旧海軍 笠之原基地と串良基地


今回は九州出張を利用して、以前行けなった鹿児島県鹿屋市の笠之原町・串良町の戦跡を巡ってきた。
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▲雨の予報を覆しての曇り空。桜島を見ながら鹿児島市内➡鹿屋へフェリーで向かう。
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▲あっという間に鹿屋市に着き、鹿屋市側より桜島を見ながら笠之原飛行場跡へ向かう。
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▲笠之原飛行場の歴史は古く、大正11年8月から敗戦までの24年間に渡って旧陸海軍の飛行場として使用されてた。
海軍が航空基地として使用を始めたのは太平洋戦争末期の昭和19年1月15日。
昭和20年1月には第203航空隊のゼロ戦72機が配備され、神風特別攻撃隊の直掩隊(零戦)が出撃していった。
昭和20年3月18日アメリカ軍による空襲で、格納庫を始めとする基地施設は消滅した。
敗戦後、民有地を買収して作られた飛行場跡は、地元地区民に農地として無償で払い下げられた。
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▲▼現在ただ1つのみ残る笠之原飛行場の掩体壕。(川東掩体壕)
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終戦後30基以上残っていた海軍式掩体壕も、現在はこの1基のみが現存するだけである。
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▼前部が崩れて喪失しているが、かなり粗い作りだった事が確認出来る。
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▼天井部分のアップ。鉄筋は入っていない様だ・・・。
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▼爆撃で出来たであろう穴も確認出来る。
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▼「セメント共販・・・」って書いてある・・・袋ごと固めてしまった様だ・・・。
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▼鹿屋航空基地に現存していた掩体壕が、今年に入って取り壊した際の破片が飾ってあった・・・。
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▼▲こんな物を展示する価値はあるのだろうか・・・状態が良かった掩体壕だったのに・・・。
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取り壊さず何とか保存出来なかったのだろうか・・・鹿屋は特攻隊が数多く出撃した現役の自衛隊基地なのに・・・。
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▲▼山口県の岩国基地に残る掩体壕とレプリカのゼロ戦21型
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映画「零戦燃ゆ」の撮影用に製作された機体で、7000万掛かったレプリカだという事だ。
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日本国内の岩国米軍基地内で、この様な演出で見学出来るにもかかわらず、何故鹿屋航空基地でこの様に、解りやすく
保存・修復する事が出来ないのか・・・。どんな事情があるにせよ、取り壊しは全くもって理解不能である。
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▲経年劣化も補修され、掩体壕も綺麗に保存されている。
※画像は-廃墟日常記録帳-様から提供して頂いた。有難うございました!
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▼ここから1本の滑走路が伸び、特攻機の直掩隊が出撃して行った・・・。
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▼現在は、畑の中に当時滑走路だったという事を物語るコンクリートが僅かに残るだけである。
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▼▲当時を物語るもう1つの遺構。コンクリート製の「地下通路電信司令室に通じていた」とされる入口が残る。
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▲何のくぼみだろう・・・銃眼ではなさそうだ。
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東西に走っていた滑走路へ通ずる地下道の入口とされるが、地下道はまだ確認されていない。
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▲此処が入口かどうかは定かでないので、今後の調査が期待される。何とか掘り起して頂きたいものである。
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▲一見普通の民家に見えるが、実は笠之原飛行場時代初期に建てられた弾薬庫だそうだ。
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▲▼機銃掃射や爆撃の破片を受けた傷が無数に残る外壁も残っている。
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無償で払い下げられた際に民家として再生したのであろう。お住まいの方がいらっしゃるので見学する事は出来ない。
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▲しかし強度抜群の家だろうな・・・白く塗られているが、元々赤煉瓦造りである事が見て確認出来る。
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▲次は海軍串良航空基地跡に向かった。
現在は平和公園となっている一帯は、旧海軍教育航空隊があった場所だ。
昭和18年4月1日串良航空隊開隊・練習航空隊に指定され、整備教育を担当
昭和20年3月1日第22連合航空隊に編入、神風特別攻撃隊(艦爆隊)の基地となり、予科練教育を担当
昭和20年7月10日串良航空隊解隊、昭和20年8月15日敗戦。
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  ▲昭和23年に米軍が空撮した串良基地。赤い星印が現在の平和公園だ。滑走路は現在道路となっている。
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▲一帯が「平和公園」となったのは昭和44年10月1日からだそうだ。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期、教育航空隊として開隊され、約5000人の飛行予科練習生が航空機の整備・搭乗・通信
