大津島

Category: 大津島   Tags: 回天  

今日は広島に原爆が投下されて72年、まずは犠牲なった方達に黙祷です・・・。

山口県周南市に属する「大津島」。戦時中ここには日本海軍の秘密基地があった。周防大島の帰り、以前から
行きたかった大津島回天基地跡にやっと行く事が出来た。▼緑印が大津島回天基地。
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大津島回天基地は、昭和12年、93式酸素魚雷の発射試験場として開設され、太平洋戦争の戦局の悪化に伴い、
昭和19年9月5より回天発射訓練基地として、第1特別基地隊大津島分遣隊で回天の操縦訓練が始まった。
幕末から明治にかけての大維新を、『回天』という言葉で表した。回天とは、天をめぐらすの意。
「時勢を一変する事。衰えた勢いを盛り返す事」で、悪化する戦局を逆転する意味で命名された特攻兵器だった。
ガダルカナル島が米軍に占領され、戦況が悪化してきた昭和18年夏頃、余っていた93式酸素魚雷をどうにか活用
出来ないか。と考えた黒木博司海軍中尉と仁科関夫海軍少尉の発案で製作が開始されたとされる特攻兵器だ。
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▲黒木博司海軍中尉(岐阜県出身)昭和19年9月6日大津島にて回天訓練中、樋口博司大尉と共に殉職(享年22歳)
昭和19年9月6日の大津島地方は午後から急に風が強くなり、海面は大きくうねり出した。午後の訓練中止の声も
あったが、黒木は「天候が悪いからといって敵は待ってくれない!」樋口大尉も「やらせてください!」と続いた。
午後17時40分、樋口大尉の操縦する回天は黒木中尉を乗せて発進した。
訓練は、大津島から5000m離れた浮標までの往復。浮標を回ったまでは順調だったが、その直後に姿が消えた。
翌7日午前9時、大津島から約4000m離れた水深15mの海底に泥をかぶり突き刺さっている艇が発見された。
死亡推定時間は、事故発生から約12時間後の7日午前6時過ぎだった。
艇内には事故直後からの応急処置、事後の経過など、黒木中尉が息を引き取るまでの状況を記した2000字にも及
ぶ『19-9-6 回天第1号海底突入事故報告』が残されていた。
そこには「国を思ひ死ぬに死なれぬ益良雄が 友々よびつつ死してゆくらん」と辞世の歌もつづられていた。
樋口大尉(享年22歳)の手帳にも「犠牲ヲ踏ミ越エテ突進セヨ」と遺文があった。
Hiroshi Kuroki Sekio Nishina
▲仁科関夫海軍少尉(左)滋賀県出身 享年21歳
昭和19年11月20日黒木中尉の遺骨を抱いたまま米輸送艦ミシシネワに突入・戦死。享年21歳。
右は上別府宣紀大尉(鹿児島県出身)仁科少尉と同日、回天で出撃。パラオ・コッソル水道海域にて戦死(享年21歳)
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▲「回天戦」展開地図
93式酸素魚雷は酸素を使用した雷跡が見えない日本海軍の秘密兵器で、射程2万m~3万m。
弾頭の炸薬量は米軍を上回り、破壊力は抜群だった。この魚雷に操縦席を付けたものが人間魚雷『回天』だった。
昭和19年11月8日、海の特攻兵器「人間魚雷回天」初の回天特別攻撃隊『菊水隊』が大津島基地から出撃した。
12基の回天で編成された『菊水隊』は、3隻の伊号潜水艦に搭載され、ウルシー環礁へ向けて出撃していった。
伊36潜水艦と伊47潜水艦の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地へ。
伊37潜水艦はパラオ諸島のコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。
これが回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」で、昭和19年11月20日決行された。
伊47潜水艦からは4基全ての回天が。伊36潜水艦からは4基の内1基、計5基の回天が、ウルシー環礁内に停泊中
の200隻余りの米艦艇目指して発進した。ウルシー泊地攻撃隊は給油艦ミシシネワ1隻を撃沈するも、2基はプグリ
ュー島の南側で珊瑚礁に座礁して自爆している。
回天は戦時中約400基生産され、回天特別攻撃隊「菊水隊」~「多聞隊」まで、回天搭乗員の死者は89名。
訓練中の殉職15名、自決2名。加えて回天を搭載した伊号潜水艦の未帰還8隻(乗組員845名、回天整備員35名)
合計986名の尊い命が、回天特別攻撃隊の作戦で犠牲となった。(回天の訓練を受けた特攻隊員は1375名)
そして戦果は、米給油艦ミシシネワ1隻撃沈、米駆逐艦アンダーヒル1隻撃沈、他2隻撃沈だけであった・・・。
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▲伊号潜水艦に搭載され、出撃する回天。回天の上で手を振る特攻隊員が確認出来る(画像は多聞隊・伊367潜水艦)
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▲米給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59)当時最新鋭の大型タンカーだった。
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▼▲ウルシー環礁で、回天の突入で沈没する米給油艦ミシシネワ(USS Mississinewa, AO-59)米兵63名戦死。
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▲昭和44年(1944)11月20日、給油艦ミシシネワの撃沈は、回天特別攻撃隊の初戦果だった。
伊53潜「多聞隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月14日大津基地を出撃して沖縄とフィリピンの中間海域へ向かう。
伊53潜は20日頃パシー海峡東方海域に到着して哨戒配備に就き、24日敵輸送船団を発見した。
沖縄戦では6/23に日本軍の組織的な戦闘は途絶えており、これら輸送船団のLSTは休養の為、沖縄から引き揚げる米陸
軍歩兵師団の兵士を乗せてレイテ湾に戻るところであった。
この時、伊53潜水艦が遭遇した輸送船団は戦車揚陸艦LST7隻と冷蔵輸送艦アドリアで、これらを護衛駆逐艦アンダー
ヒルの他、大型駆潜艇PC-803・PC-804・PC-892・PC-1251、小型駆潜艇SC-1306・DC-1309・SC-1315、護衛駆
潜艇PCE-872の、合わせて9隻もの護衛がついていた。
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▲(参考画像)USS LST-647
船団の隊形は、護衛を受ける8隻が2隻ずつ四列の編隊を組み、その中央の前方三千米に指揮艦アンダーヒルが位置して
先導し、他の駆潜艇が舶団の周囲を警戒しながらフィリピン・エンガノ岬から200〜300マイル北東を針路183度、速
力9~10ノットで航行していた。
船団は国籍不明機の触接を受けていた事もあり、アンダーヒル艦長ロバートM.ニューカム少佐は、日本の航空機と潜
水艦の攻撃を警戒して神経質になり、護衛艦艇の配備位置をしばしば変更し、自艦が定位置を集れる時は代理の先導艦
を指名した。天候は晴、視界は良好で微風があり、南からのうねりがあるが、海上は平穏であった。
米輸送船団は、伊53潜水艦の近くを通り過ぎていったらしく、既に遠ざかりつつあった。
伊53潜水艦艦長大場佐一少佐は、直ちに総員配置に就け「魚雷戦用意、回天戦用意」を命令。搭乗員全員が回天に乗艇
した。しかし戦闘準備が終わる頃、方位角が120度と大きく後落しており、魚雷や回天での攻撃は無理な態勢であった。
伊53潜水艦の大場艦長は魚雷発射、回天発進共に諦めようとした。
その時、回天搭乗員達が発進を強く希望したので、艦長は先ず回天1号艇、勝山 淳中尉の発進を決定した。
相手がどんどん離れてゆくので、艦長は急いで「艦は今、敵船の後方、東側にいる。攻撃目標は輸送船」と命令。
進出針路、航走時間など簡単に指示した。14:25頃、勝山中尉の回天1号艇は伊53潜水艦を発進。
敵船団へ突進して行った。後続3基の発進は大場艦長がこの態勢では成功の見込みが薄いと判断して取り止めた。
先導中のアンダーヒルは14:15前方に触角のついた浮流機雷を発見していた。米駆逐艦アンダーヒルのニューカム艦
長は、船団を指揮して左45度の緊急一斉回頭を2回続けて行い、遠ざかった上で同艦は離れて機雷に接近し、14:40、
20粍機銃で射撃を開始した。しかし弾丸が命中しているのに機雷は一向に沈まなかった。
アンダーヒルは潜水艦の反応を掴んだので、駆潜艇PC-804を隊内電話で呼び出し、調査するよう指示。その後も前面
近距離に反応が出ていると重ねて通知し、誘導した。
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▲(参考画像)駆潜艇PC-546(USS PC-546)
駆潜艇PC-804は14:42、左舷後方、至近距離に潜望鏡を発見した。潜望鏡は海面下に引き込まれ、間もなく同艇の艦
底を潜水艦が潜り抜けて行った。続いて反対側の右前方100ヤードに潜望鏡が上がり、その下に潜水艦の艦体らしき物
が海面近くに見えた。同艇は直ちに40粍機銃と20粍機統で射撃を開始し、速力を一杯に上げたが、その物体は水中を
高速で突進してきて艦尾の直ぐ近くを通過した。爆雷を浅深度に設定して用意していたが、投下する暇もなかった。
同艦は直ちに「潜水艦が艦底の下を通過した!」と船団指揮艦アンダーヒルに報告した。
彼らは潜望鏡を見たので「潜水艦」と判断したが、これこそまさしく勝山中尉の回天であった。勝山中尉が操縦する回
天は、最初にこの駆潜艇PC-804を攻撃し、その艦底の直下を通り抜けた後、折り返して再度突入したのである。
船団は右90度の一斉回頭をして、元の針路に復帰した。アンダーヒルは潜水艦を探知し、14:53浅深度に調定した爆
雷13発を投下した。爆雷が海中で爆発して、奔騰する水柱が落下した跡に出来る、波が消えた丸い水面を見て、ニュ
ーカム艦長は「潜水艦の油が浮いてきた!」と思い込んだのであろう。「敵潜水艦1隻撃沈!」と隊内電話で各艦へ放
送したが、破片の様な物は浮かんでいなかった。
その直後、駆潜艇PC-804がまたもや潜望鏡を近距離に発見、アンダーヒルはこれに急行した。
潜望鏡はすぐに見えなくなった。ニューカム少佐は「1人乗りの潜航艇が速力15ノットほどで走り廻っている!こいつ
を追いかける」と各艦に流した。激しい操艦を続ける同艦で乗員は、海面上に「いるか」のように断続的に姿を現す潜
航艇を色々な方向に見た。15:05アンダーヒルの艦長は隊内無線電話で「衝撃用意!海の中にいる異様な者どもを追っ
払ってやる!」と放送し、乗員に「衝撃用意!」を重ねて号令した。
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▲米駆逐艦アンダーヒル(USS Underhill, DE-682)1945年7月24日沈没
15:07アンダーヒルの前方、艦首に近いところに潜航艇が浮上するのを駆潜艇PC-804が目撃、アンダーヒルは右に急
旋回した。「魚雷が突っ込んで来る!」と誰かが叫ぶ声が電話で聞こえ、その直後15:15、アンダーヒルの艦橋の右舷
で物凄い大爆発が起こり、前部の弾薬庫が誘爆した。煙と炎が1000フィートの高さに奔騰。300m程の大きな火柱が上
がり、煙は5100mの高さにまで立ち昇った。アンダーヒルはマストの所で真っ二つになり、艦橋は消し飛んだ。
アンダーヒルの乗員は238名。ニューカム艦長以下艦橋にいた乗員は全員戦死。乗員合計112名が戦死した。
交戦地点は北緯19度24分、東経126度43分であった。フィリピン北東端「エンガノ岬」から略東北東270浬だった。
勝山中尉の回天が出撃してから約40分後、目標の方向で重厚な爆発音を聴取した伊53潜水艦大場艦長は15:15頃潜望
鏡を揚げ、敵艦が燃えているのを確認した。同じく司令塔にいて補佐する航海長も潜望鏡を見せてもらったが、視野一
杯に黒煙が立ちのぼっていた。その黒煙が大量であったことから、回天が命中した相手は油送船であろうと推定された。
大場艦長は現場を離脱した後、「大型輸送船1隻轟沈」と第6艦隊に打電報告した。
回天特攻において誰が挙げた戦果であるかを確定できる唯一のケースで、勝山中尉は二階級特進で海軍少佐となった。
戦闘後、まだ多数の敵が周囲に潜んでいると判断した米軍は、19:18アンダーヒルを砲撃処分した。
この戦闘状況は米海軍全体に伝えられ「海中の見えない脅威・回天」を畏怖する心理がたちまち広がったという。
▼勝山 淳中尉(茨城県出身)昭和20年7月24日バシー海峡東方海域にて米駆逐艦アンダーヒルに突入戦死。享年20歳
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勝山中尉が撃沈した米護衛駆逐艦アンダーヒルは「人間魚雷の群と戦い、自らは斃れながらも船団を1隻も傷つける事
無く守り抜いた英雄」となった。ニューカム艦長は勇戦敢闘を讃える栄誉ある銀星勲章(シルバー・スター)を授けられ、
戦没、戦傷乗員及び生存者の一部に「パープルハート勲章」他の勲章が授与された。
メリーランド州の「アナポリス」にある米国海軍兵学校の教会で、戦友会が慰霊祭執行を許されている米国海軍の艦船
は唯ひとつ、第2次世界大戦で1番後に沈んだ小さな護衛駆逐艦に過ぎない「アンダーヒル」だけなのである。
慰霊祭は毎年、同艦が沈んだ7月24日に同艦の戦没者の遺族と生存者、それらの家族によって厳粛に営まれている。
同艦戦友会からは「回天・勝山艇1基だけの攻撃」が信じ難いのか、全国回天会に再三の照会があったという。
この戦闘を体験した米軍生存者達は「相手はたった1人、たった1基の回天」に今なお納得しかねる模様であるという。
「人間魚雷回天」YouTube

