陸軍北(読谷)飛行場と中(嘉手納)飛行場

Category: 沖縄本島   Tags: 沖縄戦  

「沖縄戦」で紹介した「陸軍北飛行場」と「陸軍中飛行場」
昭和20年4月1日の米軍上陸後に真っ先に占領された陸軍の飛行場だ。
中飛行場は現在も米軍が拡張・整備した「嘉手納飛行場」として米軍が使用している。
北飛行場は米軍接収後、読谷補助飛行場としてパラシュート降下訓練などに使われ、現在は日本に返還され、読谷村が
今後の活用方法を議論している。
陸軍北飛行場/中飛行場は紹介しているブログ等も少ない為、[沖縄戦]で紹介しきれなかった米軍上陸直後と、その後の
両飛行場の様子を米軍が撮影した写真でご紹介する。

※太平洋戦争当時、沖縄には以下の飛行場があった。
「沖縄本島」陸軍北飛行場(読谷)/陸軍中飛行場(嘉手納)/陸軍東飛行場(西原・小那覇)
     陸軍首里秘密飛行場/陸軍南飛行場(仲西・城間)/海軍小禄飛行場(小禄)/海軍糸満秘密飛行場(糸満)
「伊江島」陸軍伊江島飛行場
「宮古島」海軍宮古島飛行場/海軍宮古島中飛行場/陸軍宮古島西飛行場
「八重山(石垣島)」海軍石垣島北飛行場/陸軍白保飛行場/海軍石垣島南飛行場(元石垣空港)
「その他」海軍喜界島飛行場/陸軍徳之島北飛行場/陸軍徳之島南飛行場/海軍南大東島(喜界島)飛行場
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※ここで紹介する当時の写真は全て米軍が昭和20年4月1日以降に撮影したものである。
[ 陸軍北(読谷)飛行場 ]
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▼▲上空から
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▼低空で撮影された北飛行場滑走路。飛行場周辺に亀甲墓が沢山ある事が解る。日本軍機も見える。
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昭和19年10月10日の十十空襲後、12月~昭和20年年1月にかけて北(読谷)飛行場に駐機する戦闘機を米軍の空襲から
避ける為、読谷村伊良皆の集落内に軍用機秘匿場所を構築した。
秘匿場所には5軒の家が有ったが、全て取り壊されたという。現在読谷村伊良皆の軍用機秘匿場跡には誘導路として石
を敷きつめた道が現存しているそうだ。
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▼▲北飛行場周辺の上空写真。掩体壕がどの辺りにあったのか良く解る写真だ。
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▼北飛行場の端に設置されていた飛行場本部
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▼現在の北(読谷)飛行場跡のほぼ同じ位置
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▼米軍から返還され、今後の活用が議論されている。現在は生活道路替わりになっている。
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▼2017年2月14日再訪
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▼空爆で破壊されたレーダー施設
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▼飛行場内の半地下防空壕(トーチカ)
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▼北飛行場防空壕で日本軍の爆撃に耐える第1航空団の海軍士官。日本軍機による爆撃は毎晩続いた(5月)
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▼ほとんど毎晩日本軍機が北飛行場周辺に爆弾を落とし、翌朝にはこの位大きい穴が出来ている事もあった(5/20撮影)
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▼放棄された陸軍98式直協偵察機
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▼掩体壕の中に残された日本陸軍機の残骸
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▼4/1北飛行場の地下ガスタンクが炎上する中、第3上陸作戦部隊の兵士が水陸両用装甲戦車の後方を進む。
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▼飛行場放棄にあたり、日本軍は自ら残存機を爆破処分して山中に逃げて行った
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米軍は一式戦闘機「隼」はscar(オスカー)/三式戦闘機「飛燕」はTony(トニー)/99式双発軽爆撃機はLily(リリー)の愛
称で呼んでいた。
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▼残骸をよく見ると、日の丸の後ろに白帯の入った隊長機が多い事が解る。
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▼海軍機の様にも見える。ラバウルでも陸海軍共用していた様に、北飛行場でもそうだったのかもしれない
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▼白帯付きの隊長機ばかりが残さたと言う事か・・・?沖縄に配属されていた陸軍飛行戦隊はどの部隊だろううか?
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▼▲陸軍三式戦闘機「飛燕」か・・・。
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▼これは何だろう・・・?もしかして海軍93式超重爆撃機か?海軍対潜攻撃機「東海」??
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▼陸軍99式双発軽爆撃機
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▼陸軍99式襲撃機
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昭和19年10月10日(十十空襲)の後、滑走路を直ちに修理、約200機の日本軍機が北飛行場に次々と飛来した。
「これで沖縄は大丈夫だ」と工兵や一兵卒の日本兵は安堵していたと言う。
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飛べる状態の航空戦力がどの位あったか解らないが、かなりの数の航空機が残っていた事が解る
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▼北飛行場で米軍に初めて鹵獲された海軍特攻兵器「桜花」。北飛行場で4機発見された。
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北飛行場では4機の「桜花」が鹵獲されたが、中には日本本土の工場から出荷された箱に入ったままの状態で発見され
た機もあり、技術者による解析の為に急いで米国へ送られた(昭和20年4月13日撮影)
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▼しげみの中で米軍に発見された1-13号機
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▼「桜花」のコクピット
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▼「桜花」の計器類
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▼梱包されていた木箱が写っている
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▼1-10
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▼1-13
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▼1-18号機を分解して調べる米兵4/3撮影
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前側のカバーが外され、約1.2t爆弾がむき出しになっている。
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戦後偽名で暮らした「桜花」の発案者、大田正一少尉。その息子である大屋隆司氏が父の本当の名前を知ったのは、中
学生の時だったという。子煩悩で優しい父と、非情な兵器を発案した父との乖離から、それ以上詳しい話を聞く事はで
きなかったという。戦争末期、神之池航空隊「神雷部隊」の大田正一海軍中尉は、軍やマスメディアで犠牲的精神を厭
わない「桜花」発案者として讃えられた。
終戦直後、ゼロ戦で飛び立ち海上に自爆を図るも救出され生き延びた。一下級将校を「桜花」発案者として讃えたのは、
日本海軍が部下に死を強要する事になる特攻作戦を大々的に推進したい為だった。
海軍の軍令部を頂点とする上級将校は、特攻作戦の責任をとろうとせず、結果として、責任を一介の下級将校に押し付
けた形になった。大田正一氏はその責任を一人で背負う事になったのだった・・・。

