路付近とある)
「沖縄」は日本だが、本当の日本になるまでの道のりは暗く長いものだったに違いない。今回少しでも「沖縄」を勉強
する為に沖縄本島に残る戦跡を巡った。沖縄県は25年前に一度訪れた事があるはずだが全く記憶に無い。
ビーチで泳いだ程度の完全観光旅行だったのでさほど印象に残っていないのかもしれない。
戦史に興味を持ってから、いつか沖縄戦をちゃんと知ろうと思っていた。「日本は水に流す文化」とはいえ、琉球時代
の歴史、第2国民時代の差別問題、沖縄戦、アメリカ統治から本土復帰、教科書問題、基地問題などで沖縄県が話題に
ならない日は無い。TVでは見るけど「何で?」と沖縄県の怒りが理解不能な日本人も多いと思う。
地元出身のお年を召した方達は沖縄戦を実体験されて大変な思いをされているので、戦争を知らない世代が滅多な事を
言うものではないと思っている。
琉球以前の城(グスク)の中でも最大級の規模を誇る今帰仁城跡(世界遺産)を見学した際、案内して頂いたガイドの方か
らは(かなりご高齢)、城案内の他「薩摩に侵略された時代」の事もお話されていて「鹿児島県民には私はガイドしない」
と言っておられた(驚)。本州に住む私の様な勉強不足の沖縄無知も「沖縄県の怒りが理解不能な日本人」の一人だった。
だからこそちゃんと学ぶ必要がある。「右だ」・「左だ」と偏った見方では無く事実と現状を。
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▲2017年2月撮影の国際通り(歩行者天国時に撮影)

▼現在はウミカジテラスで有名な瀬長島を見ながら那覇国際空港に着陸する。
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▼那覇国際空港は旧日本海軍小禄(おろく)飛行場だった、米軍の沖縄本島上陸が差し迫った昭和20年3月24日、25日
「小祿彗星隊」が海軍小祿基地から艦上爆撃機「彗星」で出撃している。(沖縄周辺米機動部隊索敵攻撃)
※「索敵攻撃」とは、先の大戦中、制空権を米軍に握られた沖縄では、航空特攻出撃は早朝に発進した索敵機の報告に
 頼らざるを得ず、特攻隊が敵艦船上空に到着した頃には既に報告された位置に敵艦隊がいない事のほうが多かった。
 その為、特攻機を数機ずつに分け、敵のいそうな海面を中心に扇状の飛行コースで飛ばせ、その中で敵艦隊と遭遇し
 た隊だけが突入する「索敵攻撃」という手段を用いた。敵がいなければ帰還するので隊員の中には3度、4度、5度と
 覚悟を決め直して特攻出撃を繰り返す特攻隊員も多かったという。
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十十空襲前、沖縄に配備されていた日本軍航空兵力は陸海軍合わせて約8000機。沖縄には約20隊の陸海軍特攻隊が
配備される予定だったと言う。十十空襲後は沖縄に航空戦力を送らなかった大本営。結果、陸上持久戦となっていく。
▼昭和19年10月10日米軍の爆撃を受け炎上する海軍小禄飛行場。
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▼昭和20年6月16日占領した日本海軍小禄(おろく)飛行場を横切って前線へ向う第2海兵師団第8連隊の海兵隊員
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▼占領後に米軍が撮影した日本海軍小禄飛行場の格納庫
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▼破壊された海軍小禄飛行場格納庫内の日本海軍機。尾翼に「オキ」が見える。
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▼格納庫の中より滑走路を見た写真。ドラム缶で主翼を支えている所を見ると、度重なる空襲で既に米軍が上陸する前
 に破壊されていたのであろう・・・昭和20年3月25日「小祿彗星隊」出撃後の記録は無い。
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▼海軍小禄飛行場の掩体壕。中に日本海軍機の残骸が・・・。
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▼海軍小禄飛行場の日本海軍機の残骸。
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▼占領後の小禄飛行場で休憩する米海兵隊員。ゼロ戦と思われる残骸が2機写っている(昭和20年6月8日撮影)
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▼現在は平和な那覇国際空港、滑走路は航空自衛隊と共用だ。ここが日本海軍小禄基地だった事をどの位の人が知って
 いるだろう。右奥に見える島は瀬長島。
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▼昭和20年6月大破した零戦と米兵。遠近感は違うが上記写真とだいたい同じ感じ。奥に瀬長島が写る。
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※太平洋戦争時、沖縄本島には読谷、嘉手納、巻港、首里、西原、小禄、糸満に。伊江島、石垣島、宮古島、南大東島
 に日本軍の飛行場があったとされている。

▼小禄飛行場(那覇国際空港ターミナル)から1㌔(徒歩約10分)の崎原(サチバル)の突端岩礁には先原崎灯台があった。
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▼米軍の空爆などで完全に破壊された先原崎灯台(昭和20年6月撮影)
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▼この灯台施設の地下にも豪が掘られていた、上陸後に米軍が調査した時の写真が残っている。
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▲▼ご飯などを炊くかまどと、下の画像は食堂。
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▼豪の中に収納されたサーチライト。陸軍では「照空灯」海軍では「探照灯」と称していた。当時の先原崎灯台施設の
 管理が陸軍・海軍のどちらか解らない。先原崎灯台は明治時29年に建てられた物だが海軍の可能性が高い。
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▼サーチライト格納壕の入口。
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▼サーチライト格納壕入口の全体像。ライトは使用する度に兵士達が軌間の狭い貨車に載せ、壕から運び出した。
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▼執務室
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先原崎(さちばるざち)灯台は「国土交通省那覇空港交通管制部」の敷地内にある為、フェンス越しでの見学との事。
当時の先原崎灯台は沖縄戦で破壊され、瓦礫レンガが多少残るだけとの事で今回は見学コースには入れなかった。

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▲沖縄戦で米軍が撮影した機関車。当時沖縄には沖縄県営軽便鉄道の3路線が引かれていた。
(与那原線)那覇~与那原 (糸満線)那覇~糸満 (嘉手納線)那覇~嘉手納
※2015年1月31日沖縄県営軽便鉄道(与那原線)与那原駅が復元され、与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館として一
般公開されているとの事。(次回是非訪れてみたい場所だ)
大正3年12月1日沖縄県営軽便鉄道(与那原線)那覇~与那原近くの間8.1kmが開通、翌年1月20日与那原駅までの9.4
kmが全通開業する。当時の沖縄県は非常に貧しく、沖縄県の債権を日本赤十字社に買ってもらい、ようやく開通した
鐡道だった。その後、本島中部へ向かう「嘉手納線」、南部を走る「糸満線」、そして本島東海岸へ抜ける「与那原線」
の3路線が開業したが、昭和19年の十十空襲で那覇駅が壊滅状態に陥る。なんとか復旧して運行開始するも、度重なる
空襲と、昭和20年4月1日からの沖縄本島地上戦が開始されると人知れず休止となった。
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▲那覇駅で撮影された沖縄県営軽便鉄道の機関車(昭和20年6月撮影)
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▲廃墟となった那覇駅のターンテーブル上に当時走っていた軽便偏心鋳鋼台車付気動車(キハ11)が写っている。
※「気動車」とは、ガソリンエンジン動力のガソリン列車である。(昭和20年5月撮影)
※写真左端奥には沖縄県庁に隣接した「武徳殿」も写っているのが確認出来る。
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▲壊滅前の上記写真とほぼ同じ位置の写真(左下にターンテーブル「転車台」が写っている)
※那覇駅は軽便鉄道3路線全ての始発駅で、ターンテーブルが設置されていたのは那覇駅だけだと言う。
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▲▼壊滅前の沖縄県営鉄道那覇駅(沖縄県営軽便鉄道とも言う)
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※戦後は那覇バスターミナルとなり、長らく使用されてきたが現在は跡地に高層ビルを建設中との事。
2015年9月高層ビル建設作業中に軽便鉄道時代の那覇駅ターンテーブルが発見されたとの事だ。バスターミナル時代
は地中に埋められていたのだろう。(移築保存されるとの事なので次回是非見学してみたい)
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▲現在も工事が続く旧那覇バスターミナル敷地。
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また、戦前の昭和8年までは「沖縄電気軌道」という路面電車も走っていた(那覇港通堂~首里山川)
現在、ネオパークオキナワ(名護自然動植物公園)の園内を、大正3年の軽便鉄道開業時に導入されたドイツ「ヘンシェ
ル社」製B型タンク機関車の実物約4分の3の大きさで再現された物が走っているとの事。次回訪れたいと思う。
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▲那覇市壷川東公園には発掘された沖縄軽便鉄道 のレール上に、南大東島で使われていた、ディーゼル機関車と荷台
 が飾られ、誰でも自由に見学する事が出来る。
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▼▲KATO製のロゴがくっきり残り、サトウキビ運搬に活躍した時代に思いを馳せた。
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現在、慢性的な交通渋滞に悩まされている沖縄の県都那覇。那覇国際空港からはゆいレールというモノレールが那覇
市内を走っており、渋滞解消が期待されている。2019年春には浦添まで繋がるとの事。
よみがえる軌道交通-沖縄都市モノレール-YouTube
▼ゆいレール赤嶺駅
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赤嶺駅から徒歩5分、航空自衛隊那覇基地がある。一帯は小禄海軍基地だったとの事。戦後米軍基地が拡張整備され、
返還後は航空自衛隊がそのまま使用している。
▼航空自衛隊那覇基地
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▼ゆいレール車窓から航空自衛隊那覇基地を見下ろす事が出来る。
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▼左奥には瀬長島、航空自衛隊那覇基地の格納庫が見える。
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▼航空自衛隊那覇基地内に旧日本海軍の砲台が1基現存している(沖縄戦では米巡洋艦を1隻撃破したと言う)
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※この砲台は昭和18年6月~10月、帝国海軍小禄飛行場が対潜水艦用基地として整備拡大されるに伴い、海軍の軍艦
 から取り外し、小禄飛行場那覇基地に施工整備された15センチ水上砲台6基のうちの1基。
▼米兵と一緒に写る沖縄戦当時の写真(昭和20年6月撮影)
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▼丘の上で軽機関銃を発射する米兵士。後方のコンクリート建造物が現存する日本海軍の砲台(6/6撮影)
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沖縄戦当時、大田実中将率いる小禄地区旧海軍部隊は、昭和20年5月中旬「勝田大隊」「丸山大隊」「山口大隊」迫撃
砲隊などが陸軍部隊指揮下に入り、総計2500名、軽兵器の約3分の1、迫撃砲の大部分が海軍小禄地区から抽出され、
兵員は約8300名となっていた。小禄海軍部隊は米軍上陸時に小禄半島で奮戦する。
米軍沖縄侵攻が迫ってくる中で、大田実中将が沖縄への突然の海軍部隊司令官任命には訳があった。
前任の司令官は航海出身で陸上の事がさっぱり分からず、状況が段々切迫して来る中で戦備が進まない。そこで白羽の
矢が立ったのが、海軍で陸戦の第一人者と言われた大田中将だった。
大田中将は上海事変の際、陸戦隊長として勇戦し、全滅の危機に瀕していた在留邦人を救出した勇将として知られてい
た。昭和20年1月20日大田中将は水上機で司令部に着任。3月末の米軍侵攻開始の約2ヶ月前の沖縄着任だった。
着任草々大田中将は島内各地の陣地を車で視察して回った。視察で車の運転を務めた堀川徳栄1等機関兵曹(沖縄県出身
で、後に沖縄トヨペット社長)は、大田中将が車中で参謀方と作戦会議をしていたと語っている。
陸軍第32軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日頃に初めて知らさ
れたとされる。沖縄戦の時期になっても日本陸軍と日本海軍の歯車はかみ合わないままだった・・・。
いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」
との命令を勘違いしたことが解り、5月28日には再び小禄海軍司令部壕へ引き返した。
6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田実中将は従わなかった。
大田実中将以下海軍将兵は小禄飛行場を南東から見下ろす小禄海軍司令部壕付近に孤立する状況となった。
6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し司令部壕のある那覇市南西部を包囲した。
大田司令官は6日夕刻「辞世の句」と共に訣別の電報を打って自らの覚悟を伝え、同日夜「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電
報を打って後事を託している。包囲が次第に狭められていく中、司令部壕内に重火器はほとんど残っておらず、歩兵に
よる突撃で応戦するのが精一杯の状況となった。
11日午前7時、司令部壕に集中攻撃が加えられた。同日夜には司令部壕からの最後の報告として、海軍根拠地隊が玉砕
したとの電報が発せられている。
昭和20年6月13日午前1時、大田司令官は自決を遂げ小禄地区における組織的な戦闘は終結した。
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▲▼小禄地区に設置されていた砲座やトーチカ。
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▼小禄地区の日本軍8インチ榴弾砲。大きさを比較する為に米兵が横に並べたカービン銃と。
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▼沖縄市戦後文化資料展示室ヒストリートには日本軍鋼製9センチ臼砲が展示されている。
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▼嘉手納基地から戦地に向かう米兵の癒しの場所だった旧コザ市。問題も多かったコザにヒストリートがある。
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「コザ」と親しみを込めて呼ばれるこの街は1974年に沖縄市となった。沖縄県では那覇市に次ぐ大きな街だ。
米軍基地の門前町として栄え、現在も地域の36%を米軍基地が占める。
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▲米軍嘉手納基地第2ゲート前から延びる「空港通り(通称ゲート通り)」周辺には、ベトナム戦争の頃から米兵が足繁く
通ったロックバーの文化が今も残る。訪れたのがAM11:30頃だったのでシャッター通りの様に見えるが、週末夜の店
に営業する店が多いので昼間は静かだ。ドルしか使えない店もあり日本に居ながら当たり前にドルを使う経験ができる
(もちろん日本円も多くの店で使える)フィリピン人も多く住んでいて、コザではフィリピン文化も多くみられる。
※コザのあめりか物語~コザナイトツアー~があったが現在は終了している。次回機会があれば参加してみたい。
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▲米軍払下げ品を販売しているミリタリーショップは営業していた。
米兵の給料日は毎月1日と15日の2回。その週末は賑わうが、2012年の米兵2名による県内20代女性への集団女性暴
行致傷事件から米軍は夜間外出禁止令を出し、一時コザの街からアメリカ人の姿は消えた。店を閉めた沖縄県民も多
かったという。日米地位協定が壁となって日本政府とアメリカ政府の間に生きる沖縄県民の姿に考えさせられる。
それでも米軍のお陰で生きている沖縄県民も多く暮らしているのも事実だが、根元は「日米地位協定」にあると思う。
敗戦国が身に染みる。現在は米軍外出禁止令が解けて、人出は戻りつつあるが、かつての賑わい程では無いという。
(沖縄戦当時に話を戻します)
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▲▼小禄地区に設置されていた砲座やトーチカ。
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▲▼昭和20年6月5日撮影
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▼昭和20年7月31日に撮影された那覇港周辺
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▼現在はリゾート地になりつつある瀬長島のウミカジテラス。ここは戦時中は砲台がいくつも設置され、一般人は立ち
 入る事は出来なかった島だ。沖縄戦で跡形も無く撃破され、現在は沖縄戦の遺構は全く無かった。
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▼昭和20年4月2日上空からの瀬長島写真。現在の様に道路で本島と繋がっていない。
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▼現在の瀬長島(機内より撮影)
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▼昭和20年6月12日空爆を受ける瀬長島を、占領した小禄飛行場より撮影した写真。
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▼昭和20年6月16日海岸沿いを収容所へ向かって歩く住民達。見えているのは瀬長島。
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▼瀬長島の日本軍120ミリ砲3基を写した写真(昭和20年6月撮影)
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▼沖縄本島の西海岸から見える瀬長島(昭和20年6月撮影)
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▼①瀬長島に設置されていた4基の日本軍120ミリ砲の内の1つ(昭和20年6月に撮影)
 さしたる抵抗もなく瀬長島を攻略した第6偵察隊中隊が発見した。これらの4基の砲は小禄飛行場と那覇港を防御する
 重要な対空網であったが、上陸前に行われた米軍による度重なる空爆や艦砲射撃で使用不能の状態になっている。
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▼上記古写真とだいたい同じ場所から撮影(ウミカジテラスより)これ以上右手に行けなかった・・・。
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▼②瀬長島に設置されていた4基の日本軍120ミリ砲の内の1つ(昭和20年6月に撮影)
 奥には沖縄本島が写っている。
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▼恐らく現在の琉球温泉(写真左側)がある位置と思われる。
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▼③瀬長島に設置されていた4基の日本軍120ミリ砲の内の1つ(昭和20年6月14日撮影)
 奥には沖縄本島が写っている。
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▼④瀬長島に設置されていた4基の日本軍120ミリ砲の内の1つ(昭和20年6月に撮影)
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▼昭和20年6月に上空から撮影された瀬長島。
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▼激戦当時の6月に米軍が撮影した瀬長島の写真。破壊されたトーチカ内の日本軍火砲を見ている。
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▼制圧した瀬長島で全ての壕を調べる為に丘腹を偵察する第6海兵師団第2大隊の偵察隊(6/14撮影)
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▼瀬長島高台にある琉球温泉瀬長島ホテルから那覇国際空港と航空自衛隊那覇基地を望む。
 那覇国際空港の滑走路は軍民共同使用されている様で、自衛隊機が何度も離陸、着陸していた。
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▼瀬長島の海岸に放棄されていた日本海軍機の残骸(昭和20年6月14日撮影)96式陸上攻撃機?
 海軍小禄飛行場に不時着しようと試みて失敗したのか・・・小禄飛行場は直ぐ目の前の場所だ。
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▼上記写真と同じ場所と思われる現在の瀬長島(頂上は琉球温泉瀬長島ホテル)※正反対の場所かもしれない。
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▼瀬長島からは那覇国際空港に着陸する飛行機がほぼ5分おきに間近に見る事が出来る。
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▼昭和20年6月に撮影された瀬長島南東部の切り立った断崖(現在の駐車場辺りから撮影したと思われる)
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▼現在はウミカジテラスに変貌し、当時の地形の面影は無いに等しい。
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▼琉球温泉瀬長島ホテル内からの眺め。慶良間諸島が見える。
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昭和19年3月沖縄に航空作戦遂行の拠点を確保する為、日本陸軍第32軍が新設された。
この頃は、要塞部隊や飛行場設営部隊などの工兵隊が主力だった様だ。

昭和19年6月27日陸軍徴傭船「富山丸」は独混第44旅団(南九州出身者で構成)、独立混成第45旅団一部将兵(四国出
身者で構成)、重火器やトラックその下の甲板にはガソリンを搭載したドラム缶1500本等を積み込み鹿児島湾を出港。
富山丸を含めた12隻の船舶は6/28貨客船「履門丸」「開城丸」は名瀬港に寄港。
「富山丸」他の船舶は17:00古仁屋に入港した。6/29船団は名瀬と古仁屋からそれぞれ出港し那覇に向かう。
その頃、米潜水艦スタージョンが徳之島東付近で浮上哨戒を行っており、日本軍の船団を発見。17:25スタージョン
は艦首発射管から「富山丸」に向けて魚雷を4本発射。内3本が「富山丸」の左舷船首と二番船倉および四番船倉と機関
室の中間部に命中。衝撃でガソリンが船内及び海上で発火して炎上。「富山丸」は船体を2つに折って徳之島南東12キ
ロの地点で轟沈した。轟沈と海上に流出して引火したガソリンの為、将兵4600名が脱出する余裕はほとんどなかった。
この沈没で、両旅団将兵や船員約3800名が戦死。1隻の沈没の犠牲者数としてはタイタニック号や、翌年の戦艦大和の
沈没よりも多く、当時としては第一級の惨事であったが、多くの船舶の沈没の実態と同様、大本営により秘匿された。
沈没によって旅団の生き残りは約700名、内活動できる者約500名となり、貴重なガソリン・トラックなども失われた。

昭和19年7月サイパン島が陥落すると、長勇参謀長の要望により大本営は精鋭とされる第9師団(武部隊13800名)を沖
縄に派遣。第32軍戦闘序列に編入され、精鋭師団として防衛の中核を期待されていた。
第32軍は八原博通大佐(高級参謀)立案の元、第9師団を中心に沖縄防衛計画を固め、日本本土へ進軍する米軍を水際
で撃滅する「決戦軍」と位置付け米軍撃滅の自信を深めていた。
昭和19年7月19日「サイパンの次は沖縄だ」と判断した軍の要請で、政府は奄美大島や徳之島、沖縄県の年寄り・子供
・女性を島外へ疎開させる指示を出し、県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令、学校単位で疎開事務を進める。

昭和19年8月19日609船団の「対馬丸」が第62師団本郷義夫中将以下2409名や馬匹40頭を搭載し、那覇港に到着。
同船団の陸軍輸送船和浦丸/暁空丸 なども8/19那覇港に到着、第62師団「石部隊」8315名他が直ちに中城湾(東)と
北谷海岸(西)を結ぶラインの南側の防衛線等の陣地構築を開始する。

昭和19年8月21日陸軍部隊と入れ替わりで「対馬丸」で疎開する子供達は「ヤマト(本土)へ行けば汽車にも乗れる、
雪も桜も見る事ができる」と修学旅行気分ではしゃいでいたと言う。
8/21夕方、「対馬丸」は疎開学童、引率教員、一般疎開者、船員、砲兵隊員1788名を乗せ、同じ様に疎開者を乗せ
た和浦丸・暁空(ぎょうくう)丸と護衛艦の宇治(うじ)・蓮(はす)を含む計5隻の船団を組んで長崎を目指して出航した。
昭和19年8月22日22:12頃、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を
受け「対馬丸」は22:23沈没。犠牲者数1,476名を出した。「対馬丸記念館」沖縄県那覇市若狭1-25-37
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▲沈没していく「対馬丸」
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▲対馬丸記念館
対馬丸記念館横の旭ヶ丘公園には天皇・皇后両陛下も訪れた対馬丸の犠牲者を祀った慰霊碑「小桜の塔」がある。
旭ヶ丘公園にあるもう一つの慰霊碑が「海鳴りの像」で、対馬丸以外の戦時遭難船25隻の犠牲者が祀られている。
記念館や「小桜の塔」を訪ねる際は併せて立ち寄りたい。「海鳴りの像」の作者は宮良瑛子さんで首里在住の画家。
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▲「小桜の塔」2014年6月27日天皇、皇后両陛下が訪問、供花した場所でも有名。
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▲「小桜の塔」へは波上宮入口から小道へ入ると最短で行く事が出来る。
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▲「海鳴りの像」対馬丸以外の戦時遭難船25隻の犠牲者が祀られている。
※当時、日本政府が沖縄県民疎開の為に出した船はのべ187隻、約16万人の沖縄県民が県外に疎開している。
サイパン島日本軍敗北後の昭和19年7月7日の緊急閣議で、沖縄県民の内女性と子供、高齢者を対象に8万人を本土へ、
2万人を台湾へ疎開させることが決定された。輸送は全額を国庫負担して行われ、海軍艦艇を含む各種船舶が投入され
た。台湾への疎開者に対しては、台湾総督府より、住居の提供や1人あたり1日に50銭の公的支援が実施された。
昭和19年2月の沖縄県人口は約49万人(沖縄出身軍人軍属含まず)、2012年(平成24年)の人口は約142万人!
(沖縄戦当時に話を戻します)
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▲学童疎開船に使用された「対馬丸」(日本郵船株式会社)戦時中「対馬丸沈没事件」を語ることは許されなかった。
沖縄戦が開始された後も、石垣島からの台湾疎開は継続されたが、疎開船が空襲を受け約70人が死亡した尖閣諸島戦
時遭難事件のような事例も発生している。実際に疎開したのは約1万人(本島3000人宮古5000人石垣2500人)とある。
「無縁故疎開せる沖縄島民の送還に関し嘆願の件」(昭和20年12月)の文書では、沖縄から直接疎開した者が12447人、
移住先の南洋群島(サイパン・テニアン・ロタ・パラオなど)から疎開した者が1597人で、合計14044人となっている。

※昭和20年3月15日最後の疎開船「開城丸」に沖縄第32軍首脳の1人、長 勇参謀長の満州時代からの愛人と、第32軍
司令部軍医部に勤務し、長参謀長の特務員として活躍した大迫亘軍医(鹿児島県出身)の奥様が乗船している。
その際の航路は、米潜水艦の攻撃を避ける為、上海を経由して九州の三池港に接岸させた。
疎開船に乗船した愛人と奥さんは船長室を使用したと言う(呆)

昭和19年10月10日那覇を中心に沖縄全土の主要施設を米軍機約1300機が空爆(十十空襲)那覇の街は壊滅。
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▲空襲を受け炎上する那覇港施設や日本の輸送船。
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▲損壊した日本軍上陸用舟艇(那覇河口域にて昭和20年6月24日撮影)
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▲空襲を受け炎上する那覇市
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▲壊滅した那覇市街地(中央の凹型の建物は当時の天妃国民学校)
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▲壊滅した那覇市街地
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▲壊滅した那覇市街地(画像上部が那覇港)
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▲昭和20年6月9日に米軍が撮影した那覇港
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▲焦土と化した那覇市上空を飛行する米軍OY-1観測連絡機。中央下に上之山国民学校が写る(昭和20年5月撮影)

昭和19年11月大本営は、連合国軍が沖縄では無く台湾へ上陸する可能性が高いと判断。
11月4日第32軍の一兵団をフィリピンへ転用の為、第10方面軍第32軍が台北で会議を開いたが、台北会議は要領の
得ないまま散会となった。しかし11月17日第9師団に台湾へ転出命令が下され、12月末に台湾に移動させてしまう。
連合国軍は台湾を通り越して直接沖縄本島に上陸した為、第9師団は戦うことなく台湾で終戦を迎えた。後に大本営
作戦課長であった服部卓四郎元大佐が第9師団抽出を「魔がさしたとしか思えない。一世一代の不覚であった。」と、
述懐している。この為第32軍の戦力は落ち、アメリカ軍と正面から戦う事を諦め、本土決戦までの時間稼ぎを前提と
した持久戦に徹する事になる。当時、本土では「琉球決戦」と呼ばれた沖縄戦は最初から「決戦」では無かった。
硫黄島同様、沖縄島は本土防衛の捨て石にされたのである・・・。
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▲沖縄侵攻に向け出撃準備の整ったウルシー環礁の史上最大規模の米機動部隊。
 (泊地近くの海域にて昭和20年3月15日米軍撮影)
昭和20年3月23日沖縄本島は、延べ360機の米艦載機により繰り返し激しい空襲を受ける。本格的な米軍沖縄侵攻の
始まりである。24日米艦隊が沖縄本島南東部沖合に姿を現し、島尻南部に700発を超える艦砲射撃を加え、720機の
米軍機が空爆を開始した。日本軍守備隊は本島南の港川方面の上陸戦に備えた。
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▲砲撃を開始する米戦艦ノースカロライナ(昭和20年3月24日米軍撮影)
昭和20年3月24日「小祿彗星隊」が06:00海軍小祿(おろく)基地より「彗星」で出撃(沖縄周辺索敵攻撃)
[操縦]前橋 典美2飛曹(鹿児島県出身)/[偵察]米森 義治上飛曹(鹿児島県出身)
3/25午前01:30頃、徳之島に不時着。徳之島の独立混成第64旅団は小祿彗星隊から敵機動部隊北進中の情報を得る。 
昭和20年3月25日「小祿彗星隊」が05:00海軍小祿(おろく)基地より「彗星」で出撃(沖縄周辺索敵攻撃)
[操縦]石渕 利也少尉(三重県出身)/[偵察]石川 貫二中尉(長崎県出身)
昭和20年3月25日アメリカ軍が島尻南東部と慶良間諸島を砲撃。那覇~糸満の海域の制海権を奪取。

海軍「小祿彗星隊」が少数で特攻同様の命懸けの沖縄周辺索敵攻撃で米大艦隊を確認しているにもかかわらず、
後に九州や台湾の航空基地より約2000機もの特攻機が沖縄の海に向けて小出しに出撃して散っていった。
太平洋戦争中、各戦地で日本軍の「決戦」や「総攻撃」という言葉をよく聞くが、百歩譲って「特攻作戦」を仕方なし
とした場合、航空特攻々攻撃は、米軍が終結したこの時、又は昭和20年4月1日の沖縄本島上陸日ではなかったのか?
4/1特攻出撃しているのは九州(鹿屋)(知覧)/石垣島/台湾(新竹)/徳之島などから陸海軍合わせて約30機足らず。
これでは本土決戦の時間稼ぎの為に「沖縄を捨て石にした」と言われても仕方ないだろう・・・。
日本軍のとった沖縄島米軍上陸後の沖縄戦での特攻作戦、「天一号作戦」「菊水作戦」には非常に疑問が残る。

現在は近くに古宇利大橋で有名な国頭郡今帰仁村の運天港には、海軍第27魚雷艇隊・特攻ボート震洋隊・
第2蛟龍隊(小型特攻潜水艇)が配備されていた。
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▲古宇利大橋。橋の先に見えるのは今帰仁村 古宇利島。人口330人程度の小さな島で車で1周したが15分程度だった。
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▲運天港にあった小型潜水艦基地。8隻の小型潜水艦が寄港できるスペースがあった(昭和20年6月撮影)
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▲現在の運天港。天然の良港だったが現在は埋め立てで更に広く便利になり、伊平屋島や宇古利島へのフェリーターミ
 ナルとなっている。(2017年2月13日訪問)
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▲当時海軍が建てた門柱を利用した物だろうか。現代とは似つかぬ門柱が運天港入口付近にあった。
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▲甲標的などの潜水艇の魚雷秘匿壕(現在も今帰仁村上運天付近に2ヶ所現存している)
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▲▼運天付近に2ヶ所現存している潜水艇魚雷秘匿壕。
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▼壕の突き当りから入口を見る。現在は民家のブロック塀が見えるが、当時は直ぐ先は海だったのだろう。
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▼▲1ヶ所は入口の崩落が激しく、入壕は容易では無かった(2017年2月13日訪問)
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▲レールが引かれV字形になっていた日本海軍魚雷秘匿壕の入り口付近(沖縄戦当時に米軍が撮影)
甲標的6隻、第1小隊蛟龍2隻は25日深夜に出撃。第1小隊は1時間間隔で古宇利水道を出撃、基地に戻る事は無かった。
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▼▲沖縄本島で米軍に引き揚げられる日本海軍特殊潜航艇「甲標的」
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▼引き揚げられた「甲標的」からは魚雷が2本共発射されていた。沖縄戦では「蛟龍」が初めて実戦投入された。
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昭和20年3月25日小禄の大田実中将は慶良間列島に集結した敵艦船を攻撃する為、白石海軍大尉指揮する運天港の
第27魚雷艇隊「甲標的」・第2蛟龍隊[指揮官]鶴田大尉、大下真男少尉・第3艇隊「震洋」特攻艇に出撃を命じる。
甲標的丙型1隻は、慶伊瀬島北方で駆逐艦ハリガンを撃沈、26日夕刻に無事帰投した。
昭和20年3月26日出撃準備中の蛟龍1隻が、空襲により沈没。夕刻、第2小隊は甲標的2隻での出撃となった。
米艦船は嘉手納沖合いに居た。明けた27日甲標的2隻は残波岬西方で米艦船を発見。襲撃は成功するも、執拗な反撃に
被弾、翌28日、両艇は辛くも帰投した。
昭和20年3月27日第27魚雷艇隊の10隻が22:30出撃。敵艦船群に魚雷16本を発射。米巡洋艦2隻撃沈、駆逐艦1隻撃
破の戦果を上げ全艇無事帰投。大田中将は功績を讃える電報を打った。
昭和20年3月29日「蛟龍隊」海上挺身第29戦隊第1中隊[指揮官]中川康敏少尉以下17隻が出撃。
本部半島西方の敵を襲撃し、中型船1隻轟沈、不詳船2隻撃破の戦果をあげる。
一方、第42震洋隊は2度出撃するも敵とは出会えず隊長の豊広中尉はジリジリしていた所、敵艦発見の報を受け、29日
夜、独断で第3艇隊12隻を出撃させたが、またしても敵に出会えず、朝の帰投が遅れ格納壕に震洋艇を収容する時間が
無かった為、海岸線の木陰に擬装しておいた所、3/30米軍機の空襲に遭い、爆雷が爆発。12隻全てを失ってしまう。
▼米軍に鹵獲されたベニヤ板で製作された日本海軍特攻ボート「震洋」
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豊広海軍中尉は自分の失策を大田司令官に電文で報告した。大田司令官は以下の返電を打っている。
「死を急ぐのみが特攻隊の道に非(あら)ず。万事、慎重に事を決すべし」と。
昭和20年3月30日約200機以上の大空襲を受け、第27魚雷艇隊は全滅。海軍運天港基地は、ほぼその機能を喪失した。
米軍の大空襲後、焦土と化した運天港海軍基地に残されたのは第2蛟龍隊「蛟龍」2隻のみであった。
4月6日第27魚雷艇隊司令官 白石信治大尉は、上級部隊に「当隊は今より陸上戦闘移行、国頭支隊長の指揮下に入る」
と打電して国頭半島中央部の八重岳に移動、支隊長宇土大佐の指揮下に入り、陸軍部隊と共に戦闘行動に従事した。
組織的戦闘の終了の後は本部の山中に籠もり、主として遊撃活動を実施していたが、やがて終戦を知る事となる。
▼白石大尉以下183名は終戦後も降伏を拒み続けたが、地元市長などの勧めに応じ、昭和20年9月3日投降した。
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▲9/3降伏式が行われる指定された場所へ移動する前に海兵隊員の監視の下、古我地郊外で軍刀やライフル銃、拳銃
 銃剣、弾薬などの武器を放棄する日本海軍の兵士達。
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▼昭和20年9月3日本部半島で日本兵183人降伏の儀式において白石信治海軍大尉から軍刀を受け取るウィッコフ海兵
 隊大尉(ペリリュー諸島及び沖縄における戦闘の退役軍人)
 「アメリカ合衆国政府の名において、日本国の降伏を受理する」とウィッコフ大尉は部下の前で白石大尉に告げた。
 刀はウイッコフ大尉から海兵隊第7部隊指揮官スニーディカー大佐へ手渡された。
 その後海兵隊第1師団指揮官ペック少将へ献呈される事になっている。
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▼降伏の儀式が終わり、捕虜収容所へ向かうトラックに部下達を乗せる様に命令する白石信治海軍大尉。
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▼今帰仁村渡喜仁には白石信治海軍大尉が魚雷の保管庫として構築させた壕(ハキジヌメー)が現存している。
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▼人物比較でお解りの通り入口はかなり大きく、軍用トラックで魚雷を運んでくるのにも容易な大きさだ。
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▼壕内の状態もかなり良い。地元の方達が常に清掃して頂いているからであろう。別名「渡喜仁の壕」
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▼他の坑口は崩落している場所もあるが、2ヶ所確認出来た。
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▼坑口付近で確認した文字の掘り込み。長しか読み取れない・・・。
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▼当時の物と思われる坑木も残っていた。
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▲▼流石海軍設営隊と思わせる丁寧な切削の壕だった。
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(沖縄戦当時に話を戻します)
※遠く離れた硫黄島では昭和20年3月26日硫黄島守備隊の指揮官、栗林忠道中将が約400名の生き残りの兵士に最後
 の攻撃を仕掛ける命令を下す。最後の攻撃はアメリカ陸軍航空軍の野営地に対する夜襲であった。
 夜襲を仕掛けた野営地は整備要員など戦闘に関しては素人が多かった為、パニック状態になり、170名を超える死傷
 者を出した夜襲で、栗林中将や海軍指揮官市丸利之少将は戦死。2月19日から始まった「硫黄島の戦い」が終わった。
 これにより国内2番目となる米軍との地上戦が沖縄で繰り広げられる事になっていく。
 「硫黄島証言映像」私の硫黄島・阿部 喜一YouTube

昭和20年3月26日アメリカ軍が慶良間諸島(座間味島、阿嘉島、慶留間島)に上陸を開始。
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慶良間諸島「神山島」では、上陸して来た米軍に僅かな日本軍守備隊が壮絶な斬り込みを敢行。玉砕した。
米軍占領後、沖縄本島を直接砲撃する為の陣地を構築した島だ。本島までは約10km。米軍はまずこの島から本島に
大砲を撃ち込み、艦船の艦砲射撃と共に4月1日本島上陸を果たす。沖縄戦は「神山島」から始まったとも言える。
現在は無人島である神山島には当時の戦跡が少し残っているという。しかし定期船などは無い。