などの猛訓練を受けた。昭和19年4月実戦部隊に編入、更に昭和20年3月1日より神風特別攻撃隊の基地となり、終戦
までの半年間に、神風特攻隊の精鋭363名、攻撃隊202名の合計565名の最後の地となったところである。
串良基地は沖縄作戦の際に、艦上攻撃機の出撃基地として使用され、特攻出撃や夜間雷撃に数多くの艦上攻撃機が出撃
し、沖縄周辺の敵艦船攻撃に向かったのである。ドラマ「永遠の0」のロケがこの平和公園でも行われた。
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▲訪れた時は丁度10月15日だった・・・偶然であった。追悼式が10/15だとは全く知らなかったのである。
※来毎年10月15日には、全国各地から御遺族や生存者が集まり、町民と共に追悼式が行われているとの事であった。
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▲当然の事ながら、私も慰霊させて頂いた。
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▼▲公園内には多くの慰霊碑がある。
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個別に慰霊する事はしなかったが、これだけ多くの慰霊碑がある公園も珍しい。
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▲これは間違いなく神風特別攻撃隊だろう・・・。
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▲▼東西1300m南北1200mの滑走路跡の両脇には、桜が植えられ、本土の桜前線はここから始まるとの事だ。
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▼次は串良基地の第1電信室に向かった。ドラマ「永遠の0」のロケにも使われた壕だ。
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此処は特攻機の最後の無線を傍受していた電信室だったという事だ。
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▲▼壕の入口を守る、分厚いコンクリートの爆風除け。
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半端ない分厚さだ・・・。
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▲▼入口を分厚い爆風除けが守る様に設置されているのが良く解る。
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▼では、早速中へ入ってみる。
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ドラマ「永遠の0」第3回のロケで使われた。『永遠の0』第3夜16:34辺りから平和公園・通信壕が映像に出てくる。
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当時も入口付近や階段には明かりが設置されていただろう。
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地下に吸い込まれそうな長い階段だ・・・。
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階段を下りると二手に分かれる。
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まずは左側。
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▲細長い廊下と通気口の様な役割だろう・・・出口の登り階段に続いていた。
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▲そして、メインの電信室だった部屋に入る。
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▼▲思ったより広くなかった。しかし、此処で特攻機の最後の個別識別単独符号を傍受していたんだ・・・黙祷。
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特攻機は突入時、電鍵を押しっぱなしにして送信し、その信号が途切れた時、「突入」として時刻等が記録された。
それはパイロットが戦死した瞬間でもあった。此処串良基地からは97式艦上攻撃機、艦上攻撃機「天山」など、2名か
3名で出撃した機が多く、操縦/偵察/電信のフル定員3名で出撃した特攻機が多かった。
なので、ゼロ戦などの単座戦闘機では、パイロット(特攻隊員)は操縦や航路、電信、銃撃などを全て1人でこなし、最
後の無電は電信キーを右肘で押し付けて送信し続けたが、複座式攻撃機では電信員が別に居る為、本来、識別信号の連
送だけで良いのだが、故国に向けて最後の電文(モールス信号)メッセージを発した特攻機もあった。
その内容のほとんどが『お母さーん!』であった。まれに『海軍のバカヤロー!』というメッセージもあったという。
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▼▲特攻隊最後の無電を必死で受ける電信兵(撮影場所不詳/昭和20年4月~5月頃撮影)
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抜けている隊もあるかもしれないが、海軍串良航空基地から出撃した神風特別攻撃隊は以下の通り。
詳しくは 「鹿屋航空基地史料館」 参照。
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第1護皇白鷺隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第1八幡護皇隊」 昭和20年4月6日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第3御楯隊」天山隊 昭和20年4月6日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「第2八幡護皇隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2護皇白鷺隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「常磐忠華隊」 昭和20年4月12日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2七生隊」 昭和20年4月12日 串良基地より零戦で出撃