▼上空から撮影されたダミー戦闘機(直ぐに見破られていた)
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▼北飛行場に置かれていたダミー戦闘機の数々
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▼飛行場に擬似飛行機を置くという日本軍のごまかし作戦にあきれて、頭をかく陸軍第24軍団コシュマンスキ中尉
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▼ダミー戦闘機に横に置かれている自転車も日本軍が使用していた物である
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▼▲北飛行場を望む座喜味城址付近で発見されたダミー対空砲と塹壕(読谷村座喜味城址付近と思われる)
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座喜味城址は護佐丸時代を経て523年、護佐丸が中城城に移って以来使用されず、全体が松や雑木に覆われていた。
昭和18年読谷山の陸軍北飛行場建設に伴い、翌年8月「第21野戦高射砲司令部」指揮下の独立高射砲第27大隊第3中隊
(光本中尉中隊長)によって陣地構築が進められた。先ずは、全体を覆う松や雑木の伐採から始め、更に視界を広げる為、
城址周辺の伐採も行われた。その後沖縄県立農林学校の全生徒も動員され、伐採された木の根の掘り起こしが始まった。
生徒は体の汗疹に悩まされながら、主に土と石を運んで砲座の周りに土塁を築き、一ノ郭に6基の砲座が設置された。
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▼座喜味城趾は修復され、現在世界遺産に登録されている(画像は終戦後昭和35年頃の座喜味城趾)
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▼現在の恐らく同じ場所だろうと思う場所で撮影
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▼現在の座喜味城趾。北飛行場跡(読谷役場)から車で10分(2017年2月14日訪問)
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▼一ノ郭から二ノ郭を見下ろす。座喜味城は曲がりくねった城壁の中に、二ノ郭・一ノ郭と2つの郭がある構造になって
 いる。護佐丸が18年間居城し、その後首里王府の命によって中城に移封された後放置された。そして太平洋戦争中、
 一ノ郭に日本軍(第32軍)の高射砲陣地が作られ、その際に城郭の一部が破壊されたとの事。
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▼読谷村を一望出来る一ノ郭(記録ではここに高射砲が6基設置されたとなっているが痕跡は何も無く、本殿主柱の台座
跡が残っているだけだった。)北飛行場防衛の意味では絶好の場所である。
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▼公園になっている高台にも高射砲が設置されていたのだろうか・・・。何か不自然公園だった。
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▼公園になっている高台から東シナ海をのぞむ。
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▼④が一ノ郭。赤印2つの丘にも高射砲が設置されていたのではないか?と想像してしまった・・・。
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沖縄がアメリカに占領された後、座喜味城跡はアメリカ軍の対空レーダー基地となっていたとの事。

