沖縄戦(本部半島)

Category: 沖縄本島  

「沖縄戦」でおおよその戦いの流れはご紹介したが、沖縄本島北部地域での戦闘はあまり知られていない。
沖縄美ら海水族館で本部半島を訪れる人は多いと思うが、今回は名護市を中心として本部半島の戦跡を巡ってきた。
名護市へは那覇から沖縄自動車道で向かう。1時間少々でまずは、高速道路終点「許田」にある道の駅許田で休憩。
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曇ると肌寒いが、太陽が見えた途端に暑さを感じる。流石南国だ、2月でもコートなどは不要。
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▼「道の駅許田」総合案内所屋上からの眺め。本部半島を望む。
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▼まずは名護城公園に向かう。国指定天然記念物の「名護のひんぷんガジュマル」が迎えてくれる。
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「ひんぷん」とは、家の正門と母屋との間に建てられた塀の事。外から家の中が見えない様にしたり、外から入ってく
る悪霊を跳ね返して、家の中に入れない役割だ。昔沖縄では多くの家にあったそうだ。此の「ひんぷんガジュマル」の
樹齢約280~300年と言われ、長い間名護の街の移り変わりを見てきた「名護市民の木」だ。
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名護は水が綺麗で美味しい事でも有名だ。お米も流通はしていなが名護米は美味しいと聞いた。沖縄の米栽培の歴史は
古く、県内では8世紀から10世紀には水稲栽培が行われていた。6月に販売開始するお米は「日本一早い新米」として
県内外に出荷されている。名護のお米は人気だが、地元で消費されてしまう為、なかなか出回る事は少ない。
▼沖縄と言えば「オリオンビール」。流石水の綺麗な名護市にはオリオンビール本社工場がある。
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オリオンビール本社工場を見ながら名護城公園に向かう。
▼名護城跡で直接戦闘が行われたという事は聞いていないが、米軍が撮影した古写真が気になっていた
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「沖縄戦で廃墟と化した名護市」と題されたこの写真は沖縄戦中の昭和20年5月頃に米軍が撮影した物だ。
恐らく名護城跡の何処かから撮影したものだろうと考え、その場所を探す為に名護城(なんぐすく)跡へ向かった。
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名護城公園に到着。城の遺構は現存しないが「日本の春はここからはじまる」がキャッチフレーズの桜まつりが終了し
たばかりで、まだ濃いピンクの寒緋桜が綺麗に咲いている遊歩道を散策するのも良かったが、時間の関係で頂上付近ま
で車で周る事にした。
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▼頂上までは車でどんどん登る事が出来、途中展望を兼ねた休憩所が沢山ある。
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▼毎年1月末頃が見ごろの寒緋桜がまだ綺麗に咲いていた。
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▼中腹から名護市街地を眺めてみたが、古写真より少し遠い様だ。
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頂上付近は逆に木々が多く、遠く同じアングルの写真が撮りにくかった為、反対側へ下っていく事にした。
車で下っているとそれらしい風景になってきた。車を止めて早速眺めてみる。まだ少し遠いかな・・・。
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▼駐車した場所が丁度曲がり角だった。するとよく見ると「平和の歌碑」の案内板が・・・気になるので行ってみる。
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ほんの少し走ると、小高い丘に碑が建っていた。
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此れが平和の歌碑か・・・。「岳精流日本吟院総本部」と書かれているので吟道(ぎんどう)いわゆる詩吟の世界か?
