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オーストラリア戦争記念館(Part3)

Category: オーストラリア  

オーストラリア戦争記念館(Part2)からの続き。
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▼▲此の展示場の中は「ニューギニアの戦い」のブナやゴナ、そしてココダの戦場を再現している。
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中は薄暗かったので、まともな写真が撮れなかった・・・。
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連合軍と日本陸軍が戦った「ニューギニアの戦い」をどれだけの日本人が知っているのだろうか・・・。
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▼これもよく見る写真。(写真は「処刑時にヤスノ・チカオが部下に写真を撮らせた」と書いてある)
(写真は1944年4月ホーランディアで戦死した日本陸軍少佐が持っていたものを米軍が見つけたと書いてある。

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1943年(昭和18年)10月24日、日本海軍基地があった(ニューギニア)アイタぺのビーチで行われた捕虜処刑。
捕虜はオーストラリア軍M特殊部隊のレナード・シファート軍曹、刀を振りかぶるのは日本海軍のヤスノ・チカオ。
この処刑はインドネシア第22特別根拠地隊司令官の鎌田 道章海軍中将(愛媛県出身)の命令で行われた。
ヤスノ・チカオは「終戦前に戦死」と、生き延びてBC級戦犯裁判で絞首刑の宣告を受けたが結局懲役10年に減刑され
たという説がある。
戦後、鎌田 道章海軍中将はBC級戦犯に指名され、シファート軍曹以外の捕虜2人・原住民に対する残虐行為の罪も含
めオランダ軍軍事裁判で有罪となり、1947年(昭和22年)10月インドネシアのポンティアナックで絞首刑となった。
(ボルネオの戦いで鎌田中将は、陸軍部隊を含む在バリクパパンの日本軍部隊の指揮を執り、防戦に努めるも敗戦)

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シファート軍曹はオランダ軍の2人の兵士と日本軍の後方を偵察していた時、現地人に襲われ、捕まって日本軍に引き
渡された。尋問、拷問の末、3人とも斬首された。と書いてある。

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この写真は広く報道され、日本人は慈悲を与えず、まったく受け入れられない野蛮人であるという認識が強まった。
ヤスノ・チカオは戦後に服役を命じられたが、その後懲役10年の懲役刑が科された。と書いてある。

※「ボルネオの戦い」は、昭和20年5月~7月下旬までの連合軍と日本軍の戦闘。
連合軍は上陸したタラカン島/ブルネイ湾及びラブアン島/ボルネオ島(バリクパパン)を占領したが、まもなく終戦を
迎えた為、戦略的には大きな影響はなかった。日本軍は4700人以上が戦死又は戦病死した。
連合軍はオーストラリア兵569人が戦死、約1400人が負傷した。

