FC2ブログ


徳之島


最初で最後という10連休となったGWを利用し、平成と令和をまたいでの奄美諸島巡りに出かけた。
バニラエアを利用して奄美大島へ。Peachとバニラエアが統合され、現状【Peachはバニラエアの路線網を段階的に
引き継ぐ】となっているが、奄美大島への直行便は【ウィンターダイヤ期間にPeachとして就航予定】となっており、
正式発表はまだされていない。Peachにはバニラエアの奄美路線は是非引き継いで頂きたいものだ。

DSCN9056_convert_20190507193439.jpg
▼乗り継ぎ時間はスムーズでは無いが、奄美大島(奄美空港)でそのままJACに乗り換えて徳之島に向かう。
DSCN9076_convert_20190507193754.jpg
▼眼下に加計呂麻島・与路島・請島(うけじま)を見ながら徳之島へ向かう。与路島・請島もいつか行きたい!
DSCN9090_convert_20190507193826.jpg
▼奄美大島を離陸してから約30分、徳之島が見えた。
DSCN9096_convert_20190507193908.jpg
▼徳之島空港に着陸態勢。青い屋根が沢山見えている建物が今回宿泊した『サンセットリゾート徳之島』
DSCN9102_convert_20190507193957.jpg
▼徳之島空港に降り立つ。戦時中の日本軍浅間陸軍飛行場では無く、海側に移動させた埋め立て地の飛行場。
DSCN9114_convert_20190507194024.jpg
DSCN9116_convert_20190507194041.jpg
徳之島子宝空港。この名は文字通り出世率2.81(伊仙町)という、少子化の日本(本州)にとって見習うべき数字と、子
供達に対する想い、愛が深い島民は「授かり物である子供は全ての人にとっての宝」という思いが自然に根付いており、
子供が生まれたら、血縁関係は気にせず、集落のみんなで育てるという意識が一般的な素晴らしい島だ。
逆にお年寄りへの配慮意識も高く、『長寿の島』と呼ばれるのも当然だと、行ってみれば良く解る。

DSCN9118_convert_20190507194100.jpg
▼奄美大島以南の地図。亀徳(かめとく)/平土野(へとの)と書いてある島が徳之島。
DSCN9121_convert_20190507201039.jpg
DSCN9120_convert_20190507200933.jpg
▼小さい空港だが、お土産屋さんは徳之島に特化した商品が多く、見どころ満載だし、レストランもレトロで安い!
DSCN9125_convert_20190507201642.jpg
実は乗り継ぎ時間を潰す為、奄美空港で食事をしたが、価格は高く内容は??だったので、非常に後悔した。
DSCN9123_convert_20190507201746.jpg
▼徳之島子宝空港から車で10分とかからない場所に、「幻の基地」陸軍浅間飛行場跡と慰霊碑がある。
DSCN9161_convert_20190507215118.jpg
▼その場所は現在、一本道の道路(平和通り)となっており、左右にはサトウキビ畑が広がっている。
DSCN9164_convert_20190507215852.jpg
DSCN91267_convert_20190509150142.jpg
▼▲昭和20年頃の浅間陸軍飛行場(米軍撮影) 赤矢印の部分が現在の平和通り撮影地点となる。
DSCN9727_convert_20190509182501.jpg
DSCN9162_convert_20190507215202.jpg
▲案内板の④が撮影位置。
DSCN9847_convert_20190507215327.jpg
▲一本道の道路(平和通り)突き当りに慰霊碑がある。
DSCN9168_convert_20190507215347.jpg
DSCN9173_convert_20190507215430.jpg
DSCN9169_convert_20190507215447.jpg
DSCN9170_convert_20190507215504.jpg
DSCN9171_convert_20190507215526.jpg
▼戦時中の陸軍浅間飛行場(米軍撮影)。黄色の線で示した部分が現在の徳之島子宝空港である。
asamahikoujyo_convert_20190507221450.jpg
「幻の基地」陸軍浅間飛行場の記録。
陸軍浅間飛行場は昭和19年3月竣工。陸海軍の特攻機が不時着、再出撃した飛行場である。
沖縄上陸を狙う米軍艦載機の空襲が日増しに激しさを増してくる中、攻撃の前線基地を陸軍万世飛行場(鹿児島)から
浅間陸軍飛行場に移す事になる。

昭和19年10月10日 (沖縄島を中心とした十十空襲)。午前/午後の2回襲来した米軍機の攻撃で28機が撃破される。

昭和20年1月22日 南西諸島に約900機の米軍機が襲来。民家など70棟が炎上。
浅間飛行場の滑走路はこの空襲で使用不能となる。修理は夜間に行われ、編成間もない陸軍第501特設警備工兵隊が出動。
修理は米軍機が去った18:00~翌日01:00までの70時間を要した。

昭和20年3月1日 3度目の空襲。朝~夕方5時まで続いた。(模擬飛行場を作って攻撃させた)
昭和20年3月21日 海軍鹿屋基地を出撃した第721海軍航空隊の桜花隊直掩の零戦1機が空戦後に徳之島に不時着。
昭和20年3月23日 米機動部隊の艦載機による空襲が始まり、7月まで連日の様に続く。
DSCN9133_convert_20190509150053.jpg
▲米軍の空襲をうける浅間陸軍飛行場(米軍撮影)
昭和20年3月24日
13:30 沖縄(那覇)海軍小禄基地から飛び立った偵察機(海軍「彗星」1機)が浅間飛行場に不時着。
米機動部隊の発見を報告。徳之島の陸軍独立混成第64旅団は沖縄近海の敵を、徳之島から攻撃する事を決定。

昭和20年3月28日
第6飛行団長(第3攻撃集団長)今津大佐直卒で万世飛行場から進出した陸軍飛行第66戦隊第1中隊(戦隊長 藤井権吉少
佐/中隊長 山崎武雄大尉)の99式襲撃機11機と、護衛の飛行第103戦隊(戦隊長 東条道明少佐)の4式戦闘機「疾風」
8機が浅間飛行場に到着した。兵士も住民も飛行機に駆け寄って機体に触れ、「日の丸」を撫でたと言う…
3/23以来、見るのは米軍機ばかり。日本機を間近に見るのは久しぶりであった為だ。

昭和20年3月29日
04:30 飛行66戦隊の99式襲撃機11機、護衛の疾風8機が、沖縄に浅間飛行場からの初出撃。
だが慣れない飛行場の為か離陸時に疾風1機が飛行場外で爆破炎上、66戦隊も4機が後続機のプロペラに尾部をかじら
れ、66戦隊の出撃は7機に留まった。▼陸軍99式襲撃機(Ki51 九九式襲撃機/九九式軍偵察機)
rikugun99sikisyuugeki.png
66戦隊第1中隊長 山崎武雄大尉は(篠原新吉中尉/坪井宗一軍曹)(今田義基少尉/長沢一郎伍長)(島崎昭二軍曹/播磨
勝三郎伍長)ら3機(99式襲撃機は2名乗)を率いて沖縄に向かい、米艦隊発見。
激しい対空砲火で山崎機は被弾、徳之島に帰還。篠原中尉機は沖縄本島西方面の米艦隊を爆撃し、徳之島に帰還した。
この攻撃で今田中尉機と島崎軍曹機が未帰還。今田中尉機は敵艦に突入、撃沈させたとされる。
[ 今田義基少尉(広島県出身)慶良間列島米艦隊に突入、戦死。享年23歳 ]

昭和20年3月29日 知覧から出撃し、沖縄攻撃を終えた第65戦隊(隼15機)が徳之島に不時着する。
誠第39飛行隊(笹川 勉大尉以下「隼」8機)3/28新田原基地→奄美大島上空の天候悪化の為3/28喜界島基地着陸。
→3/29徳之島(浅間飛行場)に進出。

昭和20年3月30日
第20振武隊(隊長 長谷川実大尉)の隼4機が午後5時過ぎに知覧から徳之島に進出。途中2機が脱落し瀧村少尉と吉田
少尉の2機が奄美上空に到達。
(吉田市少尉機が遭難、殉職。瀧村少尉は奄美大島の海岸に不時着時、機体損傷。4月2日に知覧に戻る)
飛行可能な66戦隊の99式襲撃機5機に3名ずつが乗って万世に戻ったが、途中で米機の攻撃を受け1機墜落(3名戦死)。
65戦隊第1中隊の隼4機(中隊長 中神春雄大尉)が徳之島に進出。(九州から重爆3機で250㎏爆弾8個が空輸される)
この日の時点で浅間基地の戦力は、一般機12機・特攻機16機という記録が残っている。

昭和20年3月31日
誠第39飛行隊の一式戦「隼」4機が特攻出撃。(笹川 勉大尉/高橋晋二中尉/瓜田忠治少尉の3名が特攻戦死)
3機が突入し1機は徳之島に戻ったところをグラマンに撃墜された。この出撃を103戦隊の疾風(機数不明)が直援。
3/31時点で徳之島には、陸軍飛行第103戦隊の四式戦「疾風」6機、飛行第65戦隊の一式戦「隼」4機、第20振武
隊の一式戦「隼」5機、誠第39飛行隊の一式戦「隼」9機の合計24機が進出していた。
誠第39飛行隊の山田千秋少尉は仲間達4機の出撃を見送った。離陸直後、数機のグラマンが飛行場上空を哨戒し始め
た。離陸後10分が経過した頃に、同期の井上柳三少尉機が引き返してきた。井上機は爆弾を海中に投下した後、グラ
マンと交戦、火炎を吐いて山中に墜落した。
井上機撃墜後も米軍機は飛行場への攻撃を続けた。次々と日本機は炎上し、誠第39飛行隊の他の機体も、山田機を含
めて4機が撃破炎上している。