昭和19年9月海の特攻隊「陸軍海上挺進戦隊」が座間味島、渡嘉敷島に約200隻配備された。
配置は、座間味島には海上挺進第1戦隊、渡嘉敷島には海上挺進第3戦隊であった。
沖縄本島に上陸してくる米軍の背後から奇襲攻撃をかける狙いだったが、日本軍の予想に反して米軍の攻略部隊は、
昭和20年3月23日数百の艦艇で慶良間諸島に砲爆撃を行い、3月26日座間味島、阿嘉島、慶留間島へ上陸。
3月27日には渡嘉敷島にも上陸、占領し、沖縄本島上陸の補給基地とした。
慶良間諸島に配備されていた200隻近い陸軍特攻艇も半数近くが出撃前に米軍の艦砲射撃によって破壊され、出撃す
る事無く、日本軍自ら爆破処分、又は米軍に鹵獲された。
座間味島を守備していた陸軍海上挺進隊(隊長・梅澤 裕少佐)は各部隊に、特攻艇を破壊して番所山に集結する事を
命令。約300人の朝鮮人労務者と共に山中に退却した。3/27戦隊の第1中隊及び第2中隊が斬込攻撃を敢行。
第1中隊は中隊長以下ほぼ全滅、第2中隊も中隊長以下大半が戦死した。この戦闘には防衛隊の他青年女子も協力。
その後は夜襲の連続で、時には凄まじい白兵戦となったが、結局日本軍は100名以上が戦死。、米軍は戦死7名・負傷
者12名だった。[ 梅澤 裕少佐(大阪府出身)は捕虜となった。享年97歳 ]
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▲慶良間諸島で米軍が鹵獲した陸軍「マルレ」の爆薬除去後、試乗準備をする米軍将校。
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▲慶良間諸島で米軍将校が試乗する陸軍海上挺進戦隊「マルレ」
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▲▼米軍に鹵獲され将校によって性能テストが終了した陸軍海上挺進戦隊「マルレ」
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慶良間諸島・沖縄本島のあちこちの湾で[特攻艇]は大量に米軍に鹵獲されている。水際撃滅作戦を放棄した日本軍には
陸戦兵器しか必要無かったかもしれない。航空機が無い中でとにかく特攻兵器を何か間に合わせで作ったという感じだ
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ベニヤ板で製作された特攻ボートに爆雷を積み、沖縄本島に上陸する米軍を背後から奇襲するという作戦だった。
しかし本島とほぼ同時に慶良間諸島に上陸を開始した米軍に日本軍の作戦は失敗に終わる。「アマガエル」と呼ばれた
特攻(海上挺進戦隊)隊員は陸戦に転じる事となっていく。秘匿壕を掘る作業には住民も駆り出された。
「軍事機密」を共有する状況になった住民達を、日本軍は厳しく監視した。
「生きて虜囚の辱めを受けず」と「戦陣訓」の論理を住民にも強いて「捕虜になったら男性は八つ裂きにされ、女性は
強姦される」などと鬼畜米英の恐怖を植え付けた結果、慶良間諸島では約600人の住民が「集団自決」し非業の最期を
遂げた。慶良間諸島の集団自決に関しては戦後、軍の命令であったか否かが焦点となり裁判沙汰となった。
当時の隊長・梅澤 裕少佐や赤松嘉次大尉が直接住民に対して自決を命令していないにせよ、当時の行き過ぎた軍国教
育が住民の自決をまねいてしまった事は事実であり、多数の将兵が捕虜となっている事実も考えると、何が何でも住民
を守る努力がもう少し必要だったのではないかと思う。梅澤 裕少佐も「米軍に対抗する戦力は無いのは解っていた」
と戦後証言している。ならば、自決を嘆願する人の側に居てあげて、住民の盾となって最後まで一緒に生き抜いて欲し
かった。百歩譲って、戦争に勝つのが軍人の仕事?とした場合、負けると悟ったさ時点で仕事をやり遂げる事が出来な
いのだから・・・。そして何より国民を守るのが軍隊の最優先の仕事であるはずだから。
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▲3/26米軍が上陸を開始した慶良間列島において「集団自決した住民」とされる写真
※この写真は沖縄県平和祈念資料館では「米軍の艦砲射撃で亡くなった住民」と説明書されていた。
昭和20年3月26日結局、米軍は沖縄本島に先駆けて慶良間諸島を攻略。翌27日には渡嘉敷島に上陸した。
(渡嘉敷島には陸軍海上挺進第3戦隊(隊長・赤松嘉次大尉)が配備されていた様だ)
一方の日本軍は、ほとんどのマルレ特攻艇を自ら破壊、陸上戦に転じていった。
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▲爆破処分され放棄された陸軍海上挺進第1戦隊の「マルレ」
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▲座間味島に上陸する米軍。
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▲4/21座間味島で撮影された日本軍上陸用舟艇
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▲昭和20年3月27日避難先から部落に戻り保護された(慶良間諸島)座間味島の住民。
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▲座間味島で保護された子供達(集団自決の際、親が喉をかき切った傷だと言う・・・)
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▼▲慶良間諸島で捕虜となった日本兵(上)と、座間味島で捕虜となった日本兵(下)(3/28米軍撮影)
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▼座間味島で捕虜となった日本兵。
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▼7/13座間味島で撮影された御嶽(うたき)
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▲昭和20年3月26日米軍の空襲を受ける奄美大島(古仁屋町)の日本軍施設。水上機用古仁屋基地の火災。

昭和20年3月26日陸軍特別攻撃隊「誠第17飛行隊」 04:00 石垣島陸軍白保(しらほ)飛行場より99式襲撃機で出撃。
※白保飛行場は、陸軍航空本部が昭和18年末頃着工昭和19年5月下旬第32軍に工事が引き継がれ8月滑走路が完成
白保飛行場の建設や補修に従事したのが昭和19年地元住民から召集された、506特設警備工兵隊(別名・郷土防衛隊)。
その愛称は、「みのかさ部隊」だ。何故「みのかさ」なのか?
 物資不足の折で軍服は配給されず、着衣はすべて私服だったからだ。当時を知る宮良祐八さん(87)は「雨が降ると、
[ みのかさ姿 ]だった。頭には2~3ミリの薄い鉄板を切り取った鉄かぶとを被っていた」と振り返る。
靴のない者はわらじを履き、野良仕事の為に田畑に出かける格好そのままだったと言う。
米軍機は日本の特攻機の出撃を妨げ様と、白保飛行場に連日の爆撃を浴びせた。「みのかさ部隊」は特攻機の離着陸を
可能にする為、敵機が去るのを待ち、モッコで土を運び、スコップで弾痕の穴を埋めた。作業中に米軍機が来襲し機銃
掃射を浴びせることもしばしばで、犠牲者が続出した。
部隊の一員だった故石垣正二さんは回想録で「血のにじむような思いで補修したら、翌日はまた(敵機が)来襲して破
壊していくという具合で、連日の出動に兵は精根も尽き果てていた」と語る。
それでも作業は沖縄戦終結まで続き「みのかさ部隊」は「八重山諸島の戦闘では最も功績が多い」と言われたという。
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▲誠第17飛行隊隊員。上列右から3人目が伊舎堂用久大尉(沖縄県石垣市登野城出身)
 昭和20年3月26日04:00石垣島陸軍白保飛行場より99式襲撃機で出撃、突入戦死。
伊舎堂 用久大尉(沖縄県石垣島出身24歳)/川瀬 嘉紀大尉(三重県出身24歳)
黒田 釋少尉(愛媛県出身21歳)/安原 正文大尉(高知県出身24歳)/久保 源次郎大尉(千葉県出身23歳)
有馬 達郎少尉(鹿児島県出身17歳)/林 至寛少尉(東京都出身17歳)/芝崎 茂大尉(埼玉県出身24歳)
(独立飛行第23中隊)三式戦闘機「飛燕」で出撃(直掩/特攻)
阿部 久作大尉(北海道出身29歳)/須賀 義榮少尉(千葉県出身23歳)/長野 光宏少尉(東京都出身21歳)
金井 勇少尉(富山県出身21歳)/岩本光守少尉朝鮮名不詳(朝鮮出身20歳)/廣瀬秀夫少尉(香川県出身19歳)
安西 為夫大尉(米軍機と空中戦の末被弾、沖永良部島に不時着)
(飛行第17戦隊)
平井 俊光少佐(岡山県出身21歳)/児子 国高大尉(岡山県出身21歳)/西尾 卓三大尉(東京都出身25歳)
国谷 弘潤大尉(富山県出身21歳)/勝又 敬大尉(愛知県出身24歳)/照崎 善久少尉(大阪府出身21歳)
西川 福治少尉(兵庫県出身21歳)
(飛行第105戦隊)
長谷川 斎大尉(愛知県出身23歳)/山元 正巳少尉(鹿児島県出身19歳)/永田 一雄少尉(鹿児島県出身20歳)
石田  勝少尉(岐阜県出身20歳)/小川 多透少尉(福岡県出身20歳)/丸林 仙治少尉(岡山県出身19歳)
内藤 善次少佐(東京都出身22歳)
(飛行第19戦隊)
根本 敏雄大尉(千葉県出身22歳)/倉澤 和孝大尉(長野県出身22歳)/栗田 常雄少尉(静岡県出身22歳)
合計31名が、石垣島陸軍白保飛行場より特攻出撃し、慶良間洋上にて突入戦死している。「沖縄翼友会」HP
現在、石垣島の「石垣新港埠頭緑地公園」内に平成25年8月15日に地元有志と全国各地の人々の寄付によって建立され
た「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」という石碑があるとの事。
伊舎堂大尉(戦死後中佐)は出撃を前に、家族が面談に来ても「郷里遠く離れて石垣島にやってきて家族にも会えない部
下達がいるのに自分だけが会うわけにはいかない」と、最後まで家族と面会せず、部下と共に特攻散華された。
石碑には以下の碑文が刻まれている。
『大東亜戦争終結六十八年を経たわが国は、戦後の荒廃を乗り越え、平和で豊かな生活を送ることが出来ています。現
代のわが国の平和と繁栄は、国家存亡の危機に殉じた英霊と戦争の犠牲となった多くの方々の礎によってもたらされた
ことを心に留め、その史実を後世に伝えていかねばなりません』と。石垣島に行く事があれば必ず訪れようと思う。

※海軍石垣島南飛行場(平得飛行場)からは神風特別攻撃隊が出撃している。
昭和20年4月1日神風特別攻撃隊「第1大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
清水 武中尉(山口県出身)/酒井 正俊中尉(岐阜県出身)/松岡 清治2飛曹(埼玉県出身)/大田 静輝2飛曹(広島県出身)
昭和20年4月2日神風特別攻撃隊「第2大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
伊藤 喜代治中尉(東京都出身)
昭和20年4月4日神風特別攻撃隊「第4大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
矢田 義治上飛曹(愛知県出身)
昭和20年4月5日神風特別攻撃隊「第5大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
小林 友一上飛曹(山梨県出身)/辻村 健一郎1飛曹(山口県出身)
昭和20年4月13日神風特別攻撃隊「第9大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
満田 茂中尉(兵庫県出身)/山崎 隆2飛曹(京都府出身)
昭和20年4月14日神風特別攻撃隊「第10大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
粕谷 仁司中尉(兵庫県出身)/三浦 義信2飛曹(北海道出身)
昭和20年4月17日神風特別攻撃隊「第12大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
斎藤 信雄飛曹長(茨城県出身)/文谷 良明1飛曹(大阪府出身)
昭和20年4月28日神風特別攻撃隊「第15大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
和田 文蔵2飛曹(長崎県出身)
昭和20年5月4日神風特別攻撃隊「第17大義隊」 石垣地基地より零戦で出撃
細川 孜中尉(長野県出身)/橋爪 和美2飛曹/佐野 一斉2飛曹(山梨県出身)
▼石垣島地図
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▲黄印(新石垣空港)、緑印(陸軍白保飛行場)、紫印(海軍平得飛行場/旧石垣空港)、ピンク印(海軍平喜名飛行場)
石垣島に初めて飛行場が完成したのは昭和8年に完成した平喜名飛行場(海軍石垣島北飛行場)である。
現在跡地の大部分が国際農林水産業研究センター熱帯・島嶼研究拠点となっており一般人立入禁止となっている。
敷地内に通信施設が残存し、北側の宮良川沿い崖には日本軍が掘ったという壕が現存しているとの事だ。
昭和19年2月海軍飛行場として建設されたのが石垣島南(平得)飛行場。戦後平得飛行場を引き続き整備したのが、
2013年3月6日に役目を終えた旧石垣空港だった(現在は新石垣空港に機能を移転)
石垣島南東部に位置する石垣市宮良には宮良飛行場(秘匿飛行場)も存在していたそうだ。

(沖縄本島に話を戻します)
「天一号作戦」(沖縄方面航空作戦)に基づく日本軍機の沖縄出現が無いのに失望し、いたたまれなくなった神少佐
は、32軍直轄特攻隊(佐藤少佐の独立飛行第46中隊[ 第32軍直属偵察飛行隊 ]を基幹とし、南方転途中、故障など
の為、中飛行場に不時着した飛行機を加えた臨時編成部隊約15機足らずの「赤心隊」を編成。
昭和20年3月26日夕方、陸軍特別攻撃隊「赤心隊」 陸軍中飛行場より陸軍99式軍偵察機7機で出撃。
鶴見国志郎少尉/上宮賢了少尉/谷川広士軍曹/三竹 忍伍長/青木健二軍曹/美坂洋男伍長/吉野芳積伍長
※「赤心隊」は沖縄32軍直轄の直協部隊
首里城山上では牛島軍司令官も見守った。奇跡的に全機敵艦隊の目前で離陸を完了した7機は、機首をかえ、単縦陣
をもって首里上空を高く、大きく旋回し、翼を左右に振って軍司令官に決別を告げ、米艦隊に突入を開始する。
1機が被弾して海中に墜落、他の6機は次々に突入していった。

昭和20年3月27日陸軍特別攻撃隊「赤心隊」 陸軍中飛行場より陸軍99式軍偵察機2機で出撃。 
昭和20年3月27日陸軍特別攻撃隊(誠第32飛行隊)「武剋隊」が05:30陸軍中飛行場より99式襲撃機9機で出撃。
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▲誠第32飛行隊「武剋隊」隊員
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▲別れの杯を交わす誠第32飛行隊「武剋隊」隊長 広森達郎中尉(三重県出身)
250㌔爆弾を抱えた陸軍99式襲撃機は3機づつの編隊を組んで飛行、慶良間列島北東へ飛んで行った。
広森達郎中尉/清宗孝己少尉/林 一満少尉/今西 修軍曹/今野勝郎軍曹/出戸栄吉軍曹/伊福 孝軍曹
大平定雄伍長/島田貫三軍曹
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▲3/27慶良間列島を哨戒中の米中型揚陸艦が特攻機の突入を受ける。
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▲▼特攻機の突入をうけた米中型揚陸艦LSM(R)-188
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▲特攻機の突入部分。満載だったロケット弾が艦内で爆発しなかったのが米軍にとっては幸いだった。
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▲3/27米戦艦ネバダ(USS Nevada)に誠第32飛行隊「武剋隊」か「赤心隊」の特攻機が突入。
 乗組員11人が死亡、主砲塔に被害を受けた。ネバダは日米開戦の真珠湾攻撃で海軍機に小破された艦だ。
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▲ネバダに特攻した搭乗員の遺体を調べる米兵。甲板に遺骸が飛び散り胴体だけが残っている・・・。
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▲特攻隊員の所持品から出てきた「日の丸」の寄せ書きか・・・?血だらけの様に見える・・・言葉がない。
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▲特攻機の突入で戦死したネバダ乗組員。
昭和20年3月28日陸軍特別攻撃隊「赤心隊」 陸軍中飛行場より陸軍99式軍偵察機5機で出撃。

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▲3/28沖縄本島日本軍の対空砲火により損傷し空母エセックスに帰還するTBM機(第83飛行群所属)

昭和20年3月29日陸軍特別攻撃隊(誠第41飛行隊「扶揺隊」)が陸軍北飛行場より97式戦闘機9機で出撃。
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▲沖縄への特攻出撃が決まり、旧満州(新京)で写真におさまる誠第41飛行隊「扶揺隊」隊員
高祖 一少尉/小川真一曹長/堀口政則軍曹/大河正明伍長[本名、朴東勲(朝鮮出身)]
(離陸時、米艦隊艦砲射撃と空襲を受け5機が離陸不能となり、辛うじて4機が離陸に成功、目の前の米艦隊に突入)
以下は出撃時に搭乗機を失い沖縄本島を歩き続け、与論島→徳之島→佐世保に帰還し、新田原→知覧そして熊本県の
陸軍菊池飛行場→宮崎県都城東飛行場で終戦を迎えた金田伍長の体験記である。

寺山大尉/塩谷伍長/上村軍曹/菊田軍曹/金田伍長の5名は搭乗機を失い、第32軍航空参謀より「寺山大尉以下4名は
速やかに内地へ帰還の上、再度出撃せよ」との命令を受け、5名全員、飛行服に飛行長靴、拳銃一丁の装備で北飛行場
を出発、徒歩で金武の海軍基地(洞窟陣地)に向かう。海軍指揮官に内地帰還の為の舟艇の手配を頼むも「中城湾洋上に
は敵巡洋艦他の艦艇が遊弋(ゆうよく)中で基地が発見される恐れがある」と断られる。
「名護」又は「運天港」海軍基地の舟艇を利用して帰還する為に4/1金武を出発。宜野座村を経て名護岳に向う。
名護で「国頭支隊」宇土大佐率いる一個連隊と八重岳に向かう事となり、疲労困憊した身体に鞭打って歩く。
宇土部隊で対空監視及び敵状監視の任務に就く。国頭支隊には学徒動員された三高女学生約10名が勤務していた。
4/30頃、国頭支隊は八重岳を放棄して多野岳に転進。三高女生を山中に避難していた住民や家族を頼りに帰宅させる
宇土部隊副官は国頭支隊を小人数部隊に分散、自活戦闘に入る。5/12頃寺山大尉以下5名の空中勤務者(特攻隊員)は
別行動をとる事になる。
5/19頃、一ツ岳に到着。北大尉指揮する中野学校特務班が秘匿された隠れ家を拠点にして5~6名で情報蒐集活動を
行っている場所で特務班と行動を共にして情報活動を支援。その時、塩谷伍長が偵察に出るも戻らず(戦死か捕虜)
ヤンバル地区中央突破(山岳密林地帯)を野宿を重ねながら歩き続ける。服は破け、靴は底が抜けて縛りつけながらの
行軍で栄養失調症状が出ながら奥部落民の避難していた山中の隠れ家に辿り着く。
よれよれの、しかも飛行服という見馴れない服装に、一時は米兵と見間違えられるハプニングもあった。
5/29頃、辺土岬が見える奥部落で漁民にくり舟で与論島への渡航を頼みこみ、くり舟二艘で与論島へ渡航。
6/1夜、敵に発見されない様に細心の注意を払って沖に出る。早朝、与論島の浜辺に着く。周辺は静かで不気味で浜辺
の岩陰に身を潜めたが偵察の結果、まだ米軍に占領はされておらず、守備隊が居るとの事で安堵する。守備隊の駐屯地
まで歩き、守備隊指揮官の陸軍少尉に、内地帰還の中途である旨を告げ、与論島で約10日間を過ごす。
6/11船舶部隊差し向けの「ダイハツ」により与論島20:00出発。6/12沖之永良部島に到着。
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▲沖縄戦で米軍に鹵獲された「ダイハツ(大型発動艇)」 写真の大発は海軍の大発艇の様だ。
6/15夜、沖永良部島を「ダイハツ」で出発。朝方、徳之島に上陸し、奄美群島陸軍司令部で沖縄戦況報告をし、内地
帰還を図って戴く様お願いして連日空襲に見まわれる徳之島で約1週間留まる。
6/17沖縄を脱出して大本営に向かう途中来島していた第32軍航空参謀神直道中佐の乗る99式襲撃機に寺山大尉は同乗
操縦し、徳之島を飛び立ち九州に向かった。
6/23「ダイハツ」で徳之島を夜間出港。朝方に奄美大島名瀬港に着き上陸。名瀬海軍基地の宿舎で待機。
そこには既に20名程の空中勤務者(特攻隊員)が内地帰還を待っており、毎日囲碁をしながら海軍水上機の便を待つだけ
であった。名瀬海軍基地へは佐世保より週1~2回定期連絡の水上機が来ていたので、その帰路に1~2名乗せて内地へ
帰投していた。
7/4残った「扶揺隊」の3名が搭乗する事となり水上機は離水、佐世保に向かって飛び立ち、佐世保海軍基地に着水。
遂に内地に辿り着く。いよいよ沖縄北飛行場での挫折を挽回し、再度の出撃を早期に果たすべく覚悟を新たにする。
福岡市筑紫高女校に司令部を置く陸軍第6航空軍で10日間程待機するも当時軍には余裕の飛行機はなく、作戦的にも大
変な時期であった。飛行機の受領は菊田軍曹は新田原へ直行受領待機、上村軍曹は福岡菰田の飛行場から、金田伍長は
知覧で受領して新田原で待機となりその後出撃の機会は無く、終戦を迎える事となる。
生きて終戦を迎えてくれたからこそこの話が紹介出来る。強運の持ち主の特攻隊員ではあるが、私は本当にお疲れ様で
した と言いたい。そして本当に生きていてくれて良かったと思う。
(沖縄戦当時に話を戻します)
昭和20年3月31日夜、米艦隊は島尻東部沖合に終結、沖縄本島上陸の準備へ・・・ところがこれは 陽動作戦であった
昭和20年4月1日4:00史上最大級1300隻もの米大艦隊が一斉に北谷・嘉手納・読谷海岸に殺到。
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▲昭和20年4月1日砲撃を行う米戦艦アイダホ(USS Idaho)
※昭和20年4月1日神風特別攻撃隊「第1大義隊」が石垣島基地より零戦で出撃。
清水武中尉(山口県出身)/酒井正俊中尉(岐阜県出身)/松岡清治2飛曹(埼玉県出身)/大田静輝2飛曹(広島県出身)
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▲4/1米空母機動部隊の戦闘機に撃墜され、米駆逐艦により救出される日本軍パイロット。
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▲救出された日本軍パイロットが武器を持っていないか体をさぐる副艦長。
 海に投げ出された日本軍パイロットは9人確認されたが、他の日本兵は駆逐艦が近づくと、泳いで逃げたと言う。
 米空母機動部隊の戦闘機に撃墜されている事や、海上で9名もの投げ出された日本軍パイロットが確認されている事
 から、4/1鹿屋を出撃した第2回神雷桜花特別攻撃隊(一式陸上攻撃機3機+桜花3機)の搭乗員の可能性が高い。

昭和20年4月1日5:30米艦隊の容赦無い10万発にも及ぶ艦砲射撃が始まった・・・。
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沿岸部の構造物を全て吹き飛ばした後、8:00~9:00頃までに16000名、夕刻までに60000名の米軍上陸部隊が北谷
から読谷にかけて上陸。南方諸島で日本軍と戦ってきた海兵隊員は恐怖で誰もが神経質になっていたと言う。
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▲上陸用舟艇から沖縄本島を目指して上陸する米海兵隊。
しかし日本軍守備隊からの砲撃らしい砲撃は無く、上陸作戦は演習さながらの平穏な上陸ぶりであった様だ。
その頃、日本軍守備隊は首里司令部を防衛する為の各防衛線の陣地豪に潜み、米軍を迎え撃つ態勢を整えていた。
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▲米軍が上陸した読谷村渡具知ビーチ(泊城公園内)
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▲米軍上陸当時のほぼ同じ場所(昭和20年4月1日米軍撮影)
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▲米軍上陸当時の同じ場所(米軍撮影)
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▲ほぼ同じ場所で撮影(2017年2月14日再訪)
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▼▲泊城公園の小高い場所に米軍上陸の碑がある。
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▼上空から米軍上陸地点の比謝河口付近を撮影した物(写真中央右手辺りが現在の泊城公園)
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▲比謝川河口付近で資材を揚陸する米軍(昭和20年4月撮影)
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▲米軍上陸の碑から比謝川河口付近を見下ろす。
 上記古写真とほぼ同じアングルだ。現在はかなり河口付近が広げられている
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▲読谷村渡具知、比謝河口付近で資材を揚陸する米軍(昭和20年4月撮影)
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▲上下古写真とほぼ同じ位置を撮影。
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▲4/1上陸後に米軍が撮影した比謝河口付近ビーチの日本軍トーチカの銃眼側。
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▲4/1上陸後に米軍が撮影した比謝河口付近ビーチの日本軍トーチカの入口側。
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▲対艦砲・重機関銃射撃用副砲門の銃眼が供えられたトーチカ(7/20撮影)楚辺海岸に現存するトーチカに見える。
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都屋漁港内に現存する銃眼はあるが、それか?それとも恩納村真栄田にある「くりぬき岩」と呼ばれるトーチカか?
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▼上記の現在の写真とは少々アングルが違うが米軍上陸当時の写真。現在の泊城公園内
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▼上陸後直ちに40㎜高射砲機銃を設置、空からの日本軍の反撃に備える米軍。海には無数の米艦船が見える。
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▼泊城公園直ぐ(位置的には「米軍上陸の碑」下)比謝川河口付近にマルレ(陸軍特攻ボート)の秘匿壕が残されている。
 ここは陸軍海上挺身隊第29戦隊第1中隊の特攻艇「マルレ」17隻が配備されていたと言われている。
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この場所は私有地なので所有者に許可を得て見学させて頂く必要がある。
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▼米軍上陸後に撮影された比謝川近くのマルレ海上特攻艇秘匿壕(上記写真の右奥と思われる)
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地元住民も切削作業に従事し、いよいよ米軍が迫ってくると、特攻基地を知る住民は一ヶ所に集められ、軍秘密保持の
為に自決を強要されたケースもあったと言う。
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▼米軍上陸後に撮影された比謝川近くのマルレ海上特攻艇秘匿壕(上記写真と同じ秘匿壕)
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「特攻艇秘匿壕跡」はここ以外にも複数遺されているとの事。陸軍特攻艇(四式肉薄攻撃艇/通称マルレ)は装甲のない
ベニヤ製の船体にトラック用のエンジンを搭載したモーターボートで、250kg爆雷を搭載していた。
夜間に数十隻で体当たり攻撃を行う戦術。正式な戦果は確認されていないが、米軍輸送艇を1隻撃破したとの話が残っ
ているそうだ。
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▲見学させて頂いた敷地を、比謝川を挟んで反対側の丘から米軍上陸時に撮影された写真(秘匿壕がはっきり写る)
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▲現在の同じアングル(2017年2月14日撮影)
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▲現在も沖縄戦当時と変わらず陸軍特攻艇秘匿壕が口を開けている。
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飛行場が特攻機の基地となった様に海岸は特攻艇の基地となった。マルレは長さ5.6m、重さ1トン。マルレ海上特攻艇
は沖縄の各地に配備され、読谷、北谷は第29戦隊が山本大尉を長として置かれた。
昭和19年末から陸軍特攻隊海上艇進隊がやってきたが、輸送船団は途中の海上で空襲を受け、現地に到着したのは
第1中隊の特攻艇わずか20隻にすぎなかった。
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▲米軍上陸後に撮影された比謝川近くのマルレ海上特攻艇秘匿壕(下記写真と同じ場所)
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1つの格納豪の長さは約25メートル程。秘匿壕は基本5mの「マルレ」を3~5隻格納出来る様に掘られた。
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▼▲米軍上陸後に撮影された比謝川近くのマルレ海上特攻艇秘匿壕(特攻艇は無いが台と運搬レールが写っている)
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▼豪の中から外を撮影した写真。
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昭和20年3月29日特攻艇17隻が慶良間に集結した米艦隊めざして出撃したが、米軍側記録で戦果は確認されていない
昭和20年4月4日米軍上陸用舟艇LCI(G)-82を撃沈/LSM-12を沖縄沖で撃沈。
米軍LSM-12は戦車 3~5台あるいは水陸両用上陸用舟艇 LVT 6台又は水陸両用トラック DUKW9台を搭載した輸送艇
であった。
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▲陸軍四式肉薄攻撃艇(通称マルレ) ※海軍は「震洋」で船先端に爆弾を積み、陸軍マルレとは設計が異なる。
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▲比謝川沿いの丘を写した写真。日本軍の荷船が写っているのが解るだろうか。
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▲別の角度から。カムフラージュの網がかけられ解りにくくなっている。
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▲特定は難しいが、上記古写真とだいたい同じ場所を撮影(2017年2月14日)
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日本軍は爆破処分擦する間もなく慌てて逃げていったと言う。
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▲カムフラージュの網や木々をどける。「ホ254」と見える、日本軍の荷船だ。
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▲爆破処分されずに放棄された日本軍の荷船。粗末な木造船だ。
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▲積み荷にドラム缶が残されている。マルレ特攻ボート用のガソリンか・・・?

昭和20年4月1日米軍は上陸したその日、30分程で上陸地点から僅か800m地点のチビチリガマの洞窟を発見。
投降を呼びかけた。しかし、「鬼畜米英」の教育を信じていたチビチリガマ内の住民達は投降しなかった。
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▼▲米軍上陸初日4/1に投降してきた住民達も多かったのも事実。不安げな表情が伝わってくる。
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昭和20年4月2日鬼畜米英と教えられた住民は、アメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れ、「民間人は殺さない」という米兵
の言葉を信じられない12~3名の住民が、「日本男児じゃないか!武鎗を持て!」と壕の中から竹槍持って出て行き、
米軍に反撃。米軍は応戦、銃撃で男2名が負傷。これを見た避難民は動揺し、鎌や包丁、看護婦が持っていた毒薬など
で、家族が殺し合い自決するという惨劇が繰り広げられた。布団に火が点けられ、煙で窒息死した人が1番多かったと
言う。住民避難者約140人中、83人が非業の最期を遂げた。
毎年4月2日は遺族だけで慰霊祭が行われている。読谷村では9か所で集団自決が起き、139人が自ら命を断った。
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▲県道6号線から少し入った場所にチビチリガマへの入口階段が設置されている(読谷村波平1136-2)
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▲階段を下り終えると大きなチビチリガマの入口と慰霊碑がある。
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▲ガマの中は亡くなった方の墓として、これ以上の立ち入りは現在禁止されている。
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▲亡くなった方のお名前が記された石碑。亡くなった方の6割が18歳以下の子供。中には4ヶ月の赤ん坊もいた。

▼チビチリガマから1㌔も離れていない場所にシムクガマの洞窟がある。サトウキビ畑から入って行く。
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▼細い1本道を森の中へ入って行くと、放置され、野生化したサトウキビが左右に迫る。
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収穫されたサトウキビは国が買い上げるシステムらしいが、重労働の為、若い人は敬遠し、こうやってサトウキビ畑が
野生化していく場所も多いと言う。
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▲サトウキビ畑を抜けると、いよいよ山道に入ってくる。
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▼波平又川原(マタガーバル)のシムクガマが見えた、大きい。
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このガマには住民約1000人が避難した。住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人も居
たと言う。まさに運命の分かれ道。昭和20年4月1日シムクガマでもチビチリガマ同様、米軍が投降を呼びかけた。
壕の中はパニックになったが、避難していた住民の中に、ハワイで出稼ぎ経験のある2人の老人、比嘉平治氏(72歳)と
比嘉平三氏(63歳)が「アメリカ人は民間人を殺すはずが無い、米軍は国際法に従って行動しているから大丈夫助かる」
と訴え人々を説き伏せる事に成功。そして英語も話せた2人が米兵と会話し、1人の犠牲者も無く全員が保護された。
チビチリガマとシムクガマの対照的な結末は、外国を知らない無知さと、当時の日本の教育とが複雑に混じり合って起
きた結末だった。現在の日本でも十分考えられる事だ、「外国から日本を見る」という事の重要性を思い知らされた。
しかし、米軍に保護された住民が収容所や米軍の占領地域で暴行や強盗行為が無かった訳では無い。
沖縄戦の最中、戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったと言う。
中には夫の目の前で犯された女性もいたともいわれている。米軍兵士により強姦された女性数は推定10000人・・・。
現在も続く沖縄県民に対する沖縄駐留米兵が起こす様々な事件は、沖縄戦からずっと続いている・・・。
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(沖縄戦当時に話を戻します)
▼米軍上陸初日4/1の読谷村
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▼4/1北谷町謝苅付近を進撃する米軍
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※昭和20年4月2日神風特別攻撃隊「第2大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃。
伊藤 喜代治中尉(東京都出身)

▼昭和20年4月1日読谷村の海岸に上陸する米軍。
 米軍の猛攻撃で護岸は破壊され、日本軍は丘陵地帯へ逃げ、米軍は大した被害も死傷者も出さずに浜に上陸した。
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▼▲4/1読谷村大湾を進軍する第1海兵師団第5連隊
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日本側の死者・行方不明者約19万人(県外出身将兵約66000人/沖縄県外出身正規兵約28000人/沖縄住民約95000人)
アメリカ軍側の死者・行方不明者14000人、イギリス軍の死者82人を出した壮絶な沖縄地上戦が始まった・・・。
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▼進撃する米軍M4戦車
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▼出征時に兵隊を送り出す「のぼり」を手に取る米兵。「知名 定序」君と書かれている・・・沖縄県出身者の兵か。
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▼空き家となった読谷村渡具知の日本軍兵舎を調べる米兵。
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▼読谷村の渡慶次小学校を調べる米軍(現在も読谷立渡慶次小学校)沖縄県中頭郡読谷村字瀬名波5
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うるま市の「具志川域社の壕」では、米軍上陸後の4/4地元の若者13名が自決した。
金武湾に面した標高20mの石灰岩上に築かれた独立した城には自然壕を利用した日本軍陣地が多数構築されていた。
昭和20年4月4日昼前、侵攻する米軍が壕に近づいて来た。壕に立てこもっていた若い男女23名が郷土を守る為、危険
を承知で手榴弾を投げつけた。米軍は機関銃や火炎放射器で応戦、凄まじい攻撃に、もはや逃ぬものと観念した男女は
手榴弾で自決を決意。壕の中で二つ輪になって座り「海ゆかば」を歌い「自爆」を合図に自決を敢行した。
NHK戦争と証言「具志川城祉の壕(うるま市)」での具志川城祉を早とちり、間違って糸満市の具志川城祉を訪れた。
具志川城は、同一名の三グスクの中のひとつで、うるま市と糸満市と久米島にあるとの事だ。
「具志川域社の壕」は慰霊碑の脇に現存するそうなので、次回訪れて慰霊したいと思う。
(沖縄戦当時に話を戻します)
▼米軍上陸後、最初の捕虜となり尋問を受ける日本兵。潜んでいた豪が右奥に写っている(4/5撮影)
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▼カムフラージュされた日本軍兵舎(知覧の三角兵舎とよく似ている)
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▼米軍に発見された日本軍施設。迷彩塗装が施され、ネットで偽装されていた。粗末な木造作りだ(4/6撮影)
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▼沖縄戦当時の座喜味城跡
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▼現在の座喜味城跡
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座喜味城跡は座喜味集落の丘にあった。1420年(尚思紹王代15)頃、護佐丸が山田城の石を運んで築城したと伝えらる。
南側に座喜味集落や陸軍北飛行場跡を見下ろす事が出来、沖縄本島中部西海岸から那覇まで望見出来た。
昭和18年北飛行場建設に伴い昭和19年8月陸軍第21野戦高射砲司令部指揮下「独立高射砲第27大隊第3中隊」(光本中
尉中隊長)によって陣地構築が進められた。当時同部隊は仲宗根宅(現曽根)等を接収して宿舎に当てられた。
城跡本丸に土塁に囲まれた6門の高射砲が設置された。昭和19年の十十空襲時の応戦では低空で襲ってくるアメリカ軍
機に対し、下向きに発射する事が出来ず、高射砲の効果を発揮する事が出来なかったと言う。
※独立高射砲第27大隊574名は、[ 那覇市小禄垣花台地/大滝大隊長]、第1中隊[ 那覇市小禄48・2高地/中村中隊長 ]、
第2中隊[ 氏天久台地49・5高地/内田中隊長 ]、そして第3中隊が[ 中頭郡読谷村座喜味城址に。照空隊を天久・先原崎、
聴測隊を那覇市波之上/光本中隊長 ]にそれぞれ配備された。その後米軍の上陸が迫り、座喜味にあった6門の高射砲は、
具志へ4門、小渡へ1門、国吉へ1門移転された。沖縄戦終結までに大隊将兵574名中464名が戦死している。
▼現在、島尻郡八重瀬町安里に『独立高射砲第二十七大隊英霊の碑』が1基の現存する高射砲と共にある。
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▲米軍進行図(赤印は陸軍北飛行場/青印は陸軍中飛行場)
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▲陸軍北飛行場滑走路跡(米軍に占領され、読谷補助飛行場となり舗装がやり直されているが当時と同じ位置だ)
約660人の住民の土地を軍が接収、昭和18年から始まった建設工事には住民も動員し完成。1500m級の滑走路を3本
備え、県内最大の飛行場だった日本陸軍の北飛行場跡だ。
昭和19年秋から運用が始まったが、昭和20年4月1日米軍本島上陸3時間後の11:30に真っ先に占領されてしまう。
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▲陸軍北飛行場当時の航空写真(米軍の爆撃で滑走路が荒れている)
昭和20年4月1日米軍約6万人が上陸、即日進撃し、10キロ先の北飛行場と中飛行場を占拠。 日本軍は沖縄守備兵力
10万人では太刀打ち出来ないと判断。沖縄島内で持久戦に持ち込もうと残存機を爆破処分、飛行場を放棄した。
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▲平成18年12月全面返還され、今後の読谷村の活用が期待されている北飛行場(読谷補助飛行場)跡。
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▲米軍占領当時の陸軍北飛行場(上記写真とだいたい同じ場所)
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▲▼陸軍北飛行場を占領した米軍の目に飛び込んで来たのは木枠に藁や竹で作られたダミー日本軍機だった・・・。
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▲▼敵に上空から戦闘機が駐機している様に騙す為に、藁などで巧妙に作られた。
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これを見た米兵はどの様に感じていただろう・・・。資源の乏しい日本を哀れに思ったであろうか・・・。
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それとも、巧妙な作りに感激したであろうか・・・。これを製作するのも大変だったと思うが・・・。
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▼ダミー戦闘機を調べる米兵。
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ダミー機にしても日本人らしい細かい作りだ・・・。竹と木の枠だけでよくこの様な実物大を大量に作ったものだ。
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▼▲日本軍の努力を茶化す海兵隊員。実際、ダミー戦闘機は誰もだませていない。
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▼飛行場に置かれていたのかは不明だが、ダミー戦車を調べる米兵を写した写真。沖縄戦で4月に撮影された。
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▼北飛行場では4機の「桜花」が米軍に鹵獲された、米兵が「桜花」の実物を見るのはこれが初めてだった。
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コクピットより前側は約1.2t爆弾を搭載、ジェット・エンジンを搭載、アルミの胴体、木製の翼、爆撃機の腹下に桜花
を固定。敵艦船上空まで運ぶ。切り離された「桜花」は操縦士もろともジェットエンジンの加速と共に敵艦に特攻。
この日本海軍が開発した自殺兵器を米軍は「バカ爆弾」と呼んだ。
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▲▼北飛行場で米軍に鹵獲された海軍特攻機「桜花」。陸軍機はことごとく破壊して飛行場を放棄していった様だが、
海軍の兵器はそのまま放棄して行ったという事か・・・そもそも「桜花」を運ぶ母機は陸軍機を使う予定だったのか?
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▲▼日本軍自ら爆破処分した日本軍機(北飛行場)
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▲日本軍が放棄していったブルドーザを修理して使用しようとする米工兵隊員。物量豊かな米軍でもこの様に敵軍の
 物を分析し、使える物は修理して使い、相手を徹底的に分析する部分は日本が見習わなければならない部分だろう。
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▲放棄された日本軍ディーゼルトラクター
陸軍飛行場建設に動員された人達の話で「人力だけだった」「牛でローラーを引いていた」という話を聞くが、この写
真でも解る様に、飛行場建設には日本軍も重機を導入していた事が解る。でないと人力だけでは広大な飛行場を建設す
るのは無理だろう・・・。(導入された重機の数は米軍の比ではないだろうが・・・)
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▲米軍に占領された陸軍北飛行場
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▲米軍の艦砲射撃で壊滅した嘉手納村(昭和20年4月19日米軍撮影)左端に沖縄県営軽便鉄道の貨車が写っている。
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▲高射砲で撃墜した日本軍機の翼を撃墜数スコアボードとして使用した。中城湾付近で米軍撮影。
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▲4/2に米軍が撮影した1枚。[崎本部橋]昭和5年8?月架と書いてある。今も残っているだろうか・・・。
 ※おそらく現在の沖縄県国頭郡本部町崎本部(くにがみぐんもとぶちょうさきもとぶ)付近と思われる。
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▲昭和20年3月27日朝に実施された爆撃の際に、TBM(米軍偵察機)が撮影した中飛行場(下)と北飛行場(上)。
 2基地が同時に写っている写真は非常に珍しく、中飛行場滑走路は爆撃で既に穴だらけになっている。
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▲陸軍中飛行場(現 米軍嘉手納飛行場)
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▲陸軍中飛行場に放棄された陸軍一式戦闘機「隼」胴体の「日の丸」が無い事に注目。
 陸海軍共に、特攻作戦後期には、この様に機体全てを黒く塗られた機もあったと聞いた事がある。国を識別する国旗
 すら描かない程に追い詰められ、何とか特攻を成功させようとしていた日本軍の意図が読み取れる。
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▲陸軍中飛行場に放棄された陸軍四式戦闘機「疾風」米兵がコクピットを調べている。
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▲陸軍中飛行場に放棄された陸軍四式戦闘機「疾風」を本国へ持ち帰る為に修理し、エンジンに火を入れる
 TAI(戦術航空爆撃隊)の兵士。「疾風」をワシントンDCへ送る準備が整いつつある。
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▲▼占領された中飛行場を通り抜ける米軍戦車。
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▲▼「道の駅かでな」から現在の米軍嘉手納飛行場(旧陸軍中飛行場)を見渡す事が出来る。
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▼「道の駅かでな」の横には「独立行政法人駐留軍等労働者労務管理機構 沖縄支部」がある。ここは日本政府の出先
機関で、米軍基地で働く日本人人材派遣センターの様な場所。米軍基地内の芝生はとても綺麗に手入れされており、真
面目で勤勉な日本人の性格がよく表れている。当然給料はアメリカ政府。では無く我々の税金が使われている。
アメリカ軍内でも沖縄勤務は大人気。それもそのはず電気・水道・ガス・家賃など生活必要経費は全て日本もち~。
資源の無い敗戦国の国防はお金がかかるのだ。米軍関係者所有の自家用車などの自動車税はなんと正規金額の七分の一
でしかも任意~。任意で税金払う人っているんですか(笑)米兵は言います「沖縄勤務は貯金が出来るから助かってるよ」
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(沖縄戦当時に話を戻します)
※昭和20年4月4日神風特別攻撃隊「第4大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
矢田 義治上飛曹(愛知県出身)
※昭和20年4月5日神風特別攻撃隊「第5大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
小林 友一上飛曹(山梨県出身)/辻村 健一郎1飛曹(山口県出身)

