航空自衛隊美保基地


航空自衛隊美保基地HPに掲載されていた「抽選でC-1輸送機に体験搭乗が出来る」との記事を見た。
7月ぐらいだったかハガキを送って申し込んでみた。すると8月初旬に当選の封筒が送られて来た。
軍用機に乗せてもらうのは初めての経験だ。少し遠い場所ではあったが鳥取県境港市にある美保基地に行ってきた。
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▼予め郵送されてきた駐車券をダッシュボードに置いて、基地内に入り持ち物チェックをして所定の位置に駐車する。
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▼まず目にしたのは陸上自衛隊の軽装甲機動車。良い感じの色褪感だが迷彩塗装では無い。
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▼基地内を歩いて滑走路付近に向かう(真新しい格納庫や基地施設が建設最終段階の様に見えた)
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▼格納庫付近で受付を済ませて搭乗の順番を待つ。
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▼目の前の駐機場には搭乗体験の為にスタンバイされたC-1輸送機が!
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先の順番の方達が既に搭乗を開始している。大きい・・・!
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▼1組30名ぐらいだろうか、搭乗が済んで全てのハッチが閉じられた。
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▼そして滑走路へと向かう・・・。早く乗りたい!
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ここは太平洋戦争当時、海軍美保基地として機能していた。
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昭和20年5月10日神風特別攻撃隊「第9銀河隊」が沖縄へ特攻出撃の為にここから宮崎基地に移動している。
昭和20年に入っても空襲のなかった美保基地では4/27に移動してきた攻撃406飛行隊が『銀河』で急降下爆撃の訓練
を行っていた。飛行隊長壱岐少佐の「次に示すペアは『銀河』を夕方までに宮崎基地まで空輸せよ」との命令を、隊員
の中にはこれが沖縄特攻作戦の前進の為の宮崎基地への移動とは夢にも思っていなかった者も居た様だ。
昭和20年5月11日04:00宮崎基地より出撃した8機の『銀河』は6機が米「タスクフォース58機動艦隊」に突入した。
[操縦]深井 良中尉(神奈川県出身)/[偵察]俵  一上飛曹(東京都出身)/[電信]北山 博上飛曹(大分県出身)
[操縦]鈴木圓一郎中尉(静岡県出身)/[偵察]三宅文夫上飛曹(徳島県出身)/[電信]田中榮一上飛曹(埼玉県出身)
[操縦]小島弘上飛曹(兵庫県出身)/[偵察]村上 守中尉(大分県出身)/[電信]佐藤 昇1飛曹(新潟県出身)
[操縦]谷岡力上飛曹(福井県出身)/[偵察]山川芳男少尉(東京都出身)/[電信]杉野三次1飛曹(三重県出身)
[操縦]松木 学1飛曹(愛媛県出身)/[偵察]山根三男1飛曹(広島県出身)/[電信]伊藤 勲1飛曹(大分県出身)
[操縦]長谷部六雄飛長(新潟県出身)/[偵察]吉田 雄1飛曹(和歌山県出身)/[電信]信本廣夫2飛曹(広島県出身)
永野金一1飛曹/ 飯島 守中尉/本田 勝1飛曹( 機体不調の為引き返しをはかるも、基地に戻らず「不時着戦死」)
古小路 裕1飛曹/ 藤田峰夫上飛曹/真鍋真之介1飛曹(機体不調の為、出撃取りやめとなる)
神津和男1飛曹/ 豊岡清澄上飛曹/ 穴口 尚上飛曹(出撃後、機体不調で引き返す)
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▲海軍双発爆撃機「銀河」
昭和20年5月25日神風特別攻撃隊「第10銀河隊」 宮崎基地より「銀河」12機で出撃
(沖縄周辺艦船攻撃)
[操縦]越野時貞1飛曹(愛知県出身)/[偵察]鈴木喜久男1飛曹(福島県出身)/[電信]藤澤彌須雄1飛曹(滋賀県出身)
[操縦]岩品福三郎1飛曹(静岡県出身)/[偵察]小口博造中尉(長野県出身)/[電信]平野 勇上飛曹(岩手県出身)
段ボール製造で有名な製紙メーカーのレンゴー株式会社東京工場に「気力、術力、精神力」という標語が大きく書いて
ある。海軍の標語らしい。5/25「銀河」で出撃、戦艦ウェストバージニアに突入前に撃墜されるも駆逐艦キャラハンに
救助されて生還した長谷川薫中尉が社長を勤めた会社だ。
長谷川中尉は海中に突入して海を漂っているところを駆逐艦キャラハンに救助された。
この時同乗していた吉田湊飛曹長も救助されたが、直後に出血多量で死亡した。
駆逐艦キャラハンのバーソルフ艦長は特攻攻撃の続く中、危険を冒して艦を停止させ、長谷川中尉と吉田飛曹長を救助
した。吉田湊飛曹長の遺体は丁重に水葬されたと言う。
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▲当時もこの様に死地に赴く為に飛んで行ったんだろうな・・・と、離陸していくC-1輸送機を眺めながら思った。
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▲昭和46年新滑走路 第1期工事完成時の空撮
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▲▼戦時中の営門
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美保基地で撮影された予科練14期生の写真。ここにもダミー戦闘機があったんだ・・・沖縄戦だけだと思っていた。
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▲いよいよ順番が回ってきた!隊員の指示に従って並ぶ。
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▲駐機場を歩いて搭乗機に向かう。横には格納庫がある、中は戦時中当時のままかも?
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沖縄付近に台風が近づいていた時だったが少し晴れ間も見えてきた!
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▼搭乗機は既にハッチが開いている。024号機に乗る!ワクワクする!
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機体の大きさの割には「日の丸」が小さい様に感じた。
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乗り込む!
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シートベルトを締めて離陸準備!
