奄美大島

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鹿児島県に属する奄美大島は、佐渡島・沖縄本島などに次ぎ面積5位の島だ。
奄美大島・加計呂麻島には戦時中、奄美大島と加計呂麻島に挟まれた大島海峡防備の為、海軍の奄美大島要塞が建設さ
れ、奄美大島の名瀬・古仁屋・久慈は軍港として使用された。
加計呂麻島には海軍の砲台や艦船給水施設やダムが建設され、特に薩川湾は水深が深い天然の良港で、戦時中は軍港と
して連合艦隊の錨地として大和や武蔵を含め多くの艦艇が錨を休めた港として有名で瀬相港に海軍司令部が置かれた。
(渡連)待網崎には高角砲台が設置され、大戦末期には呑之浦に第17・18震洋隊を配備。その遺構は現在も残っている。
大戦末期、奄美諸島には奄美大島・加計呂麻島に3隊、喜界島に2隊の合計5隊の海軍震洋隊(特攻艇)が配備された。
陸軍の海上挺身戦隊は、奄美大島(阿鉄集落)に海上挺進第29戦隊が配備されていた様だ。
奄美大島(久慈湾)に第44震洋隊を配備。古仁屋基地から第801海軍航空隊偵察第302飛行隊・第634海軍航空隊偵察
第301飛行隊の「瑞雲隊」(水上偵察機)が沖縄攻撃に出撃している。
奄美群島の主な島の中に、喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島がある。太平洋戦争(大東亜戦争)中、本土上陸を目指
す米軍の侵攻に備え、喜界島・徳之島には日本軍の飛行場が建設された。
知覧・万世や鹿屋から出撃した特攻機が、機体トラブルや交戦被弾で不時着した飛行場として良く耳にする島だ。
喜界島の海軍飛行場(不時着場)には、昭和18年7月10日南西諸島航空隊が開隊(本部は沖縄本島の小禄航空基地)。
南西諸島の陸上航空基地が管理下に置かれ、同隊の喜界島派遣隊が常駐していた。現在も喜界空港の位置は同じ。
徳之島には昭和18年、陸軍特攻隊(知覧/万世)の中継基地として陸軍飛行場(浅間飛行場)が建設され、昭和19年6月
から運用を開始している。沖永良部島には独混21連隊第3大隊が配備され、大隊は越山を中心に陣地を構築した。
特攻部隊の基地がある各島は激しい空襲を受けた。米軍は昭和20年5月喜界島に上陸部隊を送り込む作戦計画があった
が、実施されずに終戦を迎えている。
戦後、北緯30度以南のトカラ列島・奄美群島や沖縄・小笠原諸島は日本から分離され、サンフランシスコ講和条約発効
後も米軍の施政下に置かれた。東京や関西在住の奄美出身者らが始めた祖国復帰運動は奄美にも波及。
島民による署名活動や総決起集会、密航による東京での陳情活動などを経て、昭和28年12月25日本土復帰を果たした。
その後、小笠原諸島は昭和43年・沖縄は昭和47年に本土復帰している。
3連休中に奄美群島全てを見学するのは不可能なので、今回は2017年3月26日に再就航したバニラ・エア大阪/関西空
港線を利用して奄美大島・加計呂麻島の戦跡を駆け足で巡ってきた。

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▲関西国際空港から僅か1時間45分程で奄美空港に到着。
旧奄美空港は昭和39年開設で、昭和63年から現在の埋め立て地による新空港の運用を開始している。
よって奄美空港の旧軍との関係は無いものと思われる。旧奄美空港は現在、奄美パークとなっている。

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▲1月は晴れた日が珍しいという話の通り、小雨が舞うあいにくの天気だったが、気温は18度で十分南国だ。
1998年日本エアシステムが運航休止。2001年エアーニッポンが運航から撤退。2010年にスカイマークが運航休止な
ど、沖縄に比べて極端にアクセスが悪かった奄美大島だが、世界自然遺産登録を見据えてか去年3月バニラ・エアが再
就航。直通便が運航されて行き易くなった。飛行機の乗り継ぎは面倒だからね・・・。

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▲▼けっして大きな空港では無いが、綺麗に整備されていて気持ちいい。
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世界遺産登録成るといいな~でないと、また直行便が運航撤退とか言い出すと行きにくくなってしまうからね・・・。
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▼空港でレンタカーを借りて島を周る。「奄美」ナンバーを初めて見た。
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聞けば2~3年前までは、普通に「鹿児島」ナンバーだった様だ。まだ島では鹿児島ナンバーの方が多い。
「奄美」の方が島らしくていいね!原付スクーターのご当地ナンバーもお洒落!

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▼奄美大島の中核都市というと名瀬だが、2006年いくつかの村と町が合併し、現在は奄美市となっている。
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▼昭和20年4月 米軍の空襲により焼け野原となった名瀬(奄美市の中心部)
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▼現在の名瀬(奄美市) 赤矢印の場所は名瀬末広町のAiAiひろば。湾は埋め立てられて狭くなっている様に見える
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▲AiAiひろば(赤矢印の場所)で「紬コーディネート・コンテスト」が開催されると聞いていたので行って見た。
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▼AiAiひろばを目指して街の中心とも言える商店街を通る。すると商店街入口に大きな看板が・・・。
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南西諸島の離島防衛強化を目的に、鹿児島県奄美大島に配備される陸上自衛隊部隊は約550人規模。
地元の奄美市長・瀬戸内町長も受け入れを表明し、奄美大島の駐屯地整備は2015年から既に着工している。
奄美空港から名瀬へ来る途中、58号線を走りながら、兵舎建設現場も見えた。
離島有事に対応する「中距離地対空誘導弾部隊」や大規模災害時に初動対応を担う「警備部隊」などが主な隊で、皆、
日本の領土を守る為に島に勤務する隊員ばかりだ。有事の際、隣国の大国に数では到底勝ち目は無い事も理解出来るが
奄美大島一の繁華街で、プロ左翼のこの様な看板を目にする事で自衛隊員の士気が下がらない事を祈る。

