大連

Category: 中国東北部  

仕事で中国は何度か訪れた事があるが、今回は初めての中国東北部。祖父母の軌跡を辿る旧満州国の旅。
御歳94歳の祖母が、満鉄勤務だった祖父(故人)とともに暮らした新京(現在の長春)を見学しに行った。
母も新京(長春)の満鉄病院で生まれている。目的は長春だが、折角初めて東北部に行くのだからと、日本時代(旧満州
国時代)の「夢の残骸」と戦跡なども、出来る限り同時に見学する事にした。

まずは大連空港に降り立ち、中国東北部旅行の起点とする。(大連空港は元旧日本海軍の作った空港)
大連空港から地下鉄で大連駅周辺へ向かった。地下鉄で中山広場駅まで行く。
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近年乗り物内でのマナーUPが徹底され、初めて中国を訪れた2010年に比べて格段に綺麗で静かになっていた。
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▼この様な注意書の効果もあってか、高速鉄道に乗っても携帯電話で大声で話す人もみかけなくなった。DSCN9818_convert_20170517132351.jpg
▼中山広場駅で降り、地上で出るとやはり空気は良くない。直ぐに喉が反応してきた・・・私は結構敏感な方なのだ
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大連中山広場(だいれんちゅうざんひろば)と呼ばれる場所は日本時代が色濃く残る観光名所。
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主に20世紀前半の欧風建築群。現存する10棟のうち7棟が日本人建築家による設計だという。
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▲▼中山広場の欧風建築群。これは旧大連警察署。当時約22万人の日本人が暮らしていたという。
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▼当時の大連警察署
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ロシア時代(ダルニー)と旧満州国時代が色濃く残る街、大連。(遼東半島(りょうとう)の中華人民共和国大連市)
関東州(かんとうしゅう)と呼ばれた地域は、ユーラシア大陸の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借地。
1905年(明治38年)日露戦争を終結させたポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した地域で、日本
人はここで昭和20年の敗戦まで植民地経営を行っていた。
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▼▲ヤマトホテル。旧南満州鉄道株式会社が経営していた高級ホテルブランドで現在もホテルとして健在。
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▼当時のヤマトホテル
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▼大正9年(1920年)頃のヤマトホテルからの眺め。真ん中に写っている建物は正金銀行。
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▼現在のヤマトホテルからの眺め。旧正金銀行が現在も残る。
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周囲を見渡すと、近代化された中国の印象に負けず劣らず存在感を放つ欧風建築群。
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当時の世界は、いわゆる「帝国主義の時代」。軍隊や経済の力で他国や異文明を破壊し、植民地支配することが、ごく
当たり前の様に行われていた。日本も外国に負けじと満州国を建国し、植民地経営の夢の途中だった・・・。
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▲旧大連市役所の建物が手前に見える。
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▲写真はヤマトホテル2Fにあるヤマト喫茶店から撮影した。
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▲店内には夏目漱石の写真や日本時代に撮影された写真なども飾ってあり、非常に心地よい店だった。
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▲旧大連市役所
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▼当時の大連市役所
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▼南満州鉄道本社
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▼当時の南満州鉄道本社
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▼コの字型の建物だが、とにかく大き過ぎて1枚の写真におさまらない・・・。
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これが満鉄本社か・・・と、満州国野望の夢の残骸を見ている様だった・・・さすがに劣化は進んでいる。
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▲完成当時の大連駅(1937年/昭和12年完成)
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▲ライトアップがとても綺麗な現在の大連駅。当時のままの姿に感激する。
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大連の街には日本時代の路面電車が当時の姿で走っている。路線はかなり縮小されているが広島の様だった。
