長春(旧新京)

Category: 中国東北部   Tags: 満州  新京  

今回の中国東北部旅行の1番の目的地、長春は、旧満州国時代に新京と改められ、満州国国都とされた場所である。
此処で祖父母は終戦(敗戦)後の昭和21年9月まで暮らした。祖父は昭和12年から満鉄新京支社勤務(庶務課)だった。
日露戦争でからくも勝利した日本は、長春以南の権益をロシアより獲得すると南満州鉄道株式会社を設立、明治39年
(1906年)に長春駅を建設した。日本が溥儀を皇帝に満州国建国前から、中国東北部は満州と呼ばれ、張作霖が支配し、
その地域に暮らす現地人は、「満人」と呼ばれた。張作霖爆殺事件後、息子の張学良が、長引く内戦状態の国民政府と
共産党の間を取り持ち、蒋介石の国民政府も同意、一丸となって抗日を続けた。

昭和3年(1928年)6月4日、張作霖爆殺事件
昭和6年(1931年)9月18日、満州事変
昭和7年(1932年)3月、満州国建国
張学良は国民党か日本かを選ぶ中で国民党を選び、焦った日本は満州事変を起こし傀儡国家満州を建国。
昭和9年(1934年)3月1日、満洲国皇帝(康徳帝)に溥儀が即位。ここから満洲国の年号は康徳元年となる。
昭和11年(1936年)毛沢東率いる共産党は内戦の停止と抗日統一戦線を提案。しかし蒋介石は態度を硬化させたまま、
満州の軍閥(張学良ら)に共産党を攻めさせようとする。張学良は「日本と戦うべきではないか?」と難色を示す。
西安まで張学良の説得に出向いた蒋介石を張学良が誘拐、共産党員達と蒋介石を説得して抗日共同戦線を張る事になる
昭和12年(1937年)、日中戦争(支那事変)勃発の年に、祖父は日本で南満州鉄道株式会社の入社試験に合格。
昭和17年(1942年)、祖父は花嫁探しの為に一時帰国。祖母とお見合いし、婚約。
昭和18年(1943年)、祖母が満州(新京)へ。新京特別市昌平街の満鉄寮で新婚生活が始まる。
昭和19年(1944年)11月、母が新京満鉄病院で生まれる。
昭和20年(1945年)8月9日、ソ連軍、満州国に進攻開始。
昭和20年(1945年)8月10日、祖母は満鉄からの指示で新京駅に集合。
幼い母を連れ、満鉄で朝鮮(現北朝鮮)鎮南浦(チンナンポ)へ避難。そこで満鉄関係者と共に滞在する。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦(敗戦)。
昭和20年(1945年)8月18日、溥儀が満州国皇帝退位=満州国崩壊。
終戦後、祖父が心配で、朝鮮から満鉄で再び新京へ戻る。新京へ戻る際、日本兵が大勢乗った貨車を見たと言う。
恐らく祖母が見たのは、関東軍将兵ら約60万人が連行され、約6万人が強制労働などで死亡した「シベリア抑留者」だ
ったのだろう。関東軍参謀本部、陸軍中佐瀬島 龍三(せじま りゅうぞう)は戦後11年間シベリアに抑留されたが、その
瀬島氏こそが「日本兵をソ連に売り渡した張本人」だとする説がある。いわゆる「シベリア抑留密約説」だ。
瀬島氏は終戦直後の昭和20年8月19日、関東軍とソ連極東軍による停戦交渉に出席。
この席上で「ソ連への国家賠償として、日本軍将兵らの労務提供を認める」ことを申し出たというものである・・・。
瀬島 龍三に関してはWikipediaから抜粋だが、「知っておきたい人物」で紹介しているのでご覧頂ければと思う。