以下は回天戦出撃記録 [ 潜は潜水艦の略 ](発進)は、母艦から回天発射=戦死を意味する。
「菊水隊」昭和19年11月8日出撃(伊36潜、伊47潜、伊37潜)
伊36潜「菊水隊」11月8日大津島よりウルシー海域へ出撃
[ 艦長 ]寺本 巌少佐 [ 回天搭乗員 ]吉本健太郎中尉/豊住和寿中尉/工藤義彦少尉/今西太一少尉(発進)
今西少尉の遺書
太一は本日回天特別攻撃隊の一員として出撃します。日本男子と生まれ、これに過ぐる光栄はありません。
生死の程は論ずるところではありません。私達はただ、今日の日本が私達の突撃を必要としていると言うこと知ってい
るのみであります。
遺詠
敵見ゆの心知りたし 今日の袂 亀田兵曹長に贈る
国思う命そそぎし君が手に なれる魚雷ぞ撃たで止むべき
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▲大津島基地を出撃する伊47潜
伊47潜「菊水隊」11月8日大津島よりウルシー海域へ出撃
[ 艦長 ]折田善次少佐
[ 回天搭乗員 ]仁科関夫中尉(発進)/福田 斉中尉(発進)/佐藤 章少尉(発進)/渡辺幸三少尉(発進)
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「玄作戦」で大津島基地を出撃した「菊水隊」伊36潜、伊37潜、伊47潜は各4基ずつ回天を搭載し、12基の回
天特攻隊の初陣であった。
伊36潜と伊47潜の2艦はアメリカ軍機動部隊の前進根拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地へ。
伊37潜はパラオ諸島のコッソル水道に停泊中の敵艦隊を目指して出撃した。
ウルシー泊地攻撃「菊水隊作戦」が11月20日決行され、伊47潜から4基全て、伊36潜からは4基中の1基(今西
艇)の計5基の回天が、環礁内に停泊中の200隻余りの艦艇を目指して発進した。2基の回天はプグリュー島南側
で珊瑚礁に座礁して自爆。1基は湾外でムガイ水道前面で駆逐艦ケースより衝角攻撃を受けて沈没。
残る2基がウルシー泊地進入に成功し、1基が05:47米給油艦ミシシネワへ命中(仁科関夫少尉艇とされる)。
最後の1基は軽巡洋艦モービル (USS Mobile, CL-63) に向けて突入。潜望鏡によって2~4ノットで直進して来
る回天を発見したモービルが、5インチ砲と40ミリ機銃で射撃を開始。機銃弾が命中、5インチ砲弾の至近弾を
受けたため突入コースに入りながら海底に突入し、後に護衛駆逐艦ラール(USS Rall, DE-304)の爆雷攻撃によ
って06:53に完全に破壊された(隊員と女学生が差入れた座布団が海面に上がった)。
伊37潜「菊水隊」11月8日大津島よりパラオ・コッソル水道へ出撃。
11月19日、米護衛駆逐艦コンクリンの攻撃によりパラオ・コッソル水道にて沈没(乗組員全員戦死)
[ 艦長 ]押本信雄中佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]上別府 宜紀大尉(戦死)/村上克巴中尉(戦死)/宇都宮 秀一少尉(戦死)/近藤和彦少尉(戦死)
[ 基地整備員 ]時田久美兵曹長(戦死)/土居完治兵曹長(戦死)前原 酉兵曹長(戦死)栗本 晃1曹(戦死)
伊37潜はパラオ・コッソル水道に向かったがパラオ本島北方で発見された。これは米設網艦ウィンターベリー(
USS Winterberry, AN-56)が、08:58に浮上事故を起こした伊37潜(ポーポイズ運動を行った)を発見し、
通報したものだ。この報告を受けて、米護衛駆逐艦コンクリン(USS Conklin, DE-439)、マッコイ・レイノル
ズ(USS McCoy Reynolds, DE-440)が09:55現場付近へ到着し、両艦はソナーで探索を開始。
午後も捜索を続けた後、15:04コンクリンが探知し、レイノルズが15:3915時39ヘッジホッグ(対潜迫撃砲)
13発を発射したが効果なく失探。16:15コンクリンが再度探知して攻撃したところ「小さい爆発音(命中音と
思われる)らしきもの1」を探知。続くヘッジホッグ2回と艦尾からの爆雷攻撃の1回には反応がなかった。
レイノルズが再度爆雷攻撃を行い(コンクリンがソナーで探査し、後続のレイノルズが爆雷で攻撃する)接近
したところ、17:01海面にまで達する連続した水中爆発を認めた。
以後は反応無く、撃沈と判定され、伊37潜の乗員と隊員117名は全員戦死と認定された。
※ヘッジホッグはイギリスが開発した対潜迫撃砲。イギリス・アメリカなどの連合軍艦艇で広く採用された。


「金剛隊」昭和19年12月1日~昭和20年1月9日出撃(伊56潜、伊47潜、伊36潜、伊53潜、伊58潜、伊48潜)
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▲恐らく呉で撮影されと思われる伊53潜と伊36潜。
伊56潜「金剛隊」昭和19年12月22日13:00回天4基を搭載し、6隻中最も早く大津島基地を出撃。
金剛隊作戦に参加した回天搭載潜水艦6隻中、1番遠い攻撃地点はラバウル北西のドミラルティ諸島マヌス島の
米軍の戦略的要衝、セーアドラー港であった。
[ 艦長 ]森永正彦少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎実中尉/前田肇中尉/古川七郎上等兵曹/山口重雄1等兵曹
昭和20年1月13日第6艦隊司令部は金剛隊各艦宛「14日黎明までに攻撃の機を得ざる艦は中止、呉帰投を命ず」
と打電した。 しかし14日夜になって、艦長は突入敢行を企図するも、米軍哨戒機・警戒艦艦が動き始め、聴
音の感度がいつまでも消えなかったのに加え、13日未明以来40時間を超える苦闘の潜航となって、艦内の空気
は呼吸出来る限度一杯に近づき、遂に艦長は回天の発進を断念して再起を図ることに決定、帰途についた。
16日、伊56潜は制圧を受け不成功の旨を打電、これに対し第6艦隊司令部は18日、同艦へ「耐久試験の見地か
ら回天を搭載したまま帰投せよ」と命令した。 
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▲伊48潜「金剛隊」昭和20年1月9日回天4基を搭載し、大津島基地を出撃。ウルシー環礁(泊地)へ向かう。
[ 伊48潜艦長 ]当山全信少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]吉本健太郎中尉(戦死)/豊住和寿中尉(戦死)/塚本太郎少尉(戦死)/井芹勝見2等兵曹(戦死)
伊48潜は出撃後一切の連絡を行うことなく消息を絶ち、回天を出撃させる事無く、米護衛駆逐艦コンクリン
(USS Conklin, DE-439)のヘッジホッグ(対潜迫撃砲)で撃沈された。
沈没地点はヤップ島北端の北方17浬の北緯9度55分、東経138度17.5分であった。
駆逐艦コンクリンの艦全体が水平に、数フィートも海面から持ち上がった程の猛烈な水中爆発であったという。
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▲伊37潜・伊48潜と、2隻の伊号潜水艦を撃沈した米護衛駆逐艦コンクリン(USS Conklin, DE-439)
伊53潜「金剛隊」昭和19年12月30日大津島基地を出撃。パラオ諸島コッソル水道へ向かう。
[ 艦長 ]豊増清八少佐
[ 回天搭乗員 ]久住 宏中尉(発進)/伊東 修少尉(発進)/有森文吉上曹(発進)/久家 稔少尉(回天故障により帰投)
パラオ諸島南部のペリリュー島は既に米軍に占領されていたが、日本国南洋政庁があったパラオ本島(バベルダオブ島)
には米軍は上陸せず兵糧攻めにした為、パラオ本島内には多くの日本軍将兵が飢餓と戦いながら活動していた。その中
の海軍第30根拠地隊が飢餓とパラオ本島北部のコッソル水道に居る米艦隊の状況を内地へ報告していた。
伊47潜「金剛隊」昭和19年12月25日大津島基地を出撃。ニューギニア北岸のホーランディア港へ向かう。
[ 艦長 ]折田善次少佐
[ 回天搭乗員 ]川久保 輝夫中尉(鹿児島県出身・発進)/原 敦郎中尉(長崎県出身・発進)
村松 実上曹(静岡県出身・発進)/佐藤勝美1曹(福島県出身・発進)
伊36潜「金剛隊」昭和19年12月30日大津島基地を出撃。西カロリン諸島のウルシー泊地へ向かう。
[ 艦長 ]寺本 巌少佐
[ 回天搭乗員 ]加賀谷 武大尉(発進)/都所静世中尉(発進)/本井文哉少尉(発進)/福本 百合満上曹(発進)
伊58潜「金剛隊」昭和19年12月30日10:00大津島基地を出撃。米軍に占領されたグアム島西岸のアプラ港へ向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]石川誠三中尉(発進)/工藤義彦中尉(発進)/森 稔2飛曹(発進)/三枝 直2飛曹(発進)


