哈爾浜①

Category: 中国東北部   Tags: 満州  哈爾浜  

哈爾浜は、黒竜江省の政治・経済の中心で、ここも人口約600万人の大都市である。

1896年(明治29年)ロシアは日清戦争後の日本の遼東半島領有を阻止した報酬として、中東鉄道の敷設権と経営権を
獲得。中東鉄道株式会社を設立。沿線に鉄道付属地を所有する事を清朝から認められ、そこではロシアの行政・司法
権や森林伐採権などが行使された。
1898年(明治31年)ロシア帝国により満洲を横断する東清鉄道建設が着手されると、交通の要衝としてロシア人を初
めとする人口が急激に増加し経済の発展をみるようになった。
1900年(明治33年)義和団事件が勃発し、ロシアは満州を制圧する。清朝は猛反発。
日清戦争以降、清朝は「瓜分」(中国分割)の最大危機にさらされていたが、義和団の乱によって勢いに歯止めがか
けられた。戦闘において圧倒的な強さを示した連合軍(イギリス・アメリカ・オーストリア・イギリス領インド・ドイ
ツ・フランス・ロシア・イタリア・日本)であったが、その後の占領地支配には手を焼き、中国の領土支配の困難さに
嫌でも気づかざるを得なかった。列強のその時の思いは連合軍司令官ヴァルダーゼーの「列強の力を合わせたとして
も、中国人の4分の1でも治めるのは困難であろう」ということばに言い尽くされている。
ただ、例外的に領土支配を目指した国があった。ロシアと日本である。
ロシアの満州占領は日露戦争を導き、さらに辛うじてその勝者となった日本は一層の領土的野心を滾らせ、日中戦争
へと邁進していくようになる。※日露戦争(1904年[明治37年]2月6日~1905年[明治38年]9月5日)

1905年(明治38年)10月31日、清朝は哈爾関道(浜江関道を設置)、翌年5月11日には正式に道署を設置し、駐在。
1907年(明治40年)1月14日、清朝はハルビンを対外交易拠点とすることを決定、吉林将軍及び黒竜江将軍の奏准を
容れ浜江庁を設置、浜江関道の管轄とされ行政権の強化が図られた。
これに対しロシアは同年11月23日中東鉄道管理局が「ハルビン自治公議会章程」を発布、埠頭区(現在の道里区)、
新市街(現在の南崗区)の7,000平方キロメートルの地域を市区と定め公議会の管轄とし、清朝に対抗した。
1909年(明治42年)10月26日哈爾浜駅で、日清戦争の立役者で日本の枢密院議長 伊藤博文が安重根に暗殺される。
蒋介石の中華民国が成立すると1913年(大正2年)3月浜江庁は浜江県と改称され、翌年1月31日松北市政局に改編さ
れた。
第一次世界大戦でヨーロッパは、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国とフランス・ロシア帝国
イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね経済は破綻。
1917年(大正6年)「ロシア革命」(簡単に言えばロシア内戦である)2月革命・10月革命
ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に
反乱を起こして労働者側についた。1918年(大正7年)ついにロシア帝国が崩壊。
1918年(大正7年)夏、アメリカはシベリア出兵を決定。アメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれに
合わせて出兵を決定、連合軍はウラジヴォストークに上陸した。
※内政干渉戦争であるシベリア出兵に、一般兵士の間では戦争目的が曖昧だったことから、日本軍の士気は低調で、
 軍紀も頽廃していた。この現象は鉄道で戦地へ移動する段階から既に見られていた。
連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は
日本やアメリカの軍隊であった。これが日本の「シベリア出兵」である。
同年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い1920年には相次いで撤兵
したが、日本陸軍は単独で駐留を続行した。
日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労
働者・農民から組織された非正規軍のパルチザンと戦闘を繰り返しながら北樺太・沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。
シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。
各国より数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けた上、占領地に傀儡国家の建設を画策。
日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われる事になる。
1921年(大正10年)のワシントン会議開催時点で出兵を続けていたのは日本だけであった。
会議の中で、全権であった加藤友三郎海軍大臣が、条件が整い次第、日本も撤兵することを約束した。