再び新京へ戻った祖父と母は祖父と再会。新京で1年暮らす。(ソ連兵の強姦から身を守る為、髪は男の様に短くした)
しかし、哈爾浜などに比べて新京はソ連兵が少なく、意外と平和だった様だ。八路軍(共産党)やソ連兵の活発な時も
あったが、中央軍とアメリカ兵が市街地に入って来てからはとりあえず秩序は取り戻しつつあった。
昭和21年(1946年)9月初旬、祖父母と母の3人は、新京→釜山港→博多港の順で無事帰国する事が出来た。
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▲満州国時代の新京駅(明治40年撮影)
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▲現在の長春駅(当時の面影は全く無い)
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▲宿泊した長春駅前のホテルから撮影。駅前広場はもう何年も工事中との事。
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▲当時の新京駅前の風景
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▲▼同じ場所かどうかは分からないが、現在の駅前付近。
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在満日本人一般市民の人口は、昭和5年に23万人を越え、昭和15年には100万人になっていた。日本軍に加え、日本の
大手企業の職員や、官僚、そして民衆達も夢を託して満州に渡った。私の祖父もその中の1人だった。
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▲新京駅前にあった当時の満鉄新京支社(ここで祖父は働いていた)
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▲同じ場所にはほぼ当時のままの姿で建物があった・・・これは感激した。5階部分が増築されている事が解る。
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▲「長春鉄路〇事〇」と書かれているので、現在も鉄道関係の会社が使っている様だ。
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▲旧満鉄新京支社入口前にあった地下への入り口。当時から地下ショッピングセンターでもあったのかな?
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▲此処で祖父は働いていたんだ・・・もう亡くなって何十年も経つが、今、孫の私がその地に来ている・・・感動だ。
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▲新京ヤマトホテル。ここも何度も改修されているが、当時の面影が残っている。
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▲夜の姿はライトアップされてとても綺麗。
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▲旧満鉄新京支社から長春駅を見る。この道を祖父は通勤したのだろうか・・・当時「中央通」と呼ばれた
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▲当時の中央通を描いた絵ハガキ
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▼もうこれは取り壊しが決定しているのかな・・・明らかに古い日本時代の建物だ。
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昭和7年満州国建国だから、満州国が続いたのはたった約9年・・・1番新しくても72年前の建物だからね・・・。
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▲赤煉瓦造りのちょっと古めかしい建物は日本時代の物と思って良いだろう。
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いいですね~こんな街、日本の何処かで復刻しないかな・・・。
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▼中央通を歩いていると当時郵便局だった場所にそれらしい建物が残っていた。
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どうやら此処も改修中の様だ。
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▼当時の郵便局(長春では最初に帝国にとって最も重要な建物である警察本署と郵便局を建てた)
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新京の町づくりは日本本土の問題をすべて解決し、満州国国都として、他ならぬ文明を進めるモデルとなった。
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当時の古写真によく似た場所があった。恐らく同じ場所だろう・・・祖父母も当然此処を歩いただろう。
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新京は、日本が蓄積してきた都市計画の理念と社会資本整備の技術を一気に投入して建設されたという。
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▲郵便局の向かいは古地図では警察署だが、今は良く解らないゴーストビルが建設途中?だった。
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▲中央通から郵便局を左折し、旧吉野町を通って、次の目的である母が生まれた満鉄病院を目指す。