いずれにせよ本土の団体だろう。
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▲意味深い・・・。そしてそこから名護市街地・八重岳を眺めると・・・なんと古写真のアングルとよくにていた。
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▼再確認する。ピンポイントではないが、おおよそ同じ感じだろう。自分で納得して名護城周辺を後にした。
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沖縄戦が終結してから70年以上。日本復帰が決まった時は沖縄の人達は大変喜んだという・・・まだまだ復興途中では
あるが、今の国と県の対立(喧嘩)をみているとなんだか悲しくなる・・・。
気を取り直して、次に名護市役所の建物が奇抜で面白いとの事でちょっと寄ってみる事にした。
▼途中、何となく懐かしい風景を見ながら名護市役所へ向かう。
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▼名護市役所
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設置されているシーサーの数が半端ない・・・。
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確かに奇抜な建物だ。
沖縄県の役所はこの様に一風変わった建物が多い。確か糸満市役所も特徴あるデザインだったような気がする。
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市役所の反対側には琉球新報が・・・。
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国頭郡今帰仁村の運天港には、旧日本海軍第27魚雷艇隊・特攻ボート震洋隊・第2蛟龍隊(小型特攻潜水艇)が配備され
ていた。本部半島の戦闘はまず昭和20年3月25日小禄の大田実中将が、慶良間列島に集結した米艦船を攻撃する為に、
白石海軍大尉指揮する運天港第27魚雷艇隊「甲標的」・第2蛟龍隊[指揮官]鶴田大尉、大下真男少尉・第3艇隊「震洋」
特攻艇に出撃を命じたところから始まる。沖縄戦では「蛟龍」が初めて実戦投入された。
甲標的6隻、第1小隊蛟龍2隻は25日深夜出撃。第1小隊は1時間間隔で古宇利水道を出撃、基地に戻る事は無かった。
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▲運天港にあった小型潜水艦基地。8隻の小型潜水艦が寄港できるスペースがあった(昭和20年6月米軍撮影)
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▲▼現在の運天港。天然の良港だったが現在は埋め立てで更に広く便利になり、伊平屋島や宇古利島へのフェリーター
 ミナルとなっている。
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▲当時海軍が建てた門柱を利用した物だろうか。現代の物とは似つかぬ門柱が運天港入口付近にあった。
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▲甲標的などの潜水艇魚雷秘匿壕(昭和20年6月米軍撮影)
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▲▼今も運天付近に2ヶ所現存している潜水艇魚雷秘匿壕の1つ。
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▼壕の突き当りから入口を見る。現在は民家のブロック塀が見えるが、当時は直ぐ先は海だったのだろう。
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▼壕は現在民家の裏手になっており、ブロック塀と茂みの隙間から入っていく事になるので少々キツイ見学だ。
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▼画像右手奥が運天港。道路から右手は埋め立て地だ。
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当時ここまで陸地が多く無かった為、壕の前は海だったと考えられる。
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▼▲1ヶ所は入口の崩落が激しく、入壕は容易では無かった。
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▲レールが引かれV字形になっていた日本海軍魚雷秘匿壕の入り口付近(沖縄戦当時に米軍が撮影)
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▼▲沖縄本島で米軍に引き揚げられる日本海軍特殊潜航艇「甲標的」
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▼引き揚げられた「甲標的」からは魚雷が2本共発射されていた。
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甲標的丙型1隻は、慶伊瀬島北方で駆逐艦ハリガンを撃沈、昭和20年3月26日夕刻に無事帰投した。
昭和20年3月26日出撃準備中の蛟龍1隻が、空襲により沈没。夕刻、第2小隊は甲標的2隻での出撃となった。
米艦船は嘉手納沖合いに居た。明けた27日甲標的2隻は残波岬西方で米艦船を発見。襲撃は成功するも、執拗な反撃に
被弾、翌28日、両艇は辛くも帰投した。
昭和20年3月27日第27魚雷艇隊の10隻が22:30出撃。敵艦船群に魚雷16本を発射。米巡洋艦2隻撃沈、駆逐艦1隻撃
破の戦果を上げ全艇無事帰投。大田中将は功績を讃える電報を打った。
昭和20年3月29日「蛟龍隊」海上挺身第29戦隊第1中隊[指揮官]中川康敏少尉以下17隻が出撃。
