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加計呂麻島

Category: 奄美大島  

宿泊先のホテルカレッタ(龍郷町)から古仁屋港までは車で約1時間半。朝早かったので道が空いていた。
レンタカーを船に載せると結構高いので、天気の心配はあったがスクーター(125CC)をレンタル予約しておいた。
加計呂麻島へは奄美大島(古仁屋)から船で25分程だ。朝08:10の船で加計呂麻島(生間)に向かう。

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125CCクラススクーターと人を合わせて1510円(往復運賃)だ。人690円/スクーター820円(往復)の内訳。
帰りに古仁屋でガソリンを入れて満タン返ししたが、古仁屋港のガソリンスタンドでは1ℓ=〇円の表示も無く、原付バ
イクで加計呂麻島を走ったと言えど、半分位しか残量計が減ってなかったのに400円程かかった・・・。
領収証にも1ℓ=〇円の詳細は無く、ガソリン400円と内税8.0%30円と記載されているだけ・・・。
計算してみるとレギュラーガソリン1ℓ=150円近く払わされた事になる。名瀬ではそんな事は無く1ℓ=139円で明細も
本州と変わらない領収書だった(出光石油和光SS)。筆者は電動バイクの販売を本業としているので、スクーターにガソ
リンを久しく(5~6年)入れていない。レンタルバイクがEVだったら余計な事を考えなくても済んだのに・・・。と思
わずにはいられなかった。
「使った後は自宅で充電、短距離移動は電動バイクで。」をコンセプトに電動バイクを専門とする、小さなバイクショ
ップ「EV奈良」経営しております。
日本一の電動原付スクーターをご検討の方は是非、弊社HPを覗いて見て下さい➡http://www.evnara.jp

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08:10定刻通り出航。古仁屋港を後にする。
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※仮に今回借りたレンタカー「デミオ」(普通車)をそのまま船に載せる場合、往復で9000円近くの費用がかかる。
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あっという間に生間港に到着、しかし心配していた雨がとうとう降り出した・・・。
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港には船の時間に合わせてバスが待機している。ハイエースなどの小型バスが主流の様だ。
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▼▲この船は恐らく次は瀬相に向かうのかな・・・?加計呂麻島には「生間」と「瀬相」の2つの港がある。
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行きに「生間」を選んだのは、1番目の目的地である安脚場戦跡公園に近かったからだ。
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▲雨の中をスクーターを走らせ安脚場戦跡公園に向かう。すると兵舎跡が現れた、砲台跡は近い!と思ったが・・・。
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▲ガーン・・・昨年8月の台風5号の影響で土砂崩れが発生し、行けないとの事・・・。残念
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▲▼行けないものは仕方無いので、兵舎見学のみとする。門柱から外壁まで綺麗に残っている。
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▼立派な兵舎だ。中から人の声が聞こえると思って中を覗き込むと、ラジオが鳴っていた。防犯の為か?
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此処の正式名称は「生間施設部隊指揮官宿舎跡」で、指揮官クラスの軍人が寝泊まりしていた様だ。
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敷地は結構広い。入口は開く様だったが、倉庫状態となっており、個別に建物に侵入する事はしなかった。
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敷地内には井戸も確認出来た。
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▼烹炊所跡。かなりの数の兵隊さんが此処で寝泊まりしていたのであろう・・・。
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次はまた生間方面に戻る事になるが、途中、渡連(どれん)地区に待網崎高角砲台跡が公園となっている様だ。入口には
立ち寄ったのだが、草が生い茂り、とてもスクーターでも徒歩でも入っていけそうにもないので今回はスルーした。