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▼オーストラリア戦争記念館の展示物の中で「絵」はかなり多い。
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▼小さいブースだが[ THE HOLOCAUST ]の展示があった・・・。
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▼そろそろ第二次世界大戦も終盤に入ってきた。
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        ▼オーストラリア海軍の紹介だ。
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▼▲日本軍の特攻機を迎撃した事を紹介している。
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▲▼ん??何だ此れは・・・日本海軍から押収した物か・・・?
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▲日本海軍の物である事は間違いないが、最後まで何なのか良く解らなかった・・・知っている方、ご教授下さい
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▲▼桜花か!?思ったが、ドイツ軍のV1ロケットミサイルだった!
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当時ドイツの占領下だったフランスに配備されたV1飛行爆弾。連合軍の爆撃で発射基地が徹底的に破壊された
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もう少し早く実戦配備されていたらイギリスは壊滅していたであろう。ほとんど戦果を挙げらずに終わった。
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▲桜花の様な有人V1ロケットミサイルも開発されたが、ヒトラーは特攻有人V1ロケットミサイルは採用しなかった。
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▲▼線路の上を走れる様に改造してあるアメリカ軍のジープ。
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       ▲▼これは何だろう・・・中国語?中華系の人が多いシンガポールの当時物か・・・。
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▼今度は何やら石碑が展示してある。
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       ▼聖旨顕現(せいしけんげん?) 陸軍中将 山脇正隆 謹書 と書いてある。
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       ▲間違いなく日本語で掘られている。山脇中将はボルネオ守備軍司令官だ。
※山脇正隆陸軍中将(高知県出身)昭和16年陸軍大学校校長、参謀本部付、同年12月予備役。
昭和17年9月臨時召集によりボルネオ守備軍司令官。昭和18年9月陸軍大将に昇進。第37軍司令官、参謀本部付。
昭和20年5月召集解除。戦犯容疑で軍事裁判を受けるも数日で無罪になった。昭和49年4月21日に死去(享年88歳)
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       裏は 昭和17年8月15日開設記念建之 ボルネオ俘虜収容所長 管 辰次と書いてある。
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※菅 辰次中佐(広島出身)少佐の時に予備役となりアメリカに滞在。2度目の召集でボルネオの俘虜収容所長となる。
捕虜の中に『風下の国』の著者アグネス・キース女史とその夫、子供がいた。
ボルネオ赴任前にこの本を熟読していた菅は驚き、女史に紙と鉛筆を与え、収容所の出来事や感想を書いてくれる様
に頼んだ。喜んだ女史は、提出用の他に、収容所の日本人に対する赤裸々な感想を綴った自分用の手記も密かに書き
溜めた。しかし、その中でも菅中佐だけは、典型的な日本武士道にかなった人物として描かれていた。
戦局の悪化に伴い、俘虜の処遇についてもいろいろな討議がなされた。
軍司令部は「収容所にも重機の一挺ぐらい必要だろう」と言ってきたが、菅は受け取りを拒否した。
東京に於ける収容所長会議でも「如何なる場合があるとも、俘虜を敵手に委してはならぬ」という当局に対し、菅は
「私は、俘虜を殺す相談にきたのではない」と冷然として言い放ったという。
敗戦と同時に菅は戦犯としてラブアン島に護送された。連合軍の計らいで、台湾人の当番兵が付き添っていた。
※ラブアン島はマレーシア連邦直轄領の島で、日本軍占領時は、ボルネオ守備軍司令官だった陸軍中将前田利為にち
なんで、島名を「前田島」と改称していた(前田中将は旧加賀藩主前田本家第16代当主・享年57歳)
ラブアン島に着いた菅中佐を、原住民の石礫が襲った。携行したトランクで防いだが防ぎきれず、血達磨となった。
この惨めな仕打ちを受けて菅は、自決を決意した。
しかし身に寸鉄も帯びておらず、辛うじて食事用の丸いナイフがあるのみであった。
彼はこのナイフを頚動脈につきたて何とかこれを切ろうとしたが果たさなかった。
そこで水筒に砂を詰め、当番兵を呼んで、これで自分を殴るように命じた。菅の人柄を愛し付いて来ていた当番兵は、
ためらってなかなか撃てない。菅はこれを大喝して励まし、彼の心中を察した当番兵も意を決して、菅の後頭部に一
撃を加えた。しかし菅は一時的に昏倒しただけで、死に切れなかった。
息を吹き返した菅は、もう一度ナイフを首に当て、これを水筒で撃つように言った。
当番兵がナイフの柄頭を強く水筒で撃つと、ナイフは深く突き刺さり、ようやく致命傷となった。享年59歳。
解放されたキース女史は、この収容所での体験を元に、『三人は帰った』という本を書いた。
THREE CAME HOME
この物語は1942年から北ボルネオの母子捕虜収容所で3年半の年月を生き抜いた著者アグネス・キースの体験談。
収容所生活の記録の克明さで有名だ。天候、衣食住、人間関係などが詳細に綴られている。
著者アグネス・キースは、ボルネオの生活を描いた「風下の国」の著書があり、新聞記者の経歴も持つ著者のジャー
ナリスト魂で、収容所内で長男のぬいぐるみの中にまで隠した膨大なメモ類をまとめた本だ。
戦争が長引くに連れ、過酷さを増す収容所での暮らし、食べられるものすべてを口に入れ、密輸、盗みあらゆる事を
して子供と生き延びる。収容所生活に耐えていく唯一の道は泣かないで笑うこと、と自分に言い聞かす彼女の快活さ
と勇気が際立っている。
そして、著者は、愛国心や日本軍への憎しみによってではなく、「戦争こそが罪」という視点で本を書いている。
「戦争それ自身が人道に対する罪」であると。
1950年「THREE CAME HOME」と題して映画化され、菅中佐は早川雪洲が演じたが日本では公開されていない。
「THREE CAME HOME」 YouTube