「千早隊」昭和20年2月20・21・22日出撃(伊368潜、伊370潜、伊44潜)
昭和20年2月19日米軍は硫黄島へ上陸を開始。第6艦隊は急遽、硫黄島水域への出撃に変更する。
3艦で「千早隊」を編成、伊368潜は2月20日、伊370潜は翌21日、伊44潜は22日に慌ただしく出撃していった。
伊368潜「千早隊」昭和20年2月20日光基地より出撃。昭和20年2月26日硫黄島海域にて沈没(乗組員85名戦死)
[ 艦長 ]入沢三輝少佐(戦死)
[回天搭乗員]川崎順二中尉(戦死)/石田敏雄少尉(戦死)/難波進少尉(戦死)/芝崎正七2飛曹(戦死)/磯部武雄2飛曹(戦死)
[ 基地整備員 ]黒川文男上曹(戦死)/浜本安雄1曹(戦死)/関 儀政1曹(戦死)/重松正市2曹(戦死)/岩橋繁行2曹(戦死)
「千早隊」が出撃前に指示された攻撃目標は「硫黄島付近を遊弋中の敵有力艦船」であった。
攻撃目標が泊地に停泊している空母、戦艦から、移動中を含めた主要艦船に移行したのだ。
この攻撃目標は広い洋上で遭遇した航行中の艦船ではなく、攻撃水面は交戦中の戦場の真ただ中になる。
泊地内の碇泊艦を奇襲攻撃した「菊水隊」「金剛隊」よりも一層厳重な敵の警戒の元での浮上充電、搭乗員乗艇、
更に発進した回天は交戦水域の中で敵艦を捜し求めての襲撃になる。
伊368潜は、硫黄島周辺に達する頃、米護衛空母アンジオの搭載機TBF(アメリカ海軍の主力雷撃機で、愛称はア
ヴェンジャー)に捕捉され潜航したが、執拗な追跡・攻撃が続き、遂に硫黄島西方24浬の地点で沈没した。
この交戦の際、TBF搭乗員は伊368潜甲板上に回天の姿は無かったと証言している。既に回天が発進した後の可
能性があり、硫黄島守備隊からも洋上に火柱多数を見たとの報告をしているが、確かな情報は得られていない。
TBFの爆弾倉に納まるのは、新兵器で小型の電池魚雷「24型魚雷」であった。
低空から投下すると潜水艦の推進機音を聴きながら海中を追いかけてゆく。火薬量は僅か44キロであるが、潜航
中の潜水艦に直接接触して爆発すればこれで撃沈が可能であった・・・。
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▲グラマンTBFアヴェンジャー雷撃機
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▲「千早隊」伊370潜出撃記念写真(昭和20年2月光基地庁舎横にて)前列左より橋口中尉/熊田2飛曹/田中少尉/
岡山少尉/是枝少佐/市川少尉/浦佐2飛曹/坪根少尉。後列左より河合中尉/三谷大尉/東島少尉/宮田大尉/浜口大尉
/池本少尉/加藤少尉/成瀬少尉/堀田少尉三好少尉/井上少尉。
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▲硫黄島に向かって出撃する「千早隊」伊370潜。昭和20年2月26日硫黄島南部海域にて沈没。
伊370潜「千早隊」昭和20年2月21日光基地より出撃。硫黄島海域へ向かう。
[ 艦長 ]藤川進大尉(戦死)
[ 回天搭乗員 ]岡山至中尉(宮崎県出身・戦死)/市川尊継少尉(新潟県出身・戦死)/田中二郎少尉(兵庫県出身・戦死)
浦佐登一2等飛行兵曹(群馬県出身・戦死)/熊田孝一2等飛行兵曹(福島県出身・戦死)
2月26日未明、硫黄島で積荷を全部陸揚げした米輸送船9隻は、船団を駆逐艦など4隻が護衛してサイパンに帰る途
中の米海軍護衛駆逐艦フィネガンが伊370潜を発見、ヘッジホッグ攻撃を開始し、伊370潜は撃沈された。
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▲駆逐艦フィネガン(USS Finnegan (DE-307)
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▲2月22日伊44潜「千早隊」回天4基を搭載して硫黄島方面に向かう為、大津島基地を出撃。
3月6日、第6艦隊司令部は「硫黄島水域に於ける回天作戦を中止、呉帰投」を打電命令。
伊44潜「千早隊」昭和20年2月20日大津島基地より出撃。硫黄島海域へ向かう。
[ 艦長 ]川口 源兵衛大尉
[ 回天搭乗員 ]土井秀夫中尉/亥角泰彦少尉/館脇孝治少尉/菅原彦五2飛曹
伊44潜は回天を搭載したまま3月9日大津島に帰着、11日呉に入港。


「神武隊」昭和20年3月1・2日出撃(伊58潜、伊36潜)
伊58潜「神武隊」3月1日光基地より出撃
[ 艦長 ]橋本以行少佐 [ 回天搭乗員 ]池淵信夫中尉/園田一郎少尉/入江雷太2飛曹/柳谷秀正2飛曹
伊36潜「神武隊」3月2日大津島基地より出撃
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎 実中尉/前田 肇中尉/古川七郎上曹/山口重雄1曹
以上、全員作戦中止により帰投。


「白龍隊」昭和20年3月13日光基地を沖縄へ向け出港(第18号輸送艦)
本部半島の運天港(現在の沖縄本島名護市)にあった海軍基地に配備される予定の回天隊だったのかもしれない。
米資料によると、那覇港到着前に米潜水艦・スプリンガーから魚雷8発と、約1時間の攻撃を受け、大槻勝艦長ら乗員
225人と、回天搭乗員「白龍隊」127名が全滅したとされている。搭乗員名簿は作成されているが、回天隊員14人の
氏名などが判明している以外は不明のままだという。


中国に大帝国「元」を築いたモンゴル(蒙古)が13世紀の鎌倉時代、2度に渡り大船団を組んで日本へ襲来した。
その「元寇」第2次の「弘安の役」では兵力14万人、軍船4400余隻に及んだ。
この時、日本の武士団は博多湾の「多々良浜」などで、上陸して来る侵攻軍を迎え撃ち、ことごとく撃退した。
元の大軍は陸地を占領出来ないまま、佐賀県北部の鷹島周辺に一団となって固まっていたところに大型台風が
直撃して大船団は壊滅し、「生きて還る者、僅かに3人」と伝えられるほどの惨状となった。
この大型台風の暴風が「神風」だが、「多々良隊」の名はこの戦いの古戦場からとられた。
「多々良隊」昭和20年3月28日~昭和20年4月3日出撃(伊47潜、伊56潜、伊58潜、伊44潜)
硫黄島陥落後、米軍は昭和20年3月26日沖縄に進攻。第六艦隊司令部は27日、回天搭載伊号潜水艦4隻で、
「多々良隊」を編成、各艦は次々と瀬戸内海西部を出て、沖縄周辺の敵艦隊の攻撃に向かった。
伊47潜は「菊水隊」「金剛隊」に参加した後、前甲板の14糎砲を撤去し、2基の回天を搭載する設備を新設し、
合計6基の回天を積む事となった。食糧は2ヵ月分を積み込み、魚雷は20本搭載した。
伊47潜「多々良隊」昭和20年3月29日光基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 伊47潜艦長 ]折田善次少佐
回天搭乗員は、先の「金剛隊」で伊56潜に乗って出撃し、発進の機会が無く帰還した搭乗員と新たな2名だった。
柿崎 実中尉(山形県出身)/前田 肇中尉(福岡県出身)/古川七郎上等兵曹(岐阜県出身)
山口重雄1等兵曹(佐賀県出身)/新海菊雄2等飛行兵曹(山梨県出身)/横田寛2等飛行兵曹(山梨県出身)
伊47潜は「多々良隊」の先頭を切って3月28日朝の呉軍港を盛大な見送りを受けて出港、夕刻、光基地に着き、
回天6基を搭載して翌29日午後出撃、沖縄を目指したが米軍機の必要な攻撃で損傷し、呉に帰着している。
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▲4月3日伊44潜「多々良隊」亥角泰彦少尉/館脇孝治少尉/菅原彦五2飛曹/西山兵曹(整備員)/土井秀夫中尉
伊44潜「多々良隊」昭和20年4月3日大津島基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]増沢清司少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]土井秀夫中尉(大阪府出身・戦死)/亥角泰彦少尉(京都府出身・戦死)
館脇幸治少尉(福島県出身・戦死)/菅原彦五2等飛行兵曹(宮城県出身・戦死)
ご覧になってお解りの通り、2月20日に伊44潜で「千早隊」として出撃して帰還していた4名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
伊44潜は4月3日の出撃以後連絡が無く、そのまま消息を絶っている。
米軍側が伊44潜との交戦と記録している4月29日の対潜水艦攻撃は、護衛空母ツラギから発艦したTBF(グラマン・アヴ
ェンジャー雷撃機)によるものであった。哨戒飛行中に浮上潜水艦を探知し、急接近して航空爆雷を投下、潜没しつつあ
る潜水艦に命中。続けて聴音追尾魚雷を投下し、命中爆発する音響を聞いたというものであるが、伊44潜詳細は不明。
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▲「多々良隊」左から石直新五郎2飛曹/宮崎和夫2飛曹/福島誠二中尉/八木寛少尉/川浪由勝2飛曹/矢代清2飛曹
伊56潜「多々良隊」昭和20年3月31日大津島基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]正田啓二少佐(戦死)
[ 回天搭乗員 ]福島誠二中尉(和歌山県出身・戦死)/八木 寛少尉(山口県出身・戦死)
川浪由勝2等飛行兵曹(北海道出身・戦死)/石直新五郎2等飛行兵曹(岩手県出身・戦死)
宮崎和夫2等飛行兵曹(北海道出身・戦死)/矢代 清2等飛行兵曹(東京都出身・戦死)
4月5日久米島周辺で米軍上陸支援艇LCS-115の対水上レーダーで発見され、駆逐艦ハドソンの爆雷攻撃で沈没。
伊56潜乗組員122名は母艦と共に散華した。
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▲米駆逐艦ハドソン(USS Hudson (DD-475)
伊58潜「多々良隊」昭和20年4月1日光基地より出撃。沖縄周辺海域へ向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]池淵信夫中尉(兵庫県出身)/園田一郎少尉(神奈川県出身)
入江雷太2等飛行兵曹(東京都出身)/柳谷秀正2等飛行兵曹(北海道出身)
ご覧になってお解りの通り、3月1日に伊58潜で「神武隊」として出撃して帰還していた4名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
伊58潜は、4月6日にようやく奄美大島の西方に出た。沖縄西方海面に近づくにつれて天侯が悪化し、白波が立つ
荒天となった。暗雲が低迷して天測出来ず、自艦の位置さえ不明で、回天を発進させるには不適当な状況だった。
同日、戦艦大和他の海上特攻出撃の通知を聞いた橋本艦長は、その艦隊の後を付いて行き、一緒に突入すれば
沖縄に辿り着けると考えて艦隊を待った。しかし米軍艦載機の攻撃で大和、矢矧と駆逐艦4隻は沈み中止となった。
連合艦隊司令部からは「決死突入せよ」との厳命が来たので、伊58潜は意を決して浮上進撃に移ったが、忽ち米軍
哨戒機に遭遇するほど警戒態勢は厳重であった。
橋本艦長は4月10日第6艦隊司令部へ「7日以来、西方より突入を企図したが、悪天候と敵の厳重な警戒の為、回天
の発進に不適、自艦の位置も5日以来解らない。敵の制圧下では回天の整備が出来ない上、哨戒機にも発見されて
おり、一時離脱して再挙を期す」旨報告した。
伊58潜は一時九州の近くにまで引き返し、天候の回復を待つと共に十分に充電を行い、回天の整備を行って11日よ
り再び沖縄に向かったが天候は依然として回復せず、敵機は絶え間なく飛来し、回天発進の機会は掴めそうにはな
かった。第6艦隊司令部は伊58潜の報告から、このままの作戦を続行する事は被害を受けるのみで成功の見込みが
乏しいと判断。4月14日「多々良隊」各艦へ一旦太平洋側に出て、沖縄とマリアナ諸島を結ぶ線上で敵輸送ルートを
航行する艦船を攻撃するよう命令したが、伊58潜はその後敵艦船に会う機会無く4月29日、光基地に帰還して回天4
基と搭乗員を陸に揚げた。第六艦隊司令部も、ようやく米軍の厳重な対潜水艦警戒態勢、防御能力を認識した。
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▲▼ハワイ米国陸軍博物館に保管されていた「回天」が昭和54年8月日本に返還され、遊就館に展示されているが、
この回天一型改一の実物は、米国から貸与中との事。日本が作った物を接収された米国側にお金を払って借りてい
るという事か・・・しかもこの回天は、胴体及び訓練用頭部が実物であるだけで、完備品ではないそうだ。
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第6艦隊司令部は回天搭載伊号潜水艦以外にも3月中旬、伊8潜・呂41潜・呂49潜・呂56潜の4隻を九州南東水域へ、
次いで沖縄南東水域へ敵機動部隊攻撃に向かわせ、更にその後沖縄周辺にいる艦船への突入攻撃を命じた。
しかし四隻とも、3月中に消息が途切れた。第6艦隊司令部は更に、呂46潜・呂50潜・呂109潜の3隻を出撃させ、沖
縄から二百浬圏付近の敵艦舶攻撃に向かわせた。通常型潜水艦は合計8隻が沖縄戦に投入され、その中で帰還した艦は
沖縄から離れて哨戒任務に就いた呂50潜ただ1隻であった。
結局、潜水艦11隻が沖縄戦に参加し、8隻が未帰還、戻ってきたのは3隻であり、その内2隻が回天搭載艦であった。
第6艦隊司令部は「千早隊」と同じく、戦場の局地に回天搭載潜水艦を投入する戦法をとり、「多々良隊」においても
同じ様に大きな損失を被った。
伊56潜が沈没した翌4月6日、神風特別攻撃隊「第3御楯隊」「菊水天山隊」「第1草薙隊」「第1八幡護皇隊」「第1
正統隊」などの海軍航空特攻や、「戦艦大和」と第2水雷戦隊の旗艦軽巡「矢矧」「冬月」「霞」など駆逐艦8隻から
なる海上特攻の出撃を含めた総攻撃が行われた。これに呼応して陸軍も航空総攻撃を行っている。
九州、台湾の各基地から出撃して突入した特攻機は海軍161機(乗員279名)、陸軍61機(61名)に及んだ。
第6艦隊司令部が沖縄に送り込んだ回天搭載艦を含む潜水艦11隻がこの総攻撃日と合致したならば、混乱に乗じで回
天攻撃の機会が生まれる可能性は大きかったと思われる。沖縄に投入された特攻作戦は全てがちぐはぐであり、沖縄
特攻作戦全てが、米軍が沖縄本島に上陸を開始した4月1日に成されるべきだったと思えてならない・・・。