▼米軍上陸に関して最初から飛行場放棄の方針だった為、北飛行場はあっさり米軍が占領、米空軍の使用が始まった
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▼米軍のブルドーザーで撤去される陸軍三式戦闘機「飛燕」
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▼ブルドーザーで牽引されていく「飛燕」。滑走路付近に捕虜となった住民達が移動している
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▼上陸後初めての水浴びを楽しむ米兵。北飛行場近くの日本軍兵舎横の施設で井戸が設置され湧き水が出ている
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▼カムフラージュされた日本軍兵舎(知覧の三角兵舎とよく似ている)
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▼米軍に発見された日本軍施設。迷彩塗装が施され、ネットで偽装されていた。粗末な木造作りだ(4/6撮影)
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▲▼ドラム缶で支えられ、滑走路脇に放棄されていた陸軍三式戦闘機「飛燕」の残骸。
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知覧などの特攻基地から旧式の99式高等練習機や97式戦闘機、二式高等練習機で特攻出撃していった特攻隊員も多く
いたというのに、これだけの飛燕を放棄するとは第六航空軍司令官[ 菅原道大中将 ]は一体何をしていたのか・・・。
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「決しておまえたちだけを死なせない、最後の一機で必ず私はお前達の後を追う」と特攻隊員に語りながら、自決せず
のうのうと戦後38年間を生き、多くを語らぬまま95歳まで生きた菅原道大中将。上層部の無能でどれだけ無駄な死と、
無駄な兵器を使った挙句敗戦したのか・・・。その総括は未だきちんと検証されないまま自衛隊に引き継がれている。
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▼陸軍99式双発軽爆撃機の残骸。
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▼陸軍99式双発軽爆撃機の残骸を調べる米兵。
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▼北飛行場に強行着陸を成功させた1機から飛び出した義烈空挺隊員が破壊した米軍機(5/24撮影)
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▼当時の掩体壕がひっそりと残り、脇に「義烈空挺隊」慰霊碑が立っている(玉砕地のサトウキビ畑から移設された)
※この周辺は当時「掩体壕」が多く造られたが、ほとんどが取り壊され、現在遺されているのはこの一つだけ。
 2009年読谷村の史跡に指定された。「読谷村掩体壕」沖縄県読谷村座喜味2901(2017年2月14日再訪)
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NHK戦跡証言「座喜味の掩体壕(読谷村)」
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▲▼内部は経年劣化で崩壊しない様に鉄骨で補強がしてあった。
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▼4/1米軍が北飛行場を占領した直後の北飛行場内「忠魂碑」(昭和10年10月頃、読谷山国民学校内に建立)
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▼この「忠魂碑」は昭和53年、読谷村運動広場北角、勤労者体育センター横テニスコート脇に移設され、現存する。
 沖縄県中頭郡読谷村座喜味2901
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▲義烈空挺隊玉砕の碑(掩体壕)から車で1分の所にそれはある(2017年2月14日訪問)
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現存しているが程度は悪く、しかも忠魂碑裏側が道路で忠魂碑正面を見学する事が困難。柵の中へも行けない。
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▼忠魂碑の説明書
説明文を読むと何故か悲しくなってしまう・・・言葉で言い表せない虚しさと怒りの様な感情は日本人だからか・・・
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▼「今後の戒め」として残された忠魂碑は今も沖縄の地に建ち続けている・・・。
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▼掩体壕を倉庫代わりに使用する米軍
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▼北飛行場高射砲陣地(本島中部の宜野座村などで伐採された木材は中南部に運ばれ、陣地構築に使用された)
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▼陣地構築の様子を再現したジオラマ模型
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▼重高射砲隊陣地の掩蔽壕入口
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▼北飛行場防空施設?海軍の施設と比べると陸軍施設はお粗末だ・・・。
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▼北飛行場東側に位置する読谷村にかかる橋。
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▼米軍整備班によって修理され、飛行可能な状態に復活した「飛燕」、別の飛行場に飛行して移動させる。
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▼移動先の海兵隊航空基地に着陸する、アメリカ軍のマークに塗り替えられた「飛燕」
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▼「飛燕」のテスト飛行を終え、手を振るクンツ少佐(7/21撮影)
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▲▼米軍にとって不要な残骸はこの様にブルドーザーでかたずけられた。
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▼海兵隊員がシャワーとして使っている日本軍の放棄していった荷車は、日本軍の火消し車だった・・・。
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▼日本軍手動式火消し車を利用して、シャワーに使うドラム缶へ水をくみ上げる第15海兵連隊の砲兵隊員(6/20撮影)
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▼北飛行場のぬかるんだ地面にキャンプをはる第2海兵航空団。後方はコルセア戦闘機
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▼北飛行場に駐機中の海兵隊第2航空師団のコルセア戦闘機。
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▼北飛行場に放棄された日本軍の小型スチームローラーを使って作業する米兵。
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▼放棄されたディーゼル機関車。サトウキビ運搬用の車両か?米軍は何処でも汽車は再利用しないようだ
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▼那覇市壷川東公園に飾られているディーゼル機関車。米軍が撮影した物と同タイプの様に見える
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発掘された沖縄軽便鉄道 のレール上に、南大東島で使われていた、ディーゼル機関車と荷台が飾られている。
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(2017年2月15日訪問)
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▼北飛行場で発見された日本陸軍移動式レーダー車(飛行機の高度測定用)
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※日本の当時のレーダー開発は陸軍・海軍共、その秘密主義とセクショナリズムで研究体制はバラバラだった。
 その為、民間の科学者の技術を結集する事が出来ず、軍人の無理解の中、一部の科学者が細々と研究を進め
 ていたにすぎなかった。完成したレーダーも故障が多発し邪魔物扱いされる事が多かったと言う。