当時の内閣総理大臣 加藤高明は日本のシベリア出兵について、「なに一つ国家に利益をも齎すことのなかった外交
上まれにみる失政の歴史である」と評価している。

1922年(大正11年)にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライ
ナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合。ソビエト社会主義共和国連邦が成立。
1926年(昭和元年)3月30日中華民国のハルビン自治臨時委員会が設置され、ロシア人による統治は終焉をむかえる。
1928年(昭和3年)6月4日、張作霖爆殺事件
1931年(昭和6年)9月18日、満州事変
1932年(昭和7年)3月、満洲国が建国されると、1933年(昭和8年)7月1日哈爾浜特別市となり、日本の統治が始まる。
ロシア革命後、ソ連も中東鉄道(東清鉄道の後身で、満鉄の前身)の利権を維持したが、1934年(昭和9年)満洲国に譲
渡した。哈爾浜は、満洲地区からロシア・ヨーロッパ方面への鉄道輸送の要衝として発展し、1940年(昭和15年)に
は、人口約60万人に達している。
日本の敗戦で満洲国が崩壊、国共内戦の結果、中国共産党が1946年(昭和21年)4月28日ハルビンの支配権を獲得。
現在に至っている。
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▲▼哈爾浜駅前の風景。中国は何処も大都会に発展している・・・。
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▼駅舎は取り壊しの真っ最中、新しい駅舎へ生まれ変わろうとしていた。新駅舎完成予定日は不明。
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▼駅前には恐らくロシア統治時代の建物であろう建物を見ることが出来た。
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一見して年代物という事が解る。何とか保存してほしいものだ。
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哈爾浜ではヤマトホテル(現 龍門貴賓楼)に宿泊した。
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ロシア統治時代は、中東鉄道賓館と呼ばれ、中東鉄道工程局の副総技師のイグナチウスが総デザインを指揮。
1903年(明治36年)2月に完成したハルビン初の豪華ホテルであった。
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※1918年以後、張学良が司令官として哈爾浜を訪れた際、このホテルに滞在した。
日露戦争が勃発するとロシア軍軍司令部として使用され、終戦後は中東鉄路公司理事会として使用された。
満州事変までは、この場所が中東鉄路の最高権利機関であり、ハルビン市の行政の中心であった。
1935年(昭和10年)ソ連は1.4億円で中東鉄路、及びその一部支線を満州国に譲渡し、中東鉄路公司理事会は解散。
1936年(昭和11年)満鉄により、2度目の大規模な改築が行われ、翌年2月1日に改築作業が完了。
「ハルビンヤマトホテル」と改名され、大連(現大連賓館)・瀋陽(現遼寧賓館)・長春(現春誼賓館)のヤマトホテ
ルと共に南満州鉄道株式会社によって経営された。
日本敗戦後はハルビン軍招待所などとして使用されたが1997年(平成9年)にハルビン鉄路局によって改築作業が行われ、
ハルビン龍門貴賓楼酒店として生まれ変わり、現在に至る。
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▼ヤマトホテルの宿泊部屋から哈爾浜市街の眺め
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▼朝、ヤマトホテルを後にする。
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何度も改修されているので、どの部分がロシア時代で何処が日本時代なのか判別出来ないが、古そうだ。
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▼夜はこんな感じ。
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▼駅側とは反対側に位置する当時の正面入り口
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街を歩くと、ロシア時代が色濃く残る街だという事を感じる(ここまで来ると日本時代跡よりもロシアの方が気が楽だ)
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▼▲これは日本人が建てた物かな・・・哈爾浜は古地図を詳しく調べていないので良く解らない・・・。
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ある意味で中国も大変だ・・・街の基礎が全て他国によって形成され、建物は古くなっていく・・・。
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それをどの様な形で維持していくか、どの様に中国風に変貌させるか、今後ロシア・日本の足跡を残していくのか。
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他国の統治が終わった現在、中国らしさをどの様に演出していくのかは本当に難しいだろう・・・。
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▼当然、近代化された建物も並ぶ。
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日本は狭いのでそんな余裕は無いと思うが、その時代・時代の建物は何とか少しづつでも残して欲しいものだ。
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▼電動オート三輪車のタクシーが列を作っていた。中国はこの様な小型車がなんでも有りが面白い。
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▼斯大林公園(スターリン公園)の近くまで来た。凧あげをしている人を多く見かけた。懐かしい光景だ。
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▲右側のロシア風の建物は、松花江対岸の太陽島へ行くロープウェイ乗り場。
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▼目の前には松花江(しょうかこう)
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松花江南岸沿いの気持ちいい散策路を斯大林公園に向かって歩く。満州国時代は路面電車が走っていたそうだ。
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桜が咲いていた。
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お年寄りが音楽に合わせて踊っていた。何とものどかな風景だ。
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遊覧船を見た時に、ハッとして此処が中国だという事を再認識した。やっと中国風の感じを見た様な気がする。
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▼哈爾浜中心部と太陽島を結ぶ松花江に架かる、日本が建設した鉄道橋「浜州鉄路橋」(手前の黒い方)
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中国のガイドには次の様に書かれている。

元は中東鉄道西部線(浜州線)の第一鉄橋で、中東鉄道沿線では橋脚幅が最大の単線の鉄橋。
当時は「第一松花江大橋」と呼ばれていた。ロシアの橋梁専門家で中東鉄道局橋梁主任技師「リエンドフスキー」が自
ら監督し、技師「アリエクシエルオフ」が建設の責務にあたった。
1900年5月着工。1901年10月開通。鉄橋の長さ949.185メートル。