「天武隊」昭和20年4月20・22日出撃(伊47潜、伊36潜)
伊36潜「天武隊」昭和20年4月22日光基地より出撃。沖縄東方海域へ向かう。
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐
[ 回天搭乗員 ]八木悌二中尉(熊本県出身・発進)/安部英雄2等飛行兵曹(北海道出身・発進)
松田光雄2等飛行兵曹(茨城県出身・発進)/海老原清三郎2等飛行兵曹(東京都出身・発進)
野村栄達2等飛行兵曹(東京都出身)/久家 稔少尉(大阪府出身)
伊36潜は敵の制空権の下で、昼夜を問わず敵機が飛来する都度、潜航を強いられながら南下を続け4月26日夜、沖縄
とサイパンを結ぶ線上、沖大東島の北東海面に到着した。
沖縄に向かう敵の大船団を発見して直ちに潜入、菅昌艦長は6基全ての回天に「魚雷戦、回天戦用意」を命令した。
しかし2基は故障であった。菅昌艦長は魚雷発射距離まで船団が接近してくる見込みがないと判断。回天だけで攻撃す
る事に決定。八木艇、松田艇、安部艇、海老原艇の順に、4基が一分間隔で次々と発進していった。
天候は晴、海上は平穏、視界は艮好であった。敵護衛艦艇が接近してきたので、伊36潜は深度40米に潜入した。
その後、大爆発音と艦体に響く程の震動が伝わり、計4回の爆発音を聴いた。菅昌艦長は、回天各艇が順調な機械音を
残して走り去ってから長い時間が経った様に感じていたが、後で発進後10分過ぎの事と聞かされたという。
夜「米艦船4隻撃沈」との戦闘速報を第6艦隊司令部に打電、折り返し帰投命令を受けた。
伊36潜は内地に向かい、4月30日光基地へ戻り残った回天2基と搭乗員・整備員をおろし、5月1日呉に帰着した。
4月27日に伊36潜が遭遇した敵輸送船団は、サイパンから沖縄に向かっていた戦車揚陸艦LST 、中形揚陸艇LSM等の
上陸用艦艇5縦列編成30隻以上の大集団であった。
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▲4月17日伊47潜に搭載した回天の上に太刀、見送りに答える搭乗員(山口県の光基地にて)
柿崎稔中尉/前田肇中尉/古川七郎上飛曹/山口重雄1飛曹/新海菊雄2飛曹/横田寛二2飛曹
伊47潜水艦「天武隊」は4月17日呉工廠の潜水艦桟橋を離れ、光基地(山口県光市)に回航して回天を搭載。
搭乗員と整備員を乗せて4月20日光基地を離れ、沖合で訓練を行い平生基地に寄港して22日午後発航、沖縄南東洋上
に於いてグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路を遮断する新たな作戦を実施するため、一路南下した。
僚艦伊36潜も同じく22日朝、光基地を出撃して徳山で燃料、清水を積載し、同日夕刻に、伊47潜より遅れること2時
間程で豊後水道を通過し、グアム・サイパン~沖縄間の敵補給線に向かって出撃した。
[ 伊47潜艦長 ]折田善次少佐 [ 回天搭乗員 ]柿崎 実中尉(山形県出身・発進)/前田肇中尉(福岡県出身・発進)
古川七郎上等兵曹(岐阜県出身・発進)/山口重雄1等兵曹(佐賀県出身・発進)
新海菊雄2等飛行兵曹(山梨県出身)/横田 寛2等飛行兵曹(山梨県出身)
ご覧になってお解りの通り3月29日に伊47潜で「多々良隊」として出撃し、帰還した6名であり、再出撃となった。
死地に赴く出撃を2度も経験しなければならなかった隊員の心中を想うと、胸が張り裂けそうになる・・・。
4月26日伊47潜は沖縄南東200浬圏のグアムとを結ぶ線上の配備点に就いた。30日には350浬圏に移り、5月1日再び
250浬圏まで戻って哨戒を続けて敵船団らしい艦船を発見。
回天搭乗員の柿崎中尉は「輸送船団ならば、是非とも回天を攻撃に使って下さい」と要請したが、折田艦長は拒否。
極力接近を計って魚雷4発を発射した。折田艦長によれば「命中火柱が3本上がり、続いて爆発音三を聴いた。
潜望鏡による視認と聴音報告を総合して、1隻に2発が命中、後1発が別の1隻に命中、艦種不明だが1隻撃沈は確実」
と判断した。敵の反撃はな無く、捜索も受けなかったという。
翌5月2日、またも敵船団を発見。「敵は1万トン級の大型油送船1隻、護衛の駆逐艦2隻」と、折田艦長の潜望鏡観測
の状況が艦内に流れ、「魚雷戦、回天戦用意」を命令した。天候晴、海上は平穏で、相手は大型、しかも低速。
好目標だった。「1号艇、4号艇発進用意」の号令がかかり、柿崎中尉と山口兵曹は直ちに「七生報国」の鉢巻を締め
シャツと作業ズボン・半長靴の、訓練と同じく身軽な服装で、携帯電灯と砂時計を首に掛け、それぞれの艇に急ぐ。
柿崎中尉はいつも通りの淡々とした表情で「二コッ」と笑みを浮かべて、擦れ違う乗員の激励を背に受けながら交通
筒を昇り、回天に乗艇したという。
折田艦長は「各艇は発進後、針路30度、速力20ノットで12分間全没航走。第1回の露頂時の予想位置は、駆逐艦の
左前方約1000米。後は各自の観測に基づいて突入せよ。第1目標は油送船、第2目標駆逐艦」と、電話で命令した。
1号艇(柿崎中尉)4号艇(山口兵曹)が発進。柿崎艇発進から21分経過後、回天命中の大爆発音が聞こえた。
続いてその5分後、第2の大爆発音が、いずれも船団音源と同じ方向で起こった。
間違いなく回天のかなり近い距離での爆発だった。
戦後、折田艦長の戦記には、この時の敵船団を「2本煙突の大型輸送船2隻、大型駆逐艦1隻」と記述されている。
聴音室は又しても音源を捕捉した。「フレッチャー」型大型駆逐艦の2隻編隊、距離約4000米、中速力であった。
距離、態勢共に魚雷攻撃圏外だが、回天ならば追撃ができると折田艦長は判断、古川兵曹に乗艇・発進を命じた。
回天と敵駆逐艦の両音源は段々と聴音の感度が微弱となり、約20分経過した頃には両方とも消滅した。48分後「駆
逐艦と回天の感度が出ました」と聴音員が報告、やがて回天の推進機音が高くなり、大轟発音が長い余韻を引いて
潜水艦に伝わってきた。伊47潜は敵に所在を知られたので、南東に高速で移動して索敵を続けた。
残る魚雷は16本、回天は3基であった。
7日、またもレーダーが約40キロに敵目標を捕捉、音源を捉えた。折田艦長が潜望鏡で英国「レアンダー」型巡洋艦
1隻、駆逐艦2隻を視認し、「回天戦、魚雷戦用意」を号令、残る回天3基全艇の搭乗員に乗艇を命じた。
6号艇(新海2飛曹)3号艇(横田2飛曹)の2基は電話機が不調になって聴き取れず、5号艇(前田中尉)だけが発進した。
大爆発音が一発響いた。回天5号艇(前田中尉)が発進して約24分後の事であった。
7日夜、伊47潜は浮上して第一戦速で水上移動しながら、第6艦隊司令部に戦闘速報を発信した。
第6艦隊司令部から8日夜「伊47潜の奮闘、大戦果を感謝す。直ちに作戦行動を中止し、呉に帰投せよ」との電報を
受け、北上して帰途に就いた。12日光基地に帰着、発進出来なかった回天2基と搭乗員、整備員6名をおろし、13日
呉に帰着。天武隊作戦を終結した。ラジオは大本営発表を臨時ニュースで放送していた。
「我が潜水艦が軽巡洋艦1隻、大型駆逐艦2隻、大型輸送船5隻を轟沈、輸送船2隻を撃沈、輸送船1隻撃破、計11隻
の大戦果を挙げた」というものであった。
※「天武隊」の戦闘詳報は現存しておらず、伊47潜「天武隊」については、折田艦長が詳述した幾つかの手記の他、
戦友会会報、日本海軍潜水艦史の記述などが残されている。しかし米国側の各種記録は、上記のいずれの攻撃につ
いても認知していない。伊47潜が挙げた魚雷や回天の戦果は、いずれも潜望鏡で命中・沈没を目視したものでは無
く、聴音による推定であるのに加え、伊47潜から出た資料以外には、伊47潜の攻撃による沈没も、損傷も、また交
戦の事実さえ、証明する記録が発見されていないという・・・。