神風特別攻撃隊「第3護皇白鷺隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「八幡護皇隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「菊水天山隊」 昭和20年4月16日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「天桜隊」 昭和20年4月16日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「皇花隊」 昭和20年4月16日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「白鷺 赤忠隊」 昭和20年4月28日 串良基地97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「八幡神忠隊」 昭和20年4月28日 串良基地97艦上攻撃機で出撃 
神風特別攻撃隊「第1正気隊」 昭和20年4月28日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「第2正気隊」 昭和20年5月4日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「白鷺 揚武隊」 昭和20年5月4日 串良基地より97式艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「菊水雷桜隊」 昭和20年5月11日 串良基地より「天山」で出撃
神風特別攻撃隊「第3正気隊」 昭和20年5月11日 串良基地より97艦上攻撃機で出撃
神風特別攻撃隊「徳島第1白菊隊」 昭和20年5月24日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第2白菊隊」 昭和20年5月27日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第3白菊隊」 昭和20年5月29日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「第4白菊隊」 昭和20年6月21日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
神風特別攻撃隊「徳島第5白菊隊」 昭和20年6月25日 串良基地より練習機「白菊」で出撃
第931海軍航空隊「雷風雷撃隊」 昭和20年7月22日 串良基地より艦上攻撃機「天山」で出撃(夜間雷撃)
第931海軍航空隊「攻撃第251飛行隊」 昭和20年8月12日 串良基地より艦上攻撃機「天山」で出撃(夜間雷撃)
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▲海軍97式艦上攻撃機(B5M1)
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▲海軍が79式艦上攻撃機の後継機として 開発・実戦配備した艦上攻撃機「天山」(B6N)
当時「ガソリンの1滴は血の1滴に匹敵する」と、燃料使用は厳しく監督されていた。特攻隊が片道燃料で・・・とい
う話はよく聞く。 しかし、その厳しい中で串良基地の燃料担当掌整備長は「搭乗員には決して燃料の心配はさせるな!
必要とあらば惜しみなく使用せよ」と、部下の整備兵に 申し渡していたという。
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▲案内板は、最後の無電を再現した音声が流れる仕組みになっていた。
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壁には、串良基地から出撃風景の写真がいく枚か飾られていた。
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「真珠湾攻撃」で活躍した97式艦上攻撃機ももはや老兵だった。戦争末期においてもかなりの数が残っていたという
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部屋らしい部屋は此処1室だけなので、黙祷して壕を出た。
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▲出口に通じる階段を登り終え、振り返って撮影(入口と出口は別階段)
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▲▼入口と同じ形の出口。出口側には爆風除けは無かったが、うっすら当時の土塁が残っていた。
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▼単純な作りの壕だったが、特攻機の最後の無電を傍受していた場所という事が意味深い。
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▼第1電信室と全く同じ構造の壕がもう1箇所残されているというので、次の遺構を見学しに行く。
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それは畑の端の方にポツンと残っていた・・・。
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▲▼さっきと同じ爆風除けと、こんもりした入口が見える。私有地の畑の中なのでこれ以上近寄る事が出来ない。
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▼出口も畑の真ん中に取り残される様に残っていた・・・。
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▼入れない様にブロックで蓋がされている。恐らく同じ構造だと感じた。
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次は串良基地に電力を供給していた発電室跡に向かう。
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此処は案内版などは一切無い・・・。
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ただのコンクリートの箱の様な構造だ。ディーゼル発電機を設置していただけの建物だからこれでいいのだろう。
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中に入る。思った通りただの箱だ・・・この狭さだと発電機は2基程度か・・・。
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発電機の台座すらも残っていない・・・どこかに重油を保管いていたタンクもあるはずだが・・・。
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▲奥には小さな小部屋があった。
しかし、近々この遺構は取り壊される事が既に決まっているらしい・・・なので、見納めだった。
次に、近くの大塚山公園には海軍が構築した高射砲陣地跡が残っているというので行ってみたが・・・。
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▲特にコレと言った遺構は残っておらず、大塚山公園の山頂付近から志布志湾を眺めてその場を後にした。