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▲正月シーズンという事もあるが、この様に「日の丸」を掲げているお宅も沢山見た事もお伝えしておく。
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      ▲これは後にご紹介する加計呂麻島で見た募集広告。当然奄美の若者も勤務するはずだ。

▼気を取り直してAiAiひろばで開催された「紬コーディネート・コンテスト」を見学する。
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有名な大島紬(つむぎ)は奄美大島の基幹産業で(と言っても年々需要は減るばかりだが)紬製造約1300年の歴史は古い。
一反(12m50cm)が織り上がるまで、半年から1年を要する着物愛好家なら誰もが憧れる日本を代表する絹織物だ。

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▲2018年紬美人がステージに登場。一番左の方はイギリス人。オックスフォード大学の学生さんで泥染めや藍染めを
 勉強しに来ているそうだ。流石紬美人に選ばれた方達なので皆、美しい方ばかりだ・・・。

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▲駐車場に戻る途中、懐かしい61クレスタを発見!塩害の多い島ではかなり程度が良い車に見えた。
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▲宿泊は龍郷町のホテルカレッタ。屋外プールも備えた綺麗なホテルだった。
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▲▼翌日、マングローブ原生林や綺麗な海を見ながら一路「西古見観測所跡公園」を目指す。
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天気予報を覆しての晴れ間。いつも戦跡巡りでは天気予報を見事に裏切って晴れてくれる。本当に感謝だ・・・。
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▲大島海峡を左に素晴らしい景色だった。
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▲奄美市から島を南下し、西古見集落を目指してひたすら島を西へ進んで休憩。加計呂麻島と江仁屋離島が見える。
 大島海峡の入口にあたるこの海域は軍事的に重要視され、海の向こう(加計呂麻島の隣)右手の江仁屋離島には海軍の
 砲台が設置されていた。現在は無人島で、軍事遺構はかなり残っているが、水上タクシー等をチャーターしなければ
 個人的にはなかなか行く事は出来ない。

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▲西古見集落を抜ける時に通った古い橋、気になって車を止めて見学。この辺りから道が狭くなっている。
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▲昭和13年に作られた西古見橋が今でも現役だ!
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▲西古見ナハンマ公園。トイレも完備された綺麗なビーチだった。
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▲更に進んで行くと、人気の無い廃墟が現れた!どうやら当時の「奄美大島要塞」地区に入った様だ。
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事前情報が少なく、此処も知らなかったが兵舎の様だ・・・早々に車を止めて見学体制に入る!!
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当時の海軍兵舎跡だろう・・・大正10年9月に西古見第1砲台・西古見第2砲台着工の時に建設されたと思われる。
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現在は地元の方が物置きとして利用しているのだろう。70年以上経っているがまだまだしっかり残っている。
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▲▼頑丈なコンクリートの壁で仕切られた敷地内は恐らく高官の兵舎だったのだろう・・・中を覗いてみる。
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屋根は朽ち果てて落ちている様だが遺構は残っていそうだ。
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▼▲壁や基礎はしっかり残っていた。奄美大島の重砲兵第6連隊長 末松五郎大佐が居たのだろうか・・・。
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▼トイレが残っている!
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小便器も当時の物か!?
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ここに駐屯していた海軍部隊は奄美大島要塞重砲兵連隊とある。昭和19年5月3日をもって重砲兵第6連隊に改称。
陸軍独立混成第64旅団に編合され、主力は引き続き奄美大島要塞の防備にあたる一方、1個中隊を徳之島陸軍飛行場へ。
1個小隊を喜界島海軍飛行場の防衛のために派遣したとある。兵舎があるという事は砲台は近いはず!
舗装された道とは別に、舗装されていない当時の軍道が更に奥へと進んでいるのでその方向へ進んでみる。

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▲▼あった。砲台跡と弾薬庫が!大正時代に建設された物だが赤煉瓦では無い。砲台跡は大島海峡を向いている。
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砲台跡と弾薬庫は2基確認出来た。明治時代は石積みや赤煉瓦造りが主流だが、大正時代はコンクリートか。
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▲砲台完成当時はこの様な曲射砲が設置されていたのであろう(参考画像は28糎榴弾砲)
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弾薬庫内部の保存状態は良好。
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兵舎も弾薬庫も、何の案内板も無くひっそりと当時を伝えている・・・。
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現在は誰の所有物なのだろう・・・強固な極上物件だ(笑)
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▼弾薬庫の壁に刻まれた謎の数字・・・何の意味だろうか・・・?全く理解不能だ。
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どなたかご存知の方がいらっしゃいましたらご教授下さい。
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▼弾薬庫から更に奥地へ進んで行く。
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すると、水源にしていたと思われる川を発見!
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僅かではあるが遺構が残っていた・・・沈殿池跡との事(ビグロ様有難うございました)
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飲めそうなぐらい綺麗な水だ・・・。
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沈殿池跡を後にする。(沈殿池とは、水を清澄化する役目を果す池である)
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▼時間も押していたので元来た道を戻り、最初の目的地である「西古見観測所跡公園」に向かう。
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▼やっと「西古見観測所跡公園」に到着。
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誰も居ない・・・。
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▼▲車を駐車スペースに停めて早速見学。階段を登って進むと・・・おぉ~!これか。
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しっかりとしたコンクリート造りの観測所だ。
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当時はほぼ土と樹木に覆われてカムフラージュされていたであろう。
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▼▲大島海峡の入口がしっかり見渡せる絶好の場所だ。
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▼観測所は中に入る事が出来る。
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早速中へ入って見る。当時ついていたであろう鉄扉は無い。
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中は綺麗に清掃され、保存状態の良さが引き立つ。
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この丸い台座の上に観測望遠鏡が置かれていたのだ。大正当時は輸入品だろうか。大きかったと思う・・・。
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KANSOKU.jpgこんな感じの物だったのかな?
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▼▲この空間から砲身の様な大きな双眼鏡で大島海峡に侵入する敵を監視していたんだろう・・・。
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ここで得た情報を、さっき見学した砲台に伝える仕組みになっていた。
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▲▼2階部分もある。当時は梯子があったと思うが、現在はちょっと見学は難しい・・・。
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▼中から入口を見る。
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最後に雄大な海と大島海峡を眺める。
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この先もずっとこの遺構は大島海峡を見守っている事だろう・・・振り返って観測所を見て次へ移動する事にした。
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▼観測所跡から更に進んで行くと、奄美大島の西の端。曽津高崎(そつこうざき)灯台がある。
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曽津高崎灯台の案内標識がある場所からは、舗装されていない荒れた道が続くのでパンク等に注意が必要。
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▼矢印の所が曽津高崎灯台。展望所からは、曽津高崎灯台まで連なる岬と東シナ海の水平線が見える。
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この先も、舗装道路では無く、石がゴロゴロするかなり荒れた道路なので、スピードは控えめに。
この付近では野生のヤギの群が見れるそうだが出くわさなかった(増えすぎた野ヤギは排除に手を焼いているらしい)
しかし、灯台近くまで行ったものの、地元の方がいらっしゃって、「この先灯台へは行けない」と告げられた。
聞くと、去年の台風で道が崩落しているとの事。しかし、旧軍施設が残っているからと、案内してくれた!