昭和20年4月1日05:00 第20振武隊の5機が103戦隊(指揮官 小川倶治郎大尉)の護衛を受けて出撃。
4機は引き返し、山本秋彦中尉の1機が突入。夕方、66戦隊の山崎武雄大尉率いる99式襲撃機4機が万世から進出。
更に2日にかけて66戦隊の99式襲撃機15機が万世から進出。
誠第39飛行隊の一式戦「隼」6機が特攻出撃。
宮元  卓少尉(東京都出身)/吉本 勝吉少尉(熊本県出身)/面田 定雄少尉(岡山県出身)
内村 重二軍曹(鹿児島県出身)/松岡 己義伍長(福岡県出身)/税田 存?軍曹(福岡県出身)
以上、6機6名。4/1徳之島浅間飛行場より出撃、特攻戦死(※?は多へんに”おおざと”の漢字だが変換出来ず)
s_UTIMURAGUNSO.jpg
▲内村軍曹最後の言葉。「荷物はここに頼んであります」とある。何処で書かれたか不明だが多賀屋の事かもしれない

昭和20年4月2日
陸軍飛行第66戦隊の99式襲撃機7機が、第20振武隊(長谷川實少尉/山本英四少尉)2機と、飛行第103戦隊久保元治
郎少尉/矢作一郎少尉/蘇鉄也少尉の「疾風」3機と共に出撃。蘇鉄也少尉の「疾風」は離陸時の事故で殉職。
(第20振武隊は4機が準備されたが離陸時の事故で2機のみ出撃、突入)
飛行第66戦隊 (高山昇中尉(崔貞根)朝鮮出身/飯沼良一軍曹)/(路川存損軍曹/石原一夫兵長)/(勝本多資軍曹/山崎
殖林兵長)らの3機が未帰還。未帰還となった高山昇中尉機は任務は被弾しながら巡洋艦に突入したと伝えられている。
※高山中尉(崔貞根)は朝鮮出身、沖縄戦で戦死した11名の朝鮮人特攻戦死者の1人である。
 飛行66戦隊には昭和43年11月に赴任。翌年7月戦隊と共にフィリピンに進出しレイテ作戦にも参加。
 そして沖縄戦では第3中隊の先任将校として、戦隊の中核パイロットの立場にあった。66戦隊の任務は通常攻撃で、
 特攻任務では無かったが、公式には特攻戦死になっていない他の隊員も、66戦隊では平素の言動を理由として「体
 当リ攻撃ニヨリ自爆戦死ト認定」としている。▼飛行第66戦隊(第1中隊)の陸軍99式襲撃機
66SENTAIDAIICITYUTAI_convert_20190509180440.jpg
夕刻、第1攻撃集団(隊長 河原大佐)の隼18機と第21振武隊(隊長 水川禎輔中尉)の隼6機、第44振武隊(隊長 甲斐
玉樹少尉)の隼5機、飛行第59戦隊の飛燕7機)が徳之島への進出を図った。
103戦隊長東条道明少佐の回想によると、東条少佐は疾風4機を率いてこれに同行した。他に整備員を乗せた99式襲撃
機5機、97式戦闘機と直協偵察機の特攻機20機が同行したと言う。
しかし、第1攻撃集団は途中で2機が引き返し、2機が行方不明となり、14機が徳之島上空に到達した。
ところが飛行場は爆撃直後だった為、着陸時に7機が大破した。着陸時の事故で栗田三郎少尉(第44振武隊)が戦死。
東條少佐も着陸時に飛行機を壊してしまった。

昭和20年4月3日
午後3時10分~午後4時10分、第22振武隊(隊長 藤山二典中尉)の隼7機、第30部類部隊(隊長 大櫃繁夫中尉)の99式
襲撃機5機、第46振武隊(隊長 丹羽信博少尉)の99式襲撃機9機を59戦隊の飛燕5機が掩護し、徳之島と喜界島に向かう
第46振武隊は屋久島付近で米戦闘機の迎撃を受けて引き返し、第30振武隊は喜界島に進出した。
第22振武隊は藤山隊長率いる4機が沖縄に向けて午後3時に知覧を出撃、もう3機は午後4時に知覧を出撃した。
先行した藤山隊長は着陸時にグラマンの銃撃を受けて戦死、第22振武隊の1機と59戦隊の直掩2機も同じく撃墜された。
航続の第22振武隊3機は無事に徳之島に進出した。

昭和20年4月4日
66戦隊の99式襲撃機4機が徳之島を出撃し、午前5時15分沖縄の米艦隊を攻撃した。1機(2名)未帰還。
※昭和20年4月1日午前2時半頃、鹿屋を出撃した「桜花」を積んだ第721海軍航空隊の一式陸攻1機は(台湾)新竹基地
に着陸していた。同機は3日に同基地を発進したが徳之島沖に不時着水し、全員が救助された。

昭和20年4月5日
知覧から出撃した第22振武隊(前田光彦少尉/西長武志少尉)2機が敵機と遭遇。1機(前田少尉)が徳之島に不時着。

昭和20年4月6日
徳之島には特攻機18機、襲撃機10機、戦闘機6機がいたが、この日は空襲で出撃できず。
第43振武隊の隼6機が知覧から出撃。1機(隊長 今井光少尉)が午後、徳之島に不時着。
第203海軍航空隊の制空隊の零戦1機が、空戦後の午後4時5分に徳之島に不時着。
第210海軍航空隊の制空隊の零戦1機(直居欽也中尉)は徳之島上空で空戦後、被弾し徳之島付近海中に不時着。
漂流12時間の末、犬田布岬に泳ぎ着いて住民に救助される。
神園望大尉は沖縄周辺偵察のため偵察機「彩雲」で鹿屋基地を発進したが、米戦闘機の銃撃を受け被弾しながらも徳之
島の畑に不時着した。
挺身飛行第2戦隊の輸送機4機が午後5時に福岡県板付飛行場を飛び立ち、午後7時に着陸(徳之島へ通信機空輸の為)

昭和20年4月7日
第44振武隊の隼2機が出撃(隊長 甲斐玉樹少尉/清水定伍長)が払暁、沖縄周辺米艦船に突入。
喜界島から第30振武隊の5機が徳之島へ前進してくる。この日は空襲が激しく第20振武隊の2機が地上で破壊された。

昭和20年4月8日 挺身飛行第2戦隊の輸送機3機が徳之島に60キロ爆弾を落下傘で空輸投下。

昭和20年4月9日
第22振武隊は残る6機で沖縄攻撃を計画するが、空襲で1機を残して全て破壊される。
第42振武隊(隊長 猫橋芳賀朗少尉。機種は97式戦闘機)の中野友次郎少尉は、午後4時30分僚機と共に「喜界島」か
ら97式戦闘機で出撃するも、途中グラマンとの交戦で被弾し徳之島に不時着。

昭和20年4月10日
第30振武隊の2機に出撃命令が出るが、整備員の不手際で1機(横尾賢治伍長)のみ午前5時35分に出撃、 突入。
66戦隊の99式襲撃機1機が喜界島に連絡に行った帰りに、徳之島着陸時に米軍機に撃墜される。

昭和20年4月11日
第22振武隊の残る1機「柴田秋蔵少尉」が単機で沖縄へ出撃、突入散華。

22sibata_convert_20160127221950.jpg
▲4/11早朝5時35分「柴田秋蔵少尉」は藤山隊長の遺骨と共に「隼」に搭乗「隊長と共に征くが世話になった。
 後日靖国で会おう。」の言葉を残し、徳之島浅間陸軍飛行場より単機出撃。慶良間列島南方の敵艦隊に突入戦死。

同時に出撃しようとした第43振武隊長の今井光少尉は地上滑走中に弾痕に脚を落として出撃中止。
午後0時35分鹿児島県国分基地を発進した第601海軍航空隊戦闘308飛行隊の桂正中尉(零戦特攻第3御盾601部隊)は、
米機動部隊攻撃に向かう途中喜界島南方でグラマンと交戦し被弾、徳之島基地着陸の際に機体が転覆し重傷を負った。

昭和20年4月12日菊水2号作戦発動
浅間飛行場は空襲の為使えず。鴨池から出撃した海軍制空隊1機が名護(沖縄)上空で被弾、徳之島に不時着。
※鴨池は鹿児島県鹿児島市郡元町の鴨池海岸にあった鹿児島市営水陸両用飛行場(鹿児島海軍航空隊)

昭和20年4月13日
早朝、喜界島から陸軍第六航空軍高級参謀の井戸田勇大佐を乗せた軍偵が進出。
(徳之島、喜界島両基地が引き続き中継基地として使用可能かどうかの視察の為)
前日に喜界島を視察して徳之島に飛来した。この日の夜に井戸田勇大佐は九州に帰還。
進出時に軍偵は空襲で破壊されたので、第30振武隊の横田正顕少尉の機を取り上げて帰還した。
65戦隊の隼1機が12日夜に知覧を出撃して沖縄攻撃後、帰途喜界島に着陸。この日の朝、徳之島に飛来。
陸軍第六航空軍高級参謀井戸田勇大佐の判断で、徳之島の積極的使用を放棄。搭乗員70名と整備兵15名が喜界島の
海軍基地に移動。以後、浅間飛行場は中継基地としての役割を終え、不時着飛行場として位置づけられた。

昭和20年4月14日 66戦隊の99式襲撃機1機が井戸田勇大佐を迎えに飛来(行き違いになった)
昭和20年4月15日04:00第43振武隊長の今井光少尉は沖縄に出撃しようとするが離陸に失敗。
(これで徳之島の飛べる機体はゼロになった)
午後5時50分、第1国分基地を出撃した第601海軍航空隊(戦闘第310飛行隊)神風特別攻撃隊「第3御楯隊」の零戦2機
が沖縄上空で米軍と空戦後、徳之島に不時着破損。
第203海軍航空隊沖縄飛行場夜間銃撃隊の零戦1機が、攻撃後の午後8時15分に徳之島に不時着。
着陸時に爆弾孔に脚を突っ込み、機体は転覆大破。

昭和20年4月16日菊水3号作戦発動
飛行機を失った在徳之島の陸軍搭乗員の半数が船で奄美大島古仁屋に向かった(17日午前6時に無事到着)
その後喜界島から飛行機で九州に帰還する事となる。