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ハッチが閉じられる。
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隊員から飛行コースや注意事項等色々説明を受ける。
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駐機場から滑走路へ動き出した
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離陸してから高度が落ち着くと、シートベルトを外して自由に中を見学出来る。小さい窓から外を見る
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隊員は女性ファンが多い。コクピットも見学出来るが私の前の人で時間切れ!で、見学出来ず・・・次回リベンジ!
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着陸態勢になるので席に戻ってベルトを締める様指示が出されたので席に戻る。
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離陸・着陸含めて約25分ぐらいのフライトだったがC-1輸送機の離陸時の加速も体験出来て素晴らしい経験だった。
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これから主力輸送機がC-2へ移行していくと思うが、今回の様なC-1輸送機の搭乗体験は継続して欲しいと思う。
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▼管制塔に上って撮影
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▼奥の美保飛行場(米子鬼太郎空港)には駐機しているANAの旅客機が見える。滑走路は軍民共用だ。
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▼C-2輸送機の為の新設格納庫であろう、真新しい格納庫が見える。
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航空自衛隊基地は広いな~。
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▼管制塔を後にする。
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▼冬の美保基地は寒いんだろうな・・・隊員の皆様ご苦労様です。
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▼基地内には退役した航空機が展示してあった。
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▼▲一式陸上攻撃機の後継型の様にも見えるがなんという形式だろう・・・輸送機と思うが。
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太平洋戦争当時、海軍美保基地でも「人間機雷伏竜(ふくりゅう)」の実用化に向けたテストが行われた様だ。
基地内資料館に当時の写真が飾られている。
「人間機雷伏竜(ふくりゅう)」とは、潜水具を着用した隊員が竹棒の先に装着した5式撃雷(刺突機雷)を手にして海底
に潜み、日本本土に接近する敵上陸用舟艇の船底を突いて破壊するという無謀な作戦であった。
昭和20年2月には日本の主要水路はB29から投下された磁気機雷などにより封鎖され、潜水員が機雷に爆薬を仕掛け
遠隔操作で爆破処理する方法が計画された。当時、海底で自由に行動できる簡便な潜水器具は無かったが、横須賀海
軍工作学校研究部による不眠不休の研究・開発により、3月中旬には潜水器具実用化の段階にこぎつけた。
海軍では機雷の敷設や処分は潜水具を着けたダイバーが行っていたが、これまでは大きくて重い潜水具に海上からパ
イプを使って送気しなくてはならず、大がかりな装備を改善する必要があった。
横須賀海軍工作学校では軽便な潜水具として圧縮酸素ボンベと清浄缶を装備した物を開発し、これまでの潜水具と置
き換える予定だった。この簡易潜水具を知った海軍軍令部ではこの潜水器具を特攻作戦に使用する構想が生まれ、手
にした竹棒付き機雷で敵上陸用舟艇を破壊する案を考え、これらは後に「伏竜特攻隊」として編成された。
伏竜隊の編成は大戦末期(昭和20年5月頃)であった事や、肝心の潜水具などが不足していたこともあり、戦死者はい
ないとされている。
しかし訓練中この簡易潜水具による事故が多発し、71嵐突撃隊に所属していた海老澤喜佐雄氏の証言では130人以上
が訓練で殉職したのではないかと話している。実際に訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。
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▲タグボートにひかれて訓練海域まで移動する伏竜隊
訓練ではまず潜水ズボンを穿き、鉛の草鞋を履く。潜水上衣を着けると補助員が面ガラスを外した潜水兜を被せ、4ヶ
所をナットで留める。酸素ボンベ2本に清浄罐を鋼バンドで取り付け、前に重りを吊る。酸素供給管、呼気排出管、命
綱が結ばれると、いよいよ最後に面ガラスが取り付けられるのだ。
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▲▼写真は伏竜隊員の潜水訓練の様子(昭和20年6月頃撮影)
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「面ガラス一枚が現世と地獄の分かれ目だった」と、実際に訓練を受けた方は語っておられます。
潜水直前、この面ガラスが「キキキーッ」と音をさせて締め付けられる。このガラスが外される時、果たして自分は
生きているのか?訓練の毎回毎回がこの様な恐怖との戦いだったと言う。
※訓練期間中に空襲を受け、訓練生及び教官の内281名が戦死している。
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▲鉛の草鞋を履き、潜水カブトを被って海の底に潜る。練習用でも全装備で約60キロ(体重抜き)にもなったと言う。
伏竜の清浄缶は苛性ソーダを使用して吐き出した炭酸ガスを清浄していたが、ブリキ細工の様な清浄缶が破損すると
海水で反応した猛毒の苛性ソーダを飲み込む事となり、水と反応したカセイソーダは化学反応を起こして沸騰する程
の高温になり、頭に被せた「潜水カブト」の中に逆流。訓練中に死亡した隊員の中には、その沸騰した苛性カソーダ
を飲み込んでしまい胃や食道を焼き、苦しみながら死んだというのだ。
また、呼吸を誤って(※伏竜では鼻から吸って口から吐くように作られていた)吐き出した炭酸ガスで酸欠になったり
残量の読み違えなどによる酸素切れで意識を失い死亡するなど伏竜は危険度の高い兵器であった。
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▲当時としては画期的な6時間潜水が可能な「清浄缶」を背負って潜水する。しかし、物資不足から清浄缶の作りがお
 粗末で、岩などに少しでもぶつかれば直ぐ水が染みこんできたと言う。
 