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▲どうやら、この崖の下に旧軍施設が残っているとの事。足を滑らせると海へ転げ落ちる可能性もある・・・!
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▲因みに通行禁止となっている場所からの絶景。かなり高い位置だ。
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▲黒矢印は歩いて来た方向。赤矢印は遺構が残る斜面の方向。慎重に斜面を下りると・・・。
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▲あった!斜面のほんの少しの平地に建設されている!監視所跡だろうか・・・?
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海の方向に窓が無いので、ただの倉庫かもしれない・・・台風対策で海の方向に窓が無いのか?
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結局灯台を見学する事は出来なかったが、案内してくれた地元の方によると、現在の灯台は戦後作り直された灯台だそ
うで、現在の灯台建設の際、海からコンクリートなどの資材を運搬したとの事!
此処に灯台が建設されたのは日清戦争後の明治28年12月6日で、翌年の11月8日竣工されたとの事。建設は陸軍省で、
奄美大島で最初の灯台だったという。戦時中は陸海軍の砲台や弾薬庫、防備衛所、監視所が建設されたそうだ。
戦後は海上保安部が管理し、灯台職員が住み、子供達は歩いて西古見小学校に通っていたという。
奄美方言があまり無い方だったので、お話を更にお聞きすると、その地元の方は出稼ぎで尼崎の川崎重工に10年以上勤
めていたそうだ。どうりで少し関西混じりの話方だと思った~!そういえば兵庫県尼崎杭瀬(くいせ)地区は奄美・鹿児
島出身者が多い街で「リトル奄美」と呼ばれているのを思い出した。
 その方からは米軍統治下の沖縄・奄美群島とで使用されていたアメリカ軍の軍票「B円」のお話も伺った。
奄美群島本土復帰後、本土で日本円に換金してもらった時、2倍程度だった事をよく覚えているとも語っておられた。
敗戦直後本土地域でも、占領軍によってB円も日本円と同じく正式な通貨とされ支払が開始されたが、日本政府が占領
経費を日本円で支弁する事を交換条件として軍票支払の停止を要請し、占領軍に承認された為、出回った量は極少だ。
昭和23年7月15日をもって、本土ではB円は廃止されたが、ほとんど流通していなかった為混乱はなかった。
本土で回収されたB円紙幣は沖縄で使用された様だ。
地元の方にお礼を言ってその場を後にした。
▼今回見学した遺構は白矢印の所。他にも未開の旧軍施設の遺構が沢山残っていそうだ・・・見てみたい!

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次に、久慈湾近くに残る、海軍艦船補給基地(給水施設)と第44震洋隊秘匿壕に行く予定だったが行けずじまい。
久慈湾が軍港だった戦時中は、軍艦や輸送船に給水する施設が建設され、大戦末期には第44震洋隊が配備された。

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▲▼米空母ハンコック(CV-19)から出撃した米軍航空機によって撮影された久慈湾の日本軍艦船への爆撃の様子。
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▼▲米軍の空爆を受ける久慈湾に停泊している日本軍艦船(昭和20年3月1日米軍機より撮影)
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▲上記の3枚写真がそのものかどうかは不明だが、恐らく「大信丸」ではないかと思う。
「大信丸」は明治37年起工の大阪商船の貨物船で、大戦末期には当然軍に徴用されていた。
直前の航海としては昭和20年2月27日(カタ604船団)鹿児島港を出港、3月1日久慈湾に入港している。
沈没日時は昭和20年3月1日08:39奄美大島久慈湾内で米第58機動部隊艦載機による空爆を受け、右舷後部に直撃弾
2発を受けて沈没、と記録されている。
この時「大信丸」の所属はカタ604船団。大信丸には、海上挺身第30戦隊の特攻隊員達が乗船しており、宮古島へ向か
う途中であったが、沈没により16名の戦死者を出している。(海上挺身戦隊は陸軍の特攻ボート「マルレ」の部隊)
この沈没で積み荷であった海上挺身第30戦隊のマルレは全て喪失。生き残った隊員は広島県安芸郡江田島町の「幸の浦
基地」に戻る事となり、後に8月6日の原爆を経験、戦隊長 富田大尉の命令を受け、彼等は素晴らしい救援活動を行う。
広島の壊滅を知った第30戦隊長の富田稔大尉は、広島市民救援の為、偵察任務の「第一次救援隊」を編成。
これは第30戦隊の隊員10名と軍医で構成、大発で幸の浦から陸軍船舶司令部のある宇品に向かわせている。
隊員の多くは10代後半の少年兵で、危険を顧みず広島市内で勇敢に懸命に救助活動を行っている。
8月15日玉音放送を聞いた後、江田島(幸の浦)の海岸で、積み上げた自分達の特攻艇「マルレ」を焼き払い、少年兵の
戦争は終わった筈だった。が・・・原爆症が少年兵達を襲った。
原爆投下当日に広島市内に居た被爆者には「被爆手帳」が交付されたが、救援隊の少年兵の様に後日市内に入って被爆
した者への救済処置が戦後長らく無く、高額な治療費を全額自弁するほかは無かった。
「被爆者」へのいわれなき差別は、これこそ当日被爆者の方達と差別無く受けたという。当時の被爆に対する無知で、
本来称賛されるべき兵士達を「ピカの病人」と差別した同胞が多かったのも事実である。