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▲タラカン島(現インドネシア)の戦いは、オーストラリア軍主導のボルネオ奪還作戦の最初の攻撃であった。
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昭和20年5月1日未明、オーストラリア軍、アメリカ軍、オランダ軍はタラカン島に船で到着し上陸作戦開始。
AM8:00頃、陸海空軍と協調して上陸。犠牲者も比較的少なく、同島沿岸部における日本軍の防衛力を一掃した。

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上陸拠点を確保した後、第26師団は日本軍飛行場滑走路のある島北部と、タラカンタウンのある島の東部へ進んだ。
日本軍の激しい抵抗に打ち勝った後、滑走路は5月5日に占領、そして町も主に5月6日までに確保。
島を確保し、占領した滑走路を日本軍の攻撃から守る為に、第26師団は大量の樹木で覆われた丘から日本軍の部隊を
一掃する事を命じられた。この必然ながらも、引き換えに代償の高くつく歩兵連隊の攻撃の間、オーストラリア軍は大
砲による砲撃と上空からの援護を強力に行った。日本軍の守備隊は徐々に破壊を受け6月14日、この日の攻撃で生き残
った日本兵は島の北方へ撤退し、あるいはボルネオ島本土へ退却しようともした。
日本軍の組織的な最後の反撃は6月19日だったが、その後終戦を迎えるまで残存兵の掃討作戦が続けられた。

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連合軍は上陸したタラカン島/ブルネイ湾及びラブアン島/ボルネオ島(バリクパパン)を占領したが、まもなく終戦を迎
えた為、戦略的には大きな影響はなかった。第26師団は大部分が終戦後の昭和20年10月に解散されたが、その一部は
12月27日まで駐留部隊としてタラカン島に残った。同師団の本部は同年前半にはオーストラリアへ帰還し、昭和21年
1月にブリズベンで正式に解散した。
ボルネオ奪還作戦と同様、タラカン島でのオーストラリア軍の戦闘については今日も論争が続いている。
論争とは、この戦闘が無意味な「つけたし」に過ぎなかったのかどうか、東インド諸島をオランダや日本の占領から独
立解放させる為の正当な戦争行為だったのかどうか、終戦直後の1946年(昭和21年)から議論が続けられている。
日本軍は4700人以上が戦死又は戦病死。連合軍はオーストラリア兵569人が戦死、約1400人が負傷した。

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▼▲敗戦後インドネシアで捕虜となった日本兵達だ・・・ご苦労様でした。
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▼昭和20年9月13日、終戦の詔勅に基き、ニューギニアの第18軍はオーストラリア陸軍第6師団に降伏した。
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この時、ニューギニア方面の第18軍司令官は安達二十三中将(石川県出身)。
安達中将は麾下の将兵に対し、「軍は大命に基き豪州第六師団に降伏せんとす」と命令した。

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▼ウォム岬での降伏調印式にてホレス・ロバートソン少将に降伏の証として軍刀を手渡す安達中将
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▼左が安達中将、真中が軍属・通訳の岩間和男氏、(右)サインする豪第6師団長のロ-バトソン少将。
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この後の昭和21年1月11日、安達中将はオーストラリア(豪)軍により将官4人を含む140名がラバウルの軍事裁判所に
連行され、裁判を受けた。安達中将は東部ニュ-ギニア戦で生起した全ての罪を負われ、その刑は終身刑だった。
安達中将の上官である今村均大将は自ら禁固10年の刑を受けマヌス島に服役した。
安達中将は、大部分の将兵が日本に復員した昭和21年1月以降もムシュ島(ニューギニア)で服役を続けた。
終身刑を宣告されながら部下の判決が全て下るのを待ち、拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると、弁護団に礼を述べ
た後、自決した。昭和22年9月10日の事であった。享年57歳
ラバウルの第8方面軍司令官 今村均大将と戦犯収容所にて同室であった。(「評価の高い将官」参照)
ムシュ島捕虜収容所でのオーストラリア(豪)軍からの食糧受領は、兵隊1人当たり、1週間分として、コンビーフの小缶
1個、オートミルの六百瓦位の包1個、携行パン1袋位のものだった。毎日、日本兵隊達はトカゲを捕ったり、野菜(サ
ユリ)を採ったり、椰子リンゴを探したりして、喰う事許りに専念していたという。
日本軍の捕虜に対する扱いがどうのこうのと言われるが、何処の国でも敵国捕虜の扱いはこんなものである。