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途中、何本もの立派なガジュマロの木が見られる。因みに「日本一のガジュマル」は(奄美諸島)沖永良部島にある。
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閑散期という事もあるが、人が居ない・・・ピース・又吉の母の故郷である加計呂麻島は人口約1300人足らず。
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▲バナナを栽培しているご家庭もある!南国だね~。聞けば自分達や島の中での需要分だけ栽培しているとの事。
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▲▼スリ浜にも立ち寄ってみた。
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▲天気が悪かった為、空の色が最悪だが、透き通る様な海の綺麗なビーチだ。
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道はこんな感じ。今回はスクーターの為、極力海沿いを走った。2車線の立派な道も別で通っている。
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コンビニは無く、飛び入りで食事出来る所も無いに等しい。公衆トイレは完備!?使わせて頂いた。
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▲2008年4月開通の立派な呑之浦トンネルを抜けて、次に訪れた場所は呑之浦旧海軍第18震洋隊格納壕跡。
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▲震洋艇秘匿壕の手前には島尾敏雄文学碑記念公園入口がある。
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「島尾敏雄」は第18震洋特攻隊長として終戦。戦後は有名な小説家になった人で、昭和30~50年まで名瀬に住んだ。
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    ▲島尾敏雄海軍少尉(昭和19年夏頃)終戦時28歳。       ▲大平ミホ 終戦時26歳。
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妻である大平(旧姓)ミホも作家。島尾少尉とミホは加計呂麻島で出会う。
ミホは加計呂麻島で生まれ育ち、東京の女学校を出て島に帰って押角小学校の先生をしていた。
島尾少尉は横浜生まれ、九州帝国大学を繰り上げ卒業、昭和19年第18震洋隊隊長として加計呂麻島に赴任してきた。
東洋史を勉強した島尾少尉はミホの父の所蔵する中国関係の書物に興味をもち、ミホの家に出入りする様になり、2人
は恋に落ちる。その後昭和21年結婚し、長男伸三/長女マヤの2人の子供に恵まれる。島尾元少尉は昭和61年死去。

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▲呑之浦の入江を左に見ながら海岸線を歩いて行く。
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▲▼復元された「震洋」が収まる秘匿壕が迎えてくれる。
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この展示方法は非常に説得力があり、そして当時のままの現場にあるという事に意味がある。
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海軍でよくある入口付近のみコンクリート造り、奥は素掘りだ。欲を言えば発進レール(丸太)も復元して欲しかった。
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秘匿壕入口は正に震洋サイズギリギリに構築されているが、素掘り空間は割と余裕がある。
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▲奥行きはおよそ25m位。全長約5mの震洋が5隻収納出来る奥行きのはずだ。
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右手に秘匿壕が連なって口を開けている、当時は舗装道路道は無かったはず。丸太かレールで出撃態勢だろう。
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▲▼この秘匿壕は崩落するのは時間の問題だろう・・・。
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▼この秘匿壕は完全に崩落。
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▼この秘匿壕はかろうじて崩落をまぬがれているが・・・。
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▼ここも崩落は時間の問題だろう・・・素掘り壕はいつかは崩落する運命だ。
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ここも崩落か・・・。
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壕は5基確認出来た。第18震洋隊は52隻配備されていた。秘匿壕5基(25隻分)を見学した事になる。
加計呂麻島には、ここ呑之浦の第18震洋隊の他、三浦に姉妹隊の第17震洋隊が配備されていた。
大島海峡対岸の奄美大島本島の久慈湾には第44震洋隊があり、喜界島にも2個隊があった。
呑之浦では小舟による入江の他部落の交通を禁止し、入り江を封鎖した。
住民は浜沿いの道を通れずに山道を歩くことになっていたという。適当な場所に小さな番小屋が建ち、番兵が24時間
体制で住民から震洋隊を秘匿するのに海軍は神経を使っていた。奇襲攻撃(特攻)をする為の部隊だったからである。

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▲今は静かで美しい呑之浦の入り江。昭和62年、島尾敏雄著の「震洋発進」が出版された。その本には実際に出撃した
 震洋隊3隊の内の1つ、第22震洋隊の事が書かれているというので是非読んでみたいと思っている。
出撃した震洋隊は昭和20年2月15・16日フィリピン・コレヒドールに配備された第12震洋隊松枝義久隊長以下50隻。
昭和20年3月26日沖縄戦で運天港海軍基地より出撃した第42震洋隊、4月4日に出撃した第22震洋隊が中城湾や金武
湾沖に突入していった。