▼次に、鹿屋基地近くに第5航空艦隊司令部壕が残っているというので行ってみた。
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草木が生い茂る民家の裏山にひっそりと残っているらしい・・・。
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昭和20年3月、米軍の空襲が激しくなった鹿屋航空基地は、司令部ごと近くの山の壕に移転。
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▲右手に壕口が見えた。昭和20年1月頃から約200人の工員が3交代制/24時間体制の突貫工事だったという。
鹿児島県本土の52%、宮崎県の16%の面積を占めるシラス台地は、火山噴出物からなる台地で崩れやすく、掘るのは
難しいと言われていた。総勢約600名の工員の大半は朝鮮半島出身者で、壕造り・採石・採砂・滑走路補修の3中隊に
分かれ、外出・外泊原則禁止の中、必死に作業に従事していた。
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この付近には三角兵舎が建てられ、出撃を待つ特攻隊員や学徒通信隊の女学生が共同生活をしていたという。
学徒通信隊員は壕が完成してまもなく、軍が借り上げた大きな民家に寝泊まりし、こちらも3交代制/24時間勤務で任務
にあったっていたという。
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今回、入壕はかなわなかったが、鹿屋市が調査した際の動画がYouTubeにUPされたのを見た事がある。
(YouTubeをご紹介しようと思ったが、現在は削除されている様で探しも見つからなかった。見つけた方教えて下さい)
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▲入口からカメラをねじ込んで撮影。かなりの規模の大きな壕が延びているそうだ。見学出来る様になるのを願う。
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▲玉音放送翌日に部下と共に沖縄の海に消えた「宇垣特攻」で有名な宇垣纏 海軍中将。
敗色濃厚の昭和20年。海軍が、残存戦力を総結集して第5航空艦隊を編成したのは昭和20年2月10日。
宇垣纏中将が司令長官に任命され、鹿児島・鹿屋基地に赴任した。
海軍省から第5航空艦隊に与えられた任務は、練習機を含む約2000機の航空兵力で全機特別攻撃を展開する事だった。
もはや熟練搭乗員や保有機数が少なく補給もままならない第5航空艦隊としては、危急存亡の状況下で特攻作戦に変わ
る方策が無く、宇垣中将は、この第5航空艦隊司令部壕から特攻命令を出し続けた。
それまで特攻は現地部隊で自発的意思に基づいて編成されてきたものが、軍令部・連合艦隊の指示意向という形で、特
攻作戦が「沖縄戦」以降、主攻撃とされていく事になる。
山本五十六司令長官亡き後、日本海軍の相次ぐ敗報に次第に戦意を喪いつつある海軍中枢にあって、徹底抗戦を主張し
たのが宇垣纏と、第1航空艦隊司令長官だった特攻の生みの親、敗戦後割腹自決でこの世を去った大西瀧治郎であった。

その後、志布志湾防衛の為に陸海軍が構築した「本土決戦陣地壕」を駆け足で数ヵ所を見学する。
▼「陸軍内之浦臨時要塞」跡。(有明要塞跡)を見学。
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「本土決戦」で最後まで戦い抜く覚悟の日本に対して、連合国軍は日本本土上陸作戦を計画していた。
この作戦は「ダウンフォール作戦」と呼ばれ、「オリンピック作戦」「コロネット作戦」に分かれていた。
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▲コンクリートの砲台が海岸に向かって開いている。有明地区隊/重砲兵第15連隊[ 連隊長 ]石黒豊治大佐
独立歩兵第664大隊/独立歩兵第666大隊/鹿児島地区第16特設警備隊の1小隊
重砲兵第15連隊[ 第1大隊・第2大隊・独立野砲兵中隊・独立十加小隊・独立速加小隊欠 ]1221名が陣地守備を担当。
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▲重砲陣地は南九州への米軍上陸予想地域として有力視された志布志湾(大隅半島と都井岬に挟まれた幅15km、奥行
15kmの太平洋に面した湾)に向けて構築された。
奥には10kmもの砂浜が広がってる為、米軍の大部隊の揚陸が可能と考えられた。
また内陸部には串良飛行場などが点在していた為、それらを占領する事を目標に上陸が予想されていた。
なので、その志布志湾南端の内之浦町海蔵に重砲陣地が構築されたのであった。
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オリンピック作戦とは、九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦である「コロネット作戦」の為の飛行場確
保であった。作戦予定日はXデーと呼称され昭和20年(1945)11月1日に上陸作戦が予定されていた。
(この日程は日本軍に完全に読まれていた事が戦後明らかとなり、後に機密漏えいを疑う騒動となった)
海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻、400隻以上の駆逐艦が投入される予定であった。
陸上部隊は14個師団の参加が予定されていた。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。なお、これを支援
する為の兵力誘導用欺瞞作戦としては「パステル作戦」が計画されていた。
「パステル作戦」は、連合国軍の作戦目標が昭和20年(1945)10月に日本が占領下に置いていた中華民国上海周辺に上
陸するものと見せかけ、日本軍の兵力をそちらへ誘導させるものであった。
また、直前の陽動作戦として10月23日~30日にアメリカ軍第9軍団(8万人)が高知県沖でもって、陽動上陸行動を行
う事や、イギリス空軍のアブロ・ランカスターが連邦爆撃機派遣団である「タイガー・フォース」の主力爆撃機として
沖縄から出撃する予定であった。事前攻撃として、アメリカ軍とイギリス軍により種子島、屋久島、甑列島などの島嶼
を、本土上陸5日前に占領する事も検討された。
※空軍では無差別爆撃を続ければ昭和20年10月1日に戦争を終わらせる事が出来ると、カーチス・ルメイ将軍は考えて
 いたという。東京・名古屋・大阪・神戸と都市を焼き尽くし、鹿児島などの地方都市にまで爆撃の範囲を広げていた。
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▲砲塔は無く、今は水没が酷いので中に入る事は出来ない。しかし内部はしっかりとしたコンクリート造りだ。
砲台形式は穹窖砲台で、砲台には15糎加農砲。他に7門が構築されたという(計画は8門、砲不足により7門となる)
内訳は「96式15糎加農砲 2門」「45式15糎加農砲 1門」「7年式15糎加農砲 4門」であったが、この程度の守備では