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▲この辺りは「新京銀座」と呼ばれた新京1の繁華街で吉野町と呼ばれていた。
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▼昭和53年(1978年)頃の吉野町。まだまだ日本時代がしっかり残っている。というよりそのままだ。
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20年前なら、もっと多くの日本時代の建物が残っていたという。
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しかし長春は明らかに私を見る中国人の視線は冷たい・・・観光地でも無いのに「何しに来た!?」的な顔で見られる
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絶賛取り壊し中の日本時代の建物。
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建物自体の低さと赤煉瓦で、当時物と現代物との見分けが直ぐつく。
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現在に至っても日本時代の建物に住んでいる方達は恐らく貧困層なので、撮影の際は細心の注意を払わないと怖い。
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上海・鄭州・大連・瀋陽・長春と訪問したが、明らかに長春は何か雰囲気が違う・・・ブラブラしている人も多い。
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暇な人ほど政治的な事を言い始めることが多いので、街の人と話した訳では無いが、この雰囲気も納得出来た。
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でも、何かいいな~。昔の日本人が建てた西洋と和がミックスされた独特の建物・・・。DSCN0261_convert_20170521114118.jpg
▼この建物も恐らく最上階部分は増築だろう・・・。
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▼当時学校があった場所にはほとんどが(建物は建て替えられているが)そのまま学校だ。
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▲此処は古地図では室町小学校・家政女学校・公学校となっている広い敷地だ。
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▲何て書いてあるのか読めないが、「教師」っぽい字が書いてあるので、現在は教員を育てる学校の様だ。
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▲そうしているうちに、当時満鉄病院だった場所に到着。建物は全て建て替えられているが、現在も病院だ。
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ここで母が生まれたのか・・・感激だ。しばし病院を眺めていた・・・敗戦後、満州引き揚げ者の多くが命を落とした。
祖母の話では、当時赤ん坊だった母を抱えての日本への引き揚げは、想像を絶する悪条件での帰路だったという。
もし、祖父母と母が、帰国途中に、満州や朝鮮で命を落としていたら、今の私は存在しない・・・。
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▲これは当時の建物っぽいが良く解らない・・・。
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▲当時の満鉄病院
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旧満鉄病院付近にも当時の建物は多少残っていた。
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▲煙突から煙が出ていたので、現役で中国人住居として使用されている様だ。
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長春は見た目的には大都会に変貌しつつある様に見えるが、街の人や車を見ても裕福な人が多いとは言えない・・・
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恐らく70年以上、ほぼそのまま住んでいるのだろう・・・崩壊寸前の住居が多い・・・。
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これ以上日本時代の住居を追い求めるととんでもない事に巻き込まれそうなのでこのへんで撮影を止めた・・・
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でも、中国人は根は優しい人が多いんだけどな・・・「中国残留孤児」。見捨てられた日本人の子を育ててくれた。
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▲「抗日」「反日」の中国で、日本車を愛用してくれている中国人も沢山居る。有難い事だ・・・。
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中央通に戻ってきた。当時西公園と呼ばれた場所が正面に見える。現在も公園の様だ、観覧車が見える。
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▲当時の西公園正門を描いた絵ハガキ(昭和13年児玉源太郎大将の銅像設置後、児玉公園と名称変更された)
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▲西公園前の巨大な交差点。
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当時の西公園。冬はスケートリンクも営業していた様だ。寒さで池の水が氷るのだろう。