昭和20年4月17日在徳之島の陸軍搭乗員の残る37名が徳之島(山港)を出発▼赤矢印が山港。黒矢印は平土野港
tokunoshima_map_convert_20190510003821.jpg
昭和20年4月18日04:50今津大佐は修理した飛行機で知覧に帰還。103戦隊の東条戦隊長も同じく帰還した模様。
昭和20年4月22日
14:40知覧を出撃した第105振武隊6機の内2機が夕刻、徳之島トンバラ上空で敵機と空戦。
1機が撃墜されて海へ墜落。もう1機(日下弘實伍長)は別れ惜しそうに浅間飛行場に向かった。
墜落戦死したのは藤野道人軍曹の97式戦闘機で、手足を自らの操縦桿に縛り付けてあったと伝えられている。
藤野軍曹が墜落した母間には「黒潮の塔」という慰霊碑が建立され、藤野軍曹が満洲の公主嶺で詠んだ辞世の句が、
同期の第11期少飛会によって翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
『火急を知りて 馳せ参じ 我は征くなり 弥生の空に 特攻出撃を前に』

昭和20年4月23日
前日、徳之島に不時着した第105振武隊の日下弘實伍長は単機(97式戦闘機)沖縄へ出撃、突入戦死。
独立混成第64旅団の高級部員中溝猛中佐は、徳之島(山港)で海軍25ミリ高射機関銃隊(財田隊)を出迎える。

昭和20年4月28日第77振武隊の97式戦闘機1機(金子誓伍長)が徳之島に不時着。
(大津少年飛行隊出身で高田少将の教え子でもあった)

昭和20年4月29日昨日不時着した第77振武隊金子誓伍長が97式戦闘機で単機沖縄へ出撃、突入戦死。
昭和20年4月30日65戦隊の隼5機が沖縄周辺艦船攻撃、帰途に徳之島を中継して知覧に帰還。
昭和20年5月4日菊水5号作戦発動(この日、沖縄の第32軍は総攻撃を実施)
103戦隊第百飛行団の「疾風」数機は徳之島に着陸して損害を出した。

昭和20年5月9日(在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦)
財田隊(財田海軍高射機関銃隊)がグラマン1機を撃墜し、以後は奮戦を続けた。
米軍機撃墜を見た将兵や住民は、まだ他の機がいるにもかかわらず、洞窟から飛び出してきて万歳を叫んだ。
また戦闘終了後、財田隊の洞窟には軍民から何本もの祝い酒が届いたという。いかにこれまで浅間飛行場が米軍機の
跳梁に任せていたか、またそのことを軍民共に悔しく思っていたかがよく分かる逸話だ。
財田隊は翌日も、その翌日も米軍機を撃墜した。被害に驚いた米軍は低空飛行をしなくなった。
そこで高田少将は滑走路に偽装した破損機を囮として置き、米軍機がそれを攻撃するようにしむけた。
財田隊はその米軍機を迎撃してまた戦果を上げている。その後も財田隊は奮戦を続け、敗戦後の8/25高田少将からそ
の活躍を表彰された。同隊の犠牲者は移動時の艦上で戦死2名、徳之島陸上戦で病死3名であった。

対空射撃を担当したのは、飛行場中隊の他、独立混成第64旅団の独立混成第21連隊(連隊長 井上二一大佐)石原中
隊の重機関銃隊、同じく独立混成第22連隊(連隊長 鬼塚義惇大佐)の永田中隊の重機関銃隊であった。
石原中隊の重機関銃隊は湾屋川中流で4機撃墜。永田隊は真瀬名川南岸の洞窟陣地から1機を撃墜。
この日、敵機が海に不時着し、米軍飛行艇がパイロットを救出して飛び去るのを住民が見て悔しがった。
※財田隊とは、海軍25ミリ高射機関銃隊(隊長 財田三男中尉-海軍第3期兵科予備学生16名)。
武器は25ミリ高射機銃12門で、元々宮古島に派遣される予定だったが、情勢の悪化で行く先が奄美大島に急遽変更
され、4/2大島輸送隊の輸送艦に乗船して奄美に到着した。財田隊は航海中も空襲に備えて、いつでも戦える様、輸
送艦に機銃をボルト締めしていた。
財田隊が突然徳之島に派遣されたのは、連日の空襲による飛行場の被害に悩む64旅団が、対空火器の豊富な大島防備
隊に部隊の派遣を依頼したためである。中溝中佐自ら迎えに出たことからも64旅団の財田隊にかける期待の大きさを
伺う事ことが出来る。4/24中溝中佐は馬鞍岳で財田中尉同席のもと祝杯を挙げ、4/25には主計将校と軍医も集まっ
て財田隊支援の方法が話し合われ、陸軍挙げての支援態勢が組まれた。
だが、財田隊はそれどころではなかった。隊員はここ1ケ月の疲労に加えて、慣れぬ高温多湿の洞窟生活と玄米食、雨
季で道路が泥濘と化している中での機銃や弾薬の移動で疲弊しきっていた。それは「いっそ死んだ方がまし」との想い
を起こさせるものだったという。財田隊の隊員過半数が明治生まれで、平均年齢は37歳という老兵小隊だった。

昭和20年5月11日菊水6号作戦発動
※鹿島海軍航空隊で編成され、指宿から出撃した神風特別攻撃隊「第2魁隊」94式水偵1機は、徳之島陸軍部隊上空で
飛行靴に、「吾 魁隊坂本少尉機、単機突入す」旨の紙片を入れて投下した。(無線機を積んでいなかった為)
知覧に帰還していた103戦隊の宮本林泰中尉が、疾風14機で沖縄飛行場爆撃の帰途に徳之島に不時着。
6月に帰還するまで徳之島に滞在する。

昭和20年5月17日
66戦隊の99式襲撃機2機が沖縄攻撃の帰途に徳之島に不時着して1機は知覧に帰還。
その1時間後に同戦隊のもう1機が不時着、米艦の対空砲火で偵察員は機上戦死、操縦者も負傷していた。

[昭和20年5月25日
万世を出撃した第432振武隊(12機)の内、1機(中島寛伍長)の2式高等練習機がエンジン故障で徳之島不時着。

昭和20年5月27日
65戦隊隼2機が沖縄周辺艦船攻撃、帰途に徳之島を中継して知覧に帰還。
65戦隊/66戦隊の99式襲撃機2機が沖縄周辺艦船攻撃後、伊仙村と飛行場西海岸付近に不時着、搭乗員戦死。

昭和20年5月28日菊水8号作戦発動
第433振武隊(隊長 小西吉彦少尉)の2式高等練習機7機は万世を出撃後、徳之島に着陸。
この日のうちに再度沖縄に出撃。
第213振武隊(隊長 小林信和少尉)の板津忠正伍長は午前5時31分97式戦闘機で知覧を出撃、エンジン故障の為、
徳之島の海岸に不時着(板津忠正伍長は後に知覧特攻平和会館初代館長)
鹿児島県串良基地から出撃した徳島海軍航空隊第3次白菊特別攻撃隊15機のうち1機が徳之島に不時着。

昭和20年6月1日
第433振武隊 篠崎孝則少尉は沖縄に出撃。途中エンジン不調で海上に不時着、沖縄県伊平屋島に泳ぎ着いた。

昭和20年6月3日
午前11時、鹿児島県第二国分基地を発進した名古屋海軍航空隊編成の第四草薙隊の99式艦爆3機が不時着。
着陸時に1機が使用不能に。翌日2機に分乗して基地に帰還する途中、悪天候のため1機が行方不明に。
5月25日に不時着した第432振武隊の中島寛伍長は、戦隊の将校の操縦する飛行機に同乗して九州に帰還。
第111振武隊の島田昌往伍長は97式戦闘機で知覧を出撃、エンジン故障の為徳之島面縄集落に不時着。

昭和20年6月8日
古仁屋(奄美大島)を出撃した第634海軍航空隊の水上爆撃機「瑞雲」1機が沖縄攻撃の帰途に徳之島に不時着。
機体は転覆破損した。

昭和20年6月11日
沖縄から脱出した第32軍航空参謀神直道中佐と誠第41飛行隊長寺山欽造大尉、第32軍航空班の藤田忠雄曹長が
99式襲撃機に乗って九州に帰還。神直道中佐は大本営に航空機による総攻撃を要請するも聞き入れられず・・・。

昭和20年6月21日
鹿屋基地を出撃した徳島空の第4次白菊隊8機の内1機が燃料欠乏のため徳之島に不時着した。
機体は大破したが搭乗員は無事だった。

昭和20年6月23日 亀津で不時着したと思われる3名の特攻隊員が民家で世話になる。
昭和20年7月4日戦訓伝達で沖縄を脱出した森脇大尉が徳之島に辿り着き、古仁屋経由で帰還した。
昭和20年7月9日米軍によるこれまでで一番大規模な空爆が徳之島を襲った。
昭和20年7月10日B-25の大編隊が、飛行場一面が爆煙で覆われる程の大量の爆弾を投下した。
昭和20年8月15日終戦(敗戦)

DSCN9691_convert_20190508203613.jpg
▲浅間陸軍飛行場建設工事の関係者(球7165部隊)全員揃っての記念写真(昭和19年9月撮影)
飛行場建設は昭和18年に畑や宅地買収を終え、同年12月には町村に人夫の徴用命令が出た。作業用具は各自持参であ
ったが、ツルハシにモッコと人力が中心で、軍には作業効率を高める機械や機材はほとんど無く、中古トラック5台と
30台のトロッコ、そして100台余りのリヤカーがあるだけだった。奄美大島からも650名の応援部隊が徴用されて作
業にあたった。明けて昭和19年1月、日増しに悪化する戦局に備えて飛行場建設を急ぐ為、沖永良部島・与論島からも
応援部隊として350人が徴用され、昼夜問わずの突貫工事で6月に完成した。