本部半島西方の敵を襲撃し、中型船1隻轟沈、不詳船2隻撃破の戦果をあげる。
一方、第42震洋隊は2度出撃するも敵とは出会えず隊長の豊広中尉はジリジリしていた所、敵艦発見の報を受け、29日
夜、独断で第3艇隊12隻を出撃させたが、またしても敵に出会えず、朝の帰投が遅れ格納壕に震洋艇を収容する時間が
無かった為、海岸線の木陰に擬装しておいた所、3/30米軍機の空襲に遭い、爆雷が爆発。12隻全てを失ってしまう。
▼米軍に鹵獲されたベニヤ板で製作された日本海軍特攻ボート「震洋」
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豊広海軍中尉は自分の失策を大田司令官に電文で報告した。大田司令官は以下の返電を打っている。
「死を急ぐのみが特攻隊の道に非(あら)ず。万事、慎重に事を決すべし」と。
昭和20年3月30日約200機以上の大空襲を受け、第27魚雷艇隊は全滅。海軍運天港基地は、ほぼその機能を喪失した。
米軍の大空襲後、焦土と化した運天港海軍基地に残されたのは第2蛟龍隊「蛟龍」2隻のみであった。
▼今帰仁村渡喜仁には白石信治海軍大尉が魚雷の保管庫として構築させた壕(ハキジヌメー)が現存している。
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▼人物比較でお解りの通り入口はかなり大きく、軍用トラックで魚雷を運んでくるのにも容易な大きさだ。
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▼壕内の状態もかなり良い。地元の方達が常に清掃して頂いているからであろう。別名「渡喜仁の壕」
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▼他の坑口は崩落している場所もあるが、2ヶ所確認出来た。
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▼坑口付近で確認した文字の掘り込み。長しか読み取れない・・・。
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▼当時の物と思われる坑木も残っていた。
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▲▼流石海軍設営隊と思わせる丁寧な切削の壕だった。
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昭和20年4月6日運天港第27魚雷艇隊司令官 白石信治大尉は、小禄の上級部隊に「当隊は今より陸上戦闘移行、陸軍
国頭支隊長の指揮下に入る」と打電して国頭半島中央部の八重岳に移動、支隊長宇土大佐の指揮下に入り、陸軍部隊と
共に陸上戦闘行動に従事した。
沖縄本島北部の守備に就いていたのは独立混成第44旅団第2歩兵隊(球7071部隊)国頭支隊だった。
米軍進攻が始まった3月末に支隊本部を八重岳に移し本部半島一帯(八重岳を含む)を支隊直属部隊と第2歩兵隊第2大隊
(隊長佐藤富夫少佐以下約670名、真部山陣地)が防備。
通称宇土部隊と呼ばれた国頭支隊は、宇土武彦大佐以下500人(砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊等である
独立混成第44旅団の大半は昭和19年6月29日鹿児島から「富山丸」で沖縄へ向かう途中の徳之島南東12キロの地点で
米潜水艦に撃沈され大多数が戦死していた為、元々沖縄守備軍の中では極端に総兵力の少ない約3000人であった。
昭和20年4月7日名護方面は米軍の艦砲射撃を受ける。昼過ぎには米軍は名護に到達し、上陸を開始する。
昭和20年4月8日名護から本部半島方面に接近してきた米軍を。日本軍第3遊撃隊第3中隊が迎え撃つ。
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▲普天間周辺の町中を通り前線へと進軍中の米第27師団。上陸後、北へ進撃した部隊(4月上旬撮影)
昭和20年4月9日伊豆味付近に進出してきた米軍に対し、遊撃隊は猛射を加えて前進を阻止。
米第29連隊は日本軍に対して3方に分かれて行動を開始。第1大隊は本部半島中央部、第2大隊は半島東海岸、第3大隊
は半島西海岸に進撃。10日伊豆味付近にて西進をする米軍に対し、八重岳及び乙羽岳方面から射撃を加えて前進を阻止
日本軍は夜間米軍陣地に斬込隊を派遣して反撃。しかし西海岸の米軍は10日には渡久地付近に進出、主陣地前方の満名
付近にも米軍の一部が進出して来た。米第29連隊第1大隊は伊豆味を突破。
第2大隊は海軍が潜水艦や特攻艇を配備していた運天港を占領。運天港に残された大量の装備品や補給品が破棄されてい
るのを確認すると、現地住民から白石海軍大尉指揮する約150名の海軍兵士が内陸部山中に移動したことを聞き出した。
米第3大隊は渡具知を占領。内陸部へ(満名方面)斥候を派遣。
昭和20年4月11日米軍は八重岳地区に対し猛烈な艦砲射撃と飛行機の対地攻撃を敢行。12日早朝八重岳地区は米軍機に
よる猛烈な銃爆撃を受ける。
独立重砲兵第百大隊の平山大尉は、重砲の射撃開始を宇土支隊長に意見具申したが許可されなかった。
(結局平山隊は一発も射撃せずに、砲を破壊して本部半島から後退することになる)
乙羽岳地区の第3遊撃隊第3中隊及び302高地の鉄血勤皇隊も米軍の攻撃を受け、遊撃隊は激戦を交え小隊長3名、兵士
10名が戦死。
昭和20年4月13日伊豆味から西進した米軍は日本軍と交戦1時間の後撃退した。
八重岳の周辺に日本軍は巧みにかつ組織的に配置されていた。八重岳からは内陸部の全般と名護湾までも俯瞰できた。
急峻で複雑な地形は装甲車両の使用を制限し歩兵ですら通過が困難な地形であった。どこからこの陣地帯に近づこうと
も、幾重にも構築された地雷原と火力から逃れる事は出来なかった。米軍は八重岳の日本軍を撃滅するには現状の部隊
だけでは不可能であると判断。名護の南に居た米第4連隊に移動命令が下された。
昭和20年4月14日米軍は飛行機の対地攻撃と砲撃の支援下に08:00頃攻撃を開始。戦闘は午後から激烈となった。