昭和20年4月7日14時23分沖縄に向けて海上特攻出撃した「戦艦大和」が米軍機の激しい攻撃を受け沈没。
沖縄特攻作戦での「戦艦大和」沖縄派遣に第32軍首脳は、「有難いことだが、辞退(出撃中止)申し上げろ」と大本営に
返電を指示。大本営が沖縄作戦の切り札として派遣した「戦艦大和」が特攻しても情勢は変わらない。と第32軍首脳は
判断し、大和派遣の中止を要望したが既に大和出撃の後で手遅れだったと言う(電報が届いていないとの話もある)
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この日、日本海軍連合艦隊は事実上壊滅した。
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4/13日本軍機の偵察結果で、奪われた北・中飛行場に既に150機の米軍機が配備されているのが確認された。
この間、陸・海軍共に多くの艦船攻撃機や特攻機を出撃させたが、特攻機の命中率は極めて低かった。
これは敵レーダーに捕捉され、北・中飛行場に配備された米軍機に邀撃されているのが原因と推察された。
そこで台頭したのが両飛行場制圧の為に陸軍「義烈空挺隊」の投入であった。
[義烈空挺隊]とは沖縄戦期間中の昭和20年5月24日北・中飛行場の強行着陸と破壊を目標とした[義号作戦]に用いら
空挺部隊である。昭和19年サイパン陥落後、米軍はサイパンにB29の基地を設けて東京を空襲した。
この米軍基地に対し、強行着陸して飛行機を破壊し、搭乗員等を殺傷する目的で昭和19年12月上旬第1挺進団(パラシ
ュート部隊)第4中隊の選抜要員+陸軍中野学校諜報要員+第3独立飛行隊から編成された部隊の名称である。
義烈空挺隊に関しては[陸軍特別攻撃隊参照]
しかしサイパン突入作戦は中止、次いで硫黄島作戦も中止となった。そして5/24沖縄攻撃作戦(義号作戦)において、
大本営が作戦に消極的な中、北(読谷)飛行場・中(嘉手納)飛行場への強行着陸(特攻)に投入された。
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▲陸軍北飛行場跡(読谷補助飛行場跡)には掩体豪が残され、義烈空挺隊玉砕の碑が立てられている。
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▲昭和20年5月24日18:00「義烈空挺隊」を乗せた陸軍97式重爆撃機12機が熊本県健軍飛行場から出撃。
エンジントラブルや航路ミスで4機が帰還。8機112名が沖縄に向かうも7機は米軍の対空砲火で撃墜されてしまう。
たった1機(9番機)が北飛行場滑走路を北東から南西に滑走して胴体着陸に成功。少なくとも8名の隊員が飛び出した。
隊員は駐機してあった米軍機を次々に破壊後玉砕していった。1人生き残った様だが翌日米軍に射殺された。
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▲北飛行場滑走路跡より「義烈空挺隊」を乗せた陸軍97式重爆撃機が飛んで来た方角を見る。
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▲北飛行場に強行着陸に成功した唯一の1機[9番機 尾翼番号(6)546]
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▲▼飛び出した義烈空挺隊員に爆破された米軍輸送機や戦闘機。
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▲▼強行着陸に成功した唯一の1機(546)から飛び出した義烈空挺隊員は決死で米軍機を次々に爆破し、散華。
(6546)9番機搭乗員 [第3小隊長]渡部大尉/[操縦担当]久野中尉、荒谷少尉/[航法,通信担当]酒井少尉、簑島曹長
[第3小隊第1分隊長]山城准尉/池島曹長/井上曹長/山本曹長/佐藤軍曹/岡本伍長/加藤伍長/田中伍長/村瀬伍長
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▲北飛行場に無残な姿で散らばる義烈空挺隊員を眺める米兵達。
陸軍沖縄第32軍[高級参謀]八原博通大佐が、北飛行場に突入した「義烈空挺隊」に関して以下の話を残している。
[ 沖縄第32軍八原高級参謀の記録より ]
特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍の
戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ。五月二十四日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、
軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は(北・中)両飛行場ではなく、
小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。
だが二十四日夜、我々は首里山上から遙か北、中飛行場の方向にあたって、火の手の揚がるのを目撃した。
わが空挺隊が敵飛行場に降下し、命のある限り獅子奮迅の働きをしているさまを想像して感動を久しくした。
連夜に亘る特攻隊の突入、「ドロドロ」の轟音、そして空挺隊の降下は軍司令部将兵はもちろん正面二十キロの戦夜で
死闘中の兵士一人一人に、戦うのは我々のみではないとの感懐を深く心に抱かしめたのである」 と・・・。

ここで、沖縄を守備した陸軍第32軍の司令官、主な参謀を紹介する。

沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は116400人で陸軍が84600人海軍が10000人弱の他、「防衛隊」
と俗称される現地編成の補助兵力20000人強である。現地入営したばかりの初年兵や防衛召集された兵が35000人を
占め、当時の第32軍の評価で真の陸戦兵力といえるのは約4万人に過ぎなかった。
旧制中学校の生徒から成る「鉄血勤皇隊」・女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊なども組織された
この日本側のトップ3が、[第32軍司令官]牛島満中将/[参謀長]長 勇中将/[高級参謀]八原博通大佐 である。
牛島満中将は優しい性格だった様で、作戦等はほとんど長 勇中将と八原博通大佐が立案、牛島中将は「2人がよく考え
た上での作戦だろう」と、黙って判を押して決済していたと言う。
牛島中将は、住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、沖縄着任後直ぐ島田叡県知事と協議している。
当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。
牛島中将は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたと言う。
また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。
牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体の「玉砕」を防ごうとしたが、「やんばる」と呼ばれる山岳地
帯に食糧の備蓄は無く、「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死、そしてマラリアであった。
八原博通大佐も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島中将の北部疎開計画を支持していた。
牛島中将自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島中将は暇がある度に作業現場を視察し、中学生や
住民にまじって壕掘りの手伝いをした。
県民の献身に感動した牛島中将は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示したと言う。
沖縄戦開戦当初から死を覚悟した牛島中将は司令部壕の外に執務用の机を置き、艦砲射撃の放火に身をさらして、早く
死にたがっていたと言う。軍首脳も沖縄戦の「敗戦」を当初から強く意識していた様だ。結果は沖縄県民の4人に1人が
亡くなるという、軍民合わせて18万8136人という途方もない犠牲者(半数は民間人)を出した地上戦に突入していく。
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▲牛島満中将(鹿児島県出身)享年57歳  ▲八原博通大佐(鳥取県出身)享年78歳  ▲長 勇中将(福岡県出身)享年50歳
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▲沖縄地上戦は大きく5つ、「嘉数の戦い」「前田の戦い」「シュガーローフの戦い」「首里攻防戦」「摩文仁の丘」
「摩文仁の丘」は戦闘と言うより沖縄戦終結の地、又は追い詰められた日本軍民自決の地と呼ぶ方が適切かもしれない
※この地図には「摩文仁の丘」は載っていないが、地図上CHANのずっと左側(南側)の最南端である。

※以下掲載する米軍が撮影した当時の沖縄戦古写真は戦闘現場と必ずしも一致しないのでイメージとして見て頂きたい
昭和20年4月5日嘉数戦の序章ともいえる戦いが、北隣の85高地にてアメリカ軍歩兵383連隊(指揮官メイ大佐)と
日本軍独立歩兵第13大隊(指揮官原宗辰大佐)の間で始まった。
同時に我如古(がねこ)・西原高地でも戦闘が始まり、この西原高地は、西側に隣接する嘉数高地と同じ並びにあり、嘉
数高地との相互支援によって米軍の攻撃をことごとく退け、昭和20年4月6日~23日の約2週間を戦い抜いた。
記録に残る激戦と言われる「嘉数の戦い」は、この西原高地の戦闘によって成り立ったと言っても過言ではない。
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▲85高地(カクタス高地)にて日本軍と戦闘中のアメリカ軍歩兵383連隊。
※大山の85高地は現在、普天間飛行場敷地内になっており見る事は出来ない。
守備する第13大隊は善戦するも相当の損害を出し嘉数ラインまで後退。嘉数ライン北側には比屋良川が流れており、
この渓谷の渡川には水面までの高低がありすぎるため、ここで米軍を食い留めていた。
この戦いが皮切りとなり、ついに嘉数高地で日米両軍の主力が衝突する事となる。
▼現在の嘉数ライン北側の比屋良川渓谷付近(現在は宇地泊川と呼ばれている)
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▼嘉数ラインには米軍に火炎放射で焼かれた日本軍陣地壕が今も残っている。
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古墓を利用した陣地壕もあれば、新規設営した陣地壕も入り乱れているが大半が火炎放射跡が残る。
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数多く残る日本軍陣地壕はそれぞれ内部で繋がっていたと思われる。しかし崩落が激しい為、入壕は難しい。
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▼懐中電灯で奥を照らすと、かなり奥に長く坑道が続いている事が確認出来る。
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この辺りも公園整備されていくとの事なので、近い将来激戦の跡が消え失せる可能性は高い。
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▼激戦当時丘の斜面に無数に築かれた日本軍陣地豪の写真(嘉数ライン北側の比屋良川渓谷付近と思われる)
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昭和20年4月8日(7日)~16日間「嘉数の戦い」が始まる。
[沖縄本島第1防衛ライン]嘉数高地~南上原高地(師団長藤岡武雄中将以下陸軍第62師団の内12700人が守備) ]
4/7 85高地の戦いにおいて大きな被害を受けた日本軍の独立歩兵第13大隊が後退し、嘉数の主力と合流する。
この日、アメリカ軍歩兵383連隊の指揮官メイ大佐は、指揮下の部隊に「9日までには嘉数を占領せよ」と命令する。
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上陸時ほとんど抵抗を受けなかった米軍は嘉数方面の防衛ラインで、手痛い目に合う事となる。
嘉数高地は陸軍第62師団独立歩兵第13大隊(主に京都出身者の部隊)1233名が守備していた。
昭和20年4月8日宇地泊~嘉数~我如古~南上原~和宇慶の陣地は、全線で米軍の攻撃を受け激戦が展開された。
昭和20年4月9日日本軍は西原高地陣地より進軍する米軍を攻撃、我如古(がねこ)正面で米軍の進撃を阻止していた。
米軍は日本軍の洞窟陣地でも最も堅牢な陣地の一つである嘉数高地に奇襲を決行するが、嘉数渓谷の中で進路を見失
い、逆に独立歩兵第13大隊の猛攻撃を受けることになる。
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▲昭和20年4月21日西原高地へ進軍する米第382連隊第3大隊
アメリカ軍は行動を開始。アメリカ軍歩兵383連隊第1大隊(キング大佐)第3大隊(スティア中佐)は午前6時、嘉数
陣地北側に奇襲攻撃をかけ、この間に嘉数の主陣地深部まで他の主力が前進、日本軍と熾烈な白兵戦が始まった。
日本軍独立歩兵第13大隊は士官以下ほとんどが戦死し戦力が低下。しかし米軍3個中隊も一旦退却する。
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▼日本軍の対空砲に座る2人の海兵隊員。この対空砲の照準器は海兵隊員が竹を分解して作った物(4/9撮影)
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昭和20年4月10日
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アメリカ軍は、前日に引き続き攻撃に出た。(この時、大砲・艦砲・航空機の熾烈な援護射撃があったとされる)
日本軍は第13大隊と応援部隊として派遣された陸軍第272大隊(683名)が米海兵隊を迎え撃った。
前日の様な熾烈な白兵戦が再び展開され、北西陣地の一部が米軍に奪取(9時半頃)される。
▼激戦当時の嘉数西高地(現在の嘉数高台公園)を北側(アメリカ軍進行側)より。
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▼現在の嘉数高地を比屋良川公園より望む(赤印が嘉数高台公園)
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▼激戦当時の嘉数高地鞍部(宜野湾市嘉数)
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昭和20年4月10日~13日
4月11日米軍は多数の犠牲を出しながらも嘉数高地西側を占領することに成功するが、日本軍の逆襲を受け撤退を余儀
なくされた。
両軍とも序盤戦において戦力を使い果たしていたが、補給の無い日本軍は砲弾の使い過ぎが後に響いた。
▼海兵隊陣地に夜間侵入を試みて射殺された日本兵(4/11撮影)
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▼火炎放射で日本兵をいぶし出す。出てくる所に狙いをさだめる海兵隊員(4/13撮影)
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※昭和20年4月13日神風特別攻撃隊「第9大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
満田  茂中尉(兵庫県出身)/山崎  隆2飛曹(京都府出身)
※昭和20年4月14日神風特別攻撃隊「第10大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
粕谷 仁司中尉(兵庫県出身)/三浦 義信2飛曹(北海道出身)
※昭和20年4月17日神風特別攻撃隊「第12大義隊」 石垣島基地より零戦で出撃
斎藤 信雄飛曹長(茨城県出身)/文谷 良明1飛曹(大阪府出身)
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▲昭和20年4月16日米軍伊江島に侵攻開始。
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「嘉数の戦い」は序盤戦から中盤戦へと移ってゆく。 高台を有効に利用した陣地に籠もった日本軍3個大隊は、アメリ
カ軍3個連隊の攻撃を撃退し、陣地を保持した。物量面では戦力に歴然とした差があったが、互角以上に戦って守り切っ
たといえる。しかし、日本軍第13大隊は消耗し尽くし、兵員は5分の1以下に減少していた。
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▼米兵の哨戒中に射殺された日本兵。
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4月19日米軍第106歩兵連隊は牧港川に浮橋を架設、3個大隊が渡河し、戦車隊・迫撃砲隊が日本軍に攻撃を加えた。
▼砲兵隊指揮所に侵入を試みて射殺された日本兵(4/19撮影)
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▼日本兵が潜んでいた民家は徹底的に焼かれた。手前に射殺された日本兵が写っている。
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▼焼かれていく住民達の家。(5/11伊江島で撮影)
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▼破壊された日本陸軍94式軽装甲車を調べる米兵(名護市で撮影された写真)
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昭和20年4月14日~24日
▼日本軍の空爆で炎上する米第3水陸両用車輛輸送中隊所属の燃料トラック(4/16撮影)
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沖縄に飛来する日本軍機は特攻機ばかりでは無かった。通常攻撃を行う部隊もあり、海軍[芙蓉部隊]は「彗星」や
「零戦」で夜間攻撃を行い、海軍[瑞雲水上爆撃隊]は水上偵察機「瑞雲」で米軍占領地域の沖縄本島爆撃を行った。
陸軍でも九州鹿児島の万世飛行場より、飛行第55戦隊/飛行第66戦隊が特攻機の護衛任務のかたわら、沖縄に展開
する米軍への機銃掃射や爆撃を行っている。九州宮崎の陸軍新田原基地からは、飛行第90戦隊が99式双発軽爆撃機
で、昭和20年4/18、4/28、5/18、5/24、5/28、沖縄本島への爆撃に出撃している。
▼日本軍機の機銃掃射により燃えた米軍の燃料トラック(4/16撮影)
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4/19補給で満たされた米軍は陸海空あげて総攻撃開始。この日は嘉数戦の中で最も激しい戦いである、嘉数の対戦車
戦が行われ、消耗した第13大隊に代わって第23大隊(1233名)が中心となって米兵を迎え撃ち、米軍戦車30輌の内22
輌を撃破し、米軍を撃退する。
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▲4/20米軍が撮影した1枚。爆破される日本軍の陣地豪、日本軍から奪ったトリニトロトルエン爆弾が使われた。
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▲壕から吹き飛ばされた2人の日本兵の死体を調べるダーナビー上等兵、日本兵の1人は腰から下しか無い。
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▲▼4/20日本軍の肉弾攻撃により破壊された米軍M4シャーマン戦車(M4 Sherman tanks)
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米軍死傷者は700人を超えた。4/20の戦闘では日本軍の猛攻撃は凄まじく、米軍の損害は日本軍を上回ったと言う。
19日の総攻撃以来、米軍は1日に1㌔程しか進撃出来なかった。しかし日本軍の中には日本軍史上初の14~16歳の学徒
による少年兵部隊「鉄血勤皇隊」も戦闘に参加しており、爆弾を背負った少年兵が米軍戦車の下に潜り込み、自らの命
と引き換えに撃破した米戦車も少なくないと言う。
4/20西原高地は早朝から米軍の攻撃を受けた。これに対し日本軍は迫撃砲、機関銃、臼砲で攻撃。米軍に多大の損害を与
えたが、米軍は西原高地頂上北側に進出、西原陣地の日本軍と至近距離で相対した。
我如古南東側高地陣地は4/19半部を米軍に占領された為、4/20早朝奪回攻撃を行ったが失敗、米軍に占領された。
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▼戦車に潜り込むのを失敗したのか、爆弾の入った木箱を背負ったまま死んでいる日本軍少年兵(鉄血勤皇隊)
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日本軍の奮闘は解るが、この様な少年を動員してまで続ける戦争に何の意味があるのか解らない・・・涙が止まらない
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▼当時の新聞記事
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▼米軍が捕獲した日本軍梱包爆弾。木箱に爆薬を詰め、荒縄で縛った手製の兵器。簡単な構造の起爆装置が付いている
 少年兵はこれを背負って米軍戦車の下に潜り込み、自爆攻撃を命令された。この自爆攻撃は4月22日まで続いた。
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 米軍戦車を撃破するには当時の日本軍速射砲(戦車を撃つ砲)では米軍戦車の鋼板が厚くて効果がないので、木箱に火薬
 を何段も何列も入れ、それを釘付けにし、藁縄で背中に背負って行き、それを戦車の下に放り込んで撃破するという苦
 し紛れの戦法を採った。それが上記写真の「急造爆雷」だ。中飛行場近くの海岸で試作品紹介する事ことになり、会議
 が終わった後、兵器係の将校がテーブルの上にその箱を置いて風呂敷包みを広げていた最中に暴発。持っていた本人は
 長靴を履いていた足が残っただけだったと言う。他兵隊2人が即死。そこに居た各隊長は全部なぎ倒されて負傷し、野
 戦病院に担ぎ込まれるという実戦使用前の事故も起こっている。

▼少年兵の自爆攻撃を受けたのだろうか・・糸満市南部で大破した米M4シャーマン戦車(昭和20年6月16日米軍撮影)
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▼少年兵による梱包爆薬を投げ込まれるのを防ぐ為に戦車サイドに装甲板を施す溶接兵。米軍は対策が早い。
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※沖縄戦では「鉄血勤皇隊」以外にも「護郷隊」などの少年兵部隊が組織され、沖縄本島北部で戦闘に参加している。
 他にも「女子青年団」は危険な最前線の陣地豪で戦う日本兵におにぎりを運ぶなど、懸命に日本兵を助けた。
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▲アメリカ兵から取り調べを受ける日本軍少年兵(鉄血勤皇隊)6/17米軍撮影
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▲左の2人は鉄血勤皇隊の少年兵。その隣の成人男性は朝鮮人軍夫。
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▲食糧を盗みに来た所を捕虜となった日本軍少年兵。
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▲米兵を見上げる日本軍少年兵。
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▲日本軍が米軍侵攻阻止の為に自ら爆破した栄橋(中頭郡嘉手納町屋良付近)昭和20年4月20日米軍撮影
栄橋は二重アーチ式の鉄筋コンクリートの橋梁で二重橋とも呼ばれた。橋は台南精糖株式会社(沖縄精糖株式会社の
前身)嘉手納工場に牧原・久得からのサトウキビ搬入の目的で、昭和5年頃建造・昭和6年に開通した。
コンクリート床板中央には鉄軌道(レール)が敷設され馬にひかせたトロッコ(形状は荷馬車)でサトウキビが運搬された。
橋の開通式には牧原の津覇さん一家親子3代(実令・実義・実啓)が渡り初めをしたという。
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▲爆破前の栄橋。「沖縄でもっとも美しい橋」と言われていたという。
しかし昭和20年3月末頃に米軍侵攻阻止の為、日本軍の手によって爆破された。
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▲現在は橋桁の基礎部分と床板の鉄骨のみが残り、木々に埋もれて至近距離からの見学は困難のようだ。
(沖縄戦に話を戻します)
4月23日丘陵の上で銃剣や手榴弾による接近戦となり、日本軍の切り込み攻撃を最後に後退する事を余儀なくされる。
激しい戦闘に明け暮れた毎日で日本軍第23大隊も戦力が低下。第13大隊は兵員僅か。第272大隊は半分となり、4/23
戦力が初期の3分の1まで低下した第62師団はわずかな部隊を残して嘉数、西原、棚原、157高地の守備隊を前田、仲間
へと後退させた。4/24アメリカ軍は嘉数に対し準備砲撃を開始、後にブラッドフォード特攻隊が嘉数陣地へ突入したが、
既に日本軍守備隊主力は撤退した後であった。この時残っていた日本軍残存部隊は激しく抵抗、アメリカ軍は2時間の激
闘の末、午前中までに嘉数陣地を完全に占領し、16日間にわたる嘉数の戦いが終わった。
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▼空き家となった民家に通信機器を設置する米兵。米軍も利用できる物は何でも利用した。
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※西原村では軍に招集された人も含め、村民(人口約10000人)の47%(5106人)が戦闘の犠牲となった。
▼現在西原町翁長には「西原の塔」が建立され、村民が収集した遺骨が合祀されている。
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「西原の塔」敷地内には軍民それぞれの慰霊碑が集結している。
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▼沖縄戦で犠牲になった約5000人の旧西原村の方達の名前が記されている。
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▼旧西原村役場壕は戦時中も村役場の仕事を続ける為の壕で、西原の人達の手によって作られた。
 壕には、役場にあった重要な文書や公印などが保管されていた。現在も残っている(2017年2月14日訪問)
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▼壕入口正面の様な扉は実は山肌だった所。開発で削られて大きく中が見える様になった。
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▼本来の出入り口(坑口)は赤矢印の部分に2ヶ所あった。
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▼案内版
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▼壕内と壕口。民間人が作った壕とはいえ、軍が構築する陣地壕に勝るとも劣らない作りだ。
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▼入口①
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▼入口②
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▼謎の入口③
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▼謎の壕口③は赤矢印の場所。
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※西原町小波津集落には4/22~5/3にかけ歩兵第32連隊第1大隊(伊東大隊)799名歩兵第89連隊第1大隊の壕も残され
ている。
▼西原町中央公民館裏には、日本軍96式15糎榴弾砲がある。
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此の九六式十五糎榴弾砲は平成16年12月西原町幸地集落南西部の日本軍陣地壕跡から発見された。
原型を留めない程に破壊されていた物を西原町が、発掘された部品で復元し、当時の住民の約47%の尊い命が犠牲にな
った日・米両軍の戦闘が繰り広げられた激戦地西原村で展示する事により、戦争の悲惨さ、愚かさを認識するとともに
戦争のもたらす恐ろしさ、悲しさを語り継いでいく手がかりとしてほしい。二度とあの忌まわしい戦争を起こしてはな
らないという誓いと、平和の尊さを実感し、更には平和教育の資料として役立つ事を願い、終戦60年の節目にあたって
当初は平成17年8月15日に西原図書館前に展示された。
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しかし、この大砲の展示に反対する住民の声も多く、周辺には「平和な図書館に何故大砲を展示するのか!」といった
論調のビラが貼られたりしたそうだ。そして現在の公民館裏にひっそりと展示?される事になったという。
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九六式十五糎榴弾砲はもう1基、靖国神社遊就館に展示されている(遊就館の展示物も沖縄戦で使用された物だという)
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沖縄の地で展示されている実物が本物の戦争を語りかけてくれる、しかし犠牲者遺族であれば当然見たくもないだろう
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複雑な想いで西原町中央公民館を後にした。
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※96式15糎榴弾砲を使用した沖縄第32軍第5砲兵司令部及び隷下の部隊は以下の通り。
野戦重砲兵第1連隊本部、第2大隊(96式15糎榴弾砲・12門)幸地/首里/南風原/志多伯/真壁
野戦重砲兵第23連隊(96式15糎榴弾砲・24門)首里/大度
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▲▼宜野湾市、嘉数高台公園には今も日本軍地下壕、トーチカが残り、「京都の塔」の他多数慰霊碑がある。
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▼部隊本部壕は立ち入り禁止となっているがカメラを入れて入口付近を撮影
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▼嘉数高台には激しい戦闘を物語る弾痕だらけのトーチカが残っている。地下壕と繋がっていたそうだ。
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▼トーチカ入口。写真右側下付近から地下壕と繋がっていた様だ。壕の部分今は崩れて塞がってしまっている。
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▼嘉数高台展望台から誰でも1度は聞いた事のある米軍普天間飛行場が綺麗に見えた。
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▼建設途中の普天間飛行場(昭和20年6月撮影)
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▼嘉数の戦いで倒れた(歩兵第13大隊)京都府出身の将兵約2500名の冥福を祈って建てられた「京都の塔」
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嘉数高地を中心に配備された主要部隊・第62師団(藤岡武雄中将)は石部隊と呼ばれ、京都で編成された部隊だ。
昭和19年7月、中国から沖縄守備隊・第32軍に編入された経緯を持つ。
▼「京都の塔」と同一敷地内にある「嘉数の塔」。嘉数の戦いで主に京都出身者の部隊、歩兵第13大隊を助けたのが、
嘉数の住人であった。当時、嘉数の人口は695名で、沖縄戦で343名が亡くなられている。
「嘉数の戦没者」を慰霊する為、昭和50年6月沖縄京都の塔奉賛会の手によって建立された。管理が地元嘉数自治会と
いう事もあり、慰霊の献花と千羽鶴が絶えない。
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▼青丘之塔 (せいきゅうのとう)沖縄戦で亡くなった朝鮮民族386柱を祭った慰霊碑。
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▼嘉数高台公園より「第2防衛ラインとなった前田高地(浦添丘陵)を望む。
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激戦地だった嘉数高地は2つの高地を総称したもので、今回訪れた高地は「嘉数北側高地」で、西側に「西部70高地」が
ある。米軍は 「嘉数北側高地」 を 「Kakazu Ridge」、「西部70高地」 を 「Kakazu West」 と称した。
嘉数高地手前には比屋良川という川が存在し、水面まで深いところで10m以上ある。両側は切り立った絶壁で、歩兵で
さえ場所を選ばなければ越えることの出来ない天然の障害であった。 日本軍はこの特徴をよく理解し、歩兵の越えて
これる可能性のある地域には集中して火器を指向した。更に川を越えて高地側に進出した米軍に対しては比屋良川周辺
に迫撃砲弾を集中して弾幕を形成、退却も不可能となった米軍に対して更に徹底的に攻撃を加えた。
一方米軍戦車に対しては、敢えて渡河可能な橋を爆破せずに残し、突進して来た米戦車を待ちかまえて攻撃した。
戦後、日本兵の生存者が 「嘉数では負ける気がしなかった」 という証言を残しているのもその為である。 
(沖縄戦当時に話を戻します)
昭和20年4月16日米軍伊江島に上陸作戦作戦を開始、4月21日占領。
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▲戦利品の日本軍ライフル銃や日の丸の旗を持って写真に収まる、ニュージャージー州出身の海兵隊員一等兵5名。
 (まだ戦闘が続く中での4月に撮影された写真)
▼上記と同じ場所で撮影された写真、フロリダ州出身海兵隊員マッキトリック二等軍曹他4名。
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米軍の余裕が感じられる写真だ。少年兵まで投入した日本軍には従軍カメラマンすらいなかったであろう。
※米軍の従軍記者アーニー・パイル(Ernie Pyle)は4/18伊江島で戦死している。
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▲日の丸と「沖縄県青年興国隊」の旗を持って105ミリ榴弾砲に腰掛ける7人の海兵隊員。4/3撮影
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▲米軍占領後の伊江島の住民達。米軍の写真撮影の為、ポーズを取る先生と子供達。昭和20年4月25日米軍撮影。
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▲伊江島で撮影された写真。日本兵の人形を木につるして遊ぶ第318戦闘機群作戦部隊の兵士。
 (※首にかけられた[SON OF TOJO]のプレートに注目)
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▲沖縄美ら海水族館(ちゅらうみ)より伊江島を望む。今回伊江島へは行けなかったが次回行きたいと思う。
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▲昭和20年4月14日伊江島上陸前に航空機による急降下爆撃を行う米爆撃機(戦艦テキサス[BB-35]から撮影)
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▲沖縄本島北部の国頭村(赤丸岬の入り江)昭和20年5月6日撮影
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▲普天間周辺の町中を通り前線へと進軍中の米第27師団。上陸後、北へ進撃した部隊(4月上旬撮影)
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▲「忠魂碑」で休憩する米兵。北へ進撃した部隊(4/12撮影)
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▲本部半島の国頭支隊司令部豪で、残していった重要書類が無いか調べる米第6海兵師団の情報収集班。
沖縄県国頭郡本部町大嘉陽には今も沖縄本島北部の守備に当たった独立混成第44旅団第2歩兵隊(球7071部隊)
国頭支隊(通称・宇土部隊)本部壕、野戦病院跡が残っている。
八重岳、真部山の国頭支隊は4/11頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、4/13~4/16にかけて西海岸の渡久地方面と東
側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻に合い、真部山で激しい攻防戦となる。4/17米軍は八重岳北東頂上を占領。
4/18敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は4月中続いた。
隊長 宇土武彦大佐は4/16米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄。遊撃戦に移ることを命じ、第3遊撃隊
(第1護郷隊)のいる多野岳に後退。その際、八重岳野戦病院には多くの負傷兵が遺棄され、一帯は悲惨を極めた。
八重岳野戦病院で看護に当たった県立第三高等女学校「なごらん学徒隊」10名は4/16夜、名護市の多野岳へ撤退する際
には、歩ける患者だけを連れて行き、歩けない患者約300人には、枕元に手榴弾と乾パンを配ったと証言してる。
沖縄県立第三高等女学校は沖縄戦が終結した際にそのまま自然閉校となり、その後「名護高等学校」に統合されている。
この本部半島地域における戦闘で、軍や町役場の命で山中に避難した住民は却って戦火に巻きこまれ、軍人軍属を含む
町民1753人の尊い生命が失われた。
※護郷隊は陸軍中野学校出身者に教育された14歳~19歳の名護国民学校生徒約800名で組織された部隊で、隊本部の
多野岳(たのだけ)・名護岳・久志岳・羽岳(おっぱだけ)などで遊撃戦・ゲリラ戦に従事した。
第1護郷隊と恩納岳・石川岳で奮戦した第2護郷隊(第4遊撃隊)合わせて162名が戦死している。

※第4遊撃隊(隊長 岩波壽大尉以下「第2護郷隊」3個中隊計393名)
 昭和20年4月3日~6月4日まで北部転進や敵部隊に潜入して後方を攪乱し、敵陣地を破壊する等幾多の手柄を立てた
 特設第一連隊青柳(中佐)隊、山部隊、海軍二階堂隊等が恩納岳で合流した後、米軍に暴露。
 昭和20年5月24日米軍、恩納岳を完全に包囲、陸と空から猛攻撃を開始する。正面攻撃を数度にわたって受け、隊員
 の大部分が戦傷を受けたり砲弾に倒れた。昭和20年7月16日部隊解散。
 第2護郷隊員は帰村して家業に就いた後も、残留そていた本部基幹要員の中隊長、隊本部に情報と食糧を提供した。 
 岩波大尉は8月15日終戦を知る。9月に住民を通じて米軍からの下山勧告に従い10月2日中隊長と米軍収容所に入る。
 昭和31年11月岩波元隊長が来島して除幕式が挙行された「第2護郷隊之碑」が完成。恩納村字安富祖にある。
※戦後、恩納岳は米軍の訓練場となっており、一般人が立ち入る事は出来ない。70年以上戦地はそのままである。
【NHKスペシャル】あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~YouTube