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▲ベニア板の船体にトヨタエンジン、船首に250㌔爆弾を積んで敵艦船に突入する海軍特攻艇「震洋」
[ 奄美諸島大島防備隊 ]※戦死はほとんどが空襲と戦争マラリア
(奄美大島久慈)第44震洋隊55隻S20.01.25配備 三木少尉以下178名(内13名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]三浦)第17震洋隊53隻S19.10.15配備 林大尉以下185名(内4名戦死)
(奄美大島[加計呂麻島]呑ノ浦)第18震洋隊52隻S19.10.15配備 島尾中尉以下186名
(喜界島早町)第40震洋隊55隻S20.01.25配備 安藤中尉以下192名(内3名戦死)
(喜界島小野津港)第111震洋隊26隻S20.02.25配備 後藤少尉以下190名(内5名戦死)
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▲▼次に向かったのは三浦にある艦船用給水ダム。瀬相の戦闘指揮所跡にも行きたかったが場所が解らなかった。
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▼案内標識に沿って舗装道路から反れると、この様な道になる。途中からは徒歩で行く事になる。
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少し歩いて小高い場所に行くと・・・再び案内板が。「あとちょっとでダムですよ」って何かホッとする。
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▼出た!ホントにダムだ・・・凄い。
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今でも満々と水が溜まっている。現役のダムの様だ・・・軍はダムまで造ってしまうとは恐れ入った。
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今でも使えるじゃないか?と錯覚してしまう程頑丈な造りで残っている。
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昭和初期から終戦まで、途方もない国防費が費やされていたであろう事が容易に想像出来る。
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雨が降ってなければもう少しダム下側を見学したかったが、草木に覆われている事もあり来た道を戻る事にした。
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▼▲戻る際に脇をよく見ると、ダムから繋がっている排水路が確認出来た。
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石垣が築かれ、しっかりとした造りだ。
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▲放水の際は此処を水が大量に流れて瀬相まで供給されるシステムだったのだろう。
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▲大島輸送隊 隊員勇士。大島輸送隊は民間の徴用船では無く、全てが海軍艦艇で編成されていた。
昭和20年3月27日、第17号1等輸送艦/第145号2等輸送艦/第146号2等輸送艦/第186号海防艦/第17号駆潜艇/第
49号駆潜艇の計6隻で編成された海上輸送部隊(大島輸送隊)が、3月31日18:00(加計呂麻島)瀬相に向けて佐世保を
出港した。
既に米軍は前日の26日沖縄の慶良間諸島への上陸作戦を開始しており、船団が沖縄本島へ辿り着くのは不可能だった。
そこで沖縄の手前の奄美大島・加計呂間島の大島防備隊に特殊潜航艇、弾薬、地雷、糧食などを一旦揚陸し、機会を見
て沖縄にピストン輸送しようと考えたのである。
しかし集まった6隻は全くの寄せ集めで、編隊航行すら出来ず信号も手旗信号以外は未熟だったのに加え、艦に乗るの
が初めての経験の浅い体力のない第2補充兵だった。
旗艦の第17号1等輸送艦は2月8日に竣工したばかりで、3月10日の沖縄輸送作戦が始めての作戦行動だった。
第186号海防艦も2月15日に竣工したばかりで、今回が初の作戦行動であった。

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▲(参考画像)第146号海軍二等輸送艦(戦車揚陸艦)
それでも何とか準備を整えた輸送隊は3月31日18:00に佐世保を出港、米軍機の攻撃を受けながらも4月2日午前1時
には無事、瀬相に入港して積荷の揚陸を開始した。
第17号1等輸送艦は特攻基地関係物資200トン、大島防備隊関係弾薬物資400トンを。2隻の2等輸送艦はそれぞれ乗
用車1台と120トンの物資を積んでいた。揚陸作業には防備隊や大島蛟龍隊の関係者、更に地元瀬相集落の住民がリレ
ー方式で揚陸作業を行った。軍民総出進軍ラッパを吹いての作業で4月2日06:30までに9割の分散揚陸を完了させた。
他に第17号1等輸送艦の後部には沖縄に進出する中平善司中尉の率いる甲標的2隻が積まれ、基地員・整備員約30名も
一緒に進出していた。

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▲(参考画像)第5号海軍一等輸送艦。昭和19年8月17日情島沖 甲標的発進実験時。後部に甲標的を搭載している。
甲標的は沖縄本島北部の運天港に基地があったが、一先ず奄美に進出して島伝いに沖縄を目指す計画であった。
入港前の空襲で中平艇は米軍機の銃弾を受けた。応急修理の後2日の空襲中は潜行していたが、修理途中の溶接不十分
な箇所から海水が浸入した為やむなく浮上している。
4月3日米軍機が大挙来襲、午前中の第1波~第3波の攻撃目標は瀬相沖の大島輸送隊の艦船だった。
各艦は地上からの対空砲火と合わせ米軍機を迎撃したが第186号海防艦が艦橋後部に直撃弾を受け大火災を起し轟沈。
この空襲で輸送隊は102名が戦死(海防艦53名、輸送艦49名)、負傷者80名をだした。