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奄美大島は1周460㌔もある大きな島。一言で観光と言っても、各所~各所を車で巡るには相当な時間がかかる。
鉄道は通って無く、高速道路も無い。時間も押していたのもあるが、国道沿いを、ただ通過しただけでは簡単に見つけ
る事は出来なかったが、「カンツメの碑」だけ立ち寄った。

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先の大戦とは関係が無いが、宇検村名柄と瀬戸内町久慈を舞台とした悲しい伝説がある。
薩摩藩政下時代、名柄に裕福な豪農の家があった。そこには使用人(ヤンチュ)➡[ 借金返済の代わりに身売りした人 ]
と呼ばれる人々がおり、その中に「カンツメ」と言う名の従順で美しい娘がいた。
歳は19~20の頃。カンツメは、ヤンチュ仲間からはもちろん、屋敷の主人からも想いを寄せられていた。
 ある日、隣村の久慈の役所で筆子役として働いていた岩加郎という青年が、名柄の豪農であるその家を訪れた。
屋敷の主人は岩加郎をもてなす為にカンツメに引き合わせた。夜も更けるにつれ2人の呼吸は冴えるばかりで、カンツ
メは身分も忘れて一夜を過ごした。その後2人は愛し合うようになり、両村の間の山で人目を忍び密会を繰り返すが、
ほどなくして、2人の仲はカンツメの主人にばれてしまう。
かねてからカンツメに想いをかけ、その度に拒まれ続けていた主人は激怒し、ある晩夜露に濡れて帰ってきたカンツメ
をその場に引き倒し、焼火箸で彼女を折檻した。
見るも無惨な姿になってしまったカンツメは、その日も山での重労働に追われ、仕事が終わると仲間と別れ、1人で岩
加郎と忍び会った場所に走った。何も知らない岩加郎は、沈んだ表情のカンツメを迎え、いつものように楽しい一夜を
過ごした。やがて山鳥が朝を告げようとする頃、カンツメは「あかす夜は暮れて、わきゃ夜は明ける 果報節のあらば
また見逢いそ(冥界の夜は暮れて貴方の夜は明けます。よい時節が来ればまた会いましょう)」と歌って姿を消した。
我に返った岩太郎が目にしたのは、カンツメの変わり果てた姿であった。カンツメの霊は、その後多くの祟りを主家に
もたらし、名柄の豪農の家は衰え消え去った。厳しい労働に加えて、主人の嫉妬と暴力。
ささやかな恋の想いをとげられぬヤンチュの立場。恨みをのんで死を選ぶしかなかったカンツメの悲しい物語である。

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碑文は以下の様に書かれている。
奄美は民謡の宝庫と言われ、先人から幾千首の民謡が唄い継がれ情緒豊かな旋律は、島の津々浦々に今なお聞く事が出
来ます。その数多い唄の中で、かんつめ節ほど島人に愛唄されているものはない。
この唄はその昔、この地方に主家で生涯を奴隷同様に働くヤンチュという制度があり、名柄集落のある農家で、ヤンチ
ュ娘(使用人)として仕える年の頃19~20歳、容姿端麗で気立ての優しいカンツメと、久慈集落の役所に勤める、歌と
三味線の巧みな青年岩加郎とはかない恋物語をうたった唄で、美貎で制度の中の弱き者がゆえに、周囲から妬みしいた
げられ一人寂しく散った乙女心をしのび、いつしか誰とはなしに人々にうたいい継がれてきた唄です。
島唄は奄美の自然を歴史に密着し、民族文化の基盤として島人の生活と共に生き続けてきたのです。
この様な祖先の貴産を風化させることなく未来に伝えていく事は大事な事であります。
ここに有志の方々の心暖まる援助をいただき「かんつめ節」の碑を建立するにあたり、かんつめの魂に永遠の冥福を祈
り、ふくつの名作を記念するものであります。  昭和59年3月20日建立

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▲先を急ぎ、宇検村に入る。
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▲次に立ち寄ったのが厳島神社。え?厳島神社って広島(宮島)の・・・?と思ったが平家は源氏に滅ぼされて・・・。
ここで明治・大正・昭和からもっと昔(得意分野では無いが)の時代を少し勉強する事になった。
奄美大島は元は琉球王国の一部だった。なので文化や方言なども沖縄の色が濃かった様だ。しかし壇ノ浦の戦いで源氏
に敗れ、落ち延びてきた平家の落人(おちゅうど)らによって、日本本土の文化が伝えられ、島には幾つかの城砦が築か
れたと言う。喜界島には追って来る源氏を警戒する為の城跡となる平家森も残っていると言う。そして平資盛、平有盛、
平行盛の三将平家が約50日間掛けて、奄美を平定したと伝えられている。
平有盛の家臣は龍郷町今井崎に、見張り用の砦を築き、源氏が来襲するのを警戒したと伝えられている。
(龍郷町は西郷隆盛が幕末に奄美大島で生活した際に、建てた新居がある場所)
平行盛は奄美の人々に農業(稲作)を教えたり、漁法や学問を教えたと伝わる。龍郷付近には「平家漁法」と伝わる遺構
が、海に残っているとの事だ。奄美大島は琉球文化と平安文化(大和文化)が融合した島という事だ。
なので、厳島神社が奄美大島にあっても不思議では無いという事が解った。勉強になりました(感謝)
因みに奄美大島には此処も含めて20ヵ所程の厳島神社(分社)があるとの事。確かに車から神社は沢山見た様に思う。