現在、名護小学校には「第1護郷隊の碑」があり、「戦没者名簿」として第1護郷隊95名の名前が刻まれている。
NHK戦争証言アーカイブスで「なごらん学徒隊」上原米子さんの証言を聴くことが出来る。
あまり知られていない貴重な沖縄本島北部の戦いの体験者の話だ。護郷隊の特攻話も衝撃的な内容となっている。
NHK戦争証言アーカイブス「八重岳野戦病院からの撤退」
八重岳・真部山地区・多野岳で戦闘に参加した沖縄県立第三中学校生徒達の『三中学徒之碑』も八重岳中腹にある。
三中学徒約350名は軍名により、通信隊要員・鉄血勤皇隊員・そして繰り上げ現役入隊の形で日本軍と共に戦闘に参加。
昭和20年4月下旬に多野岳で解散命令が出るが、激しい戦闘の中で約350人中、88名が戦死している。
第3遊撃隊(隊長 村上治夫大尉以下4個中隊計約500名)は名護岳付近に拠点を設けて遊撃戦を実施しつつ潜伏した。
終戦を知り、宇土支隊長以下99名が下山投降した事も知ったが、説得の為日本軍将校が数回訪れたが、降伏を承知せ
ず拠点に潜伏を続けた。
昭和21年1月2日、日本軍将校が再度村上大尉を訪ね、八原高級参謀の手紙を手渡した。八原参謀が生存している事が
村上大尉に大きな衝撃を与え、結果1月3日村上大尉は意を決して下山し、捕虜となった。
『三中学徒之碑』、『第1護郷隊之碑』、『第2護郷隊之碑』、近い日に慰霊しに行きたいと思っている。
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▼▲廃墟と化した名護市、大通りと手前はバス発着所。奥に八重岳が見える。
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▼米軍は飛行場からトラックでアメリカ本土からの郵便物を運び、占領後も郵便局として利用した(名護郵便局)
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▼名護市の産婦人科医院を写したもの。比較的被害が少ない。(6月撮影)
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▼名護の神社を撮影したもの
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▼名護市で撮影された消防署(昭和20年6月撮影)
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▼廃墟の名護市。手前は防空壕と放棄された自転車(6月撮影)
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※昭和20年4月28日神風特別攻撃隊「第15大義隊」 石垣島基地よりゼロ戦で出撃
和田 文蔵二飛曹(長崎県出身)

[沖縄本島第2防衛ライン]伊祖~前田高地~小那覇
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▲前田高地より撮影された戦闘直後の浦添国民学校や前田集落(米軍撮影)
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前田高地は、日本軍第二線主陣地帯の核心にあたる地区で、首里地区防衛に関して特に重要な地位を占めていた。
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しかし日本軍には前田高地を守備する新鋭の部隊はなく、嘉数高地や西原高地そして南上原地区で激しい戦闘を繰り返
した第62師団が後退して前田高地の守備に就いた。 だが米軍の前田集落への進行が予想以上に早く、慌てた沖縄第32
軍は新戦力である第24師団歩兵第32連隊を前田奪還のために急遽投入した。
昭和20年4月25日仲間、前田の高地に対し米軍は猛砲撃を加え、航空機によるナパーム攻撃を行った。
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昭和20年4月26日米軍が前田高地為朝岩付近に辿り着くと、日本軍の猛攻撃が始まり、米軍は多数の犠牲者を出す。
嘉数高地同様、米軍が丘を登山中はわざと攻撃せず、頂上付近に達するや否や待ち伏せていた日本軍は機関銃掃射を浴
びせた。南側斜面には日本軍の陣地豪が多数ある。戦車隊を投入した米軍は、中街道側から回り込みながら砲弾や火炎
放射を猛烈に浴びせ、陣地豪を1つ1つ制圧していった。
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前田高地をめぐり、その後連日手榴弾の投げ合い・機銃掃射・斬り込み突撃等の血生臭い争奪戦が続いた。
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▲激しい戦いで戦死した日本兵。
※那覇市真地の高台に識名霊園がある。霊園東側に繁多川の住民が「シッポウジヌガマ」と呼ぶ自然豪がある。
(ガマの中に四方地の神が祀られているところからこう呼ばれている)
シッポウジヌガマは戦時中、島田叡知事や荒井退造県警部長とともに県庁職員、警察部職員が避難した防空壕で、県庁
壕(県庁警察部壕)とも呼ばれた。昭和20年4月27日、市町村長会議を行う為、各自治体の首長に招集がかかる。
砲弾が降り注ぐ中、県内17市町村長が集合し、壕内で会議が開かれた。これが沖縄県政最後の市町村長会議となった。

昭和20年4月27日夜、陸軍第24師団第32連隊 第2大隊(志村大隊)800名が前田高地支援の為、首里を出発。
第2大隊(志村大隊)は北海道出身者が多く、前田高地平和之碑は北海道知事による書で、志村大隊の慰霊碑である。
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▲浦添城跡敷地内にある「前田高地平和之碑」
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▲「前田高地平和之碑」付近には古墓を利用したとみられる日本軍陣地壕が残っている。
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▲懐中電灯で豪内を照らして撮影。かなり奥まで続いている様だが崩落が激しい様だ。
昭和20年4月28日朝、第2大隊が南側斜面の陣地豪に到着。第272大隊100名の残留兵に大歓迎されるも出来る攻撃は
手榴弾を投げ合うか夜間の斬り込みしか無く、米軍戦車と歩兵の圧倒的な火力の前には無力な攻撃方法であった。
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更にこの戦闘を厳しくしたのは、前田高地はそもそも司令部や後方兵站部隊の配置された地区であったことから、戦闘
を前提とした防御陣地としての機能を全く有していなかった事であった。守備に就いた各部隊は、それまでの戦闘で大
きな損害を受けた上に、戦闘機能を有しない陣地で、強大な機動力を誇る米軍との戦いを強いられる事となった。
前田高地は、前田集落の北側に広がる高地で、その北斜面は戦車の機動不可能な絶壁であり、歩兵部隊でさえ縄ばしご
を掛けて登坂せねばならない最大の地形障害であった。断崖の東部には石柱の様な「為朝岩」(米軍名ニードルロック)
がそびえ立ち、米兵を苦しめた。
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▲▼「為朝岩」は現在も前田高地東部に残り、激戦地であった事を今に伝えている。
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▼日本軍陣地豪に手榴弾を投げ込み、1つ1つ豪を制圧していく米軍兵士達
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昭和20年4月29日第32連隊 第2大隊は米軍と近接戦闘を交えながらも、その頂上付近及び南斜面を確保していた。
前田集落南側地区においては、第32連隊満尾大隊が昨夜攻撃に失敗し、米軍と近く対峙していた。
宜野湾街道東側に、戦車を伴う米軍が南下して来たが、第62師団輜重隊、高射砲部隊などが善戦して撃退した。
歩兵第32連隊第3大隊第9中隊は、29日明け方に経塚東側に進出して攻撃を準備していた。
29日夜に仲間南端の米軍を攻撃したが攻撃は失敗。中隊長は重傷、死傷者約100名を出した。
※昭和20年4月30日15:30ドイツ総統アドルフ・ヒトラーが自殺。
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この時既に前田高地は米軍に制圧されつつあり、米軍戦車部隊は138高地頂上部に接近。南側の日本軍47ミリ対戦車砲
と対峙した。ついに米軍は沖縄上陸後約1ヶ月を経て沖縄第32軍司令部のある「首里」と直線距離3㎞の地点に到達し、
「首里」に向かって直射火器が狙いをつけたのである。
昭和20年5月1日前田高地においては依然その「為朝岩」頂上争奪(ニードルロック付近)の激戦が展開され、日本軍は多
くの損害を生じながらも健闘して陣地を保持していた。頂上付近では、米軍の集中砲火を受ける間は壕内に待機し、米
軍歩兵が頂上付近に現れると、壕から出て反撃するという状況が繰り返された。
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▲4月30日夜から米軍は断崖に4つの15m梯子と5つのカーゴネットを架け終えた。
5月1日A中隊は断崖の東端で梯子を登り始めた。しかし日本兵に狙撃され、全員が戦死するか負傷するかで攻撃は行き
詰まっていた。その西側ではB中隊がカーゴネットを使用して登頂し、夕方までに2個中隊が稜線上を確保する。
しかし彼らも夜間の日本軍の逆襲を受けてこの稜線から追い落とされる結果となった。
一方日本軍前田洞窟の志村大隊は前田東方高地の奪回を企図したが、出撃の都度多数の死傷を生じ成功しなかった。
前田集落南側の米軍は南方に向かって攻撃して来たが、奮戦して阻止していた。
5月2日は雨の中で戦闘が続けられ、米軍機の攻撃はほとんどなかった。前田高地では引き続き頂上争奪の死闘が繰り返
されるも、勇戦して頂上付近を確保していた。
5月3日第62師団の戦力は四分の一以下に減少していた。首里の第32軍司令部から「5月4日に勝敗を賭して前田高地の
守備軍陣地を起点に総反撃に打って出ろ」との命令が入る。
(その時、首里司令部内では「3日と4日の天気予報は雨。敵戦車は泥にはまって動けず、航空機は飛べないだろう、5日
の端午の節句には戦勝祝賀会をやるぞ」と戦勝前祝いの祝宴が行われた。
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▲豪雨で滑走路が冠水し動けなくなった米軍偵察機。沖縄戦中の雨季は米軍にとっても辛いものとなった。
※[高級参謀]八原博通大佐のみが「圧倒的に強力な敵に対して劣っている我が軍が攻撃を仕掛けるのは無謀極まりない、
敗北は目に見えている!」と強烈に反対したが・・・この決定を不服とした八原大佐は、その時の心境を「米軍は日本
軍を、兵は優秀・下級幹部は良好・中級将校は凡庸・高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線
軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないか?
と疑う」と記録している・・・。

※昭和20年5月4日神風特別攻撃隊「第17大義隊」 宮古基地基地よりゼロ戦で出撃。田中 勇上飛曹(山口県出身)
※昭和20年5月4日神風特別攻撃隊「第17大義隊」 石垣地基地よりゼロ戦で出撃
 細川 孜中尉(長野県出身)/橋爪和美2飛曹/佐野一斉2飛曹(山梨県出身)

5月4日04:50日本軍総攻撃開始。地下陣地に潜ませていた400門の砲撃の凄まじさに日本兵は「勝っている」と錯覚
した程だった。砲兵隊の砲術技能は日本軍全体においても最高のレベルにあったと言う。なので、一斉砲撃開始時期の
判断さえ誤る事がなければ、大戦果を収めるのは間違いない。と、信じられていた。
首里陣地正面の攻撃を担当したのは米第96師団だった。米軍は即座に火器を総動員して反撃を開始。
強力な火器をもって激しい攻撃を加えはしたものの、堅固なトーチカ深くに陣を構えて徹底抗戦を試みる日本軍精鋭部
隊を通常の戦法で攻略するのは困難だと悟った米軍司令部は、トーチカや地下洞穴内の日本軍守備兵を外に駆り出すに
は土を深く掘り起こす様な容赦のない砲爆撃を加えるしかない、と考えた。
彼らはそれを「耕し戦法」と名づけていたと言う。ホッジ少将の命令一下、米軍は、陸、海、空の全軍をあげて一大総
攻勢に転じ、通常の砲弾や爆弾の他、当時新兵器であったナパーム弾やロケット砲などを日本軍陣地に浴びせかけた。
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▲8発の5インチロケット弾を発射するF4Uコルセア戦闘機(沖縄本島にて米軍撮影)
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▼凄まじい猛爆を物語る1枚の写真。那覇市の弁ケ獄だ。(現在の弁ヶ岳公園)
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▲首里城の東方約1㎞に位置する弁ケ獄を写した写真。当時は「ビンヌウタキ」と呼ばれ、峰全体がご神体とされた。
王府時代1・5・9月に国王が親(みずか)ら訪れ、祭祀が行われていた。昭和13年国宝に指定されたが沖縄戦で壊滅。
どこに居ても生きていられない程砲弾が降り注いだ事がよく解る写真だ。現在は弁ヶ岳公園となり大嶽前の石門は復元
されている、公園内には今もコンクリート製の日本軍の陣地豪が残る。
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▼青印が日本軍トーチカ現存場所
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▼弁ヶ岳公園に今も残るコンクリート製の日本軍トーチカ
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▼埋もれかかった銃眼
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▼入口付近の生々しい弾痕
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▼トーチカ内部
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▼振り返って入口・銃眼を見る
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▼反対側の壁は外からの圧力によって崩壊しかかっている。銃眼も確認出来るが埋もれてしまっている。土でカムフラ
 ージュはされていたはずだが、少なくとも銃眼より上側は外に出ていたはず。激しい爆撃を物語っている。
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▼更に奥の小部屋へ通じる通路が見える。これだけ強固に構築されているので戦闘指揮所だったかもしれない。
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▼小部屋の天井は激しい爆撃を物語る。鉄筋が入っているのが確認出来る。陣地構築隊の苦労が見える・・・。
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銃眼が各部屋に設置されている。自然壕や古墓を利用した陣地壕が多い沖縄戦での陸軍陣地壕としては珍しくも数少な
い現存する強固に構築された戦闘トーチカだった。
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▼沖縄戦後復元された大嶽前の石門(トーチカから徒歩1分)
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(沖縄戦当時に話を戻します)
その空前絶後の猛爆によって与那原から首里にかけての一帯は一面焼け野原になり、全ての住居建物は跡形もなく崩壊
して11:00過ぎにはほぼ全前線で日本軍を撃退した。
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▲沖縄本島陣地壕内の日本軍89式15センチ砲(沖縄戦で玉砕した独立重砲兵第100大隊の物)
※射程は18㎞。首里に設置された89式15センチ砲は米軍に占領された嘉手納(中)飛行場までを狙えたと言う。
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▲米軍の火砲(沖縄戦での撮影)
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▲日本軍のトーチカを37ミリ砲で猛攻撃する米兵(5/9撮影)
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▼▲沖縄戦で初めて投入された米軍155㎜榴弾砲。
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▼海岸線施設の日本軍(イギリス製)12cm砲。砲座はコンクリート製(5/16撮影)
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「全ての望みは断たれ、敗北は時間の問題だ」と首里司令部は覚悟した。既に攻勢は挫折していたにもかかわらず、
首里司令部の撤退不可の命令により、第2大隊は戦闘を継続。5日間不眠不休で戦った挙句戦死していった。
昭和20年5月5日前田高地南斜面の陣地豪から残存日本兵が順次飛び出し、敵陣へ斬り込み突撃を敢行。最後の反撃
だった。16:00牛島司令官は総攻撃中止を決定、各方面に打電した。5/6米軍は前田高地戦闘終結を宣言。
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▲壕の入口でかがみこみ、外へ出てくるよう地元の女性を説得している捕虜。
 中の女性は2人の日本兵と共に豪に隠れていた。米軍用犬が潜伏場所を発見した(5月撮影)
 日本兵は2人共投降を拒んで射殺された。3個の手榴弾で武装していた2人の女性は、クランクショー大尉
 (軍用犬小隊指揮官)が差し出した水筒に手を伸ばしたところを壕から引っぱり出された。
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▲一人の女性が豪から引っぱり出された瞬間。
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▲豪の外で食糧をもらう女性。泥まみれで引っぱり出されたが生きていてくれて本当に良かった・・・。
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▲射殺された日本兵を米兵が見ている(5月撮影)

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▲南部日本軍拠点へ爆撃に向かうVMTB(第232雷撃中隊)所属のMAG(第33海兵航空群)のTBM機(5/6撮影)
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▲進軍していく米軍(昭和20年5月6日撮影)この頃からカラー写真・映像を使用したと思われる。
昭和20年5月7日米軍は前田高地を離れ、首里に向けて兵を進めた。
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※昭和20年5月8日ドイツが連合国軍に対して無条件降伏。
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▲▼那覇の牧志高地を制圧した米軍(破壊された古墓や日本軍陣地豪が数多く見える)
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▼那覇市牧志の日本軍陣地豪からこれから激戦地となるシュガーローフ・ヒルを眺める米兵。
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牧志高地は現在部分的に公園となって現存する。国際通り沿いから歩いて近いのでお土産購入ついでに見学出来る。
▼1つ目は緑ヶ丘公園(那覇市牧志1-4)十十空襲時に住民が避難した古墓が残り、地上戦での弾痕が今に残る。
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▼住民が避難した渡嘉敷三良の墓。地上戦では日本軍が陣地壕として利用した。
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▼激しい地上戦を今に伝える弾痕
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▼2つ目は希望ヶ丘公園。此処は陸軍特設第6連隊が展開していた地区で陣地壕が残る。
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蓋がされて入壕は不可能だが、中を見るとかなり広い抗道と空間が確認出来た。
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▼入壕は無理だが、おそらく2つの抗口は東西で貫通していると思う。
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希望ヶ丘公園は賑わう国際通りから見えている。東から国際通りを歩いて通り中央辺り左手だ。
(沖縄戦当時に話を戻します)
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▲亀甲墓の中で保護された幼子。戦いを見て何を感じていただろう・・・言葉が見つからない。
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▲激戦当時の亀甲墓(米兵が通信場所として利用している)
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▲現在も沖縄各所に残る亀甲墓(普天間付近で撮影)
※亀甲墓の形は子宮を表現し、死して次なる生まれ変わりを祈願した形である。
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▲昭和20年5月に安波茶村で撮影された写真。浦添小学校と破損した2台の日本軍トラックが写っている。
 安波茶村は現在の浦添市のほぼ中央に位置する場所。現在は浦添中学校が再建されている。
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▲日本軍陣地のある60高地を火炎放射で攻撃する米海兵隊の戦車部隊
※この写真はシュガーローフの丘の案内板に掲載されている写真だが、実際は浦添市宮城6丁目付近の写真である。

前田高地一郭にある浦添城址。浦添城跡園内にある「浦添ようどれ」は沖縄県浦添市にある琉球王国の陵墓。
浦添城は、首里城以前の王宮だった。敷地内は多くの陣地壕や住民が避難した自然壕クチグヮーガマがある。
昭和20年4月25日前田高地に陣取る日本軍を攻撃する為、米軍の猛烈な砲撃が始まった。
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クチグヮーガマ入口付近にも日本兵が潜んでいた為、住民が避難したクチグヮーガマも攻撃され、艦砲射撃砲弾の破片
などで多くの死者を出したガマとなった。ガマの天井には肉片などが飛び散り、想像を絶する光景だったと言う。
米軍の馬乗り攻撃を受けた際、壕内に住民約100名、軍人約50名程がいたが、米軍の馬乗り攻撃で落盤が起き、多くは
生き埋めになったと言う。30名程は脱出したそうだが今でもガマの中に多くの遺骨が残っているとの事。
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▼▲クチグヮーガマ
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※馬乗り攻撃とは丘の上から地下壕の位置を予測してボーリングを行い、その穴からガソリン等の可燃物を注入して
火を着ける攻撃で、燃焼により壕内が酸欠状態となり、窒息死させる攻撃法である。爆薬も使う場合もあったと言う。
▼浦添城址入口。沖縄戦で石垣もろとも原型もないほど破壊尽くされたが現在は見事に復元されている。
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▼城跡入口付近に今は半分以上埋もれかかった日本軍の陣地豪が確認できた。
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▼浦添城跡付近の戦闘で戦死した仲間を運ぶ米第96歩兵師団の兵士(4/22撮影)
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▼浦添城跡の小高い丘よりアメリカ軍が侵攻して来た北側を望む。
 左奥に見える海上は約1400隻のアメリカ軍の軍艦で真っ黒に見え、艦砲射撃はこの高台にも飛んで来たと言う。
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▼艦砲射撃 砲弾の破片は分厚い鉄のブーメランと言っても良い。破片が直撃すれば人間などひとたまりもない。
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▼南側を眺めると首里城が小さく確認できた。
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▼敷地内の壕の1つ、ディークガマ。戦時中は住民の避難壕として使われた。
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▼ディークガマは浦添で亡くなった5000人もの遺骨が納められていた。現在は平和祈念公園に合祀されている。
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▲米軍が行軍中に発見したカムフラージュされた日本軍施設(作業所兼溶接所)4/26撮影
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▲日本兵の死体にDDTを撒くマクラーン上等兵(5/8撮影)
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▲5/8ドイツが降伏し、欧州戦線勝利の日に日本軍のトラックを使って戦線へと移動する海兵隊員。

[沖縄本島第3防衛ライン ※首里攻防戦 ]シュガーローフ・ヒル~石嶺~コニカル・ヒル(西原村運玉森)
わずか標高52mの丘陵を、日本軍は安里52高地と呼び、米軍はその形状からシュガーローフ(Sugar loaf アメリカ南
部地方の菓子パン)と名付けた。日本軍はこの丘陵を首里司令部の西側防衛陣地とし、蜂の巣の様にトンネルを張り巡
らし、側面からの対戦車砲、背面から迫撃砲などで米軍を迎え撃った。
▼北側から見たシュガーローフ・ヒル
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▼シュガーローフ・ヒルに配置された日本軍1式機動47粍砲。側背面を暴露して擱座しているのは米M4中戦車とLVT
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昭和20年5月11日海軍神風特別攻撃隊「神雷桜花特別攻撃隊」「第10建武隊」「第9銀河隊」「第7七生隊」「第5筑
波隊」「第6神剣隊」「第6昭和隊」「第7昭和隊」「第3正気隊」など150機が沖縄海域の米艦船団めがけて決死の特
攻々撃を敢行。ほとんどの特攻機は米艦船に到達する前に撃墜されたが「第7昭和隊」小川清少尉と安則盛三中尉が米
機動艦隊旗艦バンカーヒルに突入。大きな損壊を与えた。
▼安則盛三中尉機と小川清少尉機が30秒の間に突入し炎上する空母バンカー・ヒル(USS Bunker Hill)
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やむなく僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると、昭和20年5月14日
「第6筑波隊」富安俊助中尉がエンタープライズに突入、大破させた。司令官旗は結局、別の航空母艦に移された。
▼富安俊助中尉機の突入を受け、エレベーターが爆発で吹き飛び、大破炎上する米空母エンタープライズ
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米軍の特攻機対策が強化された沖縄戦では、沖縄方面特攻作戦で九州・台湾から出撃した3461機中、体当たりで散っ
た機数は海軍983機、陸軍932機の計1915機。その内132機が命中、122機が至近弾となり、至近命中を含めた命中
率は実に13.2%であった・・・。米軍艦船の損害は34隻が沈没、368隻が損傷し、死者・行方不明者合わせて9000人
以上に上り、沖縄戦終了までにアメリカ海軍史上最高の損害を記録した。

米軍のバックナー司令官は「進撃のスピードが遅い」と、各所からの批判に晒されていた。
グアムから沖縄に来た海軍ニミッツ提督は「海軍はこの戦いをなるべく早く終えて戦線離脱したい」と圧力をかけた。
この為、バックナー司令官は沖縄北部戦線を予定よりも早く完了した第3水陸両用軍団の第1海兵師団と第6海兵師団を
南部戦線に投入し、西側から防衛線を突破する計画を立て、5/11を期して5個師団による総攻撃をかけた。
昭和20年5月12日米軍はシュガーローフに日本軍陣地がある事は分かっていたが、あっさりと丘を登り占領・・・。
しかし、直ぐに日本軍猛反撃を受け日没までに半数以上の兵士が死傷、G中隊は事実上壊滅して撤退する。
作戦変更を余儀なくされる。
米軍は、嘉数の戦い・前田高地での苦戦に懲りていたにも拘わらず「単なるゴミ・ニキビ程度の丘」と称し、またもや
少数部隊で中央突破を試みて墓穴を掘った。
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▲写真は浦添市「大名高地の戦闘」5/13~14日頃米軍撮影
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▲昭和20年5月11日米軍撮影
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その結果、この地が「太平洋の戦場で最も厳しい戦いの1つ」として語り継がれる様になった日米の激戦地となった。
米軍が「どの場所における戦闘よりも苦戦し、太平洋戦争でどの戦場よりも1平方フィート当りの戦死者が多かった」
と言われる犠牲者を出す事となった。
サッカー場数面程の土地が、世界史上で最も大量の血を吸い込んだ愚かで悲惨な地となった。
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▲戦闘終了後(昭和20年6月)に撮影されたシュガーローフ・ヒル(Sugar Loaf Hill)
ここを守備していた日本軍は、既に消耗していた第62師団を後方の首里防衛線の最西翼の安里地区に送り、
知念半島で第2の米軍の上陸作戦に備えていた独立混成第44旅団を北上させて配置した。これまで後方に控えていた
ほぼ消耗の無い、武器・弾薬にも恵まれたフレッシュな部隊、陸軍第44旅団第15連隊であった。
昭和20年5月13日作戦を立て直した米軍は朝から艦砲射撃に合わせ、E中隊とF中隊の2個中隊が丘を攻撃。
更に戦闘爆撃機からロケット弾・450㎏爆弾の投下などで海兵隊を援護。しかし首里陣地からの日本軍の極めて正確な
砲撃で、前日のG中隊と全く同じ状況に陥った。
丘にたどり着いた両中隊は、激しい日本軍の十字砲火を浴びて、後退を余儀なくされた。
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昭和20年5月14日シュガーローフの攻撃を担当していた第22海兵連隊第2大隊は、前日までに消耗していた配下のE中
隊、F中隊、G中隊の全兵力を使ってシュガーローフの攻撃を敢行した。
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▲シュガーローフ・ヒルの斜面で身動きが取れない米兵。奥の煙は日本軍による砲撃。
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▲火炎放射器で日本軍陣地を一掃する米軍。まともにあびればひとたまりもない・・・。
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▲シャーマン型火炎放射戦車によって破壊された日本軍47ミリ対戦車砲。黒焦げになった日本兵の胴体半分が大砲
 の横に転がっている。砲弾が貫通している防盾にも注目(5/12撮影)
日没までにF中隊は丘に張り付いたが、激しい日本軍の攻撃の中、大隊本部と連絡が取れなくなってしまった。
大隊幕僚のコートニー少佐は日没後、大隊の残存兵力を結集し丘の救援に向かったが、激しい日本軍の迫撃砲攻撃で
兵力は見る間に減少していった。大隊本部は、深夜になって炊事兵や通信兵、憲兵を掻き集め、丘に送り込んだものの
夜半には丘を維持できなくなり、更に午前3時頃には新たな増援としてK中隊を送り込んだ。
しかし日本軍は攻撃の手を緩めず、頂上部では稜線を挟んで、激しい手榴弾の投げ合いが続いた。
昭和20年5月15日夜明けと共に、第29海兵連隊のD中隊が、シュガーローフの救援に向かい、丘を維持していた部隊
と交代した。しかし視界が利くようになった日本軍は、周囲の丘からシュガーローフに十字砲火を浴びせて、海兵隊を
シュガーローフの周辺部からも一掃した。
この朝、大隊本部を日本軍の迫撃砲弾が直撃し、大隊長・通信兵・戦車中隊長が戦死、配下の中隊長も負傷した。
3日間の戦闘で米海兵隊は400人の死傷者を出した。
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日本軍は、この場所を突破されると首里司令部の裏側に回りこまれて、包囲される恐れが出てきた為、
予備兵力と残った砲兵力を惜しげもなくつぎ込む体制を整えていた。
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一帯は首里高地の日本軍砲兵隊から見通しが効いた為、米軍は常に激しい砲撃に晒された。
日本軍は、シュガーローフ、ホースシュー、ハーフムーンとアメリカ軍が呼んだ3つの丘からなる連携した巧みな防御陣
地を構築し、アメリカ海兵隊を撃退し続け、シュガーローフの丘は戦闘が行われた1週間で11回も持ち主を変えた。
アメリカ軍は、遮蔽物のない中を突撃しこれらの丘に攻撃を加えるしか方法はなく、被害が増大していった。
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昭和20年5月16日ようやく米軍は、2つの丘からなる日本軍の防御網の全体像を把握し始めており、シュガーローフ、ハ
ーフムーンを同時に攻撃しなければ、残った丘から十字砲火を浴びて、撃退されてしまうことに気が付き始めていた。
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▲海岸線で見つかったコンクリート砲座にあるイギリス製12cm砲。施設が石灰岩の上にあり、電灯・弾薬貯蔵庫・通信
 回線が備え付けられていた。(砲身が短く破損しているのは日本軍が撤退時に爆破していった為)5/15撮影
米軍は戦闘機のロケット弾・ナパーム弾を浴びせ、海からの艦砲射撃。夜は照明弾で殺戮を照らし続けていた。
この日は1個連隊もの兵力を動員しての総攻撃を実施した。しかし、首里高地からの砲撃も含めた、激しい日本軍の攻撃
の前に、支援の戦車隊は次々と撃破され、またしても歩兵部隊は十字砲火を浴びて、撃退されてしまった。
さらに撤退途中の部隊にも容赦なく銃弾が浴びせられ、死傷者は増大していった。結局この日も丘を掌握できずに、第6
海兵師団にとって、最悪の1日となった。
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昭和20年5月17日米軍は東側からハーフムーンを攻撃すると同時に西側からシュガーローフ頂上を目指した。
第22海兵連隊及び、第29海兵連隊の部隊により、再び連隊規模の攻撃を実施。3回頂上制圧を試み、2度白兵戦で追い
返され、3回目にしてやっと頂上を確保したが、弾薬を使い果たした米海兵隊はまたしても日本軍の激しい攻撃により、
160名の死傷者を出してシュガーローフ頂上を放棄せざるをえなかった。しかし日没までにハーフムーンの一部を掌握
し、翌日の攻撃路を確保する事が出来た。
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日本軍も絶え間ない艦砲射撃や空爆、あるいは夜間の斬り込み攻撃により、かなり消耗しており、陸軍正規兵の姿は少
なくなり、小禄地区からの海軍支援部隊や、沖縄の義勇兵が辛うじて戦線を維持している状況になった。
昭和20年5月18日兵員・武器弾薬の補給の無い日本軍の砲火力が目立って小さくなってきた。
▼ハーフムーンにも亀甲墓が多くあり、日本軍は陣地豪として利用していた。
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▼日本兵と間違われて射殺されたのか自決したのか亀甲墓入口で死んでいる女性(那覇で撮影)言葉が出ない・・・
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▼大破した日本軍戦車が亀甲墓入口に立っている。猛烈な爆発か爆風が襲ったのか、日本兵の遺体も横にある(5/19)
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▼沖縄式の墓、もしくは御嶽(うたき)に潜む日本兵を引きずりだそうとする米兵(5月撮影)
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米第29海兵連隊は、前日の攻撃でハーフムーン北側の進入路を確保しており、有利な位置から攻撃を開始した。
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既に日本軍対戦車網も消耗していた為、この日初めてシュガーローフの南側まで戦車隊を前進させる事に成功し、一気
にシュガーローフを占拠、反対側の斜面を戦車隊が掃討し、遂にシュガーローフが米軍側に手に落ち、午前、ついに日
本軍は力尽きた。米第6海兵師団の最後の予備部隊の第4海兵連隊が、投入され、一帯を掌握した。
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ここでの戦闘は、圧倒的な火力・戦力の米軍に対して日本軍が互角に戦ったと言われている。
接近戦になると米軍は砲兵隊や艦砲射撃の支援を受ける事が出来ず苦戦を強いられた。頂上付近の戦闘は、1日に日米
両軍の支配が4回も入れ替わる程凄まじかった。至近距離での銃撃戦・手榴弾の投げ合い・繰り返される斬り込み突撃
の死闘。肉体的・精神的緊張の極限状態の戦いは日米軍双方に多大な死傷者を出した。
▼重傷の海兵隊員を担架運搬者が運び、衛生兵が輸血を施す。
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米軍死傷者2662人と1289人の精神病者、太平洋戦争の全ての過程を通しても、沖縄戦程この種の「精神異常患者」を
多く出した戦闘は他に無かったと言われている。
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▲疲れ果てた米兵を写した1枚
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▲ぬかるみの中、3人の日本兵は傷が重い仲間をタンカに乗せて運んでいる(首里城近く日本軍陣地で5月撮影)
「日本兵も投降する」と題されたこの写真。負傷した仲間を引きずって豪から出てきた3人の日本兵は、必死の身振り、
手振りで投降を伝えた。武器を持って日本兵の後についている海兵隊員は日本兵の気が変わらない様警戒している。
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▲戦闘終了間もない昭和20年5月23日撮影のシュガーローフ・ヒル(Sugar Loaf Hill)
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▲昭和25年3月30日に撮影されたシュガーローフ・ヒル。放置された上陸用舟艇と甘藷畑に肥料をまく農夫。
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▲現在のシュガーローフ・ヒル。再開発などで辺りの丘は全て削り取られ、激戦の丘を何とか残せないかという事で、
那覇市が頂上に「安里配水池」(給水施設)を平成9年に建設。かろうじてその敷地が残った。
この辺りは道路工事や商業施設建設工事などで当時戦死した日本兵の遺骨が今も出てくると言う。
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▲現在は那覇新都心として人気上昇中の地区だが、此処が日米激戦地だった事を知る人は少ない。
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▲頂上の「安里配水池」には簡易的な展望台が設置されている。
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▲斜面は反対だがこの様な激しい戦闘だった(5/23米軍撮影)
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▲現在のだいだい同じ場所(同じと言ってもほとんどが開発で削られて頂上部分しか残っていなので特定出来ない)
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▲小展望台より登ってきた道と安里配水池を見る。安里配水池の半周路を歩く事が出来る。写真の「東横イン」左手辺
りがハーフムーン・ヒルだった。開発などで2009年頃に姿を消した。「ハーフムーン」とはアメリカ軍が戦時中に付
けた名で、地元では大道森(だいどうむい)と呼ばれていた。
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▲激戦当時のハーフムーン・ヒル(5/18撮影)
 (同じアングルと思って上の写真を撮ったが、近い雰囲気だろう)現在はゆいレールや道路・商業ビルなどに変わって
 しまっているが、激戦当時はこの様な森の丘であった。那覇新都心から直進出来る道路を建設する為、ハーフムーン
 ・ヒル全体で工事は行われ、森は重機で削り取られていった。
 ハーフムーンの戦いでの日本兵の奮戦上は記で紹介した通りだが、一回の戦闘が終了すると斜面には無数の日本兵の
 屍が重なり合っていた。後方に運ぶ事も出来ず、翌朝のアメリカ軍の砲撃によって遺体はバラバラになり、人間の形
 では残らなかった様だ。この斜面から出てきた大半の遺骨は識別できない程に小さな物が多く、身元を特定する事は
 無理だったと言う。その小さな遺骨を最後まで手作業で探し続けたボランティアの方がいらっしゃる。
 沖縄戦遺骨収集ボランティア、那覇市の「NPO法人ガマフヤー」代表 具志堅 隆松さんだ。
 シュガーローフ・ヒル周辺やハーフムーン・ヒル開発工事は市役所の意向に反し何度も中断。具志堅さん達は休日を
 利用し、手弁当1つで遺骨や遺品を収集。遺族にお返ししたい一心の作業は成果を上げ、マスコミが世論を動かし、
 遺骨収集の一定の期間、わずか数ヶ月であったが工事が停止する事になった。
 時間との勝負の中、具志堅さんの選んだ最後の手段としてホームレスの手を借りて作業を行い、沖縄県庁・厚生大臣
 への陳情など勢力的に行動し、市や県を認めさせることに成功した。土の中からの叫びが聞こえますか?YouTube
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▲ここがかつて日米激戦地だった事を伝える案内碑
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▲戦いに散った日本兵のご遺族が訪ねて来たのであろう、松の木に卒塔婆が立てかけてあった。
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▲▼シュガーローフ・ヒルより北方の眺め。
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▼南方(首里方面)を望む。
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▼南側の僅かに残っている丘陵地帯も開発で削り取られつつある。
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沖縄県内に残る旧日本軍の陣地壕を中心にボランティアで遺骨や遺留品を収集していた国吉勇さんが、体力の低下を
理由に2016年3月活動から引退された。
国吉さんは約60年間活動しており、拾い上げた遺骨は約3800柱、遺留品は10万点以上に上る。
身元が判明した遺骨や遺留品を遺族へ返す活動もしており、県内で遺骨収集する中心人物の一人だった。
 国吉勇さんは沖縄戦の最中、母親をマラリアで失い。兄が乗った本土への疎開船は近隣の海域で米軍の潜水艦に沈
められている。もう一人の兄は「鉄血勤皇隊」として米軍と戦い、部隊のたった独りの生き残りとしてハワイに抑留
された経験をお持ちだという。少年期に終戦を迎え、当時、家計の助けになれば、とクズ鉄を拾いに行き、遊び道具
などを探しているうちに自然と遺骨も拾うようになったという。当時の遊び場といっても不発弾が転がる死屍累々の
戦場跡だったそうで、小学生の頃探検ごっこで入った城岳のガマでつまずき、足元を見るとミイラがあった。
それらの経験が忘れられず高校生の時に同級生5~6人で遺骨収集を始めたという。
国吉勇さんは大変な作業を60年も続け、沖縄戦遺骨収集に人生をささげた方である。心から労をねぎらいたいと思う。
那覇市のご自宅の「戦争資料館」には戦地から収集した遺留品が大切に保管され、遺族の元に帰る日を待っている。
登山家の野口健さんが訪問されている。「ヒマラヤに捧ぐ」野口健公式HP
国吉勇さんのこれまでの遺骨収集の様子を紹介しているブログは→「世界遺産・白神山地で暮らす」
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▲米軍が制圧した当時のシュガーローフ・ヒル頂上から北側の眺め。5/10第6海兵師団が最初の攻撃を始めた安謝川河
 口付近が北西方向に見える。写真から、師団の戦闘地域においてなぜこの丘の地形が重要であったかが分かる。
(当時の沖縄戦に話を戻します)
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▲米軍の爆撃で壊滅的な被害を受けた与那原町にあった日本軍兵舎。
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▲海兵隊と陸軍看護兵が見ているのは沖縄青年団の旗。「浦添村青年団」と書かれている(5/20撮影)