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▲(参考画像)海軍海防艦。領土近海で沿岸警備・船団護衛・対潜哨戒などを主要な任務とする目的で建造された艦。
 装甲が厚く航続距離・最高速は犠牲にされている。なので、鈍足の輸送船の護衛に適していたとも言える。

空襲終了後、第17号1等輸送艦の乗組員は応急修理に努めたが浸水が激しく、沈没は時間の問題だった。
そこで艦搭載の弾薬・食糧の他、船倉内の未揚陸の物資、更に25ミリ機銃も取り外して揚陸する事とし、乗組員と防
備隊の兵士達は、艦内の火災の熱で蒸風呂のような船倉内から、全身汗だくとなって物資を運び出した。
21:00総員退去が発令され、乗組員は大発で退艦した。上等主計兵曹の加藤重信さんは、陸上から沖合いでメラメラ
と燃える艦を見つめていた。真夜中頃に船倉に残っていた地雷の誘爆で大きな火柱と共に沈没したと語っている。
アメリカ軍の空襲と、座礁事故により輸送艦2隻と海防艦1隻を失った大島輸送隊の残存艦は、昭和20年4月4日午前に
瀬相を出港して佐世保を目指した。

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▲(参考画像)海軍駆潜艇。主に潜水艦の駆逐を主任務とし、局地での警備、艦船の護衛に当たる小型の軍艦艇だ。
4月7日佐世保を目指す大島輸送隊は、4月6日15:00山口県の徳山湾から出撃し、沖縄突入を目指す戦艦「大和」以下
8隻の海上特攻隊とすれ違った。11:00頃すれ違った両艦隊は互いの武運を祈る信号を送りあった。
その後12:30頃、大島輸送隊から6万メートル以上離れた南方に黒い爆煙が認められた。海上特攻隊の駆逐艦「朝霜」
か「浜風」の最期ではないかと言われている。他「雪風」「冬月」「矢矧」「磯風」「霞」が「大和」を護衛している。
実は佐世保を目指す大島輸送隊の残存艦は、08:30には海上特攻隊捜索に飛び立ったグラマンに発見されていた。
大島輸送隊が攻撃を受けなかったのは、米艦隊が大和撃沈に目標を絞っていたからである。

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▲昭和20年4月7日戦闘中の「大和」と「矢矧」
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▲必死の回避行動をとる「大和」。しかし戦闘機の護衛の無い船団は米軍機の恰好の攻撃目標にすぎなかった。
もし海上特攻隊が出撃していなかったら、大島輸送隊は空襲を受けて全滅していた可能性が高いだろう。
戦艦「大和」攻撃に向かった米艦載機は奄美諸島上空を通過している。奄美大島曽津高崎の海軍レーダーは4月7日早朝
200キロ以上の距離に大編隊を探知している。この編隊は帰途は島の上空を通りその数は約120機を数えたという。
喜界島では10:50頃、上空を艦上機150機が北西進するのが目撃され、その旨の電文が打たれ11:30頃にも大編隊
250機が北上中との電文が打たれたが、沖縄へ特攻出撃の「大和」の運命は変わらなかっただろう。

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▲敗戦後、残った二等輸送艦は復員船としても使用された、沢山の帰還兵が乗っている。
三浦には艦船ダムの他、「佐世保海軍施設部隊鎮魂碑」があるという事だったが、場所は簡単には解らなかった。
昭和20年6月20日米軍の空襲の際、防空壕に避難していた佐世保海軍施設部隊(防空壕等の掘削任務に従事)に爆弾が
落ち、全員が防空壕で生き埋めになり死亡したとの事。この時たまたま内地から来島していた隊員の家族も爆弾の直撃
を受け亡くなられたそうで、これらの方々の霊を鎮めるため鎮魂碑が佐世保海軍施設部隊名で建立されている。
現在でも、毎年6月20日には生き残った方やその家族の方達により慰霊祭が執り行われている。

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▲薩川まで来た。薩川集落は現在、35世帯59人との事。案内板で辿ったルートを復習してみる。
生間(港)➡渡連(砲台跡行かず)➡安脚場(兵舎見学)➡スリ浜➡呑之浦(第18震洋壕)➡三浦(艦船ダム)➡薩川だ。