更に、海中で5式撃雷を使用すると、使用した本人はもとより半径50mにいる隊員も巻き添えになる事が判明し、兵器
としての有効性も疑問視される有り様であった。
昭和20年7月末、当時の総理大臣 鈴木貫太郎が伏竜の訓練を視察している。訓練を見た鈴木首相は「不適」つまりは
「此れは無理」と反対した。それに対し海軍関係者は「きっと何とか使用出来る様にしますから」と言って了解を得て
訓練を継続し、結局実戦で使用されないまま終戦を迎え、訓練中に多数の死者を出すという結果だけを招いた。
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▲本土決戦敵上陸直前4~5時間前に海岸から海底に歩いて潜り待機。敵の上陸用舟艇が海岸に殺到したその瞬間、
 海底に隠れた伏竜隊員が「刺突爆雷」を突き上げ上陸用舟艇を破壊、そして自らも爆死するという恐ろしい作戦。

主な編成部隊は「第71嵐突撃隊」/横須賀市久里浜、「川棚突撃隊」/佐世保市川棚、「第81嵐突撃隊」/呉市情島など
で、各隊は500人程の規模だったと言われている(京都府舞鶴からも訓練生1個大隊が横須賀に派遣されている)。
隊員の多くは十代後半の予科練出身者であったが、緒戦で活躍した海軍陸戦隊の古兵も投入された。
伏竜部隊は鎮守府に所属し、横須賀 5個大隊、呉2個大隊、佐世保2個大隊、舞鶴1個大隊が整備される予定であった。
昭和20年5月26日潜水器具は特攻兵器として正式に採用され「伏竜」と命名、3000人分を整備する命令が下された。
昭和20年6月から横須賀対潜学校で先遣部隊要員480名への訓練が始まった。潜水訓練は、神奈川県横須賀鎮守府の
野比海岸、広島県呉鎮守府の情島、長崎県佐世保鎮守府の川棚などで行われ、約3000人が訓練を受けた。
米軍本土上陸は9~10月の想定で、作戦は米軍の上陸作戦正面と考えられていた九十九里海岸などを想定していた。
伏竜部隊が正式に編成されたのは、終戦直前の昭和20年8月5日である。
部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえた為、伏竜が実戦に投入されることはなかった。
「沖縄戦」で投入された陸軍の肉薄攻撃(梱包爆薬を背負って戦車に突入)にヒントを得て考案されたという「伏竜」は、
海軍軍令部第二部長(戦備担当)黒島亀人少将の発案によるものと言われているが、発案者本人が使用する事はまず無い。
黒島少将は連合艦隊司令長官・山本五十六大将と共に「ハワイ真珠湾攻撃」を立案した参謀で、特攻ボート「震洋」な
ど数多くの特攻兵器を考案している。日本軍が考案した特攻兵器は全て、「自分は行かない/死なない」戦犯とも言える
無謀・無能な上層部によって実行された。
「伏竜」は乗るべき飛行機(特攻機)がなくなり、「余剰人員」と化していた予科練生たちを「有効利用」する為に考え
られたという一面もあったという事も忘れてはならない。
「余ったから人間機雷にしてしまえ」という、戦争指導者の醜悪さが凝縮された様な兵器だったとしか言いようが無い。