上記「幻の基地」陸軍浅間飛行場の記録。の中でご紹介した「在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦」だが、徳之島には浅
間飛行場を本部とする第75飛行場中隊(中隊長 山縣克己大尉)、独立混成第22連隊(隊長 鬼塚義淳大佐)、独立混成64
旅団が島を守備していた。独立混成第22連隊は独立混成64旅団と編合。
※島の何処かに独立混成第22連隊「鬼塚部隊忠魂碑」があるそうだが場所が解らなかった。
奄美大島守備隊(1個連隊)は、浅間飛行場完成と同時に古仁屋(奄美大島)に設置されていた奄美要塞司令部を昭和19年
6月に廃止。時の要塞司令官 井上二一陸軍大佐は、奄美大島守備隊長として昭和19年6月22日平土野港に上陸。
本部を天城村立青年学校に置いた。
同月末頃にはサイパン陥落が現実化し、更なる南西諸島防衛強化の為、昭和19年7月14日奄美大島守備隊として独立混
成64旅団を徳之島に配置する事となり、旅団長には東京陸軍飛行兵学校長だった高田利貞陸軍少将が8月15日に着任。
旅団司令部を大和城山に置いた。▼大和城山を見る。

DSCN9524_-_コピー_convert_20190508213127
▲この日は天気が悪く曇り空だったが、赤矢印の頂上(248m)に戦闘指令所が残っているという事で登ってみた
DSCN9518_convert_20190509104643.jpg
上名道森林公園として第1登山道と第2登山道に分かれて登山口があるが、戦闘指令所へは第1登山道からが最短だ。
DSCN9512_convert_20190508214332.jpg
現在は戦前の遺構「大和城(ヤマトグスク)」として紹介されているが、戦闘指令所の場所には「トーチカ」とある。
DSCN9428_convert_20190508213754.jpg
▲早速登山開始。
DSCN9432_convert_20190508213839.jpg
▲昨年の台風被害か。大木が倒れたままの箇所も多い。地元の人でも滅多に行く人はいないらしい・・・。
DSCN9502_convert_20190508215445.jpg
▲とは言え、きちんと階段が作られ、一度整備されている場所なので、当時の兵隊さんの苦労の比で無い。
DSCN9431_convert_20190508213919.jpg
▲大木にへばりついているナメクジの大きさも半端ない(笑)
DSCN9436_convert_20190519142608.jpg
▲因みに第2展望所にも行ってみたが、何も無いし、展望といっても草木が生い茂って何も見えない。
DSCN9445_convert_20190508215733.jpg
▲第1展望所まで辿り着いた。戦闘指令所跡の場所だ。道が左右二手に分かれている。
DSCN9477_convert_20190508215828.jpg
▲とりあえず左に行ってみる。右側に僅かに残る石垣は大和城時代の遺構か・・・?
DSCN9475_convert_20190508215941.jpg
▲すると、あった。戦闘指令所のトーチカだ。
DSCN9473_convert_20190508224549.jpg
四つの展望孔とあるが、目視で見学出来る部分は一つしか確認出来なかった。
DSCN9468_convert_20190508224729.jpg

DSCN9471_convert_20190508224758.jpg
▼トーチカ上部にあがってきた。
DSCN9464_convert_20190509102131.jpg
▼上部に入口がある様だが、階段なども無くとても入れる様な状態では無い。
DSCN9451_convert_20190509102252.jpg
▼上部入口の底をUPで撮影。地下2階構造になっているのが解る。
DSCN9463_convert_20190509102319.jpg
▼トーチカ上部からの眺め。東シナ海、平土野港、徳之島空港などが一望出来る。
DSCN9459_convert_20190509103437.jpg
▼先程の「道が左右二手に分かれている」ところまで戻って、次は右に行ってみる。
DSCN9495_convert_20190509104308.jpg
▼すると、入口があった!
DSCN9493_convert_20190509104602.jpg
▼当然入壕する。
DSCN9492_convert_20190509104721.jpg

DSCN9490_convert_20190509105215.jpg
どんな機材が設置されていたのだろうか。2階と1階の床部分は米軍が破壊したか、崩落している。
DSCN9485_convert_20190509105303.jpg
当然1階か2階に発電機は置かれていただろう。米軍が処分を命じたか・・・。
DSCN9484_convert_20190509105327.jpg
▼2階構造になっていたのが良く解る。右下は恐らく外に続いている。その上はトーチカ上部から見えた部分だ。
DSCN9487_convert_20190509105414.jpg
他も出入口があったはず。昭和28年の本土復帰まで米軍占領下だったので、米軍が調査/鹵獲しているはずだ。
DSCN9736_convert_20190508224407.jpg
▲戦時中の大和城山一帯。独立混成64旅団/奄美大島守備隊が一帯に陣を引いていた事が良く解る。
赤線は見学した戦闘指令所。緑線は浅間飛行場。青線は平土野港。黄線は「在徳之島の陸海軍陸上部隊の奮戦」の中で
ご紹介した海軍25ミリ高射機関銃隊(財田隊)

DSCN9110_convert_20190509145737.jpg
▲終戦後、米軍が調査で大和城山に入った時に撮影された、大和城山東側に設置されていた無線小屋。
DSCN9113_-_コピー_convert_20190509145836
▲内部の地上用無線電話機2B型(受信機のみ)
DSCN9113_convert_20190509150003.jpg
▲大和城山の指令本部と各部隊の駐屯地連絡の為、電信柱で電話網が張り巡らされていた。
DSCN9111_convert_20190509145922.jpg
▲伝書鳩小屋。軍は伝言用に伝書鳩を飼育していたが、実際に利用する機会は無かったという。
DSCN9114_convert_20190509183222.jpg
▲米軍の上陸に備え、あらゆる毒ガスから100%保護出来ると言われた毒ガス防護用ケーフを着用した日本兵。
DSCN9120_convert_20190509185530.jpg
▲終戦後、武装解除の為、平土野港に上陸する米軍LST。度重なる空襲で焼け野原となっている事が解る
DSCN9123_convert_20190509185618.jpg
▲押収され、一か所にまとめられた日本軍の弾薬集積場。
DSCN9124_convert_20190509185838.jpg
▲電線などの通信機材の集積場。
DSCN9125_convert_20190509185705.jpg
▲米軍の指示に従い、平土野港沖に海中投棄する為に、武器・弾薬・機材を米軍LSTに積み込む日本兵達。
扱いに苦労する重砲類の砲身などはガスで焼き切って分解投棄した。米軍の命令で作業する日本兵の心境を想うと、悔
しさと安堵感で複雑な気持ちだっただろうと思う・・・ご苦労様でした。

DSCN9134_convert_20190510001107.jpg
▲昭和20年頃に撮影された三京の民家と住民達。
DSCN9127_convert_20190509234351.jpg
▲昭和30年頃の徳之島の民家。米軍基地の無かった奄美諸島ではアメリカ政府は投資はせず、貧困状態が続いた。
DSCN9130_convert_20190509234514.jpg
▲終戦から2年後の昭和22年に撮影された天城村天城中学校。昭和30年の上記写真と変わらぬ風景だ。
DSCN9132_convert_20190509234551.jpg
▲天城村岡前小学校(昭和28年撮影)この年、奄美群島(奄美大島/喜界島/徳之島/沖永良部島/与論島)が本土復帰。
DSCN9119_convert_20190509183506.jpg
▲徳之島からも多くの若者が戦ってくれた。出征前の兵士との別れを惜しみ、家族揃っての記念写真。

DSCN9226_convert_20190513175649.jpg
▼▲犬田布岬には「戦艦大和の慰霊碑」がある。
DSCN9228_convert_20190513175803.jpg
DSCN9257_convert_20190513175722.jpg
▼毎年慰霊祭が行われ、遺族や多くの方々が祈りを捧げる場所。
DSCN9231_convert_20190513174058.jpg
DSCN9232_convert_20190513174642.jpg
DSCN9234_convert_20190513174705.jpg
長い間、戦艦大和は徳之島の犬田布沖で沈没したと考えられ、昭和43年に慰霊塔が建てられたが、昭和55年の海底調
査で鹿児島県枕崎市沖の沈没場所が特定された。

DSCN9235_convert_20190513174745.jpg

DSCN9236_convert_20190513181346.jpg
DSCN9242_convert_20190513175617.jpg
DSCN9241_convert_20190513181427.jpg
DSCN9239_convert_20190513181411.jpg
慰霊塔には戦死された英霊の方々のお名前が刻まれたプレートが張り付けられている。
DSCN9246_convert_20190513181454.jpg
慰霊塔は手を合わせた合掌がモチーフとなっていて、実際の大和の司令塔と同じ高さで建てられている。
DSCN9251_convert_20190513181614.jpg
当然此処でも慰霊させて頂いた。一部で此処が心霊スポットと騒がれているらしいが、そんな事は全く無い。
絶景を見る前に、日本の為に戦ってくれた英霊に対し、敬意と感謝の念を持って慰霊碑の前で手を合わせて頂きたい。


DSCN9390_convert_20190513221453.jpg
▼▲なごみの岬公園に「富山丸慰霊碑」があるとの事で行ってみた。
DSCN9388_convert_20190513221519.jpg
DSCN9383_convert_20190513221630.jpg
▲2004年6月29日 内閣総理大臣 小泉純一郎 書 と書いてある・・・。何故小泉元総理??
DSCN9323_convert_20190515163147.jpg