到底連合軍の上陸は阻止出来るはずも無く、「沖縄戦」の二の舞を演じる事になったであろう。
他の施設として観測所3ヶ所、150糎探照灯1基であった。観測所は現存するが、今回は時間が無く、次回とした。
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ルーズベルト大統領の死去に伴い、跡を継いだトルーマン大統領はポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、
ソ連の日本参戦を阻止する為、そして日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させる事が可能になった事から広島・
長崎へ原爆投下。結果「ダウンフォール作戦」発動前に日本が降伏した為この計画は中止された。
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▼鹿屋市浜田町にある浜田砲台(坂元砲台)跡には弾薬庫だったという遺構が現存していた。
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大戦末期、浜田海岸に上陸する敵を迎え撃つ為、海軍が設置した砲台だそうだ。
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▼弾薬庫側から砲台が設置されていたという藪を見る。その向こうは浜田海岸だ。
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▼少し中に入って見る。砲員退避所も兼ねていたと思われる遺構は間口は広くとられていた。
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入口付近はコンクリート製だが、奥は素掘りのまま。崩落が激しいので入壕は断念した。
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▼最後は高須海岸に構築されたトーチカ陣地。
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高須海水浴場脇にひっそりと銃眼付のトーチカが残っているという。
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海岸線に沿って歩いていくと・・・。
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あった!銃眼だ・・・。
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自然の岩をくり貫いたのか加工したのか、コンクリート製の銃眼がビーチを狙っていた。
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裏側からどうにかは入れないものかと尋ねたが、現在は塞がってしまって無理な様だ・・・残念。
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石垣が追加で構築されているので水際交戦に備えてのトーチカだろう・・・。
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▲よじ登って銃眼内部を撮影。上手く写らなかった・・・。
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海岸線を先へ進むと、明らかに人工的に岩場が切り取られている部分がある。
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詳細不明との事だが、此処にレールを敷いて、特攻ボートの震洋かマルレを出撃させるつもりだったのではなかろうか
トーチカの直ぐ近くという事を考えると、船で構築機材や材料を運んでくる為に接岸場所を構築しただけかもしれない。
敗戦後の昭和20年9月4日進駐軍アメリカ海兵隊2500人が高須の金浜海岸に上陸した。
当時、鹿屋の多くの人々が進駐軍を恐れ、山間部に逃れたと言われている。
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▲敗戦後の昭和20年9月4日高須の金浜海岸に進駐軍のアメリカ海兵隊2500人が上陸した。
9月3日進駐軍先遣隊が先ず鹿屋航空基地に降り立ち、シリン大佐は「カミカゼ・ボーイはどこにいるのか?」と、最初
に質問したと言われている。
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▲▼フェリーの時間が迫ってきていたので急いで垂水港を目指す。桜島を見ながら鹿屋市を後にした。
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▼今まで鹿児島市内は、通過しただけで真面目に見学した事が無かった。
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折角なので少しだけ市内を見学してから帰路に就く事とした。鹿児島市公会堂からスタートする。
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▼▲辺りを見回すと、西郷さんは当然として、明治・大正・昭和初期頃に建てられた建物が目に付く。
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規模は小さいが、日本統治時代が色濃く残る「大連」を思い出していた。
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▲この建物もどう見ても古い。最近まで鹿児島県立博物館として活用されていた様だ。
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▲鹿児島大空襲の時、多くの人が避難・集まった照国神社が正面に見える。
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▲薩摩藩第11代藩主の島津斉彬(しまずなりあきら)を祀る照国神社。
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▲西郷を逸材と見抜き、海外の文化や技術を積極的に取り入れ、薩摩藩の枠を超え幕府に日本全体の改革を求めた明君
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▼▲明治16年建築の元県立興業館。現在は活用されていない様だ。
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▼山形屋デパートは大正6年の建築物。
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路面電車も走っている。広島も原爆が無ければこの様な風景が少しは残ったんだろうな・・・。
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▲▼南日本銀行か・・・この建物も明らかに古い!