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▼日本時代のままの旧三越百貨店。当時はグレー色だったそうだ。
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▼日本時代の商店建築群がそのまま残る商店街。
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▼これも日本時代かな・・・街を歩いていると何となく解る様になってくる。台湾で目を鍛えられたからかも。
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▼近代化されても区画はほぼ当時のまま。もう日本では見る事の出来ない何か懐かしい感覚を受けた。
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▼ロシア時代の教会を利用して営業しているKFC
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▼大連駅周辺から少し離れるが、これも日本時代に建てられたものらしい。東京大学になんとなく似ている。
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▼▲カッコいいベンツがとまっていたので思わず撮影!
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大連は裕福な人が多い様だ。BMW・アウディーは当たり前、フェラーリやランボルギーニも走っていた。上海みたい!DSCN0136_convert_20170510234323.jpg
▼▲日本未発売の新型RAV4も多く見かけた。日本車なのに日本で売ってない車種も多くなったな・・・
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▼ホンダ車は多くみかけた。もちろんトヨタ車や日産車も見かけるが、ホンダが頑張っている印象を受けた。
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(話を戻します)
[ ロシア租借地時代 ]
日清戦争で日本が清朝(当時の中国)から割譲された領土の内、遼東半島はロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉で
返還する事となった。
1898年(明治31年)にロシアは遼東半島の一部を25年の期限で清朝から租借した。ロシアはここに旅順軍港を築港。
1900年(明治33年)義和団事件が勃発し、ロシアは満州を制圧する。
1902年(明治35年)日本はイギリスと同盟を締結してロシアに対抗する。この同盟が功を奏し、4月ロシアは満州撤兵
に同意した。しかし1903年(明治36)4月になっても約束の第二次撤兵を履行せず、更に5月には満州のロシア軍の一
部を森林保護の名目で竜岩浦朝鮮に進出させてきた。更にロシアは大韓民国と租借条約を結ぶ。
日本は強硬に抗議し、大韓民国政府は条約破棄を声明。しかし、ロシアは無視し、要塞工事に着手しポート・ニコラス
というロシア風名称に改称しました。ロシアは10月8日奉天を占領。清国軍を追い出し、日本が入り込めない様にする。
日本は外交交渉として1903年(明治36年)8月から翌年1月まで「清国の独立と領土保全」「大韓民国での利権承認」を
中心に主張するも、ロシア側の条件はとても日本が受け入れ難いものばかり。ついに日本は満州に戒厳令を布くに至り、
戦争準備を急ピッチで進めた。1904年(明治37年)1月13日、日本はロシアに最終提案を行うも、ロシアは何ら回答せ
ず、2月4日、ロシアと国交を断絶する。そして日本は巨大な国ロシアと、国運をかけて戦う事になっていく。
日露戦争(1904年[明治37年]2月6日~1905年[明治38年]9月5日)で遼東半島の旅順は日本とロシアの激戦地となった。
1904年[明治37年]11月27日AM10:00大本営から203高地総攻撃の命令が出され、激戦地跡が今も残っている。
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訪れた時はちょうど花見の季節、観光客で賑わっていた。数年前までは日本人が立ち入る事が出来なかった所だ。
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花見の時期では無い時は、この様な料金ゲートは無く、車でもう少し上まで行けたのだが・・・。
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しかし、中国で花見などこの先見る事も無いのでいい経験になった。
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中国人観光客に交じって花見をしながらゆっくり歩いていくと203高地が見えてきた・・・。
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9日間の戦闘で日本・ロシア合わせて約20000人の兵が犠牲になった激戦地を今やっと見学出来る・・・。
▼現地の司令官は乃木希典(のぎまれすけ)陸軍第三軍司令官。乃木は203高地総攻撃に消極的だったという。
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ロシア軍旅順要塞は、当時世界最強とも言える近代要塞に生まれ変わっていた・・・
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桜見区間を越えていよいよ203高地戦跡地区に入っていくが、要塞っぽい遺構はまだ見ていない。
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▲日本語表記もある案内板
読んでみると・・・
日露戦争の遺跡ーーー203高地
203高地は日露戦争の時に日露両軍が争奪し合っていた旅順西部戦線における主な戦場である
旧日本軍が1904年9月19日からロシア軍周り陣地を奪い取った後、203高地に向かって総攻撃を行い始め、