「全く幽霊のような敵であった」と米軍に言わしめた戦いは、丘や渓谷から何処からともなく攻撃してくる日本軍に戦
闘を支配され、日本軍兵士に接近することさえ出来なかった米軍は、これまでの数日間による偵察で得た日本軍の攻撃
拠点を一つ一つ潰しながら西進し、伊豆味~渡具知道を確保した。
4月15日16日更に猛烈な砲爆撃を加え、東・南・西の3方面から猛攻。
宇土支隊長は戦況を考慮し「本夜転進の時機なり」とし、16日遊撃戦に移る事を命じ、第3遊撃隊(第1護郷隊)のいる
多野岳へ転進を命令。各隊は小隊・分隊の小部隊に分散し、夜暗に紛れて多野岳に向かい、宇土支隊長は八重岳陣地を
放棄した。その後米軍は4月20日北部海岸に到達。約1週間に及ぶ日本軍の本部半島での戦闘は事実上瓦解した。
米第6海兵師団は戦死207名、負傷者757名、行方不明者6名であった。
4月17日米軍は八重岳北東頂上を占領。18日、敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は4月中続いた。
※今回訪問する事が出来なかったが、「清末隊の陣地壕」が現存する。
清末隊は国頭支隊直属部隊に編成された第2歩兵隊の砲中隊(隊長清末一義中尉以下約120名)
四一式山砲4(陸軍の連隊砲)備え、主陣地の八重岳支隊本部と第2大隊本部の中間地点の本部町大嘉陽の山中で戦闘。
渡久地や崎本部方面からの米軍進攻を牽制、4月16日歩兵砲すべて破壊、中隊長清末中尉はじめ小隊長蔦井對馬中尉、
同亀田登盛曹長以下約20名が壕外への攻撃(斬り込み)を試みて全滅した。
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▲本部半島の国頭支隊司令部豪で、残していった重要書類が無いか調べる米第6海兵師団の情報収集班。
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▲行列の出来るお店「きしもと食堂 八重岳店」を目印に、八重岳桜の森公園に通じる道を登る。
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▲▼八重岳は現在八重岳桜の森公園となり、寒緋桜の名所として観光地となっている。
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▲▼しばらく登ると八重岳中腹に「三中鉄血勤皇隊・三中通信隊」三中学徒の碑がある。
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三中学徒約350名は軍名により、通信隊要員・鉄血勤皇隊員そして繰り上げ現役入隊の形で日本軍と共に戦闘に参加。
昭和20年4月下旬に多野岳で解散命令が出るが、激しい戦闘の中で約350人中、88名が戦死している。
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第3遊撃隊(隊長 村上治夫大尉以下4個中隊計約500名)は名護岳付近に拠点を設けて遊撃戦を実施しつつ潜伏した。
終戦を知り、宇土支隊長以下99名が下山投降した事も知ったが、降伏を承知せず拠点に潜伏を続けた。
説得の為、捕虜となった日本軍将校が数回訪れたが、降伏を拒否し続けた。
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昭和21年1月2日、日本軍将校が再度村上大尉を訪ね、八原高級参謀の手紙を手渡した。八原参謀が生存していることが
村上大尉に大きな衝撃を与え、結果1月3日村上大尉は意を決して下山(投降)した。

▼三中学徒の碑から更に登ると、八重岳野戦病院跡の看板が出てくる。奥に見えるのは米軍の通信施設との事。
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▼国頭支隊(通称・宇土部隊)本部壕、野戦病院跡がひっそり残っている。
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この辺りに木造の野戦病院が建っていたという。この奥の渓谷には陣地壕が2ヶ所残されている。
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▼熱帯の木々が生い茂り、昼間でも薄暗い谷間を登って行く。
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▼丘の斜面の両側に陣地壕の抗口はあった。
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入口は土砂が流れ込み、かなり狭くなっているが、入れない大きさではない。
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▼ちょっと入って見る。入口が1ヶ所しか無い為か、壕内はかなり蒸し暑い。2月だというのに蚊もいる。
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直線部分は短く、中で蛇の様にS字になっていた。
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途中で崩落が激しくこれより進めなかったが、行き止まりの様だ。壕内はかがんで歩ける程度の高さがあった。
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▼2ヶ所目は入口奥で激しく崩落していたので入壕はしなかったが、此処も明らかに自然壕ではなさそうだ。
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その後ある程度上まで登ってみたが、それらしい遺構は塹壕の様な窪み以外は確認出来なかった。
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▼壕のあった場所から案内版のある場所を見下ろす。
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▼劣化の進んだ案内版には以下の説明書がある。