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▼建物は近代化されても区画や道幅は当時のまま発展させている。
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▼中央通を更に南下していく。
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▼歩道からの景色を絵に描いている人が居た。上手だった~。
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しばらく歩くと写真などで見た事のある特徴ある建物が見えた。
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旧関東軍司令部だ。しっかりそのまま残っている。
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▼当時の関東軍司令部(名古屋城をモデルにしたと言われている)
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祖母から聞いている関東軍の話は悪い話が多い。昭和20年8月9日のソ連侵攻後、居住民(日本人)を見捨てて真っ先に
朝鮮方面に南下、新京関東軍司令部をはじめ、軍の施設を放棄し、さっさと逃げて行ったという。
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▲これは旧関東憲兵隊司令部(関東局)
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▲当時の関東憲兵隊司令部
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▲この建物は旧大興ビル。
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▲当時の大興ビル。当時と比べるとこのビルも5階6階部分が建て増しされている事がわかる。
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▲長春市第5中学となっている所は当時、長春市新京白菊小学校。
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▲長春市第5中学付近の大きな交差点
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▼▲これは長春市第5中学付近にあった公衆便所
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▼今もひっそり残る東本願寺満洲別院(敷地全体が工事中の為、敷地内に入っての見学は出来なかった)
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▼外から見るとこんな感じなので東本願寺全容を伺い知る事は出来ない。
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このあたりも一筋奥に入ると日本時代の住居がちょこちょこ残っている。
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しかし、ほんとんど面影は無いと言ってもいいかな・・・とにかく車の量が多過ぎる・・・。
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新京の南西郊外の孟家屯(もうかとん)には陸軍100部隊(関東軍軍馬防疫廠)があった。
100部隊は軍用動物の衛生管理・研究などを目的とした部隊(約700名)で、組織上は関東軍に属していた。
終戦時の部隊長であった若松有次郎の名を冠して、若松部隊と呼ばれることもある。
軍馬に代表される軍用動物の衛生管理を任務とし、動物の感染症研究や血清の製造、軍馬移動時の検疫作業などを行っ
ていた。補充馬廠などで軍用動物の衛生管理を行う兵員の教育機関としての役割もあった。
更に、防疫対策のみならず、敵国の軍用動物や家畜を標的とした攻撃用の生物兵器(細菌兵器)の開発をも進めていたと
も言われる。攻撃用の研究かは不明だが、日中戦争が勃発した昭和12年には所属の軍人・軍属の一部が軍用細菌の試験
研究も行っていたという。対人用の生物兵器研究機関だったと言われる哈爾浜郊外の関東軍防疫給水部本部(731部隊)
とは、密接な協力体制にあったという。
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この先は当時「皇居」建設予定地だった所。現在は公園だそうだ。本気で皇居を東京から移す予定だった様だ。
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この辺りはもう近代化されて、日本時代の建物は見かけない
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時期的には春になりつつあるが、気温は15度くらいで肌寒い。
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真冬はマイナス30度以上。平均気温も5度程度だからスクーターは辛いね・・・でも電気スクーターは沢山走ってる。
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日本人が夢を描いて移り住んだ新天地と言うが、私はあまりピンとこない土地だな・・・寒過ぎる・・・。
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▲これは日本時代の建物を外観だけ綺麗に手直ししてあるな・・・当時物の煙突が建物中央を突き抜けている。DSCN0382_convert_20170522124559.jpg
▼しばらく歩くと当時「興安橋」と呼ばれた短い橋が見えた、当時のままだそうだ。DSCN0385_convert_20170522124637.jpg