 66日間続いて12月5日にその高地を攻めおとした。当該戦役の中に旧日本軍は万人以上、ロシア軍は
5千人以上死傷した。
 旧日本軍が203高地を奪い取った後、すぐここに重砲観測所を設け、重砲を指揮しながら旅順口を砲撃し
た。その結果、港にあるロシア軍艦は砲撃されほとんど全部沈没した。
 戦後。旧日本軍国主義の頭である乃木希典は203の(中国語の)音読みによってそれを「爾霊山」と改
名した。日本軍の亡霊を供養するために、戦争が残した砲弾の皮と廃棄武器から日本式歩兵銃の銃弾のよう
な形で10.3メートル高さの「爾霊山」記念タワーを作り上げ、日本の国民を騙している。
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「爾霊山(にれいざん)」の事か・・・なるほど・・・日本国民は騙されているんですね・・・流石中国。
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▼記念撮影する中国人も気合入ってる!日本人はあそこまで登ってまで記念撮影しないね・・・。
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▼この様な道を更に登っていく
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途中、休憩所の様な場所を境に重砲観測所跡、爾霊山など行先が分かれている。
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まずは重砲観測所跡の方へ。
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見えてきた・・・。
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「狂気じみた無差別攻撃を加え」って・・軍と軍が戦った戦場だぞ此処は。しかし此処は中国だからね・・・仕方無い
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▼日本軍の大砲に模したダミー大砲が旅順港に向けて置かれていた。適当な造りだな・・・
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子供のおもちゃには丁度良いかもね。当時設置された28センチ砲は日本軍としては最新とされていた。
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▼当時最新とされた日本軍28センチ砲
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▼旅順港が見える・・・ここからロシア艦船を砲撃したんですね・・・
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スッキリしない景色だが、スモッグはましになってきている気がした。しかし中国に来てからずっと喉はイガイガ・・
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綺麗な青空が見える日はそう遠くない様にも思う。2010年に初めて中国を訪れた時よりはかなり良くなっている。
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▼陥落後の旅順港。旅順港に停泊していたロシア旅順艦隊は、日本軍の砲撃で外洋に出る事が出来なくなった。
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▼旅順の日本軍の砲撃を受け、旅順港内で擱座(かくざ)するロシア戦艦「レトウイザン」
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次は203高地頂上にある慰霊塔(爾霊山)に向かう。
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慰霊塔が見えた。
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ここも日本語表記の案内板がある
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読んでみると、
203高地の紹介
 203高地は1904年の日露戦争の主戦場の一つである。日露両軍はこの高地を争奪するため、激しい強い争
いをし、結果、ロシア軍側では死傷者は5000名余り、日本軍側では死傷者は10000名余りに達した。戦
後、日本第三司令官である乃木希典は戦争で命をなくした兵士たちを記念するため、砲弾の残片でこの高さ10.3
メートルの砲弾状の慰霊塔を建て、爾霊山という三文字を揮毫した。今は、この爾霊山はすでに日本軍国主義に
よる対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった。
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日露戦争を「恥の柱」と書かれたら日本人はちょっと行きにくいですね・・・日中戦争なら理解出来るけど・・・。
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▲▼爾霊山慰霊塔
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乃木将軍が、旅順戦闘での犠牲者の慰霊と戦勝を記念して無数の砲弾を鋳ぶし建立した。
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▼203高地頂上から旅順港方面の眺め。
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慰霊塔の奥にはロシア軍のダミー大砲が置かれていた。
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説明書には、
ロシア式150ミリメートルカノン砲
二〇三高地争奪戦で、高地に駐屯するロシア軍は150ミリメートルカノン砲二台と76ミリメートル速射野戦砲二台を
もって人口による散兵塹壕、歩兵塹壕、掩体など防御工事により、日本軍からの進撃を粘り強く阻止した。