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▲黒兎のイラストが可愛い看板。
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▲右手がサクラツツジ。花の色が桜色であることからサクラツツジと呼ばれるそうだ。綺麗な花を咲かせる事だろう。
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▲かなり古そうな寄進塔がある。これが村指定文化財か・・・1702年!300年前の物だ・・・。
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▼移動中、牧場をみかけた。
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奄美の肥育素牛(そぎゅう)としての能力は、非常に高いレベルで安定しているとの事。
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奄美群島は鹿児島県内有数の子牛生産地帯としての地位を確立している。
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▼大島群宇検村を抜けて一気に島を北上、今里漁港「立神」と東シナ海が見えた。海の向こうは中国(杭州)辺りかな?
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▼宇検村の綺麗なビーチ。透き通る様な綺麗な海は絶景だった。
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▼大島郡大和村戸円を通過。
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▼戸円海岸は奄美有数のサーフィンスポットだ。
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▼大島郡大和村大金久嶺山の「嶺山公園」を通過、予定には無かったが何か少し気になったので寄ってみた。
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奄美大島の高台は全て綺麗に整備され、ほとんどがトイレ完備で非常に安心感が高い。
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階段を登っていくと東シナ海の絶景が・・・。
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展望台の直ぐ横に石碑があった。「祈 平和」・・・この場所は何か歴史・戦史に関係がありそうだ。
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石碑の裏を見ると、成程平家の落人らが監視していた場所なんだ・・・。
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明治時代から島の人は本土に出稼ぎに行き、残った家族は此処で無事を祈願したんだ・・・。
戦時中は出征将兵達の武運長久を祈願したとある・・・聖地なんだな・・・。来て良かった。

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▲この東シナ海のはるか向こうの中国大陸へ出兵した奄美出身の兵士も沢山居ただろうな・・・。
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▲▼展望台には立派な銅製の地図が置かれていた。☆(赤)印が現在地だ。
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▼展望台から島側を眺める、南国の山が連なっている。
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▼別の場所にあった案内板。石碑と同じ様な事が書かれているが「大東亜戦争」と書かれている事が意味深い。
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▼大和村国直への移動の途中、忠魂碑が見えたので立ち寄った。
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石碑の裏には大東亜戦争で戦死された大和村大金久(オオカネク)出身者のお名前が刻まれていた。
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大東亜戦争大金久出身者戦没者として14名のお階級・名前・戦死年月日・戦没地が刻まれている。
一番上の方は陸軍上等兵で昭和13年10月に中支(中国)で戦死したとあり、南太平洋、ブーゲンビル島、五島列島、ビ
ルマ、硫黄島、比島(フィリピン)そして最後から2番目の方は、昭和20年8月満州とある。陸軍と書いてあるから関東
軍だったのだろう・・・そして最後の方は、海軍兵長で昭和27年5月朝鮮と書いてある。
昭和20年に敗戦で何故?しかも朝鮮で・・・シベリア抑留から帰還途中に力尽きたという事か?無念だったであろう。
翌年の昭和28年12月25日が奄美群島本土復帰だった・・・さぞかし故郷に帰りたかったであろう、悲しい歴史だ。

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大島群大和村国直に到着。この先は奄美市だ。
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▼古仁屋には海軍基地があった。その遺構と思われる建物が加計呂麻島行きのフェリー乗り場近くに残っている。
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▼古仁屋港周辺(昭和20年3月27日米軍撮影)
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古仁屋港は海軍の対潜哨戒用・船団護衛及び索敵を行うた為の水上機基地で、米軍が沖縄本島に上陸を開始した昭和20
年4月1日以降、古仁屋基地を中継基地として合計75機(内「瑞雲」62機)が沖縄爆撃に出撃している。
沖縄戦に参加した「瑞雲隊」は2隊である。
1つは「第634海軍航空隊」偵察第301飛行隊(台湾の淡水から飛来し、古仁屋で補給を受け、沖縄戦に参加)
もう1つは「第801海軍航空隊」偵察第302飛行隊(福岡県の玄海や博多、鹿児島県指宿から飛来し沖縄戦に参加)
「瑞雲」は航続距離が燃料満載時でも520カイリにすぎない為、九州~沖縄間、台湾~沖縄間の約350カイリの往復は
不可能であった。その為、両隊とも奄美大島の古仁屋を中継基地として使用する事となったのである。
偵察第301飛行隊の場合は(台湾)淡水基地から発進、沖縄周辺の米艦隊を攻撃して古仁屋に着水、補給後再び攻撃に向
かい淡水に帰投するというものであった。
一方の偵察第302飛行隊は九州の博多や指宿を出撃して古仁屋で燃弾補給し、敵輸送船・上陸用舟艇・艦艇・航空母艦
を攻撃するものであった。古仁屋に常駐していた隊も居たという。詳しくは「水上機神風特別攻撃隊」参照。
古仁屋の海軍基地には、九州から特攻出撃し、機体トラブルや空戦で傷を負い、徳之島や喜界島に不時着した陸海軍の
特攻隊員が数多く古仁屋から九州へ海軍の水偵に乗って帰還している。

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▲▼古仁屋(こにや)港に残る旧海軍施設と思われる遺構。案内板などは全く無いので詳しい事は解らない・・・。
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海軍の燃料貯蔵庫か弾薬庫か、指揮所か・・・それとも大正12年竣工の大島要塞司令部関連の建物跡か?
瀬戸内町須手に地下壕などが残っていると聞いたが場所も解らず、今回は見学出来なかった・・・。