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▼橋の下は鉄道が走っている。右側の線路は新設の高速鉄道。左側(貨物列車)は当時のままの満鉄線だ。
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それにしても長~い貨物列車だ・・・なかなか通り過ぎないので、永遠に続くかと思った・・・アメリカなみだね。
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▼「興安橋」を渡り終えて振り返って撮影。
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祖母は楽しい思い出として、「興安橋」を渡り、新京競馬場へアルバイトに行った事があると私に話してくれていた。
ソ連参戦、日本敗戦で新京で起こった混乱の中、命を落とした日本人の「日本人埋葬場所」となった「新京競馬場」。
そして、「新京競馬場」は今どうなっているのか?と更に南下した事が裏目に出てしまった・・・。
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▲「興安橋」を過ぎて更に南下したが、新京競馬場らしき場所が見当たらない・・・DSCN0395_convert_20170524115823.jpg
▲これも日本時代の建物っぽいな~。と撮影していると、警察車両が来て話しかけてきた。
当然、中国語での会話は噛み合うはずも無く、近くの警察署で事情徴収される事になってしまった・・・。
どうやらこの辺りに軍の航空大学があるらしく、付近の住民からの通報で見回りに来たとの事。怪しい日本人と思われ
てしまった様だ・・・。別に悪い事をした認識は無かったが、日本時代の古い地図を頼りに散策していたので、その様
な施設周辺に来ていた事に気ずかなかった。「あなたが撮影して歩いている場所は軍の関係施設ですよ、気をつけなさ
い。」と少々説教された。通訳を呼んでくれていたので疑いも晴れ、少々長い拘束時間となったが昼時だったので食事
も頂いた。最後は警察署長と思われる美しい女性が「Welcome to China」と、笑顔でパスポートを返してくれた。
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▲「皆で記念写真を」と頼んだが、断られてたので建物だけの撮影となった。知らなかったとはいえ、何処の国でも軍
関係の施設は神経を尖らせる場所。長春の警察署の皆さん、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした、以後気を
つけます。真摯な対応、有難うございました。(残念ながらこのブログは中国では閲覧出来ないんだけどね・・・)
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気を取り直して、祖父母が暮らした満鉄寮に向かう。
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祖母からうる覚えの住所を聞いていた、「新京特別市昌平街」と・・・。
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古そうな赤煉瓦塀だな・・・と思い古地図を見ると、その敷地は当時「桜木小学校」となっている。昌平街は近い!
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▼当時の「桜木小学校」は現在、長春市第二中学校となっている。やはり学校跡は今も学校だ。
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これは当時の校舎では無いだろう・・・中国の建物は何もかもがBIGだ・・・中学校といえど立派な建物だ。
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しばらく歩くと昌平街だった辺りだ。
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この辺りだ、見つけた!現在も昌平街だ!!感動!
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祖母の話では自分達の住んでいた満鉄寮(満鉄社宅)の道挟んで前は、軍の官舎だったと聞いていた。
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▲当時軍の官舎とされていた場所は現在、温泉施設になっていた・・。という事はこの向かい側か!
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▲祖母からは、当時2階立ての建物で、4つの家族が入居していたと聞いていた。真ん中に階段があった様で、それぞれ
の部屋は階段を挟んでわかれていたという。日本でよくあるアパートの様な感じだ。
「赤煉瓦」では無かったという話から、恐らくこの建物ではないだろうか、それっぽい建物はこれしか見当たらない。
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祖母が番地を覚えていなかったので、この昌平街607がピンポイントかどうかは分らないが、多分此処だろうと思った。
祖母の向かいは村山さん。青年部の先生をしていたそうで、新潟出身の方だったそうだ。その下は赤塚さんだそうだ。
祖母は山田。下の階は名前は忘れたが、機関室(現場)勤めの方だったそうだ。情報ございましたらご一報下さい。
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▲正面側から見ると増築部分や新たに付け加えられた部分がはっきり確認出来る。
満鉄寮の写真や現存する建物を見た事が無いので断定は難しいが、祖母への聞き取りや写真を見てもらい、恐らく
あっているだろうと結論付けた。帰国後、写真を見た祖母は感激していた・・・本当に良かった。
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祖母に写真を見せても番地はやはり思い出せなかった様だが、新婚時代を過ごした昌平街の今を見て感激していた。
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感激を胸に昌平街を後にする。祖母が生きているうちにこの写真を見せる事が出来て本当に良かった。
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▼隣の筋も確認したが、昌平街では無いので、探し当てた場所は間違っていないはずだ。
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しかし、中国はそこらじゅうに警察車両が停まっているので、日本の田舎者の私は少し恐怖症になってしまった・・・
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▲さらば「昌平街」(しょうへいがい)
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▲そして有難う、昌平街。何度も振り返りながら目に焼き付けた。
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大きな通りまで出て、長春駅(旧新京駅)まではバスで戻った。
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▼長春駅の地下街は柱に暖房設備が確認出来る。
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▼お湯を建物中に巡らせて暖かくする昔からのシステムだ。
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▲日本では見かけた事が無いが、東北地方や北海道でまだ採用している県はあるのだろうか。
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▲長春でも吉野家に行った。
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▼中国の吉野家は、それぞれの地方でメニューや盛り付けが違う様だ。そしてセットメニューが瀋陽店よりも安い。
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▼これは28元(約470円)長春の吉野家はいまいち。今まで食べた吉野家の中で1番美味しくないと言っても良い。
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▼地下街の柱に観光案内があった。「偽満‘八大部‘」この8つの日本時代の建物は時間が無く行けなかった・・・。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その3「長春(旧新京)旅行記」を終わりとします。
次回は、その4「哈爾浜旅行記①」をお届けします。


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 2017_05_21

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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pochetteevnara@gmail.com

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沖縄戦跡巡り

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