と書かれている・・・ロシア側には優しい書き方だな・・・悲しいけど要するに嫌いなんだね、日本が・・・仕方無い
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▲当時のロシア軍第23砲兵旅団
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▲▼再び休息所の様な場所に戻り、別のルートへ行くと、ロシア軍が築いた陣地跡が残る。
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中国は何処へ行っても人人人なので、誰も居ないタイミングでの撮影が難しい・・・。
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▼ロシア軍陣地現存区間を抜けてしばらく歩くと・・・。
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▼少し下った場所に乃木希典の次男、乃木保典戦死の地とされる場所がある。
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乃木希典は日露戦争で長兄の勝典、次男の保典を亡くしている。
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目的はどうであれ、残してくれた中国に感謝したい・・・一礼してその場を去った。
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▲この時から既に兵器の性能差は歴然としており、無謀なバイザイ突撃を繰り返して犠牲者が続出していた・・・。
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▼203高地占領後に撮影された歩兵第25連隊将校団
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203高地戦で、日本軍戦死者約16000人。ロシア軍戦死者約4000人。からくも勝利した日本は初めて西欧列強に勝っ
たという自負心を持ったという。

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下山道はゆっくり桜を見学しながら歩いた。
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この記念塔には中日友好(日中友好)の言葉が刻まれていた。此処は中国ですからね、中日友好となるよね・・・。
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日本の花見シーズン同様、食べ物を売る臨時店舗が立ち並び、非常に多くの人で賑わっていた。
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日本時代に大連で走っていた路面電車が店舗に生まれ変わっていた。
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桜の間から現在は平和な203高地を見る。
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次は東鶏冠山北堡塁(ひがしけいかんざんきたほるい)へと向かった。
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203高地からタクシーで30分程で、ロシアが作った三大永久要塞の1つ「東鶏冠山北堡塁」に到着。
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ここで帰りのタクシーを拾う事は難しいので、20元プラスして待っていてもらった。(1元=約17円)
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ここも日露激戦地の1つで、203高地とともに必ず見学しておきたい戦跡だ。
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まずは資料館へ。
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此処は日本語訳は無い。
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▼▲おそらく当時のロシア軍の武器が展示されていた。
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▲旅順での戦いで日本軍戦死・戦傷者6万人、ロシア軍戦死・戦傷者4万人と書かれている。凄い数だ・・・。
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▼資料館見学を終え、いよいよ東鶏冠山北堡塁へ向かう。
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右手に、日本の城のお堀の様な塹壕と共に見えてきた!
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これは凄い・・・戦国時代の城と同じ規模と例えたら解りやすいだろうか・・・。
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▼旅順の何処かは不明だが、当時の要塞をスケッチした物。この様な強固な要塞だった。
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この辺りは遊歩道から塹壕を挟んで向こう側を見学するしかないのだが、木々が多くて撮影しにくい・・・。
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どうやらこの辺りからが見学の見所の様だ・・・。
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道が二手に分かれている。
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まずは左側へ向かう。
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此処があの有名な日本軍が爆破して侵入した堡塁か・・・感無量だ・・・やっと来れた・・・。
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此処から日本軍は要塞内に突入していったのであろう・・・。
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大げさな言い方かもしれないが、今まで見た何処の戦跡よりも弾痕が多いと感じた・・・。
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旧日本軍とロシア軍の凄まじい激戦地だ・・・。
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東鶏冠山砲台は難攻不落で、第1回総攻撃で予想以上に要塞が強固で、第三軍は15860名の死傷者を出していた。
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井上幾太郎工兵少佐は「築城攻撃」を提案、塹壕を掘り進め、堡塁に爆薬を仕掛けて爆破。これを繰り返し行った。
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向こう側に「入口」がある!中に入れる様だ。
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もの凄い量の弾痕だ・・・。
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いよいよ中へ入る。
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ここに突入した日本軍とロシア軍との壮絶な戦闘があった場所だ・・・。
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旧ソ連軍が作った要塞に初めて入った・・・凄い・・・時代がかなり古いが、やはり日本軍とは全然違う・・・。
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旧日本軍が開けた穴から光が差し込み中は明るい。
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中に入れる区間は短いが、それでも十分激戦の跡を感じる事が出来た。
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無数の弾痕を見ながら次へと向かう。
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銃眼付近の弾痕が半端ない・・・。
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だんだん観光客が多くなってきた・・・しかし日本人観光客とは全く会わない・・・。
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日本人が中国人を見てすぐ解る様に、中国人も日本人は見てすぐ解るとの事。
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▼かなり崩落が進んでいる・・・日露戦争だもんね・・・110年以上前の物・・・。
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ここから当時地下道で左側へ行ける様になっていたのか。正面奥は入った「入口」方面
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地上路で左側へ。
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成程、この右側の陣地に繋がっているんだな。
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これを見た日本軍は勉強したんだろうな・・・明治時代の日本各地に作られた要塞とよく似ている・・・。
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此処も中に入れる。
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入ると左右・真っ直ぐに道が分かれる。
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右はこれ以上は立ち入り禁止。
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左へ行ってみる。
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振り返って撮影。
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この辺りは指揮所だった様だ。
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左手は弾薬庫。
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弾薬庫の隣は電話室。
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更に奥へ。
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ここからは立ち入り禁止。
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ここから先は兵舎だった様だ。
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元来た道を戻る。
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元の入り口まで戻る。
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戻って、トンネルを真っ直ぐぬけて振り返って撮影。
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トンネルを抜けると開けた場所に出る。
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ロシア軍のダミー大砲が並んでいる。
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▼先程の侵入禁止部分から見学した兵舎跡を外から見る。
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最後は「東鶏冠山北堡塁」が刻まれた岩を見てバスターミナルまでタクシーで戻った。
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▼旅順のバスターミナル、大連駅から約1時間かかる。バス代は片道7元だった(1元=約17円)
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▼バスターミナル周辺を撮影。
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▼バスターミナル待合室は人で溢れている。花見の時期は避けた方が良いかもしれない。
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▼帰りはこの様に荷物検査がある。中国は電車に乗る時も必ず荷物検査機を通さなければならない。
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ある意味で中国は徹底している。治安も悪くないし、テロなども聞かない。この徹底ぶりが効果を発揮しているかも。
しかし、旅順は日本人だけでは行きにくいかもしれない。バスに乗る手順など、言葉が解らなければまず無理だろう。
伊藤博文を哈爾濱で暗殺した安重根が収容されていた旅順監獄跡にも行きたかったが、時間が無く、今回は断念した。