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▲少し埋まっている様にも見える・・・古仁屋も米軍の激しい空襲を受けている。夜間空襲も激しく連日連夜に及んだ。
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   ▼米軍の空襲を受け炎上する古仁屋港周辺(昭和20年3月26日米軍撮影)
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▼海軍水上偵察機 「瑞雲」(福岡県の玄海基地で撮影)
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▼2017年6月『艦隊これくしょん』と富士急ハイランドのコラボイベント「瑞雲祭り」で展示された瑞雲1/1模型
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古仁屋は軍と深い関わりのある瀬戸内町らしく、立派な慰霊塔や慰霊碑が綺麗に管理されている事でも有名だ。
今回は行けなかったが「富山丸慰霊塔」には行きたかった。充実した戦跡関連の案内パンフレットがあれば・・・。

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▲約3700人の軍関係者や民間人を乗せ鹿児島から沖縄へ向け航行中であった徴用船「富山丸」。
昭和19年6月27日「富山丸」を含めた12隻の船舶は「カタ412船団」を構成し、鹿児島湾を出港。
翌28日貨客船「履門丸」と「開城丸」は名瀬港に寄港し、「富山丸」を含めた他の船舶は17時に古仁屋に入港した。
翌朝、船団は名瀬と古仁屋からそれぞれ出港して那覇に向かう。
その頃、米軍の潜水艦スタージョン(USS Sturgeon, SS-187) が徳之島の東で浮上哨戒を行っており、04:33に
潜航哨戒を開始、05:29カタ412船団は針路220度で航行中と判断され、スタージョンは「富山丸」に照準を定める。
7時25分、スタージョンは艦首発射管から「富山丸」に向けて魚雷を4本発射、4本の内3本が「富山丸」の左舷船首と
二番船倉及び四番船倉と機関室の中間部に命中。
左舷船首と二番船倉に命中した魚雷の衝撃でガソリンが船内及び海上で発火して炎上する。
止めを刺したのは四番船倉と機関室の中間部に命中した魚雷で、「富山丸」は船体を二つに折って北緯27度43分東経
129度06分の徳之島南東12キロの地点で轟沈した。
轟沈と海上に流出して引火したガソリンの為、将兵4600名が脱出する余裕はほとんどなかった。
独混第44旅団をはじめとして、沖縄の現地部隊を統括する第32軍は大本営より飛行場の急速造成を指令されていたが、
本船の沈没によって旅団の生き残りは約700名その内活動出来る者約500名となり、トラック等も失われ、沖縄第32
軍が担当した飛行場建設(陸軍北飛行場と中飛行場)遅延原因の一つとなっている。
この沈没で、旅団将兵や船員、船砲隊員の合わせて約3700名が戦死。一隻の船による死亡者数としてはタイタニック
号や、翌年の戦艦「大和」の沈没よりも多く、当時としては第一級の惨事であったが、多くの船舶の沈没の実態と同様、
大本営により秘匿された。
情報を聞きつけ、ここ古仁屋からも漁船等で徳之島沖まで救助に向かい、当時古仁屋に陸軍病院があった事もあり、多
くの火傷を負った傷者が運び込まれた。古仁屋で亡くなられた方も大勢いたという。
昭和39年6月29日には徳之島亀徳に慰霊塔が建立され、昭和60年6月30日には古仁屋に供養塔が建立され、毎年遺族
等による供養祭が開催されている。

奄美大島の北部方面には有名はビーチが集中している。その中で土盛海岸に立ち寄った。

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▼天気が悪かったのでさえない空の色だが、土盛海岸は綺麗なビーチだった。
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▼冬季なので当然泳いでいる人はいないが、この注意看板は必ず確認してビーチに行った方が良いだろう。
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▼奄美大島で多くの海岸を見たが、ほとんどのビーチにこの様な警告看板がある。
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▼▲必ずルールを守って海を楽しみたい。大人がルールを守らないと子供達も守らなくなってしまうからね!
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「るりかけす運動」って初めて聞いたな~。
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▲あやまる岬にも寄ってみた。
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▼展望台からは太平洋が一望出来た。眼下に見える公園は「あやまる岬観光公園」だ。
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▼「あやまる岬観光公園」に下りてみた。赤矢印の所が、先程見下ろしていた展望台だ。
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▼海水プールもある様だ。
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▼海水プール。海水浴シーズンはいいだろうな。
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▼因みにこの地図は龍郷町までの奄美大島北部だけの地図。現在地は赤☆の場所。黒☆は奄美空港。
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▼「あやまるソテツジャングル」ジャングルの中に見学コースがあって「あやまる岬観光公園」は楽しめる場所が多い。
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敗戦後、米軍米軍施政下に置かれた奄美群島では深刻な食糧難が発生。ソテツの身からでんぷんを取ったナリガユ(ソ
テツ粥)はどんなにお金を持っている人であっても、当時食べた事が無い人はいなかったという。

▼この日1月8日は成人の日。「笠利町民族博物館」が無料との事で立ち寄った。
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それほど大きくない展示室が2つ。ギッシリ奄美の歴史が展示されていた。
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その中で気になった展示物をいくつかご紹介する。
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▲左側の展示ケースの中は、戦時中の軍服??と、ゼロ戦のプロペラ?の残骸だ。
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▲説明文によると「昭和19年頃、あやまる岬近海にて空中戦で戦った帝国海軍ゼロ戦の残骸。今でも残骸が水深20m
 の所で眠っている。」とある。昭和19年には既に奄美大島上空でも激しい空中戦があったんだ・・・。

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▲米軍の100ポンド普通爆弾。説明文では「第二次世界大戦で米軍はこの種の爆弾を奄美各地に投下した。その数は
 あまりにも多く、現在開発工事中に不発弾がこの様に発見されるケースは多い。」とある。