▼制圧した丘から那覇市街地を見下ろす米軍兵士(6/6撮影)昭和19年の10/10空襲で既に街は壊滅している。
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▼沖縄戦で初導入された155㎜砲はシュガーローフ付近から日本軍を追い南部へブルドーザーで牽引される。
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昭和20年5月22日米軍は那覇市街地に侵入、首里司令部に迫りつつあった。日本陸軍第32軍の組織的戦闘力はほぼ
尽き、敗戦は時間の問題となった。
当時沖縄は5月10日までには梅雨に入ったと見られ、5月20日を過ぎると激しい豪雨の日が続いた。
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▲那覇に進撃してく米軍戦車
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▲那覇市泊港付近。
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▼▲那覇市街地を進撃していく米軍
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▼波上宮(那覇神社)ここには第32軍司令官 牛島中将以下多くの将兵が戦勝祈願に赴いている。
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▼5/29第6師団第22連隊の偵察兵が日本軍狙撃兵が潜む神社に慎重に近づいていく。
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▼沖縄戦以前の昭和6年に撮影された波上宮入口付近(上記写真と比べて見てほしい)
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▼現在はかなり様変わりしているがおおよそ同じ場所。
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▼▲破壊された波上宮(那覇神社)ここには第32軍司令官 牛島中将以下多くの将兵が戦勝祈願に赴いている。
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▼那覇占領後に波上宮を見る米兵達。
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▼現在の同じ場所。
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▼戦後のアメリカ統治下昭和32年5月21日に撮影された波上宮。
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▼現在の同じアングルで撮影(2017年2月15日訪問)
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▼戦後の昭和32年5月21日に撮影された波上宮
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▼那覇市を進撃していくM4シャーマン戦車と第6海兵隊員。
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▼5/29那覇市城岳(35高地)の戦闘。大和墓付近(現在の松尾公園)にあった「大和墓」付近。
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城岳には陣地壕が掘られ十・十空襲以降作那覇無線通信所の本拠として使用された。昭和20年3月からは一時、県庁壕
として使われている。全長500m壕は当時13ヶ所の開口部があったというが現在は蓋をされ、何の説明板も無い。壕の
中には、日本兵が斬り込みの際に置いていった大量の軍靴や雑のう、水筒が散乱しているという。
※城岳(35高地)は現在公園となっており、日本軍通信所台座跡・蓋をされた壕口・二中健児の塔がある。
 二中健児の塔は、沖縄戦で戦死した県立二中の職員、生徒を祀る塔で、県立二中では144人が鉄血勤皇隊に動員され
 内127人が戦死している。

▼壊滅した那覇港。沈みかけた日本の貨物船が見える。
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▼終戦後の昭和32年5月21日に撮影された那覇港
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▼那覇市の教会。周りが根こそぎ打ち倒されている中で、米軍は特にこの建物は攻撃させなかったと言う(5月撮影)
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▼別の角度から。辺りの建物より断然被害が少ない事が良く解る。
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▼廃墟となった那覇市の別の教会(5月撮影)
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▼上記の教会を昭和29年4月13日に撮影したカラー写真。
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▼那覇市の武徳殿(5月撮影)
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▼武徳殿周辺(5/30撮影)
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▼廃墟となった那覇無線通信所(6/5撮影)
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▲▼廃墟の那覇市と鳥居を写した写真(5/29撮影)
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▼銃痕の残る廃墟となった那覇最大のデパート(丸山号)
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▼那覇市久米にあった那覇地方裁判所の正門で構える米兵達。(5/28~29日頃米軍撮影)
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▼那覇市上之屋の泊国民学校か上之山国民学校?をメインに撮影された4枚の写真。
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撮影日は、白黒写真でも廃墟となった那覇は快晴だった事が写真から伝わってくる。(5月撮影)
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▼5/29廃墟と化した那覇を通り進軍する第22海兵連隊
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▼半壊した石灯籠と神社。ここから北東の方角に廃墟と化した街が広がる神社(那覇にて5月撮影)
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▼艦砲射撃と地上戦でとことん破壊されたコンクリート製の建物
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▼廃墟と化した那覇刑務所を調べる海兵隊所属の戦場カメラマン2名(6/5撮影)
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▼那覇港の奥武山公園の入り口(6月撮影)現在は奥武山公園・奥武山総合運動場
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▼現在の同じ場所(沖縄県護国神社の入口となっている)
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▼奥武山公園内には護国神社がある。
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▼奥武山公園(6月上空より撮影)現在奥武山公園内に沖縄戦当時の沖縄県知事 嶋田叡(あきら)氏の顕彰碑がある。
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▼頭を抱え途方に暮れるた老いた住民を尻目に進撃していく第3海兵団第22部隊の米海兵隊員。
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▼日本兵の死体が横たわる小さな集落を足下に用心しながら歩く海兵隊員。
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▼日本軍が弾薬庫として使用していた亀甲墓を調べる米兵、日本軍の弾薬が入った木箱が写っている(5/29撮影)
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▼捕虜となり、幸運にも命を捨てる事無く生き延びた沖縄住民の人達。
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色々な住民達の写真を見るが、本当に見事に女性・子供・老人の姿しか見ない・・住民根こそぎ動員は恐ろしい・・。
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▼この様に戦闘中に捕虜となって助かった女性も、後に収容所で米兵から強姦をうけた例も少なくない。
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▼▲艦砲射撃と砲兵隊の砲撃で破壊された沖縄県立第一中学校校舎(現在は首里高校)
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▲▼米軍は首里城第32軍司令部付近まで迫ってきた、破壊された昭和10年建築の首里教会が写っている。
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▼現在の那覇市安泊辺りだと思われる。
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▼日本軍の仕掛けた地雷を踏み、大破した米軍戦車。
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第32軍司令官牛島満中将以下幕僚達は、「最後まで首里に残って戦うか」「南部へ退却するか」を検討した。
「南部へ退却して決戦」論が大勢を占めたので、結局南部に撤退して戦力を立て直し、持久戦続行を決定した。
この時、長 勇中将は「首里で最後まで戦う」と訴えたが、八原博通大佐の「南部へ退却して決戦」の意見を牛島中将は
採用した。この決定が南部へ避難していた10万人を超える住民を戦闘に巻き込む事となり、惨烈な損害を出す事になる
この時、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日頃に初めて知らされたとされる。
梅雨に入った沖縄は5/21からは豪雨が続き5/26には88㎜の雨が降り、6/1まで毎日平均30㎜の豪雨が続いた。
この間戦線は膠着状態となっていた。
※5/10第32軍航空参謀の神直道少佐(同月中佐に昇進)が大本営へ沖縄作戦戦況報告の為、首里司令部豪を脱出。
その後は九州の第六空軍参謀として終戦を迎えた(平成10年死去)
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▲身長約120センチという沖縄で一番小柄な具志堅コクエさん(24歳)と並ぶボイド3等軍曹
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▲▼昭和20年5月26日米軽巡洋艦ヴィンセンスからの砲撃で破壊された日本軍の高角砲
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昭和20年5月27日首里司令部を放棄、降りしきる雨の中約4万人の日本軍は沖縄南部の摩文仁を目指して撤退を開始。
摩文仁の新陣地まで約15㌔である。(海軍陸戦隊が第32軍司令部の撤退を支援している)
5月28日には牛島満中将以下幕僚達が摩文仁司令部に到着している(首里には撤退を知らされず捨石の日本軍将兵が
取り残されて最後の斬り込みを敢行し玉砕していた。)
首里司令部豪の放棄は参謀長や司令官の2人の間で極秘に決定した事であった。
この時海軍司令部は一旦完全撤退と受け止め、小禄地区の重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍
司令部の撤退を支援せよ」との命令を勘違いしたことが解り、5月28日には再び小禄海軍司令部壕へ引き返した。
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▼▲説明書では首里日本軍兵舎となっているが、恐らく首里城内にあった官立「沖縄師範学校」と思われる。
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▼首里城へは沖縄県立芸術大学側から入園した。かつて「沖縄師範学校」があった場所である。
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▼道路沿いの沖縄県立芸術大学敷地内に、弾痕跡の残る沖縄師範学校(男子)の門柱が残されている。
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▼戦火で焼失する前の首里城正殿(空手演武)昭和13年撮影。
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▼焼失前の首里城正殿入口付近(正殿入口が左側に少し写っている)
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▼現在は見事に復元されている。
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首里城の地下には陸軍第32軍総司令部豪が掘られた。城山の南北直線距離400mを貫通させ、総延長1kmを越える豪
で、壕内部の幅は最大で3m、天井高さは2m内部は丸太で補強され、1t爆弾にも耐える事が出来た。
首里城は、5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け27日に焼失、日米両軍の激しい戦闘
で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。
5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能の重傷兵約5000名が首里城の地下陣地で自決した。
宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還された。
また、所在が明らかになり返還に向け交渉中の物もある。
▼当時の首里上空写真
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▼首里城内に進撃していく米兵達。
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▼廃墟の首里城にたたずむ米兵(5/29撮影)
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▼通訳から質問を受ける2人の日本兵捕虜(5/29撮影)
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▼▲首里城付近で破壊された日本軍の軽装甲車。
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▼首里城の城壁に立つ第1海兵師団の兵士(5/29撮影)
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▼激しい戦闘で破壊し尽くされた首里城。写真右側に継世門が写っている。
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▼沖縄戦以前の継世門。門の櫓や城壁の石垣が沖縄戦でことごとく破壊されたことがよく解る。
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▼正殿入口付近から龍潭池を見渡した写真(昭和20年6月8日米軍撮影)
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▼首里城内城門からの眺め。鉄塔が2塔写っている(6/8撮影)
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▼6/8に撮影された円鑑池・龍潭付近。
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▼見事に復元された現在の弁財天堂と龍潭池。
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▼首里城内の小さな森だった場所で休憩する海兵隊員。左は首里城中庭であった場所。
 右奥には破壊された日本軍司令部の車輛(ジープ?)が写っている。
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▼▲玉御殿城壁のふもとに設置された米海兵隊の司令部で休む第1海兵師団(5/30撮影)
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▼沖縄戦後復興した首里城「玉御殿」
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▼平成4年11月見事に復元されたが信仰の対象であった御嶽(うたき)には自由に立ち入る事が出来なくなったと言う。
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昭和20年5月31日首里城は艦砲射撃などで無残に破壊され、瓦礫の山と化し500年余の歴史を誇る雄姿も、もはや見る
影も無かった。首里攻防戦線を制圧した米軍兵士は用心深く首里城内に入った。
しかしそこに主要装備は無く、散乱する日本兵の腐敗した死臭が充満していた・・・。司令部豪内に牛島中将/長中将/
八原大佐の姿は無く、自力で南部へ撤退出来なかった自決した日本兵約5000人の死体があるだけだった。
▼首里城内のハンタン山に現存する司令部豪入口(崩落部分が多く、中に入る事は禁止されている)
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▼入口からカメラを入れて撮影。直ぐ左へ直角に曲って奥に続いている様だ。第32軍司令部壕調査YouTube
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▼米軍が撮影した当時の司令部豪内部
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▼「司令官室」壕内は天井や壁のあちこちから水が浸み出し、滴下することが多い為、天井は波板トタンで水避け対策
 が施され、牛島満中将が使っていたであろう机も写っている。(米軍撮影)
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▼「司令官室」の真上は丁度、守礼門辺りである(復元間もない頃の守礼門。昭和38年6月撮影)
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首里城公園の地下には今も約1000mの巨大な人口壕が眠っている。牛島中将他約1000人の軍人軍属達が南部撤退まで
の2ヶ月間居た戦闘指令所である。当初は安里(那覇市内中心部)にあったが、10/10空襲後の昭和20年1月に、首里城の
地下司令部壕に移動した。壕掘り作業は軍の設営部隊や沖縄師範男子学徒があてがわれた。
壕内には将兵の他、指揮官や参謀の世話係の女性達も雑居していたという。
首里司令部壕撤退を決める直前、大本営へ沖縄作戦戦況報告の為に5/10(19:00頃)首里司令部豪から本土へ脱出した、
第32軍航空参謀神直道少佐が、首里司令部壕内の女性達について以下の事を戦後に証言している。
「司令部壕内に20人~30人の「辻遊郭」の女性達が炊事要員として軍に仕していた」事。
「良家の子女10人余が牛島・長などの将校の身の回りの世話をしていた」事。
「女子師範学校学徒も何人か居た」事「司令部内に慰安所は無かった」事「朝鮮人女性や本土の芸者はいなかった」事。
「飯炊き要員として駆りだされていた辻遊郭の女性は遊郭の女性だという事で兵隊の中にその様な行為に及ぶ者があり、
壕内の風紀が乱れそうになったから壕内から出てもらった」事、などである。

第32軍司令部壕は3ヶ所に造られた。現在の米軍嘉手納飛行場(元・陸軍中飛行場)弾薬庫の山側に1つ造られ、南風原町
津嘉山にも掘られた。最終的には地盤の固い首里城地下壕が軍司令壕に選ばれた。
嘉手納弾薬庫内の壕は米軍が使用しているとの噂もあるが、はっきりしない。津嘉山壕(つかざん)は第32軍司令部豪に
使用される予定で南風原町津嘉山の小高い丘に総延長約2キロに及ぶ巨大な人口地下壕建設されたが、攻撃にもろい事
が判明、前線に物資を補給する後方陣地として使用された。津嘉山壕には経理部が置かれ、約3000人の日本兵が配属さ
れた。庶務課では南風原陸軍病院豪から移ってきたひめゆり学徒16名も勤務していた。
戦後入り口が埋まり、正確な位置が解らなくなっていたが、平成16年道路建設に伴う発掘調査で初めて確認された。
▼消失前の守礼門。
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▼現在の守礼門。
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▼道を挟んで反対側には通信豪と豪入口がある。司令部豪入口は6つあったそうだが今は2つしか残っていないとの事。
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▼▲第32軍合同無線通信所豪跡
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▼米軍が撮影した通信豪内部とされる写真。
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▼こちらは沖縄戦で簡易施設内での米軍通信の様子。
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▼5月30日~31日首里に残された残存兵力で夜間斬り込みを敢行。ことごとく戦死した日本兵を眺める米兵達。
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▼首里城に放棄された日本軍九六式一五糎榴弾砲。
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▼首里周辺の大きな豪で発見された日本軍トラック
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▼当時の日産の広告。上記の日本軍トラックと同タイプか!?
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5月26日以降10日間は毎日毎日平均30㎜の豪雨が続いた。南部撤退作戦が成功したのはひとえに悪天候のお陰だった。
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▲▼豪雨でぬかるんだ地面にスタックする車両を引き出す米軍。
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▲首里城内への入口の1つである木曳門で眠る米兵。ここまで進軍してきた米軍も当然、相当疲れていただろう。
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▲現在の木曳門で撮影。首里城は平成元年11月~平成4年11月で復元工事が完了した。
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▲戦闘があった場所だと言う事を忘れる程見事に復元されている。教えてもらわなければ古写真の場所とは解らない
見事に復元された首里城の城壁だが、やはりオリジナルとは程遠い仕上がりだと言う。沖縄の石工技術は飛び抜けて
高い水準にあったとされているが、戦後石建造物は減り続け、新規石建造物は作られず、また既存の石建造物を補修
する機会も無く、石工技術を活用する機会が激減している中で首里城復元工事は行われた。
伝統的石工の技術はグラインダー等の高効率化された機械化作業による作業に置き換えられ、何となく無機質な近代
建築城跡に見えた。首里城を訪れる前に立ち寄った浦添城跡の城壁も復元との事だが、後者の方が味があった。
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▲首里城内で休息をとる米兵達。
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▲首里城の鐘を見つめる米軍指揮官。
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▲首里城内東西にアザナ(物見台)がある。西アザナは一般公開されていて牛島中将も戦況を眺めていた場所だ。
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▲西アザナからは、米軍上陸地点~第1・2・3防衛線まで綺麗に見渡す事が出来た。
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▲首里城公園を見学した時間が夕方前だった為、少々時間が経つと西側の夕暮れの景色が絶景だった。
 海の向こう側に見えるのは慶良間諸島である。那覇空港を飛び立った旅客機も見え、平和な景色に感謝した。
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▲5/29首里城に居る第1海兵師団に物資を投下するTBF機を写した写真(西アザナか東アザナと思われる)
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▲首里城を制圧した米軍が城内(西アザナ)から那覇を撮影したもの
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▲那覇市の南東にある無線塔。那覇~首里攻防戦の際、日本軍はこの塔を偵察所として使用した。
この塔は特殊な構造の為、砲撃でも壊れなかった。米軍は砲弾を空中爆発させてそこにいた日本兵を追い出した。

▼豊見城下方にあった日本軍陣地壕。この壕を防御陣地として使用していた日本兵の死体が複数写っている。
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豊見城村は那覇の南に隣接する村。豊見城は600年以上前の「琉球戦国時代」に攻め滅ぼされた南山王系列[見城按司]
の城であった。現在は琉球当時の遺構はほとんど無く、石垣の一部や古井戸などが残るだけで、世界遺産に指定された
琉球グスク群からは外されている。沖縄戦当時、現在の豊見城城跡公園には旧陸軍第24師団第2野戦病院壕があった。
この野戦病院壕に配属され従軍した軍医や積徳高等女学校学徒看護隊などの生存者により合祀碑が建立された。
積徳高等女学校は、仏教系の私立学校で、旧那覇市の真ん中にあった。戦時色が強まる中の昭和20年3月13日、4年生
56人に対し、軍の命令で合宿看護訓練が行われた。しかし、戦況の進展で訓練は10日間で中断、米軍上陸の1週間前に
戦場へと送りだされる。昭和20年3月23日、配属されたのは、豊見城城址にあった陸軍第24師団第2野戦病院壕。
隊長は小池勇助軍医少佐(長野県出身)。小池軍医少佐は学徒看護隊56人に従軍か除隊かの調書を取る。
結果31名が除隊。25名が従軍看護婦「ふじ学徒隊」として勤務する事となる。
▼積徳高等女学校の生徒25名で編成された「ふじ学徒隊」は3/23陸軍第24師団豊見城野第2戦病院壕に配属された
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南部撤退の昭和20年5月26日まで使用された第2野戦病院壕は、最後まで勝利を信じて戦い傷つき倒れた多くの英霊を
供養し、そして永遠の平和を祈念する為、昭和58年7月陸軍野戦病院壕が復元された。
※現在、豊見城城跡公園は閉鎖され、どうなっているのか全く解らない。私有地だった為、消滅した可能性が高い。
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▲豊見城アーチ道の脇に立つ第22海兵連隊司令官ロバーツ大佐と第22海兵連隊第3大隊司令官シスラー中佐。
※沖縄戦に従事した女子学徒隊
 「沖縄陸軍病院」
 沖縄師範学校女子部 (ひめゆり学徒隊157名)昭和20年3月23日~戦死81名
 県立第一高等女学校(ひめゆり学徒隊 65名)昭和20年3月23日~戦死42名
 
 「陸軍24師団山第1野戦病院」(新城[アラグスク]分院ヌヌマチガマ・カラビガマ他)
 県立第二高等女学校 (白梅学徒隊 56名)昭和20年3月24日~戦死22名
 
 「陸軍24師団山第2野戦病院」※陸軍24師団は通称「山部隊」と呼ばれていた。
 私立積徳高等女学校(積徳学徒隊[ふじ学徒隊] 25名)昭和20年3月23日~戦死2名戦後1名
 
 「八重岳陸軍野戦病院」「沖縄陸軍病院名護分院」
 県立第三高等女学校 (なごらん学徒隊 10名)昭和20年3月24日~戦死1名
 ※本部半島では南部の様なガマはほとんど無く、「八重岳陸軍野戦病院」は人の手で作石垣を作り、小屋を建ててい
 たと、なごらん学徒隊生存者の方が証言している。小屋は5、6棟あった様で内1つはオペ室、残りは病棟との事。
 
 「陸軍62師団野戦病院」(南風原町ナゲーラ豪他)※陸軍62師団は通称「石5325部隊」と呼ばれていた。
 県立首里高等女学校 (瑞泉[ずいせん]学徒隊 61名)昭和20年3月25日~戦死33名
 私立沖縄昭和女学校 (悌梧[ていご]学徒隊 17名)昭和20年3月23日~戦死9名
 
 「陸軍28師団第1/第4野戦病院」
 (宮古島)県立宮古高等女学校(宮古高女学徒隊 48名)昭和20年1月~戦死1名
 
 「陸軍28師団第3野戦病院」於茂登岳、独立混成第45旅団司令部東方の野戦病院・船浮陸軍病院(西表島)他
 (石垣島)県立八重山高等女学校(八重山高女学徒隊 60名)昭和20年4月5日~5月8日戦死1名
 (石垣島)県立八重山農学校女子(八重農学徒隊 16名)昭和20年4月5日~5月8日

首里城から南へ約5㌔。那覇市南風原町の黄金森に南風原陸軍病院豪が残されている。
沖縄陸軍病院(球18803部隊)は、昭和19年5月熊本で第32軍の陸軍病院として編成された。6月から那覇市内で活動
を始めるも同年10月10日十十空襲により施設が消失、南風原国民学校校舎に移転する。それ以来第32軍野戦築城部
隊指導の元、字喜屋武(黄金森)と字兼城(現在の南風原町役場北側の丘)に約30の横穴壕が作られた。
米軍の艦砲射撃が始まった昭和20年3月下旬、地上施設での治療を諦め陸軍病院は各壕へと移る。
広池文吉病院長以下、軍医・看護婦・衛生兵ら約350人に加え、昭和20年3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第
一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
昭和20年4月1日の米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第1外科、内科を第2外科、伝染病科を第3外
科へと改める。5月下旬、第32軍司令部は首里司令部を放棄し、更に南部の摩文仁への撤退を決定。
陸軍病院に撤去命令が出される。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われた。
南風原町は平成2年、戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定。平成19年6
月一般公開された。第二次世界大戦の戦争遺跡を文化財に指定したのは日本全国で初めての事だった。
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▲「飯上げの道」沖縄陸軍病院では、黄金森のふもとにある炊事場で調理を行っていた。炊き上がった飯や汁をタルに
 つめ、2人1組で担いで丘の上まで駆け上がるのだが、このルートは米軍の標的とされて激しい銃撃・砲撃を受けた。
▼後で行った南風原文化センターに人形を使ったジオラマが展示してあった。
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▼途中、現在は崩れてしまっている豪口。遺骨収集も出来ていないと言う。
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▼内閣総理大臣 佐藤榮作 書とかいてある・・・。
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▼小高い丘の頂上付近には当時、御嶽(うたき)があった。今もあるが作り直された物との事(写真は5/15米軍撮影)
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※御嶽(うたき)とは、当時の短い寿命から長寿や転生を祈願した場所。安産祈願で建立されたものや、ユタの修行場と
して使われる(現在も?)場所とされる。「ユタ」とは、沖縄県と鹿児島県奄美群島の民間霊媒師(シャーマン)であり、
御嶽(うたき)や城(グスク)の聖地や拝所(ハイショ)で霊的問題のアドバイス、解決を生業とする女性の方達である。
祈願行事の司祭は祝女(ノロ)と呼ばれる女性が取り仕切る。
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▲▼ひめゆり学徒が何度も往復した「飯上げの道」アップダウンのある急な坂道で、かなり豪まで距離があった。
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ここで命を失った「ひめゆり学徒」もいる。危険をくぐり抜け食料を運んで命を繋いだ道は現在も残されている。
▼「飯上げの道」を終えると一般公開されている陸軍病院20号豪がある。
※沖縄で唯一海に面する場所が無い南風原町が艦砲射撃が届かない村として病院豪建設の場所として選ばれた。
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受付の休憩所では希望者に「当時の病院豪内の匂い」を体験させてもらえる(小さなビンの中に復元された当時の匂い
の元が入っている)当時は血・薬・死臭・汗・尿・汚物など様々な匂いが凝縮された耐え難い匂いの豪内だったと言う。
復元された匂いをかがせてもらったがアンモニアか消毒液のキツイ匂いという感想だった・・・。(この体験必要か?)
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▲病院豪専属ガイドさんに中を案内してもらう。
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▼▲入って直ぐに、当時使われていた医療品のビンやツルハシが展示してあった(ツルハシのみの手掘りだ)
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▼ガイドさんの案内を聞きながら懐中電灯1つで奥へ進んで行く(8名1組が交代で掘り続け約2か月で完成させた)
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▼脇には当時の支柱が朽ち果てようとしていた。米軍の火炎放射器で焼かれて焦げたと見られている。
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20号豪の遺骨収集は終わっているとの事。厚生労働省の遺骨収集では、収集作業員の安全を第一に考え、地上から穴
を開け、空が見える状態での収集作業となる為、作業が終わった後放置された豪は崩落して残らなかったと言う。
この20号豪はそういった方法がとられなかった為、そのまま現存していたとの事。
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▼▲病院豪専属ガイドさんと間隔をあけるとこの通り、カメラのフラッシュのみの暗黒の世界。
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この病院豪は陸軍で当時、坑道は一間×一間が基準となっていたそうだ。
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▲後で行った南風原文化センターのジオラマ。当時の病院豪内部はこんな感じだった。
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▲徳之島で撮影された日本軍地下壕野戦病院
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▲▼19号豪へ繋がっていた通路(崩落している為行く事は出来ない)反対側は21号豪への道(同じく行く事は出来ない)
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▲写真に写っているアルミ台の辺りの天井部分に入院していた兵士が書いた文字が残っているとの事。
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▼20号豪から歩いて1分、24号豪入口(貫通していない未完成の豪)があるが崩落部分が多い為公開されていない。
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24号豪は当時、しずくがしたり、中はぬかるんでいた。「ひめゆり学徒隊」70~80人の待機所となってからも豪の奥
では切削作業が続き、落盤の危険がった。酸素が減ってロウソクの火が消えそうになると、上着やフロシキ・毛布など
をふって空気を入れ替えていた。昭和20年4月末には患者の病室として使用された。
「ひめゆり学徒隊」証言記録上原当美子さんYouTube①「ひめゆり学徒隊」証言記録上原当美子さんYouTube②
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▲これは米軍の病院船レリーフ(USS RELIEF)。沖縄海上に常に待機、万全の治療体制を整えていた。
アメリカは何でも対応が早くて合理的だ。日本は現在でも大震災や自然災害への対応はいつも後手にまわっている。
熊本地震の際、車中泊を続ける被災者を見たアメリカ人は「何故直ぐにキャンピングカーを用意してあげないんだ?」
「アメリカだったら直ちにトレーラーハウスを用意するだろう」と言っていたのが印象的だった。

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▲沖縄県島尻郡南風原(はえばる)町立南風原文化センター(300円)
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▲入口には強烈な印象が残るタイルで描かれた沖縄戦が・・・。
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▲館内には上記で紹介した病院豪のジオラマがある。
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▲手術台の様子
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▲豪内の明かり。
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▲当時の医療用品
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▼日本陸軍第32軍の配置が解り易く書かれている。
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▼奉安殿の実物レプリカ(ほうあんでん)は戦前、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物だ。
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沖縄県には登野城国民学校・美里国民学校・旧謝花国民学校の3基が現存しているとの事だ。本州にもまだ残っている
物もあるが、台湾(台南)にも現存しているとの事。形も色々な形があったと言う。
昭和20年12月15日GHQの神道指令の為、奉安殿は廃止され、奉安殿の多くは、戦後に解体・または地中に埋められた
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▲▼沖縄市知花「美さと児童園」裏庭に旧美里尋常高等小学校の奉安殿が当時のまま現存している(市指定文化財)
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かなり程度が良かった、実物を見たのはこれが初めてだった・・・。
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▼機銃掃射の弾痕も数多く確認した。
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▼菊の御門がまだ多少残っているのには驚いた。
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▼同敷地内には忠魂碑も残されている。保存意義は別として、沖縄には戦時中の「日本」が多く残っている。
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(町立南風原文化センター内に話を戻します)
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▲・・・・痛ましい事だが、事実として起ってしまった以上、知っておかなければならない。
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▲北谷町キャンプフォスター海兵隊基地内の工事中に見つかり、掘り出されたM4中型戦車の回転部分。
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▲日本軍が仕掛けた地雷を踏み大破したM-4シャーマン戦車(昭和20年5月撮影)
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深い場所に埋まっていた為、戦後の鉄不足時の金属回収時にも発見されず、スクラップを免れて近年掘りおこされた
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資料館の特徴は、撮影OK・砲弾の破片や兵器の残骸・爆弾等、各展示物に触れる事が出来る事だ。
これが本来の戦争資料館のあるべき姿だと思う。
体験者は語る「米粒大の破片の傷口は1ミリ位。しかし身体から出る破片は肉・骨をえぐって・・傷口は3cm位の穴が
開いた。身を隠したはずのサトウキビ畑や茂みの中は死体だらけだった・・・」と。
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南風原陸軍病院豪から更に南東へ約10㌔。沖縄県南城市玉城糸数に糸数アブチラガマがある(見学は要予約)
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▼受付を済ませ糸数アブチラガマ専属ガイドさんといっしょにガマの入口に向かう(250円+懐中電灯レンタル代)
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▲おおざっぱであるが、青印が首里城・赤印が南風原陸軍病院豪・白印が現在居る糸数アブチラガマ。
糸数アブチラガマは自然洞窟(ガマ)で、沖縄戦時、元々は糸数集落の避難指定壕だったが日本軍の陣地壕や倉庫とし
て使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となった。
軍医、看護婦、「ひめゆり学徒隊」が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされた。
昭和20年5月25日南部搬退命令により病院が搬退した後は、糸数の住民と生き残り負傷兵、日本兵の雑居状態だった。
昭和20年6月2日アメリカ軍の進撃に伴いガマは放棄される。日本軍から放棄された糸数アブチラガマには負傷兵百数
十人とガマの一郭に残っていた住民が取り残された。米軍はガソリンの入ったドラム缶をいくつもガマの中へ放り込み、
爆破して中を焼き尽くそうとする。ガマの中にはその爆風で天井に突き刺さったブリキのトタン屋根の破片が今でも突
き刺さったままになっており、ガマ内で起きた爆風の凄まじさを今に伝えている。
昭和20年8月22日の米軍の投降勧告に従って住民と負傷兵がガマを出た(負傷兵で無事ガマを出る事が出来たのは7人)
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▼ヘルメットを借りて中へと入っていく。オリジナルの入口は崩壊してしまっている為、この入口を見学用に開口した。
 小さな入口でかがまないと入れない。修学旅行生もここから入るとガイドさんがおっしゃっていた。
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中は本当に広かった。撮影禁止の為画像は無いが、かまどや井戸、爆風除けの石垣、自然豪とはいえ、豪内は明らかに
人の手で築かれた物が沢山確認出来る。遺品の数々など入って体験しないと解らない事が満載だった。
特に重症患者が運ばれた墓部屋は異様に広く。ガイドさんの指示に従って懐中電灯を消し、黙祷を捧げた。
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▲ガマを出て出口を撮影。オリジナルの出口は入口より広い。出口付近には監視の日本兵が立っていたと言う。
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▲ガイドさんの話が沖縄県平和祈念資料館にあるジオラマで、鬼の様な顔つきで製作された日本兵を思い起こさせた。
ガイドさんは優しそうな中年女性だったが、戦史が詳しい訳でも無くただ言われた通りにガイドしているだけに思えた
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▲▼出口付近にもガマはいくつもある、全て中はアブチラガマに繋がっている。負傷兵の墓場だ・・・。
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▼アブチラガマかどうかは不明だが、豪から米軍に救出される負傷した日本兵(6/24撮影)
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▼アブチラガマ受付から豪入口までの間に独立重砲兵第100大隊が使用した日本陸軍89式15センチ砲と海軍93式酸素
 魚が展示されている。時間もおしていたのか、ガイド無くスルーされたが写真に収めて帰った。
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以下は案内石版の文章
「八九式十五糎加農砲」昭和四年旧日本軍によって制式化された大砲で開脚式装輪砲架を持ち、遠距離でも命中精度に
優れていた。砲身車と砲架車をそれぞれ牽引車で牽引して移動し、陣地で組み立てて使用したが、準備に1時間程かか
ったそうである。大里村内には昭和20年3月に旧日本陸軍独立重砲兵第百大隊が布陣した際に、2門が配置された。
しかし沖縄戦においては米軍とのあまりにも大きな物量の差により、その効果は乏しく、一発撃つと何十、何百という
反撃をうけたといわれている。(平成15年12月大里村教育委員会)
砲としては靖国神社遊就館にも展示されている。(平成28年3月移設 南城市)
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▲このカノン砲は南城市大里の平川壕に2門が配置されていた。米軍の攻撃で平川壕は破壊され、2門のカノン砲は土砂
に埋れてたが、1門は日本軍の手で掘り出され、南部の与座や真壁へ転戦して使用された。靖国神社遊就館に展示されて
いるのはそのカノン砲である。掘り出せなかった1門が、戦後の平川壕遺骨収集作業で発見されここに展示されている。
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米軍から猛烈な攻撃を受ける中、土砂に埋れた大砲を苦労して掘り出したのは日本陸軍兵や鉄血勤皇隊だった。
砲身や台車を合わせ10トン以上あるカノン砲を掘り出し、解体に2時間を要し、自動車で牽引し、組み立てに5時間を
かけて与座に設置されたカノン砲で1発を発射、すると再度米軍に袋叩きにされ、今度は真壁に移動。
そこで台車が地面に埋まり前進不能となったとの事だ。その後米軍に鹵獲され、沖縄の米軍博物館、陸上自衛隊那覇駐
屯地を経て1993年靖國神社(遊就館)に奉納されて展示されている。
▼遊就館入口付近に展示されている沖縄戦で使用された日本軍89式15センチ砲(右)。左は九六式十五糎榴弾砲。
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※89式15センチ加農砲を使用した沖縄第32軍第5砲兵司令部の隷下部隊は以下の通り。
 独立重砲兵第100大隊(89式15糎加農・8門) 棚原/西原/八重岳(平山隊)/真壁
※独立重砲兵第100大隊の慰霊碑が、糸満市字真壁の「萬華之塔」敷地内にあるとの事。
「萬華之塔」の廟には、戦後真壁地区の住民が共同作業で遺骨収集を行い、真壁集落付近で集められた戦没者の遺骨が
納められている。「萬華之塔」は真壁の住民によって昭和26年に建立された慰霊の塔だという。
他、「砲兵山吹之塔」(野戦重砲兵第1連隊・沖縄戦球第四四〇一部隊戦没者を祀る)・「鎮魂」(野砲兵第42連隊/通称
山3480部隊の慰霊碑)・沖縄連隊区司令部戦没職員の慰霊碑があるとの事だ。
次回慰霊に訪れたいと思う。(沖縄県糸満市字真壁1292 JA糸満市集出荷場真壁支所向かい)
▼日本海軍93式酸素魚雷(旧佐敷町の南城市老人福祉センターに保管してあった物)
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※日本海軍93式酸素魚雷は当時、各国が実用化を目指していた中、日本海軍だけが開発に成功した高性能魚雷。
以下は案内石版の文章
旧日本海軍93式発射魚雷 全長7.55メートル 重量約2000キログラム 発見場所佐敷字津波古1400-1(中城湾付近) 
発見日時1955年5月12日魚雷は同所で8発発見され、いずれも弾頭部・信管が装備されてなく無事撤去された。
1発は旧佐敷町が管理し2発は県が保管する事となった。(1991年6月8日設置 旧佐敷町) (平成28年3月移設 南城市)

※沖縄県南城市佐敷津波古(字)1400-1は中城湾付近だ。昭和19年、佐世保海軍施設部によって、中城湾を防御する
為の海軍施設「射堡(しゃほ)」が構築された。射堡とは陸上から沖合いの艦船を目掛けて、魚雷を発射する施設の事。
魚雷調整壕(格納壕)から、海岸端までをレールで結び、指揮所の発射命令に従って、台車に据え付けた魚雷を走らせて
発射するシステムだった。台車は斜面を駆け下りて加速。途中で主機関を起動し、干瀬を渡って海中に入り、台車から
離れて海中を標的へと推進して行く計画だったという。
昭和19年後半、佐世保鎮守府の沖縄(南西諸島)防備計画の一環として、海岸砲「海軍砲台」の設営が、沖縄本島各所
で始まり、「射堡」も同時期に、不足する機雷堰/海岸砲/沿岸砲の穴を埋める為、島内20箇所へ設置する計画だった。
魚雷自体は、搭載する艦艇/航空機も不足していたので、旧式の物も調整、射堡基地用に融通し、配備が行われた。
しかし、魚雷調整班の編成と場所の選定もが滞り、昭和19年中に完成した設備は2箇所に留まる。
そして米軍の上陸を迎える事となり、昭和20年4月8日米艦船が中城湾へ侵入。艦砲射撃による陸上支援射を実施する
米艦船に対して、「馬天射堡」は敢然と反撃を行った。魚雷は計5本が発射され、数本が命中。
駆逐艦1隻轟沈・掃海艇1隻大破と伝わり、事実上これが最初で最後の攻撃、戦果であった。
命中しなかった魚雷は勝連半島の海岸に乗揚げ、戦後に発見され、回収されている。
米軍の報復攻撃は凄まじく、艦砲射撃や空爆によって、射堡隊の「発射レール」を破壊され、魚雷を発射する術を失う。
その後「射堡隊」は陸戦隊に編入され、小禄半島、豊見城の地上戦で奮戦したという。
※与那原町字板良敷には、与那原町(馬天)射堡指揮所が残っているとの事。次回訪れたいと思う。

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▲糸満市与座集落で撮影された工場の廃墟。手前には大きな砲弾跡の水たまり(6/8撮影)
 日本軍化学工場と判断され、戦車部隊の砲撃と空爆で徹底的に破壊された。
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▲豪の反対側へ出ようと掘っていたところを捕らえられた2人の日本兵。2人共泥まみれ。(6/9撮影)
 少年兵は正座し銃を突きつける海兵隊員を前に呆然自失となっている。鉄血勤皇隊か・・・(涙が出る)
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▲第15海兵連隊の砲兵達が自力で105ミリ榴弾砲を別の位置へと移動する。この大型砲は海兵隊員の腕力でこそ動かす
 事が出来る。彼等は手こずっている様に見えるが、徐々に、確実に、次なる定置の方へ懸命に動かしている。
 移動し易いやすい様に砲身にまたがってバランスをとっている兵士に注目(6/9撮影)
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▲日本軍を追って進軍する米軍のカラー写真。