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▲薩川小学校に「奉安殿」が残っていると書いてあるので行ってみた。
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▲カジュマロの木にくくりつけられた案内標識、子供達の手書きだろうか、手作り感が何とも言えずいいですね~。
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▲薩川小学校正門。この学校はNHK土曜ドラマ「島の先生」のロケ地だ。教師役は仲間由紀恵だった。
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▲▼素晴らしい自然に囲まれたレトロな小学校!全校生徒は7名(1年1名/2年1名/3年1名/4年1名/5年2名/6年1名)
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▼正門からは海!天気悪いけど・・・。
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▼そして正門の直ぐ横に・・・あった!昭和10年建立の奉安殿。
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敗戦前まで全国各地の学校にあった奉安殿。此処の奉安殿は小さいけど立派だな・・・。
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沖縄で見た奉安殿とは形が違うので、色々な形があった事を知った。薩川小学校の奉安殿は国の登録有形文化財。
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▼因みにこれは沖縄本島(沖縄市知花)「美さと児童園」裏庭に残る旧美里尋常高等小学校の奉安殿。市指定文化財。
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瀬戸内町(奄美本島含む)には6つの奉安殿が解体を免れ、倉庫などとして使われてきた。そして平成18年8月3日、国
の「登録有形文化財」となった。薩川小学校の他、古仁屋小学校・須子茂小学校・池地小中学校・節子小中学校・木慈
小学校(廃校)に奉安殿が現存しているとの事。
▼創立80周年を記念してつくられた「亡師亡友の碑」。薩川小学校は明治40年4月開校の歴史ある学校だ。

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▼次は実久(さくね)に向かうのだが、ちょっと芝方面から「夕日の丘」に寄り道。天気悪い・・・。
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▼眼下に実久ビーチと江仁屋離島が見える。江仁屋離島は海軍砲台が建設されていた島だ。
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▲天気が悪く最悪な画像になったが、晴れていれば素晴らしい景色だろう。黒矢印がビーチ。海の色が全然違う!
こんな素晴らしい絶景スポット「夕日の丘」だが、アクセスは素晴らしい道が通っているのに、通行量が無いに等しく、
落ち葉や、小さながけ崩れによる泥・砂利が散乱している区間が長く続き、スリップには注意したいところだ。
そして次は、加計呂麻島最西端にある実久(さくね)へ向かう。

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▲実久に着いた。案内板に書いてある江仁屋離島は、先程「夕日の丘」から見えた海軍砲台跡がある島の事だ。
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▲▼実久のビーチ。「夕日の丘」から見えた海の色が全然違う部分だ・・・雨なのに綺麗!
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この綺麗さは写真ではなかなか伝わらないだろう・・・今まで見たビーチで1番綺麗かもしれない・・・。
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▼慰霊碑があった・・・。
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実久の戦没者慰霊碑だ・・・まだ新しい綺麗なお花が供えてある、未来永劫大事にしていかないといけない。
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奄美大島に来てから、忠魂碑や慰霊塔、慰霊碑が非常に大切にされている事に感動していた。此処も例外無く綺麗。
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▲昭和50年6月吉日 郷土出身者建立とサイドに書いてある。戦後30年経ってからか・・・昭和28年返還だからね。
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▲当然の事ながら、一礼して黙祷をさせて頂きました。
お名前の苗字が漢字一文字の方が目立つ。これは薩摩藩政時代、鹿児島を含めた内地の人が、見下げた見識で奄美の人
と、直ぐ解る様に改名させられた歴史のなごりだと地元の方から聞いた。もちろん、証拠があっての話では無いそうだ
が、奄美の当時の文献が全て薩摩藩によって処分され、悲しんだ奄美の人は、全てを唄に込めたと言われている。
現在でも加計呂麻には多くのシマ唄が唄い継がれ、歌詞を読み解くと薩摩藩政時代の改名も唄われているという。

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▲加計呂麻島には大正10年に安脚場砲台、実久砲台、江仁屋離島砲台が建設された。
 その後海軍によって須子茂モン崎砲台と待網崎高角砲台、震洋秘匿壕が構築された様だ。
 江仁屋離島へは特別に区長の許可をもらい、加えて船をチャーターしないと行けないので今回は無理だ。
 しかし、実久砲台があったという事は、この辺りに兵舎があってもおかしくないと、辺りを散策。
 すると、やはりあった!ほぼ完全な状態で残っていた。