「振武隊」昭和20年5月5日出撃(伊367潜)
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▲伊367潜(※画像は多聞隊)
伊367潜「振武隊」5月5日08:30大津島基地よりグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路の中間水域へ出撃
[ 艦長 ]武富邦夫少佐 [ 回天搭乗員 ]藤田克己中尉(山口県出身)/小野正明2飛曹(北海道出身・発進)
千葉三郎2飛曹(岩手県出身・発進)/岡田  純2飛曹(長野県出身)/吉留文夫2飛曹(北海道出身)
サイパンと沖縄を結ぶ線上で、索敵を続ける日々であったが、洋上行動日数が20日以上経つと、回天の故障が多発
すると言う戦訓がある為か、5月26日には第6艦隊司令部から帰投命令を受けた。
武富艦長は搭乗員を発令所に集め「作戦を打ち切り帰途に就く」と伝えたが、搭乗員達は「明日は敵に会う様な気
がする」と、口々に1日の猶予を願い出た。艦長は了承して、50浬移動して待敵した。
搭乗員は更に身体を水で清めたいと希望して、潜水艦では貴重な真水を洗面器2杯貰い、狭い艦内の通路で身体
を拭った。潜水艦には浴室もシャワーも無い。
翌27日未明、予感が当って遂に敵船団を北方、約4万米の遠距離に発見した。「回天戦用意」の号令がかかり1号
艇(藤田中尉)2号艇(吉留1飛曹)3号艇(千葉2飛曹)が発進準備に入る。しかし、藤田中尉の電動縦舵機に不具合が生
じ、命令により発進を中止。吉留艇も縦舵機が同じ故障で作動せず、発進中止。
3号艇(千葉2飛曹)5号艇(小野2飛曹)が発進した。4号艇(岡田2飛曹)は速力を20ノットに調定し、発動桿を力一杯
後ろに押した。しかし発動音が聞こえず、高圧酸素の圧力計の針が速く下がりはじめた。
岡田2飛曹は艦内の連絡係りに電話で「4号艇冷走」と叫んだ。「冷走」が、訓練の時には使わなかった言葉なので、
連絡係りが聞き誤り「熱走」と司令塔に報告した。「第1バンド外せ」の号令で回天を艦体に固縛する前部バンド
が外され、後部の第2バンドだけで甲板に繋がる状態になったが連絡係りが異変に気付き「冷走」と司令塔に伝え、
最後のバンドが外される直前に発進中止となり、岡田2飛曹はどうにか艦に止まる事が出来た。
発進して行った3・5号艇の推進器音は順調に聞こえていたが、やがて遠くに消え、爆発音、数分後に又爆発音を艦
内の一同が聴いた。距離は約2万米であった。「両艇命中」と判断されたが、艦長は回天の発進後深く潜航し、そ
のまま北方へ退避を続け、潜望鏡深度まで浮き上がることもなかったので、爆発の状況を視認していない。
伊367潜は6月4日午後、大津島基地に帰還。整備員を退艦させ、光基地に回航して残った3基の回天を陸に揚げ、
5日呉に帰港した。回天搭乗員3名は呉まで乗って行き、第六艦隊司令部で開かれた報告研究会に出席した。
生身の人間が乗る回天を、自分の命令で発進させる事に武富艦長は航海中常々苦悩していたと言う。
武富艦長は病気退艦した。心痛のため、十二指腸潰瘍を患っていたと言われる。
一方、伊367潜軍医長の梶原貞信軍医大尉は熱誠の快男児であった。「振武隊」として出撃する直前に操舵手が肺
炎で入院、交替補充員が間に合わなかったが、梶原軍医長は「自分が操舵当直の勤務に就く」と名乗りを挙げた。
微妙な感覚と熟練を必要とする重要な配置であるが、慶応大学のボート部でオールを漕いでいて、操舵経験もある
梶原軍医は、艦長の潜航操舵の実技テストを受けて、文句なく合格。
2時間交代の三直哨戒の操舵手を受け持ち、水上航走中、潜航中とも出撃航海1ヵ月の間、完壁に勤め上げた。
「軍医長兼操舵手」とは稀有な例であった。