[ 南部戦線 最後の戦い](那覇市)小禄地区海軍部隊の最後・摩文仁の丘~終焉へ。
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南部へ撤退した日本軍は防衛線を、具志頭村玻名城から八重瀬岳・与座岳・高嶺村の国吉・真栄里の東西に敷いた。
具志頭村は戦場となり、住民を巻き込んだ熾烈で残酷な地上戦が6月後半まで続いた。村の人口6315人の4割以上が
犠牲となった。首里から摩文仁へ撤退した日本軍はもはや単なる「敗戦部隊」として、最後の決定的瞬間を待つだけの
存在に過ぎなかった。南部戦線における日本軍将兵と、そこに避難していた約10万人の一般住民は、最後は本島南端
の喜屋武と摩文仁一帯の狭い地域に追い詰められ、身動き叶わぬ事態に陥っていた。全滅は時間の問題だった・・・。
具志頭村民の多くが地元に残り、4割以上が亡くなった背景には、村民が県外や北部などに逃げる事が出来なかった史
実があった。集団疎開の出発日、激しい空襲が始まり中止となった。以後、集団疎開は叶わなかった。
日本軍に避難先として指定された場所が既に米軍に占領されていたり、壕がいっぱいだったりで、住民は右往左往する
しかない現実があった・・・。
昭和20年6月1日日本軍は知念村・玉城村の村長へ立ち退きを命令。しかし、両村に行く途中の港川方面は、米海兵隊
が配備され、桃原には6月に米軍が日本本土へ向けた偵察航空機用に建設した「本部飛行場」(別名 桃原飛行場)もあっ
た。その為、住民達は米戦線を突破出来きず、立ち退きは叶わなかった。
▼日本軍は南部撤退の際、地雷を埋設した。傷病者搬送用ジープと駆逐戦車は両方とも地雷に触れて大破した。
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▼海軍司令部豪付近で日本軍の対戦車地雷に触れて大破した海兵隊の6×6トラック。
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日本陸海軍はあらゆる平坦地や小禄半島の全ての道、豊見城地域にも大量の地雷を仕掛け、米軍を迎え入れた。
昭和20年6月4日午前5時、アメリカ軍は小禄飛行場の北部に上陸し、海軍司令部壕のある74高地周辺を包囲した。
※74高地とは海抜74mの丘という意味※海軍小禄飛行場は、現在の那覇国際空港である。
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昭和20年6月5日那覇小禄の海軍司令官 大田実中将より以下の電文が摩文仁司令部に打電される。
「軍主力の喜屋武半島への退却作戦も、長堂以西国場川南岸高地地帯に拠る(よる)わが海軍の奮闘により、既に成功
したものと認める。予は、課せられた主任務を完遂した今日、思い残すことなく、残存部隊を率いて小禄地区を死守し、
武人の最期をまっとうせんとする考えである。
ここに懇篤(こんとく)なる指導恩顧を受けた軍司令官閣下に、厚く御礼を申し上げるとともに、ご武運の長久を祈る」
司令官牛島中将はこの電文を見て愕然となり「武運尽きて玉砕するときは陸軍も海軍も一緒である」と打電し、何とか
撤退させようと「最期を同じくされんこと切望に堪えず。摩文仁へ撤退せよ」と命令するも、大田中将は従わなかった。

昭和20年6月5日夜 海軍司令官の大田実中将は海軍次官宛に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報を打っている。
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▲沖縄海軍司令官 大田実中将(千葉県出身)享年55歳
昭和20年6月11日7:00小禄の海軍司令部壕に集中攻撃が加えられる。大田中将は可能な限りの部下を地下壕から脱出
させ、後方攪乱や遊撃戦を命じた。最後の自決に巻き込まない様にとの配慮である。
※これらの海軍将兵が陸軍からの脱走兵と誤解されない様、海軍根拠地隊玉砕の電報と共に陸軍に通知している。
昭和20年6月12日午後、小禄海軍司令部壕上の丘も占領され、海軍部隊最後の時は迫った。
「自力で行動できる者は最後まで生き延びて戦ってくれ」との指示が出された。
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▲海軍司令部豪の通気口を覗き込む米兵、海軍司令部豪はそれまでの米軍の攻撃ではびくともしなかった。
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▲海軍司令部豪入口に白リン弾が投げ込まれた瞬間(米軍撮影)
海軍次官宛、大田司令官の最後の電文。
(発)沖根13:35 ※沖根とは沖縄根拠地隊司令官の事
一、朝来、敵戦車および歩兵、当司令部壕外に蝟集いしゅうし、煙弾を打ち込みあり
二、我方、およそ刀をもって戦いうる者は、いずれも敵に当たり、然らざる者は自決しあり
三、74高地2か月余りの奮闘も、本日をもって終止符を打つものと認む
(発)沖根16:19
これにて通信連絡を絶つ。
昭和20年6月13日午前1時「総員、脱出せよ!壕は爆破される」との大声での命令が伝えられた。
大田中将以下、幕僚達6名が拳銃で自決する銃声が響いた。小禄海軍司令部壕内で爆雷の爆発音が響き、爆風が押し寄
せ、電気が消えて真っ暗になる。大田実中将は自決を遂げ那覇市小禄地区における海軍の組織的な戦闘は終結した。
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▲小禄海軍司令部壕のある丘の上には慰霊碑がある。昭和28年3月、太平洋戦争で生き残った元海軍部隊隊員が司令部
壕跡を訪れた時、入口は崩壊し坑内には泥水が溜まっている有様であった。
壕内からは大田司令官をはじめとして800名以上の遺骨が収集された。
昭和33年には更に1500名以上の遺骨が収集され、沖縄海友会によって海軍慰霊之塔が建立された。
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※ゆいレール小禄駅近くの住宅地に田原(たばる)公園がある、その隣の小さな丘はカテーラムイ(森)と呼ばれている。
 田原公園、カテーラ森一帯は米軍からの返還地。返還後、マンション建設の計画があった様だが計画は中止となり、
 公園が整備され、カテーラ森は残った。今回は行けなかったが、その地下にも旧海軍壕が残っているとの事だ。
▼現在は海軍豪公園として駐車場完備、市民の憩いの場となっている。車を止め、400円を支払い入館する。
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▼海軍司令部壕入口(入口付近は昭和45年3月1日、壕内長さ300mの区域が復元され、一般に公開された)
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▼ある程度下り、振り返って入口を撮影。
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▼50m以上下っていくと、そこからは当時のままの豪だ。海軍らしい綺麗なコンクリートまきの豪内だ。
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▼作戦室
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▼幕僚室(司令官室・作戦室に近い幕僚室は幕僚が手榴弾で自決した時の破片の跡が当時のままくっきり残っていた)
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▼司令官室
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▼壁面には「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」の大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残る。
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以下
昭和20年6月5日夜 大田実中将が海軍次官宛に送った「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報(原文)文中の□部分は不明
左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度
沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メ
ラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ
沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ
然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋
ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツ
ツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ
而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ
所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ
捨ツル親アリ
看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタ
ルモノトハ思ハレズ
更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動
スルアリ是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキ
ニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島
ハ実情形□一木一草焦土ト化セン
糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

(現代語訳)
沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司
令部もまたその様な余裕は無いと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま
見過ごす事はとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることが出来なか
った。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。
残された老人・子供・女は頼る者がなくなった為、自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれ
てしまって、ただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならない様な場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避
けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者ま
でいる。どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうか
らと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。
その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
更に、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転する事を命じられ、輸送手段を持たない
人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、
(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥・(判読不能)
与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らない程の焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。
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▼資料館には豪内から出た遺品。やかんや水筒、薬ビンなどが展示してある。
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▼下士官室
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▼発電室
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▼医療室
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▼ツルハシの跡が生々しく残る豪の側壁
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▼資料館には豪内から出たツルハシが展示してある。
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※海軍司令部豪は陸軍の豪と同じく軍極秘の豪だが、海軍は住民を一切動員せず、海軍部隊だけで完成させている
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▲昭和20年6月に撮影された海軍司令部豪のある小禄半島東部豊見城地域の高地。
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▲日本兵の遺体で埋まった小禄地区の高地を偵察する第6海兵師団の偵察隊(昭和20年6月撮影)
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▲昭和20年6月に撮影された小禄半島東部豊見城地域のアップ。
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▲海軍司令部豪の74高地を白旗を持ってかけ上ってくる日本海軍陸戦隊兵士。少年兵も見える(6/15撮影)
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▲小禄地区の海岸を逃げる海軍部隊の少年兵(隣に射殺された海軍兵が倒れている)
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▲そして捕虜となった。
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▲それを見ていたのか海軍部隊の兵隊が続々と投降してきた。
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▲「やっと終わった・・・」という安堵感が見て取れる。上官次第で生死が決まる。教育次第で国民の生死が決まる。
この写真は沖縄戦が完全に終結した時期では無い。摩文仁では降伏しない牛島中将率いる陸軍部隊が民間人を巻き込ん
で米軍の激しい掃討作戦を受けていた頃である。たらればは言っても仕方ない、死んだ人は帰って来ない・・・。
しかし、もし沖縄守備軍の陸海軍最高責任者が大田実中将だったらせめて民間人は・・・。と、考えずにはいられない。
昭和20年6月4日米軍は八重瀬町具志頭港川を占領、物資集積所を作って本格的な攻撃の準備を始める。
昭和20年6月7日米軍は八重瀬岳地区に猛烈な砲爆撃を加えると共に、日本軍独立混成第44旅団の正面に猛攻。
逃げ惑う避難民と日本兵で混乱状態となる。水を汲みに行く泉は、米軍艦砲射撃の集中する場所で飲料水も無かった。
昭和20年6月8日米軍は、糸満・兼城・与座・世名城・富盛・具志頭の日本軍防衛ライン手前に侵攻、攻撃準備を整える
昭和20年6月9日米軍は、糸満の報得川を渡り日本軍前進基地を攻撃するも、待ち伏せに会い撃退される。
昭和20年6月9日夜、具志頭城跡のクラシンウジョウ壕の日本軍部隊が洞窟を出て切り込み攻撃を敢行。
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▲具志頭城跡のクラシンウジョウ(暗御門)は琉球王国の初代王 尚巴志の三男、具志頭王子の墓だと言われる場所。
島民にとって神聖な場所だったが、沖縄戦では米軍の港川上陸に備え自然洞穴を拡張して陣地豪が構築された。
結果、本島米軍初上陸は読谷・北谷であったが首里放棄で更に南部に撤退した地上戦において再び使用された。
クラシンウジョウ(暗御門)の拡幅陣地構築を請け負ったのは精鋭部隊と言われた武部隊(第9師団)。
武部隊は昭和19年暮れの移動命令で台湾へ。その後の運用は山部隊(24師団)が引き継いだようだが、山部隊も首里の
前線に出撃した為、暗御門陣地壕の詳しい経緯は良く解っていない。
具志頭の警備に就いたのは第24師団隷下の歩兵第89連隊第2大隊第5中隊だった。
米軍上陸地点を港川と読み間違った事もあり、地上戦初期にはそれ程激しい戦闘も無かった様だ。しかし首里の第32
軍司令部の南下撤退に伴い、主戦場は沖縄島中部から南部へと移り、52.5mの琉球石灰岩クラシンウジョウの岩山を
△53高地と命名。島尻東部に於ける激戦が行われ、軍民問わず多くの犠牲者を出した。
沖縄戦末期の6月独立混成15連隊が入り、更に高射砲を失った独立高射砲27大隊の一部が入ったという記録がある。
最後は壕を出て斬り込みに出撃したという。
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▼大きな岩の側面を設置された階段を登ると、岩の裂け目の様な場所の左右に古墓を利用した日本軍陣地壕が残る
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NHK戦争と証言「暗御門の壕(八重瀬町)」
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▼自然壕と思われる大き目の壕口の中に入ってみる。
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奥に進んで行くと・・・。
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港川方面に向けて銃眼が2ヶ所構築されていた(台湾へと抽出された第9師団構築と思われる)
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明らかに人工的に構築されたコンクリート製の銃眼
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一旦出て反対側に開いている壕口に向かう。
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2ヶ所口を開けているが、千羽鶴がある暗御門の壕の壕口から入壕した。
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▲具志頭王子の墓の前で一礼して奥へと進んで行く。
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▲壕内はかなり広い。奥へと続く坑道を更に進んで行く。
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▲爆風除けと思われる人工的に積まれた石垣の脇を坑道が続いている。
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▼すると途中から明らかに人工的に掘られた入口が坑道脇に現れた。
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自然壕はこの先も続いているが、山肌に抜けて終わりの様なので、曲って人工的に掘られた坑道を進んで行く。
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坑木の跡もしっかり残っており、間違いなく日本軍が構築した陣地壕だ。
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部屋らしき空間もある。隊長クラスの部屋か・・・。
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明かりを置く場所や物置も綺麗に彫り込まれている。
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いくつかの坑道は外へ抜けている様だが、全て蓋をされていたので元来た坑道を引き返す。
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▼入って来た抗口が見えてきた。立って普通に歩ける立派な自然壕を利用した日本軍陣地壕だった。
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▼具志頭城跡公園(クラシンウジョウ(暗御門)の頂上部分は戦跡公園として整備されており、園内には「土佐の塔(高知
県)」・「甲斐の塔(山梨県)」・「具志頭村の慰霊碑」がある。
史跡案内板では具志頭城が築城されたのは十四世紀初頭とされ、英祖王統第二代大成王の三男である具志頭按司による
ものだと言われている。
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▼園内には城山なので、拝所(御嶽)がある。
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▼太平洋戦争中に沖縄・南方諸地域で戦没した山梨県出身者22048名を祀る「甲斐の塔」。
(内、沖縄戦での戦没者は524名。「甲斐」は山梨県の旧国名である)
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▼太平洋戦争中に沖縄・南方諸地域で戦没した高知県出身者18545名を祀る「土佐の塔」。
(内、沖縄戦での戦没者は832名。塔石は高知県産の自然石(青石)
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▼展望台から摩文仁方面を望む(下に見えるのは「土佐の塔」)
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▼太平洋戦争で戦没した旧具志頭村民1504名のお名前を刻銘、慰霊顕彰する慰霊顕彰碑(旧具志頭村)。
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村民のお名前を刻銘した上には菊の御門が・・・。
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▼「甲斐の塔」・「土佐の塔」より古い昭和28年6月、旧具志頭村建立の「魄粋之塔」(はくすい)と納骨堂。
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▼敷地内から沖縄本島南端の港川方面望む。沖縄戦当時はこの海も米艦隊で埋まっていたという。
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南の果てまで追い詰められ、下がれば海。写真を撮っているこの場所の下、クラシンウジョウ陣地壕残存日本軍部隊が
どんな思いで壕を出て最後の切り込み攻撃に出撃していったのだろう・・・考えると胸が締め付けられる思いだった。
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▲敷地内から沖縄本島南端の摩文仁方面望む。沖縄戦当時はこちら側の海も米艦隊で埋まっていただろう。
(沖縄戦当時に話を戻します)
昭和20年6月10日米軍が糸満・照屋・与座を攻撃。八重瀬岳~具志頭の日本軍防衛ラインに進出。
▼米海兵隊の司令部が設置された糸満市の白銀堂(はくぎんどう)(6/13撮影)
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▼現在の白銀堂。古くからウミンチュ(漁師)の町として知られる糸満市で航海の安全と豊漁を祈願する拝所である。
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現在も糸満ハーレーや糸満大綱引など、旧暦行事の祭祀が執り行われている(2017年2月14日訪問)

昭和20年6月12日~14日 12日未明から南部一帯に立ちこめた深い霧を利用するかの様に米軍(3個中隊)が八重瀬岳の
日本軍洞窟陣地に猛攻を開始。(八重瀬岳山頂付近は飲料水が全く無かった)
独立混成第44旅団正面は米軍戦車16両を伴う猛攻を受け、戦力は大隊長以下約80名となっていた。
特に具志頭・玻名城・安里付近は10日早朝から戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受けていた。
米軍は具志頭陣地を制し、安里北側台地にも米軍が進出し安里正面は危険な状況となった。
昭和20年6月11日具志頭陣地に立て籠もる武器弾薬の底をついた日本軍独立混成第15連隊第1大隊が、夜間斬り込みを
敢行し玉砕。米軍は摩文仁を落とさんとすべく沖縄の南部における西部側から、国吉を通って進撃を開始した。しかし、
国吉台地で日本軍陣地(歩兵第32連隊)から機関銃や小銃などが火を噴き、激しい抵抗にあい、米軍は釘づけにされた。
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▲6/12頃、八重瀬町富盛にある勢埋城の「石彫大獅子」で八重瀬岳を偵察する米第381連隊第1大隊
 米軍が偵察している方角には白梅学徒隊が配置された第24師団第一野戦病院壕がある。
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▲▼沖縄県内最大最古のシーサー「富盛の石彫大獅子」(ともりのいしぼりおおじし)は現在も残っている。
 (2017年2月16日訪問)沖縄県島尻郡八重瀬町富盛21
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▲大獅子には数多くの弾痕が残り、沖縄戦を今に伝えている。
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西部戦線「国吉台地の戦闘」は膠着状態であったが、日本軍兵力(歩兵第32連隊約250名)の消耗も激しく、米軍の戦線
突破も時間の問題となる。
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▲現在の国吉台地。この地区にも多くの日本軍陣地壕が確認され、現在も遺骨が出てくるという。
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▼▲国吉台地に残る日本軍陣地壕
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自然壕の多い南部は、軍民入り乱れて逃げ込んだ為、遺骨は軍民混在して出てくるという。
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▲日本軍おとり戦車を眺める米兵。手前に日本兵の遺体が・・・沖縄戦の最中に作ったのだろうか・・・言葉無。
敗北は決定的であったのに、何故ここまでして戦いを続ける必要があったのか。南部は住民が集中していたのに・・・
※糸満市阿波根に「潮平権現壕」(シータラーガマ)がある。ここは潮平集落の住民約560人が避難していた。
 昭和20年6月14日米軍の呼びかけに応じた住民達は約3か月ぶりに次々に壕から投降。奇跡的に全員無事だった。
 潮平集落の住民は、壕から生還した旧暦5月5日に集まり、壕に感謝の気持ちを伝えているとの事。
 6/18バックナー司令官戦死の前で本当によかったと思う・・・。現在豪の見学は潮平区の許可が必要との事。
 [潮平権現の壕]NHK証言記録

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▲昭和20年6月11日岩の裂け目に隠す様に止められていた1941年型スチューデベイカー・コマンダーを米兵が発見。
 石部隊の「石」がナンバープレートに表記されている事が確認出来る。沖縄本島に配備された主要部隊・第62師団
 (藤岡武雄中将)の通称だ。石部隊は京都で編成され、昭和19年7月中国から沖縄守備隊・第32軍に編入された部隊
 で、嘉数高地を中心とする戦闘で多くの戦死者を出した。
 「日本陸軍認可証」が入っていたこの車は右ハンドル。陸軍将校用の車で、牛島司令官他将校が南部撤退の際に使用
 した車だと思われる。豪雨の中、徒歩での南部撤退は日本兵にとって大変だったであろう。将校は車移動か・・・。
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▼(参考)スチュードベーカー・コマンダー[ Studebaker Commander1927~1964 ]アメリカ製
1941Studebaker Commander
▼こちらも放棄されていた日本軍くろがね四起。カットリップ大尉(左)が車載工具を見ている(6/12撮影)
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▼破壊された日本軍戦車3両と、首里郊外の赤田付近を進む海兵隊の部隊(6/11撮影)
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▼破壊された日本軍戦車を念入りに調べる米兵(6/11撮影)
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昭和20年6月15日八重瀬岳方面の米軍は逐次増大し、戦車21両が破壊されながらも東部戦線を突破。
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▼▲糸満市伊原で撮影された日本軍96式150ミリ榴弾砲(6/21撮影)
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96式150ミリ野戦砲の任務に就いたのは第32軍司令部直轄の野戦重砲第23連隊(通称「球3109」)。
当時『日本軍最新鋭の機甲部隊』と呼ばれた野戦重砲第23連隊は満州で編成され、昭和19年10月に沖縄へ派遣された
連隊は本部及び2個大隊からなり第1大隊は首里城北東に配置され、嘉手納から南下してくる米軍と正面から対峙した。
各中隊ごとに96式15センチ榴弾砲が4門、それを動かす為の6t牽引車4両、他、自動貨車34両があった。
それらを運転する日本兵は「ガソリン1滴は血の1滴」と繰り返し聞かされたという。
「日本の大砲などアメリカから見ればオモチャの様な物」と言われたが、榴弾砲・カノン砲・臼砲等の砲兵部隊は、歩
兵や戦車が戦う最前線から丘を越えた後方に配置され、米軍の戦車や砲兵、指揮機関、物資集積所といった後方部隊を
観測所からの情報を分析し、座標軸上で計算、距離・方向・仰角などを修正し、かなり正確な攻撃(着弾)が出来た様だ
米軍記録では「日本軍の大砲の破壊力と正確さそのものは脅威だった」とある。
しかし戦闘が始まる前から弾薬が各門1000発しか無かった。そもそも沖縄方面軍全部隊が一会戦分の武器しか無い。
制海権・制空権も無く第9師団を台湾へ引き抜かれ、大本営から見放された第32軍は1日に発射できる量が制限されて
いた。5/4の総攻撃失敗後はほとんど弾薬が無く、一晩十照明弾を上げ続ける米軍とは物量において比べ物にならなか
った。野戦重砲23連隊総員1180名中1032名が戦死、生還者は148名だった。
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大度海岸を望む小高い丘に建立された野戦重砲第23連隊の慰霊碑(糸満市大度)
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第32軍の南部撤退に合わせ、弾薬の乏しい野戦重砲23連隊も此処まで下がって来たのであろう。
(沖縄戦当時に話を戻します)
昭和20年6月17日日本軍の抵抗らしい抵抗は止んだが、米軍は13日~17日までの間に1150名もの死傷者を出した。
同日、バックナー米軍司令官からの降伏勧告が届く(11日発信だが届いたのは17日)
以下、バックナー中将が戦死の1週間前に日本軍牛島中将宛に打電した「降伏勧告文書」(日本語訳)

第32軍司令官 牛島満中将閣下へ
牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。
貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。
私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しま
ぬもので有ります。 然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々が使用する所となりました。
この上貴下が、戦闘を継続して前途ある青年達を、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。
私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を、救助せられる事を勧告します。
明12日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待期させます。貴軍に於かれても、軍使5名を選び、白旗を持って同地
海岸に差し出される様、切に望みます。米軍上陸軍司令官 サイモン、バックナー中将より
昭和20年6月11日降伏勧告文

※牛島中将は降伏勧告を黙殺した。
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日本軍は沖縄に一体どのくらの数の陣地壕を掘ったのだろう・・・第32軍防衛築城隊や要塞建築勤務中隊、第2野戦
築城隊など、資料で確認出来るが、南部撤退決定後の陣地構築も含め、土方仕事の比では無かったであろう。
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▼米軍が撮影した日本軍のロケット砲陣地壕
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▲丸太などの木で組まれた入口と内部の坑木は、燃えにくい松などの樹種が選ばれたという。
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硬い珊瑚岩を掘ったり、大変だったであろう・・・「硫黄島」で掘られた地下陣地壕規模に匹敵するのではなかろうか。
南部は「ガマ」と呼ばれる自然壕も多いが、病院壕も含め数で言えば太平洋戦争の戦地では最高数ではなかろうか
▼沖縄伝統の亀甲墓も徹底的に利用された。写真は恐らく那覇の城岳で撮影されたものと思われる。
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ほとんどの壕が、それぞれの戦地となった丘の中腹の地下で繋がっていたと言う。
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※日本軍陣地壕の画像は全て沖縄戦で米軍が撮影した物、場所の特定は困難だが本島に築かれた壕と亀甲墓だ。
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▼(69高地)日本兵の潜む大城森壕陣地壕に爆薬を投込む米軍爆破班(6/12撮影)糸満市大里後原
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※69高地は大城森の壕と呼ばれ、山形県出身者が多く居た歩兵第32連隊(山3475部隊)の陣地壕として使われた。
壕の中は、那覇や首里から運び込まれる負傷兵、避難民でいっぱいとなり、さながら野戦病院と化していた。
軍医1人看護婦5~6人が中心となって何百人もの傷病兵をみる。仕事は分担。1人が血を止め、1人がヨーチンをぬる。
数人で包帯を巻く。薬はヨーチンしかなく、火傷も何もかも全てヨーチンをぬるだけだったという。
「10人中4、5人が破傷風にかかっていた。破傷風にかかると胸から腹にかけて異様に膨れ、もがき苦しむんです。
口が開かなくなる為、水さえも満足に飲めない。布ぎれに水をひたしてそれを口にあてがって飲ませた。
毎日数人が死んでいった。」と、大城森壕の残置隊長をしていた歩兵第32連隊・平尾正男軍曹は語っている。
北郷連隊長の配慮で島田知事一行も大城森壕に移ってもらったという。「知事には22、3名、荒井部長には十数名の人
がついて来たと記憶しますが、我々の大城森壕は19年12月から3カ月がかりで掘った総延長1300mもある立派な造り
でしたから、それぐらいの人数を受け入れるのは容易い事だった。一行は4~5日滞在されたと思う」とも語っている。
この事から島田知事一行はその後、轟の壕に移動したと思われる。
6月ついに米軍が壕に馬乗り攻撃するにいたり「近代戦にたえ得る堅陣」と32軍首脳らからおすみつきをもらった壕を
手放し、1.7キロ離れた国吉に移動した。その時壕内には遺体があふれ、動けない重傷兵には青酸カリが配られた。
置き去りにされた重傷兵300~400ともいわれる遺体をのみ込んだまま、昭和56に行われた厚生省の大がかりな収骨作
業でさえその口を開かず、未だに1柱も収骨されていない。

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▲この壕は伊江島で撮影された写真。補給物資・武器・弾薬などの倉庫替りとしても利用された。
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▼指揮所とされる壕。入口前で最後まで指揮所を守った日本兵が戦死している。
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「巧妙に築かれた日本軍陣地壕は戦車でないと危険過ぎて近づくことは困難であった」と米軍は言う。
米資料には「航空機や火焔戦車で休まず攻撃を加え、戦意を喪失するまで17日になっても進撃は無理であった」とある。
しかし、国吉・与座・八重瀬・具志頭の日本軍防衛ラインを殲滅。一気に喜屋武と摩文仁一帯になだれ込んだ。
結果、国吉陣地は米側の手に落ち、最後の防衛線の与座・八重瀬岳陣地も陥落し日本軍は事実上沖縄戦に敗北した。
国吉戦線含め17日までに各戦線の防衛隊は八重瀬岳方面の独立混成第44旅団は6月14日までにほぼ全滅。
6月15日頃には、摩文仁第32軍司令部への侵攻を防ぐ為に第62師団は全力反撃したが、残存戦力の大半を失った。
喜屋武地区の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。各戦線が崩壊した日本軍はそ
れらを埋める兵力・武器弾薬は無きに等しく、日本軍は潰走を重ねるのみとなる。
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▲日本兵捕虜を監視する海兵隊の歩哨(6/13撮影)
昭和20年6月18日米軍司令官バックナーが糸満市真栄里(高嶺)にて日本軍の迫撃砲を受け戦死。
バックナー中将は沖縄に侵攻した米上陸軍の最高司令官で優秀な人物だった。4/1沖縄に上陸して以降、地上戦の指揮
を執った。日本軍が南部に追い詰められ、勝負の見えた6/18南部の真栄里地区を前線視察中に日本軍の15センチ榴弾
もしくは小銃の狙撃により戦死した。(日本では松田定雄氏による、小野一等兵による狙撃説が有名)
太平洋戦争で戦って戦死した米軍指揮官の中では最高位の戦死者となり、山本五十六大将の戦死に匹敵するような衝撃
だったと思われる事件となった。
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▲昭和21年1月に撮影されたバックナー将軍が戦死した場所を示す石碑。
日本側証言では小銃による兵狙撃説と、野戦重砲兵第1連隊の砲兵が6/18糸満市真栄里で視察する米軍幹部達を発見。
96式15糎榴弾砲の残る砲弾8発全てを撃ち込んで至近距離に着弾させたという説と2つある。
どちらも有力説で、実際この付近で第96師団副師団長イーズリー准将や第6師団383歩兵連隊のメイ連隊長(大佐)も日
本兵の狙撃で戦死している事実と、米軍発表の死因が「砲弾で砕け散った岩が胸に当たって死亡した」と伝えている事。
いずれの説も納得出来る・・・、この頃になると米軍にも気の緩みがあったのかも知れない。
しかし、同じ場所で数日の間に米軍高官が3名も狙撃されて戦死した事は、他の太平洋の戦場ではありえない事だった。
米軍司令官バックナー中将戦死後、『動くものは何でも撃ち殺せとの米軍の命令』の結果、戦場はいっそう悲劇的な実
相になっていく事になる・・・。
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▲第10軍総司令官サイモン・ボリバー・バックナー中将(Simon Bolivar Buckner)ヘルメット黒点の人物。
 隣は第6海兵師団司令官シェパード少将。(5/14撮影)
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▲司令官を失った米兵達の中で日本軍に対する憎悪と怒りが噴出した事も事実である。
 沖縄戦の戦場で木に吊るされた日本兵の首。
▼「山形の塔」からほど近い場所にバックナー中将が戦死した場所がある
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▲戦死数分前のバックナー中将(右端)第10陸軍司令官バックナー中将最後の写真。
中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所で視察中に日本軍の銃撃に倒れた。現在の写真(下)右奥の石に足をかけ
て視察していたと言われている。この数分後、砲弾で砕け散った岩が胸に当たって死亡したと米国側の戦史は伝える。
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▼昭和27年4月28日に撮影されたバックナー中将慰霊碑
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▼6/20サトウキビ畑の中に隠れていた日本兵が発見された。足を負傷していた日本兵は動けず観念した様に見える。
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▼米兵がこの日本兵を見た時衝撃を受けた。日本兵は左腕を失っており、その傷跡はきれいに縫合されていた。
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▲先の戦いで腕を負傷し、野戦病院で切断され、傷口は処理してあったのであろう・・・。
「日本軍はこういう兵士までも戦わすのか」と米兵は言葉を失ったと言う。
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▼▲投降する日本軍兵士。服装に注目 この様に沖縄住民の服を着て民間人に偽装して戦う日本兵もいた(6/21撮影)
当然その逆もあり得る訳で、民間人に紛れて逃げていた日本兵も居るだろう。極限状態では国民を守る事が兵士の仕事
である事など考えていられなくなるのであろう。ガマで日本兵に脅されたり自決を強要された住民の証言も理解出来る。
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▼発煙手榴弾とライフル攻撃でサトウキビ畑に潜む日本兵を掃討する海兵隊員(6/13撮影)
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▼捕虜となった、同じ豪に潜んでいた日本兵と住民(6/16撮影)
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昭和20年6月17日島田叡沖縄県知事が、摩文仁の司令部豪に牛島司令官を陣中訪問したが、軍の命運もこれまでと察し
6月18日随行して来ている荒井警察部長他4名の役職員を道連れするに忍びず、自由行動を命令して軍医部所在の壕よ
り去った。 しかし、荒井退造警察部長は残留し、島田知事と共に7月初め頃に自決、共に殉職したとされるが、島田叡
知事と荒井退造警察部長の遺骨は見つかっていない。
島田叡沖縄県知事は明治34年12月25日生(兵庫県神戸出身)享年42歳、沖縄県に尽くした立派な知事であった。
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▲愛知県警察部長時代の島田一家。
※昭和18年7月~昭和19年1月は、慰安所設置等で日本軍と意見が対立する事も多かった泉 守紀沖縄県知事だった。
 泉 守紀沖縄県知事は沖縄戦前に出張ので本土へ行き、そのまま沖縄に戻る事は無かった・・・。
※長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告の為、民間人の服
 を来て摩文仁の司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死している。

昭和20年6月18日沖縄県民と日本軍将兵は、米軍に追われ南下を続ける。
この日「ひめゆり学徒隊」に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約1週間の間に多数の犠牲を出した
(死亡者の内、80%がこの間に集中している)最終的には教師18名・学徒222人の内、教師13名・学徒123人が戦死。
その内の10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決している。その際に隣のガマ(荒崎海岸)でも米軍
の銃乱射で3名が死亡、3名が重傷を負った。
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▲昭和19年春に撮影された野田校長を囲む様に写真に収まる沖縄県女子師範学校の生徒達。
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▲写真に収まる沖縄県立第一高等女学校(乙姫)か沖縄県女子師範学校(白百合)の女学生。
※沖縄県立第一高等学校・沖縄師範学校は当時各町、村から1名合格するかどうかの難関校だったという。
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▲6月12日包帯など衛生材料や手投げ弾の入ったカバンを持って走り抜けようとした学徒看護婦が米軍に射殺された。
日本兵・軍医と共に日本軍の居る国吉に移動中だった彼女は、静止を命じられたが逃げ、全員ヘンゲヘアー1等兵に射
殺された。彼女はライフルも所持していた「ひめゆり学徒看護隊」に解散命令が出されたのは、この約1週間後だった
沖縄戦で動員された女子学徒隊は10校およそ500人、本島南部でほとんどの学徒隊が半数近くの戦死者を出した。
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▲捕虜となり衛生兵の手当を受ける少女(6/13撮影)
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▲「ひめゆり平和祈念資料館」にも立ち寄った(沖縄県糸満市)
「ひめゆり平和祈念資料館」は平成元年6月23日、7年の準備期間を経て開設された。ひめゆり同窓会による自主運営
で、公的資金を一切受けないという点で、日本では稀有な戦争資料館である。
現在は1日2000~4000人が訪れ、多い日では6000人もの来館者があると言う。建設当初は沖縄県は反対の姿勢を示
していたという事だ。資料館の建設には同窓会の土地を担保にして、銀行から1億5千万もの借金をした。
利子だけで年間6百万円だった。多くの来館者や全国からの寄付などもあり、完済出来たと言う。
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▲伊原第三外科壕の横にひっそりと昭和21年4月7日に建てられた「ひめゆりの塔」がある。
 「ひめゆりの塔」は戦死した生徒の親達によって壕が発見され、遺骨が集められて建てられた慰霊碑の事。
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▲伊原第三外科壕。通称「ひめゆりの洞窟」は6/19米軍にガス弾を投下され、ここに避難していた約100名の内80名
 程が命を落とした。ひめゆり学徒もここで50名中42名が亡くなっている。
 ※伊原第三外科壕のある糸満市真壁や米須地区は有川 圭一中将率いる第64旅団が奮戦していたが、64旅団将兵は
 玉砕し6/21未明、有川主一中将や高級副官竹下勇大尉以下一部の将兵が自決した豪も残されているとの事で、次回
 慰霊に訪れたいと思っている。
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▲▼訪れる人は少ないらしいが、近くに伊原第一外科壕が残っている(昭和20年5月27日頃ひめゆり学徒が入っている)
 「碑文」
 ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒の
 いた壕である。米軍迫まる1945年6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋口夫教授
 以下、多くはついに消息をたった。軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点である。
 ここで負傷戦没した生徒(古波蔵満子/荻堂ウタ子/牧志鶴子/石川清子/浜元春子/知念芳/神田幸子/比嘉ヨシ/照屋貞子)
 藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた。
 謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する。
しらじらと明けそむる野を砲弾の雨に散りゆく姿目に見ゆ血にそまる巌のしづくは地底にしみて命の泉と湧きて出でなむ
 1974年 6月 ひめゆり同窓会
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日本軍部隊がある摩文仁村に移動中、海上からの艦砲射撃を受けて負傷した、沖縄県立第一中学校(現県立首里高校)
校長の藤野憲夫校長を付き添いの生徒が伊原第一外科壕に担ぎ込んだ。
藤野校長は昭和20年3月下旬、一中生と教職員で組織した「沖縄一中鉄血勤皇隊」の一員として沖縄戦に加わっていた
傷病兵であふれ返る壕の中で、衛生兵と当時17歳だった「ひめゆり平和祈念資料館」館長島袋淑子さんは、薄暗い洞穴
で激痛に苦しむ藤野校長を必死で介抱した。島袋さんら女学生でつくる「ひめゆり学徒隊」が手当てに追われていた。
医薬品は不足し十分な治療は出来ない。「痛い」とうめく校長に求められ、島袋さんが包帯を緩めると傷口が開き鮮血
が噴き出す、また締め直す。何度か繰り返していると校長は痛みで意識が混濁し、うわ言をつぶやき始めた。
「必ず勝つんだよ、大丈夫だよ。」そばで看病する島袋さんを自分の生徒と勘違いしている様だった。
声を出す気力も無くなったのか、次第に静かになり翌日未明に息を引き取った。享年55歳、
故郷から遠く離れた地での最期だった。島袋さんは息絶えた校長をねぎらうように、鼻と口をガーゼで拭いた。
目は開いたままだった「最期まで生徒を気に掛けていた。麻酔で時間をかけて治療が出来たら助けられたかもしれない」
藤野校長の遺体は一中生と教員が壕の入り口近くにある爆弾で開いた穴に埋めた。
砲弾が雨のように降り注ぐ中、遺体を運び急いで土をかぶせた。
元勤皇隊員の石川栄喜さんは「怒りや悲しみといった感情は無かった。明日自分は生きているのか、死んでいるのか。
それだけを考えていた。」と極限状況を振り返る。生徒らは皇室を重んじていた校長の頭を東に向けて埋葬した。
校長に出来るせめてもの手向けだった。
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▲藤野憲夫校長(土方村 現・静岡県掛川市出身)享年55歳
沖縄県立第一中学校の職員は軍属扱いになった。藤野校長は佐官待遇、野崎教頭は尉官待遇になり、
黄色い星が一列に並んだ軍属の階級章を渡されていたと言う。
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▼▲6/17至近弾が着弾、この豪は米軍の火炎放射を受け、中に居た女学生2人が亡くなっている。
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▼壕内は泥が蓄積してこれ以上の入壕はしなかった。
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入口を見上げる。至近弾が着弾した時は恐ろしかっただろう・・・。
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▼伊原第一外科壕から程近い場所には陸軍病院山城本部壕が残っている。
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此処はひめゆり学徒2名他、衛生兵・広池病院長が戦死した場所だ。
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▼自然壕の入口に向かって降りていく。
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かなり大きい壕口
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病院壕となっている自然壕は何処も事前に軍が地元の方に聞き取り調査をして選定していた。
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中はかなり広く、水の流れる音が聞こえる。米軍上陸前の事前調査で水のある自然壕を選択していたのであろう。
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ロープを張ってある向こう側には小さな小川が流れていた。
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入口に向かって戻る
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やはり外は気持ちがいい。何日もいつ死ぬか解らぬ状況で壕内に居た人達の事を考えると心が痛む。
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ひめゆり平和祈念館前が第3外科壕、近くに第1外科壕・そして此処、山城本部壕が残っている事になる。
第2外科壕も残っているそうだが、かなり崩落しているとの事でまだ訪れていない。機会があれば慰霊しに行きたい。