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▲千人針だ・・・ベースは大きな腹まきだろうか・・・。
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▲昭和28年12月25日の産業経済新聞。奄美群島本土復帰の新聞記事だ!
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▲どういう経緯でお亡くなりになったのかは解らないが、生涯を終えるには若い・・・若すぎる・・・合掌。
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▲▼最後は奄美大島の最北端、笠利崎灯台。晴れていれば太平洋の向こうに喜界島が見えたのだが・・・。
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この地方で昔から伝わる竜宮伝説のモニュメント「夢をかなえるかめさん」を見て奄美大島巡りを終えた。
事前情報も少なく、全て見学出来た訳では無い。皆津崎第1/第2砲台も行けなかったし、久慈の海軍艦船補給基地(給
水施設)と第44震洋隊秘匿壕も行けなかった。観光案内にも記載されておらず、奄美大島の戦跡は意外と知られていな
いのが現状の様だ。しがし大島海峡沿岸は日露戦争直後から、国土防衛の要として重要視され、早くから軍事施設が次
々と建設された。以下は奄美大島・加計呂麻島の主な軍事施設構築の記録と奄美群島/日本国の主な出来事である。
(※印は内戦・大戦名)
15世紀頃 琉球王国に相次いで支配される。
1185年平安時代末期(寿永4年)※壇ノ浦の戦い
1609年江戸時代初期(慶長14年)薩摩藩が奄美群島・琉球に侵攻
1614年(慶長19年)※大阪冬の陣
1615年(元和元年)※大阪夏の陣
1637年(寛永14年)※島原の乱
1702年(元禄15年)赤穂浪士討ち入り
1707年(宝永4年)富士山噴火
1803年(享和3年)江戸開府200年
1853年(嘉永6年)黒船来航
1860年(万延元年)桜田門外の変
1863年(文久3年)※薩英戦争
1867年(慶応3年)大政奉還
1868年(明治元年)※鳥羽・伏見の戦い
1873年(明治6年)徴兵制布告
1877年(明治10年)※西南戦争
1879年(明治12年)奄美が鹿児島県大島郡となる。
1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布
1894年(明治27年)※日清戦争
1904年(明治37年)※日露戦争
1908年(明治41年) 大島海峡で海軍が大演習を実施
1910年(明治43年)韓国併合
1920年(大正9年) 陸軍築城部支部が古仁屋に開設し要塞の構築を開始
1921年(大正10年) 加計呂麻島➡安脚場砲台、実久砲台、江仁屋離島砲台
奄美大島➡皆津崎第1砲台、皆津崎第2砲台、西古見第1砲台、西古見第2砲台、手安の弾薬庫造成工事(昭和2年完成)
1923年(大正12年) 奄美大島➡古仁屋に大島要塞司令部構築(現・鹿児島県立古仁屋高等学校)
同年(※関東大震災)
大まかに奄美大島(本島)は陸軍、加計呂麻島は海軍であった。
1931年(昭和6年)※満州事変
1937年(昭和12年)※日中戦争
1940年(昭和15年) 加計呂麻島➡安脚場に海軍防備衛所を追加構築
1941年(昭和16年)※大東亜戦争[ 太平洋戦争 ]
1941年(昭和16年) 加計呂麻島➡瀬相に海軍大島防備隊3000~3600名を配備。
1941年(昭和16年) 加計呂麻島➡瀬相に海軍病院・艦船給水ダム・高角砲台・防備衛所・兵舎など構築。
1942年(昭和17年)?月 加計呂麻島➡江仁屋離島に高角砲台・高射砲陣地増築。
1944年(昭和19年)5月 徳之島/喜界島の飛行場防衛の為、古仁屋の大島要塞司令部が閉庁
1944年(昭和19年)6月 徳之島南東12キロの地点で「富山丸」が米潜水艦の魚雷攻撃で轟沈。
1944年(昭和19年)8月 加計呂麻島➡(渡連)海軍待網崎高角砲台着工
1944年(昭和19年)10月 南西諸島に初空襲 那覇を壊滅させた10・10空襲は奄美群島にも及んだ。
1944年(昭和19年)?月 加計呂麻島➡(須子茂)海軍モン崎平射砲台・探照灯台・迎撃陣地構築。
1944年(昭和19年)11月 加計呂麻島➡(呑之浦・三浦)海軍第17/18震洋艇特攻基地着工。
1945年(昭和20年)3月 空襲により古仁屋の街がほぼ焼失
1945年(昭和20年)4月 空襲により名瀬(奄美市の中心部)の街がほぼ焼失。
奄美群島で終戦までに空襲で亡くなった人(461名)負傷者(299名)
1945年(昭和20年)8月15日 敗戦
1945年(昭和20年)9月 武装解除

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▲昭和20年9月7日沖縄本島(嘉手納基地)にて行われた琉球列島の降伏調印式で第2調印者として降伏文書にサインする
 奄美群島守備隊司令官 高田利貞 陸軍少将。米軍側は第10軍司令官スティルウェル大将。
(沖縄市森根地区にあたるこの場所には現在、記念碑が建てられているが、米軍嘉手納基地内で立ち入る事は出来ない)

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第10軍司令部 1945年9月7日
降 伏
下記に署名する日本人司令官は、1945年9月2日横浜において、大日本帝国によって執行された全面降伏に従って、
ここに正式に下記の境界線内の琉球諸島の島々への無条件降伏を行う。