「轟隊」昭和20年5月24日~昭和20年6月17日出撃(伊361潜、伊363潜、伊36潜、伊165潜)
回天攻撃目標を、洋上航行中の敵艦船に転換した「天武隊」「振武隊」の後を承け、5月末、回天特攻「轟隊」が
伊号潜水艦4隻で編成され、沖縄に侵攻した米軍の補給ルートを遮断する任務に就いた。
大型潜水艦は伊36潜のみ。残りは旧式の中型潜水艦伊165潜と、輸送潜水艦改造の伊361潜・伊363潜であった。
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▲伊361潜「轟隊」の出撃。
伊361潜「轟隊」5月24日光基地よりグアム・サイパン~沖縄を結ぶ米軍補給航路の中間水域へ出撃。
[ 艦長 ]松浦正治少佐(伊361潜水艦乗員合計81名全員戦死)
[ 回天搭乗員 ]小林富三雄中尉(三重県出身)/金井行雄1等飛行兵曹(群馬県出身)
斉藤達雄1等飛行兵曹(茨城県出身)/田辺晋一1等飛行兵曹(千葉県出身)/岩崎静也1等飛行兵曹(北海道出身)
伊361潜は出撃以後連絡なく消息不明となった・・・。
米軍の記録によれば護衛空母アンジオが沖縄東方洋上で対潜水艦掃討の任務に就いていた5月31日、艦載機TBF機長
ストパル海軍中尉が操縦するアヴェンジャー雷撃機が潜水艦を発見。天候曇。ストパル機長は旋回して潜水艦の左舷
真横のロケット弾攻撃を加える射点に就き、04:48翼下に搭載した4発を発射。左へ旋回中、機長は潜水艦が潜航し
始めるのを見た。彼は接近して「24型機雷」を投下しようとしたが失敗。
アヴェンジャー雷撃機が潜水艦の上を通り過ぎた時、艦橋はまだ海面上にあったが、60秒後には波間に見えなくなり
機がもう一度左へ旋回して戻ってきた時は、潜没した後の渦がクッキリと見えていた。
機長は手動の緊急投下装置を使って爆弾倉の「24型機雷」を渦の60米前方に投下した。投下時刻04:52。
続いて聴音ブイ6個全部を連続投下した。全てが正常に作動し、多数のブイから音が聞こえた。その1つからはっきり
した推進機音が聞こえた。機雷投下の約4分後、電信員はいきなり、激しい音を聞いた。
蒸気が噴出する毎にその音は大きくなり、電信員がイヤホンを頭から外したほどであった。時刻は04:56であった。
その音響は始まってから約30秒後に小さくなり、代わって「石油缶を潰す様な破壊音」が起こった。
米護衛駆逐艦2隻が交戦現場に到着して捜索を開始。重油の油膜の中心に入って潜水艦を撃沈した証拠物件を拾い
揚げた。木甲板の破片、ニス塗り及びペンキ塗りの木片、コルク片、麦藁、蝋燭、日本文字を捺印した真空管入りの
小箱、日本語が書かれた紙などであった。交戦地点は北緯22度22分、東経134度09分であった。
護衛空母アンジオでは、母艦に帰還した乗員3名を1人づつ呼び出して日本潜水艦の写真を見せ、彼等が攻撃した潜水
艦はどれかと訊ねたが、3人共「伊161潜」と指摘した。しかし「海大四型」の伊61潜は海戦直前に事故で沈没して
おり、昭和17年5月にそれらが番号を付け替えた「伊161潜」なるものは存在しない。
米海軍の写真集作成者のミスであろう。同形艦はすべてが既に戦没していて、類似の「海大五型」等も、当時行動出
来たものは伊165潜のみであるが、同艦も「轟隊」で6月15日に出撃してマリアナ東方を行動し、6月27日に沈んだ。
伊361潜はこれらとは艦形がかなり違うので、3人の艦型識別能力には疑問があるものの、艦砲を持っていない事まで
認識しており、日出が近い薄明時に艦の真横から頭上を低空で通過しているのであるので、もし回天を搭載していれ
ば当然気付いた筈であるので、搭載回天5基が既に発進を終えていた可能性は否定出来ない。
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▲伊36潜「轟隊」左より横田寛一1飛曹/野村英造1飛曹/柳谷秀正1飛曹/久家稔少尉/園田一郎少尉/池淵信夫中尉
(※遺骨は訓練中に殉職した入江雷太1飛曹/坂本豊治1飛曹)
伊36潜「轟隊」は回天6基を搭載して昭和20年6月4日、光基地を出撃してマリアナ諸島東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]菅昌徹昭少佐 [ 回天搭乗員 ]「振武隊」「多々良隊」の両作戦に伊58潜で出撃した4名。
池淵信夫中尉(大阪府出身・発進)/園田一郎少尉(神奈川県出身)/入江雷太1等飛行兵曹(東京都出身・殉職)
柳谷秀正1等飛行兵曹(北海道出身・発進)と、「金剛隊」伊53潜と「天武隊」伊36潜で発進できず帰還していた2名。
久家 稔少尉(大阪府出身・発進)/野村栄造1等飛行兵曹(東京都出身)
伊36潜は「天武隊」参加の後、呉で修理を終え、5月17日から光基地で訓練用回天を搭載し、発進と急速潜航訓練を
重ねた。初日の5月17日、入江1飛曹が大津島沖合で伊36潜から発進し、航行中の目標艦に向かって襲撃訓練中、目
標艦に衝突して沈没し、同乗中の坂本豊治1等飛行兵曹と共に殉職した。
補充に「多々良隊」伊47潜で帰還していた横田 寛1等飛行兵曹(山梨県出身)が任命された。
訓練を23日に終了し、呉に戻り燃料・食料を積載、28日呉発、光基地に戻り6月3日回天6基を搭載し、4日出撃し、
17日頃配備海面のマリアナ諸島東方の水域に到着。潜望鏡で大型輸送船3隻を発見「魚雷戦・回天戦用意」発令。
直ちに1号艇(池淵中尉)5号艇(久家少尉)が発進用意を整えたが、距離があり、遠ざかって行って発進を中止した。
27日大型輸送船1隻を発見して急速潜航、魚雷戦用意。大型タンカーが新たに出現したので、目標を転換し、艦長は
前甲板の回天2基に「発進用意」を命令。しかし5号艇(久家少尉)6号艇(野村1飛曹)とも機関が発動せず、攻撃中止。
菅昌艦長は「戦闘・魚雷戦」を号令、魚雷6本を発射。45秒後に命中音二。菅昌艦長が予想時刻に潜望鏡を挙げると、
魚雷1本が艦首に命中し、水柱が甲板に落下するのが見えた。1本は磁気信管付きの頭部で、艦底の下を通り過ぎた
後に反対舷で爆発した。戦後、この目標はLSTLを改装した工作艦エンディミオン1653トンと判明した。
出撃以来、洋上行動の日数が長くなっており、回天2基の機関発動不良を含めて搭載回天を点検すると、全機に故障が
発生していた。22日配備点を一時離脱、回天の故障箇所の復旧作業に努め、24日、1・2・5号艇の修復が完了したが、
他の3基は使用不能であった。26日深夜から両舷第一戦速で南下し、ブラウン島~硫黄島を結ぶ配備点へ急行した。
6月28日潜航してブラウン島とサイパン島の線上を哨戒中、単独航行中の大型輸送船を発見した。
菅昌艦長は回天発進を命令。1号艇(池淵中尉)が、「成功を祈る」「あとを頼みます」の電話連絡を最後に発進した。
菅昌艦長は潜望鏡を上げて、池淵中尉の成功を祈りながら奮闘ぶりを観戦し、命中の瞬間を見守っていたが、潜望鏡
を後方に向けると、敵駆逐艦が視野一杯に、のしかかるように迫っていた。
「潜望鎧下ろせ。深さ40急げ!」と菅昌艦長は叫び、辛うじて体当たりを回避できたが、駆逐艦は頭上を通過し、直
後に爆雷約10発が至近で爆発、あと繰り返し直上を通過しながら連続爆雷攻撃を加えた。
駆逐艦は速力を落として潜水艦の位置、針路、速力を測定したのち、速力を上げて突進してきて爆雷を投下する。
後部の被害が重なり、浸水が多くなって補助タンクやツリムタンクでは調整がつかず、潜舵、転舵の操作で水平を保
った。5号艇(久家少尉)が爆雷攻撃が始まった頃、回天発進を進言してきたが、艦長は即座に拒否した。
しかし頭上の2隻と見られる駆逐艦の爆雷攻撃がさらに激しくなり、2回目の久家少尉の回天発進進言があった。
艦長は、もし艦と運命を共にしたら、回天の搭乗員として今までの努力が無駄になると考え、使用可能な5号艇(久家
少尉)と2号艇(柳谷1飛曹)の発進用意を命じた。しかし、両艇とも電話が通じなくなっていた上、整備員から5号艇の
電動縦舵機が故障して使用不能と報告があり、菅昌艦長は2人の発進を中止し、退艇を命じた。
爆雷の爆発圧力は水圧にプラスするので、甲板搭載の回天が浸水するのを懸念し、菅昌艦長は深度を浅く40米に保っ
たまま回避を続けていた。6回目の爆雷攻撃で後部の浸水が急増、艦は次第に沈下をはじめ、深度70米に、仰角は15
度となり、米袋を乗員が担いで艦内を前部へ移動してツリムの修正に努めたが追いつかず、敵前では厳禁であるがメ
インタンク内の海水を高圧空気で少しづつ排出せざるを得ない窮状となった。
士官室に座っていた久家少尉はすっくと立ち上がり「自分の回天発進を」と、重ねて要請した。
電動縦舵機故障[ コンパス(羅針儀) ]が役に立たない回天を出撃させる事になり、艦長は苦悩していたが、伊36潜が
離脱出来る見込みは乏しく、回天が道連れになるとの思いが強まり、「行ってくれるか」と両名の乗艇を認めた。
電話が不通なのでハンマーで合図し、2号艇(柳谷1飛曹)は後甲板から発進、5号艇(久家少尉)は前甲板から発進。
海面上に浮上してから機械を発動した。あれだけの爆雷攻撃を受けながら、2基共順調に起動した。
発進後10数分で、回天命中の大爆発音が轟き1隻の駆逐艦の音源が消えた。もう1基の回天の音源は遠ざかって
ゆき、駆逐艦もいなくなった。2基の回天が発進したお蔭で伊36潜は惨愴たる窮地から蘇り応急修復作業を急いだ。
6月28日の夜になって浮上した時、放電量120%、高圧空気の量は浮上1日分しか残っていなかった。
伊36潜は7月2日帰投命令が入り、戦場を離れた。9日ようやく豊後水道に入った直後に、敵潜水艦の魚雷3本の攻撃
を受けたが回避して、何とか無事光基地に入港した。
発進出来なかった搭乗員3名は退艦、故障した回天を陸揚げし、10日朝出港、呉に帰着した。
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▲伊165潜「轟隊」の出撃。
伊165潜「轟隊」は回天2基を搭載して昭和20年6月15日、光基地を出撃してマリアナ諸島東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]大野保四少佐(伊165潜水艦乗員合計106名全員戦死)
[ 回天搭乗員 ]水知創一少尉(兵庫県出身)/北村十二郎1等飛行兵曹(長野県出身)
出撃以後、連絡がないまま消息不明となり、第6艦隊司令部は昭和20年7月16日をもって搭乗員は戦没、潜水艦は、
7月29日喪失と認定し、潜水艦乗員と回天整備員はこの日の戦死として公表した。
米軍記録では7月27日、伊165潜と思われる潜水艦と交戦した、米海軍第142哨戒爆撃隊・機長のジェーンズ中尉
が、潜水艦の艦橋の前と後の甲板に2本の大型魚雷を積載した見取り図を描いている。
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▲5月28日伊363潜「轟隊」久保吉輝1飛曹/石橋輝好1飛曹/上山春平中尉/和田稔少尉/西沢(小林)重幸1飛曹
伊363潜「轟隊」は回天5基を搭載して昭和20年5月28日、光基地を出撃して沖縄南東海域へ向かった。
[ 艦長 ]木原 栄少佐
[ 回天搭乗員 ]上山春平中尉(和歌山県出身)/和田 稔少尉(静岡県出身)/石橋輝好1等飛行兵曹(東京都出身)
小林重幸1等飛行兵曹(長野県出身)/久保吉輝1等飛行兵曹(大阪府出身)
6月5日、初めて「回天戦用意」がかかったが、荒天のため発進を中止した。12日空母らしい敵に行き合ったが、
発進には至らなかった。6月15日浮上航行中、艦首方向の水平線上に灯火を発見し、急速潜航した。
木原艦長は直ちに「魚雷戦用意」を号令、敵の接近を確かめて、20分後、更に「回天戦用意」の号令をかけた。
搭乗員は急いで身支度を整え、七生報国の鉢巻きを締めて先任搭乗員の上山中尉の周りに集まった。
「搭乗員乗艇、発進用意」の命令が下り、各自は艦内から、暗いトンネルの様な交通筒を昇って甲板上の回天に
乗り込んだ。敵は輸送船団であり、木原艦長は先ずは魚雷攻撃を試み、護衛の駆逐艦など反撃を受けたら回天を
発進させる心算であったという。
木原艦長は95式魚雷2本を発射し、1本が命中、誘爆音が2回聞こえた。回天操縦席に座って発進命令を待ってい
た上山中尉に、木原艦長が「命中したらしい。火焔が見えるから艦橋に見に来い」と電話したので、上山中尉は
交通筒から一旦艦内に降りて、司令塔に駆け登り、潜望鏡を覗かせてもらったという。
「不思議に何の感慨もない。痛快とも、残酷だとも思わない。暗い水平線にほの明るく描き出された小さな焔の
弧が、ただ絵のように美しく眺められただけである」と戦後、京都大学名誉教授となった上山春平元中尉は当時
の情景を回想している。18日夜、帰投命令が届き、19、20日と索敵を継続したが敵に遭遇する事はなかった。 
伊363潜は6月28日平生基地に帰着し、5基の回天を揚陸し、29日呉に入港し搭乗員達は艦を下りた。