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▲▼安脚場で見た兵舎と、入口の感じも含めてほぼ同じ形だ。此処は「監守衛舎」跡。
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「見学はご自由にどうぞ」って感じで開放されているので、まずは外観を見て回る。
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▲大正時代はまだ材料を豊富に注ぎ込めたのだろう・・・強固なコンクリートの壁で兵舎を囲っている。
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一時期幼稚園として活用されていた時期があるようなので非常に状態は良い。
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▲これは何だろう・・・国旗(軍旗?)掲揚台か?
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▲掲揚台に登って撮影。
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▼雨なのに窓?扉?は全て開放されているので中は外から撮影。
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此処でも指揮官クラスの軍人が生活していたのであろう。
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今の公民館ぐらいの広さはある。
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▼あ!トイレがある・・・。
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▲▼奄美大島本島の西古見で見た兵舎と同じだ!
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▲ぐるっと一周して見学し、兵舎を後にした。兵舎から山手に向かって道があり、砲台跡に行けそうだったが、草木が
 生い茂り、当時の軍道のままで舗装道路でも無い為、雨でぬかるんでいた事もあり、今回は見学を断念した。
 帰りは瀬相から船に乗って、奄美本島に戻る事にしていたので、瀬相港まで戻った。
 瀬相のフェリー待合所で2枚のポスター?が目に入った。
▼俵中学校(ひょうちゅうがっこう)の最後の卒業生との事だ。現在無期限休校との事・・・。

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「奄美大島」で先に紹介した自衛官募集のポスター
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少子化で隊員不足は解るが、総理は靖国神社参拝しない・法律でも自衛隊をしっかりと自立した明記をしない・・・。
待遇は上がらない・・・むしろ災害続きで激務が続く中、仕事ばかりが増えて給料が増えない自衛隊・・・。
自衛隊は本当にちゃんとした待遇なのか・・・先の大戦で若者を特攻で亡くした反省をちゃんと生かせているのか。
自衛隊の方々には敬意を表したいし頑張って欲しいが、今の日本軍に自分の息子を入隊させたいとは思わない。
何故自衛隊員が集まらないのか。何故国防意識を持った日本人が多くないのか。政治家、自衛隊幹部の方達はもう一度
しっかり考え直した方が良いのではないだろうか・・・。

瀬相には海軍の戦闘指揮所跡が残っているそうだが、今回は雨という事もあり次回にする事とした。

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▼▲瀬相港を後にする。
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▲徳洲会加計呂麻診療所が見える、此処で対応出来ない救急搬送はドクターヘリが本島から来るそうだ。
徳洲会グループと言えば徳田 虎雄だな・・・自由党も懐かしい・・・まだあるのか??徳之島にも行ってみたい。

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本島まで毎日フェリーで通勤している人も多いらしい。スーパーも無く不便な島という感が無いと言ったら嘘になる。
しかし、静かで超綺麗な海と自然だらけの加計呂麻島の島民達は、島のリゾートホテル建設も拒否したという。
奄美大島には22万トン級クルーズ船の寄港地建設計画が持ち上がったそうだが断念したと聞いた。
心の中で安心した感があった・・・島の経済状況や加計呂麻島の人口減少など、将来の不安と常に隣り合わせの離島。
短期間の旅行では見えない事の方が多いだろう、しかし将来の不安は離島に限った事では無く、本州に住む者でも同じ
だ。人気の沖縄(那覇)は何度も訪れているが、大阪と変わらない人混みと忙しさで、心底リラックス出来る島の様な気
がしなかった。奄美は心底リラックス出来る場所が無数にある。このまま静かに奄美の歴史が続いて欲しいと思った。

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▲奄美大島に戻ってから「てっちゃん」龍郷店で夕食を済ませ、ホテルに戻った。此処は美味しかった~。
※奄美の外食店では鶏飯(けいはん)というメニューが至る所で出されているが、特筆する程の料理では無かった。


これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】 泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。


拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
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事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
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 2018_02_01

Comments

御苦労様です 

離島の取材、本当に御苦労様です、目標としては小さく、帰還、運命ですか、本当に御苦労様です、この島の乗合バスはユニークで有名ですね。
Etsuo Tony Ooka  URL   2018-02-01 00:22  

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
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