と・・・。
ウラジオストク→綏芬河(すいふんか)→哈爾浜(ハルビン)と続く東清鉄道は、この鉄橋で松花江を渡り、更にチチハル、
満州里、チタ、そしてモスクワへと続いている。って事は、日本が建設したってのは間違いか・・・?
1900年は明治33年。日露戦争開戦の前だな・・・やはり帝政ロシアが建設した橋という事になる。日本が改修程度を
したという事かもしれない・・・。このへんの歴史は今後詳しく勉強する必要がありそうだ・・・。
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2014年4月10日、100年以上続いた「浜州鉄路橋」は閉鎖。現在は歩行者専用の橋となって活用されている。
奥の白い橋は新たに建設された高速鉄道も走る新しい「松花江特大橋」。
松花江は満州語で「スンガリ・ウラー」と呼ばれ、「天の川」という意味。当時の日本人はスンガリ川と呼んだ。
松花江はやがてアムール川に合流する。冬はマイナス30度近くまで下がる哈爾浜。当然この川も凍る・・・。
凍結時期は歩いて対岸の太陽島まで行けるらしい。
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斯大林公園の中心にある1956年(昭和31年)の大洪水を記憶に留める為に建てられた「防洪記念塔」へ向かう。
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▼「防洪記念塔」最初これを見た時、また抗日の記念塔か?と思ったが違う様でホッとした・・・。
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塔の彫刻はロシア人、その周りを囲う扇状の建造物に中国という組み合わせ。
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1998年にもっとすごい洪水があり、120.89mを記録したということで、その高さには鉄すりの様な物が付いていた。
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近くには青島ビールのビアガーデンが・・・真昼間と言う事と本来の目的地への時間の関係で今回はスルー。
哈爾浜ビール祭りもあるという、ビール好きが多い街でも有名。行きたかった~。
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中央大街に向かう。
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▼ロシア風のお土産店
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お酒・タバコ・戦車の模型まで、色々あって面白い。
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地下ショッピングセンター街もある。これがまた大きい。巨大な地下壕だ(笑)
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▲少し入ったが、確実に迷いそうなので、そこそこで地上に出た。
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▼ロシア風の街並みが今も残る美しいショッピングストリート、中央大街に到着。
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▼1930年頃[ 昭和初期 ](昭和5年頃)の中央大街。当時は道行く人のほとんどがロシア人だった。
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現在も古写真の建物はホテルとして残っている。
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当時は車も走っていた様だが、現在の中央大街は歩行者天国となっている。
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「西洋のパリ」との呼び方にふさわしい、西洋風の建物が並び、通り全体が市の指定建築物になっている。
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哈爾浜は、既にロシアが街を形成していた事もあってか、満州国時代に建てられた日本建築は少ない様だ。
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▲▼道路の石畳はロシア時代当時のままだという。
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▼ここではバーガーキングに立ち寄った。店内も綺麗だし、普通に美味しかった!
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時間も押し迫っていたので道をそれて、聖ソフィア大聖堂に向かう。
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中央大街を外れても何処の通りも大都会だ・・・。
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▼久しぶりに中国風の建物を見た。戦後の建物だろう。
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▼これは日本が建てた物。旧横浜正金銀行哈爾浜支店(1912年「大正元年」完成) 現在は黒龍江省美術館。
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この辺の歴史が良く解らない・・・満州国建国が昭和7年。日露戦争勝利が明治38年。大正元年は明治45年だから、
横浜正金銀行哈爾浜支店はロシア統治時代の真っ最中に建設されている・・・どうなってんの??
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▼そうこうしているうちに聖ソフィア大聖堂に到着!
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これか・・・ロシアって感じだな・・・。
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此処は中国か・・・。
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ヨーロッパにでも来た様な錯覚を覚える・・・。
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1903年3月東清鉄道が開通すると共に、ロシア帝国軍隊は哈爾浜に侵入。1907年帝政ロシア軍兵士の軍用教会として
聖ソフィア大聖堂は創建された。1923年(大正12年)9月27日の再建儀式後、約9年間に渡る拡張工事が行われ、今の姿
になった。現在は教会では無く、哈爾浜市建築芸術館となっている。
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                   白鳩が沢山居る・・・立派な建物だ・・・。
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敷地一帯は大きな広場となっている。
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▼マクドナルドも此処ではこんな感じ。この様に合わせるのは大事ですね~。
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写真を何枚撮っていても飽きないが、次があるので名残惜しいが聖ソフィア大聖堂を後にした。
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以上、中国東北部(旧満州)旅行、その4「哈爾浜旅行記①」を終わりとします。
次回は、その5「哈爾浜旅行記②」をお届けします。



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 2017_05_31

Comments

Re: 有難う御座います 

Etsuo Tony Ooka 様

コメント有難うございます。哈爾浜まで行っている日本人は少ないかもしれませんが、結構いらっしゃいますよ。
日本初だなんて大げさです(笑)
WhitePigeon  URL   2017-06-01 20:53  

有難う御座います 

有難う御座います、勉強になりました、ここまでは日本初では
Etsuo Tony Ooka  URL   2017-06-01 01:46  

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プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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