海軍軍令部第1部企画班が昭和20年6月12日付で示した「決戦作戦に於ける海軍作戦計画大綱(案)」では下記の通り。
「初動約10日間で約半数を海上で撃沈破し、残敵は地上で掃滅する。すべての戦闘は特攻を基調として遂行する」
最初に本土決戦用に温存されていた虎の子の「特攻機」が出撃。続いて特攻艇「震洋」/人間魚雷「回天」/特殊潜航艇
「蛟龍」/小型潜水艦「海竜」からなる特攻戦隊が岩陰などに構築された基地から殺到。「伏竜」は海中の最後の砦。
であった・・・。降伏文書調印式の時に、伏竜隊で東京湾のミズーリ号を機雷で爆破しようという計画があったそうだ。
実際、隊員は8月22日まで訓練を続けていた。参加希望者は「熱望と書け」と言われ、「熱望」と書いた伏竜特攻隊員
は23日には「すぐ帰郷だ」と言われ故郷に帰って行ったと言う。
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▲江田島(広島県)の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)江田島クラブ2Fに展示してある現在の潜水器具。
腹に巻き付けた鉛や潜水カブト。これを見た時、伏竜隊しか頭に思い浮かばなかった・・・。2016年12月18日訪問
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※神奈川県鎌倉市稲村ガ崎、稲村ガ崎公園の沿岸部には今も伏竜隊の待機豪が残っているとの事。
 (稲村ヶ崎公園)伏竜隊基地跡には是非行ってみたいと思う。
▼2016/10/30とのたま氏の案内で伏竜隊基地跡に連れて行ってもらった。
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左下の豪が伏竜隊陣地豪、奥の斜面に開いているのは25mm機銃が装備されていたという銃眼。ここは訓練施設では
無く実戦の出撃待機陣地として構築された豪で、米軍接近の誤報による出撃準備が1度あったとの事だ。
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▲干潮時だったが前夜の雨で足元が異常に滑るので入豪は叶わなかったが、次回は夏に海パンで訪れたいと思う。
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江の島が綺麗だった。この後江の島周辺を散策し、本土決戦に備えて築かれた陣地豪を案内して頂いた。
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(話を境港に戻します)
▼航空自衛隊美保基地のある鳥取県境港市は、ゲゲゲの鬼太郎で有名な水木しげるさんの故郷だ。
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JR境港駅(鬼太郎駅)はゲゲゲの鬼太郎一色だ。
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▼水木しげるロードと水木しげる記念館
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水木しげるロードは何処かレトロで雰囲気の良い楽しい商店街だ。
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▼水木しげる記念館。水木しげるは徴兵(赤紙)でニューギニア(ラバウル)に陸軍兵士として出征し、片腕を失っている。
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戦記漫画では「総員玉砕せよ!」が有名だ。水木しげるは1943年4月臨時招集令状により補充兵として激戦地ラバウル
(ニューブリテン島)へ出征した。『総員玉砕せよ!』は水木が「90%は戦地で自分が見聞きした事」であり、「最も
愛着が深い作品」だという。「鬼太郎が見た玉砕 水木しげるの戦争」YouTube



拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2016_09_17

Comments

 

有難うございますい、撮影制限はありませんでしたよ。沢山写真撮りました。順次UPしていきますね。
EVNARA  URL   2016-09-19 09:44  

ご苦労様でした 

ご苦労様でした、撮影に制限が、実機の迫力、本当に御苦労様でした
Etsuo Tony Ooka  URL   2016-09-19 09:12  

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プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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