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宇土部隊(隊長 宇土武彦大佐)は、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成され、伊江島守備隊
の第一大隊と本島守備隊の第二大隊・砲兵隊・遊撃隊(護郷隊)・鉄血勤皇隊・防衛隊等から成る兵員約四千人である。
八重岳、真部山に布陣する国頭支隊は、四月十一日頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、十三~十六日にかけて西海
岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻に合い、真部山で激しい攻防戦となり日本軍に多数の死
傷者が出た。十七日米軍は遂に八重岳北東頂上を占領、十八日敗走する宇土部隊を追撃して掃討戦は四月中続いた。
一方宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、遊撃戦に移ることを命じ、第二
遊撃隊のいる多野岳に後退した。その際八重岳の野戦病院には多くの負傷者が遺棄され、この一帯は悲惨を極めたとい
われる。この本部半島地域における戦闘で、軍や町役場の命で山中に避難した住民は却って戦火に巻きこまれ、軍人・
軍属を含む町民一七五三人の尊い生命が失われた。                      本部町教育委員会
▼案内版の横には「なごらん学徒隊」の碑もあった。
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八重岳野戦病院で看護に当たった県立第三高等女学校「なごらん学徒隊」10名は4/16夜、名護市多野岳へ撤退する際
には、歩ける患者だけを連れて行き、歩けない患者約300人には、枕元に手榴弾と乾パンを配ったと証言してる。
沖縄県立第三高等女学校は沖縄戦が終結した際にそのまま自然閉校となり、その後「名護高等学校」に統合されている。
NHK戦争証言アーカイブスで「なごらん学徒隊」上原米子さんの証言を聴くことが出来る。
あまり知られていない貴重な沖縄本島北部の戦いの体験者の話だ。護郷隊の特攻話も衝撃的な内容となっている。
NHK戦争証言アーカイブス「八重岳野戦病院からの撤退」
※護郷隊は陸軍中野学校出身者に教育された14歳~19歳の名護国民学校生徒約800名で組織された部隊で、隊本部の
多野岳(たのだけ)・名護岳・久志岳・羽岳(おっぱだけ)などで遊撃戦・ゲリラ戦に従事した。
第1護郷隊と恩納岳・石川岳で奮戦した第2護郷隊(第4遊撃隊)合わせて162名が戦死している。
※第4遊撃隊(隊長 岩波壽大尉以下「第2護郷隊」3個中隊計393名)
昭和20年4月3日~6月4日まで北部転進や敵部隊に潜入して後方を攪乱し、敵陣地を破壊する等幾多の手柄を立てた。
特設第一連隊青柳(中佐)隊、山部隊、海軍二階堂隊等が恩納岳で合流した後、米軍に暴露。
昭和20年5月24日米軍、恩納岳を完全に包囲、陸と空から猛攻撃を開始する。正面攻撃を数度にわたって受け、隊員
の大部分が戦傷を受けたり砲弾に倒れた。昭和20年7月16日部隊解散。
第2護郷隊員は帰村して家業に就いた後も、残留そていた本部基幹要員の中隊長、隊本部に情報と食糧を提供した。 
岩波大尉は8月15日終戦を知る。9月に住民を通じて米軍からの下山勧告に従い10月2日中隊長と米軍収容所に入る。
昭和31年11月岩波元隊長が来島して除幕式が挙行された「第2護郷隊之碑」が完成。恩納村字安富祖にある。
※戦後、恩納岳は米軍の訓練場となっており、一般人が立ち入る事は出来ない。70年以上戦地はそのままである。
【NHKスペシャル】あの日、僕らは戦場で~少年兵の告白~YouTube
▼名護小学校には「第1護郷隊の碑」があり、「戦没者名簿」として第1護郷隊95名の名前が刻まれている。
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名護小学校正門横の階段を登っていくと「第1護郷隊の碑」はある。
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「少年護郷隊の碑」(第1護郷隊の碑)
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▼▲廃墟と化した名護市、大通りと手前はバス発着所。奥に八重岳が見える。
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▼米軍は飛行場からトラックでアメリカ本土からの郵便物を運び、占領後も郵便局として利用した(名護郵便局)
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▼名護市の産婦人科医院を写したもの。比較的被害が少ない。(6月撮影)
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▼名護市で撮影された消防署(昭和20年6月撮影)
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▼廃墟の名護市。手前は防空壕と放棄された自転車(6月撮影)
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国頭支隊組織的戦闘の終了の後は本部の山中に籠もり、主として遊撃活動を実施していた運天港の海軍部隊は、やがて
終戦を知る事となる。白石大尉以下183名は終戦後も降伏を拒み続けたが、地元市長などの勧めに応じ、昭和20年9月
3日ようやく下山し、投降した。
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▲9/3降伏式が行われる指定された場所へ移動する前に海兵隊員の監視の下、古我地郊外で軍刀やライフル銃、拳銃
 銃剣、弾薬などの武器を放棄する白石大尉率いる海軍部隊の兵士達。
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▼昭和20年9月3日本部半島で日本兵183人降伏の儀式において白石信治海軍大尉から軍刀を受け取るウィッコフ海兵