DSCN9330_convert_20190513222405.jpg
DSCN9329_convert_20190513223134.jpg
▼沖縄県糸満市摩文仁の「平和の礎」の様な立派な慰霊碑だ・・・。
DSCN9332_convert_20190513222344.jpg
DSCN9371_convert_20190513223707.jpg
toyamamaru.jpg
▲約3700人の軍関係者や民間人を乗せ鹿児島から沖縄へ向け航行中であった徴用船「富山丸」。
昭和19年6月27日「富山丸」を含めた12隻の船舶は「カタ412船団」を構成し、鹿児島湾を出港。
翌28日貨客船「履門丸」と「開城丸」は名瀬港に寄港し、「富山丸」を含めた他の船舶は17時に古仁屋に入港した。
翌朝29日、船団は奄美大島の名瀬と古仁屋から、それぞれ出港して那覇に向かう。
その頃、米軍の潜水艦スタージョン(USS Sturgeon, SS-187) が徳之島の東で浮上哨戒を行っており、04:33に
潜航哨戒を開始、05:29カタ412船団は針路220度で航行中と判断され、スタージョンは「富山丸」に照準を定める。
7時25分、スタージョンは艦首発射管から「富山丸」に向けて魚雷を4本発射、4本の内3本が「富山丸」の左舷船首と
二番船倉及び四番船倉と機関室の中間部に命中。
USS_Sturgeon_convert_20190513230127.jpg
▲アメリカ海軍潜水艦スタージョン (USS Sturgeon, SS-187)
「富山丸」の左舷船首と二番船倉に命中した魚雷の衝撃で、ガソリンが船内及び海上で発火して炎上する。
止めを刺したのは四番船倉と機関室の中間部に命中した魚雷で、「富山丸」は船体を二つに折って北緯27度43分東経
129度06分の徳之島南東12キロの地点で轟沈した。
轟沈と海上に流出して引火したガソリンの為、将兵4600名が脱出する余裕はほとんどなかった。
独混第44旅団をはじめとして、沖縄の現地部隊を統括する第32軍は大本営より飛行場の急速造成を指令されていたが、
本船の沈没によって旅団の生き残りは約700名その内活動出来る者約500名となり、トラック等も失われ、沖縄第32
軍が担当した飛行場建設(陸軍北飛行場と中飛行場)遅延原因の一つとなっている。
この沈没で、旅団将兵や船員、船砲隊員の合わせて約3700名が戦死。一隻の船による死亡者数としてはタイタニック
号や、翌年の戦艦「大和」の沈没よりも多く、当時としては第一級の惨事であったが、多くの船舶の沈没の実態と同様、
大本営により秘匿された。
情報を聞きつけ、奄美大島の古仁屋からも漁船などで徳之島沖まで救助に向かい、当時古仁屋に陸軍病院があった事も
あり、多くの火傷を負った傷者が運び込まれた。古仁屋で亡くなられた方も大勢いたという。
昭和39年6月29日に慰霊塔が建立され、毎年遺族等による供養祭が開催されている。
DSCN9368_convert_20190513222556.jpg
DSCN9375_convert_20190513222631.jpg
立派な慰霊塔だ・・・真新しい花が供えられ、綺麗に管理されている・・・。
DSCN9354_convert_20190513222713.jpg
DSCN9355_convert_20190513222735.jpg
当然此処でも慰霊させて頂いた。
DSCN9357_convert_20190513222821.jpg

DSCN9358_convert_20190513225139.jpg
▼慰霊塔の奥は海が見える場所になっている。
DSCN9359_convert_20190514192158.jpg
▼此処が「なごみの岬」。この岬の向こうの海で富山丸が轟沈した。
DSCN9360_convert_20190514192108.jpg
DSCN9341_convert_20190514192245.jpg
▼静かに見える海も、戦時中はどれだけの軍民を飲み込んできたのだろう・・・合掌。
DSCN9346_convert_20190514193039.jpg
▼丁度、亀徳港に船が入港するところだった。徳之島の次は船で沖永良部島に向かう予定だ。
DSCN9344_convert_20190514193058.jpg

DSCN9364_convert_20190514193700.jpg
▼▲3打鳴らさせて頂いたが、一打一打想いを込めて鳴らした。
DSCN9363_convert_20190514193720.jpg
▼周辺には慰霊碑や碑文が並んでいる。見過ごす所だったが、牛島中将の書があったので足を止めた。
DSCN9350_convert_20190514193737.jpg
DSCN9345_convert_20190514193627.jpg
▼昭和19年9月10日とある。球第1616部隊長時代の牛島中将の直筆だ。慰霊祭はちゃんとやってたんだ・・・。
DSCN9347_convert_20190514195532.jpg
▼隣には、入口の、内閣総理大臣 小泉純一郎 書 の揮毫に通じる事が・・・。
DSCN9352_convert_20190514195619.jpg
小泉純一郎元首相のご親族の、小泉正一郎海軍一等飛行兵曹が陸軍浅間飛行場から沖縄へ出撃した記録が残っており、
一泊した徳之島の宿、「多賀屋」の宿帳に宿泊記録と最後の「書き置き」が残っているという。
この碑を読むと、検閲を免れた特攻兵304名の「書き置き」が伊仙町歴史民俗資料館に保管されている。とある。
早速、伊仙町歴史民俗資料館に向かった。
と、その前に、富山丸慰霊塔の直ぐ脇に、疎開船「武州丸」遭難者の碑があるので寄ってから。

DSCN9389_convert_20190515164302.jpg
▲なごみの岬公園入口付近の画像。青矢印は富山丸慰霊塔へ。そして黄矢印の所が武州丸慰霊碑だ。
DSCN9324_convert_20190515163114.jpg
▲少し階段を登る事になるが、此処にも是非立ち寄って手を合わせて頂きたい。
DSCN9327_convert_20190515163208.jpg
慰霊碑の周辺は直ぐ近い所に民家があるので、静かにそっと手を合わせ、素早く立ち去る事を心がけて欲しい。
DSCN9328_convert_20190515163331.jpg
昭和19年9月25日徳之島から九州への疎開者を乗せた「武州丸」(日之出汽船1222t)が、諏訪瀬島北端北西13キロ
付近で、米潜水艦「バーベル」(先に宮古丸と八木丸を沈めた潜水艦)の雷撃を受けて沈没した。
この時武州丸には徳之島からの疎開者154名(亀徳99人、井之川27人、山25人、尾母3人)が乗船していた。
年齢別では15歳未満の幼児学童が79人、16歳から59歳までの婦女が39人と、乗客の9割が学童と婦女だった。
これより前、サイパン島の陥落を受けた7月7日の緊急閣議で政府は、米軍の侵攻が予想される、南西諸島の奄美大島・
徳之島・沖縄本島・宮古島・石垣島の五島から老幼婦女子を本土及び台湾へ疎開させることを決定した。
これを受けて鹿児島県知事は7月15日に奄美諸島の住民に対して本土への疎開を命じた。
具体的には奄美諸島から3万人の疎開を予定し、この内24000人を無縁故疎開者(疎開先に親類縁者等がいない疎開者)
と見込み、疎開先は全員鹿児島県内を予定していた。
これを受けて徳之島では島全体で6200人を疎開させる事になった。疎開できる者は満60歳以上の高齢者、一般婦女子、
国民学校児童、その他の病身者とされた。「勧奨」の結果、徳之島では2300人が疎開する事になり、第1回目は8/18
午後、「天運丸」(200t機帆船)で徳之島、沖永良部島、与論島の希望者を乗せて奄美大島の古仁屋に運んだ。
徳之島などの島には九州へ行く船が寄港することはあまりない為、住民は船の寄港する古仁屋に集まり、港近くの集会
所や国民学校の教室、旅館などで船を待った。時には1週間から10日位待つこともあったという。
古仁屋からの疎開船第1陣がいつ出発したかは不明であるが、8/24物資を運んできた海軍の潜水母艦「長鯨」に瀬相で
引揚者30名を乗せて8/26に鹿児島に向かっている。後も「長鯨」は9/7、9/19と瀬相に寄港している。
人数は不明だが疎開する住民を度々乗せた様だ。露天甲板に帆布を展張し、合わせて800人以上の疎開者を乗せた。
武州丸が第何陣目かは不明。武州丸は疎開の為だけに寄港したわけではない。同船は9/8に7隻の僚船と5隻の護衛艦と
共に基隆(台湾)を出港した。ところが途中で米潜水艦の攻撃を受けて4隻が沈没、武州丸は命からがら古仁屋にたどり着
いたというのが実情であった。疎開者を乗せるのはあくまで、九州に帰るついでの仕事だった。
(沖縄で撃沈された対馬丸も同様であった。)武州丸は9/24[ 08:50頃 ]古仁屋を出港。壕などの陣地構築に必要な
坑木約500本を名瀬(奄美大島)で積んだ「相州丸」とナカ502船団を組み、護衛には第89号駆潜特務艇と、第200号特
設駆潜艇の2隻がついた。船団速力は7.5ノットで、同行する「相州丸」と共に26日には鹿児島港に到着する予定だった。
武州丸には疎開者約150人が乗船し、沖縄に行く途中に輸送船が沈没した為に鹿児島に引き返す兵士約15名も乗船して
いた。そして運命の9/25[ 09:00頃 ]米潜水艦バーベルの放った1発目の魚雷が命中。
船が沈没しかかった時、2発目の魚雷が命中、武州丸は2つに折れて沈没。魚雷命中から沈没まで5~10分程であった。
USS-Barbel316.jpg
▲アメリカ海軍潜水艦バーベル (USS Barbel, SS-316)
武州丸の沈没に僚船の相州丸は気付いていた。姿は見えなかったが、キャーという叫び声とボイラーが爆発し蒸気が吹く
音を見張り員が聞いていた。相州丸は全速力でひたすら逃げた。ただ生存者を傷つけないように遠く離れるまで爆雷は使
用しなかったという。武州丸の生存者は10名足らず。疎開者148名と乗組員11名が死亡する大惨事となった。
武州丸沈没の事実は例によって厳重に秘匿された。生存者が上陸した鹿児島港では憲兵が待ち構え、トラックで移された
県立病院にも憲兵がおり、武州丸沈没のことは口外しないようにと口止めされたという。
対馬丸(沖縄)と武州丸は共に政府の命令に基づく疎開船だが、その犠牲者に対する政府の対応は対照的である。
対馬丸の疎開学童には1人当たり2万円の見舞金と遺族支出金が支給され、勲八等瑞宝章が授与され靖国神社に合祀され、
対馬丸に乗船していた一般の疎開者に対しても1人当たり3万円の見舞金が支給されている。
それに対して「武州丸」の遭難者には何の補償もされていない。これはかなり不公平だろう・・・。
DSCN9326_convert_20190515163235.jpg
▲疎開船「武州丸」遭難者の碑から富山丸慰霊塔、そして海を望む。

DSCN9392_convert_20190516231131.jpg
伊仙町歴史民俗資料館に行く途中、思わず車を止めて撮影。懐かしいボンネットトラックだ!!
DSCN9396_convert_20190516231201.jpg
最近出来た「奄美」ナンバーも付いているし、現役でまだまだサトウキビ運搬に使われている!!カッコイイ!!
DSCN9393_convert_20190516231219.jpg
▲まさか戦時中の軍用車両ダッジトラックをリメイクした車両??ワイパーが逆だ・・・。いや、日産か・・・?