北緯30度東経126度より北緯24度東経122度より
北緯24度東経133度より北緯29度東経131度より
北緯30度東経131度30分より頭書の地点

納見敏郎中将
先島群島日本軍司令官

高田利貞少将
奄美群島日本陸軍司令官

加藤唯雄海軍少将
奄美群島日本海軍司令官

J.W.スティルウェル 米国陸軍大将

宮古島からは第28師団長の納見敏郎中将、奄美大島から高田利貞陸軍少将、加藤唯男海軍少将らが降伏調印式に召還さ
れ、「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」を申し入れ、6通の降伏文書に署名して正式に降伏した。
9月21日アメリカ第10軍カンドン大佐が奄美守備隊の武装解除の為に命令文書を携え徳之島に来島した。
命令書には 「北部琉球の兵器を渡せ」と書いてあったが、高田少将は「ここは奄美群島であって、北部琉球ではない」
として「北部琉球」を「奄美群島」と書き換えさせたという。
昭和20年12月加計呂麻島の(瀬相)海軍防備隊司令部で行われた復員完了の証明書も「北部琉球」となっていた証明書
を「奄美群島」と改めさせている。
高田少将は終戦直後の9月3日、沖縄のアメリカ第10軍司令官ジョセフW・スチルウェル大将宛に手紙を書いている。
手紙には 「希わくは奄美群島を第2のアルサス・ローレンたらしむる、ねが勿れ」と書かれていた。
「行政権を奪い、占領状態を長く続け、民心を失うようなことをしてはいけない」という忠告の内容だった。
高田利貞少将は奄美群島本土復帰後の昭和31年に『運命の島々・奄美と沖縄』という著書を出版している。
高田利貞少将の忠告も空しく、敗戦後奄美群島の人達は苦難の道を歩む事になる。
昭和21年1月29日米軍(アメリカ合衆国)は沖縄周辺の支配権を確立する為、北緯30度(トカラ列島)以南を日本から分
離、米軍統治下に置くと鹿児島県大島支庁に通告した。
通告が奄美群島の島民約20万人にラジオで伝えられたのは2月2日。
既に米軍に占領されていた沖縄と違い、後に「2・2宣言」と言われたこの通告は寝耳に水だった。
日本復帰まで7年10ヵ月に及ぶ苦難の時代「アメリカ世(ゆ)」の始まりでもあった。

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▲昭和25年11月米軍施政下による奄美群島政府発足(奄美大島で撮影)
米など食料の大部分を本土に頼っていた奄美群島の人達は、米軍が海上を封鎖して本土との往来を禁止した事でたちま
ち困窮し、米軍から見て軍事的価値が無い事から、物資や資金が沖縄に集中し、奄美群島は取り残された状態になった
疎開先から引き揚げによる人口増加も加わり、奄美群島の人々は食糧不足で飢餓の寸前にまで追い込まれ、米軍に拿捕
される危険を冒して黒砂糖と食糧などを交換する「密航」(鹿児島県下の離島へ4日かけて行く)でなんとか生き抜いた。
奄美大島の密航出発地点は名瀬港に程近い「水浜」であった。
ここから闇夜に紛れて目指すのは、当時国境の島となる約200キロ離れた鹿児島県の口之島(くちのしま)。

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▲実際、口之島にたどり着くまでに250隻以上の「密航船」が米軍に拿捕されている。
一方で、新たな文化に触れさせたのも米軍政の一側面だった。軍政府が奨励したボクシングに熱中し「奄美バンタム級
チャンピオン」にもなった島民も居たほどだ。
米軍政府に楯突(たてつ)く者には厳しい態度だが「スポーツや文化の面ではフェアに評価する」と島民は感じていた。
しかし、食べるもの着るものにも困り、島民の我慢は限界に達していた。
昭和26年には日本復帰運動が本格化し、8月に始まった「復帰を願う断食」には多くの島民が参加した。
この時集まった「日本復帰の署名」は約14万人。当時、14歳以上の住民の99.8%が署名したと言われている。
復帰を果たした昭和28年12月25日奄美の全ての人がちょうちん行列や万歳で祝った。
実際訪れて車で走ると良く解るが、道路整備など、本当に各所綺麗に整備されている。
次に紹介する加計呂麻島は、現在人口減少が激しく、今は1300人程度だ。しかし道路はきちんと整備され、2008年
4月に完成したまだ新しい立派なトンネルがあった(ほとんど車は行き交わない)
奄美群島には2013年度までの60年間に2兆3000億円の国費が投入され、社会資本は格段に整備された。
いわゆるよく聞く「沖縄振興予算」と言われる国費は、鹿児島県にも投入されていて、鹿児島県の離島である奄美群島
他のインフ整備?に使われている。(他に島を活性化させるお金の使い道は無いのだろうか・・・)

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▲おおまかに今回巡った奄美大島の戦跡や展望台は地図の赤印の部分。まだまだほんの一部。奄美大島は大きい!


次回「加計呂麻島」へ続きます。
この映画は是非見ておきたいですね「凛として愛」YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


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 2018_01_10

Comments

Re: タイトルなし 

ビグロ 様
ご教授有難うございます、早速「瀬戸内町内の遺跡2」拝見しました。まだまだ見学していない戦跡が沢山あるので驚きました。
ここまで残っているのであれば奄美大島/加計呂麻島戦跡ツアーが出来ればいいですね。全て見学したいです。
奄美は素晴らしい場所でした、また行きたいと思っています。その時は宜しくお願いします。
WhitePigeon  URL   2018-02-05 23:22  

 

ブログ拝見しました。 奄美群島の戦跡調査をしている大学生です。 西古見砲台の施設は沈殿池跡とされています。瀬戸内町の戦跡については2017年に瀬戸内町教育委員会によってまとめられた「瀬戸内町内の遺跡2」という調査報告書が非常に参考になります。インターネットでも検索すれば見ることができます。
ビグロ  URL   2018-02-05 16:24  

御苦労様でした 

御苦労様でした、「奄美諸島」の事は、日本人は何も知らないと思います、特に戦中の苦難だけでなく本当の苦難は戦後に、日本から見捨てられ、交易先が無くなり、「この島は飢餓の島に」、戦中は軍の施設を押し付け犠牲を強い、戦後は大変な飢餓に見舞われ、日本政府は何もせず、命懸けの「密航船」で物資を運んだ、とても日本とは思えない家などが、戦中、戦後、沖縄に劣らない「苦難」の歴史を日本人は何も知らない、如何か其の辺りも、宜しくお願い申し上げます、本当に素晴らしい特集で有難う御座いました。
Etsuo Tony Ooka  URL   2018-01-11 04:42  

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今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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