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昭和20年3月~8月にかけて8回の空襲を受けた鹿児島県。よく耐えて残ってくれた・・・。
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▼鹿児島市役所は昭和12年完成。昭和20年6月17日の空襲で半壊したが修理されて今でも現役だ。
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鹿児島県は本土最南端に位置するのに加え、知覧/万世/鹿屋/串良などの特攻基地が設けられていた為、地方都市の中
でも鹿児島県は特に空襲が激しかった。
昭和20年6月17日120機のB-29がマリアナ諸島から発進し、午後11時、鹿児島市上空に飛来。
6月17日の鹿児島大空襲で、死者は2316人、負傷者3500人、市街地の44.1%が損壊された。
昭和20年3月~8月にかけての8回の空襲で、最終的な死者は3329人負傷者4633人市街地の93%が焼失している。
▼最後に桜島が見える絶景ポイントと、西南戦争で西郷隆盛最後の地を見学しに城山に向かった。
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▲島津の居城だった鹿児島城(鶴丸城)跡付近から城山に登っていく。
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▼此処が「西郷隆盛最後の地」城山薩摩軍陣地だ。
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此処も1度来てみたかった。
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この壕は無料で入る事が出来る。
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早速入壕する
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入って直ぐ左側に小さな小部屋がある。そこには小さな西郷さんが居た。
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壕はコの字型に掘られた単純な壕だが、中には西南戦争を伝える絵が展示されている。
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西郷隆盛最後の時も描かれていた。私利私欲を嫌ったこの人が生きていれば歴史は変わっていたであろうか・・・。
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どうだろう・・・日清・日露・日中・日米の戦争に日本は向かったであろうか。そんな事を想いながら壕を後にした。
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▼壕から少し下がった場所にも壕口が2つ口を開けている。此処は薩摩軍の司令部壕跡だ。
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本来は此処から見学を開始すべきだと思うが、駐車場の位置関係で上から下ってきてしまった。
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日本国内最後の内戦と言われる西南戦争の戦跡だ。
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柵がしてあり、観光客も多いので、流石に入壕する事は出来なかった。
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しかし、「司令部壕」と言われている壕だが、そんなに深い壕ではなさそうだ。
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▼当時の城山薩摩軍陣地
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▼どこまでが本当かは解らないが、城山に立てこもった薩摩軍が、最後は官軍に完全に包囲されていた事が解る。
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明治10年9月24日西郷隆盛自決。とされている・・・ロシアに脱出したとか・・・西南戦争も詳しく勉強せねば・・・
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▼最後は桜島が見える絶景ポイントに向かった。此処は明治23年 鹿児島市に最初に出来た公園だ。
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▼展望台からは桜島が綺麗に見えた。
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▼鹿児島大空襲後の鹿児島市。恐らく昭和20年頃に城山から撮影されたものだ。山形屋も写っている。
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Kagoshima, Japan after American aerial bombing, 1945
鹿児島県は、私の中で「THE戦跡」と呼んでもおかしくないくらい、戦跡が多く残る県。という印象だった。
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▲観光地をフォローする為にご紹介しておくと、鹿児島市の商業施設・ドルフィンポートにも少しだけ立ち寄った。
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▼晴れていればこんなに綺麗な桜島をまじかに見る事が出来るスポットだ。
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周辺には北海道「小樽」の様な石造りの古い倉庫群も残る。
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次は丸1日かけて鹿児島市を観光してみたいと思いながら鹿児島市を後にした。



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 2017_11_05

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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