▼4/20北(読谷)飛行場でニミッツ海軍元帥の到着を待つガイガー海兵隊少将(左)とバックナー中将(右)
 バックナー中将は沖縄本島の戦い終盤の6月18日糸満市真栄里で日本軍の砲弾で戦死する事になる。
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▼視察の為来沖したニミッツ元帥(前列左より)ニミッツ元帥、スプルーアンス海軍大将(奥に掩体壕が写る)
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▼4/8沖縄上陸日から1週間後、海軍看護兵オーバーストリート中尉が読谷飛行場に到着した時、最初に手に入れた
 記念品が地元のわら帽子であった、彼女は沖縄に着任した2人目の海軍看護兵である。
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▼負傷兵を避難させる救護部隊と海軍空輸部隊の飛行機(Co54)。グアムから到着して負傷兵を乗せた後、グアム島、
クワゼリン島、オアフ島経由でアメリカ本土へ出発する。北/中飛行場のどちらかと思われる(昭和20年5月6日撮影)
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[ 陸軍中(嘉手納)飛行場 ]
▼上空から。米軍の爆撃によって出来た滑走路の穴が、空爆と艦砲射撃の激しさを物語っている。
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▼4/28上空から。占領され、米軍による修復と整備が進んでいる。
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▼掩体壕
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▲陸軍中飛行場。破壊された陸軍100式重爆撃機「呑龍」が写っている。
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▲現在の米軍嘉手納基地(中飛行場)。上記写真とだいたい同じ感じの場所、道の駅嘉手納より撮影。
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▲▼陸軍中飛行場で撮影されたダミー戦闘機(米軍撮影)製作者は誰だろう?軍の工作隊か?それとも住民の方々?
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ダミー機は当然、沖縄本島で製作されたのであろう・・・。何処で作っていたのか?
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大規模な空襲があったにもかかわらずダミー機の損傷は少ない・・・効果はあったのだろうか・・・。
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▼中飛行場の防空壕か倉庫(現在も幾つか現存する様だが米軍嘉手納飛行場内の為、簡単に見学出来ない)
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▲▼現在も米軍嘉手納飛行場敷地内に残る中飛行場時代の遺構(桜花の格納庫と言われている)
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中飛行場での桜花鹵獲の写真は見た事が無い。中飛行場にも海軍の「桜花」は配備されていたのだろうか・・・。
▼確かに隼や飛燕を入れるには少し小さい様に感じる。「桜花」の掩体壕とすれば丁度良いサイズだ。
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▼中飛行場で撮影された日本陸軍機の残骸。この戦闘機は何だろう・・・。
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▼中飛行場を整備(滑走路を平らに)する米軍。4/4撮影
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▼整備されていく中飛行場、そして現在も続く米軍嘉手納飛行場となる。
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▼上空から撮影された中飛行場のダミー戦闘機群
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▼器用に藁や竹で編まれて作られている、これを製作するのも大変だったであろう・・・。
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▲▼中飛行場で撮影されたダミー戦闘機
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▼ダミー戦闘機といっしょに並べられていた日本軍機、ダミーでは無い様に見える。この機はなんだろう・・・。
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▼陸軍四式重爆撃機「飛龍」か?
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▼陸軍四式戦闘機「疾風」か?
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▲▼陸軍単座戦闘機「隼」
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▼「隼」を調べる米兵(この「隼」は日本軍飛行場と思い込んで夜間に着陸し、米軍に捕らえられた。4/3撮影)
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▲▼日本軍自ら爆破処分したのか空爆で破壊されたのか北・中飛行場で200機以上の航空機の残骸があったと言う
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▼中飛行場の三式戦闘機「飛燕」
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▼4/2中飛行場で鹵獲した四式戦闘機「疾風」を TAI(戦術航空爆撃隊)の兵士が修理し、エンジンを始動させた。
 調査の為、ワシントンDCへ届ける準備をしていた時、日本軍機が低空飛行で機銃掃射していった。火が見える
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▼ TAI(戦術航空爆撃隊)の兵士がエンジンを始動させた。ワシントンDCへ送る準備が整いつつある。
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▼中飛行場に放棄された日本軍の爆弾。特攻機用か・・・?いや、米軍上陸前から、大本営は第32軍への航空支援を
 しなかったので陸軍九八式臼砲(九八式榴弾)と思うのが自然かもしれない・・・。
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▼中飛行場第33米海兵隊航空群燃料集積所付近にて撮影された日本兵の遺体。これが戦争の現実。(7/2撮影)
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▼中飛行場にて日本軍の激しい空襲を受け破壊されたコルセア戦闘機(5月撮影)
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▼日本軍地上からの攻撃を受け中飛行場付近に墜落したF4Uコルセア
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▲特攻ボートを牽引する際に使用されていたという話もある日本軍キャタピラー発動機
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▼▲恐らく飛行場で使用されていたであろう日本軍発動機(5月に入ってから撮影された写真)
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▼飛行場で鹵獲されたかは不明だが、沖縄戦で米軍が鹵獲した95式小型乗用車(くろがね四起)(昭和20年7月撮影)
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95式小型乗用車は日本初の国産実用四輪駆動車として日本内燃機(後に東急くろがね工業→日産工機)が開発し、日中
戦争(支那事変)・第二次世界大戦における帝国陸軍の主力乗用車として使用された。通称の「くろがね四起」は、日本
内燃機のオート三輪車ブランドとして当時著名だった「くろがね」と「四輪起動」にちなんで呼ばれた。
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▲NPO法人 防衛技術博物館を創る会が修復・復活させた「くろがね四起」初期型
NPO法人 防衛技術博物館を創る会は、機械技術遺産として防衛装備を後世に残す活動をされている。
復活させた「くろがね四起」は、京都市内の自動車修理工場「日工自動車」に、初期型ロードスタータイプがほぼ原型
を留めた状態で現存しているのが再発見された。この個体は昭和29年頃に、日工自動車が日本内燃機の自動車ディーラ
ーを請け負っていた伝で入手したとされる物で、当時の時点では実働車であったという。
同NPO法人理事で作家の三野正洋が工場を訪ねたところ、改めて現存が確認されたもので、同NPO法人は復元を前提に
同社社長より車体の譲渡を受け、クラウドファンディングの手法で資金を集めつつ走行可能な状態までレストアした。
(ウイキペディアより)