▼ひめゆり学徒が最後の最後に行きついたのは荒崎海岸であった。束里鉱山の現場を抜けると荒崎海岸へ出る。
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ここから海岸まで少々歩いて行く。
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海か見えた
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ここからはゴツゴツした石灰岩の上を歩く事になるが、慰霊の為に、ある程度コンクリートを流した道がある。
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東に向かって進んで行く。
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5分程歩いただろうか、「ひめゆり学徒隊散華の跡」が見えてきた
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此処が引率教員が手榴弾を使って集団自決を図り、10名死亡・米軍の急襲で3名死亡・重傷3名を出した現場。
昭和20年6月18日解散命令が出た後、ひめゆり学徒12名と引率教員・平良松四郎教諭達はここまで逃げてきた・・・。
昭和20年6月21日の事だった。南風原陸軍病院から第三外科壕、そして最南端荒崎海岸までの戦争の日々。
後ろから米軍、海にも米軍という状況まで追い詰められ、この窪地で県立第一高等女学校の教師1名・生徒7名・卒業生
1名・県立第二高等女学校の生徒1名の計10名が引率教員の持っていた手榴弾で自ら命を絶った。
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荒崎海岸一帯、いや、最南端一帯の海岸地帯は、弾雨の中、追い詰められた沢山の住民・日本兵が入り乱れていた。
ひめゆり学徒だけでは無い、皆が隠れ場所を求めて右往左往していた。そして亡くなっていった人も多い。
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▲▼この様な岩影に身を潜めて弾雨を凌ぎ、最後を迎える事になった多くの人達。
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この場所に来て見て初めてひめゆり学徒と住民の途轍もない悲惨な経験を肌で感じると共に冥福を祈った。
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将来ある女学生が命を失った悲劇を象徴する地とし、同校同窓生らが「学徒隊散華(さんげ)の跡」と記し建てた慰霊碑
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▼石版にはこの地で亡くなった学徒隊12名と教員2名の名前が刻まれている。
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▼司令部壕のあった摩文仁・平和祈念公園が見える。
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「2009年2月ひめゆり隊の校章、64年歳月経て自決の浜辺で見つかる」
「ひめゆり学徒隊」女学生の校章が荒崎海岸で発見された。犠牲になった学徒の校章が確認されたのは初めて。
白いユリをあしらった校章は64年前の悲劇を静かに物語っており、「ひめゆり平和祈念資料館」に展示されている。
発見したのは、沖縄戦犠牲者の遺骨収集に取り組む市民団体「ガマフヤー」(那覇市)の具志堅隆松代表。
市民団体「ガマフヤー」は、本編の「シュガーローフの戦い」でもご紹介させて頂いた団体だ。
2008年12月31日に荒崎海岸の別の場所に遺骨収集に向かう途中、岩場の陰で発見した。
元ひめゆり学徒で資料館証言員の宮城喜久子さんによると、学徒達は自決を決めた直後、未練を断ち切る為に、家族の
写真などを入れた救急カバンを捨てたという。宮城さんは集団自決した7人と共に米軍に追い込まれたが、7人とは別の
岩陰に逃げ込んで助かった「64年もたって見つかるなんて・・・ひめゆりの誇りである校章だけは最後まで肌身離さず
持っていた人がいたんですね」と語っている。
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(沖縄戦当時に話を戻します)
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▲洞窟から引きずり出された日本兵(6/16撮影)米兵に取り囲まれている。ご苦労様でした。
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▼▲身体検査され、捕虜となった2人の日本兵。呆然としている・・・。ご苦労様でした。
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▼塹壕から救出される住民達(6/20撮影)
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▲摩文仁司令部豪のある辺りの丘から撮影したものと思われる。摩文仁は本島の南端、もう直ぐそこは海である。
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▲現在のほぼ同じ位置を摩文仁の丘から撮影。
昭和20年6月20日第32軍司令部豪付近の残存兵力で最後の総攻撃を仕掛けるもほとんど全滅。
昭和20年6月21日米軍、摩文仁を占領。午後遅く、司令部豪の中で牛島中将と長中将の自決について話し合われた。
6月21日晩には最後の晩餐会(別離の宴)が開かれ、とっておきのウイスキーが開けられ、残っていたパイン缶も全て開
けられた。通りかかる将兵や少年兵(鉄血勤皇隊の中学生)に牛島中将は、パインをフォークにさして差し出す。
少年兵(鉄血勤皇隊)それを押し戴こうとすると、「口を開けなさい」と言って一人ずつ口に入れてあげたと言う。
「司令官達は洞窟内で自決すると珊瑚岩が固く、埋める事が出来ない。それに敵に直ぐ発見される危険と腐った死体が
残ると不様だ。高地頂上で自決して頂き、死体はそのまま海に投じて水葬とした方が良い。」との結論を出し6月22日
夜半を期して、司令部豪内の将兵で摩文仁高地頂上を奪還し、6月23日未明に頂上で自決する事が決まった。
6月22日米軍は司令部豪の通気口から手榴弾を投げ込み、削岩機で穴を掘って爆弾を仕掛け馬乗り攻撃を始める。
米兵が投げ込んだ手榴弾の爆発で牛島中将は足や腕を負傷した様だ。最後の時は迫っていた。
摩文仁高地頂上奪還の為、秋永中尉らは頂上に達するも、直ちに数名の部下衛兵と共に手榴弾を交えてことごとく殪れ、
第3陣を承って駆け上がった池田少尉以下十数名は山頂に達するに先立ち死傷。壕底に転落し、更に手持ちの手榴弾が
爆発して損害が広がり、摩文仁高地頂上奪還は米軍の頑強な反撃で失敗する。
6月22日未明、牛島中将と長中将はやむなく司令部豪出口付近にて青酸カリで自決。
6月23日早朝には米兵によって運び出されたとされる。
6月25日頃、捕虜となり米軍から死体を確認を命じられた沖縄憲兵隊副官 萩之内清中尉が司令部壕下方3~40mの場所
で並べる様にくぼ地に石を積んで埋めてあった長中将と牛島中将の遺体を確認し以下の様に語っている。
遺体の1つは首が無かった。略章をつけた軍服に白い手袋。牛島司令官だった。軍司令官の首は吉野中尉が何処かに埋
めたとされている。
もう一方の遺体は敷布2枚を繋ぎ合わせた袋の中に入っていた。ズボンは軍服だが上着はなく白い肌着を着ているだけ
だった。その肌着には墨で「忠即■命 ■忠報国 長勇」と書かれており、長中将だと断定された。

その3日後には摩文仁高地頂上に埋葬された様だ。写真では牛島中将の首はついている様に見えるが真相は謎である。
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▲自決後とされる写真。手前が長中将、奥が牛島中将。頭をつき合わせた状態で横になって死んでいる(米軍撮影)
長中将は酒豪であったので自決間際も飯盒の蓋一杯の酒を飲んだと言う。そして介錯は坂口勝副官であった。手前の長
中将の耳の辺りに白い布の様な物がかけてあり、坂口勝副官が介錯した事が写真を見るとよく分かる。牛島中将は負傷
して衰弱しており、痛み止めのモルヒネや麻薬で既に意識が朦朧とした状態での自決だった様だ。6/22には既に死亡し
ていたという話もある。実際に米軍が立てた木碑の日付は2人共、「昭和20年6月22日」と書かれている。
[第32軍司令官 牛島満中將 訣別の辞]
大命を奉じ擧軍醜敵撃滅の一念に徹し勇戰敢鬪茲に三箇月、全軍鬼神の奮戰力鬪にも拘はらず敵の攻勢を粉碎する能
はず、事態正に危急に瀕せり麾下部隊本島進駐以来現地同胞の献身的恊力の下に鋭意作戰準備に邁進し來り敵を邀ふ
るに方つては航空部隊と相呼應し皇土沖縄防衛の完壁を期したるも満不敏不徳の致すところ事志と違ひ遂に負荷の重任
を継續する能はざるに至れり上 陛下に對し奉り下國民に對し眞に申訳なし、事茲に到れる以上残存手兵を提げ最後の一
戰を展開し阿修羅となりてなほ敵兵を撃殺せん存念なるも唯々重任を果し得ざりしを思ひ長恨千歳に盡るなし最後の決
鬪に當り既に散下せる麾下将兵の英靈と共に 皇室の彌榮を祈念し奉り皇國の必勝を確信しつゝ或は護國の鬼と化して
敵の本土來冦を破摧し、或は神風となりて天翔り必勝戰に馳せ参ずべき所存なり
茲に従來の御指導、御懇情並に作戰恊力に任ぜられたる各上司並に各部隊に對し深甚なる謝意を表す、遙かに微衷を披
瀝し以て訣別の辞とす

 秋を待たで枯ゆく島の靑草は皇國の春に甦らなむ
 矢彈盡き天地染めて散るとても魂がへり魂がへりつゝ皇國護らむ

(現代語訳)
(前略)
最後の決闘にあたり、すでに散華せる数万の英霊とともに、皇室の弥栄と皇国必勝とを衷心より祈念しつつ、全員
あるいは護国の鬼と化して、敵のわが本土来寇を破壊し、あるいは神風となりて天翔り、必勝戦に馳せ参ずる所存なり。
戦雲碧々たる洋上なお小官統括下の離島各隊あり。何卒よろしく御指導賜りたく、切にお願い申上ぐ。
ここに平素の御懇情、御指導並びに絶大なる作戦協力に任じられし各上司、各兵団に対して深甚なる謝意を表し、遥か
に微衷を披瀝し以て訣別の辞とする。

 秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ
 矢弾尽き天地染めて散るとても 魂還り魂還りつつ皇国護らん

そして、配下将兵に「鉄血勤皇隊を率いてゲリラ戦に出よ」「各部隊は各地における生存者中の上級者これを指揮し、
最後まで敢闘し、悠久の大儀に生くべし」と、死を賭して戦うよう命令した。
摩文仁司令部壕には6/8夜、辻の若藤楼、偕行社の女性達数十名が来ていた。その内の3名の女性をご紹介する。
若藤楼の「初子」さんは次級副官坂口勝中尉の愛人で母親と一緒に司令部豪に来ていた。もう一方「菊子(富子?)」
さんは高級副官 葛野隆一大尉の愛人であった。6/22司令部豪内で両脚を赤い腰紐でしっかり結び、3人枕を並べて
合掌し自決の道を選んだ。葛野、坂口両副官は側に寄り添い「明日23日朝自決するから三途の川で待っていてくれ」
と言うと3人は合掌して眼をつむった。そして長参謀長の特務員 大迫亘軍医が五瓦の注射器にモルヒネ・パントポン
を混じ、空気を入れて3人の静脈に急激に注射した。顔に白いガーゼをかけてやると、3人共1分足らずして昏睡状態
陥入った。そして耳に拳銃を当て引き金を引いたと言う。
(※辻の若藤楼とは辻遊郭(玉倶楽部)の事で高級幹部が出入りしていた民営の遊郭)
6/23葛野、坂口両副官は牛島/長中将の遺体を葬ってある洞窟に最後の礼拝をし、服装を整え、拳銃で各自壮烈なる
自決を遂げた。6/22司令部司壕の中では女子軍属(若藤楼/偕行社の女性と思われる)が「敵の捕虜になるよりは死ん
だ方がいい」と嘉数軍医中尉に頼んで青酸カリを注射してもらい、5人の女性が5分間苦しみもがいて死んでいった。
その後直ぐ嘉数軍医中尉は壕から出ていって後の消息は解っていない。
大迫亘軍医(東京歯科大学出身)は特務活動の一つとして沖縄戦の半年前、坂口副官の命令で沖縄県に「偕行社」を設立
「偕行社」(かいこうしゃ)は、大日本帝国陸軍の将校・将校生徒・軍属高等官の親睦組織で、戦時中の活動はあまり知
られていない。幹部の親睦会と言えば宴会が付き物。大迫亘軍医は階行社の雇員、即ちコック・仲居・芸者等を集める
仕事もしていた。戦後復員し「薩摩のボッケモン」を出版。昭和30年鹿児島市で歯科医院を開業している。
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▲私が登った摩文仁の丘への入口。少々キツイ階段ではあるが摩文仁の丘まで登る事が出来る。
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▲階段上り途中で北側を望む。
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喜屋武岬の先端、各県の慰霊塔が点在する近く「平和創造の森公園」内に「マヤーガマ」が現存しているとの事。
陸軍第62師団(石部隊)の兵士60名程が、避難している住民を追い出し立てこもったガマだと言う。
時間の関係で見学は叶わなかったが、内部は当時の住民の物と思われる日用品に混じり、日本軍の物と思われる
遺留品が多数現存し、ガマの中心が住民から軍へととって替えられた事がよく分かるとの事だ。
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▲▼「義烈空挺隊」の慰霊碑もあった。
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他沢山の慰霊碑が並び、それぞれの敷地は各県や府の所有地となっており、沖縄戦で戦死した各県・府の出身者の霊
を祭っている。これだけ広い敷地に各都道府県が所有する慰霊碑が並ぶ光景は今だかつて見た事が無かった・・・。
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▼摩文仁司令部豪に向かって更に登っていく。
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▼自決した牛島中将と長中将が米兵によって埋葬された場所には慰霊碑がある。石碑には摩文仁司令部で戦死した方
 のお名前が刻まれている(最後まで司令部に居ながら捕虜となった八原博通大佐の名は当然無い)
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▼当時の同じ場所。(牛島中将と長勇中将の墓の前に立つ日本兵捕虜。昭和20年6月28日米軍撮影)
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▼自決した第32軍司令官牛島中将と長参謀長の墓標の側に立つ沖縄訪問中の3人の新聞記者(8/9撮影)
シカゴ・デイリー・ニュース紙のナイト氏、ミネアポリス・スター紙のコウルズ氏、ニューヨーク・タイムズ紙のアドラー氏
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▼摩文仁の丘、終点地点には、牛島中将の座って自決する後姿を模した石碑が建っている(実際は青酸カリで自決)
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▼この先は行き止まりだった。当時は断崖絶壁だったであろうことを想像した。
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▼慰霊碑の横に少し下っていく道がある。首脳陣2人が自決を遂げた第32軍最後の司令部豪跡へ行く道だ。
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▼更に下った場所に自然壕を利用した第32軍司令部豪の入口が見えた。
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▼司令部豪入口、これ以上は入る事が禁止されている。
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摩文仁の丘は自然壕が多く存在するただの崖では無く、古くからグスクとして拝所があった所だ。
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▲沖縄の人にとって聖地だった摩文仁は、最後の戦闘により慰霊の場所になってしまった事を残念に思う人も多い。
司令部壕から更に下に行くと「沖縄師範健児之塔」「風部隊の碑」「独立臼砲第1連隊戦没英霊之碑」「南冥の塔」
「死の井戸チンガー」などのガマも含めた戦跡があるのだが、今回は時間の関係で行く事が出来なかった。
次回必ず再訪して慰霊したいと思う。
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▼「風部隊の碑」(2017年2月17日訪問)
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風部隊は戦況気象情報、基地通信、整備、燃料補給、整備、飛行場での保安・輸送の任に当たっていた。
昭和19年10月10日以降第32軍の指揮下に入った。米軍の沖縄本島上陸以来、壊滅状態になった軍通信網に代わって
大本営及び関係部隊に戦況を報告するなど通信業務に携わったが南部一帯の激戦の過程でその大半が戦死した。
中央航空路部沖縄航空路管区、第5野戦航空修理廠、中央航空路本部・他航空路管区の戦没者を合祀してある。
▼「独立臼砲第1連隊戦没英霊之碑」(2017年2月17日訪問)
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独立臼砲第1連隊は昭和15年8月満州公主嶺にて対ソ作戦に備えての特殊兵器を装備した秘密部隊として創設された
昭和17年9月三個中隊からなる独臼1大隊を編成。ガタルカナル島攻略戦に出陣、在「ガ島」師団指揮下に入ったが、
参戦の機会を逸したまま終戦までラバウル方面の戦備に任じた。一方連隊主力は昭和19年8月本土防衛の第一線沖縄
作戦に出陣した。又残留部隊は独立臼砲第23大隊を編成、昭和20年4月済州島防衛に赴き此の地で終戦を迎えた。
沖縄決戦に参加した連隊主力は現地入隊兵を併せ第32軍直属球3666部隊となり現地防衛隊、他学徒献身隊の参戦協
力を得て昭和20年4月1日米軍上陸を迎撃敢闘3ヵ月に及ぶ激戦の末、我が臼砲連隊は6月16日をもって組織的戦闘行
動に終止符を打った、この慰霊碑は独臼第1連隊に関係ある沖縄戦ラバウル他太平洋戦争に従軍し散華した戦友の英
霊を合祀し合同慰霊碑として建立した。尚、この慰霊碑は我が臼砲連隊の秘密兵器95式臼砲実物大原形に基づいて碑
石を彫し建立した。        昭和56年8月建之                独立臼砲慰霊碑建立委員会
▼「沖縄師範健児之塔」(2017年2月17日訪問)
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沖縄師範学校男子部の生徒によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑。鉄血勤皇隊が南部の断崖絶壁に追い詰められ
最期を遂げた場所で生徒・職員307名を合祀している。13~19歳の若さで大人と同じように戦闘に加わった。
この「沖縄師範健児の塔」は、1946年に師範学校の同窓生によって建てられたものです。
▼沖縄県平和祈念資料館裏にある「沖縄県立工業健児鎮魂之塔」(工業鉄血勤皇隊・工業通信隊)
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沖縄県立工業学校の生徒は、通信隊は第5砲兵司令部の通信隊に配属され首里一帯で通信任務に就いた。
戦況の悪化により、通信隊は5月下旬、南部の摩文仁へ撤退。6下旬に解散命令が出されるが米軍の包囲網を突破出来ず
動員された教師7名・生徒97名の内85名が戦死。学徒隊以外に生徒70名の計165名が戦死している。
※工業鉄血勤皇隊は入隊予定の部隊から連絡がなく解散。
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▼「死の井戸チンガー」(2017年2月17日訪問)
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摩文仁地区には水の湧く場所が2ヶ所しか無かった。兵士や住民は水を求めて此処へ来た。しかし当時この場所は米軍
にマークされており、ここへ来る者は殆どが砲撃や銃撃によって命を落とした。折り重なる様な死体をどけて水を汲むとい
う過酷な状況の場所だったので『死の井戸』とも呼ばれている。
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付近には米軍による火炎放射の跡が生々しく残っている。
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▼「南冥の塔」(2017年2月17日訪問)
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沖縄戦終焉の地であるこの一帯には、米軍に追いつめられ、逃げ場を失った多数の日本の軍人軍属、一般住民が米軍の
連日連夜にわたるすさまじい砲爆撃により傷つき、斃れていて、死屍累々といったその様はこの世の地獄絵図かと見ま
ごうような悲惨な光景でした。この南冥の塔は沖縄戦に参戦し、その惨状が念頭から離れなかったという日系二世の米
兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和29年9月この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨一万二千柱を
集骨して建立された。現在この塔の遺骨の大半は沖縄戦没者墓苑に移され、ここには一部が分骨されて祀られている。
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▲慰霊碑の直ぐ横には軍民入り乱れて潜んでいたとみられる自然壕があり、入口前には無数の墓石がある。
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壕口横に一際大きい墓標には「陸軍々医大尉 清松義親戦死之地 昭和20年6月20日戦死」と書かれている。
清松義親軍医大尉の事を調べてみようと思い、検索してみたが、何も情報は出てこなかった・・・。
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清松軍医の墓碑に寄り添う様に、多くの墓石が置かれている。最後を軍医と共にした方達の墓だろうか・・・。
何か必ず意味があるに違いないと思った。
▼「平和の像」(2017年2月17日訪問)
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右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴してるという。
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▼「平和の像」の後側は、鉄血勤皇隊らが最後の斬り込み攻撃に出撃していった陣地壕が残っている。
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▼壕内には沖縄戦終了後に収集された遺骨が納められている。入壕して慰霊させて頂いた。
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▼付近には多くの兵士が潜んでいたであろう火炎放射跡の残る自然壕がいくつも点在していた。
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此処まで追い詰められてもなお牛島軍司令官の命令を忠実に守って最後まで戦った鉄血勤皇隊員・・・。
綺麗な心で最後まで日本の勝利を信じて戦ってくれた鉄血勤皇隊員に感謝し、2度とこの様な悲劇が無い様に日本は
日々努力しなければならない。そして国民を間違った方向に誘導せず、正しい教育に徹しなければならない。
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▲此の岩の裂け目の階段を上っていくと、前回訪れた牛島中将・長参謀長が自決した司令部壕となる。
(沖縄戦当時に話を戻します)
▼牛島中将の居た司令部壕(背景に入口が写る)を視察した後、高官達と雑談するスティルウェル大将(6/27撮影)
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昭和20年6月23日米軍が戦闘終結を告げてもなお抵抗を続ける日本兵の掃討戦を開始。
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▲摩文仁付近の掃討戦で壕から出てきた日本兵
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掃討戦は米軍が沖縄作戦終了を宣言する7月2日まで続いた。
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司令官らは住民の保護について米軍と交渉する事もせず、砲煙弾雨の中に住民を放置したまま自決した為、摩文仁~
喜屋武の海岸一帯は、数万の一般住民が右往左往し、逃げ惑っていた。
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▲6/23「瑞泉(ずいせん)学徒隊」が捕虜となる。県立首里高等女学校61名で編成され、第2防衛ラインの南風原、浦添
などの激戦地の野戦病院に勤務していた。内33名が死亡、ほとんどが島尻(首里撤退後の本島南部)で命を落とした。
海上からは狙い撃つ米軍艦船の機銃掃射と陸上を攻めてくる米兵の機銃や火炎放射に追われ、自決も至る所で起こり、
その様相は、さながらこの世の最後の様だったと言う。戦後、学徒の遺骨を見つけられたのは1人だけとの事だ。
※瑞泉学徒隊は浦添市「安波茶壕」「仲間壕」、南風原町新川「ナゲーラ壕」、那覇市「識名壕」、糸満市「武富壕」
 を転々とし、最後は住民を追い出す形で日本軍が入ったという「米須壕」で6/19に解散命令を受ける。
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▲ひめゆり平和祈念館近くに「瑞泉(ずゐせん)学徒隊」慰霊碑がある。(隣は「ひむかいの塔」宮崎の塔である)
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▲ずゐせんの塔に埋め込まれてある県立首里高等女学校の校章
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▲野戦病院壕の中を再現したジオラマ。女学生達は出来うる全ての事を不眠不休で懸命に看護した。
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▲▼海上と陸上から日本兵捕虜を使って投降を促す米軍。
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▲5月27日豊見城野第2戦病院壕から糸洲の壕へ撤退して来た「ふじ学徒隊」にも、6月26日解散命令が出される。
隊長だった病院長小池勇助少佐は6/27学徒へ「長い間軍に協力してくれてご苦労だった、決して死んではいけない。
必ず生きて家族の元に帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてくれ」と、最後の訓示をし、
看護学徒隊一人一人と別れの握手をした。看護隊全員が壕を出たのを確認した後、青酸カリで自決した。
6月27日ふじ学徒隊は2~3名ずつ組を作って壕を脱出し、ほとんどが米軍の捕虜となった。
しかし、最初に脱出した学徒3人の内1人が日本軍と米軍の交戦に巻き込まれ戦死している。
糸洲壕では米軍のガス弾攻撃に苦しめられ、「家族に会う」と言って壕を出た学徒がその途中で戦死。
そして戦後、戦争の心の傷から、自ら死を選んだ学徒を含めた3人が犠牲となった。
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▲小池勇助軍医少佐(長野県出身)昭和20年6月27日「糸洲の壕」にて自決。
「ふじ学徒隊」証言記録仲里ハルさんYouTube①「ふじ学徒隊」証言記録仲里ハルさんYouTube②
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▲現在も残る糸洲の壕(2017年2月16日訪問)
入口が2つある大きな壕で、米軍のガス弾攻撃・馬乗り攻撃を何度も受け、壕内では約100人が戦死した。
看護隊員は小池隊長の指示で、水に濡らしたタオルで顔を覆い、ガス弾攻撃に必死に耐え、壕内では学徒25名全員
が生き残った。
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▲▼辺りが工事中だった為、入壕は叶わなかったが、壕の部分は手を付けられていないので残ると思う。
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南部に移動した看護隊の多くは、隊員の半分以上が戦死している。「ふじ学徒隊」の戦死者の少なさは、小池隊長の
配慮があったからだという。各看護隊には6月18日頃には司令部より既に解散命令が出ていたという。
解散命令は米軍に包囲されてる中に放り出される事を意味していた。小池隊長は軍命令に背き、解散命令を出さなか
った。6月18日にバックナー司令官が戦死、米軍が全軍挙げて復讐による無差別の殺戮猛攻撃を展開する中の6月22
~23日の第32軍司令部崩壊の間に多くの学徒隊員が戦闘に巻き込まれて戦死していた。小池隊長は、米軍の攻撃が
収まった26日になって解散命令を発した。
小池隊長は、看護隊員たちを、我が娘のように可愛がり、父母から大切な娘さんを預かったのだから、絶対に死なせて
はならないと考えていたという。小池隊長は26日皆を集めると、日本軍が敗北したことを話し「負けると解かっていれ
ば君たちを預からなければよかった、申し訳ない」と。自決を願う看護隊員たちを抑え『君たちは絶対に死んではなら
ない。必ず生きてお父さんお母さんの元に帰りなさい。夜空には北極星が輝いている。位置は変わらないから北を目指
して逃げなさい』と。また、『捕虜になることは、決して恥ではない。アメリカ軍は民間人は殺さないから、両手を挙
げて出て行きなさい。そして生き残ってこの地で起こった戦争の悲惨な出来事を、後世の人に伝えてほしい』と。
そして小池隊長は、看護隊員に「逃避行にあたっては、大人数だと目立つので2~3人ずつで逃げなさい」と。
最後に全員、一人ずつ握手して、今までの労をねぎらい、感謝の言葉とともに、必ず生き抜くよう話したという。
1番に壕を出たのは、上記YouTubeで紹介した、宮古島出身の仲里ハルさんと八重山、久米島の友人3人だった。
隊長に言われた通り北を目指し、昼はサトウキビ畑に隠れ、夜に移動したという。数日後、米軍のキャンプに紛れ込ん
でしまい、銃撃を受け3人が倒れ込み、血まみれの友人が『ハルちゃん助けて!ハルちゃん置いてかないで!』と。
気がつくと、ハルさんは銃弾を受けてなく、左の三つ編みが吹き飛ばされていた。友人1人が死亡。1人は重傷だった。
他に1人、壕を出て逃避中に亡くなり、結果2人の犠牲者がでたのだった。最後に壕を出たのは、皆川晴子さんの3人
グループだった。途中、米軍がまいたタバコを拾って隊長のもとへ届けに戻ってみると小池隊長は自決していたという。
小池勇助隊長は、長野県(現在の佐久市)出身、地元の旧制野沢中学(現長野県立野沢北高校)を卒業し、金沢医専(現
金沢大学医学部)を卒業。軍医経験の後、地元の中込駅前で眼科を開業していたが、再び軍医として応招され沖縄へ。
小池隊長のお墓は、地元野沢の本覚寺という寺にあり、法要が営まれ「ふじ学徒隊」12名が参列し、命の恩人の墓前に
手を合わせられたという。積徳高等女学校の沖縄戦を記録したドキュメンタリー映画

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▲▼米軍の南部掃討作戦で投降した日本兵(ご苦労様でした)
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▼▲対照的に射殺されたり、火炎放射で顔の原型無い状態で戦死している日本兵。
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▲放置された住民の恐怖と苦労は計り知れないものだったであろう。現在も軍は信用出来ないという感情は十分理解出
 来る。司令官達の無責任な自決が、その後の沖縄県民にどれほどの苦痛を与えたであろうか。これが悠久の大義か?
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▼応急処置後の治療を受けるために、外科治療用テントの入り口で待つ日本兵捕虜。まだ幼い様に見える。
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▲▼投降した日本兵(ご苦労様でした)
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▼25人の日本兵捕虜を連れて南海岸を進む第7偵察部隊のゲイ上等兵
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▼糸満市伊敷の「轟の壕」から救出される住民達。この自然壕は全長約100メートル。沖縄戦当時、約1000人の住民
が避難していたと言われている。「轟の壕」では、先に捕虜になった人の呼びかけに応じて投降し、最終的に約500人
の住民が生き延びたとされる。写真では「轟の壕」頂上付近の米海兵隊員は地元民と一緒に出てくる可能性のある日本
兵を注意深く見張っている(6/25撮影)
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一方でアメリカ軍の攻撃が続く中、日本兵に追いやられた多くの住民が餓死するなどして犠牲になったと言う。
食糧難の避難民は、夜になると壕外の畑へイモやサトウキビを取りに出掛けたが、多くが艦砲射撃の犠牲になった。
 ある時、日本陸軍衛生隊の1団14、5人がなだれ込んだ。入って来るなり軍医准尉は「戦場に役人や警察官など要ら
ない。この壕は野戦病院として使うから立ち退け」と言い放った。当時沖縄県警察部輸送課長をしていた隈崎俊武が、
「我々は軍司令部より『与座岳以南で県民指導に当たれ』との指示を受けここに居る。軍司令部の司令書があればいつ
でも壕を出る」と反撃すると、翌朝にはこの衛生隊一団は姿を消していたという話が残っている。
日本兵(敗残兵)は避難民からの食糧略奪、飢えで泣き出す赤ちゃんを殺害したりと、その銃口を避難民にも向けた。
(沖縄県平和祈念資料館でそのジオラマを見る事が出来るので次回見学に行こうと思う)
「轟の壕」にいた当時の縄県知事島田叡沖は、摩文仁の牛島中将に日本軍の暴虐を訴えようと壕を出て摩文仁に向かっ
たという話も残っている。
 当時県職員だった山里和枝さんは海軍壕に看護要員として派遣され、後に「轟の壕」で嶋田知事と再会している。
嶋田知事は山里さんに「絶対軍と行動を共にするんじゃないぞ。最後は手を上げて出るんだぞ」と告げ豪を出たと言う。
 住民達が命からがら逃げ込んだガマの中には、敗残兵と避難民が雑居していて、絶えずにらみ合っていた。
戦闘はますます悪化、直撃弾がガマを見舞うようになり、「轟の壕」が猛攻撃を受けた。轟音と共に岩天井が落盤し、
壕内は大混乱となる。馬乗り攻撃されたガマに最後の時が迫っていた。米兵はしきりに投降を呼びかけるが、「敵の捕
虜になる者はスパイとみなして処刑する」という命令で、日本兵たちは住民に銃口を向けて脱出を許さない。
地下川は涸れ、食料も底をついて飢餓地獄の様相を呈していた。赤ちゃんや幼児が泣き叫ぶ。「子どもを泣かすな!敵
は音波探知機で探っているのだ!泣く者は始末するぞ!」と住民を脅した。
 ある住民が米軍と折衝するためにガマを出た。そして、交渉が成立し、喜び勇んで戻ってきた時、その背後には米兵
の姿があった。敵を誘導してきたと勘違いした日本兵はその住民を撃ち殺し、米軍の一斉攻撃が始まった。火炎放射の
猛火がガマを襲い、迫撃砲が容赦なくぶち込まれた。避難民の間で自決と思われる手榴弾の炸裂音が次々と響く。
断末魔の呻き声が壕内に充満し、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた・・・。
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▲「轟の壕」から次々に救出される住民達。ここは別名「沖縄県庁終焉の地」。6/17島田叡沖縄県知事が、ここから
 摩文仁の司令部豪に牛島司令官を陣中訪問しに行った後、荒井退造警察部長と共に自決、共に殉職している。
※「轟の壕」を題材にした「GAMA 月桃の花」という映画があるが一般向けのVHS化やDVD化はされていない。
 映画の上映は完全予約出張制で、学校や教育関連の集まり等、大勢の人々が集まる所でのみ上映されている。
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▲恐らく「轟の壕」内を再現したと見られるジオラマ。入口を監視する日本兵が再現されている。
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▲▼現在も残る「轟の壕」2017年2月16日訪問
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▼この壕は入壕する事が出来る。内部はかなり広い。
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さて、自決した首脳は牛島中将と長中将の2名だ。作戦指導の中核の一人、八原博通大佐はどうしたのであろう?
実は八原博通大佐は自決せず、沖縄住民の服を着て住民に紛れて北方に脱出を計った。
しかし7月26日頃ついに捕虜となった。尋問の際、沖縄語が解らない八原を不審に思った米軍は、沖縄住民に尋問を担
当させる。その時、八原は沖縄住民に「大本営に援軍を求めるので通信させろ」と言ったと言う。
直ぐに住民が米兵に伝え、結局、住民に偽装した八原博通大佐の身元は米軍の知る所となった。
八原は昭和21年に復員。第32軍の残務整理部長となって千葉に赴任したりしていたと言う。
八原博通は戦後『沖縄決戦 高級参謀の手記』を出している。1度読みたいと思っている。
沖縄守備軍司令官は牛島満中将、参謀総長は長勇中将だったが、実質的に戦略を主導したのは高級参謀八原博通大佐だ
った。長勇中将とは反りが合わなかった様なので、自決をどう見ていたのか、南部撤退をどうふり返ったのか非常に気
になるところだ。
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昭和56年5月7日永眠