星海公園という観光スポットがあるというのでちょっと寄ってみた。
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海沿いに巨大な街が築かれていた。DSCN1805_convert_20170510123737.jpg
▼大連には星海公園がある。海沿いに近年完成した観光スポットだ。
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昭和20年8月15日玉音放送後、日本軍は武装解除し、大連の星海公園へ集結した。大連には関東軍380部隊が居たが、
日に日に悪化する南方戦線に次々に送られ、敗戦時には既に主力部隊の姿は無く、現地招集された兵士ばかりだった。
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日が落ちると色々な物がライトアップされ、綺麗な景色が広がる
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集合屋台の様な場所で食事をする場所もあり、白人の方も多かった。でも空気は・・・ずっと喉はイガイガ・・・。
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写真でも何かスッキリしない空気を感じて頂けると思う。
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日本の田舎暮らしで空気の良いのが当たり前の生活をしている者は一発で喉がやられる・・・中国人は強い・・・
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▼星海遊園地
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奥の高い位置に見える城の様な建物は高級マンションらしい。
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人口も多い分、富裕層も多い。流石14億人の中国。
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写真はスケートボード練習場の様な大きな場所から撮影した。
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▼当日はHUAWEI(携帯電話会社)のブースも盛り上がっていた。Appleに次ぐ第2位の販売台数だそうだ。
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しかしiPoneの人気は絶大。出会った中国人は皆iPoneを持っていた。ま、どうでもいいけど・・・。
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さぁ、帰ろう、最後に海側を振り返る。撮影場所の巨大なスケートボード場がお解りになると思う。
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富裕層の住む高級マンションは綺麗にライトアップされている。
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富裕層が住む高級マンションを眺めながらバス停に向かい、大連駅に戻った。
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▼大連駅に戻ると、かつて日本時代に建設された駅舎が負けじとライトアップされ、存在感を放っていた。
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▼旅順行のバスに乗った、大連駅北側
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▼現代自動車(ヒュンダイ)か・・・。
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▼お!三菱が頑張ってる、って三菱自動車は所有した事無いけどね・・・。
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▼大連駅から歩いて5分、旧ロシア人街と呼ばれる場所がある。
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旧ロシアの雰囲気が感じられる場所としてちょっとした観光地になっている。
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かつての古き良きロシア風建築が並んだ場所は一気に再開発が進み、一角だけが観光地やホテルとなった。
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ロシア人と出会う事はめったと無いが、短い通りにお土産屋やホテルが立ち並ぶ。DSCN2302_convert_20170510160401.jpg
カラフルに塗装され、中国人らしい仕上がりになっている。
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当時のロシアの雰囲気はあまり感じられない・・・。
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此処を観光地とするならば、せめて当時のままの姿のロシア人街を残して欲しかった・・・。
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歴史好きにとっては残念な観光地になってしまった・・・。
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しかし、距離が短いので、ちょっとしたデートコースとして最適だと思う。
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同行してくれた中国人が言っていた。
「ロシア時代や日本時代を見に来る人は多いけど、どれも中国には関係無い事や建物ばかり・・・。
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観光客が中国に来てくれるのは嬉しけど、中国人としては何か複雑・・・」と。うん、うん。言いたい事は解るよ。
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▼突き当り付近のこの朽ち果てかけの立派な建物は、何故か再開発投資の対象から外されてた様だ。
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ロシア時代には1902年(明治35年)東清鉄道事務所(ロシアの鉄道会社で満鉄の前身)→初代大連市役所にも使われた。
日本統治時代1907年(明治40年)東京から移転した満鉄の本社となり、満鉄の本社が1908年(明治41年)に現在の魯迅
路に移転後は夏目漱石も宿泊した2代目ヤマトホテルとなった。
その後、満州物質参考館→満蒙資源館→満州資源館→終戦(敗戦)。
激動のロシア時代と日本時代を見つめて来た老房子は、静かに再利用の時を待っている。
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この通りもライトアップが始まると綺麗だった。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その1「大連旅行記」を終わりとします。
次回は、その2「瀋陽旅行記」をお届けします。