▼飛行場で鹵獲されたかは不明だが、沖縄戦中、名護で米軍が鹵獲した日本の消防車(フォード製)
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▼飛行場で鹵獲されたかは不明だが、沖縄戦で米軍が鹵獲した日本製(KATO)トラクター(昭和20年6月撮影)
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※沖縄本島陸軍北飛行場、沖縄本島陸軍中飛行場とご紹介したが、沖縄本島陸軍南飛行場も存在していた。
 仲西飛行場と呼ばれていたそうで、現在の痕跡は米海兵隊牧港補給基地内だが日本軍時代の遺構は無い。

▼沖縄本部半島南部の海岸で米軍に発見された陸軍99式双発軽爆撃機II型。尾翼に「牽牛」と書かれている。
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この機は飛行第90戦隊所属機で、昭和20年4/18、4/28、5/18、5/24、5/28九州宮崎県の陸軍新田原基地より沖縄
爆撃の為に出撃した第3中隊所属機と思われる。
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飛行第90戦隊第3中隊所属機“牽牛号”は、ハセガワより1/72プラモデルにもなっている。
ホビーショップの商品説明によると「本機は昭和20年春の沖縄戦に出動し、九州沿岸に不時着した機体です。塗装は上
面:暗緑色、下面:灰緑色。マーキングは垂直尾翼の“牽牛”及び横位置の帯が白色、90を図案化した円形の戦隊マーク
と縦位置の帯が黄色です。デカールはこの他にもう1機種分、マダラ迷彩の飛行第208戦隊のものが入る予定になってい
ます」となっている。この古写真の説明文には「沖縄本部半島南部の海岸で米軍に発見された日本軍機」となっている。
この“牽牛号”の古写真が沖縄で撮影されたものなのか、九州沿岸で撮影されたものなのかははっきりしない。
 しかし、米軍が撮影した写真である事は間違い無い。昭和20年7月に撮影されたものという事が確かなのであれば終
戦前の沖縄本島で撮影された可能性が高い。搭乗員は生存していたのか・・・、非常に気になる写真だ。
ご存じの方がいらっしゃいましたら情報をお寄せ下さい。
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▲尾翼のアップ。「牽牛(けんぎゅう)」がはっきり写っている。
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▲コックピットのアップ(7/20撮影)
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▼▲メーター類[上]と後部機銃座席[下]のアップ(昭和20年7月撮影)
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▼陸軍99式双発軽爆撃機II型(キ48)
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▼▲同じく名護の西、本部半島の南側海岸に隠されていた日本軍上陸用舟艇。
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[ 陸軍伊江島飛行場 ]
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▼日本軍が米軍に使わせない為に自ら滑走路を痛めていった跡。
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▲廃墟となった伊江島
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▲昭和20年8月19日、日本の降伏調印使節の乗った一式陸攻が伊江島へ向かう。
 後方は第6緊急中隊の第5陸軍航空隊ボーイングB-17。(一式陸攻は米軍の命令により塗装が変更されている)
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▲伊江島飛行場に着陸した海軍一式陸上攻撃機。米軍はBetty(ベティー)の愛称で呼んでいた。
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▲日本の降伏調印使節(降伏全権団)を乗せて伊江島に着陸した一式陸上攻撃機に興味を示して群がる米兵。
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▲沖縄に派遣された多くの米兵にとって海軍一式陸上攻撃機を見るのは初めてのことであった。
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▲日本の降伏調印使節一行。左から2番目は代表団の指揮官、帝国陸軍参謀次長 河辺鷹四郎陸軍中将
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▲駐機場に入る一式陸攻
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▲駐機場の塗装が塗り替えられた緑十字一式陸攻
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▲マッカーサー元帥の司令部で降伏条項に関する話し合いをする為、フィリピン(マニラ)に向かう日本側使節団。
 (伊江島飛行場で2機の一式陸上攻撃機からC-54機に乗り換える様子)
敗戦直後、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、伊江島からフィリピンに向かい、連合軍と会談する。
フィリピンにて最高指揮官マッカーサーから降伏要求文書を受領した。
その後伊江島に戻った降伏全権団は、連合軍の進駐詳細や全軍武装解除を中央に伝達する為、8月20日伊江島から
専用の緑十字機にて東京へ飛行中であった。当初、木更津海軍飛行場を出発した1番機一式陸上輸送機と2番機一式
陸上攻撃機の緑十字機は、伊江島で2番機が故障した為、1番機のみで帰還。
しかし途中で燃料が切れ、20日深夜、現在の遠州灘の天竜川河口(鮫島海岸)に不時着水した。
全権団に怪我人は無く、降伏要求文書も近隣の住民の助けを得て全て回収し、一行は手配されたトラックで浜松陸軍飛
行場へ移動、代替機として同地にあった四式重爆撃機「飛龍」を急遽使用する事となり、翌21日朝に出発。
調布陸軍飛行場に無事到着している。