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▼退役軍人を紹介するコーナー
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誇らしげな勲章が目立つ。日本にこの様な記念館が出来るのはいつの事だろうか・・・。
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▼第二次世界大戦後もアフガン侵攻やイラクに軍隊を派遣しているオーストラリア軍。
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現在進行形で兵士の戦死者は増え続けている。
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▼次は、オーストラリア軍の特殊部隊と書いてある。
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このブースにはほとんど見学者が居ない・・・。
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私もそうだが、オーストラリア人も近代戦争には興味が無いらしい・・・見学者が全くと言っていいほど居ない。
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▼木造船の様だが、展示物が年代別になっていないようなので何なのか解りずらい・・・。
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▲あ!寄せ書き日の丸が・・・何で此処に展示??
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戦利品として持ち帰られた日章旗を返還してくれる元兵士も沢山いるのだから何枚もあるなら返還して欲しい・・・。
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「1945年マレー半島(マレーシア)でキャプテンのジョン・モリソンが持ち帰った幸運の日の丸。
これらの旗は伝統的に日本の兵士に与えられ、幸運と勝利の願いが刻まれ、友人、家族、仕事仲間が署名した。
ジョン・モリソンはオーストラリアZ特別部隊に派遣され、1944年8月コロンボ(現スリランカ)に行き、そこで英国
特殊部隊のフォース136に加わり、マレーシア語を学んだ後、マレーシアの抗日ゲリラ勢力の訓練に携わった。
彼はその後表彰されている。」簡単に訳すとこう説明書きに書いておる。

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▲何故此処に「寄せ書き日の丸」が展示してあるのかが解った・・・特殊部隊が持ち帰った物だからだ。
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▼日本で正規販売されていなかった「安さ」と「軽さ」が売りのホンダ CG125 だ!流石ホンダ!何処でも見るね!
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▲▼オーストラリア軍の特殊部隊が使ったんだ・・・嬉しいやら悲しいやら複雑な気持ち・・・。
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▲2018年現在も進化を続け、ブラジル・中国・ナイジェリア・イランなどのホンダ海外現地法人が製造を続けている。
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▲9・11はまだ記憶に新しい・・・。


次回、オーストラリア戦争記念館(Part4)へ続きます。

これは是非見て欲しいですね。【凛として愛】泉水隆一監督作品YouTube
※APAホテルでは無料で視聴できるとの事だ。素晴らしい取り組みですね。



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 2018_10_10

Comments

Re: 有難う御座います 

Tony様
私も菅中佐はオーストラリア戦争記念館へ行って初めて知りました。
そうですね・・・現場には立派な日本軍人が沢山いたんですね。
WhitePigeon  URL   2018-10-13 21:51  

有難う御座います 

有難う御座います、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」、日本軍でさせこの様に書いた「ニューギニアの戦い」、貴方以外には書く人もいません、この方面の戦犯裁判は、戦勝国の報復裁判で、有罪ありきの裁判、日本政府も現地軍の責任として上層部に責任が来ない様に、終戦時の現地軍指揮官を、帰国後呼び出し、責任者として死刑になった方も(復員局が因果を含めて例も)、
「菅 辰次中佐」、初めて知りました、この様な方が多数居られたのでは、戦犯に指名された方のお顔が・・・、
知らない事ばかりで、本当に有難う御座いました
Tony  URL   2018-10-12 00:09  

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プロフィール

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Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
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