日本租借地時代
1905年9月日露戦争後のロシア帝国との講和条約であるポーツマス条約で、清朝からの租借地の権利を日本が引き継
ぐ事となる。同年12月22日には、清朝との間で満州善後条約(中日会議東三省事宜条約)を締結し、この地域における
権益をロシアから日本へ移譲し、ロシア時代のダルニーは「大連」と改称された。
この租借地の名称は「関東州」であり、当初は軍政が布かれていたが、1906年[明治39年]9月1日民政に移管され、関
東都督府が設置された。その後、関東都督府は1919年4月に関東軍が分離し関東庁に改組、1934年12月には関東局と
その下部機関である関東州庁に改組した。
※1912年は明治45年(1月1日~7月30日)大正元年(7月30日~12月31日)

清朝崩壊後、関東州の租借地は1915年に中華民国との条約により租借期限を1997年まで延長された。
1919年(大正8年)関東軍が東三省全土を占拠し満洲国を建国、租借権の設定は満洲国から受けてる形式に改定された。
1937年(昭和12年)には、満鉄附属地の行政権を満洲国に返還した。
1945年(昭和20年)のソ連対日参戦で関東州はソ連軍に占領されて関東軍は降伏し、関東局・関東州庁は瓦解した。

※旅順戦跡巡りをご希望の方はご連絡下さい。信用出来る現地付き添い人をご紹介します。
 大連駅から旅順まではバスで移動出来ますが、そこから203高地・東鶏冠山北堡塁は、タクシーでないと厳しいです。
 通常は、大連駅周辺からタクシーを1日借り切って旅順周辺を巡るのが一般的です。
 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

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 2017_04_30

Comments

Re: ご苦労様です 

Tony 様

コメント有難うございます。そうですね・・・日本の戦史は満州国建国から始まったと言っても過言ではありませんね。
日本人としては目を伏せたくなる様な事が数多くあるので、華やかな満州時代に生活を送った祖父母は何も知らず、ただ
夢を見て一生懸命働いていたのでしょう。ソ連参戦後の引き揚げの悲惨さは周知の通りですが、いつまでも他国を支配し
続ける事が出来るはずが無い。という事ですね。いい意味で負けて良かったんですよ、日本は。
WhitePigeon  URL   2017-05-10 16:48  

ご苦労様です 

本当に御苦労様です、日本人には、忘れては成らない地名ばかり、ありがとうございます
Etsuo Tony Ooka  URL   2017-05-08 00:59  

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プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
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