「多聞隊」昭和20年7月14日~昭和20年8月8日出撃(伊53潜、伊58潜、伊47潜、伊367潜、伊366潜、伊363潜)
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▲伊363潜「多聞隊」の出撃。
伊363潜「多聞隊」は回天5基を搭載して昭和20年8月8日光基地を出撃。
8月9日のソ連参戦により12日配備を日本海に変更になるも作戦続行中、終戦により帰投。
[ 艦長 ]木原 栄少佐
[ 回天搭乗員 ]上山春平中尉/園田一郎少尉/石橋輝好1飛曹/小林重幸1飛曹/久保吉輝1飛曹
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▲伊363潜「多聞隊」
伊53潜「多聞隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月14日大津基地を出撃して沖縄とフィリピンの中間海域へ向かう。
[ 艦長 ]大場佐一少佐
[ 回天搭乗員 ]勝山 淳中尉(茨城県出身・発進)/開 豊興少尉(秋田県出身・発進)/高橋 博1飛曹(北海道出身)
荒川正弘1飛曹(山形県出身・発進)/川尻 勉1飛曹(北海道出身・発進)/坂本雅刀1飛曹(三重県出身)
上記で紹介した7月24日勝山 淳中尉の回天発進で護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈した後、伊53潜は引き続きパ
シー海峡東方海域で索敵中の27日、数十隻もの南下中の敵大輸送船団のど真ん中に遭遇。
直ちに総員配置に就いたが、またあまりにも至近距離である為に魚雷も回天も使えず、一旦列外に出てから攻撃しよ
うと判断して操艦し、敵舶団の後方に離脱したが、伊53潜の態勢が整った時には後方遠くに離れ、魚雷攻撃は到底で
きなくなっていた。回天は搭乗員が強く要請したので、大場艦長は2号艇(川尻1飛曹)の発進を決めた。
後甲板から発進。約1時間後に大音響が聞こえ、大場艦長は潜望鏡で目標の方向に黒煙を望見し「艦種不詳1隻撃沈」
と第6艦隊司令部に報告している。
8月4日伊53潜の頭上を敵駆逐艦が通過し、多数の爆雷が海面に落下する音が聞こえ、至近距離で爆発した。
同艦は在来の「93式聴音機」に加えて新式の「3式探信儀」を装備していたが、潜水艦にとって貴重な電力を大量に
消費する上、強力な超音波を発射するので敵に探知されやすく、平素は使わなかった。
しかし既に敵に発見されており、切羽詰まっている為、使用して敵情を採ると、対潜艦艇5隻が半径一粁で包囲し、
交互に伊53潜に接近して爆雷攻撃をしている事が分かった。大場艦長は回避を続けたが、爆雷が至近で爆発する度に
艦は激しく震動し、艦内の器具は散乱して惨憺たる有り様となった。
回天搭乗員の関少尉が司令塔に上がってきて「回天を出して下さい。相手が駆逐艦でも不足はありません」と発進を
催促したが、艦長は「暗夜の回天攻撃は無理」として斥けた。
歴戦の乗組員もこれほど猛烈な爆雷攻撃を受けた経験はなかったという。
そのうち爆雷が艦底の近くで爆発し、主蓄電池が破損した。一切の動力が停止して、舵も機械も動かず、艦内の電灯
は消えた。万策尽きたと思われたが、全員必至の努力で故障を復旧し、何とか動力を回復できた。その間に関少尉が
再び来て「私たちは回天で突入することを本望としております。このままでは死にきれません。夜間でも粘り強く食
い下がり必ず成功します。回天の搭乗員が大勢、出撃の順番を待っております。伊53潜は何としてでも生き残って、
回天作戦を繰り返してください」と艦長に詰め寄った。
爆雷攻撃は激しさを増しており、大場艦長も母潜がいつまで頑張れるか疑問と考え、まだ海上は暗黒であるが早めに、
全艇「回天戦用意」を命令。残る4基の搭乗員は暗い艦内を懐中電灯のほのかな明かりを頼りに、交通筒を通ってそれ
ぞれの回天に乗艇した。訓練には無かった深度40米からの回天発進である。5号艇(関少尉)が発進。
約20分後に回天爆発の大音響が轟いた。周囲の対潜艦艇は1隻減り、損傷艦救助の為か敵は3箇所になった。
大場艦長は大爆発音を聞いたのち3号艇(荒川1飛曹)に発進を命じ、03:00頃回天は艦を離れていった。
03:32頃大爆発音が轟き、敵の推進機音は2隻に減少、やがて1カ所になり、暫くして推進機音はすべて消滅した。
4号艇(高橋1飛曹)は自分の発進を待つ間も爆雷攻撃が続き、その衝撃で「四塩化炭素」の容器が破損してガスが艇内
に漏れ出したため、中毒して意識不明となった。
回天の機関を発動する際、純粋酸素が燃焼室内でいきなり燃料の灯油と接触すると爆発する為、最初は不燃性の四塩
化炭素を酸素に混入して純度を下げ、安全に燃焼が始まる様にしていた。この薬品は液体で毒性があり、金属と反応
する為、ガラスの瓶に入っている。
6号艇(坂本1飛曹)は、爆雷の至近爆発の為に酸素パイプに亀裂が入ったらしく、高圧酸素が漏洩し圧力計が下降しは
じめた。艇内の気圧が上昇して苦しく、彼は「一刻も早く出して下さい」と電話で叫んだ。
「6号艇発進」の号令と共に発動桿を力一杯押したが機械冷走、酸素の圧力計が急速に下がり始めた。
「冷走」と報告、命により機械を停止したが、艇内の気圧がさらに高まり、そのまま人事不省に陥った。
高橋1飛曹と坂本1飛曹は艦内に収容されて手当てを受けた後、意識を回復したが、高橋1飛曹は内地帰着次第入院し、
治療に長い期間かかかった。
この夜、伊53潜が遭遇した敵船団は沖蝿よりレイテ湾に向かう合計25隻の「OKl第9輸送船団」であった。
8月7日頃帰還命令を受信し、豊後水道を「シュノーケル」潜航で通過して12日大津島到着、残った2基の回天を陸に
揚げ、搭乗員と整備員を上陸させて13日発、同日呉に1ヵ月ぶりに帰還し、翌々日の玉音放送を聴いた。
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▲呉に帰還した伊58潜。米軍将校の姿が写っているので終戦後に撮影された写真と思われる。
伊58潜「多聞隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月18日平生基地を出撃、フィリピン東方海域に向かう。
[ 艦長 ]橋本以行少佐
[ 回天搭乗員 ]伴 修二中尉(岡山県出身・発進)/水井淑夫少尉(東京都出身・発進)
林 義明1等飛行兵曹(新潟県出身・発進)/小森一之1等飛行兵曹(富山県出身・発進)
中井 昭1等飛行兵曹(京都府出身・発進)/白木一郎1等飛行兵曹(福岡県出身)※全員平生基地配属
7月28日駆逐艦を伴った大型油送船を発見。「回天戦用意、魚雷戦用意」に入った。
魚雷攻撃には距離が遠い。艦長は回天戦を決意、2基に乗艇を命じ、1号艇(伴中尉)と2号艇(小森1飛曹)が発進。
発進から約50分後に2つの爆発音が聞こえたと記録しているが、米軍艦船の損害は未だ分かっていない。
広島と長崎に投下された原子爆弾2発の部品(核部分)を米西海岸サンフランシスコで積載し、連続最大航海速力でマ
リアナ諸島・テニアン島に運ぶ任務に就いた米重巡洋艦インディアナポリス。途中ハワイで燃料を補給、約5千浬を10
日間で航走して無事任務を達成した。その後グアムに立ち寄り、護衛無しでレイテ湾に向かっていた。
昭和20年7月29日伊58潜「多聞隊」と遭遇。会敵時は暗く、回天戦は困難であり、橋本以行艦長の判断で魚雷攻撃を仕
掛けた。伊58潜の放った魚雷3発は見事命中し、艦前部をもぎ取られ、インディアナポリスは12分間で沈没した。
インディアナポリス沈没地点は北緯12度02分、東134経度48分である。
8月9日伊58潜はフィリビン比島北東端「アパリ」岬北東260浬海域で輸送船10隻、駆逐艦3隻を発見して「回天戦用意」
艦長は最初に6号艇(白木兵曹)に発進を命じたが冷走、発進を中止した。
続けて3、5号艇の乗艇を命じたが、3号艇(林兵曹)は故障、5号艇(中井兵曹)が発進していった。新たな駆逐艦と船団が
近づいてきたので追加して4号艇(水井少尉)が発進、爆発音が聞こえた。潜望鏡を揚げると駆逐艦1隻が見えなくなって
おり、橋本艦長はこれを仕留めたものと認定した。発進回天は同日、2基のみであった。
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▲「多聞隊」伊58潜
8月12日伊58潜は大型艦を発見、「回天戦用意、魚雷戦用意」を発令、唯一の動ける回天、3号艇(林義明1飛曹)に発進
用意を命じた。橋本艦長は潜望鏡で遠くから観測していたが、敵艦は突然煙突から黒煙を吐き上げて遁走を始め、右に
左に回避運動をする様子が見えた。30分程して駆逐艦が反撃に入ったのか、爆雷投下の轟音が連続して聞こえてきた。
伊58潜は戦果確認を第6艦隊司令部から強く要請されていた事もあり、他に敵影が無いので、この時は昼間用、夜間用
の2本の潜望鏡を海面上に高く挙げ、橋本以行艦長と航海長田中宏謨大尉が司令塔で並んで観戦していた。
航海長は「敵艦が水柱に包まれて、ぐーっと、のめり込むように水中に没する姿が潜望勤こ捉えられた。轟沈!敵艦の
影は既に無く、駆逐艦のマストのみが見えた」と記録している。
橋本艦長は「大型艦1隻轟沈」と判定し、夕闇迫る頃浮上、続けて北上しながら第6艦隊司令部に打電報告した。
その後、北上を続けながら8月15日終戦を告げる機密電報を受信したが、艦長は乗員には伏せたまま、17日に平生基地
に帰還した。白木兵曹と整備員6人が上陸し、甲板に残った回天1基を陸揚げし、翌18日呉に回航した。
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▲伊58潜「多門隊」艦長は橋本以行少佐。
伊58潜の雷撃で撃沈されたインディアナポリス乗組員は海へ投げ出され、救助されるのに約5日かかった。
原爆投下が極秘任務の為、正確な艦位置を司令部が特定出来ずに救助が遅れた為だった。
乗組員1196名中、879名が戦死。生き残ったのは317名。戦後、生き残ったインディアナポリスの艦長 チャールズ・
B・マクベイ3世大佐は軍法会議にかけられ有罪となった。証人として来ていた伊58潜艦長 橋本以行少佐は、敵艦長
の名誉の為に「たとえジグザグ運動をしていても撃沈出来た」と証言したが、米海軍は責任の全てをマクベイ大佐に
押し付けた。その後、戦死したインディアナポリス乗員遺族から責め立てられたマクベイ大佐は1968年に自殺した。 
一方、橋本元艦長は梅宮大社(京都)の神職となり、回天搭乗員を出撃させて戦死させた事、もっと早く哨戒海域に着い
ていれば広島・長崎への原爆投下を防げたと、自らを責め、戦争で亡くなった全ての御霊の鎮魂を祈る日々を送った。
また、橋本は自ら命を絶ったマクベイ大佐の名誉回復にも熱心に取り組んだ。
その後、アメリカで検証された結果、多くの犠牲者を出したのは米軍の救助が遅れた為だと解り、マクベイ大佐の名誉
は回復された。この名誉回復を知る事無く、橋本元艦長は、その5日前の平成12年10月25日に亡くなった。享年91歳
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▲重巡洋艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35)
※平成29年8月19日インディアナポリスの残骸の一部が72年ぶりにフィリピン海の水深5500mの海底で発見された。
伊47潜「多門隊」は回天6基を搭載して昭和20年7月29日、光基地を出撃して沖縄東方海域へ向かった。
[ 艦長 ]鈴木正吉少佐
[ 回天搭乗員 ]加藤 正中尉(広島県出身)/相沢鬼子衛少尉(北海道出身)/石渡昭三1等飛行兵曹(栃木県出身)
河村 哲1等飛行兵曹(北海道出身)/新海菊雄1等飛行兵曹(山梨県出身)久本晋作1等飛行兵曹(長崎県出身)
7月30日フィリピン北東方面の哨区で台風の中で海上は大時化となった。
この荒天で後甲板に固縛されていた回天1基が流失してしまった。他の回天も多くが浸水していた。
荒天に阻まれた後、会敵の機会は無く、敵の攻撃もなかったが回天が活躍する場面もとうとう起こらなかった。
8月6日呉に帰投せよとの命令が入電して帰途に就き、8月13日光基地に帰着した。
回天搭乗員6名と回天5基を下ろして、8月14日呉に帰着した。
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▲伊47潜「多聞隊」
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▲伊366潜「多門隊」
伊366潜「多門隊」は回天5基を搭載して昭和20年8月1日光基地を出撃、沖縄とグアム間の敵輸送路へ向かう。
[ 艦長 ]時岡隆美大尉
[ 回天搭乗員 ]成瀬謙治中尉(8/11発進)/上西徳英1飛曹(8/11発進)/佐野 元1飛曹(8/11発進)
岩井忠重1飛曹//鈴木 大三郎少尉
8月2日敵輸送船団発見、発進不能の2基を除き回天3基発進、攻撃。8月15日夜呉に帰投命令を受信。18日呉入港。
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▲▼伊367潜「多門隊」
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伊367潜「多門隊」は回天5基を搭載して昭和20年7月19日大津島地を出撃、沖縄とグアム間の敵輸送路へ向かう。
[ 艦長 ]今西三郎大尉
[ 回天搭乗員 ]藤田克己中尉(山口県出身)/安西信夫少尉(神奈川県出身)/岡田 純1等飛行兵曹(長野県出身)
吉留文夫1等飛行兵曹(北海道出身)/井上恒樹1等飛行兵曹(岩手県出身)
8月9日第六艦隊司令部より突然帰投命令が届き、翌日やむなく今西艦長は5基の回天を甲板に載せたまま、帰途に就
いた。豊後水道を通過し、8月15日正午、水の子灯台を通り過ぎた頃に玉音放送を航海長他が聴いたが、雑音が強く、
殆ど聞き取れなかった。1時間後に玉音放送の内容が機密電報でり、今西艦長は状況を明確に把握したが、戦時航海
中であるので、乗員が心理的な動揺を来すことがない様艦内伝達を抑え、そのまま航行を続けた。
夕刻、大津島に到着。艦長は乗員一同を甲板上に集め、戦争終結の玉音放送の内容を伝え、混乱のないよう訓示した。
伊367潜は翌16日08:00出港して呉に向かい、作戦行動を終えた。