▼沖縄県中城村の建設途中だった陸軍東飛行場(西原・小那覇)
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▲写真左側(東側)は中城湾
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▲こちらの写真は下側(東側)が中城湾。
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▲こちらの写真は津堅島(ツケンジマ)で砲撃を受けた灯台を調べる米兵(津堅島は沖縄県うるま市に属する島)
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▲中城城(ナカグスク城)に設置された米軍司令部(J.R.ホッジ将軍/昭和21年1月撮影)
標高160mの太平洋を見渡す丘に築かれた琉球王国時代の中城城。争いが絶えなかった15世紀頃の築城。
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▲頑丈な琉球石灰岩を利用した城壁が歴史的にも高く評価され、現在は世界遺産として登録されている。
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中城城見学は有料で、無料のボランティアガイドが案内してくる。
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▼▲敗戦前までは中城城に役場が置かれ、その事を物語る忠魂碑が残されていた。
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▼昭和19年の十十空襲後、日本軍が防空壕を作ろうとした跡が正門付近に残されている。
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中城城跡の石碑の奥に、石垣が歯抜けになっている部分がある。
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▼▲石垣の奥も堅い琉球石灰岩で固められており、工兵隊は防空壕構築を断念したという。
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▼昭和30年9月27日に撮影された中城城からの眺め。
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▼現在の中城城からの眺め。同じアングルで撮影(2017年2月14日撮影)
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フィリピン戦から投入された特攻ボート陸軍「マルレ」と海軍「震洋」。
陸軍マルレ特攻艇は米軍上陸の際に爆破処分して撤退した隊が多く、沖縄戦の写真は少ない。
しかし、海軍特攻艇「震洋」は米軍に無傷で鹵獲された物が多く、多数の写真が残っている。
「沖縄戦」で紹介しきれなかった「震洋」の写真をここで紹介しておく。
▼沖縄本島の金武湾周辺の海軍秘匿壕で米軍に鹵獲された海軍特攻ボート「震洋」(第42震洋隊/第22震洋隊)
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現在の沖縄県石川市(現在は3つの町と合併し「うるま市」)にあった海軍の「震洋」基地。
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▼▲金武湾まで引きずり出される「震洋」
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▼数少ない金武町の集落を写した写真。校舎も写っている。
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▲▼沖縄本島で米軍に発見された日本軍特攻ボート「震洋」か「マルレ」
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陸海軍の特攻ボートはフィリピンでの戦いから実戦投入されたと聞く。沖縄戦では活躍の場はほぼ無く、いたずらに発
見した米兵のおもちゃとなって楽しませるだけの存在にしかならなかったと言う。
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▼屋嘉付近(沖縄県国頭郡金武町屋嘉)の道路脇で発見された特攻艇(5月撮影)(第42震洋隊/第22震洋隊)
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▼直ちにカムフラージュの木々や葉を取り払い調査する米兵。先端に爆弾が既に装備されている「カ-380」と読める
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▼船首部爆弾のアップ写真。航空特攻でもさほど戦果があがらない中でべニアボートは・・・。
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▼「震洋」か「マルレ」のエンジン。トラックなどのエンジンを流用していた。
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▼陸軍「マルレ」は色々なタイプがあった様だ。
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▼陸軍「マルレ」のエンジン。ツインエンジンか?
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▲▼4/21座間味島で撮影された陸軍特攻艇「マルレ」。
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海軍の特攻艇「震洋」は艇首のハッチ内部に爆弾を搭載するのに対して、陸軍特攻艇「マルレ」は、艇尾に爆雷を2個
搭載する。したがって、海軍「震洋」は完全に自爆体当たり特攻艇であるが、陸軍「マルレ」は敵艦数十メートル以内
に接近して爆雷を投下後、反転退避する事が可能で陸軍幹部の間では特攻兵器では無い。と言う意見も未だにある。
しかし、敵艦に接近している以上、敵制海権からべニアボートで味方基地への帰還は困難である。
特攻作戦に関しては、航空特攻にしろ海上特攻にしろ、元々陸軍は消極的だったというが、「斬り込み」や補給無の作
戦で陸上兵士を何十万人も死なせている陸軍が、「マルレは特攻兵器では無い」と言っても何の説得力も無い。
「震洋」は必死の兵器、「マルレ」は決死の兵器と言う人がいるが、私に言わせればどちらも同じ自殺兵器である。