DSCN9636_convert_20190517000227.jpg
▲▼伊仙町歴史民俗資料館は旧農業高校の校舎がそのまま利用されている。
DSCN9635_convert_20190517000250.jpg
少し前までは無料だったらしいが、最近入館料を徴収しているとの事。入館料は200円程度だったと思う。
DSCN9621_convert_20190517001613.jpg
歴史に興味の無い方にはちょっと退屈な展示方法だが、徳之島の風土・文化を知る事は大変勉強になる。
DSCN9634_convert_20190517001211.jpg
▲昭和11~15年の尋常小学校の教科書だ!本物だ!!昭和16年以降、国民学校に名を変えたと思う。
DSCN9637_convert_20190517001253.jpg
▲▼砂糖車(サタグンマ)。大河ドラマ「せこどん」でも出ていたが、本物を見る事は珍しい。
DSCN9639_convert_20190517002530.jpg
▼脱穀機。文明式旭光号!
DSCN9658_convert_20190517001328.jpg
文明農機株式会社は今も社名を変えて続いているのだろうか?この当時から続いている会社は意外と多い。
DSCN9660_convert_20190517001523.jpg
▼▲農耕用の扇風機。文明式と書かれているが、なんと手動式だ。
DSCN9662_convert_20190517001449.jpg
風土・文化の展示物の見学もそこそこに、此処に来た本来の目的「多賀屋の宿帳」に残された、攻撃隊員、特攻隊員
の「書き置き」を見せて頂く事に。因みに、隊員が宿泊した宿「多賀屋」は今はもう現存していない。

DSCN9530_convert_20190517204908.jpg
▲▼もちろん原本では無く、コピーだが、貴重な「書き置き」を見せて頂いたので、全てでは無いが一部ご紹介する。
DSCN9532_convert_20190517213137.jpg

DSCN9533_convert_20190517213237.jpg
遺書では無いので、皆さん名前と一言程度だが、闘志というか勇ましく勇敢な青年達だったという事が良く解る。
DSCN9537_convert_20190517213319.jpg
▲「愛機もろとも体当たり」と書かれている。特攻か・・・艦爆隊と書かれているが、部隊が解らなかった。
海軍であれば本来の中継基地は喜界島だが、「沖縄戦」が始まった大戦末期は、浅間飛行場(陸軍)も喜界島基地(海軍)
も、陸海軍で共用していたので、沖縄に出撃した攻撃隊/特攻隊/直援隊が各中継基地に不時着し、再度出撃する事は珍
しい事では無かった事から、鹿屋基地や国分基地、串良基地などの海軍飛行場。知覧基地や万世基地、新田原基地など
の陸軍飛行場からの出撃記録だけでは解らない事が沢山あるだろう。この多賀屋の「書き置き」は、「出撃後に消息を
絶った」など、不明の隊員の手掛かりになる様な事が詰まった最後の「書き置き」である事は間違い無い。
DSCN9536_convert_20190517214307.jpg
▼これだ。小泉正一郎海軍一等飛行兵曹の書き置き。故海軍少尉??
DSCN9529_convert_20190517214348.jpg
小泉正一郎海軍一等飛行兵曹に関しては情報が無く、よく解らない。しかし、神風特別攻撃隊では無い事は確かだ。
「攻専第三?隊」とはの様な隊だったのか・・・ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授下さい。
「なごみの岬」の石碑にはこう書かれている。
DSCN9352_convert_20190514195619.jpg
もうすぐ死ぬけど「忘れないでね」と書き、自らを「故」と書き添えた。
「たったひと晩でしたが、忘れられない多賀屋になりました。」「最後の夜は確かに【徳之島】でした。」
「死んではじめて、命が生かされる」と書いたけれど・・・本当にそうだろうかと思っている。そこには一人ひとりの
人生が綴られている。昭和20年6月
と石碑には書かれていた。
これを読むと、小泉正一郎海軍一等飛行兵曹(一飛曹)だけが悲壮的な文章を書いている様にも見える。
自らを「故海軍少尉」と書いたというが、仮に特攻戦死とすれば2階級特進で一飛曹から少尉という事はありえる。
はたして小泉正一郎海軍一等飛行兵曹が所属していた「攻専第三?隊」とはどの様な部隊だったのだろうか・・・。
出撃日時もハッキリしない。昭和20年6月とだけ書かれているが、牛島中将の自決が6/23なので沖縄戦はほぼ終結し
ていた時期だ。沖縄戦終結後も、終戦まで日本軍各航空隊の沖縄攻撃が続いていたのは事実だが、何かしっくりこない
小泉正一郎海軍一等飛行兵曹の「書き置き」だった・・・。
DSCN9534_convert_20190517213823.jpg

DSCN9535_convert_20190517213913.jpg
▲藤田 春男中尉(石川県出身)
平成7年6月24日、毎日新聞に「見る写真・読む写真」というタイトルで、″特攻の島″消せない記憶と題して「特攻隊
員が遺した絶筆の宿帳」の写真が掲載され、その宿帳を見ながら、当時を語る神田スミ子さんの記事が掲載された。
その開いた宿帳には「海軍中尉藤田春男」とあり、その記事を見た藤田貞子さん(藤田中尉の妹さん)は瞬間胸がドキド
キし、世の中には、同性同名も沢山あるだろうが、「海軍中尉」である事と、その筆跡には見覚えもあり、兄に間違い
ないと確信したという。
藤田中尉は、鹿児島県国分基地から昭和20年3月19日神風特別攻撃隊「菊水彗星隊」の偵察員として操縦の飯塚英一
上飛曹(静岡県出身)と出撃。九州南東海面に於いて戦死した。
出撃地が「徳之島」とは聞いてなかった藤田貞子さんは、当時の分隊長だった本江 博さんに電話をかけたが「藤田が
徳之島に行った記憶はない」との返事であったが、当時国分基地で藤田中尉の戦友だった久原 滋様から目黒の防衛庁
防衛研究所を紹介され、早速出向いて事務官に会い、兄藤田中尉が所属していた彗星部隊攻撃103飛行隊の戦時日誌を
調べてもらったという。その日誌には「特攻機でペアの飯塚英一上飛曹と索敵哨戒に出撃した。」昭和20年1月28日付
の記録だけで、徳之島飛行の事実は見つからなかった。
 新聞には、徳之島の浅間飛行場は「陸軍の飛行場」とあり、藤田貞子さんは不安な気持になったが、どうしても、手
がかりが欲しいので、国分基地の当時の戦友、福岡県の久原 滋様(予科練出身)広島県の木松葉治様(予科練出身)
に新開記事を送り、戦時中の事を思い出して貰った。
すると、木舩さんからのお便りで『昭和19年10月から20年1月にかけて、内地、台湾、比島(フィリピン)間を、彗星
部隊や諸隊が前線進出ならびに移動の途中で、エンジン不調により徳之島飛行場に不時着したのだと思います。
故障機の修理部品や整備員を保有していた一番近い部隊は国分基地であったので、要務飛行で徳之島へ行かれたか、あ
るいは藤田中尉も国分から索敵の為に沖縄海域を飛行していて何かの事故で徳之島に着陸された可能性も考えられます。
木舟さんも徳之島に派遣されたことがあるそうです。』と書いてあったという。
 その後藤田貞子さんは平成8年4月22日国分基地の慰霊祭に参列した後、徳之島へ行かれた。
徳之島空港からタクシーに乗り「天城の多賀屋さん」と云うと、すぐに運転手はお解りになったという。空港から20分
程の場所だったという。おかみさんに会い、新聞で拝見した神田スミ子さんとすぐにわかり、来意を告げると部屋に通
され、別室から保存袋に入れられた当時の、宿帳を出して下さったという。
保存袋は近年町役場から支給されたとの事で、宿帳の表紙は白板白紙で「芳名録、昭和十九年以降、神田」と記してあ
った。古ぼけた宿帳を一頁ずつ開いていくうちに、そしてあまり上手とは言えない筆の字で「海軍中尉藤田春男」と書
いてあるのを見つけ、壊しい、兄の遺墨に万感の思いで合掌した。
藤田貞子さんは「やっぱり兄さんは徳之島に、昭和19年12月23日に宿泊していたのだ」と心の中で叫ばれた。
取材に来た毎日の記者に、神田スミ子さんが宿帳を開いて見せた頁が、全くの偶然で、藤田貞子さんの兄だった。
この事を伺い、52年間もしまわれていた宿帳が開かれ、そこに兄の筆跡があったというのですから、本当に奇跡としか
言いようがない。宿帳には、陸軍少将をはじめ、福岡県の知事、陸海軍の方、多勢記帳され、また国分基地の飛行長海
軍少佐江問 保様(海兵六十三期)や、藤田貞子さんにお便りを送って下さった木舩さんも書いてあるのを発見し、写
真を撮らせて頂いたという。
 神田スミ子さんは、多賀屋の二代目、現在70才(平成8年時点)で、スミ子さんのお話では、出撃する特攻隊員の方達
と、夜は皆で歌を歌ったりしたそうだ。戦意に満ち満ちた方達が、翌日は宿の上を低く飛んで、ハンカチを振りながら
出撃していったとの事。 本当に貴重なお話だ。
 現在(平成8年時点)は旅館よりも、ダイバーリゾートとしての神田マリンの方が有名で、スミ子さんは、息子さん、
お孫さん達とやっておられ、当時の宿は昭和20年4月の空襲で焼失したが、幸い「宿帳」は難を逃れたとの事。戦後、
徳之島は、アメリカの軍政府下におかれ、昭和28年12月25日、日本復帰した。その時に、戦前の場所から海岸の方に
建て替えられたので、藤田少尉の宿泊した宿の姿は全く残っていない。
DSCN9538_convert_20190517214006.jpg