「神州隊」昭和20年8月16日出撃(伊159潜、伊36潜)※伊36潜は出撃したかどうかは不明。
[ 艦長 ]三宅辰夫大尉
[ 回天搭乗員 ]斉藤 正少尉(宮城県出身)/今田新三1飛曹(大阪府出身)
「神州隊」は、8月6日広島に原子爆弾が投下、9日に突如ソ連が参戦したので、急遽、日本海に向かい「ウラジホス
トック」のソ連艦船を攻撃する事になった。出撃基地に回航する直前の8/11、伊159潜は整備中の呉工廠が米戦闘機
P-51の空襲を受け、その際片舷主機械などが損傷した。呉工廠も既に度々被爆しており修理が間に合わず、やむなく
平生基地にそのまま回航して、回天と搭乗員を乗せて出撃した上で日本海沿岸の舞鶴に回航し、舞鶴工廠で修理した
後、ウラジホ方面へ向かう事になった。(平生基地は山口県熊毛郡平生町にあった回天基地で、現在も遺構が残る)
8/15正午、平生基地では総員がラジオで玉音放送を聞いたが、その音声は雑音が多く聞き取り難かったので、一同は
終戦とは受け取らず、予定通り出撃する事に決定。後の推移に備える為にも舞鶴まで行き、主機械を修理しておく必
要があった。8/16日昼、同艦は回天2基を搭載して出撃、豊後水道を経由して日本海へ向かった。
下関海峡には当時、B29が磁気機雷を多数投下しており、通航は危険であったのでこれを避け、九州の南を廻って日
本海へ向かったが、若し途中で米艦船と遭遇した場合はこれを攻撃するよう指示を受けていた。
平生を出撃後、豊後水道を潜航南下して17日、大隅半島を潜望鎧で遠望出来る地点まで到達した。
米艦船は終戦で撤退しており、その艦影を見なかった。ここで平生基地から無電で呼び戻されて反転し、一旦宮崎県
の油津に入港して浮上、機密書類を焼却。18日油津を出港、水上航行で豊後水道を北上して平生基地に帰着した。
伊159潜へ帰還命令打電を手配したのは平生基地特攻隊長で神洲隊伊36潜で出撃予定だった橋口寛大尉であった。
橋口寛大尉は、終戦後18日未明に回天の操縦席で拳銃自決を遂げた。現在平生基地跡には「阿多田交流館」が建てら
れ、平生回天基地の資料や、整備済の回天を運んだ「トロッコ」、光海軍工廠跡地から発掘した本物の回天2型の胴体
が平生町歴史民俗資料館下に展示されている。 機会があれば是非そちらにも見学しに行きたいと思う。
終戦時、大津島基地では伊156潜、伊155潜が交通筒を整備して回天の発進訓練を重ねており、神洲隊として8月25日
頃出撃する予定であったという。
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▲大津島回天基地跡へは徳山港から大津島巡航フェリーで馬島港へ向かう。
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▲▼徳山港には映画「出口のない海」で使用された回天の実物大レプリカが展示されていた。
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戦後、必死を要求される特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」「ハッチは中からは開けられない」
「戦果は皆無」などの作戦に対する否定的な面、または事実と異なる説が強調された。特にハッチに関しては中から手
動で開けられ、外からは工具を使用するものの開閉は可能だった。
搭乗員は操縦の特異性から転用できない為、全てが回天戦の為に選抜されて訓練を受けた優秀な若い志願兵だった。
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但し、戦時の日本において事実上、志願を拒否する事は著しく困難で、戦果に関し49基出撃の結果に対し撃沈4隻と乏
しく、回天を輸送し発進させる伊号潜水艦の損耗率も高かった。
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▼フェリーチケット売り場も「回天」一色。
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▼▲フェリーチケット売り場も「回天」一色。
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▲▼2006年公開の松竹映画『出口のない海』のスチール写真、大津島の回天基地跡でも撮影された。
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▼時間になったのでフェリー乗り場に向かう。駐車場は無料だが数が少ないので朝早めに確保した方が良いだろう。
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▼フェリーに乗り込んでから乗り場を撮影。
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▼出航。徳山港を離れる。
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▼▲色々な海運会社の貨物船が浮いている。
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さぁ、大津島に向けての短い航海だ。
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▼見た感じ大津島より大きく、恐らく無人島であろう「黒髪島」を右手に見ながら大津島に向かう。
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▼▲画像は天候が回復してからの帰りに撮影。大津島に向かうフェリーとすれ違う。
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徳山港から10分か15分位。あっという間に大津島(馬島港)に着く。乗船はこの位の時間が一番気持ちいい。
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大津島に上陸。当日は雨との予報を覆して急速に天気が回復してきた。
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今まで戦跡慰霊の旅では雨に見舞われた事は1度も無い。英霊がいつも見守ってくれていると勝手に思い込んでいる。
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帰りの船の時間を確認しておく。此処は「馬島」だ。
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待合所には少しお土産物が売っている様だが立ち寄らなかった。
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写真でよく見ていた大きな「回天の島」の看板だ・・・。
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▼まずは見学前に、観音菩薩像で賽銭を添えて英霊に感謝の黙祷を捧げる。
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数分あるくと案内板が・・・。
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左は海だ。
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見えた!回天発射訓練基地だ・・・。
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▼海沿いの崖がくり貫かれ、この数メートル先から強固な回天専用トンネルが構築されている。
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早速入って行く前に、徳山港でも見た「周南子ども百人一首」
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回天搭乗員が、日本に必ずや明る未来が来ると信じて死地へ出撃して行ったトンネルの入口だ。
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回天搭乗員はこのトンネルを通って海へ。生きて帰る事は無かった・・・。
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戦時中当時は回天を運ぶレールが敷かれていた。今は撤去されて現存しないが、僅かに形跡は確認出来る。
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▲映画『出口のない海』のスチール写真。回天を運んだトロッコとレールが良く解る。
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ただのコンクリートのトンネルでは無い。搭乗員には地獄の戦地へ続く、二度と帰る事の無いトンネルだったのだ。
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同じトンネルを今、死の心配も無く、気楽に通れる自分がどんなに幸せであるかを嚙みしめる・・・。
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海側に向かって分岐がある・・・防空指揮所跡らしい。
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海側に出てみる。防空指揮所跡らしき建物跡や痕跡は見当たらなかった。
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回天発射訓練基地が近い・・・。
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振り返って撮影。
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戻ろう。しかし70年以上経過しているにもかかわらず、非常に程度が良い。
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分岐後からは回天がすれ違える広いスペースとなっており、当時の写真がいく枚も展示されている。
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隊員のお顔を見ていると、胸が締め付けられる想いだ・・・。
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海側の出口に向かってまた細くなっていく。
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いよいよ海に抜ける。
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振り返って撮影。
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回天訓練基地から「回天」を海上に降ろす為にクレーンが東側に設置してあったという。
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ここからクレーンで海上に降ろされた回天は、回天を横に抱えるように運搬したことから「横抱艇」と呼ばれた船で訓練
がスタートする場所に置かれていた浮標まで運ばれ、横抱艇からの合図により訓練を開始していたという。
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▲同じ場所での当時の写真。「回天」試作基が海上に降ろされる。
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▼当時の訓練写真が残っている。回天と横抱艇。
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元来たトンネルを戻る。
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回天交差スペースの写真展示で再度足を止める・・・。
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▼米アヴェンジャー雷撃機に撃沈された伊号361潜水艦「轟隊」だ。(潜水艦乗員合計81名全員戦死)
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▼出撃桟橋まで続いた見送りを受けて出撃する「千早隊」隊員。硫黄島周辺水域に向かった隊だ。
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▼▲再び防空指揮所跡の入口をこえてトンネルを抜ける。
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次は回天記念館に向かう。
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▼案内板の順路標識に沿って回天記念館に向かう。この細い道は当時のままだそうだ。
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▼柵から下を見下ろすと、大津島幼稚園・小学校・中学校の運動場が見えた。
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▼終戦直後の同じ場所。現在の運動場が回天組み立て調整工場だった事が分かる。
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▼運動場を見下ろしていると、当時の遺構が確認出来た。
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回天記念館に行った後で確認する事とした。
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▼当時基地の隊員や兵士達が「地獄の石段」と呼んだ階段が今も残っている。
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港に運ばれてきた食料などを、現在の回天記念館辺りにあった兵舎に運ぶ際に駆け上らされていた階段で、訓練にも
使用されたという。体力づくりか罰ゲームか・・・。
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昔、中学時代のクラブで、こういう階段をウサギ飛びで登らされた経験を思い出していた。
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回天記念館はもうすぐ上だ。
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▼登り途中に休憩所の様な建物があったが、使用されている気配は無かった。
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入口が見えた。
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この奥が回天記念館だが、重たい雰囲気を感じる。
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通路脇両側には「回天特攻作戦」で亡くなった若者の名が刻まれた石碑がある。
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記念館正面。そっけない雰囲気が逆に胸にグッとくる・・・。
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▼記念館右側には実物大の回天模型が見えた。後で見学する事として記念館に入った。
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見学料を支払い中へはいる。職員の方にお聞きすると、遺影以外は撮影OKとの事だった。
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▲入口には大きな出撃時の写真が・・・硫黄島周辺海域に向かって出撃した「千早隊」伊370潜だ・・・。
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▲次は大きな地図だ・・・回天が出撃した海域は多くが太平洋だが、終戦間際にウラジオストクに向かった部隊もある。
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▲回天記念館の入口早々に中国の地図があるとは意外だった・・・。
「大連」「安東」「奉天」「新京」「ハルビン」は、当ブログでも紹介させて頂いる旧満州国の主要都市だ。
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学徒出陣か・・・。優秀な大学生の多くが航空特攻や回天で出撃していった。馬鹿では難しい操縦が出来ないからだ。
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▼回天を考案した黒木博司海軍中尉と仁科関夫海軍少尉だ・・・彼等も国を守る為に必死だったのだろう・・・。
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▼当時の大津島の模型
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▼▲「知覧」「万世」の様に特攻の母と呼ばれた方が「回天隊」にもおられたんだ・・・知らなかった・・・。
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優秀で礼儀正しい真面目な若者ばかりが特攻へ・・・全ての特攻隊員がそうだとは言わないが、胸がつまる・・・。
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続く←執筆中


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 2017_08_06

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WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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