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▲誰の物か・・拾ったとされる日本軍の軍服を着て満足気なティロットソン(John A. Tillotson)軍曹(6/19撮影)
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▲勝利を確信して写真に収まる米軍第3大隊の兵士達。
昭和20年7月2日米軍が沖縄作戦の終了を宣言した。
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▼昭和20年7月3日戦利品を見せ合うボーウェン上等兵とデービットソン上等兵(第96師団第383歩兵部隊K中隊所属)
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国吉台地(現 糸満市真栄里地区)は山形県出身者で編成された歩兵第32連隊が守備していた。
第32軍司令部消滅後は、国吉台の洞窟で過ごす。昭和20年8月15日終戦~8月22日アメリカ軍軍使と接触。
8月22日米軍情報将校が軍使として北郷連隊長に面会を申し入れてきた事で日本の敗戦を知る事となる。
連隊長は投降するのが嫌で、「天皇陛下の命により米軍の方に行け」と命令を出したとの事だ。
8月23日生存将兵約50名が敬礼する中で軍旗奉焼(現在の「山形の塔」)。この場所は、「白梅学徒看護隊」が解散後、
46名の生徒達が数名ずつに分かれて南部へと逃げた際、国吉に後退した第24師団第1野戦病院壕に迎えられて勤務を
続けていた病院壕にほど近い場所である。その女子学徒達も6月21日~22日の米軍の猛攻によって犠牲となった。
沖縄県立第二高等女学校4年生56名の生徒の内22名が戦死している。
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「白梅学徒看護隊」は昭和20年3月6日沖縄県立第二高等女学校から東風平国民学校に集められた56名の女学生。
(入隊辞退で後に46名)。彼女達は東風平国民学校で入隊、第24師団3486看護教育隊と名付けられ、3/24までの約
1か月弱の看護研修を受けて八重瀬岳第1野戦病院壕に着任する事となる。
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▼「白梅の塔」の敷地内には、白梅学徒隊16名が勤務を続けた第24師団第1野戦病院壕が今も残っている。
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▲▼糸満市国吉のウテル原「国吉ウテル原の壕」(第24師団第1野戦病院壕)
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▼八重瀬岳にある八重瀬公園には白梅学徒隊が勤務を続け、昭和20年6月4日解散命令が出された「第24師団第1野戦
 病院手術場壕」が現在も残っている。
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※「白梅学徒隊」の白梅は、沖縄県立第二高等女学校の校章だった。
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八重瀬岳第1野戦病院壕跡
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▼手術豪前には中にすら入る事が出来ない沢山の負傷兵がうめき声を出しながら横たわっていたと言う。
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「白梅学徒隊」の生存者の方達が証言なさっています。白梅学徒隊員沖縄戦を語るYouTube
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▼八重瀬岳の白梅学徒隊が配置された第24師団第一野戦病院壕の上で馬乗り攻撃をする米軍。
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▼自然洞窟ヌヌマチガマは八重瀬町の田園地帯にある。陸軍野戦病院壕として白梅学徒隊が配置されていた。
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少し前は地主さんに声をかけて見学可能だった此の場所も、「戦争遺跡公園」として整備されていた。
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敷地内はトイレや駐車場が整備され、修学旅行生が受け入れ易い様になっている。
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NHK戦争と証言「ヌヌマチガマ(八重瀬町)」
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西側(病院施設)は「ヌヌマチガマ」と呼ばれ、東側(手術施設)は「ガラビガマ」と呼ばれる。
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道を挟んで反対側は「ガラビガマ」。私有地であるこの一帯は最近「ヌヌマチガマ」と「ガラビガマ」を管理する団体
が分かれ、今回どちらのガマにも入壕していなが、見学するにはややこしい状況になっている。
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「ヌヌマチガマ」より明らかに整備の行届き具合が違う「ガラビガマ」。行政が関わらない側だという事が想像出来る
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平和学習の場として修学旅行生も多く訪れている場所なので、地権者がいらっしゃる戦跡は色々難しい事情が絡んでき
ている様だ。西側(病院施設)は「NPO法人自然体験学校」が指定管理者とあった。どちらも見学料を徴収するだろう
が、沖縄鍾乳洞協会は2時間1500円と価格表示されており、価格表示の無いNPO法人自然体験学校より良心的に思えた
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▼恐らく此の木蓋の下がガマ入口なのだろう・・・。一礼してヌヌマチガマ周辺を後にした。
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(話を歩兵第32連隊に戻します)
軍旗を奉焼した地には山形県産の石材が使用された「山形の塔」が建てられ、沖縄県をはじめ海外諸地域において戦没
した山形県出身者4万余柱の諸霊を祀っている。敷地は山形県が所有し合祀者数は40834柱で納骨はされていない。
現在も山形県の委託によって公益財団法人沖縄県平和祈念財団が管理し、慰霊祭が毎年行われている。
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▲「山形の塔」入口、入って直ぐ右手に柵がある。この下が歩兵第32連隊の陣地豪である(侵入禁止)
ウフ壕(田原屋取の壕)と呼ばれた自然豪は地元住民が避難するた為に整備した壕だった。6月4日南部に撤退してきた歩
兵第32連隊の連隊長以下約50名が移動して来て、住民は壕をから追い出されたという。
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▲本部豪として利用されたこの陣地豪にも激しい爆撃があり、壕からは多くの遺骨が発見された。糸満市真栄里1789
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昭和19年7月8日歩兵第32連隊主力に出動命令が下り沖縄へ派遣される(連隊一部は宮古島に向かった)
連隊主力は沖縄北部、渡見地地区に上陸、以後、嘉手納前面の洞窟陣地の構築を行なう。
第24師団が沖縄防衛第32軍に編入された為、32連隊には現地召集の新兵1800名が配属された。
昭和19年11月末、南部島尻の糸満地区に移動し、洞窟陣地の構築を始める。
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米軍は6月21日に沖縄戦の終結を告げたが、当初、現地召集した軍人・民間人を併せ5000名の32連隊は、200名程に
なりながらもゲリラ戦を展開。終戦も知らず、国吉台丘陵の洞窟陣地で徹底抗戦していた。
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歩兵第32連隊の大隊長だった伊東孝一さんの回想記録が「世界遺産・白神山地で暮らす」ブログで紹介されている。
是非ご覧頂きたい。

他、日本軍の組織的な抵抗が終わった6/22以降では、「久米島守備隊住民虐殺事件」がある。
この事件に関してはウイキペディア「久米島守備隊住民虐殺事件」を参考にして頂きたい。
『久米島女教師』の著者で、久米島住民虐殺事件の生存者でもある上江洲トシさんが本の中で当時を語っておられる。
上江洲トシさんは満州事変の年から久米島で40年間教員をされ、戦時中の教育「皇民化教育」をご自身が「信念」をも
って行ったという。戦前から上江洲トシさんはより良い教員になろうと、何の疑問も抱く事無く、教科書通り、指示通
りに教え続けてこられたそうだ。結果は、悲惨な沖縄戦であり、教え子の凄惨な死だった。
自らの教育の結果だと自らを責め、自らを「戦犯教員」だとおっしゃってこられたという。戦後は沖縄の子供達と教育
の為に常に平和運動の先頭に立たれた方だ。女性初の沖縄県議会議員として2期8年を務め「生活と権利を守る沖縄県婦
人協議会」会長として平和活動などに精力的に取り組まれた。2010年8月7日お亡くなりになった(享年97歳)

▼沖縄南端へ日本軍を追いやる第6海兵師団が、糸満付近の入り江で発見した日本軍の上陸用舟艇(6月撮影)
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▼上空からの糸満市名城。エージナ島が写っている(6月撮影)
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▼「史跡」糸満市の具志川城址 
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南端の海岸線で喜屋武岬に位置する軍民混在壕。一部の日本兵が最後まで米軍に抵抗したというガマが現存している
との事で訪れてみたが、2010年の史跡重視で岩盤の大規模な補強工事により陣地壕は消滅してしまったとの事・・・。
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2010年此処にダンプカーなども入り大がかりな補強工事が行われたという(遺骨収集は済んでいるのだろうか・・・)
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▼▲写真左手の岩盤がコンクリートで補強されているのが確認出来る。
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補強前は、海まで降りていく事が出来、日本軍地下陣地壕も見学する事が出来たという。仕方ない・・・。
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▼沖縄本島の最南端、喜屋武岬
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此処には南下を続けて逃げてきた住民が、やがてこの喜屋武岬に追い詰められ、多くの人達が岬から身を投げた所。
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▲「平和の塔」に略史が彫られていた。慰霊されている御霊の数は一万柱となっている。南部戦跡の中で特に悲劇の場
 所とされているが、訪れる人は少ない。
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▲此処は本土ではまず見る事の無い「戦跡国定公園」だ。
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▲喜屋武崎灯台もある。
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▲▼喜屋武崎灯台からの眺め
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ここに逃げてきた人達は計り知れない絶望感だっただろう。72年前の想像を絶する光景を思うと辛い気持ちになった。
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「平和の塔」で慰霊して喜屋武岬園地を後にした。
(沖縄戦当時に話を戻します)
▼「打ちひしがれたこの日本兵捕虜は、有刺鉄線の囲いの中でがっくりと座っている。
 彼を含む306人の捕虜は、沖縄戦終結までの最後の24時間で第6海兵師団に捕らえられた。
 日本陸軍、海軍、沖縄防衛隊の兵士らがこの囲いに拘束されていた」 (6月小禄にて米軍撮影)
 と、米軍が撮影した写真の説明に書いてあった・・・。本当にご苦労様でした。
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▼ 第6海兵師団の憲兵の監視のもと、検査のために1列に並ばされる投降した3人の日本兵捕虜。
 左右の2人はぼろぼろの軍服を身につけ、1人は沖縄住民の着物を着ている。(6月小禄にて米軍撮影)
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▼(6/21撮影)中央に写る日本兵は軍帽から海軍という事が解る。その後ろは軍帽から陸軍兵士と思われる。
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▼捕虜となった海軍の日本兵(小禄で撮影)
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小禄地区の海軍部隊は太田中将自決後も抵抗を続けた。
カテーラムイ(寿山)の海軍壕「海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕」では生存者約250名(ほとんどが負傷兵)が息をひそめ
ていた。6/4海軍司令部壕を攻め落とした米軍は6/6寿山陣地に進出し、6/11本格的な攻撃に出た。
戦いの行く末に希望を見いだせない事や負傷による苦痛から自決する者が多かったという。手榴弾を腹に当て、抱き抱
える様にして自決するので、その爆発により内蔵が壕内に飛び散り、腸などが天井を這っている電線のあちらこちらに
ぶら下がったという(寿山海軍壕も電話・照明がひかれ、壕内中枢部はコンクリートで壁面が構築されていた)
そばにいる者が巻き添えになる事も多かったので、自決する際には大声で申告するよう申し合わせたが、実行はなかな
か難しく、死ぬ時に他を顧みる者は少なかった。また自決も出来ない重傷者には軍医から安楽死を与えられた。
6/12寿山山頂上の平坦部を占領する米軍に夜襲を仕掛けるも死傷者が増えるだけだった。
6/13夕刻には残存兵力約150名となり最後の総突撃が予定された。皆、最後のための身辺整理を行った。
約150名の兵が数時間後に全滅する。静寂の時間が一同に安らぎをしばし与えた。暗黒の壕内で粛々として時を待つ。
23:55各班は数カ所の出口に分散して突撃の号令を待った。「総員突撃用意」「突撃」。乱戦に次ぐ乱戦である。
空が白んで来た頃、死屍累々として凄惨な影を現し始めた。寿山を中心に200m先まで死屍は続いていた。
負傷はしたがまだ生きている者は互いに呼び合い、助け合いながら、再び戻ることのなかったはずの壕に戻った。
その数は50名を超えた。皆放心状態となっていた。誰も話そうとしなかった。唯、生きているのが不思議であった。
6/14午後には米軍は馬乗りとなり火焔放射攻撃を行った。壕内には250㎏爆弾が2発信管を外してあった。
この爆弾を爆発させ自分達が爆死すると共に、台上の米軍も一挙に噴き飛ばそうと発案した。2発の爆弾を壕の中央部
に移動させた。早く楽になりたかった。大半が生きる必要を認めていないようであった。
二宮中尉は一同がこの爆弾を中心に固まるのを確認すると、ハンマーを取り上げ、皆を見つめた。そして一気に力を込
めて信管を叩いた。「カーン」と金属音が壕内に響いた。だが爆発しない、再び力を込めて叩いたが同じだった。
また死に神に見放された。兵は失望と嬉しさとが入り交じった不思議な気持ちになって、再び壕内に散解した。
7月下旬にほぼ全員が壕を出て彷徨するが、再び戻ってきた者や他の壕から辿り着いた者で9月頃には約170名だった。
寿山陣地が武装解除をして米軍に投降するのは昭和20年9月5日のことである。約170名いたはずの日本兵は捕虜とな
り整列した時には約120名になっていた。約50名は何処に行ったのか。誰も話題にしなかったという。[沖縄戦史]より
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▲同じ小禄での日本兵捕虜の写真。「カメラを向けると顔を伏せる3人の日本兵捕虜」と説明書があった・・・。
死ねなかった自分に引け目を感じているのであろう・・・何とも言えない写真だ。でも「ご苦労様でした」と言いたい。
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▲昭和20年8月、投降したばかりの日本陸軍少佐(左)と少尉を尋問する第1海兵師団の将校。
 彼らは自らをマサイヨシカキ少佐、イシドサダミ少尉と名乗った(恐らく偽名だろう・・・)
 この2人は天皇の玉音放送をラジオで聞き、しぶしぶ投降してきた。
 陸軍第32軍の司令官と参謀長が自決を遂げた現場にも立ち会ったと言う。
 投降した2人の将校は53日間、日中は壕に潜み、夜間に移動し、生芋と草で食い繋いでいたと語ったと言う。

沖縄戦当時の鈴木首相は戦後の回顧談の中で「沖縄の日本軍が敵を一度海中に突き落としてくれたら、これを契機とし
て具体的平和政策を開始しようと考えていたが、期待に反して沖縄守備軍はそうしてくれなかった」と述べた。
後にそれを知った八原博通大佐は「いやしくも一国の首相が、沖縄戦にこんな期待を寄せていたとすれば、沖縄の実情
をご存知なかったものと言わねばならぬ。沖縄戦においては、現地の首脳は戦闘開始数ヶ月前から希望を失っていた。
決戦は本土でやると公言し、沖縄守備軍は本土の前進部隊だと断じておきながら、現地軍に決戦を強いて本気で戦勝を
期待するのは本末転倒も甚だしい」と、反論している。
八原博通大佐は、大本営と現地守備軍との間には正反対に近い意志の乖離(かいり)があったことを指摘、その裏事情
を明らかにしている。彼によると、沖縄戦の始まる前年あたり以降、上は参謀総長から、下は参謀本部部員に至るまで、
1人として沖縄に直接視察に来たり、将兵を激励しに来たりした者はいなかったと言う。
それどころか、沖縄方面の作戦について現地の作戦主任である八原大佐自身とさえ親しく膝を交えて談合した大本営関
係者は1人もいなかったらしい。しかもその本当の理由は、10/10空襲で那覇市の遊郭が全滅して享楽に耽る事が出来
なくなった事、南西諸島の海域に米軍の飛行機や潜水艦が多数出没し始め、身の危険を感じたからであったと言う。
八原大佐は更に、大本営の幕僚たちのこの無責任な態度は、米国の場合とはあまりにも対照的だったと述べている。
米国などでは、大統領や首相が自ら前線に出かけて将兵と語り合い、国政方針と戦争現場の実態との調整をは図るのが
常だったが、当時の日本政府や大本営首脳にはそんな配慮などまるで欠けていたと言う。
結局、大本営は、自らが導いた沖縄作戦に見切りをつけて増援部隊を送ることを辞め、沖縄本島守備軍、南西諸島海軍
部隊、更には動員された多数の沖縄住民総力をあげての戦いをみすみす見殺しにしたという結末になった。
昭和20年5月5日の司令官牛島満中将が総攻撃中止を命令して以降、「最後まで首里に残って戦うか」
「南部へ退却するか」を検討した際、長 勇中将の「首里で最後まで戦う」の意見を退け「南部へ退却して決戦」の意見
を通した八原博通大佐は、結局、摩文仁の司令部豪で自決せず、戦後の時代をのうのうと生き、生涯を全うしている。
この決定が南部へ避難していた10万人を超える住民を戦闘に巻き込み、更に悲惨な沖縄戦終結の結末を招く事になった
実質的な作戦の指揮官が八原博通大佐だった事を思うと、どこかに責任逃れの匂いがしないでもない。
ま、敗戦後自決しなかった司令官や高級参謀は皆、責任逃れを主張した腐った連中が多かったのも事実だが・・・。
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▲沖縄戦終結後に撮影された1枚。米軍機を修理する米兵を眺める沖縄の子供。生きていてくれて本当に良かった。
 サイパン・テニアンなどでも、この様な戦い終結後の子供達の写真を見た事があるが、本当に子供は純粋で強い。
 子供の教育がいかに大事かを思い知らされる1枚である。
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▲うるま市勝連平屋敷。当時製糖工場があった場所に機銃掃射をうけた赤煉瓦の煙突が現存している。
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▼▲手書きの説明もあった。運が良ければ近くで畑仕事をしている中国好きの地元お年寄りが解説してくれる。
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▼うるま市勝連には世界遺産に登録されている勝連城跡もある。此処は一見の価値あり(入場無料)
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(沖縄戦当時に話を戻します)
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▲昭和20年8月4日に撮影された沖縄本島集落の様子(場所不明)

沖縄の原則とは「ぬちどぅ宝」。ぬちどぅ宝とは「命は尊い」という意味だそうで、武器や暴力を嫌う昔からの沖縄人
の表現だと言う。(あえて沖縄人という表現を使わせてもらった)
沖縄県内に多く残る城(グスク)は琉球時代にも激しい内戦があった証。その時代に既に悟っていたのだろうか。
1500年、オケヤアカハチの乱で八重山(石垣島など)を琉球王府支配下とし、琉球王国は最盛期には奄美群島と沖縄諸島
及び先島諸島までを統治した。1609年九州の薩摩藩が琉球に侵入(いわゆる「琉球征伐」)以後は、薩摩藩による実質的
な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入
する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。というのが沖縄の簡単な歴史だ。
日本人の心と言えば、「和をもって貴しと為す(わをもってとうとしとなす)」。平和の構築は武器ではない・・・。
人々がお互いに仲良く、調和していく事が最も大事なことであるという聖徳太子が制定した十七条憲法に出てくる言葉。
琉球王国・日本国共にそれぞれの原則を現代においても片時も忘れる事無く、永遠に仲良く発展していきたいものだ。
日本全国の出生率ランキング TOP10の内、2位~4位までを占める沖縄県、若年出産率は全国1位だ。
少子化問題がよく取りざたされる日本。沖縄戦そして沖縄県から学ぶ事は多いのではないだろうか・・・。
同時に離婚率も全国1位という事も付け加えておき、若年出産・若年結婚・若年離婚を通じて、離婚者の多くが子連れで
貧困世帯に陥っている現実も考えなければならない課題の一つだ。何処の県も良い事ばかりでは無い・・・。
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▲傷の手当を待つ少女(具志頭村にて6/21撮影)※具志頭村は現在の八重瀬町
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▲昭和20年6月25日米軍の従軍カメラマンが撮影した比嘉富子さん。レンズを向いて笑って手を振っている。
 「泣きっ面を見せるな。最後は笑って死ね」という父の言葉を思い出して笑ったという・・・。 
 この時富子さんは、カメラのレンズを銃口と思ったからだそうだ。

比嘉富子さん(昭和13年生まれ)は6歳で戦場をさ迷い、救出されたときは7歳。39歳で写真の存在を知り、長い沈黙を
破り写真の主である事を名乗り出たのは49歳の時。
昭和20年6月沖縄戦の最中、父の安否を尋ねて首里から南部の真壁に姉兄と逃避行、9歳の兄は流れ弾に当たり即死。
米須海岸の砂に兄を埋め、姉とはぐれて1人さまよい歩く。
ふと入ったガマの中で、両手両足を失ったおじいさんと、盲目のおばあさんに会い、一緒に数日を過ごす。
6月23日牛島司令官の自決、沖縄戦は終決を迎え、投降を呼びかける米軍のビラ、スピーカーの声・・・。
おじいさんは富子さんに一人で投降するように語りかける。
「富子、この世で一番大切なのは、人の命なんだよ。」・・・「富子、これを、持って、お逃げ。」・・・
「それを持って行けば、絶対に安全だ。それが世界中の約束だから・・・。」
白い旗はガマの中で一緒に数日を過ごした両手両足を失ったおじいさん、盲目のおばあさんが褌で作ってくれた物。
昭和20年6月25日富子さんは、ガマから白旗を持って米軍に投降、命を繋いだ。

昭和58年米軍が沖縄戦を記録したフィルムを、沖縄県民が1人1フィート分のお金を出し合い、アメリカから買い取って
永遠に記録に残そうという運動が起こり、翌年その一部がテレビで紹介され、白旗を持った少女の姿を富子さんのご主
人が見つける。しかし、既に昭和52年、富子さんはコザ市(現沖縄市)の洋書店で英文の戦争写真集の中から「白旗の少
女(自分自身)を見つけていたが、誰にも話すことなく自分一人の胸にしまっていた。誰にも話す事無く自分の中に封印
しておく事で、ずいぶん悩んだという。
昭和62年「おまえ自身の沖縄戦を、ありのままに話しなさい。後世に記録として伝えなさい。それは、お前にしかでき
ない事だからね」と、ご主人の後押しでようやく自分の経験を告白し、新聞に紹介された。
コザの書店で自分を見つけてから10年後、米軍フィルムが公開されてから4年後だった。
TV東京開局45周年記念ドラマスペシャル「白旗の少女」YouTube「私たちに戦争を教えてください終戦70年の証言」
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▲昭和20年5月に那覇で撮影された写真、老婆の死体が写っている先には米兵が座って休憩している。
沖縄戦は、戦争が起こったら住民はどのように扱われ、軍はどんな態度をとるか、軍が優先され、人命が軽んじられる
という、あってはならない論理が当たり前のように展開される事を証明している。そして、軍隊教育と軍国主義教育・
思想が人の精神構造を異常にし、何ら教養も道徳観もない人間にさせてしまう。沖縄戦を決して忘れてはならない。
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▲昭和20年9月3日ハーバー大尉に降伏の印である軍刀を差し出す陸軍球部隊の本田主計大尉。
 サイパン島の戦いで最後まで戦い続けて投降した「サイパン島投降式典」における大場栄陸軍大尉の様だ。
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▲昭和20年9月7日「降伏文書署名式」
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▲昭和20年9月7日嘉手納基地(元陸軍中飛行場)において、南西諸島の全日本軍を代表して宮古島から第28師団(豊部隊)
師団長 納見敏郎(のうみとしろう)中将他、奄美大島から高田利貞陸軍少将・加藤唯男海軍少将らが参列し、米軍に対し
て琉球列島の全日本軍は無条件降伏を受け入れる旨を記した降伏文書に署名した。
これに対し、米軍を代表してスティルウェル大将が日本軍の降伏を受諾・署名し、沖縄戦は公式に終結した。
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▲スティルウェル大将が降伏文書に調印し、無事終了した。
※宮古島(第28師団)納見敏郎中将は武装解除、復員業務の見通しをつけた後、昭和20年12月13日任地で自決した。
 宮古守備軍(陸海軍合わせて約30000人)の武装解除・降伏調印は昭和20年9月26日であった。
 (宮古島(第28師団)は旧満州から宮古島に移って来た部隊)
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▲昭和25年11月米陸軍通信隊が撮影した沖縄本島南端の崖「慶座絶壁」(ぎーざばんた)。沖縄のスーサイド・クリフ
 (Suicide Cliff)と呼ばれた崖は、サイパン・テニアン同様数千の人が身を投げ、自決した。
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▲▼現在の慶座絶壁(ぎーざばんた)此処は平和祈念公園から程近い場所にある。
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「どのガマで」「どの崖で」という事では無く、南海岸地帯全てが慰霊の場所だ。当時の状況を知るのは今となっては
難しい。しかし、この場所でも多くの方が身を投げたり攻撃を受けたり、様々な要因で亡くなった人が多い。
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▲沖縄戦終了直後の南海岸を上空から写した写真。米軍によって多くの遺体が漂流しているのが確認されている。
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▲昭和26年12月3日に撮影された糸満の漁村。後方の丘は沖縄戦で日本軍が最後の抗戦を行った場所
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▲昭和25年11月宮古島(平良港)に来たブラムリー民政官他。
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▲昭和25年11月奄美群島政府発足(奄美大島で撮影)
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▲知念村(現在は南城市)に建てられた沖縄戦で犠牲になった民間人と日本兵の慰霊碑(昭和29年撮影)
※現在はグスクロード公園にある慰霊之碑の前で南城市戦没者慰霊祭が執り行われ、4地区の遺族会が合同で慰霊祭を
 行っている。碑には太平洋戦争・日露戦争碑などで亡くなった約6000人を祀ってあるという。
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▲最後に昭和20年2月米軍の上陸を前に撮影された日本軍第32軍の集合写真をご紹介して終わりとする。
 (1)大田実海軍中将(2)牛島満第32軍司令官(3)長勇第32軍参謀長(4)金山均歩兵第89連隊長
 (5)北郷格郎歩兵第32連隊長(6)八原博通高級参謀
以下、沖縄本島守備隊主要幹部
第32軍司令官/牛島 満中将(6/22自決)陸軍参謀長/長 勇中将(6/22自決) 高級参謀/八原 博通大佐(捕虜→復員)
ここで少し長 勇中将と牛島 満中将のお孫さん「牛島貞満さん」について触れておく。
長 勇中将は、(日中戦争)南京戦で上海派遣軍参謀兼中支那方面軍参謀で、情報課長であった。
日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子供を混じえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。
その中には多数の中国兵が紛れ込んでいた。中国兵をそのまま逃がせば後に戦力に影響する。そこで前線で機関銃を
据えて待機している日本軍兵に「あれを撃て」と命令した。中国兵が紛れているとはいえ、逃げているのは一般市民
であるので、さすがに日本兵は躊躇して撃たなかった。それに激怒した長 勇中将長は「人を殺すのはこうするんじゃ」
と軍刀でそこに居た日本兵を袈裟斬り(けさぎり)にした。驚いた他の日本兵隊が一斉に機関銃を発射し、大量虐殺に
なたっという話が残っている。

牛島 満中将のお孫さんの牛島貞満さんは現在東京都在住の小学校教諭だそうだ。牛島満司令官の孫として、沖縄戦の実
相を探り、後世に語り継ぐ責務を自身に課しているとの事で、毎年のように沖縄を訪ね、祖父の足跡をたどられている。
「沖縄で米軍関連の事件/事故が起きると、本土マスコミの多くは『沖縄の人達が怒っている』と書く。
基地被害や戦争と隣り合わせの現実を、自分達の問題と感じる意識が決定的に欠落している」と訴える。
牛島貞満さんは現役小学校の教師として2004年~10回にわたり、豊見城市立長嶺小学校にて「牛島満と沖縄戦」のテ
ーマで平和学習の特別授業を行っている。

歩兵第89連隊長/金山 均大佐(新垣の洞窟で自決)
第24師団長/雨宮 巽中将(6/30自決)第24師団参謀長/木谷 美雄大佐(6/30自決)
第62師団長/藤岡 武雄中将(6/22自決) 第63旅団長/中島 徳太郎中将(6/22自決)
第64旅団長/有川 圭一中将(6/22自決) 第64旅団参謀長/上野 貞臣大佐(6/22自決)
第64旅団高級副官/竹下 勇大尉(6/22自決)
独立混成第44旅団長/ 鈴木 繁二少将(6/18戦死) 第5砲兵司令官/和田 孝助中将(6/18戦死)
※沖縄本島北部の守備に当たった独立混成第44旅団第2歩兵隊(球7071部隊)国頭支隊(通称・宇土部隊)
 宇土武彦大佐以下500人(砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊等)は、日本軍組織的戦闘が終わった6/23以
 降も北部山中で秘密戦を展開、住民スパイ視虐殺や食糧強奪問題がある。
 昭和20年10月2日、国頭支隊残余の宇土武彦大佐ら99名が米軍に投降したが、本島北部の渡野喜屋(大宜味村おおぎ
 みそん塩屋)で起きた「渡野喜屋事件」は今も日本兵による沖縄住民スパイ視虐殺の象徴として語り継がれている。
 (独立混成第44旅団第1歩兵隊は柴田常松大佐で伊江島守を守備、独立混成第44旅団の大半は昭和19年6月29日鹿児
 島から「富山丸で沖縄へ向かう途中の徳之島南東12キロの地点で撃沈され戦死している)

歩兵第32連隊長/北郷 格郎大佐(摩文仁司令部崩壊後も終戦まで勇猛果敢に抵抗、8/28軍旗奉焼、8/29武装解除)
北郷 格郎大佐は「天皇陛下の命により、米軍の方へ行く」と言い、最後まで「降伏」の言葉を吐かなかったと言う。

第32軍航空参謀/神 直道少佐(5/10 19:00大本営へ沖縄作戦戦況報告の為、首里司令部豪を脱出)
沖縄を脱出した神 直道少佐は最初、飛行機で脱出を試みるがうまくいかず、一旦首里に戻る。次は刳船(サバニ)での
脱出に変更、5/30 20:00名城海岸(糸満市)を出発。6/7与論島到着→徳之島からは3/28北飛行場より特攻出撃直前
に空襲で搭乗機を破壊され、本土帰還中だった誠第41飛行隊「扶揺隊」隊員 寺山大尉の操縦する99式襲撃機に同乗し
て九州へたどり着き、第六空軍参謀として終戦を迎えた。
戦後の手記『沖縄かくて壊滅す』の中で八原大佐の持久作戦を批判した為、沖縄戦は消極的過ぎたと非難される事にな
る。帝国軍人にとって八原大佐の生還は断じて許しがたいものであり、ひいては八原大佐の作戦思想そのものが自己生
存主義と解釈されたのは当然の事であった。
それに対し八原大佐は、実質的に捕虜になったとは思っていないと語ったが、多くを反論することはなかった。
戦後の陸士同期会でも沖縄戦については語らず、同期生も八原の心中を察してその話題には触れなかった。
しかし従来の沖縄戦の記録があまりに表面的で一方的であり実態とはかけ離れている、として昭和47年に『沖縄決戦』
を出版。作戦主任参謀の立場からの第32軍作戦思想-持久作戦の正当性を主張した。
神 直道 元少佐(平成10年死去)

(沖縄方面根拠地隊)
司令官/大田 實海軍少将(6/13自決) 先任参謀/前川 親一郎海軍大佐(6/13自決) 山田 弘国海軍少佐(6/13自決)
南西諸島航空隊司令/棚町 整海軍大佐(6/13自決) 第951航空隊 派遣隊司令/羽田 次郎海軍大佐(6/13自決)

独立混成第45旅団長/宮崎武之少将(石垣島)
第28師団長/納見敏郎中将(宮古島)昭和20年12月13日宮古島にて自決
独立混成第60旅団長/安藤忠一郎少将(宮古島)
独立混成第59旅団長/多賀哲四郎少将(宮古島)
[ 戦力比較 ]
日本軍→陸上兵力86400名/戦車27両(中戦車14両 軽戦車13両)
米軍 →陸上兵力183000名(正面兵力) 海上停泊後方部隊/予備人員合わせて548000名/戦車390両
1フィートドキュメント沖縄戦YouTube [ 沖縄平和学習アーカイブ ]
『國雖大好戦必亡 天下雖安忘戦必危』
この言葉は古代中国の兵法書『司馬法』にある言葉で、「国がたとえ強大でも、戦争を好めば必ず滅びる。国がたとえ
安定(平和でも)していても、戦争の危険性を忘れれば、その安全は必ず脅かされる」という意味だ。
対米戦に最後まで反対しながら、太平洋戦争(大東亜戦争)の発端となった真珠湾攻撃を指揮する立場になってしまった
山本五十六が、海軍省の自分の部屋に『國雖大好戦必亡 天下雖安忘戦必危』を掲げていたそうである。
「大国といえども戦いを好めば必ず滅びる。平和といえども戦を忘れたら危うい。」
今、日本はこの言葉を改めてよく考えなければならない。

▼糸満市山城から糸満市米須に位置する沖縄戦跡国定公園の1つ「沖縄県平和創造の森公園」。
 この敷地内に沖縄における最初の鎮魂碑である「魂魄之塔」(こんぱくの塔)がある。
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元立法院(アメリカ施政権下の沖縄の立法機関)議員の翁長助静(元真和志市市長)は、塔の命名と共に「和魂(にぎた
ま)となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」と碑文を記した。
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沖縄県の振興開発や教育行政の向上に尽くした翁長助静(故人)の実弟が、現職沖縄県知事の翁長雄志知事だ。
隣にある碑文に刻まれている文章は下記通り。
この地は今次大戦でも一番の激戦地であり日本軍も住民も追いつめられて逃げ場を失い陸、海、空からの攻撃を受け
て、敵弾にあたって倒れた屍(しかばね)が最も多い激戦地の跡である。
 戦後、真和志村民が収容移住を許された所で村民及び地域住民の協力によって、道路、畑の中、周辺いたる所に散
乱していた遺骨を集めて祀ったのがこの魂魄の塔である。
 祭神33万5千余柱という、沖縄で一番多く祀った無名戦士の塔であったが、その後、昭和54年2月摩文仁の丘に国
立沖縄戦没者墓苑が完成し、遺骨は同墓苑に分骨して安置してあります。
和魂(にぎたま)となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風
昭和21年2月     財団法人沖縄遺族連合会

魂魄(こんぱく)とは浮遊霊(ふゆうれい)[空中や水面に浮かびただよう魂]を慰める意味で、魂は人の精神をつかさどる
気。魄は人の肉体をつかさどる気(死者の魂[霊魂])、塔は家族の墓と同じ意味。
平和創造の森公園周辺は沖縄戦の激戦地で、米軍に追い詰められた住民が全滅した場所。戦後米軍により、収容所が建
てられ、真和志(まわしし)村の住民が収容されていた。
(以後真和志市となり、昭和32年那覇市と合併。現在は那覇市おもろ街となっている。)
昭和21年1月真和志村民は食料確保の農作業の為、米軍の命令でこの地、米須原に集められたが、道路や畑の中などの
至る所に頭髪や皮膚が付着したままの遺骨がそのままの状態で放置されていた。
真和志村村長だった金城和信さんをはじめとする住民達が米軍に遺骨収集作業を要請したが、それが反米活動や皇軍主
義に繋がることを危惧した米軍は許可しなかった。
しかし開墾しても出てくるのは遺骨だけという状態では食料確保の農作業が進まず、結局米軍も遺骨の収集を許可せざ
るを得なかった。収集された遺骨の数は、沖縄戦で亡くなった(身元不明者)住民・軍人・軍属・米軍・朝鮮人など実に
3万5千体に達し、積み上げられて山となり、周囲の石と米軍払い下げのセメント等の資材を用いて昭和21年2月27日
この塔と納骨所が建立された。軍民、人種、国籍を問わず遺骨が葬られた沖縄最初にして最大の塔である。
昭和54年摩文仁に完成した国立沖縄戦没者墓苑に分骨され、現在塔の下にある納骨所には僅かな遺骨が残る。
毎年6月22日に字主催の慰霊祭を開催している。
※当時の金城和信さん(戦前沖縄県の小学校長などを歴任した真和志村村長)は、沖縄戦で2人の愛娘を失った。
 金城村長夫婦は、現在ひめゆりの塔がある陸軍第3外科壕周辺の遺骨を収集し、昭和21年4月5日に「ひめゆりの塔」
 を。そして同年4月9日には男子学生を祀る「沖縄師範健児の塔」を建立した。

沖縄県平和創造の森公園内には摩文仁同様、各県の慰霊碑が立ち並ぶ。
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▲中でも一番広い場所にある「東京之塔」
太平洋戦争中に沖縄・南方諸地域で戦没した東京都出身者162000名を祀る。(内沖縄戦の戦没者は65000名)
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▲「大分の塔」
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▲「広島の塔」
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▲「因伯の塔」(鳥取県)
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▲「大和の塔」(奈良県)
他、北海道の塔・紀乃國之塔(和歌山県)・讃岐の奉公塔(香川県)があった。
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▲「関南健児之塔」
開南中学の生徒は鉄血勤皇隊(第62師団独立歩兵第23大隊と、通信隊は第24師団司令部通信隊)に配属された。
配属後の行動が未だ解っていないが、通信隊は糸満市高嶺で通信任務に就いていた。
生徒の動員数は正確には不明だが、182名の生徒と教師4名の計186名が戦死している。

糸満市を訪れた2月は丁度サトウキビ収穫の忙しい時期だった。
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収穫作業に汗を流す地元に方に声をかけ、サトウキビを味見させて頂いた。
搾りたてのサトウキビジュースの味が忘れられなかったからである。
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▲快くサトウキビの皮をむいてくれたキビ畑の主さん、本当に有難うございました。
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全て手作業で刈り取り、また手作業で円になる様に積んでく・・・かなりの重労働だ。
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国が買い上げる制度となっているが、買い取り価格を聞けば誰も「やりたい」とは思わないだろう・・・。
若い人は敬遠し、引き継ぎ手がいなくなってサトウキビ産業は衰退の一途を辿っているとの事。何とかならないものか。
しかし地元の方達は自分達の土地を守る事に真剣だ。そのあたりが本土とは違う。糸満市は人参栽培が盛んだ。
サトウキビ畑の風景は少なくなっていっても、畑が広がる糸満市は未来永劫続く事だろうと思った。

玉砕~甦らぬ英霊二百万~沖縄戦YouTube

拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見に如かず」現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。
(お電話でのお問い合わせは、〇九〇-二六一八-二一四四 まで)
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 2016_08_15

Comments

Re: 沖縄県民かく戦えり 

Tony 様
いつもコメント有難うございます、その様ですね。落合 畯さんは大田中将の3男さんみたいですね。防衛大学校にご入学された時からそれも運命だったかもしれませんね。日本政府がした事と言うより、ご自分で望んで引き受けた仕事だったと思いますね、お金や言葉だけで平和が永遠に守れる様な時代にはまだまだ程遠い世界情勢ですしね・・・。
EVNARA  URL   2016-09-08 14:10  

沖縄県民かく戦えり 

有難う御座います、「大田実少将」の言葉、日本人は知らない、余りにも無知、、最後の、「祖国復興のあかつきには、格別の御高配賜らん事を」、日本政府のした事は、戦後最初の海外派兵の掃海部隊指揮官の「落合海将補」は彼の子供です、日本人は余りにも知らない、如何かもう少し書いて下さい、有難う御座います
Etsuo Tony Ooka  URL   2016-09-05 23:47  

沢山の写真有難う御座います 

沢山の写真有難う御座います、後に、マッカーサーは本国に伝えております、日本人は沖縄人を日本人と思っていない、それが今まで、全ての犠牲を沖縄に押し付け、復興予算と言うお金で、、日本政府に解決する意思は無く…、此のままなのか、余りに酷い沖縄戦、言葉もありません。
Etsuo Tony Ooka  URL   2016-09-03 10:11  

Re: ご苦労様です、 

Tony様

いつも有難うございます。日本という事もあるかもしれませんが、沖縄は今まで訪れた戦跡の中で一番印象に残る場所でした。
お世話になったガイドさんの説明・スケジュール等が素晴らしかったです。2日間でしたが、まだまだほんの1部しか行け
ていません。沖縄県の今に繋がっている歴史と闇に葬られつつある事実の数々は、本土に暮らす我々が沖縄県民以上に理解
しておく必要があると強く思いました。沖縄戦跡ツアーは来年も再訪したいと思っています。
EVNARA  URL   2016-09-01 10:59  

ご苦労様です、 

ご苦労様です、本土の為の犠牲、作戦ミスの転用、小緑・太田実海軍少将、忘れません、有難う御座ました。
Etsuo Tony Ooka  URL   2016-08-20 10:24  

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プロフィール

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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