DSCN9542_convert_20190517214143.jpg
当時の若者は本当に素晴らしい字を書く。感心するばかりだ・・・。
DSCN9577_convert_20190517214221.jpg

DSCN9544_convert_20190518163430.jpg

DSCN9546_convert_20190518163726.jpg
▼台19023部隊とは、恐らく牛島中将率いる第32軍指揮下の近藤卓二中佐率いる整備隊(航空修理廠)の事で、本来は
 湾19023部隊だろう。
DSCN9585_convert_20190518163907.jpg
第32軍の位置づけは台湾軍に属していたので、台と書かれていると推測され、これらの書き置きの隊員は、第5野戦
航空修理廠第1支廠の兵士達である可能性が高い。
DSCN9531_convert_20190517211423.jpg
整備隊(航空修理廠)は、徳之島に第1独立整備隊。宮古島に第2独立整備隊。沖縄本島に第3独立整備隊があった。
DSCN9541_convert_20190517214051.jpg

DSCN9613_convert_20190518170843.jpg
▲八紘第6隊と書かれている。八紘第6隊とは、「陸軍特別攻撃隊」で紹介している「石腸隊」の事だ。
隊員は18名、昭和19年12月5日~昭和20年1月8日にフィリピンの陸軍基地から99式襲撃機で特攻出撃した部隊だ。
この書き置きを書いた鈴木敏治少尉、上野哲彌少尉(彌は弥の旧字)は昭和20年1月8日に出撃。特攻戦死している。
そして、鈴木少尉、上野少尉の右横に書かれている愛敬 理少尉は八紘第2隊「一宇隊」隊員で昭和19年12月7日特攻
戦死している。
isiyoutai_convert_20160325152900.jpg
▲陸軍特別攻撃隊・八紘第6隊「石腸隊」隊員の写真。一番左に写っている方が上野哲彌少尉だ。
フィリピン戦線における陸軍の特攻隊は全て日本(内地)で編成された。石腸隊は千葉県にあった下志津陸軍飛行学校
(下志津教導飛行師団)で編成されているので、下志津基地を離陸した隊員は、各地を経由した後、徳之島を経由して
フィリピン(パコロド基地)に向かった可能性もある。多賀屋の書き置きがそれを証明している。
DSCN9557_convert_20190518170518.jpg
▲花蓮港飛行隊と書かれている。恐らく陸軍第8飛行師団(誠)指揮下の飛行隊で、昭和19年6月から台北に進駐し、
台湾軍司令官(後、第10方面軍司令官)の隷下となった。7月、作戦に関して連合艦隊司令長官の指揮下に入る事とさ
れ、宜蘭・屏東・花蓮港を根拠飛行場とし、台湾近海を通過する輸送船団の掩護と、フィリピン島に転進する航空部隊
の整備、その他の援助に任じた。昭和20年3月米軍が沖縄に来襲し、天号航空作戦に参加。
第9飛行団を台湾宜蘭及び宮古島以西の南西諸島、第22飛行団を台湾南東部に展開。第6航空軍や連合艦隊と協同し、
のべ293機の特攻機を米機動艦隊に向け出撃させている。
DSCN9604.jpg
▲八紘第11隊「皇魂隊」桑原金彦少尉の書き置き。三浦隊とは「皇魂隊」隊長・三浦恭一中尉の事だ。
隊員9名 昭和19年12月25日~昭和20年1月10日二式複座戦闘機「屠龍」でルソン島北部・ラオアグ・リンガエ
ン湾に突入した陸軍特別攻撃隊だ。
▼出撃前の寄せ書きの右端に桑原金彦少尉の書が残っている。桑原金彦少尉は昭和20年1月8日特攻戦死
hokkou11.jpeg
▼二式複座戦闘機「屠龍」※写真は飛行第四戦隊 空対空特攻隊「回天隊」隊員。
toryutokubetukougekitai_convert_20190518232303.jpg
▼同じく八紘第11隊「皇魂隊」の倉知政勝曹長の書き置き。桑原金彦少尉と同じ昭和20年1月8日特攻戦死。
DSCN9605_convert_20190518213257.jpg
▼鉾田陸軍飛行隊と書いてある。鉾田(ほこた)陸軍飛行学校出身者だ。
DSCN9609.jpg
鉾田陸軍飛行学校は、主として軽爆撃機/襲撃機による攻撃に関する教育と研究等を行った。昭和15年12月静岡県の
浜陸軍飛行学校内に開設され、昭和16年1月茨城県鹿島郡(鉾田市)に移転。6月鉾田教導飛行師団となり、更に7月教
導飛行師団 第3教導飛行隊と第26飛行団司令部に分離改編された。
この書き置きを書かれた方の中に、川島孝中尉とある。
川島孝中尉は日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊(特攻隊)「万朶隊(ばんだたい)」の一員で、昭和19年11月5日、陸軍初
の特攻隊出撃という事で、時の司令官 富永恭次司令官が、「万朶隊」の悠長に華麗な出陣式をする為、最前線に居た
特攻隊員を、わざわざ富永恭次司令官の居所「ルソン島」に呼び集めるという非常識な命令を出した。
万朶隊の隊員5名が出陣式でマニラに向かう途中、ニコラス上空でマニラに空襲に来ていたグラマンF6F2機に遭遇。
襲撃されて被弾。そのまま胴体着陸したが炎上し、搭乗員全員が戦死するという事件が、万朶隊特攻出撃前に起きた。
戦死した岩本隊長以下、下記5名の中に川島孝中尉(も含まれていた。
岩本益臣大尉(福岡県出身)「万朶隊」隊長(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年28歳)
園田芳巳中尉(佐賀県出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年23歳)
安藤浩中尉(京都府出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年22歳)
川島孝中尉(神奈川県出身)(出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年22歳)
中川勝巳少尉(和歌山県出身)[通信](出陣式でマニラに向かう途中グラマン編隊に遭遇、戦死 享年30歳)
5人全員が非業の死を遂、出撃前に無念の戦死。
生き残った万朶隊は昭和20年11月12日、海軍の神風特攻隊に遅れること3週間後、4機の99式双発軽爆撃機がルソ
ン島カローカン基地より出撃。以後12月までレイテ湾へと出撃を繰り返した。
隊員の大部分は戦死したが、佐々木友次伍長は機体故障での途中帰投や通常爆撃による攻撃などを9回以上行い続ける
も、かろうじて唯一生還した話は有名だ。11/12の出撃で戦死扱いされながらも、佐々木伍長はその後のミンドロ島
方面への出撃でも生還をし、ルソン島で生きて終戦を迎え、1946年に日本に帰国を果たしている。
以下は陸軍初の特別攻撃隊「万朶隊」が出撃した後の大本営発表。佐々木伍長は戦死扱いになっている。
大本営発表(昭和十九年十一月十三日午後二時)
一、我が特別攻撃隊万朶隊は、戦闘機隊掩護のもとに、十一月十二日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し、必死必殺の体当り
をもって、戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈せり。本攻撃に参加せる万朶飛行隊員次の如し。
陸軍曹長 田中 逸夫/同 生田 留夫/陸軍軍曹 久保 昌昭/陸軍伍長 佐々木友次
詳しくは「陸軍特別攻撃隊」の記事参照。
DSCN9564_convert_20190518221110.jpg
▲▼誠第19107部隊と書いてある。独立飛行第46中隊/対潜哨戒隊の事で、九八式直接協同偵察機を使用した。
東部軍直協飛行隊を改編。書き置きの佐藤勇男大尉が隊長。
昭和19年10月20日台湾に展開、第八飛行師団長の隷下に入り、沖縄作戦を準備。沖縄第32軍の中飛行場(沖縄本島)
で急遽編成された陸軍特別攻撃隊「赤心隊」は独立飛行第46中隊の隊員から選ばれている。
昭和20年3月27日と28日に陸軍中飛行場(沖縄本島)より7名が99式直接協同偵察機で特攻出撃している。
    DSCN9570.jpg
    ▲鶴見国志郎少尉は台湾出身。
陸軍特別攻撃隊「赤心隊」として昭和20年3月28日陸軍中飛行場(沖縄本島)より99式直接協同偵察機で出撃。
沖縄本島に上陸作戦を開始し始めた目の前の米艦隊に突入、散華。
DSCN9598_convert_20190518223322.jpg

DSCN9584_convert_20190518223209.jpg

DSCN9583.jpg

   DSCN9610.jpg
   ▲第一〇二二海軍航空隊とは、台湾方面で任務にあたった輸送機部隊だ。
      DSCN9569.jpg
陸海軍のさまざまな部隊の兵士の書き置きがあった。航空兵、整備兵、船舶工兵、輸送部隊から特攻隊まで・・・。
DSCN9587.jpg
これだけ多くのさまざま部隊の書き置きが残る宿は他に無いかもしれない。
DSCN9602.jpg
特攻隊だけでは無く、皆が一丸となって戦っていた戦争である事が良く解る。
DSCN9607.jpg