 隊大尉(ペリリュー諸島及び沖縄における戦闘の退役軍人)
 「アメリカ合衆国政府の名において、日本国の降伏を受理する」とウィッコフ大尉は部下の前で白石大尉に告げた。
 刀はウイッコフ大尉から海兵隊第7部隊指揮官スニーディカー大佐へ手渡された。
 その後海兵隊第1師団指揮官ペック少将へ献呈される事になっている。
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▼降伏の儀式が終わり、捕虜収容所へ向かうトラックに部下達を乗せる様に命令する白石信治海軍大尉。
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本部町の高台にある「特別老人養護施設本部園」敷地内に、戦時中敵機の飛来を監視した防空監視硝が残っている。
防空監視硝とは敵機の飛来をいち早く発見し、その情報を防空部隊に伝える為の軍事施設で、その任務には現地の民
間人が就いたという。
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六角形の本部監視硝は以前まで園内のお年寄りの休憩場所となっていたが、最近戦跡として保存が決まったとの事。
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奇跡的に戦火も受けておらず、非常に程度が良い。当時沖縄島には11ヶ所設置されたという。
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▲監視硝からは、伊江島・東シナ海が一望出来る。

▼八重岳山頂付近からの眺めは素晴らしかった。本土を思い起こさせる様な山岳地帯が見える。
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米軍関係の夫婦とみられるカップルも見学に来ていた。
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Yナンバーで軽自動車は見かけませんね~。だって米軍関係者は自動車税の支払いは任意で、結局タダみたいなもんだ
からね。因みに軽自動車の場合Yの部分がAになる。自衛隊だけでは守れない日本の防衛宜しくお願いします・・・。
25万人の自衛隊だけでは到底日本の防衛なんて無理ですからね・・・しかも少子化で今後若い隊員の補充が問題だし。
やはり色々な事情があったとしても信頼出来る国は、先人が血を流し、命を懸けて喧嘩したアメリカ合衆国だから。

沖縄滞在中に昼食をとる為に訪れたお店に「真壁ちなー」がある。2月16日(木)に訪れるも急な休みで行けなかった。
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▼どうしても行きたかったので、翌日に再チャレンジ!やっと入店する事が出来た。
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家主さんの先祖が村長さんだった事もあって、登録有形文化財の石垣に囲まれた敷地は400坪。
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当時としても立派な家構えだったという。
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明治24年頃に建てられた登録有形文化財のお店は、古民家を改装した店内が昔の沖縄を伝えてくれる。
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村長さんの過去の経歴や活動などが所狭しと紹介され、沖縄戦当時の島田知事との関わりなども紹介されていた。
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島田叡沖縄県知事は、昭和20年6月17日摩文仁司令部豪に牛島司令官を陣中訪問した後、荒井退造警察部長と共に
7月初め頃に自決、共に殉職したとされるが、島田叡知事と荒井退造警察部長の遺骨は見つかっていない。
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▼店内の柱には沖縄戦当時に傷ついた弾痕跡が残る。
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食事は「沖縄そばセット(大)」¥1160を非常に美味しく頂いた。
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立派な沖縄住宅の外観だった。
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「茶処 真壁ちなー」沖縄県糸満市真壁223

▼本部半島の観光スポット、世界遺産「今帰仁城跡」
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今帰仁城は、北山(今帰仁城)・中山(首里城)・南山(大里城)と沖縄島が3つの勢力に分かれていた頃の一角。
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▼「美ら海水族館」
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▼美ら海水族館から伊江島を望む
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拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
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 2017_02_13

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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