沖縄戦での陸海軍特攻艇出撃記録。
昭和20年3月26日頃、慶良間諸島 陸海軍特攻艇約100隻出撃。駆逐艦ハリガンDD-584(USS HALLIGAN)撃沈。
昭和20年3月26日運天港海軍基地より第42震洋隊出撃。戦果無
昭和20年4月4日第22震洋隊出撃(米中型揚陸艇LMS(R)-12/歩兵揚陸艇LCI(G)-82を撃沈)

陸海軍特攻艇配備地区。
陸軍部隊「マルレ」(暁部隊)
第5海上挺進基地隊本部→北谷
「海上挺進基地第1大隊」大隊本部・勤務中隊3 人員約900名。
※沖縄本島地区の海上挺進基地大隊は、昭和20年2月中旬、臨時に歩兵大隊に準じて改編し、地上戦に参加した。
海上挺進基地第2大隊・第3大隊(真壁)・第26大隊(東風平)・第27大隊(大里/佐敷)・第28大隊・第29大隊(北谷/東風平)
第30大隊・海上挺身第26戦隊(真壁名城)・第27戦隊(与那原)・第28戦隊(玉城)・第29戦隊(北谷)
[ 渡嘉敷島・阿波連島 ]
海上挺身第3戦隊・特設水上勤務第104中隊1個小隊
[ 座間味島 ]
海上挺身第1戦隊・特設水上勤務第104中隊
[ 阿嘉島・慶留間島 ]
海上挺身第2戦隊・特設水上勤務第104中隊
[ 宮古島平良 ]
海上挺身第4戦隊(金子少佐以下隊員63名/舟艇47隻)昭和20年1月上陸(出撃記録無)
陸軍海上挺進基地第4大隊(秘匿壕構築や後方支援)
復員するまでの間に、空襲やマラリア、栄養失調などにより約63名(正確な数字は不明)が戦死。


海軍部隊「震洋」/「甲標的」/「蛟龍」
[ 沖縄本島 ]
沖縄方面根拠地隊司令官沖縄方面根拠地隊→小禄村~豊見城村
第27魚雷艇隊(今帰仁村運天港)・第37魚雷調整班(小禄村)
第22震洋隊(金武村・178名中74名戦死)/第42震洋隊(金武村屋嘉)井出少尉・高橋中尉以下48隻188名中85名戦死
第2蛟龍隊(今帰仁村運天港)・第33蛟龍隊

[ 宮古島警備隊 ]※戦死はほとんどが空襲と戦争マラリア
(平良)第41震洋隊55隻S20.01.25配備 八木少尉以下188名(内36名戦死)
(狩俣西海岸八光湾近くに海軍第313設営隊が構築した震洋型特攻艇秘匿壕が現存する)
トラック島空襲以後、南西諸島の防備強化が着手され、昭和19年4月沖縄方面根拠地隊宮古派遣隊が編成。
9月宮古島警備隊となった。同根拠地隊は第32軍の指揮を受け、宮古島警備隊は先島集団(第28師団)の指揮を受け
る事となった。5月沖縄本島の根拠地隊から高雄警備府の所属となり、同根拠地隊は7月に解隊となった。
宮古島の与那覇港に面し、海軍飛行場を含む海岸地区を守備。
空襲や艦砲射撃による宮古島の海軍戦死者は約150名であった。昭和20年8月25日対敵作戦任務が解除され、長期
駐留の為の現地自活態勢へと入った。宮古地区の海軍兵員数は2500名であった。
なお、宮古島警備隊は、石垣島の陸海軍部隊の食糧が12月中旬以降持たない為、陸軍次官と第28師団長に対し11月
中に宮古島、大東島に向かう予定の艦船全部を石垣島に差し向けるよう要請した。その結果石垣島の帰還輸送が優先
された。宮古島警備隊の復員は主に米船で行われ、入院患者は別船で行われた。終戦時の部隊長は村尾重二大佐。