DSCN9617_convert_20190519085808.jpg

DSCN9608_convert_20190519085526.jpg

DSCN9580_convert_20190519085656.jpg

DSCN9611.jpg

 DSCN9545.jpg
 ▲まだまだ沢山の書き置きがあったが、最後に奄美大島守備隊(独立混成64旅団)旅団長の高田利貞陸軍少将

ひとつ心残りがある。徳之島にあるという「黒潮の塔」の場所がどうしても解らなかった。
時間的な事もあり、とことん聞いて探した訳では無いので、もっと時間をかけてヒアリングしながら探せば見つかった
かもしれない・・・。結局行けなかったが、此処で紹介しておく。
昭和20年4月22日14:40陸軍特別攻撃隊 第105振武隊の藤野道人軍曹(福岡県出身/享年21歳)は、97式戦闘機で
知覧から特攻出撃。沖縄に向けて出撃途中に敵戦と交戦になり、徳之島トンバラ岩の海中に没した。
戦後30年が経った昭和50年10月藤野軍曹の遺族が徳之島の母間を訪ね、住民の話をまとめたレポートを残している。
昭和20年4月22日夕刻、母間から約15㎞沖のトンバラ岩上空で激しい空中戦が行われた。
4/22も米軍機の空襲は激しく、「朝より夕方まで飛行場爆撃、夜間も時々爆音が聞こえた」という。
住民は岩陰や草むらに身を潜め、息をこらして見守っていた。黒い機影がいくつも海に散り、その内2機が沖に爆弾を
落として島に向かって来る。1機はふらふらと海に落ち、残る1機はその場を数回旋回し、翼を左右に振りながら別れ
にくそうにして浅間飛行場に飛んでいった。1週間後、2人の潜水夫が海に潜って墜落した97式戦闘機の中で搭乗員の
遺体を発見した。
遺体は、体当たり時に機体から体が飛び出さない為の配慮か、手足が操縦桿と踏み棒に縛り付けられていたという。
軍医の検死の後、高田少将が遺体の胸ポケットの軍隊手帳を確認し、搭乗員が藤野道人軍曹であることが判明した。
藤野軍曹は地元住民に丁重に葬られた。
4/22知覧から僚機6機が出撃したが、藤野機と一緒だったのは日下弘美伍長だった。日下伍長は浅間飛行場に着陸す
ると直ぐ、藤野機の収容を依頼し、翌日、仲間の後を追って浅間飛行場から単機出撃。沖縄の海で散華した。
藤野軍曹は、このようにして上官に戦死が確認された為、特攻戦死ではなく通常の「戦死」として扱われている。
同様の状況で戦死した特攻隊員は多数いるにもかかわらず、たまたま状況が明らかになったが為にである。
あまりにも機械的・事務的な対応だ。後に家族へ届いた死亡告知書(戦死公報)に記されていたのは「戦闘死」。
特攻隊員の恩典である2階級特進は認められず、一般戦死扱いの1階級昇進だった。
藤野軍曹の妹さんの藤野幸子さん(享年80歳)は、戦後兄の名誉を認めて欲しいと、援護局に乗り込んで行って訴えた。
それでも結局は特攻戦死者として認められる事はなかったという。あまりにも冷徹な日本国の判断である・・・。
昭和54年、現地に黒潮の塔という慰霊碑が建立され、藤野軍曹が満洲の公主嶺で詠んだ辞世の句が同期の第11期少飛
会によって翼をかたどったと思われる石に刻まれた。
『火急を知りて 馳せ参じ 我は征くなり 弥生の空に 特攻出撃を前に』

DSCN9417_convert_20190519122034.jpg
▲伊仙町歴史民俗資料館を後にして車を走らせていると、ふと目に入った爆弾??
DSCN9418_convert_20190519122049.jpg
▲地域美化・環境保全活動表彰と書いてある。平成24年とはまだ最近の事だ。
DSCN9422_convert_20190519122152.jpg
まだまだ空襲当時の不発弾が出てくる事があるというから、恐らく此処で出た米軍の不発弾だろう。
DSCN9421_convert_20190519122246.jpg
▼徳之島を訪れた時は丁度海開きだった。
DSCN9747_convert_20190519131512.jpg
▼美しい与名間ビーチが広がる。
DSCN9751_convert_20190519142539.jpg
▼与名間ビーチ上空を徳之島空港に着陸態勢のJACが飛ぶ。昔は陸海軍の航空機が飛んでいた事でしょう。
DSCN9756_convert_20190519144652.jpg
宿泊させて頂いた『サンセットリゾート徳之島』はとても良かった。食事も美味しい、大浴場施設もある。加えてオー
ナーの宮田さん一家の温かい歓迎が嬉しい。宮田さんのお子さんはナント9人!流石徳之島の男!素晴らしい!
食堂は与名間ビーチが目の前で、夕日スポットを見ながらの食事は最高だ。外で食事する事も可能だ。
DSCN9132_convert_20190522143405.jpg
▼サンセットリゾート徳之島のレストラン(屋外)からの眺め。
DSCN9137_convert_20190519132335.jpg
▼サンセットリゾート徳之島にほど近い場所には西郷公園がある。
DSCN9153_convert_20190519142426.jpg
▼岡前曖役所跡。曖(あつかい)とは薩摩藩の行政用語。薩摩藩の支配下にあった明治5年までここには噯役場(あつ
かいやくじょう)と呼ばれる行政機関があった。
DSCN9143_convert_20190519142723.jpg
▼岡前にある西郷隆盛謫居(たっきょ)跡。ここの松田勝伝方に69日間滞在した。西郷36歳の時だ。
DSCN9146_convert_20190519142804.jpg
▼「西郷南洲先生謫居之跡」の碑。
DSCN9150_convert_20190519144405.jpg
折角西郷さんゆかりの地を訪れたので、徳之島にある西郷ゆかりの地に向かった。
DSCN9850_convert_20190519144948.jpg
▲井之川湊展望所
DSCN9839_convert_20190519145015.jpg
▲徳之島空港の南にある湾屋港。此処に「西郷南洲翁上陸記念碑」がある。
西郷隆盛が、奄美大島と沖永良部島に2回流された事はよく知られているが、沖永良部島に流される途中、此処に上陸し
徳之島で2ヵ月半(69日間)滞在した。
DSCN9261_convert_20190519190125.jpg
徳之島は闘牛が有名。丁度闘牛が開催されるとの事で、せっかくなので初闘牛観戦。
DSCN9262_convert_20190519190146.jpg
▼闘牛場の臨時テントでチケットを購入。2500円
DSCN9265_convert_20190519190212.jpg
次々とトラックに自慢の牛を載せた闘牛オーナーが会場入り。ほとんどのオーナーが趣味で牛を飼っている。
DSCN9267_convert_20190519190357.jpg
▼会場に入ると観戦エリアはかなり広い。
DSCN9273_convert_20190519195413.jpg
▼試合が始まる頃には超満員!
DSCN9296_convert_20190519195455.jpg
初めて見学したが、牛の角や頭がぶつかる音、牛の闘志、相撲の様な競技で、好きになる気持ちが良く解った。
DSCN9299_convert_20190519200013.jpg
一試合はおよそ5~10分程度。相手にビビッて直ぐ逃げる牛の場合は何秒かで終わってしまう試合もある。
DSCN9322_convert_20190519200113.jpg
▲今回の大会(ろばた焼き 帆船花20周年記念感謝祭)の優勝牛は「幸龍皇」おめでとうございます!強かった。
DSCN9820_convert_20190519202306.jpg
徳之島は大きな山が多い。一度も海の底になった事が無いのでハブも生息している。
DSCN9816_convert_20190519202036.jpg
美しいビーチもあれば、断崖絶壁の場所もあり、さまざまな風景が楽しめる飽きない島だった。そして戦跡も多い。
DSCN9799_convert_20190519202123.jpg
一周70㎞程の小さな島だが、良い意味でプライドが高く、そして愛国心強い島民ばかりで非常に気持ち良い島だった。
DSCN9814_convert_20190519203833.jpg
▲徳之島最終日、「沖永良部島」へ行く為、亀徳新港に向かう。亀徳本港と新港があるが、本港は旧港の事。
DSCN9856_convert_20190519204244.jpg
▲▼亀徳新港。亀徳本港の方にはホームセンター「ニシムタ」があるので、直ぐ解る。
DSCN9859_convert_20190519204314.jpg
沖永良部島までのフェリー代は1780円(2等)。事前にネットで予約しておくとスムーズ。割と満席になる事が多い。
DSCN9861_convert_20190519204335.jpg
▲船が入港してきた。奄美大島(名瀬)から来たのだろう。予約は1ヵ月前から。予約無ではチケット獲得は難しい。
DSCN9864_convert_20190519204410.jpg
大きな船だ。富山丸もこの位の大きさだったのだろうか・・・旅行者も多いが、地元の学生(クラブ活動?)が大半。
DSCN9887_convert_20190519205432.jpg
▲乗船して亀徳本港方面を見る。赤矢印の部分が本港。ニシムタが見える。船では荷物の積み込みが行われている。
DSCN9894_convert_20190519205638.jpg
▲さぁ、沖永良部島に向けて出港だ。
DSCN9905_convert_20190519205755.jpg
▲さようなら徳之島。有難う徳之島。また来ます!!

次回、沖永良部島に続きます。

拙い駄文を最後までお目通し下さり有難うございます。
「沖縄戦跡ツアー」承ります。名護~糸満までの沖縄戦の激戦地戦跡をご案内します。
名護~糸満までの戦跡を、ガイドブックに載らない戦跡も含め、3日~4日程度で巡るSP戦跡ツアーとなっております。
「百聞は一見にしかず」 現場で実際に自分の目で見る戦跡は、沖縄戦を肌で感じる事が出来ます。
事前に当ブログ「沖縄戦」をご覧頂くと、沖縄戦の大筋が、現存する戦跡を含めてご理解頂けると思います。
お客様の希望日時・希望戦跡地などをメールでお伝え下さい。折り返しコーディネートさせて頂いたスケジュール等を
お返事差し上げます。 pochetteevnara@gmail.com までお気軽にお問い合わせ下さい。

にほんブログ村 歴史ブログ 太平洋戦争/大東亜戦争へ
にほんブログ村←クリック有難うございます。

戦史 ブログランキングへ←クリック有難うございます。


スポンサーサイト




 2019_05_07

Comments


 管理者にだけ表示を許可する



プロフィール

WhitePigeon

Author:WhitePigeon
今の日本があるのは英霊達の戦ってくれたお陰だと思っています。慰霊と感謝の念を伝える為に各地戦跡に足を運んでいます。少しでも多くの方に太平洋戦争(大東亜戦争)がどの様な戦争だったのかを知って頂き、軍民問わず全ての英霊に感謝する事をお伝えしたくて当ブログを書いています、画像・情報提供して頂いた方々に感謝申し上げます。
[沖縄戦を深く知るツアー]をご希望の方はメールにてお願いします。
pochetteevnara@gmail.com

ブロとも申請フォーム

Access counter

沖縄戦跡巡り

QRコード

QR




pagetop