[ 奄美諸島大島防備隊 ]※戦死はほとんどが空襲と戦争マラリア
(奄美大島久慈)第44震洋隊55隻S20.01.25配備 三木少尉以下178名(内13名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]三浦)第17震洋隊53隻S19.10.15配備 林大尉以下185名(内4名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]呑ノ浦)第18震洋隊52隻S19.10.15配備 島尾中尉以下186名
(喜界島早町)第40震洋隊55隻S20.01.25配備 安藤中尉以下192名(内3名戦死)
(喜界島小野津港)第111震洋隊26隻S20.02.25配備 後藤少尉以下190名(内5名戦死)

[ 石垣島警備隊 ]※戦死はほとんどが空襲と戦争マラリア
(川平湾)第19震洋隊50隻S19.10.15配備 大河原中尉以下186名(内4名戦死)
(宮良湾)第23震洋隊52隻S19.10.25配備 幕田稔大尉以下184名(内1名戦死)
(宮良湾)第38震洋隊50隻S20.01.15配備 旅井少尉以下188名(内86名戦死)
(竹富 町鳩間島/小浜島)第26震洋隊52隻S19.11.05配備 毛利大尉以下184名(内5名戦死)
「特攻艇秘匿壕」戦争と証言
トラック島空襲以後、南西諸島の防備強化が着手され、昭和19年4月沖縄方面根拠地隊が編成された。
続いて9月、宮古島・石垣島に警備隊が新設され、大島防備隊と共にその指揮下に入った。
海軍石垣島警備隊はバンナ岳に司令部を置いた。
作戦中、同根拠地隊は第32軍の指揮を受けたが、沖縄本島の部隊が壊滅し、7月に解隊。
以後、作戦に関し独立混成第45旅団長の指揮下に入る事となった。対空戦闘の結果55機を撃墜。戦死者は47名。
終戦時の石垣島陸軍独立混成第45旅団は、宮崎武之少将以下5412名。戦死者100名、戦病死者150名であった。
現地徴収の将兵は昭和20年9月1日召集解除(沖縄帰還者438名)。他は11月~翌年1月にかけて、浦賀・横浜・鹿児島
に上陸し復員を完結した。終戦時の海軍部隊長は井上乙彦大佐。
※石垣島事件(昭和20年4月15日朝)石垣島宮良飛行場(南東部宮良にあった海軍秘匿飛行場)を空襲した米空母マカー
 スレイトの雷撃機グラマンTBFアヴェンジャー編隊の1機が、海軍石垣島警備隊の対空攻撃で撃墜され、テボ中尉・
 ロイド1等飛行通信兵曹・タッグル1等飛行機関兵曹の3名がパラシュートで大浜沖合に落下。
 落下した3名の飛行士は海軍兵士に逮捕され海警隊の捕虜となった。海警隊による事情聴取後の当夜、テボ中尉と、
 タッグル兵曹はバンナ岳麓の本部近くで斬首。ロイド兵曹は刺突演習に供され殺害された。
 戦後、証拠隠滅の為、遺体を焼却し海に流したとされたが、匿名の密告投書により処刑事件が発覚。
 戦犯裁判(1947/11/26~3/16)で石垣島海軍警備隊司令官 井上乙彦大佐(神奈川県出身)が絞首刑(享年52歳)
 副司令 井上勝太郎大尉(岐阜県出身)も絞首刑(享年27歳)
 第23震洋隊(隊長)幕田稔大尉(山形県出身)は司令の命令により捕虜1名処刑の罪で絞首刑(享年30歳)
 他、榎本宗憲中尉(絞首刑)/田口泰正少尉(絞首刑)/成迫忠邦兵曹(絞首刑)/藤中松雄1等兵曹(福岡県出身)享年29歳
 (絞首刑)など将校3名と兵士29名が無期~懲役5年となった。
 日本兵同志の裏切り・密告・責任の擦り合いで井上乙彦大佐は混乱、部下もこれに応じて大混乱。
 法廷の混乱は本来、司令と後数名の処罰で済んだ事件で多数の重刑者を出してしまった。
 (1950/4/7井上乙彦大佐絞首刑)/(1950/4/7井上勝太郎大尉絞首刑)/(1950/4/7幕田稔大尉絞首刑)
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▲戦後、812隻の特攻艇が中華民国(台湾)に引き渡された様だが、ベニヤ板の粗雑なつくりのボートは破損しており、
 中華民国側としても使用価値は低く、全て廃棄処分されたと言う。
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▲沖縄戦で使用された大量の米軍戦時余剰品は、日本降伏後、中国(中華民国)に売却された(S21.10/31撮影)
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▲中国へ売却される米軍の戦時余剰品のトラックを修理をする中国兵(昭和21年10月31日沖縄本島で撮影)



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2016_09_15

Comments

沖縄戦は凄い量の写真が・・・、 

沖縄戦は凄い量の写真が・・・、アメリカの残した写真を有難う御座います御座います、しかしこの差は、悲しくなります、日本の高級将校の責任を取らない、残したのは自己擁護と美化した話、名前を聞くだけで胸糞が悪くなります、本当の話を有難う御座います、素晴らしい写真です、真実の写真です。
Etsuo Tony Ooka  URL   2016-09-18 00:27  

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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